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【裏切り】朽木元綱【名将】


1 :2007/09/07 〜 最終レス :2020/01/04
決して地味ではない語れ

2 :
地味ではないが、語ることもあまりないと思われ
関ヶ原の裏切りと信長の朽木谷(峠?)越えを助けたことしか
知らない

3 :
祖父・稙綱、父・晴綱は将軍家に忠義を尽くしたな。

4 :
元綱は山名豊国と似てるな
ショボいけど上手く時流を乗りきってる

5 :
( ´゚ω゚` )

6 :
たいした将ではないな。

7 :
関ヶ原での裏切り後、近江2万石から9550石に減封されていますが、
9550石の詳細わかる人います?

8 :
>>7
『朝暉神社文書』『徳川実記』『義演准后日記』慶長5年11月2日条などを
参考にすると、近江佐和山城攻めの後家康に安堵されたのは、
高嶋郡朽木庄、針畑庄、三谷庄、高嶋本庄内二か村、広瀬庄内三か村、
音羽庄内一か村、山城国愛宕郡久多郷、 合計9595石とされている。

9 :
宇喜多さん詳細な説明ありがとうございます。感謝します。
関係ないですが自分は朽木元綱みたいなあまり知られていない武将に興味があります。
よって朽木氏についても調べてみようと思ったのですが、
近江とは全く関係のない地方に住んでいる為、情報をネットぐらいでしか得られません。
戦国板の住人の中には自分と同じ悩みの人もいるでしょうし、
何か良い方法はないでしょうか。
やはり、地元の図書館にいくしかないでしょうか。

10 :
>>8
大名じゃなくなったのかな?

11 :
>>9
やはり地元の図書館にいくのが一番と思われます。

12 :
朽木の勢力範囲て今の朽木村の辺りだけなの?

13 :
この人の青年期って、織田信長を匿った事ぐらいしか知らない。
関ヶ原の合戦時にはもう52だし
何してたのかね

14 :
とりあえず三法師並に幼年から家督継いでたなw

15 :
>>13
信長の朽木越え以前の元綱の動向。

1歳   天文18年(1549)、朽木晴綱の嫡子として誕生。
3歳   天文20年(1551)、三好長慶に敗れた足利義輝が、翌年正月まで朽木庄に滞在。
5歳  天文22年(1553)、再び、三好長慶に敗れた足利義輝が、永禄元年(1558)まで
    朽木庄に滞在。
7歳   天文24年(1555)、佐々木宮大神主重吉の「朽木竹松」宛ての神事銭請取状があり、
     家督を継いでいたと思われる。
18歳 永禄9年(1566)、浅井長政の高嶋郡侵攻に対し、人質を差し出す。
20歳 永禄11年(1568)、足利義昭から「名字地(朽木庄)」を安堵するとの
    御判御教書を得ている。
22歳 元亀元年(1570)、越前朝倉攻めから撤退中の織田信長を助ける。
   
これぐらいか。「近江朽木氏の研究」などを参照。

16 :
>>15
大事なの忘れてた。
父晴綱が死去したのが、おそらく天文19年(1550)。元綱2歳の時。

17 :
「綱」は佐々木氏だからか?

18 :
>>15
>>16
詳しくありがとう。
ググったら浅井氏に敵対してたり味方してたり、
微妙な立場だな。

19 :
波爾布神社
http://www.genbu.net/data/oumi/hanifu_title.htm
資料館 朽木越えなど通称鯖街道といってドライブには最
適ですが・・
http://www.city.takashima.shiga.jp/kankou/amidayama/
shiryo1.htm
専門書ですので高価です。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4840620261.html
ご教授願いたいのですが明智光秀丹波平定後、明智秀満と
藤木権兵衛が旧横山城改築後の福知山城城代となりました
が、その後の藤木氏はどのような活躍をしたのでしょうか
?彼も丹波衆一派だったようですが、山崎、関が原の活躍
など知りたくて。藤孝の家臣だとも。。その後朽木氏が
徳川幕末まで安定し、城主継承しましたが・・
朽木村で高齢の方であれば近江一帯すべて勢力を誇示してきたと
聞き及んでます。

20 :
>>17
始祖が義綱(佐々木信綱の曾孫)だからかな。
ちなみに歴代には氏綱 能綱 時綱 貞綱 稙綱 晴綱がいる。
稙綱 晴綱は偏諱だろうから 将軍家との近さがわかるね。
朽木谷。。

21 :
藤綱や輝綱、秋綱や昭綱はいないの?

