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関ヶ原合戦の真実 Part8


1 :2018/02/09 〜 最終レス :2018/09/01
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください

前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part7 [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1489755617/

2 :
過去スレ
関ヶ原合戦の真実 Part6
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1477565218/

関ヶ原合戦の真実 Part5
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1474112000/

関ヶ原合戦の真実 Part4
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1470915006/

関ヶ原合戦の真実 Part3
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1464347783/

関ヶ原合戦の真実 Part2
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1453807317/

関ヶ原合戦の真実
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1430516022/

3 :
新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い
白峰 旬 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4863669283

関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。

【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?

【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?

【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す

【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである

【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?

【終 章】すりかえられた天下取りの戦い

4 :
白峰氏の石田・毛利連合政権成立の論拠

【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した

【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した

【3】自らを「公儀」と称した

【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた

【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた

【6】大名に所領(知行)を与えた

ソース
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363

5 :
東洋経済オンラインの関ヶ原関連記事

関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170930-00190643-toyo-bus_all

関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171014-00191937-toyo-bus_all

関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170916-00187790-toyo-bus_all

戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171229-00201966-toyo-bus_all

6 :
前スレにあった関ヶ原関連の文書

 遺言覚書

一、内符

  利家

  輝元

  景勝

  秀家

此五人江被仰出通口上、付縁辺之儀互可被申合事、

一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ中納言御下候事

一、奉行共五人之内徳善院・長束大両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、内符惣様御留守居候事、

一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、

一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事

  以上

  八月五日

7 :
太閤様御覚書 太閤樣被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺

一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼樣を

孫むこになされ候之間、秀頼樣を御取立候て給候へと、被成 御意候、

大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、

一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀頼樣

御もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて、

度々被成 御意候事、

一 江戸中納言殿ハ 秀頼樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、

  御煩氣にも御成候者、内府のごとく、秀頼樣之儀、被付御肝煎候へと、

右之衆居申所にて、被付 御意候事、

一 虫ト肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 

秀頼樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申と被 仰出、

則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、役儀をも拾万石被成御候事、

一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀頼樣之儀ハ御遁有間敷候條、

  御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候て、ゥ職おとなしく、

  贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、

一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀頼樣之儀御取立候て給候へと、

  輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置候事、

一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさやの躰にて罷出、

  双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、若不屆仁有之而きり候ハゝ、おいはらとも可存候、
  
  又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外ハつらをはられ、さうりをなおし候共、
 
  上樣へと存知、秀頼樣之儀 大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、

一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を取候而、

  秀頼樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事、

一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、

一 伏見ニハ内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハコ善院、長束大藏仕、

  何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、

一 大坂ハ 秀頼樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、

  御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、

  御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成御意候事、
右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、

8 :
「七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也」
一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、

