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石勒


1 :2007/02/03 〜 最終レス :2015/07/25
五胡十六国時代の最大の英雄。文盲の後趙の創設者。
奴隷から盗賊、盗賊から皇帝になった男

2 :
失せろ

3 :
石勒(274〜333)
 字は世龍。後趙の初代高祖明帝。在位319〜333。上党郡武郷の人。周曷朱の子。
 羯族の部族長の子であったが、窮乏したため漢人に売られ、山東の民家の奴隷となった。
 太安年間に飢饉のために山野に逃れて、馬賊の首領となり、諸勢力の下を転々とした。のちに、漢の劉淵
に帰属し、河南・山東の経略を任された。
 永嘉三年(309)、鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、その中から張賓を抜擢した。
 劉聡が即位すると、并州刺史となり、汲郡公に封ぜられた。五年(311)、西晋の太尉・王衍を捕らえ殺した。
光初元年(318)、劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上った。翌年、靳準の乱を平定し、趙王を自称した。
 趙王の十年(328)、太和と建元し、前趙の軍を破った。
 翌太和二年(329)、前趙を滅ぼし、劉曜をRと、天王を称し、のちに帝位についた。
 羯族を軍事基盤として、華北の大半を平定し、華南の東晋と対峙した。漢人士大夫を登用して、律令・官制
を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。

4 :
趙書って現在には残ってないの?

5 :
>>4
『太平御覧』その他の類書に逸文が残っている。

6 :
て、逸文が残ってるのは崔鴻の『後趙録』の方か……。
石勒が編纂させた『趙書』は多分残ってなかったかも。
不確実でスマン……。

7 :
石虎ってやっぱり駄目君主なのかな

8 :
石勒配下の将帥としては、トップだろうね>>石虎
何か、後趙政権は養子関係が多いよなあ
唐末五代を彷彿とさせるくらい、養子がらみのトラブルが多い
田堪や冉良(石瞻)みたいに良い拾い物だったりすることもあるが
石生と郭権のコンビも好きだがやっぱ孔萇が一番かな
経歴がよく分からないが、先鋒として幽、冀、并州を荒らしまわった軍事手腕は凄い
石勒配下の将軍達は、結構胡散臭い出身が多いよな
羯族+十八騎+君子営+乞活集団等々、寄せ集めというかイロモノというか
こういう連中が晋正規軍を壊滅させたり、匈奴部族を撃滅させたりと、いやはや痛快だ

9 :
>>6
いえいえ、情報ありがとうございます
趙書が正史として認定されていたら今日まで完全な形で残ってたんでしょうけどねぇ
>>8
なんか後趙政権って面白そうなやつらの集まりですねw
今度図書館にでも行って『晋書』載記でもじっくり読んでみようかな

10 :
石勒の小説があったらさぞかし面白いだろうな。

11 :
石勒スレ、いまいち伸びず。

12 :
彼、劉邦のファンだよね。

13 :
石勒も文盲だけど、耳学問を身につけた口だね。

14 :
石勒に負けた所為でかませ犬扱いになっているが、苟晞や祁弘あたりは
時代を代表する名将だったはずなんだがなあ、永嘉の乱さえなければなあ……
石勒に負けて、なお評価を保っているのが、祖逖と劉曜ぐらいだもの
しかし、後趙の崩壊の過程は、映画とか漫画によく出てくる「悪の帝国」の断末魔にそっくりだ
あれだけ残虐非道やってても、少しは延命できるんだものね

15 :
石勒十番勝負!
一回戦:少数民族に生れ落ちる、部族崩壊の危機との戦い
二回戦:并州大飢饉、飢餓との戦い
三回戦:東エイ公司馬騰による奴隷狩り、生存率30%以下の地獄の生存競争
四回戦:青州刺史苟晞による匪賊討伐、初の官軍との戦い
五回戦:王衍指揮する晋正規軍主力に対しての徹底的殲滅戦、おまけで司馬氏皇族の殆どを屠殺
六回戦:青州の群雄王彌との知略戦、喰うか喰われるかの内ゲバ
七回戦:幽州の実力者王浚に対する詐術の極みを尽くした謀略戦、小が大を喰らう大番狂わせ
八回戦:愛国詩人劉コンの徹底抗戦、華北の晋系軍閥をほぼ壊滅させる
九回戦:祖逖の北伐、河南の大部分の領土を切り取られ、結果として華北統一を大きく遅滞させられた屈辱の一戦
十回戦:劉曜との華北統一をかけた一大決戦、至高の死闘を制して劉曜を滅ぼす
最初から最後までクライマックスだな、この男

16 :
>>15
>最初から最後までクライマックスだな、この男
それこそ陳翁か芳樹かソープ先生が小説化でもすりゃ、
アッー!と言う間に流行りそうな題材なんだけどなぁ……。
極め付けは「曹操・司馬懿などは話にならぬわ!」でしょ。
どんだけエピソードに恵まれてるんだよ!って話ですよ。

17 :
あとは、若い頃に洛陽に行商に行ってて、
王衍とニアミスしてるという伏線まである。
どんだけ小説向きなんだ、この御仁は。

18 :
>>15
ドラマにしたら、すごく盛り上がると思う。
ちょっとアドベンチャーちっくというか、派手な演出で。

19 :
>>16
陳先生はあんまり期待できないんだよねえ
(小説十八史略は正直この時代のヤツは、イマイチ)
ガイエは漢民族至上主義者だし
逆に祖逖や桓温あたりを主人公にすれば、五胡の連中を魅力的な悪役で書いてくれそうな気もするが
ソープ先生の思考が一番あってそうな時代だが、凄い読み疲れしそう
劉曜と羊皇后のセックスシーンに期待したい

20 :
>>19
>小説十八史略は正直この時代のヤツは、イマイチ
確かにこの時代の部分は、あまり印象に残っていないな。

21 :
三国志あたりからは無名だが石勒の人生はかなり面白い
毎回毎回が赤壁の劉備みたいな戦い

22 :
石勒は、幼少時代から利発そうなイメージを周囲には与えていたんだろうね
洛陽への行商に付き添っていったり、郭敬から厚遇を受けていたり
ただの弱小部族の族長の倅にしては、結構デキが良かったんじゃないのかしら?
ライバルの劉曜の方が、個人的には好きなんだが
朝鮮に潜伏していた後、ほとぼりが冷めて本土に戻ってきた後も、自分の容貌魁偉なのを
コンプレックスに感じて、プチ引き籠もりしているあたりなんか、ちょっと親近感が沸く
戦は強いし、行政手腕にも優れていて、度量の広い人物なのに
肝心なところで抜けてるあたり、勿体無いけれども、それが魅力になっている
この時代、完璧超人っていないよね
どいつもこいつも、頭のネジが外れているか、歯車ひとつ抜けている

23 :
この人、奴隷狩りを行った司馬騰にも復讐果たしているよね
やはり、ドラマがあるな
(確か、このころ公師藩配下の汲桑のさらに下にいたはず)
ただ、終わりがハッピーエンドといいきれないのが残念

24 :
wikiから
石勒(せきろく 274年 - 333年、在位319年 - 333年)は中国、五胡十六国時代の後趙の創建者。字は世龍。廟号は高祖、諡号は明皇帝。
上党郡武郷(現山西省楡社の西北)の人。周曷朱の子。羯族の部落小帥の子であった。
当時の羯族は漢族によって迫害を受けて困窮し、并州の飢饉戦乱にあって部落離散して、
石勒も流浪の旅に出ざるを得ず、その途中で晋の東嬴公司馬騰に捕らえられて山東の師懽に売られて奴隷とされた。
八王の乱の混乱に乗じて群盗となり、公師藩が起兵するとこれに合流した。
ほぼ同時期に匈奴の劉淵が漢(前趙)を興したのでこれに帰順し、輔漢将軍・平晋王として征戦に従事した。
309年、鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とした。
310年に劉淵が死に、劉聡が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封ぜられた。
311年、東海王司馬越の葬列を襲って、西晋の太尉王衍を捕らえて殺した。王弥を誘い殺してその部下を併せ、襄国を拠点として幽州・并州の経略にあたった。
王浚を殺し、劉琨(王編に昆)を破った。
318年、前趙の劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上り、次第に劉曜と対立するようになった。
319年、靳準の乱を平定し、趙王を自称した。これが後趙の建国である。
328年、太和と建元し、洛陽で前趙の軍を破った。
329年、前趙を滅ぼし、劉曜をRと、天王を称し、翌年に帝位についた。
羯族を軍事基盤として、華北の大半を平定し、華南の東晋と対峙した。
333年に死去するが、死後に後継争いが起き、太子が殺されて史上に殺人鬼の名前が高い石虎が帝位につく。
石勒は自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞かせる事が好きであり、漢人士大夫を登用して、律令・官制を整えた。
『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。
また、過去の群雄について、次のように評した。
「(部下に三王や軒轅に匹敵するとおだてられ)卿らは誉めすぎだ。もし朕が高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、
曹孟徳(曹操)や司馬仲達(司馬懿)父子のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」
と、発言した。

25 :
劉邦より劉秀を下に置いているけど好みの問題かな?
為政者としても武将としても劉秀のほうが劉邦より上だと思えるけど

26 :
>>25
それは色々、解釈が分かれるね
張賓が張良にあこがれていたらしいので、その影響かな?

27 :
ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Shi_Le
記述が充実している英語版の「石勒」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%92
記述量が少なすぎる日本語版の「石勒」
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%92
英語や日本語以上に悲惨な中国語版の「石勒」
■英語版に負けているよハズカシー!!(><)

28 :
感覚的な問題として三国時代が身近だったから
後漢末の悪いイメージが後漢という時代そのものにフィールドバックされてたとか

29 :
>>25
全体的により古い時代を上にみなす風潮があったのと、より低い地位・悪い条件から成り上がったあたりを評価してるんだろう

30 :
劉邦は「将に将たり」という言葉があるように、能力のある者を内包できる器があるからこそ
劉秀より上に評価してるんじゃないかな。

31 :
>>27中国はwikipediaへのアクセスに規制が引かれていたからな。
最近解除された様だが、香港や台湾からの書き込みだけでは高が知れているだろう。
それに標準語がまだまだなのに、
広東語とかビン南語、呉語、はては漢文のwikipediaまで有る。

32 :
高祖=俺の方が強いだろうけど好きだから殺したくない。
光武帝=最終的に俺には敵わないだろうが、ゾクゾクするような勝負が出来るのはこいつだけだ。
曹操、司馬懿=女子供を出汁にするなんてマジ許せん。天誅を下してやる!
こんな解釈も可能と言えば可能。

33 :
光武帝のことは「まさに中原に並駆すべきも、鹿が誰が手に死せんかを知らず」と、
天下を争うが、勝てるかどうかはわからないといっている。
石勒は光武帝を、高祖のような魅力は無いが自分の好敵手たりえる男と考えていたのだろう。
高祖に対しては自分は粛清されない自信があったか、
殺されても良いから臣下になりたいというほど憧れてたんだろう。

34 :
王衍をRのに土壁の下敷きにしたのはなぜだろう?
刃の穢れになると思ったのかな?

35 :
虚名とはいえ、人望があったからじゃない?
政治家というのは無能でも悪人でなければ人気は高まるし
首を斬ると冥界で困るという考えがあったので、
五体残る形の死刑としては軽いものにしたのだろう

36 :
劉淵=信長
石勒=秀吉

37 :
石勒の大虐殺のほとんどは坑殺だからなあ
城壁圧殺と比べても、残酷度はそんなに高くないと思うぞ
司馬懿が遼東でやったような京観の方がずっと残酷だろうよ
中国の黄土平原の土質は縦割れしやすい性質があるから、旱魃が起こるとそこらへんに
巨大なクレバスができると聞いたことがあるんだが、本当なんだろうか?
項羽の秦兵大虐殺も、そういう地隙に坑埋めして実施したとかなんとか

38 :
>>34
たぶん、「貴人に刃を加えてはならない」っていう、北族の風習に由来してるんじゃ。
確か後代のモンゴルにもあったと思う。絨毯で簀巻きにして馬で踏みRっていうのが。

39 :
《晉書》 卷一百四 〈石勒載記上〉

 勒重衍清辨,奇範神氣,不能加之兵刃,夜使人排牆填殺之。
《晉書》 卷四十三 〈王衍傳〉
 謂其黨孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見如此人,當可活不?」
 萇曰:「彼晉之三公,必不為我盡力,又何足貴乎!」
 勒曰:「要不可加以鋒刃也。」 使人夜排牆填殺之。
とあるから、どうにも奇妙で不快な奴だけど、しかし、驚くほど優雅で
明らかに貴人だから、石勒は王衍を斬刑に処せなかったんだと思う。

40 :
>>35
>>38
>>39
成る程ね。
てっきり文官は自Rるとき体を傷つけてはいけないので、
それに対する嫌がらせとして圧殺したのかと思った。

41 :
石勒はライバルが豊富だな
晋:王衍、苟晞、王浚、劉琨、祖逖
趙:劉曜
他:王弥、靳準、曹嶷、段文鴦
この中で会ったことのないのは劉琨、祖逖だけというのもすごい
(靳準、曹嶷、段文鴦は微妙だけど)

42 :
劉越石と祖士稚の関係がウホッにしか思えない俺は相当末期だな……
しかし、明らかに友情以上の熱い関係を感じるものがある
軍事的才能だけで見れば(永嘉の乱〜石勒崩御まで)
A:石勒(魏晋南北朝期で最高峰の将帥)
B:石虎(晩年の耄碌さえなきゃ、間違いなくAクラス)
  劉曜(何気に、洛陽と長安の両都を陥落させている功績があるんだよね)
  陶侃(劉弘から受け継いだ荊州を堅守し、後の西府軍の礎を築く)
  祖逖(逆境野郎、中央政府から足を引っ張られつつの北伐はぶっちゃけありえない)
  苟晞(少なくとも、永嘉の乱までは時代を代表する超名将→石勒のかませ)
C:王彌(一時は全斉の主まで登りつめた梟雄、でも石勒のかませ)
  祁弘(八王の乱を実質平定させた王浚配下の将軍、この時期までの王浚は間違いなく英雄だった)
  孔萇(石勒最強の手駒、彼なくしての河北平定は不可能だっただろう)
  段末破(鮮卑段部の猛将その1、世評では鮮卑最強だったらしい)
  段文鴦(鮮卑段部の猛将その2、石虎のかませ)
  劉聡(匈奴漢二代目、部下は多士済々だが碌なヤツがいねえ)
  陳安(関隴の狂犬、一体何がしたいのかよく分からんが、戦争には滅法強い) 
D:曹嶷(王彌子飼の将軍、とりあえず斉で細々と生きながらえていたが、所詮は石虎のかませ)
  蘇峻(東晋の将軍、内弁慶、婦女暴行犯)
  希鑒(北府軍の創始者、地味)
  劉昆(捲土重来するその気概は買うが、もうちょっと考えて戦争しましょう)
E:たくさんいると思うが、やっぱ王衍
ヒマだったら誰か適当に訂正してくれ

43 :
石勒崩御までなのに、石虎が晩年の耄碌でマイナス査定な件

44 :
温かい目でそっと見守るんだ。
王衍を出すなら、その上司を務めた司馬越を入れてもいいんじゃないの?
あと、宗室諸王の能臣なら司馬虓とか。
漢(前趙)との交戦期に「暴薨」してしまった人だけど。

45 :
宗室諸王なら、長沙王司馬乂が一番有能だと思うんだが
少なくとも大器の片鱗は見せているし、祖逖を歴史の表舞台に登場させた人物でもある
こういう人物が殺されてる時点で西晋の滅亡は免れ得なかったのだろうけどさ
石勒に宗室諸王がほとんど殺されてるけど、世間にとってはむしろ好影響の方が多かったように思える

46 :
成都王も結構有能だと思う。
八王のうち後半の四人は、それぞれに大英雄とは行かずとも
小英雄の風格があったと、個人的には考えてるんだけどね。
能力があったからこそ、かえって乱を長引かせてしまったというか。
宗室諸王でアレな人というと、司馬騰かな。
石勒が喰うために奴隷にならざるを得なかったときの皇族。
殺される原因も、吝嗇が過ぎて人望を失ったせいなのが…。

47 :
>>42
軍事的才能でいえば祖逖は石勒を上回るんじゃないか?

48 :
>>46
石勒の勢力の源流は成都王軍閥に繋がっているからな
【業β】で採用した君子営の漢人官僚の中には、結構成都王に仕えていた人間多かったじゃないの?
石勒が劉淵(匈奴)に接近できたのは、成都王派閥の誼があったからなのではと勘繰ってしまう
まあ、石勒自身が成都王に仕えたわけではなく、陪臣の弟分だから大したコネではない
そうすると、どういう基準で劉淵に仕えようと思ったんだかね?
王浚(幽・冀)、王弥(青州)、劉淵(并州)、ここいら辺、誰に与してもあんまり大差ないよね

49 :
八王全員の雁首そろえて政治させても、賈后の治世の足元にも及びそうに無いのが……
賈后は政治闘争に明け暮れた分だけ、一応政権運営にも真面目だったからね
コネ採用やら何やら言われるが、賈氏政権を安定させるために人材蒐集に努めたわけだし
ところで、羊皇后って歴史上屈指の下げマンだよね

50 :
>石勒は中原をほぼ統一し、当時の中国における最大勢力であり、中原に覇を唱えたといってよい。
>その自負心が現れた発言である。
>また曹操や仲達を嫌っているのがわかる。
>しかし石勒は天下統一した劉秀と比べられる存在なのか、
>あるいはこの発言を劉邦>劉秀と理解するべきなのか。
>一般に中国史の人物評論は、その能力ではなく結果と行動で評価される。人物とはその結果を含めた存在なのである。
>人物の能力を読みとるという考え方はない。
>ここに注意が必要なのである。
>さて、石勒がもし高祖劉邦の時代に生まれたらどうか。
>言葉の通り、劉邦の家臣として活躍することになるだろうと思う。
>はっきりいって能力的には石勒の方が上だが、
>石勒の前半生はほとんどが劉淵や劉聡の家臣であり、自立までが非常に遅い。
>出身の違いがあり、自立する勢力を持ち得ない存在である以上、劉邦の家臣となるのは必然である。
>本人の判断どおり、韓信や彭越のような活躍をするだろう。
>そして粛清を免れるだけの知恵があるかどうかは興味深いところである。

51 :
>次に、石勒が光武帝劉秀の時代に生まれたらどうか。
>劉秀は石勒ほどではないが、自立までがやや遅い。
>だから、その間に石勒は自己勢力を作ることができる。
>すなわち自立して争うことが可能である。
>石勒と劉秀が兵力を持って対決した場合、おそらく決着はつかない。
>これは別に劉秀の能力が低いというわけではなく、
>国というのは守る側が正しい政治と用兵を行えば、
>少々の国力差や能力差では奪うことができないからである。
>おそらく、隗囂よりやや上の活躍ができるだろう。
>隗囂ですら滅んだのはその死後であるし、三国時代の曹操が袁紹や劉表を平定したのもその死後である。
>ただし石勒は劉秀のような治世手腕はないので死後に国が滅びることになるだろう。

52 :
>劉邦の凄さというのは、その自立の速さである。
>他の時代の英雄であんなに早く自立した人物はいない。
>それは秦の崩壊という特殊現象が生み出したものである。
>我々が君主の能力を見る場合に、それが意味を持つのは、最初から10万の兵士と100万の国民を与えて対決するという想定である。
>その場合、劉秀>石勒>劉邦であり、劉邦はおそらく国を維持できない。
>劉秀と対等足り得るのは唐の李世民だけである。
>ただし、劉秀と李世民は対決を避けると思われる。
>どちらも国民生活を見る視点を持っているから、無用に死傷者を出し民衆を苦しめることはしないだろう。
>面白そうなのは、劉秀が劉邦の時代に生まれたならという想定である。
>おそらく劉秀は劉邦の家臣になると思う。
>劉秀は別に皇帝になりたいと思ったことは一度もない。
>誰も皇帝がつとまらないからやってあげただけである。
>劉邦がやるなら別に劉秀がやる必要などないのである。
>劉秀の能力などから考えるとその生涯は曹参のような感じだろう。
>武勇の将軍として活躍するも、不思議に粛清の危険には全くさらされず、最後は宰相にまでなりそのまま没するだろう。
>劉秀なら、劉邦との対決を全く作り出さず誤魔化しきってしまうだろう。
>さらに李世民が劉邦の時代に生まれたらどうか。
>この場合も李世民は劉邦の家臣としてはたらくだろう。
>そして、粛清の時に返り討ちにしてしまう。
>このケースでは、最後に天下を取るのは李世民である。

53 :
>劉秀の時代に李世民が生まれた場合はどうか。
>意外だろうが、劉秀の家臣として活躍すると思う。
>李世民は自立が非常に遅いからだ。
>劉秀の家臣では、騎兵戦の名手にして医術に長じた耿弇の能力や性格が、李世民とかなり似ている。
>おそらく耿弇のような生涯を送るだろう。
>李世民と劉秀の二人は、民衆生活を考えて天下をより近い位置にいる人に譲ってしまうので、基本的に争いにならないのである。
>結局、誰が一番かというのは、そのときの状況次第で逆転してしまう。
>それがまた歴史の面白いところなのである。

54 :
>>50-53は著名な光武帝ファンのblogから転載したもの。
俺は非常に頷く所が大きいが諸君はどうだろうか?

55 :
>>54
「石勒の政治手腕が低い」ってネタだよな?
確かに、実務能力や文化教養は持ち合わせていないが
それなりの識者を見出し、適切な業務を分投げるという意味じゃ十分合格ライン
常に民衆視点で政治を考えている政治姿勢は、さすが奴隷出身と驚嘆させられる程だ
例1:胡漢の民族的対立を融和すべく、統治制度に苦心し続けた
例2:出身地并州が連年飢饉に悩まされるのを、気候の所為だけとは考えずに自分の不徳として政治努力を惜しまなかった
10万の兵士と100万の国民与えた場合
確かに緒戦は劉秀が勝つと思うけど、石勒の復讐達成率と巻き返し能力を考慮すると
2戦目は間違いなく石勒が取るだろうね
そうしたら、お決まりの坑殺うん十万人コースで劉秀側の壊滅は免れ得ないだろう
逆に劉邦の場合は、それでも兵士やら国民やら補充してくれる蕭何がいるからなあ
それより何より「韓信に勝つ」という難関を突破できるかどうかが鍵だ

56 :
蕭何に匹敵する留守番には寇恂がいる。
耿弇の寡兵で大敵を打ち破る将才は韓信にも引けを取らない。
まあ、その仮定だと緒戦で得たアドバンテージを守り倒す戦略を取るように思われる。
仰るように石勒は逆境になるほど強いからな。
あと石勒自身は極端に優れていても、後継者や幕僚には恵まれていない感があるが。
持久戦に持ち込まれると後趙では持ちこたえられないだろう。
どうにかして石勒の代で会戦に引きずり出さなければ勝てない。

57 :
自立が遅いのと天下に野心を持っていないのとは別だと思うが。
李世民が誰かの臣下として生涯を終えるとは思えない。
石勒も劉邦ならば臣下になりたい、他の奴の下は嫌だと言ったんだろう。

58 :
後継者が育たないのは典型的なワンマン社長の会社

59 :
どっちも更始帝や李建成がミスらなければ、造反など考えもしない気がするが。

60 :
どっちも更始帝や李建成がミスらなければ、造反など考えもしない気がするが。

61 :
連投でスマソ。
人口百万で兵十万は多すぎだと思う。
一戦負けたら再起不能だと思うが。

62 :
石勒(と言うか後趙)は後継者に人を得なかったというより、民族対立の処方箋を
作れず、結果として胡漢の融和に王朝の体力というか生命力を奪われたことが、短命王朝に
終わった最大の理由だと思ってます…。
個人的に、石虎は暴君であっても暗君ではなかったと思うんですが、どうでしょうね。
政治手腕がなければ、鄴の繁栄を記した「鄴中記」が出るはずはないし…。

63 :
李建成がいつミスしたよ

64 :
>>63
李世民をキッチリ始末しなかったことがミス

65 :


66 :
石勒、最大の謎
なぜ、祖逖討伐の大将が桃豹なのか。兵力は四万と中途半端なのか
彼より勝る武将は自分自身、石虎、孔萇、虁安、張賓と五人はいる。
この敗北により祖逖と講和せざるを得なかったのだから、失ったものが大きすぎる
現に、石勒は祖逖に負けたと解釈するものが多い。
なぜなのか?誰か教えてくれ

67 :
支雄、郭敬、石生、石堪あたりでも、桃豹よりは善戦するだろう
俺の中では、桃豹って第一線での後方担当のイメージが強いんだが
河南方面の行政任されていたりと、決して無能ではないと思うけど
祖逖相手には格が落ちるねえ
まあ、舐めきっていたが結論でしょ(初期の北伐軍は内ゲバしてたし)
最終的には河南の大部分を?ぎ取られてるから、石勒にとっては失策だな
石勒本人が出ていくことが出来なかったのは、前趙対策のためだろうね
陳安の乱や前涼との国境紛争の間隙を突いての324年の河南侵攻だから
歴史的に言われてるほど、前趙と後趙の国力差は無かったと思う
孔萇は幽州に置かなきゃならんし、石虎は曹嶷潰しに回していたし
張賓は戦略参謀兼政策プランナーだから、第一線で使うには勿体無さ過ぎる
やはり、武闘派のキ安、支雄あたりで戦うべきだったのでは

68 :
>>62
石勒死後の内紛は、異民族間の対立と言うよりも、純粋に権力闘争的な側面が強い
中央(石勒直系)集権派と各方面軍ごとの分権派の対立が主だったから
後継者に関しては、最期まで石勒は悩み続けていたが、結果としては優柔不断だったことで
最良ではないにしろ、まずまずの選択だったと思う>>石虎簒奪
(内紛の火種を完全に摘み取ったおかげで、以後石虎健在の間は後趙は一枚岩となる)
そもそも、石虎暴君説はかなり怪しい話だからなあ(石勒時代よりも民衆の逃亡や叛乱の記述が少ない)
胡漢融和はその後の五胡政権でさえ完全には達成できなかったことだから
後趙のそれを否定するのは、先駆者として評価するならまだしも、少し酷じゃあないかい?

69 :
石勒VS朱元璋

70 :
負け将軍・麻秋
石虎ほどの男が彼を起用しつづけたのは中国五千年のなぞ

71 :
>>70
それは麻秋が勇猛果敢な武将であったから、石虎は生粋の猛将好き、あとロリコン
劉邦vs劉秀vs石勒の続きで
劉邦>劉秀と石勒が評している理由に、三功臣の存在が大きいと思われる
敵の主力は最強クラスに粘り強い劉邦が真正面に拘束しつつ
その間に、韓信が敵の手足、外縁部をガンガン削り取っていく戦略は無敵
外交面では史上最強の縦横家張良による手厚いサポート、
後方兵站面では丞相蕭何が反則なくらいに補給を続けてくれる
結局、劉邦軍団のこの鉄壁の態勢を崩すためには、
劉邦を撃破して、本拠地関中まで長躯怒涛の追撃戦を実行できる将軍
加えて、韓信を撃破、最悪でも足止めできる将軍が必要となる
劉邦を撃破できる将軍はいても、韓信を撃破できるヤツはほとんどいないだろうし
河南から一気に関中まで大進撃できるかどうかは、地形上かなり厳しい
劉邦(及びその一党)最強ってのは、あながちリップサービスでもないんじゃない?

72 :
その戦術は劉邦=劉秀、韓信=呉漢でも成り立つ
劉秀は名将だし、前漢組よりタチ悪い
劉邦>劉秀>曹操、司馬懿は結局劉邦フェチである石勒の好みだよ
成り上がりの劉邦に自己投影、その血を継いで統一した劉秀もエラス
劉漢奪った曹操シネ!しかも統一もできてねーよプゲラ

73 :
劉秀にとっての項羽って誰?

74 :
王朗じゃない?

75 :
麻秋が負けてばかりに見えるのは、勝ち戦についての明確な記述が
ないためだと思うんだけど。
麻秋の関わった戦役を挙げると、
1張駿が死んで張重華が継いだときの侵攻戦
2大夏侵攻戦
3枹罕侵攻戦
4晋興・広武・曲柳侵攻戦
だけど、1〜4の戦績は、晋書に書かれてる分だと
1金城太守の張沖が麻秋に降伏
2大夏護軍の梁式、麻秋に通謀
3張悛らの抵抗に遭い、功績なし
4謝艾・索遐の抵抗に遭う
になる。これだけだと勝ったのかどうか、はっきりとはわからない…でも、
3の時に大夏に軍を返したこと、4の時には枹罕を侵攻の拠点としたことが
書かれてるので、2・3では恐らく最終的には勝利を収めたと思われる
わけで。
だから麻秋は負けっ放しの将軍ではなく、勝ち負けを繰り返していたと
個人的には考えるのですよ。
でないと、「麻胡」と呼ばれて前涼の人々に恐れられていた、という
記録が残るはずもないし…。

76 :
>>72
劉秀軍団の本領は機動力生かした攻勢作戦だから、必ずしも劉邦の戦い方で戦う必要はない
各司令官たちを自己の指揮下でまとめて運用するもよし、複数の径路で攻勢をかけるもよし
あれだけタレント揃いの劉秀軍団なら、小細工なしで戦ったほうが絶対に強い
(劉秀自身、どちらかと言うと項羽に近いタイプ)
遊軍として転出させ、助攻正面を一任できるほど突出したNo.2が存在しないので
劉邦みたいな戦い方は向いていないんだろうが(する必要もなかったわけだし)
最盛期完全編成のガチで正面対決した場合は、やはり、項羽と同じで講和せざるを得ないんだろうな
>>75
麻秋の場合戦った相手が悪すぎる
謝艾はこの板でも無名に近いが、涼州において最盛期の中央勢力による併合戦を撃退した
将軍ってのは、中国史見回しても他におらんぞ(前涼が70年近くも独立していたことが奇跡だが)

77 :
>>75
関羽みたいなもんじゃない?
関羽も正史の戦績だけ見てたら魏や呉に対して重しが効くとは思えないけど、一定の威名があった。

78 :
返す返すも、趙書がないのが惜しまれますねぇ。
程遐とか石聡の評価がどうなるのか、個人的には気になるところ。
石聡は、後趙後期の河南方面司令官としてどの程度の将才があったのか
解りづらいのがなんとも。晋書だとあんまりいい評価ではないし…。

79 :
謝艾は将帥として以外にも、政治上の議論(戦争中の秋の郊祭をやるべきか否か)にも
参加してるのを見ると、推薦の言葉通り文武の才を兼ねていたんでしょうね。
涼州の謝氏はどうも寒族らしいので(元和姓纂にも載っていない)、もしかしたら
少年時代は勉学で身を立てようと悪戦苦闘してたのかな、と想像したりしてます。
謝艾が張重華の死後すぐ、張祚に警戒されて殺されたのが惜しまれますが…。

80 :
石勒の最盛期っていつなんだろうか?
個人的には、河北でグダグダしてたときが純粋に強かった時期だと思う
飛蝗の群れの如く、当たるを幸いに晋軍をことごとく喰らい尽くすような戦い振りには惚れる
幽州刺史を討ち取ったり、一介の盗賊がここまでするかといったくらいの大活躍
後年、襄国に落ち着いてからって小さくまとまりすぎな感じがする

81 :
>>80
やはり、王浚を倒した時じゃない?
15でいうところの七回戦が個人的に、八回戦が組織的に最盛期だと思う。
それからはライバル劉曜を意識し過ぎて、動きに精彩を欠いたんじゃないかな
そういう意味では劉備を意識し過ぎた曹操にも似ているような気がする

82 :
石勒VS劉裕

83 :
世界に誇る漢文文化に親子揃って貢献した文明人曹操様に軍閥の親玉程度の石勒が勝てるわけない。

84 :
つ 仏教

85 :
曹操も究極的には、鄴の軍閥でしかないわけだが。
しかも一臣下。
最近、よく曹操マンセーを目にするけど、曹操だけが特に優れているとは思えないけどな。

86 :
軍事の能力だけで評価すれば曹操よりも石勒の方が優れているような気がするけどな

87 :
>>85
>最近、よく曹操マンセーを目にするけど
蒼天航路の影響じゃねーの?
つーか曹操の戦下手は有名。

88 :
そんなもん出る前から評価は高かったですが

89 :
>>88
>そんなもん出る前から評価は高かったですが   
んなぁことは前提であの本の影響でさらにマンセー度がUPしてんじゃねーのって言ってんの。

90 :
英雄とか政治家とかは別にして、男として
石勒>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>曹操
は同意。司馬懿は論じるにも足らんな

91 :
蒼天航路なんか読んだら逆に嫌いになっちまうぜ

92 :
>>91
最初の何巻までかは、曹操かっこよくてよかったんだけど
だんだん、読んでてハラたってきた、おれは。
演義バカにしぃの諸葛亮バカにしぃので、そこまで曹操マンセーするか、とか。
あれもひとつの見方だろうけどさ。

93 :
>>85-92
まあまあ、そんな曹操よりも、我らが石勒さまの方がはるかに偉大なのが現実だ。
これには、この板の住民ほとんどが認めている。(三国志しか知らない人以外)
昔の五胡スレには『曹操がいれば、五胡時代はすぐに統一できた』などと言っていた
人がいたが、本人は今頃、自分の発言を恥ずかしいと思っているはずだ。
自分は総合能力的に、曹操=桓温だと思っている。
彼が西晋に生きていても、司馬乂や苟晞より少しましな活躍で終わったのでなかろうか
でも、
>>75
>>77
麻秋=関羽は、関羽を過小評価し過ぎ。
当代最大軍閥の重将・顔良、于禁を倒した関羽と麻秋ではさすがに格が違うでしょう。
麻秋は夏侯淵や楽進に近いんじゃない。
大軍は扱えないが、先鋒や遊軍として使えば結構使える武将。
彼程度しか大軍を預けられる武将がいなかったのが、石勒と石虎の最大の差だよな

94 :
曹操、司馬一族以上の実力持ってて統一できない石勒しょぼすぎwwwwww

95 :
>>94
部族数100人ほどの小部落の出身(母体の羯族ですら少数民族)
20代後半に奴隷として売り飛ばされる
地盤(地縁、血縁のコネほぼ皆無)、看板(権威からは程遠い)、鞄(金があったら奴隷にならん)
軍閥(政治家)として立つに必要な条件を持ち合わせていなくて、天下半分までもぎ獲ったんだから
曹馬なんぞ格下扱いして然るべきじゃない?
普通の異民族武将であれば、王世充あたりの成り上がりでも大したものなんだからさ
まあ、劉邦が身分の壁をぶち破っていてくれたおかげで中国においては天下人の間口が広がった
わけだから、尊敬するのも当然の成り行きだわな

96 :
>>94
こういうこと言ってるのは、たまに見かけるが釣りだろうか。
それとも真剣にそう思っているのだろうか。
真剣に思っているとすれば、分析が足りないか、シミュレーションゲームレベルでの受け取り方なんじゃないか。

97 :
釣りか無知 スルー推奨

98 :
この石勒の比較論。
始皇帝、項羽、劉備、孫権が入っていたらどういう評論になっていたか激しく気になる。

99 :
石やんに匹敵するのは、
中華史の中でも劉邦、劉秀、劉裕、朱元璋 ぐらいだろう

100 :
つ 鉄木真
って、超えちゃマズいのか…

101 :
つ李世民

102 :
俺はふけんのほうが好きだな^^

103 :
 石勒十八騎って、全員の名前って判明してんの?

104 :
>>103
王陽、夔安、支雄、冀保、吳豫、劉膺、
桃豹、逯明、郭敖、劉徴、劉寶、張曀僕、
呼延莫、郭K略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六
やっぱり、ネット上で翻訳がないのは痛いな

105 :
>>104サンクス
 支雄、桃豹とかは名前聞いたことある。奴隷時代に知り合って、従っていく過程とか考えると面白そう。

106 :
初期の頃の石勒腹心は
謀主・張賓
股肱・刁膺、
爪牙・夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明
だったらしい
(資治通鑑より)

107 :
>>106
311年の葛陂での長期滞陣による疲弊時に、張賓が名実共に「右腕」になるんよね
それまでは、軍略自体にはあまり口出ししていなかったみたいだけど(謀略、政略の助言はあった)
段部や王浚との戦いでは、ビシバシ妙手指してくるんだから、「何で、はじめから重用しなかったの?」という疑問符はつく
仏図澄も一応参謀とか政治顧問になるんか?

108 :
>>108
 仏図澄は、顧問格だったと思う。予言とかをしたりして、戦いにも参加したらしい。
 石虎にも重用されてたらしいし。

109 :
石やんと慕容の恪ちゃんならどっちが強えの?

110 :
恪ちゃん

111 :
それじゃあ劉家の千里駒がもしアル中じゃなかったら
328年に洛陽を攻められた石やんは千里駒を撃退することは厳しかったの?

112 :
>>111
 千里駒のアル中は筋金入りだから、328年のときじゃなくても石さんに
は勝てないんでないか?
 アル中じゃなくても、勝てないかもしれない。千里駒には、共に事を諮る
家臣がそばにいないから。

113 :
西晋を滅亡に追い込んだ劉曜では、結局江南の東晋と連携して石勒に圧力を加えることは不可能に近いから
劉曜正面の戦いに集中しやすい石勒に比べると、後背に前涼を背負っている分だけ相当不利。
まあ、そもそも本拠地を青天の霹靂によって失陥した上、宗家は滅亡、人民と領土は先手を打った
石勒に掠め取られ、仕方なく征服したばかりの関中に引き籠もって流遇政権を運営していかなければ
ならなかった劉曜の苦労は、想像を絶する。
キン準の乱を受けての皇位継承は、はっきり言って貧乏籤もいいところなのに、
短期間で関中の民衆の心を捉え、国を富ませ、たびたび河南へ侵攻できるくらいまで国力を拡大
させているんだから、こと統治手腕に関しては、実は十六国君主随一だと思ってる。
石勒は凶運、劉曜は不運としか言いようがない、決して幸福にはなれない。

114 :
>>112-113 サンクス
ブレーンというか知恵袋な人物がいないんすか?・・・劉曜
自身はかなり有能なんだとは思うだけどな・・・千里駒

115 :
劉曜と石勒が交わした重門の誓いって何を誓ったんだろう。捕らえられた
ときに劉曜が石勒に言ったらしいが。おそらく、仲はよかったんではないか
なと思ってる。劉曜が使者を処刑するまでは、けっこううまくいってたと思
ってるんだが。

116 :
>>114
小姑みたいな政策ブレーン游子遠、勇猛果敢な従弟劉岳、
前涼を脅かした庶長子劉胤、匈奴貴族で洛陽攻略の先鋒呼延晏など
ほかにも劉淵時代からの漢人官僚や匈奴貴族はそこそこいたはず。
蒲洪や姚弋仲も劉曜健在時は前趙に従っていたりする。

117 :
ネタがないと、落ちるな
ところで、今『張賓伝』の翻訳をやっているんだが、その始めの方。
 張賓字孟孫,趙郡中丘人也.父瑤,中山太守.賓少好學,博涉經史,不為章句,闊達有大節,
常謂昆弟曰:「吾自言智算鑒識不後子房,但不遇高祖耳.」為中丘王帳下都督,非其好也,病免.
 張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しく、文章は作らず、闊達でおおいに節度があった。
いつも弟にいうには「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」と。
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
これでいいかな?『章句』の意味が自信ないんだが

118 :
>>117
「章句」は「離章辨句」の略で、一字一句、細々と研究・調査するようなこと。
訓詁学を指してると思ってもらえば。
「不為章句」という言い回しはよく出てくるけど、
「多くの書物を読んでいて、学識は広いけれど、
大意を掴んだところでキリを付けており、
専門的な学者のように文献自体の研究はしなかった」
というようなこと。

119 :
>>117
レス、ありがとう。助かりました。
それでは、これが訳↓
 張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
これからも細々と漢和辞典を見ながら翻訳するつもりなので、よかったらまた協力してね

120 :
その勢いで晋書を完訳していただけたらすごく有難いんですけど
やっぱ大変ですよねえ…

121 :
ちゃんとレスもあったので浅学不才は恥じず、また、翻訳をやらせてもらいます。
専攻は史学でも漢文でもなかったので、諸兄らに笑われるかも知れないですがご容赦を
 及永嘉大亂,石勒為劉元海輔漢將軍,與諸將下山東,賓謂所親曰:「吾歷觀諸將多矣,
獨胡將軍可與共成大事.」乃提劍軍門,大呼請見,勒亦未之奇也.
後漸進規謨,乃異之,引為謀主.機不虛發,算無遺策,成勒之基業,皆賓之勳也.
及為右長史、大執法,封濮陽侯,任遇優顯,寵冠當時,而謙虛敬慎,開襟下士,
士無賢愚,造之者莫不得盡其情焉.
肅清百僚,屏絕私昵,入則格言,出則歸美.
勒甚重之,每朝,常為之正容貌,簡辭令,呼曰「右侯」而不名之,勒朝莫與為比也.
(以下、翻訳へと続く)

122 :
>>121
四つほど失敗しているな
機不虛發→機不虚發
而謙虛敬慎→而謙虚敬慎
屏絕私昵→屏絶私昵
每朝→毎朝
で、翻訳
 永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、寵愛は当時で一位であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、士大夫は賢愚となく
百官を静め、コネを絶ち、幕下に入ってからは名言を放ち、
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒は
(以下、疑問点に続く)

123 :
分からないところ
@『造之者莫不得盡其情焉』
A『出則歸美』
B『簡辭令』
C『朝莫與為比也』
自信がないところ
@『提』は『携え』でいいのか
A『規謨』は『策略』でいいのか
B『任遇優顯』
C『入則格言』
以上です。よかったらご教授下さい。

124 :
> 造之者莫不得盡其情焉
「造之者」悉くその情を得ざるなし。
> 朝莫與為比也
石勒の朝廷に比する者なし。

かなあ?
「造之者」が良くわからん。

125 :
造之者=之と造(あ)う者は
劉備−諸葛亮と似たような関係だけど
君主−謀主のような関係が魏晋期には流行っているというか、頻繁に登場するけど
ナンバー2がこれほど脚光浴びる時代も珍しいよな

126 :
あまあ、そんな曹操よりも、我らが石勒さまの方がはるかに偉大なのが現実だ。
↑ではなんで中国の半分も切り取れなかったんですか。
曹操よりずっと、優位な立場にいたのに。
これには、この板の住民ほとんどが認めている。(三国志しか知らない人以外)
↑馬鹿ばかりだからな。
>昔の五胡スレには『曹操がいれば、五胡時代はすぐに統一できた』などと言っていた
>人がいたが、本人は今頃、自分の発言を恥ずかしいと思っているはずだ。
↑曹操は鳥丸、鮮卑を討伐しました。

127 :
↑馬鹿が湧いたな
石勒が曹操より優位な立場にあったと言ってる時点で知識のなさ露呈
勉強しなおして出直してきなさい

128 :
石勒が曹操より優位な立場にあったと言ってる時点で知識のなさ露呈
勉強しなおして出直してきなさい
↑曹操は5000の兵士か集められなかった。
袁紹や董卓など巨大な敵がいたが、石勒はいなかった。
曹操は献帝をうまくつかったが、石勒は何もしていない。
領土拡大率は曹操が圧勝している。

129 :
劉曜も祖逖も知らんのか…

130 :
>>128は石勒のことを何も知らないんだろ…

131 :
石勒の出自には触れないのかな…?
しかしおもしろいヤツが最近繁殖してるな。

132 :
>>128
>曹操は献帝をうまくつかったが、石勒は何もしていない。
石やんは曹操みたいに献帝をの威光を使うなんてせこい真似などせず
自力で頂点まで上り詰めたのだがその事実をご存じ?
つーか偉そうに語ってますが恥ずかしくないの?

133 :
>>128
ただの馬鹿だと思ってたが
真性の馬鹿だったのね

134 :
放置してよ なんとかにつける薬はないって言うじゃん
翻訳がむばってる人 続き待ってるよ

135 :
翻訳をやっているものだが、126に煽られたのを自分のレスだ(^^)
まあ、126は『蒼天航路』ばかりでなく、『まんが 中国の歴史』から勉強し直してね
それが終わったら、陳舜臣の『小説 十八史略』とか『秘本三国志』とか『曹操』で
活字に慣れてね。曹操びいきだし、漢字もそれほど多くないから、君でも読めるはずだ。
それから、陳舜臣『中国の歴史』と宮崎市定『大唐帝国』を読んでまた同じことが言える
か考えるといい。
それで、翻訳なんだが、
>>124>>125 レスありがとう
まだ、不明な点が揃っていないけど、おかげでなんとか意訳できるレベルにまで達せた。
大学の先生方すら解釈が分かれる正史の翻訳だ。完全なものは始めから求められない
のは当たり前。今回、できあがったのをお見せする。
>>120 一応、石勒の本伝までは翻訳するつもり(2割ぐらいはできている)
   最後までいけるかは皆様の協力無しには無理です。ご協力をお願いします。

136 :
それで、翻訳↓
 永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。
石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、簡略に「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
※『入則格言』『出則歸美』は『入』は朝廷の中、『出』は朝廷の外と訳。
 『歸』は『帰休』の意味合いにした
※『簡辭令』は「右長史、濮陽侯」を「右侯」と約しているから『簡略に』で

137 :
で張賓伝、最後の部分。
及卒,勒親臨哭之,哀慟左右,贈散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司,諡曰景.
將葬,送于正陽門,望之流涕,顧左右曰:「天欲不成吾事邪,何奪吾右侯之早也!」
程遐代為右長史,勒毎與遐議,有所不合,輒歎曰:「右侯捨我去,令我與此輩共事,豈非酷乎!」因流涕彌日.

138 :
それで翻訳。
彼が死んだ時、石勒は自ら哭して、側近に哀しみを告げた。
散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司を贈り、諡を『景』とした。
正陽門において葬る際、石勒は眺めて、涙を流した。
側近に語るには「天は私が大事を成すのは望んでいないのか。なぜ、私から右侯をこんなに早く奪ったのだ!」。
程遐が代わりに右長史になった。石勒が程遐と議論し、合わないところがある度に、嘆いた。
「右侯は私を捨てて去ってしまい、こんな奴らと大事をさせようとしている。なんという残酷なことだ!」。
そのため何日も、涙を流した。
『彌日』があまり自信ないけどどうかな?
よろしければ諸兄らのご教授、お願いします。

139 :
翻訳をやっているものだが、126に煽られたのを自分のレスだ(^^)
まあ、126は『蒼天航路』ばかりでなく、『まんが 中国の歴史』から勉強し直してね
それが終わったら、陳舜臣の『小説 十八史略』とか『秘本三国志』とか『曹操』で
活字に慣れてね。曹操びいきだし、漢字もそれほど多くないから、君でも読めるはずだ。
それから、陳舜臣『中国の歴史』と宮崎市定『大唐帝国』を読んでまた同じことが言える
か考えるといい。

↑アホ丸出しだ。中国の歴史の中では三国時代が圧倒的にレベルが高く、そして知名度も高い。
曹操は10倍の軍勢を打ち破っていった。石勒とか知っている人間は日本ではほろんどいないのは実力差としか言いようがない。
石勒はせいぜい当時の中華の10分の4くらいしか支配しておらず、実質天下を取った曹操とは比べることすら出来ない。
曹操は漢の巨大な権威と戦わなければならなかったが、石勒はそれを切り開いたのは前任者がいるので曹操のような改革者と比べるとどうしようもない。

140 :
大家好,我是中国人........

141 :
>>139
曹操は漢の巨大な権威を神輿として担いでしまったがゆえに、その旧弊に悩まされてしまったわけで
袁紹のように、名門士大夫による新王朝路線を選択できていれば、あそこまでどつぼに嵌らなかった
と思うぞ(まあ、曹操がその選択肢を選べたかどうかは微妙だが)
逆に石勒は「権威」と最も縁遠い人物だろ
劉淵と組んだのも、権威という面ではほとんどプラスになってないし(逆賊という汚名をアップさせただけ)
劉コンからのスカウトや王浚からの招聘にも、全く心動かされていない
奴隷、少数民族というハンデを苦にもせず、ひたすら既存権益を破壊していく存在が
漢朝四百年のしがらみに悶え続けた曹操に劣るんかね?

