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戦国ちょっといい話47


1 :2019/06/08 〜 最終レス :2020/04/06
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっといい話46
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1528724750/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話47
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1557310620/

2 :
保守

3 :
保守

4 :


5 :
ほしゅ

6 :
保守s

7 :
>>1
乙〜。

8 :
>>1 乙&保

9 :
山県三郎兵衛(昌景)は元来“奥の源四郎”と申した御方なり。

源四郎と申す時、信濃猿ヶ馬場という所で越後の謙信衆と互いに物見に出て、しかも采配を
手にかけた武者と馬上から組み落ち、その敵の武者を討って高名故、信玄公の御証文1つ。

また飛騨国において、山道の狭い所故に自分の同心被官も通り過ぎることができず、山県は
1人で、敵は2人で槍を合わせた。この時に信玄公の御証文1つが下された。

合わせて2つの御感を取って持つ。その他の首数5つは並みのしるしなり。

兄の飯富兵部(虎昌)は逆心の侍故、弟は名字を変えさせなさり“山県三郎兵衛”になさった。
同心は板垣衆を付け下された。この三郎兵衛は人数の扱いを良く仕る武者なり。

――『甲陽軍鑑』

10 :
内藤修理(昌豊)は元来工藤なり(工藤源左衛門)。これも信玄公御代に“内藤”になされた。

信虎公・信玄公両代で首数9つあり。人並みのしるし故、御証文は1つもなし。弓矢功者で、
思案・工夫の分別は馬場美濃(信春)に劣らぬ人であり、人数の扱いを良くする人なり。

――『甲陽軍鑑』

11 :
(前略)宗雲公(北条早雲)などはきっと一仏一社の化身であったのだろう。

子細は、伊勢より7人が言い合せ、荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺・宗雲ともに7人が武者
修行すると談合された。駿河の今川義元公の祖父子の御代に、牢人の身分で今川殿のもとで堪え忍ば
れた(牢人分にて、今川殿に堪忍有り)。

才覚をもって駿河屋形の縁者となり給い、すなわち駿河の内かたの郷という所にしばらくおられ、義
元公御親父の代に今川殿の威勢を借りて伊豆へ移り、大場北条辺りの百姓どもに物を貸しなさると、
後には伊豆半国の侍・百姓どもが宗雲公へ出入りを仕り、物を借りたので朔日・15日に礼に参った。

その間にもしばしば参る者には貸銭を差し置きなさったことにより、我ましに(我先に?)宗雲公の
御屋敷の辺りに家を作って皆被官となり、前述の6人の荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺も宗
雲の被官になった。

この衆を首として宗雲公ともに7手に作り、伊豆一国を治めなさって、絶えて久しき北条を継ごうと、
三島明神へ願を立てなさった。(後略)

――『甲陽軍鑑』

12 :
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)

13 :
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」
に「戯言養気集」出典で既出

14 :
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』

15 :
「葉隠」読むとどっかで見たが三つほどあった

一つ目はまとめの4607で出ていた
鍋島勝茂が農家の庭で米を跨いだら老婆に足を打たれた話

二つ目
勝茂に殉死した中野杢之助の扇子に
「惜しまるゝとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
と辞世の句?一首が書かれていた話

三つ目
鍋島直茂が寺で湯を所望したところ
そこの生運という住職が
初めは湯を少なめに、次は多めに出して、直茂を感心させ、そのまま召し出された話。

16 :
茶坊‘S 何人おるねん

17 :
すいません、二つ目もまとめの6267で出てました

18 :
葉隠、>>15
一つ目:水戸光圀が米俵に腰掛けたら老婆に「殿様に差し上げる米になんとする!」と叩かれた逸話に酷似
二つ目:細川ガラシャの辞世の句に酷似
(ガラシャ死亡時の話も石田軍記によれば〜という形で葉隠にはあるが、ガラシャの辞世の句についての記載はなし)
三つ目:石田三成の三献茶の逸話に酷似

以外にも、戦国じゃないけど

「鍋島綱茂が部屋住みの頃、松平直矩のところで夜会が催された際、鍋島家に仕える喜多見久太夫という老人も参加し、戦ばなしに花が咲いた。
夜が更けたころ、給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして一座興をさまし、小姓は赤面して退出した。
他の小姓がすぐさま久太夫を別室に案内し着替えさせた。
後で確かめたところ、久太夫が漏らしたのを一座のほかの者にわからないよう、小姓が気を利かせたということだった。」

という「徳川家茂が習字の師匠の戸川安清に水差しの水をかけて漏らしたのをごまかした」という話に似ているのもあった。
葉隠が佐賀藩でしか読まれていない頃に登場人物変えて逸話を作ったのか
葉隠が他国の有名な逸話を教訓のために、自国の人物で間に合わせたのか。

19 :
>>18
>水をかけて漏らしたのをごまかした
昔の2ちゃんコピペの、女子生徒が漏らしたのをごまかすために主人公がバケツの水かけて〜ってやつの元ネタがこんなに古いとはw

20 :
漏らしたことを末代まで語り継がれる老人

21 :
「侍は首は取らずとも手柄をせずともそれを言わず、事の難に至っても退かず、主君と枕を並べて討死を遂
げ忠節を守ることを指して、侍と申すのである。

義理・恥を知らぬ輩は物の吟味をしないために、幾度の機会があったとしても1つも関心を抱かない。禄を
もって招く時は、譜代の主君を捨てて二君に仕える輩がいる。そもそも心は物に触れて移りやすいものだか
ら、仮初にも侍道の他は見聞きせずに、朝夕身を慣わしとして武芸を心掛け、たとえ学問をするとしても忠
義と大功を聞き、冑の緒を締めて槍・長柄・太刀を揚げ、天下の難儀を救わんと志すことが侍の役目である。

世間の武士道の教えでは、形はどうであれ「好みはあってもどのような事をもせよ。武士は只々志さえ正道
で武芸を嗜み、勇猛であれば良き武士である」と教えている。これも悪いことではあるまい。しかしながら、
某の家人へ教えることは違っている。某の家人などは、形の好みから武士の正道に入れ。形の好みを見れば、
その人の心根も見える。それは心で好んでいることが外に表れるからだ。言葉もそのようなものである。

例えば烏帽子・狩衣を着ている心持ちと、具足・兜を身に着けている心持ちは皆相違することである。髪の
結い様や衣類の着様、刀脇差の差し様まで手軽く健に嗜み、器物などをあるがままに任せ、諸事を軽くして
激しいことをもって、某の家人の教えとする。合印なくとも某の家人と見えるように嗜むべし。

公家殿や上人の玩びを必ず真似してはならない。大いに禁制とする。武道が甚だ弱くなるものである。それ
よりは三味線に歌は構わないだろう。出家と深く出会えば愚痴になるものである。町人と出会えば利欲にな
るものである。(それらの人々と)密事を語るものではない」

以上の教えに背く家人はすぐに扶持を放し、また首をも刎ねて仕置きを見せるものである。その家中の者ど
もは形の好みから武士道に入れというのが、忠勝(本多忠勝)の常の教えである。

――『鈴林扈言』

22 :
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。

23 :
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 :
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな

25 :
細川幽斎 酒の歌

一切の其の味をわけぬれば 酒をば不死の薬とぞいふ。

二くさ(憎さ)をも忘れて人に近づくは 酒にましたる媒はなし。

三宝の慈悲よりおこる酒なれば 猶も貴く思ひのむべし。

四らずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒酔よりもをかしかりけり。

五戒とて酒をきらふもいはれあり 酔狂するによりてなりけり。

六根の罪をもとがも忘るるは 酒にましたる極楽はなし。

七(質)などをおきてのむこそ無用なれ 人のくれたる酒ないとひ(厭ひ)そ。

八相の慈悲よりおこる酒なれば 酒にましたる徳方なし。

九れずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒を惜しむが卑怯なりけり。

十善の王位も我も諸共に 思ふも酒のいとくなりけり。

百までもながらふ我身いつもただ 酒のみてこそ楽をする人。

千秋や万蔵などと祝へども 酒なき時さびしかりけり。

――『成功座右銘 名家家訓』

26 :
天の原 ふる酒みれば かすかなる 三かさも呑みし やがて尽きかも

醒睡笑

27 :
こんなお父さんだからねじ曲がってしまったんだろうか

28 :
唐国諸葛孔明八陣図

        八      レ
●魚鱗 ●鶴翼(の) ●長蛇(シ ) ●偃月(半月の図) ●鋒矢(个)

●方ヨウ(“向”の口が山)(〇) ●衡軛 ●井鴈行
                    〇
●春は北に向かう ●秋は南に向かうなり(□)これをもって相を取る口伝あり。
                    △

以上を良く信玄公は伝授なさって、その後工夫をなされて新軍法その他諸法度の仕置きを遊ばし
給う事、これは皆、信玄公と合わせて四大将(上杉謙信・北条氏康・織田信長)いずれもが取り
合いをした故である。

そのため、軍法はまず当代の四大将より始まる。昔はあったとはいえども、尊氏公の四代目の御
時分から連々取り失ったと見える。軍法の儀は(軍法といえば)信玄公・謙信公の両君なれども、
これも3分の2は信玄公より濫觴(起源)する。

当代日本の四大将は御歳増す次第の先に書く。

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公、53歳にて天正元年4月12日他界。病死。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

29 :
この陣形のそれぞれがどういう用途で使われるのか解説をきいたことがない

30 :
>>29
じゃあ調べて読め

31 :
乃至政彦「戦国の陣形」読むと
甲陽軍鑑で山本勘助は

「軍林宝鑑」という本にある「諸葛孔明八陣の図」として魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月 ・鋒矢 ・方 ・衡軛 ・井雁行

を紹介しているが出典とされる「軍林宝鑑」には八陣として
https://i.imgur.com/HpOEclY.jpg
こんな図があるだけで、魚鱗の名前も鶴翼の名前も見えない
単に大将以外の部隊が八つ並んでいるから八陣とされているだけである
もともと「八陣」には
1.上記の諸葛亮による八陣
2.唐代の知識人李善「雑兵書」に書かれている八陣
「一曰方陣 、二曰円陣 、三曰牝陣 、四曰牡陣 、五曰衝陣 、六曰輪陣 、七曰浮沮陣 、八曰雁行陣 」
3.張良が編み出したとされる日本で口伝で伝わっていた八陣
「魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月等の陣 」
があり、甲陽軍鑑で山本勘助が言ったとされるのはこの三者の折衷である。
甲陽軍鑑によれば山本勘助は信玄から「お前は書物を四、五冊も読んだのか?」と聞かれた際「一冊も読んでません」と答えていることから
耳学問の知識を適当に言ったのだと考えるべきだろう。
実戦の際は部隊長にそれぞれの陣形の形をあらかじめ頭に入れさせておいて
「飯富殿は○○の陣形を、小山田殿は○○の陣形を…」と指図してすぐに陣形を取れるようにした

のように書かれていて、のちに村上義清が編み出した?兵種別の陣形を謙信も採用し、それが諸国に広がったと、書かれてるから
この八陣が使われていたとしても、山本勘助が諸葛亮が考えたものとして献策したのを信玄が一時的に使っただけ
江戸時代に甲州軍学で八陣うんぬんが基礎知識となっただけだから
どういう用途で使われたか、てのはあまり意味がないかと

32 :
ついでにその甲州軍学でも徳川後期となると八陣の知識は忘れ去られた、とあ?

33 :
日本の狭い平地では役に立たなかったのかしら

34 :
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

35 :
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 :
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 :
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 :
昔の人って平気でパクるよね

39 :
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 :
>>35
十五歳は成人だぞ

41 :
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 :
>>41
(TT)

43 :
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

44 :
世上で金銀がたくさんとなったのは、今から50年以来のことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時、作馬不閑(不干斎。佐久間信栄)という者が所持する“雲山”と
いう茶入を金森法印(長近)が黄金百錠で求めた。これが台徳院殿の御聴に達し「その価を
与えよう」と宣った。

折しも金30錠はあったが70錠は不足していたという。今の世と甚だ相違している。

南都東大寺の奉加で頼朝(源頼朝)は「金50両を寄進する」と言われたけれども、その年
は干ばつで調わなかったいうことが『東鑑』に見える。

――『老人雑話』

45 :
太田牛一「秀吉公が出世ののち日本国中に金銀山野に湧き出で」

46 :
浅井某雲母坂奇怪事

さる江州一乱の時、浅井の某という者は落ち武者となって比叡山の雲母坂を下り京へ赴き、
不思議の者に会ったと言われている。

その者は老人と見ればまたにわかに若くなり、若く見えればまた忽然と皺が寄って見えた。
一切人でありながら、分明ならぬ曲者である。

その者が浅井に語るには「其の方の家は必ず末に栄えて貴族の名を得るだろう。頼もしく
覚ゆべし。慎みなくば、また憂いもあることだろう」などと言ったので、浅井某は近くに
寄って語ろうとすると、その者はたちどころに消え消えとなって失せたのだという。

乱れた世には必ず魔障ありと言われることがある。そのような類であろうか。しかしこの
曲者は良きことを申したから、只物ではあらざるべし。

――『塵塚物語』

塵塚物語は天文21年の成立とされているので鈎の陣あたりの出来事でしょうか。

47 :
数寄(茶の湯)がいつ始まったのかは知らず、道を知る人々に尋ねても、定かではありませんが、
おおよそ東山殿より起こったと考えられます。東山殿というのは慈照院殿の事で、将軍の時は
足利義政公と申し上げました。

将軍の位を子に譲られ、東山に隠居されて、長年お慰みに茶の湯を楽しまれたとのことです。
珠光(茶の湯の祖とされる)もこの頃の人であるそうです。これは文明年間(1469〜87)にあたります。
一休和尚や東野州(東常縁)など、この頃には多くの名人が世に出た時代と言われます。

東山殿は道具を好まれ、天下の名物が多く集まったといいます。つくもがみという茄子茶入も、この方の
御物でした。掛物も多く所持され、七百幅あったと伝えられています。能阿弥、芸阿弥、相阿弥という
三人の同朋衆が書いた掛物の外題(掛物を巻いた外側にある筆者や画題の書付)が今も残っています。
三幅一対、五幅一対に大小があるので、天井の廻り縁の下に溝を通して、折釘が左右に動くように仕込み、
大小の画幅を掛けられるようにされたそうです。

珠光は南都(奈良)の人で、眉間寺(佐保山にあったとされる東大寺末寺)あたりに屋敷があったと
言われますが、現在その場所を定かに知る人はいません。

(長闇堂記)

茶の湯の始まりについての長闇堂記の記述。足利義政から始まったという理解が有ったのですね。

48 :
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)

49 :
大阪にて、秀吉公が桑山法印(桑山重晴)の屋敷へ御成になった時、千道安(利休実子)が来て台子飾りを準備した。

ここに薩摩屋道七(山上宗二の息子、山上道七)が挨拶に来て、その台子を見ると
「何者がこんあ無知なことをしたのだ」
と散々に言って、直ぐに飾り直した。

この時道安は次の間に居て、道七の言っていることを聞き、他の歴々の人々も聞き、いかにも
可笑しかったのだが、道安はまるで聞こえていない様子でそのままにしていた。

この座に松倉豊後守(重政)が居られ、後で私(久保長闇堂)に話された。
その時は豊後守殿も道七の飾り方が尤もだと思われたそうだが、その仕方を知る人に密かに
尋ねた所、道七の仕方は古風で、利休、道安の仕方は当世風であったとの事で、彼は
「台子は道の秘伝であり、道安はそれを道七に知らせまいとしたのだ、たいへん用心深いことだ。」
といった。

その時は右構え(現在の逆勝手)だったという。

(長闇堂記)

50 :
くだらねぇ

51 :
たしか古今著聞集で
ある貴族が儀式の際、言葉に詰まったような感じになって
皆が「おや儀式をしくじったのかな?」と思ったところ
儀式後、その貴族がひとり残っているところにある有職故実に詳しい貴族が駆け寄ってきて
「秘伝、誰にも漏らしてはなりませんよ」
と言ったとかいう話を思い出した

52 :
一、信玄公の御仕置で、諸々の境目の侍大将衆へ近国・他国の大将の行儀・作法・仕形を聞き出して、
  その次第・善悪ともに一書にして言上致せとのことに付き、ある年に遠州犬居の天野宮内右衛門と
  申す侍大将の所より進上仕った書き付けによると、

  「美濃岐阜の織田信長へ周り1尺の桃3つがなったのを枝折りに仕り、霜月中の10日に上げると、
  信長は差し引きの冴えた名大将で、表面は事を破っても内心では時によって一段と練ったことの多
  き武士でいらっしゃった。

  そのため、桃の大きさに心祝いして1つは信長が召し上がり、また1つは嫡子の城之助信忠へ参ら
  せられ、3つ目を遠州浜松の徳川家康公へ送りなさった。家康は『世の常ならずかたじけない』と
  の返事をなされ、その桃を隠して捨てて家康が食う給うことはなかった」

  この事を天野宮内右衛門は書き付けて上げた。一書の多い中でこれは左程の事ではないと存じてこ
  そ、末にいかにも粗相に書いてあるのを信玄公は御覧になった。その書き付けを御手に取りなさり、
  しばらく目を瞑りなさって後に御目を開いて宣うには、

  「家康は今年きっと30歳ばかりであろう。40歳に及ぶ殊に大身の信長に、五位も増して締まり
  所のある分別だ。

  流石に武士の心遣いなき者ならば、『歳相応に似合わぬ』とも申すだろうが、三河国を治めようと
  19歳から26歳まで8年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れ形の如くなれば海道一番の武士と申し
  ながら、日本国にもあまり多くはあるまい。

  丹波の赤井(直正)・江北の浅井備前守(長政)・四国の長宗我部(元親)・会津の盛氏(蘆名盛
  氏)、若手にはこの家康であろう。

  さて時過ぎたる(旬の過ぎた)この桃を捨てた分別は、出世を考えてこうしたのだ。その出世とは
  年明かば吉事なり。この意味は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・高坂(弾正)はきっと合点
  仕るだろう」

  と宣ったのである。

一、(前略)その中で馬場美濃が申されるには、「家康の身の上について私めは見及んでいる事がある。
  美濃の命を今20年生きて、この考えが当たるか試したい。20年生きれば80に今少しだ。鉄の
  鎖で繋いでも成らぬことを願うている」と言って笑いなさった。

  高坂弾正は申して「家康の身の上を何と馬場殿は考え給うぞ」と問えば、美濃は申されて「流石の
  弾正殿ならば、私めより早く考えがあるだろうに」と言った。すると小山田弥三郎は手を合わせて、
  「御両所の考えを願わくば聞きたい」と頻りに所望した。

  高坂は申して「美濃殿の考えを承りたさに、私めが下座から申そう」と、弾正はすなわち言う。

  「家康は今信長と二世までの入魂により両方が加勢を助け合い、それ故2人は堅固なれども信長の
  敵は上方14ヶ国の間で、信長に国を取られないことを基本として、信長の国へ取り掛けようと存
  ずる武士は1人もなき故に、この如く次第に大身となった。家康はいつまでも三河一国と遠州の3
  分の1なので、ついには家康は信長の被官のようになって、後に祝言は致した(終には家康信長被
  官のやうになりて後祝言は申しつ)。

  信玄公が明日にも目を塞ぎなされば(明日にでもRば)信長は安堵して、(かつて)今こそ嫡子
  の城介殿と同じに思うと3つの桃を1つ(家康に)送ったけれども、強敵にして大敵の難しき信玄
  公がおられねば、家康を信長はRことだろう(強敵大敵の六ヶ敷信玄公御座なくば家康を信長こ
  ろし候はん)。

  それで大事ないのならば、家康の果報は少々の藪神とは考えなりかねよう」

  と高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて「私めもそれなり」と言う。内藤修理も同じく誓文し
  てその通りであった。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

53 :
まあ家康の腹のうちは分かるとして
藪神ってなんだろ

54 :
>>52
傷んだ桃食べたら命に関わるから食べなかっただけじゃないのん?
それは石田三成の逸話か

55 :
柿じゃねぇんけ?

56 :
TERUから秀吉に贈った桃を旬じゃないからって送り返した逸話があった気がする

57 :
甘いもの好きなノブが桃を貰って捨てるわけがない

58 :
森忠政「桃で人死なねーだろJK」

59 :
遠州殿(小堀遠州・政一)が伏見で口切り(茶壺を開封する儀式)をされた時、古田織部殿が翌朝
お出でになるという前日、相伴の桑山伊賀守殿(元晴)、天野屋覚甫、服部道巴の3人が、前礼のため
六地蔵の遠州殿の茶室へ参られた。そこには明日に使う釜が仕掛けて有ったのだが、彼等はその仕掛けようが
気に入らず「釜を据えなおされよ。これでは織部殿が気に入るはずがない。」と言われた。
しかし遠州殿は「先ずこのままお見せした後、悪ければ直しましょう。」と答えた。

翌朝、織部殿はこの3人を相伴として座敷に入られた。この時伊賀守殿が「釜の掛けようは、これで
良いのでしょうか?」とお尋ねになった所、織部殿は「この釜は、このようにしか据えようが無いだろう。」
と答えられた。

先の3人の予想と違ったため、それ以降遠州殿は一目置かれるように成った。
この釜は森右近殿(忠政)が所望されたため、譲られたという。

(長闇堂記)

これにも何気に森忠政が出てた

60 :
ある時、長遠寺の所へもてなしに、馬場美濃守(信春)・内藤修理正(昌豊)・高坂弾正・山県三郎兵衛
(昌景)・原隼人佐(昌胤)・小山田弥三郎、その他各々大身衆が寄り合って1日の雑談があった。

その内、山県三郎兵衛は駿河江尻の城代なので、遠州浜松の家康の噂をよく聞いていて申された。「内藤
殿は関東・安房・佐竹・会津までのことを語りなされ。小山田殿は小田原の近所なので北条家のことを語
りなされ。高坂殿と馬場美濃殿は越後・越中までのことを語りなされよ」とあって、山県は申される。

「さて、家康は義元公討死より以降10年の間、内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くして見
聞きしたことであろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く、その様子に少し似ているようだ。

何であっても公事の落着は目新しいことを聞かないが、それは昨今の家康が国持ちである故で、各々の感
心なさることはまだ10年過ぎてもないことだろう。あの若き家康が申し付けた3人の奉行は、三様の形
儀を言い付けられたと見えて、“仏かうりき・鬼作左・どちへんなしの天野三兵”と浜松で落書が立てられ
たと聞く。

さてまた、ひととせ私めどもが30歳ばかりの時分、信州更科の出家の公事で、武蔵殿と櫻井殿が若き時、
今井殿ばかりが家老で今福浄閑(友清)が中老であったが、4人は歳も形儀も異なっていたのを、奉行に
信玄公は仰せ付けられた。その様子に、これ程の家康が少しずつ似ているのは不思議である」

と山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂各々は申されて「まったく家康は只者ではない」と言わ
れた。その中で馬場美濃が申されるには、(後略。>>52

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

61 :
家康ぼこぼこにした割には評価高いのね

62 :
千利休は本住坊が参られる度に、茶室で茶を点てた。本住坊が恐縮して「毎回このように
されては、何とも参りにくく成る。」と言った所、利休は

「その事です。関東や筑紫から望んで来るような人であれば、わたしがどのようにした所で、
『このようにするのか』と思うだけであり、また見ても解りはしないでしょう。しかしあなたのような
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては、私の茶の湯ができなくなります。」
そう答えたという。

道に長じた人の心持ちとは、そのようなものなのだろう。

(長闇堂記)

63 :
な〜に言っちゃってんだかw

64 :
>>60
家康と信玄公の関係
https://i.imgur.com/MlnVFoo.jpg

65 :
全然面白くないし
こう言うこと平気でできるあたりで
貧しい家庭と貧しい育ちしてるんだなってのがよくわかる

66 :
秀吉「>>65って貧しさについて何も知らなそうw」

67 :
>>66
はいはい、自殺してから出直してね

68 :
>>67
お前はチチの精子からやり直せ

69 :
>>68
いちいちイモい
マジホモか

70 :
>>69
はいはい、自殺してから出直してね

71 :
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷、
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)

72 :
いわゆる小者

73 :
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 :
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 :
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 :
どこの誰なんでしょうね

77 :
加藤浩次

78 :
柳生但馬守殿(宗矩)は兵法御指南で、ある時に御側向へ「なにとぞ但馬守を打つように」
との(徳川家光の)御内意で、御庭で但馬守殿を竹刀打ちするようにと御所望遊ばされた。

御側向4,5人が御立ち向かったところ、御庭にある大竹5,6本を背にして但馬守殿は
御あしらいなされ、皆打たれたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

79 :
5対1で勝つってどんんだけ強いんだ
それとも側衆がヘタレなのか

80 :
>>78
囲まれないように後ろを壁にする当たり妙にリアルでいいなw
完全な創作だったら囲まれても無傷で圧倒するだろうし。

81 :
忖度です

82 :
ここで剣術の師匠倒したら色々面倒そうやなあ…

83 :
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)

84 :
御四男の左馬助忠吉公(阿部忠吉。正勝の子、忠秋の父)は、慶長19寅年(1614)の
大坂御陣(冬の陣)の折は御知行2千5百石の御従頭で、駿河に御詰めなされた。江戸の御
屋敷は西丸大手際で、後に三枝摂津守がおられた屋敷である。

翌卯年の大坂御陣(夏の陣)で前将軍・家康公の御先を御勤めになり、大坂から毛利豊前守
(勝永)が打ち出た時に、東兵は敗走する。

味方が崩れ掛かるのを忠吉公は御覧になり、道を要意してとある在家の後ろを回って御組中
ならびに御家臣を引き連れ、小高き所に鳥毛の三階笠の馬印を押し立てると、槍衾を作って
「敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!」と、膝を敷いて待ち受けた。

御旗本が足を乱して敗北(敗走)する中でも踏み留まった面々は、忠吉公の言葉を聞いたこ
とを後の証拠とした。将軍家(徳川秀忠)は、忠吉公は御眼前で天晴な御振る舞いであると
の由を仰せであった。

正勝公よりの附人は河野半右衛門・加藤半次郎。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

85 :
>>83
わびってるなあ

86 :
>>83
深すぎてわかんねーw

87 :
わびさび俺には無理だと分かった

88 :
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 :
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

90 :
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。

91 :
お茶汚しですが
https://1000giribest.com/wp-content/uploads/2016/11/shock173016.jpg

92 :
一、正月3日の御謡初に、外様より立花ならびに有馬左衛門佐様などが先例によって今も御登城
  なさる。

  古左衛門佐様(有馬直純)の御話によると、権現様(徳川家康)が駿河に御在城の時、御先
  祖は乱舞を御好みであったので御能をなされた。その折に御相手として呼びなさり、度々登
  城されたという。

  この例によって(有馬家などの当主は)今も御登城なされるのだという。

一、立花飛騨守(宗茂)は大献院様(徳川家光)の御合口で御夜詰にも御登城されたという。

  ある時の御酒宴は長くなって各々順の舞が始まり、品々の芸を尽くして御興を催された。立
  花の順番になり、(家光が)何ぞ御肴に一曲と御所望されたところ、御次の間で支度をなさ
  り、羽織をかぶって尻を端折り(着物の端を折って帯に挟み)、扇を咥えて鷺舞(八坂信仰
  の伝統舞踊)を舞われて出なさったので、甚だ御機嫌であったという。

  久野左門殿(宗辰。御小姓となり一時期御勘気で阿部忠秋に預けられた)の御話である。
  
――『石道夜話(石岡道是覚書)』

93 :
>>91
グロ

94 :
>>92
ほい

京都・八坂神社にて津和野の鷺舞を奉納
https://www.youtube.com/watch?v=uwCH6lhQS2w

95 :
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 :
商人ですからなぁ

97 :
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 :
切腹言われても仕方ないわけですね

99 :
利休と芭蕉は食えないからなw

100 :
芭蕉の利休煮か

101 :
>>92
宗茂って本当に芸達者だったんすねぇ…

102 :
>>101
文武どころか芸事まで達者とは、ほんと完璧超人

103 :
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)

104 :
お茶くらい気にすんなよ

105 :
よく知ってるね

106 :
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)

107 :
マナー講師の戦いみたいだ

108 :
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

109 :
千利休がまだ与四郎と名乗っていた頃、武野紹鴎の茶会に参加することを望んでいたが、ずっと
呼ばれることはなかった。与四郎は袴と肩衣をその時のためだけに用意したのだが、駄目であった。

武野紹鴎が四畳半の茶室を作った時、堺の南北の誰もが、その座敷開きに呼ばれることを心待ちに
していたが、誰も呼ばれること無く、だた「千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。」との使いが有った。

これに与四郎は「忝ない事ですが、明日は伺えません、明後日に参ります。」と返答した。
紹鴎は「それでは明後日お出で下さい。」と応じた。

与四郎は直ぐに夜通しで褊綴( 法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを
折衷して、十徳のように製した衣。)を取りに遣わし、僧体になって紹鴎の元に赴いた。
これに紹鴎は「さても、さとも」と感心されたという。

この時に名を『宗易』としたのだという。

(三斎伝書)

110 :
紹鴎すごいんやな

111 :
23万5千3百石 石田治部少輔三成

三成の先祖は江州粟津ヶ原で木曽義仲を射落とし、その忠賞によって右大将頼朝より豆州に3千町を賜った
石田判官為久にして大織冠(藤原鎌足)の末裔である。

元々は三浦一族であるが、三浦家が衰微すれば共に流浪し、為久より八世の石田藤右衛門尉為成という者が
江州の山家に居住した。二子あって次男を左吉宗成と称す。後に所謂、石田治部少輔三成と称すはこれなり。
嫡子は木工介重成という。

しかるに左吉宗成は穎悟聡明、幼くして文武の道を学んでかつ諸芸に達し、良将に仕えることを望む。時に
太閤は播州半国を領し姫路城にあって、羽柴筑前守と称す。左吉はこれを聞いてここに至る。太閤は左吉の
由緒才智を憐れみ3百石を賜った。時に18歳(原注:一説に150石で右筆に出たという)。

後に太閤が中国三州の主となった時、家人の領地をあまねく加増した。石田は新参だが忠勤によって5百石
の新恩を加えた。この時に太閤は曰く「ただ所存の旨を申せ」と。石田は恩を謝して曰く、「そればらば、
宇治・淀川の両脇に毎年生じる荻と葦を、郷民らはほしいままに刈り納めていますが、この運上を賜ったな
らば恐れながら5百石を返上して、かつ1万石の軍役を勤めましょう」と。

往古よりこの運上を取って来る例ではあるが、その才を試すためと太閤は思案あってこれを許した。また軍
役については追って申し付けるとのことであった。石田は大いに喜び宇治・淀の川上から数百里川下まで生
じた葦・荻を、1町にどれくらいとの運上を定めて刈り取らせたところ、その穀高は幾許であった。

その頃、信長は波多野石右衛門大夫秀治の追討をして太閤が先手の大将であった。時に左吉は団扇九曜に金
の吹貫を垂れた旗を先に立て、華やかに鎧をつけた武者は金の吹貫を皆一様に腰印とし、数百騎を纏って遥
かに引き下って押し来る。

太閤は顧みて怪しみ、軍使を馳せて問うと石田佐吉宗成と答えた。「さては宇治・淀川の運上は万石に及ん
で、今度の軍役を勤めたのか」と、太閤はますますその才智を感心なされた。かくて後に太閤は天下の主将
となり、恩寵はなお深く、ついに江州佐和山23万5千余石を賜り、官四位に至って五奉行の随一となった。

――『古今武家盛衰記』

112 :
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物は蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。


ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)

113 :
正宗(伊達政宗)御死去の前、大献院様(徳川家光)が御成りになった。仰せには、御若年では
あるが天下の為になる事を何ぞ申し上げよ、とのことであった。

その時に正宗は、「御政道について申し上げるべき事は毛頭ございません。憚りながら、御旅行
の時に御宿陣を、非常に御用心仰せ付けなさるようにと存じ奉ります。人々の御固めが浅いよう
では気違うものです」と、申し上げなさったという。

(御宿陣を随分御用心被仰付候様にと奉存候人々御固浅まに候得は気違物にて候(注釈:本マヽ)
と被申上候由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

114 :
>>113
常在戦場っぽくていいなぁw

115 :
まあ当然だよね
ゆるくしてたら民の気までゆるんで言う事聞かなくなる

116 :
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

117 :
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 :
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

119 :
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

120 :
千宗易は秀吉公の師であり、かつその才知が世に優れた人であったため、天下すべての人がその教えを
学び、後には利休居士と申された。
彼の影響に寄って昔の名物はみな蔵に仕舞わ使われなくなり、茶湯が改まった。

昔の炉は一尺八寸か六寸だったのを、一尺四寸(約42センチ)に直し、縁一寸一分、土壇一寸一分、
土壇の内九寸八分にして、九寸(約27センチ)の釜と定められた。この時、有馬の湯元に有った
阿弥陀堂の釜を求められた。その写しが「阿弥陀堂」の名で世に流行した、
釜を釣る鎖、自在も廃り、五徳据えとなった。

茶道具では今焼茶碗(利休が長次郎に焼かせた楽茶碗)、棗の大中小があり、清甫という塗師が作った。
当地奈良の林小路に住む与次という塗師は、中次の薄茶器で天下一であった。

墨蹟には古渓和尚、すなわち利休の参禅の師のものが好まれた。掛物は幅が広いものは立派すぎるので、
一尺二、三寸の幅となった。大文字も二行書きだと、一旦見下ろしてからまた見上げることに成って
良くないため、一行物が流行した。表具も光り輝くのは仏画のようであると、みな紙表具、あるいは
北絹(黄繭から取られた糸で織った中国製の絹)で表具するようになった。

利休は万事手軽く、寂びたものを基本とされた。世間の侘びに配慮し、また道具を持たなくても
誰であっても茶湯が出来ることを示して、人々を道に赴かせようとしたのだ、とも言われる。

その他、茶壺の口覆は昔は角切らずで、口の緒も長かったのだが、利休は角丸く、口の緒を短くした。
茶入袋の緒も、長緒で紅色の唐糸であったのを、現在のように緒の短い、打留一つの練繰糸にされた。

茶箱も利休が初めて作ったものである。桐の角丸面とし、錆(砥の粉を水練りして生漆に混ぜたもの)を
つけないで上塗りを黒くして、木目が見えるようにした。蓋の覆いは薄渋の紙にして、片仮名で
「旅の茶の具」
と書き付けてあった。

(長闇堂記)

121 :
自在ってすごいネーミングセンスだよな

122 :
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』

123 :
私(久保長闇堂)が25,6歳の頃、奈良に秀吉公の馬廻衆が10人ばかり居られ、その内の5,6人は、
仲間内で毎日茶会を行われていた。そのうちに私も呼び出されるようになり、日々様々な遊興が有ったが、
茶湯も好まれ、廻り炭や廻り花(主客が次々に炭手前をする事と、花を入れていくこと)などで楽しんだ。

その頃、その馬廻衆の人々はみな真壺(唐物茶碗)を所持していた。壺がなければ濃茶は出来ないため、
私はそれまでずっと薄茶で口切をしていた。未だ呂宋から大量の茶壺が渡来する以前のことだった。
私は茶壺の無いことを無念に思い、借金をして27歳の時に方脱ぎの壺(肩の部分の釉薬に剥脱のある
唐物茶壺)を苦労して求めた。
するとこの事を馬廻衆の人々が殊勝なことであると感心され、銀子20匁づつを援助して下された。
殊の外の御恩と思ったものである。

今思うとあの人々は五千石、三千石を知行していて、千石以下の者は居なかったのだが、あの当時は
この程度のことをしてくれるという事も、世に無かった時代であった。あの頃は米一石が銀10匁だった。

その頃、祐春という道を知る数寄者がいて、私は再々往来していた。また私と同年の吉蔵という者も、
同じく祐春の元に出入りしていた。
吉蔵は親が裕福で良い茶室を持ち、人形手茶碗を持って茶会をしていると、祐春が称賛していた。
私はそれが気に入らず、無念に思っていたが、10年も経つうちに私も座敷を作り、茶壺を求めたため、
嬉しく思って祐春を呼び、茶湯をしてこのように言った

「あなたがかつて吉蔵の事を称賛していたのを、内心無念に思っていましたが、吉蔵は今ではもう
茶会をしなくなり、茶碗も使わなくなっています、とかく物事は、心がけ次第であると思います。」
これに祐春は言葉に詰まり、気味の良いことであった。吉蔵というのは医師の梅久の俗名である。

(長闇堂記)

124 :
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』

125 :
さすが信長

126 :
古田織部殿の時代は、金森出雲殿(可重)が最も目利きの巧者と言われた。彼が堺で肩衝を
金子3枚で買われて領地の飛騨に下り、火口の釉薬がむさいと焼き直された。

この行為について上方で取り沙汰され議論となった座に、薮内紹智という古い目利きの巧者で、
かつ有名なひねくれ者が有り、彼が
「みなさんそう言われるが、出雲殿は焼き直される目があって買ったのだ。みなさんにはその目が
無いのだろう。」と言った。
そのような事を誰の前でも高言したため、人々から大変憎まれた。その後、夏切口(茶壺に封じた茶を
冬まで待たず初夏に口を開くこと)として、客60人ばかり、大名衆、京町方への振舞があったのだが、
これを主催する人々は紹智を嫌っていたため彼を除外し、「紹智講」と名付けた。

その人々が翌春、東山に各々茶箱を持ち寄って比べられた時、金森出雲殿も上京された。
かれは茶箱に例の焼き直された茶入を入れ、蓋と袋(仕覆)も作り直したものを取り出された。
これを見た人々は「あの茶入ならば、類なき侘びしさだ。」と評した。この後、茶箱に唐物茶入を
入れることが流行した。

金森出雲殿にどのように焼き直したかを尋ねたところ、灰を湿らせて釉薬を残したい部分を灰の中に
押し込み、廻りに火を置いて焼いたのだとの事であった。
その茶入は後に伊藤掃部殿(元豊臣秀長家臣)の所持となったが、海に取り落とされたのだという。

(長闇堂記)

127 :
信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

日向源藤斎(玄東斎。宗立)は、関東・安房国・結城・多賀谷・宇都宮・越前・比叡山への御使である。

雨宮存哲は近江の浅井備前(長政)と四国の長宗我部への御使である。

長遠寺(長延寺。実了師慶)は伊勢の長島や河内国大坂、総じて一向宗の盛んな所へ参られた。ただし
越後の謙信へも1,2度長遠寺が参られると、謙信は誉めて「流石は信玄が気に入ったのも道理かな」
と、信玄公と無事に仕えよと謙信が申されたこと2度であったが、2度とも「まずは長遠寺を遣しなさ
れ」と、輝虎より申し遣されたのである。よって件の如し。

――『甲陽軍鑑』

128 :
>>126
薮内の名誉回復は無い話なのか

129 :
>>128
妙本だけど、書いてあるのはこれだけですね。

130 :
これはある医者の語ったことであるが、かつて曲直瀬道三が諸国遍歴の時、ある浦方を廻っていた所、
一人の漁師の男が、その血色甚だ衰えているのを見つけ、道三はその家に立ち寄り家内の者を見た所、
何れも血色枯衰しており、このため脈を見た所、何れも死脈であった。漁師の一家は大いに驚き

「このように数人も一度に死脈など有るはずがない。浦方であるから、津波などの恐れがあるのではないか。
早々にここを立ち去って山方の方なりとも引き越すべし!」

そういって漁師は家内を進めて連れて引き退いたが、はたしてその夜津波が起こり、この浦の家々は
流れ失せ、多く溺死するものもあったとか。

診察をしても病のことでさえ知り難いのに、かかる神脈は誠に神仙ともいうべきや、と語った。

(耳嚢)

131 :
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

「織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』

132 :
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 :
その頃は信長のがデカいのにその表現は

134 :
京都では盆中に、家ごとに灯籠を30日の間灯すという事がある。これはかつて、明智光秀が京都の
地子(宅地税)を免す事があったのを、かの土地の人々は嬉しき事に思って、明智滅亡の後、その追善の
気持ちで7月中灯籠を門に吊すという。

大阪では5月の幟を、市中では節句の四つ時分(午前10時ころ)までに残らず取り仕舞うという。
これは大阪において秀頼落城の城攻めの事、5月節句に当たった故に、その当時は小児などが節句の幟を
上げられるような状況ではなく、これもまたまた秀頼滅亡の後はその追善を思う故である、と昔は
言っていたようだが、現在ではそのような理由付けもなく、京都において盆灯籠を7月中家々が灯し、
大阪において5月の幟を昼には仕舞うとというのも、自然とその風土の慣習と成ったのだと、
度々上方に行く人が語った。

(耳嚢)

135 :
戦国が治まって太平に成った頃まで長生きした老人が有ったが(この老人の名前も聞いたのだが忘れてしまった。
これを指摘した上で追って再び聞こうと思うと、川尻は言った)、とある集まりで雑談していた時に、
年若き輩が、戦場に出て功を成すのだと狂おしく語っているのをこの老人が聞いて笑い出した

「それは大きな了見違いである。私は数度戦場に出たが、なかなか恐ろしくて兼ねてからの心がけなど
出来ぬものである。私はある戦の伏せ勢に組み入れられて、草高き林の中に埋伏していたが、その時の
心には『とうか敵がこの道を通らないように』と哀れにも思っていた。遥かに馬煙が見えた時は
いよいよ恐ろしく、この合戦が終わったならば武士を辞めよう、とまで思っていたが、敵が我々の伏せている
所を通過しようとする頃、『合図これ有り候』と打って出るに至った時には、それほど恐ろしいとも
思わなくなり、味方の馬に踏まれたり打物に当たったりして討死の数に入る者も出たのだが、その時に
至ると何とも思わなく成っていた。

私は籠城にも何度か加わったのだが、これも籠城の最中は『再び武士になど成らない!』と思い詰める時も
有ったのだが、その戦が終わってしまうと、武士を辞めようという気も無くなっていた。」

そう老人は語った、さもあるべき実情の物語であると、聞いたままに記録した。
またかの老人の物語に

「私が臆した心底である故にそんな事もあるのだ、と思われるかもしれない。しかしその当時の同輩たち、
何れも同様であったのだよ。」と語った。

(耳嚢)

136 :
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。

天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)

この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。

東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。

 元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
 忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
 永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。

寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。

かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。

五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。

――『以貴小伝』

137 :
武田信玄の国柄の兜として、高二百石で大御番を勤める渡辺左次郎(英(さかえ))の家に伝わっているものを
見た人の語った所によるとmそれは頭形三枚錣(錣が三枚になった兜)にて、一見した所粗末に見えるが、
この錣の裏に切金(金銀の薄板を模様に切り貼り付けたもの)が入っていた。国柄唐草の蒔絵であり、
間庇には信玄の自筆にて歌が認められていた

 いかにせん くずの裏吹く秋風に 下葉の露の残りなき身を
 (葛の葉裏を見せるように吹く秋風によって消える露のように消え去るこの身をいかにするのか)

上州白井の明珍信家による作であるという。甲州の武士であった下條伊豆守が戦国に浪々して、
その倅が渡辺家に養われた故に、今かの家がこれを持ち伝えているのだという。

(耳嚢)

138 :
太田持資(道灌)が上京した時に、彼が歌道を好むということで、公卿たちがこれを求めると
「関東の田舎に住んでおりますから、堂上の人々にお目にかけるべき歌など有ろうはずもありません。
これは田舎にて詠んだ歌です。」と奉り

『武蔵野の 折べい草は多けれど 露すぼこくて折られないもさ』
(「折べい」は「折るべき」の、「露すぼくて」は「露に滑って」の、「もさ」は「ものさ」の、それぞれ関東訛り)

こう詠んだところ、人々声高く大笑いした。この時持資は「もう一首、このように詠みました。」と
再び奉った

『露おかぬ かたも有けり夕立の 空よりひろきむさしのゝ原』

これに一同深く感心したという。

(耳嚢)

