TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
戦国時代評論家総合スレ
【名門】戦国今川氏を語る【花倉の乱】
【茶器バカ】松永久秀【爆死】
剣豪将軍足利義輝 その2
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part26
伊勢の名門―北畠―
関ヶ原合戦の真実 Part8
武田勝頼が生き延びて大坂城に入場したら
武田勝頼 PART21
武田勝頼 part24

戦国ちょっと悪い話45


1 :2017/07/17 〜 最終レス :2018/07/25
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話44
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1470783230/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話45
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1496875371/

2 :
>>1乙に候

3 :
朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

(応仁記)

義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね

4 :
戦国時代の男色にまつわる話を書いて下されい。

方々よろしうに、お頼み申す。

5 :
・鎌倉杉(岐阜県大井町)

大井武並神社の祠の後ろに一大の古杉がある。これを“鎌倉杉”という。
別名に“太閤杉”ともいう。その別名には次のような伝説が絡んでいる。

豊臣秀吉は朝鮮征伐の際に船檣を求めて、ついにこの地で東西二株を
倒し、さらに中央の一株に斧を加えたところ、

切る者はたちまち血を吐いて倒れ、杉の切り口からは鮮血が湧き出た。

奉行の各務兵庫(元正)はなおも人夫を促し励まして、切り進ませたが、
またまた血を吐いて死亡するに到ったため、ついにその計画を中止した。

その杉には、今なお斧痕をとどめている。

――『恵那郡史』

6 :
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)

7 :
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より

8 :
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9 :
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10 :
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

11 :
蠣崎季広の時代、一族の基広は謀叛を企てて家督を奪おうとし、季広が
帰依する賢蔵坊という者を誘って季広を呪詛させたが効果が無かった。

天文17年3月、季広が上国に行くのを機会とした基広は、賢蔵坊に季広
を討たせようとするも、彼は心を翻してその企てを季広に告げた。

季広はすぐに長門藤六広益を遣わし、基広を誅殺させ、南条越中広継に
上国を守らせた。広継の妻は季広の長女であった。

彼女は婦女の身ゆえに家督を継げないことを憤り、ついには謀叛を図り、
父・季広の近臣を誘い、弟の舜広と元広に毒を与えた。このために二弟
は病んで毒害され、陰謀は発覚して広継夫妻は自殺した。

――『北海道史』

12 :
夜話の時、ある人が言った
「これは人が仮託した物なのだが、その人の情実によく当たって居るのではないかと思う」

・時鳥を贈って参った人あれども、鳴かざりければ

 鳴かぬなら 殺してしまへ時鳥  信長
 鳴かずとも 鳴かして見せう時鳥 秀吉
 鳴かぬなら 鳴くまで待てよ時鳥 家康

これを語った後、さらに二首を添えた。
ただしこれは憚りのあることであり、元より事実ではなく仮託の事でもあるので、作者は記さない。

 鳴かぬなら 鳥屋へやれよ時鳥
 鳴かぬなら 貰って置けよ時鳥

(甲子夜話)

有名な時鳥の歌の原典ですね

13 :
まとめサイトの10393「連歌その心自然に顕るる事」で既出
(板仕様が変わったのかリンクが貼れない)

14 :
>>13
確認不足でした。かわりに

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)

15 :
小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は

「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」

周防守はこの意見に従った。

ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。

しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。

(士談)

16 :
ある時、徳川家康公の上意にこのようなものがあった

「人を見立てる時、自分を基準にするべきではない。自分のかしましい心を曲尺と定めて
人を選ぶ時、自分より勝る人間を選んで薦めるだろうか?

また、その自分にまさる良き者は、自分に対して追従をすることはないだろう。
自分に付き従う輩にばかり、目をつけるのは不忠というものだ。」

(武野燭談.)

17 :
>>16
どうでもいいけどなんで悪い話に投稿したん?

18 :
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。

19 :
大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を

召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。

(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)

権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。

(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)

だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。

――『武功雑記』

20 :
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

21 :
>>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。

――『俺の想像』

22 :
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)

23 :
阿波と讃岐に伝わる昔話で、篠原長房の息子が没落したあと猟師になって物の怪を退治するも
誤解から村人たちに殺されてしまったって話があるそうだけど
やっぱり長房が粛清されたあと残党はロクな目に合わなかったっていう暗示なのかね

24 :
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)

25 :
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 :
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 :
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

28 :
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』

29 :
そんな城いっぱいあんのに

30 :
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31 :
伯耆が放棄

32 :
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?

33 :
督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で


兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg

平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg

内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
 総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
 目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』

督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。

34 :
伊達政宗が、小田原に出馬した豊臣秀吉に謁するため向かった間、会津の留守は伊達成実に任された。
この留守の間、二、三夜ほど会津が以ての外に騒動した。『会津の内に心変りの者があって、越後の人衆を
引き入れる』との噂が広まったのである。この事を実尺という山伏が成実も告げたが、成実は
「一体何者がこれを言っているのか」と尋ねた。実尺は「世上隠れなき噂ですので誰とは特定できません。」
と答えたが、成実

「ともかく一人づつ名指ししろ。さもなくば汝を罪科に問う。」

このため山伏は、そう言っていた人間を一人づつ語り、成実は順次これを改めていった。
そして19人目に、伊藤七郎という者の屋敷に仕える下女にたどり着いた。

伊藤七郎は政宗の小田原行きに従っていた。そしてその屋敷の門の脇の長屋に、なにがしと言う若党が居たが、
彼が槍を持って広間から出てきたのを、かの下女が見て「さては何事かあったのか!?」と、この事を
出入りの魚売りに語ったというのだ。この話が広まり、そこに尾ひれがついて会津中の騒動になったと
考えられた。

これによって、成実はかの下女を成敗し、当面の戒めとした。

(士談)

35 :
成敗しちゃったの!

36 :
おおごとにならないうちにな

37 :
性売!

38 :
○ 弥五郎社(旧武並村藤)

藤の北端・木曽川畔にある。往時、織田氏と武田氏の兵乱に当たり、
所在で兵盗が起こり、富者の財を奪われることが多かった。

村民は恐れて財を携えて深山澤の尻に籠り、避難小屋に集まって
兵盗が退くのを待った。そんな中、たまたま尾張津島社の御師が

信濃に行こうとしてこの地を過ぎ、駅路の兵賊を心配して木曽川を
渡り、かの避難小屋に達しようとした。

村民らはこれを見て大いに恐れ、兵盗が至ったと見なし、鉄砲を
向けてこれを殺した。

元和偃武の後、村民が山芋採取に赴き、澤の尻山中で髑髏を発見
した。その村民は家に帰って病床に伏し、続いて疫病が蔓延した。

そこで陰陽家に占わせたところ御師銃殺の祟りであることが分かり、
津島神社に至ってこれを謝罪した。

こうして疫病はたちまち消滅したため、かの白骨を埋めて碑を建て、
“弥五郎殿”と称した。時に寛保3年6月である。

以後、悪疫流行の際は近村の民でお参りする者が多かったという。

――『恵那郡史』

39 :
いまでいうインフルエンザの類なんだろうな

40 :
掘田弥五郎で検索かけたら
堀田弥五郎という悪代官を農民が殺したら
疫病が流行りだして弥五郎と奥さんの藁人形を作っておまつりし
白山神社から津島神社までそれぞれの村の人形を送ったって出てきたんだが
岐阜県中津川市のがでてきた

41 :
大阪の陣において、堀尾山城守(忠晴)の寄せ口の備えを、上杉景勝の家臣である杉原常陸介(水原親憲)が
見て

「堀尾の備えは後ろから崩れるだろう。裏崩れというやつだ。」

そう言ったが、果たしで後ろのほうが騒ぎ立てた。
これは、杉原が堀尾の備えにおいて、馬を近くに引き付けていたのを見て、もし馬に鉄砲が当たれば
馬は必ず跳ね合う事から、これで騒ぎが広がり裏崩れに成る、と見て摂ったのである。

その後、堀尾の持ち口を上杉景勝に渡して陣替えをするように、との将軍からの命があった。
この時、景勝方より軍使を以て、堀尾方に「道を作って陣地を渡すように」との申し入れがあった。
これによって堀尾方は道を作って陣地を明け渡したが、景勝の軍勢はこれを見て罵倒した

「上方衆は、弓矢の事に巧無き者達だ!こんな道の付け方があるものか!」

そう声高に言い放ったが、堀尾の衆にこれについて返答をするものは居なかった。
これは、堀尾の者たちは通常のように、往来しやすいよう道を作ったのであるが、
景勝方の人々にとってこの場合の道とは、敵の攻撃から身を守り、負傷者が出ないように
作られるもの、だったからである。

(士談)

42 :
家康も嘆いていたけど、たった15年戦がなかっただけで
その辺のノウハウはボロボロになるもんなんだなぁ…

43 :
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』

44 :
>>41
我ら上方の者に取って織田家に仕えし頃より道は攻め、武功を挙げるために造る物でござる。
謙信公の頃より武門の誉れ高き上杉家において道は敵やその矢弾より身を守り命を惜しむ為に造る物であったとは知りませなんだ。
此度は越後の軍法を学ぶ良い勉強になり申した。子々孫々までこの軍法の違いを伝え奉らん。


位言い返せる古参の兵は居らんかったのかね…

45 :
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ

46 :
いっ、いっ、井伊いの井伊〜
昼〜は寝床でぐーぐーぐー

47 :
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』

48 :
○ 大将塚(旧岩村町)

伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。

その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)

なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。

○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)

天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。

姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。

同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。

やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、

「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)

○ おまん殿(信州諏訪地方)

諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。

この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。

この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。

遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。

されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)

――『恵那郡史』

49 :
>小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。

スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど

50 :
戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ

51 :
つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?

52 :
家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も

53 :
家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様

54 :
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)

55 :
大阪の陣でのこと。堀尾山城守(忠晴)の寄口に、幕府使番渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)が訪れ
尋ねた

「この仕寄場より堀際まで如何程の距離があるか?将軍家よりお尋ねの時のため記しおきたい。」

しかし堀尾
「存じません。それを知りたければどうぞここから縄を打って測ってください。」

そこで渡辺は寄口より出て距離を測った。」

この話を横田尹松が聞いて、彼にこう言った
「失礼ながら御辺は今少し不巧者であるな。そういう時は、堀尾山城守も一緒に連れて出るものだ。
こちらに塩をつけるのなら、あなたも相手に塩を付けて良いのだ。」

(士談)

56 :
一休宗純「私が縄を打ちますから渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)様は綱を打って下さい」

57 :
城の堀辺まで綱を渡す
渡辺守綱と堀尾山城
なにか狂歌ができそうな

58 :
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部正保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59 :
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」

60 :
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61 :
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62 :
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない

63 :
>>58
十河民部正保→十河民部存保
に訂正

64 :
戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
 後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
 勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
 敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
 これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。

「南海通記」

65 :
ブラック戦国武将

66 :
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

67 :
そらそう書くしかないわなw

68 :
この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな

69 :
仙石無能

70 :
>>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ

71 :
仙石は昔も今もカス揃い

72 :
豊後勢から見た戸次川合戦渡河

大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)

73 :
さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
 おおよそ川を隔て陣を取るに
 渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」

74 :
慌てふためいた「ように見せた」んだろうな

75 :
お家芸の釣り野伏ですね

76 :
短才愚蒙ってすげえ言われようw

77 :
なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。

78 :
讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの

79 :
戸次川合戦讃岐勢の最期

ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」

槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには

「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
 一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
 その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
 我が思いを晴らすとしよう」

(続く)

80 :
信親に使者を馳せて曰く

「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
 恥辱は先手の将帥にあり。
 引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」

存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。

香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。

「南海通史」

81 :
>>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに

82 :
信親と長宗我部家が不憫でならない…。

83 :
次男三男死なずにすんだかもな

84 :
茂木山城(茂木治良か?)という者、下総茂木山城の城主にて、佐竹に属していた。
朝鮮征伐の時、佐竹に従って西国に至った。

佐竹の人数を集めて、老臣たちが手配をしている時、佐竹の家老が縁の上に立って、他の者達はすべて
軒下に降りるよう下知した。しかし皆、これに従おうとしなかった。

この様子を見て茂木山城は、その家老に言った
「その方、先に下に降りろ」(其方先下に居よ)

人を下知するなら手前を慎むのが、古よりの戒めである。
(士談)

85 :
下総じゃなくて下野茂木なんじゃないかな
佐竹が下総と接点あるのは北総・東総あたりだろうけど茂木氏はちょっと記憶にない

86 :
これ人名はもぎやましろで城がもぎやまじょうなのか

87 :
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)

88 :
十河家.....。

89 :
徳川家康が落馬した時、馬の手綱が手にかかったままであったのを、供奉の侍の内、素早く気づいた
者が居て、走りより抜き打ちに手綱を切った。これは馬が駆け出して家康を引きずるのを防ぐためである。
家康は彼に「状況に応じた的確な判断であった」と褒美を与えた。

上杉謙信が馬で川を越す時、中ほどにて落馬したが、供のものがこれを抱きとめた。
謙信は岸に上がると、この者を即座に成敗した。

「我に組み付くほどの者は有るべからずと思っていたのに、このような事、甚だ憎き次第なり。」

そう言ったという。

(士談)

90 :
女謙信

91 :
ほっとけばよかったんか?

92 :
>>89
女性説に信憑性が出てしまう逸話だ。

93 :
つうかさ
近仕の侍を手打ちにできる女性って芳我台さんや古の巴さんみたいな人か?

94 :
井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。

奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。

その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った

「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」

左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」

しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」

「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」

「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」

「私の取った頸に証拠などあるものか!」

ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。

これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。

しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。

(士談)

95 :
西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。

叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。

この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。

忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。

忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。

(士談)

96 :
基地外すぎるw

97 :
>>95
さすが島津…w

98 :
平伏状態から左足?
例えじゃないのか

99 :
関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。

案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。

この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。

ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。

(士談)

100 :
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)

101 :
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 :
イタチにヤられたことだって本当かどうか

103 :
大阪の陣の時、前田家家臣の平野弥次右衛門に、味方の武士が楼門より出て攻撃してきた。
弥次右衛門は味方と知らず、これと戦うため鎌槍にて駆け寄ったが見れば加賀前田家の相印であり、
顔は見えなかったが兜と指物を見て

「何者か!?味方打ちであるぞ!」

そう大声で罵しり槍を引き、さらに罵った。

合戦の後、この罵られた者、堪忍ならざるによって弥次右衛門と刺し違えようと、彼のもとに
やって来た。弥次右衛門は彼の来訪を知ると、郎党中言たちそれぞれに棒を持たせ、自身も
木刀を持って彼の前に出た

「其方は私と刺し違えるとの聞きたる仔細有るによって、このような用心をした。」

彼は来訪した趣を述べ、それを聞いた弥次右衛門

「その事で来られたとは知らなかった。私はその時断ったように、顔は見えておらず甲冑だけは見えた。
其方と知って言ったのではない。である以上、悪口を言っても仕方がないではないか。
あの時罵った相手がその方であるのなら、私と刺し違えるのは、大いなる誤りである。」

そう言い、押しすくめて帰らせた。
彼の者止むを得ずして、その夜、駆け落ちをした。

(士談)

104 :
島原の乱の終結後、幕府の下知により九州有馬で戦った諸大名をねぎらうようにと、将軍家光より
大田備中守が豊前小倉まで派遣された。
九州の大名小名が集まった中、備中守が演説した。ここで松平信綱が備中守に向かって申した

「今回、鍋島が軍法を破り、事粗忽が起こった。これについては既に備中守にも伝えてある。
江戸において、如何様にも上意にまかせ申すべきである。」

鍋島(勝茂)はこれを聞いて反論した
「私は全く軍法を破ってはいません。榊原殿が一番に城へ乗り入ったゆえに、彼を討たせては
如何かと存じて押し入ったのです。これは併せて御忠節とも存じます。」

信綱「然らば榊原方へそれを確認すべきだ。」

こうして鍋島方より榊原飛騨守(職直)へ問い合わせた所、この頃榊原は長崎に居たが、これに返答し
「それがしの倅、佐左衛門佐が一番乗りを致したため、倅を見殺しには出来ず、続いて乗り入りました。
倅は若輩なため、御軍法を背きました。全く鍋島の一番乗りではありません。」

そう答えたため、榊原が一番乗りであることが明確と成った。

これにより榊原職直は長崎奉行を解任され、閉門とされた。

(士談)

105 :
おい、金の斧と銀の斧持って行け!

106 :
関ヶ原合戦の時分、河渡を渡られた一柳監物殿(直盛)は元は伊予の河野氏である。

その子(直重)は欠唇で異名を“いぐち監物”と申した。その子(直興)が御家(前田家)
で御預かりとなった監物殿である。

河野姓を改められたのは河渡を渡られた監物殿である。その監物殿は柳の枝を土手
に差し、「家が繁盛仕るならば、ほこれ(茂ること?)。そうでなくば枯れよ」と申された。
すると、年々ほこり申したとの由で、

これにより“一柳”に改められたとの旨を船越伊予守殿(宗舟)が物語り、それを聞こし
召されたとの由を、享保2年10月朔日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』


一柳監物は欠唇である。人が差し障りを言えば、殊の外怒った。秦の苻堅に似ている。
(一柳監物缺唇也。人指合を云へば事の外怒る、晉の符堅に似たり。)

――『老人雑話』

107 :
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。

108 :
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』

109 :
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 :
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 :
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 :
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 :
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 :
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115 :
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116 :
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117 :
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118 :
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119 :
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

120 :
幕末、坂下門外の変で老中の安藤信正が襲撃された際、
背中に刀傷を受け武士として恥ずかしい行為と罷免されたけど、

部下を身代わりにしたうえ、ウンコ漏らして逃走した権現様の前で
それ言えんのかと思う

121 :
馬場美濃が「首が我々武田に向かっていた死体はすべてうつ伏せ
浜松に向かっていた死体はすべて仰向けでした」
と家康の家臣が家康を逃がすために懸命に戦ったことを
讃えた逸話が有名なのにそんなツッコミ入れても

122 :
そもそも脱糞は捏造だし

123 :
>>120
ただのマウンティングだから
気の弱そうな奴とか自分が気に食わない奴にしか言わない

124 :
江戸末期と戦国時代じゃ価値観が違いすぎる

125 :
背中の傷は恥って背後から襲われたらアウトじゃんww

126 :
>>125
そう
前後から挟み撃ちにされてるってことだから生き延びてるわけがない、てこと

127 :
理屈じゃないんだよなぁそういうのって

128 :
つうか、安藤の話は政敵を追い落とすためのこじつけだし。
安藤は不意打ちで怪我したけど、襲ってきた敵を殲滅して、怪我の痛みに耐えて公務を行った。
これで士道不覚悟とか、ありえないだろ。

129 :
戊辰の頃になるとそういう実戦とは無関係の机上の観念論は力を失ったけど、
それまでは妄想しまくった童貞のようにわけわからんこと言っていたからなぁ…

130 :
風雲児たちの坂下門外の変についてのこれを思い出した
https://i.imgur.com/VHUp3Y0.jpg

https://i.imgur.com/tV2oRxA.jpg

https://i.imgur.com/ikon8zF.jpg

https://i.imgur.com/4Sy3ADJ.jpg

https://i.imgur.com/NImdc0L.jpg

https://i.imgur.com/K5mti9X.jpg

131 :
>>130
マジな話、風雲児たちは年表意外全部デタラメ。たまに年表も怪しい

132 :
>>131
坂下門外の変もでたらめなん?

133 :
蒲生氏郷は伊勢松島の頃、1日に3度ずつ着到(出勤帳)を付けさせ、人々の勤務状況を確認し
働きを励ましたという。また勤務状況を調べるため、山伏の姿に変装させた間者も使っていた。

これを考えるに、勤務において人を励ましたるまないようにするためには、このように詳しく
調べなければ通用しないものなのだ。自分の身を省みても、聊か油断あればやがて放埒に至る。
他の人もまたそのような物だろうから、度々に気をつけ、勤務状況を究明することが必要なのだ。

(士談)

蒲生氏郷の勤務管理エグいな

134 :
だって工場長だし

135 :
当時「働く」ったら武力行使のことだよな?

136 :
「着到」も連れて来た軍勢の内容確認だわな。

137 :
>>121
の話がまとめサイト見たらまだ出てなかったようなので「徳川実紀」元亀三年の箇所より抜粋
(家康の伝記の多くに取り上げられてるから有名だけど)
十二月二十二日三方が原の戦い御味方利を失い、御家の軍勢名のある者どもあまた討たれぬ。
入道(信玄)勝ちにのり諸手をはげましておそい奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに
かろうじて浜松に帰りいらせたまう。
(夏目が永禄時代に一向宗門徒に与していたが救われたため)この日御恩に報いんとて○○(家康への欠字)
君敵中に引き返したまうを見て、手に持ちたる槍の柄をもて御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へおしむけ、
その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ。
その時敵ははや城近く押し寄せ立てれば早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに
○○君きこしめし必ず城門を閉めることあるべからず。後より追々帰る兵ども城に入るたよりを失うべし。
また敵大軍なりとも我籠もる所の城へおしいる事かなうべからずとて、門の内外に大篝火を設けしめ、
その後奥へわたらせたまい御湯漬けを三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが
御高鼾の声、殿外まで聞こえしとぞ。近く侍う男も女も感驚しぬ。
敵も城の体いぶかしくやおもいけん。猶予するところに鳥居、植村、天野、渡辺等の御家人突いていで追い払う。
その夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、
その手の人馬が機?に陥り踏み殺さるるものすくなからず。
入道(信玄)もこの体を見て大いに驚き、勝ちてもおそるるべきは浜松の敵なりと驚嘆せしとぞ。
また武田が家の侍大将馬場美濃守信房というもの入道に向かいて
「あわれ日の本に越後の上杉入道と○○徳川殿ほどの弓取りいまだ侍らじ。
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。
その屍こなたにむかいたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。
一年駿河を襲いたまいし時、遠江の国をまったく○○徳川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ
たまいなば、このごろは中国九国までも手に立つひとなく、やがて六十余州も大方事行きて候わんものを」
といいけるとぞ。勝戦してだにかくおもいし程なれば、入道つづきて城を囲まんとせざりしもことわりなるべし。

138 :
大友と島津が高城にて戦い、大友が敗北し、ことごとく追い打ちに討たれる中、豊後衆の妻子たちは
父兄の討ち死に、子夫の死亡を心配し、皆外に出てその安否の情報を待った。

そのような中、大友義統によって出頭した侍が生き残り、逃げ帰ってきた。
これを義統は大いに喜び、

「誰々が討ち死にしようとももはや聊かも苦しからず!汝が存命であれば千万人にも超える!」
と発言した。

この一言を聞いて、家中ことごとく心のなかで大友を見限り、やがて滅亡に至ったのだという。

(士談)

139 :
頼朝みたいに個室に呼び出して
「お前だけが頼りだ。(良く頑張った)」って生き残った奴らに声掛けすれば
忠誠↑↑だったのに(´・ω・`)

140 :
>>138
言われた方も困るだろこんなんw

141 :
>>139
義統が個別に呼び出すと違う逸話になりそうだし

142 :
義統の寵臣か
誰やろね

143 :
>彦根城は日本が世界遺産条約を批准した一九九二年、文化庁がまとめた
>ユネスコに推薦する候補の暫定リストに記載された文化財十三件に入った。
>暫定リストのうち十一件、リスト以外の「後発組」も次々と世界遺産に登録された。
>彦根城は、先に国宝姫路城(兵庫県姫路市)が世界遺産に登録され、
>単独での登録が難しくなった。

>このため、市は姫路城や松本城(長野県松本市)、
>犬山城(愛知県犬山市)などとの一括登録を検討した時期もあった。
>しかし既に暫定リストに載っている単独での登録の方が一括より道のりが短いと判断、
>二〇一五年度、再び単独登録を目指す方向にかじを切った。

>同じ種類の遺産では登録が難しいため、単独登録の実現には
>姫路城との違いの検証が欠かせない。天守のみの登録である姫路城に対し、
>彦根城は中堀の内側一帯を「武家政治の拠点」としてアピールする戦略を選んだ。
>中堀の内側には、天守だけでなく、武家屋敷や能舞台など貴重な文化財が
>数多く残っているのが強みだ。

ソース(中日新聞)
彦根城 世界遺産足踏み四半世紀 戦略再考へ10月末に新組織
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20170921/CK2017092102000010.html

彦根城をはじめ国宝5城(登録済の姫路城は除く)はどこも世界遺産を目指しているとか

144 :
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴に
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)

145 :
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 :
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 :
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 :
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

149 :
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは

150 :
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 :
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

152 :
細川直系子孫の護熙さん、都知事選出馬の噂が。色んな意味でイタい御隠居すぎる。
隠退したんだからこのまま陶芸・茶道に励んでいてくださいよ、お願いですから。

153 :
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
と言って引退したはずなのに

154 :
三歳の狂気を全く感じないわ
殿というより麻呂

母方祖父の近衛文麿のDNA引き継ぎすぎ

155 :
よいのです

156 :
寛永島原一揆が落居の後、幕府評定所において、井伊直孝、保科肥後守、酒井讃岐守、堀田伊賀守、
松平信綱、並びに老中列座して、石谷貞清を召して、上意の旨を以って御詮議の事があった。
石谷貞清は討ち死にした最初の幕府上使・板倉重昌の副使だったのである。
やるべきではない合戦をして人を多く討たせたことは、板倉・石谷が焦って討って出た故である、との
詮議であった。

石谷は申し上げた
「聊かも焦って仕った事などありません。『松平伊豆守、戸田左門が後の仕置のため使わされる』との
御奉書到来の上は、なんとかして年内に埒を明けておくべきでしたが、その甲斐もなく、
ならば元旦に押し寄せ城を乗っ取り、『後の御仕置』が出来るようにしたい、との心得にて、元旦を
総攻めと決めたのです。
仮に『我々両人が仕る所悪しきにより、重ねて伊豆・左門を下す』という事であったなら、焦って
致すということも有ったかもしれません。

そういった事でありますが、内膳(板倉重昌)は冥加にかなって元旦に死を遂げ、御奉公の一通を立て、
この御詮議にも逢いませんでした。
私は冥加無く、只今まで生き残り、このような御詮議をも承ることになりました。」

この言葉にその座の何れも黙り込んだという。

(士談)

武士って厄介な連中だな

157 :
戦争が政治や外交の延長だってことを考えないとそう見えるかも

158 :
永井隼人佐道利は、濃州金山城の城主であったが、織田信長による美濃平均の時流浪し、
その後足利義昭に仕えた。

ある時、摂津において、池田正勝を追放し池田衆を率いる荒木村重と、和田伊賀守(惟政)とが相戦う
ことがあったが、この頃、道利が和田の元へ使節に参った。その時、合戦について言った

「今の敵に対する軍立ては心得られませんし、地利も良くない。ここは待って戦うべきです。
さもなければ必ず敗北するでしょう。」

しかし和田は
「池田衆との戦では、普段から見方が少人数でも大利を得ている。池田方の兵の事など全く気にならない」
そう、大いに侮った。

和田は糠塚に陣をはり、荒木は馬塚に陣をはっていた。
この間は、荒木の方がつま先上がりの地で、和田方のほうが地形低く、掛かりやすい場所であった。

果たしてこの日、和田は敗軍し、義昭の使節であった永井道利も巻き込まれ討ち死にした。
これを摂州白井河原の戦いといい、元亀2年(1571)8月28日の事だという。

(士談)

159 :
ある日、利太(前田慶次)は浴場で入浴した。

この時の利太は巾で顔を覆い、褌に合口(短刀)を帯びて入った。
浴槽にいる者は驚いて出て、皆が刀を帯びて浴槽に入った。

そのうち利太は浴槽から出て合口を抜くと、その合口で垢を落とし
始めた。戻って来て入浴する者がこれをよく見ると、

それは合口ではなく竹べらであった。ここで初めてたぶらかされた
と分かり、人々は大いに恥じた。

――『加賀藩史稿』

160 :
お決まりのアレね

161 :
まとめサイトの547(リンク貼ろうとしたら弾かれた)の
前田慶次の、かぶき者の入浴・悪い話
ていう翁草の話と少しちがうな

162 :
長年の疑問がある。

wikiをみると、別所安治(別所長治の父)の誕生年が1532年なのに対し、
その弟である筈の別所重棟(重宗)の誕生年が1529年と、弟のほうが
先に生まれている。

重棟が妾腹で弟扱いされたのかとも思ったが、母親は同じらしいし、訳が
わからん。

誰かこの謎を解いてくれ。

163 :
東京町田で赤子を揺さぶって殺害したとされる父親、苗字が有名な薩摩のボッケモンで、名前が「隼人」。

……もしも中馬大蔵の係累だったら、嘆かわしい事やね。

164 :
>>162

松平頼重「何と奇怪至極な」

徳川光圀「何故、このような事が」

 書類上、光圀が「兄」で頼重が「弟」。且つ、光圀が嫡男で頼重が庶長子。

 尚、二人の生母は同一人物で終生、側室扱い。

165 :
兄より優れた弟など存在しない
後から生まれた方が優秀ならそっちを兄にすればいい

166 :
信幸兄さんのことか

167 :
>>162>>164-165
天武天皇「割とよくある」

168 :
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)

169 :
瓜にかぶりついていた若いころの信長…

170 :
豊臣秀吉の九州征伐の時、秀吉に赤い毛氈を献上した者があり、秀吉はこれを、九州征伐に参加した
諸将に分け与えた。

当時、日本には毛氈というものが殆ど入ってきておらず、諸将何れも、秀吉より下されたそれが
どういうものか解らず、諸将「これは一体何のために用いるものなのか」と話し合った。
しかしその内の一人が

「これはもしや…」

「なんだ?貴殿知っておるのか?」

「うむ…、私がかつて檀那寺に物を送った時、その住持がこのような赤い布を肩にかけて返礼に来た。
思うにこれもきっと、敬礼を表するために、肩にかける物なのであろう。
然らばこれを下された事への御礼は、これを肩にかけて参るべきであろう。」

これにより相談一決し、銘々毛氈を肩にかけて秀頼に拝謝したという。

(今古雅談)

※言わずもがなですが、毛氈とは獣毛で編んだ敷物です

171 :
秀吉にではないんかい?

172 :
>>171
スマン変換ミスです。
>>170 最後の行、秀吉ですね

173 :
>>167
天智と天武は父親が違う

174 :
田沢は博学じゃのう

175 :
>>170
毛氈(フェルト)は大陸では古代から広く使われてきて
天幕や敷物にカーテン、装飾品やら靴やら文字を書く際の下敷きやら
色んな物に使える超便利素材
献上されたのがどんな毛氈製品だったのか想像すると面白いね

176 :
フロイスは信長への献上品を船のカーペットで間に合わせたって話があるな

177 :
そういや書道の授業で使ってた下敷きはフェルトぽかった記憶があるなおぼろげだけど

178 :
井伊直政の重臣の川手良則は、直政の姉の高瀬を娶ったが嫡男が無かったので、大草松平家の松平康安の三男を婿養子とした。

その川手良列(良行)は大阪の陣で井伊家の一隊を率いたが、夏の陣の若江の戦いで無謀とも言える突撃を繰り返して戦死した。
冬の陣の真田丸の戦いで井伊勢が先走って大損害を受けたが、良列は軍規を忠実に守って動かなかった。ところがかえって
臆病者の誹りを受けてしまい、そこで実父と実兄に相談の上で覚悟を決めていたのだという。

そこまで頑張ったのに、良列の遺児の良富も若死にしたのでお家断絶している。祖母の高瀬は孫より長生きしてますね。

179 :
ただし、過去ログ「賞の基準」、こちらの逸話では川手主水(良列)の扱いは正反対になっているようである。

180 :
まとめの9741「講談、寛永御前試合では」でも触れられてるけど
勝海舟「陸軍歴史」巻28から抜粋

三代将軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日於吹上上覧所剣道立合之面々左之通り

   井場泉水軒・下谷御徒町住人

負  浅山一伝齋

鎧勝負
   初鹿野伝右衛門

負  朝比奈弥太郎

   竹内加賀之助・播州住人

負  由井直人・仙台藩

   仙台黄門政宗

負  秋元但馬守

   堀尾山城守

負  菅沼新八郎

   柳生市之丞・和州柳生の住人

負  石川又四郎

   佐川蟠龍齋・芝高輪住人

負  関口弥太郎・紀州郷士

   石川軍東齋・江戸小石川

負  松前帯刀・御取立の御旗本

鎧勝負
   大久保彦左衛門

負  加賀爪甲斐守

   樋口十郎兵衛・上州の郷士

討  中条五兵衛・甲州中郷士

   荒木又右衛門

討  宮本八五郎・豊前小倉藩

   芳賀一心齋・備中の郷士

討  難波一刀齋・遠州の郷士

181 :
荒木又右衛門、宮本八五郎(伊織)の名前が見えるのはご愛嬌として、
編者の勝海舟は大久保彦左衛門や伊達政宗の名前が出てくることに疑問はなかったのだろうか
しかもこの「陸軍歴史」って陸軍省が勝海舟に依頼している真面目な本のはずなのに

182 :
>>180
これは魔界転生やってますわ

183 :
>>181
海舟は政治家だから歴史が正確かどうかには興味なかったのでは

184 :
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならきるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185 :
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。

186 :
訂正
又五郎は彦右衛門程度の小男ならきるほどの大力であったが、

又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、

187 :
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならきるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

188 :
あれ、すんません。何か訂正してないのが連投されてる…

189 :
落ち着いて見直してからボタンを押せ

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

190 :
逸話でなくてニュースだけど

ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171025-00000027-cnippou-kr
SJシウォン側「『豊臣秀吉が好き』発言、他意はなかった」

続いてシウォンは「この中で一番価値観が合う人物は」という追加の質問に「織田信長だ。織田が好きだったというカキフライをわざわざ食べに行くこともある」と説明した。


何がどうしてこうなった
歴史が伝わらない悪い話

191 :
>>190
名前で何処の白人さんがそんな適当な事を?
と思ったら…

192 :
ノッブ「そうそう、実はカキに当たっちゃったんだよ」

193 :
>>190
こんなことでいちいち突っ込まれるのか。めんどくせえ国だわ

194 :
比叡山高校の面接試験か何かで
面接官「尊敬する人物は誰ですか」
受験生「織田信長です!」
面接官「・・・不合格!」

という話を思い出した、本当にあったかは知らないけど

195 :
TERU「牡蠣言うたらやっぱウチじゃけぇ」

広島城、実は3代目 毛利輝元が築いた時代の牡蠣ガラ付き石垣が残る
http://j-town.net/tokyo/news/localtv/248253.html?p=all


カンパイ広島!牡蠣ングダム
https://hiroshima-welcome.jp
https://youtu.be/BSOWyUl0PX0
カープは完敗しましたけどね(涙

196 :
武田信玄「ワシも牡蠣大好きよ」
http://www.marutosuisan.jp/Steamed_Oyster/Oyster_story09.html

197 :
信長を偲んでカキフライ食うオフやったらおまえら来る?

198 :
エビフリャーなら

199 :
某ゲームの居酒屋コラボイベントで
家康キャラのコラボメニューが「徳川最後の晩餐(鯛の天ぷら)」
だったのを思い出した

200 :
>>199
ちゃんとさつま揚げだったのかが気になる。

201 :
家康キャラなんだからそれは間違い

202 :
織田信長の黒母衣衆に、伊藤武兵衛という者があった。
彼は坂井近盛という者を斬り尾張より退転し、駿河に亡命して今川氏真を頼った。
尾張からの牢人ということで、今川家の人々も彼を丁重に遇した。

ある時、乱舞の座において他の人々より「伊藤殿も何ぞ遊ばし候へ」と、座興を促されたが
彼は元より乱舞というものを知らぬため

「私は何も心得ませんので」

と断った。しかし「いやそう言われずに、何か一色」と更に促された。それでも
『今まで知らぬことであり、面目無いのですが、何も存じませんので。」

そういった所、座の若き者共、「この男、何も知らぬ」と嘲り、小鼓を彼に向かってころばして、
強いて所望した。
この様子を見て伊藤は、居直って言い放った

「私は若き頃より信長の脇に仕えて近国を従え、朝夕樫の柄(槍の柄)をこそ握っていたため、
穢多の皮を叩いた遊ぶ暇もなければ、知らぬなり!」

そして鼓を跳ね戻したが、かの若者達は

「いや、穢多の皮を叩く時は叩き、樫の柄を握るべき所で握る者こそ良いと言うべきだ」

そう言い、これに怒った伊藤が刀を抜こうとしたのを周りの人々が慌てて抑え止めさせた。

程なく、今川氏真は武田信玄のため駿河を退き、遠江掛川に籠った。ここを信玄と連携した
徳川家康が攻めた。
天王山の北に旗を立て、大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、松平周防守、土井豊後守らが
大手を攻め立てた時、城中には勇士多かったが、この時伊藤武兵衛が今川家の武士たちに言った

「穢多の皮の事承り及んでおりますが、畳の上では心安いでしょう。こういう時こそ少し叩いては如何か?
この武兵衛は信長の側にて習い置き樫の柄を握ってみせましょうぞ!」

そう申すと城より何度も打って出て、遂に討ち死にした。椋原次郎右衛門に討たれたという。
類少き勇者である。
しかし、もし彼に音曲の方の素養もあったなら、このように後まで心にかかることも無かっただろう。
であれば、知らぬというのは少し劣ることに似ているのではないだろうか。

(士談)

203 :
価値観が変わってしまっていることが窺えるな

204 :
大将の旗、纏、馬印などというものは、高く遠くからも見えることに利がある。
これは相印となり、将の下知がよく届くためである。

豊前の城井一揆の時、その谷口に戦術上良い地形があり、その山を取れば利があり、取られれば
不利になるものであったので、黒田長政はこれを見て取ると、宵より物見をかけ、この山を占拠するとし、
そうして山に備えを段々と上げた。

ここまで城井の兵は全く見えなかったので、さては黒田勢に辟易して退去したかと、各々喜び
緊張が緩んだ。

その時、城井の馬印である赤い吹抜が突然現れた。
黒田の兵はこれに驚き、「唯今足元よ敵が出たり!」と混乱し敗軍した。

この時黒田の機は、行列の時のように長く立ち備えていた。これが進みながら敵と遭遇したため、
旗を立て直すことが出来なかったのである。
先の方からは「旗を立て直せ!」と下知があったが、旗奉行はこの命令を聞き入れなかった。
「その時間が有るからと言って、もし立て直すようなことをすれば、むしろより早く
軍が崩れます」
という理由であった。

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の金の纏が出て佐久間玄蕃の兵たちが気を失い、小牧にても家康の扇の纏が出たことで
敵軍気を失い、関ヶ原にても家康の纏が突然現れたことで、石田三成は大いに驚き謀を失ったと言うが、
これらも同一の事例であろう。

(士談)

205 :
池田輝政への呪い

1609年(慶長14年)、城が完成して間もない12月12日の日付で、池田輝政に宛てた不気味な手紙が届いた。

それには輝政と夫人に天神(天狗)が取り付いて呪いを掛けようとしている。
「その呪いを解いて欲しいのなら、城の鬼門に急いで八天塔を建てて、大八天神を祀れ」と書いてあった。

これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。
そこで輝政はさっそく刑部神社を場内の三門内にお迎えし、祀ることにした。

ところがそれからも悪いことが続いた。
1611年(慶長16年)には、輝政がついに重い病気に倒れた。
そこで今度は、呪いの手紙に書いてある通りに、呪文を解く護摩祈祷を行い、
八天塔を刑部神社の横に建てると、輝政の病状は回復した。
その喜びも束の間、1613年(慶長18年)輝政は呆気なく亡くなり、その子供たちも次々に若死にした。

やはり、刑部大神の祟りに違いない。
「誰も居ないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、大勢の人が泣き喚く声が聞こえる」
噂はその後も消えなかった。


ソース元 姫路城周辺情報サイト↓より
ttp://castle-himeji.com/dic/a/osakabe/

206 :
これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。


池田輝政「何で太閤殿下や秀頼公でなく、私が呪われるんですかねぇ?」

207 :
だって引きこもりだよ?
遠出するなんて無理無理

208 :
天守閣から年1回しか出てこない刑部姫w

209 :
>>207
妹は遠く猪苗代から生首持参で遊びに来るくらいアグレッシブなのに、お姉さまの方が干物姉なんですか

210 :
そも狐なのか蛇なのか

211 :
>>210
妹は亀姫だけど、猪苗代城近所の田んぼで大入道に扮した大狢が退治されたらお城で怪異が起きなくなったとか…
ひ、姫じゃないから別の妖怪だよな…

212 :
引きこもりにご利益がある、
とすれば参拝?が増えるかな

213 :
丹波において、織田信澄の扈従の若者6、7騎が朝駆けを行い、敵30騎ばかりの中へ馬を乗り入れ、
それぞれに首を取って帰ろうとした。

この中に居た里見小才助と言う者の乗っていた馬は、三寸にあまり四寸に及ぶほどの大型であったが、
馬取は付かず、殊に腹帯もしっかり付けられていなかった。

鎧武者が指物を指して、首と槍と抜いた刀を持って乗ろうとすれば、鞍が返って上手く乗ることが出来ず、
そうしてもたもたしている間に敵が数多返してきて、小才助は討たれてしまった。
そして他の6騎は小才助を助けずに帰ったため、その頃その行為に対して批判が有ったそうだ。

大柄の馬に乗るべきではない、というのはこういう事であり、かつその上に、彼は馬の腹帯が
鞍の固定のために大切であるということを知らず、かといって鞍をつけない馬に乗る術も知らず、
その身の不覚悟のために討ち死にし、それだけでなく傍輩まで人々から批判させてしまった。
まさに誤りと言うべきであろう。

(士談)

214 :
そんなやつに馬のせんな

215 :
今の出来事に置き換えるとバイクで立ちゴケするようなもんか

216 :
舅の援軍として丹波に赴いたのかしら
信澄の話は貴重だねえ

217 :
織田信長が足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)

218 :
http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。

219 :
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4〜5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話

220 :
あー、ここは逸話、つまり史料そのものを紹介するところで、研究や学説を紹介するところじゃないので…

221 :
韓流スターのニュースがネタになる様なスレで何を今さら偉そうに

222 :
>>220
リンク先の山口きらめーるが通説への反論となる2012年刊行の山口県史の紹介なんで兵力差の部分だけ抜粋して書いたんだけど、それでもダメなのかい?
弘中隆兼の手紙の話とかまで書けば史料の紹介になったかな?

