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もし武田信玄があと10年生きてたら、、、、三戦目


1 :2017/11/06 〜 最終レス :2017/12/24
前スレ
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1507730922/l50

ルールマナーを守り有意義な議論をしましょう。

2 :
2getですかねえ。

3 :
このスレは菅沼がまだ前スレが763であるにも関わらずに立てた不必要な糞スレです。

新スレは950を超えてからお願い致します。このスレは相手にしないで下さい。

4 :
>>3
なあ、その763は本当に前スレなのか?

5 :
この書状とかを史料に挙げてる菅沼は、書状なんか表面的なもので、その裏で相手が何を考えていたか、とかは考えないのかな?

織田信長が浅井や朝倉と和睦できて慇懃な書状を出してる。足利義昭に和睦に応じてくれたから慇懃な書状を出してる。その裏で織田信長が何を考えていたのか、結果でひっくり返した事実とかに頭は回らないのかな?

一例あげるけど、1585年の越中攻めで佐々成政を降伏させた時、秀吉は小早川隆景に宛てて佐々成政を切らなかった理由を「人を切るのが嫌いであれば」なんて書いてる。

は? 今まで人を切りまくって、さらにこの後も相当なことして白白過ぎるわ。

菅沼には、書状なんて史料価値はそんなに無いとかわからないのかな?

6 :
>>3
言いがかりはやめなよ。それじゃ例の菅沼とやらと一緒だ。
奴が責められるべきなのは前スレをコピペ爆撃で落とした事だろ?
このスレは、その菅沼遼太を叩くスレでいいんじゃないか?
構ってちゃんを存分に罵ってやろうぜ。

>>1
ルールもマナーも守ってない奴が、有意義な議論をしましょうとか
へそで茶が沸くわwww
いまどき2getってwしかもスレ立てて自分で2getとか、それがかっこいいとでも思ってんの?
あまりにダサすぎてびっくりしたわwww

7 :
>>3 >>5 >>6
はいはい。前スレは普通に889くらい行ってたように思われるのですけれどねえ。

でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

コピペ爆撃なんかろくにしてないはずであると思うのですけれどねえ。
長い文章に関しては私以外にも、織田派の人も大量に書いていたわけですしねえ。

で、書状関連に関してですけれど、
普通に信長が朝倉浅井に対して苦境で、
和睦詐欺の為に土下座降伏宣言的な書状を出している、という事や、
義昭と敵対したくないから、普通に慇懃に和睦を求めている、という事で
普通に理解がしやすいと思うのですけれどねえ。

まあ、貴方自身が>結果でひっくり返した事実とか書いておられる事から、
そのような事を実際はご理解なさられておられるのではないかと
思われる次第なのではございますけれどねえ。

>書状なんて史料価値はそんなに無いとかわからないのかな?
このように妄想願望して喚いていらっしゃられるのは、
貴方くらいなものだと思いますし、普通に学者さんなども、史実考証の時には、
一次資料である書状などを基にして考慮するのが普通なのでございまして、
貴方的な言い方でしたら、2次資料の信長公記とか、
もっと資料価値がryという事になってしまうと思う次第でございまして、
この件についておはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

8 :
>>7
俺にアンカー付いてるけど、俺宛のレスがないぞ。
基地外が大人しくなる季節なのに、お前だけはまだ元気なんだなwww

9 :
無視無視。
このスレは終了。

10 :
餌はあげないように!

11 :
菅沼に回答を与えるのは、餌を与えるようなものです。菅沼に餌を与えないで下さい。

12 :
しつこく餌与えてた一行空けの馬鹿、ほんっと死んで欲しい

13 :
>>8
いやいやいや、十分にあると思うのですけれどねえ。
>>6にあるレスに対する返しとして、
でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

少なくとも、おーぷんの方で、ネット廃人生活を送られておられる事と、
複数端末による複数ID自演を行っておられる事を、
ご自身でお認めになられている貴方の方が、この場合は他者の方からしますれば、
普通にそう呼ばれてしまう可能性が
非常に高いような気がしなくもないような気がするのではございますが、
その件について、ご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

14 :
一見して粗大ゴミと判別できる長文
誰かこの文章を読むが奴居ると思って、コイツは書いているのだろうか
ゴミ過ぎる

15 :
>>14
はいはい。そうやって、貴方に都合の悪い文章だけを、なぜか普通の人がお読みになられない、
などという事が、本当にあり得ますと思われるのか、についてもお答えをいただきたいところではありますが、
それだけではなく、>>13で聞かれてる事に関しても、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん。

16 :
寂しいのか?
だから菅沼認定されて逆に喜んでるのか。
哀れだなあ。

17 :
>>11
でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

18 :
>>16
いやいやいや、その菅沼なんたら自体が、
もうすでにそう認定されている人々が特徴も活動場所も行動も文体も論旨も異なる数十人単位になっていて、
そう喚いているご当人ですら、整合性をつけてのご回答の方を一度も行う事がお出来になられず、
それらについての整合性をつけてのご回答の方を求められるたびに発狂逃亡を繰り広げられ、
そもそも、おーぷんの方で、そのご当人自身が、複数人を同一認定して作った架空人物レッテルである事を
お認めになられている、という状況ですのに、
そんなレッテルを押し付けられようとしましたら、普通は反論するように思われるのでございますけれどねえ。

19 :
みなさん、餌やりは全面的に禁止されています。

餌を与えないで下さい。お願いします。

20 :
10年生きて上洛したら上杉との関係はどうなるか知りたい

21 :
>>20
このスレは菅沼専用スレですので、そういう質問は別スレでして下さい。

このスレは終了しています。

22 :
武田は天下取れたのだろうか?天下取れても勝頼が時期なのは不安があるは

23 :
お前は飼い主か?

24 :
このスレは菅沼専用スレです。
結論として、「武田信玄、朝倉義景、長島一向一揆による同時美濃侵攻により、織田信長は美濃岐阜城において自害し、織田家は滅亡し、包囲網勢力が圧勝。武田信玄が天下を取る」ということが菅沼氏による書状、史料解説で明らかになっております。

質問は武田関連の他スレで行なって下さい。
このスレは菅沼氏だけの専用スレなので、使用しないで下さい。

25 :
>>21 >>24
でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

26 :
>>20
上杉との関係は、上杉の方が将軍義昭の方の要請を受け入れる形で
ちゃっかり武田も含めた同盟勢力の中に入りそうな気もしますかねえ。

27 :
菅沼氏専用スレ。

28 :
>>22
勝頼も信玄が10年生きていたら37歳くらいになっておりますし、
信玄の後継者としてのキャリアもずいぶんと積んでいる事になっているでしょうし、
おそらくは義昭からの一字拝領と官位叙任も受けているでしょうから、
信玄の後継者としての権威も十分に得ているように思われますから、
多少は落ち着いているような気もしなくもないですかねえ。

29 :
>>27
でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

30 :
コピペ

31 :
ねえが持論ばかりで、議論にならない。

32 :
>>31
こちらは何度も何度も書状や資料を提示して、
織田側の人々からの質疑応答などにも十分答えて、
議論を進めてきた、
というのが数々のレスで明らかになっているように思われますし、
もし、貴方がそうおっしゃられるなら、どこがどうそうなのか、について
具体的にお聞きなさられるなり、説明をなさられるなり、を
なさられるべきだと思いますので、
ご回答の方おはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

33 :
>>30
織田厨の人とかが、必死になって捏造曲解に狂奔なさられたり、
煽り罵倒や、菅沼なんたら認定を喚かれたりなさられましたら、
こちらとしては、それらについての論旨的矛盾などを指摘せざるを得ないわけですし、
それらは大抵過去レスで述べた事を性懲りもなく織田厨さんとかが
同じようにリピートしているだけですので、
こちらとしましても、普通に過去レスと同じような内容を提示するだけで、
普通に会話が成立してしまう、というだけの話でございますしねえ。

34 :
>>31宛続き
そもそもの問題として、このようなスレは必死な織田側の人が
過去ログとかも考慮しまするに、
「信玄が長生きしていれば、包囲網側が有利になりうるのでは。」
的な論調の方に対し、
「無理無理無理!信玄が生きていようと絶対無理!」と必死になって言い出し
「その根拠は〜」とか述べられて、最終的に
「信玄が生きていようと信長の勝利は絶っっっっっ対に揺るがない!
織田側完全勝利!」的な感じで勝鬨をあげる、
というのが長い事行われてきたようでして、
その論旨も大体同じような感じであらせられたように思われますのに
包囲網側であるこちら側が資料的論拠などを基にして論旨を構築し、
それについて述べ、それに対する反論とかに対しても、
資料的・史実的な論拠をもって応対し、
そちら側が答える事が苦しくなってきましたら、
「持論ばかりで議論にならない!」とおっしゃられるのは
非常に不可思議な話と思われる次第なのでございますが、
この件につきましては、何卒ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

35 :
そもそも、>>32にも書きましたように、
こちらは何度も何度も書状や資料を提示して、
織田側の人々からの質疑応答などにも十分答えて、
議論を進めてきた、
というのが数々のレスで明らかになっているように思われるわけでございますしねえ。

36 :
武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1510190454/
こっちきて反論してみろや

37 :
>>36
来なくていい。
荒らしはいらないから。
基地外はこちらで議論してね。

38 :
>>36
馬鹿野郎。
何でこんな奴呼ぶんだ?
お前も基地外か?

39 :
飼い主はちゃんと面倒見ろよ

40 :
全員キチガイやんw

41 :
人いなくなりましたね。荒らしが常駐するとこうなるから嫌ですね。ねえ さんが来るまでは面白いスレだったのに。

42 :
きちがいは無視しましょう

ところで、最近志賀の陣の和睦は朝倉のほうから言い出したって話あるけど、
根拠って何だろう?

「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望みなし」
とか、大久保の創作は限度を超えておかしいと思う

43 :
>>42
そもそも本能寺で、織田信長が信忠の謀反かなんて言った、とかどうやって知ったんだろうな。

44 :
不都合なことは全部創作です

45 :
ここは隔離スレ?

46 :
>>39
飼い主ってどこにいらっしゃるのですかねえ?
あれだけ議論で苦しくおなりになられて、
こちらから回答を要求されている膨大なる事柄にもお答えになられておられず
発狂逃亡を繰り広げておられますのが、貴方などなどですのに、
一体誰が何の論拠をもって
私の「飼い主」とやらを名乗られると思っておられるのか、について
ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。

47 :
>>42
>「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望みなし」
>とか、大久保の創作は限度を超えておかしいと思う
他スレの方にも書きましたけれど、これはちゃんと元ネタとなったと思われる信長の書状がありまして、
11月28日付の信長の書状で、朝倉浅井に対して
「将軍家の政道に越度(落ち度)があれば、相互に相談して道理に従って対処しましょう。
畿内の公家・寺社の政道に関しては、貴方達から沙汰される事に相違などありません!」
的に述べており、普通にこれが実行されれば、朝倉浅井は信長よりも上位の畿内政治の運営者になるわけですから、
普通に信長の土下座降伏宣言的な書状であると思われますね。

さらに、和睦成立の後に1571年2月に朝倉が将軍義昭の家臣に対して出した書状では、
「織田勢が和睦の条件である横山と佐和山に陣取っている軍勢を撤収させようとしないばかりか、
さらに軍勢を派遣しようとしているようですし、山門領にも近年の如き無道を行おうとしているようで、
言語道断というべき話です!元々、この前の和睦に関しては、こちら側でも表裏(謀略)ではないか、という声がありましたけれど、
(このような書き方からしても、この和睦は信長から求めたものである事が明らかであるように思われますかねえ。)
将軍様が起請文をとったり、双方が決して違約してはならない、もし違約があるようであれば、
公儀の御身上、相果てなさられるべし、とまで言われたから、こちらは承認したんですよ!
それなのに、信長はすぐにそれを破っていて、これは天下の将軍様に対する嘲弄が不可避というべきものではないでしょうかね!
上意の筋目とは一体どうなっているのですかね!」的に述べておりまして、
この和睦においては、横山城にいる軍勢、及び佐和山城を攻囲している軍勢を
織田は撤収させ、さらに山門領(比叡山領土)の安泰を確保する事が条件だったようですね。
さらにはその後の文章で
「憚り多き申し事ながら、言わせてもらいますが、
我ら朝倉側は、この前の志賀陣において、度々大利を得て、織田九郎、森可成、
坂井、などをはじめとする織田家の有力武将達を何人も打ち取り、
残りの軍勢も打ち果たそうと思っていた所に、上記のように将軍様が
言い出されました事から、和睦をしましたというのに、
信長は勅命にも上意にも背いている次第なわけなのですけれど、
これは無道というべきものなのではないでしょうかね!」と述べているわけでして
明らかに朝倉側の書状における、これらのコメントからしても、
この和睦を求めたのは信長であって、信長から慇懃に朝倉浅井側に和睦を求め、
それでも表裏があるのではないか、と疑う朝倉側に対し、朝廷や将軍家が
様々に申し入れ、特に将軍家が上記のように懇切に懇切に
「この和睦は絶対に双方で違約してはならない!
もし違約するものがいたら、公儀の御身上、相果てなさられるべし!」
とまでいい、起請文などもとって様々に説得した事から、朝倉浅井側が承認し、
その後で朝倉浅井側が撤収した後で、速攻で信長が和睦を破って、
和睦詐欺を行った、というのが明らかなように思われる次第なわけですしねえ。

これらの事から考慮して、信長が威風堂々としていて、朝倉側が和睦を求め、
信長がしょうがないから和睦してやった、的に書いてある信長公記と比して、
三河物語の記述の方が一次資料などと比しますれば、近いと思われる次第であると思われますかね。

48 :
>>43
それを言いましたら、信長が本能寺で「是非に及ばず!」といったのとかを
どうやって知ったのだろうか、という話にもなると思われますし、
普通に光秀は本能寺にいた女官などは脱出を許可しております次第でございますので、
この女官達は、信長が負傷するまで信長の傍にいた、という事ですので、
信長の「是非に及ばず!」や「(この謀反は)信忠の別心か!」的な信長のコメントを聞いていて、
後に人々に伝え、信長万歳の信長公記では「是非に及ばず!」を記し
三河物語では「(この謀反は)信忠の別心か!」を記した、というだけの話ではないかと思われるのですけれどね。

49 :
きちがいは無視です
きちがいレスは不要

50 :
>>47
信長からの決戦の申し込みをビビって受けられなかった義景

51 :
基地外に餌を与えないで下さい。
基地外は無視しましょう。

52 :
>>50
調べただけでも、1570年と1572年の二回にわたる信長からの決戦申し込みを拒否していますね。1572年のほうは朝倉が兵力では不利だから拒否するのもわからないでもないんですが。

1570年のほうは志賀の陣で、信長最大の危機。敵に包囲されて苦しい信長が一か八かの賭けに出たような気がするんですよね。尾張にまで長島一向一揆が迫ってましたし。

なのに拒否した朝倉義景。やはり覇気が無いと言うか、ガッツが足りませんよね。義景は運をことごとく見逃して、信長に刀根坂で無惨に滅ぼされましたから。

53 :
50で家督を勝頼に渡しアドバイザーのみ
でハードワークしなければもう少し長生きし勝頼の暴走も防げた
あの時代の50今の60より上

54 :
>>53
そうだよな。
義信殺して、家臣だったはずの勝頼を当主にせざるを得ない状況になったんだから
なるべく早く勝頼に当主の座を渡すべきだったな。
隠居しても実権は自分が握ったままの大名もけっこういたのに、
何でそうしなかったんだろう。

55 :
>>54
自分が親父を追い出した過去があるんで息子に権力を譲るのが怖かったんじゃないの
漸進的にではあるけど権力移譲の準備は進めてるからその気がないわけじゃなさそうだけど

56 :
実際問題、信玄は後継に関してはどう考えてたんだろうか?

57 :
消去法で勝頼しかいないだろ
まさか武田信廉を後継者に指名はありえんし

58 :
>>57
仁科盛信は無理か?
生母が武田一族の油川夫人だから諏訪を母親にする勝頼よりマシ。
盛信本人も高遠攻防や勝頼期の活動見る限りは凡将ではない。
信玄死亡時に数えで17は確かに若いから不安はあるが、幼いわけではない。武田信玄自身21で継いでるし、織田信長が18、徳川家康も独立時が19だからそれより1年から3年の差があるだけ。

盛信なら勝頼よりはマシだったことはないのかな? 同母兄弟も松姫始めたくさんいるし。

59 :
>>58
勝頼を差し置いてまで盛信を当主に据えなきゃいけない理由がないだろ
勝頼に比べて特別優れていたというような業績があるわけでもないし無駄に家中を混乱させるだけ

60 :
>>42
そもそも三河物語にあるように、織田信長が朝倉義景に「天下を持て」と言って土下座までしたのなら、その後に上洛して幕政を補佐していない朝倉義景は無責任、職務怠慢だよな。

61 :
>>50 >>52
いや、別スレにも書きましたけれど、朝倉浅井にしてみれば、
要害にこもって織田勢を締め上げれば締め上げる程に有利なわけですし、
現に信長はそれで苦しくなって
>>47にあるような土下座降伏宣言的な書状を出しているわけですし、
普通に堅実に勝利する為の策を行っていただけの話のように
思われるのですけれどねえ。

まあ、そもそもの問題として、信長公記に記される、
志賀陣の和睦にまで至る経緯、すなわち
信長が威風堂々としていて、朝倉側が和睦を求め、
信長がしょうがないから和睦してやった、的な流れは
>>47にもありますように、一次資料における信長自身の書状やら、
朝倉側の書状によるコメントと大きな異なりが存在しますので、
そもそも志賀の陣の時に信長は朝倉に対して決戦を求めたのかどうか、も
疑問に思えたりもするような次第なのでございますけれどねえ。

62 :
>>53
信玄の50才と申しますと、北条との駿河争奪戦の真っ最中ですしねえ。
この状況で家督をいきなり勝頼に譲る、というのも難しいような気がしますかねえ。
>>56
普通に勝頼に継承させる想定だったかと思われますかねえ。
勝頼への将軍義昭からの一字拝領と官位叙任の工作も進めておりましたしねえ。

63 :
>>58
そもそも諏訪一族自体も武田の血縁でもあるわけですし、
信玄も普通に勝頼を義信に次ぐ武田家ナンバー3として扱っている事が指摘されておりますので、
盛信に譲る理由は特にないかと思われるのでございますけれどねえ。

64 :
>>60
信長自身の書状によりますならば、
「将軍家の政道に越度(落ち度)があれば、相互に相談して道理に従って対処しましょう。
畿内の公家・寺社の政道に関しては、貴方達から沙汰される事に相違などありません!」
的な感じですので、朝倉浅井は本国に在しつつ、将軍家の政治に異議や具申があれば、
申し出て信長と相談して運営していき、畿内の公家・寺社の政道に関しては
朝倉浅井が使者を送って沙汰をするのを信長がそのまま実行する、的な
朝倉浅井優位の政権運営、という感じのようですかねえ。

65 :
まあ、結局、信長の申し入れは和睦詐欺ではあった次第ではございますけれどねえ。

66 :
皆さん、基地外は無視して楽しく議論しましょう。基地外には返信しないで下さい。

67 :
>>61
中途半端に追い詰めて和睦するから滅亡するハメになった
和睦を蹴って徹底的に潰すべきだったのに、そうしなかったのは朝倉浅井も和睦をせざるを得ない事情があったということだろう

68 :
基地外は織田信長の和睦詐欺と言ってるだけ。

69 :
>>64
それ朝倉義景は上洛してやったのか?
上洛してないなら、怠慢だろ。京都にいて運営してこそなのに。
越前で運営して何になる。将軍は京都にいるんだぞ。

70 :
>>62
北条は大飢饉の中で交代してる。
織田はまだ敵がたくさんいる中で交代。
毛利も尼子や大友と抗争中に交代2回。

駿河争奪戦だからできないなんて言い訳に過ぎないんだよ。それを乗り越えてやることこそ、次代への基盤固めに繋がる。

71 :
>>69
それ、論点ずれてるから。

72 :
>>66 >>68
なんか必死になって都合の悪い事柄などを、レッテル貼りなどをして
スルーさせようと躍起になっておられるご様子ではありますが、
信長自身が、「将軍家の政道に越度(落ち度)があれば、相互に相談して道理に従って対処しましょう。
畿内の公家・寺社の政道に関しては、貴方達から沙汰される事に相違などありません!」
的な書状を出しておりますし、>>47にもありますように
朝倉側の書状から考慮しましても、信長はこの和睦において、
横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
さらには比叡山領の安泰も確保する、という事を条件にしていた事が明らかなように思われるわけでございますし、
それにも関わらず、信長はそれらを全て実行しようとはせず、速攻で和睦を破っている、という事が
>>47にあります朝倉側の書状からも明らかであるように思われるわけでございますが、
これを和睦詐欺以外の何ものであるとおっしゃられますのか、についてご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

73 :
>>72
黙れ病気(笑)Wikipediaやお前の妄想噺は飽きたんだよ(笑)

お前の頭の中だけの歴史なんかどうでもいい

74 :
>>67
ですからあ、>>47にもありますように、
朝倉側もこの和睦が表裏(謀略)ではないか、というのは考慮しておりましたが、
将軍義昭がこの和睦の為に奔走し、起請文などもとって、
「この和睦は絶対に双方で違約してはならない!
もし違約するものがいたら、公儀の御身上、相果てなさられるべし!」
的にまで述べた事から、朝倉浅井側も承諾した、という流れですし、
そもそも、信長の申し入れた和睦条件が実行されたなら、
朝倉浅井側は信長よりも上位の畿内政治の運営者となるばかりか、
横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
さらには比叡山領の安泰も確保する、という事になっていたわけですし、
朝倉浅井側としては、もう戦争を継続する理由が存在しない、という状況ですし、
無理やりに朝倉浅井側に理由を求めようとする必要はないように思われる次第なのでございますけれど、
如何なものなのでございましょうかねえ。

75 :
>>73
いやいやいや、wikiでもなんでもなく、普通に>>47で内容をご紹介させていただいておりますのは
信長自身がこの志賀陣の時に出した和睦の書状や、
朝倉がこの和睦の後の1571年2月に出した書状などですし、
普通に一次資料を基にして語らせていただいている次第でございますしねえ。
なんか必死になって都合の悪い事柄などを、レッテル貼りなどをして
スルーさせようと躍起になっておられるご様子ではありますが、
そのように必死に織田信長の都合の悪い事柄などを、
オープンで貴方自身がお認めになられておられます、複数端末による
複数IDからの他人装いによる、多数派装い工作などをなさられて、
必死に喚かれておられるご様子の方こそが、普通に考慮しますれば、
不可思議なる行動、と思われる次第なのでございますが、
この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
さらには、>>72のような史実的な流れにおいて、
これを和睦詐欺以外の何ものであるとおっしゃられますのか、についてもご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

76 :
>>74一部訂正
×横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
〇織田側は 横山城と、佐和山城を攻囲している軍勢を撤収させ、
です。まあ、ご理解いただけるとは思うのですが、一応訂正の方はさせていただきますかねえ。

>>69
>>71の人も言うように、それは論点の方がずれておられるように思われるのですけれどねえ。
信長自身の書状の申し入れでそのようになっているわけですし、
信長自身が、「貴方達は本国に在しつつ、将軍家の政治に異議や具申があれば、
申し出て信長と相談して運営していき、畿内の公家・寺社の政道に関しては
朝倉浅井が使者を送って沙汰をするのを信長がそのまま実行する、的な
朝倉浅井側優位の政権運営、で行きましょう。」と申し入れているわけですし、
普通に朝倉浅井側は特に不可思議な事はしてないように思われる次第ですしねえ。
信長ご当人が、それでいいです、それでいきましょう、的に述べている、
という話なわけですしねえ。

77 :
>>70
氏康の隠居は、その北条領土内で大飢饉が起きた事で、
家督を交代させる事により、厄を払う、というイメージを大衆に抱かせ、
徳政令をも合わせて行う、という目的をもって行われたとされておりますかねえ。

信長の隠居も、長年の東の脅威であった武田勢を長篠で敗北させ、
その鋭鋒を減少させて東側の安全を確保させ、
さらには武田側に制圧されていた東美濃の領土も再制圧し、
北陸一向宗に支配されていた越前も再制圧し、という感じで
織田領国に一応の安定がなされた、1575年11月末に
家督継承がなされておりますかねえ。

毛利元就に関しましては、1546年の隠居に関しましては、
普通に大内勢力に従う従属大名として、尼子とかと戦いつつ、
備後の安定も確保し、毛利本家も安芸一国の制圧をほぼ順調にすすめ、
小早川家にも養子を出し、という感じで、ひとまずの安定をしている状況で、
元就が当主としての実権を確保した状態で、継承を行っております次第でございますかねえ。

これらから考慮しまするに、普通に信玄も一通りの安定をした時に、
家督を継承させようと考慮していたように思われる次第なのでございますけれどねえ。

78 :
そもそも、毛利の事例におきましては、
隆元については、元就も、元春も、隆景も、その重要性について気がついておらず、
隆元の死亡後に、はじめてその重要性に気がついた、という状況でしたし、
>>70の人が言うような、「それを乗り越えてやることこそ、次代への基盤固めに繋がる。」
的なのとは異なるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

79 :
信玄は、次代の安定を後回しにして、それが原因で家が滅んだ。
大名としては失敗者と言う事だ。
軍事政治謀略すべてに優れていても、それでも家を保てなかったと言う
江戸時代の大名とかには絶好の反面教師だな。

80 :
>>79
いやいやいや、実際には勝頼は普通に家督を継承しておりますし、
武田家滅亡の原因は、長篠の敗北やら、
その後の御館の乱における勝頼の外交失敗による、
数年間の多方面策戦による国力疲弊が原因、とされておりますし、
何が信玄のせいなのか、というと非常に疑問に思われる次第でございますしねえ。

81 :
そもそも、江戸時代には信玄は神格化とかもされ、
偉大な名将として称えられておりましたが、
織田信長の方は非常に反面教師扱いが多かったわけでございます次第ですしねえ。

82 :
>>79
なるほど
後継者に馬鹿を選んだ(サポートも付けなかった)のは、致命的な失敗だよな
現在にも通じる真理

83 :
>>82
指摘をされたら、
必死でご自身にレスをされなくてもよろしいと思うのでございますけれどねえ。
その理窟で言いますと、信長とかは本人自身が本能寺で死亡する事になり、
後継者の信忠も死亡する事になっており、それで自身の勢力が滅びる事になって
おりますから、どうなるのかと思うのですけれどねえ。

84 :
信玄の失敗についても全く反論できていないことにも気付いていない上に、
同一人物だと妄想認定したり、こちらが織田贔屓だと勝手に思い込んだり、
とにかく頭が悪すぎる

85 :
>>84
いやいやいや、後継者に馬鹿を選んだ、も何も、
全ての未来を予知できるわけではないですし、
信長も現に明智の謀反によって自身だけでなく、
後継者も死亡する事になり、
自身の勢力がそれで滅亡する事になり、
という感じですし、
これだと貴方は何をどうお責めになるおつもりなのでございましょうかねえ。

まあ、これだけ必死になんとかして信玄を叩こうとしてて、
文体的にも行動的にも特徴があって、
なんとかして必死になって相手側を叩こうとしたり、
レッテル貼をしようとしたりしてて、
その必死な織田厨さんが、オープンの方で、自身が複数端末による複数ID自演を
行われている事をお認めになられている、という状況では、普通に色々と
考慮されるべきではないかと思われる次第なのではございますけれどねえ。

86 :
>>82
というか、何で早く家督を勝頼に譲らなかったんだか。家督を譲って次代体制固めしてたら、あんな滅亡の仕方なかったろうに。

87 :
>>86
何度も書かれてるとは思いますけれど、
実際には勝頼は普通に家督を継承しておりますし、
武田家滅亡の原因は、長篠の敗北やら、
その後の御館の乱における勝頼の外交失敗による、
数年間の多方面策戦による国力疲弊が原因、とされておりますし、
何が信玄のせいなのか、というと非常に疑問に思われる次第でございますしねえ。

88 :
>>82
跡継ぎに選んだ事自体は仕方ないけど、
選んだのなら、中途半端にせずにちゃんとサポートして、後継者に教育するべきだったね。
親族衆として家臣になるのなら猪武者で良いけど、そのまま放置したのはいただけない。

89 :
>>86
勝頼がイマイチな事に気付いたんじゃないだろうか
次代体制固めも、跡継ぎに最低限の政治能力が無いと厳しい
戦国時代じゃお飾りにすることは難しいだろうし

90 :
>>88
正直思うんだけど、馬鹿は他人がいくら頑張っても絶対直らない
猪武者として育ったのなら猪武者として使うべき

91 :
信玄のせい!信玄のせい!家督継承をしなかった信玄のせい!
と上では述べておられましたのに、>>87のように、
勝頼時代の事柄が原因、とされましたら、
信玄のせい!信玄のせい!勝頼を後継者にした信玄のせい!
と言い出されるのはどうかと思う次第なのでございますけれどねえ。

92 :
馬鹿は視点が異常だからな
どうにもならない

93 :
>>92
確かに、>>91に示されているように、必死になってとにかく信玄のせい!という事に
しようと躍起になっておられる、必死な織田厨さんとかは、
そのように揶揄されてしまう事もおありになるのかもしれないと思えますかねえ。

94 :
>>91
信玄のせいは事実だろ。
自分は勝頼の時代に急に武田の財政が悪化したのに疑問を感じる。あれだけ連年合戦繰り返してたら黒川や安倍金山は枯渇するわ。

それと3年も死去を隠せとかアホか。そんなの無理に決まってるだろ。あのアホな遺言のせいで武田は1574年春まで動けなかったんだからな。

さらに信勝に家督をゆずれ、とか、これでは勝頼の権威ガタ落ちだわ。誰が期限付きの代理当主のいうことなんか聞くんだよ。

95 :
>>94
漫画で得た知識とかで喋ると恥かくだけだぞ

96 :
>>94
いやいやいや、勝頼時代に財政悪化、とか言いますけれど、
それは長篠の敗北による損害と、その後の御館の乱における勝頼の外交失敗による、
数年間の多方面策戦による国力疲弊が原因、とされておりますし、
何が信玄のせいなのか、というと非常に疑問に思われる次第でございますしねえ。

そもそもの問題として、金山収入は武田にとっては間接収入ですし、
そもそもの問題として、
それらの金山は江戸時代にも普通に採掘されているわけですしねえ。

普通に家康の攻撃に対して、武田勢は1573年中に動いてますし、
遠征に出るのが1574年からなだけの話ですしねえ。

それから、勝頼陣代説をご主張されたいようではありますが、
普通に勝頼は一次資料的には家督継承を宣言したり、
他勢力から祝われたりしてますので、
普通に勝頼に家督継承が行われただけの話であると思われる次第でございますかねえ。

97 :
>>90
べきなのは分かるが、そんな事いっても仕方ないだろ。
盛信も、最期を見る限りかなり猪だし。
義信を死なせた時点で、武田家滅亡は逃れられない運命だったと言う事になる。

98 :
>>97
近い親族に重鎮(宇喜多忠家とか北条一族とか)がいた場合はなんとかなるんだけど、
武田本家は人材不足だったな

99 :
>>97
仁科は最後に敗北が避けられなかった事から出戦を選んだと思われますし、
そもそも義信は、川中島とかでも非常に勇猛に突出し、
信玄に注意されたりしてる、とされてますので、
義信も勇猛なタイプに思えたりするのですけれどねえ。
まあ、若い武将というのは大抵そういうものであるようにも思われますけれどねえ。

100 :
勝頼を陣代にしたのはなあ。
どう転んでも、事態を悪化させる。
陣代なら勝頼も身の程を弁える、と誰かが言ったか?
そこまで諏訪勝頼が、武田の家督を継ぐのが不味いなら、弟の信廉か五男・信盛で良いだろに。

101 :
>>96
金山枯渇は事実だぞ。
1577年2月11日付で勝頼が甲斐黒川の金山衆の諸役を免除し、その理由を金山で黄金採掘ができなくなったための救済措置である、と述べている書状がある(風間文書)。

陣代否定するなら、お前時々軍鑑から出してる説明あるけどそれも否定することになるぞ。

102 :
>>99
軍鑑Z

陣代否定する奴が、軍鑑に依拠するなよ。

103 :
>>98
長篠の敗北で死亡した多くの経験豊富な武将達の存在が大きかったのですかねえ。

104 :
>>101 >>102
金山に関してですけれど、何度も言いますように、
武田にとっては間接収入ですし、そもそも甲斐金山の採掘が終了するのは
江戸時代になってからの話ですので、一時的に金山の採掘量に問題があったからといって
それがすべての否定につながるわけでもないと思う次第でございますかねえ。

なーんか必死になって一を否定したら、その資料の全てを否定しないといけない、
的に言われたりしてますけれど、
それを言いましたら、信長公記の志賀陣の記述とか、明らかに信長側の苦境とかを
必死に信長側優位に書きかえたりしてる事が指摘されておりますし、
他にも色々と指摘されている所とか、不可思議な所とかはございますが、
信憑性のあると思われる所を考慮して使われている、というのが実情ですしねえ。
勝頼の陣代説などは、普通に同時代資料で勝頼自身が家督継承を宣言したり、
他勢力からも祝われたりしてますのに、陣代とかを言われましてもしょうがないと
思う次第なのでございますけれどねえ。

105 :
>>103
いやいや、長篠の突撃が最大の失敗だから
家臣クラスじゃなくて、
小早川隆景や宇喜多秀家みたいな親族じゃないと駄目だったんじゃないかな
勝頼の存在が消えるくらいの重鎮

106 :
>>104
お前は人が書状出したら否定に回るんかい。
自分が出してる時は書状だの資料だのと言ってるのに。

107 :
>>105
武田信繁がいたら、あるいはかな?

よく見てみると、勝頼期の武田一門衆て穴山信君、武田信豊、武田信廉、一条信龍、葛山信貞。

どれもパッとしないのばかりだな。

108 :
>>101
何度でもいいますけれど、勝頼の陣代説などは、普通に同時代資料で勝頼自身が家督継承を宣言したり、
他勢力からも祝われたりしてますのに、陣代とかを言われましてもしょうがないと
思う次第なのでございますけれどねえ。
>>102 >>103
それから、その特徴的な文体と言い回しに関しましては、
信長包囲網スレにおいて、今日の15時台に書き込みが違うIDであったのですが、
やはりあなたは複数IDの切り替えを行われている、という事でよろしいのですかねえ。
>>106
ですからあ、金山自体が間接収入だ、というのは学者さんの笹本氏とかも
普通に指摘しており、金山で武田氏がどうたら、というのは
「金山の影響を過大に見すぎ」的に述べておられる次第でございますしねえ。

しかも、何度も言いますように、江戸時代にまで採掘が普通に続いている金山で
金山が枯渇した!とか言ってもしょうがないと思う次第なわけですしねえ。

109 :
>>108
別に勝頼の家督相続は否定してないぞ。
1573年7月14日に北条に送った書状、9月に顕如から送られた祝いの書状だろ?

あれでどちらも気になるのが、武田信玄が存命している形で、送られている点。つまり勝頼が武田信玄の陣代遺言を無視して家督を相続した可能性はないのか、と思うんだがな。

そもそも武田はこの時点で、同盟国に武田信玄がまだ生きています、勝頼は隠居した武田信玄に後見を受けています、と虚偽を述べてるわけだしな。

110 :
>>109
いや、それでしたら、普通に勝頼嫌いとされる穴山とかが、
1582年に出した書状とかで、普通にその事を書くでしょうし、
重臣達や一門衆も反発するでしょうしねえ。
上記の穴山の書状では、「我が国の太守勝頼公、
その在位10年。」とありまして、普通に正当な当主であった事自体は
認められているようですし、
信玄の重臣の内藤達も「信玄時代以上に働きますので、
自分たちの立場とかを保証してください。」と勝頼に求め、
勝頼がそれに答えて書状を出したりしているくらいですしねえ。

111 :
>>109宛続き
信長包囲網スレが書き込めなくなったのと、
新スレが立てられなかった事から、こちらで信長包囲網スレの975の貴方のレスに対しての
返レスを書かせていただきますね。

端的にわかりやすく言いますと、武田氏の金山収入、といいますのは
金山衆、という金を採掘する集団の活動を認める代わりに、
その活動による一部の金を上納させていた、という形でして、
あくまでも武田氏にとっては間接収入であって、
武田氏の収入の大部分は領民からの諸々の税であり、
武田にとってはその税を得るための農業政策・商業政策、の方が
大きな意味合いをもっていた、という話なわけなのですが、
これで金山が武田の財政をどうたらした、というのは
金山の影響を過大に見すぎ、とされているわけでして、
ここまで説明したのですから、貴方は貴方自身が言われておりますように
謙虚なる姿勢を示していただけるものと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

112 :
ついでに、>>110に述べられております、穴山の書状、には
「我が国の太守勝頼公は、その在位10年であったが、
親族の諫めを聞かず、佞臣を近づけ〜」的に書かれているわけでして、
仮に勝頼が陣代とかであったなら、当主の位を簒奪した、とかいうのでしたら、
普通に穴山はそれを書いていたように思われる次第ですしねえ。

113 :
>>107
穴山は母も妻も武田家の人で、勝頼よりも本家に近いと言えなくもない。
一条信龍は地味だけど、そこそこ優秀な人物だったみたい。
まあ、息子を差し置いて後継者にしたら、それこそお家騒動の種にしかならないよな。

だから、後継者にした以上、ちゃんと勝頼を育てるべきだったと書いたんだが
それが無理なら、やはり史実どおり以外の道はないことになるね。

114 :
>>112
穴山の書状?
あれは南松院17回忌の法語に玄ムに書いてもらったものだろ?
何嘘言ってるんだ?

115 :
>>114
いや、普通に穴山の書状として扱われておりますって。
変な内容でしたら、普通に穴山が許可しないでしょうし、
学者さんとかも、普通に同時代の勝頼評として評価しておりますしねえ。

116 :
武田滅亡の原因の一つの長篠の大敗は、織田・徳川に喧嘩売った信玄の外交の下手さが原因でしょ。勝頼は信玄の外交のつけを払わされただけ。武田滅亡の種は信玄が蒔いているのよ。

117 :
>>116
ですからあ、長篠では信長万歳の信長公記ですら、
「勝頼がわざわざ設楽ヶ原まで出てこずに、川を前にして守りを固めていれば、
こちら側は攻略のしようがなかった。」的に書いてあるわけですし、
重臣達も普通にそれ以上に鉄壁の防御態勢を築くことを進言してるわけですけれど、
勝頼の方が決戦を決断して、設楽ヶ原まで進んだ、とされているわけですしねえ。

元々、徳川の方はもう長篠直前には「今度ダメだったら武田に寝返ろう」
とか言い出してますし、織田も武田勢が長篠で敗北せず、その鋭鋒が減少しなければ
東西奔走を繰り返していたであろう事は普通に指摘されておりますしねえ。

そもそも、信玄が織田徳川と敵対したのも、信長側が両属の東美濃岩村遠山を
織田領土に編入したり、と色々要因があるわけですしねえ。
信玄自身も三年の鬱憤を晴らす、と述べているわけですしねえ。

118 :
>>116
確かにその通りだな。
平山、丸島など武田関連の専門家が武田滅亡の原因を織田、徳川との対立を理由にしている。松姫を嫁がせて信忠との間に息子ができたら、武田は安泰だったのにな。

119 :
>>113
勝頼の性格って、やはり猪武者かな?
甲陽軍鑑だと知的な人物と評されてるんだが。

120 :
>>119
それ、疑問なんだよな。
信玄の子といっても諏訪氏の出自。
わがままに振る舞えるはずもないから、慎重な性格に育つと思うのだが。
一事が万事じゃないけど、長篠の結果から、鉄砲隊に遮二無二突っ込むイメージが当時から定着したのかな。
史料を残した当時のインテリが・正確に戦況を把握しているはずもなく。

121 :
最初から家督継承候補者として育てられたのならともかく
そうじゃない信玄の息子というだけのお気楽な立場だとしたら別に不思議ではないような
まあ実際の性格がどうだったかはわからないけど

122 :
>>116
勝頼は外交も下手だから、信玄関係なく信長に滅ぼされたと思う
景勝、輝元、元親も滅亡確定だったし、やっぱ同世代の中では信長は頭一つ完全に抜けてた

123 :
>>122
信長は武田信玄が自分との同盟を破棄したことを恨んでいたからなあ。信長が1572年11月20日付で上杉謙信に出した手紙の文面が凄いし。

「信玄は前代未聞の無道者で侍の義理を知らず。未来永劫、再びあい通ずるまじく候」

よほど信長は信玄を憎悪してたんだろうな。未来永劫、仲良くする気がないとか。

長篠の後に信長が細川藤孝に出した手紙も武田信玄に対する恨み一色。

武田信玄が信長の怒りと憎悪を拡大させたのは間違いない。勝頼はそれを押し付けられて可哀想だよ。

124 :
小説じゃないんだからw

125 :
>>122
外交関係なく中山道、東海道といった要所を所領に抱えてた
武田が生き残れるとは到底思えんがな
戦国時代を通して信長を倒せた可能性が唯一あったのが
武田信玄だったわけであって

126 :
>>118
いや、その二人だけでなく、他の研究者さんとかも、普通に
長篠の敗北と、御館における外交失敗からの数年間の多方面策戦による国力疲弊、
とかを要因として挙げているように思われるのですけれどねえ。
>>120
当時から、信玄の書状で駿河蒲原城攻めで
「勝頼が先陣をきって敵城に突撃してしまい、本陣は騒然となったが、
不思議にも乗り崩して攻略に成功した。」的に書いてたりしますので
やはり猛将的な要素は持っていたように思われるのですけれどねえ。

127 :
>>123
元々岩村遠山問題とか、家康の武田包囲網の動きを武田から抗議されてもスルーしてたり、
勝頼への将軍家からの一字拝領と官位叙任を結果としてつぶしたり、
と織田が武田の不審を飼う要素が多かったわけですしねえ。
で、結局のところ、勝頼の外交失敗の事例としては、御館における外交失敗からの数年間の多方面策戦による国力疲弊、
の方が要因として大きいように思われる次第なのですけれどねえ。

128 :
キチガ⚪は朝から元気やな。

129 :
ここは基地外スレ?

130 :
そうだけど?

131 :
基・地・外

132 :
>>125
瞬間的でいいなら金ヶ崎とか杉谷の狙撃とかもあるが
倒せた可能性高いのはどう考えても今川義元だろ
それに比べれば信玄相手した時なんて危機とは言えないレベル

133 :
>>132
今川義元を殺れたのは本当に奇跡だよね。
実力だけではなく強運あってかなあれは。

134 :
おねだり豚くん、横レスする時は「横レス失礼します」って言わないと
みんなの会話を邪魔してはいけない

135 :
このスレに現れるキチガイは研究者の論説は否定する、史料の意味や語彙は誤魔化す、挙句の果てはそれを誰々の書状と嘘をつく。

自分の誤りを全く認めないから話にならん。

136 :
>>133
奇跡ってほどじゃないだろ。国力的には50万石vs70万石の
国同士の戦争なわけであって
今川方の国力に見合わない異常な兵数に目が行きがちになるが

137 :
>>136
今川は尾張の東南部も支配下にしていたから、たぶん80万石くらい。織田は40万石だけど、美濃の斎藤を警戒しないといけないし、前年に岩倉織田を倒して一応統一したばかりで、犬山の信清も非協力的だったから、実際は30万石。

138 :
>>128 >>129 >>130 >>131
そういう必死な織田厨である貴方はいつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。

139 :
>>132
実際に信玄西上の時は信長は武田勢の動向とか、包囲網側とかに
警戒をしまくっているのが、書状から伺えるわけなのですけれどねえ。

140 :
>>134
はいはい。どうでもいいですから、聞かれている事には
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>135
それはそちら側の事のように思えますけれどねえ。
こちらは普通に研究者さんの論とかも説明してますし、
書状内容とかもそのまんま説明したりしてますし、
異なりがどうとかおっしゃられるなら、貴方はこちらが武田の金山が
間接収入だったことを説明し、学者さんの論とかも述べて、
貴方の言われる「謙虚に異なりを認める姿勢」を示して欲しい、
といわれたら発狂逃亡をなさられているご様子ではありますが、
是非とも、貴方は貴方の言われておられた「謙虚なる姿勢」とやらに基づいて
レスをしてほしいと思いますので、何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

141 :
というか、>>135のように必死にレッテル貼になっておられる人は、
他にもまだまだこちら側から聞かれている事が多数に及ぶはずですので、
何卒お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

142 :
キチガ⚪は朝から暴走して元気だねえ。

143 :
三方ヶ原で勝利したくらいで武田信玄は徳川家康を放置して東美濃に行くつもりだったのか。
徳川家康が再起したら背後つかれるのにどうする気だったんだ?

武田信玄自身も、1548年2月の上田原の戦いで家老の板垣信方、甘利虎泰を失い、かなりの被害を出しながら5ヶ月くらいで再起して小笠原長時を破った過去があるのに。

徳川家康に自分と同じことができないと過信でもしていたのか?

144 :
>>133
桶狭間の段階じゃ、織田家は不利だけどその程度まで持ち直しているともいえる
本当にやばかったのは家督継いだ直後か、道三死んだ直後ぐらい。
家督継いだ段階は今川はまだ北条と、56年辺りは北三河奥三河の対処優先したため
何とかなったけど。

>>143
信玄自身も負傷するぐらい不利だったみたいだし、
旗本クラスもそれなりに被害出してるんだろうな。

145 :
>>143
ひょっとしたら徳川ー武田間でなんらかの話が着いていたのかも?

146 :
>>144
才間河内守という出自不詳の武将と、初鹿野が死んでるね名前があるのだと。

>>145
それはない。三方ヶ原が言われるより被害が少ないだけで、当時の大幹部の中根や成瀬、鳥居らが死んでるからすぐに再起できるわけでもない。

そもそも武田、徳川間の争いは遠江の領地争いに端を発してるから、話をつけるなら武田が徳川に三河北部と遠江北部の領土を返還しないといけない。つまり、妥協点がない。

武田信玄は岡崎の勝鬘寺や遠江の一向一揆を起こさせる手はずだったというんだが、さてこれくらいで徳川家康を抑えられるのかなあ、と思う。そもそも勝鬘寺は以前の三河一向一揆でやられてるし。

147 :
>>143
その時は喜んで家康を迎え撃つだろうな
堅牢な浜松城を落城させるより圧倒的に難易度が低い

148 :
>>147
武田信玄は主力連れて東美濃に行くんでしょ。
徳川家康が駿河に行って焼き討ちとかしたら、いつまでも東美濃にいられないだろうな。で、武田信玄が帰ってきたら浜松にまた籠もればいい話になる。

何しろ北信濃の春日まで総動員してるから、どこも大した留守はいないし。

149 :
>>146
勝山記に名前が載るぐらいだから、才間河内守は郡内と関係が深いか
それなりに甲斐で知られているぐらいの存在だったのだろうか。

>当時の大幹部の中根や成瀬、鳥居
大幹部は中根ぐらいでは?
それでも石川酒井に比べれば格下になるが、元亀の織田で言うなら森クラスぐらいか?
でこれぐらいですぐに(すぐがどの程度かはわからないが)再起出来ないとするなら
他の大名の合戦後の行動に説明がつかなくなると思う。

150 :
>>147
ゲームじゃないんだからw

151 :
>>149
さすがに半年あれば再起できると思います。
石川数正、酒井忠次は健在だし。

152 :
>>151
その頃には東美濃、中美濃は当然として岐阜も武田の領国になってるだろうな

153 :
>>152
1573年2月に武田信玄、三河野田城を落とす。同月末に信長が南近江の反乱を鎮圧。
3月に朝倉義景が若狭、越前敦賀に出陣。
5月に武田信玄は朝倉義景や長島一向一揆と連携して美濃侵攻を画策していた、とされる。

三方ヶ原は1572年12月22日。
5月なら5ヶ月の時間がある。
しかも岡崎や吉田は無傷。
これで徳川家康の再起は不可能だとでも?