142 :
>>139
>アホ丸出しだ。
それオマエ
>中国の歴史の中では三国時代が圧倒的にレベルが高く、そして知名度も高い。
それ三国志演義の影響w
ちなみにオマエもその一人www
後漢末〜三国を圧倒的にレベルが高いなんて言ってたら、笑われるぞ。
唐や明とかの立場はどうなるんだよ…
奴隷から身一つで皇帝まで登り詰めた石勒と大宦官の孫であり
スタートの時より比較的有利な立場にあった曹操とならどっちが有利だ?
あと劉家の千里駒と呼ばれた劉曜も東晋の名将祖逖も大したことないんですか?ああっそうですか。

あのさーせめて小説十八略史ぐらい読んでから語ることを俺も奨める。

143 :
あんまりスレとは関係ないが
本場中国には、石勒の母親が仙女で主人公の小説があると聞いたが
一体なんでそんなマイナーな人物を主人公にした小説が描かれたのか謎だ
まあ、劉曜が劉備の子孫というトンでも設定の演義もあるみたいだが

144 :
>>141
相手にしちゃ駄目。こないだから出没してる痛い子だから
>>136
「毎朝」は「朝する毎に」ですね。「朝議のたびに」「朝見するたびに」、
この場合、どちらでも通らないことはなさそうだけど。
ひっくるめて「入朝するたびに」が無難かなあ。
「朝」=morningで使うことは少ないと思うので。
後、「簡辞令」は「辞令を簡す」。前の「正容貌」が「容貌を正す」であるのの対句。
この場合の「簡」は「簡単」ではなくて「選ぶ」の意味の方。
「辞令」は現代日本語の「辞令」じゃなくて「言葉遣い」。
「適切な言葉遣いをしていた」・「適切な言葉を選んで発言した」という感じ。
魏晋〜唐頃までの文章は対句・微妙に装飾された引用・独特の用語が
多くて大変ですが、上手いこと乗り切ってください

145 :
>>144
定期的に石勒と他の時代の傑物との比較、煽りレスあるけど
個人的には、あんまり好きじゃないんだよね
結局、天下は引っ掻き回すだけ引っ掻き回して統一できなかったし、
大虐殺者の汚名は免れ得ないわけだし
貶める気になれば、いくらでも貶められる悪党という一面を決して誤魔化してはいけないと思う
そういう意味では、手放しで絶賛できないし、誰某よりも格上と評価することもできない
(まあ、当の本人が歴史上人物の比較論をぶちかましているから、何とも言えないんだが)
誰かが言っていたけど、ケンシロウのいない北斗の拳というのは、ホント正鵠を射ているよな

146 :
東晋五胡十六国無双
南北朝無双

147 :
>結局、天下は引っ掻き回すだけ引っ掻き回して統一できなかったし、
大虐殺者の汚名は免れ得ないわけだし
そういう点では似てるよね曹操と石勒って

148 :
>>145
確かに自分も言い過ぎたと思うし、今度から自粛するけど。
五胡十六国がそんな時代だからこそ、曹操や魏・晋の連中が過大評価されているのに
腹が立つんだよね。
石勒だって「劉邦になら仕えたい」と言っているし、乱世を求めていたとしても
心の底から大虐殺者になり、中国を征服しようと思っていなかったと思う。
トジュウ政策のせいで無理矢理、慣れていない農耕に従事させられ、
ずるがしこい漢人に搾り取られ、反乱か飢え死にかの二者択一にまで迫られ、
さらに司馬一族の体のいい使い捨ての軍事力にされた胡人たちばかりを責めるわけには
いかないだろう。復讐と独立を求めても仕方がない。
歴史の流れで仕方なかったかも知れないけど、やはり五胡十六国時代はひどすぎる
でも、
ケンシロウ=祖逖じゃ駄目?(略奪もしてたけど) 
石勒=サウザー
劉曜=シン
石虎=カイオウ
ということで

149 :
>>148
徙戎=シジュウ、徙民=シミンだな
祖逖は決して正義の味方ではないな、高潔な義士でもない
乱世が来れば思う存分出世できると歓喜する好戦主義者だし
戦争できるだけの体力がないにも関わらず、北伐の兵旅を発して、結局は略奪ばっかやってるし
命令系統は無視するわ、友軍であっても攻撃するわ
ぶっちゃけ自分の名誉や勢力の拡大、才能を誇示するために戦争しているような人間だよ
まあ、そこが魅力と言えば魅力だが

150 :
>>149
まあ、確かに無理があると思うが
ttp://www2.ktarn.or.jp/~habuku/soteki.htm
これを見る限りそこまで言うのも極端と思われ。
徙戎=シジュウなのね。それは勘違いしていた。すまん。m(_ _)m

151 :
>>150
司馬乂が謀殺された時点で、祖逖自身が司馬家を見限っていたようにも見える。
(その後の各派閥からの招聘も悉く断っているし。)
二流以下の家格の自分の献策を気前良く採用してくれる貴公子だもんな。
性格は良いし、統率力も高く、何よりも人望があった。
東西両晋期において、東海王越の裏切りブックはいろんな意味でターニングポイントだったと思う。

152 :
もし東海王越が裏切らず、長沙王乂があのまま政権を掌握してたら、
西晋王朝はいったいどういう風になってたんだろうか……。
まぁ、長期的な衰退傾向は避けられず、どっちみち南渡を余儀なくされそうだけど、でも、
少なくとも、あそこまでみっともないこと(八王の乱末期)にはなってなかったんじゃないか。

153 :
曹操は漢の巨大な権威を神輿として担いでしまったがゆえに、その旧弊に悩まされてしまったわけで
袁紹のように、名門士大夫による新王朝路線を選択できていれば、あそこまでどつぼに嵌らなかった
と思うぞ(まあ、曹操がその選択肢を選べたかどうかは微妙だが)

曹操は、旧弊になやまられるどころかうまく利用し天下への架け橋とした。


逆に石勒は「権威」と最も縁遠い人物だろ
劉淵と組んだのも、権威という面ではほとんどプラスになってないし(逆賊という汚名をアップさせただけ)

馬鹿だからな
劉コンからのスカウトや王浚からの招聘にも、全く心動かされていない

裏切り
奴隷、少数民族というハンデを苦にもせず、ひたすら既存権益を破壊していく存在が
漢朝四百年のしがらみに悶え続けた曹操に劣るんかね?

しかし中原、華北のみしかとっておらず、国はすぐ滅びた。
曹操は後世で参考にされたが、石勒は参考にされていない。

154 :
>>153の孔明様最高さんへ質問
>曹操は後世で参考にされたが、石勒は参考にされていない。
曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるんだい?
具体的に例を挙げて下さいよ。
あと石勒について何から情報を得たんですか?
本当に石勒のこと知ってます?
>>139さんの奨めてくれた書籍は読みましたか?

155 :
曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるんだい?
↑唐の軍略書、孫武、詩、易姓革命、酒

156 :
李衛公問対を指してるのかどうかは知らないが、これを「唐の軍略書」と言う人を
初めて見たんだぜ
後、孫武や詩や易姓革命や酒が曹操以後のことだったなんて初めて知ったんだぜ

157 :
曹操は後漢朝の一臣下で終ったのだが…

158 :
李衛公問対ではどっちかというと曹操は馬鹿にされてない?

159 :
兵学者や発明家や詩家としては一流
将や政治家としては二流
天下人としては三流

160 :
>>155の孔明様最高さん

↑唐の軍略書→李衛公問対?何をどう参考にしてるの?
むしろ馬鹿にされてるって言ってますが…
孫武→孫子の研究家杜牧のこと?
詩→詩経の存在は?楚の屈原は?
易姓革命→夏王朝は殷王朝へと殷王朝は周王朝へとこれは易姓革命じゃないの?
つーかこの事実は無視?
酒→夏の傑王ですら既に飲んでますが…
あと中国に限らず古代ローマや古代エジプトにも既に酒は存在してますが…
だから曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるか人物名などを具体的に教えて下さいよ。
あとしつこいようだけど石勒について何から情報を得たんですか?
本当に石勒のこと知ってます?
>>139さんの奨めてくれた書籍は読みましたか?
ちゃんと答えてよ(ry

161 :
<南朝>
1:呉
2:東晋
3:宋
4:斉
5:梁
6:陳
<北朝>
1:魏
2:西晋
3:後趙
4:前秦
5:北魏⇒東魏、西魏
6:北斉、北周

162 :
最近湧いてるお馬鹿ちゃんって
五胡十六国時代の歴史なんかまるで知らず
三国志の知識も横山光輝の三国志を読んだ程度で語ってる気がするのは気のせいか?

163 :
↑唐の軍略書→李衛公問対?何をどう参考にしてるの?
むしろ馬鹿にされてるって言ってますが…
↑魏武は何度も出てきている
孫武→孫子の研究家杜牧のこと?
↑第一人者は曹操
詩→詩経の存在は?楚の屈原は?
↑国家文化は曹操
易姓革命→夏王朝は殷王朝へと殷王朝は周王朝へとこれは易姓革命じゃないの?
↑曹操のやり方がスタンダート

酒→夏の傑王ですら既に飲んでますが…
あと中国に限らず古代ローマや古代エジプトにも既に酒は存在してますが…
↑曹操の発明手法が現在でも取られている
だから曹操はどの時代の誰がどの様に参考にしてるか人物名などを具体的に教えて下さいよ。
↑各王朝の太祖

164 :
魏武略孫子は別に評価してもいいけどな
あとは詩人としてか。評価は文化人としての評価だけだな>曹操
政治的には曹丕の方が功績がある。
仏教の流入という点においては石勒のはたした役目は大きい

165 :
>>162
気のせいじゃないよw
あのお馬鹿ちゃんは三国志演義が正史より信憑性があるんだって。
なんか解答も的外れでしかも抽象的過ぎて答えになってないし…

166 :
仏教は儒教、道教により駆逐されました。

167 :
つ 南朝

168 :
>>曹操のやり方がスタンダート
曹操はいつから皇帝になったんだ?
>>各王朝の太祖
知っている限りでは、少なくとも後周太祖郭威、北宋太祖趙匡胤は、曹操なぞ参考にしていない。

169 :
とりあえず、一週間ぐらいたったので翻訳の続き。
>>144 ご指摘ありがとうございました。ただちに、修正いたします。
自分としてのルールは
@公開は一回に一段落。(あまり訳に問題がないと思った時には二段落)
A一週間程度待ち、指摘があるのを待つ
B指摘があった場合、その修正文を直す。もちろんさかのぼって指摘された文も直す
 次回、まとめて修正文もだす。
でいこうと思うのでよろしく

170 :
で、張賓伝の全訳
 張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。
若くして学を好み、 経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、
また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。
「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
 永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡将軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、
朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、入朝するたびに、常に身だしなみを整え、
言葉遣いを選んで「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
 彼が死んだ時、石勒は自ら哭して、側近に哀しみを告げた。
散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司を贈り、諡を『景』とした。
正陽門において葬る際、石勒は眺めて、涙を流し、側近に語った。
「天は私が大事を成すのは望んでいないのか。なぜ、私から右侯をこんなに早く奪ったのだ!」。
程遐が代わりに右長史になった。石勒が程遐と議論し、合わないところがある度に、嘆いた。
「右侯は私を捨てて去ってしまい、こんな奴らと大事をさせようとしている。なんという残酷なことだ!」。
そのため何日も、涙を流した。

171 :
で、いよいよ『石勒伝』
(なお、晋書の本文では『注』がうってあるがほとんで文字の異同なので削除した)
石勒上
石勒字世龍,初名※,上黨武郷羯人也.其先匈奴別部羌渠之冑.祖耶奕于,父周曷朱,一名乞翼加,
並為部落小率.勒生時赤光滿室,白氣自天屬于中庭,見者咸異之.
年十四,隨邑人行販洛陽,倚嘯上東門,王衍見而異之,顧謂左右曰:
「向者胡雛,吾觀其聲視有奇志,恐將為天下之患.」馳遣收之,會勒已去.
長而壯健有膽力,雄武好騎射.曷朱性凶粗,不為群胡所附,毎使勒代己督攝,部胡愛信之.
所居武郷北原山下草木皆有鐵騎之象,家園中生人參,花葉甚茂,悉成人狀.父老及相者皆曰:
「此胡狀貌奇異,志度非常,其終不可量也.」勸邑人厚遇之.
時多嗤笑,唯鄔人郭敬、陽曲ィ驅以為信然,並加資贍.勒亦感其恩,為之力耕.
毎聞鞞鐸之音,歸以告其母,母曰:「作勞耳鳴,非不祥也.」

172 :
二つ失敗。
悉成人狀→悉成人状(本当は旧体字だけど)
此胡狀貌→此胡状貌
石勒伝上
石勒、字は世龍。初めの名は背(つつみがまえ付き)といった。上党武郷の羯族の人である。
先祖は匈奴の別部である羌渠族の冑である。
祖父の名を耶奕于といい、父の名を周曷朱もしくは乞翼加といった。
ともに少数部落の族長で、石勒が生まれたときには赤光が部屋に満ち、白気が天から中庭に降りてきた。
十四歳の時、邑の人に従い、洛陽にまで商売に来て、上東門に寄り掛かり鼻歌を歌っていた。
その時、王衍が彼をただ者でないと見て、側近を見て言った。
「向かいにいる胡人の子供は、私が声・姿を見るにたぐいまれなる志がある。
天下に災いになることが恐ろしい」。
側近をつかわし、捕らえようとしたが、石勒はすでに去っていた。
長じるに体は丈夫で力・度胸はあり、武芸に優れ、騎射を好んだ。
周曷朱の性格は凶暴でおおざっぱで、胡人たちが従わず、いつも自分の代理として
石勒に(部族を)統括、監督させた。部族の胡人たちは石勒を信愛していた。
居住していた武鄉北原山は鉄騎を生み出すところで、庭からは人参が生え、花や葉は生い茂り、みな
石勒とあった長老たちは皆、こういった。「この胡人の容貌はただ者ではなく、志が常人とは違う。
死ぬまでにどれほどの人間になるか、想像もできない」。
(長老たちは)邑の人に厚遇するように勧めたが、その時はほとんどのものが笑い飛ばした。
ただ鄔人の郭敬と陽曲のィ驅だけが、長老の言葉に同意し信じ、(石勒に)資金をめぐんだ。
石勒は恩を感じ、二人のために全力で畑を耕した。
その度に鐘の音が聞こえ、帰ってから母のそのことを告げた。母は言った。
「苦労して農作業をして耳が鳴るのは、悪いことじゃないよ」
※『悉成人状』が訳せません。(-_-)
それでは皆様のご教示をお待ちしています

173 :
あと、翻訳が無事、完成まで至ったら、永久に残すことを考えたのだけど……
「解體晉書」のサイトに出したら、著作権が自分のものになってしまうんだよね……
それも変だし、そんなつもりもないので、なんか方法ないかなあと思っています。
それはともかく、ご協力をお願いします。先は長いです。

174 :
Nida使うと、すべての漢字がちゃんと表示されてる。
你好も안녕も表示される。

175 :
所居武郷北原山下草木皆有鐵騎之象,家園中生人參,花葉甚茂,悉成人状.
居する所の武郷の北原の山下の草木には皆、鉄騎の象有り。
家の園中に人参を生み、花葉は甚だ茂り、悉く人状を為す。
双方とも凶兆と思われまつ。下のは「漢書五行志」等々に凶兆として出てる。
植物が人型になるのは、王の徳が衰えて、反乱が起こる兆し、とのこと。(京房易)
単純に「人型・人間の形になった」で良いと思う。
上のは、ネットで検索できるものと太平御覧を流し見たが、特に見つからなかった。
一方だけが凶兆ってこたあ無いので、多分、凶兆。「晋」書の記述だしね。
石勒別伝だと、地中から顔を出してる石の影が鉄騎状になったとのこと。
あと、細かいことだけど、原=高原台地というパターンが多い。五丈原とかね。
後、わかってることだったら失礼しましただけど、中央研究院とかの検索機能を
利用して用例を一通り調べるだけでも、結構、解決する問題は多い。
歴史関係なら二十四史と十三経、先秦諸子、通典、芸文類聚あたりは
一通り調べる癖をつけると、幅が大きく広がると思うよ。一応、無料だし。

176 :
>>175
ありがとう。勉強になる。今度から留意してからくる
>>144
ちゃんと礼をしておくのを忘れたな。
「毎」=たびたび
「朝」=朝廷
 なのですね。
「簡辞令」も勉強になりました。まだまだですな
>>143
遅レスだけど
>石勒の母親が仙女で主人公の小説
確かにある。ダイジェストだけど、日本語翻訳もある。
「後三国志」(同名の小説もあるけど違うから気をつけて)
最後に洛陽を落とし、石勒の母が石勒に天下を任せ、天下太平となる(-_-)
歴史無視かよ……(^^;)
>劉曜が劉備の子孫というトンでも設定の演義
これも日本語訳がある(漢文書き下ろし文だが。タイトルは忘れた……)
子孫関係は
劉淵……劉禅の子
劉曜……劉ェの子
石勒……趙雲の孫
王弥……王平の子か孫(忘れた)
呼延晏……魏延の子か孫
張賓……張飛の孫
他にも蜀漢子孫の武将が多数、劉淵の漢軍に加わるという設定
設定はトンデモだが、意外としっかりしていて途中からは歴史通りに動く。
石勒、劉曜の天下分け目直前で終わり。作者、投げたのか……
見所は架空の晋漢大決戦。
漢は劉聡を大将に、張賓を軍師に、石勒、王弥、劉曜、呼延晏、孔萇ら。
晋は成都王・司馬頴を大将に、陸機が軍師。
武将に司馬乂、司馬越、王浚、苟晞、劉琨、祖逖、張軌、馬隆、陳敏、劉弘、陶侃、李矩ら
が戦う。
架空でこんな面倒くさい記述をする作者の根性には恐れ入る。
機会があったら、このシーンだけでも見て欲しい。

177 :
それでは175氏の指摘により、修正したので
で再掲載。
石勒、字は世龍。初めの名は背(つつみがまえ付き)といった。上党武郷の羯族の人である。
先祖は匈奴の別部である羌渠族の冑である。祖父の名を耶奕于といい、
父の名を周曷朱もしくは乞翼加といった。
ともに少数部落の族長で、石勒が生まれたときには赤光が部屋に満ち、白気が天から中庭に降りてきた。
十四歳の時、邑の人に従い、洛陽にまで商売に来て、上東門に寄り掛かり鼻歌を歌っていた。
その時、王衍が彼をただ者でないと見て、側近を見て言った。
「向かいにいる胡人の子供は、私が声・姿を見るにたぐいまれなる志がある。
天下に災いになることが恐ろしい」。
側近をつかわし、捕らえようとしたが、石勒はすでに去っていた。
長じるに体は丈夫で力・度胸はあり、武芸に優れ、騎射を好んだ。
周曷朱の性格は凶暴でおおざっぱで、胡人たちが従わず、
いつも自分の代理として石勒に(部族を)統括、監督させた。
部族の胡人たちは石勒を信愛していた。
居住していた武郷の北側の台地にある山の草木はみな鉄騎のような形をしており、
家の庭に生えた人参は花葉がとても生い茂り、全て人間のような形をしていた。
石勒とあった長老たちは皆、こういった。
「この胡人の容貌はただ者ではなく、志が常人とは違う。
死ぬまでにどれほどの人間になるか、想像もできない」。
(長老たちは)邑の人に厚遇するように勧めたが、その時はほとんどのものが笑い飛ばした。
ただ鄔人の郭敬と陽曲のィ駆だけが、長老の言葉に同意し信じ、(石勒に)資金をめぐんだ。
石勒は恩を感じ、二人のために全力で畑を耕した。
その度に鐘の音が聞こえ、帰ってから母のそのことを告げた。母は言った。
「苦労して農作業をして耳が鳴るのは、悪いことじゃないよ」

178 :
で、続き
>>174
ご指摘ありがたいがうまくいかなかった……。とりあえずこのまま行く。
(だから、状は本当は旧体字ね)
 太安中,并州飢亂,勒與諸小胡亡散,乃自雁門還依ィ驅.北澤都尉劉監欲縛賣之,驅匿之,獲免.
勒於是潛詣納降都尉李川,路逢郭敬,泣拜言飢寒.敬對之流涕,以帶貨鬻食之,并給以衣服.勒謂敬曰:
「今者大餓,不可守窮.諸胡飢甚,宜誘將冀州就穀,因執賣之,可以兩濟.」
敬深然之.會建威將軍閻粹説并州刺史、東嬴公騰執諸胡於山東賣充軍實,
騰使將軍郭陽、張隆虜群胡將詣冀州,兩胡一枷.
勒時年二十餘,亦在其中,數為隆所敺辱.敬先以勒屬郭陽及兄子時,陽,敬族兄也,
是以陽、時毎為解請,道路飢病,ョ陽、時而濟.
既而賣與仕(草かんむりつき)平人師懽為奴.有一老父謂勒曰:
「君魚龍髮際上四道已成,當貴為人主.甲戌之歲,王彭祖可圖.」
勒曰:「若如公言,弗敢忘コ.」忽然不見.毎耕作於野,常聞鼓角之聲.
勒以告諸奴,諸奴亦聞之,因曰:「吾幼來在家恒聞如是.」諸奴歸以告懽,懽亦奇其状貌而免之.

179 :
一つ失敗。
甲戌之歲→甲戌之歳
で、翻訳。
 太安年間(302〜303年)。并州で飢饉が起き、石勒は若い胡人とともに遠くに散っていった。
のちに雁門郡から帰り、ィ駆を頼っていった。北沢都尉の劉監が石勒を捕らえ売ろうとしたところ
(ィ驅が)を匿ってくれ、とらえらえずに済んだのである。
石勒は事態がここに至ったので、ひそかに、都尉の李川のところに行き自首した。
路上で郭敬に会い、拝み泣いて寒さと飢えを訴えた。
郭敬も石勒に向かって涙を流し、持っていた金と食料と衣服を与えた。石勒は郭敬に言った。
「今は大飢饉です。困窮するのを待つばかりではいけません。多くの胡人たちはとても飢えています。
冀州に食料があるといって誘導し、捕らえて売ってしまうべきです。
それで、あなたと胡人ともに助かるでしょう」。
郭敬は石勒の言葉に大いに同意した。并州刺史、東嬴公の司馬騰が建威將軍・閻粹に、
胡人たちを捕らえ、山東に売り、軍資金にあてるように説かれ、(派遣された)
将軍の郭陽と張隆が胡人たちを捕らえ二人一枷にして冀州に赴いているのに会った。
石勒はその時、二十数歳であり、その中にいれられて、何度も張隆に殴られ、辱められた。
それ以前に郭敬は、郭陽が自分の兄筋の親戚だったので、
石勒を郭陽と兄の子、郭時に所属させるようにさせていた。
それで郭敬、郭時はいつも(張隆に石勒をいたぶるのを)やめるように頼んでいた。
途上で、飢え、病にかかったが、郭陽を頼り、なんとか助かった。
仕(草かんむりつき)平の人、師懽に売られ、その奴隷となった。ある老人が石勒に言った。
「あなたは、人の主となる貴い相をしている。甲戌の歳、王彭祖、図るべし」。
石勒は答えた。「もし、その言葉どおりならば、あなたの徳を忘れることはないだろう」。
(老人は)ふいに姿を消した。野を耕作する度に、太鼓と角笛の音が聞こえた。
石勒は他の奴隷たちに(そのことを)告げると、奴隷たちにも聞こえていた。それで石勒は言った。
「私は幼いとき、家にいる時からこれが聞こえていた」。
奴隷たちは帰ってから師懽に(そのことを)告げた。
師懽も(石勒の)姿形からただ者ではないと思い、耕作させるのを免除させた。
※『潛詣納降』が自信がない(>_<)
※『君魚龍髮際上四道已成』が訳せない。事例は探したけど……(-_-)
で、今週はここまで。
この謎の老人の正体はなんだったのだろう?
次回、ハードラックな我らが石やんの逆襲がはじまります。

180 :
郭敬(季子)は、その後乞活集団に合流して激戦の末に石勒に降伏したんだっけ
乞活集団をことごとく坑殺しようとヤル気満々だった石勒が郭敬見つけた途端に
手のひら返して安堵を約束するあたりは、石勒の単純明快な性格が出ていて面白い
石勒の逆境の最高潮は、貧乏所帯時代でも奴隷時代でもなく
兄貴分の汲桑を失って流軍化していたときじゃないだろうか?
まだ、この頃の石勒は臧覇レベル(もしかするとそれ以下)の群盗の一味でしかないよね
この挫折から脅威の立ち直りを見せて、紆余曲折を経ながら捲土重来を果たしていくんだろうけど
先は長いなあ >>現代語訳事業
まあ、頑張ってください

181 :
石勒子飼いの「十八騎」の一人に、支屈六ってのがいる。
「支」は胡姓で、西域僧の支樓迦讖や支曇籥と同じく、おそらく
月氏出身ってことなんだろうけど、問題は名前の「屈六」の方。
これ、やっぱ「クトゥルク(Qutluq)」の音写なんだろうか。
クトゥルクは、後代の突厥やウイグルに頻出する人名で、
そこでは「骨咄禄」とか「骨力」と音写されてるんだけど、
となると、単純に月氏出身というわけでもないのかな・・・。

182 :
いちおう保守

183 :
過疎が始まってるな……
まあいいや。とりあえず、修正なしということで。
『君魚龍髮際上四道已成』は人相学だから、学者先生でも難しいだろう。
分かった人は書き込んでね。石やんの人相が分かる貴重な手がかりであるから
それで、また、続き。
 懽家鄰於馬牧,與牧率魏郡汲桑往來,勒以能相馬自託於桑.嘗傭於武安臨水,為遊軍所囚.
會有群鹿旁過,軍人競逐之,勒乃獲免.俄而又見一父老,謂勒曰:
「向群鹿者我也,君應為中州主,故相救爾.」勒拜而受命.
遂招集王陽、夔安、支雄、冀保、呉豫、劉膺、桃豹、逯明等八騎為群盜.
後郭敖、劉徴、劉寶、張曀僕、呼延莫、郭K略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六等又赴之,號為十八騎.
復東如赤龍、騄驥諸苑中,乘苑馬遠掠鋤潤C以賂汲桑.

184 :
で、翻訳。
 師懽の家は馬牧と隣り合っており、馬牧を率いていた魏郡の汲桑とは往来があった。
石勒は馬の扱いに長けていることで汲桑に売り込んだ。武安の臨水で雇われている時、遊軍に捕らえられた。
その時、鹿の群れがそばを通りがかり、軍人らがこれを追いかけ、石勒は逃げることができた。
突然、またあの老人に会った。老人は石勒に語った。
「鹿の群れを向かわせたのは私である。あなたは中州の主となるべきだ。だから助けただけだ」。
石勒は拝んで天命を受けた。そして、王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明という八騎と群盜となり、
後に、郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六もまた集まってきて、
十八騎と号した。赤龍のように東に戻り、様々な牧場にいた駿馬に乗って、遠出して絹や宝を掠めてきて、汲桑に上納した。
※『以能相馬自託於桑』と『如赤龍、騄驥諸苑中』が余り自信がない
『赤龍』は劉邦を意識しているのかな?
ここで遂に汲桑と『十八騎』が登場。孔萇はこの中に名前はないのに今、気づいた。
石勒軍の幹部となる夔安、支雄、桃豹、逯明がすでに入っているけど。
やっぱり、この老人は何者だったのかな

185 :
怪異説話の一環でしょ
劉曜が「朝鮮」から中原に帰還した後、一時期引き籠もっていたが
そのときに童子の精霊?から名剣を渡された話と同じで、箔をつけるためのエピソードか何かじゃないかな?
石勒は奴隷に売り飛ばされたものの、遊牧民の出自だけあって牧業に秀でていたおかげで
わりかしましな生活送れていたと思う
家内奴隷の中でも、専門職を任されていた奴隷や家僕は零細農民よりも地位が高いのが多かったらしいから
石勒のイメージだと奴隷闘士の方が似合っていそうだが

186 :
如ゆく
赤龍とか騄驥とかの苑に行って、そこの馬をパクって…
でも、赤龍にも騄驥にも横に線引いてないんだよな。

187 :
>>184
>怪異説話の一環でしょ
>箔をつけるためのエピソードか何かじゃないかな?
確かに、自分もそう思うけど、(若き英雄の道筋を老人が示すのは神話などのパターン)
中国の仙人あるいは隠者伝説に関係あるのかなと思って。
胡人の奴隷から(当時)世界最大の国家の皇帝になる。
ううん、まさに英雄(大殺戮者)だ。まるで物語のような生涯だな

188 :
石勒ってまさに「報恩」と「報復」を徹底した人物だよな

189 :
後漢書に「騄驥,善馬也」
呂布の赤兎、冉閔の朱龍、趙匡胤の赤麒麟から考えると赤龍も名馬(汗血馬)
「赤龍,騄驥」じゃなくて「赤龍、騄驥」だから並列
名馬の苑

190 :
翻訳乙です。
 最初の石勒に付いていた八騎は有名な人がいるけど、後からの十騎はあまり有名な人はいないんだね。

191 :
十八騎ってそれぞれの具体的な記述はあるの?

192 :
これのちょっと前に蔡氏がいなくなったんだっけ?

193 :
十八騎って全員胡人?

194 :
王陽(?〜?)
永嘉元年(307)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。
石勒が河北に勢力を伸ばすと、遊撃将軍となった。石勒が趙王
を称すると、胡漢分治を実行し、支雄とともに門臣祭酒となり、
胡人の争訟を担当した。東晋の祖逖が没すると、石勒の命を受
けて豫州に屯し、祖約を圧迫した。また石勒の次男石弘の教育
にあたった。趙王の八年(326)、石弘が鄴に鎮すると、驍騎将軍
となり、門臣祭酒を領した。
夔安(?〜340)
永嘉元年(307)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。
石勒が河北に勢力を伸ばすと、中堅将軍となった。石勒に従っ
て寿春を攻め、また王浚を攻めた。石勒が趙天王を称すると、
左司馬から尚書になった。石弘が立ち、石虎が専権を握ると、
鎮軍将軍・左僕射となる。石虎が石弘を廃して立つと、侍中
・太尉・尚書令となり、のち太保に進んだ。百官とともに石虎
に帝を称するよう勧めた。建武五年(339)、征討大都督となり、
歩騎七万を率いて、東晋の荊州・揚州の北部を攻め、七万戸を
掠めて凱旋した。
支雄(?〜?)
祖先は月氏の出身という。永興二年(305)、石勒に従って起兵
し、十八騎のひとりとなる。王浚・劉演を攻めて功を重ね、
中塁将軍となる。石勒が趙王を称すると、門臣祭酒となり、
胡人の争訟を担当した。後趙の建武四年(338)、龍驤大将軍
となり、石虎に従って遼西鮮卑の段部を攻め、長駆して薊に
入った。漁陽など遼西の諸郡を降らせ、段部を滅ぼした。

195 :
孔萇(?〜?)
石勒が河北で勢力を伸ばすと、その爪牙となった。
晋の王衍の軍を破って捕らえたとき、石勒に王衍を
Rよう勧めた。劉琨・倦ア・段匹テイ※1らを攻め、
幽州諸郡を平定するのに功績があった。
http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chuframe.html

196 :
久々に翻訳、復活。
>>186
>>189
レス。ありがとう。それで翻訳修正
 師懽の家は馬牧と隣り合っており、馬牧を率いていた魏郡の汲桑とは往来があった。
石勒は馬の扱いに長けていることで汲桑に売り込んだ。武安の臨水で雇われている時、遊軍に捕らえられた。
その時、鹿の群れがそばを通りがかり、軍人らがこれを追いかけ、石勒は逃げることができた。
突然、またあの老人に会った。老人は石勒に語った。
「鹿の群れを向かわせたのは私である。あなたは中州の主となるべきだ。だから助けただけだ」。
石勒は拝んで天命を受けた。そして、王陽、夔安、支雄、冀保、呉予、劉膺、桃豹、逯明という八騎と群盜となり、
後に、郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六もまた集まってきて、十八騎と号した。
再び東へ行き、赤龍、騄驥といった名馬を扱うあちこちの牧場の馬に乗り、遠出して絹や宝を掠めてきて、汲桑に上納した。

197 :
で、また、続き
 及成都王穎敗乘輿于蕩陰,逼帝如鄴宮,王浚以穎陵辱天子,使鮮卑擊之,穎懼,挾惠帝南奔洛陽.
帝復為張方所逼,遷于長安.關東所在兵起,皆以誅穎為名.河間王顒懼東師之盛,欲輯懷東夏,乃奏議廢穎.
是歳,劉元海稱漢王于黎亭,穎故將陽平人公師藩等自稱將軍,起兵趙魏,眾至數萬.
勒與汲桑帥牧人乘苑馬數百騎以赴之.桑始命勒以石為姓,勒為名焉.藩拜勒為前隊督,從攻平昌公模於鄴.
模使將軍馮嵩逆戰,敗之.藩濟自白馬而南,濮陽太守苟晞討藩斬之.
勒與桑亡潛苑中,桑以勒為伏夜牙門,帥牧人劫掠郡縣繫囚,又招山澤亡命,多附勒,勒率以應之.
桑乃自號大將軍,稱為成都王穎誅東海王越、東嬴公騰為名.桑以勒為前驅,屢有戰功,署為掃虜將軍、忠明亭侯.
桑進軍攻鄴,以勒為前鋒都督,大敗騰將馮嵩,因長驅入鄴,遂害騰,殺萬餘人,掠婦女珍寶而去.
濟自延津,南擊兗州,越大懼,使苟晞、王讚等討之.

198 :
さらに翻訳。
 成都王・司馬穎が恵帝をつれて蕩陰において敗北し、恵帝は鄴にある宮廷に押し込められ、
王浚が司馬穎が天子を陵辱しているとして、鮮卑をつかわして、司馬穎を攻撃させた。
司馬穎は怖れて、恵帝を連れ、南・洛陽に逃げ、恵帝は今度は張方に押し込められ、長安に移された。
関東で兵を起こすものは、皆、司馬穎をRことを名目とした。
河間王・司馬顒は東の軍の勢いが盛んなのを怖れて、東のいる晋人をなだめようと、司馬穎を廃することを奏上し議題にあげた。
この年に、劉淵が黎亭において漢王を名乗り、司馬穎の武将であった公師藩が将軍を自称し、
趙魏地方において、挙兵し、数万の衆となっていた。
石勒は牧人の総帥である汲桑とともに牧場の馬に乗り、数百騎で公師藩の軍に赴いた。
汲桑はこの時、初めて石勒に石姓を与え、勒を名とさせた。
公師藩は石勒を前隊の督に任命し、鄴において平昌公・司馬模を攻めた。
司馬模は将軍の馮嵩に迎え撃たせ、公師藩を破った。
公師藩は白馬の南から(黄河を)渡ろうとしたが、濮陽太守・苟晞が公師藩を討ち、斬った。
石勒は汲桑と牧場に逃れて潜み、汲桑は石勒を伏夜牙門に任命した。
牧人たちを率い、郡県の囚人を攻め取り、山にいる亡命者を招き寄せ、多数が石勒についた。
汲桑は大将軍を自称し、成都王・司馬穎のために東海王・司馬越、東嬴公・司馬騰を誅することを名目とした。
汲桑は石勒を先鋒とし、しばしば功績をあげたので、掃虜將軍・忠明亭侯に任命した。
汲桑は進軍して鄴を攻め、石勒を前鋒都督にし、司馬騰の武将・馮嵩を大いに破り、長駆して、鄴に入り、
遂に司馬騰を殺し、一万余人も殺して、婦女子や珍宝を掠めとって去っていった。
延津から(黄河を)渡り、南に行き、兗州を攻撃し、司馬越は大いに怖れ、苟晞と王讚に命じて、汲桑を討たせた。

199 :
今回は特に難しいと思えるところはなし。多分、大丈夫だと思う。
前回の分は186氏の解釈どおり馬をパクったのだろうか。
『汲桑帥牧人』である汲桑が、乱世の到来に備えて牧人たちに石勒に馬を提供させたとも解釈できる。
そして、今回、石やんは、早くも司馬騰に報復を果たす(映画並の速さ!)
そして敵の総帥・司馬越と宿敵・苟晞と王讚がついに姿をあらわす
ほとんどドラマ仕立ての石やんの物語。次回はさらなる苦難がふりかかります。

200 :
>>196-199乙です
ほんと石勒の人生は波乱続きで面白いですね

201 :
この時期の快進撃は、実際問題朝廷側の軍事力が壊滅状態という幸運があったからだと思う
もう、諸王の軍閥も決定的な軍事力は阻喪していて、王浚率いる幽州勢力が八王の乱に
幕を引いていたことを考慮すれば、中央から派遣された刺史や県令にどれほどの軍権があったことやら
貧乏くじ引きまくりの苟晞には心から同情する
タイプ的に後漢末期の皇甫嵩と被るんだな、軍事の才はあっても政界遊泳術にうといところなんかは
この時期の晋側の名将て、性格に難ありなヤツが多いな(特に祖逖や陶侃、劉コンは癖が強い)

202 :
>>201
貧乏くじなのは認めるけど、そうでなくては、世にでることはなかったかも知れないし
自分は、『屠伯』苟晞は司馬懿タイプだと思っている。
(司馬懿が自立して半群雄になったら、あんな感じって印象)
政界遊泳術にうといかなあ。失脚しても、また、登用されるねばり強さがあると思うけど
なにげに山東の軍事力をまとめ、司馬越を憤死させているところも
皇甫嵩とはひと味違うところじゃないかな
ちなみに、ご存じであると思うが、苟晞伝の翻訳は【解體晉書】のサイトにある。
王浚伝や祖逖伝もだして欲しいなあ


203 :
それで、前回からの続き。
 桑、勒攻幽州刺史石尟於樂陵,尟死之.乞活田禋帥眾五萬救尟,勒逆戰,敗禋,與晞等相持于平原、陽平間數月,
大小三十餘戰,互有勝負.越懼,次於官渡,為晞聲援.桑、勒為晞所敗,死者萬餘人,乃收餘眾,將奔劉元海.
冀州刺史丁紹要之于赤橋,又大敗之.桑奔馬牧,勒奔樂平.王師斬桑于平原.

204 :
 汲桑と石勒は幽州刺史・石尟を楽陵に攻め、石尟は戦死した。
乞活の田禋が五万の衆を率いて石尟を救いにきて、石勒は迎え撃ち、田禋を破り、
苟晞と平原、陽平の間で数ヶ月、相対した。
大小あわせて三十数回戦い、互いに勝ち負けがあった。
司馬越は怖れて、官渡に軍を宿営させ、苟晞のために(汲桑を)牽制させた。
汲桑と石勒は苟晞に敗れ、死者一万余人を出し、残った衆を集め、率いて劉淵のもとに逃げていった。
冀州刺史・丁紹が赤橋においてこれを阻み、大いに破った。汲桑は馬牧に逃げ、石勒は楽平に逃げた。
晋軍が汲桑を平原において斬った。

205 :
今回も難しいと思えるところはなし。
今週はもう一段、行う予定。
快進撃のすえ、幽州刺史を倒し、大軍の乞活も破る。
(しかし、幽州刺史は王浚がいるはずなのに、この石尟は誰から任じられていたのであろうか?)
そして、苟晞と対戦。敗北の末、兄貴分の汲桑が死ぬ。
丁紹も有能な官僚で正史に伝がある人物。この頃の晋は威光はまだあったと思う。
またも大ピンチの石やん。もちろん、このままでは終わらない。

206 :
ここは、劉淵、王彌の動きも結構重要なあたりだと思う。
確かに洛陽にとって切迫していた脅威は公師藩−汲桑−石勒の賊軍であったかもしれないが
山東(青、?、豫)一帯で厳然たる独立勢力を築きつつあった王彌こそが苟晞
(ひいては司馬越)の最大の主目標であったと思われる。
山西に劉淵率いる匈奴軍閥
山東に王彌を中心とした叛乱軍
そして魏郡一帯を飛蝗のごとく荒らしまわる盗賊石勒
幽州には洞ヶ峠を決め込む、野心の塊王浚
関中では司馬模を派遣するも、現地の漢人豪族は独立の意思を漂わせ始める
江南はほぼ完全にコントロール不能(面従腹背とはまさにこのこと)
司馬越も憤死するわな(権力者なんかになったのは自業自得なんだが)
ぶっちゃけ、この時点で晋の切り札が苟晞一枚という破滅的な状況なのが、何とも……

207 :
>>202
この時期の王浚は寧朔将軍、持節、都督幽州諸軍事だったような気がする(詳しく調べていないからあやふや)。
ほぼ温存されている軍事力に加えて、鮮卑最強の段部と婚姻外交による強固な同盟を結んでいた点で、
他の群雄よりもはるかに天下人に近かったと思われる(家柄も庶流とは言え太原王氏の出身だし)。
成都王、河間王、石勒、王彌と数多の群雄が、王浚股肱の鮮卑・烏丸に蹴散らされていることから、
本人の軍事的才能とは別にしても、当時最強の勢力であったことは疑う余地もない。
石勒の立場で就職活動するなら、地元の老舗企業「漢」か、新興で上り調子の「王浚」か
はたまた国家公務員になって「朝廷」に仕えるか

208 :
掩護射撃になるかどうかは分からんが、王沈伝より王浚のところでも抜粋して意訳でもするか。
 浚、字は彭祖。母は趙氏の婦人(未亡人?)で、良家の生まれであったが、生活に困窮し
王沈の屋敷に小間仕えで出入りしているうちに、まもなく浚を出産した。
 王沈ははじめ、浚を嫡出子とは認めなかった。
 浚が十五歳のときに王沈は薨じたものの、嫡子に恵まれず、親戚達は相談して王浚を嗣子とし、
当主に擁立した。このとき【馬付】馬都尉の官職に蔭補された(拝領した)。
 太康年間の初め(280年)、諸王侯に付き従って任地の郡国に赴任した。
 太康三年(282年)、朝廷に召し出されると、新たに員外散騎侍郎の職に任ぜられた。
 元康年間の初年(291年)には、員外常侍に転任し、さらには越騎校尉、右軍将軍へと位を進めた。
 転出して河内太守に補任されたが、司馬氏の郡公が知行を得ていたので、地方長官として
政務を執り行う機会は得られなかった。(ここの意訳は自信がない)そこで、東中郎将に転任し、
許昌に出鎮することになった。
 愍懷太子が許昌に幽閉されるに及んで(元康十年・300年)、王浚は賈后の意を受けて
?門の孫慮とともに太子を殺害した。
 (この功によって)寧北将軍、青州刺史へと昇任した。
 ついで間もなく、寧朔將軍、持節、都督幽州諸軍事にまで昇進を重ねた。
 時に、朝廷は(八王の乱によって)混乱を極め、巷間には盗賊が跋扈して、平寧を得る様子が
なかったので、王浚は自らの保身を案じて、夷狄と交際を親密にして友好関係を築き、同盟を
結ぶことを計画した。そこで一女を鮮卑の段務勿塵に、一女を蘇恕延に嫁がせることとなった。

209 :
「以郡公不得為二千石」
これは、「郡公をもって地方長官となることができなかった」で良いのかもしれん、早速誤訳だ。
王浚の伝の続きです。
 趙王倫が簒奪するに及んで、三王(斉王、成都王、河間王)は義兵を挙げ檄を飛ばしたが、
王浚は配下を使って国境封鎖を厳にして檄書をさえぎり、領内の士大夫から庶民に至るまで
三王の挙兵には参加しないように措置を講じた。 (永康二年・301年)
 成都王穎はこのことを根に持って、いつか王浚を討伐してやろうと意気込んだものの、なかなか
その機会を得ることができなかった。趙王倫が誅伐されるに及んで、王浚は安北将軍を号するに
至った。河間王?、成都王穎は共謀して兵を洛陽に差し向け、長沙王乂を詐略に嵌めて討ち
滅ぼしたが、このことで王浚は成都王穎に対し不満を抱くようになった。(太安三年・304年)
 成都王穎は上表して、幽州刺史石?を右司馬に、右司馬の和演を石?に代えて幽州刺史
に任じるような人事異動を要求したが、その実、密かに演に命じて王浚を攻め滅ぼさせ、幽州の
衆人を己の勢力に併呑しようと目論んでいたのだった。
 和演は烏丸単于の審登と暗殺計画を共謀し、王浚と薊城の南清泉で遊覧する約束を交わ
して、そこで彼を亡き者にしようと図った。薊城には西に通ずるにふたつの幹線道路があって、
浚と演はそれぞれの一道を通ってやって来た。
 演は浚と合い鹵簿することを望み(干戈を交えるの意か、それとも行列を並べてともに遊覧に
行こうと誘っているのか?ちょっと自信なし)、よってすなわち計画をここで実行することにした。
ところが、天候はたまたま暴風雨にあたり、準備しておいた兵卒・装備は雨に濡らし、何の成果
も得られないまま還るはめになってしまった。
 単于はこの出来事で考えるところがあったので、烏丸の衆人たちを集めて相談することにした。
「和演の野郎は、王浚を暗殺しようと図ったが、もう少しで事が成るってときに、大雨が降ってきて
 まんまと取り逃がしちまった。こりゃあ、天が王浚を助けようと思ったからに違いねえ。」
「ツキに見放されちまった和演の野郎なんかと一緒に行動するなんて真平御免だな。」
 こうして、烏丸の部衆は暗殺計画があったことを王浚に密告した。王浚は密かに軍に戒厳令を
布き、兵旅を準備させ、烏丸単于と共に和演を包囲した。演は白旗を揚げて王浚に投降した。
王浚は和演を斬首して、成都王への叛旗を翻し、ついに自ら幽州を領有する意図を明らかにした。
 兵器を大々的に製造し、娘婿の段務勿塵を招聘して胡漢合わせて20,000の兵を率いさせ、
成都王穎討伐の軍旅を進める次第となった。主簿の祁弘を尖鋭部隊として進軍し、平棘に
おいて成都王の部将石超の軍と遭遇した折には、これを散散に撃ち破った。
 王浚は勝ちに乗じて遂には【業β】城を攻め落としたが、この際兵卒に略奪を許可して、
多くの城民がその災禍に巻き込まれ命を落とした。さらに鮮卑は婦女子を略奪すること甚だしく、
見かねた王浚が「敢えて略奪した婦女子を隠匿する者がいたら斬る!」と発令すると、あわてて
易水に沈められてしまった婦女たちは八千にも達したといわれる。
黔庶荼毒、自此始也。(人民の害悪、これより始まる)
とりあえず永安元年(304年)まで。
凄まじく意訳が混ざっているので、原文とかけ離れてるところが多々あります。

210 :
王浚の伝、まだちょっとだけ続きます。
 王浚が薊城に帰還すると、その声実は否が応でも高まった。東海王越はまさに天子(恵帝)を
迎えんとしたので、浚は祁弘に烏丸突騎を率いて派遣させ、先駆の任務を申し付けた。(永興二年・305年)
 恵帝が洛陽に凱旋すると、浚は驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史に任じられ、
燕国から博陵の封地をもって加増を受けた。(永興三年・306年8月)
 懐帝は即位すると、浚を司空及び領烏丸校尉に任じ、段務勿塵に大単于の位を授けた。
王浚はまた、務勿塵に遼西郡公の封位を授け、烏丸の大飄滑及びその弟羯朱らをして親晋王
と為すように上表した。
 永嘉年間(307年〜312年)、石勒が冀州に寇略してきたため、王浚は鮮卑の段文鴦を
派遣して石勒を討伐させた。この敗戦によって石勒は南陽(黎陽の誤文?)方面へ敗走した。
(永嘉三年・309年「飛龍山の戦い」)
 明くる年(310年)、石勒はまたもや冀州に侵攻し、刺史の王斌を殺害した。このため、王浚は
ふたたび冀州に軍を差し向けることとなった。王浚を大司馬、加侍中、大都督、督幽冀諸軍事
に昇進させる詔勅が発せられた。
 しかし、その詔勅を届ける使者が出立しないうちに、洛陽は匈奴に攻め落とされてしまったので、
王浚は大司馬の威令をもって、自ら征討の軍を起こし、督護の王昌、中山太守の阮豹たちをして
諸軍及び段務勿塵の世子疾陸眷、並びに弟の文鴦、従弟の末?ら鮮卑兵を率いさせ、石勒
を襄国に攻略した。勒はその部衆を率いて長躯来寇したが、王昌は逆撃してこれを敗走させた。
 段末?がこれを追撃して、襄国の塁壁に侵入したあたりで石勒の捕虜となってしまった。勒は
末?を人質として水面下で和平交渉を始めたので、段疾陸眷はついに鎧馬二百五十匹及び
金銀各一?をもって末?と交換することにし、停戦の盟約を結んで、その軍を撤収させたのである。
 ※ 永嘉六年(312年)まで、ようやく石勒とドンパチを始めたようです。

211 :
>>207の誤りを訂正
自分で書いといて気づいたが、永嘉年間の王浚の官位は基本的に
「司空、驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史、領烏丸校尉」になるのかな?

212 :
>>207
おつかれ。王浚は意外に、祖逖や王弥よりも石勒との関係は深い。一番読みたかった。
援護射撃は非常に助かる。祁弘の最期は石勒伝にはないので補完する意味もある。
自分的に、読みたいのは劉淵伝、劉曜伝、祖逖伝、王弥伝、劉コン伝、邵続伝かな?
王浚伝の続き、楽しみにしているのでよろしく(^o^)
しかし、>>211のとおりだったら、石尟は誰から……。
公師藩・汲桑の乱は明らかに、恵帝の洛陽凱旋後だしな。
やはり、司馬越かな? それとも王浚が軍事に専念するために腹心に任じたか。
まあ、とりあえず、翻訳続き、行きます。
 時胡部大張※督、馮莫突等擁眾數千,壁于上黨,勒往從之,深為所昵,因説※督曰:
「劉單于舉兵誅晉,部大距而不從,豈能獨立乎?」曰:「不能.」勒曰:
「如其不能者,兵馬當有所屬.今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣,宜早為之計.」
※督等素無智略,懼部眾之貳己也,乃潛隨勒單騎歸元海.元海署※督為親漢王,莫突為都督部大,
以勒為輔漢將軍、平晉王以統之.勒於是命※督為兄,賜姓石氏,名之曰會,言其遇己也.
※=背(つつみがまえ付き)

213 :
で、訳。
 時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。
石勒は言った。「そのようにできない者が、兵馬を所有している。今、部族のものは全員、単于の召募にかかっており、
幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。その計画が実行されるのももうすぐだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼に対して自分に対するのと同じ言葉遣いを(部下に)させた。
※『宜早為之計』と『言其遇己也』があまり自信がない
 間違いがあったら、ご指摘お願いしますm(_ _)m

214 :
今回はちょっと難しかった。
さすが、石やん。手ぶらで劉淵のところにはいかずに、半ば詐欺と脅迫で
それなりの部族の長を、弟分にして、労せずにみやげを持っていく。
(一気に輔漢將軍、平晉王! 空手形かも知れないが名称がすごい。国号が漢、敵国が晋だからね)
さて、石やんはいかに207氏のいう老舗企業(やくざ?)の親分・劉淵のもとでのしあがるか
次回をお楽しみに。

215 :
214さん、207さん、翻訳本当にご苦労様です。
このスレは本当に良スレですね。いつも楽しみにさせて頂いております。
さて、214さんの読みたいと言われていた劉元海戴記を翻訳されている方
をたまたま発見しました。
ttp://www.geocities.jp/takemanma/index.html
お一人で、ここまでの戴記を翻訳されたのは頭が下がる思いです。
現在は石勒と並ぶ大英雄の苻堅戴記を掲載中です。
宜しかったらご覧になられて下さい。
(既にご存知でしたら失礼しました。)

216 :
石勒は根強いファンを獲得できるタイプの人物だな。

217 :
王浚の伝、永嘉六年以降から行きます。
 その後(>>210 襄国包囲の後)、王浚は天下に布告し、(内々で)詔を受け制を承ったのだと称して、
司空の荀藩を太尉に光禄大夫の荀組を司隷校尉に、大司農華薈を太常に、中書令李?を河南尹に
任命した。
 王浚は一方で、祁弘を石勒討伐のため廣宗まで派遣した。ところが、途中凄まじい濃霧に見舞われて
迷ってしまった行軍を立て直すために、祁弘が道を探して兵を誘導していたところ、不運にも石勒の軍と
鉢合わせてしまう。祁弘は捕らえられ、石勒の斬Rるところとなった。
 (王浚の軍事力の要とも言うべき祁弘が亡くなったことを受けて)劉コン(以後字の越石で通します。)は、
王浚と冀州の覇権を争う意図を顕わにした。劉越石は一族の劉希を中山へ帰還させて、拓跋部の勢力
と中山の現地兵力を合流させたので、代、上谷、廣寧の三郡の人々は(その威勢を恐れて)
みな劉越石の下へこぞって帰順した。
 浚はこのことを大変煩わしく思い、準備していた石勒討伐の出陣を取りやめ、劉越石との国交を断絶し
て、先に并州の憂いを取り除こうとした。浚は燕国の相胡矩に兵を授けて、段疾陸眷と共同で劉希を
攻撃させこれを撃ち破った。代、上谷、廣寧の三郡の士女は大いに略奪を受け幽州まで連行されたため、
劉越石はそれ以上王浚と戦争を継続することが出来なくなった。
 建興元年(313年)、王浚は薊城へ帰還すると再び石勒征討を企て、棗嵩に総司令官として諸軍を
率いて易水に駐屯させると、段疾陸眷に共同で襄国を攻略する作戦計画を持ちかけた。
 この時期になると、王浚の政治は苛暴となり、またその官吏たちは貪欲で残酷、誰も彼も国有地である
山沢を荘園として広大に占有横領し、勝手に公共の堤防から己の荘園の農地に水を引き入れ、
墓荒しが横行し、租税の徴発が度重なったため、庶民は堪えきれずに多くが造反して鮮卑(拓跋部、
段部及び慕容部)部落へと亡命して行った。
 從事侍郎であった韓鹹はこのことを強く諫言したが、浚は激怒して彼を処刑した。
 疾陸眷はこの事件のせいで、盟約を違えたときに王浚に誅殺されるのではないかと恐れるようになった。
 石勒もまた賄賂を段部にたびたび贈答して誼を通じて来ていたので、疾陸眷たちは王浚の招聘に次第に
応じなくなっていった。王浚は大いに怒り、拓跋単于の猗盧に厚く賄賂を贈って、右賢王の日律孫を
派兵してもらい疾陸眷を攻撃させたところ、逆に撃破される有様であった。

218 :
乙。でも、?と字の表記がどうにも目に鬱陶しいので、スマンが今度から
ここ(↓)でJIS外漢字をコードに変換してから貼ってもらえんだろうか・・・。
ttp://code.cside.com/3rdpage/jp/unicode/converter.html

219 :
一代の驍将祁弘もまさか濃霧のために呆気ない最期を遂げることになるとは……。
(東魏の慕容紹宗も間抜けな最期だったが、これに勝るとも劣らない無念な死に方だ)
このまま祁弘が生きていたら、石勒もいずれ攻め滅ぼされて楽にRただろうに。

220 :
>>218
すまん、環境上入れるのは若干問題があるんで、大目に見てくれんか?

