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関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part26


1 :
関ヶ原合戦(本戦)に限らず、関ヶ原戦役として捉えてどうすれば西軍が勝てるかを模索しましょう。



前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part25
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1563146550/

2 :
史実時系列表(仮・本戦後を加筆)

6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
6月23日 細川忠隆隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
6月27日 細川忠興隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着、毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月4日 瀬田の砦構築完了
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月16〜17日 市橋長勝・徳永寿昌・横井時泰らが福束城を攻略。
         福束城主丸毛兼利、大垣からの援軍伊藤盛正・武光忠棟・石田らは敗走
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月19日 市橋・徳永らは高須城高木盛兼、駒野城高木帯刀、津屋城高木正家を攻略
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日  京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9〜10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日   関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走

3 :
9月16日 伊勢亀山、桑名城など東軍に降伏し開城
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)、佐和山城落城、大津城開城、大垣城から相良秋月高橋などが降伏
9月18日 東軍前田利長小松城を開城させる
9月19日 東軍前田利長北ノ庄城を包囲
9月20日 大垣城の福原長堯が降伏
9月20日 家康大津入城、秀忠大津に到着
9月24日 権中納言九条忠栄が家康へ戦勝祝い
9月25日 輝元大坂城退去、福島黒田らが大坂入城、増田長盛、高野山へ退去
9月27日 家康大坂入城
10月1日 恵瓊、行長、三成が斬首される

4 :
8月20日時点での西軍戦力表
大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700

岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000

犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
     加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
     計7000

伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000〜8000(推定)、
おそらく南濃周辺:長島城への備えとして原勝胤(長頼)800

近江草津:宇喜多秀家10000〜15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)

伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、吉川広家ら5000、
  後続として毛利秀元ら1万、長曾我部盛親2100、鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700

その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。

瀬田守備隊等
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、

あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
大坂は輝元・元康15000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、
その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。

秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。

それと「9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)」
これは8月下旬以降、垂井〜赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2〜3日は到着が早くなる。

毛利は、毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)と仮定
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)

なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。

■安濃津城攻城戦での吉川隊(秀元等他の毛利含めず)の死傷者数。

・戦死75名、負傷226名。死傷者計301名。
負傷内訳:銃創126名、槍創60名、矢創24名、刀創1名、銃槍創5名、銃矢槍創2名、
       矢槍創8名、計226名。

吉川広家が推測で兵3000引き連れていたとしたら、安濃津城力攻めでの死傷率は10%と言える。
けっこう高いね。
毛利の他隊も同様の損害が出てるなら、南宮山の秀元&吉川は13500くらいかもしれない。


それと東軍先発隊の兵数については、一般的には渡河部隊約35000と言われているけど、
>>5にあるように福島覚書準拠でいくと49300〜58000くらい?となる。
かなり差があるのでこれをどう見るか、だけど。

5 :
8月22日木曽川渡河美濃侵攻時の東軍陣容(兵数は福島覚書準拠)

上流渡河組:池田6500、浅野5000、堀尾4000、山内2600、有馬豊氏2200、松下重綱1000、
        一柳直盛ら計21300〜22000

下流渡河組:福島6500、黒田1300、加藤1600、細川2000、田中4000、藤堂1500、筒井1000、
        京極1500、本多俊政、生駒一正、松倉重政、神保相茂ら計20000〜22000

下流渡河組の後続として本多忠勝、井伊直政。

犬山城の抑えとして中村一氏代理の中村一栄ら3000〜4000

清洲城守備:石川康通、松平家清、奥平貞治、(松平忠吉)ら1050〜4000くらい?
長島城:福島正頼、援将山岡景友、計780余

これとは別で徳永寿昌、市橋長勝らが8月中旬頃より木曽川方面の西軍諸城攻略して暴れてる。


あと木曽川渡河後は大垣城からの後詰阻止隊として黒田、藤堂、田中の陣容。

伊勢の東軍方は、安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉(史実では
寡兵での上野城防衛は困難とし安濃津城の富田に合流)、
松阪城の古田重勝、岩手(岩出)城(三重県度会郡玉城町岩出)の稲葉道通、
あとは去就不明の桑名城の氏家行広。


池田家履歴略記 巻之三には
上流渡河組18250余、下流渡河組16730余、とある。



上流渡河池田隊:18250 下流渡河福島隊:16730
犬山城抑え:3000〜4000 清洲城守備:1050〜4000?  
東軍先発隊総計約39030〜42980。 なお松平忠吉は駿府在番説と清洲滞在説あり。

6 :
伏見城攻防戦について
大雑把に
7月19日朝 城方鳥居勢が城外に出て近隣を放火
19日夕方 西軍が伏見近郊に到着し始め散発的に銃撃戦がある
20〜21日 西軍が外堀に取りつく。銃撃戦が激しくなる
22日 宇喜多、小早川、鍋島到着
23〜24日 西軍の銃撃が昼夜に及ぶ
25日 宇喜多秀家が陣立てをあらため諸将の攻め口を決める
26〜28日 西軍昼夜銃撃
29日 石田三成督戦に訪れる
30日 西軍力攻め、総攻撃4回敢行。城方死傷50余、西軍死傷500余
8月1日午前0時 松ノ丸で甲賀者の内応により火災発生、名護屋丸にも延焼
これを機に西軍突入、松の丸、名護屋丸陥落
午前10時頃より総攻撃再開、島津、治部少丸突入、治部少丸陥落
午後3時 伏見城落城