139 :
>>138
やはり頭いいんだな
最初に受けを狙い、その後で切り返し
暗殺なんて事にならなかったら

140 :
朽木家には、狩野探幽の描いた松に鶴とやらの重器があるという。
この絵が描かれた当時、久須美六郎左衛門(久隅守景か)という、素人では有るが名人と呼ばれた
絵描きがあった。彼が朽木家で探幽の描いた松に鶴の絵を見ると、「面白からざる」と嘲った。

その後探幽が来た折、主人がその話をすると
「久須美が言うことは尤もです。認め直しましょう。」
そう言って書き直した。

次に久須美がこの絵を見た時、「宜しき」と言ったが、強いて称美することも無かった。
主人はまた淡幽を招いてしかじかと語ると、「また描き直すべし。」と認め直した。

重ねて久須美にこれを見せた所、彼は大いに感賞し
「探幽は誠に奇妙の画才なり!同じ絵を三度まで我意無く書き直したその形様は、たとえ何も
変わっていなくても自然にその妙があるものだ。」と賞嘆したという。
これによって現在でも、この絵は朽木家の重宝とされている。

(耳嚢)

141 :
>>140
なるほど、わからん…

142 :
プロレスありそうなアングル

143 :
ある年に、野雁の羽箒が世間で流行したが、これは小堀遠州殿が領国の備中松山へ下国された時、
野雁を打たれ、その羽根を箒につかわれたのが初めであった。
柄杓の柄を太くしたのも、遠州殿が初められたことである。
また土風炉(土を焼いて作った風炉)の足二つを先に寄せられた事も、脇から見て良いようにという
遠州殿のお好みであった。

現在では水指卓に大小様々なものが有る。これも遠州殿が好み工夫された。昔志野宗信(室町後期の商人、
香道の創始者)が聞香に使った棚などを見られて、一段と優美になされたのである。

(長闇堂記)

144 :
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。

145 :
小堀遠州殿が若い頃、当地奈良で方々の茶会に出られた中で「興福寺最福院の茶会が飛び抜けていた。」と
言われた。私(久保長闇堂)が「一番の点前上手です。」と申した所

「その事ではありません。あそこでは唐物茶入の小さな尻膨を、袋(仕覆)に入れないで茶を点て、
その後薄茶にもその茶入を持ち出されました。その仕方に、茶入を秘蔵していないのだという心持ちが
出ていて非常に良かった。また薄茶にも良い茶を飲めました。この二つにおもしろさがあった。」

そう仰られた。若い頃であったが、茶湯の見方が既に常の人とは違っていたのである。

(長闇堂記)

146 :
長篠で勝頼敗軍の時、青木(一重)の人数は舟に乗り、川を越えて敵船に交じり乗ったのを
敵は(青木を)見知っていて船から突き落としたが、川中を潜って折々首を出し、船に遅れ
ずに付いて行った。

向こうの岸際で浮き上がると、かの突き落とした兵を見掛けて浮き上がり取って引き落とし、
水中で首を取り申したという。

――『烈公間話』

147 :
安藤治右衛門家によると、先祖の治右衛門(正武)が大阪御陣の時深手を負った折、家康公が赤絵の茶碗に
薬湯を入れ、御手自ら賜ったという。この茶碗は朝鮮王より太閤秀吉に贈られた三つの品の内の一つで、
その後太閤より家康公へ進ぜられたのだという。その銘に曰く(赤絵染付なり)

 十年窓下無人問 一挙成名知天下

これは治右衛門家が重器として持ち伝えている。虫干しの時に見た人が語った。


(耳嚢)

148 :
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』

149 :
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方

150 :
露地に飛石を置くように成った始まりについては、東山殿(足利義政)の御時、洛外の千本に
道貞という侘数寄の者があり、有名であった。そこで東山殿も関心を持たれて、鷹狩の帰りに
道貞の庵をお訪ねに成った。この時、狩りの帰りであり足元は草鞋であったので、汚れ無いよう
同朋衆に雑紙を敷かせた。東山殿が帰った後、道貞は東山殿のお通りになった跡を写して。その
場所に石を置いたという。

また、道貞の露地に植えてあった桂の木は、その後道貞桂と名付けられたと言われる。

(長闇堂記)

151 :
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、俟ち方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事

152 :
奥方(伊達政宗正室・愛姫)は常に儀式を正しく守ろうとされ、毎年正月、五月、九月にはおびただしい
服を仕立てられた、正月は晴れ着、五月九月は衣替えのためのものである。
公方様へ献上する服をはじめ、様々な方面に進上するための服は数え切れないほどであった。

この衣服を仕立てるため、御縫い物座敷では、左側は一通り表側を縫う衆(ひだり一とをりはおもてをぬい候衆)、
右側は一通り裏側を縫う衆(みぎ一とをりはうらをぬふ)、中央は綿を入れる衆(中とをりにてはわたを入のしたたむ)、
縁側はお召のものを縫う衆(えんがはにては御めしの物ぬいしゅ)と別れていた。
そして奥方は禿衆(近侍する少女たち)を相手に、お一人で布の裁断をして、それをご自身で縫製方に配られた
(おもてうら御一人にてたたせ給ふて、御自身さしくばらせ)。

この事は、ひとえにご恩返しとしての行為であった(是ひとへに御をんをくりなり)。

(木村右衛門覚書)

伊達者として名高い伊達政宗の装束ですが、これらの多くを正妻の愛姫が主催する工房で自ら作ってたらしい、
というお話。

153 :
滅亡した後の大友家の姫(実際は志賀家)が長崎で養蚕を教えて桑姫として名を残したりしてるし
姫というだけあって教養や手に職を持ってるんだな

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0904/index3.html

154 :
>>153
亡国の姫ネタだと、やっぱり信玄の娘で信忠の婚約者の松姫。

養蚕で収入得ていた模様。

ttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%9D%BE%E5%B0%BC
22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。

天正18年(1590年)八王子・御所水(現・八王子市台町)のあばら家に移り住む。
尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、
蚕を育て、織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々だったという。
また異母姉の見性尼(見性院)と共に会津藩初代藩主・保科正之を
誕生後に預かり育てている。

155 :
同青木民部(一重)が真柄を討ち取り申されるよりも以前と存じられるが、牢人して今川家に武者修
行の士は多く、甲州勢が出ると聞き民部は一同に30人ばかりで掛け出て、新坂の道辺にある銀杏の
木の見えるところまで行った。その時、山上へ大物見の如く3百人ばかりが出た。

「何とぞ引き取るべき!」といずれも申したが、民部は曰く「引き色を見せれば、猶更敵は募ること
だろう」と。十死一生の戦を持ち戦う内に、民部は大きな男と組んで山の下へこけ落ちた。銀杏の木
の際へ落ち付いた時、民部は上になって首を取った。また、他の者も2人で敵1人を一緒に討った。
その内に味方の加勢が来て、敵は引き取ったのである。もっとも、初め同時に来た味方の内にも討死
は多かったのだという。

今川家よりその褒美として民部に金子1枚を賜り、一緒に敵を討った士には金の龍の口蓋を2人に1
本ずつ賜ったのだという。

民部はいつも武辺の話を致さぬ人であったという。また小兵で痩せた人だという。この人は青木先甲
斐守入道丹山(重兼)の父であるが、実はその伯父である。実父(青木可直)は輝政公(池田輝政)
の御家中におられたという。

前述の時に諸人は「引き取るべき!」と言ったが、青木1人は申され「引き取れば追い付かれて1人
も残らず討たれることだろう。堪えて戦おう!」と申した。その一言は大きな誉れである。その上で
功名があった故、ますます手柄となったのである。

――『烈公間話』

156 :
>>155
すみません訂正します
> 同青木民部(一重)が真柄を討ち取り申されたこと以上に存じられるのは、牢人して今川家に武者修

157 :
一、掃部頭直孝公(井伊直孝)御逝去の折、御形見として知行3万石や金7万両を御領地の庄屋
  までも拝領したという。

一、直孝公の御息女様(長女の亀姫)を大猷院様(徳川家光)に召し出されるようにとの御内意
  あり。すると掃部頭様は御受け奉り畏まったものの、「我が身は病身で御奉公勤め難く」と
  仰せ上げられ、それにつき御息女様は御一生御縁組はなかった。

  後には祟雲院様(掃雲院)と申して直孝公は取り分けて御労り、御生涯金銀は申すに及ばず、
  何事でも御望み次第、御心一杯御自由に遊ばされるよう仰せ進められた。これにより祟雲院
  様の御金は10万両あったという。

一、掃部頭様は御用金と申し御先手を3年御勤めになられる程の御手当を御貯えであったという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

158 :
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』

159 :
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 :
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

161 :
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
Rべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』

162 :
ここで殺してたらどうなったんだろう

163 :
関ヶ原は起きないが殺したやつが責められて家康へ臣従する流れ

164 :
柳生但馬守(宗矩)の門前に托鉢の僧が来て剣術稽古の音を聞き
「大概(そこそこ)には相聞こえるが、御師範などとは事おかし」
そう嘲るのを、門番の者が聞いて咎めたが、聊かも取り合わなかったため但馬守にかくと告げると
「早々にその僧を呼び入れよ」
と、座敷へ通して対面した。

「御身出家なるが剣術の業を心がけたと見える。何流を学ばれたか。」

「御身は天下の御師範であるそうだが、剣術は下手である。流儀というのは剣術の極意ではない、
剣を遣うのに何の流儀が有るだろうか。」そう笑った

柳生もさる者と思い「然らば立ち会ってみられよ。」と言うと「心得た。」と稽古場に至り、
但馬守は木刀を持って「御僧は何を持つか。」と尋ねると
「某は出家であるので何を持つだろうか、速やかに何を以てなりとも打ち据えられよ。」
そう言い放って道場の中央に立った。

但馬守も「不埒なることを申すものかな。」と思いながら。「いざ」と打ち掛かろうとしたが、
この僧の有様、打ち掛かれば如何様にも手篭めにも成るべきように思われた。

さすがは但馬守であり、彼は木刀を下に置いて拝謁し
「誠に御身は知識道徳の人である。心法の修行をこそ教え給え。」
そうひたすら望んだ。かの僧も
「剣術に於いてはあまねく御身に続く者無し。」
と讃え、互いに極意を契ったという。

この僧は後に但馬守より申し上げ、大樹家(将軍家)家光公に昵近した、東海寺開山沢庵和尚である。

(耳嚢)

165 :
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 :
その時は金吾が総大将だな

167 :
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

168 :
>>164
和尚強すぎw

169 :
たくあんそうほう

170 :
太田道灌は文武の将であった。彼には最愛の美童が二人あり、その寵愛に甲乙をつけなかったが、
ある日、両童側に有る時、風が吹いて落ち葉が一人の美童の袖に止まった。道灌は扇でこれを
払ったが、もう一人の美童はこれに、いささか寵を妬む色があった。
これを見て道灌は一首を詠じた

 ひとりには 塵をもをかじ ひとりをば あらき風にもあてじとぞ思ふ

このように詠じたという。おもしろき歌ゆえここに書き留める。

(耳嚢)

171 :
石田治部少輔三成は幼名・左吉、その父は佐吾右衛門で江州石田村の地士にして一村の長で
あるが、家は貧しく左吉を近郷の真言寺の小小姓とした。

ある時に秀吉公がこの寺へ参詣し、左吉の容貌起居は他に優れたことによって、住持に乞う
て近習の臣とし、次第に昇進して江州佐和山18万石と代官所7万石の合わせて25万石を
領知した。

――『志士清談』

172 :
長久手にて勝入公(池田恒興)が御討死致されたと輝政公(池田輝政)は御聞きになられ、
敵陣へ駆け込もうとなされた。

これを伴道雲(原注:大膳の父である)が御馬口に取り付き、「大殿様は御討死ではあり
ません! 御退きになられたのを私は見申した!」と申して、「こちらへ御越しなされ!」
と申し、無理に御馬を引いて退いたという。

――『烈公間話』

173 :
★「秀吉から拝領」伝承の十字形洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25


...地味なほうの加藤さんがレイピアを振り回す...

174 :
>>173
神社が保管ていうのがまたじわじわくるな

175 :
水口レイピアは悪い話スレの方にも書かれてますよ。

で、藩祖を祀った神社に家宝や伝世品が納められてるというのは良くある話なので、
例えば米沢藩の上杉神社には、信長から謙信に贈られた西洋マントや、豊臣政権の
重役として明朝との交渉で贈られた官服とかが所蔵されています。

家康を祀った久能山東照宮に時計とか鉛筆とかがあるのも有名ですね。

神社に西洋由来の所蔵品があっても全くおかしくないのです。

176 :
未の年正月、岡山での(池田光政の)御物語り。加藤左馬助殿(嘉明)は常に動かない人である
(常ニ不動人也)。殿中で地震の時(慶長伏見地震。原注:秀吉が伏見にござった時)に動かな
かった。

また虎を朝鮮国から進上した時に大書院の縁を虎を牽引して通り、諸大名は皆少し退き申される
様子であった。山崎甲州(家治)が気味悪く思って引き退こうと致した時、左馬助殿を見なさる
と、柱にもたれて嘘眠りしておられた。

これを見て甲州も歯を食い締めて退かなかったと、甲州が光政様へ御物語りしたという。

――『烈公間話』

家治は文禄3年生まれだから当時3,4歳か

177 :
実は腰が抜けていた

178 :
寛永十三年(1636)四月二十五日、六十八歳の伊達政宗は体調の不調をおしての、最後の江戸参府となる途、
政宗の希望にて日光東照宮を参拝する。
将軍徳川家光もこの情報を得ており、旗本・伊丹播磨守(康勝)にその案内を命じていた。
折しも二十五日は公家門跡衆語社参の日でも有り、そのもてなしのため四座の申楽による御能が、本堂の前に
敷舞台を拵え行われていた。

拝殿への参拝が終わると、政宗は伊丹播磨守により奥の院へと案内された。拝殿より左、五十四、五段の
石段を四回、三十七、八段の石段を三回上ると奥の院と成る。
政宗は最後の階段の、奥の院本堂まで後一段という所で転倒した。長袴のくくりの糸が緩み、足に
まとわりついたためだという。政宗が倒れようとした瞬間、右に伺候していた山路八兵衛、先に立つ形で
左に伺候していた青木忠五郎、そして後ろについて政宗の腰を抱えていた木村宇右衛門(この覚書の作者)が
とっさに政宗の体を支えた。このため大きな怪我はなかったが、左手の親指を石に少し擦り、少々出血した。
(御左の御手の大ゆびのふしを石にて少すらせ給ひてち少出る)

政宗は左手親指の血を懐紙にて拭き取りつつ、伊丹播磨守へここまでの案内に礼を述べ
「公方様(家光)への礼は改めて述べよう、あなたは先に御下向あるべし、我等は心静かに拝し、その上で
下向する。」と言い、伊丹を先に退出させた。

すると政宗は、負傷した指を包ませ、何ともなく四方を眺めながら、こう語った

「御本堂にあがり拝し奉るには及ばない。ここで戻ろう。倒れるはずのない場所で倒れたこと、
指より血が出て汚らわしいこと、日光に参るのもここまであるという、お告げなのだろう」
(御本堂へあがり拝し奉るにおよばず。是より御下向あるべし。たをれまじき所にてたをるる事、
ゆびよりち出てけがらはしき事、日光へも是ばかり参れとある御つげと見えたり。)

こう言うと、政宗は「はらはらと御落涙あそばし」、御暇乞いであるとして、三拝して下向された。

(木村宇右衛門覚書)

伊達政宗の最後の日光参拝についての記録である。

179 :
>>178
老いてなおかっこいい…

180 :
政宗無駄にプライド高いからな

181 :
政宗の男振りは老いて尚健在なのか
現代の老害達にも見習ってほしい

182 :
道庵(千道安)の方へ去る者が茶湯に行くと、庭に多くの朝顔があって花は盛んであり、露路
は見事である。その通りを利休に語ると、利休の申し様は「いまだ知らず」として日を定めて
茶湯を所望し赴いた。

露路を見ると朝顔は一葉も無く「これは」と見るところに、床の花入に朝顔一輪が入れ置いて
あったのである。数人に見古させた花を庭で父に見奉ることは、賞玩にならないのだという。
この如く(道庵は)働いた茶湯であったという。

総じて茶湯の心はこのような事なのだという。

――『烈公間話』

183 :
https://i.imgur.com/BJQzxTQ.jpg
利休と秀吉の逸話で有名な話か

184 :
>>183
この話知った後だと悪い話にしか見えねぇな
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1557310620/192

185 :
>>184
おまへのものはおれのもの、おれのものはおれのもの
他人の創意を横取りとはえらいガツガツしてんな

186 :
宗匠は物欲創意欲化け物

187 :
羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
(佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事

188 :
ファクシバ チクジェン ドゥノ

189 :
(山口に於いて)他の人達来たりて、「デウスがもし全世界の救主、または統治者であるならば、なにゆえ
その始めよりその教えを当地方(日本)に弘布せしめず、今日に及んだのか。」と問うた。

「デウスの教えは世の初めより今に至るまで世界の各地において、人間の意中に明示されている。
無人の森林の中で成長した者も善悪を識別し、他人が己に対して成すことを欲しない事を、他人に対して
成すのは罪であると承知している。」

我等はかくのごとくして十誡を説明し、

「彼等の創造主もこれを教え給えるため説教者に付いて学ぶ必要は無く、第一誡の魂を造り給えしデウスの
あることは、理性を有する人間ならば、誰であっても考えつくことを得る。

父母がもし自力によって子を生むのであれば、望み次第にこれを有するべきだが、子女を望んで得ない者、
また望まぬのに多数を有する者がある。

人がもし己に対して他人がするのを欲しない事を他人に対して行わず、また彼を造りし者を崇敬すれば、
デウスの教えを聴いたことがなくても、デウスは己を救うべき光明を授け給うだろう」と答えた。

彼等はまた、「智力が充分ではなくこの事を理解するに至らず、また己を造りたる者を知らない者も
多いが、彼等は一体どうなるのか。」と問うた。

「彼等の智力が足りなくても、そのわずかに知る所を善用し、その知れる悪しき事を悉く棄てて善を
行うならば、デウスは御慈悲深く、また何事も見給う故に、彼が受けた恵みを善用するのを見て、
己の霊を救うために成すべき所を心中に感得せしめ、道理に反して木石を尊崇せず、人間を救う力のある
真の聖者を尊崇せしめ給うだろう。

このようにして自然の教えに従って生活すれば、デウスの御慈悲によって己を救うべき徳を獲得すべし。
懲罰を招く者は、その責は己に有り、我等の主デウスの御恵が欠けていたからではない。彼等は道理に
反したことを行い、創造主にあらざる木石及び人間を崇拝して多くの罪を犯した故に、救いを受けることが
出来なかったのである。」

右、ならびに他の質問をなせし者は甚だ多数であり、朝から夜に至るまで屋内に充満したが、
パードレ・コスモ・デ・トルレスは彼等を悉く満足させた。この地の坊主達は我等がその罪を攻めるが故に
我等を悪口し、或いは悪魔が一つの偶像を通じて、我等はその門徒であると告げたと言い、また悪魔が
我々の存在故に、天より投げた雷が王(大内義隆)の家に落ちたのを見た者が多いと語った。
また我等は人間の肉を食べると言って、我等を疵付けようとする者もあった。

主はまた戦争を起こして(大寧寺の変)我等に艱難を下し給うたが、戦争は国王が死んで止んだ。
当市は八日間火と血の中にあり、この際行われたのは勝者万歳の法律にして、或いは報復のため、
或いは略奪のため人を殺した。この期間我等を憎み、また我等の有する僅少なる物を略奪しようと欲した
者たちは、常に我等を捜索した。我等はしばしば大いなる死の危険を冒したが、主に仕えんと欲する者を
特に護り給う御慈悲深き御手は我等を一切より救い給うた。

(1551年10月20日(天文二十年九月二十一日)付イルマン・ジョアン・フェルナンデス、フランシスコ・ザビエル宛書簡)

キリスト教の布教初期の、日本人からの有名な疑問と、それへの解答を記録した記事。
つまり「布教する前から神の教えはみんなの心の中にあったんだよ!」という話ですね。

190 :
シナ人と日本人とは言語大いに異なり、その会話は互いに理解することが出来ないが、
日本人がシナの文字を知り、書いたものを理解するのは甚だ驚くべきことである。
シナの文字は諸大学においてこれを教え、これを知っている坊主達は諸人より学者と認められる。

シナ文字(漢字)は一字ごとに一物を示し、日本人がこれを学ぶに当たっては、先ずシナ文字を書き、
その上にそれを示すものを画く。例えばその文字が人を示す時は、その字の上に人間の形を画き、
他の一切の文字についてもまた同様にし、文字は集まって辞書を成す。

日本人がこの文字を読む時は日本語にて読み、シナ人はその国語にてこれを読む。これ故に話す時は
互いに理解できず、文字を介した時のみ互いに了解する。文字の意味を理解していても、国語が異なる
故である。

(1552年1月29日(天文二十一年一月四日)付、フランシスコ・ザビエル書簡)

ザビエルによる、漢字についての記録

191 :
中国国内でもそうだったようなことを、昔中井貴一が出てた番組で紹介してた
しかしザビエルまめだな〜

192 :
一、清正公は石垣普請の御上手で、熊本城の石垣は他に無いものという。これにより御本丸富士
  見御櫓台の石垣は大猷院様(徳川家光)も御頼みにされており、(かつて)清正公が御指図
  されたものという。

一、諸大名が屋敷の地を御願した所に井伊家の屋敷はあって、その頃に加藤肥後守清正が屋敷に
  御願された所だった。

  御本丸よりも高い山だがら如何なものかと上意があれば、清正は仰せられ「幸い後ろの方は
  深い谷ですから、谷を引きならせば平地となり申しましょう」と御願の通りに済み、かなり
  の人夫が掛かったという。

  表御門は結構な御普請で御門柱は幅3尺、金彫刻は冠木に金で波に犀の彫物。桜田御門から
  見えて甚だ光る結構な御門だという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

193 :
国王(大友宗麟)の鷹匠(彼は家中キリシタンである)の一僕の青年が、国王の愛していた鷹を放った時、
風が吹いて流され帰って来なく成った。これに青年は恐ろしくなって逃げ出し、主人は鳥が逃げたことを
知って、家中で諸方に出て捜した。青年の母は大いに悲しみ、泣きながらパードレの元へ来て、その子を
救うようデウスに祈ることを請うた。パードレは「それを行うが、あなたもまたデウスに祈るべし」と
言った。

翌朝、パードレが住院を出ると、偶然鷹が自分の住院の上を飛んでいるのを見つけた。そこでキリシタン
である武士の家に人を遣わし、「来たりて鷹を捕えるべし」と伝えたところ、彼はこれを捕え、
このようにして王の怒りを免れた。

このキリシタンに一人の婢があった。彼女がキリシタンと成る前には、狐が夜中に来て彼女を戸外に
連れ出していたこと、家族一同の知る所であったが、キリシタンと成ってからは再び来ることはなかった。
諸人はこれ(狐)を悪魔で有ると言っている。

(1554年(天文二十三年)付、イルマン・ペロ・ダルカセパ書簡)

逃げた鷹も見つかるし狐も逃げ出すキリシタンの奇跡

194 :
良いことが起きたら神様のおかげ
悪いことが起きたら悪魔のせい
まさに洗脳

195 :
木村又蔵は、元々加藤清正の徒の者であったが、清正が熊本に於いて城廻りをする時の供に、
これに扈従する時期臣たちの中に、その者たちの内の者共(陪臣)がみだりに入って来ないための
押さえとして、又蔵にその役を命じた。

しかし又蔵は、清正に従う小身者の草履取り中元などが自然に入ってくるのを、見ぬ体にしていた。

ある時、新美権左衛門という出頭人配下の若党が、直臣の者たちの中に入ろうとしたのを又蔵が
咎めた所、この物は主人の出頭を傘に着て、常々何事にも驕っており、又蔵に対して口答えをした。
これに又蔵は即座に斬って捨て、それから清正の元へ行き、直にこの時に様子を申し上げた。

清正はこれを聞いて
「なんともこの者は丈夫なる者である。今どき世の常なるものは、主人の前に能く出頭する
者に対しては権勢に恐れて、その者が法度を背いても知らぬふりをして見逃し、逆に時に合わない者、
小身なる者などの草履取り鑓持たちの不作法を見つけ出して、主人にも聞かせ、又は法度の違反として
訴えるなどするのが、世の中の常である。

然るに権左衛門の従者を打捨てに仕るのは、きっと役に立つべき者である。」

そう仰せに成り、知行百石をその後程なく下され、馬廻りに組み入れられた。

(續撰清正記)

196 :
さすが清正

197 :
大阪冬の陣の時、木村長門守重成が、信貴野(鴫野)堤にて戦した。
後藤又兵衛基次は重成と関係がよく、それ故に自分の人衆は陣所に残しおき、馬廻り10人ばかりにて
重成の備へ来た。

この時重成勢の足軽は敵に打ちひしがれ、堤の陰に伏して頭も出せない状況であった。これを見た基次は
自分の鉄砲を取ると、堤の上に駆け上がり、立ったまま2発射撃して

「黒(きたな)し!者共このように撃て!」

と辱めた。この勢によって、足軽達も堤の上に登って一斉に射撃したため、今度は敵が却って
打ちひしがれ、堤の陰に隠れた。

基次は左の小指を負傷しており、重成はこれを見て「手を負われたか」と問うと、基次はそれを
鼻紙でおし巻き「(戦場で負傷するのは)我が吉例である」と言った。

重成はそんな基次に対し、しきりに自分の陣所に帰るようにすすめた。その心を察するに、重成は
若武者であり、この度の戦いが、ひとえに基次の指示によると人に言われることを気にする気色である。
これもまた器量であろう。これは重成の従者が後に語ったことである。

(武将感状記)

198 :
「それは、長束大蔵大輔の仕掛けた事だ。」の後日談

関ヶ原の戦いで斬首された長束正家
当主が死んで路頭に迷った長束家の家臣達を召抱えたのは他ならぬ伊奈忠次であった

家康は「逆賊として斬首された者の家臣を召し抱えるなど、他の者に不興を買う。おぬしの為にならぬぞ。」とたしなめた

しかし忠次はこう反論した
「確かに長束正家は逆賊かもしれませぬ。ですがその家臣は正家に最後まで尽くして逃げ出さなかった忠臣であります。
この者達の忠孝を認めぬと言うのなら
私は腹を斬ってこの者達に報いねばなりますまい。」
と家康に詰め寄りこれを認めさせた

こうして長束正家の家臣とその家族達は伊奈忠次に救われ
かろうじて生き残った長束の子孫はやがて徳川家光と手紙のやり取りをする程の関係にまで快復するのであった

199 :
旧豊臣の奉行衆には実務的な優秀な部下も多かったろうからなぁ

200 :
武田の旧臣を幕下に加えてたくせによく言う

201 :
武田の部下は俺のもの
長束の部下も俺のもの

202 :
北条の家臣も多く召し抱えとる

203 :
北条は別に秀吉から召し抱えるなとか言われてないだろ?

204 :
>>198
伊奈忠次「うちの父親も殿に弓引いた逆賊なんすけどね。信康様の件で私も再び出て行きましたけど」

205 :
我等の友である豊後の王(大友義鎮)は、我等の君なる国王(ポルトガル王セバスティアン1世)が甚だ
年少であると聞き(1562年で8歳)、甚だ立派なる短剣で、鞘には金の蛇を巻き、甚だ良き細工の飾りを
施したものを贈り、またインド総督には良き剣を贈るため私に託した。しかしこれらは輸送の途中
暴風に遭ってみな大いに破損したため、修理のため日本に返送した。

当62年にはインド総督に武具を贈った。すなわち、甚だ立派な鎧に絹の飾りを施し金細工をなしたもの、
および頸甲その他付属品、並びに戦争に用いる銅製の面、および兜で金細工をなし装飾を施したもの、
および長刀、すなわち長さ1ブラサ余りの柄に剣を付け、これに装飾を施し銀を鏤めたものであるが、
総督の伯爵(レドンド伯爵ドン・フランススコ・コウチニョ)は大いにこれを喜んだ。国王がこの贈り物を
なしたのは総督ドン・コンスタンチノ(デ・ブラガンサ)が使者を以て書簡を贈ったことに対するもので
あり、同書中には日本に於いてパードレたちが創造主の真の教えを説く事について、便宜を与えたことを
称賛している。マラッカよりこの贈り物を携えた人に、王は700クルザド余りを与えた。

この王は我等の最良の友であり。親愛を示し、好意を以て助言を与え、またキリシタンを庇護し、
必要あって我等キリシタンのために斡旋する事もあれば、身分低き者には名を与え、これを招いて
引見する。名を貰うことは日本人が大いに名誉とする所である。

王はキリシタンである家臣を使いとして会堂に遣わすことが度々有る。当地より送る書簡に、王のことを
”太守”と称することが有るが、当国に於いては自ら低い称号を用いるが、他者からは相当なる名誉を
与えられることが期待されている。

王は先年、略奪を被った博多の国を鎮定するため5万人を派遣したが、もし自ら出陣する時は10万人を
率いるだろう。私が今、日本からの書簡によって見た所、王はほとんど山口の国を占領した。
同国の王であったその弟が殺された故である。
王は戦場に20万の武士を動員することが出来る。王の領内にはイスパニア最大の有爵者よりもさらに大きな
多数の大身が有る。この他にも多数の城主、および部将が有る。

貴族であるカピタン・モール(ポルトガル船の司令官)が貿易のためにその港に来て、王を船内に招いて
饗応した時に、彼はポルトガルの商人達とともに談笑して楽しんだが。カピタン・モールは帽を脱いで
起立すること長時間に及んだ。

(1562年12月10日(永禄五年十一月十四日)付、パードレ・バルデザル・ガゴ書簡)

大友義鎮(宗麟)についての報告。20万動員かー。

206 :
>>205
大本営発表だなぁ…

207 :
ジャップは今も昔も息を吐くように嘘を吐くのなw

208 :
キムチくせえスレになったか

209 :
宣教師が本国に送る報告書じゃないの

210 :
彼等(日本人)が甚だ大切にしているものが二つ有る。一つは名誉であり、もう一つは武器である。
また新参古参の順位、および座席の位地に関して大いに争うことがしばしばある。

彼等は非常に武器を尊び、もし通過の際に過って剣の柄頭、または鐺(コジリ)に触れることが有れば、
すぐに引き返して体、又は衣服の触れた部分に手を当て、これを1,2回頭の上に置き(押し頂く動作)、
このようにして他人の剣に触れた不注意の償いをするのである。

彼等は少年の頃より武器を練習し、常にこれを携帯する。もし一つの剣が古いもの、もしくは昔の名人の
作であれば、これを購入するのに己の有する限り、或いは相手が要求するだけの価を出す。
また彼等は例え甚だ小さなことであっても、これを成す前に経験有る老人の意見を求める。

(1562年12月10日(永禄五年十一月十四日)付、パードレ・バルテザル・ガゴ書簡)

日本人の武具への意識について。

211 :
剣社会だった頃の日本

212 :
ちんこ→剣→巨砲

劣等ジャップ意識の推移

213 :
>>211
明治に廃刀令が成されなかったら、アメリカまでとは言わないまでも、割と今もサツバツとした社会だったろうなぁ…

って気がする。

214 :
犯罪統計を見る限り戦後しばらくまでは殺伐としてるよ
刀の有無関係なく

215 :
>>214
そら(敗戦で国土の多くが焦土と化し、傷病者や貧困溢れる時代なんだから)そうよ

216 :
>>205
キリシタン日本からインドまで移動したの?
死ぬわ普通

217 :
>>215
残念ながら明治も大正も戦前の昭和も変わりません
自分で調べてみることをお勧めする

218 :
>>217
コソ泥から姦通や堕胎も含む犯罪統計に意味あんのかな?
この場合、主として殺人や傷害を指すと思うんだけど?

犯罪情勢の推移と刑事警察の50年
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h12/h120101.pdf


戦後から平成11年までの資料だけど、犯罪率は減っても増えてる認知件数で見たらそう変わらんとも言えそうだけどね

219 :
>>210
ここまでくるとよく見てるというか、相当詳しい日本人から聞いてる感じがする

220 :
>>218
情弱そう

221 :
>>220
君が正しいよね
ごめんごめん

222 :
>>210
なんかもう言葉がない
そこまでするものかねえ

223 :
>>222
善し悪しはともかく今でも上座下座とかの礼儀には割と厳しかったりするしなぁ
戦国の昔から礼儀や躾には厳しく、年長者や目上は敬いなさいと言うのが連綿と続いてる?と言う事なのかも

224 :
年少だからといって軽々に扱えばたとえ年長相手だろうとメンツ傷つけられれば斬るの精神なんで、叱り方は大分違うかな

225 :
今でも東南アジア人は面子を傷つけると殺してくる
昔のジャップもそういうメンタルで生きていたのだろう

226 :
何がジャップなんだ?
単発でちらほらいるが同一か

227 :
>>226
構うな構うな

228 :
あー居付いてるやっかいさんなのね了解

229 :
安倍ちゃんに無視されて悔しいネトチョンが各地で発狂中

230 :
安倍ちゃんに無視されて悔しいチバカスが下総で発狂中

231 :
この地(日本)の人々はその救いのため益のある手段は悉く尋ね知ろうとし、熱心にこれを求める。
故に我等が最も煩わされるのは、祝福せるコンタス(キリスト教徒が用いる数珠)、祈祷のロザリヨ、
御影およびその他聖物に対する要求である。

私はイルマンたちに分与するためゴアよりアビユス・デイ agnus dei(神の子羊、その祈祷書か)を
納めた小箱を携えてきたが、博多の住人にして身分あるキリシタンの老婦人の懇請に応じてその一片を
与えた所、他のキリシタンたちがこれを聞き知ると、彼等の間では一人に与えたものは一同に分け与える
べき習慣であったので、平戸並びに他の諸島より男女を満載した船が日々来て、彼等の言うところの
愛の聖物を彼等に与えることを請うた。

イルマンは一層尊重させるため、アニユス。デイについて長く談義し、然る後に彼等にこれを分け与えた。
アニユス。デイは1500あまりのキリシタンに与えるためにこれを小分けすることを要したが、彼等は
その力に応じ、銅、錫、黄銅または銀を以て聖物器を造り、その一面には茨の冠の中にゼズス jesus の
文字を出し、他面には十字架とその下に釘3本を表出した。

(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

いわゆるラッキーアイテムを強く求める日本のキリシタンについて。武士の間でもロザリオなどは
鉄砲避けのお守りとして需要があったとか。

232 :
ロザリオやメダイ(メダリオン)は原城から大量に出てくる
基本的に吊り下げてた首付近にあるけど頭蓋骨の口中からの出土とかあって戦闘前に口に含むパターンもある
最近は出土した鉄塊からザビエル最古の肖像とかX線検査で分かったりしてるな

233 :
でも結末は幸運からほど遠いんだよなキリシタン

234 :
大変な目に遭ったのは上総や

235 :
>>233
彼らは彼らの信じるパライソへ行けたのだ
きっと幸せだったろう

236 :
善徳寺での(相甲駿三国同盟の)会談の時、武田晴信が北条氏康にこのような話をした

「貴殿の所に居る原美濃守(虎胤)は、昔それがしの所に居た男で、ある不届きな事が有って
追放したのだが、現在貴殿の膝窩に有って、この度も出陣し戦功を経てている。
原はその父とともに二代にわたって仕えた者ゆえ不憫でもあり、こちらへお返し願いたい。」

そう申し出たため、氏康もこの武士を快く返した。

そもそもこの原美濃守の父・豊後守光胤は、房州の千葉介胤親の息子で、下総の原村の
生まれ、文正元年(1466)、その三男能登守友胤は生実の御所(小弓公方)義明に仕えたが、
その死後離散し、甲府へ来て晴信の父。信虎に仕えたのである。その子が今の虎胤で、信虎より
虎の一字を頂いているほどであった。

去る年、甲府に於いて浄土宗と日蓮宗の法論を戦わせた時、晴信は虎胤を近くに招き
「汝が消えする法華宗では、念仏は阿鼻無間の相なりとて、大事な名号を禁止していると聞くが、
これからは汝も我が宗門に入り、南無阿弥陀仏を唱えぬか。」

しかし虎胤は「その義ばかりは御免被ります」と答えた、晴信はなおも改宗を進めたが、これに
虎胤は色をなし

「御屋形様もご存知のように、もともと手前は無学文盲の一徒輩であったのを、法華を信仰するように
なって一人前に人間と成ることが出来ました。およそ宗旨というものの大本は釈迦牟尼如来より
出たもので、それが八宗にも九宗にも分かれて今日に至っています。そしてどの宗派もそれぞれ
開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
御屋形様の命であっても、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏び変えることは出来ません。
それは丁度、武士の道を背き義理を欠くことと同じでございます。

例え一命を召されようとも、高祖の禁を破り他宗の念仏を唱えることは出来ません。」

そう言い切ると座を立った。これに立腹した晴信が彼を甲府から追放し、故に美濃守も仕方なく
小田原へ来て氏康に仕えるように成ったのである。
氏康はその美濃守を召し出して今度の晴信の言葉を伝え、こんこんと説得して甲府へと返した。

永禄七年(1564)、原美濃守虎胤は甲府で死去した。

(関八州古戦録)

237 :
>>236
>どの宗派もそれぞれ
>開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
今でも使えるなこれ、面倒な親戚に絡まれたらこれで切り返そう

238 :
宗教はいつになったら統一されるのか…

239 :
人類が全部ニュータイプにでもならないと無理

240 :
ニュータイプって殺し合いばっかしてる気が

241 :
キリストも大日如来と同じようなモンっていう理解に通じるな

242 :
ララァが導いてくれる

243 :
>>242
いや、アイツ、私は永遠にあなたたちの間にいたいのとか言ってシャアとアムロもて遊ぶ悪霊じゃん
https://youtu.be/76mJeV77e9U
後、こんな映像見せ付けて人類は永遠に破壊と再生産を繰り返してガンプラ買えば良いと暗に言ってくるバンダイの手先

244 :
弘治三年五月七日、長尾景虎は川中島での武田信玄との対峙より兵を納め(第三次川中島合戦)、
高井郡小菅山の元隆寺へ引き上げ、鳥居峠を超えて平井城へ入った。

そのころ北条氏康は武州岩槻の城を取り囲んでいたが、城主太田美濃入道資正が良く防いで
一歩も近づけず、氏康は諦めて兵を退き、帰途、東上野の沼田城、厩橋城を小当りすると、
そのまま小田原に帰った。

景虎はその機を待っていたように又しても金山、桐生筋を攻めんと利根川の東へ進出した。
この辺りは路が険しく駆け引きが自由にできず、その攻略に二度も三度も失敗していた。
景虎は先ず自身で数騎を引き連れ物見に出かけた。しかし坂道を六、七里行った所で桐生の
城兵に発見された、城兵は彼等を鉄砲で仕留めようと、選り抜きの射手を物陰に伏せさせ
待った。

景虎は何も知らず、例の半首(はんつぶり)の兜に連銭葦毛の馬に乗り、一騎当千の武者である
鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、宇野左馬之介、織部入道の主従五騎で静々と打たせてきたが、
くだんの伏兵が居るところから5、六町の所まで来た時に、突然一人の武者が横道より走って来て
景虎の前に平伏した。

はっと気がついて景虎が馬を引き止めて見ると、越後普代の家人、籠沢采女正景次であった。
彼は景虎に向かい

「この辺りは足場が悪く、不案内な者が動ける所ではありません。殿の敵を恐れぬ度胸は昔から
見上げたものだと思っていましたが、このような事は百害あって一利なしと思い、不詳籠沢采女正景次、
まかり出ました。」

そう断ってから、自身のこれまでの行状を語った。それによると、彼は三年前自ら降人となって
桐生の城中へ入った。しかし今日の城中の謀議を伺ったところ、鉄砲を以て殿を打ち取る相談が
まとまり、現にこの七、八町先にその伏兵が待ち構えていると話し、

「今日はじめて、降人として恥を忍んでいたかいが有りました。こんな嬉しいことはありません。」
そう、涙で袖を濡らしながら語った。これを聞いて景虎も感涙にむせびつつ、すぐに指揮して
三人の伏兵を討ち取った。

そもそもこの籠沢采女正は若年より景虎の膝下に仕え、律儀で機敏な若者であった。またその先祖は
治承の頃越後国鳥坂城で勇猛をうたわれた長尾太郎資永の家来・籠沢左衛門尉景俊の末で、二心を
抱くような武士ではなかったのだが、景虎が関東へ出陣した折に逐電した。何故そのような事をしたのか
理由がわからずに居たのだが、今日はじめてその謎が解けたのである。

ただし、これまで景虎は、采女正は生まれついての忠義者で、何か仔細があるのだろうと思っていた。
それが証明されたのであり、まことに景虎が情に厚く、人を見る目の確かなことが解った。

(関八州古戦録)

245 :
この先行ってはならぬで打ち取っちゃうのは景虎らしいよな

一度引き返して軍を率いたとなれば、伏兵が引き上げてるだろうとも思えたし

まあ間違った推理かな

246 :
天才だから、なのかな

247 :
とんでもない
ヨーロッパの騎士とかでもこういう向こう見ずなのは居る

248 :
永禄7年(1564)、北関東の佐竹、宇都宮に合わせて、多賀谷、益子、真壁、笠間、小宅、茂木、久下田の
諸将は連署を以て上杉輝虎(謙信)に、「この際小田氏治讃岐入道天庵を討つべし」との申し入れがあった。
小田天庵は、先に黒子表で大敗した後、小田原の北条氏康と合体し、府中の多気守国、水戸の江戸道房、
総州の千葉利胤、守谷の相馬治胤と組んで旗を上げようとしていた。
小田家の武力は衰えたとは言え、右大将頼朝以来の名家であり、兵法に長け家人に剛勇な者が多く、
まだ油断できない故、今のうちに叩くべきだというのである。

輝虎は先に言ったように闊達な武士であり、すぐにこれを引き受けて、長尾一党の新発田、柿崎、山本寺、
色部、中条などの面々と八千騎を率いて越山し、夜を日についで、4月27日には小田天庵の領分、
真壁郡山王堂に到着した。ここは山が高く、崖下に南北四町ほどの深田があり、その小川を隔てて
東に四方三十町ほどの広野がある、そこを最適と見て輝虎は陣を敷いた。そして土地の国侍を招いて
尋ねた

「この辺りに名うての侍があるか。」

「この先、北に十四町ばかり行った所に三浦党の末裔という一団がおります。」と答えた、
それが平塚山城入道自省で、小田天庵旗下の平塚、菅谷、飯塚、久松と言った四天王に並ぶ者であった。

「随分と頑固な侍で、もし夜討ちでもされたら危なく、御用心が必要です。」

そう忠告されると、輝虎はからからと笑い
「その男なら四年前、氏康と不和に成った所を、結城、佐竹の手合に攻められ、きたなくも黒子表の
大崩と言われた負け戦の張本人であるぞ。

むしろこちらから朝駆けして焼き討ちをし、首を取ってもいいし、今夜でも向こうが夜討ちをかけるなら、
それこそ天の助け、迎え撃って一人も残さずなで斬りにして死人の山を築いてやろう。」

そう豪語したので、国侍達は呆れて物が言えないどころか、身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと思った。

(関八州古戦録)

249 :
謙信が力量を認める人ってあまり居なそう

250 :
>>249
臼井城で白井胤治にこっぴどく負けたときは、白井胤治を評価するのではなく、
戦いの記録自体を抹消するような人だからなぁ。

251 :
そんな人おったんやな
なんていうか謙信て信玄といい勝負やな、昔とは違った意味で色々とw

252 :
北条氏康はこの年(永禄二年)、四六歳であったが、六月下旬に隠居剃髪して万松軒(実際には太清軒)と
号した。病により任に耐えず、という事であったが、別して病身という訳ではなく、この春に自分よりも
ずっと若い上杉輝虎のために城門を馬蹄で踏み荒らされながら一戦も交えず、弓矢の面目を失ったことを
とかく世間に取り沙汰されたのを恥じての隠居であった。