221 :
李涉
劉琨

222 :
>>215
どうもありがとうございます。このサイトの存在は知っていましたが、ただの漢詩サイト
と思ってました。(−_−)
すごい! 劉淵伝どころか、劉聰伝まである(*^_^*)
まだまだ更新中だ。手書き訳終了で張昌伝、王彌伝がある。すげー
うん? 手書き訳中に、『石勒 下』があるぞ? これじゃ、自分の翻訳、意味ないじゃん(>_<)
……。まあ、いいや。掲載されるまで時間はあるだろう。
それじゃ、翻訳続ける
>>217
乙。漢字は正史を見れば分かるから私は気にしない。
それにしても、祁弘のあっけない死は意外だ。資治通鑑にも書かれてなかったため、
死亡時期は不明だと思っていたのに。
まあ、生きてても、最終的に勝つのは石勒だと思うけどな
それで今回の原文
 烏丸張伏利度亦有眾二千,壁于樂平,元海屢招而不能致.勒偽獲罪于元海,因奔伏利度.
伏利度大ス,結為兄弟,使勒率諸胡寇掠,所向無前,諸胡畏服.
勒知眾心之附己也,乃因會執伏利度,告諸胡曰:「今起大事,我與伏利度孰堪為主?」諸胡咸以推勒.
勒於是釋伏利度,率其部眾歸元海.元海加勒督山東征討諸軍事,以伏利度眾配之.

223 :
で、訳
 烏丸の張伏利度が衆二千をもっており、楽平に籠もっていた。劉淵は何度も招安しようとしたが、
来させられなかった。石勒は偽って、劉淵から罪を得た形にして、張伏利度のところに逃げた。
張伏利度は大いに喜び、結んで兄弟となり、石勒に胡人たちを率いさせて、攻めさせた。
向かうところ敵無く、胡人たちは畏れ、心服した。
石勒はみなの心が自分についたのを確認すると、張伏利度を捕らえ、胡人たちに言った。
「今、大事を起こす時に、私と張伏利度、どちらが主となるに堪えようか?」。
胡人たちは石勒を推し、石勒は張伏利度を解放した。その部族を率い、劉淵のもとに帰順した。
劉淵は石勒の職に、督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の衆を配下にした。

224 :
今回は難しいところはなし。(前回の分とあわせて指摘があったら、お願いします)
劉淵のもとで初手柄の石やん。損害は少なく、利は多し。
石やんがただの武将ではないことがこれで分かる。
次回は劉淵・劉聰のもとで強敵の一人、劉琨と戦います。

225 :
王浚の伝つづき
 劉聡による劉越石への圧迫が目に見えてに増大してくると、中原の乱から避難していた多くの人士たちが
王浚のもとへ帰順するようになった。王浚の勢力は日増しに強盛となる。その権勢は、祭壇を造営して
天に犠牲を捧げる儀を執り行い、皇太子を建立し、百官を設置するまでに増長した。
 浚は自ら尚書令を拝領し、棗嵩、裴憲を尚書に、その子は王宮に近侍させ、持節、護匈奴中郎将に
任命した。また妻舅であった崔を東夷校尉に、棗嵩をして監司冀並びに?諸軍事及び行安北将軍に、
田徽をエン州刺史に、李ツを青州刺史にそれぞれ任命した。しかしながら李ツは石勒に敗れ、殺害されて
しまったので、後任に薄盛をもって代わらせたのであった。
 ※ 記事的には永嘉五年(311年)7月の王浚による仮の立太子の儀の内容だと思われるのだが……
 浚の父王沈は字を「處道」と名のっていた。そこで王浚は、古の予言書に顕れるという「当塗高」とはまさに自分のことであるとして、帝号僭称の謀議を諸将らに打ち明かした。(建興元年・313年 11月)
 胡矩は王浚を必死に諫止し、薄盛は「そりゃ無理です。」と申し上げた。浚はこれに不満を覚えて、胡矩
を魏郡の太守に左遷した。
 つづいて、前の渤海太守劉亮、従子の北海太守劉搏、司空掾の高柔らが雁首揃えて諫言しにやって
来ると、王浚の怒りは頂点に達し、彼らをことごとく誅殺してしまった。
 浚は平素から長史である燕の王悌と不仲であったので、いろいろと理由をこじつけて彼を処刑した。
 当時、こんな童謡が謡われたと言われる。「十嚢、五嚢、棗郎へ入る。」
棗嵩は王浚の娘婿である。王浚はこの童謡のことを聞くと、棗嵩を叱責するにはしたが、ついに刑罰を
加えることはできなかった。また、こんな童謡も流行った。「幽州(薊城)の都城は倉庫にそっくりだ。
中に横たわっているのは王浚の屍だ。」
 この頃、狐が府門にうずくまったままだったり、尾長雉が庁舎に進入するといった変事があった。
 時に燕の霍原は、北方の諸州においてその賢才が広く知れ渡っており、王浚は帝位の僭称の件に
ついて彼の意見を聞いてみることにした。霍原は王浚が望むような返答をしなかったので、浚はこれもまた
一思いに抹殺した。この事件によってついに幽州の士人は憤激し、王浚に愛想をつかして離散するものが
続出した。
 しかしながら王浚の驕慢は日に日に甚だしくなり、政治に倦んで政務を顧みなくなっていった。こうして
政治は悪辣な酷吏の手に委ねられることになった。折悪く、幽州は旱魃・蝗害に毎年のように見舞われて
いたことも、士官兵卒の衰弱に追い討ちをかけたのである。
 ※ 慕容部がこの時期にそれほど強盛を誇っていないことを考慮すると、結構話半分で聞いていたほうが
  よい記事です。段部の圧力が除かれて初めて中原侵入への野望が開けたことを鑑みれば、実は王浚
  の暴政は言われてるほどのものではなく、むしろ段部と石勒による幽州分割の帰結だったのかもしれま
  せん。しかし、「刺史キラー」と言っていいくらい石勒の攻撃が凄まじい。刺史任命=石勒に殺される
  の図式が出来上がっているような……。

226 :
刺史キラーw

227 :
王浚の伝、まだまだいくよ。
 王浚が百官の制を定めた際に、譜代の参謀・幕僚はみな高官に叙任されたのだが、司馬の遊統だけが
この行賞人事の蚊帳の外であった。統はこのことを怨みに思い、密かに石勒と内通しようと企んだ。
 石勒は王浚軍閥内の不協和音を感じとった。そこで王浚に偽りの降伏を申し出、主君として奉じる
策略を実行に移すことにした。(建興二年・314年)
 折も折、幽州では民衆の造反が已むことなく、段部の叛乱・侵略はひっきりなしに続いていた。
 王浚は石勒が自分に寝返ったことを大変喜んだ。石勒はこれによりますます言葉使い丁寧に、礼儀態度
は必要以上に謙るようにして王浚に仕えるようになった。珍宝を贈答する際には、駅を途切れることなく
乗り継がせて献上させた。
 王浚は石勒に二心が無いことを確認し、襄国に対する備えを全く顧みなくなった。やがて石勒は使者を
遣わして、王浚に尊号を称するように上奏させると、浚はこれを快諾した。
 建興二年(314年)3月、石勒が易水まで進出して兵を駐屯させると、督護の孫緯はその行動に何か
裏があるのではないかと訝しがり、早馬を出して王浚に「石勒に軍を引き上げさせ、その隙に逆撃を喰ら
わせる」ように申し出た。王浚はこれを無視し、勒に真直ぐ参内するように使者を出した。
 諸官はみな口を揃えて言った。「胡人というやつはそもそも貪欲にして、信義というものを知らず、
その言葉には必ず詐術が紛れると言います。こんな連中、即刻攻撃してしまいましょう。」
 王浚はその建議に激怒し、石勒を誹謗中傷するような連中は斬罪に処するとまで言い切ったため、
ついぞ、その後命がけで諌める者はいなくなった。また、勒を饗応する宴席の場の準備を張り切って
設営させた。
 ※ この部分だけだと王浚がアホの子に見えなくもないが、石勒載記を読めば、張賓による詐略の限りが
  ビシバシ炸裂しているわけで、楽しみはそっちに取っておいてくれ。幽州の人士が王浚を本気で見限って
  いたかと言うと、やはりそれはなかったと思う。強力な庇護者王浚がいたからこそ、幽州は重税に
  喘ぎながらも他国に蹂躙されることなく、むしろ近隣の諸州から人的資源や物的資源を収奪し続ける
  ことができていたのを、当時の州民はみな理解していたはずだ。彼がいなくなれば、もっと素晴らしい
  統治者が現れるなんて、世紀末救世主伝説を本気で信じ込んでいたんだろうか?

228 :
王浚の伝、ラスト
 石勒は薊城に到着すると、兵卒の思うがままに略奪を許容した。(かつて王浚が冀州で同じことをやって
いたわけだから、このときの趙魏の兵士たちの略奪には多分に復讐の意味合いが強かったと思われる。)
 王浚の側近たちはなお勒を討ち取るように哀願したが、この期に及んで浚はそれを許さなかった。
 石勒が庁舎に進入するに及んで、王浚はあわてて堂皇?に逃げ込んだものの、石勒の将兵の捕えるところ
となり石勒の面前へと連れて来られた。さらに、浚の妻もとっ捕まえられて夫婦並べて引き出されてしまった。
 王浚は石勒を思いっきり罵って言った。「この胡奴(適切な訳語が見つからないが、毛むくじゃらで彫深の
奴隷人種野郎くらいの意味にしておく)め!貴様いったい何様のつもりで俺にこんな悪逆非道な真似を
するというのだ!」
 石勒は王浚の晋に対する不忠の数々を列挙し、さらに庶民の飢饉窮乏を知りながら粟穀五十万斛を、
倉庫にただ山のように積み重ねておくだけで、何の窮余策も講じなかったことを並び立てて非難し、その
罪を弾劾した。
 石勒はおよそ五百騎ほどに王浚を護衛させて襄国に先遣させる一方で、王浚麾下の精兵万人を収容
して、後顧の憂いを除くべく、これらを悉く皆殺しにした。二日間ほど薊城にとどまって戦後処理をしていたが
その帰路、孫緯が径路を遮断して襲撃を仕掛けたが、石勒は僅差でこれを免れることができた。
 石勒は襄国に到着すると王浚を斬刑に処したが、王浚は最期まで石勒に屈するところなく、大いに罵倒
して死に臨んだ。嫡子はいなかった。(太元二年・377年のお家復興の記載は割愛)
 ※ まあ、梟雄の最期なんてこんなものだろう、寂しいけど。

229 :
保守ついでに、次は王彌伝を訳してみる。
 王彌(字は不明)は東莱出身であった。その家門は代々太守を輩出する家柄で、祖父は魏の
玄菟太守を経て、武帝司馬炎の時代には汝南太守にまで昇任している。
 王彌は知恵と能力に恵まれ、特に文書記述において幅広い見識を持ち合わせていた。しかしながら
若い頃は京都(洛陽)で遊侠の徒に交わるような一面もあったりした。隠者の董仲道がそんな王彌を
見かけて思わず話しかけた。
「君は、豺のような声と豹の眼を合わせ持っているようだが、そりゃあ兵乱を好んで災禍を楽しむ
 人物の相に他ならない。もしも、天下が騒擾するような乱世がやってきたら、君が士大夫として
 身を興すようなことは到底考えられないね。」
 恵帝司馬衷の時代に、妖賊(宗教叛乱)劉柏根が東莱で兵を挙げると、王彌は実家の従僕たちを
率いてこの叛乱軍に身を投じた。(光煕元年/306年 3月)
 劉柏根に長史に任じられていた王彌は、柏根が戦死して、海岸部に逃れた敗残兵たちが苟純に討伐
されるに及んで、長廣山に入って群賊となり一時の雌伏を図った。
 王彌は権謀知略に優れ、掠略するところあれば必ず事前にその成否を検討し、抜かりない作戦を
計画することしばしばであった。弓術馬術は迅速にして敏捷、膂力は常人の敵うものではなく、青州の
人士は彼を畏敬をこめて「飛豹」と呼ぶようになった。
 後に兵を引き連れ、青州・徐州へと暴れこんだものの、刺史苟晞の逆襲に遭い大敗を喫してしまう。
(永嘉元年/307年 2月)
王彌は残余を集めて撤退、あちこちへと散らばって身を潜めていたが、再びその勢力を盛り返すように
なると、もはや苟晞の手に負える相手ではなくなっていた(晞之と連戦し、克能わず)。
 王彌は兵を進めて泰山、魯国、梁、陳、汝南、潁川、襄城諸郡を寇掠し、許昌に入るとその府庫を
開放して武器装備品を奪取した。城邑が陥落すると、多くの太守、県令が殺害の憂目に遭った。
 その衆は数万を擁し、朝廷はもう青州の王彌の勢力を如何こうすることも出来なかった。
(永嘉二年/308年 4月)
 ※ ちなみに劉柏根の軍は、劉暾(司隷校尉などを歴任した高官)による討伐軍を退けたものの、
  王浚の派遣した軍により討ち取られたとある。また、最後の段の王彌の軍事行動については、
  京師にまで攻め込んでいる凄まじい寄せっぷりである。

230 :
このスレ、勉強になる。
次の訳、楽しみにしてます。

231 :
>>228
おつかれ。王浚伝は非常に読みたかったので、うれしかった。
貴兄のペースがあまりにも速いのであっという間に追い越されてしまったな。
王浚の内政がさほど乱れていなかったというのは賛成。
むしろ拓跋部や段部との外交、石勒、劉琨に対抗するための軍事負担の増大が原因だと思う。
(劉琨と連携がとれなかったけど、悪いのはどちらの方であろうか?)
王浚は袁紹に近いイメージがある。やはり、一代の人物だろう。
次は王彌伝のようで、これも非常に楽しみにしております。
で、石勒伝の続き
 元海使劉聰攻壺關,命勒率所統七千為前鋒都督.劉琨遣護軍黄秀等救壺關,勒敗秀於白田,
秀死之,勒遂陷壺關.元海命勒與劉零、閻羆等七將率眾三萬寇魏郡、頓丘諸壘壁,多陷之,
假壘主將軍、都尉,簡強壯五萬為軍士,老弱安堵如故,軍無私掠,百姓懷之.

232 :
 劉淵は劉聡に壺關を攻めさせ、石勒に七千を統率させ、前鋒都督に命じた。
劉琨は護軍の黄秀らに壺關を救援させ、石勒は黄秀を白田で破った。
黄秀は戦死し、石勒は壺關を陥れた。劉淵は石勒に劉零、閻羆ら七將、衆三万を率いさせ、魏郡を攻めさせた。
頓丘のたくさんの壘壁をいくつも陥れ、壘主を仮の将軍や都尉とし、すぐに強壮なもの五万を兵士にし、
老弱はもとのようにして安堵させ、軍は私的な略奪はせず、百姓を懐柔した。

233 :
今回も難しいところはなし。大丈夫なはず
劉淵の配下、劉聡の先鋒として劉琨に一勝。長い戦いの端緒を飾る。
>軍は私的な略奪はせず
これは本当か、と思うが。
次回からはまた石やんの快進撃と報復の嵐が始まります

234 :
>>231
自分にとっても王浚の最初のイメージは袁紹っぽかったんだが、
(特に名門に生まれながら、庶子として扱われざるを得なかった点など)
やってることは袁術っぽかったりして、何かいろいろ複雑な人物像

235 :
王彌伝
 天下大乱の時勢に乗じ、王彌は洛陽へと逼迫した。洛陽ではその脅威に震え上がり、宮城の
門は堅く封鎖された。司徒の王衍たちは断固死守すべく、百官を率いて防御態勢をとると、王彌は
これに対して七裏澗へと布陣した。朝廷軍は進撃して、王彌の軍を大破した。(永嘉二年/308年 5月)
 王彌は仲間の劉霊と相談して言った。
「晋軍はまだ手強い、俺たち単独ではこの先やっていけまい。
 実はな劉霊、匈奴の劉淵とは昔、やつが質子として洛陽に留め置かれていた頃、いろいろ世話を
 焼いてやったこともあってな、兄弟の契りまで結んだ仲なんだ。
 あいつは今漢王を称して、正に日の出の勢いだ。
 ちょっとばっかし、あいつのところで世話になろうと思うんだが、お前はどう思う?」
 劉霊がその考えに同意を示したので、王彌は黄河を渡り劉淵のもとへと帰順した。
 劉淵は王彌が帰順したことを聞くと大いに喜び、侍中兼御史大夫であった呼延翼を出迎えの
使者として送り出すと、平陽の城外で王彌を郊迎させ、文書を彼宛てにしたためて言った。
「将軍には不世の功、超時の徳が備わっていることは誰の目にも明らかです。だからこうして歓迎
 させてもらいました。将軍が来るのを今か今かと待ち望んでいましたが、私が今から直接将軍の
 お館にお邪魔させていただき、すぐにでも酒席を準備してグラスを洗い、将軍に一杯注がせて
 頂いて、真心をこめて歓待したいものです。」(※ 超意訳、相当脚色してます)
 王彌は劉淵と接見するや、皇帝を称することを勧める。劉淵は王彌に答えて言った。
「私は昔、将軍を竇融に比されてしかるべき人物だ(竇融程度の人物でしかない)と思っていたが、
 今はまさに、私にとっての諸葛亮、ケ禹であったと思い知らされた。
 (ただただ、己の不見識を責めるばかりである。)
 昭烈帝には青雲の志があったが、烈祖が言った水魚の交わりとは、正しく私と将軍との関係の
 ことを言うのだな。」
 ここにおいて劉淵は王彌を司隸校尉に任命する。侍中、特進の位も与えようとしたところ、王彌は
これを固辞した。王彌は漢軍に合流するや、劉曜とともに河内攻略に参加したり、あるいは石勒と
共同で【業β】を攻めるなど、その軍事行動を再び活発にした。

236 :
石虎ってものすごい残虐な事したと書かれてるけどさ、
なぜか石邃だけに異常に寛大だよね?? 
自分と口利いただけでも家臣殺してそうな男なのに、なぜか彼だけ
謀反しでかしたり罵ったりしても本人は赦されたり殺されてないのが不思議。
家臣が許可しないので殺したくなかったけど殺したとか記述もあるけど、
石虎て実際にはどんくらいヤバイ奴だったんだろう・・
史実どおりなのかなにか脚色されているのか・・

237 :
>>236
かなり脚色されてると思う。
石虎に限らず必要以上に脚色される事は多いよ。

238 :
石虎なんて、石勒の遺骸を「秘葬」したことを、あたかも山奥に捨ててきたみたいな記述だからな
どうも、石虎も石勒の母王氏も山野への秘葬だったことを考えると、羯族にはそういう風習が
あったと見るべきだろう
しかし、簒奪後の軍事行動の拙さを見てると、石虎も石勒の「軍事代行者」としては有能であっても
トップとしての展望や指揮采配能力には欠けていたんだろうなあ
張賓のような参謀を得られなかったことも、そういう欠点に拍車をかけているっぽい

239 :
>>236
脚色もあるだろうけど、石虎の治世がかなりひどかったのは確かだろうな
もし、異民族だからといって晋書が貶めているなら、石勒や苻堅ももっと批判的に
書かれているだろうし。(結構、この二人の政治は好意的に書かれている)
晋書が書かれた唐の時代は北朝流れなので正統を南朝とはしていても、十六国政権を
少なくても歴史家としては故意に悪くは脚色しようとしていないと思う。
上のレスで石虎政権の時は反乱の記述が少ないとあったが、これは石勒の時に政権の基礎が固まった
ことと少なくても石虎の代は恐怖政策がうまくいっていたということだろう
(こういうのはその独裁者の死後、反動が来るけどね)
石邃の件に関しては、非人間的な虐殺者に限って、親子の情や家族愛にしがみつく
という映画や漫画の悪役によくいるタイプという解釈でいいんじゃない?
まあ、伝聞も入るだろうから、真実は分からないけど
>簒奪後の軍事行動の拙さを見てると、石虎も石勒の「軍事代行者」としては有能であっても
>トップとしての展望や指揮采配能力には欠けていたんだろうなあ
これには全面同意。石虎は名将かも知れないが英雄ではないと思ってる
あれほどの国土・兵力を持っておきながら、涼州や慕容氏に負ける。正直、ださい
こいつって、ひょっとして中国史上最も弱い中央政権の主じゃないか

240 :
それよりもまた翻訳。今回は少し長い。

 及元海僭號,遣使授勒持節、平東大將軍,校尉、都督、王如故.勒并軍寇鄴,鄴潰,和郁奔于衛國.
執魏郡太守王粹于三臺.進攻趙郡,害冀州西部都尉馮沖.
攻乞活赦亭、田禋于中丘,皆殺之.元海授勒安東大將軍、開府,置左右長史、司馬、從事中郎.
進軍攻鉅鹿、常山,害二郡守將.陷冀州郡縣堡壁百餘,眾至十餘萬,其衣冠人物集為君子營.
乃引張賓為謀主,始署軍功曹,以刁膺、張敬為股肱,夔安、孔萇為爪牙,
支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、呉豫等為將率.使其將張斯率騎詣并州山北諸郡縣,說諸胡羯,曉以安危.
諸胡懼勒威名,多有附者.進軍常山,分遣諸將攻中山、博陵、高陽諸縣,降之者數萬人.

241 :
 劉淵が皇帝を自称するに及んで、石勒に使者をだし、持節を授け、平東大將軍、校尉、都督にし、王号はもとのとおりとさせた。
石勒の軍は鄴を攻め、壊滅させて、和郁は衛国まで逃げた。魏郡太守・王粹を三台において捕らえた。
趙郡に侵攻し、冀州西部都尉・馮沖を殺した。乞活を赦亭に攻め、田禋を中丘において、皆殺しにした。
劉淵は石勒に安東大將軍、開府,置左右長史、司馬、從事中郎を授けた。進軍して鉅鹿、常山を攻め、二郡の守將を殺した。
冀州の郡県堡壁を百以上陥れ、衆は十数万に至り、衣冠をつけた人物(士大夫)を集め、君子営とした。
張賓を登用して、謀主にし、始めは軍の功曹に任じた。
刁膺、張敬を股肱とし、夔安、孔萇を爪牙とし、支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、呉予らを将にし、率いた。
武将の張斯に騎兵を率いさせて、并州の山北諸郡県を訪れさせて、羯族の胡人たちを説得させ、安危をさとさせた。
胡人たちは石勒の威名を怖れ、多くの者がついた。
常山に進軍し、諸将を分けて遣わし、中山、博陵、高陽の諸々の県を攻めさせ、数万人を降伏させた。

242 :
特に難しいところはなし。今回の記述は結構、重要。
まず、汲桑の時におとした鄴を再び落とす。
さらに汲桑を直接、殺した乞活を皆殺しにして、報復の二段階を果たす。
(残る報復リストは王衍、司馬越、苟晞か。丁紹はこの前後に死亡)
丁紹不在の冀州は石やんに切り取られ放題。
さらにこの頃、張賓が加わる。(まだ、君子営の末席だろうけど)
ここで、いつの間にか刁膺、張敬という二軍師と
(この二人って出自はなんであろう。特に張敬は武将なのか士大夫なのかも謎)
名将・孔萇が加わっている。
以前、石勒陣営を聞きたがっていた人はこの節を見るといい。初期はこのメンバーが中核。
次回、快進撃を続ける石やんに新たなる宿敵が現れる(バレバレ)

243 :
今回、おまけで整理のために
三国の州に合わせて、この時点での勢力者一覧を作成
(晋はもっと州が分かれるけどこっちの方がわかりやすい)
間違っていたらご指摘下さい
幽州:王浚
并州:劉淵・劉聰、劉琨
冀州:丁紹(死)→混乱状況、石勒
青州:王弥・曹嶷、苟晞
徐州:司馬越
兗州:苟晞
予州:司馬越
司州:司馬熾、司馬越・王衍
雍州:司馬模
涼州:張軌
揚州:司馬睿・王導
荊州:劉弘
益州:李雄、羅尚

244 :
>>239
東晋攻略や段遼征伐の時期までは、支雄や桃豹、キ安たちが生き残っていたおかげで
軍事行動ではまずまずの成果を収めていたんだがねえ
ちょうど、彼ら開国の元勲?たち(こいつら元勲ってタマじゃないんだが)が340年前後に
櫛の歯が抜けるように、フェードアウトしていくのと同時に石虎の軍事行動にも翳りが見え
始め、ご存知のように当代最強の慕容恪、ディフェンスには定評のある謝艾らに立て続けに
敗戦を重ねてしまった
名選手が必ずしも名監督になるとは限らない好例だな
逆に、明らかに石勒に関しては、「どう考えても統治者なんぞになれるわけないだろう」
と周囲に思われていたにもかかわらず(王浚への手紙等)、かなりレベルの高い
統治者になってしまうんだから、世の中先が読めない

245 :
>>243
いやあ、荊州と涼州くらいだな、政治がまともなのは
こっから荊州は王敦(軍事面では、劉弘の子飼の陶侃)へと受け継がれていくわけね
個人的には羅尚は趙括と並ぶ不肖の倅だと思うんだが、いかがだろう
王彌伝(今回は時系列がかなり曖昧)
 永嘉の初め、王彌は上党郡に寇略し、壺関を包囲した。東海王越は、王彌を討ち取るべく
淮南?史王曠、安豊太守衛乾らに命じて派兵させたものの、王彌は高都〜長平間で戦端を
開くや、大いに討伐軍を破り、討伐軍の六割から七割を死に至らしめた。(永嘉三年/309年 夏)
 ※ 劉聡、石勒らによる王曠、施融、曹超ら官軍との長平での戦役のことと思われる。
 劉曜、石勒たちと魏郡、汲郡、頓丘を攻めて城砦(塁壁)五十余りを陥落させると、城民を
ことごとく徴発し、軍士として自らの部隊に取り込んだ。(永嘉二年/308年 冬)
 また、石勒と共同で業を攻略した際には、安北将軍和郁を潰走させている。(同年 9月)
 懐帝は北中郎将の裴憲を王彌討伐のため白馬へ、車騎将軍王堪を石勒征討のため
東燕へ、平北将軍曹武を劉淵攻略のため大陽へと、それぞれ宿営させた。武部将軍彭黙ら
が劉聡に敗れ殺害されてしまうと、彼ら討伐軍は我先に撤退し始めた。
 劉聡軍が黄河を渡ると、懐帝は司隸校尉の劉暾、将軍宋抽らにこれを迎え撃たせたが、
誰一人として防ぐことはおろか足止めすらできなかった。王彌、劉聡は万騎をもって京城に
至ると、二学(国子監、太学)を焼き討ちした。東海王越は西明門に漢軍を迎撃して、
王彌たちを敗走させた。(端折りすぎで時系列が分からん、永嘉三年/309年 十月か?)
 ※ 同じ頃、石勒は飛龍山で王浚の派遣した祁弘・段務勿塵連合軍に大敗を喫している。
 王彌は態勢を立て直すと、二千騎あまりを率いて襄城郡の諸県城に来寇、河東、平陽、
弘農、上党各郡からの亡命難民たちで潁川、襄城、汝南、南陽の河南諸郡にいた数万家
を略奪し陵辱しつくした。歴史ある河南の諸郡も秩序を失い、無法地帯と化してしまうと、その
多くの城邑が焼き討ちに遭い、王彌に降伏する者たちは、二千石以上の長吏の殺害をもって
これに応じたのであった。また、王彌は二万人の兵力をもって石勒と合流すると陳郡、潁川郡に
侵寇し、次いで陽曜に駐屯した。弟の璋を石勒に同行させて共同で徐州・エン州の攻略に与る
と、司馬越の残軍は持ちこたえられず瓦解した。(〜311年 4月 司馬越の葬列襲撃まで)
 ※ 永嘉年間天下大乱。官軍も奴隷狩りしたり、内部抗争に明け暮れるド腐れ外道
  ばかりならば、匈奴軍も負けず劣らず鬼畜の軍団。舎弟の曹巍はこの頃、青州に居残って
  苟晞、苟純兄弟と激しい攻防を繰り返してたりするんだが、王彌伝、時系列が無茶苦茶
  すぎる。>>241の和郁壊走と若干リンクしているんだが、前後の記述が繋がらん。
   まあ、確実なのは、王彌が関東をことごとく蹂躙しつくしたってことか。

246 :
蜀では羅尚の評価はかなり良くなかったみたいですね。
文献をそのまま信じれば
刺史羅尚  羌を征討して破る  は後秦のこと? とか
李特を殺してるし将軍としてはそれなりの能力があるんじゃない?
人間性や統治能力(する気がない?)はアレとして。

247 :
>>245
ごめん。劉弘は、光熙元年(三〇六)に死去しているから、
このころの荊州刺吏は山簡だと思う。
荊州もまともな政治が行われてなかったということだな。
まさに世紀末。(本当は、世紀初めだけども)
山簡は清談で知られた司馬越好みの人物。
(司馬越って、謀略は優れているのに、政治は全然だめという司馬懿から脈々と
 流れる司馬一族の血を完全に引き継いでいるな。彼の後世の評判悪さはここにも
 起因していると思う。司馬乂の死が西晋にとどめを刺したという意見に同意)
ということで勢力表は
幽州:王浚
并州:劉淵・劉聰、劉琨
冀州:丁紹(死)→混乱状況、石勒
青州:王弥・曹嶷、苟晞
徐州:司馬越
兗州:苟晞
予州:司馬越
司州:司馬熾、司馬越・王衍
雍州:司馬模
涼州:張軌
揚州:司馬睿・王導
荊州:司馬越
益州:李雄、羅尚
ってことで。
しかし、李雄なんて三国志にでてきていれば、孫策・孫権を上回る人気があるだろうに。
ほとんど無名で話題にのぼることもないなんて……。
やっぱりかなり理不尽だな

248 :
>>247
あれ、荊州で劉弘の麾下と言えばもちろん陶侃だけど、
この時期(劉弘死後数年)の陶侃って何してたんだろ?

249 :
213さん、初めまして。
お盆休みのところ、失礼致します。
石勒伝を拝見させていただきましたが、たいへん参考になりました。
>言其遇己也。
>彼に対して自分に対するのと同じ言葉遣いを(部下に)させた
間違いかもしれませんが、直訳すると、
彼は自分を〔よく〕待遇してくれた〔からである〕、と言った。
ではないでしょうか。
「言」や「遇」は他にも意味があるので、別の訳も考えられると思います。

250 :
>宜早為之計
>その計画が実行されるのももうすぐだろう。
間違いがあるもしれませんが、
「之」は、ここでは多分、二人称の代名詞だと思います。
あくまで直訳ですが、
あなた方自身のために〔劉淵に帰順するのか、しないのか〕早く考えて決めるべきです。
といった意味でしょうか。

251 :
>>248
303年 劉弘の麾下として張昌の乱を平定。東郷侯となる。
305年 江夏太守として陳恢を撃破。
307年 江夏太守として陳敏の乱を平定の後、母親の死により辞職。
喪が明け東海王・司馬越の麾下に入り、次いで江州刺史・また華軼により
揚武将軍となり夏口に駐屯。
司馬睿に奮威将軍の地位を与えられ、続いて龍驤将軍、武昌太守となる。
(年代不明だが喪の期間を考えると恐らく310年辺りか?)
劉弘の死後、数年の陶侃の様子はこんな感じですね。

252 :
私は通俗続三国志と通俗続後三国志読んだんですけど、これって中国の続三国演義の訳かな?
なんか魏の武将の子孫(架空の人物)の扱いが酷い、とくに張遼の孫たち、あと呉奇だか朱伺だか一度死んだ武将が生き返ってる。

253 :
>>252
よくよく考えたら、中英板て三国演義関連のスレがないんだな
このスレには詳しい人いるみたいだけど(>>176)、若干スレ違い気味のような……
劉弘と言えば、賈后に毒を呷らせたのも彼でいいのかな?
何か、八王の乱の要所要所で登場してくる印象が強い(たいてい、調停役で奔走している)
荊州に赴任したら赴任したで、地方官がいない郡県がいっぱいあったんで、彼自ら選定して
任命した逸話とか、苦労人過ぎるよなあ
後の江陵軍閥の礎を築いたのは、武人たちの軍事力ではなく、間違いなく劉弘の行政と人徳だわ

254 :
盆休みなのでちょっと早く書き込み。
(今度からこの番号をとる)
>>249-250
ご指摘ありがとうございます。
あなたの言われることが全面的に正しいと思います(^o^)
自分は前に言ったけど、漢文の文法や史学のちゃんとした勉強を受けていないただの
素人です。これからもご指導・ご意見をお願いしますm(_ _)m
「言其遇己也」は、事例では、遇の後には厚、薄が普通はいるので深読みしました。
言が『言葉遣い』は無理があると思っていたのだけど
「宜早為之計」は之が二人称であることが漢和辞典に載っていなかったので
深読みしました。よろしく……べし。は分かっていたのだけどなあ
本日、やりかえます。
>>245
羅尚って、陸抗から蜀を守ったあの羅憲の兄の子だったのか。
調べて初めてしった。
(『解體晉書』のサイトに伝がある。陶侃もあるので248さんは知らなかった読むといい)
確かに羅尚伝では救いようのない男に見えるけど、
レールから外れた蜀出身者であそこまで出世したのはそれなりに実力があったのでない
李特伝を読むと、辛冉とかよりは評価されているし、
246さんの言うとおり李特を殺しているので、軍事に関しては叔父譲りの実力だったかも知れない
>>252
自分が176で紹介した奴ね。魏の武将の子孫はピンでは強いのに、いつもリンチにあってやられて
可哀想。張遼の子孫は殺されているけど、生け捕りにされた方がもっと悲惨なような……
(再登場はないから処刑されている)
漢の方が関羽の子孫、黄忠の子孫がオリキャラで追加されているのでこちらも追加したみたいだね
あれは『続三国演義』の訳だったんだ。
(なぜか、通俗二十一史では元ネタが記述されていない)
晋漢大決戦の時に死んだ武将で生き返っているのが何人かいるけど、それぐらいはいいんじゃない?
朱伺とか皮初とかでてくるのはこの小説ぐらいだもん。
自分は『反三国志』よりはるかに面白いと思っている。(文章もかなり名文だと思う)
自分はこれで王浚、苟晞、祁弘、王弥、劉霊、張方、李矩らを知った。
>>253
別にスレ違いじゃないんじゃない。ここは中華英雄板だから。
石勒全般について語るということで。
(三国志キャラは演義とは切り離せないだろう)
どうせ石勒がでてくる小説は
『通俗続三国志』『通俗続後三国志』
と『両晋演義』しかないのだから
(『後三国志』では母に取られているし)

255 :
で、とりあえず自分が>>213
でやった翻訳の訂正。
 時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。
石勒は言った。「そのようにできない者が、兵馬を所有している。
今、部族のものは全員、単于の召募にかかっており、幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。
あなた自身のためにすぐに考えて決断するべきだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼が自分を(よく)待遇してくれたからだ、と言った。

256 :
それでは前回からの続き
王浚使其將祁弘帥鮮卑段務塵等十餘萬騎討勒,大敗勒于飛龍山,死者萬餘.
勒退屯黎陽,分命諸將攻諸未下及叛者,降三十餘壁,置守宰以撫之.進寇信都,害冀州刺史王斌.
於是車騎將軍王堪、北中郎將裴憲自洛陽率眾討勒,勒燒營并糧,迴軍距之,次于黃牛壘.
魏郡太守劉矩以郡附于勒,勒使矩統其壘眾為中軍左翼.勒至黎陽,裴憲棄其軍奔于淮南,王堪退堡倉垣.
元海授勒鎮東大將軍,封汲郡公,持節、都督、王如故.勒固讓公不受.
與閻羆攻※圈、苑市二壘,陷之,羆中流矢死,勒并統其眾.潛自石橋濟河,攻陷白馬,坑男女三千餘口.
東襲鄄城,害兗州刺史袁孚.因攻倉垣,陷之,遂害堪.渡河攻廣宗、清河、平原、陽平諸縣,降勒者九萬餘口.
復南濟河,滎陽太守裴純奔于建業.
※ 者(にちへん付き)

257 :
一つ失敗。
次于黃牛壘→次于黄牛壘

 王浚は武将の祁弘に鮮卑の段務塵ら十数万騎の大将にし、石勒を討たせ、石勒は飛龍山において大敗し、戦死者は一万人以上にのぼった。
石勒は黎陽にまで退いて駐屯し、諸将を分け、命じて、まだ降伏させていないところや反乱を起こした者を攻めさせ、
三十以上の壁を降伏させ、守宰を置き、慰撫した。
信都を攻め、冀州刺史・王斌を殺した。この時、車騎將軍・王堪、北中郎將・裴憲は洛陽から兵を率いて、石勒を討ち、
石勒は陣営と兵糧を焼き、軍を引き返して防ぎ、黄牛壘に宿営した。
魏郡太守・劉矩は郡ごと石勒に降伏し、石勒は劉矩にその壘と衆を統率させて、中軍左翼にした。
石勒が黎陽につくと、裴憲は軍隊を捨てて、淮南に逃げていき、王堪は退いて倉垣を守った。
劉淵は石勒に鎮東大將軍を授け、汲郡公,持節、都督に封じ、王号はもとのままとした。石勒は固く辞退し、受けなかった。
閻羆と者(にちへん付き)圈、苑市の二壘を攻め、陥れたが、閻羆は流れ矢にあたり戦死し、石勒はその衆を統合した。
石橋から密かに黄河を渡り、白馬を攻め落とし、男女三千人以上を穴埋めにした。
東に行き、鄄城を陥れ、兗州刺史・袁孚を殺した。
それから倉垣を攻め、陥れ、王堪を殺した。黄河を渡り、広宗、清河、平原、陽平の諸県を攻め、九万人以上を降伏させた。
また、南へと黄河を渡り、滎陽太守・裴純を建業へと逃亡させた。

258 :
ついに、第二の宿敵・王浚登場。
祁弘と段氏という統率された騎兵軍団に寄せ集めの石やん軍は蹴散らされる。
黄河の北岸まで逃亡。(幽州の騎兵のすさまじさが分かる)
だが、ここから復活! 王斌・袁孚を殺し、刺吏キラーぶりを発揮。
中央からの討伐軍も壊滅させ、(ここの裴憲は王浚配下の?)黄河を南へ渡る
>男女三千人以上を穴埋めにした
やっぱり石やんはこれですな

259 :
213さん、石勒伝訳出お疲れ様です。
先日の書き込みをご覧くださり、ありがとうございました。
「宜早為之計」の「之」についてですが、
「張背督」らを指す人称代名詞ではなく、
「今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣」
という一文(状況)を指す指示代名詞としたほうが自然で、適切かもしれませんね。
このためにすぐに考えて決断するべきだろう
でしょうか。
>「賞募」
>召募
とされていますが、懸賞をかけて人を集める、懸賞募集
という意味だと思います。
>往往聚議欲叛部大而歸單于矣
>幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。
213さんの訳でも特に問題はないと思いますが、「往往」が本来修飾すべき「聚議」から離れすぎて、
「叛」にかかっているように誤解されてしまうのではないか、と感じました。
直訳ですが、
はやく酋長に反乱して、単于に従おうと時々集まって議論している。

260 :
ひさびさに王彌伝、どっからだったか忘れかけてる(確か311年
 王彌は(河南諸州を荒らし回った)後、今度は劉曜と合流して襄城を寇掠し、
京師に再び逼迫した。折りしも洛陽は大飢饉に見舞われ、衆人相食む様相を呈し、
役人のことごとくが流亡する有様であった。公卿の中には、(漢に寝返り)黄河の南岸へ
出奔する者が続出した。
 やがて王彌、劉曜らは宮城を陥落させた。太極前殿まで至ると、兵卒達を城中に放し、
欲しい儘に略奪を行なわせた。懐帝は(捕らえられると)端門に幽閉され、恵帝の皇后
羊献容は(劉曜から)陵辱を逼られ、皇太子であった司馬詮らは容赦なく殺害された。
 晋朝歴代の陵墓は余すところ無く盗掘に遭い、宮城祖廟は焼き払われ、官府も残さず
使い物にならないくらいまでに略奪されつくした。
 洛陽陥落時の犠牲者数は、官民の男女合わせて三万人余りにのぼり、このような惨状の中で
懐帝は平陽へと連行された。
 王彌軍の略奪は目に余るものがあり、総司令官であった劉曜はこれを禁止させようとしたが、
王彌は従わなかった。
 劉曜は見せしめのため王彌の牙門であった王延を斬首に処したが、これが王彌を激怒させた。
ついにお互い兵を繰り出し、漢軍内部での武力衝突にまで発展してしまう。この衝突の死者は
千人余りにのぼった。
 この時、王彌の長史であった張嵩が諌めた。
張「明公(との)が漢朝勃興の大事業に参画するようになったと言っても、ようやくその端緒に
  就いたばかりではございませんか。共同戦線を張ろうとしている矢先、いきなり仲間割れ
  をしているようでは、どの面下げて主上に見えようと言うのですか?」
 「洛陽平定の功績が将軍にあるのは明らかです、然れども、傍流とは言え劉曜は皇族です。
  これに謙り、阿るほかございません。晋の二王の孫呉平定の戦役を鑑みますに
  (※王渾と王濬の確執)、高位で親近なる劉曜を立てるは、的外れではありますまい。
  願わくは、明哲なる将軍がご深慮されるばかりでございます。」
 「将軍が勝って気まま士卒を失い、無事に帰還させられなかったと聞いたら、兵の子弟や
  家族はどのように思われるか!」
 ※ ちょっと小休止。
   王彌軍にはどうも、漢軍とはあくまで同盟関係であって、従属しているわけではないという
  意識が強いようだ(だから平気で劉曜とも衝突する)。これを手懐けるには容易でないん
  だろうが、肝心要の旧友である劉淵自身は永嘉四年(310年)に亡くなっているわけだから、
  せがれである劉聡らにとって、これ程扱いづらい居候もおるまい。

261 :
王彌伝(中途半端なところで切ってしまったな)
彌「その通りだ、道理に適っておる。
  まさか、微子(殷の紂王の庶兄)に勝るとも劣らない諌士がいるとはな。」
(※ 原文「善、微子、吾不聞此過也。」 訳に自信が無いんで、添削お願いします。)
 こうして王彌は劉曜の陣に謝罪のため出頭すると、当初の如く親子の契りを交わし直した
のであった。(「結分」を親子の盃と解釈させてもらったが、そうだとしたら相当謙ったものである。)
彌「下官(官吏の謙称、王彌卑屈すぎ)が、己が過ちに気づかされましたのは、これすなわち
  張長史のはたらきに他なりません。」
 劉曜は張嵩に言葉をかけた。
曜「全く、大した朱建であることよ。(楚の英布に諫言した朱建のことか?)
  どうして範生(范増のことか?)に譬えることができようか?」
(※ 原文「君為朱建矣、豈況範生乎!」 これまた非常に訳が怪しい)
そして、それぞれで張嵩に金百斤を賜ったのであった。
 王彌は劉曜に進言した。
彌「洛陽は天下の中心に位置し、四方を山河に囲まれて、堅固な地勢を擁しております。
  都城や庭園、宮室を一から造成しなくても、今残っているものを利用すれば十分に賄う
  ことができましょうぞ。平陽から洛陽へ根拠地を移すべきです。」
しかし、劉曜は王彌の献策には従わず、洛陽を焼き払って立ち去ってしまった。王彌は憤激して
罵った。
彌「屠各のジャリめ!己が帝王にでもなったつもりか!?
  貴様ごときが天下を如何こうしようと言うのか!」
遂には、自分の軍を接収して東進し、項関へと駐屯してしまった。
 ※ 多分、古典を持ち出して互いにウィットに富んだ会話のやりとりをしたんだと思うんだが
  俺の脳みそでは着いていくことができなかった……。でも、自分で洛陽を破壊しつくしておいて
  洛陽への奠都を提案する王彌って、……何か耄碌してきた観があるなあ。

262 :
王彌伝
 以前、劉曜は王彌をもって洛陽先遣の任に当たらせていたが、王彌が自分を待たずに勝手に
入城したことを怨んでいた。ここに至ってついに、両者の嫌隙は決定的なものとなった。
 (晋の司隸校尉で降将の)劉暾は王彌に、青州に還り割拠するように主張した。
 王彌はそれに同意すると、すぐに左長史の曹嶷を鎮東将軍に任命し、兵五千を与えるとともに、
多額の宝物を贈与した上で郷里の青州に派遣させ、それで戸籍を失った流民達を招誘し、
その一党に迎え入れようと企んだ。
 王彌の将であった徐貌、高梁は間もなくその部曲数千人を率いて、曹嶷に従って王彌の陣営
から離れていったが、これにより王彌の勢威はますます衰弱してしまった。
 ※ 王彌伝に拠れば、徐・高の二将が離脱したのは、青州割拠の地ならしのため、曹嶷に
  配属したことが理由と分かる。

263 :
王彌伝 ラスト
 以前から石勒は王彌の驍勇を忌々しく思っていたが、衝突を避けるために平素は親密に
振舞うようにしていた。
 洛陽を陥落させた時期、王彌は数多の美女寶貨を石勒に贈答することで、彼と義兄弟の
契りを結ぶことにした。
 時に、石勒は苟晞を降伏させると、彼を左司馬に登用した。王彌は石勒に申し出た。
彌「公が、苟晞を獲たばかりかこれを登用するとは、余人には思いもよらぬことでしょう。
  苟晞を公の左司馬として用いられるのであれば、私を右司馬として用いられるべきです。
  そうすれば、天下を定めることなど何の造作も無いことでしょう。」
 石勒は(この話を聞くと、たいへん胡散臭く思ったのか)、ますます王彌を憎むようになり、
裏で王彌暗殺の陰謀を張り巡らし始めた。
 劉暾は、ふたたび王彌に献策し、曹嶷を支配下に再度収めて、その兵力を併せて石勒を
誅戮するように勧めた。
 こうして王彌は劉暾を青州へと、曹嶷に兵を引き連れて己が勢力に合流するように、
その上で騙し討ちで石勒を要撃して、しかる後に青州に共に下向するように説き伏せるべく
派遣させた。
 ところが、暾は東阿に差し掛かったあたりで石勒の遊騎に捕獲されてしまった。
 石勒は王彌と曹嶷による謀議の密書を発見すると、大いに怒り、そのまま劉暾を殺害する。
 王彌は己の策が漏洩したことを知らずにいたため、逆に石勒の伏撃に襲われて殺害されてしまう。石勒は王彌の勢力を併呑した。
 ※ 梟雄王彌の末路、作戦的には、曹嶷と合流して石勒を邀撃するというよりは
  挟撃した方が理に適っているように思うんだが、やはり意思疎通が難しいから、無理にでも
  己の配属に置きたかったんだろうか?
   後半は、ひたすら裏目に出まくりな飛豹(豆知識:この通称の戦闘機が解放軍には装備
  されています)王彌だが、青・豫、司州を席巻した勢力は、やはり一方の英雄であったと
  思わされる。それだけに戦闘力の分散をやっちまったのは解せない。老いにしろ焦りにしろ
  じっくり、石勒を料理していくことは不可能ではなかったんだから、非常に勿体無い。
   関係ない話だが、王彌の祖父こそ卑弥呼に援軍を送った玄菟太守の王【斤頁】だったり
  するわけで、何だか非常にインターナショナルな時代だと改めて実感させられました。

264 :
>>259
ご指摘ありがとうございます。
次回の翻訳の時までに直しておきますのでお願いします。
やっぱり難しいなあ
>>263
王彌伝、お疲れ。これも非常に読みたかったのでとても楽しめた。
なぜか曹嶷伝はないんだよね。残念。
王彌も一代の梟雄だろう。タイプ的には樊崇かな?
戦争は強いが、戦略や内政が全くだめということで。
(樊崇よりは教養はあっても、人望は劣るだろうけど)
石勒が王彌の手紙を見て憎んだ理由は、石勒翻訳の続きにあるから待っていてくれ。
王彌が曹嶷を呼んだのは、当時、晋将・劉瑞に敗れるほど勢力が衰えていたからだろうね
しかし、劉暾はすごい間抜けだ。これが西晋クオリティーって奴か。
もしよろしければ、次は劉琨伝をリクエストします
(別に無視してもいいけど)

265 :
あと、>>261
古典を持ち出したウィットに富んだ劉曜と王彌の会話。
石やんがいたら、
(はぁ? なに言っているんだ。こいつら。酒臭えんだよ! このエセインテリどもが!)
ってことに、なっていただろうな。
ドキュンの巣窟と思っていた漢軍でも孤立感を味わう石やん。負けるな(^o^) 

266 :
また、翻訳の続き。
まず、>>259への返答
※「宜早為之計」の「之」は省略した方が無難と判断
※「今部落皆」の「皆」は「部落のものは全員」より「全部落」に変更
 (さすがに一人一人にかけているわけではないと思う)
※ 残りは259氏の意見に従う
それでは>>255の再改編
 時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。石勒は言った。
「そのようにできない者が、兵馬を所有している。今、全部族が単于の懸賞募集にかかっており、
酋長に反乱して、単于に従いたいと何度も議論している。すぐに考えて決断するべきだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼が自分を(よく)待遇してくれたからだ、と言った。

267 :
さらに>>256-257の続き
今回は二段。
時劉聰攻河内,勒率騎會之,攻冠軍將軍梁巨于武コ,懷帝遣兵救之.勒留諸將守武コ,與王桑逆巨於長陵.
巨請降,勒弗許,巨踰城而遁,軍人執之.勒馳如武コ,坑降卒萬餘,數梁巨罪而害之.
王師退還,河北諸堡壁大震,皆請降送任于勒.
 及元海死,劉聰授勒征東大將軍、并州刺史、汲郡公,持節、開府、都督、校尉、王如故.勒固辭將軍,乃止.

