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織田勝長総合スレ


1 :2006/07/01 〜 最終レス :2020/01/18
このところ、日本史板、戦国板などで何かと話題に上る勝長。
その不自然な厚遇ぶりの理由はどこに?
犬山城主、信忠与力。
義兄である、信雄や信孝よりも明らかに上の扱い。
安土城で、栄華の中での元服とはいえ、兄達のそれとはあまりにも違う華やかさ。
どうしても判明しない生母を考えると、そこまで厚遇する理由が分からない。
そして、武田家での人質時代には、勝頼の秘蔵っ子と言われた逸話まであり。
本能寺の変の時に二条城で亡くなった、この謎の武将について語りましょう。

2 :
話題に上った事見た事無い

3 :
天皇家の落胤とかだったのかな

4 :
慶大の故某教授が残した歴史メモを元に作られた歴史カレンダーには
(いろんなHPや携帯コンテンツの今日は何があった日かもこれが
元になっているものが多い)
本能寺の変の所で、長男信忠「次男」勝長も二条城で自害と
書いてあるらしい。このメモはこの教授が個人的に集めていたもの
らしく、何の根拠があって次男なのかまでは不明。

5 :
次男なのは、おそらく「織田姓」を名乗らせた息子としての次男なんじゃないか?
他は、養子に出しちゃって別の姓を名乗ってるから(信雄、信孝は信長死後織田姓に戻ってるが)
あと、一つの仮説としてだが、近江國輿地志に「御台出産」の記述があるから、
この御台が生んだ子供が年齢的に見て、勝長なんじゃないかという話が、
濃姫関連の話題の出たところで何度か出ている話だ。
もし、そうだとしたら、信忠は濃姫の養子で濃姫が手元で育てたらしいから
そういう意味での次男なのかも知れない。

6 :
勝長って信玄が養子にしていたらしいな。それで人質と言っても
実際は一門並みの扱いで大事されていたらしい。
さらに勝頼も養子にして同じように大事にされたという話も。
もしこれらが本当なら、武田父子がなぜ信長の息子を2代に渡って
養子にするほど厚遇したのかも疑問だ罠。

7 :
美童ゆえの厚遇・・・
信玄父子の寵愛・・・

串刺し親子丼か

8 :
勝長に美童なんて記述あったか?

9 :
それは普通の事。
今川の家康、織田の氏郷などと同じで。
もし織田の家督を継ぐような状況になった場合、
労せず優秀で信用できる、譜代家が出来上がる事になる。
人質で送られた子は、人質先の家と婚姻関係結んだり、英才教育受けたり、一門同様の扱いを受ける。

10 :
織田家と敵対してる勝頼の代になっても
対北条の将に抜擢されてなかったか?

11 :
>>7
まぁ北条のところの三郎(のちの景虎)も美童ゆえに、
養子件人質といえどかなり大事にされていたらしいし。
三郎が信玄から与えられた名だとしたら、
勝頼も序列は上の扱いになるし。

12 :
苗字が織田だったのか津田だったのか分からないし、
実名は勝長といわれているが書状で残っているのは信房だし、
若くして討死した割には子孫があちこちにいるし、
本当に謎が多いな。

13 :
おそらく勝長っていうのは、武田に人質に出てた時代に与えられた名前だと思う。
信長が与えたのは信房だろう。
あと源三郎の名前も与えたのかな。
三郎は織田家の嫡男の名前なんだったよね。
確か父親の信秀も別名が三郎だし、信長もそうだね。
そういや、信忠に三郎の名前は与えたなかったんだっけ?
「源」って字がくっついている事を考えると、嫡男信忠だけど、ある意味嫡男と
同等ってことを言いたかったのかな?
織田で津田っていうのは別におかしくはないし。
津田は織田一族の出自に関わる特別な姓だから。
織田信澄も津田信澄って別姓で表記される事もある。
そういや、信澄の幼名も「坊」だな。

14 :
>>2
俺、三戦板にスレ立てたことあるけど
荒らされて300レスくらいで沈没した。

15 :
そういえば、信長公記で「勝長」で出てくるのは、対面の時までだな。
その後の元服以降だと、織田源三郎か、津田源三郎で出てくる。
あ、御坊殿っていうのもあるか。
とりあえず、織田家中では、織田家での元服後は勝長じゃなく、源三郎ってことになってたんだろう。
そうすると、坊丸は武田と、織田と、両方で元服したのかな?
それとも、織田では元服じゃなく、単に名前を与えて犬山城主にしたってだけか?

16 :
> 1581(年)
> 11(月) 信長の子で人質であった御坊丸(織田勝長)を、信長のもとに送り返し和睦をはかるが、一蹴される。
ttp://www.interq.or.jp/pure/miyatate/chronological-record.htm

17 :
>15
『信長公記』の文中には実名は出てこないぞ。
『信長公記』の記述を信じれば、織田家に戻されたとき「犬山のお坊」と書かれているから、
元服したのは織田家に戻ってからだろう。

18 :
>>17
おぉ、失礼。
そういわれればそうだ。
さっき信長公記の現本現代訳読んでたら小見出しに勝長ってあったからついつい勘違いしちゃったよ

19 :
しかし、御坊殿という記述自体は、源三郎の記述が出てきた以降も使われている箇所があるから
それを持ってして元服が対面以降とはいえない気がするんだが。

20 :
史板での見解
津田(織田)源三郎勝長の別名は織田信房
織田に戻ってきて元服した時にもらった名前らしいのだが
この房という字は総にもなるそうだ(by広辞苑)
そして女房という言葉でもわかるとおり、常に傍らにいる人とか
置く人という意味を持ち、總とも書く。
こじつけだが、房(総)を上総介の総、源三郎の三郎を三郎信長の
三郎に当てはまるという解釈もできなくはないかなと。
そうなると、信長が生存時に元服した息子達の中で彼だけは
父親の名前を二つも貰ったことになるから、信長公記中にある
返還時の信長の彼に対する厚遇ぶりやかわいがりぶりを加味して
考えると、人質生活への労いもあるだろうが、子煩悩とはいえ
信長にしては少し異常さも感じるね。
(特に織田の膝元でもある尾張犬山に城を即与えたこと)
牛一も嫡男信忠でさえ、さしてあまり書いていないのに勝長の部分は
詳細に書き残しているのも引っかかるなと。書いた当時は高齢だったはず
なのだが、詳細に覚えているということはそれだけ安土での親子対面や
信長の行動が印象深かったのだろうとも考えられる。
そこまで信長が喜び、また厚遇し、戻ってきたばかりにも関わらず
尾張に城を与えることや信忠の与力に付けることを重臣達も意見した
節がないということは、少なからず信雄以上信忠以下もしくは信忠と同等の
立場だったのだろうから、母親も最低限お鍋以上の権限を持っていたような
女性、すなわち御台ということになるだろう?

21 :
でも、それだったら、そんなに大切な息子を
なんで、あんな最前線の城に置いていたのかわからんな。
調略が絡んでいたとはいえ・・・

22 :
岩村城は、一応、美濃だからじゃないかな?
東濃は、武田の影響力も大きいけど、斉藤家の影響力も大きいからな。
ただ、信長は坊丸を岩村城に養子にやる事に関して、最初は絶対拒否って姿勢だったらしい。
でも、叔母の願いでもあるし、信忠との兼ね合いもあって、離しておきたかったのかも知れない。
信長自身が、跡目争いで苦労しているからね。
そのかわり、武田に人質として渡された時の信長の激怒は、尋常ではなかったという逸話がある。
実際、叔母でさえ磔にされているくらいだしな。
あと、これは個人的な推測だけど、御台出産の記事は上洛戦の最中に成菩提院で、
予想外にあった事らしいので、あまり多くの家臣には知られていなかったのかも知れない。
御台はそれほど人前に出てきていなかっただろうし、打ち掛け着るタイプの小袖なら
少々お腹が大きくても誤摩化せたのかも知れない。
何らかの理由があって、無事に出産するまではあまりおおっぴらにしたくなくて、
上洛時に一緒に連れて行って京都で極秘に出産の予定だったのかも。
実際、出産後しばらくは床上げも出来ない筈だから、出産したのが本当なら
御台はしばらく京にとどまっていた筈だ。
そう考えると、明けて2月に、京で御台の寝所に誰も寄せ付けるなと命令した理由も
その辺りにあると思えなくはない気がする。
実際に、身二つになっていれば、乳母がついているから御台が授乳する事はない訳で、
信長が「御台に子供が生まれた」と言わなければ周囲にはよくわからない訳だから。
そして、その頃信忠は既に12〜13歳で、嫡男として内外に広まっている訳だから、
無用な争いは避けたかったのかなとも思う。
推測だけどね。

23 :
確かにわからん。そのくせご坊が武田へ連れて行かれた時は
顔色を変える程に激高したって逸話もある。
勝手といえば勝手。
それとも、信玄に対して大事な息子を危険覚悟でもそこに
置くぐらいにお前をまだ信用してんだからなという
意味合いがあったとか?・・・ってまさかそんな訳はないよな。

24 :
まさか叔母が裏切るとは思わなかったんじゃないかな?
あと、落城するならするで、密かに脱出させるくらいはするだろうと踏んでいたか。
結局叔母は逆さ磔だし、岩村城開城の為に武田方と交渉した織田掃部もよくわからない理由で
殺されちゃってるし、相当怒っていたのは間違いないと思うけどね。

25 :
信長が叔母を最初から信用してなくて岩村→武田に行くことになることを
全て予想した謀略だった・・・・とか?
勝長こそ武田に対する最大のスパイだった・・・って小説読みすぎですね。

26 :
坊丸その頃6歳くらいだよ。
そんな、いくら何でも無理すぎではないだろうか?

27 :
年齢以前に岩村城の立地の重要性からいって、そんな予想はあり得ないだろ。
釣りで与えられるほど、安易な価値じゃないよ、あの城。

28 :
勢州軍記にはさ、濃姫には「男子」が生まれなかったってなってるよね?
だったら、「女子」は生まれたのかな?
だとしたら、近江國輿地志の出産記事は「女子誕生」と考えられなくないかな?
出産記事は永禄11年の頃の記事みたいだし、それに当てはまる信長の娘は見当たらないけど……。
だが、勝長の生母が濃姫であると考える方が、勝長の厚遇の説明にはなるか。

29 :
身内、しかも女が城を抱えて逆心したなら怒りも爆発するだろう。
(織田の血を受けた女が敵将と情を通じて、という複雑な部分もあろう)
勝長が織田に帰還して厚遇されたのは、
人的に優れた部分が認められたのということも憶測されるがな。
ソースは無いけどね。


30 :
あと、疑問なんだけど、永禄11年って、信長の濃姫が結婚してから19年後だよね?
それまで子供出来てなかったのに、夫婦関係があったのかな?
信長が後家を側室にしているのって、子供を産んだ実績のある女性だからっていう
説があるでしょ?
戦国大名なんて、子供いっぱい作らなくちゃいけないし。
生駒の方を愛妾にしたのも、生駒の方が後家で出産経験があるからだよね?
(信忠以前に生駒の方には男子が生まれてるって聞いたけど、この辺よく知らないから
間違ってたら訂正よろしく)
で、信長の子供かどうかはっきり分からなくて庶子扱いの原田直政の妹の子供が
天文23年に生まれてるよね。
生駒の方が愛妾になったのは弘治2年くらいって言われてるでしょ?
武功夜話の記述だから信用は出来ないかも知れないけど、3人年子で生んでるってことは
生駒の方は孕みやすい体質だったとすると、愛妾になって意外とすぐに孕んだと考えられるし、
弘治2年って言うのはあながち間違ってない気もするんだよね。
坂氏の娘も弘治4年に信孝生んでるし、その辺りで愛妾や側室を持ったって推測が出来るよね。
そうすると、どっちにしても、本格的に子づくり始めるの遅くない?
普通、嫁して3年とかいうけど、それよりはゆっくり目だよね。
原田直政の妹は、信長の子かどうか分からないとか言ってるくらいだから、ご愛妾じゃ
なかったのかも知れないよね(いわゆるつまみ食い?お互いに)。
勝長なんかは、その時代の武将としては、別に珍しくない程度の若年で子供作ってるけど
信長はなんで若いうちに子供あまり作ってないんだろ?
(そういえば、信忠も、あまり若いうちに子供作ってないなぁ)
濃姫との間に出来た子供って、永禄11年が最初なのかな?
意外と、若いうちは何度か流産して、熟年になってから無事に出産する女性もいるし、
そういうのが何度かあって、子づくりが遅れたとかなのかな?
いくらなんでも、全然子供出来なかったら、閨房の事って意味の夫婦関係なくなりそうじゃない?

31 :
信長には、埴原乙殿という庶子がいたという記録が一応あります(信憑性は?だが)

32 :
>>29
人的に優れていても、武田から戻ってきたばかりの人間に
膝元で織田の本拠地でもある尾張に、普通、城まで与えるかな?

33 :
>19
『信長公記』天正十年四月二十一日の記述のことかな?
『信長記』では戻ってきてから元服とはっきり書いてあるね。

34 :
>>33
そうだね、「信長公記」だと、天正10年4月21日の
垂井で御坊殿が信長が安土へ帰る為に休む館を建てておいた話のところだね。
天正10年3月7日には織田源三郎の記述がある。
「信長記」は「甫庵信長記」のことかな?
こっちは創作が多くて歴史資料としては、ちょっと不確実なので、他の一次資料と
比較して、他にも書かれているものであれば、「信長公記」に書かれてなくても
信用してもいいけど、「甫庵信長記」にしか書かれてない事だと、それだけで
事実として扱うのは、ちょっと難しいね。

35 :
>34
『信長公記』天正十年四月二十一日の御坊殿は前後の文章から考えて
別人じゃないかとも思えるけど。
あれは誰か分からないけど垂井の領主を指しているんじゃなかろうかと。

36 :
>>35
そうなのかな?
でも、家康が至る所に館を用意している事を考えると、
あそこに勝長が建てていてもおかしくはないんじゃないかな?
まぁ、あそこの訳は、大体殿注釈本見ても勝長になってるって言うのもあるんだけどね。
ちょっと他の一次資料で、あそこの箇所がより具体的に分かるものがあればいいなぁと思うよ。
館といっても、休憩所みたいなものを簡単に建ててって感じだろうからね。
だからこそ、家康がそういう館でさえ、美しく装飾を施しているのが特筆ものなのでしょう。
「信長公記」読んでると、太田牛一が「ここがポイントだぞ」って思って力を入れて
書いてるところが意外と話題ごとにある気がするんだけど、
そう考えると、やっぱり勝長の対面のシーンは、力を入れて書きたかった事なのかなと思う。
永禄7年には太田牛一は信長から賞されてるし、元亀の時点には馬廻り衆であった訳だから、
信長に近しいところにいた訳で、意外といろんな事を知ってたのかなぁという気がする。
勝長の事も、秀吉が作らせた総見院殿追善記には、書かれるべき箇所に勝長の事が書かれていなくて、
まるでそんな人間いなかったかのように扱われてることからも、秀吉の時代に書いた
「信長公記」に、敢えて書きたかったのかなぁと思わなくはない。

37 :
>>31
乙殿は信正以上に資料が乏しくて、庶子としても信正みたいに身内の娘を妻にしてる訳でもない。
本当に謎だよね。
伝承としては、信貞と被るんで、創作かもという気もしているんだが。

38 :
>>16
ワラタ。女々しい勝頼だな。
織田との決戦の覚悟を固め送還とかの方がカコイイ。
仮に和睦が成った場合、
武田の当主は勝長or信勝どっちになるんだろう?

39 :
>>38
和睦を謀ったというのは推論だけどね。
人質を送り返すのは一般論として「断交」戦闘宣言なわけで。
>武田の当主は勝長or信勝どっちになるんだろう?
信勝だろ。養女とはいえ、正規の婚姻で生まれた子(信長の孫)だから。
御坊丸(勝長)は遠山氏(配下)への養子。

40 :
>>30
何の参考にもならないけど。
源義朝の9人の子のうち、頼朝と希義以外はみんな遊女の子。

41 :
>>28
実は男女の双子だったりしてと妄想。
この時代は、双子、特に男女の組み合わせは前世で心中した
二人の生まれ変わりとして特に忌み嫌われていたから、引き離して
別々に育てるのが慣例だったともいうし。
妄想ついでにこんな感じ
・若→勝長
・姫→氏直許婚(氏直の年齢で見ると合う)慈眼院。

42 :
このスレで「オムロン」と書き込みするとおみくじができます
http://ex13.2ch.sc/test/read.cgi/mlb/1149732685/

43 :
>>41の妄想に便乗
天海=光秀ないし明智一族の誰か説を合わせると
慈眼院(天海=明智)−お濃(生母明智氏)−慈眼院(氏直許婚・生母お濃)
みたくお濃を挟んで明智でつながる。こじつけだけど。
そして氏直許婚は勝長と同じように生母が全く不明で埃すら出ない。
許婚で終わったとはいっても政略結婚が決まっていたにも関わらずね。
仮に本当に双子だったとしたら、生母は畜生腹と罵られたらしいから
お濃の面子を立てる意味でも記録を残さなかった可能性もあるんでは?
そして、引き離して育てる習慣から勝長はお家騒動にならないためや、
岩村を手放さないためにも斎藤家と縁もあるし叔母はうるさいしで
断腸の思いで岩村へ置いて、せめて姫だけはとお濃が手元で育てた可能性も
あるのでは?一説にこの許婚は信忠の室ともあるけど、その他の史料などでは
松姫や塩川女以外に室や側室扱いの女性の存在は皆無だから、理由あって安土には
行かず、そのまま岐阜城で暮らしていたのを信忠の室と間違われたのかも
しれない。そしてお濃も娘がいるからと岐阜と安土を往復するような生活で
あまり安土にいついてなかった関係から記録もあまりないのではないかなと。
勝長の話ではないのに長文になってスマソ

44 :
三笠宮様(昭和天皇陛下の末弟)も双子だったんだよね。
天皇皇后両陛下のお子様でも、畜生腹があるのか……と言った家族の言葉が残ってるらしいし
双子の妹宮の方は尼僧として育ったそうだね。
そんな、近代に入ってまでそんな事があったくらいだからなぁ。
でも、同じ慈眼院って言っても、天海の慈眼院と、慈眼院華渓宗春大姉の慈眼院は別なんだよな。
それに、慈眼院って法名自体は、随分昔から結構あったんだよね。

45 :
訂正
×家族
○華族

46 :
素朴ではあるが、実はもって当然の疑問。
勝長が濃姫の子・・・ということがあったとして、
何で家譜やメジャーな史書に明確に記されてないのか?
その事実を隠蔽したい勢力や、都合の悪いこととして
隠蔽されてたとかの(2ちゃんで良く聞くレスw)説明になるわけ?

