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上杉謙信は戦国最強【信玄・氏康・信長・一揆を圧倒


1 :2013/09/21 〜 最終レス :2020/05/08
戦国最強・上杉謙信の主な戦歴

天文13年(1544年) 上杉謙信 ○・・《刈谷田川の戦い》・・● 長尾俊景
天文15年(1546年) 上杉謙信 ○・・・《黒田秀忠の乱》・・・● 黒田秀忠
天文20年(1551年) 上杉謙信 ○・・・《長尾政景の乱》・・・● 長尾政景(発智長芳)
天文22年(1553年) 上杉謙信 ○・・・・《布施の戦い》・・・・● 武田信玄
天文24年(1555年) 上杉謙信 ○・・・《北条高広の乱》・・・● 北条高広
天文24年(1555年) 上杉謙信 △・・・・《犀川の戦い》・・・・△ 武田信玄
弘治02年(1556年) 上杉謙信 ○・・・《大熊朝秀の乱》・・・● 大熊朝秀
弘治03年(1557年) 上杉謙信 △・・・《上野原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄03年(1560年) 上杉謙信 ○・・・《増山城の戦い》・・・● 神保長職
永禄04年(1561年) 上杉謙信 △・・《小田原城の戦い》・・△ 北条氏康
永禄04年(1561年) 上杉謙信 ○・・・《松山城の戦い》・・・● 北条氏康(上田朝直)
永禄04年(1561年) 上杉謙信 △・・・《八幡原の戦い》・・・△ 武田信玄
永禄05年(1562年) 上杉謙信 ○・・・《白鳥城の戦い》・・・● 神保長職
永禄06年(1563年) 上杉謙信 ○・・・《騎西城の戦い》・・・● 成田長泰(小田朝興)
永禄06年(1563年) 上杉謙信 ○・・・《祇園城の戦い》・・・● 小山秀綱
永禄07年(1564年) 上杉謙信 ○・・・《山王堂の戦い》・・・● 小田氏治
永禄07年(1564年) 上杉謙信 ○・・《唐沢山城の戦い》・・● 佐野昌綱
永禄07年(1564年) 上杉謙信 △・・・・《塩崎の戦い》・・・・△ 武田信玄
永禄08年(1565年) 上杉謙信 △・・・《和田城の戦い》・・・△ 和田業繁
永禄09年(1566年) 上杉謙信 ○・・・《小田城の戦い》・・・● 小田氏治
永禄09年(1566年) 上杉謙信 △・・・《臼井城の戦い》・・・△ 千葉胤富(原胤貞)
永禄11年(1568年) 上杉謙信 △・・・《守山城の戦い》・・・△ 越中一向一揆
永禄11年(1568年) 上杉謙信 ○・・・《本庄繁長の乱》・・・● 本庄繁長

元亀02年(1571年) 上杉謙信 ○・・・《松倉城の戦い》・・・● 椎名康胤
元亀02年(1572年) 上杉謙信 ○・・・・《関野の戦い》・・・・● 越中一向一揆
元亀03年(1572年) 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政・武田軍
元亀03年(1572年) 上杉謙信 ○・・・《尻垂坂の戦い》・・・● 加賀・越中一向一揆
天正元年(1573年) 上杉謙信 △・・《朝日山城の戦い》・・△ 加賀一向一揆
天正02年(1574年) 上杉謙信 △・・・《金山城の戦い》・・・△ 由良成繁
天正02年(1574年) 上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《守山城の戦い》・・・● 神保氏張
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《蓮沼城の戦い》・・・● 椎名康胤
天正04年(1576年) 上杉謙信 ○・・・《七尾城の戦い》・・・● 畠山春王丸(長続連)
天正05年(1577年) 上杉謙信 ○・・・《手取川の戦い》・・・● 織田信長(柴田勝家)

2 :
【上杉謙信五大野戦】
@川中島の戦い vs武田信玄
A尻垂坂の戦い vs加賀・越中一向一揆
B山王堂の戦い vs小田氏治
C布施の戦い vs武田信玄
D手取川の戦い vs柴田勝家
【上杉謙信五大攻城戦】
@小田原城の戦い vs北条氏康
A七尾城の戦い vs長続連
B松倉城の戦い vs椎名康胤
C唐沢山城の戦い vs佐野昌綱
D本庄繁長の乱 vs本庄繁長

