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神武天皇即位年について その3


1 :2015/09/06 〜 最終レス :2020/05/27
日本書紀編纂時の原理は紀元前660年です
これが当時の編纂者の認識です

前スレ
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1416634759/

2 :
立て乙

3 :
スレたてたとたんに書き込みが途絶えたけど、生きてる?

新スレ自体も即死チェックみたいなのがあったよね?

4 :
スレ立てお疲れ様です

神武天皇〜欠史八代の天皇の実在性が認め難いのは陵墓の存在の不確実性と系譜の不確かさだと思いますが、
開化天皇より前は古墳時代では無く、可視的な陵を見いだせない為だと思います。
神武天皇の岳父である事代主と関係性の深い鴨都波1号墳は弥生時代の方形周溝墓から古墳時代前期の方墳に至る墓域でした。
その墓域は地中深く埋没いていた事などから、可視的に見いだせない、或いは現天皇陵とされた中に存在するのかも知れません。
神武天皇・綏靖天皇・安寧天皇に后妃を入れたのが葛城の事代主でありながら、4代懿徳天皇までの陵墓が畝傍山周辺にある事など、日本書紀に現れない要因があるのかも(欠史八代ですが)。

また、系譜においても初代神武天皇〜13代成務天皇までの父子継承となっている点ですが、
16代仁徳天皇から系譜が正確性をを帯びてくる点などから、天皇の名はわかっていたが系譜に関する伝承が失われていた為、父子継承としたのではと考えていますが。

特に仁徳天皇以降においては、天皇空位の期間が頻発しますが、古代に行く程、天皇崩御すぐに即位の傾向となります。
例外は神武天皇崩御後に綏靖天皇が異母兄のタギシミミを討った説話くらいでしょうか。

また推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇、元明天皇。元正天皇など女帝による中継ぎとしての即位は飯豊皇女、神功皇后にもあてはまりそうで、
卑弥呼、トヨも倭国の乱に伴う中継ぎの即位だった可能性もあると思います。

5 :
欠史八代説に囚われすぎなんだと思いますね。
戦中に一学者が唱えた説というだけなのに、弾圧されたことにより戦後に
ヒーローにされてしまい、あたかも真実のように扱われ、国家神道と逆の意味で
バイブルになってしまった。誰も異を唱えることが出来ず、触れることも出来ず、
まともな学者は避けて通り、信奉者は欠史八代を呪文のように唱える。
国家神道も罪なことをしてくれたもんだと思いますけどね。

神武と崇神が同一人物では無理があると思います。
ある日突然小数でやって来た人物が巨大な墓を作るほどの力を持っていることになる。
大彦も彦坐王も狭穂彦も架空の人物ということになる。武内宿禰も。

100%信じるというのではないが、婚姻関係や出てくる氏族は伝承を書いている
と思えますね。
欠史八代ではないほうが、発掘調査と整合が取れる。
尾張の祖の伝承、尾張の土器、丹後の遺跡。
黒田を発掘すれば、三世紀初期の豪族館が見つかるかもしれない。

6 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

7 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

8 :
何度か述べましたが中国史書に現れる日本列島の状況が後漢〜隋・唐に至るまで、倭国と言うただ一つの国が有り、ヤマトに都を置いていると述べている。
これは日本書紀の内容と同一としか読めないのでは?

後漢書・三国志に現れる百余国と東テイ人の二十余国を合わせた120余国は倭王武の上表文に現れる征した121国や隋書の軍尼120国と対応していると思います。
倭人伝の30国は何度か述べたように倭国の乱の後に邪馬台国によって統合された領域で、時期として四道将軍派遣前の状況だと思います。
倭国の乱の前には百余国の統合があったのではと(統合自体は後世より緩やかな状態だと思いますが)。

東テイ人は会稽海外の存在から、九州熊襲即ち狗奴国に該当すると思います。

9 :
継体以前の天皇を半年暦説にすると紀元前51年頃
面白い事に新羅は高墟村の徐那伐が紀元前57年頃に建国
神日本磐余彦尊(神武天皇)の兄稲氷命は母の国である海原へ入坐としたとのみ記されている。
母の国(ワタツミ)は福岡志賀島一帯を本拠地とする海洋民族。新羅辺りも抑えていたのではないかなぁ。
半年暦説だといろいろ繋がるかもなぁ・・・ト学ですまん。

10 :
>>9
半年暦(って、「二倍歴」とか言ってなかったか?)はデタラメで荒唐無稽。無意味な推計だ。

11 :
神武天皇は新羅系と海洋民(南方系?)の混血なのでは?
天孫降臨とはやっぱりご先祖が大陸からこの国に来ました
ってことだと思うけど。神話の舞台は南九州の日向。
ニニギの子孫は九州一帯を支配した大豪族だったのだろうか?
むしろ朝鮮から日向まで定住地を求めてさまよったのでは?
先祖は海幸彦でなく山幸彦。狩りをして肉を食べていた人たち。
日本書紀の異伝では出雲のスサノオは新羅から来たとある。
日本から朝鮮に進出したのは神功皇后の時代からとされる。
その前に崇神天皇のとき出雲国が大和朝廷に降った後、
任那が朝貢してきたという。だからそれまで朝鮮南部を
抑えていたのは日向の豪族でなく出雲の豪族と考えるのが自然でしょう。

12 :
神武天皇はアマテラスとタカミムスビという異なる
二系統の神を先祖に持っていてどちらが皇祖なのか
が長いこと議論されてきたね。

13 :
記録に現れる事を中心に述べていますが、後漢書においては倭人(倭国)と中国との接触は前漢の武帝が朝鮮を征した時に始まるとなっています。
対して百済・新羅が史上に現れるのは4世紀中頃、500年近い開きが有り、日本の始祖に百済・新羅を考えるのは無理があると思います。

むしろ新羅の古い王が広域丹波に該当しそうなタバナ国から渡来したとする三国史記の記述や但馬に渡来した新羅王子アマノヒボコが純倭風の名を持つ事から辰韓に植民した倭人集団が新羅の始祖ではと考えています。
日本書紀においても朝鮮半島も城に韓人のモノにはサシを、倭人のモノにはキの音を当て区別している事から新羅はシラ城であり、倭人によって作られた事を物語っているのでは。

三国志で辰韓の地は亡命中国人が多く居る地とされている点も踏まえ、中国人・倭人・韓人の混交」の地だったのでは?
新羅は5世紀の宋書においても独立の伝は立てられず、倭国伝の中で配下として登場するのみで、辰韓も登場する事から辰韓地域の征服も終わってない状況と考えられます。
新羅が独立した国と考えられるのは6世紀になってからでしょう。

三国史記にあるように新羅の王統は途中から倭人から韓人に代わったのでしょう。
6世紀中頃に新羅が任那を征したのでしょうが、日本書紀による限り7世紀に至るも任那の貢がなされているように完全な新羅の征服は半島統一の直前にまで掛かったのではと考えられます。

14 :
百済においては、その姓扶余、高句麗の分かれとなっています。
思うに西晋滅亡時、連絡の途絶えた帯方郡地域に派遣された高句麗王族が独立したのでは?