268 :
 その時、劉聡が河内を攻めており、石勒は騎兵を率いて合流し、冠軍將軍・梁巨を武コにおいて攻め、
懐帝は兵を遣わし(梁巨を)救援させた。石勒は諸将を武コに留め、王桑とともに梁巨を長陵において迎え撃った。
梁巨は降伏を求めたが、石勒は許さず、梁巨は城を越えて逃げようとしたが、軍の人に捕らえられた。
石勒は武コにまで馳せ、降伏した兵士、一万人以上を穴埋めにし、梁巨の罪を数え上げ殺した。
晋軍は退き帰り、河北のもろもろの堡壁は大いに動揺し、皆、石勒に降伏を求め、人質を送ってきた。
 劉淵が死ぬに至って、劉聡は石勒を征東大將軍、并州刺史、汲郡公,持節、開府、都督、校尉に任じ、王号を元のままにした。
石勒は(征東大)将軍を固辞し、取りやめとなった。

269 :
残酷行為が続く石やん。
なぜ、梁巨の降伏を認めなかったか。数え上げるほどの罪とは何か。謎のままだ。
(梁巨はここしかでてこない)
そして、ついに劉淵が死亡。将軍号を固持したところに、劉淵以外を主君とあおぐ気がないのがかいまみえる。
次回は強敵たちとの戦いが石やんを待っています。

270 :
まとめページとかってないのかな?

271 :
スレの流れとは別な話題で
インドの仏教興隆では、アショーカ王による庇護によって上座部仏教が地位を高めたことが
教科書にはよく載ってるし、日本でも崇仏論争以来聖徳太子やら聖武天皇やら桓武天皇やら
仏教の庇護者は枚挙にいとまがない
でも、中国仏教だとなぜか本格的に庇護した後趙政権がすっ飛ばされて、
後秦やら北魏やら梁にやら話題が飛んでしまうのは何故なんだろう
物自体が残っていないからかなあ?

272 :
>>271
石勒・石虎は仏教を保護、民間に信仰を浸透させたのって、
分かりにくい業績だからじゃないかな?
鳩摩羅什が後秦の姚興によって長安に迎えられたり、姚興の話とか。
北魏は廃仏で有名な太武帝がいたり、
梁には仏教狂いの武帝がいたりするしそっちの方が具体的に目に止まりやすいのでは?
まあ寺院とかをやたら建ててたりするのも理由だとは思うけど。

273 :
劉琨
うまくいったかな?
次は晋書巻六十二、列伝第三十二をメインで

274 :
 劉琨(271年〜318年)、字は越石、中山魏昌を本籍とし、漢中山靖王劉勝の後裔であった。
 祖父の邁は行政経営の才能に恵まれ、相国参軍、散騎常侍を歴任した。
 父の蕃は気品があり慎ましい性格の人物で、官位は光禄大夫までのぼっている。
 劉琨は若いころから俊朗との評判を得ており、范陽の祖納とともに雄豪なる人物でもって
その名を知られていた。
 二十六歳で司隸従事に採用される。
 当時、征虜将軍であった石崇(豪奢で有名)は河南金穀澗の渓谷の中に別荘を構えていたが、
評判の優れている人物たちは賓客としてよく招かれ、日がな一日賦詩に興じて過ごすことが
しばしばあった。
 劉琨もそのサロンに属しており、特に詩文を詠じることおびただしく、その文才は広く世間に
認められるところであった。
 秘書監の賈謐が朝政に預かるようになると、京師の人士でこれに傾心しない者は誰一人として
いなかった。
 石崇、欧陽建、陸機、陸雲といった連中が、軒並み文才を以って卑屈なまでに賈謐に屈従
していたが、劉輿、琨の兄弟もまたその中の一員であった。世に言う「二十四友」である。
 太尉の高密王泰が琨を招聘してその掾と為すや、時を置かずして著作郎、太学博士、
尚書郎へと累進を重ね(、その文才を遺憾なく発揮し)た。
 ※ 漢文苦手な俺にとっては、文人の訳出はかなりしんどい作業だなあ。
  それにしても、この人は文芸畑でおとなしくメシ食っていられたら、それだけ大成出来たんだか。
  はっきり言って、戦乱の世に生まれたがゆえに、家族、部下、その衆民をことごとく不幸に
  巻き込んでしまった、はた迷惑な人物なんだよな。なぜ、愛国者に生まれてしまったんだか。
  
  「この時代に曹操が生まれていたら」のひとつの回答かもしれない。(戦争はそんなに強くないけど)

275 :
>>274
おおっ。劉琨伝が始まった。リクエストに応えてくれてありがとう(^^)/
劉琨って、中山靖王劉勝の子孫だったんだね。
劉備と先祖を同じくする漢王朝の子孫の劉琨が晋に仕え、漢の宿敵・匈奴の劉淵
が漢を名乗り、戦うところが面白い。
>漢文苦手な俺にとっては、文人の訳出はかなりしんどい作業だなあ。
これはよく分かる。自分も劉琨の石勒に送った手紙に苦戦している。
ほんとよく分からん(>_<)
劉琨を曹操といったら、信者が騒ぎそうだな。
でも、劉琨は張賓に「大敵」といわれているから結構、有能だったんじゃないかな
「曹植が世にでてきていたら」という感じだと思っている。

276 :
で、今回はここ
劉粲率眾四萬寇洛陽,勒留輜重于重門,率騎二萬會粲於大陽,大敗王師於澠池,遂至洛川.
粲出轘轅,勒出成皋關,圍陳留太守王讚於倉垣,為讚所敗,退屯文石津.
將北攻王浚,會浚將王甲始率遼西鮮卑萬餘騎敗趙固于津北,勒乃燒船棄營,引軍向柏門,
迎重門輜重,至于石門,濟河,攻襄城太守崔曠於繁昌,害之.

277 :
 劉粲は四万の衆を率いて、洛陽を攻め、石勒は重門に輜重をとどめ、騎兵二万を率いて、大陽において、
劉粲と合流し、晋軍を澠池において大いに破り、洛川にまで至った。
劉粲は轘轅から出て、石勒は成皋関から出て、
陳留太守・王讚を倉垣において囲み、王讚に敗北し、退いて、文石津に駐屯した。
それから北上し、王浚を攻め、王浚の武将・王甲始が遼西鮮卑の騎兵一万人以上を率い、
趙固を津北において破ったので、石勒は船を焼き、陣営を捨て、軍を率いて柏門に向かい、
重門の輜重を迎え入れ、石門に至ってから、黄河を渡り、襄城太守・崔昿を繁昌において攻め、殺した。

278 :
正直、位置関係があまりよくわからないが、悪戦苦闘が続く石やん。
宿敵・苟晞の配下、王讚に敗北、もう一人の宿敵・王浚の配下、王甲始に転進に追い込まれる
黄河をはさんでの戦い、北に王浚、東に苟晞。西晋の二枚看板が石やんに迫る。
>>277の五行、『王浚を攻め』→『王浚を攻めようとした時』に訂正。
 『將』にがついているからね)
次回は、南方の群雄と石やんの戦い。

279 :
常勝不敗が名将の条件と言うのであれば、石勒は間違いなく名将の範疇からは外れてしまう
まあ、名将というには品位なんて微塵も持ち合わせていないし、騎士道精神みたいな美学も
理解する気なんて端からないくらい、戦闘においては残虐行為に躊躇無く手を染めている
カテゴリー的には、猛将……ではないな、調略、奇策、使える手段であれば、どんな汚い策でも
平気で仕掛けてくるし、盟約破りなんか朝飯前
謀将と言うには余りにも純朴すぎるし、陽気な感じ
何つーか、客観的に評価すれば均衡の取れた良将に落ち着くんだが
やはり奴隷時代、穴埋め、虐殺、強制移住等のせいで、ブラックな印象が憑いて回っちまうな

280 :
レスが少なくて少しさびしいが、地道に活動するか。
>>279
確かに。総合能力では名将でいいんだろうけど、曹操同様、多少むらがある。
>均衡の取れた良将
将としてなら、そうだろうね。ただし、高い統率力がただの良将では終わらせなかったのだろう
光栄ゲームだったら、能力値は光栄版趙雲(初期の頃)ってかんじ。
(武力を90代前半に下げる代わりに、特殊能力をばんばんつけてバランスをとればいいような)
で前の続き。
 先是,雍州流人王如、侯脱、嚴嶷等起兵江淮間,聞勒之來也,懼,遣眾一萬屯襄城以距,勒擊敗之,盡俘其眾.
勒至南陽,屯于宛北山.如懼勒之攻襄也,使送珍寶車馬犒師,結為兄弟,勒納之.如與侯脱不平,説勒攻脱.
勒夜令三軍雞鳴而駕,晨壓宛門,攻之,旬有二日而克.嚴嶷率眾救脱,至則無及,遂降于勒.
勒斬脱,囚嶷送于平陽,盡并其眾,軍勢彌盛.

281 :
 それより先に、雍州の流人・王如、侯脱、厳嶷らが長江と淮河の間で挙兵していて、石勒がやって来たのを知り、
怖れ、衆一万を遣わし、襄城に駐屯させ(石勒を)防がせたが、石勒はこれをうち破り、その衆を全て捕らえた。
石勒は南陽につき、宛北山に駐屯した。
王如は石勒が襄城を攻めたことで怖れ、珍宝や車馬を贈り、(石勒の)軍をごちそうでねぎらい、
結んで兄弟となり、石勒はこれを承諾した。
王如は侯脱と不仲で、石勒を説いて侯脱を攻めさせた。
石勒は夜、命令を下し、三軍に鶏鳴とともに出発させ、朝には宛門に迫り、攻めて十二日で勝った。
厳嶷は衆を率い、侯脱を救援しようとしたが、間に合わず、石勒に降伏した。
石勒は侯脱を斬り、厳嶷をとらえて平陽に送り、その衆を全て組み入れ、軍勢はますます盛んとなった。

282 :
石やん、南陽方面にいた雍州の流人勢力と戦い、圧勝。圧倒的軍才をみせつける。
(これって張繍と同じパターンだよね。
 李特・李雄親子も雍州の流人だったけ。王如は晋書に列伝がある人物)
厳嶷のその後の運命は・・・(T_T)
次回は南方の戦い、その続き。

283 :
劉琨伝
 永興元年(301年)四月、趙王倫がクーデターを成功させ輔政の座に就くと、劉琨を
記室督に採用し、さらに従事中郎へと昇進させた。倫の嫡子夸(くさかんむり)は劉琨の
姉婿であったので、そのため親兄弟含めた劉琨の一族の大半が、趙王一党の預かる
ところとなっていた。
 趙王倫が帝位簒奪に及ぶと、夸は皇太子に冊立され、改めて劉琨は太子・事に任ぜられた。
 永興二年(302年)三月、三王(斉王、成都王、河間王)が趙王倫討伐の兵を挙げる。
 劉琨は冠軍将軍に任じられ仮節を賜ると、孫秀(趙王倫の私党の筆頭)の子
孫會とともに宿衛兵3万を統率して、河北正面の成都王穎軍に立ち向かった。
 黄橋において戦端は開かれたものの、ゲキ【シ臭】水の戦いで劉琨らの軍は大敗し
撤退を余儀なくされる。趙王軍は、河橋を焼き払い守備を堅固にして防勢へと転じた。
 三王起義が成り、今度は斉王冏が輔政の任に就くこととなったが、劉琨の父子兄弟
誰もが当時一級の評判を得ていた人物ばかりだったので、劉氏が趙王の一党に与し、敵対
していたことは特別に赦され、放免されることになった。
 こうして、兄劉輿は中書郎を拝領し、琨は尚書左丞、つづいて司徒左長史へと
任ぜられたのであった。
 永寧二年(302年)十二月、斉王冏が成都王、河間王に攻められ敗亡すると、范陽王
は許昌へと出鎮し、その際琨を自らの司馬として引き抜いた。
 ※ 誰か、八王の乱を分かりやすく説明できる人おらん?
   どう考えても賈后時代の方がマシなんだが。

284 :
劉琨伝、もう一丁
 永安元年(304年)十一月、張方により恵帝が長安へと御幸させられると、東海王越は、帝を
洛陽に取り戻そうと謀り、劉琨の父劉蕃に淮北護軍、豫州刺史の地位を授けた。
 永興二年(305年)十月、河間王閥のひとりであった豫州刺史の劉喬が范陽王を許昌に攻めた。
 劉琨と汝南太守の杜育は兵を率いてこれを救わんとしたが、彼らの救援軍が到着しない
うちに范陽王は敗れてしまい、劉琨は范陽王に付き従って河北へと遁走した。このとき、琨
の父母が劉喬の捕虜として執らわれてしまった。
 ※ 簡単にまとめると、東海王越が河間王派であった劉喬を冀州刺史へと転じ、豫州には自分の
  息のかかった人物を配置しようと企んだことに劉喬が反発し、「劉輿・劉琨兄弟が范陽王
  を唆して専横を振るっているからこれを取り除いちゃうもんね。」と称して、敢然と東海王側に
  喧嘩を売ったのが、河南戦線の始まり。ちなみに兄貴の劉輿は穎川太守として活動している。
 劉琨はすぐさま冀州刺史の温羨の元に赴くとこれを説き伏せ、刺史の地位を范陽王に
譲らせる。范陽王は冀州を領有すると、つづいて劉琨を幽州へと遣使し、王浚に増援を
要請した。
 劉琨は烏丸・鮮卑の突騎800騎ほどを得ると、范陽王とともに黄河を渡り、共同で
兗州刺史であった東平王楙を廩丘に攻めてこれを撃ち破り 、また劉喬の勢力も南方へと
壊走させて、関東の河間王勢力を一掃した。(※ 恐るべきはやはり王浚の援軍!)このときに
なってようやく父母を取り戻すことが出来た。
 劉琨の軍はまた、滎陽において石超を斬り(十二月)、明くる年には張方の誅殺を
受けて、滎陽に籠もっていた呂朗を降している。
 ここに至って関東の東海王派の諸軍は統合し、鮮卑兵率いる祁弘を先鋒として、帝を奪還すべく
長安へ向けて、その征旅を進軍させたのであった。
 (東海王越が恵帝を奉じて洛陽に帰還し、輔政の座に就任すると)、劉琨はその勲功を
以って広武侯に封ぜられ、邑二千戸を賜った。
 ※ 劉琨兄弟、なぜか河間王サイドから目の敵にされとりますが、それだけ目障りな存在
  だと思われていたんだろうか。この時期は基本的に兄貴の劉輿と共に行動している。范陽王を
  よく補佐しているし、幕僚としては十分に有能な類だったことが窺える。
   なお、山東においては劉柏根、王彌らが蠢動を見せ始め、趙魏においては成都王軍の
  遺将公師藩が汲桑らを率いてその軍事活動を開始した時期に当たります。

285 :
>>283
劉琨伝の続き、おつかれ。
劉輿・劉琨は奸臣として扱われていることが多い。
確かに、劉輿の評判は悪いが八王の乱を見事に泳いでいるのはさすがだ。
劉輿がかなりの世渡り上手であったのは分かる。
冀州刺史の人事の流れがよく分からない。
丁紹→温羨→范陽王・司馬虓→王斌 なのかな?
>※ 誰か、八王の乱を分かりやすく説明できる人おらん?
>  どう考えても賈后時代の方がマシなんだが。
これやるのも面白いかもしれない。まあ、八王といっても実際は十数人いるのだが。
「両晋英雄」スレがいいのか、「司馬家」スレがいいのか、ここがいいのか迷うところだが。


286 :
で、続き。
 勒南寇襄陽,攻陷江西壘壁三十餘所,留刁膺守襄陽,躬帥精騎三萬還攻王如.憚如之盛,遂趣襄城.
如知之,遣弟璃率騎二萬五千,詐言犒軍,實欲襲勒.勒逆擊,滅之,復屯江西,蓋欲有雄據江漢之志也.
張賓以為不可,勸勒北還,弗從,以賓為參軍都尉,領記室,位次司馬,專居中總事.

287 :
 石勒は南下し、襄陽を攻め、江西の壘壁を三十カ所以上も攻め落とし、刁膺を襄陽の守備にとどめ、
自身は精鋭の騎兵三万の将として帰還して、王如を攻めた。王如は(石勒の)勢い盛んなのを怖れ、襄城に赴いた。
(王如は)弟の王璃を騎兵二万五千を率いて遣わし、いつわって軍をねぎらいの言葉を与えて、石勒を襲撃しようとした。
石勒は迎え撃ち、(王璃の軍を)滅ぼし、また江西に駐屯し、江漢により自立しようという志を持った。
張賓は無理であるといって、石勒に北に帰ることを進めたが、(石勒は)従わず、
張賓を參軍都尉にし,記室を領せしめ,位を次司馬にして、陣営の中のことに専任させた。
※ 『領記室,位次司馬,專居中總事』に自信がない。
   ご教示お願いしますm(_ _)m

288 :
前回の兄弟のちぎりはなんだったのか、と小一時間問いつめたくなるような石やんの行動。
さっそく王如を裏切り、攻めまくる。
続いてなにを思ったか、江漢地方(漢水と長江の間にある地域のことだろう)に自立しようとする。
王浚、苟晞、劉琨みたいな強敵がおらず、王彌と劉聡と勢力圏が重なる地域を避けたのだと思う。
このころの荊州刺吏は山簡だろうから切り取り放題だったろうな。
次回は南方の戦い、その3。司馬睿と初の接触をする。

289 :
江漢平野で自立するメリットは、それほど有力な晋側の軍閥がいないこと
より一層開発の進んだ肥沃な平野部とそこそこの人口を有すること(また、流民が多く流入していた)
三国時代に軍事都市として発達した、襄陽(樊城)、江陵の存在
こんなところかな、目の付け所は悪くない
魏晋南北朝時代を通じて、江陵に拠る勢力は、たとえ官軍であろうと事実上一軍閥として
他の勢力に拮抗できるほどの実力を誇っていた
でも、張賓はそれを捨てて「(たとえ群雄が犇めいていようと)河北で割拠するべきです。」と主張するわけだ

290 :
北伐したいと言ったが、全然兵力が増強されない

Rと言うことか

291 :
王彌伝、拝見させていただきました。
いつも勉強になります。
>遣其侍中兼御史大夫郊迎
を235で
>侍中兼御史大夫であった呼延翼
と訳されています。
呼延翼が御史大夫であったことは『晋書』で確認できたのですが、
侍中であったことは分かりませんでした。
不勉強で恐縮ですが、
>侍中兼御史大夫であった呼延翼
とされる根拠、或いは典拠をご教授いただけないでしょうか。
どうかお願い致します。

292 :
>>291
勢いで訳していたから、そこら辺の記述から早とちりしてしまったかもしれません
確かに、どこにも呼延翼が侍中を兼任していたことは書いてなかったんで、誤訳していたみたいです
すいません、侍中兼御史大夫(姓名不詳)に訂正しておきます

293 :
お知らせくださり、ありがとうございました。
細かいことですが、つい気になったので書き込んでしまいました。

294 :
>>292,>>293だいぶ、死んでしまったスレが増えてきたけど、
まだまだ、このスレは健在ってことで。特にお二人のおかげです。
>>290
正直、司馬睿、王導の本音はそうだろうね。二人とも全く北伐する気がなかったか
不明だが、江南豪族の内部調整に忙しく、失地奪回はあきらめていたような空気がある
その中で北伐を求める祖逖は邪魔者なわけだ。
司馬睿に至っては、祖逖の兵力を王氏の権力を抑えるのに利用しようとするわけで
、その軍事力は、司馬睿と王導の政争の道具にされたともいえる。
岳飛も哀れだが、全く援助をうけられない祖逖はもっと苛酷な状況だ。
逆にいえば、そんな状況で当代屈指の軍事能力をもつ石勒・石虎と相対したのだから
祖逖がいかに名将であったということがこれで分かる。

295 :
で、翻訳の今回分。
元帝慮勒南寇,使王導率眾討勒.勒軍糧不接,死疫太半,納張賓之策,乃焚輜重,裹糧卷甲,渡沔,寇江夏,太守楊岠棄郡而走.
北寇新蔡,害新蔡王確于南頓,朗陵公何襲、廣陵公陳眕、上黨太守羊綜、廣平太守邵肇等率眾降于勒.勒進陷許昌,害平東將軍王康.
 司馬睿は南へと攻めてくると考え、王導に衆を率いて石勒を討たせた。石勒軍は兵糧がつづかず、(軍の)死すもの、
病気になるものが大半となり、張賓の献策をいれ、輜重を焼いて、兵糧を持たせ鎧をつけさせたまま、沔河を渡り、江夏を攻めた。
太守の楊岠は郡を棄てて逃げた。北に行き、新蔡を攻め、新蔡王・司馬確(司馬騰の子)を南頓において殺し、
朗陵公・何襲、広陵公・陳眕、上党太守・羊綜、広平太守・邵肇は衆を率いて、石勒に降伏した。
石勒は進軍し、許昌を攻め落とし、平東將軍・王康を殺した。

296 :
さっそく、張賓の危惧はあたり、兵糧が確保できず、(なんでこうなったかはよく分からないが)
危機に陥る石やん。(こういう機動戦を得意とするタイプが陥りやすい罠だよな)
といいつつ、前回あたりから張賓が頭角を現し初めているのに気づく。
張賓に従い、江夏をおとし、あの自分を奴隷にした司馬騰の子・司馬確(残りは全て死亡)
を殺し、家を断絶においこみ、報復を完成させる。
さらに三太守を降伏させ、許昌を落とす。
次回、有名なあのエピソード。『晋の半分』との決着。

297 :
213さん、こんにちは。
石勒伝、毎回読ませて頂いております。
細かい点なのですが、
>乃焚輜重,裹糧卷甲,渡沔,寇江夏
>、輜重を焼いて、兵糧を持たせ鎧をつけさせたまま、沔河を渡り、江夏を攻めた。
間違いがあるかもしれませんが、「裹糧卷甲」は、兵糧を携帯し、甲(よろい)を脱ぐことで、軽装で急行したり、遠征したりすることを形容する言葉だと
思います。
ですので、鎧をつけさせたままと訳すのは、原文の意味とは少し違うのではと思いました。
また、「寇」ですが、石勒が江夏郡を攻めた理由が、兵糧を確保できなかったということから、
食糧を奪うことだったのではないかと思います。「寇」には、略奪の意味も含まれていますので、
その点も訳に反映されるとよいのではないかと個人的に思います。
「沔」ですが、歴史地図には「沔水」とありました。淮水を淮河というように、沔河というのでしょうか。
詳しくないので、ご教授いただけますでしょうか。些細なことですみません。
213さんの今までの訳のようには、なかなかうまく訳せませんが、
〔石勒の軍勢は〕輜重を焼き、軽装で〔急〕行軍して沔河(沔水)を渡ると、江夏〔郡〕に攻め込んで、略奪を行った。
括弧が多くて読みづらくなりました。^^;

298 :
保守。
張賓の活躍期待。

299 :
>>297-298
お待たせして申し訳ない。ちょっと、時間がとれなかった。
やめる時はやめると言うから。
「裹糧卷甲」の翻訳は、つけ忘れていたけど、自信がありませんでした
漢和辞典には卷は「巻く」の意味しかのってなかったもので。
寇は「寇略・寇掠」の意味で「攻め入りかすめ取ること」ですね。
訳が長くなるのでやめていましたが、片方だけでは訳として不完全なのでこの訳でいきます。
沔は確かに沔水しか確認できませんでした。勘違いしていました。自分の勉強不足です。
ただ、沔水は漢水の上流部なので今後は「漢水」と訳します。
それで改訳は、
 司馬睿は南へと攻めてくると考え、王導に衆を率いて石勒を討たせた。石勒軍は兵糧がつづかず、
(軍の)死すもの、病気になるものが大半となり、張賓の献策をいれ、輜重を焼いて、
兵糧を持たせ鎧を脱がせ、漢水を渡り、江夏を攻めて掠めた。
太守の楊岠は郡を棄てて逃げた。北に行き、新蔡を攻め、新蔡王・司馬確(司馬騰の子)を南頓において殺し、
朗陵公・何襲、広陵公・陳眕、上党太守・羊綜、広平太守・邵肇は衆を率いて、石勒に降伏した。石勒は進軍し、
許昌を攻め落とし、平東將軍・王康を殺した。

300 :
で、また、続き。石勒の話で最も有名な部分。
 先是,東海王越率洛陽之眾二十餘萬討勒,越薨于軍,眾推太尉王衍為主,率眾東下,勒輕騎追及之.
衍遣將軍錢端與勒戰,為勒所敗,端死之,衍軍大潰,勒分騎圍而射之,相登如山,無一免者.
於是執衍及襄陽王範、任城王濟、西河王喜、梁王禧、齊王超、吏部尚書劉望、豫州刺史劉喬、太傅長史庾※等,坐之于幕下,問以晉故.
衍、濟等懼死,多自陳說,惟範神色儼然,意氣自若,顧呵之曰:
「今日之事,何復紛紜!」勒甚奇之.勒於是引諸王公卿士於外害之,死者甚眾.勒重衍清辨,奇範神氣,不能加之兵刃,夜使人排牆填殺之.
左何倫、右李ツ聞越薨,奉越妃裴氏及越世子※出自洛陽.勒逆※於洧倉,軍復大潰,執毗及諸王公卿士,皆害之,死者甚眾.
因率精騎三萬,入自成皋關.會劉曜、王彌寇洛陽,洛陽既陷,勒歸功彌、曜,遂出轘轅,屯于許昌.劉聰署勒征東大將軍,勒固辭不受.

301 :
で、翻訳。
 これより先、東海王・司馬越は洛陽の衆二十万余を率い、石勒を討とうとしたが、軍中で司馬越は死に、
衆は太尉・王衍を主に推した。衆を率い、東に下り、石勒は軽騎兵でこれを追い、追いついた。
王衍は将軍の銭端を遣わして石勒と戦わせたが、石勒に敗れ、銭端は戦死し、王衍の軍は壊滅して、
石勒を騎兵を分け囲んで射撃し、山のように倒れ、一人も逃れられるものはいなかった。
ついに王衍と襄陽王・司馬範、任城王・司馬済、西河王・司馬喜、梁王・司馬禧、斉王・司馬超、
吏部尚書・劉望、予州刺史・劉喬、太傅長史・庾ガイ(山:左上、豆:左下、攵:右)らを捕らえ、
幕下に座らせ、晋がここに至った原因を問うた。
王衍や司馬済は死ぬことを怖れ、自分から色々話したが、ただ、司馬範だけ顔色一つ変えず、
意気を落ち着けながら、二人を顧みて言った。
「本日のこと、いまさら何をいおうや!」。
石勒は(司馬範を)とても傑出した人物とみなした。
石勒はもろもろの王公卿士を引き出して殺し、死者はとても多かった。
石勒は王衍が清談がたつのを重んじ、司馬範の神のような気力をすばらしいとし、刃を下すことができず、
夜、人を使わし、壁をおさせ、(二人を)つぶし殺した。
(司馬越の)左腕・何倫、右腕李ツは司馬越が死んだと聞き、
司馬越の妃・裴氏と司馬越の世子・司馬ヒ(田:左、比:右)を奉じて洛陽を出て、石勒は洧倉において、迎え撃った。
晋軍はまた壊滅し、司馬ヒ(田:左、比:右)ともろもろの王公卿士は皆、殺され、死者はとても多かった。
精鋭の騎兵三万を率いて、成皋関に入り、劉曜、王弥と合流し、洛陽を攻めて、洛陽を陥れた。
石勒は王弥の功績にし、劉曜は轘轅から出て、許昌に駐屯した。
劉聡は石勒を征東大將軍に任命したが、石勒は固く辞退し、受けなかった。

302 :
今回で、因縁の報復リスト第一・王衍をぬっ殺し、司馬越の残党である西晋の半分を潰す。
20万人を越える大量虐殺を行い、司馬一族も半分以上始末する。
(しかし、銭端って陳敏配下だった武将? だったら、珍しい起用だな)
さらに今回で洛陽も陥落。西晋は実質的に滅亡。
敵軍はつぶしたものの、勢力はいまだ定まらない石やん。
劉曜、王彌というかつての味方とも新たな戦いが予見される。
大量を勢力空白地帯をめぐり、石やんはかつての宿敵と決着をつける。

303 :
それでは今回分。
 先是,平陽人李洪有眾數千,壘于舞陽,苟晞假洪雍州刺史.勒進寇穀陽,害冠軍將軍王茲.
破王讚于陽夏,獲讚,以為從事中郎.
襲破大將軍苟晞于蒙城,執晞,署為左司馬.劉聰授勒征東大將軍、幽州牧,固辭將軍不受.

304 :
 これより先、平陽の人・李洪が数千の衆を擁し、舞陽に籠もっていて、苟晞は彼を仮の雍州刺史に任じていた。
石勒は穀陽を攻めて掠め、冠軍將軍・王茲を殺した。王讚を陽夏に破り、捕らえ、従事中郎に任じた。
大將軍・苟晞を蒙城に攻撃し、苟晞を捕らえ、左司馬に任命した。
劉聡は征東大將軍、幽州牧を石勒に授けたが、石勒は固辞して受けなかった。
(一行目と他とのつながりがわかりにくいが、逸文があるのかもしれない)

305 :
ついに(あまりにもあっけなさすぎるが)宿敵・苟晞と自分を敗北させた王讚を捕らえる。
多分、洛陽の司馬熾に山東方面の諸軍事に任じられていたので求心力を保っていただけで、
苟晞自身の魅力ではなかったのだろう。
軍律が厳しく、殺しすぎという評判の苟晞は洛陽の陥落後、支配地域の地方官・豪族から
そっぽを向かれたのだと思う。
苟晞はやはり司馬懿に似たタイプだろう。バックに大国があって、初めて力が発揮できるタイプ。
ピンでは英雄というには厳しい。
次回はかなりの長文。まさに乱世というエピソード。

306 :
で、また、今回の分。かなり長い。

 先是,王彌納劉暾之説,將先誅勒,東王青州,使暾徴其將曹嶷於齊.
勒遊騎獲暾,得彌所與嶷書,勒殺之,密有圖彌之計矣.會彌將徐邈輒引部兵去彌,彌漸削弱.
及勒之獲苟晞也,彌惡之,偽卑辭使謂勒曰:
「公獲苟晞而赦之,何其神也!使晞為公左,彌為公右,天下不足定.」
勒謂張賓曰:「王彌位重言卑,恐其遂成前狗意也.」
賓曰:「觀王公有青州之心,桑梓本邦,固人情之所樂,明公獨無并州之思乎?王公遲迴未發者,
懼明公踵其後,已有規明公之志,但未獲便爾.今不圖之,恐曹嶷復至,共為羽翼,後雖欲悔,何所及邪!
徐邈既去,軍勢稍弱,觀其控御之懷猶盛,可誘而滅之.」
勒以為然.勒時與陳午相攻于蓬關,王彌亦與劉瑞相持甚急.彌請救于勒,勒未之許.
張賓進曰:「明公常恐不得王公之便,今天以其便授我矣.陳午小豎,何能為寇?王彌人傑,將為我害.」
勒因迴軍擊瑞,斬之.彌大ス,謂勒深心推奉,無復疑也.勒引師攻陳午于肥澤,午司馬上黨李頭説勒曰:
「公天生神武,當平定四海,四海士庶皆仰屬明公,望濟于塗炭.有與公爭天下者,公不早圖之,而返攻我曹流人.
我曹郷黨,終當奉戴,何遽見逼乎!」勒心然之,詰朝引退.
詭請王彌讌于已吾,彌長史張嵩諫彌勿就,恐有專諸、孫峻之禍,彌不從.
既入,酒酣,勒手斬彌而并其眾,※聰稱彌叛逆之状.
聰署勒鎮東大將軍、督并幽二州諸軍事、領并州刺史,持節、征討都督、校尉、開府、幽州牧、公如故.
※ケイという字。ユニコード555F

307 :
訳の前半。
 それより先、王彌は劉暾の進言をいれ、まず石勒を殺し、東に行き青州の王になろうとして、
劉暾を遣わし斉地方にいた配下の武将・曹嶷をよぼうとした。
石勒の遊騎兵が劉暾を捕らえ、王彌が曹嶷に与えようとした手紙を見つけ、石勒は王彌をRことにし、密かに王彌をはめる計略を練った。
たまたま王彌の武将・徐邈が自分の部隊を率いて、王彌のもとを去り、王彌は次第に弱っていった。
石勒が苟晞を捕らえたと聞き、王彌は石勒を憎悪し、使者を遣わし、偽って言葉を卑しくさせて石勒に伝えた
「公(石勒)は苟晞を捕らえて、さらに、許しました。何と、神業なのでしょう! 苟晞を公の左翼とし、
王彌を公の右翼とするならば、天下が定まらないということがありましょうか」。
石勒は張賓に言った。「王彌は位は重いのに、言葉はへりくだっている。本気で(自分の)先陣をいく犬となるつもりなのかと怖れている」
張賓は言った。「王公(王彌)は、青州をとろうという意志が伺えます。
故郷や本籍地を(所有することは)人の情として楽しいものでありまして、明公(石勒)だけは并州を思慕しないでしょうか? 
王公は決断が遅く、まだ行動していませんが、明公の動きがその後を追うことになることを怖れます。
すでに明公の志は決まっており、ただ、巧みにだまし(王彌を)まだ捕らえていないだけです。
今、王彌を謀らず、曹嶷がまた戻ってきて、(王彌の)羽翼となるのが恐れます。
(その時には)後悔したくても、なんで間に合いましょうか!徐邈がすでに去って、軍勢はやや弱まっていますが、
(王彌の)人を操る力がまだまだ盛んなのを見るに、誘い出してRのがよいでしょう」。石勒は同意した。
その時、石勒は蓬關において、陳午を攻めていて、王彌は劉瑞と相対して、とても危急(な状況)であった。

308 :
王彌は石勒に助けを求め、石勒は許可をだしていなかった。張賓は進言した。
「明公はいつも王公を巧みにだますことができないのを怖れてますが、
今こそ天が巧みにだます(機会を)我らに授けてくれたのです。
陳午は小僧っこで、なんで、攻め掠めることができましょう? 王彌は人傑であり、我らはRべきです」。
そこで、石勒は軍を転進し、劉瑞を撃破し、斬った。
王彌はとても喜び、石勒を心底、奉ると言い、再び疑うことはなかった。
石勒は軍を引き返して、陳午を肥沢に攻めた。陳午は司馬・上黨の李頭に石勒を説かせ、言わせた。
「公(石勒)は天来、神のような武勇がありまして、四海を平定するべき人で、
四海の士大夫や庶人は皆、明公を仰ぎ、属し、塗炭(の苦しみ)が終わるのを望んでいます。
公と天下を争う者があるのに、公はこれをすぐに図ろうとせずに、かえって我ら流人のともがらを攻めています。
我らともがらは(石勒と)同郷のもので、最終的には(皇帝を)奉戴するものです。なぜ、迫ってくるのですか!」。
石勒は心では同意したが、(李頭を)なじって幕府から引き下がらせた。
いつわって、王彌に自分だけと(二人きりで)酒盛りを請うた。
王彌の長史・張嵩は王彌に專諸、孫峻(が起こしたような)禍があるから行かないように諫めたが、王彌はきかなかった。
王彌が(石勒の幕府に)入り、酒盛りの最中に、石勒は自ら王彌を斬り、その衆も一緒に殺し、
劉聡に王弥が反逆のようすがあったと上書した。
劉聡は、石勒を鎮東大將軍、督并幽二州諸軍事、領并州刺史,持節、征討都督、校尉、開府、幽州牧に任命し、公であることは元のようにした。
※ 曹はともがらと解釈。朝は朝廷ではないだろうから、幕府と解釈。

309 :
自信がないところ
※ 成前狗意也 
※ 固人情之所樂
※ 但未獲便爾 
※ 公不早圖之,而返攻我曹流人.我曹鄉黨,終當奉戴,何遽見逼乎
 よろしくお願いします。m(_ _)m
 今回は長文なのである程度、目処がついてから次に進みます。
ついに、内ゲバで石やん、奸雄・王彌を殺害。
まだ、敵対することは決定的ではなかったのに、『殺られる前に殺れ』の論理で謀Rる。
石やんも気にしていたが、張賓はリアリズムから殺害を指示。
曹操や劉備ならとりあえず受け入れてたような気もするが・・。
こういう大らかさやロマンがないところが、この時代の好みの分かれるところだろう。
中国でこの時代を舞台にした講談がない要因になっていると思う。
彼らのような飾りや偽善はないが、天下を目指す英雄として肯定しがたいものもある

310 :
>恐其遂成前狗意也。
前狗意は以前、劉暾を捕らえて露見した王弥の謀略を指しているのかもしれません。
狗は貶語で、「糞〜」などという意味でしょうか。^^;適訳が思いつきません。「つまらない企て」ぐらいの意味でしょうか。
固い訳ですが、直訳すると、彼(王弥)は、以前、私(石勒)を殺害しようとしたつまらない企てを成し遂げようとしているのではないか、
という意味でしょうか。
後は213さんの訳をお待ちしています。
改悪になるかもしれませんので、試訳は致しません。

311 :
石勒伝の翻訳ありがとうございます。
謂勒深心推奉,無復疑也
王彌はとても喜び、石勒を心底、奉ると言い、再び疑うことはなかった。
石勒を心底、奉ると言い、
という訳は、少し不自然ではないでしょうか。
(王弥は)石勒が自分を推戴していると思い込み、(石勒を)再び疑うことはなかった
という意味だと思いますよ。

312 :
勒心然之,詰朝引退.
石勒は心では同意したが、(李頭を)なじって幕府から引き下がらせた。
詰朝ですが、辞書によれば、翌朝という意味のようです。
翌朝、〔石勒は囲みを解いて〕軍勢を引き上げた。
という意味だと思いますよ。

313 :
>詭請王彌讌于已吾,
いつわって、王彌に自分だけと(二人きりで)酒盛りを請うた。
少し調べたのですが、已吾は、地名のようです。現在の河南省の睢県の付近のようです。
いつわって、王弥を已吾へ酒宴に招いた
という意味だと思います。
間違っているかもしれませんが、ご覧いただければ幸いです。

314 :
>既入,酒酣,勒手斬彌而并其眾
王彌が(石勒の幕府に)入り、酒盛りの最中に、石勒は自ら王彌を斬り、その衆も一緒に殺し、
想像ですが、石勒と王弥は、軍勢を引き連れて会合し、テントのような場所で酒宴を開いたのでしょうかね。
その意味で、幕府としてもいいと思います。建物の中ではない気がします。
「その衆」までは多分、殺していないのでは(王弥だけではないにしても)
石勒の潔さ(?)は恐ろしいですね。
文脈から、王弥は石勒を殆ど信用していたようですね。青州に派遣した劉暾のことは忘れてしまったのでしょうか。

315 :
石勒伝の翻訳、実にありがたいっ、
ホント頭が下がりますわ、是非ぜひ続けて
おくれよぉぉっ、期待しとります!

316 :
ナイス翻訳。

317 :
久しぶりに劉琨伝
演習やら訓練やらで、何か久しぶりだなあ。
 (306年10月に)劉琨は并州刺史に任命されていたが、永嘉元年、
さらに振威将軍号と領匈奴中郎将の職を加増された。琨は、赴任先
である并州の道すがら、必要な物資の補給要請を上表した。
「臣は頑蔽(頑なで道理に通じない)にして、志低き小人ではございましたが、
 縁故のおかげで機運に恵まれ、過分な任務を拝領した次第であります。」
「九月末日、異動の発令を承り出立いたしましたが、胡人の賊どもが経路を
 遮っておりましたので、速やかに少数でこれらを蹴散らし、険を冒してさらに
 先を急ぎました。」
「艱危に挫け、辛苦をことごとく嘗めつくすような道中ながらも、即日壺口関まで
 何とか到着することができました。」
「臣自ら州境を渉り、并州の窮乏を見定めましたるところ、民の流移し四方に
 逃散したことにより残存している者たちは十に二に満たず(20%未満)、途上
 老弱の手を引きこれを助け支える者たちの姿が絶えることはありませんでした。」
「并州に何とか踏みとどまった者たちも、妻子を売り飛ばして食をつなぐ有様で、
 赤子が生まれても育てることもできず、これを打ち捨て、死ぬがままに任せており
 無数の白骨が原野を覆う惨状に、哀呼の声や感傷、無気力感が辺り一帯の
 空気に立ち込めているのが肌で感じられます。」
※ とりあえず、并州に行ってくれという実質の人柱命令、俺なら蹴るな。
 兄貴が「脂のようにねっとりまとわりつく醜悪な存在」と誣告されたのもこの頃か。

318 :
さらに続き
「群胡数万、その勢は四山をあまねく廻らしており、歩けば掠奪に遇い、顔を向ければ
 寇略を目にするという惨状であります。壺関で得られるものは、ただ穀物を売りに出して
 ほしいという民の訴え以外何もございません。」
「この壺関への道は天下の険にして、わずかな手勢で道を塞げば百夫であろうと進むことは
 困難を極め、公私に行き来する者たちの中には、その道中で命を落とす者も少なくない
 ということです。」
「八方塞の都城を守るのは女子供ばかりで、薪や野菜を得ることもできず、既に耕作用の
 牛馬は尽き果て、農機具を揃えるのにも窮乏し、農業を営むことさえままなりません。」
「臣の愚短なるをもってこの至難に当たるを思い巡らさば、循環のごとくぐるぐると憂い回り
 寝食のいとまもない有様です。」
「臣が謹んで考えますに、并州は北方の辺地といえども、その中心部は皇畿に近接し、
 南は河内郡に、東は司州・冀州に通じている戦略上の要地であります。また、州北部は
 異国への防波堤となり、 西方は精強な胡虜どもへの備えとなり得ましょう。そして何よりも
 古来より、勁弓、良馬、勇士、精鋭どもを輩出する勇武の土地柄にほかになりません。」
「(国土の防衛を第一に考えるのであれば)早急に穀物を輸送されるべきです。さすれば
 私はこの任務を全うすることが叶うでしょう。今上尚書、希いますれば是非この州に
 穀物五百万斛、絹五百万匹、綿五百万斤を賜り下さいませ。願わくば、時を逃すことなく
 陛下に臣の表を提出して、速やかにお耳に入れられるように取り計らい下されば幸いです。」
※ リアルヨハネスブルグの十倍は上を行く并州の惨状、石勒みたいにいきなりとっ捕まって
 奴隷に売り飛ばされるような無法地帯だから然もありなん。愛国心をバカや無能どもの
 最後の拠り所と、昔の偉い人は言ったそうだが、確かにその通りだ。余程のお人よしかバカ
 じゃないと、こんな自治体の首長にほいほい赴任するヤツなんかいるわけねえ。
  賢しぶって後ろからあーだこーだ批評、論評するのは少し知恵があるヤツなら簡単なんだ
 ろうな、でもなあ一国の官僚として使命のために己の全てを投げ打って(文字通り家族
 を巻き込んでさえもだ)、事に臨んでは危険を顧みず、最後まで責任を遂行しようとする姿勢
 をいったい誰が非難できる?バカにすることができる?
  軍事を職業軍人や傭兵頼みにしていった末路が西ローマ帝国であり、西晋にほかならない。
 民族浄化や文明崩壊なんて今に始まったことじゃねえ、だからこそ古代世界の終焉〜中世の
 幕開けとなるこの時代は傾倒するに値すると個人的に思う、あくまで個人的にだが。

319 :
ご苦労なこっちゃのう。以前姚興のとこを綿密に訳そうとしたが4、5頁で投げたわw

320 :
お久しぶり。こんなつたない自分の翻訳を応援・協力していただいてありがとうございます。
(はるかに、すごい人がたくさんいるのに)
>>310-314
(同じ方か分かりませんけど)ご指摘ありがとうございます。
『前狗意』は調べたのですが、これ以外は用例がなく、自信がない訳になりました。
狗はあまりいい意味ではないので、自分の訳なら虎か将になると思うので従います。
『謂勒深心推奉』はどうでしょうか。自分の訳はおかしいですが、
『(王弥は)石勒を心から推戴しようと思い』の可能性はないでしょうか?
自分はちょっと分からないのでとりあえず従いますが・・。
『詰朝』と『已吾』は調べたら、その通りです。変更します。
『并』はまとめて、もしくは併合しての意味があるのでどうかなと思いますが。
いくらなんでも『その衆』まで皆殺しはないと思うので、これまた変更します。
>文脈から、王弥は石勒を殆ど信用していたようですね。青州に派遣した劉暾のことは忘れてしまったのでしょうか。
・劉暾がただの事故で死んだ。 もしくは捕まっても手紙は処分していたと考えていた。
 (すぐに石勒に詰問の使者や宣戦布告がこなかったため、そう思いこんだ)
・内容が『石勒に対抗するために曹嶷に来て欲しい』程度だったのでさほど問題はないと思っていた。
・掠奪しまくりとはいえ、豪傑の気風がある王弥は、石勒が先輩にそんな卑劣なことはしないと思っていた
 (だとしたら、王如の件があるから研究不足・・)
こんなところではないでしょうか? 呂布も王弥に比べれば、はるかに幸せだよな・・

321 :
で、前回の翻訳修正。
 それより先、王彌は劉暾の進言をいれ、まず石勒を殺し、東に行き青州の王になろうとして、
劉暾を遣わし斉地方にいた配下の武将・曹嶷をよぼうとした。
石勒の遊騎兵が劉暾を捕らえ、王彌が曹嶷に与えようとした手紙を見つけ、
石勒は王彌をRことにし、密かに王彌をはめる計略を練った。
たまたま王彌の武将・徐邈が自分の部隊を率いて、王彌のもとを去り、王彌は次第に弱っていった。
石勒が苟晞を捕らえたと聞き、王彌は石勒を憎悪し、使者を遣わし、偽って言葉を卑しくさせて石勒に伝えた
「公(石勒)は苟晞を捕らえて、さらに、許しました。何と、神業なのでしょう! 
苟晞を公の左翼とし、王彌を公の右翼とするならば、天下が定まらないということがありましょうか」。
石勒は張賓に言った。
「王彌は位は重いのに、言葉はへりくだっている。先の下らない企てを成し遂げようと考えているなら、怖いな」
張賓は言った。
「王公(王彌)は、青州をとろうという意志が伺えます。
故郷や本籍地を(所有することは)人の情として楽しいものでありまして、
明公(石勒)だけは并州を思慕しないでしょうか? 
王公は決断が遅く、まだ行動していませんが、明公の動きがその後を追うことになることを怖れます。
すでに明公の志は決まっており、ただ、巧みにだまし(王彌を)まだ捕らえていないだけです。
今、王彌を謀らず、曹嶷がまた戻ってきて、(王彌の)羽翼となるのが恐れます。
(その時には)後悔したくても、なんで間に合いましょうか!徐邈がすでに去って、軍勢はやや弱まっていますが、
(王彌の)人を操る力がまだまだ盛んなのを見るに、誘い出してRのがよいでしょう」。
石勒は同意した。その時、石勒は蓬關において、陳午を攻めていて、王彌は劉瑞と相対して、とても危急(な状況)であった。

322 :
王彌は石勒に助けを求め、石勒は許可をだしていなかった。張賓は進言した。
「明公はいつも王公を巧みにだますことができないのを怖れてますが、
今こそ天が巧みにだます(機会を)我らに授けてくれたのです。
陳午は小僧っこで、なんで、攻め掠めることができましょう? 王彌は人傑であり、我らはRべきです」。
そこで、石勒は軍を転進し、劉瑞を撃破し、斬った。
王彌はとても喜び、石勒を心底、自分を推戴していると思いこみ、再び疑うことはなかった。
石勒は軍を引き返して、陳午を肥沢に攻めた。
陳午は司馬・上黨の李頭に石勒を説かせ、言わせた。
「公(石勒)は天来、神のような武勇がありまして、四海を平定するべき人で、四海の士大夫や庶人は皆、明公を仰ぎ、属し、
塗炭(の苦しみ)が終わるのを望んでいます。
公と天下を争う者があるのに、公はこれをすぐに図ろうとせずに、かえって我ら流人のともがらを攻めています。
我らともがらは(石勒と)同郷のもので、最終的には(皇帝を)奉戴するものです。なぜ、迫ってくるのですか!」。
石勒は心では同意して、翌朝、軍を引き上げさせた。いつわって、王彌に已吾での酒盛りを請うた。
王彌の長史・張嵩は王彌に專諸、孫峻(が起こしたような)禍があるから行かないように諫めたが、王彌はきかなかった。
王彌が(石勒の幕府に)入り、酒盛りの最中に、石勒は自ら王彌を斬り、その衆を(自分の軍に)併合し、
劉聡に王弥が反逆のようすがあったと上書した。
劉聡は、石勒を鎮東大將軍、督并幽二州諸軍事、領并州刺史,持節、征討都督、校尉、開府、幽州牧に任命し、
公であることは元のようにした。


323 :
>>317-318
今回の分の前にレス。劉琨伝の続き、久しぶり。
よかったら、これからもお願いする。
318で言っているあなたの論評、全くだ。誰も、劉琨のことをバカでできないだろう。
確かに、能力は劉弘、祖逖、陶侃に劣っていたと思う。
だが、腐敗を極めた西晋の官僚の中であえて火中の栗を拾いにいった彼の志。
愚劣極まる戦争ごっこに明け暮れていた司馬一族の責をなぜ彼が背負わなければいけないのか
前もいったが、曹魏信者が言うとおり、曹操の東洋歴史最大の英雄にして、
神に近き人間ならば、魏王朝でなぜ何百年の太平の世にできなかったのか?
司馬懿が最後の勝利者で中国の徳川家康といえるほど偉大な人物ならば、自分の子孫に
天下を治めるすべを伝えてやれなかったのか。
愛国心などのモラルを否定した連中の作った王朝などこんなものだろう。
今でも、曹操・司馬懿信者の意見をみるとやっぱり腹が立つ。
やっぱり、こんな世にした原因をつくった連中をもちあげるのはおかしいだろう

