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豊臣と徳川、なぜ差がついたか。慢心、環境の違い


1 :2009/08/20 〜 最終レス :2019/09/15
スレタイ通り。

2 :
豊臣には普代の家臣がいなかった
身内に頼ることになった

3 :
底辺から大名まで引き上げてもらった加藤らは「豊臣」や「羽柴」ではなくて「秀吉」個人に仕えてたんだろうな

4 :
豊臣の衰退は秀吉が甥一族皆殺しとかDQNなことやった
報いだよ。

5 :
まじめな話をすると秀吉には、どういう社会を目指すかという国家観が、まったく存在しなかった。
具体的な社会、国家像を持って、むしろその実現のために権力を欲した観のある家康とは
その部分で大きく違う。

6 :
>>5
家康が国家観を持ち始めたのは、信長が死んで以降だろうけどな。

7 :
身分が固定された閉鎖的な(安定した)社会を作ろうとした家康
四百年も前に能力に応じて禄高も激変する自由競争の社会を作ろうとした秀吉
どっちが今の日本にとって良かったのか?

8 :
>>7
君がこの時代について無知なことだけはよくわかった

9 :
さっそく思い込み激しい家康厨が貼り付いてんな
早く宿題やれよ!

10 :
>>9

11 :
秀吉・秀次時代に身分統制令や人掃令が出されたというに

12 :
>>5
太閤検地や刀狩で身分統制や兵農分離を完遂させたのは秀吉で、
家康もその基本政策は引き継いでるけど?
日本の近世封建制を完成させたのが秀吉というのは常識でしょ
逆に言えば家康がしばしば非難される身分固定がなされた閉鎖的社会を作った罪、
実は秀吉にも責任が有ったりするわけだけど

13 :
>>12
太閤検地は家康や毛利のやった、惣国検地を真似した物
刀狩は東北や九州の大規模一揆のあった地域のみに出された、ただの対処法令
兵農分離が成立したのは徳川家光の時代
秀吉の政策はそれまでの慣習をそのまま受け継いだに過ぎないものがほとんど。
あと、江戸期が身分固定の時代というのはもうかなり古い考え方だと思うぞ。
近代以前という制約の中では、かなりの流動性のある社会だった。

14 :
秀吉は山崎の戦いの直後に今まで信長が手付かずでいた山城の検地に着手してる
これは徳川や毛利の惣国検地よりも前でしょ
刀狩は早期に豊臣政権の勢力圏に入った畿内や毛利領でも発令されてる
家光の時代に兵農分離が成立したのは初耳だね
少なくとも秀吉の代に始まった諸政策が兵農分離の基本となったというのが通説でしょ
それを主張してる学者さんと著書を教えて

15 :
>>14
> 秀吉は山崎の戦いの直後に今まで信長が手付かずでいた山城の検地に着手してる
> これは徳川や毛利の惣国検地よりも前でしょ
「広域を同じ企画で検地する」というのは徳川や毛利が先。
つーか山城は差し出し検地じゃなかったっけ?
> 刀狩は早期に豊臣政権の勢力圏に入った畿内や毛利領でも発令されてる
毛利に命ぜられたのも、「対処法」としての刀狩の執行に過ぎない。
刀狩が全国法令でも、恒久法でもなかったことは、山本博文氏の研究で既に証明されている。
> 家光の時代に兵農分離が成立したのは初耳だね
> 少なくとも秀吉の代に始まった諸政策が兵農分離の基本となったというのが通説でしょ
> それを主張してる学者さんと著書を教えて
秀吉の時代に惣村への軍役は終わっていない。むしろ強化されているくらいだ。
つーか、兵農分離は信長や秀吉といった権力の都合ではなく、
軍役に人の代わりに金銭で代納できるようになった農村の経済的な成長の結果によって
起こったもの、というのが、それこそ今の「通説」だが。
そして寛永の大飢饉の影響から幕府による百姓使役の抑制が図られ、また、それに伴って
普請役なども含めた軍役の人夫が、農村からではなく、都市に集まる日雇い労働者から
調達するようになった。これにより「兵農分離」が成立した。
今はよほど古い人以外は、こういう説だと思うが?

