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梶原景時と高師直は似すぎている
伊都国東遷スレ 8
- 1 :2018/07/16 〜 最終レス :2018/07/19
- 1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html
- 2 :
- Part 1
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1515402057/
Part 2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1525042172/
Part 3
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1526223134/
Part 4
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1527047330/
Part 5
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1528119763/
Part 6
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1528806114/
Part 7
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1529795681/
- 3 :
- 森浩一
「中国では連弧文鏡と呼んでいる内行花文は、花の文様ではなく、
太陽の輝きを捉えた文様だと推測されており、 天照大神そのものにふさわしい。
八咫鏡の有力候補が内行花文鏡であるということに、私は知的興奮を覚える。」
北條芳隆
「ヤマト土着の弥生文化の勢力が独自に邪馬台国の主体をになったというのはありえない。
纏向の建物の配列の仕方などは、ヤマト在地の弥生文化とは異質で九州北部の強い影響を受けていることは明らかです。
(中略) 言ってみれば、「邪馬台国東遷説」に近い考え方かもしれません」(歴史REAL抜粋)
寺澤薫
「平原一号墓の鏡はそれまでの弥生時代の王墓の副葬鏡とは大きく性格が違う。(中略)首長霊継承の秘儀には本来、
太陽の力によって首長霊を鼓舞する女性最高祭司と内行花文鏡が欠かせない存在だったという考えもある。
比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」
(王権誕生 p249抜粋 連弧文鏡は、内行花文鏡と表記を改めました。)
- 4 :
- 伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その2
寺沢知子
「初めて国産オリジナルブランドの超大型内行花文鏡を制作した糸島平野の勢力の意図は、
初期ヤマト王権成立期に吉備や出雲主要な要素に加えて受け継がれた。
特にその初期には、王権の伝統生徒独自性を主張しうる祭祀具として、中国製ではない国産の超大型内行花文鏡が王権中枢部で作り出され、政治性が付加されて分有された。 」
福永伸哉
「やや単純化して言えば、弥生後期段階に内行花文鏡を重視した集団のネットワークの中から、古墳成立期の中央政権主流派を形成する動きが展開して言った。 」
高橋徹
「現時点において平原遺跡にその最古例を知り得る特大、大型倣製内行花文鏡は、
大和の古式の前期古墳に形式的連続性を保って連綿として用いられている。」
- 5 :
- 伊都国東遷に親和的な考古学者の見解抜粋です。その3
今尾文昭
「前期古墳に出土の大型長宜子孫銘内行花文鏡の日本列島内への伝来と、
大型倣製内行花文鏡の製作開始時期に大きな隔たりをみる必要はないと考える。
具体的には、大型倣製内行花文鏡の製作開始時期は古墳時代前期前葉の桜井茶臼山古墳の出現以前に設定できるのではないだろうか。
平原墓出土鏡と古墳出土鏡に間隙を設ける必要はなくなる。」
清水康二
「柳本大塚、下池山古墳出土の大型内行花文鏡が含まれる大型鏡は、
王権の強い規制の元で製作され王権の意思によって被葬者の手元に届いたものと考えらえる。
その場合、当然のことながら面径30cmを超える極端な大型鏡は、中型鏡、小型鏡と比べて付加された権威はさらに大きかったものと思われる。」
辻田淳一郎
「奈良盆地の東南部に内行花文鏡系の超大型倭製鏡が集中する事実は重要である。
これは具体的には、舶載三角縁神獣鏡の配布主体と想定される。
奈良盆地東南部に墓域を営んだ初期ヤマト政権を構成した上位層が、
各地で共有される舶載三角縁神獣鏡や中国鏡とは異なる自らのアイデンティティの表現形態として
内行花文鏡系の超大型鏡を採用したものと考えることができる。」