一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺へ申候事、

一 安国寺御留之事、

一 伏見・大坂之しまり之事、

一 増右より参候書状、小摂へ遣申候事、

一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、

一 同名中務太夫(島津豊久)、爰元へ召留候事、

一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、

9 :
真田宛等西軍奉行達の書状
去廿一日に両度之御使札、同廿七日於江佐に到来、令拝見候
一、右之両札之内、御使者持参之書に相添覚書幷御使者口上得心事

一、先以今度意趣、兼而御知も不申儀、御腹立無余儀候、然共内府在大坂中、
  
  諸侍之心いかにも難計に付而、言発儀遠慮仕畢、就中貴殿御事迚 
  
  公儀無御疎略御身上に候間、世間如此上者、争ととこほり可在之哉、
  
  いつれも隠密之節も申入候ても、世上不成立に付ては、御一人御得心候ても無専儀と存思慮、
  
  但今は後悔候、御存分無余儀候、然共其段も、も志や不入事に候、千言万句申候ても、
  
  太閤様御懇意不被亡思食、只今之御奉公所希候事

一、上方之趣、大方御使者見聞候、先以各御内儀かた大形少馳走被申候
  
  可御心安候、増右、長大、徳善も同前に候、我等儀者、使者如披見候、
  
  漸昨日伏見迄罷上躰に候、重而大坂御宿所へも人を進之候而御馳走可申候事

一、今度上方より東へ出陣之衆、上方之様子被承、悉帰陣候、然者於尾・濃令人留、
  
  帰陣之衆一人一人之所存、永々之儀、秀頼様へ無疎略究仕、帰国候様に相と候事

一、大略無別条、各々無二之覚悟に相見候間、御仕置に手間入儀無之候

一、長岡越中之儀、太閤様御逝去巳後、彼仁を徒党之致大将、国乱令雑意本人に候間、
  
  即丹後国へ人数差遣、彼居城乗取、親父幽斎在城へ押寄、二の丸迄討破り候之処、
  
  命計赦免之儀、禁中へ付而御侘事申候間、一命之儀被差宥、彼国平均に相済、御仕置半候事

一、当暮、来春之間、関東為御仕置可被差遣候、仍九州、中国、南海、山陽道の人数、
  
  既八月中を限、先江州に陣取幷来兵糧米先々へ可被差送之御仕置之事

一、羽肥前儀も 対 公儀毛頭無疎意覚悟に候、雖然老母江戸へ遣候間、
  
  内府へ無疎略分之躰に先いたし候間、連々、公儀如在不存候条、
  
  各御得心候て給候へとの申され分に候事

一、ヶ条を以蒙仰候処、是又御使者に返答候、又此方より条目を以申儀、
  
  此御使者口上に御得心肝要候事

一、自此方三人使者遣候、右内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返可被下候、
  
  残弐人は会津へ之書状共遣候条、其方より慥かなるもの御そへ候て、ぬまた越に会津被遣候て可有候、
  
  御在所迄返事持来帰候者、又其方より案内者一人御そへ候て上着待申候事

一、豆州、左衛門尉殿、以別帋雖可申入候、貴殿御心得候て可被仰達候、
  
  委曲御使者可被申伸候
  恐惶謹言 七月晦日 三成
  真房州
  御報

10 :
急度申入候、太閤様後不慮以来、内府被背御置目、上巻誓帋被違、恣之働無是非次第に候

殊更今度景勝可被相果段、不謂儀に候間、種々理申候へ共、無同心下向、如此之上、

秀頼様可被取立、非所行候之間、各申談、守御置目、秀頼様御馳走之為可申、上方之儀一篇に相固、

御仕置申付、関東へ罷立候衆も妻子人質於大坂相究候間、不可有異儀候歟、勿論上方在京在国之衆は、

何様にも、秀頼様へ御忠節可申上由、無二之覚悟に候、就之伏見之城在番に関東二千計在之間、

即時に諸手より乗崩、大将鳥居彦右衛門始候て、一人も残討果候、誠以天罰与申事に候、

次丹後之事、羽柴越中兄弟余多在之内、一人秀頼様へ御目見をも申させす、悉召連関東へ罷立候、

其上御忠節も無之に、新知召置候段、不相届儀候間、人数を遣城々何も請取、田辺之城町二ノ丸焼崩押詰仕寄候て、

堀際迄責詰候、落居不可有程候、其表之儀堅固の被仰付、秀頼様への御忠節此時候、

左候者各々被相談、御外聞も可然様に可申談候、恐々謹言

八月二日  長大正家
      増右長盛
      石治三成
      徳善玄以
    芸中輝元
    備中秀家
 真田安房守殿 御宿所

11 :
急度令啓候、内府去々年以来、太閤様被背御置目、上巻之誓紙を被違、恣の働付而、今度各申談、

及矛楯候、関東之儀も伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝申合、色を立候に付而、

則八州無正躰事候、上方より罷立候衆も、妻子人質於大坂相究候故、是又懇望候、

就其越中方之事、大勢兄弟之内、一人秀頼様へ御目廻をも申させす、悉関東へ罷立、

其上何之忠節も無之、新知召置候儀、不相届に付而、丹後之事城々悉請取、田辺一城町二ノ丸まで令放火、責詰仕寄申付候、

落居不可有程候、貴諸之事、太閤様別而被懸、御目、知行等まで被下候間、秀頼様へ御忠節可在之義候、