154 :
三方ヶ原の損害を見れば不可能

155 :
>>154
どういう風に不可能なのか具体的に言って欲しい。

ちなみに史実。
1573年4月12日。武田信玄死去。
5月8日。徳川家康が駿河に侵攻して岡部で焼き討ち。
6月から7月。徳川軍が三河北部に進出。
8月。徳川家康が長篠城を奪回。

156 :
>>153 >>155
>>154の人ではありませんが、代わりに答えせていただきますと、
何度も書かれている事ではありますが、
江戸時代に徳川側によって編纂された四戦紀聞などでは、
徳川側の三方ヶ原における戦死武将数が50名近くに達しており、
徳川勢が相当な被害を受けたであろう事が伺われるわけでして。

で、史実的に考慮しますならば、現に三方ヶ原の後に武田勢が三河野田城を攻略にかかりました時に
家康が救援の為に動員できた兵力は三千程でして、結局、野田城救援を行えずに、撤収する事になっておりますね。
さらに、2年後の長篠の戦いの決戦場におきましても、
酒井別動隊2千程を鳶ヶ巣などに出撃させた結果、本戦の徳川勢主力は5千にも及ばない数であったとされており、
6千数百程がこの時の徳川勢の主力の総勢であったと考慮され、これは通説における三方ヶ原における徳川勢の出撃兵力数8千に及ばない兵数であります事から
シンプルに考慮しますれば、2年を経ましても、まだ徳川は三方ヶ原の時と同規模の兵力を動員できていない事に
なると思われますね。まあ、その2年の間に、勝頼が複数回侵攻を行ったりしているのではありますが、
高天神は元々信玄時代には降伏していたとされておりますして、それを再奪取したものですし
長篠直前の侵攻において、勝頼がいくつもの城を攻略してはおりますが、それがそこまで動員数に影響しますか、というと
色々と考慮の余地があるようには思われるのですけれどねえ。

157 :
>>153 >>155宛続き
で、信玄死去後の徳川勢による武田領国への侵攻、反撃、ではありますが、
貴方のあげている、7月における家康直卒軍による長篠城攻略軍、の兵数は
徳川側の資料によりますれば、三千程であったとされており、
徳川勢が信玄が死去する前の野田城救援の時に動員できた兵力と
ほぼ同数である事が考慮されるわけですね。
このような感じで家康が長篠城攻略の為に三千程の兵力でやってきた事を勝頼は知り、
「天が与えた好機だ!」と大喜びして、後詰の軍勢を次々に動員し、
長篠城において徳川勢主力を包囲して壊滅させる事を計画しておりますね。
ただ、結局は信玄死去後の事でもあり、軍勢の招集に想定よりも時間がかかってしまったようで、
勝頼主力軍が到着するよりも前に、長篠城は攻略されてしまう事にはなったわけですが、
家康の長篠城攻略軍の兵数が三千程であった事、それらは通常の状態の武田勢にとっては
まさに好機、と捉えられるような状況であった、というのは十分に考慮できるのではないかと思われるわけでして。

158 :
>>149
何度も書かれている事ではありますが、江戸時代に徳川側によって編纂された四戦紀聞などでは、
徳川側の三方ヶ原における戦死武将数が50名近く記述されているわけではございますが、
その中でも、家康の当時の両旗奉行、である安藤基能と米津政信がまず死亡しております事から、家康直卒軍が相当な被害を受けている事が考慮されますね。
天野政景は遠江天野氏の一族でしょうかね。服部保正はあの服部正成の兄とされますし、
榊原摂津守忠次はあの榊原康政の榊原氏の一族でしょうし、守名乗りを許されている事から、
相応の立場の武将であったと思われますし、中根正照は言わずと知れた遠江二俣城城主、
有名な夏目吉信は元々松平氏譜代の家柄の武将で、家康の元で群代などを務めている事なども指摘されておりますね。
長谷川紀伊守正長は元々徳之一色城の城主で、弟である藤九郎も共に三方ヶ原で死亡しておりますね。
中根正直は上記の中根正照の一族でしょうかね。
このように、この時点で考慮しましても、奉行、群大、城主、などが複数入っておりますし、
さらには有力武将の一族なども多数入っている事が考慮されるわけでございますね。
(続く)

159 :
>>149宛続き
渡辺十右衛門永は松平氏の譜代の旗本武将ですね。新九郎はその一族ですね。
荒川甚太郎は本多忠勝の家臣ですね。
大橋刑部は謙信と家康との交渉書状の中に名前が出てきておりますので、
相応の立場の武将であったと思われますし、
原田種友は九木城城主ですし、小笠原康元は高天神城主を調略した功績で
家康から康の字と赤羽根の土地をもらい、赤羽根城主となっておりますし、
同三郎兵衛はその子息か一族かと思われますね。
松平弥右衛門忠長は松平姓を持っている事と、その娘が徳川家の譜代武将の
内藤家長に嫁いでいる事から、相応の立場の武将と思われますし、
石川正俊はあの石川数正の弟であります事から、石川勢にも相当の被害で出ている事が伺われるわけですし、
杉山久助は杉山城の城主のようですね。
石原十度右衛門は酒井忠次の家臣であり、姉川で武功を立てたとされる寸度右衛門の事か、
もしくはその一族かと思われますかね。
小笠原七郎右衛門は上記の小笠原の一族でしょうかね。
大久保忠寄はあの大久保一族の人間でしょうし、
外山小作正重は家康に仕えて武功を立て、三方ヶ原の時には石川数正の軍勢に属して戦い、死亡したとされており、
やはり石川勢も相応の被害を受けているようですね。
松平主税は松平姓持ちの武将ですね。

160 :
佐竹義重は40代で義宣に家督を譲った
関ヶ原の時は義重は徳川寄り義宣は三成と親友
親父が渋らなかったら義宣は家康に挑んだかも
多分お家断絶、家を守るなら二枚腰
まあ武田はチャレンジャーだないつも

161 :
>>149宛続きその2
>>158>>159を基に考慮しますと、
三方ヶ原で死亡した武将50名近くのうち、
両旗奉行が二人とも死亡、城主・群代クラスが6人、
有力武将の一族が9人、松平姓持ちが2人、
酒井・本多・石川、といった有力武将の軍勢に属して死亡した武将達が3人、
(上記の有力武将の一族達は除外してありますね。)
譜代武将、外交書状に登場している武将達が二人、
という感じで、50名近くのうち、20数名がそれ相応の有力武将であると思われるわけですし、
それらの中には、有力武将の一族とか配下武将とかも多数入っておりますし、
これ程死亡したのであれば、十分すぎる程に大きな敗北といえるのではないのかと思われるのですけれど、
如何なものでしょうかね。

162 :
>>148
>>157にありますように、7月における家康直卒軍による長篠城攻略軍、の兵数は
徳川側の資料によりますれば、三千程であったとされており、
徳川勢が信玄が死去する前の野田城救援の時に動員できた兵力と
ほぼ同数である事が考慮されるわけですね。
武田側としましては、徳川の相手の為に
数千程の抑え残しておけば十分すぎる程にその動きを封じられると思われますし、
その分は東美濃で秋山勢やら岩村遠山勢などと合流すれば
十分すぎる程に補充できると思われるわけですしね。

163 :
>>143 >>146
>>157にありますように、7月における家康直卒軍による長篠城攻略軍、の兵数は
徳川側の資料によりますれば、三千程であったとされており、
徳川勢が信玄が死去する前の野田城救援の時に動員できた兵力と
ほぼ同数である事が考慮されるわけですね。
武田側としましては、徳川の相手の為に
数千程の抑え残しておけば十分すぎる程にその動きを封じられると思われますし、
その分は東美濃で秋山勢やら岩村遠山勢などと合流すれば
十分すぎる程に補充できると思われるわけですしね。

さらには、三方ヶ原の徳川側の損害自体も、>>158 >>159 >>161にありますように
相当数の有力武将やその一族などが死亡している事が伺われるわけですし、
十分に徳川にとっては大きな敗北であったと思われますかね。
上田原はそもそも、村上側も相当の損害を受けており、痛み分けに近い形の戦いで、
戦場から先に撤収したのも村上側で、武田勢はその後も戦場に留まり続けたわけですしね。

164 :
>>143 >>146宛続き
それから、>>146において貴方が述べられております、
>武田、徳川間の争いは遠江の領地争いに端を発してるから、
>話をつけるなら武田が徳川に三河北部と遠江北部の領土を返還しないといけない。
>つまり、妥協点がない。
とは言いますが、徳川も長篠の直前には「今度ダメだったら織田やめて
武田に寝返ろう!」的に述べておりまして、
状況が不利だと考慮しましたら、
普通に徳川は「領土は現状でいいから、和睦してくれ。」
的な国分け案を提出してきたりしそうにも思われるのですけれどねえ。

165 :
>>142
そういう必死な織田厨である貴方はいつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。

166 :
>>165
基地外Z

167 :
>>166
必死にレッテル貼に躍起になっておられるご様子ではありますが、
貴方はこちらが武田の金山が 間接収入だったことを説明し、
学者さんの論とかも述べて、
貴方の言われる「謙虚に異なりを認める姿勢」を示して欲しい、
といわれたら発狂逃亡をなさられているご様子ではありますが、
是非とも、貴方は貴方の言われておられた「謙虚なる姿勢」とやらに基づいて
レスをしてほしいと思いますので、何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

168 :
>>144
家督継いだ直後から尾張統一までの間に義元が尾張に攻めこんだら、信長は即死でしたね。1960年は義元と戦う信長にとってギリギリセーフの時でしたね。

169 :
ここはいつからこんなスレになったんだよ。
面白かったのに、今では基地外の巣窟か。

170 :
>>169
いつからというならお〜ぷんが壊滅した時からかな

171 :
>>151
他の大名の例で考えるとこの程度の被害じゃ半年もかからないと思う、
石川酒井死ぬぐらいでようやく半年ぐらいかかるって感じじゃないかと思う。

>>168
1555年辺りの清州無力化した後は信長はまだ余裕ありそう、
56年には野寺原合戦みたいに三河に攻め込んだりしてるし、
織田に余裕あるせいか、この時期三河で今川からの離反相次いでいるし。

172 :
基地外は議論に参加しないでほしい。

173 :
三方ヶ原の損害は甚だ大きいし再起しても万には遠く及ばない数千がいいところ
武田に奪われた城の奪還も儘ならない

174 :
>>169 >>170 >>172
そういう必死な織田厨である貴方はいつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。

175 :
>>171
いやいやいや、「この程度」と貴方は申されますが、
>>161にもありますように、>>158>>159を基に考慮しますと、
三方ヶ原で死亡した武将50名近くのうち、
両旗奉行が二人とも死亡、城主・群代クラスが6人、
有力武将の一族が9人、松平姓持ちが2人、
酒井・本多・石川、といった有力武将の軍勢に属して死亡した武将達が3人、
(上記の有力武将の一族達は除外してありますね。)
譜代武将、外交書状に登場している武将達が二人、
という感じで、50名近くのうち、20数名がそれ相応の有力武将であると思われるわけですし、
それらの中には、有力武将の一族とか配下武将とかも多数入っておりますし、
これ程死亡したのであれば、十分すぎる程に大きな敗北といえるのではないのかと思われるのですけれど、
如何なものでしょうかね。正直な話、戦死武将が50名近く、
そのうちの20数名が上記のようにそれ相応の有力武将達、という状況での敗北、といいますのは
それを上回る程の敗北、といいますと長篠、とか、耳川、とかの領域しか無いように思われまして、
とても「この程度」といえる程にありふれた敗北ではないように思われるのですが、如何なものなのでしょうかね。

実際に、三方ヶ原から7か月以上が経過した後の、長篠城攻略戦における家康直卒軍の兵数が
三千程、と徳川側の資料においてはされておりまして、
2月に野田救援の為に家康が率いた兵力とほぼ同数なわけですしねえ。

176 :
基地外は深夜からお元気だねえ。

177 :
>>175
それだけ死んでて家康は挽回を果たし、
それだけ死んで勝頼は最後まで挽回を果たせなかった。
武田信玄は本当に後継者に対する体制づくりに失敗してるな。

178 :
楽しく語っている2人の会話に横入りして邪魔しては駄目!
きちんとマナーを守ろう!

179 :
>>123
そこまで最強実力者の信長を怒らせる信玄はやっぱり外交はアホですね。これじゃ妥協の余地がないじゃない。

180 :
>>179
長篠合戦後に細川藤孝に宛てて信長が出した手紙も凄いけどね。やはり武田信玄は外交下手だよね。

181 :
そもそも武田信玄が織田信長を倒すなら、朝倉義景が動くかどうかにかかってるだろ。

朝倉義景に織田信長と決戦する度胸なんかあるのかよ。

182 :
信長も外交下手だけどな
家康制御できてないし

183 :
>>171
上田原と比較するならそんなもんだろな

>1555年辺りの清州無力化した後は信長はまだ余裕ありそう
道三と協力して東濃窺ったりな
吉良や酒井忠尚の離反は史実かわからないが鈴木広瀬なんかの北三河勢力に
菅沼奥平なんかの設楽の勢力から離反相次いで大給松平も今川に敵対という状況
これじゃあ道三死んで信長が危機になったとしても普通は三河の安定に力入れるな
あそこから数年で岩倉滅ぼすとは普通思わんだろ

184 :
>>181
仮に朝倉が動いてもどれほど役に立つかという問題も
前年織田軍主力いない状態の虎御前山の秀吉排除出来なかったんだし
包囲網の各戦線織田主力無しでも時間稼げる程度の余力あるからなー

武田が永遠に出兵し続けられればいずれどこかの戦線が崩壊するだろうけど
そんなことあり得ないし

185 :
すでに国衆の離反が始まってるから朝倉を相手すんのもきつくなるだろ
三方ヶ原で勝つべきだったんだよ信長は

186 :
>>184
織田の主力を近江に引き付けられる時点で浅井と朝倉は十分役にたったよ
あとは収容人員に限りのある中世の城しかない美濃を大軍で落城させるだけだが
肝心要の信玄が死んでしまってあぼーん

187 :
美濃は三河、尾張にあった堅城がないからな
大国の織田と今川が争い築城を研鑽した三河に比べると難易度は低い

188 :
>>185
国衆離反なんかしてないがな。
文書で武田信玄と内通しているのが確認できるだけ。いわゆる二股外交。

文書では加治木の斎藤利治まで武田信玄と内通していた、というけど、これは少し怪しい。

189 :
>>176
そういう必死な織田厨である貴方はいつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。

190 :
>>177
三方ヶ原では徳川側の武将が50名近く死亡してはおりますが、
長篠ではそれを更に上回る武将が死亡しておりますので、
普通に被害が長篠の方が上、というだけの話ではないかと思うのですけれどねえ。

というか、信玄のせい!信玄のせい!勝頼に譲らなかった信玄のせい!といいつつ、
勝頼時代の事柄が原因、とされてきましたら、
信玄のせい!信玄のせい!勝頼に譲った信玄のせい!的に言うのはどうかと思われるのですけれどねえ。

191 :
>>179 >>180
何度も書かれている事ではありますが、
元々の問題として、信長が武田と織田の両属であった岩村遠山を織田領土に編入したり、
勝頼への将軍家からの一字拝領と官位叙任を結果として潰す事になったり、
家康の武田包囲網構築の動きを、武田が抗議しても掣肘しようとしなかったり、
といろいろと要因があったわけですしねえ。

192 :
>>181 >>184
何度も書かれている事ではありますが、
朝倉も普通に織田相手に戦果をあげておりますし、
そもそも美濃侵攻では武田・長島と共同して侵攻しますので、
織田主力が武田に向かえば武田が守り、朝倉・長島が侵攻を進め、
朝倉に向かえば朝倉が守って、武田・長島が侵攻を進め、
長島に向かえばryという感じで、非常に戦略的に有利に戦えるわけですしねえ。
>>183
>>175にありますように、上田原以上の損害であるように思われるのですけれどねえ、
三方ヶ原は。
実際に、三方ヶ原から7か月以上が経過した後の、長篠城攻略戦における家康直卒軍の兵数が
三千程、と徳川側の資料においてはされておりまして、
2月に野田救援の為に家康が率いた兵力とほぼ同数なわけですしねえ。

193 :
>>192
何でお前を基地外扱いしたら織田厨になるんや?

お前の態度が悪いから、みんなから反発されてるのがわからんのか?

194 :
>>192
朝倉がそれまで挙げてる戦果なんかたかが知れてるだろ。宇佐山で森可成を討ち取ったのを最後にまともな戦果挙げれてない。戦果言うのなら、敵将を寝返らせるか討ち取るか、領土(城)を奪うか。

たかが少しやったくらいで戦果戦果うるさいわ。だいたい1572年からの朝倉は、浅井と協力して織田主力不在の横山城すら落とせない。浅井は小谷にいくつも付城を築かれて動けない。これのほうが余程重要だわ。浅井、朝倉は確実に弱体化していた証拠だよ。

朝倉に至っては、重臣側近クラスの前波、富田が離反する。重臣の池田は離反直前で成敗と、弱体化が内からも始まっている。

195 :
国衆の離反なら朝倉、浅井の方が、と書こうとしたら、既にレスされていたでござる。
当然だわな。

196 :
そもそも長島や武田、朝倉と共同作戦というが、前年10月から朝倉、浅井、武田、本願寺でとっていた共同作戦を台無しにしたのは朝倉義景だろ。その義景がなんで美濃攻めでは共同作戦とると言えるのか?

197 :
>>186
浅井朝倉相手に守るだけなら秀吉だけである程度何とかなるから、
美濃に大軍でいるのは武田ではなく織田の方になりそう。

>>188
>文書では加治木の斎藤利治まで武田信玄と内通していた、というけど、これは少し怪しい。
織田は細川への書状で武田を誘引するためと言ってるな。

198 :
>>197
斎藤利治って、信忠が家督継いだあと、側近になってるし越中で一軍率いる武将にされてるし、所領も美濃と飛騨でかなりの大身だよな。

199 :
だいたい武田信玄の動きもとろい。
出だしは良かったが、二俣城で2ヶ月も足止めされてる。3万弱でら2000も城兵のいない城を。

最初から包囲網の連携あってないやん。

200 :
1573年3月下旬から4月上旬の朝倉義景、浅井長政、石山本願寺は何してたのそもそも? 朝倉義景は若狭に派兵していたとはいえ、敦賀に1万以上の大軍でいたはずだよね?

織田信長は柴田勝家ら主力を連れて京都にいたんだから、美濃や尾張は留守だけだよね? この機にかつての志賀の陣の時みたいに北近江の織田方諸城を陥落させるなり、長島一向一揆が尾張を突くなりはできなかったの?

いくら武田信玄が重病で動けないとはいえ、朝倉、浅井、石山本願寺は独力で何とかならなかったのか?

201 :
>>188
二股外交じゃないよ
遠藤は本願寺に武器提供してるし

202 :
>>200
若狭に派兵って言うとなんか凄そうに聞こえるけど、
攻めてるのは、敦賀から10キロほどのとこ。
国境から10キロじゃない、若狭越前の国境からだと2キロぐらい、
本陣敦賀において国境の城攻めてたようなもの。

そもそも浅井朝倉は前年織田の主力が帰ったあとの秀吉相手に攻めたけど
結局小谷の目の前から排除できずに終った。

志賀の陣の時とはもう状況が変わり過ぎている。

203 :
>>202
何処かの基地外は、>>192で浅井、朝倉は織田を相手に十分な戦果を挙げてるって言ってるよ。十分な戦果を挙げれる力があるなら、信長と主力が不在の北近江、美濃、尾張なんか楽勝のはずだよ。

204 :
>>200
石山本願寺は浅井朝倉の支援続けている、
他に越中が上杉に攻められているのでそっちの支援もある、
というかそっちの方が緊急だったんじゃないかと、越前にまで援軍求めているし。

>>203
戦術レベルの戦果はあったかもしれないけど、
小谷の目の前の虎御前山砦を排除出来ないってことは戦略的には浅井朝倉は負けたまま、
戦術レベルで戦果あったとしてもその程度の戦果でしかないからなー。

205 :
>>204
基地外はその戦術レベルで、織田を倒せると言ってるんだがね。

206 :
精神病棟の患者の妄言を根拠とした話がなんの議論になるんだか

207 :
>>206
たぶんその基地外本人が、構ってもらいたくて叩いてるんだよ。
奴をボロクソの癖に、なぜかアイツが一番嫌がる菅沼遼太って名前出してないだろ?
同調者が現れたら、いそいそとが登場して、いつものコピペ垂れ流すってわけ。

アイツだけじゃなく、アイツを構う奴も無視が一番。

208 :
基地外=菅沼=ねえ=武田厨

209 :
>>208
織田厨にもやばいのがいるんだな
病状と個人と集団をイコールで結ぶとは、、

210 :
>>193
実際問題として、織田に都合の悪い資料とか書状とかを紹介されて、
織田が不利的な論を述べられますと、ビックンビックン反応して、
必死になって相手側を必死にレッテル貼りなどを行おうとして
喚きまわられている、貴方のような方を、織田厨の方、とお呼びする以外に
どうせよと仰せられるのかと思うのですけれどねえ。

態度がどうとかおっしゃられるのでございましたら、
現在進行形で貴方が必死でープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。
それか、ご主張なさられたい事がおありなのでしたら、
ちゃんとした論旨でこられてくださいねー。

211 :
>>206
少なくとも、私は病院とかには通院しないで生活をしておりますし、
貴方はそうやって、必死に相手側のいう事を捏造曲解しながら
必死な織田厨として、いつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。
それか、ご主張なさられたい事がおありなのでしたら、
ちゃんとした論旨でこられてくださいねー。

212 :
>>207 >>208
そういう必死な織田厨である貴方はいつもいつも、オープンで貴方自身が認めている、
複数端末による複数IDによる多数派装いを
必死に行われておられるご様子ですけれど、
必死にレッテル貼に躍起になってないで、
聞かれている事にはお答えになられてくださいねー。
それから、その菅沼なんたら認定を喚かれようとなさられますならば、
そう認定されている人々が特徴ばらばらの膨大なる人数になっていて、
貴方ですら、整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならない事とか、
についてもおはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

213 :
>>212
お前さん、自分が回答しないくせに、人には回答求めるんだな。

214 :
>>213
?私はこれまでの議論では一通りは資料や書状を提示してご回答の方を
させていただいているはずでございますし、
お答えになられてないのは貴方の方であるように思われますので、
ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

215 :
>>203 >>205
貴方も必死になって、他者に対して、相手側の論旨を必死に捏造曲解して
喚かれようとなさられておられないで、ご自身で資料や書状などを基にして
こちら側に対して論旨でご主張をなさられるべきであると思われますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

正直な話、朝倉浅井の事柄で言いますなら、朝倉は織田主力に対して複数の戦果を挙げ、
浅井は羽柴柴田が夜襲襲撃してきても、単独で撃退をしている、という状況ですし、
虎御膳で撤収前の攻勢を一度防いだくらいで、そこまで大騒ぎなさられるならば、
上記の戦果も十分に評価されるべきである、と思いますし、
そもそもの問題として、朝倉も普通に織田相手に戦果をあげておりますし、
そもそも美濃侵攻では武田・長島と共同して侵攻しますので、
織田主力が武田に向かえば武田が守り、朝倉・長島が侵攻を進め、
朝倉に向かえば朝倉が守って、武田・長島が侵攻を進め、
長島に向かえばryという感じで、非常に戦略的に有利に戦えるわけですしねえ。

216 :
とりあえず議論がしたいならコテを付けたら?

217 :
>>202 >>204
と、いいますか、むしろ何度も書かれている事ではあると思われますが、
若狭侵攻は敦賀において主力を置きながら、小谷の普請とかを行いながらの
三千程の分遣隊を派遣して行われたもので、若狭侵攻を主力的にいうのとはまた異なるのではないかと思うのですけれどねえ。

朝倉が織田主力相手にあげた複数の戦果は、織田勢主力と対峙している時の事ですし、
そこまで虎御膳で朝倉が撤収する前に一度撃退した事を大仰に言われますならば、
浅井が単独で羽柴・柴田の夜襲侵攻を撃退している事も、同じく大仰に評価して
織田は浅井単独にも防がれる状況、という風にも言えてしまうと思うのですけれどねえ。
そこらへんは如何なものなのでしょうかねえ。

218 :
>>216
いやいやいや、議論は別にコテをしなくてもお出来になると思われますしねえ。
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

219 :
>>218
回答と言っても久しぶりにのぞいたら熱心な人がレッテル張りをやめろと言ってるからアドバイスしただけだよ
あとコテは久しぶりにスレを覗いた人に回答を求めている時点でコテの必要性は証明されてると思うけど?

220 :
>>200
前にも他スレとか前スレとかで指摘されていたとは思いますが、
そもそも、信玄・長島・朝倉が連携して美濃侵攻を行う事になっていた予定は5月でして、
まだその時期ではなかったわけですしねえ。
そもそも、信長自身も、美濃を出発したのも3月25日で、将軍と和睦を結ぼうと様々に画策し、
4月6日には勅命講和の形をとって和睦して、そのお礼まで将軍様に述べて、
そこから急いで撤収して、4月11日には美濃に戻っている、という状況ですしねえ。
百済寺を途中で焼いている、という人もおられるかもしれませんが、
4月11日に焼き打ちして、そのままその日のうちに岐阜に戻っている、という状況ですから、
信長が相当に急いでいる、という事が伺えるように思われる状況ですしねえ。
さすがに、2週間程では、尾張美濃に攻め込む、という感じでもないように思われますしねえ。

221 :
>>218
少しは人の意見聞こうとする度量ないのか?

222 :
>>219
はて?議論がしたいなら、普通にそのままおやりになればよろしいだけだと思いますし、
前に必死な織田厨の人が
「コテをつけろ!蛆蛭が怖いのか!長篠みたいに華麗に散って見せろおおお!」
とか喚かれているのを、読ませていただいた事がございまして、
うわあ、コテをつけたら、織田厨の人が色々と
非常に悪質な嫌がらせ行為を行ってくる事が明白だなあ、と
しっかりと感じた次第でございまして、コテをつけるのははっきりとお断りをさせていただきたいと思う次第でございますかねえ。

223 :
>>221
いやいやいや、そちら側が普通に資料や書状などを基にして論旨でもって
こちらにお述べになられるならば、こちらも論旨でもって応対をさせていただきたいと
思う次第でございますので、よろしくお願いしたい次第でございますかねえ。

224 :
>>199
二俣城はそもそも、非常に防御力の高い城でして、力攻めが非常に困難で、
長篠の後で徳川勢が勢いに乗って攻め寄せ、
武田勢が援軍を送る事が困難な状況でありますのにもかかわらず、
5か月以上かけても攻略できずに、城主城兵を助命する事を条件に
城から退去してもらった、という程の城なわけですしねえ。
それを2か月で攻略したのですから、むしろ賞賛されるべきではないかと思われるのですけれどねえ。
それから、この二俣城攻略の様子は普通に朝倉浅井とかにも連絡されておりますので、
普通に連携は維持されているように思われるのですけれどねえ。

225 :
そんなに嫌なら強要はしないから別にいいけど、とりあえずあなたと議論をする気のない人まで回答ガーとか都合が悪いから話を逸らしたいうのはやめて欲しい

226 :
>>197
朝倉が織田主力相手にあげた複数の戦果は、織田勢主力と対峙している時の事ですし、
そこまで虎御膳で朝倉が撤収する前に一度撃退した事を大仰に言われますならば、
浅井が単独で羽柴・柴田の夜襲侵攻を撃退している事も、同じく大仰に評価して
織田は浅井単独にも防がれる状況、という風にも言えてしまうと思うのですけれどねえ。
そこらへんは如何なものなのでしょうかねえ。

それから、何度も指摘されている事ではあると思われますが、
普通に越前から美濃への侵攻も過去に何度も、朝倉側の複数の武将達によって
行われているようですしねえ。

227 :
議論をする気のない人に横レスするのも、もう何度か注意されているのだから止めるべき
注意に対して、逆切れや、コピペ回答も止めるべき
どう見てもみんなが嫌がっていることをやりすぎ

228 :
>>225
そんな、自説垂れ流しマシーンの相手なんて非建設的な事してないで、
早く専ブラ導入して奴をあぼ〜んしなよ。
あぼ〜んばっかりになって議論が追いにくいけど、
あいつの書き込み読んでしまうよりはマシ。

229 :
もうこのアスペルガーには何言っても無駄だから。

230 :
>>225
議論する気がないのなら、突っかかってこなければいいと思うのですけれどねえ。
文体的にも論旨的にも、同じようになさられておられて、
しかも、こちら側の論旨とかを捏造曲解とかまでして、
必死にこちら側をレッテル貼りとかまでしようとなさられてますのに、
ご自身は議論する気がない、とか、これまでにこちら側と議論した事がない、
というのはどうかと思われる次第でございますしねえ。
まあ、貴方がそうである、とご主張なさられるならなさられるのは結構ですが、
なぜに議論する時にコテをつけろ、とおっしゃられたのか、は
この流れではむしろ、相手側がコテをつけるべき流れではないかと思われたりしますし、
色々と不可思議なように思われる次第なのでございますしねえ。

231 :
>>229
でましたねー、苦しくなると、必死になって菅沼なんたらだとか、アスペなんたらだとか、
必死になってレッテル貼にご狂奔なさられるいつも通りの行動パターンを行われているご様子ではありますが、
正直な話、貴方のレッテル貼などに対して、こちらが反論をしたり、貴方のご主張の論旨的な矛盾などについて、
ご回答の方を求めさせていただいたら、アスペなんたらだとか言われましても、こちらは困惑するしかない次第でございますし、
とりあえず、菅沼なんたらだとか、アスペなんたら認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて
貴方ですら整合性をつけてご回答をなさられる事がお出来にならない、という事について、
ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方を何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

232 :
>>227
議論する気がないのなら、突っかかってこなければいいと思うのですけれどねえ。
文体的にも論旨的にも、同じようになさられておられて、
しかも、こちら側の論旨とかを捏造曲解とかまでして、
必死にこちら側をレッテル貼りとかまでしようとなさられてますのに、
ご自身は議論する気がない、とか、これまでにこちら側と議論した事がない、
というのはどうかと思われる次第でございますしねえ。

正直な話、貴方とかは、必死になって捏造曲解などをなさられながら、
同じような事をご主張なさられているだけのように思われますので、
普通に同じような回答で普通に会話が成立してしまう、というだけの話でございますしねえ。

233 :
>>196
そもそもの問題として、1572年11月の書状の時点で、五月侵攻計画については
朝倉と武田と本願寺の方で打ち合わせが行われている、という状況でございますしねえ。
朝倉の一時撤収の後も、普通に色々と交渉が続いていたようで、信玄も2月には
「ようやく義景が再出陣する。」という事を述べておりますし、
現に三月には義景が出てきている、状況なわけですしねえ。
義景本人も「武田家臣日向玄東の教えのおかげで信長相手に戦果をあげられた!
もっと教えを請いたい!」とか3月には述べておりまして
武田との連携には乗り気なように思われますしねえ。

234 :
>>233
その日向は朝倉滅亡の刀根坂で何やってたんだ? 肝心な時に役に立たねーな。

235 :
>>195
前スレでも散々に議論されていたと思うのですが、
朝倉から離反した前波とかは、元々前波家当主ではなく、兄が当主で、
弟は義景の側仕えをしていて、兄が死亡した後で、当主になり、
義景から無礼をとがめられて勘当され、何度も謝罪したけれど許してもらえなかった事から、
朝倉から離反した、という事も指摘されていると思いますし、
その前波弟と一緒に離反した人々も、そこまで大きな存在はいなかった、というのも
普通に指摘されていると思うのですけれどねえ。

さらに言いますと、この時期において、信長の方が多くの武将達に離反・敵対されている状況ですし、
とりあえず、1570年から行きましても、織田側に離反・謀反・反乱した武将や勢力は
浅井長政・近江一揆・高宮右京一門・日根野・三好義継・松永・美濃遠藤・
美濃安藤・東美濃岩村遠山・将軍義昭・光浄寺・伊丹・山本・磯貝・渡辺・馬場
・多胡・百済寺・伊賀衆・甲賀衆・塩河氏、
の他にもまだまだまだまだたくさんいて、一々あげていくのが面倒になるほどなのですが、
織田は貴方の論旨的には常にクライマックス的な状況だった、という話で
よろしいのでしょうかねえ?という件について、お答えの方をいただけないでしょうかねえ。

236 :
>>194
前スレでも散々に議論されていた事柄ではあると思うのですが、
貴方の述べている森勢との戦いの後には、堅田の戦いにおいて、
その地に派遣された坂井勢及びその他の織田側武将達が
朝倉勢の攻撃によって、文字通り壊滅的なまでの打撃を受けて敗北する、
という事になっているのではございますが、
なぜにこれをスルーなさられているのでしょうかねえ。

といいますか、貴方的な言い方ですと、羽柴が虎御膳を守った事とかは
戦果ではない、という事になりそうだと思うのですが、
そこらへんは如何なものなのでございましょうかねえ。

で、その朝倉浅井の攻撃を織田が防いだらそこまで大きく評価なさられるなら、
浅井が単独で羽柴柴田の夜襲侵攻を撃退している事とか、
朝倉が織田勢主力相手に戦果を得ている事とかも、
同じく大きく評価なさられるべきであると思われますのに、
そこらへんは如何なものなのでございましょうかねえ。

それを言いますなら、これもまた前スレで議論されていた事柄ではあると思われますが、
この時期において、信長の方が多くの武将達に離反・敵対されている状況ですし、 前スレ272にも書いた事ではありますが、
とりあえず、1570年から行きましても、織田側に離反・謀反・反乱した武将や勢力は
浅井長政・近江一揆・高宮右京一門・日根野・三好義継・松永・美濃遠藤・
美濃安藤・東美濃岩村遠山・将軍義昭・光浄寺・伊丹・山本・磯貝・渡辺・馬場
・多胡・百済寺・伊賀衆・甲賀衆・塩河氏、
の他にもまだまだまだまだたくさんいて、一々あげていくのが面倒になるほどなのですが、
織田は貴方の論旨的には常にクライマックス的な状況だった、という話で
よろしいのでしょうかねえ?という件について、お答えの方をいただけないでしょうかねえ。

237 :
>>194宛続き
それから、>>195の人宛にも書きました事ではありますが、
前スレでも散々に議論されていたと思うのですが、
朝倉から離反した前波とかは、元々前波家当主ではなく、兄が当主で、
弟は義景の側仕えをしていて、兄が死亡した後で、当主になり、
義景から無礼をとがめられて勘当され、何度も謝罪したけれど許してもらえなかった事から、
朝倉から離反した、という事も指摘されていると思いますし、
その前波弟と一緒に離反した人々も、そこまで大きな存在はいなかった、というのも
普通に指摘されていると思うのですけれどねえ。

>>234
いや、日向は普通に武田家臣ですから、普通にその時には武田領土に戻ってますよ。

238 :
>>237
都合が悪くなったら大した存在ではないとか。
お前が>>175で挙げてる徳川の武将も大したことない奴らでOKだな。

だって前波は少なくとも吉継の祖父の代から朝倉に仕えていた重代の家臣。吉継自身はイレギュラーで当主になったかもしれないが、奏者番に奉行衆を務めた当主の側近。当然、朝倉家中のことは知り尽くしている。

富田は信長との初戦で1000騎を率いた大将。

これが大したことないなら、徳川の三方ヶ原の被害も大したことないな。そこまで大きな存在は50人の中に1人もいないし。

239 :
>>238
ですからあ、こちら側の都合はまったく悪くなくて
>>175にある武将達の中には、両旗奉行が二人とも死亡、城主・群代クラスが6人、
有力武将の一族が9人、松平姓持ちが2人、
酒井・本多・石川、といった有力武将の軍勢に属して死亡した武将達が3人、
(上記の有力武将の一族達は除外してありますね。)
譜代武将、外交書状に登場している武将達が二人、
という感じで、50名近くのうち、20数名がそれ相応の有力武将であると思われるわけですし、
それらの中には、有力武将の一族とか配下武将とかも多数入っておりますし、
これ程死亡したのであれば、十分すぎる程に大きな敗北といえるのではないのかと思われるのですけれど、
如何なものでしょうかね。正直な話、戦死武将が50名近く、
そのうちの20数名が上記のようにそれ相応の有力武将達、という状況での敗北、といいますのは
それを上回る程の敗北、といいますと長篠、とか、耳川、とかの領域しか無いように思われまして、
とても「この程度」といえる程にありふれた敗北ではないように思われるのですが、如何なものなのでしょうかね。

実際に、三方ヶ原から7か月以上が経過した後の、長篠城攻略戦における家康直卒軍の兵数が
三千程、と徳川側の資料においてはされておりまして、
2月に野田救援の為に家康が率いた兵力とほぼ同数なわけですしねえ。

前波は貴方自身が述べているように、元々前波家の当主だったわけでもなく、
義景の側近で、離反の経緯も義景本人との仲違いですし、
前スレとかでも言われてたように、
織田側で言うと、堀秀政とかと同じようなタイプであって
「前波弟に離反された!もう朝倉は戦えない!」
という類のものではないと思うのですけれどねえ。

富田さんは「当主後ろ備え」として千の軍勢を率いた、という武将であって
義景の後ろを守る役割で、部隊を率いた武将であって、
総大将ではないように思われるのですが、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
おそらく、貴方は「千騎」をそのまんま千騎に従者4人とかプラスして
5千人くらい率いた大軍の大将!とか思われたのやもしれませんが、
普通に富田さんは千人、を率いた、
「当主後ろ備え」の武将、であると思われるのですけれどねえ。
この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

240 :
さすがに、三方ヶ原の損害は>>239に書いてある程に有力武将達が死亡していて、
さらには三方ヶ原から7か月以上が経過した後の、長篠城攻略戦における家康直卒軍の兵数が
三千程、と徳川側の資料においてはされておりまして、
2月に野田救援の為に家康が率いた兵力とほぼ同数なわけですしねえ。
とても「この程度」といえる程にありふれた敗北ではないように思われるのですが、如何なものなのでしょうかね。

241 :
そろそろ寝ますかねえ。>>238の方は、
>>239についてのご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしておきますかねえ。

242 :
アスペルガーはもう来るな。
消えろ。

243 :
>>236
こいつ嘘ばかり言ってるな。
1570年に美濃安藤が離反、謀反、反乱したって何のことだ? むしろ安藤は長島で奮戦して息子を失ってるくらい尽くしてるんだが。

内通していた記録も当時はないし、1570年に美濃安藤が反乱したとは何のこと?

244 :
平山優がツイッターで言ってるけど西上作戦の時に高天神城も信玄に降伏してたみたいだね

245 :
>>243
安藤の件は多分信長公記。佐久間、林を追放した時の記述じゃあるまいか。
言い掛かりと思うが、本能寺の時に乱を起こす原因になった。

246 :
何か面倒くさいのがいるなwww

247 :
真面目な話三方ヶ原の戦死武将って他の大名の合戦だと名前残るのどれぐらいいる?

248 :
>>247
中根正照、鳥居忠広、成瀬藤蔵、平手汎秀くらいかな有名どころ、幹部級、重臣クラスだと。

249 :
ねえねえ、言ってる人はあの品性下劣で低能な菅沼遼太くんではないだろう。
知識ないのに大見え切って自滅する菅沼遼太くんに比べて筋が通ってる

250 :
>>249
あれで筋が通っているんだ。
貴方やばいよ。

251 :
個人攻撃に走ってる時点で論破されてるよ

252 :
>>250
はいはい。そうやって、いつも通りに必死に抽象的にくさしを躍起になって行われようとなさられるのではなく、
ご主張なさられたい事がおありなのでしたら、貴方に聞かれて発狂逃亡中の事柄につきましてのご回答などなどと合わせられて、
資料や書状などを基にして、論旨でもってご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

253 :
>>252を一部訂正
×貴方に聞かれて
〇貴方が聞かれて
にしておきますかねえ。
まあ、文意的に上の方でもわかるとは思うのですが、
一応訂正はさせていただいておこうかと思いますかねえ。

254 :
>>247 >>248
中根正照、鳥居忠広、成瀬藤蔵、平手汎秀、の4人に加えて、
旗奉行である成瀬と同格の安藤基能と米津政信、は確実に記載されるでしょうし、
城主・郡代クラスの夏目吉信、長谷川紀伊守正長、原田種友、小笠原康元、杉山久助、も
まず確実に他大名の合戦においても、名前が載る存在であるかと思われますかねえ。
さらには、信長公記とか、朝倉始末記とか、にも普通に有力武将の〜の息子の〇□さん、とか
〜の一族の〇〇さん、とかそういう人達も死亡武将として記載されてたりしますし、
同時代の書状とかでも、普通に記載されてたりしますので、
有力武将の一族である、天野政景、服部保正、榊原摂津守忠次、中根正直、石川正俊、小笠原七郎右衛門、
大久保忠寄、長谷川藤九郎、小笠原三郎兵衛、といった人々も確実に記載されるでしょうし、
松平弥右衛門忠長、松平主税、も松平姓持ちの人々ですから、普通に載るのではないかと思われますかねえ。
大橋刑部は当時の家康と謙信の交渉書状の中に登場する程の人物ですので、これもまた、普通に記載されると思われますかねえ。
このように、普通にかなり基準を辛いように考慮しましても、
20数名程がやはり記載されるのではないかと思う次第なのでございますけれどねえ。

255 :
>>244
信玄の西上の時の書状で普通に「小笠原が懇望してきた。」と述べられており、
高天神城主小笠原は信玄西上の時には降伏していて、
信玄死亡後に、また徳川に再帰属したのではないか、とされておりますかねえ。

256 :
>>243
「ばかり」といいつつ、一つしかご主張なさられておられない事や、
貴方がこちら側から回答を求められて発狂逃亡をなさられておられる事柄などについての
ご回答を貴方がなさられておられない事など、こちら側からしますと、色々と、
ご説明の方をいただきたいと思います所がございます次第でございますので、
上記の事柄について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

それから、その文章のレスは「1570年から行きましても」となっておりますように
1570年〜1573年くらいの頃の織田側に対する離反・敵対武将の一覧なわけですね。
そして、安藤につきましては、>>245の人も言っておられますように、
信長公記におきまして、1580年に安藤が追放された時の記述として
「信長公が昔苦労していた時に野心を含んでいた事」を理由としている、と書かれておりますかねえ。
谷口氏などは、これを安藤が信玄西上の時に武田側に内通していた事、とし、
遠藤よりも大身であった安藤は、信長にこの時の事が知られてしまい、
それを理由として追放されたのだろう、的に述べておられますかねえ。

257 :
>>242
でましたねー、苦しくなると、必死になって菅沼なんたらだとか、アスペなんたらだとか、
必死になってレッテル貼にご狂奔なさられるいつも通りの行動パターンを行われているご様子ではありますが、
正直な話、貴方のレッテル貼などに対して、こちらが反論をしたり、貴方のご主張の論旨的な矛盾などについて、
ご回答の方を求めさせていただいたら、アスペなんたらだとか言われましても、こちらは困惑するしかない次第でございますし、
とりあえず、菅沼なんたらだとか、アスペなんたら認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて
貴方ですら整合性をつけてご回答をなさられる事がお出来にならない、という事について、
ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方を何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

258 :
菅沼遼太って、
信玄関連のスレ全部荒らして回って
誰も信玄について語れない状態にして
一番のアンチ信玄だよな。

259 :
>>247
記録に残るかで言えば中根平手ぐらいじゃね?
個人的に有名とか、姻戚関係で大名と近いとかでもないと残りにくいと思う

織田家で言うなら鳥居成瀬は母衣衆ぐらいかと
あとは大半が馬廻レベル若しくは馬廻の家臣レベル
榊原康政本多忠勝辺りで母衣衆トップぐらいだろうし

戦死した中には城主がいると言っても小さな城ばかり
信虎の佐久攻めで一日で城を36も攻め落とすというがこの落とされた城主並
あるいは東濃の遠山十八城でもいいが、城主と言う言葉に惑わされず実質で考えると
記録にはほとんど残りにくいと思う

旗奉行がいると言っても壊滅状態の長篠沖田畷木崎原で戦死したであろう
旗奉行の記録考えるとこれもまず記録には残らない

一門衆がいると言っても、
直系とは違って松平18家の当主でもない一族の誰か
これぐらいだと記録に残るかは難しい
これで別家がそれなりに勢力持った家ならともかくそうでないなら当主か嫡男でもないとまず無理
というか徳川家の記録でさえ名前ぐらいしかわからないじゃな

問題は夏目か?本当に郡代なら普通はもっと記録に残りそうだし兵力も一部隊率いるぐらいになってそうだが
本当に郡代だったのだろうか、あるいは留守居役なので兵力の大半を浜松に置いて、
自身の馬廻だけで突っ込んだのか

260 :
あと浪人達は前職がそれなりの地位かどうか個人的に有名かどうかだと思う
美濃の日根野とか浪人中戦に参加して名前残したりしてるし
越後の大熊も武田滅亡時に記録残ってるから長谷川辺りなら記録に残るかも
利家弟はまずむりだろうけど

あと武田家の書状でも討ち取った名前は出てこないのは頸注文に載ってるからだとして
甲陽軍鑑に討ち取った武将の名前ないのは武田の認識もその程度の武将しか
討ち取っていないって認識してたのかも

261 :
兵力への影響とかでなく記録に残るかどうかなら、こんな感じかな

まあ地方の滅んだ大名とか戦国時代前半じゃ誰も記録に残らないかもしれないが

262 :
基本的に追撃戦や篭城戦じゃないと、幹部クラスが大勢死ぬことは無いだろ
今でも軍曹、曹長クラスは戦死するけど、佐官クラスの戦死率は激減するっていうし
でも、実際には、軍曹、曹長クラスの量と質が重要なんだけどね

263 :
三方ヶ原は戦国時代の野戦じゃ相当の痛手を食った方だな

264 :
>>263
野戦の痛手といえば第四次川中島だろう。
死傷率が半端無い。
三方ヶ原はまだ甘い。

265 :
>>264
よく考えたら、あの後も上杉も武田も早期に軍を再建しているのに、三方ヶ原の徳川軍が再建できないのが理解できないな。

266 :
素人な考えだが、越後と甲斐の農民は戦闘能力高くて三河の農民は
低かっただけのことかいな?

