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世界の暦と暦の歴史


1 :2019/09/15 〜 最終レス :2020/06/19
世界には様々な暦があり、それぞれの暦が現在の姿になるまでには色々な歴史があります。
そういったことを語りましょう。

2 :
ポーランドの中で帝政ロシアに組み込まれた地域はグレゴリオ暦から
ユリウス暦へ変わったん?

3 :
1811年、ロシアのゴロウニンは函館に幽閉された。世に言うゴロウニン事件である。
そこに間宮林蔵が面会に来る。

間宮 「我が国は寛政暦ですが、その精度はまだまだですな」
ゴロウニン 「我がロシアは、今だユリウス歴ですよ」
間宮 「イギリスやフランスはグレゴリオ暦ですが、これもまだまだですね」
ゴロウニン 「ほう、どうしてですか?」
間宮 「もっと良い補正の方法があるのに、それを採用していないからです。今のままでは3千年後には1日の誤差がでるはずです」
ゴロウニン 「なるほど」

ゴロウニンは、間宮はいけ好かない人間だけど、知識量は凄いと『日本幽閉記』に書いている。

4 :
完全太陰暦のイスラーム暦より
よっぽどシュメール、バビロニア、エジプトの方が進んでたのに
何で劣化させたんだか

5 :
なんでロシアはビザンツの世界創世暦じゃなくてユリウス暦だったの?

6 :
グレゴリオ暦(とユリウス暦にも関係するかも?)に関して一つ疑問があります。

それは、「どういう理由で、新年つまり1月1日を現在の時点(地球と太陽との位置関係)に選んだのか?」という疑問です。

新しい年が始まる1月1日を、例えば冬至とか春分(もちろん夏至や秋分でも)といった太陽と地球との位置関係が特別な日に選んでいるのならば
何の不思議でもありませんが、現在のグレゴリオ暦の新年は冬至からも10日前後ズレた非常に中途半端な時点を選んでいます。

何故、こんな中途半端な時点を年の始まりと言う1年の起点に選んでいるのでしょうか?

何か特別な祭礼の日付をユリウス暦と同じにする都合というのが上の問の答えでしたらば、
ユリウス暦が採用された最初期での新年の時点(地球の公転軌道上の位置)はどうだったのでしょうか?
そしてそれがグレゴリオ暦と同じく中途半端な時点であるのならば、何故、そんな中途半端なのが選ばれたのでしょうか?

どなたか御存知でしたらば御教示くださると幸いです。

7 :
>>6
気になるね
古代ローマで、一年の始まりは三月で
(だから閏日は二月末だし、九月が「7」に由来する September)
これでも春分とずれるし

ユリウス・カエサルがモデルにしたエジプト太陽暦
(これ、クレオパトラが伝えだんだか?)
エジプト暦はどうだったか、分かればヒントになる
同様にエジプト暦が元になった、コプト暦やエチオピア暦も

8 :
>>4
イスラムは砂漠での交易がメインだし、その為には月齢の把握が重要だから。

9 :
エジプトでナイルの氾濫を新年とする暦が作られたので
それにあわせてローマでも英語のMarchに当たるMartiusを新年としたわけだ
だけど本来11月を表すJānuāriusが扉や入口の神であるJanusにちなんでいるので
こっちの方が新年にふさわしいとされ2ヶ月ずれる事になった

10 :
>>8
それって、太陽太陰暦で十分じゃ

11 :
ユリウス暦で少しずつずれてゆき、
「よし、ここでこれ以上ずれない新しく計算した暦に切り替えよう」
と実施した年が現行の12月22日冬至の暦だったんじゃないの?

12 :
>>6

ローマ暦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%9A%A6

これのヌマ歴とその改暦を読んで
さらに疑問がわきますかね?

ヌマ暦

紀元前713年、ローマ国王ヌマ・ポンピリウスによって改暦が行われ、現在の1月にあたるJ?nu?rius、2月にあたるFebru?riusがつけ加えられた。
このときヌマは、日数が30日だった月の日数をすべて29日に変えた。平年の1年の長さは355日になる。

2年に1度、2月の日数を23日に減じ、2月23日の翌日に Mercedinus(メルケディヌス)という名の27日間または28日間の閏月を挿入した。
この時期はまだ年始は3月1日であった。この暦法は、布告した王の名をとりヌマ暦と呼ばれる。ほとんどの月の日数を29日と31日にしたのと、
1年の長さを月の運行に合わせた354日にしなかったのは、ヌマの信仰が偶数を嫌ったからだとされている。


紀元前153年の改暦

この後も数度、改暦が行われた。最も大きな改暦は紀元前153年1月1日に行われた。
この年から[要出典]、 年の始まりが3月1日(MartiusのKalendae)ではなく、1月1日(J?nu?riusのKalendae) に移った。
このとき、月の順序と月名との間にずれが生じた。

13 :
>>12
情報有難うございます

なるほど、ローマ暦のような誤差の大きな暦では使っている間に暦年と太陽年とのズレがどんどん蓄積してしまい
最初期に公転軌道のどの位置を新年に選んだのか、この説明だけではほぼ逆算不能ですね

つまりローマ文明は暦というか春分・夏至・秋分・冬至といった精密な太陽観測の蓄積に関して無頓着だった、
あるいはローマ文明は余り天文観測や太陽観測を長期的かつ系統的に行う文化を有してなかったということになるのでしょうか

ずっと以前の世界の様々な文明は天文や太陽観測で春分などの地球公転上の特別な日を特別な日として認識していたのに
西欧文明の礎であるローマ文明はその認識を持っていなかったということでしょうか

14 :
>春分・夏至・秋分・冬至
赤道に近くなるほどそういうのははどうでもよくなる

15 :
>>13
いえ、その続きにあるように
ユリウス暦になるときに日数を調整しているので
なんらかの意図があったと思われますね

おいらは後の太陽神信仰との絡みもあり
冬至日はかなり重視されたのではないかと
考えております

またその後の千年ぐらい
世界の天体観測をリードするプトレマイオスさんが
ローマ文明の中の人ですね

16 :
>>15
> またその後の千年ぐらい
> 世界の天体観測をリードするプトレマイオスさんが
> ローマ文明の中の人ですね

あっ、そうか、西欧の天文学の祖とも言うべきプトレマイオスは古代ローマ人だったのですね
何か古代ギリシャかどこかだと思ってました、無知蒙昧を反省しています
有難うございました

>>14
> 春分・夏至・秋分・冬至
> 赤道に近くなるほどそういうのははどうでもよくなる

ローマを始めとしてヨーロッパは結構、緯度は高いですよ
(暖流のメキシコ湾流のお蔭で西ヨーロッパは緯度の割にとても温暖ですが)
なので、古代でも春分〜冬至は結構はっきりと認識できていた筈です

17 :
>>7>>6

おいらもローマの暦はめっちゃ気になります
特にユリウス暦への改暦と、7妖精への移行
はちゃんと調べてみたいですね


おっしゃるようにエジプト歴がどういった状態になっていたかと
当時のカエサルの状況と
その二点を調べてみたいと思います

18 :
>>17

紀元前45年

紀元前45年は、ローマ暦の709年である。ユリウス暦が施行された年である。

できごと

ローマ
1月1日よりユリウス暦施行。
執政官はガイウス・ユリウス・カエサル単独であった。
ローマ内戦
3月17日 - ムンダの戦いでティトゥス・ラビエヌスとグナエウス・ポンペイウス・ミノルを破り、内戦は終結した。
    ラビエヌスは戦場で死亡し、ポンペイウスは処刑されたが、セクストゥス・ポンペイウスは大西洋岸まで逃亡した。

ユリウス・カエサルが編成した第10軍団エクェストリス及び第13軍団ゲミナは解散した。第10軍団の退役軍人はナルボンヌに移住し、第13軍団の退役軍人にはイタリア近郊の土地が与えられた。
ユリウス・カエサルが終身独裁官に指名された。
ユリウス・カエサルはおそらくこの年にCommentariesを執筆した。

誕生
ユッルス・アントニウス、マルクス・アントニウスとフルウィアの息子(+ 紀元前2年)
王莽、新朝の皇帝(+ 23年)

死去
2月 - トゥリア・キケロニス、マルクス・トゥッリウス・キケロの娘(* 紀元前79年/紀元前78年)
3月17日 - ティトゥス・ラビエヌス、共和政ローマ期の軍人(* 紀元前100年)
3月17日 - プブリウス・アッティウス・ウァルス
4月12日 - グナエウス・ポンペイウス・ミノル、グナエウス・ポンペイウスの息子(* 紀元前75年)
12月31日 - クィントゥス・ファビウス・マクシムス

19 :
>>17

紀元前46年

紀元前46年は、ローマ暦の最後の年である。暦の調整のため、445日間あった。
この年にユリウス暦が導入されたが、適用されたのは紀元前45年からである。

できごと
ローマ
執政官 - ガイウス・ユリウス・カエサルとマルクス・アエミリウス・レピドゥス
ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)
1月4日 - ルスピナの戦いでティトゥス・ラビエヌスがユリウス・カエサルを破った。
4月6日 - タプススの戦いでユリウス・カエサル軍が元老院派軍に勝利。
4月 - カエサルはマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスが守備するウティカを攻撃。カトが自殺。
4月 - 元老院派のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカなどが敗死。
9月26日 - ファルサルスの戦いでの誓いを果たすため、彼の神話上の祖先ウェヌス・ゲネトリクスに神殿を奉じた。
11月 - 抵抗運動の発生を抑えるため、ヒスパニアに向かった。
カエサルがローマ暦を修正し、ユリウス暦を作った。過渡期のこの年は、調整のため445日となった。1582年にグレゴリオ暦ができるまで、西洋では1600年以上も標準的な暦として使われた。
カエサルは甥のオクタウィアヌスを後継者として指名した。
ウェルキンゲトリクスが処刑されると、カエサルはガリアでの勝利を祝った。

ヌミディア
タプススの戦いで元老院派と共に敗北。ヌミディア王ユバ1世は敗死。
ユバの死によってヌミディア王国は断絶して、ヌミディアはローマ属州となった。

死去
マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス、ローマの政治家(* 紀元前95年頃)
クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ、ローマの政治家(* 紀元前100年/紀元前98年)
ユバ1世、ヌミディア王(* 紀元前85年頃)
ウェルキンゲトリクス、アルウェルニ族の族長(* 紀元前72年頃)

20 :
このスレに気づかなかったものですでに質問スレにも書いたのですが
大航海時代16世紀の航海士たちの一日の定義とはどういったものだったのでしょうか?

21 :
>>4
俺の想像
砂漠は一年中同じ気候で昼間は暑くて外に出られない
よって外に出るのは太陽が沈んだ夜からとなるが、そうなると月が外に出ている
よって月で暦を作った方が生活に便利となる

22 :
これもおもしろいですね


>>5

世界創造紀元

世界創造紀元(せかいそうぞうきげん)は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で公式に使用された紀年法。ビザンティン暦(英語:Byzantine calendar)とも呼ばれる。
988年に皇帝バシレイオス2世により導入され、1453年の帝国滅亡まで使用された(それ以前のレオーン6世の時代から一部では使用されていた)。



ロシア正教会の歴史

ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立

正教会の伝承によれば、ルーシの正教伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが[2]、
本格的な正教伝道の試みが歴史的に確認できるのはコンスタンディヌーポリ総主教フォティオス(在位:858-861? 878-886)によるものである。
また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガがキリスト教(正教会)[注釈 1]の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった[6]。

まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、
公式に東ローマ帝国の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い[7][注釈 2]。

府主教座は当時ルーシ[注釈 3]の中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた[注釈 4]。

発足当初から長期にわたってキエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の監督下にあり、コンスタンディヌーポリ総主教がキエフ府主教を任命した。
当初は府主教も東ローマ帝国から派遣されたギリシャ人だった[8]。
なお初期の府主教の称号は単に「キエフ府主教」であり、「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は後代になって使われるようになった
(13世紀から使われ始め[9]、恒常的に使われるようになったのは14世紀[10])。

キエフには後にキエフ・ペチェールシク大修道院に成長する洞窟修道院が、アトス山の修道院から出身地ルーシに戻ったアントニイによって1051年に創始された[11]。

23 :
>>7

コプト歴はこちらでした

ディオクレティアヌス紀元

ディオクレティアヌス紀元または殉教紀元(じゅんきょうきげん)は、4世紀から5世紀頃、キリスト教徒の間で広く用いられていた紀元。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害によって多くの殉教者(致命者)が出たことを祈念し、ディオクレティアヌスが即位した年の年初(ユリウス暦284年8月29日)を紀元とする。
現在でもエジプトのコプト正教会が用いている。

ディオクレティアヌス紀元の普及

アレクサンドリア教会での復活祭の計算方法に用いられており、そのアレクサンドリア方式が第1ニカイア公会議で採用されたため、キリスト教世界全体に広まった。

325年におこなわれた第1ニカイア公会議は全教会で復活祭を同じ日曜日に祝うことを決定し、アレクサンドリア方式を採用した。
アレクサンドリアの教会では、復活祭は「春分の日以降で最も早い太陰暦の14日(満月の日)の次の日曜日」に祝っていた。
このとき、春分の日も当時のユリウス暦では3月25日であったが、アレクサンドリアでの春分の日に基づき、3月21日とされた。


>>17

いつも確認するサイトだと
http://www.vdgatta.com/note_fasti.html

七曜制
1週間を7日とするのは、紀元後2世紀からであり、曜日の名称はさらにあとのことである。

これをもちょっと具体的にしていきたいとこです

24 :
>>21
なるほどね
それだと、メソポタミアやエジプトみたいな穀倉地帯に所信が広がると
預言者が想定していなかった事になって、信者は困るんだけど
だからという訳じゃなく、別の可能性を考えてる

ムハンマドは教義上文盲だったらしい
そうだとしても、商人としてエジプト人やビザンツ人、ペルシア人と交渉したはず
そうすると、商談で納期の折衝もしたはずで
太陽暦や太陽太陰暦の事も、承知してたと思う

トルコ国旗を見れば分かるように
中東一帯には太陰信仰があった
ttp://rank119.gozaru.jp/img/roma/img73/06.png
だから、アラビアに元々あった月神崇拝の名残じゃないかと

25 :
エジプトの戸籍調査は14年毎という情報をみかけましたが
なんでローマは15年にしちゃったのかなぁ

エジプト式の方が都合良さそうなんですが

26 :
曜日はここがまとまっててわかり易かったです

>>1

暦からわかる世界の不思議
http://www2.ttcn.ne.jp/~teatom/Japanese/youbi.html


曜日の呼び名の分布
http://www2.ttcn.ne.jp/~teatom/Images/koyomi/youbibunpu.jpg

曜日の伝播
http://www2.ttcn.ne.jp/~teatom/Images/koyomi/youbidenpanzentai.jpg

27 :
>>6
> グレゴリオ暦(とユリウス暦にも関係するかも?)に関して一つ疑問があります。

ユリウス暦を採用してたが、
教会的には 復活祭(イースター)を春分の日に規定してた、
太陰暦と違って 太陽暦で 年間日数を数える場合は1年の正確な周期と 端数を計算して、
うるう年に うるう日を挿入する事で 365日で進行した場合のズレを数年ごとに挟むことにした、

春分が規定されたことは 同時に秋分も決まり (昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる節)
夏至と冬至も 定まる、 あとは春分の日から カレンダーから逆算すれば 1/1が定まる。

ユリウス暦でも まぁそれなりに精度はよかったんだけど、この上記 春分の日が ずれてたので
(3日ほど 実際とはズレてた)

4年に一度 うるう日を入れてた ユリウス暦が 400年で 3日誤差がでたので
4年に一度 うるう日を入れるが 00の年にはうるう日を入れない で 解決することにした。
( 400年で 100回 うるう日が入るのを -3の 97回に修正した)

これが グレゴリオ暦

28 :
>>21

なに 適当に言ってるんだよw

太陽暦に比べて 太陰暦の方が 『月の満ち欠け』を見て 今が今月の何日?が判りやすいんだよ
月の満ち欠けの周期は約29.5日
満月から満月まで 数えれば 約30日 満月から新月が 約15日

https://i.imgur.com/NKkFOQM.png

大昔で 庶民がカレンダーを持ってない時代とかには 『月の満ち欠け (月齢)』を見れば
月の頭(新月)だな 三日月なので 月の3日だな 月のなかばだな(満月)と言うのが
月の満ち欠けで おおよその月の日数30に 満ち欠けの形で 判るようになってた、
アホな庶民でも月の形をみれば おおよその暦が判るので 天文観測を重視しないなら
太陰暦の方がアバウトで勘定がしやすい

月の満ち欠けの 運行を 元にすると 29.5日なので
29日の月と 30日の月 x12月で 一年は 354だと 一年周期に11端数が出る、なので
3年に一度 プラマイ修正として 12月の次に うるう月を入れる。これが太陰暦。
庶民はこれでよかったが

一方で 月齢のままの太陰暦だと 実際の二十四節気(春夏秋冬など)とズレが生じるので、
実際の二十四節気に 出来るだけ合わせるように 大の月 小の月を調整するなど
暦を作る側が毎年難儀してた 暦を作る方は大変

中国の太陰暦では 一年の起点は 冬至を起点としてたので
理屈の上では 太陽暦と太陰暦も そうズレは起こらないはずだが
天体観測の測量機器が中国日本は 欧州に比べて遅れていたので 冬至がうまく予測できてなかった。
幕府の面子は まる潰れであるw

29 :
古代エジプトでは ナイル川の氾濫の時期を 星座を観測して
シリウスの緯度経度で 季節の巡航を把握してたそうだから
(土地が痩せることなく ナイル川の氾濫で 栄養に富んだ土壌を定期的に得られた)

チグリス ユーフラテス河も 洪水が起きた時への建造物(ジグラット)で対応してたから、
星読みが農耕と密接に関係していたのだと思う
これらの地域だと バビロニアからの60進数で天体観測した方が正確なので、
月齢よりも 太陽の運行(星座)を観測した方が重要だったのだと思う

イスラムも航海術などは発達してたので天体観測はしてたと思うのだが(実際そうだし)
なんで 太陰暦なんだろうね 判らぬ

30 :
暦といえば面白いのがフランス革命暦

1年は365日で、革命政府が指定した年が別に閏年となった。
1年は12か月、すべての月は30日で、あまった5日(閏年は6日)は年の終わりに置いて休日とした。
さらに1か月を10日ずつ3つのデカード(décade。週・旬とも訳す)に分け、従来の週 (semaine) と七曜を廃止した。
1週は10日、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒とすべて十進法が使われた(十進化時間)。

31 :
>>29

イスラム歴はほとんど知らないけど
たぶんコーランかシャーリアの絡みで
使ってるだけかと思いますが
なんかおもしろいところに繋がるんだろうか


>>30

基本のとこエジプト式なんですよね
昼と夜を12分割するとこ以外は

これを何処から引っ張ってきたのかは気になりますね

32 :
>>4>>29
太陰暦なのに4年に一度
閏年を入れてるのは正しいんだろうか
これは気になってまいりましたww

33 :
>>30
結構便利そうだな
月の日数が統一されてるのがいい

34 :
これは間違い
>>32

30年に11度の閏年で
月の位置とはあうそうな
入れ方はどこが決めてるのだろうか、、、

35 :
>>33
現実は従来の暦とかけ離れてるせいで農作物の収穫時期がわからず大不評
結果すぐに元に戻った
宗教的支配からの脱却という着目点は革命らしいけどメートル法のようにメジャーにはなれなかった

36 :
1983/07/03

37 :
1969/09/15

38 :
1980/12/08

39 :
1930/12/06

40 :
2016/09/25

41 :
>>30>>31

共和暦とも呼ばれる。国民公会によってフランス革命中の 1793年 10月 24日に施行された暦法。
92年9月に王制廃止の宣言が出されたが,翌年国民公会は西暦を廃止し,カトリック的色彩を一掃するために,
公共教育委員長 C.ロンムに改暦をまかせた。 G.モンジュ,J.ラグランジュらの数学者,F.デグランティーヌらの文学者を含む委員会は,
原案として,以前に古代エジプト暦やペルシア暦をもとに案出されていたマレシャールの暦法 (1788) を審議し,
ほとんど変更なくそれを採用した。第1年はフランス共和国の成立した 92年9月 22日 (共和政成立の日) から始る (第1年は実際には存在しない) 。
1年を 12ヵ月,1ヵ月を 30日とし (12× 30=360日) ,年間5〜6 (閏年) 日の残り (太陽暦に比べて) は,年末におき,「サン=キュロットの日」として共和政祝典の儀式にあてた。

42 :
>>27
> 教会的には 復活祭(イースター)を春分の日に規定してた、

つまり、次のようなことだと理解すれば宜しいのでしょうか?

