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外来語でみる真の日本の歴史


1 :2020/02/18 〜 最終レス :2020/05/01
日本語には多くの外来語語彙がみられます。
この外来語語彙を解明することで、日本の歴史の真の姿が浮かび上がってくるのです。その新しい日本発見の旅を楽しむことにしましょう。

2 :
日本語の語彙に牧(マキ)があり、これは馬を放牧する草地を指す。
この馬の放牧地としてのマキの語彙の意味はまったく不明だ。
どのような意味があるのだろうか。
そこで、外来語。
フィンランド語
maki(マキ) 丘
日本で馬を放牧する草地が多く丘陵に設けられたことを考えれば、
牧(マキ)の語彙はフィンランド語のmaki(マキ=丘)と関連していることが考えられるのだ。
フィンランド語は元々は中国遼河地方にいた種族の言葉なので、maki(マキ=丘)は遼河語由来とすることができる。
5世紀には日本は四条畷あたりで馬を飼うようになり、この時期に日本は高句麗に出兵して戦争をしたことから、
馬を輸入して戦力とすることを考えたのだろう。
高句麗には遼河地方が含まれることから、馬の飼育要員として遼河地方から人が渡来したことが考えられる。
つまり、それが馬を飼育する草地を牧(マキ)と呼ぶことになった理由だろう。
実際、日本の在来馬はモンゴル種の系統とされている。
日本での5世紀頃の馬の飼育の始まりは朝鮮半島系との関わりが言われているが、
正確には遼河地方がその源流だろう。
たぶん、間違いない。
わははははは。

3 :
>>1
ガイジか?w

4 :
>>3
アホォォォォォ〜!

5 :
【まき】馬(マー)+き(城)
    馬を収容するところという意味である

6 :
>>5
その馬城に牧の字を当てるわけない。

7 :
>>5
牧は、馬小屋じゃないんだからね。

8 :
またオヤジギャグスレか

9 :
>>5
牧を馬城と書く用例はみられんな。
つくり話だろ。

10 :
四条畷の讃良(ささら)地域で400年頃〜600年頃にわたって馬の飼育が行われた讃良の牧は生駒山地からの扇状地に設けられたが、
その牧の標高は海抜22m付近にある集落の周辺だそうだ。
つまり、海岸から見上げると生駒山の麓の丘の部分に当たる位置だ。
この付近の遺跡からは馬一体分の骨格や鞍、また馬の乳歯などが出土している。
乳歯は5世紀中頃のものだという。
5世紀初頭頃には日本は高句麗に出兵しており、時期からみてその直後には大王の政府により馬と飼育要員がこの地に来て、
政府直営の馬の飼育が始まったもののようだ。
集落からは百済や伽耶系の土器などが出ているそうだが、馬の飼育自体は高句麗系の者によって行われたのではないか。
なぜなら、中国の遼河を原郷とするフィンランド語のmaki(マキ)は丘を意味しており、馬が飼われた讃良地区はそうした丘陵部に当たり、
そしてその丘の土地が牧(まき)と呼ばれているのだから、それは偶然ではないということになるだろう。

11 :
痴呆老人のうわごと

12 :
牧(まき)は、遼河語のmaki(マキ=丘)由来だよ。
これ以外に牧(まき)の発音を説明できる語彙はない。
四条畷の讃良で馬を飼ったのは、高句麗出身の遼河人だったということだ。
これが歴史の真実よ。
わははははは。

13 :

呉音 モク
漢音 ボク
訓読み まき まい

14 :
>>13で示唆されるように「牧」はもともとただの漢字の音読みなんだよ
小中学校の教科書にある「訓読み」でそれを執筆している連中や漢文学者など
誰一人やまとことばだとはみなしていない漢字は他にも多い
馬(うま)とか匹(ひき)とかね

15 :
牧(ボク)は、馬を飼うという意味。
これを馬を飼う場所の意のマキの音に当てているので、
古代の日本では牧(ボク)の字は馬を飼う所の意味に用いていることになる。

16 :
高句麗が馬を用いた機動力に優れていたことが百済を圧迫した理由の一つだが、
その高句麗に馬を供給していたのは女真族だそうだ。
女真族はモンゴル族と隣り合わせに居住していて、馬の飼育に長けていたということだろう。
この女真族には遼河人が紛れ込んでいたようであるから、
遼河語の丘を意味するmaki(マキ)の語彙は女真族にも伝播していた可能性がある。
5世紀中頃に四条畷で馬を飼っていたのは遼河人か、女真人かどちらかだろう。

17 :
四条畷の蔀屋北遺跡では、馬の飼育が始まるのは5世紀中頃からだという。
その後、6世紀末までにこの地への入植民の変化が複数次みられるものの、当初から一貫して特定の集団が指導的立場を維持しているそうだ。
馬を飼う技術などはこの集団が保持していたようで、6世紀末頃には在地豪族へと成長発展することになるという。
6世紀初頭頃のこの集団のリーダーは河内馬飼荒籠だと目されている。
継体天皇の諜報機関的な役割を果たしたという。

18 :
tes
スレチかも? ですが、age 進行って良いよね?

19 :
女真族などツングース諸族では、結婚式で花嫁が婿の家に入るときに火を跨いだり、両脇の松明の間を潜る風習があるが、
この火を跨いだり、松明の間を潜る習俗は日本でも関東や長野に集中してみられ、また北部九州でもみられるという研究があるそうだ。
そして、日本でのこの習俗の分布は諸国の牧や勅旨の牧の分布とぴったり重なるのだという。
つまり、日本で馬を飼う牧(マキ)を直接運営したのは畑作騎馬文化を持つ高句麗系の集団ではなかったかと指摘しているのだ。
北部九州にもこの習俗がみられるのは、高句麗系の馬飼い集団が渡来した際の入り口であったためと考えられている。
この研究に従えば、遼河語系の丘を意味するmaki(マキ)が女真族に流入し、
高句麗の馬軍団を維持したその女真族が5世紀中頃の倭の五王時代の政府によって渡来し、
そして日本に牧(マキ)の言葉をもたらした可能性が相当高くなってくる。

20 :
満州の倭人と高句麗人が混血したわけだな

21 :
継体天皇の諜報機関を務めた河内馬飼首荒籠は、その渡来した女真族の首領だったことになってくるな。

22 :
ゆんゆんたる哉 電波

23 :
満州族(女真族)のYハプロは、O2(37%)、C2(26%)、N(14%)など。
Nのパーセントはそれほど多くはないが、かつては高頻度だったとみられている。
遼河のウラル語系が拡散したためだとされている。
つまり、女真族は、古くはY−Nが相当数占める集団だったことになる。
フィンランド語のmaki(マキ=丘)はこの遼河のN集団の語彙であったと考えられるので、
Nが相当数占める集団であった女真族に丘を意味するmaki(マキ)の語彙があったことは十分考えられる。
そして、5世紀前半に高句麗と戦った倭が高句麗が得意とする騎馬戦に苦戦したことから、
倭の政府は馬を戦力に導入することを決め、高句麗に馬を供給していた農耕騎馬狩猟の女真族を渡来させて河内で馬の飼育をスタートした。
この渡来女真族が河内の馬の放牧地の丘をmaki(マキ)と呼んだことから、馬の放牧地を意味する牧(マキ)の語彙が生まれた。
これが、日本に牧(まき)の言葉が生まれた道筋なのだ。
そして、その後、馬の放牧地である牧(まき)が長野や関東に設けられるようになると、その地方に集中的に女真族の習俗が広がることとなり、
婚姻に際して花嫁が婿の家に入るときに火を跨ぐといった女真族の習俗も定着することになった。
つまり、日本語の牧(まき)の言葉は、満州女真族の言葉であるmaki(マキ=丘)由来なんだよ。
面白い歴史が垣間見えただろう。
わははははは。

24 :
〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜
2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/Aeafwy2.jpg
https://i.imgur.com/GoG9gCa.jpg
弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/Jbz8Xco.jpg
従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/Icou3Ki.jpg
https://i.imgur.com/1Wznzhy.jpg
https://i.imgur.com/WSa1VK9.jpg
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%
従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/uowaxXO.jpg
チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える

結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在

25 :
>>24
まあ、そういうことだろうが、渡来した大陸系の父と縄文系の母の間に生まれた男子の父系遺伝子はどうなったんだよ。
このケースが相当いなければ、OやCの遺伝子がこれほど多くなってないのとちゃうの?