324 :
で、今回の訳。短い。
 苟晞、王讚謀叛勒,勒害之.以將軍左伏肅為前鋒都尉,攻掠豫州諸郡,臨江而還,屯于葛陂,
降諸夷楚,署將軍二千石以下,税其義穀,以供軍士.
 苟晞、王讚が石勒に謀反を計ったので、石勒は(二人を)殺した。
将軍の左伏肅を前鋒都尉となし、予州の諸郡を攻め掠めさせ、臨江のところで戻らせ、葛陂に駐屯させて、
諸々の楚地方の夷を降伏させ、將軍や二千石以下の官位を与え、税として義穀を献上させ、軍の兵士に提供した。

短いが、せっかく降伏させた強敵の苟晞、王讚をあっさり殺してしまう。
三国時代なら、ありえん(-_-)
多分、この段階ではまだ噂に過ぎなかったのだろうな。
石やんの思い切りのよさには、怖ろしさと清々しさを同時に感じるが。


325 :
 王彌としては、酒宴を幾度か開いて友好ムードを醸成してから、石勒を騙し討ち
しようとしていた可能性もある、まあ、単なる時間稼ぎのポーズの可能性が
一番高そうだが。
 劉聡の最大の弱みは、単于勢力はよいとして、左賢王ポジションにいる劉粲(+補佐で劉曜)
と右賢王以下のポジションにいる王彌、石勒らがまったく思い通りに動かないことだわな。
劉粲は独断でポカして期待はずれ、王彌、石勒らは自分らの勢力拡大にばかり熱心で、
国家戦略を理解しようともしない。
 洛陽攻略も、総司令官だった劉曜が何とか力づくでまとめあげていたから成功したようなもので
劉曜以外が総司令官であれば、前年の劉聡のように部隊が勝って気ままに動いて
油断したところで瓦解という可能性も十分に孕んでいた。
 まあ、この支配体制を見ていれば、なぜ匈奴帝国の勢力が拡大縮小を幾度となく繰り返したのか
何となく分かるなあ。

326 :
劉琨伝のつづき
 朝廷は、劉琨の上表を受諾した。
 劉琨が并州刺史に任じられるのと時を同じくして(306年10月〜12月の間)、東燕王
司馬騰は晋陽から遷り鄴へ鎮した。并州の飢饉と荒廃は想像を絶するもので、百姓の
多くが騰に随って南下を開始している。
 残された戸籍は2万に満たず(280年の時点で并州の戸籍数は5万9200戸を数えた、実に
三分の一以下である)、寇賊たちは縦横に暴れ回り、交通網は途絶、并州はさながら陸の孤島
の様相を呈した。
 劉琨は兵を募りながら任地へと向かい、道中で千人ばかり集めると、指揮所を移して
晋陽へと至る。既に庁舎・官府は焼き払われており、おびただしい屍体が城内に溢れかえった。
辛うじて生きながらえていた者たちも飢えて痩せ細り、人としての呈をなさぬ有様、荊のとげは林の
ようにぼうぼうと伸び放題、路上では豺狼があちらこちらを我が物顔でうろついていた。
 劉琨は荊を剪定して取り除かせ、路上に打ち棄てられていた遺骸を埋葬させると、
次々に政庁や府庫を建て直し、市中や牢獄を急ピッチで整備させた。
 寇盗たちは入り乱れるようにして不意急襲して来るため、城門のあたりはいつも激戦区となること
が多く、そのため百姓たちは楯を背負っていかないと耕作に出かけることもできず、弓袋を携行しな
ければ除草作業に取りかかれないほど、その掠奪は苛烈を極めた。
 劉琨はそこで、ことあるごとに現場へ巡撫に出かけその労をねぎらったのであった。

327 :
劉琨伝さらにつづき
 当時、匈奴の劉淵は離石に本拠地を構えており、晋陽との距離はわずか三百里と少し
(120km〜130km程度)しか離れていなかった。
 劉琨は陰で密使を派遣し、匈奴に属する雑胡たちに離間を仕掛け、一万部落
余りの帰順者を得ることに成功する。
 劉淵はこの一件で劉琨のことを非常に危険視するようになり、遂には本拠地を
蒲子へと遷し、ここに逃げ込んだのであった。
 刺史として赴任して余り時間も経たないうちに、流亡者たちは、少しずつではあったが、帰還
しはじめ、鶏犬の鳴き声が再び市中で聞かれるようになるまでに城は復興を果たした。
 琨の父である劉蕃もやがて洛陽より晋陽へと赴いてきたが、このことにより他国へ
亡命していた人士の多くが相争って琨の許へと帰参するようになった。
 しかしながら如何せん、劉琨は懐撫することは上手であったものの、それらを手懐けて
手許へと長く留めておくことが不得手であったため、帰順する者たちが日に数千を数えようとも、
これとほぼ同数の者たちが彼の許から離れていくという状況が相次いだ。
 しかも、もともと豪奢な性格のため、しばらくはその性情を我慢しようと努めるが、すぐにまた
贅沢にふけってしまい、結局は元の木阿弥となるのであった。

328 :
劉琨伝まだつづく
 河南の徐潤なる者、音楽の才能で以って貴門・勢家の覚え愛でたく、あちらこちらで
持て囃されていたが、特に劉琨はその才能を寵愛していた。
 潤は劉琨の寵愛を恃んで、その振る舞いは次第に驕慢となり、劉琨の州政に
関与するようになっていった。
 奮威護軍の令狐盛は持ち前の亢直さから、何度も徐潤を偏重することの害を諫言して
いた。時には潤を取り除くべきだとまで強く説き諭すこともあったものの、これは劉琨にとっては
受け入れがたい提案であった。
 かつて拓跋単于の猗他は司馬騰を救援し、たびたび匈奴の猛攻を撃退する手柄を立てて
いたので、劉琨はその功を以って弟の拓跋猗盧が代郡公に封じられるように上表を行い、
拓跋部の歓心を買った上で、彼らを中山にいた一族の劉希の部衆に合流させるように図った。
(永嘉五年/311年 末)
 王浚は、劉琨が幽州に属する代郡の封侯を勝手に上表したことに憤って、しばしば
劉琨討伐の軍を起こしたが、ついに劉琨はこれを防ぎきることができなかった。
これにより、劉琨はその声実を僅かではあったものの損ねてしまう結果となったのである。
※ なんと言うか、破滅の足音が少しずつ近づいてくるのを感じる。
 愛国詩人劉琨が己の天命に気づかされるまで、あと少し。

329 :
劉琨伝(また出張があるからできるうちに)
 徐潤は令狐盛への讒言を劉琨に繰り返し吹き込んでいた。
「盛の野郎は、公に帝号を僭称するように今にも勧めてこようとする腹積もりのようですぜ。」
劉琨はこの僭称事案を詳しく調べもしようとしないで、あっという間に令狐盛を殺して
しまった。
 琨の母は、息子を叱責して言った。
「お前なんか、四方を平定するどころか、豪傑を上手に使いこなすことさえ土台無理な話
 だったのよ。自分の楽しいことだけやって、私欲に打ち勝つ気なんて端初っから持ち合わせて
 いなかったくせに。このままただで済むわけがないでしょう!」
「この禍根が私の身に及ぶのは避けられないことでしょうね。」
しかし、劉琨はこれにも従おうとしなかった。
 盛の子、令狐泥は劉聡のもとへと出奔し、具さに劉琨陣営の内情の虚虚実実を
これに打ち明けた。劉聡はこれに大いに喜び、令狐泥をして郷導となすや并州攻略を開始
したのである。
 上党太守襲醇に連なる者たちが劉聡に降伏し、また雁門の烏桓族が叛乱の火の手を
挙げたことにより、劉琨は自ら精鋭を率いて出撃し、これらを禦がねばならなくなった。
 劉聡が琨の不意に乗じ、嫡子粲 と令狐泥を派遣して晋陽を急襲させると、太原
太守高喬は為す術もなく郡城ごと劉聡に降り、このため琨の両親らはみな匈奴の
殺害するところとなった。
 劉琨は拓跋猗盧の軍を引き連れ、共に劉粲の軍を攻撃し、大いにこれを破って
劉粲軍全体で十に五、六にのぼる戦死者を出させる大勝を得た。琨は勝ちに乗じて
匈奴の軍を追撃したものの、それ以上はかばかしい戦果を挙げることはできなかった。
 猗盧はまだ劉聡を滅ぼすことは難しいと考えて、牛や羊、車馬等の物資を劉琨のもとに
残置していくとともに、箕澹、段繁ら麾下の将を晋陽に留め置きその防備に当たらせるようにした。
 復讐心に燃え上がる劉琨は、力弱き者らのために尽力を惜しまず、屍の山の前では
血涙を流し、そして傷痍者たちのもとへと足繁く巡撫することで、勢力の建て直しを図り、そして
陽邑城へと本拠地を移して、亡散した民衆たちを再び結集することに努めたのであった。

330 :
>>325-329
おつかれ。また、期待して待っています。
それでは翻訳の続き。タイムリーに劉琨からの手紙の話し。かなり長い。
初,勒被鬻平原,與母王相失.至是,劉琨遣張儒送王于勒,遺勒書曰:
「將軍發跡河朔,席卷兗豫,飲馬江淮,折衝漢沔,雖自古名將,未足為諭.
所以攻城而不有其人,略地而不有其土,翕爾雲合,忽復星散,將軍豈知其然哉?
存亡決在得主,成敗要在所附;得主則為義兵,附逆則為賊眾.
義兵雖敗,而功業必成;賊眾雖克,而終歸殄滅.昔赤眉、黄巾逆宇宙,所以一旦敗亡者,正以兵出無名,聚而為亂.
將軍以天挺之質,威振宇内,擇有コ而推崇,隨時望而歸之,勳義堂堂,長享遐貴.背聰則禍除,向主則福至.
採納往誨,翻然改圖,天下不足定,螘寇不足掃.
今相授侍中、持節、車騎大將軍、領護匈奴中郎將、襄城郡公,總内外之任,
兼華戎之號,顯封大郡,以表殊能,將軍其受之,副遠近之望也.
自古以來誠無戎人而為帝王者,至於名臣建功業者,則有之矣.
今之遲想,蓋以天下大亂,當須雄才.
遙聞將軍攻城野戰,合於機神,雖不視兵書,闇與孫呉同契,所謂生而知之者上,學而知之者次.
但得精騎五千,以將軍之才,何向不摧!至心實事,皆張儒所具.」
勒報琨曰:「事功殊途,非腐儒所聞.君當逞節本朝,吾自夷,難為效.」
遺琨名馬珍寶,厚賓其使,謝歸以絶之.

331 :
で、訳。
 はじめ、石勒が平原において捕らえられてから母・王氏と離ればなれになっていた。
このころ、劉琨は張儒を派遣して石勒のもとへ王氏を送り、石勒に手紙を送った。その内容は
「将軍(石勒)は河朔地方から軍をあげ、兗州・予州を席巻し、江淮地方で馬に水を飲ませ漢水沔水の地までたどり着きまして、
古の名将といえども、(あなたに)教えることはないでしょう。
(ですが)城を攻めても、民を有しておらず、土地を制圧しても、その土地を有しておらず、
ただ、雲のように集まってまた星のように散り、(これでは)将軍の知略は正しいといえるのでしょうか? 
存亡はその主君により決し、成敗はその所属するところにあるのです。
(正しい)主君をえれば義兵となり、逆賊につけば賊となります。義兵は敗れても、その功業は必ず成ります。
賊は勝ったとしても、終わりには必ず殲滅されます。
昔、赤眉や黄巾は天下中で謀反しましたが、一旦、敗北者となると、兵を挙げる大義名分がないために、
集まって乱を起こしただけ(という結果)でした。
将軍は天から抜きんでる才能で、威を(晋)全土に振るい、有コ(の人)を選んで(その人を)推しあがめば、
時代の希望は、(その有徳の人の)ものになり、勲功も正義も堂々としたものとなり、長い大きな富貴をうけることでしょう。
劉聡に反すれば、禍は除かれ、(有徳の)主に向えば、福がやってきます。

332 :
続き。
今、侍中、持節車騎大將軍、領護匈奴中郎將、襄城郡公を授け,内外の任を統べて,晋人と胡人の号を兼ねてもらい,
大郡に封じ、(将軍の)優れた能力を表彰します。将軍はこれを受けて、遠近の望みをかなえて下さい。
古来から、誠に胡人から帝王になった人はおりませんが、名臣になり功業をたてたものはおります。
将軍が城を攻めること、野に戦うことにおいて機を見ること神と同じく、兵書は見ていないといっても、
孫子・呉子が書き付けたことと同じくし、
いわゆる生まれつき物事を知っているものを上とし、学んで知るのを次ということそのものです。
(論語より。石勒は生まれつき兵法を知っているので、自分たちより上と言いたいらしい)
ただ、精鋭の騎兵五千を得て、将軍の才を以てすれば、向うところ砕けないものがありましょうか!
本心からのことです。みな、張儒が詳しく知っています」。
石勒は劉琨に返答した。
「功をたてる道が(あなたとは)異なり、腐れ儒者の知ったことではない。
あなたは本朝(晋)に忠節を尽くしてくれ。私はもとから胡人であり、(晋のために)功績をたてるのはできない」。
(石勒は)劉琨に名馬と珍宝を送り、使者を厚く歓待し、礼を言って帰し、劉琨との関係を絶った。

333 :
訳できなかったところ
※ 採納往誨,翻然改圖,天下不足定,螘寇不足掃.
※ 今之遲想,蓋以天下大亂,當須雄才.
自信がないところ
※ 翕爾
※ 正以兵出無名,聚而為亂
※ 闇與孫吳同契の『闇』
※ 皆張儒所具の『所具』
※ 難為效
何度、翻訳をこれで断念しようと思ったことか……。
これ以外でも間違いがあったらご指摘お願いします。m(_ _)m
今回も分かるまで日をおかせてもらいたい。
しかし、劉琨、書きながら自分の文章に、かなり興奮しているのが分かるよな。
石勒に授けると言った地位は、はたして、晋の朝廷にかけあって、もらえる自信があったのだろうか?
石勒も劉琨からだけの手紙じゃ劉聡を裏切ることはできないことは承知していたろうに。
ダメもとか、離間策か、それとも本気で説得が可能と思っていたのか。
よく分からない。

334 :
で、とにかく、石やん、劉琨の誘いを断り、晋にはつかず。
とりあえず、劉琨と和平し、晋から官位をもらう道は絶ってしまう。
まあ、このままじゃ無理だろうけど、劉琨を通して晋に掛け合う方策もあったのは間違いない。
一応、うけたように見せて、他勢力との戦いに専念する策もあっただろうが、あえて取らず。
外交において、卑劣な策をとらず、堂々と腐れ儒者と言ってのけるところに
石やんなりの美学があると思う。劉琨の日頃の態度にも問題があったのかも知れない。
王弥・苟晞が消え、劉聡に臣下であることは一応、維持し、残る強敵は、王浚、劉琨のみ。
劉琨とは今回で一応、停戦状態にはなったと思う。
次回は、苦戦が続く江南侵略戦。

335 :
石勒≒シャルルマーニュ

336 :
それはあんめえ。ガイセリックくらいだろ。

337 :
しかし石勒の後趙を基本モデルに
前秦、北魏、隋と段階的に胡漢融合と北朝の完成形が成立した訳だが。

338 :
>>337
国家による仏教庇護も本格的に始まったのは後趙からだな。
確かに、前趙というプロトタイプは存在していたものの、後の北朝系国家の
源流は後趙に求められるべきだろう。
個人的には、五胡十六国と十把ひと絡げに認識するよりは
前趙対後趙〜前燕対前秦、前秦崩壊後の小国乱立〜北魏台頭の東西対立メインで
見ていけば理解しやすいと思うんだが、
平等に四川政権や五涼政権を取り上げるから、乱雑になるような気がする。

339 :
北・西視点でかつ源流をたどるならクロヴィスになるだろ。
カロリング朝は北魏か、さらに下って隋か唐初か。

340 :
>>333
劉琨は「北伐表」、「勧進表」と名文のオンパレードだからな
実行動が伴う表文に熱さが感じられるのは当然のこと

341 :
劉琨…
相手と時代が悪かったのかな…

342 :
北の劉王昆と、南の祖逖。彼らは友人同士だったみたいだけど、連合して石勒と戦うという考えはなかったんかな?石勒の領土を通らないといけないから、無理かな。

343 :
挟み撃ちにしようって示しあって
成功した例って少ないよね

344 :
劉琨と祖逖の場合は、両勢力とも軍閥というには余りにも弱小勢力
一州すらまともに治められていない上に、劉琨に至っては軍事力は当初拓跋部、
爾後段部からの借り物に過ぎず、完全に統制しきれていない状況
祖逖は祖逖で、中央政権からのまともなバックアップは受けられず
あろうことか電撃解任までされてしまうんだから、悲惨すぎる
王浚の勢力であれば、どの時期においても比較的南進は可能であっただろう
それを困難にしたのは、ひとつは石勒の軍事的才能と謀略
もうひとつが、冀州大殺戮だと考えられる

345 :
成都王を壊滅させた際の、冀州全土での鮮卑・烏桓による大殺戮は
冀州人士に例えようのないほどの陵辱で以って受け止められたと推測できる
何せ、三国以来最も繁栄し、先進地域のひとつであった冀州の豊沃な都城が
野蛮な幽州の未開人たちに略奪されつくし、多くの難民が戸籍を棄てて逃亡
してしまったのだから
残された多くの人民はこう考えたに違いない「戦乱の世においては武力こそ全て」と
君子営は石勒の能動的な設立というよりも、冀州人士たちによる已むに已まれぬ
自己保存のための盟主推戴と考えるべきではなかろうか?

346 :
>>342
これほど方向性の違う友人も珍しいよな
方や超一流の文人(簡潔明瞭なレポートも故実を織り交ぜた美文も何でもござれ)、実務官僚一家
此方、二十歳過ぎるまで勉強しなかった田舎の豪族のやんちゃ坊主
おお、東晋版ふたりはプリ(ry
考えれば考えるほど、石勒は悪の親玉だなぁ
ダークヒーローもいいとこだ

347 :
劉琨伝
 建興元年(313年)四月、愍帝即位にともない劉琨は大将軍を拝命し、都督
并州諸軍事、散騎常侍の加贈を受け、仮節を賜った。琨は謝辞を上疎して言った。
「陛下は、私の大いなる過ちを些細なこととしてお赦しになられ、大した功績もなき身ながら
 このような家禄を賜り、汚らわしい愚か者にとっては正に天恩、光授にして格別の寵愛であります。
 蟬冕の栄誉をもっての顕彰、上将の位をもっての尊崇、畏れ謹んで詔書を拝読いたします
 たびに、私の五情は遥か彼方まで飛んでいってしまいそうな程です。」
(以下長文、かなり長い)
 臣の聞くところによれば、晋文公(重耳)は郤穀をもって元帥となして覇功を定め、
漢高祖は韓信をもって大将軍に任命して王業を成し遂げたと言います。また、阮咸には
敦詩閲礼の徳が備わり、王戎には果毅の威徳が顕れておりましたが、ゆえに両名は
荊南においては振豊の功を建て、河北においては洪基を拓くことができたのです。
まして臣は凡陋にして、前哲の足跡を擬えようとしても、鼎の足を折ってしまわないかと
懼れ、鼎中の食物をひっくり返してしまうことばかり心配しております。
(意訳:私みたいなボンクラが将帥として天下を計経略するなんてとんでもないことです!)
 しかしなかがら、春秋魯の曹沫は三度斉に北れたりと言えども、柯における会盟において
功を収め、後漢の馮異は大樹の陰で垂翅(行動しないで休息する様)しながらも
澠池において奮翼の活躍を見せました。みな、よく敗戦を糧として挽回し、功をもって
それらを償ったのであります。
※ 訳になってねえなあw
  とりあえず劉琨が自分の文章に熱くなっているのは分かる。

348 :
劉琨伝(建興元年つづき)
 陛下の宥過(罪を赦す)の恩はすでに山のように積み重なっているというのに、
臣はここ最近何一つ功績を挙げることが出来ておりません。未だ逮われていない
とは言え、以前から先人の訓えと恭譲の貞節を聞き及んでいた身にあっては、
今はそれでもなお、陛下のご厚情にすがるばかりであります。
 汚らわしくも天子の寵愛を承りまする者がそれにむくいる方法は、本心より
身を尽くして国家に報じ、死を顧みずに自らの務めを果たし、外敵の侵入の
際には命を投げ出して要え撃つ、これら臣下の節義を尽くすほかにございません。
 寵栄の施しを賜るに至りまして、感謝の心は筆舌に尽くしがたいものがあります。
また、謁者の史蘭、殿中中郎将の王春たちは相次いで詔勅をたずさえ、相次いで
やってまいりました。臣畏れ多くも御聖旨を尋ねるたびに、(そのありがたきご恩情に)
ただただ詔書に平伏して涙を飲まずにはいられませんでした。
※ 改めて長い上に上手く訳せねえw
  この次が一番長いというのに。このあたりの文章、漢文の書籍に載ってねえかな?
※ 普段はそれなりに冷静で有能な官僚なんだろうが、詩文や音曲が絡むと
 途端にセンチメンタルリズムな運命を感じられずにはいられない性格のようだ。

349 :
>>348
じゃあ、文章書いていくと、自分も興奮して熱くなっていくっていう性質かな?彼って。何か、謝辞を上疎してるとき、泣いてる劉?を想像すると、不謹慎ながら笑えてしまう。

350 :
 劉琨の上愍帝謝録功表の訳なんだが、
録功=功績を記録するで良いんだよな、何であんな変な訳にしたんだか。
(そもそも全体的に誤字脱字が多い、「相次いで」が重複していたり)
まあ、気にせず続き
 臣、夷険の流行を聞きますに、古今の御代に見られた事象なれども
神気が皇徳を押し崩すは、未だかつて聞いたことのない災禍でございます。
 蟻のごとく群がる北狄どもは神州を我がまま勝手に毒し、東夷の後裔
どもは上国を欲しいままに虐しております。七廟の祭祀の饗はおろそかに
され、百官は彝倫の序を喪失してしまい、梓宮(天子の墓)は淪辱
(落ちぶれ、辱められ)のままに放置、山陵(天子の墓)の中には、未だ
祀られていないものもあり、久しく祭祀を待ち望む声が国中に溢れ、
あたかも自分たちの亡父亡母を追慕するかのごとくでございます。
 陛下の龍姿は日日ますます盛ん、叡質はいよいよ栄えんとするばかりで
ありますが、あれほど繁栄を極めた天下は既に頽れきってしまい、社稷
への崇敬は昔日の面影もございまぜん。
 四海の内では、原初に天地が存在し、しかる後に九服(畿内周辺の
地域、天子に服する異民族の居住区域)が興ったと言われますが、
再びその典制を定める必要がございます。
 謹んで考えますに、今陛下は都の外に難を逃れ、長安に流浪されて
いらっしゃいますが、その心中には必ずや蒸嘗に対する崇敬がございましょう、
望郷の念如何ばかりか!
 
 ※ 郊祀の中でも秋の祭日を嘗、冬の祭日を蒸と言う……ようだ。

351 :
劉琨(上表は続く)
 臣は長年にわたって高位に居座っておりましたものの、その才能は
甚だ鈍く、欠点の方は枚挙にいとまがないというのに、ほんのわずか
ばかりの手柄ですら、未だ挙げることが叶いません。
 近頃、たまたま時のめぐり合わせに遇い、かりそめの位号を賜り
ました。しかるに、殪戎(戦勝)の績挙げることなく、負乗(敗戦)の
累ばかり重ねる醜態、刑法に厳正に照らし合わせ、以って黜陟
(功の無い者を退け、功のある者を重用すること)を明らかにしな
ければなりません。
 以上の理由で、臣は前の表を申し上げたのでございます。敢えて
我が愚款(駄文)に従わば、先朝の位階を奉じた上で(官位返上か?)、
もし一武将としての働き場所をそれでもなお、残していただけるならば、
度重なる敗績をご容赦戴いて、今一度チャンスをお与え下さるならば、
匈奴との戦場に思い馳せることをお許し願いたい!
 もし願いがかなうのであれば、御上意に逆らおうとも満足でございます。
たとえわが身が野草の肥しになったとしても、あの世で恨むことなど何ひとつ
ございません。

352 :
劉琨伝(上表文ラスト)
 陛下の並々ならぬ御厚恩、臣の如き曲蒙なる者を抜擢くださったばかりか、
遂には上将を授かり、官位は常侍、封侯を兼ねるとは、征討の務め、宜しく
従事できるというものです。
 拝官に途惑いを隠せず、気持ちは恐怖で震えおののくばかり、失策により
転がり落ちて、朝野の笑い者になることを何よりも懼れております。
 昔、申包胥は柏挙の戦いに従軍しなかったけれども、公婿の勲功を成し
伍子胥は城父への出頭に従わなかったゆえに、郢都攻略の庸功を成し遂げ
ることができました。
 臣は頑凶と雖も、古人のように臨むことはできません。甲冑に身を包み、
武具を携えますのは身命を投じて寇讎(かたき)を討つためにございます。
世に言うところの天地の施し、受恩の至深なるを考えれば、民衆たちは勝つ
ことができないからといって去るようなことはございません。
 謹んで上表を申し上げさせていただきました。
 ※ 官位や権力なんて要らないから、匈奴を討伐させてくださいって感じか。
  自分の大ポカで両親失っているわけだから、大不孝者の烙印を押され、
  もうこの世に自分の居場所はない、ぐらいに絶望しててもおかしくなさそうなんだが。
 ※ 劉琨のアレな所として、将来的な作戦の見通しが全く立って
  いないところが文章からも滲み出ている。(勝ち目のないいくさだから当然だが)
  子飼の精兵、幕僚組織といった軍事基盤の弱さは以前からの戦況から明白、
  本人が幕僚として勤務することは得意でも、指揮官として組織を構成する能力
  に欠けているのは、乱世の軍人としては致命的な弱点だろう。
  無論、人的資源の枯渇していた并州において、募兵活動には自ずと限界が
  あるわけだが。(それでも、自分で何もかんもやろうとし過ぎだ。)
   劉琨に必要だったのは有能な軍事参謀、または機能的な幕僚組織
  いずれかであっただろう。石勒は張賓と君子営を擁していたからこそ、大局で
  誤ることなく、将来的な展望を描くことができたのだから。

353 :
東晋の桓温は劉琨の事を大変尊敬してたらしいね。
あるとき北伐を敢行したときに劉琨の事を知ってる婆さんに出会って
劉琨と自分を比較させたところ、全体的に劣ってるとダメ出しされて
ショックのあまりしばらく引きこもりになっちゃったらしいけど。

354 :
本当に桓温は逸話が多くて萌えキャラですね

355 :
流れぶった切ってゴメンね。
>まだ、敵対することは決定的ではなかったのに、『殺られる前に殺れ』の論理で謀Rる。
>石やんも気にしていたが、張賓はリアリズムから殺害を指示。
>曹操や劉備ならとりあえず受け入れてたような気もするが・・。
失礼ながら、この時期の石勒が王彌・苟晞を殺害したのは仕方ないと思いますよ。
永嘉六年の秋に襄国を拠点とするまで、石勒は根拠地を持っていなかったわけで。
石勒が自分の根拠地を持ちたがっていたのは、司州〜予州とさすらっていた頃に
江西の地に割拠しようとした(しかし張賓に北帰すべきと言われた)ことからも
明らかだと思われます。
そうなると、苟晞・王彌に対する態度が微妙なものを含んでくるわけです。
王彌は青州で代々二千石の名家ですし、劉暾も劉毅の息子ですから青州の名族と
いうことになります。これだけでは断言できないのですが、石勒に邪魔されずに
王彌が青州に移っていれば、相当な勢力を集めたのではないでしょうか。
一方の苟晞も、司馬越との蜜月時代(つい二、三年前ですね)、兗州・青州に
おいて有能な将帥としての威名を轟かせました(釈迦に説法すいません)。
つまり両者とも、敗者とはいえ独立すれば雄飛する危険性が高かったわけです。
根拠地のない流軍の将にとって最も恐いのは、根拠地のある人間に軍を奪われて
しまうことです。まして石勒の場合は漢人ではなく胡人であったのですから、
王彌・苟晞――特に王彌の方が離反した場合、多数派たる漢人を糾合する可能性は、
決して低くはなかったと考えられます。石勒としては、それはどうしても避けたい
事態ではなかったのでしょうか。
(続く)

356 :
(続き)
なお、敵軍の坑殺や敵将の殺害は、襄国を拠点とした後は、長年抗争したなどの
事情がない限り、ほぼ無くなっています。
拠点を得た以上は無用の殺戮をする必要が無くなったこと、人材を集めるには
残虐行為は慎まねばならないこと、などがその理由でしょうか。
坑殺は徐ガン・曹嶷・前趙の残党を滅ぼした際にも行われていますが、実行したのは
指揮官の石虎ですね。石虎のそれは、石勒と比較しても度が過ぎているようです。
…長々と語りましたが、苟晞・王彌の殺害について私が言いたいことは、いわば
「流軍の論理」というものを石勒は優先させたのであって、残忍性の発露とか
そういうものではなかった、ということです。
何と言いますか、十六国初期の異民族君主、特に劉曜・石勒はむやみにダーティーな
扱いを受けすぎではないでしょうか?
理屈になっていないようなことを、色々と書きこんですいませんでした。
お気を悪くなさらなければ幸いです。

357 :
お久しぶり。さぼっててすみませんm(_ _)m
やっと少しできたので近日中に翻訳再開します。
名将スレにいってたら、李靖マンセーしたら、相当煽られ、騎馬民族をリスペクト
していると言われた。あながち、間違いでもないが(^_^;)
劉琨と祖逖は確かに変わった友人関係だね。有名になったら、絶対、腐がつきそうだ。
「先鞭をつける」とは祖逖が劉琨を指していった言葉だから、観念的には挟み撃ちという
構想はあったと思う。「待ってろよ。二人で匈奴を倒そうぜ」という意味だと。
劉琨も『祖逖が来る』と聞いただけで、例のごとく、感動で士気倍増するだろうし。
>>347-352
お疲れ。劉琨伝の翻訳を頼んだが、文が長く、苦戦しているようだね。
自分も333は飛ばして行くことにする。
いつも助けてくれる人も今回はこないし、やはり難しいようだ。
(まだ、来られていたら、気にせず、引き続き援助お願いします)
しかし、劉琨。酷な言い方だが、大将軍に就任するような人間が、気合いと志だけじゃ
いけないだろう。せめて、祖逖を探してきて招いたりできなかったものか。
温嶠も彼の配下だし、人材がいないとは思えないのだが。

358 :
>>355
別に気にはしていませんよ。石勒論は、ほとんど語られたことがないから、
素人意見の範疇を越えていないことは知っている。
(歴史家や学者、小説家の意見をベースにできない)
間違いをおそれず、思ったことを言っているだけ。どしどし反論どうぞ。
>なお、敵軍の坑殺や敵将の殺害は、襄国を拠点とした後は、長年抗争したなどの
>事情がない限り、ほぼ無くなっています。
それは言われて気づいた(>_<)
確かに、よく言われるが、石勒はスタートがほぼマイナスだからな。
そのハンデは確かに考慮しないといけなかった。曹操みたいな余裕はないし。
劉備みたいな血筋も人徳を武器にする文化もない。
孫策ですら、強引なやり方で豪族とのつながりをバラバラにしたという説もあるのに
確かに言われるとおり、苟晞、王彌は危険すぎる。
また、後漢末のかなり腐敗していたとはいえ、まだしも大らかな風土があった時代
とは違いすぎる。
三国時代の度重なる簒奪と戦乱で人心は荒廃しており、ましてや、胡人の石勒と
彼らの間で信義や友愛が生まれる可能性は低い。
劉聡からもらった官位では彼らを心服させることはできないし。結果、殺さねばならない
なんか、さびしい時代だな(T_T)
石やんが曹操・司馬懿を嫌い、
誅殺を行っても、おおらかな時代の英雄・劉邦にあこがれたのは分かる気がする
前に自分がレスした通り、英雄にはなりたくても、虐殺者にはなりたくなかった
のが正解かも知れない。
だとしたら、石やんもなんかかわいそうだ(-_-)

359 :
境遇抜きにしても自負がある奴なら曹操・司馬懿を超えれると思うのはわからなくもない。
強烈な自信があれば劉秀と戦えるとも思うだろ。
まだ制覇までの道は常識の範疇だし。
でも劉邦はねぇ…戦死させない限り何度でも再起してくるし
戦で叩いても叩いても勝てない相手なんてどうすりゃいいのか。
戦場で俺なら項羽よりうまくやって劉邦殺せるなんてちょっと思えないだろうし。

360 :
>>213
私の書きこみにレスありがとうございました。失礼してたんじゃないかと
結構心配だったもので…。石勒載記の翻訳、本当に頭が下がる思いです。
これからも頑張ってください!
しかし、劉聡からの官位はどの程度の実効性があったんでしょうね?
よく見ると、平晋王と汲郡公、王爵と公爵が混在してますし。
まともな官制の元であれば、まずありえない状態ですよね…。
個人的には「親魏倭王」くらいの強制力だったのかも、と考えてます。
流軍同然だった時代の石勒に、それほど大きな期待はかけなかったんで
しょうか?
まあ、そこから河北四州の大半を制覇する石勒が凄すぎるんですが…。

361 :
>>360
劉聡からの官位は、県や壘を支配している主を降伏させるのには多少効果があったと思う
晋から要請に耐えられなかったり、頼りないと思ったり、対立していた場合、漢軍と石勒軍
に分かれていては、降伏しにくい。(もう一方から攻められては困る)
同じ漢軍ならば、少なくとも匈奴からの攻撃をのがれるために降伏しやすいと思う。
さらに、奴隷として売られた胡人が河北や山東に多かったと思われることから
単宇の名はやはり効果があるのではないでしょうか?
あの官位は石勒に期待をかけなかったのではなくて、なんとか気持ちをつなぎとめたくて
思いつく官職を連発したという感じを受ける。
時々、『降格ではないか?』と思えるようなものもありますし・・

362 :
で今回、久々に翻訳
 勒於葛陂繕室宇,課農造舟,將寇建鄴.會霖雨歴三月不止,元帝使諸將率江南之眾大集壽春,勒軍中飢疫死者太半.
檄書朝夕繼至,勒會諸將計之.右長史刁膺諫勒先送款於帝,求掃平河朔,待軍退之後徐更計之.勒愀然長嘯.
中堅夔安勸勒就高避水,勒曰:「將軍何其怯乎!」
孔萇、支雄等三十餘將進曰:
「及呉軍未集,萇等請各將三百歩卒,乘船三十餘道,夜登其城,斬呉將頭,得其城,食其倉米.
今年要當破丹楊,定江南,盡生縛取司馬家兒輩.」
勒笑曰:「是勇將之計也.」各賜鎧馬一匹.
顧問張賓曰:「於君計何如?」
賓曰:「將軍攻陷帝都,囚執天子,殺害王侯,妻略妃主,擢將軍之髮不足以數將軍之罪,奈何復還相臣奉乎!
去年誅王彌之後,不宜於此營建.
天降霖雨方數百里中,示將軍不應留也.鄴有三臺之固,西接平陽,四塞山河,有喉衿之勢,宜北徙據之.
伐叛懷服,河朔既定,莫有處將軍之右者.晉之保壽春,懼將軍之往擊爾,今卒聞迴軍,必欣於敵去,未遑奇兵掎擊也.
輜重逕從北道,大軍向壽春,輜重既過,大軍徐迴,何懼進退無地乎!」勒攘袂鼓髯曰:「賓之計是也.」
責刁膺曰:「君共相輔佐,當規成功業,如何便相勸降!此計應斬.然相明性怯,所以宥君.」
於是退膺為將軍,擢賓為右長史,加中壘將軍,號曰「右侯」.

363 :
 石勒は葛陂において屋敷(陣営?)を繕い、農家に課して船を造り、建業を攻め掠めようとした。
たまたま、霖雨が降り、三か月続けて止まなかった。
司馬睿(元帝)は諸将を使わし、江南の衆を率いさせ、
寿春に大軍を集め、石勒の軍は、飢餓と病気による死者が大半にのぼった。
檄文は朝、夕に継ぎ至り、石勒は諸将に(この事態に対する)計略をはかった。
右長史・刁膺は石勒を諫め、司馬睿によしみを通じる(使者を)送り、河北・朔方地方を払い平らげることを求めて、
(司馬睿の)軍が退くのを待ってから、徐々に(司馬睿軍?今後の進退?)を図るように諫めた。
石勒は顔色を変え、長いうなり声をあげた。
中堅将軍・夔安は、石勒に水を避けて、高台にのぼるように勧めた。
石勒は言った。「将軍はなんでそんなに臆病なのだ!」。
孔萇、支雄ら三十数将は進言した。「呉軍が集まりきらないうちに、
孔萇たち将におのおの三百人の歩兵を与えてください。
船に乗り、三十余の道を通り、夜に城壁にのぼり、呉将の首を斬り、城を得て、そこの倉の米を食べます。
今年には丹楊を破り、江南を定め、司馬一族のガキどもを全て生け捕りにします」。
石勒は笑って言った。「これは勇将のはかりごとだ」。各々に鎧馬を一匹ずつ与えた。

364 :
顧問の張賓に言った。「君はどのような計略があるかな?」。
張賓は言った。「将軍は帝都(洛陽)を攻め落とし、天子(司馬熾)を捕まえ、王侯を殺害し、(彼らの)妃や妻を略奪し、
将軍を髪を抜いて数えても、将軍の罪は足りないほどで、なんで、今さら、戻って臣として(晋王朝を)奉じられましょうや!
昨年、王彌を殺してからは、ここに陣営を建てるべきではなかったのです。
天が霖雨を数百里四方に降らせ、将軍が留まるべきではないことを示しています。
鄴は三臺の固い守りがあり、西は平陽に接し、四方は山河にふさがれ、要害の地形をしており、北に移ってここに拠るべきです。
逆らうものを討って、懐柔・服従させ、河北・朔方地方を定めれば、将軍の右にでるものはいません。
晋(軍)は寿春を保ち、将軍が攻めてくるのを怖れているだけで、今すぐに軍を反転したと聞けば、必ず敵が去ったのを喜んで、
すぐに奇兵をだして攻撃してくることはないでしょう。
輜重を北道に沿って行かせ、本隊は寿春に向い、輜重が進んだ時点で、
本隊を次第に反転させれば、なにを進退に怖れるところがありましょうか!」
石勒は袂をふるい、髭をたたいて言った。「張賓の計略が良い」。
(石勒は)刁膺を責めて言った。「君は(私と)力をあわせ、補佐の任にあたらせ、功業を建てる方策をはかるべきなのに、
なぜ降伏させようと勧めたのか!この計略は斬刑にあたる。だが、性格が明らかに臆病なのに(免じて)君を許してやろう」
この時から刁膺は将軍に格下げされ、張賓が選ばれて右長史となり、
中壘將軍の地位が加えられ、呼ぶ際には「右侯」と言われた。

365 :
自信がないところ
※室宇
※奈何復還相臣奉乎
※ 不宜於此營建
※ 三臺之固
間違いがありましたら、よろしくお願いしますm(_ _)m
今回は重要な一節。赤壁以来の江南軍の戦法に足をとどめられた石やん。
ついに、方針を変更し、河北に戻ることを決意する。
前回の人質返還が石やんに劉琨との戦いをためらわせたなら、あながち、劉琨の手紙も無益では
なかったということか。だが、これで、王浚、劉琨、曹嶷との戦いは必至になる。
いずれは劉聡、劉曜との戦いも視野にいれねばならないことも想定できる。
さらに、これを機会に「君子営」のリーダーと思われる刁膺が降格させられ、
張賓が筆頭軍師におどりでる。
次回は江南軍からの退却戦

366 :
發自葛陂,遣石季龍率騎二千距壽春.會江南運船至,獲米布數十艘,將士爭之,不設備.
晉伏兵大發,敗季龍于巨靈口,赴水死者五百餘人,奔退百里,及于勒軍.
軍中震擾,謂王師大至,勒陣以待之.晉懼有伏兵,退還壽春.
勒所過路次,皆堅壁清野,採掠無所獲,軍中大飢,士眾相食.
行達東燕,聞汲郡向冰有眾數千,壁于枋頭,勒將於棘津北渡,懼冰邀之,會諸將問計.張賓進曰:
「如聞冰船盡在瀆中,未上枋内,可簡壯勇者千人,詭道潛渡,襲取其船,以濟大軍.大軍既濟,冰必可擒也.」
勒從之,使支雄、孔萇等從文石津縛筏潛渡,勒引其眾自酸棗向棘津.冰聞勒軍至,始欲内其船.
會雄等已渡,屯其壘門,下船三十餘艘以濟其軍,令主簿鮮于豐挑戰,設三伏以待之.
冰怒,乃出軍,將戰,而三伏齊發,夾擊攻之,又因其資,軍遂豐振.長驅寇鄴,攻北中郎將劉演于三臺.
演部將臨深、牟穆等率眾數萬降于勒.

367 :
 葛陂より出発し、石虎に騎兵二千を率いさせ、寿春まで派遣した。
たまたま江南の運搬船が来るのに会い、米と布を積んだ数十艘を奪い、将士は(戦利品を)争い、(攻撃への)備えをしなかった。
晋の伏兵が大勢出てきて、石虎は巨靈口で敗れ、水に落ちた死者が五百人以上もだし、百里も敗走し、石勒の軍に追いついた。
(石勒)軍は動揺し、晋の大軍が来ると思い、石勒は陣を構え、晋軍を待った。晋軍は伏兵を怖れ、寿春まで引き返した。
石勒が通り過ぎる路は、城壁は堅く守り、野は清められ、略奪して得るものはなく、軍はとても飢え、兵士たちは互いに食い合った。

368 :
行軍して、東燕に達したところで汲郡の向冰が数千の衆で枋頭を守っているのを聞き、
石勒が将を棘津から(黄河)を北に渡らせると、向冰は怖れて、迎え撃ってきた。(石勒は)諸将を集め、計略を問うた。
張賓が進言した。「向冰の船は全て瀆中にあり、まだ枋内に来ていないと聞いております。壮健な勇者千人を選び、
細い道をとらせ、(黄河を)秘かに渡らせ、船を奪い取り、それから本隊に黄河を渡らせるべきです。
向冰は必ず捕らえられるでしょう」
石勒は(張賓の進言に)従い、支雄、孔萇たちを使わして、文石津から筏で秘かに渡らせ、石勒は衆を率い、酸棗から棘津に向った。
向冰が石勒の軍が来たと聞き、初めて船を中に入れようと考えた。支雄らはすでに黄河を渡り、壘門をつくって駐屯し、
船・三十余艘を降伏させ、軍を渡らせてから、主簿・鮮于豐に命じて挑戦させ、三方に伏兵を設けて(向冰を)待った。
向冰は怒って、軍を出撃させ、戦おうとしたとき、三方から伏兵に一斉に出て、(向冰軍を)挟んで攻め打ち、
(向冰軍の)資力で、軍がとても振るった。
長駆して鄴を襲い、北中郎將・劉演を三臺において攻め、劉演の武将・臨深、牟穆らは数万の衆を率いて、石勒に降伏した。

369 :
いけね。番号つけ忘れていた。いつも通り、213だ。
今回は、『筏潛』が自信がないぐらいであとは大丈夫だと思う。
で、今回は撤退戦。
石虎、江南軍にあっさり敗北し、平地戦と勝手が違うことが推測できる。
>略奪して得るものはなく、軍はとても飢え、兵士たちは互いに食い合った。
悲惨なる退却。当時の社会と軍の実態がうかがえる。
弱ったついていけなくなったものは片端から仲間に食べられたのだろう。
そして、黄河を渡り、河北に帰る。これから根拠地奪取戦がはじまる。

370 :
何気に1級の資料になりつつあるなここ、助かるぜ。

371 :
保守
石勒と恪兄でどっちが軍人として評価高いんかな?

372 :
213さんの訳では、南から北へ転進して本拠地を築こうとしているところなんだけど、そもそも何故南下したのかな?
まだ独立できず、命令に従わざるを得なかったのか。
王彌殺害後、残党がいるとはいえ、弱った青州に向かうのが楽な展開だったと思うが。

373 :
>>371
単純に軍事能力だけだったら、格あんちゃんに軍配が上がるのでは。
高句麗・石虎を破り、負け戦しないうちに逝ってしまったし。

374 :
>>372
この時代で、この時の石勒と似たような状況に置かれたのが350年代の姚氏集団だな。
結果はご存知の通り、大迷走の挙句族長姚襄が前秦に討たれて降伏というものだった。
勢力の空白地域が華北にはいくつかあったが、大勢力である慕容部との直接対決は
避けるわ、後趙時代に長年駐屯していた清河への割拠は考えないわで、
およそ、石勒のような大博打を打つことができなかったのは、本人の器量の限界か?
青州に話を移すと、王彌から派遣された曹嶷が地盤固めしていた真っ最中。
勝てる算段もあるだろうけど、後の曹嶷自身の行動を鑑みるに、東晋に寝返り
或いは亡命しそうな感じだから、結構グダグダ長引きそう。
まあ、どっちにしろ言語的、宗教的な問題から難治の地方だからな、
地盤固めが襄国ほど上手くいくとは思えんが。
襄国割拠は君子営の漢人たちが主に鉅鹿・常山で集められたことを考えれば、
彼らからの要望が強く働いたんだと思うんだがなあ。
石勒の足が当初江南に向いたのは、姚襄と同じで逃避行動じゃなかろうか。
とりあえず、距離を取って態勢を整えてから行動を開始しようという。
でも張賓にケツ叩かれて河北にUターンという感じか。

375 :
>>371
軍事面だと、負けが込んでいるとは言え関東を制し、直接対決で劉曜を撃破している
点を考慮すれば、石勒に軍配が上がりそうなんだが。
獲得領土、撃破軍閥数で石勒超えてるやつは結局居らんしね。
慕容恪が寡兵で化け物染みた強さを誇るのは、精兵+機動性なのかなあ?
冉閔相手には、それが通じず(歩騎混成の魏軍に翻弄された)、
鉄騎による大包囲で決着つけていたが。
明確に負けたのって、冉閔相手のときぐらいか。(最後は勝ったけど)
個人的には、ここで桓温も軍人最強の一角に加えたいが、枋頭の戦いが……

376 :
>>375
 まあ、この戦いの敗戦も相手が悪いし、慕容垂と慕容徳の兄弟タッグに負けたとしても恥ではない。

377 :
保守。
結局、後継者に恵まれず(?)、民族ごと滅んでしまうわけだが、
いっそのこと最初から、石虎後継という選択肢はあったのだろうか?