1.復活祭の日付は聖書か何か古い言い伝えによって決まっている
2.教会はこの復活祭は春分の日であったと考え、そう定めた
3.つまり春分の日は古からの言い伝えの復活祭の日付と定義された
4.この春分=復活祭の日付から1月1日を逆に決めてこれをユリウス暦の新年とした

ずっと疑問に思っていた謎が解けてとてもスッキリした気分です
御教示、本当に有難うございました

43 :
いや、イースターは一月七日だろ

44 :
1年が12月なのは、一年に月がまあ大体12日満ち欠けするってことから来てるんだろうけど
なんで1月が西洋でも東洋でも冬なの?冬至でもないし

45 :
>>42
復活祭は 春夏秋冬の季節の移り変わりの 『冬(死)〜春(生)』と、
静寂の死から 春の芽吹きの変化を キリストの復活になぞらえて、
春を迎える節を 『復活』として 自然発生的にいつしか広まってた。
(キリスト教の浸透と 説話の理解が広まるのには ここがいつ?という境目はないと思う)

『復活祭の日』は春の訪れの日 としても、 困るのは教会側、
ユリウス暦の頃には キリスト教にも既に各宗派が存在していて各事情が有った、
第1ニカイア公会議 と言うのを 325年に行い、
各宗派ごとでの問題を討議して 「復活祭の時期」も合議で決めて、
公会議で 毎年決めて それで 復活祭の日が決まるように してた。

各宗派が合議出来てた頃はいいんだけど しだいに形骸的に…。

グレゴリス暦は
カソリックのローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を検討させた成果な訳で、
プロテスタントの国は承認せず 正教会も承認しないなど
ヨーロッパでも グレゴリス暦の導入時期はかなり遅れたり 今でも導入してない地域もある。

なので、
> 教会的には 復活祭(イースター)を春分の日に規定してた、

は グレゴリウス暦(選定時)での根拠であって、
グレゴリウス暦を採用してない地域もあるから絶対的根拠ではないないです。

46 :
>>44
バビロニア暦では 三月か四月の春が 一年の始まり、

古代エジプトの暦法に由来するコプト暦だと 8月から9月ごろ
ナイル川が増水する時期

古代ギリシャも 夏ごろが新年

ユリウス暦の前身のローマ暦で 1月1日を新年の始まりとしているから、
1月1日を新年の始まりとしているのは 古代ローマの流れだと思います。

47 :
>>16
>古代でも春分〜冬至は結構はっきりと認識できていた筈です
春分・秋分ははっきり認識できるけど、冬至・夏至はどうかな。
冬至・夏至の前後の1週間ほど日の出日没は1分以内。
日没が最も遅くなる日は冬至から半月後、日の出が最も早くなるのは夏至から半月後だし。
むしろ春分・秋分が決まってその中間の日を冬至・夏至としたんじゃないのかね。

48 :
東京の本年12月の日の出・日没時刻表
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/2019/s1312.html

49 :
日の出日の入り時刻で曲線を書くと見事なサインカーブになる

50 :
>>44
由来のJanusが始まりを表す神だったので
本来11月だったJanuariusが1月にスライドして2ヶ月ずれた

51 :
>>47
> >古代でも春分〜冬至は結構はっきりと認識できていた筈です
> 春分・秋分ははっきり認識できるけど、冬至・夏至はどうかな。

古代では、日の長さという事よりも、黄道での太陽の移動する位置で 、
天球面で 360度1週するのを一年の周期とみなして
地球から見た 太陽の周回基準で 太陽年(太陽暦)が出来てる。

太陽年は およそ 365.242189日 (平均値)

天体観測(天文学)からの成果だと思います。

52 :
>>46
前153年の改暦の目的が
執政官を戦場に送るためだったそうな
春まで待てなかったらしいです


この現実と制度の狭間で
現実側を曲げて認識の向こう側にいくやりかた
おいら大好物ですね

53 :
>>44

正月と太陽冬至の差のせいかと思いますね
基本的に冬至がいちばん観測でわかり易かったからかと思いますが



三正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AD%A3

三正(さんせい)とは、中国戦国時代に唱えられた、中国暦の年始をどこに置くかについての3種類の考え方である。

夏正(かせい)・殷正(いんせい)・周正(しゅうせい)の3つを総称したものであり、夏王朝・殷王朝・周王朝における暦(夏暦・殷暦・周暦)で用いられていたと主張される。

12か月に十二支を配当したものを月建と呼び、冬の真ん中である冬至を含む月を建子の月とした。
したがって、春が建寅・建卯・建辰、夏が建巳・建午・建未、秋が建申・建酉・建戌、冬が建亥・建子・建丑の月となる。これには夏正・殷正・周正の違いはない。

夏正では建寅の月を正月とし、殷正では建丑の月を正月とし、周正では建子の月を正月とした。
年始はその月の朔日である。

54 :
>>45
暦法は基本的に権威と絡んでるからね

独自の元号「大化」を導入したことや
朝廷の陰陽師が取り扱ってきた暦を
武士が改暦した事には
革命的な意味がある

個人的に常用暦は重宝してるな
4百年周期で、4百年の日数が7の倍数だから
古代中世の出来事の曜日が、エクセルで分かる

>>35
理屈で考えて、最も整然としてるけど
定規教とか、理知教とか
また別の教権支配の風情が

55 :
一年が365.24219日で
月の満ち欠けの周期は約29.5日なのは人類にとってラッキーだったよな
一年が11ヶ月とかだったら計算が面倒でかなわん
どうせなら指の数も12本だったらもっと楽だったのに

56 :
ググってたら 判りやすいサイトがあった 子供向けの解説だが要点の解説がgood

1年が約365日だと発見したのはどこの人? ★ 時のハテナにせまる!! ★ キッズタイム ★ 時と時計を楽しくまなぼう
https://www.jcwa.or.jp/kids/hatena-3-4.html


https://www.jcwa.or.jp/kids/images/illust_hatena-3-7@2x.jpg

ユリウス暦の改良ヒントは 古代エジプトの暦のから閏年の概念を導入したそうな、

ユリウス暦の導入年度は ズレまくってた誤差の修正の為、
一年の長さが400日以上になった。一年の長さで最長記録だと思うw

57 :
最初の 導入年が 445日だったらしい (ズレまっくてたカレンダーの修正の為にこうなった)

58 :
古代バビロニアの バビロニア暦が 太陰太陽暦で判りにくいんだが、

古代エジプトの暦の考え方が めっちゃシンプル

https://www.jcwa.or.jp/kids/images/illust_hatena-3-8@2x.jpg


一年が 30日の月 12月で 360日+神様の祝日として 5日、
シリウスの位置が起点日、
が この方法にも問題があった、 太陽の運行からすると 1年は 365.24日ほど、
0.24日の端数があるので 4年で1日 ズレていく、
古代エジプトでは 4年に一度 閏年に 1日加えて修正することにした。
この考えがナイスだったので カエサルがユリウス暦として導入した。

59 :
>>17>>12


けっきょくウィキペディアさんの中の人がいちばん詳しいという、、、

60 :
ヌマ暦 めっちゃ適当やなw 太陰暦なのに 29日 31日が周期的に出てる、

太陰暦なら 月齢(約29.5日)に合わせる為、 小の月 29日 大の月30を交互に出して、
月の運行に合わせて 各月を運行するのに
『偶数が嫌い』って言う理由で 29日や31日で布陣、まぁでも 後世に影響残してるなぁw

これは勉強になるわぁw 中国の暦の歴史よりか面白いwww

61 :
「2月はどうして28日なのか?」 これも元を探せば ヌマ暦なのだな

62 :
>>17
日曜日ができたのはコンスタンティヌスさんの中の人でよいらしい

コンスタンティヌスさん田舎暮らしかと思ってたら
かなり早い段階でディオクレティアヌスさんのところに出向しておりましたよっと

63 :


64 :
>>45
なるほど、そういう経緯なのですか
詳しく丁寧な解説をして頂きまして本当に有難うございました
15年ぐらい前にハッと気がついてずっと気になっていた疑問が漸く解決しました
心からお礼申し上げます

65 :
気になっていて調べてみたいことをメモ

【春分、秋分について】
@春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か
Aその記録が文章に記載された初出はなにか
Bそれを考えるにあたってどういう仮定や前提を必要としたか

【冬至、夏至について】
C冬至、夏至のどちらかのみを記録や予想していた文明はあったか
D北回帰線と南回帰線の間を発祥とする文明において冬至、夏至がどのように扱われていたか(特に夏至)
E古代極地方において白夜と極夜は天文現象と絡めてどのように認識されたか


あと歴史上の日時計の取り扱いや
実際の運用がどのように行われたか
いいサイトがないか探したいところですね

66 :
>>65
春分や秋分とかにこだわるのは あんまり意味がないと思うよ。
黄道座標系で太陽の位置(実際には地球の公転の位置)で
『一年』を古代のひとが発見したのだと思うし、
円周を360度と考えて 分割して考えた結果だと思いますがね。
(この意味では 60進数を考え出した バビロニアのひとは凄い)

地球を測定したひと
エラトステネス(BC276〜194)は 当時のエジプトの首都アレクサンドリアの博物館の館長でしたが、
夏至の日に エジプトのシエネの町の井戸が 井戸の底まで太陽の光が届くことから、
これに着想して
アレクサンドリアでの 夏至の正午に 太陽陽がさす角度を求めて、
シエネの町からアレクサンドリアの距離から 地球の球体の大きさを計算しました。
(本筋ではないで 詳細には書きません)

夏至や冬至を知ってる古代人が 春分や秋分を知らないとするのはおかしい訳で、
現代に通じる定義をどのように定めたのかになりますから、
天文学(暦の作成)などの歴史になると思います。
天文観測機器はなかなか発達しなかったので 正確な定義はかなり後代だと思います。

67 :
中国の暦だと

冬至を起点にしてて 冬至を迎えてから 次の朔(三日月)を新年にしてた、
夏正・殷正・周正があるが 春秋時代-秦-漢 改暦などがあるので
まぁそこは深く調べなくてもいいと思う

旧暦では 冬至は 10月前後
太陽黄経が270度のときで グレゴリウス暦で 12月22日ごろ、
旧暦の新年が グレゴリウス暦で 1/20頃 (閏月などで変わる)なので
暦の修正には冬至の観測の時期が便利そうではある。

二十四節気は 中国の春秋戦国時代の頃に考案されたそうだが、
太陰暦の季節からとは無関係だから 暦にどの程度重要視されてたのかは不明。

68 :
>>20
> このスレに気づかなかったものですでに質問スレにも書いたのですが
> 大航海時代16世紀の航海士たちの一日の定義とはどういったものだったのでしょうか?

一般的ではないが、天文学での慣習では 一日の始まりを 12時の正午にしていた、
(夜中に日付が変わると 1晩での観測日付がまたがる煩雑さを回避する慣例)
海上で 正確な経度を測定するのはまだ困難で
緯度は 比較的に容易ですが星座と北極星観測する天文学的知識が必要でした、
一流の素養のある航海士は 天文学での慣習にしたがった 日付を公開日誌を書いていました。

経度が正確に判るようになるにはクロノメーターの登場を待つことになります。

太陽の角度などで(夜は星座の位置)おおよその時刻は判りましたが、精度は よくなかったようです。

時計の精度がまだ充分でなかった頃は時刻を知るのに砂時計を使う場合もあったようです。

69 :
>>66
ふむぅ、、、、

天文観測の装置の精度があがったとして
どうやったら昼夜の時間が等しいと確かめることができるんでしょうか


エラトステネスさんのやつも太陽が点として見えてるのに
どういう理由から角度の差だけで求めることができるとしたんだろうか、、、


おいらのオツムが弱すぎるせいで
疑問だらけでございますww

70 :
>>69

このサイトによるとエラトステネスさんの中の人は
次の順番で論証を進めていましたね

http://james.3zoku.com/kojintekina.com/physics/physics090501.html

1.地球の大きさを測る
2.月の大きさを測る
3.月までの距離を測る
4.太陽までの距離を測る
5.太陽の大きさを測る

これは途中までで循環している気がしますが
ほんとにそうだったのかなぁ

71 :
>>22

ふむぅ、、、
錯綜しすぎていてよくわからんww


世界創造紀元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%89%B5%E9%80%A0%E7%B4%80%E5%85%83

東ローマではいわゆる「西暦」は使用されておらず、当初は古代ローマ時代からの伝統を受け継いで、その年の執政官の名で年を呼んでいた。
しかし、541年に官職としての執政官が廃止され名誉称号になってしまうと、15年周期の会計年度であるインディクティオを使用するようになった。
ただし、インディクティオは15年周期であるために単に「第3インディクティオ」などとすると、どの年のことなのか分からなくなってしまう可能性があった。
そこでこの世界創造紀元が導入されたのである。


4755年 (紀元前753年) :ローマ創建。
5838年(330年):コンスタンティノポリスがローマ帝国の都となる。
6045年 (537年) :ユスティニアヌス1世が勅令で世界創造紀元による年代表記にインディクティオの使用を義務付ける。
6496年(988年):世界創造紀元がはじめて公式に使用される

東ローマ帝国の国教であった正教会では、この紀年法が帝国の滅亡後も長く使用された。ロシアでは西暦1700年まで世界創造紀元を使用していた。



インディクティオ

最初は3世紀後半のエジプト属州で農業や地税の記録で使われていた。
287年に始まった時点では5年サイクルで318年で26サイクル目に到達した。
しかし314年までには15年サイクルが現れている。

ビザンチンの年代記"Chronicon Paschale"によると最初の年は312-313年、933年のコプト文書には1サイクル早い297-298年と書かれている。
4世紀後期までには地中海世界全域で文書の記録に使われていた。

72 :
西暦をやたら持ち上げ、全世界これで統一すべきだ、と主張している人は
「紀元前」記数の不合理をどう考えているのだろうか。
紀元前何年などと逆走せず、ローマ紀元やエジプト紀元などで前は数えよう
とは思わなかったのだろうか。

73 :
皇紀でいいじゃん

74 :
正教の世界創造紀元
今年は7528年
これだけ長かったら紀元前を使う必要ほとんど無いで

ユダヤの宇宙創世紀元も今年は5780年やから紀元前を使う必要ほとんど無いのは同じ

75 :
>>72
エジプト紀元って
ソティス周期のやつですかね?

これを起年とする暦ってあったのでしょうか
なんとなくサイクルの気がしてますが


>ソティス周期
紀元139年にこの一致をみたので、逆算すると、紀元前4241年、または、紀元前2781年にソティス暦(太陽暦)は始まったと考えられている。

76 :
普通の暦だと、紀元前と紀元後の計算は面倒になる。

紀元前5年から紀元後6年までの年数は… 6−(−5)−1 = 10年間になる
何とも−1が邪魔だ。

ところが、インドの暦は紀元0年から始まる。だから
紀元前5年から紀元後6年までの年数は… 6−(−5) = 11年間になる
合理的だ!

77 :
インドの暦は何を紀元にしてるの?

78 :
>>65
> 気になっていて調べてみたいことをメモ
> 【春分、秋分について】
> @春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か

>>69

> どうやったら昼夜の時間が等しいと確かめることができるんでしょうか

ウルムル氏の考察の前提事項が間違ってます。
よく 『昼の長さと夜の長さが等しくなるとされる日』とマスコミも言っていますが、

https://i.imgur.com/YNAEDlZ.png

実際には
春分の日は 「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」です 逆ではありません
「昼の長さと夜の長さが 等しくなるとされる日」が春分(秋分)では ありません。

昼の長さと夜の長さは 『ほぼ そうなるであろう』と されてきましたが 実際には違います。
(検索すれば なぜ違うのか 色々説明が出てきます)

79 :
春分の日の
日の長さは 実際には 『12時間と 7分ほど』
夜の長さは 『11時間と 53分ほど』になります。昼の方が やや長くなる

日の出が 太陽の中心点ではなく 太陽の極端(端っこが出た瞬間)、
日の入りが 太陽の中心点ではなく 太陽の極端(完全に沈み込んだ状態)になりますので
太陽は 点ではなく 見かけ上の大きさがあるので 太陽の大きさによる観測誤差、と

地球には大気がありますので、大気の屈折率により、
地平線よりも 数度上に 地平線際のものは実際よりかは見えます。

ですので、「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」説明されています、が
昼の長さと夜の長さと言うのは 説明上での要点にすぎず、
現実上での定義ではありません。

80 :
>>78>>79

ふむぅ、、、


そしたら天体観測から昼夜の時間は
絶対にわからないという結論でよろしいのでしょうか?


いまはマスコミが言ってるとして、それを言い始めたのは誰なんだろうか、、、


ちなみにおいらとしましてはBで実際に検証可能と考えております。

81 :
>>77>>76

どうもサカ暦の紀元前1年を紀元にしてるような気がします

おいらの記憶だと勝った記念と追い払った記念だったのですが
両方ともよくわからんらしいですね

82 :
>>81
失礼いたしました

インド国定暦はサカ紀元と一緒になってますね

83 :
>>80
春分・秋分・夏至・冬至などの二十四節気は、
太陰暦とは別に 1年を春夏秋冬に4等分して
更に 12等分や24等分にして区分する方法が考えられた。
中国の春秋戦国時代に考えられた区分法らしいが
その当時に正確な一年の日数は判らなかったし 区分法としては 四季を細分化する手法。
旧暦(中国・日本の太陰暦)では 特定の日にはならず 毎回変わる。

春分などの定義は 天球黄道面 360度を24等分して
天の赤道と 黄道が交わる点を 0度として そこを黄経 0度として、
黄経0度の点に 太陽が位置する瞬間を 『春分』と 天文学的には定められています。
(270度過ぎた点が 冬至、 90度以前の日とも 言える)

https://i.imgur.com/9QUjYPx.png

「春分の日」で ググれば 明確な日時は すぐ出てきますが、
春分の訪れる時間と 暦での「春分の日」は 春分のは6時間ごとズレていき
最大で 18時間ずれますし その「春分の日」でも
大気の歪み や 理想的な地平線の有無でも 昼と夜が等しい日にはなりません。

ですから 上記の 「黄道面での 黄経0度の点 〜」と言う難しい定義よりも
「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」と いう それっぽい説明の方が判りやすいので
説明でよく使われるだけで、
「昼の長さ 夜の長さ」と言うのは厳密な定義とは無関係です。

84 :
>>69
> 天文観測の装置の精度があがったとして
> どうやったら昼夜の時間が等しいと確かめることができるんでしょうか

昼と夜の時間の長さを測定するのに 時計の発明を待たないとダメでしょう、
16世紀以降の振り子時計の登場と、
グリニッジ天文台からの グリニッジ平均時、
場所の 緯度経度 (測定する場所の正確な位置) 正確な暦

ウルムル氏が言う 昼夜の時間を正確に測るには これらの要素が必要、
特に 時計の無い時代では 測定出来ないので 推論から実証ができない。

85 :
>>80
> そしたら天体観測から昼夜の時間は
> 絶対にわからないという結論でよろしいのでしょうか?

時計の無い時代では 推論は出来ても 実際の観測値で実証ができない、
グレゴリオ暦の時代(16世紀)には もうすでに 『昼長さ 夜の長さ』と言う定義ではなくなっている、
(ユリウス暦の時代に 『春分点』と言う 天球での黄道面での位置に定義が変わっている)

ですから、
古代では 『昼夜の時間の長さは 計測機器がないので不可能』
計測機器の登場した時代には もう定義じたいが変わっていたので そういう考え方は捨て置かれた。
というのが実情だと思います。

86 :
>>65
> 冬至、夏至のどちらかのみを記録や予想していた文明はあったか

冬至を天体観測での起点日にしてる文明の方が多いような気がします。

古代中国では 冬至を重要視してますね、ただし暦は太陰暦でしたので、
暦上での冬至が変動してましたので 天文学以外で実生活に影響してたのかはよく判りません。

古代文明などの遺跡から考察すると、
冬至 夏至 春分 秋分などの予測はしていたみたいです。
ピラミッドはシリウスの見える方角と角度 (夏至から3か月ほど後)の時期を
みる観測義とも言われていますし、
ストーンヘンジも天文観測装置ではないかととの説があります。(でも結論がいまだ不明)

87 :
>>84>>85

時計の発明を待たねばならない
のではないかというのは
おいらの推定でも同じなのですが

古代から時計自体は発明されておりましたので
幾つかの仮定をおけば
昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

おいらがずっと思ってるのは
『昼長さ 夜の長さ』と言う定義がされたこと自体が
一度もなかったのではないかという推測と
おそらく地動説が広まって以降で
ある意味で近代的な『昼長さ 夜の長さ』という説明を始めた人がいて
その人がどういう人たちだったのかが知りたいということですね

だから>>85に関しては全く逆の発想です

88 :
>>87
ですから それはウルムル氏の個人的な考え方であって、
歴史的にどうであったか と言う史実での記録を示さないと 単なる個人の推論でしょう?
少なくとも自身の推論を推し進めるのならば ご自身が歴史的根拠を示すべきだと思います。

私は他の方が調べても判るように歴史的な推移や定義などを書いています。

>古代から時計自体は発明されておりましたので
>幾つかの仮定をおけば
>昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

ここは歴史板ですので 貴方の推論の場所ではありません。

○○の時代の××では昼と夜の長さを水時計を用いて記録して示した、
などの歴史的な事例などを示しつつ 持論を展開すべきです。
そうでなければ 単なる個人的な疑問の列挙ですので 質問スレに書くべきだと思います

89 :
正しくは ウムウル氏ですね コテハン名間違えてすみませんでした。

>>65 ですが 興味深い点と 的外れな点が混在してます。
いつであるのか と疑問に思うのでしたら もう少し自分で調べて欲しかった。

> Bそれを考えるにあたってどういう仮定や前提を必要としたか

仮定や前提を必要としたか と言う書き方よりか
『古代ギリシャの○○は ××〜と述べ ◎◎の考え方が以後広まった』と言う風な
歴史の流れで ご自身が展開して欲しかった。歴史板ですので

> C冬至、夏至のどちらかのみを記録や予想していた文明はあったか

冬至の方が 北極星が天球の極点として 認識されやすかったので、
北の星座や 北極星の位置で観測基準になりやすかったのではないかと思います。
あと 冬は農閑期などですので、新年の区切りになりやすい、

90 :
>>87
> 時計の発明を待たねばならない
> のではないかというのは
> おいらの推定でも同じなのですが
> 古代から時計自体は発明されておりましたので
> 幾つかの仮定をおけば
> 昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