3 :
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

4 :
長家家譜(織田側)
長家家譜(織田側)
その(七尾城の)援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、

2万の上杉兵に対して4万の織田兵が崩壊。強すぎだろ謙信w

5 :
>>2
本庄繁長の乱1
【永禄11年】
4月27日 長尾藤景を討った繁長、府内脱出 翌、村上着後ただちに大葉沢城攻撃開始
5月1日 鮎川氏を城より駆逐
5月2日 上杉軍、岩船到着
5月9日 村上城下に陣張り
大葉沢城付近で合戦あり10名ほどが死亡
5月14日村上城東の根小屋で合戦。上杉方死傷者多数により退却
5月22日 本庄方、村上の西の町を閉切り村上城における戦局が膠着状態になる
5月23日 上杉鮎川軍、大葉沢麓に三日間陣張り
5月24日 上杉方、将軍嶺に笹平城を築き鮎川勢と黒川勢が守備する
【上杉年譜】
村上の要害は一方に山岳が続き本丸の際に掘をきってある。南方には深田が洋々と水を湛えてまるで湖のようであり、北には大河が郭を巡りその先は海原が広がっている難攻不落の城である。
本庄温厚の住民は残らず本庄方に与し、城の修築に心砕き籠城に備えた。

6 :
本庄繁長の乱2
【永禄11年】
6月11日 本庄方多勢の兵をもって笹平城を攻めるが失敗
6月13〜18日 大葉沢村にて足軽同士で戦いがある。
6月25日 本庄方、村上から岩船へ兵を派遣し上杉方の本庄城攻略拠点を攻め上杉本陣を打ち破る。
下渡嶋城(鮎川勢ら守備)の攻略を石栗将監に命じる
7月20日 本庄方、笹平城から大栗田の間道を封鎖し上杉方の荷駄隊を攻撃し荷物二百余りを切り落とす
7月22日 謙信が山浦・色部・北条・新発田らを派遣。
8月18日 下渡嶋城から二千人のうち三百人ほどを討ちとる。鮎川らは後退し城を明け渡す
9月2日 上杉方、岩船の本陣より出動し本庄城攻略の準備にかかる。
9月8日 本庄方に大川氏と庄内の小国氏からの援軍が到着し援軍あわせ5000人の兵をもって以降5、6度の戦いとなる

7 :
本庄繁長の乱3
【永禄11年】
11月6日 謙信、岩船の本陣に着陣し指揮をとる
11月7日 謙信軍に既に岩船で攻防戦を繰り広げていた直江と揚北衆を中心とした軍が加わり大規模な攻撃隊が編制される
11月8日 謙信、本庄城へ進み村上に軍を敷く。
村上方は城下の木戸を全て締切り籠城戦に入る。
この日より一方の山半分で両軍は激戦となり双方合わせて千人以上の死傷者をだしたが全体としては謙信軍が優勢に戦いをすすめるようになる。
1115 本庄城の三方に有力な諸将を配し陣を張る。
東に上条・北条・上田長尾・斎藤・大面・黒川・下田長尾。
南に琵琶嶋・色部・新津・平賀・水原・下条・安田・五十公野
西に謙信旗本・新発田・中条・柿崎
11月20日 夜、西の掘を埋め全ての柵を取りさる
11月下旬 謙信府内に帰城

8 :
本庄繁長の乱4
【永禄11年】
11月25日 本庄方、小国山の外に陣を張る
12月10日 本庄方、村上城西の外に陣を張る
12月13日 本庄方、鮎川に出陣。
12月24日 本庄方、村上城の南に陣を張るが破られ包囲が狭められる
【永禄12年】
1月9日 本庄方、新たに着陣した千人を含め城から討ってでる。この戦いで色部勝長が急死
1月11日 本庄城の四方の外郭が破られ落城も時間の問題となる

1月中旬〜両軍の戦いは鉄砲を撃ち合う程度に過ぎ、本庄方の起死回生をかけた反撃は失敗しいよいよ窮地に陥る。
本庄氏はやむなく伊達・葦名両氏に和議の仲介を依頼し謙信と和議を進める