26 :
>>24
鹿児島県霧島市国分の9500年前の上野原遺跡の人骨からM7aが抽出されているからな。
この遺跡の人民は中国百越地方から1万2000年前に渡海してきた海人系であることが推定されている。
縄文のM7aは南方由来だよ。

27 :
日本で馬が本格的に飼われ始めたところは四条畷(なわて)あたりだとされているが、
この畷(なわて)は珍しい言葉だ。縄手とも書くという。
畷(なわて)は田んぼの畦道の意味だそうだ。
ではなぜ、田んぼの畦道をなぜ畷(なわて)というのだろうか。
(て)は腕(うで)の(て=手)であり、腕のように細く長い畦道を指していると思われる。
そして問題なのが(なわ)なのだ。(なわ)とは何か。
この(なわ)は縄(なわ)と同じで、糸や紐などをより合わせる意味の(なふ)の名詞であり、「よりあわせたもの」の意だ。
そこで、この「より合わす」ことを意味する(なふ)のそもそもの原義を探ると、なんと牧(マキ)と同じフィンランド語の語彙と重なってくるのである。
そのフィンランド語の語彙とは、次の語彙だ。
フィンランド語
neulo(ネウロ)=編む
日本語のより合わす意の(なふ)と編む意を表すフィンランド語のネウロの語頭のネウはほとんど同じ音である。
またフィンランド語の原郷である遼河と隣り合わせなのがモンゴルであり、モンゴル語でも編む意を表す語彙はnekhekh(ネヘフ)であり、
その語頭のネヘはフィンランド語のネウとよく似ており、この二つの語彙は同系だとみることができる。
そして、これに日本語のより合わす意の(なふ)を加えると、日本語の(なふ)もこれらの語彙と同系であることが推定できるのだ。
とすると、日本語のより合わす意の(なふ)は編む意も含んでいる可能性が高いといえる。
そこで、畷(なわて)に戻ると、この(なわて)は田んぼの畦道を指しているので、田んぼと田んぼを編みつないでいる畦道の意が(なわて=畷)だということが分かってくる。
畷(なわて)とは、そういう意味になるのだ。
では、四条とは何か。
律令の条里制では、一辺六町(654m)四方を「里」と名付け、その東西の一辺を「条」とし、南北の一辺を「里」としたという。
したがって、四条畷とは四条=2616m(2.6km)の長さの田んぼの畦道で囲われた水田地域という意味になるのだ。
そして、この四条畷が歴史に登場するのは、実は1370年頃に完成する「太平記」においてであるという。(続く)

28 :
北朝方の高師直の多数の軍勢と南朝方の楠木正行の少数の軍勢が激突し、師直の軍勢が最終的には正行の軍勢を打ち破り北朝が優勢となる流れを決めた一戦だった。
その激突の地が四条畷だったとするのが「太平記」である。
本文では四条縄手と書いてあるそうだ。
しかし、四条縄手の地名はなく、激突の地は讃良郡北四条だったと考えられている。
その四条縄手の字が四条畷となるのは明治になってからで、楠木正行を祀る四条畷神社が建立されたことにちなむ。
現在の四条畷市の名はその神社の社名にちなむものだという。
この流れを決する四条畷の決戦では、北朝方の高師直の軍勢は騎馬を多数揃えていたが、四条畷が湿地であったために馬の機動戦を展開できず、
そこを正行の軍勢が吶喊して師直を北に後退させるのだが、勢いはそこまでで、正行の軍勢は師直の多数の軍勢によって打ち破られた。
日本最初の軍馬の飼育地であった四条畷での南北朝の合戦では、その軍馬がまったく機動できなかったというお話である。

29 :
さて、四条畷のこの地で5世紀中頃から本格的な馬の飼育が始まったとするのが通説だ。
しかし、日本人が初めて馬を知ったのがこのときであるとは限らない。
魏志韓伝では、半島の馬韓や辰韓で牛馬が飼育されていると書いてあり、この3世紀の時代には日本人はすでに半島南部域の各地と交易を行っており、また九州の主だった国では半島中部にあった中国の支配域に使節を送っていた。
またさらに、弥生時代にも日本から半島へ交易の船が行き来していた。
このような状態にあって、半島で牛馬が飼育されていることは日本人には周知のことであったはずである。
ということは、牛馬のいなかった日本にも牛馬の呼称があったということが推測できるのである。
では、その日本では牛馬は何と呼ばれていたのか。
その馬の呼称は、現代と同じく「ウマ」だとされている。
その「ウマ」は語源的には中国語の呼称である馬=ma(マ)が語幹であり、この馬(マ)の発音に接頭辞的に(ム)が付加されて(ムマ)となり、
それが(ウマ)と変化したとされている。
しかし、これは本当か。(続く)

30 :
確かに、中国語では馬は(ma・マ)であり、韓国語でも馬はmai(マイ)であるので、
中国語の馬(マ)が半島でも馬の呼称であったことは頷ける。
さらに、中国語の馬の上古音もmag(マ)であり、漢代の朝鮮半島での馬の呼称も(マ)であったことは変わらないだろう。
そういうわけだから、当時の半島に渡った日本人が耳にして馬の呼称としたのが(マ)であったとする推定は、まず間違っていないはずである。
しかしながら、通説が説くように、馬(ma)のm音が強調されて語頭にさらにm(ム)音が付加し、馬(mma・ムマ)と2音の発音となり、
それがさらに(uma・ウマ)に変わったのだとするのは、少しこじつけの臭いがするのだ。
では、馬(ウマ)の発音の由来は、別にどのようなケースが考えられるのだろうか。
そこでよくよく考えてみると、馬(マ)は馬の一般的呼称であり、馬には雄雌の別があって、雄雌では呼称が異なるのだ。
特に、馬を高度に利用する生活圏では、雄雌の呼称がそれぞれ異なっている。

牝馬
カザフ=bie(ビェ)、キルギス=bee(ベー)、モンゴル=guu(グウ)、韓国=am mai
牡馬
カザ=aygir(アイギル)、キルギス=aygir(アイギル)、モンゴル=azarga(アザルガ)、韓国=sukeos(スケオス)

そこで、中国ではどうか。

牝馬
中国=mu ma(母馬・ムマ)
牡馬
中国=zhong ma(禾偏に中と馬・ゾンマ)

中国では牝馬のことを(ムマ)と呼んでいるのである。
この中国語の(ムマ)の発音は、日本語の馬の通説でいうところの馬(ma・マ)のm音が強調付加されて(mma・ムマ)の発音となったとする説とまったく同じ発音なのだ。
中国語の(母)の発音は上古音ではmuag(ムァ)、中古音ではとされるので、牝馬(母馬)の発音は上古音でも(ムマ)でよいだろう。
この考えに従うと、日本で馬を(ムマ)と発音したのは、実は中国語由来の牝馬の呼び名だったということになってくるのだ。
この考えは、従来の通説を根底から覆すことになるのではないか。
わははははは。

31 :
語頭に母音が追加されるのは日本語ではよくある話だし
そこまで考えなくても良いのでは?

