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家康が信玄のように関ヶ原の数日前に死んだら?
- 1 :2014/06/06 〜 最終レス :2019/11/03
- 秀忠に徳川をまもれるのか?
石田に徳川を潰せるのか?
真田は依然その力を擁している。
当時は、秀忠に跡継ぎの空気はあったものの、まだ、秀忠に正式な跡継ぎ権はない。
秀忠に例えば武田家でいう勝頼以上の能力があったのか?
いかかがでしょう。さて、皆さんはどう思われますか?
- 2 :
- カイヤ「モオォォォォ! ナンデ死ヌノー!!」
- 3 :
- 笠谷和比古氏の提唱する二重公儀体制が事実であれば、羽柴方が圧倒的な正当性を手に入れるんじゃね
- 4 :
- >>1
なんで真田の名前が出てくるんだよ自発的に動けることないだろ
- 5 :
- 少なくても、関が原はなかっただろうね。
あと、三成も大義名分を失うしどうなるんだろうね。
ちょっと面白いかも
- 6 :
- >>1
いや、秀忠はあの時点で正式な後継ぎだっただろ
- 7 :
- 秀忠が正式に後継者になっていたし、中仙道から秀忠軍が到着してから関ヶ原の合戦発生。
史実通りの流れで変わらないな。いや、むしろ秀頼の死が早まるか。
家康不在で秀忠だけになっていたら千姫を秀頼に嫁がすことは無いし、
秀忠は五大老ではなかったから秀頼に直接の忠誠を誓ってもいない。
下手をすると毛利軍が大坂城に籠城していたことや秀頼が家康排除を命じたことを口実に
関ヶ原合戦後すぐに大坂城攻め、豊臣家滅亡まで行くかも。
関ヶ原合戦後、
- 8 :
- 確かに、中山道隊の大将だったがで、家康も跡継ぎに決めていたかもしれない。
しかし、正式には公表していないだろ。
家康は関ヶ原後、家臣達に、跡継ぎは誰がいいか質問している。
本田は秀康を支持したが、秀忠には大久保しか支持がなかったとの逸話がある。
つまり、関ヶ原の前の時点では、跡継ぎは秀忠の雰囲気はあったかも知れないが、
家康は正式に公表していないことになる。
一次資料など必要ないが、一応、大久保留書に記してあるそうだ。
だがの反論は無用。。。
- 9 :
- >>8
秀吉の遺言で家康の後継として扱われているのにか?
- 10 :
- 家康はこれから、豊臣方と戦おうとしているのに、秀吉の遺言にこだわる必要ある?
- 11 :
- 自分でスレ立ててウリジナル発動して終了ってバカなの?
- 12 :
- >>7-9
正当性っちゅーもんを全く考えてないな。
まず秀忠が征夷大将軍にならなければ無理。
その将軍にしても、周囲の大名に秀忠が豊臣政権(当時)の筆頭であることを認めさせ、かつ相応の朝廷の位階を
有していなければ任命されない。
関ヶ原から大坂城攻めとか、頭が湧いてるとしか思えない。
- 13 :
- >>10
西軍が豊臣方だと思っている馬鹿がまだ存在したとは
- 14 :
- >>12
征夷大将軍の前に、徳川の跡継ぎがきちんと、決定していることが大事。
武田の時もそうだった。
織田の時は跡継ぎの信忠も死んだから、
信雄と信孝・三法子の関係を、秀吉・勝家・家康に利用された。
- 15 :
- >>13
関ヶ原前でも、すでに、家康は豊臣を潰そうと思っていたと思うよ。
- 16 :
- まずは、秀忠に徳川を仕切る力があったかなかったかの話。
なぜなら、秀忠は、関ヶ原までの道程での対真田戦が初陣でしょ。
その前後に、家康が仮に死んでたとして、束ねることができるのか?