古代における時計って水時計とか砂時計とかでしょう?(線香とかもありますが)
それに 時間や時刻の定義は各文明でまちまちで
昔の江戸時代だと 不定時法 季節によって 1刻の長さが変化してます。

定時法が定まったのはかなり後代、
定時法の考え方の源流は古代にもあったが その頃には 1時間などの定義がなかった。

> 幾つかの仮定をおけば
> 昼夜の長さが同じになることは推論できると思いますね。

これを持論で展開するのならば、
歴史の痕跡や 歴史上でだれが述べたとか観測したとか そういう史実を示すべきです、
そうでないとコンセンサス(意見の合意)は得られ難いと思います。

91 :
>>88
ウィキペディア先生によりますと

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
紀元前3500年から紀元前500年頃

1日の時刻の測定に使われた初めての時計は日時計だった[10]。
最も古いタイプの日時計は古代エジプトで作られており、緑色片岩を加工したものだった。
紀元前3500年頃に作られたオベリスク(方尖塔)もまた日時計の役割も果たしていた。
パリのコンコルド広場にあるルクソール神殿から移設したオベリスク

エジプトでは日中を10に分けていた。オベリスクはそれに合わせて作られており、
エジプトの人々は午前と午後を、あるいは季節を読み取ることができた。
紀元前1500年頃には日時計の影を作る部分がT字型になり、その形の歪で時刻の補正ができるようになった[14]。

ただし、形をどれだけ工夫しても、日時計は曇りや夜など太陽が見えていない時には使えない。
そこでエジプト人は、水時計、砂時計、天体図などを使って時刻を知ろうとした。
水時計に関して残っている最も古い文献資料は、紀元前16世紀のアメンエムハト(Amenemhet) の墓碑銘で、
この内容から彼が水時計の一つを発明したと考えられている[16]。
いろいろな水時計が考案されており、中には非常に複雑な構造のものもあった。
その一つは容器の底に小さな穴が開けられたもので、水面の高さから時間変化を読み取ることができた。
有名なのは古代エジプト第18王朝の第2代ファラオ、アメンホテプ1世(1525-1504 BC)の墓で見つかったもので、
おそらくこれが古代エジプトで初めて作られた水時計である。

砂時計も古代エジプトで発明されたものと考えられており、その原理は今のものと同じ、2つの容器を細い管でつないだものであった。
水時計と砂時計の大きな違いは、水時計は流れる水の速度が水面が低くなるにつれて次第に遅くなるのに対し、
砂時計はほぼ一定速度で砂が落ちることである。
この砂時計は逆さにすれば再び時を測ることができるものであった[15]。
このほか、星を観察しての時刻測定も行われた。
たとえばメルケット (merkhet) と呼ばれる鉛直線を求める装置や、紀元前600年頃になると北極星から南北線を見つける装置を使って、
鉛直線や南北線と星との位置関係から時刻を割り出すようになった。

92 :
>>90


>>91の説明だけでも
太陽の変位置、星の変位置
それとは別の時計がありますので

昼と夜が同じ現象の別の側面であることを推察できれば
古代でも特定の日に昼夜の長さが等しくなるというのは
じゅうぶんに認識可能ですね。
ほとんど飛躍はないかと思います。


>>79でいうような
日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので
そこに上がっている

日の出と日の入りの定義
大気の屈折率

この二つは基本的に考慮する必要すらないですね

93 :
あなたが >>65

> 【春分、秋分について】
> @春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か

こう書いているので、実際にはそうでないですよ。
今の 「春分」の定義はこうですよ
また、春分は 「昼の長さと夜の長さが等しくなるとされる日」ではありません、
実際の観測では こういう理由で 昼の方が長くなる との説明です。

>>92

> >>79でいうような
> 日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので
> そこに上がっている
> 日の出と日の入りの定義
> 大気の屈折率
> この二つは基本的に考慮する必要すらないですね

それに対して こういう風に書くのはアンフェアではないですか?
不愉快です

94 :
ご自分が 『昼の長さ と 夜の長さが等しい日』とか書いておきながら
『日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので』とか 矛盾してませんか?

日の出と日の入りを観測しないのならば 貴方の考え方は無意味です。破綻しています。

95 :
>>91
日時計は 6000年前ぐらいから使われていますが、分単位での時刻は正確には示せません、
また 季節によって 日の長さ 陽の高さが変動しますので、
日時計での時刻は 基本的に 不定時法になります。
日の出から 日の入りを 12等分すれば 夏は 1刻が長く、冬は 1刻が短くなります。

季節によっての時刻の変動を修正する日時計が考案されたのはアラビアです
(いつの時代であったのかど忘れしました 調べ直してきます)

日時計では ほぼ正確な正午が判りますが 夜の正子(0:00)が判りません、
ですから 正子(0:00)が判るようになるのは 機械時計の発明を待たねばなりませんでした。

正確に分単位の測定が出来るようになるのは機械時計の誕生を待たねばなりませんでした。

ウムウル氏の言う 古代での昼と夜の長さの測定は誰がやったのか、
またどのように測定されたのか史実で述べて欲しいです。

96 :
>>93>>94>>95

アンフェアという意味がよくわかりませんが
おいらは>>65を書くにあたって
そもそも時刻という言葉をあえて避けて書いたので
時刻に固執されると困ってしまいますね


まずもって調べてみたいことを書いているのに

>またどのように測定されたのか史実で述べて欲しいです。
>歴史の痕跡や 歴史上でだれが述べたとか観測したとか そういう史実を示すべきです、
>などの歴史的な事例などを示しつつ 持論を展開すべきです。

ここらへんのご意見をいただいても非常に困るのですがww

97 :
>>96
自分のメモ帳ではなく皆が利用してる掲示板で 書き込みしている以上、
レスされるのは当然でしょう?

つぶやきがしたいのであれば twitter
質問がしたいのならば ヤフー知恵袋

98 :
春分、秋分について

春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいくないのが現在では判っている、
(実際には昼の方が少し長い)
また 昼の長さ 夜の長さなどで 春分の日は決められていない

99 :
時刻の正確さが判らなければ、『日の出の時刻』 『日の入りの時刻』も記録できないし、

>春分、秋分の日の昼夜の長さが等しいとわかったのは何時か

昼夜の長さが等しいと言う事が観測できません

>日の出入りの時刻を観察する必要はそもそもないので

日の出 日の入りの時刻を記録しないと意味ないと思いますが。
正確な測定具 クロノメータとかの登場を待つと思いますが
この時代では 時刻も記録しいると思います。

100 :
春分・秋分の決定は難しいよね。
日の出・日の入りだって、定義が太陽の上部が水平線上に現れた時…となっているから、単純には計測できない。

多分…日の出の時に、太陽の中心部が真東にあるかってので決定しているのではなかろうか。

あるいは、冬至と夏至の中間を取るとか。

101 :
いや、だから、
太陽の一年動きを 黄道系座標で 360度に投影させて
黄経0度が 春分

春分などの定義は 天球黄道面 360度を24等分して
天の赤道と 黄道が交わる点を 0度として そこを黄経 0度として、
黄経0度の点に 太陽が位置する瞬間を 『春分』と 天文学的には定められています。

こういう定義が直観的でないから
春分の日は 「昼の長さと夜の長さが『ほぼ』等しくなるとされる日」の方が広まるのだろうな

星座で黄道系とか普通の人は気にしないだろうし;;;

102 :
>多分…日の出の時に、太陽の中心部が真東にあるかってので決定しているのではなかろうか。
>
>あるいは、冬至と夏至の中間を取るとか。

理屈的にはそういう感じだけど、
現実論では 東西に山や建物などがあると 理想の地平線が観測できないのと、
私たちが 『地平線だと思って観ているものは 地平線よりも下側になります』

地球には 大気の層と 大気が薄くなる層があるので、
大気の屈折率で 厳密な意味での地平線が観測できません。
↑これらは天文学で確認されました。

103 :
>>93

ちなみにおいらは誰とどの話をしているのかもわからないので、
誰に対してアンフェアと言われたのかも
よくわからないのですが
>>79さんの書き込みに対して、春分や秋分の定義がおかしいと言ったわけではないですよ

その上で昼夜の長さを比べるのに
必ずしも日の出日の入りの時刻を観測して
比べる必要はないので
べつに>>79さんの書いていることは問題ないと思います

104 :
>>27 >>42
復活祭の日はもともと太陰太陽暦のユダヤ暦で決まっていた。
その日を太陽暦に直すために春分の日付(3/27)と月齢を使ったということ。
実際には大人の事情でユダヤ暦とは一致しないらしいけど。

105 :
>>104
今の1月1日が中途半端な位置にある裏側にはユダヤ暦まで遡るそういう複雑な事情があったのですか
しかも大人の事情まであってユダヤ暦とは一致しないとは (@_@;
教えて下さり、どうも有難うございました

106 :
読むのに疲れるレスが続いているな・・・・・

107 :
暦といえばマヤが有名だが
マヤ暦って実際どれくらいのレベルなんだ?
同時代の西洋(地中海)や中国より進んでいたのか?

108 :
>>107
> マヤ暦って実際どれくらいのレベルなんだ?
> 同時代の西洋(地中海)や中国より進んでいたのか?

天文学で言うなら
星や星座の観測や記録とかは圧倒的に西洋(ギリシャ・エジプト・バビロニア)の方が格段に上。
バビロニアの60進数の考えかたが 古代エジプトに伝わり、
エジプトの文化はギリシャにも伝わった。
60進数の考えかたは分数を示すのに判りやすく、
( 6/60= 1/10= 0.1などのように分数や小数点以下の値を記すのと約分などの計算がしやすかった)
天文学や占星術など 星や星座の位置を示す角度の単位(分 秒)など
中世以降までギリシャやバビロニアの記述法が支配的になってた。

マヤ暦は文字での記録が圧倒的に少なく他の文明にほとんど影響を与えていない。

109 :
>>23
しかし、ミスタークリスマスのディオクレティアヌスさんの中の人は
どうしてこんなにキリスト教徒に嫌われてるんだろうか、、、


>>95
夜の正子(0:00)の求め方はなかなかおもしろそうですね
実際のとこどうしてたんだっけかな

わりと力技だった気がしますが

110 :
そりゃあディオクレティアヌスは歴代皇帝で最大規模のキリスト教弾圧やったんだからしょうがないだろ。
キリスト教弾圧というと誰もがネロ皇帝を思い浮かべるけど、そんなのとは桁違いの弾圧。

111 :
>>68
18世紀の帆船が太陽時を用いたとする本がありました。
ウィキの太陽時のなかの天文時ってのが正午に日付が変わるとあり
>一般的ではないが、天文学での慣習では 一日の始まりを 12時の正午にしていた、
のとおりですね。また、
>日は、正午から次の正午の間の時間である。
と「時間と時計の歴史」という本に載ってました。
アメリカ人が書いた本ですがアメリカがそうだとは聞いたことがないですね。

112 :
>>100>>101

実際問題として
どう観測してどう定義するかには
少しの自由度があると考えますね

翻訳のせいもあると思いますが


>>23
こちらはどういう方法で編年されているのかしら、、、

『教会史』と『年代記』の執筆

290年代に入るとエウセビオスは、イエス・キリストに始まりからコンスタンティヌス帝時代に至るまでの教会とキリスト教徒の説話体の歴史である、『教会史』の執筆を開始している。
同時期に天地創造からエウセビオスの同時代に至るまでの世界中の出来事を綴った『年代記』にも取りかかっている。
300年までには、『教会史』と『年代記』の初版をエウセビオスは完成させている[32]。

113 :
>>112
これで統一されていたのか
集めた資料別でバラバラに表記したのか
それすらもわかりませぬ、、、

http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/silkroad/seleucus.htm

アレクサンドロス大王配下の武将セレウコスが建国した王国。大王の死後、セレウコスは
実力者のペルディッカスを殺害、前321年のトリパラディソスの軍会でバビロニア総督と
なった。その後、ディアドコイの中で最有力となったアンティゴノスにバビロニアを逐われ
てエジプトに亡命したが、前312年のガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破
り、バビロニアを奪還した。
この年がセレウコス暦元年とされる。翌311年にはアンティ
ゴノスを破り、ユーフラテス川以東の広大な領土を獲得した。

114 :
なんでこんなに特定の時代に集中するのかしら、、、
全地球的な共時性を感じますね

>>107


長期暦

長期暦(ちょうきれき、英: Long Count, 西: cuenta larga)とはメソアメリカ文明でおそくとも紀元前1世紀頃から使用されはじめた暦である。
周期が非常に長いために、実質上循環しない暦として利用できる。碑文に長期暦が記されている場合にはその絶対年代を知ることができるために重要である。
マヤ諸都市の石碑に刻まれていたことでひろく知られるようになったためにマヤ暦とされることもあるが、
マヤ以外の土地で古くから使われており、マヤ文明に起源するわけではない。

起源及び最古の資料

長期暦の最も古い資料は7バクトゥンを表すもので(cycle7の資料と呼ばれる)、
7バクトゥンのはじまる紀元前354年頃から紀元前30年くらいの時期にcycle7の資料が集中する付近に住む
チャパス州北部とタバスコ州に住む先住民ソケーやオアハカ州北東部に住む先住民ミヘーの人々によって発明されたと推察されている。
ラ・モハーラやトゥシュトラの小像に刻まれている碑文や銘文がかれらの言語を当てはめると解読できると主張する学者もいるからである(ラ・モハラの文字を参照)。

115 :
>>65

主にマヤの方の認識が気になっておりましたが
やはり嬉しいことがありました
そして新たな疑問がわきました

冬というのはどういうものなのだろうか?


エルサルバドルのマヤ族、世界の夏至祭
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4468/

中米エルサルバドルにある古代マヤ文明遺跡タスマルで、6月21日の夏至を前に祈祷するマヤ族の人々(6月19日撮影)。
祭司のホセ・エレネスト・カンポス(Jose Erenesto Campos)さんによると、
母なる地球のエネルギーバランスが保たれ、豊作が訪れるように、マヤ族は毎年夏至の日に儀式を行う習慣があるという。

 ただし、熱帯に位置するエルサルバドルでは6月の至日(しじつ)を“冬至”と呼ぶ。
5月から10月にかけて雨季を迎え、現地の人々は冬と見なしているからだ。

 隣国のグアテマラでは最近、長らく地中に埋もれていた古代マヤの都市から天文台の遺構が発見された。
遺跡の建物は、年2回の至日の太陽と一直線に並ぶように配置されている。
当日は都市の住民が天文台に集まり、天に命を下す王を見守ったと考えられている。

116 :
>>107

方角に色がついてるのが
そっくりでおもしろいですね

東→赤
南→黄
西→黒
北→白
中→青・緑


マヤ文明の起源は200年古かった - 日本人研究者らが定説を覆す大きな発見
https://news.mynavi.jp/article/20130430-mayan_civilization/

「グアテマラ共和国セイバル遺跡の初期祭祀(さいし)建築群とマヤ低地におけるマヤ文明の起源」(発表論文のタイトルの邦訳)と題した発表が行われた。

https://news.mynavi.jp/photo/article/20130430-mayan_civilization/images/026l.jpg

その結果、自然の地盤の上に先古典期中期の前半(紀元前1000年〜紀元前700年)の紀元前1000年頃に建造された中央広場(画像25)と、
その東と西に面する公共祭祀建築(画像26)の基壇が出土した(画像27・28)。
さらに、セイバル最大の神殿ピラミッドを頂く大基壇の発掘調査によって(画像29・30)、
先古典期中期の前半に建造された幅が34mを超える大きな基壇が検出された。

https://news.mynavi.jp/photo/article/20130430-mayan_civilization/images/035l.jpg

夏至→春分・秋分→冬至

この矢印の間にさらに幾つかの構造物がみえますが、なにかの役割があるのでしょうか
交点をピラミッドの階段の途中で結んでいるのも気になる部分ではあります

117 :
>>115
それ マヤ暦で夏至を観測してたんじゃなくて、
単に現代のマヤ族が 現代の暦で夏至祝ってるJだけだろ…

マヤ文明は統一的な国家ではなく各都市群ごとに独自の文化を持ち、
段階的に滅んだ、
スペイン人の侵入もあり 重要な文化の語り部の大半が焼失した。

碑文(遺跡の刻まれている僅かな絵文字のようなもの)文字と言えるような言えないようなもの
口伝による民族の語り部(ほとんどが失われたらしい)

具体的なマヤ暦での夏至の求め方が判ってないのに、
マヤ文明が古代から夏至を祝っていたような錯誤するような書き込みはよくないですよ

118 :
>>117
夏至の求め方よりも
なんで夏至なんか祝ってるんですかね

現代のマヤの中の人達はww

119 :
ウチの地区は北にあるため、夏至の季節は連日曇りの日が多いんだよね。

ストーンサークルは、夏至とか冬至とかの太陽の出入りを記録していることが多い。
大湯ストーンサークルも、東京町田の田端遺跡もそう。

オレの近くにあるストーンサークルは、夏至の日没が曇りで記録しにくいのか、何度も何度も日没を計り直した跡がある。
しっかり計測して、ストーンサークルの形状に反映させたかったのだろうが、結局あきらめた感じ。曇る日が多いからね。

120 :
南西諸島・北海道以外の日本列島だったら夏至は梅雨の真っ最中
曇ってて当然

121 :
>>116
ピラミッドの階段が傾いているのは
チチェン・イッツァのやつと同じなんだろうか、、、

122 :
暦で言えば
西暦も元号も0年がないよね
0世紀もない
だからちょっと不便

123 :
インド暦はいずれも0年があるぞ。
さすが0を発明した国

124 :
0年 → 元年 → 2年 → 3年 → ……

0年あったら変になるやん

125 :
>>124
元年は1年だ。紀元前の年数計算を前提にすると全く矛盾はなく、しかも合理的だ。

126 :
>>125
そやから0年があったら0年の次が元年ていう変なことになるやん

127 :
>>126
数学でも0の次は1だぞ。

128 :
>>127
なにあたりまえのこと力説してんねん

129 :
>>124
元年を0年にすればいいのでは?

130 :
建物の階数でも英国式が合理的。グランドフロアーがあってそれを0階と解釈すれば、計算が楽。

日本やアメリカ式だと

地下5階から地上3階までの階数は  3−(−5)−1=7 階だ。
−1がなんとも気になる。

ところが、英国式だと

地下5階から地上3階までの階数は  3−(−5)=8 階となって合理的。

131 :
満年齢だと人間は0スタートなので、20から20代だが
暦は1スタートなので91年から90年代 90年は80年代

132 :
そういえばミレニアム行く年くる年でも
問題になってましたねww

133 :
>>131
だからインド式ではその問題も解決する。

134 :
昔は数えで年齢を重ねてたから西洋式を取り入れたら一致しなくなる

135 :
>>119

カレンダー石ってかっこいいですよね
https://en.wikipedia.org/wiki/Aztec_calendar#/media/File:Monolito_de_la_Piedra_del_Sol.jpg

サークルって凄いと思います

136 :
暦は赤字にも赤丸にもなっていない今日22日は、緊急祝日。
しっくりこない。

けど、休まない会社、多そうだなー・・・

137 :
https://i.imgur.com/VKkJ9ST.jpg

138 :
シンデレラの深夜12時ルールというものは
いったいどこからどうなったんでしょうかね、、、

139 :
(´・ω・`)知らんがな

140 :
>>138
昔は標準時なんてないから、その地区の経度に合わせて、太陽が南中する時間が昼12時として、
その12時間後が夜12時なんじゃないの?

141 :
>>140
むかしむかしのお話なんでしょうか、、、

>>138>>139
気になる点を列挙してまいりますと
?12時になると魔法が解けるのはどうしてなのか
?めちゃ近代的なシステムを昔話に入れ込んだのは誰なのか
?そもそも夜の12時に鐘はなったのかどうなのか
全部が個人の妄想としても
世界中で受け入れちゃったのは何故なんだYO!!

