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秦氏はどこから来たか 2


1 :2020/01/06 〜 最終レス :2020/01/14
みなさんのお陰でいよいよ秦氏ユダヤ教徒説が定着してきました。
さらにご協力ください。

2 :
>>998
>いや、山陰地方にずっとあったのよ。それがたまたま日本書紀編纂者の過程の
>情報収集でみつかり、素戔嗚のオロチ退治の話に取り入れられただけ。


何の根拠もない

創作の上に創作を重ねるなよカス

創作発表板でやれゴミ

3 :
オロォチ=大龍神は出雲の地元にあったフォークロア。
それを日本書紀編纂所が大国主に話をつなげるためにオロォチ退治の話をでっち上げた。
しかも、本来シュメールの7頭蛇の神話を中国文献から見つけてきて、オロォチ=大龍神を8頭のバケモンに変身させやがったというのが真実。
元々のオロォチは農耕の水源の神だった。
稲作と関係ない話なの。

4 :
新羅古碑の「波旦緹」の謎がほぼ解明された。
この「波旦」のパタンの音が中国西域のホータンの音によく似ていることに注目すると、
どうやら謎が解けてくる。
ホータンは翡翠の産地で、ホータンを表す漢字表記の和田を用いた「和田の玉」が有名だ。
ホータン産出の白色の翡翠で造った玉は中国で最高級の玉とされる。
しかし、この原石の翡翠には鉄分が浸透して表面が赤くなったり黄色になったりする外皮ができている。
また、外皮が原石の全面についているものもあり、それが全面赤色のものもあるのだ。
こうしたことからして、ホータンの玉が非常に有名であったことを考えると、
「波旦の緹(てい=赤色)」は「ホータン玉の原石の赤い外皮」のことである可能性が出てくる。
この考えに立つと、玉の原石の外皮は白色の高価な部分を覆っているものなので、これがなければ玉は高価な高級品になるわけで、
この外皮が邪魔をして値が下がるということになってくる。(続く)

この外皮を取り除くと白い高価な玉が作れるのだ。
ただ、外皮を取り除かずにそのまま加工して、赤い模様のついた玉や黄色の模様のついた玉も造られる。

5 :
秦氏っていつ滅んだだ?

6 :
>>4
この高級玉の原石についている外皮を取り除くのは手間のかかることである。
このことは、日本の「鼈甲の皮」の諺と同じのようにみえる。
「鼈甲の皮」は面倒くさいという意味である。
鼈甲細工をするために鼈甲についている皮を取り除くのが手間のかかる面倒な作業であるので、
子供が面倒なことを言ったりするとその子供を指して「鼈甲の皮だな」と表現することがあるのと同じというわけだ。
そういうわけで、「波旦の緹(てい=赤色)」は(ホータン産の玉の原石に付いている赤色の外皮)という意味であり、
(高価な玉にするために取り除かなければならない邪魔な外皮」という諺なのだろう。
そうなると、現代中国にある「波旦風鈴草」の言葉は、ホータンの玉の原石についた外皮の赤色のような花を付けたキキョウのことであると推測することが可能になる。
波旦について解釈が紆余曲折したが、波旦=ホータンとする解釈が一番安定している。
つまり、新羅古碑に書かれている「波旦」は中国西域のホータンのことだという可能性が極めて高くなる。
そして「波旦の緹(てい)」は、ホータン産の玉の原石につく赤い外皮に関する諺を言っているということになり、蔚珍地域の土地の名ではないことになってくるのだ。
たぶん、間違いないだろう。

7 :
>>5
滅んでないだろ。
秦氏系図をみたら、本流は東儀、島津、長曾我部だ。
傍流はいろいろあるよ。

8 :
香春一の岳の南麓の香春神社の前の道は、
奈良時代から平安時代にかけて官の古路と呼ばれ、
都と太宰府との間の官人の通路であった。
その道筋に豐比命は遷座し、
香春の神を祀る採銅技術を持つ
秦氏の威勢を示したのであろう。      

9 :
まあ、遼河人が渡来したのが弓月君で、ハタと名乗ったとする場合、その根拠が必要になる。
これまで、根拠らしい根拠が出てないんだから、かなり怪しいということになってくるよな。
新羅の波旦土地名説が崩れかかっているので、あとは遼河人ハタ氏説だけだけどな。
コンキョだよ、コンキョ。

10 :
>>9
遼東郡秦人が新羅あたりに入植したのは秦代なんだが。
根拠は三国志。
弓月君はずっと後世の人物なんだが頭大丈夫かそちら?

11 :
>>8
採銅技術を持つのが渡来系辛嶋だったという説もあるし。
宇佐の元宮にある三角池も渡来人が造ったとされる。
そうした渡来系の氏族の辛嶋氏が香春から宇佐に移ったということのようだから、
辛嶋氏がその元締めだったのかもなぁ。
この辛嶋氏と秦氏が同族だとする説があるのだが、両者をつなぐ物証がみあたらんような。

12 :
>>10
モンゴル近辺の遊牧民が遼東地方に定着して農耕民化したのが秦人という説明だったが、その秦人が秦代に半島東南部に移住して辰韓の元となり、そのうちの一派が渡来したのが秦氏ということのようだが、
その秦氏が渡来した時期はいつなのよ。

13 :
>>12
定説通り4C後半だろうね。
奈良県で秦氏が遺したと思しき日本最古級の須恵器の工房跡が見つかっているし、
日本最古級の土壁の住居跡が見つかっているからね。

14 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

15 :
>>13
その4世紀後半渡来の秦氏と弓月君は無関係という説なわけ?
一方、日本最古の須恵器は、今のところ宇治市街遺跡出土の須恵器で、韓式土器、馬鍬も出ているそうだ。
時期は4世紀後半頃。
弓月君は淀川から遡って、まずその流域に入り、それから宇治、伏見へと進んだ。
奈良には最初は行ってないようだ。
大和でみつかった土壁建物は、秦氏とは関係ない氏族とちゃう?

16 :
秦氏の渡来前の土地が半島の蔚珍の波旦だという説はほとんど崩れてしまったから、秦氏新羅由来説は信憑性がなくなったよ。
波旦(パタン)はホータンのようだから、新羅の波旦を出自の土地とすれば、自然に中国西域のホータンに最終的な出自の土地を求めなければならなくなる。
まあ、秦氏の先祖名が浦東で、これがホトゥの発音なので元々ホータン出身説が強固だけどね。
それに、波旦=ホータンならば、ますます秦氏ホータン出自説が強力になるだけ。

17 :
秦氏の正式子孫で名前が残ってるんで勢力基盤築いたんがいたん越前から加賀あたりやろ

そいつらは大名にまで名を残してる

戦国時代に一揆頻繁して滅んだ

18 :
日向出身で古代氏族みたいなんで名を残したのが惟任、惟住氏やろ

名家の名として公家の朝廷から光秀に名跡継ぎあって惟任の名をもらったろ

光秀

19 :
太宰府の官人役人として名を残したのが

橘(たちばな)氏

日本書記が書かれたころよりある古代氏族として名前が残ってる

20 :
豊後に由来があるのが大伴(おおとも)氏

歌人として名を残した大伴家持(おおともやかもち)はその子孫

21 :
すでに気づいているだろう。


自分よりも、下の人間(国)に賞などを貰ってもな・・・(某□位なども同じ)、
という例えなど。

『中華思想』

22 :
例えば、何やら賞などでも良い、
そういう思想から、独立して自分(自国)たちで作ろうということになった?

みたいな事を言っている人がいたでしょ。いなかった?

23 :
例えば、日本の天皇賞(不明)とか。
いままでは中華思想の下(属国)だったんだけど・・・。

24 :
例えば、日本の天皇賞などに対しても「❓」
みたいな人はホンモノの『中華思想』だろう。

むかーしの渡来、漢人、中華。

某□位なども、一応貰っておくかとか。

25 :
『デスラ〜』なども同じようなキャラクターでしょ。

26 :
>>17
秦氏はあちこちにその後裔をのこしているようだ。
室町時代に加賀国の守護大名となった富樫氏は、平安時代初期の藤原利仁の子孫らしいが、
この藤原利仁の母親が越前の国人の秦豊国の娘だそうだ。
富樫氏の先祖は平安時代初期の頃に越前秦氏の娘を母にした藤原氏の子孫ということになる。
この越前秦氏は坂井、丹生、足羽など加賀北部を地盤にしていたようだ。
富樫氏が越前秦氏そのものの子孫というわけではないのかもよ。
ただ、加賀には秦氏の一党が勢力を張っていたのだから、その越前秦氏の支援を得たということはあるのかも。

27 :
>>26
この越前北部の坂井あたりは、新羅系の土器がまとまって出た地域だし、秦氏がこれらの新羅渡来系の住民を囲い込んで、そこの部曲の管轄者として一族を送り込んだのが秦豊春ということなのかも知れんよ。

28 :
漫画やアニメ・・・創作?
そういう設定などがあるでしょ、ほとんど同じ。

あと、なぜ知っているの?詳しいんだろう?となるはず。

某という家や人物の下()にいるんだけど、実際は上の・・・。
そういう設定の作品やキャラなど。

29 :
しかしなんだな、日本人は権威元から箔付けてもらうのが好きだな。
余計な財などはいらん、箔でいいわ、その箔が剥げんように頑張るさかい、なんてな。
権威元も箔だけなら安いもんやろ。

30 :
あとドラゴンボールで言うと、
主人公の出身国(惑星)のTOPだというキャラ、主人公ではないんだけど、
実際は主人公よりも上。うらしまんも同じ。

31 :
古代の話をしようと思ったら
最低は古事記や日本書紀の原文の知識は必要だな。
コンビニや書店にどこにでも置いてあるような
トンデモ系の歴史読み物の知識で語らないように。

32 :
〜チョンコ(学術名:朝鮮ヒトモドキ)が何でも朝鮮起源にしたがる理由を知ろう♪〜
一時期より減少したとは言え、無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭にチョンコは何でも朝鮮半島由来にしたがる性質を持っています。
幼少期から刷り込まれる「日本の文化は全てウリ達が教えたニダ」という華夷秩序を土台としたミンジョク洗脳。
「元祖・本家以外に価値を見出させない」というチョンコ独自の価値観によって、関連性を感じると即座に朝鮮起源と思い込んでしまいます。
さらに「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とするチョンコ特有の性質は「火病」の原因として有名な気質です。
以上3つの性質により、チョンコは何でも朝鮮起源にしたがるのですが、インターネットの普及や英語話者の増加に伴い、ミンジョク洗脳は高等教育を受けた者から順に徐々に開放されつあります。
また国際社会に進出した者達は起源主張が文化的に低俗であることを自覚し、常に日本を意識し続けることが卑しい行為だと認識し始めていますが、発言すればリンチに遭うので公言できないのです。
残念なことに、高等教育を受けた者や国際感覚を持つ者は韓民11%、朝鮮民6%、在日民2%と言われており、言い換えればチョンコ全体では10%に当たる725万人ほどしか自覚や認識が進んでいません。
また百済ヒトモドキは高句麗ヒトモドキに絶滅させられ、新羅ヒトモドキは自ら唐の奴隷となって文化風習を捨て、高麗ヒトモドキはモンゴル帝国にRされまくりで民族的形質を完全に失っているという事実を意図的に見ないようにしています。
しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする現生ヒトモドキ属の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、ヒトモドキ属社会にも大きな影を落としています。
韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。
ここからもチョンコには半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。

33 :
我が国の反日感情の正体は「反省を知らない被害者意識」である - 朝鮮日報 2016-06-04
我が国には一等国民と二等国民が存在する。 政治家や公務員、公企業や大企業の正規従業員が一等国民、非正規や契約従業員や日雇い労働者が二等国民である。 そして我が国民の60%以上、つまり我が国民の過半数は二等国民である。
九宜駅ホームドア事故で死亡した青年は二等国民だったが、ここに我が国民性の本性が見られた。 いつものように「罪なき被害者」と大々的に報道され、翌朝には「加害者探し」と共に「傷つくのはいつも罪なき人である」という論調になった。
政治家たちは二等国民からの共感票欲しさに捜査中の事件現場を土足で荒らしてまで現場に赴いて苦悶の表情で感傷的なコメントをして雰囲気を盛り上げる。 「恨(ハン)」の雰囲気だ。
我が国では「恨」が発動すると真実はどうでも良くなってしまう。 合理的な捜査結果は「被害者を踏みにじる行為」とされ、再発防止のための対策も「責任逃れと隠蔽」とされる。 ただただ悲しい表情で哀悼し続けることだけが求められてしまう。
いわゆる「思考停止状態」だ。
この一とニしかない国民構造のせいで、過半数の我が国民の戦闘意欲や敵意は少数派である一等国民に向けられる。 この「恨」は我が国民が常々感じている「ウリの不遇は誰かのせいでありウリのせいではない」という心理を加速させる。
これは日本に対する「反日感情」も全く同じである。 1980年代、韓国製品が売れないのは「日本企業が邪魔をしてるせいだ」と政府主導で教育され、2000年代には「我が国民が優等であり、日本国民が劣等だから韓国製品が世界で売れている」と教育した。
我が国民は日本人のような「自己反省」が得意ではない。 「自己反省」は「自己卑下」と同列であり、自らの非を認める行為だからです。 ウリたちは「正義の被害者」であり、反省などしてしまうと「悪の加害者」の罪が軽くなってしまう。
加害者は悪なのだからもっともっと罰せられるべきだというのが我が国民感情である。 
自分よりも上位にある者を引きずり下ろしたいという卑しい感情を「正義の鉄槌」という大義名分を得ることによって爆発させるのは本当に快感であり、麻薬よりも中毒性も依存性も高いのです。
https://news.v.daum.net/v/20160604032203791

34 :
「手当たり次第反日」という愚民化政策 - 中央日報 2019年05月10日
西洋の日本愛は過去形ではなく現在進行形だ
文化から産業に、また欧州から米国に、むしろその領域を拡張している
先週末ソウル聖水洞に長い列を作った「コーヒー業界のアップル」というブルーボトルとそのアップルの2社とも、米国人創業者が日本に魅了されて製品の中に日本の魂を溶かし込んだといっても過言ではない
韓国人は「日本が単にお金で世界の人の歓心を買ってきたのだ!」と思い込もうと必死だが、真実の日本人は文化的な深さと驚異的な匠の精神で世界の人を魅了してきたということだ
しかし韓国という色眼鏡を通した途端に日本は全く違う国になる
いくら旧怨があるからと言っても、日本の実力から目を背けるどころか日本を貶すためなら事実を捻じ曲げることも、自らの指を食い千切る(比喩ではなく実際に集会で指を食い千切るパフォーマンスは頻繁に起こっている)ことも厭わない我々の姿勢は異常と言える
実際に史料を見る勇気さえあれば、たちどころに歴史歪曲だと判明するようなことが事実であるかのようにまかり通り、事実を指摘されても訂正をするどころか謝罪もしない
悲しいことにこういった現象は韓国において特に驚くようなことではない
韓国で「手当たり次第反日」は常に免罪符なのだから
事実を軽視した我々の「精神勝利」が、朝鮮建国以来、最悪の戦争につながった朝鮮通信使の誤った判断と何が違うのだろうか
1592年、ファン・ユンギル正使は「外敵の侵犯に備えなければならない」と進言したが、全く同じものを見てきたはずのキム・ソンイル副使は「豊臣秀吉はネズミの目。恐れる必要はない」としてソンジョの判断を曇らせた
この愚かな判断は皆が知っている通り、後に民が過酷な代償となって降りかかった
「手当たり次第反日」は国内政治に利用しやすいのかもしれないが、国民を阿呆にして国を危機に陥れる
壬辰倭乱、そして1997年外国為替危機の時にあれほど辛い思いをしたのに、私たちは事実ありのままの姿で見なければならないという当然の常識でさえ学ぶことができず、他人の助力に感謝も出来なかった
我々に今本当に必要なのは事実を事実として受け止め、建設的な未来を目標として一歩ずつ前に進むという姿勢であるべきなのだ
https://news.joins.com/article/23463310