22 :
>>21
晴綱の弟に義輝から諱を賜ったらしき人物がいる

23 :
>>21
朽木氏系図  (『朽木氏の研究』「室町中・後期における朽木氏の系譜と動向」参照)
          破線は推定

  貞高――――――┬貞武―――――――直親――――――┐
   満若           U 弥五郎            弥五郎         |    
   弥五郎         U 刑部少輔          材秀           |
   信濃守         U 貞綱                             |
   高親           U                                  |
                  U                                  |                          
                  └貞清                              | 
                     弥次郎                           |
                     歓喜                             |
┌――――――――――――――――――――――――――┘
|                                      
└――――――――┬稙綱――――――┬晴綱―――――――元綱
                  U 竹松           | 弥五郎         竹松    
                  U 弥五郎         | 宮内大輔       弥五郎
                  U 稙広           | 信濃守
                  U 民部少輔       | 河内守
                  U                | 牧斎 
                  U                | 十兵衛
                  U                |           
                  ├賢綱            ├藤綱――――――┬女
                  U 中務丞         | 弥六           |    
                  U 信濃守         | 刑部少輔       ├女
                  U                | 長門守         |
                  └弥七郎(直綱カ)     |                └弥次衛門
                              ├成綱
                              | 左兵衛尉
                              |
                              ├輝孝
                              | 弥十郎
                              |
                              ├興正寺
                              └兵庫助

24 :
>>22-23
詳しい、レスありがとう。勉強になります。
あと元綱の元は、細川昭元からの偏諱かな?

25 :
個人的に好きなスレだ

26 :
>>4
子孫は旗本&大名だもんなぁ・・・勝ち組っしょ。

27 :
昔の戦国板で一時期流行ったよね、朽木。
スレが立つ寸前まで盛り上がったんだが・・・

28 :

儒学者・岩渓嵩台の墓 整備され子孫らが参拝
ttp://www.ryoutan.co.jp/news/2007/10/1016haka.jpg
福知山藩の8代藩主、朽木昌綱(1750−1802)が福知山に呼び寄せ、藩士たちに儒学を教えた
岩渓嵩台(いわたに・すうたい)の墓が、福知山市下篠尾の円応寺にある。
その墓がこのほど、檀家たちの協力で整備され、15日に嵩台の子孫3人が訪れ参拝。
「きれいにしていただき、本当にうれしい」と喜び、江戸時代に描かれたとされる嵩台の肖像画の
掛け軸などを寺と市に寄贈した。
ttp://www.ryoutan.co.jp/news/2007/10/1016sutai.jpg
嵩台は、安永7年(1778)に、昌綱の招へいで福知山へやって来たとされる。最初のころは京都
から月1回通っていたが、その後、福知山の内記町に移り住んだ。
(以後略)
ttp://www.ryoutan.co.jp/news/2007/10/16/002383.html

29 :
深夜アニメに「朽木(くちき)」なるキャラクターが出ていたw
このスレの朽木は「くつき」と読むんだよね?

30 :
ご長寿だったのに寛文地震で圧死しちゃうんだよね。。。
朽木 宣綱(くつき のぶつな、1582年(天正10年) - 1662年6月16日(寛文2年5月1日))は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
朽木元綱の子。官位は従五位下兵部少輔。号は立斎。
はじめ豊臣氏、次いで徳川氏に仕えた。江戸幕府のもとでは6470石を領する旗本の一人として
仕えた。だが、後に弟の朽木稙綱が大名に取り立てられたために宗家としての地位は弱まった。
また、妻の名字である京極を称した息子の一人高通は、丹後峰山一万三千石の大名となる。
寛文2年5月1日、寛文地震に巻き込まれ近江国朽木にて死去した。
享年81、法号は崇玄。

31 :
>>28
だいぶん前に歴史と旅で見たの思い出したんだが
現当主の方が昌綱の肖像画とそっくりなんだよ。
よくいう「ハンコいらない」のレベルw


32 :
朽木氏(稙綱系)は泉岳寺の筆頭檀家だったんだね。
今はどうなのか知らないけど。
ttp://sakuraoffice.com/P10006712.jpg

33 :
泉岳寺は外桜田にあったが寛永の大火で焼失
家光が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転したそうだ

34 :
朽木谷といえば足利将軍が落ちる所。
地理的な意味があるのかな?