その頃に馬韓地域の倭人集団の後援を受け、高句麗から独立したのでは?
時期的にも神功皇后の三韓征伐の時期にも当たっており、七支刀の年代にも合致しそうです。
その直接、372年に百済が高句麗を破った事にも対応しそうです。

日本書紀において、朝鮮半島の韓人の村にはスキ、倭人の村には牟羅の音を当て区別している事などから雑居状態が伺えます。
百済の官人には韓人・倭人さらに中国人が居る記述もあります。
朝鮮半島の前方後円墳が5〜6世紀に馬韓に築かれている事から倭人地域が推定出来るかと思います。

15 :
日本書紀が「新羅」と呼んでるのは後世新羅と呼ばれる
地理上の場所、地名ですよ。スサノオが出雲にやってきたとき
アマノヒボコが但馬にやってきたときの「新羅」は当時は
後に新羅と呼ばれる国に包含される集落(ムラかクニという言葉が
妥当かな?)の一つに過ぎなかったと思います。
垂仁天皇が西暦3世紀後期か4世紀前半の人物なのは確かでしょう。
しかし垂仁がアマノヒボコの渡来からその曽孫か玄孫のタジマモリの時代まで
生きるということはまず無理ですから、アマノヒボコは垂仁の何世代か
前の天皇の時代に既に渡来していたはずです。
当然この時代に新羅国は史上に現れていませんが、
新羅へと発展する国は既に存在したのでしょう。倭人の国かもしれませんが。
新羅の伝承上の建国は紀元前57年。日本書紀はおそらく垂仁天皇の治世を
この直後に合わせたのではないですか?

16 :
神武って分からんねえ。
天孫降臨ならニニギーアメノホアカリで充分なんだよな。
九州に降臨して海神と婚姻し、母も祖母もワニとくる。
アメノホアカリの子孫も海部で海神なんだよな。

元々あった伝承があるが、それでは中国風の支配者の体をなさないから
くっつけたのか、何時だかわからないほど古い時代から統治していますだと
野蛮人扱いだったのか。

17 :
>>13
>三国史記にあるように新羅の王統は途中から倭人から韓人に代わったのでしょう。
新羅の王、丹波出身の脱解尼師今の昔氏の血統は日本
韓国で朴と勝手につけられた赫居世居西干の血統も繋がりを考えると日本
味鄒尼師今からの金氏は古韓国系では。

18 :
神武天皇(この時代、天皇号はなくて精々、大王。同じ意味では大国主尊。また、天照皇大神)は後世のイメージ。
神倭磐余彦天皇。
複数の一書に曰く。として、、、
神倭磐余彦ホホデミの命。
要するに、ホホデミの命と言われた。

彦火明命/天火明命の亦名が天火火出見命。
家名として当主がホホデミを継承しても不思議ではありませんから、
お伽噺の神武天皇と同時代の登場人物を検証すると実体が朧気ながら見えてくる?

九州からヤマトへ御来臨の伝承が複数。

神武天皇は亦、狭野命(サノの命)と言った。

素(もと。始祖)のサノの命(王、男(オノコ))。、、、スサノオ

19 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

20 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

21 :
天之忍穂耳の父親はスサノオ

22 :
諱も幼名も即位名も全部一緒くたにするとか、流石2ch

23 :
>>17
新羅の金氏の出自が記録とは無関係で実は金官国の王族、併合時に占領支配したんじゃなく政略結婚で統合した

みたいな経緯でもあったら面白いのにな。

24 :
大和と出雲に弥生時代前期に至る交流がある事は大和の最も古い神社に祀られる神が出雲の神と何度か述べました。
葛城で弥生時代前期からの鴨都波遺跡に存在する鴨都波神社、銅鐸を出土した名柄神社、高鴨神社。
三輪の大神神社等。事代主や大物主神を祭神とする大和南部は出雲の文化圏だったのでは?

倭人伝の魏使の経路でも述べましたが出雲〜丹波〜播磨〜大和が弥生以来のルートではなかったかと。
出雲〜筑紫さらに新羅に至るコースが相当古くから存在したのではないかと。

25 :
古代の日本海ルートがひょっとして呉越の民の渡来に至る鳥越憲三郎の説に繋がる可能性もあるかもしれません。
神武天皇以来、天皇家と出雲系とは事代主の例の如く婚姻を通じて友好的で、おそらく播磨〜大和への移動は大和川を移動手段としているのでは?

対して、奈良市域は神武東征時の長髄彦や皇族でもタケハニヤスヒコ等天皇家と対立関係になる事が多かったのでは?
四道将軍の大彦命が北陸へ向かう時、ワニ坂を経由している事など上ツ道を経て、淀川・宇治川水系は東国・北陸との親和性が高かったのでは?
それが後に佐紀古墳群の王家に繋がっていくのでは?
あるいは広域丹波の中でも但馬は大和川水系の天皇家、丹後は佐紀の王家との繋がりが多くなるのかもしれません。
垂仁天皇の2人目の皇后ヒバスヒメからも。

26 :
何度か述べているように中国史書に日本列島が登場して以来、倭人・倭国以外登場しない。
弥生時代前期より、緩やかな統合があったのではと考えています。
やはり、最初は出雲であったと。日本人の均質性が象徴していると思いますが。

そして神武天皇の統一も緩やかなな統合だったのではと。
強力な統合が行われたのは倭国の乱を経た邪馬台国からではないかと。
倭人伝に現れる官・副は邪馬台国から派遣された官僚で、邪馬台国時代は簡単な官僚機構が整備された国家だったのではと考えています。

27 :
>>17
金氏も倭人系だよ

>>23
金官国との関係は6世紀になって婚姻関係を結んだのが最初
金氏という姓を名乗ったのもその頃
そもそも5世紀以前の新羅王家は金氏と名乗ってないし金官国とも関係ない

28 :
天皇家の起源は何ですか→10億年前にはクラゲと呼ばれる崇高なる職業をなされていました
我が家の起源は何ですか→10億年前にはクラゲと呼ばれる崇高なる職業をしていました
世の中なんてそんなモン

29 :
20万年(25万年?)前に西アフリカで分化発生したのが我々のホモサピエンス類

食糧事情からその総人口は約2万人程度で推移。

五万年前、急激な環境変化による寒冷化(東南アジア(インドネシア)で超メガ火山噴火による噴煙物質が太陽光を遮る『噴火の冬』だとされる)に遭遇。
急激に食糧事情が悪化して飢饉〜絶滅へのカウトダウンが始まる中、
生き残る為、発生分化以来の故郷を捨て
新天地を探すグレートジャーニーへと旅立つ一団があったそうです。
(出アフリカ)
この時の一団の人数は僅か数十人だった?

現在の70億人の人類は種としては『ホモサピエンス種のみの単種 』
過去に地球上に様々存在した別種類の人類は自然淘汰やご先祖様に駆逐される等して
全て絶滅。

70億人になんなんとするホモサピエンス種ですが、近年、世界的な遺伝子の科学的な解析から
5万年前のたった『9人の母親』に集約される。と言う結果が出ています。
正に、出アフリカの一団に至ると考えられる結果?

30 :
出アフリカは複数回の説が主流だろ、2回説>3回>1回って感じじゃなかった?

31 :
>>29
黒人の扱いどうするの?