35 :
「波旦」の字がみられる古碑によって秦氏新羅由来説は有力な説となっていたが、
先にみたようにその「波旦」は中国西域の都市ホータンに関連する諺の一部であった可能性が高く、
蔚珍に波旦という地名はなかったことが推測される結果となった。
このことによって、秦氏のハタ音が蔚珍の地名としての波旦(パタン)に由来するとの説はほとんど崩壊したようにみえる。
したがって、秦氏のハタ音の由来については、残るのは皇別氏族の波多氏のハタ音を借用したとする説のみとなった。
この波多氏のハタ音を秦氏が借用した可能性があるかどうか、見ていくことにしよう。

36 :
>>35
渡来した弓月公(秦氏)が、武内宿禰の子の皇別氏族とされる波多八代宿禰の波多姓を借用したとする説がある。
秦氏のハタ音は、この波多氏のハタ音に由来するとするものである。
そのように判断する根拠については明らかでないが、いろいろなブログをみると平安時代初期の三代実録に「岡屋公祖代が八多朝臣の姓を賜った」とする記事があり、
この岡屋公祖代は「百済王の後裔である」とも記されていて、百済からの渡来人としている。
百済からの渡来人の子孫である岡屋公祖代が八多朝臣の姓を天皇からもらった、というもの。
この岡屋公の岡屋は、宇治市域にあった小椋池東岸の岡屋を本拠地としたことから氏名(うじな)としたものとする意見がブログにみられる。
小椋池の湿地の開拓を行った氏族なのかも知れない。
そして、この三代実録の記事を採録し、これに続けて「波多、八多トモ二秦二同シ。今モ姓氏ト為ス者アリ」とする個人の意見を付したブログも見られる。
この個人の意見は三代実録の記事自体には見られず、どのような根拠によってそのような意見が述べられているのか不明だ。
したがって、岡屋公が百済からの渡来者を先祖に持つ氏族であるとする記事は三代実録や新撰姓氏録に見られるものの、この岡屋公が秦氏の一族であるかどうかは確定しがたい。
また、この岡屋公が八多の姓をもらったのはその祖先が渡来してきてから後のことであり、武内宿禰の子とされる波多八代宿禰と弓月君(秦氏)が同時期の人物とみられることからして、
弓月君(秦氏)が波多氏のハタ音を借用したする説とは時期的に合致しない。
つまり、岡屋公祖代が八多朝臣の姓をもらったことと、弓月君が波多氏のハタ音を借用したかどうかの問題とは、別の話だということになる。
なので、岡屋公祖代の賜姓の件は、弓月君(秦氏)のハタ音の由来の問題からは切り離したほうがいいようだ。(続く)

37 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

38 :
そもそも、秦氏のハタ音の由来については、平安時代初期にまとめられた古語拾遺や新撰姓氏録で述べられているものだ。
そこでは、仁徳天皇に献上された絹や綿が肌に柔らかだとして、「秦を波陀(ハダ)と言う」としている。
これは、秦氏のハタ音の由来が仁徳天皇の発言にあるとするものだ。
絹織物を天皇に献上したとする記事は日本書紀では雄略天皇紀にみえ、この記事では秦氏に禹豆萬佐の姓が与えられたとしている。
シチュエーションがよく似ていることから、古語拾遺の話は日本書紀の記事をベースにして、秦氏のハタ音の由来を述べているものと考えることができる。
そして、その時期が仁徳天皇のときだとして、ハタ音の始まりを弓月君の渡来から1世代か2世代目ころに置いていることになる。
古事記では弓月君を秦氏とみなしているので、古事記よりあとの古語拾遺の秦氏が弓月君の氏族の氏名(うじな)であるとしていることは間違いないのではないか。
このようにみると、弓月君がハタの氏名を称したのが仁徳天皇のときであるとする古語拾遺の記事が信用できるかどうかということになってくる。(続く)

39 :
仁徳天皇が言った肌に優しい織物のハダからハタか

一番可能性が高そうな

なぜなら、蘇我氏の由来はスサノオ命が「すがすがしい」と言った事にあやかって、
最初にスガという姓ができ、それが訛ってソガになったと記紀に書いてあるからだ

蘇我は須賀から分かれたんだな

40 :
>>39
その話は古語拾遺が言っていることで、日本書紀や古事記にはそうした記述はみられんな。
作り話じゃないの?
古語拾遺を書いたのは忌部氏で、忌部氏は賀茂氏と関係があり、賀茂氏には秦氏から人が入っているので、
秦氏と忌部氏が関連あるとする説もあって、古語拾遺の秦氏関連の話もまんざらでない部分もあるのかもしれない。
しかし、それは弓月君の時期よりずっと後のこと。
秦氏のハタの音の由来にどこまで事実が反映されているか定かでない。

41 :
>>39
まあ、須賀→菅→蘇我の説もあるけどな。
素戔嗚が叫ぶ、「きゃぁ、スガスガシイ〜」→須賀もありだが、さすがに素戔嗚説はやりすぎだろう。
洲処(すか)→須賀→菅→蘇我じゃない?
つまり、蘇我川の砂地に住んでいたのが蘇我氏だろう。

42 :
>>38
古語拾遺が秦氏のハタ音の由来を仁徳天皇の時期に求めていることと、秦氏系図が秦酒公が弓月君の子の浦東の子であるとしていることと時期的な符号がみられる。
一般に流布している秦氏系図の弓月君の子の浦東など4人の名の出所と、古語拾遺の仁徳天皇の時期の設定とは何か関連があるのかも知れない。
古語拾遺からすると、ハタ音は系図にみえる秦酒公に発するということなのかも知れない。
そうなると、そもそも、浦東などの4人の名の出所はどこなのかということになるが、その出所は不明だ。
この系図にしても、ハタ氏は酒公までしか遡れないということになる。
では、仁徳天皇の時期に弓月君は皇別氏族の波多氏のハタ音を借用して自らの氏名(うじな)としたという説になるのだろうか。
まあ、このあたりはまだ情報が足りないな。(続く)

43 :
蘇我氏自体が渡来人やろ

44 :
字面、使用法見てもそれしかないわ

45 :
>>42
どうも、弓月君の子である浦東君については、秦酒公の親としてこの浦東君の名が出てくるということかも知れない。
秦氏の系図を乗せるブログでは、秦酒公の父を浦東君とし、母は不明としている。
そして、浦東君自身については、まったく事象が記されていない。
また、浦東君の兄弟は別に3人いるのであるから、この別の3人についても、浦東君の兄弟として秦酒公の系図に書かれているということなのだろう。
この系図では秦始皇帝を秦氏の始祖としていることからして、新撰姓氏録の記述に依拠していると考えるのがよいのかも知れない。
そうすると、平安時代の秦氏にはそのような先祖の記録が実際にあったということになってくる。
それが、秦氏がハタ姓を持つようになったのが仁徳天皇の時期だとしている理由なのだろう。
浦東君は後世に創作されたものではなく、渡来当初から伝えられていた名であるとみていいのではないだろうか。
ただ、これまでに見てきているように、浦東はホータンの名であるとみられるところからして人物名ではないことも考えられるので、
そもそもの渡来者は秦酒君かも知れないという線が出てくる。
そうすると、秦酒君の渡来は仁徳天皇の時期ではなく、応神天皇のときとするのがよいことになる。
この観点から皇別氏族の波多氏との関連をみるのがいいように思えてくる。(続く)

46 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

47 :
>>43
蘇我氏は皇別だろう。

48 :
〜チョンコ(学術名:朝鮮ヒトモドキ)が何でも朝鮮起源にしたがる理由を知ろう♪〜

一時期より減少したとは言え、無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭にチョンコは何でも朝鮮半島由来にしたがる性質を持っています。

幼少期から刷り込まれる「日本の文化は全てウリ達が教えたニダ」という華夷秩序を土台としたミンジョク洗脳。
「元祖・本家以外に価値を見出させない」というチョンコ独自の価値観によって、関連性を感じると即座に朝鮮起源と思い込んでしまいます。
さらに「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とするチョンコ特有の性質は「火病」の原因として有名な気質です。

以上3つの性質により、チョンコは何でも朝鮮起源にしたがるのですが、インターネットの普及や英語話者の増加に伴い、ミンジョク洗脳は高等教育を受けた者から順に徐々に開放されつあります。
また国際社会に進出した者達は起源主張が文化的に低俗であることを自覚し、常に日本を意識し続けることが卑しい行為だと認識し始めていますが、発言すればリンチに遭うので公言できないのです。

残念なことに、高等教育を受けた者や国際感覚を持つ者は韓民11%、朝鮮民6%、在日民2%と言われており、言い換えればチョンコ全体では10%に当たる725万人ほどしか自覚や認識が進んでいません。

また百済ヒトモドキは高句麗ヒトモドキに絶滅させられ、新羅ヒトモドキは自ら唐の奴隷となって文化風習を捨て、高麗ヒトモドキはモンゴル帝国にRされまくりで民族的形質を完全に失っているという事実を意図的に見ないようにしています。

しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする現生ヒトモドキ属の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、ヒトモドキ属社会にも大きな影を落としています。

韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。

ここからもチョンコには半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。

49 :
我が国の反日感情の正体は「反省を知らない被害者意識」である - 朝鮮日報 2016-06-04

我が国には一等国民と二等国民が存在する。 政治家や公務員、公企業や大企業の正規従業員が一等国民、非正規や契約従業員や日雇い労働者が二等国民である。 そして我が国民の60%以上、つまり我が国民の過半数は二等国民である。

九宜駅ホームドア事故で死亡した青年は二等国民だったが、ここに我が国民性の本性が見られた。 いつものように「罪なき被害者」と大々的に報道され、翌朝には「加害者探し」と共に「傷つくのはいつも罪なき人である」という論調になった。
政治家たちは二等国民からの共感票欲しさに捜査中の事件現場を土足で荒らしてまで現場に赴いて苦悶の表情で感傷的なコメントをして雰囲気を盛り上げる。 「恨(ハン)」の雰囲気だ。

我が国では「恨」が発動すると真実はどうでも良くなってしまう。 合理的な捜査結果は「被害者を踏みにじる行為」とされ、再発防止のための対策も「責任逃れと隠蔽」とされる。 ただただ悲しい表情で哀悼し続けることだけが求められてしまう。
いわゆる「思考停止状態」だ。

この一とニしかない国民構造のせいで、過半数の我が国民の戦闘意欲や敵意は少数派である一等国民に向けられる。 この「恨」は我が国民が常々感じている「ウリの不遇は誰かのせいでありウリのせいではない」という心理を加速させる。
これは日本に対する「反日感情」も全く同じである。 1980年代、韓国製品が売れないのは「日本企業が邪魔をしてるせいだ」と政府主導で教育され、2000年代には「我が国民が優等であり、日本国民が劣等だから韓国製品が世界で売れている」と教育した。
我が国民は日本人のような「自己反省」が得意ではない。 「自己反省」は「自己卑下」と同列であり、自らの非を認める行為だからです。 ウリたちは「正義の被害者」であり、反省などしてしまうと「悪の加害者」の罪が軽くなってしまう。
加害者は悪なのだからもっともっと罰せられるべきだというのが我が国民感情である。 
自分よりも上位にある者を引きずり下ろしたいという卑しい感情を「正義の鉄槌」という大義名分を得ることによって爆発させるのは本当に快感であり、麻薬よりも中毒性も依存性も高いのです。

https://news.v.daum.net/v/20160604032203791

50 :
「手当たり次第反日」という愚民化政策 - 中央日報 2019年05月10日

西洋の日本愛は過去形ではなく現在進行形だ
文化から産業に、また欧州から米国に、むしろその領域を拡張している
先週末ソウル聖水洞に長い列を作った「コーヒー業界のアップル」というブルーボトルとそのアップルの2社とも、米国人創業者が日本に魅了されて製品の中に日本の魂を溶かし込んだといっても過言ではない

韓国人は「日本が単にお金で世界の人の歓心を買ってきたのだ!」と思い込もうと必死だが、真実の日本人は文化的な深さと驚異的な匠の精神で世界の人を魅了してきたということだ
しかし韓国という色眼鏡を通した途端に日本は全く違う国になる
いくら旧怨があるからと言っても、日本の実力から目を背けるどころか日本を貶すためなら事実を捻じ曲げることも、自らの指を食い千切る(比喩ではなく実際に集会で指を食い千切るパフォーマンスは頻繁に起こっている)ことも厭わない我々の姿勢は異常と言える
実際に史料を見る勇気さえあれば、たちどころに歴史歪曲だと判明するようなことが事実であるかのようにまかり通り、事実を指摘されても訂正をするどころか謝罪もしない
悲しいことにこういった現象は韓国において特に驚くようなことではない
韓国で「手当たり次第反日」は常に免罪符なのだから

事実を軽視した我々の「精神勝利」が、朝鮮建国以来、最悪の戦争につながった朝鮮通信使の誤った判断と何が違うのだろうか
1592年、ファン・ユンギル正使は「外敵の侵犯に備えなければならない」と進言したが、全く同じものを見てきたはずのキム・ソンイル副使は「豊臣秀吉はネズミの目。恐れる必要はない」としてソンジョの判断を曇らせた
この愚かな判断は皆が知っている通り、後に民が過酷な代償となって降りかかった

「手当たり次第反日」は国内政治に利用しやすいのかもしれないが、国民を阿呆にして国を危機に陥れる
壬辰倭乱、そして1997年外国為替危機の時にあれほど辛い思いをしたのに、私たちは事実ありのままの姿で見なければならないという当然の常識でさえ学ぶことができず、他人の助力に感謝も出来なかった

我々に今本当に必要なのは事実を事実として受け止め、建設的な未来を目標として一歩ずつ前に進むという姿勢であるべきなのだ

https://news.joins.com/article/23463310

51 :
>>45
弓月君の子の4人の名は、なんということはない、新撰姓氏録の秦氏の系譜の中に書かれているな。
普洞という名の子には「古記に(浦東)と言う」とちゃんと書いてある。
この4人の子の名については、当初から記録があって伝えられていたということだ。
問題はない。