223 :
>>222
通説に反論したいのであれば普通に毛利スレとかでやればいいのではないかと。
ここも以前より人が減ったために雑談の頻度が増えたけど、そういう書き込みを許してしまうと
様々な人の自説の開陳場所になってしまう恐れがあるので。

224 :
>>223
通説への反論を元に議論や自説の開陳をしたいのでは無かった(とは言え最後の方は余計な文言だった)のだが、スレの主旨に合わないのなら以後こういう記事の紹介は止める事にするよ。
ごめんなさいね

225 :
スレッドと関係ない話をするな!

226 :
まあまあ
まことは、自演魔だからな!
大目に見てやれよ!

227 :
自演魔のまことを大目に見る理由があるんかいな

228 :
キチガイだから、何を言ってもムダなんだよ!

229 :
このスレが過疎る理由がよく分かった

230 :
俺ルールを振りかざす人がいるからな

231 :
菅沼

232 :
三十人の墓

広島市佐伯区の町中にある標高53mの海老山公園。
中世期には近隣の五日市城を居城とした宍戸備前守弥七郎元続(広島県北の宍戸氏でなく、厳島神主家の家臣である神領衆宍戸氏)
の支城があり、
当時は海に出た島城だった(現在近隣は埋め立て地となり住宅街の真っただ中)とも伝わる。
毛利元就と陶晴賢の合戦時、厳島に攻め込む直前の陶軍3万に攻め込まれた海老山城は
城主宍戸孫六以下30人の兵が討ち死に。死んだ30人の兵の亡骸は近隣住民により海老山に葬られ、墓石が作られたと伝わる。
https://i.imgur.com/FhteTPN.jpg
https://i.imgur.com/oCW5fJv.jpg
https://i.imgur.com/rhvuwgo.jpg
https://i.imgur.com/vGndI6B.jpg

233 :
ちなみに当城跡は、現在では夜中に行くと落ち武者の霊が現れるだの、
トイレで女子供の泣き声が聞こえてくるだのと噂される、心霊スポットであるとも言われている

・・・のだが、数年前の夜中に行ったものの筆者の身には何も起きなかったのであるが・・・
野生のアナグマや野良猫は居たのだが・・・
https://i.imgur.com/se3Q2fd.jpg
https://i.imgur.com/bdXQ8lE.jpg
https://i.imgur.com/KdJ3s12.jpg
https://i.imgur.com/LXTdoyH.jpg
https://i.imgur.com/N5PsMPb.jpg
https://i.imgur.com/oqTsQA0.jpg
https://i.imgur.com/3sZuIzo.jpg
https://i.imgur.com/5saHxDx.jpg

234 :
追記しておくと、現在の海老山公園は桜の名所でもあり
桜の時期に酒を持って夜桜を見に行くと、ひょっとすると何か起こるかもしれない。
(当地の看板、いつかいちの民話とくらしや広島市教育委員会の調査報告より)

http://www.mogurin.or.jp/maibun/yamashiro/kairouyama.htm
https://i.imgur.com/6W55Bi5.jpg

235 :
追記

神領衆宍戸氏とこの海老山城の落城について調べてみたけど、
広島県史の記載によると厳島神主家の配下である神領衆は毛利方と陶方に分かれ、
宍戸・野坂・栗栖・大野といった陶方についた神領衆は滅亡したという記述が有るようだったり、
厳島合戦の時、陶軍は山口の玖珂郡(現山口県岩国市)今津・室木の浜から500艘の船で厳島へ向かったとされているので、厳島合戦前に厳島から東北に10km位先にある海老山城を攻めるってのはちょっと疑問に思うんだけど、
実際のところはどうだったんだろうか?
https://i.imgur.com/XXEVtBR.png

236 :
海老山の宍戸も他の宍戸のうにじつは大内方についいてて毛利に攻め滅ぼされたとか

237 :
>>236
https://i.imgur.com/emjyjgZ.jpg
もしかして:実は毛利がやった?

と、自分も思ったけど
Wikipediaの防芸引分や折敷畑の戦いの項を参照すると、吉川元春と熊谷信直の事前の調略や交渉が上手く進んで1日で佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。
と有るので、翌年まだ反毛利側の白井氏や離反した野間氏と陶水軍が東の仁保城奪回に何度か攻め込んだりしてるから、その折に海老山城でも戦が有ったのかもしれないですね

238 :
>>233
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)それは本当に落武者の霊だったのでしょうか…
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

239 :
慶長5年、長尾(上杉)景勝が出羽国最上義光を攻めた時、上山城に里見越後(義近)の子、民部太夫が
籠っているのを、上杉方である山中城主・横田式部と穂村造酒允と言う者が両人大将分にて、人数
300ばかり押し寄せ、山向に陣を取り、それぞれ馬より降りて備の形成を初めた。

この様子を詳しく見ていた里見は、馬武者を選りすぐってこれに突撃を行い、横田・穂村の兵は
尽く敗北した。

横田はこの突撃の時、未だ馬に乗っていたためそのまま馬を駆けて落ち延びた。
穂村は馬から降りており、再び乗ろうとした時馬が付きかね手間を掛けている間に、敵が重なり来て
討ち死にしたという。

(士談)

備の形成途中で攻められるとやはり弱いのだな

240 :
城攻めにきてるのに300っていうのも気になるが、こんなしょうもない負け方は初めて見た

241 :
>>238
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

242 :
戸次川合戦長宗我部信親の最期

去る程に信親は、味方皆打ち負けて散々になり
元親の生死も知らざれば、今はこれまでとただ一途に思い定め
上下心を一致して龍粧(戸次川地名)に備を配り
静まり返って敵を待ち受けた

勇気最盛なる新納勢は、僅かな長宗我部勢が控えているの見て
ここはいささかも休むべきにはあらずと、三手に別れ閑閑と打ってかかる
信親七百余騎、三手に颯爽と別れて駆け合い
汗馬東西に駆け違い、旌旗南北に開き分かれ
追いつ返しつ、巻きつ巻きられつ、互いに命を惜しまず七、八度と戦い
新納が五千余騎、残りわずかまでに討たれたが
長宗我部勢も大半が傷をこうむり、(血で)朱になってその場にとどまった

伊勢兵部丞一千余騎、戦い屈したる長宗我部勢を
弊に乗って討たんとして横合いに駆け向うが
信親もとより思い切った事なれば、相懸かりに懸りて
弓手に側め、馬主に背け、打っては駆け通り、突いては押し払い
四武の衛陣堅きを砕き、揉み違い入り乱れ、喚き叫んで戦い続けた
敵味方の討たれた者は数知れず、互いに龍虎の争いなれば
このいくさ、いつ果てるのかもわからなかった

(続く)

243 :
新納武蔵守は槍を取り、猪の怒れる如く大きく猛って突いて回る
細川源左衛門これを見て、願う所と槍を提げて向かい
武蔵守、物々しやと人を交えもせずに戦ったが
源左衛門に左腕をしたたかに突かれ、危うくなったところに
郎党二人駆け来たり、武蔵守を押し隔てて戦い
さらに伊勢兵部丞が馬を駆け寄せ、源左衛門に槍を付けたので
源左衛門ようやく若党に首を取られ討ち死にした

信親はあまりに手広く駆り立て戦う内に、乗り換えたる馬は三頭
平頭三太刀斬られて、犬居にどうと臥した
敵これを大将と見知ったので、駆け寄せ討ち取らんと進み近づくが
信親四尺三寸の大長刀を提げ、大勢の中へ割って入り
籠手・薙手・開手・十文字、八方乱して切りつけ
強靭の兵二十四、五騎を薙ぎ払ったので、長刀の柄は中より折れてしまった

(続く)

244 :
敵二人得たり賢しと両方から飛びかかり打つ太刀を
信親さっと飛び違え、二人共に同じ枕に蹴り倒し、太刀を抜き胴を切り捨てた
新納これを見て、一騎打ちの勝負は叶うまじ
総軍一度に懸かれと下知すれば、蟻の如く集い、蜂の如く行き合い
信親の上に重なって前後左右より押し取り巻き
穂前を揃えて突く槍を、ひらりと飛び越え
持って開いては丁と切り、飛び違えては、はたと切る
されどもその身鉄石にあらざれば、精力疲れ、ついに鈴木内膳に討たれた
信親行年二十二歳、その死を惜しまぬ者はいなかった

吉良播磨守、本山将監、石谷兵部少輔らも何のために惜しむ命ぞやと
真っ先に敵の中に駈け入り、枕を並べて討ち死にした
これらを始めとして、桑名太郎左衛門……
(以下数頁に渡り延々と討ち死にした者の列挙が続く、下画像参照)
https://imgur.com/a/krw3g
https://imgur.com/a/2iU01

……この他精兵都合七百余人、我先にと駆け出で駆け出で
一騎も残らず皆斬り死にした
味方の討ち死には二千七百二十七名と聞いている

(土佐物語)

245 :
センゴクすごく悪い話だ

246 :
>>242-244
脚色もあるんだろうけど凄まじい、描写が詳しくてこのまま剣劇にできそうだ。

247 :
折角なので元親記による信親の最期の様子も

長宗我部軍も是非に及ばず陣触れをして、一足遅れて出撃したが、川を渡って
陣容も整わぬうちに、黒雲のように薩摩軍が押し寄せて来た。
年来城攻めを差し置き襲ってきたのだ。これが薩摩と土佐の史上初の激突である。
仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。

群がり来る敵の中で、信親は馬を捨て四尺三寸の大長刀で八人を薙ぎ伏せ、
さらに刀を抜いて六人を切り据えた。
物の具の上から打ち合うので刀の刃はぼろぼろになっていた。
(信親は)辺りの敵を追い払って腹を切ろうとすると、多勢の者が走り寄り、
同じ場所で次々と自決した。
福留隼人(儀重)と細川源左衛門は元親のそばに駆け寄り、
この世の暇乞いをしてから命を絶った。

(中略)

討死した信親は二十二才だった。身の丈六尺一寸、平素は長船の名刀
三尺五寸の兼光を腰に差し、剣術に優れ、身のこなしの敏捷さは比類なかった。
走り跳びに二間を跳び越え、跳びながらこの刀を抜いた。
これほどの人なので、樊?にも劣るまいといわれて、元親も最も期待していた。

信親がこの日帯びていた刀は、先年信長公に名をもらった時、その祝儀に
拝領した左文字の太刀であった。

(元親記)

248 :
文字化けしてしまった
樊カイにも劣るまいといわれて、です

あと×年来城○年光城です
重ね重ね失礼

249 :
>>247
信長、左文字の太刀とくると義元からぶんどったやつが思い浮かぶが
あれは別に伝わってるから他にもあったのかな

250 :
信長に貰った太刀や着ていた鎧兜がボロボロになっていて凄まじかったらしいね
この時、権兵衛が大人しくしていれば後の歴史が結構変わっていたかな?

251 :
>>248
年光じゃなくて利光だろう

252 :
>>251
一応原文ママだよ
まあよくある当て字だね
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-066306&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E8%A6%AA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=62

253 :
>>250
関ヶ原のとき盛親じゃなくて信親だったらってとこか。なかなか渋いif

254 :
案外、旗幟鮮明にして最初から西軍参加でやっぱり関ヶ原戦場で壮絶な討ち死に遂げてそう。

255 :
そもそも、長曾我部って豊臣にも石田にも何の恩も無いよね

256 :
一応土佐安堵の恩はあるんじゃないの

257 :
世間的にはそういうことになるわな
秀吉もめっちゃ宣伝しとるし

258 :
取次ぎ役の増田長盛についてっただけでしょ

259 :
どうせ巻き込まれたなら一旗揚げてやる的な感じじゃないかねぇ

260 :
なんとなく、元親が関ヶ原前に死去していれば西軍について関ヶ原本戦にいそう。
元親がまだ存命なら東軍よりの中立ないしは佐竹のようなどっちつかずになってそう。

261 :
>>260
どっちにしろ詰みやんけ
後者なら改易で大名長曾我部家は維持出来そうだけど

262 :
>>260
元親存命なら毛利と伊予を挟撃してそうだな、あとで知らぬととぼけそう。

263 :
衆道に関するチョイと悪い話ってあるのかな?

264 :
またお前か

265 :
お前しかいない

266 :
備の場にて馬を取り放してしまててゃ、必ず味方の破れにつながるので、聊かも疎かにしてはならない。

賤ヶ岳の合戦で、柴田方であった前田利家の備が敵と交戦する前に崩れたのは、前田の家臣であった
三吉左吉という者が馬を取り放してしまい、それゆえに備が乱れ。佐久間玄蕃同時に崩れたのだ。

この時、前田の旗奉行である横山半喜(長隆)という者が討ち死にした。これはあの横山山城(長知)の
父である。旗の立てよう、見事であったという。

また関ヶ原の時、近江大津城攻めは9月15日に行うと決定していたが、13日に毛利方の吉川家の者が
陣屋において馬を取り放し、殊の外なる騒ぎとなったのを、共に大津城攻めに参加していた立花家の者達が

「さては中国衆は、我々を出し抜いて城を攻めるのか!」

そう勘違いをし、柳川衆はそうはさせるかと攻め掛かり、二、三の郭を乗っ取った。
柳川衆のこのような行為を見て、中国衆もまた攻め掛かった。

これらは、みな馬を取り放してしまったために起こったことである。故に、陣屋、備の場ともに、
馬を取り放さない心得がなくてはならないのだ。

(士談)

267 :
>>263
陶興房の長男、興昌は主君、大内義隆と仲が悪くって父親の興房に暗殺された疑いが有るわね。
代わって陶の跡を継いだ隆房も興房に気性を心配されてたけど、正に父親に心配された通りの結果になったわね。

268 :
>>255
どっちかっていうと敵方
柴田のときもそうだし徳川のときもそう
でも四国統一にかまけて秀吉牽制を怠けてるから味方の印象はボロクソ

269 :
統一できたところで所詮四国に過ぎないしなぁ。石高低すぎ。

270 :
結局統一も成し遂げてないし
自分とこの記録ではちゃっかり達成したことにしてるけど

271 :
信長の要求飲んで阿波を三好に返して伊予に転進しときゃよかったんだ

272 :
かつて、織田岸蔵坊(信長に仕えた織田信房 (造酒丞)の祖父)と村上紀伊守とが、当時の公方の
命により敵を退治したが、織田岸蔵坊は比類なき働きあり、紀伊守はさほどのことはなかった。

帰京した時、織田は馬を賜り、村上は太刀を賜った。
これに織田岸蔵坊は激怒した

「村上は一戦に崩れて恥を取ったと言うのに、それがしと一緒に御盃を賜っただけでなく、
御剣まで賜った。村上は『この太刀こそ勲功の賞である』と、子孫に伝え家の面目に備えるだろう。

しかし馬は生物なのだから、明日をも知れず、後代に残ることもない!
すぐに其の馬を打ち殺し皮をはぎ太鼓に張り、『これこそ将軍より賜った馬の皮である』と
銘を打って子孫に伝えよう!

各々、武勇を棄てて酒の飲み方を学ばれよ!村上が上戸故にこれほどの面目に余る待遇を受けたのだ!」

そう罵って御前から下がり、将軍は大いに興を覚ましたという。

(士談)

273 :
信長の言い分と真逆w

274 :
汗血馬でも屠殺しちゃいそうな奴だな

275 :
いい馬なら繁殖させれば儲かると思うんだが
それでは駄目なのか

276 :
戦国時代の名馬って繁殖に回って子孫も名馬っていう話聞かないし
いい馬をもとに繁殖させるっていう発想自体がないんじゃね

277 :
そもそも儲かるとかそういう話じゃなくて面子の問題なんだろうしな

278 :
池月・磨墨を頼朝から下賜されて宇治川で先陣争いした
佐々木高綱や梶原景季はいまだに語られてるのに

279 :
それは平家物語の作者と琵琶法師たちのおかげだな

280 :
>>276
ない。馬産に関しては明治まではとてつもない後進国。
なんせ、去勢すらまともにしようとしないぐらいだし。

281 :
アラブを導入してみたもののうまくいかなくて小さく出ちゃったのって島津だったっけか?
まあ種馬を見分ける相馬が無かったんだろうけど

当時って自然交配なのかな?

282 :
日清だか日露の時に日本の軍馬が騒いで困ったので、それからせんばの導入が進んだって聞いたことある

283 :
>>277
馬を貰った=記念品と共に長く伝えられる程の功名と評価されなかった、と解釈したのかも。
あるいは「あの時こういう功名を遂げて馬を貰ったんだ」より、
「あの時こういう功名を遂げて太刀をもらった、それがこれ」と言えるほうが格好がつくと思ったか。
感状に拘る武士に似た考え方かな?

284 :
ググったら武家事紀の同じ話が有り、書かれてるサイトが有った。そちらでは織田岸蔵坊の事を

きわめて貧しきが故に、布の旗、筵の障泥にて疲れ馬に鞭をあつ。 

村上紀伊守は馬具・武具も整え岸蔵坊とは対照的な姿。
 どちらが一陣、二陣となるかをくじで決め、村上紀伊守が一陣、二陣は岸蔵坊となった。
 村上紀伊守の第一陣は破れ、岸蔵坊は身に三箇所の傷を被りながらも一揆を打破った。
 こうして凱旋し将軍家に討捕らえた首を献上した。
 その様子を『武家事紀』は、 
 
  将軍家感悦のあまり御盃を下され、ことに駿馬を賜う。 
  村上も御盃にあずかりぬ。 
  村上もとより大酒なれば、数盃を傾く。 
  将軍家興に入り給うて御太刀を賜いて各退出す。 
  岸蔵坊大いに怒れる気色にて、 
  一番に逃亡せる村上は重代につたわる太刀を賜り、軍功無双の某には、明日もしらざる馬を賜る。
  此の馬を殺し皮をはいで太鼓に張り、是こそ将軍家より軍功に賜れる馬の皮よと銘をしるし、子孫に伝うべし。
  これ村上が上戸ゆえなり。 
  下戸なる者は益なし。 
  下戸無念なりと、ののしり立って帰れりとなる。 


これを見るに将軍には悪気無く、岸蔵坊さんに良かれと思って馬を与えたように見える。
岸蔵坊さんは襤褸を着ても心は錦じゃないけど、負けた筈の村上さんが褒美を貰うのが気に食わなかったのかなぁ?


http://www.gokuh.jp/ghp/busho/oda_001.htm

285 :
織田の陪臣である岸蔵房がどうして将軍家に拝謁できるのか?
尾張に流れてくる前の話なのかな?

286 :
一揆はどこの一揆で将軍はどの将軍なのか

287 :
>>285
織田岸蔵房で調べたら孫の織田信房が出てくるけど、信秀の代から仕え、元々織田姓ではないとある。
岸蔵坊が元々何処に仕えていて、どう流れて信房の代で信秀に仕える様になったかは興味深いね

288 :
>>287
信房の子に菅屋長頼がいるんだよね
織田姓を貰うことといい、かなり厚遇されていた一族なんだろうなあ

289 :
現代でも仕事が出来ても飲みニケーションが出来ない奴は出世しないだろ
お前ら引きこもりには到底理解不能だろうがw

290 :
戸次川合戦後の讃岐について

ある時十河猪兵衛に会い、豊州利光川の戦(戸次川合戦)
存保戦死について問うたところ
猪兵衛曰く、我は幼主千松丸に属せられ参陣せず
父の猪右衛門、十河但馬、松田宗閑などの忠臣は皆死をもって従った
存保の命を伝えて来る者もあり、死亡を逃れて来る者もあるゆえ
我が見ていない事を語っても益はないだろう、と前置きし語り始めた

存保筑紫にて戦死の日は十二月十二日である
その日の八つ時分に、兵卒三百人ばかりが旗十流ばかりを靡かせ
十河の城に入るのを田畝に耕す農人が見た
次の日、近境の者どもが還陣を賀そうとやって来たが
城中の者はそのような有様を知らず、不思議な事だと言い合った
そんなことがあった数日後に、豊州戸次川にて
存保が戦死を遂げられた報告が届いたそうである
家人どもは十河家息男千松丸に付き従い、十河の城に留まり
仙石秀久は豊州の敗軍を恥じて讃州に入らず
直に高野山に入ったと聞いている

(続く)

291 :
また天正十五年正月、讃岐の国を尾藤甚右衛門尉賜いて入部し
兵卒を催し、筑紫陣(秀吉の九州平定)の用意をすることになった
去年の年貢は残っておらず、今年の収穫も先のため、手だてなければ
寺社領、神社仏閣の敷地まで検地を入れ、軍中の資用を宛て課した
国中の商家遊民に課役をかけて催促したが
はかばかしく財産も集まらなかった
仙石氏出陣の時と比べ、三分の一の形相にも及ばずして
九州へと赴いた事を思えば、高城の夜戦の際(根白坂の戦い)
尾藤氏が痩せたる兵をもって島津方の逞兵にあたり
固く守りて出なかったのは、己を知る者であったからである

神子田中左衛門は信長卿の御家にて
竹中半兵衛と両半と言われし弓矢巧者であり
この度、秀長卿の介添として日向の国に発向したが
高城の夜戦の際、善ヨウ坊を救わずをもって
改易されると言う人あるが、我はその実否を知らない

292 :
それ小軍夜に紛れていくさを起こし挑む事は、大軍にとって大事である
総軍皆出でて戦う時は、彼我を分かたずして、同士いくさするものだからだ
各陣固くして夜の明くるを待ち、敵の退き口について朝合戦をなすべきで
これぞ大軍の手だてである
秀吉公は勇戦を好まれるがゆえに、その時勢を糾さずして
尾藤が落ち度として讃州を没収されたのである

(南海治乱記)

293 :
>>289
0289 人間七七四年 2017/11/10 09:19:44

仕事出来ないからってそんな時間にこんな過疎スレに書き込みしなくても良いのよ

294 :
まーそういう大義名分を本気で信じてるかどうかはあるかな

295 :
>>293
君が引きこもりってのがよく分かるレスだねw

296 :
夕方までよく我慢したね

297 :
ずーっとF5連してたの?引きこもり君w

298 :
扇谷上杉定正は、養子で後継者とした朝良が食分を忘れて武士の業を勤めぬことに、曽我豊後守の許へ
戒めの書を記し送った。その内容に曰く、

『年来これについて言っては来たが、あまりに五郎(朝良)はたしなまず、一つのことすら、
この定正が納得するものは無かった。

去年の正月以来、朝良の随従の者たちに申し付け、彼の朝夕の雑談の内容を知らせるよう命じた所、
4,5人が密かに注進してきたが、何れも同じ内容であった。

朝良の所へ山口、小宮、仙波、古尾谷といった面々が参った時、朝良が彼らに尋ねるのは
ウグイスの事、武蔵野にての鳥追、狩りの雑談、武州六社(武蔵国一宮から六宮までの六社の神社)の
物語、深谷の馬場の早馬の事、酒宴数盃の物語であり、また或いは、京の方からきた牢人の面々が
出頭した時、彼らに尋ねるのは招月の歌、手跡の物語、心敬・宗祇の連歌、洛中貴賎、清水男山の眺望、
諸五山の様子、観世今春の能仕舞の雑談、といった内容だったそうだ。

これを知って私が悲しみのあまり涙を流したのは言うまでもない。この愚老が明日にも討ち死にすれば、
当方屋形の者共は皆、命を失うか生き残っても乞食に身を落とすであろう。』

そのように書いたのだという。

(士談)

299 :
餓鬼の首 武田一族終焉の地

 武田山の背後、広島市安佐南区長楽寺にある「ふじが丘団地」の下に、こんもりと繁った林が残っており、この一帯が、武田一族の終焉の地と言われています。
この終焉の地は ”餓鬼の首” といわれ、 この地で武田氏が滅びた時、一族郎党たちを”首切り処刑”した所で (<安郷土史懇話会>によれば=悪人や罪人を処刑した場所であった所とされている) 、
掘れば血がでると言われている。 首切り処刑したと言われる 約1.5m 四方で高さ 1m の石積みがあります。

  この場所には武田一族の後裔の方たちが建立された 「武田一族の終焉の地」 の石碑があり、それには次のような碑文が刻んであります。

  『 今を去ること四百年有余年昔、天文十年三月十三日新羅三郎源義光が末裔 安芸の国守護武田信重はおしよせる大内.毛利の大軍に祖父の地を死守せんと戦せしも、 
衆寡敵とせず金山城にて一族諸共に自刃す。
残りし血族は悉く捕われ 六親等に至るまで女人、幼ごの区別なくこの地冷たき石積の上に あわれ無情の刃にかかりてはて封印される。
時は流れ辛くも難をのがれその血を今に伝えし物共真を積みて、悲願結集し尊き仏法の功徳をもって縛はとかる。
今はただ苦もなく怨みもなく一族とともに仏国浄土に赴かん。 願わくはその説く所怨親平等の大慈大悲戦乱に倒れし遍くの諸霊の上に注がれん事を。
      諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽 』

    武田信重が裔    ****  ****
                  ****  ****

    武田源三が裔    ****
         平成十年四月建立

http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/syuuennochi/syuennochi.html
http://taketayama-hoshoukai.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-f966.html

300 :
>>299
>今はただ苦もなく怨みもなく一族とともに仏国浄土に赴かん。
凄い名文…
作られたのは結構新しいんだね、400年以上たっても忘れない良い話じゃないか!

301 :
いや、後裔の方々が先祖の恨みを忘れるのはそうだけど、根本は一つの戦国大名家の一族がほぼ誅滅される話なんだからどう考えても悪い話だと思うんですが…

302 :
フランスに何か用があったん?

303 :
>>302
その発想はなかったわ

304 :
なるほど
しかしながら浄土とは表現しないだろうなあw

305 :
おんばんさん

 天文10(1541)年 毛利元就軍との戦で銀山城は落城しました。執拗な追撃をうけながら武田方の武士達は戦いながら沼田方面に敗走しました。
 しかし、多くの武田武士たちは>>299のように捕らわれて斬首されました。 
一方、少数の一族の子女や老人は神社そばの通称”隠れ里” (安西中学校付近まで続くつづれ折の谷間) に隠れていたそうです。 
隠れ里の入口には大きな岩が2〜3枚あり,その陰で数人の武士達が護衛をしていましたが、毛利方に発見され全員殺されてしまいました。
 地元の人々は隠れ里入口の岩を割ってお墓を作り供養しました。昭和40年代後半の団地の形成に伴い移転されましたが、
地元ではその祠をおんばんさん(黄幡さん)と呼んで今も武田武士供養の祠として恵比寿神社に残っています。

恵比寿神社とおんばんさん
https://i.imgur.com/XoxSAkb.jpg
https://i.imgur.com/7gINtR9.jpg
http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/onbansan/onbansan.html

306 :
>>305
>岩を割ってお墓を作り供養しました
ケンシロウみたいな百姓が岩割ってるの想像して草

307 :
大阪の陣の時、伊達政宗が奈良において、全ての足軽大将を集めて鉄砲を釣瓶撃ちさせたが、
加藤太という足軽大将の足軽たち300ばかりが鉄砲を撃たなかった。

この事を糾明したところ、加藤太は
「道中にて火を持っていれば、火縄を入れておく意味はない。火薬を足軽に預ければ道にこぼして多く
廃ってしまう。」
そう言って火縄、火薬ともに荷に包み小荷駄に付けて後より来るようにしたため、この時の釣瓶撃ちに
間に合わなかったのだという。

政宗は激怒し
「職分を忘れて、役人の出納を気取るか!?これ士の見せしめである!」
そう言うと自ら斬って棄てた。

また足軽たちに命じて、一斉に刀を抜かせ木を切らせた。
この時、一人錆びた刀を差し、木を切ることできなかった。これも糾明したところ、足軽が病のため、
人足を雇って代わりに役を勤めさせた。そのためそのような刀を持っていたのだと答えた。

政宗はこの足軽大将も成敗し、諸卒に示した。

(士談)

308 :
>>307
大阪の陣の頃になると実践遠ざかって久しいから、経済を優先させちゃう輩も増えたんだろうなぁ…
関ヶ原の頃ですら、朝鮮行かなかった大名は結構な期間実戦やっていなかったし。

309 :
鉄砲の件はもっともだが、刀で木を切るのはやめた方が

310 :
紀州に浅野長晟が在国していた頃、この国の地侍の某、功名の沙汰ありし者であったので
浅野家より扶助があり録豊かで、山中に彼の好きなように住ませ置いていた。

ところがこの者、武義を勤めず職を忘れて、ただ財貨を集めることばかりに熱心であった。
「財貨が有れば何時も、諸道具、人馬ともに揃えることが出来る。」
そう広言していた。

この頃、大阪の陣がはじまった。
彼は財貨を散じて人馬諸器を求め、由々しき姿で出かけた。ところが、集めた者共は元より下々の事であり、
紀伊から大阪までの道で、一人残らず逐電してしまい、残ったのは乗っている馬と我が身ばかりという
有様になった。
このような事では先々はかばかしい働きも出来ず、かといって紀州に変えるのも面目がないと、その場より
行方知らずになったという。

(士談)

311 :
浅野長晟の動向からして徳川方に付こうとしたのかな
なのに逐電されたのか

312 :
いや豊臣のほうじゃね?負け濃厚だし

313 :
大名が徳川についてるのにそれは考えにくいのでは…

314 :
じゃあどうして牢人が豊臣に集ったんだ?
勝ち濃厚の徳川に着いたのに逐電てワケワカメ

315 :
金だけ持ち逃げされたつう話だろ

316 :
浪人は行くとこ無い人でしょ?
徳川は勝ち濃厚ったってやっぱり戦するわけだから死んだりケガしたりすることもあるし
いくら当時の日本人が勇敢っつっても臆病者卑怯者のクズもいるわけで

317 :
これって、中間や小者の話でしょ。

318 :
>>316
現代の感覚で語られてもなw

319 :
>>318
現代の感覚だったらこんな事起こらないだろw

320 :
論破されて発狂か?みっともねえ奴だなw

321 :
まあいつもの儒者説教

322 :
越前朝倉義景滅亡の後、富田長繁は府中に在城していたが、龍門寺と云う者が密かに隠れていたのを、
使者を以て招き、『信長に申し上げ、本領安堵のことを才覚申そう』と伝えた。
龍門寺は大変喜び、府中を訪れて長繁を頼んだ。

しかし長繁は、龍門寺を討って信長への忠とするつもりであった。

彼は富田宗八という小姓を呼び、これを打ち手と定めた。そうして龍門寺を様々にもてなし、そのうちに
このように言った

「朝倉家代々秘蔵の中村太刀いうものを、大野郡より入手したのだが、茶の後にでも見てみないか?」

龍門寺も「それは是非見たいものです」との事であったので、長繁はそれを取り出し龍門寺に渡した。
彼は剣相を眺め、鞘に収めようとした時、この場に居た宗八がまかり出て言った

「一世の思い出に、私にもぜひ拝見させていただけないでしょうか?」

長繁は叱りつけた
「汝若輩の身でありながら、憚るべきことを!」

しかし龍門寺
「若き人がそう望むのは尤もなことです」と、その刀をそのまま宗八に渡した。
宗八はこれを受け取り見る体から、龍門寺を討ち取った。

(士談)

323 :
逸物でRるとは果報者

324 :
坊主なんかな

325 :
長繁意外と頭がいい

326 :
もっと狂人っぽいイメージ持ってたんだが

327 :
誇張されたイメージだろう

328 :
>>326
狂人は頭も悪いという思い込みw
性格と知能は別

329 :
水野下野守(信元)が、織田信長との間に事あって、三河刈谷から下城し大樹寺にて蟄居した。
信長から密かに、徳川家康へ水野を殺害するよう依頼があり、久松佐渡守(俊勝)を使いとして
水野を招いた。

水野は何の疑いもなく、その上久松が来たのだからと、彼を伴い岡崎へ至ったところ、
平岩七之助(親吉)に命じて水野を殺害させた。

この時、久松はこのような事に成るとは聊かも知らなかった。そのため日々の勤めが薄ければ
必ず取り乱したであろうが、彼は少しも動揺した様子はなく、由々しく見えたという。

しかしながら、久松は自分が人質のように遣わされたにも関わらず、この事について一言の
仰せも無かったため、もしこの時取り乱せば、一生のおくれとなったと、内心遺恨に思い、
以後、御前に出仕せず、死去するまで安居の領地に引き籠もったという。

(士談)

330 :
既に出てるな、出典無しだが。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-853.html

331 :
豊臣秀吉、豊臣秀次宛書状

一、殿下(秀次)は陣の用意を油断なく行ってください。来年2月には進発するように。
一、高麗の都は二日に落ちました。この上はいよいよ渡海する時は、大明国まで残らず
  征服するよう仰せ付けましたので、大唐の関白職と成るべくお渡りになるでしょう。
一、人数は3万を召し連れ、兵庫より船で来るように。馬などは陸地でさし寄越して下さい。
一、三国の中に敵対するものはこれ無しと雖も、外聞というものが有ります。武具の嗜みには
  十分気を付けて下さい。下々にまで申し聞かせるように。
一、召し連れていく者のうち、人持ちには3万石、馬廻りへは2万石を貸し遣わすように。
  金子も似合い似合いに貸し遣わすように。
一、京都の御城米は留め置いて下さい。八木に手を付けさせてはなりません。
  その他の30万石は先にこちらに輸送しました。八木を陣用意に召し遣わし、
  不足のあった場合は太閤御蔵米が入り次第召されるように。
一、のし(金を延べ貼り付けたもの)付きの刀脇差を千腰用意して下さい。あまり大きすぎては
  指す者遠路の迷惑となるでしょうから、刀は七両、脇差は三両あまりにて申し付けて下さい。
一、のし付きの薙刀30、のし付きの鑓20本、このほかは無用です。
一、長柄槍は柄を金にするように。毛のない鞘は無用です。大阪に樫柄のものを置いてあるので、
  所用の時はこれを召し寄せて下さい。
一、金子について、私の方に今ある分は払底してしまったので、聚楽に有る銀子一万枚を
  大阪に遣わし、大阪の金子千枚をこちらに召し寄せて下さい。ただし五百枚所用の時は、
  銀子五千枚を代わりに遣わして下さい。如何程であっても、10分の1で交換して下さい。
一、具足は5、6丁を持ってくるように。それ以上は無用です。
一、馬たちは現在高麗に半分は曳いていきました。その他は名護屋に鞍道具ともに残し置いて
  ありますので、そちらがあまた曳いてくるのは無用です。広島にも10匹置いてありますので、
  彼の地にて引き換えて下さい。よくよく飼い置く旨、西尾(光教)に仰せ遣わしておくように。
一、名護屋にも高麗にも兵糧はふんだんに有るので、用意には及びません。こちらに向かう道での
  覚悟のみを仕って下さい。
一、小者若党以下、下々までも召し置いて下さい。この方で小者などを雇い入れようとしても、
  にわかには出来ません。前々から用意しておくことが肝心です。
一、丹波中納言(羽柴秀俊)にこちらに来るよう、準備を命じ、きっと同道するようにして下さい。
  8月前には命じるように。尺米等の事については山口の方へ仰せ遣わすように。
  8月前に召し寄せ、高麗か名護屋での留守を仰せ付けます。
一、高麗のための留守居として、宮部中務卿法印(継潤)を召し寄せて下さい。用意を命じ
  従う旨を仰せ遣わして下さい。
一、大唐の都へ叡慮(天皇)をお移し申すつもりですので、その御用意をしてください。
  明後年には行幸が成されるでしょう。その場合、都の周辺10国を進上するでしょう。
  その内において諸公家衆何れも知行が仰せ付けられます。官位の低い衆の知行は
  10倍にし、官位の高い衆は仁礼によるべき事。
一、大唐の関白は先に言ったように、秀次に仰せ付けられる。その上で、都の周辺100国を
  与える。日本の関白は大和中納言(羽柴秀保)、備前宰相(宇喜多秀家)のうち、覚悟次第で
  仰せ付ける。
一、日本の帝位は若宮八条殿(皇弟知仁親王)に、何れにせよ決まるでしょう。
一、高麗については岐阜宰相(羽柴秀勝)か、そうでなければ備前宰相を置きます。
  丹波中納言は九州に置きます。
一、震旦国(中国)への叡慮(天皇)の行路は、例式や行幸の儀式があるので、御泊々、
  今回あなたが出陣する道路の御座所が然るべきでしょう。人足伝馬は、その国の範囲で
  申し付けるように。
一、高麗国はもちろん大明の征服も、手間はいらぬと人々に仰せ付けて下さい。上下の迷惑は
  少しもなく、下々が逃げ走る必要もありません。諸国へ遣わした奉行たちを召し帰し、
  陣の用意を申し付けて下さい。
一、平安城(京都)並びに聚楽の留守居については、追って命じます。
一、民部卿法印(前田玄以)、小出播磨守(秀政)、石川伊賀守(貞政)以下、用意を命じ、
  お考え次第に参陣致す旨、申し聞かせるように。
右の条々、西尾豊後守(光教)に申し含めました。その意を得て下さい。

  天正二十
    五月十八日
                      秀吉(朱印)
(前田家書状文書)

332 :
>>331
すいません、最期のところ、(前田家書状文書)ではなく、(前田家所蔵文書)です、申し訳ありません

333 :
断られたやつか

334 :
前野長康はマジヤバい。
まず実の父親が凄い。坪内勝定。
この男は前野長康と12歳差。つまり満11歳の時に仕込んだってことだ。
とんだヤリチンだぜ。

さらに母親が凄い。生駒右近善長の妹。
なお、生駒右近善長は長康より45歳年下。
自分より年下の母親から生まれてくる前野長康はヤバすぎる。

335 :
出典は武功夜話?