2月27日 謙信より確かな人質をだせば赦免すると述べる
3月初旬 村上城の包囲網を解除
3月18日 本庄氏、人質として千代丸(顕長)が府内へむかう。繁長は一時蟄居を命じられ猿沢城に移る。これにより軍事的な意味で乱は収束する。
4月 繁長、伊達家臣中野常陸介の屋敷に預けられる。
こうして本庄繁長の乱は完全に収束した
終わり

9 :
本庄繁長の乱の前後って謙信最大のピンチだったんだよな
いくら謙信が戦国最強とはいえ、長年信玄&氏康を同時に相手するのは大変だったらしい
謙信の盟友・安房の里見義堯が国府台で氏康に大敗、上野の長野業盛も箕輪城を信玄に攻められ滅亡
謙信は業盛を救うため武田方・和田城を攻めるも落とせず、義堯を救うため北条方・臼井城を攻めるも落とせず
さらに上野の有力武将・由良成繁と謙信の重臣・北条高広が寝返ってしまう
さらに謙信の盟友で能登守護・畠山義綱が重臣・長続連の謀反で追放されたため、救援のため越中に出兵、長続連方の一向一揆が立て篭もる守山城を攻める時、
本国・越後で本庄繁長が反乱を起こす。さらに越中守護代・椎名康胤が武田方に寝返るという大ピンチ
この時の謙信はまさに敵だらけ
@甲斐の武田信玄
A相模の北条氏康
B越後の本庄繁長
C越中の椎名康胤・一向一揆
D上野の北条高広・由良成繁
さすがの謙信も危うくなったが、この頃同時に氏康が謙信以上に大ピンチだったことで救われる
氏康は信玄と同盟を結ぶことで関東戦線で謙信と互角に戦ってこれた
しかし三船山の戦いで里見義堯に大敗、さらに盟友・信玄が駿河の今川を攻撃したことで状況が一変
信玄が駿河を奪えば武田は大勢力となり北条も滅ぼされかねない
北条も西に武田・北に上杉・東に里見という三方を強敵に囲まれる事態となった
ここで氏康は謙信に同盟を要請、下手に出ることで苦境にあった上杉・北条両者は同盟を結んだ
これで上杉は息を吹き返し、精強を誇る揚北衆の中でも最強の本庄繁長の乱を鎮圧
北条高広の寝返りは越相同盟締結により帰参を許し、越相同盟締結に尽力した由良成繁とも和睦
そして越中へ進み、難攻不落の松倉城に立て篭る椎名康胤を3年攻めてついに落城させる
さらに越中一向一揆の中心・瑞泉寺と勝興寺を圧倒。謙信は見事、危機を乗り切った

10 :
                  ,,、 --- 、
               ,、-''´  ‐-' '  `'‐.、
             /´, ,  ,.r ~`"""~ ヾミ、
            .,' .〃,' .〃       ヽ.i,
            l f .´ /  __      -z,_」!        面倒くさいと思ったら下の文は
            .,'.! ,-、_L -ニ─ ''''マT ̄  「!         読まなくていいです
           ./ .f  Y. ':,    ノ. ヽ、__ノi |
           7r | ヽ ., .` ‐-- '   i   レ         簡単に言えば韓信は軍隊を強くするために
           .l lt ヽ、, |`''‐'.    `'' ,  .l!          厳しい軍律を作ったということです
           .{.{{.li .| .l  、.__ `弋ニニブ  ,j          
           ~`√l.{ .ヽ, `''-ニこ- 、_  ム〜、
            / ヽ\ `'- 、_ ``>≧゙ ,.、__`j
           .,:'゙   ヽ.\  `~フ´  ``"‐-えカ''‐-z、
        ,、ィ'"      ヽ.\  ./    ``'''‐‐{べ'=≠:こz-.、
     ,ィ='''"         .ヽ.\/.     ``'''' ┤  `ヽ, 

11 :
>>9
北条氏康は里見義堯に負けて、
武田信玄と手切れする前からピンチだったってことか。

12 :
>>11
なんだだがだったのかw

13 :
>>4
なぜその面子で戦わずに逃げ帰ったのか理解できない。
織田家の連中は、謙信を本気で軍神と思ってしまったのだろうか?

14 :
>>13
現地の一向一揆が謙信側についたから、ってのが定説

15 :
>>14
え?信長は加賀一向一揆は自分に味方するとか、
もしくは敵対しないとか思ってたってこと?