267 :
>>258
でましたねー、苦しくなると、必死になって菅沼なんたらだとか、アスペなんたらだとか、
必死になってレッテル貼にご狂奔なさられるいつも通りの行動パターンを行われているご様子ではありますが、
正直な話、貴方のレッテル貼などに対して、こちらが反論をしたり、貴方のご主張の論旨的な矛盾などについて、
ご回答の方を求めさせていただいたら、アスペなんたらだとか言われましても、こちらは困惑するしかない次第でございますし、
とりあえず、菅沼なんたらだとか、アスペなんたら認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて
貴方ですら整合性をつけてご回答をなさられる事がお出来にならない、という事について、
ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方を何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

268 :
>>259 >>260 >>261
さすがに色々と過小評価しすぎなように思われるのですけれどねえ。

小さな城主ばかり、とか、有力一門でない、とかおっしゃいますが、
長谷川の田中城はその後も普通に武田徳川で争奪戦が行われ、
現代までも残っている城ですし、
小笠原康元も、その功績から家康によって康の字を与えられた程の人物ですし、
他の城主・郡代の人々も、普通に信長側の記録などで、
志賀陣関連の戦いにおける敗北による死亡として
各務元正とか飯沼長宗とか遠藤胤俊とか安藤右衛門佐とか桑原平兵衛とか
有力武将の家臣、だとか、有力武将の一族だとか、子息だとか、
あるいはそれほど大きな城でもない城主だとか、の名前が普通に残っているわけなのですし、
さらには信長が第三次伊勢長島で一門武将を10人ほど死亡させているわけではありますが、
それらには、それこそろくに名前以外の業績が不明瞭な一門が入ってたりもしますが、
それでも普通に記録に残っているわけなのですし、
これでどうやったら、三方ヶ原の武将達が記録に残らない、とおっしゃられるのか、
についてご説明の方をよろしくお願いしたいのではございますけれどねえ。

それから、平山優氏などが、諸記録を基にして、長篠における武田側戦死武将の一覧を作成しており、
それらの数は三方ヶ原の徳川側戦死武将の数50名近くを上回っているわけでして、
これらを考慮しまするに、やはり三方ヶ原の徳川側戦死武将達も、その身分や立場・活動などを考慮しましても、
十分に諸記録に残りえた存在の人々であったと思われるのですが、
如何なものでしょうかねえ。

269 :
>>267
じゃあ反応しないでいてみろよ
それができないのはお前がアスペ菅沼で一々発狂レス返さないと治まらない病人だからだろ

270 :
>>269
無理無理。
普通なら相手の意見も、「あーそうですね。確かに大したことないのもいたかもしれません」とか一歩ここは引くのが普通あるいは譲ったりするのが議論なのに、こいつは自分の持論が絶対なんだから。

で、自分は都合が悪いことは無視したり、あるいは滅茶苦茶な回答して看破、したみたいに思ってるからたちが悪い。

271 :
あぼーんすれば、いい話。
出来ないなら、何やら挑発されても遠吠えと見なせば、あら爽快

272 :
書き下し文がめちゃくちゃな時点で話にならんよ

273 :
>>266
経験値って意味ではそうかもな。
家康が三河を統一する前から越後兵、甲州兵はあちこちに遠征してるわけだし

274 :
>>247
桶狭間とかだと徳川とも関係深いせいか結構詳しく残ってるけど、
他は重臣以外だと残るかどうかは運次第かと。

>>261
籠城して攻め滅ぼされた勢力とかだと最後は重臣旗本大量に戦死してるんだろうけど
名前残るのほんと一部だしなw

>>264
上田原だってかなり被害出してる、家臣トップ二人死ぬ上に大名が怪我するくらいだし、
ただ三方ヶ原は上田原と比べて片側の被害が皆無に近そう。

275 :
美濃兵は弱いからあっさりと岐阜まで進むと予想

276 :
>>269 >>270
他所スレで、全く同じような時間帯に、まったく同じような内容で、
必死に貴方こと必死な織田厨さんが、おーぷんの方でお認めになられておられる、
複数端末による、複数ID自演を行われましても、こちらとしては困惑しか湧かないわけですしねえ。

貴方のその菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やらに反論しなければしないで、「反論しない!
こいつは菅沼なんたら!」とか喚いて、認定に狂奔なさられるのが貴方ですのに、
そのように喚けば、相手の反論を封じられると思われておられるご様子ですが、
そのように妄想願望なさられましても、こちらとしては困惑しか湧かないわけでございますしねえ。

で、まじめな話、貴方はそうやって勝手に認定しておきながら、反論したら、菅沼なんたら、だと言い、
反論しなければ、さらに菅沼なんたら認定できる、とかいう、非常に不可思議なる妄想願望をなさられているご様子ではございますが、
とりあえず、菅沼なんたらだとか、アスペなんたら認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて
貴方ですら整合性をつけてご回答をなさられる事がお出来にならない、という事について、
ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方を何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

277 :
>>270宛続き
>普通なら相手の意見も〜
こちらは、とりあえず、三方ヶ原において死亡した徳川側の武将達の経歴を調べて、
とりあえず経歴のわかる20数名について、語っているわけで、
残り半数については、とりあえず語ってはいないわけなのですけれど、
この件について、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、譲るのが普通とか喚いておられますが、単に貴方はいつもいつものように、
議論的に苦しくなってきたら、貴方の言っておられる事を
一方的に受け入れろ、的な事を、必死になって糊塗なさられながら、ご主張なさられておられるようにしか
思われない次第でございますし、何度も申しあげますが、三方ヶ原の徳川側戦死武将達において、
私がその経歴を基にして語っております20数名は、普通に城主や郡代クラスだったり、有力武将達の子息やら一族だったり、
松平一門だったり、有力武将の家臣だったり、家康直属の有力家臣だったり、という感じで
他大名におきましても、十分に名前が残りえた人々だと指摘しているわけですしねえ。
現に信長関連で述べましても、志賀陣関連だけでも、
各務元正とか飯沼長宗とか遠藤胤俊とか安藤右衛門佐とか桑原平兵衛とか
有力武将の家臣、だとか、有力武将の一族だとか、子息だとか、
あるいはそれほど大きな城でもない城主だとか、の名前が普通に残っているわけなのですし、
さらには信長が第三次伊勢長島で一門武将を10人ほど死亡させているわけではありますが、
それらには、それこそろくに名前以外の業績が不明瞭な一門が入ってたりもしますが、
それでも普通に記録に残っているわけなのですし、
これでどうやったら、三方ヶ原の武将達が記録に残らない、とおっしゃられるのか、
についてご説明の方をよろしくお願いしたいのではございますけれどねえ。

>で、自分は都合が悪いことは無視したり、あるいは滅茶苦茶な回答して看破、したみたいに思ってるからたちが悪い。
具体的な事例でお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
こちらはむしろ、織田側の方がご提示なされてきた書状の訳文において、
「失途轍」の訳の異なりを指摘したり、その書状の最後の方に、
「ようやく義景が出張を為すようなので、申し合わせの件を行うに及ぶべき時だ。」とあるのを
お述べになられておられなかった事などを指摘していたりするわけで、
織田側の方がご説明なさられておられなかった事や、異なりなどを、指摘していたりするわけなのでございますが、
この件について、具体的におはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方を何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

278 :
>>271
その割には、こちら側から指摘されている織田側にとっては都合が悪いと思われます、
資料やら書状や事柄などを提示されますと、びっくんびっくん反応されて
必死に捏造曲解などに狂奔なさられながら、必死に相手側を叩こうとなさられようと
なさられますのは、非常に不可思議なる話なのでは、
と思ってしまう次第なのではございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>272
具体的にどこの事をおっしゃられておられるのでございましょうかねえ。
こちら側はむしろ、織田側の方がご提示なされてきた書状の訳文において、
「失途轍」の訳の異なりを指摘したり、その書状の最後の方に、
「ようやく義景が出張を為すようなので、申し合わせの件を行うに及ぶべき時だ。」とあるのを
お述べになられておられなかった事などを指摘していたりするわけで、
織田側の方がご説明なさられておられなかった事や、異なりなどを、指摘していたりするわけなのでございますが、
この件について、具体的におはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方を何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

また、いつものように、もうすでにそう認定されている人々が特徴も論旨も行動も異なる膨大なる人数になっていて、
そう認定しているご当人様ですら、整合性をつけてのご回答をなさられる事がお出来にならないように思われます、
菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられるのでございましょうか、と、困惑してしまわざるを得ないのではございますが、
この件について、具体的にご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

279 :
>>274
例えば、信長関連で言いましても、刀根坂では信長公記において
朝倉側の大量の死亡武将が記されておりまして、疋田六郎二郎とか、小泉四郎右衛門とか、
和田清左衛門とか、それこそ「名前以外では事績が残っていない武将達」が大量に記述されているわけなのでございますし、
信長側におきましても、志賀陣関連だけでも、
各務元正とか飯沼長宗とか遠藤胤俊とか安藤右衛門佐とか桑原平兵衛とか
有力武将の家臣、だとか、有力武将の一族だとか、子息だとか、
あるいはそれほど大きな城でもない城主だとか、の名前が普通に残っているわけなのですし、
さらには信長が第三次伊勢長島で一門武将を10人ほど死亡させているわけではありますが、
それらには、それこそろくに名前以外の業績が不明瞭な一門が入ってたりもしますが、
それでも普通に記録に残っているわけなのですし、
これでどうやったら、三方ヶ原の武将達が記録に残らない、とおっしゃられるのか、
についてご説明の方をよろしくお願いしたいのではございますけれどねえ。

280 :
おねだり豚の横レスは全部無視の方向で。

浜松城の空城の計の話の出所は何だろうね。

281 :
>>280
三河後風土記ではなかったか?

282 :
あーあほんと剣心みたいな基地外さいいなければ…

283 :
もうこのスレ使うな。
いっつも基地外が長文使うだけだ。しかもコピペで。

284 :
>>275
美濃は当時は強兵扱いじゃなかった?

285 :
>>280 >>283
はいはい。そのようにレッテル貼をなさられますよりも、
こちらに対してご主張なさられたい事がおありなのでございましたら、
資料や書状などを基にして、
論旨的にご説明の方を何卒よろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

と、いいますか、私は必死な織田厨さんの、必死ななんたら認定などのように、
膨大なる論旨的矛盾を同じように指摘する、同じような返しで普通に会話が成立するような事柄以外では、
基本的に先に書いた事で十分答えになるか、その要素になりえるか、という事柄で提示の方を行わせていただいている次第でございますかねえ。

286 :
もし武田信玄があと10年生きてたら、、、、


たぶん何も変わらなかっただろう。
信玄はマジで良い時期に亡くなったよ。
もう少し死期が遅れていたら、凡将の
評価は免れなかっただろう。

287 :
>>284
信秀相手に道三が頑張ったからな

288 :
確かに。

289 :
信長も義龍に手も足も出なかったしな

290 :
247です、みなさんレスありがとうございます。

>>248
>>259
やはり残るのは中根正照、平手汎秀ぐらいで、
鳥居成瀬で母衣衆ぐらいなら大名によってはって感じか。

>>261
兵力への影響言うと中根でさえ二俣失った後は率いる兵力数百ぐらいとかか?
>まあ地方の滅んだ大名とか戦国時代前半じゃ誰も記録に残らないかもしれないが
これは同意するしかない。

>>274
桶狭間基準なら旗奉行とかそれより下の者もいろいろ残りそ。

291 :
>>287
妙椿の活躍の方だと思う。

292 :
>>290
なんか、必死に都合の悪い事柄などをスルーなさられているご様子ではありますが、
小さな城主ばかり、とか、有力一門でない、とかおっしゃいますが、
長谷川の田中城はその後も普通に武田徳川で争奪戦が行われ、
現代までも残っている城ですし、
小笠原康元も、その功績から家康によって康の字を与えられた程の人物ですし、
他の城主・郡代の人々も、普通に信長側の記録などで、
志賀陣関連の戦いにおける敗北による死亡として
各務元正とか飯沼長宗とか遠藤胤俊とか安藤右衛門佐とか桑原平兵衛とか
有力武将の家臣、だとか、有力武将の一族だとか、子息だとか、
あるいはそれほど大きな城でもない城主だとか、の名前が普通に残っているわけなのですし、
さらには信長が第三次伊勢長島で一門武将を10人ほど死亡させているわけではありますが、
それらには、それこそろくに名前以外の業績が不明瞭な一門が入ってたりもしますが、
それでも普通に記録に残っているわけなのですし、
これでどうやったら、三方ヶ原の武将達が記録に残らない、とおっしゃられるのか、
についてご説明の方をよろしくお願いしたいのではございますけれどねえ。

それから、平山優氏などが、諸記録を基にして、長篠における武田側戦死武将の一覧を作成しており、
それらの数は三方ヶ原の徳川側戦死武将の数50名近くを上回っているわけでして、
これらを考慮しまするに、やはり三方ヶ原の徳川側戦死武将達も、その身分や立場・活動などを考慮しましても、
十分に諸記録に残りえた存在の人々であったと思われるのですが、
如何なものでしょうかねえ。

さらに言いますと、兵力云々で言いますならば、
徳川家康が信玄死亡後の7月に長篠城再奪取の為に出陣した時の軍勢は
三千余であったとされており、2月に野田城救援の為に動員された兵力と
ほぼ同じなわけでして、やはり三方ヶ原の敗北における、兵力的な減少からは
まだ徳川は7月になっても十分な補充がされてはいなかったように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

293 :
まあ三方原は開戦時刻が遅くて武田にとっちゃアウェイというのもあるけど、
合戦に勝っても追撃が決まらないとこんなもんなんかな
信長が長篠で武田を刀根坂で朝倉を追撃決めて殲滅させた機動力はやっぱ凄いのかなぁと

294 :
朝倉程度の大名に決めたところでなぁ

295 :
朝倉義景が美濃へ侵攻できるとか、基地外らしい理論だよな。

296 :
>>294
朝倉は初代孝景のせいで強国扱いだろ

>>295
義景だって当時は信玄と並び称された男だぞ

297 :
へえ
義景が信玄と並び称されている当時の史料って具体的に何?

298 :
家の格でいえば引けをとらないでしょ

299 :
戦国屈指の無能の一人だね

300 :
>>297
つ多門院日記

301 :
>>296
孝景と義景では個人的実力で話にならないと思うのだが。

302 :
そうだよなぁ

303 :
>>298
家の格なら朝倉義景>織田信長。
斯波氏の越前国守護代・朝倉家に嫡流が義景。
斯波氏の尾張国守護代・織田家の分家筋・清洲三奉行の一つの弾正忠家が、斯波氏と本家筋とを下克上したのが信秀・信長父子。
義景は信長に対して格上意識が強かった。

304 :
>>303
文脈読めよw
信玄と義景の比較だろ

305 :
>>295
いやいやいや、実際には、そのようにおっしゃられている貴方の方こそが
最初に「越前から美濃侵攻など不可能!」的に言いだし
「宗滴が普通にやってますけど……」と言われたら
「宗滴のような超絶名将でないと不可能!」的に言い出し、
「宗滴以外の朝倉家の普通の武将達が複数、それも何度も行っているようですが…」
的に言われたら「義景にできるとは思えない!」的に言い出し、
「義景も宗滴以外の普通の武将達と、
そう異ならない程の遠征実績は持っているようですが。」と言われたら、
答えられなくなって発狂逃亡しておられる、というのが
貴方の現状のように思われますのに、何をおっしゃられているのかと
不可思議に思ってしまう次第なのではございますけれどねえ。

306 :
>>293
何度も言いますけれど、>>292>>175>>239にもありますように、
三方ヶ原における徳川側の戦死武将は50名近くに達しており、
その中には両旗奉行が二人とも死亡、城主・群代クラスが6人、
有力武将の一族が9人、松平姓持ちが2人、
酒井・本多・石川、といった有力武将の軍勢に属して死亡した武将達が3人、
(上記の有力武将の一族達は除外してありますね。)
譜代武将、外交書状に登場している武将達が二人、
という感じで、50名近くのうち、20数名がそれ相応の有力武将であると思われるわけですし、
それらの中には、有力武将の一族とか配下武将とかも多数入っておりますし、
これ程死亡したのであれば、十分すぎる程に大きな敗北といえるのではないのかと思われるのですけれど、
如何なものでしょうかね。正直な話、戦死武将が50名近く、
そのうちの20数名が上記のようにそれ相応の有力武将達、という状況での敗北、といいますのは
それを上回る程の敗北、といいますと長篠、とか、耳川、とかの領域しか無いように思われまして、
とても「この程度」といえる程にありふれた敗北ではないように思われるのですが、如何なものなのでしょうかね。
実際に何度も指摘してきましたように、方ヶ原から7か月以上が経過した後の、長篠城攻略戦における家康直卒軍の兵数が
三千程、と徳川側の資料においてはされておりまして、
2月に野田救援の為に家康が率いた兵力とほぼ同数なわけですしねえ。

さらに言いますと、貴方は必死に長篠やら刀根坂を持ち上げようとなさられて
おられるご様子ではありますが、刀根坂の朝倉側戦死武将達には
疋田六郎二郎とか、小泉四郎右衛門とか、
和田清左衛門とか、それこそ「名前以外では事績が残っていない武将達」が大量に記述されているわけなのでございますし、
長篠も三方ヶ原を上回る戦死武将が諸記録に残っているわけなのではありますが、
それらにも一般的にはメジャーではない大量の武将達が数多く死亡している事が記述されているわけでして、
さらには信長側も志賀陣関連だけでも、
道家清十郎とか道家助十郎とか尾藤源内とか尾藤又八郎とか飯沼長宗とか遠藤胤俊とか安藤右衛門佐とか桑原平兵衛とか
有力武将の家臣、だとか、有力武将の一族だとか、子息だとか、
あるいはそれほど大きな城でもない城主だとか、の名前が普通に残っているわけなのですし、
さらには信長が第三次伊勢長島で一門武将を10人ほど死亡させているわけではありますが、
それらには、それこそろくに名前以外の業績が不明瞭な一門が入ってたりもしますが、
それでも普通に記録に残っているわけなのですし、 三方ヶ原の徳川側の死亡武将達などは、
その後の徳川側が7か月以上経過した後も三千程しか動員できていない事などから考慮しましても、
十分に大きな損害である事が明らかなように思われる次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

307 :
>>299
前スレやら他スレやらで提示されておりましたように、
志賀陣などでは義景は信長相手に複数の勝利を得て、
信長が土下座降伏宣言的な書状を出して和睦詐欺を行わざるを得ない程に
追い込んでいる事が、信長側の書状や、
その後の和睦成立後の義景の書状で和睦条件である、織田側が浅井側に横山城を返還し、
攻囲中の佐和山城からも軍勢を撤収させる、さらには山門領の安泰も確保させる、
というのを履行しようとしないばかりか、さらに軍勢を派遣しようとしている、というのを
義景が憤って、「元々、この前の和睦に関しては、こちら側でも表裏(謀略)ではないか、という声がありましたけれど、
(このような書き方からしても、この和睦は信長から求めたものである事が明らかであるように思われますかねえ。)
将軍様が起請文をとったり、双方が決して違約してはならない、もし違約があるようであれば、
公儀の御身上、相果てなさられるべし、とまで言われたから、こちらは承認したんですよ!
それなのに、信長はすぐにそれを破っていて、これは天下の将軍様に対する嘲弄が不可避というべきものではないでしょうかね!
上意の筋目とは一体どうなっているのですかね!」的に述べている書状などからも明らかなように思われるわけですし、
ここまで信長を追い込んだのですから、あまり義景を無能呼ばわりなどをなさられるのはどうかと思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

308 :
それ以前にも、姉川の戦いにおきましても、他スレなどでも示されておりますように、
朝倉側の記述では勝利や優位を主張できる戦いであり、
朝倉側の戦死者数は120余、とされておりますのに、
信長は「野も畑も敵の死体でたくさんだ!」
「数えきれない程の首を取ったので、記すにも及ばない!」とか
書状で書いてるわけですし、そうやって過大宣伝をしまくられた結果として、
それを鵜呑みにした公家さんの記述が、姉川で朝倉浅井で1万近く死亡、
(朝倉浅井合わせても1万3千程とされているわけではありますが。)
浅井長政も死亡、という超巨大戦果になってたりするわけで、
近年の研究者とかは双方の記述を突き合わせて、状況の分析などを行った結果として、
姉川の戦いは戦闘においては五分、的な評価をする人も結構おりますようでございますかね。
で、その後の志賀陣では>>307にありますように、義景自身が出陣して複数の勝利を得て、
信長が土下座降伏宣言和睦詐欺をせざるを得ない程に追い込んだわけですし、
これらなどから考慮しましても、義景はそこまで無能扱いなさられるのは如何なものかと思う次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

309 :
志賀の陣は義景の実力というよりも本願寺が急遽参戦したことが一番大きいだろうよ
義景はどうみても無能

310 :
>>309
いや、本願寺が勅命などの要請もあって和睦した後も、
義景は信長を相手に対峙を続け、戦果をあげ、
信長が土下座降伏宣言和睦詐欺をせざるを得ない程に追い込んだわけですし、
義景はそこまで無能扱いなさられるのは如何なものかと思う次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

311 :
>>309
ねえ、は無視して下さい。
こいつに何言っても無駄です。

312 :
そもそもライバルの上杉謙信が、1572年10月18日付で家臣の河田重親に宛てた手紙で「織田信長、徳川家康まで敵に回したのは(上杉との敵対に加えて)明らかな認識不足だ」と言ってる。

さらに謙信は信玄が自ら蜂の巣に手を突っ込んだ、とまで評している。

これを見ると、当時の人間からしても、武田信玄の多方面に敵を作るやり方が酷すぎる、と見られていた可能性が高い。

武田信玄はあちこちに敵を作りすぎ。

313 :
>>311
はいはい。
いつも通りに都合悪い事を必死になってスルーしようとなさられてないで、
ご主張なさられたい事がおありでしたら、
書状やら資料やら史実やらを基にした論旨で
お述べになられていただきたいと思いますので、
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>312
いやいやいや、その謙信の書状は、信玄が織田徳川と敵対し、
上杉側に織田徳川という味方ができた事を喧伝する意味合いも強いわけですしねえ。
当時の謙信は前スレとかなどでも指摘されてたように
北陸と関東の双方に敵を抱え、さらには武田とも敵対しており、という状況で
色々と大変だったわけですが、その状況で武田が織田徳川と敵対し、
その方面に向かってくれた事から、敵対勢力の圧力が一方向分は減少した、
という事で大いに喜んだわけですしねえ。
そもそも、武田が織田と敵対に至るのは、徳川が謙信と同盟を結び、
さらにその同盟に織田も引き込んで武田包囲網を構築しようとしていた事なども
要因として大きいわけですしねえ。
その後、謙信は信長から何度も
「北陸を一時置いておいても、共同して武田領土に侵攻して欲しい」とか
要請されましても、普通にスルーして北陸とか関東へ向かって侵攻しておりますし、
一方の信長も「謙信を当て馬にして武田勢の圧力を減少させて、
その間に上洛したい。」とか述べているわけでして、
普通に織田も上杉も信玄が敵をどうたら、とかいえるような状況でもなんでもない、というのは、さんざんに指摘されてきた事のように思われるのですが、
如何なものでしょうかねえ。

314 :
>>312
正直信玄も謙信にだけは言われたくないと思う

315 :
>>314
ですよねえ。>>313にありますように、普通に当時の謙信は
北陸一向宗・北条・武田、と三方向に敵を抱えている状況ですし、
この状況で武田勢まで攻めて来たら大変だ、という事で
上杉側の対武田方面軍が非常にピリピリしていて、
猟師が夜中に撃った鉄砲一発を「武田勢の襲来だ!」と思って
大騒ぎになる、というような状況でございますしねえ。
とても謙信に、敵を増やすのがどうたら、と言える状況ではないように思われますしねえ。

316 :
そもそも、相手側の信長も、当時は普通に信長包囲網の真っ最中ですし、
その状態で武田と織田の両属の岩村遠山を勝手に織田領土に編入したりして、
武田との敵対になったり、と敵を増やすのがどうたら、という話ではないように思われますしねえ。

317 :
>>312
それ、信玄、謙信、信長、島津義久、伊達政宗あたりに言えそう

318 :
>>316
残念だけど、平山氏や丸島氏は、おのおのの著書で、岩村城を落としたのが武田と織田の同盟破棄、対立に至ったとは言ってないな。

むしろ武田信玄が織田信長を騙す形で徳川領に出兵したから、信長が仲介していた甲越和与がご破算になり、信長の面目丸つぶれで信長の遺恨を買うことになった、と言ってる。

さらに言えば、岩村城編入はその後で、しかも岩村には養子に自分の息子を、飯狭間には遠山一族の友勝を入れてるから、信長のやったことは筋が通ってる。両家とも男子がいなくなってるから、新たな城主入れるのは当たり前。

武田信玄は逆に城主に自分の家臣秋山を入れて直接支配にした。養子も遠山一族も入れてない。これでは筋が通らんよ。

319 :
>>318
馬鹿にいちいち反論するなよ

しかも甲陽軍鑑や苗木物語の信憑性なんてほとんど無いのだから、
君らの言ってることのほぼ全てが根拠が無いと同じ
岩村に信長の叔母が入った経緯(後見?強奪?)も不明
秋山がどういう立場(後見?強奪?)で岩村を支配したのかも不明

320 :
>>319
丸島氏によると、信長の叔母は岩村城主の遠山景任の嫁だったらしいから、城主の嫁がいるのは当たり前。

さらに丸島氏は、岩村遠山は今川氏と対立して北三河に出兵したり、桶狭間で織田信長に援軍送ったりして、かなり織田寄りの行動しているとか。

321 :
>>318 >>320
いやいやいや、
>平山氏や丸島氏は、おのおのの著書で、岩村城を落としたのが武田と織田の同盟破棄、対立に至ったとは言ってないな。
これは何をおっしゃっているのかと思うのですけれどねえ。
丸島氏はその論文で、事態を大きく動かしたのは東美濃の情勢であり、
武田織田に両属していた遠山兄弟が病死し、信長が後継ぎ不在を理由に遠山領に軍勢を派遣、
軍事介入に反発した岩村遠山が武田勢を引き入れ、これによって武田織田の敵対は明確なものとなった、
としっかり書いてありますし、平山氏も同様な事を書いておられるのですけれどねえ。
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。

謙信書状によれば、信長は「信玄の不慮を打って」「織田信広・河尻などの軍勢を派遣して」
「城主を取り合い」「敵(反対側の勢力って事ですかね。)を数多打ち取り、敵を追い払い」
「織田が遠山を入手した。」とはっきり書いてあるのですが、これはどう考慮しましても、
信長が遠山兄弟の病死に乗じて、岩村遠山の軍事制圧を行っている事が明らかなわけですし、
貴方の言うような「当たり前の措置」では到底ない事は、その後で普通に岩村遠山が武田に呼応して
武田勢を引き入れている事からも明らかなように思われるわけですしねえ。
普通に考慮しますれば、筋は岩村遠山が呼応して引き入れている、武田側にあると思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。

322 :
>>319
いやいやいや、少なくとも、こちらが論拠にしておりますのは
同時代資料の謙信の書状でありまして、謙信はその書状において、
信長は「信玄の不慮を打って」「織田信広・河尻などの軍勢を派遣して」
「城主を取り合い」「敵(反対側の勢力って事ですかね。)を数多打ち取り、敵を追い払い」
「織田が遠山を入手した。」とはっきり書いてあるのですが、これはどう考慮しましても、
信長が遠山兄弟の病死に乗じて、岩村遠山の軍事制圧を行っている事が明らかなわけですし、
普通に考慮しますれば、筋は岩村遠山が呼応して引き入れている、武田側にあると思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。
>>320
これまた丸島氏の論文ではありますが、遠山の織田に対する友好姿勢は、
武田側の勧めもあっての事、的に述べられておりますかねえ。
丸島氏は上杉との戦いを行っていた武田にとっては美濃方面で織田と戦う事は望んでおらず、
遠山を織田に対しても友好姿勢をとらせる事により、緩衝地帯を構築し、それによって
美濃の情勢などに振り回されないようにしたがっていた、的に述べられておりますかねえ。

323 :
バカの相手、やめよっと。
こいつ他人の著作まで改竄し始めたわ。

324 :
一応、こちらが嘘付いてたと思われたくないから、出しとくわ。

文献は丸島和洋の「武田勝頼、試される戦国大名の器量」平凡社、2017年9月25日。

武田信玄が織田信長を騙した。これは同書の114ページ、14行目に「信玄は、同盟国織田信長を完全に騙しているのである」と書いてあり、その詳しい旨が111ページから始まる「西上作戦に向けて」で書かれている。

さらに119ページ7行目で、「信玄自身、謙信に、調停者が織田信長では和睦交渉に応じかねる旨を通告しているのだから、徳川領侵攻が信長との同盟破棄につながるという認識はもっていただろう」とある。

織田信長の岩村城の遠山氏介入の時期、これは120ページ8行目から書かれているが、「信玄敵対を知った信長が、遠山領確保による美濃の完全掌握に動いたものとしてみたほうがよい」とある。

325 :
>>322
>>322
>>322
>>322
丸島和洋氏、武田勝頼の73ページ8行目。
「ただ岩村遠山氏は、織田氏寄りの行動をとることが多く、三河に出兵して今川氏に敵対することも少なくなかった」

73ページ5行目から、
「大名領国周辺部の国衆は、両属という形で自領の存続を目指すことはよくあり、信玄も了承していた」

何処にも「武田側の勧め」などとは書かれていない。

嘘ばっかり書いたり、巧みに改竄するなよ馬鹿。

326 :
>>320
今川も美濃に攻めいったりしてるしなー

>>324
織田の岩村への対応は支配する気ないだろって感じじゃ
武田と敵対する気なら信玄みたいに城乗っ取って支配とはいかなくても
最低でも自身の有力家臣常駐させるぐらいするはず

武田が後であっさり乗っ取れたこと考えるに反織田派のような連中を完全に追放してるわけでもないし
遠山領確保と考えると織田の対応はあまりにも緩すぎると思うな

327 :
>>321
それについても、丸島氏は武田勝頼で書いている。

120ページ6行目。
遠山一門は人質を甲府に差し出しており、信玄から裏切り行為と見なされることを恐れた。

同ページ14行目。
遠山一門中の親武田派が信玄に支援を求めた。

どこにも敵対が明確になった、などとは書いていない。

328 :
丸島氏は武田勝頼で、122ページで足利義昭が徳川家康に対し、信玄討伐を命じる御内書を出していて、信玄もまた謀反人であった、としている。

ただし、三方ヶ原で徳川家康が武田信玄に大敗し、義昭は信長と共倒れすることを恐れた(123ページ14行目)。だから1573年2月になって反信長側について挙兵した(123ページ16行目)とある。

>>322
お前、あの書状をよく読んでないな。丸島氏は120ページでそにたに書状を詳しく説明しているが、

「信玄が不慮を打った」は「信玄が下手を打った」を意味すると120ページ9行目で説明している。そもそも「信玄(の)不慮を打った」が違うし、意味の取り方が「不意打ち」になっている時点で全然違う。ちゃんと読めよ。

岩村城入部の時に戦闘があったのは、120ページ10行目で確かに書かれているが。

329 :
そもそも武田信玄、1572年10月21日に奥平氏に出した手紙で、「徳川家康に対し、3ヶ年の鬱憤を散じるつもりだ」とあるから、あの出兵は個人的恨みの可能性も高く、朝倉、浅井、本願寺は完全に織田信長を引きつけるための捨て石にされてるんだよな。

330 :
>>321
お前がいう織田信長、武田信玄の明確な手切れ。

丸島氏は武田勝頼の118ページ1行目から説明しているが、三方ヶ原で織田、徳川連合軍と武田軍が激突した三方ヶ原の戦いで「ここに武田・織田間は明確な手切となる」と述べている。

お前が言ってる時期とはだいぶ異なるな。

331 :
>>320
信長の叔母が岩村城主の遠山景任の嫁だったというのは、
主に甲陽軍鑑や苗木物語あたりの軍記物による。
そもそも遠山景任やおつやの方の一次史料は皆無で、
甲陽軍鑑以降に作成された系図でしか確認できない。

そして、甲斐武田氏が専門の丸山氏だろうと、遠山氏研究の第一人者である三宅氏の説だろうと、結局のところ、
「遠山氏関連の事跡」は、全く信憑性が全く無い、甲陽軍鑑や苗木物語、苗木遠山氏の系図に行き付く。

信憑性が全く無い通説しか無いのに、武田氏が悪い、織田氏が悪いと判断する事自体がくだらない。

332 :
>>331
ねえ、こと菅沼が武田信玄マンセーで他人の意見を全く聞く耳持たないからこんなことになってるのでは?

333 :
遠山景任が病死なのか、戦死なのかも不明。
当事者の遠山氏、武田氏が受け取った書状が滅亡によりほぼ全て失われ、
当事者らの情報が全く無い。
周辺の上杉氏、織田氏、三木氏、遠藤氏あたりの書状をかき集めて、
推測していくしかない。

334 :
>>333
だろうね。

335 :
>>332
憶測に基づいて「○○が悪い」と断言している人は、大抵どうしようもない奴らに見える。
ニュースに出てくる奴と同じ。

336 :
全く信憑性がないとか笑うしかないな

337 :
>>323 >>324
あのですねえ、何が改竄なのかと非常に不可思議に思えてしまって
しょうがないわけなのではございますけれど、
貴方が丸山氏の「武田勝頼、試される戦国大名の器量」をお読みになられているのは
わかりましたけれど、
貴方は丸山氏がそれだけしか著作や論文をお書きになられていない、とでも
思われているのでしょうか?と思うのですが、
この件についてご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

とりあえず、「武田信玄のすべて」に収録されている、丸島氏の
「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」には普通に
>>321 >>322にありますように丸島氏はその論文で、事態を大きく動かしたのは東美濃の情勢であり、
武田織田に両属していた遠山兄弟が病死し、信長が後継ぎ不在を理由に遠山領に軍勢を派遣、
軍事介入に反発した岩村遠山が武田勢を引き入れ、これによって武田織田の敵対は明確なものとなった、
としっかり書いてありますし、平山氏も同様な事を書いておられるのですけれどねえ。
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。

338 :
晴信が長生きしていたら、、、武田神社がもっと大きくなっていた

339 :
>>325
はいはい。いつも通りに時間をあけて、IDも変えて書き込まれなくてよいと思うのですけれどねえ。
オープンの方で貴方自身がお認めになられている、複数端末による複数ID自演を
ここで行われようとなさられているようで、非常に困惑した気持ちになってしまうともうしますかねえ。

で、何が改竄なのか存じ上げかねますが、
貴方が丸山氏の「武田勝頼、試される戦国大名の器量」をお読みになられているのは
わかりましたけれど、
貴方は丸山氏がそれだけしか著作や論文をお書きになられていない、とでも
思われているのでしょうか?と思うのですが、
この件についてご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
こちらもまた「武田信玄のすべて」に収録されている、丸島氏の
「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」には普通に
信玄が遠山兄弟に対して「織田・長井と入魂であると聞いて安心した。」と書状で書いており、
信玄が遠山兄弟が織田と友好関係を持つ事を評価していた、と述べていますね。

340 :
>>327
貴方が丸山氏の「武田勝頼、試される戦国大名の器量」をお読みになられているのは
わかりましたけれど、
貴方は丸山氏がそれだけしか著作や論文をお書きになられていない、とでも
思われているのでしょうか?と思うのですが、
この件についてご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、「武田信玄のすべて」に収録されている、丸島氏の
「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」には普通に
>>321 >>322にありますように丸島氏はその論文で、事態を大きく動かしたのは東美濃の情勢であり、
武田織田に両属していた遠山兄弟が病死し、信長が後継ぎ不在を理由に遠山領に軍勢を派遣、
軍事介入に反発した岩村遠山が武田勢を引き入れ、これによって武田織田の敵対は明確なものとなった、
としっかり書いてありますし、平山氏も同様な事を書いておられるのですけれどねえ。
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。

341 :
>>328
いやいや、そのまんま、その書状を読んでいるのですけれどねえ。
とりあえず、「武田信玄のすべて」に収録されている、丸島氏の
「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」には普通に
丸山氏が信長が後継ぎ不在を理由にして、軍勢を派遣し、
軍事介入に反発した岩村遠山が武田を引き入れた、的に書いてありますけれどねえ。
っていうか、そのまんま、書状を読めば、普通に信長が
「織田信広・河尻などの軍勢を派遣して」
「城主を取り合い」「敵(反対側の勢力って事ですかね。)を数多打ち取り、敵を追い払い」
「織田が遠山を入手した。」とはっきり書いてあるのですが、これはどう考慮しましても、
信長が遠山兄弟の病死に乗じて、岩村遠山の軍事制圧を行っている事が明らかなわけですし、
貴方の言うような「当たり前の措置」では到底ない事は、その後で普通に岩村遠山が武田に呼応して
武田勢を引き入れている事からも明らかなように思われるわけですしねえ。
普通に考慮しますれば、筋は岩村遠山が呼応して引き入れている、武田側にあると思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。

342 :
>>329
いやいや、その書状、別に「徳川家康に対し」とは明記されてなかったはずなのですけれどねえ。
平山氏などは「織田徳川に対する」的に解釈したりしてますしねえ。

>>330
だから、IDを切り替えて、時間をあけて必死に多数派装いをしようとしながら、
連投なさらなくてよろしいと思うのですけれどねえ。
とりあえず、「武田信玄のすべて」に収録されている、丸島氏の
「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」には普通に
>>321 >>322にありますように丸島氏はその論文で、事態を大きく動かしたのは東美濃の情勢であり、
武田織田に両属していた遠山兄弟が病死し、信長が後継ぎ不在を理由に遠山領に軍勢を派遣、
軍事介入に反発した岩村遠山が武田勢を引き入れ、これによって武田織田の敵対は明確なものとなった、
としっかり書いてありますし、平山氏も同様な事を書いておられるのですけれどねえ。
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
>>332
いやいや、普通に応対しているわけでございますしねえ。
むしろ、貴方の方が必死にレッテル貼に躍起になっておられるわけでございますしねえ。

343 :
>>337
丸山ねえ。
丸島だろ。著者の名前から間違えるとか(笑

344 :
>>340
丸山、、、

345 :
>>341
丸山、、、

346 :
>>339
丸山、、、

347 :
>>340
武田信玄のすべて、って、あれ柴辻俊六じゃないのか? 丸島の名前は共編にも見当たらないんだけど。自分あれは持ってないから。サイトで調べても丸島の名前無いけど。新人物往来社の著作と違うのかな?

2008年の新編 武田信玄のすべてでも、柴辻の名前だけで丸島は無いんだが。

それと2008年なら古いな。

348 :
>>333
他はともかく景任の死の辺りはなー
上村合戦とかも内容怪しいし

>>347
>2008年の新編 武田信玄のすべて
編集が柴辻氏で、中に「信玄の拡大戦略戦争同盟外交」っていう丸島氏の部分がある

2008年ぐらいだと1571年三河攻めが無かったって説が出始めたぐらいの頃か?
東濃研究が大きく進みだしたのも2011年ぐらいだし今となっては確かに古いな。

349 :
なんだかんだで相手してやるお前らは優しいな
即NGにしてる俺は見習うべきか

350 :
>>349
相手をしないと他のスレに被害が広まる

351 :
遠山に関しては、滅亡時に三族皆殺し、部下は下人まで皆殺し、
(下手すりゃ恵那郡住民も皆殺し)、徹底的な三光作戦が取られたから、
何も残っていない。正しいかそうでないか、判断することすらできない。
情報は周辺から集めるしかないだろうね。

352 :
>(下手すりゃ恵那郡住民も皆殺し)
正気?というか一体何を根拠に

353 :
>>351
下の人も述べておられますが、
別に住人全員とか、三光策戦とか、そういうのはさすがに行っていないように
思われるのですけれどねえ。

354 :
>>343 >>344 >>345 >>346
はいはい。昨日の朝は立て込んでおりました事と、
前に丸島氏の事を丸山と書いてた人がおりました事で、
急いで書いていて、そうなってしまったようですかねえ。

で、どうでもいいですから、そちら側に聞かれている事などについて
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

355 :
>>347
>>348の人も言っておられますように、
「武田信玄のすべて 」編集が柴辻氏でして、
その中に多くの学者さんの論文が収録されておりますかねえ。

ほうほう。しかし、実際問題として、貴方が改竄だとか言い出した部分が
しっかりと丸島氏の著作に存在しておりますのに、
貴方は一つだけのご自身の保有されてる著作だけで、
こちらをそのようにレッテル貼なさられようとなさられました事に関しては、
そちらからご説明の方があってしかるべきではないかと思われますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

356 :
>>347 >>348
で、そのようにおっしゃられるなら、2016年6月の丸島氏の著作では
遅くとも1555年までには、遠山氏が武田に従属を申し入れ、
1555年8月には、それに触発された斉藤・織田連合軍が遠山領土に侵攻し、
武田に遠山氏が援軍を要請、武田側は援軍として木曽に出陣を要請、
翌年には道三は家中の争乱によって死亡し、遠山氏はその後で信長の織田家と関係を再構築し、
武田・織田の両属の立場となった、としていますね。
で、件の信玄西上前後の岩村遠山関係につきましては、
1572年5月に遠山兄弟が相次いで病死し、後継ぎが絶え、
これを知った信長は自身の息子信房を養子として入れたましたが、この件について
「しかし、遠山氏は武田・織田氏に両属していた存在である。」とし
信房を入れた事について、「遠山一門・家臣の了解を得たものではなかったらしい。」
「11月、遠山家中の親武田派が挙兵し、岩村城に武田勢を招き入れた。」
これにより、信玄が「明確に信長に敵対する姿勢を示す事にもなった」としていますね。
>>341にありますような書状の流れとも考慮しましても、
妥当な流れではないかと思われる次第なのでございますけれどねえ。

357 :
最近、レス読む前に語尾を確認する癖がついた
ねぇとか付いてたら、おねだり豚のレスだから全く読まずに飛ばすw

358 :
そもそも武田信玄は10年も持たない。

過去の全ての戦さが負けても我が身が大丈夫なやり方しかしない。
だから超地道にしか大きくなれないので後者に容易く抜かれる。
先代を追放し後継者を始末しているようではダメ。
老朽化家臣団ではムリ。
結構な小心者で弱気な性格。
その為、神経質でズル賢くなった。
所詮、異常に暗殺を恐れる引きこもり。
水洗トイレ発明もその所為。
ただただ、我が身を頑なに守って生きていただけのヒト。
そのためだけに信玄堤等、色々頑張ってきたヒト。

最早周りの状況からみて、我が身を守ることが出来ず必ずや身内に暗殺される。
結末はそんなトコ!

我が身の安全策ばかり考えていると、そうなるお手本になったことだろう!

きっと現世に残ったであろう四字熟語

信玄生涯

意味は、我が身の安全策だけで生きていると、結局のところ暗殺されてしまう例え。

359 :
武田信玄は何で織田信長、上杉謙信みたいに上洛したりしなかったんだろうな。今川義元みたいに公家や京都と関係維持や親密だったみたいには見えないし。やはり暗殺を恐れていたのかな?

360 :
必要無かったから
甲斐信濃守護を拝命するぐらいコネがあるんだから、今更直接あったところでな

361 :
勝頼への家督継承を、
もっとちゃんとできていたら、とは思う。
でも、なんで後見が信龍だったんだろう。

362 :
>>361
信龍って、一条信龍か?
そんなこと初めて聞いた。
何が史料?

363 :
>>361
もっとちゃんと、も何も
何度もこれまでにも他スレとかで指摘されてきたように
思われますが、勝頼は普通に家督を継承しているのですが。
それ以上に何をすればよかったといわれるのでしょうかねえ、
と思ったりもするのですけれどねえ。

364 :
>>357 >>358
はいはい。貴方こと必死な織田厨さんにとって
ご都合の悪い議論やスレの流れなどを、必死になって、
貴方自身が実際にはオープンの方でしておられるとお認めになられている、
複数端末による、複数ID自演による多数派装いの所業などを行われて
必死になって喚かれなくてもよろしいのではないか、
とこちらとしては思ったりもしてしまう次第なのでございますけれどねえ。

必死に喚かれておられるご様子ではございますが、
実際には信玄は貴方が妄想願望するのとは異なり、
普通に信長以上に長生きをして寿命で死亡しましたし、
信長よりも領国の反乱とか謀反とかも少ないですし、
信長よりも家臣や一族を粛清した数もずっと少ないですし、
という感じでございますしねえ。

家臣団に関しましても、普通に信玄が取り立てた家臣団とかが
武田家の重要な職務についたりしてますし、
組織構成とかも信虎時代とは異なる形になっておりますしねえ。
後者に容易く抜かれるも何も、一代で領国を120万石以上に拡大した大名、
というのも戦国時代におきましては、それこそ数える程しかおりませんしねえ。

>最早周りの状況からみて、我が身を守ることが出来ず必ずや身内に暗殺される。
何をどう喚いておられるのかは存じ上げかねる次第なのではございますが、
普通に信玄は生涯にわたって暗殺されずに過ごして寿命で死亡、
信長は数多くの家臣や一族から離反や反乱を起こされ、
最終的に謀反で死亡している事を考慮しますれば、
信玄の寿命が後10年続いた場合、家臣や一族の離反や反乱、あるいは謀反によって
死亡する可能性が高いのは、信長の方なのではないか、
と思われる次第なのでございますが、この件につきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

365 :
>>359
>>360の人も言うように、必要性がそれ程なかっただけのように思われますけれどねえ。

366 :
信長は領国が京都に近いですし、謙信は関東制覇の為の大義名分獲得と、
関東管領に就任するための準備工作の必要性から、
はるばる遠くから京都に赴く必要性がありましたけれど、
信玄にはそのような必要性は特になく、
甲斐・信濃守護職とかも、普通に使者の派遣によっていただく事ができましたしねえ。

367 :
>>363
普通に家督を継承。
お前が持ってる2016年版の丸島の著書には、勝頼の権力基盤がかなり弱い記述がないのか? 2017年版で丸島は勝頼の権力基盤がかなり弱いことを明言しているんだが。

武田信玄は勝頼への権力移譲だけでも、義信没後からやるべきだったんだよ。

368 :
>>364
信長の一族が離反って何のことだ?
弟の信勝と兄の信広は離反したが、他に一族で離反した奴いないだろ。娘婿の浅井は別格だが。

一代で120万石。

他に織田信長、毛利元就、上杉謙信、徳川家康、三好長慶とかいるが、こいつら全員武田信玄より苦労人だぞ。

武田信玄は甲斐という本国を親父が統一し、さらに信濃進出までしていた。信玄は親父を追放してそれを継承した。

他の奴らは本国の統一から始めている。三好長慶だけは少し違うが、父親を早くに失っているぶん苦労はしている。

武田信玄は随分家臣は粛清してるがな。板垣息子、勝沼、飯富、義信とその家臣一派。ざっと数えてもそれくらいはいる。

宣教師も、小さな罪だけで武田信玄は家臣をすぐ殺した、と記録している。

武田信玄が生きていた方が織田信長にはいいかもな。本能寺の変は武田を滅ぼして油断した結果だからな。武田信玄が存命していたら、例え武田が衰退しても織田信長は油断せずに構え続けただろうからな。

それと複数自演とか何言ってるの? 調べたらわかるけど位置的に別人だと思うがな。

369 :
清盛みたいな政権をとっていたかもしれない信玄は源氏の血を継ぐが人に差を作り特別恩賞を考えて身分に差をつけているよって信玄が天下を収めたら同じ姓を増やすでしょう、その中で新たな身分を作りまた新たな階級を考えていくでしょう、税も高くとることだろうと思われます。

370 :
信玄は甲府金山が豊富に取れて人が集まり兵が増えてその他、生まれにして裕福な育ちであり天然の洞窟からとれた水で酒も造れるし林業が盛んで信玄がその気になれりゃー城なんて低予算とすぐにでも木材が集められるだから資源がかなり豊富で国力が高かったんでしょうなー

371 :
それと信玄が天下人に近くなったら隣国が急な動きで敵国自らが信玄に傘下を志願してくるでしょうね天下分け目となると諏訪生まれと元々の甲府生まれの大激戦になっていたのかもしれませんね、信玄が天下をとると関ヶ原に今川氏奪還者が現れることでしょう。

372 :
一介の教諭から中納言に成った


鉄矢は

373 :
そもそも義信と飯富とその家臣団をぶっ殺して、今川との同盟破棄したのが、武田の運命を完全に暗転させた。あれは滅亡への第一歩だよ。

374 :
>>296
称されてはいなくね?
義景器量がたんねー
信玄無慈悲
だから天下取れなかったって評されてるならわかるが

375 :
>>365
勝手に人の言葉借りないでくれる?
気持ち悪い

376 :
ねえ、とか言う奴、ホント嫌われてるな。

377 :
そういえば大河ドラマの武田信玄で、武田信玄がいよいよ西上作戦を開始する時の軍議で、武田家の勘定奉行が「武田家は相次ぐ戦で財政苦しく、3万の軍勢食わせて京まで行かせるには銭の調達が苦しい」とか言ってたな。

確か45話か46話。中井貴一主役ので。

武田は半年遠征したが、さらに続けられる余力がホントにあったのか。

378 :
>>377
常識的に考えればあるはずがない

379 :
3万の軍勢を1日動かすと軍資金約3憶円かかりますよ!

380 :
>>377 あの回いいね 勘定奉行と馬場のやり取りが熱いw
勘定奉行が半年分の見積もりだしてたね
山縣が自分たちがやってもいい新たに人夫雇うのはかえって戦の邪魔だとか
不足分を勝頼が信濃を回って集めてくるとか言ってたな

ゲームとかだと25000全部が戦う兵だけど実際は戦闘部隊6,7000??であとは荷駄人夫とかなんだって?

(´・ω・`)ショボーン

381 :
信玄が上洛できたら若狭の武田元明もはせ参じただろうか
まさか若狭家の方が嫡流だとは言えないし

382 :
"もし武田信玄があと10年生きてたら"よりも、"もし武田信玄が20年前に死んでたら"の方が武田は滅亡せずに済んだかもね。
そしたら無事に嫡子の義信が若輩ながらも周りと上手くやってた可能性があるね。
川中島の戦いもなかったかもしれないしね。

383 :
>>382
今川義元が桶狭間でやられたら、どのみち織田信長との敵対を選ぶから、織田信長にやられるんじゃないかな?

まあ義信なら、飯富という老臣がいるから、彼を軸に他の老臣たちを纏めれるかもなあ。

384 :
>>383
川中島4回戦で必死に義信を守って討ち死にした武田信繁も生きてるしね。
結構いけるかも!

385 :
>>381
義景がそれを許すかどうか

386 :
大河ドラマ武田信玄は、OPが良かった。
あと、ナレーターこと大井夫人役の「今宵はこれまでに致しとうございます」あれ印象深い未だに。

387 :
まあ、遠江、三河は普通に武田家のものになってただろうな
信長は大した援軍を送って来ないだろうし、三方ヶ原の史実みたく

388 :
>>383
飯富が義信の傅役だったと言う話は今では否定されてるぞ

389 :
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390 :
「我が子晴信が〜」「〜と申しますのは親の欲目でしょうか…」とナレを入れるあたりに、このドラマは母親の主観による信玄贔屓が含まれていますよと視聴者にさりげなく伝えているところがセンスだね

391 :
大河ドラマ武田信玄って懐かしいな
あの頃は戦国物がかなり人気あった気がする

392 :
政宗信玄と戦国物が続いたんだったか

393 :
>>367
その勝頼の基盤が弱い云々、っていうのは
大抵の場合、勝頼が継承直後に出した内藤への書状を基にして
そう主張する研究者の人がおられますが、
研究者の人によって主張が異なっている所でもありまして、
鴨川氏などは、内藤などはそれまで疎遠だった勝頼が当主になった事から、
(ひょっとしたら粛清を恐れたのかもしれない、とも書いてたりしますね。)
機敏に接近して「信玄様時代以上に働きますから、自分達の立場を保証して欲しい。」
と要請し、勝頼がそれにこたえて出したもの、という説を示しており、
実際に勝頼の書状内容では「これからとりわけ内藤が勝頼に対して奉公する、というので
勝頼としては大切に扱う事にする。心中でも粗略に扱ったりなんかしないよ。」
とかあったりして、明らかに勝頼上位なのが明白だと思うんですけどねえ。

394 :
>>368
いや、まずその二人がいますし、織田信清とかも離反してますし、
織田右衛門尉とかも敵対しておりますし、
織田三位とかも敵対しておりますし、織田信友も敵対しておりますし、
信長自身も織田信光を粛清したりしておりますし、
色々とあったりするわけなのですけれどねえ。

で、たった5人程しかいないわけではないですか。
数多の戦国大名で5人ほどしかいませんのに、そのようにいわれましてもねえ、と
思う次第ですしねえ。

信長の粛清した家臣はその比ではなく、尾張時代から本能寺までで、
20以上事例があるわけですけれど、貴方は何をおっしゃっているのでございましょうかねえ。

上記の様に、信長の方が事例は膨大なわけですしねえ。

位置的に、が何を言われているのかわかりませんが、
普通に必死な織田厨の人がおーぷんで複数端末による複数ID自演をご自身で
お認めになられている次第でございますしねえ。

395 :
>>375
いやいやいや、単に貴方の述べている論旨が、史実的に整合性がとれていました事から、
重複を避ける意味で書かせていただいただけの話で、
そう喚かれましても困惑しか湧かない、という感じですしねえ。

396 :
>>377 >>378
いやいやいや、常識的に考慮しますれば、
大内は10年以上、毛利も2年近く、普通に遠征を繰り広げておりますし、
そもそもドラマの事でそのように申されましてもねえ、
という話になると思いますしねえ。

397 :
>>396
大内や毛利と一緒にする。
こっちができてあっちはできないわけがない。
ならば上田原や砥石、長篠で大敗した武田軍がすぐ立て直したのに、徳川が軍を立て直せないわけがない! という理屈は十分に通用するな。

それとドラマの話をしているんだから、おかしいのは口を出すな。別にドラマの話をしようが自由だろ。

398 :
>>394
事例が膨大なのは当たり前だろ。
支配した勢力圏が武田信玄と織田信長では違いすぎるんだから。

ただし信長は大甘だがな。大抵、反逆した奴には一度は許したり翻意を促したりしている。信広や勝家、久秀はそれで助命されたし、信勝は許されてまた逆らったからやられるのは仕方ない。それでも遺児が重用されたが。

織田信友は一族言ってもかなりの別系で、しかも信長の家臣ではないはずだが。むしろ同格か格上だぞ名目的には。粛清いうかあれはれっきとした戦いだろ。信光に関しては不明な点と多くて信長がやったのかわからないだろ。

それと自分の意見に反対するからって、誰でも織田厨だの何だの言ってるが、少しは他者の意見も素直に受け入れる気はないのか? だから嫌われるんだよ>>375みたいに。

399 :
393 >信長自身も織田信光を粛清

おいおい勝手に歴史作るなよって思ったら397がすでに書いてた

400 :
基本、子の武田信玄よりも親の武田信虎の方が器が上でないかな。

戦国時代には2つのフィルダースチョイスがある。

1つ目は、
武田家臣団の画策により、今川家に追放処分になったのが晴信(信玄)ではなく信虎だったこと。

2つ目は、
義秋(義昭)を将軍にする為、明智や細川が頼ったのが上杉謙信ではなく織田信長だったこと。

これらのまさかのフィルダースチョイスによって、歴史が大きく変わってしまった。

ホントは武田晴信(信玄)なんて、どうでもいい存在だったはず。
織田信長もどうなってたことか。

401 :
>>398
他者の意見を受け入れる必要がある?
議論していく上で意見が対立するのは至極真っ当
アレが嫌われるのはそこが原因じゃない
主張の根拠がめちゃくちゃだったり、相手を愚弄したり、ダブスタだったり
それを指摘されても顧みることなく、相手にひたすら対応を求める姿勢が原因

>>400
野手選択の意味がわからないんだけど
「判断を誤った事例」で良いんじゃない?