336 :
細川元勝もなかなかヤバい
父である細川昭元と13歳差
母もすごい。織田信長の妹お犬の方
生まれたのは両親が結婚する16年前で異父兄の佐治一成より6つ年上
マジヤバい

337 :
>>334>>336
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

338 :
一瞬、「細川元勝」を、天狗の修行した細川政元の父親の「細川勝元」と間違ってレスをしたのかと思った

339 :
細川政元と言えば司箭院興仙っちゅう政元の修験道の師匠がいるんだが
1570年に安芸国から空を飛んで京都の愛宕山に住み着いたとかなんとか
政元に仕えてた人物がその時期まで生きてたとある通り非常に長寿だったようだが
100歳になっても若々しかったなんて話もありなんか嘘くさい

ちなみにこの人物武芸にも優れていて河野通昭(左京大夫通宣の庶子)にそれを伝えたという
河野から築山に改姓した子孫が貫心流として広島藩に剣術を広めたりしている
開祖の名前が源義経になってたりしてどっか嘘くさい


ついでだから書くが河野から築山に改姓した理由は先出の河野通昭が
秀吉への襲撃を企てたため子孫に累が及ぶのを恐れた、とされている
これは築山氏の編纂した史料に記載されており豊臣側の史料にはそれらしい記述はないようである
やっぱり嘘くさい

340 :
柴田勝家の軍が加賀一揆勢との戦いを繰り広げていた頃のこと。
加賀国二曲という城、現在は別宮と呼ばれているが、この地は吉原二郎兵衛という者の
領地であった。
ここに一揆の者共集まり、夜中にこれを攻めた。

しかし城方はよく持ちこたえ、敵勢を押し返そうかという時分、城中の高櫓の上から
鉄砲を撃たせていたが、ここの足軽大将は、腕に火縄をかけた状態で鉄砲を撃たせていた。
そして火薬を継ぐ時、火薬箱に火が入り、高櫓は爆発しはじけ飛んだ。

城中は衝撃と黒煙で取り乱し、これを寄せ手はこれに利を得て、夜明け頃ついに城を乗っ取り、
吉原に腹を斬らせ、城内の土蔵を開けて尽く略奪に及んだ。

このような時に、二曲落城を知った千代城の拝郷五左衛門(家嘉)が駆けつけ
一揆勢を攻め立てた。

一揆勢は略奪の最中の、突然の攻撃に驚き、略奪物を捨てて城の後ろの切所へと落ちた。
拝郷は逃げる一揆勢に追撃をかけ大いにこれを破った。

ところがこの一揆勢の中に一人、才覚のある者がいて、棒に白手ぬぐいを結びつけて山に立て置き
引き上げた。拝郷はこれを見て、伏兵があると判断し、長追いに及ばなかった。
その間に一揆勢は危機を脱して、つづら折りの山路を退くことが出来た。

(士談)

余談だが劇画『子連れ狼』の主人公・拝一刀は、この拝郷家嘉のひ孫という設定であるという。

341 :
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)

342 :
>>341
義龍「」

343 :
旗返の姫塚由来

旗返城主江田隆連は、庄原の山之内氏に誘われて、ひそかに山陰の尼子氏と通じたことが発覚すると、毛利元就は山口の大内氏に救援を求め、1万数千の大軍をもって江田領に攻め込んできました。
天文22(1553)7月には隆連の家臣武田祝氏(たけだほうりし)の居城高杉城を全滅させ、その勢いで旗返城に攻め寄せてきました。
隆連は尼子軍の救援を唯一の頼りに1千1百の軍勢で籠城しました。

毛利軍は、要害堅固な旗返城を攻略するため、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を構え、食糧や水を断つ作戦にでました。
 隆連は、唯一の頼りだった尼子の援軍が来ないため、落城も覚悟したのであろうか。包囲されて間もなく、妻と娘(姫)に一人の家来をつけて、庄原の山之内まで逃がそうとしました。

 始め廻神(めぐりかみ)を通ろうとしましたが、この道は既に敵軍の手に落ちており、仕方なく加風呂谷(かぶろだに)を下って、掛田(かけだ)に降り、夜陰にまぎれて石原から寄国(寄国)を通り、山之内に逃げようとしました。
そして、掛田川の川端までたどり着きましたが、娘(姫)は身ごもっており、ここまで来て急に産気づきました。

 そして苦しみながらかわいい娘の子を出産しましたが、敵陣の中を潜んでの逃亡で体力も尽き果ててしまいました。
 兼ねてより父隆連から、途中逃げ切れぬ時は自刃せよと諭されていたこともあり、妻と娘(姫)赤子ともども、この地で自刃して果てました。

 後、邑人(むらびと)たちはこのあわれな人たちのために祠を建てて供養しました。この祠を「姫塚」と呼びこの一帯を「姫原」と呼ぶようになりました。
 旗返城は、水と食料を断たれ、終に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

     川西郷郷土史研究会”
(当地の看板より)

344 :
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 :
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

346 :
>>341
これ似たような話なかったっけ
話聞きながら小便しろよとかいうやつ

347 :
竹中半兵衛でしょ

348 :
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
>竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
>政宗、息子忠宗を叱る

349 :
尼子の強弓坂田原蕃、一矢七殺

 旗返城主江田隆連は、これまで毛利氏と同盟関係にありましたが、庄原の山之内氏に誘われ、4月初旬山陰の尼子氏に味方しました。
この事を知った毛利元就は山口の大内氏に援軍を求め、たちまちのうちに江田領に進攻して来ました。
7月には隆連の家臣で神杉の武田氏が守る高杉城を全滅させ、その勢いで1万数千の兵をもって、1千百人が守る旗返城に攻め込んできました。
 旗返城は堅固な山城であったため、毛利軍は、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を築き、食糧や水を断つ作戦をとったと思われます。
 隆連の唯一の頼りは尼子氏の援軍でしたが、毛利軍に阻まれて容易には来られませんでした。
 城中にはすでに尼子晴久の家臣で強弓で知られた坂田原蕃(げんばん)を差し向けていましたが、ある日、旗返城の東方を見ると、数十の敵兵が攻め寄せて来るのを確認して、
坂田原蕃は弓を満月の如く引き絞り、よき敵ござんなれと、ひょーと打ち放てば前方よりの7人が田楽刺しに一矢で射ぬかれました。けれどもこれは手柄でもなんでもなかったのです。

 射抜かれた武士は、隆連救援のために駆けつけた尼子の援軍だったのです。(言い伝えによると、高杉城の援軍だったともいわれている)
後、邑人は(むらびと)は、このあわれな武士たちを厚く葬りました。これを七森(盛)塚と呼ぶようになりました。
(圃場整備により現在位置に移されたが、元は高さ1m・直径5mくらいの塚の上に祠が建っていた。)

 旗返城は、水と食料を断たれ、遂に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

    川西郷土史研究会”
(当地の看板より)

350 :
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

351 :
フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の一部

1597年5月、我々は日本のソマ船に乗って日本を目指した。
(船の説明が続く、錨が木製などの記述あり)
フィリピンから1000マイル航海し、日本の島に入港した。
長崎に到着したのは1597年6月のことであった。
入港後、役人がやってきて王の命令ですべてのフィリピン製の陶器をその場で買うと伝えられた。
信じられないかもしれないが本当だ。
それらの陶器は5000か6000から10,000スクードもしたが、それらは1ジュリオの価値もないものであった。
(なお1615年にフィレンチェでスペイン人のルイス・ソテロ宣教師が語ったことによれば、
ある陶器が130,000スクードもしたという)
それらの陶器は茶を10年にも20年にも渡って新鮮に、緑色に保つためそれほどの値段がつけられたのだろう。
人々は茶を日々飲むがそれは味というよりも薬として飲んでいる。
茶を濃くすれば胃腸に効き、消化を促進する。興奮も抑えられるので食後に飲むといい、夕食後飲むとよく眠れる。
客を歓待するときにも茶を勧めるが、それはちょうどフランダースやドイツでワインを接待に用いるのと同じだ。
日本ではワインは米から造られ、造る際には、むされてから灰が入れられる。その後水が混ぜられ発酵する。
それから濾過すれば口当たりのよい酒ができる。
また、香料を入れる特別な酒もあり、これは秘密を漏らさない金持ちにのみ振る舞われる。

352 :
我々が長崎を歩いていると、劇的な光景がとびこんできた。
6人の哀れな聖フランシスコ修道僧と20人の日本人キリスト教信者(3人はイエズス会員)が1597年2月5日に磔刑に処せられたものであった。
彼らは十字架にそのまま残されていた。十字架は我々の主がつけられたものと似ていた。

磔刑について:釘の代わりに鉄輪が木に打ち込まれ、手首、首、足首が固定される。
役人により槍が右側から刺され、心臓を貫き左の肩から突き出される。
しばしば二人の執行者が行うため、槍は身体の中で交差し、犠牲者は即座に死ぬ。
それでも死ななければ喉や心臓に刺してとどめを刺す、こうして磔刑にかけられた者は非常に早く死ぬ。
これが通常の日本における磔刑であるが、罪に応じて十字架の上で生きながらえさせ
苦しみや飢えのもとでR場合もある。
母乳で育てている女性や子どもでさえも十字架にかけられることがある。
これは正義をなすため、個人の犯罪に家族も連座するためである。
放火などでは近隣住民も一緒に処罰される場合がある。

353 :
私が滞在していた時、非常に軽い犯罪のために多くの人が十字架にかけられた。
例えば、大根を盗むなどの死に値しないような軽い罪である。
人の命はハエの命ほどの価値もなく、すべての道で左右に男女、少年、少女のぶらさがる十字架が見えた。
また、彼らは頭のない死体を使って、cataneと彼らが呼ぶサーベルをテストする。
特に苦もなく骨ごと死体を両断できた時には賞賛される。
そして刀に高い値段がつく。
このような試し斬りをするために、剣の所有者は誰かが処刑されるところに出向き、
処刑執行人が首を切断すると、彼らは死体をつかみ、裸にし、十分な広さのところに横たえる。
体がななめにずれないように杭で固定し、刀を鞘から抜き死体を真っ二つにする。
ただしうまく両断できるのは稀なケースである。
その後、刀は刃こぼれがないか検査され、結果に応じて刀は非難されたり賞賛されたりする。
しばしば刀は20,000から30,000スクードの値段が付けられる。
その後、死体は他の人々によって試し切りをされたあげく全身が解体され、犬や鳥の餌となる。
これは我々の眼にはおそるべき残虐な行為であるが、人々はそれを娯楽とみなし、嫌悪感や興奮を感じることはない。

354 :
興奮も感じないとは興味深いな

355 :
ヒャッハーすぎるわ。

356 :
>>349
華の慶次に出てきそうな描写だw

>>353
修羅の国すぎるw

357 :
>>353
当時の酒飲んでみたい。アルコール度数は低いと聞くけど、どんな味やら
>>356
でも、射抜かれたの味方なんだぜ…

358 :
スクード金貨3枚くらいが一家4人のひと月の生活費だっけ?
雑器として使われていた坪が一生で使いきれないような金にばけるのか

359 :
修羅スギィ
しかし娯楽とみなしてるわりには興奮もしないのか

360 :
>>359
そら戦国乱世でそこいらの、農夫ですら人1人殺傷経験が有ってもおかしくない時代だからなぁ
女だって戦の後は生首の化粧やってた時代だし

361 :
魔女狩り異端諮問十字軍と異教徒を人間扱いしなかったお前らがゆーなっての

362 :
「お前ら」の範囲広すぎィ!

363 :
戦国時代は窃盗等に関しては超厳罰主義だったから仕方がない
まぁ奴隷商人風情に四の五の言われたくない気持ちは分からんでもないが

364 :
書くの忘れてたけどフランチェスコ・カルレッティはフィレンチェの商人で、これはメディチ家のトスカーナ大公フェルディナンド1世(1549-1609)
に話している、という形式をとっている。
そのため本来なら丁寧語で翻訳するべきだし、ところどころ「大公殿下」というのが入ってるけど簡略化した。

磔刑に処せられた修道士や他のキリスト教徒に話を戻すが、その前に日本について語る必要がある。
日本の島々はヨーロッパの東の果てであり、北緯30-36度のアジアの最遠部に位置している。
全長9マイル以上、最大の島は750×180マイルで55の王国があり、他の2つの島には11の王国がある。
多くの大都市と無数の人口があり、景観は良い。米が特に豊かで、穀物、野菜、果物にも富んでいる。
特に皮ごと食べられるオレンジを含めた柑橘類を強調しよう。
オレンジは我々のレモンに似ており、cunebes(九年母?)と呼ばれる。また桜桃ほどの小さなレモンに似た柑橘類もあり、
これも皮ごと食べられるし、ジャムにしてもおいしい。
(この後フィレンチェに持ち帰った種の話あり)
梨もあり、非常に大きくて瑞々しい。皮は非常に薄く剥くことは難しい。梨、桃、杏は砂糖漬けにすると美味である。
ぶどうはほとんど見られないが、聖職者たちが見本市のためにワインを準備することもある。
メロンは多量に入手可能であるが、風味、品質は異なる。
皮ごと食べられ、キュウリのように切り分けられる。緑の状態で塩漬けされているので、保存可能である。
オリーブは全くないが、すべての野菜、特に白いカブや大根(人間の太ももよりも大きいものまである)。
身を縦に細かく切断して美味なサラダを作り、葉を塩漬けし、乾燥させ、特に冬にはスープの実とする。
他の野菜と混ぜて、塩漬けして乾燥させる。
メインディッシュとしては、新鮮、もしくは乾燥した魚を使う。
魚は安く大量に入手できる。生のものを食べることも多く、そのために大量の魚の血液が入り、癩病患者が生じた。
misolと呼ばれる調味料があり、さまざまな豆から作られている。
ワインを作る米と混合し、発酵させて非常に味わい深いソースにもする。
そのソースに少しの味噌を加えることによって、味を完璧にととのえる。
スープはshiroと呼ばれ、すでに述べたように野菜、果物、魚を具としている。
また野生動物の肉もおかずとすることがあり、パンの役割を果たす米とともに食べられる。
米は単に水でゆで、赤い漆塗りの木製の鉢で供される。
食べ物はとても清潔で、手で食べ物に触れることはない。
食べるときには、薄くて滑らかな2つの棒を使う。木製、銀製または金製であり、fasheと呼ばれている。
親指と人差し指の間で棒をつかみ、薬指と中指でもう一つの棒の端を握り?、もう一方を指に挟む。
次に、料理をもう一つの手でもってきて、両方の棒の端を一緒に持って行き、手を汚すことなく、非常にきれいに食べる。
すべての食べ物がテーブル上で分けられるので、テーブルクロスもナプキンも手洗い水も使用されれない。
食器は四角い漆塗りの盆上に置かれる。米は生の時はkome、調理するとmeshiと呼ばれる。
食べる時は希望の食べ物がある鉢をもってきて、驚くべき手さばきと速さで、2つの棒の助けを借りて口に食べ物を送る。
夏・冬にかかわらず、ワインは常に暖かく非常に少しずつ、我々がワインをグラスで行うよりも楽しげに飲む。彼らはかなり酔う。
たくさんの牛もいるがキリスト教徒とは違いほとんど食べない。
牛乳も飲まず、日本人は「まるで血を飲むようなものだ」と嫌う。そのため牛は木材などの運搬にのみ使用される。
鶏や豚やヤギもいるが非常に安く、食べることは稀である。
動物が非常にいるのに彼らは使用方法や飼育方法について理解していない。
ツグミはたくさんいて、1クアトリーノで大量に購入し、食べることができた。

365 :
ジュリオ金貨はここでは銀のかけら7-8個分と交換できた(非常に銀鉱山が豊富であるため)。
彼らはこの銀を小片に切り、必要なものすべてを買う。
もちろんkasheとよばれる銅貨もあり、文字が書かれており、より簡単な買い物ができる。
銅貨10枚が銀のかけらの価値があり1コンデリノ(conderino)の価値である。
10コンデリノは1メス(maes)の価値であり、10メスは1両(テールtael)の価値でる。
1テールはスペイン11レアルの価値に相当する。
島々はすべてで非常に肥沃であり、野鳥が多い。キジバトは我々のものと似ているが、味は苦い。
火縄銃を使い一弾で撃ち抜かれる。そこの人々は優れた狩人である。
ここでは非常に安価で人生を過ごすことができ、1000スクードあればイタリアでの10000スクード以上の生活ができる。
オリーブさえあればいいのだが。
イエズス会の神父たちはよく育つオリーブやブドウを導入したが観賞用にしかなっていない。
しかも人々は戦争と食糧である米にしか興味がない。
小麦もあるが、パンは作らず様々な形にして食べられる。ただほとんどの小麦は手作業の臼で粉砕され、フィリピンに輸出され、
スペイン人のパンとして消費される。

366 :
私が日本王国に来た時の支配者は、Taico Samaであり、彼は自分自身をQuam Bacco、またはDonoと呼んでいた。
兵士になる前はFaschibaと名乗っていた。
彼は生まれつきの王でもなく、王の血筋でもない。
武力と自身の才能によってこの地位に到達したがもともと貧しい農民の出身であった。
兵士となり、Nobunanga王の戦において将軍に任命された。
王が不運の末に落命した時、彼は残党を集め、自身の幸運をつかんだ。
彼は優勢な他の勢力すべてをうちやぶり、唯一の勝利者として、76の王国の支配者となり、すべてを自分の法のもとに服従させた。
彼は賢明な暴君としてこれらの王国を統治し、安定させた。
まず、彼は王や高貴な血筋の人々すべてを殺したため、君主制を主張することができた。次に、彼はすべての支配権や王国を交換し、
支配者・被支配者間のつながりを断った。
そして最も重要な事は、彼は王国を引き継いで新しい戦争を誘発することにより、同じ武器と軍隊を送り出すことで君主制の存続を確保した。
彼は軍隊をKorea、(中国語ではTchoschinやFauschen)と呼ばれる半島に送り出した。
その半島は中国とは北京地方の北部の国境に接し、東側には海があり、南側には日本の島がある。
朝鮮と日本の島々はとても近く、Goto、Ischu、Tsuschimaがある。数時間でそれぞれの間を小舟で通うことができる。
この戦争では、日本は常に30万人以上の軍隊を持ち、いくつかは歩兵であり、一部は騎馬である。
彼らは右側から馬に登り、踵を上に載せる奇妙な鐙に足を載せる。
手綱は両手で保持し、片側をもったまま、他方の側を引いて操作する。
手綱は絹または綿でできており、馬の口には非常に単純な鉄の轡を食ませている。
戦闘では、彼らは胸に手綱を付け?、武器を手で操作しながら身体の動きを通して馬を操作する。
武器は、火縄銃、槍、弓、矢、反った刀を用いる。
彼らはベルトに2本か3本の刀を身に着けており、 1つは大きく、もう1つはかなり小さい。

日本ではそれぞれの領土の統治者が王のすべての命令に従わなければならず、特に戦争の場合、それぞれの軍団は個々の統治者に属している。
この時、朝鮮のほとんどの地方に軍団が送られ、当初沿岸部の占領に成功したように、しだいに内部を征服していき、
最終的には大きな中国帝国を支配するだろうと人々に思わせた。
この過程で、彼は平和であり、彼に対して苛立たせるようなことをしなかった、外国の土地を破壊した。
それにより自分自身の国を政情不安から救うことには成功した。
韓国の領土は9つの州(道)に分かれており、その王国の主要な州であり首都、Kienkwi(京畿道)、Konluan(江原道?)、 Honhei(黄海道)、
Tschula(全羅道)、Hientsion(慶尚道?)、Tiontschon(忠清道)、Hankien(咸鏡道)、Piankin(平安道?)である。
これらの州、特に沿岸部からは、数え切れないほどの、あらゆる年齢の老若男女が連れてこられた。
彼らは非常に安く奴隷として売られた。私自身1人あたり12スクードで5人を購入した。
私は彼らに洗礼を受けさせた後、インドのゴアで4人を解放し、フィレンツェに1人を連れて来た。
彼は現在ローマにおり、アントニオの名前で知られている。
この戦争では、朝鮮は中国の援助を受けたにも関わらず大変苦しんだ。
多くの日本の統治者は、子供や相続人なしに死亡し、暴君によって土地や財産が没収された。
戦時中に起こした小さな過ちにより、多くの人が全財産を没収され、帰還を禁じられてしまった。
このように戦争は国外で行われ、同時に国の各統治者は海外にいたので、暴君は国内で好き放題することができた。

367 :
そしてこの後やっと
最初の「二十六聖人殉教」の話になるのだが、ここまでの記述が本当に前置きとして必要なのか疑問がないでもない
なお、イタリア語→ドイツ語からの重訳なので間違いがあったらすまない

368 :
貴重な資料ありがとう

369 :
>>364訂正
全長9マイル以上→900マイル以上

370 :
Quam Bacco これは「かん・ぱく=関白」かな?

371 :
Google booksで全文が見られるイタリア語のPDFを見たら
cunebes→cunebo
Tael→Fael
Quam Bacco→Cambacu, Qiambacco dono
Faschiba→Fasciba Chicugim
朝鮮の八道:Quienqui, Conguan, Honliay, Cioala, Hiension, Tioncion, Hanquien, Pianchin
全体的にこっちの方が正しそうだ

372 :
長くて途中断念した…

373 :
>>365

  ∧_∧
  (´・ω・) ちょ、待てよ
  (っ=川o
 ̄ ̄`ー―′ ̄\

374 :
パン以外のものって何があるんだろうクレープかな?

375 :
>>373
喰いたかったらもっと銭をつめ

376 :
>>374
そういう巻きモノ包みモノ系だろうね
ブリトーとか

377 :
読んでわかったこと:イタリア人は飯にうるさい

378 :
>>374
千利休も大好き麩の焼き

379 :
油揚げ?

380 :
>>364-367
長いけど面白かった、メロンがすでにあったり、動物ほとんど食べないってほんとなんだな。
牛乳を飲まないのが血を飲むみたいだからってのが不思議だ、
母乳が血液から作られる事知ってたわけじゃないだろうに。

>驚くべき手さばきと速さで、2つの棒の助けを借りて口に食べ物を送る。
びっくりしてる外人想像してワロタw

381 :
オレンジは我々のレモンに似ており、cunebes(九年母?)と呼ばれる。→かぼす?
また桜桃ほどの小さなレモンに似た柑橘類もあり、これも皮ごと食べられるし、ジャムにしてもおいしい。→金柑?
メロンは単純に瓜のことじゃないかな

382 :
惟任日向守「( ゚д゚) ガタッ」

383 :
>>364-367
面白かった
当時の日本の習俗を客観的に記録して残してくれててありがとうだわ
当人らにとって当たり前のことって一々記録に残さないもんだろうしね

384 :
肉食禁止令が枷となって日本の食文化は歪なものになったね
五畜以外なら食ったとか支那じゃないんだから

385 :
メロンはマクワウリやろな

386 :
豊臣秀吉は細川玄旨(幽斎)、法橋(里村)紹巴らを傍において、時々興ある歌、連歌などを行い
或いは五山十刹の長老出世の者たちを集め、詩連句の会なども主催した。

しかし、こういう場においては、秀吉の作意に合わせて他の者の作った歌・連歌を以って、
これを秀吉の作とした。

秀吉はこう命じたのだという
「詩歌は武家が必ず身につける物ではないと言っても、無下に卑しいのも又、大丈夫の本意
ではない。だからといって心にそまぬ事をやるのは、甚だしい労役の至りである。

武将というものは自らは手を下さず、兵卒の功を集め、その功が将に帰す。
詩歌もまた、汝らの功を以って我が功とすべし。」

(士談)

387 :
ジャイアン秀吉…

388 :
秀吉、幽斎、連歌といえば過去に2回ほど出ている(まとめの516と6555)
秀吉が連歌の会で「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」と詠んで一堂が笑ったところ
幽斎がとっさに「蛍よりほか鳴く虫もなし」と古歌にあります、とでっちあげてフォローした話
なお江戸時代の太田錦城の随筆「梧窓漫筆三編巻下」では

太閤が歌の知識がないためにこんなバカげた句を良んだと思ったのはむしろ一堂が愚かだったのだ。
田夫野人といえどもホタルが鳴かないのを知らないはずはない、わざとおかしな句を読んで一堂を試し
しかも自分の威勢なら鳴かない蛍も鳴かせてみよう、という気宇壮大な句だったのだ。

とか書いてた。>>386と合わせると
「秀吉がまた馬鹿な歌を作らないように前もって幽斎たちに任せた」てことになりそうだけど

389 :
>>386
俺は良い話と受け取ったw

390 :
下々のものにアイディア出させてゴーストに書かせて、結局プロデューサーの手柄にしちゃうっていうのなら、今のプロダクションと一緒だわな…

391 :
それが本業ならそうだろうが

392 :
世界周遊記の二十六聖人殉教について書かれている箇所

この王は、王国のあちこちにいたイエズス会の神父に対しいくらかの嫌悪感をもっていたため、キリスト教への改宗は非常に遅れた。
彼はイエズス会に与えられていた長崎の町の教会を破壊し、木材(もしくは彫刻)を彼自身の建物のために使用した。
最終的には彼はキリスト教が自国にふさわしいとは思わず、彼の臣下に対しても悪影響があるとの考えから、イエズス会に布教を禁じた。
この王はキリスト教の教義を信じず、しばしば
「法律や宗教というものは、人々を秩序立たせ、謙虚にするために人為的に作られたのだ」と言った。
また死後の永遠の精神や人生についても信じなかった。
おそらく彼は今ごろ地獄で自身の野蛮さや獣的な考えを遅まきながら悔い改め(rimedio)ているだろう。
彼は過ちの中で1599年に70歳?で没したのだ。
死に臨んで、彼は当時5歳のFideyoriという息子を後継者とし、彼が15歳に達するまでは3人の長官にこの国を委ね、
その年齢に達したら国を返すように遺言した。
彼らのうち力のあるものはDayfu様(シニョール)と呼ばれ、Fideyoriの信頼を特に得ていたため、他の2人の長官に嫉妬され、
戦争となり勝利し、並ぶものがいなくなったため国王扱いされた。
彼はXogumと呼ばれるようになったがこれは将軍(capitano generale)という意味である。
そして幼少の王と彼の母をOzzacaと呼ばれる城に住まわせた。
こうして陰謀者に対して正義を公にすることにより、彼はこの国の絶対君主となった。

393 :
長崎で磔にされたキリスト教徒たちに話を戻そう、かの王が朝鮮で戦っている最中、1593年に4人のフランチェスコ修道会の修道士が
フィリピン諸島から来日した。
彼らはスペインでは「跣足(裸足の意味)修道会」と呼ばれている。
彼らはマニラからの大使として、フィリピンの政府から日本国王あての手紙を携えてきた。
この修道士たちは大使として活動するため、王に贈り物を献上し、有名なその国の首都であるMeacoに行く許可を求めた。

彼らは許可証だけでなく、宮廷に小さな家を与えられ、マニラへの帰還が始まるまで住むことが許された。食糧も与えられた。
修道士たちはもともと異邦人の改宗が目的だったため、マニラに帰ることなど思わず、福音を説き始めた。
一方、マニラから来た同じ修道会の修道士も日本にいたため、彼らはともに日本全土に聖なる宗教と、聖フランシスコ会の名を弘めた。
彼らが熱狂的に説教を始めると、人々は、多くの慈悲と献身で祝福された、この最高の秘儀・秘跡の新しい伝道者のもとに群がった。
しかし教皇グレゴリウス13世はこの国ではイエズス会にのみ布教の書簡を与えていたため、破門の可能性があった。
修道士たちは後任の教皇シクストゥス5世の書簡により、特に例外なしに全世界にキリスト教を布教する許可を与えられていたため、
影響を受けなかった。
日本の王は修道士たちが何をしているかをよく知っていたが、見て見ぬふりをした。

しかしある船が難破したことから彼らが何を行っていたか公になってしまった。

394 :
その難破船はフィリピン諸島から来たもので、いつものように中国からヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)に航海するところであった。
船の所有者はスペイン人であった。
逆風で船が壊れてしまい、日本列島の近くに避難し、小さな島Sicocoの有名な都市Tossaに漂着した。
王であるTaico Samaはこれを聞き、彼の法律によりその船の所有権を主張した。
この法律は船が難破した場合、漂着した土地の所有者に船の所有権が移る、としていた。
この法律はその船に乗っているスペイン人にとっては非常に奇妙かつ過酷なものであり、彼らは適用できるとは考えず、
すべての富を失うことに同意しなかった。
そこで彼らはMiacoの王の宮廷に居住していたフランシスコ修道士に積荷の返還を依頼した。
修道士たちは当時は王は彼らに友好関係にあると思っていたため、彼らは喜んで自発的に、
自国のあわれな同胞に積荷を返還するよう、王に働きかけた。
これが彼らの迫害の始まりで、彼らの死に繋がったのである。
「積荷の大部分はマニラに住んでいる我々の同胞のものです、どうかお返しください」という発言に対し、
すでに積荷を自分の所有物であると考えていた王は怒った。
王は「これらの修道士たちはわしのものである船が憐れなスペイン人のものであると言った。この修道士たちは悪人であり詐欺師である。
しかもこいつらは、すでにわしが彼らの無礼な宗教を禁じているにも関わらず、布教をし、多くの人間を改宗させておる。
そのためわしは長崎において、こいつらを改宗者たちとともに投獄し磔にすることを命じる。」
この王の個人的な判決に対し、誰も反論する勇気がなかった。こうして前述の修道士たちは磔にされた。
彼らの家に通っていた20人の日本人もともに磔となった。うち3人はイエズス会士であった。
彼らの内2人は磔刑において修道服を身に着けていた。
こうしてイエス・キリストへの愛のためにCheico元年11月20日に彼らは命を捧げた。
日本では年は13ヶ月に設定され、3月に年が始まる。よってこれは1597年2月5日にあたる。

この後もいろいろな事件があったが、これが最大のものである。
今やイエズス会士に対して迫害の矛先が向けられた。彼らは多くの人々の魂を主キリストのために改宗させたが、教会は閉鎖された。
イエズス会士は自分の服を日本の服に変え、日本国中を秘密裏にさまよい、キリスト教の布教を続けた。
こうして洗礼を受けた人は30万人以上、毎年2万5千から3万人の人が新しく改宗した。
今やこの国は聖職者やキリスト教徒の血の中に浸っており、殉教者は増すばかりだ。
自分の長崎での滞在の時期について言うと、それらの磔にされた死体はこっそり十字架から外され、まともな埋葬がなされた。
十字架には常に警備兵がいて、露見すれば王によって死刑が課されるはずだったにも関わらず。
献身は王による正義よりはるかに大切なものであり、死の恐れをも克服したのだ。

395 :
池田利隆、生母との逢瀬


池田輝政の正室絲姫(中川清秀の娘)は、天正12年に利隆を出産し
その後病気になり実家の中川家に帰ったとされる。
『池田家履歴略記』では、絲姫は利隆の出産後に出血が収まらず
物狂いのようになってしまい、遂に治らなかったという。
真偽はともかく、輝政が督姫を継室に迎えた後も池田家と中川家には交際があり
関ヶ原前には絲姫の弟・秀成が輝政の仲介によって家康に忠誠を誓ったりするなど
池田家側からの一方的な離縁でなかったことだけは確かである。

『中川氏御年譜』でも、慶長13年に
中川家の大坂屋敷に住んでいた性寿院様(清秀の正室で絲姫の母)が
岐阜様(絲姫。輝政と共に岐阜城に住んでいたことがあった為そう呼ばれた)と
小長様(秀成の兄秀政の娘)と一緒に中川家の領地の岡へ向かう前に
"松平武蔵守利隆様"が三人の送別の為に饗応をしたとの記録が残っている。

利隆は絲姫のことを引き取りたいと、中川家の家老にまで書き送ったものの
大阪の陣前後の騒がしい時期であったため、遂に叶うことのないまま
絲姫は元和元年岡城において五十歳で亡くなり、西光寺に葬られた。

396 :
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)

397 :
毛利そんなことしたの

398 :
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....

399 :
私が道民の家でお茶をご馳走になったときのこと
その家の42歳の息子がむずかりだした。
母親がその子を椅子の上に立たせてパンツを降ろし
牛乳の空きパックを男性器にあてがうと小便をした。
しかも、あろうことか空きパックに入ったものを
キッチンの流しに捨てたのです。
その慣れた様子からも日常的にしているのでしょう。

400 :
側にあった急須じゃなくて良かったな

401 :
陶興房、我が子を殺害すること

大内義興・義隆の家老を務め軍事政治に活躍した陶興房には1人の麒麟児とも言うべき嫡男が居た。
名を次郎興昌。彼は器量骨柄に優れ、父興房をして
「次郎は武も文も全備し、そのほかの芸能の道から弓馬は達者だし乱舞にも堪能、詩歌・管弦に至るまで、
人間がたしなむべき道では何一つとして劣ったものが無い。今の乱世において希有な存在である」

と評されるほどであった。しかし次郎は常日頃から何れ自らの主人となる筈の義隆を見掛けると、
「隋の煬帝の詩に出そうな大将だ。坊主くずれか流浪の公家みたいな事ばかりして、こんな人を武士が主君と仰ぐものではない」

と影で馬鹿にしており父の興房も次郎のその様な言動を知ると、一抹の不安を覚えた。
ある日越前より幸若太夫が下向して来た折、義隆は太夫に烏帽子折を所望した。その舞を見た者は貴賎問わず感動し、涙に袖を濡らさぬ者は居ないほどであった。
興房が宿に戻り次郎を呼ぶと
「お前は何時も好んで舞を踊っているが、幸若の音曲も習ってみるか?」
と言うと次郎は
「私が幸若を真似るのは実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、父の命であれば、似せて舞ってみましょう」
と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先に見た幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
興房は我が子の才能に驚くと共に、これでは次郎は才を鼻にかけて益々主人の義隆様を侮る様になるのではないかと不安を高めていった。

またある日、大明国から義隆に書簡が送られた際のこと。義隆は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、興房は自宅へ帰ると、次郎を呼び寄せ
「お前は今日の書簡の内容を覚えているか?」
と問うと、次郎は
「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。しかし推量で内容を当ててみましょう」
と言うと硯に墨をすり、聞いた内容を書き記して読み上げた所、その内容は一字一句違わぬ上に読み上げる口上も非常に立派なものであった。
その後も興房は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、また主人義隆を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の興房は、
「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、大内家の頭痛の種になるかもしれない。主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」
と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳(墓の説明には二十五歳)になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶興房は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせ跡を継がせた。
(陰徳記)

陶五郎隆房、後の陶晴賢である。

402 :
>>401
なんという皮肉w

403 :
陶さん家は興房の長兄である武護が在京中にいきなり摂津へ出奔して坊さんになって3年後に帰って来たかと思ったら次兄の興明を殺して家督を奪い、
当時筆頭家老の内藤弘矩を讒言で死に追いやった後讒訴がバレて義興から死を賜った末に興房が家督を継ぐと言う何か最近似た様なアレな事件が起きてたり何かもうアレよね…
義興義隆時代にまともに大内家に忠を尽くしたのが興房だけなんじゃねーか?って言う…

404 :
て言うか、調べたら父親の陶弘護暗殺事件も色々闇が深そうだなぁ… 大内家の内情ェ…

405 :
豊臣(小早川)秀秋が関ヶ原の後、家老の歴々を成敗ありし後に、何某とかいう大身の者、
家を立ち退くことがあった。
白昼に、妻子を引き連れ弓鉄砲で前後を固め立ち退いた事に、秀秋は以ての外に怒った

「白昼に城下を、あのような体で引き払わせるとは武家の恥辱である!急ぎ討ち取れ!」

しかしこれを、家老の松野主馬が諌めた

「彼らのような僅かな人数が立ち退くのを成敗するのは、何より易きことです。
しかし殿は前々に、誰々を御成敗されましたが、これについて世では然るべからざる事だと
取り沙汰しています。であるのに又彼らを害せば、人々からの批判は止まらなくなるでしょう。
ただ、黙って捨て置くべきです。

ですが、どうしても害するべきであると言われるのなら、私は人数を持っていませんが、
申し付けて討ち取ります。」

秀秋は不思議に思った
「汝は彼らを打ち取る人数を持たぬのに、どうするというのだ?」

松野は申し上げた
「これより町人在々にこう触れ回します。

『落人あり。討ち取って衣装をはぎ道具を取れ。それらは全て下される。』

こうすれば地下人共が立ち上がり、即座に討ち取ることでしょう。
どうしても彼を討ち取ると決心されるのであれば、御手を下されずともこの謀にて討ち取れます。
結果として同じことですから、小さな違いは気になさらないべきです。」

これを聞いて秀秋も心和らぎ
「私の落ち度にならないということなら、かまわない。」
と許可した、結果松野の考えた通りとなった。

(士談)

406 :
松野主馬って関が原の時に「裏切りなど恥である」って戦線離脱してそのまま立ち退いたのだと思ってた

407 :
>>405
許可するんかい!