35 :
>>34
山奥で三好もわざわざ追ってこないのかもw

36 :
本気になれば攻められんでしょうがね=朽木谷

37 :
材秀 稙綱 晴綱(藤綱 輝孝もか)と来て 元綱。
元はどこから来たのだろう?

38 :
>>37
晴元の子、細川昭元?
細川晴元
http://hobby10.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1150021673/

39 :
なるほどやはり京兆ですかね

40 :
晴元は義輝とともに朽木に二回落ちてますね。

41 :
朽木氏
--------------------------------------------------------------------------------
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/buke/sassa.jpg
佐々木氏の一族。信綱の次男忠信は高島郡田中郷を与えられ高島氏を名乗っていた。
その子頼綱、さらにその子義綱の代になってはじめて朽木氏を称するようになった。
朽木庄は、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれ、安曇川上流の渓谷に
沿う谷盆地となり、京都にも近いということと、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたことも
あり、早くから開け、交通上の要衝としても重視されていたところだ。
朽木氏は朽木谷一帯を抑え、佐々木氏一族として重きをなした。
1528年三好元長が京都に乱入した時、足利将軍義晴は朽木谷に逃れ、そのころの当主稙綱
は義晴を厚遇した。その功によって稙綱はのち申次七人衆の一人に数えられることになった。
さらに1551年にも将軍義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがあり、山間盆地という
地勢が将軍の避難所としての条件を持っていたことを示している。
朽木氏の歴代にあっては、稙綱と晴綱および元綱が特筆される存在で、晴綱の弟たちも将軍
家に多く仕えている。たとえば藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆とし
て名がみえ、足利将軍家との関係の深さを示している。

42 :
朽木氏の盛衰の跡を訪ねる
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1922.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1924.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1929.jpg
●稙綱が将軍義晴のために建てた館跡、宣綱のとき秀隣寺となった。
 秀隣寺が移転したあと興聖寺となり現在に至っている。
●興聖寺本殿(右端)
--------------------------------------------------------------------------------
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1936.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1937.jpg
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/kutuki/IMG_1941.jpg
●江戸時代、朽木氏が所領支配の拠点とした朽木陣屋跡
●陣屋跡に残る土塁の一部(右端)
--------------------------------------------------------------------------------
元綱は、はじめ六角氏に仕え、次いで朝倉氏と結び、さらに足利義昭、次いで織田信長と転々
としているが、近江という政治情勢の変化の激しい地方の小戦国大名としては当然の身の処し
方だったといえよう。元綱はさらに豊臣秀吉、徳川家康に仕えている。関ヶ原の合戦では、最初
西軍に属し途中で東軍に通じている。その結果、減封措置ではあったが近江高島郡九千石を
安堵され、近世に生き残ることができたのである。
江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名となった。この
稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。

43 :
●朽木氏の紋
--------------------------------------------------------------------------------
福知山城の城跡に建つ、福知山朽木氏初代稙昌の父朽木稙綱を祀る朝暉(あさひ)神社。
本殿前の門には、神紋として朽木家の定紋「隅立四つ目結」が据えられている。
・右:隅立四つ目結
・左:朝暉(あさひ)神社
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/huk_zin.jpg
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/busyo/huk_mon.jpg
■参考略系図
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/kz/kutuki_k.jpg
(引用元)
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html

