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【半年歴】春秋暦を語ろう【二倍年暦】


1 :2012/07/02 〜 最終レス :2020/02/14
 西暦554年(皇紀1214年)、欽明天皇の時代に歴学者の交代という形で中国歴が
既に導入されていることがわかりました。雄略天皇、継体天皇あたりで導入されたと
噂される中国歴(1年が約365日)の前に使用されていた古代日本の歴、中国や半島と
の年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効な春秋暦(1年が約183日)を
話し合いましょう。

2 :
ニャー

3 :
雄略4年の春2月と秋8月のそれぞれ日本書紀と先代旧事本紀大成経の同記事
が、春秋暦での2倍年暦を支持しているもようである。
丁度半年のズレで同記事である。
おまけにこの天皇の
寿命は古事記が124歳、日本書紀が62歳で記が紀の丁度2倍にな
っており、2倍暦の文証なのである。

4 :
古代マヤの太陰暦は半年暦(2倍暦)
マヤ神聖文字では学術的にC文字と定めている。
半年だから、1年での前半の半年か後半の半年かを示す文字がX文字
なのであろう。C文字は6ヶ月のうちの月を指定し、その月での日数はD文字
で表現されるが、20日以後が関わってくるとD文字に20日を意味するE文字が
付加されて下旬に至りこれを示し、太陰暦を行使する。

5 :
つまり倍暦のことね。
2倍年暦とか1年2歳暦とか言われていますね。

6 :
書紀が3倍年暦を行使していた記述の表
【紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
1日 0  11日 0  21日 0
2日 1  12日 0  22日 0
3日 0  13日 0  23日 0
4日 0  14日 0  24日 0
5日 1  15日 0  25日 0
6日 1  16日 0  26日 0
7日 0  17日 0  27日 0
8日 2  18日 0  28日 0
9日 2  19日 0  29日 0
10日 1  20日 0  30日 0
上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがない。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたという事である。隅田八幡鏡銘文「日十大王」はこれを裏づける。
上表は1日〜10日までと整然としている。
ということは、舎人親王らは原書群の選択にて、最も信頼おける記述を
選んだに違いないから、このように整然化されてるということは、紀の
八代間の原書群には2倍暦法での記載のものと3倍暦での記載のもの
があって、両者が交錯していたものもあったであろう。その中からこれ
が真であると舎人らが確信、選択をして紀の記述としたものであろう。
八代間の当時、互いに2倍暦、3倍暦を朝廷は使い分けしていたと
受け取れる。だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい。

7 :
南朝の宋(倭の五王の遣使先)で制定された元嘉暦が、雄略天皇の頃から持統天皇の初期ごろまで使われたはずだが。
欽明天皇の時代にも、当然、元嘉暦
暦博士は適正に交代していて、それ以前にも活動してたってことだろ
まあ、雄略天皇以後は年齢・年代はおおむね適正なんだから、普通じゃない暦が使われた時期はそれ以前ってことだわな

雄略天皇の初年から適正なのか、それとも途中からなのかは分からんけど。


それはそうと、先代旧事本紀大成経は江戸時代に造作された偽書で、内容はほぼ全て創作だから、信用してはいかんよ

8 :
序文は偽物だけど本文はそこそこ信頼出来そう

9 :
大成経が偽書性を保有してることはある程度ありうることだ。
しかし全部が偽書性ある本文ではないようで、記紀にない貴重な記載個所
があり、真の年代に直結する重要なところが遺棄できない。

10 :
雄略天皇が中国歴を導入するまでは半年歴(倍歴)だったんだろ。

11 :
これ皇紀の取り扱いが面倒だね。

12 :
>>10
雄略天皇の代はすで通常暦法になっていたが、並行して2倍年暦が影で行使
されてこれが廃れなかった。
だから後代にまだ2倍年暦行使の時代が残っている。

13 :
雄略〜携帯時代、年齢は倍歴でしていたみたいだね。

14 :
>>1
そんなものあるわけねーだろ。完全なる電波説なんだよ。

15 :
2倍暦のメリットって何?
何がきっかけでこんな珍妙な暦を使う羽目になった?
年に2回真東から日は昇るけど・・・そんな程度じゃ理由にならないよねぇ

16 :
二倍暦的には7月は裏正月、夏正月と呼ぶべきなのか

17 :
一年を2分割するなら春分秋分が年初だったんじゃないの。
夏至冬至で分けることはないだろ
あと、いまの暦は季節に関して参考にはできん。旧暦とは季節が全然ちがうしな。

18 :
なぜ古代において倍暦が使用されたのかは不明です。
しかし、記紀を解読すれば、倍暦であることがわかります。だとすれば、現実的に考えるならば、倍暦で研究をすすめるのは合理的なのです。

19 :
安康天皇八月までは二倍歴、それ以降は公式には通常歴になったが、暫くは併用されたのでは?

20 :
そうですね、雄略紀の初めのあたりと、安康紀はかさなっているようですね。

21 :
允恭の在位年数が、書紀は古事記の丁度倍になっている

これは倭国が統一されて居なかったため
暦もバラバラだった証拠だろう

22 :
日本書紀第13巻の最後は、安康天皇3年8月です。
この13巻より前の暦は儀宝暦で計算され、14巻より後は、元嘉暦で計算されています。
そして、13巻より前は、いわゆる春秋暦、14巻より後は、通常歴です。

さらに日本書紀の元号(天皇記)は越年称元法が基本ですが、古事記は当年称元法が基本です。
奈良時代以降現在にいたるまで、当年称元法が基本ですから、日本書紀も当年称元法として繋ぎ直し、第13巻以前を春秋暦として繋ぎ直します。
古事記は允恭天皇以降が通常歴で、反正天皇以前が春秋暦です。
これにより、記紀ともに繋ぎなおすと、誰がやっても、少なくとも、仁徳天皇以降古事記日本書紀双方の治世年数は、ぴったり、一致します。
これに、定点である継体天皇17年から、実年を割り振ってみましょう。
つづく

23 :
A前からのつづき

まず、古事記によれば、
継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)
雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)
この間 489年〜527年=足かけ39年・・・・(A)

その間に
武烈天皇の治世年数8年
顕宗天皇の治世年数8年
とあります。
顕宗天皇の治世年数8年は、顕宗天皇3年と清寧天皇5年が何かの手違いで一緒に数えられたのでしょうか?

日本書紀によれば、治世年数は、
継体天皇・・・・25年
武烈天皇・・・・8年
仁賢天皇・・・・11年
顕宗天皇・・・・3年
清寧天皇・・・・5年

となり、これを参考に当年称元法で繋いでみます。ただし、武烈→継体は記事内容から越年称元法となります。
( )内は、清寧元年をスタートの1年として繋いだ年数
清寧 5(1〜5)
顕宗 3(5〜7)
武烈 8(7〜14)
継体 25(15〜39)

取敢えず、4人で、足かけ39年となり(A)と一致しました。
仁賢11年が有りませんが、後述します。

つづく

24 :
六雄は2倍暦を否定していて空年
だとかいう暦法だと〜頑迷に主張して
いたが、奴はいまや2倍化暦などと
いう勝手造語を使って、結局2倍暦を
主張している二倍舌ならぬ2枚舌の野郎。w

25 :
B、Aからのつづき

次に古事記によれば
雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)
この間 454年〜489年=足かけ36年・・・・(B)

日本書紀によれば、治世年数は、
雄略天皇・・・・23年
安康天皇・・・・3年
となります。
ところが、日本書紀は安康天皇3年8月以前は春秋暦ですから、安康1年は1カウント年、安康2年は2カウント年です。
安康1カウント年+安康2カウント年合せて通常年の1年となります。
さて、安康3年は通常年なので、単純に3年としてますが、8月までは、春秋暦ですから、カウント年としては、
安康3カウント年と安康4カウント年となり、日本書紀の治世年数3年間というのは、4カウント年間ということになります。
カウント年にも通常年を割り振り、通常年を装っていますから、ややこしいです。

これを参考に当年称元法で繋いでみます。
( )内は、安康元年(允恭崩御年)をスタートの1年として繋いだ年数
安康 3年(1〜4カウント年)
雄略 23年(4〜26年)
仁賢 11年(26〜36年)

(B)の足かけ36年になるためには、足かけ11年不足しています。これが、Aにあるべき仁賢の11年です。


つづく

26 :
C、Bからのつづき

AとBを合せると

【古事記より】
継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)
この間 454年〜527年=足かけ74年・・・・(C)

【日本書紀】にある治世年数を繋ぐと次のようになります。
( )内は、安康元年(允恭崩御年)をスタートの1年として繋いだ年数

安康 3(1〜4カウント年)
雄略 23(4〜26)
清寧 5(26〜30)
顕宗 3(30〜32)
仁賢 11(32〜42)
武烈 8(42〜49)
継体 25(50〜74)→(越年称元法)

7人で、足かけ74年となりました。
途中ですが、実年を割り振ってみましょう。

細かい数字をいじくっても、どうかと思うのですが、ある天皇の凡その時間的現在地を掴むためには、数字に端数をつけたまま積算するのも一つの方法だと思います。そこから出た数字を参考に凡その現在地を想像しましょう。

つづく

27 :
D、Cからのつづき
定点となるのは、百済の武寧王の崩御年です。
(1)武寧王墓誌銘・・・・寧東大将軍百済「斯麻王」、年62歳にして癸卯年(523年)5月丙戌朔7日壬辰崩ず。
(2)三国史記・百済本紀・・・・武寧23年 癸卯(523年) 夏五月、王薨ず、諡(贈り名)を武寧という。
(3)日本書記・・・・継体17年 癸卯(523年) 夏五月、百済の王武寧薨ず。
ちなみに、日本書記では、筑紫の各羅嶋で生まれたので、「嶋王」というとあります。
墓誌銘以外にシマ王とあるのは、日本書紀だけだそうです。

これから継体17年=西暦523年となり、これをCに割り振ると、

安康 3(1〜4カウント年)西暦460〜461年
雄略 23(4〜26)461〜483
清寧 5(26〜30)483〜487
顕宗 3(30〜32)487〜489
仁賢 11(32〜42)489〜499
武烈 8(42〜49)499〜506
継体 25(50〜74)507〜531→(越年称元法)

西暦460年は、前半が安康1カウント年、後半が安康2カウント年ということになりますが、この年は、子細に見れば、
允恭崩御は1月で安康1カウント年、安康即位は12月で安康2カウント年です。通常年なら460年での当年称元法ですが、
春秋年では、前半と後半の2カウントとなりますから、允恭崩御の翌カウント年が安康即位年となり、越(カウント)年称元法となります。
西暦461年は、安康崩御が8月、雄略即位が11月ですから、ともに後半の年となり、当(カウント)年称元法となります。

整理すれば、
460年前半・・・允恭崩御年
460年後半・・・安康元年(即位年)
461年前半・・・安康2年
461年後半・・・安康3年(崩御年)=雄略元年(即位年)
安康天皇の治世は、通常年では12月に即位し、翌年8月に崩御、実質9か月です。

つぎは、仁徳〜允恭を検討します。
つづく

28 :
E、Dからのつづき

次に【古事記】では、
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)[18]
反正天皇崩御・・・・丁丑年(西暦437年)[6]
履中天皇崩御・・・・壬申年(西暦432年)[6]
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[34]+60→[94]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)

[ ]内数字は、先代天皇崩御年からの足かけ年数です。なお、仁徳の場合の34年は、崩御年齢や、日本書紀にある治世年数からみても、いかにも、
短過ぎますので、応神天皇崩御年を干支一回り繰り上げ、甲午(西暦334年)と計算、[34+60=94]としました。
また、古事記では、允恭以降は通常年で、反正以前が春秋年です。しかし、日本書紀では允恭以前が春秋年ですから、
計算を統一するため、古事記の允恭の[18]のカウントを倍に置き換え、[36]カウントとします。
さらに、允恭の[36]は日本書紀の42年と比べ、6年少ないので、仁徳から6年を→履中→反正→允恭へと繰り下げてきます。
その結果允恭は36+6=42となり、仁徳は94-6=87となります。
これを整理すると
允恭 42
反正 6
履中 6
仁徳 87
となります。