- 6 :
- コラムとして、「魏略と伊都国」を書きましたので公開いたします。
「平原一号墓」が女王墓であったという考古学側からの知見に対して、あくまで邪馬台国畿内説を維持しつつ、それが中国側文献に残っている痕跡はないか、という着眼点から考えました。
特に魏志の旅程記事解読において、女王国に至る「万二千里」は九州北部まででその大半を消費しているため、従来の単純な畿内説の立場では、どうしても納得的な説明を与えることができず、
「万二千里」は単なる文飾として無視する以外ないと感じていましたが、それがこの小論において、随分とスッキリしたのでは思います。これはある意味、旅程記事の解釈の大きな比重において、九州北部説側の説明に合理性を認めたという事でもあります。
(もちろん純粋な九州北部説で魏志が全て綺麗に説明されていると認めているわけでありません)
少々自身を込めて表現するなら、この小論において、共立された女王としての平原墓を文献的にも発見すると同時に、旅程記事の里程の矛盾が解けた、と言うことができるでしょう。
「膝に手を打つほどに明快」とまで感じるは人に依るところはあると思いますが、個人的には、なかなかの自信作というところでしょうか。是非ご一読ください。
http://fast-uploader.com/file/7083675628950/
- 7 :
- 魏略との一致状況の点数表です。 平原王墓に減点要素ゼロですね。
【平原一号墓】
被葬者が女性 : ◎(2点)
王墓である : ◎(2点)
鏡が出土 : ☆(3点) *日本最大、最多
年代.... : ○(1点)
漢との交流 : ◎(2点)
万二千里におさまるか? : ◎(2点)
-----------------------------------------------------------
合計 12点
【箸墓】
被葬者が女 : ○(1点) *モモソヒメ伝承から
王墓である : ☆(3点) *古墳時代への画期を成す
鏡が出土 : ?
年代.... : X (0点)
漢との交流 : ?
万二千里におさまるか? : X X(-1点)
-----------------------------------------------------------
合計 3点 + α
以上でテンプレ終わりです。
- 8 :
- アマゾンの電子書籍「継続としての日本古代史」を出しましたので、
岡上説として纏まったものは、そちらを参照いただけると幸甚です。
ちょっとした広告用ポスターも自作しました。
詳細はブログ( http://aroomofwisdom.blogspot.jp/ )の方をどうぞ
また、付論を一部、リバイズしましたので、公開しております。よろしければどうぞ。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/
- 9 :
- 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
- 10 :
- 何度論破されても学習しないトンデモパレード再開
- 11 :
- 謎を解決する人には、つい期待してしまう。
- 12 :
- 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。
- 13 :
- で、3世紀に「肥溜めの蓋」がなかったことは、いつ証明してもらえるんだ?
- 14 :
- 前スレ>997
>もう病院行ってきた方がいいぞ。マジレス。
>親切心だぞ。感謝しろよ。
畿内説スレPart362 >290
>これも何度も書いていることなんだけど
>そろそろ頭の病院に行くか、
>刑務所(死刑)にでも行ったほうが良いぞ
同じ人?
例のつぶやき荒らしの人で、連続句読点とも同一人物?
- 15 :
- >>14
別人
>畿内説スレPart362 >290
>これも何度も書いていることなんだけど
>そろそろ頭の病院に行くか、
>刑務所(死刑)にでも行ったほうが良いぞ
これは、もれ(仮)の書き込み
- 16 :
- 「畿内説スレPart362 >290 」は、つぶやき荒らし宛の書き込みだね
了解しました
- 17 :
- 他のスレ(つーちゃんえる、現在2ちゃんねる?)
にも書いていることなんだけど
そろそろ頭の病院に行け
- 18 :
- http://menu.2ch.sc/bbstable.html
他の板というの?ここから探してみて
- 19 :
- これも昔から有名な話なのかな、グーグルなどで検索してみて
『ワイ(神)によって助けられるもの』
- 20 :
- 『濊』
(ワイ)と読むみたいなんだけど、どの国も同じじゃない?
ヤハ神の意味?
- 21 :
- 実際は、どこの国の人間だったんだと思う?