52 :
>>42
どうやら、皇別波多氏のハタ音を渡来秦氏が借用したとする説の出所が分かった。
波多氏は大和の高市郡波多郷の氏族であり、この波多郷は現在の高取町羽内あたりになるそうだ。
一方、新撰姓氏録の山城国の秦忌寸の系譜では、渡来した弓月君が大和朝津間腋上に土地を与えられて住んだとする記述があり、
この朝津間腋上は葛城郡腋上の地であるので、地図上では波多氏の波多郷と弓月君の腋上は隣接しているのが分かる。
そこで、波多氏に管轄された弓月君が自らの氏名(うじな)に波多氏のハタを借用したとするのが、この説のようだ。
やっと出発点に来たな。
まあ、これからだ。

53 :
秦氏は元々の姓はなかったのか?弓月君というぐらいだから。

54 :
先祖は江南やろ
ただ政権中央に入れてもらうのには失敗したけど

55 :
太秦とか右京はよく氾濫した川の水がくる難しい土地で
あまり優遇されて無かったけどよく残ったよな
偉い人たちは左京に住んで都といっても右京は寂れてた

56 :
鴨川が自然に河岸段丘になり氾濫しにくくなったって
ブラタモリでやってたやつ
https://livedoor.blogimg.jp/sakumaru40-ryokufudo/imgs/b/5/b55c7a64.jpg

57 :
日本古来の建築である高床式に切妻造の屋根をもつ建築 確実に華南・長江周辺から来てるよね あれは黄河文明ではない

58 :
>>54
江南から来といて何で三足や耳の付いた中国大陸の中国陶磁器がねえんだカス

江南はBC10C頃から原始青磁のメッカだぞ

方や、朝鮮半島に在地産の磁器がお目見えするのは10Cだぞ

その時代差、約2000年

馬鹿すぎだろチンコロのおまえ


>>57
確かに高床式建築のルーツは長江流域だろうな

ただ日本の高床式倉庫は『松菊里型住居とセットで』弥生早期の江辻遺跡に
初登場するの

つまり日本の高床式倉庫は松菊里型住居がある場所から取り入れたという事

このときの長江や江南の住居はすでに土壁の戸建てだから、長江や江南から
伝わるべきは何よりもまず土壁建築のはず

長江や江南とは直接的な関係など一切ない

チンコロは日本の掲示板に来るな

59 :
中国人はチョンコの軽薄な精神性をよく理解してるアルが、日本人はチョンコをまったく理解していないアル。
日本人はチョンコが「人間」だと思い、対応しているので、大小様々な問題が発生するアル。
中国人から日本人に忠告するアルよ。
「チョンコは犬だと思って付き合うが吉アル」。 それがチョンコのためでもあるアル。
筋の通らない理屈を言ったら、100倍の制裁を与えるアル。
感謝の気持ちは、王が家来に褒美を与える様に接するべきアル。
正論や理屈は意味がないアル。 強制と命令で動かすアル。
裏切りに対して、泣きついてきても情は絶対に駄目アル。
実行できない無理な命令を出して、出来ない事を責め続けるアル。
    ∧∧
   /   \    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (    )  <  厳しく躾けて世界最下層の犬畜生だと教え込んだのに・・・
  ( O   )    \______________________
  │ │ │
  (__)_)
    ∧∧
   / 支 \   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ( `ハ´) <  勝手に普通の人間扱いしちゃったのは誰アルカ!?
  (m9ヴィシ! つ  \__________________
  .人  Y
  レ'(_)

60 :
    ∧∧ これがあるべき本来の姿アルよ                 
   / 支\               
  (  `ハ´)      Λ韓Λ   
  ( ~__)) ~づ。。   .<丶`∀´>  ワンワンニダー!!!!   
  | | |   ゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚=====  
  (__)_)   C/    l   
            し−し−J 

61 :
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    .   ゝl!i!li!lil!li!lil!il!ili!lil!i!li!lil!il!ili!イ
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    |:::::::::::::/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ:::::::::::|  .||〜〜┐.    ./  旗  国  麗  高  /
    |::::::::::::|               .|:::::::::::|   .|| 歓 |    ./  /// ̄ ̄\\\ /
    |__:|          .     |__:|   .|| 迎 |    ./    /   / ̄`|    /
    |  ::::|           ..    |  ::::|   .|| 宗 |   ./    |\_/   /    /
    |  ::::|            ..   |  ::::|   .|| 主 |  /  \\\__/// /
    |  ::::| ニダー、今年も貢物.  |  ::::|   ..|| 国 |  /               /
    |  ::::|  少ないアルよ     |  ::::|   || 様 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ,,,r,,,.,,,:,:,|,,,、      ∧∧   ,,L,,,,,:,:,::|,,  ||〜〜┘/
   ..|     :::::|      /支\ |'    :::`| .||    /
    `゙"゙',,¨゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ ̄ ( `ハ´)   '"`゙`゙゙゙゙ミ`゙゙゙゙゙゙゙、゙゙`""゙
     ∧,,_∧       (  ))) )     ∧,,_∧ ヒェー、宗主国様お許しを…
  、,.,,<♯`Д´>     | | |    <`Д´♯>,,.,、
 (,⌒) |lll|lll|l ))     (__)_)   (( l|lll|lll| (⌒,).
..⊂、`ヽ⊃   >⊃           ..と<   とノレ
     ∨ ∨                 ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン…

62 :
朝鮮煙幕で誤魔化す中卒チンコロ

63 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

64 :
日ユ同祖論の起源~東方見聞録と聖書・キリスト教と儒教
https://youtu.be/-9peZnV-esg

65 :
>>53
渡来した弓月君の子の浦東君の子が秦酒公で、この秦はハタと読んでいるので、酒公の氏名(うじな)はハタであったことはまずまちがいないようだ。
このハタが元々からの姓だったのか、それとも渡来後に自らの姓は捨てて波多氏のハタを借用したのかというところが、今の焦点。

66 :
>>65
秦酒公の親の浦東君はホトゥの発音だと思うが、別の表記では普洞と書かれている。
この普洞の発音はポドゥ。
弓月君の子の名の発音はみなタリム盆地外縁地方のオアシス都市の名と重なるので、
この浦東ホトゥ、普洞ポドゥはホータンとみることができる。
秦氏のルーツはホータンだとする説は少なくないよ。
なので、秦氏の元々の氏名(うじな)がホータンであるとは思えないな。
渡来後に出身地のホータンを縮めたハタを氏名(うじな)としたということは可能性のあることだけど。

67 :
>>58
松菊里型住居がある場所ってどこなん?

68 :
松菊里型住居とは
朝鮮半島の松菊里遺跡にみられる円形の竪穴住居の形態で、竪穴中央部に
約 lmの楕円形の土坑があり、両側に2本の柱穴がある。
平面形が円形の竪穴住居跡にのみ中央部の楕円形土坑 と両側の柱穴があり、松
菊里遺跡では正方形や長方形の竪穴住居跡には見られない。

http://kodaiken.sub.jp/old_siryou/ronbun/kouza_pdf/hara2018.pdf

69 :
松菊里型住居 とい う呼び方は中間研志氏が提IIEし た。
「松菊里型住居一我国稲作農耕受容期における竪穴住居の研究」
後年に忠清南道の体岩里(手 せ■)遺跡で無文土器時代前期の松菊里型住居が見
つかり、一番古いことが分かつた。

70 :
忠清南道(チュンチョンナムド、ちゅうせいなんどう、韓国語表記:????)は、大韓民国中部(朝鮮半島中西部よりやや南)に位置する行政区。

71 :
水稲工作技術+高床式住居が忠清南道へ伝来

忠清南道から水稲工作技術+高床式住居+松菊里型住居が日本へ伝来

こうか?

72 :
水稲工作技術+高床式住居が長江から忠清南道へ伝来

水稲工作技術+高床式住居+松菊里型住居が忠清南道から日本へ伝来

こうか?

73 :
>>58
松菊里型住居なんか 関係ないわゴキブリが

74 :
松菊って
俺の先祖と天皇の先祖は両方ともここから日本に来たのか?
天津神って天津の神か?

75 :
超絶の高床式と太陽信仰
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQ5BkBs8ezSm8CfvqOUIQEsZxyi6QifP-L-Ws4kpkw3-XY_Nee6

半島ではないな 超高周辺なら百越で山の民だろうか 

76 :
>>64
このユーチューブの番組の考え方は面白いと思うが、そうした日ユ同祖論の系譜と、
千葉の芝山古墳や埼玉の行田の古墳からつば広の帽子を被り、鬢を長く伸ばして巻いたような髪型をし、
髭をたっぷり生やした姿の人物埴輪が出ていて、この人物埴輪の姿とユダヤ教徒の超正統派の姿と瓜二つであることは、また別の問題だと思うよ。
4世紀後半〜6世紀後半にかけてのユダヤ教徒の日本への渡来は歴史上の事柄であって、それが日本文化とどう関わったのかという点はこれからの問題であって、
本質的には日ユ同祖論の系譜とは異なるものだと思うね。
このユーチューブの番組の投稿者も、一度千葉の芝山古墳の人物埴輪を見てみて、それを原点としていろいろ組み上げたらいいと思うがね。

77 :
>>75
この社がなんでこんなに高いのかという問題については、
出雲では元々山上に祭祀所を設けていたが、平地へその祭祀所を移したことから、
元々の高さの祭祀所が求められたという説があるな。
まあ、掘っ立て柱の倉庫形式が百越にルーツがあるとする説は、それはそれで結構なことだけどな。

78 :
>>74
あまえたことを言うでない。

79 :
どっちにしろ秦氏は燕国を滅ぼして今の北京から遼東半島まで駐留していた秦の軍人や大陸から逃れてきた漢族が大陸に戻れなくなって
j半島に残留した連中の子孫ってだけだよ

80 :
>>69
忠清南道 瑞山市 海美面 休岩里
休岩里遺跡
36.698327,126.556275 36.692460,126.558120
二つの遺跡をまとめて休岩里遺跡
典型的な松菊里型遺跡ではなくて
青銅器時代前期の細長方形住居跡と中期の松菊里型文化が結合

81 :
辰韓(秦韓)には、半島語をしゃべらずに
秦語をずっと喋っていた地区があったんだろう?
そして、それから後に、日本列島の中にも、
中国語(秦語?)の通じる地区が登場する。

82 :
>>72
朝鮮半島には中国大陸の中国土器・陶磁器が一切ない

だから長江から直接、朝鮮半島というのはない

両者とも遼東半島から朝鮮半島に入ってきたとしか考えられないね

ただし遼東半島までのルートが遼寧経由なのか山東半島経由なのかが分からんが

稲作は山東半島経由だろうけど、高床式倉庫は遼寧経由の可能性もある

83 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

84 :
秦の始皇帝の時代に徐福集団が佐賀にやってきた、後の秦氏である。


基本だから忘れないように。

85 :
>>84
中卒の妄想だという事だけは忘れませんが

86 :
>>81
渡来直後ならあったかも。
2代目くらいにはもうバイリンガルで、3代目には元の言葉を忘れる。
そんなもんよ。

87 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

 
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられ、一方、板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始しました。
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。

また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。

 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。

 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。

88 :
>>87
詐欺乙チンコロ


今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

89 :
>>79
そうした流れ者が、大王が絶賛するような超高級絹織物を作れるか、ということも考えんとな。

90 :
水稲農耕を過大評価しすぎている。
陸稲よりも同じ面積あたりの収穫率は高いけど
その反面、農作業は水稲は陸稲よりも手間がかかる。
日本では戦前まで、陸翔はかなり行われていた。

91 :
>>84
あれこれつぎはぎするにしても、そのパッチの選択をちゃんとせんとね。
柄がチグハグになってヘンだから。

92 :
>>88
水田じゃなくて畑での栽培なら日本は6000年前からやってるぞ

93 :
>>52
秦氏が移動した経路はおおむね判明しているよ。
宇治市街遺跡では4世紀後半の最古の須恵器や韓式土器、馬鍬などが出ている。
それから、5世紀に入ると伏見の深草あたりで前方後円墳が造られ始める。
この深草の複数の古墳は秦氏の造営になるものではないかとされている。
この時期には、まだ太秦は開発されていないようだ。
日本書紀では4世紀後半に弓月君の一団が渡来してきており、弓月君は秦氏の先祖だとされているので、秦氏の先祖がこの時期に伏見の深草に定着したことを想定するこどか可能だ。
淀川を遡ったのだろう。
同じ日本書紀では、天日槍という渡来人も淀川から琵琶湖の大津付近へ進み、そこから日本海側へ出るコースを取っているから、
秦氏の先祖の移動コースもほぼこれと同じと考えてよいのではないか。
一方、平安時代初期の新撰姓氏録では、山城国の秦忌寸の系譜に渡来した弓月君は大和の葛城郡腋上に住んだと書かれている。
そこで、この記述を信用した場合、渡来した弓月君は山城の伏見と大和の腋上に分かれて住んだということになる。
しかしながら、伏見深草の方は出土物や遺跡などで秦氏の存在が推定できるものとなっているが、大和の腋上については証拠物件がないのが難点だ。
そして、この腋上秦氏は、所属していた葛城氏が5世紀中頃に衰退するとともに葛城氏と並び立っていた鴨氏とともに木津川の岡田へと移り、
そのあと鴨氏は山城の鴨川あたりに定着して、秦氏は太秦などに定着したとする説がみられるものの、腋上秦氏そのものが存在していたことを示す物件がみあたらないのだ。
もし、腋上に秦氏が存在していなかったら、すぐ隣の高市郡波多郷にいた皇別波多氏のハタの氏名(うじな)を秦氏が借用してハタを名乗ったとする説も成り立たなくなってくる。
秦氏の先祖が葛城郡腋上に存在していた物証が、とにかく必要になるというわけだ。(続く)

94 :
>>92
中卒チンコロの頭の中だけでな(嘲笑

95 :
縄文人が稲作やってたのが分かったからね

96 :
>>89
そこに至るまでに何百年経ってると思ってるんだね

97 :
>>95
中卒チンコロの頭の中だけでな(嘲笑

98 :
>>96
新羅あたりの絹織物は普通の流通品。
大王絶賛の超高級絹織物は、ホータン産。
弓月君は、ここから来た者等だろうな。

99 :
月氏国
大月氏国
月支国
弓月君
月弓尊

100 :
月の砂漠を〜♪ という歌があったな。

101 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
 
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられ、一方、板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始しました。
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。

102 :
>>97
お前は小卒以下 アホすぎて草も生えない
>縄文中期に稲作 熊本の土器で稲もみ圧痕を確認
西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話 「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」

103 :
>>97
現在日本最古の稲の痕跡は縄文時代前期の岡山県朝寝鼻移籍から発見された稲独特の細胞「プラントオパール」

104 :
少なくとも縄文時代後期後半(約三千五百年前)には焼畑による稲作があった

105 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻した遺跡は論外です。
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。

106 :
>>103
日本最古の稲のプラントオパールは12000年前

鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている

107 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

108 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻した遺跡は論外です。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。

109 :
020/01/09(木) 13:48:26.62
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

110 :
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

111 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

112 :
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

113 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

114 :
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

115 :
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

116 :
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

117 :
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.