47 :
>>46
それはその通り
生母がまったく分からないのに、勝長の厚遇が不思議であるという事実や
御台出産の記事が最近になって発見された事実から推測しているだけ。
織田家は信秀以前から、奥向きの事は記録に残さない習わしがあったというのは
織田家の子孫から出てきている話なので、仕方がないかと思ったりもする。
あれだけ有名な信長の側室でさえ、秀吉に関わる生駒(秀吉が生駒に出入りしていたらしい)や
お鍋(北政所の侍女)、慈徳院(娘が秀吉の側室)などの極一部が判明しているだけだから。
信長の生母の土田御前も、諸説あって、実際判然としないみたいだしね(もちろん有力な説はある)。

48 :
信忠を後継として、完璧に仕立てていたところに、
御台の男児ってことで、跡目争いを恐れたのかもな
もちろん推測だが

49 :
それに、坂氏の娘として判明している筈の信孝の生母にしろ、
どこの坂氏なのかまでは分かっていなかったりもする。
信正が庶長子だって、近年まで判明していなかったくらいだしね。
信貞の生母が分かっているのは、やはり家康と関わりがあったからだろうし。
けっきょく、後の権力者と近しいから分かっているというのは大きいね。

50 :
ここで小野お通が信長と濃姫の娘と言ってみる。
慈眼院も怪しいけど、信長・秀吉・家康から大事にされていたにも関わらず
実は素性不明、下手すると実在も怪しいらしいお通も謎の人物。
どっかのスレでも濃姫とお通の関わり云々って話題が出てたっけ。
信長・秀吉・家康との関わりを考えると、濃姫の娘でもおかしくないと思う。
ただ勝長と双子ってのはちょっと無理っぽいかもしれん。

51 :
>49
>それに、坂氏の娘として判明している筈の信孝の生母にしろ、
>どこの坂氏なのかまでは分かっていなかったりもする。
伊勢鹿伏兎氏の分家らしい。<坂氏
>信正が庶長子だって、近年まで判明していなかったくらいだしね。
百年以上前から分かっているんだから近年とまではいかない気が…。

52 :
>50
>ここで小野お通が信長と濃姫の娘と言ってみる。
>慈眼院も怪しいけど、信長・秀吉・家康から大事にされていたにも関わらず
>実は素性不明、下手すると実在も怪しいらしいお通も謎の人物。
近年の研究でだいぶ素性が分かっているからなぁ。
父親とか誰に嫁いだかも今は明らかだし。

53 :
於通は諸説があるが美濃の小野正秀女と言われている。
そして享年がはっきりしていて、永眠1616年で58歳。
逆算すると永禄元年(1558年)生まれで信忠とは2歳差と
なるから、成菩提院での平産記述年代とは全く合わない。
自分は双子推測は案外なんじゃね?と思う。
畜生腹と陰口を叩かれる多胎児の生母
忌み嫌われるが故に引き離して育てるため、当の本人達にも
事実を伏せたとも言われる多胎児
忙しい時期でもあったがなぜか勝長以降しばらくは信長に
子供は生まれていない。
そして昔からの強く信じられていることは、例え国家権力であっても
そうそうにやめさすことは難しいともいわれる。
これらを考えると多胎であっても不思議ではないと思うよ。

54 :
>>53>そして昔からの強く信じられていることは、例え国家権力であっても
そうそうにやめさすことは難しいともいわれる。
日本語でplz

55 :
成菩提院の平産記録を読んでると、その周辺の民は出産があった事だけは知ってるんだよね。
それが誰なのかは分かってなかったかも知れないけど、身分が高い人の出産だったのは
分かってたみたい。
その時の書像が安産信仰の対象になってるみたいだし。

56 :
>>50
お通は謎が多いからこそ、色んな人物との関係が伝えられているんだよ。
不詳なことが多いからこそ、自在な伝承が生まれてくる。
お通が信長息女だなんて、よく考えつくよね。 
ある意味想像力豊かだよw

57 :
寺側では、信長公が御台と一緒に泊まって、予定外に突然出産があったって書いてるから、
寺側としては分かってたのかも知れないけど、民にまでは火事のどさくさで出産は知れたけど
人物特定はされてなかったのかなぁ?

58 :
臨月で旅にでるものか・・・
また、「地志」にしか記録が無いのはどういうことか。

59 :
妊娠中に旅と言うか、戦に同行は、秀吉、家康も側室でやってる。
前例として信長がもしそれをしていたら、神仏に関して保守的なこの二人が、
それ以前のタブーを破るという二人らしからぬ事をしててもおかしくはない。
(戦前には女性と接触してはならなくて、妊娠中の女性と接触すると必ず死ぬって言われてた)
問題は、まさしく地誌にしか記録が見つかっていない事なんだよね。
地誌のようなものに、火事の関係で偶然載っただけで、周囲には内緒にしていたのか、
他にも記載してある資料があるけど、見つかっていないのか、
総見院殿追善記のように、勝長が書かれるべき筈の文献に、まるでいなかったかのように
書かれていないというような事から、後世何らかの圧力で抹消されたか(これは出産を
勝長と関係づけた前提の話になるが)、
地誌が作り話なのか……色々考えられる。
あと、もう一つ仮定するなら、この信長と御台の止宿記事が、
上洛戦の時の記事とは限らないという事が、文章解釈として考えられなくもない。
ただ、成菩提院に信長が泊まったという他の文献の記録は、上洛戦のときしかないから
上洛戦の時と考えられているだけ。
上洛時には成菩提院をある程度の定宿にしていたとしたら、他の時かも知れない。
だが、上洛戦が永禄11年9月末で、翌12年の2月には御台が京にいたらしい事は
わかっているので、その辺りの事と考えるのが妥当かというあたりなんじゃないか?
だが、正月明けの再度の上洛は、途中に何度もどこかに泊まるという程のんびりした
ものではないし、この時だとは考え難い。
平産記録に関係ある深沙大王の関係の講式が11月だから、その辺りに何か
考えられるかもという気はするね。
深沙大王関連って、大抵3月じゃね?
成菩提院に残ってる資料とかを調べられたらいいなと思うよ。

60 :
家康や秀吉が妻妾を帯同しているのは良く知られているけど
(どの程度の月数でかは不明だが、それが原因で?流産してる側室もいる)
信長の場合は今まで聞いたことのないことではありますね。
「地志」は地誌としての地歴・伝承をつづっった書き物、
いわゆる[風土記]のような内容といっていいのかな?
記述の目的、成立時期、執筆者はどういう人物はわかっているの?
今まで注目されていなかったようだけれど、保管状況、
誰が(どの機関が)解読・研究をすすめているのか?
まずその周辺事情から自分は知りたいのだけれど
検索してもヒットが少ない。
脚光を浴びたのはほんとに最近で、研究途上なのだろうか?
成菩提院は由緒ある天台の古刹、でも通常の寺宝公開等はしていないようだね。
近隣の方、成菩提院を訪問して寺史について聞いてほしいw。

61 :
近江國輿地志は信長の記述があるって話を聞くようになったのが、
自分は2〜3年前だけど、100巻くらいある地誌だね。
単独での出版は大正4年にされてるのかな?
上下巻に分けて出版されてる。
上が1〜48、下が49〜100巻だね。
自分は「大日本地誌大系22、26巻」の中に収蔵されているのを読んだが、
その出版は昭和4〜5年だね。
その後重版されてるかどうかはよく知らない。
信長の記事は、信長の歴史を書いたものじゃなく、成菩提院の歴史を
書いてあるところにある。
禁制礼の一覧とか、収蔵されている仏像や書の作者とかと同列にあった。

62 :
>>61
近江國輿地志という書自体の情報が少ないのに、
「その部分だけ」が2ちゃん内で一人歩きをしているような感があり
少々まどろっこしい思いもあったので、情報はありがたいです。
国会図書館に行って読んでみようかと思います。
100巻もあるのなら、きっと索引の巻はある・・・と思うので。
やはり「地誌」の本分として、古刹の歴史を記述した節の一部分ですか。
文書の性格や成立事情をわきまえてから、前後の文章を読んでみないと。
滋賀って京都の影にかくれてるけど、陰影に富んでいて
歴史の宝庫のような感じがします。でも、なかなか行けませんね。

63 :
>>62
昨日、書き込んでからちょっと調べてみたら、現在は大日本地誌大系39、40巻が
近江國輿地志に該当するようだ。
雄山閣でPOD版を現在も販売しているみたい。
自分が県の図書館で読んだのは古いものだったようだけど、新しいものを借りられるときは
お気をつけて。
国会図書館だと、古い方を置いているかも知れないけど。

64 :
人質が養子になるケースとしては芦名盛隆もあげられる。
探せば結構あるかもしれない。

65 :
上杉景虎もその流れだよな。最後に景勝に負けて跡継ぎにはなれなかったけど。

66 :
結城秀康も似たようなもんかな

67 :


68 :
今日、近江國輿地志を借りてきて読んでる。
信長に関する記述や光秀に関する記述、意外と随所にある。
鷹狩りの時泊まった寺の記述とかも、安土城の記述とかもあった。
引用先があるものは明記してある。
成菩提院のところは引用先がなかったから、おそらく寺に残ってるものからだろう。
編纂、成立したのが享保19年に完成となってる藩選地誌だね。
個人的に気になったのは、小倉左近太夫良親の娘の生んだ信長の息子が、信長死後
秀吉に庇護されて羽柴武蔵守になって高野城を築いたってやつ。
これって、信吉の事だよね?
ってことは小倉左近太夫良親の娘ってお鍋の方?
お鍋の方って高畑源十郎の娘じゃなかったっけ?
それとも小倉実澄の父親が小倉左近太夫良親ってこと?

69 :
小倉左近太夫良親の息子の嫁=義理の娘ってことかな

70 :
やっぱりそういう解釈になるのか。
小倉実澄の父親が小倉左近太夫良親って判明しているんだっけ?
お鍋の夫方の方には興味なくて疎いから、知ってる人いたら教えて下さい。
近江の歴史って、本当に戦国末期のそのままメインストーリーになるんだね。
浅井、朝倉との戦いの時に、信長に滅ぼされた城跡っていうのが
本当にたくさん出てくるね。
信長、秀吉、家康の事は本当に頻繁に出てくる。
もっとも成立年代が江戸時代ってこともあって、徳川家は全てにおいて
良く書かれている気がするけど。

71 :
信長御台出産の記述は、成菩提院に伝えられてきた事件のひとつで
享保年間に「地誌(地志)」の記事として書き留められたということで良い?

72 :
>>71
おそらくそれでいいんじゃないかな?
成菩提院史っていうのがあるらしいけど、それは非公開なのかな?
そっちにも書いてあるかどうか調べてみたいよね。

73 :
・信長の御台が出産したという「文献」が「発見」された。
色々な板で、こんな感じの書き込みが多かったですよね。
「発見された」って書かれると、今まで存在の知られていなかった書物が
新規にどこからか出てきたのか? みたいな誤解をするところでした。
このスレの詳しい人のおかげで、どんな種類のものかわかりかけてきたし、
実際にその部分が読めるということがわかって、感謝。
ところで、該当の箇所が世間に流布するきっかけって何だったのだろう?
・戦国史関係無しに地志を読み進めていた人が偶然に着目。
・織田研究者が何か新たな発見を願って、土地の資料を
 改めて読み直しているうちに今さらながら注目・・・発表。
・ある程度昔から、知っている人は知っていたけれど、
 信長妻妾関連に興味が薄かったために、紹介されることもなかった。
 あるとき、何気なくその事を披露したら反響を呼んだ・・・
発見・発表者は誰なのか、気になってしまうなw

74 :
>>73
なぜwで文章を締めたのかの方が漏れは気になる。
何でもかんでもwを付ければいいというものでもなかろう。
発見・発表者までになるかはわからないが、御台出産については井上力が
著書の中で書いているし、滋賀の郷土史家でもある首藤義之も著書の中で
勝長についてかなり詳しく考証していて、近江國輿地志も引用していたと
思う(こっちはウロ覚えだから違ったらスマソ)。両者とも八切並の
トンデモ者と言えばそれまでだが、違う切り口で捉えたとみれば
なかなかおもしろい。(もちろん無理もかなりある)
それから、考証については史板にあった意見に助けを借りることになるが、
結局のところ【】でくくってある部分の意見が妥当といったところかと…。
592 :日本@名無史さん :2006/04/21(金) 15:23:44
お鍋の方こと小倉の本名も不明であくまで高畠氏女でしかないのに
お鍋の方だから本名もお鍋という見方自体が短絡的すぎだったわけで
一度リセットして考える必要があるのは確か
【しかし、歴史学者や研究者はそういうのをなぜか嫌がる傾向に
あるから研究があまり進まないのもまた現実
そんなはずはない、あり得ない、誤って伝わっているだけでしょと
そこで終わらせてしまったら、史学の発展もそこで終わる】
ちなみに信長はお鍋のことを鍋ではなく「小倉」と呼んでいたらしい。
この時代の慣例どおり、縁のあるにちなんでだと思われる。

75 :
>>73
自分は「近江國輿地志」そのものは、意外と前に読んだ事がある。
その時は、浅井朝倉との戦いについての資料を探しての事だった。
信長関連は全部読んだ筈なのに、御台の平産記事には気がつかなかった。
今回改めて読み返してみて、信長と御台が成菩提院へ泊まったというのは
知っていたし、覚えていたのに、その直後にある平産には
目がいっていなかった事が分かった。
興味の持ち方で、全然違うのかも知れないと思ったよ。

76 :
あと、補足するなら、平産記事を見ても、それがすぐに御台と結びつくかどうかっていうのもあると思う。
文章的には結びつくんだが、何しろ、濃姫が子供を産んでいないのは通説で、常識って感じだから
御台が子供を産んだと言われても、濃姫の事は思い浮かばないというのはあるかもしれない。

77 :
>>1-2
この流れに脱帽

78 :
>>74
73ですが、wがさしさわったのならすみません。
ただ、一体誰がその部分に注目し
世間に知らしめる記述を発表したのかなんて疑問をもっているのは、
2ちゃんのスレであまり見かけないし自分くらいか?と思ったもので、
失礼しました。

79 :
>>78
多分、最初は「悲劇の☆お姫様伝説☆」って史板のスレッドで話題に上ったんだと思う。
勝長の生母はお濃説について考証してほしいという書き込みがあった。
それについて、色々話がでている途中で、平産記事がでてきた。
もしかしたら、考証してほしいと書き込んだ人間と、平産記事を書き込んだ人間は一緒で
こういう風に話題に上るようにしてほしかったのかなぁと、最近では思う。
史板に常駐してる人間って、文献名出されると、やっぱりどうしてもまじめに考えて
考証してしまう傾向があるし、武功厨に辟易していたというのもあって、
突っ込んで考えてしまったかなぁと、自分なんかは思う。
ただ、今更ながらに、面白い説だなぁと思うよ。
意外と、残っている史実上からも、色々な話の辻褄があってしまうというのもある。
何故遠山夫人は逆さ磔にまでされたのか?とか、織田掃部が粛正された理由は?とか
勝長が武田から戻ってきてすぐに犬山城主にされた理由は?とか、
秀吉側の文献では、勝長の名前はあまり出てこない(敢えて削除した?)理由とか。
もちろん、矛盾点もあるだろうけど、濃姫が子供を産んでいないのが通説だからと言って、
こういう説を頭ごなしに否定しなくてもいいかも知れない気はする。
実際、勝長が濃姫の子供だったら?と考えて文献を読み返してみると、色々面白かったよ、自分的には。

80 :
濃姫の子供ってさ、秀勝って可能性はないの?
永禄11年だったら、於次の方があてはまらない?

81 :
織田信正は村井貞勝の養子になって村井重勝と名乗っていた。(雍州府誌等)
信正の記述は織田信正位牌名によって詳びらかになった。
見性寺が江戸時代火事にまきこまれ現在地に移転してる為、信正の真実が伝え
られているか疑問。
お鍋の方の小倉か高畠かは自分も興味あり。
柳本織田家記録の総見院墓地お鍋の記述には小倉三河守娘とあります。
高畠は高知市にいる子孫の方の記録による。近江八幡市にお鍋の方の子孫が
現在でもいてその方は高畑姓です。で、信吉の子良甫の系統らしい。
坂氏の系統は分からないでしょう。
勝長は池田恒興の娘婿になり犬山城を与えられたことを重視すべきでは。
織田姓ではなく津田姓だからそんなに重視されてないと見るべきでは。

82 :
織田姓ではない訳ではなく、織田姓も持っていたし、津田姓も別称として持っていた。
津田姓のときは、津田源三郎。
織田姓の場合は、織田信房、織田勝長の二つあるね。
信長公記などで勝長の方が通りがいいが、勝長自身は書状などの署名は信房を使っている。
織田家に戻ってきてから与えられた名前なのかも知れない。
勝長って名前は、武田をイメージさせる名前でもあるし、武田にいた時に与えられた名前の
可能性はないだろうか?
武田にいたとき、既に戦場にでていたようだが、元服前でそう何度も戦場に出るだろうか?
信忠も、奇妙様のままで従軍している例は、確かにあるが。
犬山城主になったのがいつなのかはっきりしないが、天正9年の11月に犬山城の御坊様として
信長に対面しているから、その時には犬山城にいたらしい事が分かる。
犬山城主になったのは、本当に12月とされる元服と同時だったのだろうか?
個人的には、武田で元服まですませていたのではないかと推測している。
その時与えられた名前が勝長ではないだろうか?
織田に戻ってあらためて、元服ではなく、信房の名前を名乗るようにとされたというのは
穿った見方だろうか?
徳川家康も、人質でなくなってから、名前を変えているし、人質時代に与えられた名前は
こだわりなく捨てれたのかも知れない気もするが。
あと、池田恒興の娘婿になった時期はいつなのかにもよるかも知れないね。

83 :
勝長の「勝」は武田勝頼の「勝」
単純なもんで、ずうっとそう思ってました・・・

84 :
>>80
ウロ覚えだけど確かお次の生母は一説に養眼院という女性ではなかったかな。
そんなような史料が見つかったとか何とかで、また確定ではないけど…。
それにお濃との子だったら養子に出すにしても間違ってもあの頃の羽柴には
やらんだろ。預け先に相応しい家は他にもあったと思われ。
特に柴田なんて息子がいないんだから最適だろ。
>>81
津田は織田と同族の姓で織田に準ずる姓とも言われていて、決して
むやみに使えるような姓ではないよ。言い方を変えればむしろ重視したからこそ
与えられた姓とも言える。同じ津田姓で信長の甥である信澄は
信長に可愛がられ重用されていたし、安土城下には屋敷も与えられていた。
池田の娘婿になったことで犬山城主になったことをなぜ重視する必要が
あるのかよくわからないけど、勝長が織田に戻り、犬山城主となった頃の
池田の拠点は所領こそは犬山にもあっても息子共々摂津に移っている。
娘婿と言っても池田や織田の家譜を見ても勝長の正室ではなかった様子から
勝長を城主にする上で、長いこと織田から離れていたこともあってか
犬山に関係している人間を傍に置いておく必要性の配慮の一環として
側室として池田の娘が選ばれたとも言えるのではないかなと思われ。
池田は出世街道からは遠ざかっていたとはいえ、信長からの信頼は
厚かったようだし、お濃関係者との関わりも深いようにも思えるから
(長男の嫁は道三の娘or孫娘で、次男輝政も後年に齋藤新五の息子を
厚遇で召抱えたりもしている。)
もしかしたら、信忠のように美濃や齋藤縁者で周りを固める腹づもりも
あったのかもしれない。

85 :
津田姓は徳川でいう松平姓と同じ扱いと見て問題無い?

86 :
>>85
もう少し密接した感じがあるけど、概ねそんな風にとらえていいと思う。

87 :
その割には知名度低いね津田姓、
信長に気に入られた人物は多くても、実際に活躍した人物が少ないせいかな。
織田が天下とってれば徳川御三家みたいにスポット浴びてたかもしれないけど。

88 :
津田姓っていっても、ほとんど織田姓も持ってるからなぁ

89 :
織田と津田は本家と分家、云わば武田と逸見のようなものなんジャマイカ?