こんなかんじ。たしかに石田が来るまでは銃撃戦ばっかり。
だが西軍もまともに兵力が到着したのは22日で、仕寄って堀埋めて
30日に力攻めしてみたが大損害。
8月1日に城方の内応が出たのでそれを機に陥落。

これ城方の内応がなかったらもっと長引いてた可能性あると思う。
力攻めの寄せ手の損害数が大きすぎる。
伏見城は相当な堅城だったということだと思う。
瀬田で東軍を迎え撃つ、という方針になるのも無理はないと思う。
この彼我損害比ではもっと早い日時に力攻めしてても落ちないと思う。



関東方面在番状況

宇都宮城:本丸結城秀康、蒲生秀行、二の丸小笠原秀政、三の丸里見義康、
       宇都宮城総計約18000?

大田原城:大田原晴清、那須資景、福原資保、千本資勝、大田原増晴、岡本義保、
       伊王野資友、服部正成及び伊賀衆。

黒羽城:本丸岡部長盛及び甲賀衆100、二の丸服部保英及び伊賀衆100、三の丸大関資増、千本義定

鍋掛:皆川広照、水谷勝俊

蘆野口:蘆野政泰、  伊王野口:伊王野資信、

烏山城:成田泰親
厩橋城:平岩親吉
高崎城:諏訪頼水

江戸城:本丸松平康元、石川家成、松平清宗?、菅沼定盈、諏訪頼忠
     西の丸武田信吉、松平康忠、天野康景、
    

特記点としては、6月下旬頃より家康の指示で、大田原城、黒羽城は1000人規模の人足を
動員しての防備強化普請を行っている。
同じく宇都宮周辺も、秀忠、秀康らによって約一ヶ月間強化普請を行っている。
兵数については不明部分も大きく、わかる方いれば補足、訂正等よろ。

7 :
岐阜城後詰決戦の叩き台のプラン。
これを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。
以下コピペ。

403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R
>>374
長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。
そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。
織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。
そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。
痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。
そして武田軍は大敗。

これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。
宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。
岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。
部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。

そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。
しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。
甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。
東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。
そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。
岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。

8 :
史実での岐阜城は黒田、藤堂、田中の大垣からの後詰阻止隊を抜いたとして、
東軍21000〜23000対岐阜城2000〜3000.
それでも戦力比7〜11倍。単純に戦力比で落ちてもおかしくない計算。
それに加え敗走後の低士気状態、秀信の微妙采配、守備兵戦力分散、
ろくにしてないであろう籠城準備(野戦築城含む)
そりゃ1〜3日で落ちるだろう。

これを島津義弘1000を加え、8000で籠城準備もするなら落ちないか、落ちても東軍は甚大な損害を被ると見る。
29000対8000でも戦力比約4倍。この条件での攻城例がほとんどないように、一般的にこの戦力比、
守備兵数で力攻めは考えにくい。それでも力攻めするならその根拠を提示すべき。

9 :
■■1■■
798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:21:52.18 ID:aAd9kU2e [2/6]
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが

徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている

もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。

※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ  岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた

■■2■■
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:14:03.72 ID:jiua8RjV [14/17]
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流

膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…

■■3■■
810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 22:35:55.59 ID:aAd9kU2e [5/6]
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000〜2万(丹羽3000を付け加えるなら21000〜23000)と思われるので、
北ノ庄の16000〜17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。

大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。

10 :
以前のスレの岐阜城後詰決戦案まとめ

原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>7
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>8
岐阜城早期落城させない為の手段が>7の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700

8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川15000、安国寺1500、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊19600南宮山到着。

東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>7の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>9の1
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9の2のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>9の3

なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>7の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か

東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後


家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる

8月下旬〜9月上旬までが勝負

11 :
岐阜城関連

岐阜市 史跡岐阜城跡保存管理計画書
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/4567.pdf
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/3-4567.pdf

山上部・山林部の分布調査では、金華山及び周辺の山の尾根線上に多数の遺構が存在すること
が明らかになりつつあり、その多くが絵図に描かれた砦と対応する。また絵図や文献の検討の結
果、江戸時代に尾張藩が管轄した範囲が戦国時代の直接の城域である可能性が高く、その大半が
現在の金華山国有林として受け継がれていることが判明した。城下町を取り囲む惣構の土塁はこ
の直接の城域に対応しており、城と町が一体として成立・機能していたことを示唆している。調
査成果から岐阜城の城域を最大限に捉えると金華山に瑞龍寺山、上加納山を含んだ山塊全体、西
側の岐阜城下町とそれを取り囲む惣構、東側の達目洞を含んだ範囲となる。


国史跡岐阜城跡で石垣が新たに見つかりました!
http://www.city.gifu.lg.jp/32568.htm
一部抜粋
<山城としての岐阜城の評価について>
・ これまでの岐阜城の概念(山上の詰城+山麓居館という二元的構造)を考え直させる大きな発見。

国史跡岐阜城跡 山上部の発掘調査で信長期に築かれた石垣を確認しました!
http://www.city.gifu.lg.jp/26193.htm

◎岐阜城跡で初めて鉄の矢じりを発見(2区)
 鉄鏃(てつぞく)の長さ14.6cm、幅2.0cm  
→慶長5年(1600)8月23日の関ヶ原の戦いの前哨戦で使用された可能性がある。
遺物は軒平瓦、飾り瓦、鉄鏃など コンテナ4箱、破片数約500点が出土