402 :
>>401
399でないけど、多分、野球と同じく、方針を誤ったことを野選、実行段階でのしくじりを失策としているのだろうね。
ということで「判断を誤った事例」でおk。

403 :
コンビニ本の漫画の武田信玄を暇つぶしに読んでるんだけど
武田軍は戦争の時に米食べずに粟や稗食ってたって書いてるけどほんと?

404 :
>>403
コメは当時は貴重だし。
というか、日本の一般の食卓でコメが当たり前になったのは戦後以降。

405 :
軍隊は白飯喰わせてくれるって事で
農家の次男坊が陸軍に行きたがったりな

なお、脚気・・・

406 :
なんか雑な議論してるな。。。

>>400
フィルダースチョイスとか言われると分かりにくくて仕方ない。
日本では日常的に誤用されてる用語だし。
400の言うとおり判断ミスって言った方が正確だろう。

>>401
アイツが嫌われる理由は、お前の言うとおり。
相手の意見を受け入れないと言うのは、アイツが無視される理由だな。
アイツ(そしてたぶんお前も)がやってるのは討論で、
俺や他の奴がやってるのは対話。そもそも議論の目的から違うから、かみ合うはずもない。

>>403
武田軍だけじゃなく、日本全国どこでもヒエやアワ食ってた。
稲は亜熱帯の植物なので、品種改良されてなかった当時では、
甲斐や信濃は寒すぎて、収穫量が少ない高級品だった。

407 :
もし武田信玄が長生きしていたなら戦国武将柴野が謀反を起こしていたでしょう。

408 :
>>397
いやいやいや、少なくとも上田原・砥石での武田は
三方ヶ原の徳川勢のように、戦死武将50名近くに達する程の大敗はしてないわけですしねえ。
現に、徳川の方は三方ヶ原から7ヶ月以上経過しても、
長篠城再奪取の為の出陣の兵力が三千程、という感じなわけですしねえ。
そうやって、明らかに異なる事例を無理やり同列にしようとなさられるのは如何なものかと思いますしねえ。

実際問題として、大内毛利が長期遠征をやった時の石高は、武田の方がむしろ大きいくらいなわけなのですし、
武田ができない理由はどこにもないと思われますし、
正直な話、朝倉の普通の武将達が複数人、普通にやっていた越前からの美濃遠征を
必死に義景ができない、と貴方が喚かれようとなさられておられました時のように、
「それをされると信長が不利になるから嫌じゃああああああああ!」と
貴方がお喚きになられておられるようにしか思われないのですが、
この件について、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いや、明らかに>>377の後段と>>378の「常識的に不可能!」っていうのは
ドラマの話ではなく、史実の話をしているように思われますけれどねえ。
そもそも、ドラマの話でも、結局>>380の人も言うように、
なんとか武田は長期遠征の為の資金を
捻出しているようですしねえ。

409 :
>>398
いやいやいや、信長と信玄の領域がそれ程変わらない時でも、
普通に信長の方が粛清事例の方が多いように思われますしねえ。

いやいやいや、「一度許したような風をしても、
信長の都合がよくなったら、最長20年以上前の事でも
普通に蒸し返して粛清。」という事例ばかりで何をおっしゃっておられるのかと
思うのですけれどねえ。

貴方は「一族で敵対した奴がいるのか!」と言われたので、
それに答えただけの話ですし、信光に関しては信長の暗殺説も根強いですし、
そもそも、信長は信光と分け合う予定の尾張下4郡を、
信光遺族と分けあおうとはせず、自身で支配してますし、
普通にわかりやすい事例のように思われる次第だと思われますけれどねえ。

いやいやいや、上記のように、信長は「一度許したような風をしても、
信長の都合がよくなったら、最長20年以上前の事でも
普通に蒸し返して粛清。」という事例ばかりで、同時代でも江戸時代でも普通に悪評満載で、
信長研究者の谷口氏なども、性格的に離反されやすい人柄だった、的に評しておられたりしますしねえ。
これで信長が大甘とかいうのを認めろと言われましてもねえ。
>>399
信光に関しては上記の通りですかねえ。

410 :
>>401
あのですねえ、そのようにおっしゃられるなら、具体的に事例を出して
それがどのように異なるとおっしゃられるのか、を
資料や書状などを基にしての論旨で語っていただきたいと思いますので
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
正直な話、こちら側の方が、織田側の人の資料のご提示に異なりがある、というのを
指摘している事例が多いように思われるのですが、
貴方は何をおっしゃっておられるのか、についてご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

411 :
>>410
その人を見下した言い方が周りの反発招いているのがわからんか? お前はそれと全く他者の意見聞かないからな。

412 :
北畠氏や磯野氏のように、降伏しても、
養子からの乗っ取り、追放かさつがいが、
信長の様式美。
甘くはないでしょ。

413 :
>>411
だから放置でいいですよ。よくおかしい事言ってるみたいですけど
仮想スレだから平気でごり押ししてますよ。

414 :
>>406
なら対話の目的って何?

415 :
>>412
養子乗っ取りは、何処の大名もしているけどな。

416 :
>>411 >>413
いやいやいや、普通にこちらは資料や書状やら史実やら、を基にして
述べさせていただいているわけでございますしねえ。
いつも通りに論旨的にお答えになられるのが困難になってこられますと、
必死にレッテル貼りに躍起になっておられるご様子のように思われますが、
貴方は「他者の意見を聞かない!」とかいつも通りに論旨的に苦しくなってこられると
喚かれておられるように思われてしまう次第でございますが、
>>409にも書かせていただきましたように、貴方がご主張なさられておられる「信長が大甘!」という主張一つを
とってみましても、実際には信長は「一度許したような風をしても、
信長の都合がよくなったら、最長20年以上前の事でも
普通に蒸し返して粛清。」という事例ばかりで、同時代でも江戸時代でも普通に悪評満載で、
信長研究者の谷口氏なども、性格的に離反されやすい人柄だった、的に評しておられたりしますのに、
これで「お前は他者の意見を聞かない!こちらの言う事を受け入れろおおお!
信長が大甘だというこちら側の主張を受け入れろおおおおお!」と貴方がご主張なさられましても、
こちらとしては困惑しか湧かない次第でございますしねえ。
ここら辺については、如何なものなのでしょうか、という事について、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>415
信長の場合は、養子乗っ取りではなくて、普通に過去の事柄を蒸し返しての粛清、という事例が
他の大名と比して非常に多いように思われるのですが、如何なものなのでございましょうかねえ。

417 :
>>412
降伏後に追放殺害もよくあることじゃ

秀吉は自分は信長ほど甘くないとか書いてるし
信長は当時の人間じゃ甘かったんじゃねーの

418 :
>>414
それすら共有出来てない奴と対話するのは
無駄に苦労するだけ。
いわゆる半年ROMれって奴だな。

419 :
>>417
相当大甘だよ信長は。
どこの世界に自分を殺害しようとした弟の嫡男を自分の側近、奉行、大名に取り立てる甘ちゃんがいるんだよ。

松永久秀なんか2回も許されてる。1回目は足利義昭の誅殺命令を逆らっての助命。3回目も許そうとしたし。

柴田勝家も許されたひとり。それが林と佐久間追放後は筆頭家老だし。

こんな甘さ、他の誰かにいたか?

420 :
>>416
蒸し返して、って、それは林のことだろ?
非常に多いって、事例出せよ蒸し返した事例を。

それと別に基地外に意見受け入れろ、なんて言ってないから安心しろよ。少しは他人の意見に聞く耳持て、と言ってるの。お前本当によく文章読んでないな。

421 :
信長は特に親族に甘いイメージ
信玄坊主のあまりに酷すぎる外交には激怒してたけど、あんなの当たり前だろ
長年友好関係築いて下手にも出てたのに自分の都合だけで一方的な同盟破棄
こんなやつとまともに外交できない

422 :
>>418
それって相手の意見に聞く耳持たない誰かさんと同じ姿勢じゃないの?

423 :
>>421
足利義昭の命令で自分が仲立ちして武田信玄と上杉謙信を和睦させようとしたら、西上作戦のために動員した軍勢を北信濃に向ける。これを知った信長がすぐに引き返すように求めると、引き返したように見せかけて、実は徳川家康領に攻め入る。

さらに足利義昭に対して、自分は朝倉義景が仲立ちしてくれるなら、上杉謙信と和睦していいけど、織田信長の仲立ちでは応じられないと返答。

これで激怒しないほうがおかしい。信長でなくても切れると思うが。

424 :
>>422
いちいち突っかかってくるんじゃない。ほんと菅沼と同じだなお前。
いちおうアイツとは別人だと仮定して、
アスペルガーにも対人関係というものが理解できるように説明しようか。

対話というのは、複数の人物が、共通の話題について互いに話したり聞いたりする事で、
掲示板の場合は、スレタイについて意見を出し合い、
自分の意見を整理して書き込む事や、自分と異なる見解を知る事により、
その話題についてより深く理解したり、それぞれの見識を高めるために行うものである。

>それって相手の意見に聞く耳持たない誰かさんと同じ姿勢じゃないの?
当然同じだ。対話って言うのは、相手に応じて行うものだからな。
普通に対話できる奴には普通のレスを返し、
相手の主張に耳を貸す必要はないと言う奴には、菅沼と同じ姿勢を取る。
それぐらいは分かるだろう?

425 :
信長が勝ったのではなく信玄が死んだダケ

朝倉が勝手に撤退したから予定が狂ったダケ

武田が滅亡したのは信玄には何の非もなく勝頼がヘマしたダケ


ダケダ信玄

426 :
>>425
さすがに勝頼のヘマだけを滅亡の原因にするのはかわいそうだと思う。信玄の負の遺産背負ったのが勝頼だし。

427 :
>>420
信長は甘い方だと思うね。概ね1回は許している。逆に一部の例外を除いて二度目はないけどな。
ただ晩年の佐久間、林らの放逐を見ると、後継者を援護する為に、功臣粛清プランを立てていたかもしれない。
勝家は一度背いているし、秀吉は手取川前に戦線離脱、光秀は利三絡みで不興をかっている。
本能寺が無ければ、日本版・狡兎死して、走狗煮られる、が見れたかも。
安泰なのは、信孝の傅役で飛ばされた丹羽と、同じく敵地の僻地に飛ばされた河尻くらいか?
秀吉は養子に家督譲ることで保険を掛けているのはさすがだが、実子がいないから決断できた。

428 :
>>426
直接の滅亡の原因は勝頼だろ。信玄は負の遺産ばかりでなく
分国法の制定。検地や軍役を国人衆に課したりとあの時代では
中央集権化をかなり進めていたぞ

まあそれが原因で多くの家臣が反対した無謀ともいえる
長篠の戦いを断行したり、御建ての乱での対応を間違えて
北条までも敵に回したわけだがそれは信玄のせいではい

429 :
>>403
収穫量が多い水田が広く普及するのは江戸時代に入ってからでそれまでは陸稲が殆ど
当時の測量技術で水田が造れたのは山の麓、川辺などの極限られた場所だけ

430 :
確かに織田信長は甘いと言えば甘い。
豊臣秀吉がワシは信長ほど甘くないと言っているくらいだしね。
確かに秀吉は農民に対しても厳しかったね。
だけど秀吉は欲深過ぎて完全に戦国を終わらせることが出来ず、死後、徳川家康にそのスキを突かれて豊臣は滅亡した。
どんな理由でもいいから生前に徳川を討っておくべきだ。
その点、秀吉は信長よりも大甘だ!

武田信玄は自分に対して大甘だけどな。

431 :
>>430
秀次事件で敵を作ってしまったのが大きいだろう。
厳罰を食らった池田輝政、浅野幸長らはその日から豊臣恩顧の臣から
豊臣家憎し、に180度変わったし、もろに家康に付け込まれた。
強いて言えば、池田輝政を処刑しておけば変わっていたと思う。
秀次の残党を纏めるカリスマがいなくなったからね。

432 :
>>424
菅沼そのものと同一という最低な侮辱行為はそれこそ菅沼の得意なスタイルでは?
なるほど、お前のいう「対話」の定義はわかった
けど、菅沼と同じスタイルを通すのは低俗としか言いようがない

お前のいう「対話」って議題に対してそれぞれの存念を表明する「意見交換会」だろ
ならその意見に疑問があった場合は?或いはその根拠がおかしいと感じたら?
それらに対して質問して、その回答で新たな知識を得て、自分の見識を深め、もしその回答に対してさらに疑問が生ずれば、さらに質問する
それら一切の質問を否定するって姿勢の本質は菅沼のそれと同一
結局あいつは自分に対する質問には答えないのだから

自分の使った言葉をキチンと説明するぐらいしたら?菅沼じゃないんだから

433 :
>>432
俺が言おうが誰が言おうが、対話という言葉の定義は変わらんだろ。
俺が何か特殊な事を言ってるみたいな、歪曲は止めろ。

だから、お前とは対話したくないって言ってんの。
他の奴にはこんな態度とってないだろ?

俺の説明に対して、説明するぐらいしたら?とか、頭おかしすぎるし、
注意した事じゃなく、菅沼という言葉にだけ反応する時点で、バレバレだし、
対話に対する理解も、自分の事だけで相手の都合を考えない時点で、菅沼遼太丸出しだ。

俺は今後お前にはレスしないけど、本当に菅沼じゃないのなら、猛省して欲しいね。

434 :
>>419
松永みたいに簡単には取り潰せないとか
自分に逆らった相手の嫡男を取り立てるはいくらでもあるが
直系でいていつでも殺せるような状態なのに重用となるとちょっと出てこないな

>>420
佐久間のはもっと働けって言ってるようにも見えるか置いておいて
林入るなら丹羽安藤もじゃ

そういえば林の24年も過去の謀反を理由ってソースは何だろ

>>427
>本能寺が無ければ、日本版・狡兎死して、走狗煮られる、が見れたかも。
秀吉家康秀忠で十分見れてる気がw

435 :
>>429
しかもその水田も効率悪い湿田が多いという

436 :
>>434
安藤は武田信玄と内通(事実かは不明)。
丹羽は不手際(信長の近辺に石を落としたとか)。

これ蒸し返した、になるのか?

437 :
みなさーん、信長の蒸し返し粛清の件に関しましては、今夜しっかり書いてあげますかねえ。
今朝は忙しすぎて無理ですが、今夜の方を楽しみにしておいてくださいねえ。

438 :
>>437
基地外Z

439 :
ゲームで実証したが 南信濃を取ったら 美濃に攻め込めば天下が取れる

440 :
あぼ〜んすべきIDを事前に知らせてくれるとは
えらい親切じゃないか

441 :
>>436
安藤は1580年に1573年以前のことを理由にしたとされるから蒸し返しになるんじゃ
同じ内通でも水野の方は蒸し返しというには時期が近すぎるから蒸し返しに入れるのは難しいと思って外したけど

442 :
>>433
対話の定義と表現した俺にも落ち度はあったけど、>>414で言ったけど対話に何を求めるかなんざ人それぞれだろ
お前から食ってかかってきといて、意図を尋ねたら話にならない?菅沼と何が違うんだか
しかも菅沼と同じ他人のレスを俺と同一視してるし
お前が菅沼の別キャラなら、お前大層なもんだよ、賞賛しとくわ

意見を表明するのはご勝手に、それに疑問があれば質問する
その質問を「俺討論じゃなくて対話したいだけだから。お前と話しできない」というならチラシの裏に書いてろ
良い世界だぞ、チラシの裏

443 :
>>429
測量技術の問題?
大規模な治水工事とかをやる余裕と権力が出来たのが大きいって通説的に信じてるけど

それと小氷期の関係
戦国以前の穀倉地帯というと濃尾近江に斑鳩とかで東国にあまりないし

444 :
>>443
現代以前の人口爆発には何かしらの技術革新による食料の大量生産が不可欠
江戸初期の人口爆発然り明治初期の人口爆発然り
江戸中期から幕末は大規模な公共事業をやれるようになってたけど
技術革新がなかったために人口は停滞

445 :
信長ファンの皆様達、お待たせいたしました。
これから、朝は忙しくて書けなかった、信長の粛清などについて
書かせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。

446 :
>>445
書かなくていいから、やめろ基地害

447 :
>>417
まず、その「私は信長程に甘くない!」という秀吉の書状は
紹介された記事などを読む限りでは、
「伊賀の統治を任された脇坂に対して」
「伊賀の統治がうまく行かなければ他の武将を派遣するぞ!」
「追放した近臣を匿ったりするなよ!」というのをはじめとした
様々な指示を出し、その上で「私は信長のようには甘くないぞ!」と秀吉は
述べているようで、要するに、基本的に放任統治・委任統治が主体であった信長時代と異なり、
「私(秀吉)はしっかりと統制を強くしてやっていくぞ!」的な感じで秀吉は述べているようで、
言ってみれば、「信長時代のような放任主義的な統治でいいと思うなよ!」的に
秀吉は述べているような感じで、粛清がどうとか、寛容だとか、そういう意味合いで述べているのではないように思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。

448 :
>>446
いやいやいや、せっかく、>>419 >>420の方などが
「信長ほどに甘い戦国大名などいたのか?」
「事例出せよ!蒸し返し粛清の事例を!」などと仰せになられて
こちらに対して事例の提示を求めておられるのですから、
こちらとしても、しっかりと提示をさせていただきたいと思う次第でございますし、
それが礼儀というものであると思いますので、
私めも史実をしっかりと提示させていただきたいと思う次第でございますかねえ。

449 :
>>419 >>420
お待たせいたしました。
信長の粛清関連に関してですけれど、
まず、貴方がお求めの蒸し返し粛清の事例としましては、

1.まず高宮右京亮とその一族が、1571年9月に
一年前の敵対行動を理由として粛清されておりますね。
高宮一門は1571年2月に信長に降伏しており、
信長もそれを受け入れているのですけれど、
一年前の敵対行動を蒸し返されての粛清を受けておりますね。

450 :
>>419 >>420宛続き
2.次に1573年の春に、伊勢の関一族が、これまた昔の敵対行動を理由として放逐処分の方を受けておりますかね。
3.1575年9月に近江の領主である林員清が5年前に信長と敵対して、
志賀の陣で早船で攻撃してきた事、を理由として粛清されておりますね。
林はその後に信長に属し、浅井領の中で信長側として奮闘してきた存在なのですけれど、
5年前の事を蒸し返されて粛清されておりますかね。

451 :
武田信玄は勝頼が生まれたら、諏訪一門の諏訪薩摩満隆を殺しているがな。何を比較したいんだお前さんは?

452 :
それ言うなら、武田信玄は勝頼が生まれたらそれまで諏訪惣領を約束していた寅王丸(頼重息子で母が信玄妹)を廃嫡して僧侶に無理やりして、さらに殺害している。

何を比較したいんだ、お前さんは?

453 :
>>451 >>452
いやいやいや、そもそも、貴方が「蒸し返し事例をあげろお!」
とおっしゃられたのですから、信長の数多い蒸し返し粛清の事例を提示させて
いただいているだけの話でございますしねえ。
それから、諏訪満隆は反乱を起こし、寅王丸も信玄の命を狙ったことから
死亡する事になっているわけですしねえ。

こちらは今のところ、信長の蒸し返し粛清の事例を提示している最中ですが、
普通の信長の粛清をあげましたら、もっともっと事例が増える事になるのですが、
それらも提示した方がよろしいのでございましょうかねえ?

454 :
>>419 >>420宛続きその2
4.元幕府家臣の三淵藤英が、信長に降伏し、その軍勢に属して
岩成友通攻めを行い、それに成功して、岩成友通を打ち倒したにも関わらず、
その翌年である1574年には信長から所領を突如としてはく奪され、
長男と共に自害を命じられ、死亡する事になっておりますね。
5.1578年には、浅井の旧家臣である磯野員昌が突如脱走する事になっておりますね。
これは、信長が一門の信澄に領土を譲るように迫り、それを磯野が拒み、
粛清される前に脱走したもの、と解釈されたりしておりますかね。

455 :
>>453
反乱起こした、明確な証拠なんかどこにある?しかもあれは信玄が生まれた勝頼を諏訪惣領にしようとして、それまで諏訪一門との公約を反故にしたからだろ。

寅王が信玄暗殺を企んだ、とする史料は寛永、寛政とあまりに時代が下がりすぎていて、信玄正当化の可能性があり、暗殺企んだ、とか考えにくい。

456 :
>>454
磯野出奔は不明な点多いはずだがな。
三渕に関してはたぶん弟の藤孝と通じた上での粛清だろ。藤孝の下に遺児がいるのを黙認していたし。

457 :
そういえば、粛清の対象にするなら、寅王母親のねねご寮人も頼重の死からわずか半年後に16歳で死んでいたから、これも粛清と言えるんかな?

458 :
>>419 >>420宛続きその3
6.佐久間信盛が1580年に粛清されているわけですが、
その理由は有名な佐久間折檻状に詳しく書いてありますが、
その中には、1573年の刀根坂の時の事だとか、
三方ヶ原の戦いの時の事だとか、
1576年に死亡した水野信元の領土を与えられた時の対応だとか、
山崎の地を与えられた時の対応だとか、
30年間にわたって「比類なし」と言われる程の活躍がない、とか
数年前とか、10年近く前の事だとか、あるいは30年間の事だとか、を色々と蒸し返しての理由が
色々と書かれておりますかね。
7.同じく1580年に安藤守就が粛清されておりますね。
これの理由は、信長が苦労していた時に野心をもった事とされており
信玄西上の時に武田に呼応しようとした事、と学者さんなどは述べておられたりしますかね。

459 :
>>457
いやいやいや、普通に病死した人間が、なぜに粛清、っていう事になるのか非常に不可思議なのですが、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

460 :
>>455
いやいや、普通に当時の文書で謀反が発覚して、という事になっておりますしねえ。

それを言いましたら、そもそもの問題として寅王丸が信玄に殺された、という事自体が
貴方の言う江戸時代の資料にしかない事であって、
普通に同時代資料的には寅王丸のその後は「不明」でしかないわけなのですけれど、
この件については如何なものでしょうかねえ。

461 :
>>456
いやいや、普通に状況的に信長の意向が働いて、と考慮するのが妥当であると
思われますし、普通にそのように類推されていたりするわけですしねえ。

いやいやいや、結局、三渕に対して、信長に属して戦って戦功をあげたにも関わらず、
結局は許さずに粛清している、という事実は普通に変わらないと思われる次第なのでございますが、
この件については如何なものでしょうかねえ。

462 :
>>459
殺された可能性あるだろ。
あまりに時期が良すぎる。

>>458 佐久間は水野を讒言した(松平記)。これは佐久間追放後に信元の弟の忠重を復帰させていることからも明らか。しかも水野領を任せたのにその統治が悪く弾劾状に言語道断とまで信長に言われてるから統治不良だろ原因は。

刀根坂の時は、信長自ら朝倉義景を追撃して佐久間に限らず柴田勝家、羽柴秀吉とみんな遅参して信長が激怒した。普通なら素直に聞くところあるいは責められても仕方ないところを言い訳、抗弁したから。

三方ヶ原で佐久間軍がひとりも死んでない、のは事実だろ。弾劾状にあるし。平手が戦死して、佐久間が逃げたのを比較されても仕方ないわ。

463 :
>>460
当時の諏訪で謀反起こせるわけないだろ。
郡代に板垣がいて、もうひとりの一門有力者の満隣は息子の頼忠を大祝にされているのに。

孤立した満隆が謀反企めるわけないだろ。

464 :
>>419 >>420宛続きその4
8.林秀貞もまた、1580年に安藤と同様に、過去の謀反を蒸し返されて
粛清されておりますね。この理由とされる謀反は20年以上前の事でもあり、
信長の蒸し返し粛清の事例における最長の事例でもあり、その間に林秀貞の嫡男である林新次郎が
伊勢長島で信長の為に殿軍を務めて奮戦し、自身と与力の軍勢が共々に敗北して死亡する、という事になってまで
信長を撤収させた、という事例がありましても、なお20年以上前の秀貞の、とっくに許されたはずの敵対行動を理由として
粛清している、というのが信長の蒸し返し粛清の凄まじさを感じさせる事例の様に思われますかね。
9.丹羽氏勝もまた1580年に、昔に信長が苦労していた時に野心をもった事、を理由として粛清されておりますかね。

465 :
>>464
林の家督での敵対、あれソースなんだよ?
信長公記には先年の野心、としかないぞ。家督での敵対なんか記録されてない。

466 :
>>435
湿田問題は昭和まで続いてるから……

>>436
隠していた過去の罪がばれたから処罰はむしろ正当な処理なだけな気がするが、
当時の慣習的に時効はどれぐらいなんだろうか。

一度赦免したのに処罰は蒸し返したになると思うが、
それだって力関係とか何らかの状況で赦免せざるを得なかった場合もあるし、
他にも処罰したいけど出来なかったを後になって処罰は蒸し返しになるんだろうか、家康の孕石とかみたいに。

>>444
技術革新って具体的には?

467 :
>>462
いやいやいや、まず普通に考慮すれば、ないと思われるのですけれどねえ。
そもそも、信玄の妹ですし、そもそも、生きていたとしても、政治的に大きな影響力は持ちえないと思われますしねえ、禰々御料人は。

いやいやいや、信長が書いているのは、「水野の領土を信盛に与えてやったのに、
水野の家臣達を召し抱えようとはせずに、その収入を自身の物として蓄えていた事。」なのですけれどねえ。
「その収入で軍勢を養っていれば、もっと戦功をあげられたであろうに!」ってなわけですね。
信長領国には最晩年の明智軍法の一例を除いて、具体的な軍役事例が存在しないので、
おそらく信長は家臣達に対し、東国大名達の様に具体的な軍役を課す領域まで到達していなかったと思われ、
その為に佐久間のように信長が望む程に軍勢を整えようとしないような武将に関しても、
苦々しく思いながらも、それを処罰する規定がなかったようで、
信盛に対する糾弾も、結局のところ、「戦功をあげられなかった事」を主体的な理由としつつ、
その時に一緒に軍勢数に対する糾弾を行っている、という感じのように思われますかねえ。

で、その刀根坂も、三方ヶ原も、許していないのなら、その時に、あるいはその時からそれ程経ないで糾弾すればよかったように思われますのに、
何年もたってから、急に蒸し返して糾弾しだしている感じの様に思われますから、
蒸し返し粛清、という風に呼ばれているように思えるのですが、如何なものでしょうかねえ。

468 :
>>463
ですから、それ、貴方が「思う」だけのように思われるのですけれどねえ。
毎度毎度思うのではございますが、貴方が「思う」という事が
いきなり資料などを基にした論証なども行われずに「前提」となって
それを基にして断定をなさられる、という事を行われましても、
こちらとしても困惑しか湧かない次第でございますが、如何なものでございますかねえ。
まず、そのように断定をなさられるなら、
資料を基にした論証を行う事からお始めになられていただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>465
大抵は、というか、信長研究者の人とかも、普通にそれで解釈しておりますようですけれどねえ。
逆に、それ以外で記録も記述もないわけですしねえ。

469 :
>>456
藤孝じゃなく光秀主導な気も……
光秀周りって何か処罰されるの多いし

470 :
>>467
まだ使えたからだろ。
佐久間の場合は、信盛本人に加えて息子の正勝まで不行状あったから決断せざるを得ない。

ところでお前は弾劾状をよく読んだか? あれは信盛にチャンスをやるから武功を立てろ、と言ってる。また、信盛のその後を気にかけ、正勝は復帰させている。

武田信玄も義信一派粛清で、追放組は何人か復帰させてるだろ。

471 :
>>466
時効とかではなくて、普通に過去の事例を理由として、粛清を行っているだけのように思われますけれどねえ。

家康の孕石の事例は、孕石が家康に粛清された時も、武田家臣として降伏してきた、という時の事ですから、
蒸し返し粛清とかとは異なると思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。

472 :
>>468
てめーも史料で都合のいい部分抜き出したり、こちらや他の人が出した史料無視しまくってて、偉そうなこと抜かすなやボケ。

473 :
>>470
ですから、それ、結局過去の話であるにも関わらず、
それを糾弾せずに使えるだけ使っておいて、
信長の都合がよくなったら蒸し返して粛清している、という事で
普通に蒸し返し粛清、っていう事であると思われるのですが、
この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いやいや、「せざるを得ない」じゃなくて、普通に過去の事例を蒸し返して
普通に粛清しているだけのようにしか思われないのですが、
如何なものでしょうかねえ。普通に甘い人間ではないように思われますしねえ。

読みましたよ。信盛の軍勢だけでどこかの敵を平定してくるか、討ち死にするか、
それが嫌なら高野山に隠居して許しを請うか、にしろ、と要請され、
普通に考慮しますれば信盛の軍勢だけでそんな事は不可能ですから、
高野山にのぼろうとしたら、そこにいる事も認められずに熊野まで行く事になり、
そこで死去する事になっておりますかね、信盛さんは。
到底信長が甘い人間だという事にはならないように思われるのですが
如何なものでしょうかねえ。

474 :
>>472
いやいやいや、どこにそんな事例があるというのですかと。
具体的にお述べになられていただければ、それに対する応答やら、
検証やらをさせていただきたいと思う次第でございますので、
具体的に事例とレス番号と内容でもってご説明の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

475 :
>>419 >>420宛続きその5
とりあえず、信長の蒸し返し粛清に関しましては
貴方のご要望におこたえさせていただきました次第でございまして
>>464までで一通りあげさせていただきましたけれど、
このように、信長の蒸し返し粛清の事例は他大名と比しましても、
非常に多い部類に入ると思われますし、これで信長が甘い人間だ、というのを
聞く耳を持て、と言われましても、こちらとしては
非常に困惑せざるを得ないように思われる次第なのでございますが、
如何なものでございましょうか、と思う次第なのでございますかねえ。

476 :
>>421 >>423
いやいやいや、それに関しましても、何度も指摘してきましたように、
両属の岩村遠山に軍勢を派遣して、反対派を多く粛清して乗っ取り、
織田領土に編入する、という事をやっておりまして、
それが原因で岩村遠山が武田に呼応して、武田勢を引き入れる、という事態になっておりますのに、
「一方的に」と言われましても、と思う次第でございますし、
そもそも、勝頼への官位叙任や将軍家からの一字拝領を潰してしまう事になったり、
家康が画策している武田包囲網構築の動きを、武田側が織田に抗議しても、
それをスルーしたり、と色々と火種がありましたのに、
そのような事をお述べになられましても、と思う次第でございますしねえ。

477 :
>>476
反対派を粛清、とか何処にそんなソースがあった? 平山、丸島両氏はそんなこと書いてない。

それと丸島氏は、勝頼の叙任や諱拝領を妨害したのは信長ではなく、義昭の意思だと言ってるが。少なくとも武田信玄存命中は、武田信玄との同盟関係があるから、妨害などするわけない。

また、織田信長は信玄、家康双方と同盟関係にあるから、一方を選び一方を捨てるではなく、中立の立場を堅持するしかない。スルーしたわけではなく、互いに黙認しただけ。

478 :
>>425
実際に史実的にはそのように思われますし、
朝倉も普通に三月には出てきておりますしねえ。
>>426
負の遺産、負の遺産、と言いますけれど、具体的にはどのようなものなのでございましょうか、と思うのですけれどねえ。
実際には勝頼は普通に家督を継承しておりますし、
信玄時代には信虎時代よりも遥かに中央集権が進んでおりますし、
長篠の戦いにおける敗北と、御館の外交失敗による数年間の多方面策戦による領国疲弊、も
両方ともに勝頼時代に起きた事であるわけでございますしねえ。

479 :
>>477
その書状そのまんまに、普通に信長が
「織田信広・河尻などの軍勢を派遣して」
「城主を取り合い」「敵(反対側の勢力って事ですかね。)を数多打ち取り、敵を追い払い」
「織田が遠山を入手した。」とはっきり書いてあるのですが、これはどう考慮しましても、
信長が遠山兄弟の病死に乗じて、岩村遠山の軍事制圧を行っている事が明らかなわけですし、
筋は岩村遠山が呼応して引き入れている、武田側にあると思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。

平山氏は、信長と義昭の主導権争いで、結果としてお流れになってしまったのではないか、的に書いていたりしますかねえ。

いやいやいや、家康が上杉と同盟を結び、さらにその同盟に織田を引き込んで、
三方向から武田を包囲しようとしている、というのが状況で、
信玄がそれに対して、織田に抗議しているのに、織田がそれをスルーしていて、
武田側の認識としては、家康は織田の意見を聞く人、なのですから、
織田が家康にそう画策させている、あるいはその動きを黙認している、という風に解釈するのは
極めて自然なように思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。

それから、しれっと、都合の悪い所をスルーしようとしてないで、
>>468 >>473 >>474で聞かれている事について、おはやめにご回答の方を
よろしくお願いしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

私、明日は休みですから、普通に今夜はじっくりとお付き合いできると思いますしねえ。

480 :
>>427
信長の蒸し返し粛清の事例に関しましては、>>449 >>450 >>454 >>458 >>464で示しておきました次第でございますし、
このように、信長の蒸し返し粛清の事例は他大名と比しましても、
非常に多い部類に入ると思われますし、
これで信長が甘い人間だ、というのを
ご主張なさられましても、こちらとしては
非常に困惑せざるを得ないように思われる次第なのでございますが、
如何なものでございましょうか、と思う次第なのでございますかねえ。

481 :
>>430
まず、その「私は信長程に甘くない!」という秀吉の書状は
紹介された記事などを読む限りでは、
「伊賀の統治を任された脇坂に対して」
「伊賀の統治がうまく行かなければ他の武将を派遣するぞ!」
「追放した近臣を匿ったりするなよ!」というのをはじめとした
様々な指示を出し、その上で「私は信長のようには甘くないぞ!」と秀吉は
述べているようで、要するに、基本的に放任統治・委任統治が主体であった信長時代と異なり、
「私(秀吉)はしっかりと統制を強くしてやっていくぞ!」的な感じで秀吉は述べているようで、
言ってみれば、「信長時代のような放任主義的な統治でいいと思うなよ!」的に
秀吉は述べているような感じで、粛清がどうとか、寛容だとか、そういう意味合いで述べているのではないように思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。

それから、信長の蒸し返し粛清の事例に関しましては、>>449 >>450 >>454 >>458 >>464で示しておきました次第でございますし、
このように、信長の蒸し返し粛清の事例は他大名と比しましても、
非常に多い部類に入ると思われますし、
これで信長が甘い人間だ、というのを
ご主張なさられましても、こちらとしては
非常に困惑せざるを得ないように思われる次第なのでございますが、
如何なものでございましょうか、と思う次第なのでございますかねえ。

482 :
>>438 >>446
はいはい、必死になってレッテル貼に狂奔なさられようとしておられるようでは
ございますが、こちらとしましては、要求された史実の事例を提示させていただいているだけの話でございますし、
必死にそのようにお喚きになられる前に、聞かれている事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

483 :
>>477
1572年正月の段階じゃ信長の方は武田のために奔走してるからなー
それとは関係なく勝頼の叙任や諱拝領を信長が妨害する必要性あんま無い、
むしろ友好関係維持するため賛成に動く方がありうる。

484 :
>>483
その時期に、信玄が家康が武田包囲網の動きを構築し、
それに織田を引き込もうとしているのを、察知して
織田に対してそれを抗議しても、スルーしている、という事が普通に起きている状況ですしねえ。

485 :
基地貝は相変わらず元気だねえ。
その元気を別のところにもっと使えないのかねえ。

486 :
>>485
いやいやいや、貴方はもう12月でございますのに、土日も平日も、必死に日中において貼りつかれながら、
必死にレッテル貼的な書き込みをなさられておられます御様子ではございますが、
こちらとしましては、その貴方様の御様子に、いささか以上の困惑と不可思議なる気持ちを抱かざるを得ない、
という次第でございまして、とりあえず、史実的な事柄などについて、
貴方に聞かれている数々の事柄などについて、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

487 :
つまりまとめると
信長の粛清は家臣同士のいざこざの仲介や能力主義で判断した場合、過剰になってしまった領地の召し上げなど徹底したリアリスト
対して信玄公のそれは愛人に産ませた子供を優遇させたいとか極めて世俗的な欲求にもとづいて行われたという事ですね

488 :
>>487
いやいやいや、何をどうやったら、そのようになられるのか、
が非常に不可思議に思われますが、
実際には>>449 >>450 >>454 >>458 >>464で示しておきましたように、
普通に信長は過去の遺恨とかを基に、相手側の降伏などを受け入れておきながら、
後になってそれを蒸し返して粛清する、という蒸し返し粛清の事例が
他の大名と比しましても非常に多く、信長が甘い戦国大名だ、というのは
非常に難しいように思われるご主張ではないのですか、という話で
ございます次第でございますかねえ。

それから、自身の子息を他家に送り込んで、その為に反対派を粛清し、というのは
これまた信長はふつうに複数の事例で行っております次第でございますし、
上記に書かなかった、信長の粛清事例も含めますれば、
信長の粛清事例数はやはり他の大名と比しましても、
非常に多くの数に及ぶ、
というのが明らかなように思われますが、
この件については、如何なものでございましょうかねえ。

489 :
>>488
信長は難癖つけて粛清してるけど実際には使えなくなったからリストラしてるだけ
働かない家臣を高待遇で抱えてもしょうがないでしょ
失敗しようが反乱しようが使える家臣は不問にしてる
秀吉も手取川でやらかしたし柴田も元々は弟についた裏切り者
松永弾正や荒木村重などの対応みても甘いでしょ

反面、武田の親方様は奥方が気に入らないというだけで使える息子を粛清して後継者問題というデッカイ火種を残す
信長はそんな事してない
うつけと言われてた信雄が家をしっかり残したからね

490 :
>>489
いやいやいや、実際には>>449 >>450 >>454 >>458 >>464で示しておきましたように
普通に信長は過去の遺恨とかを基に、相手側の降伏などを受け入れておきながら、
後になってそれを蒸し返して粛清する、という蒸し返し粛清の事例が
他の大名と比しましても非常に多く、信長が甘い戦国大名だ、というのは
非常に難しいように思われるご主張ではないのですか、という話で
ございます次第でございますかねえ。

>失敗しようが反乱しようが使える家臣は不問にしてる
つまり、貴方の主張と、上記のような信長の粛清事例などを考慮しますれば、
信長が「使えない」と思った、あるいは、信長の都合がよくなったら、
普通に過去の事柄を持ち出されて粛清される可能性が非常に高い、
というわけでございましょうかねえ。
これでは、明智や荒木が信長に対して離反・敵対し、
さらには他にも信長領国で他大名と比しましても、膨大なる離反・敵対が起こり
信長死亡後に織田家臣達が織田本家を守ろうとはせずに、
みんなで自身の勢力拡大に走り、信長のお気に入り、とされていた秀吉も
容赦なく織田の権益をむしり取り、その一族を迫害し、
という事を行った事も、まったくもって道理にあった事、
という事になると思われますが如何なものでございましょうかねえ。

>武田の親方様は奥方が気に入らないというだけで使える息子を粛清して
何を基にして語られておられるのか、
について資料提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄の正室であり、義信の母親であらせられます、
三条夫人は義信事件の時にも普通に存命で、そもそも義信は謀反を起こそうとして
幽閉された後も、信玄は義信が悪くない、
義信の家臣が悪い、という事にしようと躍起になっておりますし、
義信はその後も普通に2年以上にわたって生き続け、
何人もの人々が信玄と義信の仲を取り持とうとしましたけれど、
義信が承諾しなかった、とされておりますし、
その死亡も病死とも自害ともいわれておりますしねえ。
貴方のおっしゃられている事が、どのような資料に基づいておられますのか、
という事について、ご説明と論証の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

それから、信雄は秀吉に領土を没収され、客分状態であったのを、
1万8千石程の領土をもらい、関ケ原でまた領土を没収され、
豊臣家の客分状態でありましたのを
徳川側に内応し、最終的に豊臣家から脱走する事によって
三万石をもらったのであって、
信長のおかげとか、そういう話ではないように思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。

491 :
>>490
信長の合理主義が家臣の謀叛を招いたり、織田家に忠義を尽くさない結果となったのはその通りだと思っている
ただし外交においてはそうではないけど。戦国大名でも屈指の義理固さがあった

元々は信玄が周辺大名にたいして不義理であり長寿だったとしても四面楚歌に陥るって話だったと思うけど、それはその通りという結論でいいんだよね?

492 :
>>491
いやいやいや、合理主義というのか、
普通に過去の遺恨を持ち出しているだけの話のように思われるのですが、
その件については如何なものでございましょうかねえ。

>ただし外交においてはそうではないけど。戦国大名でも屈指の義理固さがあった
いやいやいや、当時から信長は「信を守らぬ男」とか
「信長が和睦を破って来たけれど、案の定だった。」とか
「信長と和睦をしたけれど、和睦が破れるのは時間の問題だろうなあ。」とか
色々言われているわけなのでございますが、
貴方は何を言われているのか、についてご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いやいやいや、いつそのような話になっていたのか、についてご提示の方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
元々、そちら側などが「信長は大甘だ!」とか述べられて
こちらが蒸し返し粛清の事例などを提示して、という流れだったはずなのですが、
一体いつそのような話になりましたのか、という事と、
そもそも信玄自体が今川との同盟に最後の方まで固執してたり、
三国同盟とかも長期にわたっている事とかも、指摘されていると思うのですが
これらの件について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

493 :
というか、他所スレにおいて、>>491のID:pqmjCDbAの人が
志賀陣における信長の朝倉浅井などに対する和睦詐欺について、
「騙したんだ!それの何が悪い!」的に述べておられますのに、
「信長は外交において戦国時代屈指の義理堅さがあったんだ!」とか
述べられましても、非常に困惑した、
不可思議な気持ちにならざるを得ないと申しますかねえ。
その件については、如何なものなのでございましょうかねえ。

494 :
>>493
結論出たみたいなのでまとめますね

信長
他国に対しては義理を通し、自分から同盟破棄はしない。相手側に裏切りがあれば徹底的にやる
部下に対しては基本的には甘いが、無能だったり何もしない場合のみ毅然とした対応をとる
ただし過去の失態など建前は出すので納得感は持てるよう配慮する

信玄
基本的には場当たり的な外交方針
過去の義理や将来の戦略よりも目の前の領土拡大が最優先
部下に対しては一門衆を優遇する
国内の信望はあるが他国からの評判はすこぶる悪い

スレタイの結論としては、内部統制の甘さから信長が天下統一できなかったのは歴史が証明しているが、信玄については外交方針の不味さが目立ち、仮に10年以上の延命があったとしても関東の一大名として生涯を終えたと思われる

いろいろな意見もらって参考になりました

495 :
>>494
いやいやいや、いつも通りに必死に捏造曲解に狂奔なさられなくてよろしいと思う次第なのでございますけれどねえ。
>他国に対しては義理を通し、自分から同盟破棄はしない。
どこの世界の信長について語られているのか、
と非常に不可思議に思われたりもしますが、
当時から信長は「信を守らぬ男」とか
「信長が和睦を破って来たけれど、案の定だった。」とか
「信長と和睦をしたけれど、和睦が破れるのは時間の問題だろうなあ。」とか
色々言われているわけなのでございますが、
貴方は何を言われているのか、についてご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

>部下に対しては基本的には甘いが、無能だったり何もしない場合のみ毅然とした対応をとる
いやいやいや、実際には>>449 >>450 >>454 >>458 >>464で示しておきましたように
過去の遺恨とかを、自身の都合がよくなれば蒸し返して粛清、という事例が多く、
それ以外の普通の粛清も大量にしており、同時代からも後世からも悪評が非常に多く、信長領国では他大名と比しましても膨大なる離反・敵対が起こり、
信長死亡後に織田家臣達が織田本家を守ろうとはせずに、
みんなで自身の勢力拡大に走り、信長のお気に入り、とされていた秀吉も
容赦なく織田の権益をむしり取り、その一族を迫害し、
という事を行っており、信長の粛清癖は家臣達の離反・敵対などという形となって
現れていたようでござますかね。
>ただし過去の失態など建前は出すので納得感は持てるよう配慮する
誰も納得できていないから、
上記のような状況になっているように思われる次第なのでございますが、
この件に関しましては、如何なものなのでございましょうかねえ。

496 :
>>494宛続き
はいはい。いつも通りに都合悪い事を必死にスルーして
捏造曲解に狂奔なさられている御様子ではござますが、
信玄は普通に戦略などを重視して物事を進めており、
信玄自体が今川との同盟に最後の方まで固執してたり、
三国同盟とかも長期にわたっている事とかも、指摘されていると思うのですが
これらの件について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>部下に対しては一門衆を優遇する
いやいやいや、普通に一門衆以外の、山県・馬場・内藤・香坂・真田、などなどの武将達も重用されているようなのでございますが、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのでございますけれどねえ。

>他国からの評判はすこぶる悪い
いやいやいや、信玄死亡時にも、同盟勢力・友好勢力の数は10を越えますしねえ。

>信玄については外交方針の不味さが目立ち、仮に10年以上の延命があったとしても関東の一大名として生涯を終えたと思われる
一体いつこのような話になられたのか、という事について、具体的にレス番号などを提示しながら、
資料や史実を基にしての論証をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄は普通に戦略などを重視して物事を進めており、
信玄自体が今川との同盟に最後の方まで固執してたり、
三国同盟とかも長期にわたっている事とかも、指摘されていると思うのですが
これらの件について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
さらには、信玄死亡時にも、同盟勢力・友好勢力の数は10を越えますし、
普通に外交的・戦略的優位をとってから戦略を進める、というのが信玄時代の武田家の外交方針の基本でございますので、
普通に10年寿命がありますれば、5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻からはじまりまして、
普通に織田勢力の畿内覇権を終了させ、天下第一の大名となって、将軍を擁して畿内覇者となる事までは
十分にできたのではないかと思う次第なのでございますけれどねえ。

真面目な話、ここまで貴方は信長にとって都合の悪い史実などを、必死にスルーして
信長のを持ち上げる為に捏造曲解などに狂奔して、他大名を無理やりに捏造曲解して
貶める事などに躍起になっておられますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!と喚かれましても、
こちらとしては困惑しか湧かない次第なのでございますが、この件については
如何なものなのでございましょうかねえ。

497 :
>>496
お前自分と意見を異にする人をみんな織田派にしてないか?

