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関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part29


1 :2019/11/21 〜 最終レス :2020/01/21
関ヶ原合戦(本戦)に限らず、関ヶ原戦役として捉えてどうすれば西軍が勝てるかを模索しましょう。

前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part28
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1570547952/

2 :
史実時系列表(仮・本戦後を加筆)
6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
6月23日 細川忠隆隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
6月27日 細川忠興隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着、毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月4日 瀬田の砦構築完了
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月16〜17日 市橋長勝・徳永寿昌・横井時泰らが福束城を攻略。
         福束城主丸毛兼利、大垣からの援軍伊藤盛正・武光忠棟・石田らは敗走
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月19日 市橋・徳永らは高須城高木盛兼、駒野城高木帯刀、津屋城高木正家を攻略
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日  京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9〜10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日   関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走

3 :
9月16日 伊勢亀山、桑名城など東軍に降伏し開城
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)、佐和山城落城、大津城開城、大垣城から相良秋月高橋などが降伏
9月18日 東軍前田利長小松城を開城させる
9月19日 東軍前田利長北ノ庄城を包囲
9月20日 大垣城の福原長堯が降伏
9月20日 家康大津入城、秀忠大津に到着
9月24日 権中納言九条忠栄が家康へ戦勝祝い
9月25日 輝元大坂城退去、福島黒田らが大坂入城、増田長盛、高野山へ退去
9月27日 家康大坂入城
10月1日 恵瓊、行長、三成が斬首される

4 :
8月20日時点での西軍戦力表
大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000
犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
     加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
     計7000
伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000〜8000(推定)、
おそらく南濃周辺:長島城への備えとして原勝胤(長頼)800
近江草津:宇喜多秀家10000〜15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)
伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、吉川広家ら5000、
  後続として毛利秀元ら1万、長曾我部盛親2100、鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700
その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。
瀬田守備隊等
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、
あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
大坂は輝元・元康15000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、
その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。
秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。
それと「9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)」
これは8月下旬以降、垂井〜赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2〜3日は到着が早くなる。
毛利は、毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)と仮定
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)
なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。
■安濃津城攻城戦での吉川隊(秀元等他の毛利含めず)の死傷者数。
・戦死75名、負傷226名。死傷者計301名。
負傷内訳:銃創126名、槍創60名、矢創24名、刀創1名、銃槍創5名、銃矢槍創2名、
       矢槍創8名、計226名。
吉川広家が推測で兵3000引き連れていたとしたら、安濃津城力攻めでの死傷率は10%と言える。
けっこう高いね。
毛利の他隊も同様の損害が出てるなら、南宮山の秀元&吉川は13500くらいかもしれない。

それと東軍先発隊の兵数については、一般的には渡河部隊約35000と言われているけど、
>>5にあるように福島覚書準拠でいくと49300〜58000くらい?となる。
かなり差があるのでこれをどう見るか、だけど。

5 :
8月22日木曽川渡河美濃侵攻時の東軍陣容(兵数は福島覚書準拠)
上流渡河組:池田6500、浅野5000、堀尾4000、山内2600、有馬豊氏2200、松下重綱1000、
        一柳直盛ら計21300〜22000
下流渡河組:福島6500、黒田1300、加藤1600、細川2000、田中4000、藤堂1500、筒井1000、
        京極1500、本多俊政、生駒一正、松倉重政、神保相茂ら計20000〜22000
下流渡河組の後続として本多忠勝、井伊直政。
犬山城の抑えとして中村一氏代理の中村一栄ら3000〜4000
清洲城守備:石川康通、松平家清、奥平貞治、(松平忠吉)ら1050〜4000くらい?
長島城:福島正頼、援将山岡景友、計780余
これとは別で徳永寿昌、市橋長勝らが8月中旬頃より木曽川方面の西軍諸城攻略して暴れてる。

あと木曽川渡河後は大垣城からの後詰阻止隊として黒田、藤堂、田中の陣容。
伊勢の東軍方は、安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉(史実では
寡兵での上野城防衛は困難とし安濃津城の富田に合流)、
松阪城の古田重勝、岩手(岩出)城(三重県度会郡玉城町岩出)の稲葉道通、
あとは去就不明の桑名城の氏家行広。

池田家履歴略記 巻之三には
上流渡河組18250余、下流渡河組16730余、とある。

上流渡河池田隊:18250 下流渡河福島隊:16730
犬山城抑え:3000〜4000 清洲城守備:1050〜4000?  
東軍先発隊総計約39030〜42980。 なお松平忠吉は駿府在番説と清洲滞在説あり。