→中でも、今回発見した、裏門周辺における巨石列や石垣は、これまで謎に包まれていた裏門の構造解明につながる大発見

有識者の評価  中井 均 (なかい ひとし) 氏 (滋賀県立大学教授)
『稲葉城趾之図(いなばじょうしのず)』に記された裏門とほぼ一致するところで門跡と見られる遺構が検出されたことは、
絵図が極めて詳細に現地の遺構を確認しながら描いた城跡図であることが明らかとなったといえる。
巨石を用いた構造は大手にあたる一ノ門、二ノ門と同じ構造であり、
背面の城域を区画する重要な門であったことがわかる。
また、今回明らかとなった裏門付近には小石材を用いた石垣も発見されているが、
これは斎藤道三の稲葉山城の石垣と見られ、金華山には道三期の石垣も残されていることが判明した。
門遺構、道三期の石垣が同時に発見された意義は大きい。


歴史遺産と都市文化創造V――都市城壁(惣構)を町づくりにいかす
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2006/03/0603hist-heri.pdf
近代岐阜忠節用水流域における都市形成に関する研究
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00063/2011/2011-04-0072.pdf
農林水産省東海農政局 木曽川水系土地改良調査管理事務所の案内
http://www.maff.go.jp/tokai/seibi/kensetu/kisocyou/html/pdf/014-99.pdf

上記より抜粋
忠節用水は古来、金華山麓に取入口を設けて、岐阜の旧称井ノ口村
の名を生んだといわれる農業用水である。天文3年(1543)の長良川の大
洪水により岐阜市忠節の地に取入口を移し、以来400余年幾多の変遷を
経て引水が続けられた。



関ヶ原当時の引水部や用水経路がいまいちよくわからないが、
惣構の水堀が用水兼用だったとするならば、非常用水源となりうるのではないだろうか。
また、水の手口という名称から、その麓、丸山の辺りが取水口じゃなかったのではないかと
思うがどうだろう?

12 :
野間・内海合戦については詳細は不明で、

白峰氏は考察論文、「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その1)―津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討

の中で以下のように述べられている。

本稿で扱う野間内海合戦については、前掲『三重県史』通史編、近世1に、
「九鬼義隆西軍に加勢」として立項され解説されている中で、「九月九日・十日両日
尾張知多半島(愛知県)先端部付近での戦闘」であり、
「当時の知多半島は、長島城主福島正頼が預かっていたとみられる(『新訂寛政重修諸家譜』
第二一)ので、北伊勢において東軍に付いた長島城の背後、
ひいては岐阜方面に集結しつつある東軍の背後を脅かす作戦を実行したのであろう。
この作戦には瀬戸内水軍が主となったものと思われ、
これに九鬼水軍が参加したかもしれない。」としている。


野間・内海合戦関連

愛知県史資料編13織豊3より引用

東軍の攻勢によって主戦場が尾張国内から木曾川を越えて美濃国西部へと
移っていく中、尾張・三河両国の海岸部では、西軍方に与した
志摩国鳥羽(三重県)の九鬼嘉隆の軍船が焼き打ちを行っており、
九月には毛利輝元の臣乃美景継・村上景弘らの軍船も伊勢湾に現れた。
毛利氏の水軍は九月九日未明に伊勢湾を渡って知多半島に押し寄せ、
各地で放火や合戦をおこなった。「慶長年中記」九月十日条にも
九鬼水軍による焼き打ちに関する記述がみえるが、
毛利氏の水軍もこれに加わっていた可能性がある。


慶長年中記 巻一
十日 熱田西の海辺四五ヶ所、是ハ敵方九鬼大隅(嘉隆)焼候よし、
岡崎?地鯉鮒(池鯉鮒)へ行に焼見ゆる、熱田海辺より五六町ほと大船一艘、
地ハ紫に白き桐のとうのまく張たる九鬼大隅守のミよし先へ被遣候、
御馬印持候ものさんたか橋にて 御目見いたし候、とかくの御意なし、

次は 慶長見聞書 二

同日(慶長5年7月21日)岩手(伊勢国)城稲葉蔵人(道通)手勢九百六拾人籠候処、
九鬼大隅守(嘉隆)町口迄取懸候へ共、堅固被相抱候間、
敵の人数引退申候、其後九鬼大隅守・堀内安房守(氏善)以下船手の衆卒し、
尾州・参州之灘浦を焼払、漁人村老男女僧侶に不限切捨狼藉前代未聞也、
尾州毛呂崎(師崎)江寄ンとす、
浦のもの内々近日従関東御上を聞て、其間敵をたるめ魚を取て日々に送り、
様々の音信におよひけり、
然るニ案のことく千賀孫兵衛(重親)一夜の内ニ而のりつけ、
大勢籠たるやうニ見せ、浦々に旗を立置候間、
敵驚寄せ不申、其間に松平紀伊守(家信)・小笠原新九郎(広勝)・
同安芸守(小笠原信元)次第ニ乗付申候間、
弥敵船驚きこきのき申候、右ノ海上浦々の悪行の天罰にや、
此口の寄手の大将達のすへ?迄後ニ皆たへはて申候、
武家の習殺業なくて不叶されとも、
分の敵を討て非分の者を不討とはかやうの事にや、