16 :
山城検地では実際に奉行が派遣されて棹入れしてるよ
徳川や毛利は当初は差し出し検地で、実際に奉行が竿入れしたのは天正末から慶長になってから
つうか両国の惣国検地自体秀吉の命によるものなんだけど
大規模な一揆も発生せず、比較的安定した治安が保たれていた
毛利領に発令された刀狩令が「対処法」って意味がよくわからんね
柴田の刀狩や、雑賀一揆の後に行われた紀伊の刀狩は間違いなく対処法だと思うが
東北・北陸・東海・畿内・山陽・山陰・九州と全国的に刀狩を命じた
文書が見つかってるのに、全国法でもないという指摘も理解不能
江戸幕府の武家諸法度のようにきちんと成文化された法令じゃないからというのが理由なのか?
まあ一応研究者の名前が挙がってるから、今度関連のありそうな資料をあたってみようか
秀吉の時代に惣村への軍役が強化されたのは当面に唐入りという目標が有った以上当然だと思うが
そもそも太閤検地の目的自体、来るべき外征に向けての農村への支配体制の強化だったわけで
つうか百姓への賦役が兵農分離の基準になるというのも妙な話だね
秀吉が政権取った頃から農村部から大量の貧民が都市部に流入し社会問題化すると共に、
お得意の土木事業にもこれらの日雇い労働者が使われてるわけだし
一般的に太閤検地が兵農分離の重要な政策といわれるのは、支配者と農民の間で
中間搾取を行う特権や作合を否定し、その結果国人や地侍という中間層が消滅したことを指してる
この賦役の対象を固定化したという点で太閤検地が兵農分離の分水嶺として特別視されてるわけで、
農村の経済発展の結果、百姓に課せられた賦役が金銭納されたかどうかは
その歴史的重要性を損なうものではないよ
つうか現在でも中高生が兵農分離のポイントとして太閤検地を学んでる現状で、
「そんなこと未だに言ってるのは一部の古い人だけ」って言うのはおかしいと思わないのか?
もし太閤検地が兵農分離と無関係であると主張してる学者がいても、
それはそういう説があるというだけで、「通説」とは程遠いものだろう

17 :
差が何を指してるのかわからないんだが

18 :
長期政権を築けたかどうかを言ってるんだとは思うが、道半ばの信長の後を引き継いで天下統一を完成させた秀吉と、秀吉の築いた統一政権を転覆させて無能な徳川将軍家でも三百年近く政権が続くような仕掛けを作っただけの家康とは比較のしようがない
富を築いた大富豪よりもそれをそれを横取りした泥棒の方が偉いって言うむちゃくちゃな論理

19 :
スレタイからして、もっと面白いネタスレにすべきだと思うんだけど違うの?

20 :
>>18
お前はアンチ徳川の強迫観念を早く治す為に病院に帰りなさい。

21 :
関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の圧勝に終わった。
そして、大坂の陣でも家康たちの“智略”により、大坂城の堀が埋められた…。
どうしてこうも差がついてしまったのか−。
象徴的なのは、豊臣秀吉亡き後の豊臣家と、“鳴くまで待った”徳川家康だろう。
島津義久は「相手は家康だし、打ち破るのは簡単ではない。三成と秀頼がもうちょっとしっかりしていれば…」
と秀吉恩顧の大名とその継嗣の“不徳”にあきれ顔だ。
織田信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉の方が家康よりも勢いは強かった。
ところが、今やすっかり逆。
「これまで積み重ねてきたものの差が出てきたということでしょう」と三河出身のある武士は話す。
ウサギとカメの例えではないが、物心ついてから人質として、岡崎に帰ってからも小大名として、
信長の無理難題により正室や長子を死なせざるを得ず、時には脱糞するなど苦労に苦労を重ねてきた
家康に対し、幼少期からの苦労では負けていないはずの秀吉に一分の慢心もなかったとは言い切れない。
また、秀吉(豊臣家)と家康(岡崎衆)の「環境の違い」も無視できない。
信長の天下統一事業を受け継いだ豊臣家というだけでチヤホヤされるのに対して、
家康をはじめ三河の武士は戦場で結果を出してナンボ…。
大坂冬の陣の後、秀頼は「今日は今季一番むかついた負けだった。いつもは相手を意識
しないけど、今日は(徳川)家康だし、本当は豊臣家の家来なのだから、絶対に負けた
くなかった」と悔しがったが、今の実力差を再びひっくり返すのは至難の業といえそうだ。

22 :
>>21
内堀を埋めたのは約束違反じゃね?