408 :
>>405
金吾の小物っぷりっぽい逸話

409 :
何?、元家臣が追い剥ぎや盗賊にあって殺害されただと!
きっと宇喜多の残党だよね、大義名分得たし討伐すっか

410 :
天正の初めの頃、天下未だ戦国の時、九州では筑紫家と立花家の領分は入り混じっており、
双方の侍たちで里に住居する者たちは、家族のように朝夕参会していた。

立花家の侍に、中島右京という者があった。彼の所へ、筑紫家の家臣・帆足という者が来て
飲食酒宴の折に、突然の触れがあった

『明日、秋月筑紫の両家が一同に、立花の岩屋表に寄せくる』

立花家の中島も、筑紫家の帆足も驚き、不慮の思いを成したが

「明日は敵となり互いに相戦うこととなった。定めなき世の中にて、
筑紫と立花はまた、手切れと成ってしまった。」

そう言いつつ、連れ立って暇乞いをした。
この時中島は、戯れのように言った

「明日の合戦では、其方の頸は私が取るよ。」

帆足はこれに何も答えず、その日はこのまま別れた。
しかしその後、言葉のごとく中島は帆足を討ち取った。

(士談)

411 :
南葵文庫の蔵書によれば、福島正則は死ぬ7日前に刀・脇差・金銀の
目録を作って遺物の分配を定めた。

この事を取り扱ったのは上月文右衛門である。この人は広島で2千石を
領した物頭である。その目録の終わりに、

“右の公儀及び御旗本衆まで分配致すのも、市之丞(福島正利)のため
である。私めのためではない”とある。そのいかに子孫を思う情の厚き
人であるかと知ることができよう。

正則は遺書を記して分配品の目録を作ったが、その中に正則ともっとも
懇親の間柄だった本多上野介への遺物がない。本多の同役たる土井・
酒井・阿部などへはそれぞれ遺物がある。これは甚だもって不審である。

『健斎自言』に、正則の配流というものは、まったく本多上野介の姦計だ
との由が記される。上野介が友を売り、君を売り、もって自己のためを
謀る人物であること世説に定評がある。

よって、その事をよく調べると『福島没落記』という古写本がある。正則の
没落より79年目、宝永2年に肥前大村藩主・大村因幡守純長が筆記した
もので、老人の物語を聞き記したという奥書があるため、正則の没落を
見聞した老人の話に拠ったものであろう。それによれば、

“広島城が洪水で大破に及んだため、正則はかねてより昵懇の上野介へ
相談に及び、破損の場所を普請致したい由を上様へ言上頼み入る旨を
申し出た。

上野介が申すには少しの普請は言上に及ばず、内証にて致すべしとの
指図である。正則はなおも御目付・竹中采女(重義)へ、上野介はかよう
申されるが、しかし念のために他の老中へも

御話致したほうがよろしいかと尋ねた。采女は答えて、上野介御承知なら
他の御老中へ申すに及ばず、上野介は今御威勢至って良く、この御方の
申される事に誰が否と申すだろうか、と言った。

正則はこのため他の老中へは申さず普請致したところ、上野介は佞人で
正則は天下の御大法に背き、城普請仕り候と申し上げたため、御改易
となってしまったのである。

広島へ城を受け取りに参った衆中は「僅かな普請である。これ式の事で
両国を召し上げられることは、いたましいことだ」と申されたという。”

しかるに正則は御咎めを受けた折、流石は武士なれば上野介の指図にて
仕り候とは言わなかった。涙を呑んでそのまま御受け申し上げて大人しく
両国を差し上げたが、心中では上野介をいかばかり恨んでいたか計り難し。

――『福島正則伝』

412 :
>>411
最後の思い出に一杯やったんかな

413 :
>>411
実際は無届けで修理してたんだから正純にとってはとんだ風評被害だな。

414 :
>>413
葵三代だと、家光政権下で正純は干されかけてて、話を通してても意味が無かった、って解釈になってたな

415 :
>>414
さすがに古いから今の通説とは真逆の話(猪熊事件)とかもあるけど、あれは良い大河だった。
微妙な内容は視聴者に判断を委ねたり、何をやってもうさんくさく見える津川家康の名演とかね。

話を戻すと正純は家光が将軍になる前に失脚しとるので、秀忠の代の話ですな。
取次を務めてる大名は多かったけど、権勢は確かに土井利勝などの秀忠側近へと移ってますね。

416 :
それなら本多派の福島を土井らが陥れたとも言えるな
土井らへの遺品分配は付け届けとも取れる

417 :
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね

418 :
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 :
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 :
鬼は鬼畜の意

421 :
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 :
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

423 :
ルシオ・デ・ソウザ「大航海時代の日本人奴隷」に書かれてた
支倉遣欧使節団のドン・トマス滝野嘉兵衛の数奇な運命

彼は山城国出身であるにも関わらずなぜか支倉使節に同行。
ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王との謁見の際には帯刀が許されていたが
スペイン史料には彼が「殉教者の息子」とあることから二十六聖人の縁者の可能性があり、特別視されていたと思われる。
1615年、支倉常長自身が(スペインの歓心を買うため?)フェリペ3世の宮廷で洗礼式を行いキリシタンとなった時には
ドン・トマスは剃髪し、フランシスコ修道会の修道士となった。
その後、ドン・トマスは支倉常長の帰国には同行せず、俗人に戻りディエゴ・ハラミーリョというスペイン人に仕えていたが、
奴隷のような待遇を受け、(日本人の奴隷化はスペイン王により禁じられていたにも関わらず)焼印まで押されてしまった。
そのため1622年、ドン・トマスは国王に対しインディアス枢機会議を通じて
「ドン・トマスは日本の大使とともに宮廷を訪問し、キリスト教に改宗した日本に武士であります。
陛下の父君にあたる当時の国王陛下(フェリペ3世)手ずから聖水を、陛下の姉君(仏妃アンヌ・ドートリッシュ)には聖油を授けられました。
ディエゴ・ハラミーリョなる者が、彼は奴隷ではないにも関わらず彼に仕えていることから焼印を押しました。
この不正行為に対し、厳正なる裁きを下していただくよう陛下にお願い致します。
どうか彼に自由を与え、日本への帰国許可を与えてください」
という嘆願が送られ、ドン・トマスに帰国許可がくだされた。
翌1623年のヌエバ・エスパーニャへ渡航する乗組員名簿には「ドン・トマス・フェリペ・ハポン」の名前が確認でき、
さらに彼はヌエバ・エスパーニャからフィリピンへの渡航許可を求めている。
ただ、1624年には江戸幕府はマニラとの通交を断っており、彼が日本までたどり着いた可能性は低い。

424 :
佐竹義重は蘆名盛隆との対陣の折、盛隆の弓矢を取っての器量のゆゆしさに、陣中にて
ひと目逢いたいと艶書を投じた。

実は盛隆も同じように思っており、彼は佐竹の陣中に、夜更け人静まってから参会に及んだ。

それからは、夜々互いに往来し、昼は終日の合戦をした。
しかしこの事は隠し通すことは出来ず、それぞれの老臣たちが互いに和議を入れ、無事となった。

(武野燭談)

425 :
元亀四年八月、織田信長は越前を退治し、朝倉尽く敗北、朝倉配下の屈強の者共は、
討ち死にするか、あるいは生け捕られた。信長は朝倉より寝返った前波吉継、富田長繁を
召し出して、そういった人々の名字を尋ねた

この時、牧屋六左衛門が生け捕られ連れてこられた。
信長が「彼は何者か?」と聞いた。前波が「彼は牧と申す者です。」と答えると
「牧といえば聞き及びたる者ではないか。それほどの者がどのようにして捕えられたのか?」

これに牧が答えた
「御家臣の前田又左衛門(利家)、佐々内蔵助(成政)と名乗り懸り、刀禰山まで追い詰め、
勝負決しようという所で、膝口を強かに突かれ、進退窮まりて生け捕られました。」
そう聊かも気後れ無く語る姿に、信長は

「彼は勇姿である!死罪を宥して、今後は味方に参り、忠戦を尽くすように。」

牧はこれを承るも
「先程からの御恩言、忝なく存じます。しかしながら、私は譜代として朝倉の家に奉公の
身であり、ことに国中に奉行として知られた者でありますから、何の面目があって命を
生き長らえるでしょうか。ただ、速やかに誅し賜るべし。」

前波吉継はこれを聞くと
「信長様のお言葉に偽りはない。本領も更に別義なく安堵される。畏まって忝ないと申す
べきだ。」

牧は目を見開いて前波を睨みつけ、言った
「和殿は朝倉普代の者にて義景の厚恩を蒙りながら、己が不義だけでなく、人まで汚す気か!?
ただすぐに頸を刎ねられよ!」

信長も力及ばず、彼を河原に引き出して頸を刎ねた。
この時牧は、「侍品の者、打ち捨てにすることがある。だから先に腹を斬ろう。」
そう言って、脇差を乞うて腹を斬ったという。

(士談)

426 :
慶長14年元日<甲申>、駿河・江戸の士が出仕。毎年の如し。

美濃国や伊勢国の先方衆は、駿河で越年しなかったので、
大御所(徳川家康)は無興しなさった。

同日、江戸品川町で火事。

4日、江戸本町で火事。5町ほどが焼失。石川玄蕃(康長)の
家もこの内にあった。<時に信州府中の城主なり>

7日<庚寅>、大御所が鷹狩りをされる。遠江に御出になられ、
そのうえ尾張まで御出になるとのことだったという

――『当代記』

427 :
越前への織田信長の侵攻により、朝倉義景が一乗谷を棄てて大野に退く時、義景は
福岡石見守に二人の子を預けた。そして
「一人は女であるが、髪を下ろし、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食は
大阪(本願寺)との契約であるので、大阪に遣わすように。」

しかし福岡は
「私が二人の女子を預かり申すこと如何でしょうか?私はただお供つかまつり、
死ぬことを一途に決めているのです。」
と反論したが、たって命じられたため力なく、彼は急ぎ二人の女児を連れて宿所は帰り、
妻女にも告げず、一首の歌を書き付けて涙とともに出立した

『今日出て 廻りあはずば小車の 此輪の内になしと知れ君』

二人の息女を馬に乗せ、中間二三人計りにて豊原寺を目指して進んだが、野伏たちが
集まり押し留めた。
福原は目的をありのままに伝えた。
野伏たちは聞いてきた「殿は何者か?」
「私は福岡である。」

これを聞くや野伏たち
「ならば通せない!先年鳴鹿の村と公事(裁判)の時、そなたは彼らの奏者をして、
我が村は負けとなった。今参り会った事こそ幸いである、その時の返報申さん!」
たちまち村々より軍勢が出てきた。福岡は今は叶わぬと思い、下人に持たせた薙刀を取って
大いに戦い、討ち死にした。

その後、二人の息女は方々流浪し、喝食は後に本願寺門跡の妻と成ったという。

(士談)

428 :
娘たちには手を出さなかったんか
殺して身ぐるみ剥ぐのかと思ったわ

429 :
なんでRの?犯して売り飛ばすのが倭人だろうに

430 :
だなぁ。女はそうそう殺さない気が。

431 :
かまってちゃんは朝鮮人にキャラチェンジしたんか?

432 :
一揆衆根切りのときは女子供もRけど、基本は奴隷として売り飛ばす

433 :
娘だったかどうかは覚えてないけど姉小路のところは殺されてたはず
殺した連中だったかが、寺に着物とかを納めてる

434 :
>>431
強姦と人身売買が国技の倭人が何かほざいてらw

435 :
言われた事をオウム返ししかできないボキャブラリーのなさが韓国人

チョウセンヒトモドキとかRが国技とか全部日本人が言い出した奴のパクり

436 :
こんな釣りに食い付くのが惨めな倭人たる証拠

自国の歴史的事実ですら目を背ける民族だから全世界から非難される

437 :
パクりを否定できず論点そらししかできないサルビア

438 :
× サルビア
○ サルコジ

439 :
こんなスレに大陸の人が来てるのか

440 :
現実から目を逸らすことしかできない倭人が哀れでならない

441 :
構ってちゃんだろ、無視無視。

442 :
と言いつつ無視できない倭猿であった

やっぱり強姦と人身売買が国技の民族は違うねえ

443 :
まあ住人の質が変わらない事は分かったw

444 :
文化が羨ましくて仕方ないんだろうね

445 :
悔しいのう倭人

446 :
トンスル大好き北朝鮮人、韓国人は自分たちのルーツが実は高麗人でもなければ百済人でもなくエベンキ族だったというのを隠したくてしょうがない


https://i.imgur.com/j9DLh2o.jpg

447 :
悔しくて歴史歪曲かよ 惨めだな倭猿w

448 :
キチガイ一人で自演している模様

449 :
こんなスレにくんなよ

450 :
 香川県善光寺市沖に伊吹島という島がある。
 さて、この島は落人の島でもある。それ自体は瀬戸内にはよくある話だったが、この島は少し毛色が違うところもあった。
 というのも、この伊吹島は西国に数多存在する平家伝承の島ではなく、戦国期三好家の落人の島だというのである。

 天正元年のこと、義兄である第十五代将軍足利義輝に従って反織田信長の兵を挙げた三好義継は摂津若江城で自決、
三好宗家はこれにて滅んだ。
 しかし義継の死に先んじて子の義兼、義茂の二人は家臣に擁せられて四国へ落ち延びていた。
 四国でも三好家の形勢よろしくない中、弟の義茂は何時の時にか讃岐の沖合にある伊吹島へと逃れた。
 ところがこの地には讃岐国衆大平氏に仕える合田氏が先に開拓に入っていた。
 大平氏は善通寺合戦等でも西讃側に属した反三好党だったことも災いしたか、後から入植した三好残党との関係は急速に悪化。
 このため後に三好義兼が八十騎を率いて島外より来援、合田氏と合戦に及んだのだという。
 しかし合戦は双方の痛み分けに終わり、三好残党の大将義兼は討ち死に。
 合田氏側もその後、主君大平氏共々戸次川で没落しており、三好党を追い落とすほどの力を保てなかったようで、
以後三好党は島の東部に、合田氏は島の西部の勢力分割が確定した。
 両家の集落間では婚姻禁止や交通の制限等の相互敵対の掟が近世まで残っている。

 また新たに義茂を当主に担いだ三好党も合田氏同様、四国本土の三好勢力が戸次川で壊滅した上、讃岐新国主の生駒氏は
当初在地勢力に極めて厳しく当たった為か義茂、正継は早世、自決と続き、孫の義浄の代にようやく島の有力者として認められ、
以後幕末まで政所と呼ばれる地位(庄屋相当?)にあって島政に携わった。

 ○○家の子孫を名乗るのは珍しくなくても、集落丸ごと落人の村というのは戦国時代では珍しく思ったので投稿。
 でもって近代まで伊吹島の三好系住民と合田系(先住系)住民は仲悪かったそうなので悪い話に。

451 :
>>450
そこまで一応共存できたのは仲が良いのか悪いのかw

452 :
力が拮抗してたんでしょうな

453 :
>>450
どの辺のどんな島かなと思って調べたら、
1950年 5000人
2010年 700人
2017年 400人

って人口推移データ出てきてそっちのが目を引いたわ
限界集落やべぇな

454 :
小谷落城の時、浅井備前守長政が既に自害に及ぼうとしているのを、織田信長は
不破河内守(光治)を遣わし、このように伝えた

「今までの縁者の好があるのだから、私の方に少しも疎意な気持ちはない。
ただ兜を脱いで、降参してほしい。」

長政はこれに返答もせず、しきりと自害しようとしたのを、傍の者達が諌めた

「信長がこれほどまで慇懃な礼を遣わした以上、何か仔細があるのでしょう。
どうか平に御降参あって、御家の相続を成されるべきです。」

この説得に長政も遂に同意し、「であれば、父下総守(久政)の生害も御免あるべし」と申し送り、
城を出て、百二三十騎ばかりで、降参の体を示した。

信長はこれを櫓の上から目にすると、声高に罵りの声を上げた
「彼は長政か!何の面目あって降参するのか!?」

長政は大いに面目を失い、その道から赤尾美作守の宿所に入り、そこで自害して果てた。

この時、浅井の重臣である浅井石見守、赤尾美作守も続いて一緒にはせ入り自害せんとしたが、
大勢の敵に隔てられ、また彼らは老齢でもあったので足がついていかず、剰え生け捕られてしまった。
信長は彼らを引き出させ、また罵倒した

「汝らは故なきことを長政にすすめ、朝倉と一味して親しき我を敵と致し、
今このような姿に成り果てた。何か言いたいことはあるか!?」

赤尾は何も言わなかったが、浅井石見守は居ずまいを直して言い放った
「事新しき仰せに候!朝倉義景を相違わず立て置くとの誓状の血判が未だ乾かぬ内に、
越前に攻め入った事、これによって長政は義理を違えず義景に一味したのだ!

只今も、『城を出られ候へ、別儀あるまじき』と様々に言ってきたが、長政は
『信長の心中は、手の裏を返すつもりなのだ。ただ自Rべし。』そう申されたのを、
『もし天命あって長政様の命が続けば、時節を得て信長をこのように仕りましょう!』と、我らが
達って諌めた、そのためにあのようになったのだ。

御辺はただ、天運が強いだけだ。義理を知らず恥を知らず、全てに偽りを行い、
形は人であるが、心は畜生である!」

そう憚ること無く言うと、信長は激怒した
「汝はその言葉と違い、生け捕られているではないか!」

「我ら老衰し、止むを得ず生け捕られた。だがこのような事、古今に例も多い。
武勇にて敵を討たず、偽りを以って』人を滅ぼす。これは武士の恥辱である。
今に見ておれ、御辺は必ず、下人に頸を斬られるであろう!」

信長は憤激に耐えず、杖で石見守を打った。石見守はカラカラと笑い
「搦め捕った者へのかくの如きはからい、あはれ良き大将の作法かな。
いかほどでも打てや犬坊!」
そう言い放った。

この後両人とも、斬罪となった。

(士談)

455 :
江戸時代の人はこういう信長像を信じてたんやなぁって

456 :
かと言って現代の信長像が正しいとも限らないのが難しいところ
七回忌にはすでに世間に忘れられた存在になってたり
秀吉がその後の法要をやめても非難の声すら出なかったり
信長と同時代を生きた人間達のドライな対応を考えると
現代の持ち上げとの差が興味深いね

457 :
三好長慶だってあっという間に忘れ去られたしなぁ。

458 :
信長の信奉者は三斎の他には誰がいたんだろう

459 :
森一族は信奉してそうだが

460 :
政宗

461 :
信長の場合忘れられたんじゃなく秀吉に吸収されたといった方が正しいだろう

462 :
実は信長が暴君だったって話を広めたのは秀吉なんだよね。
秀吉が編纂させた天正記なんかは、露骨には書いてないけど「信長はすごい暴君だから裏切られまくった!
そんな信長に誠心誠意忠義を尽くした秀吉偉い!」
って基調で書かれてるし。

463 :
怖くて逆らえずに共犯者に成り下がったただのヘタレやん

464 :
>>463
それに従った全日本人はヘタレを超えたヘタレであり君もその子孫ということになるんやがw

465 :
なのに「俺は信長ほど甘くない」と言っちゃうラスボス。どんだけやん

466 :
>>464
お前の頭の中では従ってない人は死滅してるのかw

467 :
>>466
当時外国にいた人とか琉球人・アイヌ以外は全部従ってるかと…

468 :
元禄3年5月4日、将軍綱吉の御前にて、水戸宰相光圀は中納言に、その養子であり世子である
水戸少将綱條は中将に、それぞれ昇進された。その座でのこと。
綱吉の側用人である牧野備後守(成貞)がこのように発言した

「今後中将殿には、今までのように、旗本の諸士を召し寄せられる事はいかがかと」

中将ほどの位の者が、幕府の旗本と軽々しく近づきになるのはどうかと、釘を差したのである。
光圀はこれを聞くと

「備後守は、我が家風を存じまい。御前ではあるがついでなれば申すぞ、
水戸家は御旗本の代将軍を承っている!何事か起こったときは、将軍家の御名代として
采配を許されているのだ。然らば諸旗本に平生から参会して、その器量を見知るのが
御奉公である。

これは東照宮以来の御定なれば、今中将が家督を継いだ後も、この事は違うべからず!」

そう苦々しく申したという。
(武野燭談)

>これは東照宮以来の御定なれば
家康「マジかよ」

469 :
家康が亡くなった時は頼房って13歳か?
頼房が徳川を貰うのは壮年だし家康から疎まれてたとも言われてるから黄門さまがはったりかましたんか

470 :
伊達政宗が会津を速やかに制することが出来たのは、会津代々の家老、平田、松本、佐世、
富田といった、世に蘆名四天王と呼ばれる人々を始めとして、多くの重臣たちが謀反した
ためであった。

中でも安積郡の押さえとして猪苗代という城があり、ここに猪苗代弾正(盛国)といって、
蘆名数代の臣下があったが、欲に心を奪われ代々の主人に逆意して、政宗を引き込み
彼を猪苗代城に入れた事が、蘆名滅亡に直接つながったという。

かくして政宗は会津を存分とし、知行割をして功臣を賞した。
この時猪苗代盛国は伊達安房守成実を通して申し上げた

「かねがね会津別心の時、三ヶ条の望みとして申し上げていました通り、北方の半分を
下されますように。」

政宗は尋ねた
「弾正は北方にどれほどの所領を持っているのか?そなたに半分与えるとは聞いていないが…」

「私は北方には、領分少しもありません。恥じ入ることですが、譜代の主人に逆意仕ったのも
身のためであります。」

そして盛国の家臣である薄源兵衛と申す者が発言した。
「それがしが、その書付を書きました。”半”の字が無ければ切腹いたします!」

そこで政宗がその書付を取り寄せると、そこには『北方分』とだけ書かれており、『半』の
文字は無かった。

盛国は驚愕し
「主人を裏切った天罰でしょう」
そう言って猪苗代へと帰った。

しかし彼が伊達勢を引き入れなければ、会津はこのように速やかに奪うことできなかったと、
政宗は北方において五百貫の加増を盛国に与えたという。

471 :
秀吉の甥としての覚悟


一今日から秀吉の甥としての覚悟をするように。人に慮外の沙汰を下して
 甥としての振る舞いが出来ずとも、みな秀吉の甥と思って崇めようとするのだ
 という覚悟を持つこと。

一これ以後は秀吉がこのようなことはあってはならないと思ったり、不都合だと
 思うことがあっても、(秀次が)この一書を思い出し書き付けて心を改めて
 人にも立派な人と呼ばれるのなら、右のほかに進退のことを取り上げません。

一今年木下助左衛門、同勘解由を(秀次に)つけたところ、両人が討死したのは
 不憫なことでした。両人の者を殺してしまったことに対して(秀吉の)戸惑いを
 考えてくれてもよいのに、一柳市助に津田監物とやらを欲しいと申させましたが
 仮に秀吉がどの者を預けたとしても、今度預けた者も一人も残らず討死させ
 (秀次が)生き残ってしまえば、外聞が悪くなることも分からないのですか。
 申させた者はもちろん、取り次いだ者も無分別の大たわけと思い、市助めを
 手打にしたいとも思ったくらいですが、今まで腹の中に折り込んで遠慮を
 していたので言葉にはしませんでした。
 よくよく分別をして、諸事に嗜み、流石秀吉の甥と呼ばれるようになれば
 何よりの満足であるので、右の一書を心がけて下さい。

一覚悟を改めればどの国でも預けるつもりですが、只今の如く無分別のうつけ者では
 命を助けてやりたいと思っても、秀吉の甥の沙汰で、秀吉が面目を失うことは
 あってはならないのですから、手討にするしかありません。
 人を斬ることは秀吉は嫌いですが、その方を他国に移すのは恥の恥になる
 だけですから、人手には懸けられないことです。

一胸中は誰にもいわなかったのですが、秀吉の代理も出来るだろうと思っていた
 御次(秀勝、秀吉養子、実信長四男)が病身なので、天道が秀吉の名字を残さない
 ようにしているのだろうか、是非に及ばずと悟ったように振る舞っていましたが
 その方が器用に物を申し付け武者を致していると見えるようになり、このように
 覚悟を持たれるのなら、悔やみもありません。
 
右の五箇条の通り、これ以後分別をもって慎むことがなければ、八幡大菩薩に誓って
人手には懸けさせません。委細は善浄房(宮部継潤)、蜂須賀彦右衛門尉(正勝)の
両人にも申し含めておきました。せがれでもあるので、その心得を持つように、以上

(天正十二年)九月廿三日                秀吉(花押)


――『松雲公採集遺編類纂』

472 :
>>470
で薄原は切腹したの?

473 :
福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

関ヶ原の戦いの後、安芸と備後を与えられた福島正則が広島城を中心として国内の要地に多くの支城を築いたのは二つの逸話で既に語られているが、その一つで西の毛利に備えて築いた小方城(亀居城)の築城にまつわるお話。

1603年、福島正則は周防との国境付近の小方(広島県大竹市)にある海に面した標高88メートルの山に築城を開始した。
城の石垣を作るため、福島正則は

「石一個に対し米一俵差出候」

との御触れを出したところ、小方の海に石をどっさりと積んだ船が現れた。しばらくは石と交換で米を振舞って居た福島正則だったが、
ある程度石と米を交換したのを見計らうと、
「もう石は余るほどになったので持ち帰ってくれ」
と言って、石と米の交換を止めてしまいました。

約束が違うと腹を立てた船頭は、小方の入江に、石を投げ捨てて帰って行きました。

船が去ったのを見届けた福島正則は
「さぁ、石を陸揚げして城の石垣を築け」
と命じ、捨てられた石を人夫に拾わせ小方城の石垣を組ませ、その後五年の歳月をかけて完成した小方城は亀の形をしていたため、亀居城とも呼ばれ、
11の郭(「本丸」・「二の丸」・「三の丸」・「有の丸」・「なしの丸」・「詰めの丸」・「松の丸」・「名古屋丸」・「捨ての丸」・有りの丸の南に「鐘の丸」・亀の頭に当たる海に突き出ているのが「妙見丸」)を持ち、
西側は山陽道(西国街道)苦の坂峠、北は懸崖の山が人を寄せ付けず、南は海に面した港を持ち、更に石垣で囲み上げた城壁を加えて、まさに難攻不落の城として完成した。
だが、この難攻不落の小方城は既に語られている通り諸事情により完成より僅か3年で破却される事となったのである。
現在では1977年に調査発掘と整備が行われ、1000本の桜が咲き誇る桜の名所、亀居公園として近隣住民に親しまれている。

http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/

474 :
せこい

475 :
>>474
リンク先に
>いつの日か、旅の僧侶が小方の里に入り「この町には異様なものが漂っている。昔お城を築いたとき、たくさんの犠牲者が出ているが、今日まで誰も弔っていない。
だから霊が浮かばれておらず、この町は栄えないのだ。この大事な犠牲者を弔うものはいないのか」と言い残して立ち去ったといいます。


と有るので市松さん、供養費もケチった可能性が…
広島城近くの堤防を作った時は人柱の代わりに自分の剣を8本埋めさせて、更に金出して年一で祭りをやらせて参加者には参加費として、
堤防を補修する為の石を持って来させて、堤防の上で躍らせて堤防を踏み固めさせたと言う逸話もあるんですけどね

476 :
或る年、京都において故太閤秀吉の遠忌を、彼の側室であった松の丸殿(京極竜子)という人が
それまで存えていて、ある寺にて法会修行を行ったが、京都所司代である板倉重勝は、これを聞くと
直ぐに、武士を遣わして法席を破らせ、参詣の男女を追い散らした。

人々は、板倉がなぜそのような行為に出たのか聞くことも出来ず、例の京童たちは口さがなく、
彼の行為を批判した。

そんな中、ある人がこう評した
「幕府にとって秀頼公については敵対したため憚りが有るが、故太閤については仔細は無い。
だからこそ、その位牌は高台寺に置かれており、その菩提を法令するのを、伊賀守(勝重)は無法に
制することはしていないし、忍びて修行している分には、これを聞いてもそのまま差し置いている。

しかし今回は「松の丸殿が故太閤の遠忌を修行する」と宣伝し、参詣の人々が群衆したため、
所司代を軽んじたと憎んだのだろう。また宣伝しての作善は、関東の聞こえ悪しき事でも有る。
その上松の丸殿というのは、元若狭国。武田元明の妻であった。しかし秀吉がその容色を
聞き及び、元明を殺してこれを奪い取り、妾としたのである(古くからある誤伝)。
貞節なる女人ならば、秀吉を恨みこそすれ、これを慕うべきではないだろう。」

(武野燭談)

477 :
>>476
気ィ遣って疲れそう…

478 :
顔面斬られて包帯巻いて治した武将ってだれでしたっけ?

479 :
ジュストどんは首切られたけど奇跡的に存命してたな

480 :
額に銃弾受けて平気だった人もいたな

481 :
大阪での合戦の折、伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内、秋保掃部という者たち
両人が討ち死にに及んだ。

帰陣後政宗は、この事に憤慨した
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、組の奴原が
不覚と言うべきである!百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」

この時、「両人の討ち死には私の責任です」と、給人衆の内の、丹野前右衛門が申し出た。
彼はこのように言った

「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、秋保が身を乗り出し、
間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。

しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、討ち死にをしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。

この事は私の誤りのためですから、皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」

これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。

給人衆とは伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。

(士談)

482 :
大人になったな、政宗

483 :
伊達領って北朝鮮みたいなとこだな
土地に縛り付けて就職できるのはブラックのみ
脱走したら家族親類縁者や家畜に至るまで死罪になりそう

484 :
昔の考えだとそんなの当たり前だと思う

485 :
信長の野望シリーズで唯一、永正の錯乱や船岡山の合戦を扱っている蒼天録PKには「自家自慢」というコマンドが存在した。(何分古いことなので効果等は覚えていない。)

この作品にも登場している赤松義村は、盛大な自家自慢を後世の我々にも仕掛けてきている。
彼は自著『秘事枕』に次のように記しているのだ。


「天盃を賜るということは一大事であるが、当家の政則はいただかれた。
また、塗り込めの輿を許され、幼稚のころから乗っておられた。京都屋敷も重厚な造りである。

さらに禁中より「雲井の松」を頂戴し、公方より「御所桜」を下されている。
「雲井の松」とは五階の松で相生になっており、高さ3尺5寸ほどのものである。薬師寺次郎左衛門という者に守られ、おしほ(置塩)屋形に移された。
「御所桜」は高さ4尺で、橋本源之允が警備した。
それらの木は前払いの雑色左右10人ずつ、素袍左右5人ずつ、刀帯左右5人ずつ、跡備一行立、弓10挺、矢固め2荷、長鑓10筋、左右刀帯5人ずつ、長刀、両鑓2人共馬上にて美々しく下ってきたそうで、「雲上拝受雲井松、御所拝領桜樹」という札を立てた。

他にも内室を御方と称し、国名の使用、鳳桐の御紋の使用を御免下され、屋敷を屋形というなど、当家の規模はとても測れるようなものではない。
政則の三品(三位)叙位ももったいないことである。幼稚の頃には規模など無に等しかったというのに。」

この自慢の赤松家と自分の身が、後々ああいうことになろうとは・・・。

486 :
赤松って嘉吉の変で取り潰されてるよね
この松と桜はなんで貰えたの?
三種の神器を取り戻したからかな

487 :
>>486
嘉吉の乱の後、再興した政則の代でいろいろ賜った、って話なんだから、そうじゃね?

488 :
赤松氏もその後に復興して応仁の乱にも絡んでいるのよ

復興のくだりは「後南朝」「禁闕の変」「長禄の変」で検索すれば

489 :
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。

490 :
大阪冬の陣の折、幕府の軍勢が大阪城を包囲している最中、幕府方によって捕縛された
吉河瀬兵衛と言う者が、豊臣秀頼から藤堂高虎への書状を持参していた。

それはすぐに徳川家康の元へ届けられたが、その書状にはこのように書いてあった

『最前より約束のごとく、東(幕府方)人数引き出し候事、秀頼公御感に思し召し候。
いよいよ、後ろぎり(裏切り)の手立て肝要に候。御褒美の儀は、望み次第たるべきと
おおせ遊ばせ候。』

これを読んだ家康は言った

「良き臣下を討ち果たさせるための、昔からこういった調略は、大唐にも日本にもあった。
和泉(高虎)の心は、昔からよく知っている。別心などあるわけがない。ただ一筋に、
我らのためを考えてくれている。
従ってこれは、討ち果たすべき調略である。」

そう考え
「かの瀬兵衛を和泉に引き渡しこう言え、彼の十本の指をすべて切り、額に秀頼と書いた
焼印を当てて、城中に追い返すように、と。」

吉河瀬兵衛を引き渡された高虎は、家康に言われたとおりにせよと命じ、瀬兵衛は
大野主馬の持ち口であるせんばの門前へ送り遣わされた。

(藤堂家覚書)

491 :
裏切りが真実ならこうするぞ!という脅しか

492 :
葵でもそのようなくだりがあったな

そして、高虎さんは夏の陣で無茶をするんだよな…

493 :
小田原城が開城し、北条氏政、氏直、氏照などは下城し、医師安栖の邸宅に居した。
ここにおいて氏政、氏照は切腹したのだが、氏政はこの時、このように言った

「今度小田原城より下城し、早雲以来の五代の興行も、私において断絶する、
きっと、世が静謐になった後には、氏政氏直の籠城の仕様に対して、善悪の評判が起こるだろう。
しかし存亡は皆、天の命にして人の所為に非ず。当家滅亡の時が至ったからこそ、数代の家老である
松田の逆心もあったのだろう。
この一つの出来事を見ても知るべきだ。天命の致すところである。そう思うべきなのだ。」

そう語って、切腹したのだという。

(士談)

494 :
天下人に頭を下げれないからそうなる
信長であっても臣従しなかったろ

495 :
この期に及んでまだ天のせいとか言ってんのか
お前のせいだろ

496 :
項羽の最期に通じるものがある

497 :
まあ人事は尽くしてないかな・・・降伏する機会は何度もあったわけだし。

498 :
だって儒教系の史料だし
北条は善性しいてたってことになってんだからそれが滅んだからには天のせいってことにしなけりゃアカンだろ

499 :
まだ項羽みたいに綺麗に締められれば伝説なんだけどなあ

500 :
磯田は10年残ったから映画になったじゃん
正月もまた再放送されてたくらいで
本郷は完全にバイトで本人も残す気無いやろ
(東大教授がなんでカネ稼ぎに走ってんかはわからんがまあ組織の都合もあるだろう)
呉座亀田の偉業を讃えるのは大いに結構だがこういう贔屓の引き倒しをやるべきでは無い
誰も得しない
https://twitter.com/kurooribe/status/956116170456809472

501 :
美濃国宇留間の城主・大澤二郎左衛門は、木下秀吉の謀を以って織田信長に属した。
秀吉は大澤を引き連れ信長のもとに参り、清須において信長へ御礼を申させた。

その夜、信長は密かに秀吉を招いて命じた
「大澤は名のある勇士である。もし志を変じては、重ねて退治するのも大儀であれば、
夜中に彼を誅するように。」

秀吉はこれを諌めた
「大澤大敵なりと雖も、我らを信用したくれた故に、降参を遂げたのです。
今これをRことは、約を変じ信を失い、ただ一時快くするだけの話であり、
今後重ねて、所々の剛敵が降伏しなく成るでしょう。」

そう説得したが、信長は得心しなかった。

秀吉は急ぎ大澤の元に行くと、信長の命を残らず説明し
「こういった事となったが、あなたは私を人質として、急ぎ退去するのだ。」

これを聞いて大澤は大いに喜び、秀吉を人質に取って帰城した。

後に秀吉はこの時のことをこう語った
「私が大澤に信を示した所、大澤は私を以って人質とし、小刀を抜いて私に指し当てて退いたが、
つまり大澤は信というものを知らなかったのだ。」

(士談)

502 :
首を取り返す程なら


大坂夏の陣でのこと。
森家家臣の石田惣右衛門が、佐竹衆から味方討ちにあったので
惣右衛門の子供二人が追いついて首を取り返すということがあった。

そのころの評判で
「知らないふりをしておけば、親はよく奉公したことになり
 佐竹衆も手柄に出来ただろう。首を取り返す程ならその者を討って
 親の首と一緒に持って帰ればよかったのに。二人とも弱いことだ」
といわれたという。


――『森家先代実録』

503 :
お、おう

504 :
情け容赦がねえな

505 :
夏の陣でも戦国の気風は残ってたんだなw

506 :
まさむね「知らないふりをしておけばいいものを神保が…」

507 :
この場合、惣右衛門さんの扱いはどうなるんだ?
事故死?

508 :
たぶん討たれ損なんだろうね
だからこそ、黙ってれば戦闘中の討ち死にですんだんだろうし
武士としての面目を考えるなら、やはり敵を討ち取ってくるべきだったと思う

509 :
中途半端が一番悪いというのがよくわかる事例

510 :
秋田佐竹は遅参で居ないからどこの佐竹衆だろう

511 :
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門、生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)

512 :
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513 :
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514 :
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様

515 :
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。

516 :
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?

517 :
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518 :
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519 :
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520 :
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521 :
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522 :
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

523 :
ある老人が言った、「信長と秀吉の弓矢の取り様は、全く別物である」と。
それはどういうことかと問うと、こう答えた

信長は永禄年中に京都へ攻め上がり、その勢力を広げ、山城、摂津、和泉、河内、越前、若狭、丹後、
但馬、播磨を手に入れられ、美濃、尾張、三河の遠近を合わせれば、15ヶ国を治めた。
ではあったが、大阪の一向宗は、坊主の一人も信長の旗下につかず敵となり、それに地下の旦那共
一味して籠城した。これらは一を以って千に当たる血気の者共であった。それに対し信長は、
強引に攻めれば味方に多くの損害が出ると考えたのであろう、5年間打ち置き後に、和平があって
城を開き退いた。

甲州で武田信玄が逆威を振るっている間も、返ってなだめ和睦し、勝頼の時代に馬を出すと、
武田家は聞き落ちに敗北し、滅びた。
人々は、この勢いで信長は関八州まで望むだろうと思ったものであったが、当時関東にあって
北条氏直は大国を守護しており、また西国も未だ治まっていなかったため、甲州より帰洛した。

このような例から考えるに、織田信長という人は、一般には武勇に長け苛立ちやすく、短慮未練であると
言われているが、そうではなく、智謀武略の大将であると評価すべきであろう。

一方で秀吉は、一身の武勇に秀で、運に任せて弓矢を取り、勝ちに乗じて驕りを旨とした。

例えば北条氏直は秀吉に臣従し、使者を登らせその上来春の上洛を決定しその支度もしていた所に、
遅参であると事を左右にして関東へ出馬した。
名大将というのは戦わずして勝つことを本意とするものだが、秀吉は弓矢の手柄を以って国を治めるのを
専らとした。その上、秀吉の奥州下向は何ゆえであろうか?