142 :
>>84>>85

古代から用いられてきた最も確かな時計は
天体の運行で
機械時計ができた後も
機械時計を補正するのに使われていたのですが

思い込みってやつは怖いですね、、、

143 :
17世紀に振り子時計が登場するまで正確な時計なんて存在しないよ

144 :
>>143
日時計は正確やろ

145 :
古代の時刻ってのは不定時法だから 1時間や1刻とかの定義が季節で変動している、
また 中世以降にならないと定時法(1時間が60分)の機械式時計は登場しない、
17世紀にならないと正確な機械式時計は登場しない。

ウムウル ◆w9gVwCWkR8GPは いつも嘘を吐く

146 :
>>144
日時計は分単位までの正確さまで示せない、
日時計で 正確な正午が判るには 正確な暦の存在が前提条件になる。

正午が判ったとしても 正確時計がないと時刻の経過が判らない、
それらの複数要素を考慮するなら17世紀以降になる、

147 :
あと、
日時計は天気がよくないと時刻が示せない、
夜間も正確な時刻が判らない、
日の出 日の入りは季節によって変動するので、
定時法の概念の通念と 正確な機械式時計まで待たないと正確な時刻を知るのは無理です

148 :
だが、基本は日時計だろw 日時計というか星時計ね
正確に時間を知るには、1点として観測される恒星の赤緯と、南中時間を観測して求めるコトができる。
恒星は多数の恒星の赤緯を事前に観測して表にしておく!
機械時計はあくまで補助であって、基本は天体の動き。

149 :
>>146
そうなんですよね
おいらも正確な暦が必要だと思います

>>148
南中時間が必要なのか、、、
>>91は鉛直線を利用してるのですが
リストもってたのかなぁ、、、

150 :
>>148
ここのサイト様の説明ですと
1200枚の歯車と
秒単位で時刻合わせをすることができる時計
になっておりますね

壁面四分儀、あるいはティコの四分儀 (No. 5)
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/eclipse2/tycho_instrument.htm#section325

観測の時間と子午線の通過時間も記録するために第三の協力者 H は時計 I と K を注目し、 F における観測者が合図を送ると、G に座っている人が時刻も元帳に記入する。
ここで言及した時計は次のように構築されている: 時計は分のみならず秒まで与え、可能な限り正確で、天体の一様な回転を模倣している。
時計がこれを達成することは困難ではあるが、非常に注意を払えば、 ある程度この目的を達成することができる。
もしもエラーが入りこむような事があれば、これに気づき修正することができる。
従って、この種の時計は 2 つ必要で、必要であれば一方を修正できる。
このような時計は 4 つある。 この中で最も大きいものは 3 つの大歯車 (wheel) ですべてを処理し、最も大きな歯車は純粋な真鍮で鋳造され、
1200 枚の歯がある。この歯車の直径は 2 キュービット (78 cm) であり、 残りはここから計算される。
他の 3 つの時計は、より小さく、もっと多くの歯車が必要である。 この 3 つの時計の構築に関しては別の機会に譲りたい。
但し、これは神の意志に依存する。

151 :
イスラムの純粋太陰暦ってどういう発想のもと生まれたんだろう
毎年ラマダンの期間が違い、長い年月のうちには全く季節が変わってしまう
イスラム圏でも伝統的に太陽暦を併用して季節と暦が乖離しないようにする文化もあるのに(イランなど)
サウジアラビアでは純粋太陰暦一本やりだっけ。少なくとも対国内的には

152 :
風俗

153 :
太陽暦が必要なのは農耕民
農耕民でないなら月を見て大体の日付がわかる太陰暦の方が楽

154 :
>>151
そりゃ砂漠の商隊は昼は暑くて行動できなく、月の砂漠で移動するのがデフォだからな。

155 :
>>149
伊能忠敬がやったのも、星の南中時間の観測。
そのためには多数の星の赤緯が分からないとダメ。

156 :
>>155
伊能さんは天文家ではない気がするんで
リスト作成ではなく
マップつくるのに利用したのかな、、、

あんまり使用方法を思いつかないです

157 :
時計と合わせて緯度を測定したんだ。

158 :
おっと、経度ね。何時何分にどの地点で、何という星が南中したかで、経度が測定できる。

159 :
ふーむ、当時の国内の
フィールドワークでやれたのか
それこそ時計の精度が気になりますね

160 :
江戸まで戻って来て、再度星を観測し、それで時間のズレの平均値を計算し、各観測地点での観測時間に適用する。

161 :
>>158
> おっと、経度ね。何時何分にどの地点で、何という星が南中したかで、経度が測定できる。
伊能忠敬は、
経度観測は色々やってるが失敗している。
基本的に 『鉄鎖』と『間縄』による距離の実測と、
勾配測量の測定儀での角度の測量と 三角関数からの計算などだよ。

162 :
>>158
> おっと、経度ね。何時何分にどの地点で、何という星が南中したかで、経度が測定できる。
伊能忠敬の行った、天体観測では、
https://i.imgur.com/wGflSWu.png
星座の南中の場所を測定して、地球の緯度の位置を確かめて補正した。
地球での角度の深さは ある程度正確に測定と補正が行えると言える。
経度の観測
https://i.imgur.com/jWos5WD.png
https://i.imgur.com/exyJAQD.png
経度の観測は色々方法があるが、
伊能忠敬は、日食や月食の観測を行う事で
(日食の観測時刻の推移を記録して 後から照らし合わせれば 地域の経度が求められる)
が、
天候の不順などもあるし、この頃では計算上で 数分のズレが出ていて うまくいかなかった。
ちなみにクロノメーター(正確な航海時計)で経度を測定しても 20kmほどの誤差が出ていた。
マストから見えるのは水平線上から 10km程度なので、
目標のない大海原で 20kmの誤差が出ていたら目測で補足できないので、
やはり経度の測定は 困難の歴史と言える

163 :
>>156
よう考えたら中の人のライフワークですね
>>160
ふむふむ、補正するにしても旅中にずっと持ちあるかんといかんのですか

おいらもこっち>>161が基本だと思っておりましたが
やっぱ基本的に>>162移動量が日に20km以内かと思いますので
特定のランドマークで測定する程度でしょうね

164 :
伊能忠敬は、北海道の野付半島あたりで、星の南中時間を観測しているなあ。
持ち歩くたって、鉄製の鎖のメジャーの方が重いんじゃなかろうか。どうせ分担して運搬しているんだろうし。
それが失敗したってソースあるのかな?

165 :
>>164
伊能忠敬と高橋至時は正確な 「子午線一度の距離測定」を求めていた。
その背景は欧州からの書物の漢訳書籍で 「北京の経度」が示されていて、
日本の(地図の)経度を元に換算するには「正確な 子午線一度の距離」が必要になると言う事と、
厳密に利用できる 子午線1度の相当弧長を算出しようとしていた。
これは地図作りとは並行しているが別案件と言っていい内容。
(当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、
どれも信用できるものではなかった)
「子午線一度の距離測定」に関しては wikiの高橋至時 経緯度 が詳しい。
>それが失敗したってソースあるのかな?
日食などの観測の不足と、
食の起こる時刻の計算の方が予測と実際がズレており、
食の観測などからによる経度の算出はほとんど実測に至ってないと思われる

「伊能忠敬物語」(著者:渡辺一郎、「建設マネジメント技術」発行:(財)経済調査会、1998年2月号)には次のように書かれています。

【天体観測すなわち天測のうち、晴れてさえいれば毎日行われたのは緯度の測定のための恒星の観測である。
月食・日食・木星の衛星の凌犯現象も観測したが、これは経度の測定のためである。
経度観測には多大な努力がされたが失敗した。(64〜65ページ)

166 :
地球の外周を 約 4万kmとすれば、
子午線を24用いれば、
最大で 1666km 1/60に分割すれば 27.777kmの幅になる、
伊能忠敬と高橋至時が計算上で食の起こる日時を算出した時刻が、
実際に起こる時刻と 15分〜20分ほどのズレがあり、
精度して 25%〜28%ぐらい誤差になるので
伊能忠敬の測量に貢献していたとは言えない

167 :
>>164
紐を使った直線距離を測定する事を測量の基本にしていたようですが、
紐(縄)だと 湿度によって伸縮するので、
伸縮しない鉄の鎖で測る方が精度が増すとして 鉄鎖を考案しています。
この鉄鎖と縄を主に用いて 直線距離を実測しました、
縄は鯨の髭を編み込んだ縄が狂いが少なかったそうです。
実測の出来ない場所(港湾部)などは指標を定めて角度を測定して、
後から観測記録を夜に 宿に戻ってから計算し直して 修正していたようです。
勾配のある坂などは 鉄鎖で実測して 角度を記録して、
後から コサインの関数表から高低差などを求めたようです。

168 :
>>164
>それが失敗したってソースあるのかな?
伊能忠敬がやろうとしたのは、地図作製とは別に、
経度の測定、子午線1度距離を 伊能忠敬と高橋至時共に求めていましたが、
日食などの観測を15回行う予定が(経緯度の計算には 3地点での同時観測が必要)、
天候の不良などにより、同時観測の出来たのは2回ほど、
また 日食などの観測される時刻の算出が正確に行われておらず、
観測記録との補正に支障をきたしたとあります。

169 :
>>165
>>166
ほほぅ、基本は毎日観測なのですか
木星衛星の蝕も利用してたんですね、ふむふむ
おいらてっきり地球の大きさを自分で測りたかったのかと思ってましたが
地球上の何処に日本を位置付けるかという
実際上の目的があったわけですか、なめてましたね

170 :
>>169
子午線1度の距離がわかると自然に地球の大きさも分かるかと。

171 :
ふむぅ、これですか
>>165

★ その7:中国の天文学書『暦象考成後編』★
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/museum/museum-7/museum-7.html

『暦象考成後編』とは

中国の天文暦算書。乾隆7(1742)年完成。 勅命を受けた戴進賢(Ignatius Kogler)、徐懋徳(A. Pereira)、明安図らによって 編集された天文暦学書です。
内容は、太陽と月の運動論、日月食理論、 予報計算のための表からなっています。特に太陽と月の運動にはケプラーの楕円 軌道論が導入され、さらにカッシーニ(G. D. Cassini)の知識が加味されています。
特に、東アジアにおいて、天体の楕円軌道を本格的に紹介したのは本書が 最初です。

 『暦象考成後編』は日本にも輸入されましたが、その数は、18世紀の後半の時点で わずか2、3部に過ぎず、ほとんど目にすることは不可能でした。
それを大阪の在野 の天文学者・間重富が入手し、麻田剛立、高橋至時と共同で研究を行いました。
楕円軌道論は、従来の周転円理論よりも難解でしたが、麻田らはよく理解し、 それにより彼らの天文学は飛躍的に発展し、江戸の天文方の実力を凌ぐほどになりました。
1795(寛政7)年には高橋、間の二人が改暦御用で幕府に招かれ、寛政暦(1798年施行)を 作成しました。

 なお、『暦象考成後編』は活字本として出版されていますが、 ここで紹介するのは1830年代に日本で作られた写本で、序と10巻の合計11冊の構成と なっています。各巻の内容は以下のとおりです。
  序巻  
  巻1: 日躔数理 
  巻2: 月離数理 
  巻3: 交食数理 
  巻4: 日躔歩法、月離歩法 
  巻5: 月食歩法 
  巻6: 日食歩法 
  巻7: 日躔表 
  巻8: 月離表上 
  巻9: 月離表下 
  巻10: 交食表 

172 :
ケプラーの惑星理論を参照して、
地動説を不採用だと天体観測上はけっこう厳しそうな気がしまする、、、

>>171

  *** 目   次 ***

    写真  
  (1) 『暦象考成後編』表紙  …序、巻1〜2の表紙です。(JPEG、114KB)  
  (2)楕円軌道論  …巻1所載。ケプラーの楕円面積論の部分。(JPEG、124KB) 
  (3)楕円軌道の図  …巻1所載。楕円軌道論の中の図です(JPEG、106KB)
  (4)太陽の位置推算法  …巻4所載。寛政暦法はこの巻をベースに作られました。(JPEG、95KB)
  (5)日食推算法  …巻6所載。日食の推算法が解説されています。(JPEG、99KB)
  (6)日躔表  …巻7所載。太陽の位置計算で使う表。(JPEG、144KB)

173 :
>>168
二点観測かと思っておりましたが
三点観測が必要なのですね
なんとなく測定地点を厳密に選べないからかと思いましたが
それとも世界時計の補正に使うのかな
仕組みがきっちりわかってないですね
ちょっと調べておきたいと思います
>>166
日蝕時間のズレは
参照した文献のパラメーター差>>171と
観測精度と計算能力の
どこに一番問題があったのかしら、、、

174 :
>>173
> >>168
> 二点観測かと思っておりましたが
> 三点観測が必要なのですね
> なんとなく測定地点を厳密に選べないからかと思いましたが

日食などから
経度を測定するとして、その経度の精度の高さを検算するには、
地球を3次元球面とすれば 経度ズレに 相当する緯度のズレた地点での観測記録があれば、
補正(精度の正しさが増す)

地球の球面上での緯度の高さの方が精度が高く求められるので、
写像としての緯度の違う観測点が必要なのだと思います

175 :
>>174
そうすると観測ベルトの南北から
サンドイッチするみたいな話ですかね
ふむぅ、、、

観測地の緯度しかわからない状態で
観測時刻が同期して
天体の方向が確認できるという考え方であってるのかなぁ、、、
なんとなく向きの補正できないと数分はズレそうなイメージありますね

176 :
>>142
意外と最近まで使用されておりました

http://www.nikkei-science.com/201707_102.html

国立天文台の前身である東京大学東京天文台は明治時代,都心の麻布飯倉にあった。
現在,時刻の標準は原子が吸収する光の振動を利用する原子時計が担っているが,当時は恒星の日周運動を基準とする恒星時が用いられ,
機械式時計の時刻を補正するため,恒星の観測が行われていた。

 天球の星の位置は地球の経度・緯度を天球に投影した赤経・赤緯で表される。東京天文台の経度は9時18分58秒02(明治21年の天文台発足時の値)。
赤経が高精度で判明している星が,天頂と天の北極,天の南極を通る子午線を通過する時刻(南中時刻)を測定すれば,
時刻の標準である英グリニッジ子午線との正確な時差がわかり,現在時刻が確定できる。
 天体の南中時刻の測定を子午線観測という。当時,東京天文台で時刻の測定を担っていたのはレプソルド子午儀という望遠鏡だ。


子午儀資料館
レプソルド子午儀室
https://www.nao.ac.jp/access/mitaka/facilities/repsold-transit-instrument.html

思ってたより小さい建物で観測できるんですね

177 :
ふーむ、これはなかなか
>>141
「100分de名著」で学ぶニーチェ「ツァラトゥストラ」3回目その4
https://note.com/masami_worldsend/n/n23b3231683af
1.深夜の鐘の歌
ツァラトゥストラには、永遠回帰の思想を形にした、あるシーンがあります。(第三部「第二の舞踏の歌」より)
それは、深夜に時計台の鐘が、12回語りかけるように鳴り響くシーンです。
深夜の鐘の歌
一つ!おお人間よ!しかと聞け!
二つ!深い真夜中は何を語るか?
三つ!私は眠った わたしは眠った
四つ!深い夢から いま目がさめた
五つ!世界は深い
六つ!昼が考えたよりも深い
七つ!世界の悲しみは深い
八つ!よろこび
それは心の底からの苦悩よりも一層深い
九つ!苦しみは言う「終わってくれ!」と
十!しかしすべてのよろこびは永遠を欲する
十一!深い 深い永遠を欲する!
十二!

178 :
>>168
それは、天体の食(日食だけとは限らない)を利用した経度の特定が失敗したということで
実際何度も伊能忠敬は天体観測しているから、それとは関係ないと思うケドナー

179 :
>>173
蝕の開始から終了の時刻を測るという
情報ばかりがネット上に転がってますが
これだと全然ダメなんじゃないかと思いますが
どうなんだろう、、、
なんとなくクック船長の金星の話と混同しちゃってる気がしますね

180 :
>>174
>>175
日蝕ナビさまより
http://eclipse-navi.com/yougo/kaiki/kaikikeizokujikan.html
皆既継続時間

皆既継続時間は皆既日食がどのくらい継続するかを時間で表したもので、第二接触から第三接触までの時間を指します。
一般的には「この日食では皆既継続時間が何分何秒です。」などといい、皆既日食の規模を一言で表現することができます。
長く継続する場所
皆既継続時間は皆既帯の中心線上で最も長くなり、皆既帯の端に近づくほど短くなります。
その短くなり方は中心線からの距離に比例するわけではありません。つまり、中心線近くではゆっくりと短くなり、端に近づくほど一気に短くなります。
また、皆既帯の中心線上の地点同士で比較すると、最大食となる地点で最も長くなります。
長く継続する条件
皆既継続時間は理論上の最長は7分30秒といわれています。今世紀最大といわれた2009年7月22日に見られた日食での最長は6分39秒でした。
皆既継続時間が長くなるための要素としては、次の条件があげられます。

皆既継続時間が長くなる条件
? 地球が太陽から遠ざかっている。つまり太陽が小さく見える。
? 月が地球に近づいている。つまり月が大きく見える。
? 太陽高度が高い。つまり地球の半径分だけ観測者が月に近づいた状態。
? 太陽に対する月の見かけ上の速度が遅い。つまり太陽の上をゆっくりと月が通り過ぎる。

つるちゃんのプラネタリウム
http://turupura.com/nissyoku/future/world.html
このあたりをみますと経度の範囲はざっくり地球の1/3〜1/4ぐらいなのでしょうか

181 :
>>173
とりあえずの想定としては
蝕による経度決定は
1点観測でのその精度と
天文パラメータの方が重要とみましたね
複数点で測定しても精度を上げる方法は思いつきませんでした
天候に対して効果はありそうですが

182 :
エチオピア暦は

183 :
>>181
間違ってるよ

とりあえず、大航海時代前後というか それより前ぐらいは、
木星の衛星の発見で、
『木星の衛星の 衛星の食の観測』で基準時刻を特定して、
その食の起こった時の 天球面頂上の星座の位置で
(天球面の恒星の位置で、各経度での 時刻の厳密さを知ろうとした)

この考え方が支配的な天文学の知識からずっとながく考えられてたんだが、
・上記の食の発生時刻の確認プロセス(食の発生あら 天球面の観測など)が
数分の時間がどうしても掛かる事と
・ケプラーの第二法則 (惑星は楕円軌道で 軌道上での移動速度が一定でない)事が
実際の観測で 予測と +−20分差が出ることが後に明らかになった。

天文学による経度測定の方法は 天球面での月の観測位置を調べる方法に移行した、

この方法は 毎年月の軌道計算をして予測位置を計算して、月の予測位置の表を印刷、
月の表の印刷物を準備 観測して 位置の厳密な計算が必要とされた。
17世紀ぐらいから この方法が航海士の標準化とされたが
この頃では機械式計算機もないし 計算に4時間ぐらいが必要だった

184 :
木星の衛星の発見での手法、

『木星の衛星の 衛星の食の観測』で基準時刻を特定して、
その食の起こった時の 天球面頂上の星座の位置で
(天球面の恒星の位置で、各経度での 時刻の厳密さを知ろうとした)

この方法では 大口径での天体観測望遠鏡が必要な事と、
観測精度が上がらない欠点などもあり、艦船などでの観測には向かない事がすぐに判った。

大航海時代を迎えた各国では、海上交通での衝突事故などもあり、
航海上での経緯度の測定方法で懸賞金を掛けて広く求めるようになる。
精度の高い測定法だと認められたものには支払われ。多くの人が取り組むことになる。

前述した 月の運行位置からの経緯度測定法は、天文学的プロセスからのアプローチであり、
天文学の理論や 数学的計算手法などの発展にも寄与した。

185 :
天文学の歴史や経緯などもあり、
航海中での 経緯度測定法は 星座観測は航海士たちなどの基礎知識になったが、
機械式計算機の発達してない時代である事と、(測定から位置計算が済むまで時間が掛る)
天文観測所からの観測表などで グリニッジ標準時刻の重要度が高まる事になる。

並行して、
時刻の厳密さによって、現地での経度を知る方法なども色々と考察されていくが、
例として 正午の太陽の位置は測定が容易なので
各経度での『厳密な正午の時刻(標準時か標準時からの補正時刻)』が判れば
24分割された経線の位置が判り 厳密な時計があれば経度位置が測れると考えられた。

この方法も早くから考えられていたが、重大な欠点があった、
当時の時計は振り子時計などで 外洋上での揺れる船内では不向きな事と、
艦船が 赤道面に近づくと 地球は回転運動しているので
赤道面に近づくにつれて 地球の遠心力で重力が減衰されるので
同じ振り子では 地球の各緯度で正確な振り子運動が観測できない事が後に判明する。

こういうような流れからも 海洋上での航海時計が開発される

186 :
イギリス人の木工・大工職人のちに時計職人のジョン・ハリソンが
クロノメーターを開発して、
初期のこの時計は大きかったので 小型化への改良と、
海洋上での揺れに対応する装置 (地球ゴマのような保持構造)、
緯度によって 振り子の振幅運動を調節する機構、
などを組み込んだ マリンクロノメーターを議会に提出する

段階的試験されつつ クロノメーターも改良されるが、
天文学者は天文学的方法による経度測定法にこだわっており、
経度委員会は 天文学者などが多くおり

月の位置測定からくる グリニッジ標準時の算出方法にこだわった
(グリニッジ標準時との時差により 経度を算出する)
https://i.imgur.com/UMSaxOe.jpg

この方法では 天球面での星座の位置を観測する手法なので
観測誤差の角度の精度の問題があり 時刻の算出に 分単位での誤差が出る。
一方 クロノメーターでは 年差30秒以内に収まり 月差で3秒以内の精度
天文学でも クロノメーターが普及することになる

当初は 艦船の 30%や 20%分に相当するほど高価なものだったが、
欧州各国で改良品や普及品なども進み 標準化される

187 :
>>181
天文学的手法から、(天体観測の時刻と 天球面での星座の座標位置)から、
経緯度を算出すると言った手法は、
古くから支配的だったが、
・観測精度の問題
(目視による観測角度の精度と 地球の経度に換算する場合のズレの大きさ)
・標準時刻の問題
・天体観測での 惑星の移動速度の問題(楕円軌道では移動速度は一定でない)ので
木星の食の観測手法では コンピュータなどの計算補正が必要 (なくてもいいが時間が掛る)
などで、
天文学的手法から経緯度を測定するのは他の方法に置き換えらた

