TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
もし本能寺の変の時に信忠が脱出できていたら18
武田信玄総合スレッド
越後勢の強さの秘密
【有能だったと】信濃四大将【信じたい】の2匹目
竹中半兵衛
弾正忠上総介
【六分一殿から】戦国山名氏【交代寄合】
武田が今川に攻め込まず、嫡男義信が家督を継いだら
【反日】藤木久志 雑兵たちの戦場中世の傭兵と奴隷狩り
上杉謙信のどこが義の人なの??

真田昌幸 真田信之 真田信繁


1 :2013/07/24 〜 最終レス :2019/10/14
真田昌幸、真田信幸(のち信之)、真田信繁(芸名:幸村)を中心に真田氏全般をマッタリ語りましょう。
真田氏総合スレッドです⇒真田氏に少しでも関係ある話なら脱線もOK

2 :
北条家臣・猪俣邦憲が豊臣家との裁定を踏みにじり、沼田領の西・名胡桃城(真田領)を急襲したのである。名胡桃城代・鈴木主水はこれを恥じ沼田正覚寺で自刃する。
昌幸の訴えを聞いた秀吉は激怒し、北条氏に宣戦布告を行う。全国の諸大名に動員令を発令した。小田原征伐のはじまりである。

3 :
信濃國松代藩主・真田伊豆守幸貫は遠江國浜松藩主・水野越前守忠邦によって、帝鑑間席から召し出され、
奏者番や寺社奉行といった業務経験がないのにも関わらず、ただちに老中に抜擢をされ、官位も従四位下侍従、信濃守に昇格、
併せて松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、御用部屋に入った。

4 :
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」
その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。

5 :
幸隆
真田頼昌を棟綱の娘婿とする説
海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になった説

6 :
>>1

7 :
「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利。惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」

8 :
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。
これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われる。
これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。

9 :
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
伊達政宗(仙台@)−忠宗(仙台A)−綱宗(仙台B)−宗贇(宇和島B)−村年(宇和島C)−村候(宇和島D)−
山口直清(旗本)−直勝(旗本)−伊達宗城(宇和島G)−真田幸民(松代I)−幸正−幸治−幸長−幸俊(現当主)

10 :
幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見
読売新聞 2月25日(月)8時52分配信
 1615年の大坂夏の陣で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。
 同家の家臣と戦って討ち取られたと記されており、戦わずして首を差し出したとの定説を否定する新説だ。
 幸村は、大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込み、「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。覚書は、徳川方で参戦した、のちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。
 幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、のちの福井藩士、西尾仁左衛門に首を差し出したとする逸話が知られており、徳川幕府の史料にも残る。
 だが、覚書では、仁左衛門が、相手を幸村と知らないまま槍(やり)で戦い、討ち取ったと記述。後に、家臣が陣中見舞いに来て、幸村の首とわかったとしている。

11 :
大坂の陣における徳川方の主な戦死者
本多忠朝(本多忠勝次男)、小笠原秀政(信濃松本8万石)

12 :
子孫の為に松代に移り申し候
真田信之は松代に転封された際にはこれに不服を持ち、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。

13 :
小野のお通
1622(元和8)年、上田藩主である真田信之から松代移封についての手紙を送られており、信之との親交が深かったとされている。
友人だった可能性が高いが、事実上の側室だった可能性も指摘されている。
真田信之の次男・真田信政の側室に小野国子(2代目小野お通)がいる。
信政と二代目お通との間に信就が生まれている。

14 :
真田信繁(幸村)の孫は大名になっている。
幸村と豊臣秀次の娘(隆精院)との間に生まれた娘(顕性院、真田幸村の五女)。
顕性院が出羽亀田藩の岩城宣隆の側室となり、岩城重隆(出羽亀田藩第3代藩主)を生んだ。

15 :
真田大八丸、刑場の露と消える前に事故で死す……この知らせはすぐに幕府に届き、
正式に検死が行われ、大八丸の死は確定した。
高野山蓮華院の記帳に「大八丸五月五日、加茂河原の印字打ちにて御死去賜う」とある。

16 :
仙台真田家 系図
片倉守信⇒真田辰信(真田姓に復姓)⇒信成⇒信経⇒養子・信親(田村顕道三男)⇒また養子・信珍(大條頼始三男)⇒(以下略

17 :
鈴木右近
真田信之病没後に殉死した。享年84。
出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。

松代真田まつりでは信之(松代真田家現当主)の側近くには鈴木右近(右近の子孫)の姿が見られる。

18 :
滝川三九郎一積
真田昌幸の娘・於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなど、たびたび真田氏のために働いた。
しかし寛永9年(1632年)になって、幕府から突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封される。