32 :
ヤマト朝廷というか、ヤマト王権でもいいが、
出雲と結びつける考え方が、出雲神話に引っ張られすぎではないか。
近年の荒神山遺跡の発掘とか新たな知見はあっても、
出雲神話は「極論」すれば机上の理念的産物というのは変わらない。
三輪の神と大物主との結びつきの話とかは、神話的なものを取っ払ってしまえば、
ほとんどまったく関係がない。
近辺に出雲に関連した地名が残っているとかというのも、
強引に関連づけようとしたいわば牽強付会説。
邪馬台国に関係に限らず、一応まともな研究者と見なされている人々でさえ、
そうものが横行しぎているのが、今の古代史といえばいえるが。

33 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

34 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

35 :
>>31
確かに黒人無視してる書き方だよね
むしろその9人の母はみな黒人のはずなのにね

36 :
何度か述べていますが、日本書紀が軽視されすぎだと思います。
日本書紀は天武天皇の時代から30余年の歳月をかけて考証された結果のモノです。
崇神天皇の時代は倭人伝の記事の直後と考えていますが、大規模な初期古墳はヤマト王権の中心に集中している。
古墳の大きさによると考えられる中央集権体制が整ったのでは?

古墳時代の多くの古墳造営は整備された権力機構の存在無しにはありえないと考えられます。
日本各地の大規模な古墳は地方の在地勢力の成長などでは無く大和政権のコントロールの元に行われたとしか考えられない。
古墳の規模は天皇>皇后>皇族>大豪族の序列で作られたとしか思えないのでは?

日向・吉備・広域丹波・毛野の大古墳すべて地方に下った皇族に淵源すると考えられます。
これは専制でない中央集権だったのでは?
各地の大古墳の終焉は専制者たる雄略天皇の登場と符号するのではと。

畿内から地方に至る神社や伝承の多くは日本書紀との符号している事を日本書紀以降に合わせたとはとても考えられない。
日本書紀が元の伝承を記述したと考えるほうが自然なのでは。

日本書紀で崇神天皇からの伝承が詳しくなるのは中央集権体制が整ったと考えた方が合理的では?
倭人伝にも倭国の乱以前の王統について記述してますし、年期はともかく加上がわずか9代で伝承もないのは、造作などでは無く伝承の喪失とした方が合理的だと思います。

戦後史学は皇国史観の反動から余りに日本書紀を蔑ろにしているのでは?
近年の考古学の発掘結果によって漸く日本書紀の再認識が進んだのではと思います。

37 :
うんうん、それで?

38 :
誰も全部嘘だなんて言ってないから

39 :
>>17
金氏も倭人系だよ。新羅の王は最後まで倭人系。

40 :
倭人伝で魏使が経由した奴国と傍国21国の最後に現れる奴国を同一のモノと考え、大和から最遠の地が筑前に当たる奴国ではとしました。
その南の狗奴国が筑後川以南の熊襲ではと述べました。
対馬から不弥国に至る国々の副にヒナモリの設置は狗奴国との臨戦体制の結果なのでは?
また、ヒナモリは後世の防人と同一のものと考えられますし、北九州に王都が有った場合、地元の軍に鄙を守る鄙守とは名付けないでしょう。大和から遠方の守備兵こそ相応しいのでは?
以前にも述べましたが、魏使は伊都国に治する一大卒を刺史の如きと記しているように、官・副を郡太守・都尉の様に理解しているのでは。

邪馬台国と狗奴国との争いは、魏や三韓の地との交易の拠点である筑前の争奪戦で、戦争の舞台は筑後川を挟んだ地域なのでは?
後の仲哀天皇・神功皇后の熊襲遠征と同じ地で有り、伊都県主の祖が加わるのも同様だと思います。

また邪馬台国に置かれた四等官の首席伊支馬は活目の可能性が有り、次席の弥馬升と三席の弥馬獲支は弥馬の本家と分家と捉えられます。
これは、垂仁天皇の名、イクメイリヒコと崇神天皇の名ミマキイリヒコに通じるのではないでしょうか?

以前にミマキイリヒコ、イクメイリヒコとも入婿で入ったので、その名となったのではと述べましたが、卑弥呼を支える王族もしくは豪族だったのでは?
彼等の墓はオオヤマト古墳群の100M超の古墳に有るのでは?

雄略天皇紀に現れ、雄略天皇に殺された御馬皇子は三輪の地で戦い殺されました。
おそらく御馬の地は三輪の近く、もしくは三輪そのものだった可能性が有ります。
御馬の地に築かれた城の名を持つミマキヒメに入婿で入ったミマキイリヒコが倭人伝の時代に続くのではと。

41 :
北九州が要所だったから北九州の記述が多く
それが九州説という誤解を生む結果となったという事かな

42 :
邪馬台国九州説が現れた背景として、通常の郡・三韓との交流、交易は伊都国で行われた為ではないでしょうか。
倭人伝に現れるように皇帝の勅使は大和にまで向かったようですが、それ以外は北九州で決済していたようです。
詔書を伴う場合は金印が必要になってきますが、邪馬台国より派遣された使者にも魏の官職と銀印が下賜されており、通常決済と封泥は銀印が使用されたのでは。
また、難升米・牛利等の使者は北九州の人間だったのでは。指摘もされていますが、難升米は奴国との関係があるのかもしれません。
帯方郡より北九州までは里程表記で、北九州から邪馬台国までが日程表記なのは郡が北九州までは何度も往来し里程を認識していたのに対して、邪馬台国までは勅使の往来の時だけであり、その時の報告が基になったためではないでしょうか。

43 :
邪馬台国の四等官奴佳テ(ヌカテか)は日本書紀に対応する人物はみいだせませんが、飛鳥時代の大伴糠手に通じるように倭人の名前としておかしくないと思います。
垂仁天皇の名イクメイリヒコはイクメへの入婿ではと考えましたが、イクメの地は不明ですが佐紀古墳群の王家への入婿では述べたように、奈良市域ではないでしょうか?
何度か述べたように、その地は開化天皇に始まる佐紀古墳群の大勢力へ発展する所であります。
邪馬台国の四等官は卑弥呼の時代と思われますが、その首席伊支馬は卑弥呼没後に即位した男王で、開化天皇の可能性があるのでは?

次席の弥馬升と三席の弥馬獲支はミマの地の名を持つミマキヒメの父大彦命とワケを名に持つタケヌナカワワケの可能性があるのでは?
大彦命の子ミマキヒメがトヨに当たるのでは?

倭国の乱は全国的な争乱だと思いますが、狗奴国との争いは北九州に限られた争乱で、遠方である大和より近くの帯方郡へ連絡が達したのでは。
対して卑弥呼没後の争乱は大和付近に限られたのでは?
日本書紀に言うタケハニヤスヒコがこれにあたるのでは?
タケハニヤスヒコは開化天皇の一族(兄弟か?)で、この争乱の為に王位を去ったのでは?
その後にミマの地を地盤とする弥馬升(大彦命)の子トヨ(ミマキヒメ)を共立し、後に王族からミマキイリヒコを入婿として迎え崇神天皇となったのでは。

その後に開化天皇の子孫にイクメイリヒコを婿入りさせ垂仁天皇となったのでは?
その相手がサホヒメで有り、後にはサホヒコの乱にも繋がるのでは。
タケハニヤスヒコの乱もサホヒコの乱伴、奈良市から南山城が争乱の舞台で佐紀の王家がかかわっているのは間違いないと考えます。

佐紀の王家は複数に分かれており、生き残った王家が後に神功皇后をはじめ、后妃を天皇家に送り、古墳群の造営も続いたと考えます。

44 :
初期天皇の内、国風諡号と思われる4・6〜9代の天皇の名を見ると
神武天皇のイワレヒコは磐余の地、綏靖天皇のヌナカワミミは不明(タケヌナカワワケと関連あるか?)
安寧天皇のシキツヒコタマテミは崇神天皇や稲荷山鉄剣に見えるシキと秋津洲宮近くのタマテを合わせた地
孝昭天皇のミマツヒコエシネは三輪付近と不明を合わせた名です。