一方【日本書紀】にある治世年数は、
允恭天皇・・・・42年
反正天皇・・・・5年+空位1年
履中天皇・・・・6年
仁徳天皇・・・・87年
とあります。(省略してますが、全てカウント年です。)
これに実年を割り振ってみましょう。

つづく

29 :
F、Eからのつづき

【訂正】

Eの【古事記】で
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[34]+60→[94]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
とありますが、応神→仁徳への皇位継承は、当年称元法ではありませんので、
つぎのようになります。

仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[33]+60→[93]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
従って、仁徳の計算は、94-6=87ではなく、93-6=87です。

訂正します。

つづく

30 :
G、Fからのつづき
前回の治世年数を繋いでみましょう。( )内は仁徳元年をスタートの1年とした年数。
[ ]内は、西暦の実年です。
仁徳 87(1〜87)[391後半〜434後半]
履中 6(87〜92)[434後半〜437前半]
反正 5(92〜96)[437前半〜439前半]
空年 1(97)[439後半]
允恭 42(97〜139)[439後半〜460前半]

反正の後の空年1年は反正6年のようなもので、(古事記は6年としている)
反正崩御の年に次代との皇位継承はなかった、ということです。
この空位1年と允恭元年が当年称元法で、繋がります。
従って、反正5年の次の年が允恭元年になりますので、反正→允恭は越年称元法のように見えます。
整理すると

438前半・・・反正3年
438後半・・・反正4年
439前半・・・反正5年、崩御年
439後半・・・空位1年=允恭元年
440前半・・・允恭2年
440後半・・・允恭3年

なお、仁徳の初期については、修正しなければなりませんが、後述します。

つづく

31 :
H、Gからのつづき

仁徳の初期を修正する前に、応神の治世年数を確かめなければなりません。

【古事記】から
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦334年)
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
この間 334〜242=足かけ93年・・・・(D)

【日本書紀】では
応神天皇・・・41年
神宮摂政・・・69年
これを当年称元法で繋ぐと109年となります。

まず、仲哀→神功の関係を見てみましょう。
a、仲哀9年・・2月、仲哀崩御
b、仲哀9年・・12月、応神誕生
c、摂政1年・・2月、神功が穴門豊浦宮へ移る、神功皇后摂政元年
春秋年では、bはaの翌年、cはbの翌年、つまり神功元年は、仲哀崩御年の翌々年(2年後)であり、
神宮、応神併せた治世年数は、(D)の93年でなく91年ということになります。・・・・(E)

日本書紀によれば、神功摂政年数は69年とありますが、摂政51年紀に、「・・朕が存けらむ時の如くに・・」
とあり、あたかも遺言のような記事です。千熊長彦が百済へ趣き、神功崩御を伝える、翌年百済の久氐が来日、
応神天皇即位祝を献上、のように思えてしかたありません。52年〜69年の18年間皇后の記事はありません。
この18年間は水増しされた虚構年のようです。つまり、本当の神功摂政期間は69−18=51の51年間では
ないでしょうか。
以上より、応神41年と神功51年を当年称元法で繋ぐと109年ではなく91年となります。上の(E)はこの91年です。

これを踏まえて、仁徳の初期を検討します。

つづく

32 :
I、Hからのつづき
応神天皇→仁徳天皇については、仁徳は弟と皇位を譲り合い、日本書紀には「皇位空しくして、既に三戴を経ぬ。」とあります。
古事記にも、「既に許多の日を経つ」とあり、海の大贄を「相譲りたまふこと、一度二度にあらざりければ」とあります。
一度二度でなく三度であるとすれば、一度が1年として、3年ということになります。大贄は穀物の収穫を伴うので、1年というのは、
春秋暦のカウントでなく通常年のカウントになります。これから、日本書紀にある「三戴」も通常年の3年のようです。
これを春秋暦でカウントすると、6カウント年ということになります。
つまり、応神→仁徳の間に、6カウント年の空位があったことになります。

一方応神天皇の崩御年齢は、前記Hの古事記による神宮、応神併せた治世年数91年(E)に、前年の応神誕生年を加えると91+1=92
となり、数え年92歳となります。これに日本書紀で出てきた、神功皇后治世の虚構年18年を加えた、92+18=110、つまり
110歳が日本書紀でいう応神天皇の崩御年齢です。日本書紀は、古事記と同じ原データを元に計算し、それに虚構年を加えて、組み立てた
ようです。
古事記は、応神天皇の崩御年齢を記事では「御年一百三十歳」としながら、92歳と算出できるデータを載せています。38年足りません。
この38年は仁徳天皇の方に紛れ込んでいるようです。これにより、仁徳の治世年数は、87-38=49、応神の治世年数は、41+38=79となります。
古事記に仁徳天皇の崩御年齢83歳とあるのに、治世年数87年は、おかしいですね。

これを整理します。( )内は仲哀崩御年をスタートの1年とした年数。
[ ]内は、西暦の実年です。
仲哀崩御年1(1)[342前半]
応神誕生年1(2)[342後半]
神宮摂政51(3〜53)[343前半〜368前半]
応神天皇79(53〜131)[368前半〜407前半]
空位6(132〜137)[407後半〜410前半]
仁徳天皇(49)(138〜186)[410後半〜434後半]

【古事記】にある次の期間は、
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
427−242=足かけ186年となり、上の数字と一致します。
つづく

33 :
J、Iからのつづき
【古事記】より
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
成務天皇崩御・・・・乙卯年(西暦235年)
242−235=足かけ8年となります。
しかし、成務→仲哀の間には空位1年ありますから、春秋年では、仲哀元年は、成務崩御年の翌年となり、仲哀の治世は実質7年です。

【日本書紀】は、仲哀崩御年と同一春秋年に応神が誕生するのは、ありえないと思ったのでしょう。神功摂政年の前に応神誕生年を
置き、神功摂政年までを、足かけ9年としたのでしょう。例によって、通常年を装い、また、越年称元法で、繋いだのでしょう。

整理すると次のようになります。

成務天皇崩御・・[338後半]
空位1年=仲哀天皇元旦・・[339前半]
仲哀天皇崩御・・[342前半]
応神天皇誕生・・[342後半]
神宮摂政元旦・・[343前半]

つぎは、崇神天皇までを検討してみます。

つづく

34 :
K、Jからのつづき
【古事記】より
成務天皇崩御・・・・乙卯年(西暦235年)
崇神天皇崩御・・・・戊寅年(西暦18年)
235−18=足かけ218年

【日本書紀】による治世年数は、
垂仁天皇 99年(1〜99年)崩御年干支=庚午
景行天皇 60年(99〜158年)崩御年干支=庚午
成務天皇 60年(158〜217年)崩御年干支=庚午
空位 1年(218年)
( )内は垂仁元年をスタートの1年とした年数。

つまり、古事記の記事では成務→仲哀の間に空位の有無は不明ですが、日本書紀では、成務の治世年数は、
60年であり、その後に空位1年をとっています。
故に、3代を繋ぎ、空位1年を足すと、その間足かけ218年となる。

不思議なことに、景行、成務の治世年数は、どちらも干支一巡である60年。そのため、3代とも崩御年干支は
同じ庚午です。

日本書紀によると、仲哀の父である日本武尊は、景行43年崩御です。景行27年16歳で熊襲を成敗してますから、崩御時は32歳です。
翌年景行44年に仲哀が誕生したとして、景行60年景行崩御時仲哀は17歳です。その仲哀が仲哀9年の崩御時は、52歳と
あります。しかし、成務48年31歳で立太子とありますから、仲哀9年では53歳です。書紀は、空位1年を意識して
なかったのでしょうか。仲哀9年で53歳なら元年では、45歳、空位1年があり、成務崩御の年は43歳となります。
先の、景行崩御時17歳ですから、翌年18歳が成務元年とすると、43歳成務崩御時は成務26年です。つまり、成務は、
成務26年に崩御したことになり、治世は26年となります。と、日本書紀は一方で言ってます。
また、仲哀が31歳の年は、成務48年ですから、仲哀1歳の年は、成務18年。前年であるべき日本武尊崩御の年は、景行43年、つまり
景行44〜60年の17年間と、成務1〜17年の17年間は、虚構年で、景行治世年数は、60−(44〜60)=43年、
成務治世年数は60−(1〜17)=43年ともいえます。

この辺りを、検討してみます。

35 :
L、Kからのつづき

A説として、日本書紀の記事を見てみます。
成務5年、国境を決め、「東西を縦軸、南北を横軸」として村を定める。百姓安居し、天下無事、という記事があり、
それ以降記事らしい記事はありません。つまり、成務の治世年数は、5年で、それ以外は、虚構年かもしれません。

余談ですが、古代では、「東西を縦軸」、前が東、頭上を越えて後ろが西、地図に例えれば上が東、下が西です。
日に向かって行くというのは、太陽の運行に向かって、所謂アゲインストです。東に向かってということになります。
神武東征で、熊野へ回り込んだとき、景行天皇が日向という国名を定めた時なども同様ですね。
しかし、大陸では、天子南面の思想から、日に向かうということは、南に向かうということになります。
倭人が「日に向かって水行陸行…」と言えば、魏人は「そうか、日に向かって水行陸行…」か、と記録したのでは
ないでしょうか。

垂仁35年にも、百姓富み寛ひて、天下太平なり、という記事があります。これも同様に垂仁の治世は35年とすれば、

垂仁天皇 35年(1〜35年)
景行天皇 60年(35〜94年)
成務天皇 5年(94〜98年)
空位 1年(99年)

となります。

これとは別の説がありますので、次回検討します。

つづく

36 :
M、Lからのつづき

B説として検討します。
住吉大社神代記に
志貴御豆垣宮御宇天皇(崇神),【六十八年,以戊寅年崩。葬山邊上陵。】
活目入彥命者(垂仁),彌麻歸天皇子。【巻向玉木宮大八嶋國御宇五十三年辛未崩,】
とあるように、崇神天皇は崇神68年に崩御、垂仁天皇は垂仁53年に崩御とあります。

また、古事記にある崩御年齢は、崇神が168歳で、垂仁は153歳です。
治世年数との差はどちらもジャスト100年です。ならば、景行も同じとみて、古事記にある崩御年齢137歳
から、100年を減じ、治世年数を37年とします。残余が成務の治世年数です。

整理すれば、
垂仁天皇 53年(1〜53年)
景行天皇 37年(53〜89年)
成務天皇 10年(89〜98年)
空位 1年(99年)

となります。
次回に実年を割り振ってみましょう。

つづく

37 :
N、Mからのつづき

それでは実年を割り振ってみましょう。

A説
崇神天皇 崩御(1年)[290前半]
垂仁天皇 35年(1〜35年)[290前半〜307前半]
景行天皇 60年(35〜94年)[307前半〜336後半]
成務天皇 5年(94〜98年)[336後半〜338後半]
空位 1年(99年)[339前半]

B説
崇神天皇 崩御(1年)[290前半]
垂仁天皇 53年(1〜53年)[290前半〜316前半]
景行天皇 37年(53〜89年)[316前半〜334前半]
成務天皇 10年(89〜98年)[334前半〜338後半]
空位 1年(99年)[339前半]

次は、神武天皇まで、遡ってみましょう。
まず、【古事記】にある神武〜崇神の崩御年齢を拾ってみましょう。
神武137歳、綏靖45歳、安寧49歳、懿徳45歳、孝昭93歳
孝安124歳、孝霊106歳、孝元57歳、開化63歳、崇神168歳

これは、春秋年カウントのようです。この10代を検討するには、通常年カウントの方が、分かりやすいので、
各天皇の崩御年齢を通常年カウントに換算します。

神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
これを元に検討してみましょう。
つづく

38 :
O、Nからのつづき

前回整理した古事記における天皇の崩御年齢です。
神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
古事記は、編集において日本書紀ほどの制限は受けてないと思われるので、この数字を参考にします。