498 :
>>497
いやいやいや、別にそのような事はないのではありますけれど、
とりあえず、>>494の ID:pqmjCDbAの人は、>>495 >>496にありますように、
明らかにこれまでに示された史実などで、信長にとって都合の悪い史実などを
必死にスルーしたり、捏造曲解などを行ったりし、
そして同じように他大名に関して提示された史実などをも捏造曲解などを行って、
信長が甘くて優しくて義理堅くて、信玄の外交はどうだとか、史実と異なる
無理やりな信長持ち上げ、他大名貶め、の論旨を、
「結論」とか言って喚いておられたりしますし、
さらには他所スレにおいて、>>491のID:pqmjCDbAの人が
志賀陣における信長の朝倉浅井などに対する和睦詐欺について、
「騙したんだ!それの何が悪い!」的に述べておられますのに、
「信長は外交において戦国時代屈指の義理堅さがあったんだ!」とか
述べておられたりして、明らかに無理やりに、ご自身の理想となされる信長像に
都合の悪い史実などは必死に捏造曲解したり、スルーなどをしたりなさられて、
必死に信長持ち上げを行われようとなさられているご様子ではありますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!と喚かれましても、
こちらとしては困惑しか湧かない次第なのでございますが、この件については
如何なものなのでございましょうかねえ。

499 :
と言いますか、そもそもの問題として、このスレでも普通に上の方で

織田派の人「信長は大甘だ!」
こちら側「いや、信長は一度許した風にしましても、蒸し返して粛清する、
蒸し返し粛清、を多数行っているようなのですが。」
織田派の人「事例を挙げてみろよ!蒸し返し粛清の事例を!」
こちら側「わかりました!提示させていただきますね!」
織田派の人「やめろおおおおおおお!提示するなあああああ!」

とかいう風な感じで、織田派の人々の理想的な信長像にとって都合の悪い
史実などの提示を必死にやめさせようとしたり、
ビックンビックン反応して、信長が悪くない事にしようと躍起になられたり
煽り罵倒を必死で喚かれたり、という事をなさられておられますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!などと喚かれましても
こちらとしてはいささか以上に困惑せざるを得ない、という状況で
ございます次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

500 :
>>499
こいつ本当の基地⚪かよ。

501 :
>>500
いやいやいや、実際問題として、このスレでも普通に上の方で

織田派の人「信長は大甘だ!」
こちら側「いや、信長は一度許した風にしましても、蒸し返して粛清する、
蒸し返し粛清、を多数行っているようなのですが。」
織田派の人「事例を挙げてみろよ!蒸し返し粛清の事例を!」
こちら側「わかりました!提示させていただきますね!」
織田派の人「やめろおおおおおおお!提示するなあああああ!」

とかいう風な感じで、織田派の人々の理想的な信長像にとって都合の悪い
史実などの提示を必死にやめさせようとしたり、
ビックンビックン反応して、信長が悪くない事にしようと躍起になられたり
煽り罵倒を必死で喚かれたり、という事をなさられておられますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!などと喚かれましても
こちらとしてはいささか以上に困惑せざるを得ない、という状況で
ございます次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

502 :
正直な話、>>498 >>499だけでなく、必死な織田派の方が
普通にこのスレで、必死にレスをなさられておられますのは、
明らかなように思われますので、今更否定とかをなさられなくてもいいと思われるのですが、如何なものでございましょうかねえ。

503 :
>>489
>使えなくなったからリストラ
その点は秀吉とかもっと酷い、まあ天下人となったんだから仕方がないとは思うが。
リストラ降格の絶対数じゃ秀次関係の分除いても信長を確実に上回るだろうな。

>>491
同時代じゃ信玄は無慈悲とか言われてはいるが、四面楚歌に陥るかどうかは性格よりも
利害関係がまず第一じゃ。

504 :
>>500宛追記
と言いますか、必死になっていつも通りにレッテル貼をなさられようとしておられるご様子では
ありますが、信長にとって都合の悪い史実の提示などをされましたら、
そのようにレッテル貼をなさられようとなさられましても、こちらとしては困惑しか湧かない次第でございますしねえ。

505 :
結論出てるからもうレスしなくて大丈夫ですよ

信玄については
外交方針の不味さ
(信長との同盟破棄が決定的)
本拠地から前線までの距離による戦費の拡大

この問題を抱えているため寿命が多少伸びたところで天下を狙える大名ではなかった

506 :
ねえ、とか言う奴のを聞いてると、武田信玄が義理が厚い非の打ち所がない完璧超人で、朝倉義景が良き同盟者に見えてしまうな。

丸島、平山などの専門家ですら、武田信玄にも非があったことには言及しているのに。

507 :
>>505
はいはい。いつも通りに都合悪い事を必死にスルーして
捏造曲解に狂奔なさられている御様子ではござますが、
信玄は普通に戦略などを重視して物事を進めており、
信玄自体が今川との同盟に最後の方まで固執してたり、
三国同盟とかも長期にわたっている事とかも、指摘されていると思うのですが
これらの件について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

>本拠地から前線までの距離による戦費の拡大
これも何度も指摘されている事ではありますが、
普通に大内は10年近く、毛利は2年近く、を普通に遠征しておりますので、
当時のそれらと国力的に同等かそれ以上の武田が、
特に遠征できない理由はどこにもないと思われますしねえ。
そもそもの問題として、信長も最も長い岐阜時代には、
遠く畿内にまで遠征したりしても、また律義に岐阜まで戻ってきている事も、
これまでに普通に指摘されてきている事だと思われますのに、
貴方は何をおっしゃっておられるのか、についてと、
他にも貴方がお答えになられずに発狂逃亡をなさられている数々の事柄について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

さらには、信玄死亡時にも、同盟勢力・友好勢力の数は10を越えますし、
普通に外交的・戦略的優位をとってから戦略を進める、というのが信玄時代の武田家の外交方針の基本でございますので、
普通に10年寿命がありますれば、5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻からはじまりまして、
普通に織田勢力の畿内覇権を終了させ、天下第一の大名となって、将軍を擁して畿内覇者となる事までは
十分にできたのではないかと思う次第なのでございますけれどねえ。

真面目な話、ここまで貴方は信長にとって都合の悪い史実などを、必死にスルーして
信長のを持ち上げる為に捏造曲解などに狂奔して、他大名を無理やりに捏造曲解して
貶める事などに躍起になっておられますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!と喚かれましても、
こちらとしては困惑しか湧かない次第なのでございますが、この件については
如何なものなのでございましょうかねえ。

508 :
>>506
いやいやいや、むしろ、信長について、義理が厚い非の打ち所がない完璧超人、
という風にしたがっておられるのが、貴方をはじめとした織田派の人ではないかと思われるのですけれどねえ。

信玄に非が〜とか、駿河攻めの事とかをおっしゃられているのでしょうかねえ。
駿河攻めに関しては、鴨川氏などが、信玄が早い時期から駿河を狙っていた、的な論証は
誰にもされておらず、漠然とした思い込みであるに過ぎず、
今川が上杉と組んで武田を包囲しようとするかのような動きを示した事に対する、
ある種、受動的なものであった、というのが当時の書状などを素直に基にした結論ではないか、
的に述べておられるのでございますが、いかがなものでございましょうかねえ。

509 :
>>508
平山氏も丸島氏も普通にしてるけど?
平山氏も丸島氏も、武田信玄「にも」非はある、と各々の著書で言及してるんだが。
まあ「武田派」のお前に何言っても無駄か。

510 :
>>509
それは、信玄に非が〜とか、駿河攻めの事とかをおっしゃられているのでしょうかねえ。
駿河攻めに関しては、鴨川氏などが、信玄が早い時期から駿河を狙っていた、的な論証は
誰にもされておらず、漠然とした思い込みであるに過ぎず、
今川が上杉と組んで武田を包囲しようとするかのような動きを示した事に対する、
ある種、受動的なものであった、というのが当時の書状などを素直に基にした結論ではないか、
的に述べておられるのでございますが、いかがなものでございましょうかねえ。

「織田派」の貴方はなんとかして、信玄を貶め、信長を必死で持ち上げたい、と思われておられるように思われますが、実際問題として、
信長を義理堅い、とか、大甘、とかなさられようとなさられる、というのは
色々と無理があるように思われる次第なのでございますが、
その件については、如何なものでございましょうかねえ。

511 :
>>507
固執してたとか言い訳はいいんだよ
結果として今川領を侵して北条を起こらせてるし、無駄に小田原まで遠征してしかも負けてるw

信長は西に向かう姿勢は一貫してた
徳川とは同盟して生涯破ってないし武田、上杉もへりくだって友好関係を維持していた
どちらも同盟相手の方から破棄されたので合戦までいってしまったが

512 :
>>510
じゃあなんで、北条氏康は武田信玄との手切れの際に、わざわざ今川や上杉に確認入れて、武田信玄に非があると見たんだろうな?

それと駿河攻めに限ったことではない。大井川を境に決めていた取り決めを破ったのは武田信玄だと、平山氏や丸島氏は言ってるけどな。徳川に出した書状は苦しい言い訳だし。

513 :
織田信長は後継者信忠をRことはなかったね。
一方武田信玄は嫡子義信を粛清してまで今川を攻めたかったんだね。
実弟の信繁が川中島で命を捨ててまでも義信を守った意味がなくなってしまったね。
いんき
ホント信玄は大悪人だよね。

514 :
>>511
いやいやいや、
>無駄に小田原まで遠征してしかも負けてるw
これ、どこの世界の話をなさられているのかと思うのでございますけれどねえ。
普通に小田原を包囲して、焼き打ちを行った事は武田勢の戦果として、
喧伝されておりますし、三増峠の戦いの勝利も、
北条側ですら、氏照の書状で最終的に武田勢が押し雪崩れてきた事を書き、
北条側の軍記でも、武田勢の勝利として認められている、
という事柄なのでございますが貴方何をおっしゃっておられますのか、
という事について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いやいやいや、
>どちらも同盟相手の方から破棄されたので合戦までいってしまったが
いい加減、信長を外交で義理堅い大名!とか言い出すのは無理があると思うのですけれどねえ。
同時代の書状において、しっかりと、
信長が武田・織田の両属であった岩村遠山に対し
「織田信広・河尻などの軍勢を派遣して」
「城主を取り合い」「敵(反対側の勢力って事ですかね。)を数多打ち取り、敵を追い払い」
「織田が遠山を入手した。」とはっきり書いてあるのですが、これはどう考慮しましても、
信長が遠山兄弟の病死に乗じて、岩村遠山の軍事制圧を行っている事が明らかなわけですし、
普通に考慮しますれば、筋は岩村遠山が呼応して引き入れている、武田側にあると思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。


謙信との敵対も、関東管領である謙信に無断で、
関東諸侯達と信長が連絡を取り始め、それらを従わせようとする動きを示した事に端を発する、とされておりますし、
いい加減、織田をそこまで正義にしようとしなくてもよろしいと思うのですが、
いかがなものでございましょうかねえ。

他にも、信長が原因と思われる行動で、同盟関係やら、協力関係やらが
敵対に至った、あるいは粛清されるに至った、とされる事例としては
長宗我部・浅井・神保、などなどがありますし、必死に織田を外交において、
誠実だとか言う事にしようとしなくてもよろしいと思われるのでございますが、
その件に関しましては、如何なものでございましょうかねえ。

515 :
今川を攻めるのではなく武田信玄は隠居して義信に家督を譲るべきだったね。
その方が武田家としてはうまくいったね。

516 :
>>513
その信長も、晩年には信忠との仲は結構緊迫していたのではないか、
と思われる証左として、本能寺の時に、真っ先に「信忠が俺を殺しに来たのか!」と
叫んだりしている事があげられるのではないかと思われるのですけれどねえ。

それから、どこの小説のお話かは存じ上げかねますが、
実際には義信は謀反を起こそうとして、信玄に捕らえられ、
その後も信玄は義信は悪くない、という事にしようと躍起になり、
その後も義信は2年近くも生かされており、その死亡も病死とも自殺とも言われておりますしねえ。
しかも、義信死亡の後ですら、信玄は今川との同盟継続に固執しておりましたしねえ。

517 :
>>515
どこの小説のお話かは存じ上げかねますが、
実際には義信は謀反を起こそうとして、信玄に捕らえられ、
その後も信玄は義信は悪くない、という事にしようと躍起になり、
その後も義信は2年近くも生かされており、その死亡も病死とも自殺とも言われておりますしねえ。
しかも、義信死亡の後ですら、信玄は今川との同盟継続に固執しておりましたしねえ。

518 :
織田信長が武田信玄を怖れていたよりも、信玄の方が信長を異様に怖れていたのでは?
だから鈍臭いんだろうね。

519 :
>>512
>じゃあなんで、北条氏康は武田信玄との手切れの際に、わざわざ今川や上杉に確認入れて、武田信玄に非があると見たんだろうな?
あのー、これ、まだ貴方はおっしゃられておられるのでございましょうかねえ。
毎度毎度、こちら側に説明されて、発狂逃亡をなさられておられるように思われますが、
実際には、北条側は、信玄の駿河侵攻の時に、上杉に対して
「今川が信玄に攻められたのは、上杉が今川と同盟していたせいでもあるのだから、
責任をとって、俺達北条と同盟して、武田と戦うのに協力しろ!」的に述べているのであって、
貴方のおっしゃるような事は、何を基にしておられるのか、について、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

その徳川との事ですけれど、信玄が普通に駿河攻めの後に、
武田勢と徳川勢で共同して掛川城を攻める意向を書状で伝えている事からして、
川を境とした切り取り次第であった可能性がある、とする研究者さんもおられますしねえ。

そもそもの問題として、徳川の方が、上杉と同盟を結んで、その同盟に織田をも引き込んで
武田包囲網を構築しようとした事から、武田はそれを織田に対して抗議し、
織田がそれをスルーしたことから、織田に対する不信感を醸成し、それへの対応手段として
信長包囲網側に参戦した、とされておりますし、
信玄の方も西上の時に「三年の鬱憤を晴らす」的に書状に書いているわけですしねえ。

520 :
>>518
実際には、当時の書状で、普通に信長が武田の西上軍の動きを警戒しまくっている事が
明らかにわかるように思われる次第なのでございますが、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと不可思議に思われる次第なのでございますが、
その件について、ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

521 :
>>514
小田原城落とせなくて撤退してんだろw
守りきったら防衛側の勝利っていうんだよ

522 :
>>516
信長は家督を譲って上様になってたんだよなぁ
一方信玄は死ぬまで御館様止まり
こういうところに差が出てるね

523 :
>>521
いやいやいや、
>無駄に小田原まで遠征してしかも負けてるw
これ、どこの世界の話をなさられているのかと思うのでございますけれどねえ。
普通に小田原を包囲して、焼き打ちを行った事は武田勢の戦果として、
喧伝されておりますし、(そもそも三日だけ攻めて撤収し、という流れで
関東諸侯に対する喧伝と、北条の援軍を送ってくれない上杉に対する不信感を醸成する事が目的であったように思われる次第でございますしねえ。)
三増峠の戦いの勝利も、
北条側ですら、氏照の書状で最終的に武田勢が押し雪崩れてきた事を書き、
北条側の軍記でも、武田勢の勝利として認められている、
という事柄なのでございますが貴方何をおっしゃっておられますのか、
という事について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

他の聞かれている事柄につきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

524 :
>>522
で、その割には、その信長も、晩年には信忠との仲は結構緊迫していたのではないか、
と思われる証左として、本能寺の時に、真っ先に「信忠が俺を殺しに来たのか!」と
叫んだりしている事があげられるのではないかと思われるのですけれどねえ。

それから、信玄の方も、御上意様、と呼ばれている事が、
妙法寺記などの記述にあります次第でございますしねえ。

525 :
戦国時代って結局徳川家康が全国を統治した以外では、上杉、毛利、島津、伊達等が生き残り優秀だったね。
特に激戦区で残った上杉は最上優秀だったね。
ある程度の大きさの大名として残れば良いわけだからね。
今川、小田原北条、織田とかは、お情けで高家とか少しばかりの石高を与えてもらっただけで余り意味ないよね。
武田は滅んでしまって全く意味がなくなってしまったね。
武田は戦国時代の負け組だね。
先代を追放し、嫡子を粛清し、自分の代が長くなってしまった信玄が武田を滅亡させたと言ってもいいよね。
それにしても武田信玄はかなり過大評価されてるね。
最期の出陣はしちゃいけなかったね。
出陣する前に病死してれば良かったのにね。
武田の若い家臣たちの中には、そんな考えの者もいただろうね。

526 :
本能寺の時に
「信忠が俺を殺しに来たのか!」

そんなことを思う信長なら信忠を近くの妙覚寺に置いたりしないね。
いかにも苦しい答弁だね。

527 :
>>525
いやいやいや、普通に武田家も高家武田家、として残っておりますし、
仁科の系統も、普通に残っている次第でございますしねえ。

>自分の代が長くなってしまった信玄が武田を滅亡させたと言ってもいいよね。
このロジックが非常に不可思議に思われるのでございますけれどねえ。
信玄の家督継承から死亡まではおよそ30年余り、
信長の家督継承から死亡までもおよそ30年余り、
そもそも、毛利元就とかはそれよりもはるかに長い時代を、
実質的な当主として過ごしたりしているわけですしねえ。

実際問題として、当時から普通に高い評価を受けていたのが信玄ですし
江戸時代に至って神格化の領域にまで至りましたわけですしねえ。
信長の場合は、同時代からも悪評が多く、
江戸時代も、その後の時代も、人格的評価は低い事が多かった次第なので
ございますし、そこらへんは如何なものなのでございましょうかねえ。

528 :
>>526
いやいやいや、実際に殺されると思ったからこそ、近くにおいて警戒していた、ともとれますし、
現にそう叫んだとされておりますしねえ。

529 :
>>524
呼び名の問題ではないよ
生前の段階で跡目をはっきりさせて臣下の例を取らせた信長と、一門衆から崩れていった武田の脆い体制じゃ比べ物にならないでしょ

530 :
>>528
近くに置いて警戒してたなんて常識的にみておかしいよね。
本能寺ってたかだか100人位だしね。

それに本当に警戒してたのなら、その前の段階で討っちゃえばいいでしょ。

531 :
>>529
いやいやいや、一門衆どころか、家臣達の離反・敵対が信長生前から続出し、
最後は重臣明智光秀によって信長は死亡し、
その後で家臣達はみんなで自身の勢力拡大に走り、
織田本家を守ろうとするような有力一門もいなかった、というのが織田の状況であると
思われますが、これで織田が強固な体制、というのは非常に不可思議に思われる次第なのでございますが、
そこらへんは如何なものなのでございましょうかねえ。

532 :
>>530
本能寺は仮宿で、近くには織田側の城々があるわけですしねえ。

そうなれば、織田家も混乱しますから、普通に色々と時期を考慮して、とも
考えられるとも思われますしねえ。

533 :
>>527
30年とかが問題ではないよね。
川中島4Rも大変だったし、嫡子義信もいい年齢だしね。
あそこは変わり目だったね。
ちゃんと育っているのに居座ってはいけないね。
変わってれば今川とうまくやっていけたのにね。

毛利の場合は後継者隆元が死んじゃったからね。
嫡孫の輝元にちゃんと継がせなきゃいけないからね。
結果、ちゃんとうまくいったでしょ。

534 :
>>532
そんなに警戒しているなら、
本能寺で明智光秀に簡単に討たれたりしないよね。

535 :
>>533
いやいやいや、信長の場合も、普通に信忠に一部の領土を与えただけで、
実質的な権力は信長が最後まで保有しておりましたし、
毛利も元就が最後まで実質的な権力を保有しておりましたし、という感じですしねえ。
信玄もや義信や勝頼を後継者、あるいはナンバー2として扱っているのですから、
普通に問題はないと思われますしねえ。

しかも、結局、普通に武田家も高家武田家、として残っておりますし、
仁科の系統も、普通に残っている次第でございますしねえ。

536 :
>>532
本能寺は仮宿で、近くには織田側の城々があるわけですしねえ。
信長も、光秀に襲撃されるとは思っていなかったと思われますしねえ。

537 :
ああ、失敬。>>536>>534宛です。失敬。

538 :
>>535
だから〜、今川と同じで高家として残っても徳川のお情けですからね。
高家として残ることが本来の大名の目的ではないでしょ。
ちゃんとある程度の大きさの大名として残らないとね〜。

全く意味ないでしょ!

539 :
>>536
そんな都合のいい警戒なんて、
どう考えたってないでしょ!

540 :
>>539
いやいやいや、貴方自身が
>>525において
>今川、小田原北条、織田とかは、お情けで高家とか少しばかりの石高を与えてもらっただけで余り意味ないよね。
>武田は滅んでしまって全く意味がなくなってしまったね。
と書いておられますから、
普通に武田家も高家などで残ったのですから、少なくとも織田とか今川とか北条とかとは同列という事になるわけですよねえ。

541 :
>>539
いやいやいや、あるでしょうに。
信長も、光秀に襲撃されるとは思っていなかったと思われますしねえ。

542 :
そもそも、信長が光秀に襲撃されると思っていたならば、
とっくに粛清してそうに思われますしね。

543 :
>>540
確かに書きましたよ、意味がないとね。
今川、小田原北条、織田、武田が同列と言われてもねえ、う〜ん、全部合わせても物凄くちっぽけですけどね。
戦国時代が終わってみれば、4家のどれもかもがどうでも良い存在になったわけですが、敢えて言うならば織田は自力で小さく残った大名なのでこの中でなら、はるかに織田がマシでしょうね。

織田と武田だけを比較すれば、勢いがあった時も戦国が終わった時も、何れにしても織田が優っているでしょうね。

それが結果!

544 :
>>541>>542
あのね、そもそも信長が信忠を警戒なんてあるわけないでしょ。
当然のことながら明智のことも警戒してませんよ。
本能寺の織田信長は周りに全くと言っていい程、無警戒ですよ。

常識事ですね。

545 :
いきなり軍勢が現れて寝込みを襲われたら、一番近くにいる将を疑うだろうな

546 :
>>545
そりゃそうだ

547 :
>>535
普通に問題あり。
実質的な権力は別に信玄が握り続けてもいい。
だが、家督だけは形だけでも譲っておくべきだった。だから信玄が死んだら徳川の攻撃に受け身になるだけで対処が後手になるし、翌年までまともな外征ができなかったんだよ。

548 :
>>528
バカかこいつ。
自分を殺そうとする奴を、自分以上の兵力与えて近くに置くとか自殺行為だろ。
そもそも三河物語だけでソースが怪しい。

549 :
>>524
三河物語のソースだろそれ。
そもそも仲が悪いなら、武田征伐終了後に「天下を譲る」なんて言うか? 親子一緒に京都に宿舎をとるか? 家督をそのままにしとくか?

550 :
>>543
今川は当主だった氏真が豊臣、徳川の世まで生き残ってたから世渡りに関しては評価してもいいかも
織田は三男とはいえ当主後継人だった信雄が家を残した立派だよ
北条は家康が関東支配のためだけに擁立したただのおかざり、武田も一緒

551 :
>>550
NHKのヒストリアか知恵泉だかで、今川氏真の子孫が幕府の若年寄になったとあったね。
お情けでも、お飾りでも由緒ある家名を残したのは立派。
名門好きの家康は武田の名跡は残そうとしたけど、肝心の五男・武田信吉が早死で武田家断絶。

552 :
そういえば信長五男の勝長も、甲府人質時代は武田信房だったか。
五男繋がりで思い出した。

553 :
>>523
上杉に対する不信感を醸成とか、小説や大河ドラマの見過ぎだろお前。そもそも越後から小田原へ使者が来るだけで何日かかると思ってるんだ? たった3日で不信感醸成とかわろた。

三増峠、あれ武田の勝利と言えるのか? 武田はあれで譜代家老の浅利信種を失ってる。被害は北条が高くても貴重な人材失ってるぶん、痛み分けだろうな。

まああの遠征で北条は駿河に駐留させていた軍を相模に戻したから無駄とは言わんが、どうも小田原へ行ってまで得た物の釣り合いが合わない気がするわ。

554 :
生き延びたと言えば信虎も追放後は平穏な余生を送ったんだよな
信玄が果たせなかった上洛もしたし将軍義輝や本願寺なんかと交流してた
信玄の死後には勝頼と面会して、最終的には信濃で天寿を全うしてる

戦に明け暮れた病死した信玄とどっちが幸せだったんだろうね

555 :
>>554
信虎が仮にあと5年も生きていて、家督に復帰できたらどうなったろうな。70代で伊賀、近江でゲリラ戦してたし、追放前までは結構な戦歴の持ち主だし。

556 :
器は武田信玄より親の信虎の方が上だと思うよ。

クーデターて奴はどの時代もどの出来事もそうだけど、ほぼ100%外出したときに起こる。
気をつけないといけないね。

武田信虎の生涯は、ほんの少しだけジョン万次郎だね。

557 :
当時で80歳越えるまで生きていたからあと五年は酷では
同世代だと太原雪斎、北条玄庵、毛利元就など、信玄の死後まで生きてただけでもすごい

558 :
>>557
玄庵はこの後15年生きてるな。

559 :
あのシジイは初代早雲の子供にして北条滅亡直前まで生きてた戦国時代の生き字引みたいな存在だからね…

560 :
>>556
そもそも信虎が信玄を廃嫡して、信繁を後継にしようとしたこと。あれ悪いことかな? 信繁もかなりの人物だし、信繁が当主になったほうが武田はよかったんじゃないかな?

信繁なら信玄みたいな同盟破棄とかしそうにないし。息子はあれだから信繁以降は真っ暗だけど。

561 :
一般的に有力大名とか、大大名とか、全国制覇とか、優勝候補とか言われている全ての大名が、
西暦1571〜1578年の僅か7年の間に病没だったね。
1571年、毛利元就・北条氏康、病没。
1573年、武田(晴信)信玄、病没。
1578年、上杉(輝虎)謙信、病没。
残った織田信長は強運があったにもかかわらず、1582年に本能寺で爆死。
こうやってみてみると、
1571〜1582年の11年間で全ての人物が消えたね。
川中島の戦いと同じ11年間だね。

後世は残された2軍達の世の中になってしまいましたね。

562 :
>>560
長男の資質がどうあれ家督相続で序列を守らないのは家が乱れる
応仁の乱もそこからきてるのだし良くないことだと思うよ
当の晴信が後年に同じことをしているのが何とも言えない

563 :
【医学詐欺3連発!】インフルエンザ予防接種・アマルガム虫歯治療・マンモグラフィー乳癌検診
https://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1512734200/l50

564 :
信玄に、西上作戦の総大将を勝頼に任せるぐらいの度量があれば、
病気も悪化せず、もう少し違う結果になったかも?

565 :
>>564
そもそも、長患いしてる身なんだから、万一に備えて勝頼を総大将にできる体制を築いておくべきなのが普通だよね。急病ならともかく。

566 :
>>556
器がでかい奴は留守中に部下に自分が組織した直属兵団に裏切られたりはせんだろ

567 :
だから陣代説がビンゴだったんだろ
信濃育ちが武田屋形を名乗るのにみんな反対したと
なんせ甲斐連中ほとんどみんな自称甲斐源氏なんだもん
みんな世が世ならと思ってる面倒くさい奴らばっか
筆頭梅雪斎次席小典厩
みんなここは死に場所じゃないと決めてトンズラこいてみっともなく死んでったwww

568 :
>>567
その穴山自身が、普通に1582年に出した書状で
「我が国の太守勝頼公、その在位10年」と述べており
普通に当主として認めている、という件もありますしねえ。

569 :
>>553
いやいやいや、貴方こそ、普通に信玄の小田原までの遠征が、
小田原に到達するまでの間にまでも、普通に北条側から謙信への救援要請とかが行っておりまして
謙信がそれに結局応えずに、北条が不信感を醸成している事が伺われるわけですしねえ。

いやいやいや、北条側の軍記ですら、普通に北条の敗北として認められておりますし、
そもそもの問題として、北条側は古河公方の重臣で
北条氏康や北条一門と親しげに交流を行って折衝を行っていた豊前山城とかが死亡したりしておりますしねえ。
北条家から、豊前山城の奥さんに対してお悔やみの書状とかが
普通に出されたりしておりますしねえ。

普通に、武田としては、それに加えて、反北条同盟を結んだ関東諸侯への宣伝行為にもなりましたし、
戦略的に十分に引き合うものだったように思われますかねえ。

570 :
>>556
普通に、妙法寺記とかにも、信虎が追放された時に甲斐の人々が大喜びした事や、
信虎の政権運営の要である奉行衆が、信虎の粛清活動によって、
他国へ脱出してしまった事が記されたりしているわけでございますしねえ。

571 :
>>547
いやいやいや、普通に信玄時代から、勝頼は後継者であり、
ナンバー2として、連盟書状とかを出したりしているわけですしねえ。
>>548 >>549
実際に志賀陣の記述とかも、義景の書状やら、信長自身の書状などからして、
信長公記よりも三河物語の方が事実に近い事を書いている、というのが明らかなように思われますしねえ。

572 :
>>543
織田もそもそも、嫡流は絶えているわけでございますし、
分家である信雄も2回も改易されている状態ですのに、
自力で残った、と言われましてもねえ、と思うのですが、如何なものでございましょうかねえ。
>>544
で、襲撃された時に叫んだ言葉が
「信忠が俺を殺しに来たのか!」だった、という事なのでしょうかねえ。

573 :
>>572
だから〜、今川も、小田原北条も、織田も、どうでも良い存在になったと言ってるでしょうがっ!
武田は論外っ!
その中で織田が一番マシっ!
復活枠で残ったわけではないから。

それから、本能寺のこれこれっ、
「信忠が俺を殺しに来たのか!」

ねえ君、ホントこれ好きだね、常識的にみて有り得ない。
信長も織田の重臣連中も徳川も皆、信忠を後継者だと認めてる。
父親殺害のメリットが信忠に全くない。
信長が爆死する前に言ったとしたら、
「オレは神にはなれなかったようだ、ただの第六天魔王だった」
こんな感じかな。

親子の確執は寧ろ信玄っ!
信虎と義信、追放と粛清っ!

信玄最低っ!
言っておくけど信長キライだから。

574 :
>>573
本能寺での信忠謀反発言だが、単純に本能寺近くに居る軍勢は(信長の認識では)信忠手勢だけだからではないか?

575 :
議論の本筋から外れるが
江戸時代の農民は米が食えない云々は米が貨幣だった時代だから起こった現象で
中世の銭が基本貨幣だった時代、農民は米を栽培してたらそれなりに米を食べてた説があるね

576 :
>>570
信虎に関しては駿河でも京都でも要人として扱われていたし、信玄以外の兄弟とは良好な関係だった

晴信を廃嫡して信繁に家督を継がせようとしていたことで御家騒動になることを懸念した重臣連中が晴信への家督相続に賛成しただけ

577 :
信玄がもうちょっと自分の死後のことも考えて
きちんとやってないから、勝頼がさらし首にされてしまった。
信玄はさらし首にならなくて良かったよな。
死に時が絶妙の時期だったからな。

しかし勝頼は何故サッサと切腹して自分の首を隠したりしなかった
んだろう。信長や大谷吉継などもサッサと切腹したから
自分の首を敵に渡さずに恥をかかなくて済んだのに。

名門の源氏の御曹司だけにさらし首はきついよな。
哀れな勝頼様。

578 :
>>570
妙法寺記か勝山記か甲陽軍鑑か、どれか忘れたけど、確か武田信玄の時代から何年かして、「結局、負担は信虎の時代どれか変わらない。むしろ酷くなった」という記録なかったかな?

579 :
>>575
米は糧秣として使い勝手がいいから軍用が優先したんじゃない?
従軍すれば食わしてもらえるろうから口にしたこと無い者は割合少なそうだが

ところで江戸期米作の余剰生産は国内消費に廻るしかないから結局古米になる頃には下々まで食ってたという見方もあるが
後期になると多くの地域で商品作物に切り替えてしまって足らんかったということはないのかしら?
だから一部の地方の飢饉が全国に波及してしまって比較的稼げてない地域から順番に餓える、とか

580 :
江戸時代前の農村は米が唯一の商品作物だし
それを平時から食ってたのはあり得ないかと

581 :
とりあえず、今朝は忙しいので、返レスの方は夜にさせていだきますかねえ。
よろしくお願いいたしますかねえ。

582 :
武田が滅亡したきっかけは信玄、勝頼の外交方針が原因だったと思うが、
ねぇ君が書状書状で暴れると武田ってこんな妄想思想で潰れたのがって気がしてくるな

国力は織田に匹敵する
美濃は時勢に乗れば攻略できた
同盟さえ締結すれば過去の遺恨は水に流される

583 :
10年の間に織田徳川との関係を全力で修正できればワンチャンあった可能性もあるが、それができなかったからこそ武田の滅亡は必然だったと言える

584 :
戦国イチの死に逃げ大名

585 :
>>582
信長の遺恨は根深いからな。特に武田には。
だから江甲和与は信長に受け入れられなかったし。

586 :
誰だったかな?浅間山噴火に便乗して織田が甲斐侵攻して武田滅亡だから
武田が強かった説熱唱していた人

587 :
>>582
実際問題として、過去の遺恨とか、戦国大名で言えた義理のある大名が
どれほどいるのかと思われますしねえ。
和睦詐欺を度々行っている織田には、少なくとも、その資格はないように思われますしねえ。
信長は同時代から普通に「信を守らぬ男」とか
「信長が和睦を異変したけれど、案の定だった。」とか、
普通に言われてますし、和睦詐欺とか、蒸し返し粛清とかを多数行っていて、
同時代からも後の時代からも、普通に悪評が多いように思われますしねえ。

それから、美濃は普通に信玄の寿命があと10年もあるのであれば、
普通に攻略できたように思われる次第なのでございますしねえ。

588 :
>>576
それ、妙法寺記にある!と喚かれておられる人とかに
何年の記述ですか、確認してみたいのですが、とお尋ね申しあげますと、
大抵の場合、お答えになられずに発狂逃亡をなさられてしまうので、
こちらとしても、非常に困惑してしまう次第でございまして。
何年の記述であるか、をお示しいただければ、
こちらも探せるのですけれどねえ。
今のところ、調べてみましても、そのような記述が書かれてないように思われますしねえ。

589 :
ああ、失敬。>>588>>578宛です。失礼いたしましたかねえ。

590 :
>>573
相変わらず必死に都合悪いところをスルーされておられるご様子の様に
思われますが、
>その中で織田が一番マシっ!
>復活枠で残ったわけではないから。
何度も申し上げますが、織田もそもそも、嫡流は絶えているわけでございますし、
分家である信雄も2回も改易されている状態ですのに、
自力で残った、と言われましてもねえ、と思うのですが、如何なものでございましょうかねえ。
普通に信雄が2回も改易されて、そこから復活して小大名として領土を与えられ、
それが続いた、というのは、普通に復活枠のように思われるのですが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

>父親殺害のメリットが信忠に全くない。
信忠は一部の領土だけを許されている状況ですからねえ。
親子で争う、というのも戦国時代ではよくあった戦いですので、
信忠が自身による織田家の全ての権限の奪取を目標として、
信長を襲撃する事にした、と信長が考慮しても
それ程不可思議な話ではないように思われますしねえ。

>「オレは神にはなれなかったようだ、ただの第六天魔王だった」
いやいやいや、史実の信長がこのように述べるとは考慮しにくいと思う次第なので
ございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

で、貴方的な言い方で言うのでしたら、
信玄も重臣達も普通に義信を後継者だと認めていたわけで、
義信に謀反するメリットがない!とかいう話になるわけなのですし、
実際にはそれでも義信が謀反を起こした事から、信玄は義信を捕虜にはしたものの、
殺しはせずに幽閉にするにとどめ、「義信は悪くない。悪いのは義信の家臣だ!」
という事にしようと躍起になっており、それから2年近くも義信は生き続けており、
その死亡も病死とも自殺ともいわれているわけでして、
そうシンプルに義信が信玄に粛清された、という感じではないように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

その割には、必死になって織田を持ち上げようと躍起になっておられるように思われますけれどねえ。
とりあえず、聞かれている事にはおはやめにご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

591 :
この「ねえ」が言ってるのを聞いてると、武田信玄が長生きしていたら天下を取れた、全く非の打ち所がない完璧超人に聞こえるよ。

こいつの言うことの前には、山道も輸送も敵の兵力も味方のだらしなさや限界も全く関係ないんだな。

592 :
>>591
いやいやいや、普通に朝倉義景はこのスレでも普通に書かれてますように
信長を志賀陣で土下座降伏宣言をさせておりますし、
長島も信長を2度も敗北させておりますし、
普通に信玄は当時からも名声の高い名将ですし、
という感じですし、普通に信濃から美濃、あるいは美濃から信濃、は
勝頼も織田もやっている事ですし、普通に信濃から攻め込む分には
既に岩村が確保されている状況でなら十分に前線拠点として活用できると思いますし、そもそも織田も普通に武田攻めの時には岩村口から侵攻しておりますし、
という状況でございますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

593 :
>>584
いやいやいや、信玄の寿命が後10年あったという仮定の話でしたら、
信玄が5月から朝倉・長島と連携しての美濃侵攻を行う予定でございましたから、
そうなりますれば、武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われます次第でございますし、
そうなりますれば、織田がすし詰めにされていく事が、非常に戦略的には可能性が高いように思われます次第なのでございますが、
その件については、如何なものなのでございましょうかねえ。

594 :
もう何言ってもこいつには無駄。
意見言ったら「織田派」とか言ってコピペ繰り返したり発狂しまくるし。

こいつ無視して議論した方がいいかも。

595 :
>>591
誰がどうみても厳しいようなことを書状に書いてあったから!とかで妄信してるから、武田はこんなやつがワラワラいたのかな?そりゃあ現実見えなくて滅亡するのも無理ないなって思えてくる

596 :
>>587
信長は和睦して石山本願寺を撤退した直後に朝倉攻めを再開したり、和睦して退去する長島本願寺の信徒を狙撃して殲滅したことから相手方にそう避難されたんだろう

信玄は目先の戦略いかんで同盟相手をコロコロ変えてる。それは信濃統一までの諏訪や佐久攻めの頃から

信長のやったこと
戦闘中→停戦→停戦破棄

信玄のやったこと
同盟して共闘→一方的な同盟破棄

信長のは敵にまわすと恐ろしいやつだが、信玄のは味方でいる間も信用ならないやつで意味が全然違うんだよね

597 :
そもそもこのおかしいのが言っている5月侵攻とやらは、どの書状で確認できるんだ? 浅井長政、朝倉義景にそんな書状出しているように見えないのだが。

598 :
>>590
こいつ本当にいかれてるな。
信忠に任されたのは一部の領土。
美濃と尾張を任され、武田滅亡後は甲斐に信濃に西上野を支配下にしていて、これで一部だってさ。尾張と美濃に至っては織田の本貫地なのに。

本貫地譲られるという意味がわからないのか? この基地外は?

ところでお前が大好きな武田信玄は、勝頼に諏訪を任せていたのではなく、高遠の支配権しか与えていなかったみたいだが。勝頼も信玄に不満を抱いていたのかねえ。

599 :
5月侵攻とやらを行ったとしても、
防衛側に織田軍主力とやら以外の抵抗を考えず、
無人の野を進軍するみたいな認識が、そもそもおかしい。
こいつの頭悪さに、地獄にいる信玄もさぞ呆れてるだろう。

600 :
>>599
別に無人の野とは言いませんが、
普通に各城は侵攻をうけましたら、織田主力で援軍せざるを得ないでしょうしねえ。
しかし、つまり、その理屈で言いますと、武田・朝倉・長島も更なる兵力の増分を
行う事ができる、という事でよろしいのでしょうかねえ。
この件について、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

601 :
>>594
実際問題として、これだけ史実や資料が提示されておりますのに、
志賀陣などで、信長優位だった事に固執しようとしたり、
包囲網側が信玄西上で優位でありえるのでは、的に資料を提示して説明されましたら
必死になって煽り罵倒に躍起になり、
あるいは他スレでも信長の粛清やら、蒸し返し粛清が他大名よりも非常に多い、
という事を提示されましたら、
なんとかして信長が悪くない事にしようと躍起になられたり、
という感じで、どう考慮しましても、必死な信長ファンの人が
必死になって信長優位、信長は甘い、などの主張を堅持しようとし、
それに対して資料や史実を提示する側に対して、
必死になって煽り罵倒を行われているように思われまして
しょうがないと思うのでございますが、
この件についてはいかがなものでございましょうかねえ。

他所スレとかでも、

織田派の人「信長は大甘だ!」
こちら側「いや、信長は一度許した風にしましても、蒸し返して粛清する、
蒸し返し粛清、を多数行っているようなのですが。」
織田派の人「事例を挙げてみろよ!蒸し返し粛清の事例を!」
こちら側「わかりました!提示させていただきますね!」
織田派の人「やめろおおおおおおお!提示するなあああああ!」

とかいう風な感じで、織田派の人々の理想的な信長像にとって都合の悪い
史実などの提示を必死にやめさせようとしたり、
ビックンビックン反応して、信長が悪くない事にしようと躍起になられたり
煽り罵倒を必死で喚かれたり、という事をなさられておられますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!などと喚かれましても
こちらとしてはいささか以上に困惑せざるを得ない、という状況で
ございます次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

602 :
しかしまあ、必死な織田厨の御方さーん、とかはオープンの方でご自身で
複数端末による複数ID自演や多数派装いの常習犯であらせられます事を、
ご自身でお認めになられておられますのに、必死にそのようなご所業を
おやりになられなくてもよろしいと思う次第なのですが、
その件については、如何なものなのでございましょうかねえ。

603 :
>>595
誰がどうみても、とかおっしゃられますけれど、
そうおっしゃっておられるのは、必死に
織田派の人が、朝倉が越前から美濃を攻められない!というご主張
(実際には宗滴以外の武将でも複数回、
普通に越前から美濃に侵攻しているわけですしねえ。)
の時と同様に、
「それをされると信長がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ!」と
お喚きになられておられるようにしか、思われない次第なのでございますが、
その件については、如何なものなのでございましょうかねえ。
普通に計画通りに美濃に5月侵攻を行い、武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という事を普通に指摘させていただいているだけの話でございますし、どこにスーパーマン的な要素がおありになられると
ご主張なさられるのか、について、おはやめにご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

604 :
宣伝文書そのまま信じるなら義昭はきっと世間では悪御所で碌に参内することもなかったんだろうな

605 :
ねぇ、は攻撃と守備の違い、敵地で戦う有利不利、地形や距離がマジでわからないわけ?

5月侵攻で織田が武田に向かうとか、何で織田がわざわざ100キロも、しかも山の中をわざわざ踏破して東に向かう必要があるわけ? 仮に3方面から来たらまず近い長島からやればいい。

敵地で守備を固めるとか、陣地を構築できる時間があるとかこいつマジでいかれてるよ。

606 :
>>596
いやいやいや、いつも通りに必死になって捏造曲解に狂奔なさられて、
必死になって信長が悪くない事にしようと躍起になっておられる御様子ではありますが、
「信長は信を守らぬ男だから」というのは、信長が朝倉に対して最初に
上洛要請をした時の朝倉家臣の言葉でして、その家臣が
「信長に従って上洛などしたところで、各地の戦いに駆り出され、
疲弊したところを滅亡させられるだけだろう。
それに、信長は信を守らぬ男だから、義景様を呼び出して暗Rるつもりかもしれない。」
と述べたところ、その評議にいた朝倉家臣一同が賛同し、上洛要請に応じない事に決定した、とされておりまして、
当時の信長の信用性というものが、どのようなものであったか、が非常にわかりやすいと思われる次第なのでございますけれどねえ。

607 :
>>605
いやいやいや、敵地で陣地を構築する時間は普通にあるでしょ。
川中島とかも、普通にその要領で対峙戦になっているわけですし、
志賀陣とかももろにその要領で対峙戦になっているわけですしねえ。
まず長島からやればいい、と喚いておられるご様子ではありますが、
それで、長島勢数万が守りを固めて織田勢主力を拘束し、
その間に武田・朝倉がそれぞれの方向から侵攻を進めていけばいいだけの話になると
思われるだけのように思われますしねえ。

608 :
>>607
川中島における甲斐、越後からの距離を、岐阜、長島の距離と一緒にするとか、奥信濃にはまだ上杉に味方する在地勢力がいるし、北信濃の村上、島津、高梨と元在地勢力の味方もいて、とても長島から岐阜に攻め入るのとは比較にならない。

あっちができるからこっちもできるとか、こいつマジでいかれてるよ。

609 :
>>604
宣伝文書ではなくて、普通に信玄と朝倉や浅井、本願寺、将軍家、その他との
打ち合わせ書状とか、信長が武田西上軍の動きを警戒しまくっていて、
謙信を当て馬にして、その間に上洛して存分にしたい、とか述べている事などを
普通にそのまんま指摘しているだけなのでございますが、
その件については如何なものなのでございましょうかねえ。

610 :
>>606
信玄の悪評に対する反論はー?
同盟破棄をした数では戦国no1の呼び声高いよ

611 :
>>596宛続き
で、「信長が和睦を異変してきたけれど、案の定だった。」的な文言は
信長が美濃を攻略しようとしていた時代に、
信長が「義昭様を救援する為に上洛したいから、俺と和睦して美濃を通過させて。」
と斉藤龍興に申し入れ、斉藤側がそれを了承したものの、
信長は急に異変して、美濃で居座り始めたそうで、
斉藤側はこれについて「案の定だった。」と述べているわけで、
当時の信長の信用性、というのがどのようなものであったか、というのが
これまた明確にわかりやすいように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

まあ、その後で本願寺と和睦した時にも、本願寺側から
「信長と和睦をしたけれど、和睦が破られるのは時間の問題だろうなー。」
的に言われたりしている次第なのではございますけれどねえ。

それから、信玄についてでございますけれど、
諏訪の時は諏訪の盟約違反からの敵対、
今川との時は、義信事件の後も今川との同盟継続を求めて交渉を行い、
それでも今川が上杉と組んで武田を包囲しようとした事から、
敵対に及んだだけの話でございますけれど、この件については如何なものなのでございましょうかねえ。

612 :
>>608
まるで、織田の時だけ瞬間移動ができるかのように言われているように、
こちらには思われてしょうがないわけでございますが、
普通に志賀陣の時とかも朝倉浅井は敵地で守りを固めて対峙戦闘になっているわけですしねえ。
長篠の時も、普通に後から到着した織田徳川勢が陣地を構築しておりますし、
そもそも信長公記にも、「武田側が、勝頼が鳶ヶ巣に留まり、川を盾にして
織田徳川勢を防ごうとしたら、こちらとしてはどうしようもなかった。」
的に普通に述べたりしていますしねえ。
川中島の時も、普通に謙信が後に到着した時も、先に到着した時もありますが、
普通に大抵は対峙戦闘になっておりますしねえ。
毎度毎度のことではありますが、貴方が論証とかをされてもおられない事が
いきなり前提となさられようとなさられるのではなく、
まず、貴方がおっしゃられるような事を史実やら資料やらを用いて
論証される事からおはじめになられていただきたいと思いますので、
その件について、ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

613 :
>>610
>同盟破棄をした数では戦国no1の呼び声高いよ
はて、誰がそのような事をおっしゃっておられるのか、について
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
「貴方」がそのように喚かれておられる、のでは
論拠となり得ないように思われる次第でございますので、研究者さんの論説などで、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

614 :
>>597
いやいやいや、普通に信玄が1572年11月に、義景に対して
信長への侵攻計画を書状で伝えているのですけれど、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。

615 :
>>611
斎藤の旧臣の多くが、それにしては信長に降っているし、約束を破られて斎藤側がそれを喧伝してない理由はなんだ?

諏訪氏の時は盟約違反と言ってるが、それにしては軍鑑でありもしない瀬沢の戦いをでっち上げて信玄正当化に狂奔している。

盟約違反というが、諏訪は独力で上杉憲政と戦い、和睦しただけ。これが何の盟約違反なんだ? 諏訪は武田の親戚、盟友であっても部下ではないだろ。要は武田が美味しいところを諏訪に先取りされたから、あれは自分らもと諏訪に攻め込んだんだろ。

だいたい諏訪に攻め込む方法が卑怯すぎる。佐久に攻め込むと見せかけて諏訪領を通ってたら、いきなりその軍を諏訪攻撃に向けたから、諏訪はまともな対処すらできなかったし。

今川の件は遠州錯乱で既に遠州国衆を裏で操ったりして武田信玄から先に手を出してるのは明白。今川に同盟継続を求めた、というが、あれは義信に嫁いでいた嫁さん、つまり氏真の妹を取り返す代償として交わしたものであるに過ぎない。

それ言うなら、武田信玄は1565年冬には武田勝頼と織田信長養女の縁談をやっている。義信事件の前後のことで、これで既に今川、武田同盟はもう有名無実と化している。

616 :
>>613
北条、上杉、織田、徳川は当主みずから信玄は信用ならないと言ってますよね?
今川旧臣からの罵詈雑言は当たり前ですが多数ありますよ
甲斐、信濃でも諏訪、村上、小笠原などに言われてますよ?

617 :
>>598
支配下、というか直接の支配地は普通に尾張と美濃ですしねえ。
しかも、それでも「家督を継承された時」の話ですしねえ。
家督を継承されていますのに、大部分の領土が信忠のものではなかった、
という状況なわけでございますしねえ。

いつも通りに必死になってレッテル貼に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
貴方に聞かれている事柄について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

高遠諏訪氏としての勝頼の領域は中々に広く、武田家中における軍役数でも、
穴山・小山田、といった大領主達と並ぶ200騎、とされておりますね。
で、対して義信の軍役数は80騎、とされておりまして、
家督を継承していない嫡男としては、このくらい、という感じになるかと思われますしねえ。

これらについて、何をどう勝頼が不満を持つのか、についてご説明の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

618 :
>>612
長島と岐阜の距離を考えろ。
越後春日山と川中島の距離。甲府と川中島の距離を考えてみろ。

東美濃でも距離感ない発言しているが、お前の距離感はどうなってるの?