90 :
津田は織田に準ずるってよくわからないけど?
織田姓は信長に遠慮したかもしくは、信長が統制したかわからないが嫡流である
津田秀政家(江戸時代旗本)の家譜にも記されている。
信長生存時織田姓を許されていたのは父信秀の代からの三奉行の一つ藤左衛門家の
織田信張のみであろう。
信澄は厚遇されていても津田であって織田ではない。
また藤掛三蔵ももともと織田姓でも遠慮したし、弟信治の家系も柘植姓である。
私が重視すべきといったのがわからないって???
出世から遠ざかってた???あなた信長公記読んだことあるの? 
お濃関係者って何?出典をご教示願います。

91 :
織田の末裔の家にある過去帳にも織田と津田は同格と書かれているそうだ。
ttp://blog.livedoor.jp/inuyamajyou/archives/50160971.html

92 :
信長は、子供に関しては姓はきちんとさせようとしているね。
ただ、織田と津田の区別かというとちょっと違うと思う。
本能寺時点で元服している子供には、信忠は織田だけど、
信雄は北畠、信孝は神戸って区別してる。
養子政策ともいえるけど、北畠や神戸が実質滅んでも織田に戻していないという事は
信忠と目に見える形で区別を付けたかったのかも知れない。
津田にもしていないとなると、同様の理由からと考えられるから、
やはり、津田もある意味同格に近い、準ずる姓だった可能性は高い。
もちろん、信長以降、秀吉の世になってそれらが変わった可能性はある。
秀吉は何せ、名字も、本姓も、武将に与える為に乱発しまくってるからねぇ。
名前に関しての感覚がちょっと違うのかも知れない。
で、勝長スレなので、勝長について。
勝長に関しては、津田源三郎や勝長が有名だけど、織田信房もあるので
何ともいえない。
ただ、少なくとも、織田も津田も両方、それも別の名前で持っていたようだ。
戻ってきてから死ぬまで半年ちょっとだから、少し資料が少ないが、
半年ちょっとなのに、名前が複数あるというのもね。
>>82が書いているように、勝長が、武田にいたときに元服しててその時の名としたら、
戻ってきて改名したのかも知れない。
勝長が12月に元服したのは、南浦が書いているだけの筈だから、創作の可能性もある。
少なくとも、牛一の方は元服の事を書いていない。
勝長の姓に関しては、まだ研究の余地があると思う。
特に、勝長と信房の二つの名前に関しては、織田と津田との関係も考えながら
研究していくのがいいのではないだろうかと思う。

93 :
恒興の娘婿説って確定したの?
もしそうなら、あの秀次の室でさえきちんと家譜に載せている
池田家のことだから記録に残していてもよさそうなんだけど。
正室ならもちろんのこと、それでご坊が犬山の城主にまでなれたのなら
尚のことで、信長の息子はうちの婿になった。おかげでかつて所領だった
犬山の城主にもなれて云々とここぞとばかり書き残しそうなものだけど。
江戸に入ると池田家と織田家の力関係は完全に逆転しているから、織田家に
気を使うこともなかっただろうし。
そういえば元助の後妻である塩川家女についても記録を残していないよね。
どちらも側室扱いだったのかもね。

94 :
>>93
確定はしていないと思ったけど、そういう説が有力なんでは?って事みたい。

95 :
早速(本当早いw)の返事ありがとう。
やっぱりまだ確定ではないよね。
何か犬山城主になったのは池田のおかげみたく書いている人が
いたから気になったもので・・・。
濃姫の関係者の件は元助の先妻の出自が道三の血縁者なのは
子孫の墓石含め記録があるからわかっているからまだ理解できたけど。

96 :
池田のおかげまでは私も言い切ってません。
織田と津田は同格って子孫の過去帳にはまたは系図なんてものは自分に都合よく書くに決まって
るもんでしょ。
子孫の墓石含め記録があるって言われますけど前にもレスしましたが出典を示し願いたい。
池田履歴略記ですか?墓石はどこのお寺ですか?
元助の後妻って荒木の史料の二条家のことですか?
信忠と相婿って史料のことですか?
二条家には何らそれらしき姫は見当たりませんが?
秀次の室を家譜に載せてるとありますが何故連座しなかったかご教示ねがいますか。
で、どの様に家譜に載せているか教えて下さい。確か致祥院ですよね。
大善院の過去帳では一の台と混同してましたが。
秀吉は本姓も名字も武将に与える為乱発しまくってるからね(爆笑)
最新の論文読んでみてはいかが?秀吉が豊臣姓を与えるには理由があるよ。
乱発って(笑)


97 :
高飛車な物言いに萎え。

98 :
そんな、顔真っ赤にして必死で書き込んでると想像させるような書き込みしなくても。
織田と津田が同格だと何か都合の悪い事でもありますか?
まぁ、それはそれとして、では、織田信房の名を持っているのはどう思われますか?

99 :
ただの煽りだろ。スルーするがよろしかろうて。
どれも少し調べればわかることばかりだからクレクレ君かもしれんがな。
寛政家譜集すら目を通してない奴にマジレスしても無意味と思われ。

100 :
100m9(*^ヮ^)キャハハ

101 :
うーん、良いスレの流れだなぁと感心してロムっていたのだが。
90、96さん、どのレスについての意見かを明示してくださると助かります。

102 :
今さらで悪いけど>>58
>臨月で旅にでるものか・・・
エコーなんていう便利なもんが無かった時代、近々生まれるかどうかの判断は
腹の出具合とか大雑把な月数とかぐらいだっただろうから、臨月なんていうもんは
厳密にはわからなかったと思うぞ。特に生理不順の人間だと現代ならエコー使えば
予定日も割り出し可能だから間違うことは無くなったが、この時代はそんなもの
ないから、お濃がそういう体質だったなら、1〜2ヶ月ずれ込んでいてもおかしくは
ないと思われ。うちの嫁がそうだったんだけど子宮後屈だったりすると腹もそんなに
出ないことが多くて事情を知らなければ太ったな〜程度だったりする。
それから、この推測がなかなかおもしろかったから置いていく
50 :日本@名無史さん :2006/06/04(日) 01:42:30
というかマジレスね。
濃姫に何かしらの理由があって、一説に斎藤道三とも懇意だったらしい
当時の名医曲直瀬道三の元で産ませよう思って上洛ついでに置いていく
予定だったのが、濃姫が思いもかけずに産気づいてしまったとかは?
お産の歴史って新書によると、曲直瀬道三は妊娠・出産の分野の研究も
していて、それに関する書物を残しているみたい。
今もそうだけど、名医と呼ばれる医師にかかりたいと思うものだし
この時代のお産は死と背中合わせだったともいわれているから
なかなかできなかった末の妊娠でこの時代では比較的高齢な初産なら
特にそう願うものじゃないかなって。

103 :
ふと沸いた疑問・・・
つうか、なんで人間だけ出産機能が他の哺乳類と比べて劣ってるの?
他の動物は1人できちんと産めるじゃん。まれに死産とかあるけどさ。
医者があれこれ手解きしないと危険って不思議に思うんだが。
やっぱたって歩くようになった弊害?

104 :
>>102の>50の、憶測にマジレスだけど。
安産型・多産型の女性でもない、
高齢であろう初産婦を動かすというのはちょっとね・・・・
お産は女の命がけ、運試しでもあったわけだし、
居住地以外で産むという例は少ないような気がするけど。
(家康側室連の話はまた別、その地で懐胎したのかもしれないし)
敵味方、表裏あざなえる縄の如しの時代だから、
嫁いだ娘が、例えば実家に戻っての出産もあまり聞かない。
最も、濃姫にはもう実家の存在は無いわけだけどね。
また、京都の皇族・公家のように里内裏や実家に産所を設けての
出産のようなことは戦国期の大名に聞かないことだな。
名医にかかりたいのだったら、権力も財力もある大名家、
出向かなくても呼べばいいのではと思うけどね。
小説からの引きでこのスレの流れに反してるかもしれないけど
確か杉本苑子の「月宮の人」でも(うろ覚え。お市から東福門院の物語)
誰かが道三を呼んで診察してもらうという設定があったような。
小説からの憶測で失礼しましたが、>50さんのレスも
名医の存在をうけての憶測なのだろうし、邪推ご勘弁。


105 :
表向きには内緒の出産という前提での推測なんだろう。

106 :
>>103立って歩く、と いうより知能が発達して頭がデカくなってしまったせい。そのため他の動物のように、産まれてすぐに歩けるような体になるまで腹の中で育てる事が出来ない

107 :
内緒の前提ってなんだろうね?
信長自身の経験から、信忠との嫡男争いを懸念したとか?
何年も子作りしていなかったのに弘治に入った頃から積極的に側室を作るようになったのは、
濃姫が何度か子供が出来ているのに流産でも繰り返してたからか、子供を流す為の
腐胎薬みたいなものを盛られて流れた経験があるからじゃないかと推測している人を
どこかのスレかサイトかで見た事がある(よく覚えてない、スマソ)。
3年で子供が出来なかったら離縁とかあった時代だし、出来た事はあったが出産まで
至らなかったってのが本当のところじゃないだろうかって。
そこは、平産記事の事には触れてなかったから、本格的に側室を持ちだした時期の話として
書かれてたように覚えてる。
信正の事も書かれてて、信長の子供か、違う相手の子供か不明で庶子だったって言う説を書いてて
もしそうだったら、直子が恒常的な側室じゃなかった可能性もあるとも書いてあったような。
フロイスも書き残しているけど、当時の日本じゃ堕胎がメジャーだったらしいし、
もし濃姫に自然流産じゃない疑いのある流産経験があったら、内緒にしててもおかしくないかも。
ただ、その後も内緒にしてたのだとしたら、意外と、信忠との兼ね合いかも知れないね。
あと、勝長がその時の子供と仮定したら、重臣達は知っていたのかもしれないね。
そうすれば、武田から帰ってきてすぐに犬山城主にしたり、信忠与力にしたりという
厚遇ぶりに対して、異論が出ていないことの説明にはなる。

108 :
こうも憶測だらけだと
小説ネタの宝庫のように思えてしまう。

109 :
平産記事がマイナーだし、あまり知られてないから、小説で取り上げてる人間はいないねぇ。
取り上げたら面白そうなのにね。

110 :
織田と津田が同じだと都合が悪い、、、、
自分の意見が正しいと言うものではありません。
季刊 ぐんしょ 66 織田氏における津田名字についてを参照あれ。
信長生存時と江戸時代と分かりやすく説明されてます。
徳川における松平とおっしゃった方がいましたがそれはわたしの意見に近いですね。
信房の名ですが犬山市史に禁制だったか書状だったか(手元に見当たらず)
載ってますよね。信が付いてますから信長の元に戻ってからの名でしょう。
私の意見としては信房は書状にでてくる名で勝長は史料にでてくる名ということ
でしょうか。信長の弟の名信行と信勝に近いのではと現在の時点での考えです。
勝長は子がいたこと分かってますから、厚遇ではなくただ年長者だったということ
ではないでしょうか?秀勝は変時十五位でそれより下の子はもっと下と考えられるから
です。
あと大徳寺総見院や安土総見寺、高野山悉地院には勝長が供養された形跡は御座いません。
の濃姫の子というのは無理があると思われます。
寛政家譜集すら目を通してません。失礼しました。その書どこの史料館もしくは図書館
で閲覧できるかご教示下さい。
私が目を通している系図といえば寛政重修諸家譜、系図纂要、織田系図(群書類従)
寛永〜‥です。
お次の生母は養観院です。詳しくは安土町史(史料編)を参照願います。
少し調べれば分かるとおっしゃった方がいましたが墓石にあるというのは是非見てみたいです。
ご教示ねがいますでしょうか?

111 :
勝長の死亡時の年齢って、14〜16くらいって言われてますよね。

112 :
>>104
身内にはめちゃ甘い(弱い)信長のことだからやっとこさ
出産にまでたどり着けそうな身重の嫁を置いていくのは
心配だったんだろ。変に心配ごとがあると采配ミスるからな。
(長篠の時に、わざわざ陣中から病気で伏せっている側室に見舞いの手紙を
送った勝頼を見てみろ。これが直接の原因とは言わないが、結果は采配を
ミスって凄まじい惨敗ぶりだぞよ…泣)
それか、信長は自分の目で見ないと信用しない性格だったらしいから
長いこと不妊症か不育症かその他の事情で出産まではいきつかなかった嫁が
出産することがにわか信じられず、産むところを見ないと信じられないからと
立ち会うぞと、周りの大反対を押し切って立会い出産を熱望したとかも
案外アリかもなw。
現代でさえ、不妊夫婦の苦しみは凄まじいものがあるらしく
いざ出産の時になると立会い希望する旦那は多いんだそうだ。
中には切腹出産でも立会わせてくれと言う旦那も少なくないらしい。

113 :
切腹出産ってwww

114 :
切腹出産wwww
お〜い、山田くん、座布団5枚持ってきて。

115 :
やっぱ介錯するんだろうか

116 :
>>112
熱意は買うが、すべて憶測。
また勝頼の敗因はそんなんじゃないだろうよ。

117 :
>>116
そんな生真面目に捕らえずに息抜きレスと解釈しとけばよろしかろうて。
勝長にしてもお濃にしても史料が少ないだけにほとんどが憶測に
なってしまうのは止むを得まい。

118 :
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
 http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg
・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)

119 :
勝長の法名って「林庭宗松」って言うらしいけど、墓所ってどこだろ?
検索しても出てこないし、自分の手元にある文献などにはないし。
勝長って、死後の扱いがなんか変だよね?
秀吉方の文献には変時の死亡者として出てこない事も多いし、
法名も信長の他の子供達が院号なのに比べて違うし。
余計にいわくありげに見えてしまうよね。

120 :
>>119
勝長の墓は信長の法名をめぐって秀吉と対立したことでも有名な
あの阿弥陀寺にあるらしい。
もしかしたら最初は林庭院宗松何たらという感じで院号付きだったものの
その存在をあまり残したく無かったと思われる秀吉あたりにいじくられて
院号が削られたのかもしれない。
そういえば環境的に勝長と仲が良かったと思われる武田信勝の法名(景徳院版)と
織田信忠の法名が凄く似ているところに歴史の皮肉を感じたよ。
織田信忠…大雲院殿仙巌
武田信勝…法雲院殿甲巌

121 :
>>120
法名を巡る対立って、「天徳院」の事かな?
妙心寺史では、「天徳院殿龍巖雲公大居士」って、月航が妙心寺での天正10年9月の
妙心寺主催の追悼法会の時に付けたものらしいと書いてあるね。
三河の長興寺にある「天徳院殿一品前有相府泰岩淨安大禪定門」とどんな関わりがあるのか
気になるね。
あと、言経卿記の天正10年9月7日の記事にある、阿弥陀寺参詣時の「天徳院」が
阿弥陀寺で付けたのか、妙心寺の法会の時に付けたものなのかでも、色々面白いかも
しれないね。
阿弥陀寺と妙心寺、そして、長興寺で示し合わせたように、「天徳院」をつけているのに
秀吉はわざわざ「総見院」に変えた事になるからね。

122 :
あくまで言経卿記の記述を信じればが前提だが、
信忠には信勝との法名以上の皮肉があるぞ。それは勝頼。
よりによって院号は同じ『景徳院』。
まっ、景徳院建立自体、本当は信忠、勝長兄弟がやろうと思っていたんじゃ
ないのかなと根拠の無い妄想を言ってみるテスト。
高遠では落城後に、五郎盛信を初めとした武田方の供養もしているからね。
どうも武田が絡むと家康は都合良すぎなことが多いような・・・。

123 :
申し訳ないが、院号や法名は経典の言葉などからとることが多いので
同じ云々で色々と憶測するのは妄想かと思う。
>>120
「宗」をつけるのは、大徳寺系の法名に多い。


124 :
大徳寺系ってことは、妙心寺絡みかな?

125 :
>123 
122のことか? 
だったら自ら妄想とか〜テストと断りを入れているのだから 
妄想だなどとわざわざ言うことでもあるまいに。

126 :
>>124
同じ臨済宗でも大徳寺は大徳寺派大本山で、妙心寺は妙心寺派大本山
>>125
妄想スレやテストスレに反スレ入るたびに、
出てくるももいかがなものか。
テストとか、妄想です、と書けば
論争から免れるのではないか?というのが透けて見えるときもある。
それは意見を遠まわしに拒むための言い回しであったりするから。

127 :
妄想やテストスレってどのスレのこと?
スレにスレを入れるってリンクのこと?
あと、ここはmixiやサイトのBBSじゃないからみんながみんな論争を
好んでするような人ばかりじゃないと思うし、スレが荒れないように
敢えて遠まわしにする人もいると思うよ。

128 :
論争なんかじゃなくて、誤った前提を注意することもイケナイのか。


129 :
なら最初からそう書けば良かったんじゃね?
自分から論争ネタを振っておいて、指摘されれば誤前提についてと
話をすり替えようとするとはこれ如何に?

130 :
>>122
落城後や戦場の供養というのは、普通に行われるものじゃないのかな。
陣僧の役割の一つでもあるのだし・・・

131 :
今日、ちょっと、「勢州軍記」読み返してたんだけど、永禄11年の上洛戦の記事のところに
「信長宿入必放火也」って一文があったんだけど、これはどう訳したらいいんだろう?
「近江國輿地志」の御台平産時の火事の記事と何か関連あり?

132 :
>>130
桂泉院には信忠が法要を行ったと伝わっているようだが…。
その時に使ったと言われる鐘楼も盛信の位牌堂横に安置されとるし
かつては高遠城の城郭内にあった寺で、城主を攻め滅ぼした憎き織田の
美談に成りかねない話にも関わらずこのように伝わっているのは
実に興味深いところだ。
>>131
『信長の宿に忍びが入って放火した』ではないのだろうか?

133 :
>>132
桂泉院の梵鐘の話は、高遠町誌を所有してるから知ってるよ。
>130は、敵味方の戦死者を供養・回向するのは
信忠に限らず中世では別に珍しいことじゃないって言ってるんだろう。

134 :
>>132
やはり、「宿屋」の「宿」なんだろうか?
「宿場」とか「村」という意味で、信長が村とかを必ず放火したの方の意味が
あるのかないのかと思ってさ。
「宿入」だから普通は「宿所」や「宿駅」に入る事になるから、普通に「宿屋」の方だとは
思ったんだが、確信が持てなくて。
あと、「日本國誌資料叢書」を読んでたら、成菩提院の箇所に永禄の頃に火災があって、
慶長に入ってから、焼失分と、更に別に新しく建立したような事が書いてあった。
どうも、上洛戦時に火災があったという説は有力かなと思ったよ。

135 :
>>123
大徳寺系だと、やっぱり秀吉の意向が反映された法名ってことか。
秀吉は、なんで勝長をそこまで「なかったこと」にしたかったんだろう?

136 :
実は織田家の正統な後継者

137 :
>>136
でも、それだったら、死んじゃってる訳だし、後腐れないんだから
何も「なかったこと」にしたがってるように見える対応をとらなくてもいいと思う。
秀吉が黒幕ならいざ知らず。

138 :
秀吉が黒幕だったかもしれないよ。

139 :
勝長の元服が天正9年の年末頃だって言うのは、本当に南浦信長記にしか書かれてないの?