118 :
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

119 :
>>106
これはさすがに桃の木だよ。
遺跡の名前書いてね。

120 :
>>104
文化庁は弥生時代からしか稲作を認めないんだからな。
水田稲作が始まった縄文晩期を弥生早期として置き換えて、縄文稲作は認めないのよ。
だから、縄文時代にいくら稲のプラントオパールが出ても、イチャモンつけられて稲作はないことにされる。
気をつけたまえ。

121 :
>>120
菜畑より前のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もないからだよ
バカ中卒

122 :
だからお前は小卒以下 アホすぎて草も生えない
>縄文中期に稲作 熊本の土器で稲もみ圧痕を確認
西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話 「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」

123 :
>>122
悔しかったら、菜畑より前のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)の証拠を一粒でも出してみろよ


バカ中卒の華南ウンコ色ブタチックニグロチック 突顎 インドシナロピテクスくん

124 :
>>120
文科省は反知性主義的、非科学的だな

125 :
自答自答する華南ニグロブタwwww

126 :
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ここは台湾の田舎町。どこからか南方太鼓を叩く音が聞こえてくる。
見てみると叩いているのはそう、東南アジア顔した台湾人。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
半裸で意味不明の南方語の掛け声を唱えては太鼓をしきりに叩いている。
叩く。叩く。しきりに叩く黒い手。
そして黒い顔に潰れた広い鼻。突き出した口元とゴツゴツとした輪郭。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
一瞬、ニューギニアの奥地に居るような感覚に私は襲われたのである。

127 :
>>123
あまり笑わせるなよ 妄想癖の自称研究者よww

128 :
>>124
まあ、陰謀といえるな。
日本の文化は水田稲作を基幹として出来上がっていて、その稲作を管理するのが国家であるという妄想がそれ。
水田稲作の管理主体は神社であり、その神社を統括するのが伊勢神宮というわけだから、まあ、神社の神主がこの陰謀の首謀者ということになる。
この水田稲作主義は、縄文の陸稲があってその上に弥生水稲がある、つまり縄文文化が基層にあるという超絶真実をみとめたら、稲作管理統括の権利を縄文系畑作種族にも半分やらなければならなくなるので、縄文稲作を絶対認めない強欲なのだ。
陰謀の根にはそれがある。
つまり、渡来人文化と縄文現地人文化の戦いだということになるな。
もちろん、意地汚く戦いを挑んでいるのは、渡来人文化のほうだといえる。
まあ、陰謀なのは間違いない。

129 :
>>127
おまえがなw
悔しかったら、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよ

バカ中卒のインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻 突顎 タラコ唇半ニグロくん

130 :
>>128
じゃあ、出してみろよ
菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも

バカ中卒の華南ウンコ色短顔ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇ベトナミーくん

131 :
>>93
仮説としては、腋上秦氏(波多氏)はあり得る。
葛城円大臣が皇子時代の雄略に滅ぼされるのが5世紀中頃。
葛城氏の下で渡来弓月君(自称波多氏)を管理していた皇別波多氏が力を失ったその間隙をぬって、
同地域の鴨氏とともに自称波多氏も逃避し、その自称波多氏は岡田から太秦へ進んで定着した。
この太秦の近くで古墳が造られるようになるのが5世紀末〜6世紀初頭とされる清水山古墳。
その後もこの墓域で古墳が造営される。
つまり、5世紀末頃に太秦に造られた古墳の被葬者は、5世紀中頃に腋上から逃避した腋上波多氏であり、
新撰姓氏録の山城国の秦忌寸の先祖だとすると時期的な整合性は取れる。
これがこれまで唱えられている太秦秦氏の由来であり、かなり信憑性があるようにみえる。
この説からすると、秦氏のハタは皇別波多氏のハタに由来するとすることが可能になるようだ。
しかし、では伏見の深草に定着していた弓月君の分派はこの時期まで自らを何と自称していたのかという問題が出てくる。
とにかく、秦氏のハタは波多氏のハタに由来するとする説は、このような考えのようだ。(続く)

132 :
>>131
しかし一方では、太秦地域にみられる5世紀末頃の古墳は、従来からこの地域に住んでいた氏族のものであり、
秦氏が太秦に入ったことを根拠づける葛野大堰築造は600年を前後する飛鳥時代になってからの可能性があるとする研究がみられる。
つまり、6世紀代の秦氏の本拠地は深草にあり、太秦に秦氏が進出するのは7世紀頃であるとするものである。
この研究にしたがえば、大和の腋上波多氏が葛城氏衰亡の5世紀中頃に鴨氏とともに逃避して、5世紀後半に太秦の地に定着したとする説が成り立たなくなってくる。
このように、葛城郡腋上に弓月君が定着したとする新撰姓氏録の記述と太秦の秦氏をつなぐ説が途切れてしまうと、腋上の弓月君(自称波多氏)の存在を語るのは新撰姓氏録の記述だけということになってしまう。
そして、仮にその記述を信じたとしても、太秦の秦氏につながるのは7世紀前半頃になってくる。
その頃にはすでに伏見の深草では秦を名乗る秦酒公の氏族がいて、その秦の字はハタと読まれているのであるから、秦氏のハタ音の由来は腋上秦氏(波多氏)のハタとは無関係ということになってくるのではないか。
もちろん、腋上の弓月君(波多氏)が本家筋であり、その本家のハタ音を深草の秦氏族が取り入れて自らもハタと名乗ったとすることも可能であるが、これについても、やはり根拠が必要だろう。
いずれにしても、腋上秦氏の存在を示す物証が必要であることに変わりはない。(続く)

133 :
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html

◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.

134 :
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。

135 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻した遺跡は論外です。
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。

136 :
>>135
詐欺チンコロ乙



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.

137 :
古代の朝鮮関係で秦姓の人が活躍した例もある。
『魏略』には、戦国七雄の一の燕が東北方への侵略を行い、
秦開という将軍を派遣して箕子の後の朝鮮侯を討伐し二千里の地を奪ったと記される。
その時期は燕の全盛時代の昭王(前311〜前279在位)のときとみられる。
秦開という人物は『史記』匈奴伝にも見え、
燕の賢相・秦開はかって人質として東胡にあり、
厚い信を得たが、帰国してから東胡を破り千余里を得、
その地に燕は五郡を置き長城を築いて胡人を防いだとある。
この五郡のうち、最も奥地の遼東郡は郡治が襄平(いまの遼陽)とされるから、
『魏略』と『史記』匈奴伝は同じことを記したものであろう。
秦開の系譜は不明であるが、遠くは秦王室と同族であったことも考えられ、
秦開の族裔がこの討伐以降、朝鮮半島に遷住したのではなかろうか。
あるいは、秦韓王家はこの秦開同族の流れだったのかもしれない。

138 :
日ユ同祖論者、あらすなよ、wikiとかを。
ウンザリなんだよ、トンデモ説で。

139 :
>>138
朝鮮煙幕チンコロの中国(長江、江南、華南、四川、雲南etc.)から来た来た詐欺と
日ユ同祖論者のユダヤ人が来た来た詐欺がウゼエ

両方とも衣食住に関する生活痕遺構が全くないから何らの考古立証もできねえ

140 :
>>137
基本的に遼東郡に中国大陸人は定着してないっての

定着してたなら鬲が普及してるはずだろ

中国大陸人の炊飯器なんだから

耳の付いた器形もない

在地産の原始青磁もない

遼東郡には中国大陸人は定着しておらず、土着のウラルアルタイ語族の遼東人が
漢化して異民族燕人秦人漢人になっている

そして、その異民族秦人が朝鮮半島に流れてきたため、馬韓は領土の東部の
一部を割いて、その異民族秦人たちに与えた

141 :
>>139
今や、渡来人秦氏がユダヤ教徒だったかどうかは、古代史の最大の謎になっている。
世界のユダヤ人も手に汗握って注目する「日の国のユダヤ教徒の謎」だ。
ユダヤ人のY遺伝子の研究とともに、古代史世界のトップシークレットだからな。
凡百にはついてこれんテーマだよ、これは。

142 :
秦氏の祖先は、中国大陸が漢王朝によって統一される前に
朝鮮半島に亡命してきた中国人には間違いないと思う。
何故なら、当時の朝鮮半島には、「國」のことを「邦」と書く中国語をしゃべる人たちがいて
大陸では漢王朝の創始者の劉邦の名前の一字が「邦」なので「國」という漢字に変えたのに
それ以前に半島へ亡命したので「邦」のほうを使い続けていたから。
ただし、秦の始皇帝とは直接は関係なく、むしろ、
秦によって滅ぼされた燕の重臣だった秦氏の末裔の可能性が高い。

143 :
>>137
嬴氏が周の帝からもらった領地が秦邑であったことから秦国の名生まれたそうだ。
なので、秦はそもそもが嬴氏とは関係のない地方名だったことになる。
そして、秦の字は(生長の早い植物)の意味だという。
この秦を氏名(うじな)とする宗族がいたとしても不思議ではなく、現にこの秦開以外にも秦の宗名を持つ人物は少なくないようだ。
そうした秦を宗名とする秦開の孫が秦の嬴政の暗殺を企てた荊軻に同行したが失敗し、この時に秦開が半島へ逃亡し、その秦開の子孫が日本へ渡来した秦氏だとするのは面白いが、
秦氏に関連する何か資料がないと、ちょっとにわかには信じにくいな。
博識なのは評価するよ。

144 :
朝鮮半島では三韓の前は衛氏朝鮮という
中国の漢族系である燕の亡命王権によって統治されていた。
この燕の重臣には秦氏という貴族がおり
実際に燕が健在だった時代にも、
秦開という将軍が朝鮮半島北部を平定したという記述がある。

145 :
燕は朝鮮半島北部に隣接し
朝鮮半島北部にも版図を広げてた。
だが、西方の秦によって、燕は滅ぼされると
隣に朝鮮半島北部へ亡命する者も多かった。
実際にそれで出来た国が衛氏朝鮮である。
また、この燕には、秦氏、韓氏、箕氏という貴族がいた。

146 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

147 :
ずっと前に、中国人のサイトで、日本の秦氏についての考察を見つけたが
 
「秦の始皇帝とは直接は関係ないでしょう、
どっちかというと、燕の秦氏の末裔のほうが可能性が高い」と言っていたな。
燕は秦に滅ぼされて、朝鮮半島に多く亡命したけど、
その中には衛氏、韓氏、秦氏らがいたと。

148 :
>>132
新撰姓氏録に、渡来した弓月君が葛城の腋上に住んだと書いてあることについて、これを裏付ける資料は他にない。
なぜ腋上であったのかについては、葛城襲津彦が伴って渡来したと日本書紀に記されていることと関連があるだろう。
そして、隣接して高市郡波多郷に皇別波多氏が住んでいたことも関連があるのかもしれない。
この時代には秦氏のハタ音の由来が分からなくなっており、弓月君を葛城の腋上に住まわせることによって、深草や太秦の秦氏のハタ音の由来を説明しようとしたのかも知れない。
これはまったくの想像にすぎないが、秦氏のその企画通りに、波多氏のハタ由来説が唱えられる結果となっているということも考えられる。

149 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

150 :
>>147
渡来した弓月君の実態が朝鮮半島に逃避していた秦開の子孫でだったとする説は面白いと思う。
そこで問題となるのが、渡来したその秦(シン)氏がなぜ弓月君と呼ばれたのかということ、またなぜ自らをハタと名乗ったのかということ。
この呼称の問題が解けないと、その秦(シン)氏が太秦、深草のハタ氏であるとイコールで結ぶことができないのではないか。
このことについて、皆が頭を悩ませているね。

151 :
そんな難しい事ではないと思うんだが。

単に遼東郡秦人の後裔を自称していた帰化人が日本でハタと名付けられ、
楽浪郡、帯方郡漢人の後裔を自称していた帰化人が日本でアヤと
名付けられただけだろう。

優れた機織物を献上していたからハタ、文筆をするからアヤと名付けられただけだろう。

152 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

153 :
>>152
ほれRい詐欺チンコロw

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

154 :
>>153
挑戦ヒトモドキは文盲かよ笑

155 :
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

156 :
>>153
なんで、そんなに凄いんだよw
『Chosen』〜「選ばれしもの」?

157 :
『選ばれし者  destiny ガンダム』
日本では・・・みたいな存在なのかな、後にカミタマに・・・とか。


これは数年前の、とあるスレの話なんだけど
「神上がりの方法を教えてください」という謎の書き込みがあったり。

158 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

159 :
>>158
ほれRい詐欺チンコロw


今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.

160 :
>>140
漢化したのなら、三本足鍋使ってるだろな。

161 :
>>159
オクキョンの年代は暫定値とされていて、信憑性がない。
水田跡が出るのは紀元前300年代の遺跡だそうじゃないか。

162 :
>>160
元はウラルアルタイ語族の別民族なんだから、漢化できない部分も当然出てくるわな。

遼東郡漢人は漢服じゃなくて併合前の胡服のままだったんじゃないかな?

163 :
>>140
こんな事言うやつ正気の沙汰じゃないな 自分で何も知らないと告白してるようなもんじゃないか?
秦軍に攻められ燕王喜が逃げ込んだのが遼東 
司馬仲達にせめられ公孫氏が逃げ込んだのが遼東

そもそも古代から山東半島と遼東半島は目の鼻の先 実際は小島を伝っていけば余裕で渡れた
遼東半島を支配していた公孫氏は山東半島の一部も支配していた 

164 :
>>151
根拠なしに推定で主張しても、信憑性に欠けるけどな。
説としてはその他大勢の一つと位置付けられるよ。
機織物の機の字を一字でハタと読んでる例はないから、
機の字をハタと呼ぶのだとしたら、どうして機の字をハタと呼ぶことになったのか語源説明がいるよ。
ハタの言葉に機械を意味する語意がなけりゃならん。
しかし、そうした語源説明をみたことがない。
機織物のハタ(機)からそれを氏名(うじな)としたとは考えにくい。
逆じゃないか。秦氏が新しい織機を導入して独占的に絹織物を生産したことから、その織機で織った絹織物をハタ(秦)の織物と呼び、それに機織物の字を当てたのだろう。
それに、アヤは綾=柄・模様の意味で、漢氏が織る織物の模様が秀でていたのでアヤと呼ばれたとされているな。

165 :
アヤは文のアヤだろ

若尾文子さんのアヤだよ

166 :
>>163
知ってるけど何か?
燕王喜はすぐに秦軍に捕らえられて処刑されてるから遼東に定着してないね
公孫氏の地元は遼東なんだから、遼東に逃げるもクソもないだろ

バ カ 乙 !
.