6 :
伏見城攻防戦について
大雑把に
7月19日朝 城方鳥居勢が城外に出て近隣を放火
19日夕方 西軍が伏見近郊に到着し始め散発的に銃撃戦がある
20〜21日 西軍が外堀に取りつく。銃撃戦が激しくなる
22日 宇喜多、小早川、鍋島到着
23〜24日 西軍の銃撃が昼夜に及ぶ
25日 宇喜多秀家が陣立てをあらため諸将の攻め口を決める
26〜28日 西軍昼夜銃撃
29日 石田三成督戦に訪れる
30日 西軍力攻め、総攻撃4回敢行。城方死傷50余、西軍死傷500余
8月1日午前0時 松ノ丸で甲賀者の内応により火災発生、名護屋丸にも延焼
これを機に西軍突入、松の丸、名護屋丸陥落
午前10時頃より総攻撃再開、島津、治部少丸突入、治部少丸陥落
午後3時 伏見城落城

こんなかんじ。たしかに石田が来るまでは銃撃戦ばっかり。
だが西軍もまともに兵力が到着したのは22日で、仕寄って堀埋めて
30日に力攻めしてみたが大損害。
8月1日に城方の内応が出たのでそれを機に陥落。
これ城方の内応がなかったらもっと長引いてた可能性あると思う。
力攻めの寄せ手の損害数が大きすぎる。
伏見城は相当な堅城だったということだと思う。
瀬田で東軍を迎え撃つ、という方針になるのも無理はないと思う。
この彼我損害比ではもっと早い日時に力攻めしてても落ちないと思う。

関東方面在番状況
宇都宮城:本丸結城秀康、蒲生秀行、二の丸小笠原秀政、三の丸里見義康、
       宇都宮城総計約18000?
大田原城:大田原晴清、那須資景、福原資保、千本資勝、大田原増晴、岡本義保、
       伊王野資友、服部正成及び伊賀衆。
黒羽城:本丸岡部長盛及び甲賀衆100、二の丸服部保英及び伊賀衆100、三の丸大関資増、千本義定
鍋掛:皆川広照、水谷勝俊
蘆野口:蘆野政泰、  伊王野口:伊王野資信、
烏山城:成田泰親
厩橋城:平岩親吉
高崎城:諏訪頼水
江戸城:本丸松平康元、石川家成、松平清宗?、菅沼定盈、諏訪頼忠
     西の丸武田信吉、松平康忠、天野康景、
    
特記点としては、6月下旬頃より家康の指示で、大田原城、黒羽城は1000人規模の人足を
動員しての防備強化普請を行っている。
同じく宇都宮周辺も、秀忠、秀康らによって約一ヶ月間強化普請を行っている。
兵数については不明部分も大きく、わかる方いれば補足、訂正等よろ。

7 :
岐阜城後詰決戦の叩き台のプラン。
これを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。
以下コピペ。
403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R
>>374
長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。
そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。
織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。
そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。
痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。
そして武田軍は大敗。
これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。
宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。
岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。
部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。
そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。
しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。
甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。
東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。
そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。
岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。

8 :
■■1■■
史実での岐阜城は黒田、藤堂、田中の大垣からの後詰阻止隊を抜いたとして、
東軍21000〜23000対岐阜城2000〜3000.
それでも戦力比7〜11倍。単純に戦力比で落ちてもおかしくない計算。
それに加え敗走後の低士気状態、秀信の微妙采配、守備兵戦力分散、
ろくにしてないであろう籠城準備(野戦築城含む)
そりゃ1〜3日で落ちるだろう。
これを島津義弘1000を加え、8000で籠城準備もするなら落ちないか、落ちても東軍は甚大な損害を被ると見る。
29000対8000でも戦力比約4倍。この条件での攻城例がほとんどないように、一般的にこの戦力比、
守備兵数で力攻めは考えにくい。それでも力攻めするならその根拠を提示すべき。
■■2■■
798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:21:52.18 ID:aAd9kU2e [2/6]
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。
438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが
徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている
もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。
※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ  岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 16:59:58.46 ID:ex8un7Uh [2/2]
>>208
渡河前の黒田ら書状で決死の覚悟で渡河して攻め入ると書いており士気は高く
渡河直後の井伊書状で後詰が来たら先に後詰軍をやっつけて勢い大垣も乗り崩すと諸将が合意したと書いてあり後詰との決戦も作戦内
大垣攻防戦で伊勢方面軍全軍が後詰に来て後詰案を上回る戦力差になっても撤退してない
上記からの士気も高く想定内の後詰の情報が流れただけで早期撤退する要素は史料上は見られず
軍事的にもいったん対峙したなら織田信秀の井ノ口崩れのように追撃で大損害を受ける可能性ある地形で撤退も難易度が高いので
史料的にも軍事的にも後詰決戦が成立する可能性は高い。