まだ、武勇に秀でた、秀康の方がよくね。
秀忠は、家康が生きているか、平和な時代じゃないと・・・
外では上杉がまず、最初の関門かな〜。
この時期に家康が死んだら、伊達だって寝返るかもしれないし、
小早川ヒデアキもだよな。
- 17 :
- >>15
>13と話がかみ合ってないなw
家康が豊家を潰そうとしていたどうかじゃなく、西軍を豊臣方と思っている
事を問題視しているんでしょ。
俗に言われる西軍は、三成が勝手に動いて出来たもの。
豊家は軍資金さえも出していない。
- 18 :
- 私は秀忠が軍事的に無能だとは思っていないけど、内にも外にも信望という点では家康に及ぶはずも無いから、徳川家は秀忠派と秀康派で分かれてしまい、関ヶ原で勝ったとしても幕府は誕生しないんじゃないかな?
西軍の敗北は東軍や家康がうんぬんというより内部事情によるものが大と見ているので、紆余曲折があっても西軍の崩壊は変わらないと思う。
かといってそれが東軍の勝利に直結するかというとそれも難しい。
豊臣家の幼君、大勢力の当主の小粒化(特に毛利と前田)、徳川家の分裂を主要原因として日本は室町幕府後期の状態に戻り、近世化が数十年遅れ、結果として極東から先進国が消え、世界は未だに白人支配下の植民地がゴロゴロしている状態になっていたと想像する。
- 19 :
- >>13>>17
バカ発見www
西軍は豊臣方に決まってるだろ。
なにしろ大将が「豊臣」輝元なんだからなw
そして東軍も豊臣方。
- 20 :
- >>17
西軍を豊臣と思っているか、いないかはではない。
関ヶ原前の秀忠の跡取り権の認知どれくらい深くあったかどうかということ。
別に秀吉の遺言なんか関係ない。
例えば、家康が竹千代(家光)と国松(忠長)の時のエピソードように、
家臣たちの前で、家康が、「徳川の跡継ぎは秀忠じゃ」
と公表していれば、例え、官位がなくとも、正式な跡取りといっていいんじゃないか?
話の主旨は、このエピソードが本当にあったかなかったかではないぞ。
- 21 :
- だからそれは関係ねーっつーのに。
- 22 :
- (アカン、>>1はアホの子だ)
- 23 :
- 秀忠と三成なら三成の方が上。
- 24 :
- 家康が秀康を秀吉に対して人質に出して講和した際に
秀忠が徳川家の正式な後継者だから人質には差し出せないと言って断ったはず。
大体、関ヶ原合戦後に秀忠が正式に後継者となったという記載は大久保家の文書を基に
徳川実紀に載せてあるもので、大久保家の文書以外に根拠はなかったはずだが。
本多家が秀康を推したというのも大久保家の主張であって、本多家の文書には残ってなかったはずだが。
だから、関ヶ原合戦後にようやく秀忠が後継者になったというのは信ぴょう性が今一つないのだが、
むしろ、1584年の段階で家康の後継者に秀忠が既になっていたとみるべきだろう。
- 25 :
- わずか4歳程度で未だちゃんと大人に育つかわからん状態の秀忠を、
徳川の家康が死ぬような急変時の後継者に指名するわけねーだろアホwww
ふつうに10歳まで成長し元服する寸前の秀康が嫡男扱いを受けてるに決まってるだろ。
- 26 :
- >>25
?!