44 :
朽木元綱
ttp://www.ikedaya.com/images2/nobukatsus/bakufu/kutsuki-mototuna.jpg

45 :
権力者からの畏敬があったんだろうな。
血統にも家風にも。

46 :
〜将軍避難所〜
長禄2年(1458)になると、足利義政が朽木貞高に朽木荘を安堵した。
それはその翌々年に室町幕府の御料所として、毎年100貫文を貢納させる下心があったからともとれる。
以来、朽木氏は応仁・文明の戦乱の打ち続く中で、ひたすら幕府に密着して終始した感があった。
まもなく、足利将軍はたびたびこの谷筋に難を避けることになる。
享禄元年(1528)12代将軍義晴は管領細川氏の失政によって孤立すると、はじめ六角氏の援助を求めて
近江に来たが、その分流の縁故から朽木稙網(たねつな)を頼って朽木谷に入り、同4年(1531)までここ
で政務を見た。朽木氏は居館を朽木陣屋内に設けて仕えた。
さらに13代将軍義藤(義輝)も、三好党に追われて坂本・穴太・堅田を転々としたが、三好党と六角氏が戦
うことになると、天文12年(1543)と同22年〜永禄元年(1558)の5年間を、2度にわたって難を避ける
ために滞在している。
永禄11年(1568)織田信長が近江に侵入して六角氏は滅びるが、その分流でありながら朽木氏はこの
時も独自の行動をとって、その所領を失うことがなかった。元亀元年(1570)信長が若狭からこの朽木谷
へ入って来た際も巧みに対応することによって、その支配に従った。
このようにして,天正18年(1590)の豊臣秀吉の天下になると、高島都の蔵入地900石の代官となり、
いわゆる太閤検地の奉行などを勤めたりしたのである。

47 :
〜鯖の道〜
谷筋の街道には関所が置かれ、高島関といわれたようであるが、今日その場所は明らかでない。
長享3年(1489)幕府は朽木氏を関の代官に任じたが、なぜか朽木氏は断った。
しかし,朽木氏も京都へ出る場合は、関を通過しなければならなかった.延徳2年(1490)・明応6年
(1497)・永正3年(1506)などに、朽木氏の被官人500・馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合、
その通過に差し障りがないようにと、幕府が各関所へ命じている。
なお、この街道の往来について、「朽木文書」の「庄下用帳」は京都へ上京する商人が通るとか、車5
4台に積んで貝鮑が京へ行くとかいったことまで記している。
この街道が俗に「鯖の道」と呼ばれたのは、若狭からの海産物が、盛んに運ばれた結果であろう。

48 :
〜惣村と支配〜
中世末期になると、朽木荘には荒川・麻生・市・村井・椋川・地子原・雲洞谷・栃生といった
多くの惣村が成立した。
これらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったが、その下には中間と呼
ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた。
16世紀の初め頃の荘内各惣の10〜40軒の家から棟別銭を取り立てた。
時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした。
永正元年(1504)に小川惣・平良惣が、椋川惣・荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの
祈誓文などが残っている。
朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが、一方「奥畑炭かま銭」「商人銭」「馬宿銭」
といったものを課しながら、林業・商業・交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めて
いった。しかし、針畑住民などが、能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた。

49 :
<近世>
〜谷朽木〜
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に、朽木氏は途中から徳川方に味方をし、その結果さらに
この谷筋支配を保ち得た。
慶長6年(1601)朽木元綱が領有した範囲は、もとの朽木荘29か村をはじめとして、針畑荘・
三谷荘・本荘・広瀬荘・音羽荘・山城久多荘を含めると9,595石であった。
翌7年、村ごとの検地が行われた。
この朽木氏を俗に「谷朽木」とも呼んだのは、居所を朽木谷の野尻に定めたからであった。
家の格式は表向き1万右に満たなかったため、交代寄合に位置づけられ、その所領も朽木知
行所と呼ばれた。
しかし、実質は大名に準じて江戸にも参勤交代することになっていた。
そしてその家筋は、いずれも旗本として明治維新に至る。