167 :
始皇帝の姓氏は、秦氏じゃないからな。

168 :
日ユ同祖論の起源
https://youtu.be/-9peZnV-esg

日本人とユダヤ人のY染色体
https://youtu.be/orIWgoObiHM

169 :
>>148
新撰姓氏録が編纂されることになり、秦氏が祖先をはっきりさせる必要に迫られ、秦字にちなんで秦始皇帝の子孫であるとする始祖説話を考え出したとすることは考えられることである。
そして、秦字の由来はそのように処理できたが、一方、ハタの音の由来の説明に難儀したのではないか。
そこで、記録されていた弓月君の子の浦東(普洞)のホトゥ音がどこから出てきた名であるかについてストーリーを作ることになり、
ホトゥの発音と似た発音をする大和の高市郡波多郷を出自とする皇別波多氏から借用したとし、また弓月君が葛城襲津彦に率いられて渡来したことから、
弓月君が波多郷と隣接した葛城郡腋上の地に住んだとするストーリーを作った、と考えることができるのではないか。
そして、太秦に拠点を置く秦忌寸がその腋上秦(ハタ)氏の子孫であるとしたのではないだろうか。
これはまったくの想像であるので、根拠はないに等しいが、葛城郡腋上に秦氏がいたというデータがみられない以上、
葛城郡腋上の秦氏はこのときに作り出されたストーリーだとするのが理解しやすいのではないか。
太秦の秦忌寸は、深草の秦氏から別れた一族であるとするのが妥当だろう。
宗像からの交易ルートの京都側の最初の受け入れ拠点を開発するために太秦に移ったと考えるのがよいのではないか。
その時期は5世紀中頃ではないか。
深草には4世紀後半に秦氏が入り、深草では5世紀初頭頃から深草で前方後円墳がつくられ始めていることを考えると、
深草入植第2世代が太秦に移動したとかんがえるのがよいようだ。
このように考えれば、太秦の秦氏は大和の葛城から鴨氏とともに岡田に来て、それから太秦に移ったものだとする考え方は、
実は平安時代初頭の新撰姓氏録の頃に造られたストーリーに基づく説であり、実際には太秦の秦氏は深草の秦氏から出た一族だとするのがよいようにみえる。

170 :
>>169
この太秦の地への秦氏の深草からの入植は、宗像からの渡来人や交易品の京都における受け入れ拠点を開発するためだったとすれば、葛野大堰築造が600年前後の時期になることは、なんら不都合ではないということができる。
そうすれば、太秦近くに5世紀後半から古墳が造られ始めることが理解しやすい。
また、600年頃に秦河勝が蜂岡寺を建てたとされることと同時期の葛野大堰建設とは矛盾しない。
その頃になって、嵯峨野の土地開発が始まったと考えればよいのであって、秦氏が太秦の地に入植した当初の目的とはまた別のことだとすればいいと思われる。

171 :
>>170
まあ、相当強引ではあるが、秦氏のハタは皇別波多氏のハタの借用だとする説は、
そもそもが秦氏が自らのハタの音の説明のために祖先の弓月君が波多氏の波多郷に隣接した葛城の腋上の地に住んだと創作したことを元ネタにする説であり、
弓月君が腋上にいたとする具体的なデータがない以上、秦氏のハタが皇別波多氏のハタにちなむものであるとする説は根拠の薄いものであるとせざるを得ない。
むしろ、4世紀後半に深草に入植した弓月君の一族が秦酒公を名乗り、その一族から5世紀後半頃に太秦へ進出した者たちがいて、それが秦忌寸の先祖であり、
秦河勝はその太秦秦氏の6世紀後半の人物だとするのがよいように思える。
このように考えると、秦氏のハタ音は当初から弓月君の一族が名乗っていた氏名(うじな)であり、それは弓月君の子とされる浦東君のホトゥの音にちなむものだとするのが妥当ではないだろうか。

172 :
>>165
若尾文子の文をアヤと読むのは、仮名文字が模様のようであるので、模様を表す綾(アヤ)から転化されて意味づけされたものだろう。
まず模様を表す綾(あや)があって、それから文に(あや)の読みができた。
漢氏が渡来した4世紀後半頃は、文の字にアヤの音はまだ付いていないのではないか。

173 :
>>172
平安時代は間違いなく文はアヤと呼ばれているようだがな
https://www.google.com/amp/s/gamp.ameblo.jp/aiaia18/entry-10793154211.html

174 :
隋書倭国伝:隋書が完成したのは西暦650年代。
「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、
百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。
その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」
 
つまり、飛鳥時代には、日本に秦氏がいた可能性が極めて高い。

175 :
>>167
秦氏は始祖の弓月君が秦の始皇帝の子孫だとする系図を作っていて、自らの氏名(うじな)の秦字は始皇帝の秦帝国の秦にちなむものだとした。
しかし、これはルーツに箔をつけるためのものであって、秦字は実際には太秦の秦を採ったものだろう。
太秦は、古代中国でローマを表した大秦の字の大を太に改めたもので、秦氏の本拠地をローマにみたてたものだ。
そのローマのような大国を表した太秦の秦字を採ったのが秦氏の秦字だ。
どういうわけで古代中国では大きな秦をローマを表す文字としたのかというと、秦王という表現があり、この秦王の秦が国を意味したので大きな国の意味の大秦をローマに当てたものだ。
つまり、秦氏の秦の字は秦王の秦字であり、国を表していると考えるのが妥当。
なので、太秦の字は「大きな国」を表している。
この「大きな国」とは、実際にはエルサレムを意味しているとするのは、秦氏ユダヤ教徒説による主張となるが、今はそこまで踏み込まない。
秦氏の秦は太秦の秦を採ったものだな。
燕の秦氏や秦韓の秦ではないと考えられる。

176 :
>>166
公孫氏は漢族だっつうの低能 お前こそ何が言いたいんだ? 知恵遅れかよ

177 :
>>166
公孫氏は遼東太守な 遼東に定着してないってどういう意味? 公孫氏が何代岩渡支配してたとか分かってんのこのバカは
遼東太守という役名の人間がいたということは明らかに漢族の支配下だったって意味な
お前だけずば抜けてレベル低いから頼む バカは出てこないで 要らない人間だからお前はw

178 :
>>174
この隋書の「秦王国」は秦王の国という意味で、秦王とは皇帝の臣下に国を与えて王とする侯国のことだ。
元々は、漢の皇帝が臣下に秦の領土の一部を与えて王扱いしたことから、その臣下を秦王と呼ぶようになり、その後臣下の諸侯に国を与えて王扱いするその国を秦王国と言うようになったもの。
国を与えられて王を名乗れるのは皇族に限られ、臣下の諸侯を王と呼ぶことはなかったものの、その原則を外れて臣下の諸侯に国を与えて王扱いすることはたまにあったそうだ。
というわけで、隋の使節団が報告した「秦王国」は、倭のこんなところにも皇帝の秦王国があるのだろうかと不審に思ったということに過ぎん。
秦氏とは何の関係もない。
隋の使節団が見たのは、太宰府の唐風の服を着て仕事する官吏たちだったということだろう。
秦氏自体は、5世紀にはすでに秦の字を氏名(うじな)にしていたのではないか。

179 :
>>177
何だ、日本語も読めねえ中卒チンコロか(嘲笑

遼東に定着してねえのは秦軍にすぐに処刑された燕王喜だと書いてあるだろがカス

すぐに処刑されてるのにどうやって定着するんだよボケナス!

それと、公孫氏の地元は遼東なんだよ。

地元に逃げ込んでも意味ないだろがボケ



日 本 語 も 読 め ね え 中 卒 チ ン コ ロ 乙 !


.

180 :
>>175
きみ、大丈夫かい?頭の中。。。
ウズマサを太秦という漢字をあてるようになったのは
秦氏の拠点だったからで
 
ウズマサの語源は、
雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、
絹を「うず高く積んだ」ことから、
「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられたから。

181 :
鹿児島県人のY染色体を大量に検査したら
島津氏、惟宗氏、秦氏のモノが分かる。
そこから、秦氏の出自が推測できるようになる。

182 :
絹をうず高く積んだ事から考えてもハタは機織りのハタだろうね

183 :
>>130
菜畑や板付出土の炭化籾にノギがついているのなら考えてもみるが、菜畑などの炭化籾にノギが付いてなかったら、縄文後期の土器の籾痕にノギがないから稲はなかったとは言えんからな。
はよ、菜畑の炭化籾にノギがついてるか確認しろよ。

184 :
>>183
弥生から水稲栽培が始まったとするのはドグマであって、縄文晩期には水稲栽培は始まっており、縄文中期には陸稲栽培が始まっていた。
弥生から水稲栽培が始まったとするのは陰謀だ。
縄文人に水稲栽培の権利を認めないために仕組んだのが「弥生から水稲栽培が始まった」説だな。
神社の神主による陰謀だよ、陰謀。

185 :
ユダヤ教ってどこにあったんだよ?
キチガイみたいなんいついたが?

186 :
遺伝結果全否定〜、そいから宗教的ルーツもないわな(^O^)
バカのなったらよいな〜病やろこれ
ザコによくありがちな話やでな

187 :
>>180
日本書紀のいつもの語源説明だよ。
信憑性はほとんどない。
ウズマサは秦氏がつけた地名。
そのウズマサを天皇に大量の供物を積み上げてみせたことからもらった号だというのは、
すでにあった地名が、秦氏が多数の渡来人を囲い込んだことを正当化するための話に用いられただけ。
日本書紀はよく読み込まないとね。

188 :
>>183-184
自答自答って楽しいか?w

で、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?

早く出せよバカ中卒の華南ウンコ色ブタチック 突顎 インドシナロピテクスくん

189 :
>>185
千葉の芝山古墳の人物埴輪の中に混じっている帽子かぶって鬢長く伸ばして髭いっぱいたくわえた人物埴輪は、
今のユダヤ教徒の超正統派とおんなじ。
この人物埴輪と類似するものがオワケの鉄剣が出た埼玉行田の古墳からも出てくる。
これらの古墳は5世紀後半から6世紀後半に造られたものだ。
芝山へ行って、資料館のその埴輪を拝んで来いよ。

190 :
日ユ同祖論みたいなトンデモ説から
いいかげん、卒業しよう。
バカにされるぞ、そのうち、世界中から。

191 :
>>188
陰謀の尻馬に乗って、文化庁の提灯持ちするのは、絵にかいたような走り遣い。
はよ、菜畑の炭化稲籾のノギを持ってこい。

192 :
>>190
イスラエルの秘密組織に狙われんなよ。

193 :
>>182
間違い。
ハタ印の絹織物を新しい機械で織ったから、その機械で織った布を「秦の織物」と呼び、
その秦を機の字に置き換えたのが機織物の字。
機の字には、元々はハタの読み方はない。

194 :
>>189
韓服に似てるよな。
帽子なんか特に。
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFxnZRhew34Aqy6U3uV7;_ylu=X3oDMTBiZGdzYWtnBHZ0aWQDanBjMDAz?p=%E9%9F%93%E6%9C%8D++%E5%B8%BD%E5%AD%90&aq=-1&oq=&ei=UTF-8#mode%3Ddetail%26index%3D3%26st%3D0

195 :
>>193
じゃあ服部のハタはどこから来たの?

はた織り部→はとり部→はっとり
.

196 :
>>191

で、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?

さっさと出せよバカ中卒のインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻 突顎 黒人形質原人くん

197 :
>>189
千葉の芝山があるところを6世紀中頃から武社(むさ)国と呼んだが、
この武社(むさ)と武蔵(むさし)の(むさ)は同じだ。
この(むさ)は、トルコ語ではユダヤ人の指導者だったモーゼのことだ。
なんで、芝山や行田にユダヤ教徒の超正統派の姿をした人物埴輪があるのか、よ〜く考えてみたまえ。
答えは、おのずとジワァ〜と分かってくるからさ。

198 :
>>187
21世紀に生きるお前のトンデモ説よりも、8世紀の知識で書かれた日本書紀のほうが
信用になるだろう。
>>192
それじゃ、おまえ、やっぱ日ユ同祖論がトンデモだって、内心は知っているんだな。
ちなみに、イスラエルでも大部分の人や正当な学会では
日ユ同祖論なんて相手にされていない。

199 :
>>196
黒土遺跡の稲籾圧痕があるだろう。
これをノギがないから稲籾でないとイチャモンつけたのが文化庁。
そんなら、菜畑の炭化稲籾にノギがあるのかよ、という実に簡単な反論。
はよ、菜畑の炭化稲籾のノギ出してこいよ。

200 :
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

201 :
>>198
ウズマサのウズの解釈からして、日本書紀は間違っている。
ウズを「積む」意と考えているが、ウズは「積む」意ではなく「いっぱい」の意味だ。
日ユ同祖論だと言うたのは黄身であって、鷲じゃないからな。

202 :
>>196
そんだけ長い徽章つけたら、さすがに元帥くらいだろうな。

203 :
>>195
服部は元々は服織部で、のちに織の字が省略されて服部となった。
読み方は元々はハタオリべ。
それがべ音が落ちてハタオリとなり、さらにタとオが短縮してト音になったことから、
ハトリの読み方になったが、ハトリは言いにくいので、ハットリとハ音とト音を話すためのッが挿入されてハットリとなった。
これからすると、服部の服の字をハタと読んでいるのは、機をハタとよんだのと同じで、その着物の服地を独占的に生産しているのが秦氏だったので、
元々は秦織部(ハタオリべ)だったのだろう。秦氏が独占して服地を織ったので、
秦織部にその服の字を当てて服織部としたのではないか。そして、読み方は元のままのハタオリべの読み方をしたのだろう。
機にハタの読みが元々からあったのであれば、このハタオリべに機の字を当てて機織部→機部としてもいいばずだが、そうせずに服の字を当てて服部としているのは、機にハタの音がなかったことを示している。
要するに、ハタオリの元々の意味は、秦織りだったということだよ。

204 :
>>198
日ユ同祖論なんて、いまどきムーくらいだろ。
一方、科学の世界では、ユダヤ人の一部のY-Eと日本人のDの類縁関係が割り出され、
人文科学の世界では千葉の芝山、埼玉の行田とユダヤ教徒の関係が明るみに出てきていて、
これが太秦の秦氏に大いに関連がありそうだという謎に迫りつつある。
科学だな、科学の世界だよ。

205 :
>>204
>一方、科学の世界では、ユダヤ人の一部のY-Eと日本人のDの類縁関係が割り出され、

はあ?おまえ、大丈夫か??似非科学だぞ、お前の解釈は。
類縁関係?
日本人のD系とユダヤ系のE系が同じYAP遺伝子と言っても
両者の分岐年代は6万年前だぞ。
それで同祖というのなら、イタリア人にもE系がいて、ユダヤとイタリアのほうがずっと同祖と言えるし、
ユダヤで多いのはJ系とR系で、古代のユダヤの主流派はJ系な。
中韓に多いO系とユダヤ主流のJ系の分岐年代4万年くらいだ。
 
つまり、日本人とユダヤ人の間よりも、
ユダヤ人と中国人・韓国人、ユダヤ人とアラブ人、ユダヤ人と欧州人の間のほうが
よほど同祖と言える。

206 :
>>171
新撰姓氏録には、大和国に秦忌寸の名が見える。太秦公宿祢同祖としている。
この属性は山城国の秦忌寸と同じであり、山城国の秦忌寸も同じ太秦公宿祢同祖となっている。
山城の秦忌寸は深草の秦氏だとみられる。
また、摂津にも秦忌寸はいて、太秦公宿祢同祖としている。
同じ摂津には秦人の名の者がいて、これは秦忌寸同祖としているので、秦氏の支流とみられる。
河内にも秦姓の者がみえるが、同じく秦氏の支流のようだ。
こうしてみると、深草の秦忌寸と大和の秦忌寸、摂津の秦忌寸は太秦公宿祢と非常に近い秦氏のようだ。
この大和の秦忌寸を見落としていたことになる。
改めて考え直してみることにする。

207 :
ガンダム・・・『サムライ トルーパー』?

208 :
?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
このような話ばかりでしょ、設定、コンセプト?