小田原攻めの間に、伊達政宗を始め、奥州の諸侯はことごとく馳せ参じ、手をついて臣従していた。
その上、諸軍は小田原百余ヶ日の長陣に草臥れ気も疲れ果てていたが、そういった所に思いの外の
計策の扱いあって、小田原城は落城した。

惣軍、早く帰国したいと希望していた所に、諸勢の労苦も考えず驕るに任せて敵も居ない奥州に下り、
田畑の検地をさせ黒川から帰洛した。
これは偏に、秀吉の弓矢の勢いを、百姓らに知らせるだけのための物であった。

(略)

その上、天下を争い戦いを為すと言うが、その身のために軍を起こすのは、一旦の利があると雖も、
その治世は久しくならず、果の滅亡の兆しが既に生まれている。
国のため、万民のために弓矢を取れば、神明の加護があって、身の幸いが生まれる。
上より下を撫育すれば、下は上に対し父母の思いを成す。
天下を治めて後、干戈を箱に納め弓を袋に入れ、秩序を専らとし民を豊かにするのが、君子の道である。

然るに秀吉、高麗国への出陣は、唐の使いが遅参した事が無礼であると言葉巧みに宣伝し、
戦争を望んだ故のものであった。これに動員されたのは五十万騎だという。そしてこれに対する
兵糧米の運送を行ったのは、日本国の民百姓である。その嘆き、悲しみ、その費え、計ることも出来ない。
その上に、敵味方の死者は幾万幾千と数えることも出来ないほどだ。これは秀吉が、驕りを旨とし、一身の
誉れを願うが故の事である。このような彼の科から、目をそらしてはならない。

(北條五代記)

524 :
ラスボス絶賛されてんなーと思ったら五代記かよ

525 :
絶賛?

526 :
本多忠勝が、北条家の朝倉兼也を招いて武義の物語をしたことがあった。
兼也帰って後、忠勝は言った

「朝倉兼也はなかなかの人物だと聞いていたが、武義の上の詮索、真に然らざるものであった。
何故かと言えば、彼は一度も遅れを取ったことはないと物語った。
名将と言えども、初めは万事落ち度無きとは行かないものだ。いわんや兼也程度の侍であれば、
善と悪が半々であっても、人々は盛んに褒め称えるものだ。

正しく、素直でなければ、武士の意地とは言わぬのだ。」

そう批判したという。

(士談)

527 :
家康「そやそや」

528 :
細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であったその内室は宮津へと帰った。そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。彼女はこのように語った

「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました

『今日は細川殿と対面する。我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ。
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える、古い文なども
今に残っている。子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、いづくの地へも出かけたことはありません
でしたから、私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、とても幽幻な
姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、なにやら
不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。

それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、御最後の時、さぞかし私の事も
恨まれたでしょう。」

そう、明け暮れに嘆かれたという。

(丹州三家物語)

529 :
兄が基地外だと普通の男が優しく見えるようだ

530 :
三斎様の眉間の刀傷ってこれが原因か?

531 :
京都四条糸屋の事件


天正7年(1579年)、京都で前代未聞の事件が起こった。

下京四条小結町の糸屋の後家で、70になろうかという老人がいた。
娘が一緒に住んでいた。

4月24日夜、娘は良い酒を買ってきて、母親が充分だと言うのに、更に無理やり飲ませた。
酔い伏した母親を土蔵に担ぎ入れ、夜更けて人が寝静まってから刺殺した。

自分で死体を箱に入れ厳重に縛った。
家は法華宗であるのに浄土宗の誓願寺の僧侶を呼び、人に分からぬように
死体を寺へ運んだ。

この家には下女が一人いた。
娘は下女に美しい小袖を与え、
この夜のことは絶対に内密にするように言いつけた。

しかし下女は、後で発覚したときの恐ろしさを思い、
村井貞勝の役所へ駆け込み事件を告げた。

村井貞勝はすぐさま娘を逮捕して取り調べた。
4月28日、娘を上京一条の辻から車に乗せて市中を引き廻し、六条河原で処刑した。

532 :
京の四条の糸屋の娘、母は七十で娘は十五♪
諸国大名は刀でR、糸屋娘は懐剣でR♪

533 :
>>531
姥捨て山とかあるし親殺しなんて珍しくなさそうな気がするけど前代未聞なのか。意外と平和…?

534 :
良家のお嬢様が母親を殺して完全犯罪をもくらんだって十分スキャンダラスな出来事じゃね?
戦国時代でもこんな事件はあるってことが驚き

535 :
なんか見たことある話だと思ったら信長公記だった

536 :
このサスペンスみたいな展開、雲仙のお糸地獄を思い出す

http://livedoor.blogimg.jp/fukucyan_jp-part2/imgs/5/b/5b1948ab.jpg

537 :
金はあるけどインポっていう男は少なからずいるね

538 :
https://booklog.jp/users/kobunsha-bungei/archives/1/4334912087
ついに富田長繁がピックアップされた小説が出るぞ…主人公は射殺した小林吉隆

539 :
>>538
タイトルがぴったりじゃねーか! w

540 :
なかなかマニアックなとこを題材にする作家だな

541 :
くるい咲き(直球)

542 :
主君義景公や御三家の景鏡、景健、景恒なんかはどう描かれているのかな?

543 :
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長、柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」

544 :
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』

545 :
あれ?一人足りないぞ?

546 :
俺のことか!

547 :
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

548 :
そのようなところに、政元(細川政元)はあまりに物狂わしくおられたため、御内・外様の
人々は、「この分ではどうしようもない」と悲しみ合っていた。

その折に薬師寺与一(元一)はつくづく考え出して、赤沢宗益(朝経)という法師と相語らい、
「政元を誅し奉り、阿波の六郎澄元をその上に崇め申しようぞ!」と語ると、

かの宗益は同心した。しかし、ある文に“好事門を出でず 悪事千里を行く”というが、道理
ではないだろうか。包み隠してもこの事はわずかに表れてしまい、叶わずして宗益は伏見
竹田口へと切り上った。

頃は永正元年(1504)甲子9月初めに与一は淀城へ立て籠もった。そのため京や田舎
では仰天して物言い取り取りであった。

そうとはいえども政元の御内衆は与一の弟の与次(長忠)を初めとして御屋形様へと参り、
評議をなしてすぐに諸勢を催し、淀城へと押し寄せて川とも堀ともいわずに攻めなさった。

城中でもここを先途と戦ったが、まことに攻め手は国々の勢たちが一つになって新手を
入れ替え攻めていった。そうして城中ではここかしこで5人、10人ずつ討死していった。

そのようにばかりで、どうして堪えることができるだろうか。9月18日申刻、ついに城は
落ちてしまった。与一は今一度謀反を企てようと思い、川の畔の葦の中で弛んでいたが、
因果の道理に任せて生け捕りとなり、都へと上った。

船橋に一元院といって、与一が世にありし時に建立した寺があった。与一はそこへ移り、
色々の物語りをして一首の歌にかくばかり。

「めいどには 能わか衆(我が主)のありければ おもひ立ぬる 旅衣かな」
(あの世には良い主君がいるので、思い立って旅立つとしよう)
(あの世には良い若衆がいるから、お前も早く来るといいぞ)

このように親しき方へ文などを遣わし、最後の時の申し様は、

「皆々御存知のように我は一文字好みの薬師寺与一。名乗りも元一、この寺も一元院と
名付けた。されば腹をも一文字に切ってやろう!」

と言って腹一文字にかき切り、朝の露とぞ消えにける。上下万民押し並べて皆涙を流した。

さるほどに弟の与次は御感を蒙り、今回の恩賞に桐の薹の御紋を賜り、三郎左衛門と
改名なされ、兄の与一の跡を賜って摂津国上下守護代となり栄華に誇った。

昔も主君の仰せに従い、源義朝が父・為義の首を取りなさったのである。ましてや末世の
以下の侍であれば、主君の下知に従って兄の立て籠もる城を攻めるのは道理である。

――『細川両家記』

549 :
死に様一つで見事にキャラがたった与一さん
なぜか万民が涙を流す

550 :
福島正則が安芸に入部して、広島城の普請のおり、正則は石垣の据え方が悪いと、近江坂本より雇った
穴太衆たちを叱りつけ、さらに石垣の普請を担当する、丹波、石見、久之丞といった者たちにも
「お前たち一人ひとりの首を切ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)と、散々に叱りつけた。

さらに気が治まらなかったのか、元織田秀信の家老であった木造大膳(長政)の持ち場へ行くと
「木造殿は岐阜中納言(秀信)をしたいままにあしらっていたというが、それは間違いだったようだ!」
そう罵り、散々に叱りつけ、それは朋輩たちに対しても恥ずかしくなるほどの叱り方で、木造大膳は
面目無く無念に思い、そのまま宿舎へ帰り

「只今このように主人より叱られた事、不覚である。もはや男として立つことも出来ない。
二万石の所領と軍役の人数をみな返納し、船にて上方へ退く所存である!」

そう言って支度を始め他ところ、石見、丹波、久之丞その他組頭の衆がやってきて様々に異見し、
そうしてどうにか、留まることになったという。

(福島太夫殿御事)

551 :
市松はほんと人間としての器が小さいな

552 :
さては、一杯引っかけてたな

553 :
のちの台風で石垣崩れたんでしょ、正則の一喝が無かったら天守崩落してたな

554 :
伏見城の普請の時、福島正則の衆は過半が幟町より城へ参っていた。道が遠いため、何れも
馬にて通勤していたのだが、この時、越前三河守殿(結城秀康)が京より伏見へ向かっていた
先を、福島正則の家臣の侍が、馬にて通った。三河殿はこれを見て「乗打をしている者を捕らえよ!」
と命じ、家臣たちが追いかけたが、その者はそのまま乗り通ってしまい、後にいた挟箱持ちを捕え
「乗打した者は誰か、申せ!」と厳しく尋問した所、下者であったのですぐに申し上げた。

これにより、三河守殿より正則へ使いが送られた。
「御内である梶田八左衛門と申す者、乗打を致した故、我々に引き渡すよう仰せ付けられるように。」
使いはこれを非常に荒々しく要求したが、正則は
「御尤もです。いかにも詮索してこちらよりご返事申し上げましょう。」
そう申し、その後家中を詮索した所、梶田八左衛門は

「当日、京より伏見へと向かいましたが、横合いには誰も見えませんでしたので、乘り通ったのです。」

このように申し上げた。これに正則も「それは乗打ではない。梶田は少しも気遣う必要はない。」
そう納得し、後日三河守殿へも「乗打の事について様々に詮索しましたが、我々の家中の者では
ありません。何者かが、嘘の名を証言したのでしょう。」と返事をした。

そして正則は「三河守殿は近頃になく不合点な人である」と、交流しなく成ったという。

(福島太夫殿御事)

555 :
まるで別人だな。同一人物の台詞とは思えん気配り…

556 :
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』

557 :
福島正則の家臣で、野田忠介という侍は、知行五百石であったが、知行が水損し、毎年無作という
状況になったため、正則へ直訴した

「私に下された知行地は水損し、どうにも御奉公が出来難い状況です。どうか私に御暇を下されますよう。」

正則はこれを聞くと
「その方は大気者にて、終に只今まで私に直に訴訟を申したことは無かった。知行地が悪いのであれば
代わりの地を取らせよう。ただし、その上にても暇を貰うつもりか?」

忠介は申し上げた
「有難く存じ奉ります。そういう事ならば、いつまでも御奉公申し上げます。」

こうして忠介は知行地を所替えされ、さらに正則は、彼に今までの損米もつけるよう命じ、
損米の出た年数分の年貢、取れ高の6割5分が計算され残らず下された。これにより野田忠介は
殊の外富貴となった。

その後、日下部山三郎という者、これは二百五十石取の者であったが、彼も正則に申し上げた
「知行地が悪く、御役を勤めることが出来ません。どうか替え地を下さるよう、申し上げます。」

これを聞いて正則は
「せがれが憎き事を申す!そもそも山三郎には過ぎた知行地であるというのに、我儘を申しおって!
切腹させよ!」

そう激怒し、日下部山三郎は切腹をした。

(福島太夫殿御事)

558 :
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』

559 :
>>557
>知行地が悪く、御役を勤めることが出来ません

また酔ってたかと思ったが、こんな言い方されたらシラフの市松でも怒るわな

560 :
>>557
昔話みたいw

561 :
正直者と業突く張りな隣人のテンプレだよな

562 :
前の成功者が職をかけてるんだから、パフォーマンスでも辞めるぐらい言えばよかったのに
まさか本当に首が落ちるとは

563 :
ある時、岩室萬右衛門が広島城の番所に詰めていた時、福島正則は他出しいていたが、
夜中に帰り、門を開けさせると、つくばいの場所で
「萬右衛門はどうして私を確認せずに、早く門を開けたのか!」
そう咎め始めた。

これに萬右衛門
「私は殿の御声を承り、御姿を見た上で門を開けました」と答えた

しかし正則
「ならばひぢ山の番所はどうして開けたのだ!?」

「ひぢ山の番所は何者が開けたのでしょうか?私は少しも御番を欠かしたことはありません!」

これを聞くと、正則はそのまま通っていった。
惣じて福島正則は侍衆を叱った時、相手が心強く自分の申し分を主張すると、
『この者は理を持っているからこのように強く申すのだ』と思われ、
逆に申し分が鈍いと、『その身に誤りがあるからこうなのだ』と考えられていた。

(福島太夫殿御事)

564 :
萬右衛門って信長の小姓をしていた長門の親類なんだろうか

正則って明朗快活なら多少のことは目を瞑ってしまうのかな

565 :
大河ドラマ福島正則で真逆の人間を見てみたい

566 :
慈悲なる覚悟


以下は小牧・長久手の戦いで織田信雄が秀吉と単独講和した直後に
秀吉が池田家臣・伊木忠次を通じて池田輝政に送った書状。

 
わざわざ申し遣わします。

一こちら(伊勢国)では、長島・桑名へ押し詰め城を数か所に拵えたので
 そのまま秀吉が縄生城に越年して長島を攻略しようとすると
 信雄は考えついたのか和睦を懇望してきたのでそれに同心しました。

一人質は信雄の実子ならびに源五殿(織田長益)の実子と、滝川三郎兵衛尉(雄利)
 中川勘右衛門尉(定成)、土方彦三郎(雄久)、松庵(新庄直忠)以下はいずれも
 実子か母が人質に出ます。いかようでも秀吉次第と誓紙を出させました。

一北伊勢は向こうに渡し、今度拵えた城は敵味方ともに破却となりました。

一尾張では、犬山・甲田には秀吉の手勢を入れ、そのほかの新しく作った城は
 敵味方ともに破却となりました。

一家康も信雄同様に和睦を懇望しています。
 しかしながら信雄が若人を引き入れて、秀吉に対して重々不届きを働いたので
 すぐにでも三河へ押し詰めて思い通りに申し付ける覚悟でいましたところ
 家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
 よいと言っているようです。
 それと同時に信雄も外聞があるので詫び言を入れ、色々懇望してきたのですが
 秀吉の家康に対する恨みは深いので、まだ思案が落着していません。
 許し置けない者について、日頃から無念を晴らすつもりでいたのですが
 とにかくこちらに任せる様子であると聞いたので、私は慈悲なる覚悟をもって
 過半は許すべきでしょうか、心中難しく思っています。

一右のようになっていますので、全てが決着すれば十五日には馬を納めることに
 なるでしょうか、またおいおい申します。

かくのごとく申し遣わしたところ、家康がしきりに懇望するので
人質を受け取って済ませることになりました。そのように心得て下さい。    

  十一月十三日      秀吉(朱印)
    伊木長兵衛尉(忠次)殿 

567 :
>>564
自分自身が物差しなんじゃなかろうか

568 :
自分を物差しにして物事を整える
つまり正則化か

569 :
紀伊守殿は利口ぶっている


浅野紀伊守(幸長)殿は(池田)輝政公の妹婿であるが、仲はよくなかった。
(輝政公は)紀伊守殿は利口ぶっていると言って嫌っていたという。

尾張の名古屋城普請の時、紀伊守殿が口の上手い者を使者にして
輝政公のところによこして
「このたびは名古屋普請ですので、駿府や江戸に向かわれる際は立ち寄って
 普請を見ていかれるべきだと存じます。輝政公も御立ち寄りあるべし」
と申し伝えてきたが、輝政公は同心されなかったので、その使者を呼ばれて
「いかにももっともなことです。浅野殿は尾張殿(徳川義直)の御筋目に
 なられたので一段と分別が付いたのですね。私も立ち寄った方が
 首尾よく進むのでしょうが、私は不知恵者なのでこのようなことを
 するべきだとは気が付きませんでした。このような分別を一度しても
 続けられるとは思いませんから、立ち寄ることはないでしょう」
と拗ねた御返答をした。

浅野殿はこのような拗ねた返答はあんまりだとご立腹されたという。


――『烈公間話』

570 :
福島正則の家臣で内藤勘解由という侍は、知行千石を取っていたが、この者、番所に
皮袴、皮足袋、皮雪駄を履いて、正則が通る時、蹲に控えていた。
正則は彼の姿を見ると

「勘解由はよき男ぶりにて、釣り髭(ひげの先を上方にはねあげた口ひげ)も作り
結構なことだ。小袖を着重ね、皮袴、皮足袋、新しい雪駄で番をして、もし曲者が
駆け抜ければ、その装束で追いかけることは出来ないだろう。今、この徒士者と走り比べを
しても其方が負けるだろう。
そういった格好をするものは、必ず臆病で役に立たないものだ。」

そういって恥をかかせたという。

(福島太夫殿御事)

571 :
>>566
>家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
>よいと言っているようです。

これって石川数正は出奔でなくて人質ってこと?

572 :
人質となった翌年出奔した

573 :
>>571
秀康を届ける役だから、送った後帰るまでは人質(証人)扱い

574 :
家に帰るまでが○○というやつですな

575 :
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。

576 :
>>575
面白いw

577 :
なんで小米なのか説明よろしく

578 :
小物だから、てことじゃダメなのか

579 :
秀頼の評価クッソ低くて草

580 :
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 :
確かにひどいなw

582 :
後のシャオミである

583 :
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

584 :
さて澄元(細川澄元)が家督を取りなさって目出度いところに、御内の
三好筑前守之長や高畠与三らはあまりに無道の振舞いなどがあったので、

「この分ではどうしたものか」と内々に呟かれ、京では奈良修理亮元吉、
摂津では伊丹兵庫助元扶、丹波では内藤備前守貞正が相談し謀反を企て、

「安房守典厩政国の子息・高国(細川高国)を主君となし申すべし」と、
永正5年(1508)戊辰4月9日、六郎澄元に背き申したたのである。
突然のことであったため、澄元はすぐに近江甲賀へ落ち行きなさった。

三好筑前守の子息・下総守(長秀)は伊勢国山田へ落ちなさったところ、
国司(北畠材親)より仰せつけられて生害させられ、(その首は)京の
高国へ上らせられたのであった。

こうして細川安房守の御子・民部少輔高国と申す人を家督に据え申した。
殊に筑紫の御所様(足利義稙)は大内左京大夫殿(義興)の御供により
堺津へ御上洛なされたので、事故もなく崇め申された。そんな折に、

摂津国の池田筑後守(貞正)は澄元方として自城に立て籠ったのである。
高国は聞こし召されて「それならば退治せよ」と仰せになり、

同5月初めの頃、高国方の典厩尹賢を大将にして猛勢が押し寄せると、
筑後守は物の数ともせず戦ったが、同名遠江守が高国へと参られたので、
攻め手はこれに意気込んで、5月10日に堀を埋めさせ厳しく攻めると、

城中より思い思いに切り出て、同名諸衆20余人は腹を切り、雑兵70
余人が討死したのである。「国中に同心する者もいないのに、かように
振舞ったことよ。大剛の者かな」と、感心しない人はいなかった。

――『細川両家記』

585 :
戦国初期も初期

586 :
高橋三河守鑑種は、大友家の貴族、一満田殿の二男にして高橋家を継ぎ、筑前三笠郡を領し、
宝満、岩屋の城主でもあった。

そのころ、天下は戦国の最中であったので、四海九州で乱のない場所はなかった。鑑種は
才覚勇猛の武将であり、このような中で家の名を引き上げた。鑑種の弓箭の名は世上に響き、
三笠周辺の4,5郡も横領し、家も大となりその威勢は近国に並ぶもの無かった。
その驕慢の望みは豊後へと至り、遂には大友家への謀反の意思が生まれたのである。

鑑種はあまりに驕り、大友の御恩を背き、秋月種実、龍造寺隆信の語り合い、芸州(毛利)と
一味して豊後を敵とした。しかしその仔細を尋ねると、鑑種の舎兄である一萬田殿(鑑相)の妻女は
無双の美人であったのだが、御屋形(大友宗麟)がこれにお心を移され、自身のものとするため
謀って一萬田殿を誅殺じたのである。この遺恨により、鑑種は大友家への逆意を含んだのである。

(高橋紹運記)

587 :
天正6年8月中旬の頃、大友宗麟公は豊筑肥の大軍を擁して日向に馬を向けた。
日向国は豊後の分国として本来属していたのだが、近年は漸く半国ばかりが大友の手に属し、
残りは皆御手に従わなかった。そのため、大友に属す半国の内、土持の城を御隠居所として
宗麟公は御座を移され、依然命に従わぬ残り半国を従わせるため大軍を起こし御弓箭に及んだのだ。
諺に言う『欲の熊鷹股裂くる』(あまりに欲が深いと、自分の身に災いをもたらすというたとえ)
というが、後になってその事を、思い知らされたのである。

当時は切支丹が行われていた最中であった。軍の首途として、松原八幡に矢入をし、社人のうち
害意を企てる者があるようなら討ち果たすよう命じられた。
しかしこのような中、松原八幡の社人衆は「八幡への報恩は今こそ」と決意し、鉾をよこたえ
兵仗を帯び身命を惜しまず、攻撃を加えられれば即座に反撃する姿勢を取った。これを見た寄せ手衆は
社人たちに気圧されている体に見えた。

『神いかり人恨れば必ず災害す』とはこのような事を申すのであろう。このように、まだ戦わぬ内から
早くも負けたような様子では、今度の御弓箭ははかばかしい事はないだろうと、人々みな眉をひそめた。

かくして、大軍を擁しながら、八幡宮への矢入は不吉の表れた事だったとは、後になって思い合った。
人々が案じたように、日向高城の一戦において立ちどころに敗北し、あまつさえ元々支配していた
日向半国すら敵に侵攻され、宗麟公は豊後へと引き取った。

これ以来、諸国の諸将は大友家より自立し、胡越千年の隔たり(気持ちが全くあわない事)となった。

(高橋紹運記)

588 :
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』

589 :
>>587
>諺に言う『欲の熊鷹股裂くる』(あまりに欲が深いと、自分の身に災いをもたらすというたとえ)

龍造寺隆信「呼ばれたような気がしないでもない」

590 :
>>589
聖教新聞読み過ぎじゃね?

591 :
このために澄元(細川澄元)よりもなおさら三好筑前守之長は無念に思い、都への望みをなさった。

さて、永正8年(1511)辛未7月に、澄元は武略を巡らせて赤松殿(赤松義村)を御頼みになり、
播磨勢を催しなさった。先軍の大将には、御一門の右馬頭政賢、同和泉守護殿(細川元常)、他にも
山中遠江守(為俊)や諸牢人を御立てになった。

また畠山上総介(義英)より遊佐河内守(順盛)などが立てられた。こうしてまず和泉国へ切り入り
なさった。この由を高国(細川高国)は聞こし召され、「追討せよ!」と摂津国勢を差し下された。
さて、澄元方の諸勢は和泉深井に陣を取り、高国方の諸勢は同万代庄というところに陣取り、同7月
13日に深井へ押し寄せて合戦となった。(深井の合戦)

京の高国方は1万余騎、阿波方は城中には無勢で籠の中の鳥であったという。漏れ出ることができる
様子ではないので、阿波方は思い切り面も振らずに高国方へ切り掛かった。高国方の衆は切り負けて
大将格は皆々討死し、雑兵以下3百余人が死んでしまった。残る勢は和泉堺へようやく逃げ入った。

こうして、その日に澄元方は欠郡中島まで切り上った。このため、淡路守殿(細川尚春)は摂津国
兵庫口へ渡り、灘へ上りなさった。ここに高国方の兵・河原林対馬守正頼(瓦林正頼)は摂津芦屋庄
の上鷹尾城に立て籠った。淡路守殿は「この城を攻めるべし!」と、灘深井というところに陣取り

なさった。この由を正頼より京の高国へ注進申し、高国は聞こし召して今度は馬廻の柳本又次郎入道
宗雄、子息の波多野孫右衛門、能勢因幡守(頼則)、荒木大蔵らをはじめとして30余頭を差し下し
なされた。この人々は思い切って、同7月26日に芦屋河原で合戦となる。(芦屋河原の合戦)

また鷹尾より河原林の手勢を合わせて戦ったところ、京の高国方は打ち勝って、淡路衆の首を百余り
討ち取り、京勢はすなわち明くる27日に上洛してこの由を申し上げられると、高国は聞こし召して、
たいへんな御感であった。このため、播磨衆はこの合戦のことを聞き思案に及びなさったが、

一度約束した上のことなので8月の初め頃に播磨国を立ち、同8月9日に鷹尾城を取り巻き、険しい
谷とも高い岸ともいわずに攻めなさった。そのため城内でもここを先途と戦ったのでその日は暮れて
攻め手も麓へ退いた。しかしながら、正頼は「城の中でこの分では叶わない」と思い、

同10日の夜半に城を開けてしまった。播磨勢は喜んですぐに伊丹城へ取り掛かった。そのため河内
からと播磨からの二手になって京へ切り上ったため、叶わないと思ったのか、

8月16日に公方様(足利義稙)と高国、大内左京大夫殿(義興)は都を他所に見なしつつ、丹波国
へ落ち行きなさった。その後、御談合されてやがて丹波より切り上りなさり、同8月24日、船岡山
で合戦となる。(船岡山合戦)

阿波澄元方は切り負けて大将の典厩政賢、畠山方の遊佐河内守が討死し、この他の人々も1千余人
が討死した。すなわち諸陣が破れたため、御所様(義稙)、高国、大内殿は悦の眉を開き、都へ
入りなさった。播磨勢は播磨伊丹城を攻め戦ったが“一陣破れて残党全からず”という本文の如く、

船岡山合戦のことを聞き同26日に生瀬口へ落ちて行った。此度の合戦において大内方の太刀打ちの
有様を褒めない人はいなかった。

――『細川両家記』

592 :
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄)
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』

593 :
人望ねえな。お高くとまって下々を蔑ろにしてるイメージだわ。

594 :
・人質にされた父親ごと実行犯を射殺
・小田原遅参
・葛西・大崎一揆扇動
・太閤の義弟と喧嘩し絶交
・関ヶ原合戦で和賀忠親を扇動し南部領侵略
・更に上杉と勝手に和睦
・大阪の陣で味方の神保勢を銃撃し壊滅に追い込む

これだけやらかして首が繋がったまま布団の上で氏んだ畜生がいるらしい

595 :
普通にしてたら100万石だったろうにな

596 :
伊達信夫くらいで15万石くらいかプラス置賜で30万石くらいかな
伊達の件なかったら上杉は会津で30万石くらいか

597 :
関ヶ原のまーくんは美味しいところを持って行こうとしてたらあっさりと戦乱がおわって当知行しか認められなかったというオチだよなあ

598 :
ダテノブオ

599 :
有馬家と龍造寺家が合戦をするようになった次第は、有馬義貞と龍造寺隆信両家の境である、
牛津川と申す所に、龍造寺隆信領分より有馬義貞の領分へ踊りを掛け参り、その人数の内
一両人ほどが、水がほしいと百姓の家に押し入り、水を汲んでいた所、その家の亭主に

「何者なれば案内も申さず、濡れ草鞋にて座敷に踏み上がり狼藉な事をするのか!?」

そう散々に悪口を申したことで喧嘩となり、村中の者達が掛け合い踊りに参った者たちを
数多討ち果たした。

その事が龍造寺に聞こえ、隆信は有馬領分へ攻め入った。有馬義貞領分のうち、杵島郡須古の城代は
平井小左衛門という者であったが、ここには隆信より小川一祐という者を大将として、
永禄11年2月6日に城攻めに取り掛かった所、城中より人数を出し、龍造寺勢を須古の百町無田へ
追い込め、大将小川一祐を始め雑兵たち尽く討ち取った、
そこで須古の城より落書を立てた。当時龍造寺隆信の城下は中坂と言っていたため

 中坂は 花のみやことききつるに 少しの風に一祐もなし

永禄12年2月7日、龍造寺隆信は大軍で須古城へ取り掛かり、須古は落城した。
またこの時、先の須古の落書への返歌を立てた

 いたはしや そうこひたひにかね付けて へたはら響く須古のかたがた

(有馬晴信記)

600 :
>>592
小笠原さん戦は強いのに勿体ないよね
この頃の勢力差ならまだどうなるか分からなかったのに

601 :
家臣団が強かっただけでしょ

602 :
御柱祭に乱入したら氏子に撃退されるおちゃめな長時公

603 :
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の

御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も

良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と

溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。

神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。

信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、

我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。

またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。

これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。

――『二木寿斎記(二木家記)』

604 :
文明一統(応仁の乱の終結)以来、畠山義就も逝去し、細川勝元も山名宗全も逝去し、
応仁の乱の中心人物の中では、畠山尾張守政長だけが残った。
政長は元より一方の棟梁であり、位も従三位に叙し、再び管領にも就任したため、
三管領四職から御供衆に至るまで、彼の風下に立ち、政長による書状の文面は、
四職に対してはまるで被官に下すような書礼であった。

このような状況に、赤松一式山名といった人々、様々にこの不当を訴え、政長への恨みを
つのらせた。

この頃、畠山総州義豊(義就流畠山総州家)は、河内国誉田に在城して、政長と対立していたが、
さらに上意にも背くこと有り、公方足利義材は政長に心を寄せ、正覚寺に御動座あって、義豊を
退治しに向かった。

しかし、細川右京太夫政元も畠山政長に恨みがあった。
そのため彼は義豊方に加勢した。
すると、桃井、京極、山名、一色といった人々も皆義豊方に加わり、逆に正覚寺へと攻め寄せた。

政長方では、遊佐、斉藤、杉原、貴志といった人々が、ここを先途と防いだが、敵は四万余騎、
見方は二千余人という絶望的な状況であった。
そのため、先ずは公方義材を夜に紛れ、馬を召して、大和国筒井の城へと落とした。
そして夜が明けると、敵は徐々に四方より取り巻き、落ちのびる道もない状況となった。
正覚寺に籠もる者達は皆、自害せんと心を沈めていたが、政長は平某を召して、御児丸殿といって
この時13歳になる若君、彼は三才の時、常徳院殿(足利義尚)より一字を賜り尚慶と申したが、
これを呼び出し平に

「この君を何時に預ける。いかなる謀をも廻らせてかれを落とし、再びの当家再興の時を待て。」

そう命じたが平は

「私は最期のお供をすると決心しています。私の一族の、平ノ三郎左衛門に仰せ付けください。」

そのため三郎左衛門に命じたが、彼も最期のお供をしたいと申し出た。これに政長は大いに怒り

「汝は不覚を申しようだ!死を一時定めるのは却って易い、若君を落としそれに付き従うのは
大事である!」

こう言われて、平三郎左衛門も泣く泣く座敷を立ち、この時正覚寺の中には、公方様への
御慰みとして歌舞などを行う桂の遊女たちが居たのだが、その装束を借り、若君に着させ、
若君を桂の遊女に扮装させ、女たちの中に紛れさせ、自分は桂遊女に従う男の風情となり、
馬の腹帯の類に装束などを包み入れ、畠山重代の長刀(粟田口藤右馬則國が作)を竹の筒に
入れて背負い、敵陣の前を通った。
敵方にも、この桂の遊女たちを見知っている者達が居たので、問題なく通行が許可された。
敵陣を通過すると、若君を馬に乗せ、鞭を進めて大和国奥郡へと落とした。

明応二年四月九日の夜に入り、政長は心安しと、葉室大納言以下籠城の人々と最期の盃をし、
真っ先に腹を切った。しかしこの時、政長は藤四郎の刀にて三度まで腹を切りつけたが
全く切れず、そのため投げ捨てた所、側にあった薬研に当たり、その薬研を真っ二つに切り裂いた。
このためこの脇差は、薬研藤四郎とも申す。

「さては重代の刀にて、主を惜しみけるか、いかがすべきか。」

そう困惑する政長に、家臣の丹下備後守、かむり落としの信国の刀を抜いて、己の腿を二つ、
突き通し
「いかにも、良く切れます」
と、政長に奉った。政長はこれを逆手に取って、腹を十文字に掻っ切り、そのままその刀を
葉室大納言光忠卿へと渡した。その後、みな順次腹を切り、二百余人、一人も残らず自害し、
城に火をかけた。

(足利季世記)

605 :
長文起こしてくれる人ありがとう

606 :
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』

607 :
今も誠に賢い人がいるので


室町時代の公卿・一条兼良は応仁の乱後の混迷した状況の中で
将軍足利義尚に政道の指南と共に足軽の停止を唱えた『樵談治要』を
贈ったことで有名だが、その前にも義尚の母の日野富子に源氏物語を
講義した際、教養書の作成を依頼され富子宛に『小夜のねさめ』を書いている。

その中で女人政治に関する項がある。

「少し女房のことを言いますと、女というものは若いときは父に従い
 大人になれば夫に従い老いては子に従う者なので、自分の身を立てる必要が
 ないように言われていますが、大人しくなよなよとしているのがよい訳
 ではありません。大体この国は和国と言って女性が治めてもよい国でした。
 (中略。北条政子や女帝の例を挙げている)
 今も誠に賢い人がいるので、世のまつりごとをなさるべきでしょう」

"誠に賢い人"は当然日野富子のことである。
富子は兼良のパトロンと言っていい存在なので持ち上げられるのは当たり前だが
まだ生きているのに存在をスルーされている某八代将軍さんのちょっと悪い話。

608 :
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』

609 :
>>607
「樵談治要」にも「小夜のねさめ」の女人政治への意見とほぼ同じことが書かれてるな
先祖九条家の慈円「愚管抄」の「日本国は女人入眼の国」とかも踏まえてるんだろうか

樵談治要
一簾中より政務ををこなはるゝ事。
此日本國をば?氏國といひ又倭王國と名付て。女のおさむべき國といへり。
されば天照太神は始祖の陰神也。神功皇后は中興の女主たり。此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが。
新羅百濟などをせめなびかして足原國をおこし給へり。目出かりし事ども也。又
推古三十四代天皇も女にて。朝のまつり事を行ひ給ひし時。聖コ太子は攝政し給て。十七ケ條の憲法などさだめさせ給へり。
其後皇極三十六代持統四十一代元明四十三代元正四十四代孝謙四十六代の五代も皆女にて位に付。政をおさめ給へり。
もろこしには呂太后と申は漢の高祖の后惠帝の母にて政をつかさどり侍り。唐の世には則天皇后と申は高宗の后中宗の母にて年久敷世をたもち侍り。
宋朝に宣仁皇后と申侍りしは哲宗皇帝の母にて。簾中ながら天下の政道ををこなひ給へり。これを垂簾の政とは申侍る也。
ちかくは鎌倉の右大將の北の方尼二位政子と申しは北條の四カ平の時政がむすめにて二代將軍の母なり。大將のあやまりあることをも此二位のヘ訓し侍し也。
大將の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有しかば。承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名共に廻文をまはし下知し侍りけり。
貞觀政要と云書十卷をば菅家の爲長卿といひし人に和字にかゝせて天下の政のたすけとし侍りしも此二位尼のしわざ也。
かくて光明峯寺道家の關白の末子を鎌倉へよび下し猶子にし侍りて將軍の宣旨を申なし侍り。
七條の將軍ョ經と申は是也。此將軍の代貞永元年に五十一ケ條の式目をさだめ侍て。今にいたるまで武家のかゞみとなれるにや。
されば男女によらず天下の道理にくらからずば。政道の事。輔佐の力を合をこなひ給はん事。さらにわづらひ有ベからずと 覺侍り。

小夜のねさめ
大かた此日本國は和國とて女のおさめ侍るべき國なり。天照太神も女躰にてわたらせ給ふうへ。神功皇后と申侍りしは八幡大菩薩の御母にてわたらせ給しぞかし。
新羅百濟をせめなびかして。此あしはらの國をおこし給ひき。
ちかくは鎌倉の右大將の北のかた尼二位政子殿は二代ョ家實朝將軍の母にて。大將ののちはひとへに鎌倉を管領せられ。いみじく成敗ありしかば。
承久順コのみだれの時も。此二位殿の仰とてこそ義時ももろもろの大名には下知せられしか。
されば女とてあなづり申べきにあらず。むかしは女躰のみかどのかしこくわたらせ給ふのみぞおほく侍しか。
今もまことにかしこからん人のあらんは。世をもまつりごち給ふベき事也。

610 :
天正6年の秋の頃より、摂津国有岡方面では雑説が流れ、しきりにこの方面の者達が
織田信長の敵に成るとの風聞が聞こえた。それはあってはならないことであると、
信長より織田政権の歴々が差し下され調査が行われるということで、荒木信濃守(村重)にも
雑説があったため、彼は茨木城まで移動し、そこから安土へと向かおうとしたところ、
茨木城の守備を担当していた中川瀬兵衛(清秀)がこのように諫言をした

「絶対に安土に行くべきではありません。安土に置いて切腹させられるよりも、摂津国表へ
軍勢を引き請けるべきです。合戦に及んだとしても、手に溜めず切り崩せるのに、安土に置いて
犬死するなど、沙汰の限りです。」

もう申し留めたため、荒木は有岡に立ち返り、思わず計らず、信長の敵となってしまった。

この時荒木は、国中の年寄共を集めて談合に及んだのだが、皆も中川瀬兵衛が申す所に
同心した。
その中で、高槻城守であり、高山飛騨守の息子である高山右近だけは
「言語道断である!荒木摂津守の普段の覚悟と相違した、曲事の仔細である!
信長の御芳志のかたじけなさを、たった今忘れ去り御敵申し上げるなど、
沙汰の限りである!」

そう、一人反対したが、彼以外は尽く中川の意見に同心し、高山の意見には同意しなかった。
ために是非に及ばず、高山も最後には摂津国衆の総意に同心した。

(立入左京亮入道隆佐記)