619 :
>>617
勝頼は信玄の息子の中で唯一、通字の「信」を許されてない。諏訪の跡継ぎだから、とも言えるが、それならなぜ義信死後や後継確定時期で通字を許さなかったのか理解に苦しむ。

家督を継承した時に大部分が信忠のものではない。それは氏政にしろ、隆元にしろ、輝元にしろ一緒だろ。先代が生きていて名目的な立場にこいつらも変わりない。全権なんか握れてない。

620 :
>>615
ですからあ、貴方が勝手に「前提」を論証もせずに作ろうとするのではなく、
貴方の言っておられるような事が、史実的にありうるのか、について
書状やら資料やらで論証を行われる事からお始めになられていただきたいと思いますので、
論証の方をおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。

いやいやいや、山之内上杉と諏訪が領土分割協定を行った事、が原因とされておりますしねえ。

ですからあ、領土分割協定を結ぶなら、武田とかにも一報を入れるべきだったとされているわけですしねえ。

盟約違反の相手を攻めるのに、策略を使ってはいけないとか、ないと思うのですけれどねえ。
それを言いましたら、信長も朝倉攻めの時には若狭を攻める風を装いながら、
越前攻め込んだりしていますしねえ。

>今川の件は遠州錯乱で既に遠州国衆を裏で操ったりして武田信玄から先に手を出してるのは明白。
資料提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
実際には書状で信玄は今川が敗北して駿河が危うくなったのなら、関東遠征から戻って駿河に出陣する、的に述べたりしておりますしねえ。

>つまり氏真の妹を取り返す代償として交わしたものであるに過ぎない。
ですから、氏真の妹さんは返しますけれど、これからも武田と今川は同盟継続です、という
誓約書を書いて欲しい、と武田が要望して書いてもらっているのですから、
普通に武田の方が求めている事になりますよねえ?

何度もいいますけれど、その後で普通に上記の様に同盟継続を求めているわけですしねえ。
そもそも、今川が強勢でしたら、織田と同盟を結ぶ必要がなく、
今川が苦しい状況だからこそ、上杉と戦っている時に織田まで敵に回すのが苦しそうだからこそ、
武田は織田の申し入れを受け入れてるわけですねえ。

しかし、貴方は本当に平日も土日も日中にも夜にも
必死に貼りついておられるご様子ではありますが、
いろいろと生活について、こちらとして類推をせざるを得ないように思われるのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。

621 :
>>618
必死に都合悪い事柄をスルーしようと躍起になられておられるご様子ではございますが、
まるで、織田の時だけ瞬間移動ができるかのように言われているように、
こちらには思われてしょうがないわけでございますが、
普通に志賀陣の時とかも朝倉浅井は敵地で守りを固めて対峙戦闘になっているわけですしねえ。
長篠の時も、普通に後から到着した織田徳川勢が陣地を構築しておりますし、
そもそも信長公記にも、「武田側が、勝頼が鳶ヶ巣に留まり、川を盾にして
織田徳川勢を防ごうとしたら、こちらとしてはどうしようもなかった。」
的に普通に述べたりしていますしねえ。
川中島の時も、普通に謙信が後に到着した時も、先に到着した時もありますが、
普通に大抵は対峙戦闘になっておりますしねえ。
毎度毎度のことではありますが、貴方が論証とかをされてもおられない事が
いきなり前提となさられようとなさられるのではなく、
まず、貴方がおっしゃられるような事を史実やら資料やらを用いて
論証される事からおはじめになられていただきたいと思いますので、
その件について、ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

しかし、貴方は本当に平日も土日も日中にも夜にも
必死に貼りついておられるご様子ではありますが、
いろいろと生活について、こちらとして類推をせざるを得ないように思われるのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。

622 :
>>616
全部について、資料提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方が、「そう思う」だけで述べておられるようにしか、
こちらには思われない次第でございますしねえ。
>>619
信玄は将軍義昭から一字拝領と官位叙任を勝頼に対して進めておりまして、
それが信長と義昭との争いでお流れになってしまったことも、
信玄の織田への敵対の一要因とされておりますかねえ。

しかし、貴方は本当に平日も土日も日中にも夜にも
必死に貼りついておられるご様子ではありますが、
いろいろと生活について、こちらとして類推をせざるを得ないように思われるのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。

623 :
>>619宛続き
結局、一部だけの名目的な立場に過ぎなかった、という事を
貴方ご自身がお認めになられているわけでございます次第なのでございますよねえ。

624 :
>>622
資料の掲示が必要というなら出せるけど根本的に勘違いしてるよね
ここは書状研究の成果を出し合う場所ではないし、みんなでわいわい信玄あと10年生きてたらどこまでやれたかなーと雑談するところだろ?

おはやめにご回答お願いしますとかレスくれくれしてるけど誰にも相手されていないのは君の人間性に問題があるんだよ

同じ内容を繰り返し書かない
信長派とか信玄派とか元々いないから言及しない
人の話をちゃんと聞いてそれにたいしてレスをする

これらがちゃんとできるようになったら話し相手として認めてあげるから、とりあえず3日ほど書き込むのやめて自分がやってることを反省しような

625 :
>>624
いやいやいや、それで元々資料とか書状とかを基にして語って、
「包囲網側は絶対に信長に勝てない!信長さま完全勝利!」と
織田派の人が勝鬨をあげる、というのが繰り返され、
こちらが資料とか書状とかを提示して、包囲網側が優位になりうるのでは、
と説明しましたら
「そういうスレじゃねええええってんだろうがああああああ!
資料提示とか史実提示とかするんじゃねえええええええ!」と
必死になって貴方などが喚かれておられる、というだけのように思われますしねえ。

いやいやいや、実際にはただ都合悪い事柄を必死にスルーしようとしてるだけのようにしか
思われないですしねえ。現に、必死になってこちらに対して煽り罵倒とか、
論戦とかを必死に仕掛けてこようとする人とかは、何度もこちら側が論旨的矛盾を指摘して、
それについてのご回答を求めましても、「その事柄には答えないで」
「答えられそうなところにだけレスするか、あるいは捏造曲解を行うか、
あるいは他の論旨に無理やり話を移行させようとするか、」を繰り返して
必死になってこちら側に対して、レスを重ねておられるご様子なのですから、
普通に答えるのが厳しそうな事柄には、必死でスルーをしながら、
なんとかして答えられそうなところにだけレスしたり、
違う論旨で挑んだりして、こちら側をなんとかして論破したいと思っているようにしか
思われない次第なのでございますが、それ以外にご説明の仕様がありますのか、と
思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

いやいやいや、他所スレとかでも、

織田派の人「信長は大甘だ!」
こちら側「いや、信長は一度許した風にしましても、蒸し返して粛清する、
蒸し返し粛清、を多数行っているようなのですが。」
織田派の人「事例を挙げてみろよ!蒸し返し粛清の事例を!」
こちら側「わかりました!提示させていただきますね!」
織田派の人「やめろおおおおおおお!提示するなあああああ!」

とかいう風な感じで、織田派の人々の理想的な信長像にとって都合の悪い
史実などの提示を必死にやめさせようとしたり、
ビックンビックン反応して、信長が悪くない事にしようと躍起になられたり
煽り罵倒を必死で喚かれたり、という事をなさられておられますのに、
今更、織田派じゃない!織田派など存在しない!などと喚かれましても
こちらとしてはいささか以上に困惑せざるを得ない、という状況で
ございます次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

>人の話をちゃんと聞いてそれにたいしてレスをする
こちらは十分すぎる程にそれらにレスをしておりまして、
単に貴方などが、都合の悪い事柄などについて、必死に答えないで
捏造曲解などに狂奔され、それでもこちら側に答えられると、
なんとかしてご自身が議論的に優位だという事にしたくて、
必死にそう喚かれておられるようにしか思われない次第なのですが、
如何なものなのでございましょうかねえ。
ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

626 :
>>625
必死に喚いているのはお前じゃね?

627 :
> 同じ内容を繰り返し書かない
Can you read japanese?
Do not entry duplicate contents.

628 :
>>626
いやいやいや、必死になってこちらに対して煽り罵倒とか、
論戦とかを必死に仕掛けてこようとする人とかは、
何度もこちら側が論旨的矛盾を指摘して、
それについてのご回答を求めましても、「その事柄には答えないで」
「答えられそうなところにだけレスするか、あるいは捏造曲解を行うか、
あるいは他の論旨に無理やり話を移行させようとするか、」を繰り返して
必死になってこちら側に対して、レスを重ねておられるご様子なのですから、
そのようなご様子を、必死になってお喚きになられている、と表現するのが
妥当なように思われますが、如何なものでございましょうかねえ。

>>627
そのような事を申されましても、貴方とかが、普通に同じような菅沼なんたら認定だの、
都合の悪い事柄を必死にスルーなさられての、必死な同じような事の蒸し返し、
などを行われておられますので、こちらとしても同じような返しで
普通に会話が成立してしまう、というだけの
話でございますしねえ。

629 :
お前は俺たちと話が通じないと思ってる
俺たちもお前と話が通じないと思ってる
ってことは会話が成立しないよね
誰とも会話ができないなら出ていってもらえますか?

630 :
>>629
いやいやいや、単に貴方とかが、都合悪い事柄などについて、
必死にスルーなさられようとしたり、捏造曲解を行うか、
あるいは他の論旨に無理やり話を移行させようとするか、などをなさられたりして、
それでも議論的に優位に立たれる事が難しいと思われましたら、
必死にレッテル貼りやら、煽り罵倒やら、に狂奔なさられたりなさられなければ、
普通に、普通の話あいが成立すると思われる次第なのでございまして、
こちらとしましては、そのような方々に史実を根気強く提示させていただきたいと
思っている次第でなのでございますかねえ。

631 :
通じないとか言ってるやつは通じないなら最初から相手しなきゃいいのに

632 :
レッテル、罵倒、煽りとか、ねぇは何言ってるんだ? 全部自分が他者に対してやってることだろ。

ねぇは頭大丈夫か?

633 :
>>632
いやいやいや、このスレだけでも、朝から多数のレスによって、
レッテル、罵倒、煽りが残っているわけなのでございますが、
この件について、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まあ、いつも通りに都合悪い事柄からは、発狂逃亡をなさられるようにも
思われますが、おはやめにご説明の方をお願いしたい次第でございますかねえ。

634 :
>>633
自分の味方がいないからって、こいつ反対意見をレッテル、煽り、罵倒ととらえてるのか? 哀れだなあ。

635 :
>>631
主張が偏ってたから客観的に論じられるようになるかなと思ったんだ
まさか全然話が通じないとは思わなかった

636 :
>>634
いやいやいや、単に貴方とかが、都合悪い事柄などについて、
必死にスルーなさられようとしたり、捏造曲解を行うか、
あるいは他の論旨に無理やり話を移行させようとするか、などをなさられたりして、
それでも議論的に優位に立たれる事が難しいと思われましたら、
必死にレッテル貼りやら、煽り罵倒やら、に狂奔なさられたりしているレスが、
しっかりと膨大にこのスレにも残っているわけなのでございますが、
この件についてご説明の方をお願いしたいと思いますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

さらに言いますと、いつも通りに議論的に苦しくなってきますと、
文体もいつも通りに現れてきていますし、
相手を疲れさせたいとでも思っていらっしゃるのか、
二つのレスに必死に交互にレスをして、必死に喚かれる、といういつも通りの行動パターンもとっておられますし、いい加減IDを変えたからといって
他人になれていると思われるのは、如何なものかと思う次第なのでございますけれどねえ。
オープンの方で、複数端末による複数ID自演やら多数派装いの常習犯であらせられることを、ご自身でお認めになられております、必死な織田厨さーん。

637 :
>>635
いやいやいや、いつも通りに必死になって捏造曲解などに狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
単に貴方とかが、都合悪い事柄などについて、
必死にスルーなさられようとしたり、捏造曲解を行うか、
あるいは他の論旨に無理やり話を移行させようとするか、などをなさられたりして、
それでも議論的に優位に立たれる事が難しいと思われましたら、
必死にレッテル貼りやら、煽り罵倒やら、に狂奔なさられたりなさられなければ、
普通に、普通の話あいが成立すると思われる次第なのでございまして、
こちらとしましては、そのような方々に史実を根気強く提示させていただきたいと
思っている次第でなのでございますかねえ。

638 :
まぁ話が通じないからというよりは、同じことしか書かないからつまんなくなったのであぼーんにしたんだけどね

639 :
>>636を一部訂正しておきますかねえ。
×二つのレスに必死に交互にレスをして
〇二つのスレに必死に交互にレスをして
です。
失礼いたしましたかねえ。

640 :
織田の庇護があったとはいえ徳川家康の強さはすげーな

三河から遠江に侵攻
かの武田信玄から東海道の拠点を防衛しきった(押されてはいたけど)
武田の重臣に翻意させ勝頼を打倒する
本能寺以後は後北条に完勝して信濃、甲斐、駿河を併合する

後半戦は武田旧臣の貢献もあったから納得だけど前半の武田とガチでやりあってるのが凄い

信玄の天下統一の最大の障害は信長よりもコイツがキーパーソンだったのかも?という気さえしてくる

641 :
>>640
>前半の武田とガチでやりあって
信玄時代
北遠江・東遠江・北三河、などの諸城を次々に攻略され、野戦でも三方ヶ原で大敗し
7か月後以後も三千余りの兵しか動かせない状態にされる。
勝頼時代
高天神を再奪取され、他の諸城も攻略され、主城である浜松近辺まで蹂躙され
長篠前には、「今度ダメだったら織田やめて武田に寝返ろう!」と言い出すくらいに
追い詰められたりする。

まあ、国力などを考慮しますれば、必死で家康は善戦しようとはしているように思われますが、やはり長篠まではかなり家康的にもくるしかったように思われますかねえ。

642 :
でも、確かに家康は武田との戦いで押され、苦しい状況にされながらも、
なんとかして兵力を集めて、少数の兵力でもなんとか戦おうとしたりしており、
そこらへんはやはり、後の天下人、と思わせられたりする所もございますかねえ。

643 :
まあ、家康としてみましたら、相手が信玄・勝頼、という名将・猛将で
その率いる軍勢も精鋭がそろっている、という状況では
長篠までは色々と苦しい状況になるのも自然な話かとは思われますしねえ。

644 :
そう家康は戦には強いんだよ
戦略は関が原を見てもダメダメだけどな

645 :
こないだの総選挙、小池百合子には期待したけど全くダメだったね。
全然勝負師じゃなかったね。
国政にうって出ず、都知事にとどまるとはね。
前原誠司もガックシだね。
とんだ貧乏くじだったね。

なんか似てるよね。
安倍総理と前原誠司の関係を除けば、姉川の戦いに。
来ないもん、小池百合子(朝倉義景)、姉川に。
信じた前原誠司(浅井長政)が一世一代の大勝負に出たのに、百合子(義景)がアレではね。
まさか百合子(義景)と誠司(長政)で志賀の陣とかないよね。
ハハッ、あっても最終的に焼き討ちで終了かな。
今の時代の朝倉や浅井もダメダメだから、結局のところ、安倍晋三(織田信長)に落ち着くね。
小沢一郎(武田信玄)の出る幕もなかったね。
一郎(信玄)はカスみたいな存在だったね。
ホント、歴史は繰り返すね。

646 :
>>645
いやいやいや、ずいぶん前の小泉内閣の時とかも
やたらと必死に織田と包囲網側の関係を
現代政治に投影したがる火とかいましたけれど、
いい加減、現代政治と戦国時代の政治を無理やり
同じに投影しようとするのは無理がありすぎる、
というのはご理解なさられた方が
よろしいと思うのですけれどねえ。

647 :
しかしまあ、小泉内閣の時は小泉総理に比せられたり、
今度は安倍総理に比せられたり、信長も比せられる対象が
ずいぶんと毎度毎度異なるのですねえ、としか申し上げられません、といいますかねえ。
まあ、>>645のような人は、無理やりにその時代その時代の優勢な人とかを
無理やりに信長に投影していらっしゃるだけですから、誰でもよろしいのではないかもしれないのですけれどねえ。

648 :
この、ねぇは余程信長が嫌いなんだな。
武田信玄を極端すぎるくらいに持ち上げているし。

どの専門家にしても、武田信玄が1代の英雄であることは認めている。平山、丸島、柴辻、黒田氏。これら全員認めている。

信長、家康、謙信にしても、憎しみはあっても信玄は認めている。

ただし、武田信玄に全く欠点が無かったのか、と言われれば、専門家はやはり武田信玄には欠点や失敗もあった、としている。

いい加減、武田信玄にも失敗や欠点があったことは認めたらどうなの?

649 :
>>640
もし信玄にわずかでも人間的な信頼感があれば家康も寝返りを考えたかもしれないけれど、そうならなかったことは武田信玄という人物の生涯かけてやってきたことに対する最終的な答えなんだと思う
この敵味方への信用性の無さが、武田信玄は天下人の器では無いという一つの証明じゃないかな

650 :
真実かどうかは不明だが、馬場信春が家康に所領を与えて味方にして、先鋒にすれば、武田は九州まで制圧できた、なんて言ったらしいからね。

651 :
義信事件と晩年の好き放題外交は、どう考えても武田にとってはマイナスだよな。

652 :
そこを見ても信玄の行動は場当たり的で、地方の雄ぐらいが限界なんじゃないかな
本人が高い能力を持っていたから場面場面には成功を収めるけど、大戦略としてはよろしくない
史実の100万石越えは信玄という人の器を越えちゃった成功だったのかもしれないですね

653 :
>>640
それでも
あと10年あったら三河は信玄が蹂躙すると言い張るだろうよ

654 :
まあ時間が10年あるなら、徳川領くらいは制圧できたかな? 織田はその間にさらに強大になって、もう武田単独ではとても無理な勢力にのし上がっていると思うが。

655 :
無理だと思うな
軍事の才能で勝頼がそこまで信玄に劣ってるとは思えない

長篠で人的被害はでかかったけど徳川も相当損害でてたはずなのに、その後挽回できなかったしね

656 :
【テレパシー】世界教師マイトLーヤの演説『大宣言』は、14歳以上、3つの体験、14名の覚者を紹介
https://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1513126180/l50
【テレパシー】元国連職員「いきなり声が…『聞こえないフリ、分からぬフリをするな、照れをなくせ』」
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1513067436/l50

657 :
このスレタイをマジメに解釈すると信玄以外の重臣、馬場、山縣、真田、高坂等らも皆あと10年生きてたらと言う事で宜しいでしょうか。
だとすればただの後期高齢者軍団になって、皆の介護が必要になったことと思われます。
水洗トイレや信玄堤の信玄ですから、戦国老人ホームを建設していてもおかしくありませんね。
その方が老臣達も助かります。
信玄は世代交代がヘタだからありえると思います。
そんな武田、観たいですか?
私は観たくありません。
ただ、謙信なら頭を下げて頼べば、お情けで面倒を看てくれるかもしれませんね。

658 :
>>657
長篠で戦死が無い場合で、若手で期待できそうなのは土屋昌次、昌恒、真田信綱、昌輝、昌幸くらいだしなあ。後はちょっと年齢いってるし。

659 :
徳川単体なら倒せたんだろうが、後ろに織田がいる以上、無理難題。

織田にしてみれば、徳川が喰われれば、更に力を増した武田と直接接するわけで、
いいことなんて一つもないんだから、徳川をむざむざ喰わせるわけねーし、
実際、そうだった。

660 :
いや、実際大した援軍を送ってこなかったからな>三方ヶ原

661 :
>>654
西上作戦を継続してたら可能性はあった
美濃は三河に比べると堅城もなく難易度は低い
信玄との和睦と引き換えに三河制圧を黙認はあり得る

662 :
>>660
浜松籠城なら十分すぎる援軍なんだよあれは
もともとは野戦を想定しいなかったんだから

663 :
>>661
だからって、東美濃から山越えしての美濃攻めはどうなんだろうね。あの信玄が本気で木曽と東美濃の山越えから美濃中西部に雪崩れ込もうなんて本気で考えていたのかな?

664 :
佐久間のおっさんかわいそうです(´;ω;`)ブワッ > 大した援軍を送ってこなかった
平手のボンはまあどーでもいいや

665 :
>>663
その為に要所の岩村城を落としたと考えるのが自然
あと中山道は古来から軍用道路として機能してる

666 :
>>657 >>658
あのー、後期高齢者、というのは現代的な定義で言いますと、
75歳以上、という事になっておりまして、
信玄は死亡した時には53歳ですし、4名臣をはじめとした臣下達も
大抵は信玄と同年代、あるいは年下、というのが多いので、
10年が経過したとしましても、大体60歳前後くらいの武将が
多いように思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。

667 :
>>654 >>659
いやいやいや、信玄が生存していて、5月侵攻を行っていた場合でしたら、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>655
長篠直前にはもう徳川はギブアップ寸前でして、「今度ダメだったら織田やめて武田に寝返ろう!」
的に言い出しておりますし、武田の方も軍議の時に「こんな不利な状況で決戦するのではなく、
一回退いて、また出陣して徳川領土を蹂躙すれば、徳川領土は亡国となり、一両年くらいで大願が叶うだろう。」
的に宿老達が述べたりしていますので、
普通に長篠での敗北がなければ、武田勢は徳川をギブアップさせられたようにも思われる次第でございますかねえ。
それから、長篠の武田側の敗北の方が、
さすがに徳川側よりも大きいと思われますしねえ。
>>663
普通に、織田側も後年の武田攻めの時に岩村口から信濃に侵攻しているわけで。
武田が逆方向から侵攻するのに、特に問題はないと思われる次第でございますしねえ。

668 :
>>653
そうは言われましても、>>641にも書きましたように、
>前半の武田とガチでやりあって
と言いますのは、
信玄時代
北遠江・東遠江・北三河、などの諸城を次々に攻略され、野戦でも三方ヶ原で大敗し
7か月後以後も三千余りの兵しか動かせない状態にされる。
勝頼時代
高天神を再奪取され、他の諸城も攻略され、主城である浜松近辺まで蹂躙され
長篠前には、「今度ダメだったら織田やめて武田に寝返ろう!」と言い出すくらいに
追い詰められたりする。

まあ、国力などを考慮しますれば、必死で家康は善戦しようとはしているように思われますが、やはり長篠まではかなり家康的にもくるしかったように思われますかねえ。

669 :
>>649 >>651 >>652
何度も指摘している事ではあると思うのですが、 三国同盟は10数年に渡って継続した同盟ですし、
今川単独との同盟も20数年にわたって継続した同盟でして、ぶっちゃけ、織田徳川同盟よりも長期にわたった同盟なわけですしねえ。
今川との同盟に関してはその最後の方に至るまで、武田は同盟継続に固執しておりましたし、
織田徳川との敵対に関しましては、織田の方から両属の岩村遠山を自領土に接収し、
徳川が上杉と同盟を結び、それに織田を引き込んでの武田包囲網を構築し、という行動をしていた結果、
武田がそれを織田に抗議してもスルー、という事になった、等々を要因として
敵対に至っているわけですしねえ。どこが好き放題な外交なのでしょうか、と思われるのですけれどねえ。
そもそも、織田自体が同時代から「信を守らぬ男」とか、「(和睦した後で)信長が異変したけれど、案の定だった。」とか、
色々と言われているわけですしねえ。

670 :
>>666
現代とは医療技術も生活環境も衛生観念も食事事情もまるで異なる時代にあてはめられましても

671 :
>>666
当時の年齢を現代と一緒にする基地害。
当時の60は現代の70代に匹敵する。
医療、栄養などの知識が乏しく、薬などもろくなものが無い時代。

672 :
>>670
ねぇ、は基地害だから常識が通用しません。
武田厨ですから、武田を汚すような発言には我慢ならないのでしょう。

673 :
>>648
そこまで信長は嫌いなわけではないのですけれどねえ。
むしろ、ありとあらゆる方策を使って生き残りをはかり、
最終的な勝利をもとめた、というサバイバル系武将として、
現代人が見習うべきところも多々ある武将と思っております次第でございますかねえ。
ただ、「戦国屈指の義理堅さ」だとか、
(実際は同時代から和睦詐欺とか盟約詐欺とかをしまくっていて、「信を守らぬ男」とか
「(和睦をした後に)信長が異変をしてきて、案の定だった。」とか、同時代から色々言われているわけですしねえ。)
「優しくて甘くて誠実な武将」だとか、
(実際には蒸し返し粛清とか、普通の粛清とかを信長はしまくっておりまして、
その粛清数は生涯で20数件にも及び、到底甘いとか、優しい武将だとかは言われておらず、
同時代においても、江戸時代においても、その後の時代においても、信長は人格的評価については低い事が定評だったわけですしねえ。)
「最強で無敵で無敗の武将」だとか、
(実際には生涯の敗北数は20数、くらいに及んでおり、武田側の軍鑑でも、
信長の敗北数やら、撤収数の多さについては指摘されたりしておりますかねえ。)
そういう風に言われてしまいますと、それは史実とは異なるでしょう、と指摘をせざるを得ないわけでございますしねえ。

674 :
>>670 >>671 >>672
そのような事を申されまして、必死に連投をなさられながらレッテル貼に狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
当時の戦国武将におきましても、60代で活動していた武将は結構おりますし、
朝倉宗滴は79歳で死亡するまで戦陣に立ち、元就も70代でも現役として活動しておりますし、
家康も75歳でも出陣しておりますしねえ。
とても、当時の戦国時代におきましても、60代で現代の後期高齢者扱いされているとは
到底思われない次第なのでございますが、その件につきましては、
いかがなものなのでございましょうかねえ。

675 :
>>648宛続き
で、その信玄の欠点やら失敗、に関しましては、色々と史実的な異なりなどがあるように思われます事柄が
このスレなどで多々語られておられるように思われますし、
例えば、好き放題外交、とかは
何度も指摘している事ではあると思うのですが、 三国同盟は10数年に渡って継続した同盟ですし、
今川単独との同盟も20数年にわたって継続した同盟でして、ぶっちゃけ、織田徳川同盟よりも長期にわたった同盟なわけですしねえ。
今川との同盟に関してはその最後の方に至るまで、武田は同盟継続に固執しておりましたし、
織田徳川との敵対に関しましては、織田の方から両属の岩村遠山を自領土に接収し、
徳川が上杉と同盟を結び、それに織田を引き込んでの武田包囲網を構築し、という行動をしていた結果、
武田がそれを織田に抗議してもスルー、という事になった、等々を要因として
敵対に至っているわけですしねえ。どこが好き放題外交なのでしょうか、と思われるのですけれどねえ。
そもそも、織田自体が同時代から「信を守らぬ男」とか、「(和睦した後で)信長が異変したけれど、案の定だった。」とか、
色々と言われているわけですしねえ。

676 :
>>674
それは稀だから目立っているだけだ

677 :
>>676
いやいやいや、古くは三国志の時代におきましても、劉備や曹操は
60を過ぎましても普通に総大将として戦陣に立っておりますし、
関羽なども60近くでも普通に戦陣に立ち、
他にも三国志だけでも60以上でも戦陣に立っていた武将は数多くおりますし、
戦国時代におきましても、柴田勝家も、尼子経久も、尼子久幸も、島津義弘も、小畠虎盛も
60代以上で普通に戦陣に立って活動しているわけなのでございますが、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

678 :
もうねぇ、は相手にしないほうがいい。
まともに相手にすると疲れる。
基地外は無視無視。

679 :
>>675
すげー武田厨の考え方ってこんなに武田が全く悪く無い、悪いのは全部相手、って考え方なんだ。

680 :
三方ヶ原から、あのまま徳川侵攻を続けたとして、どうするつもりだったのか気になる。
海津城の高坂弾正みたいな拠点と守将を定めて、一旦甲府に戻るのか。
それとも、そのまま留まるか織田領へ侵攻するつもりだったのか。

681 :
>>680
徳川には抑えの部隊残したあと、伊那谷から東美濃へ、あるいは奥三河から東美濃へ出て、朝倉や長島と美濃を攻撃するんだってさ。

682 :
>>680
あそこで終わり
あとは織田から有利な条件を引き出して撤収
信玄をアテにしていた浅井朝倉坊主たちが各個撃破されるのを眺めつつ余生を過ごす

683 :
>>680
長期にわたっての遠征を延々と続けられるわけがないんだから、
どうであれ数ヶ月で本国に帰んなきゃいけないだろうことは確実かと。

684 :
仮に5月に美濃侵攻するにしても一度帰ってからの方がいいと思う。

>>682
岩村の件が無ければ、徳川相手に有利な条件で和睦して終了ってのもありだったろうに。
案外勝手に勝長捕えて送られてきて信玄も後に引けなくなったと困ったんじゃw

685 :
>>683
どっかの誰かは、大内や毛利(月山富田城攻め)に出来て、なぜ武田に出来ないとか言ってるよ。

686 :
スレの趣旨と関係ねーけど、勝長ってほとんど存在感がなくて可哀そうだよね。
秀勝より実は年長なのに、弟扱い。武田にも数年いたとか数奇な人生辿ってるのに。

687 :
>>685
困ったもんです。
武田が1年、2年と大軍で長期間他国に遠征し続けてた例を挙げてほしいもんですよねえ。
結局、国力も金も大内やその後釜になった毛利ほど無いんだよ…。

その大内にしたって失敗したし、成功した毛利も、
尼子の動揺・内紛に乗じて配下の国人衆を調略で離反させて、とかの
下地作りをじっくりしてからだったし。

武田は、あの時点でそこまで戦略を詰みきれてない。
桶狭間の時の今川義元にしてもそうだが、
講談みたいに、完全に決着をつける気なんてまだなかったとみるべきかと。
(調略で相手の家臣団を瓦解させるとかの仕上げは全く進んでないので)
敵(織田)の勢力圏に楔を打ち込んで、次の遠征の足掛かりにするのが目的だったとみるべき。
決着をつけるのは、どんなに早くても次や更に次の機会だと見做してただろう。

国主クラスの大名の領国支配をひっくり返すときは、調略が大抵、終わった後。
信玄だって信濃や駿河で調略を盛んにして、勝負を事前に決してから、
相手を潰しにかかってるのこそ成功してる。

688 :
>>684
その視点は面白いね
あの瞬間に武田は戦争の落としどころを失ったのか

689 :
そもそも大内も毛利も常に全力動員していたのか?
攻撃時はともかく包囲してる間も全領土から動員していたのか?
最後尼子は城兵300とかいうがその時まで3万で包囲し続けていたとはとても思えん。

一部の兵だけなら年単位で遠征-というか前線に常駐とでも言うべきか-するぐらいは普通に出来るだろうけど。

690 :
>>687
それは他の人が散々指摘しています。貿易、石見銀山、関門海峡など海上交通の利権。これだけで武田と大内、毛利では雲泥の差があると。

しかしどっかの誰かは、「石高」は武田のほうが大内や毛利より優っているので出来る、という始末です。

691 :
この時代年を越した遠征は普通に行われてるぞ
石高は武田に比べ遥かに低い上杉謙信の関東出兵や越中侵攻もある
あと島津の北九州遠征もそう

692 :
1万石で300人は自国の経済に支障を来さずに長期間遠征できる限界ライン
西洋東洋を問わず近代以前はこれが限界

693 :
>>678
そのような事を申されまして、必死に連投をなさられながらレッテル貼に狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
当時の戦国武将におきましても、60代で活動していた武将は結構おりますし、
朝倉宗滴は79歳で死亡するまで戦陣に立ち、元就も70代でも現役として活動しておりますし、
家康も75歳でも出陣しておりますしねえ。
とても、当時の戦国時代におきましても、60代で現代の後期高齢者扱いされているとは
到底思われない次第なのでございますが、その件につきましては、
いかがなものなのでございましょうかねえ。

694 :
>>679
いやいやいや、実際に資料などを基にして、語らせていただいております次第でございますし、
貴方がお述べになられたい事がおありなのでしたら、具体的に資料などを基にして語っていただきたいものでございます、と
こちらとしても強く強く思う次第なのでございますし、
例えば、好き放題外交、とかは
何度も指摘している事ではあると思うのですが、 三国同盟は10数年に渡って継続した同盟ですし、
今川単独との同盟も20数年にわたって継続した同盟でして、ぶっちゃけ、織田徳川同盟よりも長期にわたった同盟なわけですしねえ。
今川との同盟に関してはその最後の方に至るまで、武田は同盟継続に固執しておりましたし、
織田徳川との敵対に関しましては、織田の方から両属の岩村遠山を自領土に接収し、
徳川が上杉と同盟を結び、それに織田を引き込んでの武田包囲網を構築し、という行動をしていた結果、
武田がそれを織田に抗議してもスルー、という事になった、等々を要因として
敵対に至っているわけですしねえ。どこが好き放題外交なのでしょうか、と思われるのですけれどねえ。
そもそも、織田自体が同時代から「信を守らぬ男」とか、「(和睦した後で)信長が異変したけれど、案の定だった。」とか、
色々と言われているわけですしねえ。

695 :
>>680 >>682
>>681の人も書いておりますように、信玄の書状などから考慮しまするに、
5月からは朝倉・長島と連携しての美濃侵攻を行う、というのが
信玄の予定であったと思われます次第でございますかねえ。
>>683
>>685の人も書かれておられますように、普通に毛利は2年近く、
大内も上洛遠征で10年以上、月山富田城攻めで1年4か月以上、
北条早雲は三浦氏への包囲戦で三年近くを囲んでおりますし、
上杉謙信も、第一次小田原遠征に10か月余を遠征しておりますが、
その撤収理由として、関東諸侯達が「関東は飢饉で兵糧が不足しているから。」
との事で、飢饉でなかったなら、もっと遠征が可能だったと思われるわけですしねえ。
これらを考慮しますれば、武田が1年や2年の遠征ができないとは
考慮しにくいと思われる次第でございますしねえ。

696 :
>>684 >>688
そもそも、織田が勝手に岩村遠山などを自領土に組み込んだのが
武田が織田と敵対する理由の一つであったのですから、
それは色々と史実とは異なりがある仮定ではないかとおもわれますしねえ。

697 :
>>687
残念ですけれど、貴方のように、必死になって
「それをされると信長側がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ!」
とお喚きになられておられるようなお方のお述べになられている事とは史実は異なり、
毛利は少なくとも、尼子攻めの時は明らかに西上の時の武田よりも領国規模や石高において
劣る状態であったように思われますし、大内が尼子を攻めた時も同様ですしねえ。
普通に毛利は2年近く、
大内も上洛遠征で10年以上、月山富田城攻めで1年4か月以上、
北条早雲は三浦氏への包囲戦で三年近くを囲んでおりますし、
上杉謙信も、第一次小田原遠征に10か月余を遠征しておりますが、
その撤収理由として、関東諸侯達が「関東は飢饉で兵糧が不足しているから。」
との事で、飢饉でなかったなら、もっと遠征が可能だったと思われるわけですしねえ。
これらを考慮しますれば、武田が1年や2年の遠征ができないとは
考慮しにくいと思われる次第でございますしねえ。
さらに言いますと、どの大名も最初に長期遠征をする時は、特にその前に行っているわけではありませんが、
普通に行っているわけでございますしねえ。
これらについてのお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

さらに申し上げますと、
毛利が尼子攻めで調略がどうとかおっしゃられておりますが、
毛利の尼子攻めでは、尼子側の諸城から激しい抵抗などにあっており、
とても調略を詰むまでに進めている、とは考慮されにくいと思われるのですが、
これらについては、如何なものでしょうかねえ。

698 :
>>690
実際問題として、残念ですけれど、貴方のように、必死になって
「それをされると信長側がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ!」
とお喚きになられておられるようなお方のお述べになられている事とは史実は異なり、
毛利は少なくとも、尼子攻めの時は明らかに西上の時の武田よりも領国規模や石高において
劣る状態であったように思われますし、大内が尼子を攻めた時も同様ですしねえ。
普通に毛利は2年近く、
大内も上洛遠征で10年以上、月山富田城攻めで1年4か月以上、
北条早雲は三浦氏への包囲戦で三年近くを囲んでおりますし、
上杉謙信も、第一次小田原遠征に10か月余を遠征しておりますが、
その撤収理由として、関東諸侯達が「関東は飢饉で兵糧が不足しているから。」
との事で、飢饉でなかったなら、もっと遠征が可能だったと思われるわけですしねえ。
これらを考慮しますれば、武田が1年や2年の遠征ができないとは
考慮しにくいと思われる次第でございますしねえ。
さらに言いますと、どの大名も最初に長期遠征をする時は、特にその前に行っているわけではありませんが、
普通に行っているわけでございますしねえ。
これらについてのお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

699 :
>>689
少なくとも、まず大内の畿内遠征は、確実に大内側の大軍が畿内で活動しておりますし、
大内義隆の月山富田城攻めでも、多くの国人達が集結しており、大軍が城攻めの為に対陣を続けていた事が明らかなように思われますし、
さらに毛利の尼子攻めにおきましても、まず月山富田攻めの前の白鹿城を攻略するまでにおきましても、
一年数か月もの期間を遠征しているわけでございまして、その白鹿城攻めには尼子側からも後詰や援軍が差し向けられ、
激しい戦闘が継続された状況でございますから、とてもそんな手抜きで戦っているとも思われないわけでございますし、
毛利元就自身も普通に陣に居続けているように思われますしねえ。
で、その後の月山富田城攻めで一年7か月近くを遠征しているわけでございますしねえ。
これらを考慮しまするに、さらには>>697などで書きました、他の事例なども考慮しまするに、
なぜに織田がそれをされると苦しいと思われる状況の時だけに、相手側が長期遠征ができない事になると思われますのか、
という事が、非常にこちら側としましても、困惑せざるを得ないと思われる次第なのでございますが、
この件につきましては、如何なものなのでしょうかねえ。

700 :
>>692
つまり、武田は問題がなさそうに思われる次第でございますかね。

701 :
武田が物量に勝る相手に勝ったことあるのか?
(勝ったというのは、勝利することで戦略的に優位を決定づけるという意味だが)
三増峠の様な局地戦は、ほぼ同数で、しかも撤退戦。三方ヶ原は倍の兵力で戦術的な勝利。第4次川中島は兵力で勝るも痛み分け。その後の外交で勝利。
西上戦で織田家に勝てるとは思えない。世評はどうあれ倍の兵力差があれば、局地戦で勝った体裁を取れれば御の字。朝倉・浅井を頼みにせざるを得なかったのも草。

702 :
>>691
上杉の遠征って最低でも半年に一回は帰国していないか

島津の北九州遠征も
筑前で6月からはじまってはいるが、義弘家久が動いたのは10月から
で翌年3月には北九州半ば放棄して領国での防衛戦に切り換えてるし

703 :
>>701
雑魚専なイメージはある
あとは城攻めが苦手

村上とか長野クラスでも押しきれないからね

704 :
一応初陣の海野口の戦いは武田信玄が劣勢(甲陽軍鑑では兵300とある)だったのではないか?
と言われてはいるな。尤も甲陽軍鑑にあるような信玄が鮮やかな奇襲で
城を一日で落としたなんてのは、殆どの歴史学者が否定してるが。

その後の生涯を見ても武田信玄が劣勢で勝った戦いどころか、劣勢で開戦した戦いすらないから
そもそも織田と全面衝突できたかも怪しいな。大方朝倉三好本願寺が粘ってる間に
武田が後ろから織田を攻撃できればいいかくらいのもんだろうな。
だから朝倉が撤退した時は激怒した。

705 :
劣勢で無謀な戦いをしないってのは信玄の長所でもあるんだけどね
支配体制として諸侯に出兵をお願いしてる立場に近いから損害は極力抑えてたんだと思う

そういうところは勝頼はダメダメ。長篠では寡兵で突っ込むし高天神以降は戦いっぱなしで諸侯の不満を蓄積させた

706 :
村上義清との戦い、あれは兵力では晴信が優っていたのか?

武田信玄が劣勢で勝利したのは、小笠原長時との塩尻峠の戦いだな。長時を油断させて奇襲して勝利したから。

707 :
上の人は、なぜ大内と武田を同列に考えるんだろうか?

大内は当時、豊前、筑前、石見、周防、長門、安芸に所領を持ち、さらに周辺諸国に影響力を保持する大国。

水軍とも関係が深いし、幕府にも絶大な影響力を保持している。貿易や銀山、交通の要衝を抑えるなど山国で生産性が低く、交通の要衝も少ない武田とはバックが違いすぎる。

武田を大内と一緒にするのは、ちょっとなあ。

708 :
信玄が直接率いたわけじゃないし、数も本当に上杉の方が多かったか怪しいが、小田井原。

>>705
村上との戦いは武田の方が兵力上って一般的にはされている、
まあ当時の勢力考えると武田の方が2倍位だから妥当なところかと。

塩尻峠も当時の小笠原の勢力で武田を上回れるかというと疑問符がつかないわけじゃない。

709 :
>>707
最盛期大内は山城も支配していたから
京から淀川通じて瀬戸内海関門海峡博多から明までの交易路持ってるからな。
本願寺も石山に移る前だし、これで堺も直接支配していたら更に凄いことになったろうに。

710 :
商業地域・先進地域を押さえた織田、毛利、大内と武田との差は経済力だけではなく、人口というファクターもある。
農業人口を確保した上で動員できる足軽も、ヘッドハントできる人材も比べものにならない。
後に蒲生氏郷が嘆いたように、京との距離は天下との距離。
信玄にも謙信にも、このハンデは大き過ぎた。たとえ良質な金山を持っていてもリカバリ不可。

711 :
このスレタイをマジメに解釈すると信玄以外の重臣、馬場、山縣、真田、高坂等らも皆あと10年生きてたらと言う事で宜しいでしょうか。
だとすればただの後期高齢者軍団になって、皆の介護が必要になったことと思われます。
水洗トイレや信玄堤の信玄ですから、戦国老人ホームを建設していてもおかしくありませんね。
その方が老臣達も助かります。
信玄は世代交代がヘタだからありえると思います。
そんな武田、観たいですか?
私は観たくありません。
ただ、謙信なら頭を下げて頼めば、お情けで面倒を看てくれるかもしれませんね。

これ以来の書き込みでこれを書いた張本人ですが、だいたい、ねえ君は10年後、全国がどうなってると思ってるのかな?
例えば織田、徳川、上杉は武田に滅ぼされていて、将軍家も滅亡させて、信玄が機内に幕府を開いていてとかなのかな?
朝倉に加賀も越中もあげて100万石越えの大名とか、近江と美濃は浅井で100万石越えの大名とか、北条は関東全域とか、毛利は所領安堵とか、そんな感じなのかな?
一体どうゆう考えなのですか?
先ず信玄が天下人になっているのか?
更に10年後に全国各地がどうゆう状況になっていると思われるのか、詳しく書いてみてください。
所領が50万石以上になるであろう大名はその場所と共に全て記入してください。
それをみてから色々考えますので.........
それでは!

712 :
>>702
本国から兵站を築けない50万石程度の上杉謙信でも
それだけの関東遠征が出来てることが重要
美濃、三河は隣国なわけで領内からの兵站も問題ないし
そもそも遠征とは言えん

713 :
武田領はそんなに豊かなわけ?
上杉はまだ越後の港から入る利権がある。
交通的にも要衝だし。

714 :
信長って、あの国力でも長期戦は常に避けていたけどな。浅井にしろ、石山戦争にしろ、常に休みを挟んでやっている。

武田信玄は野田落とすまで5ヶ月近く。徳川領で略奪していても3万食わせるのは大変ではないの?

715 :
>>713
上杉領よりは豊かだな。あと交通で言えば中山道、東海道も武田領
交通の要所を押さえていたし兵站は問題ない

716 :
>>712
上杉の関東遠征は、関東各地の味方勢力の協力があってのものだぞ

717 :
まあこの点は他も同じで、信長だって畿内各地の拠点と味方勢力の存在があってこそ
毎年のように畿内各地で連戦できたんだが、それでも何度かは岐阜に帰還して軍を編成しなおしたりしている

718 :
このスレを見てると、昨今sageられることの多い信長はなんだかんだで傑物だなと思わされる

719 :
>>718
信長は実際に傑物でしょ。
尾張の小大名からのし上がった。
敵に致命傷を与えるのが得意だった。
チャンスを見逃さない。

720 :
>>701 >>703 >>704
少なくとも、信玄が5月からの美濃侵攻を行う場合は、
信長の主力兵力は信玄と同等かそれ以下くらいだと思われるわけですしねえ。
しかも、朝倉・長島と連携して攻めるわけですから、
普通に戦略的に優位だと思われるわけですしねえ。
それから、信長の生涯敗北数は20数件に及び、優勢でも劣勢でも同数でも、
信長は普通に敗北している事例があるわけなのですから、
そこまで信長に勝てない、といわれましてもねえ、という感じですかねえ。

それから、長野業正と信玄が6回戦った〜とかいうのは、
江戸時代の軍記とかにしかなくて、
同時代資料的には信玄が西上野侵攻を本格化させる
1561年11月の頃には、もう長野業正は死亡しているわけですしねえ。

信玄が美濃への5月侵攻を朝倉・長島と連携して行うのでありますれば、
明らかに兵力的には包囲網側の方が優位なわけですし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

721 :
>>707 >>709 >>710
貴方のあげている領域と比しましても、武田信玄の最盛期の120万石の方が
石高的には上なわけでございますしねえ。石高的には普通に人口の数が現れるように思われますしねえ。
武田領国も普通に経済的にはそれなりに栄えておりますしねえ。

そもそもの問題として、長期遠征の問題でいいますならば、
大内の事例だけをあげているわけではなくて、>>695にも書きましたように、
普通に毛利は2年近く、
大内も上洛遠征で10年以上、月山富田城攻めで1年4か月以上、
北条早雲は三浦氏への包囲戦で三年近くを囲んでおりますし、
上杉謙信も、第一次小田原遠征に10か月余を遠征しておりますが、
その撤収理由として、関東諸侯達が「関東は飢饉で兵糧が不足しているから。」
との事で、飢饉でなかったなら、もっと遠征が可能だったと思われるわけですしねえ。
これらを考慮しますれば、武田が1年や2年の遠征ができないとは
考慮しにくいと思われる次第でございますしねえ。

それから、大内の事例でいいましても、大内が畿内を抑える前に遠征を開始して、畿内で10年近く滞在を続けているわけなのですしねえ。

722 :
>>711
戦国時代には、60代以上で活動している大名や武将は多数存在しておりますし、
そもそもの問題として、後期高齢者、の範囲は現代でも75歳以上、と指摘してますのに、
どうやったら、そのような話になると思われますのか、という風にこちらは貴方に問うておりますのに、
なぜに貴方がそのように、貴方の述べている事柄とまるで異なる事をこちらに聞き始めて
それで「それをみてから色々考えますので」とか言い出されておられるのか、とても不可思議に思われるのですけれどねえ。
貴方の述べている事と、まるで関係のない事柄のように思われますので、
貴方はまず貴方に聞かれている事柄について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

723 :
>>713
石高的にも、経済的にも、上杉と比して、武田家がそこまで劣勢とは思われないどころか、
総合的にはむしろ優勢ではないかと思われる次第ですのに、
なぜにそういわれるのか、こちらとしては非常に不可思議に思われますしねえ。
貴方は、武田に長期遠征ができる、という事になると、
信長がシミュレーション上で不利になるから、といって
無理に他を持ち上げようとしすぎではないかと思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。
>>714
単に包囲網側との戦いで、一方に主力を貼り付ける事が困難だっただけではないかと思われますけれどねえ。
秀吉とかは三木城攻めとかで、2年近く兵糧攻めとかをしているわけでございますしねえ。
>>716
むしろ、その関東諸侯が「飢饉で兵糧がないから撤収したい。」という事で
10か月で終了する事になったわけですから、飢饉でなかったら、もっと遠征できていた事になるわけでございますしねえ。

724 :
基地⚪が、現れた!