嫡子相模守氏政は二十三歳であり、家督を受け継ぎ国務を司った。

次男由井源三氏照はもともと朝日将軍木曽義仲の後胤である大石源左衛門定久が、前管領家に背いて
小田原に降った時、氏康から婿養子に貰い受け、自分の高麗郡滝山の城を譲ったのである。
以後自身は入道して道俊と号した。実子は在ったが幼少であったので共に戸倉に蟄居した。
その時氏照は由井の名字を捨てて大石陸奥守と名乗った、その頃一度、滝山という所に居城を持ったが、
滝は落ちるので落城に通ずると、同郡八王子に新城を築いて移ったのである。氏照は多くの兄弟の中で
特に父母へ孝順の人であった。

三男新太郎氏邦は書道に優れ、後に安房守と号した、これも前管領家の旧臣藤田右衛門佐邦房が養子として、
武州秩父郡岩田の天神山の城を与え、自身は実子の虎寿丸と共に榛沢郡用土という所に退去していた。
(上杉)輝虎がはじめて関東へ越山した頃、氏康に仕え用土新左衛門と言ったが、今は沼田の城代となり
虎寿丸は後に藤田能登守信吉といった。
新太郎氏邦は初め秩父領横瀬の根小屋に城地を構えていたが、あまりに人里離れて万事不自由であったので、
男衾郡鉢形へ移った。この城は太田道灌の築いた要害であるが、甲州、越後の敵が近寄る機会が多く、
常に小田原から三百騎を援兵に差し出し、榛沢のあたりに新関を設けて、山上には常に見張りを
絶やすことの出来ない城であった。

四男助五郎氏規は美濃守と号し、豆州韮山の城主である。

五男新四郎氏忠は乗馬の名手で、後に左衛門佐と号し、相州足柄の城を守っていたが、佐野家の名跡を
受けて、後に野州由良へ移った。

六男竹王丸氏尭は鉄砲の手練で、後に右衛門佐と号し、武州小机の城主である。

七男七郎氏秀は後に武田三郎と号し、輝虎の養子と成って北越へ行った後は、上杉三郎景虎と称した、

その他に女子が六人あって、藤田の吉良左兵衛佐頼久、北条常陸守氏繁、今川刑部大輔氏真、千葉介邦胤、
武田大膳大夫勝頼、太田源五郎氏資などの室になっている。

早雲庵宗瑞、新九郎氏綱、左京大夫氏康と三代続いただけで枝葉が繁り、その親類一党の栄えを
うらやまない者はなかった。

(関八州古戦録)

氏康隠居の頃の小田原北条氏の繁栄について。現在の研究水準とは異なる内容も含まれています。
北条氏尭は氏康の弟であると考えられていますし、氏忠はその氏尭の子の可能性が高いとされています。
また氏規のほうが氏邦の三歳兄であった事が近年指摘されるなどしていますね。
ともかくも北条氏一族についてこのような印象を持たれていた、という記事です。

253 :
>>250
蓑輪諒「最低の軍師」のモデルか
臼井と白井でややこしい

254 :
>>252
関係ないけど武士って木に例えられるよね
民は草なのと対照的

255 :
まあ位置関係からしたら合ってるかと

256 :
第二次国府台合戦の時の事

江戸城の遠山丹波守直景、葛西城の富永四郎左衛門政家は、北条氏康配下の剛勇の者と知られており、
大敵が眼前に現れたというのに人の助けを借りては屍の上の恥辱であると、取るものもとりあえず、
ありあわせの人数を率いて、遠山は行徳筋、富永は小松川筋から駆け出したが、氏康の下知も受けずに
先陣を切っては後の聞こえもどうかと思い、福島、松田の陣へ使者を走らせ存念を述べた所、

「いかにも武人の本意黙し難し。その意に任せ、存分に働け。」

と返答された。

しかしながら北条氏政の陣では、氏照、松田父子が不満で「今しばらく考えてから返事をするべきで
あった。」と言った。北条綱成はこれを聞くと笑っていった。

「身、不詳ながら軍勢を指揮する命を受けた以上は私の一存を通します。これまで松田殿や
この綱成が先駆けするのは珍しいことではなく、今後もまた先駆けして手柄も立てることでしょう。
しかし、戦いに臨む最大の目的は勝つことであり、自分の功名手柄はその次の目的です。
まして里見、大田の二将は関東に於いては一、二を争う大敵です。遠山、富永の両名も当家誉れの
大将ですから、互いに眼前の敵を見ては、これを止めることは出来ません。
先陣を望むからには、遠山、富永も生涯をかけての粉骨を決意しているのでしょう。

いやしくもこの綱成、その発する心を奪いたくありません。」

そう諭すと、氏照も松田もその気持ちが解ったのか、重ねての言葉は返さなかった。

(関八州古戦録)

257 :
綱成かっこよすぎる
氏照と松田さんも良いね

258 :
>>250
いや臼井城攻めは北条側の史料も戦死者数などが過大で捏造の疑いあるとされてるし、上杉側も上田衆を中心に感状を出しているため一定の戦果はあったと認識している。また直接被害を被ったのは先手の房州勢。
上杉軍は撤退したわけだから北条軍の勝利となるだろうけど、よく言われるような最強の軍師が謙信に圧勝!みたいなのは如何にも江戸時代の軍記ものっぽくて実像と少し違うと思う。
だから研究家もまだ臼井城の戦いに関してはまだ検討の余地があるとしている

259 :
臼井城攻防戦

永禄6年の事
総州河西郡臼井の城は千葉介親胤の家老。原上総介胤繁が守っていた。
彼の父治郎座衛門胤高は、豊後守光胤の子で、その前は生実の城に居たが、発性院足利義明に追い落とされ、
弟中無少輔賢胤と共に臼井城へ逃げ籠もり、そのまま現在の上野介に至った。既にかなり長く居城としていた。

そこへ越後勢が押し寄せてきた。上野介はすぐに、千葉、佐倉へ救援を頼んだ。しかし人並み外れて
攻め足の早い輝虎であるので、臼井城を素通りして一気に千葉城へ向かうかもしれず、その時は
こちらが後詰と成る事も考えられ、ともかく攻めと守り両用の構えで待機することとし、とりあえずは
椎津主水正、椎名孫九郎に五百の兵を差し添えて臼井の城に残し、自身は加勢として大和田の砦へ
向かおうとした所、大和田より派手な赤一色の具足を付けた、松田孫太郎秀郷が、手兵百五十余人を
連れて駆けつけた。

この孫太郎は松田筑前守(康定か)の次男で、左衛門佐村秀の叔父にあたり、坂東に隠れない
剛の者で、常に主具足を好んで着け、金の鹿の角を打った兜を用い、数度の合戦で遅れを取ったことがなく、
その働きは「北条家の赤鬼」の異名で恐れられている歴戦の勇士であった。

四月二十日、月のまだ残る早朝の薄明かりの中に法螺貝の音が聞こえ、やがて陣鉦を打ち鳴らし、
上杉勢の攻撃が始まった。この城門へ向かって上がる鬨の声に、城中の武者である
臼井四郎左衛門入道浄三がまず軍配を取った。

この臼井浄三は、千葉より加勢に来た勇士で、最近まで武者修行のため上方に赴き、三好日向守(長逸)
の元にあったが、たまたま下向して臼井城に在り、よく城中の兵を押さえて好機を待った。

寄せ手の二陣は本庄越前守繁長で、第一陣と合流して一挙に城門を抜こうと攻めかかった。
臼井浄三は、頃は良しと弓鉄砲でこれに応戦し、城門をさっと開くと鬨の声を上げて突き出した。
先頭を切ったのは城主上野介の長男・原式部少輔胤成と、高城下総守胤長で、寄せ手の
長尾新五郎、富永主税介らと、たちまち火花を散らす攻め合いとなった。

そこに輝虎の下知で沼田の藤田能登守信吉、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守が加わり、
柵を壊し堀を越えて、外曲輪七、八間ばかりを引き崩して城中に攻め入ろうとした。
これを見た原上総介の家老・佐久間主水正と、赤具足の松田孫太郎が飛び出してこれを支えた。
松田は大長刀を打ち振り、またたく間に沼田衆六、七人をなぎ倒し。今度は樫の棒に持ち替えて
騎馬武者めがけて打ちかかり、散々に暴れまわった。
負けじと寄せ手の本庄越前が横合いから打って出て、松田の仲間の橋本伝左衛門、陰山新四郎といった
歴戦の勇士を討ち取り、残兵を城中へ追い戻した。

そうしている内に曇っていた空より雨が降り始め、夕暮れとともに酷くなったため、寄せ手は一旦引き上げて
陣を張った。その夜は夜通し風雨が強く夜戦はなかったが、夜明けとともに風雨が収まると、上杉勢は
再び鬨の声を発して攻めかけた。しかし臼井浄三は再び音無しの構えでそれに応えさせなかった。

260 :
輝虎は不審に思い「恥を知る侍も多くいる。城内の人数もそう少ないわけではないのに、
何も反応がないのは昨夕の合戦に疲れたのか、もしくは風雨が気に入らず黙っているのだろうか。」
そう疑問を発した所、海野隼人正が進み出て言った
「城中に臼井入道浄三という軍師が居ると聞いております。何か策が有ってのことではないでしょうか。」
これに輝虎は
「頃を見て打って出るつもりであろうが、空堀に柵を巡らせただけのこのような平城、何するものぞ。
一もみに揉み潰せ!」と下知した。

これを受けて長尾新五郎顕長が馬を乗り回して配下を指揮し、城戸、逆茂木を打ち壊し、えいえいと
喚声を挙げて無理矢理に攻め込み、たちまち敵二百ほどを討ち取った。もう少しで大手が破られそうに
なった時、思いもかけず城壁が崩れ落ち、寄せ手の雑兵八、九十人がその下敷きと成って死んだ。
「さては、やはり策か」と考えた輝虎は、直ぐに引き上げの貝を吹かせて退こうとすると、城中より
松田孫太郎を先頭にどっと騎馬武者が打って出て、上杉勢の背後より討ちかかった。
中でも松田は黒馬に黒地の旗指物、筋金の違い打の馬印を掲げ、より一層真っ赤な具足が目立ち、
赤鬼が暴れこんできたようであった。続いて原式部少輔が、隅赤の指物に十曜紋の旗をなびかせ、
兵四、五百を引き連れ攻め込んできた。

上杉勢の中からは北条丹後守(高広)が引き換えして踏みとどまり、これを迎え撃った。続いて
新発田因幡守(重家)も、金の福禄寿の前立の兜に白綾の幌をかけ、手兵七百騎を円陣に作り、
追撃してくる臼井勢を斜めに横切って後続を断った上、大手の城戸口を破る構えを見せた。
これを知った赤鬼松田は、原式部少輔と分かれて後退し、新発田の七百騎に手勢とともに突っ込んだ。
しかし大勢に押されて百余人を討たれ、やむなく原の勢とともに城中へ入った。

ここで、今が引き上げ時と見た輝虎は、これ以上戦わず上州へ帰陣した。

この時、赤鬼松田孫太郎の敵ながら衆に優れた見事な働きを、輝虎は高台から見て感じ入った。
北条家に於いてもこれを知り、氏政より感状が与えられ、相州田島に二千貫の加増が有った。

(関八州古戦録)

261 :
軍師は白井じゃなくて臼井なのか

262 :
>>261
手元にある関八州古戦録には「臼井」に成ってますね。臼井(白井)と書いておくべきだったか

263 :
似ている漢字だから誤植かもしれんな

264 :
戦国時代にこんな台風来たら、家も城も跡形もないんだろうなあ

265 :
京成電鉄では誤読を防ぐために「うすい」と書いているね

266 :
丸森町の筆甫地区って政宗が検地の最初に書くから筆の初めという意味で
筆甫にしてるいい話あるやんけ。
地名残すも大事よ

267 :
徳川家康が利根川付け替える治水始めなければ、
台風19号による今夜の荒川二瀬ダム、利根川二俣ダム、
渡良瀬川草木ダム、神流川下久保ダムの緊急放流は、
全部今の荒川か中川か隅田川に注いで、水浸しになってた訳で、
23区東部民は日光参拝して、家康に感謝した方がいいぞ。

268 :
関東の農民は伊奈忠治を神仏扱いされたらしいけどね

269 :
今夜ってなんだろと思ったらツイパクかよ

270 :
甲州征伐の後、織田信長は滝川一益を関東管領としたが、この時信長は関東における一益の行動に
便利なように、総州の千葉介胤富を一味につけようと(ただし千葉胤富は天正七年に死去している。
後を継いだ千葉邦胤との混同であり、以下邦胤とする)、書状に名馬一頭を添えて使者を出した。

ところがこの書状を見た千葉介邦胤は、その内容が無礼であると激怒した

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田へ付いたからと言って、上見ぬ鷲(鷲は他の鳥を恐れず、
警戒のために空を見上げる必要がない。何も恐れはばからぬさま)の思い上がりである!
このような書状をよこすとは奇怪至極、たとえ総州の千葉介邦胤小国とは言え右大将頼朝公以来の
名家であり、関八州に於いていずれの列侯が、わが千葉介の上座に座るというのか。
一時の武威に奢り、誰もが彼になびいて来ると思っているのだろうが、以ての外である。
返事に及ばぬ!」

そう言うと信長が贈った馬の尾を切って道へ放り出し、使者の頭も剃り上げて厩橋へ追い返したという。

(関八州古戦録)

どれだけ無礼な書状だったのか。

271 :
馬が可哀想だと思いました

272 :
一応文章は丁寧だったんじゃないかと推測
信長はその辺バカじゃないし、千葉側も情勢を知ってるし
・人質の要求
・回答期限があった(せかした)
・領地替え
怒るとしたらこんなとこ?

273 :
そもそも関東管領にしたって時点で創作だろ

274 :
別所もそうだけど武士の意地で勝てない戦やらされる家臣はたまらんかったやろうねえ

275 :
戦国時代は割と簡単に主君を見限ったりするんじゃなかったっけ

276 :
メンツは命より大事ってのは前近代では普通だったからそこは仕方ないけど

277 :
天正十年六月十九日、滝川一益は本能寺の変を受けての、北条氏との神流川の戦いに敗北する。
この日、晩景になると敵もそれほど追い打ちをかける姿勢は見せず、一益は敗卒を駆けあつめると、
国衆たちに、もう一度力を合わせ、生死の有無を決する戦いをすべきかどうかという伝令を出した。
しかし皆は「人馬ともに疲れ果て、日も既に暮れている」事で、「明日を待って一戦交えるべし」との
返答であった。一益もこの上は力及ばず、またこのような疲れ武者で目に余る大軍に向かっても
戦果を得ることは出来ないと判断し、国衆たちに触れを出し、速やかに陣払いをすると神流川を渡り、
ひとまず倉賀野淡路守秀景の城へ入ってしばらく休息し、それから厩橋城へと戻った。まさに負け戦であった。
翌日、一益は武蔵野で討死した味方の士卒の供養を城下の寺に頼み、金子百両を渡して回向した。
その後、上州衆を集めると、「この度の戦いで粉骨して働いた無二の志は、生きている限り忘れない。」と
感謝を伝え、それまで預かっていた人質を悉く返すことこそ真の弓矢の道であると、彼等に返した。
そして
「これよりすぐに上洛して、小田原の北条とは和睦をなし、この上の迷惑を、皆にはかけぬつもりである。」
と今後についても話し、繰り返して感謝を伝えた。
それから、今日が今生の別れとなるだろうからと酒宴を催した。二十夜の更待月(ふけまち)がくまなく
城内の庭を照らし、涼しい風もようやく立って、生き返ったような夜であった。
一益は鼓を取って「つわものの交わり頼ある中の…」り今様を謡うと、倉賀野淡路守が
「名残いまはと啼く鳥の…」と和した。
互いに抔を交わして別れを惜しんだが、夏の夜は短く、既に明け始めると、滝川一益父子は
「さらば」と厩橋を発った。
小幡、倉賀野をはじめ上州衆は、返された人質までもが道々に警護に立って彼等を見送った。
明けて二十一日、松井田城に着くと、津田小平次、稲田久藏の兵一千余騎に守られ碓氷峠を越え
信州小諸に付いた、そこで一日逗留し、諏訪街道より木曽路を経て、七月一日、伊勢国の領分、
唐櫃島に到着した。
およそ今度の滝川一益の命運ほど、変転の激しいものはなかった。人が予測できるような事では
無かったのに、一益がよくその中を切り抜け生き残ったのは、彼の処世の上手さも在ったのであろうが、
彼自身の誠意が神に通じたのであろうと、人々は噂した。
(関八州古戦録)
滝川一益の、関東よりの撤退について。一益についてはかなり好意的に描写されていますね。

278 :
鬼武蔵の撤退についてもあるのだろうか
既出とかぶるかな

279 :
有能なのに、なぜかドラマ等では地味な一益さん
伊勢攻め自体が描写されないこと多いし
北勢48家とかなかなかおもしろいと思うんだが

280 :
終わり方がね…

281 :
映画の清洲会議ではそこそこ目立ってた

282 :
>>279
真田丸ではそこそこ出番が

283 :
一応、一益の最高役職が関東管領だから!

284 :
天正十年七月十九日、徳川家康は遠州引間郡浜松城を発進して、同月二十四日に甲州へついた。
柏原の傍らの勝山に旗を立て、そこに服部半蔵正成を残すと、自らは古府中の一条右衛門太夫信龍の
旧宅へと入った。そして若神子口へ大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政、本多豊後守康秀の
三人を遣わしこれを守らせた。これは敵を古府中へ近づけないためである。
同月二十九日、北条氏直と対陣したが、所々方々で徳川方が切り勝ち北条方は不利となり、
十一月にはこれ以上持ちこたえられないと、北条氏政、氏直父子の命を受け、伊豆韮山城主である
北条美濃守氏規が両家和議のために働き、幸い上手くいって氏直が退陣することと成った。
しかし氏直は退くに当たって旭山に砦を築きそこに番兵を置いたが、これが家康の気分を害した
「氏直のやり方には表裏がある。この上は是非に及ばず、一戦を交えん。そもそも今度の和議を
受け入れたのは、中にはいった北条美濃守が今川義元の全盛の頃、その人質として私も共に
幼少を過ごしたよしみによるもので、本来和睦をしたくはなかったのだ。残念ではあるが
今は運を天に任せて一戦あるべし。」
そして徳川方は物見を出すと、若神子より長浜へかけて陣を固め、その上で家康の意を込めた
書状を朝比奈弥太郎泰勝に持たせ北条方へ遣わした。弥太郎はただ一騎で北条方の陣に向かうと、
平沢あたりに入り乱れて陣を敷いている所に駆け込み、まず大道寺駿河守直繁の陣へ行き、
「徳川家康よりの使いの者である。北条美濃守の陣所は何処なりや」と叫んだ。
駿河守はこれを聞いて案内を付け、朝比奈弥太郎を美濃守の陣所へ差し向けた。氏規はさっそく
その書状を読むと氏直に会い、和議の件が相違ないことを確認すると、その証拠として大道寺駿河守の
嫡子である新四郎を人質とし、彼を連れて朝比奈弥太郎とともに家康の陣へ同道した。
新府城に在った家康に、榊原康政が奏者としてその趣を言上すると、家康は承知し美濃守と対面した。
二人は共に幼少の頃より長く今川に人質に取られていた仲間であり、「助五郎よ」「竹千代よ」と、
その頃の話を懐かしく語り合い、飽くことなかった。
やがて美濃守は人質の大道寺新四郎を鳥居彦右衛門元忠に預け陣所を去った。後刻、美濃守は改めて
新府城を訪れ和議が整った。その折に家康が鵜殿長門守(長忠)の娘に産ませた姫(督姫)を、氏直へ
輿入れさせる約束も出来た。かくして北条の軍勢は甲信の陣を払い十一月下旬に小田原へ帰陣した。
それから間もなく、家康は大道寺新四郎を小田原へと送り戻した。
(関八州古戦録)
天正壬午の乱の和睦についてのお話。

285 :
>>277
一益さんの進退も見事だけど
>>284
家康さんもさすが動き速いね

286 :
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、
『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。
この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。
そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』
という注進であった。
(甲陽軍鑑)
武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報

287 :
「唐の頭に本多平八」ってやつやな

288 :
唐の頭って何の動物なんだ?牛かな

289 :
ライオンじゃないの?

290 :
ウィキ先生によるとヤク(チベットとかにいる毛がもっさもさの牛)の毛らしい
家康は南蛮の難破船から入手して愛用してたとか

291 :
蒲生飛騨守氏郷は、南伊勢五郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度秀吉の命で
一軍の将として、天正十八年三月二日居城を出て関東(小田原征伐)へと向かった。
出発に当たり氏郷は、領内で家中を整え勢揃いをした。前駆、後駆の手当もし、隊伍の備えも済ませ、
自身は家重代の鯰尾兜を近臣に持たせ、ここに居よと命じて軍勢の見聞をし、その場に戻った所
兜を持たせた家臣は居なかった。その最初の失態に氏郷は何も言わず、二度目の見聞の後、その場に戻ると
又もその家臣は居なかった。何かの事情でやむなく場を外したのであろうが、主人の命を二度まで
蔑ろにしたということで、氏郷は即刻太刀を抜いてその家臣を切り捨てた。これを見た諸士たちは
唇を震わせ恐れ、小田原及び奥羽の陣中。誰もが厳しく軍法を守り命に背く者は居なかった。
またこの当時、氏郷の馬印は熊の毛の棒であったが、今回関東に発向するにあたって、その馬印を止めて
三階笠を用いたいと、秀吉に願い出た。三階笠の馬印とは、越中の佐々内蔵助成政の馬印で、天下周知の
ものであるだけに、秀吉はこれを許さなかった。
氏郷が「では私の武勇は成政に劣ると言われるのでしょうか?。」と問うと、秀吉は
「今暫く待つように。小田原表での働き次第で許すとする。」と答えた。
氏郷は黙って引き下がったが、今度の出陣に命を捨てる覚悟であることが見て取れた。
氏郷は松坂を出発前に画工に命じ、綾の小袖を着し手に扇を持った自分の姿を旗指物に描かせ、
例の三階笠も内緒に仕立てた。そして門出に当たって重臣である町野左近将監繁仍の妻を呼んだ。
この女性は氏郷の乳母であった。
氏郷は彼女に語った
「私は関東に下って討ち死にする覚悟である。なのでこの旗を江州蒲生郡日野の菩提所に送り
納めるように。」
そう言って旗を渡した所、乳母は涙を流して
「殿は未だ歳もお若いのに、そのように、旗を菩提所に納めるなどというのは忌々しき事です。」
そう承知しなかったが、氏郷はこれを笑って
「この度はるばる関東に下れば、生死のほどはおぼつかない。もし予想したように討死したのなら、
我が子藤三郎秀行が成長の折、父の平生の姿を見たいと思うことも有るだろう。その時はお前が
長生きをして、この絵姿を見せ、また我が事もよく語り聞かせて欲しい。」
そのように言った。
また三階笠の馬印は、その後小田原攻めでの斉田口の夜討ちで戦功を立て秀頼より御感を賜り、
翌日三階笠の馬印を許されたという。
(関八州古戦録)
小田原役に際しての、蒲生氏郷の事

292 :
小田原では死なないけどその数年後だよね
若くして死ぬのは乳母不幸でもあるな

293 :
工場長は人生が漫画チックだな。原哲夫にお願いしたい。

294 :
秀頼?

295 :
ぶった斬る前に叱ってやって欲しいよね...無茶苦茶腹を壊してたかもしれないしさあヽ(´Д`;)ノ

296 :
豊臣秀吉は天正十八年三月六日、尾州清州城に着陣、暫く滞陣して後、十八日に駿州藤枝の宿に入り、
翌十九日駿府へ入った。徳川家康はこれを待ち受けるため長窪の陣より帰っていたが、これに対し
石田治部少輔三成の寵臣が讒訴した
「家康公に二心有りとの噂が陣中に立っています。駿府城へはお入りに成らないほうが良いと
思われます。」
しかしこれを聞いた浅野弾正少弼長政が
「そのような事あるがずがない、それは風説であります。」
と秀吉に断言した。秀吉もその噂を意に介さず駿府に入城した。
駿府城での家康の接待は至れり尽くせりであり、秀吉も大いに喜び、その後清見寺へ移り、
また暫く滞在した。
家康は秀吉の通行のため、予め富士川に船橋を架けていた。しかしこれに対しても、疑心を持った者が
橋になにか仕掛けがしてあるかもしれないと疑義を唱えた。そこで浅野長政が、先ず自分から試しに
渡り、その旨を秀吉に伝えた。これにて秀吉も安心して船橋を渡ったという。
二十二日、家康は再び長窪の自陣へと戻った。
二十七日に秀吉は沼津に着陣。これを待ち構えていた諸侯は浮島ヶ原へ出て秀吉に謁見したいと
前日より申し出ており、秀吉も征途の途中ながらそれを許し、近侍五、六名を限って召し連れ
対面したが、自分だけは京を出るときと同じ綺羅びやかな服装で出た。
徳川家康を始め、北畠内府(織田信雄)など、諸将、諸士雲霞の如く居並んで秀吉を迎え、その着陣を
祝った。
その後秀吉は竿ヶ原へ出て、昨年北条氏政父子の使者として大阪入りした石巻左馬允康政を拘束し、
牢輿に乗せてここまで連れてきていたが、この場で一命を助けて伊豆相模の境で小田原へ向けて追放した。
これは秀吉の着陣を北条父子に知らせるためである。
(関八州古戦録)

297 :
この時期の秀吉さんは自己プロデュースが本当に上手いよなぁ

298 :
豊臣秀吉は小田原への進軍の途中、小早川隆景を尾州清須に残したのを残念に思い、急にこれを呼びにやった。
この隆景は知勇兼備の勇士で、上杉景勝の臣である直江山城守兼続、堀左衛門督秀政と共に、漢家の三傑
(蕭何、張良、韓信)に比すべき大切な家臣であった。そこで駿河清見寺に滞在中、飛脚を飛ばしたのである。

これに隆景は取るものもとりあえず下向し、この日沼津に到着した。
その隆景の家来の中に、十八反の大母衣をかけた武士と、もう一人三間もある大指物を靡かせた武士がおり、
大変に人目を引いた。この事は秀吉の耳にも達し、彼らを垣間見ると、近習に命じてその名を尋ねさせた。

ところが近習が彼らに追いつき名を尋ねると、答えず黙って行ってしまった。近習は不快な顔で、戻ってきて
秀吉に報告した。秀吉は聞くと笑って

「軍中礼なしという。それは何か急な用があったか、それともお前が馬を降りずに名を聞いたのではないか?」

そう近習をたしなめ、別の近習に馬を降りて名を聞くように命じ、再度走らせた。この者が下馬して
この二人の武士に名を尋ねると、大母衣の侍は
「小早川隆景が家臣、樽崎十兵衛である。」と答えた
大指物の侍は
「我は同じく隆景家臣、河田八郎である。」
と言った。


近習は帰ってこの事を報告すると、秀吉は「健気なる武士である」と感じ入った様子であった。

その後まもなく、樽崎は病死した。
河田八郎は隆景が死去した後は浪人となり、後に池田三左衛門輝政に仕え河田太郎左衛門と名乗り、
摂州難波の戦いで鉄の盾を振り回して戦い、見る者皆舌を巻いた。そして今なおこの勇士の名は、
人々の口に語り伝えられている。

(関八州古戦録)

小田原の陣における小早川隆景とその家臣について。

299 :
鉄の盾を振り回して戦いってだけで戦国無双でキャラとして立てるな

300 :
名将言行録の天下の三陪臣の元ネタ?

301 :
どっちが時間軸として先にあったかは知らないが
「本営前で下馬しなかった上に捨て台詞まで吐いた」、花房助兵衛は縛り首にしようとして、
この、「聞いた近習の礼儀がなってないから、陪臣の無礼を不問にした」ってエピソードと比べると
秀吉もそこまでご無体な老君主じゃなく、きちんと礼儀上は一貫してるように見えるな

302 :
無言と罵詈雑言じゃ対応が変わるのは当然

303 :
>>298
>鉄の盾を振り回して戦い
漫画みたいな超人がサラッと書いてあって草

304 :
天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐により、北条方の伊豆国山中城にも上方勢がの大軍が押し寄せて
来ること確実と成った。

山中城には。間宮豊前守(康俊)が、嫡子式部少輔の子、すなわち孫の彦次郎、当時十五歳と共に在ったが、
豊前守はこの孫に

「お前はこれより、急ぎ小田原の城中に行って氏直様の先途を見届けてくるのだ。その上で家運があったの
ならば、永く生き残り父祖の名を絶やさぬように継いでほしい。」

このように言いつけた。これに彦次郎は強く反発した
「なにゆえそのような事を言われるのですか!もし私が他の所に居ても、ここに駆けつけるべき時なのに、
そうして小田原へ帰れと言われるのですか!?」

豊前守は孫に言葉にいたく感じ入った、しかしそれを押して答えた
「お前は私の気持ちがわからないのか。これが弓矢を捨てて法師に成れとでも言うのであれば私の
過ちであり、お前の恥辱にも成るだろう。しかし今度の一戦は、重き義のために城を枕に討ち死にをするのだ。

しかしながらお前は未だ幼少により、生き残ってなお主君の大事を見届けよと言っているのであり、これは
少しも悪いことではない。むしろここに留まることこそ主君への不忠であり、父祖への不孝である。
それは我等の立場に違うことであり、それでもなお行かぬというのであればお前を勘当する。
勝手にするが良い。」

そう苦々しく言い捨てた。彦次郎は暫く黙っていたが、ついに頷き、はらはらと涙を流しながら
「承知いたしました。」と両手をついた。

豊前守は大いに喜び、この上はと、譜代の郎党である熊坂六郎兵衛という者の子で十六歳になる者を
呼んで彦次郎に付け、小田原へと送り出した。

豊前守は今やもう思い残すことはないと、岱崎の出丸を受け持ち、子の式部少輔および一族ことごとく
決死の防戦についた。この祖父と孫の別れに感じ入らぬ者は無かった。

(関八州古戦録)

間宮豊前守の勢は山中城の戦いにおいて、豊臣方の一柳直末を打ち取るなど激しく戦い、最期は
「白髪首を敵に供するのは恥」と、これを墨汁で染めて敵陣へ突撃し、討死したという。
なお、後世の探検家・間宮林蔵はこの間宮氏の末裔とされる。

305 :
斎藤実盛「さすが坂東武士」

306 :
首里城落城して子孫調べたら比嘉愛未さんは琉球王朝の末裔ってヒットしたぞ。
美人やなぁ

307 :
沖縄ってどの辺の民族が混じってんのかね
美人が多いのはたしかだけど

308 :
豊臣秀吉による小田原征伐、豆州韮山城攻めでの事
この韮山城主である北条美濃守氏規は知勇兼ね備わり、信義仁徳に厚い武将であったため、
配下の者もよく美濃守に懐き、この度の戦いでは尽くが、主人とともに城を枕にと互いに誓い合った。
そして美濃守は平時より弓を良くし、その配下にも二人張り、三人張りの弓を引き、百発百中という
者が多かった。そのようであったので、箙(えびら)、胡祿(やなぐい)、尻籠(しりこ)、空穂(うつぼ)
といった矢入れも上等のものをあつらえ、そこから手早く取り出し射る矢は、刺矢も遠矢も威力があり、
雨あられと降る矢に仇矢は一本もなかったのである。
さらに加えて、鉄砲の名人が櫓の上や塀の狭間より眼下の敵を撃つのである。寄せ手は見る見るうちに
撃ち殺され、死人の山となった。
この時、寄せ手の蒲生氏郷勢の先鋒である蒲生左門(郷可か)は、采配を振るいよく下知していたが、
城中よりの鉄砲が左門の従卒に持たせていた槍の柄を真っ二つにした。さらにその弾丸は弾み、左門の
左目に当たった。しかし左門は血が滝のように流れ出ている左目に指を突っ込み弾丸を取り出すと、
そのまま尚も先頭に立って進んだ。この姿を見た味方も城方の兵も一様に感嘆し、
「彼は鎌倉源五郎景政(後三年の役で右目を射られながらも奮闘したという逸話が有る)の再来か」
と語り合ったという。
(関八州古戦録)
小田原役における韮山城攻めの様子

309 :
目ん玉取り出して食べた話かと思った

310 :
有能だったんだねえ

311 :
目に弓矢ささる逸話は世界各国ありそうだ

312 :
小田原役、豊臣方による韮山城攻め。

寄せ手の明石左近将監(則実)と前野但馬守長康は十八町口へ押し寄せていたが、突然城中より
丹波、富野、根府川、小野、広瀬ら三百余人が門をさっと開くと、どっと大波が押し寄せるように
打って出た。このため明石、前野の勢はたちまち谷底へと落とされ、思わぬ死傷者を出した。

これを見て、同じく寄せ手の福島左衛門太夫正則は、鐘や太鼓を鳴らし鬨の声を上げて横合いより
攻め込ませた。その中から福島丹波守治重、同式部丞、長尾隼人正一勝、村上彦左衛門、
大崎玄蕃允、可児才蔵、林亀之助、以下百人ばかりが抜け出し、城方へ逆襲した。

これに城主の北条美濃守氏規も七百人ばかりで打って出た。氏規はその軍勢を二つに分け、
左右より敵を押し包もうとした。福島正則もこれを見ると六、七百余騎を率いて自ら打って出て、
たちまち乱戦と成った。敵味方入り混じり、火の出るような戦いがしばらく続いたが、ややもすると
上方勢がまくしたてられ危うく見えた。しかしここで寄せ手の控えの勢が一斉に打って出れば、
敵を圧倒し城も落とせるように思われたが、この韮山城攻めの総大将である織田内府信雄の
下知はなく、控えの部隊はただじっとその戦いを見ているだけであった。
そこからやや有って、織田内府の陣よりついに合図の法螺貝が鳴り、寄せ手の総攻撃となった。

しかし北条美濃守は、これを聞くと即座に兵を退いた。その進退の時期を得た絶妙さは敵も味方も
驚くほどであった。それに対し、追い打ちをかけに福島正則の一隊が突き入ってきた。この時
城兵は未だ城内に入る橋を渡り終えていなかったため、美濃守は立ち止まって長刀を振るい、
追手を六人まで堀へなぎ落とした。その勇猛さは阿修羅のごとく凄まじいものであり、不動明王かと
思われるほどの憤怒の形相に敵が怯んだ所へ、城中より再び、横井越前守、小机修理亮、工藤次郎三郎
以下六騎が取って返し、橋詰に並んで敵を防ぎ、その間に城兵尽く城中へと入った。その後より、
美濃守以下六騎が悠々と引き上げたのである。

ここでまさに城門を閉めんとした時、首二つを掲げていた福島正則の家人・可児才蔵吉長が
その首を投げ捨て持っていた鑓をその扉の間にさっと入れた。このため門に隙間ができ、すかさず
才蔵はえいと声をかけその扉を両手で押した。これに城方も内より大勢で支えて押し返した。
寄せ手は才蔵に続き福島丹波守、林亀之助が駆けつけ才蔵に力を貸した。内でも再び押し返す。
負けじと才蔵たちが押している所に味方がどっと駆けつけた。

この時城の堀の上と門脇の狭間より一斉に矢弾が飛んできて、寄手二十人ばかりがたちまち討たれた。
それでも寄手は大崎玄蕃允、福島丹波守の郎党・小林平蔵、岡田新六郎なども加わり扉を押した。
またも狭間より鑓や薙刀が突き出され、小林と岡田が討たれ、可児才蔵と大崎玄蕃允の浅手を負った。

こうして双方がえいえいと押し合っているうちに、才蔵が差し挟んでいた鑓のケラ首が折れて扉は
完全に閉まった。この間にも長尾隼人正は三度まで塀によじ登ったが、二度は内より突き落とされ、
三度目はその口に敵の鑓の穂先が突き刺さって深手を負った。

このように福島正則の部隊はよく粘ったが、城兵もよく戦って防いだので、正則は終に退却の貝を
吹かせ、まだ城門で戦っていた四人を招き返した。才蔵は穂先のなくなった鑓に最善捨てた首を
もう一度拾ってくくりつけ、悠々と引き上げた。

そこで城中より、この四人を敵ながら天晴であると、その名を名乗るように言ってきた。
四人は橋の上に留まって、城へ向かって大音声で「福島左衛門太夫正則が家臣誰々」と名乗って
退いた。

この時城内の兵で、隙を狙って彼らを撃とうとする者があったが、美濃守はそれを止めて
「あたら冥加の武士を無碍に誅すれば、てきめん軍神の怒りに触れよう。必ず手出ししてはならない。」
と戒めた。かくて四人は何事もなく自陣へと帰った。

この一戦で、蒲生氏郷の手の者四百三十余人、福島正則の手の者六百八十余人が討たれ、手負いは
数限りなく有ったという。

(関八州古戦録)

313 :
>>312
両方かっこいいなぁ、しかし信雄もいい味出しとるw

314 :
美濃守ここまで来ると出木杉くんだろ

315 :
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。
信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康の
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。
信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った
「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」
しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。
ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。
平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。
その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は
『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』
(甲陽軍鑑)

316 :
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

317 :
信玄公御一代敵合の作法三ヶ条
一、敵の強き弱きについて分析し、またその国の大河、大坂、あるいは分限の模様、その家中諸人の
  行儀、作法、剛の武士、大身、小身、それらの多少のことであっても、味方の物頭衆によくその
  様子を知らせなければならない。
一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、勝負の事について、十分の内六、七分の勝ちこそが十分の勝ちであると
  御定めになった。中でも大合戦は殊更そのようにするのが肝要である。その理由は、八分の勝ちは
  危うく、九分十分の勝ちは味方大敗の下地作りであるからだという。
一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、取り様のこと、四十歳以前ならば勝つように戦い、四十歳以後は
  負けぬように戦うべきであるという。ただし二十歳前後でも、自分より小身の敵に対しては、
  負けないように対処し、勝ちすぎてはならない。大敵には猶以て右のとおりであり、おしなべて、
  よく思案、工夫を以て、位詰めにし、心を長く持って後途の勝を得ることを肝要に仕るべきである、との
  儀であった。
(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、武田信玄の敵への対処のありかた三ヶ条

318 :
信玄って油断することあったのかな

319 :
油断して浮気がばれたために、誓詞を書く羽目に

320 :
貧乏国の形態から父親追放の継承で実際重圧凄かったろうな

321 :
笠懸山に一夜城を築いた豊臣秀吉は、その高台よりつくづくと小田原城を見下ろすと
「北条家五代の間、面々と工夫をこらし修営を加えた名城だけ有って、塁壁高く、
水流は深く掘られ、要害堅固である。」と感心し、これを力攻めすればいかに多くの損害が
出るか、またそれによって敵に利を与える事を悟った。そこで、後はただ長陣を張って
ゆるゆると攻め落とすことだと考えた。
そうして間断なく攻めはするが無理押しをせず、連日鬨の声を上げて敵を脅かし、矢弾を飛ばすことを
一日も怠らなかった。毎日数万の鬨の声と、数千の銃声が山野にこだまして天地を轟かせ、
磯山嵐か沖津風の如く五里十里の間に響いた。それが昼夜を分かたず行われたのである。
しかしながら城中でも、早雲以来累世の恩を被る関東武者四万五千余りが、既に生命を投げ出して
城の要所要所を固め、大筒を仕掛け、盛んに寄せ手に撃ちかけるので、上方勢も城壁に
近づくことが出来なかった。
秀吉は韮山城攻めに加わっていた北畠内大臣(織田)信雄、細川幽斎・忠興父子、福島左衛門太夫(正則)を
呼び戻して小田原城の攻め口に向かわせた。その中より特に細川忠興を呼ぶと
「小田原城の、早川口の松山に敵は砦を築いた。これまで色々と攻撃したがどうにも落ちない。
そなたが計略を以て落とすように。」
と命じた。忠興は「畏まって候」とこれを受け、早速早川口に向かうと、先ず土嚢を用意し、弾除けの
竹束を作って砦へ近づいたが、その夜、たまたま城兵が打って出たのを、忠興の家人がこれを迎え撃って
戦い、敵の首級三つを得た。
翌日、忠興自身が指揮をして。堀際六、七間ほどまで接近した。
その翌日、笠懸山より早川口を見下ろしていた秀吉が、側に在った大谷刑部(吉継)に尋ねた
「遠くの大松の影に夥しい旗が立っている。あれは敵の旗か?」
「いいえ、あれは細川越中殿の旗印でございます。」
「なんと、よくあれほどの近くまで。」
「細川殿はご自身の働きで、今夜にもあの堀を埋めるのだと申されていました。」
「そうか、あれを落とせば今度の城攻めで一番の手柄である。」
秀吉はそう言ってにっこりと笑った。そしてその通り、程なく忠興は早川口の松山砦を落とした。
しかしこのような長陣に成ると必ずこういった事が起こるように、「徳川家康と織田信雄はが
敵方に内通して反旗を翻す。」との噂が流れ、これが秀吉の耳にも入った。しかし秀吉は素知らぬ顔を
していた。
そして天正十八年四月十五日のこと、秀吉は突然、先達の案内も立てず近習の侍童五、六人を連れただけで
家康と信雄の陣を訪ねた。当然ながら家康も信雄も秀吉を快く迎え、陣中に酒宴を張った。
鼓、太鼓の音も心地よく、謡も出て、三人は何の拘りもなく歓談し、秀吉は家康、信雄の陣に
夜明けまでのんびりと過ごした。
これ以降、謀反の噂はたちまち霧散し、誰もが安堵に胸をなでおろした。
(関八州古戦録)
秀吉が細川忠興の活躍を促し、また家康信雄謀反の噂を消す、というお話。

322 :
ある時武田信玄公がこのように仰られた
「世の中にはいろいろな人がある。分別が充分に有っても才覚のない人もある。才覚が有っても
慈悲のない人もある。慈悲が有っても人を解っていない人も有る。
人が解らない者の場合、大身だと、その者が尊敬している人物というのは十人の内八人は役に立たない
という事が多い、小身の場合は、その親交深い傍輩の悪しき知り合いに近づいてしまう。
このように色々様々に変わって見えるが、結局はただ分別が至らぬということだ。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても
良く成すものだ。このように人間にとって分別の二文字こそあらゆる事の基礎であると知り、
朝に志し、ゆうべに思うようにして、分別を良くするべきだ」と言われた。
内藤修理正(昌豊)曰く、「信玄公御錠に、人は分別肝要と仰られた。これは尤もな事である。
それについて、分別と言うことも、学んでその知恵がつくものだ。」
そう申したところ、小山田彌三郎(信有)が「願わくばその方法を教えて頂きたい。」と
しきりに問うてきた。そこで内藤修理は
「気遣いという気持ちがあれば、分別にも近寄るであろう、この気遣いから全ての事に心付て、
自分の至らぬ部分を分別ある人に習い、何事を成す場合でもこの心構えをその度に重ねれば、
自分の心得も出来、猶以て工夫、分別、広才の智のある人に近づく事だろう。
そこを考えれば、気遣いというものは分別のいろはでは無いだろうか。」
そう内藤は小山田に教えた。
(甲陽軍鑑)
分別の基は人に対する気遣い、つまり良い判断に必要なのは思いやりである、という所でしょうか。
現代でも通用しそうな考え方ですね。

323 :
小山田の名前を見るだけで警戒してしまうが、この人は26歳で早逝してるんだな

324 :
信玄公って部下教育にも長けてたんだろうなあ

325 :
息子は失敗したけどな

326 :
>>325
その辺も家康は信玄を見習ったなw

327 :
武田は奥近習だっけ

328 :
>>323
また阿呆が湧いてる

329 :
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。
応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。
しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。
この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。
公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。
(足利季世記)
永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。