ちなみに荒木村重、「信濃守」は自称(受領名)で、「摂津守」は正式な任官ですね

611 :
このあと、清秀は右近に説得されて荒木を裏切るんだよね

612 :
そもそも荒木が翻身しようとしたきっかけも中川が原因なんだよな
早死にしても仕方ないわなこのオッサン

613 :
でも賤ヶ岳だと…よく分からない人ですよね…

614 :
人望はあったらしい

615 :
>>609
愚管抄同様、頼経の鎌倉下向を賞賛してる
玉葉もそうだけど著者の中では九条家の評価が高かったんだな

616 :
「信長記」首巻によれば、織田信長は父信秀から那古野城を譲られた際、四人の家老を付けられたという。
その筆頭は林秀貞(通勝)、次席に平手政秀、三番が青山与三右衛門、末席が内藤勝介。
林・平手の二人がよく知られているのに対し、青山・内藤の知名度は低い。青山などは信長元服前に戦死
したのではないかとも言われ、内藤も家老と呼べる程の分限であったか疑わしい、などとされている。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、三河の徳川家康と同盟を結び、美濃攻略のため、本拠を清洲から
小牧山に移そうかという永禄六年(1563年)のこと。
既に廃城となっていた古渡城付近の松原で一つの事件が起きた。青山与三右衛門の嫡男虎と内藤勝介の
嫡男小三郎の二人が織田因幡守家臣桜木隼人助を襲撃したのである。といっても、虎と小三郎の二人で
襲撃したのではない。青山・内藤両勢合わせて八十六人!対する桜木も三十人を揃えていたというから、
これはちょっとした合戦である。戦いの結果、双方合わせて四十二人の死人が出て、桜木隼人助は青山の
家臣に弓で射殺されたという。虎と小三郎はそのまま織田家を退転、揃って三河に逃げて家康を頼ったと
いわれる。


諍いの原因は、「男色のもつれ」。


息子の不始末ゆえ、内藤勝介の立場が弱くなり、既に冥途へと旅立ち現世で活躍できなかった青山とともに
影の薄ーい存在とならざるを得なかったのかも知れない。

それにしても、男色のもつれで五十人近くが死ぬとは… すごく 濃い世界です…


以上、和田裕弘「織田信長の家臣団」からの受け売り。
名古屋の鶴舞中央図書館にある「津島十一党家伝記及牛頭天皇社記」に書かれているそうな。
誤読あったらごめんm(__)m。

617 :
秀忠「こっちの傅役の青山・内藤はかなりの知名度なのに
地名になるほど」

618 :
徳川に使えたのが正解だったようですね

619 :
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』

620 :
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。

「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。

この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・

久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。

澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、

早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。

さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は

腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が

まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。

しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)

で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と

人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人をRのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」

と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、

兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。

その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、

次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。

見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。

あなかしこあなかしこ。

――『細川両家記』

621 :
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど

622 :
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』

623 :
京の管領である細川右京太夫政元は、40歳の頃まで女人禁制にて、魔法飯綱の法、
愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如く、ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、
見る人身の毛もよだつものであった。

このようであったので、御家相続の子もなく、御内外様の面々より、色々と諌め申し上げた。
その頃、公方足利義澄の母は柳原大納言隆光卿の娘であり、今の九条摂政太政大臣政基の
北の方と姉妹で、九条殿の子と義澄は従兄弟であったので、公家も武家も九条殿の子を
尊崇していた。
そこで九条政基の末の子を政元の養子とし、元服の際、公方様によって加冠され、一字を与えられて
細川源九郎澄之と名乗った。彼はやんごとなき公達であったので、諸大名から公家衆まで、
皆彼に従い、これにて細川家はさらに繁栄すると見えた。そして細川家の所領である
丹波国に参られ彼の国に入部した。

一方で、細川の被官であり摂津守護代であった薬師寺与一元一という人があった。
その弟は与二(長忠)といい、兄弟ともに無双の勇者であった。淀城に居住して数度の手柄を
表した。彼は一文字不通(文字の読み書きができない)の愚人であったが、天性正直にて
理非のはっきりした人物であったので、細川家の人々は皆、彼を尊敬していた。

また過去に政元が病気を患ったとき、細川家の人々は評定して阿波国守護細川之勝(義春)の
子息が器量の人体であったため、これを政元の養子と定め、この事は薬師寺を通して契約された。
彼も公方より一字を頂き、細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

この様では何とも良くないと、薬師寺与一は赤澤宗益(朝経)と相談し、六郎澄元を取り立て
家督を相続させ、政元は隠居せしめんとした。これにより謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に
立てこもり、赤澤は二百余騎にて伏見竹田口へ攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、与一の弟である薬師寺与二は兄に同意せず、彼が大将となって
淀城を攻めた、与二が案内者であったので、淀城は不日に攻め落とされ、与一は自害も出来ず
生け捕りにされ、京へと輸送された。

かねて薬師寺与一は、一元寺という寺を船橋に建てたのだが、与二は其の寺において、兄与一を
切腹させた。与二には今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り、摂津守護代に補任された。
かつて源義朝が、父である為義を討って任官したが、それすらこれには勝らないと、批判する
人もあった。また赤澤は様々に陳謝したため一命を助けられた。

(足利季世記)

主君が魔法使いな事を不安に思って挙兵した、薬師寺元一の乱について

624 :
後陣も雲霞のごとく


(明智光秀が謀反した後)秀吉は姫路から出陣してきたので
信輝(池田恒興)は兵庫で秀吉を出迎えた。
先公(信長)の不慮の傷害に互いに涙をこらえられずにいたが
力を合わせて光秀を討つことを決め、秀吉と昵懇の間柄となるために
秀次を信輝の婿にし、次男の輝政は秀吉の養子にすることを約束した。

秀吉が尼崎へ着陣すると、池田父子、中川(清秀)、高山(右近)、
惟住(丹羽長秀)らで軍評議があった。信輝は秀吉と共に剃髪し勝入と号し
「さて一番合戦は勝入仕るべし」
と言うのを秀吉が聞いて
「先公がいらっしゃらずとも、先公の御法に任せられよ」
と言ったので、勝入はそれに従い"どのようにでも"と申された。
そういう訳で高山と中川が一番を争い、同士討ちのようになったところで
秀吉が仲裁をして、高山が一番合戦、中川が二番合戦となった。

天神馬場まで軍勢を押し詰めて、すぐ合戦しようという話にもなったが
御弔合戦ということで信孝を待つことになった。翌日、信孝の手勢が
見えたので秀吉と池田で出迎え、互いに涙を流した。

段々軍勢を山崎表へ押し出し、中筋正面は高山、堀久太郎。
南の方の川端は池田勝入父子。天王山の手は堀尾茂助、木下小一郎(秀長)、
同勘解由、黒田官兵衛、神子田半左衛門(正治)、前野新右衛門(長康)。
それより後陣も雲霞のごとく連なった。


――『池田氏家譜集成』

625 :
>>623
>この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
> 後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

626 :
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』

627 :
>>623
なお、童貞のことを魔法使いと呼ぶようになったのはこの故事に由来する
(民明書房刊「戦国魔法使い大全」より)

628 :
民明書房版ウィキペディア
の「魔法使い」の関連項目には細川政元がすでに入ってるのだった

629 :
でも男はやってたわけやん?
童貞というんか?

630 :
男色はノーカンであると弘法大師も言っている

631 :
管領という要職にありながら宗教にはまって妻帯せず
複数養子をとったせいで後継者争いは血で血を洗う始末
家臣もしょっちゅう謀反を起こすし
ほんとひどい奴だよな

上杉謙信

632 :
(細川澄之討伐後)

さて、京都は静謐の様子となり、澄元(細川澄元)も近江より上洛された。京都の成敗は
万事につけて三好(之長)が務めた。そのため次のような落書が作られた。

「はけしかりし 嵐の風は 音たへて 今をさかりの みよしのの花」

(吉野山に咲き誇る花の如く、三好の権勢は絶大なものとなった。今や之長に刃向かう者
など、誰一人として存在しないのである)

――『瓦林正頼記』

633 :
大物崩れによる細川高国滅亡により、京兆家の家督は細川晴元に一統し、もはや混乱はないと
諸人喜びの思いでいたが、天魔の所業であろうか、晴元の出頭衆である可竹斎(三好宗三)、
三好神五郎、木澤左京亮(長政)と、三好筑前守元長との間が不快となり、出頭衆は
晴元に元長のことを様々に讒言したが、細川讃岐守殿(持隆)は、三好を無二の忠臣であると
考えており、晴元へ色々と仰せわけられ、御勘気を許されていた。

このような中、木沢長政は晴元に属し、旧主である畠山総州(義堯)に背き、事々に
無礼の事多かったため、畠山義堯は無念に思い、木澤の居城である飯盛を攻めた。
これに三好元長も、三好遠江守を派遣し合力した。

木澤は追い詰められ、腹を切ろうとしたが、晴元に注進が届き、晴元は三好宗三などと評定して、
この年の八月二十日、飯盛山救援のために軍勢を摂津国中島三宝寺まで進めた。
そして即座に畠山衆を攻め、畠山勢は攻め破られ散々となり、三好遠江守の軍勢も百人ばかり
討たれた。

しかし、この畠山義堯は細川晴元の姉聟であり、三好は数代忠功の旧臣なのだ。
このような人々から、新参の出頭人である木澤に思い替えた晴元の心のほどは、浅謀であると
言えるだろう。

(足利季世記)

634 :
1538年、10月。現在の千葉県松戸市にあたる地で、江戸川を挟み対峙する二つの軍勢があった。
片方の軍を率いるのは鎌倉を制して勢いに乗る北条氏綱。
もう片方の軍を率いるのは武田氏・里見氏を従属させ力を増しつつあった小弓公方足利義明であった。
世に言う第一次国府台合戦である。

里見や正木、酒井、土岐といった房総の諸将を従えたとは言え足利軍の総力は一万程度。
一方の北条率いる軍勢はは二万とその差は大きかった。
数の上での不利を補うべく、義明に従う里見義堯が進言した。

「敵の数は多けれど、太日川(江戸川)は流れも早いので渡河は困難。先手が川を渡りきる前に矢衾を作り、続く敵を討てば勝機も見えますぞ」

ところがこれを聞いた足利義明は大笑いした。

「儂は小弓公方義明ぞ。北条の雑兵共が儂に弓など向けられるものか。
 北条軍が川を渡り終えたところで氏綱の首級を取ってみせるわ」

自らの武勇と威光に自信満々の義明と対照的に、慌てたのは義明の重臣、逸見忠次たち。

「公方様、いけませぬ。敵はおよそ我らの倍、地の利を活かさねば活路はございません」

しかし義明はこれを聞き入れない。忠次の必死の説得も空しく、結局房総連合軍は北条の渡河を待ってから攻撃をかけることとなった。
すると里見義堯が再び進言した。

「公方様、敵はその数に物を言わせ市川方面から別動隊を繰り出す可能性がございます。
 公方様が敵の主力を叩く間、某が邪魔者を追い払って参りましょうぞ」

これに対し義明、

「頼もしい限りよ!」

と義堯を前線から外してしまい、義明率いる軍勢は更に少なくなってしまった。

やがて北条勢が次々に江戸川を渡ってきた。しかし足利軍は動かない。
とうとう渡河が終わったところで、ようやく両軍は激突した。
義明はその自信に違わぬ武勇で敵兵を蹴散らすものの、所詮は多勢に無勢。
次第に押され始めた義明軍は、義明の嫡男義純までもが討たれた。

「おのれ、北条め!」

激怒し刀を振るう義明に対し

「公方様、ここはお退き下さい!某殿となり、公方様の御命をお守りいたす!」

義明に懸命に訴える忠次だが、またしても義明は聞き入れない。

「かくなる上は氏綱と刺し違えてくれるわ!」

義明は北条軍へ突撃し、呆気なく射殺されてしまった。
それを見た忠次、自軍の将兵達に大音声で呼ばわった。

「者共は義純様(義明次男)を守り、義堯殿を頼って安房へ落ちのびよ!」

殿となった忠次は奮戦するものの、山中修理亮に討たれ義明の後を追うこととなった。
一方北条の挟撃に備えると称して戦場から離れていた里見義堯は、義明戦死の報を聞くとすぐさま本拠地の安房へと引き返す。
そして軍勢を整え、味方のはずの旧小弓公方領を火事場泥棒的に次々と攻略し、小弓公方に代わる勢力となったのは皆様ご存知の通り。

足利義明の暴走を止められなかった(止めなかった?)逸見忠次と里見義堯、二人の対照的なお話(『房總里見軍記』より)。

635 :
義堯にしてみれば、我が儘な義明にうんざりしてたんじゃないかな
義明方に誘ってきた真里谷武田との仲も芳しくなくなっていたし、国府台での義明戦死はもっけの幸いだったろうね
事実、義明を助けるそぶりすら見せないで退いたし

636 :
そもそも義堯が懇意だった北条と手を切る原因になったのが義明の真理谷家(武田家)への介入だからね
目の上の瘤な上に無茶をする義明には遅かれ早かれ見切りをつけるつもりだったのかも知れん
で、思いの外簡単に上総に進出できたから北条と戦い続けることにした、と

637 :
>>635
小笠原長時をさらに弱くした感じ

638 :
小田氏治「忠臣の進言無視は敗北フラグだぞ」

639 :
譜代の逸見君と違って足利家臣でもない足利の旗に集まった地方領主の里見君を比較しちゃだめだよ
見限って退却するのは当然の判断、それに倣ったのが真田昌幸な

640 :
逸見も姓からして元真理谷武田家臣じゃないの?
と言うか小弓公方に譜代家臣なんかロクにいないんじゃ…

641 :
>>640
逸見は甲斐武田か真里谷の一族とされてる
ただ古河から移ってきた家臣もいたはず

642 :
逸見と書いてへんみと読むらしいな

643 :
>>637
小笠原長時は戦いに冠しては評価がわりと高い
人心掌握がへた

644 :
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。

これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て

「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」

そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。

同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。

このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。

このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。

こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。

上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)

山科本願寺陥落について

645 :
>>642
読みでいつみの方が認知度高いのは故政孝の関係だな
若狭にもいた同族のおかげで戦国時代はへんみでいける

646 :
さて、阿波国よりの御上洛を年々御願望であったが、澄元(細川澄元)は御他界なさった。三好父子も
他界なさり月日を送っていた折、京の高国(細川高国)は42歳の御時、大永5年(1525)乙酉4月

に御出家なさって法名は道永と申し、御家督を御子の六郎殿(細川稙国)に御譲りになった。そんな喜ば
しいという時に、六郎殿は御歓楽で御他界された。

「御曹司のことは道理の善し悪しでは考えられない。道永の御運の末ぞ」と人々が申した中、高国は
御家来の香西四郎左衛門(元盛)に敵心ありとして、大永6年丙戊7月13日に香西を屋形に召され、

是非なく生害させなさった。香西の兄・波多野(稙通。秀治の祖父)と同じく弟の柳本(賢治)は遺恨に
思い、阿波国(細川晴元方)と申し合わせて大兵乱を起こした。さて、香西四郎左衛門が生害させられた

由来はどういうことか尋ねると、典厩尹賢(細川尹賢)と香西四郎左衛門は仲が悪く、尹賢は連々と讒言
を申されて香西を亡き者にしようと企てていた。そんな時に香西の家来の物書・矢野宗好という者がいた。

香西は文盲の方で、常に半紙を10枚から20枚宗好に渡して置いて書札を調えていたのだが、折しも
宗好は公事ではないことを取沙汰し仕ったため面目を失い、牢人となった。宗好は諸々の詫言を申したが、

香西はしばらく懲らしめるためにそのままにしていた。その時、尹賢は宗好を頼んで「内々に過分の知行
を遣わすぞ」などと約束して、かの半紙少々の残りを使い、澄元やその他方々へ謀反を企てた作状を調え、

密かに高国へ御目にかけられた。高国は「香西四郎左衛門はそのような者ではあるまい」と不審に思し
召したが、判形がはっきりしている以上は生害させなさると内談された。とはいえども、なおも不審に
思し召したので、直に御尋ねになるとして小姓2人に仰せ付けられ、

「『直に御不審を御尋ねしたきことがあるので、道具(武具)を持ち出して御前へ罷り出てください』
と申して、道具を持ち出したならば召し連れて参るように。もしも香西が何かと申して、道具を持ち
出さなければ、生害させよ」

と命じなさった。両人が仰せの通りに香西に申し聞かせると、香西は是非に及ばず番所で道具を持ち出し、
御使者両人とともに参った。その後、座敷と通路の間で、尹賢が「(高国が)遅いと仰せられておる!」

と申された。これに両人が「すでにこちらへ召し連れて参りました」と申すと、尹賢は両人の耳元に寄り、
「生害が遅いと仰せられておるのだ!」と切り切り申された。

高国は両人に直に御尋ねになると仰せ付けられたので不審に思いながらも、いずれも若い方だったので、
わけもわからずに香西を討ち申されたのであった。尹賢の内存は、このように直に御尋ねになられては
自分の讒言が表れてしまうため、座敷と通路の間に待機して切り切り申されたのである。

高国の御内存は「道具を持ち出さなかったから生害させたのだな」と思し召して、是非に及ばれずに
手前を打ち過ぎたのであった。連々と尹賢が仕られるように御耳に入れたとはいえ、すでに生害した
以上はどうしようもないことである。

天下が破れるということは、すべて人々の讒言によって起こるのである。香西もかの半紙を宗好の方に
残しているとは思いも寄らず、かつこのようなことも文盲故であると世間に聞こえたのである。

――『細川両家記』

647 :
天文二年(1533)十月八日に暁に、満天の諸星が尽く動揺し、煌めき流れ、陸海へ石のように
砕け落ち散った。その音も大変凄まじいものであった。
古今未曾有の天変であり、人々は

「一体、この上にも何らかの事が起こり、天地も打返り国も滅びるという先触れであろうか」

そう驚き、嘆いたという。

(足利季世記)

648 :
永正16年(1519)己卯、細川高国は管領として天下の政務を行った。弟の右馬頭(細川尹賢。高国の従弟)
は尼崎に住んで西国の沙汰を決断した。高国の家臣に香西(元盛)という者がいた。陪臣として諸事を執行し、

その威は主君よりも重く、その弟の柳本(賢治)もまた高国の男色の寵愛によって身に余る俸禄を蒙り、人に勝る
栄耀をなし、魯の哀公の季孫氏・叔孫氏、魏の曹叡の司馬父子の如く寵に媚びる者と交流を厚くし、睦をなした。
当家も他家も押し並べて、その門下に奔走したのである。

尼崎城を築くために香西兄弟も下向し、細川一家の人々は日夜土木の役にあずかった。その際に右馬頭の人夫と
香西の人夫が僅かな土を争って口論に及び、下部たち数百人が両方に立ち分かれて瓦礫打ちになったが、仲裁が
入り、両方へ引き分けて行った。右馬頭の者たちは城中へ入り帰り、香西の者は自分の丁場へ帰った。

ところが下知不聞の溢れ者が居残って城中へ瓦礫を打ち込んだのである。右馬頭が驚いて「これは何事だ!」と
問えば、しかじかの事と申すので、腹を立てながらも「下人に対して仲裁した以上は、また打擲すべきではない」
としてその場は静まった。右馬頭は日頃から香西の振舞いは我儘だと思っていたところに、この事が起きたため、

密かに高国に申して様々に謗り、偽りなさった。高国も「“両葉去らずんば斧柯を用うるに至る”という例えも
ある。それならば香西を誅殺しなければならない」と思い定めた。しかし香西を誅Rれば柳本が自分に仕える
ことはないだろうと、彼の心を推し量って躊躇ったが、

「我が命に替わらんと志す柳本ならばよもや仰せには背くまい」と、柳本に宛てて如才なき真実を誓紙に書いて
文箱に入れたものを予め拵えておき、1月20日に香西を殿中に呼び寄せた。香西が何気なく、いつものように
出仕したところを、予め謀っていたことなので殿中で即時に誅殺した。高国はそのままかの文箱を柳本の

ところへ遣わされ、それには「国家のために誅したのである。其の方は恨みを含んではならぬぞ」と懇ろに仰せ
伝える内容が書かれていた。ところが流石の柳本なれば、文箱を開かずに持参して殿中へ参り、

「香西のこの頃の驕りの限りによって、このようになされたのだと存じます。国家のためですから、それがしは
少しも恨みを含み申してはおりません。御誓文を開き見るには及びませぬ」と、文箱を上に戴いて返し奉った。

そして柳本は「舎兄の不義に連座の罪科を御宥免なされ、それがしをもとのように召し使ってくださることは、
生々世々までもかたじけなく存じます」と申し、御前を退いて宿所に帰り、平生の行儀に変わることはないので、

(高国は)「漢の光武帝は兄の劉エンを更始王(劉玄)が殺したのに、言辞も談笑して元通りだったというのと
違わぬ。あっぱれ度量広き国家の忠臣なり!」と申した。

しかし柳本はこのままでは「主君とはいえ兄弟の仇に反抗せずにいるのか」という謗りを免れ難く思い、20日
ほど過ぎて図らずも思い立ち、丹波の領地へと引き退いたのであった。

――『舟岡山軍記』

649 :
熱心な法華信者であった三好之長、三好元長などの三好勢が権勢を誇った時期、彼らを檀那とした
法華宗の者達はあまりに驕り、大勢を引き連れ他宗の寺を焼き、その他にも度々大軍を催し、
様々に狼藉し、ともあれば天台宗を権実雑乱(混乱した偽りの教え)と誹り、蔑ろにしているという
話も聞こえてきた。

しかし山門(比叡山)は、三好元長が一向一揆軍に滅ぼされると、「三好滅亡なり。良き時分なり」
と、一同に検義会合し、京の法華宗を退治のために、末寺末山に至るまで、三千余人を動員し、
天文五年閏七月二十六日より攻め懸り、京の法華二十ヶ寺へ、残らず火を放った。

法華宗側も檀徒を語らいここを先途と防いだが叶わず、所々にて一千余人討ち死にした。
寺々も同二十七日までに皆焼失した。

この時、洛中は過半が焼けた。

(足利季世記)

応仁の乱よりも甚大な被害を京に与えたと言われる、天文法華の乱について

650 :
三好ばっかりじゃねーかw

651 :
(細川高国が香西元盛を誅殺した後)

柳本(賢治)は兄(元盛)の仇を報いるために、1月27日の夜に入って嵯峨へ夜川引きに出るのに事寄せて
家子・郎従を引き連れ立ち出ていった。さて高畠甚九郎と柳本には男色の因みがあった。そこで柳本は高畠に

知らせようと北野辺りの宿所へ行き、高畠に向かって「今回のことは人の謗りを免れ難いので主君に対して弓を
引かんと存じ、丹波へ立ち退きます。貴方とは知音なので告知申すのだ。同心できないだろうか」と申された。

高畠はややしばらく思案を巡らせて返答し「貴方と知音のことは人も存じていることであるから、同心申したく
はあるのだが、主君と家臣の上下の礼、また恩義は至って重いのである。どうにも了承申すことはできない。

しかし、思し召して出立するのであれば留め申すこともできない。早く早く下向なさって用意なされるのです。
それがしに告知なさったことは朋友の交わりのもっとも深い間柄なので、主君に背き申して丹波に入りなさる
とは告げ申しますまい。貴方が仇を報いようと大軍を起こして出なされば、

それがしは不肖なりといえども、罷り向かって拒み戦いましょう」と申し、自分には君臣の義を重んじ、柳本
には朋友の睦を厚くして互いに退き別れた。その心中はまったく正しきものである。その後、柳本は嵯峨に

行って角倉の家に立ち寄り、心静かに酒を飲んで打ちくつろぐ様子を見せた。その様子から角倉は推し量った
のだろうか、鎧腹巻を取り出して柳本の門出を祝った。柳本は嬉しいと喜び、それより丹波の領地へ帰ると、
丹後・但馬など近国の勢を催し、2月17日に都を目指して攻め上った。

高国ならびに右馬頭(細川尹賢)は打って出て拒み戦うも、競って進む敵勢に捲し立てられて散々に打ち負け、
すでに危うく見えたところに、高畠甚九郎が「先頃の言葉を違えまい!」と乗り入れて名乗りかけ、ひとまず
高国勢は盛り返した。しかし無理に引き連れた者たちの勢であったので、続いて敵勢と返し合わせる者もなく、

高畠はついに討たれたのである。高国は都に留まることもできず近江を目指して落ちて行った。柳本は本望を
達してしばらく都にいたが、近江より佐々木(六角氏)が加勢して攻め上るとの由を聞いて丹波へ引き返した。

――『舟岡山軍記』

652 :
天文二十年二月七日、三好筑前守長慶の家老である松永甚助兄弟(長頼、長頼)、江州志賀表へ
侵出したが、六角義賢勢がこれを聞いてすぐに、琵琶湖を押し渡り攻撃したため、松永兄弟は
この一戦に駆け負け引き退いた。
近江勢は去年より数度打ち負け勢いを失っていただけに、今回の勝利に皆喜んだ。

この頃、公方様(足利義輝)は猶も比叡の法泉寺にあったが、伊勢守貞孝父子は在京し、
万事制法を糺しており、三好も細川晴元への恨み故に公儀に背いたのであるが、将軍に対し
別儀の事無く、伊勢守と公方の帰京について相談を行った。

この事に京中は大いに喜んだのであるが、天文二十年三月十四日、伊勢守貞孝の館にて、
三好長慶への饗応がなされた時、公方衆・進士美作守の甥である進士九郎賢光という者、
伊勢守邸へ来訪すると、即座に走り出て腰刀を抜くままに、二刀まで三好長慶を突いた。

この時、長慶の相伴に同朋の者があったが、彼らが進士九郎を抱き留め、その間に人々が
走り寄ると、進士九郎は自害した。

三好長慶は反応の素早い人であったので、とっさに床にあった枕を取り、これにて刃を受け止めた
ため、一刀は体に触れず、もう一刀も浅手であった。

この進士九郎賢光は大功の人であったのだが、運が尽きたのであろうか、心が逸って仕損じたの
であると、評判された、

この事件は、進士九郎が足利義輝より仰せを蒙ったものであるとも、又は彼の本領を三好に
没収されたことを恨んでの犯行であるとも聞こえたが、ともあれ当時、三好長慶を一刀でも
恨まんとした心根は非常に甚だしいものであった。

(足利季世記)

進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件について

653 :
長頼2人おるw

654 :
>>653
誤記入でした

一行目>松永甚助兄弟(久秀、長頼) です

655 :
長慶は腕も立つ方だったのか

656 :
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝、細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。

657 :
天文二十二年七月三日、三好長慶が芥川城攻めを行うため京を留守にすると、同月二十八日、
長慶と和解し帰京していた将軍足利義輝は、その和解の際に切り捨てたはずの細川晴元(入道一清)
の旧功捨てがたく思し召し、彼を赦免し京へ帰還させた。

すると晴元方の牢人千人余りも各所より入洛し、三好衆の宿所へ放火した。

この知らせを聞いた長慶は、芥川城に抑えの兵を置くとすぐに京へ取って返し、八月一日には
長慶勢に加え、河内の畠山政安、同美作守勢も引き連れ、二万あまりにて攻め上がった。

この三好勢の勢いに、義輝も晴元も戦いにもならぬと恐れ、取るものも取りあえず都より
逃亡し近江国へと落ちていった。

(足利季世記)

足利義輝が細川晴元勢と起こした反三好のクーデターの顛末

658 :
弘治三年(1557)五月二十六日より、八月九日まで、雨が一日も降らず、大災天にて諸国の田畑はみな
干上がった。

同年八月二十六日、まず東風がしきりに吹き、後には南風が吹き、大洪水となった。
摂津国の尼崎、別所、島尾、今津、西宮、兵庫、難波、明石の浦々には津波が打ち寄せ
高潮上がり、その地域の人民は尽く逃散した。
昔、文明七年(1475)八月六日の大洪水のときも、この浦々へ津波が打ち上がったという。
今、その時から八十年余りに当たり各の如くと、古き人は語った。

同四年二月、改元あり永禄元年となった。

(足利季世記)

弘治三年の大旱魃と大洪水について

659 :
空梅雨からの旱魃そして台風のコンボかあ

660 :
三好長慶の勢いは天をも覆うほどであり、そのため松永久秀の威勢も、諸人を併呑するほどに
見えた。

この年(永禄5年(1562))六月二十三日に熊野山本営が炎上したとの知らせが有った。
先例前代未聞であり、天下の奇異、如何様ただ事ではないと、人々はこれを嘆いた。

同年九月十一日、京の伊勢伊勢守貞孝とその子息兵庫頭貞良が、三好に敵対する江州衆(六角)
および畠山衆と内通したとして、三好勢に攻められ丹波路長坂山にて父子ともに討ち死にした。
無残なことである。

(足利季世記)

幕府政所伊勢氏の、事実上の滅亡についての記事

661 :
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について

662 :
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 :
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 :
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 :
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 :
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
   /     |ll        |   ヽ
  /       z W`丶ノW     ヽ
 /        \\   / /      |
/    爆      \`i / /  弾   |

667 :
その年(永禄6(1563))、近江の佐々木六角氏にも動乱のことが有った。

六角氏の家老といえば、目賀次郎左衛門、樽崎太郎左衛門尉、三上孫三郎、三雲新左衛門、
蒲生下野守といった人々であり、それに加えて、両門客として佐々木刑部太夫と田中四郎兵衛の
二家があった。その他に、京極、朽木、鞍智、大原と言った一門があったが、彼らは
京の将軍家直参であったため、格別であった。

このような譜代相伝の家臣の他に、後藤(賢豊)という者があった。船岡合戦以来六角家に
忠功を尽くし、賞は他を越え、威勢を振るい家老の列に加わり、頻りに鷹揚の思いがあった。
また、これはその身が滅ぶ端相であったのか、彼の申すことは大小にかかわらず、屋形である
六角承禎(義賢)は、良きことと聞き、全てを彼一人に評定させて他の者の申すことは用いなかった。

こうして後藤は六角家中の大勢力となり、一門家老を差し越えて、家中上下を己の下に
立たせんと欲した。
己の心にかなう者には賞を申し与え、罪を免らしめた。このようであったので六角家の侍の過半は
後藤に従い付いた。

去る永禄五年、六角義賢は隠居して、家督は子息の右衛門督義弼(義治)と成ったが、
後藤の威もさらに増し、飛ぶ鳥を地に落とすほどであった。
義治はこの有様に、「もし後藤但馬守が逆意を思い立てる事があれば、我が一門や家来も
皆彼に従って私に背く事疑いない。主人の威がこのように軽いこと以ての外の次第である。
何事か機会があれば、後藤を誅殺せねばならない。」
そう密かに考えていたが、国中で最大の権勢を前に打つ手を見つけられず、悩んでいた。
そして義治の近臣である種村、建部というものを呼び寄せ、このことを打ち明け相談した。
両名は驚き

「後藤は承禎様の寵臣であり、国中の大名家老の多くが彼の縁者です。誅殺出来たとしても
きっと後難が降りかかるでしょう。先ずこのことを承禎様の伺い奉り、その後誅するべきです」

そう答えたが、これに義治は大いに怒り
「汝らを頼もしいと思いこの一大事を打ち明けた事こそ我が落ち度であった!父屋形に申して
御免有るものか、却って後藤達に漏れ聞こえ、我が禍となるであろう。
この上は力及ばず。今夜うち立ち、自ら後藤を討ち果たし存分を遂げるべし!」

そういって一人で襲撃の準備をしようとするのを、種村、建部は止めて
「暫時、お待ちになってください。それほどに思し召すのであれば、明日後藤を召し寄せ、
そこで誅殺いたします!」
そうはっきりと約束すると、義治も斜めならず悦び、明日を待った。

後藤但馬守とその子息又三郎は、このような事を夢にも知らず、屋形より使いがあると聞いて
早朝、観音寺城に出仕した。
そこを待ち受け、種村、建部両人は数多の若者たちを引き連れ、四方より後藤父子を取り囲み、
終に彼らを討ち取った。後藤父子は陳謝しようにも罪がなく、力なく無実の罪にて討たれたのである。

六角承禎はこの報を聞いて大いに仰天し対処しようとしたが、その甲斐もなく、先ず後藤の供を
していた者達が国中に走り散ったことで、様々な雑説がしきりと囁かれた。

一方義治の方は、かくて我が身の一大事成ったと、家老たちを呼び集め、今回の事態を説明し
国中を静めようと、家老たちの方へ遣いを立て『後藤父子は過分の驕り身に余り、逆心を
思い立ったため誅殺したのだ。その仔細を詳しく申し聞かすため各々登城するように』と
呼びかけたが、老中は皆後藤の親類縁者であり、「きっと我々も誅Rるための、偽りの
お遣いなのだ」と驚き騒ぎ、進藤山城守貞治、目賀田、三井、馬淵三右衛門、楢崎太郎左衛門、
伊達出羽守、平井加賀守、永原大炊助、池田伊予守、横山、木戸、荒井、三雲三郎左衛門といった
者達が、取るものも取りあえず各々の知行地へ引き籠った。これは誠に、六角家滅亡の端相であった。
(足利季世記)

六角氏の観音寺騒動のはじまりである後藤賢豊父子誅殺事件について

668 :
先代の寵臣を次代が更迭あるいは謀Rるのはままあること

669 :
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね

670 :
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 :
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 :
おまゆう

673 :
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評

674 :
持ち上がったら危険だからと謀Rるんだろうなあ

675 :
自称、木曽の山猿の子孫だし
なお義昌に裏切られた勝頼の敗走ぶりは木曽義仲に例えられたとか

676 :
まあ、本能寺後の動向やら末路やらを考えるに、木曾義昌は本当にうつけだからしょうがない

677 :
森武蔵なんて今で言えば凶悪犯罪者だろ
金山に行きたいから領内を通るけど手出しするなって言われて素通りさせますか?
しかも軍勢規模だ、略奪と強姦又は殺戮は容易に想像できるな
従えば臆病者とされ領民から見放されるであろう

678 :
今で言えばなんて間抜けな書き込みする前に働けよニート

679 :
今で言えばって武士全員犯罪者だろw

680 :
異郷の地にて

安房里見家九代目当主、里見忠義は突然先祖代々の地を離れることとなった。
大久保忠隣の失脚への連座、城郭の無断改築や浪人召抱えの咎とされる。
転封先の伯耆国倉吉で失意の日々を送る忠義は神仏にもすがる思いであったのだろうか、
山田八幡宮へ以下の棟札を奉納している。


社殿の倒壊と言うのは全く思いがけず、不思議なことです。
安房一国の太守であったのに、徳川の御威光によって
西国の地に住む私の命運もまた奇妙と言えるでしょう。

里見は代々、神社仏閣の建立復興に尽力してきましたが、
世の中の移り変わりによって今では斜陽の日々を送っております。
しかしながら、太陽や月が大地に墜ちでもしない限り、必ず東の空から明日はやって来るのです。
領主の立場は奪われてしまいましたが、どんなに時を経ても里見代々の気風が
安房の人々の心に残ることは明らかでしょう。

この度は梁や柱、どんな小さな部分にも
領主・領民の楽しみ、子孫の繁栄、国家の安寧、神仏への信心不滅の願いを込めて
八幡神社を建立させました。
君主というものは忠孝・武運の道を以て朋友と付き合い、仁義礼智信の五つの徳を専ら行い、
剣を握って悪魔どもを打ち払ってこそ功徳が積まれ、天を輝かし地を照らすと言います。
それらを心がけつつ、君臣皆が世の平和を誇り、罪は消え、神仏の教えが子々孫々に伝えられ、
国家が安泰であることを願います。


安房の地を懐かしみ徳川の仕打ちを嘆きつつも、旧領復帰の望みを失っていない忠義の心情が残されている。
しかしこの翌年、与えられていた僅かながらの知行も召上げとなり、
やがて病床に就いた忠義は郷里の土を踏むことなくこの世を去った。
享年二十七歳であった。

681 :
おめでたい頭してんな忠義
つーか奇妙とか言ってるけど政争に巻き込まれた自覚すらないのかよ…

682 :
長門守は侍の冥利が尽きた人なので


寛永15年4月14日、肥前国島原城主の松倉長門守勝家が
島原一揆の咎めにより森長継へと預けられた。
津山で長門守殿を預かっていたが台命により、5月4日には
江戸の内記様(長継)の御屋敷に移すこととなった。
宗門御奉行の井上筑後守(政重)が何度も来て、長門守殿の話を聞いて
口上書等を書き、長門守殿の小姓の権兵衛・瀬兵衛も吟味された。
権兵衛は二度拷問されたが、瀬兵衛は新参者だったので拷問されなかった。

そうして7月19日に長門守殿の切腹が決まり、前の日の晩に
内記様は検使から介錯人を出すように求められたときのため
侍分で足軽大将の井川弥一右衛門と、歩行の福本与三右衛門を
介錯人が侍分でも歩行でもいいように、両人に仰せ付けられた。

19日の朝、森家臣の林伊織が筑後守殿にそのことを申し上げると
「長門守は侍の冥利が尽きた人なので、年若といえども内記殿が
 足軽大将を仰せ付けた弥一右衛門に介錯人をさせる程ではない。
 歩行に介錯をさせられるように」
と筑後守殿が仰せられたので、福本与三右衛門が介錯をつかまつった。
小姓の権兵衛・瀬兵衛も縛首となった。

そのとき福田左内が井川弥一右衛門の袖を引いて
「このような大名の御首を切ってしまったら、小身者は冥加が尽きて
 罰が当たってしまうだろう。(与三右衛門の)末路を見ておくように」
と私語をした。
それから八年が過ぎた後、与三右衛門の弟が百姓との公事に
負けてしまったため、与三右衛門も作州を立ち退くこととなったという。


――『森家伝記』

森家の史料では勝家は斬首になってなかったので。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


683 :
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀に
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に

684 :
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 :
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 :
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな

687 :
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント

688 :
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

689 :
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)

690 :
大永7年(1527)、島津貴久は守護職を継いで鹿児島清水城にあり、養父で前守護職の島津勝久は
伊作に移って隠居した。ところが島津実久が勝久と通じ、貴久の実父・忠良と勝久の離間を図った。

実久が伊集院城と谷山城を攻略して鹿児島へ向かうと、忠良は加治木・帖佐の地に勝久を移そうと船で
鹿児島に向かったが、戸柱まで来た時に不穏を見て取り、田布施へと帰った。実久は貴久に守護職の

返還を求めたが、貴久はこれを拒否して清水城を死守しようとした。しかし鹿児島に内応者がいるとの
風聞により、貴久は夜に城を抜け出して園田実明の宅に隠れ、実久の追手を逃れた。

のち勝久は実久に擁されて清水城に帰り、島津氏は勝久・実久派と忠良・貴久派に分かれて内訌に陥る。
享禄2年(1529)、島津忠朝は両派の和解のため、新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田董親・

樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らと会して勝久に謁見し、事態の解決を図ったものの、勝久
の態度は要領を得ず、皆怒って帰ってしまった。

勝久は忠朝の跡を船で追って大隅に至ったが、むなしく帰ることになったという。

――『鹿児島市史』

691 :
逸話ではないんだが
地元の武将でググってたらこんなのが出た
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1515325.png

大田原資清と大関高増の遊び場w

692 :
検索結果でググった単語に合わせたのが出るサイトがあるんだが
マイナーな武将故に、そんな検索結果で出てしまった結果と言うべきか

693 :
少年のときは少年のように


滝川一益の士に井口又兵衛という武功の者がいたが戦死してしまった。
その子供が十二、三歳になると、一益のお茶取りとして仕えるようになったが
十七、八ぐらいの小姓が無礼をして、井口が持っていたお茶をこぼさせた。