725 :
5月侵攻5月侵攻うるさいけど、1573年5月なら、信長は畿内の軍勢も動員できるんじゃないの? じゃないと何のために足利義昭と和睦したかわからないし。

三好はこの年に壮絶な内ゲバやるし。畿内の軍勢も動員できると思うが。

726 :
>>684
>案外勝手に勝長捕えて送られてきて信玄も後に引けなくなったと困ったんじゃw
柴氏の織田・毛利開戦の要因とか考えると笑い事じゃないな

727 :
>>715
上杉領の方が豊かだろ、土地自体はそうでもないかもしれないが
日本海交易の拠点の一つだし

>>716
あと上野という策源地があるからか?
上野は上杉領だしそこで過ごす分にはまだそこまで負担は大きくはないんだろう
そこから敵地へ遠征するとなると大変になるんだろうが

>>725
畿内からは無理だろ
和睦したとはいえ義昭だって信用できるわけじゃないし
南近江からはそれなりに動員出来そうだけど

728 :
織田嫌い信玄好きだったが、菅沼ねぇのおかげで
武田信玄の一般的なイメージは過大評価で
織田信長の一般的なイメージは誇張だと
知ることが出来た。
基地害のたわごとでも、その気があれば役立てる事が可能だとも分かった。
否定しかしない菅沼には、こういう勉強の楽しみは絶対味わえないな。

729 :
武田は信濃の石高が高いけど富の再分配をするシステムになってないから遠征にかかる負担は自己負担
宗主の武田家にもそこまで蓄えはないし長期に渡る遠征は無理

730 :
>>727
上杉領国が豊かとか・・・東北と同様に商品作物を売って米を買う経済なのに
その理屈なら日本海交易をしてた東北も豊かってことになるぞ

>>729
石高がまだ50〜60万石程度の勢力だった頃の上野原の戦いとかあるけどね
100万石を超える勢力となった晩年なら普通に長期に渡る行軍は問題ない

731 :
>>730
もしそんな強固な体制だったら高天神城落とされてからあそこまで急速に没落しないと思うんだ
末期は木曽の成敗のため出兵した15,000程度すら維持できていない

732 :
>>731
長篠以降の武田軍はゾンビ化している。
もう長篠以降はどうしようもない。

733 :
そもそも菅沼遼太は何がやりたいのかよくわからん

仮にコイツの言うとおり織田信長が小手先の
詐欺や土下座で切り抜けるヘタレだったとしても
「そんなヘタレな織田信長に勝てなった武田信玄」という
構図は変わらない。昔今川義元が天下取りに行こうとした矢先に
信長の策略で桶狭間で死んだマヌケと誤解されてきたが、
菅沼の言うことが真実ならまさに武田信玄は織田信長の小手先の策略に
翻弄されて余裕こいていたのに死んだマヌケということになる。

そんなマヌケが10年長生きしようが変わらん
どっかで汚名を残して終わりという結論にしかならんな

734 :
長篠は実際にはもっと小規模な戦いだったというのが最近の主流だし、実際に勝頼が最大版図に広げたのも長篠より後の話

高天神に固執して上野と遠江に例年出兵して疲弊したこと
御館の乱で景勝について北条を敵にまわしたこと
韮崎に新城を築いて国内の経済を疲弊させたこと

が主な滅亡要因だったと思う
逆説的に例年の出兵と築城までは武田の台所ではまかなえなかったということ

735 :
西上作戦前は大した合戦もしてないから台所事情は余裕があっただろうな

736 :
晴信が10年も生かされてたら、その間に勝頼に追放されるか、逆に勝頼を得意技の粛清に持ち込むだけよ、ただ長生きしたいだけの爺ぃだから

737 :
>>736
得意技も何も実際には、信長の方が、
粛清の事例は信玄よりも圧倒的に上なのですけれどねえ。
よろしければ、20数件にも及ぶ、
信長の粛清事例の方をご提示させていただきたいと思うのですが、
いかがなものでございましょうかねえ。

738 :
>>734
いやいやいや、長篠は結構な武将達が死亡しており、
それで損害を受けた軍勢の再建の為に勝頼が色々と躍起になっている書状が出されたり、
敵である徳川からも、長篠直後の武田勢の出陣で
「武田勢は12、13歳くらいの者まで動員している。」と驚かれて指摘されたりしてますので、
普通に長篠は結構な損害を受けた戦いであったかと思われますかねえ。
で、それに加えて、貴方のいうような、御館の乱で景勝について北条を敵にまわし、
数年間にわたって織田・徳川・北条の三方向を敵に回して、多方面策戦を行ったことから
武田家は領国疲弊が起こったのだと思われますので、
それらの要因がないのであれば、普通に領国疲弊が起こるとは考慮されにくいと思われる次第ございますかねえ。

739 :
>>733
でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

で、実際には信玄は貴方がいつものように妄想願望なさられておられるような、
余裕ぶっこいて〜、とかいう話ではなく、普通に様々な外交状況の変遷の後で
織田と同盟を結び、その織田が両属だった岩村遠山を自領土に組み込んだり、
さらには徳川が武田包囲網を構築しようとしているのを、武田が抗議してもスルーしたり、
というのが積み重なった結果、織田と敵対に至った、という話で
貴方がおっしゃられているのとは、いささか以上に異なりが存在するように思われるのですが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

740 :
>>725
必死になってレッテル貼りに躍起になっておられるご様子ではございますが、
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>726
いやいやいや、畿内には石山本願寺・三好・松永、その他が
普通に存在しておりまして、信玄死亡後もそれらは普通に抵抗を続けていきますし、
そもそも当時の織田は畿内にそこまで大きな領土を保有しているわけではないように
思われる次第でございますしねえ。
>>727
いやいやいや、さすがに雪国越後で、
石高などの総合生産力などが武田の方が上、となりますれば
関東遠征時の上杉でも普通に長期遠征ができている事から考慮しますれば、
普通に武田に長期遠征ができない理由はないと思われますしねえ。

いやいやいや、上杉は小田原遠征で、そこから小田原まで進撃しているわけですし、
そもそも、その上野自体が、その小田原遠征の前の数か月ほどで
北条が領土にしていたのを制圧したばかりの土地でもあるわけですしねえ。

741 :
>>728
はいはい。必死に装おうとしておられるご様子ではありますが、
文体からしても、行動からしましても、貴方はいつも通りに
必死な織田厨さんの方で、必死に織田持ち上げ、武田などの他大名貶めに狂奔してきて、
それが論旨的に苦しくなってきたから、必死に他人装いに狂奔してご自身の「そういう事にしたい」という
妄想願望を無理やりに喚かれようとしておいでになられている、
というだけのようにしか思われませんので、聞かれている事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

742 :
>>729
いやいやいや、普通に、武田は信玄西上の時には120万石余になっておりますし、
戦国時代にはそれよりも遥かに石高的に低い大名家でも
普通に長期遠征を行っているわけでございますから、普通に長期遠征が可能ではないかと思われる次第でございますかねえ。
そもそも、富の再分配システムとか、どこの大名家がやっているとおっしゃられるのでございましょうかねえ。
織田とかも、特にそのような事はしてないように思われる次第でございますが、如何なものでございましょうかねえ。
>>731
勝頼末期の事をいうのでしたら、まず>>738にも書きましたように、長篠における大きな損害、
さらには御館の乱で景勝について北条を敵にまわし、
数年間にわたって織田・徳川・北条の三方向を敵に回して、
多方面策戦を行ったことから の領国疲弊、などが原因であって
その多方面策戦の結果、高天神を救援する事が出来ずに、
それによって武田家臣達に対しての勝頼の威信が大きく減退してしまった事、
などが、1582年の織田による武田攻めの時の要因と思われますし、
普通に織田も本能寺の後には急速に領国各地で離反・反乱・敵対が起こっておりますので
特に不可思議な話でもないように思われる次第でございますかねえ。

743 :
>>732
それ以上に、御館の乱で景勝について北条を敵にまわし、
数年間にわたって織田・徳川・北条の三方向を敵に回して、
多方面策戦を行ったことから の領国疲弊、などが要因としては大きい感じのように思われる次第でございますかねえ。

744 :
基地⚪が、現れた!

745 :
石高低かったって動員率も低ければ、石高以外の収入源なくても長期遠征出来るだろうし
石高多くても動員率がそれなりで石高以外の収入源無ければ長期遠征は負担が大きくなるだろうし

兵站の負担は兵力が増えれば増えるほど距離が伸びれば伸びるほど乗数的に増していくから
むしろ同じ動員率なら石高低い方が絶対的な兵数が少ない分より遠征しやすいんじゃ

少なくとも上杉は豊臣家徳川家みたいな兵站の苦労はしていないように思える

746 :
岐阜城を陥落させるのは難しいと思うが東美濃、中美濃は武田に奪われただろうな
濃尾平野の一角の中美濃に楔を打ち込まれたら反織田勢力を駆逐するのに相応の時間が掛かるし
歴史は大きく変わった可能性が高い

747 :
岐阜城を陥落させるのは難しいと思うが東美濃、中美濃は武田に奪われただろうな
濃尾平野の一角の中美濃に楔を打ち込まれたら反織田勢力を駆逐するのに相応の時間が掛かるし
歴史は大きく変わった可能性が高い

748 :
>>744
必死になってレッテル貼りに躍起になっておられるご様子ではございますが、
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

749 :
>>745
武田の美濃侵攻の場合は、領国の隣国なわけですし、
距離的にも問題がないように思われますかねえ。

750 :
小田原遠征の時の上杉の軍勢は、上杉直率の軍勢では8000程なのでしたっけ?
当時の上杉家の領域からすれば、これも結構な動員のように思われますしねえ。

751 :
>>726
義昭が原因で毛利から同盟破ったってやつだっけか?

752 :
>>747
恵那辺りはともかくそこから先はしっかり守り固めると思うぞ

753 :
まだ信濃から美濃入りルート主張してるのかあぼーんは
しつけーな
信玄ほどの武将がそんなリスク侵すわけ無いだろ

754 :
ねぇ、の考え方はどうなってるの?
大軍で木曽や恵那に向かうのが極めて普通の感覚になってる。
越前大野郡から美濃に抜けるルートもかなりの山道なのに、隣国だから大丈夫とか。
そもそも美濃は織田の本国。敵のホームグラウンドで戦う敵軍の不利とかもある。
ねぇ、の感覚はどうなってるの?

755 :
ゲーム脳ってやつ
あ、ここから侵入できんじゃん。やべー俺天才?

756 :
ゲーム脳にしても、最近の信長の野望は山道行軍もリアルに再現している。
越前から美濃、信濃から美濃は信長の野望 創造だとかなり進軍しにくい。
ゲームでも普通の行軍ではない。

757 :
信濃から3万の軍勢がノロノロ進軍してくるの指をくわえて待ってないで、三河経由で木曽まで進軍していって背後ついてやんよw

758 :
大軍で隘路を通過するときは極めて危険って紀元前くらいから兵法の常識なんだけどね

759 :
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12101762977
この質問者はねぇ。と一緒だな。全否定されててここと一緒

760 :
>>751
その前に主に浦上宗景をめぐるやり取りで織田と毛利は外交的に不信関係
ここらへんは誰が悪いというより信長が赤松・浦上・宇喜多・毛利らの関係をあまり理解できてなかったっぽいのが原因だけど

761 :
>>760
1573年時点で朝倉と浅井に余力があったとしても、織田の本拠に逆襲できるほどの余力があるのか?

762 :
>>747
東濃の要所である岩村城は武田方になってたし岩村城から先は隘路でないからな
後に勝頼も中山道経由で明智城やその支城一帯を大軍で落としたわけで
ここの連中は古来から中山道が軍用道路として使われてることさえ知らないようだが

763 :
>>752
近江と伊勢を放棄して東美濃に兵力を集中は有り得んよ
多少なりとも損得勘定が働けば分かること

764 :
まー尾張美濃を制圧した時点で織田は天下取りレースで独走状態入ったわけだから
この段階で織田を友好関係を築いている大名は見る目がない先見がないってことよ
俺らは歴史を知っているから、織田が驚異になると分かるが、当時の大名は難しいだろうが
これを見抜いた人間が有能ってことよ
周りに信玄以外に、こういう有能な人間がいなかったら、織田は勢力を拡大できた

765 :
朝になったら、また基地⚪が現れるな。

766 :
>>765
いやいやいや、必死になってレッテル貼りに躍起になっておられるご様子ではございますが、
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

767 :
>>764
>まー尾張美濃を制圧した時点で織田は天下取りレースで独走状態入ったわけだから
実際には、その後も普通に伊勢北畠に戦闘においては敗北し、和睦で騙して乗っ取りに入ったり、とか
志賀陣で朝倉浅井相手に土下座降伏宣言的な書状を送って、和睦して和睦詐欺を行いに入られたり、
信玄西上で信長万歳の信長公記においても「方々手ふさがり」と書かれたり、
信長自身が武田西上軍の動きを書状で警戒しまくっていたり、と
とても尾張美濃制圧の時点で独走状態とは思われない次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

768 :
>>752
史実では、恵那の方も信長はしっかりと守りを固めようとしていたように
思われますけれどねえ。
史実的な流れとしましては、

1.織田が武田織田の両属であった岩村遠山に軍勢を派遣して領土に組み込む。
2.それに反発した岩村の人々が武田勢に呼応して導きいれる。
3.信玄死亡後に、信長は岩村封じの為に岩村周辺の諸城を普請し、兵力を込め、防衛ラインとして構築する。
4.それに触発された勝頼が東美濃侵攻を行い、周辺の18諸城を攻略する。
5.それにより、信長はそのさらに後方の金山などを今度は防衛ラインとする。

という流れですので、普通に信長としては、まず3.の段階で岩村周辺の諸城を普請して、
兵力を込めた段階で、これらを防衛ラインとして武田勢を防ぎ、岩村封じも行う予定だったように
思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

769 :
>>753
いやいやいや、何度も何度も指摘の方をこちら側からさせていただいておりますのを、
相変わらず貴方は都合の悪いところをスルーする事に躍起になっておられるご様子では
ありますが、既に東美濃岩村遠山は武田側の城になっておりますし、
信濃から美濃に入るのに特に問題はないと思われますし、
そもそも、後の1582年の織田の武田攻めの時におきましても、
普通に信長公記に、織田勢が岩村口から信濃に侵攻した、と記述されておりまして、
このルートは信濃から美濃に攻め入る、あるいは美濃から信濃に攻め入る、という場合における
普通のルートであったと思われる次第でございまして、
特に問題はないように思われる次第なのでございますが、この件につきましては、如何なものでございましょうかねえ。

770 :
>>754 >>755 >>756 >>758
いやいやいや、いつも通りに必死になって複数端末による複数ID自演や多数派装いによる連投を
必死に繰り返されながら、いつも通りにこれまでに何度も指摘されてきた事を、
必死になってスルーなさられようとなさられながら、お喚きになられようとしておられるご様子のように思われますが、
何度も何度も指摘の方をこちら側からさせていただいておりますのを、
相変わらず貴方は都合の悪いところをスルーする事に躍起になっておられるご様子では
ありますが、既に東美濃岩村遠山は武田側の城になっておりますし、
信濃から美濃に入るのに特に問題はないと思われますし、
そもそも、後の1582年の織田の武田攻めの時におきましても、
普通に信長公記に、織田勢が岩村口から信濃に侵攻した、と記述されておりまして、
このルートは信濃から美濃に攻め入る、あるいは美濃から信濃に攻め入る、という場合における
普通のルートであったと思われる次第でございまして、
特に問題はないように思われる次第なのでございますが、この件につきましては、如何なものでございましょうかねえ。

それから、越前から美濃への侵攻ルートではありますが、
既にこのルートで朝倉は宗滴も、それ以外の宗滴程には有名ではない、普通の複数の武将達も、
普通に複数回、美濃への侵攻を行っておりますので、特に問題はないと思われる次第なのでございますが、
この件について、必死にスルーなさらようとして、
必死に同じような事をお述べになられるのではなく、
こられにつきましての、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

771 :
>>757
いやいやいや、>>770でも指摘させていただいた事ではございますが、
既に東美濃岩村遠山は武田側の城になっておりますし、
信濃から美濃に入るのに特に問題はないと思われますし、
そもそも、後の1582年の織田の武田攻めの時におきましても、
普通に信長公記に、織田勢が岩村口から信濃に侵攻した、と記述されておりまして、
このルートは信濃から美濃に攻め入る、あるいは美濃から信濃に攻め入る、という場合における
普通のルートであったと思われる次第でございまして、
特に問題はないように思われる次第なのでございますが、この件につきましては、如何なものでございましょうかねえ。

それから、三河から木曽に〜とかおっしゃられているように思われる次第でございますが、
すでに三河北部は武田が領土にしておりますし、徳川は三方ヶ原の影響で、
信玄死亡後の1573年7月に行われた長篠城再奪取の為の出陣におきましても、
三千余の兵力で進軍しておりますので、木曽にまで侵攻して
武田の背後を脅かすのは非常に困難なように思われる次第なのでございますが、この件に関しましては、如何なものなのでございましょうかねえ。

772 :
>>768
丸島氏は、岩村遠山は織田の養子信房を受け入れていた。ただ、織田と武田に両属している立場だったから、武田家に対しても人質を差し出していて、養子受け入れは武田にいる人質に危害が加わることを恐れた一部の反発らしいがな。

それとお前、やけに織田が先に手を出した、と言っているが、丸島氏は先に手を出したのは武田だと言ってるぞ。

武田信玄と上杉謙信の和睦を仲立ちしていた信長の顔を潰したのは信玄。この顔を潰したのがきっかけで岩村城を信長は接収することを決めた、とされており、先に手を出したのは信玄だぞ。

773 :
>>772
一部の反発も何も、その後も普通に岩村遠山は武田に従い続けておりますし、
そもそもの問題として、その前の段階で、同時代資料の上杉謙信の書状で
「織田側が軍勢を派遣して、敵(反対派って事でしょうかね。)を数多打ち取り
遠山を織田が入手した。」的に書いているのですから、普通に織田の岩村遠山の
織田領土組み込みには多くの反対派がいた、っていう事が明らかなように思われますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

774 :
>>772宛続き
で、信玄が手を出した云々、に関してではありますけれど、
そんな事、本当に丸島氏が述べられておられるのですかねえ〜?
だとしたら、資料的に論旨的な矛盾が生じるように思われるのですけれどねえ。
まず、信長は信玄が西上を開始するほぼ同時期くらいまで、
謙信との和睦斡旋を行っておりまして、
1572年10月(信玄が西上を開始する月)にも、信玄に対して
「謙信との和睦を成立させるには、越後出兵をおやめになられるべきです。」的に書状で述べ、
(どうも信長は信玄西上の出陣を、当初は上杉への越後出兵の為であると認識していた可能性がありますかねえ。)
信濃越後国境の兵力が一部移動した事を、自身の勧めに従ってくれたものだと思ったらしく
(香坂が西上軍に参加していた、と軍鑑にある事から、この兵力移動は香坂が北信濃から西上軍に合流するための
移動であった可能性も考慮されますかねえ。)
信玄に対して感謝の書状を送ったりしている次第なわけなのでございますしねえ。
で、その後で、信玄の西上軍の動きが明らかになってから、信長は激怒して、
謙信に対して「なんという酷い行動だ!」と書状で憤る、という事になっているわけなのでございますが、

これらの史実を、貴方の言うような流れと組み合わせて考慮してみますと、
(あくまでも貴方の言うような流れだと仮定して、の話ではありますが)
1.信玄と謙信との和睦交渉を信長が仲介。
2.一回、その和睦交渉が潰れてしまい、信長が激怒して、
武田とはもう敵対だ、と断固たる決意をもって、軍勢を派遣して
反対派を数多打ち取りながら、両属であった岩村遠山を自領土に編入。
3.その後でまた信長は信玄と謙信の和睦交渉の斡旋を開始し、
1572年10月の信玄が西上を開始する時まで、普通に和睦斡旋の交渉を続ける。
信濃越後国境の軍勢が一部移動した事をもって、自身の勧めを信玄が聞いて、
越後侵攻を思いとどまってくれたものだと思って大喜びし、
信玄に感謝の書状を送る。
4.信玄の西上軍の動向が明らかになってきて、信長大激怒。
5.信長、謙信に対して「なんという酷い行動だ!」と信玄についての激しい怒りを
書状で述べる。

という流れになるわけですけれど、貴方的な流れと史実の流れを合わせて仮定してみますと、
明らかに信長が非常に不可思議な行動を行っているようにしか思われない、と思う次第なのでございますが、
この件については如何なものでございましょうかねえ。

普通に従来通りに、先に織田が「これくらいならいいか。」的に岩村遠山を自領土に接収して、
それに対して岩村と武田が反発して、西上策戦開始の一要因となる、という流れの方が
流れ的に特に問題がないように思われる次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

775 :
5行以上はあぽんする機能つけてくれないかな?

776 :
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12101762977
この質問者はねぇ。と一緒だな。全否定されててここと一緒

777 :
>>751
そうそれ。
義昭の行動が毛利を追い込んで結果毛利は同盟破棄して織田に攻め込んだと。
義昭がわかってやっていたのなら義昭もなかなかにえげつない。

778 :
ああ、失敬しました。>>759の人にレスをしておりませんでしたねえ。
>>759
いやいやいや、相変わらず、都合が悪くなると、
必死になって他の人と同一認定をなさられる事に
狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
私はその人とは完全に別人なのですけれどねえ。
そもそも、そこに書き込んだ事自体がありませんですしねえ。

で、いつも通りに必死になって、必死な織田厨さんであらせられる貴方は
オープンの方で貴方ご自身がお認めになられておられます、複数端末による複数ID自演や多数派装いによる連投を
必死に繰り返されながら、いつも通りにこれまでに何度も指摘されてきた事を、
必死になってスルーなさられようとなさられながら、お喚きになられようとしておられるご様子のように思われますが、
何度も何度も指摘の方をこちら側からさせていただいておりますのを、
相変わらず貴方は都合の悪いところをスルーする事に躍起になっておられるご様子では
ありますが、既に東美濃岩村遠山は武田側の城になっておりますし、
信濃から美濃に入るのに特に問題はないと思われますし、
そもそも、後の1582年の織田の武田攻めの時におきましても、
普通に信長公記に、織田勢が岩村口から信濃に侵攻した、と記述されておりまして、
このルートは信濃から美濃に攻め入る、あるいは美濃から信濃に攻め入る、という場合における
普通のルートであったと思われる次第でございまして、
特に問題はないように思われる次第なのでございますが、この件につきましては、如何なものでございましょうかねえ。

全否定も何も、このスレで上記のような論旨を、
具体的に論旨でもって否定なさられておられる織田厨さんの御方さんはおられないように思われますし、
貴方が全否定をおやりになられる、というのでございましたら、
論旨でもってご説明とご論証の方をいただきたいと思いますので、
何卒おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

779 :
>>776
ああ、失礼いたしました。私が>>759のレスにレスをしていなかった事で、
それを連呼するのが有効な手段なのかもしれない、と貴方が妄想願望なさられてしまったのかもしれないとは思いますが、
私はその人とは完全な別人でございまして、相変わらず、都合が悪くなると、
必死になって他の人と同一認定をなさられる事に
狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
私はその人とは完全に別人なのですけれどねえ。
そもそも、そこに書き込んだ事自体がありませんですしねえ。

で、いつも通りに必死になって、必死な織田厨さんであらせられる貴方は
オープンの方で貴方ご自身がお認めになられておられます、複数端末による複数ID自演や多数派装いによる連投を
必死に繰り返されながら、いつも通りにこれまでに何度も指摘されてきた事を、
必死になってスルーなさられようとなさられながら、お喚きになられようとしておられるご様子のように思われますが、
何度も何度も指摘の方をこちら側からさせていただいておりますのを、
相変わらず貴方は都合の悪いところをスルーする事に躍起になっておられるご様子では
ありますが、既に東美濃岩村遠山は武田側の城になっておりますし、
信濃から美濃に入るのに特に問題はないと思われますし、
そもそも、後の1582年の織田の武田攻めの時におきましても、
普通に信長公記に、織田勢が岩村口から信濃に侵攻した、と記述されておりまして、
このルートは信濃から美濃に攻め入る、あるいは美濃から信濃に攻め入る、という場合における
普通のルートであったと思われる次第でございまして、
特に問題はないように思われる次第なのでございますが、この件につきましては、如何なものでございましょうかねえ。

全否定も何も、このスレで上記のような論旨を、
具体的に論旨でもって否定なさられておられる織田厨さんの御方さんはおられないように思われますし、
貴方が全否定をおやりになられる、というのでございましたら、
論旨でもってご説明とご論証の方をいただきたいと思いますので、
何卒おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

780 :
しかしまあ、>>776の人は、全否定されている!とお喚きになられているご様子ではありますが、
実際には具体的に論旨でお述べになられてはおりませんし、こちら側のレスにおいて、
都合の悪い所は必死にスルーなさられようとして、必死に喚かれようとなさられているように
思われてしまいます次第なのでございますし、全否定されている!とお喚きになられるのでございましたら、
>>778>>779で述べられている事などにつきまして、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

781 :
岩村から濃尾平野に武田主力三万が侵攻なんて、武田惨敗フラグとしか思えないがな。
敵のホーム、退路は隘路、平地で倍の兵力とぶつかる。ランチェスターの法則通りの結果しか見えない。
信玄は菅沼ではないから、そんな無謀なことはしない。結果、史実の侵攻ルート。

782 :
>>781
でましたねー、苦しくなると、菅沼なんたら認定やら、アスペなんたら認定やら、
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

で、当時の織田は武田西上軍三万に倍するだけの兵力を動員する事は到底無理と思われますし、
一方面に主力として出せる兵力は武田と同じかそれ以下、と思わますし、
そもそも朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
さらにはそもそも、後の1582年の織田の武田攻めの時におきましても、
普通に信長公記に、織田勢が岩村口から信濃に侵攻した、と記述されておりまして、
このルートは信濃から美濃に攻め入る、あるいは美濃から信濃に攻め入る、という場合における
普通のルートであったと思われる次第でございまして、
特に問題はないように思われる次第なのでございますが、この件につきましては、如何なものでございましょうかねえ。

783 :
しかしまあ、長篠におきましても、北陸方面軍まで動員してやっと三万ですのに、
何をどうやったら、この信玄西上の時の織田が6万もの兵力を美濃に動員できると
思われますのか、についても>>781の必死な織田厨さんには
ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

784 :
というか、史実のルートとか、いつもの必死な織田厨さんは
おっしゃっておられるご様子ではありますが、
実際には信玄自身が美濃に侵攻して朝倉・長島などと連携して織田を打ち倒す、
という計画を書状で述べておりますのに、
何を言っているのかとは思うのでございますけれどねえ。
この件に関しましても、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

785 :
まさか長島一向一揆が美濃に侵攻って意味か?

786 :
>>785
ええ、そうですよ。
史実でも、
普通に長島は北伊勢豪族衆を味方につけて、
美濃に侵攻・焼き打ちとかを行っておりますし、
信玄の策戦計画でも重要な存在と位置付けられておりますしねえ。

787 :
まさか、今度は必死な織田厨さんは、
武田がなぜか美濃侵攻できない!(勝頼も普通に岩村から東美濃侵攻したり、
後年の武田攻めでも織田勢が岩村口から侵攻してる事が信長公記にしっかり書いてある。)
朝倉は越前から美濃への侵攻ができない!(朝倉宗滴時代に2回、それ以外にも宗滴ほどに有名でもない普通の朝倉家の武将達も
複数回、越前から美濃への侵攻を行っている。)
の二つが無理になってきましたように思われますからといって、
今度は長島が美濃への侵攻ができない!をご主張なさられようとなさられるのでございましょうかねえ。
史実でも普通に長島は美濃への焼き打ちとかをやっておりますし、そもそも逆ルートで織田が長島に攻め込んだりしてますし、
という感じですしねえ。

788 :
>>787
確かに長島一向一揆はやるときゃやるが所詮身の回りだけの事、お金も兵糧もそんなにあるわけではないので岐阜城までの遠出はしない、武具類もそんなに凄くない、それに石山本願寺と違って対して強くない

789 :
>>788
いやいやいや、伊勢長島が侵攻できない、という事自体を、
貴方が論証しているわけではありませんので、まずは資料を基にして論証をなさられる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、
ご論証のほうをよろしくお願いいたしますかねえ。

普通に長島は美濃への焼き打ちとかもやっておりますし、
他国の北陸一揆なども他国への侵攻を行っておりますし、
長島はそれと並ぶだけの本願寺地方支部の要地ですし、
強くない、とか言われておりますが、織田一族のこもる城を攻略し、
織田勢主力を2度も撃退して殿軍部隊を壊滅させ、という感じで戦果をあげている
伊勢長島が強くない、というのは明らかにおかしいと思われますので、
貴方が述べられている事柄について、資料を基にして論証される事から
おはじめになられていただきたいと思いますので、
おはやめにご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

他にも、あなたが発狂逃亡中の膨大なる事柄につきましても、
おはやめに論証の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

790 :
>>789
長島一向一揆なんて信長がホンキ出した途端滅んでるでしょ、所詮その程度のちょっとだけ力ある貧しい農民集、北条と同じで親戚だからちょっとだけ援軍出す程度だな、
それに信玄が美濃に入った途端、謙信が本領発揮して川中島も無視して突破してあっという間に躑躅ヶ崎か駿府まで来るかもよ、信玄はどんな時も謙信を恐れてるからな

791 :
>>777
まあそれで一番割を食ったのはおそらく大友だけどな

792 :
>>790
本気出したら、って…。
第1次長島も第2次長島も普通に信長が主力軍を率いてやって攻めても攻略できずに
撤収する所を追撃されて、殿軍部隊を壊滅させられて、という感じですし、
第一次の時は殿軍部隊の柴田が負傷し、交代した氏家隊が、
大将の氏家及びその部隊諸共に一揆勢の果敢な攻撃を受けて壊滅してますし、
第二次は一次よりも酷くて、「一の重臣」と記される林家の嫡男新次郎が
殿軍部隊を率いて、与力勢共々に、部隊ごと壊滅して死亡してますし、
さらに一揆勢の追撃を前に織田勢は暖を取る事も
態勢を整える事も出来ずに凍死者が続出し、信長自身もその中を突っ切って
夜に城に駆け込む、という状況で、
明らかに敗北、という感じなわけでございますしねえ。
ちなみに、第三次伊勢長島でも、信長が兵糧攻めにして、
一揆勢の降伏を受け入れるふりをして騙し討ちにしたにも関わらず、
必死になった一揆勢による果敢な突撃によって、織田一門10人が死亡して、
という事になっておりますしねえ。
十分に強い勢力だと思われますし、信長も普通に一次から三次まで本気で攻めて
普通にそれで上記のような多くの被害を出しているわけですしねえ。

それから、謙信は当時既に関東と北陸にかかえて、
1574年末まで東西奔走を繰り返し、この状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。
とても貴方のおっしゃられるような事は無理なように思われます次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

793 :
>>783
変な武田厨だな。
織田家の領国で戦うなら、遠征以上の動員が普通にできるぞう?
武田信玄が本願寺や朝倉なんかの他力を期待した理由は、基本的に織田の動員力に、武田遠征軍がサシで戦うのがリスキーだから。軍事評論家でなくても判りそうなものだが。

それより、武田遠征軍が美濃から侵攻して、平野で戦って勝てると思ったのはなぜかな?
それこそ武田が東美濃から侵攻するとかいう戯けた仮定の問題点だよ。

794 :
>>792
長島一向一揆に対して信長がホンキ出したのは3回目だけだ

上杉がそんな弱いわけないでしょ
信玄が恐れてるから武田の行軍がどんくさいんでしょ
謙信はいざ、と思ったら武田領に進攻ぐらいできるよ
織田や上杉がホンキ出したら武田は挟み撃ちされる

795 :
>>793
いやー、無理でしょう。そんな事をした事例はどこにもないですし、
桶狭間の時も寡兵で戦う事になったとされておりますし、
家臣達も籠城を勧めたりしてますしねえ。
そもそも、織田は兵力の動員に関しては、武田・北条・上杉などの東国大名と比して
非常に適当な放任体制だった事が指摘されており、
上記の東国大名達が出しているような、具体的な軍役指示を、
信長は生涯にわたって出すことができなかった、
という事も指摘されているわけでございますしねえ。

>武田信玄が本願寺や朝倉なんかの他力を期待した理由は、
普通にそれらがあればあるだけ有利、
という非常にシンプルな理由の方が強そうですけれどねえ。
少なくとも織田がいきなり6万も動員してくる、
なんて誰も想定してないと思われますしねえ。

逆になんで勝てないと思うのか、疑問すぎですしねえ。
上記の様に、貴方の言うような、いきなり織田が6万も動員してくる!
なんていう事は、当時の誰も想定してないと思われるわけですし、
織田自身が近場の長篠を救援するのに三万の兵を出すのも苦労してたわけですし、
この要領で、信玄西上の時に美濃に織田が動員できる兵力が
2万数千からせいぜい三万としますれば、
朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

796 :
>>794
いやいやいや、第1次も第2次も普通に信長が主力軍を率いてやって攻めても攻略できずに
撤収する所を追撃されて、殿軍部隊を壊滅させられて、という感じですし、
第一次の時は殿軍部隊の柴田が負傷し、交代した氏家隊が、
大将の氏家及びその部隊諸共に一揆勢の果敢な攻撃を受けて壊滅してますし、
第二次は一次よりも酷くて、「一の重臣」と記される林家の嫡男新次郎が
殿軍部隊を率いて、与力勢共々に、部隊ごと壊滅して死亡してますし、
さらに一揆勢の追撃を前に織田勢は暖を取る事も
態勢を整える事も出来ずに凍死者が続出し、信長自身もその中を突っ切って
夜に城に駆け込む、という状況で、
明らかに敗北、という感じなわけでございますしねえ。
ちなみに、第三次伊勢長島でも、信長が兵糧攻めにして、
一揆勢の降伏を受け入れるふりをして騙し討ちにしたにも関わらず、
必死になった一揆勢による果敢な突撃によって、織田一門10人が死亡して、
という事になっておりますしねえ。
十分に強い勢力だと思われますし、信長も普通に一次から三次まで本気で攻めて
普通にそれで上記のような多くの被害を出しているわけですしねえ。

貴方の妄想願望はともかくとして、実際に謙信は当時既に関東と北陸にかかえて、
1574年末まで東西奔走を繰り返し、1573年は北陸への遠征に費やし、
1574年は関東における味方勢力の救援に費やし、という感じでございまして、
この状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。
とても貴方のおっしゃられるような事は無理なように思われます次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

そもそも、信長自身も、「謙信を武田領土に侵攻させて当て馬にして、自身は上洛して存分にしたい。」
とか述べてるくらいですし、謙信も織田の要請を普通にスルーしてたりしますので、
謙信からしても、信長の為に自身の領国や味方勢力の為の戦いを、スルーする理由があるとは、
到底思っていなかったように思われる次第なのでございますが、
如何なものでございましょうかねえ。

普通に信玄は1572年10月から1573年2月半ばまでの4か月余で
北三河・東遠江・北遠江、などで合計して10数万石くらいの領土を攻略しているわけでございますし、
十分にはやく動いているようにも思われますしねえ。

797 :
>>791
でもそれなければ大友は毛利と島津を同時に相手にする羽目になったかも、
史実だと毛利は織田と戦いつつ大友も一応相手にしてるので。

まあ島津が日向北部より肥後肥前優先する可能性もあるが。

798 :
もう、ねぇはこのスレに来ないでくれ。
他人の意見をいっつも自分の持論で押しつぶすだけ。
少しは「あーそうですね」とか言えんのか?
あるいは反対意見は織田派とか織田厨と言う始末。
もうお前の考え方はよくわかったから、このスレには来ないでくれ。
迷惑だ。

799 :
>>796
だから長島一向一揆に関してはホンキ出したのは3回目だけだと言ってるだろ
1・2回目はホンキ出してないからそうなってる
しかも織田はすぐ兵、出せるだろ
更にそれ全て織田が攻めてるからな
長島一向一揆が美濃に攻め入っても大したことない、北条と一緒で親戚とか同盟とかの都合でちょこっと援軍出す程度だろ
長島一向一揆の大方が岐阜に行くわけない、銭も武器も兵糧米もそんなにないだろうが
朝倉も撤退しとるしな
ねえは上杉の評価、とんでもなく低いな
謙信、結構頭いいぞ
武田の行軍が長引けば長引くほど上杉の脅威に怯えるだけだ

800 :
だいたい美濃に攻め入った間に上杉謙信が信濃か西上野に派兵したらどうするんだ。

美濃からすぐに撤退なんてできるわけない。
武田側は春日まで動員してるから、北信濃や西上野で名のあるので残ってるのは真田幸隆だけ。

上杉謙信が出てくるかもしれない、それだけで武田は常に背後を気にする必要に迫られる。

801 :
>>799
いやいやいや、本気出しても2回とも攻略できなかったからこそ、
三回目は兵糧攻めにした後に騙し討ち、という事になってますしねえ。
で、その三回共に第一次の時は殿軍部隊の柴田が負傷し、交代した氏家隊が、
大将の氏家及びその部隊諸共に一揆勢の果敢な攻撃を受けて壊滅してますし、
第二次は一次よりも酷くて、「一の重臣」と記される林家の嫡男新次郎が
殿軍部隊を率いて、与力勢共々に、部隊ごと壊滅して死亡してますし、
さらに一揆勢の追撃を前に織田勢は暖を取る事も
態勢を整える事も出来ずに凍死者が続出し、信長自身もその中を突っ切って
夜に城に駆け込む、という状況で、
明らかに敗北、という感じなわけでございますしねえ。
ちなみに、第三次伊勢長島でも、信長が兵糧攻めにして、
一揆勢の降伏を受け入れるふりをして騙し討ちにしたにも関わらず、
必死になった一揆勢による果敢な突撃によって、織田一門10人が死亡して、
という事になっておりますしねえ。
十分に強い勢力だと思われますし、信長も普通に一次から三次まで本気で攻めて
普通にそれで上記のような多くの被害を出しているわけですしねえ。

ですから、長島も普通に美濃に侵攻して焼き打ちとかしてるんですってば。
>銭も武器も兵糧米もそんなにないだろうが
なかったら上記のような戦果は
まず不可能なように思われるわけでございますしねえ。
朝倉も普通に三月には出てきてますしねえ。

いやいやいや、いくら謙信が強くて優秀であったとしましても、
関東には北条、北陸には北陸一向宗、という強大なる敵勢力を抱えて、
東西奔走を1574年末まで続けている状況で、
さらに武田勢主力と戦えると思う程に謙信は前向き主義ではないように
思われますしねえ。
っていうか、実際にこの状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。
とても貴方のおっしゃられるような事は無理なように思われます次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

そもそも、信長自身も、「謙信を武田領土に侵攻させて当て馬にして、自身は上洛して存分にしたい。」
とか述べてるくらいですし、謙信も織田の要請を普通にスルーしてたりしますので、
謙信からしても、信長の為に自身の領国や味方勢力の為の戦いを、スルーする理由があるとは、
到底思っていなかったように思われる次第なのでございますが、
如何なものでございましょうかねえ。

802 :
史実から考えてまず攻めてくることは無いだろうが、
それでも武田が攻めてくるかもしれないと気にする必要はあるな、
実際史実でも気にしているし。

803 :
何かわかりにくい文章になったな。

史実から考えて上杉が武田に攻めてくることはまず無いだろうが、
それでも武田は上杉が攻めてくるかもしれないと気にする必要はあるな、
実際史実でも武田は上杉の動向気にしているし。

804 :
>>800
ですからあ、謙信は北陸と関東の両方に敵を抱えて、
1574年末まで東西奔走を繰り返している状況でございますし、
信長の方から「北陸とか一時置いても、武田領土に侵攻して!」と要請されても
普通にスルーして、北陸遠征とかを続けている次第でございますし、
結局、信玄死亡後も普通に1573年一杯を北陸遠征に費やし、
その後は1574年からは関東で北条に攻められている関宿や羽生の救援の為に
1574年末までを関東での戦いに費やす、という状況になっているわけですしねえ。
この状況で、信長の為に自身の抱えている敵をスルーしてまで、武田領土に侵攻する理由が
当時の謙信にあるとは考慮しにくいと思われますし、
そもそも、実際にこの状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。

805 :
>>798
いやいやいや、これまでのこのスレなどは、普通に織田派の人とかが、
必死になって「包囲網側が優位になりうるのでは?」的な意見に対して
「包囲網側が織田に対して勝つ事はぜっっっっっったいに不可能!」的に喚かれて
「信長の勝利は絶対的に確定!」的に勝鬨をあげる、的な流れが
繰り返されていたようですのに、
こちらが資料などを基にして論を述べましたら
そのようにいわれましてもねえ、と思いますしねえ。

806 :
>>804
1574年まで上杉謙信が東奔西走する、は歴史を知っている我々だから言えること。ましてや美濃になると、北信濃や西上野、あるいは越後の情報収集には時間がかかる。

上杉謙信が来るかも。それだけで武田は背後を気にする必要がある。

信長のため、ではなく謙信自身のためだろ。何のために村上や島津、高梨らの豪族を庇護してたと思ってるんだ。

だいたい武田は勝頼の時代には、春日を北信濃の抑えに残していたから上杉謙信を全く気にしてないわけではないだろ。

807 :
>>806
ですからあ、まず武田と再同盟した北条は上杉との再敵対を行い、
関東管領上杉傘下の関東諸侯達への侵攻を行っておりますね。
この信玄西上の時期におきましても、そういった関東諸侯達からの救援要請や
謙信からの関東への遠征宣言などは出されており、
北条が侵攻をしている関東への救援問題は、謙信にしてみれば、
決してスルー出来るものではなかった事がわかるわけですねえ。
で、北陸一向宗に関しましても、信玄の扇動によって謙信と敵対し、
謙信が一時北陸一向宗と和睦を行いそうになった時にも
信玄は再扇動して謙信と戦わせる事を行っており、
結局、謙信は1573年一杯を北陸での遠征に費やすわけですしねえ。
信玄からしますれば、謙信を防ぐための北陸一向宗が健在な上、
関東で北条が侵攻を続けている以上、武田領土にわざわざ侵攻してくる可能性が
非常に少ない事は考慮していたでしょうし、それは謙信が信玄西上の前に
信長斡旋の武田との和睦に大いに乗り気になっていた事からも
重々承知していたように思われる次第でございますかねえ。

>信長のため、ではなく謙信自身のためだろ。何のために村上や島津、高梨らの豪族を庇護してたと思ってるんだ。
ですから、それらの為に、ただでさえ北陸と関東に敵を抱えている状況で、
さらに武田主力軍まで敵に回して三方向同時策戦をやらなければならない、なんていう理由が
謙信のどこにあるのかと、非常に疑問に思われますしねえ。
実際に謙信としてはそれどころの話ではなく、この状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。

それは、謙信が北陸をひと段落させ、関東問題も、
謙信としては非常に不本意ながら、関宿や羽生といった救援対象を攻略されてしまい、
謙信が行動選択の自由を保有していた、という状況が1575年初めには生まれていたからこそ、
武田は謙信対策として一万の兵と香坂を残しているわけですし、
謙信が忙しかった1574年の高天神城への侵攻とかは普通に2万5千もの軍勢を動員したと
されておりますしねえ。

808 :
勝頼の時代は越中介入はしなかったからな。
まあ織田徳川相手が手一杯で越中まで介入する余裕がなかっただけだが
そもそも武田と上杉の石高は2倍以上に開いてた状況で越中、関東に比べ
旨みの少ない武田領に侵攻する理由がない

809 :
ですよねえ。
まあ、それ以前に謙信としては
「関東と北陸の両方に敵を抱えている状況なのに、
この上、武田勢主力の相手までできるか!」っていう感じだからこそ、
信長の「北陸を一時置いておいても、武田領土に侵攻して!
(本音:俺としてはお前達上杉が武田勢主力と戦ってる間に、
上洛して存分にするけどなあ!)」とかの侵攻要請をスルーしたり、
信玄西上の前の信長斡旋の武田との和睦に、大いに乗り気になって、
受け入れようとしていた、と思われる次第でございますしねえ。

810 :
ねえは一体何言ってんの、信玄贔屓にも程がある
武田や北条は自分の領地の事しか考えてないからいつまでたっても上杉を倒せないんだろ、協力って言ってもホンキで援軍が攻撃した事なんて1度もない
謙信が今のこの状況の元を正せば武田の所為だから根元を断つ意味で関東を放ってでも信濃に進攻はあるぞ、それぐらいのチカラは十分ある
それに北条は自領以外は放ったらかしだよ、今まで通りにな、武田にホンキで協力したりしないな

811 :
>>810
>ねえは一体何言ってんの、
普通に史実のご説明をさせていただいている次第でございますかねえ。

いやいやいや、武田に協力、とかではなくて、北条が自身の関東制覇の目標の為に
普通に上杉傘下の関東諸侯に侵攻を続ければ、
関東管領である上杉謙信としてみますれば、
救援の為の遠征を出さざるを得ないわけですし、実際に出しているわけですしねえ。
信玄が西上を行っている時にも、
普通に謙信は関東への遠征宣言的な書状を出しているわけですしねえ。
それ以上に自身の領土非常に近場で敵対してきている北陸一向宗との戦いは
より差し迫った問題ですので、まず謙信は1573年一杯を北陸での戦いに費やし、
1574年一杯を関東での、北条に侵攻されて攻略されそうになっている、
関宿やら羽生やらの救援やらに費やしている、という次第なわけでございますしねえ。
別に武田贔屓でもなんでもなく、単に当時の謙信の状況的には、
北陸と関東で非常に大変な状況になっており、それらを差し置いてまで
武田領土に侵攻して、武田勢主力まで敵に回して三方面策戦をやるような
理由も必要性も余裕も保有していない、
という非常にシンプルな状況があるだけの話でございますしねえ。
だからこそ、信長の「北陸を一時置いておいても、武田領土に侵攻して!
(本音:俺としてはお前達上杉が武田勢主力と戦ってる間に、
上洛して存分にするけどなあ!)」とかの侵攻要請をスルーしたり、
信玄西上の前の信長斡旋の武田との和睦に、大いに乗り気になって、
受け入れようとしていた、と思われる次第でございますしねえ。
実際に謙信としてはそれどころの話ではなく、この状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。

812 :
>>811
何言ってんの
武田が美濃に入ったらの話
状況変われば全て変わるぞ
それが戦国

813 :
>>812
ですからあ、武田が美濃に行こうが、三河遠江に侵攻しようが、
当時の謙信にとっての差し迫った問題であり、
謙信自身が1574年末まで、それらの為に東西奔走し続ける事になる、
北陸問題と関東問題がいきなり消滅したりはしない、という
非常にシンプルな問題なわけですしねえ。

別に武田贔屓でもなんでもなく、単に当時の謙信の状況的には、
北陸と関東で非常に大変な状況になっており、それらを差し置いてまで
武田領土に侵攻して、武田勢主力まで敵に回して三方面策戦をやるような
理由も必要性も余裕も保有していない、
という非常にシンプルな状況があるだけの話でございますしねえ。
だからこそ、信長の「北陸を一時置いておいても、武田領土に侵攻して!
(本音:俺としてはお前達上杉が武田勢主力と戦ってる間に、
上洛して存分にするけどなあ!)」とかの侵攻要請をスルーしたり、
信玄西上の前の信長斡旋の武田との和睦に、大いに乗り気になって、
受け入れようとしていた、と思われる次第でございますしねえ。
実際に謙信としてはそれどころの話ではなく、この状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。

814 :
何言ってんの
武田は単身美濃入りした時点でお陀仏だよ
そこまで行けるかどうかも分からんがな

815 :
>>814
いやいやいや、当時の武田は既に東美濃岩村遠山を制圧しており、
美濃侵攻への橋頭保を確保している次第でございますし、
勝頼時代もここから美濃へ侵攻を行い、
後年の武田攻めでも織田側が岩村口から信濃に侵攻した事が信長公記に
書いてありまして、普通に侵攻に問題はないと思われる次第でございますし、
織田自身が近場の長篠を救援するのに三万の兵を出すのも苦労してたわけですし、
この要領で、信玄西上の時に美濃に織田が動員できる兵力が
2万数千からせいぜい三万としますれば、
朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

816 :
ねえよ、同じ長文を何回も出すな

武田は損得勘定で繋がってるだけだから滅んだ
そこに属してても得がないとなった時点で中身がスカスカになるのが侵略だけのお家、
それが、た・け・だ

817 :
>>816
いやいやいや、単に貴方が、既に前にも説明されている事などを
必死になって都合悪い所をスルーして喚かれようとなさられいるように思われますので、
普通に前に書いたようなレスで示した方が、労力の節約にもなりますしねえ。

いやいやいや、別にそのような事はなく、
なんだかんだと数十年にわたって拡大と存続を続けて家ですし、
そもそも、その要領でいいましたら、本能寺以後の織田家とかは
まさにそれのように思われる次第でございますしねえ。

818 :
もし西上作戦でなく上杉領への北上作戦を行っていたら成功しただろうか?