『聖化 日霊 日神 津』関係でしょ?
- 22 :
- 現在の話をしているわけではなくて、
その当時、書や記事などに書かれている人物などの話
- 23 :
- >いやいや、福岡平野側の奴国勢力を抑えて、天孫は高天原(詳細不明)から来たんだよ。
>須玖岡本は猿田彦のような人物なのではないか?
福岡平野側の奴国勢力を抑えたら、奴国に入ればいいとは思わないかね?
糸島平野より福島平野の方が広いし、人口も多い
奴国勢力が抑えられるのであれば、抑えを利かせる意味でも奴国に天孫降臨しないとおかしくないか?
>戻って来るって何のことだ?
>奴国は天孫族じゃないぞ。
>天孫族は卑弥呼の前の男王70-80年の三代だろうね。
伊都国説の主張では、平原1号墓が卑弥呼の墓という「設定」なんだろ?
ならばなぜ、前スレ>974は「三雲の天孫族から八咫鏡とともに太陽信仰を継承」と
いうことになるんだ?
三雲・奴国が天孫族だったりなかったりするのは、不統一だから何とかしてくれないかね?
- 24 :
- >>23
>福岡平野側の奴国勢力を抑えたら、奴国に入ればいいとは思わないかね?
>糸島平野より福島平野の方が広いし、人口も多い
多すぎて良くなかったんだろう。
ある程度の静謐さと保安上の観点からは、王宮を繁華街から遠ざけるだろう。
>奴国勢力が抑えられるのであれば、抑えを利かせる意味でも奴国に天孫降臨しないとおかしくないか?
高祖山の日向峠なら、奴国にも抑えが効く。
だから、墓は三雲だけど、宮城の城域は高祖山にかかっていたのだろうね。
奈良時代の怡土城は、山頂と山麓をたすき掛けしたような中国式山城であったことがわかっている。
クジフル山は高祖山の最高峰だが、そこに陣取れば奴国にも博多湾にも睨みが効く。
しかも三雲の行政地区からは東の日の出を望む方向の山上に宮があり、「天の子は太陽を背にするべきである」(神武が熊野に向かう時の台詞)という神仙思想にも合致する。
筑紫の日向のクジフル峰の高千穂宮という名称に相応しいのではないかな?
>三雲・奴国が天孫族だったりなかったりするのは、不統一だから何とかしてくれないかね?
奴国は天孫族ではないと思うよ。
三雲だけが天孫族(男王70〜80年、日向三代)。
平原も違うだろう。
- 25 :
- >>24
>クジフル山は高祖山の最高峰だが
これが確認できる資料が一切ないんだが?
人によってクシフル岳の位置が違うし
日向峠という小さな地名一つで、伊都国周辺を日向だと言い張るのは
無理があるんじゃないか?
- 26 :
- >>24は前スレ>974で「三雲の天孫族から八咫鏡とともに太陽信仰を継承」と
書いた人とは違うのか?