於様子者太田美作守方へ申渡候て差下候、其郡之事、速可被明渡候、何かと候ては不可然候、恐々謹言

八月四日  長大正家
      増右長盛
      石治三成
      徳善玄以
  松佐 御宿所

12 :
巳上 態申入候

一、此飛脚早々ぬまた越に会津へ御通し候て可給候、自然ぬまた、会津之間に他領候て六かしき儀在之候共、

  人数立候て成共、そくたくに成共、御馳走候て御通しあるへく候

一、先書にも如被申候、貴殿事早々小室、ふかせ、川中嶋、すわの儀、貴殿へ被仰付候間、

  急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事

一、とかく物主共城々へ不罷帰御才覚肝要に候事

一、会津へも早々関東表へ御行被仰談、行に可被及之由申遣候、貴殿よりも御入魂候て、可被仰遣候事

一、従越後も無二に秀頼様へ御奉公可申旨、申越候間、妻子も上方に在之事候条、偽も在之ましく候、

  羽肥前儀、母江戸へ遣故候か、未むさとしたる返事候、剰無二に上方へ御奉公と申羽柴五郎左へ

  手前へ人数を出候間、自越後越中へ人数可被出申越候、定相違有間敷候事

一、関東へ下上方勢、漸尾三内へ上り、御理半に候、それそれに承候儀究候て相済候事

一、先書にも申候伏見之儀、内府為留主居、鳥居彦右衛門尉、松平主殿、内藤弥次右衛門父子、

  千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理に四方より乗込、

  一人も不残討果候、大将鳥居首は御鉄砲頭すすき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、

  やきうちにいたし候、鳥居彦右衛門尉は石垣をつたい、にけ候よし、誠かやうなる儀、

  即座に乗崩候段、人間之わさにて無之と各申合候事

一、先書にも申候丹後之儀、一国平均に申付候、幽斎儀者一命をたすけ、高野之住居之分に相済申候、

  長岡越中妻子は人質に可召置之由申候処、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、

  大坂の家に火をかけ相果候事

一、備之人数書、為御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀、公儀有御奉公、

  国数可有御拝領儀、天之あたふる儀候間、御由断在之間敷候事

一、拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人数出候、福島左太只今御理申半に候、於相済者、

  三州表へ可打出候、もし於不済者、清洲へ勢州口一所に成候て、可及行候、

  猶言事可申承候、恐々謹言

八月五日   三成
  真田房州
  同 豆州
  同 左衛門介殿
      人々御中

13 :
去五日之御状、今日於濃州大垣令拝見候事
一、度々爰元之様子、其地之儀申越候、未無参着候哉、只今の御書中無御心元候事

一、羽久太儀、何様にも秀頼様次第と度々到来候間、羽柴肥前老母幷家老之人質、江戸へ遣取、

  未御事請不申、剰加州小松表へ人数を出なとと風説候条、急度越中へ乱入可在之旨度々申遣候、定而早々被面へ可及行候事

一、石玄番事は大坂に妻子其上兄弟在之事候間、致推量に公儀慮外難成身上候間、石備前を以巨細申候き、定而別条在之間敷歟難計事

一、羽右近事、定而兎角に内府儀無二に可存候、新知拝領候、其上上方に妻子一人ならて無之、兎角貴所より早々可被及御行事

一、石玄事も済候へは能候、不済候はは、是又其方より可被御行候、越後より之道明候へは、会津へ之通用共に自由候事

一、信州之儀は不及申、甲州迄も貴所御仕置可在之旨、輝元をはしめ各被申候事候、

  拙□より能申候へとの事、此段先書に申候、早々人をも御拘候て、方々へ之御仕置此時候、

  拙子儀しかと濃州に在陣候、長大勢州に在陣候、此口之儀、家康ほとの者十人上り候共可御心安候

  討果候より外他事不可在之候、今度関東へ罷立めんめん、尾、三州の間に集居候て、懇望申族も候、

  又江戸にて人質をしめられ、致迷惑族も在之事候、味方説に申候哉らん、家康急度上るなとと申成候由候、

  あわれ上り候へかしと念願迄候事

一、兎角早々会津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、不及申候へ共、

  国ならひにて物のそかどを申方□候間、如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、

  物やわらかに、彼方気に入候様に被仰越、御入眼此時候事

一、先書にも如申、伏見之城、家康留守居鳥居彦右衛門をはしめ七頭歟千八百余残置候処、

  此時宜候間、関東へ明退候へと申候へ共、りくつ申候間、去朔日四方より乗入、

  一人も不残討果候、鳥彦右首は御鉄砲頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雑人はらふみけがし候間、