378 :
>>378
秩序回復志向が強い石勒にとっては、軍の実力者である石虎への継承は
出来れば避けたい選択肢だったろうなあ
実力者間での帝位継承が簒奪をエスカレートさせるのは、南北朝期随所で
見られた事象であったわけだし
石虎の治世は史書が言うほど悪辣なものではなかったと思う
久方ぶりの華北における統一政体だったわけだから、遅滞、放置されていたインフラ整備
に関しては、大規模かつ効率的に実施されたと受け取るべき
(長期間荒廃しきっていた華北で公共事業を起こさない方が無能だろう)

379 :
数ヶ月振りだが、劉琨伝の続きを
麹允らが敗れ、趙冉が劉曜に斬られるに及んで、劉琨は再び上表を奏した。
「匈奴の謀反人劉聡が、犬羊を率いて天子のお膝元を強引にも侵逼したことは、
 人心を発奮させ、遠近の衆を憤怒させております。
 詔書を謹んで拝見いたしました。相国・南陽王保と太尉・涼州刺史張軌の両名は
 雍・涼の二州を糾合して、王室を慈しむこと同じくし、冠軍将軍麹允、護軍将軍の
 索林らは六軍を執りまとめ、国難に際して死力を振り絞って力戦しております。
 
 結果、王旅は大捷し、俘虜・首級は千を数えるほど。旗頭は晋の路になびき、
 金鼓は河曲を賑わせました。関中一帯において、虔劉(劉氏すらR、すなわち
 王侯ですら命の危険があることの意味か?)の備えなど何ら必要なく、安業の慶び
 に満ち溢れているさまは、正しく陛下の神武の致すところに他なりません。
 合気の類引かざる領なく、いわんや臣の心をや。まともに躍り上がることもできません。」
もうちょっとだけ続き書きます。

380 :
続き
「臣、かつて鮮卑猗盧とともに正に国難に当たるべしと上表いたしましたが、
 今年の三月、平陽においてようやく会することができました。
 折りしも、三月三日に匈羯石勒が薊城を径掩し、攻陥せしめたがために
 博陵公王浚は已む無くこれに降らざるを得ず、その虜囚となってしまいました。
 石勒の威勢は勢いを増す一方、臣を滅ぼさんと来襲するのも時間の問題です。
 城塢は恐れおののき、城門を固く閉ざすばかり。
 また、猗盧の領内にも姦計を巡らせる輩どもが跋扈しておりましたが、
 幸いにも猗盧が警戒を厳重にしていたおかげで、これらをことごとく誅滅させる
 ことができました。」
「この度、南北をして顧慮せしめたのは、私のような過失ある者を用いて
 奉戴を成し遂げようというというお心遣いがために、臣が血涙を流し、
 夜毎に苦痛に呻き、扼腕、長嘆する所以であるからなのでございます。」
「石勒は襄国に割拠し、臣とは一山隔てただけの距離しかございません。
 攻撃部隊の騎兵が朝に襄国を出発するならば、夕方には臣の元まで
 辿りついてしまうことでしょう。
 お互いが憎み合い、殺しあうことを欲しているのか、その軍勢はひっきりなし
 にやって参ります。関東八州のうち、勒が滅ぼせしは七州に及び、先朝が
 任命された地方官や将帥たちの中で残っているのは臣だけになってしました。」
久しぶりだから、訳が上手く出来んなあ。

381 :
お疲れさまです

382 :
劉琨伝、お疲れ様であります! 今後も期待しております!
>明確に負けたのって、冉閔相手のときぐらいか。
十敗したときのことだよね?
これはいわゆる矯兵の計だと思うけど。
このとき慕容恪が、呂梁〜大行山脈の地形を利用した縦深陣に引きずりこんで、
冉閔に逃走を許さなかったからこそ生け捕りにできた…と思ってた。
というか、十敗するっていうのは「我が国のためにR」という命令を
十回くだしたという訳で、もしも本当に冉閔に蹴散らされていたのなら、
途中で軍が瓦解してたと思うのですよ。
「九十九敗しても最後に一勝を得ればよい」
というのはあくまで修辞であって、十六国時代とか隋末唐初とか、乱世の
群雄を見ても、実力で連敗してなお部下が付いてきたケースは皆無な訳で、
慕容恪の十敗は必勝を求めての計略、と考えた方が、個人的には自然で
あるような気がする。
あと、慕容恪の敗戦について、晋書の帝紀には広固の段龕に敗退させられたと
書かれてるのが見えるね。でも、載記の慕容儁伝だと段龕に勝ったことに
なってたりする。
どちらが正しいのか…となると、段龕は慕容恪に包囲戦の末あっさりと
敗滅してるので、たぶん載記の記述が合ってるんだろうと思う。
異民族嫌いの司馬光も、資治通鑑では慕容恪が勝利したという方を採用して
いるし、おそらく段龕が「慕容恪に勝ちました」と嘘報を送ったのを、帝紀に
そのまま採録されてしまったとか、そういう事情があったのかもしれない。
長くなってゴメン。スレ主の方、気を悪くされたら申し訳ない。

383 :
自分も数ヶ月ぶり。
で、続きをやろうと思っていたら、以前、紹介してもらったサイトで翻訳が終了していた・・
ttp://www.geocities.jp/takemanma/person.html
自分の翻訳なんかよりはるかに立派な翻訳なのでそちらを見て欲しい。
このサイト主の翻訳の確かさ、速さ、ねばり強さには自分は遠く及ばない。
大変、感謝しております。
(劉曜伝や石虎伝、石弘伝も翻訳されている)
で、この翻訳文を使って続きをやりたいと思っているが、これは無断掲載になるのかな?
どうなんだろ
>>371
自分的には三国・東晋最高評価はやっぱり石勒かな。
負けが多いとはいえ、曹操>周ユなのと一緒。軍閥形成能力も軍事能力に自分ならいれる
>>372
石やんは劉淵に一応の恩義があるし、勢力圏が他の漢軍の軍閥と重なって、匈奴が分裂する
のをおそれていたのではないだろうか。数的には晋人の方が圧倒的に多いし。
劉曜が楽に勝てる相手とは思えないし。
とりあえず、晋を滅ぼすことを優先したのでは。
この時点では一地方の王として終わればいいなんて考えていたのかもしれない。
(劉邦に仕えたい石勒だから、野心はそこまで大きくなかったと思う)
>>377
ないだろうと思う。石弘伝を見れば、石やんの目標は文治主義だから。
(これに失敗したために、軍閥による簒奪・虐殺の横行につながるのであるが)
>>380
おつかれさま。貴殿には大変なことをお願いしてしまった。頭が下がる思いです。

384 :
当人としましては、どうにでもしてくだされば。

385 :
石勒は力こそが全てみたいな殺伐とした集団の頭領なのに、
文治に目覚めるとは奇特な人だ。
外敵さえいなければ、配下のDQN集団は誅殺されていたかな。

386 :
>>383のサイト見れませぬ。

387 :
だれか石勒の小説とか書かないかな 
めちゃくちゃ面白い思うんだけど
 

388 :
>>387
 もし石勒の小説が成功したら、その後の五胡十六国関連の小説もどんどん出てくる
だろうね。スピンオフで、その前後の劉淵・劉曜とかも書きやすそう。

389 :
>>388
ノベライズはあんまり期待できんなあ。
誰が、こんな殺伐とした低偏差値野郎どものサバイバル小説なんか読むんだよ。
かと言って、いきなりさわやか野郎に性格変えられても困る。
最近、晋書読み返して思ったが
祁弘かなり有能だな、苟晞や劉琨よりも役に立ってる。
瞬間最大風速としての実績であれば、晋将として最高じゃなかろうか?
しかし、気がつくといつの間にかフェードアウトしているから油断できない。

390 :
少なくとも、ここにいる人らは読むだろうが
しょせんは売れてなんぼ、だからなぁ…

391 :
ところで東海王配下の祁弘と、王浚配下の祁弘って、
同一人物?それとも別人?
同一人物なら、いつ頃移籍したの?

392 :
>>391
王浚とこの主簿で、同一人物だな。
305年に、東海王のところにレンタル移籍(烏桓・鮮卑つき)
行く先々で、幽州兵の恐ろしさを広めまくった。
ま、新末後漢初以来の典型的な幽州人将校だな。


393 :
殺伐とした松永久秀の小説があるくらいだから石勒もあり

394 :
そろそろ、翻訳再開。数か月ぶりか?
>>384
ご本人の到来ですか。いつもお世話になっております。
色々考えたのですが、とりあえず、参考にさせていただいて、自分の力で翻訳しようと思っています
貴殿の翻訳の方がはるかに優れていると思いますが、自分の勉強も兼ねているので
似通っているところがあっても、ご容赦お願いしたいです
「資治通鑑」も参考にしながらの翻訳、恐れ入ります
>>386
hを頭につければ見れると思う
>>387
石勒サイトもない現状じゃ難しいだろうね。
五代、隋末唐初、新末に比べても頭二つ分くらい差がついている。
ウィキペディアを充実させたり、ネット小説やフリーゲームを作成したりして
十年単位でやっと芽がでてくるってところだろ
でも、小説は十分面白くなると思う
曹操だってあれほど人気がでるんだから、石やんも人気がでてもおかしくない
いい加減かも知れないが、晋書って、キャラが立っているしな
>>389
祁弘は「続三国志」「後三国志」でも、晋軍最強武力の武将だったしね
王浚が強いというより、段部と彼(とその騎兵)が強いだけのような・・

395 :
で、原文
 時諸將佐議欲攻取三臺以據之,張賓進曰:
「劉演眾猶數千,三臺險固,攻守未可卒下,舍之則能自潰.王彭祖、劉越石大敵也,宜及其未有備,密規進據罕城,
廣運糧儲,西稟平陽,掃定并薊,桓文之業可以濟也.且今天下鼎沸,戰爭方始,遊行羇旅,人無定志,難以保萬全、制天下也.
夫得地者昌,失地者亡.邯鄲、襄國,趙之舊都,依山憑險,形勝之國,可擇此二邑而都之,
然後命將四出,授以奇略,推亡固存,兼弱攻昧,則群凶可除,王業可圖矣.」
勒曰:「右侯之計是也.」
於是進據襄國.賓又言於勒曰:「今我都此,越石、彭祖深所忌也,恐及吾城池未固,資儲未廣,送死於我.
聞廣平諸縣秋稼大成,可分遣諸將收掠野穀.遣使平陽,陳宜鎮此之意.」
勒又然之.於是上表於劉聰,分命諸將攻冀州郡縣壘壁,率多降附,運糧以輸勒.
劉聰署勒使持節、散騎常侍、都督冀幽并營四州雜夷、征討諸軍事、冀州牧,
進封本國上黨郡公,邑五萬戸,開府、幽州牧、東夷校尉如故.

396 :
この頃、(石勒の)将佐は、三臺を攻め取って、拠ろうと議論していた。
張賓が進言した。
「劉演の衆は、まだ数千はいて、三臺が険固であり、決着はすぐにはつかないでしょう。捨てておけば、自潰するでしょう。
王浚、劉琨は大敵ですが、守備はまだ整えられておりません。
密かに牢城に進軍し、そこに拠り、兵糧を運び込み、西の平陽に供給して、并薊地方を平定しましょう。
これで桓王・文王の業をなせます。今、天下は鼎沸しており、戦争が今にも始まろうとしています。
遊行や羇旅では、人に決意を固めさせることはできません。万全を保ち、天下を制することは難しいでしょう。
そもそも、地を得た者は栄え、地を失った者は亡びます。
邯鄲、襄國は、趙の旧都で、険阻な山を頼みとした形勝の国であり、この二邑から一つを選んで(攻め取って)都とし、
それから將軍を四方に放ち、奇略を授け、推して滅び、固めて存します。
弱勢でも合わされば、混乱した国を攻め落とせます。群凶を除ければ、王業は図れます」
石勒は言った。
「右侯の計が正しい」

397 :
襄國に進み、拠点した。張賓がまた石勒に進言した。
「今、我らがここを都とした事で、劉琨と王浚はとても恐れているでしょう。
我らが城池が固めず、資儲が豊富にない内に、我らに死戦をかけてこられるのが怖いです。
聞くところでは、廣平の諸県はこの秋、豊作との事で、諸将を分けて遣わし、野穀を略奪させましょう。
その上で、使者を平陽に遣って、この地を鎮めるという意志を伝えるのです」
石勒は、これにも同意した。
そこで、劉聡に上表し、諸將に命じ、冀州郡県やその地方の壘壁を攻撃させ、多くが降服し、兵糧を石勒の下に送った。
劉聡は、石勒を使持節、散騎常侍、都督冀幽并營四州雜夷、征討諸軍事、冀州牧に任命すると、
本国である上党郡公に進封し、邑五万戸とされた。開府、幽州牧、東夷校尉は、そのままとされた。

398 :
ついに、襄国に拠点とし、王業を図ることを決定する。
桓王・文王といっているから、目標は実質的な天下の覇者といったところらしい。
さっそく、基盤を固めようとする石やん。
しかし、王浚もまた、ただものではない。手をすばやく打ってくる。
それより、劉聡と劉曜はいったい、こんなに河北地帯が空白状況なのに、
なんで長安攻撃にこだわっていたのであろうか?
洛陽を落とし、晋を解体させる戦略は分かるが、足下に劉琨、段部、拓バツ部がいて、
東に王浚をいる状況で、関西兵も精強であり、守りも固いことが予想される長安攻撃を
するメリットがよく分からない。足下を固めるのが先だと思うが。
(しかも、洛陽も統治できていない段階で、李矩からの反撃にあっている)
劉聡、劉曜には石やんみたいな戦略的視点はなかったのだろうか
次回は石やん、ついに、王浚と本格的に激突。また、危機におちいる。

399 :
>>395
翻訳再開お疲れ様でございます。
期待してます。
>>394
以前、どこかのサイトで見たことがあるんだけど(詳しいことは忘れた)、
石勒が死の間際、共に戦い抜いた幼馴染と後継たる石虎(笑)の二人に後事を託す、
という設定の短編を見たことがある。
作者は石勒のことを良く調べてないんだけど、その文面にはちょっと感動した。
エピソードに事欠かない素材だし、書き手次第で凄く面白い読み物になると思うなあ。


400 :
石勒と朱元璋て同じ時代に生まれてたらどうなってたんだろう

401 :
個人的なイメージだとお互い気があって親友になりそう

402 :
でも朱元璋の方は仲良くしつつ
寝首かく機会をうかがってそう

403 :
朱元璋は劉邦の模倣をしてオリジナルを超えたと言われるが、
その本性は魔王だからな・・・
石やんが本性を知ったら問答無用で殺しそう

404 :
朱元璋は郭子興には忠節を尽くしているので、
石勒に仕えていれば名将として名を残したであろう。
でも石勒が死んだ後は、主君に相応しくない石弘や石虎は殺されるかもな。

405 :
 廣平游綸、張豺擁眾數萬,受王浚假署,保據苑郷.勒使夔安、支雄等七將攻之,破其外壘.
浚遣督護王昌及鮮卑段就六眷、末杯、匹彈等部眾五萬餘以討勒.時城隍未修,
乃於襄國築隔城重柵,設鄣以待之.
就六眷屯于渚陽,勒分遣諸將連出挑戰,頻為就六眷所敗,又聞其大造攻具,勒顧謂其將佐曰:
「今寇來轉逼,彼眾我寡,恐攻圍不解,外救不至,内糧罄絶,縱孫呉重生,亦不能固也.
吾將簡練將士,大陳於野以決之,何如?」諸將皆曰:
「宜固守以疲寇,彼師老自退,追而擊之,蔑不克矣.」勒顧謂張賓、孔萇曰:
「君以為何如?」賓、萇倶曰:
「聞就六眷剋來月上旬送死北城,其大眾遠來,戰守連日,以我軍勢寡弱,謂不敢出戰,意必懈怠.
今段氏種眾之悍,末杯尤最,其卒之精勇,悉在末杯所,可勿復出戰,示之以弱.
速鑿北壘為突門二十餘道,候賊列守未定,出其不意,直衝末杯帳,敵必震惶,計不及設,
所謂迅雷不及掩耳.末杯之眾既奔,餘自摧散.擒末杯之後,彭祖可指辰而定.」
勒笑而納之,即以萇為攻戰都督,造突門于北城.鮮卑入屯北壘,勒候其陣未定,躬率將士鼓譟于城上.
會孔萇督諸突門伏兵倶出擊之,生摛末柸,就六眷等眾遂奔散.萇乘勝追擊,枕尸三十餘里,獲鎧馬五千匹.
就六眷收其遺眾,屯于渚陽,遺使求和,送鎧馬金銀,并以末杯三弟為質而請末杯.諸將并勸勒殺末杯以挫之,勒曰:
「遼西鮮卑,健國也,與我素無怨讎,為王浚所使耳.今殺一人,結怨一國,非計也.放之必ス,不復為王浚用矣.」
於是納其質,遣石季龍盟就六眷于渚陽,結為兄弟,就六眷等引還.使參軍閻綜獻捷於劉聰.
於是游綸、張豺請降稱藩,勒將襲幽州,務養將士,權宜許之,皆就署將軍.於是遣眾寇信都,害冀州刺史王象.
王浚復以邵舉行冀州刺史,保于信都.
※ 段末杯の杯は本当は右が丕
※ 段匹弾の弾は本当は偏が石

406 :
一つ、失敗か。
生摛末・→生摛末杯
で翻訳
 廣平の游綸と張豺は、衆数万を擁しており、王浚から任命を受け、苑郷に拠って守っていた。
石勒は、夔安、支雄ら七將を遣わして攻めさせ、その外壘を撃ち破った。
王浚は、督護の王昌と鮮卑の段就六眷、段末杯、段匹弾らに部衆五万余で、石勒を討たせた。
この時、城の堀の改修が終了しておらず、襄国の城から離れた所に柵を幾重にも築かせ、砦を設けて(王浚軍を)待った。
段就六眷は渚陽に軍を止めると、石勒は諸將を遣わし、続け様に挑戦させたが、全て、段就六眷に敗れてしまった。
また、攻城兵器が大増産されていると聞き、石勒は将佐を集めて言った。
「今、敵がすぐそこまで迫っている。我が軍は少なく、敵は多い。
包囲攻撃を受け、解く事ができぬようにされるのが怖い。
外からの援軍は来ず、城内の兵糧は尽きかけている。
たとえ、孫子・呉子が生き返ったとしても、守り切る事は出来ぬ。
そこで私は、將士を選抜して、野戦で決しようと思うのだが、どうか?」
諸將は皆な進言した。
「守りを固めて、敵が疲れ、軍が弱り、自ずと退くのを待ち、そこを追撃しましょう。
これで勝てないわけがありません」
石勒は張賓、孔萇をかえりみって言った。
「君たちはどう考える?」
張賓、孔萇はともに言った。
「聞くところでは、段就六眷は、来月上旬にも北城に決死戦を仕掛けるとの事です。
今、後続の大軍が迫っており、連日の戦闘で、我らが軍勢の寡弱なるを知り、
『あえて、撃って出るまでも無い』と言っているようです。
必ず注意を怠っているでしょう。今、勇敢で強い段部の種にあって、段末杯が最たるものです。
(段部の)精鋭部隊は段末杯のもとに配されており、今、撃って出ない選択は、我が軍が弱い事を、示す事に他なりません。
すぐに、北壘に穴を開けて二十余道の突門を造らせ、
賊が陣立てが定まる前に、その不意を出て、そのまま段末杯の本陣を直撃すれば、敵は必ずやおそれおののき、
計略を設けることはできないでしょう。
いわゆる『迅雷は耳に及ばず(物事があっという間に起きて、これを防ぐひまがないこと)』です。
段末杯の軍が敗れ去ったとなれば、他は自ずと砕け散るでしょう。
段末杯さえ生け捕ったならば、王浚は遠からずして平定しましょう」

407 :
石勒は、笑って、この意見をいれ、すぐに、孔萇を攻戦都督に任じて、北城に突門を造らせた。
段就六眷は北壘の近くに布陣を開始し、石勒は、布陣が整っていないのを、伺い見て、
引き連れていた將士に城壁の上で鼓譟させた。
その時、孔萇が諸突門に配していた伏兵を一斉に出撃させた。
段末杯を生け捕りにし、段就六眷らは、散り散りに逃げ去った。
孔萇は勝ちに乗り、追撃し、三十余里に渡って尸が転がり、鎧馬五千匹を獲得した。
段就六眷は、敗残の衆を収め、渚陽に兵を留め、使者を遣わして和を求めた。
また鎧馬と金銀を送り、合わせて段末杯の三弟を人質に出して、段末杯との交換を求めた。
諸將は、石勒に段末杯を殺して、敵を挫く事を勧めた。石勒は言った。
「遼西の鮮卑は、強兵の国であり、我らとは素より怨讐は無い。ただ王浚に使わされたに過ぎない。
今、一人を殺して、一国から怨みを買うのは、良計ではない。
段末杯を解放すれば、必ずやスび、二度と王浚に利用される事も無いだろう」
ここで、人質交換に応じた。石虎を渚陽にいる段就六眷の下に派遣して、兄弟の契りを結ばせた。
段就六眷らは軍を返した。參軍の閻綜を劉聡に使わし、勝利を上奏した。
ここに至ると游綸と張豺は、降伏して称藩してきた。
石勒は幽州を襲撃しようとし、將士に休養を取らせ、許可して、皆な將軍に任じた。
さらに、信都を攻撃させ、冀州刺史の王象を殺した。王浚は、邵舉に冀州刺史を代行させ、信都を保持させた。
自信がないところ
※ 務養將士,權宜許之,皆就署將軍
 「之」とか「皆」とか誰? 将士は直属部隊のことかな

408 :
で、今回。
石やん、兵を二分し、根拠地を固めようとするも、王浚、精鋭部隊を派遣してくる
(これって、石やんと張賓のミスじゃ・・。ここは王浚をほめるべきか)
早速、ピンチ。戦うが、さすがは、本場の騎兵部隊。
半減した味方では勝てず。援軍もなし。
(夔安には結局、撤退命令はださなかったのかな? はじめから援軍を期待されない劉聡って・・)
ここで突門をつかった計略が行い、成功。(「資治通鑑」ではもっと苦戦しているけどね)
段部を王浚から引き離すことに成功。苑郷を奪取。
さらに冀州刺史の王象を殺し、刺史キラーが健在であることを示す。
(で、結局、なんで、信都は占領しなかったの?)
次回はなつかしい人の登場

409 :
>>398
劉聡にしてみれば、王浚相手に河北で消耗戦をする気はさらさらなかったってことでしょう。
石勒が奇跡的な快進撃・大番狂わせを演じたから、王浚がただの驕慢な野心家扱い
されてしまっているけれども、実際関東勢力の大本命は王浚以外考えられない情勢だった。
これで、漢が河北制圧の戦略を採っていたら、泥沼の長期戦に陥っていた可能性が高い。
そもそも幽州一州で、成都王、河間王勢力を壊滅させるくらい軍事的には他を圧倒していた
わけだから、匈奴としては正面切って決戦しかけるには余りにもリスクが高すぎる。
むしろ、中原の生産力の高い地域、労働人口を収奪して、物資や兵力を確保してから
戦いを挑んだ方が、まだ勝ち目はあったように思える。
劉淵時代から一貫して生産力及び人口の貧弱さに匈奴は悩まされ続けていたわけだから
南進策を採るのは責められる点ではないと思うがね。

410 :
 かなり、石勒を信頼していたんでないかな。東方を任せて、自分らは西方を切り取る。
成功すればそれでよし。失敗しても、石勒との戦いで疲弊している状態で戦えば、有利
な状況で戦えるとか、考えていたりして。

411 :
>>409>>410
ううむ。だけど、石勒が戻ってこなければ、平陽を王浚の地盤確定後、直撃される可能性はあるよ
長安は奪うのにはあまりにも遠すぎるし、実際、相当に苦戦している。また、奪ってもそこの守備も
大変だし。
都を落とし、皇帝を捕らえ、晋全体を解体する戦略の継続だと思う。
これに成功すれば、王浚たちを孤立させられると思ったのではないか。
(戦略眼がないと言ったのは言い過ぎです。すみません)
どちらかといえば、地盤をいまいち固めきれない王浚を軽視していたのではないかと思っている。
石勒が戻ってこなければ、変更もありえたが、その戦略は継続ということで。
あと、遊牧民族的な考えで都市を落とす戦略はむしろ普通だったとか

412 :
建興元年,石季龍攻鄴三臺,鄴潰,劉演奔于廩丘,
將軍謝胥、田青、郎牧等率三臺流人降于勒,勒以桃豹為魏郡太守以撫之.
命段末杯為子,署為使持節、安北將軍、北平公,遣還遼西.
末杯感勒厚恩,在途日南面而拜者三,段氏遂專心歸附,自是王浚威勢漸衰.
 勒襲苑郷,執游綸以為主簿.攻乞活李ツ于上白,斬之,將坑其降卒,見郭敬而識之,
曰:「汝郭季子乎?」
敬叩頭曰:「是也.」
勒下馬執其手,泣曰:「今日相遇,豈非天邪!」賜衣服車馬,署敬上將軍,悉免降者以配之.
其將孔萇寇定陵,害兗州刺史田徽.
烏丸薄盛執渤海太守劉既,率戸五千降于勒.
劉聰授勒侍中、征東大將軍,餘如故,拜其母王氏為上黨國太夫人,妻劉氏上黨國夫人,章綬首飾一同王妃.

413 :
 建興元年(313年)、石虎が鄴と三臺に攻め、鄴は潰滅し、劉演は廩丘へと逃げた。
将軍の謝胥、田青、郎牧は、三臺の流人を率い、石勒に降服した。
石勒は桃豹を魏郡太守に任命して、彼らを慰撫させた。
段末杯と、父子の誓を交わし、使持節、安北將軍、北平公に任じ、遼西へと帰還させた。
段末杯は石勒の厚恩に感動し、帰路、日南に向かって三度拝した。
段氏は心から石勒に従う事を決め、これより、王浚の威勢は次第に衰えていった。

414 :
 石勒は苑郷を強襲して、游綸を捕らえ、主簿に任じた。乞活の李ツと上白に攻め、李ツを斬った。
降服した兵を生き埋めにしようとした時、(兵の中に)郭敬を見つけ、話した。「お前は郭季子か?」
郭敬は叩頭して言った。
「そうです」
石勒は、下馬して、彼の手を取り、泣いて言った。
「今日、相見みえたのは、天意であることに疑いない!」
衣服と車馬を与え、上將軍に任命し、降服した兵も全て放免にし、郭敬に配した。
将の孔萇が定陵を攻め犯し、兗州刺史の田徽を殺した。
烏丸の薄盛は、渤海太守の劉既を捕え、五千戸を率いて石勒に降伏した。
劉聡は、石勒に侍中、征東大將軍を授け、それ以外は本は同じとし、
母の王氏が上党国太夫人、妻の劉氏が上党国夫人と拝し、章綬首飾も王妃と同じとした。

415 :
で、今回、二段いった。
まず、冀州にある劉琨勢力を駆逐。一時的な和戦を破り、鄴を奪う。
段部を味方にし、王浚の勢力は減退。苑郷を正式に奪う。
(盟約を破ったのは石やんか、游綸か?)
そして、あの汲桑(憶えてる?)の仇、乞活を正式に撃破。
劇的な再会を恩人・郭敬と果たす
(でも、素直に良かったといっていいのかな? これって)
今度は、兗州刺史を殺害。地盤を固めはじめる。
次回はなかなか考えさせてくれるエピソード

416 :
 この時代の騎兵は、重装騎兵が主らしいんだけど、石勒軍は重装騎兵が主になってる
んだろうか。それとも、軽装騎兵との混合なんだろうか。

417 :
>>417
歩騎混成が主体
王浚戦では、軽騎兵で一挙に幽州(しかも薊)を陥落させるという
荒業を見せている。
逆に、重騎兵を活用した話はあんまないんだよなあ。
鮮卑の方は、結構重装騎兵運用の話はあるんだが。

418 :
ところで200年代後半から300年代前半くらい
の江州刺史の名前が判る資料ってないっすかね?

419 :
>>418
『二十五史補編』所収の萬斯同「晉方鎮年表」に載ってそう・・・な気がする。

420 :
載ってるよ。あと呉廷燮の方鎮年表も忘れずに。

421 :
>>416
417氏の言うとおりだと思う。あれだけの大移動を行うのだから、軽騎兵の方が便利だろうね
幽州騎兵や鮮卑に正面激突で敗走が多いのも、それが原因かもしれない
でも、王浚配下の祁弘も>>217であるとおり、さりげなく戦死させている
大体、>>407の冀州刺史の王象を殺したあたり?
もはや、晋には石勒を止められるほど勇将はもういないだろう
>>418
中央研究員の『三国志』『晋書』を江州刺史で検索とか・・

422 :
 段末杯任弟亡歸遼西,勒大怒,所經令尉皆殺之.
 烏丸審廣、漸裳、郝襲背王浚,密遣使降于勒,勒厚加撫納.
司冀漸寧,人始租賦.立太學,簡明經善書吏署為文學掾,選將佐子弟三百人教之.
勒母王氏死,潛窆山谷,莫詳其所.既而備九命之禮,虚葬于襄國城南.

423 :
 段末杯の人質である弟が、遼西へと逃亡した。石勒は激怒し、通ったところの令や尉を皆殺しにした。
 審広、漸裳、郝襲の烏丸は、王浚に背いて、密かに石勒に降伏の使者をつかわしてきたので、石勒は手厚く慰撫した。
司州や冀州が次第に安寧し、人民は租賦を納めはじめた。
太学を設置し、経書に明るく書に通じている吏を文学掾に任命し、将佐の子弟から選び出した三百人に教授させた。
石勒の母・王氏が死に、その亡骸を山谷深くに埋葬し、その詳しい場所を知る者はいなかった。
九命の礼を備え、襄国城の南に虚葬した。

424 :
って、ことで今回は戦争なし
石やんの怒りは爆発。多分、国家体制を整えるためのひきしめもある。かなり気合い入っている
衰える王浚、上昇する石やん。意外に内政上手な石やん
(というか、西晋の王族がアホすぎ・・)
>太学を設置し、経書に明るく書に通じている吏を文学掾に任命し、将佐の子弟から選び出した三百人に教授させた。
これって、文字から教える段階の連中も多かっただろうな
しかし、母の葬儀は羯族方式なんだろうけど、匈奴って鳥葬だったけ?
手元の資料では確認できないのだが。後の契丹の葬儀に似ているから、実は羯族は烏丸系なのか?
烏丸が妙に石やんに甘い気がするのはそのせいか?
(契丹は鮮卑起源説もあるけど)
とにかく、いまだ、匈奴であることを石やんが捨てようとしていないのが分かるエピソード。
次回は、いよいよあの男が台頭してくる

425 :
>>424
風葬・鳥葬と言えばもちろんゾロアスター教で、
そして中国の一番近くにいる教徒はソグド人であり、
なおかつ羯族にはソグド系商業遊牧民説があるから、
もしかしたら石やん家はゾロアスター教徒だったのかもしれん。

426 :
 勒謂張賓曰:「鄴,魏之舊都,吾將營建.既風俗殷雜,須賢望以綏之,誰可任也?」
賓曰:「晉故東萊太守南陽趙彭忠亮篤敏,有佐時良榦,將軍若任之,必能允副神規.」
勒於是徴彭,署為魏郡太守.彭至,入泣而辭曰:
「臣往策名晉室,食其祿矣.犬馬戀主,切不敢忘.誠知晉之宗廟鞠為茂草,亦猶洪川東逝,往而不還.
明公應符受命,可謂攀龍之會.但受人之榮,復事二姓,臣志所不為,恐亦明公之所不許.
若賜臣餘年、全臣一介之願者,明公大造之惠也.」
勒默然.張賓進曰:「自將軍神旗所經,衣冠之士靡不變節,未有能以大義進退者.至如此賢,以將軍為高祖,
自擬為四公,所謂君臣相知,此亦足成將軍不世之高,何必吏之.」
勒大ス,曰:「右侯之言得孤心矣.」
於是賜安車駟馬,養以卿祿,辟其子明為參軍.
勒以石季龍為魏郡太守,鎮鄴三臺,季龍簒奪之萌兆于此矣.

427 :
石勒は張賓に問うた。
「鄴は、魏の旧都であり、私は営宮を建てようと思う。
(しかし)現在、風俗が甚だ乱れ、賢望に安んじさせるべきであろう。誰が適任だろうか?」
張賓は言った。
「晋の元の東萊太守で南陽の趙彭は、忠亮にして篤敏であり、補佐の任にあった時、良幹がありました。
將軍がもし彼を任じましたらば、必ずや神規に沿って行ってくれるでしょう」
石勒は同意して、趙彭を召し出し、魏郡太守に任命することにした。
趙彭は、石勒の前に出ると泣いて辞退し、言った。
「臣は、往時には晋室のために働き、その祿を食んでいた者です。犬馬は主を慕い、決して忘れないそうです。
晉の宗廟の菊が茂みとなったのを痛感しております。
川の氾濫が東に向かったように、行ったまま戻れなくなったのです。
明公が符に応じて天命を受けたならば、攀龍の会と言えましょう。
しかし、この栄を受けると言う事は、二姓に仕える事になり、臣の志す所ではなく、明公からも許されないと怖れます。
もし、臣に余年を与えていただけるなら、一介の願いは、明公の大いなる恵みであります」

428 :
石勒は黙然とした。張賓が進み出て言った。
「将軍の神旗が通り過ぎた所は、衣冠の士はなびくばかりで、
節を変えなかった者、大義を以って進退を決めた者はおりません。
このような賢人は、将軍を高祖となれば、四公のような存在になり、いわゆる君臣相知るものです。
これも将軍を不世の高みに達するに必要な事であり、必ずこのものを官吏とする必要はありません」
石勒は大いに喜んで言った。
「右侯の言葉は私の心にかなったものだ」
 そこで、趙彭に安車駟馬を下賜し、卿祿で養わせ、その子の趙明を参軍に任命した。
石勒は、石虎を魏郡太守に任命して、鄴と三臺の統治させた。石虎の簒奪は、ここにその兆しが萌芽したのだ。
自信がないところ
※宗廟鞠為茂草
 宗廟には菊畑でもつくる習慣があったの?

429 :
鄴、三臺の人、大ショック!
趙彭が辞退したために、石虎が統治者に・・(^^;)
まあ、威名と厳格さで治安部門はすごく優秀かもしれんけど・・
とにかく、石虎が石やんの片腕として台頭しはじめているのは分かる
母・王氏も死んで、ストッパーはもうおらんし・・
いよいよ臨戦態勢も整い、宿敵・王浚との決戦が迫る
しかし、王浚配下の幽州騎兵は健在。正面から戦えば、五年、十年はかかる
はたして石勒はいかように戦うか

430 :
翻訳毎度乙でございます。
えーっと、ところで唐突ですが十八騎のそれぞれの功績と
その最後をまとめてくれたらすんごく嬉しかったり・・。
なんて他力本願なこと頼んでいーっすか?

431 :
本屋で何気にみていたら、「まんが中国の歴史」で石勒が出ていた。
漢人登用や、君子営設立が載っていた。張賓も出ていたが、仏教導入には、否定的な考えを持っているという描かれ方をしていた。
数ページではあったが、やはり、重要人物だったんだと、あらためて思った。

432 :
石勒て中国での評価てどんなもんなんだろう?

433 :
やっぱ、奴隷出身+文盲という点がクローズアップされてるみたい
あと、祖逖の宿敵(北伐は教科書に載ってる)、仏図澄の庇護者というあたりか
世界史的な評価は、多分ドマイナーな人物だと思うが、
匈奴という帝国・民族に止めを刺した人物と見ることも出来なくはない
晋の皇族も軒並みブチ殺しまくってるし
東アジアの旧来の価値観を徹底的に破壊した奴隷皇帝
シュールすぎるなあ

434 :
混乱時のローマ帝国に生まれても軍人皇帝の1人にはなったんだろうなあ

435 :
混乱時なら頭角を現しそうではあるね。

436 :
2chで石勒の人気高いから多少調べてみたけどあんま魅力感じないなあ
苻堅の方が親近感もてる
俺、変?

437 :
フーさんは最後の最後で手の平返したように異民族を罵倒しまくって死ぬヘタレ。

438 :
苻堅は陳にやたら持ち上げられてたからその影響かも試練
石勒はDQNにしかみえん
決して石虎ではなく

439 :
劉邦大好きっ子なのは明らかに類友だと思う

440 :
石勒は、奴隷として売り飛ばされなきゃ、あんな畜生道には落ちなかったと思うけど
小部族の長として、平々凡々に暮らせたはずなのに
自分自身をあんな境遇に落とした当時の社会に対し、復讐心を煮え滾らしたことは
確かにやり過ぎかもしれないが、同情の余地は十分にある
苻堅の場合は、慕容部に嵌り始めてからの盲目っぷりが目に余る
慕容垂に対する態度は異常
ホストにはまったおばさんみたいだ

441 :
でも慕容垂なら惚れてしまうのも仕方ない気がするw
あと陳センセは苻堅を持ち上げつつ「現実見えないバカ」という扱いに描いてるから
アレに影響うけて彼が好きっていうのはどうかなぁ?

442 :
しかし、石勒→石虎→苻洪→苻健→苻堅の流れは結構重要だと思うんだがな
特に、石虎時代の中原の政情安定がどれだけ後の華北に影響を与えたか
「暴君」石虎の時代があってこその、前秦という多民族融合国家だったわけで

443 :
曹操→曹丕→曹叡→司馬懿→司馬師→司馬昭→司馬炎→劉淵→劉聡→劉曜→
石勒→石虎→苻洪→苻健→苻堅→慕容垂→拓跋珪

444 :
ご無沙汰しております。
中英板が、わいわいと好きな英雄を語り合ったりするところじゃなくなって
とても、楽しい場所じゃなくなったので、来く気がおきなかった。
でも、このスレは結構、ちゃんと機能しているのがうれしい。
んで、紹介してもらったサイトにすでに翻訳があるし、
前に書き込んだとおり、翻訳は停止することをちゃんと、宣言する。
活動再開予定はいまのところなしで。
期待している人がいたら、申し訳ない。
個人的には、三国志人気を引き継げる者は、その続きの時代の主人公である
石勒しかいないと思っているのだが。
他の時代の人物も含めて、メジャー化は難しいようだ
>>430
実はほとんど、十八騎は、記述そのものがないんだよね・・
春秋時代を想起して欲しい。三国志との差はあまりにも激しい。
ネットの晋書に人名をいれて検索するだけで十分だろう
石勒そのものの活躍がほとんどファンタジーか神話なんだよな・・
>>434
三国時代に生まれてきたらどうだったか興味あるね。
ある時代の英雄が他の時代に生まれてきたら、どうなるか、永遠の命題ではあるだろうけどね
妄想では、北方にありて、魏軍相手に縦横に駆け散らし、匈奴の再興を果たす不屈の名将かな?

445 :
>>436
石勒が虐殺しまくったのは否定しないよ。別に好きになれなくてもよい。
魏シンパみたいに、人の評価を高めようとしたり、仲間を増やそうと、
蜀や他の時代の人物の功績を無理矢理でも貶めることにあくせくすることは、
つまらないことだと思っている。
しかし、その曹操や司馬懿の偽善性を喝破したのが石勒。
表だっては漢や魏に対する忠臣であることを強調し、逆らう者は全て逆賊と主君に
お墨付きをもらい、その実、虎視眈々と主君の地位を奪い、自分の手を汚さず、
子孫に皇帝の地位の引き替えに汚れ役を押しつける。
文化的、高度な政治性、結果的に民衆をあまり巻き込まない行動といえば、そこまでだが、
一人の人間としての誇りはどこにあるのか。
ゲームの能力値で計れる英雄性は、自分はあまり興味がない
能力で見れば、『詩と兵法が書けない曹操(虐殺×10)』かも知れないが、
それに『偽善性を抜いた』を付け加えてもらいたい
だが、苻堅もいい!
権力を握った勝者だけを評価する歴史観ではただの間抜けかも知れないが、
民族融和の理想、そして、それが失敗した後の自棄と見苦しさ。
まさに人間そのものという感じだ。格好悪いところが、かえって格好いい。
>>442
そこ重要だよな。今の中国政権の民族浄化などを見ると、歴史なんて同じ事の繰り返し
といった印象も受けるな

446 :
>>445
情宣に毒されすぎ。仮にも一兵卒としてお国守ってるんだから、もっとクールに頼むよ。
ジェノサイドなんていう理路整然としたことができるほど、中国人は真面目じゃないよ。

447 :
>ジェノサイドなんていう理路整然としたことができるほど、中国人は真面目じゃないよ。
情宣に毒されすぎ。

448 :
中国は文明の実験場
何事もスケールがでかく、やり方が極端

449 :
>>446
なにか、よびとめられたようだが・・
誤爆なのか?
>仮にも一兵卒としてお国守ってるんだから、もっとクールに頼むよ
これの意味が分からないのだが・・
民族浄化という表現なら、宗教弾圧や半強制的な同化政策は
中国贔屓なマスコミですら、ある程度認めているぞ。
中国の歴史を多少なりとも知るものとして、好悪善悪はおいておけば珍しくもなかろう
そして、石勒もその犠牲者。内地移住政策や奴隷狩りは弾圧以外なにものでもなかろう
後漢なんて、羌族虐殺を行っていたらしいし、
石勒が、遊牧や狩猟に従事せず、農耕の小作人をしていたのも同化政策って奴だろ
都合によって、軍事利用もされたけどな
匈奴や石勒の虐殺ばかりが強調されるが、原因をつくったのは、
このような声を無視した後漢末、魏、晋の政治指導者たちが大きいだろ。
別にこの手の連中を一方的に責めるつもりがないが、生来は圧倒的弱者であった
石やんには、こいつら以上に言い分があるということだ
かといって、民族融和も難しい。最終的には冉閔による羯族皆殺しだったからな
冉閔は中国じゃ人気があるらしいし、そういう側面も忘れちゃいけないだろ

450 :
俺自身は、曹操に明確な簒奪の意思があったかどうか疑問だと思っている。
しかし、石勒時代には既に簒奪者としての認識があったのだろうし、
それが演義の設定にも生かされたのだろう。

451 :
>>450
王莽とかの手法とそっくりだよ、曹操のやり方
三国志読んでいって、かつそれまでの時代にある程度詳しければ、曹操に簒奪の意志無しとはとても思えないと思うよ

452 :
だからこそ無いと思うんだが

453 :
曹操が簒奪をためらったのは、王莽の失敗を鑑みての事だったのかもしれない。
王莽の新はわずか十五年で滅び、次の王朝である後漢時代には王莽は漢を簒奪したものとして
ボロクソに叩かれることになった。
無理して簒奪を実行しようとすれば世の中の反発が強まり、王莽の二の舞を演じてしまい、
劉備あたりが第二の劉秀になってしまうとか考えたのかも。

454 :
新が滅びたのは王莽がアフォな政治、外交で国を乱したからで簒奪とは別問題だろ
>無理して簒奪を実行しようとすれば世の中の反発が強まり
無理して簒奪しない為の禅譲なんだから
曹操・曹丕にとっちゃ王莽の禅譲劇は見本にすべきいいモデルケースだ
っていい加減スレ違いだな

455 :
禅譲しても簒奪と言われるだろ

456 :
秦(短命)→前漢(長期)→新(短命)
後漢(長期)→魏(短命)→両晋(長期)
隋(短命)→唐(長期)
長期政権を滅ぼす王朝は間違いなく短命
禅譲も簒奪も糞もない

457 :
宋元明清は?

458 :
>>457
宋からの中国は「中国後期」ともいうべきもので
それまでとは様相が一変している。
なので、唐宋変革という論があるんだよね。

459 :
そうだったのか 知らなかった

460 :
理由は?

461 :
は?

462 :
石勒はそもそも中華統一してねえしな。
曹操以下の勢力で曹操を見下し、劉秀と互角って思ってる時点であんま評価できんわ。
それに死後のごたごた事もあるしなぁ
宗教面では成果を挙げたが、文化面で後世に影響与えてないし、政治面でも善政をひいたらしいがこれといった実績、政策を出してないからなぁ。
有能だったことには間違いないし、曹操と同格レベルだと思うが、劉秀よりゃあきらかに劣るだろ。

463 :
すまん誤爆

464 :
>>462
なにも、このスレでこんな喧嘩売るようなレスを誤爆せんでも・・
わざとやってる?
石勒は曹操を実績で見下していないよ。人格を否定しているだけ。
この評価に中華統一は入っていないだろ。英雄論争やっている会話に入っているのだから
その詳細は>>445ってとこだろ
劉秀より劣るかどうかは、分からないが、天下を争う相手としての論議。
政治や文化面の評価の要素は低い。
戦争タイプとしては、劉秀は劉曜に近い。
「劉曜に勝てた自分なら、(その強化版の)劉秀とも互角に戦えるぞ」って意味だろ
石勒が仕えるとしたら、教養人の劉秀や曹操などは、こっちから勘弁て感じで、
やはり、農民出身で無教養で度量のある劉邦って考えはおかしくない。
この板でよく行われる、ゲーム的な能力値や歴史学的な実績による
劉邦>劉秀=石勒>(越えられない壁)>曹操、司馬懿
じゃないんだよね
もっと、単純で素朴な、ただの英雄論議だろう。それにしても、なかなかの卓見だと思えるが。

465 :
>>464
釣りじゃないが、反省してる。

466 :
誤爆元スレ住民だが、『劉備と劉邦どちらが優れている』というスレなのに、
何故か石勒と曹操(そしてたまに劉秀を思い出したように交えて)の優劣を比べるスレ化している。

467 :
なにげに、Wikipediaに十八騎の名前があがっていたのを記念してage

468 :
曹操関連で申し訳ないが、後漢末は誰しもが個人個人の大義名分を
主張していた時代だから曹操や司馬イだけが偽善者って訳じゃない。
言ってしまえば劉備も諸葛亮も全て同じ穴のムジナなんだよね。
そういった時代に適応できた人は名を残し、出来なかった人は時代
の波にもまれていっただけ。誰しも本音と建前は存在する訳だから、
建前が多少前面に出てた時代と言う理由だけで曹操達を非難するの
はお門違い、と個人的には思っております。
それに魏が政権をとった後、劉備も皇帝を名乗ったが、少なくとも
中原での動揺はほとんど見られなかった。それは世論が漢帝国から
魏帝国への移行を認めたからであり、時宜に適ったものと言える。
曹操も最初から皇帝になろうと思ってたわけではないし、司馬イに
してもそう。結果を残し続けた結果として地位を築き上げて行った
だけであり、何もせずに宮廷内を操って皇帝の地位を奪って行った
訳ではない。最終的に一族から皇帝が出たからと言う理由で曹操達
が忠臣のフリをした(逆賊)、と言うのは短絡的過ぎると思います。
個人的には石勒も曹操もどっちも好きなだけにこう言う意見を見る
とちょっと悲しくなる。

469 :
つーか当の石やんは異民族で皇帝になってるからいちばんタチ悪いんだよな、その考えで行くと

470 :
人格面での比較って無意味なんだよね
その無意味な比較を延々とやっているバカしかいないんだね、このスレ

471 :
>>213が石勒に傾倒するあまり他の人物を貶すような目線で語るのがウザさの根源。
それじゃ反感を買うのも仕方がない。

472 :
>>470-471
久しぶりに来たが、
この板、恒例の、もっともらしい理屈でレスの多い人を叩き、スレ自体を潰すカスどものご到来か
どのスレもお前らに潰されて、人口も壊滅寸前のようだ。ご立派だな
うざいのに、私がいた時にそう書かなかったのは他の人がいて、空気がこちらの味方だったからだろ?
火事場泥棒と一緒だな。お前らは。
いつも、政治実績などを比較して、俺ルールで好きな人物を有利にして、煽りあいになって
スレを終了させているのはどこのどいつだ?
人格比較なら簡単だ。私が評価できるか、できないかで決まる。どっちがましだ?
石勒をおとしめるなら、三戦でもいって、曹操スレか司馬懿スレで書き込んだらどうだ?かまいはしない。
お前らはここの管理人か?石勒自身の比較考察でもあるから、スレの趣旨に反してもないな。
あげてやるから反論があるなら、468氏みたいに具体的に書き込めよ
ひょっとしたら、別にかまってくれる人がいるかも知れんぞ

473 :
珍しく上がっていると思いしがw
時に中国歴代人名大辞典を眺めてたら、キ安が載っていないと気付く。
十六国春秋にもいないし。キ安カワウソス(・ω・`)

474 :
石勒配下の将軍って影が薄いよな(前趙にも同じことが言えるが)
まともな出自の連中がいないのが大きいんだろうな
赤眉や黄巣あたりの連中も似たような感じ
彼らと後趙政権の明暗を分けたのはいったい何だったんだろうか?

475 :
連投になるが
王浚がいつまで経っても、幽州に居座ったままで
中原進出に積極的に乗り出さなかった理由が不明瞭だ
たまに冀州に出張っても、鮮卑・烏桓たちの出稼ぎぐらいで
すぐに帰ってきちゃうし、よく分からん
まあ、漢民族の軍閥として評価すると何考えているか分からん
ただの有力な軍閥の領袖なんだろうが
漠北の遊牧世界の覇者として見れば、久方ぶりの大権力者にも
見えなくもない
中原進出よりも、草原世界での覇権確立に興味があったんかな?