19 :
松代城の三日月堀確認 城の全容把握へ「貴重」 07月19日(金)
http://www.shinmai.co.jp/news/20130719/KT130718SJI090017000.php
 長野市教育委員会は18日、同市松代町の松代城跡近くの長野電鉄旧屋代線跡地で、江戸時代に造られたとみられる「三日月堀」や「外堀」跡などが確認されたと発表した。
絵図などの資料で堀などがあることは知られていたが、これまでは線路があったため詳細な位置は分かっていなかった。
市教委は「松代城の全体像を正確に把握するための貴重な手掛かり」(文化財課)としている。
 城跡南東側一帯は、今秋に同地区で開く「松代藩真田十万石まつり」の臨時駐車場として整備される。使用前に城郭跡の範囲を確認するため、市教委が今月1日から19日までの日程で調査している。

 市教委は幅1・5メートルほどの試掘溝を5カ所、計約140メートル掘って調査。松代城には、前身の「海津城」を築城した武田家特有の構造とされる三日月のような形の「三日月堀」が2カ所あるとされてきた。
今回確認したのは城跡東側の松代駅ホームすぐ脇。他に、線路があったため広がりが分からなかった土塁や外堀の遺構も確認した。
 現在残る城跡は、江戸時代の城郭の一部に限られている。1922(大正11)年に長野電鉄の前身の河東(かとう)鉄道河東線が開業して以来、宅地造成などが行われなかったため、保存状態が良く、
市教委は「復元に足る遺構で、保全整備を進める上で重要な発見」(文化財課)としている。
 松代城は武田信玄が1560年ごろに築城した海津城が始まりとされる。1622(元和8)年に真田信之が上田から松代に移されて以来、真田家が松代城を居城として松代藩を治めた。

20 :
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入る。同年11月、沼田城代となった北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。
これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われる。
これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となる。

21 :
>>1
重複
真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1337347672/
【信綱】真田氏を語ろう【頼綱】
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1294954414/

22 :
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。
本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。
この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。
幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。
この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。

23 :
天文16年(1547年)
8月、武田晴信が志賀城の志賀清繁(笠原清繁)を攻める。
上野国から上杉憲政の援軍として金井秀景が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、 飫富虎昌、上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。
天文17年(1548年)
上田原合戦
真田幸隆は、武田晴信の家臣として上田原で村上義清と戦う。この戦で武田方は、板垣信方や甘利虎泰などの重臣を戦死で失っている。
2月22日、村上義清は上野国高山(安中)の小領主小林氏に佐久郡の知行を条件に援軍を要請。すでに板垣信方ほかを討取り、武田方の敗北は時間の問題だと伝えている。
天文18年(1549年)
3月、真田幸隆は望月一族を懐柔。望月源三郎、望月新六郎が武田氏に服属し、 真田幸隆は所領安堵の朱印状を望月源三郎に伝達した。 真田幸隆の活躍が確実な文献に見える最初である。 真田幸隆の工作に応じて蘆田氏(依田新左衛門)、伴野氏らも武田方に降る。

24 :
天文20年(1551年)
5月26日、真田幸隆は戸石城を不意を襲って乗っ取る。
7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飫富虎昌が真田幸隆に連絡する。これは飫
富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、 武田晴信が佐久、小県郡へ出馬する
ことを伝えた後、「尚、この趣、真田方へ物語り有るべく候」とあって、佐久郡小諸城
主飫富虎昌、内山城主上原昌辰と同列に扱っていることにより、 真田幸隆の武田家臣
としての地位が固まったことが明らかである。

25 :
天文22年(1553年)
川中島合戦 4月9日、宿敵村上義清は武田方によって葛尾城を攻落され、長尾景虎を
頼って越後へ亡命している。ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、真田幸隆の
活躍が大きかったことが窺える。 真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。
8月10日、真田昌幸を人質として甲府へ送る。代わりに真田幸隆は、武田晴信から上
田秋和の350貫の地を与えられる。真田昌幸が奥近習衆(小姓)に出仕した頃、 曽根
総次郎、曽根与一、金丸平八郎(土屋昌恒)、三枝勘解由、三枝新十郎含めた6名があげ
られる。
弘治2年(1556年)
長尾氏v.s.武田氏 真田幸隆は埴科郡東條の雨飾城を攻め落とし、城将となる。

26 :
明治維新の時点で真田信之の女系が当主だったのは
大和郡山の柳沢、越後三日市の柳沢、高家武田の3つ
いずれも真田幸弘の娘と柳沢信鴻の子である柳沢保光の子孫
大和郡山の柳沢、高家武田は現当主も信之の女系だが
郡山の柳沢は更に女系となり今は女系の女系となっている
三日市の柳沢は現当主が信之の女系の血を引くかどうかはわからない

27 :
http://qb5.2ch.sc/test/read.cgi/saku/1360467487/13
13 :”削除”依頼:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN HOST:PPPa787.e22.eacc.dti.ne.jp
削除対象アドレス:
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1374618983/ 21で誘導
削除理由・詳細・その他:
6. 連続投稿・重複