井口は相手に構わず懐紙でよく拭いてから下がったが
その後、次の間に件の小姓を呼び出して刀で突き刺した。
傍輩どもが騒いでこの事を一益に申すと、一益は涙を流し
「よくもまぁ父に似ない奴だ、何の役にも立たないだろうな」
と申されたので、近習の士どもが不審に思い
「井口の振る舞いは老士でも出来ない程のことです。
 どうしてそのようなことを仰せられるのですか」
と申すと、一益は
「だからこそだ。今年十二、十三で老士のような振る舞いをする者が
 年を取って何の役に立つだろうか。少年のときは少年のように
 後先考えず粗忽に働いてこそ、働きぶりがしっかりしているところと
 そうでないところが自然と分かってくるものなのだ。年の功を積んで
 不甲斐ない働きをしてきたことを悔やみ、よく働くようになる者もいれば
 粗忽で勢いだけの無分別な者が、老後に分別が出来るようになることもある。
 若いときと老いてから、そのときどきの拍子序破急があってこそなのだ。
 今から分別しすぎた振る舞いをする者は、年を取った後に隠居や法体
 世捨て人のような士になってしまうだろう。それは私の欲するところではない」
と言われたという。


――『筆のちり』

694 :
日本の茶道や生花に遠州流という一派を開いた小堀遠江守政一に関する逸話はずいぶんと人口に
膾炙しているが、とりわけその一生一代の傑作と称せられる京都の桂離宮の庭園および茶室は、

とにかく大いに見るべきものがある。これについて例の如くひとつの伝説が語り伝えられている。

桂離宮は豊臣秀吉が小堀政一に命じて考案実施させたものであるが、小堀はこの命を受けた時に
秀吉に3つの条件を出し、この条件が受け入れられるなら引き受けると申し出た。

1つには意匠と考案に関して絶対に他の口出しを許さないこと。2つには竣工期限や工費に制限
を設けないこと。3つには工事中は絶対に見に来ないことであった。

寛大な秀吉はよろこんで承諾し、小堀は丹精を込めて思う存分その技術を振ったので、あの様な
美しい庭園や茶室などが大成したのだという。

しかしこの伝説がまったく虚構であることは甚だ明白である。さて、小堀遠州なる者は天正7年
(1579)の生まれで、初めは秀吉に仕えていたが、のち徳川家康に仕えた。豊臣滅亡後の

元和9年(1624)に伏見奉行となり、在職25年間すこぶる治績を挙げた。茶道は千利休の
門人・古田重能(織部)に付いて学び、ついに一家を成した。彼はいわゆる芸能の人で、

茶道以外にすべての美術工芸に精通し、ことに絵画は狩野探幽と親交があったことから狩野流の
画を得意としたという。正保4年(1647)2月6日、69歳で死去した。

この年譜から算出すると秀吉の亡くなった慶長3年(1598)には、小堀はまだ20歳の若さ
である。また桂離宮は天正15〜6年頃(1587〜8)、小堀が9〜10歳の頃に秀吉が

正親町天皇の皇子・陽光院の第六子・智仁親王を請うて猶子とし、八条宮と称してその別宅を
桂の里に造営したもので、今現存する旧御殿がすなわちこれである。新御殿の茶室や庭園は、

二代・智忠親王の時に徳川氏が小堀に命じて造らせたもので、寛永の初年に完成したというが、
これは真実であると認められる。すなわち元和の終わりか寛永の初めかに、伏見奉行であった

小堀が造ったので秀吉とは全然関係がない。もし小堀が3つの条件を出したとすれば、それは
二代将軍・秀忠か三代将軍・家光に対して試みたものでなければならない。

小堀の三ヶ条の要求なるものは、つまるところは芸術家の理想を事に託して仮作したのである。
これに類似の伝説は古今珍しくない。今日も富豪が趣味のために造営する邸宅庭園の類には、

工費と期限に制限を設けない例もあるが、意匠や考案を技師に任せて干渉しない例は殆ど無い。
ましてや工事中に絶対見に来ないという条件は到底成立しそうもない。官公の造営に至っては

一から十まで干渉ずくめであり、ことに会計法で縛られるから碌なものができようはずもない。
そう考えると桂離宮の庭園建築はあまりに巧みである。むしろ巧みにすぎる。

これが遠州の長所にして同時に短所である。

――『白木黒木』

695 :
豊臣秀吉による小田原征伐の時、小早川(隆景)といって筑紫の武士が在り、彼は大丈夫
であるとして、秀吉により清州城の留守を申し付けられた。

小早川は尾張中村まで秀吉のお供をしたが、そこで秀吉はこのように言った
「お主に言うのも恥ずかしいことだが、私はこの中村で生まれ、わやく(腕白・乱暴)な事もして
遠州へ落ち行き、松下石見に仕えた。考えてみれば武士ほど面白いものはないな。
ところで、この中村を百姓たちの作り取り(無税)にするというのはどうだろうか?」

小早川も
「かかる目出度き御代です。作り取りにさせるべきでしょう。」
そう申し上げた。しかし秀吉は

「ただ、かつての事、この村には二王というわっぱ(童)がいて、私より少し年長であったが、
ある時、この道筋で二王が刈り取った草を、私が少し取ったところ、この二王が
『遅く来て草を刈ってすらいないのに!』と、鎌の柄にて私を叩いた。
その遺恨、今も忘れない。

二王を呼び出し彼の首を斬って、その上で中村には作り取りを許可しよう。」

この二王はこの時もまだ生きていたのだが、中村の者達は彼はもう死んだのだと申し上げた。
そこで秀吉は「彼に子はないのか」と尋ねた。中村の者達「子も死んで、孫だけは居ります」
と答えた。これを聞くと

「孫ならば本人からも血縁が遠い。苦からず。」

そう言って中村一円の百姓に、作り取りの権利を与えた。

ところがその後、中村の田地一円は秀吉によって召し上げられた。
これは高麗陣の時、秀吉が

「中村の百姓が一人も見舞いに参らない!なんと憎き奴原か。見舞いに来たなら路銀も余るほど
与えたというのに。筑紫から大阪まで船で送ったであろうに!」

そう激怒し、その過怠により田地残らず召し上げたのである。

(祖父物語)

696 :
まとめの3189だと市松が仁王が死んだ、と言ってることにしてるな
尾張中村の仁王と福島正則

戦国無双4では秀吉を美化してるせいで
仁王が死んでるのが嘘と気づいた秀吉が
「あのことは気にしてないぞ」と伝言して感動した仁王が野菜を献上するという、韓信の股くぐりの「仇を恩で返す」の類の
話に改変されてたのを思い出す

697 :
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは、その権勢の争いともいい、また信長公の御妹であるお市御料人が
その言われであるとも申す。

彼女は淀殿の御母であり、近江国浅井(長政)の妻であり、浅井と死別し、その母と
一所におられたのだが、天下一の美人の聞こえ有り、秀吉は彼女へ御臨みをかけられたのだが、
柴田勝家が岐阜に参り、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取り己の
妻とした。

秀吉はこのことを聞くと激怒し、柴田を越前には帰さないと近江国長浜へ出陣した。
しかしここに丹羽長秀、池田勝入が扱いに入り、柴田勝家はお市御料人を同道して
越前への道を通った。

翌年三月、柴田方より近江柳瀬に出陣した。秀吉は大阪より出て近江長浜に砦を築き、
互いに足軽の合戦をしていた。

ここで佐久間玄蕃(盛政)が「かように日を暮らしていては意味がありません。」と柴田に進言し、
賤ヶ岳の下の湖畔を通り高山右近の出城を攻め落とし、玄蕃が直にその城に籠もった。

柴田は玄蕃に「深入りである。早く引き取れ」と伝えたが、玄蕃は「弱きことを言われるものだ、
旗下にて出城の一つも二つも攻め落とすべきなのに、急いで引けとは何事か。」
と引かなかった。

この時の事について、後にこう言われた
『玄蕃は柴田の指図のように引いておけば良かったのである。そこから5日のうちに、
秀吉方に謀反人が出て、柴田方の利運に成るはずであったのに、玄蕃が要らざる強味を出して
しまった』と。

実は筒井順慶が柴田と心を合わせ、秀吉を裏切るよう定めていたのだ。
順慶は其の頃大和伊賀両国を領する大名であり、返す返すも残念なことであった。

(祖父物語)

祖父物語の時点でもう、お市に「天下一の美人の聞こえ」があったなんて書かれていたんですね。
あと賤ヶ岳の時筒井順慶が秀吉裏切ろうとしていた、なんて話は珍しい。

698 :
賤ヶ岳で洞ヶ峠を決め込んだのか

699 :
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 :
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。

701 :
「海を泳いで渡った」愛媛・今治の脱走受刑者 逮捕の地点は島から西に70キロ

ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180430-00000513-san-soci


某「泳いで参った」


ちょっと悪いどころじゃないですね、すいませんm(__)m

702 :
>>701
このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員その言葉が浮かんだと思うよ w

703 :
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」

704 :
戦国立志伝では秀家復帰があったよね
大阪の陣にも参戦する仮想なかったっけか?

705 :
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

706 :
山を越えてまいった佐々成政と海を泳いでまいってない宇喜多秀家
どこで差がついたか

707 :
泳いだのは仙谷だろ

708 :
>>707
それは政治家だ

709 :
???「空を飛んで参りたかった」

710 :
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀しして申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)

711 :
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 :
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 :
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

714 :
>>703
の戸部新左衛門と蛙の話
https://i.imgur.com/fPPL0Pq.jpg
戸部の蛙
愛知県名古屋市産の土製手捻りの蛙。
二、三〇種あって二匹組み合わせ物や、蛙の相撲などが優れている。
その昔、市外に戸部城のあったころ、凶暴な城主(注:戸部新左衛門政直)がいて、
隣接の山崎から入ってくる旅人などが、その行列を横切ると差別なく切り捨てたので、
それを揶揄して「山崎越えたら飛べ飛べ(戸部)」と、この辺一帯に多く棲息していた蛙にかけて洒落たのが由来という。
斎藤良輔「日本人形玩具辞典」より
https://i.imgur.com/HozJxBh.jpg
このくだらない駄洒落も元ネタがあったのだ

715 :
>>713
ソースも提示せずに知ったかぶりw

716 :
>>713
研究史が読めないずぶの素人が陥りやすいところだね
一次史料偏重

717 :
真偽はともかく、どうしても「信長は武田を恐れていた」ってことにしたい層が一定数いるみたいだね
信長が怒ったのは慎重論でもなんでもなく至極まっとうな理由で、武田を恐れていたっていう証明にはならない
まあ信長自身若い頃から突出大好きだから説得力皆無だけど

718 :
例によって具体的な資料も出さないやつが再登場

719 :
>>717
真偽はともかくだあ?話逸らすな
さっさとソース提示しろ

720 :
>>719
>>710だけからは信長が武田を恐れていたとは読み取れない、だからその話は本来スレチ
どうしてもその主張がしたいなら俺じゃなくそちら側が「信長が武田を恐れていた」という明確なソースを提示すべき

721 :
警戒している以上、恐れている可能性は指摘されても不思議じゃないと思うけど?
というか、恐れている恐れていないってのは>>711からはじまって>>713が決定打を放っちゃったでしょ

722 :
>>720
いいから涙拭けよ

723 :
>>721
>>711は可能性の指摘じゃなくて最初から「信長は武田を恐れている」っていうのを前提においた上での意見じゃないのかと思ったけど
まあ、>>713も余計な意見だっていうのはそのとおりだと思う

724 :
挙げ句の果てにお前が先に出せ!と居直ってソース提示出来ずに遁走w
話を逸らすだけしか出来ない低脳が

725 :
勘違いしてるようなら申し訳ないけど>>713は別の人間だよ
>>717>>720>>723は俺だけど

726 :
警察のお世話になる奴は決まってそう言い訳するらしいな

727 :
つイカリソース
つブルドッグソース
つおかめソース
( ^o^)ノソース三昧

728 :
>>714
作者の友達が戸部新左衛門の子孫で祖先の話を聞いてキャラにしたとか
良い話なのか悪い話なのか・・・

729 :
他所でやれおまえら

730 :
西国の桶狭間、事の始まり

永正14年(1517年)10月、安芸の守護である武田元繁は安芸北部の山県の諸勢力を攻め、下した者らや元々の配下を糾合した後、有田の城をおよそ5千の兵で取り巻いて攻め立てた。
有田城主、小田信忠は老練の武将であり、城兵は300ばかりだったが敵の数に怯まず激しく防戦に当たった。
武田元繁はその勢いを持って有田を落とした後は近隣の毛利家や吉川家と言った自分に従わぬ大内傘下の者らを滅ぼそうと目論んでいた。
この城を武田元繁が真っ先に攻めるに至った理由は何からか?
それは永正元年(1504年)、石見の高橋久光が有田の城を攻め取った後、野田久之を城将として置き、これにより近郷一帯悉く高橋に従うこととなった。
ところが、元々この地の主であった吉川家家臣の森脇基方という者がこの城を奪い返そうと野田に取り入り、最初は警戒されたものの遂には家僕同然に振舞うほどとなり、表裏無く打ち解けるまでに至った。
そんなある年の8月15日、近隣の八幡神社の祭礼を見に野田の家来が皆出て行った時、森脇は好機到来と野田の宿舎を尋ねるとこう言った。

「野田殿、私も祭りを見に行きたいのですが、刀が見苦しいので遠慮しております。貴方の御太刀を貸して頂けませぬか?」
「良かろう、貸して進ぜよう」
野田から代々秘蔵の太刀を受け取った森脇は
「いやいや、これは見事な御太刀ですな、ベラベラベラベラ(以下略」
と、野田の太刀を弁舌巧みに褒めそやした。上機嫌になった野田は
「そうであろう。この太刀は見た目もさる事ながら斬れ味も優れ、ワシの先祖はこれで妖怪や大蛇を(以下略」
と、自慢気に刀の由来を語り上げた。野田の話がひと段落した時、森脇は
「では、その斬れ味を試させて頂きましょう!」
と一言、野田の頭を件の名刀で叩き斬った。
野田は「アッー!」と断末魔の声を上げて倒れ、森脇は彼の首を取ると傍輩や近郷の者らに告げ、5~60人の兵を集めると有田の城に立て篭もった。
その方を受け激怒した高橋久光は5000ほどの兵を集めて有田に攻め込み、森脇の主人である鬼吉川こと吉川経基も1000ばかりの兵を集めて有田城へ入城すると、双方の戦いは激しく数ヶ月に渡って決着は付かなかった。
この時、武田元繁の仲裁で両軍は和睦する事となったが、有田の城をどちらが取るかは双方譲らず一向に埒が開かなかった為、
武田元繁の鶴の一声で元々有田を本領とし、今は城を追われた小田氏を城主として有田の城を返させる事で何とか事は収まった。
その後も仔細有って武田と吉川は闘争に及んだが、この時小田は武田に恨みを含む所が有って吉川に与したので、元繁は小田を恩知らずと憎み有田の城を攻める事となった。
日が経つほど有田の小田方は苦境となり、小舅の熊谷元直を中に立て降伏を申し出たが、それすら許さぬ程に元繁は激怒しており、これを許さず有田の落城は目前に思われた。
有田城の落城は間近と見た為か、武田元繁は毛利幸松丸配下の元就が領する猿掛へ1000ばかりの兵を向かわせ、ここに西国の桶狭間こと有田中井手の戦いの戦端が開かれることとなるのである。
(陰徳太平記)

731 :
山崎の合戦の後、明智光秀の残党は正林寺城に籠もった。
羽柴秀吉や織田信孝などの兵は、ここに明智光秀がいると見て、柵を付けてこれを攻めた。

その時、城より蟹江才蔵が向かい出て伝えた
「明智光秀はここには罷り在らず!我らの命を助けられるのであらば、城より一人ずつ出て
何者か確認されて良い!」

攻め手は答えた
「ならば斉藤内蔵助(利三)を生け捕り我らに出せば、汝らの一命は助けよう!」

すると城方は内蔵助を生け捕って攻め手へと引き渡した。
この時より蟹江才蔵は三七殿(信孝)に付くことになった。

ここでも明智を発見することが出来なかったため、近辺を残らず捜索したが、ついに見つからなかった。
翌日、村井清蔵と申すものが、大江という在所より、金柑(ハゲ頭)なる首一つを持って
代官所に現れた。この清蔵によると

「この者、昨夜大江に参り『我を坂本へ連れて行け、金銀は思うままに取らせん』と言いました。
しかし百姓共は、『どうせ盗人の謀りである、ただ打ち殺せ!』と、これを撲殺したのです。」

丹羽五郎左(長秀)がこれを見て、すぐに光秀の首と解った。彼はこの首に噛みつき、歯を
きしませて
「汝を生かして、なぶり殺しにしようと思っていたのに!」
そう叫んだ。

その後、光秀の死骸を取り寄せ、首を継いで車に載せ、洛中を曳き廻し三条河原にて
逆さ磔にかけた。
斉藤内蔵助も車に乗せて洛中を曳き廻し、三条河原に生きながら逆さ磔にして3日晒し、
その後火炙りにした。

(祖父物語)

732 :
大和国の山間に、何とやらん淵があり、昔はそこに大蛇が棲んでいたと云われた。
そして、そこに赤い着物を着て行くと、必ずその蛇に捕えられるとされた。

この話を聞いた大和中納言(豊臣秀保)は「我をどうして捕えられるだろうか」と、
赤い帷子を着て船にてこの淵を漕ぎまわった。
すると船ごと転覆し、そのまま淵に引きずり込まれた。

3日過ぎた頃、秀保の死骸が浮かび上がった。その胸には噛み付いた傷跡があったという。

(祖父物語)

豊臣秀保の死についての逸話

733 :
水練の最中に死亡か

734 :
盗賊王平尾某「殿下は情のうござるな」

735 :
うさみん「殿、水遊びしない?」

736 :
秀吉「水遊びたーのしー!(キャッキャ)」

三成「た、たーのしー…」

737 :
???「(三途の川を)泳いで参った」

738 :
>>735
政景「了解!転覆しませんように」

739 :
一、熊本地震之事、少ツヽ切々淘候へ共、此程者遠のき候、あふなく候て、庭のなき本丸
にハ被居不申候、本丸ニハ二条敷と有之庭ハ無之、四方高石垣、其上矢倉、天守、中々あ
ふなき事にて候事
一、罷下、得 御意、地震屋を仕候庭を取不申候へハ、本丸ニハ被居不申候、此由を柳生
殿へ物語可申候事
  以上
 五月十一日      狩野是斎

 上は、熊大図書館で昨年行われた講演会「細川忠利の領国支配と熊本城」で紹介された
史料。細川家は、なぜ本丸御殿を使わず、花畑屋敷を新設したのかという長年の謎が解決。
建物が建て込んでいる本丸は、地震のときに避難場所がなくて危険というのが理由と。山
を登るのがきついみたいな軟弱な理由ではなかったわけだ。
 加藤家時代の寛永2年(1625)に地震で火薬庫が爆発するなどの大損害を被って、その
後、寛永9年に改易。その翌年には、群発地震にみまわれると、この時期、熊本は頻繁に
地震に襲われたらしい。それで、本丸御殿に居住するのを諦めた模様。
 熊本城本丸御殿の安全性が悪かった話。

740 :
建物もそうだろうし、見るからに崩れやすい石垣だから、
今回の熊本地震以前にも何回も崩れているんだろうなぁ

741 :
歴史的に見て、1625年の地震、明治の熊本地震、そして、今回の熊本地震と、都合三度ほど、大損害を受けているという。それより小規模なのは、よく分からない。1625年の煙硝倉爆発は、考古学的な痕跡も残ってそうだけど、発掘調査で出てこないかね。

742 :
熊本城は建物詰め込み過ぎで昔から有名だったしな

743 :
その何回かの大地震でも耐えてる石垣があるのは当時の技術でも最先端だったんだろうなあ。

744 :
永正7年8月、大和国、筒井某より、伊勢国河曲郡神戸の関家に、2名の使いが送られた。
彼らは商人の姿となり、連雀(物を背負うのに用いる背負子(しょいこ))を肩に担いで
通行していたが、その途中、伊賀国において、服部家が支配する荒木の関所において、
「怪しい奴らだ」と咎め立てられた。

このように疑いをかけられ、両名のうち、一人はとにかく無言でいたが、もう一人は
自分たちは怪しいものではないと様々に弁解したものの、関所の者達は信じようと
しなかった。
このため終に口論に及ぶと、この者も気が早かったので、火打ち石を打ち、
連雀の中に入れてあった紙包みなどを焼き捨て、その上で関所の者と刺し違えて死んだ。

残った一人は、「これといったことも言わなかったが、もはや逃れまじき」と思い切り、
良き相手と思しき者に飛びかかり、引き組んで刺し違えて死んだ。

この事件は伊勢にも聞こえ、自分たちに送られた使者が殺されたことを、関家も遺恨と思った。

実はこの頃、近江六角氏はかねてからこの、伊賀服部家と不和であり、服部を斬り従える
機会を伺っていた。ここに関家より修好を持ちかけた所、六角にとっても願う所であったため、
一味同心して伊賀国を攻め取らんと、お互いが積極的に定めたのである。

(關岡家始末記)

745 :
火打ち石ってそんなライターみたいに簡単に着火できるものなのか

746 :
書類を非常時に燃やすために油紙でくるむとかしてたんじゃね?
火打石は火花を散らして、ホクチに引火させるものだから、一発で火花が散れば引火できる。

747 :
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…

748 :
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749 :
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。

750 :
一万石しかなかった苗木藩はどうしてたんだろうな

751 :
平山城って荒れるねぇ。維新まで天守があった米子城をGWに見てきたけど、
おそらく解体の際に石垣壊されたのか修復工事入ったところ以外は見る影もないぐらいだし。

752 :
松山城なんかも二の丸庭園からかな?
黒門口登城道は結構道が荒れてた印象

753 :
蘆名盛隆の麾下であった二本松義継の小姓に非常に美麗な者があり、盛隆はこれを貰い受けたいと
伝えた所、義継は「あの小姓は随分甲斐甲斐しいのだが、悪しき所もあり、やめたほうが良いと
思います」と答えた。

盛隆は義継があの小姓を手放すことを惜しんでそのよう事を言うのだと思い、不満を漏らした。
しかし義継としては、惜しむような気持ちは一切なかったので、「そこまで思われているのなら」と、
かの小姓を盛隆の元へ遣わした。

盛隆は2,3年はこれを寵愛したが、次第に疎となり、またこの小姓の噂を、近侍の医者に
色々と申し聞かせ、この医者がさらにこの事を様々に語った。
これをかの小姓は深く恨んだ。

ある時、蘆名盛隆は鷹を据えて縁の柱に寄りかかり、近くの者たちにこれを見せていた所、
かの小姓が通りかかった。盛隆は小姓の名を呼び、「お前もこの鷹を見よ」と進めた。
小姓は「心得候」と返事をするや、刀を抜いて盛隆を二刀斬りつけるとそのまま走り去った。
この時盛隆の周りには武士が5,60人居たのであるが、皆狼狽えたのか慌て、かの小姓を
討ち止める者は居なかった。

小姓はさらに、噂を広めた医者の所へ向かい門を走り抜けようとした所、門番が不審に思い
彼を止めた。そこに追手の者達が追いつき、小姓を討ち取ったという。

(老士雜談)

754 :
小姓「衆道とは修羅道と見つけたり」

755 :
山中鹿之介の最期と埋葬地について記事があったのだが、どうやら未出の様なので貼っておく
記事はかなり長いので各自読んで見られたし

古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4952

756 :
肥後へ御使に被遣御鉄砲衆両人、今日罷もとり候、御書之返事御座候、御文箱を則 を以、
上ケ申候事
肥後に先月十七日の夜、大なえゆり、殿主其外城中の家、から木立斗残り、かわらひき物
も皆々おちくづれ、城中に人五十人ほと死申候、塩硝倉ともずりに火出候て、跡もなくふ
きちらし、あたり五町八町之間の家無残ふきちらし、ゑんせう八万斤の上有之つる故に、
倉の下の石かき何もやねかわら六り五りほとふきちらし申候、斉藤伊豆守殿・防庵の家も損、少しつつ作事被仕候
 (細川家文書 万覚書寛永二(1625)年七月二十一日条)
<BR>
 寛永2年6月17日の地震被害について、一月後に肥後を訪問した使者が報告している。豊
後時代の執務日誌から。
<BR>
 50トン近くの火薬を貯蔵していた煙硝蔵が爆発。周囲500から800メートル四方ほどが吹
き飛び、瓦礫が3から4キロの範囲に飛散したという。黒色火薬とはいえ、50トンもあれば、
それだけの被害がでるかな。
 痕跡が残っていそうなものだが。今度の震災復旧で、見つからないだろうか。
<BR>
 最初の方、「ひき物」というのが、よく分からないけど、建物が柱ばっかりになったと
いうことだろうか。「城中」の死者についても、煙硝蔵の爆発の死者がこれだけなのか、
本丸の建物被害で死者がこれだけでたのか、細かいところでよく分からない。
<BR>
 地震被害の話なので、当然こっちに。

757 :
>かわらひき物

瓦葺き物かな?

758 :
<BR>が散見されるのでwebからのコピーくさい

759 :
>>758
単純に手癖。無駄なことをしてしまったw

760 :
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761 :
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762 :
あの時代に火葬なんてしたの?

763 :
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764 :
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765 :
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766 :
>>763-764
ありがと〜、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767 :
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

768 :
モブ武将は鳥葬だったんだろうな

769 :
土民による落ち武者刈りで死体漁るわけだけど、火葬して埋葬して塚作るぐらいのことはするんじゃない?

770 :
そういえば、平安時代の京都は、庶民の遺体は放置して、犬に喰われたりしていたんだよなあ。庶民がまともに埋葬されるようになったのって、いつごろからなんだろ。

771 :
>>770
庶民といっても京都と農村部で違いそうだな。
都市部だと土葬場所の確保も穴掘り人も確保しずらいだろうが、農村部なら普段の農作業の延長にあるから比較的墓場や穴掘り人の確保がしやすい印象がある。

772 :
昭和の頃は墓掘り人夫って脅し文句になってたな

773 :
地獄の墓堀人

774 :
平安時代の庶民って鳥辺山で鳥葬じゃないの?

775 :
>>774
他に紫野や化野など、三大風葬地がある。
僧や貴族、皇族は平安時代から火葬してた。

776 :
病気になった使用人を屋敷外にたたき出すとか、やってたらしい。疫病のときは街路に死体が溢れるとか。

777 :
>>776
きちんと埋葬していれば、疫病が蔓延するのをある程度抑えられただろうに…。

778 :
それやるな、と指示が出るのは徳川綱吉の時代のことなので

779 :
羅生門にあるように肉はご馳走なのだ

780 :
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。

そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男、香月隆光は自分の旅館に戻った。


このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男、香月隆光は大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。

宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い

「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」

そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。

(宗像軍記)

宗像大宮司より見た大寧寺の変

781 :
宗像大宮司氏男が長門国にて大寧寺の変に巻き込まれ自害したことが告げられると、
筑前国白山の城に残っていた家臣の石松加賀守、吉田飛騨守、占部貞安、許斐氏鏡といった
重臣たちは、氏男の先々代の大宮司である宗像氏続入道良喜(氏男の叔父、もしくは大叔父)を
呼び相談した。
「氏男様には七歳の女子、そして今年三歳になる男子がおられます。宗像の家督はまだ、
どちらも継げる状況ではありません。二人の君達が御成長されるまで、良喜様が再び白山に
入られ、大内の御下知を承って宗像の家督に付いていただけないでしょうか。」

しかし良喜は
「私はもう齢70であり、そんな明日をも知れぬ身で大勢の人を扶持しこの乱世に幼い子供の
後見をするなど無理である。その上神宮の祭事なども誰が勤めるべきか。
ここは陶入道全羨(晴賢)の元に使いを出し、大内殿の末葉の人を申し請け、女子に娶らせ
宗像の家督と定めるべきであろう。」

そう申され、家臣団もこれに同意して、占部越後守賢安、大和治部丞秀政を両使として山口に
派遣し、全羨に訴えた所

「その事なら宗像の家に縁のあるものを差し遣わす。ここに黒川形部少輔隆像の子に、鍋寿丸という
十五歳の男子が有る。彼は宗像氏男の妻の、腹違いの弟である。また私にとっては姪の産んだ
子でも有れば、いよいよ鍋寿丸に過ぎたる者はない。彼を元服させ、左衛門尉氏貞と名乗らせ
これを宗像の家督とし大宮司職に任じよう」

と有り、これに良喜入道も家臣団も同意し、「ならば迎えを遣わすべし」と決定した。

ところが、この左衛門尉氏貞がまさに筑前に向かおうとした時、いかなる野心の者がいたのか、
陶全羨にこのように告げた

「宗像の家臣の中には、氏貞を主君とするのは不道であり、幼いながらも氏男の男児があり
これを守り立てようという者たちが多く、この方針に決定し、氏貞を呼び寄せ鴆毒を薦め
殺そうと、相謀っているのだと取り沙汰されています。」

これを聞いて全羨は激怒し、宗像家中に対して使いを出して命じた
『急ぎ、氏男の後室、および女子は藍島に流すべし。三歳の男子は刺しRべし。
この義に背くならば白山の城を攻め破り家臣残らず討ちR。』
これを再三に渡り伝えられたため、宗像の家臣たちは全羨の威を恐れこの義に従い、
しかし後室、女子を藍島に流すまではないと、山田の邑に隠し置くべきとして、城を追い出し
侍女3,4人を付けて、小さな草庵を結いここに入れ置いた。

三歳の男子は吉田飛騨守が預かって養育するという事になったが、飛騨守は彼の領地である
鞍手郡吉川にこの男子を置き奉ると欺き、乳母に抱かせてそこに向かう途中の山口という場所で
これを刺殺した。
乳母はこの時、慌てふためいて刀に取り付き抵抗したため、彼女も共に刺殺した。
この飛騨守の不道を憎まぬものは居なかった。その後、この男子、乳母の怨霊が祟をなしたため、
一宇の社を建て山口の今宮と号して祭り奉った。

(宗像軍記)

782 :
陶さんは、そうやって周囲のうらみを買っていったんですな・・・

783 :
文治派憎しで公家殺しまくるというわけわかなことやらかしたしなぁ。アホだよ、陶晴賢は。

毛利云々は置いといても、大寧寺の変の直接的な結果として、北九州はまんま大友にくれてやっちゃうことになるし。

784 :
いやいや北九州を捨てて大友と結んだのは良い選択だと思うよ
後顧の憂いを無くすのは常道でしょ

785 :
天文23年2月下旬、宗像家の家臣の中に、陶全羨(晴賢)き媚びへつらうものあり、
周防国に使いを立て讒言を行った
『宗像氏男の後室は山田の邑に有り、旧好の臣達に密かに命じて、息女を豊後大友の方へ
遣わし、宗麟の子息のうち何れなりとも婿として宗像の家督を譲り、全羨様より遣わされた
氏貞様を攻め殺そうと議されております。ご油断なきように。』

これに全羨は大いに怒り、
「後室息女は先だって、男子を殺した時藍島に流すべしと申し渡したはずなのに、山田の邑に
召し置いているとは心得がたい!そういう事なら、宗像家の男子を殺したというのも偽りであろう。
この男子成人の上は彼に家を継がせるつもりなのだ。今は天下争乱の時であるから、この入道の
威を借りて暫くは当家に従う色を見せ、氏貞は私が宗像に遣わしたから、已むを得ず仮の主君として
頂いているのだろう。

急ぎ氏男の後室および二人の子供を殺し、その首を持ってくること無ければ、大軍で押し渡り
白山城を攻め破り、一人残らず妻子共に串刺しにすべし!」

そう、江良源左衛門賢盛を使いとして宗像家中に命じた。
これを受けて宗像の群臣は、石松和泉守の宿所に集まり詮議を行った。意見はまちまちであったが、
許斐氏鏡、占部貞安進み出て
「これはおそらく、家中に讒者があり全羨に悪しく申したものと考えます。あのように申せば
全羨が立腹するのも当然でしょう。ですが、後室息女共に何も知らず、明け暮れ山田の草庵にて
氏男様の菩提を弔い、また殺害された男児国丸様が、今も吉田飛騨守の元で養育されていると信じ、
毎日法華経を読誦し、その無事を祈られています。そのような方々を無下にRなど出来るでしょうか!?
遠賀の高倉に移し隠し置いて、全羨には事の仔細をありのままに申しましょう。
男子は先だって殺したことは事実です。また後室の陰謀ばるものは跡形もない虚言ですと申せば、
女子の事ですから、何事が有るでしょうか。ただ、後室母娘を高倉に遣わすべきです!」

そう申した所、吉田飛騨守が進み出た
「私は邦丸様を預かりますと後室に嘘を言って殺害しました。しかし陶全羨は私が助け置いていると
疑われ、山口に召喚してRとの事です。またこの事が後室のお耳び入れば、私が今まで後室を
騙し奉り、3年前に国丸様を殺した罪は逃れがたいものとなります。
あなた方はいか様にも道を立てられよ。この飛騨においては、全羨の命に従い氏貞様を主君と
奉る上は別の主君など持ちません。後室息女を殺し全羨に首を見せ、3年前に国丸様を手に掛けた
ことも正直に申せば、我が身の科を免れ、また宗像社務七十九代の後栄ともなるでしょう。」
そう、言葉荒く申し、辺りを払うがごとく見えた。

占部日向守が進み出て「この上は誰に憚ることもない。氏貞様は年若いが我らの大将である。
明日、この事を申し上げて、氏貞様のお計らい次第に従うとしよう。」と申すと、各々も
最もであると同意し、この日、三月二十三日の評定はこれにて終了し、それぞれ宿所へと
帰った。

しかし吉田飛騨守は妻の弟である峰玄蕃を呼び
「今日の石松和泉守宿所での詮議では、占部、許斐の一族は道理を立てるような者が多く、老臣である
石松和泉守の言葉も出ぬ前から何かと申し立てたこと心得難い。あれでは明日氏貞様へどのように申す
だろうか。そうなれば我らの身の上にも大事となるだろう。
そこで、今夜の内に山田の邑に行き、後室息女をRのだ。お前も来い。」

玄蕃は驚き止めた
「これは大事の思い立ちです。しかしやはり、明日の御詮議次第とすべきではないでしょうか。」

786 :
ところが彼の姉である飛騨守の妻が説得した
「既に歳五十となる飛騨守の申される事に従わないとは何という若輩者でしょう。私達はあなたの
行く末を思えばこそ、代々の主君の妻子をRと申しているのです。飛騨殿のお供をして山田へ行き、
殺してくるよう、偏に頼み申します。」

そして飛騨守は
「ならば、私の存分ばかり聞いた所で納得しないだろう。中山勘解由左衛門は私の知古の友であり、
また石松和泉守は此の家の大老でも有る。この二人に相談いたせ」という。

玄蕃は先ず野中に相談すると、似るを以て友というが、彼もまた大悪人であり飛騨の意見が
尤もであると同意した。その足にて石松和泉守と談じたが、彼は既に七十あまりの年齢で、
老いぼれとなり人の言うことに従うだけで、もはや善悪の判断もできなくなっていたため、
「いかにも飛騨の申されること理り至極」と言うばかりであった。

そうして飛騨守は「今はこれまでぞ、明日まで引き伸ばせば何が起こるか解らない。」と、
玄蕃を同道して山田の邑に参り、後室の侍女に申し上げた

「実は俄に藍島に朝鮮よりの流船が来たため、我らはその見聞に遣わされる事となり、
その御暇乞いのためまかり出ました。」

これに対応した花見の少将と申す女房は
「今夜は二十三夜の御月待のため、今御行水をされております。暫くお待ち下さい。この事を
申し上げてきます。」
と申し、暫く待っていた所、後室は浴室より出て、姫君と共に窓前に座した。
少将が「吉田飛騨守、峰玄蕃が明日藍島への御用にて渡海すると、先刻より御暇乞のためとして
罷り出、お待ちされております。」と報告すると、後室は
「ならば待ちかねているだろう。ここへ」と飛騨を召され、玄蕃もそれに相従った。

飛騨守に向かって後室は言った
「この頃、うち続いて夢見が悪く、気にかかることが多いのです。どうでしょう、国丸殿には
何事も無いでしょうか?久しく見ることもなく、懐かしさだけが募ります。どうか良く良く、
養育をして下さい。」

そう言い終わらぬ内に、飛騨守は後室の御前に駆け寄り懐中より氷の如き短剣を抜き胸のあたりを
刺し貫いた。彼女は「あっ…」との言葉だけを最期に、そのまま空しくなった。
同時に峰玄蕃は姫君を刺殺した。
侍女である小少将、花見の少将、小萩、月白の四人は混乱し、「これはいかなる事か!?」と
両人に取り付いたが、彼らは二刀づつ刺し通し、四人共に斃れた。あはれと言うも愚かである。

(宗像軍記)

宗像家における「山田事件」についての記述である。

787 :
うーむ、えぐい。

788 :
>>786
>うち続いて夢見が悪く
カーチャン…

789 :
国丸って氏隆のことか?96まで生きてたよな

790 :
>>96
伝承上、自称氏隆が96まで生きてたってだけでしょあれは。
なんで陶方に攻撃されて逃げた先が陶支配下の長門なんだ、って話だし。

791 :
お前は灯台下暗しって言葉を知らないんだな

792 :
>>791
そもそも氏隆の生存説は系図上事実として扱われてないからな

793 :
それはお前の中だけの話だろ

794 :
>>793
なんでそんな喧嘩腰なんか知らんが、古代氏族系譜集所収の宗像氏系図ほか、諸系図で氏男男子(塩寿丸)は早世とされてるよ。
長門の氏隆子孫主張は民間伝承の類。

795 :
塩寿丸は氏貞の子であり、養子じゃないかwしかも養子解消されて実家に戻っている
宗像記追考では殺されたのは氏男弟の千代松な
これだけでもお前の中だけの話ってことなのが分かるな

796 :
弟じゃなくて甥だったわ

797 :
すまぬ記憶違い、弟で合ってたか

798 :
大和国葛上郡片岡という所に、片岡新助という人物が居た。この人はもともと小身であったが、
和州における代表的な武功の人であり、筒井順慶の姪聟となり、徐々に身代も増え、八千石ほどを
得た。

ところが、筒井順慶が松永久秀に敗れ宇陀郡にて牢々した。この時は国侍から筒井一門の
歴々まで久秀に随臣したのであるが、片岡新助ただ一人は久秀に従わず彼の敵と成った。
そこで久秀は2度に渡り片岡に攻め寄せた。

久秀の居城である信貴山城からわずか三里ほどの場所に河合という砂河があり、通常は歩いて
渡れるが、水の出る時には船で越す必要があった。
片岡勢はこの河端まで、山伝いに打ち出た。そして松永勢が半分ほどこの河を渡った所で
横合いの木立より急襲したため、松永勢は持ちこたえることが出来ず敗軍。この時松永勢の
能き者達多く討ち死にしたという。

その後、再び攻め寄せてきた時は、片岡新助は城を出ず、城下まで敵が押し寄せたとき、城の西北
より人数を突撃させたところ、寄せ手は敗軍に及び首級多く片岡に取られたという。
その後は松永勢が片岡を攻めること難しく、龍田方面に抑えの城を造り番勢を入れ置いた。

ところがそんな中、片岡新助が35,6歳という若さで急死した。彼には弥太郎という子があったが、
これは若輩で、しかも病弱であったため、満足な戦働きも出来ず、武勇も新助ほどの才能は無かった。
そのため、程なく松永勢は片倉に攻め寄せ、難なく城を乗っ取った。弥太郎は落ち延び、在々にて
牢々した。

その後、大阪の陣の時に譜代の者たちを召し連れ豊臣方として籠城をし、大阪落城後は
法体となり雲巴と号し大和に居住した。近年に成って亡くなられたという。

(大和軍記)

799 :
大和の国侍って、大坂の陣で没落した連中が多いなあ。
一族の大黒柱を失って、一気に勢力が解体した話か。最初の二戦の大勝で、おおすごいと思ったら。

800 :
大和の国衆はなんだかんだで興福寺が中核だったけど、信長の頃から国主を別に定めた事で
より結束を失ってバラバラになって行った感じ

801 :
松永が謀反するからダメなんだ
筒井の台頭を許した

802 :
仮に松永が大人しくしていたら、もっとはやく大和周辺の寺社勢力の弱体化ができたのかな

803 :
それでも信玄が死んでからになるだろうな

804 :
織田信長が天下を掌握した頃、内裏修理のため伏見に滞在し、またこの普請のため
国々の大名残らず上洛した。ここで信長は、瀬田の橋に関を設け、家中実名を尋ねた上で
通過させるようにと命じた。

このような中、森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋へと指し懸った。
関守の侍たちが出てきて「上意であります。下馬をして家名実名を名乗り通って下さい。」
そう声をかけたが、勝蔵は

「それは許してもらおう。私は濃州住人森勝蔵と申す者である。御帳に書いておけ。」

そういい捨てて通ろうとした。関守の侍たちは驚いて馬の口にすがり
「そんな事で通せるものか!その上乗打など以ての外!」そう叫んで、鑓長刀などを
番所から出してきて色めき、絶対に通さない姿勢を示した。

勝蔵はこの様子を見ると
「なんと心得のない者達だ!乗打だと!?公方の御前ならばともかく、汝らごとき
侍分の為にこの勝蔵に下馬をしろと!?推参である!」
(元来心得ス者共也、乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ汝等如キ侍之為す分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推参ナリ)

そういって太刀を抜き、2,3人の首を落とし諸鐙をかけて橋を走り通った、
関守の侍たちはこれを大勢で追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く閉じるよう
呼びかけた。町人たちは二ヶ所の木戸を閉じようとした。しかしこれを見た森勝蔵が

「ものども!火を懸けよ!」

と叫んだため、町人たちは驚き木戸を開いた。ここから勝蔵は急ぎ伏見の信長のもとへ向かい、
御前に罷り出でると瀬田のことを詳細に申し上げ、「切腹つかまつる覚悟」を伝えた。

これを聞いた信長は笑いだした
「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊だとか。汝も今より武蔵と名を改めよ。」
そう、非常に機嫌よく仰せに成った。
万座の人々は「実に忠ある武士の例かな。」と羨ましく思った。

勝蔵はその年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と名乗った。

(兼山記)

鬼武蔵には自分の命令を違反されても自分が命じた関守を殺されても嬉しそうな信長公

805 :
史実だと武蔵守を名乗るのは信長死後の話だけど
いかにも鬼武蔵らしい逸話だな

806 :
字が書けなかったからだろ
記帳させたらバレるもんな

807 :
あの有名な妻宛の長可の遺言状は自筆だぞ

808 :
お前それ見たのか?見てもないのに自筆とか頭悪そうだね

809 :
おや

810 :
いつもの奴だから触るなよ

811 :
下っ端に厳しい信長さん。

812 :
いつものやつか

813 :
>>806
>>808
はいはい、自殺してからモノを言ってね

814 :
>>810
と言いつつ触るアホw
涙拭けよ盲従

815 :
>>814
きちんと自殺したか?