葛城に都した天皇の多くに纒向遺跡近くの名前が現れます。
特に地名+ツの名前は大和川水系から長谷街道の結節点の地でなかったかと、初期の天皇は葛城とこの地を抑える事が基盤だったのではと思います。

もう一つの東国へのルートは淀川〜宇治川〜瀬田川で後の佐紀の王家さらに息長氏が抑えており、大和南部の天皇家と対立したのでは。
さらに遡るとトミの長髄彦も奈良市付近に盤踞していたのでは?
開化天皇もしくはその先代が長髄彦の一族の地に入婿で入ったのではと思います。

45 :
上文、4・6〜9代以外の天皇についてでした。
申し訳ないです。

46 :
日本書紀に現れる名を天皇中心に考えてみますと、
国風諡号・諱・土地の名・土地の名+諱、それと神武天皇・綏靖天皇に見える頭に神がつくパターンがあるようです。

安寧天皇のシキツヒコタマテミは地名が2つ
孝昭天皇のミマツヒコエシネは地名+諱か?
神武天皇の神日本磐余彦は尊号+地名
成務天皇のワカタラシヒコは諱等です。
倭人伝との繋がりで述べた崇神天皇はミマキイリヒコイニエと垂仁天皇のイクメイリヒコイサチは地名+諱だと思います。

倭人伝の時代を含む時代に氏はまだ無かった筈ですが、自己の領地や在所等と諱が有ったのではと思います。
そこから倭人伝をみますと、地名の名と職務による名と考えてよいのではと考えます。

邪馬台国の四等官、首席伊支馬次席の弥馬升三席の弥馬獲支は土地の名によりそうですし。狗奴国のククチヒコも土地の名でしょう。
対馬の官・副のヒコ・ヒナモリは職による名でしょう。
そして卑弥呼の名は日巫女による職名の可能性が有り、諱は別にあるかもしれません。

大彦命についても述べましたがオオヒコは諱で土地の名として弥馬升があった可能性を提起します。
邪馬台国に現れる人名は土地名によるモノで、諱ではないのでは?

ただ、魏への使者難升米・牛利等は皇帝に謁見しているので本名としての諱だったのではと思います。

47 :
伊支馬:生駒 …北西
 活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)=イクメ、イコマ
 皇居は纒向珠城宮(桜井市穴師)だが、陵墓は菅原伏見東陵(奈良市)でかなり北方

彌馬升:加茂・葛城鴨…南西
 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)=ミマツ
 皇居と陵墓が葛城掖上(御所市)に 阿波国長国造の祖に「事代主神の子孫の観松彦」がいる

彌馬獲支:三輪・纏向…東
 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)=ミマキ
 皇居は磯城瑞籬宮(桜井市金屋)、陵墓は山邊道勾岡上陵

奴佳提 …三者に囲まれた中央(ナカト)
 孝霊天皇の皇居が黒田廬戸宮(田原本町黒田)

48 :
よく石上神宮が物部だって出てくるけど、あおれって後になってからだと思うね。
記紀には、武器庫の管理をしたとは書いてあるけど、そこが物部の拠点というのは
おかしいとおもうな。
都がその周辺にあったから武器庫がそこにあったわけだし、天理が物部氏の拠点とは
違う。天理は、天火明命系の拠点であって孝昭は火明命家に婿入りしている。
三条遺跡、岩室遺跡からは北近畿系の土器が出ている。

記紀の伝承、土器、古墳の金象嵌鉄剣、初期ヤマト王は火明命一族だ。
ただし、争いが起きるほどだったから絶対権力は持っていなかった。
もしくは、内部の有力者の主導権争いが耐えなかった。
後に、神武系統が主導権を握るが、それは崇神以降であって、神武は大王ではない。

49 :
まだあった。
三種の神器のうちの草薙剣が熱田神宮にある。
また、伊勢神宮の外宮の神、豊受大御神の存在。

50 :
上文でトヨの可能性として、ミマキヒメをあげましたが、トヨの名から崇神天皇の庶長子トヨキイリヒコについても考えてみます。
ただ、崇神天皇の子供世代なので、トヨの地の継承者の王族に入婿の形で入った可能性もあるかと思います。

トヨから崇神天皇の継承時期を考えてみますと魏・西晋への遣使の時期から
239年・266年は公孫氏平定と西晋朝成立の慶賀に伴う形で行われたのに対して、280年の西晋の天下統一への慶賀使は派遣されていない。
当時の西晋は武帝の治世下で、唯一の全盛期、この時に慶賀使を派遣しないのは倭国独自の天下観念が発生した事、崇神天皇の即位があったのでは?
時期としては270〜280年頃ではないかと考えます。

51 :
倭人伝から読み取れる時系列を考えてみますと、
100〜180年が本亦男子を以て王と為し住まること70〜80年の時期。
日本書紀での神武天皇から数代の天皇の時期、後漢書に現れる倭国王帥升が神武天皇に該当すると思います。

180〜270年が倭国の乱、さらに卑弥呼共立からの邪馬台国時代。
纒向遺跡の成立時期にも合致しそうです。
倭人伝に現れる時代が、この頃だと思います。
倭国の乱から暫くの間に相当の空位があったのではと考えています。
また卑弥呼、日本書紀のモモソヒメの墓とも寿陵では無く、死後の造立らしき記事風で、魏使が墓の全貌を見ていない可能性があるのでは?
邪馬台国時代らしき日本書紀の記事は崇神天皇紀に収斂されたのではと考えています。

270年〜が崇神天皇によって、日本の大部分が統一された時代となるのではないかと。
オオヤマト古墳群に権力者の古墳が集中する中央集権国家となったのでは?
むしろ、崇神天皇より後代が各地に古墳群が成立し、中央集権が弛緩したようです。

52 :
一考として神武東征の時期を90〜100年頃と考えると弥生時代後期に途絶する大和最大の環濠集落、唐古鍵遺跡を考えないといけないかもしれません。
長髄彦との戦いの前に戦った、磯城彦が該当する可能性がありそうです。

磯城郡にあたる式上・式下郡は桜井市・天理市・三宅町・田原本町にまたがり、唐古鍵遺跡の地も該当しそうです。

53 :
唐古鍵遺跡が途絶したのは弥生時代中期末で、洪水によるもの(登呂遺跡もこの頃に洪水で滅んだ)
すぐに復興して弥生後期にはむしろ最盛期を迎えている
縮小したのは古墳時代前期以後

54 :
晋書本紀等によれば、倭とは特筆されないものの、東夷諸国はしばしば晋に朝貢している。
漢魏以来の友好国で、司馬懿の功績の証でもある倭国の使者も、この中に含まれると見てよかろう。
京都府木津川市の上狛古墳からは、晋の元康年間(291-299)の紀年銘鏡も出土している。
倭国独自の「天下」概念が登場するのは、せいぜい5世紀以後の話。