330 :
>>328
小山田家の事も知らないとか、さすがに無教養にも程があるぞ

331 :
小山田は信有だらけなの、どうにかして…

332 :
先代とは意地でも同名を避けるつう命名基準から外れてるし理由を知りたい

333 :
>>330
阿呆は小山田ごときで警戒かよ、さすがにヘタレにも程があるぞ

334 :
>>333
お前のような低能が生きて行ける日本って平和だなw

335 :
>>334
悔しいのか、ん?ん?
平和な日本が嫌なら半島に帰んな、兵役逃れのヘタレチョンw

336 :
さすが常在戦場で警戒MAXの朝鮮人だぜ!
小山田姓にビビるカスwww

337 :
>>333-336
消えろキチガイ

338 :
永正十七年五月九日、公方足利義稙は近江国観音寺城より御入洛があった。この時
佐々木六角大膳大夫高頼は隠居していたのだが、どのように思ったのか、今回は御供することを
申し出て共に上洛し、その年の八月に帰国、同月二十一日に観音寺城にて逝去した。

去る永正十五年七月九日、嫡男であった氏綱が早世して以来、高頼は深く嘆いていたのだが、
氏綱に家督を相続すべき男子が無かったため、次男の霜台(弾正の唐名・定頼)の度々の忠功により、
公方および管領(細川高国)が近年近江へ落ち来て彼の威勢を頼み、これに高頼は誠に時の面目、
当家再興の運開けたりと喜び、それまでの憂いも忘れてとかくの馳走があった。そして今度は
老後の思い出の上洛であるとして、公方に最後の御暇を申し上げて帰国し、その後一病も無く
寿命を終えられたのである。目出度き次第であり、法名は龍光院宗椿と申した。

彼の死を聞いた公方義稙、管領細川高国も深く嘆かれ、百首の和歌を詠じて追福として備えられた。

(足利季世記)

足利高頼の最期について。

339 :
>>337
おまエラが日本から消えろ

340 :
>>338
申し開けありません、最期は勿論「六角高頼」です。変な間違いしてしまいました。

341 :
目くそ鼻くそ

342 :
小田原の陣のさなか豊臣秀吉は、小早川隆景が老武の物知りであるとして、尾州清須より呼び下した。
彼は塔峰の艮(東北)の方角にある鍋曲輪という山手に陣を張り、安国寺恵瓊長老を相備として、
二万騎ばかりにて在陣した。これ以前に、関白殿下の陣営を一夜に紙にて張り立てたのも、隆景の
工夫より発起した謀略であった。

そのような中、秀吉公は隆景を本陣に呼び寄せ雑談する中に
「今の状況では小田原城が早速に落城するとも思えない。そして諸軍には長陣に退屈の色が見える。
であれば所々に附城を築き、この本陣には私の名代として近江中納言秀次にそなたを付けて差し置き、
軍勢の大半は(徳川)家康殿に委ね、私は京に帰り一両月ほども滞留して上方表の仕置を沙汰し、
その後また下向したいと考えている。これについてそなたになにか思うところ有れば、心底を残さず
異見してほしい。」

隆景は答えた
「貴命を承りました。ただし、不肖ながら私の考えは、理不理を弁えていないのかも知れませんが、
今回の長陣は間違いなく御勝利の基であると思っています。であるのにこちらを捨て置いて、この時期に
御上洛されるというのは、在陣の諸将から鋭気をくじき、弓矢に怠りが生まれてしまうでしょう。
ただそのままに在陣され、急いで敵城を攻められようとはせず、弓鉄砲の鳴りを鎮めて、各仕寄を
丈夫に手当し、敵からの夜襲などを懸けられないように、諸隊に用心を専らとさせ、さらに倍の長陣の
覚悟を決意すれば、城中は日を追って困窮すること疑いありません。

またこれにおいて退屈させないように、若者たちに命じて小唄を唄わせ踊りなども促し、乱舞音曲の
遊興をなさしめれば、味方が長陣に倦まないように出来るでしょう。」

これを聞いて秀吉はうなずき
「そなたの父である毛利元就が生きている時に、これに似た城攻めの例は有ったのだろうか?」
と尋ねた。

「父である元就の代にも、出雲の尼子右衛門佐義久との対陣の時(月山富田城の戦い)、小唄、踊り、
能、囃子を催して長陣を張り、ついに敵を攻め破りました。その他にもこのような形の調略は度々に
及びました。」

「なるほど、元就は軍謀密策において並びなき達人である。」
秀吉はそのように激賞し、それより上洛を中止した。

その頃は五月雨が降り続いており、諸陣も湿っぽく物寂しい様子であった所を、秀吉は自らの陣営に
仮の数寄屋を設え、喫茶の会を興行した。橋立の壺、玉堂の茶入といった名物を取り出して、
徳川家康を始めとして、北畠信雄、上杉景勝も招待し、長岡三位法印(細川幽斎)父子、小早川隆景、
津川三松(斯波義銀)、前波半入(勝秀)、羽柴下総守(滝川)勝利、有馬兵部卿法印則頼、
安国寺恵瓊長老、施薬院法印全宗、大村由己、利休居士、等を加えられ折々の会席あり、その陣中に於いて
古き新しきを取り交えて、はやり詞、戯れ歌などを言い触れるなかに、西行法師の詠んだものであるとして
誰も彼もが口ずさんだ歌が

 星ひとつ 見つけたる夜の嬉しさは 月にもまさる五月雨の空

さらに近習外様の若者たちに命じて、流行歌音曲を促すと、もとより上方生まれの遊興に親しんだ
者たちであったから、得たり賢しと、ありふれた小歌に様々な新作を加えて、水無月(六月)の初めの頃より
この山かの平地と群れ出て涼みがてらに謡ぞよめき鬱を散らした。後には秀吉を始めとして、尾張内府(信雄)、
黄門秀次、宇喜多秀家、蒲生氏郷などまでも、手拍子にて小歌の遊興が有ったが、躍りは未だ興行しなかった。

小田原の城中ではこれを聞いて、
「寄手は長陣を決意し、あのように遊楽に日を暮らしているのだ。この戦いは一体いつに成ったら
終わるのか。」
と気を屈し、心を労して、滅入らない者はいなかった。

(関八州古戦録)

小早川隆景の提言による小田原城包囲の様子。

343 :
氏康「小唄踊りに紛れて敵を討つのだ!」

344 :
付け入られて落城か

345 :
>>340
おちつけ

346 :
関ヶ原の役で黒田長政はその臣・毛屋主水(武久。黒田家の旗奉行)に旌旗を預けられた。
主水は高き丘を越えて少し低い所に旌旗を立てた。長政はこれを見て「高みに引き立てて立て
るべし」と下知された。
これに主水は「麓へ押し下ろして立てた旗を後へ引いて高みに立てては、味方は負け色になり
敵から敗軍と見えます。しかれば敵方の勇みなりましょう」と、ついに旗を立て直さなかった。
長政の合渡の川越えの折、主水は水際に臨んで旗を押し立て敵と間近くなった時、どうしたこ
とか馬印・旌旗を各々はあおむけて旌色が悪く見えたので、主水は「味方敗軍の色あり!」と
急いで馬から飛んで、下槍の石突をもって旌竿をうつむけた。
そして「旌をあおむけたら、たちまちに突きR!」と下知して、岩巻という旗差は強力者で
あったので、取り分けて彼を戒め主水も同じくエイエイ声を揚げて押し立てると、旗色は直り
正々であった。
――『志士清談』

347 :
関ヶ原で敵城視察した時に「一見、大軍に見えますがそのうちまともに戦う気なのは2割くらいでしょう」
と言って士気を上げて家康に饅頭貰った人だっけ
同じく黒田藩の磯野藻屑は幕末におはぎを38個食べて殿様からお褒めに預かったそうだけど
毛屋主水の子孫だったりして

348 :
旗ひとつとっても大事なんだね

349 :
幕末になると将軍様さえ馬印捨てて逃げちゃうのに

350 :
エイエイ!NGMS!NGMS!
     /\
   /  \
  / ∧__∧ \
/ ( ´∀` ) /\
\ (    )/  \
  \   /      \
   \/ ∧∧∧∧__\
        ( ´/)  ) )\
      /  /  ∧∧∩
   ○(    ○  / ´∀)|
    /ヽ ) ヽ )と  ノ
   (/(__//(__/_ノ> >
/ ̄Y ̄Y ̄|/ ̄Y ̄Y ̄\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

351 :
NGMSの旗見つからないかなw

352 :
かつて加藤因幡守藤原清信という人が尾州犬山に住んでおり、彼は美濃斉藤家の幕下であった。
美濃斉藤家と尾張の織田家が犬山に於いて戦った時、この清信は討死した。彼には子息が一人あり、
鬼若と言って二歳であった。彼は母方に引き取られ、尾州愛知郡中村という所で成長し、後に
弾正右衛門兵衛(清忠カ)と号した。この弾正は三十八歳で死んだ。

弾正も一人の男子を遺した。この時三歳で、虎之助と名付けられた。母に育てられ、五歳までは
この中村に住した。また、後の太閤秀吉公の母公と虎之助の母は従姉妹であった。このため、虎之助の
母はこう考えた

「今、木下藤吉郎殿は近江の長浜にて五万貫の領地を知行され、稀なる出世を遂げられている。
この子がこのまま田舎で育っては。武士の作法も知り難い。ただただ、秀吉殿を頼み奉らん。」

そのように決心し、虎之助を召し連れて長浜に至り、秀吉公の母公に委細を申し入れたところ、
母公は殊の外歓迎し、両人共に藤吉郎殿の御目にかけ、母公のお傍にて養育された。

虎之助は十五歳の時、母にこのように言った
「私は御蔭を以てこのように成長しました。年齢は十五ですが、背も同年の者たちより高く、故に
前髪を落として元服し、奉公を勤めたいと思います。」

母はこれを聞くと「大人びたことを言うものかな。」と、藤吉郎殿へ細々と申し語ると、藤吉郎殿は
ひときわ機嫌を良くして「内々にあの者の眼差しを見るに、能く祖父である清信殿に似ておられると
思っていた。よろしい、前髪を落とさせよう。」

そう言って元服させ、加藤虎之助と名付けて、初めて百七十石の領地を給わり奉公の身となった。

その頃藤吉郎殿身内に、塚原小才次という兵法者があった。これは塚原卜伝の縁類の武士であった。
虎之助は彼に従い兵法修行をなした。

ある時、長浜の町人の家に、人を殺して立て籠もった者があった。このため町中は大いに騒ぎたったが、
虎之助はこの様子を聞きつけ、常々伝授の兵法はこの時の為であると思い、かの町人の家に走り行くと、
四方に大勢の人が集まっていた。この中を潜り入り、虎之助は狼藉者を打ち倒して縄を懸けた。
手傷は一箇所も無く、搦め捕ってその家から出た。
立て籠もった者は秀吉公の足軽で、市足久兵衛という者であった。

この首尾を秀吉公は聞かれ。「常々かの者は常の若者のようではなく。物の役にも立つだろうと
思っていたが、よくも仕ったものだ。」と仰せになり、二百石の加増が有って、木村大膳組の
小物見役に仰せ付けられ、虎之助は朝暮勤仕した。

(續撰清正記)

加藤清正の少年時代について。まあ清正の母が秀吉の母の従姉妹、というのは怪しいところではありますが。

353 :
清正大河があるなら一話目に使える

354 :
>>346
黒田長政の奉公構えって後藤だけじゃなかったんだ
ちいせえ

355 :
>>354
奉公構えとはちょっと違うのでは

356 :
>>355
どこが違うの?

357 :
奉公構は追放刑で他の大名たちにもこいつを雇わないでくださいって根回しすることだと思ってたが
この毛屋さんは黒田家中に留まって働いてるはず
加藤家から高禄で召し抱えられそうになったのを長政が許さなかったってだけのことでしょう
才能がある人だから長政も惜しかったんでしょう(ならもっと優遇すればいいのにとは思うけれど)

358 :
>>354
どこをどう読んだら奉公構になるのか?
蒲生家に帰参しようとして、長政に阻止られたのは全く違うと思うんですが?

359 :
>>354
ちいせえのはお前の知識じゃたわけ!

360 :
また始まった...

361 :
あからさまな荒らしは放置で

362 :
なんかアホが多いから補足な
毛屋は以前氏郷の窮地を救ったことがあり、この恩で会津移封の際に高禄で誘われたが、唐入りの準備があるから無事に帰ってきたら移るよ〜って返事したんよ
加藤家だとか帰参だとか言ってるアホは自殺しとけ

363 :
毛利元就公が6,70歳の頃、永禄七年に当たるか、御自筆を以て毛利隆元公、吉川元春公、小早川隆景公に
十四ヶ条、また三ヶ条にて御意を伝えられた。このうち他に漏れても構わない内容であったのだろうか、
端々を承った内容をここに記す。
一、前々から申していたことだが、あえてまた申す。三人(隆元、元春、隆景)の内、少しでも我を
  立てるような事をすれば、ただただ滅亡と心得るべきだ。たとえ仲が悪くなる事があったとしても、
  一人も他に漏らしてはならない。たとえ面目が傷ついても、名を失ってしまっては一人二人の
  面目など何の用に立つというのか。良くない事である。
一、隆元については、元春隆景と協力し、内外のこと共に相談すれば、何も問題はない。
  また元春隆景についても、当家(毛利家)さえ堅固であれば、その力を以てそれぞれの家に
  存分に申し付けることが出来る。現在、どれほどそれぞれの家中に存分に申し付けることが
  出来ているとしても、当家が弱目に成ってしまえば人心も変わるものだ。両人もこの心持ちが
  肝要である。
一、この間も申した事だが、元春隆景に何か間違いが有れば、ひとえにひとえに隆元が親の気持ちを
  持って堪忍すべきであり、また隆元に間違いが有ったとしても、元春隆景の両人は隆元に従わ
  なくてはならない順義である。元春隆景の両人は、もし当家に居たままならば、福原桂といった
  家臣達とともに何が有っても隆元の下知に従わなければならなかったのであり、現在他家を率いて
  いるとしても、内心ではその遠慮を持つべきである。孫子の代までその謙譲が有って欲しいし、
  それが有れば三家は数代を保つことが出来るだろう。そう有ってほしいが、現在は末世であり、
  そういうわけにもいかないだろう。しかしながら三人、一代づつこの事をしっかりと心得て
  おけば、名利二つを失うことは無いだろう。とにかく、当家の為には、別に守るための方法は
  無い。この定めは三人のためだけに固く申し渡すのではない。その子供までも、これを守るように。
  張良の兵法書にも増して、これを申しておく。
  現在のように三家が無二の関係を続けていれば、縁起でもない話だが、国内の者に寝首を掻かれる
  事も無いだろうし、他家他国の脅威もさほどでは無いだろう。
このように仰られた。御本家を肝要に取り立てるようにとの深き御心中が、御子、御孫までも伝わり
御家長久となるようにと、深く思われていることがはっきりと理解できる。君子は務本本立道成と
申す。こう言った事はおのずから叶うことが有るだろうか。また書には、曲がっても諌は直し、
君聞諌則聖人と申す言葉が常々書かれている。
同時に臣下たる人は忠を専らに守る心持ちの内に、君主の過ちを正し、外には君の誉れを挙げるべしと
書かれている。
例えば、安国寺恵瓊が広島城普請場において、普請奉行を叱りつけたことが有ったが、この時大声で
「だいたい上の申し付けが悪いからこのようになるのだ!(惣別上之仰付様悪敷に付て如此に候)」
と申した。この事を輝元公が伝え聞かれ、安国寺が御前に罷り居た時に、事のついでにこの噂を
語られ、安国寺の言ったという言葉も引用されて仰られたため、安国寺は殊の外難儀したという。
(老翁物語)
三子教訓状の話と思ってたら最後に安国寺さんがとばっちりを受けていた。

364 :
後世では隆元は影が薄いけど、元就から見て毛利本家を任せられる逸材だったんだよな

365 :
元就の誤算は隆景が女嫌いだったことだろう
ちゃんとした跡継ぎさえいればなあ

366 :
元就何才やw

367 :
>>365
義隆「ホホホ、麿の教育が良かったでおじゃるな」

368 :
兄は尻便所とブス専で自身はインポの三兄弟

369 :
上司の愚痴は誰にも聞かせてはあかんのやな

370 :
息子3人は仲良しでも孫世代まで協力し合える保証はないわな

371 :
仲良くせよだの団結しろだの言う家に限って兄弟仲は最悪なんだよねえ

372 :
部下たちは毛利家のこと屁とも思ってないからせめてお前たちだけでも団結してないと明日には滅んでるちゅう
大名権力の弱い毛利家においては切実な話なんだよな。兄弟仲良くとか和を以ってとかそんな生易しい話じゃない

373 :
消えろキチガイ

374 :
それこそ、元就自身も異母弟元綱を討ち果たした過去があるし、尼子や大内の内紛も見て来て思う所は多々あったろうからねぇ

375 :
吉川家小早川家乗っ取りエグいしな、宇喜多を悪く言えないレベル

376 :
毛利元就公の元には、立花(りっか)の上手、花道の達者、乱舞の者、盤上の名人、以下諸方より
御音信が参るため、それぞれに相当の処遇をされている。
国内にはどの国にも遊民が有って、一芸一能にたずさわる小人が多い。そういった者達は
執心稽古を当然のこととしてさせられ、それぞれ御用の時に召し出される。
元就公は、御家中およびその他の御弓箭の御手子衆などへは、内々にそのような小芸に執着しないよう
御下知が有った。その証拠として、御自筆にて書き置かれた書のうちに、このように有る
「一芸も入らず、能も入らず、遊びも入らず暦も入らず、何もかも入らない。
ただ日夜共に武略調略の工夫が肝要である。」
このような事が書かれた五ヶ条の文書があり、これを読み聞かせられた時に承った。
(老翁物語)
毛利元就の「ただ調略が必要」という話の元ネタがこれですね。

377 :
織田信長「部下の礼法があまりになってないとか、色んな理由から茶の湯を推奨するわ」

378 :
>>376
大内さん…

379 :
>>378
多ゲイなのも考えものだよね

380 :
毛利輝元公の御意に、
「その家々が繁栄する時には、その影のように成ってこれを輔ける臣下が出来るものである。
ある時元就公は御談合衆のうち、児玉就忠を召し出され、諸方の国境地域の衆に音信を怠らないよう
仰せに成った。

『境目の誰々には最近音無しであるので、使いの者を必ず遣わすよう考えているが、その時は
彼の地域では珍しい物を音物として届けるよう支度しておくように。』

これに児玉就忠はこのように申し上げた
『その事でありますが、かねてより御使者を遣わされる時のために、私の方で差し回して、かの地方には
無い物を2、3種類支度して置いてあります。その品物はここに書いてありますので、そこから
仰せ付けに成って遣わしてください。』

そこで元就公はすぐに、その家々に相応の、語り方や容姿の然るべき人物を選んで使いとして遣わした。
このようであったので東西南北いずれも存分となったと、常々心安い者達へ御物語されていた。

相手が忝ないと思うようにと、いつも繰り返し仰せに成っていた。それ故に、その方面に退治すべき
勢力が出た時には、彼らは山を越えて我等に人数を遣わし、我勝ちに馳走こそするが、我等に対し
通路を遮断するような事をする衆は居ない。当然我等はそれぞれの地域の城々に油断なく手当をして
いるが、普段より良い関係を構築しているからこそ、人々が心安く往来できるのだ。

古い書に『故得萬國之懽心、以事其先王。(あらゆる国の歓心を得ることが出来てはじめて、
亡き先王の祭祀を行うことが出来る。』とあるが、それに叶った話であろう。」

(老翁物語)

381 :
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。
信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。
そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。
城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。
(老翁物語)
大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。

382 :
豊臣秀吉による小田原の役の折、
陸奥国南部の岩城常隆も、小田原へ参向して関白殿下に聘礼し、それより御暇を賜って帰国するが
その途中、鎌倉を一見したいと彼の地に駕籠を向けた所、その途中に病によって重体となり、鎌倉の
星ヵ谷という場所に旅宿して療養するもそのかい無く七月二十二日に、二十四歳にて卒去した。
彼には子息が無かったため、家臣達が急ぎ相談して、佐竹義重の三男に能化丸(後の岩城貞隆)という
今年八歳になる子が有ったのを養子として、秀吉公が、北条氏が降伏し小田原の役が終わった後、
野州宇都宮に動座された所に、岩城家の重臣である白戸摂津守が能化丸の介添えして旅陣へ推参し、
増田右衛門尉長盛を通じて事の次第を伝えた所、殿下はこの主従を召し出して対面され、家督相続と
本領安堵を命ぜられた。
実はこの白戸摂津守は秀吉公が古くから知って居られた老兵であった。それはかつての事、
岩城家の家臣である白戸、行間、窪田の三人が微服にて忍びで伊勢大神宮に詣でた事があった。
この時、
「こんな機会がまた有るとも思えない。この折に将軍家の巨城も見物したい。」
と、江州安土に立ち寄り、商家に寄宿して暫く逗留した。この間に織田信長が、安土にて京都、奈良、
堺あたりの猿楽に堪能な者達を集めて興行をする、と知り、
「奥羽の辺土では見ることの出来ない、誠に田舎への土産話にこれ以上のものはない。」
と、宿の主人に頼み込んで安土の城中に入れてもらい、これを熱心に見物した。
また舞台、楽屋に入り役者の名などを尋ねていると、殿下、当時は未だ木下藤吉と名乗って居られたが、
彼は例のごとく目早き生まれつきで、彼らを見つけると
「安土表には珍しき風俗の武士である。」
そう思って側に近づき、彼らが何者かを問うと、三人はありのままに自分たちについて申した。
これを聞いて藤吉は喜び
「はるばると離れた東国の衆に、このような場所で不意に出会うとは、思いもかけない事である。」
と、まるで古くからの友人であるかのように暫く物語をし、「誠に胡越を隔てていますが、今後は
便が有れば互いに連絡を取り合いましょう。」と固く約束をして別れた。
その後、白戸は国元より藤吉に対して良馬一疋を贈った。
それから年月が隔たったが、「主君の重代な用であるのだから、然るべき便りである。」
と、能化丸を伴って宇都宮に出かけたのである。
(関八州古戦録)
豊臣秀吉と、岩城家家臣・白戸摂津守の不思議な因縁についてのお話。
信長を「将軍家」と認識していたのですね。

383 :
この頃は木下ではなく羽柴だろうに

384 :
その白戸に岩城の家督をやろうかって内々に話があったと武徳編年集成には書かれているとか

385 :
豊臣秀吉による小田原の役の折
東上野の館林城主は北条美濃守氏規であったが、彼は豆州韮山に立て籠もっていたため、
この城は南条因幡守が城代として在り、板倉の真下越前守、飯野の淵名上野介、大島の片見因幡守、
小泉の富岡六郎、藤岡の富田又十郎、以下五、六千人がこれを守っていた。
この館林城攻めの軍勢として、石田治部少輔三成、長束大蔵少輔正家、大谷刑部少輔吉継、
早見甲斐守守久、野々村伊予守雅春、伊東丹後守長実、中江式部少輔直澄、松浦安太夫清長(宗清)、
鈴木孫三郎、並びに佐竹義重、宇都宮国綱が東国の先方衆の陣代としてこの軍勢に列し、五月二十二日、
館林城へ押し寄せた。
この城の盗難は躑躅ヶ崎といって渺々とした深い湖沼であり、人馬が通行するのは不可能であれば、
攻め手は味方を三手に分けて、三方より攻め掛かった。西の大手は石田、速水、中江、並びに
佐竹宇都宮勢七千余騎、佐川田の渡を越えて佐野口より押し詰め、大谷原の松林に陣を取った。
東方は下外張口の搦手より長束、野々村、伊東ら六千八百余騎が、東北の加保志口は大谷、松浦、鈴木ら
五千六百余騎、都合一万九千四百余騎にて三方より囲み鬨の声を上げた。
一方、館林城中は多年激しい戦に慣れている勇士達であり、手ぐすねを引いて集まった者達が、
殊更に屈強の要害に籠もっているのだから、ここに支えかの所を防ぎと頑強に防衛し、簡単に
落ちそうに無く、寄せ手は遠攻めをして三、四日が過ぎた。
この時、石田三成が諸将に対してこのように提案した
「この城の東南に大沼があり城方にとって手明きとなっている。このため彼らは残りの三方に
集中して防戦し、故に屈強に抵抗している。そこで、人数を分けて大袋山に入って大木巨木を
切り倒してあの沼に投げ込ませ、また周辺の家を破却し、これらを用いて道を付けて攻め寄せれば、
敵兵は持ち口が分散され味方が攻めるのに有利と成ると考えるが、如何であろうか。」
これを聞くと諸将は皆然るべきであるとして、近くの郷村に触れを回し、料足(賃金)を与えると
呼びかけると、人夫二、三百がたちまち集まり、近辺の山林より大木を刈り出し昼夜を分かたず
大沼へ投げ込むと、二、三日の間に八、九間ばかりの二筋の道を付けることが出来た。
その間三方の寄せ手は意図を汲んで隙を与えず攻め立てたため、城兵はこの防御に手一杯となり、
大沼の方面へ人を出すことが出来ず、攻め手は難なく道を付けることが出来たのである。
さて、明日は四方より押し詰め総攻めにすべしと、手分け手配も定め、夜が明けるのを今や遅しと
待ち受けていた所、その夜、松明が二、三千ばかり灯され、続けて夥しい人の声がどよめき響き、
また普請している音も聞こえた。寄せ手は「城中に多数の者達が居るとも見えないのに、堀切、柵などを
付けているのだろうか。」と訝しみ囁きあいながらこれを聞いた。
一方で城中の方は敵勢を見て「何と夥しい敵兵であろうか。今はもはや四面このような状況であり、
我等はもはや牢の中の獣、籠の中の鳥の如くであるから、城から落ちることすら出来ない。
明日は潔く一戦をして討ち死にしよう。今生の暇乞いに、今宵は快く最期の酒盛りをすべし。」
と一献を催し、夜明けを待った。

386 :
夜が明け日が既に曉天に至った頃、石田治部少輔、佐竹、宇都宮ら四千余騎にてかの大沼に押し寄せ、
持ち盾械楯を先に立てて、それぞれに馬を乗り放って進み、近づいて見てみた所、二筋まで付けた
道の材木が尽く泥中に沈み込んでおり、どうにも渡れる状況ではなかった。
これに寄せ手は大いに驚き「さては前夜の人夫の音はこれであったか!」と言い合ったが、猶も
不審は晴れないまま、他の三方の攻め口にこの事を伝えた。
丁度その頃、山中城が落城し、そこを守っていた北条左衛門太夫氏勝は降伏、豊臣軍の案内として
こちらに着陣していたのであるが、これを聞いてはたと思い出した
「これは全く城兵の仕業ではない。かつて赤井但馬守がこの城を築き始めた時、野狐の変化が
地形の指南をしたという。その野狐は今以て城中にて祀られ鎮守の神として崇められていると聞く。
尾引曲輪がそれである。かつて永禄九年の秋、南方(北条)の軍勢が当所に押し寄せた時も、
このような神変があって囲みを解いた事がある。決定命婦荒御前というのがその野狐の名であるが、
これが成したことであろう。」
このように申し、また諸将も手をこまねいて奇異の思いをなしており、このような所に長陣は
無益であり、ここは和議をなして片時も早く忍城へ向かうべきだと考えていたため、この氏勝より
城内の南城、真下、富岡等へ矢文を射込み扱いを入れると、城方もこれに同意し、同月晦日に
城兵は退散した。これによって石田大谷が城を請け取り、数百ほどの番兵を置いて忍城へと向かった。
(関八州古戦録)
館林城の狐については、まとめentry-144.の『赤井照光と狐と館林築城・いい話』を参照

387 :
>>386
戦争なのにほのぼのする顛末だw

388 :
松浦と鈴木らで六千余り率いていたのに驚く

389 :
豊臣秀吉公によって天下が制せられた頃、毛利輝元公に小早川隆景公がお供して上洛を成した。
秀吉公と参会したが、大方ならない非常に丁寧な接遇であった。この事は桂美作守が詳しく
書き置き、その書物は今もかの家にあるり、その概略をここに示す。
この時、秀吉公の御意に
「私は主君の敵を討ったことで、その本意が天道に叶ったためであろうか、このように
日本を従え、高位にも上った。しかしながら隆景、安国寺のような優れた家臣を持っていない。
そこは輝元に劣っている。」
と仰られた。
小早川隆景は毛利元就の三男であり、十二、三の頃より元就公を助け、御一生の間、子の刻(夜0時頃)
に寝て寅の刻(午前四時頃)に起きると言われているように、不断に夜半過ぎまで伺候し、曉天に
起きられ火を灯して朝御膳をまいらされ、終日御前に在って、諸方への御用、御調を成されていた。
元就公、隆元公が御他界の後は輝元公を一層御尊敬になり、吉川元春公は、その輝元公を取り立てる
あり方を、周公旦の道に学んでいると仰せに成っていた。これはどういう事かと言えば、周の文王、
武王、周公旦は唐土四百余州の大聖人であることが書物に様々に見え、中で周公旦は文王の子、
武王の弟で成王の叔父であり、天下で誰一人その地位を争おうと思わない高貴の人であったが、
成王に仕えて、一回の髪を洗う間に三度も止め、一食の間に三度も口中の食べ物を吐き出して天下の士に
まみえたという。その行いと隆景公のあり方に違いがないと思われたのであろうか。
隆景公が輝元公の御座の前をお通りに成る時は、必ず膝を折り手をつかれてお通りに成った。輝元公が
その座に居られる時は申すに及ばず、御座に居られない時でもそのようであった。
この事ひとつを以ても、全体に於いて隆景公が輝元公にどのように接して居られたか推し量ることが
出来るだろう。またこのようであったので、隆景公の御行儀は日本一であると諸国でも申した。
先程の秀吉公の言葉の最後に言われていたように、後々に隆景公は日本国の御政道の御教書に
御連判もされ、輝元公、隆景公、前田利家公、宇喜多秀家公、徳川家康公の御上判にて諸国に
命が出された。そして後には東三十三ヶ国を家康公、西三十三ヶ国は輝元公にその進退をお預けになり、
このため西国の大名衆は折々に御挨拶に訪れた。
(老翁物語)
小早川隆景について

390 :
>>389
隆景が長生きしてたら関が原はどうなったかなぁ

391 :
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春、小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。
宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は
「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」
そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。
この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。
ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。
(老翁物語)
官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。

392 :
天正十八年七月三日、小早川隆景は小田原城攻めの本陣である笠懸山を訪れ秀吉公に対し申し上げた
「北条家の分国の城々は尽く麾下に服し、残るは小田原の一城のみという状況に至りました。
であれば、東国の案内者とされている徳川家康公と内談されて、方針を策定されるべきです。」

これに殿下も尤もだと思い、家康公と密談された所、家康公は
「調略のことはたいへん容易いでしょうが、私は北条氏直と縁類でありますから、私が動けば
その事を突いてこの動きが妨害されることも有るでしょう。先ずは上方衆の中からこの計を
入れられ、その上でこの家康も取り計らうべきだと考えます。」

この言葉に秀吉公も再び尤もだと思われ、黒田勘解由孝高は当時四十四歳であり、家督を嫡子の
長政に譲り隠居の身ではあったが、殿下は彼の知勇才覚が世に優れているのを惜しみ、常に召し出して
相談をしていた。よって今度の小田原の役にも伴い武略の助けとしていたが、故にこの事についても
彼を呼んで相談した。

孝高は話を聞くと、家人井上周防守之房の弟である平兵衛を密かに、北条氏直の異母弟である
大田十郎氏房の陣に遣わし、和睦の事を申し入れた。氏房はすぐに同意したが、氏政父子は
これを承諾せず、そこで秀吉公はまた宇喜多宰相秀家に命じて、家老である花房助兵衛職秀に言い含め、
重ねて太田氏房の持ち口に矢文を射込み
『氏政父子が和睦を受け入れるならば、伊豆相模の両国を所領し、氏房には上野一国を与えるであろう。』
との旨を殿下の内意として伝えた。しかし氏政父子はこれを聞くと

「当家は関八州を管領する事年久しいというのに、今僅かに二州を与えられるとは、外聞といい実義と
いい面目なき次第であり、このまま生害に及んだほうがましだ。」

そのように拒絶したが、太田氏房、北条氏照らが
「そこを押して和平を請われるべきです。籠城の面々の一命も助けねばなりません。」
そう一同に諌めた所、氏政父子も
「そういう事であれば各々の分別して良きようにせよ。」
と申したため、漸く和睦に同意したとの、太田氏房の返書が届き、宇喜多秀家、黒田孝高を通じて
秀吉公へこれを取り次いだ。そして北条方に対し「家康公と内談するように」との書状が返された。

同月五日の晩方、北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、今回の逆心、不忠の義を述べて自信が太刀を
抜いて誅殺した。

翌六日早天、氏直は馬廻りの組頭・山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門を伴って、騎馬にて家康公の
陣営を訪れ和議のことを申し入れた。家康公は対面すると
「あなたは類縁ですから、私から口入れするのは難しい。羽柴下総守(滝川)雄利の陣へ行き、
思う所を述べられるのが良いでしょう。」と仰せになり、井伊兵部少輔直政を付けて彼の陣所に
遣わした。氏直は雄利に委細の旨を告げて直ぐに城中に帰った。この時家康公よりの提案で、
殿下の家臣と北条家の家臣が直に談判すべきであるとして、殿下よりの使いである、羽柴下総守、
黒田勘解由に榊原式部大輔康政をを加えて小田原城内に入り、氏政父子、および家中の者達より
神文を請け取り和睦の首尾が成り、翌七日、奉行として脇坂中務少輔安治、片桐市正且元、
毛利兵橘(重政)に家康公より榊原康政を添えられ検使に出され、小田原城の七口を開いて、
立て籠もる諸士、雑卒、男女を思い思いの場所へと退散させた。秀吉公はこの奉行たちに、
必ず籠城の衆への狼藉が無いように、能く下知するよう命じた。

393 :
その前夜、北条氏直は小田原城の本丸に一族、重臣、侍大将以下を集め言った
「今回、各々が長きにわたる籠城を果たしたこと、忠義の至りであり、未来永劫忘れることは無い。
我ら父子も、従来より城を枕とする覚悟であったが、今となっては大勢の士卒の命を失うこと
見るに忍びず、ここにおいて敵よりの扱いに応じ、名を捨て恥を省みず軍門に降る。
である以上、そなたたちはそれぞれの意思に従い、明日よりこの城を離れ身命を全うしてもらいたい。
もし、この氏直が生き延び、時勢を得て再び家運を起こす時が有れば、旧好を忘れず、お前たちを
必ず呼び集めるだろう。」

そう、丁寧に申し渡すと、人々はみな鎧の袖を濡らし答える詞もなかった。

しかしながら城中の者達は今や溜池の中の鯉、轍の中の魚であり、城中の者達は大水が出た時のように、
主人親類も打ち捨て我先にと落ちていく姿は、目も当てられぬ有様であった。

和平が整うと、北条氏直より黒田孝高へ礼として、日光一文字の太刀、北条家の白貝と名付けられた
陣法螺、並びに頼朝公以来、鎌倉将軍家の治世の間の日記を送られた。孝高はこれを受納し、後年、
太刀と法螺貝は黒田家に留め、日記は家康公に進上した。この書は今まで北条家にのみ秘伝して
他家に披露された事は無く、家康公はご覧になって「天下の権を執り海内の成敗を成すにおいては、
これによらねば徴すること出来ない。末代までの龜鑑である」と大変に喜ばれ、官庫に収納された。
現在、『東鑑(吾妻鑑)』と号され、重要な書籍と評価される実録が、この書である。

(関八州古戦録)

小田原開城について

394 :
>>392
>北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、今回の逆心、不忠の義を述べて自信が太刀を
>抜いて誅殺した。
もう和議になるって時にこれは…いや和議になるからこそか

395 :
>>394
交渉相手の堀さんが急に死んじゃったんだよね
運がない人だな

396 :
>>394
主を裏切り先に降っていた松田は秀吉の家臣であり、それを勝手にRのは秀吉に対する反逆である
わざわざ因縁をつけられるようなことをしちゃって本当に馬鹿だなあと思う

397 :
>>396
馬鹿はお前だ

398 :
なにこれ?w

399 :
結局松田憲秀は
北条が誅殺したのか
官兵衛が不忠として殺したのか
秀吉が殺したのか

400 :
天正十八年七月十三日、小田原開城の後、豊臣秀吉公は小田原城に入られ、最前に笠懸山で約束した
通りに、徳川家康公に伊豆相模武蔵上総下総上野下野安房の八ヶ国を参らせ、また家康公の上京の
折々における旅中の用途の為として近江国伊香、野洲の両郡、また海道筋にて一万石を与えた。
そして旧領である東海の五ヶ国は殿下が受納され、諸将に今回の勲功の賞として分け与えた。
そのような処置の後、陸奥出羽の両国も平均なさしむべしとて、同十四日に秀吉公は小田原を発した。
前田利家父子、宇喜多秀家、蒲生氏郷が秀吉公より先陣の命を蒙り、その他の諸大将も先隊後躯の
列を守り、順々に打ち発った。数ヶ国の大軍が昼夜を分かたず野も岡も平押しに押し行き、
五里七里の間には、神社仏閣市店農家に軍勢の宿と成らない所は無かった。
そういった中、長岡幽斎法印玄旨は病気によって休暇を賜り、同十五日足柄竹ノ下より甲斐国に入り、
信濃路を経て京へ戻った。
秀吉公の方は、「このついでに鎌倉を一見したい。」と、相州藤澤駅より駕を枉げられ鶴ヶ岡の
八幡宮に参詣された。参詣が終わって右大将家(源頼朝)の廟所を尋ねられ、白旗の社(白旗神社)で
あることを申し上げると、そちらに詣でられ戸帳を開かれると、頼朝卿の影像をつくづくと眺められ
「おおよよ微賤より起こって天下一統に切り従え、四海を掌に握った者はあなたとこの秀吉のみである。
しかしながらあなたは多田満仲の後胤であり、王氏より出てからもそう隔たっていない。その上、
先祖に伊予守頼義、陸奥守義家が相続いて関東の守護をなし、故に国侍に馴染みも多く、被官の筋目が
有るのを以て流人の身であるといっても、義兵を挙げるや否や旧好を追って東国武士が属従し、
速成の大功を建てられた。
一方で私は氏も系図もない匹夫より出て、茂みの中から世上を靡かせたのだから、あなたよりこの秀吉の
創業の方が大なること明白である。しかし何れにしてもあなたと私は天下友達と言うべきであろう。」
そう言って影像の肩先をほとほとと叩き、からからと笑って立ち下がられた。扈従の者達も興に入り
「誠に活気の大将である。」と言わぬものは居なかった。
惣じて殿下の大胆闊達な事はこの話だけではない。宇都宮に出馬された砌に、御伽衆が侍座して
夜話をしていた折に、佐野天徳寺が上杉謙信の、信州川中島の戦い、常州山王堂の戦いなどを語り、
「彼が勝れて剛絶なる大将であった証拠は、輝虎が関東へ越山するとの話が聞こえれば、諸家の
輩は一人ひとり身構えて手袋を引き弓矢を伏せた。そして謙信が帰陣して三国峠を越えたと聞くと、
大夕立と雷鳴が過ぎ去った跡のように、ようやく息をついて安心して座したものであった。」
と話した所、殿下はこれを聞かれると
「天徳寺よ、その信玄謙信の両入道も早くに死んで幸せであったな。今まで生きていたなら
私の今度の帰洛の時に、乗輿の先に立たせ、朱柄の傘、大長刀を担がせ力者として供をさせた
だろうに、早世して外聞も能く名を残せた。何が座備、車懸りか、戯言である。」
そう宣われた。これには天徳寺も言葉を失い苦笑するより無かった。
(関八州古戦録)

401 :
関連
5875
『秀吉の大器』
9758
車懸りや座備が何だというのか

402 :
これも関連に追加
846
豊臣秀吉、成り上がり者の心意気・いい話
3207
豊臣秀吉、天下人の自信

403 :
まとめの過去ログを読んでいたら「1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡」での
スペイン国王の書簡署名が目に入ったんだけど、軍事板書き込みのオスマン帝国書簡を思い出してしまった。
(広義の)西洋では支配領域を誇示か説明すんのがデフォだったのね。
オスマンの方は管理人氏が以前ツイートしてたかな。

1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡
『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)

鈴木董「オスマン帝国」より
オスマン朝スレイマン大帝からカール5世宛て外交文書の冒頭部分
朕は諸スルタンのスルタン、諸君主の証、地上における神の影(カリフの別称)、地中海と黒海、ルメリとアナドルとルームと
カラマンとエルズルムとディヤルバクルとクルディスタンとルーリスタンとイランとズルカルドゥリエとエジプトとダマスクスと
ハレプとエルサレムと全アラビアの諸地方とバグダードとバスラとアデンとイェメンの諸国土とタタールとキプチャク平原の
諸地域とブダとそれに属する諸地と、そしてまた我らが剣をもって勝ち得た多くの諸国土の大王(パーディシャー)であり
スルタンである、スルタン・セリム・シャー・ハンの子、スルタン・スレイマン・シャーであるぞ。
その方、イスパンヤ(スペイン)の諸地方の王(クラル)カルロスであろう。以下のことを知れ・・

404 :
いちいち領土の説明するのってそれぞれが外国扱いだからなんでしょ

405 :
小田原北条氏に上洛するよう、天正十七年に豊臣秀吉公が命ぜられた所、これを難渋したため、
秀吉公は出馬され小田原を攻め懸けられた。しかし城の守りは堅固であった。
その頃小早川隆景公は小田原に御在陣なされており、秀吉公より御相談を受けた
「私はこの小田原城を攻め崩したいと思っている。ところでそなたの父である元就は、こういった
城の攻略をどのように成されていたのか。」
こうお尋ねに成った所隆、景公は
「御意の趣、ご尤もな事です。このままでこの城を切り崩されること、少しも手間は要らないでしょう。
しかしながら、今後五日から十日の間城を厳しく攻め立て、その上で城内に調略を懸ければ、内部より
その調略に釣れる者が出てきて、この城攻めも落着するのではないかと思います。」
秀吉公はこの通りに指図した所、五、六日の内に北条一家は相果て、小田原攻めは落着した。
(老翁物語)
毛利家にも、小田原城攻めで小早川隆景が秀吉にアドバイスしたという話が伝わっていたのですね。

406 :
>>405
毛利家じゃないほうが扱い良いのが不思議だ>>342

407 :
文禄の役の折

その頃毛利秀元公は広島に在り、輝元公は高麗に居られたが、秀元公に輝元公より木下半介(吉隆)殿の
ご依頼ということで、彼に同行し名護屋へと向かった。赤間関に到着したその日、豊臣秀吉公が小倉に
到着されていた。これは秀吉公の母である大政所様がお患いであるとの事で、俄に上洛をなされその日
ここに至ったのである。この事を知り、翌日にはまた京へ向かわれるとの事で、秀元公は
「赤間関より早舟を立てて、明日小倉に参るべきではないでしょうか。」と半介殿に内々に伺った所、
「明日早々に小倉に到着するようにしましょう。」とのご返事であり、夜中に赤間関を出船して
翌日早朝に小倉に参上した。

到着すると半介殿は秀元公に「早々にこちらに参った事で秀吉公の出発前に間に合ったのは一段と良かった。
現在は朝食の途中とのことですが、先に御報告しておきましょう。」と秀吉公にお知らせした所、
二人が早々に参上したことを執着に思召になり、食事の途中では有ったが「対面する」と仰せになり、
秀元公は半介殿と同道して御前に出、盃を遣わされた。そしてすぐに広島に向かうとの事で、即座に
出船して秀吉公の上洛の供をした。

秀吉公の御座船には多くの櫓がついており、早くも広島まで半分ほど進んだが、この時船が止まり、
御座船より扇子にて後の船を呼ぶ様子が見えた。秀元の船に同乗していた福原大炊がこれに気が付き、
「何か有ったのか」と各々不審に思い、船頭に「あの辺りに岩礁などは無いか?」と尋ねた所、
「岩礁があります。きっとそれに掛かったのではないでしょうか。」と申したため、秀元公は
「そういう事であればこの船にて急ぎ御座船を岩礁から押し出そう。」と、水夫一人と小姓衆
一人だけを付けて御座船を押しに向かった。この時お供の船は数多あったが、真っ先に御座船を
押しに行ったのは秀元公の船であった。