32 :
和名抄には無萬(ムマ=馬)があるし、日本書紀には宇縻(ウマ=馬)もある。
最初から(ムマ=馬)の語彙はあったのよ。
そして、このほかに(マ=馬、例・馬草 )、(バ=馬、例・馬場)も漢音そのままに用いられてる。
だから、(マ=馬)の語頭にわざわざ強調のための(ム)音を付け加える必要がないのよ。
ma(馬)に強調のためのmを付けてmma(ムマ=馬)としたとするこの語源解釈は、無理に考えすぎ。
中国語に母馬(ムマ=牝馬)の語彙があることを知らないから、そんな無理な解釈を捏ねくりまわしたのやね。

33 :
梅(メ)を日本で(ウメ)と読むのは、メに強調のウ音をつけてウメとしたというのが通説だが、
この解釈も怪しい。
梅を(ウメ)と読むのは、梅雨(バイウ→メウ)を逆さまにして雨梅(ウメ)と読み、そぼふる雨のなかの梅の花をイメージさせたものであったが、
やがてこの雨梅(ウメ)から雨の字を落として梅の字だけで(ウメ)と読むようになったためだ。
雨の字を落として梅の字だけで(ウメ)と読むことにした意図としては、梅の花を詠む情景が雨の日に限らないからだろう。
こうした歌詠みたちの約束事を知らずに、梅(me=メ)の語頭m音を強調するためにさらにm音を付加したのがmme(ムメ→ウメ)だなどと胸張っているのが 語源書きの語源知らずなんだよ。
まあ、そういうことだな。

34 :
痴呆老人は自分が書いていることの意味を自分で理解できない

35 :
ウメちゃうがな
昔の人はムメさんて書いてたぞ

36 :
>>35
万葉集の歌、ざっと見たところ、(ムメ)の発音は見当たらんな。
梅の1字で(ウメ)と読ませているものもあるが、万葉仮名では宇梅、烏梅、宇米などがある。
全部、(ウメ)よ。
(ムメ)なんてどこにも見当たらん。
梅は最初からウメや。
(ムメ)と読んだなどと、適当なこと言うてはいかんなぁ。

37 :
どっちにしろ、和語の範疇でのみもっともらしく解釈したこれまでの語源解釈は、相当に適当だということよ。
この馬(ma・マ)→強調でm音追加→馬(mma・ムマ)→馬(uma・ウマ)や、
梅(me・メ)→強調でm音追加→梅(mme・ムメ)→梅(ume・ウメ)などは学者が考えたのだろうが、
しかしこれは、笑っちゃうカテゴリーに入る語源解釈ではないか。
和語の範疇だけで語源解釈するから、こういうことになってしまうのよ。
もう時代は確実に変化している。
外国語をちゃんと調査したうえでの語源解釈が必要ということだね。

38 :
>>36
ムメと読んだのは江戸時代や明治時代の一部の地域だよ
後の時代の方言で今から見れば昔というだけの話

39 :
>>37
スレ主は日本語をちゃんと知らないとね

40 :
5世紀中頃に大王政府によって馬の飼育要員として渡来した女真人は、今の四条畷に住んで河内湖沿いの湿地帯で馬を育てた。
その後、四条畷から淀川上流の楠葉の近くにも進出して牧を確保した。そのため、楠葉あたりでは牧野、上牧などの地名が残る。
四条畷や楠葉あたりを飼育場としたのは、馬の飼料となる葦や真菰が豊富に手当てできたこと、また海に近いので馬の飼育に必須となる塩を得ることができたからだ。
この塩を採るための製塩土器が多量に出土しているそうだ。馬を飼育する女真人たちは、その塩の入手に関連して漁業者とも関係ができていたようだ。
さて、その漁業者たちが福神として信仰するのが七福神の神のエビスだ。
クジラやジンベイザメがエビスと呼ばれた。
そして、クジラやジンベイザメが回遊してくると魚がよく獲れることがあるとされたようだ。
クジラやジンベイザメは小魚の群れを潜って追いかけると、逃げる小魚が多数岸辺に寄ってくるということがあったのではないか。
しかしながら、この福神である「エビス」も意味のよく分からない語彙なのである。
エビスとは、いったいどな意味の言葉なのだろうか。
そこで、四条畷の女真語の登場だ。

エビス
女真語 
ebisembi(エビセムビ)=泳ぐ、潜る

クジラやジンベイザメを福神とする信仰は、漁師たちには古くからあったのだろう。
そのクジラやジンベイザメが海で小魚を追って泳ぎ回り、また海中に潜り込むさまを、塩焼き土器を取りに来ていた四条畷の女真人たちが見て、
「エビセンビ!(泳ぐ、潜る!)」と驚嘆し、この異人たちが「エビセンビ(泳ぐ、潜る)」と叫ぶのを聞いた漁師たちが、
その日からクジラやジンベイザメを「エビス」呼ぶようになったということはあり得ることだ。
福神「エビス」の言葉の由来は、四条畷の女真人馬飼いたちが海辺で発した「エビセンビ!」にあるということは、まず間違いないだろう。

41 :
満州語(女真語)では、名詞の語尾にmbiを付けてその名詞を動詞化するようだ。
とすると、満州語のebisembi(エビセムビ=泳ぐ、潜る)は、ebise+mbiの構成であることが分かる。
そして、ebiseの語尾e音はmbiにつなげるための語尾変化とみると、ebisが(泳ぎ、潜り)ということになる。
このebisの発音は、まさに(エビス)なのである。
漁師の福の神エビスは、四条畷で馬飼いをした女真人の女真語ebis(エビス)由来であることは、ほぼ間違いないだろう。
わははははは。

42 :
ほんまにワハハと笑うしかないわ

43 :
このように、和語として意味不明の語彙は、どうも渡来人の語彙に由来している可能性が大きい。
したがって、語源解釈には、渡来人の語彙由来という視野が必須となってくる。
語源解釈の世界は、今まさに新しい段階に突入しているということだな。

44 :
>>42
やっと目覚めたか。

45 :
クジラやジンベイザメはオキアミなどのプランクトンを餌にしているが、同じプランクトンを小魚も餌としていてクジラの周りに小魚が寄り集まる。
そして、この小魚を餌としてカツオなどの回遊魚もクジラの周りに集まってくるため、クジラはこうした回遊魚をもたらす漁業神として観念化されていたという。
クジラはイサナとも呼ばれるから、クジラという呼称がその神格化された神名だったのかも知れない。
そして、この漁業神のクジラをエビスと呼ぶことが現われてくるのだという。
つまり、エビスは漁業神クジラの新たな呼称だったことが分かる。
では、そのエビスの呼称は、いったいどこから来たのかという謎なわけだ。
先に述べたように、女真語のエビスは(泳ぎ、潜り)を表す言葉であるので、
海面を泳ぎ、また海中へ潜るクジラを表す言葉としてぴったり当てはまる。
そして、この女真語のエビスと同じ発音をする漁業神がエビスであってみれば、
この二つのエビスが同一である可能性は極めて高いということになるのだ。
七福神の神であるエビスの名が女真語(満州語)由来であることは、もう確定事項と言っていいくらいである。
外来語による新しい語源解釈は、このように実に具体的な展開を見せている。
まあ、黄身たちも、がんばりたまえ。