泰始二年(266)十一月已卯、倭人來獻方物。
咸寧二年(276)二月、東夷八國歸化。秋七月癸丑、東夷十七國内附。
   三年(277)是歳、西北雜虜及鮮卑、匈奴、五渓蠻夷、東夷三國前後十(千)餘輩、各帥種人部落内附。
   四年(278)東夷六國來獻。是歳、東夷九國内附。
太康元年(280)六月甲申、東夷十國歸化。秋七月、東夷二十國朝獻。(3月に呉を滅ぼし天下統一)
   二年(281)東夷五國朝獻。夏六月、東夷五國内附。
   三年(282)九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。(282-287、張華が都督幽州諸軍事をつとめる)
   (張華伝)東夷馬韓新彌諸國、依山帯海、去[幽]州四千余里、歴世未附者二十余國、并遣使朝献。
   七年(286)八月、東夷十一國内附。是歳、扶南等二十一國、馬韓等十一國、遣使來獻。
   八年(287)八月、東夷二國内附。
   九年(288)九月、東夷七國詣校尉内附。
   十年(289)五月、鮮卑慕容隗來降、東夷十一國内附。是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻。虜奚軻男女十萬口來降。
太熈元年(290)二月辛丑、東夷七國朝貢。
永平元年(291)是歳、東夷十七國、南夷二十四部、竝詣校尉内附。

55 :
唐古鍵遺跡については神武東征説話からも訂正しておきます。
磯城彦のうち、兄磯城は討伐されましたが、弟磯城は赦され、磯城県主となり記紀で異なりますが、天皇家に后妃を入れています。
唐古鍵遺跡と纒向遺跡は直線距離で1K程、纒向遺跡は唐古鍵遺跡の住民によって、建設された可能性がありそうです。

日本書紀からも神武天皇以来、天皇家と敵対する勢力は奈良市から山城南部さらに北河内に至る淀川水系に割拠しています。
やはりニギハヤヒをはじめとする物部氏の祖となりそうです。
長髄彦討伐後にニギハヤヒの帰順、その後に勢力圏を維持し開化天皇の皇后伊香色謎命を出しています。
入婿の点から考えますと王族を迎え、王を出すまでになったようです。

先に述べたように邪馬台国の四等官首席伊支馬で、卑弥呼没後の男王であり、開化天皇に該当するのではと。
開化天皇に始まる王家は、度々の反乱の舞台となりながら佐紀古墳群の主体となったのではと。

中途で王位を去った開化天皇の陵の候補として、淀川水系に現れた出現期の大古墳、椿井大塚山古墳をあげます。

56 :
先に述べたように、陵墓の位置から崇神天皇から暫くは崇神天皇〜景行天皇の王統と、
佐紀の王家に入婿で入った垂仁天皇〜成務天皇の王統の2系に分かれたのではと述べました。
倭人伝に現れる邪馬台国の四等官はすべて王族ではないかと考えています。
倭人伝の時点でも、他の東夷伝に現れる諸国と異なり、倭国には中央集権と官僚機構の要素が見て取れます。
ただ、専制ではなく天皇・皇后・王族の合議ではないかと。
オオヤマト古墳群への大古墳の集中がこれを裏付けると考えます。

また、これだけ膨大な倭人の記録を残しながら、魏朝による冊封は卑弥呼一代で終了しており、冊封体制から離脱しています。
ここに倭国独自の天下観の誕生が見てとれるのでは?
2度にわたる勅使の派遣は卑弥呼の時代に限られており、(2度目は卑弥呼死亡後の到着でしたが)
送使は西晋建国の慶賀使を兼ねたようですが、以後、勅・表を伴う正使の往来は絶えています。

倭人伝にも記されているように、帯方郡との伊都国との郡使の往来は続いたようですが(鉄資源の入手が必要ですし)、冊封体制からは離脱したと考えていいのでは?
また、東夷諸国は邑長程度の印綬をもらった小国ではないかと。
郡と北九州との交流は銀印と魏の官位を持つ北九州の豪族に任されていたのでは?

漢書にも記されているように歳時つまり毎年、通交があったのでは?

57 :
>>56
歳星の周期に合わせて11か12年に一回だったとも解釈可能だろ

58 :
「歳時」をそんな意味で用いている事例がない

59 :
欠史八代の天皇を概観しますと、葛城付近を拠点にした6代孝安天皇までと、子女に著名の皇子女の多い7代孝霊天皇・8代孝元天皇
大和北部に拠点を置く開化天皇の3グループに分かれるようです。

倭人伝に現れる本亦男子を以て王と為し住まること70〜80年の時期が葛城を中心とした6代孝安天皇までの時期なのでは。
年代としては100〜180年頃なのでは。

孝霊・孝元天皇の皇子女は多数、日本書紀に登場しますが、系譜から考えますと崇神朝の四道将軍は孝霊天皇から見て子の吉備津彦と、玄孫の丹波道主が同時に派遣されるなど系譜の混乱がありそうです。
思うに孝霊・孝元天皇は同世代(兄弟か?)で、それぞれの皇子女系譜があったのを縦に繋いだのでは?

60 :
日本書紀に見える孝霊天皇の子女としては倭迹迹日百襲姫命・吉備津彦命・稚武彦命。
孝元天皇の子女としては大彦命・武埴安彦命・彦太忍信命(武内宿禰の祖父)が著名なところです。

孝霊天皇の皇后細媛命は磯城県主の娘、宮は黒田の地。
磯城県主は唐古鍵遺跡に繋がり、黒田宮は唐古鍵遺跡の西1K程、纒向遺跡に繋がる地です。
倭迹迹日百襲姫命の父、孝霊天皇に繋がりそうです。

孝元天皇は宮の地は葛城に近い軽の地ですが、皇后は物部氏本宗家と言われる穂積氏に繋がる欝色謎命。
淀川水系の大豪族に繋がり、孝元天皇と開化天皇は父子だったのでは?

孝霊天皇〜卑弥呼の系譜と孝元天皇〜開化天皇の系譜の2系があったのかもしれません。

61 :
年代は難しいのですが、倭国の乱に伴う混乱は180〜200年頃か?
180〜200年の混乱期に孝霊・孝元天皇の在位があったのでは?
卑弥呼共立は暫くの空位の後、3世紀初頭頃では?
また、宮が大和中央に築かれたのは、それを支える豪族と伴に、乱に伴って大和川近くに本営を構えた可能性もあるのでは。

魏使が訪れた時代は乱の混乱も収まり、邪馬台国を中心とした中央集権が整いつつある時代だったのでは。

卑弥呼はその後幾度も現れる、中継ぎの女帝として即位した可能性がありますが、在位が長期に及び、統治も上手く行われた為、次世代の男王に服せず、再びトヨを立てたのでは?
後世の推古天皇が中継ぎながら長期の在位となったように。

62 :
欠史八代の天皇の伝承は間違いないと考えていますが、系譜については相当の錯誤があると思います。
崇神紀で活躍する、倭迹迹日百襲姫命や吉備津彦は年齢が200歳前後になってしまいます。
故に7代孝霊天皇〜9代開化天皇の伝承が崇神紀に入り込んでしまったのではないでしょうか?
その中で、中継ぎの女帝であった卑弥呼とトヨの伝承も失われたのではないかと。
最初の巨大陵墓、箸墓の伝承もその一端だったのでは?