  不残焼払候、大坂の儀も西之丸に人数五六百ほと残置候を追出、伏見へ追入、輝元被入替候、

  是又伏見にて同然に討果候、伏見にて各手を砕乗崩候、九州なとの衆別而手柄を被仕候、

  大坂には増右被居候、輝元も在城候、伏見にも六七千にて、掃除、普請以下申付候、

  然間京都、大坂静に候、勢州江安国寺、吉川壱万余召連、長大同道にて罷越候、尾、濃へは拙子罷越候、

  島津其外九州衆佐和山へ被参候、人数入次第、尾、濃之間へ可打出候、丹後之事はや一円平均に申付候、

  幽斎事可被成敗に義定候処、自 叡慮色々被 仰出、命之事相助、九州中流罪之躰候、則諸方へ之備書立進入候、

  此備書立之内に在之面々□、無二 秀頼様可抽忠節覚悟候、せいしにまて相究候、此外先手に在之衆、

  書此立に不乗衆も可在之候、右之段先書に雖申候、不相届候哉、又申入候、恐々謹言

  八月十日  石治少三成
    真田安房守殿
    同左衛門尉殿  御報 

14 :
関ヶ原の結果に対しての文書

松平和泉守宛石川長門・彦坂小刑部書状

早々御飛脚本望存候、其様子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻関ヶ原へ指懸被為及一戦、

治部少輔、島津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、関ヶ原へ一所に打寄申候つる

此地之衆幷井兵又福嶋殿、為先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、

わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、

大将分は大谷刑部少輔、嶋左近、島津中務、戸田武蔵平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、

打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、

田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不残きりころし、

てんしゅに火を懸、悉焼払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候処を一人も不残うちとり申候、

皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戦場より行かた于今聞へ不申候、

将又安国寺をは吉川、ふく原両人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候

猶替儀候者追々可申入候、恐々謹言

九月十七日   石川長門
        彦坂小刑部
  松平和泉守殿へ

15 :
伊達政宗宛て徳川家康書状
「今十五日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言、島津、小西、石治部人衆悉討捕候」

帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」

大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」

舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
 
□大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」

当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
 
金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」

十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
 
何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」

「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」

近衛信尹宛近衛前久書状
「青野カ原ニテノ合戦ニテ候。即時ニ切立得大利候。
 
番ヒニ金吾手ヲカヘサレ候。其太刀場ニテ、大谷刑部討死候テ、其マヽキリ崩候」

吉川広家自筆書状案
「山中之儀、即時被乗崩、悉被討果候、嶋津などゑり勢三千にて、
 
随分一合戦ハ可仕之由候つれ共、中々馬を被入不相成候て其身一騎のりぬけ伊勢地を被退候」

「一昨日十五日内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候

16 :
立てて見た。保守用に前スレから引っ張って来てみた

このくらいまで埋めれば大丈夫なのかな?

17 :
ここは戦国板だぞ?力抜けよ

18 :
毛利も上杉も地域単位の覇者を目指しており、徳川打倒に一致協力できなかった

19 :
>16おつ

20 :
>>16
ありがとう!

21 :
>>1
>>14
裏切り者の中に筑前中納言(小早川秀秋)、わき坂中書(脇坂安治)、小河土佐父子(小川祐忠・祐滋)の名前はあるけど
赤座直保、朽木元綱の名前がないのは何故だろう?

22 :
これは>>1乙だな

23 :
文書類はともかく、白峰や東洋経済は必要あったかな?

24 :
>>21
裏切りが認められず、所領を没収されたっていうのなら小川が入っているから当てはまらないしな

25 :
苗字かえて加賀前田家の重臣として続いている

26 :
>>12
鳥居彦右が石垣を伝って逃げたというのは、本とかでもみた事がないが
どうだったんだろう

27 :
鳥居の足が悪いから三成の書状が脚色してて信頼できないと言われてる例だったような記憶

28 :
>>27
徳川の与力だった昌幸だって彦右が足悪いの知っているだろうに
見え透いた嘘を書く三成の書状を昌幸はどう思ったのか
まあ昌幸も小細工が好きな人間だから案外共感したかも知れないが

29 :
>>>21
その二人に関しては、そもそも関ヶ原にいなかった説がなかったっけ?