46 :
大王政府によって馬の飼育のために四条畷に渡来した女真人が、馬の飼料の一つとして大量の塩を必要としたことはごく普通の事柄だ。
その四条畷の蔀屋北遺跡からは製塩土器が多数出土していることから、馬飼いの女真人が近くの製塩海人との間に交易があったことが分かる。
この四条畷の製塩土器はどこから調達したのだろうか。
大阪湾の沿岸一帯では古来製塩が行われて来たが、大規模に製塩が行われたのは大阪府の南端にある岬町の小島東遺跡だ。
しかし、ここから四条畷までは遠く、四条畷の製塩土器はこの小島東からのものではないだろう。
このほかには淡路島北部の野島の貴船神社遺跡でも大規模な製塩が行われた。
河内湖は淀川や大和川などの河川から淡水が流れ込んでいて塩分濃度は低く、河内湖沿岸での製塩の効率は低い。
野島で大規模な製塩が行われたのは、海水の塩分濃度と関係があるのだろう。
四条畷の蔀屋北遺跡で出土した製塩土器は、距離の近いこの野島の製塩土器ではないのだろうか。
そして、この野島の製塩土器がまず運ばれたのは兵庫の西宮ではないか。
西宮は物資の集散地であり、野島の製塩土器は舟でここに運ばれ、その後各地に出荷されたと考えるのが妥当だ。
この仮定に立った場合、西宮にある西宮神社が俄然クローズアップされることになる。
というのは、西宮神社は全国のエビス社の総本社だからだ。
この西宮神社についてみてみることにしよう。(続く)







47 :
野島の塩はまず神戸の大和田泊りに運ばれて、そこから各地へ運ばれたと思われる。
京都、大阪方面への物資は西宮の武庫水門に運ばれて、そこから陸運あるいは舟運で各地へ分散したように見える。
なので、四条畷の女真人の馬飼いが製塩土器を仕入れたのは、この西宮であったと想定するのがいいと思われる。
そして、この西宮の西宮神社が全国のエビス社の総本社なのである。
西宮神社を見てみよう。(続く)

48 :
西宮神社は、全国のエビス社の総本社とされている。
その主祭神をみると「えびす大神」であるが、実はその「えびす大神」は「蛭児大神」なのだ。
蛭児は日本書紀などにみえるように伊弉諾、伊弉冉の国生みで最初に生まれた子で、十分に発育していなかったので舟に乗せて海に流した。
西宮神社の由緒によると、蛭児大神を祭神とするようになった経緯は次の通りだ。
西宮のすぐ東側にある鳴尾の漁師が海で網を入れて漁をしていると何かが網にかかったので網を挙げてみた。
網にかかったのは魚ではなく、人形のようなものだったので、海に返した。
そして、舟を移動させて神戸の和田岬の沖で網を入れたところ、また何かがかかった。
網を上げてみると、先に海に返した人形のようなものだった。
そこでその漁師はただ事ではないと思い、鳴尾に帰って家で祀っていたところ、夢に現れて「吾は蛭児の神」であると名乗り、
自分を祀るのに適当な所があると告げた。その場所が西宮神社の場所だった。
これが西宮神社の祭神の由緒となっている。
つまり、由緒にしたがえば、エビス神とは蛭児神であるということになる。それで通常、蛭子の字をエビスと読むことになっているわけだ。
しかし、その蛭児(ヒルコ)をなぜエビスと呼ぶのかということについては、説明がない。
このあたりに、大きな謎が隠れているようだ。(続く)

49 :
西宮神社では、祭神由来の由緒の通りに、神戸和田岬への船渡御祭を行っている。
和田岬に現れた蛭児大神を祀るためだ。
このように、祭神は日本書紀などにみえる蛭児神なのである。
そして、この蛭児神をエビス神と呼んでいるわけだが、なぜ蛭児をエビスと呼ぶのかということが、大きな謎なのである。
そこで、文献をたどってみると、鎌倉時代に増補された「伊呂波字類抄」では、エビスについては「夷、エビス、毘沙門」と記されていて、
蛭児は記載がないのだという。
ということは、蛭児をエビスとするのは、この鎌倉時代の「伊呂波字類抄」の増補以降のことではないかということになるのだそうだ。
つまり、このことからすると、西宮神社の祭神は元々はエビス大神であり、蛭児大神は後に習合した神だということが考えられるというわけだ。
おそらく、鳴尾で祀られていたのはエビス神であり、蛭児神が習合するころに西宮神社に遷座したということなのではないだろうか。(続く)

50 :
西宮神社の祭神の最古の神はエビス神であるのは動かないだろう。
蛭児神や事代主神は後代に習合した神のようだ。
となると、西宮に移る前に鳴尾の浦で祀られていたエビス神の正体とはなんであったのかということになり、
それはウィキの「えびす」が指摘しているように、「日本各地の漁村ではイルカやクジラ、ジンベエザメなどを『えびす』とも呼んで、
漁業神として祀る地域が多数ある」ということにみられる通り、エビスとはクジラなどが神格化された呼称だったということであろう。
このようにみてみると、ではなぜ、クジラなどを神格化した神の名が「エビス」と呼ばれたのかということなのである。
そこで、四条畷で馬の飼育を行っていた女真人の言葉では、ebis(エビス)は「泳ぎ、潜り」を意味する言葉だということであり、
その言葉がクジラ神を表す「エビス」とぴったり重なることから、四条畷の女真人の言葉「エビス」と鳴尾のエビス社を結ぶ接点が馬の飼育に必須の飼料である塩だったとみたわけだ。
おそらく、淡路島の野島の塩の取引が西宮の武庫の水門で行われ、その取り引きに来た四条畷の女真人が沿岸にまで近づいてきたクジラを見て「エビス(泳ぎ、潜り)」と言い、
そこで、鳴尾の漁師がクジラのことをエビスと呼ぶようになり、クジラを祭神として祀るエビス社がやがて漁師の間で広がることとなったということだろう。
まあ、そう考えるのが、エビスの言葉の由来としては合理的だ。
わははははは。

51 :
漢字からしてシナ語

52 :
漢字の戎は(ジュウ)。
意味は武器を持つ兵士。
中国の北西にいた遊牧民が武器を持って辺境に侵入したことから、
この字でもってその遊牧民を指すようになった。
戎は、エビスの言葉とは何の関係もない。
日本ではやがて、エビス神を豊漁の神として祀る漁師たち自体をもエビスと呼ぶようになる。
そして、その漁師たちが都市的教養の低い点をもって、エビスの言葉が教養に欠ける者を意味する代名詞へと変化した。
この時点になると、その都の教養人士たちは新たに身近に現れるようになった関東の教養の低い者たちを東のエビス、即ちアズマエビスと呼ぶようになる。
このように、このエビスの言葉には異民族の意味はないのだよ。
武器を持った遊牧民という戎の言葉が異民族の意味も持つようになるのとは、根本的に異なるわけだ。

53 :
このように、四条畷の女真人の言葉が思わぬところで根付いていることからすると、
ほかにも女真人の言葉が根付いているものがあると当然想定される。
そこで、馬に関連して見てみると、蹄(ヒヅメ)がある。
ヒヅメ(蹄)のツメは明らかに和語であり、爪のことだ。
では(ヒ)はどんな意味の言葉なのか。

ヒヅメ(蹄)
満州語
hitahun(ヒタフーン) 爪、蹄

おそらく、このhitahun(ヒタフーン=爪)のhi(ヒ)がヒヅメのヒだろう。
となると、ヒヅメは満州語の爪と和語の爪を合わせた合成言葉であることが考えられる。
日本語としては3音が安定するので、5音の満州語は長すぎたのだろう。
女真人が発するヒタフーン(爪)をベースとし、語頭のそのヒ音に和語のツメ(爪)を付け足して、馬の爪(蹄)の意味を明確にしたというところだ。
このヒヅメ(蹄)は、比較的分かりやすい例だな。