9 :
■■2■■
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:14:03.72 ID:jiua8RjV [14/17]
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流
膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…
■■3■■
810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 22:35:55.59 ID:aAd9kU2e [5/6]
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000〜2万(丹羽3000を付け加えるなら21000〜23000)と思われるので、
北ノ庄の16000〜17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。
大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。

10 :
以前のスレの岐阜城後詰決戦案まとめ
原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>7
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>8の1
岐阜城早期落城させない為の手段が>7の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700
8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川15000、安国寺1500、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊19600南宮山到着。
東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>7の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>8の2
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9の2のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>9の3
なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>7の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後

家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる
8月下旬〜9月上旬までが勝負

11 :
岐阜城関連
岐阜市 史跡岐阜城跡保存管理計画書
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/4567.pdf
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/3-4567.pdf
山上部・山林部の分布調査では、金華山及び周辺の山の尾根線上に多数の遺構が存在すること
が明らかになりつつあり、その多くが絵図に描かれた砦と対応する。また絵図や文献の検討の結
果、江戸時代に尾張藩が管轄した範囲が戦国時代の直接の城域である可能性が高く、その大半が
現在の金華山国有林として受け継がれていることが判明した。城下町を取り囲む惣構の土塁はこ
の直接の城域に対応しており、城と町が一体として成立・機能していたことを示唆している。調
査成果から岐阜城の城域を最大限に捉えると金華山に瑞龍寺山、上加納山を含んだ山塊全体、西
側の岐阜城下町とそれを取り囲む惣構、東側の達目洞を含んだ範囲となる。

国史跡岐阜城跡で石垣が新たに見つかりました!
http://www.city.gifu.lg.jp/32568.htm
一部抜粋
<山城としての岐阜城の評価について>
・ これまでの岐阜城の概念(山上の詰城+山麓居館という二元的構造)を考え直させる大きな発見。
国史跡岐阜城跡 山上部の発掘調査で信長期に築かれた石垣を確認しました!
http://www.city.gifu.lg.jp/26193.htm
◎岐阜城跡で初めて鉄の矢じりを発見(2区)
 鉄鏃(てつぞく)の長さ14.6cm、幅2.0cm  
→慶長5年(1600)8月23日の関ヶ原の戦いの前哨戦で使用された可能性がある。
遺物は軒平瓦、飾り瓦、鉄鏃など コンテナ4箱、破片数約500点が出土
→中でも、今回発見した、裏門周辺における巨石列や石垣は、これまで謎に包まれていた裏門の構造解明につながる大発見
有識者の評価  中井 均 (なかい ひとし) 氏 (滋賀県立大学教授)
『稲葉城趾之図(いなばじょうしのず)』に記された裏門とほぼ一致するところで門跡と見られる遺構が検出されたことは、
絵図が極めて詳細に現地の遺構を確認しながら描いた城跡図であることが明らかとなったといえる。
巨石を用いた構造は大手にあたる一ノ門、二ノ門と同じ構造であり、
背面の城域を区画する重要な門であったことがわかる。
また、今回明らかとなった裏門付近には小石材を用いた石垣も発見されているが、
これは斎藤道三の稲葉山城の石垣と見られ、金華山には道三期の石垣も残されていることが判明した。
門遺構、道三期の石垣が同時に発見された意義は大きい。

歴史遺産と都市文化創造?――都市城壁(惣構)を町づくりにいかす
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2006/03/0603hist-heri.pdf
近代岐阜忠節用水流域における都市形成に関する研究
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00063/2011/2011-04-0072.pdf
農林水産省東海農政局 木曽川水系土地改良調査管理事務所の案内
http://www.maff.go.jp/tokai/seibi/kensetu/kisocyou/html/pdf/014-99.pdf
上記より抜粋
忠節用水は古来、金華山麓に取入口を設けて、岐阜の旧称井ノ口村
の名を生んだといわれる農業用水である。天文3年(1543)の長良川の大
洪水により岐阜市忠節の地に取入口を移し、以来400余年幾多の変遷を
経て引水が続けられた。

関ヶ原当時の引水部や用水経路がいまいちよくわからないが、
惣構の水堀が用水兼用だったとするならば、非常用水源となりうるのではないだろうか。
また、水の手口という名称から、その麓、丸山の辺りが取水口じゃなかったのではないかと
思うがどうだろう?