209 :
寒いな〜・・・、
この家の話なんだと言っているのに。

210 :
>>205
ユダヤ人の一部のY−Eと日本のDは類縁だが、
同祖論をいうほど近くはないわ。
科学的にはDEから別れた類縁の遺伝子を持っていると言っていること。
一方、芝山の人物埴輪と関連があるかとするユダヤ教徒との間についても科学的に考えるべきだというとるわけ。
オカルトとは別よ。
黄身はオカルト好きらしく、えらく反応しとるじゃないか。
鷲はそんなオカルトとは無縁じや。

211 :
>>206
この大和の秦忌寸は摂津の秦忌寸と同じく、後世に深草秦氏から大和へ移った秦氏とみるのがよいのではないか。
大和秦忌寸が弓月君の直系であれば、新撰姓氏録にはこの大和の秦忌寸の項に太秦公宿禰や深草の秦忌寸の系譜の記事が書かれているべきであるが、
その他の秦氏と変わらない簡単な記述しかない。
だだ支流の秦氏よりは太秦の秦氏に近い関係であったことが分かる。
なので、これまで考えて来た朝津間腋上の弓月君は秦氏の創作だとすることは変更しなくていいように思う。

212 :
他のスレの話になるんだけど・・・低脳がいて、
何度、説明しても理解できないみたいだし。

213 :
とあるスレw

eyes(アイズ、会津?)が、
何やらという話ばかりしている人もいたり。

214 :
eyes・・・・・・・・・詳しいことはわからないけど、
いまの福島県のほうの話でしょ、老婆談も同じだしなw

215 :
『サイバーパンクSPECIAL』

 なぜか・・・ほとんど同じw

216 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

217 :


218 :
>>211
掖上あたりに4世紀後半〜5世紀中頃までの古墳は見られない。
少し南に下ると5世紀初頭の大型の室宮山古墳があり、これは葛城襲津彦の墓ではないかとされている。
さらに、5世紀後半にも大型古墳が造られている。
4世紀末頃〜5世紀の古墳がみられるのは馬見古墳群で、これは掖上よりずっと北にあり、
葛城氏の初期の古墳群ではないかとされる。
金銀を大王に奉ったとされる弓月君が掖上にいたような痕跡はみられないのだ。
腋上の弓月君は、新撰姓氏録のために秦氏が創出したストーリーなのではないだろうか。

219 :
遼東郡は山東省の名門・田氏なども大陸から移住し人口も増えていた 戦乱など生活の厳しさから逃れようと辺境に移動するのだな
だが続かなかった その漢族たちは大陸に戻れずどこに消えたのだ?

220 :
  ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  //
  ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ //        ■■■■■■
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //       ..■;;       ■ 
  / _____  // /          //      .  iiii   ー'''' ''ー ii 
.  /   l⌒l l⌒l \  ))   ____           (6   \  /|
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ   / ____ヽ          〈___     | |  __〉   プヨ族は偉大ニダ
/ ̄/ ̄.  ー'●ー'  ̄l ̄ |  | /, −、, -、l  ))   ―-、ノ/ |   . ●● | <史料はないけど偉大ニダ  
| ̄l ̄ ̄  __ |.    ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 ||      | -⊂)/ _\__ Д _ノ__   辰王は誇らしいニダ
|. ̄| ̄ ̄  `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6.   ー っ-´、}      |   |/  :::::: ≡ :::: (、  ヽ 実在は不明でも誇らしいニダ
ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ      ヽ  `\( .:::::: ≡ :::: |___| 馬韓は芝らしいニダ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ      `− ´ ( .:::::: ≡ ::::.  |  | 下半身丸出しで囚人奴隷の如く
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ          ( :::::: ≡ ::::::  (t  ) 礼俗を弁えなくても素晴らしいニダ

221 :
秦氏の系図で、どのあたりから実在性あると思う?

222 :
>>219
食えなくて消えていった、あるいは定着できず帰っていったとしか考えられないね

定着できたなら、中国大陸の中国陶磁器があるはずだからね

遼東は鬲一つ受け入れられていない

223 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》

クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

224 :
>>221

23魔方(23mofang)が劉邦の可能性が
高いと思われるSNPを特定
劉邦の出土人骨が無い以上確実では無い
(漢王朝は約1800年前に滅び、その後も
中国では何度も異民族の王朝交代が
行われているし、当然劉邦の系図も無い)が、
今出来る限り最も信頼出来る共通祖先年代(TMRCA)から公平に導き出した結果は素直に認めたい。
https://www.23mofang.com/community/topics/parentage/5e1551d5900ad4000765cb39

参考文献
yfull及び23魔方がTMRCAを算出する基にする計算式(全配列データに基づくY染色体SNPの新しい速度定数の定義)
https://www.researchgate.net/publication/273773255_Defining_a_New_Rate_Constant_for_Y-Chromosome_SNPs_based_on_Full_Sequencing_Data
Y染色体の塩基置換突然変異率
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19716302

劉邦系図
https://i.imgur.com/c6lVsZP.jpg
yfull O-F155(CTS1304)
https://i.imgur.com/HaGFHLB.jpg

古代文献(伝承)を全否定するわけでは無いが、
東漢氏の出自についての信憑性は限りなく仮冒
(今現在日本人からO-F155のSNPは出ていない)
に近い。
漢氏の起源は、高祖劉邦の漢帝国を西暦二十五年
に再興した劉秀(光武帝)から九代目 の後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代阿知王は、その 子都賀使王及び七姓氏・十七県人を率いて289年9月5日に備中国窪屋郡大倉谷に渡来 する。

225 :
>後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代

詐称詐称
そんな凄い人物がやって来といて、何で中国大陸の中国陶磁器が
遼東にも朝鮮半島にも一切伝わっていないのか?
単に中国大陸にルーツがない異民族漢人の遼東郡漢人なだけ

226 :
>>221
秦氏の系図では、秦始皇帝関連の記述は箔付けで信憑性ない。
その秦始皇帝関連の中で、新撰姓氏録の中に融通王としているのは弓月君(ゆずき)の和訓の発音を漢名化したものであるので、
始皇帝血脈の融通王という人物は存在しないと思われる。
また、弓月君は秦氏の先祖の出身地方名であり、弓月君という人物は存在しない。
その弓月君の子に当たる位置に書かれている浦東君ほかの子の名は、秦氏の先祖やそのほかの氏族の渡来前の出身都市名であると思われるので、やはりこの浦東君などの名の人物は存在しない。
しかし、その都市から渡来した人物はいたと考えられ、その人物がどのような人物であるか系図以外の別の資料はないが、浦東から来た人物とつながる秦酒公がその渡来者であった可能性がある。
系図では、その秦酒公から5代目が秦河勝であるので、1代30年としても酒公から河勝まで120年くらいになり、その時代は5世紀後半に当たる。
しかし、秦河勝が日本書紀に登場するのは600年前後で、7世紀初頭前後の人物と考えられるので、酒公から河勝までの200年ほどを5代でつなぐのは無理であることを考えると、
弓月君の渡来が4世紀後半であり、それから5世紀後半くらいまでの100年ほどの間の3代くらいが秦酒公の名で語られていると考えるのがよいと思う。
このようにみると、系図の信憑性としては秦酒公の子と記される意美からが個人名として信頼できるのではないか。
まあ、4世紀後半に渡来したホータン出身者とその子、孫あたりの個人は酒公の名で総括されているということではないか。
いわば、武内宿祢が長い間生きていたように書かれているのと同じように考えるのが妥当ということになるね。


日本書紀の雄略天皇のときに酒公が登場するが、それは3代目の人物ではないか。
そのあと意美から丹照までの3代を経て6世紀後半の河勝の事態になる。

227 :
東漢氏が漢王朝の劉氏の末裔かどうかは分からないけど
漢王朝の劉氏の末裔が朝鮮半島にいた記録はある。
何故なら、帯方郡の太守になっていたのが、
後漢皇室の庶流の劉マ、劉ムの親子だったから。
一応、東漢氏は、彼らの末裔だと主張している。

228 :
秦氏のハタ音の由来として挙げられる宇佐八幡宮の幡(ハタ)由来、朝鮮半島蔚珍の波旦(パタン)由来、機織りの機(ハタ)由来、服部の(ハタ)由来、
皇別波多氏のハタ由来のいずれについても、秦氏のハタ音の由来とするには難があるようにみえる。
波多氏については可能性がないわけではないが、波多氏の祖の弓月君が葛城の掖上に住んだとする新撰姓氏録の記述だけに依拠するものであり、
これを補完するデータに乏しい。また、掖上弓月氏が太秦に移ったとする説についても、葛城円大臣が滅んだ時期と太秦地域の古墳造営の時期が同じであることに関連して、掖上から太秦への移動を仮説しているものであって、
その移動仮説を補完するデータに乏しい。
これは弓月君が掖上に住んだとする新撰姓氏録の記述に立脚するものであり、その記述が創出されたものであったら瓦解してしまう性質の説である。
先にも述べたように、弓月君が掖上に100年ほどのあいだ住んだことを裏付ける資料はみあたらず、姓氏録の記述が怪しいものとなってくる可能性が少なからずある。
このようにみると、弓月君が隣接していた波多氏からハタの氏名(うじな)を借用したとする説は信憑性が薄くなる。
したがってこれまで挙げられた各説のハタの由来は、いずれも肯首しがたいものといえる。
では、秦氏のハタ音は謎のままかということなるが、やはり秦氏系図からするとそこに手がかりはあり、系図の浦東君などの4君の名に手がかりを求めるのがよいようにみえるのだ。
その4君の名を改めて見てみることにしよう。(続く)

229 :
中部、北陸方面への渡来者の入植は弥生時代から続いていたが、
大和政権は5世紀頃から増えた渡来人を関東方面へ入植させる政策を取った。
その渡来者の中に渡来ユダヤ教徒がいたことは、もう明らかだ。
前にも言ったが、千葉の芝山や埼玉行田の古墳とその出土物がそれを証明している。
この渡来ユダヤ教徒の関東入植を支援したのが太秦や深草の秦氏だ。
これは、オカルトでもなんでもない。歴史上の事実にすぎん。
その太秦の秦氏は、太秦をローマに匹敵する繁栄した国、エルサレムに例えたのも事実だ。
ここにくると、オカルト信者たちは急にざわめき始めるが、オカルトはまだ早い。
そして、その秦氏はトルコ語を話す中国西域ホータンからの渡来ユダヤ教徒を先祖に持ち、そのトルコ語は秦氏の交易路に沿って明確に残されている。
オカルト信者たちは、ここでオォ〜!とどよめくのがよい。
関東への交易路にある信濃の浅間山のアサマはトルコ語と和語のチャンポンで火の山という意味だ。
そして、このトルコ語のアサates(アティス=火)とよく似た発音の阿蘇(アソ)もトルコ語の火の意味である可能性が高い。
秦氏の話したトルコ語は交易路に沿ったあちこちに残っている。
これこそ、オカルト信者が夢想だにしなかった世界なのだ。
気絶せずによくよく考えてみるのがよい。
秦氏は渡来当初、トルコ語話者だったのだよ。

230 :
>>227
その漢王朝の劉氏の末裔という部分からもう詐称だろうな。
元ウラルアルタイ語族の異民族漢人の遼東人は最初は中国大陸の王侯貴族の名前を
パクって自らを漢人風に名付けたはず。
異民族なんだから最初は漢字も漢人風の名前もないのだよ。
中国大陸の王侯貴族の名前をパクって自らを漢人風に名付けた訳だから、
当然ながらその中国大陸の王侯貴族の後裔を自称する事が流行ったに違いない。
楽浪郡、帯方郡の生活土器は中国大陸人が入植したにしてはあまりにも稚拙で、
中国陶磁器とは似ても似つかぬ、全然違った土器文化、全く別の土器文化が
伝わっている。
もちろんこれは遼東郡にも言える事だが。

231 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

232 :
>>230
お前も妄想でわめき続けても誰にも相手にされてないっていい加減に気づけけや狂人

233 :
>楽浪郡、帯方郡の生活土器は中国大陸人が入植したにしてはあまりにも稚拙で、
完全に病気ですね ていうかお前は大陸人が遼東を支配して他事実を認めたくないだけだろ
歴史的事実を完全に無視してるもんな 呆れるわ

234 :
>>232=233
朝鮮煙幕チンコロだろ、おまえ

じゃあ楽浪土器&帯方土器と同期する中国大陸の中国陶磁器をその目でしっかり比べてみろやカス
全く違っていて、中国大陸人の入植なんか一切考えられないぞ
文章はウソや間違いや勘違いやデタラメだらけだが、
土器はウソを付かない

235 :
西暦3世紀中ごろ、ちょうど魏志倭人伝の時代
帯方郡太守は、後漢皇室の皇別の劉氏だったから。
劉?、劉?と二代がそう。これは中国の文献に多く残っている。
東漢氏、坂上氏は、劉?の孫の阿知使主を末裔だと自称している。
応神天皇の時代に阿知使主とともに日本に帰化した漢人に
七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)がいる。
だから、東漢氏、坂上氏が帯方郡にいた漢人の可能性は高いが
本当に後漢皇室の流れの劉氏の末裔かは分からない。
阿知使主(あちのおみ)って、和語の発音を漢字であてただけと思うが、本当の漢字名は何だったのか?

236 :
>>235
詐称としか考えられないよ
楽浪土器・帯方土器と同期する中国大陸の中国陶磁器をその目でしっかり比べてみろよ
三足もない、耳の付いた器形もない、原始青磁もない
中国大陸には7000年前からある皿(盤)という器種ですら、朝鮮半島に
お目見えするのは4C初頭だ
中国大陸の高度な中国陶磁器文明に浴していた文明人がこんな原始的な土器を
使う原始人になれるのか?

237 :
>>236
こんなところ吠えたところで、
日本でも、中国でも、いや韓国でも
歴史教育では、楽浪郡、帯方郡の半島支配について
学習するよ。
楽浪郡、帯方郡を支配したとしても、現地にいた住民は半島原住民だし、
支配階級の漢人の遺物もちゃんと発掘される。

238 :
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ┃ ▼よく分かるちょんこ半島の歴史
   ┃
   ┃有史以前 : 黒い山葡萄原人が生息。
   ┃2世紀 : 漢軍の駐屯地になる。
   ┃4世紀 : 日本の属国になる。
   ┃7世紀 : 唐の属国になる。
   ┃13世紀 : モンゴルの属国になる。
   ┃14世紀 : 再度中国(明)の属国になる。
   ┃17世紀 : 明が滅亡し、清の属国になる。
   ┃20世紀 前半 : 日本の属国になる。
   ┃20世紀 後半 : 北半分がソ連の、南半分がアメリカの属国になる。
       ∧_∧   。
      (  ´∀`) / <これでテストは満点        E[]ヨ
      (つ  つ      ━━━━━━━━━━━━━━━━
     | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
     |          |            
     |          |             
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|

239 :
残念!! 遼東でも中国系の土器が発見されまくってました

楽浪土器とは・・・

楽浪土器とは1)泥質灰色系胎土、2)滑石混和胎土、3)白色胎土に分かれる(谷 2002)。

1)白色胎土の楽浪土器は、山東東部の龍口市埠下王家村窯址などで生産されたものと同じ。
2)泥質灰色系胎土は漢王朝や戦国時代に遡る周王朝の製作伝統にある土器である。
3)白色胎土だけが土着の伝統的土器、いわゆる古朝鮮土器と言われるものである。

240 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

241 :
>>239
楽浪土器と同期する中国大陸の中国陶磁器(すでに土器の時代ではない)は
大部分が原始青磁だぞカス
中国大陸から移植されるべきは原始青磁製法と登り窯のはず
ところが楽浪郡に移植されたのは原始的な瓦質土器製法とアナ窯だけ
中国大陸では楽浪郡が設置される1000年以上前から原始青磁の時代に入っており、
紀元前10世紀頃には早くも江南が原始青磁の一大生産地になっていた
戦国時代の中国大陸では原始青磁が全体の半分近くを占めていたのにもかかわらず、
遼東や朝鮮半島で磁器が生産されるのはその1000年以上あとの事だ

残 念 !