54 :
大王政権のもと5世紀中頃から四条畷で馬飼いを始めた女真人の言葉が、思わぬ方面で和語に取り入れられていることが判明している。
先に挙げたエビスもそうした語彙の一つだ。
そして、女真人の言葉に由来する意味深い語彙もさらにみつかっている。
日本書紀のヤマトタケル命が、最後に詠った歌にみえる言葉がそれだ。
  命のまたけむ人は たたみこも 平群の山の熊白檮が葉を 髻花に挿せ その子
この歌の「髻花(ケイカ)」の字は、古事記では「宇受」と書いているので、発音は(ウヅ)であることが分かる。
「髻(ケイ)」は髪を頭上でぐっと束ねたところを意味するので、この髻(ケイ)は和語では「もとどり」のことである。
この髪を束ねて結んだ「もとどり」に、古くは枝や花を挿して飾りとし、その飾りは後には地位を示す飾り物に変化したという。
そういうことなので、ヤマトタケル命の歌は、「私は死ぬが、お前たち従者は無事に大和へ還ったら、平群の山の柏の枝を髻に挿して、身を守る魔除けとしなさい」と惜別の辞としているわけだ。
そこで問題なのが、この髻(もとどり)を(ウヅ)と呼んでいることなのである。
髻(もとどり)のことを指しているこの(ウヅ)という言葉は、いったいどのような語彙なのか。
ここで注目されるのが、四条畷で馬飼いをした女真人の女真語(満州語)なのだ。
ウズ(髻・もとどり)
満州語
uju(ウジュ)=頭
和語のウズは頭頂あたりに髪を束ねて縛った「もとどり」を意味しており、一方、満州語ではuju(ウジュ)は頭自体を意味しているので、
双方にわずかに意味のずれがあるが、おそらく和語の(ウヅ=髻)は女真語のuju(ウジュ=頭)由来の言葉だろう。
例えば、和語で「渦巻(ウズマキ)」と言えば、内側に巻き込むように下流する水の流れのことであるが、
この「巻き込む」は「渦巻」の「巻(マキ)」で表現されているので、「渦(カ)」の字に「ウズ」の音が重ねられていることが分かる。
ではなぜ、「渦(カ)=うずまき」の字に「ウヅ」の音を重ねたのかということになるのだ。(続く)

55 :
さて、水流の渦と頭が似ている部分は、頭のツムジだ。
頭の頭頂部で毛が巻くように生えている形をツムジと呼び、
このツムジの形が水流の渦(カ)の形と似ていることから、
この渦(カ)の字に対してウヅの音を重ね渦巻(ウズマキ)と呼んでいるわけだが、
渦(カ)の字にウヅの音を重ねているということは、このウヅの音には「巻く」意味があることになる。
ということは、枝や花をさした髻(ケイ=もとどり)をウズと呼ぶのは、頭のツムジの毛を元で縛り、
この毛をツムジの方向に巻いて固定したものだからであろう。
そして、この頭の巻く意味を持ったウズの語彙がどこから来たものであるか推測すると、
大王政権のもと四条畷で馬飼いをした女真人の言葉である頭を意味するuju(ウジュ)だ、とするわけである。
この時期には、和語にはアタマ、カシラ、ツムなど頭を意味する語彙が複数あり、
女真人のuju(ウジュ=頭)は頭の髻(ケイ=もとどり)を指す言葉として取り入れられたと考えるのが合理的だ。

56 :
さて、四条畷で馬が飼われるようになる前から鞭(ムチ)は日本にあったのかどうかと考えると、
鞭(ムチ)と呼ばれる道具は馬が飼われるようになる前にはなかったのではないか。
棒や杖などで物を打つことは馬を飼う前から当然にあったはずだが、その棒や杖を(ムチ)と呼んでいたかどうかは定かではない。
そこで文献をみると、日本書紀の雄略紀では馬にムチを当てる動作に対して「鞭」の字を使っており、この「鞭」の読みについては学者は(むちうちて)とするようだ。
また、平安時代初期の和名抄では「鞭」の字の読みとして「和名無知俗云無遅」と書いており、(ムチ)と読んだことが分かる。
この鞭(ムチ)と呼ばれる言葉は、いつから日本に現れたのだろうか。
そこで、四条畷で馬飼いをした女真人の言葉を見てみよう。

鞭(ムチ)
女真語(満州語)
muksan(ムチャン)=棒

これをみると、どうも、鞭(ムチ)は女真語由来のようだ。
女真語(満州語)ではmoo(モー)は木を意味するので、そのmoo(木)の派生語としてmuksan(ムチャン)が棒の意味を持つのは理解しやすい。
とすると、四条畷で馬が女真人によって飼われるようになってから、鞭(ムチ)の言葉が日本に現れたとみるのがよいのではないだろうか。
つまり、それ以前には日本には鞭(ムチ)はなかったということになる。
わははははは。

57 :
このように、5世紀中頃から大王政権によって河内四条畷で馬を飼うようになった女真人の言葉が、和語として日本語の語彙に組み込まれていることをみた。
その言葉は、馬に関連する語彙もあれば、女真人の生活に関連するものもあるようだ。
そうした中で、エビスの語彙が非常に注目される語彙となっているが、このエビスの語彙が漁師の福神の神名として取り入れられた過程としては、
馬飼いに必須の塩の入手と関連するのではないかと考えたが、もうひとつ別の過程も想定しておくのが良いようだ。
というのも、「海士」「海人」と書いてこれをアマと読んでいることの謎が、語源の問題として存在するからだ。
なぜ「海士」「海人」と書いて、これをアマと読むのか。
これが、どうも河内で馬飼いをした女真人の言葉と関連するようなので、このアマの語彙が漁師の呼称となったその過程の検証が重要になってくる。
つまり、エビスの語彙が漁師の福神の名となった過程とアマの語彙が海士の呼称となった過程は、同じであるかも知れないというわけなのだ。
「海士」をアマと読んでいることの謎を、これから考えてみることにしよう。(続く)

58 :
この海士・海人(あま)の語源については、しばらく置いておくことにしよう。

59 :
断る

60 :
しょうがないな。

アマの音の語彙には、天(アマ)、尼(アマ)、海士・海人(アマ)などがある。
天(アマ)は、上がるの(ア)と空間を意味する(マ)の複合語で上空を意味する語彙だ。
これは、モンゴル語の天空を意味するagaar(アガール)と同系の言葉だとみられる。
尼(アマ)は、これは中国語の阿媽(アマ=母、母方の祖母)由来だろう。
このように、天、尼のアマ音の由来は分かりやすい。
ところが、海士・海人を意味するアマ音の由来については、かなりむずかしいのだ。
しかし、ざっくりと言ってしまえば、海士・海人のアマ音は女真語(満州語)のama(アマ=父)由来の言葉なのだ。
四条畷で大王政権のもと馬飼いを始めた女真人が、馬の飼育に欠かせない塩を手当てするために西宮の塩業者と関係が生じたと考えたが、
そうした縁で女真人の娘が西宮の漁師の親方の息子に嫁ぐということがあった可能性は低くない。
で、嫁いだ女真人の娘が、その夫の父親を「おとうさん(ama=アマ)」と呼んだことは当然のことである。
そして、馬飼いの娘たちが漁師に嫁ぐことが多くなると、その夫の父親をあちらでもこちらでも「おとうさん(ama=アマ)」と呼ぶのがみられるようになる。
それを見た岡人たちが漁師の親方をアマと呼ぶようになり、さらに漁師全体をアマと呼ぶようになったあと、
都の教養人がそのアマに海士・海人の漢字を当てたということだな。
つまり、海士・海人のアマは女真語の「おとうさん」という意味なんだよ。
わははははは。