- 27 :
- >>24
>>家康が秀康を秀吉に対して人質に出して講和した
家康は秀康を人質になんか出してないし
講和自体は秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言
本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
- 28 :
- >>24
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
- 29 :
- 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
- 30 :
- >>24
実際の講和の流れは
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
- 31 :
- 講和の条件として養子に自分の子を出したり
自分と対等な同盟相手や、自分の従属者への養子で自分の子供出すってパターンは普通にあるんだが。
北条→里見の従属同盟
北条→藤田家
北条→大石家
毛利→吉川・小早川家
上杉北条同盟
織田→神戸・長野・北畠
徳川→結城
上田長尾家→古志長尾家
豊臣→小早川(秀秋)
佐竹家・伊達家→葦名家(義広・小十郎)
養子は当主がRば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
- 32 :
- 秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
- 33 :
- 当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 34 :
- 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
- 35 :
- 天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
1/24に信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けるとか情けなさ過ぎる
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい国力の差があるのに
- 36 :
- 秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
- 37 :
- 結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
- 38 :
- 結局実際に戦いになるとどれだけ兵力差があろうがあっさり敵にひっくり返される雑魚な指揮能力しか
秀吉は持ってないから、家康や信雄に秀吉はどれだけ国力差があろうが土下座するハメになって
家族や関八州260万石まで献上するハメになっただけ。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ
- 39 :
- 看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
- 40 :
- 戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
- 41 :
- 家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
- 42 :
- 秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
- 43 :
- 対真田の敗戦や、天正大地震や、天正初頭からの領内の天災の連続(家忠日記に毎年のように洪水や堤防の決壊などが起こってるのがわかり
家康の徳政免除の文書はこれに対応するためと久保田氏が書いてる)や木曽小笠原石川水野真田と立て続けに離反し続け
徳川領国は軍事機密も露見し丸はだかになった後ですら、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、
天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
- 44 :
- 佐竹も葦名家に養子を出してるね。
養子は当主がRば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
- 45 :
- >>25
アンチ秀吉のゴミ織田チョンがあんたのレスにまた発狂してるねwww
またアンチ秀吉のキチガイ織田チョンが暴れているのかよ。
ガチうぜぇ。だいたい秀吉は天正12年戦役の結果、
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らVIP首脳陣から、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
西三河の旗頭として対秀吉戦線最前線にいた本多重次が岡崎城代で、
東三河の旗頭の酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
もう三河は秀吉が人質を徴収して実質支配を開始してるのも同じwww
- 46 :
- 看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
その前後の日本国内の話は信憑性が非常に高いが、
逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
しかしこれも条件付きであり、
秀吉が九州征伐時にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を信仰を妨害する悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年の記述以降、 かなり秀吉についてねじ曲がったことを
書き連ねて罵倒していることに留意せねばならない。
(フロイス日本史はフロイスが慶長2年死去しており、ローマの総長への報告も文禄3年あたりで
終わっているらしいが現存は文禄2年までで、慶長3年に死んだ秀吉のことを最後まで記してない。
その後の慶長期の研究史料は看羊録が引き継ぐ形になっているがここで致命的な事実に気づくだろう。
それは文禄4年の秀次事件に関する第三者的客観史料がない事実である)