この時、秀吉公は裸で、船より木下半介殿が抱きおろし、船が座礁した岩礁の上に先に降りていた
三十歳ばかり二人がこれを請けた。この時、船がこの岩に漕ぎ着き「これは大夫船です。お召しに
なられますか」と申し上げると、秀吉公はそれに乗船され、船の屋内にお入りになると、十八、九歳
ばかりの小姓に練の羽織を後ろより持ってこさせそれを召された。

この時、秀吉公に「船を赤間関に返しましょうか、それともここから直に上洛に向かいましょうか。」と
申し上げた所、「先ずこの磯に着けろ。」との御意にて、船を海岸に寄せそのまま上陸された。
御供の船も尽く磯に付け皆上陸し、秀吉公の居られる場所に集まった。そのような中、秀吉公は
このように仰せになった

「今日の右京太夫秀元の忠義は実に浅からぬものだ。戦場において苦戦している時に横槍を入れて
勝利を得させる、という事は間々有るが、今日のように人の命を助ける事は無類の儀である。
私は常日頃から、あの子は一廉の者であり、輝元の養子として相応しいと思っていた。
今回広島においてまたそう思ったが、これとても自身の忠義とは思わぬよう分別している。
これは、輝元が大名として日本一恵まれた人物であり、常々無為でいても、それが自然に顯れて
最初に船を漕ぎ着けるような行動ができるのだろう。

私も親への孝行の道のため上洛を急いでいた。故に天道私無く、難を逃れさせたのであろう。
右京太夫も輝元への孝行が肝要であるぞ」と仰せになった。

この時、金吾(小早川秀秋)を輝元の養子にという取沙汰があると聞かれたが
「これは如何様にも有るべき事ではない。この太閤もたいへんな辛労によって得た天下を
他人に渡したくは無い。遠い親類では有るが、三好治兵衛(豊臣秀次)遣わし、関白の位に成し、
四万の人数を添て聚楽に置かせている。これに比べても輝元は親類歴々であり、何れであっても
小早川隆景と相談した上で後継を定めるのが尤もであろう。であるのに、金吾を養子になどと
いうのは一体誰が言い出したのか。曲事でありかたく糾明する。」と仰せに成られた。

御当家(毛利家)を御大切に思召し、御入魂一廉ならぬ思いは大方ならないものであった。

(老翁物語)

秀吉の御座船座礁事件の時のお話。なにげに小早川秀秋を養子にするという話が言及されてる。

408 :
慶長三年八月十八日、太閤様(豊臣秀吉)は他界された。その前に示された御遺言では、
徳川家康、毛利輝元が一年交代で大阪に詰めて仕置をするように御頼みなされ、その他の諸大名も、
一年交代で大阪に詰めるようにとされ、秀頼に無沙汰ないよう、それぞれに起請文を書かせた。
これにより諸大名は残らず
起請文をしたが、この時家康公は、
「上杉景勝は来年大阪に詰める予定であったのが、越後から奥州への国替えが有ったため三年間の
在京が御免されている。しかしそのため諸大名の中で景勝一人誓紙を出していない。景勝も上洛して
誓紙を出すべきである。」
そう景勝に対し伝えたが、景勝からは
『三年間在京御免となっており、上洛はしない。』
との返事であった
家康公は再三景勝に対し仰せ遣わしたが、とにかく心得る事無く、荒々しい返事を送り返した。
このため家康公はご立腹され、「では私が迎えに参ろう」(我等迎に可参)と、江戸へ御下りになり、
諸大名も「景勝謀反」と、追々関東へ下った。家康公の御先手をする者達は何れも宇都宮まで
出陣していた所、上方では石田治部少輔が謀反を企てていた。
石田が『家康公は私の仕置を成し不届きであり、毛利殿が御上がりになって大坂の御番を成されるように』
と安国寺恵瓊より伝えさせ、毛利輝元は早速大阪に上った。
この事が宇都宮に聞こえると、家康公は諸大名に
「そなたたちは景勝を退治した上で上方に打ち向かおうと申されているが、各々の妻子は大阪に在る。
であれば構わないので、ここから早々に上方に上がり候へ」
そう仰せに成られた時、福島左衛門太夫(正則)が申し上げた
「私に治部少輔と一味する筋目はありません。また大坂の妻子は治部少輔に渡した人質ではありません。
たとえ串刺しにされようとも、武士の躊躇う理由にはならず、捨て置きます。」
(私義治部少輔と一味仕候筋目無御座候。大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにへハ無御座候。
たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間、捨候)
そう言うと、跡継ぎである刑部(福島正之)をその場に召し、
「これを家康公への人質に進ぜます。これより私は、上方への先手を仕ります。上方に於いての
軍勢の兵糧については、私が故太閤様より十万石を代官所に預かっており、また七年分の米が
尾張に納め置いてありますので、都合三十万石ほど御用に立てることが出来ます。
景勝については先ずは捨て置かれ、上方に御出馬成されるべきと考えます。」
そのように申し上げたのである。このように左衛門太夫様が様々に申したため、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、浅野紀伊守(幸長)殿、田中筑後守(吉政)殿、堀尾信濃守(忠氏)殿、
その他諸大名が家康公にお味方仕ると申し上げた。
(福島太夫殿御事)
いわゆる小山会議のお話ですね

409 :
関ヶ原の戦いの後、安芸の毛利(輝元)は大阪に居たのだが、吉川(広家)と申す家老が
太夫殿(福島正則)に徳川家康公と講和のための扱いを成して欲しいと申してきたため、家康公に
その事を申し上げた所、「そういう事であれば扱いをされるように」との事で、吉川と講和の条件を
協議した所、「周防長門の二ヶ国を下される形で扱いを成して頂きたい。」とこ申すに付き、この旨を
家康公に申し上げた所、直ぐに二ヶ国下されることに同意された。
この時太夫殿は
「扱いが成った後から二ヶ国を下される事を違われれば、私が表裏者に成ってしまいます。
ですのでそうお考えの場合は今より私が広島への先手を仕り、毛利を退治いたします。」
との旨を申したため、二ヶ国は相違なく遣わされ、扱いが成った。これにて毛利は周防長門二ヶ国を
下され大阪を明け渡し長門へと参った。
また島津兵庫(義弘)殿からも、「私も太夫殿が扱いをして頂ければ家康公に従いたいと思います。」
と望んできたため、太夫殿は
「申し分が有れば承り、その上で扱いを入れますので、その時は急ぎ畿内に上って下さい。」と、
使いの家老にしっかりと申し遣わした所、島津殿は望みとして「天下普請を免除して下さる形で
扱いを成して頂きたい。」と頼み入り、この事を太夫殿より家康公に申し上げた所、
「確かに遠国の者故、天下普請は免除しよう。」と申されたため、扱いが成り島津殿は御礼に上洛した。
なお、これにより現在も島津殿は天下普請を致されないのだという。
太夫殿は安芸備後の二ヶ国を家康公より遣わされ、五十万石の御役儀を勤めた。
(福島太夫殿御事)
毛利の大阪退城も島津の臣従も福島正則のお陰だった、という内容。

410 :
天下普請を免除されたが美濃の堤防や駿河の堤防はやらされたのか。

411 :
>>410
美濃の堤防の話はちょっと悪い方に上がってたっけ?
幕府黒すぎだよな

412 :
薩摩は薩摩で真っ黒だけどね

413 :
>>412
薩摩の琉球・奄美支配はなぁ…

414 :
かといって琉球の元々の統治が良かったかといえば
結構なアレなのがなぁ…

415 :
>>412
確かに…

416 :
>>412
黒酢に黒豚か

417 :
佐怖彌右衛門入道常圓という者は、百余歳まで長命した人物であった。村瀬安兵衛は内々に、この
佐怖常圓が秀吉公の御供として、備中高松城攻めを目の当たりに見たと聞き及び、常圓の所に常々出入り
している町人に頼んで、「お目にかかって高松攻めについての不審なことをお尋ねしたいと望んでおり、
同道してほしい。」と望んだ。そしてある時、この町人と連れ立って常圓の邸宅に参った。
常圓は太い杖をついて座敷に出ると、そのまま挨拶した
「さてさて、若き人の奇特なる事か。私に逢って高松攻めの不審なることを聞きたいと言うが、それは
どのような事か。」
安兵衛はこれに
「先ずはお目にかかれたこと、忝なく存じ奉ります。ところで、秀吉公が高松城を御攻めになった際、
門前村よりカイルカ鼻(蛙ヶ鼻)までおおよそ一里ほどの長さの堤を築かれたという事ですか、それを城方が
うかうかと見物していたというのは不審に思います。また毛利家も大軍の後詰を出して向陣し、その間はたったの
二十間に足らない場所に居たのに、見物していたのみで長い堤を切り崩す事さえ成らず、一戦を遂げたという
事も聞き及びません。この事不審千万に思います。」
このように申した所、常圓は
「いかにもいかにも、尤もの不審である。ではでは、その時のことをお聞かせ申そう。
その時私は御馬廻りであり、御馬の蹄奉じの時も御供仕るほどで、委細を存じている。それ以前の、鳥取城の
時はゆるゆると取り巻き兵糧詰めにして落としたが、それと事変わり、次の冠城は一時攻めに攻め落とした。
このため味方に手負い、死人も多く出たが、この勢いを聞いて河屋城は直ぐに開け退いた。これによって
備前備中の境の山の上に御人数を備え、一両日してから、高松城は水攻めが然るべしと思し召しに成り、このように
仰せに成った
『私は今より馬で向かう!その跡を直ぐに追いかけてこい!』
そう言われるやそのまま乗り出し、御供はただ七、八人にて門前村よりカイルカ鼻までお乗りに成った。
この時城中より鉄砲が撃ちかけられ、羽織に弾が二つまで当たったが、少しも騒がず乗り返された。
そこから一夜の間に尽く塀をかけ、五十間に一つ宛てで櫓を上げた、これは外から見ると櫓に城土まで塗ったように
見えたが、これは白土ではなく、白紙を貼った障子で囲んだものであった。
これらの櫓から弓鉄砲で敵を撃ちすくめ射すくめさせ、塀の陰にて堤を築いた。これに対し少人数の城兵は
なかなか出ることが出来なかった。
さて、こうして堤が出来ると、これは秀吉公の御運なのであろう、それから三日の間に篠突く程の大雨が降った。
門前村の外に広さ三十間ほどの砂川があり、普段は脚絆が濡れる程度の浅さであった、この川上には大井村という
村があったため、川も大井川と言ったが、この三日間の大雨によって川は瀧のように成って流れた。この時
秀吉公の仰せで、人数二千人ばかりが手に手を取って、門前村の前でこの川の中にひたひたと入り、人によって
水流を弱めると、川下は二、三尺は無い程の浅瀬と成った所を、土俵を以てせき切り、門前村の前の堤の口に
流し込めば、水は逆巻いて城の周辺に滔々と流れ込み、目もこすらぬ間に大海のようになった。
そして城外の山々の方に流れる雨脚も言うに及ばず、備前の方の山半分に溝を付けて、備中高松の方に
流しかけた。現在もその山水は備中の田地に流れており、故に『備前の水にて備中の田を作る』と俗に
申すのは、この事より起こったものである。
そのような訳で城中の兵は何も出来ず、寝耳に水を入れたように呆れ果てたるばかりといった様子で、
また毛利家の後詰めも、あの見せ櫓を見て驚き、それに対する会議評定が終わらぬ内に城は水に浸った
のである。このため城主の清水氏(宗治)は切腹した。やがて京の大変(本能寺の変)が報告されたため、
和議して互いに誓紙を取り交わし、人数引き上げと成る時、この堤を切り崩し、そのまま引き上げた。
これによって俄に毛利家の陣所との間は大海のようになって。たとえ追討ちの心があったとしても、
何もすることは出来なかった。

418 :
備前の宇喜多秀家は幼少であり、岡山の城より出向いて半田山のあたりで秀吉公を待ち受け御対面された。
この時秀吉公の召されていた乗輿の中に入られ、様々懇ろに色々御咄など成され、『今後我が養子とする。』と
御約束に成った。沼城のあたりまでお連れに成り、それよりお返しになった。秀家からの加勢の人数も
先に向かわせた。そして飛脚を遣わし、『播州の町、在地に限らず、法華宗の出家は尽く城下に集まるように。』
と万部の御経を仰せ付けに成り、信長公のお弔いにすると、軒並みに仰せ遣わされた。
ところでこの間秀吉公は、御乗輿の中でひたすらお眠りに成り、正体も無いようであった。時々御馬を
召されたが、他愛も無く居眠りをされ、四、五度落馬されたほどであった。このため
『姫路に到着すれば休みを取り、御法事のため三七日(二十一日)過ぎて後に上方に出馬しよう。』と
申されていたのだが、いざ姫路に到着されると、その夜中には早くも御陣触れがあり、早朝に御出馬された。
今思い返してみると、秀吉公はあのように草臥れ、その上弔いの為に上方に上がるまで日数がかかると
光秀の方に聞こえたのであろか、光秀は明智左馬介に人数を分けて安土へ遣わし油断していた所に、秀吉公は
急に御上がりになった故に、明智の謀は後手後手になって敗軍したのだと考えている。
ところで、尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆かれていた時は、秀吉公も嘆かれ、『この上は何れも
一味同心にて明智を討ち取り申す外はありません。何れも左様に思し召すように。』と、彼らを敬い、とても
慇懃で、同輩として接している様子が見受けられたが、明智敗軍の後、諸大名への御あしらいは『骨折々々』と
仰せになり、家来あしらいと成り、大いに威が付かれた。』
このように語られた、
この佐怖彌右衛門入道常圓は二百五十石下され、隠居したがその子が盲目であっため、孫を跡継ぎとし、
少将様(池田光政)より二百五十石下され、これも佐怖彌右衛門と名乗ったが、彼が死んで子がなく、
断絶という所に、少将様より『佐怖の跡は潰すべからす』との言葉があり、石田鶴右衛門の二男を
跡継ぎとして立てられ、これも佐怖彌右衛門と名乗ったのだが、阿呆を尽くして跡が潰れたという。
村瀬安兵衛は伊木勘解由(岡山藩池田家重臣)の元にて二百石の者で、この物語を聞いたのは、彼が
浪人であった若い頃の事である。
 貞享四年(1687)十月、安兵衛物語の通りに書き付けたもの也。
(高松城攻之物語)
秀吉の備中高松城攻めについて

419 :
>>417
生き証人の話はリアルでいいなぁ、説得力ある

420 :
有名な逸話らしいけどまだ出ていないみたいなので
細川氏が熊本藩主になってからも、細川忠興は中津の領民との交流が忘れられなかった。
かねてから中津の漁師たちは蛸壺を望んでいたので、忠興は八代の赤土で焼いた蛸壺1000個を藁に包み、
荷駄として漁師に送り届けた。
内径約8cm、高さ約12cmのこの蛸壺は、今でも時折建て干し網にかかったり、台風後の浜辺に打ち上げられたりし、
「三斎公の蛸壺」として村人が大切に保存している。

出典は中津市制五十周年記念刊行会発行『ふるさとの歴史』
昭和54年の本なんだけど流石に現在では地元民も知らない話だろうか?

421 :
耶馬の史話伝説には釣り場で仲良くなった老人に頼まれて三千作ったという話が載っているらしい

422 :
忠興は愛刀の越前信長の拵に蛸の目貫をつけてたというけど
もしかして中津を偲んでのものだったのかな?
家臣が信長拵を真似た拵を作るのは許しても、
蛸の目貫だけは許さなかったというくらい、お気に入りの目貫だったようだ。

423 :
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに  隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。

その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、

この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。

これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元江、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。

(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)

424 :
>>422
中津には30年以上いたから、そりゃ愛着もあったでそ。わざわざ幕府に働きかけて中津城を残して隠居地にしたぐらいだし。

その上、12万石の加増があったとはいえ、熊本は加藤氏が治世に失敗しているしね…

425 :
>>417
2000人で川の流れを止めるとか信じられん
流されて悲惨なことになっただろう

426 :
そもそも可能なんだろうか

427 :
細かい事解らんけど数十万トン位の圧力になりそう

428 :
備中高松城の戦いより二、三ヶ年の後、小早川隆景、吉川元家は御上洛され、太閤様(豊臣秀吉)より様々に
饗された。その上で「陸地の仕置」(境目の確定)を頼むとの御意にて、黒田官兵衛殿を差し添えその作業を
成していた頃、清水宗治の遺児である清水源三郎(景治)は、この境目が未だ確定していない状況の中、
所属の決まらない、備中の河辺牢人のような体でそこに在った。
この時、小早川隆景公、黒田官兵衛殿は源三郎の私邸に立ち寄られるとこのように申した
「この度、太閤様の御意に、清水宗治については比類なき者であり、その子供が有るなら御自分の元に差し上げ
るように、知行などを遣わす。との仰せである。」
これに対し源三郎は答えた
「御意の段、千萬忝き儀であります。しかし親の長左衛門(宗治)はその一命を毛利家の用に立てました。
である以上、私も輝元家中に在って奉公仕りたいと考えています。」
これに隆景公、官兵衛殿は
「尤もの申し様であり、比類のないものである。仰せに成ったこと、太閤様に能々申し上げよう。」
と仰せになった。
(?水長左衛門尉平宗治由來覺書)

429 :
>>426
シーザーも似たようなことやっとるし昔から有効な方法なんだよ

430 :
>>428
ボロはきてても心は錦!

431 :
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。
その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。
大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。
その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。
これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。
ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
『井上五郎兵衛、粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。
(?水長左衛門尉平宗治由來覺書)
清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話

432 :
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗Rるための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長へ彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で
「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」
と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。
(信長公記)(名将言行録)
余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。

433 :
>>432
×信長へ彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で
○信長へ彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

434 :
>>432
原哲夫に採用されそうだな

435 :
>>433
信長は
だ重ねて間違えた

436 :
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画〜比良の奥地に大蛇を見た!〜

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 :
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

438 :
蛤石の伝説

天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の命で飛騨を制圧した金森長近が辺り一帯の領主として飛騨に入った際のこと。
当初は鍋山城を拠点とした金森長近であったが、新たに高山に自らの新たな城を築くこととなった。
飛騨の旧主である姉小路家の支族の一つ、古河家が領した古河城には蛤石と呼ばれる蛤の様な無数の紋様を持った一対の石があり、その石は夜になると白気を吐き、また石同士が唸り声を上げると地元の民に恐れられていた。
金森長近は自らの新城にこの不思議な石を是非とも運び込みたいと願ったが、配下の侍や築城に関わる民は石の祟りを恐れて金森長近に止める様願い出たが、
長近はそれを拒んで何とか新城にこの石を運び込ませようとしたが、人夫が石を運ぼうとすると石は大変に重たく、何とか運び出すも新城に近づくにつれ石はだんだんと重たくなり、また蛤石はより大き唸り声を上げる様になった。
この報告を受けた金森長近は、遂に蛤石を運ぶのを諦めて元の古河城へ石を戻す事にしたが、すると石は高山の新城に運ぼうとした時よりも軽く、唸り声も無くなったと言う。

これから数十年ののち、飛騨を大旱魃が襲った際に住民達は雨乞いの儀式を行なったが全く効果は無かった。
そこである百姓の提案でこの不思議な蛤石の片割れを城の側にある淵の下へ落として、沈めてみようと言う事になった。そして、蛤石の片割れを淵に沈めてみた所たちまちに空に黒雲が沸き、大粒の雨が降ると田畑を潤し危機は去ったと言う。
また、城に残った蛤石の片割れは雄雌どちらかは分からないものの、以前の様な不思議な出来事を起こす事も無くなったと言う。

古川に伝わる伝説。

439 :
ちなみに淵の下へ沈められた蛤石の片割れはのちに引き上げられ、今では飛騨民族考古館に展示され、もう片方は古河城跡に鎮座している。

飛騨民族考古館
http://kankou.city.takayama.lg.jp/s/2000002/2000026/2000215.html
飛騨民族考古館の蛤石
https://muuseo.com/prin/diaries/24
飛騨古河城の蛤石
https://muuseo.com/prin/diaries/23

440 :
念のため三木姉小路ではなく公家の姉小路だって注釈あったほうがいいかな
古川って征服後はしばらく可重が入っていたんだっけか

441 :
>>440
古川って征服後はしばらく河童が入っていたんだっけか

に見えた

442 :
三木の姉小路乗っ取りは将軍や朝廷から認められた上でのことだから正式な継承といっていいし古川の名跡の継承も認められているので全く差し支えないよ

443 :
秀忠公は剣術を柳生但馬守と小野次郎右衛門の両名から習っていた。
秀忠は次郎右衛門との稽古で、柳生に習った太刀を以て次郎右衛門に撃ちこんだがついに当たらず、また柳生との稽古では次郎右衛門に習った太刀で柳生に撃ち込んだがついに当たらず、両名共上手であると常々我々に仰られていた。
秀忠の近習だった永井直重が残した覚書『元和寛永小説』の中の逸話

444 :
>>443
ここで「どちらの教えも役に立たない」とキレないのがいかにも秀忠らしいな。

445 :
>>444
そんな事でキレてたら平民以下のこどおじニートのお前以下になるやん
何でお前と同じ思考大前提なんだよw

446 :
二人を戦わせて勝った方に教わるんじゃ駄目なのか

447 :
>>446
師を競わせて教わる相手を絞るより複数の達人から教わる方が、色々気付きが有ったりして良いんじゃないですかね?

448 :
>>447
そんな気付きが有るならとっくに師が気付いてるだろ
何でこどおじニートのお前以下の思考大前提なんだよw

449 :
>>448
覚えたばかりの言葉使いたがるこどおじさんですね、わかります。

450 :
>>449
いつものキチガイかw

451 :
>>448
自殺まだ?

452 :
>>443
どっちも立てるのがいかにも秀忠っぽいな
この噂を聞いた柳生と小野もいい気分になれるだろうし
非の打ち所がない。

453 :
関ヶ原の合戦の後、宗瑞公(毛利輝元)は大阪木津に居られ、私を含めた五三人(十五人)に御暇を下され、
「早々に国元に罷り下り、妻子等を(広島より)引き退かせるように。」との御意を示された。
そして「今回、諸所にて辛労をして貰ったことに対し、感状を遣わしたいが、時分柄如何かとも思うので、
追ってこの事は申し出よう。」
との御意により、三村孫兵衛、村上八郎佐衛門、私(清水景治)の三人が国元に罷り下っていた所、備中水島の
あたりで西国への飛脚船に出会った。これによると
「毛利殿の御身体について、色々悪しく取り沙汰されている。」
と承り、いかにも心もとなく思ったため、そのまま大阪へ取って返し、飛脚船に聞いた話を申し上げると、
重臣の福原越後(広俊)、堅田大和(元慶)が御広間まで迎えに来て、御前へと召し出され、
「有間敷志である」と御意になり、兼光の御腰物をお手ずから拝領した。

「美作(清水景治)が親以来の忠節を忘れず、今回の心がけについても感じ入った。追って知行などを
下すであろう。」と御意になった。
(美作ハ親以来之忠節存不忘、今度ノ心掛ノ段感ニ被思召候、追テ御知行等可被下トノ御意)

それから、井伊兵部(直政)殿の元に初めて御成に成る時、その御供まで仰せ付けられた。
その後、「妻子の落ち着く所を見つけるように。」と、御暇を下された。

(C水長左衛門尉平宗治由來覺書)

454 :
>>451
こどおじがRよw

455 :
>>451
死ぬの?

456 :
定期的にクソみたいな流れになるな

457 :
>>453
それだけで腰の刀くれるもんなのか

458 :
こどおじが金吾みたいに発狂してる

459 :
バ力の一つ覚えさんが冬休みで暇そうやね

460 :
>>446が発狂してるのか
痛いところ突かれるとこうなるなんて豆腐すぎだろ

461 :
>>444,446みたいに生きてみたい

462 :
こどおじの自殺まだですか?

463 :
>>462
おう早くしろよ

464 :
>>457
気分次第じゃね?
政宗みたいに盗って逃げても許されてる奴もいるし

465 :
>>463
まだいたんだwこどおじ暇そうだねwww

466 :
>>465
早くタヒねよこどおじ

467 :
>>466
こどおじやっと自殺したか

468 :
>>467
まだ生きてんのかこどおじ

469 :
>>468
今からやりに行こうか?

470 :
明日までにRよ、こどおじ

471 :
>>470
今日中に死にます

472 :
>>471
ちゃんとRよ、こどおじ

473 :
天正十五年の夏、太閤様(豊臣秀吉)より四国に御討手の勢が下ることを、長曾我部元親公は聞き及ばれ、
防衛のため城ごとに御手分けを成され、一宮へは江村孫左衛門(親俊)、谷忠兵衛(忠澄)の両頭が
仰せ付けられた。

ここには上方勢の内、大和大納言殿(豊臣秀長)が向かわれたが、大納言殿はこの城に入った谷忠兵衛が
知慮有る者と聞き及ばれており、未だ城攻めを行わない先に、谷に対し
「自分が扱いをするので、長曾我部元親へ降伏するよう伝えるように」と仰せ付けられた。
谷は江村孫左衛門と相談し、秀長軍と矢留(停戦)を申し合わせ、神文の一札を請い、羽久地(白地)の城へ
参ると、この事を詳細も報告した。

ところがこれを聞いた元親公は以ての外に立腹され、谷忠兵衛は即時に面目を失った。しかし谷は、これが
一大事の儀であると理解しており、終夜に渡り長宗我部家の総老中と相談を極め、何れも谷に同心した。
谷は三日間この城に留まり、総老中たちは元親公へ御諌め申し上げた、終には元親公もこれに同意した。
そして谷忠兵衛と老中の一札を取り、一宮に帰ると大納言殿へこの事を申し上げ、降参の首尾は相調った。

これ故に城中の者達も外に出て上方勢と出会ったが、上方勢は第一に馬が大きく、物具等も花やかで、
千騎が二千騎にも見えた。
それに対し四国勢は、第一馬細く、物具等も侘びしく、千騎が五百騎ほどにしか見えなかったと伝え聞いている。

同年十月、太閤様へ元親公の御降参が成った時、谷忠兵衛もこれに御供をし、太閤様に御目見得仕り、
家助の御刀を拝領した。この時人は皆、「谷忠兵衛は特に侍名利の者である」と褒め称えたという。

その後、谷忠兵衛は中村の城主を仰せ付けられ、この中村で相果てた。現在も正福寺にその位牌がある。
この谷忠兵衛の嫡子は豊後陣にて長宗我部信親公の御供をし、一所にて討死した。信親公御死骸の
御迎えにも、この忠兵衛が遣わされたと伝えられている。

なお、先にある神文の一札とは、美濃守殿(豊臣秀長)より元親公の御身上について、四国の内三ヶ国は
御取り上げになり、本国土州一ヶ国にて御断成されば、自身がその扱いを成すと申され、この時に
江村孫左衛門と申し合わせ、谷忠兵衛が元親公を諌め奉る為に頂いた神文一札なのである。

(長曾我部覺書)

長曾我部元親の降伏について

474 :
新年明けましておめでとうございます。初夢の鷹にまつわるエピソードを。
鷹に対する意見の相違
ある時、大名衆の寄り合いがあった時のこと、森忠政が金森法印(長近)に声を掛けるとこう言った。
忠政「金森殿、高麗鷹が沢山入って来たので目利きをして、良い鷹を2〜3羽選んでもらえませぬか?」
これに長近、答えて曰く
長近「美作殿、鷹など好んでその様に飼って何になるのかね?」
忠政「好き嫌いではなく、鷹は大名でなくては飼えぬ物。鷹を飼うのは大名の義務であって、国への奉公のような物でござる。」
長近の言葉に忠政はこう切り返したと言う。
ちなみに徳川家康が公家の鷹狩を禁じたのが1604年の事とされ、これ以後の事なら1608年に長近が亡くなるまでの4年以内の話であり、
幾ら茶の湯で知られた長近でも80歳超える頃で鷹狩する様な歳でも無さそうだし、鷹のこと聞かれても困ったんじゃなかっタカ?と思った今日この頃。

475 :
森家が絡むと何かハラハラする

476 :
嫌疑をかけられてザマァと思うのが森家のやり口

477 :
慶長五年霜月の頃であっただろうか、長宗我部元親はこの度、石田三成の企てた逆心に同意し、
濃州関ヶ原を退散して土佐国へ下り、連々と公儀に、井伊兵部少輔(直政)を通じて弁明に
尽くし(使いは盛親家来・立石助兵衛、横山四郎兵衛)、兵部殿より盛親の自国居住を
仰せ入れになった。
盛親は霜月に上洛したが(ただし詳しい月日は知らず)、兵部殿を以て命が下り、土佐国を此の方に渡すよう
仰せ入れになった。盛親は、土佐国を引き渡す旨の判形を家来に持たせ遣わし、兵部殿より御家来(鈴木平兵衛)を
差し下した。
この時、山内対馬守(一豊)に土佐国が下される事になっており、先立って鈴木平兵衛と同年の冬、土州へ
差し下した。ところがこの時、長宗我部家来達が城を明け渡すことは出来ないと一揆を催し、鈴木平兵衛を
雪蹊寺に取り囲んだ。しかし盛親の家老たちが「主人が上方に有りながら一揆を起こせば、盛親の身上が
果ててしまう。すぐに明け渡すべし」旨を申したため、異事無く渡したのだと、この一揆に参加した者共は
申し伝えている。
(長曾我部覺書)
長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆についての記録

478 :
権現様(徳川家康)は九月十四日の昼時分に赤坂にお着きに成り、先手の上方衆はその夜、青野ケ原へ出て
野陣をし、翌十五日の未明に、いずれも青野ヶ原を御立ちになって関ヶ原へ出られた。
この行程で、藤堂新七郎は先手にまぎれ参り、朝駆けで取った首を取り出して本陣へと向かった。
これは諸手の一番首であったので、権現様へ高橋金右衛門が持って御上げした。

その後、和泉様(藤堂高虎)御鑓先の敵は、大谷刑部少輔(吉継)、脇坂中務(安治)、小川土佐(祐忠)、
平塚因幡(為広)の四人あったが、脇坂中務と小川土佐は和泉様才覚にて裏切りを仕り、大谷刑部少輔人数と
一戦した。刑部少輔家臣の湯浅五助と申す母衣の者を、藤堂仁右衛門が討ち取った。その他敵を数多討ち取った。

そして藤堂玄蕃が討ち死にし、そのほか御家中の者達も多く討ち死にした。権現様衆の村越兵庫殿もここで
討ち死にした。

権現様はこの働きを御忠節に思し召され、後帰陣後、後褒美として伊予半国を拝領に成り、和泉様の所領は
都合二十万三千石となった。

(藤堂家覺書)

関ヶ原に関する藤堂家の記録

479 :
便乗した朽木は残り
藤堂にあらかじめ内通していた小川は改易とは

480 :
最近の説では上杉謙信に嫁が居たらしいね。

481 :
>>480
にわかには信じられんが何処の娘かとか分かるのかな

482 :
年末に黒田氏がTVで発言してたがよくわからん
糞ブログが役に立たない記事書いてるが誰もわかってない

483 :
謙信公童貞説×謙信公女性説×

484 :
田村宗顕が改易されて牛縊定顕と名乗り、白石城下で隠棲していたときに次男が産まれた。愛姫たっての希望により仙台城で養育され、伊達政宗や重臣が列座するなか、愛姫から田村男猿と名付けられ、政宗からも我が子同様に可愛がられた。
10歳にして頭脳明晰、武芸万般も剣道、乗馬、砲術はすでに皆伝であった。特に鉄砲は百発百中で、失踪するケモノを苦もなく撃ちとり、政宗や仙台城内では「さすがは坂上田村麻呂の後裔」と評判になった。
政宗、愛姫、片倉重長が相談して14歳で元服すると田村清顕の軍神愛宕尊像、新藤五国光の宝刀、幸村の描いた掛軸を下賜されて、兄とともに片倉喜多の名跡を継いで片倉三右衛門良種を名乗って白石城へと戻った。
ある秋の夜、白石城から屋敷に帰る途中に稲荷の祠の前で白狐が玉を転がして遊んでいるのを見て草履を投げつけた。驚いた白狐は玉を捨てて逃げ去ったので、玉を持ち帰った男猿は夢を見た。「あの玉は稲荷の宝物だから返してほしい。お礼にひとつだけ願い事を叶えてやる」
翌日の夜に稲荷の祠へいくと白狐が待っていた。玉を返して、ケモノより速く走れる秘伝を授けてほしいと願うと、秘伝を授かった。
二代藩主忠宗が巻き狩りのときに男猿は山案内を勤めたが、大猪七頭が忠宗本陣をめがけて疾走してきた。マタギ十数人が撃っても一頭も倒せない。
男猿は手錬の早撃ちで七頭をことごとく仕留め、忠宗は面前の神業に褒美を与えて、磐司磐三郎の再来であるので青葉流マタギを名乗らせて開祖とした。
郷土史に載ってたので。片倉を継ぐまでは三春の田村氏墓の墓誌から。
五郎八姫といい男猿といい政宗愛姫のセンスがパない

485 :
>>484
>ケモノより速く走れる秘伝
願い事が男子小学生みたいな純粋さで草

486 :
>>484
田村姓時代の男猿でなんて読むんだろう?
おざる?だんざる?だんえん?
幼名にしても、凄い名前だ…

487 :
倭猿でいいだろ、ジャップには相応しいネーミングだし

488 :
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場ば
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。

489 :
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 :
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。

491 :
>>486
Wikipediaだと おざる になってた
愛姫が命名して養育したり、伯母として田村家を気にかけてたいい話

492 :
>>491
愛姫「まぁこの子、お猿みたいで可愛いわ(キャッキャ)」

命名:男猿
こうですか?

493 :
┌○┐ハハ
│男│゜ω゜ ) ←愛姫
│猿│//
└○┘(⌒)
  し ⌒

494 :
ジャップらしいネーミング扇子だな

495 :
愛愛 男猿さんだよー

496 :
隆顕┬清顕−愛姫−忠宗   −田村宗良
   └氏顕−宗顕┬片倉定広
            └片倉良種(男猿)
田村氏の家督を継ぐのは愛姫の子ってのが伊達家の規定路線(実際に継ぐのは孫の宗良)であり
田村家を改易に追い込んだのは他ならなぬ政宗という事情もあるし
伯母としての愛情もあるだろうが、予想外の火種にならないよう手許で囲ったような気がしないでもない

497 :
片倉喜多は伊達政宗の養育係で、愛姫付きだし
田村定広と田村男猿を手元で囲って喜多流を継がせるのは規定路線だったのかもね

498 :
田村家を使って仙台藩内の神社とお寺で盲目法師に奥浄瑠璃を演じさせることで、伊達家が管理すべき藩内の祭祀を田村家−坂上田村麻呂−藩内の神社に投げたり
頼朝が鎌倉御家人の工藤行光に作らせた岩手山−頼義義家−工藤−頼朝の祭祀が邪魔で盛岡支配に悩んだ南部信直が、三戸から盛岡に連れてきたお寺に塗り替えさせて岩手山祭祀の管理問題を丸投げしたり
政庁に坂上氏を抱えていたのにそこに気付けなかった奥州藤原氏の利用が下手くそなだけで

伊達政宗ほど坂上田村麻呂の利用法が上手かった人物はいない
政宗と愛姫のいい話の裏には坂上田村麻呂を政治的利用してたものが幾つかある
ttp://miharu-megohime.com/read/read09.php
これとか征夷大将軍の末裔である愛姫を上座に座らせる、という政宗が東北の歴史を重んじたいい話だけど
あえて江戸で流布させてる意図は征夷大将軍というフィルターを通して徳川将軍へのパフォーマンスとも言える
田村男猿と忠宗のいい話もあとあと奥浄瑠璃のネタに使われてる

499 :
新規参入者募集
皆で競いあってこの乱世の覇者にならないか?
楽しいぞ
IDに出た数字の分だけ知行を貯めて百万石85
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1570237955/

500 :
>>480
謙信が城代に御新造(正室)を呼ぶのを躊躇ったって記録があるとか、越後の死者名簿に謙信の正室らしき記録があるとか。ついでに信憑性は低いが兄・晴景の娘を娶ったって記録がある。エビデンスはないけど上杉憲政の娘とかだったら違和感ないなー

501 :
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について

502 :
この頃、筑前国糟屋郡立花の城主は大友入道宗麟の股肱の臣である、戸次入道道雪であった。
道雪は智勇仁の三徳を兼ねた人物であったので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、千手、筑紫、高橋を
攻めて豊後の屋形の幕下に成した。また肥前国・龍造寺隆信も攻め従え。これにより薩州の島津と九州全体を
かけての争いの構図と成った。
しかしながら宗像の大宮司は大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、全羨(陶晴賢)が滅んだ後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。
この状況を見て道雪はこのように考えた
「先ず宗像を攻め従わせる事ができれば、龍ヵ岡の城主・杉十郎貫並も、烟の城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも残らず手に入れられるであろう。幸い、近年宗像の当主である氏貞は、
城普請に財を費やし家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも課役をかけて領内衰微し、粮乏しく、
その上名のある老臣武勇の士は、山田の怨霊のため取り殺され(前の当主であった氏男が大内義隆の跡を
追った後、氏男の子女と後妻は陶晴賢の指示などで殺され、怨霊となり宗像家中に祟る)、その身は
博多津・聖福寺の玄蘇和尚を招いて禅法を修し詩歌を事とす。故に家中もその風に靡き、武事を怠っている。
この虚に乗じて宗像を攻め滅ぼすべし!」
こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘といった人々を
始めとして、永禄十年九月に立花を打ち立ち、飯盛山に陣を取った。
宗像氏貞はこれを聞くと、「急ぎ飯盛に向かい彼らを追い返すべし。」と、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米田比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして都合二百余騎が
飯盛山に押し寄せた。
この時、敵は先ず許斐の城を攻めて、その後蘿ヵ嶽に寄せんと支度をし、飯盛にて諸卒に兵粮をつかわそうと
野陣をした所であったので、慌て騒ぐ事限りなかった。
宗像勢の中より黒糸縅の鎧を着て、栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置かせ打ち乗った武者が一騎駆け出て、
「吉田勘解由左衛門致晴!」と名乗り真前に進み出て声を懸けた
「日頃立花の人々は、宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ弓矢、何ほどの事があるかと嘲弄されているよし
承り及んでいる。神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ!これ神通の鏑矢なり!」
そう能く引いて放った矢は、真前に進んでいた原田源五郎の胸板を射通し、後ろに控えていた原田源助の
草摺の端まで射通した。
これを軍の始めとして、互いに揉み合って戦ったが、日既に暮れに及んだため、小野和泉守が諸卒に下知して
「日暮れて他領に陣すること不覚なるべし。急ぎ引き取れ。」と、筵内新原を指して引き退き、立花の城へと
帰った。この時宗像勢が討ち取った首級百七十三は蘿ヵ嶽に送られた。
この後は糟屋宗像は折々小勢を出し、年々戦止むこと無かった。しかし元亀半年に両家の家臣共の計らいにより、
氏貞の妹をして立花に嫁がしめ、双方無事と成った。
(宗像軍記)
宗像と戸次道雪勢との戦いについて。

503 :
>>502
戦国時代は神主も強いから困る

504 :
立花って本当は弱い

505 :
|/|-|\
| 0M0)
|⊂ /
|  /

506 :
天正三年二月中旬、宗像氏貞は家老の面々、吉田土佐守守致、許斐安芸守氏鏡、石松加賀守尚久、占部日向守惟安を
召して言った

「私はこれまでの年月、宗像三社建立の志を持っていたが、近年四海逆浪静かならず、凶器に財を尽くして
空しく時が過ぎてしまった。今年は先ず、田島の第一宮を修造しなければと思っており、近日中に、箱崎の
大工匠日高氏を召して、その事を図りたいと思っている。」
そのように議した。

その夜。氏貞の夢に宗像三女神が枕元に立たれ、
『異国船より来る宝があり、これを我等の心尽しとする。どうして嘆いているのか。』
と告げられた所で夢から覚めた。
氏貞は瑞奇の思いを成し、三社に参拝して、尚更の安全を祈った。

同年五月に、蛮船が宗像郡江口ノ浜に流れ来て、石松周賀がこの事を申し上げた所、氏貞は夢のお告げに等しいと
大いに悦び、石松周賀に命じて、その船の広狭を測らせた所、長さ二十八間、横十八間との事であった、
船中には人ひとりも無く、その積み来る所の財宝は、絹布、薬種など幾千万という数を知れぬ程であり、
急ぎ博多津の奥野惣兵衛、紙屋善兵衛という富者を召し寄せ、金銀に交換させた。そしてその金銀に寄って、
三社の修造は思いのままに経営出来たのである。

末世とは申せども、かかる不思議の神徳、誠に有り難いことである、。

(宗像軍記)

507 :
文禄三年、朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、和議が既に調ったため無用であるとして、
悉く日本へ帰国したが、黒田長政公は機張の城を守って居られたので未だ帰国されなかった。
しかし大明との和議が調った後であり、敵も皆退散したため合戦も無く、いたずらに異国に逗留し、
つれづれの余りに、時々勇士共を引き連れ山に入り虎狩りをされた。
二月十三日、長政公はまた山に入って虎を狩られた。この時長政公、鉄砲に寄って駆け来る虎を間近く寄って
撃ち殺された。その後、猛き虎が一つ駆けてくるのを、長政公がまた鉄砲を構えられた所に、虎は脇に人が
いるのを見つけると、長政公の方へは行かず、菅正利与力の足軽が並び居る所に駆けてきて、一人の肩を咥え
後ろに投げ、一人をその腕を喰らって倒した。これを見る者で恐怖しないという者は居なかった。
この時菅正利は朱塗りの鎧を着ていたため、人多き中にも著しく見えたのだろう、虎は正利をめがけて懸ってきた。
しかし正利(当時二十八歳)はこれを見ても少しも騒がず、刀を抜いて進み、駆け寄る虎を一刀、斬った。
刀能く切れ、虎は一声吼えて即時に倒れようとした所を、また一刀斬って首を打ち落とした。
この時正利の稀代の勇と、その刀の利が無ければ、虎口の害を免れ得なかったであろう。
この刀は備前吉次の作にて長さ二尺三寸一分あり、現在でも相伝わり菅の家にある。
その後、大徳寺の僧・春屋にこの刀の銘を乞うた所、『斃秦』と名付け、今その刀の中子にその刻がある。
秦は虎狼の国と言われるため、「虎を斃す」という心なのだという。
また後に林道春に銘と名を乞うた所、普の周処が南山の虎を斬ったという故事を取り、その刀を『南山』と名付け、
その事を記し銘を書いて与えた。
誠に世には、自分と変わらない敵に向かってさえ恐れて進み得ず逃げ去る者も多く、いわんや怒れる虎は
その猛き事類なく、古よりの口ずさみにも、恐ろしいことを言うのに先ず虎をこそその第一とする。
これに向かい勇み懸って、あまつさえ短刀にてこれを斬りRこと、類なき武勇ではないか。
もろこしと言えどもそのためし少なく、いわんや日本には前代にも既に無く、後世にも有りがたるべし。
(菅氏世譜)
虎も斃したら首を打ち落としていたのか。

508 :
周処は曹休を罠に嵌めて石亭の戦いで破ったので有名な呉の周魴の息子だから普じゃなくて晋
(周処の墓からアルミニウムが見つかった!と大騒ぎされたが
発掘の途中で紛れ込んだだけ、という話もあった)

三国志演義といえば菅正利の中国語wiki
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/菅正利
戦争で顔に傷を負ってなく子を黙らせるのに使われたことから
「日本之張遼」扱いされちゃってる
張遼の息子は虎なのに

509 :
日本や中国も昔は人攫い(を妖怪に喩えたりして)が来るぞって言って泣く子を泣き止ませたとか聞いたことあるけど、謙信または越後軍が来るぞっつったら同義になったんだろうか?