- 27 :
- >>25
以前は国土地理院の地図にも記載されていたらしい。
みんなほぼ同じ位置を示していて、大きな違いは見たことがない。
- 28 :
- >>26
三雲は奴国ではないよ。
- 29 :
- >>27
どれもこれも風聞ばっかりだな
さすがトンデモ説
- 30 :
- >>27
>以前は国土地理院の地図にも記載されていたらしい。
これが本当なら、比較的簡単に資料として見つかるはずなんだが、見つからない
多分ガセネタ
>みんなほぼ同じ位置を示していて、大きな違いは見たことがない。
そんなことはない
>>24は「クジフル山は高祖山の最高峰」というが、人によっては
高祖山の須俱隣のピークだというし、別のピークをあげる人もいる
- 31 :
- >>28
>三雲は奴国ではないよ。
ごめん、これは勝手に、三雲→須玖岡本に脳内変換してた
こっちのミスで、変な言いがかりになってしまって申し訳ない
この件は了解
- 32 :
- クシフル山については、怡土郡誌か何かに、高祖山のふもとに椚とあるのが
クシフル山の転訛したものだろうとあるのを示した人がいるが、どうやらそれが精一杯らしい
- 33 :
- http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
一番高い峰を高祖山と呼ばないことが混乱の原因かもね。
表現が違うだけで、紹介されている写真などを見ると、上記の位置を示しているみたい。
- 34 :
- 前スレ、900あたりより、この流れ惨すぎる
『他の鏡種ではなく内行花文鏡こそが、太陽信仰を象徴するって いう論文があるなら出してごらん?』
「いや、普通に考えればなにも内行花文だけが独占的に太陽を象徴している必要はないわけで、おまえは何に見えるの?」
『そっちが答えないのに、こちらが答える道理はないだろ? そしてこっちの要求は、日本史板の趣旨に合うが、そちらの要求はただの難癖 レベルの低いやつはこれだから困るww」
「(難癖?レベルが低い?ただの質問なんだけど?)日本語わかりますか?何に見えるの?』
『マンホールの蓋』
「(は?突然何を言い出すの?)いや、マンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?」
『太陽に見えるから太陽の象徴というマイルールを認めろというなら、マンホールに見えるからマンホールの象徴という主張と差異はまるでないことに 気がつかないとww 』
「いやいやいや、だからそもそもマンホールの蓋って、弥生時代にはないよね?そこが既におかしいよね?」
『マンホールというのは外来語だから、3世紀の人間がマンホールという用語そのもので 考えていた可能性は否定できるが、
ここでマンホールというのは、暗渠や水路などの蓋という 機能面について(以下略)』
「(だめだコイツとは会話が成り立たないわ)」
- 35 :
- 多くの人が、「これは八咫鏡だ」と納得すれば、細かい数字はともかくとして八咫鏡になってしまう。
八咫の大きさから程遠いのに八咫鏡と呼ばれている伊勢の鏡がその代表だ。
つまり、平原の鏡が八咫鏡であることを否定する材料は皆無なんだよ。
いやむしろ、これまで知られているどの鏡よりも八咫鏡にふさわしい。
- 36 :
- 高千穂と呼ばれる地名は多い。
しかし宮があり城があり王墓を備えた土地は伊都しかない。
まして固有名詞で筑紫と呼ばれるのは古代においては筑前の中でも博多湾沿岸のみ。
筑紫の日向の高千穂宮を、伊都以外のどこに求められるというのか。
考古学的に弥生時代最高の文化的水準を達成していたことが明らであり、魏志倭人伝にも郡使が滞在し大率が置かれた外交と政治の中心地となっている。
神代(古墳時代より前、弥生時代)における倭国の都は伊都しかあり得ない。
- 37 :
- >>33
>一番高い峰を高祖山と呼ばないことが混乱の原因かもね。
ピーク自体はあるけれど、そこが「クシフル岳」と呼ばれていたことを示す資料がないんだよ
ネット上ではいろいろ書いている人がいるけれど、昭和の頃に伊都国説を言う人が出てからの
ものしかない
- 38 :
- >>35
>つまり、平原の鏡が八咫鏡であることを否定する材料は皆無なんだよ。
逆だよ
「否定できなければいい」、ではなく>>35自身が書いているように
「多くの人が、「これは八咫鏡だ」と納得」する必要があるんだよ
しかし、平原に八咫鏡があったという伝承の痕跡すらない
八咫鏡とされる理由がないんだよ
太陽に見える、と1800年もあとの人間がいくら思っても、論証には全くの無益だよ
- 39 :
- >>34
本当に情けないやつだな
前スレ
>990で
「で?弥生時代にマンホールがあった証拠は? 」
>992で
「文脈無視の××は弥生時代にマンホールがあった証拠を持ってこい、話はそれからだ。 」って
いきってたのは>>34だろ?