16 :
>>15
信長vs一向一揆vs謙信

信長vs一向一揆&謙信

17 :
かなり新説だね
七尾城落城説の方がまだ説得力があると思う

18 :
新説でもなんでもない
通説

19 :
そう織田が判断したとする一次史料はまだなの?

20 :
>>15
謙信にも逆らっていたし、加賀の一向衆が必ずしも意志が統一されていなかった
だけかもね。
どちらが上手く取り込めるかって言う時期だったのかも。
まあ、加賀の方は信長憎し兄ちゃんが引いていたから、信長の方が危険な状態だ
ったと思う。
信長にしては能天気だったという事かな。

21 :
信長公記 十巻(天正5年)で
八月八日、柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ侯。滝川左近、羽
柴筑前守、惟住五郎左衛門、斎藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、稲葉伊予、不
破河内守、前田叉左衛門、佐々内蔵介、原彦二郎、金森五郎八、若狭衆、賀州へ
乱入、添川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫の所々焼き払ひ、
在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り侯段、曲事の由、御逆鱗な
され、迷惑申され侯。
と村焼き払ってるから、上手く取り込む気は全く無かったんじゃないかな。
で、ハタと「信長vs一向一揆&謙信」の事実?に気づいて撤退したって、
何かがおかしいと思うんだけど。

22 :
何がおかしいと思うのか詳しく言ってみ

23 :
一揆勢の村を焼き払ってたのに、急に一揆勢を恐れ逃げ帰ったところ。

24 :
文脈の読めないバカ

25 :
菅沼遼太ご用達

26 :
>>14
織田と上杉の国力の差を考えれば何時でも勝てる相手だから撤退したんだと思う。

27 :
あしたのぼくにやらせよう by のびのぶなが?

28 :
>>26
軍事力=経済力=国力 これを元にした場合、織田は武田や上杉や北条よりも弱いな。
信長自身は所領の大きさに比例して、家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない
家臣をどれだけ抱えるかは各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。 従って武篇道と戦果が問題となる。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
池上裕子 武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹 信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地 興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
そして新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名です。

29 :
菅沼遼太は無職です

30 :
>>21
秀吉以外の武将は怒られてないから、やはり残って戦ったんだと思われ。
信長は敗戦に関しては怒らない。

31 :
秀吉が怒られたのは無断で帰ったからです

32 :
>>30
はっ?塙(原田)直政とか
信長に敗戦を激怒されて改易され一族指名手配されてんじゃん。

33 :
ちなみに信長本人が指揮して敗戦した場合は怒らない。

34 :
まぁ信長も上杉と戦うために出陣してたしな。
織田厨が泣き叫びながら信長は安土か京にいたとか捏造してたけど
その時期の信長は京にも安土にもいなかったのがバレたからね。
そしたら逆キレして石山本願寺攻めにいたに違いないとか喚き散らして
単発IDとコピペ爆撃でファビョってたしw

35 :
これを菅沼遼太理論といいます

36 :
信長、手取川に来てたよ。

37 :
石川県南部や福井県北部の県境では手取川の合戦で信長が美濃方面に命からがら逃亡したとの言い伝えが残ってるからね。
また、前田家の分家の大聖寺藩前田家の菩提寺実性院でも手取川の合戦で織田側が敗走したとの言い伝えが残る。
織田の家臣だった前田家にその様な言い伝えが残っているくらいだから手取川の合戦は現実にあったとみていいだろう。
感情的な信長ファンは手取川の合戦そのものがフィクションだと未だに言い放ってはいるが。

38 :
福井から美濃へ帰るんだw
しかも安土が本拠地なのにwww

39 :
>>32
塙(原田)直政は討死を問題視されたというのが谷口らの主張。
敗戦のたびに一族指名手配してたのなら、
佐久間、柴田、明智、滝川、羽柴、みんな消えて無くなっている。
長家家譜によると謙信が先に松任に居る状態で、秀吉は水島から無断で引き返している
松任と水島の距離は近く、
「秀吉の帰陣後に、信長の撤退命令が届いて全軍引き上げた。」
というのは物理的に無理がある。
ありうるとしたら、
・秀吉の帰陣前に、信長は撤退を決定しており水島に早馬を出していた。
・秀吉以外の武将も無断で撤退した。         ←信長公記が否定
・秀吉以外の武将は、謙信に敗れて撤退した。
のどれか。
一番目の場合、信長が秀吉に激怒する理由が無いので、
やはり三番目が妥当かと。