此時戸田三郎右衛門(忠次)・清水権之助(政吉)ハ
大野・とこなへ(常滑)に罷在候間、
舟を出し防候間、敵不叶舟をこきのき引取申候、

13 :
野間・内海合戦関連

浦備前覚書 巻一 無尽集第七七冊

先年関か原御弓矢之時、伊勢地数船之御船指廻し、御国?ハ村上八郎左衛門殿
(景広)・乃美備後殿(景継)御船手不残被差出、
大坂よりハ菅野平右衛門殿(管達長)・村上彦右衛門殿なだ声古ヲ被差添御廻シ被成候、
伊勢之鳥羽ニ者九鬼大隅殿(嘉隆)大坂へ之御馳走ニ、
右之御方々大隅殿江御座候而方角万事御談合被成、
尾張灘手を御働被成御儀定ニ相澄、
おふミなと(伊勢国大湊)まて御座候而、彼表ニ而長々船中各御苦労被成候条、
一夜彼在所にて御休め被成之由、悉宿を取り御休息候処ニ、
乃美備後殿野せつちん(雪隠)へ参と被申、
五六丁家はつれへ被参候而都合被見合候処ニ、
彼在所より弐里間にて岩手と申城を敵方?持堅、
おふミなとの在所からも殊外手広不審ニ相見候条、
各うかと罷居儀ニ而無之候条、夕飯を仕廻、
夜入候者船へ各被召可然之通被申付而、悉船ニのり申候へハ、
夜半迄(過)ニ岩手?夜打ニ心懸人数差出、殊外物あぶなき躰にて、
下々共ニ備後殿御見合之段感入候、一日間ニて血地江御働ニ、
不残御渡り被成候、尾州之内大野と申浦江九月九日未明ニ被打入、
一段仕合能発向被成候、其次ニ二浦同前ニ候而、各御談合ニ、
今日之働ハ不残出来申候へ共、放火不仕候条、
明日之働ニハほうくわ(放火)を専ニ仕候様ニと仰事ニ候、
かたかミと申在所を未明ニ御働、一軒も不残放火仕り、
頓而其次野間の内海と申浦江御仕掛候処、
是ハ先代(源)義朝之御腹被召たる浦ニて候得者、
船本江人数差出相さゝへ候へとも、船よりの御仕掛丈夫候故、
終ニハにけくつし多分追討ニ仕り、
船本より一里半奥ニ義朝之御影御座候故、坊中江おひ入候故、
跡?足長仕ル儀ニてハ無之候条、各引取り候へと被仰付、
不残引取申候、礒兼加賀殿上下八人ニ而、
彼御影之寺放火不仕候へハ、此在所相働専ハ無之候条、
是非共ニ放火仕り引可申と被申候而ふかいりの故、
人数三十計討出取まき候条、別条子細も無之候間、
足床を見合高ミを取可相果覚悟ニ候、
壱人にても足を乱シ候而ハ不叶儀候之条、八人之者ハひつかけ相果覚悟ニ候、
其人数ハ加賀殿上下三人・乃美平左衛門殿上下弐人・
末永惣右衛門・世良源右衛門・末島(島末)与左衛門、
此八人ハ鉄炮弐丁御座候而、引懸五間ほとにて討候やうニと覚悟仕り候処、
敵も其覚悟ミきりはた?と不仕懸候処ニ、舟本江此聞候而、
乃美備後殿・村上八郎左衛門殿自身かけつけ候へハ、
のほりさきを見及引取申候故、無事ニ御しのき、
御両人衆殊外御しかり被成、(乃美)宗勝巳来上りはたらきの仕やうハ御存知ニ而、
深入沙汰之限りと被仰、無事ニ船本御引候事、
二日之間ニ六浦御働殊外出来候事、

14 :
関連スレ
関ヶ原合戦の真実 Part10
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1553429187/
大坂の陣はどうすれば豊臣方が勝てたか?Part8
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1536754046/
【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 5 【徳川】 [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1498216606/
二重公儀論について考察する [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1472608426/
【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1542893023/

誘導は上記適当スレへ。

15 :
過去スレ
part1
https://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1477558509/
part2
https://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1484991108/
Part3
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1487680538/
Part4
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
Part5
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1496748424/
Part6
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1499775019/
Part7
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1502195081/
Part8
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1505981945/
Part9
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1509028014/
Part10
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
Part11
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1514907315/
Part12
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1517843376/
Part13
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1522672144/
Part14
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1525775487/
Part15
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1528335113/
Part16
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1530344370/
Part17
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1532773324/
Part18
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1535414790/
Part19
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1537715258/
Part20
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1539777606/
Part21
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1543403991/
Part22
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1549630474/
Part23
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1555282251/
Part24
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1559037707/
Part25
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1563146550/

16 :
おすすめ参考書籍・資料・史料等

関ヶ原の役: 日本の戦史 (徳間文庫カレッジ) 文庫
? 2016/5/7 旧参謀本部 (編集) 1566円
いわゆる今までの一般通説的な関ヶ原合戦はこれ読めばひと通り書いてある。

「関ヶ原」を読む: 戦国武将の手紙 単行本 ? 2018/2/25
外岡 慎一郎 (著)  2160円
北陸方面の前田、大谷あたりを中心にあまり偏った見解なくわかりやすく書かれている。