140 :
保守

141 :
尾張統一戦をやっているころの家臣で
織田信房というのが存在しているが、
信長は自分の子に、あえて同じ名前を使ったのかな?
意図があったのか、それともたまたまか。

142 :
桶狭間で亡くなったと言われてる家臣だよね。
七本槍の一人とか言う……。
でもたまたまだと思う。
1700年代にも信房っているし、信房以外でも名前の被ってる人間いるからね。

143 :
長篠でその猛将ぶりを信長も讃えたといわれる
馬場にあやかってだったりしたらおもしろいんだが。

144 :
>>142
サンクス。1700年代にもいるのか。
織田信成も江戸時代にいたような。
現在の信成の家も、父も兄も頭は「信」をちゃんとつけているね。
しかし、織田の各分家も江戸時代から名前をつけていると、
けっこう名前が重複したりするかもな。
それでも、信時、信孝、信澄などを名付けたりすると、
怨念がこもってそうで怖い。

145 :
最凶の名前は信雄w

146 :
信孝って、今一番直系に近い人の名前が信孝じゃなかったっけ?

147 :
それが本当だとすると、親はどういうつもりで信孝と名付けたのだろうか。
あの辞世の句を知っていれば、ガクガクブルブルだぞ。
それと意外と地味だが、信時も非業の死を遂げているね。

148 :
>>143
そういえば馬場は信房とも言いますよね。
馬場家も飯富家同様もともとは東濃の氏族で土岐氏の流れも
くんでいたという話があるらしいです。
この時代は何かと名前が被ることが多いので全くの偶然だと思いますが
長篠での話があるだけになんか興味深いですね。
名前といえば信玄が大宮城(=浅間大社)を攻めたものの見事なまでの
門前払いを2回も受けた時の大宮城主で浅間大社大宮司でもあったのは
富士信忠という人だそうです。よりによって父子2代にわたって信忠と
いう名前の人にしてやられてしまうとは…、
信忠という名前は武田とは相性が悪かったんですかね…。

149 :
>>134
「信長宿入必放火也」の記述は、「勢州軍記」の信長上洛事に見えなかったので、
もしやと思い「勢州四家記」も見ましたが載ってませんでした。
史料の混同ではありませんでしょうか。
ちなみにその記述が「勢州軍記」だとすると、「必」の他の用例は、
「巻上  一、瀧川一益事」の「而後供養佛僧、必弔其死、」(然るのち供養し、しかと弔うだろう)
「巻上  一、蒲生賢秀事」の「此兒眼不常、必爲武藝之者、」(この子の眼は尋常でない、きっと武芸の者になるだろう)
「しかと…だろう」「きっと…だろう」など確定的推量の意味で使われてますから、
「信長宿入必放火也」だけを読み下すと、「信長は宿(敵陣)に討ち入り、きっと放火するだろう」
になると思われます。

150 :
自己解決。。。
次信長推寄、神戸之家長山路彈正忠之城高岡、人屋放火而攻之、山路勵武威防戰也、信長宿入必放火也、
依之敵迷度云々、
「宿」とは敵が籠もった高岡城のことでしょうね。

151 :
このスレの住人は、よく史料を読み込んでいるよね。
しかも、メジャーでない勝長について。
良スレだ。

152 :
今日、濃姫関連で検索してたら、信長と斎藤女の間に女と書かれた家系図が
岐阜城そばの歴史博物館にあったという書き込みを見たんだけど、
「勢州軍記」は確か「若君」がいなかったと書かれてたよね。
やはり「姫」は生まれていた可能性はあるのかな?
勝長じゃなかったのかと思ったら、ちょっと(´・ω・`)ショボーンだったけど。
でも、前に出てたけど男女の双子という可能性もあるのかなと思った。

153 :
男女の双子だったとしたら、その家系図になんで「姫」のほうを残したんだろ?
普通は「若君」のほうを記録に残すんじゃないのかなぁ
まあ個人的には勝長だといいなーと思っているわけですが

154 :
その家系図の身元がわからないことには・・・

155 :
>>154
同意

156 :
真面目に質問させていただきます。
ここの住民の方は史学科出身・在籍の方ですか?

157 :
>>152
岐阜城そばの歴史博物館はおそらく岐阜市歴史博物館だろうなぁ。
自分は岐阜から離れたところに住んでいるので見に行けないけど、
メールかなにかで問い合わせたら、答えてくれるのかな?

158 :
>>157
ほんとにその博物館なのかな。
電話しちゃいそう。家系図あるんすかって
してもいいのかな。>>152のが気になる!

159 :
【激動】信長父子をめぐる姫様達【翻弄】ってdat落ちしているスレの342に
>342 :無名武将@お腹せっぷく :2005/05/23(月) 13:49:35
> まじ、誰なんだろ。
> 俺はお濃以外考えられないんだがな…
>
> それから、俺、岐阜行ったことないから教えて欲しいんだが、
> 岐阜城?岐阜城近く?にある歴史資料館みたいな所の信長系図に、
> 斎藤家女との間に娘がいる表記があるって本当?
> 違うものを調べていた時、どっかの日記でふと見かけたのだが。
> この系図見たことある人いる?
というのをキャッシュから見つけた。
この日記が気になるが、とりあえず、岐阜城か岐阜城近くの歴史関係のところってことかな。

160 :
で、ソースはどこなのか誰か教えてくれよ。

161 :
ここでの話ってよく判らん。
信長の息子のうち信忠・信雄・信孝のみが息子として厚遇を受けた
という記述は良く見るが勝長が信雄・信孝以上だなんて見たことも無いんだが・・・

162 :
少なくとも俺は、信忠・信雄・信孝のみが息子として厚遇を受けた、と
書いた「史料」を読んだことはないな。
誰かがそういう解釈をして書いた「本」や「考察」は読んだことあるけど。
つまりはそういうことだろ?

163 :
「本」や「考察」では信忠・信雄・信孝のみ〜という解釈が多くて
「史料」を読み込んでいくとどうにも勝長が厚遇されてるようだ
みたいな?

164 :
勝長に関して詳しく調べた本とかあるのかな?
そこまで皆に興味を持たせるということは歴史好きな研究家にとっても魅力的だと思うんだけど。
もし皆が読んでみて面白かったのがあれば教えてくれ。

165 :
厚遇を受けたというのなら信忠、信雄までだろうな。信孝は明らかに扱いは一段
落ちる。信孝が後に方面軍司令官にまで抜擢されたのは息子だからではなく彼の
才覚と働きから。
扱い、という点では信孝と秀勝でそう違いはない。どちらも養子に出されて織田
の名乗りはできなかったのだから。
この二人に比べると、勝長はたしかに厚遇されているよ。領土や権限ではなく、
身分の面でだが。

166 :
>>165
信雄、信孝は信忠と歳が近いから差別化が必要だった。
それ以外は少し歳が離れてる為にそれほど必要なかった。
というのはどうだろう?

167 :
信忠との差別化は天正3年の家督譲渡で決定づいてるけどね。

168 :
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]

【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。

169 :
信忠に家督を譲る云々は以前から話に出てたから
いきなり差別が表面化したわけじゃないんじゃない?

170 :
勝長って津田姓も名乗ってたよね?
織田の嫡男だった信長とか信忠も津田の名前って持ってるのか?

171 :
過去レス嫁
…と言いたいところだが

172 :
勝長の織田家に戻ってきてからの名前は
「織田源三郎信房」

173 :
ノブオは馬鹿だったらしいな。

174 :
次男>北畠に養子
三男>神戸に養子→のち三好へ養子予定
四男>羽柴に養子
庶兄>津田の名乗り
四弟>長野へ養子
甥>津田の名乗り。磯野へ養子
んで勝長は遠山への養子(?)などもあるが、かえってからは織田姓。

175 :
信忠・勝長>>>>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>信雄・信孝他
天正9年秋以降はこの図式でほぼ確定ということで良い?

176 :
>>175
どうなんだろうね?
勝長は織田に戻ってきてすぐに、何も試される事なく犬山城主だし
信忠の与力にまでなってる。
その後で、武田討伐に行かせてるけど、普通は試してから取り立てると思うんだよ。
それをしなくても取り立てて当たり前の様に信長が行動した理由というのが
今ひとつ分からない事を考えると、その厚遇ぶりは不自然。
家督を譲られてた信忠が、仮にそう指示したんだとしても、信長が気に入らない人事なら、
すぐにやめさせられる筈だしね。
太田牛一が対面の様子に筆を割いているのに、元服とか初陣の様子には言及していないで
普通に従軍した様に書いてあるところを見ると、勝長の元服初陣は南浦信長記とは違って
武田にいた時代にすませているからと見るのが妥当だと思う。
とすると、武田方の逸話で残っている様に、武将として優れていたのかもしれない。
それでも、何も試さずに取り立てている全ての理由にはなり得ないんだけどね。
個人的には「源三郎」って「三郎」がついているのが気になるね。
嫡男である信忠だって「三郎」はついてなくて「勘九郎」なのに。
それも、信正、乙殿に続いて三男という可能性だってあるのに。
嫡孫をまだ立てていなかったという事もあるし、信忠の次が誰だったかっていう
あらぬ想像もしてしまう。
もちろん、信忠が正室を持っていなかったのが大きいと思うけど。

177 :
>>175
磯野家に出たやつの子孫が後の磯野波平であり戦国ゆずりの頑固な血は受け継がれる
民明書房刊 「武将の子孫と血筋」より

178 :
基本的な事で申し訳無いんですが、勝長が「織田」を名乗ったのいうのは何
に拠るのでしょうか?
「信房」とあるのは瑞泉寺文書の禁制写の事だと思うのですが、その禁制は
信房と署名があるだけで「織田」とも「津田」とも「源三郎」とも書かれて
なかったと記憶しています(つまり比定文書です)。
他に何か文書が残ってるのでしょうか?

179 :
確か写しの欄外に織田信房、制礼ヲ下スという注意書きがあったのは覚えているが
それ以外だと自分は知らない。
犬山市史には「織田源三郎勝長が戻って信房になったと考えられる」という意味の事が
書かれてあるから、何か確定する文献でもあるのかな?
犬山関連の文献では、津田姓は見た事がないので、よく分からないが。

180 :
ここでの織田勝長論って一般的にどうなの。
世間でまともに通じる?

181 :
それを判断するのは自分。
どこの誰かも分からない他人に「大丈夫、間違ってないよ」と言われて
疑いもせず信じられるならこのスレも信じちゃえばいいんじゃね?

182 :
>>180
んなもん、通じる訳ないじゃん。
永禄12年の言継卿記の斎藤家親族信長本妻ですら
武功以降、濃姫じゃないっていう史学者がいるんだぞ。
たとえば、「近江國輿地志」に御台出産記事があっても
そしてその記事が永禄11年の記事らしいとなっても
たかが地誌、12年の記事だって濃姫とは思わんって史学者からしたら
妄想乙のレベルだろ?
ただ、一般的には、こういう説もあるみたいよ〜位言っても
「おぉ、いろんな文献知ってて博学だね」くらいは言われるかもね。
だが、この先永遠に全く無視され続けるかどうかは分からん、と思って検証を続けてるよ、自分は。

183 :
勝長は法名から見ても異質だよね。
信長の子の中でも末子で法名が不詳な長次を除けば、唯一、織田勝幡家流の
法名で慣習として用いられる「岩(巌)」の字が入っていんですよね。
信忠:仙岩
信雄:実岩真公
信孝:高岩徳公
秀勝:賢岩才公
勝長:林庭宗松
信秀:高岩照公
信高:性岩心公
信吉:雲岩道卜
信貞:法岩日恵、又は宗恵
信好:清岩円公
長次:不詳
勝長の法名は阿弥陀寺の清玉上人がつけたものだけど、清玉上人はこの慣習
を知っていた様で、ちゃんと、一緒に戦死した信長の義理の甥・津田信弌に
は「雄岩宗英」、一族にあたると思われる菅谷長頼にも「高岩幼順」とつけ
てるんだよね。近親で入っていないのは信長の末弟・長利「心伝宗正」くら
いです。
ちなみに勝長の法名に院殿号はついてません。院殿号は本来、当主や高位の
人物のつけられるもので、清玉上人が法名をつけた百数名の中でも、院殿号
がつけられたのは信長・信忠・村井貞勝の三人だけで、勝長は確実に信忠(
家督)よりランク下に置かれています。

184 :
泰巌安公含めて見ても、なんか法名と言うよりは諡号みたいだ。

185 :
そりゃ、信忠よりは下だろう・・・

186 :
前の方のレスで出ていたが、勝長の法名は大徳寺系の法名らしいから
総見院で付けたものじゃないかな?
信長や信忠の方名も、元の法名から総見院の法名に変えさせられてるし。

187 :
変わったほうの法名は?知っていたら教えてくれ。
 
俺の知っているのは 信長→総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀
          信忠→大雲院殿三品羽林仙岩大禅定門
          
要は上と同じだな〜

188 :
>>187
総見院と大雲院になる前?
最初の法名はおそらく阿弥陀寺の清玉上人が付けたものと思われるけど
信長:阿弥陀寺では天徳院殿
   妙心寺では天徳院殿龍嚴雲公大居士、
   三河の長興寺では天徳院殿一品前有相府泰岩淨安大禪定門
信忠:阿弥陀寺では景徳院殿

189 :
>>183
その院号がついていない事が不思議に思っている。
それこそ、全く武将としても全然存在感がなかったのならともかく、
犬山城主で信忠与力であるのにも関わらずというのがね。
秀吉が編纂を指示した総見院殿追善記には勝長の存在すらなかった事になっている。
大徳寺系の法名がついているという指摘が前の方であったが、
信長と信忠の、総見院、大雲院は天皇から勅命まで出さして変更させているけど、
意外と勝長はこっそり変更させられたのではないかという気がするよ。

190 :
「言経卿記」によれば、はじめ、院号が信長は「天徳院」、信忠が「景徳院」
だった事が伺われますが法名が何だったのかまではわかりません。
「阿弥陀寺由緒之記録」によれば秀吉と阿弥陀寺の清玉上人との間で確執が
あり、
「秀吉公仰せいだされ大徳寺塔頭に新寺一宇御建立なされ、御法名をもちい
総見院と寺号なさる。」
とあり、どうも寺号(院号)を変えただけで法名までは変えていない様なの
ですがどうでしょうか?

191 :
うん、法名までは変えていないかもしれないね。
ただ、その辺はちょっと分からない。
阿弥陀寺にでも直接行って聞いてみて分かるかどうかってところかも。
それに、他の寺院での法名は天徳院という院号は一緒でもまた違うものだし。
勝長の院号に関しては、信長の息子であるのについていない事を考えると
かなり不自然だと思う。
法名も、浄土宗の阿弥陀寺が付けた法名としてはおかしいみたいだし、
大徳寺系の総見院で付けた法名と考えるとしっくりくるとすると、
その辺り不思議だね。
とにかく、死後の扱いで、秀吉絡みでは、不自然な事がある気がするよ。

192 :
あと、信忠の法名だけど
光勝院殿贈三品羽林郎悦厳大禅定門
って言うのもあるらしい。
岐阜の崇福寺でかな?

193 :
別に信長の息子だからといって全員に院号がついてるわけじゃないんだろ。
こんなダラダラ長い法名は信長・信忠だけみたいだし。
織田家に天正9年の11月に戻ってきて天正10年の6月に死んじゃってるんだから
あまり重要視されてなかったんじゃない?

194 :
大徳寺系の法名というより、禅宗系の法名というほうが良いかと。

195 :
>>193
信長の正式に分かっている息子、娘で院号がついていないのは勝長だけ。
末子の長次は法名自体が不明だけどね。
ちなみに、信正は見性寺正誉英厳了盛で院号付いていないけど、
正式な庶長子かどうかは、実際の所不明。
江戸末期の資料と、菩提寺火事後に出来た位牌が信長の子供の根拠。
公的記録には、一切載っていない。

196 :
>>189、191
院号がつかなかったのは、
・嫡子(当主)でなく、まだ一家臣扱いだった
・年少であった
・戦死者として集団で供養された
事が大きいでしょうね。大名の子息でも次男以下で分家を立てなければ、親
と同じ墓所に入る事が多いため院号がつかない事はよくあります。
勝長の子孫や一族の有力者が菩提寺を改めるなりして再供養したりしてれば、
ついてたりするかもしれませんね。
森乱丸の法名は阿弥陀寺では院号はついてませんが、後に大名家となった森
家の菩提寺で供養する際に院殿号を与えられています。

197 :
>>193
崇福寺での法名は「大雲院殿(三品羽林)高岩大禅定門」の様ですね。
施主は信長の側室小倉氏です。
>>195
院号と寺号は同じものです。
信忠:大雲院殿仙岩大禅定門、又は大居士
信雄:徳源院殿実岩真公大居士
信孝:照雲院殿高岩徳公大禅定門
秀勝:瑞林院殿賢岩才公大禅定門
勝長:林庭宗松大禅定門
信秀:芳徳院殿高岩照公(位号が解りません)
信高:松雲院殿性岩心公大禅定門
信吉:省花院殿雲岩道卜大禅定門
信貞:常照院殿法岩日恵大居士、又は宗恵
信好:徳林院殿清岩円公大禅定門
長次:不詳
信正:見性寺殿正誉英岩了盛大居士

198 :
崇福寺って岐阜にある?
あそこに勝長のお墓なんてあったっけ?
信長と信忠の墓があるのはしってるけど・・・
一つの墓石(?)を左右半分づつに分けて信長・信忠父子の法名が刻まれているんだよな。
夫婦じゃないんだからw

199 :
>>152
遅レススマソ。
それと同じものかわからないけど、wikiにははっきりと
二人の間には娘がいたという家系図もあると書いてあったよ。
wikiだから信憑性は何ともだけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E8%9D%B6

200 :
wikiだから、というわけじゃないが、それはソースとは呼べないだろ。
基本的に誰でも書き込める場所に、史料名を明記せずに書いてある事は
それこそ2chに名無しで「どこかで見た」と書いてあるのと何も変わらない。

201 :
>>198
すいません >>192ですね
「大雲院殿高岩大禅定門」は崇福寺の信忠の法名ですね。

202 :
院号ってのはもともと、その寺院や宗派の旦那として
寺門隆盛に貢献した人物に対して送られるものではあるけど
(名のある武士なら菩提寺への寄進や建立など普通に行うし)
年若い子息子女でも法要や回向の機会に贈られるものだよね。
だから勝長の場合はやはり疑問として出てくるよな。
学者が研究してくれれば、各寺院の資料も検証されるんだろうけど。

203 :
学者が研究しない時点でココで考察されていることはありえないんじゃないか?
あいつらお前ら以上にオタクなやつらだぞ・・・

204 :
「学者が研究しない」事が203の中でそれほど重い意味を持つのなら、
その自分の価値観を信じればいいじゃないか。
わざわざ他人にその確認を求める事はないさ。

205 :
ブログで勝長や濃姫のこと書いてる女性(?)は
阿弥陀寺(浄土宗)や本能寺(法華宗」にいったことが無いのかな。
他の津田姓の人物らの法名と、勝長(津田源三郎)のものを眺めても
字面的な格差は感じない。
院号を意図的に与えられなかった・・・という説はうがちすぎのような気が。
自分の希望的観測で勝長と濃姫を語っているような気配は
このスレの人々の一部にも感じるな。

206 :
そう思うなら、こんなとこで書いてないで、ブログのコメントにでも書き込んできたらいいんじゃね?