神武天皇
長男の手研耳命が東征に参加しているので、その時、手研耳命の年齢は、少なくとも10代後半以上であるでしょう。
従って、その時点で、神武の年齢は、30代後半以上でしょう。さらに、東征の期間は、古事記では、16年(8通常年)費やして
いるので、即位したのは、40代半ば以上でしょう。69歳で崩御しているので、治世年数は、25年前後でしょう。
東征後誕生した神八井耳、神淳名川耳兄弟と手研耳の間に後継争いがありましたが、兄弟が20歳前後であれば、神武は60代半ば以上
となります。69歳というのは、そう無茶な数字ではありません。
神武天皇は45歳即位、68.5歳崩御、とすると治世は25年です。

綏靖天皇
治世年数を確保し、神武が綏靖の父となる年をできるだけ若くするには、神武52歳で綏靖誕生、神武68.5歳崩御時綏靖18歳、
空位1年あり、綏靖20歳で即位、22.5歳崩御。とすると治世は4年です。

安寧天皇
安寧の父は神武ではなく、綏靖でしょう。綏靖が父となった時は18歳とします。綏靖が22.5歳で崩御した時、安寧は、僅か6歳です。
6歳で即位し、24.5歳で崩御、とすると治世は20年となります。幼帝だったのですね。

つづく

39 :
P、Oからのつづき

懿徳天皇
父が安寧であるならば、安寧18歳の子供として、皇位継承するのは、安寧24.5歳崩御ですから、懿徳は、8歳即位となり、
幼帝が2代続きます。幼帝が続くことはなくもないですが、出来れば避けたいと思いました。すると、懿徳の父は、
綏靖であり、綏靖21歳頃懿徳誕生となります。懿徳22歳のとき、兄安寧が崩御、皇位を継承します。
懿徳は、安寧の弟、22歳即位、22.5歳で崩御ですから、治世年数は2年、としておきます。

孝昭天皇
やはり、若年即位は避けたい。とすると、父は同じく綏靖となります。孝昭誕生時綏靖は22.5歳、懿徳崩御後1年空位があり、
孝昭即位は22歳、治世年数26年46.5歳で崩御としておきます。安寧、懿徳、孝昭は3兄弟です。

孝安天皇
父は孝昭で、誕生時孝昭は、20歳、孝昭崩御時、孝安は、28歳です。
孝安は、28歳即位、62歳崩御、治世年数35年としておきます。

孝霊天皇
父は孝安で、誕生時孝安は、20歳、孝安崩御時、孝霊は、43歳です。
孝霊は、43歳で即位、53歳で崩御、治世年数11年としておきます。

孝元天皇
父は孝霊で、孝言20歳で即位と仮定、その時点で孝霊は34歳。孝霊崩御時、孝元は20歳。
孝元は、20歳で即位、28.5歳で崩御、治世年数10年としておきます。

開化天皇
父が孝元なら、若年即位となるので、やはり幼帝は避けたい。とすれば父は孝霊であります。
開化誕生時孝霊は、43歳、孝元崩御時、開化は20歳、32歳で崩御、治世年数13年。
孝元、開化は兄弟です。

つづく

40 :
Q、Pからのつづき

崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。

以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。

これを整理すると、次のようになります。

神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])

つぎは、神代です。

つづく

41 :
R、Qからのつづき

伊邪那岐命(イザナギノミコト)から神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)までの系図の順序は次のとおりです。

伊邪那岐命(イザナキ)
天照大御神(アマテラス)
天忍穂耳命(オシホミミ)
邇邇芸命(ニニギ)
火遠理命(ホオリ)
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)
神倭伊波礼琵古命(イワレビコ)(神武)

古事記、日本書紀では、上記順序で皇位が継承されてきましたが、あえて、少し修正しました。

山幸彦であるホオリと神武天皇であるイワレビコは同一人物である、という説があります。
その理由は、次のように同一人物であるという節があるからです。
1.実名が共に彦火火出見(ヒコホホデミ)と同じ
2.神武より先に大和へ下ったニギハヤヒは、ニニギの兄であり、その子ウマシマジは神武と同世代という説の存在
3.ホオリが釣り針を探すときや、神武に東に美しき地ありとアドバイスしたのも共にシオツチノオジ
4.ホオリ、ウガヤ父子の妃はトヨタマ、タマヨリの姉妹であり、神武、綏靖父子の妃もイスズヒメ、イスズヨリヒメの姉妹、両姉妹とも神(海神、事大主神)の娘

海幸山幸伝承とウガヤをいれるため、神武が後ろへ回されたのでしょう。ということで、ここでは
イザナキ→アマテラス→オシホミミ→ニニギ→神武の順序で検討します。
これに年代を付けてみたいと思います。

つづく

42 :
S、Rからのつづき

神武天皇は、西暦140年に68.5歳で崩御しましたので、生年は、西暦72年です。

神武は第四子である故、神武生年時、父であるニニギの年齢は23歳としておきましょう。
であれば、ニニギの生年は、西暦50年になります。

次にニニギ生年時、父オシホミミの年齢が20歳とすれば、オシホミミの生年は西暦31年です。
オシホミミ生年時母アマテラスの年齢は20歳とすれば、アマテラス生年は西暦12年。
アマテラス生年時父イザナキの年齢は20歳とすれば、イザナキの生年は西暦紀元前8年ということになります。

整理すれば、

紀元前8年 イザナキ誕生
西暦12年 アマテラス誕生、イザナキ20歳
西暦31年 オシホミミ誕生、アマテラス20歳
西暦50年 ニニギ誕生、オシホミミ20歳
西暦72年 神武誕生、ニニギ23歳
西暦109年 神武東征開始、神武38歳
西暦116年 神武即位 45歳

ということで、大雑把に言って、イザナキ、イザナミの時代は、1世紀初頭、神武天皇即位は2世紀前半の中頃になります。

次に、全体を整理してみましょう。
つづく

43 :
㉑、Sからのつづき

一度全体を整理してみましょう。(1回で書き込めませんので、2回に分けます。)

紀元前 8年 イザナキ誕生
西暦 12年 アマテラス誕生、父イザナキ当時20歳
西暦 31年 オシホミミ誕生、母アマテラス当時20歳
西暦 50年 ニニギ誕生、父オシホミミ当時20歳
西暦 72年 神武誕生、父ニニギ当時23歳
西暦109年 神武東征開始、神武当時38歳
西暦116年 神武即位 当時45歳
神武天皇 [116〜140年]治世25年、69歳崩御 72年生 父ニニギ当時23歳
空位   [141年]1年
綏靖天皇 [142〜145年] 4年、23歳崩御 123年生 父神武当時52歳
安寧天皇 [145〜164年]20年、25歳崩御 140年生 父綏靖当時18歳
懿徳天皇 [164〜165年] 2年、23歳崩御 143年生 父綏靖当時21歳
孝昭天皇 [166〜191年]26年、47歳崩御 145年生 父綏靖当時23歳
孝安天皇 [191〜225年]35年、62歳崩御 164年生 父孝昭当時20歳
孝霊天皇 [225〜235年]11年、53歳崩御 183年生 父孝安当時20歳
孝元天皇 [235〜244年]10年、29歳崩御 216年生 父孝霊当時34歳
開化天皇 [244〜256年]13年、32歳崩御 225年生 父孝霊当時43歳
崇神天皇 [256後半〜290前半年]34年、84歳崩御 207年生 父?(孝霊当時26歳?)
(内御肇国天皇 [284後半〜290前半年]6年(12カウント年)
垂仁天皇 [290前半〜316前半年]27年(53カウント年)、77歳崩御 240年生 父崇神当時34歳
景行天皇 [316前半〜334前半年]19年(37カウント年)、69歳崩御 266年生 父垂仁当時27歳
成務天皇 [334前半〜338後半年] 5年(10カウント年)、20歳崩御 319年生 父景行当時54歳
空位   [339前半年]1年(1カウント年)

つづく

44 :
㉒、㉑からのつづき

成務天皇 [334前半〜338後半年] 5年(10カウント年)、20歳崩御 319年生 父景行当時54歳
空位   [339前半年]1年(1カウント年)
仲哀天皇 [339前半〜342前半年] 4年( 7カウント年)、23歳崩御 320年生 父倭建命当時18歳
応神天皇誕生 [342後半年]1年(1カウント年)
神宮摂政 [343前半〜368前半年]26年(51カウント年)、51歳崩御 318年生 父気長宿禰王当時19歳
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位   [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
履中天皇 [434後半〜437前半年] 4年( 6カウント年)、33歳崩御 405年生 父仁徳当時32歳
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳
空位   [439後半]1年(1カウント年)
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳
清寧天皇 [483〜487年] 5年、28歳崩御 460年生 父雄略当時19歳
顕宗天皇 [487〜489年] 3年、31歳崩御 459年生 父市辺押盤皇子当時35歳
仁賢天皇 [489〜499年]11年、42歳崩御 458年生 父市辺押盤皇子当時34歳
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳
継体天皇 [507〜531年]25年、54歳崩御 478年生 父彦主人王当時29歳

古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。
つづく

45 :
㉓、㉒からのつづき

(一段目は前回とかぶります。)
古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。

神武と崇神は同一人物、欠史八代は架空、聖徳太子はいなかったなど諸説ありますね。学会の先生方は、
古事記、日本書紀そのものを否定してますね。でも、ここでは、古事記、日本書紀の記述は尊重したいと
思います。しかし、年齢や、年代はそのまま採用することができませんので、都合のいいように変更しました。


●いろいろ考えました−1
【天孫降臨】
面白い話ですが、福岡市の早良区とその西隣の糸島市の間に高祖山というのがあります。その山は二つの頂に分かれており、
南側の頂を「クジフル岳」と言われているそうです。その南に日向峠という峠があり、早良区と糸島市を結んでいます。
この糸島市には、有名な平原遺跡がありますが、三雲南小路遺跡(ニニギ夫妻埋葬?)、細石神社(祭神:イワナガヒメ&
コノハナサクヤヒメ)、志登神社(祭神:トヨタマヒメ)、塩土神社(祭神:シオツチノオジ)、高祖神社(祭神:ホオリ、タマヨリヒメ)
など多彩で、ニニギが降臨した地であり、東征した神武の故郷のようにも思えます。また、この辺りは、世々王あり、一大卒を置く
1,000余戸の伊都国でもありますね。
ニニギの降臨したクジフル岳の北の方向には、韓国があり、真南には、有明海を経由して薩摩半島の笠沙町にある野間岬へ通じます。
本当に真南です。東からは、朝日が直接差し込み、西は見晴がよく、夕日が照ります。
まさに天孫降臨の地です。

つづく

46 :
㉔、㉓からのつづき

●いろいろ考えました−2
【高天原】
福岡市には、住吉三神を祭る住吉神社があり、近くにイザナキが禊をしたと言われる天竜池があります。また、小戸神社(通称小戸大神宮)
には、アマテラス、タヂカラオ、タクハタチヂヒメが祭られています。この辺りは、ニニギが降臨する前の高天原のように思えますね。
また、この辺りは、20,000余戸の奴国ですね。伊都国から10キロ位の所です。志賀島からは奴の国王の金印が出ましたね。アマテラスに
贈られたのでしょうか。10キロ先には1,000余戸の不弥国があります。ここには那の津と言われる津があります。
里の長さは、時代により、場所により、異なりますが、当時、倭での1里は、100メートル弱です。

1世紀の前半の中頃、アマテラスとスサノオが今の福岡市辺りで行われた、「うけい」の後、スサノオの行動が横暴に
なってきました。それを憂い、アマテラスは岩屋に隠れました。天の岩屋伝説ですね。日食という説もありますね。
もし、日食であるとすれば、都合よく福岡で、西暦31年5月10日に金環食がありました。午前8時9分に欠け始め、
10時14分から10時18分まで金環食、11時55分に日食は終わります。「うけい」はこれより前ということになります。