510 :
2箇所に銘を頼んでるのが合見積みたいだ
南山より斃秦のほうがオリジナリティあるな

511 :
滋賀京都辺りの妖怪でガオーさんってのがいて
それは戦国時代六角氏の領民が蒲生氏郷を恐れて蒲生が来るぞがなまったとされる
みたいなニュースは見たことはあるなぁ、どの程度信ぴょう性があるかはしらないけれど

ガオーなんて怖い生き物の鳴き声からの着想で十分ありそうだし

512 :
>>511
我王かな?と思って火の鳥を思い出したのは俺だけで良い

513 :
能登には逆に、上杉謙信の襲来の時、鬼や幽霊の格好で太鼓を成り響かせて上杉軍を
恐怖させ撤退させたという、「御陣乗太鼓」の伝承があったりするね。

514 :
謙信「わっ、お化け!怖いから越後に帰ろう…」

かわいいじゃん。

515 :
>>511
滋賀の街にガオー
夜の京都にガオー
すみません言ってみたかったんです…

516 :
慶長二年、豊臣秀吉公は重ねて兵を遣わし朝鮮を征し給った。菅正利(三十一歳)も又、黒田長政公の供をして
先手を勤めた。
秋の頃、大明の大軍が忠清道の内、禝山に在ることが聞こえたため、これを討たんとして九月七日、長政公は
毛利秀元と共にその勢三万余騎にて馳せ向かわれた。長政公は先手であった。
その後、長政公の勢は大明の大将・解生、楊登山、牛伯英、等と戦い、大勢を追い崩した。しかしこの時、
千総、李益、喬把、劉遇節などと云う者たちが大軍を率い、黒煙を立てて救援に来た。
解生はこれに力を得て取って返し戦った。長政公の諸勢もまた勇み進んで攻め戦うと、大明勢の勢いも一時に屈し、
さっと引き取って息をついでいた。
ここに、大明勢の大将と見える者が、西の山の高い場所に兵が多く集まって在るのを長政公が見られ、
「あれこそ大明の陣である!自余の敵どもを多く討つより大将を討ち取るべし!続けや兵ども!」と下知して
旗本をそこに定め置き、井上九郎右衛門(之房)、栗山四郎右衛門(利安)を残して敵が来た場合の防ぎに
備え、自らは手勢の内で一騎当千と思われた人々を選んで召し、供をさせた。その人々は、黒田三左衛門、
後藤又兵衛、野村市右衛門、菅六之助(正利)、林太郎右衛門、堀久七、野口藤九郎、益田与助、等であった。
長政公は彼らを引き連れ真っ先に進まれたため、菅正利を初めとして後に続く兵たちは、我劣らじと敵陣へ
駆け入り、即時に敵の大勢を切り崩して二里ばかり追討ちした。この時、敵勢の中より一騎踏み留まり、
弓馬の達者と見えて、馬を留めて寄り来る者共を射ると、あだ矢は一つも無かった。彼に向かっていった
者は、或いは射殺され、或いは深手を負ったため、味方に手負い、死人多く出た。このようであったので
我討ち取らんと進む者も無く、長政公はこの様子を見て「正利は近くに居らぬか!?」り尋ねられた。
菅正利は丁度敵を討って、首級を大将に御目にかけんと持って帰っていた所であった。
急いで進み出ると長政公は正利に向けて
「汝、行き向かい、あの敵を討ち取れ。」と命ぜられた。
正利は命に従い速やかに馬に打ち乗り馳せ向かった。かの敵は正利が向かってくるのを見て弓を引き堅め
射った矢は正利の右の耳を射切ったが、深手では無かったため事ともせず、二の矢を継がせないと逸足を
出して駆け付け、乗り違えざまに一太刀切ると、刀能く切れ首脇より乳の下にかけて切り落とし、首を取って
馳帰り、長政公の実検に備えると、「武運強き者には矢もたたぬものなのだな。」と雑談され、その武勇を
殊の外感じられた。
ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、先に受けた矢の射切られた所が、当初は何とも
無かったのだが、次第に毒気が皮膚の内に深く入ったのか、後には右の耳の色赤くなり、常に膿、血が出て止まらず、
これ故に顔色もすべて恐ろしく厳しいものとなった。後には小児が泣く時に、正利の名を言って脅すと泣き止む、
などと言われた。かのもろこしの張遼が、小児が泣くのを止めたという故事もかくやと思い知らされる。
さて、このように菅正利は顔より常に膿汁が出て見苦しいものであったが、黒田如水公、長政公は少しもきたなく
思われず、正利が飲んだ盃を取って呑み、濃茶の跡をも召し上がられ、年若き家臣共に常に正利の武勇を語り
聞かせられ、「きたなくとも、あれにあやかれ。」と宣われた。
正利はこれを有難きことに思い、常に子供に対してこのように語り聞かせた。
「私の勇功によらなければどうしてこのように忝き御意に預かれるだろうか。ただ士の成しおくべき物は
武功である。」
(菅氏世譜)
大谷吉継の逸話みたいな話が、菅正利にもあるのですね。

517 :
附子の毒とは武士にあるまじき行為、無粋な奴らよ

518 :
膿と茶の話はもともとは利休だっけ?紹鴎だっけ?の弟子の話が元ネタだっけ
毒矢に関しては国によって戦い方が違うだけだからなんとも
日本も矢じりわざとゆるくとりつけて射られた敵の傷口に残るようにして苦しめてた、みたいな話もあるし

519 :
>>511
京都の町人は氏郷をおちょくった
『大石を道の蒲生に引き捨て
  飛騨の匠も成らぬものかな』
の落首で氏郷をぶちギレさせて
方広寺まで一直線で巨石を運ばれてるからな…
ぶちギレたガモーさんに町を破壊される恐怖を実際に体験してる事を考えると
コクリムクリのようにガオーさんの元ネタと言われても違和感ないわ

520 :
>>518
利休のやつは三成の三献茶の元ネタじゃ無かったかな?
吉継の茶の話はたしか未だに出典不明のはず。真面目にこれが元ネタじゃ
無いだろうか。

521 :
矢じりをゆるくつけると
二重の極み理論で貫通力がUPするらしい
https://i.imgur.com/gEfaFxQ.jpg

522 :
>>516
>ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、

一休さん「附子茶(゚д゚)ウマー」

523 :
まとめの1963
「武田のゆる鏃」と家康・悪い話

まとめな5892
鏃の詰め方

武田の緩い鏃は非人道的だと家康激怒

524 :
>>520
三献茶とごっちゃになってました、ご指摘ありがとうございます
にしてもほんとにこの手のお話は有名武将に話入れ替えられるのが多いですなー
江戸時代辺りに話から武将だけ入れ替えるって手法が多かったんですかね

525 :
>>518
>>517は本気で異国の戦法を云々ではなく、ちょっと韻を踏んで頂けたら…

526 :
光秀って浪人時代、毛利、宇喜多、伊達辺りまで遊学してたったマジなの?

527 :
マジだよ

528 :
伊達って仙台やなくて米沢あたりに逼塞してた頃だろ。

529 :
宇喜田も近隣で略奪に精を出してた山賊時代だよな

530 :
元和四年正月二十五日、黒田長政公は命を下され、福岡の城下、荒戸西の町外れより早良川の遠干潟までの
間広き砂原があり、無用の地であれば松を植えて松原にすべしとて、その事を計り実行させた。
この事業について菅正利が惣司となり、宮崎織部、手塚久左衛門も正利に加えてその事を成さしめた。

博多、福岡、姪浜の町中に命じて、家一軒に付き高さ四、五尺程の松一本を提出させ、これを植えた。
年を経て徐々に成長し、十年後には広い松原となった。その後いよいよ成長し、後には、古より事ふりたる
生の松原にも勝り、名にし負う箱崎の千代松原に等しき地となった。

(菅氏世譜)

福岡の百道松原造成のお話。なおこの松原は戦後切り開かれ宅地として造成された。

531 :
松根油にされて特攻に行ったんだな。この松の木も、

532 :
>>526
駿河伊達や但馬伊達ならまだありそう

533 :
寛永六年、菅正利五十九歳、六月の初めより傷暑を病み、二十九日、家にて没した。博多聖福寺の内、
順心院に葬られた。

正利は天性、勇猛人に超えていた事は今まで記していたため、更に記するには及ばないが、
黒田長政公は豊前、筑前に於いて罪過有ることで誅殺される者がある時は、諸士に命じて見逢いに
斬り殺させた。長政公の側近くに呼ばれ、その事を命じられた時、命を聞き終わって退出する姿を
次の間に在る諸士は、その様子を見て、彼が仕者を命ぜられたのだと察したという。
ところが正利の時のみ、人々はそれを察することが出来なかった。これは正利が天性勇猛で、
物に動じることが無かったためである。

また正利は新免無二助(宮本武蔵の父・新免無二の事か)に剣術を習い、その後疋田豊五郎(景兼)にも
学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていた。
長政公が筑前に入国された後、何国の者であったか、剣術の名人であると言って、長政公に仕えることを
求めて来た者があった。この時長政公は正利に命じ、福岡城の本丸に於いて木刀にて仕合をさせられた所、
三度打って三度共に正利が勝ち、剣術者は恥ずかしく思ったのか、いつともなく逐電したという。

正利は身の丈六尺二寸(約190センチ)有り、力も群を抜いていていた。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く
忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。

(菅氏世譜)

かなり有名な兵法家に教えを受けていた菅正利さん。

534 :
平均身長155も無いのに190の怪力手練が殺意を持って殺到してくる恐怖

535 :
江戸時代に急激に縮んだのさ、知らんけど

536 :
>>531
ネタだと思うけれど松根油なんて使われてないぞ〜〜

537 :
高橋紹運公が未だ御若年にて豊後に御在居の時、弥七郎(孫七郎ヵ)と申していた時分、御舎兄の吉弘鎮信公より、
彼を斎藤鎮実の御妹と婚約させたいとの仰入があり、これにより縁談についてはまとまったのだが、その頃豊前表
では中国衆との防戦の最中であり、かれこれと時が移ってしまった所、ある時孫七郎公が斎藤鎮実と対談した。

心静かに挨拶を交わした上で、公は仰せになった
「兄である鎮信より内々に、御妹子を申し請け、私の宿へ迎えることを御契約申し置いていたのに、世上の惣劇の
故に今まで引き延してしまいました。この事について、私は必ず申し請けたいと考えており、その事をお心得に
成って頂きたいと、このように直談いたしました。」

これに斎藤鎮実は
「仰せのように内々に鎮信殿と話し合いをし、その通りの首尾となりました。しかしながら、その後妹が
疱瘡を患いまして、見苦しい容姿と成ってしまいました。このままではもご覧に入れる事も難しく、現状として、
この婚姻をすすめるのは叶い難いと思っています。」
このように返答した。これに対し公は仰せになった

「それは近頃、思いもよらぬ御意であります。私は聊かも、好色を求める人間ではありません。
斎藤殿は御先祖以来、豊州家(大友家)において流石の弓取りの名を保っております。であればその血筋を
受ければ、子孫に於いて定めて疎略の義は有るまじきと、頼もしく思い所望したのです。
御辞退の義には及びません。」

これにより、間もなく斎藤鎮実妹との御祝儀があり、この御腹より、統虎公(立花宗茂)、統増公(立花直次)が
御誕生され、御兄弟共に日本国内は言うに及ばず、朝鮮までも隠れなき名将と成られたのは、実に殊勝なる事で
ある。この頃孫七郎公は未だ二十歳にも満たなかったと云うが、その御きざしは衆に異なるものがあったのだろう。
古より申し伝わるように、名人たらん者は幼童より必ず異相著るる者とは、信なのだろう。

(高橋紹運記)

538 :
疱瘡持ちの嫁さん貰うシリーズですか
明智に吉川に高橋紹運と、テンプレートになってますけど何が原典なんでしょうね

539 :
医療が未発達だったからそういう逸話が本当に多かっただけじゃないの

540 :
>>538
醜女の嫁って、それこそ三国志の孔明の嫁あたりからある話だしなぁ。

541 :
周瑜は美人の嫁さんを貰ったから短命に

542 :
名家の姫と言えば可憐な美少女をイメージするけど、実際にはそうとは限らないわけで…もちろん大事なのは縁と血ではあっても、醜女が過ぎる場合には疱瘡で顔が崩れたと言い訳してるのかも、あるいはそう言い訳するのが暗黙の了解だったとか

543 :
ほうそういうことですか。
アバターが可愛くても実際はブスというような

544 :
ブスでもないのに相手にされてない姫もいるわけで

545 :
性格も大事っすよ
あと知性も

546 :
武家の娘は、口吸いといって精子を飲むことも
嫁入り前に教えられてたらしいな。
春画見て勉強したり。

547 :
どうなんだろ、戦国時代以外でも疱瘡持ちの嫁さん貰うって話あるんですかね
いやまぁ貰うのはいいんですけど武家の正室なりが疱瘡って割と風評として最悪な部類な気もするんでわざわざお話にして広めるかなって

548 :
>>533
さすがSAKONを打ち取っただけありますね

549 :
三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)の守護である大宰少弐政資は、去る明応六年大内義興に滅ぼされた。
嫡子少弐高経も討たれ、家は既に断絶の様相であった。
ここに政資の次男が、父生害の時は十歳であったがこれを東肥前の馬場、横岳(資貞)らが、慈恩を忘れず同国
綾部の城に取り隠した。彼は成長の後父兄の古きことを思い出し、世の転変を伺い、どうにかして義兵を挙げ
会稽の恥を雪がなければと肺肝を砕いた。横岳資貞はこれを憐れみ、元服を進め、少弐資元と名乗られた。
彼は密かに廻文をまわして旧好の武士を招き、時を待ち、運を計った。

大内に付き従っていた肥前の諸士は抜け抜けに馳せ参り、また豊後の大内(政親)もこの事を聞いて、資元を
聟に取ったため、その威勢いよいよ強くなり、大内に対し謀を成した。

大内家はこれを伝え聞くと安からず思い、急ぎ討手を遣わそうとしたものの、思いもよらずそれが延引した所に、
少弐資元は対馬の宗対馬守義盛を通して京の将軍家に訴え、家断絶を嘆き申し上げると、将軍足利義稙公は
この訴えを御許容あって、肥前守に成し給わった。

大永の末の年、肥前国の筑紫尚門、朝日頼貫の讒言によって、大内氏(大内義隆)は少弐資元を滅ぼそうとし、
大宰府に在った大内の代官・杉豊後守興運は筑紫、朝日と談合して、享禄三年の秋、1万余騎を催して
東肥前に乱入した。この時少弐資元は多久の城に隠居し、新たに嫡子の少弐冬尚が綾部城を守っていたが、
馬場、横岳、武藤出雲といった人々を駆り催し、東肥前に出向して天地をひしめき防ぎ戦った。

杉の軍は勝ちに乗じ、少弐冬尚は退いた。神埼に陣していた龍造寺和泉守(家兼)は、家門である少弐の
難儀を聞き、一族を率して一つになり先陣に進むと、保、高木、小田、犬塚等の諸侍も鞭を上げて少弐に
馳せ加わり、田伝村にて相支え、ここを最後と戦ったものの、少弐方はついに敗色になって、先陣の龍造寺勢も
御陣が崩れようとした、その所に、

ここに誰とも知らぬ、赤装束の赤熊(の面をつけた)武者が百騎ばかり陣中より出て、追いかける敵を切り崩した。
杉方は思いもかけず突き返されたため色めき立った。これに剛忠公(龍造寺家兼)は大いに力を得て、自ら諸卒を
いさめ、突き戦った所、中国方は散々に敗北し、討たれる者数しれぬ有様であった。朝日頼重と筑紫尚門は
ただ二騎踏み留まり、「返せ返せ!」と呼に敵を数多討ち取ったが戦死した。その他少弐方が討ち取った
首は八百余級であった。

少弐冬尚は勝鬨を執り行い、龍造寺剛忠公の軍功を感じて、同国川副庄一千町を授けられた。大内は安からず思い
将軍家に少弐を誅するべしと訴えたが、御免無き故に双方無事となった。

かくして龍造寺剛忠公は御帰陣の後、あの赤熊武者について問うた所、その答えは
「彼らは本庄村の牢人、鍋島平右衛門尉清久父子とその一族です。年来彼の地に居住し、いかにしても
今後の機会に武功を顕して一所でも安堵を得たいと思っていた所に、今度の乱が出来て、これを幸いと
討ち出てきたわけですが、『中国方に付くべきか、少弐殿に参るべきか』と疑議を成し、本庄の神社に参り
鬮にて占い、その結果として参ったのです。」

これを聞いて、龍造寺剛忠公は御感のあまり、鍋島清久の嫡子・左近将監清正を聟に取ろうとしたが、既に
妻が有ったため、次男・孫四郎清房を、嫡子である龍造寺家純公の御娘に娶せ、本庄の八十町を聟への
引き出物とした。彼は後に、駿河守清房・法名剛意と名乗った。
これより龍造寺剛忠公の威勢次第につのり、近境を覆わんとした。

(肥陽軍記)

少弐勢が大内氏を破った田手畷の戦いと、鍋島清久の「赤熊の計」についてのお話。

550 :
天文五年、九月八日、少弐資元は四十八歳にて多久城にて卒去した(実際には九月四日に、大内義隆の命による
陶興房の攻撃で資元は自害したとされる。)

少弐氏は日を追って衰え、大内は年月を得るごとに繁盛し、この時、西国平均の功莫大であるとして、
大内義隆を大宰大弐に叙任された。さらにこの年、天子御即位の料を調進したため二品に叙し、兵部卿を兼ねて
中国九州の諸将に冠として、その威万人の上に覆った。世の転変は今に始まったことではないが、眼前に
起こったのである。

勢福寺城にあった少弐冬尚は。父・資元の卒去を聞いて悲泣啼哭して前後を忘れるほどであった。
旧交の諸侍は憐れみを成し、或いは茶の会、酒宴をして冬尚を慰めた。
このような時に、江上尚種が盃をひかえてこのように申した

「おおよそ、人にとって世の栄枯は天の命ずる所であるから嘆くべきに非ずと言いますが、つらつらと
古昔を思うに、右大将家(源頼朝)の御時、御先祖資頼公を大宰少弐に補任されて下向あってより以来、
九州二島はその威に伏してきました。その間大内氏は、わずかに周防国に安堵し、異国の勘合船を
司るばかりであったのに、将軍家に対して聊か忠が有った故に、過分の俸禄を受け、あまつさえ今や
九州二島を横領せんとしています。
御当家の弓矢末に成り、大内のために脅かされること、返す返すも無念であります。ただどうにかして、
少弐家再興の謀がないものだろうか。」

これを聞いて、少弐冬尚を蓮池城に保護した小田覚派入道(資光)は申した
「それは誰も同じ心である。そして今大内家のことを聞けば、武備は廃れはて蹴鞠和歌のみを持て囃し、
栄耀満ちて欠けることを知らずという。時既に到れり、早速に軍を起こし旧好の武士を駆り集め、
冬尚公を大将として、先ず太宰府の代官・杉豊後守隆連を攻め落とし、すかさず中国に渡り少弐家の安否を
天道にかけて試すべし!」

そう申すとその場の面々は主の忠義を感じ、一同に「然るべし!」と申した。

しかしこの中にあった剛忠公(龍造寺家兼)は、席で姿勢を整え、言葉を和かにして言った
「この事、皆々が思っている所存であり、武家の本懐であるのだから、誰が進もうとしないだろうか。
然れども、退いて愚案を廻らしてみたのだが、大内家が和歌風流を好み風俗末になっていると雖も、いま
公方の御覚え朝廷の御恩厚く、九国を管領し中国を治めて、龍の水を得たごとくである。
陶、杉、相良等の老臣相並んで非を諌めるに身を庇わず、軍に望んで命を惜しむこと無し。
義隆は毎事を彼らに任せているため、国は治まり民は安らかである。これは我等にとって、天の時が
至っていないという事では無いだろうか。

密かに兵を集めて進もうとすれば、筑前の数城には敵が有り、退いて険阻に支えようとしても東肥前には
さほどの要害が無い。これは我等にとって地の利が全く無いことを示している。

今は大内の威風強く、三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)のような代々相伝の国人さえ皆、
少弐家を捨てて大内に属している。況や他国では問題にも成らない。人の和が無いのである。
ただ時を待って命を全うし、徳を施し人を懐せれば、人みな往時を思い、招かなくても集まり、
何時であっても時が至ったと見れば速やかに恨みを報いる事に何の仔細があるだろうか。」

そのように、理を先とし義を旨として申されると、人皆尤もと同意した。
しかしその中で小田覚派入道は少弐冬尚を傍らに招き
「剛忠公は大内に内通したと覚え候。あはれ諸将の心を伺わずに、即座にその理を、あらかじめ
申しておくべき物を!」と言い捨てて帰った。少弐冬尚もこれに同意し剛忠公を憎んだためであろうか、
天道に背き家は断絶した。老公(剛忠)の忠心は違っていなかったのだ。後に龍造寺の家は起こり、
武名天下に響いた。

551 :
こうして少弐冬尚の疑念は溶けず、小田覚派入道と密談した。覚派入道は了承し、て、天文六年四月、
八百余騎を従えて水ヶ江に向かった。剛忠公はこれを聞くと「我全く冬尚に別心無し。これ天魔波旬が
覚派入道の心に入れ替わったのだ。」と、自ら逞兵を引きすぐり水ヶ江の東、木原村に出向し、天地を
動かして戦った。小田方の小田新九郎政光が横槍を入れて、水ヶ江の龍造寺勢が敗北しようとしたが、
剛忠公は諸卒を進め鬨を挙げて砕き難きを破る所に、龍造寺豊前守胤栄、和泉守家門、および鍋島平右衛門尉
清久、同駿河守清房が遅れ馳せに来て悉く突き返し、駆け立ち攻めたため、小田方は散々に打ち負け、
悪しくなって引き退いた所を、龍造寺方は蓮池の城下まで押し詰め首数十を討ち取って静かに陣を返した。
少弐冬尚は両家に扱いを入れ、互いに和平となった。

(中略)

天文十年、龍造寺剛忠公の水ヶ江の御館の門の前に、編笠を深くかぶった美美しい男が一人、何処からともなく
来て佇んでいた。館より士が出て「誰か」と問うと、「我は少弐冬尚と申す者である。剛忠翁に一言云いたい
仔細有って、ただ一人来た。」と宣われた。

剛忠公は急ぎ御出になり、奥へ請じて「現なき御有様かな、何のために御渡されたのでしょうか。」と
尋ねると、冬尚は涙を流し
「我、今大内に家を削られ家業断絶せんとしている事、天運とは云いながら遺恨更に止みがたい。
今国中を見るに、御辺は末頼もしい人であれば、少弐家再興の事、偏に御辺を頼みたいのだ。
もし承引無ければ命を白刃に縮めて恨を黄泉に報じよう。」と申された。
剛忠公も数代の旧恩であればどうして拒否を申されるだろうか、その上御有様を見て老涙さらに留まること無く、
「ご安心思われ候へ、それがし微力の限り粉骨を尽くします。」と申し、人を数多付けて冬尚公を城原城へと
送り、御次男家門を以て後見とし、江上尚種、馬場頼周と共に少弐を補佐した。

(肥陽軍記)

天文六年の少弐家の内紛とその顛末。ちなみにこの小田資光、あの常陸小田氏の支族ですね。

552 :
鍋島直茂が一旦養子入りした千葉とか、あの辺は元寇時?に下向した坂東武者の子孫が多いよね

553 :
>>549
熊さんなの竜造寺じゃなくてむしろ鍋島直茂のおじいちゃんだったのか
肥前の熊って異名となんか関わりあるのかなー

554 :
政宗の弟、小次郎政道どうやら出家して
東京郊外の寺の住職になってたらしいな。
ちょくちょく政宗来訪してたとか。
DQNも歌舞いた演技だった説あるわ

555 :
九州に熊ってほとんど居ないから本州文化の影響なのかね

556 :
「肥前の熊」も、どうも斎藤道三の美濃のマムシとかと一緒で、昭和になって作られた異名らしいな

557 :
昭和のその異名つけた人はなぜ熊チョイスしたんだろ

558 :
忠興ちゃんが熊千代
DQN四天王にふさわしい勇ましい幼名

559 :
>>556
鬼うんちゃらとかも、基本江戸時代以降、多くは明治以降になってつけられているしね。

560 :
>>554
花の慶次のあれが正しかった!?当時(漫画あるいは原作)からあった説を元にしたのかな

561 :
戦国「闇」の歴史―影武者・不死伝説
って本でそういう話いろいろ集めてたの思い出す

562 :
九州にクマがほとんどいないのは現代の話
こういうのをごっちゃにするやつってなんなの?

563 :
九州の熊が絶滅したのが1957年のことであるとか、調べてなきゃ知らん話でしょうし
そうごっちゃにしてると決めつけて頭ごなしに怒るのもどうかと思う

564 :
九州では江戸時代もそれ以前でもあんまり熊の記述がないし、居たとしてもツキノワグマだけ
武将の異名にどうなのってのが話の本題だろうに

565 :
>>564
そいえば、「肥前の熊」の出典ってなんなんだろ?
ちなみに、まとめ管理人さんのツイートによれば、
https://twitter.com/1059kanri/status/1210073140522442752?s=19
「羽州の狐、肥前の熊あたりはおそらく昭和以降です」
とのこと。
(deleted an unsolicited ad)

566 :
赤熊(しゃぐま)は幕末ドラマの官軍でお馴染みの赤く染めた毛を使った飾りのことね
ヒグマの異称である赤熊(あかぐま)と直接の関わりはない

全日本97kp級連覇中の「福岡の熊」こと赤熊猶弥(あかぐまなおや)や
鹿児島のかき氷でドラゴンフルーツを使った赤熊(あかくま)との混同にも注意

>>557
髭面の肖像や怪力の逸話からじゃない?
結構わかりやすい方だと思うわ

567 :
>>560
毛利元就の弟も兄に殺された筈だけど、古い書物によっては足だかが悪くて出家した筈のもう1人の弟の就勝と名前が混同される事があるからひょっとしたら…

568 :
津軽の熊「」

569 :
高校の時に龍造寺さんいたなあ
肖像画そっくりでこれは肥前の熊って感じの女の子だった

570 :
教養のある人が要所要所でわざと型破りなことをするのが上流階級のやる傾奇者で
下々の傾奇者とはまたちょっと別な気がする

571 :
>>560
過去スレで投稿されているはずだから、昔から膾炙していなくても伝聞はあったんだろうね

572 :
>>570
突進してくる牛を投げたりとか?

573 :
>>553
サラッと流されてるけど龍造寺家兼はこの時点ですでに77歳のお爺ちゃんだよな

574 :
>>573
凄いな。人望もあったんだろうな。

575 :
https://i.imgur.com/jOAaT59.jpg

576 :
>>565
羽州の狐も創作だとは思ってましたが
狐って強いイメージもないしあんな異名つけるのもなかなかひどいなと
実際は総大将が正面切って突撃してんじゃないよと部下にキレられちゃうくらいなのに

577 :
砂漠の狐みたいでかっこいいと思うんだ

578 :
羽州の狐は松本清張が初出とかなんとか

579 :
>>578
というか、そもそもロンメルからの連想でつけられたものでそ。

580 :
我らがロンメル Unser Rommel (日本語訳)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34355629
1. 我らはドイツ・アフリカ軍団(DAK)
総統の勇猛果敢な部隊だ
我らは悪魔のごとく猛進し
イギリス兵どもに苦杯を舐めさす
我らは酷暑も砂塵も恐れずに
喉の渇きにも灼熱の太陽にも抗って
太鼓に合わせて進むのだ
前進、前進
我らがロンメルとともに前進だ!
我らがロンメルとともに前進だ!
2. イギリス兵は我らを黒死と恐れ
燃える石炭の上にへたり込んでいる
我らはかつて卑劣にも略奪された
東と南西アフリカの仇を討つ
チャーチルとルーズベルトが激怒しようが
我らは如何なる場所でも敵に立ち向かうのだ
総進撃の太鼓は鳴り響く
前進、前進
我らがロンメルとともに前進だ!
我らがロンメルとともに前進だ!
3. 戦い、そして勝利を目指す我らは
イタリアの友軍と共に進軍する
平和の光が我らを照らし
そしてドイツへ再び帰還するまで
例え敵弾が我を貫いて
砂漠で永遠の眠りにつこうとも
今、太鼓は再び打ち鳴らされるのだ

581 :
ロンメルのいた北アフリカの砂漠にいる狐といえばフェネックなのだ
羽州の狐も一人で鉄棒振り回して突撃するのはやめるのだ

582 :
織田信長卿が天下を掌の内に握り給い、内裏の修理のため伏見に御座を据えられた。ここで国々の
諸大名は残らず上洛するに於いて、瀬田の橋に関を置いて、通過する者の家名実名を尋ねた上で
通過する旨を仰せになった。
森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋に差し掛かられた時、関守の侍たちが立ち出て言った
「上意であるので、下馬をして家名実名を名乗った上で通られよ。」
勝蔵はこれを聞かれると
「急いでいるので御免有れ。濃州の住人森勝蔵と申す者である。御帳へ書くのはそちらに頼む。」
そう言い捨てて通ろうとした所、関守の侍たちは勝蔵の馬の口にすがり
「そのような事では通せない!その上乗打することは出来ない!」
そう言って鑓長刀を出し、番所は立ち騒ぎ色めき、「ここは通さじ。」と伝えた。
勝蔵はこれを見られて
「元来心得ない者達だ。乗打とは何事だ!公方の御前であればまだしも、汝らの如き侍の分際で
この勝蔵に下馬だと!?推算なり!」
(元来心得ヌ者共也。乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ、汝等如キ侍之為分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推算也)
と太刀を抜き、二、三人の首を打ち落とし、諸鐙を合い懸け通られた。
関守の侍たち大勢がこれを追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く打ち閉めよと呼ばわった。これに町人共が
両所の木戸を打とうとしたが、これを見た勝蔵が「それ侍共、火を懸けよ!」と宣うた所、町人たちは
驚き木戸を開いた。
そこから駒に白淡噛ませ、伏見の御殿に着くと直ぐに御前に罷り出て、瀬田での事を委細言上し、切腹仕る
覚悟の旨を申し上げた。
これを聞いて信長卿はうち笑わせられ、「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊であった、汝も今より
武蔵と名を改めよ。」と、誠に御機嫌にて仰せになった。(誠御機嫌ニテ被仰ケレ)
満座の人々も、「実に忠ある武士のためしかな。」と羨ましく思った。
その年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と申された。
(兼山記)

583 :
長可も暴れてからやっちゃったと思ったのかちゃんと腹切るって言ってるのね

584 :
忠あるという概念w

585 :
ほんと若い奴に甘いな信長

586 :
これ信長の命を忠実に守って命落とした関の門番たちは補償なりあったんだろうか

森可成の件があったから森家に優しいのかそれともこういう荒武者好みなのか、どっちなんだろう

587 :
ちょっと悪い話の気がする
鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長の命令を守れば鬼武蔵に斬られる
関所役人としては回避しようのない絶『対』絶命
信長はその他一般には厳しく処断するけど
親しい奴には滅法甘いからなぁ…

588 :
>>587
関所の役人は武蔵を討取ればよかったんだよ

589 :
>>588
お気に入りを斬られてぶちギレた信長に斬られるに3000貫!!

590 :
>>587
>鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長はそんなことしないだろ、苦笑いしてあいつ相手ならしょうがないって許すよ

591 :
こうして関所が廃され楽市楽座がすすんだのであった

592 :
やらかした時に先んじて自己申告して責任取ろうとする
というのは上から見て可愛い部分かもなぁ

そう観ると鬼武蔵って傍若無人なやばいやつじゃなく
むしろコミュ力お化けだった可能性あるな
vsノブ特化かもしれないけど

593 :
武士って基本コミュ力お化けじゃないとやってけないものね、コネ社会だし
古武士然とした武士って本来武士としちゃ異端も異端なんだろうなー

594 :
>>590
信長は感情の振れ幅が大きいから可能性は0ではないけど…
お気に入り以外だと怠慢や命令無視として激怒することが多いし
例外の対象は鬼武蔵であって関所役人じゃないし…
信長は京の民心掌握を重視して家中に身分の上下を問わず
京での振る舞いに注意する御触れを何度も出してる
二条城築城時に女にちょっかいをかけていた家中の者を
御触れを無視したと激怒し信長自ら斬り捨てたこともあるからなぁ…

595 :
見てきたかのように語るこどおじだなあ
空想と現実の区別くらいつけろよ

596 :
其れ位いいじゃないの

597 :
>>596
>>445-472 と同じ流れになるからそっとしとけ

598 :
>>593
いまで言ったら絶対陽キャな連中だからな
濃茶飲むのも今の陽キャが魔剤キメるようなもんだろうし
犯罪やホモセに抵抗がなかったりと共通点が多い

599 :
>>592
気に入ってる幹部の息子だからだろ…

600 :
>>597
自殺しろよ

601 :
森家、あまりに幼名が有名な三男の乱丸につづいて力丸、坊丸、千丸
ですけど次男は勝蔵?ってなんか妙に毛色が違うんですね

602 :
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた

「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」

この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。

謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。

御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。

(松隣夜話)

義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。

603 :
>>601
三左衛門、傳兵衛、勝蔵
乱丸、坊丸、力丸
千丸(仙千代)→近太夫
残ってるのが通称か、幼名か、両方か
の差では無いかな

604 :
>>602
信玄の謀略くさいね

605 :
勝蔵は通称、乱丸は幼名でしょ

606 :
>>605
小姓3兄弟は元服済みじゃない?
乱丸の諱は成利
先輩たちも大人になってもお長とかお竹とか幼名で呼ばれてる

607 :
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ

608 :
>>603
あれ、勝蔵って通称でしたっけか

609 :
>>608
森武蔵守長可って名乗ってたはず
お父さんが死んじゃったから元服と家督を継ぐの同時だよね

610 :
信長公記なんかにも初出から死ぬまで勝蔵で通してるし通称(仮名)でいいと思うぞ

611 :
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 :
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なばR、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
(松隣夜話)

謙信等の、諸将についての評などについて

613 :
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 :
また斬られるかと思った

615 :
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね
この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 :
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 :
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 :
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

619 :
山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」
http://c-note.jp/yoshiaki/data/15793358611.jpeg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki1-2s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki2-1s.jpg
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http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki5s2.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki6-1s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki7-1s.jpg
http://samidare.jp/yoshiaki/box/shiki9s.jpg
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=480698

山形市の最上義光歴史館で、最上義光愛用の鉄棒を山形県指定無形文化財の刀匠
上林恒平氏が復元し展示中とのこと。
上林氏は結城家に伝わった天下三槍の一つの御手杵の槍も復元しています。


歴史館での解説によると、義光は常に手元に置いて戦場でも愛用し、子々孫々に
伝えるために最晩年に金象嵌で由来を刻んだとか。
ところが最上氏改易のごたごたで蔵にしまい込んだまま忘れ去られて、新城主となった
鳥居氏がこれを発見して最上氏に送り返した経緯があるそうな・・

最上氏改易での領地接収に当った伊達成実の亘理伊達家に、最上家重臣延沢氏の
甲冑が伝わったりしていますので、返却されてよかったとしか言えませんね。
(この甲冑は後に市場に放出され平成になって米国人コレクターに売却された)

鳥居氏も後に何度かの改易を繰り返していますから、もしもそのまま鳥居氏が接収してたら
江戸時代中に失われた可能性が高そうです。

620 :
『松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。

621 :
指揮棒っていうぐらいだから丸い棒だと思ってたんだが
四角いのか

622 :
刻まれた文字は「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」
近年ネット上でうるさい海外出羽守ポリコレ棒と違って、本物の出羽守棒ですな。

623 :
最上記念館に直江軍の旗があるんだけどいかにも手書きで感動した

624 :
鉄製とはいえあくまでも兵権を象徴するもんだし、とっさにこれで応戦はあるかもだけど
これを金棒みたいにぶんぶんは振り回さないよね?

625 :
重過ぎたらまとめの6843
「小幡勘兵衛の鉄の軍配」
のように、権現様が「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」 
と、どなりつけることに

626 :
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
実際どうだったかはともかく、戦場でもこれを振り回していた伝承はあったようで、
「長谷堂合戦図屏風」では、長さ8尺程に描かれたこの鉄棒を振りかざして殴り付ける姿があります。

627 :
屏風絵は両手で持ってますが、実物はどう見ても片手用ですね。

628 :
クッソ重いのにブンブン振り回してたから氏家さんに怒られてなかったか?

629 :
山形城の銅像は片手だな。

630 :
最上さん大柄で力自慢なんでしょ?
再放送の戦国鍋テレビで言ってたw

631 :
「イナバウアーがイナ→荒川→羽生」と継承された、ていう記事を読んで、
羽生で始まり荒川西遷が行われた、利根川東遷事業を思い浮かべたので伊奈(イナ)忠次の話を

小田原城落城の際、城内の蔵に貯蔵されている米穀の数量調査を家康に命じられた忠次だったが、
膨大な量であるにも関わらず数日のうちに家康に報告した。
家康から「なぜそのように早くできたのか?」と聞かれた忠次は
「不正を防ぐために、すべての蔵に封印をし、村長に命じて北条に納めた租税の量を書き上げさせました」
と答えた。
もし蔵ごとに確かめていたら時間がかかる上に、ちょろまかす人間も出たと思われる。
そのため家康はその機敏さを褒めた。

甲州の地で家康が鷹狩りをしていると、近くの村で騒ぎが起きた。
忠次が家来を連れて見に行ったところ、野盗が荒らした後だった。
そこで忠次は野党の首領の住処を探し出し、大蔵という首領を一刀のもとに斬り殺した。
これを聞いた家康は「勇敢ではあるが自ら討ち取るとは血気盛んすぎる」と諭した。
しかし賊を斬った刀に大蔵と名付け、家宝とするように告げた。
(「世界 人物逸話大事典」の「伊奈忠次」の項から、本間清利「関東郡代」の孫引き)

632 :
あだ名がわかりやすいのは権現様のセンスなのか

633 :
>>631
賊のお頭の名前の家宝の太刀ってやだなぁw

634 :
大蔵切なんちゃらって名前ならまだワンチャン

635 :
とてもリアルな画工な肖像画を見つけた
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f8/Sait%C5%8D_Masayoshi.JPG
齋藤正義

636 :
越後における科人の御仕置において、最も思い懲罰は、刀脇差を召し取り、一代の間身に帯びさせないという
物であった。(侍以外はまた別である)
二番目が死罪、三番目が追放、四番に所領没収、五番が与力同心を召し放ちにすること、六番が蟄居する事、
等であった。
長尾右衛門佐という侍大将が、聊か無沙汰の行跡が有ったために、上杉謙信公はこれを大いに咎められ、
彼の与力同心を召し放ち、所領を取り上げ、その上で「両腰を帯びぬように」と仰せ付けになった。
これに対し、右衛門佐の親である庵原之介より、「右衛門佐は御家に対し戦忠これ有る」旨の申し立てがあり、
「どうか生害を申し付けて頂きたい。」との詫び言を申し上げたため、罪一等を免じて両腰を給わり
切腹した(一等を被免許、両腰を玉はり切腹なり)。
当時はこう言った事が多かった(前後此類多し)。
(松隣夜話)

637 :
死罪って言ってるから若干ややこしいけど切腹な訳か
確かに武家のシンボルすら奪われて生き恥&当時の治安的に武器なしで生きるのほぼ不可能なのと、武家として少なくとも一族が残る切腹なら切腹のが軽いか

638 :
後継いたらそれはそれで隠居しちゃう侍も出てきそうだけど

639 :
御両君の御心合し候

興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。
このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。
津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。

――『池田家履歴略記』

640 :
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

641 :
>>617
この莫迦は成立時期すら知らんのかw

642 :
松隣夜話は一応成立年代不詳。ただまあ、江戸中期くらいだと言われてる。

643 :
後世の作なら当たっていて当然w

644 :
天正元年四月に武田信玄が死去したとの報が、同年九月、あたかありの阿達山より書付を以て注進された。
上杉謙信公は大いに惜しまれ

「子期去て伯牙留琴、吾天下に無千音」(鍾子期が去ってしまったというのに、伯牙である私は琴を留めている、
私は天下に知音を無くしてしまった。)(『断琴』『知音』の故事)

と、御涙を流された。そして荒尾一角、河田豊前を召され

「信玄は天下の英雄であった。今日より三日の間、府中の侍の家々は、音楽を禁じる。農民、商家はその沙汰に及ばず。
これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。
侍所より触れ渡すというのはあまりに大げさであるから、両人より縁々に物語して申し聞かせよ。」

と仰せになった。

(松隣夜話)

645 :
https://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1350554902/466
これにあった「兄弟の絆」に関係する話
この大田原資清さん、兄を呼び寺を建て大田原氏の菩提寺にしたとあるけど
当然ながら、その前には別のお寺が菩提寺だったわけで
その寺はと言うと「龍泉寺」
過去の大俵氏の水口館への移転の際にも一緒に移転しており
大俵氏からは「菩提寺」と「祈願所」として大事にされてたらしい
そしてその後の資清さんが新たに城を建てた際にも三の丸に移され
菩提寺が光真寺に移ったあとも、
大田原氏は代々「祈願所」として残し大事にしたらしく
「龍泉寺」は大田原氏ゆかりの遺品を遺していて
今も大田原城跡のそばに寺があったり
何気に大田原氏は主に三兄弟とその父親がアレだが
身内は大事にする一族だったようだ

646 :
ある時、水野勝成が駕籠に乗り城下町を移動してた際のこと
駕籠が武家町に差し掛かり移動してた際、
駕籠の者が上水道の上を通ったのを見て
勝成は「この下には御家中の侍達が飲む水道があるのに、どうして通ったのか?」といい、
「勿体ない事である、これからは脇を通りなさい」とその場で水をいただいた。
それからは上水道の上ではなく、その左右の脇を通るようになった。
「宋休様御出語」

647 :
水野勝成の晩年の名君っぷりを見ると、森長可も名君になった可能性結構あるような気が。
少なくとも、森忠政みたいに外面だけはいいけど内政ぼろぼろということはないような気がする。

648 :
駕籠の者が叩き斬られなくて良かった
年取って見事な分別持つようになったな

649 :
>>647
そう考えると長可の遺言の金山とか森家の跡を仙千代に継がさないでってのも
家族に武家なんて継がせたくないとかそんなんじゃなく
仙千代あいつやばいやつだから無茶苦茶しかねんっていうすごく実を見た判断だったんかなぁ

650 :
坊丸力丸はどんな人だったんだろうね?
一番影が薄いお兄ちゃんもw

651 :
越後衆である森出雲という侍と、佐渡先方の槇伊賀という武辺が公事(訴訟)を致し、目安を捧いだ。
これに対し、両人とも大身の侍であり、事に武道の出入り(度々武功を成した人物)であるので、
奉行衆も遠慮を成し、上杉謙信公の御前に後披露をした。

その訴訟の内容は、これは越後の風にて、侍大将の采弊を下された場合を除き、それ以外の侍が
私に参会する時は、老若高下を問わず、先代の長尾為景以来の後感状を多く持った侍を以て上座としていた。
感状を同数持っていた場合は領地加恩の多少で選び、さらに領地も同分の場合は年齢によって
崇敬する定めであった。

折しも春日山蓮華宝院にて、近辺の侍数名に振舞が出された事があった。
ここの一の上座は侍大将の柴田内膳、その次は同じく侍大将の長尾小四郎、三番以降は感状の数によって
座を定められた。
越後の侍である森出雲守は年齢六十余にて、感状を二十三まで取って持ちたる覚えの侍であり、彼が
侍大将の次に座った。

その所に、佐渡庄内衆の槇伊賀という侍が後から走り来て座席を見廻して後、はるか下座に座った。
彼も覚えの侍にて人に知られた者であったため、その場の各々彼に向かって「伊賀殿はそのような場所に座す
人ではない、雲州殿の次に座られよ。」と申した。こうして些か挨拶有って後、伊賀守は申した

「雲州殿は故為景公、当代謙信公両殿の御感を二十三までお取りになったと聞き承っております。
尤も冥加の覚え美々しき御事であります。

さりながら、それがしも近年謙信公の元に罷り出て、所々の御陣に御供いたし、ここ十六年来、御感状を
二十一戴いております。その中でも越前衆との御取合の時には、一日の内に十三度の競合いがあった中で、
私は十一度の一番鑓を仕り、甲冑を帯びた侍を九人討って首を得、謙信公自ら『天下無双』とお書きになられた
御感状一つ取り申しております。