207 :
>>205
信長の他の正式に認められている子供にも院号がついていない者が
1人でもいれば、勝長についていなくても気にする必要はないかもしれん。
だがそんな子供は分かっている限り他にいない。
信正が庶子だと言われ始めたのは幕末辺りからだから、
真実かどうかさえ分からないので、信正の法名は参考にはならないし。
信長存命中に取り立てられ犬山城主にまでなっている子供が
院号がついていないという事自体が、不可解だと思うのは
普通の事だと思う。
織田信房と伝えられている勝長の織田家復帰後の名前を考えると
一概に津田姓と同列に考えるのはおかしいと思う。
自分は阿弥陀寺も本能寺も行った事がある。
字面が格差がないという意見も分かる。
だがその事と、息子なのに院号ではないという疑問は
全く別のものだと思っているよ。

208 :
法名ってよく判らんけど183から
信忠:仙岩
信雄:実岩真公
信孝:高岩徳公
秀勝:賢岩才公
勝長:林庭宗松 ←公に間違えて木を付けちゃったとか?
信秀:高岩照公
信高:性岩心公
信吉:雲岩道卜
信貞:法岩日恵、又は宗恵
信好:清岩円公
長次:不詳

209 :
>>208
あり得るとは思う。
ただ前の字が「宗」だけに判断しかねるね。

210 :
205を読むと例えば勝長が本能寺の変のとき「津田 源三郎」で死んでいたのなら
もしかしたら院号がついていないのかも。(津田の姓ならありえるんだろ?)
あの時はきっと慌しくて信長と後継者の信忠以外は眼中に無かったかも知れない。
だいたい信長の息子といえど 次男 信雄・三男 信孝だって信長が死んでから
織田姓に戻ってるし、その他の弟たちだって織田を名乗れるのは信長が死んでるからでしょ?
信長生きていたら次男三男は織田姓を名乗ることは無いだろうし、他の弟たちも養子行きのような気がする。
あの慌しさの中なら、そんな間違いもあるかもね。

211 :
逆に二男三男が呼ばれなかった場に、わざわざ信忠とともに上洛しているって時点で、
そんな軽い扱いされているわけじゃないと思うんだが。

212 :
PROXY規制がおかしくなってて書き込めなかったのに、
直った途端書き込んでるお前らが好きだぜ。

213 :
>>208
法名をつけた清玉上人直筆と伝わる阿弥陀寺の過去帳の影印を見る限り、
はっきりと「松」と書かれてますね。
ただし変直後のモノでないので、そこらへんが気にはなりますが。
勝長が兄弟の中でも特別、厚遇されているかについては、犬山城主といっ
ても、家督である兄・信忠の領地の一城主(つまり城代ですよね)である
訳ですし、「信長公記」を見る限り、常に信忠の家臣(与力か)の扱いで
武田攻めの際も信忠配下として森長可や団忠正とワンセットで行動をして
おり、独立した行動は見いだせません。
兄弟として見ても、兄の信雄・信孝は他家を継いだといえ、一領主ですし
秀勝は養子、弟といえば、みな元服前(10歳前後以下)で比較対象にすら
なりません。
結局、勝長は死ぬまで信忠の一配下であり、だからこそ本能寺で信忠にし
たがって戦死する羽目になったのはないでしょうかね?ちなみに団忠正も
一緒に本能寺で死んでます。

214 :
>>213
勝長は信忠の与力だから、それはある意味当然だね。
大体、敵から戻ってきてすぐに、与力になっている事自体が厚遇なんだと思うが?
戻ってから死ぬまでに7ヶ月だから、安土での対面が想定外に目立つのか
武田攻め以降、折りをみて与力から別に取り立てるつもりが信長にあったのか
その辺は分からないね。
もう少し長く勝長が生きていれば、本能寺がなければ、はっきりしたのだろうけど。

215 :

上のほうから読んできての疑問です。
まず一つ目。上のほうでは織田と津田は同じだと書かれているが、
本当に織田と津田は同格だったのか。
だったら信長の弟の息子の津田信澄が織田を名乗らなかったのは何故。
堂々と名乗ればいいのでは。(まあ父は信長に謀反を起こしているけど。)
津田三郎・津田菅九朗とか信長・信忠が名乗ったことがあるなら納得できるが。
どう考えてもこいつらが名乗ることはなさそうな津田と織田が同格とは思えないんだよね。
織田と津田に格差があるなら信長・信忠・勝長は同日に死んでいるため院号がついていないこともありえそうだ。
その他の勝長の兄弟たちは信長よりも後に死んでるから法名ぐらいどうにでもなりそうだ。
2つ目の疑問
そんなに大事な子ならなぜ幼い頃に他家に養子にだしたのか。
信雄・信孝は信忠と歳が近いから家督争いが起こるかもというのもわかる。
もし嫡男に準ずるのであれば、あきらかに歳の離れている勝長を養子に出す必要はないのでは。
信忠が無事に成人して家督を確実に継げるとは限らないじゃないか。
他家を継いだ後、信忠が死んだとすると武田勝頼みたいに揉めそうじゃないか。
歴史に詳しいわけではないので自分の疑問を書いてみたけどどうだろう。

216 :
>>215
織田と津田が同格というのは正しいと思う。
ただし、同格な。
全く同じという意味ではない事は分かるよな?
区別はあるから、格が同じという意味。
勝長の場合問題になっているのは、津田源三郎という名前しかなければ
誰も疑問に思わないところだが、織田信房という名前があったと
伝わっている事が問題。
他の兄弟が信長存命中に織田姓を名乗らせてもらっていないにも関わらず、
勝長は名乗らせてもらっているならば、それはどういう意味なのか?という事。
あと、他家に養子に出すという意味でいうと、信雄、信孝、秀勝のように
全く血の繋がりのない家に養子に出されたのと違っているという事がある。
信雄、信孝は謀略目的。
秀勝は秀吉側の計算と、信長の家臣への掌握術の思惑が合致した結果。
勝長の場合は、信長の実の叔母の元へ養子に出されている事から、
親戚にお預けという意味もある。
嫡男に準ずるのであればある程、信長自身の経験から家督争いが起きないように
配慮するのは極めて自然。
もちろん、たまたま勝長の場合はそういう後世に不可思議に思える状況が
重なっただけで、信長の意識では信雄達と同じような扱いだったのかもしれない。
それはもう分からない訳だ。

217 :
>>205
その人を叩くつもりはないけどブログを読んでいると
それって2ちゃんに書き込まれたまんまじゃんか?!と
思えるものもあるから本当に自分で検証しているのかは
疑問かもしれん。それはmixiの方にも言えることだけどね。

218 :
ごめん。sage忘れた。

219 :
勝長の厚遇についての意見として、213と214に共感するな。
城持ちとなり嫁を迎えてはいるけれど、織田家の幹部候補生として
長兄のもとにあって見習い中(下世話な言い方ですまん)だった、
・・・という印象があるんだよね。

220 :
信長は勝長を信玄でいう信繁みたいな存在にしたかったのかもと
いう書き込みをどこかのスレで読んだ時になるほどねと思った。
この頃の信忠の周りには家臣は育っていても肝心の支えるべき
一門衆がまだ育つどころか候補すらいなかったからね。
(信雄と信孝はあのとおりだし)
もし信忠に松姫が嫁いでくることになりそれに伴ってついてきた
武田方と織田方で対立が起きたとしても、人質時代に
顔見知りになっていたと思われる勝長ならうまく調整が
できるだろうと見込んでいたとしても不思議ではないと思われ。

221 :
w勝頼に仁科盛信、北条氏政に氏照他2名・・・とか?

222 :
>>217
ブログに先に書き込まれたことが、後から2chで書き込まれている事もあるので
あそこを読んでいるここの住人は多いという事でFAということじゃないか?
あそこのブログ主はヤフトピ住人みたいだけどね。

223 :
>>221
意味不明
>>222
そのブログ見つけて読んできたけど、ここだけでなく
史板を含めると自分は史板⇒そこ⇒ここって感じかなと。
勝長生母やらなんで厚遇?議論の発端はここではなく全て史板だから。
その前にも実は三戦でも書かれていたけど電波扱いでスルーだったw

224 :
>>223
意味不明でしたか?
当主たる兄を助けて奮闘した弟達なんだけどね。

225 :
>>223
そこのブログ、春くらいに史板で勝長の話題が出た時に
「自分が今書いてる濃姫小説のネタと同じような事が史板で話題になってる
二番煎じだと思われたらいやだから、そのネタがスルーされてほしい」って
書き込んでたんだよね。
今は削除しちゃってるけど。
近江國輿地志が検索ワードに引っかかるようになったって話題の時にも
同じような事書いてある。
最近濃姫の事でメール貰うようになって、ちょっと広まって来たのかも
しれないから、そのネタで他の人が小説書く前に先に書いて主張しとこう
って書き込みは残ってるのかな?

226 :
勝長が織田姓もしくは津田姓を名乗るのは当然じゃないか。
だって養子縁組解消されてるだろ。ほかに何を名乗ればいいんだ?
ついでに勝長は本当に五男なのか。子供いるし・・・・
もし四男なのに五男とされているなら次男・三男の例もあることだし
母親が濃姫とか身分のある人ではないよな。

227 :
次男、三男の例って、まさか吉乃の子供だから次男に繰り上がったなんて
信じてる奴、まだいるの?
信孝は熱田で生まれたけど、報告したのは信雄が清洲で生まれた後だった。
清洲で生まれた信雄が先に周知されてるから、信雄が次男になったってだけだぞ?
勝長の死んだときの年齢は14〜15歳くらいだから、当時の武将としては
子供がいるのはおかしくない。
秀勝は元々病弱だったのは分かっている事だから、武将として健康だった
勝長と比べて、子供がいなくても不思議はない。
結婚したのじたい、信長没後だし、結婚前から容態が悪化していた説もある。
その後すぐ死んでるしな。

228 :
その秀勝なんだが、もともと病弱だったのだろうが、
死んだ時期が腑に落ちないんだよな。タイミングが。
うがち過ぎか・・・

229 :
>>225
勝長が濃姫の子というネタなら井上力がすでに
もう一つシリーズの中で書いているんだが。
関係ないが、友人は2年ぐらい前にはそのネタでの
小説をすでに書き終えていたりする。
今のところ本人は出す気はないと言っているが、
どれ、尻でもたたいてくるかなw

230 :
>>228
自分もそのタイミングはちょっとと思うね。
だが>>227は子供がいるいないの話題だから、そっちまでは突っ込んで書かなかった。

231 :
井上力って誰?

232 :
>>230
そうなんだよね。
柴田勝豊の場合は単なる病死だと思うんだが、
秀勝の場合はね。あのまま長生きしていたら、どうなっていたか。

233 :
「井上力が『もう一つの戦国時代』の中で近江國輿地志で濃姫生母説を既に書いている」
そう、書いてまわっている人は(一人か複数かは知らん)一体何の目的があるんだ?
自分は史板でそれを見かけた時に、鵜呑みにして古本屋で上下2冊買って来た。
内容はトンデモで読み進めていくのも困難な程妄想爆発だった。
おまけに、近江國輿地志の文字の1行も出て来ない。
濃姫生母説に関して言えば、お次丸との関係でちらっと出て来たが根拠も書かれていない。
本当に、何がしたくて井上力を書き込んでいるんだ?

234 :
ん? 
俺も以前それを読んだがご坊やお継の母はお濃ではないかとか
成菩提院に宿泊、その夜ご平産となんたらかんたらと
書いてあったような?
で、戦国好き仲間とそんなバカなぁ〜wと盛り上がった記憶も
あるのだけど…。(この話をしたのは久しぶりに弓馬仲間数人と
山梨で集まった時だったから記憶間違いということはないと思う)
俺は図書館で借りて読んだから今は手元になくて確認のしようが
ないんだけど、例えば参考文献とか下にあった注記の欄にも書いてない?

235 :
そうか、要は「井上力」とは妄想癖のある痛いヤツなんだな。

236 :
>>234
残念ながら巻末の参考文献一覧にも全くない。

237 :
ちなみに自分が古本屋で購入したのは初版本。
重版改訂されているかは自分では確認できない。
坊丸とお次の事が出てくるのは上巻のp.365だったが、信長と
信長の影武者だった濃姫のそれぞれが作った子供をあわせて
19人だろうなどと、訳の分からない事しか書いてなかったぞ?
他で坊丸出てくるところは、自分では見つける事が出来なかった。

238 :
>235
本人のページを見たら頭が痛くなるぞ。
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/

239 :
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage3.htm
ここ読んでみた。懐疑主義なのかパロディなのか、誰か教えてくれ。
この構成力だけは素晴らしいものがある。

240 :
まあ何と言うか・・・・うん。別な意味でスゴイね。
何者なんだろうこの人は。作家なのかな?
プロフィールとか無かったからわからなかった。
世の中には同じ本読んでも違う風に解釈する人っているよね。

241 :
巻末のプロフィールでは中小企業診断士で、社会保険労務士になってたよ。

242 :
自分は「近江・・・」はあくまでも地志なので、
史的な検証はさておき、伝承や風土記等をそのままに記した江戸期の書物
と考えてるけど、他の板やスレにおいては
「濃姫の出産を証明する古文書が最近発見されたんだよ」
・・・なんて書き込みがあったりするね。
恥ずかしながら自分もネットで初見聞した人間の一人だけど、
濃姫は子どもを産んでる!ということは未確証なのに、
ネット上では「史実」に成長して一人歩きし始めてる感じだな。

243 :
「史実」と思ってる人はそう多い訳じゃないんじゃないかな?
ただ、元々、濃姫は「若君」は生んでない説って言うのは
勢州軍記の記述からもあったからな。
つまり、姫は生んでるんじゃないかと言ってた人はいたからね。
もっとも、濃姫長寿説そのものも最近だし、早死説をとってた人は
子がいる可能性自体をはなから考えていなかったと思うけど。
織田家が女性の記録を残さない伝統があったって言うのが
事態をややこしくしているよね。
そういえばブログ書いている人も、姫じゃないかって書いてたね。
面白いから勝長で小説は書いてるけどってあった。

244 :
女性の記録は残さないっていうけど、
流石に正室が子供を生んでれば記録ぐらい残りそうだけどな。
信長の子供で母がわからない子は何人もいるけど
正室が生んでれば何かしらの記録が残ってそうだ。

245 :
そういう記録があったとしても秀吉が潰していそうだが。

246 :
仮に潰したところで必要性を感じないけどな。

247 :
潰したところで必要性を感じないけどな。

248 :
秀吉とねねのイメージ(子供はいないがしっかり者の正室を大切にした)って
信長と濃姫の真似っこじゃないの。
実際は秀吉とねねはそんなに仲良くなくて、信長と濃姫の方が仲良かったような気がする。
根拠は全くの勘だけどw

249 :
そんな勘を語られても困るなw

250 :
>>248
真似というのは変だが、信長側には子供のない正室のあるべき姿が
イメージされていたんではないだろうか?
自分の正室と重ね合わせてな。
それで、信長はおね宛の書状の中であのように書いているのだと思う。
秀吉にも見せて良いと書いてある事からも、夫婦でそのように
表面上だけでも振る舞う事で、家臣や側室にもけじめを付けて
みせる事が出来ると考えた気はする。
秀吉とおねは、夫婦仲はよかったと自分は思っているが、二人とも
大家の正室としてどう処していくかを学べる家に生まれていないから、
アドバイスだったのかな?と。
ただ、信長と濃姫の仲も、自分は悪くなかったと思っている。
仲が悪いのに、そう振る舞えというのは、秀吉に言うならともかく
信長の身近な女性への態度として、おねに言うとは思えないからな。

251 :
想像力を駆使することも検証には大切だし
想像力が無いと、歴史の探求心も湧いてこないだろうが、
夫婦間の実際にたちいった話をすすめていくと
歴読の戦国女性特集によくある物語風になってしまう・・・・



252 :
まあまあ、もともと妄想を語るスレなんだから気にするな。

253 :
むしろ歴読の戦国女性特集でも上等。

254 :
歴読で思い出したんですが、
「濃姫は生きていた!總見院に墓発見!!!」の岡田正人氏は
今もなにか研究成果とか発表してる人なの?
著作とかもあまり見かけないよね。
どういう位置にいる人なんだろう。

255 :
>>254
岡田正人氏は「織田信長総合事典」がかなり売れたみたいだし
講演会とかよくしてるしな。
あと、歴史雑誌にはよく原稿書いてるんで、そっちが主じゃない?

256 :
あげ

257 :
保守上げ

258 :
ここや濃姫スレにO氏本人が来てると思ってた。

259 :
>>258
自分はO氏よりI氏が来てると思ってる。

260 :
資料には女の子とはほとんどかかれないからね
今では軍勢を率いる人が高く評価されるけど
先陣に達人の方が資料にはよくかかれる

261 :
うp

262 :
最近、ここも書き込みないねぇ。
みんな史板の濃姫スレ行っちゃったのかな?
あっちだと、難しい文献や史料の話が中心で
気楽に書き込めないんだよなぁ。
史板に書き込む程の歴史の知識はないから、ROMしか出来ねぇよ

263 :
>>262
そんな事ないんじゃないかな。
わりーと、憶測と妄想だけのレスも見かけるぞw

264 :
あのスレ、史板にしては勢いありすぎ

265 :
でも、実際に書き込んでいるのは数人しかいないと思うよ。 
 
>>292 
とりあえずここに書き込んでみれば?

266 :
アンカー間違えた 
294ではなく>>262

267 :
>>262
知識はないけど、気軽に根拠のない妄想を書き込んでるよw

268 :
んじゃ、歴史に詳しくないけど書き込んでみます。
勝長って、武田にいた時に戦で活躍したって逸話があるみたいだけど
普通に人質を戦に連れて行って、「すごいだろ〜」なんて
勝頼が北条の誰だかに自慢したりするような事なんてあるんですか?
あと、武田で武将として活躍したのに、織田に戻ったらそんな事忘れたみたいに
武田攻めに加わってるけど、織田ではどうしてそんなに信用できたんでしょう?

269 :
流石に帰って来たばかりだし信用はされてないだろう。
武田攻め参加は、武田と決別し織田に戻ったという証を見せるためじゃなかろうか。

270 :
自分もそう思う。試した感はあるかなと。
それから人質時代に築いたであろう?人脈は
攻略する上で何かと使える場合もあるから。
勝長の逸話については勝頼が自慢しにいったのではなく
確かその戦いぶりを見ていた北條方の武将の感想みたいなもんじゃ
なかろうかと思う。武田と北條は同盟関係だったから、勝長が
人質として来ていたということは北條も知っていただろうから。

271 :
なるほど〜試したと考えればいいんですね。
でも、試す前に城貰ってたって言うのは
やっぱり信長の子供だからですか?

272 :
あ、ID変わってるかもしれませんけど、>>271>>268です

273 :
謀反人の子に大溝城をやるくらいだから別段不思議じゃないと思う

274 :
謀反人の子って言っても、ほとんどの信長の庇護下で育ったようなもんだし
その謀反人=信勝を実弟なのに暗殺しちゃった訳で、甥にはそんなことで
つらい思いさせたくなかった気がするなぁ。
意外と親族には甘い信長ですからね。
信勝だって一度は許しているというのがあの時代にはとんでもない事で
普通は最初の稲生の戦で負けたら責任とって殺されるものですよ。
むしろ、ずっと信長の元にいた信澄の方が、敵の武田で育った勝長より
信用できるのは当たり前の事なんだよな。

275 :
この人が主人公の小説って宮本昌輝の『最後の赤備え』
(尼首二十万石に収録されてる短編)以外になんかあります?