61 :
ここでちょっと、四条畷の女真人の言葉から離れて、前から気になっている言葉の由来について見てみることにしよう。
その言葉とは、刀(カタナ)だ。
通説では、この刀(カタナ)は「片(カタ)+刃(ナ)」の複合語であり、(ナ)は刀を表す古語だとするようだ。
そして、このカタナの(ナ)は、薙ぐの(ナ)と同系の言葉だとみている。
さて、この通説はどうなのだろうか。
薙ぐのナ音は投げる、殴る、撫ぜるのナ音と同じ音であり、腕を上から下に振る意味があるようだ。
薙ぎ倒すとは腕を振るって対象物を倒す意であることが考えられ、このナ音には刀や刃の意味があるようにはみえない。
このように、カタナ(刀)のナ音に刀や刃の意味がないとすれば、ではカタナ(刀)とはどのような意味の言葉なのだろうか。(続く)

62 :
そこで、薙ぎ倒すの薙ぎの字が連結している薙刀(なぎなた)をみると、
薙刀とは長い柄を上から下や、斜め上から斜め下などに振るって相手を倒すナタ(鉈)のことである。
ナギ(薙ぎ)のナ音には刀や刃の意味がないことが分かるのであるが、
では、そのナタ(鉈)とは、いかなる意味の言葉なのか。
このナ音はやはり腕を上から下に振ることを意味していると考えると、ナタ(鉈)とは「腕を上から下に振るう」+「タ」であるとみることができる。
そうすると、ナタ(鉈)の音の意味を知るには、このタ音の由来が焦点となる。
このタ音にはどのような意味があるのか。
鉈の漢字の音はセであるが、它の字の音はタである。そして它の意味は蛇である。
となると、ナタのタ音は、ナタの刃部が蛇の首が曲がっているように湾曲していることを表していることが考えられるのだ。
そして、ナ音は腕を上から下に振るうことを意味しているのであるから、ナタとは物に腕を振るって湾曲した刃を打ちつけることを意味している言葉だということが分かる。
このようにしてナ音の意味が分かると、手斧(チョウナ)、鉋(カンナ)の意味も判明する。
手斧(チョウナ)は手を振り降ろす意味であり、鉋(カンナ)も腕を動かす意味であることが分かる。
ここでカタナ(刀)に戻ると、通説の刀(カタナ)は「片(カタ)」+「刃(ナ)」だとする解釈が、少し微妙になってくるのである。
つまり、「片(カタ)」+「腕を上下に動かす(ナ)」では、言葉として意味をなさないのである。(続く)

63 :
では、カタナ(刀)は、どのように解釈するのがよいのか。
最も妥当な考え方は、カタナ(刀)は和語由来の言葉ではなく、外来語だとみるのが良いということである。
外来語としてみた場合、カタナの発音と合致するのはパンジャブ語、ヒンディー語だ。
パンジャブ語
katana(カタナ―)=切断
ヒンディー語
kaatana(カータナ)=切断、切る
そして、パンジャブ語やヒンディー語の切断、切るという意味のこのkatana(カタナ)の語彙が、
いつどのようにして日本にもたらされたのかということが焦点になるということなのだ。(続く)

64 :
刀剣の呼称はどのように変化したのだろうか。
日本書紀は、「草薙剣」は(俱婆那伎能都留芸=くさなぎのつるぎ)。
古事記は、「十拳剣」は(都牟刈之大刀=つむかりのたち)。
和名抄は、「佐夜・刀室」について(土刀反、和名太知不久路=たちふくろ)
としている。
古代の刀剣の呼称には、(つるぎ)、(たち)があったわけだ。
そして、時代が新しくなって1349年頃にまとめられたとされる徒然草をみると、
徒然草は、「よき細工は少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たさず」
と書いている。
妙観は奈良時代の仏師で名工とされている。仏像を彫る際にはよく切れる小刀を用いずに、少し切れ味の鈍い彫刻刀を用いたというもの。
この徒然草の「刀」は(たち・つるぎ)の読みではなく、(かたな)と読むようだ。
1300年代になって初めて(かたな)の呼称が登場してくるもので、しかも、仏師が仏像を彫る際の彫刻刀を(かたな)と呼んでいる。
これをみると、(かたな)は武人が腰に差す長刀の呼称に限らなかったことが分かる。
彫刻用の小刀も(かたな)と呼ばれたわけだ。
つまり、中世の(かたな)とは侍が用いる長刀のみを指す言葉ではなかったということになる。
(かたな)のイメージは現代とは随分異なり、片側に刃の付いた細身の刃物全般を指す呼称だったようにみえる。
このようにみると、平安時代中期頃から鎌倉時代末頃までの間に、刃物としての(かたな)の呼称が現われて来たということになってくる。(続く)

65 :
>>60
そもそも
>天(アマ)は、上がるの(ア)と空間を意味する(マ)の複合語で上空を意味する語彙だ。
これの根拠は?

66 :
>>65
上ぐ(アグ)は、上に持ち上げたり、上に引き上げたりすることを意味する言葉。
そのアグ(上ぐ)の語幹はアであり、アが上を意味しているもの。
アマ(天)は、そのア(上)+マ(間)の複合語と考えられ、上の空間、すなわち上空、天空を意味する言葉である。
天の原は上空の広がりを意味しており、天(あま)が天空を意味している用例の一つといえる。

67 :
>>66
全部お前の妄想でしかないやん

68 :
>>66
だから、そのように使われている当時の文献は何があるのか?って話

69 :
史学板でしょここ

70 :
>>68
天の原富士の柴山この暗れの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ
万葉集には「天の原」はいくらでもあるよ。

71 :
>>67
妄想やというその根拠示さんと、いくら妄想言うてもらちあきまへんな。

72 :
>>69
言葉から探る日本の歴史ーという史学でんがな。

73 :
>>64
日本刀は、平安時代中頃より中国の北宋へ輸出が始まっている。
戦いの武器というより美術品として評価されていたらしく、中国での価格は高額だったとされている。
こうした流れの中で、美術品としてのインド産武具が中国から日本へ輸出されることがあったのではないか。
というのも、katana(カタナ=切る、切断)の言葉以外にも、ヒンディー語系の語彙が複数日本語の中に紛れているからである。
それを見てみよう。
ヒンディー語
kavach(カバチ)=鎧(よろい)
kathin(カチン)=硬い
鎧を取引するときは、兜もセットで扱う。
日本語でカバチと言えば、頭のことである。
鎧を表すヒンディー語のカバチの言葉が兜の意味で日本にもたらされ、そのカバチ(兜)が頭部の意味として定着したと考えられる。
また、日本語でカチンカチンと言えば、非常に硬いことを意味するが、この日本語のカチンとヒンディー語のカチン(硬い)は、まったく同じである。
そして、日本語で狩る、狩りの意味に対照するヒンディー語が
このように、武具的なヒンディー語の言葉が日本語に定着しているとみなすことができ、日本刀が中国へ輸出され始めた平安時代中頃に、中国からも日本へ外国産の美術武具が輸出されるということがあったのではないか。
その結果として、カタナ、カバチ、カチンといったヒンディー語由来の言葉が日本に定着することとなったのではないのだろうか。(続く)