28 :
重複ではありません。
信繁と幸村は全然別人ですから。

29 :
>>28
それを決めるのはあんたじゃない

30 :
長寿武将
北条長綱 享年97
龍造寺家兼 享年93歳
真田信之 享年93歳
 万治元年(1658)10月17日に信之が93歳の高齢で没すると、鈴木右近は2日後に殉死した。右近の享年は75歳または85歳。
 当時の幕府は殉死を禁止していたが、右近は信之生前より殉死の約束をしてい
たらしく、また右近自身も高齢であったことから幕府から特別に許可が降りたといわれている。
 信之の隠居所だった大鋒寺には信之の墓の傍らに右近の墓が建てられている。 現在も松代真田まつりでは信之(真田家現当主)の側近くには鈴木右近(右近の子孫)の姿が見られる。
鈴木右近の出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。
鈴木右近の墓  長野県長野市松代町法泉寺
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/hon110-21.jpg

31 :
真田家は信之以外にも矢沢頼綱や真田信尹みたいに長命が多い

32 :
永禄4年(1561年)
5月、真田幸隆は西上野に出陣。
9月21日、真田幸隆・真田信綱父子、川中島合戦に参戦。 真田幸隆・真田信綱父子は、妻女山を攻める。
斎藤憲広によって鎌原城を攻め落とされ、羽尾幸全が斎藤方として城代となる。真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。

33 :
大坂夏の陣
天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣

34 :
信繁は豊臣性を持ってたので、息子と一緒に秀頼の親衛隊長みたいな感じになってたっぽい。
そのためどうも目立つポジションには居たらしいが、実戦でどれだけ活躍したかは全く疑問。

35 :
赤備え
飯富虎昌、山県昌景、小幡信貞、浅利信種、井伊直政、真田信繁、北条綱高

第二次長州征伐では赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず
長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。

36 :
後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という

37 :
幸村(信繁)と後藤基次の仲が悪いのはそれも一因かも知れない

38 :
真田幸隆の働きなら幸隆が海野を継いでてもおかしくないはずだが、実際には信玄の次男が海野を継いでる
であるからして幸隆は海野の嫡系ではないと推察するのが妥当では?

39 :
豊臣姓下賜一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F#.E8.B1.8A.E8.87.A3.E5.A7.93.E4.B8.8B.E8.B3.9C.E4.B8.80.E8.A6.A7.E8.A1.A8
1594年 真田信繁

40 :
楠幸村について語りましょう。

41 :
真田は最後の男系藩主だった6代幸弘に繁信って言う部屋住みの弟が居て
当初は幸弘が参勤交代で松代入りする際には、繁信が仮養子として届けられてたんだけど、
兄の幸弘より先に亡くなってしまい、仕方なく井伊家から娘に養子を摂って繋いだ(7代幸専)
で、幸専にも男子がおらず、当時まだ存命だった大殿だった幸弘が
自分の孫娘(井上正甫)と、松平定信の子の幸貫を幸専の両養子にとって跡を摂らせた。
このとき、真田家と井上家の仲立ちをしたのが松平定信。

42 :
イメージ
「あの会社は中小企業だけどやるねえ」=真田

43 :
犬伏
「滋野世紀異説」
昌幸「われは上方に味方しようと思う。家康はわが領土を削り、わが家を滅ぼそうとした。
日頃の鬱積を晴らすべきではないか」
信幸「内府とは親類であり、今更 敵となることは出来ませぬ」

44 :
2009年、朝日新聞
87年4月。慶応大学理工学部で数学を教えている教授の前島信は、新入生の名簿を見ていて、ヤバイと感じた。
「真田幸俊」という名前の学生がいたからだ。
前島は東京育ちだが、先祖は「六文銭」の旗印で有名な信州の真田家に戦国時代から仕えた名門の家柄だ。
授業の後、「君、真田家と関係があるの?」と尋ねた。「14代当主です」と言われ、思わず「すいません」と口走ってしまった。
「もうハハーッて感じで。すぐに思ったのは、まさか悪い成績を『殿』につけるわけにはいかないんで、この子、本当に出来てくれるといいな、と」
幸いなことに成績は優秀で、現在、同じ学部の電子工学科で教える准教授になっている。
その真田幸俊が旧松代藩10万石、真田家の家督を継いだのは、父が亡くなった14歳の時だった。
翌年が善光寺の、数えで7年に1度の御開帳の年。回向柱の奉納は藩政時代から松代藩が行う伝統の儀式で、裃姿で出席し、挨拶状を読み上げた。
完璧にやらなければ、との思いから、緊張で声が震えた。
後日、菩提寺の住職から言われた。「失敗しても、お殿様はいいんです。その代わり、堂々としていて下さい」
なるほど、と合点がいき、以来、気が楽になった。
幸俊は大学生の頃から、毎年、秋の「松代真田まつり」に駆けつけ、有名な幸村の兄で藩祖の信之(信幸)役の騎馬姿で練り歩く。カナダに留学中も、このために帰国したほどだ。
長男が生まれた時、地元に報告すると、大喜びだった。次男の時は「これで真田家は安泰だ」と言われた。
恋愛結婚した妻の綾子は肩の荷がおりたとホッとしたが、幸俊が頭を悩ませたのは息子たちの名前だ。
「『幸』の下の字が、もう大変。先祖の名前になく、姓名判断でいい画数の漢字となると、残り僅か。息子の代では付ける漢字が殆どないはず」