卑弥呼没後の男王即位に伴う争乱は武埴安彦命の乱に上手く対応するのでは?
系譜上からも武埴安彦命と開化天皇は兄弟で、淀川近くでの戦いは佐紀の王家に対応しそうです。
武埴安彦命の敗死により王位を去った男王こそが、開化天皇ではと。

63 :
神武天皇から開化天皇までは葛城王朝、
崇神天皇から仲哀天皇まで三輪王朝というように
古代の天皇は王朝交替したと見る説があるが、
神武から開化の間でさえ順調に一族間の王位継承が
行われていなかった、それはかなり後代まで
続いたと考えるのが妥当かもしれませんね。

64 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

65 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

66 :
>100〜180年が本亦男子を以て王と為し住まること70〜80年

王一世代がおよそ在位20年とすると、神武天皇の直系はおそらく
四世代ほどで断絶したんではないかな?日本書紀では5代目孝昭天皇から
后妃の出自が変わってくるんだよね。天皇の寿命が伸びる計算になるのも
何かわけがあるのかもしれない。卑弥呼とトヨが中継ぎの女帝であった
とするなら万世一系の系図を創作する上で邪魔になるため削除された
とも考えられるのでは?

67 :
実際の在位期間は現状の資料からは、わからないのというところです。
2倍歴の可能性はありますが、孝安天皇の在位103年や垂仁天皇の在位99年はそれでもおかしいでしょう。
ただ、神道の6月と12月の晦日の祓えは2倍歴に通じるかもしれません。

倭人伝から100〜180年頃の男王の系譜を神武天皇〜孝安天皇に当てると、
倭の五王の410〜480年頃の相続系譜に近いかもしれません。

また、欽明天皇や推古天皇等の安定した王権なら30〜40年の在位がありますので、卑弥呼の在位もこれに近いかもしれません(年長大の表記もありますし)。
古代においても強大な王権であれば、前漢武帝の在位54年や高句麗長寿王の在位79年(413〜491年)98歳没、南越趙佗の在位68年(BC203〜BC137)100余歳没など。

やや不確かながら、古墳の編年から王の在位は20年前後位かと考えています。

68 :
欠史八代後半の内、孝元天皇は皇別氏族の祖となっており、開化天皇は佐紀の王家の祖となっています。
それでは、孝霊天皇はその後の天皇家の祖かもしれません。

神武天皇時点では、鴨氏をはじめとする出雲系の豪族との連帯で王権を確立したのでしょうが、その後の王家からの入婿によって、ほぼ全てが王族となったのでは?
初期天皇家の拠点であった葛城をはじめ、ニギハヤヒの後裔の大和北部・淀川水系。
そして磯城県主の地盤も馬見古墳群の勢力になったのでは?
卑弥呼を共立したのは、これら王族の合議だったのではないでしょうか。

69 :
倭国の乱を経た、卑弥呼の時代の記事は日本書紀に断片的に記されているだけですが、壬申の乱に神武天皇陵と伴に箸陵記事が現れるように、大和王権の祖としての記憶があったのでは?
崇神天皇紀より、地方に下る皇族が現れた後、大古墳が築かた地方は全て皇族が下った地であり、地方においても大古墳は大和の承認の元、皇族にのみ許されたのではないでしょうか?

倭人伝の時代を経て、崇神天皇の時代は中央集権の時代。
さらに景行天皇の西征によって、瀬戸内航路が復元して、中央集権が完成したのではないでしょうか?
さらに吉備・丹波・播磨・毛野と伴に、日向に築かれた大古墳は景行天皇が現地に残した豊国別皇子に関わりそうです。

筑後川以南の熊襲の拠点とも言うべき地に前方後円墳が現れる4世紀中頃は仲哀天皇・神功皇后の西征によって、熊襲の反乱記事が見られなくなった時期と符号します。

70 :
倭人伝や日本書紀、さらに隋書倭国伝による限り、倭国の都は後漢の時代以来大和に有り続け、王統も続いているとしか読めない。
そして、神武天皇以来の王統は卑弥呼、崇神天皇、雄略天皇の時に大きな変化が有ったと。
それは、前方後円墳の創始、中央集権体制と皇子の要衝への配置、天皇の専制化だと思います。

雄略天皇が登場する5世紀後半から、天皇陵とそれに次ぐ規模の皇族や皇別氏族の為の大古墳が畿内・地方とも途絶し、天皇陵のみが突出するようになったように思います。
皇別氏族以外の物部氏や大伴氏、皇別氏族ながら系譜不確かな蘇我氏が台頭するのも専制を図った雄略天皇の時代だったのでは。

71 :
個人的見解ながら、古墳の比定を試みたいと思います。

オオヤマト古墳群では
箸墓古墳は卑弥呼、西殿塚はトヨ、崇神天皇陵は崇神天皇、景行天皇陵は景行天皇
天皇陵に次ぐ規模の桜井茶臼山・メスリ山古墳は阿部氏の拠点に有り、阿部氏の遠祖である大彦命とタケヌナカワワケの墓。

佐紀古墳群では
佐紀古墳群最古に編年されている佐紀陵山が垂仁天皇2人目の皇后であり、垂仁天皇より先に崩御したヒバスヒメの陵
近年、編年が古くなった垂仁天皇陵は垂仁天皇
佐紀陵山古墳に隣接する成務天皇陵は成務天皇(先のように2系の王統があったと考えると成務天皇はヒバスヒメの皇子となり、隣接して母子の陵が築かれた可能性がある)
神功皇后陵は神功皇后、系譜が開化天皇の子孫であり、佐紀王家として本願地に築かれたのでは。

百舌鳥・古市古墳群は難しく、比定出来ないのが多いのですが
古市古墳群で天皇陵規模で最古に編年されている仲津山古墳が仲哀天皇陵
古市古墳群で天皇陵規模に次ぎ最古の大古墳である、津堂城山古墳は仲哀天皇の父である日本武尊ではないかと。

72 :
馬見古墳群はやはり皇族の墓域と考えられ、葛城氏ではないと思います
葛城氏からは、宮山古墳がソツヒコの墓
ソツヒコの子であり、雄略天皇に滅ぼされた円大臣に繋がる玉田宿禰は極楽寺ヒビキ遺跡に近い掖上鑵子塚古墳
ソツヒコの子のもう一つの系統である葦田宿禰は屋敷山古墳

宮山古墳が大和と河内をつなぐ水越峠の大和側の要衝に築かれたように、
もう一つの大和と河内の間の竹内峠の大和側の要衝に築かれた大和高田市の築山古墳は武内宿禰の墓ではないでしょうか?

73 :
中国の文化はペルシャの文化がもと
日本の文化は中国の文化がもと
神道はユダヤ教で旧約聖書に日本神話の元がある
天下るとは大陸の王朝からヤマト国へ帰化すること
大和朝廷以前の王は当然日本人でもない
大陸の王を指してるはず

74 :
っ。豊葦原中津(都)国。
中津国、ナカの国、ナガの国が我が国の古名。
国都(ヤマト)は金剛山(=高天山)の東麓一帯(高天原)の葛城、高尾張(奈良盆地南部)〜吉野地域


吉野山の東西には結界の伊勢の滝原宮と伊雑宮(東)。淡路島の先山(淡路富士。吉野山と全く同じ緯度。イザナギ、イザナミ、天照大神。天照大神荒魂(弁財天)
)

75 :
豊葦原、、、豊(トヨ。トミ(王家)) 、
葦は王権、尊称のアジの仮借では?
原。ワラ・・・和国
、、、トミ大王家の和国、ナカの国

76 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

77 :
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

78 :
>>28
なんで知ってるんだw
それと『311 神武』調べてみて

その頃に放送されていたドラマなど

先住民系の人物(わかりやすく言うと、おばま大統領など)の台詞
「おまえは 叶マサミチだな!!」

79 :
たしか、このようなシーンだった
男女二人?が酒を飲んでいる所に現れた人物、それがマミチ?マサミチ?