276 :
>>275
宮本昌孝だよね?

277 :
あーそうです。
なんか色々まざりました(;´ロ`)

278 :
優駿の宮本輝と混ざったのかな?

279 :
>>278
真田昌輝(幸隆次男)。

280 :
あげ

281 :
しかし、よく武田家も勝長を送り返してきたな。

282 :
留め置くほどの利用価値もないってこったろ
人質にとっておいたところで、それで進撃やめるわきゃないし
何だかんだで大人まで育てて、殺してしまうってのも後味悪いし

283 :
>275
ttp://www.7andy.jp/books/detail?accd=31810292
『新織田戦記 1 本能寺炎上、天下擾乱す!』 河丸裕次郎
ifものですが。

284 :
>>283
他にも教えてくれないか?オススメのやつ。
自分では全然探せない・・・

285 :
武田氏の遺臣を治めるなら、
武田信吉みたいに武田の名跡を継いだり出来たかな?

286 :
>>285
勝長が生きてたら、信忠も生きてるってことだから・・・
武田の名は、信忠と松姫の子供に継がせると思うな。

287 :
>>283
恥ずかしながら、こんなオイシイ(?)立ち位置の人物がいたことを、この作品で初めて知ったよ。

288 :
まあ、よほど歴史スキーじゃなきゃ、しらんだろ。
織田に戻ってから、本能寺後に活躍してればいざしらず、本能寺で死んだからなぁ・・・・
格から言えば、信長、信忠の次に上だったと思うけど・・・森蘭やらのが有名だしな。

289 :
織田と武田が同盟してた過去を知らない人も多いのでは?

290 :
あげ

291 :
>283
2がでたね

292 :
あげ

293 :
勝長の業績を一番詳細まで紹介してある本って何だろ?

294 :
本にまとめるほどの業績なんてないだろ

295 :
>>293-294
織田一族の本で一番詳しい奴で良いのでは?

296 :


297 :
>>285
>>286
仮に勝長が継ぐなら、名前はどうするんだろ?
織田家も武田家も通字は「信」の字だけど。

298 :
武田信信

299 :
信房

300 :
信繁 
信盛 
信義 
信勝 
信道

301 :
織田に戻った時点で「信房」になってるから、そのままの気も。
わざわざ、改名するだろうか?

302 :
>>297
家康ほど信長は気を遣わないので、武田家は滅亡のままかも?

303 :
伊勢に何人も養子を送って名跡を奪った信長が、武田の人質だった我が子を使わない手はないだろう。
織田氏としては信房でも甲信が落ち着いたら武田勝長を名乗らせるつもりだったかもしれん。
穴山信君が武田の家督を預かっているのに武田を名乗らないのも不自然だし。

304 :
>>303
勝長に織田・津田姓を与えたのは武田姓を与えるまでの繋ぎだったかもしれないね
(もちろん武田ではないかもしれないが)

305 :
勝長が武田家でどういう暮らしをしていたのか知りたいな。
なかなかの武将だったって言われているし。
逸話のひとつぐらいなにかないのかな。

306 :
>>305
逸話があっても、江戸時代の創作とかかな?

307 :
そりゃ、逸話が最も残ってたであろう武田は滅びて、
その後戻った織田すらも、大して間も置かずドタバタだからなー
どっちにも残ってない・・・なんという薄幸。

308 :
一応、北条と上杉に、戦の時の逸話が残ってるらしい。
織田に戻ってからの書状も2〜3通あったと思う。
自分が見た事あるのは2通。

309 :
そうなんだ・・・
濃姫以上に謎の多い人物なんだね。
でも本能寺の事件で死ななかったらどうなってたんだろ。
勝長がどういう位置の存在であったかとかもっとわかったかも知れないな。
光秀の謀叛のせいで、なにもかもが謎になってしまった。
まったく明智のバカヤロー

310 :
>>309
俺、勝ちゃん好きだったのに。
ホント明智のバカチン。

311 :
なんで信長の息子で一人だけ法名に「巌」がついていないんだろう?

312 :
院号がついてないのも不思議だ
生母の身分とか関係なく皆ついているのに

313 :
>院号
前の方で散々語り尽くされて結果不明だったんだな
今読んで来た

314 :
官位すら持ってない勝長を「信雄や信孝よりも明らかに上の扱い」という
>>1 に完敗

315 :
>>314
おそらく>>1が言ってるのは、官位の事でなくて身分のことだと思うよ。

316 :
>>315
勝長は、独立した軍事力を持たずに、信忠の附属的な存在だったから、
身分上でも上の扱いとは言えないのでは?
「源三郎」という輩行や、「信房」という諱をこじつけて
信忠よりも嫡流に近い、という人もいたけど。

317 :
そのへんはどうなんだろうね。
結城や松平な次男と徳川な八男九男どっちが上かって感じかね?
もっともこの場合の八男九男は官位でも領地でも上なので上下は明白だが。

318 :
>>317
おいおい制外の家である越前松平の方が領地も上だろ?

319 :
>>40
遊女の子ばっかじゃないよ。どこからそんな結論に

320 :
連枝衆の中でも地味だな。

321 :
本当に実在したの?

322 :
実在はしているだろうな。
書状などが残っているし、勝長宛の書状も残っている。

323 :
この系統の子孫っているのかな?

324 :
確定では前田家に士官した息子がいるけど他に未確定ながら 
鳥取の津田と福井にある寺の初代が勝長系統らしいよ。 
鳥取は池田つながり福井は甲斐武田→若狭武田と 
どちらも完全否定できない伏線はいちよある。

325 :
信長は上杉謙信に養子を差し出すことを約束している
実現しなかったけど、勝長を派遣する予定だったのかも

326 :
伊豆重須沖合戦に軍監として出陣してるな。
武田一門衆として重用されていたのは間違いない。

327 :
信玄の養子?

328 :
一応養子扱いだな。
大大名の子供の人質だから、そんなものだろう。
反目していても、いつまた同盟を結ぶか分からない時勢だからな。
その時点で対立勢力でも、手荒には扱わないよ。
戦時の捕虜というよりも、騙して攫ってきたようなものだしな。
武田攻めの時も、武田勢の何人かが勝長宛に助命の助力を請う書状をだしている。
その書状があるおかげで、天正10年時点で信房が正式名だとわかる。

329 :
>>327
岩村城から人質として甲斐に送られたあと、一応、信玄の養子となったんでなかったっけ。
信長より、武田側に入った叔母の下で育ったようなもんだし、意外と割り切っていたりしてな・・・

330 :
>>329
叔母の元にいたのは1年くらいだけどな。
勝長が養子として岩村城に行ったのが元亀2年。
4〜7歳くらいと言われている。
4歳ならまだ物心もそれほどついていないが
7歳だと、昔の武士の子息はかなり躾けられているからどうかな?
人質になったのが元亀3年11月。
戻ってきたのが最近出てきた説では天正8年春くらいかもしれないという説もある。
ただ、その説の元になる史料の信憑性が疑問視されていて、
その史料の傍証として、その説を唱えた論文中で引用されていた史料では
天正9年11月以前に織田に戻ってきていると、明確に分かる史料がない。
しかし、どちらにしても8〜9年は武田にいた事になるからな。
武田で武将として育てられたようなものだというのは、真実だな。

331 :
良スレなのでアゲ
織田家好きの俺にはたまらない話題だ、知識ないから書き込めないんだけどね。

332 :
そうだ。
勝長が武田家にいる時、かなり活躍した逸話があるとか。
知ってる?

333 :
>>332
甲陽軍鑑にでも紹介されてるの?

334 :
北条家に残っている史料だったと思う、詳しくは知らない。

335 :
>>333
信孝か信雄スレで見た。
>>334
そっか、残念。

336 :
>>332
武田家に居た頃に戦に出たなど、聞いたことが無い。

337 :
死んだとき15だからそれ以前に戦で活躍ってのは無理があるだろう。
ついでにage

338 :
15歳とは確定していないよ。
17という説もある。
反対に13という説もある筈。
戦で活躍したと書かれた文献が、武田でも織田でもなく
武田の戦に加勢した北条の言葉として上杉に残っているんじゃなかったか?

339 :
17でもあまり変わらんがな。
帰国したとき16じゃ戦で活躍できたかは限りなく怪しい。

340 :
13くらいから戦に出る時代に、16なら立派な若武者じゃないか

341 :
初陣の前に何回か地ならし的に戦にでるもんじゃないだろうか

342 :
>>339
勝長の兄信忠は18歳で岩村攻めの総指揮を取っているじゃん。

343 :
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344 :
上杉家に養子に入ってたら、人生もう少し変わったろうな。

345 :
信玄の養子になったとしても信玄との面識はないだろうな

346 :
>>345
御館の乱みたいなのが起きるほど武田家中に勢力が無かったね。

347 :
歴史読本に勝長の子孫(伊勢正元)の娘が家綱の乳母になったとあった(資料が手元にないのでうろ覚え)。
家綱の乳母は川崎を通名とし、その後御年寄老女となり、その娘外山、その養女富岡も大奥の御年寄に就任したという。
何故「伊勢」?
何故三代にも渡って御年寄になれた?
子孫が没落しているようにも思えないのに、どうして院号はあのまま?
ご存知の方、教えてください・・・。

348 :
その歴史読本とは、
別冊歴史読本「女人たちの江戸城 大奥」内の
大奥人名辞典かもしれんな。
家綱の乳母の「川崎」は、京極若狭守の家臣の飯田氏との間に
娘がいて、それが「外山」なんだろう。
大奥内では推挙も必要だけど実力も伴えばなれるだろ、御年寄は。
定員1名というわけでも無かったのだし。

349 :
>348
ご回答、ありがとうございます。
別冊歴史読本「女人たちの江戸城 大奥」
確かそんな書名だった気がします。
図書館の江戸時代の棚にあったので。
他にも2008年6月号(7月号?)の歴史読本には、4代将軍家綱の乳母の項に勝長の末裔「伊勢正元」という記載もありました。
乳母になるくらいならさすがに「自称」子孫じゃないでしょうが、いかんせん系図が分からない。
浅学なもので、伊勢というと伊勢国司つながりで信雄が養子縁組に関わっていたのか?なんて考えてしまいました。
我ながら妄想逞しい・・・。

350 :
>>345
岩村が落ちた時、信玄は三遠に出陣中(俗に言う上洛戦)だからね。

351 :
>>1
>義兄である、信雄や信孝よりも明らかに上の扱い。
本当に?

352 :
微妙だなぁ
兄達は独立した軍団長、信房は次期中央政府の直属
どっちが上とは一慨には言えない部分ではあると思う

353 :
保守

354 :
谷口克広の「尾張・織田一族」って本には、詳しい解説とかされてるの?
勝長は資料が少なすぎて飢えてますが。

355 :
保守

356 :
織田家フリークの谷口先生が一冊の本にして欲しいもんだ。

357 :
谷口克広の「尾張・織田一族」にも勝長のことは2ページ程度しかなかったのに。
一冊の本どころか、パンフレットにしかならないよ。

358 :
分かってる事が少なすぎるからなぁ。
書状が2通しか残ってないんだっけ?

359 :
>>358
そうなのか・・・
書状と北条の資料(>>388)と信長公記の記述をかき集めれば
多少ページ数は稼げるか。
個人的には北条の資料が見てみたい。
しかしここのスレの人は史学科出身の人が多いのか?
市販の本より詳しいってすごいな。

360 :
失礼。
>>388ではなく、>>334に出てる資料の間違いだった。

361 :
誰か、>>334にある史料の詳細を教えてくださいな

362 :
享年が何歳にしても、子孫が残っているっていう事に驚きだ。

363 :
武田にいたときに既に子どもがいたなら
織田は驚いただろうね
名前は付けられてるわ(勝長)、子どもはいるわ・・・
織田に戻ってきてから子どもができたら、昔は数え年だし
そんなにおかしくない年かもしれない

364 :
このスレ興味深い話はちらほら出るけど
ソースはほとんど出てこないんだね

365 :
記録そのものが少ないわけでしょ

366 :
この前、犬山城へ行ってきた。
歴代の城主の名前にちゃんと「織田信房」の名があって嬉しかった。
城の前にある売店で「犬山の歴史散歩」という本を買ったが、
その中にも信房のことがちょっと書かれていた。
1ページ程度だけど。

367 :
歴ゲ板に行ったら肥が「戦国アンジェリーク」を発表で
主役の女の子が「織田・アンジェリーク・信長」だった…
なんだかもう人生がどうでも良くなった

368 :
初代アンジェリークはゲームとして傑作レベルらしいね

369 :
この人も母親誰かわからないんだよね

370 :
      _,,,,,,,,
     , - ' ゙    `` ‐ 、_,,,,,
   ,r'          /=ミ
  /           彡ll',''´
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 !-- .、    ,、、、、,,,   彡lノ
 l,,,,,__ /   ___     'r''゙ヽ
. |`゙'' ./   `'゙'''"    .〉,l |
 |.   ,'           //     家系図が明治大正に4代も不明なら、おまえはワシの末裔じゃないだろう
. ',. ,'           , r' 
.  ゙, ゙'ー ‐`      l  |
   ゙、''゙ ,,、二''‐    ノ  l、
''''''''7'ヽ  '''    /   /`〉`゙T''''''''''  
  l  ` 、,,,,、- ' "    / /.|  |   織田信成が織田信長の子孫って本当?【3代目】 
.  |  |  .l i       / ./ |  |   http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/skate/1277120346/ 
  |  |  | l      / ./ .|  |
. |  |   | l     / /  |  |
 |  |   | ',   / /  l  .l


    ∧∧
   (  ,,)   『やっぱり・・・・。』
   /  |
 〜(__)

371 :
上げ

372 :
あげ!

373 :
源三郎の源はどういう意味なのかな・・?

374 :
織田家に戻ってからは「勝長」を捨て「信房」になったらしいけど、
子供は「勝良」を名乗って加賀前田家に使えたらしい。
>>373
養子になってた甲斐武田が源氏だから、源が付いたのかな?

375 :
なんで三郎なんだろう?
三男じゃないのに。

376 :
>>375
信長の通称が三郎
勝頼に二男子がいたから

377 :
>>376
信長が三郎なのは知ってる。
子供でも三吉だの三介だの三がつく子はいるが
なんで信房が三郎なのかな?と。
信忠は、美濃の支配のために濃姫の養子として
道三の勘九郎を引き継ぐことで、正統性を強調したと考えられるから
仕方が無い面もあるとは思うけどさ、
なんで武田から戻ってきた早々の信房に、源三郎を与えたのかな?と。
単純に、信雄、信孝、秀勝の成人している男子が養子に出てたからか?
でも、信房だって、本能寺がなかったら、また他家に養子にいってた可能性もあるのになと……。

378 :
彼は謎が多いですね・・

379 :
通称の源三郎もともかく、織田家に戻ってから信房なんだよな。
最近、信秀正室で信長生母は、小嶋「信房」の娘説が有力になってきてるし
爺さんから取った名前ってことになるな。

380 :
親父のみならず爺様の名前まで頂戴するとはまじで勝長って
いったい何者なんだよw
やはり理由あって事実を消された正妻腹の正統な嫡子だったのかな?
うは〜ロマンだ!

381 :


382 :
早死にしたのが惜しい人物

383 :
 

384 :
源三郎を三郎と同一視して嫡子と妄想する理由がわからん

385 :
織田勝長と岡田克也、なぜ差がついたか

386 :
勝頼によって元服させられたから勝長なのか、それが重要イシュだと思いまつ

387 :
戻って来てからは信房だからな

388 :
「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、文書上から確認される実名では津田源三郎、織田源三郎信房

389 :
秋山虎繁を夫として迎え入れることで武田方との和議が結ばれた。その際、坊丸は甲斐国に送られ、信玄の養子(人質)となった。

390 :
>>388
甲陽軍鑑的には勝頼の「勝」&信長の「長」なのかな?

391 :
>>384
嫡子相当だったら、も少し立派な法号がつくよね・・・

392 :
本能寺がなく勝長が生き残ったら
どのようになっていただろうかな?
信忠の片腕?(実質織田家のNO.2)
正妻は、年齢的にお市の三人娘のだれか?
あるいは武田をついで家を起こした?
領地は?

393 :
Rよ、気違い女

394 :
>>379
>最近、信秀正室で信長生母は、小嶋「信房」の娘説が有力になってきてるし
爺さんから取った名前ってことになるな。
超久しぶりに来たら、こんな情報が・・
ありがとうございます。

395 :
馬鹿が真に受けてるw

396 :
>>395
きちんと反論してください。おバカちゃんw

397 :
>>396
自説に都合の良い気違いじみた勝手な解釈じゃなくて、
明確に証明できる一次史料を出してみよろ、おバカちゃん

398 :
>>397
おめーさ、空気よめよw

399 :
>>398
で、史料は?w

400 :
この人、もっと知名度が上がればいいのにね。
武田に人質に取られたり、波乱の生涯を歩んでるのに、
知ってる人あまりいないから、もったいない。

401 :
本能寺で死ななかったらどうなってたかという人物ではある
他の4男以下と同じくその他大勢で終わるかな

402 :
何で信房なのに子供は勝良なの?
房良とか信良なら分かるけど。

403 :
勝長⇒信房と改名してたとして、勝長時代にすでに名付けてたのでは。

404 :
>>403
5男(秀勝の下)説をとると、勝長が死んだ時点で息子が元服してるのはありえない
信雄に仕えた時期もあるらしいから、信雄の息子の信良にちなんでつけられた名の可能性もあるかな

405 :
逆に考えるんだ。勝長が四男だったと……むしろ次男だったと考えるんだ。

406 :
保守
でもなかなか話題ないよな〜・・・

407 :
武田が、勝長の身柄を岐阜に返すことを申し出たことで、信長は武田側の衰退を見て取り、甲斐征伐を決定したとか

408 :
>>407
はいはいウソ乙w
内応してきた木曽氏の救援依頼がきた時ですら、武田領へ攻め込むのを躊躇ってたくせにw

409 :
>>407
新田次郎の小説ではそういう話だったな

410 :
>>409
読んでみたいのですが、「武田勝頼」でしょうか?