1587年の日本史には、 尾張に秀吉の姉妹がいるという話を耳にした秀吉が、
大坂でその人々を死刑にしている。
要するに伊勢から来た秀吉の兄弟やら、
尾張から来た秀吉の姉妹など、
秀吉の家族を称する詐欺師が大量にいたことを表してるだけ。
そりゃあ治安を守るために秀吉だって、その職務にある者に命じて罪人は処断するわ。
秀吉の家族を自称していたやつを捕まえて殺しただけなのに、
キチガイ朝鮮人は、これを取捨選択し我田引水で残虐者扱いするいつもの重度曲解ぶりを発揮。
ウソだって言ってるじゃん。 それを宣教師が勝手に本当のことを告白しなければならなかったのに、
などとトンデモ解釈を、なんら証拠を挙げずにぶっ込んできただけじゃん。
兄弟殺したのは信長 子供を殺したのは家康
- 47 :
- ヨーロッパのキリスト社会ではヘンリー8世の離婚問題などでわかるように
どうも英雄色を好むという概念がないため、その手の話が悪口として常套句だったようで、
言わば「妊婦の腹を割いた」という暴君批判の常套句と同じ性格を持つ貶しパターンだったようだ。
この話が秀吉の女好き伝説に拡大解釈されている。
実際、人質として取っただけで、性行為があったかどうか怪しい話も、
このフロイスの悪口慣用表現によって悪意の解釈がなされている。
はいはいw何でもかんでも秀吉が悪いとかアホですねw
それ実際は、吉川元春と嫡男の元長が行ったことだし。
しかも東大の家わけ文書の吉川文書の該当書状の注釈にも
吉川氏の豊前宇留津城攻略の戦功
と解説してるし。
この千人の首を刎ね、男女残らず磔の残虐な殺戮を11/7に行ったあと、
11/15に元春が急死したので祟りにあったと騒いでるし。
元長もまた半年後に急死してるし。呪われたと思うのも当然。
>>遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄
それはまた別の城で毛利がやった話だろ。
小田原奥羽征伐のために、
源姓徳川長丸が秀吉の人質として上洛してきた。
すると秀吉は長丸に初めて官位官職を与えるよう推薦し、
天正18年12/29に従四位下侍従豊臣姓羽柴秀忠にしてあげました。
奥羽から帰ってきて家康は初めて羽柴秀忠になっていたことを知ったのだ。
羽柴秀康に続いて秀忠も秀吉一門にされてしまい、家康は徳川家で極端に孤立した。
そしてのちに秀忠は千姫を秀頼に嫁がせることを強行した。
だから家康は生前のうちに秀頼を滅ぼすことを急いだ。
幕府はこの家康が人質に秀康と秀忠を出した挙句に奴隷のように従軍させられた奥羽から戻ってきたら源徳川長丸が、
豊臣羽柴秀忠に豹変していて、
家康が京洛での徳川家ですっかり孤立していた事件を屈辱に思い、
天正15年8/8に従五位下になったとか、
秀の字は聚楽第行幸ですでにもらっているなどと、
歴史捏造しまくったのであった。
よほど屈辱だったのだろう。
- 48 :
- 家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
- 49 :
- フロイスは日本でキリスト教を広めたかったために日本の情報操作において最も広範な影響力を持つ秀吉の顔色を伺いまくり
元々秀吉のハッタリ誇大喧伝によって捏造された情報ばかりを事実かのように記すなど秀吉マンセーしまくってたが、
秀吉が禁教の構えを見せだすと、日本で秀吉の影響によって、キリスト教が禁止される事を恐れて
それまで全く書かなかった秀吉の本来の闇の部分をちゃんと事実として書くようになった。
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
- 50 :
- 看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
フロイスの日本史によれば秀吉は種なしで、秀頼を秀吉の本当の子供だとは誰も信じなかったと書いてる。
秀吉は種なしだから、側室取りまくってたが、子供ができなかっただけ。
フロイスの日本史の20章に、柴田の息子の妻や家康の息子の妻や信忠の妻や信雄の娘を己のものとしたと書いてたり
主だった貴人の大勢の娘達を養女として召し上げ12になると情婦としたと書いてたり
器量がよいという評判の娘で、連行されなかった者は1人もいなかったと書いてる
秀吉は種なしで、側室を増やしまくっても子供が全くできずに焦ってたから
他家から養子を貰いまくって、後継者候補を増やす事で安心してた。
それをする事で、他家と自家の繋がりが密接になり、一体化する事ができるメリットもある、
それで、徳川家と豊臣家との一体化を測った結果、秀頼と千姫との婚姻を取り決め、
徳川が豊臣後継者という大義名分を血縁上でも得る事となり、家康はそのまま豊臣家を後継する事ができた。
フロイスは京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって
秀吉をマンセーしまくってるよ。
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
を見ればわかるが、そのまま秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど
秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
宇留津城の悲劇
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
- 51 :
- フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
- 52 :
- >>46
秀吉に都合いいフロイスの情報は一次資料と矛盾しまくるデッチあげでも正しく
秀吉に都合悪い情報はフロイスが捏造したとか都合よく歪曲してんじゃねぇよボォケwwww
- 53 :
- フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
- 54 :
- フロイスの日本史は基本秀吉マンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉は普通に事跡を羅列してもこれだけドラマ像とはかけ離れた事やってるんだが。
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
- 55 :