関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日 (中公新書 (642)) 新書 ? 1982/2/23
二木 謙一 (著) 799円
一般的通説の各種エピソードを詰め込んだ小説風。読みやすいことは読みやすい。

直江兼続と関ヶ原 単行本 ? 2014/8/4
公益財団法人 福島県文化振興財団 (著)  1728円

近年出てきた新説、新解釈等は、笠谷和比古氏、白峰旬氏、光成準治氏あたりの
著書が参考になると思われる。

金出したくない人向けには、

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E9%96%A2%E5%8E%9F%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%A4%A7%E6%88%90&viewRestricted=0
ここで関原軍記大成が読める。

17 :
以上、時系列表等参考になるものと有力案のコピペ終了。

訂正等は遠慮なくよろです。

また、その他の案としては、美濃主攻案(P17>303)、北陸主攻案、早期尾張進攻案、
鳴海上陸作戦案(P24>137,405)、9月7〜10日赤坂挟撃案(P19>841)、
西軍の基本方針としての後詰決戦案(P25>19)等あり。

また、上記諸表の兵力数は戦闘の損害による兵力減少を考慮しておりません。

18 :
方面主攻別特徴

前田追撃・挟撃・殲滅のワンチャンに賭ける北陸主攻か、
尾張進攻をチラつかせる美濃主攻か
史実通りの伊勢主攻なら籠城からの岐阜城後詰決戦。
結局このあたりになる。

前田追撃以外は相手の動きを見ての受動的な籠城からの後詰決戦が一番合理的。
敵主力の撃滅をもって勝利を目指すのがいちばん可能性が高いと思われる。
ただ守るだけでは兵力劣勢を覆せない。各個撃破していくしかない。
状況次第では見捨てざるを得ないところもでてくると思われる。

手本は小牧・長久手時の家康・信雄方の立ち回り。

美濃・伊勢での後詰決戦適所は、岩村・苗木、岐阜(木曾川渡河させる)、桑名あたり。
要は攻めたら大軍の退却困難な場所。

19 :
「後詰決戦案」の最新版はどこ読めばいいんだ?

20 :
>>19
岐阜城後詰決戦案は>>10
西軍の基本方針としての後詰決戦案はPart25スレの>>19(前スレ)

21 :
ふと思ったんだけど、秀信に清洲攻めさせるのは無理かね?

22 :
考えてから書き込め

23 :
>>21
14000そう攻め
城空っぽでいける

7月中に

24 :
>>21
清洲より東の大名を西軍に取り込むという考えを捨てるなら攻めることは可能と思う
だが、清洲にも当然守りの兵を置いているだろうから、秀信のみで落とすとなるとかなり苦しいと予想する

25 :
清州速攻って豊臣恩顧が東軍化するって想定がなきゃでない選択でそんな想定するんなら西軍の挙兵がそもそも起こらないのでは

26 :
>>24
三成がいる限り西軍につくはずがない

織田秀信 石田三成 稲葉貞通 で清須攻めなら可能かと

27 :
前パートで何度も清州攻めの話は出てて、それに対して日程的に可能かどうか書いてくれてる人もいる
読んでくれ

28 :
二十数パートも続いてるもんだし全部のパート読めとは言わん
だけど自分の思いついたものが前パートで出てないかどうかはすぐ確認できるはず、堂々巡りさせないでくれ

29 :
>>17追記
北陸主攻案(P24>828)

30 :
再掲
美濃主攻からの尾張進攻(日程のみ)

美濃主攻からの清洲攻略が可能かどうか日時書いてみようか?
主攻と言っても結局前線に行けるのは瀬田の秀元・吉川だけど。

8月4日瀬田の砦構築完了
8月7日 瀬田の秀元・吉川は北陸・美濃・伊勢に対する方面予備として佐和山に移動。
(伊勢へはやや遠くなるが許容範囲だろう)
8月11日 前田の当面の脅威消滅及び美濃主攻決定により秀元・吉川大垣へ移動。
8月16、17日頃 北陸・美濃・伊勢に対する方面予備として宇喜多秀家草津に布陣。

こんなかんじかな?
美濃から尾張進攻は8月12日頃から可能かもってところ。

P23>487から東軍先発隊先陣は8月13日に清洲に到着し始めている。
一柳直盛は8月9日に尾張黒田城に帰城したとある。

8月11日辺りに大垣・岐阜・犬山城衆が先陣、12日辺りに秀元・吉川隊が後陣ってかんじで
尾張進攻。

タイミングは微妙。タッチの差で清洲落とせるかもだけど、すぐに東軍が来る。
西軍の尾張での戦力展開次第だけど、西軍主力が清洲で拘束されそう。
いいイメージはいまいち湧かない。


これ、あくまで日程だけね、どういう戦力展開するかわからんから。


ただ、8月上旬に大垣・岐阜・犬山勢の美濃方面隊のみでの尾張進攻が
可能かと言われれば、尾張衆の友軍化を無視する、あるいは
返答遅れは時間稼ぎと判断したと見做せば可能ではあると思うが…、
清洲もまぁ15000ほどで力攻めすれば落とせる可能性はそれなりにありそうだが、
清洲を落としたところでその後が有利になるわけではないと思うんだよね、わたしは。
ほんとに前線が前進するだけで。
岐阜・犬山・小牧山・清洲・沓掛のラインがそれほど守りやすいというわけでもないし。