飲み屋のドア(扉)が開く… ギィ〜…そこへ現れたのが

80 :
そしてマミチは追い出された、
そのような物語だった

酒盛り〜扉のようなものが開く〜何々が現れる

何の話だと思う?

81 :
うるせえぞサイキバ
お前には2chにも現実世界にも居場所はない
さっさと消え失せろ

82 :
欠史八代の系譜について考えたいと思います、あくまでも可能性として。
先に述べたように、欠史八代は神武天皇〜孝安天皇までと、孝霊天皇〜開化天皇に分かれると思います。
孝安天皇までの宮は葛城を中心として分布してますが、より詳細にみますと、
神武天皇の橿原宮を御所市柏原と考える場合、御所市域に2代綏靖天皇・5代孝昭天皇・6代孝安天皇と
やや離れた地域に3代安寧天皇の片塩浮孔宮と4代懿徳天皇の軽曲狭宮に分かれます。

これは、神武天皇が嫡子の綏靖天皇に御所市域の地を譲り、その弟の安寧天皇・懿徳天皇に郊外の地に封じたともとれます。
また、孝昭天皇・孝安天皇の代に再び葛城の地に宮が戻ったともとれます。

また、安寧天皇の片塩浮孔宮の地は大和高田市高田市駅付近説の他に橿原市四条町説があります。
懿徳天皇の軽曲狭宮は橿原市大軽町付近です。

これに神武天皇の庶長子手研耳命の片丘(香芝市〜王寺町付近)と
綏靖天皇の兄神八井耳命を子孫である多氏の本願地の田原本町多付近と考えると
神武天皇は子息を葛城を中心に大和南部にそれぞれに配置した可能性もあるのでは?

83 :
手研耳命の片丘の地は後世、馬見古墳群となる地ですし、神八井耳命の多の地は唐古鍵遺跡に隣接するなど、かなりの要衝の地ではと考えられます。

神武天皇〜孝安天皇の時代は倭人伝に現れる本亦男子を以て王と為し住まること70〜80年の時期と考えていますが、
その中心として、今発掘が進んでる御所市の秋津・中西遺跡付近ではないかと?
現状、発掘されている場所は4世紀初頭の比定がされているので、付近により古い遺跡が埋没しているのではと考えています。

初期の王統は神武天皇〜綏靖天皇〜孝昭天皇・孝安天皇の系統が本流で
安寧天皇・懿徳天皇は傍系だった可能性があると考えています。

84 :
孝安天皇と孝霊天皇の間付近で、倭人伝に言う倭国の乱が発生したのではと考えていますが、
孝安天皇の後、葛城の地に宮が築かれず、葛城氏の地となる事から、孝安天皇で一旦、王統が途絶し、傍系に引き継がれたのかもしれません。

7代孝霊天皇の宮、黒田は神八井耳命の多の地に近く、また橿原市四条町説を取れば安寧天皇の片塩浮孔宮からも遠くありません。
孝霊天皇は安寧天皇からの系統だった可能性があるかもしれません。

8代孝元天皇の宮の地は軽に有り、これはおそらく懿徳天皇からの系統だったのでは?

特に孝霊天皇は皇后を磯城県主の娘から迎えており、唐古鍵遺跡〜纒向遺跡に至る集団の上に君臨している可能性があり、
倭迹迹日百襲姫命の父である事から、卑弥呼に至る系譜の祖である可能性があります。
以後の皇統の祖に位置付けられるかもしれません。

85 :
開化以前は大王だったとは思えないねえ。
開化の兄弟、崇神の兄弟に王位争いの話が出てくる。
狭穂彦や武埴安彦命にも継承権があったから争った訳だ。
崇神はその争いに勝ったんだろうけどさ。
開化、崇神、垂仁の后を見ると、この時代の有力者様子が覗える。

じゃあ、ヤマトの中に王がいたのかっていうと、それほと大きな弥生の墓は
出ていないんですよね。ヤマトの中から大王が生まれたとは思えない。
尾張の祖が登場する頃に、大きな変革があったのではないか。
ヤマトは古墳時代以前は人口がそれほど過密ではなく、水争いをする必要も
ないほどだったらしい。江戸初期の関東のように誰でもウェルカムだった。
九州のような人を殺傷する武器というか石鏃も出てこない。

尾張の祖がキモだと思うなあ。

86 :
日本書紀の難しい点は天皇の記録中心の為に、そこから外れた記録が大幅に欠けている点だと思います。
5世紀を中心に佐紀古墳群の東部の大古墳や馬見古墳群の記録を欠いています。
明らかに天皇・大王に次ぐ地位の王族が葬られているにもかかわらず、記録が無いため手掛かりが掴めません。
中国史書に言う本紀だけ有って、列伝がない状態なので。
その為、蘇我稲目がいきなり政治の中枢に現れたように見え、蘇我氏の出自への様々な憶測を呼んだのだと思います。
しかし、阿部氏の場合を考えると、3世紀の大彦命から300年近く史上から姿を消しますが、6世紀に有力豪族として再び登場します。
思うに、日本書紀に登場しないだけで、その系譜は続いていたと考えた方が良いのでは?
稲荷山鉄剣に見えるオオヒコの子孫、ヲワケノオミを阿部氏の一族と考える見方もあるでしょう。

日本書紀においては崇神天皇紀にそれ以前の説話をまとめて収録した傾向が有りそうと考えていますので詳細は不明な点が有りますが、崇神天皇から、それまでと比較にならない程、強力な王権となったと考えればいいのでは?
初期古墳がオオヤマトの地に集中する事が象徴していると考えます。
むしろ、崇神天皇の次世代からが、中央集権が弛緩したのでは?
崇神天皇が特筆されるのは、その成果によってではないでしょうか。
卑弥呼と崇神天皇によって、大和王権はその安定性を見たのでは?

卑弥呼以前においても倭国王帥升の107年の貢献や、倭人伝に見える男王による70〜80年の統治記事は、前方後円墳を象徴とする王権とは比ぶべくもないながら、王権の存在を確認出来ます。
この神武天皇に当たるであろう王権は陵墓を象徴としない緩やかな統合の王権と考えればよいのでは?

弥生時代全体でも、西日本を中心とした各地(出雲・摂津・大和・加賀等)に加茂(鴨)遺跡が存在し、加茂の地名はそれ以上に存在する事は、さらに緩やかな統合でしょうが、出雲による王権が存在するしたのでは?
弥生時代には倭と言うまとまりが日本列島の多くを覆っていたと考えたほうが良いのでは?
天皇家による大和王権は、それらを継承したのではと考えてます。

87 :
また、初期〜中期古墳時代は天皇・大王陵に匹敵する大古墳が余り多い点ですが、
皇帝専制の中国では、考えられません、漢代の皇帝陵と臣下の墓とは隔絶した規模でした、
思うに倭国では天皇・大王と王族との間に格差はあっても、大差は無く、天皇と王族との合議によって、政権が運営されていたのでは?
その為に皇位継承の為の争いが頻発したのではないでしょうか。

吉備・毛野・広域丹波・日向などに築かれた大古墳は、地方に下った皇族と考えた方が合理的なのでは?
地方の豪族は中世の武士と同規模でしょうし、それが成長して地域王権となるのは無理でしょう。
大和の許可の元に大古墳が築かれたと考えた方が良いのでは。
大和の許可無く築かれた大古墳は筑紫君磐井の岩戸山古墳だったのでは?
そのイレギュラー性から日本書紀に特筆されたのではと。