- 日本は何回もたいした理由もなく何の罪もない朝鮮人の住む半島に侵略して
何の罪もない朝鮮人相手に虐殺や売春を繰り返してたし
日本人が朝鮮人に恨まれてるのも、日本人の過去のやったアホな侵略と虐殺など非道行為のせいである。
秀吉みたいなゴミがいなければ朝鮮人拉致被害者はさっさと帰ってきてるし
朝鮮半島からうらまれたり
韓国への日本への挑発も起きていない。
全部たいした理由もなく半島に侵略したり何の罪もない半島人を虐殺しまくった秀吉のせい。
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
- 56 :
- 秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった
同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してる
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくる
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
- 57 :
- 本能寺の変は状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
- 58 :
- 何か妙にスレが伸びていると思ったら
いつものごとくスレ違いの話題を延々と書き込む奴が湧いていたのか
- 59 :
- >>17
家康が豊臣家を潰そうと考えていたなら、西軍を豊臣と考えていようが、いまいが、
まず、西軍を倒さないといけないだろ。
ただ、このスレでは、関ヶ原の前に家康が死んだらとなっているので、
その関ヶ原が起こるか、起こらないかは、わからないけどな。
- 60 :
- 関ヶ原の前に家康が死んだ場合はそう簡単に徳川の天下ではなくなるだろうな。
利家死んだら前田派だった奴らがこぞって家康になびいたように
それまで徳川になびいてた奴らが距離を置く。
家康があれだけ好き勝手できたのも家康自身に求心力があったからだしね。
まだ若く実績のない秀忠にはそう簡単にはついていかない。
あれやこれやと徳川の領地の分断に奉行連中が動いたと思うよ。
秀康や忠吉を独立させたり、大友の配下だった立花をそうしたように本田や井伊、榊原を独立させたり。
拒否ったらこれ幸いと改易の口実にできるから容易には拒否れないし。
- 61 :
- 豊臣政権って丹羽や蒲生がそうだったように大大名でも代が変われば一気に領地削られたからなあ
家康死んだら関八州は家康に対して与えたものであって秀忠が全部相続はまかりならんとか
いちゃもんつけようと思えばいくらでもつけられる。ましてや同年代の兄弟が他にいるからねえ。
- 62 :
- 豊臣が徳川の分断を狙っ秀康を跡取りに押してくる可能性もなきにしもあらず。
- 63 :
- 流石に中納言の秀忠と少将の秀康では格に差があるからそういうことはできなかったと思う。
ただ結構な土地を秀康の方に割譲させられたと思う。
- 64 :
- つーか秀忠って幼名を竹千代に改名させられた時点で嫡男指名されてるよね
- 65 :
- 石田側は、それでも徳川を倒そうとするか?
それとも、条件突き付けて、飲むなら許すか?
- 66 :
- 秀忠がなんか動きを見せない限り倒す名分がないから倒すのは無理だろう
- 67 :
- また戦国になるね
- 68 :
- そこまではどうかな
秀頼が関白になるか、もしくは「豊臣」の氏をもらった人の中から次の関白が出てくれば相応に丸く収まると思う
俺としては、江戸幕府ほど強固ではないが、室町幕府とは明確に差がある程度の強さの政権になると思う
- 69 :
- >>59
やっぱり噛み合っていないねw
まあこのスレ的には特に関係ないか。。
>>68
鎌倉幕府に近い事になっていたかもね。
親族が少なすぎる。
- 70 :
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- 71 :
- 取りあえずスレ主の考えを憶測すると
家康は上杉征伐に出陣してその隙をついて石田三成が家康を弾劾
毛利輝元や宇喜多秀家がそれに賛同していわゆる西軍を結成
家康は小山評定で諸将の意志を再確認していわゆる東軍を結成する。
そして、岐阜城陥落までは史実通りで大垣城等で東西両軍が睨み合っている段階で家康急死という
前提での話と言うことでいいのだろうか。
それとも時期が違うのだろうか。
いや、何か話がかみ合っていないと思うので、時期と言うか状況設定を再確認したいと思う。
- 72 :
- だよね。関ヶ原の主力決戦の直前なのか、関ヶ原戦役そのものの直前なのか。
そこをハッキリさせんと。
- 73 :
- >>71
家康の死が例えば小山評定の前と後では違うかもな。
一応、信玄の様にと書いたので、家康が東海道を西に向かって行く途中
かな。
確かに、家康の死のタイミングによって結果もちがうだろうから、
別の時期を仮定して、前置きをしてから、書いてもいいよ。
- 74 :
- >>69
10,15は、家康は関ヶ原前に、既に豊臣を潰そうと考えていたかもしれないとあるが、
西軍が豊臣だとは、書いてない。
それを13が10に対して西軍が豊臣と考えてるのは馬鹿だと書いてある。
かみ合ってないのは、13。
17は、石田が勝手に動いたとも書いてあるので13の意見に対してフォローした方がいい。
- 75 :
- >>74
ん〜、やっぱり噛み合ってないみたいだねw
それはそうと、小山評定直後の死去と、関が原決戦前夜での死去だったら、ど
う違っていただろう。
- 76 :
- もう>>71の条件でいいや
以降それで頼むよ
- 77 :
- >>71の条件だったら福島たちが自力で石田以下倒して終了やったやろうな。
家康が焦ったのもあんまりにもあいつらが勝ちすぎてこのままじゃ徳川関係なく終戦しちまいそうな気配だったからだし。
その場合、武断派連中がかなり戦後に幅利かす。
徳川一極じゃなく有力大名の連合政権的なもので落ち着きそう。
その後にまた火種がくすぶりそうだが。
- 78 :
- 福島や黒田や藤堂などの武功派諸侯は
単体ではかなりの戦歴がありながらもろくな戦闘経験もない寡兵の石田隊や大谷隊などに苦戦してて
小早川離反前まではろくに戦果を上げられなかったから無理。
はっきりいって家康が小早川を篭絡してくれたおかげで首の皮がつながっただけだし。
- 79 :
- ほんとに苦戦してたのかあれ?