30 :
関ヶ原で戦って賤ヶ岳でも活躍したよって武将が何人かいるけどそいつら揃って山崎、小牧とか前後の戦では名前出ないよな
コンスタントに名前出だすのは対島津から

31 :
>>30
福島正則なんかは山崎の戦いや小牧・長久手の戦いも活躍してるよ。加藤清正も。加藤清正は関ヶ原本戦は不参加だけど。賤ヶ岳七本槍は山崎の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍して秀吉から恩賞貰ってる。

32 :
武将クラスで参戦したか大名クラスで参戦したかの違いじゃないか

33 :
真実はいつも一つとゆうメガネ小僧の探偵に少年時代は夢を馳せていたくせに、ついに独立を図り真実を頭脳ではなく他力本願で探す
真実はakm動物園にあるぜ(^^)

34 :
ここで真実を速報。

しごいてドピュ理(^ν^)

35 :
ここで真実を速報。

シゴいてドピュ理(^ν^)

36 :
ここで真実を速報。

こすってドピュ理(^ν^)

37 :
ここで真実を速報。

こすってドピュ理^ ^

38 :
>>13
敵である家康はともかく、輝元も官名ではなく諱呼び捨てなのか

39 :
戦国時代は諱で呼ぶ事の方が敬意を表すと言う説もあるみたいだけど
書状の相手である真田は勿論、前田とかも諱避けているしな

40 :
政宗は庶民にも諱で記録されてるよね

41 :
ところで戦国時代諱で呼ぶ事が敬意だったのが、やはり諱で呼ぶのは無礼と言う事になったのは
秀吉が武家を官位や清華成や公家成などの家格で統制する、いわゆる武家の公卿化の過程でそうなったのかな

42 :
その豊臣家が、隠し題だろうがなんだろうが、正銘に無断で犯諱をなすとは、何をかいわんやだ

43 :
>39
真田は諱で表記される程偉くないし

44 :
>>39
その説初めて聞いたんで詳しく?
基本的に、忌み名ってのは親か主君みたいな絶対的な目上の人意外は無礼だったと思うんだけど?
家臣に感状を出す時とか、恩賞与える時とか、官位を貰う時ぐらいだよね?忌み名が出る時って。

45 :
いみなは死んでからの名前だろたしか

46 :
それは諡号だのおくり名やろ
今は諱の使用は基本無礼だけど一周回って最上位になりうるという話

47 :
「竹中重門と百姓の関ヶ原合戦」読んだけど
垂井、関ヶ原の大部分を領地としている竹中が
西軍から東軍に寝返った事による影響って
今まであまり取り上げられた本無かったから
考えさせられたな

48 :
菩提山城だったっけか
竹中氏の居城
テレビドラマ「二人の軍師」とかで
出てきたよな

49 :
竹中半兵衛の息子か?もし半兵衛が生きてたらどんな策略用いてたんだろう
あっと驚く奇策をひょうひょうと実践して、あとは知らん、勝手にどうぞみたいな作戦とってたかも

50 :
普通に考えれば、その土地の領主を完全に無視して
陣地とか砦とか作れないだろうから、寝返った際に
それらに関する情報が東軍に筒抜けになった可能性がある訳か
それは長政も籠絡しようとするわな

51 :
結局のところ西軍の敗因は小早川や京極、鍋島、竹中などの諸将をつなぎ止められなかった
三成や吉継、輝元、秀家等の威厳や人望のなさが原因でいいのか

52 :
相良、秋月「さっさと寝返りますね^^」

53 :
豊臣家の内部抗争にうまくつけこんだ家康が一枚うわてだったということでしょう
人心コントロールがうまかったこともあるだろうが、豊臣側で勝手に崩壊してったんでしょ

54 :
この頃の研究者の見解だと大坂城を押さえて、三奉行を味方に付けた(玄亥は少し怪しいけど)西軍が正統派みたいな意見が多いようだけど
裏切りが多数なことを見ると、よほど駄目だと味方に思わせる要因があったのか、東軍の調略がよほど上手かったのか