74 :
ヒンディー語だったのなら日本に来る途中にも痕跡がありそうだよね

75 :
>>74
ヒンディー語のkathin(カチン=硬い)と同系とみられるのは、
モンゴル語のkhatuu(カトゥー=硬い)
ネパール語のkada(カダー=硬い)
だね。
これらの語尾音と日本語のカチン(硬い)の語尾音は異なるので、
日本語のカチン(硬い)はヒンディー語kathin(カチン=硬い)と直接的につながっているようにみえるね。
モンゴル語やネパール語から来たのではないようだ。

76 :
>>75
また、ヒンディー語のkavach(カバチ=鎧)は、

モンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)
ネパール語のkabhara(カバラ=覆い)

と同系だろうね。
鎧が覆いの意味に変化していて、これは英語のカバー(覆い)と同じ変化のようだ。
また、モンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)は、日本語の兜(カブト)と音がよく似ている。
日本語の兜(カブト)は、モンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)から来たのではないか。

77 :
>>73
このように、ヒンディー語の武具的語彙が日本語の中に紛れ込んでいることからして、カタナの言葉の由来をヒンディー語に求めることも可能なように思われる。
そして、その言葉がもたらされたのは平安時代中期頃ではないのだろうか。
この平安時代中頃の時期には、日本の鎧兜の様式が大きく変化し、また大刀も直刀から反りのある日本刀へと変化している。
日本刀に反りが取り入れられたのは武人が馬に乗って戦うようになったためであり、馬上から直刀で突くよりも、反りのある刀で切るほうが使い勝手がよいためだとされている。
そして、この刀の反りの源流は東北の蝦夷の刀である蕨手刀であるとされているが、カタナの言葉がヒンディー語由来であるとすると、刀身が湾曲したインドのタルワールという刀の影響も考えることができるのではないか。
このように、日本語の語彙には外来語が思いのほか多く混入しているようなのだ。

78 :
>>30
先に、馬(宇麼=ウマ)の古い発音である無萬(ムマ)の語源は中国語の牝馬を指す母馬(ムマ)だろうと考えたが、
馬を取り上げたら牛(ウシ)も取り上げないわけにはいかない。
牛(ウシ)の呼称は、果たして、和語かそれとも外来語か。
これまでに見られる説では、牛(ウシ)の発音が日本語由来だとすると、「オホシシ(大獣・大肉)」の約だろうとするものや、
朝鮮語の方言の牛を呼ぶ「ウ(u)」に「シシ(獣・肉)」が付いた語とするもの、また韓国語では牛を「ソ(so)」ということから、「ウ(u
)」と「ソ(so)」から変化して「ウシ」となったとする見方もあるという。
そこで、牛(ウシ)の発音は外来語だと考えてあれこれ見てみると、この牛(ウシ)の発音は複数の民族の言葉の合成語であるようにみえる。
民族ごとに牛(ウシ)の語彙を並べてみよう。(続く)

79 :
>>78
民族別語彙
牛(ウシ)
カザフ語 ciir(シール)牝牛
ウズベク語 sigir(シギル)牝牛
トルコ語 sigir(シギル)牝牛
チュルク語は、語幹音がsi(シ)となっている。

キルギス語 uy(ウイ)牝牛
モンゴル語 unee(ウーネー)牝牛
満州語 uihe(ウイへ)角
キルギス語はチュルク語系であるが、この牛(ウシ)の語彙についてはモンゴル語の影響を受けているようだ。
満州語でihan(イハン)は牡牛のことであり、角を意味するuihe(ウイへ)はモンゴル語のunee(ウーネー=牝牛)のu(ウ=)と満州語の牡牛を指すihan(イハン)の複合語とみられる。
モンゴル語の牝牛(unee)の語幹音はu(ウ)である。

中国語 niu(ニウ)牝牛
この中国語のniu(ニウ)とモンゴル語の牝牛を表す語頭u(ウ)音と複合したものが、モンゴル語のunee(ウーネー)だろう。

韓国語 so(ホー)牛
フィンランド語(遼河語) sonni(ソンニ)牝牛
韓国語の牛を表すso(ホー)は遼河語由来ではないか。

これらの民族別の牝牛の語彙をみると、日本語の牛(ウシ)の発音はモンゴル語のunee(ウーネー)の語頭u音とチュルク語のciir(シール)sigir(シギル)の語頭c・s(シ)音との複合語のようにみえる。
牛が日本にもたらされたのは5世紀頃とされており、馬もこの時期に女真人によって四条畷で飼育が始まっているが、牛の飼育は女真人とは別の者たちの手で行われたのではないだろうか。
牛(ウシ)の発音からすると、モンゴル系の者たちがその担い手だったのではないだろうか。

80 :
>>79
このように、日本語の牛(ウシ)の発音がモンゴル語のunee(ウーネー=牝牛)のu(ウ)音とチュルク語のciir(シール=牝牛)のci(シ)音の複合語に由来する言葉だとすると、
牛が大王政権によって日本で飼われ始めた5世紀頃に、その飼育員としてモンゴル人が渡来していたことが考えられる。
モンゴル人は移動手段として馬を飼う一方で、羊や牛も飼って生活物資を得ているので、モンゴル人が牛の世話に長けていたことが牛飼いとして渡来した理由ではないか。
そうなると、>>76で述べたように、日本語のカブト(冑)の言葉はモンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)に由来する言葉である可能性が高くなってくる。
果たして、日本語のカブト(冑)はモンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)に由来する言葉なのだろうか。(続く)

81 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

82 :
畑作を人力で行うのは縄文以来の伝統だろうね。
牛馬が来るのは5世紀だから、それまでは全て人力で利用する農耕具しか造られなかった。
人力が前提であれば、重い石刃の鋤は用いられず、軽い木製の農耕具となるのはごく普通。
牛馬が古くから使われた中国の農耕具とは事情が違ったはず。

83 :
>>82
文盲?
中国は人間用も牛用も石刃だよ
中国から伝わったなら石刃でスタートのはずだろ
ところが木刃で、中国にあるはずの耕作用農具が一つもなく、
中国にない耕作用農具でスタートしてるんだよ
よろしいか中卒

84 :
ここがキモだぜ↓

●スタート時に中国と同じ耕作用農具が一つもない
●中国には存在しない耕作用農具でスタート

85 :
>>80
モンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)の由来についてみてみよう。
覆い
ヒンディー語 kafan(カファン)
      ↓
パンジャブ語 kavara(カバラ)
      ↓
モンゴル語 khavtas(カブタ)
これらをみると、モンゴル語khavtas(カブタ)の発音はパンジャブ語由来であることが分かる。
そして、このモンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)にはカバー、蓋、フォルダーなどの意味があるようだ。
このkhavtas(カブタ=覆う)が変化したkhuvtsas(クブツァ)は、衣服を意味するようになる。
覆いが体を覆う衣服へと意味が転化していることが分かる。
そこで、これにtolgoin(トルゴイン=頭の)という語彙を付け加えて、tolgoin(トルゴイン=頭の)khuvtsas(クブツァ=衣服)とすると、その意味は帽子になる。
つまり、頭に被せる衣服=帽子というわけだ。
このようにみると、日本語のkabuto(カブト=冑)はモンゴル語のkhavtas(カブタ=覆い)に由来するとすれば、カブト(冑)とは頭を覆う物という意味であると考えることが可能になる。
たぶん、間違いないだろう。
そして、5世紀代の大王によって日本で牛を飼い始めたのはモンゴル語を話す者たちであったことが推定されるのであり、カブト(冑)の言葉はそのモンゴル語を話す者たちがもたらした言葉の一つだったとみなすことができるのである。