つづく

47 :
㉕、㉔ からのつづき

●いろいろ考えました−3
【神武東征】
神武東征を考えてみました。福岡市辺りで行われた、「うけい」での1つとして、宗像三女神が生まれました。
この宗像三女神は宇佐島に降臨しましたが、それは、現在の宗像市辺りです。その辺りの部族が欽明の頃現在の宇佐神宮のところへ
遷りました。宇佐神宮の祭神の中央には三女神が祭られています。(この考え方が、都合がいいのです。)
神武天皇が東征に出発した日向は、生まれ育った伊都国です。陸路不弥国まで行き、那の津から海路東へ向かいました。
記紀ともに日向(宮崎県)を出発します。日本書紀では最初に狭い海峡を通りますが、古事記ではずっと後で通ります。
次は記紀ともに豊国の宇佐へ立ち寄り、その次に何故か東へ向かわず関門海峡を通り筑紫の岡田宮(岡水門)へ行きます。
その後後戻りして阿岐(安芸)の国へ行きます。どうも順路が不思議ですね。
ところが、伊都国(筑紫の日向)を出発し、陸路奴国を経由不弥国から海路、最初に宇佐を訪れます。宗像辺りですね。次に岡田宮を通り、
関門海峡を経由、阿岐(安芸)の国へ行きます。如何ですか。自然ですね。欽明の時にできた宇佐や、景行の時に名づけられた日向を
何故神武が通れるのでしょうか。また、大和は福岡日向なら東になりますが、宮崎日向からも本当に東でいいのでしょうか。太平洋に
なってしまいますが。
つづく

48 :
㉖、㉕ からのつづき
●いろいろ考えました−4

【欠史八代】先代旧事本記からピックアップしました。
(文頭は、尾張・物部の世代と登場する天皇)
先代−神武 長髄彦(ニギハヤヒの嫁兄)は、神武の兵を防いだ。
当代−神武 ウマシマジは、神武の御世の初め足尼(すくね)になり次いで大夫となって大神を祀った。
次代−綏靖 彦湯支命は、綏靖の御世の初め足尼になり次いで大夫となって大神を祀った。
三世孫−安寧 大祢命は、安寧の御世に侍臣となって大神を祀った。
三世孫−懿徳 出雲醜大臣命は、懿徳の御世の初め大夫になり次いで大臣となって大神を祀った。
三世孫−孝昭 出石心大臣命は、孝昭の御世に大臣となって大神を祀った。
四世孫−孝昭 瀛津世襲命は、孝昭の御世に大連となってお仕えした。
四世孫−孝昭 世襲足姫命は、孝昭の皇后となり二人の皇子を生んだ。
四世孫−孝安 三見宿祢命は、孝安の御世の初め足尼になり次いで宿祢となって大神を祀った。
四世孫−孝霊 大矢口宿祢命は、孝霊の御世に並んで宿祢となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色雄命は、孝元の御世に大臣となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色謎命は、孝元の皇后となり三人の皇子を生んだ。
五世孫−孝元・開化 大綜杵命は、孝元の御世に大祢となり、開化の御世に大臣となった。
五世孫−開化 大峯大尼命は、開化の御世に大尼となって奉仕した。
六世孫−開化 武建大尼命は、大峯大尼命と同じく開化の御世に大尼となってお仕えした。
六世孫−開化 伊香色謎命は、孝元の皇妃となり、また開化の皇后となり皇子を生んだ。
六世孫−開化・崇神 伊香色雄命は、開化の御世に大臣となり、崇神の御世は八十万の神々を祀った。
七世孫−崇神 大海姫命は、崇神の皇妃となり一男二女を生んだ。
七世孫−崇神 建胆心大祢命は、崇神の御世に大祢となってお仕えした。

以上のリストは、神武天皇〜崇神天皇の記述のある部分です。
これをプロットしてみたいと思います。

つづく

49 :
㉗、㉖ からのつづき
前回のリストを世代別にプロットしてみると次のとおりになりました。

先代−当代−次代−三世−四世−五世−六世−七世
神武−神武−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−綏靖−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−安寧−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−懿徳−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−孝昭−孝昭−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝安−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝霊−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−孝元−孝元−−−
−−−−−−−−−−−−−−−開化−開化−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−崇神−崇神

これを見ると安寧、懿徳、孝昭は兄弟かも知れませんね。孝元と開化も兄弟のようです。
孝安と孝霊も兄弟のように映りますが、Pにも書きましたように父子のような気がします。
神武〜崇神は6〜7代でしょうか。10代にわたる父子継承でなく、兄弟も交えた継承であり、これが本当だと思います。

【その他】
○倭迹迹日百襲媛命(モモソヒメ)=西暦200年生〜247年頃没、48歳(春秋年で96歳)。239年の卑弥呼朝貢時は、
40歳(春秋年で80歳)、父は孝霊天皇で、モモソヒメ誕生時20歳。
○大彦=西暦235年生〜没年不明、崇神の皇位継承時は23歳(春秋年で46歳)。父は孝元天皇で、大彦誕生時20歳。
○御間城姫(崇神天皇の皇后)=西暦254年〜没年不明。父は大彦、御間城姫誕生時、大彦20歳、崇神47歳、歳の差結婚?

つづく

50 :
㉘、㉗ からのつづき
●いろいろ考えました−5
【距離単位】
古代において距離を表す単位には「里」が使われていますが、その長さは、場所(国)、時代により異なります。
2〜3世紀の日本、朝鮮半島では1里=100メートル弱で、中国の魏では1里=500メートル弱です。
魏志倭人伝では、帯方郡から南下し、珍島附近から東進し、釜山附近まで、7千余里となってますが、これは、
約700qです。また、末盧国〜伊都国間五百里=約50q、伊都国〜奴国間百里=約10q、奴国〜不弥国間
百里=10qです。狗耶韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国間の海上各千余里は、実距離でなく、魏の役人が採用した
設定距離だと思います。魏では1日当たりの行程は仮に50魏里(約25q)とすれば、韓倭方面の里に換算し、
250里としました。また、風や波など、気象条件により、出航が待たされるため、平均4日かかるものとしました。
よって、250里×4日=千里としました。(めちゃめちゃ都合よく解釈しました。案外こんなものか知れませんが。)
ちなみに、伊都国→奴国→不弥国は、多分陸行1日で可能でしょう。伊都国→不弥国→奴国→投馬国を水行20日、
投馬国→邪馬台国が水行10日です。水行には多少の陸行は含みますがメインが水行です。これを伊都国→邪馬台国を
多少の水行を含め、メインを陸行で日に向かって進めば陸行1月なのでしょう。
また、日本書紀、崇神紀に「任那は筑紫国を去ること二千余里」とありますが、当時の1里=100メートル弱で
あれば約200qとなります。これは、設定距離ではなく実距離でしょうか。
肥前国風土記逸文に、「松浦の県。県の東三十里に揺の岑あり」というのがあるそうです。実際の距離は約3qなので、
当時の1里=100メートル弱だったのですね。岩波書店の風土記では、この部分を六里とし、注記で、三十里とあるが、
概数記載とはし難く、実距離によれば、六里または七里である。暫く六里としておく、としています。1里=500メートル
と思っているのですね。
つづく

51 :
㉙、㉘ からのつづき

新撰姓氏録の左京皇別、吉田連の条に、「任那国の東北に三己汶(上己汶・中己汶・下己汶)の地あり、地方三百里」とあります。
地図でみると、30キロメートル四方とみても差支えなさそうです。
6〜7世紀では、1里=約500メートルになり、16〜17世紀には1里=約3,600メートルになります。
現在では約3.9q、で、中国では約500m、韓国では約400mだそうですね。



●いろいろ考えました−6
【広開土王碑】
有名な広開土王碑の碑文によると、西暦391年(392年説あり)に高句麗の好太王が即位した。倭人が海を渡ってきた。
399年、百済は、倭と和通したので、高句麗は、百済を攻めるため、平壌へ出向いた。その頃、新羅が、倭が攻めてきた
のでと高句麗へ救援を求めてきたので、高句麗は、新羅の求めに応じることにした。400年高句麗は、5万の大軍を派遣
して新羅を救援した。新羅王都にいた倭の大軍は退却した。404年帯方地方に侵入してきた倭軍を討って大敗させた。
というようなことが記されているようですが、次のように応神天皇治世の時のようですね。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳

つづく

52 :
㉚、㉙ からのつづき

●いろいろ考えました−7
【稲荷山鉄剣】
有名なこの鉄剣には、文字が刻まれており、「辛亥の年、ワカタキロ?大王がシキの宮に在る時、ヲワケの臣は、
この百練の利刀を作らせた。ヲワケの臣は、上祖オホヒコから数えて8代目である。」というような内容が含まれてますね。
辛亥の年は、471年が定説で531年説もあるようです。
ご存じオホヒコは、崇神天皇が全国制覇する前に四道将軍の一人として、北陸方面へ派遣され、東海方面へ派遣された、
息子のタケヌナカワワケと会津で合流しましたね。崇神天皇の全国制覇が西暦284年頃とすれば、280年頃だったでしょうか。
ワカタキロ大王が雄略天皇であれば、次のとおり、辛亥の年は471年ということになります。

雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳

471−280=191、約190年です。8代で190年、1代平均24年となります。

つづく

53 :
㉛、㉚ からのつづき

●いろいろ考えました−8
【七支刀(奈良県天理市の石上神宮に伝来)】
この刀には、文字が刻まれており、「太和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練ったこの七支刀を造った。
百済の王と(王の)世子は、倭王にこの刀を造った。」というような内容が含まれてます。
太和がなぜ泰和なのか知りませんが、泰和4年として369年とする説があります。
369年といえば、次の通り、応神の治世に入ったばかりですね。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳

日本書紀によると、「神功摂政52年に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に七枝刀一口その他重宝を献じ友好を願った。」
ということが書かれています。これから考えると、近肖古王(346〜374)とその世子(近仇首王(375〜383))が倭王(女王ではない)
のために造った、ということになります。応神即位の祝いも兼ね、倭との同盟強化を願ったのでしょうか。

つづく

54 :
㉜、㉛ からのつづき
●いろいろ考えました−9
【新撰姓氏録、国栖の伝承】
新撰姓氏録、大和国神別の国栖の条に、允恭天皇の御代乙未の年に七節の御贄を奉った、という記事があります。
この乙未年は西暦455年で、通説の允恭崩御453年より後になります。ということで、この乙未年は、
己未年(419年=通説允恭8年)の誤りである。己の文字が乙に似ているので、誤ったものである、という説があります。
しかし、ここでは、乙未年西暦455年は、次のとおり、允恭天皇の治世に含まれています。

允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳


●いろいろ考えました−10
【隅田八幡宮人物画像鏡】
最大の難関は、「日十大王年」の解釈だと思います。年代は、「癸」の文字に問題があるようですが、取敢えずは癸未年
ということです。西暦443年説と503年説があります。「意柴沙加」を取るか「斯麻」を取るかのようです。
斯麻は斯麻王(462〜523)のことでしょうか。その他395〜683年までいろいろありますが、いずれも決め手に欠けます。
何ともいえませんが、443年説を取るならば、次の允恭天皇の時代ということになります。

允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳

「日十」は「十日」の間違いではなく、ならば「早」の間違いかも知れません。鏡職人が原稿の早を日十と見誤ったのでしょう。
早は朝に通じます。であるならば、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭)が浮かんできます。(都合よく考えました。)

つづく

55 :
㉝、㉜からのつづき

●いろいろ考えました−7
【倭の五王】
Wikipediaから登場する倭王と西暦をリストしました。これにこれまでの年代を重ねてみます。
○印は王名の記載のあるもの。

413年 讃 
421年○讃
425年○讃
430年 讃?
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳

438年○珍 倭王讃没し、弟珍立つ
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳

443年○済
451年○済
460年 済?
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳

462年○興 済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
477年 興(○武) これより先、興没し、弟の武立つ。
478年○武
479年○武
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳

つづく

56 :
㉞、㉝からのつづき

これから察するに、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略でしょう。

438年の「讃没し、弟珍立つ」は、宋は讃に対しての積りで「珍の続き柄」を尋ねたところ、倭の使者は、
反正は履中の弟だから、「弟である」と答えた。それを宋は、珍は讃の弟と記録したのでしょう。

460年の遣使は済か興か紛らわしいところです。
462年の遣使は、本国から使者への天皇交代の知らせが間に合わなかったのでしょう。
477年は武です。

倭王武には、次のように、502年にも出てきます。年代を当てはめると次のように武烈の時代になりますが、
宋では、これまでの武の積りでしょう。

502年○武
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳


502年は、遣使したのではなく、梁の武帝が王朝を樹立した際に次の通り各将軍を一斉に新号したのです。
高句麗王 高雲     車騎将軍 →車騎大将軍
百済王  餘大     鎮東大将軍→征東大将軍
宕昌王  梁弥頭    安西将軍 →鎮西将軍
倭 王  武      鎮東大将軍→征東将軍
河南王  吐谷渾休留代 鎮西将軍 →征西将軍
これをみると、479年以降、遣使しなかったのか、天皇の交代は、知らされていなかったようです。