40 :
物理的に無理があるというのは、秀吉が帰陣し謙信が迫っている状況で、
信長の判断を仰ぎ、撤退命令を待つ時間がどれだけあったかということ。
そもそも信長公記ですら、撤退の指示については全く書かれていないのだから、
全軍撤退が信長の意思というのは最初から根拠が無い。

41 :
今日も菅沼節が冴えわたる

42 :
>>38
安土方面に逃れるより美濃方面に逃れる方が賢い
上杉は大船団を抱えているから海上での移動は容易
能登を制圧した時も海上での移動がメインだった
安土方面に逃れた場合、上杉の大船団の一部が敦賀に先回りしていたなら敦賀と加賀南部で挟み撃ちにあう

43 :
>>42
興味深いので学会に新説として発表してください!!

44 :
>>43
んなもん新説でも何でもない。
能登の制圧では奥能登と中能登は海上から上陸して行ってるのは既に承知の事実。
上越には商船専用の港の直江津とは別に郷津という場所に軍港があった事も既に証明されている。
当時の日本は日本海側が海上交通のメインルート。
謙信が軍勢を伴って容易に二度上洛出来たのも海上輸送ルートを掌握していたが故。

45 :
>>39
塙は信長の世継との婚姻関係から大和守護に出世出来たが、
誰が母だかもわからん下賎の信忠のクーデターで、
塙は失脚する末路になった。

46 :
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。

47 :
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。

48 :
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。

49 :
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
>>織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。
越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。
>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響

50 :
>>44
アスペか?
信長が美濃に逃れたって事に決まってるだろw

51 :
勝頼に圧倒されていた北条ごときに苦戦していた謙信が
その勝頼を見るも無惨な死に追いやった織田軍に勝てるわけないだろ

52 :
北条は小田原城にこもってしまうからなぁ

53 :
>>51
織田軍は手取川で大敗してるじゃん

54 :
だが同士の合戦

55 :
>>53
大敗したのなら織田方の武将が何人も死んでいるはず
長篠の武田軍のようにね

56 :
じゃあやっぱり桶狭間の戦いは架空話だな。
一次史料からは義元は不慮の死と書いていて討ち死になんてまったく証明できないし。
上杉朝定が討ち死にした証拠はまったくない河越野戦だってウソだな。

57 :
実は永禄4年11/16付の氏真書状が最も桶狭間の戦いあったことを証明する一次史料なんだよ。
それには当郷年来陣夫之を相勤むと雖も、刈屋陣の刻、百姓等困窮に就いて逐電に及ぶの上〜
などと書いてあって永禄3年に刈谷での戦のために陣夫を動員したことが書かれてる。
これを無理やり刈谷陣は桶狭間の戦いの事だと強弁しているわけ。
そして今川の悪政に百姓逃亡しまくりで兵力がロクに集まらず、
結果、今回から免除するハメになってるのに、
桶狭間の戦いでは今川が2万以上動員したって強弁してるのが現状。
信長公記に記述があるから無理くり史実化しようとする悪癖にはもうウンザリだね。

58 :
桶狭間がなかったと主張しているのはこの世で菅沼君だけだな

59 :
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              人            /l
丶    ◎   _,,.. -─ ‐- .、.._.   ◎   /
  `` ‐-----‐ '"         `` ‐-----‐ '"

60 :
桶狭間合戦がもし本当に織田大勝利なら今川の武将が一杯死んでるだろうしね

61 :
公記基準だと1553年に桶狭間合戦があり義元が死んでることになるしな。
小豆坂合戦の織田勝利も公記の捏造記事だし、桶狭間合戦が捏造じゃないと考える方が無理がある。
何せ今川の武将誰も死んでねーし遠州騒乱まで今川は全く弱体化してないし
合戦そのものが公記がデッチあげてるだけの妄想って事だろ。