31 :
守備兵力が分散する割りには敵を嵌め込めれる場所がないというか。
尾三国境最前線沓掛もそんなに堅い城というイメージはしないし。

32 :
>>30
清洲落ちなかったら東軍主力と決戦不可避ですね
木曽川が行軍を阻害するので決戦で後れを取ったら犬山方面に退路を求めて渋滞
関ヶ原が木曽川に変わるとしか

33 :
尾張攻めの意義は
秤量武器の確保
筒井 吉田等の友軍化
金森も西軍にきて欲しい

西軍が有利と諸国に思わせる

34 :
>>27
前スレで出てた速攻で清洲攻めじゃなくて
福島が清洲空けて10日位経ってから信秀に一手で攻めて貰う。
清洲の抑えはそこまで多くないだろうし、信秀は篭城嫌がる位だから
じゃあ、清洲攻めをお願いします。と言えば喜びそうな気がした。

35 :
もし清洲が落とせたとしたら、西軍有利と見て西軍に付く大名も
出てくるだろうし、織田家の当主が尾張清洲を攻めるとなれば、残りの尾張勢も
西軍付いてくれればいいな〜って希望的観測も入るw

36 :
尾張で先手打っても北陸やら伊勢、遅れてやってくる九州勢の足並みそろえる間に数の多い東軍先鋒に取り囲まれないか?
他の方面全部捨ててもまあ細川、京極は大きな脅威にはならんけど前田は近江北部まで出てきちゃうんじゃ?

37 :
清洲空けて10日後って、いつの事を言うてるん

38 :
秀信が指示を待たずに独断専行すればかなり早い時期から清洲攻めは可能だがあの秀信だぞと

39 :
あと肝心なこと忘れてた。
8月上旬頃福島正則早期清洲帰城説がある。
8月上旬に福島6000が清洲に帰城していたならば、
もはや美濃方面隊独力での清洲攻略はほぼ不可能。

ただ実際に福島が8月上旬に帰城してたかどうかわからない。
書状(日付)の解釈の仕方次第なんで、いたともいなかったとも言える。

だから8月上旬に清洲攻略できるかは、できる可能性はあるが…、といったかんじ。


>>36
結局そこ。美濃方面隊独力で清洲を落としても8月14日に来る東軍先発隊の対処が
難しい。清洲に抑え残して小牧山、犬山方面攻略に行かれると対処できない。
清洲を出てこれを阻止しに行けば東軍の思うつぼ。
兵力劣勢状態で野戦を強いられる。

>>35
その清洲を落とした波及効果が大きいならば落とす価値はあると言えるけど、
不確定要素に期待して作戦実施はリスク大きいと思うけどなぁ。
大垣・岐阜・犬山の籠城態勢準備してたほうがわたしはいいと思うけど。
あと尾張衆については小折城の生駒利豊は両軍の誘いを熟慮した上、清洲入城してる。
黒田城の一柳直盛は8月9日に帰城してるようだが、どうだろね。

40 :
>>38
家老に百々、木造、美濃衆には稲葉、竹中と能力未知数秀信以外は
粒ぞろいなかんじはするけど。

41 :
粒ぞろいだけあってとっとと家康と文通始めちゃってますがね。能あるほど西軍にはつかない

42 :
西軍とも文の交換はしてるが

43 :
秀信の家老衆が反対してたなら速攻での尾張侵攻の障害になる
信雄よろしく反対する家老は討ち取るか
そうすると尾張侵攻どころではなくなるが

44 :
三成が朝鮮出兵で散々に渡って
自分だけ安全な場所に隠れて偉そうな態度を取っている、讒言や虚偽報告を繰り返して前線の武将を攻撃していると糾弾されているのに
その三成を後方において尾張遠征なんてありえない
家康がどうこうとか、豊臣がどうこう以前の問題でしょ

まず三成が命を張って戦うことで、朝鮮出兵のような過ちを繰り返さないことを保証するのが先だよ
西軍大名の大半だってその保証がなければ、背後から攻撃しかねない危険人物を抱えて戦うなんて条件は承諾できないよ

45 :
そもそも西軍勝利のラインはどっからなの?

46 :
極端なことを言えば東軍が西進することを諦めさえさせることができれば戦闘する必要すらないものな
というか実際に諦めてくれるだろう、瓦解するだろうという目論みの下だったようだし

47 :
長対陣になったら西軍のが弱そう
要の毛利は吉川が抱き込まれて小早川も不鮮明だし

48 :
>>20

結局、『西軍の基本方針としての後詰決戦案』の

>最大の弱点は前田と東軍先発隊に
>同時攻勢に出られると兵力不足から対処できないという点。
>その場合、輝元が、元康・秀包の戦略予備の投入を決断してくれないと
>非常に厳しい状況になる。北陸・美濃で総崩れも有り得る。

ということで良いのかな?