819 :
>>816
ねぇには何言っても無駄だから。
美濃攻めで織田が長島に向かえば、朝倉に向かえば、とかめちゃくちゃ言っている時点でお察し。

敵地、しかも敵の本拠地でそんな軍事活動月できるとか考えている時点でどんなに理論を尽くしても無駄だから。

朝倉義景の実力、長島の実力を完全に無視してこんな妄想言ってる奴に何言っても全く無駄だから。

820 :
何言ってんの
武田の最期は死に場所もなかったぞ
武家とは思えないみっともない滅び方だ
武家史上最も悲惨な滅亡の仕方だぞ

821 :
>>815
朝倉義景や長島はすげーよ。
武田信玄が来ただけで、美濃攻めできる力があるのか。

822 :
>>820
ねぇにはどんなに理論尽くしても無駄だから。

823 :
>>819
まあ、そうだろうな

824 :
>>819
いやいやいや、いつも通りに必死になって、捏造曲解やらレッテル貼りやらに狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
織田自身が近場の長篠を救援するのに三万の兵を出すのも苦労してたわけですし、
この要領で、信玄西上の時に美濃に織田が動員できる兵力が
2万数千からせいぜい三万としますれば、
朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

>敵地、しかも敵の本拠地でそんな軍事活動月できるとか考えている時点で
長期遠征に関しましては、北条早雲が三年だの、上杉謙信が飢饉の関東諸侯に撤収したいといわれるまでにも10か月以上だの、
毛利が2年近くだの、これまでに何度も提示されているように思われますしねえ。
朝倉に関しては、宗滴時代に2回、それ以外の普通の武将達も普通に越前に美濃から侵攻しておりますし、
長島も普通に美濃に焼き打ちをとかを行ってますし、他の一揆勢の侵攻とかを考慮しましても、
長島の戦果や戦力などを考慮しましても、それらができないとは到底考慮しにくいと思われる次第でございますが、
如何なものでございましょうかねえ。

825 :
>>820
織田が言えた義理ではないと思われますしねえ。
>>821
長期遠征に関しましては、北条早雲が三年だの、上杉謙信が飢饉の関東諸侯に撤収したいといわれるまでにも10か月以上だの、
毛利が2年近くだの、これまでに何度も提示されているように思われますしねえ。
朝倉に関しては、宗滴時代に2回、それ以外の普通の武将達も普通に越前に美濃から侵攻しておりますし、
長島も普通に美濃に焼き打ちをとかを行ってますし、他の一揆勢の侵攻とかを考慮しましても、
長島の戦果や戦力などを考慮しましても、それらができないとは到底考慮しにくいと思われる次第でございますが、
如何なものでございましょうかねえ。

826 :
>>822
実際には貴方とかは、理論とかを駆使なさられようとなさられている、と言いますよりは、
「それをされると信長がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃああああああ!」
というような事に関して、必死に資料を用いた論証などをなさられずに、必死にあおり罵倒やら
貴方がオープンでご自身でお認めになられている所の、複数端末を用いての必死な複数ID自演やら
多数派装いに狂奔して、必死にレッテル貼などに狂奔して、なんとかして相手側を罵倒して否定したい、
という事などに躍起になっておられるように思われる次第なのでございますが、
それらの件に関しましては、如何なものでございましょうかねえ。

827 :
>>823
いやいやいや、いつも通りに必死になって、捏造曲解やらレッテル貼りやらに狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
織田自身が近場の長篠を救援するのに三万の兵を出すのも苦労してたわけですし、
この要領で、信玄西上の時に美濃に織田が動員できる兵力が
2万数千からせいぜい三万としますれば、
朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

>敵地、しかも敵の本拠地でそんな軍事活動月できるとか考えている時点で
長期遠征に関しましては、北条早雲が三年だの、上杉謙信が飢饉の関東諸侯に撤収したいといわれるまでにも10か月以上だの、
毛利が2年近くだの、これまでに何度も提示されているように思われますしねえ。
朝倉に関しては、宗滴時代に2回、それ以外の普通の武将達も普通に越前に美濃から侵攻しておりますし、
長島も普通に美濃に焼き打ちをとかを行ってますし、他の一揆勢の侵攻とかを考慮しましても、
長島の戦果や戦力などを考慮しましても、それらができないとは到底考慮しにくいと思われる次第でございますが、
如何なものでございましょうかねえ。

828 :
武田は斎藤の美濃を攻めろっていう連中がいるけど、こんなもんは絶対無理だぞ
武田の斎藤の関係は同盟するまでもなく不戦状態だった
なぜかというと武田と斎藤の外僧が師弟関係だったから

武田攻め時に美濃から甲斐に逃れていた快川紹喜を殺したのが明智の本能寺の変の原因とも言われてて
明智はこの僧と同族だったのね

829 :
>>825
ホントに一向一揆が凄かったら、とうの昔に顕如が天下おさめてるよね

830 :
>>829
貴方にとって「凄い」とか「強い」とかの基準は日本全国を統一できるかどうか、
なのでしょうか。その基準ですと、強いとか凄いとかの基準には
織田も普通に入らなくなると思われるわけでございますしねえ。
この場合の長島などに求められている強さは、単に美濃尾張その他の領土を保有しているだけの
大大名クラスである織田に対して、普通に侵攻して領土を攻略していけるくらいの強さ、ですので、
織田主力軍を相手に複数の戦果をあげている長島一向宗には、十分にそれだけの強さが備わっていると思われますので、
特に問題はないかと思われますかねえ。

831 :
一向一揆の場合、織田や上杉サイドも同じ宗派の家臣がいたから
完全に殲滅できなかったと言う事情もあるよ
あと戦国で一番強かったのは雑賀衆でしょう

832 :
>>825
宗滴ができたから、その他の普通の武将ができたから、北条早雲ができたから、毛利ができたから、上杉謙信ができたから。

武田にもできる。朝倉にもできる。長島にもできる。

こんな考え方している時点でどんな理論尽くしても無駄。

単なる焼き討ちを敵領侵攻と同じように考える。

最早何言っても無駄。

833 :
>>830
長島一向宗に岐阜まで行けって言っても無理だよ、一地方の農民だし貧乏だし長引けば生活が苦しくなるだけだよね

834 :
>>832
それだけの事例があって、特に問題もないと思われますのに、
それをされると信長がシミュレーション上で不利になる時にだけ、
絶対にできないと言い張られる、貴方の方が論旨的に不可思議に思われますので、
まずは貴方のおっしゃられている事について、資料を基にしての論証の方を
よろしくお願いしたいと思いますので、おはやめに論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>833
いやいやいや、他の一向宗、例えば北陸一向宗も畿内の一向宗とかも、普通に他国への遠征を行っておりますので、
岐阜に長島が攻め込むくらいの事は、距離から考慮しましても普通に可能であると思われますしねえ。

835 :
長期遠征を説明すると
武田は半農半兵だから長期遠征はできないというが、これは間違い
そもそも遠征とはどこまでの距離を指すのか?
秀吉の九州平定や朝鮮出兵でしょう
例えば、長篠の合戦の時の織田兵は戦の合間に尾張に一時帰国して休んでいたとか
つまり隣国を攻めの時は、自国との兵の往来は盛んで兵糧の心配は殆どなく
収穫の時でも戦争をしながら収穫も可能だった

そもそも日本の戦争は兵たんとい概念が殆ど存在していなかった
中国や欧州の様な遠征がなかったら
秀吉の朝鮮出兵の失敗は日本軍の兵たん軽視が要因でしょう

武田も長期戦は可能だったと思われる

836 :
>>834
大ビンボーになるの嫌だからしない

837 :
>>836
いやいやいや、他の一向宗、例えば北陸一向宗も畿内の一向宗とかも、普通に他国への遠征を行っておりますので、
岐阜に長島が攻め込むくらいの事は、距離から考慮しましても普通に可能であると思われますしねえ。
に問題もないと思われますのに、
それをされると信長がシミュレーション上で不利になる時にだけ、
絶対にできないと言い張られる、貴方の方が論旨的に不可思議に思われますので、
まずは貴方のおっしゃられている事について、資料を基にしての論証の方を
よろしくお願いしたいと思いますので、おはやめに論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

838 :
>>837
岐阜城って容易に落ちない
メッチャ高いとこにある
何ヶ月も籠城されたらどうするの
他国の一向宗が多勢でそんなとこ行くかっ、
武田に銭貰って食べさせてもらうのか

839 :
>>835
長篠の織田兵は戦の合間に尾張に帰る。
長篠の合戦は1575年5月21日のたった1日の合戦。どこに戦の合間があるの?

840 :
>>838
いや、行ってますってば。北陸一向宗は何度も越前とか、他の北陸の国とかに侵攻してて、
普通に戦国大名の軍勢と変わりないわけですしねえ。
志賀陣の時も朝倉浅井勢には一向宗の軍勢も加わっていたとされ、
何か月も織田との対峙戦を行っているわけですし、
天文一揆の時も長期にわたって他国で戦ったりしてますしねえ。
むしろ、できない理由の方がないように思われますので、
特に問題もないと思われますのに、
それをされると信長がシミュレーション上で不利になる時にだけ、
絶対にできないと言い張られる、貴方の方が論旨的に不可思議に思われますので、
まずは貴方のおっしゃられている事について、資料を基にしての論証の方を
よろしくお願いしたいと思いますので、おはやめに論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

841 :
>>840
加賀とは北陸とは状況が違う
石山本願寺だって毛利に食べさせて貰ってた
岐阜城周辺に伊勢長島一向宗が多勢で長期間滞在できるわけない
長期間そいつらを食べさす資金も兵糧も武田にはない
朝倉は出てこない
そしてとうとう上杉が動き出す

以上

842 :
>>839
織田兵は18日に到着している
その前後で織田兵は尾張に帰ったり、また戦争が始まってても帰ったままで全兵力で戦ったわけじゃないでしょう
そもそも武田が退路確保に突撃した戦いなんだからいつ始まるか織田には分からない

当時の戦争とはこんな感じで以外とゆるかった

843 :
>>841
いやいやいや、基本的な軍隊構造として、長島でも北陸でも同様ですし、
そもそも、長島は北陸とならぶ、本願寺地方支部の要衝ですし、
出来ない理由は特にないわけですしねえ。
>石山本願寺だって毛利に食べさせて貰ってた
それは、周囲を織田に包囲・封鎖された結果、毛利から兵糧を補給されただけの事で、
それまでは普通に自分たちの兵糧は自分達で賄っているわけでございますしねえ。
>岐阜城周辺に伊勢長島一向宗が多勢で長期間滞在できるわけない
いやいやいや、上記のような感じで、普通にできると思われますしねえ。
>長期間そいつらを食べさす資金も兵糧も武田にはない
ですから、普通に上記のような感じで、長島も普通に自身の兵糧は自身で賄って
遠征を行うと考慮される次第でございますしねえ。
>朝倉は出てこない
いやいやいや、ですから1573年3月には普通に出陣してきているわけですしねえ。
>そしてとうとう上杉が動き出す
いやいやいや、別に武田贔屓でもなんでもなく、単に当時の謙信の状況的には、
北陸と関東で非常に大変な状況になっており、それらを差し置いてまで
武田領土に侵攻して、武田勢主力まで敵に回して三方面策戦をやるような
理由も必要性も余裕も保有していない、
という非常にシンプルな状況があるだけの話でございますしねえ。
だからこそ、信長の「北陸を一時置いておいても、武田領土に侵攻して!
(本音:俺としてはお前達上杉が武田勢主力と戦ってる間に、
上洛して存分にするけどなあ!)」とかの侵攻要請をスルーしたり、
信玄西上の前の信長斡旋の武田との和睦に、大いに乗り気になって、
受け入れようとしていた、と思われる次第でございますしねえ。
実際に謙信としてはそれどころの話ではなく、この状況で武田に攻めてこられたら大変だ、
という事で、夜中に猟師が一発鉄砲を撃ったのを、上杉側の信濃国境軍が
信玄の襲来だと大騒ぎになる程に神経質になっているのが、
当時の状況ですしねえ。

とりあえず、貴方は聞かれている事柄などについて、
資料などを基にして論証をなさられる事からおはじめになられていただきたいと
思われますので、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

844 :
>>841
何言ってもねぇには通じないよ。

845 :
>>844
いやいやいや、実際問題として>>843にも示させていただきましたように、
>>841の人が述べられている事は、
史実的な異なりが多いように思われる次第でございますし、
そのようにおっしゃられるのでございますれば、
貴方が>>841の人が聞かれている事柄などについて、
資料などを基にして論証をなさられる事からおはじめになられていただきたいと
思われますので、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

846 :
まず朝倉は思うようには動かんと思うよ
過去、十字軍や合従軍がほとんど成功しなかったのを見てもね
これが各国の連携となると余計に難しい

そもそも朝倉より武田が本当にちゃんと動くのか?が一番疑わしいかったと思うよ。
織田包囲網は武田サイドから見られがちだが
朝倉からみたら武田が一番信用できない。結果、西上しなかったからね

847 :
>>846
いやいやいや、既に1573年3月には出てきておりますし、
朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
そもそも志賀陣でも朝倉浅井がそのような戦い方を行っている、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。

いやいやいや、信玄の死亡によってそうなった事を基からの計画だったように言われましてもねえ。信玄が普通に美濃侵攻をする事も、5月侵攻を行う事も、普通に朝倉や本願寺との打ち合わせで決まっていた事ですので、特に問題はないように思われますしねえ。

848 :
だから、その信玄が寿命を計算して西上しないで
本当は三河遠江の制圧が目的だったんじゃないの?話
こんな武田を朝倉他、包囲網は信じて動くことができるのか?

849 :
>>847
特に問題ない。
大有り。
12月に朝倉義景が勝手に撤退して目算が狂ったんだろ。だから2月から4月にかけて織田軍が南近江や山城で反撃できたわけだし。

850 :
>>847
こいつがいう、長島に向かえばryとか、三者でかなり綿密な打ち合わせがないと不可能だぞ。当然、指揮官にもかなりの技量が求められるが、朝倉軍や長島軍にそんな優秀な技量を持った指揮官がいたっけ当時?

セオリー的な戦い方。
その戦い方が順調に進んだ例のほうが少ないが。
武田信玄だって、上杉謙信、北条氏康、徳川家康の三方攻撃を巧みに防いでいるしな。

851 :
>>847
そもそも、織田信長の性格からして、こいつがいうやり方で攻めたら弱い方から全力で行くぞ。だいたい、武田はしばらく放置でもいい。岐阜から岩村の距離ならびにその間の城を考えたら、いくら武田信玄でもすぐに抜けるわけがない。

その間に朝倉や長島に当たればいい。

852 :
ねぇ。のオツムは足利義昭並み
信玄が西上してくれば朝倉と挟み撃ちにして信長も一貫の終わりwww

853 :
ねぇ。よ。
話し合いに参加したいなら、特に問題ある箇所は前提として受け入れよう

孫子の兵法に反するので信玄は信濃から美濃ルートに全軍で侵攻しない
甲斐、信濃、駿河は美濃、尾張、三河に比べると石高で劣っているから長期戦になると武田勢が先に疲弊する
信玄の場当たり的な外交方針の転換により周囲は敵だらけだった

検討違いな事例を出して問題ないように思われますけどねぇ。と言うがお前以外は問題大有りだと思ってるから会話にならないんだ。まずこれらは受け入れた上で名将信玄が天下を取れる可能性があったのか考察しような

854 :
信濃から美濃入りする中山道は悪路だ
お前は織田の信濃入りと関ヶ原の別動隊が通ったからいけるというが、例示してる2件はどちらも安全が確保された上での通行だから参考にはならない
岩村、明智を攻略したとて美濃からしてみれば陸の孤島が落とされたに過ぎない。警戒して戦線をさげたといってもそれ以上進めなかったのは歴史が証明している

855 :
自身の都合で一方的に破棄した上で侵略までしたことが問題
20年継続したとか関係ないんだよ!
北条を怒らせてるから

856 :
>>854
何言っても無駄だよ。
5月侵攻とやらで、岐阜の織田軍がわざわざ岐阜から岩村に出張るとか言って、距離感とか地形を完全無視だから。

857 :
>>855
何言っても無駄だよ。
義信が死んだあと、義信の嫁(氏真の妹)を駿河に送還する際、信玄が氏真になおも同盟継続を求める誓約書を書くように求めたから、信玄は義理堅いとか言ってるバカだから。

あの時点で氏真、そして後見の寿桂尼は氏真妹の身柄を取り戻すのが最優先なんだから、信玄が言う誓約書書くのは当たり前だろうに。身柄を握られてて氏真が承諾しないわけないだろうに、それがわからないから。

それと氏真が上杉謙信と同盟結ぼうとしたから、駿河に侵攻せざるを得なくなったとか言ってる。先に信玄が信長の養女を勝頼の嫁に迎えたり、甲駿同盟の象徴である義信とその家臣を粛清した事実は完全無視だからどうしようもないよ「ねぇ」は。

858 :
>>846
ねぇ、にはなに言っても無駄だよ。
朝倉義景の数々の失態を無視して、「できる!」の一点張り。

朝倉軍が2回ほど織田軍に勝ったから「強いんだああ!」「朝倉にはまだ余力があるんだああ!」ばっかりで、戦術的勝利と戦略的勝利の区別がつかないし。

そもそも5月侵攻を本当に朝倉がする気があるなら、若狭に兵を出した3月はまだ敦賀にいた理由もわかるが、4月の時点で敦賀にいたのかわからない。

越前大野郡は加賀寄りの越前北部にあり、しかも山道だから、かなり周到な用意をして、しかも万を超える大軍だから武器兵糧その他も用意してやる必要があるはずなのに、ずっと越前南部の敦賀に留まっている。

本当に朝倉義景に美濃を攻める気があったのか怪しい。

ところで「ねぇ」君。君がいう手紙以外で、二次史料や軍記にすら、5月侵攻やる計画あったとか、そういう類の記録が見当たらないんだが、手紙以外で美濃侵攻やるという何か傍証はあるの?

859 :
>>818
西上作戦よりは実現性あるだろうけど、
それでも北条は関東優先で積極的には参加しないだろうし、
前に見捨てられた本庄も武田を信用しないだろうし、
冬は雪で信越国境閉ざされるし、仮に成功するとしても時間は凄くかかると思う。

>>821
美濃にちょっと手を出すぐらいなら可能だと思う、それが戦略的にどれほど影響与えるかは別だけど。
長島が川の対岸に渡るだけでも、広義では尾張攻め美濃攻めになるんだし。

>>828
道三時代、武田に付いた苗木攻めしとる。
義龍時代、長井が斎藤から離反して、離反した長井を武田が支援してる、という説がある。

>>832
宗滴したと言ってもあれ兵力数千の話じゃ。

>>833
長島から離れて岐阜までいったら、長島一向宗もただの雑魚になると思う。

860 :
>>849
>2月から4月にかけて織田軍が南近江や山城で反撃できたわけだし。
3月の初めには朝倉軍主力敦賀にいるんだから、朝倉が撤退しなくても織田は反撃出来たんじゃ。

>>857
氏真視点じゃ、義信死後って人質取られて武田に包囲網敷かれたようなものなんだよな。
あと義昭が上杉武田北条で三者の和睦させようって動きも氏真視点じゃとんでもないことだし。

>>858
実際誘われた朝倉だけでなく武田自身もやる気だったかどうかはともかく一次史料に文言あるのに
二次史料や軍記物に無いっていうのはどうかと。

あと軍記物でいいなら美濃じゃなくて尾張経由で上洛する予定だっけ?

861 :
三河は長い間、大国織田と今川の係争地だったこともあって
大軍が篭れる平城や平山城が多く制圧は相応の時間が必要
信玄も家康に三方ヶ原で圧勝したけど浜松城を落城させるのは困難だった

それだったら収容人員に限りがある山城しかない東濃、中濃から進むのが合理的
信玄の目的がいまいち不明瞭だが単に領土を拡張したいだけなら
三河より美濃の方が制圧は容易

862 :
>>851
信長だったら東美濃と中美濃をくれてやる代わりに同盟を選びそう
家康と謙信の領土への侵攻を黙認する代わりに畿内制圧を容認させる的な
寝技を使うだろうな

863 :
>>848
いや、ですから、その貴方のいっている事自体が
貴方が「そうなんじゃないの?」的に結果論から言い出されている、
資料などを基にしての論証などをされておられない仮説、の段階の様に思われますし、
貴方が思っているような事を、朝倉が思って、それで勝手に武田を信用しない、とか
言い出す事自体がまずありえないように思われるのですが、
如何なものでございましょうかねえ。
寿命を計算、とか言いますけれど、
当時の人間で信玄の病気がどんなものだったのか、
を完全に知っている人間は皆無なわけでございますし、
信玄の病気は西上中にも、回復と悪化を繰り返しており、
このような状況で、当時の医療技術において、
寿命を完全に予想するのは非常に難しいように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

864 :
>>849
いやいやいや、一度は朝倉が撤収した事で、武田や本願寺が朝倉を非難し、
朝倉が1573年の三月にまた出てきている、という状況でございますしねえ。

それから、2月から4月の〜、という織田の行動とは特に関係がないようにも
思われる次第なのでございますけれどねえ。
朝倉が撤収する前から、1572年の10月ごろには信長は普通に美濃の方に戻っているわけですし、
そもそもの問題として、1573年2〜4月の反撃、とかおっしゃっていますが、
実際には信長に敵対した義昭に対して「条件は貴方様のお望みの通りでいいですから
和睦しましょう!」的に言って必死に和睦を求めている次第でございますし、
2月に派遣したのも配下の武将の軍勢達だけだったようで、
信長自身は信長公記にも三月二十五日まで美濃にいた事が記されておりますし、
武田側の書状によりますと、武田側の動きを警戒して
三月のはじめごろには信長は東美濃あたりまで来ていたようですね。
で、三月二五日に美濃を出発してから、朝廷の和睦まで使って
ダッシュで義昭と和睦して、ダッシュで美濃に戻る、という感じですしねえ。
こういうと、また百済寺を焼いてる!とか言い出されそうですけれど、
何度も指摘させていただいておりますように、
百済寺を焼いたその日のうちに信長は岐阜まで戻っていますので、
相当に急いでいた事が伺えるように思われる次第なのでございますが、
如何なものでございましょうかねえ。

865 :
>>850
まーたいつもどおりに、必死になって、
「それをされると信長様がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ!」
と貴方が思われる事の難易度を、特に資料的な論証なども行われずに
必死にあげようとしておられるご様子の様に思われますが、
この戦国時代ではセオリー的な戦い方に、
別に緻密な連携、だの、優秀な技量を持った指揮官、だの、
が特に必要だとは思われないですしねえ。あればあるだけいいでしょうけれど、
複数方向から侵攻して戦う場合、その敵側の主力軍がやってきた方向では
守りを固めたり、対峙戦に持ち込んだりして、
その間に別方向から同盟軍が侵攻する、というのは、普通に戦国時代では
セオリー的な戦い方でしかないように思われますしねえ。

いやいやいや、そもそもの問題として、
志賀陣の時も包囲網側がそれを普通に行っておりますし、
それで信長が土下座降伏宣言的な書状を出して、和睦詐欺を行う事になっている、
というのも、これまでにもこのスレなどで何度も指摘をさせていただいている
次第であるように思われるのですが、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

その上杉・北条・徳川の時とはまるで状況が異なるように思われますしねえ。
そもそも、徳川は遠江の制圧や領土化を進める必要性や、他の諸事情などで、
武田領国まで攻め込むだけの余裕はなかったわけですし、
上杉・北条はそもそもが宿敵同士で、上杉は「他国の兇徒」たる北条と同盟を結んだ事で、それまで共に北条と戦っていた関東諸侯達から距離を置かれ、武田と同盟を結ばれる事になり、これで北条と共同して武田を攻めたりしたら、
武田と同盟して北条と戦っている関東諸侯との距離がさらに問題になる、とか、
様々な諸事情もあり、さらに信玄からも義昭仲介の和睦要請があって、
それを締結し、という感じで、北条との共同策戦をろくに行わなかった、
という次第でございまして、結局、武田とまともに戦う事になったのは北条だけで、
その北条は上記の様に、武田が関東諸侯と同盟を結んで対北条包囲網を構成した結果、それらとの戦いの為に東西奔走を繰り返す事になり、
武田に駿河を奪取されたばかりか、伊豆や相模などにも攻め込まれている、
という状況になっておりまして、むしろ、この武田の駿河争奪戦関係は、
武田及び関東諸侯連合による包囲策戦の成功例のようにも思われる次第なのでございますが、如何なものでございましょうかねえ。

866 :
>>851
>弱い方から全力で行くぞ。
弱い方、ってどこなのか、と思われますけれど、
長島は単独でも織田勢を2度も撃退しておりますし、
そもそも規模も数万単位ですし、守りを固められたら簡単に打ち倒せるとは
考慮しにくいと思われますしねえ。
朝倉も、志賀の陣の時に普通に対峙戦に持ち込まれて、織田は攻略する事が出来ずに、
土下座降伏宣言的な書状を出している、という次第のように思われますしねえ。

>岐阜から岩村の距離ならびにその間の城を考えたら、
岩村周辺の諸城は、前にも何度も書きましたように、信玄死亡後に
信長が岩村封じの為に、普請やら兵力込めやらを行い、それに触発されて
勝頼が東美濃侵攻を行い、一か月で東美濃18諸城を攻略した、と
されておりますし、信玄西上の時の兵力は勝頼の東美濃侵攻の時よりも
兵力的に多い次第なのでございますし、上記のような普請やら兵力込めもなく、
という状況なわけでございますから、よりスムーズに攻略ができると思われますしねえ。
さらには、美濃遠藤氏が武田に内応済みですから、そこからの支援も受けられそうに
思われる次第でございますしねえ。

867 :
>>852
いやいやいや、いつも通りに必死になって、
貴方自身がオープンの方でお認めになられておられます、
複数端末による複数ID自演によ多数派装いを行いながらの、
必死な捏造曲解によるレッテル貼りなどに狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
朝倉、長島と連携しての5月侵攻によって
武田・朝倉・長島で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
そもそも志賀陣でも朝倉浅井がそのような戦い方を行っている、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。

868 :
>>853
いやいやいや、まーたいつもどおりに、必死になって、
「それをされると信長様がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ!」
と貴方が思われる事の難易度を、特に資料的な論証なども行われずに
必死にあげようとしておられるご様子の様に思われますが、

>孫子の兵法に反するので信玄は信濃から美濃ルートに全軍で侵攻しない
一体どこがどう反するのか、具体的に論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
孫子のどこに反するのかの、具体的な孫子の記述についてのご提示を基にしてのご説明の方も
何卒よろしくお願いいたしますかねえ。

>甲斐、信濃、駿河は美濃、尾張、三河に比べると石高で劣っているから長期戦になると武田勢が先に疲弊する
武田の領国は甲斐・信濃・駿河・西上野・飛騨・東遠江・北遠江・北三河・東美濃、などですしねえ。
そもそもの問題として、武田は武田単独ではなく、包囲網側と連携しての侵攻策戦なわけですし、
信玄西上の時の状況は、普通に信長万歳の信長公記録ですら、「方々手ふさがり」と書くような状況でございますしねえ。
これらについての、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

>信玄の場当たり的な外交方針の転換により周囲は敵だらけだった
普通に信玄西上の時には北条とは再同盟しておりますし、敵側の上杉は関東と北陸に敵を抱えての東西奔走を1574年の末まで繰り返す事になっておりまして、
到底、信玄が西上する時に武田領土を攻める事など不可能なように思われますし、
徳川は単独では武田の相手はまず無理な事は西上の時に明らかになっておりますし、
三方ヶ原までの打撃によって、それから7か月以上後の長篠城再奪取の為の侵攻の時も
三千余の兵力で出陣する事になっており、という状況で、武田の背後を脅かす事は困難なように思われますし、
織田は上記の様に、信長万歳の信長公記においてさえも、当時の状況が「方々手ふさがり」と記されているような状況でございますし、
そもそも、当時の武田家には同盟勢力・友好勢力は10を超える、という状況なわけなのですが、
貴方は何をおっしゃっておられるのか、についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いやいやいや、実際には上記の様に、貴方のおっしゃられている事の方が、
史実的には多くの面において異なりが存在しているように思われますし、
ここは貴方の妄想願望を、資料や史実などの提示や論証などによらずして、
無理やりに押し通そうとなさられるスレではないと思われますので、
上記で聞かれている数々の事柄について、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

869 :
>>854
いやいやいや、普通に勝頼が、信玄が死亡してから一年も経たないうちに、
そのルートで普通に東美濃に侵攻して、東美濃18諸城を攻略している次第でございますし、
後年の織田による武田攻めの時も、普通に岩村口から信濃に織田勢が侵攻した、と書いてありますので、
普通に問題はないように思われますしねえ。
>安全が確保された上での通行
武田も普通に信濃から美濃に至る、橋頭保である岩村をしっかりと確保しておりますし、
逆方向から普通に織田も上記の様に信濃に侵攻したりしておりますので
特に問題はないように思われますしねえ。

単に武田勝頼が徳川の方を主に攻略するようにした事から、
そちらの方に進んでいないだけの様に思われますしねえ。
まーたいつもどおりに、必死になって、
「それをされると信長様がシミュレーション上で不利になるから嫌じゃあああああ!」
と貴方が思われる事の難易度を、特に資料的な論証なども行われずに
必死にあげようとしておられるご様子の様に思われますが、
とりあえず、貴方のおっしゃられる事について、資料などを基にしての論証を行われる事から
おはじめになられていただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

870 :
>>855
いやいやいや、武田は義信事件の後も今川との同盟に固執しておりますし、
今川が上杉と組んで武田を包囲する動きを示した事から、武田が機先を制して攻めこんだ、という感じですしねえ。
北条に関しては、当時は上杉との戦いの真っ最中ですし、
その上杉と組んで武田に向かってくる、というのは武田としても予想外であったように
思われますしねえ。そもそも、武田の方も、北条に対して、今川が上杉と組んで
武田を包囲しようとしていた事を伝え、それが開戦の理由であった事を述べており、
北条の方も、それを理由として上杉に対して自身達との同盟を求めたりもしておりますし、
武田勢が一度撤収した後に、北条が普通に駿河の継承権を今川から譲り受けての、
駿河の領土化を進めております事から、北条としても、領土的な野心があったようにも思われる次第でございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

871 :
>>856
はて?そのような事を私が述べましたかねえ?
具体的にレス番号の方でご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、武田側の書状におきましては、信玄から秋山に対して
1573年の3月初めに出した書状において、
「信長が東美濃に来ているようなので、すぐさま其の地に向かい、追い払え。」
的に命じていたりしますので、普通に信長は1573年3月のはじめごろには
岩村周辺の武田勢を相当に警戒していたのか、
岩村近くまで来ていたように思われる次第なのでございますが、
この件に関しましては、いかがなものなのでございましょうかねえ。

872 :
>>857
はてさて、いつも通りに必死に捏造曲解とレッテル貼りに狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
義理堅い、とは言ってませんけれど、
普通に信玄は今川に対して同盟継続を求めていた、という事は
その件で明らかになっているように思われる次第なのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

貴方は何か色々と不可思議な風な解釈をなさられているように思われますが、
こちらが問題としておりますのは、「今川が誓約書を書いた。」という事ではなく、
「武田が同盟継続を求めて今川に誓約書を書いてもらうように要請し、
書いてもらった。」という事実の方なわけでして、
貴方が言うような感じで、信玄が今川攻めをもくろんでいて、
一方的に同盟破棄をして攻め込んだ、とかいうのでしたら、
武田が「義信未亡人は今川側には返すけれど、武田と今川はこれからも同盟関係だ、
という誓約書を書いて欲しい。」と要請しているのは明らかに論旨的な矛盾が生じている事になりますし、
普通にこの事柄は、武田が今川との同盟継続を求めていた、という事を明確に示している事柄であると
思われる次第なのでございますが、これらについて、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

>先に信玄が信長の養女を勝頼の嫁に迎えたり、
何度もご説明の方をさせていただいている事ではございますが、
当時の武田は上杉と西上野で戦争をしている最中でございまして、
この上、西側で織田とも戦争をする、というのは大変なように思われる次第でございまして、
もしも今川がかつてのように強勢で、織田が武田と戦争をしようものならば、
織田の方に攻め込んでくれたりして、援護をしてくれる、というのでありましたならば、
武田の方も織田の申し入れを拒絶した事が十分に可能性があったように思われる次第なのではございますが、
実際には、当時の今川は遠江では内乱が起こり、三河では松平(徳川)が独立し、
その独立した徳川相手にも制圧をするのが困難、という状況でございまして、
到底武田と織田が戦争をする時の援護をしてくれるとは考慮しにくかったと思われますし、
研究者の方なども、普通にこの時の武田・織田同盟の成立は、武田側にとっては自国の安全保障の為であった、的に評価したりもしておりますしねえ。

>甲駿同盟の象徴である義信とその家臣を粛清した
何度もご説明の方をさせていただいている事ではございますが、
義信事件は義信の謀反が原因となっておりますし、
信玄は義信を2年近くにわたって生かしておりますし、
その死亡も病死とも自害ともいわれておりますしねえ。
その主要な側近達を粛清するにはとどめましたけれど、
別に元義信付だったからといって、皆殺しにしたわけではないように
思われますが、貴方は何をおっしゃっておられるのかと思う次第ではございますので、
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

873 :
>>858
毎度毎度思うのではございますが、必死で貼りつきながら
貴方がオープンでお認めになられておられます、複数端末による複数ID自演を行いながらの
必死な多数派装いを行われる理由は特にないように思われる次第なのでございますが、
この件に関しましても、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

失態と言いましてもねえ。信長の土下座降伏宣言和睦詐欺に騙された事、とかは
義景が美濃に侵攻するのに、特に問題になるような事ではないように思われますしねえ。
>戦術的勝利と戦略的勝利の
ですからあ、何度も指摘させていただいている次第ではございますが、
羽柴が一度朝倉浅井の侵攻を防いだ、というのをやたらと大仰に貴方が持ち上げられるならば、
織田勢主力を相手に複数の戦果をあげている朝倉や、羽柴柴田の夜襲侵攻を単独で撃退している浅井、
の強さも十分に評価されなければおかしいと思う次第なのでございますし、
これらについてのお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いやいや、4月には武田勢が信玄の病気もあって撤収を始めている状況でございますしねえ。
朝倉としては、色々と様子見をしながら、5月まで敦賀で滞在を続けていたのだと思われますしねえ。

いやいやいや、なぜに1次資料よりも、2次資料の方を貴方は優先なさられようと
なさっておられるのかが、非常に不可思議な話のように思われますしねえ。
普通は、2次資料の方と1次資料の方で記述が異なる場合は、一次資料の方が優先されるものですし、
そういう感じで、旧来の通説とかがだいぶ修正や否定をされていったりしていった、という感じなわけでございますしねえ。
2次資料を優先するのなら、斉藤道三は今でも油売りから一代で美濃を制圧した梟雄、ですが、
実際には研究者さん達とかも、一次資料の書状を基にして、道三の父親の代で、油売りから美濃に入り、長井氏に仕官して活動し
その苗字を与えられる程になり、そこから道三が様々に活動して最終的に美濃を制圧した、という
道三2代説を概ね支持している、という感じでございますしねえ。
普通に同時代資料の書状において、美濃侵攻計画が記されているいるのですから、
それで十分な話であるように思われますし、貴方は上記の事柄などについて、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

874 :
>>859
西上策戦の方も、5月侵攻が行われるのでありますれば、
十分に包囲網側には勝算があるように思われますかねえ。

正直、長島一向宗の活動から考慮しましても、
他国の一向宗の軍勢の活動から考慮しましても、遠征は普通に出来るように思われる次第なのですが、
いかがなものでございましょうかねえ。

長島一向宗が、あるいは一向宗が、他国を攻める時に雑魚になるか、
というと、各地の戦歴などを考慮しまするに、
とてもそうは考慮しにくいように思われる次第なのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。

875 :
結局このねぇとか言う奴、
織田信長でも上洛出来たのに、武田信玄が出来なかったはずがない。
出来なかったのは不公平だ!
って言ってるだけみたいだな。

本当に自分が正しいと思うなら、
こんな所に名無しで書いてないで、本を書くか最低でもブログだろう。
ただの自信がない雑魚になんで皆構う?

876 :
>>875
いやいやいや、いつも通りに議論的に苦しくなると、
必死になって捏造曲解に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
そんな事は一言も述べておりませんので、そのように述べてるレスがあるのでしたら、
具体的にレス番号の方でお示しの方をよろしくお願いしたいと思いますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

いやいやいや、その要領で言うのでしたら、そっくりそのまま、
いつも通りに必死になって、
貴方自身がオープンの方でお認めになられておられます、
複数端末による複数ID自演によ多数派装いを行いながらの、
必死な捏造曲解によるレッテル貼りなどに狂奔なさられておられるご様子であらせられます、貴方は本を書いたり、とかは特にやられておられないように思われますしねえ。
いつも通りに相手側にだけ、必死に押し付けようと躍起になっておられるご様子ではございますが、まあ、実際問題として、貴方は上記の様に、
資料をなどを基にしての論証などをなさられずに、とにかく
「織田信長様には包囲網側はぜっっっっっっったいに勝てない!」というご主張を
必死に結論ありきでお述べになられて、それに反するような論旨を提示する相手側を
必死に煽り罵倒などをして、なんとかして追い出そうとして躍起になられ、
「織田信長様には包囲網側はぜっっっっっっったいに勝てない!」というご主張で
勝鬨をあげたい、というだけのように思われる次第なのでございますが、
これらについてのお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。

877 :
>>875宛続き
ああ、それから、
そのように必死にいつも通りに議論的に苦しくなると、
必死になって捏造曲解に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
とりあえず、こちら側から聞かれて、
貴方が発狂逃亡をなさられておられる数々の事柄について
ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

878 :
ねぇ。のやつは何連続で投稿してんだ?あぼーんだらけじゃねぇか
コピペまみれの長文って時点で書き込む権利ないんだからROMってろガイキチ

879 :
>>878
いやいやいや、貴方のような、貴方自身がオープンの方でお認めになられておられます、
複数端末による複数ID自演によ多数派装いを行いながらの、
必死な捏造曲解によるレッテル貼りなどに狂奔なさられておられるご様子であらせられます、
必死な織田厨さんが、こちらに対して、あるいはこちらの論旨を必死に捏造曲解して喚かれようと
なさられておられるご様子ですので、史実や事実などの指摘や、必死な織田厨さん達の捏造曲解やら
論旨的矛盾やらについてのご回答の方を求めている、というだけの話でございますしねえ。
とりあえず、こちら側から聞かれて、
貴方が発狂逃亡をなさられておられる数々の事柄について
ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

880 :
>>878宛続き
それから、貴方のような貴方自身がオープンの方でお認めになられておられます、
複数端末による複数ID自演によ多数派装いを行いながらの、
必死な捏造曲解によるレッテル貼りなどに狂奔なさられておられるご様子であらせられます、
必死な織田厨さんが、都合の悪い事柄について必死にスルーをなさられようとなさられながら、
必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子であらせられますので、
こちらとしても前に書いていて、
貴方などが必死になってスルーをなさられようとしておられる、
前のレスなどを提示させていただくのが、こちら側としても労力の節約になり、
貴方などとながーくながーくながーく、じっくりじっくりじっくりと
議論やらご説明やら史実の提示やら、などなどを続けさせていただく事において、
非常に非常に有効であると思われる次第なのでございますので、
非常に良い方策であると思われる次第でございますかねえ。

881 :
>>851
付け城とかつくって別方面は守り固めて、主力は転戦してってのが信長のセオリーだからな
内線戦略は得意だろう

>>854
>警戒して戦線をさげたといっても
でその後方の戦線を武田が何とかするのにまた時間かかると
織田の狙いどおりって気がする

>>859
長島から離れて正面からまともに織田とぶつかったらあっさり蹴散らされそうだ
長島だって馬鹿じゃないんだろうからまともに戦うより
いくつもの小兵力にわかれて村々を荒らし回るとかするんじゃないだろうか

882 :
>>861
山城しかなくても道が険しいから簡単に塞げる分制圧は難しいと思うぞ
そもそも織田と武田が戦うというなら両者防備固めていくだろうし
特に岐阜に近づくにつれ段々本格的に固めてくると思う

>>862
中濃はやれないだろ
中濃まで完全にやったら岐阜まで10キロとかそんなもんになるぞ

883 :
>>882
美濃は山城しかないから防備を固められない。特に東美濃と中美濃は砦に
毛の生えた城ばかりなので大軍相手に持ちこたえるのは不可能
堅城と言われてた岩村城もあっさりと落城したし

884 :
あのまま進んでいたら多治見市で武田と織田が激突しそう
後世に多治見の合戦。的な戦が語り継がれてたと思う

885 :
>>881
信玄西上の時は得意の、と言えるような状況ではなかったからこそ、
信長万歳の信長公記でも普通に「方々手ふさがり」と書かれ、
信長自身も武田西上軍の動向を警戒しまくって、書状にも書き、
「謙信を武田領土に侵攻させて当て馬にして、その間に自身は上洛して存分にしたい。」
的に述べているわけでございますしねえ。

>でその後方の戦線を武田が何とかするのにまた時間かかると
>織田の狙いどおりって気がする
いやいやいや、さすがにそれはないように思われるのでございますけれどねえ。
元々、岩村封じの為に周辺の諸城を普請し、兵力を込め、というのを行っていましたら、
それに触発されて勝頼が東美濃侵攻を行い、一か月で18諸城を攻略し、
信長はそれらの救援に赴こうとしたら、険路を抑えた山県によって防がれ、という感じで
撤収せざるを得なくなり、という感じですしねえ。一か月で普請や兵力込めを行った諸城を攻略されて
戦線を後方にせざるを得なくなったのを、想定通り、とおっしゃられるのでは、
普請や兵力込めを行った時の労力や兵力の意味はどうなるのでしょうか、と思われたりもする次第でございますしねえ。
そもそも、信長自身が、この勝頼による東美濃侵攻の後で、勝頼に対する評価を大きくして、
「勝頼は信玄の掟をよく守り、表裏を心得た強敵だ!」 的に書状に書くようになっているわけですから、
普通に、岩村封じの為に普請や兵力込めを行って防衛ラインを構築した、東美濃の18諸城を
勝頼によって一か月で攻略され、防衛ラインを新たに後方に構築せざるを得なかったのは、
信長にとっては非常に衝撃的であらせられたように思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。

さすがに、数万規模の長島が陣地を築いて守りを固めて対陣したら、
普通に対峙戦になりそうに思われますしねえ。
野田福島での本願寺勢との戦いでも、信長は普通に撃退されたりしてるわけでございますしねえ。
一揆勢の戦力をあまり織田に及ばないかのように評価されるのもどうかと思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。

886 :
>>884
中々かっこいいですねえ。多治見の合戦、あるいは多治見の戦い。
言葉の響きが中々かっこいいように思われますかねえ。

887 :
ただ、武田は既に美濃の郡上遠藤を調略して、岐阜に近い鉈尾に砦を構築するように
指示してもおりますので、これを基にして織田勢と対峙するべく、
郡上や鉈尾に向かう事を武田勢はまず戦略目標としますのか、
それとも、その郡上遠藤と合流して、鉈尾の砦を基にして活動する、というのは
越前から侵攻してくる朝倉勢に任せて、
武田勢達は多治見などの方向から岐阜へ侵攻するのか、
中々に興味深い事柄の様に思われる次第でございますかねえ。

888 :
>>883
岩村城はあっさりと言うには随分時間かかってるような……
織田が取り戻す時は三河の武節城とかまで落としたうえで包囲して約半年かかってる。
恵那明智城も武田が落とした時は力攻めではなく城内の飯羽間が謀反おこしたせいだし。

889 :
織田が斎藤氏に取って代わって美濃の主になった決め手は、西美濃三人衆が織田方についたからだがな。
岩村城や明智城を抑えられたからといって、織田家に財政が極端に悪化した訳も無し。

890 :
>>889
財政で勝負したら武田は織田には絶対に勝てないよ。というか、あの西上作戦で奪った領地って、経済的にはどうでもいい山間部ばっかり。

軍事的には二俣は遠州の中心部、野田は北三河の頭の部分で確かに重要だが、経済的にはどうでもいい。

891 :
西美濃三人衆が織田方についたのも中美濃が落とされたからだからなあ
信玄がそのまま西進して中美濃を落としてたら美濃三人衆も武田に寝返りそう

892 :
武田の主力が尾張、三河をフリーして、東美濃から侵攻ねぇ…設定が狂っているとしか思えませんがな。
なんでそんな話しになったんだか?

893 :
>>892
浜松城を落として三河から尾張に侵攻する設定の方がよほど狂ってると思いますがねえ
まずはその狂ってる頭をフル活用して浜松城を落とすIFストーリーを披露して下さったらどうですかねえ

894 :
だから斎藤が健在なら武田は美濃を攻める口実がないんだよ
斎藤の外僧と武田信玄の教育係が同門で師弟関係でもある
こんなもん、駿河攻めより揉める

895 :
もし武田信玄が四時間早く家康を三方原の戦いで家康を圧倒してたら
その可能性はあったな。

896 :
>>892
地図見てたら三河まで南下してたら遠回りじゃん
信濃からすぐ西に進めば美濃に直接入れるのに〜って事らしい

信濃から街道沿いに三河に入って尾張を抜けて岐阜に進んだ方が、信濃から美濃東部の山間部をノロノロ進むより日数的にも短いって事が理解できない模様

897 :
>>896
昔、朝倉が山越えで美濃攻めできたから。
小笠原が山越えできたから。
武田も飛騨攻めできたから。
大内が尼子攻めで長期遠征できたから。
毛利が尼子攻めで長期遠征できたから。

武田も東美濃攻めくらい楽勝ということらしい。

898 :
たぶん武田信玄をハンニバルかなんかと勘違いしてんじゃないかな?

899 :
>>896
いやいやいや、普通に岩村を確保しているのですから、
そのまま北三河、あるいは信濃から進んだ方が、日数的にも
敵地の尾張をわざわざ通るよりも早く美濃に入れると思いますし
実際に普通に勝頼がそのルートで侵攻してますのに
貴方は何を言ってるのかと思うのですけれどねえ。

>>897
まーた捏造曲解してるようですけれど、飛騨攻めどうたらとか言ってないと思いますけれどねえ。
どこにそんなレスがあるといいますのか、
ご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

とりあえず、上記のように、
普通に勝頼も信濃から岩村経由で信濃に入っているので、
普通にそのまま信玄も同様のルートで侵攻できる、というだけの話でございますしねえ。

900 :
>>899
はいはいはい。勝頼とかも普通にそのルートで、
信長軍も普通にその逆ルートで侵攻してるんですけれどねえ。
必死に捏造曲解に狂奔なさられるのはどうかと思うのですけれどねえ。

とりあえず、必死な織田厨さんのその他のレスに関しましては、
今朝は忙しすぎるので、夜か明日の朝にレスをさせていただきますかねえ。

901 :
>>900
ねぇ、はやはり頭おかしいだろ。
自分のレスに自分で答えて、何自演やってるの?

お前のほうが複数ID自演やってるんじゃないの?

902 :
>>900
そのルートでは、岩村城を抑えていても濃尾平野に出られなかった武田。
お前さん頭大丈夫か?と過去レス見てみたら狂っていた。

903 :
一度現地にいってフィールドワークしてきたら
自分は長野県と岐阜県の県境から岐阜東部をまわったことあるけど
今でもあのあたりは大軍の運用なんか困難だと思うよ、ましてろくな道路もない開発もされてない当時ならなおさらだよ
関ヶ原にしても現地いったらこんな地域に10万以上の大軍がひしめいてたのかとビックリした
そうぞだともっと広いかと思ってたらそうでもないわけよ
ピーチクパーチクいってないで現地にいって自分でまわってみなよ
その上で、どうなんだろうと考えたら

904 :
>>903
ねぇ、に何言っても無駄。
山岳地帯と平坦な道のりが同じと考えている。
あるいは、こっちができたから武田信玄もできる、みたいな考え方だから馬の耳に念仏。

905 :
次スレ立てないようにお願いします

906 :
>>903
びっくりするかも知れないけど、彼はフィールドワークをしているのにあの結論なのだ

907 :
そもそも東美濃へ大軍が山越えしていけるなら、斎藤義竜が死んで龍興が継いだ時が一番の好機で、何も織田家という強大な敵を相手にする必要ないんじゃないの?

龍興相続時なら、織田家はまだそれほど強大ではないし。それをしなかったのは、やはり信濃から東美濃への大軍での侵攻が非現実的だったからではないの?

908 :
山越えは戦国時代の行軍の基本。謙信は中山道以上に厳しい
三国街道を使って何度も関東出兵してるわけだし
あと天正壬午の乱で北条が碓氷峠を超えて大軍を武田領に送り込んでる

909 :
>>908
謙信の関東出兵は領土拡大ではなく管領職として出兵しただけ
北条は惨敗して撤収してる

どちらも参考にならないので、次の方どうぞ

910 :
>>908
西上野侵攻も標高の高い碓氷峠を何回も越えて行われていたからなあ
当時の日本人の足腰の強さは現代人の比じゃない

911 :
移動するだけならそこまで問題じゃないんだよ
三国峠でも碓氷峠でもその狭い隘路を塞がれたわけじゃないし
その周囲に敵がいたわけでもない
峠越えた先に策源地となる土地勢力もあったし移動出来るのは当然
まあ天正壬午の北条の方は兵力と比べて策源地貧しい距離長い兵站切られて負けたが

関ヶ原の秀忠も木曽東濃は移動しただけだし
信忠の武田討伐も隘路となる東濃から高遠まではほぼ移動しただけ
だから武田も東濃中濃辺りに敵がいなくて岐阜辺りまで移動するだけなら大軍であろうと何ら問題ない
それに加えて大軍で長期駐屯となると策源地としては伊那は山越えて遠すぎ東濃はそこまで豊かじゃない
なので岐阜辺りを支配して策源地と出来るなら数万単位で美濃へ遠征し続けることも可能だと思う

912 :
朝倉の美濃出兵も
土岐の内乱なんかで美濃が割れていた時期に援軍として出兵して兵力も3000とかだし

913 :
>>894
>斎藤の外僧と武田信玄の教育係が同門で師弟関係でもある
その外僧を義龍は別伝の乱で追い出していなかったか?

914 :
武田信廉は武田が滅亡するのをみれて幸せだったな、最期は感慨深いものがあったろう

915 :2017/12/24
>>889 >>890
軍事的に追い込まれていけば、普通に離反が出てくるものですし、
そもそも、信長領国における離反・反乱・敵対の多さは
他の大名の比ではありませんしねえ。
>>891
いやいやいや、普通に信玄自身が朝倉・長島と連携しての5月侵攻を書状で明言しておりますし、
普通に5月侵攻によって
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>901
普通に、レスの流れを読みますれば、>>898の人宛である事がわかると思いますのに
必死に喚かれましても、と思いますしねえ。
貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演や多数派装いをやっておられるのは
オープンで貴方ご自身がお認めになられておられる事を指摘されているからといって、
こちら側に必死に押し付けようとなさられなくてよろしいと思うのでございますけれどねえ。

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