結果からみたら20万からの軍勢がぶつかったのに、僅か数時間で決着ついとるで。
- 80 :
- 陣形を見れば完全に包囲されていたから小早川吉川の内通がなければ東軍は負けていたよ
- 81 :
- 順番に状況を整理していくが、関ヶ原合戦の段階でいうと
小早川は明らかに東軍寄りの姿勢を示しており、小早川軍が松尾山に布陣したという大谷吉継からの急報を聞いて
大垣城に籠城していた石田三成等は慌てて大垣城を脱出して関ヶ原に再布陣した。
そこに家康率いる東軍が攻めかかっていった、というのが実相。
だから、関ヶ原合戦時点で西軍は必敗の状況でせめて一太刀浴びせられればという惨状になっていた。
大谷吉継らが関ヶ原に野戦陣地を予め築城していてそこに石田や宇喜多等が籠れたので
東軍は多少苦戦したが、小早川軍が松尾山を降りた時点で勝敗は決していた。
- 82 :
- (長くなったので分けました)
71の状況で考えると、家康が急死したら、それはとても隠せない。
幾ら徳川軍首脳陣が隠そうとしても、家康からの直筆の書状が発布されないこと等からすぐに噂が流れだし
実際に家康が死んでいる以上、噂を打ち消すこともできずにすぐに広まってしまう。
あの信玄の死ですら,1月も経たない内に畿内では公知の事実と化しており、義昭の挙兵も今さら引き返せずに暴発したものだった。
家康の死も同様に広まるだろう。
それで、東西両軍が手打ちができるかだが、私としては悲観せざるを得ない。
伏見城攻防戦で鳥居元忠等が討ち死にしているし、細川ガラシャの自害等もある。
東軍としては石田三成の首を挙げるまで戦は止められないとして中仙道の秀忠軍の到着を待って
西軍に決戦を挑むだろう。
家康が亡くなっているとはいえ、本多忠勝や井伊直政といった徳川諸将は健在だし、
福島正則や細川忠興等の戦意も高く、史実通りの働きをするだろう。
多少史実よりも苦戦するとはいえ、ほぼ史実通りの結末を迎えるのではないか。
- 83 :
- >>80
私も>>81と同じ見方をしてるんだけど、そこんとこどうかな?