86 :
>>84
古代中国では、クワは「鋤」と表記されたそうだ。
その鋤は土地を引き削って除草するための農具で、
日本のように土を打ち起こすタイプのものではなかったというな。
だから、人や牛が引っ張るものなので、石刃のように重いもののほうが役に立ったということだろう。
ところが、日本では菜畑の最初からこのような引っ張って草剥がしを行う農耕の仕方はなく、渡来した外来者たちも中国式の引っ張る農具を放棄したということになる。
どうしてそのような違いが生じたかというと、中国のような平たく広い耕作地は日本にはなく、ほとんどが狭い傾斜地に耕作地が開かれたから、引っ張る農具はいらなかったということ。
むしろ、縄文人が用いて来た土を打ち起こすための木製クワが最も効率のよい農具であることに渡来者たちはすぐ気が付いたということだろうね。

87 :
>>86
じゃあ何でスタート時に中国のメイン耕作用農具のスキがないの?
必要なはずだろ
200年以上あとに半島から伝わったら、必要不可欠な耕作用農具になってるんだから
つまり一切の耕作用農具は中国から伝わったものではない事に他ならない

88 :
>>87
犂は、古代中国で青銅か鉄の犂先を付けて用いられたそうだ。
そして、この犂を牛に引かせて土を掘り起こしたという。
犂は、そもそもが牛の存在を前提に作り出された農耕具だったわけだな。
というわけだから、牛のいなかった5世紀までの日本で、犂が使われた形跡がないのはそういう理由からということになるよね。
ようするに、農耕具については、菜畑の渡来人にとって、当時中国で使われていた農耕具はまるきし菜畑に対応しない農耕具だったということだな〜。
彼らが用いたものは、すでにその土地で縄文人が使っていた農耕具を分けてもらったものだったし、それが菜畑で農耕をする上で最も適していたということだよ〜ん。

89 :
>>88
当時中国で使われていたメイン耕作用農具のスキは後世に半島から伝わり、必要不可欠な耕作用農具になってるじゃねえかスットボケサギーチンク
ただ単純に耕作用農具は中国から伝わってないだけの話だカス

90 :
牛のいる時代だからじゃないのか?

91 :
弥生前期に牛がいるのかよカス

92 :
5世紀の話だろ

93 :
菜畑に稲作が伝わったときの中国の耕作用農具は石刃のスキと石刃の除草用農具の
鋤と牛耕用の犂の3つ
中国から菜畑に伝わるべきは牛がいないから、石刃のスキと石刃の除草用農具の
鋤のはずだろ
ところが菜畑に伝わったのは木刃のクワと木刃のエブリだけ
中国と同じ耕作用農具が一つもなく、当時の中国に存在していない耕作用農具が
日本最古の耕作用農具として伝わっているという事
よろしいか?

94 :
で、牛のいる時代に牛用の農具が伝わったんだろ
何が不満なんだ?

95 :
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

96 :
>>85
5世紀頃に日本で牛が飼われるようになり、その飼育員として渡来したモンゴル人が用いたパンジャブ語kabara(カバラ=覆い)由来のkhavtas(カブタ=覆い)の言葉から変化したのが日本語のカブト(冑)だと思われるが、
一方、インドのヒンディー語のkavach(カバチ=甲冑)が平安時代中頃に日本に直接もたらされて、その言葉が意味変化したのが日本語のカバチ(頭)だった。
では、このヒンディー語のkavach(カバチ=甲冑)は、モンゴル方面へはもたらされなかったのだろうか。
それは考えにくい。交易路はインドからアルタイ方面へのルートが幹線だったのだから、やはりモンゴルへもその語彙はもたらされていた。
次のモンゴル語に、それははっきりと表れている。

モンゴル語
khavch(カブチ) 蟹(カニ)

蟹(カニ)は甲羅をまとっている。
ヒンディー語のkavach(カバチ)は甲冑(鎧)の意味なので、この言葉はモンゴルにもたらされて蟹の甲羅を意味する言葉となり、それがさらに意味変化して蟹自体を指す言葉となったのだ。
しかし、なぜにモンゴルでは蟹の甲羅の意味に転化したのだろうかと考えると、モンゴルでは馬に乗って疾駆するので、重い甲冑(鎧)は乗馬するモンゴル人には必要なかったということだろう。
そこで、甲冑(鎧)を意味するkavach(カバチ)は、蟹の甲羅を意味する言葉として定着したということなのだろう。そして、それがやて甲羅を持つ蟹(カニ)自体を指す言葉へと転化したわけだ。
この変化は、ヒンディー語のkavach(カバチ=甲冑)が日本語のカバチ(頭)を意味する言葉として転化定着したのと同じといえる。
日本でカバチが頭の意味に転化したのは、鎧(よろい)の語彙がすでにあり、甲冑を意味するヒンディー語のカバチは鎧(よろい)の言葉を押しのけて鎧(よろい)に取って代わることができず、
また冑(カブト)の言葉もすでにあったので、それにも取って代わることができずに、ついに冑(カブト)の意味を経て頭を指すカバチという言葉としてやっと定着したということになる。
いずれにしても、このように交易によって商品が移動するだけでなく、その商品の言葉自体も同じように移動して行くということなのである。

97 :
こうした外来語は、これまで語源解釈が和語の範疇で行われることが常道だったために見つけ出すことができず、
そのためにそうした外来語を話す渡来者の存在に迫ることができなかったといえる。
大王政権によって四条畷で馬飼いを行った渡来者はこれまで百済系かとされていたが、馬に関係する語彙が女真語(満州語)の語彙と関連する可能性が相当高いことから、
四条畷の馬飼いの渡来者は百済系ではなく、高句麗の女真人であったことを推定することができた。日本の歴史の基礎的部分が少し更新されたということだ。
また、日本刀をカタナと呼ぶその呼称はヒンディー語の語彙に由来しており、その言葉がもたらされたのは平安時代中頃であったと推定することもできた。
武具の交易に伴い、その武具の名称も新たにもたらされたということである。
そして、そのことから、平安時代中頃になると太刀が反りを持つ日本刀に変化する要因として、そうした外来の武器の影響もあったとする可能性をみることもできた。
これも、日本の歴史の基礎的部分が少し更新されたことを意味している。
このように、外来語の特定を行うことは、日本の歴史の基礎的部分を明らかにすることにつながるのである。
まあ、みなさんもこの外来語の特定に精を出して、おおいに日本の歴史の研究に励むのも一興ですぞ。

98 :
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.

99 :
>>98
そのオクキョンがいわくつきなんだなぁ。
前11世紀という年代が極めてアヤシイらしい。
このオクキョンを除外すると、朝鮮半島での水田稲作はぐんと新しくなるそうだ。
朝鮮半島の稲作が九州の菜畑のルーツだとする説がグラグラと揺れているよ。

100 :
>>97
さて、部族が社会のベースを形作った4世紀までの社会とその後の社会とを画然と分けることになったのが氏姓制度で、
この氏姓制度は5世紀頃〜6世紀頃にかけて確立されたとされている。
この氏姓制度の核心は氏族という血縁集団の成立にある。それまでは部族が社会の単位集団であったが、その後、特定の人物の血縁の集団が社会の単位集団を形成するようになったわけだ。
この血縁集団をウジと呼び、このウジの名称としてその血縁集団が定住する地名などを冠した。
例えば葛城の地に住んでいた血縁集団の名として、その地名である「葛城」をウジ名とした。これが氏姓制度のウジ名であり、ウジ名は大王から下賜される形をとった。
そこで、歴史の大問題として浮かび上がってくるのが、5世紀頃以前の社会にはウジという呼称はなかったということなのだ。
ウジの言葉は、いったいどこから現れてきたのか。
ウジとはそもそも何であったのだろうか。(続く)


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