55 :
だって毛利が親玉とか言われても信用できないし、三成なんて誰も言うこと聞かないわけで
西軍自体まるであてにならない存在だわな

56 :
・家康が反家康派の想定以上に諸将からの人望が厚かった
・奉行(毛利)が想像以上に嫌われてた
・西軍は豊臣御為を掲げていたが、諸将はとっくに豊臣を見限ってた

東軍勝利を思想的なものだけに限定して考えるとこの3つだけど。

57 :
>>54
正統派というのは裏を返せば豊臣の不満を背負う立場でもあるからね
秀次事件や朝鮮出兵などの不満は全て西軍が背負う立場であり
東軍は余計なものを一切背負う必要がなく奸臣三成を謀反人として処刑すると言うだけの有利な立場だった

58 :
そもそも毛利は豊臣家にたいしてなにかご奉公したのかよ
単にそこに居ただけの存在だよな
そりゃ誰もついてこないわな

59 :
>そもそも毛利は豊臣家にたいしてなにかご奉公したのかよ
>単にそこに居ただけの存在だよな
九州・四国・近畿に派兵したり蜂須賀・生駒領を接収したり紀伊半島沿岸部で強略したりと毛利は大車輪で動いていたぞ
関ヶ原で西軍が勝っていれば西日本に大毛利帝国が出現していたところだ

60 :
関が原以前の話じゃね?

61 :
関ヶ原以前でも紀州征伐・四国征伐・九州征伐・朝鮮出兵と豊臣政権で並ぶ者のない延べ動員数No.1じゃないか
東の小田原征伐の時もわざわざ水軍を派兵したり京の留守居をしているし

62 :
むしろ豊臣政権への貢献度を考えれば秀吉は毛利に対して冷淡ですらある。
秀吉死後の体制は徳川・前田の二頭体制だったとはよく言われているが、
本来ならこれに毛利を加えた三頭体制にしてもいい位だと思う。

63 :
吉川が悪いよ吉川がぁ!

64 :
元春、広家「秀吉嫌い!」

65 :
秀吉は毛利というより小早川隆景個人を信頼していた
隆景が長生きしてその補佐付きの毛利なら徳川前田と並ぶところに持っていっただろう
輝元&広家じゃあねえ・・・

66 :
>>65
まあ知ってたけど、秀吉は本当に個人の技量重視だよな。
そんな秀吉がいざ自分が死ぬ時は「秀頼のこと、お頼み申す」なんて
どれほどの器量かもわからん秀頼を盛り立てろって言うんだから皮肉なもんだ。
そう考えると関ヶ原で家康が勝つのはある意味当然だな。あの時点で政権で一番優秀なのどう見ても家康だし。

67 :
家康は幕府を開いたから偉い、なんでも正しいというのは後世人の勝手な思い込みで
足もとすくわれる要素はあちこち有ったわけで、綱渡り状態
だから家康本隊は中山道で待機温存(真田に邪魔さて動けなかったという言い訳)させてたわけで
福島も加藤も前田も信用はしてなかっただろう

68 :
結果だせた徳川と、出せなかった豊臣

69 :
挙兵直後、これは楽勝だと思い楽天的に物事を進めていたら
裏切り者は続出するは、味方の戦意は低いはで
愚痴極まりない書状を出す状況に陥った三成と
事態の急変に戸惑い、江戸に留まり慎重に物事を進めていたら
自分の送った使者の言動に味方が予期せぬ暴走をしたため
慌てて西上する羽目に陥った家康

70 :
家康の伝言はその通りでしょ
結果が想定以上の可能性はあるけど

71 :
今は短時間決着が主流みたいだけど、とうとう無かった事にまでなっているのか

『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった
一次資料が伝える“通説を根底から覆す”真実とは』

乃至 政彦 著
高橋 陽介 著

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309248608/

72 :
>>71
戦場は「山中」だった説だろうね

73 :
まさかの白川越えか

74 :
>>47>>71
相変わらず関ヶ原関連本はよく出るな
呉座氏の陰謀の日本史でも関ヶ原に触れてたし

75 :
小山評定とかもあるし、妙に盛り上がってるな、関ヶ原関連。

76 :
>>74
呉座さんはどんなこと書いているんだ?