勝てると思ったときには立て続けに、差別用語を交えて畳みかけておきながら、
3世紀に肥溜めの蓋がなかったことを論証してね、と言われたら、逃げる逃げるww
本質はここだよ
「主観で科学を語るのがダメだって話
日本史も人文科学だよ
科学の手続きから外れた論証はトンデモ」
- 40 :
- >>39
肥溜め好きは巣に帰れよ。
新しく出来ただろ。
- 41 :
- 大正時代の郡誌までは確認できるらしいよ。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す。」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
- 42 :
- 古事記
故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那(此二字以音)雲而、
伊都能知和岐知和岐弖(自伊以下十字以音)、
於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖(自宇以下十一字亦以音)、
天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。(自久以下六字以音)。
- 43 :
- >>41
民家の後とはあるが高祖山のことだとはどこにも書かれてないよね
その同じ本の高祖山の項目にはなんて書いてあるんだろうねぇ
- 44 :
- 高祖山の麓の民家なんだけどね。
椚は今でもある集落だよ。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
の地図をその位置で+ボタンで拡大すると見える。
- 45 :
- 高祖山には416と419(クシフル)の2つのピークがあるので、二上山とも言える。
古事記ではクシフル山だが、日本書紀では高千穂の二上山とある。
どちらでも高祖山のことで良い。
- 46 :
- まだ 続いてんのクソスレ
伊都国(卑弥呼)が東遷なら
3世紀畿内が文明的に九州に比べ劣っていたのは何故?
この疑問に答えるべきだね
- 47 :
- >>46
個人的に邪馬台国の東遷はなかったという立場なのだが、たまたま賑わっていたスレなので使っている。
東遷があったとすれば、出発地の筑紫の日向の高千穂宮は必然的に伊都国高祖宮になる。
でも移動したのは天孫族だけで、倭の王都である邪馬台国は移動しなかったとも考えられる。
それなら、天孫族の歴史書である記紀の話題が大和に移っても、卑弥呼がいた邪馬台国は伊都国のまま。
もっとも、記紀も東遷ではなく東征と表現しているので、実は記紀でも倭の王都が筑紫の伊都のままでも構わないんだよね。
記紀は倭の中の大和ローカルの歴史書になる。
- 48 :
- >>42
>伊都能知和岐知和岐弖(自伊以下十字以音)、
この部分はストーリーに関係ない修飾語なのだが、わざわざ伊都の文字を入れて掛詞にでもなっているのかな?
- 49 :
- >>41
枆
訓読み
1.へる 2.うつぎ
音読み
1.ボウ 2.モウ
「椚(くぬぎ)」にしても「枆」にしても、どう読んだら
「民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。 」に
なるのかが分からない
またこの郡誌では、「日向山」となっているし、高祖山、クシフル岳との関係が不詳
もう少し検討してもらえるかな
と言いつつ、これ以上の資料はないんだよな
伊都国説にはきびしいところ
- 50 :
- >>44
>高祖山の麓の民家なんだけどね。
>椚は今でもある集落だよ。
民家と集落は違うw、のは置いておいて、
高祖山と名前のついているピークからは結構南に離れた位置にあるし、
>>33のいう「第一峰 419ピーク くしふる岳 」は、椚からみて山塊の向こう側になる
いずれにしても椚と特定のピークを関連づけるのは無理だし、
クシフル岳の名前が残っていないことには変わりがない
- 51 :
- 伊都(いつ)は、重要な概念だね。
いづも とも関係あるんじゃないかな?