188 :
なにこの話題の流れに全然関係ない長いのはww

189 :
月の位置から 経度を測定する方法 (簡単な説明)
月は 360°の円を 27.3 日かけて一周する。 一時間の間に、月はおよそ 0.5°動く、
これを計算しておいて、
『1月1日 0:00には 月は 天球面で ○○ ××の位置にいる』(グリニッジ標準時)などを表を作成する、
前年までにやっておいて 印刷物で 月の位置の表を 航海士に配布しておく、
https://i.imgur.com/6A9lqfn.png
地球は自転しているので、1時間で 経度が15度変わる、
(同じ緯度を保っているか 緯度は正確に判るのであとから補正するとして)
月の観測位置が 同じ位置なら 同じ標準時の時間帯の位置、
月の観測位置が 表から 0.5° ズレているなら 経度が 15°ズレていると見なせる。
やり方としては 今のだいたいの時刻から 月の運行表を開き グリニッジ標準時の月の位置を確認する、
実際に 月の位置の座標(角度)を 六分儀などで 目測しながら
月の背景にいちする星座などで 天球面での座標角度を推定
この時の 天球面での頂点の恒星の位置で 現地時間の 時刻を求める。
なるべく 緯度はズラさないように航海するのが基本だが 緯度がズレている場合は観測補正する、
月の位置角度測定から (月の運行表と照らし合わせしながら) グリニッジ標準時を求め、
天球面での観測による 現地時間の時刻と クロスチェックしながら、
現在時刻(現地でのグリニッジ標準時の時刻)の算出と 現地時間の差を求める。
現地でのグリニッジ標準時の時刻と 現地時間での差が 経度になる
クロノメーターがあれば グリニッジ標準時刻の算出が省けるので より正確になる

190 :
伊能忠敬の天体観測について
六分儀などを調べていて、江戸時代の天体観測もある程度判ってきたので、書いてみる。
伊能忠敬は地図測量で大きな貢献をしたが、
ここでは そこは置いておいて天文観測について突っ込んでみる。
(伊能忠敬の天体観測については補足的で 詳しく書かれているサイトは少ないので)
伊能忠敬の 天文観測の中象限儀 (いわゆる天体観測用の四分儀に相当する)
https://i.imgur.com/BP3bFDd.jpg
『晴れてさえいれば 毎日行われたのは緯度の測定のための恒星の観測である』とよく解説されているが、
これは 恒星の南中 (子午線通過) 観測で 行っていたのは緯度の観測に等しい。
(恒星時の観測に等しいが 正確な時計は持っていないので これは同義ではないだろう 後述)
伊能忠敬の使っていたのは ヨーロッパで主流であった六分儀(60度の角度で測る)ではなく
それの前時代的な四分儀であり、
六分儀の観測補正表も持っていなかったと思われる。
六分儀の観測位置は 見かけ上の観測位置になり、(水平に近くなるほど歪みが出る)、
ヨーロッパでは 六分儀の観測値を記録した後に 補正表から真値への誤差補正をして
正しい 観測角度を求めていた
この辺に関して、伊能忠敬の天体観測については 目測値からの誤差補正を行っていないと思われる

191 :
伊能忠敬の天体観測について
『伊能忠敬測量隊が観測した木星の小星凌犯現象』とよく述べられているが、
これは基本的にガリレオなどの時代の手法で、
大航海時代以降では 経緯度の測定には向かない手法だと判っている。
つまり、伊能忠敬と高橋至時は、
大航海時代以降での航海士の天体観測の手法を知らなかったと思われる。
洋書が高価であったので 年間発行での月距法での観測表を持っていなくて、
また、グリニッジ標準時の求め方の手法(観測器具)と 天文観測表の入手不備と、
クロノメーターなど持っていなかったので
グリニッジ標準時の把握ができていなくて、時計の均時差の補正が出来ていなかったと思われる。
伊能忠敬と高橋至時の天体観測で、
『月食や木星の衛星食の時刻が 予測よりも 15分〜20分ほどズレた』との記述もみるので、
クロノメーターなどの精度の高い時計などの不備と、
恒星の観測による時刻の補正を行っていなかった可能性が高い。
(各種 補正表をもっていなかった可能性が高い)

192 :
天体観測では実際の位置よりもズレて見える
https://i.imgur.com/NgrQjPr.gif
https://i.imgur.com/Vu0yE1A.gif
大気の濃度があるので
天頂の観測では 大気が一番短く進み
地平線に近くなるほど 大気を長く進むため 屈折率により 実際の位置より歪んだ高度になる。
https://i.imgur.com/pA5HlWP.mp4
六分儀では スコープで水平線をとらえて ミラーで太陽の標準を合わして 高度を測定するが、
実測値から 補正表に照らし合わせて 真値に補正を行う。
江戸時代の天文観測では
こういう実際での補正方法を知らなかったではないかと思われる。
(補正方法や 補正表などの記述がないので)

193 :
『天体観測による経緯度の計算は初期には4時間ほど掛かった』との記述をよくみる、
なんでかな?と思っていたが、
初期の月の位置の観測表は 3時間ごとの月の位置の表しかかなかった、事と、
三角関数の表がなかったので 角度の実測から三角関数を手計算で行っていた。
機械式計算機のない時代に 60進数の角度を手計算していたので 時間が掛るはずだ。
後に短縮されて、一時間ほどで経緯度計算が行えるようになったとある。
月の位置(月距法)からの天測法が 天文学者によって支持されて
月の位置の予測表の計算予測と 印刷による予測表が綿密になった事と、
天体観測での数学の重要度再確認により 三角関数の関数表の作成と校正が行われた事による。

194 :
天体観測=経緯度かと思っていたが 実はそう簡単ではなかったようだ。
天体観測から 船舶や(航空機)などのを特定する方法は 天測航法(天文航法)などと言う。
https://i.imgur.com/fG2R4S1.jpg
光学機器などを用いて(六分儀など)で 観測された角度をもとに仮の三角形を作図する、
角度と 計算上での三角形の辺の長さを算出する (月距法などの距離は この長さの算出による)
この大まかな作図で まず おおよその緯度の高さなどまず求める、
緯度の高さが判ったならば、次に緯度の高さによって観測値を補正し直す、
(天頂になるほど観測精度が高くて 水平線に近くなるほど精度がズレているので これを補正する)
緯度の高さによる補正値から 角度を修正して 真値に近い三角形を求め直す、
この為に 三角形の角度確認と 辺の長さ(距離)の計算が必要になってくる、
補正した三角形の計算によって 角度の真値などを算出して
経緯度の接線を 図面に引いて 経緯度を求める。
簡略説明ではこうだが 実際には 各種補正がいくつも必要になってくる。難しいね

195 :
『太陽の南中を観測する事で 子午線を推定する』との解説がよくあるが、これも正しくないようだ。
これは 理論的に 正午(12時)での太陽の高さ(南中)を観測する事で
緯度(太陽の高さ)経度(12時の経度の位置)を特定できる とよく説明されているが、
子午線は、
春分の日での
グリニッジ天文台での子午(0:00)を基準にして 地方恒星時での子午(0:00)の位置が正しい、
天球面での黄道の座標軸は 真円で捉えられるが
https://i.imgur.com/oEtexOB.png
太陽の南中位置は 季節ごとに変化している
https://i.imgur.com/i7RwCYR.jpg
これは 太陽に対する地球の公転軌道が 楕円な為、
季節における 太陽の観測位置が一定でないため 太陽の南中時刻がズレを生じる、
これを均時差と言い、
均時差を計算した 年間変化のグラフ表で
太陽が南中する観測時間から 誤差を修正する。
なので 『太陽の南中位置が 正午』と言うのは厳密に言うと間違っている訳である。
昼なので 恒星が観測できないので 恒星の観測による時刻補正が出来ない デメリットの要素を示す。

196 :
太陽の南中とか述べる場合の
南中・北中という用語が日本独自のものなので 外国では使われないようだ。
太陽の南中と言う説明は 概念として理解しやすいので よく使われていたのだと思われる、
が、
現実には
北極星の位置からの 方角の北を確認しながら 天球の頂点の恒星を観測して
夜の0時を「正子(子午)」を確認する方法の方が天文学的には正しい。
が、
この方法では 観測時刻が 夜の 0:00に限定されるので、
現実的な手法では 観測時刻での 月の位置や 太陽の位置を測定して、
時差のズレを補正して 天体観測の座標軸から 座標補正する方が一般的なようだ
(惑星の観測位置から補正する方法もあるが 補正表が必要になってる)

197 :
グリニッジ標準時について

太陽の運動を地表上から観測して、
天球上で最も高い位置に達する、
もしくは正中(子午線の通過)の時刻を正午とするという考え方に基づく時刻系である。
したがって 一日の長さが
厳密には 60秒・60分・24時間といった時間の積算とは厳密は異なる時刻体系になる。
恒星の黄道面での恒星時を天体観測での基準として利用していた、
機械時計の精度が上がるまで 厳密な一日の時間の長さ問題になる事はなかった。

機械時計の精度があがった事により、
地球の自転による天然の「一日の時間」が一定でない事が判った事と、
(時計の精度が上がった事に伴い)
正午から始まる天文時を廃止して、正子に始まる常用時を天文学でも用いる事が議論され、
それを契機に 世界時の考え方が議論された。
(中略)
セシウム原子時計が実用化が進んだことにより、
原子時計時刻を基準にして 他の観測数値を補正する方法に 世界時が定められた。

これにより、現在では 協定世界時(UTC)を使うことが世界標準になったが、
グリニッジ天文台の公式見解によると、
『グリニッジ標準時(Greenwich Mean Time, GMT)の用語は世界的に広まっており、
 子午線の用語や 一般社会での使われ方も既に定着しているので
 グリニッジ標準時の用語を引き続き使う事も問題はないし 用語の変更も行う予定はない』との事

協定世界時(UTC)と グリニッジ標準時(GMT)を同義として使う事に特に問題はないとの事、
ただし、天体観測での天文時(正午に日付が変更される)は廃止されたので、
天文学者が 天体観測で時刻を使う場合は UTCとして記録・発表されることが望ましいとの事。

198 :
厳密な一日の時間の長さが一定に定められたのは、
第二次世界大戦が終わって 技術的な問題が解決された 1960代以降、
1964年1月1日から正式に採用されてからが 『厳密な一日の長さ』が基準になったと言える。
(厳密に言うと これは旧協定世界時と言って 後に改善された)
現行の協定世界時 (UTC) は、セシウム原子時計の一秒の時間を基準にして、
閏秒を入れて 調整しているので
(UTCは1972年に始まり、2015年までに 計26回の 1秒の追加補正で 閏秒の調整が実施された)
閏秒を追加補正された時刻の分は 1分間が61秒になっている。
年間による補正なので 一日の長さの単位ではほぼ変動値に値しないと言える

199 :
天体観測について詳しいサイトでの解説によると、
『伊能忠敬の行った、天体観測についての解説サイトがほとんど疑わしい』と指摘されていた。

その方の解説によると、
・伊能忠敬の行った 星の南中位置の測定、これによる緯度の計算は 問題はないが、
・伊能忠敬が星の南中位置の観測を行った時期には 太陽南中の位置の補正方法がなかった。
(太陽南中のズレを観測した 霊憲候簿の刊行は 伊能忠敬没後から 17年後)
・月食は同時観測できるが 日食は同時観測できない (金環日食の場合は観測地域が広がる)
https://i.imgur.com/PVsO2oj.jpg

など 解説されていた。

伊能忠敬の行った、天体観測が間違っていたという意味ではなく、
伊能忠敬の行った、天体観測を ヨローッパなどの天体観測の手法から推測している考察サイトは、
解説が疑わしいとの事。
伊能忠敬の行った、天体観測については 不明確な部分が多いと思います
江戸時代での天体観測の手法と ヨーロッパでの観測機器が 違う事と、
江戸時代での刊行書籍での資料が やはり ヨーロッパでの手法と異なっているので、

200 :
江戸時代の 航海術について、

間宮林蔵が ゴローニンに、月距法について知ろうとして尋ねたが、
ゴロニンの弁によると
間宮林蔵は観測機器の 使用方法は理解していたが 補正表での補正法を知らなかったので、
航海術(天文観測での航海補正表)を知らなかったので 説明が理解できなかったと述べている。

基本的に江戸時代に送られてきていた洋書は、
最新の出版物ではなく オランダで発行された書籍であるので、
英語の書籍の最新版が送られることはなく、また来ていたとしても 買う蘭学者がいなかった。
蘭学者は オランダ語の簡易蘭和辞書しか知らなかったので
幕末の後期にならないと 英語を学習する蘭学者は出てこない。
また地球を一周半以上 欧州から洋行せねばならず 最新版の航海表を入手できない。
オランダ語書籍を訳す工程で考えると 天体観測の補正表である 航海表を順次入手できた形跡がない。

英語圏での漂流者で ジョン万次郎がいる、
ジョン万次郎は 捕鯨船の船長に教育を受け アメリカの学校にも通い、
一等航海士の資格を持っていたと言う。
また 日本に帰国したあと 万次郎に航海術を学びきたひとがいると言うので、
日本における航海術の知識が皆無とは言えないが 幕末後期になるので かなり限定的と言わざる得ない。

いずれにせよ、
天体観測の手法が 江戸時代の日本と 欧州では 手法が異なっていたのは確かである。
江戸時代の観測手法は 太陽の南中(12時前後)を基準時にして そこから時刻補正する手法だったので、
ヨーロッパでは 0:00の恒星の観測時刻を基準時にしていたので やはり手法が異なっている

201 :
ゴローニンは いわゆるゴローニン事件で日本側に捉えられた。
(ロシアによる国後観測の行動をスパイ事件として日本側が拿捕した事件)

この時の間宮林蔵とゴローニンの対応が面白い。
幕府側には『ロシアによるスパイ行為』と報告しながら、
実際には 、
英国製の銅の六分儀羅羅盤、羅針盤のついた天象儀、製圓道具.水準器用の水銀等々を持ち込み、
各種の観測器具の使用方法の尋ねつつ、
酒や鍋物で饗応しつつ 自分の天体観測の苦労話の探検談を語りながら、
(欧州での)観測器具の使用方法を執拗に尋ねながら 我々を歓待したと述べている。

ゴロ−ニンの記述によると、間宮林蔵は六分儀の使い方をマスターしていて、
赤緯表と 赤緯の補正表の知識をすでに理解していたと言う
(天体観測による 緯度の測定方法と 修正方法を理解していたと言う事になる) しかし、
六分儀の観測値の補正の仕方と 補正表を知らず、
月距法などを理解できず(こういう天文観測があるのは知っていたらしい)、
「太陽の高度からその地球の緯度を測ることを知つているので、
 太陽と又は月や星の距離を測ることによつて、地球の経度を定める方法を教えて欲しい』と
尋ねてきたと ある。 間宮林蔵は 天測航法について知ろうとしていたようだ、
これに対してゴロ−ニンは
『彼は 我々に頼み込んできたが、必要なそれらの(補正)表も 天文学上での暦も 持ってきていない事と、
(日本側)通詞が これらの概念が乏しいので 説明できないと拒否した』と述べている。 
(詳しく説明すると スパイ行為が明白になるので とぼけて拒否したのだと思われるが)
この回答に 間宮林蔵は不満を覚えたようで
『いずれにせよ、この事については 首都(江戸)から 和蘭語の通詞と日本の学者を連れてくるから、
科学上の二・三の質問においては 、問い糺すので その時は質問に答えなくてはならない』と
高圧的に脅してきた、とゴロ−ニンは述べている。

要するに熱意を持って アメとムチで 執拗に質問攻めにしてきて、彼の知識欲には驚いたと述べている。

202 :
>>199
そうなんすよね
ラランデ暦書
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E6%9A%A6%E6%9B%B8
なかの管見の辺りが
伊能忠敬が参照できた部分みたいですね
光行差は管見あるのに
大気差と屈折は管見にないのは
なんでだったんだろ
画があってもやっぱ理解の範疇を超えてたのかなぁ、、、
失われた書もあったりしてwktkできますね

203 :
南中時間を観測するなら、大気差は関係ないからね。

204 :
伊能忠敬について、 江戸時代〜戦前ぐらいまで ほとんど評価されてなかった、
江戸時代での幕府の対外政策自体が 鎖国を基本とした無策主義で、
海防に関する議論の封殺と 蝦夷地に関する無関心が基本だった。
田沼意次は重商主義を目指していて 外国との貿易政策を模索した可能性もあるが、
田沼意次が失脚した後の 白川定信は 江戸幕府の原点にこだわり 鎖国を目指した、
その経緯の流れで ロシア側は 漂流民保護などを通じて 日本との通商ルートを開こうとした、
こういう経緯から ロシアからの接触行為を無視できなくなった。
『蝦夷地を通じての 門戸開放か? 蝦夷を防衛拠点にした外交拒否か?』を迫られるようになる、
一旦流れは 蝦夷調査などの方向性になるが それもすぐ立ち消えになる、
伊能忠敬については 地図作成の成果には一応関心を示したが、
測量などについては 特に支援もしてないし 間宮林蔵も特に成果を評価されなかった。
第二次世界大戦が終わった頃から 民間から伊能忠敬についての再評価が起こったが、
ほとんど有益な資料が残らない状態からの再評価になる。

205 :
本初子午線のウィキペディアはけっこう良く載ってますけど
まだちょこっと抜けてますね


>>197


国際子午線会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AD%90%E5%8D%88%E7%B7%9A%E4%BC%9A%E8%AD%B0

国際子午線会議(こくさいしごせんかいぎ、英: International Meridian Conference)は、
国際的に使用するための本初子午線を決定するために、1884年10月にアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開かれた会議[1]。
万国子午線会議[2]、本初子午線並計時法万国公会[3]ともいう。この会議はアメリカのチェスター・A・アーサー大統領の要請で開催された。
その議題は「万国共通の経度零度並びに時刻計算の基準として用いられるべき子午線」の選定であった[1]。
会議の結果、グリニッジ子午線が国際的な経度0度の基準に選出された[1]。

206 :
>>203
> 南中時間を観測するなら、大気差は関係ないからね。

太陽の南中時刻は 均時差が起こりは、
1年を周期として変化する、差が 5分〜15分など 恒星時(欧米での観測表よりズレる)

高橋至時と伊能忠敬が 天体観測での食の予測時間などが 十分から二十分ほどズレたと、
述べているので
クロノメータなどの 天文時計を持っていなかったことと (振り子時計は持ってた)
この辺の道具の関係と、
各種 補正表を持ってなかったのが原因ではないかと思う。

太陽の南中時刻については 観測時刻が変動する事について
伊能忠敬の死後に江戸で観測されている。

207 :
高橋至時の入手した書籍の
ガリレオ衛星の食を利用した経度の求め方が記載されていた。
木星の衛星が木星の表面を通過する時間を異なる2か所で測定して、 その時間のずれから経度を求める。
この手法は 動かない天文観測所での 観測手法(かなり古い手法)
日本と比較すると 、アラビアや中世ヨーロッパなどは壁面を利用した 四分儀(鏡などはまだない)
天文学への狂気の執着度が感じられる、が、
江戸時代は 鎖国体制で 家康が防衛上の理由から 外洋航海などに通ずる 船舶の開発を禁じた、
外洋航海は行われず 航海法も発達せず 航海術や 天文観測手法は後進的だったと言える。
伊能忠敬は 移動しながらの恒星の観測などなので、航海時での天文観測手法の方が向いてた、
資料に当たったら また書いてみる

208 :
ニュートンなどは 光学の研究も行っており、
部屋のなかに 鏡を利用した 延長観測できる日時計なども 家に作ったりしてる、
天体観測を行いながら、凹凸の鏡面を利用した反射望遠鏡なども製作している。
天体観測なども 行いながら、科学の 物理の方面からもアプローチしているので、
物理の発見の歴史などの面で やはり日本は 後進的だったとのだろうか

209 :
じゃないの。ちょんまげゆって刀でチャンバラの野蛮人と見られてからこそ開国後は
戦争好きの科学を得た野蛮人とみられたわけだろうしな

210 :
>>179
ここの説明はわかりやすいですね
時刻時刻と適当に書いてるとこのは基本的に信用できないかと思います

http://fnorio.com/0128Romer_1676/Romer_1676.html

番号 名前 直径 質量 平均軌道半径 公転周期
I イオ 3,632 km 8.92×1022 kg 421,600 km 1.76 日
II エウロパ 3,138 km 4.8×1022 kg 670,900 km 3.55 日
III ガニメデ 5,262 km 1.49×1023 kg 1,070,000 km 7.16 日
IV カリスト 4,820 km 1.08×1023 kg 1,883,000 km 16.69 日

211 :
>>210

そこの ページ 『レーマーが光速度を計算した方法(1676年)』になっているが、

レーマーは その手法で 光速度を計算してない。

レーマーは、木星の衛星の運行表の精度を高めるための観測にしていて、
木星の衛星イオの食の観測時刻が、予測よりも22分遅れた事を説明しようとした。

レーマーの説明では、
『木星の衛星食の 地球の観測位置は、地球の軌道は太陽を中心に軌道が移動しているので』
木星に対する相対的な観測位置のズレ これを地球の軌道上の位置の差とした。

観測位置のズレで 観測の時間差が生じたことを示そうとしたが、
この事象について 後世の他の学者が 観測データから 光の速度を計算した。
光の速度を計算したのはレーマーではない。

また、この時代では 光の速度の有限説(光の速度は無限だと思われていた)は支持されず、
レーマーの観測は 後の時代の歴史研究者の解釈にすぎない

212 :
>>173ウィキペデイァ先生によりますと

享和2年(1802年)に起こった日食では、寛政暦と15分のずれが生じた。
このことを至時は残念がり、寛政暦の改良に向けて天体観測にも力を注いだ

とのことなので、ラランデ暦書いぜんですね

享和3年(1803年)、若年寄の堀田正敦から、ジェローム・ラランドが著した天文書ラランデ暦書を渡され、調査を命じられることになった。
これを手にした至時は、「実ニ大奇書ニシテ精詳ナルコト他ニ比スヘキナシ」[28]と、同書の優れていることにすぐさま気付いた。
さらに、この書を読み解けば、『暦象考成後編』には記されていなかった5惑星の運動などについても理解することができると感じ、解読につとめた[22]。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1989/pdf/19890314.pdf

実はこの間がかなりあるようで、
これは追っていけばそれなりに
けっこう楽しめるのではないでしょうか

>>191
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/a-text/Uranus_in_Japan2.0.htm
ここをみる限り、結局のとこ天命的な問題っぽいですね

213 :
ガリレオは、発見した 木星の四つの衛星が周期的に木星の影に隠れる現象(食)が利用できると考え、
『当時の航海術での』地球の経緯度の推定に利用できると自著で説明した。

これは、ガリレオの主張にすぎないが、
(ガリレオは偉大だったので)多くのひとに支持されることになる。

木星の四つの衛星食が起こる事を観測できる日時(時刻)で
・時刻を特定する事と
・その 地球の観測地域の特定が出来る事を示した

この考え方は大筋では正しいが、天文観測と航海術では正しくない。

時刻は推定できそうだが、実際には観測時刻がズレる。
(観測自体は周期的に起こるので、観測の平均値をデータとして利用する事はできる)
木星の軌道は 真円ではなく楕円軌道なので、
木星の軌道計算から産出される 平均移動速度では正確な位置予測ができない、
(正確に惑星軌道を計算したあと、天文観測表で位置補正しないといけない)

214 :
>>211
そりゃそうでしょうww

ウィキペディアの説明の方がはるかにわかり易く書いてありますが
そういう説明のしかたをされるのは
この下に書いてあるレーマーの報告自体が捏造かなにかということでしょうかね?