77 :
小早川秀秋の動きに慌てたのが西軍の敗因

78 :
>>77
岐阜が即陥落した上に、家康が関ヶ原に到着して、大津が東軍方として挙兵。
その上松尾山を小早川が突然占拠なんて状態で慌てるなってのが無茶だと思う。

79 :
関ヶ原の戦いなんて東軍が一方的に西軍叩きのめしたイジメみたいな感じだよな
家康に付けば領地と立場が安泰となるなら家康側に付くでしょ
三成側に付くメリットが無い
家康は豊臣家臣団の内部抗争に便乗してうまく天下とったよな
家康以上の人物が関ヶ原の時点で誰も居なかったんだよな
なるべくしてなったから戦国三英傑なんだろな
俺は家康嫌いだが

80 :
本戦の内容はともかくとして伍するだけの兵力が集まってるやん?
本当に家康につけば地位も領土も安泰なら、そもそも戦にまでならずに三成を捕縛して終わってるのでは?

81 :
>>80
毛利輝元が乗って来なきゃ三成捕縛で終わってただろうね

82 :
>>79
結果を知ってるから言えるんだろ

83 :
>>79
一方的、と簡単に言ってはダメだよ
家康が徹底的に調略して足場かためた上での関ヶ原だから
間抜けな西軍のような行き当たりばったりではない

84 :
一応上杉が受けたから

85 :
上杉が徳川を追討していたら失敗していたかもしれないじゃないか

86 :
追討しても成功するのが確定じゃないし

87 :
上杉は口ではともかく行動では「徳川に一切手を出しません!」という姿勢を貫いた

88 :
>>82の言う通り結果が分かってるから言えることだね

89 :
むしろ結果を知らないでここに書き込んでるやつなんて居るのか?

90 :
>>85
上杉は背後の最上や伊達をなんとかして関東に注力できる状態にしないと
残された結城秀康の軍勢を突破できるかどうかも怪しいからね
上杉が家康の背後を襲うなら佐竹の全面協力くらいないときつい

91 :
いやさ最近の研究だと西軍は圧倒的に不利な状況下で東軍とぶつかって二時間弱で戦が終わったみたいよ
確かに結果を知ってるから言えるけど三成も大したもんだと評価してる
歴史は勝者の都合の良い様に書き換えられるが三成は奸賊とは江戸時代になってないよね
徳川光圀も言ってる 三成の子供は命はとられなかったし三成の孫(津軽信義)は津軽藩主だから三成の血統に対して幕府はかなり寛大だったとは思う
それだけ石田三成が立派だったんだと思うよ

92 :
関ヶ原後の家康と本多正信の逸話からすると
結果的に三成のおかげで徳川の天下になったんだし
子孫に徳川に対抗するほどの影響力も実力もないから族滅までするには及ばないと考えたのかもな

93 :
いやだって石田家自体はすでに家督を息子に譲ってるし、上杉討伐に息子が従軍してるわけで…

94 :
>>93
三成の息子? 誰よ? 重家は大坂城に人質だったし 弟重成も大坂城だが…

95 :
石田三成の息子だからって危害を加えるようなら
家康は三河一向一揆に加わった連中なんて生かしちゃおかんだろ
例外は孕石元泰くらいなもんだ
まだ戦国の気風が残ってるような時代なら本人に功名が有るとか将来性があるとかで見込みがあれば
出自や前歴に多少瑕があっても出仕の道はあるもんよ

96 :
>>91
石田家に対しては厳しくなかったのかもしれないけど、
豊臣家を裏切った加藤家福島家に対してはむちゃくちゃ厳しかったな。

97 :
加藤はともかく福島は後に高級旗本として家を再興させているな

98 :
加藤は復帰を辞退じゃなかったっけか

99 :
>>91
そもそも三成が西軍で重きをなしていなかったからだよ
何故か西軍といえば三成みたいになっちゃってるけど

>三成は奸賊とは江戸時代になってないよね

それは三成に限らずな

100 :
笠谷によると加藤家も福島家も徳川の陰謀ではなく
自滅らしいけど


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