- 52 :
- 文献には、「椚(クヌギ)〜、民家の後ろにあるをクシフル山と云ひしを誤りて椚と云ふに至れり」とある
- 53 :
- 古事記
故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、
離天之石位、押分天之八重多那(此二字以音)雲而、
伊都能知和岐知和岐弖(自伊以下十字以音)、
於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖(自宇以下十一字亦以音)、
天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。
日本書紀本文
皇孫乃離天磐座、(天磐座、此云阿麻能以簸矩羅)。
且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。
既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、
(立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志)。
書紀の一書はあとで
- 54 :
- >>52
この音節の変化には懐疑的な意見が多いし、個人的にも意味がないと思う。
ただ、高祖山416メートルは高祖神社の上だが、クジフル山419メートルに登ろうと思ったら、日向峠に面した椚の方が近いだろう。
双方のピークを合わせて山城としたなら、正門が高祖神社の参道で、裏門が椚だね。
- 55 :
- 別の説として、天浮橋を志賀島の海ノ中道、串日(略字にて御免)を橿日(香椎宮)に充てることも提案したい。
この場合、郡使が留まるのは伊都だが、王宮は香椎宮(不弥国)となる。
二上山は立花山(ピークが二つある)となる。
立花の名前は筑紫の日向の橘にも通じる。
伊都国から不弥国までは魏志倭人伝に里程も掲載されているので、郡使が往復したことは間違いない。
伊都高祖宮にしても筑紫香椎宮にしても、筑紫の中の博多湾沿岸であり、この一帯を女王国(邪馬台国)としていたのだろう。
- 56 :
- 地形図みたらわかるけど椚の民家からすぐに小さな尾根があるんだよ
高祖山の説明には全くクジフルとか出てこないし、民家の後ろってのはこっちのことだろ
- 57 :
- >>48
稜威も辞書的に解説されるけど、何故そういう意味なのかは不明だと思うけどね。
地名と役割からかなり意訳して稜威になってると思えば、伊都は権威者の象徴だったんだろうね。
伊の字がそもそも特殊な字だ。
神をいつく
イチキシマヒメも
ヤマイチも
イツという音がどういうわけかつきまとう。
- 58 :
- >>56
>高祖山の説明には全くクジフルとか出てこないし、民家の後ろってのはこっちのことだろ
だけど、椚の集落は、あくまで高祖山の方のふもとにある
今問題にしている419メートルのピークは、「今宿上の原」に抜ける峠よりも南で
椚から見たら別の山に見える
その意味で、多くの素人さんのページで高祖山のすぐ南のピークをクシフルに
当てていることの方が、怡土志摩郡地理全誌の記述には合う
国土地理院のウェブ地図で、右上の「機能」というボタンから3D地図が作れるから
確認してみて
- 59 :
- >>56
小さな尾根ではクジフル山とは呼ばれないだろ。
高祖山の説明で出てこないということは、高祖山416メートルとクジフル山419メートルは別の山の扱いというだけ。
表参道は高祖山の方だろう。
ちなみに怡土城の城域は280ヘクタールある。
中心となる施設が高祖神社だね。
- 60 :
- それから、地図をきちんと見て気づいたんだが
>>33は
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
と書いてくれているけれど、これは測量点の高さで、
国土地理院の地図で等高線を確認すると
高祖山のピークは420メートルの等高線よりも高いね
416メートルのポイントは、410メートル等高線と420メートル等高線の間にある
高祖山の方が、最高峰だよ
ちなみに、この二つのピークの間の鞍部(峠)は、
260メートルくらいまで下がってる
高祖山そのものがクシフル山だという方が、まだ分かりやすいかもしれない
- 61 :
- >>59
>高祖山416メートルとクジフル山419メートルは別の山の扱いというだけ。
別の山の扱いだとすると、クヌギの集落の背後にあるのはあくまで
高祖山ということにしかならない