476 :
曹操

477 :
2週間待ってみたが、カスどもの反論は、無しか。
自分だけではなく、目立つレスは、ほとんどこの連中にスレごと潰されている
管理人に与えられた権利をこいつらに侵害されていると思うと、腹が立つ
こういう書き込みは十分、違反になるようだし
といっても、
>>470>471はどうせ、曹操信者か司馬懿信者だろうから、この話題をすると、
曹操は信者の暴走がむかつくだけだが、司馬懿信者が多いことが凋落の原因の一つだな
司馬懿が、元々、名族で、手堅く出世しており、英雄としての要素が少なく、
ただ、いわゆる世俗的な『勝ち組』ってだけで支持するものがこれほど多いって風潮が、この板に来ても楽しくなく、
ただの歴史オタのあら探しの場と化して、多くの人に敬遠される原因だな。
歴史の真実なんて誰にも分からないのに、わざわざつまらない方向に持っていこうとしすぎる。
中国歴史ではなく中国『英雄』を語る板なのにな。
勝ち組しか認めない歴史観など、まさに『厨』そのもの。そんな奴らと語ることに何の意味がない。ただの時間の無駄だ。
歴史の結果なんて、生きている時は、誰も分からないのに、『司馬懿>諸葛亮は定説』とか、なんかアフォ過ぎ。
それなら、祖逖の攻撃を途中で止めたので、『石勒>祖逖は定説』というのも一緒だろ。

478 :
というわけでもないが
>>468-469
石勒がなぜ、一番悪いのか、よく意味が分からん
劉備、諸葛亮を偽善者というのが、曹操、司馬懿シンパの口癖だろ? そっちにはちゃんと言ったの?
石勒は、劉曜を皇帝として認めずに、はじめて対立したわけだし、
劉備の本意はともあれ、漢の皇位がなくなってから、皇帝を称したわけだから、
『実は忠心のふりをしていた』って証拠は根拠薄いだろ。
あとはただの推測じゃん。
だが、曹操、司馬懿が、対抗するものを逆賊にする詔を主君にもらっておきながら、
子孫に皇位を奪わせている状況証拠は濃厚だろ
だから、偽善者は、やっぱり、
司馬懿>曹操>>>>>>>劉備>(超えられない壁)>石勒
でいいんじゃないの? 歴史状況とか短絡的とかよく分からない
>>474-475
『趙書』がないから。『晋書』の戴記じゃ分量少ねえよwwwww
『蜀書』ぐらいあれば、もっと細かく分かっただろ
明暗の差は、根拠地に根付けたからかな
王浚は、異民族兵は略奪を餌にするしかなく、統治することは無理と判断していたため、中原にでなかったんじゃないかな

479 :
曹操SUGEEEEEEEEEEEEEEE

480 :
>>472
こうやって勝手な妄想で、勝手に怨恨を募らせ、勝手に敵視するのがいるんだよな
だから気持ち悪がられる、嫌われる

481 :
>>480
ま、そう言わずに相手してやれよ。
おれは石勒はよくわからんから無理だけど

482 :
曹操信者は蒼天スレにいればいいのに

483 :
>>472は何を見えない敵と戦ってるんだ?
悪いこと言わないから、しばらくネット環境から離れて美味いものでも食って休養したほうがいい。

484 :
>>472は氷河期特有のナーバスさを感じる
まーリアルで駄目人間なんだろうな
精神科が君を待ってるぞ

485 :
>>483-484
おまえら、石勒語って拮抗しろよ。
なんだその的外れで憐れんだようなレスは…

486 :
久しぶりにレスがついてるの。
>>478
ウチは石勒が一番悪いなんて言ってないけどね。そういう偽善者の不等号を
明確な基準もなしにつけるのはおかしいんじゃね?って言ってるだけですよ。
そもそもどういう基準ですか?教えて欲しい。
劉備だってあれだけ益州侵攻を渋ったりしてるのにいざ攻めだしたら浮かれ
てホウ統にたしなめられたりしている。献帝が生きていても結局一度も献帝
に書を送ることも無く、自分勝手に皇帝を名乗っている。それも劉姓だから
と言う理由だけで正当性も本来無いのに名乗っている訳です。しかも曹操の
下にいた頃に暗殺計画に参加したりしている。
あの暗殺計画の時期、曹操はまだ明確に天下を狙っていたという形跡は見ら
れないし、権力闘争と見て考えたら劉備も相当な食わせ物でしょう。
石勒達の時代は言わばそう言った建前が前面に出ていた後の時代だからその
反動で本音がある程度前面に出ていた時代とも言えるんじゃないかな。歴史
と言うのは振り子のように前の時代を否定していく形で成り立っている部分
もあるからそれはあってもおかしくないと思う。
ただ、だからこそ、その前の時代が偽善だと非難するのはおかしいと思うの
ですよね。ある意味ではその前の時代の人はそういう役割として存在してた
とも考えられるのですから。

487 :
明確な基準があってもなあ。
ぶっちゃけどうでもいいよ
人肉食おうが、人妻をNTRが、泥酔して殺人しようが、何万人虐殺しようが
勝てばオールOK、そういう仕事で人生だろこいつらは
俺たちの価値観で測ろうと言うのがそもそも理不尽に思える
儒教的な建前なんて律儀に守ってたら王莽になってしまうよ
本音全開だと項羽になるが

488 :
そんなことないよ
間違いなく儒教の影響は大きい。
だからこそ、仏教を支持したわけで、漢代の道教支持とは性格が政治的すぎると思うなぁ。

489 :
>>483>>485
(本気で心配しているなら)その必要はない。別に取り乱してはいない
あまりにも、下劣な煽りなので削除依頼出した方がいいか、調べている間にレスが億劫になって、かなり遅レスになった
>>480>>481>>484が言葉どおりなら、>>472の時点で言っているはず
>>470のような本当の暴言はスルーしているのもおかしい
図星だったんでファビョったか、調子に乗っているだけだろう
どうせ、スルーしても、話し合おうとしても、気に入らんレスをした時点で具体性が全くない煽りの連続で、
撤退に追い込まれるのならと、積極的に反撃したらどうなるか、やってみただけだ。
そんな奴らがスレを潰しまくって、管理人かのように、威張りまくっているのも気にいらなかったしな。
自分のレスには問題提起もあるが、反論もせず、低レベルな煽りでわめくだけ。本当にアフォだ。
>>486
>石勒達の時代は言わばそう言った建前が前面に出ていた後の時代だからその
>反動で本音がある程度前面に出ていた時代とも言えるんじゃないかな。歴史
>と言うのは振り子のように前の時代を否定していく形で成り立っている部分
>もあるからそれはあってもおかしくないと思う。
これは確かに、そう思うけどね。しかし、人格評価に明確な基準などなくていいしょ。
時代背景をとらわれ過ぎたら、水掛け論になって面白くなくなる。
石勒が『曹操、司馬懿はずるがしこく、正々堂々としてない。自分は真似しない』って言い切ったのに自分が共鳴しているだけ。
石勒の為政者としての決意表明に似たものだろう。

490 :
>>489
本当の暴言とかいわれてもなあ。
あんたも煽りまくりじゃん
傍から見れば似たもの同士。

491 :
>>489
と言うか人格ってのは評価できるような代物ではないでしょう。
どっちかと言うと好きか嫌いかってなるだけでそれは評価と言う
よりも個人的感情でしかない。
そういうのを挙げるのはあまり適当とは思えんのよね。結局好悪
の感情と言うのはその人物を色眼鏡で見ることに繋がりかねない
から・・・ここで非難する人も結局はそういうことが原因で煽り
のような形になってしまい、議論にならなくなってるでしょ。

492 :
>>487
NTRは寝取られ、寝取りはNTL
・エロゲ黙示録エロジから抜粋

493 :
>>489
>>491もいっているように人格面での比較は無意味。
>>470はちょっと煽り入った口調だけど言っていることはまっとうじゃん。
結局、>>489はなんだかんだ理屈を付けてるけど、
自分の好悪の感情が他人に受け入れられないのが気にくわないだけでしょう。
好悪の感情なんて人それぞれなんだから、無理くり同意を取り付けるもんでもなかろうに。

494 :
何つー流れ、永和六年以降の後趙のようだ。
このスレでは、非常に不人気で政治家・軍人としても露骨に評価の低い
石虎だが、此奴も世間での「暴君」評価が勝手に一人歩きしている可哀相な
人物のひとりだと思料する。
軍事上の失策は、建武四年(338年)の慕容部攻略の頓挫〜一度は領有した
幽州失陥のあたりと、建武九年(343年)〜建武十四年(348年)にわたる
一連の涼州攻略作戦の不成功ぐらいしかない。
涼州の併合も頓挫しているものの、一応黄河以南をがっちり制圧して橋頭堡
までは築いていたわけだから、軍事行動が継続していれば、最終的に涼州を
攻略できた可能性はゼロではないと思う、と言うか涼州刺史を麻秋から
変えろよ、マジで。
逆に成功を収めた軍事行動としては、建武五年(339年)の王導・郗鑒らの
死に乗じた荊北侵攻作戦が挙げられるし、まあ、建武四年(338年)の段部
討伐戦も(その後の大番狂わせさえなければ)大成功の範疇に入れて善かろう。
若い頃は、持ち前の「弾」の技術と勇猛さで石勒軍の戦功第一を欲しいまま
にしていた石虎ではあったが、本人が君主の座に即いてしまった途端に
以前のような攻撃性・暴虐性が鳴りを潜めて、物分りの良いオッサンになって
しまったようにも感じる。
「暴君」石虎が「物分りがいい」と書いてしまうと、何か変な感じもするん
だが、事実、載記には人の意見を聞き入れる度量の大きさが伺える記述が
散見される。
建武十年(344年)の趙攬による東晋征伐中止の進言や建武十二年(346年)
の苻洪による襄国・鄴の造営工事の中止の諫言などは、すぐに
採用して実行に移している。晩年の姚弋仲の啖呵なんて、大問題になって
もおかしくないくらいの暴言なんだが。
ぶっちゃけると、姚萇や慕容皇なんかよりもずっと融通が利く人物だ。
(上記二名の俺様采配振りは極端すぎるが)
と言うよりも、人の意見を聞きすぎているような気がしないでもない。
はっきり言えば、石虎自身の強烈なワンマン性が発揮された場面が無い、
叔父石勒のようなリーダーシップを執れていないのだ。
そろそろ石虎の暴君という評価はやめた方がいいと思う。

495 :
石虎再評価の続き
石虎が有力な豪族や異民族首長、譜代からの将軍たちの意見に逆らえない
ところがあるのは(これは、言い過ぎかもしれんが)、その権力奪取の過程
に原因があったと推測される。
石勒は、漢人知識人たちの意見を参考にすることはあったが、最終的な意思
決定は常に彼自身によってなされていた。場合によっては、諫言する者を
斬Rることさえ公言して憚らなかった。強力な指揮権を有し、数多の豪傑
を統御してきた石勒にしてみれば、主権が彼自身に集中されることは至極
当然のことであったが、いざ、自分の死後の後継者の境遇を考えて見ると
如何せん心許ない。
石勒は爾後、直系の子弟・外戚に権限の集中を図ったが、結局この方策は
破綻する。皇太子石弘に権力の移譲が円滑に行なわれる前に、石勒が崩御
したからである。
そもそも父である石勒とは違い、軍事的バックボーンを何ら持ち合わせて
いなかった石弘にとっては、軍事力を有する封建諸侯、取り分け宗室の
実力者でった石虎を掣肘する術を有していなかった時点で完全に手詰まりに
なっていたわけではあるが……。
石勒直系に権力の集中を図る派閥も存在したが、石虎の軍閥に比すれば、
彼らはよりまとまりのない集団であったし、少数派であった。
(一部の羯族と君子営の官僚にとどまっていた。)
逆に、石虎は若い時分から軍中で戦功を積み上げ、多くの将兵からの信頼を
勝ち取ってきた、後年の権臣たちの出自を考えると、とりわけ乞活集団からの
支持が厚いように思われる。様々な派閥の思惑が交差する中での石虎の簒奪
は、封建諸侯の温存、彼らの更なる権勢の強化(非中央集権)に傾いた。
石虎自身が有力な諸侯の一員であり、権力を奪取したからと言って、他の
有力な封建領主たちから権勢を削ぐということは、自ら支持基盤を取り崩す
ことに繋がりかねない危険な政策であったからだ。(無論、敵対諸侯は
遠慮なく取り潰して、自分の懐を温める分には問題ない。)
これが石虎の限界とも言うべき点で、強力な権勢で彼らを抑圧し続けること
ができなかったのである。自己の権勢を強化するためには、己の支持基盤
からの反発は避けられないと言うジレンマ、これが後趙後期の後継者争いに
大きく影響しているし、後趙滅亡の遠因になったと見て問題はないだろう。

496 :
石虎という人物が、軍司令官として有能だったことは確かである。
ただし、それは一方面を任せるに足る軍人としての評価であり、叔父石勒の
ように、衆100,000前後の大会戦に勝利を収めることができる総司令官として
の手腕のものではなかった。
事実、彼は劉曜相手に惨敗を喫し洛陽までの経路を簡単に明け渡しているし、
棘城の戦いにおいては、慕容恪率いる精騎2,000に壊走させられている。
はっきり言って、石勒、劉曜、慕容恪・垂兄弟のような超一線級相手には、
勝負にならない、間違いなく負ける。
兵数や兵の勇猛さで勝負を仕掛けるタイプなのか、麻秋や冉閔、姚弋仲の
ような猛将型の人材を寵する一方で、余り参謀型の人物を厚遇した話は
聞かない。
石勒健在時であったなら、当代随一の戦略家(もしかしたら中国史で十本の
指に入るかもしれない)の方針に従っていれば、まずハズレはなかったかも
しれないが、いざ本人が戦略を決定する立場になった途端、天下統一どころか
華北制覇もままならぬ有様、叔父から一体何を学んでいたのだろうか?
当初は幽州攻略、それがダメなら荊州、涼州へと手を伸ばすものの、どちらも
果果しい戦果を残すことは出来ず、全てが中途半端で終わってしまう。
考えて見れば、石虎にとって本当に必要な人材は、勇猛果敢な猛将でもなければ
豪放不羈な軍閥・傭兵集団の領袖でもない。
ただ、本心で国家の根幹や国家運営の方針を相談できる、実務型の参謀こそ
必要だったのではないか。
石虎は決して聞き分けの悪い男ではない、寧ろ、剛直で、筋の通った意見を持つ
者の発言には素直に傾聴するだけの度量は持ち合わせていた。
だからこそ、彼が張賓や王猛のような謀主を手許に置けなかったことを
残念に思うのである。

497 :
まあ、何だかんだ言って、暴君と謳われてきた石虎が実際のところは、
至極真っ当な軍人皇帝でしかなかったという風に、受け止めれる気が
してきたわけよ。それこそ、姚萇や慕容垂のような連中と、後世に
残した政治的影響では大差ないわけだし、(内容は無視して)実績だけ
見れば、軍事上の成功・失敗もどっこどっこいと見て問題ないだろう。
石勒が規格外過ぎた、無教養な異民族が劉邦・張良の数々の戦略的判断を
理解し、その成否をことごとく言い当てることができるのである。
これがどれくらい凄いことかというと、アフリカの難民出身の不法入国者に
明治維新の際の官軍・幕軍の戦略・政略判断を尋ねてみたら
「両軍ともに外国勢力を内乱に直接介入させなかった点は、素晴らしい。」
とかって返答が返ってくるようなものだ。
戦略に通じていたからこそ、彼は「劉邦に仕えて韓信らと功を競いたい。」
という憧憬に似た感想を残しているのである。
(一部の中国史ファンの間では、「劉邦マニア」の一言で片付けられる嫌い
のある逸話であるが、戦略判断という面においては、劉秀は劉邦の足元にも
及ばないということを指摘している重要な発言である。)
石勒の判断の妙味とも言える事例が王浚との対決、虚を突いての薊都攻陥の
作戦である。石勒は、しばしば敵対する群雄の領袖だけを狙い打ちにしての
不意打ちを仕掛けることが多いが、これは非常に珍しい事例と言えよう。
珍しいと言ったが何が珍しいかと言うと、首級を絶対に確保する点である。
敵軍を撃破すれば、一応の目的は達成されるケースは多い。しかしながら
取れる時には漏れなくきっちり討ち取る、ここに固執するのが石勒、
機会を得たなら詐術を用いてでも討ち取る、これも石勒。
当然デメリットも有するわけだが、
(敵の兵力が温存されてしまう可能性が出てきたり、戦場においては
厚い守備に守られている可能性が高いため、指揮官への攻撃に固執する
余り、全体の作戦を達成できなくなってしまうこともある。)
しかし、石勒の行動は正鵠、土地や兵力よりも「頭」を潰すことが何よりも
優先されるという方策は、常に成果を収めている。
頭を潰しさえすれば、残った肢体は貪り喰らうだけ、非常に理に適っている。
(ただし、言うのは易いが、実践するのは非常に困難な行為である。)
生涯の好敵手であった劉曜についても、洛陽における決戦の際にはその首級
を優先して作戦行動していた発言が残っている。
王浚戦では、それが遺憾なく発揮された。
あれほど華北で精強を誇った王浚軍閥が、ただ一度の敗戦で覆滅する。
幽州経略はその後の課題となったものの、全面決戦での王浚の討伐を試みて
いた場合に比すれば、遥かに容易なものになったことは間違いない。
「指揮機関の攻略優先(できれば決戦を回避)」という、石勒の手法は
彼自身の才に拠るところが大きすぎた所為か、実践できた者はごく僅か、
一生を通じてこれを貫き通した石勒はやはり怪物だったと言うべきか。

498 :
>>491>>493
いや、いいよ。前から言っている通り、同意はいらない
個人的価値観の入った評価に同意が得られないのは、当たり前。それは前から言っている。
だが、あなた方が行っているのは、会話が成り立つ相手には、規律正しい発言を求め、
一行レスの煽りには深読みして配慮してやるという、この板特有のダブスタではないのか
そんなことしているのは色々、行ったが、この板ぐらいなものだ
主張の相違程度で激しく言い争えば、こいつらは、もっともなことを書き込み、孤立した方が責められ、結果、
失望した参加者が去るだけの結果になるのが分からないのか
それが人口減の一因ではないのか? 
人格面での比較は無意味ってのも押しつけだし、>>470がまっとうなんてのも感覚がずれている
それでうまくいくならそれもいいが、煽りを避けて、ほとんどのスレが機能しなくなっている
まさに、五胡十六国時代って感じ。座して死を待つよりは・・って気持ちだったのだが
自分のレスなんかには、とりあえず、レスはあるのに、
>>494-497氏のような立派なレスには、まだ、レスがない
このスレを盛り上げようとしていた身としても。
くやしいのぉ、くやしいのぉ。
(494-497氏については後日、レスする予定)

499 :
>>498
気負いすぎだろうw
2ちゃん自体(マトモな書き込みが出来る)人口が過疎っぽいからどうしようもない。
意見の違う相手を煽り出す輩はノーサンキューだけど。
>>494-497
自身の判断ミスにより白登山で国辱級の大敗を喫した劉邦が
廃后以外特に落ち度のない光武帝より上というのは首を傾げる話なんだが。
むしろ石勒の冒頓評こそ俺は知りたいかな

500 :
後趙の国力というのは、石虎時代にかなり蓄えられていたようで、
戦闘部隊・後方支援を含めて100万の動員は、可能であったと見積もられる。
その国力の蓄積があったからこそ、後趙末年の冉閔の乱があれほど際限なく
被害を拡大し続けてしまったのではなかろうか?
その戦乱の過程を概観させてもらうと、
(1) 永和五年(349年)四月、梁犢討伐に引き続き石遵のクーデターに参加
 総兵力90,000の前鋒として鄴を攻略、石遵簒奪後、冉閔は都督中外
 諸軍事・輔国大将軍に任命され、後趙の軍権掌握の取っ掛かりを得る。
(2) 同年五月、平棘において石遵の簒奪に異議を唱えた石沖の幽州兵50,000
 を基幹とする総勢100,000を超える南征軍に対し、李農とともに中央の精兵
 100,000を率いて迎撃、これを完膚なきまでに壊滅させ、降伏兵30,000を
 生き埋めにする。
(3) 同年五月〜十月、東晋の一連の北伐行動に対し、後趙は各派閥の勢力争
 いが収束できない状態ながら、苦戦しつつも何とかこれを退ける。
(4) 同年十一月〜十二月、冉閔は石遵を弑逆し、石鑒を皇帝に推戴する。
 石鑒の煽動や冉閔に対する危機感から、鄴城内で、冉閔排除の動きが
 活発化、楽平王石苞による夜襲・中領軍石成による暗殺未遂・龍驤の孫伏都
 らによる殿中の羯兵3,000を率いての武装蜂起等、怒涛の展開に発展
 この流れの中で、かの有名な胡羯20万を超える「民族浄化」が行なわれた。
この規模でのお家騒動は、凄まじく迷惑だと思われる。

501 :
(5) 永和六年(350年)正月、襄国において冉閔討滅を旗印に挙兵していた
 新興王石祗に呼応して、各地に鎮していた地方官・軍司令官が鄴政府
 に対し叛旗を翻す。鄴周辺以外の大部分が石祗に寝返る形と成る。
 太尉張挙、撫軍将軍石寧、衛軍将軍張賀度、建義将軍段勤(鮮卑段部)、
 鎮南将軍劉國、車騎将軍苻洪、征西将軍姚弋仲と、歴戦の将軍たちが軒並み
 冉閔と敵対、さらに、前年石鑒が派兵させていた石琨率いる70,000の
 精鋭部隊が呆気なく石祗に降伏、冉閔・李農らは完全に孤立してしまった。
(6) 同年正月〜二月、鄴の北辺に現れた、石琨・張挙ら70,000の軍
 は、わずか1,000騎足らずで出撃してきた冉閔の強襲を受け、3,000を超える
 戦死者を出して壊滅、敗走する。続けざまに、衛軍将軍張賀度に対し、冉閔・
 李農は30,000の兵を出陣させる。
(7) 傀儡と化していた皇帝石鑒が襄国側に内通を図るがあっさり露見してし
 まい、軍を引き返してきた冉閔により、鄴の石氏一族がことごとく
 皆殺しの憂目に遭う。(この時から冉閔は復姓をし、魏国を名乗っている。)
(8) 同年閏二月、前燕の大遠征軍が中原進出の野望を明らかにし、南進を開始
さらにこの後、冉閔は同志であった李農を殺害してしまう。
羯族を虐殺し、かつ後趙政権の有力者たちとも反目してしまった結果、
冉閔に与する人材は、ほんの一握りとなってしまった。
しかし、ここから冉閔という怪物は反撃を開始する。 

502 :
(9) 永和六年(350年)四月、石祗は相国の石琨に100,000の兵を与え
 冉魏に対し攻勢を掛ける。六月、石琨は邯鄲に布陣するとともに、繁陽
 の鎮南将軍劉國との連携を強化し、鄴を南北から挟撃する態勢を見せる。
(10) この動きに対し、冉閔は衛将軍王泰を出撃させて、邯鄲の石琨を打ち破り
 万を超える損害を与えた。
(11) 同年八月、苻建は枋頭を出発して関中入りを果たす。寸でのところで
 敵の挟撃を回避した冉閔は、張賀度、段勤、劉國らが昌城に集結している
 ことを確認すると、これを撃破すべく王泰らに120,000の兵を預けて黄城に
 布陣させ、自らも80,000の兵を率いて後詰めに入った。両軍は倉亭で激突
 し、冉閔は張賀度らを撃破、死傷者28,000の大損害を与えた。敗残兵を
 吸収すると、冉閔は総兵力300,000の陣容で鄴への凱旋を果たした。
 (少なく見積もって、張賀度の軍は130,000程度だったと思われる。)
邯鄲の戦い、倉亭の戦いで敵の連携の甘さを衝いた攻撃により、冉閔は窮地を
脱する。
土壇場における驚異の粘り強さであった。

503 :
冉閔は中国本土だと漢族至上主義者?たちのマスターベイションの道具に
なっているそうだが、こいつの場合は漢人の皮を被った胡人にしか見えねえよ。
しかし強すぎる、戦争バカの群雄は謀略によって滅ぼされるイメージが強い
のだが(項羽、董卓、呂布、爾朱栄等々)、一ヶ月間に三度も宮中で暗殺を
仕掛けられて生き延びるなんて、危険察知能力・戦闘戦技能力ともに動物並み
としか言いようがない。
趙魏の将軍たちは決して弱卒ではない、ただ相手が悪すぎた。
(12) 永和六年(350年)十一月、冉閔は襄国に拠る石祗を滅ぼすべく、歩騎
 100,000を率いて親征に出立した。この際、嫡子の太原王冉胤に降伏した胡
 兵1,000騎余りを付け、大単于・驃騎大将軍に任命して従軍させ、離反しつ
 つあった胡族の慰撫を図った。
(13) 年が明け、永和七年(351年)二月、襄国の包囲は百数日を超え、長期
 戦の様相を呈してくると石祗は恐慌を発し、帝号を取り下げると慕容儁と
 姚弋仲に対し援軍を要請した。こうして冀州より石琨、龍城よりス綰
 (重装兵30,000)、摂頭より姚襄(騎兵28,000)が襄国救援のため出兵、
 連合軍の兵力は十数万にも達した。連合軍は、長蘆・黄丘に屯していた魏軍
 の前鋒胡睦と孫威を撃破すると、襄国を包囲していた冉閔の軍と対峙した。
※ 襄国側としては、もはや限界ギリギリの出兵数、慕容部に跪いてまで兵を
 掻き集めている。仮に冉閔を滅ぼしたとしても、慕容部に併呑されてしまっ
 ていたことだろう。
※ 姚弋仲は、世子姚襄の出陣の際、死力を尽くして冉閔を滅ぼすように
 病床で命じている。兎角石虎の人格は非難されがちだが、姚弋仲ら羌族
 姚氏集団が後趙の滅びる最後の最後まで尽力し続けたことは、彼らとの強い
 信頼関係を築けていたという点で、石虎の人格の賜物だったのかもしれない。
 この義侠心を貫いたおかげで、姚氏集団は後趙滅亡後の河北争覇において
 一歩も二歩も出遅れる結果となった。

504 :
(14) 衛将軍の王泰は、冉閔に挟撃の不利(当たり前だよなあ……)を説く。
 石琨らに対して防塁を築き、その疲弊・内輪揉めを待つべきだと奏上
 し、自らに遊軍を率いさせ敵に一撃を加える作戦を提案した。しかしながら
 道士法饒の妖言(今こそ好機、ガンガンいこうぜ)に乗せられた冉閔は、
 全軍を率いて出陣することを決意する。
  石琨・ス綰・ 姚襄は魏軍の前面三方向から攻撃、これに呼応した
 襄国の石祗も城内から打って出て冉閔軍を挟撃した。魏軍の精鋭100,000は
 壊滅し、配下の胡兵に裏切られた冉胤は石祗の捕虜となり殺されてしまう。
 また、この敗戦により、司空の石璞(西晋の権臣だった石苞の曾孫、準皇族)、
 車騎將軍の胡睦、中書監の盧ェ(お前、まだ生きていたのかよ!)ら魏朝廷
 の首脳の多くが戦死したため、その国勢はあっと言う間に傾いてしまった。
  折からの飢饉に加え、この一連の敗北により、趙魏の地に強制移住させら
 れていた胡人たちが、かつての故郷への帰還を一斉に開始する。その苛酷な
 道程により、生きて故地に辿りつくことができた者はごく僅かであったと
 言われている。
  冉閔は供回り十数騎だけで鄴へと落ち延びた。
  摂頭の姚弋仲は、姚襄が冉閔を討ち果たせずに凱旋したことに憤慨し、
 襄に百発の杖刑を加えた。
※ 冉閔痛恨の敗戦、今までの襄国勢だったならば連携も碌に取れず、各個
 に撃破する間隙もあっただろうが、姚襄・ス綰たちは連合軍の弱点そのもの
 だった共同作戦の脆弱性を見事に克服して、三方同時包囲で冉閔の撃破戦略
 を頓挫させる。一見するとワンサイドゲームだが、綱渡りの勝利であったと
 言える。ス綰渋い活躍を見せるねえ。
※ しかし、この状況での長期対峙は補給線を断たれる危険性とかも考慮すると
 愚策でしかないだろう。連合軍の各個撃破は作戦としては間違いなかったが
 相手の足並みが乱れなかったのは不幸としか言いようがない。この敗戦により
 趙魏政権の命脈は絶たれたと言っても過言ではないほど、慕容部にとっては
 漁夫の利であった。河北は前燕による侵食の一途を辿った。

505 :
 後趙という国家がその滅亡に際し、異常なまでに苛烈な抵抗を見せたことは
特筆に価する。秦漢以来の覇権国家の興亡において、見られなかった事象で
あるからだ。皇室が実権を失ってなお、多くの地方官・将官たちが襄国の石祗
を支え続けた、群雄として割拠して然るべき状況においてでさえだ。
 秦滅亡の際には、中央から派遣された地方官の多くが然したる抵抗を見せぬ
まま呆気なく城を失陥した。前漢禅譲の際には、王莽に一矢報いようと挙兵し
た気骨ある地方官が幾らほどいたと言うのか。後漢の崩壊においては、地方に
出鎮していた有力な士大夫の多くが己の野望のままに行動し、対董卓連合軍
などは有名無実のうちに瓦解した。魏はまだ幾分かマシであったが、晋などに
至っては擁護のしようが無いほど皇室の権威は失墜し、石勒の餌食となって
子孫のほとんどが誅滅された。
 後趙は命脈尽きてなお戦い続けた。石勒にしろ石虎にしろ多くの寇掠・犠牲
の上に国家を打ち立てた大悪人である。「残虐非道の悪党が建てた国だから
断末魔にのた打ち回って、子孫全滅して滅亡しちゃったネw」と史書に刻まれ
ていようが、多くの人士がその滅亡に際して死力を絞って支え続けた事実は
捻じ曲げることはできない。この一事をもって、後趙という国家が世間的な
イメージの"evil empire"とは全く異なる、正統政権だったことを確信するの
である。
まあ、ここまで語ってみて思ったが、ほぼ独力で後趙を滅亡させた冉閔って
やっぱ凄えわ。空前絶後とまでは言わんが、項羽や侯景に比肩する化け物と
言って差し支えないだろ、間違っても呂布なんぞと比べられん。

506 :
で、続き
(15) 永和七年(351年)三月、石祗は劉顕に70,000の軍を与え、鄴に進軍させ
 その北二十三里(おおよそ2kmほど)明光宮にまで侵攻した。冉閔は衛将軍
 王泰と仲違いしたまま、全軍を率いて出陣、劉顕軍を撃ち破り陽平まで追撃
 を続け首級30,000余りを挙げた。冉閔の強勢に恐れを抱いた劉顕は密かに
 冉魏に降伏する。
  王泰が関中の苻健のもとへ亡命しようと図ったため、これを三族誅滅とした。
  劉顕が襄国の石祗を弑逆、太宰趙鹿(十八騎のひとりか?一体何歳だよ!)
 をはじめとする襄国の権臣十余名も殺害し、その首級は鄴へと送られた。
(16) 同年四月、前燕が渤海郡までその版図に収める。
  七月、劉顕が造反し再び鄴を攻めるが、冉閔に蹴散らされる。石祗
 の死に伴い、河南諸州が次々と東晋に帰順した。
  八月、前燕が慕容恪を中山に、慕容評を魯口に派兵し、両地の占領に成功
 する。冀州に出鎮していた魏の将帥の多くが慕容恪に降伏した。
(17) 永和八年(352年)正月、劉顕が常山を攻撃、これに対し冉閔は、将幹・
 冉智に鄴を鎮守させて、自らは8,000騎を率いて出撃した。襄国の
 大司馬劉寧は冉閔に早々と降伏し、余勢を駆った冉閔は劉顕を撃破、襄国
 まで一気に追撃し、遂に劉顕を滅亡に追い込んだ。襄国の住民が強制的に
 鄴へと移住させられた。
  冀州の石琨は、東晋朝廷に帰順の意思を示したものの、建康に送ら
 れ妻子ともども斬殺された。後趙は、建国以来(晋書の中でもバラバラなん
 だが)二十数年、二主四子にして滅亡した。
※ 足掛け二年にわたり遂に後趙を滅亡させた冉閔、そして慕容部との最終
 決戦に向け中山魏昌へと出陣する。因縁の慕容恪との決着をつけるために。
※ しかし、慕容部がすぐそこまで迫ってなお、まともな内政・外交政策を
 執れないという状況は、冉魏の国家としての不健全性の証明にほかならない。
 軍閥から国家として脱皮できていないとしか思えないほど、戦争に明け暮れ
 政治を顧みない態度には、呆れるばかりである。滅びるべくして滅びたと
 言うべきか。

507 :
 ウダウダと長文を叩き込んだが、結論としては、後趙の国力はやはり充実し
きっていたと見て問題ないだろう。幽州・涼州の外征に失敗してしまったこと
は、素直に力不足だったと認めざるを得ないが。(勝敗は兵家の常でござる。)
 前燕の治世は、後趙と打って変わって礼賛記事が多く感じるが(ス綰による
公領再編)、滅亡寸前になって急遽内政の紊乱(慕容評の汚職・賄賂の横行)
が頻発している。これは一体どういうことなのだろうか?後趙よりも遥かに
優れた統治者であった前燕がたった一人の太宰の汚職だけで傾いたという話
であれば、国家制度に不備があったとしか言えない。建国当初から、功臣や
諸豪族たちは優遇されていたとすれば、これはこれで問題である。
 後趙では石虎による諸政策の記事があるが、以下に列挙しよう。
● 老年層や幼児・児童等の扶養手当を補助するための山沢地開発の奨励
● 貧困層救済のために富裕層に対し、主に穀物の供出による増税政策
● 建武元年(355年)には政治の荒廃を営繕するために、自ら現場指導を
 する姿勢を見せる。
 しかし、これらの諸政策は常に次の文で締められている。曰く、「姦吏・豪族
らによる中間搾取があったために、人民まで行き渡らなかった。」曰く、「政策
は文言だけ立派で成果は収められなかった。」さすがに、ここまで来ると晋書の
編纂者たちは病気ではなかろうか?適切な政務が執行され、国家が間違いなく
繁栄していたという状況証拠が存在するにも関わらず、史書では頑なに趙の
政治を悪政・虐政であったと断じるのである。
 石虎非暴君論の続きになるのだが、晋書にかかっているある種のフィルター
はとても恣意的で悪辣である。実際、載記を見ていれば正義の鮮卑慕容部が
"evil empire"後趙を討伐して、苛政に苦しんでいた人民を解放したとしか
受け取れない印象操作が働いている。個人的には、後趙末期の戦乱が多くの
人民を苦しめたことを否定するつもりはないのだが、少なくとも人民統治の
観点から判断すれば、前燕の政治の方が遥かに拙劣だったと思料する。
封建的な国家体制において、少なくとも法治・秩序の快復を志向した後趙に
比して、前燕は人治主義の臭いに包まれているためである。特にそれが読み
取れるのが、慕容恪による統治方針なのだが、長くなりそうなので、次の
機会に詳述したいと思う。

508 :
むむ、次回は個人的に五胡の人物の中で一番好きな慕容恪の登場ですか。
期待しております。

509 :
>>508
おいらの落書きは基本的に後趙擁護論なので、慕容部には詳しくは
触れる予定はありません。
冉閔の戦歴を書き連ねたのは、後趙の軍事力考察のためです。
晋書って、やっぱ人物の評価が極端だよな。

510 :
後趙の治世を通じての、総兵力10万以上の動員をかけた戦争がどれくらい
あったかと言うと、
● 338年の段遼討伐(前鋒100,000、水軍100,000、本軍は20,000以上)
● 347年の前涼侵攻(緒戦で120,000、援軍を加えて140,000)
● 349年の梁犢の叛乱(先遣は規模不明、第二波で100,000)
● 349年平棘の戦い(総大将冉閔、総勢100,000)
● 350年邯鄲の戦い(総大将石琨、総勢100,000)
● 350年倉亭の戦い(冉魏200,000、襄国10数万)
● 351年の襄国包囲(冉魏100,000、襄国10数万)
冉閔が参加していないのは前涼戦ぐらいで、それ以外はほぼ皆勤賞
石勒・劉曜でさえ328年の洛陽での決戦において、ようやく互いの
総兵力が10万を超えたか超えないか微妙なラインだったのにねえ。
さらに、東晋十六国を通じて大軍同士でのガチンコ勝負自体が、実は
あんまり生起していなかったりする。
有名な淝水の戦いでさえ、前秦が前衛250,000、主力870,000の
大動員に対して東晋側は決戦主力で70,000そこそこである。
枋頭の戦いは前燕が最後に搾り出した兵力で50,000、桓温もほぼ同数
50,000で前燕領を蹂躙し尽くしている。
王猛の前燕攻略に至っては、当初30,000、増員を受けて60,000の兵力
で前燕を滅亡させている。
前燕は冉魏攻略にこそ200,000を動員したが、その後の河南侵攻に
おいては、50,000前後に留まっている。最大の動員は滅亡時に慕容評が
400,000を率いたというあたりか。
つまり、後趙は滅亡寸前に十六国時代通じて数えるほどしか行なわれ
なかった大会戦が毎年のように行なわれていた状態にあったわけだ。
これらの大動員を可能にするのは、一にも二にも国力・経済力である。
前秦の淝水100万の軍も、苻堅の安定した治世の賜物であった
だろうし、前燕の滅亡時の40万掻き集めも慕容儁以来の統治の成果
と言って差し支えなかろう。
だからこそ、後趙のこの異常なまでの動員力も石勒・石虎二代にわたる
善政、そう最早善政と言っても過言では無い!彼らの善政の産物だった
と見て全く問題なし!
………すいません、やっぱ言い過ぎました。
まあ、石虎の治世が暴政だったらこんなに集まらねえよ。八王の乱の
とき飢饉のせいで地方政治が崩壊した并州では大量の難民(乞活集団)
が発生している。後趙では末期も末期、石祗が死ぬ直前になって
ようやく難民発生なんだから、どれだけ強制移住させられた連中は
我慢強いんだよ!って話になる。
さすがに、石虎名君説には無理があるだろうけど、結構まともな治世
だったんじゃねえかな。仏教文化が花開いた鄴の繁栄を窺い知る
史料が存在していないことがただただ悔まれる限りだ。

511 :
慕容恪の統治方針について
恪兄いは、軍務においても政務においても「寛容」を旨として執り行っていたことが
史書から確認することが出来る。(詳細は割愛)
まあ、生育環境が父親からは目もかけられず、母親からは可愛がられずなんて
最低な環境で育った彼だからこそ、他者に対しては思いやりをもって接するように
成長したのだと思われる、普通なら苻生みたいに捻くれることの方が多いんじゃねえかな?
恪兄いは、官の過失等に対しては表沙汰にするよりも穏便に処分する方針だった。
叔父慕容評とも上手く折り合いをつけて政治を仕切っている。
慕容評の賄賂・熱心な荘園経営はおそらく(誇張があるとは言え)事実であったと
思われるのだが、結局慕容恪は慕容部・有力豪族の公地横領や荘園開発には
積極的な対処は執っていない。
建熙年間、慕容恪死後に尚書右僕射悦綰の建議により、従来までの豪族の荘園
経営にメスが入る。
慕容評がこれを憎んで悦綰を暗Rるのだが、悦綰は慕容恪の寛容な統治方針
によって多くの豪族・慕容部有力者たちが民を囲っていたことを指摘している。
すなわち、(慕容恪ファンのイメージを壊すのは申し訳ないのだが)慕容恪も
「権力者たちのよる公地公民の横領」という点においては共犯者、好意的に評価
しても傍観者だったのである。
巷間では、慕容恪を文武両道の名宰相という評価を見かけるが、これは大間違いである。
悦綰の改革によって、二十万余りの戸籍が摘発されているが、その規模は
100万人前後と見積もって問題ないだろう。
これだけの権豪の傍若無人を看過していて、果たして名宰相なのだろうか?
個人的には、華北統一の過程で積極的にインフラ整備や公共事業を推進した
後趙政権の方が、当初から権力者たちの権益保護に走った前燕政権よりもはるかに
まともな政権だったと思うんだが。
こう書いてくると、石虎がまともに見えてくるから困る、そんなタマじゃねえのに。

512 :
>>499
天下統一後、充実した国力を背景とした皇帝親征による異民族討伐こそ
真の軍人皇帝の証左、つーか数えるほどしかいねえけどな。
漢は劉邦のみ、隋は煬帝楊広、唐は太宗李世民
時代はぐっと下がるが、明で成祖永楽帝朱棣、英宗朱祁鎮、
清は完全態征服王朝なので除外
成功者が永楽帝しかいねえ……。
白登山の大敗は確かにマイナス過ぎるが、むしろ皇帝親征を敢行したことこそが
劉邦のスケールの雄大さを証明していると言えよう。
つーか、ミスがある・ないなんかに拘ってどうすんだよ、あっても取り返しゃあ良いんだよ。
挙兵から天下統一まで、前漢で7年、後漢で15年、錦の御旗ありで
ご先祖様の倍かかったら、そりゃ能力評価で下に置かれるわ。
石勒は天下統一しきれてなかったけど、「劉秀、喰ってやる!」くらいの気概で
あの発言はしているわけだから、相当な自信家だったんだろうよ。
まあ、劉邦の天下統一はスピード速すぎるな。
李淵で挙兵から10年、洪武帝に至っては30年か。

513 :
>>512
7年で統一できたのは皮肉にも項羽のおかげだろうな。

514 :
>>512
劉邦が死んだら尾張じゃん。統一もクソもない。リスク張りすぎ。
しかも負けてるのだから評価は勝った場合より当然落ちる。
それに対して光武帝は時間はかかったが安全運転
親征ではほぼ必勝
錦の御旗といっても更始帝、王郎、劉永、劉盆子も同様のものがあったので決定的とは言いがたい。
また、基幹部分自体はあっという間に制圧してる。
それでも下なのか〜。

515 :
あと劉邦が早いのは
韓信が3年で河北を制して、ゴネながらも劉邦に与力し続けた部分が大きい
天下三分だったらまず決着ついてないよ

516 :
劉邦は何の地盤もないところから秦を倒して項羽を倒してだからな
光武帝が皇族でも豪族でもなくて暴れ者の兄もいなくて王莽を倒して劉盆子を倒して、だったら石勒の評価はもっと上だったんだろう

517 :
>>512
軍人皇帝が偉いわけではないんだが。
一応、北宋の太宗もいれてやってくれ。
文人肌ながら、皇帝親征の意義を知って、体現した人だから。
討伐には失敗したけど。
それと、漢高祖の台頭は、いろいろ誤解というか勘違いも多いと思う。
実際には白登山親征の手前が、統一完遂時期といっていいと思う。
項羽の打倒時期で終わりがちだが。

518 :
>>514
親征している限り、劉邦も劉秀もリスクの大きさに差異はないんじゃねーのか。
劉秀の皇族の血統というのは、かなりの財産ってことが分からんかな?
南陽の地縁ネットワーク然り、豪族として割拠する際の箔付け然り
経済力を背景とした首都長安への遊学然り、当然錦の御旗もだな。
劉玄にしろ、王郎にしろ、劉盆子にしろ、敗れた連中には、劉秀が持っていた
このアドバンテージがなかったことを鑑みれば、劉秀がいかに恵まれていたか
分かるだろう。
で、別方面からのアプローチ、
河北への割拠の状況判断はなし崩し的にそうなった側面が強く、劉邦のような
強靭な意志(騙し討ちをしてでも三秦を手に入れる、そのための雌伏も辞さない)
を持っていなかったことは、軍人皇帝としてかなりマイナスだと思う。
当時の両名は、ともに粛清の危険性を孕んでいた状況にあったのは共通している。
劉邦は、関中の優位性を認識していたが、劉秀は明確な当てがあって河北へ行った
わけではない。
運ばかりの男と言う印象が強い劉邦だが、天下取りの絵図を描く能力に関しては
劉秀よりはるかに上であることは否定できない。

519 :
劉邦を力の限り好意的に解釈するとそうなるわな。

520 :
>>518
>(騙し討ちをしてでも三秦を手に入れる、そのための雌伏も辞さない)
それ韓信と張良の入れ知恵
>劉邦は、関中の優位性を認識していたが
張良・韓信・蕭何はともかく、劉邦本人にその認識があったかねぇ?

521 :
>>520
漢中に雌伏することを説得したのは、諸臣の中でも蕭何一人だけ。
他の宿将はみな、東帰して項羽と交戦することを望んでいた。蕭何一人の
意見を採用したということは、劉邦が雌伏こそ上策と状況判断した証拠、
すなわち、劉邦本人の戦略意思決定に他ならない。
張良が橋を焼くことを進言したのはその後だ。
また、劉邦は関中の王になることを積極的に望んでいる。
むしろ、こんなに早くから関中割拠を考えていたのか、と思われるくらい早い段階でだ。
まあ、認識できていなかったならば、鴻門の会が起きる前にとっとと放棄するか
項羽に明け渡していてもおかしくない状況、にもかかわらずギリギリまで固執した。
普通、このあたりで劉邦の大望が読み取れるんじゃねーかな?
史記の劉邦は、狡猾すぎて気持ち悪いくらいだぞ。

522 :
>>518
>親征している限り、劉邦も劉秀もリスクの大きさに差異はないんじゃねーのか。
根本的な部分ではそうだろう。光武帝も順水北で危うく死にかけた。
しかし、劉邦は白登山での失敗が弁護不可能なレベル。
冒頓の詐欺に引っ掛かって、それに対して慎重論を唱える劉敬をただ感情的に罵倒して投獄して、
戦う前に配下の2、3割が凍傷で指を落とすような悲惨な状況でさらに深追いして
一週間包囲されて陳平のペテンなしには確実に死んでるような状況に落ちていく指揮は不味すぎる。
大望がどうこう以前に、これで死んでたらただの匹夫だろう。
歴代創業者の中でもこれほど大恥をかいた人間は
袁崇煥に爆殺されたヌルハチくらいじゃないか。
別にミスしようが取り返せるなら問題はないが、
子孫に丸投げで、劉邦が残した対匈奴外交の負債を消却するのに
半世紀以上かかってるのは明らかに頂けない。
劉邦は必然的にシナを統一した豪傑だとは思うが
光武帝よりはるかに上というには所々抜けてる部分がある。

523 :
>>522
当時の情勢を考慮すれば、白登山の戦いは不可避だったし、
(漢の異姓諸侯の亡命が相次いでおり、野放しにすれば国家安全保障上の大問題)
仮に戦術的な勝利を収めていたとしても、冒頓単于のオルドス奪回の野望は
止めることはできなかったであろう、武帝のときよりも泥沼に陥っていた可能性が高い。
漢が武帝一代、呂・文・景以来蓄積を重ねた国家財政を破綻寸前まで搾り出して、
ようやく匈奴帝国のくびきから解放されたと言うのに、当時疲弊状態であった劉邦に、
どうやって冒頓との戦争を継続する能力があったのだろうか?
むしろ、「白登山の戦いを回避すべきであった」という意見の方が噴飯モノである。
それは冒頓の過小評価でしかない、この傑物は「漠北の始皇帝」と言っても良い人物だ。
始皇帝がオルドス征伐を敢行したように、冒頓にとっても中原世界に再び統一政権が
誕生した場合、自国の安全保障を考えると、何としても掣肘しなければならない
対手でしかなかったのだから。後に平気で講和条約を破っている実績があるのだから、
外交的解決は端からあり得ない。
戦術上の勝敗は兵家の常である、その敗北を次に生かすことができる人間こそ
真に英雄と呼べる人物である、劉邦にしろ、劉秀にしろ戦術上の敗戦を
挽回し大帝国を築き上げた時点で同格である。
(個人的には、戦術上は劉秀の方が有能であると評価している。)
この両雄の評価を分けるのが、戦略を見通す能力であるとおいらは考えているのよ。
異論があればガンガン出してもらいたい。
石勒にとって劉秀相手に勝ち目を見出すとしたら、やはりこの戦略の部分になるんだろうかね。

524 :
白登山の戦いは劉邦を責めるよりも、冒頓を褒めるべき

525 :
>「白登山の戦いを回避すべきであった」という意見の方が噴飯モノである。
その通り。
そして「劉敬の提案通り平城の恥を回避すべきであった」という主張を続けたい。
>この両雄の評価を分けるのが、戦略を見通す能力であるとおいらは考えているのよ。
蕭何、張良、陳平、劉敬にはあっただろう。劉邦自身も地頭はいい。
勘だけなら光武帝を明らかに超える。
それらを吸い上げて決断することをカウントする分には全然異論はない。
しかし、見栄と慢心、部下への猜疑心が原因で
劉邦の戦略眼がエラーを起こした例の一つとして白登山の戦いを挙げた。
後知恵で言えば勝つのが無理な状況で自分が戦死しかねないリスキーな選択したのが何とも不味い。
武帝みたいに漠北まで追いかけるのは無理だろうが、
長城の外に追い返すくらいは当時の状況でも出来ただろう。
冒頓の気まぐれで諸侯の粛清が終わる前に殺されるか、
負けて講和するかの二択になった責任は劉邦に帰すのが当然。
左遷後の三秦戦や項羽との連戦、綱渡りな褒美のばら撒き外交等から
統一戦争のターンに関しては劉邦の方が若干上だとは思うが、
対匈奴で半世紀近く属国になる原因となった劉邦と
焦土作戦で十年以上掛けて属国にした光武帝では
トータルで見ると光武帝の方を上に置かざるを得ないとは思う。
冒頓がぶっちぎりのトップだ、と石勒が言うならまったく異論はないよ。

526 :
>>525
石勒が血統上匈奴であることを考えると、明言はされていないが、冒頓が最強だと思っていた可能性は十分あるね
だから、冒頓に負けたことは石勒の「中華の創業者」の比較上ではあまり問題にならないのかも
あと、石勒は対匈奴においては、
まさに最盛期と言ってよい冒頓に負けた劉邦<武帝以来弱体化の一途をたどり、南北分裂などを経て見る影も無くなって以降の匈奴を従えた劉秀
とは思わなかったんだろう
劉邦が上とまでは言わないのだろうが、優劣がつくほど劉秀を上とは思わなかったということだろう
そうなると、皇族でもなければ大臣・将軍を輩出した家柄でもないのに秦と楚(項羽)を自分の手で破って中華の再統一を果たして前後400年の王朝を開いた劉邦が全体として上であり、石勒も彼には敵わない、と感じたんだろう

527 :
498だが、>>499確かに自分でレスを読んでも気負いすぎな気がするww
もっとも、中英の運営に対して常々言いたかったことなので後悔はない
意見の違う相手を煽り出す輩に配慮する必要などはないだろう
一行煽りも、最近では減った気がする。もし、少しでも貢献したならば本望だ
>>494-497>>500-507>>509-512
乙!。非常な力作。大変、興味深く読ませてもらった。
まあ、石虎、名君説はあまり同意しないが・・。今後の研究が待たれるな
晋書の兵力の記述はあてにならないからな。国力をはかる根拠にするのはちょっと弱いが。
しかし、冉閔の強さは資治通鑑を読んでいて、本当に頭にくるくらいだがw
司馬光より王安石、張説よりも宇文融の方が、国や民になっている可能性が高いのだから、
正史の記述も書いてあろうとも記述者の都合や個人的価値観が入っていると思っていい
人間性が最低であろうとも、慕容恪より石虎の方が名政治家ってのもありとは思う
劉邦と劉秀の比較は、
>劉邦が上とまでは言わないのだろうが、優劣がつくほど劉秀を上とは思わなかったということだろう
>そうなると、皇族でもなければ大臣・将軍を輩出した家柄でもないのに秦と楚(項羽)を
>自分の手で破って中華の再統一を果たして前後400年の王朝を開いた劉邦が全体として上であり、
>石勒も彼には敵わない、と感じたんだろう
自分の意見と近いが、多分これだろ。
事績が似た他の時代の比較はただのあら探しと好悪の比較になりがちだが、
最下層に近いところからの成り上がりと人材を使いこなせたところに大きな魅力を感じたのだろう
石勒は自分が認められる人間なら仕えるつもりだったと思う。
せいぜい、劉淵ぐらいしかいなかったのだろうけど。

528 :
>>525
「自分が戦死しかねないリスキーな選択」という意見は確かにその通りだが、
対匈奴戦を任せられる最高の野戦指揮官が劉邦以外おらんかった、これに尽きる。
(劉邦の野戦能力も過小評価だよな。)
劉邦は劉秀みたいに出惜しみはしない、出せるカードはバンバン切る。
思い切りの良さが、天下統一までの速さに繋がっているのは否定できないしね。
あと、平城までの間でしくじったのは戦術上の状況判断ミスであり、戦略上はあれ以上
何もできねえだろ。初めから土下座外交をして国力を蓄えるのが原案なのかもしれないが、
その選択肢と会戦による匈奴根拠地への痛撃では、劉邦の場合、後者を選ばざるを
得ない。劉邦という「ヤクザ」がシマ(匈奴との国境近辺)を荒らされて、黙って茶坊主
やってられるかという話なわけだ。
明日あたり、後趙の後継者争いについて、ちょっと考えてみようかと思う。

529 :
石虎時代の後継者争いの考察について
石虎最大の失策とも言うべき後継者問題、魏晋南北朝時代では別段珍しい話では
ないのだが、以前述べたとおり、大規模な軍事衝突の末に国が滅亡してしまったという点で
五胡諸王朝の中でも突出したレベルの後継者争いであったことが伺える。
石虎の場合、長子を立てたいのか実力のあるヤツを立てたいのか、はたまた自分の権力を
奪わないような少子を立てたいのか、選定基準が目まぐるしく変わっているかためダメ親父
としての地位を確固たるものにしている。
子煩悩・孫煩悩な反面、息子たちに対する虐待・惨殺も度が過ぎていたというあたりは、
石虎の激情家という側面を覗かせてくれる。
(甘やかして育てたら増長するのは当たり前、石虎が息子にキレるのも分からなくもないが
お前の教育方針が悪かったとしか言いようがない。)
一度目の廃太子石邃の場合は、彼個人の残虐さ・嫉妬深さが槍玉に挙げられるが、
一番の問題は政治家として無能だったところに尽きるだろう。石虎から政務における裁可を
伺いに行く場面で、時には小事を上奏して叱責を受け、時には大事を独断で決裁して
また叱責を受けるという逸話から読み取れるのは、石虎の気紛れなどでは、断じてない。
物事の軽重を推し量ることが出来ない石邃の無能さである。
段遼征伐を目前に控えて、侵攻準備にかかりっきりであるはずの石虎の当時の行跡に
「季龍荒耽内游,威刑失度」とあるのは不可解極まりない。
反証のひとつに、この直後も石虎は刑罰に対して、感情的ではあるものの比較的まともに
執行しているからである。(前燕に敗北した後、文武諸官に対して戦利品の下賜を行い
その論功を賞すとともに、蝗害が起きた際に、守宰を罰するべきだという司隸の上奏に対し
蝗害は政治の不和が原因であり、罪のない人間を罰するようなまねが出来るか、と一蹴
している。)
石虎自ら親征するのだから、内政の総攬を世子に任せるのは自然の成り行きであろう。
それが及第点に全く達しなかったのだから、怒り心頭になるのも無理もない。石邃は石邃で
自分が何故叱責されるのか理解できていない、挙句の果てに弟たちへの逆恨みである。
(弟たちは太子である兄と違って従軍して軍功を挙げることができた。石邃としては己の立
場が危うくなると予想したに違いない。)
石宣への攻撃を思い立っても、家臣を掌握し指揮することすらままならなかったのだから、
いかに無能だったかこれだけでも読み取れよう。
やはり世子の教育は重要なのだなと感じさせられる稀代のボンクラ息子である。

530 :
>>528
>対匈奴戦を任せられる最高の野戦指揮官が劉邦以外おらんかった
そうなったのは猜疑心にかられて韓信を嵌めたせいだろが。
自業自得。
朱元璋ほどじゃないけどな。

531 :
>>528
いや、親征自体や劉邦の戦術家としての能力は肯定的に見てる。
しかし、偽装退却臭い敵に対して自ら追撃というカードを切るのがリスキー。
その手の投機的行動は成功してれば最上級に果断と称える以外にないが、
不安要素が多すぎたし、結果はあの通りな訳で、戦略家として満点はつけられないだろう。
勝ちそうにないけど負けそうにもない行動を取る連中の方が結果論的に上というだけ。

532 :
>>528
ダブル韓信がいたじゃん

533 :
ここって、石勒スレ?