つづく

57 :
㉟、㉞からのつづき
●いろいろ考えました−7
【日本書紀中の百済王の即位と崩御記事】
次のとおり、日本書紀の神功皇后摂政期後半から応神天皇治世前半にかけて百済王の即位と崩御の記事があります。
それぞれの記事は、西暦では250年〜300年頃ですが、これに干支2運(120年)加えると、
370年〜420年頃になり、三国史記の百済本記にある百済王の即位、崩御とほぼ一致します。
日本書紀では、神功後半〜応神前半ですが、120年加えた年代を、春秋暦で修正した紀年にあてはめても、
ほぼ応神の時代になります。ということは、この時代の他の外交記事も同様に考えてもいいのでしょうか。

神宮55年(255+120=375) 百済の肖古王(近肖古王)薨ず。
神宮56年(256+120=376) 百済の王子貴須(近仇首)、立ちて王と為る(史記では375)。
神宮64年(264+120=384) 百済国の貴須王(近仇首王)薨りぬ。王子枕流王立ちて王と為る。
神宮65年(265+120=385) 百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(阿華)年若し。叔父辰斯、奪いて立ちて王と為る。
応神 3年(272+120=392) 是歳、百済の辰斯王立ちて(385)、貴国の天皇のみために失礼し。…百済の国、辰斯王を殺して謝ひにき。
応神 8年(277+120=397) 百済記に云へらく、阿花王(阿華王)、立ちて(392)、貴国に礼无し。
応神16年(285+120=405) 是歳、百済の阿花王(阿華王)薨りぬ。天皇、直支王(腆支王)を召して、謂りて曰わく、「汝、国に返りて位に嗣げ」とのたまふ。
応神25年(294+120=414) 百済の直支王(腆支王)薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る(史記では420)。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位   [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳

つづく

58 :
日本書紀第13巻の最後は、安康天皇3年8月です。
この13巻より前の暦は儀宝暦で計算され、14巻より後は、元嘉暦で計算されています。
そして、13巻より前は、いわゆる春秋暦、14巻より後は、通常歴です。

さらに日本書紀の元号(天皇記)は越年称元法が基本ですが、古事記は当年称元法が基本です。
奈良時代以降現在にいたるまで、当年称元法が基本ですから、日本書紀も当年称元法として繋ぎ直し、第13巻以前を春秋暦として繋ぎ直します。
古事記は允恭天皇以降が通常歴で、反正天皇以前が春秋暦です。
これにより、記紀ともに繋ぎなおすと、誰がやっても、少なくとも、仁徳天皇以降古事記日本書紀双方の治世年数は、ぴったり、一致します。
これに、定点である継体天皇17年から、実年を割り振ってみましょう。
つづく

59 :
A前からのつづき

まず、古事記によれば、
継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)
雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)
この間 489年〜527年=足かけ39年・・・・(A)

その間に
武烈天皇の治世年数8年
顕宗天皇の治世年数8年
とあります。
顕宗天皇の治世年数8年は、顕宗天皇3年と清寧天皇5年が何かの手違いで一緒に数えられたのでしょうか?

日本書紀によれば、治世年数は、
継体天皇・・・・25年
武烈天皇・・・・8年
仁賢天皇・・・・11年
顕宗天皇・・・・3年
清寧天皇・・・・5年

となり、これを参考に当年称元法で繋いでみます。ただし、武烈→継体は記事内容から越年称元法となります。
( )内は、清寧元年をスタートの1年として繋いだ年数
清寧 5(1〜5)
顕宗 3(5〜7)
武烈 8(7〜14)
継体 25(15〜39)

取敢えず、4人で、足かけ39年となり(A)と一致しました。
仁賢11年が有りませんが、後述します。

つづく

60 :
B、Aからのつづき

次に古事記によれば
雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)
この間 454年〜489年=足かけ36年・・・・(B)

日本書紀によれば、治世年数は、
雄略天皇・・・・23年
安康天皇・・・・3年
となります。
ところが、日本書紀は安康天皇3年8月以前は春秋暦ですから、安康1年は1カウント年、安康2年は2カウント年です。
安康1カウント年+安康2カウント年合せて通常年の1年となります。
さて、安康3年は通常年なので、単純に3年としてますが、8月までは、春秋暦ですから、カウント年としては、
安康3カウント年と安康4カウント年となり、日本書紀の治世年数3年間というのは、4カウント年間ということになります。
カウント年にも通常年を割り振り、通常年を装っていますから、ややこしいです。

これを参考に当年称元法で繋いでみます。
( )内は、安康元年(允恭崩御年)をスタートの1年として繋いだ年数
安康 3年(1〜4カウント年)
雄略 23年(4〜26年)
仁賢 11年(26〜36年)

(B)の足かけ36年になるためには、足かけ11年不足しています。これが、Aにあるべき仁賢の11年です。


つづく

61 :
C、Bからのつづき

AとBを合せると

【古事記より】
継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)
この間 454年〜527年=足かけ74年・・・・(C)

【日本書紀】にある治世年数を繋ぐと次のようになります。
( )内は、安康元年(允恭崩御年)をスタートの1年として繋いだ年数

安康 3(1〜4カウント年)
雄略 23(4〜26)
清寧 5(26〜30)
顕宗 3(30〜32)
仁賢 11(32〜42)
武烈 8(42〜49)
継体 25(50〜74)→(越年称元法)

7人で、足かけ74年となりました。
途中ですが、実年を割り振ってみましょう。

細かい数字をいじくっても、どうかと思うのですが、ある天皇の凡その時間的現在地を掴むためには、数字に端数をつけたまま積算するのも一つの方法だと思います。そこから出た数字を参考に凡その現在地を想像しましょう。

つづく

62 :
D、Cからのつづき
定点となるのは、百済の武寧王の崩御年です。
(1)武寧王墓誌銘・・・・寧東大将軍百済「斯麻王」、年62歳にして癸卯年(523年)5月丙戌朔7日壬辰崩ず。
(2)三国史記・百済本紀・・・・武寧23年 癸卯(523年) 夏五月、王薨ず、諡(贈り名)を武寧という。
(3)日本書記・・・・継体17年 癸卯(523年) 夏五月、百済の王武寧薨ず。
ちなみに、日本書記では、筑紫の各羅嶋で生まれたので、「嶋王」というとあります。
墓誌銘以外にシマ王とあるのは、日本書紀だけだそうです。

これから継体17年=西暦523年となり、これをCに割り振ると、

安康 3(1〜4カウント年)西暦460〜461年
雄略 23(4〜26)461〜483
清寧 5(26〜30)483〜487
顕宗 3(30〜32)487〜489
仁賢 11(32〜42)489〜499
武烈 8(42〜49)499〜506
継体 25(50〜74)507〜531→(越年称元法)

西暦460年は、前半が安康1カウント年、後半が安康2カウント年ということになりますが、この年は、子細に見れば、
允恭崩御は1月で安康1カウント年、安康即位は12月で安康2カウント年です。通常年なら460年での当年称元法ですが、
春秋年では、前半と後半の2カウントとなりますから、允恭崩御の翌カウント年が安康即位年となり、越(カウント)年称元法となります。
西暦461年は、安康崩御が8月、雄略即位が11月ですから、ともに後半の年となり、当(カウント)年称元法となります。

整理すれば、
460年前半・・・允恭崩御年
460年後半・・・安康元年(即位年)
461年前半・・・安康2年
461年後半・・・安康3年(崩御年)=雄略元年(即位年)
安康天皇の治世は、通常年では12月に即位し、翌年8月に崩御、実質9か月です。

つぎは、仁徳〜允恭を検討します。
つづく

63 :
>>19
>併用されたのでは?

いい見解だ。
履中から允恭まで2倍暦を行使してた。
だが、允恭天皇が病気になって半島の医者だったか治療してよく
なったので、半島のおかげだとなり、允恭当時の2倍暦を廃止したと
いうよりやってたことはやってたがこれを遠ざけ半島と同様の通常の暦法
つまり1年が365日余での暦を主体としたということだ。過ぎた允恭元年
から通常暦で数えることに直した。

だから陰で2倍暦はあったわけで、雄略での記紀の各々の年齢が記が紀の
2倍になってるのは陰で2倍暦が並行して行使されてたことを物語る。
いずれにせよ允恭以降武烈の世までは主体的には通常暦を行使してたと
いうことなのだ。
繼體の代になって2倍暦に再び戻された。

64 :
在日朝鮮人がやりたい放題の解釈で
日本の歴史を捏造するスレッドはここですか?

65 :
E、Dからのつづき

次に【古事記】では、
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)[18]
反正天皇崩御・・・・丁丑年(西暦437年)[6]
履中天皇崩御・・・・壬申年(西暦432年)[6]
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[34]+60→[94]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)

[ ]内数字は、先代天皇崩御年からの足かけ年数です。なお、仁徳の場合の34年は、崩御年齢や、日本書紀にある治世年数からみても、いかにも、
短過ぎますので、応神天皇崩御年を干支一回り繰り上げ、甲午(西暦334年)と計算、[34+60=94]としました。
また、古事記では、允恭以降は通常年で、反正以前が春秋年です。しかし、日本書紀では允恭以前が春秋年ですから、
計算を統一するため、古事記の允恭の[18]のカウントを倍に置き換え、[36]カウントとします。
さらに、允恭の[36]は日本書紀の42年と比べ、6年少ないので、仁徳から6年を→履中→反正→允恭へと繰り下げてきます。
その結果允恭は36+6=42となり、仁徳は94-6=87となります。
これを整理すると
允恭 42
反正 6
履中 6
仁徳 87
となります。

一方【日本書紀】にある治世年数は、
允恭天皇・・・・42年
反正天皇・・・・5年+空位1年
履中天皇・・・・6年
仁徳天皇・・・・87年
とあります。(省略してますが、全てカウント年です。)
これに実年を割り振ってみましょう。

つづく

66 :
F、Eからのつづき

【訂正】

Eの【古事記】で
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[34]+60→[94]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
とありますが、応神→仁徳への皇位継承は、当年称元法ではありませんので、
つぎのようになります。

仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[33]+60→[93]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
従って、仁徳の計算は、94-6=87ではなく、93-6=87です。

訂正します。

つづく

67 :
G、Fからのつづき
前回の治世年数を繋いでみましょう。( )内は仁徳元年をスタートの1年とした年数。
[ ]内は、西暦の実年です。

仁徳 87(1〜87)[391後半〜434後半]
履中 6(87〜92)[434後半〜437前半]
反正 5(92〜96)[437前半〜439前半]
空年 1(97)[439後半]
允恭 42(97〜139)[439後半〜460前半]

反正の後の空年1年は反正6年のようなもので、(古事記は6年としている)
反正崩御の年に次代との皇位継承はなかった、ということです。
この空位1年と允恭元年が当年称元法で、繋がります。
従って、反正5年の次の年が允恭元年になりますので、反正→允恭は越年称元法のように見えます。
整理すると

438前半・・・反正3年
438後半・・・反正4年
439前半・・・反正5年、崩御年
439後半・・・空位1年=允恭元年
440前半・・・允恭2年
440後半・・・允恭3年

なお、仁徳の初期については、修正しなければなりませんが、後述します。

つづく

68 :
H、Gからのつづき

仁徳の初期を修正する前に、応神の治世年数を確かめなければなりません。

【古事記】から
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦334年)
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
この間 334〜242=足かけ93年・・・・(D)

【日本書紀】では
応神天皇・・・41年
神宮摂政・・・69年
これを当年称元法で繋ぐと109年となります。

まず、仲哀→神功の関係を見てみましょう。
a、仲哀9年・・2月、仲哀崩御
b、仲哀9年・・12月、応神誕生
c、摂政1年・・2月、神功が穴門豊浦宮へ移る、神功皇后摂政元年
春秋年では、bはaの翌年、cはbの翌年、つまり神功元年は、仲哀崩御年の翌々年(2年後)であり、
神宮、応神併せた治世年数は、(D)の93年でなく91年ということになります。・・・・(E)