高祖山そのものをクシフル山というなら分からないでもない
- 62 :
- 詳細な評価をありがとうございます。
自分でも地図を見直しました。
ブログなどで紹介されている写真と比較すると、高祖山のピークの400メートルほど南東にある、標高400メートルほどのやや平らな峰をクジフル山としているようです。
高祖神社からと椚からは別々の登山道があり、椚からの登山道は高祖山とクジフル山の中間の尾根に出るようです。
- 63 :
- >>62
>標高400メートルほどのやや平らな峰をクジフル山としているようです。
現在、ブログなどでクシフル山の位置に言及している人は、そこを指している人が
多いようだね
ただ、そこだと>>59のいうように
「小さな尾根ではクジフル山とは呼ばれないだろ。
高祖山の説明で出てこないということは、高祖山416メートルとクジフル山419メートルは
別の山の扱いというだけ。」
という批判に耐えられない
それと、クシフル山と表記しているけれど、古事記では「久士布流多氣」、
日本書紀の一書では「槵觸之峯」という表記をしていて、「岳」も「峰」も
「山」よりは険しい山塊に使われる文字だというのも気になる
- 64 :
- 小さな尾根では〜とか結論ありきかつ主観でしかない
民家の立地するあたりから高祖山は標高差がかなりあるが、
これを「民家の後ろ」としか表現せず、高祖山の名をださないのは不自然極まりない
また、地誌の類いでの高祖山についての項目にクジフル山のことが全く触れられていないのも不自然
チェリーピックとはまさにこのこと
- 65 :
- >>63
>日本書紀の一書では「槵觸之峯」という表記をしていて、「岳」も「峰」も
>「山」よりは険しい山塊に使われる文字だというのも気になる
それは尊称というか誇張表現なんでしょう。
- 66 :
- >>65
>それは尊称というか誇張表現なんでしょう。
でも、里山レベルの山に「天孫降臨」ってスケールが合わないと思わないかい?
「神話だからどうでもいい」というならそれでもいいけれど
- 67 :
- 実在したかどうかすら怪しい地名なのに
>椚の語源とされるクジフル
- 68 :
- 語源云々が後付けの説明なのであり、くしふるの地名そのものは昔からあったのだろう。
ただし椚の集落が慶長年間にできたことはわかるが、名前がいつ成立したかは不明。
大正の文献で確認できるので、昭和の九州説とは関係ない。
- 69 :
- >>68
>語源云々が後付けの説明なのであり、くしふるの地名そのものは昔からあったのだろう。
クシフルの地名は、記紀では確認できる(昔からあった)が、
それが高祖山周辺の地名としては(古くからあったことが)確認できない
という話だよ
地名説話が後付なのはいいが、その地名説話が説かれた時には、当たり前の
誰もが知る地名でないといけない
高祖山周辺のクシフルは、「誰も知らない地名」なんだよ
そこが問題
- 70 :
- >>68
>大正の文献で確認できるので、昭和の九州説とは関係ない。
その大正の文献を、昭和の初期だと思ってた
修正ありがとう
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。
これがもと本のようだね
- 71 :
- http://fujikoubou.html.xdomain.jp/yamatabi/takasuyama/takasuyama.html
ここに怡土城の平面図やら楼閣のあとやらが紹介されているのだが、すこしおかしいなと感じた。
城域の南縁は、高祖神社からの登山路に入っているが、この線より北あるいは西を城域とすると、先ほど求めたクジフル山が含まれない。
城域の北縁は楼閣跡があるので間違いないが、南縁はこの図の位置ではないはずだ。
そもそも、この城は福岡と糸島を結ぶ日向峠を守る必要があるので、南縁は日向峠まで届かなくてはいけない。
そうすれば、クジフル山も自然と城域に含まれる。
クジフル山の頂上が平らなのも、そこに何か構造物があったのではないかと疑う根拠となる。
後世の高祖城の遺構とも読めるが、定かではない。
魏志倭人伝には卑弥呼の宮城は楼閣が高く兵が厳しく守っていたとあり、高祖宮を囲むように石塁や山上の楼閣が連なる様子はまさにそのままの光景だったろう。
別名を高千穂宮というのもピッタリだ。
- 72 :
- >>70
すばらしい。
これで高祖山をクジフル山と呼んでいたのは、少なくとも明治5年まで遡り、すでにその時点で古伝だったようですね。
- 73 :
- >>72