50 :
〜村数と年貢〜
江戸期を通じて朽木知行所内の村高には、なにほどの変化もなかった。
あっても100石とか、100石以下が大部分を占めたのは、もともと田畑が乏しい地理的条件
によったからであろう。
この時代の村数を「朽木文書」によってみると、
旧朽木荘(市場・岩神・穴ケ瀬・宮前・坊・野尻・上柏・下柏・古川・大野・村井・栃生・椋川・
麻生・横谷・轆轤・地子原・雲洞谷・平良・小川・荒川)21か村
旧針畑荘(能家・桑原・古屋・中牧・小林・生杉・庄屋・小入谷)8か村
旧三谷荘(角川・保坂・途中谷・山中・大杉・轆轤・天増川・梨ノ木・椋川・自在坊・六ツ石・
水谷・追分)13か村
合計42か村になる。
これらの村々は平地の村とは違い山林関係の生業の割合が強く、この傾向は特に麻生・
地子原・雲洞谷から西の村々で大きいものがあった。年貢は村高の40〜50%に及んだが、
自然条件に災いされることもあったから、川成などで差し引かれることが多かった。その他
山方年貢として四二寸米・川狩米・茶年貢・油草代米・薪代米・みそ米代などがあった。

51 :
〜林業と木地屋〜
中世から引き続き、何といってもこの地域を特徴づけてきたのは林業であった。
しかし、安曇川を下る筏は琵琶湖への出口の南船木港(安曇川町)に材木座が置かれ、
木材を特権的に取り扱い、運上・座役銀などの租税・手数料に当たるものを取り立てた。
炭焼にも市場・岩神の問屋支配があり、これを、仲介しないと炭の売り立ては堅く禁じら
れていた。
なお、轆轤周辺は麻生木地山ともいった。
かなり古くから轆轤師(のちの木地屋)が集結して、朽木氏の庇護を受けながら椀・盆など
木器の木地を生産した。中世〜近世を通じての経歴は、著名な木地屋根元地と伝承され
る近江小椋谷の「蛭谷氏子狩帳」「大岩助左衛門日記」などに記録をとどめている。
岩神には数軒の塗師屋もあったが、そこで彼らの木地に漆工したのである。
朽木盆はその製品の中で、黒地に朱で十六菊を描いたものが、特に*「菊盆」*と呼ばれ
て著聞した。

52 :
>>49
>朽木知行所
知行所ということは旗本扱いですね。
事実、万石未満なのでそういう分類なのは当然ですが、一般に旗本は知行所における
行政監督をしない場合が多かったようですね。
幕府がそれを嫌ったというのが主な理由ですが、実際には代官が主にそれらを担当し
ていたようです。
その点から見ても、直接知行地の行政監督を行い、在地領主であり続けた朽木氏と
いうのはその枠組みからは外れていたのですね。

53 :
>>52
朽木家は参勤交代をする「交代寄合(大身旗本)」だね。

54 :
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E4%BB%A3%E5%AF%84%E5%90%88
交代寄合の一覧
(須原屋版「文化13年武鑑」による)

[編集] 表御礼衆
菅沼家      三河設楽郡新城領主   帝鑑間詰 元丹波亀山藩藩主
竹谷松平家   三河宝飯郡西郡領主   帝鑑間詰 元吉田藩藩主
榊原家      駿河有度郡久能領主   帝鑑間詰 久能山東照宮門番 家督時に五位諸大夫任官 
                                 本家筋にあたる。
本堂家      常陸新治郡志筑領主   柳間詰
生駒家      出羽由利郡矢島領主   柳間詰  元高松藩藩主
山名家      但馬七味郡村岡領主   柳間詰  屋形号
松平(池田)家. 播磨神崎郡福本領主   .柳間詰.. 鳥取藩松平(池田)相模守家分家 
                                 元播磨山崎藩主・元因幡鹿奴藩主 初代松平
                                 (池田)輝澄は徳川家康娘・督姫男
平野家      大和十市郡田原本領主  柳間詰   賤ヶ岳の七本槍の家系
木下家      豊後速見郡立石領主   柳間詰  日出藩分家
山崎家      備中川上郡成羽領主   柳間詰  元丸亀藩分家
最上家      近江蒲生郡大森領主   柳間詰  元山形藩藩主・屋形号
戸川家      備中都宇郡撫川領主   柳間詰  元庭瀬藩藩主
竹中家      美濃不破郡岩手領主   柳間詰
溝口家      陸奥岩瀬郡横田領主   柳間詰  新発田藩分家
朽木家      近江高島郡朽木領主   柳間詰  福知山藩本家筋
近藤家      遠江引佐郡気賀領主   柳間詰  元井伊谷藩藩主
金森家      越前南条郡白崎領主   柳間詰  元郡上八幡藩藩主分家
五島家      肥前松浦郡富江領主   柳間詰  福江藩分家
伊東家      日向郡賀郡飫肥領主   柳間詰  飫肥藩分家