この2番目が等しくないのは光が衛星から到達するまでに時間がかかるためだと思われます。光は地球の軌道の半径に等しい距離を移動するのに約10-11分かかるようである。

215 :
>>214

> ウィキペディアの説明の方がはるかにわかり易く書いてありますが
> そういう説明のしかたをされるのは

> この下に書いてあるレーマーの報告自体が捏造かなにかということでしょうかね?

意味不明、
レーマーのどの報告のことなのか書いて欲しいし、
俺は別に レーマーの報告が捏造だとかも書いてない。自分の邪推を他のひとに投げかけないで欲しい。

216 :
レーマーは その手法で 光速度を計算してない。事と、
レーマーの観測データから 他の方が光の速度を計算したのであって、
(だいたいにおいて、科学年表や解説などでは 一緒くたに説明されているが)

この辺を 書いただけ。

217 :
>>215
めんどくさくなりましたので
どうぞどうぞご自由にww

>>212
入手経路と本そのものをゲットできたか、、、、
1795そのものの情報の確認はめんどくさそうです

218 :
ガリレオが 木星の衛星の食の観測で、経緯度の測定に利用できると主張しているが、
天体観測で 時刻を推定し、その時刻から 現在地の緯度経度を算出するのは無理があると思う。
ガリレオの時代には絶対時刻みたいのがないから、
夜の天体観測で 恒星時を利用するとすれば(当時の天文観測基礎概念)、
地方恒星時(グリニッジ標準時の時差)が産出されるとして、
北極星の位置(高さ)から ある程度正確な 緯度は測定出来る。が
(正確には春分の日で値に対して季節による変動値と 視差の観測値の補正が必要なる)
当時の観測として、
揺れる船からでは 木星の衛星イオの食の観測はとても行えないとの報告も出てる。
イギリスが航海年表(月の位置の表、月距法による経度の算出)出していない時期での、
地図の経度があまり正確でないので
経度測定における 木星の衛星の食の観測は 有効的ではないと思う

219 :
>>217
> >>215
> めんどくさくなりましたので
> どうぞどうぞご自由にww
はあ?
> この下に書いてあるレーマーの報告自体が捏造かなにかということでしょうかね?
俺は 面倒くさい絡み方したのは あなたでしょう?
レーマーの観測の否定もしてないし wikiのページの否定もしてないでしょ。
面倒くさい煽りを自分の方からしてるのに

220 :
>>215

> > ウィキペディアの説明の方がはるかにわかり易く書いてありますが
> > そういう説明のしかたをされるのは
> > この下に書いてあるレーマーの報告自体が捏造かなにかということでしょうかね?

210の このページ
http://fnorio.com/0128Romer_1676/Romer_1676.html

詳しく解説されているが、正しくない。レーマーの論文以外の事をメインで解説している。

レーマーの論文は よく判っておらず、
「レーマーの論文」として知られているものは 実は他の人間による レーマーの論文の要約版になる。
この事は wikiにも 書かれているが 解説サイトの方は よく理解してない

221 :
カッシーニの発表の方が 5年ほど早い、
カッシーニは 惑星暦と 実際の観測のズレが生じる事を
1676年8月22日に科学アカデミーに発表した。
> この2番目が等しくないのは光が衛星から到達するまでに時間がかかるためだと思われます。
> 光は地球の軌道の半径に等しい距離を移動するのに約10-11分かかるようである。
この説明から計算すると 光の速度は 25万km/s になる、
よく解説される レーマーの観測報告からの計算値よりも精度が高い
レーマーの論文からの図がよく紹介されているが(実際には要約したひとによる略図)、
レーマーの 木星イオの周期の観測日時と 図で示しているポイントが合っていないので
レーマーの論文を読んだひとが正しく理解していない事を示している、
https://i.imgur.com/tn93Yn5.jpg

222 :
レーマーの観測報告は 木星衛星イオの食の観測による 公転時間の平均値なので、
各 観測日時によって、木星衛星イオの公転周期がズレていることを報告した。
レーマーの観測の報告記録
https://i.imgur.com/9pBXPKN.jpg
ただし、この表示じたいが誤植か 間違えて転写された可能性がたかい
1676のレーマーの記録とあるのに
june13 〜 may13 とあるのは これは表記者が間違えていることを示す、
軌道の周回が 18回と書かれているので イオの公転周期42時間から計算すると
最初のポイントから 次のポイントは 31.5日 転記者が 時系列を間違えている可能性が濃厚。
観測ポイントが6点なので 観測時期(季節の推移)を 地球の公転半径に置き換えて、
正八角形の 1辺の長さを
各 観測ポイントから 約 6分 イオの公転周期の観測ズレが生じている事から計算すると
レーマーの観測記録からの 計算だと 光速は 約 32万km/s になる。
実際には 正八角形のポイントでもないし、レーマーはこの比率も示してなかった、
色んなサイトで解説している レーマーの計算したとされる 光速 約 20万km/s よりも、
レーマーの観測を直に計算した方が 精度がよい

223 :
ごめん、

>カッシーニの発表の方が 5年ほど早い、

間違えてる。
カッシニーの発表は 1676年8月22日 に科学アカデミーに発表

レーマーの論文の要約の 発表が 1676年12月7日 (匿名者による 要約文の 投稿)

カッシニー自体が この考え方を放棄したので、
カッシニーの考察の データ補強として 発表された レーマーの論文も、レーマーも興味を失ったと思われる。

レーマー自身が 光の速度の計算を示していないし、
この問題に興味を失ったか 放棄したものと思われる

224 :
レーマーの説明なのか 匿名代弁者の説明なのか、 この説明じたいが要を得てない。

https://i.imgur.com/tn93Yn5.jpg

説明によると、
Fの観測地点と Gの観測地点では Cの影に入る時間、
Lの観測地点と Kの観測地点では Dの影から 出てくる時間、と説明している、
が、

木星イオの観測データは 衛星の食の観測期間の平均値 なので この説明とはかい離している、
また、
実際には 8月(Hの地点に相当するものと思われる)に集中してが、
図では うまく説明できてないない、
Eの地点での観測も 実際には行っていない

レーマーは カッシニーの推論を補強しようとしたが (論文の要約者も)
光の速度の 有限根拠を放棄したというのが 実情に近いのだと思う、
やろうと思えば やれたのに追試も 増補もしてないので

225 :
>>173
>日食などの観測を15回行う予定が(経緯度の計算には 3地点での同時観測が必要)、
>天候の不良などにより、同時観測の出来たのは2回ほど、
>また 日食などの観測される時刻の算出が正確に行われておらず、
>観測記録との補正に支障をきたしたとあります。
> 二点観測かと思っておりましたが
> 三点観測が必要なのですね
> なんとなく測定地点を厳密に選べないからかと思いましたが
> それとも世界時計の補正に使うのかな
> 仕組みがきっちりわかってないですね
> ちょっと調べておきたいと思います
月距法を調べていて判った、
三点観測ではなくて、
古い時代では 観測を3回行うとあった。 これは観測儀の精度がない時代の補正補法で
目視による 四分儀などの角度の読み取りだと 1度の正確さがでないので
3回の観測の平均値を 読み取り値にするようだ、
日本海軍の月距法の手順だと 3人が六分儀を使い これの平均値を取るとあった、
精度の出ない時代での天文観測の手順のなごりらしい

226 :
調べていて、春分がなぜ基準になったのか判った、
一日の陽の長さが 春分・夏至・秋分・冬至で変化するのは古い時代から知られていた、
ヒッパルコスは 地球がコマのように軸がズレて歳差運動しているので
季節によって日に長さが変化しているのだと説明した。
この考え方は 正しくはないものの推論のアプローチとしては間違っていない。
ヒッパルコスの著書は散逸したが、
プトレマイオスは「太陽の黄経から、太陽の赤緯と赤経」などの説明で
天体の運動を 球面三角法として書物で紹介した。
プトレマイオスは(プトレマイオス自身も業績を残しているが)、
著作『アルマゲスト (全13巻)』で 古代からの天文観測知識と自身の観測手法などをまとめて紹介した。
この著作の中で、プトレマイオスは歴史上の春分の日から 次の春分の期間として1年の長さを解説した。
プトレマイオスの計算は厳密には間違っていたが、
春分・夏至・秋分・冬至の概念や、黄道座標系などを著作で解説していたので、
プトレマイオスの観測手法が後世の 天文観測のスタンダードになったので
春分(黄道面での恒星の位置)が1年の基準日になったぽい

227 :
円が360度で、
天球の座標を分割して、
360度を 24時間で分割して 天球の座標を示す事を紹介したのが
プトレマイオスの著作『アルマゲスト (全13巻)』かららしい、
天球面での座標軸の考え方と、360度を 60進数の角度で示す方法を考えたのと
(この方法だと 一時間60分 1分60秒の時間の推移をそのまま 観測座標軸に投射できる)
天球面での座標軸の考え方の紹介同時に、
天体観測の観測道具の紹介も行っている、
とりあえず プトレマイオスすごすぎる

228 :
https://s.kota2.net/1576198496.jpg

229 :
レーマーの観測報告と カッシニーの推察
https://i.imgur.com/cBDGlLT.jpg
> 光は地球の軌道の半径に等しい距離を移動するのに約10-11分かかるようである。
カッシーニは 地球の軌道の半径での 光の移動について述べている、
赤線で示したのが 地球の軌道の直径
この地球の軌道の半径から 光速を 計算すると 約 25万km/s
レーマーの観測ポイントは オレンジの点になるので、
カッシニーほど明確に 距離と時間差を説明していない、
赤線で示したのが 地球の軌道の直径なので、
レーマーの観測ポイントでの説明は
赤線で示した距離に対する オレンジの点での比率に相当する。
ただし レーマーはこの比率なども なんら説明していない。
レーマーの要約者のこの図が正八角形に近似しているとして
レーマーの説明しようとした事を推測して 正八角形のポイントでの計算にしたが(計算しやすい)
誤差が +− 10%か20%あるとして
レーマーの観測記録からの 計算だと 光速は 約 32万km/s と 算出した。

230 :
https://i.imgur.com/cBDGlLT.jpg
このレーマーの説明ポイントが 偏っているのが判るが、8月に集中している点に注意
レーマーが カッシーニの 推測を補強しようとしていたとすれば つじつまが合う、
カッシーニは 地球の軌道の半径から 光速を比率を説明していたので、
レーマーの説明ポイントは 地球の軌道の半径を示していると 捉えた方が理解しやすい
GとLに対応する レーマー観測ポイントがないわけだから、
この説明図を描いた人は レーマーの論文をよく理解していなかったと思われる

231 :
レ−マーの解説
11/9に パリで観測された第一衛星の出現 (EcR)は、...
地球が木星に最接近 した8月に観測 された 出 現(EcR) か ら考 えて、
当然予想 される時 刻よ り も10分遅れて い た。
論文ではこう述べているので、
(衛星が隠れる時間か 出現する時間か 統一して欲しいものだが;;;)
8月に時期に観測された時刻よりも 11月に観測された時に 予測より 10分遅れた、と述べているので、
これは 地球の公転軌道の 半径ぶんの差で 10分の 観測差が出たことを述べている、
つまり、カッシーニの手法となんら変わりないのであって、
カッシーニと考え方を共用していたと思える

232 :
レ−マーの解説ポイントが 8月に集中していることは、
地球と木星の最接近時では 衛星食の 観測のズレが小さい事と
(地球と木星の最接近時では 木星と地球の距離の変動値が小さくなる)
5月のポイントと 11月のポイントが 8月のポイントの半径差の位置に相当する、
観測ポイントが不自然なのに、なぜ 11月の観測結果を12月に急いで発表したのか?
https://i.imgur.com/9pBXPKN.jpg
https://i.imgur.com/cBDGlLT.jpg
カッシーニの説の支持の為だと 考えるとつじつまが合うと思う。
他の年での観測記録をなぜ示そうとしなかったのか?(自説を補強するならまずそうする)
色々 疑問な点はあるが、まぁどうなんだろうね
論争に巻き込まれたくないから放棄したのが妥当な線かな

233 :
>>210

面倒くさいついでに 書いとく

> ここの説明はわかりやすいですね
> 時刻時刻と適当に書いてるとこのは基本的に信用できないかと思います
> http://fnorio.com/0128Romer_1676/Romer_1676.html

レーマーが光速度を計算した方法(1676年)
http://fnorio.com/0128Romer_1676/Romer_1676.html

このページでは ページ下部に 引用元を併記しているが、

このページを作るに当たって参考にした文献を挙げておきます。

Ole Christensen Romer, “Demonstration touchant le mouvement de la lumiere trouve par M. Roemer de l'Academie des sciences”, published 7 December 1676 in the Journal des scavans.
 これは1675年にパリのアカデミーで発表された報告を要約したものです。
フランス語原本、Phil.Tran.の英語訳版、この論文の日本語訳が下記文献2.p236〜239にあります。

ここが表記ミスしてますね
ここのフランス文をそのまま グーグル翻訳での意味
「科学アカデミーのM. Roemerが発見した光の移動に関するデモ」、
1676年12月7日、Journal des scavansに掲載。

このサイトのひとが第二の文献(上記の日本語訳)の URLも書いてくれてるが、
レーマー自身が書いた論文でないのは明白な事と、
光の速度が有限であると示そうとしたひとが レーマーの論文を 無理やりまとめたのが よくわかる。
このサイト解説者は この論文をよくよんでないのが明らか

234 :
>>223
ほほぅ、なるほど
おいらも光速度の決定に最も近かった人物は
カッシーニさんの中の人かと思ってますので
どうしてカッシーニさんが放棄しちゃったのかは気になりますね

>>230
>>232
レーマーの観測時期の話は
前にコズミックフロントで出てたような
内容はど忘れしちゃいました

235 :
>>216
たしかに、、、
おいらもついこの間まで
キャヴェンディッシュさんが
万有引力定数を測定したと思ってましたので

>>233
ふーむ、なるほど
おいらはレーマーさんが光速度の有限を示したのかと思っておりましたので
それ自体も別人の可能性もあるのか
これは興味深い、、、

236 :
>>235
> ふーむ、なるほど
> おいらはレーマーさんが光速度の有限を示したのかと思っておりましたので
> それ自体も別人の可能性もあるのか
> これは興味深い、、、
『レーマーが光速度を測定した (実際に計算はホイヘンスが行った)』とよく紹介されているが、
この点に関して 自分は疑問に思ってる。
レーマー自身も論文で述べているが(強調して述べていないので あまり知られていないが)
11/9に パリで観測された第一衛星の出現 (EcR)は、...
地球が木星に最接近 した8月に観測 された 出 現(EcR) か ら考 えて、
当然予想 される時 刻よ り も10分遅れて い た。
こう述べていて 判りにくいが
『地球の公転軌道の半径に相当する距離で 10分の遅れが観測された』と言う意味になる。
科学史に関係する資料では 光の速度を測定したとされているが 俺はそうは思わない、
正しくは 『光の速度の有限性を示そうとした』と思う。

237 :
調べていて判ったが、 科学史として、
これの前後する時期では
『地球の公転半径(太陽から地球までの距離)』がまだよく判っていないなかった。
『地球の公転半径』は 後に天文単位 AUとして採用される訳だが、
この(惑星や天体などの)距離の推定方法は 色々なやり方があって 数値が定まってなかった。
科学者での公式見解が定まっていない 『地球の公転半径』での比率で 光の速度を示すやり方は、
光の速度を示す過程での 「距離/時間」で 距離を明確にしてない 重大な欠点を伴っている。
光行差の発見者とされる ブラッドリーも 、『地球の公転半径』での比率による 光速度を計算したが、
『地球の公転半径』が この当時は 精度がよくなかったので 速度の推定は行っていない。
光行差などの 速度のベクトルの合成は 『光の速度を有限』だと見直して 計算する方法なので、
当時の主流だった 光の速度の無限説を まっこうから否定する かなり危険な概念だった。
カッシーニーも 光行差の概念で 『地球の公転半径』を計算しているが、
論争の煩わしさや 業務の遂行の点などから これらを回避していたと思われる。

238 :
>>237
カッシーニさんは視差を利用して公転軌道のサイズを推定した後で
光行差も利用してたんですか、、、

>>234
そしたらもう光速度に関して
確固たる信念を持ったうえで
発表だけしなかった感じなんですね

239 :
>>238
今から考えると 噴飯的だが、
『 光の性質が波動であるならば、波動を伝える物質が 宇宙空間に充満している』
といった考え方が ずっと支配的だった。
海で 波を伝える水 振動を伝えるならば固体、
光を使える物質 『エーテル』が 宇宙空間に 充満しているとされているのが
この頃から 20世紀ごろまでの考え方の主流だった。
ホイヘンスなどは 光の波動説の支持者
ニュートンなどは 光の粒子説の支持者 になる。
ブラッドリーは光行差の現象の説明には 光の粒子説の方が解釈がよくなり、
エーテル充満を基礎と考える波動説の立場のひとから 反論を受けて否定されたり、
否定的な観測実験を受けたりした。
この頃の科学論争は泥沼試合みたいになったりしてるから、
本業が他にあるひとは 面倒くさい論争を避けてたとかは普通になあるから それかな

240 :
>>169
高橋至時の関心はおそらく
北京と日本の経度差>>171
京都と東京の経度差>>212
ロンドンと日本の経度差
このあたりだとして
実際の能力として京都と東京の観測をやる
ぱわぁを持っていたと推測できますな
>>217
その後の著作や
入手の容易性を考えると
おそらく訳本とか写しよりも
印刷物をそのまま持っていたと考えた方が良さそうっすね

241 :
カッシーニが計算した 天文単位の手法

https://i.imgur.com/6EXJl79.jpg

カッシーニが観測を行ったのは、
https://i.imgur.com/q6sp71f.jpg
南米 フランス領ギアナのパリとカイエンヌからの火星の観測なので、
パリとカイエンヌの観測地点の 観測差から 視差を計算して 『角度から 距離を計算しました』
この時に判るのは 火星の視差なので
判るのは 「地球-火星」の視差(角度)から 三角関数で計算した 「地球-火星」の距離になります。

この時の カッシーニの観測手法では 『地球-太陽』距離は判らないので、
https://i.imgur.com/FBRxeLE.gif
『地球の形状を利用した (直径や 経緯度など) (だいたいは正確に判っていた)』を利用し、
三角形を作図して 「地球-火星」の視差(角度)を 「地球-太陽」の視差(角度)に変換して、
その三角形の作図から 距離を推定します。

カッシーニが観測したのは火星の視差なので、
信頼できる数値は 『(この観測日時での) 地球と火星の距離』で、(惑星の位置は変化しています)、
「太陽との視差」は角度して狭いので 太陽までの距離に変換する精度は落ちることになります、

カッシニーの視差の観測角度の利用では
角度で 9.5秒( 1度の角度の 0.95/10 約 360分の1)ズレなので、
この当時の 天文観測の 角度の観測精度の限界に近いので
1度の 1/10になる 角度の秒差の 観測精度は 厳密な観測精度は落ちることになります。

カッシーニの手法で 計算した 天文単位(地球から太陽の距離) は 1億3848万kmに相当します、

242 :
>>173

>>240

ハンドブックから天文パラメータは再構成してるっぽいので
能力的な問題ではなさそうな気がしますね

やっぱ観測器具はかなりレベル低かったのかなぁ

243 :
カッシーニの手法では 天体観測の 角度の精度が上がらず、
角度が小さい場合は 細長い三角形の三角関数では 精度が上がらない事を意味します。
火星の観測による「火星の視差角度」を『太陽の視差角度 9.5秒』に変換した仮想値なので、
エドモンドハレーは カッシーニの手法での 『太陽の視差角度』の算出を信頼せず、
「金星の 太陽の通過点を観測して 観測角度の精度を高める手法を考案しました」
ハレーの提唱した方法による (パリ-マダカスカルの視差を利用した 観測)
https://i.imgur.com/wGlilEJ.jpg
金星の太陽面通過の観測での 手法
https://i.imgur.com/kX04WKY.png
カッシーニの手法では 1度の数分の一の観測精度の視差を変換計算したのに対して、
ハレーの提唱した方法による手法によると、
直接観測した 視差が計算に利用できる事と、
太陽の見かけの視直径( 天球面の角度に相当すると 約 9秒 "1度の 約1/6")を尺度に利用するので、
利用できる角度の精度が 10倍以上増すことと、
太陽の見かけの視直径を観測する重要度を示しました。
(この手法だと 太陽の視直径の精度は 天文単位の計算の 精度が増すことを意味する)
ハレーの提唱した方法は、
(地球の自転と 惑星の位置 計算の位置補正が必要だが) 惑星の軌道位置と、
金星の太陽面通過位置が 投射できる事を示しています。
こんな感じに 金星の太陽面通過の観測を記録する
https://i.imgur.com/E10I7Wz.png
ハレー自身は 高齢の為 この観測をできませんでしたが、この手法を
国際天文観測プロジェクトとてして提唱して 多くの科学者や探検家がこの観測を行っています。
この手法は 多くの支持を集め 長い間主流になっていましたが、
地球からの光学観測での限界も 示しています。