62 :
桶狭間が捏造だとしても織田が武田を瞬殺したことに変わりはない

63 :
>>55
その考え方でいくと第四次川中島の合戦は上杉方の勝利だね。
主だった武将は亡くなっていないのだから。
手取川の合戦は織田方が撤退中に襲われたというのが定説。
つまり、撤退中という事は主だった武将は先に川を渡ってる。
それも立派な船にに乗ってたくさんの家臣に支えられているので多少の濁流にも耐えうる。
身分の低い家臣はオンボロの船で渡るか、自身で泳いで渡るしか術がない。
これでは濁流で簡単に溺死して当たり前。

64 :
>>63
撤退ということは殿が必要
そして殿部隊を率いるのは大体それなりの身分の武将がなる
殿部隊を率いた武将(誰か知らんが)が死んでいないということは織田軍は撤退に成功したということになるのでは?
また君の言うように身分の高い武将が無傷ということは主力はほとんど損害を受けていないということでは?
であれば大敗というには程遠いと思うが?

65 :
>>64
双方の実際の被害は判らんね。
ただ、現実に織田方は越前まで完全撤退している現実がある。
上杉方本隊は手取川で進軍を止めている。
謙信は深追いし過ぎて勝ち過ぎたと反省の弁が記録されている。
手取川から越前との国境近くにある大聖寺城まで占領したのは一揆軍。
織田方は完全に加賀から排除された。
丸岡城の記録にも上杉方の南下に備えて防備していた記録がある。

66 :
能登加賀を奪い取られた時点で勢力バランスを一新する決戦が行われたことを証明している。

67 :
冬が近く一揆勢がうじゃうじゃいるところで越冬は危険なので撤退しただけでは?
一揆勢がゲリラ的に補給線を脅かしたらそれこそアウトだし
七尾城が陥落した以上戦略的には別に間違ってはいないと思うぞ?
まあ戦略的には上杉軍の勝利ということは否定しないが

68 :
>>67
大聖寺城を放棄するのは愚か。
大聖寺城がある加賀市一帯の地形を実際に見に行くといい。
100歩譲って大聖寺城を捨てるのは良いとしても越前との国境の丘陵地帯を捨てるのは愚かな行為。
この丘陵地帯に陣を張れば加賀南部の平野部が一望出来る。
つまり、一揆軍や上杉軍の動きが丸見え。
それが出来なかったという事は一揆軍によって織田方が完全に締め出された結果。
加賀領に陣を張る事が出来たのに自ら出ていったのなら織田方はアホの集団という事になる。

69 :
>>68
自分も石川県出身だからあの辺りは良く知っているが?
真後ろに北潟湖があるからいざというとき撤退が困難になると思うぞ?
それよりは北潟湖を越えたら平野部になるのでそこで待ち構えていた方がいいと思うがね

70 :
>>65ー69
なるほど凄い面白い。撤退しなければ、
4万の大軍と秀吉を除く>>21の面々が手取川の北岸で
全員討死してたかもしれないってことだよね。
まさに危機一髪。

71 :
>>67
果たして信長の指示で撤退したのだろうか???

72 :
織田厨があいかわらずボコボコにされてて胸がすっとした 清々しい朝をありがとう先生方

73 :
戦史研究家も信長は逆立ちしても謙信にはかなわないと言っているからなぁ。
ここで織田厨が頑張っても無駄。

74 :
だが菅沼自演放送垂れ流し祭りw

75 :
>>71
信長の指示ではない。信長の指示待ちであったら、撤退は遅れる。
七尾城に上杉軍が釘付けであれば、急いで助けにいくよな。
でも落ちてしまった後では急ぐ意味はない。また戦い方も変わって
くる。一時撤退ぐらい信長の指示を仰ぐ必要はなし。

76 :
たしかに七尾が落ちなければ包囲に対する大きな牽制になるし、
決戦になった際に上杉が包囲を解けば七尾から背後を脅かすも可能。上杉が兵力を分けての決戦なら織田に勝ち目が増すし両軍の士気も変わり謙信にとって危険。
だがしかし、七尾が落ちればどうだろうか、背後を脅かされる心配もなく勢いづく謙信と正面から向かいあって戦わねばならず、さらに土地にあかるい一揆勢も加われば4万といえど大火傷となりかねない事態も考えられる。
故に引き返して対応を改め機会をうかがうのはアリだとおもうよ。

77 :
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。

78 :
情報操作は信長のお手の物だからな

79 :
>>77
大敗したのに誰も死んでいないんだね?菅沼君

80 :
大敗すると必ず有名武将が討ち死にするとする主張は誰が提唱してるんですか?
むしろ戦死した人物の子孫が貧困し、
売文家の太田に金を払えなくて信長公記に名前を出して貰えなかっただけでしょ。

81 :
大敗って意味わかる?