日本書紀によれば、神功摂政年数は69年とありますが、摂政51年紀に、「・・朕が存けらむ時の如くに・・」
とあり、あたかも遺言のような記事です。千熊長彦が百済へ趣き、神功崩御を伝える、翌年百済の久氐が来日、
応神天皇即位祝を献上、のように思えてしかたありません。52年〜69年の18年間皇后の記事はありません。
この18年間は水増しされた虚構年のようです。つまり、本当の神功摂政期間は69−18=51の51年間では
ないでしょうか。
以上より、応神41年と神功51年を当年称元法で繋ぐと109年ではなく91年となります。上の(E)はこの91年です。

これを踏まえて、仁徳の初期を検討します。

つづく

69 :
I、Hからのつづき
応神天皇→仁徳天皇については、仁徳は弟と皇位を譲り合い、日本書紀には「皇位空しくして、既に三戴を経ぬ。」とあります。
古事記にも、「既に許多の日を経つ」とあり、海の大贄を「相譲りたまふこと、一度二度にあらざりければ」とあります。
一度二度でなく三度であるとすれば、一度が1年として、3年ということになります。大贄は穀物の収穫を伴うので、1年というのは、
春秋暦のカウントでなく通常年のカウントになります。これから、日本書紀にある「三戴」も通常年の3年のようです。
これを春秋暦でカウントすると、6カウント年ということになります。
つまり、応神→仁徳の間に、6カウント年の空位があったことになります。

一方応神天皇の崩御年齢は、前記Hの古事記による神宮、応神併せた治世年数91年(E)に、前年の応神誕生年を加えると91+1=92
となり、数え年92歳となります。これに日本書紀で出てきた、神功皇后治世の虚構年18年を加えた、92+18=110、つまり
110歳が日本書紀でいう応神天皇の崩御年齢です。日本書紀は、古事記と同じ原データを元に計算し、それに虚構年を加えて、組み立てた
ようです。
古事記は、応神天皇の崩御年齢を記事では「御年一百三十歳」としながら、92歳と算出できるデータを載せています。38年足りません。
この38年は仁徳天皇の方に紛れ込んでいるようです。これにより、仁徳の治世年数は、87-38=49、応神の治世年数は、41+38=79となります。
古事記に仁徳天皇の崩御年齢83歳とあるのに、治世年数87年は、おかしいですね。

これを整理します。( )内は仲哀崩御年をスタートの1年とした年数。
[ ]内は、西暦の実年です。
仲哀崩御年1(1)[342前半]
応神誕生年1(2)[342後半]
神宮摂政51(3〜53)[343前半〜368前半]
応神天皇79(53〜131)[368前半〜407前半]
空位6(132〜137)[407後半〜410前半]
仁徳天皇(49)(138〜186)[410後半〜434後半]

【古事記】にある次の期間は、
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
427−242=足かけ186年となり、上の数字と一致します。
つづく

70 :
J、Iからのつづき
【古事記】より
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
成務天皇崩御・・・・乙卯年(西暦235年)
242−235=足かけ8年となります。
しかし、成務→仲哀の間には空位1年ありますから、春秋年では、仲哀元年は、成務崩御年の翌年となり、仲哀の治世は実質7年です。

【日本書紀】は、仲哀崩御年と同一春秋年に応神が誕生するのは、ありえないと思ったのでしょう。神功摂政年の前に応神誕生年を
置き、神功摂政年までを、足かけ9年としたのでしょう。例によって、通常年を装い、また、越年称元法で、繋いだのでしょう。

整理すると次のようになります。

成務天皇崩御・・[338後半]
空位1年=仲哀天皇元旦・・[339前半]
仲哀天皇崩御・・[342前半]
応神天皇誕生・・[342後半]
神宮摂政元旦・・[343前半]

つぎは、崇神天皇までを検討してみます。

つづく

71 :
K、Jからのつづき (前回元旦と記したのは元年の誤りでした。)
【古事記】より
成務天皇崩御・・・・乙卯年(西暦235年)
崇神天皇崩御・・・・戊寅年(西暦18年)
235−18=足かけ218年

【日本書紀】による治世年数は、
垂仁天皇 99年(1〜99年)崩御年干支=庚午
景行天皇 60年(99〜158年)崩御年干支=庚午
成務天皇 60年(158〜217年)崩御年干支=庚午
空位 1年(218年)
( )内は垂仁元年をスタートの1年とした年数。

つまり、古事記の記事では成務→仲哀の間に空位の有無は不明ですが、日本書紀では、成務の治世年数は、
60年であり、その後に空位1年をとっています。
故に、3代を繋ぎ、空位1年を足すと、その間足かけ218年となる。

不思議なことに、景行、成務の治世年数は、どちらも干支一巡である60年。そのため、3代とも崩御年干支は
同じ庚午です。

日本書紀によると、仲哀の父である日本武尊は、景行43年崩御です。景行27年16歳で熊襲を成敗してますから、崩御時は32歳です。
翌年景行44年に仲哀が誕生したとして、景行60年景行崩御時仲哀は17歳です。その仲哀が仲哀9年の崩御時は、52歳と
あります。しかし、成務48年31歳で立太子とありますから、仲哀9年では53歳です。書紀は、空位1年を意識して
なかったのでしょうか。仲哀9年で53歳なら元年では、45歳、空位1年があり、成務崩御の年は43歳となります。
先の、景行崩御時17歳ですから、翌年18歳が成務元年とすると、43歳成務崩御時は成務26年です。つまり、成務は、
成務26年に崩御したことになり、治世は26年となります。と、日本書紀は一方で言ってます。
また、仲哀が31歳の年は、成務48年ですから、仲哀1歳の年は、成務18年。前年であるべき日本武尊崩御の年は、景行43年、つまり
景行44〜60年の17年間と、成務1〜17年の17年間は、虚構年で、景行治世年数は、60−(44〜60)=43年、
成務治世年数は60−(1〜17)=43年ともいえます。
この辺りを、検討してみます。
つづく

72 :
L、Kからのつづき

A説として、日本書紀の記事を見てみます。
成務5年、国境を決め、「東西を縦軸、南北を横軸」として村を定める。百姓安居し、天下無事、という記事があり、
それ以降記事らしい記事はありません。つまり、成務の治世年数は、5年で、それ以外は、虚構年かもしれません。

余談ですが、古代では、「東西を縦軸」、前が東、頭上を越えて後ろが西、地図に例えれば上が東、下が西です。
日に向かって行くというのは、太陽の運行に向かって、所謂アゲインストです。東に向かってということになります。
神武東征で、熊野へ回り込んだとき、景行天皇が日向という国名を定めた時なども同様ですね。
しかし、大陸では、天子南面の思想から、日に向かうということは、南に向かうということになります。
倭人が「日に向かって水行陸行…」と言えば、魏人は「そうか、日に向かって水行陸行…」か、と記録したのでは
ないでしょうか。

垂仁35年にも、百姓富み寛ひて、天下太平なり、という記事があります。これも同様に垂仁の治世は35年とすれば、

垂仁天皇 35年(1〜35年)
景行天皇 60年(35〜94年)
成務天皇 5年(94〜98年)
空位 1年(99年)

となります。

これとは別の説がありますので、次回検討します。

つづく

73 :
M、Lからのつづき

B説として検討します。
住吉大社神代記に
志貴御豆垣宮御宇天皇(崇神),【六十八年,以戊寅年崩。葬山邊上陵。】
活目入彥命者(垂仁),彌麻歸天皇子。【巻向玉木宮大八嶋國御宇五十三年辛未崩,】
とあるように、崇神天皇は崇神68年に崩御、垂仁天皇は垂仁53年に崩御とあります。

また、古事記にある崩御年齢は、崇神が168歳で、垂仁は153歳です。
治世年数との差はどちらもジャスト100年です。ならば、景行も同じとみて、古事記にある崩御年齢137歳
から、100年を減じ、治世年数を37年とします。残余が成務の治世年数です。

整理すれば、
垂仁天皇 53年(1〜53年)
景行天皇 37年(53〜89年)
成務天皇 10年(89〜98年)
空位 1年(99年)

となります。
次回に実年を割り振ってみましょう。

つづく

74 :
N、Mからのつづき

それでは実年を割り振ってみましょう。

A説
崇神天皇 崩御(1年)[290前半]
垂仁天皇 35年(1〜35年)[290前半〜307前半]
景行天皇 60年(35〜94年)[307前半〜336後半]
成務天皇 5年(94〜98年)[336後半〜338後半]
空位 1年(99年)[339前半]

B説
崇神天皇 崩御(1年)[290前半]
垂仁天皇 53年(1〜53年)[290前半〜316前半]
景行天皇 37年(53〜89年)[316前半〜334前半]
成務天皇 10年(89〜98年)[334前半〜338後半]
空位 1年(99年)[339前半]

次は、神武天皇まで、遡ってみましょう。
まず、【古事記】にある神武〜崇神の崩御年齢を拾ってみましょう。
神武137歳、綏靖45歳、安寧49歳、懿徳45歳、孝昭93歳
孝安124歳、孝霊106歳、孝元57歳、開化63歳、崇神168歳

これは、春秋年カウントのようです。この10代を検討するには、通常年カウントの方が、分かりやすいので、
各天皇の崩御年齢を通常年カウントに換算します。

神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
これを元に検討してみましょう。
つづく

75 :
O、Nからのつづき

前回整理した古事記における天皇の崩御年齢です。
神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
古事記は、編集において日本書紀ほどの制限は受けてないと思われるので、この数字を参考にします。

神武天皇
長男の手研耳命が東征に参加しているので、その時、手研耳命の年齢は、少なくとも10代後半以上であるでしょう。
従って、その時点で、神武の年齢は、30代後半以上でしょう。さらに、東征の期間は、古事記では、16年(8通常年)費やして
いるので、即位したのは、40代半ば以上でしょう。69歳で崩御しているので、治世年数は、25年前後でしょう。
東征後誕生した神八井耳、神淳名川耳兄弟と手研耳の間に後継争いがありましたが、兄弟が20歳前後であれば、神武は60代半ば以上
となります。69歳というのは、そう無茶な数字ではありません。
神武天皇は45歳即位、68.5歳崩御、とすると治世は25年です。

綏靖天皇
治世年数を確保し、神武が綏靖の父となる年をできるだけ若くするには、神武52歳で綏靖誕生、神武68.5歳崩御時綏靖18歳、
空位1年あり、綏靖20歳で即位、22.5歳崩御。とすると治世は4年です。

安寧天皇
安寧の父は神武ではなく、綏靖でしょう。綏靖が父となった時は18歳とします。綏靖が22.5歳で崩御した時、安寧は、僅か6歳です。
6歳で即位し、24.5歳で崩御、とすると治世は20年となります。幼帝だったのですね。

つづく

76 :
P、Oからのつづき

懿徳天皇
父が安寧であるならば、安寧18歳の子供として、皇位継承するのは、安寧24.5歳崩御ですから、懿徳は、8歳即位となり、
幼帝が2代続きます。幼帝が続くことはなくもないですが、出来れば避けたいと思いました。すると、懿徳の父は、
綏靖であり、綏靖21歳頃懿徳誕生となります。懿徳22歳のとき、兄安寧が崩御、皇位を継承します。
懿徳は、安寧の弟、22歳即位、22.5歳で崩御ですから、治世年数は2年、としておきます。

孝昭天皇
やはり、若年即位は避けたい。とすると、父は同じく綏靖となります。孝昭誕生時綏靖は22.5歳、懿徳崩御後1年空位があり、
孝昭即位は22歳、治世年数26年46.5歳で崩御としておきます。安寧、懿徳、孝昭は3兄弟です。

孝安天皇
父は孝昭で、誕生時孝昭は、20歳、孝昭崩御時、孝安は、28歳です。
孝安は、28歳即位、62歳崩御、治世年数35年としておきます。

孝霊天皇
父は孝安で、誕生時孝安は、20歳、孝安崩御時、孝霊は、43歳です。
孝霊は、43歳で即位、53歳で崩御、治世年数11年としておきます。

孝元天皇
父は孝霊で、孝言20歳で即位と仮定、その時点で孝霊は34歳。孝霊崩御時、孝元は20歳。
孝元は、20歳で即位、28.5歳で崩御、治世年数10年としておきます。