242 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

243 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

244 :
>>243
ほれR詐欺流布チンコロw

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

245 :
>>228
渡来した弓月君の子として秦氏系図が挙げているのは、真徳(シントク)君、雲師(ウンシ)君、武良(ブリョ)君、浦東(ホトゥ)君の4人だ。
系図は、秦氏はこの4君のうちの浦東君の子孫だとしている。
弓月とは、中国史書では現在の新疆ウイグル自治区のタリム盆地外縁地方を指す言葉であるので、
4人の子の名はこの地方の都市名ではないかとみて、地図上にその名と重なる発音の都市を探すと、
次の都市名が子の名の発音と重なるのが分かる。
真徳(シントク)→トクス県
雲師(ウンシ)→雲宿鎮(ウンシュク)
武良(ブリョ)→烏魯却勒鎮(ウロキャクロク)
浦東(ホトゥ)→ホータン地区
この発音の類似は、確率的にみて有意性は非常に高いとみることができる。
しかも、これらの都市はばらばらに位置しているのではなく、タクラマカン砂漠のあるタリム盆地外縁をぐるりと巡る幹線の街道の上に立地している。
唯一、烏魯却勒鎮がその幹線の支線の街道の上にあるが、温宿鎮と近い距離にある。
そうすると、秦氏の先祖は、この系図ではホータン地区の出身だとすることができる。
このように、系図に挙げられている弓月君の子の名が実はオアシス都市の名だとすれば、
考えられることは弓月君とはそれらのオアシス都市から来た渡来者の一団の総称として用いられた名だということだ。
つまり、弓月君、浦東君などの個人名は存在せず、系図のこれらの名は出身地を記録したものだということになる。(続く)

246 :
>>245
このようにみると、タリム盆地外縁地方のオアシス都市から渡来した渡来者の一団には、ホータン出身の秦氏の祖先のほかにも少なくとも3氏族の集団がいたということになる。
この秦氏の先祖も含む4氏族がすべて血縁関係のある集団であるのか、それとも血縁関係にない一団であるのかは、定かではない。
しかし、幹線の街道上にこれらの都市が立地していることからすると、何らかの連絡のあった者たちであるとみることも可能だ。
ここで、注意すべきなのは、このタリム盆地外縁地方は、4世紀頃にはチュルク系の高車と呼ばれる部族が支配的に存在していたことが知られていて、
これらの都市から渡来した集団はこのチュルク系の言葉を話していた可能性が高いということである。
また、チュルク系の言葉はこの地方より西方のカザフ平原でも一般的に話されていた言葉のようである。
こうしたことを前提とすれば、ホータン出身の秦氏の先祖がチュルク系の言葉を話す集団であったことは不思議ではなく、むしろ、ごく自然な当然のことだと思われるのだ。
そして、日本における秦氏の交易路の周辺をみると、そこにはトルコ語の発音とよく重なる発音の言葉がみられるということなのである。(続く)

247 :
>>244
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

248 :
>>246
つまり、このトルコ語の発音と重なる言葉を集めると、どうやら旧約聖書の出エジプト記のエピソードやユダヤ民族が死海の西の土地に入るまでの旧約聖書の物語が浮かんでくるというわけだ。
それについては、おいおい話して行くことにしたい。
とにかく、秦氏系図が挙げている弓月君の子の名の発音はタリム盆地外縁地方のオアシス都市の名の発音とよく重なり、
その子の一人である秦氏の先祖の浦東君の発音であるホトゥはホータンの発音に極めてよく重なり、浦東のホトゥはホータンに比定することが可能であって、
秦氏一族はそのホータンから渡来した一族だとみなすことができるというわけだ。
この秦氏の先祖ホータン出身説は、なにもこの板だけの主張ではなく、各種ブログですでに主張されてきた説である。
さて、次から、秦氏に関わるトルコ語の真相を見て行くことにしよう。
わははははは。

249 :
>>247
ほれR詐欺流布チンコロw

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

250 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

251 :
>>248
書くのを忘れたが、これまで見て来たように、系図で秦氏の先祖とする浦東君のホトゥの発音はホータンの発音とよく重なるもので、他の子の名が同地方のオアシス都市の名の発音とかさなることからして、浦東のホトゥはホータンを表した字だと考えることができる。
そして、その浦東のホトゥの発音が秦氏の氏名(うじな)のハタの発音ともよく似ていることから、秦氏のハタの音は浦東君のホトゥの発音に由来するものであるとみなすことができそうだ。
可能性は低くないと思われる。
つまり、秦氏のハタとはホータンを表すホトゥ(浦東)を和語音としてさらに明確に発音してハタと変化したものと考えるのである。
秦氏のハタ音は、このホトゥ由来であるのはほぼ確かだろう。
朝鮮半島蔚珍の古碑にある波旦(パタン)がホータンを表していて、そのホータンを表す波旦がパタンと発音されるように、秦氏のハタはホトゥ(浦東)の音を和語発音で明確に発音してハタに変化したことは十分に考えられることだ。
そういうことだ。
わははははは。

252 :
トンデモ流す奴が多くて、うざい。

253 :
>>250
ほれR詐欺流布チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.

254 :
おめーらは、秦氏系図の弓月君の子の名が何であるかま〜たくつかめなんだ抜け作どもだ。
鷲が初めてその正体を突き止めたのよ。
もう、残念がっても無駄。
その歴史的栄誉は、鷲のものなんよ。
あかべえだ。
わははははは。

255 :
月を使うな普通なら月は湖を指すだ

256 :
254
またハズレやろ

257 :
そして、その秦氏がホータン由来のトルコ語話者だったことの解明に至っては、もう他の追随を許さん古代史の今年のヒットメーカーだよ。
まあ、去年からこのことは分かっていたことだがな。
秦氏の太秦(うずまさ)は、ユダヤ教徒の幕屋の意味だなんてことは、学者もこれっぽっちも気が付かなんなだ超絶真実なのだ。
こうしたユダヤ教徒はカザフ平原にはごく普通にいたんだがな。
日本は完全神道の国だからまちがってもユダヤ教徒はいなかったと考えるのは、水田稲作は弥生からとドグマを吹聴して縄文稲作などなかったとするヘボ学者と同じ。
日本の歴史は書き換えなくてはな。

258 :
>>255
月の砂漠だよ♪

259 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

260 :
>>258
縄文末の前の4500年前に来て、オロォチ=大龍神を伝えてるよ。
縄文末に来たのは江蘇省あたりの海民だ。
彼らが伝えたのはオオヤマツミだ、オロォチじゃないわ。

261 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

262 :
どちらにしろ、浅間(アサマ)はトルコ語の火を表すates(アティス)と和語の山を表す(マ)の複合語で、火の山の意味だ。
阿蘇(アソ)も同じ火の意味だろう。
まあ、アイヌ語かもなんて言っているうちは、だめ。
ちゃんと、秦氏のトルコ語を知らなければな。

263 :
いや、そこは秦氏(トルコ)→和人→アイヌの伝播を主張しないと

264 :
済州島には1万年前に九州縄文人が渡っており、7600年前には蔚山にも進出している。
この済州島の縄文人が8000年前に遼河に到達して、そこの先住人とともに生きていたフシがある。
したがって、6000年前の櫛目文土器が出た漢江上流のソウルあたりの遺跡は縄文人のものである可能性がある。
つまり、遼河が乾燥化で農耕が放棄され、遼河の住民がその他のモンゴル系、ツングース系と同じように南下するのは4500年前だから、
彼らの南下に押されて半島南端地方まで下った縄文人が、中国史書にみられる半島倭人のルーツだよ。
このモンゴル系やツングース系が南下する前は、半島には縄文人しか住んでいなかったというのが歴史の真実よ。
半島を縄文人から乗っ取ったのがモンゴル系やツングース系ということになるな。

265 :
>>263
5世紀は、毛人=エミシだな。

266 :
>>262
専門家じゃないから分からんけど、トルコ語の火は、
ates(アテッシュ)→ペルシャ語由来。
od(オド)→古代テュルク語のot由来。テュルク諸語もこっち。
アテッシュとアサは発音がかなり異なる。テュルク諸語のotの
方がむしろ近い。
>>264
自分もこの説にほぼ同意だが、支持者はあんまいなさそう。

267 :
>>260
んなコト言ってる頭のおかしな考古学者いねえ
八岐大蛇は大蛇だし、紀元後の話だバカ

>>264
7600年前に半島南部に渡った隆起文土器人は九州系じゃなくて済州島系なんだそうな
その時代の九州はすでに隆起文土器の時代は終焉していて次の段階の縄文土器の
時代に入っている
遼寧で隆起文土器が出土した話はないから考古立証できないね

268 :
>>266
トルコ語のodの発音はオデ、カザフ語のotはオトか。
アサには近くないな。
やはりates(アティス)からティが脱落してアスとなったのだろう。
アサマのアサにはアスのほうが近いし、阿蘇のアソも同じだろう、火だ。

そもそも、1万年前の済州島に縄文人の遺跡があることすらあまり知られていない。

269 :
龍神なんて伝承ないぞ日本

向こうから水墨画が伝わり広まったんだからな

虎も同じ

270 :
>>266
確かに、トルコ語のates(火)に対応するペルシャ語はatash(火)だな。
ペルシャ語には火の意味でazarがある。
こちらがぴったりだ。ペルシャ語azarがトルコ語に入ったazar的な発音の言葉があったのかも知れん。
今のトルコ語に火を意味するazar的な語彙はないな。

271 :
>>269
その龍は土器の絵の系統だよ。
その前に遼河人の移住で入っていたのがオロォチのロォ(龍)だろうな。

272 :
>>270
トルコ語にペルシャ語のazar(アザ=火)の発音と同じazap(アザ=苦しめます)の語彙がある。
ペルシャ語のazarと関連あるかもな。

273 :
あっそ(^O^)

274 :
>>271
んなコト言ってる頭のおかしな考古学者いねえって言ってんだろバカ

遼河土器が日本のどこにあんだよ中卒!

275 :
>>272
カザフ語にjagwの語彙があり、これは(燃やす、点火)の意味だ。
ペルシャ語のazar(火)のzar音とよく似ている。
語頭のa音が落ちただけで、ペルシャ語のazarと関連があるだろうな。
トルコ語にもペルシャ語のazar(火)関連の語彙があったはずだ。
また、キルギス語にはカザフ語のjagw(燃やす、点火)に対応するorttooの語彙がある。
これらをみると、チュルク系固有語にot(火)があり、外来語としてペルシャ由来のates(火)やjagw(燃やす・点火)などの語彙があるということになるな。

276 :
>>274
対馬海峡渡るときに、水主から置いて行けといわれたと何度言えばいいのか、ホトトギス。

277 :
浅間(あさま)、阿蘇(あそ)がトルコ語由来の火の意味だったら、日本の歴史変わるな。

278 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

279 :
>>278
ほれR詐欺流布チンコロw

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

280 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

281 :
>>274
あれ、曽畑式土器知らんのか。

282 :
これまでのところ、秦氏のハタ音は中国西域の都市ホータン由来とするのがよいようにみえる。
秦氏系図では、渡来した弓月君の子である浦東君が秦酒公の親とされ、その浦東の発音のホトゥがホータンと極めて類似しているためだ。
そのホトゥをホータンと結び付けるのは、ホトゥの親とされる弓月君の弓月はタリム盆地外縁地方の中国語での呼び名であるので、
弓月を浦東君の出身地方とするのことに不都合がないからである。
そして、その弓月地方の最大の都市がホータンなのである。
このように、ホータンを表しているホトゥ(浦東)が秦氏のハタの由来であるとするのが、もっとも系図に忠実だといえる。
秦氏の系図には秦氏の先祖の出身地方名と出身都市名が記録されていると考えるのが妥当だ。
そして、そのホータンからの渡来者からおよそ3代の人物が秦酒公の名で総括されているとみれば、
600年前後の時期に活躍したとみられる秦河勝に系図は無理なく引き継がれる。
何代かの人物を一人の人物にまとめることは、日本書紀の武内宿祢の例にもみられる方法であるので、
秦氏の系図においてもそうした方法が取られているとみることに不都合はないだろう。
秦氏のハタ音の由来は、まあこのようなことだろうな。
わははははは。

283 :
>>282
そして、このホータンあたりから西のカザフ平原に向かってはチュルク系の言葉が共通話語だったことからすると、
渡来した弓月君たちがトルコ語と重なる言葉を話していたとしても、何の不思議もないのだ。
このことと、朝鮮半島から日本の関東地方までを交易の舞台とした秦氏のその交易路の周辺でトルコ語と重なる地名がいくつも見られることは、
まったく不都合なく結びつくことなのである。
秦氏がトルコ語を話したとすることをオカルトと受け取る人士は、こうした中央アジアの歴史の知識がないための迷妄的誤解をしていると言える。
そんな程度では、この秦氏がギリシャ系改宗ユダヤ教徒だったといったら、もうのけぞって身悶えするのではなかろうか。
黄身たちがのけぞることは、鷲の本意ではないから、もうしばらく黄身たちが馴染までトルコ語の話だけにしておきたい。
わははははは。

284 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

285 :
>>279さすがチョンコロ
文盲にも程があるだろ笑
まさに↓だな爆笑
 ___
‖    |
‖現実 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  見えナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___
‖    |
‖空気 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  読めナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___
‖    |
‖常識 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  知らナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___
‖    |
‖未来 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  全くナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___      人
‖    |     (_)
‖人糞 ∧_∧  (___)
‖ \ ( ・∀・) <`∀●>  目がナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U

286 :
>>284
ほれR詐欺流布チンコロw

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

287 :
>>281
曽畑式土器は曽畑式土器がメインの集落遺跡というものがなく、轟B式土器が
メインの集落遺跡で作られているから、渡来人によるものではなく、
轟B式土器人自身が朝鮮南部の櫛目文土器の影響を受けて作っていただけとの事。

288 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

289 :
淤加美神(おかみのかみ)、または?神(おかみのかみ、Okami 10.5pt.png神)は、日本神話に登場する神である。

『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では?神と表記する。

日本の龍神だ

290 :
>>289
大山祇の子分だな。

291 :
>>287
そのあたりの話は皆知っている。
しかし、現物が渡っていないことには、真似のしようがない。
半島縄文人が持って渡ってきたか、九州縄文人が半島へ渡って持ち帰ったものか、いずれかだな。
とにかく、現物がないことには、話に聞いただけではそっくりには造れない。