816 :
>>814
大丈夫か?涙拭いて吊ってこい

817 :
お前らが悪い話になってどうするんだよ……。

818 :
指摘されて発狂かw分かりやすいなwww
いいから涙拭けよ盲従

819 :
小牧長久手の陣において、羽黒合戦で若干の味方を討たれた森武蔵守(長可)は、
備の編成を変えるため移動し、小牧山の東北、二ノ宮の森の麓に陣を取った。
そこには朱の玉垣の花表(鳥居)があり、武蔵守も「いかなる神の社か」と思っていた所、
神主が現れ、武蔵守の御前に参り、このように申し入れた

「この神は深く穢を忌まれます。精進潔斎無ければ、花表の内に入ってはいけません。
殊に不浄の人馬を入れるなど、誠に勿体無い事です。諸人が木の枝を折ることすら
神慮計り難いのです。御陣場を速やかに改められるべきです。」

武蔵守はこれを聞いて激怒した
「悪しき神主の申しざまかな!意義があるなら鉄砲で討ちR!
(悪敷神主ノ申様也、及異議ハ鉄砲ニテ可打殺)
私は大義を思い立ったのだ、全く私の利益のためではない。それは神慮も鑑みるだろう!」

そう言っているところ、社壇の上に、長さ一丈(約3メートル)ばかりの蛇が現れ、
軍勢の方に向かい声高く鳴いた。
神主これを見て叫んだ

「御覧有るべし!あれこそ当社の御神体です!」

軍勢の者たちも驚いた。しかし武蔵守は

「この蛇を飼い置いて、土民共を迷わし金銀を取っておるのか!
井原はおらぬか!?あのような有様であるぞ!」

これを井原小市郎承り、腰刀を抜いて蛇を寸々に斬った。
そして武蔵守は

「そういえばここでは精進しろと言っていたな。」
そう言って切られた蛇を二口三口食い、残りは社壇に捨てた。
神主は身の毛もよだち、立ち退いた。

※この後兼山記の作者がこれだけでは鬼武蔵がやべー奴と思われると考えたのか、鬼武蔵とは
全然関係ない甲斐に現れた巨大鱸を漁師が獲って切り刻で神なんてものは人間が信仰するかどうかの
問題で云々とか書いてるけど割愛
(兼山記)

820 :
この後、亡くなったんだよね…

821 :
生蛇はだめなんじゃないか・・・

822 :
捕まえたマムシをその場で皮剥いで心臓を食った爺さん見たことあるから大丈夫なんじゃ

823 :
寄生虫やばいよ

824 :
蛇やカエルは絶対に火を通さないとだめ。

825 :
ヒャッハーすぎるぞ武蔵守

826 :
迷信打破って西門豹みたいなつもりなんだろうけどやり方が短絡的過ぎる

827 :
天正12年正月上旬の頃のこと
当時、白井長尾の家中には百人衆と言う、歩行の武士集団があった。
正月に、沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、私曲あって
沼田の真田家から立ち退き、白井に属し、この百人衆の一員となった。

ところが程なく真田家への忠信を立てて故郷に帰りたいと思うようになり、3人は談合して
この事を真田家の高橋右馬允へ申した。右馬允がこれを金子美濃に相談すると、
「その方、上田へ参りこれを注進せよ」という事になり、高橋は丸山土佐守、木村戸右衛門を
通して真田昌幸にこれを申し上げると、昌幸は非常に喜び

「神妙の事である。卒爾無きように計るべし!」

そう仰せになった。そこで高橋はお暇を乞い戸鹿野へと帰った。
かの3人の者たちは、指示に従い百人衆の朋輩たちをたぶらかした
「沼田の鹿野には有徳(裕福)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか。」
そうして130人が申し合わせ、林、吉野、井上が案内して戸鹿野へと忍び入った。

しかし、かねての計画通りであり、彼らが侵入した所で橋を外し、四方より取り巻いて
襲撃した。このためまたたく間に120人余が討たれ、水練の達者であった5,6人のみが
助かり、白井に帰ることが出来た。

この忠節により、高橋右馬允は昌幸より知行を賜った。

(加澤平次左衛門覺書)

828 :
うーん、敵方をほいほい受け入れてはいけないのだな。120人討死って、大損害じゃないの。

829 :
関白鶴ヶ岡参詣の事
秀吉鎌倉の鶴ヶ岡を詣でて、八幡宮の戸を開かせ頼朝の像を見られしが、背中を打叩き、
微賤より出て、日本を掌に握る事我と御辺と二人なり。然れども頼義父子鎮守府将軍とし
て東国の者共久しく親み多かりき。蛭が小島より兵を起こされしに、関東の靡き従えるも
謂われ無きに非ず。我は土民の中より斯く日本を思いの儘にすれば、功尚高し、と言われ
けり。                               (常山紀談)

 秀吉の感じが悪い話。この時点で、かなり調子に乗っていたのだな。ラスボス感が。
 そういえば、息子の世代で絶えたという点でも、秀吉と頼朝って、いっしょだな。どち
らも、一族や譜代の欠如が、弱点だったのかね。

830 :
>>828
この場合の120人て小者は無しだろうから
いきなり侍大将120はキツすぎると思う

831 :
大抜越中が歳暮に唐沢山城へ登城したとき、主君・佐野宗綱が私的な話として語った
「私は明元日に、名草より足利へ攻め入ろうと思っている。」

これを聞いて大抜は申し上げた
「正月朔日にかけて合戦をするというのは、古よりおおいに嫌われている行為だと言われています。
ですので味方がしっかりと防御の備を成す事こそ、敵の企みにも勝利するものであり、この方針を
取るべきだと考えます。」

これを聞いて宗綱は立腹し、機嫌を悪くした。
この頃佐野家中の家老衆は不和であり、家中では「大抜も小田原への内通から足利への内通へ
心変わりしたか」などと囁かれ、家中は「大抜方」「御家方」と二つに割れ、そのような中
たって宗綱に諫言する者も無かった。

この日、丑の刻に本城において、出馬する馬の先に、白き帷子を着た若い女が現れ歩いた。
人々が不思議に思う中、それはいずくともなく消え失せた。不思議な事であると諸人肝を消した。

足利の長尾顕長より佐野の抑えとして、彦間置かれた小曽根筑前は、佐野領方面が少々騒がしいと
聞いて、所々方々、山林まで人を出して情報を集めた所、佐野の軍が足利に侵攻する事を知り、
この城に構うことは無いと判断し、妻子以下を山林に密かに隠し、自身は寄騎弓歩の者たちを
召し連れ名草数葉那の寄居場へ馳参り、番の者たちにこの旨を申し入れた。これにより貝鐘立てられ、

まず最初に名草に置かれた芳賀右衛門が半月の指物と馬印にて歩弓を召し連れ馳来た。
2番に柳田隼人、山下播磨、泉新十郎、岩下右近、杉木修理など馳来た所、早くも
佐野の先手である富士源太、山越才吉両人が名草まで打ち出た。
足利では元旦のことでも有りこのような事が起こると思わず、周到狼狽して騒いでいた。

佐野宗綱は強気の大将であったので、旗本後巻ともに勇早めんと考え先を進んだ。
旗本すら追いつけないほど馬を早めたため、御鑓持の一人など、馬の尾に取り憑くほどに
駆けたが、閑間河原で吐血し即死した。旗本勢も早馬にて付いていこうとしたが、大将の御馬は
肝強き故に、4,50町(約4,500メートル)ばかりも離されてしまった。

こうして、数葉那坂まで一人で出てしまった宗綱を、数葉那の足利勢はもとより大将とは
知らなかったが、佐野勢と見て、小曽根筑前が声高に名乗った
「私は小曽根筑前である!私は佐野家が彦間に置いた小野兵部を討ち取り、その後も
御当家に対して度々敵対致しておる!今度の佐野による侵攻ことも、既に長尾顕長公へ申し遣わし
この寄居に名草六郎とそれがしの一家、その他籠もっている。そなたの後に続く同勢へ弓鉄砲を
撃ちかけ申す!」

これを聞いた佐野宗綱は、内々に数葉那の寄居を攻め落とし足利を奪い取り長尾顕長の首を見て、
その帰路に小曽根筑前を討とうと考えていたのだが、慮外の広言でありこれを一攻めにせんと采配を振った。

しかし、旗本たちが続いて来ていると思い振り返ったが、誰も居なかった。
しばらく佇んでいた所、御武運の尽きであったのだろう、一発の銃弾が胸に当たり落馬した。
そこに足利方の豊島七右衛門という軽輩が、大将とも存ぜず走り寄って首を二太刀切りつけたが、
宗綱は
「うろたえ者め!綴を巻いて斬っている。その方の太刀では無理だ、私の首切り(脇差)にて切れ!」
そう言ったため、七右衛門は宗綱の腰に挿した脇差を抜いて首を取った。

七右衛門は、「きっと佐野の先手の物頭が、血気に逸って一騎で参ったのだろう」と思っていたが、
馬具が非常に物の良いことに気が付き、「これは大将ではないか?」と疑い、大勢にこの首を
見せると、その中によく見知ったものがあり「それは大将の宗綱公である!」と申したことで、
足利勢はどっと悦んだ。

ここのようやく佐野の旗本が駆けつけたが、足利勢の「大将宗綱公、只今討ち取ったり!」との
大音声に、「この上は一命を惜しむことは出来ない、必ず足利を攻め落とす!」と喚き叫んで
攻め、足利勢を押す勢いであったが、ここに足利の援軍として、樺崎より新井図書、大沼淡路、
市川右衛門、久米伊勢、その他の足利勢が多数集まったため、大将も不意に討ち取られた以上
是非もなく佐野勢は方々へと退却した。

(唐澤老談記)

832 :
大将が一人だけ前に出すぎて討死って、かなりアレだな。

幽霊がどういう意味を持つかいまいち分からない。宗綱の死を予告したってことかな。
しかし、不運による討死というより、完全に自滅だろう、コレ。

833 :
信長も一騎駆けしてるじゃん
馬廻が付いて来たから良かったものの
駄馬じゃなかったら敵中孤立してたね

834 :
>>832
バンシーみたいなものか

835 :
>>831
>出馬する馬の先に、白き帷子を着た若い女が現れ歩いた。
死に装束?不吉な…。

836 :
豊臣秀吉が五畿内の軍勢数万騎にて小田原の北条氏直を攻めると、諸軍勢に軍法を下された頃、
佐野天徳寺はこう申し上げた
「今度の小田原攻め、御先手をそれがしに申し付けください。」

秀吉はこれを聞くも
「貴老は人数も持たないではないか、一人では何も出来まい。」

しかし天徳寺
「今回、御先手を申し付けていただければ、野州佐野へ申し遣わし、故宗綱の家来が
五百騎ばかりが居りますので、彼らを呼び寄せ、御先手を仕ります。」

しかしながら、秀吉は考え深き大将であり
「いやいや、佐野に残った侍と言っても、もはや数年前の事であるから、今は思い思いに散らばり、
そのように働く事が出来るとも思えない。もしそのような状況ならばどうする?」

「宗綱の侍は代々譜代の者たちですから、他国を頼んで出ていくことなどありません!」
そう、達って申し上げたため、秀吉も「そういうことなら貴老の望み通り、先手をせよ」
と仰せになった。

そこで天徳寺は早速佐野に、この旨を伝えたが、天徳寺の考えに相違し、秀吉の考えの如くに、
佐野の侍たちは方々へ散り散りとなり、あるいは小田原に人質として入り、集めることの
出来るのは百人以下という有様であった。

天徳寺はこの現実を見て、さても是非無き次第かなと、面目を失った。
それより少し、秀吉公の御前に思し召される事が無くなったという。

(唐澤老談記)

837 :
ほんとに悪い話だ。
関東の国衆って、けっこう小田原に入って、滅亡した家が多い感じ。

838 :
天徳時さんの目利きの甘さと秀吉の読みの鋭さよ…
せめて人を集めてから申し出るべきだったな

839 :
岐阜四天王(ただし一人)

 「常山紀談」178話(巻12)は、関ヶ原の戦いの前哨戦、河田木曽川渡河の戦いにおい
て、池田輝政家臣の森寺長勝が、織田秀信配下の飯沼小勘平を討取ったエピソードである。
互いに傷を負いながら、最後は組打ちで、小勘平は討取られる。まあ、合戦場での戦功と
いう良くあるエピソード。
 しかし、本エピソードが印象的にするには、飯沼小勘平の肩書き。「岐阜四天王」の一
人と称されるが、四天王のうち、他の三人が誰か不詳という。現代語訳本の解説には、
「俗に、『岐阜四天王」は小勘平以外にその父勘平長実が入るともいうが、残り二人とと
もに未詳」と書かれている。つまり、確定一人、不確定一人、ほかは名前も伝わらない。
 四天王(五人)とかよく冗談にされるが、充足率半分以下というのは、あまり聞いたこ
とないなあ、と。

 ちなみに、飯沼小勘平を討ち取ったのは、池田長吉という説の方が有力らしいが…
若武者・飯沼長資
ttp://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/nagasuke.html

840 :
>>839
>岐阜四天王(ただし一人)
雑すぎて草

841 :
残りは百々綱家と木造長政と斎藤元忠が入りそう
あと加えるなら滝川主膳か

842 :
秀信は身分のわりに石高なんでこんなに低いんだか…

843 :
実績がないから

844 :
朝鮮に行った実績はあるお

845 :
あとは四天王(2人)と四天王(3人)が揃えばコンプリートだ

846 :
憲政四天王、という言葉があるか知らないが
伊藤博文、板垣退助、大隈重信
(国会議事堂の台座は四つあるのに
「憲政に終わりはない」ということで3人の銅像だけ)
わざと一つだけ空席にするというのはあり得るかも
それか武田二十四将みたいに当主が含まれるから実質マイナス一人とか

847 :
四天王って5人いるもんだと思ってたわ

848 :
南部越後母衣串をぬかざりし事

岐阜の城攻に、池田家の士南部越後門際に押詰めたるに、門の潜戸狭く、懸けたる母衣に
支えて入り得ず、側より、母衣串を抜いて入るべし、と言え共、否々たとえ入り得ずとも
此母衣は脱ぐまじ、と呼はる。其中に門開きて馳入りたり。其武者振甚だ見事なりし、と
其時の人言いしとなん。
(常山紀談)

 ちょっと、かっこ悪い話。
 くぐり戸に、母衣が引っかかってじたばたしているシーンを想像すると、ちょっとかわ
いい。武士は目立ってなんぼやな。

849 :
入ってからあとは見事だったんか

850 :
忍者みたいに、門を上から乗り越えたらいかんのか?

851 :
織田信長の次男(三男)である三七信孝は、永禄11年の伊勢攻めの際、神戸具盛との和睦に際し
15歳にて具盛の養子となったのだが、実は当初、信長は「同じ一族の内」と言うことで、
神戸氏の親族であり織田方であった関安芸守盛信の子息、関勝蔵を神戸家の養子とするという
約束をしたのだが、それを違え信孝を送り込んだのだった。
それ故か、神戸具盛は信孝を粗略に扱った。

これに対し信長は、元亀四年正月、神戸夫婦が年始の礼に参った際、彼らを取り押さえ、身柄を
蒲生賢秀に預け、近江国日野城に幽閉した。また信長は関死に対しても悪く思われ、彼らの所領を
没収した。

神戸具盛はその後、日野にて相果てたという。

(氏ク記)

852 :
関氏はのちに蒲生の配下になったから脚色でもされてるのかな
勢州軍記とはまた違う内容だ

853 :
関死の誤字はちょっと笑った

854 :
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏ク記)

有名な「セキレイの目」の逸話

855 :
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 :
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 :
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 :
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 :
東北勢みんなそうやろ。

860 :
先祖代々の領地は没収、騒動を起こした土地を代わりにあてがうとか罰ゲームだよね

861 :
>>858
関ヶ原後も大して変わらんような…

862 :
関ヶ原では上杉討伐で最重要な位置だったのだし、結果的にほとんど意味のなかった
東北の戦いだけど一応の役割は果たしているし。

関ヶ原後も、松平忠輝絡みで中央と絡んだし、大阪の陣もあるし。

863 :
朝鮮の役にて、秀吉が本営である肥前名護屋城に滞在する間、蒲生氏郷もこれに従っていたため、
本国の会津には留守居を置いていたのだが、その留守居である蒲生四郎兵衛と蒲生左門とが、
私に合戦を行いかけた事があった。

この蒲生左文郷可というのは北近江の住人で、上坂伊賀守の子、上坂兵庫助の養子であり、
氏郷にとっては従兄弟の婿であったのだが、かつて浅井長政に味方して本領を失い、
その後柴田勝家に仕えたが、勝家死去の後、左文は氏郷を頼って秀吉に仕えることを望んだ。
しかし氏郷は彼の武芸を常々見聞きしていたので、「先ず我が家中に迎えたい」と、彼を
召し抱えた。このように望まれての奉公であったため、何事も自由に出来、やがて蒲生家中でも
屈指の存在と成った。

去る年も、蒲生氏郷より。米沢城に3万8千石を副えて、ここに左文を置き「百万石の
仕置をしてもらいたい。」と懇願された。しかし左文はそのような仕置は自分には出来ないと、
固く辞した。「では、誰に仕置を任せるのが良いか」と尋ねられ、「蒲生四郎兵衛尉こそ
然るべきです。」と答えた。これを聞いて氏郷も「私もそう思う」と同意し、米沢城は
蒲生四郎兵衛に任された。

ところが近年になり、この蒲生左文と蒲生四郎兵衛の関係が悪化した。
蒲生四郎兵衛は左文に「あなたは筋目の者だからこそこのように指図をしているのだ」と
語ったが、関係はますます悪化するばかりであった。
また双方の領地である米沢、中山は近接した地域であったため、四郎兵衛の領地より
逃亡してくる者があれば左文はこれを保護し、左文の領地から逃亡する者があれば四郎兵衛が
保護した。

ある時、蒲生左文の領内の者が逃亡したが、左文は侍分の者たちに下知して米沢領分へ押し込み、
これを搦め捕って帰った。
また四郎兵衛の領内の者が逃亡してきた時、侍たちがこれを取り返そうと、文禄元年10月16日に
押しかけたが、左文側によって寄騎の侍5騎、その他大勢が討たれる事態となり、これにより
事が大きくなり、合戦に及ばんとした。

左文方の武士たちは、中山、宮内の両城に立て籠もった。さらに白石の蒲生源左衛門も四郎兵衛と
仲が悪かったため、左文に味方し加勢を送った。また左文の舎弟上坂源之丞も加勢として参った。

しかしながら、蒲生四郎兵衛方の長谷川如水の分別のお陰で、合戦にはならなかった。

この時蒲生四郎兵衛も蒲生左文も会津に居たので、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生喜内等が
扱いを入れ、無事に調停されたという。

(氏ク記)

氏郷が居ないとバラッバラな量産型蒲生さん達であった。

864 :
長谷川如水の分別って、なんだったんだろう。
しかし、関わっているのが、蒲生さんばっかりで、区別がつかない・・・

865 :
蒲生だらけの運動会

866 :
>>863
量産型蒲生わろたw

867 :
近江の上坂氏は3系統あるらしいけど、上坂伊賀って浅井が台頭する前に権勢を誇っていた上坂治部大輔と関係あるのかな?

868 :
毛利孫左衛門、村山越中を詰る

 大坂冬の陣の時の話。

 池田左衛門督忠継の使番、毛利孫左衛門が先陣に出向いたところ、村山越中が毛利に向
って、「俺、今朝からずっと前線に張りつきっぱなしで疲れたよ。指物も鉄砲に撃たれま
くってボロボロになった」という。

 それに対して、毛利は「俺は、500人の侍の中から選ばれて、母衣を許された者だ。お
前になど騙されない。お前は竹束の陰から出ていないだろう。その証拠に、指物の先の方
しか破れていない」と答えた。
 村山は返す言葉がなかった。

 常山紀談より意訳。

 ばつが悪い話。
 なんで、毛利孫左衛門、こんなけんもほろろな対応なんだろうと思ったけど、この村山
越中さん、かなり評判の悪い人だった模様。
 ウィキペディアの杉原重政の項目によれば、1601年に諫言した杉原重政を上意討ち。同
年、岡山城の金蔵から金を盗み出奔。3年後に池田忠継に仕えるが1606年に私闘で殺人を
犯してまた出奔。加賀前田家に仕える。しかし、周囲と争いが絶えなかったため、翌年暇
を出される。その後、備中で重政の息子、重季に仇として討ち取られる。
 かなりのトラブルメイカーで、おそらく池田家中でも、あちこちで衝突していたのだろ
うなあ。

869 :
訂正。池田家出奔は、1616年。

870 :
 上でやり込められた村山越中。
 他の軍記では、同じ大坂冬の陣で、剛勇を見せたという記述があったりもする。国会図
書館のデジタルコレクションに収録されている「武人百話:精神修養」という本では、橋
の上で、敵弾の下、友軍が放置した竹木縄を回収して、掃除して、自陣に戻ってみせたと
いうエピソードが収録されている。

871 :
石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた
「現在は、御世長久に治まり四海の内に旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、そして実施されている法度の数々には
目を驚かされました。

あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」

秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、家康は謀に達していた
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。

しかし氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、秀吉が
警戒したのも仕方がないのだが、かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため
「人知れず毒飼いをせよ」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。

この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、名護屋にて宗叔の薬が合うのでは
ないかと言われ、彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。

この年の12月朔日、太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ」と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。彼らは皆「重体です」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を
用いた。しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった

「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」

未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで
泣き悲しんだが、もはや詮無きことであった。その後葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して
一時の烟となった。その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。

(氏ク記)

有名な蒲生氏郷毒殺説のお話

872 :
氏郷記って、政宗が毒を持ったという話もあるし、毒が大好きなんだな。

873 :
病気で早世したというよりは、有能さを恐れられて毒殺のほうがカッコイイということか。

874 :
肝硬変の症状だな

875 :
肝硬変、肝臓がん、直腸がんなどの説があるねい。
んで、症状や闘病期間から毒殺はまずありえないというのが定説。

876 :
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…

877 :
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

一揆の長、四郎が首を細川家の足軽陣佐右衛門取りけり。二の丸にて鉄砲に中り、倒れし
者の首を斬りしに、忠利前髪有る首を選り出させ、鞭にて彼首を指し、四郎が首とも覚し
きに、誰か見知りたる、と問う。須佐見権之允、四年以前に四郎を召使いし事の候。紛い
無き四郎なり。左の耳の下に瘤の候。是其証なり、とて生捕りたる四郎が母に見すれば、
吾子なり、とて泣倒れしかば、忠利使を立てて首を石谷十蔵の方に送られけり。後陣に千
石の禄を与えらる。

(常山紀談)

 誰か分かって取ったわけではないのだな。二の丸で銃弾に当たって倒れていたというの
が不審。吉村豊雄『天草四郎の正体」によれば、量産型天草四郎が一杯いたそうだが。

 千石の俸禄を得ているにしては、その後、細川家の家臣団に陣氏って見かけないような。
どうなったんだろう。

878 :
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと

879 :
結局、遅かれ早かれだったな。

880 :
横からわるいけど
こないだ加藤清正公の菩提寺である熊本県の本妙寺にいったんだけど。。。。。。。。。。。
大規模なお寺なんだけど。。。。。
先の震災のあと何も復興されてなくて、荒れ放題になってんの。
国も県も何もしてくれないとかで。。。。
熊本県はお寺に石灯篭を献上するのが風習みたいなんだけど
その何百という灯篭が倒壊したまんま、清正公の墓を守してきた一族の大きな墓所も壊れたまんま。
清正公があまりにもお気の毒。熊本は熊本城をシンボルにして観光やってるのにさ
菩提寺の惨状には知らぬ存ぜぬ。おかしいんじゃないの?

881 :
マルチ辞めろ

882 :
乞食すぎだろ…

883 :
天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、
五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。
これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。

伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。

三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。
宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。
以降、切支丹は厳重に禁止された。

(長澤聞書)

884 :
キリシタンって普通に他宗を攻撃する排他的なカルト教団だし
弾圧されるのも残当

885 :
キリスト教が長崎でどんだけ破壊と殺戮やったか知ると、そりゃ報復も苛烈になるわって思う
松倉勝家がどうであろうと、キリスト教を旗印にして嫌がる村まで道連れに軍事反乱まで起こしてるし

886 :
ほんまかいなというエピソードだけど・・・

887 :
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる


尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。

仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。

善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院は
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。

善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院は
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。

このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。

和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。


――『池田家履歴略記』

* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
 恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
 子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。

888 :
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。

889 :
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家

890 :
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 :
喧嘩という名の局地戦。

892 :
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 :
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 :
あら^〜

895 :
どこからそうなるんえ?

896 :
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
「片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。

897 :
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 :
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

899 :
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。

900 :
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』

901 :
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 :
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 :
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 :
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 :
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 :
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる

907 :
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

908 :
父親大激怒。

909 :
自由民主党の党首は大東亜戦争を肯定しており
党の名前と違い主義は極右の民族主義で
北方領土問題では戦争を示唆する発言をし
アジアの国々を再び自国の支配下に置こうという意図を持っており
あの民族の血を引いていながらあの民族を激しく批判しており
国内の少数民族を差別する発言を繰り返し
アジアや欧米から危険な右翼と言われている人物だ

910 :
スレ違いのパヨチン

911 :
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 :
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

913 :
上杉謙信の家臣団といえば上杉二十五将などとも言われ著名な武将が多い。
そんな上杉家臣団を見ていて気付くことがないだろうか。

…あれ、謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

そこで有名どころの生年と第四次川中島の時の年齢を上げてみる。

柿崎景家 1513年(48歳)
宇佐美定満 1489年(71歳)
色部勝長 1493年(68歳)
北条高広 1517年(44歳)
本庄実乃 1511年(50歳)
中条藤資 不明だが1494年には家督を継いでいた(70歳以上)
安田長秀 1516年(45歳)
直江景綱 1509年(52歳)

参考までに主な武田家臣の生年と年齢も。
山県昌景 1529年(32歳)
高坂虎綱 1527年(34歳)
内藤昌秀 1522年(39歳)
馬場信春 1515年(46歳)
山本勘助 1493年(68歳)
真田幸綱 1513年(48歳)
原虎胤 1497年(64歳)
小山田信茂 1539年(22歳)

またその子供も随分歳が離れているのが多い。長子と思しき人物との生年と年齢差も書いてみる。

色部勝長 ー 色部顕長 1549年(56歳)
安田長秀 ー 安田堅親 1557年(41歳)
中条藤資 ー 中条景資 1532年(40歳以上)
直江景綱 ー お船 1557年(48歳)

また柿崎景家の子柿崎晴家は生年不明だが1570年に人質に出された記録があり、この頃はまだ未成年だったとすると景家40歳頃の子供となる。

914 :
安田長秀の末裔が言うには有重という子がいたらしい
親子ともに治部少輔を自称、母は長尾政景の妹、妹に安田堅親の室
因みに堅親は河田からの養子で有重の跡を継ぐ、兄が長親
他の者も親子同じ官名を自称して実名が表記されてないから混同されてんじゃね?

915 :
柿崎晴家は次子
長子祐家は天正元年越中朝日城攻めに名が見える
のち親子ともども誅殺されたのか討死、病死かは不明

916 :
大昔って大した娯楽がないから毎晩セックス三昧っていう暮らしだと勝手に想像しているんだが
子が生まれても女子だったり寒さで流産したりと跡継ぎが出来にくい土地柄だったのかしら

917 :
織田家部将の子どもの少なさ考えたら少なくとも身分ある武士がセックス三昧とはとても

918 :
戦国武将って、あちこち出張しているから、ゆっくり致す暇もなさそう。
特に、信長以降の天下人の部下は東奔西走しているからなあ。

919 :
あの時代は危険日(冷静に考えると変な言葉)とかわかってなかったんだろうし、それこそ運任せだったんじゃね。
戦があれば何ヶ月も帰ってこれないし、そら側室たくさんいても子供簡単にできないわな。

920 :
>>913
謙信の場合、一応父親と兄の代の家臣団をそのまま引き継いでいるので年齢高めなのは仕方ないかも。
家督継ぐ前に自分の家臣団を形成したような感じもないし、若手を大量抜擢とかもしてないようだし。
長子との年齢差はよく分らんが、、、謙信が遠征に引っ張りまわしすぎて作る暇もなかった?

921 :
古の軍記等には虚説が多いと言うが、それも当然であろう。
信長記、太閤記などを読むと非常に虚説が多い。近頃なら難波戦記、島原記などだが、
私はこれらの戦いを実際に近くで見及んだわけだが、これらの書物は、書くべきことを
書き漏らし、書く必要も無いことを、さも大事な事のように書いている。

こういう近年の事例から、古についても察するべきである。

(渡邊幸庵對書)

922 :
>>921
そりゃそうだろうけど
お前が言うなよw

923 :
130歳まで生きたと称している時点でアレ過ぎるわな…

924 :
>>921
このスレにも書き込んでそう

925 :
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。

926 :
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし

927 :
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・

928 :
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?

929 :
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ

930 :
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』

931 :
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰

932 :
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

933 :
文明9年11月、将軍家(足利義尚)より東西の陣に上使が立てられ和平をなした。
「各々戦を止め自分の領邑に戻り兵士を休めて将軍家の命を受けよ」
東軍西軍である細川山名の両家とその従類はその命に従い自分の領邑に帰った。

しかし11年の兵乱に都鄙尽く衰微し、世路を渡ることも成り難い有様であった。
そこで将軍家は所司代、奉行人らと協議して、『天下徳政』と称して、福人の財貨を借り取り、借り捨てとして
返済の沙汰を禁止することとした。

ところが奸邪の者、すばやくこの事を聞きつけて、村里近隣の馴染みの者の家に行き、当座の銭や鎌鍬に至るまで
借り取って返さず、その内に徳政の触れがあると貸主の家に行き、あたかも迷惑のような振りをして
「これを返せば法令に違う、返さずば芳志を失う。どうにも出来ない。」などと騙し、結局はこれを奪った。

このような者たちに対し天下の人々は「奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。これが天道の応報というものだ」
などと言い合ったという。

(南海通紀)

934 :
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話

935 :
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』

936 :
備後神辺城は尼子方である山名氏の重臣、杉原氏がこれを守っていたが、大内方の圧迫に耐えきれず、
天文19年10月13日、ついに城を明け渡し、出雲へと撤退をした。

ところが、丁度その頃、尼子晴久は家臣の目黒新右衛門に、兵500を付けて命じた
「神辺へ向かい、杉原を救援するのだ。」
目黒はこの命に感激し、畏まりて

「御家人多き中に私に仰せ付けられたこと、この御厚恩何を以て報いるべきでしょうか。今回
城を助けることが出来なければ、私は二度と当国の土を踏みません!」

そう誓言して出発したが、その途中で、撤退中の杉原の一行に出会った。
目黒は驚き「これは如何に?」と問いただすと、杉原は開城したことを説明した。
目黒も尼子晴久より救援の命を受けた旨を説明したが、「今は軍勢を率いて馳向かっても無益である」と、
軍兵達は杉原に付けて出雲に下らせ、自身は一人で神辺へと向かった。

そして城へ付くと、神辺城を接収した大内方の平賀氏へ検使を出すことを要請した。
「主君との一言の約によって、臣が百年の齢を誤る。」
そう言って腹を十文字に掻っ切って頸を伸ばして待ち、平賀よりの検使である坂新左衛門が首を打ち落とた。

その後、頸は出雲へと送られた。

この目黒新右衛門には二人の息子があったが、尼子晴久は「目黒家は小身であるから」と、目加田の家を
継がせた。この目加田采女、弾右衛門尉兄弟は、父にも大人ぬ勇者として聞こえたという。

(安西軍策)

ええ…、これで腹を切るのか…。

937 :
武士のメンツを意地でもたてるいい話やないすか

938 :
>>936
最後の行

× 父にも大人ぬ勇者
○ 父にも劣らぬ勇者

スイマセン…

939 :
>>936
気がくるっとる(^p^)

940 :
狂ってるも何もこれが武士やろ

941 :
武士がこうするのにも理由と言うものがあってな

942 :
本人のせいでないのに負け戦巻き込まれを回避しつつ面目躍如で子孫も安泰
変に突っ込んで討ち死にせずに敵の保証までつくという計算高さも素晴らしい

943 :
面子>>>>>>>>命だから、命を捨てても面子が立つのなら、それでOKだからなぁ。

944 :
武士は面子じゃなくて面目な

945 :
永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと
言われてしまうと考えた。そこで、尼子方の秋上伊織に使者を出して申し述べた

『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。

しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。

そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って旗を揚げるであろう。』

これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、鹿介「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」と
急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。そこでかねての約束を信じ油断して
待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は「方便にかかった」と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて
想いのままに射させた所、敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、引き色が見えた
所で、隆重は「時分良し!」と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。

山中鹿介らは、天野隆重に謀られ諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。

(安西軍策)

946 :
その心持ちがないのは不孝だ


池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。


――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。

947 :2018/07/25
>>945
これ、小説だと、秋上が功にはやって受け入れる、山中は怪しいと止めるエピになってるよね。
秋上がその後裏切るのはこの時の不面目を引きずったからとか。

末路があまりにも悲惨だった人物
【敦賀城主】大谷吉継 2【刑部少輔】
【若狭】武田氏総合スレ上総】
【信玄】甲斐武田氏総合スレッド【勝頼】其の四
上杉謙信とその周辺の国の確執
大坂夏の陣の時に秀頼が出馬すれば勝てたのか
結局【謙信最強】を認めざるを得ない 3陣目
小早川秀秋を悪く言いすぎ!!!
歴代足利将軍を語る
織田家のマイナーな武将を語るスレ
--------------------
今期のアニソンについて語るスレ68

【ギター】エフェクター総合スレ【ベース】
牛乳スター☆AAスレ★3
女神転生を語るスレッド 其の伍拾玖
[最高] リョーユーパンのマンハッタン
【自粛は】史上最強海技士あまねこ その4【4日間】
【韓国】「タクシーがなかなか拾えなくてかんしゃく起こる」〜女性運転手に暴行(写真&動画)[02/11]
【デレステ】スターライトステージ★11832
【GREE】探検ドリランド B286F
2ちゃんねる専用ブラウザ開発者のスレ 1
【Basic】プチコン4総合スレ【Switch】PRG1
医師が『絶対に食べたくない食べもの』3位菓子パン、2位ハンバーガー全般、1位はなんと… [966973602]
【巨人vs御子vs虚】白猫テニス 768球目【他モブ多数の公式大会】
高橋一生 と 長澤まさみの噂2
【ネトウヨ右往左往】反安倍率急上昇!安倍政権の新型ウイルス対策に不満爆発 ★4
【日韓】河野外相発言で浮き彫りに…価値観が根本的に違う日韓は歩み寄れるのか? 法よりも 感情を優先する韓国[05/24]
【8kun】トランプ政権のインサイダー 「Q anon」 リーク情報★29
ベンチプレスMAX60kgを目指すスレ
こんきあにめすれ
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