23 :
個人戦じゃなくて豊臣家VS徳川家って見れば勝敗はあきらかだなw

24 :
>>22
内堀の、しかも東軍側の手による埋め立ては最初から講和条約の中に入ってる。
むしろ約束通りの行動。

25 :
一族や子供に恵まれたかどうかの差じゃない?
息子一人に弟一人、あとは姉の血族やら奥さんの血族
頼みの秀吉に、息子は大勢いて十八松平のように
一族もたくさんいた家康の違い。

26 :
結局、秀吉は自己中で自分さえ良ければよい
強欲な人間だったからだと思う。
人格は家康の方が上。

27 :
家康は自分より上の秀吉や信長がいたら天下をとりにいかない
秀吉が死んで
怖いものがなくなったから天下を取りに行った
徳川が長く続いたのは
順番に恵まれた
譜代がいた
豊臣は秀吉一人の政権

28 :
>>27
徳川と豊臣の能力の差は長く続くような準備をしたかしないかの差じゃないか?
無駄な海外遠征をしたり秀次を殺したり自滅した感じ。
豊臣と徳川の順番が逆なら徳川の世が続いて豊臣の出番は無い。

29 :
秀吉は、織田の武将たちを完全には抑えられなかったんだよね
(小牧・長久手でも)。
恩賞にはやる武将たちに恩賞をやるための朝鮮出兵という一面
もあったんじゃないかと思う。

30 :
よく秀吉が家康を抑えるために、旧織田系武将の筆頭として、前田利家を厚遇したと言われるが、
むしろ秀吉は利家を始めとした織田系武将を抑えるために、外様である徳川や毛利といった諸侯に
大きな権力を与えたように見えるんだよな。

31 :
徳川の五ヶ国総検地は太閤検地の一環だったような。

32 :
別種のものと言う再批判がなされました

33 :
徳川と毛利には同族化という幻想を頑張っただけだろうけどな。

34 :
>>25だが、何で誰も一族子孫の違いに触れないんだ?
秀吉が晩年劣化しなくても、関が原の処理で豊臣の
直轄地や鉱山が取り上げられなくても
「豊臣と名乗る大名は若年の秀頼だけ」
「徳川、松平という大大名が地方にいくつも存在。その首領の
家康は政治を取り仕切ってる」
から豊臣はジリ貧になっていたと思う。
豊臣恩顧大名も、代替わりした子供の世代には
強そうな方に付きそうだしな。

35 :
>>34
とりあえず本姓と苗字の違いがわかるまで書き込むな

36 :
>>35
豊臣は本姓と苗字兼任と思うんだが。

37 :
本姓豊臣の名乗りは多くの大名に許されてる

38 :
だが豊臣に従った家は多くはなかった
血縁の力だろう

39 :
家康 利家 輝元 隆景 氏郷   長康 如水 三成 正家 長盛
家康 輝元 氏郷 直家 景勝   如水 三成 行長 吉継 玄以
輝元 直家 景勝 義弘 政宗   三成 行長 吉継 叡恵 兼続
直家 政宗 義宣 輝政 秀康   三成 行長 兼続 高虎 勝元 
直家 長政 宗茂 利常 盛親        

40 :
直家だと
同僚の大半は暗殺だな

41 :
秀吉はあまりに易々と天下統一してしまったからいけなかったのだお( ^ω^)
古来より負け方を知らない人間は勝ち方も知らないと言うお
その点家康は惨敗したり辛勝がせいぜいで驕る余裕もなく
今川、織田、豊臣と、人生の大半を強者に媚びへつらい消費してきたお( ^ω^)
だから弱者の機微を熟知しており統制の役に立ったのだお( ^ω^)

42 :
>>34
なあ、家康も豊臣一族なのを知ってそう言ってるのか?
あと、徳川、松平は後期だよね、時代がごっちゃになってる。
家康も、親兄弟いないところから這い上がって来たんだよ。
まあ、松平党がいたけどね、その差はでかいか。