244 :
打ち込みミス&判りにくい部分を書き直し
カッシーニの視差の観測角度の利用では
視差 角度で 9.5秒なので
( 1度の角度は 角度60秒なので、 天球面での観測 1度に対すると 角度 9.5/60秒 )、
1度の 1/6の分解精度で 観測していた事を意味する
この当時の 天文観測の 角度の観測精度の限界に近いので
1度の 1/10になる 角度の秒差の 観測精度は 厳密な観測精度は落ちることになります。
カッシーニが計算に利用した 視差角度 9.5秒は
どのような観測機器を利用したのかが判らないと 観測精度が追試できず、
ハレーが カッシーニの計算値を採用してない事に妥当性があります。

245 :
>>238
カッシーニさんに関しておいら
あんまり情報みつかってないのですが
振り子の不等時性を破棄
光速の有限性を放棄
地球の楕円形がアレ
ケプラーモデルを放棄
とさんざんな信念の人扱いされてますた、、、
これは例のやつの予感がww

>>239
確かにレーマーさんの情報がカッシーニさんの中の人を超えないっぽいので
光速の有限自体もカッシーニさんの発見の気がしてまいりました
>>237
光速度ベクトルの合成をカッシーニさんが何にどう利用したのか
それがわかればもうちょっと確信が得られそうではありますが
これは歴史改変のニオイがかなりしますね

この時間のズレは何に起因してるんじゃろか、、、
>>214
1809年、天文学者のジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルは再びイオの観測を使用したが、
今回は100年以上経てずっと正確になった観測の恩恵を受けて光が太陽から地球まで進む時間を8分12秒と報告した。

246 :
>>240
日本の本初子午線の推移はここが詳しいですね

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBFEB9EF2FC6FCCBDCA4CECBDCBDE9BBD2B8E1C0FE.html

江戸時代は京都が基準でした。
宣明暦までは中国の暦をそのまま利用しておりましたが、渋川春海は里差=経度差を考慮して、日本にあわせた大和暦 (貞享暦) を作成しました。
元の首都である大都=現在の北京と京都の里差は5刻としています。
1日=100刻ですから、5刻=5÷100×24=1.2時間となります。
伊能忠敬の作った精密な日本地図である伊能図も、京都西三条台の改暦所が基準とされています。
明治5年までは天保暦 / 不定時法を使用する一方、徐々に西洋の時刻制も使われ始めていました。


そんで>>171の資料は
おそらくパリが基準で大気差の補正はばっちりされてそうな感じですね
だからたぶん>>202の管見になかったのは
あたりまえすぎて改めて触れる必要がなかったのではという気がします

247 :
>>240
長崎の経度も検討してますた
抜粋しておおくりいたします

https://tenkyo.net/kaiho/pdf/2008_11/2008-11-03.pdf

1802(享和2)年には、間重富が測量事業
に参加する第一弾とも言える「西国里差(りさ)出地(しゅっち)等測量一件」プロジェクト
が行なわれました。ここにいう里差とは経度差のこと、出地とは緯度のこと[3]
で、現代語に訳すと「西日本経緯度等測量プロジェクト」
ということになりましょう。つまり、間重富が長崎の経緯度を測定するために出張するというものです。


閑話休題。二人による周到な準備の後、
間重富は6月3日に長崎に向けて出発したのですが、
残念ながら8月1日の日食は荒天のため全く観測することが出来ませんでした。
また同月15日の月食も悪天候のため観測できず、出張の主目的は達成することができませんでした。

さらに、補助手段であった道中測量についても、帰路の途中(現在の山口市の周辺)
で重富が病気となったため中断を余儀なくされ、いったん大阪へ帰る事態となりました。
こういった状況から、恒星の南中高度測定から長崎の緯度を決定できただけで、経度
に関しては全くデータを得ることが出来ないという結果に終わってしまいました。

248 :
>>246
すいません
なんか変なこと書いてますね
『暦象考成後編』は北京が本初子午線です

>>247
江戸幕府の天文学(その9)によりますと
https://tenkyo.net/kaiho/pdf/2009_05/2009-05-05.pdf
伊能忠敬がガリレオ衛星の蝕現象を観察するサポートをしたのは間重富で
ラランド天文書の蝕の予報法が参考にされたようです
実際の観測方法の整備は間重富によるもので
マニュアル整備と1冊に半年分くらいが掲載された予報表が渡されたそうです

249 :
>>199
落ち着いて考えてみると
日蝕は太陽と月しか見えないけど
月蝕は月以外も観測対象にできて
木星蝕も夜観測ですか

>>181
このときは日蝕だけ考えてましたが
上の中で唯一時間を同期できるのは木星蝕のみだから
日月蝕だと時計も使ったんかなぁ

これだと一日で補正できるから悪くないだろうけど
昔に遡ると振り子利用ができない上に
三角関数も揃ってないだろうし
なかなか難しいだろうなぁ

250 :
>>249
サロス周期は
ヒッパルコスやプリニウス、クラウディオス・プトレマイオス
には知られていたとあるから
これなら提督も知ってておかしくないだろうけど
どのレベルで理解してたんだろうなぁ
8時間部分を有効活用できるんじゃろか、、、

251 :
なんで年度と年が分かれるんだろうな
年度はどこも農業の事情で設定されてるようだが

252 :
>>251
年度は会計基準か
権限の範囲なんかによりそうなので
季節風なんかもあったりするんじゃないでしょうかね

暦とわかれていても違和感はあんまりないですが

253 :
バビロニアの七曜制度は
ルーツ分かる?

254 :
28が7で割り切れるから

255 :
ちと失礼します
>>113
セレウコス暦は紀元前312年の10月デイオスの月の1日が起年のようですね


天文・天体・宇宙開発 2 [無断転載禁止](c)2ch.sc
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1502137052/624

9/1「インディクティオないし新年の初め。

インディクティオとは帝政 ローマにおける属州課税の制定と布告のことであり,
15年ごとに祝祭的に行われるもので,
その折には軍団の長,および属州長官が人口調査の結果報告を行う義務があった。

ここから,15年間の期間も 〈インディクティオ〉(結果報告) と名づけられた。

これが次第に計時単位にも取り入れられ,それを後にキリスト教徒も継承して,
ローマの習慣に基づいた新年の始まりをも 〈インディクティオ〉 と呼ぶようになった。


歴史上,3種類のインディクティオ計時が知られている。

@帝政時の,ないしコンスタンティンによるもの。
この開始は9月24 日ないし28日であった。

Aコンスタンティノポリスのもの。
その始まりは9月 1日である(これが,東方キリスト教会が自らのものとした制度である)。

B ローマのないし教皇のインディクティオ。
その始まりは1月1日である。

256 :
>>255

1年の開始日を初代皇帝アウグストゥスの誕生日9月23日に合わせた説があるようなのですが
これ自体が錯綜しすぎていて理解が追いつきませんね

257 :
レーマーの光速度がどうとか書いている人間がいたが、
英語版のこの記事に訂正を加えることができるかね。
https://en.wikipedia.org/wiki/R%C3%B8mer%27s_determination_of_the_speed_of_light

258 :
>>257
そこのページにも書かれてるじゃん

レーマーは光の速度を測定しましたか?
いくつかの議論は、地球ベースの単位で値を決して与えなかったので、Romerは光の速度の測定値を認めるべきでないことを示唆しています。[15]これらの著者は、光速の最初の計算をホイヘンスに任せています。[16]

[英語 wikiの原文]
Did Romer measure the speed of light?
Several discussions have suggested that Romer should not be credited with the measurement of the speed of light, as he never gave a value in Earth-based units.[15] These authors credit Huygens with the first calculation of the speed of light.[16]

259 :
>>221
カッシーニが光速の届く時間を
ほぼ説明しきってるのに
わざわざレーマーを発見者に祭り上げるのは
なんでなんだろう

260 :
>>257
ちょっとだけ調べてみた

レーマーの業績で 裏付けの取れそうな とこがほとんどないので困ってるのだが
Ole Christensen Romer (正確にはデンマーク語の 表記文字も参考にされたし)

レーマーの前半生はよく判っていないが、 ( 18歳の頃に地元の学校を卒業した以前の記録がない)

お父さんは オーフスで市民権を取得した商人で、(オーフスはこの当時の欧州でもかなりの商業都市)、
オーフス大聖堂学校を卒業とあるので、
修道系の高等学校に行けるってことは元々かなり期待された学生だったのではないかと思う。

コペンハーゲン大学に入学したが 、レーマーは運が良かった。
ラスマス・バルトリンのに指導を受けられたからだ (ラスマス・バルトリンも すごいひとらしいがここで割愛 )

ちなみにバルトリンの娘さんを嫁に貰って後に結婚してます リア充だね!

バルトリンが ティコ・ブラーエの著作の出版にも携わって射た為、元ティコの領地 ヴェン島に行く機会を得る

(ティコの残した観測データはこの当時で最高の精度だった)

で1671年、Ven島で フランスの 天文学者(地理や測量)の ジャン・ピカードと知り合い、
1671年には ピカードに同行して フランスに行き
この当時 新設されたパリ国立天文台の観測職員として採用された。

この時の パリ国立天文台の序列が
「カッシーニ (注 このひとは三代目 大カッシーニの孫)」 > ピカード > レーマー だった模様

カッシーニ・ド・テューリー 通称 C. F.カッシーニ・ド・チュリー (英語 wiki)
https://en.wikipedia.org/wiki/C%C3%A9sar-Fran%C3%A7ois_Cassini_de_Thury
ジャン・ピカード Jean-Felix Picard (フランス語 wiki)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_Picard

261 :
上で カッシーニ が 何度か話題に出てたが、
パリ天文台の歴代 天文台所長でも カッシーニさん 4人居たわw 多分俺も世間も混同してるw

・ジョヴァンニ・カッシーニ(フランス名:ジャン=ドミニク・カッシーニ)(1671年-1712年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8B
カッシーニの間隙(土星の輪っかの隙間)で知られる 一番有名なカッシーニ 大カッシーニ
・ジャック・カッシーニ(1712年-1756年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8B
カッシーニの息子
地球は縦の細長く扁平した球体だと主張して ニュートンと論争して負けた
(実際は赤道部分が遠心力で膨らんでいる)
・セザール=フランソワ・カッシーニ(別名カッシーニ・ド・チュリー)**(1756年-1784年)
https://en.wikipedia.org/wiki/C%C3%A9sar-Fran%C3%A7ois_Cassini_de_Thury
カッシーニの息子の孫
・ジャン=ドミニク・カッシーニ (カッシーニ4世)**(1784年-1793年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Dominique,_comte_de_Cassini
カッシーニの息子のひ孫

262 :
ごめん 推敲ミス 正しくはこう
カッシーニ家 代々 天文学と測量をやってる こう書くとジョースター家みたいやな

・ジョヴァンニ・カッシーニ
一番有名なカッシーニ 大カッシーニ
・ジャック・カッシーニ (カッシーニ 2世)
カッシーニの息子 ニュートンと論争して負けた
・セザール=フランソワ・カッシーニ (カッシーニ 3世) 通称 C. F.カッシーニ・ド・チュリー
カッシーニの孫
・ジャン=ドミニク・カッシーニ (カッシーニ 4世)
カッシーニの息子のひ孫

263 :
レーマーのことについて書こうと思っていたのに 調べながら脱線してしまった ごめん
続きはまた

264 :
>>250

コロンブス提督の経度推定は
小熊座の一部の星による角度から算出とのこと

具体的な星の名前は(コカブ)と(フェルカド)になってましたが
まぁ、北斗七星から見積もる普通の方法とかわらんですか

距離に関しては24天文時間による地球分割を角度単位として
速度見積による航行距離との対比もしてますね


実際に見積もった経度は酷いできでしたがw
>>205
使用していた本初子午線は、たぶんサラマンカ基準だと思いますね


>>218

265 :
>>264
提督は第二次航海時の入植後の探検で
たぶん1494年の9/15日の夜(もしくはその月の20日)まで
エスパニョーラ島東端の小島の影で
月蝕を観測し
カスティリャのカディスとの間の時差を
5時間23分と確定したとのこと

266 :
>>264
こぐま座で経度測定?緯度じゃなくて?こぐま座での経度測定のやりかたが全然わからない…

267 :
換暦
https://maechan.net/kanreki/
これ便利でよく利用してるんだけど、先日からエラーになって使えない
トップページは表示されるんだけど、検索かけるとエラーになる。
オレだけかな

268 :
>>266
こぐま座は北半球だと大抵見えるから、天の北極との角度と持っていった時計で経度を測るんじゃないのか?

269 :
>>266

具体的な方法は書いてませんでしたので
実際にどうやったかはわからないのですが
座標はたぶん地平線(水平線)を利用したんじゃないでしょうかね
そんでもっておそらく緯度の補正はできなかったんじゃないかなぁ



>>268
残念ですが時計は持っていけないので、、、

270 :
>>149
デカンシステムは名前からうっかり10だと思ってましたが
ちゃんと36星座が用意されていたそうな
しかもけっこうユーラシア的なシステムの気がしてまいりました

>>268
そういえば北極星が利用され始めたのは
年代もまちまちな感じで
わりと後代だったりするとこもあるみたいだけど
これは地理的な影響だったりするのかしら

271 :
これがおもしろかったのですが
結局どんな感じで利用されたのかしら、、、
白夜に近くなっても時間わかるみたいなのかな?
>>65

ヴァイキングの歴史
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1307878939/345
345 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2020/01/12(日) 09:28:33.62 0
石といえば、バイキングがコンパス代わりに使ったというサン・ストーン
最初にこれに気が付いた奴はすごいな
沈んだバイキング船から発見! 「太陽の石」の謎に迫る!
https://www.youtube.com/watch?v=nHybughAExM

272 :
>>271
これも天文現象についてかかれてるそうな
冬が三年続いたらラグナレク発動みたいなルールあるのかしら

ヴァイキングの歴史
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1307878939/344
344 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 00:20:47.66 0
バイキングの「ルーン石碑」、気候変動への懸念に関連か
https://www.jiji.com/jc/article?k=20200110039576a
9世紀に建てられたレーク石碑には世界最長のルーン文字の碑文が刻まれており、
700以上のルーン文字が石碑の5つの面を覆っている。
紀元536年の後に発生したのと同様の破壊的な気候危機が新たに起きることへの懸念

273 :
>>269
だからコロンブスはジャマイカあたりをインドと勘違いした。
いずれ何らかの時計みたいなものを使ったんじゃないのか。

274 :
うんこしたい

275 :
>>273
コロンブスじゃないのだが、
同じぐらいの時期の人で アメリゴ・ヴェスプッチは

1497年にAmerigo Vespucciは 月距法(Lunar distance method)で
南米のベネズエラの位置(緯度 経度)を測定したと言うのが 記録によって判っています。
クロノメータの登場してない時期での 緯度・経度の測定の方法で、
コペンハーゲンの天文観測所での 月の位置を元にした 航海年表を元に、
「コペンハーゲンで 観測される場合での月の位置 (予測表での指数)」
「現地での 観測された月の位置」
↑(予測表での) 月の位置の差 → 経度の差 (時差)、時差=経度
こんな感じに 経度を測定したようです。 (実際は補正が必要なので計算手順が色々と複雑です。)
調べてみたのですが、
ガリレオの提唱した 木星の食の観測による 緯度・経度測定法は、
木星の食の起こる時期の予測表を作成するひとがあまり主流にならず、
月距法で 月の位置を予測する方に 多くのひとがリソース作成に参加した為 (計算は人的投入になる;)、
月距法が 主流になったようです。
上記は 月距法の記述でwebで解説されてました、
英語での検索になりますが 日本語の解説よりは ヒット数が多いので 参考になると思います

276 :
ちょっと調べてみたが、
天文学者は 木星の食の利用をしたがり 木星の食を利用しようとしたが、
航海暦での 天文学者用のこのようなデータは 航海者たちには邪魔でしかなく、
月距法や惑星の位置 や その他の指数の方を利用したと あった。
木星の食の利用は パリ天文台が設置された頃から 利用が進み、多くの天文学者が利用したようで、
天文学者に人気があり、(天文表を作成する側)
ハレー彗星で 有名な エドモンド・ハレーも、
月距法での緯度。経度は正確さが極められないと否定的な見解を示しつつも
月距法の天文表を作成していた。
天文学者に人気が有った 木星の食の利用だが、
木星の食の利用では 予測表と実際に観測時間にズレが生じるのが判ってきました。
これは後の天文学での課題にもなりました。

277 :
>>269
>具体的な方法は書いてませんでしたので

何に載ってたんだろうと思ったら「コロンブス提督伝」ではないかと。

>彼はこの海域で、暁には北東にあった護衛星の腕(1)※が、夜になると真西に出現するのを見て、驚いた。
>このことから、彼は船が一夜のうちに、三ライン、あるいは九天文時間進んだのだと判断し、
>数夜にわたる観測によってそれが真実であることを確認した。

>(1)小熊座のうち最もよく光る二つの星のことで、β(コカブ)とγ(フェルカド)の二つを指す。
>※ 小熊座のしっぽが北極星で、小熊座の一番外側を回る二つを日本では「番の星」「矢来星」と呼んでいる。
>北極星からのこの腕の角度で時刻を知ることができるし、時刻がわかれば緯度を計算することができる。

「船が一夜のうちに、三ライン、あるいは九天文時間進んだ」とか意味不明瞭というか。
ちなみに「完訳コロンブス航海誌」では同箇所で「グアルディアスと呼ばれる星が九時間運行する」といったことが書いてある。
で、「完訳コロンブス航海誌」ではこのグアルディアスをこぐま座のα星とβ星としている。つまり北極星とコカブ。
「コロンブス提督伝」の注ではコカブとフェルカドとしているが。
また、「コロンブス提督伝」の注の「北極星からのこの腕の角度で時刻を知ることができるし、時刻がわかれば緯度を計算することができる」
というのも妙だ…
というわけで、コカブとフェルカドよりも北極星とコカブのほうがらしいのではないかと。

>>269
>そんでもっておそらく緯度の補正はできなかったんじゃないかなぁ

https://www.zensenkyo.com/_bk/giho/35giho/deLiefde/deLiefde2.htm
によると1495年頃にコカブが北極星からどの方向にあるかによって緯度を修正した記録があるという。
とはいえコロンブスは航海中に北極星が回転することに気づいたとかいわれるほどなんで航海時は知らなかったかな

278 :
>>275
>>276

まぁ、おいらが思いますに
木星衛星の蝕は観測期間に決定的な穴があるから
船乗りとしては絶対に受け入れられないかと思いますね

1ヶ月以上みえなかったら海の上で迷子になってしまいますww

月距法ならとりあえず三日ぐらい我慢したら
それなりに頑張れるかと思いますので
どちらを選ぶかといわれたら、おいらもこっちにしておきます

279 :
>>277


その「コロンブス提督伝」が出店元です
今確認したら確かに緯度と書いてありましたww
完全に読み間違いましたね

そういえば前に誰かが同じ部分で書いていた気もしてまいりましたよっと

リンク先のおかげで
あんまりわからなかったレジメントが理解できましたので助かりました

古代のエジプトでは
おおぐま座ζ星(ミザール)と、こくま座β星(コカブ)で観測したんでしたっけか

280 :
>>277
小熊座のグアルダス星と北極星との位置関係を測定して夜間の時刻を推定する方法は
ラモン・リュイによる紹介とありましたので
コロンブス提督の中の人が使用できたとするのも無理はないかと思いますね

281 :
>>265
ちなみにこれも「コロンブス提督伝」ですね
カディス
北緯36度32分0秒 西経6度17分0秒
エスパニョーラ島
北緯19度0分0秒 西経70度40分0秒
サオナ島
18°09′20″N 68°41′58″W
とすると、ざっくり62°で4時間とちょいですか?