開化天皇
父が孝元なら、若年即位となるので、やはり幼帝は避けたい。とすれば父は孝霊であります。
開化誕生時孝霊は、43歳、孝元崩御時、開化は20歳、32歳で崩御、治世年数13年。
孝元、開化は兄弟です。

つづく

77 :
Q、Pからのつづき

崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。

以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。

これを整理すると、次のようになります。

神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])

つぎは、神代です。

つづく

78 :
Q、Pからのつづき

崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。

以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。

これを整理すると、次のようになります。

神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])

つぎは、神代です。

つづく

79 :
どうでもいいが
朝鮮人ははよ半島に帰れw

80 :
R、Qからのつづき

伊邪那岐命(イザナギノミコト)から神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)までの系図の順序は次のとおりです。

伊邪那岐命(イザナキ)
天照大御神(アマテラス)
天忍穂耳命(オシホミミ)
邇邇芸命(ニニギ)
火遠理命(ホオリ)
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)
神倭伊波礼琵古命(イワレビコ)(神武)

古事記、日本書紀では、上記順序で皇位が継承されてきましたが、あえて、少し修正しました。

山幸彦であるホオリと神武天皇であるイワレビコは同一人物である、という説があります。
その理由は、次のように同一人物であるという節があるからです。
1.実名が共に彦火火出見(ヒコホホデミ)と同じ
2.神武より先に大和へ下ったニギハヤヒは、ニニギの兄であり、その子ウマシマジは神武と同世代という説の存在
3.ホオリが釣り針を探すときや、神武に東に美しき地ありとアドバイスしたのも共にシオツチノオジ
4.ホオリ、ウガヤ父子の妃はトヨタマ、タマヨリの姉妹であり、神武、綏靖父子の妃もイスズヒメ、イスズヨリヒメの姉妹、両姉妹とも神(海神、事大主神)の娘

海幸山幸伝承とウガヤをいれるため、神武が後ろへ回されたのでしょう。ということで、ここでは
イザナキ→アマテラス→オシホミミ→ニニギ→神武の順序で検討します。
これに年代を付けてみたいと思います。

つづく

81 :
S、Rからのつづき

神武天皇は、西暦140年に68.5歳で崩御しましたので、生年は、西暦72年です。

神武は第四子である故、神武生年時、父であるニニギの年齢は23歳としておきましょう。
であれば、ニニギの生年は、西暦50年になります。

次にニニギ生年時、父オシホミミの年齢が20歳とすれば、オシホミミの生年は西暦31年です。
オシホミミ生年時母アマテラスの年齢は20歳とすれば、アマテラス生年は西暦12年。
アマテラス生年時父イザナキの年齢は20歳とすれば、イザナキの生年は西暦紀元前8年ということになります。

整理すれば、

紀元前8年 イザナキ誕生
西暦12年 アマテラス誕生、イザナキ20歳
西暦31年 オシホミミ誕生、アマテラス20歳
西暦50年 ニニギ誕生、オシホミミ20歳
西暦72年 神武誕生、ニニギ23歳
西暦109年 神武東征開始、神武38歳
西暦116年 神武即位 45歳

ということで、大雑把に言って、イザナキ、イザナミの時代は、1世紀初頭、神武天皇即位は2世紀前半の中頃になります。

次に、全体を整理してみましょう。
つづく

82 :
㉑、Sからのつづき

一度全体を整理してみましょう。(1回で書き込めませんので、2回に分けます。)

紀元前 8年 イザナキ誕生
西暦 12年 アマテラス誕生、父イザナキ当時20歳
西暦 31年 オシホミミ誕生、母アマテラス当時20歳
西暦 50年 ニニギ誕生、父オシホミミ当時20歳
西暦 72年 神武誕生、父ニニギ当時23歳
西暦109年 神武東征開始、神武当時38歳
西暦116年 神武即位 当時45歳
神武天皇 [116〜140年]治世25年、69歳崩御 72年生 父ニニギ当時23歳
空位   [141年]1年
綏靖天皇 [142〜145年] 4年、23歳崩御 123年生 父神武当時52歳
安寧天皇 [145〜164年]20年、25歳崩御 140年生 父綏靖当時18歳
懿徳天皇 [164〜165年] 2年、23歳崩御 143年生 父綏靖当時21歳
孝昭天皇 [166〜191年]26年、47歳崩御 145年生 父綏靖当時23歳
孝安天皇 [191〜225年]35年、62歳崩御 164年生 父孝昭当時20歳
孝霊天皇 [225〜235年]11年、53歳崩御 183年生 父孝安当時20歳
孝元天皇 [235〜244年]10年、29歳崩御 216年生 父孝霊当時34歳
開化天皇 [244〜256年]13年、32歳崩御 225年生 父孝霊当時43歳
崇神天皇 [256後半〜290前半年]34年、84歳崩御 207年生 父?(孝霊当時26歳?)
(内御肇国天皇 [284後半〜290前半年]6年(12カウント年)
垂仁天皇 [290前半〜316前半年]27年(53カウント年)、77歳崩御 240年生 父崇神当時34歳
景行天皇 [316前半〜334前半年]19年(37カウント年)、69歳崩御 266年生 父垂仁当時27歳
成務天皇 [334前半〜338後半年] 5年(10カウント年)、20歳崩御 319年生 父景行当時54歳
空位   [339前半年]1年(1カウント年)

つづく

83 :
㉒、㉑からのつづき

仲哀天皇 [339前半〜342前半年] 4年( 7カウント年)、23歳崩御 320年生 父倭建命当時18歳
応神天皇誕生 [342後半年]1年(1カウント年)
神宮摂政 [343前半〜368前半年]26年(51カウント年)、51歳崩御 318年生 父気長宿禰王当時19歳
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位   [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
履中天皇 [434後半〜437前半年] 4年( 6カウント年)、33歳崩御 405年生 父仁徳当時32歳
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳
空位   [439後半]1年(1カウント年)
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳
清寧天皇 [483〜487年] 5年、28歳崩御 460年生 父雄略当時19歳
顕宗天皇 [487〜489年] 3年、31歳崩御 459年生 父市辺押盤皇子当時35歳
仁賢天皇 [489〜499年]11年、42歳崩御 458年生 父市辺押盤皇子当時34歳
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳
継体天皇 [507〜531年]25年、54歳崩御 478年生 父彦主人王当時29歳

古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。
つづく

84 :
㉓、㉒からのつづき

(一段目は前回とかぶります。)
古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。

神武と崇神は同一人物、欠史八代は架空、聖徳太子はいなかったなど諸説ありますね。学会の先生方は、
古事記、日本書紀そのものを否定してますね。でも、ここでは、古事記、日本書紀の記述は尊重したいと
思います。しかし、年齢や、年代はそのまま採用することができませんので、都合のいいように変更しました。


●いろいろ考えました−1
【天孫降臨】
面白い話ですが、福岡市の早良区とその西隣の糸島市の間に高祖山というのがあります。その山は二つの頂に分かれており、
南側の頂を「クジフル岳」と言われているそうです。その南に日向峠という峠があり、早良区と糸島市を結んでいます。
この糸島市には、有名な平原遺跡がありますが、三雲南小路遺跡(ニニギ夫妻埋葬?)、細石神社(祭神:イワナガヒメ&
コノハナサクヤヒメ)、志登神社(祭神:トヨタマヒメ)、塩土神社(祭神:シオツチノオジ)、高祖神社(祭神:ホオリ、タマヨリヒメ)
など多彩で、ニニギが降臨した地であり、東征した神武の故郷のようにも思えます。また、この辺りは、世々王あり、一大卒を置く
1,000余戸の伊都国でもありますね。
ニニギの降臨したクジフル岳の北の方向には、韓国があり、真南には、有明海を経由して薩摩半島の笠沙町にある野間岬へ通じます。
本当に真南です。東からは、朝日が直接差し込み、西は見晴がよく、夕日が照ります。
まさに天孫降臨の地です。

つづく

85 :
㉔、㉓からのつづき

●いろいろ考えました−2
【高天原】
福岡市には、住吉三神を祭る住吉神社があり、近くにイザナキが禊をしたと言われる天竜池があります。また、小戸神社(通称小戸大神宮)
には、アマテラス、タヂカラオ、タクハタチヂヒメが祭られています。この辺りは、ニニギが降臨する前の高天原のように思えますね。
また、この辺りは、20,000余戸の奴国ですね。伊都国から10キロ位の所です。志賀島からは奴の国王の金印が出ましたね。アマテラスに
贈られたのでしょうか。10キロ先には1,000余戸の不弥国があります。ここには那の津と言われる津があります。
里の長さは、時代により、場所により、異なりますが、当時、倭での1里は、100メートル弱です。

1世紀の前半の中頃、アマテラスとスサノオが今の福岡市辺りで行われた、「うけい」の後、スサノオの行動が横暴に
なってきました。それを憂い、アマテラスは岩屋に隠れました。天の岩屋伝説ですね。日食という説もありますね。
もし、日食であるとすれば、都合よく福岡で、西暦31年5月10日に金環食がありました。午前8時9分に欠け始め、
10時14分から10時18分まで金環食、11時55分に日食は終わります。「うけい」はこれより前ということになります。

つづく

86 :
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

87 :
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

88 :
(25)、(24) からのつづき

●いろいろ考えました−3
【神武東征】
神武東征を考えてみました。福岡市辺りで行われた、「うけい」での1つとして、宗像三女神が生まれました。
この宗像三女神は宇佐島に降臨しましたが、それは、現在の宗像市辺りです。その辺りの部族が欽明の頃現在の宇佐神宮のところへ
遷りました。宇佐神宮の祭神の中央には三女神が祭られています。(この考え方が、都合がいいのです。)
神武天皇が東征に出発した日向は、生まれ育った伊都国です。陸路不弥国まで行き、那の津から海路東へ向かいました。
記紀ともに日向(宮崎県)を出発します。日本書紀では最初に狭い海峡を通りますが、古事記ではずっと後で通ります。
次は記紀ともに豊国の宇佐へ立ち寄り、その次に何故か東へ向かわず関門海峡を通り筑紫の岡田宮(岡水門)へ行きます。
その後後戻りして阿岐(安芸)の国へ行きます。どうも順路が不思議ですね。
ところが、伊都国(筑紫の日向)を出発し、陸路奴国を経由不弥国から海路、最初に宇佐を訪れます。宗像辺りですね。次に岡田宮を通り、
関門海峡を経由、阿岐(安芸)の国へ行きます。如何ですか。自然ですね。欽明の時にできた宇佐や、景行の時に名づけられた日向を
何故神武が通れるのでしょうか。また、大和は福岡日向なら東になりますが、宮崎日向からも本当に東でいいのでしょうか。太平洋に
なってしまいますが。
つづく

89 :
(26)、(25)からのつづき
●いろいろ考えました−4

【欠史八代】先代旧事本記からピックアップしました。
(文頭は、尾張・物部の世代と登場する天皇)
先代−神武 長髄彦(ニギハヤヒの嫁兄)は、神武の兵を防いだ。
当代−神武 ウマシマジは、神武の御世の初め足尼(すくね)になり次いで大夫となって大神を祀った。
次代−綏靖 彦湯支命は、綏靖の御世の初め足尼になり次いで大夫となって大神を祀った。
三世孫−安寧 大祢命は、安寧の御世に侍臣となって大神を祀った。
三世孫−懿徳 出雲醜大臣命は、懿徳の御世の初め大夫になり次いで大臣となって大神を祀った。
三世孫−孝昭 出石心大臣命は、孝昭の御世に大臣となって大神を祀った。
四世孫−孝昭 瀛津世襲命は、孝昭の御世に大連となってお仕えした。
四世孫−孝昭 世襲足姫命は、孝昭の皇后となり二人の皇子を生んだ。
四世孫−孝安 三見宿祢命は、孝安の御世の初め足尼になり次いで宿祢となって大神を祀った。
四世孫−孝霊 大矢口宿祢命は、孝霊の御世に並んで宿祢となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色雄命は、孝元の御世に大臣となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色謎命は、孝元の皇后となり三人の皇子を生んだ。
五世孫−孝元・開化 大綜杵命は、孝元の御世に大祢となり、開化の御世に大臣となった。
五世孫−開化 大峯大尼命は、開化の御世に大尼となって奉仕した。
六世孫−開化 武建大尼命は、大峯大尼命と同じく開化の御世に大尼となってお仕えした。
六世孫−開化 伊香色謎命は、孝元の皇妃となり、また開化の皇后となり皇子を生んだ。
六世孫−開化・崇神 伊香色雄命は、開化の御世に大臣となり、崇神の御世は八十万の神々を祀った。
七世孫−崇神 大海姫命は、崇神の皇妃となり一男二女を生んだ。
七世孫−崇神 建胆心大祢命は、崇神の御世に大祢となってお仕えした。