43 :
そうなんだよな
秀吉は家康を親族として信頼している面もある
秀頼も徳川家の一員になればよかったのにな

44 :
何を馬鹿な事を┐ (´ω`) ┌
家康が豊臣一族になるのと秀頼が徳川一族になるのは全く異なる事だお┐ (´ω`) ┌

45 :
日光に行きたくなってきた。

46 :
淀のババアがいる限り無理
あのデブは死ぬまでかまぼこさえ食えればそれでも良かったのかもしれないが

47 :
秀頼と家康の二条城の対面は、秀頼が家康の「いる」場所に出向いていったわけだから、
言い訳の仕様もなく臣従の儀式なのに、なぜその対面の後になって、既に世間的には
徳川家臣である豊臣家を、主戦派が仕切るようになったのかが良くわからん。

48 :
追い込まれすぎると、人は距離感を無くして狂うもんだ
大日本帝国の滅びようを見なよ

49 :
何を前提に書かれてるのか、意味のわからないレスばっかりだなー
主張がなんなのかすらわからない

50 :
だがそれがいい

51 :
家康は秀吉に頼まれたように秀頼を残すつもりだった
秀吉は自分が死んだら家康が天下を治めるのがいいと思っていたんじゃないか
できれば豊臣は西で徳川は東をみたいに

52 :
ないと思います

53 :
秀吉はどうやって国を平定するのかについては抜群にアイデアがあったけど
どういう国家にしたいのかについてはあまり伝わってこない
対外戦争や豪華な建造物ばかり作っていたイメージしかない

54 :
秀吉の国家観の無さは、多くの研究者が指摘してるな。

55 :
具体名を頼む

56 :
まず戦国時代における国家観の説明をしてくれ

57 :
研究者とは違うと思うが、山内昌之がそんな事言ってたな>秀吉の国家観の無さ

58 :
秀吉が信頼していた大名って家康が一番じゃないか
たとえ自分の死後家康が天下をとっても別にいいと
どうせなら死ぬ間際に徳川に譲ってしまえばよかったんだよ

59 :
天下人にとっては一挙手一投足が政治
家康は律儀者と言い続けたのも政治だろ

60 :
いや、秀頼のことお頼み申すって頼んでるやん、
あくまで五大老と五奉行に秀頼を支えてって欲しかったんだよ。

61 :
平和の使者である神君家康公に逆らう暗愚秀頼では頭脳明敏な秀忠にも到底及ばない

62 :
つーか秀頼は、家康に対して兵を挙げるなら二条城対面のときじゃないとおかしい。
あれで世間的には豊臣も、徳川傘下に入ったって認識するんだから。
対面終わった後に、騙されたとでも思い始めたのだろうか?

63 :
秀吉は織田秀信に13万石しかくれてやらなかったのだから、秀頼もその程度で満足すべき。
秀頼の側近が思い上がっていたんだろうな。

64 :
>>59
ホントにこういう司馬史観の奴っているんだな

65 :
武田などの強豪と戦いながらも織田・徳川同盟を守り
続けたのはやはり律儀だからではないだろうか。

66 :
武田になびくという方策もあったはずだからね。

67 :
>>60
本当に秀頼を身を案じているならば、朝鮮出兵なんてさっさと止めるべきだし
大老制度だって生前から運用を始めて実務面を詰めるべきだろう
面倒なことは何もせずに全て丸投げしておいて秀頼を支えろと言われても
家康だって困り果てるよ
何もしないなら豊臣政権の存在価値なんてないのだから

68 :
>>65-66
当時の織田と武田の国力差知ってて言ってんの?

69 :
>>68
国力差なんて相対的なものだ。
つーか信玄の在世時、「国力」というほど織田権力はまだ統合されてない。
ゆるい織田権力集団がやっと形成されていたに過ぎんよ。

70 :
>国力差なんて相対的なものだ。
意味がわからない

71 :
>>70
織田権力が「公儀」化していない以上、その差というのは「絶対的」じゃないって事。
これでも解らない?