411 :
保守がてら再検討したい>>349の伊勢関係
本当に勝長の子孫かつその伊勢が伊勢家の方ならたしか信長とお濃の
養女関係が伊勢家絡みだからつながってきそうで興味ある話だな。

412 :
尾張城主 織田勝長
政治49
戦闘56
魅力86
野望59

413 :
>>411 
信長の娘として嫁いだ勝頼先妻も池田元助先妻も伊勢家の出だお 
なのでつながっていたとしても不思議ではあるまい

414 :
家綱の乳母・川崎は「伊勢正元の末裔、川崎某の女」
乳母→お年寄

415 :
久々にageてみるついでに妄想を落としていく
盆休みで帰省していた時久々に親戚が集まったんだがいとこ同士なんだが
顔がそっくりという奴がいていとこは案外似るんだよなみたいな話題に。
それで思ったんだが勝長と信勝は血のつながった従兄同士だろ?
もしかしたら両者は顔がかなり似ていて勝長の了解の下で入れ替って
返還されてきたのは実は信勝なんてことはない?
養子に出されたのは幼い時だから顔なんてどう変わるかわからないし
血のつながり自体はあるからごまかそうと思えばごまかせたと思うわけで。
そう考えた方が前の方で議論された戒名の不可解さとか滝川が建立したという
妙心寺の信長父子墓所(武田首塚墓のすぐ隣)の不可解な件とか解けるかなと。
信勝の戒名は見ればみるほど織田家の戒名みたいにも読めるし。
素人考えなんで叩かないでおくんなましm(__)m

416 :
>>407-409
勝長返還で武田が衰退してたのは察知してたんだろうね。
機を伺っていた所に木曽が内応してきたので、討伐を決定したんだろう

417 :
>>415
なるほどな・・・なかなかおもしろい妄想だと思う。
そうなると息子を晒し首にしてしまったということにもなるが…。
あと子持ちとして言わせてもらうと何年離れていたとしても自分の子供か
違う子かは親なら直感でわかると思われ。

418 :
信勝の母は、信長の養子。
祖母が信長の妹だが、母親が違うなら、さらに似るには遠く。

419 :
そうか?
遺伝なんてどう出るかわからないのもまた事実だと思うけどな
まあ妄想と断りを言っているんだから楽しめばいいじゃん

420 :
>>417
直感でわかるほど信長は勝長と顔を合わせてないと思うけどね
顔を見知ったものに確認くらいはさせたのじゃないの

421 :
率直な疑問
当人かどうか確認できるぐらい10年近く離れていて顔も変わりやすい
時期を経た勝長を見知った人なんてあの当時の織田家内にいたか?
それこそ一部でアレルギー反応起こされる信忠と松姫密会説絡めての
信忠ないし織田方協力者が松姫通して勝長とも時々会っていたから
返還されてきたのは間違いなく勝長とわかったというならいざ知らず

422 :
勝長って1570年前後の生まれでしょ
赤子のうちに養子に出されて武田に強奪されたのが3歳くらいだから顔も変わりやすいってレベルじゃない
岩村以来付き従ってた誰ぞなり乳母なりに証言させたとしても信憑性は・・・?
復帰後は好待遇だったことを考えると、>>415の妄想の信勝なんかより信長なり信忠ら兄弟なりと案外顔が似ていたのかも

423 :
本能寺の変で死んだときに息子がいたからかなり早い時期に結婚してた

424 :
源氏系統の武田で元服したとすると13歳前後の時だろうから
元服と同時に結婚コースだったと思われ。
相手は死亡年月などからなんとなく勝頼長女のような気がする。
そういや恒興の娘は側室だったらしいがもしかして信長は
人質時代に娶った武田由縁の正妻を立てる意味で側室として
娶らせたのかなと。(武田家乗っ取りに最適な駒)
それとも浅井三姉妹の誰かの嫁ぎ先候補として温存かな。

425 :
>>424
もしかして勝頼の息子(勝三)が恒興に匿われたのって勝長つながり?

426 :
>>411
徳川家康には、出ていた。

427 :
おんな風林火山がもっとも出番のあったドラマかね?

428 :
今のところはそうだと思う>>427

>>425
どうだろうなあ・・・。
匿った話が出てくる文献の中で一番古いものが恒興孫の光政が
編纂したもので(墓にある尼崎市設置の看板はこれを採用)
それによると小宮山(信玄乳兄弟)が恒興に勝親を託して田野へ
向かい託された恒興は小宮山からそう頼まれたのか恒興の考えなのかは
わからないけど一時山城醍醐寺に預け尼崎へみたいな流れになっているから
小宮山が託した時期や場所によるんではないかな?

因みだが今は宗派も寺名も違うけど前出の醍醐寺ととても深い関係
(平たく言えば末寺)とされる寺が尾張にあったんだがこの寺があった
エリアがどうやら池田ないし池田家臣の所領だったみたいなんだわ。
なので山城と恒興は関係ないじゃんと匿った話を全否定する人もいるが
一応こういうつながりはあるということで…。

429 :
>>424
調べたら勝頼の長女は天正10年の2月上旬に亡くなっているんだね。
戒名から母親は遠山夫人のような感じがしなくもないかな。
もしそうならだから信房が帰ることになった時に勝良兄弟も一緒に
連れて行くようにしたのかもしれない、男児ということもあるだろうが。

430 :
何かよくわからんが池田恒興の長女って、信長が誅殺した弟信勝(信行)の娘だよな
信長が、信勝の妻(妊娠している)を恒興にめとらせたから
男が生まれてたらどうなったのか、池田の後継いでた?

431 :
池田スレと間違っているようだけどとりあえず

恒興の長女(養女)の七条殿は池田、織田、下間、荒尾、
全ての家譜で信時の娘となっていて信時の子でほぼ確定と
なっているから信勝の子というのは誤りかと。
最近の研究では信勝寡婦→河尻、信時寡婦→恒興が有力。

432 :
>>429
龍勝寺殿花鍔春楽大禅定尼(遠山夫人)に紅映林葉大姉(勝頼長女)か。
春と秋という対関係だから案外有りえるかもしれない。
あと長女が亡くなったのは墓の刻印から天正9年と言われてるよ。

>>431
飯尾(七条先夫)の家譜でも信時女になってる。
話的には信勝の元嫁の方がおもしろいんだろうけどここまで揃っていると
善応院が信勝の元嫁というのはかなり厳しいものがあるよね。

433 :
>あと長女が亡くなったのは墓の刻印から天正9年と言われてるよ。

確かにお墓にはそう刻まれているけどお寺に伝わる話なんかを元にすると
新府へ引っ越す→長女病気になる→病没ないし自害するという流れで
勝頼達が新府城へ引っ越したのが天9の年末頃なのは間違いないから
没年は天10で合ってるとおも。

434 :
手取川の戦いの真実
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_%E7%9C%9F%E5%AE%9F.jpg/728px-%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_%E7%9C%9F%E5%AE%9F.jpg

435 :
叔母に養子入りさせたのに、武田に流されて
織田に戻ってからは、信雄や信孝のように養子入りさせる必要もなかったので
信忠につかせてたんでは?
その頃の織田は他家乗っ取りで領土拡大するより
実力行使で切り取る路線になってたから
生きてたら西か東に領地貰って独立させてたかもね

436 :
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費)

https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ファンド

437 :
勝長の生年っていつぐらいですか?確か五男ですよね
四男の秀勝が1568年〜1569年なんで1570年以降だと思うんですが
勝長には1580年生まれの津田勝良という子供がいたんですよね?
それだと10歳で子供を作ったってことになるし・・・

438 :
10歳前後の子供が孫を連れて帰って来たら信長もさぞかし驚いただろうな
武田時代に妻がいたか不明だし侍女相手にでも性交の練習したら当たっちゃったとか?

439 :
>>437
それも確定じゃなくて4男説もあるし武田時代に対北条戦では軍鑑として、
対上杉では使者として動いていたという逸話も(北条方、上杉方それぞれに
記録といえば記録みたいなものもあるけど二次以下の史料だから逸話とした)
あったり犬山城主時代の発給文書も残っているからさすがに10歳ということは
まずないし本能寺の時は若くても16歳あたりと昔からよく言われているよ。

チラ見した本には勝良の母は勝頼の長女じゃないかって書いてあったなあ
静岡や群馬で見つかった新しい史料などから勝頼の正妻で信長養女の龍勝寺殿の
没年2年繰り下がりがほぼ確定して産死したのは間違いないことなどから
この時に産んだのがその長女じゃないかということで織田つながりで
結婚させたのではないかやだからこそ信房が織田に戻った時に連れて帰ったのでは
ないかと書かれてあったように記憶

440 :
今日のテレビ番組 歴史秘話ヒストリア「戦場の花嫁 愛に生きた女城主」
すげ〜わ
おつやと秋山と二人の子の六太夫の家族愛とか信長がいかに残酷かみたいなことが中心で
坊丸一切出てこなかった・・・

あまりに一方的過ぎておつやの方が残酷じゃね?と思ったわ〜

441 :
あわよくば信忠の嗣子にしようとした?

442 :
さすがにそれはない

443 :
あの年齢で城主だから岐阜の留守居でもしてればそれなりの地位は得られたかもしれんがな

444 :
それはある

445 :
俺も今日おつやの方の回を放送してたの見たけど
信長の息子を武田に売った件について見事に一切触れてなかったw

おつやの方の生涯の流れは把握できたけど
信長を一方的に悪役にするんじゃなくておつやの方にも結構な非がある事は描いてほしかった

446 :
あの内容だと、後でおつやの事を調べて坊丸までたどり着いた人は驚くだろう。
信長の子は敵に渡して自分の子は予め逃がしておくのかと。

六太夫の子孫が方が番組に出ていたけど、六太夫関連の本で、
武田と和睦すれば少なくとも坊丸は殺されずに済むとおつやは思った、
というようなことが書いてあった記憶がある。
その路線で行けば坊丸が話に入っても家族愛でまとめられそうだ。

447 :
番組を見てた人の大半は内容を鵜呑みにするだろうから
実際に調べて信長サイドの事情まで行く人って少ないだろうな
遠山家視点の話だと見るしかないか……

坊丸は引き取ったけど織田の救援が見込めないから、武田に送る事で処刑されるのを防いだ
信長も裏切られただけでなく息子まで武田に送られた以上、裏切らなかった家臣の手前処刑するしかなかった

こんな感じなら家族愛部分でも処刑シーンでもお涙頂戴にできそうね

448 :
遠山家の視点もなにも史実かどうかも怪しいわけで…

449 :
上杉謙信に養子に出そうとしてた人質って
勝長のこと?

450 :
違うんじゃね?
チラ見だけど秀勝(お次)が実は天正7年頃まで信長の元にいたらしいことが
最近の研究で判明したとかなんとかだから秀吉の養子になった年代も
通説よりぐっと下がる指摘が出ているっぽいよ

451 :
上杉謙信が勝頼に御坊を頂戴って言ったのに対して
「うちのだからあげないよ〜」と言ったらしいけど
(このスレ関連にあったような)
その出典はなんだろう?
読んでみたいよ〜
御坊が上杉に使者として行ってたというのも出典が気になるよ
皆さん どうやって資料を探してくるんだろう

452 :
出典が書いてないのは話半分に聞いておけば

453 :
http://www.city.gifu.lg.jp/29610.htm

2017年9月24日

信長検定

454 :
>>453
リンク先のテキスト見たら
系図に「織田信房」で出てた
なんか嬉しい
犬山城に行ったときに買った本にも犬山城主として信房という記載だったような
勝長の方が一般的かもしれないが
織田に戻って付けられたであろう名前の方が本人的に?良いんじゃないかと

合格点は80点以上って最初は簡単だと思ってテキスト見たら
結構真面目に書かれていて驚いた
テキストだけでも読み応えあるね

455 :
武田氏滅亡 第34回
「勝頼の切り札、織田源三郎」
http://www.chukei.co.jp/takeda/

456 :
前の書き込みにあった信房(勝長)の子孫が家綱の乳母、という話に関連して
こんな内容の文章を見つけた。


「常高院(初)が小浜に常高寺を建立した折りにも骨身を惜しまずに尽力した
川崎六郎左右衛門の娘は「川崎」、その娘は「外山(とやま)」の名で、
江戸城大奥の大年寄りとなった。すなわち真珠院と溪心院とである。」

これを読んだ限りでは信房と関係ないように思えるけど、
川崎局は真珠院ではなくて真現院だし、どっちが正しいんだろう。
信房の子孫が川崎(真現院)でその養女が「外山」なのか、
二人とも川崎六郎左右衛門の娘なのか。

457 :
どこのスレだか忘れたけど(ここではなく史板だったかもしれぬ)、
それについて考察されていて川崎や外山の先祖は信長五男という記録から
=信房というだけの話だから同じく五男説のあるお次秀勝の可能性もある
(その寺の記録や滋賀の郷土史史料などから見るに秀勝の方が
しっくりくるかな…)

穿った見方をすればお次秀勝の系統だったけど家綱を支えた保科正之の
養母は見性院(穴山正室)で松姫もちょいと絡む(?)武田家つながりや
他方で小宮山と恒興がという記録を残したり信房の子孫といわれる藩士を
抱えていた両池田家つながり他などで豊臣の養子になっていた秀勝より武田や
池田といった幕閣や徳川血縁との縁故重視で信房と改竄された可能性は
あるかもしれんね

458 :
>豊臣の養子になっていた秀勝より武田や池田といった幕閣や徳川血縁との
>縁故重視で信房と改竄された可能性はあるかもしれんね

確かにこの可能性は大いにあると思われ

459 :
お次は子どもがいなかったのでは・・・?
お次秀勝が亡くなった時点で秀吉は上り調子だったわけだし
お次の子孫がいたらその存在は伏されないんじゃ
むしろ五男以下で本能寺の時点であまり名前の知られていなかった
信長の子供の系統が(気を悪くされたらすまん)信房の子孫としたのかなと

460 :
妄想ついでに書いていいかな

信房が二条御所で亡くなったという確実な証拠はあるのかな
なにかの本で信忠も本能寺にいたのではという文章を読んで
それなら妙覚寺から二条御所へ移って信忠の逃走を助けようとするし
ぎりぎりまで二条御所に留まって信忠が来る様子がなければ本能寺から単身逃げてくれたことを期待して
自分だったらそこで解散するかな〜
でも織田を信用して少ない手勢で来てくれている徳川に知らせは送るよな
現代でいうなら会長と社長と取引先の社長が会うのに、会長と社長がテロで生死不明だからって
こちらへ向かっている取引先に何も知らせずに逃げるのはないだろうと
自分だったら妙覚寺から移動する時点で使者を送るかな
この場合信房自身が知らせに行くことはあるんだろうかとか
つらつらと考えたんですよ

461 :
なんでこんな妄想したかというと

南光坊天海の家紋が「丸に二つ引両」と書いてあるのを見て
岩村遠山氏の家紋も同じじゃないかと
信房だったら年齢的にも天海107歳で没なんていう信じ固い寿命にはならないし(70代?80代で亡くなったことになるのか?)
二条御所から徳川に連絡し、そのまま徳川領まで一緒に行って、織田のごたごたと羽柴の台頭と
自身の軍団はないしで、織田に帰るに帰れず、武田の遺臣の取り込みに協力したりとか・・・

もちろん、Wikiにも南光坊天海のことは色々書いてあるけど
あのうさん臭さって異質なんだよな
だって天海だよ
初めて聞いたとき「空海」をもじっているのかと思って触れちゃいけない気がしたよ
長益の「有楽斎」、信雄の「常真斎」、信包の「老犬斎」と並べてみても
なんかこう既視感があるようなないような
そして子孫が微妙に厚遇されているようなないようなのも納得というか
(御年寄は高給取りだよな)

超妄想なんだけどね
全然裏付けもしてなくてすまん
ここに書いてすっきりした

462 :
史実通りに信忠が妙覚寺に居たとして
信房に徳川へ知らせに行くよう言いつける場合もあるかもしれないし
逆に信房が信忠に逃げてもらった後
信忠になりすまして二条御所に立てこもって
無事逃げられるよう時間稼ぎをするかもしれないし
(後者の方がありえそうだけど信忠は亡くなったことになっている)

本能寺の変は事変が起こったところでも
領国へ逃げた徳川方も羽柴の大返しについても
話が不確かで本当に謎が多いなと

一次資料もなにもない話での長文はこれで終わりにします。すみませんでした。

463 :
>>461
ほぼ同時期に随翁舜悦(通称卜山/勅賜仏国普照禅師)という享年120歳の禅僧が
いたから寿命については信じがたいとは思わないけどなあ
譲って入れ替えとするなら個人的に卜山の方かなあと…
天海だと信房をよく知る池田輝がすぐに気づくだろう

464 :
二条御所の戦いで生き残っても信房には軍団もついていないし何もできないだろうな
跡継ぎ争いには巻き込まれないだろうが平穏な人生ではなさそうだ

465 :
岐阜城の留守居でもしてたのなら何か動けたやもしれんが
二条御所から脱出したのなら何もできないだろうな

466 :
「武田勝頼」平凡社刊(丸島和洋著)に載っていた、
御坊丸は「勝頼のもとで元服し、織田源三郎信房を名乗っていた。
つまり、信房実名の「信」字は武田氏通字の「信」である。」
にじわじわきてる。
武田は状況が悪くならなければ一生帰す気はなかったのか?
武田の通字も織田の通字も「信」だけど、武田で付けられたと言われると
ちょっと虚を突かれた感じ。

467 :
平山は信房という名前が武田の元で名付けられたという
典拠としてどの史料を出してるの?
信長公記との違いについての考察などは?

語弊あるけど織田関連についての平山論はいまいちゴニョゴニョ

468 :
>>467
平山優氏ではなく、丸山和洋氏の「武田勝頼ー試される戦国大名の「器量」ー」です。
P.279に467の記載があるのですが、根拠となる史料は書いてないのでなんとも・・・。
論文みたいに注釈が入っていると分かりやすいのですが。
ちなみに自分が今まで読んだ平山氏の本の中では、「武田の通字である」
という文章はなかったように記憶しています。

469 :
469ですが「丸山」ではなく「丸島」氏でした。失礼しました。

470 :
平山と丸島間違えてた、こちらこそすまぬ

どちらにしても両名の論じる織田関係の考察などを
鵜呑みにするのは危険だと個人的には思う

471 :
>>466
勝頼自身に通字が入ってないのに信房に与えるかなあ
そういう考えから勝長という安直な名が流布されたのやもしれんが

472 :
勝頼は将軍から一文字貰うつもりが将軍は追放されついで親父も死んでで
たまたま勝頼のまんまになってしまっただけだからあまり関係はない

473 :
武田重臣連中から「名乗るなよ、『信』名乗るなよ」と無言のプレッシャーかけられてそう

474 :
勝頼が「武田の通字でもあるし、織田の通字でもあるからいいよね」
なんて安易に考えてなかったか心配
「和睦の時も役に立つかも〜」って立ってない
武田で元服したとしても織田でも「信房」のままだったということか
織田も「信」が付いているからまあいいか、だったんかい

475 :
>>472
関係ないなら嫡男になった時点で信頼とでも改名すればよかったのに

476 :
ホストが一致するばあいもあるんだよ!

477 :
>>476

( ´,_ゝ`)y―-~~.フハハハ!!

478 :
「信頼」と「勝頼」じゃ、字面で受けるイメージが随分違うな

そういやなんで信房の子供が「勝良」なんだろう
信雄が自分の子供の「信良」とお揃いにしようとしたのか?
信忠の「三法師」がいるのに自分の子供も「三法師」と名付けたらしいから
お揃いの可能性もありそうなのが怖い
「信」つけてやれよ
武田でさえ付けてくれたんだったらさ

479 :
>>478
勝良の存在が勝長という名の信憑性の根拠でもあるのじゃない?
武田時代から信房で一度も勝長と名乗ってないなら息子に勝なんて付けないでしょ

480 :
ただ信雄は信勝と名乗った時期があってそこから勝の字が来た可能性はある 

481 :
「勝長」は甲陽軍鑑に載っていたんだっけ
そう名乗っていた時期もありそうだ
もし織田に返還される段階で仲介役を期待されて武田に
武田と織田の通字の「信」のある「信房」と改名させられたとしたら結構せつないな
戦国時代だからそんな感傷はないかもしれないが

482 :
>>479
そもそも話で勝良の勝って勝長由来なのかだなあ
例えば池田の勝三からの勝かもしれないじゃん

483 :
そもそも信房の息子が勝良と名乗ったのが確実かどうか

484 :
加賀藩の藩士録や家譜に名前あるから間違いないんじゃね?