45 :
>>44
いまでも、旧藩主家の当主と旧藩士の子孫の間には、そういう感情があるんだな。

46 :
>>44
前島氏は上田、松代を通じて代々真田家に仕えた家臣。一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して
和歌山県の九度山に移った人々もいたと伝えられます。
http://www.sanadahoumotsukan.com/facilities/facility.php?n=10

47 :
真田宝物館
http://www.sanadahoumotsukan.com/index.php

48 :
>>9
真田家と宇和島藩伊達家は、宇和島藩2代伊達宗利の娘・豊姫が、松代藩3代真田幸道の正室として嫁いでおり、江戸時代初期よりお付き合いがあった様子。
豊姫は輿入れする際、故郷を偲ぶ品として杏の種を持ち込み、松代藩も杏仁は咳止めの効果があるとして栽培を奨励。後には地域の特産となり藩の専売となっている。
旧松代藩内の森地区(千曲市森)は現在も日本一のあんずの里として有名で、市の農業、観光を支えている。
このあんずが取り持つ縁で、旧更埴市(千曲市)と宇和島市は姉妹都市となっている。
松代には、この豊姫の関係?の末裔か「伊豫田」姓の人が結構いる。

49 :
信繁(幸村)が大坂城に入城する際、支払われた一時金は、なんと2000両余り。

50 :
少ないくらい
ソレでいろいろ賄わなければいけない訳だろ
飯喰わして足りないモノ買ってたりしたら手元には何も残らない

51 :
>>44
今は慶応理工の教授に昇格していますな@真田家当主

52 :
九度山で真田フォーラム 和歌山
2013.8.18 02:28
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130818/wky13081802280000-n1.htm

53 :
九度山町指定文化財:「真田庵」を指定 特殊建築の本堂など6棟 /和歌山
毎日新聞 2013年07月30日 地方版
http://mainichi.jp/feature/news/20130730ddlk30040428000c.html

54 :
上杉謙信49歳
織田信長49歳
真田信繁49歳

55 :
東京行きバスに上田市のPR広告掲載 真田氏甲冑や家紋など 08月07日(水)
http://www.shinmai.co.jp/news/20130807/KT130806SJI090015000.php

56 :
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
真田男爵家 9代幸教の子・幸世が本家から別家した系統。8代幸貫の系統であり徳川家康・吉宗の男系だったが、現在は女系。
真田解勘由家 2代信政の長男・信就の系統。旗本から後に松代藩士となり明治維新まで存続。
仙台真田家 信之の弟・信繁(幸村)の二男・片倉守信(真田大八)の系統。仙台藩士として明治維新まで存続。
越前真田家 信之の叔父・昌輝の系統。福井藩士として明治維新まで存続。
旗本真田家 信之の叔父・信尹の系統。旗本として明治維新まで継続。

57 :
真田幸隆(幸綱)
 海野氏の一族。幼名二郎三郎。松尾古城に生れる。父親も諸説あり。海野棟綱か?それとも棟綱の孫か?娘婿か?
昌幸の叔父で幸隆の弟の矢沢綱頼は『矢沢氏系図』によれば真田頼昌の三男という。
とすると、父が頼昌になる(寺島隆史氏説)。ちなみにこの説によると長男は右馬助綱吉、次男が幸綱(幸隆)。

58 :
 天文14〜15年(1545〜1546)頃、幸隆は信玄に臣従するが、この経緯については信玄の器量を見抜いた幸隆が自分から臣従を言い出したという説、
信玄が村上義清を討伐するために小県郡をよく知る幸隆に目を付け山本勘介を遣わして勧誘したという説、勘介がかねてよりの知人であった幸隆を信玄に推挙したという説など多数ある。
 旧領の小県郡を取り戻すためとはいえ、自分や祖父を故郷から追った信虎の息子に仕える決心をするまでには多くの苦悩があったと思われる。
 武田家に属してからの幸隆は、「信州先方衆」のひとりとして信濃・上野方面の攻略のため各地を転戦し軍功をあげてゆく。

59 :
天文20年(1551)5月26日、名将・信玄ですら落とせなかった戸石城を幸隆は自分の手のもののみで落とすことに成功する。
武田家臣・駒井高白斎が著した「高白斎記」には「砥石(戸石)の城真田乗取」と簡潔に記されているのみで詳細はわからないが、
地元出身の幸隆は戸石城内にも知人がいたと思われ、調略を使って内部切り崩しなどを行ったものと考えられている。
 前年、幸隆は信玄から旧領の小県郡一帯を与えるとの約束は貰っていたが、この戦功により安堵され、故郷を追われてから10年で旧領を回復することができた。
 天文22年(1553)、幸隆は三男・昌幸を信玄のもとに人質として差し出し、秋和(長野県上田市)三百五十貫の地を与えられた。これが後年、山中の真田郷から上田平へ進出する基盤となる。