72 :
全くわからんね

73 :
秀吉と家康を互いに認めあっていた
徳川、豊臣は親戚なんだから仲良く日本を治めればよかったのに
秀頼は右大臣にもなっている。家康は秀吉に頼まれたように秀頼を残すつもりだった。

74 :
>>68
武田は川中島や三方原の戦い(徳川惨敗)をみても分かるように、
戦に強い。
下手すると滅ぼされかねまい。

75 :
>>74
武田が戦に強いのは同意だが、三方が原当時に
織田と武田の国力差は織田400万石、武田120万石と織田が圧倒的に大きい
徳川が織田との同盟を捨てて武田に走る合理的な理由なんか見出せない
「武田になびくという方策もあったはず」なんて話は成り立たないと思うよ
織田・徳川同盟が続いたのは家康の律儀な性格によるものでなくて
冷静に現状の力関係を分析した結果でしょう

76 :
>>75
数字だけ見りゃそうだが、当時織田は四方に敵を抱えていて広がった勢力圏は
むしろ重荷に働いていた。
冷静に分析しても、あの時正しく東の防波堤であった家康が武田に着けば、織田勢力圏が
重大な危機を迎えたことは容易に想像できる。

77 :
>>76
石高は兵の動員力と直結しているが、石高を軽視する理由は?

78 :
>>77
当時の織田の軍役体制は、石高とあまり連動していなかったから。
つーか、信長勢力圏の軍役体制は、慣習に頼った、当時としては遅れた動員制度で、
武田のように整備されていなかった。
そして信長は、味方に参じた者は、軍役に従う限りはそれまでの既得権を丸呑みにしていたので、
織田家は必ずしも充分にそのスケールメリットを享受出来ていた訳ではなかった
(それでも畿内の人口、経済力のメリットは勿論大きかったが)
あの辺は信長も綱渡りで勢力圏を保持していたというのは、頭に入れておいたほうがいいと思うよ?

79 :
織田の軍役体制が石高に連動していなかった
織田の軍役体制が遅れた制度で武田に及ばなかった
どちらも初めて聞いたわ
織田の勢力軽視にしか聞こえないけどな

80 :
>>79
それをはじめて聞いたのなら君は勉強不足だわ

81 :
検地すら織田政権後期にならないと行われないのに石高に応じた軍役なんてそりゃ課せないだろ

82 :
織田家って傭兵制だっけ?
武田は農民兵だったのか?

83 :
織田は兵農分離のはしり
武田は半士半農

84 :
>>83
織田は兵農分離なんて行われてないよ。
その軍団の構成も武田とかと大きく変わるものじゃない。
確かに傭兵としての足軽部隊を使ったのは確かだが、そういうものは織田に限らず
使われていた。
信長の軍隊に新しい所などひとつも無い。軍役体制などはむしろ遅れていたといっていい。
彼らが強かったのは足利将軍権威に寄って、人口の多い畿内で軍役を比較的効率的に課せた事と、
ここが信長の軍隊の肝だが、信長の下に徴収された兵員を使う司令官に優秀な人間が多かったことによる。

85 :
織田は兵農分離を行っていないなんてのは極端すぎるな
徹底的に推し進めたのは秀吉の検地、刀狩だが

86 :
豊臣は親族と親族待遇、譜代大名が無能すぎバラバラすぎ

87 :
>>85
太閤検地は軍役体制の強化のためのもので兵農分離とは関係ない。
刀狩にいたっては大規模一揆への対処法でしかなく、これも兵農分離と何の関係もない。
つーか、この当時兵隊だけでは戦争行為は完結できない。信長も秀吉も農村からの軍役に
頼り切っていたわけで、兵と農はむしろ密着していた。
兵農が分離したのは江戸期に入ってから。

88 :
秀吉は「組織」というシステムを構築しなかった。
個人の力量に頼り過ぎた。

89 :
>>87
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないわけないでしょ
その政策を通して身分の固定化、安定化を推し進めていたんだよ

90 :
>>89
身分固定と言うのはむしろ、国内で戦争がなくなったことから起こった自然な流れであって、
(農民だって軍役なんかしたくはない、戦いが無ければ戦いたくない。)
秀吉の政策とは関係ない。
それに安定化などというが、秀吉の時代に農村はまったく安定していない(朝鮮役の軍役で
全国の農村が荒廃しておる)、これは政策的な矛盾でしょ?
江戸期になって定着した兵農分離を、織田や豊臣の政策に求めるのは間違い。
豊臣期と徳川期では、農村政策が大きく転換している。
農村の安定化は、徳川の政策だよ。
信長が大軍を動員できた理由を兵農分離に求めるのも間違い。
単純に人口が多く飛びぬけて経済的に発展していた畿内のスケールメリットを
信長が享受できたからに過ぎない
(信長に関してはそのスケールメリットを把握できたことにこそ天才と言う評価を与えるべき。)