534 :
すごくレベルが高い。おどろいた。

535 :
>>518
マテマテ、劉玄は南陽劉氏の主流筋だ。
史書ではまるで劉秀兄弟が主流で劉玄は急に出てきた様に描かれているが、
おそらく挙兵時は彼が中心だろう。
無能だから担がれたなどと小さく見られがちだが、
マクロな動きを観察すると能力も決して低いものではないし、
彼が帝位についたのはそれなりの根拠あってのことだろう。
王郎は河北劉氏系大豪族の四分の三を味方につけており、
劉秀はクーデター成功後の鎮撫に、節をもって向かっていただけに過ぎず
ほとんど兵を持たず、将クラスの人間が下僕の仕事をするような状態でさまよう羽目になっている。
劉玄の援軍は趨勢が決してから、権力の拡大を懸念してか謝躬を送り込んだのみだ。
また王郎はより当時の嫡流に近い人物を名乗り、
かつ河北における身元が明らかな皇族達の多くが彼に従っていることから、
錦の御旗ということならただの県令の息子風情の劉秀より彼は余程のものを得ている。
劉玄もまた然りだ。
確かに彼は過大評価を受けがちな人物ではあるが、
彼の立脚点の優位を殊更強調することで功績を矮小化までするのはいかがなものか。
また、劉秀が野心に乏しく統一への強い意思に欠けていたのは事実だが、
河北に割拠したのは高官の曹親子に働きかけて符節を得てのことだぞ。
また、河近隣は当時開拓されている地域の中でも先進地域の一つであり、
関中は劉玄が抑えている状況を鑑れば、そこに彼自身が専断権をもって
鎮撫に行くということは戦略的にも大きな意義がある。

536 :
>>526
待て、武帝以来弱体化の一途を辿っていたのは事実だが、匈奴が南北分裂するのは劉秀後期だ。
それ以前のは東西分裂。
焦土作戦と鮮卑等が漢についていたことによって前線に配置されていた部族らが困窮し、
祭遵の甥であり、北方異民族討伐に大功があり、柔軟な統治で異民族に人望も厚い祭ユウの働きかけで、
当時の単于に対する叛意と野心を持っていた日逐王が反旗を翻して南部が軒並み漢側につき、
それによって成立する。
叛意あるものを見抜いたのは祭ユウの異民族の人脈からであろうし、
働きかけもその人脈によるだろうから劉秀の功績ではなく、
また、日逐王は宣帝期の東西分裂の単于の系統でもあるため、
話の趣旨になんら反対するものではないが、ちょっと気になったので。

537 :
>>535
劉玄の場合、(李建成とかと同様なのだが)史書から功績を差っ引かれている
という可能性は否定できないだろうけどさ、人的ネットワークが遊侠者たちに偏り
すぎなのが結構引っかかるところなのよ。
多分、こいつの場合は田舎豪族を絵に描いたような男だったんじゃねえかな。
小・中規模なヤクザ集団をまとめあげて調子こいてるお山の大将みたいな感じでさ。
(あるいは、史書がそういう風にミスリードするように描写しているかもしれんが。)
遊侠集団の暴力に依存せざるを得ないのは、反乱軍としては仕方がないところ、
でも、こいつ明らかに南陽の豪族たちから浮いているだろう。南陽豪族はあくまで
(程度の差こそあれ)劉演・劉秀側の立場を維持していたし、劉玄自身も己の
権力基盤とは到底考えてなさそうなんだよな。反乱に至る過程が、劉演たちとは
全く別系統と考えた方が自然じゃねーか?

538 :
石虎の「弾」の技術ってなに?

539 :
>>538
矢ではなく、石や土塊を弾く弓(はじき弓)のこと
でっかいパチンコみたいなものだと思えば良い
空気抵抗や飛翔体の重量から、弓矢よりも射程は短いものと思われるが、
むしろ近距離での飛び道具として使われたものだろうから、勇猛さを示す
一種の形容なのかもしれない。
「蟷螂搏蝉」の故事では、懐に隠して携行できるくらいのサイズだったようだから
近接時の暗器としての用途もあったのかも。

540 :
>>537
挙兵の経緯そのものが異なるのは事実ではあるが、彼も南陽で挙兵しているのもまた事実。
そして彼の妻の一人は彼の挙兵した平林の豪族の出とも言われる。
権力基盤とは考えていないのに、側室に迎えているのは辻褄が合わないように思う。
また、後漢王朝の歴史隠蔽の一つとして更始五銖というものが生産されていたことがよく挙げられる。
貨幣の発行が当時難しく、有能な吏僚を必要としたものであることは周知のことだろうが、
貨幣発行を成功させたのは、彼のどのような人脈によるか、ということを考えていくと、
結局のところある程度の士大夫層・豪族層などの支持は得ていたとしか思えない。
離散は敗北続きも要因の一つであろうし、即位直後の光武帝にわざわざ従うような手合いは、
河北の有力者か、劉秀の子飼いか、極めて劉秀に近い親族か友人だけだったはず。
実際最大のパトロンの一つである李氏の家ですぐさま帰順したのは劉秀の妹婿の李通だけで
他は更始帝に従い続けていたし、劉秀の叔父の劉良まで更始帝の元にいた。
申屠建なんていう前漢の丞相にいたような珍しい氏の、『詩経』に精通した士人もまた、ケ禹の
東進で更始帝の敗勢が明らかになるまでずっと従って、政権の重鎮を担っている。

541 :
>>540
誤解を与えたな、おいらは南陽豪族=舂陵系で考えてたんだわ。
平林・新市は結構離れてるから、反乱軍としての指揮系統は別物って認識
やっぱ盗賊系(当地の豪族とは紙一重かもしれないが)って感じだな>>劉玄
あと、王莽の失政に貨幣政策の大チョンボがあったのは有名だが、
貨幣発行の成功は、特筆大書するようなことでもないでしょ。
他の群雄もやってたわけだし(蜀の鉄銭等)。
個人的には、劉玄はボンクラじゃないけど小英雄にとどまったって評価は変わらず。
劉秀が長安に遊学できたのはデカいと思うんだ。中央政権の高官とも
面識持てるくらいの遊学ってのも、自由闊達な時代の為せる業か。
行商に出て、王衍とニアミスしたっていう石勒の逸話はフィクション臭えが。

542 :
>>541
>舂陵系
姻族であるケ奉や陰識、隗囂に擁立されかけた劉良等を除くほとんどは滅亡まで劉玄に従っていると見られる。
更始帝滅亡後に、舂陵侯家の嫡流で王莽に廃された舂陵侯劉敞の息子劉祉が、
劉一族の中で一番最初に、即位後の劉秀に帰順したことを讃えられている。
劉嘉なども更始帝の漢中王の地位から別段降りることもなく、
更始政権滅亡後も三輔地域で赤眉と交戦している。
>貨幣発行の成功は、特筆大書するようなことでもないでしょ。
>他の群雄もやってたわけだし(蜀の鉄銭等)。
五銖銭発行は、そもそも『後漢書』が馬援の建言から行われた大功であると大書している。
また、鉄銭を発行した公孫述自体が本来は能吏であり、善政を敷いたとされる事で有名。
盛族の多い三輔の出身で、優れた政治能力を買われて帝位に就いた。
王莽時代からの蜀の太守でもあり、劉秀との対立以降途端に失政とされる記述が多くなるが、
統治地域では盗賊が存在しなくなったと言われるほどの名政治家でもある。
劉玄の器量が小英雄であったということについては異論はないが、
そもそも私は劉秀が他の群雄に対し初期アドバンテージがあったという論に反論する形で言っているわけで。

543 :
ほう、スリングショットみたいなものか、
ゴムの無い時代によく・・。

544 :
>>542
劉秀は恵まれていた部類に入るのは明白じゃねえか。
恵まれていないってのは、赤眉や銅馬軍、緑林軍、田戎のような群盗系の連中
(このスレの主題である石勒も当然この系統)
次に可哀相な境遇として、根無し草系の元軍人連中、延岑や李憲の類
(この両名は十二分な実力を孕んでいたという点で、全然可哀相じゃないんだが)
次に、地方豪族と地方官吏、どちらが恵まれているかの論議になるが、
地方官吏だからってほいほい自立・旗揚げできるわけではない、少なくとも人望が
なければ地方の自由市民たちは盟主として仰がないのは当然のことだろう。
人望の源泉となるのが、地縁と人的な結びつき(その地方に深く根付いているか否か)
であり、秦豊や彭寵がこれに属する人物と見做すことができる。
もうひとつのパターンとして、純粋に能力により地方に割拠する官僚が挙げられる。
これは正しく公孫述その人が挙げられよう、難易度としては後者の方が遥かに難しい。
(反乱軍によってどれほどの中央・地方官吏が駆逐・殺害されたかは周知の通り)
前述の秦豊の場合はほとんど地方豪族同然であり、前者と言うのは地方豪族が
自立することと同義であると言っても良いほどである。
そして、全くもって劉演・劉秀兄弟はこれらの地方官吏(豪族)らと同じスタートラインから
乱世へと名乗りを上げたわけであるが、彼らについては、ここに舂陵侯家の傍系という
肩書きが乗っかる。
これが有利と言わずに、何が有利なのだろうか?
劉秀らよりも明白に上なのは、梁王劉永と真定王劉揚ぐらい。
更始政権や王郎に屈服せざるを得なかったわけだから、その実力は推して知るべし
と言ったところか。
振り返ってみたが、公孫述凄えなという感想しか出ない。

545 :
>543
弦には獣の皮とか使ったらしいよ

546 :
よくもまあ石勒と関係のない話で長々と・・・
脱線は許さんなんて野暮な事言う気はないけど、ちったあ自重しろよおまえら

547 :
石勒本人自体仮想敵?だと思ってたし

548 :
劉秀は「かなり有利な豪族の子分」程度じゃないの。
そんな簡単な勝負はしてないと思うのだが
地盤が確立してからの急速な統合はゲームを見ているようだが
その前に死んでたら有利も何もないし
乞食出身でも面構えがイケメンすぎて
ボスの養女を嫁に出来た六十四様の方が恵まれてる気がする
石勒も上手いこと自立したなあ
劉曜のサケウマ状態で決着というのがガッカリな展開だった

549 :
王衍伝、訳して!

550 :
石勒と段末破って手を組みそうで組まなかったよな
何でだろ?

551 :
劉秀は普通
石勒とか朱元章が異常なだけ

552 :
石一族で戦上手い順番は
石勒
石虎
石閔(冉)
石宣
石陀
石生
石椹
石遵
こんな感じですかね?

553 :
>>552
石勒、石虎以外はどんぐりの背比べだろ。
冉閔は、戦術レベルでは両名を凌ぐが、作戦〜戦略レベルでは問題外だな。
冉閔の場合は、冉氏として扱ってやった方がいいと思う。
1 石勒
2 石虎
3 石生(後趙河東王、河南・関中を攻略)
4 石堪(旧姓は田氏、乞活集団から石勒の養子となった、劉曜を捕らえる功を立てた。)
5 石斌(燕王、戦だけで見れば石虎の息子の中では最強、人格面その他で問題あり。)
その他は、評するほど活躍しとらんだろう。
石虎・石生・石堪の三重奏は、地味に活躍してたりするが、
後半生の石勒は、配下の司令官を我慢しながら使い続けている印象が強いな。
劉曜の猛攻に我慢しきれなくなって親征って流れは、人によって受け止め方は
それぞれだが、親征に拘っていた曹操よりは人事面では好印象なんだがなあ。

554 :
>>550
石勒と段部による幽州の分割?(ほとんど段部が抑えちゃってるけど)は、
当時の国力から鑑みれば、実に妥当な外交成果だったと思うよ。
石勒としては、親後趙派であった段末破を結果的に幽州の盟主に据える
ことができたんだから、御の字であっただろう。
両者が衝突したとして、喜ぶのは慕容部・拓跋部・東晋・前趙をはじめとした
各群雄なんだから、衝突するだけ時間と国力の無駄
石勒は幽州(対段部)や豫州(対祖逖)において、領土欲が淡白すぎる
部分を見せているが、「手強い相手とは争うだけ無駄」という感じがするな。
強敵との決戦回避は、生来の生存本能の片鱗だと思う。

555 :
やっぱり石虎はナンバー2だよなぁ
石生なんかがもっと働けば石虎誅殺して石弘と徐光で基盤できたかもね

556 :
18騎ってあんまり仕事してなくね?
張賓も孔萇も徐光も石閔も違うよね

557 :
二劉曹操司馬父子論は倫理的に
劉邦>石勒>光武帝>>>>曹操、司馬懿
主筋の敵討ち:劉邦
主筋を下克上:石勒、光武帝
孤児、寡婦を騙す:曹操、司馬懿
らしい

558 :
劉邦といえば、広武山の和議を一方的に破って項羽を追撃したのは倫理的にどうなんだろうな。
蜀に押し込められた時みたいに力づくで一方的に押し付けられたんだったらともかく、
あの時は自分から持ちかけて成立させたんだから、何ぼ千載一遇のチャンスとはいえ
倫理的には非難されてしかるべきじゃないかと思うんだが、あれを非難した人って
知ってる限りじゃ誰もいないんだよな。

559 :
項羽みたいな脳筋DQNとの約束なんか守らなくていいよ、
みたいな感じなんじゃね
日本の作家で誰か劉邦のそういう所が薄汚いと思ってたのがいたはず
勝てば官軍を地で行ってる

560 :
石勒の評価は誰かやってるの?

561 :
父親を人質にして脅迫するゲスとの約束なんて守らなくてもいい、ってことなんだろ
ジョルノがチョコ先生との約束守らなかったのと同じ

562 :
中国思想的には、項羽が「徳を失った天子」だからじゃないの。
和議自体が本来あり得るべきではないとか。

563 :
石虎の配下に、李菟という武将がいるけれど……
もしかしたら、この人「女将軍」だったのではないかと、最近勝手に妄想している。
李菟将軍の主要な戦歴としては、
建武五年(339年)9月の荊北攻略において、征討大都督虁安の配下で李農、
石閔らとともに従軍(この時は特に戦功はなかったようだ。)
次に史書に名前が現れるのが、外戚褚裒伝、石虎崩御後の東晋の北伐記事中に
褚裒の将徐龕を代陂に敗死させ、その北伐を頓挫させたところで登場(349年6月)
突っ込みどころ満載な二度目の登場ではありますが……。
徐龕は石勒にぶっ殺された賊将だから、穆帝紀の方の王龕を採用するのが妥当な
ところ、通鑑もこっち採用してるしね。
次に、この時派遣されて王龕を代陂に敗死させたのは、穆帝紀だと李農になっていて、
この「李菟」という人物は李農のことだろう、と校正されてたりする。
軍事行動の規模(総勢2万余)からも、その赫々たる戦勝(王龕捕縛、李邁殺害、
褚裒撃退)からも、司空であった李農が出撃したと見て間違いないと思う。
まあ、二度目の登場が誤字によるものだったとしても、その前の一度目の登場では
間違われた相手である李農とともに名前が挙がっているわけだから、同一人物の
可能性は、限りなく低いと見て問題ないでしょう。
そうなると三度目の登場、資治通鑑での慕容儁による石虎の墓暴きの逸話において
「かつて鄴で石虎に仕えていた女子」として「李菟」という老女?が現れます。
まあ、被害妄想というか猜疑心の塊である慕容儁の若干病的な逸話なんですけども、
後に前燕を平定した王猛により、この婆さんはぶっ殺されてしまいます。
しかしながら、ひとつ大変重要な点として指摘しなければならないのは、「石虎の墓の
位置を知っていた」ことと、「鄴で仕えていた女子」であるという点
普通に考えれば奴婢程度であれば墓の位置を知るような地位にいたら、間違いなく
殉死の対象だったはず。
じゃあ、この女性はどうやって生き延びたんでしょうか?
次に続きます。

564 :
李菟さん考察の続き
建武五年の南征において李農、冉閔らとともに名前が列挙されていることから、「李菟」は、
彼らに比肩しうる地位(少なくとも彼らの幕僚・属将ではない。)にいたと見て問題ないだろう。
それほどの地位にあったならば、石虎の墓の所在地を知ることができたとしても不思議では
ない。
次に、「鄴で仕えていた女子」で、冉閔による胡族大虐殺を生き延びることができたのだから
「漢人」である可能性が高い、しかしながらそれ以上に「軍を率いて地方へ出鎮、または駐屯
していた」と考えてみたらどうだろうか?生存率はぐっと上昇する。
彼女が石虎の墓の位置を知りながら、その後も20年間生き長らえることができたのは、このよ
うな背景があったからではないのだろうか。
唐突に「女将軍」とか言われてもイマイチ現実味がないが(某三国志の干禁を思い出して
しまう)、稀代の女好き君主石虎であったならばその問題も難なくクリアできよう。(事実、
後趙の朝廷には女性の尚書が存在したという。)
まあ、私一個人の妄想でしかないのだが、ロリコン石虎なら、石虎ならきっと何とかしてくれる、
そう信じています。
最後に、王猛に処刑されたときの年齢を60歳とするならば、初出は20代後半、十分に若い。
さらに50歳程度であったとすると、初登場時で10代後半!
慕容儁に石虎の墓の位置をチクりに行った時はまだ「女子」だったんだから、ロリ女将軍の
線も捨て切れない……、流石に飛躍しすぎだな。

565 :
冉閔って左手に矛、右手に戟をもって敵に突っ込んでいく戦い方でいったいどうやって
十万人規模の軍隊を指揮していたのか激しく謎なんだが。

566 :
>>565
個人的な武勇の記述と、実員指揮能力とは別の話
冉閔の配下には、後趙の中央軍が組み込まれたわけだから、その精強さは疑う余地は無いし、
外征において比較的活躍していた冉閔に対する将兵の信頼感はそれなりにあっただろう。
(ただ、当初支持されていたのはどちらかと言うと李農の方のフシがあるが。)
これに対し冉閔包囲網を布いた襄国勢力は、連携はバラバラの上、司令塔となった石祇は
石虎の子息の中での序列が明らかに低かった、冉閔が付け入る隙は十分にあったわけだ。
(戦上手の太子石宣や燕王石斌らが早々に自滅したことが大きく影響している。)
寡兵で大軍を撃破し続けた裏には、こういう要素があったことも忘れてはいけない。
冉閔が戦場では誰よりも勇敢だったのは間違いないし、類希な武勇の持ち主だったことも
否定はできないが、最も特筆すべきは、苛酷な状況の中で将兵を操作し続けることが
できた指揮・采配能力ではなかったかと思う。

567 :
>>566
いや、冉閔の指揮能力が優れていたことはよく分かってる
ただ一方で自ら突撃しているのも事実。個人的武勇の発揮と大軍の指揮をどう両立
させているのかなあと。別に冉閔に限らず猛将系の武将すべてにいえることだけど。
>当初支持されていたのはどちらかというと李農
冉閔に殺されるまでほとんどつねに共同歩調とってたせいで李農は完全に影に
隠れちゃってる感があるけど、いったいどんな人物だったか気になるところではある。

568 :
>>567
まあ、18世紀〜19世紀くらい、つい最近まで師団や旅団長クラスでの
陣頭での突撃とかは敢行されていたからな。(当然レアケースだが)
攻撃前進開始よりも前に、すでに命令指示は達せられているから
命令変更がある場合は、伝令や標旗などの信号を使って伝達させれば
いいのだろうが、それらは司馬や参軍等、軍府の幕僚使ってやらせれば
いいこと、口頭で十分
現代の戦車兵とかの指揮官は行き当たりばったりで、壁にぶつかるまで
イケイケドンドンな性格に育つらしい、とりあえずぶつかってから、次の
状況判断を考える。
戦場は錯誤と混乱に満ちているから、作戦や命令は努めて簡潔・明瞭に
ってのはセオリー、千変万化の戦術なんてのは、現場クラスには最も嫌われる。

569 :
>>567
李農は政治・軍事両面にわたり後趙の柱石だった。
三公クラス(司空)を歴任しているし、石勒〜石虎時代に大都督として複数の軍団の
指揮権を任されたのは、趙皇室の諸王を除けば、十八騎の元勲虁安と李農しかいない。
(冉閔ですら一軍の司令官に留まらざるを得なかった、そもそも格が違う。)
また、李農は339年〜340年の間に令支に監遼西北平諸軍事として鎮しているが
この時に慕容翰による幽州西部を大迂回をしての信都郡侵攻が行なわれていることは、
注目すべき事項だと思う。
慕容部の大迂回も特筆すべき作戦ではあろうが、これは寧ろ令支に駐屯する李農を
回避したと見るべきではなかろうか、事実、慕容部がその後この経路を利用した作戦を
実行した形跡がない。
普通に遼西を突っ切った方が早いのは明白なのだが、それが困難だったからこそ名将
慕容翰は大迂回を強要されたと見るべきだろう。
人格的に、主君に対する忠誠心も高いし、政治センスも悪くは無いと思う。
オールラウンダーの常識人だったがゆえに、冉閔の暴走に付き合いきれなくなった
印象を受けるのは、俺だけか。

570 :
冉閔が野心により簒奪に靡いた経緯と言うのは、「殺らなければ殺られる」という
典型的な権力闘争の帰結でしかなかったわけだから、別段不思議なことでは
ないのだが、冉閔包囲網が圧巻過ぎて、冉閔の将来を予測する能力が完全に
欠落していたとしか思えないところが、何だかなあ……。
冉閔に匹敵する軍司令官ってのは、349年当時で
・ 李農(盟友、実績抜群)
・ 張賀度(地味だが筋の通った良将、冉閔と同格で史書には載ってる印象が)
・ 王朗(石虎お気に入り)
・ 麻秋(出ると負け将軍)
・ 張挙(後趙の太尉、石虎の後継者問題や前燕との玉璽問題で微妙に出番が)
・ 姚弋仲(羌族姚氏集団の領袖、姚襄・姚萇らの父)
・ 苻洪(苻堅の祖父、関中に割拠する気満々)
あたりが列挙できるが、ほぼ全員この時期に表舞台から姿を消しているんだよね。
貧すれば鈍すと言うが、末期の後趙はまさにその通り。
こいつらが生き残ってその力を結集して後趙を盛り上げていたならば、前燕の中原侵攻も
遅遅として進まなかっただろうし、桓温も歴史の中に埋没していた可能性が高い。

571 :
>>570
そんな濃いメンバーまとめられるのは石勒くらいしかいないだろうな、

572 :
>>571
こいつら、みんな石虎の家臣だっつーの
石勒の場合、自前の軍閥から脱皮しての王朝成立だから柵が少なく
ほかの五胡王朝とちがって部族長や漢人名族の流れを汲む貴族層
からの掣肘があんまり無いというか、完全独裁
反論をさし挟む余地を与えない、完全なる武断政治
慕容部や苻秦が繰り返した内訌ってのも、石勒時代には皆無
ここら辺は北周初期と似たような感じで、弱小軍閥ゆえの結束の固さと
言えなくも無い。
話は外れるが、陸羯南のおかげで、うちらは「羯」の字を特に制約無く
使える環境にあるけど、陸羯南の号の由来となった漢詩で詠われている
「靺羯」って使い方は、慣用的な表現なのかどうか気になるなあ。
「靺鞨」でも「靺羯」でもどちらでも良いのかも知れないけど、羯ってこの
時代だけのローカル部族名だから、そんなに市民権得ているようには
思えんのよね。

573 :
こいつ明らかに曹操の足元にも及ばないよな
何か喧嘩売ってるけど

574 :
それを論証することができるか?

575 :
明らかに曹操の方が格下じゃないかと

576 :
負けまくったけど、肝心なところで勝つ石勒と、
勝ちまくったけど、肝心なところで勝てない曹操では比較が難しいな。
ただ、この二人がガチバトルすれば、最終的に勝つのは石勒だと思う。

577 :
それを論証することができるか?

578 :
石勒の劉備・孫権評が聞きたかった

579 :
曹操の比較対象としては、この時代であれば桓温がまず挙げられるべきなんだがな。
簒奪を図った逆臣であり、志半ばで逝去したという点
軍功により勢力を拡大して行ったという点、政治にも精力的に携ったという点
何よりお茶目な性格つながりで、これほど同類項はおるまいに。
石勒は曹操を散々に扱き下ろしたけど、比較の土俵が違いすぎるからなあ。
教養や軍略と言う点では、石勒は曹操の足元にも及ばないのは確かなんだが、
そういう次元を超えている感があるのが石勒なんだよ。
悲惨な奴隷が貴族軍人の時代に一石を投じたことこそ、最も重大なことだと思う。

580 :
土俵もくそもない。
石勒は、曹操がまだ子供の献帝を人質にとって大義名分を強引に掲げたことに対して、
「大丈夫のやることではない」と非難したわけであって、つまりは、
「俺はそんな卑怯な真似はしない」と断じたのだ。
現代の我々は批判すらカテゴライズするけど、石勒からすれば上記の一点ですでに曹操は語るに落ちた存在だということ。

581 :
そりゃ皇帝が全く別の場所にいて安泰だったんだからどうこうしようと言う発想自体無かっただけ。
後付けの知恵で物を抜かした小賢しさに引っ掛かる時点で可哀想な脳みそですこと

582 :
趙スレが無いのでここで質問
劉曜に仕えた遊子遠って人物について詳しく知りたいんだけど
wikiや百度百科覗いても西方の反乱征伐と劉曜の墓作りを諌めた以外のこと書いてないっぽい
他の人物伝とかで登場してたりしない?こいつも陳元達コースだったのだろうか・・・

583 :
>>582
前趙からして敗北者だからな。
もっと詳細に官制や地方行政の在り方を調べようとしても
全然資料が無えからわからなくて難儀する。
まあ、游子遠の場合、この名前はおそらく「字」だろうから
本名さえまったく不明ってな状態のわけだ。
(呉懿や許攸も同じ字だしなあ。)
劉曜に限って言えば、そこまで勲功を吸い上げているとは思えないがね。
どっちかと言うと、良い諫め役だと思うぞ>>游子遠

584 :
>>581
石勒は司馬氏の皇族の大半を直接始末した張本人なんだけどね。
その気になれば、いくらでも推戴するチャンスはあった。
(部下からは、扱い辛いしやめときましょう、とやんわり釘刺されてたけど)
ただし、自分を奴隷に落とし、辛酸を味わわせてくれた西晋病巣社会の
元凶を上に戴けるかどうかは、……まあ、俺にはできないな。
劉曜のことを言っているのであれば、もう宿命のライバルなんだから
担ぐ云々の問題じゃあないよ。
食うか食われるか、殺さなきゃ殺されるのは石勒の方、これは項羽と
劉邦の関係に近いかもね。

585 :
石勒は誰かを推戴して、その下で実権を握ろうなんて思考はしないと思うな。
あくまで自分自身が頂点に立つことを目指す感じ。

586 :
キン準の事件頃までは劉曜を覇道を助けるって考えもあったんだろうけど

587 :
>>586
もともと負けて進退きわまって劉淵に降伏しただけだし、
その後も半独立状態で動いていたから、
いつかは自立してやろうと思ってたんじゃないかね?
石勒は最後まで誰かに従える類の人間じゃないと思う。

588 :
そう?

589 :
劉淵、劉聡には一応というか、結構恭順してなかったか?

590 :
18騎で一番功績あげてるのは誰?徐光、孔長、張賓は18騎ではないし、そもそもなぜ18騎と呼ばれるようになったの?

591 :
>>590
桃豹だろう。十八騎は最も最初に石勒に従った18人の部下。

592 :
いやそれは知っているけど
そんな呼ばれ方するくらいだから何か特別な功績あげてるのかな?と思って
たいしたことないなら8騎から10騎をあえて足さなくてもいいんじゃないか?

593 :
寝返りを受け入れる場合と拒否する場合があるけど違いはなんだろう
祖逖の場合は何となくわかるけど他の基準がイマイチわかりません
王彌の時も最終的に殺しているし

594 :
>>593
王彌はあからさまに札付きの危険人物だからだろ?
やばくなさそうなのは受け入れて、やばそうなのは受け入れない。
それだけじゃないか?

595 :
王彌じゃなくて王浚でした…(游統の件)
王彌は劉聡も嫌っていたのかな?

596 :
>>558-559
そもそも項羽はその直前、親である劉太公の人質の件で劉邦が対話に出てきたときに兵を伏せ、
交渉が芳しくない結果におわると、挙げ句に無防備な劉邦めがけて狙撃までさせたわけだから、
中国の倫理学的文脈では一度の停戦条約破り「まで」の報復は正しいとされたんじゃないかと。

597 :
直前というのは和議前ね。
項羽側が劉太公を煮R振りをして降伏を迫ったのを劉邦が出てきて断り、心臓付近狙撃されて足を押さえて逃げ帰った件。

598 :
このスレ勉強になるなあ

599 :
573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 20:46:02 ID:1tzEyf9j0
こいつ明らかに曹操の足元にも及ばないよな
何か喧嘩売ってるけど
577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/19(金) 21:46:41 ID:/S0d6dTi0
それを論証することができるか?
581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 12:42:30 ID:XJWzHrQu0
そりゃ皇帝が全く別の場所にいて安泰だったんだからどうこうしようと言う発想自体無かっただけ。
後付けの知恵で物を抜かした小賢しさに引っ掛かる時点で可哀想な脳みそですこと
患者だ。患者だw
やっぱ、ここでもファビョッてやがるw
典型的な待ちガイル
二言目には、なんの知識もなく、劉備、諸葛亮、関羽(たまに李世民と石勒w)は雑魚!
論争は、お仲間の正史厨が繰り出す援護だよりw
いやー、ほんとにどこからでも湧いてくるなw
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \


600 :
無理

601 :
>>563 李菟たん(仮)勝手に支援します
『北堂書鈔』巻一百十七 武功部五 騎八に
鄴中記云、石虎皇后出女騎千人、脚皆著五菜鞾也。
という文章がありまして、内容は
『鄴中記』には石虎の皇后が女騎士を引き連れていたといってるよー
というものです。
なら李菟たん(仮)もあながちありえない話ではないかと
ただ皇后の護衛で女騎士がいるからといって、女将軍がいるというのは
飛躍しすぎというのは承知です。
でも可能性としてゼロではないかなぁとは言えると思います

602 :
二年前の記事じゃんか orz

603 :
石虎を斬らなかったのが石勒最大の失敗だな
徐光の言うこと聞いとけ

604 :
いくら乱暴とはいえ可愛い弟分を危険分子って理由で殺せないだろ
年の離れた実の弟みたいな存在だし
彼を奴隷にさせた責任感とか色々あるだろ…
そこら辺の人情味が石勒の魅力じゃないの?

605 :
結果を知っていればともかく、
未来がわからない軍部は石虎が、これといった理由もなく処分されたら、
軍部の離反を招いた可能性がある。
徐光も未来が読めていたわけではなく、シビリアンコントロールと皇帝権の増大、
漢人勢力の増大をより考えていた可能性は否定できないし。
未来が読めない石勒には、あれが限界だったんだろうな。

606 :
でも粗暴だったのはわかってるし、何らかの手は打っておいて良かったのでは?

607 :
そろそろ石勒は注目されていい

608 :
テスト

609 :
石勒の行動はベースが保守というか安全で、身内が生き残るのが最優先
だったし、出自を考えれば当然の行動だと思うんだけど
劉曜や段文鴦を捕まえたあたりになるとちょっと変わってくるけど
転機はどこだったのかな

610 :
あげ

611 :
仏教への帰依が転機

612 :
age

613 :
age

614 :
張賓以外の漢人ブレーンって誰がいる?

615 :
西晋の司徒傅祗の息子の傅暢がいる。

616 :
傅暢って傅伏の親類?

617 :
傅伏は知らないので、教えてください。

618 :
傅伏は北斉の将軍で高寶寧とともに北周に最後まで抵抗した人物
北斉の皇帝が既に捕らわれたことを知ると、慟哭した後、降伏した
その忠誠を武帝に賞賛され、かつて河陰への攻撃を防いだときの褒章が
永賞卿だったことを知ると、傅伏がいたから河陰を攻略できなかったのに
その程度だったのかと言われた

619 :
傅暢の息子は東晋に戻って交州刺史になっているので
子孫の可能性は有るかも知れませんが少ないでしょう。


620 :
>>619
そうですか、当時は江南政権は陳だったので
再度華北に逃れた可能性もある程度の認識にしときます

621 :
石勒の石姓は当時の名士石崇とかが由来なのかな?

622 :
成都王の武将の石超ではないか。石崇の孫だけど。

623 :
あげ

624 :
さげ

625 :
test

626 :
>>614
王浚や劉琨経由だけど、裴憲・荀綽・崔悦もそうだな。
でも後趙ぐらいまでの漢人文臣はあくまで魏晋以来の名族が主で、
各地域に根差した豪族が参画しだすのはやっぱ前燕以降だなぁ。
北平陽氏とか渤海封氏とか。

627 :
>>626
塩と木簡しか無かった奴らか

628 :
傅暢の追加情報。
楊駿の誅殺時に武郷亭侯になっている。

629 :
てことは結構なもんだったんだな

630 :
武郷は石勒の出身地だよ。

631 :
あげ

632 :
魏代に武郷は無い、西晋に武郷は登場する、
司馬炎が胡族を内地に移民させた開拓地なのだろう。


633 :
劉夫人はアゲマン

634 :
劉夫人は匈奴部帥の一族かなあ、扱いの良い所をみると。

635 :
劉夫人は軍議にも参加してたみたいだから、軍略や武勇は並以上なんだろか?
劉淵配下になったとき、もらったんかな?

636 :
王彌を殺した後じゃないかな、石勒を身内に留めようと
したと思ってるんだが、江南攻めに失敗した時は石興を
身ごもってたんじゃなかろうか、肝もすわるだろう、
石興が死んで石勒は大単于の劉氏と切れたと思うんだ。

637 :
崔鴻・後趙録 (載記に無い物)劉皇后@
石勒劉皇后、侍中閏之妹、後部胡人也、勒納之於胡關、美色、有特寵。
胡(hú)と壺(hú)は同音なので、308年春の壺關攻略時に妻としたようだ、
劉淵配下になった直後だね。

638 :
崔鴻・後趙録 (載記に無い物)劉皇后A
張枰反於襄城、后抽劒斬之、勒頼后而済。
懐帝紀にある310年10月に襄城を陥落させた時の事件らしい。
劉夫人の武闘派ぶりが判るエピソードだ。

639 :
崔鴻・後趙録 (載記に無い物)劉皇后B
后性惠有幹。助理軍國之務、有呂氏輔漢之風、然厳整貞婉容裕不妬忌過之也。
劉曜の羊皇后みたいに政治に参加してたのね。

640 :
劉夫人の記事、面白そうだけど、できるならそれを訳してくれるとありがたい。
見た限りだと「姐さん、マジパねえっす!」状態だな。石虎も敵いそうにないくらいだが

641 :
@
石勒の劉皇后は、侍中の劉閏の妹で、後部の胡人である、石勒は胡關で
妻として迎え入れた、美貌であったので、格別の寵愛が有った。
資治通鑑では壺關攻略は309年夏になっている。
劉備の孫夫人と考えれば良いか。

642 :
A
張枰が襄城で裏切った、劉皇后は剣を抜いて張枰を切り殺した、石勒は
劉皇后のおかげで助かった。
二人の所を襲われたようだ。石勒の正妻は並み女性では務まらないのだろう。


643 :
石勒は石虎と実力が拮抗する人物を作れなかったのも失策だな。
姚弋仲がそれにあたる人物ではと思う。石虎に対しても、けっこうタメ口きいてたりしてもOKだったみたいだし。そして後趙への忠義も厚い。
ただ、後趙へ仕えたのが前趙滅亡してからなんだよな。せめて石勒があと10年生きてくれたら、影響力ある地位につけて、石虎と姚弋仲が並び立てば、後趙も永らえたのではないかと。

644 :
もうこの時代の軍人は独立独歩志向しかしないしそうしなければ生きていけないよ。

645 :
姚弋仲は羌族の首領だからそんな国政に踏み込めないでしょ…
どっちかと言うと桃豹とかキ安とかの18騎の人たちじゃない?

646 :
姚弋仲を挙げた者だけど

18騎の面々がというけど、石虎が脅威と見なしてないし、18騎の面々は石虎に従うばかりであてにはならない。
劉皇后も石堪使って、石虎に抵抗するけども…失敗だしな。
石虎との関係を見ると、いいストッパ役だと思って、姚弋仲を挙げてみた。

647 :
おそらく無理
石勒を押さえ、死後は徐光ら要となる人物をあっさり処分した手際の良さを見ると勝てないだろ
戦力はあるのに団結出来ないから負ける侯景の時と同じ

648 :
反対分子の排除は迅速にやってるし、軍務は意外と真面目にこなしてたらしいし、すごい人物ではあるよな。>>石虎
やはり、石勒だからこそ制御し得たということか。石虎をしっかりと制御できた点だけでも、石勒が英雄たる証拠か。
まあ、あの雑多な軍団を率いているわけだから、そうとうな統率力だわな>>石勒

649 :
徒民を無くし、慕容部の南下を防いだだけでも政治レベルも高いと言える
石勒と同じく冉閔を処分出来なかったのが問題だけど

650 :
>>649
あそこまで完全に包囲されて孤立した状態から、逆撃して後趙を壊滅させた
李農・冉閔らを褒めるべき、つーか冉閔は石虎存命中はそこまで大物じゃない
石虎の後継者らの内紛の中で地位を固めた部分が大きいから、石虎にしてみれば
有能な一軍の将程度の認識(その意味では大都督を務めた李農の方がはるかに脅威)
しかし、冉閔はなぜ慕容恪と同じ時代に生まれてしまったんだか……

651 :
石勒は天下統一狙ってたのか、それとも中原だけでよかったのか
晩年には荊州北部を郭敬に攻めさせてたが、荊州を奪ってから、益州か揚州狙いにするか

652 :
>>651
張賓が死んだしなぁ
そもそも晩年は東晋も堅いし…とはいえ初期は張賓が止めてる
晩年は保身が信条の石勒が東晋を攻めるとも思えないし

653 :
石勒の天下統一は洛陽遷都後のつもりだったんだろ。

654 :
石勒が功臣39人の名前を石に刻んだというのがあるが、誰が入ってるんだろうか?
張賓は確実に入ってそうだから、残り38人か

655 :
張賓の他に孔萇も入るだろうな。あ、石虎も入るか

656 :
異姓No.1 の王陽も間違いないだろ、
石勒より長生きしてれば石虎の天下もなかったろう。


657 :
建徳殿に立てられたのが325〜326年辺り。存命人物もいるし、バランスを考えるとなると、色々揉め事がありそうな気がする。
十八騎が全員入るか、それとも選択するのかかな。

658 :
建徳殿三十九功臣(仮)

・張賓(石勒の軍師的存在。石勒の信任も厚い)
・孔萇(幽州攻略、その他の戦いで功績多し)
・石虎(各地を転戦し、数多くの功績を上げる)
・王陽(十八騎。将軍として活躍するとともに、石弘の武術の教育も行う)
・支雄(十八騎。将軍として、石勒死後も活躍)

今のとこは5人くらいか。残り34人。程遐は…活躍、してないし、どうだろうかな?

659 :
>>657
十八騎は数人こぼれてもほぼ入るだろ、12−14人位か。

660 :
>>659
豚さんは確実に入らないと思うw
鹿さんが一番最後まで生き残っているけど、この人も微妙だな

661 :
張敬も入ってくるだろう。記録の中では初代左長史となってるし、軍を率いて戦いにも赴いてる。
石勒に趙王をすすめた中心人物に名を連ねているし、軍中では重要人物だろう

662 :
十八騎の記述されているのを簡単にまとめてみた。

・王陽 遊撃将軍→門臣祭酒→驍騎将軍
(各地を転戦し、数々の武功を立てる。石弘の補佐も行う。石弘の撃剣の師)
・キ安 中堅将軍→左司馬→尚書→鎮軍将軍→左僕射→侍中・太尉・守尚書令→征討大都督
(石勒の爪牙。各地を転戦し、数々の武功を立てる。石勒死後も重用される)
・支雄 中塁将軍→門臣祭酒→龍驤大将軍
(各地を転戦し、数々の武功を立てる。石勒死後も将軍として重用される)
・キ保
(十八騎での紹介以外、記述なし)
・呉予 将軍
(将軍に任じた)
・劉膺
(十八騎での紹介以外、記述なし)
・桃豹 魏郡太守→予州刺史→横海将軍
(祖逖、劉曜等、数多くの戦いを経験。石勒死後も将軍として重用される)
・ロク明 金紫光禄大夫
(各地を転戦し、数々の武功を立てる。石虎を諌めたために殺された)
・郭敖 左長史尚書→左僕射
(劉曜討伐を諌め、かえって石勒の怒りを買う。石勒死後、各地を転戦するが、大敗したことにより石虎に殺される)
・劉徴 青州刺史
(各地を転戦し、数々の武功を立てる。石弘の兵書の師)
・劉宝
(十八騎での紹介以外、記述なし)
・張?僕
(十八騎での紹介以外、記述なし)
・呼延莫 将軍
(将軍に任じた)
・郭黒略
(十八騎での紹介以外、記述なし)
・張越 広威将軍
(石勒の姉の夫。石勒をからかった為、力士によって殺される)
・孔豚
(十八騎での紹介以外、記述なし)
・趙鹿 太宰
(石勒死後も仕える。後趙混乱時に殺される)
・支屈六
(十八騎での紹介以外、記述なし)

ざっとまとめてみたが、これを見た限りだと、王陽、キ安、支雄、桃豹、ロク明あたりは確実に39人の中に入ると思う。
微妙なのは、郭敖、劉徴、趙鹿かな。

663 :
郭黒略は仏図澄伝に記載あり。

664 :
>>663
郭黒略に五戒を授けて弟子としたとあるが、真逆なことを生業としてるし、ちゃんと守っていたんだろうか?
仏図澄は佐命の功臣にしてもいいくらい、石勒に貢献してると思う。

665 :
これ本当なの?
本当なら恥ずかしいね。
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/joke/1331190435/1-100

666 :
ぶっちゃけ十八騎っていっても
王陽・キ安くらいが目立ってて、後は石虎・孔萇・張賓あたりと比べると雑魚だもんな

667 :
>>666
支雄も重要人物だと思う
個人的なイメージなんだが
石虎の宮中だと、夔安とか支雄あたりは、石虎のことガキんちょ扱いしてそう
特に、後年の姚弋仲との関係とか見るに
石虎って、案外そこらへんが度量深そう

668 :
祖逖と石勒は相性よさそう。祖逖が服属してきたら、石勒がどんな使い方するか楽しみだ。
程遐あたりが変なこと言いそうだが

669 :
>>668
というか懐柔したからな

670 :
にしても、雑多な軍団構成だよな、石勒のとこは。超常的な坊さんも味方してるわけだし

671 :
雑多というか異民族連合政権が実態でない?
後趙は石氏一族のカリスマで持ってた国だなと思うわ

672 :
石虎って、前趙にいた時期があるんだな。陳安の乱のとき、記述がある。だとしたら、のちの劉皇后と接点があってもおかしくないが。
石勒のスパイかもしれんし、もしかして案外本気だったかも

673 :
石虎が前趙にいたとは知らなかったな
休屠王だったか石武という人物がいたと思うけど…

674 :
石虎は陳安の乱の時は曹嶷を相手に半年の間
包囲戦をしてるから別人だろ
それに石虎の劉皇后は318年生まれだから323年はまだ幼児だよ

675 :
「三十国春秋」に隴城に陳安が籠ってるとき、劉賁に進言している将に石虎の名前があった。
もしかしたら、石武と混同してるかもしれんが、あの石虎と間違えるかと思ってな

676 :
hage

677 :
>>675
何か、ほかの史料でも、石虎が石斌と混同されているヤツがあった気がする
文脈調べれば、あり得ないミスなのに……
>>668
ぶっちゃけ、二人とも似た者同士だと思う
乱世に英主を求め続けて裏切られたのが祖逖で
乱世に英主がいないんであれば、俺が為ってくれるわ
って奮起したのが石勒
しかし、祖逖の最期は不遇すぎる

678 :
祖逖とは良好な関係を築いてたんだな。石勒は祖逖の先祖の墓を守ってやり、祖逖は石勒を裏切った部下を拒絶したり
強敵と書いて、とも、と読むような。まあ、東晋にしてみれば、その特殊な関係が祖逖をいまいち信頼できなかった一因だとは思う。皮肉ではあるけども

679 :
>>678
というかあっち方面のヤツずっと信頼されてないだろ

680 :
字って、自分でつけるのか、他人がつけるのかどっちだろうか?
世龍って、なかなかにチャレンジャーな字をつけるなと思う。夷狄で、龍を入れるってのは

681 :
>>680
石虎は「季龍」だな、一族の中でも末っ子扱いだったんだろうか
石勒の場合、勒という名前も後付だし
本当に異民族然としているなあ

682 :
>>681
石勒が名づけたんだろうなあ
母親が面倒見てたから弟あつかいだな

683 :
五胡十六国時代では、長史が参謀・軍師的立場になってることが多い。
右長史は張賓を筆頭に、石勒に献策したりしてる。じゃあ、左長史って何してるんだろう。見る限りでは、勝利の報告の使者が多かった。で、たまに軍を率いたりもしていた。右長史と役割は一緒なんだろうか。
趙書とか、当時の資料がないから、そっちには活躍が書いてあるかも

684 :
wikipediaに18騎が追加されてるね

685 :
あげ

686 :
落ちるんじゃね?

687 :
大丈夫。板自体が超過疎ってるので、半年くらい書き込まなくても落ちない。

688 :
石勒と王弥の名を足したら弥勒になるんだな

689 :
石勒って奴隷出身だと思ってたんですが、実は有力部族の長の跡取りでコネがたくさんあったって本当ですか?
幻滅しました・・・・嚇連勃勃のファンになります

690 :
>>689
現在で例えると、系列会社の社長の息子だが父親の会社が倒産して
自分で起業して親会社の役員に迎えられた様のもんだよ

691 :
>>690
コネいっぱいあんじゃん

692 :
コネってもしかして郭敬のことか?
漢人の足長おじさんひとりってコネなのかなあ
しかも郭敬も後に乞活になって郷里を捨ててるし、人間関係が役に立ったのは明らかに郭敬の方
石勒はしがらみが無い方の部類じゃないのー?

693 :
>>690
それってまさか言い換えたら
匈奴の市支族の羯族の族長の息子だが、一族が離散して自らも奴隷化
永嘉の乱に呼応して自ら馬賊として旗揚げ、勢力を拡大して匈奴の漢に迎え入れられた
ってことじゃないだろうな……?

694 :
コネって言っても、親父の羯族の族長って数十人の元遊牧民農奴が、
互選で決めたリーダー程度の意味かもしれんしな
羯族の王や単于なんて言われてないし
匈奴と羯族って、ただの遊牧民つながりで、羯族は東胡や烏丸の色が強い
匈奴に従属したことがあるって程度かもしれんし、
そんな外国で住む日本人同士って程度かもしれんコネを、
系列会社の社長の息子って言われたり、幻滅したと言われてもな
外国で単身移住した成功した日本人が、日本人ネットワークのコネがいっぱいあった
と言われているようなもんだ

695 :
そもそも羯族自体が有力な部族でないし、飢饉で離散し奴隷化する程度の集団のトップだからな
とはいえ爺さんはなかなかの人物だったらしいから、そこらあたりのコネはあったかもな

696 :
>>689はネタだと思うよ
書き方からして

697 :
>>689だけならただのネタだが、
>>690はマジレスぽい
>>691はよくわからん

698 :
ネタレスをどうやってネタレスで返せばよかったのか

699 :
十八騎で最強は誰?

700 :
>>699
段遼を撃破した支雄か荊州侵攻時の大都督やってた夔安のどっちか
次いで桃豹、どっちかと言うと統治面での実績の方が大きいけど
石勒の戦略策定時って典型的なブレインストーミングやってるよね
結論出すときは独裁的に決断してるけど、合議の過程を非常に重視している
そういう意味では仕え甲斐はあるのかも

701 :
劉聡伝読むと末期の漢は想像以上に腐ってるな
取ったばかりの漢中メインで11年持たせて前涼とか仇池に土下座させた劉曜は頑張ってたんだな

702 :
劉曜は行政手腕高いからな
さすがに羊皇后死んだときは若干トチ狂って民衆苦しめるような大工事したけど

703 :
劉曜は強いけど一度勝つと気を抜く悪癖があるよな
それで長安も一度賈疋に取られるし終いにゃ石勒の乾坤一擲の機動戦で捕まる

704 :
石勒、石虎は冉閔を大切にしたのに
奴は石一族を皆殺しにした

705 :
天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。
天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。
天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。
天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。
天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。
天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。天然パーマ男R。バケモン。気色悪すぎ。

706 :
キングダム人気の勢いで出ないかな?

707 :
石勒「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、
日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、
孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」

708 :
石勒「劉備・・・誰?」

709 :
かっこいいが、漢人大虐殺とかやるからどうも好きになれん
やはり苻堅が最高だな。周りが酷い分更に引き立つ。

710 :
劉曜って最後は戦争の直前まで酒を飲んで酔っ払って馬から落ちて捕らえられたらしいな

711 :
石勒曰く、
「朕若逢高皇、當北面而事之、與韓彭競鞭而爭先耳。
脫遇光武、當並驅于中原、未知鹿死誰手。
大丈夫行事當礌礌落落、
如日月皎然、終不能如曹孟コ、司馬仲達父子、
欺他孤兒寡婦、狐媚以取天下也。朕當在二劉之間耳、軒轅豈所擬乎」

「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、
日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、
孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」

712 :
>>709
苻堅はシ肥水の戦い後のこわれっぷりがなあ

713 :
石勒十八騎は汲桑軍団で各地を荒らしまわってた時に全員揃えたのか?
全員活躍したわけじゃないがゴロツキ集団の中から?安とか支雄を拾えたのは運が良すぎる

714 :
マリアージュラーメン
マリアージュラーメン
マリアージュラーメン

715 :
>>713
後の8人って汲桑時代やっけ?

716 :2015/07/25
陳安と互角に戦った平先って何者なんだ…

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