60 :
 永禄2年(1559)、信玄が出家したのにならって幸隆も出家し「一徳斎」と称した。他の武田家臣も多く出家したらしい。
 永禄3年(1560)、信玄は上杉軍侵攻に備えて千曲川近くに城を築くことを幸隆・勘介・高坂昌信らに命じ海津城(長野県長野市)が築城される。
この海津城は、幸隆死後の天正13年(1585)に昌幸の次男・幸村が上杉への人質として入ったり、元和8年(1622)に昌幸の長男・信之が上田から移封になったり、真田家と縁の深い城となる。

61 :
 元亀3年(1572)、信玄は上洛軍を興したが、幸隆は参陣せず息子たちが信玄に従軍していた。幸隆は信玄留守中の上野の守備を任されていたが、高齢のため病気がちであったようだ。
 翌元亀4年(1573、後に天正元年と改元)4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場(長野県阿智村)で病死し、翌天正2年(1574)5月19日には幸隆も信玄の後を追うように病死した。
 死の直前の幸隆は小康状態だったらしく、信玄の跡を継いだ勝頼から信綱に宛てた5月28日付の手紙には「幸隆の病気も快方に向かったようでなによりだ」と書かれている。
しかし、実際には幸隆はその手紙の書かれた頃にはこの世の者ではなかった。享年は62歳。墓は長野県真田町の長谷寺にある。

62 :
真田幸隆は村上義清によって真田の地を追われ、上州箕輪に逃れて長源寺という寺に身を寄せた。
この寺での幸隆の扱いはけして良いものではなかったが
寺で知客の役にあった晃運という僧が幸隆の境遇を憐んで何かと世話を焼いてくれた為
二人は遠慮のない親しい間柄となった
ある時幸隆は戯れてこのようなことを言った。
「禿坊主、お前は儂に良くしてくれた。真田を取り戻したら寺を建てお前を招こう。」
晃運も怒ったような真似をして答えた。
「貴殿は臆病者である。はたして何が出来よう。」
そして二人は大いに笑いあった。
のちに幸隆は武田信玄の配下となって村上義清と戦い、これを越後に奔らせた。
旧領真田を取り戻した幸隆は長国寺という寺を建て、真田山と号して晃運を開山にし徳に酬いた。
『長国寺記』

63 :
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」
その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。

64 :
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。
本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。
この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。
幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。
この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。

65 :
松代城跡:武田流築城術の痕跡 旧家臣・真田氏が整備か /長野
毎日新聞 2013年08月23日 地方版
http://mainichi.jp/feature/news/20130823ddlk20040029000c.html

66 :
他家から養子が入ったり、分家からの養子で男系が復活したり、なんやかんやあるようですが現在では仙台真田家の男系子孫は途絶えているようなかんじですね。
http://www.kakeiken.com/report004-2.html

67 :
三弾正
攻め弾正:真田幸隆
逃げ弾正(退きの弾正):高坂昌信
槍弾正:保科正俊

68 :
真田本城(松尾新城とも。現代は真田山城の呼称)
松尾古城 真田幸隆以前の真田氏の居城といわれる。真田本城(松尾城)より後に築城
砥石城(戸石城) 真田氏の外城として築城。後に村上義清の拠点となるも、真田幸隆が調略により落城させる
天白城 須坂・松代方面からの上杉氏の侵攻に対処したものといわれる
箕輪城 幸隆・信綱父子、信玄より在番を命じられる
尼巌城(尼飾城) 東条氏の居城 幸隆が攻略
嶽山城(斎藤氏) 幸隆が攻略
厩橋城、八崎城、今村城、不動山城、小川城、猿ヶ京城 昌幸が調略し無血開城(1579年)
丸子城 昌幸が攻略(1584年)
沼田城 真田信幸の支配城。沼田藩真田家の居城
岩櫃城 幸隆が城代に就任
上田城 真田昌幸の居城
名胡桃城 昌幸、沼田城奪取の重要拠点
松代城 松代藩真田家居城

69 :
真田幸隆の庶子・真田清鏡
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/5840/zinnbutu.htm

70 :
信之の晩年、実際に戦場を経験した大名たちはすべて死に絶え、信之は実戦を知っている唯一の人物だった。
しかもその戦歴たるや、徳川家と戦っての勝利も含んでいるので、自ずから尊敬を集めていた。
徳川家自身も畏敬の念をもって信之に接していた。
家康、秀忠、家光、家綱の4代にわたって仕えていたが、家光は特に信之を好み、戦さ話を聞くのを楽しみにしていたと云われている。