88 :
磐井とはなんだったのかなあ

89 :
神武天皇から離れますが、大和王権の変質は雄略天皇の登場が大きいと思います。
雄略天皇はそれまで、天皇と王族との合議によったであろう王権の専制化を図ったようですし。
即位の際に日本書紀に記されているように兄弟をはじめとする皇位継承のライバルの大量の殺害。
さらに、佐紀・馬見古墳群の大古墳の途絶は他の王族への打撃を与えた事が察せられます。
佐紀・馬見古墳群と同規模の太田茶臼山古墳も次世代を残せていない(個人的にこの古墳の被葬者として継体天皇の祖乎非王を考えています)。
また、葛城氏の大古墳も途絶しています。

このように天皇以外の大勢力を滅ぼした為に雄略天皇没後に大和王権が一挙に不安定化したのが、大和の統制を受けない、地方豪族磐井の成長を促したのでは?
特に雄略天皇の後継、清寧天皇が後継無く、おそらく若くして没した為ではないかと。
日本書紀には清寧天皇には后妃が記されてないのに、飯豊皇女の治世を記している点からも、飯豊皇女は清寧天皇の皇后だったのでは?
そして皇位が飯豊皇女の一族へ渡ったのではと考えています。

倭の五王時代は高句麗長寿王による南下政策の真っ只中で、特に雄略天皇在位中の475年には百済は漢城失陥で一旦滅亡しています。
百済の復興は大和の全面的な庇護の元、推し進められたのでしょう。
この時代から百済から任那の地に前方後円墳が大量に築かれるのも、相当の倭人勢力が入り込んだのだと考えられます。

長寿王が在位78年で493年に没した頃におそらく雄略天皇も崩御し、大和王権の統治も弛緩してしまい、半島との連絡が疎かになったのが、磐井成長に繋がったのでは?
この時代、高句麗の南下が止み、百済が弱体化で新羅の成長を促したのでは?
まさに、日本書紀にある通り、新羅の賂を受け、三韓の貢を誘致したのが磐井の勢力拡大に繋がったのでは?
磐井は前方後円墳を築いた半島の倭人勢力とも類縁関係に有った可能性も。
また、磐井は自己の勢力圏の筑後以外に大和の勢力圏であった筑前も明らかに配下に置いています。

90 :
権威造作していることはともかくも、天皇家より昔の日本を支配した
主要な神々の神話を押さえて体裁を整え、
天皇の祖先の出自が日向にあること、そしてそこから畿内へ侵入して
支配者になったのが天皇の始まりであるということ、
神武東征は天皇のルーツを語る上で動かせない史実と
日本書紀編纂者は当然考えていたはずだが、問題なのは人間離れした
天皇の在位年数とそれによって算出される長寿。
編纂者は神武天皇を文字通り一千年以上も遠い昔の人物と伝え聞き
そのまま紀元前660年に当たる「辛酉」の年を選んだのか、
神武が生きていた時代が分からなくなってしまったので適当にごまかしたか、
おおよそ分かっていたけどあえて建国の年代を大昔に引き伸ばしたため
分からなくなってしまったのか、そのあたりがはっきりしません。

91 :
天皇の系図、世代間隔は応神天皇からはほぼ正確で、それ以前の
天皇については同世代の天皇、親子ほど年が離れていない天皇が
数人は混在していた可能性を排除できません。九州から侵入してきた
神武以降の天皇はまだ絶対的な権力を持たず、崇神天皇の時代まで
豪族たちと婚姻関係を結びながら大和の統一を着実に進めている
印象があります。応神天皇については4世紀後半の人物とも
5世紀初頭の人物とも言われ、その五代ほど前の崇神天皇は、
一代在位20年と見做すと、およそ100年前の人物と考えられる。
となると大和朝廷の発展は西暦300年頃からでしょうか?
崇神天皇からさらに一代20年で遡ると、神武〜開化までの九代が
180年間、すなわち西暦121年「辛酉」の年が神武即位の年になる
のではないでしょうか?ただし西暦181年の可能性もある。
この場合、神武〜崇神は10世代もないことになります。
紀元前60年以前は末子相続の連続にしても無理がありそう。
後61年はありうるがちょっと古そう。
西暦241年、301年は天皇が鮨詰め状態、これ以降に辛酉の年を
持ってくると神武天皇以降十数代の天皇は架空ということになるでしょう。

92 :
人間離れさせたのは雄略期
時代繰上を頻繁に行った

93 :
魏志倭人伝が書く「女王を共立した」「邪馬台国は女王の都するところ」
「ヒミコ以前、男王がいたが争いが続いた」「ヒミコ死後にまた争った」
考古学の成果によれば、纏向建設時期、各地の弥生遺跡で激変が起きる。

二世紀代は、争いはあるが「男王」をたて国としてのまとまりを作ることに
関しては一致していた。男王は70〜80年だから一人ではない。また、同じ一族
が継承したかはわからない。争いが起きているということは、いくつかの部族に
よる主導権争いの可能性もある。あるいは、遠い昔に先祖を一にするのかもしれない。

記紀によれば、10代崇神、11代垂仁の時にも王位を争う話が登場する。
大和盆地南部を地盤にしているらしい天皇家が「唯一の王家」の地位にあったとは思えない。

94 :
嘘か本当かわからない話

こんな事を言ってる人がいたでしょ
「コテハン【天皇林田】でも良い、天皇になれるんだよ」

95 :
>>93
女王共立と言えば、儒教的には共立されて即位するというのは、
王たるものの美点ではなく欠点になるらしいな
蜀の劉備も含めて。
ちなみに、蜀書先主伝の劉備sageはここだけじゃない、先主伝全体に多々ある

96 :
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         //
   ∧_∧ //  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( ´∀`)// <  神武天皇万歳!!
  (    つ   \___________
  | | |
  (__)_)

97 :
 
ああん?俺様を祀る資格あるのは皇室だけなんだよ!
ゴミ屑庶民の分際で万歳とか舐めてんのか?また焼け野原にするぞ! by 神武

98 :
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

99 :
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

100 :
>>93
列挙した傍証が悉く、皇室の父祖が唯一の王権ではなかったことの論拠にならない。

>男王は70〜80年だから一人ではない。
この点を争うつもりはあまりないけど、一人だった可能性は絶無ではない。

>また、同じ一族が継承したかはわからない。
分からないなら、同じ一族だったかもしれない。

>争いが起きているということは、いくつかの部族による主導権争いの可能性もある。
同族内での主導権争いの例など、古今東西幾らでもあるのでは?

>あるいは、遠い昔に先祖を一にするのかもしれない。
遠いのか近いのか断定できていないなら希望的観測でしかない。

>記紀によれば、10代崇神、11代垂仁の時にも王位を争う話が登場する。
それは、同族内での争いではないのか?

共立された卑弥呼の「男弟」が政務を担当していること。
卑弥呼の「宗女」である台与が、男王を挟んで登極していること。
これらのことは、卑弥呼自身とその血統が、倭国・邪馬台国において、相当の家系であったことを示す。
単に巫女として優れていて卑弥呼を登極させたなら、その弟に政務を担わせる必然性がなく。
巫女としての素質も経験も未知数の少女であった台与を登極させた必然性もない。

>>97
もう少し品性というものを身に付けましょう、騙りくん。


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