91 :
>>90
身分固定が為政者が何もしなかったけど自然にそうなったなんてことはありえない
宗教と結びついて一揆を起こす農民を政策よって抑えるのは天下平定後の課題だ
秀吉の政策とは関係ないなんて無理がありすぎ
朝鮮役の軍役で農村が荒廃なんてのは検地、刀狩とは全くの別物だ
むやみに混同しない方がいい

92 :
>>91
正直太閤検地や刀狩を過大評価しすぎだと思う。
太閤検地の画期は、戦国大名の政策であった、均一の基準による軍役の賦課が、
統一政権によって全国的に、大名に適応されたことであって、住民把握とはまた別の話。
刀狩にいたっては全国法として発布された証拠は一切存在しない。
九州や東北などで部分的に実施されたに過ぎない。
身分固定のための施策というには弱すぎる。
しかも実施された九州や東北ですらルーズで不徹底だった。
統一政権による直接の住民把握は、寛政期の宗門改め、万改帳の成立による
事実上の戸籍制度の発足からだよ。
身分固定などもここから起こったと考えるのが自然。

93 :
>>92
太閤検地は土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税している
耕作し納税する人物をハッキリと規定したということだ
刀狩は3か条からなるけど最後の条で
 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。
 百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
と言っている
この頃から武士と百姓を分けようとする意図が見えるでしょう?
豊臣政権の頃はまだ完全施行とはいかずに、その後の江戸幕府体制を待たないと
徹底的に行われなかったのも、ある意味事実だが、それをもって
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないというのは暴論過ぎると思う

94 :
>>93
うーん、「武士と百姓を分ける」って考えは、鎌倉以前からの常識で、当時の
社会通念みたいなものでしょう?豊臣政権から言われるまでもないことかと。
兵農分離の議論をするといつも疑問に思うのは、農村から賦役、使役と言う形で動員される
人々を、「兵士じゃないから」って理由で無視する人が多い事。
彼らがいないと軍隊の運営自体が不可能なのに。
この賦役、使役を農村ではなく、都市に集まる労働者からまかなえるようになったのは
やはり江戸期から。
これは一国一城令による足軽も含めた家臣団の、藩都と呼ぶべき城下町への集結で、
各国の都市規模が一気に大きくなったことが大きい。
こういう部分から考えても、兵農分離とは江戸期の現象であると理解すべきだと思うよ?


95 :
鎌倉期こそ武士も農民も渾然一体だと思うんだがな?
自分の耕した土地を自分の力で守るから「一所懸命」なんて言葉もあるし
経済安定期を経て職業としての武士と農民が完全に分離したのは江戸期だろうが
豊臣時代から武士と農民を分けようという意図があったことは明らか
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないわけは無い

96 :
>>95
違う。鎌倉期の武士は「農園経営者」ではあるが、農民では決して無い。
一所懸命の一所とは、耕した土地のことではなく、所有する土地のこと。
武士の発生当初から、農民と武士は既に分離していた。

97 :
上のほうで名前が挙がってる山本博文氏は近著で刀狩と太閤検地は身分固定の端緒となったとして
その歴史的意義は強調しすぎることはないとしているけど。

98 :
>>96
鎌倉期はほとんど武士=農民だよ。支配者がという意味じゃなくてね
普段畑を耕して何かあれば武器取ったんだよ


99 :
>>96
当初から分離してたのかよw
最初と言ってることが180度変わってるぞw

100 :
>>98
鎌倉期でも武士と農民は違うぞ。武士と言うのは最低限何らかの領地、領民を持つものだ。
自分で畑を耕す連中ではない。
>>99
ん?もともと農民とは違う出自の「武士」が、(それこそ農民が徴兵によって集められた律令軍隊とは
別の軍事組織として形成されたのが武士なんだから当然だが)
武士が権力と人民を掌握していき、かつ合戦の大規模化、常態化によって、農村に日常的に使役を
賦課するようになったのが、兵農一致常態だぞ?
物事には「経緯」ってものがある。


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