71 :
>>44
先祖と同じ名前でもいいと思うけどな

72 :
 ◇堺の歴史
5世紀    仁徳天皇陵が造られる
1045   藤原定頼の歌集に地名「さか井」現れる
1522   千利休、堺の商家に生まれる
1550   宣教師ザビエルが訪れる
16世紀半ば 自治・自由都市として繁栄極める
1569   織田信長が直轄地に
1615   大坂夏の陣で焦土に
1868   「堺県」が創設される
1878   与謝野晶子、堺の菓子屋に生まれる
1881   堺県、大阪府に合併される
1889   市制施行、初の市議会
1945   堺大空襲。市街の大半が焼け約1800人が死亡
1961   八幡製鉄(現新日鉄住金)堺製鉄所、開所
1989   市制100年
2006   政令指定都市に移行し7区が置かれる
2009   シャープ堺工場、操業開始

73 :
上川隆也:「真田十勇士」で里見浩太朗とファン争奪戦
2013年08月30日
http://mainichi.jp/sponichi/news/20130830spn00m200009000c.html

74 :
「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利。惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」

75 :
徳川四天王の娘-第一話
その日、昌幸と信幸の親子は馬にまたがり数名の供を引き連れ
婚礼の日取りを決めるため徳川四天王の1人、本多平八郎忠勝の
屋敷に向かっていた・・・
昌幸:信幸・・・ほんに、かまわぬのか?わしは、気が進まぬがのう・・・
本多殿の娘を嫁に娶る、しかも徳川殿の養女としてじゃ・・・
う〜ん・・・わしは、どうも家康という男は好かん・・・妻や嫡男を
死に追いやる男など・・・う〜ん・・・
信幸:ははは・・・父上?では真田の立場で断れると申されますか?
わたくしは、とうに諦めております。良いでは、ございませぬか・・・
弟の源次郎(幸村)には父上が気に入られた娘を嫁にもらえば・・・
ははは・・・(大声で笑う)
その頃、忠勝の屋敷では・・・
忠勝の家臣(うろたえている):殿!本当に良いのでございますか!
このようなことをいたして・・・
もう知りませぬぞ!・・・こたびの縁組は、おやかた様が決められた
こと・・・勝手にこのような・・・
忠勝:かまわぬ、かまわぬ・・・おやかた様には既に伝えておる
おやかた様は、そなたの娘が嫌と言えば無理強いはせぬ・・・
と申された。
忠勝の家臣:しかし・・・これは・・・いくらなんでも・・・
屋敷には、娘の婿選びと称して多くの若者が集められていた・・・
真田親子が屋敷に着くと、忠勝が出迎えた。
忠勝:本日は、娘、稲の婿選びの席においでくださり
誠にご苦労様にござりまする・・・
昌幸:何?
昌幸を制して信幸が、前に出る。
信幸:ありがたきしあわせ、当方も望むところでござりまする!
信幸はニヤリと笑って忠勝を睨み返した。

76 :
徳川四天王の娘-後半-第二話
忠勝は、娘の婿選びの様子を隣の部屋の隙間からニヤニヤ
しながら眺めていた。
大勢の若者が横1列に並べられ、顔を下に向けている・・・・
稲姫が女中とともに部屋に入り扇子で若者たちの顔を、
ひとりひとり、ひょいと持ち上げ品定めをしていく・・・信幸の番になった
・・・他の若者同様扇子が信幸の顎に触れた瞬間
信幸:無礼者!男の顔を扇子で持ち上げるとは何ごとぞ!
このような縁組こちらからねがいさげじゃ!
信幸は大声を張り上げ、扇子を跳ね除けた。
稲姫は狼狽し女中が胸の小刀に手をやり”何をなさる”と叫ぶ。
そこに隣で様子を伺っていた忠勝が、あわてて部屋に入ってきて
信幸の前で正座し手をついて言った。
忠勝:数々のご無礼の段、平に平にお許しくだされ・・・よくぞ
娘の扇子を払いのけてくださりました。信幸殿こそ我が娘に
ふさわしいお方と確信いたしました!稲!いぞんは、あるまいな!
稲姫:はい!生涯を供にできるのは信幸様ただおひとりのみ
でござります!
信幸は、初めて姫の顔をよく見た。いかつい顔の忠勝とは
似ても似つかぬ美しい姫であった。色が白く目鼻立ちの整った
雛人形のような顔立ちをしている。そこに騒ぎを聞きつけて
昌幸が入ってきた。
昌幸:信幸!なにごとじゃ!
信幸:父上!これにて拙者の嫁は稲姫と決まり申した!
見てくだされ、これほどの美女、拙者、今まで見たことはございませぬ!
ははは・・・!(心の中の声:どうりで忠勝殿は姫を手放したがらぬ
わけじゃ)
稲姫は、真っ赤になったが、すぐに居直り昌幸に向かって三つ指を
突いた。
稲姫:真田の父上殿、ふつつかものでござりますが信幸殿との
ご婚礼お許しいただきとおござります!
昌幸:あい、承知つかまつった!
こちらこそ、よろしくおねがいたてまつる!
こうして稲姫は無事に真田に嫁ぐ運びとなった。