49 :
>>26
つくはずないって実際誘ってるじゃん
先延ばしされて結局西軍にははいらなかったけど

50 :
返事が遅かったのが迷った結果なのか時間稼ぎの結果なのかというのが重要だろ

51 :
>>48
それが、機動防御(のようなもの)を狙う兵力劣勢側に対する
兵力優勢側の有力な対処法。
要は兵力優勢なんだから兵力の小出しを止め全部投入すれば当然有利ということ。

信長包囲網でも、包囲網側が同時攻勢に出ていれば信長側は対処しきれない。
朝倉、武田、一向衆と勝手な動きをしている(あるいはできない)から各個撃破されてしまう。

時代背景や各大名の事情、通信手段等により関ヶ原においても、
同時攻勢と言うは易いが実際にできるかとなるとなかなか成立しにくいとは思う。

52 :
誘ったから必ず西軍につくってものじゃ決してないし
正則がそうだったように、わざと味方につきそうな態度をとって時間稼ぎと西軍の情報を仕入れるって方法をとってる可能性もある

ただこの辺りまで考えだすとほんとに諸将の去就が読めない、いっそ諦めて攻めちゃうってのはそういう意味では分かりやすい

53 :
史実通りに関ケ原に家康をおびき出して戦えば勝ったんだろ
毛利と小早川にやる気がなかったことこそ、最大の問題だ

54 :
豊臣恩顧の東軍は三成を討ちたくてしょうがない

福島正則なんておねが頼んでも西軍についてくれないだろう

55 :
>>53
清須落として西軍有利となれば
やる気出てくるでしょう

56 :
>>53
吉川や小早川の視点だと三成が真面目に戦うかどうかが分からない
当時の三成に勇猛果敢に戦うなんてイメージなどないし
むしろ安全な場所に隠れて怪しげな企みをしているというイメージが強い

極端に言えば、三成が家康に内通している可能性だってある
毛利をはじめとした家康の障害物となる大名をわざと前線に誘い出して壊滅に追い込み
内通の功績で家康に奉行に戻してもらう裏取引をしている可能性も吉川や小早川は考慮する必要がある
現代人が三成の戦意に疑いを持たないのは結果論に過ぎない
当時の西軍大名の多くから見て三成にやる気が感じられなかったことこそ、最大の問題だ

57 :
>>56
これ、割と問題な話かもしれんな
というのは、三成って形式的にはあれでも家康にかばわれてるから
いわゆる襲撃事件の時、襲撃側の要求は三成の切腹だったのだが、
家康はこれを押しとどめて、奉行解任と隠居で決着させている
領地も減らされていないし、息子の重家は家康に気に入られていたという話もある
となると、西軍は三成らが積極的な兵の運用をしようとするのを嫌がる可能性はある

58 :
秀信に命令できる立場じゃないのが問題だけどね
岐阜中納言にあれこれ指図する権限がない

59 :
だからこそ
織田秀信と共に三成は清須攻め
これで信用してもらう

60 :
>>59
それじゃ余計信用されないよ
西軍の当初の予定と違うことして信用されるわけがない
(話を通そうとすれば当然時間がかかる)
ただでさえ、西軍は団結が固いといえる状況じゃないんだから
現場判断で好き勝手な対応したら問題になるにきまってる

つーかな、そもそも戦線をむやみやたらと拡大しようとするなよ
西軍の大きな問題点の一つとして、諸侯を強引に組み込んだことによる
まとまりのなさがあるんだから、それを助長してしまう動きをすべきじゃない
戦線はむしろ縮小すべきだ、相互監視も容易になるし手綱も握りやすくなるんだから

61 :
秀頼を関ヶ原に連れてくる
豊臣の家臣はやはり三成とアピールできるし元は豊臣方の武将は太閤を裏切れない
三成が実際やろうとしたけど淀が反対したからダメだったな

62 :
清須を三成にとられて怒り狂う福島正則
と東軍先方隊
奪還と攻め上るが
そこには毛利 宇喜多 小西行長 と西軍に加わった筒井定次 金森長近 古田重然 稲葉貞道が待ち構えていた

63 :
豊臣政権の大老として上杉征伐に向かう徳川家康に付き従う福島正則の留守中に
清須を奪う口実がない

64 :
どうしても前パート読んで来いって人が出てくるな
読んだ上で自分のコメントが今までに出てないか、あるいは適切かどうか確認位してきてくれ

65 :
>>63
三成が雇った伊賀者の知らせがきた
真田昌幸以外は東軍に付いて
こちらに向かっていると

66 :
>>63
Ninjaの間違いでは?

67 :
三成頑張れ
俺達がついているぞ
島左近勝猛(清興)、蒲生備中真令(頼郷)、舞兵庫(前野忠康)、
高野越中、樫原彦右衛門、大場土佐、北川平左衛門、
蒲生郷舎、大山伯耆、河瀬左馬助、杉江勘兵衛、
森九兵衛、大橋掃部、林半介、横山監物、松田重太夫、
渡辺勘兵衛、曾根高光、小幡信世、荻野鹿之助、水野庄次郎…

68 :
>>67
八十島助左衛門がいない、やり直し。

69 :
八十島助左衛門自体は石田家臣内では島津担当だったみたいだから
島津への使者の人選としては決して悪くはなかったと思うが。

70 :
ビビって引き籠ってた島津の言い訳に使われただけだから

71 :
>>68
逃げた後
藤堂高虎に召し抱えられる

馬上からの物言いが光をなす

72 :
>>32
果たして、後詰めがくるのか謎だよ?
家康が東海道に出る前の東軍先鋒は特に強力な中心が有る訳じゃない。
だれが全軍の指揮とるんですか?