292 :
魏の帯方太守の劉夏。楽浪太守の劉茂の一族。
238年に劉夏は邪馬台国の女王卑弥呼が派遣した難升米一行を迎え入れて、洛陽まで同行。
  
魏の時代にも、楽浪郡や帯方郡の太守に劉氏がついていた。
その関係で、劉氏と日本との間に外交関係が出きていた。

293 :
>>291
半島縄文人じゃなくて櫛目文土器人だろ?
櫛目文土器がメインの集落遺跡がないから、九州縄文人が半島へ渡って搬入を
含めて製法をパクったんだろうな
まあ、櫛目文土器人が渡来したなら、搬入土器なしで記憶からの再現でそのものが
作れるがな
ただ曽畑式土器はオリジナルの櫛目文土器とはかなり違った縄文土器の要素が
入った土器だから、やはり九州縄文人がパクっただけだろう

294 :
なにがカザフ語だよ

295 :
293
縄文人、ハプロD系統だぞ
それが答え
日本に4万年前からいる

296 :
なにが半島縄文人だバカが
聞いていて呆れるわ

297 :
>>295
35000年くらい前な
ただ、そのDの旧石器人も半島から渡ってきた訳だが
つまり、半島もかつてはDだった訳だ

298 :
>>293
土器つくるのは女の仕事だった。
男が土器見て覚えて、海渡って縄文女にあれこれ言っても、うまく伝わらんだろう。
現物もってこんけりゃならんわけよ。
それに、現物持って来ても、女がそのままに造ってくれるか分からんよ。
土器づくりには模様などその部族の誇りが込められてるから、他所の模様はそう簡単に入れさせてくれん。
曽畑式がかなり縄文要素が入っているというのも、女らがそのままそっくり作れんと我を張った結果やろな。
そこをあれこれ機嫌とって折衷的なのを造らせたのかもな。
どっちにしろ、現物は必要よ。

299 :
>>294
トルコ語もカザフ語もキルギス語も、みな近い親戚だよ。
otが証明してるがな。
しかし、浅間、阿蘇のアサ、アソは、ペルシャ語のazar(火)由来のトルコ語にあったそんな言葉から来ているはず。
浅間、阿蘇は元々の和語じゃないわ、そのままじゃ意味が分からんからな。

300 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

301 :
>>298
搬入の話に話をすり替えて誤魔化してるだけの甚だ不自然な詭弁

じゃあ、何でマダガスカルの渡来人はスラウェシ系の土器を、ポリネシアの渡来人は
ラピタ土器という華南系の土器を作れてるの?

搬入じゃなくて記憶から再現しているだけの話だろがカス

302 :
>>299
カザフ語にzhalyn(ザリン=炎)があり、
zhaghu(ザフ=点火、火を付ける)もあるから、
ペルシャ語のazar(アザル=火)とよく似ている。
ペルシャ語のazarのa音が落ちたのだろう。
a音が落ちる前のペルシャ語のazarとほとんど同じ語彙がトルコ語にあったはずだな。

303 :
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です
なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

304 :
>>302
ペルシャ語のazar(アザ=火)がトルコ語に入ったあと、別のペルシャ語のatash(アタス=火)が入って来て、
トルコ語にates(アティス=火)として定着するとともに、元のazar(アザ=火)が駆逐された可能性がある。
一方、カザフ語にもペルシャ語のazar(アザ=火)が入ったが、発音の都合でa音が落ちてzhalyn(ザリン=炎)として残った。
秦氏のトルコ語には、この失われたazar(アザ=火)が生きていたのだろう。

305 :
>>304
ペルシャ語のazar(アザル=火)やカザフ語のzhalyn(ザリン=炎)は、古代ペルシャのゾロアスター教と関係あるのかもな。
ゾロアスター教は火を神聖視した。
開祖のゾロアスターの綴りはzartoshtだそうだ。
このzar(ザラ)が神聖な火の代名詞となったのかもな。
カザフ語のzhalyn(ザリン=炎)は、このゾロアスター教に由来しているかも知れん。
とすると、ペルシャ語のazar(アザル=火)はa・zarで、aは強調音かもね。
そして、イスラム教が起こってゾロアスター教が追いやられると、トルコ語からもazar(火)の言葉が駆逐されたということが考えられるな。

306 :
>>298
土器を作るのは女だけだというのは間違いだぞ
実際は半分は男性が作っている
https://ceron.jp/url/natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/

307 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

308 :
>>306
このケースだけから、全ての土器は半分以上男が造っていたと断定するのは無理。
もっと調査範囲を広げるべき。

309 :
土器なんか移住先に優れたものがあればそっち使うだけのこと とくに現地嫁をもらった場合はそうdすよね

料理を作るのは古代は女達だから

310 :
女が使う土器を実家から持ってくる それだけの話なのよ

311 :
>>305
パキスタンなどで公用語として用いられるウルドゥー語はヒンディー語系の言葉だが、このウルドゥー語のag(アー)は火の意味だ。
ヒンディー語では、火はaag(アーグ)。
そこで、ペルシャ語の火を表すazar(アザル)は、a・zar(ア=火・zar=ザラスシュトラのザラ)で、ゾロアスター教の火の意味かも知れない。
また、カザフ語やキルギス語の炎を表すzhalyn(ザリン)は、ヒンディー語系のa(火)の語彙が付かずに、ザラスシュトラのzal(ザラ)だけで火の意味を持たせた語彙であることが考えられる。
トルコ語にはペルシャ語由来のazar(アザル=火)があったのだろうな。
それが浅間(アサマ)のアサ(火)の由来だよ。
阿蘇のアソ音も同じで、火の意味だ。

312 :
>>309
それが正解だな。
仮に、身ひとつでアメリカへ移住したと考えた場合、荷になる食器などは持って行かず、現地の宿で出された食器使うし、落ち着いたら現地の食器を購入するよな。
菜畑などに中国系の土器がみられないのは、これとおんなじだよ。

313 :
>>308
考古学に全く向いていない中卒素人の詭弁
移住先の土器の方が優れているとどうやって分かったの?
何で分かったの?
実際にあちらの土器と使い比べなければ分からないはずだろ
で、劣っているなら、長い年月の中で徐々に使われなくってフェードアウトしていくはずだろ
その過程の痕跡が遺跡にガッツリ遺る訳だよ
その過程すらないのは、ただ単純に来てないだけ
詭弁乙、バカチンコロ

314 :
>>312
バーカ

菜畑はそれまでの黒川式縄文土器を退けて渡来系の新型土器が山陰から伝わっているんだが

その渡来系の新型土器が中国陶磁器とも朝鮮土器とも違う土器で、その独特な文様が沿海州土器と一致する土器だった

渡来系の土器はガッツリ見られるんだよカス

315 :
ホータンから渡来した弓月君たちのうち秦氏の先祖は宇治から深草へ移り、深草を拠点とした。
この深草は、宗像から続く山間の山陽道を経て亀岡から山城の向日に出る街道につながっており、
この深草からは近江を経て尾張につながる街道の要衝にある。
また、深草は淀川からの街道とも結ばれていて、秦氏の先祖が深草を拠点に選んだのは、
そうした交易上の利点を考えたことが理由にあったのだろう。
そこで、深草の秦氏が太秦の地にも拠点をもとめたのは、かなり早い時期ではなかったかと考えられる。
というのも、宗像からの山間の街道が亀岡を経て山城に出る要衝の向日には、秦氏より早く山城に進出していた氏族が拠点を築いていて、
宗像との交易路を自家の影響下に置きたい秦氏としては、この亀岡から向日を通るルートを避けて、
別のルートで亀岡に出る必要があったと推測できる。
そこで、太秦の地に拠点を置いて嵯峨野から桂川の街道を北へ進み、保津峡あたりで渡河して山越えで亀岡に出るルートを選んだのではないか。
この考えが妥当であれば、秦氏が嵯峨野の太秦の地に進出したのは嵯峨野の開発のためではなく、自家の影響下に置くことのできる交易ルートの確保のためだったということになる。
葛野大堰の設置が5世紀後半、あるいは6世紀後半と秦氏の深草への定着からかなり遅い時期となるのは、当初は嵯峨野の開発が秦氏の目的にはなかったためではないか。
このようなことが言えるとすれば、太秦(ウズマサ)という地名は、秦氏がこの嵯峨野の地へ拠点を置いた当初から名付けられたことが推測できるのである。

316 :
日本人のD系統だけには海藻を消化する遺伝子を持ってんだってさ

他の人類遺伝子にはない日本人特有の遺伝子

つまり海中を漂う海藻を消化できる

317 :
海流流れじゃないの?

318 :
帯方郡、楽浪郡は、西暦313年に滅んだことになっているが
その後も5世紀初頭まで、半島南部に
帯方郡、楽浪郡の漢人による政権や都市が存在していて
彼らは大陸の東晋の元号を使用していた。

319 :
元王侯クラスのチンコロが日本に来ていたのは間違いない

320 :
元王侯クラスのチンコロのシンボルだった龍と鼎は?

321 :
ハプロDってなら日本、アンダマン、チベットが有名やがそれぞれが分岐してから5万年だってだからね

322 :
海を潜りながら海藻を食べながら泳いでこれるだ

323 :
>>312
それが常識的な考え方というものですよね
そもそも古代の土器なんて重すぎる 船に乗せて持ち込もうなどと考えるわけない
持ち込むのは鏡とか祭祀に欠かせないのと武器 土器なんて作り方さへ分かってれば最悪自分らですぐ作れるから要らんし 
現地の在住してる人たちが売りにきたら買えばいいわけだしw

324 :
>>320
チンコロ王の鏡がある

325 :
>>314
太ったカバか。
縄文晩期中期の突帯文土器のルーツはロシア沿海州のシニ・ガイ文化にあるとする説は、仮説段階にすぎん。
しかも、その土器については「土器の突出した口縁部には刻み目がみられ」としてあり、この突出が粘土帯を巻いた突帯かどうかははっきりせん。
確かに、縄文の貝殻条痕のみられる黒川式の次の土器が突帯文土器だが、この突帯文がどこから現れたかはまだ分かっていない。
シニ・ガイの土器の突出口縁部が突帯なのかどうか、早よ、調べてこい。

326 :
>>314
それ大陸系の器が日本に渡来するのと全く距離的に違うやん?
帯方郡を経由してきたとしてもだ

327 :
>>321
チベット、アンダマンのDも、その昔、トバあたりから南下した者らだろう。

328 :
ハプロD系統っていや日本、アンダマン、チベットが有名やね
それぞれの分岐が5万3000年前で日本人だけにあるんだってさ
生で食って多糖類にまで分解できるだ
つまり、、!

329 :
>>318
その帯方・楽浪の流れ者が秦氏の先祖なら、先祖の名を浦東なんて漢名らしくない名は用いんだろうな。
ちゃんとした漢名使うはず。
それに、漢に滅ぼされた秦の字は御法度じゃないか?

330 :
>>316
この海藻消化説はあやしいらしい。
元の論文はそんな内容ではないようだしな。

331 :
>>323
またまた搬入の話に話をすり替えて誤魔化し乙
マダガスカル土器もラピタ土器も故郷の記憶からの再現土器だぞカス

>>325
下のリンクの36ページの
『図 28 ダリニー・クート 15 出土土器』
の14、15を見る限り突帯だな
菜畑の山ノ寺式は最古の弥生土器じゃなくて、すでに次の段階の弥生土器だぞ
最古の弥生土器であり刻目突帯文土器は島根山口広島岡山あたりから出土する前池式だぞ
だから菜畑の山ノ寺式は島根山口から入ってきたとしか考えられないね
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=27596&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

332 :
>>297
Dが半島から渡ってきたことを示す遺跡・文物は?

333 :
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

334 :
>>316
性染色体は形質と関係ない
俺はO系だが形質の99.9%以上が日本人形質であり、当然ながら海藻消化も可能

335 :
>>331
その渡来集団の勢力圏って
完全にスサノオの出雲やな

336 :
3000年前に沿海州シニ・ガイ文化勢力が日本に渡来して出雲建国
日本に35000年前からいる土着勢力が国譲りを敢行→日本建国
超簡単に言ったらこんな感じか

337 :
土着勢力に国という概念があったのかどうか?

338 :
沖縄よりちょっと南の島に海底遺跡あるよ
完全に海の下にある人工的遺跡
あんなん使いこなせる種族って?

339 :
う〜ん(╹◡╹)

340 :
チベット一アンダマン一日本→そっから少ないがカムチャッカにまで広がってるんはいるんはいる(╹◡╹)
完全なる海洋族やな

341 :
Dが35000年前に半島から?
10万年前〜12000年前まで(氷期)の陸地
https://i.imgur.com/PzDIWPH.png
白いところは全て陸地
日本海はほぼ巨大湖で
東シナ海の大陸棚は巨大平野でそのまま九州に繋がる
北から南下なら現在の朝鮮地域を通る必要が無い
日本海(湖)沿岸を通る方が楽
南から北上でも現在の朝鮮地域を通る必要が無い
東シナ海の大陸棚は巨大平野で九州にそのまま繋がるから

342 :
ただ、前池式が出雲あたりから広がっていった事だけは確か

343 :
>>337
神話では、国を作ったのは出雲、それに対して国譲りを敢行して日本建国
約3000年前に沿海州シニ・ガイ文化勢力が日本に渡来して国と言う概念を齎した
と考えられる

344 :
3000年前
島根県・沿海州シニ・ガイ文化勢力が渡来
山形県・三崎山遺跡の青銅刀(中国の商(殷)時代の青銅器と同じ鉛)
福岡県・曲り田遺跡の鉄器(中国 ・楚系の鉄) 日本に到達したアイアンロード(南部ルート)の終着点
シニガイ文化は弥生土器と青銅器のセット
3000年前に西から来た鉄器集団と交戦して負けて日本に来た
弥生土器と青銅器を齎して国を作った
アイアンロードの北部ルートはそこで止まったが
南部ルートで楚の鉄が福岡県に伝来
35000年前からいる土着勢力が鉄器を用いて国譲りを迫って日本建国

345 :
櫛目文土器はハプログループN (Y染色体)が担い手である。
沿海州南西部も古くは遼河文明圏であり、遼河人(北部モンゴロイド)由来のハプログループN(Y染色体)が高頻度であったと考えられるが、
中国江南より無文土器を携えたハプログループO1b2 (Y染色体)がやってくるなり、父系(Y染色体)がNからO1b2に置き換わったと考えられる。
一方の母系(mtDNA)(およびおそらく殆どの核DNA)は遼河人起源のまま保たれ、
江南起源Y染色体O1b2-遼河人起源のmtDNA・核DNAのセットが沿海州南西部から主に西日本の日本海側に弥生人として渡来したと考えられる。
これが土井ヶ浜遺跡などの弥生人が北方系の形態を持つにもかかわらず、Y染色体のみが南方系である所以である。

346 :2020/01/14
>>345
青銅器が作れるようになったのはBC2Cの話だぞ
中国江南から無文土器が伝わっといて、何で無文土器に中国土器の三足や耳が付いた器種器形がない?
江南には7000年前からある皿も甑も釜も竈もないんだぞボケナス
そんな星占いよりも当たらねえゴミ指標捨てろ!

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