77 :
今日の帰宅時に電車の中で女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)と思われる二人組が隣に居てペチャクチャ盛り上がっていたのだが、
突然そのうちの一人が、「あー上田城に行きたいなー。小田原城は行ったし。」みたいなことを言い出したので思わず二人組の会話に注目してしまった。
最近流行っているらしい歴女のようで、自分でそんなことも言っていた。
見た目普通にかわいい少女だったのだが、普通に『上田城』とか知ってるのには驚かされた。
もう片方の子は城に興味は無いらしく城トークはすぐに終了していたが…。
まぁ、戦国武将ではメジャーな真田幸村(信繁)で上田城を知っているのかと想像されるが。
下見板張の渋い城郭で、堀の中を上田交通真田傍陽線が走っていたことでも有名だ。

78 :
永禄6年(1563) 9月 幸隆、西上野に出陣し、岩櫃城を攻める。
10月 幸隆、岩櫃城を攻め落とし、吾妻郡代になる。
永禄8年(1565) 11月 幸隆、岳山城を落とす。
永禄9年(1566) 9月 武田軍に攻められ、箕輪城、落城する。
永禄11年(1568) 12月 武田信玄、駿河に進攻し、駿府を占領する。
元亀3年(1572) 3月 幸隆、箕輪城代になる。
8月 幸隆、白井城を攻め落とす。
天正元年(1573) 4月12日 武田信玄、上洛の途中、伊那郡駒場で病死。
5月 白井城が上杉軍に奪われる。
12月 幸隆、箕輪城で病に倒れるが、快復する。
天正2年(1574) 4月 幸隆、再び倒れる。
5月19日 幸隆、死す。

79 :
幸隆(幸綱)の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。
武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。

80 :
真田幸隆(幸綱)「お願いに御座いまする。それがしも(西上作戦に)御伴させてくださいませ」
信玄「留守居役はそちしか出来ぬ」

81 :
映画「戦国自衛隊」で真田昌幸を演じたのは角川春樹。
真田昌幸「真田鉄砲隊放て!」
この時代は、まだ鉄砲が大して普及していなかったのだが、そこは映画。

82 :
真田幸隆(幸綱)は三十箇所という傷を受けながら戦場を駆けた猛将(&某将)

83 :
戸石城攻めで武田軍が「戸石崩れ」と言われるほどの敗北の後、謀略で一日のうちに城を攻め落とした事で武田家で謀将として名が上った事などが真田幸隆(幸綱)が「攻め弾正」と呼ばれた理由。
高坂昌信は「逃げ弾正」「退きの弾正」と言われますが別に逃げ出すわけではなく、退却の時の指揮能力が高いという意味。
戦争においては「進むより引くほうが難しい」と言われる。
勝っているときは、兵士が前に出過ぎない程度に軍を適度に勢いに乗せて動かせばいいのだが、
劣勢になって退却時に軍をまとめ敵を追い返せないまでも安全な所まで敵を抑えられるだけの戦上手であることが求められる。
「逃げ弾正」と呼ばれるほど彼は退却戦がうまいと武田軍では評価されていたと言えるでしょう。
他の話では敵と味方の戦力と戦況等情報を集められるだけ集めて無理と判断とすれば、即座に兵を引いて策を練り直したほどの深慮遠謀の人だったので
「逃げ弾正」と呼ばれたという話もありますが・・。
高坂弾正は美男子で有名で、あの武田信玄から送られた恋文も残っているそうですし(別の話では浮気がばれたので高坂に送った詫び状とか)。
ですが当時の武将は男色である事は別に今と違って珍しくなくありませんが・・。
攻めの弾正真田幸隆・逃げの弾正高坂昌信・槍の弾正保科正俊を「三弾正」と言いますが、武田信濃先方衆で120騎を持ち槍の名手だった保科正俊ですが・・
先の二人に比べるとドラマでも小説でも目立たない存在ですが・・

84 :
4人の比較
村上義清は猛将
小笠原長時は弓
諏訪頼重は歩兵戦術
真田幸隆(幸綱)は信玄の配下で知略の将。
というイメージ。
戦闘能力では村上義清でしょうが、
戦術・トータル的には真田幸隆でしょう。

85 :
真田家の歴史は古いが、戦国武将としての真田家は幸隆(幸綱)の代から世に出たといえる。
それまではその他大勢である国人衆に過ぎなかった真田家は幸隆の代に一度武田信虎らに滅ぼされる。
領地を失い関東管領上杉氏を頼って落ち延びたが、いつまでたっても埒が明かないことに業を煮やし、
武田信玄を頼り、信濃攻略の尖兵となった。その活躍により武田24将の一人に数えられるようになった。

86 :
>>69
真田幸隆(幸綱)の上州亡命時の庶子ですな

87 :
松代藩真田家と彦根藩井伊家との関係。真田家6代目藩主の真田幸弘の息子が早世していたため、彦根藩12代目藩主の井伊直幸の息子幸専が真田家の養子になり、真田家7目代藩主となっている。

88 :
誤:7目代
正:7代目

89 :
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info114/s5.html
「(信之が)訪ねてきたときに会えなくて申し訳ない」(石田三成)
といった内容の書簡が現存。
その宛名書きが「さいつどの」(真田伊豆守の略)
というくだけた宛名だったので、気安い間柄だったのかも?