485 :
信雄の系統だけじゃなく
信房の直系の子孫が今もいらっしゃるんですか?

486 :
加賀藩士だった勝良じゃなく同じく信房の子供といわれる
鳥取藩士だった村田伝兵衛なるものついては和気意池田家墓所や
岡山後楽園などの造営に尽力した津田永忠の祖父(伝兵衛を名乗ってた)が
同一ではないかとする見方があるようだが…。

永忠の津田家については織田信勝の息子(信澄の弟)を祖とするという
記録もあり他で判然としない部分もあるけど600石足らずの家でありながら
光政は永忠と初謁見した時に児小姓として即抜擢して(光政の性格上これは
例外に近い)城に上がって以降は次代綱政の代まで寵臣として君臨した
なぜ600石たらずの家でありながらここまでできたのか?また一門の天城などと
政争バトルがあったがなぜか津田は家老家3万石相手でも対等にバトルが
できていてその件についてまわりも黙認している(普通あり得ない)
光政も一門より津田に軍配をあげたがだからといって天城が宗家と険悪に
なったかというとそういうこともなく最終的に家老家も納得している
要するに実力以上に水面下ではなにか事情がありその事情が例えば信房の
息子のように池田家と大恩義織田家嫡流筋の血を引いているぐらいの事情で
なければこのような線引きはできないのではないかという話

長くなってしまいすんません

487 :
誤字すまん
和気意→×、和意谷→〇

あとこの津田の末裔さんは今もいるよ

488 :
>>486
もしかしたら失礼な質問だったかもと心配になってしまったのですが
ご丁寧に回答していただきありがとうございます。
一般には織田家の末裔が信雄系統しか残っていないように流布されているのが
なんだか釈然としなかったもので。
永忠の津田家のお話、とても興味深く読みました。
信房の子孫と言われる人が前田、池田、徳川(御年寄として)に仕えているというのも
元の家格のせいもあるでしょうが、不思議なものです。

私事ですが先日行政書士にお願いして家系図を作成してもらいました。
名の知れた家ではありませんが、家系図の名前を見ているだけでも、
こちらは農家か、こちらは商家の出かと色々と想像が膨らみます。
江戸時代は飢饉もあったのによく切り抜けてきたものだと感心したり。
そんな状況だったので、つい聞いてしまったのですが、
今も家系が続いているならそれだけで嬉しいです。
(あわよくば資料が出てこないかな〜なんて思ってしまうんですけど)

489 :
>>486
永忠が尽力したものに池田宗家菩提寺の曹源寺もあるけど
この寺は綱政が父光政の菩提を弔うため以外に恒興の菩提を
弔うという目的があって実際今でも恒興の位牌や養徳院の木像が
安置されている
それ読んでもし伝兵衛の母親が信房の側室になったといわれる恒興の娘と
いうのが事実ならなんか関係あるのかなとふと思った

490 :
>>489
浅学なもので伝兵衛を調べようと「織田伝兵衛」でググったら
「1661年に広島県熊野町の貴船神社が洪水によって流されて、1663年に当時の庄屋「織田伝兵衛」を中心に、現在の貴船山に移された。」と出てくるし、
「津田伝兵衛」でググると
「生没年1798〜1875の鳥取藩士で軍学者(学館学頭。本牧守衛、芝の鳥取藩邸警備に奔走。軍監として軍式改正を具体化。著作『御軍式策問』等)。明治維新後、鳥取藩権大参事、少参事。」
というすごいのが出てきました。
「織田」は場所が違うようですし、「津田」だと生没年で無理があるので(でも子孫なのか?)、どちらも違うのでしょうがなんか面白い。

491 :
美濃遠山氏関係の本で
「信長公記」から引用したらしいけど御坊丸のことを信勝と書いてあった
「美文会報」からの引用では信長の九男御坊丸と書いてあるらしい
織田関連でもこんなに違うと
遠山氏のことなんてもっと知らないのに信じて読み進めて良いのか心配

492 :
勝良って武田時代の子供だと思ってた
池田勝三からきた「勝」だったら池田の娘とも子供がいたってことか??
ちょっと子供ができるのが早い気もするんだが

493 :
>>492
父の死後に生まれたとかなら辻褄が合わないことは無い
一応wikiには1580年馬生まれ?とも書いてあるな

494 :
ネットでこんなの見つけて
面白そう、でももう終わってるんだ〜と思って良く見たら
平成18年。
2018年ですらなかった・・・

山梨県史講演会(全3回)※終了しました。
平成18年
1月29日(日) 織田源三郎の生涯―武田信玄の養子となった織田信長の息子―
平山 優 主査
(県史編さん室)
 織田信長といえば、武田信玄・勝頼の宿敵であり、武田氏を滅亡させた人物です。
しかし、信長の実子の1人が信玄の養子になっていた事実はほとんど知られていません。
その人物は御坊丸と呼ばれ、後に元服して織田源三郎と名乗り、武田勝頼によって信長
のもとに送り返されています。これまで、源三郎の実名や生涯、そして織田家復帰後の
役割については謎に包まれていました。県史編さん事業で明らかになった事実をもとに、
彼の生涯を検証します。

495 :
面白そうではあるけど講師がちとね…
池田の娘を信房の正室と断言しているのが何ともで…
織田・池田サイドの史料もきちんと検証しない人だし…

496 :
他になかなか信房のことを取り上げてくれる人がいないのがなんとも…
彼自身の話だけなら5分も講演が持たなそうです
信房のことは載っていないかもしれませんが、
池田家の研究本でなにか興味深い本はありますか?

これは独り言に近いんですが…
池田家の娘が正室ではないとしたら
どんな家格の娘が正室になる予定だったのだろうと考えてしまいます
信忠みたいに公家の娘(の予定?)とか
お次みたいに敵対していた毛利家の養女とか
この場合は敵対とは言えないけれど北条、長曾我部、島津辺り?
でも信房は四男ですし、兄たちを差し置いてそんな扱いを受けるのだろうかと

497 :
これから征服・臣従する家に婿養子という名の乗っ取りに出される可能性はあるかも
武田は縁があるけど穴山がいるから無かったけど
上杉や毛利は嫡男いないし芦名も実子はいない

498 :
上記はあくまで本能寺無しの場合の仮定だけど史実で急いで正室を迎える必要があったのかね

499 :
>>496
信忠に公家の娘の予定なんてあったのか?
むしろそっちの史料が知りたい

信房は池田みたいに準一門ないし一門系もしくは尾張か美濃地盤の有能な
家臣の娘とかのような感じがするなあ
信忠が甲州征伐後の4月に勧修寺あてに送った書状をみるにえらく
【東国】に拘っているんで松姫の動向いかんにはなるだろうけど信忠は名実共に
武田の看板を使える松姫を娶ることで征夷を盤石なものにして信房はその補強として
東国の誰かの娘かそういうことはせずに池田みたいな準一門ないし一門系か
美濃か尾張地盤の有力な家臣の娘を嫁にして東国入りかもな
北条は信長が娘を嫁に出す約束をしているし松姫通じれば信忠と氏直は叔父甥の
関係なんでさらに強固な関係を結ぶという意味ではあり得なくはないけど
これも北条の動き次第かな

500 :
>>499
497です。誤解を招く描き方ですみません。
>>信忠に公家の娘の予定なんてあったのか?
>>むしろそっちの史料が知りたい
学者による専門書でない歴史本に書いてあり、資料の裏付けもないので
「公家の娘(の予定?)とか 」と書きました。
個人的な考えですが、こうした仮説は豊臣政権で行われたことを投影しているのかなと思っています。
秀吉が唐入りを実行したから信長も考えていたに違いない、
あるいは秀次の正室が菊亭晴季の娘だったから信忠の正室も公家の娘を予定していたのではないか、
といったことを前提とした小説や歴史企画本などを目にしているものでお恥ずかしいです。
如何せん古文書の読解力がないもので資料に当たれないというところが事実です。
最近は専門家が書いた本を読むことが多くなってきました(でも一次資料は読めない…)。
研究分野によっては得手不得手があるのでしょうが、やはり専門家が書いた本は面白いですね。

>>498
池田家の娘(若御前)が関白秀次の正室だったので、
池田家の家格としては信房の正室にできない訳ではないのかなと思っていたのですが…

確かに急いで正室を持たせる必要はないですよね。
が、取り急ぎ側室を、という扱いを池田家にしてしまって良いのかなという気がします。
案外、若御前が秀次の正室になったときと、秀次が関白になってからとでは
豊臣家と池田家で家格の差が大きくなってしまって改めて公家から正室をもらったのかも?
それならば当時の織田家と池田家の主従関係を考えると、信房の「側室」という扱いで良かったということかもしれないです。

書いていて自分でも訳わからなくなってきましたが、
織田家と池田家で「正室」とした資料がないならば少なくとも正室ではないということですよね。

501 :
取り急ぎ側室というより信房を犬山に入れる上で
池田の娘が適任だったからじゃないかな
信房が入るまでの犬山は池田所領(池田は摂津入りしても
信房が入るまでの本拠地は犬山のままだった)なことや
池田は信忠付が長かったから信忠の与力となった信房に信長ではなく
信忠軍のことをいろいろ教えるのにも最適だったのだと思われ
他方で恒興が帰依していた坊さんと快川は妙心寺時代からの入魂の仲
だったそうだからもろもろでくどいが池田が適任だったと思われ

まあ水面下で恒興自身も小宮山とパイプをもっていたっぽいから
そこらでも何かあったのかもね

502 :
保守

503 :
>>500
面白い
自力で文書に当たれないのが勿体無いな

504 :
>>501
当代記によれば家臣達がこぞって信房に贈り物合戦を繰り広げ
中でも秀吉はすごかったとあるのを踏まえるとわが娘を信房の嫁か
側室にという動きも連動していたとも考えられるからそういうのを
落ち着かせる(家臣達の閨閥政争を防ぐ)意味合いもあったと思われ
池田だったら乳母と乳兄弟の家、嫡男の嫁は信長養女で濃姫の実姪、
孫も既に生まれていて見ようによっては閨閥系の中では頭一つ出ているから
火に油を注ぐということもあるまいて

505 :
>>当代記によれば家臣達がこぞって信房に贈り物合戦を繰り広げ
中でも秀吉はすごかった

なのに法名が厳が付いていないって謎
林庭宗松という法名の格も良く分からないが
織田家の墓は複数あるようですが、その中に信房の墓はあるんですか?

506 :
確認できている信房の墓は京都の阿弥陀寺
前に鳥取にもらしき墓はあるらしいとなんかで見かけたけど
詳細までは覚えてない
戒名の謎については前にこのスレで議論になっていたから
最初から読んでみるといいと思われ

507 :
>>506
ありがとうございます
戒名の件を読んでみましたが院号や法名の話自体なじみがないので
まずは基礎知識を頭に入れなければ
信雄がいても直す余裕はなかったのか、知らなかったのか〜

スレの前の方を読んで
僧坊で生まれたから(と仮定して)幼名「(御)坊丸」で諱が「信房」(房は「僧の住む所。坊。」という意味もある)だったら
駄洒落みたいだと思ったり

508 :
>>506
鳥取って池田絡み? 他に縁や所縁があるとも思えないし

509 :
20年の明智光秀の大河ドラマに出てくるかな
真田丸の二条御所の戦いでも出てこなかったから無理か?

510 :
まことは、相手の返事が待てず、自演キャラを
使って会話した

511 :
あげ

512 :
「甲乱記」に織田信房のことが書いてあると聞いたが文庫とか出てないよな

513 :
原本でよければ京大貴重資料デジタルアーカイブで読めるよ
甲乱記でググればでてくる

514 :
甲乱記読んだけど見落としたのか源三郎も信房も見つからなくて残念
また時間があるときに読んでみる
伊勢国司三七や七兵衛の記述は見つけたのにな
伊勢国司というと信雄だと思っていたが三七もそうだったけ?

武田が滅びる部分の文章が平家物語を意識しているように感じた

515 :
甲乱記に信房の話って出てくるんですか?

516 :
君の目で確かめてくれ!

517 :
勝長カードをうまくつかえば信長傘下に入れた

518 :
信房と年齢の近い信勝が武田家次期当主だったんだから
それもうまく使えそうなのにー

519 :
>>30
愛妾ではないよ。

520 :
織田信房に関する論文が読める本ってこれ以外にもありますか?

犬山城史 横山住雄 著
論集戦国大名と国衆 20

521 :
保守

522 :
「織田信忠ー天下人の嫡男」に「信房の母親が織田孫十郎(信次)の娘と推測される」とあったけど
なんの資料から推測できたんだろう

523 :
>>417
別れた妻の葬式で15年ぶりに娘を見た。声はかけずにちょっと離れた場所から成長して大人になった娘を見てたら不覚にも泣いてしまっまよ。
どんなに離れてても自分の子は一瞬でわかる。すると私に気がついたのだろう娘が目の前まで歩み寄りこう言いました「良かったぁ 叔父さん来ないかと思った」
娘かと思って涙ぐみながら見てたのはけっこう最近も会ってた(三年ぶり)姪でした。
私は15年ぶりの娘も3年ぶりの姪もわからんかったよ。

524 :
別れたとはいえ最低な父親だな
それってただ単に姪が娘だったらなーという潜在願望から
姪が娘に見えただけなんじゃねーのw

>>522
自分に都合がいい史料しか採用していないし解釈も自分に都合がいいのしか
やっていないからあまりアテにならんよ、その本
推測でも三郎という呼び名は信康にあげたとか意味不明なこと書いたり(呆)
嫁の項とか酷いぞw
塩川から頼まれたのかって思うぐらいに塩川あげ

525 :
>>524
信忠の実母を生駒氏出身にしているし、「(母親については)他にも異説あるが取るに足りない」って
いや、一応書いて欲しい、その資料名と一緒に
信康に「三郎」を上げたのでは、という推測は初めて見たので目が点になった
信長の乳母の院号が養徳院(池田氏)で、「養」に意味を持たせれば「養華院」は濃姫の可能性が高くなると
書いてあったが秀勝の母は養観院。池田家と織田家で院号になんか関係あるのか?
他に「養」のつく院号をさらってみた方がいいんじゃないか
宗派で付ける文字とかあるのかね 等々
歴史に詳しくない自分でもツッコミ入れたくなるような本だった・・・

526 :
帰依しているないし戒名を授与した坊さんが同じないし子弟関係なんかだと
同じ字を使うことはあるけど院号だからなあ…
(信長と勝頼は敵対関係で授与した坊さんなども違うけど天徳院という
同じ院号を冠にした戒名もある…)
あと養徳院云々いうなら院号より重要な戒名部分が生駒と同じ桂昌なんだが
そっちはスルーかいなと
筆者が所属している研究会に確か濃姫関係で強引他ちとやばげな人もいたから
感化されているのかもしれないが

527 :
なんか横山住雄の著作を思い出した
あの人もよく根拠が不明な憶測をさも確定事項のようにしれっと混ぜて来るよな
しかも研究対象が微妙にマイナーかつ史料が少ないせいで反証らしい反証もされにくいというも厄介

528 :
>>524
松姫がなまじ東国源氏の名門で大名格の武田の娘で側室腹とはいえ
その母親は武田一門の油川系統と立派なサラブレットだから
強引にでも持ち上げないと格が下がりまくった家の娘を室にしたという
持論の説明がつかないんで必死だったんだろ
素直に側室としておけばいいのにさも正室ですよな論点が透けて読めるのに
室でごまかすなんてことをするからおかしなことになるんだよ

529 :
>>522
多分典拠はないか織田門閥末裔の家に伝わる話などを
元に書いているんじゃなかろうか…
身バレしたくないんで詳細は省くけど門閥末裔と阿弥陀寺に
何様なクレームをつけた某研究家は仲が良く確か筆者とも
交流があるような噂を聞いたことがある…

と内情はともかくとして信次の子供や孫が信房の子勝良が仕官した
前田の家老になっていたり池田に仕官したり恒興の異父妹小田井の方の
嫁ぎ先などだから信房とつながるというんで推測したのではなかろうか…
史料名を出すないし何かしらの事情で出せなくても末裔の家に伝わる話など
論拠となりうることを書かずに推測が先走るようなのは話半分に読むことを
オススメしたい

530 :
>>529
阿弥陀寺にクレームってk2とかいう人?
10年くらい前までは濃姫研究(という名の早逝説の立証)に熱心だったみたいだけど
ここしばらくは濃姫ネタからは離れてるっぽいが何かやらかしたのか?

531 :
>>530
その人って養華院はお鍋の方だって主張してる人だっけ?

532 :
長くなるけどお許しを

>>530
日本史板の濃姫スレに書き込まれていた人と同じだと思うけど
(>阿弥陀寺にクレーム)
阿弥陀寺の回向順が信長信忠に次いでいる浄華院という女の人がいて
信長の愛妾という寺伝や回向順から濃姫だと仮定しているっぽい
それでこの人のお墓がぞんざいに扱われている(無縁さんに移した?)と
怒っていてお寺さんに何回も抗議したみたいでその時のお寺さんの対応にも
不満げで最終的にお墓の場所を移動させたみたい(勝利宣言?)
けど移動させた場所にも不満があるみたい(呆)

533 :
あとこの浄華院について濃姫スレに何回か書き込んでいる人がいて
変な盛り上がり方するから本人と取り巻きなのかなあと思うことがある
けど反論する人の方が理にかなった論調で論破に近いから面白かったよ

534 :
>>522
著書内に記載ないなら本人に尋ねるのが一番間違いないだろ
編集部通してきいたり本人がSNSやっているなら直接コメ、
もしくは自分がSNSやっているなら自分の垢でなげかける

>>529
件の本を推しツイートしている感から確かにお仲間かもしれんな
おれは未だ阿弥陀寺の檀家総代や有力檀家でもないのに口出しできる感覚が
よくわからん、寺には寺の事情というものがあるのだし…
あと信次の子孫については疑問ありという指摘もあるぞ

535 :
織田家は道号に巌、法号に常、松平家が法号に道、北条が法号に宗など、
道号法号に通例があるのは確認してるけど、院号はあまり聞いたことがないなあ
せいぜい寿桂尼(瑞光院)―瑞渓院で瑞の字が共通するなんて説があるぐらい

536 :
浄華院と養華院は似た戒名と言っていいのかな

そもそも信房の戒名が不自然(織田家っぽくない上に当時の武将としても?)なことを突っ込んでる信長関連本ってないよな
信長の奥絡みがずっと武功夜話準拠なのと同様資料の無さが原因か

537 :
信房の研究ははじまったばかりだからね…
どっかのスレで景徳院の戒名から田野で死んだ信勝が本当は信房で
織田に戻った信房は信勝なんじゃないかというレスを見かけたけど
確かに信勝の戒名には巌が入っているし信忠の戒名に似ているから面白い

>戒名
一字違いとはいえ片方は浄土宗でもう片方は臨済宗と宗派が
まったく違うから似て非なるものだろ

538 :
濃姫にも複数戒名がある可能性もあるのかな
妙覚寺とかには寺伝レベルでも何か史料が残ってないんだろうか

539 :2020/01/18
岩村城って女城主で売ってるから御坊丸の存在消し去ってるな

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