55 :
四衆
那須衆
那須家      下野那須郡福原領主   .柳間詰   .元烏山藩藩主
福原家      下野那須郡佐久山領主  柳間詰  . 那須衆
芦野家      下野那須郡芦野領主   .柳間詰  . 那須衆
大田原家    ..下野那須郡森田領主  . 柳間詰め  大田原藩分家・那須衆
美濃衆
高木(西)家    美濃養老郡多良領主  柳間詰  美濃衆
高木(東)家    美濃養老郡多良領主  柳間詰  美濃衆
高木(北)家    美濃養老郡多良領主  柳間詰  美濃衆
信濃(伊那)衆
知久家      信濃伊奈郡阿島陣屋領主  ..柳間詰   伊那衆
小笠原家    ..信濃伊奈郡伊豆木陣屋領主 柳間詰   勝山藩分家 伊那衆
座光寺家   .. 信濃伊奈郡山吹陣屋領主  .柳間詰   伊那衆
三河衆
松平家      三河加茂郡松平領主     柳間詰   松平家庶長子家 三河衆
中島家      三河渥美郡大崎領主     柳間詰   三河衆 備中松山藩板倉家類家
四州に準ずる家
米良家      日向児湯郡米良領主     柳間詰    無高  肥後菊池氏後裔・肥後
                                         .人吉藩主相良家の扶養

56 :
その他
須原屋版には、記載のない交代寄合
四州に準ずる家
岩松家      上野国新田郡新田庄内120石 新田義貞の末裔 明治の華族令で、男爵を授かる。

57 :
>>54-55
また微妙なお家柄ばかりですね。

58 :
よく調べたと思うよ>>54-55

59 :
朽木陣屋:滋賀県高島市                   平成19年9月探訪
旗本交代寄合、朽木家96百石の陣屋跡  江戸期を通して領有した
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20074.jpg
陣屋址の中心へ
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20073.jpg
陣屋井戸
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20075.jpg
堀の一部
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20076.jpg
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20079.jpg
朽木家菩提寺の興聖寺
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/070905%20078.jpg
朽木街道界隈は東海自然街道になっている
ttp://homepage2.nifty.com/edononagori/kutikijinya275igai.html

60 :
朽木家は鎌倉時代に桓武平氏直系である池殿家の所領を継承している。

61 :
池殿領は久我に流れたんじゃなかったっけ?

62 :
と東大の佐々木先生が言ってるよーん。

63 :
朽木家ってやたら分家が多いよね。

64 :
関ヶ原寝返り組みのうち、脇坂は事前に藤堂を通じて連絡があったみたいだけど、
元綱はどうだったんだろう?戦後、代官してた蔵入地を召し上げられてる。

65 :
とくになにもしてなかったよ
脇坂→事前通告で安泰
朽木→通告なしで召し上げられるも名家ヲタの家康の意向で復活
小川、赤座→わりとどうでもよかったのでまとめてあぼん

66 :
>>63
分家しておけば、一族断絶のリスクは減る。
どうせ、大名じゃない大身旗本なんだから。

67 :
>>65
逸話としては「あ?朽木なんていてもいなくても大局に影響ないし」みたいなことを
言われたというのがあったが、実際には家康の名門好きが影響したんだろうね。
小川みたいなやつは家康好きじゃなさそうだし。
それにしても、この4人は所領が残った2人はその後幕閣を輩出している一方、改易された2人は
直後に病死と溺死だもんな。明暗が分かれた感がある

68 :
>>65
改易⇒家名存続という流れではないのでは?
単純に減封。
代官領+所領の一部を召し上げられたという話。

69 :
小川って微妙だよなぁ。
六角を裏切り、明智を裏切り、ついには西軍まで裏切ったのだから
家康に信用されるはずがない。
おまけに出自も不明。
こりゃ処分対象だわな。
朽木と祖を同じくする六角は、佐々木に改姓して幕臣になっているし、
(別に血統を違える藤原北家の六角氏が幕臣になっているが)
やっぱり宇多源氏の末裔、旧幕府奉公衆という格式がポイントだった
のかな。

70 :
はぁ?