282 :
>>166
三角測量と木星衛星の蝕を組み合わせて推定された
パリとウラニボルクの経度差
その東西差が,最大42分20秒、最小42分 2秒であったが,折衷値として42分10秒に決められた
とのこと(現在値は40分26秒)。
という訳でヨーロッパでも2分程度は誤差でちゃうようですね
まぁ、それでも毎夜観測することに価値がないわけではないと思います

283 :
>>282
>まぁ、それでも毎夜観測することに価値がないわけではないと思います
俺は 『伊能忠敬が 毎夜観測することに価値がなかった』と言ってるのではなくて、
>地球の外周を 約 4万kmとすれば、
>子午線を24用いれば、
>最大で 1666km 1/60に分割すれば 27.777kmの幅になる、
ちゃんと こう書いているのだから、間違った見解のレスはやめてください、
伊能忠敬の記録で『木星の衛星の蝕の観測が 想定よりも 15分〜20分のズレがあって難儀した』
と あるので、
蝕の観測が 15分ズレていたら 概算で子午線の位置測定が 400km以上、東京-名古屋 以上です、
つまり子午線の測定には 衛星の蝕利用には致命的な欠点があり、
クロノメーターの登場以後は 年間の秒差の狂いが 15秒以下でしたので、
時間を基準にした子午線測定の方が 20倍くらい精度がよくなる訳です。
欧州では 問題に 時報の球を落として 大砲の音と 球の落下で 時報を知らせていました。
江戸時代は鐘を突いて時刻を知らせていましたが 1時間おきではなく 不定時法です(夏長く 冬短い)
単純な比較は出来ませんが やはり欧州とは比較になりません
この辺の解説を省いた 私の落ち度もありますが、
私は伊能忠敬の全否定がしたいのではなくて、正しい評価と間違った伝承を糺したいだけです、
江戸時代に 外洋航海の術を幕府が禁じていましたから、天文観測が趣味の域を超えず、
実用としての天文観測航法がほとんど発展しなかったと思います、
『意味が有る-意味が無い』の価値観はひとそれぞれですから 尺度は判りませんが、
江戸時代に共有知識としてのデータベースとしては機能してなかったのが実情だと思います。
天体観測よりか 『鰯雲』とか 雲の分類から天気を予想する猟師の知恵とか etc.
私は こっちの方を評価したい。

284 :
あらら、日月蝕の時間をパラメータから産出したんじゃなくて
木星衛星の蝕の想定時間がずれてたのかww

そりゃ、もうどうしようもないっすね
そもそも経度求めようと思ってたんだろうから

285 :
>>283
そうすると観測制度のΔは5分だけだから
ざっくり150km内に収まるのか
測量とあわせて記録と取るにしては
まぁ悪くない方なんじゃないでしょうか

286 :
>>285
伊能忠敬の場合は、三角測量 (ほとんどが歩測と 目印の目標物からの三角関数での計算です)
以前にも書き込みしましたが、
歩いての 歩幅を基準にした 伊能忠敬の歩測と 測量係りの従者を用いた目視の測量です、
夜に 宿に着くと 昼間に測った測定値の検算と 三角測量の計算をしていました、
毎晩、夜にやっていたのは北極星の観測で こちらは赤緯表の補正法を知っていたので、
緯度の精度は高かったのです。
で、
前述 また スレの書き込みのように 伊能忠敬さんの場合は 地図作製で子午線成果は出ませんでした、
地図作製で大きく貢献したのは 三角関数を利用した 現代と同じ目測です、
もっとも レンズのような機器は持っていなかったのでコ光学機器ほどの精度は出ません。
(後継者の間宮林蔵は 高価な測量機器を伊能忠敬から譲ってもらっています)
つまり、要するに『緯度は精度は高かったのですが 経度は測定に限界がありました』伊能忠敬の場合。

287 :
で、
伊能忠敬自身が
『木星の衛星の蝕の観測が 想定よりも 15分〜20分のズレがあって難儀した』と述べているので、
ガリレオの手法を述べた文献から 『木星の衛星の蝕の観測』をして 観測時刻がズレた訳です、
15分〜20分ズレたと 伊能忠敬自身が述べていますので、
東京-名古屋間の 距離 〜 東京-大阪間の 距離の測定誤差が出る訳です、
これでは どう考えても 『木星の衛星の蝕の観測は 地図作成に寄与していません』
毎晩の観測には 意義はありましたが、
実際の 現場 現実の実用測量には どうみても失敗です。
後継者の間宮林蔵が正確な地図を作れなかったので 伊能忠敬のこじんの資質(歩測 数学)が
大きかったのではないでしょうか 数学的な探究心はあると思いますが 惜しい気はします

288 :
時間軸で述べたら、
ヨーロッパと観測手法が 150年から200年ぐらい 観測手法の技術的なズレがあります、
仕方ないと思う反面、事実は事実ですので、天文観測後進国だった事は再確認すべきと思いました。
次の世代にこういった戯言や訓戒の念が活かされるといいな などと思いながら調べて書き込みしています。

289 :
間宮林蔵は技術やスキルは持ってた可能性は高いが、
秘密主義だったので自身の成果はほとんど発表していない。ここが評価は分かれるが、

伊能忠敬の後継者として、
間宮林蔵は日本地図の作成に貢献していたので 技術はあったと思うが、
樺太の探検は精査しているが 肝心の測量では惜しい部分が多いので、
評価が非常に難しい


ちなみに、『伊能忠敬』が戦後に評価されたのは間宮林蔵の功績からの再評価(再発見)からだ、
『伊能忠敬』は正当に評価されずに歴史に埋もれていきそうになったが、
ほとんどの資料が散逸されてからの再評価になった、資料の散逸は本当に惜しいですね。

290 :
ちなみに 可能性からすると間宮林蔵は とてつもなく大きな仕事をしていて、
世界線を変えて日本を救っていた可能性も かなり充分にある、が
幕府の隠密『御庭番』だったので 表立った 記録が残せなかった…、

『記録を残さなかった』のは隠密(御庭番)として とても優秀 超SS級のエージェント、
でも され故に不遇、
可哀そう

291 :
ゴロウニン 「間宮林蔵は確かに知識量は凄いし知的好奇心はあるが、見栄っ張りで格好つけだ。いけ好かない奴だ」
蘭学者 「間宮林蔵は公儀の犬だ」

292 :
>>286
おぉ、伊能さんの中の人は
ちゃんと三角測量できたのか
おいら全然知らなかったので
超人的な測歩技能と未熟な技では
驚異的な精度の地図を作ったのかと思っておりましたww

293 :
>>248
間重富さん
1804年に高橋至時が死亡で
その違法が問題になる
1809年に大阪に帰るまで、こつこつ翻訳したけど未完
1805年に予報表を3ヶ月の突貫工事で間に合わせて
やっと木星衛星の蝕で観測する体制が整い
2/25日に伊能測量隊が出発

ほむぅ

294 :
>>292
ふうむ、導線法というのを使ったのか
年齢と日本の海岸線を考えると
たぶん驚異的なスピードをで測量してると思うから
こっちの方が都合がよかったのかしら

295 :
伊能忠敬の測量は ここが詳しい
伊能忠敬の測量
http://www.mizunotec.co.jp/doboku/inou_sokuryou/inou_sokuryou.html
こういう風に海岸線を測っているので
https://i.imgur.com/Vod6Spn.jpg
こういう 導線法の測定を主に行っている
https://i.imgur.com/MfhA7rM.jpg
導線法は 北の方角を基準にして 測量的には距離と目標物の角度を測定しているので、
作図としては 平行線(北の方角)を引きながらの 平行四辺形(三角形2つ)の作図に等しい、
角度の測定は 常に厳密さが出るとは言えないので 導線法は 連続して行うと ズレが蓄積される欠点がある

296 :
交会法
https://i.imgur.com/A35BauR.jpg
交会法は 『動かない 目標物』を 定めて それを基準にして 全体の角度と作図が行えるので、
崖や海岸や建築物など 実際に 移動して距離を測れない場合などにも 作図が行える。
『伊能忠敬』が 訓練して習得した 『歩測』を主に基準にして
(いつも歩幅が同じようになるように 注意しながら 歩測の訓練をして習得したようです)
実際に距離が 実測して測れる場合は 鉄の鎖や 鯨の髭で作った縄などで 距離の長さを測ったようです、
紐や糸だと 湿度などで収縮したりしますので 鉄の鎖の測定具や
湿度などでの収縮差の少ない 鯨の髭で結った縄などで 距離を実測しました。
https://i.imgur.com/aC34rl1.jpg
距離の実測ができない場合(崖や海岸や 山間部など)は
測量係の従者が 旗や幟を立てて それを 距離や角度を測定しながら 三角関数で計算しました。
画像の場合ですと 角度を測った後に 三角関数のタンジェンを利用して 底辺の距離を求めています

297 :
『伊能忠敬』が やってた事は
主に目視での三角測量、(距離の実測・歩測 などと 角度の測量)(後で三角関数を利用)、
宿に帰ってからは 夜に 昼間に測った 測量数値から 作図を行いながらの検算作業と 全体の作図、
昼間に測った 測量数値(距離 角度)から 大まかな 三角形を作図して 三辺の距離を算出、
北を示した平行線を引いて、平行四辺形を書きながら、三角形を計算しながら作図、
計算作業が終わったら 夜中に星の観測です、主に北極星の観測かと、
(昼の南中時間を求める作業がありますので、振り子時計を使いながら 南中時刻のズレを測定してました)

298 :
>>297
やはり振り子時計を使っていたんだな。

299 :
>>298
『伊能忠敬』が 行っていた記録や機材が散逸したので、
当時の正確な事は 判りませんが、
『伊能忠敬』は個人の持ち出しで高価な測量機材を買い揃えていたらしい事と
(最初の頃から機材を改良しつつ、徐々に買い揃えていたようです、間宮林蔵が一部を譲り受けています)
どれぐらいの精度の振り子時計を持っていたのか よく判っていませんが、
麻田剛立、高橋至時、間重富などの門人繋がりで
間重富が測量機器の調達や自作を行っていたようで、
間重富は 『垂揺球儀』と言う 一種の振り子時計を考案して作成しています
(実際の製作は 京都の時計職人らしい)
垂揺球儀は振り子時計の1種です
暦Wiki/垂揺球儀 - 国立天文台暦計算室
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BFE2CDC9B5E5B5B7.html

間重富は町人(質屋を経営していた 町人の身分だったようで)で
師匠の麻田剛立、同僚の高橋至時などの 観測機器の調達をして 経済的なサポートをしていまいした、
また、師匠から学び、蘭学本から 高度な数学の知識を習得しつつ 自ら観測機器も製作しています、
伊能忠敬は、高橋至時グループとして測量していましたので、測量にに用いていた 測量機材は、
間重富の作成した垂揺球儀に準拠するような振り子時計を使用していたと思われます、
時期的に 中期か後期以降ぐらいから 南中時刻のズレの測定を行っていますので、
中期か後期以降ぐらいから 用いていたと思われます。
ちなみに色んな種類の振り子時計の一種を使っていたようです。(現物は消失)

300 :
『伊能忠敬』は 自分で 測量機材を個人の持ち出しで 買い揃える、
『間 重富』は、 師匠・同僚などの天文観測機材や 高価な蘭学資料を買い揃える、
また、高橋至時の息子の 高橋景保の教育やサポートや グリープのマネジメントで活躍していました。
麻田剛立が幕府の 暦の作成に推挙された時に、門下生の高橋至時を代わりに推し、
(高橋至時は士分格だったので、高橋至時が推挙された)、
『間重富』は 自身の商売を行いながら グループのサポート役を行っていました、
高橋至時が亡くなった時には 幕府の天文方は、
高橋至時の息子の 高橋景保が 天文方に就きますが、間重富は高橋景保の教育などを行っています。
町人身分だったの天文方になれませんでしたが グループの中核人物でした。

301 :
『伊能忠敬』が一般的には有名だけど、
麻田剛立 → 高橋至時・間重富が幕府の天文方の仕事に従事で 資料が多い、
で、伊能忠敬は高橋至時に願い出て師事したので 学問的には高橋至時の門下生にあたる。
最初は 伊能忠敬が19歳年下年上なので高橋至時は弟子入りを断ったが、
熱心な 伊能忠敬の弟子入り懇願に折れ入門を認められたようだ。
高橋至時・間重富が幕府の天文方の仕事について改暦の作業を命じられたので、
メインの仕事は改暦の作業(天文観測と暦の作成事業)、
高橋至時と間重富は 伊能忠敬の師匠筋にあたる、
実際、幕府天文方として仕事の多くなった高橋至時の実務サポートを間重富が行っており、
伊能忠敬への実質的な教育は間重富が行っていた、
羽間平三郎氏が収集した、間重富の活動資料をまとめたものが『羽間文庫(はざまぶんこ)』としてあり、
これを大阪の資料館の方に寄贈されたのが 『間文庫(はざまぶんこ)』として 多くの研究資料になっている。
資料としては、間重富の活動資料をまとめたものが多い、
この資料発掘の過程により 伊能忠敬の業績が戦後に明らかになった、
(伊能忠敬に関しては多くの資料が散逸していて残っていなかった)
伊能忠敬の業績について調べる場合は 高橋至時・間重富の業績も調べた方が資料が多いと思います。

302 :
>>293
間重富さん

『ラランデ暦書管見』のふれてない
『ラランデ暦書』の別冊5巻に天文表が載っていて
そこに木星衛星と土星衛星も含まれていて
間重富さんが翻訳して幕府に提出

さて、至時さんはほとんど江戸にいただろうけど
木星衛星の蝕の時間予想をしたとして
あんまり見る時間のなかった『ラランデ暦書』を利用しただろうか、、、

303 :
>>294
うーん、三角測量に比べて
導線法が優れたものになる理由は特に無さそうな感じですが
目標物の設定が少ないときに楽にやれたりするんかなぁ、、、
南北線の設定は羅針盤っぽいけど
まぁ、これはスレ違いだと思うのでこれ以上深くはつっこまんとこ

304 :
>>293
遺法性がありますが見抜けませんですた

305 :
>>302
間重富は、
『ラランデ暦書管見』(高橋至時が ラランデ暦書に独自解釈を加えて執筆した物)の、
原本になった 『ラランデ暦書』の翻訳作業のプロジェクトを行っている、
『ラランデ暦書』原本から、重要そうな内容を抜粋して翻訳してまとめたものを幕府に提出した、
『ラランデ暦書』 4000章のなかから 100章ほどをまとめたもののようだ。
間重富はも 『ラランデ暦書』の翻訳を行っていたが、(大変苦労したらしい)、
翻訳の途中で 浅草の火事で 原本の『ラランデ暦書』が焼失、翻訳プロジェクトは中止された。
『ラランデ暦書』の重要そうな部分は 書き留めて 翻訳物しているので、知っていたと考える方が妥当。
『ラランデ暦書』の利用ではなくて、
『ラランデ暦書』に載っていた「木星の衛星蝕の表」が 刊行年度が時代遅れになっていたので、
新しく「木星の衛星蝕の表」を計算して 江戸の観測所では数回利用したらしい(成果は不明)、
伊能忠敬が「木星の衛星蝕の表」を使ったようだが 観測記録は現存していない、
観測予想時刻が予想よりズレていて 観測がうまく行えなかったとの感想は残っている、
具体的な観測成果を残さず以後は 記録に登場していないので、
「木星の衛星蝕の観測」は途中で止めたものと思われる。

306 :
>>305
ほほぅ、現地(江戸)での天文観測を利用せず
計算だけして木星衛星の蝕を利用しようとしたのか
そしたらもう完全にアウトっぽいですねww

東京
北緯 35°41′22″
東経 139°41′30″
京都
北緯 35°01′17″
東経 135°45′20″
長崎
北緯 32°44′41″
東経 129°52′25″

307 :
>>303
3辺全部 実測する 三角測量すれば 精度が出るのはとうぜんだけど、単純に 測量費用は 1.5倍、
谷や 崖がある部分などは 実測しようにも実測できない ← 3辺全部 実測
伊能忠敬の測量隊の半分ぐらいの人員が 伊能忠敬個人が雇った小者だった、
3辺全部 実測してたら 伊能忠敬は破産だな

308 :
>>282
東京⇔長崎 間でざっくり10°
とすると40分ぐらい?
思ってたよりパリと離れてますね
>>306
そうすっと方法論とパラメータと時計精度のうち
複数のどれかが誤ってて
観測精度とはあんまり関係なさそうですね

309 :
>>307
ここに複数の測量方法が載ってますが
江戸の数学 測量の方法
https://www.ndl.go.jp/math/s1/c7.html
三角測量の利点として
距離の測定が一回で済むのが特徴とありますが
何種類かの三角測量が存在するのでしょうか

おいらそういう実際的なお話好きなので
優秀な隊員にはボーナス弾んだりしたのかしらww

310 :
>>307
しかし趣味で日本地図つくっちゃうとは
かなりの道楽者っすねぇww
お金よりもむしろ残り日数の方がヤバかったのでは

311 :
>>309

いや、だから 三角測量の基本的概念は、 そこページにも載ってるように、

『山の高さの計算』 や 『木の高さの計算』とか 『河の向こう側までの距離』など etc.
実測では 測定出来ない 『距離』を 相似法や 三角関数から 計算してる訳でしょ?

三角形の三辺全部を きっちり 長さを測定すれば確実に判るのは当然だけど、
遠くの山の山頂とか 海に浮いてる 船( または海上から 2点を測量する場合など etc.)、

実際問題として、距離の実測の出来ない部分を、3角形の相似法や
直角三角形の2辺の長さや 角度から 三角関数(サイン コサイン タンジェント)を利用して、
計算によって 実測の出来ない部分を 計算によって割り出す手法な訳です。

https://i.imgur.com/aC34rl1.jpg

これの 場合だと、 地図作製で 必要になるのは 底辺の距離と 高さです、
「底辺の距離は」土の中ですから 実測はできない訳です、ですから 間縄の実測値と、目視の角度から、
三角関数の タンジェントを利用して 底辺の(地図作成で必要な距離)を求める訳です。

こういう風に海岸線(街道)を移動しながら測量しているので
https://i.imgur.com/Vod6Spn.jpg

三角測量は 導線法での測定になる訳です
https://i.imgur.com/MfhA7rM.jpg

導線法が良い悪いとかじゃなくて 当時は街道の道中を移動しながらの測定でしたので
主に 導線法の距離実測になる訳です、

312 :
>>310
本州は 測量出来たけど、北海道の測量は途中までで しか伊能忠敬は出来なくて、
北海道の測量と 地図作製は間宮林蔵が残りを引き継いで作業し 日本地図が完成しました。

ですから、前述したように
間宮林蔵が北海道の測量と ロシアの動向の探査を行っていなかったならば、
ロシアの南下政策で 北海道の一部が掠め取られていた可能性も否めません、
事実、 間宮林蔵は、樺太の探検を行っていて、
ロシアとの樺太の領有問題の争議の時に 間宮林蔵の樺太探検が大きく貢献しています、

日本地図の作製は複数の人が貢献したので完成したのだと思います。

313 :
>>311
リンク先みるのがめんどうなので
一番下の一つだけみましたが
ABCDと測定していくときに
前後の3点を観測していけば
別に同じ作業で三角測量もできなく無さそうですが
そうすると見通しの問題ですかね
特に海岸線みたいな回りこみ多くて
見通し悪くなさそうなところだと
むしろやり易そうな気がしますね

314 :
>>313
自分でリンク貼っておいて リンク先を見るのが面倒とか マナー違反だろ
とんちんかんなresしてるし
三角測量じたいを理解してないと思うわ

315 :
もしかして 画像のリンクも見れないとかか??? 2ちゃんねるブラウザ利用してないとか???
説明上の 画像も貼って書き込みしていたのに まったく画像も見られてなかったって事か…

316 :
>>313
ABCのうちABとBCを実測したら
二回の距離の実測からAC間(あと計算で求めるABとACも)を
互いに比較することができて補正も楽だけど
観測にお互いの見える3地点を選ばんとあかんから
2地点だけですます導線法の方が楽だったのかな?
まぁ、伊能忠敬さんの中の人が三角測量を知っている前提ですが
>>296
ただ交会法で同一の目標物を設定するならやってる
作業も手間も全く変わらなくなるから
導線法の利点を感じられませんね

317 :
いつも『動かない目標物』を使える訳でもなく、導線法・交会法どちらが優れてるというものでもないよ。
伊能忠敬のやってた測量だとレンズを使った測量の光学機器を用いてなかったので、
厳密な角度測定を行えてなかったので そういう意味ではあの時代なら交会法は使い難い。
実際は複数の測量法使ってた訳だし

交会法の場合『指標』がない場合は 指標を自分で立てないと交会法を使えない訳なので、
指標(のぼり)を自分で立てながら測量行ってる伊能忠敬のやり方のが実践的だな、
宿に帰ってから検算や修正やってるんだから 導線法のズレ蓄積の修正も見込み範囲だろ。

318 :
>>305
ラランデ暦書は翻訳版だったから
オランダの本初子午線に直してあったのかしら
そんでおそらく恒星時の時間は
どうやって記録されてたのかな
>>308>>305
さて、時刻がずれるとして至時さんの中の人は
どういう時間を求めて木星衛星の蝕の時間を
伊能さんに教えたのかしら
間重富さんは後から書物みてそうだけど
実際の計算はそもそも間さんの方がやってた
とかもあるのかなぁ

319 :
>>166
しかしそもそも
間重富さんの方法で測量地で観測する前に
至時さんと江戸の定点で
木星衛星の蝕を天文観測してけっこうズレてたとして、
もう一回トライする気になるもんなんでしょか
そんでもし時間誤差が5分が
現地精度で実行可能なら驚異的なんじゃないじゃろか
あ、そういえば地図は京都が本初子午線になってるそうですね

320 :
バビロニアが万象に拘ったのは
何でか

321 :
>>320
物価をいっしょに記録してみるところ
かなり凄いですよね
ビッグデータ的なアプローチなんでしょうかww

322 :
スカイツリー」は地上より10億分の4秒速く時間が流れていた
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1586323123/
超高性能原子時計で判明

323 :
ユリウス日日記でも書くかな

324 :
6月21日に金環日食 夏至の日食は372年ぶり 予報は曇り時々晴れ
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1592525065/

325 :2020/06/19
>>324
疫病
反乱
蝗害
日食

後は海が死んで
地震が起きて
戦争が起きたら役満

隕石も降ってくるかな

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