それに西軍主力って深夜雨のなかを行軍して関ヶ原に布陣したんだよね。
体力が持つとは思えないな。
- 84 :
- >>79
数が多いから必ずしも時間がかかるというわけではない
お互い数が多く、ぶつかり合う面積が広いから、数が多いだけ減るのも早い
- 85 :
- >>80
内通なかったらそもそもああいう陣形にならなかった可能性の方が高い
- 86 :
- 寝返りがない場合、西軍は似たような陣形になるだろうが、東軍はどう陣取るだろうな
- 87 :
- どうだろうね。小早川なんか裏切る気まんまんだったから松尾山にいったんだろうし。
追い出された伊藤さん可哀そうです。
- 88 :
- 関ヶ原合戦の際にも京極隊と連携してわずか1000そこそこの大谷隊を攻めたら大苦戦し
小早川が離反後も何度も押し返されて朽木・脇坂らが大谷隊に攻めかかるまで
ろくな戦果あげられなかったのが藤堂。
大谷隊はわずか1000そこそこで藤堂・京極・小早川なら18000程度いくはずだから
藤堂は大谷の20分の1程度の指揮能力しか持ってない。
- 89 :
- 平野部の会戦で朝早くから昼間での直接戦闘で2倍程度以上もの兵力で大谷や石田にハナクソほどの被害も与えられなかったのが藤堂・京極・黒田・細川じゃん。
石田なんて戦闘専門外のただの奉行なのに
武功派のクセにろくな戦果もあげられないとかアホすぎる。
- 90 :
- 石田や大谷は武功派よりも遥かに戦闘センスがあるからな。
彼らが毛利ほどの大軍抱えてたら
当初の三成の戦略どおり、真っ先に三河や遠州に先手を討って侵攻して
速攻で東海道口制覇して、家康を窮地に陥らせてる。
馬鹿な輝元が総大将だったから、伊勢湾や伊勢や四国やらあさっての方向に兵進めたり
大坂に居座ったまま、延々と政務を怠けたりして、一気に敗北した。
- 91 :
- まーた三成厨の菅沼が来てるのか
- 92 :
- 長期戦になると自領の東海道筋からいくらでも兵隊ひねりだせる東軍の方が
西国からなけなしの兵隊つれてきてる西軍よりも有利だからなあ。
西国大名は朝鮮でどいつもこいつもすかんびんになってるし。
そうならんために速攻で濃尾押さえたかったのに美濃を速攻攻略されたから
もう西軍はあっぷあっぷ。
- 93 :
- 長期戦になれば兵站能力に優れた西軍が有利
石田・大谷・長束・小西ら朝鮮出兵でキツイ兵站管理を担当した連中が皆こぞって西軍にいるし
毛利30000も大坂にいる。
伊勢方面や越前方面にも別働隊がいて、輝元さえ目をさませば東軍に勝ち目はない。
- 94 :
- 戦線が長引けば長引くほど毛利は自分の本領空巣されるの怖くて引きそうな気がするけどね。
- 95 :
- それは徳川も同じ
- 96 :
- 家康が江戸から関ヶ原に向かう途中で急死したという前提で語るけど。
史実の関ヶ原合戦から数日を経ずして東西両軍の兵力はともに増大する予定だった。
東軍は秀忠率いる中仙道軍が
西軍は大津城攻めや田辺城攻めを行っていた軍勢が美濃、近江に集結してくる。
家康がいない以上、秀忠を総大将として東軍は決戦を意図し、
西軍も毛利元康等が到着した以上、決戦を意図するだろう。
なお、長期戦は兵站面では東軍が、結束面では西軍が
共に不安を抱え込んでいるので望まないだろう。
そして、東西両軍の決戦がどうなるかだが、秀忠が初陣とはいえ榊原康政や本多忠勝本隊
(本多忠勝子飼いの将兵の多くは本多忠勝の息子、忠政に従って中仙道軍に属しており、そのため忠勝は関ヶ原で活躍できなかった)
が東軍に到着しているのに対し、西軍は立花宗茂以外に増援の武将に良将はいないし、
毛利元康も吉川広家の説得に従うので、大津城攻めの将兵は東軍に好意的中立を保つだろう。
どうみても西軍の勝算は史実の関ヶ原並みに低そうだ。
- 97 :
- >>95
佐竹は家中割れてるし上杉は伊達・最上の相手だけで手いっぱいだから
そうそう空巣される危険性ないよ。保険に秀康も置いてるし。
- 98 :
- >>94
毛利の領国周辺て味方だらけで敵はカスみたいな小さな勢力だけじゃん。
むしろ毛利が他の地域を空き巣できる立場だろ。
でも毛利は実際には四国の空き巣狙いすら失敗してたけど。
- 99 :
- >>74
75は10、15に、西軍は豊臣と書いてもらいたかったんだよ。
そして、75は、西軍は豊臣ではないと反論したかったんだよ。
しかし、10、15はそう書かないから、
かみ合わないとか言ってるわけ。
- 100 :
- どのみちどっちも豊臣だから、もういいよその件は
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