71 :
信長の野望ならば、迷わず朽木谷館&朽木元綱でプレイ。
家臣ゼロの一城主から始まる戦国世渡り物語。
天下を穫るなんて夢のまた夢、時の権力に靡き続けるのが
朽木プレイの醍醐味。

72 :
>>71
山間の豪族だけど一応、幕府の奉公衆だったしね。

73 :
↓は妥当なのでしょうか?
――――――――――――――――――――――――――――――――
朽木元綱(蒼天録データ)
重視/幕府・名声
思考/保守鳩派
出身/近江
出自/国人
兵科/足軽 長槍
特技/哀願
策戦/混乱 誘導
能力/政治58 統率37 知略62
義理/19
野心/57
――――――――――――――――――――――――――――――――

74 :
>>73
混乱はよく分からんな。
道案内=誘導?
三好軍に対して防戦したこともあるから統率は40台くらいでいいんじゃね?

75 :
前線に送るよりも内政・謀略向きだね。

76 :
>>71
隠岐氏とか宗氏でプレイできないんだっけ?

77 :
>>76
登場しないものはプレイしようがないですよね。
自分で登録する以外には。

78 :
隠岐氏でプレイ→他国に攻め込まないままでゲーム終了

79 :
>>78
ちょっとこのスレの方向とは合わないんですが・・・。

80 :
>>73
何となく引き籠るにはちょうど良い能力って気もしますが。
幕府の奉公人なら使者の適性有りかも。

81 :
元綱、嫡子の宣綱と長命だよね。
宣綱なんて地震で倒壊した屋敷の下敷きにならなかったら、
さらに長生きしていただろうし。

82 :
嫡流が分知を繰り返して5千石弱の交代寄合になったのに対して、庶流が大名家。
そういう事例って他にどれくらいあるのでしょうか?

83 :
>>73
それほど武功があるわけじゃないし、特徴は捉えてるんじゃない?

84 :
松永弾正とはどういう間柄だったのかね?

85 :
三好時代どちからというと三好と朽木は敵対関係だろうな。

86 :
去就こそ注目されたけど、元綱自身、永禄11年に三好一党が京都本圀寺の足利義昭を
攻めた際、信長軍が岐阜から到達するまで防戦した過去がある。
信長が義昭を奉じている限りにおいては敵対する理由が無い。
浅井に従っていたとしても、足利>>>>>>浅井という判断をしたのは当然のことでしょう。

87 :
誰が将軍の旗印を握っていたのか、だよね。

88 :
鯖街道age

89 :
味わい深いスレですね。

90 :
>>69
俺も小川は冷遇する。
あいつはキリシタンか?

91 :
>>90
能力もそうだが、人格的にも裏切りやすいしな。
調略されやすいのも問題だ。

92 :
四将の中では
脇阪>>>朽木>>>(越えられない壁)>>>小川・赤座
になるのか?

93 :
小川のウィキは子孫が編集したオナニー捏造ばかりで吐き気がした

94 :
>>67
なんだっけ、『風になびくススキ』だかなんだかだっけ?

95 :
>>93
禿同 あれは酷すぎだと思う
実際小川って織田家ではどのくらいの扱いだったんだろ

96 :
いつの間にか小川スレにwww

97 :

だがそれが(・∀・)イイ

98 :
赤座は前田利長に仕え、7000石を給され、松任谷城代を勤めたが、越中大門の出水の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死している

99 :
>>98
大谷刑部の祟りだな。

100 :
武士は祟らない。戦闘員だから、いついかなる場所で死んでも現世に恨みを残さない。
これが古来よりの武家の作法である。
もし大谷行部が祟るというのなら、彼は武士にあるまじき不心得者である、と言う事だ。


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