以上のリストは、神武天皇〜崇神天皇の記述のある部分です。
これをプロットしてみたいと思います。

つづく

90 :
(27)、(26)からのつづき
前回のリストを世代別にプロットしてみると次のとおりになりました。

先代−当代−次代−三世−四世−五世−六世−七世
神武−神武−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−綏靖−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−安寧−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−懿徳−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−孝昭−孝昭−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝安−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝霊−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−孝元−孝元−−−
−−−−−−−−−−−−−−−開化−開化−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−崇神−崇神

これを見ると安寧、懿徳、孝昭は兄弟かも知れませんね。孝元と開化も兄弟のようです。
孝安と孝霊も兄弟のように映りますが、Pにも書きましたように父子のような気がします。
神武〜崇神は6〜7代でしょうか。10代にわたる父子継承でなく、兄弟も交えた継承であり、これが本当だと思います。

【その他】
○倭迹迹日百襲媛命(モモソヒメ)=西暦200年生〜247年頃没、48歳(春秋年で96歳)。239年の卑弥呼朝貢時は、
40歳(春秋年で80歳)、父は孝霊天皇で、モモソヒメ誕生時20歳。
○大彦=西暦235年生〜没年不明、崇神の皇位継承時は23歳(春秋年で46歳)。父は孝元天皇で、大彦誕生時20歳。
○御間城姫(崇神天皇の皇后)=西暦254年〜没年不明。父は大彦、御間城姫誕生時、大彦20歳、崇神47歳、歳の差結婚?

つづく

91 :
(28)、(27)からのつづき
●いろいろ考えました−5
【距離単位】
古代において距離を表す単位には「里」が使われていますが、その長さは、場所(国)、時代により異なります。
2〜3世紀の日本、朝鮮半島では1里=100メートル弱で、中国の魏では1里=500メートル弱です。
魏志倭人伝では、帯方郡から南下し、珍島附近から東進し、釜山附近まで、7千余里となってますが、これは、
約700qです。また、末盧国〜伊都国間五百里=約50q、伊都国〜奴国間百里=約10q、奴国〜不弥国間
百里=10qです。狗耶韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国間の海上各千余里は、実距離でなく、魏の役人が採用した
設定距離だと思います。魏では1日当たりの行程は仮に50魏里(約25q)とすれば、韓倭方面の里に換算し、
250里としました。また、風や波など、気象条件により、出航が待たされるため、平均4日かかるものとしました。
よって、250里×4日=千里としました。(めちゃめちゃ都合よく解釈しました。案外こんなものか知れませんが。)
ちなみに、伊都国→奴国→不弥国は、多分陸行1日で可能でしょう。伊都国→不弥国→奴国→投馬国を水行20日、
投馬国→邪馬台国が水行10日です。水行には多少の陸行は含みますがメインが水行です。これを伊都国→邪馬台国を
多少の水行を含め、メインを陸行で日に向かって進めば陸行1月なのでしょう。
また、日本書紀、崇神紀に「任那は筑紫国を去ること二千余里」とありますが、当時の1里=100メートル弱で
あれば約200qとなります。これは、設定距離ではなく実距離でしょうか。
肥前国風土記逸文に、「松浦の県。県の東三十里に揺の岑あり」というのがあるそうです。実際の距離は約3qなので、
当時の1里=100メートル弱だったのですね。岩波書店の風土記では、この部分を六里とし、注記で、三十里とあるが、
概数記載とはし難く、実距離によれば、六里または七里である。暫く六里としておく、としています。1里=500メートル
と思っているのですね。
つづく

92 :
(29)、(28)からのつづき

新撰姓氏録の左京皇別、吉田連の条に、「任那国の東北に三己汶(上己汶・中己汶・下己汶)の地あり、地方三百里」とあります。
地図でみると、30キロメートル四方とみても差支えなさそうです。
6〜7世紀では、1里=約500メートルになり、16〜17世紀には1里=約3,600メートルになります。
現在では約3.9q、で、中国では約500m、韓国では約400mだそうですね。



●いろいろ考えました−6
【広開土王碑】
有名な広開土王碑の碑文によると、西暦391年(392年説あり)に高句麗の好太王が即位した。倭人が海を渡ってきた。
399年、百済は、倭と和通したので、高句麗は、百済を攻めるため、平壌へ出向いた。その頃、新羅が、倭が攻めてきた
のでと高句麗へ救援を求めてきたので、高句麗は、新羅の求めに応じることにした。400年高句麗は、5万の大軍を派遣
して新羅を救援した。新羅王都にいた倭の大軍は退却した。404年帯方地方に侵入してきた倭軍を討って大敗させた。
というようなことが記されているようですが、次のように応神天皇治世の時のようですね。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳

つづく

93 :
(30)、(29)からのつづき

●いろいろ考えました−7
【稲荷山鉄剣】
有名なこの鉄剣には、文字が刻まれており、「辛亥の年、ワカタキロ?大王がシキの宮に在る時、ヲワケの臣は、
この百練の利刀を作らせた。ヲワケの臣は、上祖オホヒコから数えて8代目である。」というような内容が含まれてますね。
辛亥の年は、471年が定説で531年説もあるようです。
ご存じオホヒコは、崇神天皇が全国制覇する前に四道将軍の一人として、北陸方面へ派遣され、東海方面へ派遣された、
息子のタケヌナカワワケと会津で合流しましたね。崇神天皇の全国制覇が西暦284年頃とすれば、280年頃だったでしょうか。
ワカタキロ大王が雄略天皇であれば、次のとおり、辛亥の年は471年ということになります。

雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳

471−280=191、約190年です。8代で190年、1代平均24年となります。

つづく

94 :
(31)、(30) からのつづき

●いろいろ考えました−8
【七支刀(奈良県天理市の石上神宮に伝来)】
この刀には、文字が刻まれており、「太和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練ったこの七支刀を造った。
百済の王と(王の)世子は、倭王にこの刀を造った。」というような内容が含まれてます。
太和がなぜ泰和なのか知りませんが、泰和4年として369年とする説があります。
369年といえば、次の通り、応神の治世に入ったばかりですね。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳

日本書紀によると、「神功摂政52年に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に七枝刀一口その他重宝を献じ友好を願った。」
ということが書かれています。これから考えると、近肖古王(346〜374)とその世子(近仇首王(375〜383))が倭王(女王ではない)
のために造った、ということになります。応神即位の祝いも兼ね、倭との同盟強化を願ったのでしょうか。

つづく

95 :
(32)、(31) からのつづき
●いろいろ考えました−9
【新撰姓氏録、国栖の伝承】
新撰姓氏録、大和国神別の国栖の条に、允恭天皇の御代乙未の年に七節の御贄を奉った、という記事があります。
この乙未年は西暦455年で、通説の允恭崩御453年より後になります。ということで、この乙未年は、
己未年(419年=通説允恭8年)の誤りである。己の文字が乙に似ているので、誤ったものである、という説があります。
しかし、ここでは、乙未年西暦455年は、次のとおり、允恭天皇の治世に含まれています。

允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳


●いろいろ考えました−10
【隅田八幡宮人物画像鏡】
最大の難関は、「日十大王年」の解釈だと思います。年代は、「癸」の文字に問題があるようですが、取敢えずは癸未年
ということです。西暦443年説と503年説があります。「意柴沙加」を取るか「斯麻」を取るかのようです。
斯麻は斯麻王(462〜523)のことでしょうか。その他395〜683年までいろいろありますが、いずれも決め手に欠けます。
何ともいえませんが、443年説を取るならば、次の允恭天皇の時代ということになります。

允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳

「日十」は「十日」の間違いではなく、ならば「早」の間違いかも知れません。鏡職人が原稿の早を日十と見誤ったのでしょう。
早は朝に通じます。であるならば、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭)が浮かんできます。(都合よく考えました。)

つづく

96 :
(33)、(32)からのつづき からのつづき

●いろいろ考えました−7
【倭の五王】
Wikipediaから登場する倭王と西暦をリストしました。これにこれまでの年代を重ねてみます。
○印は王名の記載のあるもの。

413年 讃 
421年○讃
425年○讃
430年 讃?
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳

438年○珍 倭王讃没し、弟珍立つ
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳

443年○済
451年○済
460年 済?
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳

462年○興 済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
477年 興(○武) これより先、興没し、弟の武立つ。
478年○武
479年○武
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳

つづく

97 :
(34)、(33)からのつづき からのつづき

これから察するに、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略でしょう。

438年の「讃没し、弟珍立つ」は、宋は讃に対しての積りで「珍の続き柄」を尋ねたところ、倭の使者は、
反正は履中の弟だから、「弟である」と答えた。それを宋は、珍は讃の弟と記録したのでしょう。

460年の遣使は済か興か紛らわしいところです。
462年の遣使は、本国から使者への天皇交代の知らせが間に合わなかったのでしょう。
477年は武です。

倭王武には、次のように、502年にも出てきます。年代を当てはめると次のように武烈の時代になりますが、
宋では、これまでの武の積りでしょう。

502年○武
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳


502年は、遣使したのではなく、梁の武帝が王朝を樹立した際に次の通り各将軍を一斉に新号したのです。
高句麗王 高雲     車騎将軍 →車騎大将軍
百済王  餘大     鎮東大将軍→征東大将軍
宕昌王  梁弥頭    安西将軍 →鎮西将軍
倭 王  武      鎮東大将軍→征東将軍
河南王  吐谷渾休留代 鎮西将軍 →征西将軍
これをみると、479年以降、遣使しなかったのか、天皇の交代は、知らされていなかったようです。

つづく

98 :
(35)、(34)からのつづき
●いろいろ考えました−12
【日本書紀中の百済王の即位と崩御記事】
次のとおり、日本書紀の神功皇后摂政期後半から応神天皇治世前半にかけて百済王の即位と崩御の記事があります。
それぞれの記事は、西暦では250年〜300年頃ですが、これに干支2運(120年)加えると、
370年〜420年頃になり、三国史記の百済本記にある百済王の即位、崩御とほぼ一致します。
日本書紀では、神功後半〜応神前半ですが、120年加えた年代を、春秋暦で修正した紀年にあてはめても、
ほぼ応神の時代になります。ということは、この時代の他の外交記事も同様に考えてもいいのでしょうか。

神宮55年(255+120=375) 百済の肖古王(近肖古王)薨ず。
神宮56年(256+120=376) 百済の王子貴須(近仇首)、立ちて王と為る(史記では375)。
神宮64年(264+120=384) 百済国の貴須王(近仇首王)薨りぬ。王子枕流王立ちて王と為る。
神宮65年(265+120=385) 百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(阿華)年若し。叔父辰斯、奪いて立ちて王と為る。
応神 3年(272+120=392) 是歳、百済の辰斯王立ちて(385)、貴国の天皇のみために失礼し。…百済の国、辰斯王を殺して謝ひにき。
応神 8年(277+120=397) 百済記に云へらく、阿花王(阿華王)、立ちて(392)、貴国に礼无し。
応神16年(285+120=405) 是歳、百済の阿花王(阿華王)薨りぬ。天皇、直支王(腆支王)を召して、謂りて曰わく、「汝、国に返りて位に嗣げ」とのたまふ。
応神25年(294+120=414) 百済の直支王(腆支王)薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る(史記では420)。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位   [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳

つづく

99 :
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

100 :
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった


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