82 :
質問に質問で返すやつは無能

83 :
>>82
菅沼君の大敗の定義は常人とは違うんだね

84 :
第4次川中島の潔い撤退はすごいと思うよ。

85 :
そんなの負けは単に負け

86 :
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候
(『甲陽軍鑑』)
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)

87 :
みんな逃げちゃったw

88 :
川中島(第4次)は、
 武田軍2万人(本体8000人+別働隊12000人) vs 上杉軍13000人
死傷者は武田軍4000人(副将信繁などを含む)で上杉軍3000人
65%の兵力で戦って相手により多くの死傷者を出させたところに謙信の強さが分る
しかも相手は全盛期の武田信玄とその全軍だ

89 :
各武将の戦の生涯データ
上杉謙信 70戦45勝1敗19分
武田信玄 49戦33勝11敗3分
織田信長 23戦11勝9敗0分
1敗は臼井城の戦い
http://blogs.yahoo.co.jp/syogun443/52830721.html

90 :
越後兵が当時から戦国最強と呼ばれたのは、1対1で無類の強さを発揮したから
上杉軍の装備を見ると、武田軍・織田軍・北条軍と比較して、手槍の数が2倍多かった
謙信の神懸かりな采配もあるけど、越後兵は最初から1対1で相手を倒すことも想定してる
それに謙信の何がすごいかっていうと常に敵地で戦ってることだ
自軍にとって不利な環境で勝利する
越後から他国への長距離遠征、しかも周囲は武田信玄や北条氏康といった全国最大の激戦区

91 :
>>89
臼井城の戦いは謙信の敗戦じゃないよ
上杉軍を率いてたのは謙信の家臣・長尾顕長で謙信不在

92 :
軍神に野戦挑んだ常陸の不死鳥は男の鑑だが大人しく小田城に籠城して氏康の援軍待つべきだったな
名族のプライドが籠城策許さなかったかな

93 :
そして佐竹は謙信越山斡旋の御礼に、
厩橋北条へ感謝のため小田領の一部を与えた…
一方、後北条も厩橋北条に伊豆の地の一部を与えていた。
さらに武田と書状交換もしている厩橋北条…

94 :
越後兵が当時最強だったのは、雪国というのがポイントだ。雪国ではぼやぼやしていると冬を越せない。冬を越すために
厳しい寒さと闘う。闘えない者は凍死していく。結果的に越後に住む人は屈強になっていく。謙信が神がかり的な働き
ができるのは、謙信自身の強さもあるが、風土のポイントも見逃せない。

95 :
相撲好きなら知ってるが雪国出身の力士は足腰が強い。深い雪の中歩かないといけないから
最強横綱大鵬も北海道出身
謙信の越後軍は騎馬兵は決して多くないが移動が速かった。これは足腰強いから
謙信が「神出鬼没」「神速」と恐れられた原因はここ
越後軍の弱点は冬は越後→信濃、越後→関東の移動がほぼ不可能なこと
峠道を大雪で閉ざされ進軍できない
これは雪に泣かされた柴田勝家・朝倉義景と同じ
信玄・氏康は謙信のこの弱点をついて軍事力の劣勢を挽回した。冬の間に信玄は川中島を攻め取ったし氏康は武蔵松山城を攻め落とした

96 :
手取川の戦いの後、暖冬だったら
信長は滅んでたな

97 :
川中島の啄木鳥の戦法ってどうも腑に落ちないんだけど
山頂に陣を敷いて後ろから突っつかれて前へ飛び出すかな?
後ろの敵とその場で戦うだろ?
ようするに山本勘助は信玄の埋伏だったのでは?

98 :
信玄じゃなく謙信の埋伏だった
どっちにしろあんな作戦で勝てるとは思えない

99 :
手取川合戦って講談でしょ。

100 :
男色専一だったればこそ、
最強になれたのだろう!
分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


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