73 :
まるで西軍に強力な中心が有るような物言いすね

74 :
清洲が攻められると分かったなら、それに対して東軍の動きや将の配置を変えると思わないかな

75 :
西軍はIFの動きをするのに東軍は史実の動きしかしかないと考えている人が多いよね

76 :
しかも研究が進んだ結果、旧説準拠で西軍にIFの動きをさせても通用しなくなっているという

77 :
>>74
具体的にどう変わると?三河で止まってくれるなら西軍有利になるだけだけど。

78 :
>>51

ということで、東軍側に賢明な行動を採られてしまうと「後詰決戦」では
負けることがはっきりしたな。

加えて情報収集能力・部隊の機動力ともに東軍>西軍なんだから絶望だな。

79 :
>>77
何故福島が自分の城を攻められるかもしれないのに三河で止まる?
普通に考えれば史実の西進速度より速く清洲まで戻ると考えないかな
東軍にとっても清洲城は重要だから福島隊に本多隊や井伊隊を付けるかもしれないし
家康本体からも兵を出すかもしれない

80 :
>>79
何月何日に西軍が清洲攻撃する前提なの?
そこがはっきりしないとなんとも言えん。

81 :
史実だと1日で落ちた岐阜城を半月持たせる前提の話して
一方で清洲城を1日2日で落ちる前提とか面白いなあファンタジーは

82 :
>>80
できれば8/12までに制圧したい

最初は織田秀信 稲葉貞道が小城を攻め
三成到着

うかうかしているとこちらにも攻めてくると恐れた伊勢衆 富田信高をはじめ、
古田重勝(松阪三万四千石)
・稲葉道通(岩出二万五千七百石)
・氏家行広(桑名二万五千石)
・岡本良勝(亀山二万二千石)
・滝川雄利(神戸二万石)
・松浦久信(井生一万一千石)
・分部光嘉(上野一万石)
・蒔田広定(雲出一万石)
・織田信重(林一万石)
・山崎定勝(竹原一万石)・寺西信乗(直次とも。所領不明・計一万石)
らも清須に進軍

83 :
富田信高はやはり難しいか

古田重勝や分部光嘉らとともに急遽帰国の途に就かず
三河吉田にとどまる
あいにく間にある伊勢湾は西軍方の九鬼嘉隆がもはや制海権を握っていたからだ

84 :
富田信高は九鬼に進められ
伊勢衆がこぞって西軍についたことで
家康を見陰り
やはり吉田にとどまる

85 :
 一方、父の西軍加担を知った守隆は驚き、下野小山から志摩へ戻って城の明け渡しを何度も使者をもって申し入れたが、嘉隆に拒絶された。
やむなく守隆は国府村から安乗(あのり)に陣を移し、ここに父子が戦うことになったのである。
守隆は父とは戦いたくなかったが、家康から目付として石丸雲哲(池田家臣)が同行していることもあり、戦わないわけには行かず困っていた。

86 :
筒井定次だが
富田信高から
伊勢はほぼ西軍についている
我らと共にこちらにつかぬか
この吉田の先まで
九鬼嘉隆が迎えにきてくれる手はずになっておる
と誘われる

87 :
実はなんと高山右近
前田にはいかず小西行長の勧めで佐和山に居候していた
かねてからキリシタンは徳川から迫害される恐れがあり
こと起これば西軍についてくれないないか
と筒井定次に内応していたのである

88 :
毎回この人は面白いと思って書いてるのかな?

89 :
>>88
八十島助左衛門はそう言った

島津豊久は怒りはしなかった
もっと面白いことを言ってみろ
と追い返した

90 :
本当に面白いと思ってるならNGを恐れてコロコロID変えたりしないよなぁ?

91 :
>>89
池沼

92 :
菅沼は頭の病気だからほっとくしかないわ

93 :
>>79
あそこはさ、24万石程度の中堅大名の居城の規模じゃないんだよ。
いざという時、東海道で一番重要な拠点として万単位が陣取る事前提。

いち早く、豊臣政府軍って建前で西軍が押し寄せたら、真朋に籠城するんかねえ?

福島正則の居城って言うより、江戸時代で言うなら大阪城代みたいな感じでは?

94 :
菅沼さん本能寺スレから逃げてないで早く反論してください

95 :
>>79
三成たちが豊臣政府軍の建前で何でもやりたい放題、接収し放題の世の中になるのが嫌で家康に協力しているのだから
西軍が押し寄せたら篭城するのが当然だよ
江戸時代で言うなら大阪城を奉行が勝手に侵攻して自分のものにしようとするなんてありえないことだろ
豊臣政権だから三成は何でも許されるという考えは捨てたほうがいい

96 :
>>79ではなくて>>93だな

97 :
自分の城が戦争なるなったら軍勢戻す暇なかったとしても自分の意図伝える早馬くらい走らすやろ

98 :
真面目な話
西軍が豊臣の代理名乗ってるから影響力すごいはずだ
っての、一切実証がないのよね

殆どが大軍で足止めして無理やり組み込んだ軍ってだけで
それは豊臣の影響ではなく、大軍相手だから言う事聞いとこうでしかない

99 :
できるならぜひ実証してほしいし
できないならその仮説は捨てるしかないよ

100 :
>>98
愛知川の石田正澄は大軍か?
越前衆、美濃衆、真田昌幸は大軍が来たから西軍に味方したのか?
むしろ越前衆は援軍の催促をしている。
いいかげんなことを言うな。

中小諸侯の基本は、縁故、義理か、
勝ちそうな方につく。


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