御当家の御座席は手柄次第だそうなので申しますが、その感状の数を言えば、私は雲州殿に二つ遅れております。
しかし手柄について言うなら、私のほうが増しているのではないでしょうか?
先ず以て、天下無双の四文字が書かれた御感状は、おおよそ常の御感状五つ六つにも替えがたいものです。
その上、雲州殿御所持の御感状は、過半が御父たる為景公より御頂戴したものだと承ります。
私は全て当代の謙信公より戴いたものであり、同じ事とは申しながら、謙信公より御感状を戴くことは稀であり、
それが貴重であることは、自ずから百重千倍であります。
謙信公は知行俸禄を惜しまれることはありませんが、御墨付を下されるのは常々には無いからです。

但し、これは先ず自分の主張に過ぎません。雲州殿にも、如何様なる大切の御感状が有るのかも私は存じません。
雲州殿は長尾譜代であり、私は先方にて十六年来の者でありますから、それを以て式対を仕るという事であれば、
私は一口も愚意を申しません。」
そう、礼を厚く申した。

森出雲守はこれを聞くと
「伊賀殿の事は兼ねてから承っていましたが、是程委細に聞いたのは只今が初めてです。さてもそのように
稀なる御感状を帯られているとは。
先ず以て、十三度の競合いで十一度まで一番鑓を合わせられたという事ですが、まことに天下無双と言うべき
御覚えでしょう。何故ならば、おおよそ取合の時、相手が弱兵であればどう考えても毎回の一番鑓は成し難い
ものです。敵が弱兵であれば味方の中から進む者も多くなり、一人に一番鑓の功を渡さないためです。
一方、相手が剛強で、少しでも出ればそのまま命を取られるほどに強く見える時は味方は進みかね、抜け出る
者もありません。この場合は、心がけ次第で幾度も一番鑓を一人にて仕る事が出来ます。
これらから判断すると、越前の御敵はなかなかの剛敵であったのでしょう。

652 :
その頃私は前橋に居りましたから、越前衆と手を合わせたことがなく、実際を存じませんが、しかしながら
謙信公御一将の御感状を二十一まで、十六年の間に御頂戴された上は何を争いましょうか。
強敵あり弱敵あり、危うき場あり安き場あり、武辺は時の仕合でありますから、後日の褒貶というものは
当たりかねるものです。感状において私も申そうと思えば、少しは意見を持ち合わせていますが、
大体において私の存ずる所はそういう物ではなく、孟子には及ばずながら、些かも誇らぬ意智こそ貴いと
思っております。これは先ず当座の戯言ですが、座席の事は、様々に稀なる御感状を御持ちなのですから、
どうぞこちらにお座り直して下さい。その他の御方にも、武辺を申すなら私など申し及ぶ御方は無いでしょうが、
私は皆以前よりの旧例にて、御上座に罷り有るだけですから、式対には及びません。伊賀殿の御次に
移りましょう。」

そう言って座を立ち伊賀に「どうぞこちらへ」と促した。伊賀守は大いに恥じ入り
「さては年寄りに不覚の義を申し出してしまい、御座敷の妨げとも成ってしまいました。
御譜代でもあり、事に御感状の数も二つまで多く所持しておられるのです。先程の慮外は是非とも御免なさって
下さい。私はどうかこの座席に差し置かれて下さい。」

そう断りを申したが、これに対し出雲は全く承引せず、伊賀に強いて上座を請うた。この応酬は止まず、
その座にあった侍大将の柴田、長尾も扱いかねて、後日謙信公への御披露に及んだのである。

謙信公は余事と異なり、武辺の出入りに関しては深く評議を遂げ、御入念を以てされていたので、
これをお聞き召されると、先ず七組衆、十一人衆、二十一人衆を召され審議の上で、このように仰せになった

「森出雲は感状多く、殊に譜代覚えの者であり、下座に着く謂れはない。
また槇伊賀は感状の数は劣っていても、一日の内に十一度まで一番鑓を合わせ九人の侍を討ち天下無双という
感状を取った事、これは名誉であるからこれも下座に着き難い。
よって両者別れ、対座有るべし。

その上で、今回双方が口説(口論)に及ばず、謙譲を第一にして強みある論談をなし、その中でも
出雲は最初からの応対における慇懃の様子、考えうるに非常に結構な式対であった。」

こうして両人同座に召され、森出雲には信國の刀、槇伊賀には大原實守の脇差を賜った。
この時謙信公は

「両腰とも、この謙信が度々手づから人を斬った刀であり、金良きものである。」との御言葉があった。
(乍両腰謙信度々手つから人を切り刀金よしとの御言葉あり)

(松隣夜話)

上杉家における席座についての公事のお話

653 :
長可も忠政も癖が強いから単に合わなかっただけと思うw
どっちも不要の波風と人間関係に角立てまくりながら
やることやった上うまく乗り越えて結果オーライで治る
という評価の難しい人物
家臣団が優秀だっただけかも知れんけど

654 :
>>651
いつ斬られるかとハラハラした

655 :
>>653
忠政は川中島でも津山でも暴政やらかした実績あるぞ。
長可は芋川一揆を強引に鎮圧したけど、あれは状況が状況だったし、
それ以外に苛政とか暴政と言えるようなものはあまり見当たらない。

656 :
https://www.yugen-corp.com/wp-content/uploads/2018/05/R0019795.jpg
ちなみに最上氏が奥州一だった証拠です

657 :
>>653
罪の無い門番を殺したりするくらいだよね

658 :
>>652
面倒くさい、ただただ、面倒くさい

659 :
出てると思ったらまとめサイトで見当たらなかったザビエルの有名な日本評
「此国(薩摩)の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚く
べきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思わず。
彼等の間には基督教諸国に有りと思われざるもの一つあり、即ち武士は甚だ貧しきも、武士にあらずして
大なる富を有する者之を大に尊敬して、甚だ富裕なる者に対するが如くすることなり。又武士甚だ貧しく
して多額の財産を贈らるるも、決して武土にあらざる階級の者と結婚することなし。賤しき階級の者と結
婚する時はその名誉を失うべしと考うるがゆえなり、彼等は此の如く富よりも名誉を重んず。此国の人は
互に礼儀を尽し、又武器を珍重し、大に之に信頼せり。彼等は常に剣及び短剣を帯し、貴族も賤しき者も
皆一四歳より既に剣及び短剣を帯せり。彼等は少しも侮辱又は軽蔑の言を忍ばず。武士にあらざる者は大
に武士を尊敬す。又武士は皆領主に仕うることを喜び、善く之に服従す。思うに此の如くせざれば名誉を
失うと考うるが故にして、之をなさざるが為め領主より罰を被ることを恐るるが故にあらざるが如し」
「当地方は物資少く、我等の肉体に過剰の物を与えんと欲するも土地之を許さず。彼等は家畜を殺して食
うことなく、時々魚を食す。米及び麦あれども少量にして、野菜は多く果物は少しく産す。当国民が甚だ
健康にして多数の老人あるは驚くべきことなり。」
天文十八年十月十六日 鹿児島よりだされた手紙なので実質は薩摩評
貧乏とか米麦が少なく野菜が多いとか大内さんとこいった時はどう思ったんだろう

660 :
薩摩がまともに豊かになったのって、明治入ってから?

661 :
サツマイモからかな

662 :
薩摩藩なら調所広郷の改革と借金踏み倒しと密貿易辺りからじゃなかった?
薩摩の下々まで豊かになったのはー、いつ頃なんだろね

663 :
昨晩畑にクソしたら次の日に掘り出されて芋と一緒に焼かれて御膳に出たって話は鹿児島の民話だったよな

664 :
>>655
        _,.._,.=-_-、
      ,r;r '´     `ヽ
    ,r:i'          ヽ
   /::::;!           ヽ
   ;!:::::::'! .,     _   _,.......i:、
  ;i:::::::::::::l.  ,;r''_:::::'' ::r_;ニ;.:l:::i
  r'::::::::::::r   "'"`=';' '  i:::`;::::l:;!
 /::::::::::r:ミ ;::::.   ´'´ r  )´ '::l!
 !::::::::::::、_,.::::::    /.:::::::::ヾ、.::l
  ヾ:::;、::::!::::::. ..::' ';':::::::::::::::::ヽl!
   `  ヾi ::::::ミ:、-':::::;:r―::、:::ij;!
     ,.r!i  ミ::_;::::''::::::::::::::;r/::`::::-.、
  ,...-:::::::::/ `r、__,-―--‐'´ /::::::::::::::::::::::..、
:::::::::::::::i'' ー-'r--r.、´ヽ   /::::::::::::::::::::::::::::::::`::、

       ネーヨ [Naryo.W]
      (1915〜1985 ポーランド)

665 :
>>662
江戸時代に旅行に来た医師の日誌に寄ればさつまいもが到来してからは食事・栄養面的には全国でも豊かなほう
ただし、島津 重豪登板後財政状態が悪化して税金高くなっていくので、さつまいもからその頃あたりがましだったのでは?
明治以後?とりえだった貿易港としての収入が無くなって砂糖もライバル増えて西南戦争もおこりました

666 :
甲州浪人の落合彦介は上杉謙信公の御下へ参り、度々走り廻り心ばせある働きを仕ったとして賞禄を給わり、
御側二十八人の内に加えられた。
ある時、謙信公が槍間において彦介を御覧になり、このように言われた
「武田勝頼の小姓である阿部加賀が、十余年以前に川中島にて汝を討ったとして、武田信玄はこれを悦び、
加賀に褒美を与えたという旨を、武笠という者が語ったのだが、これは阿部加賀守が見間違えたのか、
また余りにそう有ってほしいと、無い事を作って言ったのか、どちらにしても武田家中にてこれに過ぎる
大いなる弱みはない。
『三人行則有吾師其不善者而改之』という。我が配下の者達も、深くこれを思い相嗜むべきである。」
(論語・述而第七より「三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之」(三人で同行すれば、
必ず自分にとっての師となる人がいる。善き人を選んでこれに従い、不善である人については、これを
反面教師として自身を改めよう。))
そのように若き者達に、彦介、武笠を例として御異見を加えられ、またこのようにも仰せになった
「一切のこと、その中でも武辺については、有体にして我が心を証人とするより外は無い。
心を証とせずして取り囃し、言い成したる事は、必ず弱き事である。
結構なる働きをしたにもかかわらず其の名隠れ埋もれたとしても、心を証としていれば恨は無い。
君子は独りを慎むものだと聞いている。」
(松隣夜話)

667 :
>>646
なお、この話
上水道の上に乗れたことから
福山の上水道が、当時暗渠化してたのでは?との証拠でもあって
当時の上水道の研究では、引用されがちな話でもあり
福山旧水道のWikiでも
水路は道の中央にあった事が語られたり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E6%97%A7%E6%B0%B4%E9%81%93

668 :
長(続連)、神保(長住ヵ)が相謀り、上杉謙信と取合を始めんとする時、長は安土へ行き、織田信長に謁して
このように申し上げた

「ご存知のように、上杉輝虎は強き将であり、我々両人が相約し、敵対の色を見せれば、無二無三に押し来て
我等が首を切られることは目前であります。彼は大身である事と言い、その強さといい、殊に弓矢の道に
とっては神変とも申すべき名将ですから、我等の僅かな小勢ではどう考えても叶いません。
そのようにして負けた場合、我等は今年生まれた児童まで、越後衆に殺されてしまい、根を絶ち葉を枯ら
されるでしょう。

ですのでその時は、信長公ご自身の出馬があるか、そうでなければ柴田(勝家)、羽柴(秀吉)等の
数将を差し越され、我等が首を切られないように防戦されるとの事であれば、我々は二の足を踏むこと無く、
一筋に謙信と取合を始めます。

しかしそう出来ないのであれば。我等は妻子を世に立てるために艱難を凌いでいるのですから、輝虎と
対陣することは出来ません。」

そう、面と向かって申し上げた。信長はこれに大いに納得し、即座に誓紙を書いて長に与えた。
これによって長続連も二心なく安土の味方となることを決めた。

(松隣夜話)

いわゆる手取川合戦に至る、信長による長続連への援軍派遣を決めた時のお話。

669 :
>>668
連龍じゃないのね、これは。
信長出馬か勝家、秀吉出馬の下りは、いかにも結果を知ってますから感が強い。

670 :
とは言うものの物語としては面白いです

671 :
天正四年五月朔日、上杉謙信の軍勢は長(続連)の城に押し寄せた。二万の軍勢を二手に分け、河田豊前(長親)、
柴田掃部(新発田長敦ヵ)、直江山城(大和守景綱の間違い)、北條丹後(高広)、荒尾一角、上村党一万にて
城を攻め、中條五郎右衛門(景泰ヵ)、甘糟近江(景持)、北條伊豆、竹股、色部、白屋、土岐等を御旗本に
加えて一万余の兵が松任に備えた。これは城の落ちない内に織田信長の加勢が来た場合に、戦を決するためで
あった。
謙信は甘糟近江に「汝のすっぱ(忍)を越前筋の五里を限りとして入置いておくように。信長勢の者共は
何れも陣所に柵の木を結んでいると聞いているが。」と密かに申し付けると、近くの者ばかりを召し連れ
諸手を乗り回し下知をなされ、大変念入りになされた。
織田信長へは長(続連)より、謙信が越中に御着陣されたその日より使者が立て続けに送られた。
『今回、もし首尾御違いに於いては、我等は輝虎旗下となり、先手を致して越前をその日の内に押し破る
でしょう。』
このように申し越したため、信長より後詰として差し越された人々は、柴田修理(勝家)、佐久間玄蕃(盛政)、
丹羽五郎左衛門(長秀)、長谷川於竹(秀一)、前田又左衛門(利家)、木下藤吉(秀吉)、徳山五兵衛(則秀)、
氏家卜全(直元)、滝川伊予守(一益)の大将九人、都合四万八千を松任の南大聖寺ヶ原へ差し越し、謙信の
陣所とその間二里であった。
しかし上方勢は恐れて河を越えようとせず、一方の越後勢は彼らを物ともせず、旗本一万は松任に備え、後詰の
受手を心がけ、先衆一万にてくり盾を突きにわか攻めにして、ただ一日に乗っ取り、長筑前守兄弟を初めとして
上下男女二千六百余人を撫で斬りとした後、直ぐに大聖寺後詰の陣へ謙信は使いを立てた
『明日卯の刻(午前六時ころ)、その方に謙信参り一戦を遂げる。』
そう申し越され、二万の人数を一所に集め、前後左右の手配りを丈夫にされ、一の鐘にて緒軍準備をし、
二の鐘にて武具を構え、三の鐘にて討ち立つ擬勢を見せた。
これを信長衆聞くと、前日に「河を越えて木下藤吉、佐久間玄蕃を先鋒として有無の一戦」と決した時の
気色は既にうち替わり、前田又左衛門、丹羽五郎左衛門が一番に崩れ河を引き返した。これを見て織田軍は
諸手騒ぎ、暁天に敗軍して、大聖寺河を急いで越えようとしたため歩騎数百人が流死したが、それにも拘らず
我先にと、跡も見ずにまだ夜も明けきっていない内に越前まで引き取った。
謙信は夜が明けて卯の刻、大聖寺に押し寄せ見てみれば、武具、馬具、兵糧所々に捨て置かれ人は一人も
無かった。謙信は大いに笑われ
「今まで堪忍出来かねず、蹴散らして河へ切り込んでやろうと思っていたのに、そこをよく察して
夜逃げするとは、然しながら聞くに違わぬ、信長家中の名人共である。」
と、却って褒められた。
(松隣夜話)
いわゆる手取川合戦についてのお話。どうでもいいけど松隣夜話、上杉家中の受領名や仮名は適当なのに、
信長家中についてはやたら正確なのは何なんですかね。

672 :
越後から会津に移封なったりそのあと米沢にまた移封なったりで記録散逸したのかねー

673 :
松隣夜話が作られた時代には織田・豊臣関係は資料が豊富そう
他の大名家はホントに縁がないと資料当たるの難しそう

674 :
おおかた上杉綱憲の御用学者が書いたんだろ

675 :
貝原益軒は黒田藩の御用学者
と書いたら貝原益軒を中傷していることになるのだろうか

676 :
>>674
松燐夜話は、原文読むと解るが、基礎的な年代の間違いや文字の当て字がやたら多く、御用だろうが「学者」の書く文章ではない。

677 :
松隣夜話の作者と目されるひと
宇佐美勝興
1590−1647 江戸時代前期の兵法家。
天正(てんしょう)18年生まれ。越後流(えちごりゅう)軍学の祖といわれる宇佐美定満の孫。
尾張(おわり)名古屋藩,常陸(ひたち)水戸藩をへて,寛永19年紀伊(きい)和歌山藩主徳川頼宣(よりのぶ)につかえた。
正保(しょうほ)4年11月死去。58歳。
名は別に良賢。通称は造酒介(みきのすけ),神徳左馬助。著作に「武経要略」。

678 :
石高半減で意気消沈の上杉家が士気向上のために手を組んだのは勝興の子の定佑
綱憲はまだ幼少の時期なんで実際に動いたのは親族の畠山や吉良

679 :
WIKIみただけだと宇佐美定満の子孫というのがまず嘘っぽい?
甲陽軍鑑に対して上杉方の主張として支持得たのかな

680 :
ウィキペディアのコピペ
定行の活躍を伝える『北越軍記』の作者は、紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕え、越後流軍学を講じた軍学者宇佐美定祐と考えられる[27]。
そして定祐の父・宇佐美造酒助勝興は、宇佐美家に伝わる系譜類によれば、定行の孫つまり勝行の子とされる人物である。
勝興は駿河を経て、尾張藩主徳川義直に仕官したが、喧嘩の仲裁結果が義直の意に沿わなかったため尾張を出た。
その後、水戸藩主徳川頼房に400石で召し抱えられたが、讒言によって水戸を去り、徳川頼宣の許に
至ったと系譜類は伝える[要出典]。

681 :
一方、小幡景憲門下の軍学者小早川能久の記した『翁物語後集』によると、宇佐美三木之助(造酒助勝興)は
稲垣重綱に仕えた料理人の子であり、のちに重綱の右筆となって、当時編集作業中であった『甲陽軍鑑』の筆写を任されるが、
無断で作成した副本を持ち出して出奔。
駿河を経て、徳川義直の許にいたが、足軽の女房に手を出したのを咎められて尾張を逃げ出し、その後、
水戸を立ち退いてからは行方知れずになった、とする。
水戸を去った経緯については、頼房への仕官の話を聞きつけた上杉景勝が旧臣の家系を抱えることを望み、確認のため
かつて謙信に仕えていた畠山義春に問い合わせたところ、定満は子を残さず没したことが判明。
まとまりかけていた仕官の話は立ち消えとなり、勝興は紀州へと去った、とする記録もある。
また、代々宇佐美家には、定行あるいは勝行の数々の軍功に対して出された上杉謙信・豊臣秀吉・小早川隆景ら
著名な大名による感状が伝えられてきたが、これら書状群は偽文書の可能性が高い[要出典]。
これらの点から、宇佐美家とは血縁の無い勝興・定祐の父子は、系譜・書状の偽作や『北越軍記』等の
軍記物の執筆によって、名軍師宇佐美定行を創出するとともに、その定行を祖とする越後流軍学を引き継ぐ
宇佐美家の子孫という由緒を手に入れ、紀州藩お抱えの軍学者になったと推測される[要出典]。

682 :
地元の藩は江戸時代の主流は甲州流でしたけど、役にたたんといって幕末に戦国時代の軍法とかを元に再編、更に西洋式に移行しましたけど
それより後に成立した軍学はやっぱり怪しい臭いがしてきますね

683 :
歴とした戦国武将で関ヶ原、大坂の陣にも参戦し、
大身の旗本になった小幡景憲の甲州流軍学さえ怪しいもんなんだから、
江戸時代に成立した越後流、楠流といった軍学はちょっとねえ…

684 :
「スッミッ」
島津義久の長女お平様(於平)は島津義虎に嫁ぎましたが息子が秀吉の怒りを買いお家断絶となりました。
その後義久の元に帰り、お膝元の上井於御屋敷で暮らすことになります。
そのお屋敷から海までの道は「スッミッ」と呼ばれていて由縁はお平様がお潮を汲みに通ってた道だと伝わっています。
出展 霧島市教育委員会がお墓近くにたてたパネル
パネルを見に行った時近所に住む方にお話しを聞く機会がありまして伺った所、お平様本人が飼っていた魚の為に
侍女と一緒に自身で汲みに行っていたというのが伝わっているそうです。
嫡男死んでお家断絶している状態ながらも意外と元気そうに暮らしていたのでこちらへ

685 :
於平様自身は1603年52歳で没していますが、よく考えれば長男以外の子供は元気に生きていて、、
嫡男も朝鮮出兵サボタージュの理由は独立して大名として扱うよう直訴したことが却下されたことなので
取り潰し無くても伊集院家みたいにその後粛清される可能性も有った事考えると割と幸せな部類だったかもしれません。
お子さんお孫さん寿命短かったりトラブルに巻き込まれたりしがちなので波乱万丈な血筋ですね

686 :
享禄元年、上野国青柳城主の赤井照光が、初春の祝として甥である同国舞木城主の俵五郎秀賢の御座に、
供人少々にて向かっていた所、近藤という場所にて五、六人、八、九歳ほどの童子が集まり、狐の子を捕らえて
打擲していた。
赤井照光はこれをはるかに見ると、供の鉢形惣次郎を以て児童共に銭を与え、狐の子を助け離した。
晩頃に帰城した所、助けた狐の親が人と化けて照光の馬の前に畏まり、このように言った
「私は今朝あなたが助け給うた狐の親であります。君の御厚恩、何を以てか報じ奉らん。
今、君の御居城である青柳は勝地であると雖も、敵が寄せやすく、味方の千騎が敵の百騎に等しいと
言えるでしょう。その故は、あなたの御先祖である照重公、去る文治四年に赤岩屋敷より青柳に築城あって、
この享禄まで城主七代、年数三百四十一年、武勇盛んにして子孫繁栄と雖も、現代は国衰え、民苦しんで
城中日々衰微しています。
その証拠は、例えば広沼は敵を防ぐためのものでしたが、現在は田畑と成っており、擁護の神霊も手を
貸せません。その上諸国乱世と成って、去る永正九年に武州鉢形の城主を始め、同十七年に上州高田の城、
大永元年十月二十三日武州杉山の城、同四年正月十三日武州江戸の城落城しました。戦が弱いわけでなく、
擁護の神霊が威を失い給う故なのです。
このような乱世においては、名城に移らせ給うべきです。館林に築城あらば、当国の名城と成り申す。」
そう語ると消えるように失せた。
赤井照光は不思議の事に思い、その翌日、大袋という所に出て巡検し、屋形構え、町小路を定め、ここに
住むように成った。
その年の七夕の夜、照光が南面に出た所、衣冠正し客が庭前に立っていた。
照光は怪しみ、何者かと聞いた所、客答えて曰く
「我は当国無双の稲荷、新左衛門という者である。過ぎし春、告げる所の築城をあなたは思い立たされた。
我がその城取り(縄張り)を参らせよう。」
そう言うとたちまち白狐となり、そのあくる夜より多くの狐火を立てて城取りし、その内容は本城、二、三の丸、
合図、物見、鐘鼓の場、武者溜、七重の築城、八重の堀、外曲輪、町家に至るまで軍書に違うこと無かった。
照光は奇異のことと思われ、その通りに築城して住まわれた。現在、城中の鎮守八幡宮に、青柳の稲荷宮を
勧請してあるのはこの謂れによるのである。
(館林盛衰記)
館林城の築城由来

687 :
武州杉山の城、って築城時期が「杉山城問題」として問題になっている
城跡だけ見たら難攻不落に見える杉山城?

688 :
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

(眞田記)

実際には真田信之と小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。

689 :
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。
大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 :
東国無双の娘なのにな

691 :
豊臣秀吉公が御他界された時、その嫡子である秀頼公は幼少であったため、御遺言に寄って天下に
四奉行(原文ママ)を定め置かれた。そして東国表に事が起これば家康公鎮め給えと有った。
さて、石田治部少輔(三成)は天下を奪うべき邪念を持っていたが、家康公を先に滅ぼさねばそれは
成り難しと考え、上杉景勝と申し合わせて景勝に反逆の色を立てさせた。これに対して家康公御父子は
軍勢五万八千にて御発向された。そして家康公は下野国宇都宮まで御下向され、秀忠公は同国小山に
御陣を据えられた。
この時、真田安房守(昌幸)も家康公に相従い下野国佐野の天明(現在の佐野市天明町)まで出馬していた。
天明より宇都宮まで上道九里、宇都宮から小山へは天明の方向に向かって四里という場所であった。
ここに於いて、石田治部少輔方より真田へ書状を以てこのように伝えてきた。
『今度景勝反逆の事は、某が申し含めた、家康を討ち取る企てである。其の方もこれに与し、家康を
討ち取るのだ。さすれば、其の方の本国である信州は申すに及ばず、甲州も其の方の故主である信玄の
国であるから、この両州に駿州も加えて与えるであろう。』
そう熊野の牛王に誓紙血判して遣わされた。
これを見て真田は俄に心変わりをし、家康公を討とうと考え、幸いにも子息の伊豆守(信之)が家康の
御旗本に在ったため急使を遣わし『談合すべきことあり、急ぎ天明へ来たれ』と伝えた。
そして伊豆守が天明に到着すると、安房守はこのように言った
「其の方を呼んだのは他でもない、今度の上杉景勝の反逆の事、彼一身の企みではない。石田治部少輔と
牒を合せて、家康を討つという謀計なのだ。景勝の反逆として家康が関東に向かえばその跡より軍兵を
起こして家康を討ち取るという。然ればこの安房守には、景勝と牒を合せて味方すれば信甲駿の
三州を宛行うとの盟誓の状を石田方より差し越した。であれば、其の方のため、又子々孫々のためであるから、
其の方が家康を討ち取るのだ!」
これを聞いた伊豆守は
「最もな仰せであります。ですが其の事は是非に及びません。何故ならば、家康公はその威儀を見るに、
中々謀にて打てるような人物ではありません。逆に石田に与すれば、幾程もなく滅びてしまう事明らかです。
家康公に与し給われば、子孫長く永福となるでしょう。」
これに安房守は
「其の方には分別が無い!どうして三ヶ国を領すると思っているのか。私には既に余命がない。これは皆、
其の方のためではないか!」
そう強く翻意を促したが、伊豆守は頑なに同意しなかった。安房守は仰天し、立腹して
「其の方は妻子に心が残っているのか!これは勇士の業ではない!」と色々の悪口に及んだため、
伊豆守はその座を立ち破り、馬に乗り鞭を揚げて宇都宮に帰り、家康公にこの趣をありのままに申し上げた。
家康公はこれを聞いて
「伊豆守が忠義の程、山よりも高く海よりも深い。これはそれを忘れまじき証拠である。」
として、差されていた脇差の下緒の先を切って伊豆守に与えた。
(眞田記)
いわゆる「犬伏の別れ」についての内容ですね。この場合は天明という場所ですが。

692 :
南部信直・利直とプロパガンダ

青森三戸では三戸斗賀霊験堂・善徳院によって熊野権現の申し子という南祖坊が八郎太郎を討伐して十和田湖の主となる「十和田の本地」が作成された。
三戸を本拠とした南部氏は、『祐清私記』で利直の武勇は夢に南祖坊が現れたためであると記したように、十和田湖の青龍権現と南部氏を結び付けることで三戸における存在基盤を宗教面から確実にした。
「十和田の本地」を作成した善徳院こそ、南部氏の陣僧的存在であった。

慶長4年(1599年)に岩手盛岡へと移った南部信直・利直はひとつの問題に直面する。
南部氏の霊地である十和田湖との距離が遠くなり、一方では盛岡城下から仰ぎ見える岩手山・早池峰山・姫神山の祭祀を管理することになったのである。
岩手山を「領内総鎮守」として5月27日を祭礼日に定め、山頂に奥の宮、山麓の登山口3ヵ所と城下に新山堂を設置、登山3ヵ所は三戸の修験を連れてきて祭礼にあたらせた。
しかし話は単純ではなく、存在基盤を宗教面から確実にするためには岩手山と南部氏を結び付ける必要があった。

南部氏より以前の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏や、その流れを組む栗谷川氏が大宮司として祭祀を管理していた。
『岩手山記』によると、坂上田村麻呂が行基作の阿弥陀・薬師・観音を岩手山に祀り、霧山嶽(岩手山の古名)で高丸・大嶽丸・吹落という鬼神を討伐した。
その後は安倍氏が崇敬していたが源頼義・義家親子が盗み、前九年の役で安倍氏を討伐して高家となった。
源氏に相伝された三尊仏は源頼朝の守護仏となり、工藤行光が拝領して岩手山の大宮司に任命されて元に戻った。
文治5年(1189年)に奥州合戦で軍功をたてた工藤行光が頼朝からこの地を拝領したことで、存在基盤を宗教面から確実にするために岩手山と工藤氏を結び付けていた。

南部氏は、この工藤氏によるプロパガンダをさらに上書きするために御国浄瑠璃『御山本地一代記』を創出した
物語後半で田村将軍利仁が岩手山の鬼を退治して岩鷲山大夫権現として荒人神となり、田村将軍に付き従った斎藤五郎なる人物が祭祀をする。
斎藤氏は、工藤氏に仕えて岩手山の別当として祭礼を司ったが、南部氏が盛岡へと移ってきたため、禰宜を堅持するためには南部氏との関係を構築する必要があった。
南部氏にとっても禰宜である斎藤氏を取り込むことで岩手山の祭祀をスムーズに引き継げた。
思惑が一致した両氏は岩手山の阿弥陀・薬師・観音を岩鷲山大夫権現に置き換え、南部藩の職称別号「大善大夫」を「大夫権現」として見立てた。
また岩鷲山大夫権現=南部氏とした上で、岩鷲山大夫権現となる田村将軍の家臣として斎藤五郎なる人物を登場させた。
『御山本地一代記』には他にも様々な仕掛けが施されている。

正室が田村麻呂の子孫を称した田村家出身であり、御伽草子『田村の草子』の内容を支配地域にあわせて変更した御国浄瑠璃『田村三代記』を作るだけで、意図も容易く宗教面のプロパガンダを成立させた伊達政宗。
工藤行光による源頼義・義家と頼朝を使ったプロパガンダを消しつつも、工藤氏の家臣である斎藤氏を取り込みながら、南部氏と無関係な田村麻呂まで宗教面のプロパガンダに利用しなければいかなかった南部信直・利直親子の苦労が『御山本地一代記』から伺える。

693 :
東北はとりあえず坂上田村麻呂と先祖が絡んでたってのがプロパガンダの基礎になるのね

694 :
古代東北は天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰あたりがエミシに対して布教活動をしていた
東北に慈覚大師、白山神社、十一面観音が多いのは奥州安倍家と奥州藤原家が上記の宗教を庇護したから
宗教は民衆の支配にも使えるしね
でも前九年の役や奥州合戦で安倍藤原が滅亡すると、中世には鎌倉御家人が東北に入り込んできて
彼らは宗教を庇護するだけでなく、宗教の中枢に入り込むことで一大勢力を作り上げようとした
だから戦国時代には鎌倉御家人の系統が司祭や禰宜を独占していた
伊達家にしろ南部家にしろ、この地域で本拠地が変わったり、新たな土地を獲得すると、そのつど支配者と宗教の不一致が起こる
何をするにしても鎌倉御家人系統の司祭や禰宜が邪魔になるわけ
その時の便利ワードが天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰の時代から使われてた「田村麻呂とワイらは関係あるんやでー」っていうプロパガンダ
これを宗教じゃなくて家系に取り込んで成立してた地域が三春
平姓田村家も藤原姓田村家もとりあえず支配すると坂上姓を名乗る

695 :
盲僧の官位は検校から順に、別当、勾当、座頭と大別されていた。

さて江戸時代初期のこと、匂当の位にあった盲僧・花村正一は、奥浄瑠璃(御国浄瑠璃)の名人であり、また狂歌をも良くする、たいへん機転の利く盲僧であった。
あるとき、藩主・伊達政宗公が馬に乗り威風堂々と行列している様子を道場に座り、じっと伺っている一人の盲僧。その姿が馬上の政宗公の目に留まる。

(●∀・)「汝はなんという名前か」

このように尋ねる政宗公。
これに対して盲僧は即座に狂歌をうたって返す。

「なに一字違いありとてことごとし、君は政宗、我は正一」

政宗公はこの即妙な歌に感心し、正一を寵愛して屋敷をあたえ住まわせたという。
以来、正月になると盲僧の代表が青葉城に参上し、御浄瑠璃「御所の的」「仙台状」を演奏して言祝いだという。

正一は花村匂当と称されたことから屋敷の付近は匂当台と呼ばれ、屋敷跡は仙台都心部にある匂当台公園となっている。

696 :
この前の政宗のプロパガンダの話のまとめのコメント欄に
>お国浄瑠璃は主に盲目の法師が演じていた
>政宗は仙台藩がお国浄瑠璃を保護することで
>盲目の人が自立出来る環境を作り
>庶民に支えられて昭和のはじめまで続いた
こんなコメントがあったのを思い出した

697 :
其夜目盲法師の琵琶をならして
奥上るりと云ものをかたる。
平家にもあらず
舞にもあらず
ひなびたる調子うち上て
枕ちかうかしましけれど
さすがに辺土の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる。

松尾芭蕉『おくのほそ道』


大坂の人形浄瑠璃って、劇場があってお金を貰ってっていう現代的なエンターテインメントだけど
東北の奥浄瑠璃は盲法師への福祉政策として庶民が支えるためにやってた節もあって
それが仙台藩を中心に盲法師や巫覡によって昭和初期まで神社仏閣で演じられてたって、ちょっと意味がわからないことやってんだよな
文化をプロパガンダにも利用したとはいえ、根っから好きじゃないとここまでの保護は出来ないし
京や大坂に勝るとも劣らない東北独自の文芸文化の基礎を、盲法師を保護しつつ作り上げた伊達政宗は民俗学的にはかなりやべーやつ(褒め言葉)

698 :
秀吉の時代には興業が京都であって、その後すぐ江戸でも流行しているからどっちかで見に行っていたんでしょうね
なんか、へうげものの絵柄で想像してしまうw

699 :
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

(眞田記)

700 :
>>697
毛利元就「ワシも彼らの琵琶には良く助けられたよ」(意味深)

701 :
琵琶は精力剤として古くから知られてきたからなあ
タネが大きいから子宝に恵まれるという意味があるし

702 :
夜食べると毒(意味深)

703 :
元就は浣腸して各地に琵琶法師送ってたんだっけね。

704 :
元就「この下痢グソ痴態バラされたくなきゃ情報あつめてこい

705 :
北条氏所縁の娘、香沼姫

小田原城郭の百姓曲輪跡の西に、地元では"おみともさん"と呼ばれる墓がある。
『新編相模国風土記稿』によると、北条氏綱の娘香沼姫の邸跡であり、終身処女で暮らしていた。
香沼姫は氏直の内室(家康の娘、督姫)と親しく、いつも和歌の贈答などがあった。
北条氏の没落後、香沼姫が(藤原)定家の真蹟歌集を持っていることを家康が知って
督姫から旧好のよしみとして御所望があったので、(香沼姫はその歌集を)献上した。
その褒章として化粧田を賜うようにとの命があったが(香沼姫は)固辞し、居邸の地の
永代の諸役免除を願ったので免許され、家康から直筆の御消息が下されたという。
元和三年四月二十日香沼姫が亡くなったので、その遺言により居邸を山本外記の屋敷とし
その山上に葬られた。そのことを示す石碑が今もある。
山本外記は、元は渡邊外記といって北条氏の命令で傅役となっていたが、香沼姫の側仕えをしていた
山本氏の娘(香沼姫の母方の親戚)が外記に嫁したので、山本姓を名乗ったという。

706 :
なんだか性格が優しい感じが伺えるね

707 :
その頃。尾張国の守護であり、平相国清盛公二十一代の後胤である織田上総介平信長は(この場合の「守護」は
室町幕府の役職ではなく、単にその国の支配者という意味で用いられている)、武道に長じられていたため、
先の駿河国の守護。今川義元を討って三河遠江両国を従え、次に美濃国の守護斎藤右兵衛太夫龍興を滅ぼし
美濃国へ打ち越し、岐阜の城に居給いける。

その後、永禄十年春の頃、信長は数千騎を率いて伊勢国へ発向され、先手の兵たちは久須の城に押し寄せ攻め立てた
ところ、城中叶い難く思ったか、降参して先陣を申し請けた。その他当国の住人等降人に参る輩多かった。

こうして、神戸蔵人(具盛)の家人・山路紀伊守、子息久丞が立て籠もる高岡城に押し寄せ攻め立て、町口悉く
放火した。神戸城は北伊勢の要害であるので、すぐには落とせぬと見てこれより先ずは御勢を引き上げた。

翌永禄十一年の春、また信長は数千騎を率いて北伊勢へ出張し、高岡まで押し寄せると、北伊勢の侍たちの過半は
その味方に参った。ここに於いて、信長は神戸蔵人太夫方へ使者を以てこう宣った

『現在、源氏の輩は無道にして国土の乱逆は未絶である。故に信長は、苟も平氏の苗裔として、身をくだき
朝暮弓箭を放たず某逆の輩を討って国土を安んぜんと欲している。

御辺は平家の嫡流である、どうして一家の者と戦うのか。速やかに和睦し給え。
私が聞いている所によると、御辺は蒲生下総守定秀の娘の腹に一人の息女が有るが、子息は無いという。
私には数多の子供が有る。一人を養子に遣わそう。』

これを聞いて蔵人太夫も
「仰せの趣忝なし。」と同意し、直ぐに扱い(和睦)となった。これによって信長の三男、三七殿といって
この時十一歳の若君に、幸田彦右衛門を乳人として、その他岡本太郎左衛門、坂仙斎などという侍たち数多を
相副えて神戸家への養子に遣わされると、直ぐに祝言は調った。
こうして神戸蔵人太夫、嶺治部少輔、関安芸守を始めとして味方奉れば、北伊勢の侍たちは一編に従った。
そして上野城には信長の弟である織田上野介殿、安濃城には織田掃部助殿が置かれた。

(氏ク記)

織田信長による北伊勢攻略についての記事。

708 :
そういえば織田信長の伝記?系の漫画なんかでも伊勢攻略の段ってなぜか飛ばされるよね
美濃とったらすぐ義昭奉じて上洛してって感じで
神戸氏に息子差し出したりなかなか重要視してるのに

神戸氏も北畠氏もなかなか凄惨な最期遂げてるし描きにくいんだろうか

709 :
>>708
三河は安泰、信玄とは懇ろ。伊勢が安定するとこのときなら後背の不安がなくなり、上洛しやすくなるもんねえ
上洛に備えた事前作戦だから地味は地味だけど

710 :
北伊勢侵攻は1567年初め〜1568年半ばで、義昭が頼ってきたのは1568年7月
中小国人ひしめく北伊勢に勢力を伸ばした結果、
それまで北伊勢に影響力を持ってた南伊勢の北畠や近江の六角との対立が始まり
強力な敵を増やした藪蛇なわけで
上洛の事前作戦とはそこまで関係ないかと

711 :
>>710
その前に一回頼られて、破談になってる。詳細は忘れたけど、六角の情勢かなんかじゃなかった?

712 :
>>708
信長公記に書かれてないからじゃないかな。

713 :
なんで太田牛一は伊勢攻略書かんかったのか
何か書くとまずいことでもあったんだろうか

714 :
>>713
内容が薄いだけで巻二に出てくる。それよりエピソード0みたいな首巻がいい加減なのが気になる。後から書いたにしても、まだメモ魔じゃなくて記録がなかったのかな。
そのメモ全部どっかから出てきてほしい。

715 :
首巻に関しては太田牛一が書いたってのも怪しいんで、牛一本人が首巻の存在を記述してないはずだし
伊勢攻略に関わってなかったから書きたくても書けなかったとかなんかねー

716 :
単純に伊勢攻略が比較的うまくいって
あまり特筆することがないからかと

長野神戸北畠どれも家としては
一族養子にして吸収してしまってる
旧当主が不満から策動してたりはあるけど
いずれも大きな動きに発展せず成敗されてる

そこを細かく描写し始めるとかなりややこいし
マニアックな割に盛り上がらないから
さらっと流される傾向あると思うよ

信雄とか信包とか大河ドラマになりでもしたら
クローズアップされる機会もありそうだが
何処かが後押しするような人物でもないし難しいな

717 :
秋田県知事の佐竹さんは佐竹家と関係あるの?