>これで高祖山をクジフル山と呼んでいたのは、
呼んでないよ
出てくるのは日向山
- 74 :
- 怡土志摩郡地理全誌の話を追って行くと、古田史学の会が出所って所までしか追えない
だれか、原本買って調べてくれないかな
ここで買えるみたいだから
https://books.google.co.jp/books/about/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%9C%B0%E7%90%86%E5%85%A8%E8%AA%8C.html?id=qSoAogEACAAJ&redir_esc=y
- 75 :
- >>73
>>41
> 民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
くしふる山も出てきますよ。
- 76 :
- >75
伝聞推量
- 77 :
- 訛りは推量だが、くしふる山の名前は昔から言われていたんだよ。
- 78 :
- 昔から言われてたなんてことは書かれていない
- 79 :
- >>75
この辺のところが「本当はどう書いてあるのか」、確認したいんだよね
古田史学の会の情報は、正直信用していない
チェリーピッキングか、都合のよい切り抜きなんじゃないかという疑念が
拭えない
- 80 :
- 同じ本の高祖山の記述を出してこない時点でお察し
- 81 :
- 出典が明記してあるんだから、自分で国立国会図書館にでも行けよ。
自分で何も示せないなら黙ってろ。
- 82 :
- 捏造は畿内説の十八番だろ。
- 83 :
- 示してないのは伊都クズの方じゃんか
その本の高祖山の項目にはなんて書いてあるんだ?
- 84 :
- もったいぶらずに自分で書けよ。
- 85 :
- >>66
>でも、里山レベルの山に「天孫降臨」ってスケールが合わないと思わないかい?
君はいつも過小評価というか蔑むのが好きな、ひねくれた性格をしているね。
大事なのは、そこが伊都国と奴国と博多湾を見下ろすことができる要害の地であり、無数の倭王の弥生王墓に囲まれた、王都の中心にふさわしい場所だということ。
- 86 :
- 結局、誰も高祖山の峰のひとつがクジフル山と呼ばれていたという確実な根拠は示せなかったな
- 87 :
- 明治5年までは遡れるようだね。
- 88 :
- 怡土志摩郡地理全誌は大正二年に大日本国体擁護団の三塩熊太が書いた本だろう
- 89 :
- >>87
伊都クズは毎度自分の都合がいいように事実を曲げる
- 90 :
- >>88
>怡土志摩郡地理全誌
>>41が書いてくれているように
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)ということらしい
つまり、明治年間に発行された福岡県地理全誌の内容から、怡土志摩郡の分を「東京糸島会」の人が
抜粋編集したものだと思うが?
三塩熊太はその編集に当たったってことだろう
「福岡県地理全誌」は電子図書で買えるみたいだから、誰か確認してよ
- 91 :
- >>85はお鏡さんかなw
- 92 :
- >>90
疑義があるなら自分で買えよ。
- 93 :
- >>92
中高年ヒキだから金がないのだろう
- 94 :
- 誰かが掲示板に「買ったらちゃんとその通りに載っていた」と書けば信用するのかな?
すでに出典が記載されているということは同じことだと思う。
出典付きのレスが信用できないなら、掲示板などはじめから覗かなければいい。
明治まで遡れば古田とか関係ないし。
- 95 :
- 大正二年の伝聞までしか遡れてないわけだろ?
- 96 :
- 明治8〜13年だろ
- 97 :
- >>96
>明治8〜13年だろ
ネット上の伝聞の
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
は信用するんだ
まあ、ぐぐればそのまま出てくるからなw
でも、古田史学の会は信用ならないだろ?
東日流外三郡誌を偽書と認めないんだからw
- 98 :
- >>94
>明治まで遡れば古田とか関係ないし。
その明治の情報を、古田史学がどのようにアレンジしてるか
分からないって言ってるんだよ
- 99 :
- それは想像では?
- 100 :
- このスレでは、連弧文鏡が太陽に「見える」っていう主観が、議論のベースらしいから
主観や感想は、ものすごく大事にしてくれるよ
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