90 :
真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていて家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がいて厳重保管されていた。
中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、
明治になって開けたときに石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていた頃の危険な証拠書類が詰まっていた。
これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていた。
信之が危険な証拠書類を焼却せずに 秘蔵していた理由は謎。

91 :
真田信之(信幸)・幸村(信繁)の扱いの違い
数年前、長野県の上田・松代を旅行しました。
上田でびっくりしたのは町全体で「幸村様万歳!!!」という雰囲気と、
兄完全無視(笑)なことです。
上田真田祭りでは真田三代が幸隆・昌幸・幸村になっているそうで苦笑するしかありません…(地元の方、ごめんなさい^^;;)
一応、初代藩主は信之のはずなのですが。
松代はそうでもなかったのですが、
長国寺の信之のお墓は蜘蛛の巣だらけでした。
いくら弟の方が有名とはいえ、この扱いは…
確かに信之は地味ですが、調べてみると中々の名君だと思います。

92 :
>>91
蜘蛛の巣だらけなのは長国寺ではなく大鋒寺じゃないか?
長国寺はよく手入れされていると思うよ

93 :
大鋒寺ですな

94 :
北条との戦いで、真田信之は手勢800騎を率いて、北条方の軍5,000が守る手子丸城を一日で落とすという離れ業をやってのけた

95 :
馬場主水は真田家の忍びだったといわれています
大坂の冬の陣で実際に働いていたようです
(夏の陣には負傷したため参戦していません)
その後領民の娘を辱めて自害させ、その罪で牢に入れられるがそこから逃げ出し
幕府に「信之は反逆の意志があり信繁(幸村)と内通していた」と訴えのです
それを聞いた信之は「自Rる!!」と幕府から派遣された中山勘解由と朝倉藤十郎にきっぱり。
二人はあわてて「反逆の気持ちがあるなら自Rるのはもっともだが、その意志がない場合は弁解すべきだ」とフォローします
そして秀忠の計らいで主水と真田家家老の討論(裁判に近いもの)が行われ
その結果信之の無罪が確定します
その後主水は真田家家臣に暗殺されてしまいます
一説には主水は秀忠のスパイであったとも言われています

96 :
真田丸の戦いでの徳川方の被害
騎馬武者780騎&多数の足軽

97 :
大坂冬の陣の戦死者の8割が真田丸の攻防によるもの

98 :
大坂夏の陣
「真田が赤備
つつじの花咲たるが如く
堂々の陣をはる」
徳川家「武徳編年集成」

99 :
「家康様を守る者は
一人だけにて
他はちりぢりに逃げた」
「三河物語」

100 :
いわば左衛門佐(信繁)は、本当の侍であり、
それに比べ我らは
作り髭をして肩を怒らせている道具持ちというほどの差がある。
誠に物腰柔らかな男であり、口数は少なく、
日頃いきり立つこともなかった。
「幸村君伝記〜真田信之の言葉」


100〜のスレッドの続きを読む
織田信長は過大評価されすぎ part 3
戦国公家!近衛前久
織田家のマイナーな武将を語るスレ
司馬の徳川の嫌いプッりはちょっと変
【舞兵庫】石田家臣を語る【横山喜内】
武田信玄は過大評価されすぎ
文禄・慶長の役はどうすれば日本軍が勝てたか?
戦国時代の軍師・参謀を語る
天才軍師と評価が一変した佐久間玄蕃を語るスレ
もし信玄と謙信が争わず同盟を結んでいたなら?
--------------------
春秋戦国時代2
【ワッチョイ】検札がやってくる路線 35区間目【ワッチョイ】
【旗本】江戸時代の幕臣について【御家人】七
【南野陽子スレ】藤田義仁容疑者の威力業務妨害【きちがい】
ドイツ車に完全敗北したレクサスの今後の戦略は?17
関電・トリエンナーレ… 野党「3点セット」で首相追及
【夏厨】ゲー製作板◆厨房になりきるスレ【リア厨】
【せぴあくん】るりまさん総合スレ☆41【28歳になる】
直リンについて考えてみるスレ
第60期王位戦 Part60
ノートパソコンのHDBENCH
【755】上西恵VS古畑奈央【写真集対決】
【PS4】地球防衛軍5 Part246【EDF6】
美大生が聴く音楽
男は存在自体ウンコ
【ストーカー規制法】相手の車にGPS「見張りに当たらず」 判決維持の公算(朝日) [夜のけいちゃん★]
【箱根→】静岡放送-SBSRADIO-16【←浜名湖】
【福井】鶏もも肉と卵パックを万引した女子大生(18)、警備員にかみつく 逮捕
【P2P】 PCゲーム総合スレ Vol.616
ビリーズブートキャンプ&TAEBO総合スレ72モアセッ!
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