718 :
あるよ

719 :
>>717
そうだよ
関ヶ原の役で秋田に転封されてるからな
佐竹北家出身だった気がする

720 :
>>716
世間の人が求めてるのは伊賀忍者vs信長とかそういうことでしょう

721 :
>>718
>>719
ありがとう!
ふと何百年経った頃には「令和ちょっといい話」とかがあって、秋田県民、佐竹知事の呂律をかばうこと、みたいな記事ができたりするのかなー、と妄想したw

722 :
>>720
伊忍道か

723 :
打倒信長か

724 :
妖術師ニコラス

725 :
小牧長久手合戦の時のこと。
尾張国竹ヶ鼻城では不破権内(綱村)の子息である源六郎が立て籠もり、織田信雄に合力していた。
そこで羽柴筑前守秀吉はじめ、その他の大名はこの城に押し寄せ攻め立てた。これに城中の兵たちは
「寄せ手の軍勢に比べれば、自分たちは大海の一滴、九牛の一毛である」と、叶うとも見えなかった。

城主の賀々井駿河守は謀りを廻らし、五月六日の夜、寄せ手の陣へ夜討ちをかけようと、伊勢国住人である
嶺、久須、千草、上木の四人を大将として、子の刻(深夜0時ころ)に追手の門より打ち出た。

実はこの内の千草は、蒲生飛騨守氏郷の母方の叔父であり、宵の頃より飛騨守に対して知らせが有ったという。
されば蒲生氏郷は「氏郷でなければ手に合わない」と、真一番に掛け合って戦われた。それに続いて
上坂左文、小坂といった侍たちが左右に従った。
その他、寄せ手の軍兵我も我もと追手の陣へ向かった。

五月の暗闇は大変暗く、敵も味方も見分けることが出来なかった。敵が二人落ちて来たのを、氏郷が
「何者か!?」と声をかけると、彼らは偽って「浅野弥兵衛家臣、生駒弥五左衛門!」と名乗った。
しかしこれを聞くと「そんなわけがない」と二人共に打ち留めた、

ここに城方の嶺孫三郎は、生年十八歳、容貌美麗、また人に優れて心優しい人物であったで、天下の男女恋焦がれて
小唄などを作って謡うほどであったが、彼も真っ先に駆けて戦ったところ、味方の兵たちと共に中に取り囲まれて
生け捕りと成り、片陰にて頸を斬った。

次に久須は生年十六歳、これも無双の若衆であったが、同じく氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

千草は当時六十歳ばかりの人物であったが、これも氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

上木は歳三十ばかりと見えたが、これも討ち死にした。

こうして城方は敗北し、落ちてくる敵はその数を知れぬ程であった。
また関勝蔵の家子・佃又右衛門は追手の門際まで攻め寄せ、比類ない働きをして良き頸を取ってきた。
或いは、敵が「蒲生の者である」と名乗って氏郷の前に来たのを討ち留めたのも多かった。

敵は蜘蛛の子を散らすように落ちていくのを、氏郷主従三人はその真ん前にて突き倒し、斬り伏せ、頸を獲った。
その他、寄せ手も大勢が頸を取ること、その数が知れぬほどであった。

暫く戦っているうちに夜も白々と明けると、氏郷は左文、小阪を召して、自分の鑓を突き出し「これを見よ」と
言った。その鑓はササラのように成っていた。氏郷の鑓下の頸が曲がって、鑓の柄に血が朱に流れていた。
左文、小坂の鑓も見た所、ササラのように成っていた。
その時氏郷は
「今夜の合戦は、この三人のみが骨を折ったのだ。」と申された。
寄手の方が討ち取った頸数、都合四百余の内、氏郷の手にて百余を取ったと云う。

寄手の軍兵が我も我もと追手へ寄せ戦う間に、城の大将である林与五郎、賀々井駿河守は密かに搦手より出て、
遂に尾張国へ落ち行った。

(氏ク記)

蒲生氏郷等による、竹ヶ鼻城攻めについての記事である。

726 :
いつのまにか城主が不破源六郎から加賀井重宗に代わって話が進んでいくのが不審なんで確認したら、
これ竹ヶ鼻城攻めじゃなくて加賀井城攻めの話じゃない?
織田信雄に合力していた。 と そこで羽柴筑前守秀吉〜 の文章の間の
竹ヵ鼻城は水攻めにして(加々井ノ城に攻め寄せた) って文を読み落としてると思うよ

727 :
>>726
すいません、うっかりその部分を読み飛ばして訳してしまいました。

>>725
2行目の「「その他の大名はこの城に」から、「これに城中の兵たちは」までに
↓の文章を入れて下さい。申し訳ありません。

「押し寄せ攻め寄せ、水攻めに然るべしとして大河小河を切かけ攻め破った。
それより直に美濃国賀々城へ押し寄せ攻められた。」

728 :
義久入道瑞閑、芸州下向の事

第二次月山富田城の戦いで、尼子義久は毛利に降伏し開城。そしてその身は毛利の本拠、安芸へと送られた

されば人間盛衰は時を選ばず、栄華の庭に咲く花も風の前に散り尽くし、富貴の門に輝く灯火も栄耀の光衰えてしまえば
草頭の露に消え失せる。昨日は北海の波濤を砕き、今日は山陰夕雲と立ち別れ、玉粧金鋪の台を捨て、身を漂泊旅寄
烟霞遥かの路の末、夢路をたどる心地して、女性や子供たちまで、共にうかれて、出雲路や洗合崎過ぎゆくと、
湖水は滔々として際限もなく打ち寄せる波の数、恨みを空に、掛屋の宿、三澤、赤穴を越え過ぎて、遠き山路に
行き暮れては、石の床、苔の筵に座を囲み、雪霜、雨露を踏み分けて、憂いに名を挙げる高野山の末も三好の里であり、
江の川の霧は路を閉じ、暗路の旅こそ物憂いものである。

義久の御台所が、輿の簾をかき挙げて尋ねた
「ここは何国か」

従う人々は申し上げた
「ここは以前、当方の御分国であった備後国、三好の里であります」

北の方はこれを聞くと、硯を乞い、筆を染めて狂歌を一首詠まれた

『行末は 江の川霧関留て 三好野の道や開けん』

そう詠むと、玉のように散る涙を袂に受け、伏せ転んで座された。

これを見た伊予守義久入道瑞閑は大いに怒り
「されば弓箭に携わり甲冑を帯びる武士は、盛者必衰、安危興亡の身なれば、それは吾一人に限らない!
況や阿修羅王であっても帝釈に討ち負け蓮根の穴に身を隠し。天人も五衰の日に逢うて歓喜苑に呻くという。
おおよそ武士の道とは、身を捨て名を惜しむというものである。私が今、このような憂き目に逢うのも、
妻や子供の故なるぞ!」

そう、涙に咽んで筆を取り

『三好川 霧関込る瀬々に来て 世を渡らんと名をば流しつ』

と詠まれた。哀しと云うも疎であろう。

彼を慕い従う武士は、立原備前守、本多豊前守、同名与次郎、津森四郎、原小次郎、刀石兵庫介、宇山善四郎の、
ただ七騎だけであった。
彼の道中の警護は、天野中務大輔が三百騎にて行った。

同霜月七日に、安芸吉田に到着すると、一日一夜、猿楽、能を催し、珍膳饗喰甚だしく、同九日、同国長田の
延命寺に移されると、内藤下総守、桂少輔五郎を守警として、賄賂賑饗華麗にして、彼らへの尊敬もまた
前に越えており。義久瑞閑入道も、今は身の富楽も心も解いて、己が身の罪に帰した。

(雲州軍話首)

月山富田城の戦いで敗れ、安芸に移された尼子義久についてのお話

729 :
おお、まとめ管理人さんがyoutubeに織田信長についての動画上げてらっしゃる
ちょうどちょっと前に話題に上がった信長公記の首巻の信ぴょう性についても言及してらっしゃるね

730 :
10:08で草
頑張ったなアフィ乞食

731 :
御館の乱の原因作ったのは謙信なんだってな。
景虎の子に継がせる予定だったぽい

732 :
道満はまだ子どももいいところだったから謙信がすぐ死ななくても厳しいよな

道満がいいと思った気持ちはよく分かるが

733 :
>>731
頭の中身は信玄と同じかよ

734 :
というかそれなにが出典なんす?
最近の定説だと普通に景勝に後継継がせてて御館の乱の原因は
神余親綱の他家への内通を景勝が強硬に処分しようとした結果、家臣及び仲裁してた上杉が切れて景虎立てたって話のはず

735 :
景勝が謙信から嫌われていたのは間違いないけどな

736 :
いやだから出典は?

737 :
今年(永禄十二年)の、尼子再興軍による山陰道の動乱は、山中鹿介幸盛の仕業であると、吉川元春、小早川隆景は
忿怒し安からず、
「誰か、毛利八万余騎の軍中、力抜群なる勇者は無きか、あの鹿毛を討ち取れば、懸賞はその望みに任せる。」と
触れ流したが、然し乍ら山中鹿介は日本無双の勇者にて、肢体の逞しき事、その長弓は尺を越え、矢束十八束を引き、
力は十人力を過ぎるほどであった。
天文十四年八月十五日、山中鹿介は雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶の育った屋敷にて生まれた。
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った。時の人は彼を『今弁慶』と呼んで恐れた。
今年、彼は漸く二十六歳で、五十六度の鑓を合わせ、謀は子房(張良)を呑み、武威は項王を欺く程の勇者であった。
そのため、前の尼子右衛門督晴久は、その四万余騎の群下の中より大勇十騎を選び出し、その第一の
定め初めは、当時山中甚次郎と名乗っていた彼であった。彼は兄甚太郎の鹿の前立の兜を譲られ、それ以降
武功はさらに世に響き名は高く、人呼んで『鹿介』と号した。
これほど名高く鬼神に勝る幸盛を誰が討ち取れるだろうかと、皆舌を震わせて嘯いた。
(雲州軍話首)
なんか凄いことに成ってる山中鹿介さん

738 :
>>737
盛りすぎだろw

739 :
忠義者だし范蠡にも喩えよう
息子は范蠡並の大富豪だし

740 :
>>737
勇猛な毛利緒将がガクブルとは
どんだけ強いんだ
良く覚えてないが信長からも傑物と認められてたような

741 :
>>739
三菱UFJの源流の一つだよな
三菱なんかよりよっぽど歴史が長い

742 :
戦闘民族扱いw

743 :
評判が評判を呼びすぎて花の慶次が武力100になったようなもんだな

744 :
10:08で草
頑張ったなアフィ乞食

745 :
上山城でゲットした子供用ワークシートから

沢庵宗彭は紫衣事件により京都を追放され、出羽国上山で暮らすことになった。
上山は沢庵にとって見ず知らずの土地だったが、上山の人々の助けもありそれほど不自由はなく生活できた。
それから3年後、沢庵は罪を許され、江戸で暮らすことになった。
ある時、徳川家光は沢庵が大根で漬物を作っていることを知った。

家光「その漬物の名前は?」
某「名前はないそうです」
家光「沢庵が作った漬物だから『たくあん漬け』でいいじゃん」

こうして大根の漬物をたくあん漬けと呼ぶようになったとか(異説あり)。
沢庵は上山の人々にたくあん漬けの作り方を教えていたそうで、沢庵が住んでいた上山の春雨庵では毎年「たくあん漬込式」が開催されている。

746 :
ここに石見国住人、品川半平という者があった。彼は吉川元春の陣に進み出てこのように言った
「この頃、関東には勇士があると言いますが、西国には鹿(山中鹿介)を討つ人もいない。私が一勝負仕り、
軍の睡りを醒しましょう!」
そう声高に訴えた。
彼の形相を見ると、身長は七尺(約212センチ)を越え、両眼は鬢(耳ぎわ)まで裂上がり、
手足は熊、目、口は虎に異ならなず、鉄をくり抜き。鐘の如くなる鎧を着、六尺(約180センチ)あまりの太刀を帯び、
彼が大将である吉川の陣に望んだその姿は、そのまま仁王の荒作り、又は当八毘沙門が貴見城の門に立って修羅を
攻め給う姿もかくやと怪しまれ、軍使悉く身を跪いて恐れをなした。
この時、吉川駿河守元春の長男・治部少輔元長は、その頃世に隠れ無き形相の人物であり、人は皆「鬼吉川」と
呼ぶほどの血気にて、仁義も勇も逞しき勇将であったので、彼は半平を一目見て
「さても汝の形相は、いかなる天魔鬼神も挫き、孟賁(秦の武王に仕えた勇士)の骨を砕くべき血気なれば、鹿介を
討たん事容易いであろう。先ずは受領を進むべし。」と、即時に『狼介勝盛』(鹿を狩る狼、また山中鹿介幸盛に勝つ、
という意味であろう)と名を与え、「早速敵陣に赴き、勝負を決すべし」と下知された。
狼介は喜び勇み、勇者の面目、且つ鹿を取ると名が明らかなのは自明の理であり有り難しと打ち笑い、
鋒より長い鑓を取って、大場谷の坂に望み、囲いを抜いて三度「誰人にても一人これに出給え!」と、
大音にて呼んだ。その声は余りに高く、谷峰を震わし山彦が響いて聞こえぬ所無かった。
城中では驚き、「これは如何なり、獅子象王の呻声か、事々しき音声である。早く出て事の仔細を聞くべし。」
と下知をした。そこで今川鮎介が飛ぶように走って見てみると、そこには閻魔大王に些かも劣らない大男が、
三間ばかりの鉾を携えて立っていた。
今川は驚き、「汝何者ぞ、化生か鬼か、名乗れ!」と言うと、狼はこれを聞くとあざ笑い
「我は鬼神にも非ず、石州益田住人、品川狼介勝盛という者である。御辺は誰か、名乗れ。」
鮎介はそう言われるとカラカラと笑った
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」
そういって鮎介は山中に駆け入り、山中鹿介幸盛に、かくかくと告げた。
鹿介は目を閉じ黙然とし、上帯に太刀をおさめ、十文字の鑓を取って提げ、已に出向こうとした。
これに鮎助は走り寄り、鎧の組紐に取り付いて
「不覚なり。御辺は大将の身として、一騎の勝負は避けられるべきだ。」と鑓を取って控えさせると、
鹿はあざ笑って
「敵も我も同じ人である。例え本当に鬼だったとしても、どうしてそれを見て逃げるだろうか。
況や同じ人間であれば、私の鑓に先に懸って、いわゆる夏の虫と成るだろう。凡そ勝負には、勝つも負けるも
ここにあり。」
そう言って胸をホトホトと叩いた。これに鮎助は打ち笑って「もはや勝ったな、鹿殿」と誉め称え馬に乗せた。

747 :
鹿介は急ぎ谷口に表れ出て
「いかに狼殿、鹿は大将の身であるから一騎の勝負は不覚で有るのだが、末世まで勇士の名を立てるために
ここまで出てきた!さあ、一鑓仕らん!」
そういうと狼聞いて
「さても、勝負を決するのであれば太刀打ちの勝負をしよう!」
と、鑓を投げ捨て太刀を真っ向にかざし躍り出た。その形相はただ、閻魔大王が呵責の鬼を怒るのもこの時かと
訝しむほどの形相であった。
上の山には寄手大将吉川小早川、左右の峰には伊予河野、備中の三村、大旗小旗を靡かせ「狼、鹿取れ!」と
声援し、その声はまた、大地を震わし大山が裂けると錯覚するほどであった、
鹿も馬より下りて太刀討ち合いを暫く戦った。その間狼は、右の小鬢に痛手を負い流血、その血が目に入った。
このため「今は叶わじ」と思ったのか、太刀をカラリと捨て、無手となって組み付き、鹿を取って引き敷いた。
幸盛は元来気早なる勇者であったので、下より二刀差し通し跳ね返すと、狼はまた下になって鹿の向こう脛を突き、
双方手負いとなって別々にわかれた。しかし狼は深手であり、終に空しくなった。
さても世は定めなき習いであるので、鹿を取るべき狼が鹿に取られること無惨なりと、敵の毛利勢は眉をひそめて
音も無かった。
その後、何者が書いたのか、大場谷に落書が立った
『狼が 鹿に取らるる世となれば 負色見ゆる勝久の陣』
(狼が鹿に命を取られるような、世の常の道理が逆に成った世であるのだから、道理に従えば本来は勝つはずの
尼子勝久の陣営に敗色が見える、という意味であろう。)
(雲州軍話首)
山中鹿介と品川狼介の勝負について。プロレスか格闘技の試合みたいですね。

748 :
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」
突然こんな芝居かかった長いセリフを思いついてスラスラ言えるのだろうか

749 :
このまま漫画化できそうw

750 :
身長デカ過ぎ、台詞男臭過ぎ、原哲夫の漫画かよ

751 :
まとめの4357
尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介
と同じ話?

752 :
>>751
すいません書き忘れました。こちらは
>>737
の続きです

753 :
鹿介と狼介に混ざって出てくる鮎介さん
なぜに鮎

754 :
身長7尺の紹介の段階でかませキャラ感がある

755 :
この異様に敵の凄さを強調する登場シーンに既視感あると思ったら
モブの反応まで含めてワンピースとかキングダムの世界

756 :
講談の手法が漫画に取り入れられたのでは

757 :
>>755
?「鶏を裂くのに牛刀なんかいらんよw」

758 :
>>756
だね
何か普遍のものがあるんだろうね

759 :
>>757
10:08で十分だからな

760 :
尼子伊予守義久の伯父である、孫四郎久勝、同弟・助四郎通久は(正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか)、さる永禄九年十一月、雲州富田城が没落した後は、ここかしこに身を潜め、
牢屈の悲しさに涙が尽きる日もなかった。洛陽(京都)東福寺に隠蟄し、出家遁世の姿に身をやつし、時が来れば
義兵の旗を挙げ素懐の恨みを晴らさんと、年月を風に吟し月に嘯き、怨みを山陰の雲に憤って明け暮れて座していた。
その頃、尼子一族譜代の郎従である山中鹿介幸盛。立原源太兵衛久綱、加藤彦四郎経盛も、京の嵯峨の辺りに居たが、
大江羽林(毛利元就)が九国(九州)を攻めて大乱に及ぶと聞くと、「今こそ、義兵を起こし鬱憤の旗を押し立て、
山陰道に討ち向かい、尼子累代の本領を取り返し、勝久兄弟の素懐に達するのは如何か」と議した所、
みな「尤も」と了承したため、急ぎ二条の御所に参り、委細を訴え出た。
織田信長はこれを聞くと、大いに喜んで言った
「関東では武田信玄が陰謀を呑み、西國では大江羽林が毒石を含んでいる。天下始終の魔障は、彼ら両勇である。
昔、漢の高祖は義帝を立てて秦の代を滅ぼし、周の武王は木主を作り殷の代を傾けた。幸いにいまここに、
勝久、通久の兄弟がいる。早く彼らを大将に立て、義兵の旗を挙げるべし!」
そう応じられ、御教書を調え、丹波、但馬の勢二千余騎を以て加勢に付けた。これに尼子孫四郎勝久、助四郎通久の
兄弟は、蟄望たちまち発し、虹龍が一陽の気に乗って天に上る如きであった。
尼子譜代の郎従に一言、芳恩の武士への催促を促した所、恨みを一刀の刀に掛けた兵たちが馳せ集まり、程なく
七千余騎となった。
(雲州軍話首)
しかし信玄と元就で「天下始終の魔障」とは、また偉い言われようですね。

761 :
まとめ管理人はyoutuberになりたいのか?

762 :
>>760
>天下始終の魔障
>虹龍が一陽の気に乗って天に上る如き
言い回しがいちいちかっこいいwこういうのが講談の元になったというか発展したのかな
現代にも講談→小説→漫画としてつながってる気がする

763 :
>>761
きっちり10分超え目指して10:08にしてるしユーチューバー目指してんだろうね
面白おかしい内容ならともかく史実厨こじらせた歴史ジャンルに需要あるのって気もするけど

764 :
>>760
>正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか

「はとこ」と言う

765 :
池田恒興の父母の婚儀


池田政秀(恒興の祖父)は男子がいないので、娘(恒興母、養徳院)に婿養子を望んでいた。
そのころ産婦に巧者の取揚婆々というそこかしこに雇われる者がいて、滝三四郎(滝川貞勝次男という)と
政秀の家にも出入りをしていた。

(取揚婆々は)よく両家のことを知っていたので、ある日政秀に
「滝三四郎殿は元来筋目よき御人です。幸い流浪していらっしゃるので
 御息女を差し上げられるのならば御肝入りしますよ」
と言ったので政秀は
「そうしよう。我等の家は乏しくて譲るような物はないが婿養子にしたいものだ」
と返答したので、この婆々が三四郎殿のところへ行ってあれやこれやの仲立ちをし婚儀が整ったという。


――『吉備史談会講演録』

766 :
>>765
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は滝三四郎だ!いいかい、滝三四郎だよ!」

767 :
>>766
こうでは?
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は池田三四郎だ!いいかい、池田三四郎だよ!」

恒興母は信長に乳首を噛みきられなかった人だね

768 :
鋼鉄の乳首を持つ女

769 :
小宮三四郎のネタだね。つまんねーから消えろ!

770 :
稲富一夢が事
稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。
しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。
この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。
稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。
関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。
( 丹州三家物語)
稲富祐直についてのお話

771 :
古今箱伝授のこと

烏丸殿光広、中院殿通勝、三条西殿(実条)、この三人の人々は常々、細川幽斎に古今(古今和歌集の秘伝)の口伝を
深く望まれていたが、未だその相伝の無い内に不慮の大変(関ヶ原の戦い)が起こり、幽斎も田辺城に籠城と成った。

ここで幽斎は思った
「今度は討ち死にすること必定である。然らばかの三人の人々に、古今の相伝を空しくしてしまえば残り多い。」
そう考えて、籠城支度の最中の忙しさの折節に、古今の口伝を書きしたため、箱の中に封じ入れ、三人の人々に
使いを立ててこのように伝えた

『古今の我が家の口伝を年来望んでいましたが、惣劇に妨げられ延べ引き申し、俄に大軍を引き受けて、老後の
軍の至りとなりました。今回は討ち死にすること近くにあります。もし討ち死にしたと聞かれたら、この箱を開けて
この中の物を見て下さい。』
そう、一つの箱を送った。あのように忙しい境界に、神妙なる生得である。それ心狂眼盲耳聾の三悖を以て
人を牽くは難しと云々、誠に幽斎玄旨は文武の二つを兼備した良将の器と見えた。

さて、三人の人々は、箱を受け取って伝授を得ようとは思ったが、幽斎の身の上を痛ましく思い、またそのような中、
都の風聞には、幽斎が討ち死にしたと云うものも有り、未だ落城せざりしが一両日は持たまじとも有り、頻々に
言いければ、中院殿、三条西殿両人は、田辺城の結果を待ちかねて、かの箱の封を解いて、開いてこれを見た。
今の世に『古今伝授』と呼ばれるものが、これである。

烏丸殿光広はかの箱を開けず、幽斎玄旨の落着を聞いた上でと考えていた。そのような中、忝なくも幽斎の事を
御門も惜しみ思召して、両陣に勅使を下され、幽斎は囲みを出た。
烏丸光広は幽斎の無事を大いに喜び、かの口伝を入れた箱の蓋に

『明て見ぬ かひもありけり玉手箱 二たひかへすうら島の波』

と書いて幽斎方に戻されると、幽斎は斜め成らず感じ入り、その志に耐えかねて、光広卿の邸宅に行くと、
直ぐに相伝が有ったとか。このような故に、光広は筆外の口伝を得て、古今の秘伝に精しいのだと承る。

(丹州三家物語)

772 :
そもそも貴族の事なのにその貴族が悉く忘れてしまったことを細川藤孝1人が知ってるなんてことあるのかね

773 :
違う
もともとこの時代には古今伝授(御所伝授)は三条西家に伝わっていたが
それを子供がまだ幼かったので返し伝授する条件で幽斎が伝授された
しかしその子供も死んでしまったために伝授が遅れてしまい上の経緯になった
だから上の現代語訳したやつはそれがわかってないパープーだから
「古今の我が家の口伝」などと訳してしまっただけ

774 :
>>773
原文見てみたけどちゃんと「古今我家の口伝」って書いてあるぞ。
お前現代語訳と考証を勘違いしてないか?
https://i.imgur.com/wYiyviO.jpg

775 :
じゃあそのまま掲載してどうぞ
アフィカス管理人さんw

776 :
まとめにアフィリンクなんてあったっけ

777 :
銭ゲバ管理人www

778 :
考証でもなんでもなく常識だからな
だいたい細川家に伝わってた伝授ならなぜ幽斎は実枝に教わりに行く必要があるんだ?

779 :
>>778
丹州三家物語の作者に聞けばいいんじゃね?

780 :
原文にあるんだから認識間違ってるとしたら丹州三家物語の作者よな

781 :
銭ゲバチャンネル登録増えなくて笑う

782 :
まだ学校休みなんだな

783 :
オジサン…仕事は…?

784 :
ニートアフィリエイター管理人だんまりで草

785 :
春やなぁ

786 :
銭ゲバ悔しいのうw

787 :
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。
伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった
「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」
この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。
(細川忠興軍功記)

788 :
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 :
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 :
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

791 :
銭ゲバくん頑張るなぁ

792 :
この話へうげものにあったね

793 :
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 :
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 :
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

796 :
まとめ管理人よ
早く動画アップしろよ

797 :
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

798 :
>>796
10:08!!!!!!!

799 :
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 :
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

(細川忠興軍功記)

801 :
>>799
>>800
10:08!

802 :
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 :
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 :
豊臣だったら領地は増えてないな

805 :
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない
国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 :
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 :
三成よか輝元のがあやしい

808 :
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 :
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな
輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

810 :
フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続き

日本人は7ヶ月から8ヶ月かけ、多大なリスクを背負ってフィリピン諸島まで航海し、
小麦粉や様々な種類の食品、商品を輸出していますが、 貿易により60から100パーセントの利益を生み出します。
また日本人たちはコーチシナの王国に行き、彼らがcasceと呼ぶ一種の銅の貨幣を持って行きます。
支払いを容易にするために、真ん中にひもを通しているため、何百・何千もの貨幣がひもでつながっています。
このお金で彼らは大量の香木を購入します。
これは日本人にはgiaco(麝香)と呼ばれており、ポルトガル人にはaghilaとして知られています。
香水や薬品、具体的に言いますと裕福で高貴な人々の死体の火葬で使用いたします。
この香木のうち、コーチシナ王国の川で見つかるものは、王国の遠く離れた場所から川の流れにのってくるため、
誰もそれがどんな木であるか、どこで生育するかを知りません。
彼らはまた、コーチシナとマラッカの間の沿岸にあるシャム王国とパタニ王国まで航行しますし、
同じ沿岸にあるカンボジアまで航海することもあります。
彼らはそこでverzinoとよばれるある種の木を購入しますが、彼らはそれをsuo(蘇芳)と名付けています。
ポルトガル人の間では、saponとして知られており、赤い染料を作るために使用されています。
チャンパの国から、彼らは最も貴重な木材であるcalambaを輸入しています。
これは東インドに住むすべての人種から、特に燃やした時の香りのために最高の評価を受けています。
この木は日本ではsciratagoと呼ばれています。
わたしたちの間では全く知られていませんが、ポルトガル人によっても最高の評価を受けています。
わたしはその木で作られた数珠をつなげた飾りcoronaをマラッカで10スクーディ出して購入しました。

811 :
パタニとシャムから、私たちがsagri、彼らがsameと呼ぶ魚の皮も大量に持ち帰ります。
彼らはその皮から剣のための鞘やその他の興味深い作品を製造します。またsicionocava、わたしたちの言葉で言えばそのまま「ヤギの革」となる、
ヤギの革も大量に使います。彼らはそれを非常に奇妙な方法で取り扱います。
動物や他の芸術的なものなど、好奇心を掻き立てられるようなあらゆる種類のデザインを描き、稲わらに火をつけて出した煙で燻します。
こうしてデザインで覆われていなかった部分以外はすべて着色され、デザインで覆われていたため燻されなかった部分は皮の白さがはっきりと浮き出てきます。
彼らはこれらの革を用いて、自身で使用するための衣服や、非常に魅力的な鞍を作ります。
スペイン人たちはそれらを使用して、非常に優雅なデザインの襞襟を作ります。

812 :
彼らの音節文字は特定の単語や概念を表す場合もあり、会話の中であれば「A」や「O」は「はい」を表します。
「I」は、家の床を覆うためのTatamiに使用するわらのもととなる、水中で伸びる葦のような植物を表します。
「Fa」は「歯」、「Te」は「手」、「Me」は「目」、「Mi」は「わたし」を意味します。
まるでイタリア語のIoの代わりにMiを一人称代名詞として使用するロンバルディア人のようです。
同様に、日本語の「Dono」は「Donno」に似ています。トスカーナでは「Donno」は主人を意味します。
ラテン語由来の言葉で、日本語でも同じ意味を持ちますが、発音はNが1つないのでわずかに異なります。
前述のアルファベットの他の音節文字について話しますと、「U」はある種の海鳥を表します。
黒く、ガチョウと同じくらいの大きさで、ガチョウ同様に長い首を持っている、非常に鋭いくちばし、大きな目、短い足の鳥です。
彼らはこの鳥を、釣りのために利用します。両翼の下、首の周りに紐を結んだまま水中にその鳥を送り込みます。
この紐にとりつけられた葦の切れ端によって、首をまっすぐにし、鳥が水から魚を口に入れて出たときに飲み込むことを防ぎます。
これらの鳥はこのように釣りに使用されるときには「unotori」とも呼ばれ、娯楽のためにも領主達によって飼育されています。

以前のまとめの
11064 フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記の一部」
11071 世界周遊記 続き
11075 世界周遊記の二十六聖人殉教について書かれている箇所
11678 guminori = ごめんなり 世界周遊記続き
11721 異教徒の特徴
の修正も含めたフランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」第二章(日本に関する部分)
https://dotup.org/uploda/dotup.org2097425.pdf

813 :
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 :
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 :
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

816 :
合戦で鉄砲の者を召し連れ、鉄砲を討たせる時は、たとえ敵が五間か十間の遠くに在ったとしても、
何か木陰などが有ればそこに召し連れ参り、そういった場所で撃たせるべきである。
そのようにすれば、こちら側に手負いは出ない。

何も知らない衆は、少しでも近くにと思い、敵から見晴らしの良い場所に鉄砲の者達を置いてしまう。
それ故に敵から散々に打たれてしまうのである。そうなれば、手負いが二、三人も出れば、此の方は
崩れてしまう。

鉄砲の命中率など、五間十間遠くても同じことである。(鉄砲の中りは五間十間遠く共おなじ事にて候)
そういった時は、此の方に手負いがないように見立てることが肝要である。

また、旗本より程遠くに在る時は、鉄砲大将の指物を、敵に近い場所に、塚でも、また小高い場所でも
有るならば、そこに指物を持たせ遣わし、立てておくのだ。そのようにすれば、脇より見て、
「誰々は早くもあそこまで仕寄せしている。」と見えるものである。

こう言ったことは、自ずから行うべきことで、鉄砲大将などは心得有るべきである。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得

817 :
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 :
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから
>>816
これは面白いな
ドラマなんかだとこれ見よがしにオープンな場所に
鉄砲隊が列をなしてたりする

819 :
>>818
その方がかっこよく見えるからかな
でも今だと、いやそうじゃない、と816みたいに解説する方が受けるかな?

820 :
映像での見栄えと戦い方って別の話だものねー
しかもこれの場合、あくまでも細川幽斎ならこうするってだけで本人も言ってる通り見晴らしのいいとこに鉄砲隊配置させる人もいるみたいだし
弾と火薬が豊富にあるなら隠れて連射のがいいんだろうけど、少ないならまた変わるだろうし

821 :
>>819
見栄えの問題は確実よね
そもそもあんなオープンフィールドばっか日本にはないし

でも最近お金かけられないからドラマも
丘や林に布陣とかしてリアル志向ですとか
やらないかなぁ

822 :
>>821
戦国時代の山は禿山だらけだから、フィールド自体はオープンだったりする。斜面だけど。

823 :
>>816
五間〜十間ってめっちゃ近くね?

824 :
最大でも18mくらいか

825 :
10:08くらいかな

826 :
合戦場にて鑓を合わせる時に、色々稽古もあるのだが、先ず敵の真ん中を目当てに致し、ひたすら
叩くようにするべきである。そのようにすると、敵は嫌がり仰向けになるものだ。その時胸板を突けば
転んでしまう。惣別、武者は上をかぶくものであるから、造作なく転んでしまうのだ。
ただし敵より叩きつけられ。下鑓になってはこれは成らぬものであるので、心得の有るべきことである。
(細川幽齋覺書)
昨今は「鑓は叩くもの」と言われがちですが、ここでは叩いて起き上がった所を突いて転ばせる、とされているのですね。

827 :
>>816
こんなの普通の事言ってるだけでしょ
狙撃隊はいたし、木の陰から打つなんて子供でも自発的に思い付く
平地で鉄砲隊を使う事だって当然あるだろ
突進してこれない抑止力にもなる

どっちも当たり前のようにいるに決まってんだわ

828 :
現代でもただのアホのおまえの普通なんぞあてにならん
細川信じるわ

829 :

正直戦国の常識ってどんなもんか解らんもんな
思ってる以上にバカだったのかもしれんしな
いまでさえ京都産業大学の例の学生みたいなのもいるんだし

830 :
>>828
さすがにお前は頭が悪過ぎる

831 :
バカがいたから細川幽斎がそんなバカなことしちゃいかんと戒めてるわけだろ

832 :
戦国時代とかまじで武士もヒャッハーの奴らばっかりだったから今の普通をやらせるのは大変だったんだぞ

833 :
戦国の陣形って本読むとそういう物は無いって結論だな
大体は江戸の軍学者が作ったと

834 :
軍の構成が大陸とまるで違うものねー
陣形みたいな複雑な集団行動とか西洋みたいな極度の密集隊形は難しいよねー

835 :
対陣している時、又は城を取り巻いている時などで、敵陣を攻めるにあたっての足がかりを見たくても、
それが出来ない時は、敵方に断りを申して、見たいと思う場所に鳥などが居る場合は、
「鷹に取らせたいので、御免候へかし。」
と申せば、大体は許すものである。
(鳥など居候はゞ、鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば、多分ゆるす物にて候。)

そういった時は、鷹に鳥を取らせることは二番にいたし、足がかりを専らに見るべきである。
そして鷹に鳥を取らせたら、敵方に送るのだ。そうしておくのは、重ねて見たい場所があった時の為である。

昔はこのような謀の為に、出陣には大将衆も、鷹を据えさせていたものだ。
現代ではこう言った事をしなくなったが、この心持ちは、色々に応用できるものだ。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の時代の、敵陣の模様を見るための謀。何というか、非常に牧歌的ですね。

836 :
アフィリエイター視点だとそうかもな

837 :
鷹狩したいですといってはいって通してたのか、なにか通す側にも政治的メリットとかがあるんだろうか
軍事訓練的側面とか領内視察的側面とか、戦国期の鷹狩だけで一冊本できそう

838 :
>>834
中国やローマとかと違って日本はずっと私兵だから統一された動きとか無理

839 :
バカパヨのローマ賛美(笑)
どうせ塩野とか読んだだけのアホなんだろう

840 :
脳筋だらけで無学な農民兵や中間どもに陣形や備を理解させるのは無理がある
指揮官の細川の心労如何ばかりか

841 :
いうて宣教師のメンタルをボコボコにする位には教養っていうか宗教への疑問は持ってたんだよね

842 :
816なら陣形とか以前だろ

843 :
陣形ってホントに効果あるのか、検証してほしい。
TVとかでやってくれないかな?

844 :
東方の未開の島にいる倭猿どもには漢人の高尚な芸術は到底理解できないのさ

845 :
銭ゲバ管理人よ

ユーチューブ登録者は増えてるか?w

846 :
あくまでも兵を率いる側の権力の強弱の話だから、どっちがいい悪いって話でもあるまいに

847 :
中国では陣を動かすため、それを伝えるための部隊として楽隊や銅羅部隊があったんだよね
日本ではそれこそ狼煙や、あっても鏑矢ぐらいでないんか

槍隊突っ込めー、鉄砲放てー、とか乱戦で聞こえるわきゃない

848 :
>>839
バカウヨの根拠のない日本賛美(笑)
無知は哀しいな
日本にも常備軍あったんだぞ

849 :
螺貝

850 :
平地の少ない日本で陣形が発展するのかどうか

851 :
戦国末期でもなければ数百人規模の戦闘が多いんだから日本でも陣形組めると思うがな

852 :
>>847
日本の場合は国土も狭いからあらかじめ指揮方法決めるより
伝令が重視されて大名直属の旗本馬廻から精鋭を集めて
母衣衆が結成されたりしたんだろうね
当時の書状も「詳しくは使者の指示に従え」が多いし

853 :
>>850
これよく誤解されてるんだけど、江戸時代以前の日本って平地だらけだからね
日本中にロクに農耕も居住もできずに放置されてる氾濫原や洪積台地がいっぱいあって
そういうところが合戦の舞台になったの

854 :
基本的に、山ははげ山だし、今の田園地帯は海か池か沼地。

855 :
備えと陣形のメリットデメリット並べて、それが風土や指揮システムにあってるかどうか
ってのを見てった方がよさげか

856 :
城に竹束で仕寄を据える時、本陣までの道などが悪くて遠くにある場合は、城中から夜討ちなど致すことがある。
そのような危険がある時は。十人二十人であっても、松明に火をつけ両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで
行って帰り、幾度もこれを繰り返せば、夜討ちは無いものである。これを松明の心得と申す。
竹束にて仕寄、城を取り巻いた時には『城はやし』と申す事がある。
井楼の上に二、三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り
『城になふなふ 明日は首をたもろふ ゑいゑいわっ』
と、竹束の裏に在る同勢一度に声をそろえ鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと打ち掛ける。
それを致すのは夜の五時(午後八時頃)、又は夜明けにも致す。何度もこのように致せば。
城中に居る女子供、また籠城などした事のない不案内者は殊の外騒ぎ慌てるものである。
このすると、二十日持つ城も十日持ちかね落城するものである。
また『言葉争い』と申す事がある。口かしこき者井楼に上り、「御陣へ申度事候」と申せば、敵方よりも
「何事にて候」と答える、そこでこの方より申すのは
「御籠城、御大義に候。とても御持ちこたえること、中々成るまじきようです。御降参候へ。
そうでないのなら、何方からであっても突き破り、こちらに御出候へ!
御首を早く申し受けたいものです。とにかく、御首を申し受けなくては成らないものなのですから。」
などと敵の心に掛かることを申すのだ。ではあるが、慮外がましい事を言えば敵方からも悪口が帰ってくる。
敵の心を暗くするような事だけを申すものである。
(細川幽齋覺書)

857 :
きっちり陣形を作って戦うには全体の意思統一と充分な訓練を受けた兵と将が必要。
戦国期の一般的な軍制では、小部隊では出来ても大軍になると必然的に寄せ集めになる気がする。武田や上杉なんかはそれが出来てたから強かったってイメージだけどね。

858 :
武田こそ国人衆の野合なんだから意思統一とかできるかいな

859 :
陣形組むという意味の訓練とそれなりの人数で戦う訓練ってまるで別やろうし
それなりの人数で戦うのがめちゃくちゃ強ければ実際陣形とかいらんよね

860 :
飛信隊みたいに愛と友情と気合で何とかなるんだよバーカ

861 :
孫子だの三国志だのは、江戸時代の軍学者のみならず戦国武将も大好きだったわけで、
そうも陣形軽視するとも思えないんだけどなぁ。

862 :
>>838
一応、平安時代初期くらいまでは国軍もあったろう
あまりその頃に大きな戦乱が無いから目立たないけど、白村江の戦いの日本側は国軍でしょ

863 :
>>862
そうだよだから>>848に書いといただろ?

864 :
人には何かしら好きな事が有るものだ。弓鉄砲、或いは馬、鞠、兵法、料理、乱舞、歌、盤上、鵜、鷹、
数寄の道、何れであっても好きな事が有のであれば、仮初にてもその事を話すものだ。
また人の話であっても、自分の好きな事であれば聞くものである。
また人により、武道の話をいたし、また人がそれを話すのも面白がって聞く者は、良き心がけの者であると
存じておくべきであろう。
大方、人々の心中は話、或いは愛する友を以て知れるものであると、松長という名人が申された(松永久秀の事か)。
誠に相違無いと見える。
とかく、どんな諸芸であっても、自分の心に染まらぬ事は、成らざる事であり、その心得が有るべきである。
常々ものを良く申していても。戦場に於いては有無のことを申さぬ人がある。
また敵との間が遠い時は何かと口を利くが、敵が近くなると物を言わない人もある。
そういった具合の将は、常々どれほど口を利き、物を良く申していたとしても、それは用に立たない事である。
殊に敵が遠いほど物を申し、近くなって合戦前になると萎れたような体となって居るのは、殊の外に見苦しい事である。
常には少々無口であっても。戦場に於いては諸人も聞き届くように下知をいたし、物の埒を申し分ける者は、
常に物を良く口を利く者より、増しているものである。
(細川幽齋覺書)
武士の「話」について

865 :
これは落ち着いてる幽齋さんですね
いつもこうなら良いのに

866 :


867 :
なあに10:08で無問題

868 :
信長様の御軍法は、御敵を仕りたる者は、子々孫々までも御果たし、その跡をも返す程に厳しくいたして、天下を
治められた。
内裏の御修理などを仰せ付けられ、王法の衰えたるをも御取り立てた後、仔細有って上京の騒ぎを払うためとして、
京の地子(固定資産税)を御免に成り、万事に賞罰正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで仰ぎ奉らず、という
事がなかった。
さりながら、一度御敵仕った者には、御詫言申し上げて御旗下に成ったとしても、御心を許されず御憎み浅からず、
それ故に謀反人が多く出たのである。そういった時は、強いばかりでは成らざる事なのだ。
このような点について、太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、御敵を仕る者には厳しく仰せ付け、また詫言申し上げ
御旗下に成ったならば、御譜代同然に、御懇ろに成り、過去のことに御心を置かれないように成られた。
故に昨日まで御敵を仕った者であっても、身命を捨て忠節を致すべきと考えるように成るのだ。
故に謀反人も無く、早く天下を御治められた。
この両大将の御軍法は、このように裏腹に違っている。この心持ちは小身の召使いの者であっても、心得有るべきだ。
(細川幽齋覺書)

869 :
息子は妻を見たというだけで下人を斬っちゃうのにな
信長より怖いやん

870 :
べた褒めされてる太閤様だけど家臣になった人間に対して優しいかというと

871 :
>>868
お前義昭から信長に乗り換えといて何言ってんのって感じ

872 :
>>868
>御旗下に成ったならば、御譜代同然に、
この結果徳川に天下取られるんだから皮肉というか面白いもんだ
でも秀吉が俺は信長ほど甘くないぞって言ってたこともあるし
信長も結構優しいよなぁ、松永とか何度も許してるし

873 :
太閤様は推し量り難い越えちゃいけない線があってそこを越えると誰だろうがキルするイメージ

874 :
お爺ちゃんは家康の結果を知らんからな

875 :
管理人はアフィリエイトにしか興味がない品
きっちり10分超え動画で広告狙い草

876 :
今の研究的には天下取られるというか、奉行が横車押しまくったせいで任されてた徳川が天下取らんと治まらんほど豊臣家がぼろぼろになっていったって感じみたいだし
譜代同然に扱う事自体は悪くはなかったんじゃね、むしろ1代しかなくて家に忠誠のない元からの家臣連中こそ箍外れると何しでかすかわからん的な

877 :
ちょっと何言ってるかわかんないんですけど

878 :
赤松兵部少輔政則は、赤松則祐律師五世の孫である。則祐の長男が義則、義則の長男が左京大夫満祐入道性具である。
満祐は播備美の三州を領した、赤松一族の棟梁であった。然るに嘉吉年中に満祐は逆心を企て、将軍足利義教公を
弑し奉った。この大罪に依って満祐はその子教佑と共に誅せられ、満祐の領国は、播州を山名右衛門督持豊に賜り、
美作を山名教清に、備前を山名教之に賜った。これらは、満祐の誅伐に軍忠有るを以ての事であった。
ここに於いて、山名一族が三州を領し、赤松家は断絶に及んだ。
然るに長禄二年、赤松が郎従の石見某という者、朝廷に愁訴して赤松家の絶えたる事を嘆き、
「南帝を弑し奉って三種の神器を内裏に入れ奉るべし。この事成るに於いては赤松家を再興し奉るべきや」
と云えると、これを朝廷で詮議あり、また武家(将軍)へも叡慮の趣きを達せられ、石見の訴望に
勅許があった。
石見は喜び、間島何某という旧友と語らい、南朝へ忍び入って、南帝を弑し、三種の神宝を取って帰った。
吉野の郷民は頻りに彼を追いかけたが、石見は終に免れて、三種の神器を禁裏に捧げた。
これに於いて。赤松次郎政則、当時五歳であったのを召し出されて。加賀国を賜り一家を再興した。(長禄の変)
政則の父は義雅と言って、満祐の弟である(私に云う、政則は義雅の孫である。義雅の子が性在(赤松時勝)と云い、
その子が政則である)
応仁元年二月、細川勝元は将軍義政公へ推挙し、赤松政則に播磨備前を還し賜って、政則は播州へ赴いた。
播州、備前は赤松の本国であったので、早速に両国を打ち従え、帰洛して勝元に力を合わせた。
これは細川山名の合戦(応仁の乱)の最中であった。
明応五年二月、政則は従三位に叙任された。同四月に政則は病死。享年四十二歳であった。
南帝を弑し、神璽を取った功によって、三品に叙せられたのだと云われた。
(備前文明亂記)
赤松家の再興と赤松政則について。

879 :
マジか
赤松アフィリエイト少輔政則最低だな

880 :
赤松家の浮き沈みはドラマチックだよな

881 :
性具ってすごい名前だな

882 :
>>862
坂東武士という輩が貴族から政治も軍も奪い日本から消し去ってしまった

883 :
費用が馬鹿にならないから辞めたんじゃなかったっけ

884 :
>>882
軍団なくなったのは桓武天皇の時代だ。
結果、地方は無政府状態と化し、そのせいで武士が登場した。
因果関係がまるで逆。

885 :
無くなったんじゃなく朝廷の腐敗が進んで貴族が家ごとに官職を世襲で独占するようになったんじゃないの?
研究者は「職能化」とか言ってるけどそれってつまりそういうことでしょ?

886 :
国軍自体は別に貴族に吸収されたわけではないな

887 :
律令軍隊が解体されたあとも、地方に設置されていた国衙には、国衙軍という、地方の治安を守る軍隊があり、
また中央には、貴族の中でも様々な武芸を家伝として継承する「武家」と呼ばれる軍事貴族があり、
この軍事貴族が地方に下り、国衙軍と合体したものが「武士」であると言われる。

888 :
>>884
>>885
守護や守護代に奪われたんだよ

889 :
地方が無政府状態とか酷い認識だな
少なくとも将門ぐらいまでは機能してた
あと官職が世襲になったのは院政の頃な

890 :
つか源平合戦の頃も、平氏は国衙軍を動員してるので、少なくとも鎌倉初期までは国衙軍制は機能していた。

891 :
そのうち一体化していくわけだ

892 :2020/04/06
>>888
自殺まだ?

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