12 :
野間・内海合戦については詳細は不明で、
白峰氏は考察論文、「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その1)―津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討
の中で以下のように述べられている。
本稿で扱う野間内海合戦については、前掲『三重県史』通史編、近世1に、
「九鬼義隆西軍に加勢」として立項され解説されている中で、「九月九日・十日両日
尾張知多半島(愛知県)先端部付近での戦闘」であり、
「当時の知多半島は、長島城主福島正頼が預かっていたとみられる(『新訂寛政重修諸家譜』
第二一)ので、北伊勢において東軍に付いた長島城の背後、
ひいては岐阜方面に集結しつつある東軍の背後を脅かす作戦を実行したのであろう。
この作戦には瀬戸内水軍が主となったものと思われ、
これに九鬼水軍が参加したかもしれない。」としている。

野間・内海合戦関連
愛知県史資料編13織豊3より引用
東軍の攻勢によって主戦場が尾張国内から木曾川を越えて美濃国西部へと
移っていく中、尾張・三河両国の海岸部では、西軍方に与した
志摩国鳥羽(三重県)の九鬼嘉隆の軍船が焼き打ちを行っており、
九月には毛利輝元の臣乃美景継・村上景弘らの軍船も伊勢湾に現れた。
毛利氏の水軍は九月九日未明に伊勢湾を渡って知多半島に押し寄せ、
各地で放火や合戦をおこなった。「慶長年中記」九月十日条にも
九鬼水軍による焼き打ちに関する記述がみえるが、
毛利氏の水軍もこれに加わっていた可能性がある。

慶長年中記 巻一
十日 熱田西の海辺四五ヶ所、是ハ敵方九鬼大隅(嘉隆)焼候よし、
岡崎?地鯉鮒(池鯉鮒)へ行に焼見ゆる、熱田海辺より五六町ほと大船一艘、
地ハ紫に白き桐のとうのまく張たる九鬼大隅守のミよし先へ被遣候、
御馬印持候ものさんたか橋にて 御目見いたし候、とかくの御意なし、
次は 慶長見聞書 二
同日(慶長5年7月21日)岩手(伊勢国)城稲葉蔵人(道通)手勢九百六拾人籠候処、
九鬼大隅守(嘉隆)町口迄取懸候へ共、堅固被相抱候間、
敵の人数引退申候、其後九鬼大隅守・堀内安房守(氏善)以下船手の衆卒し、
尾州・参州之灘浦を焼払、漁人村老男女僧侶に不限切捨狼藉前代未聞也、
尾州毛呂崎(師崎)江寄ンとす、
浦のもの内々近日従関東御上を聞て、其間敵をたるめ魚を取て日々に送り、
様々の音信におよひけり、
然るニ案のことく千賀孫兵衛(重親)一夜の内ニ而のりつけ、
大勢籠たるやうニ見せ、浦々に旗を立置候間、
敵驚寄せ不申、其間に松平紀伊守(家信)・小笠原新九郎(広勝)・
同安芸守(小笠原信元)次第ニ乗付申候間、
弥敵船驚きこきのき申候、右ノ海上浦々の悪行の天罰にや、
此口の寄手の大将達のすへ?迄後ニ皆たへはて申候、
武家の習殺業なくて不叶されとも、
分の敵を討て非分の者を不討とはかやうの事にや、
此時戸田三郎右衛門(忠次)・清水権之助(政吉)ハ
大野・とこなへ(常滑)に罷在候間、
舟を出し防候間、敵不叶舟をこきのき引取申候、

13 :
野間・内海合戦関連
浦備前覚書 巻一 無尽集第七七冊
先年関か原御弓矢之時、伊勢地数船之御船指廻し、御国?ハ村上八郎左衛門殿
(景広)・乃美備後殿(景継)御船手不残被差出、
大坂よりハ菅野平右衛門殿(管達長)・村上彦右衛門殿なだ声古ヲ被差添御廻シ被成候、
伊勢之鳥羽ニ者九鬼大隅殿(嘉隆)大坂へ之御馳走ニ、
右之御方々大隅殿江御座候而方角万事御談合被成、
尾張灘手を御働被成御儀定ニ相澄、
おふミなと(伊勢国大湊)まて御座候而、彼表ニ而長々船中各御苦労被成候条、
一夜彼在所にて御休め被成之由、悉宿を取り御休息候処ニ、
乃美備後殿野せつちん(雪隠)へ参と被申、
五六丁家はつれへ被参候而都合被見合候処ニ、
彼在所より弐里間にて岩手と申城を敵方?持堅、
おふミなとの在所からも殊外手広不審ニ相見候条、
各うかと罷居儀ニ而無之候条、夕飯を仕廻、
夜入候者船へ各被召可然之通被申付而、悉船ニのり申候へハ、
夜半迄(過)ニ岩手?夜打ニ心懸人数差出、殊外物あぶなき躰にて、
下々共ニ備後殿御見合之段感入候、一日間ニて血地江御働ニ、
不残御渡り被成候、尾州之内大野と申浦江九月九日未明ニ被打入、
一段仕合能発向被成候、其次ニ二浦同前ニ候而、各御談合ニ、
今日之働ハ不残出来申候へ共、放火不仕候条、
明日之働ニハほうくわ(放火)を専ニ仕候様ニと仰事ニ候、
かたかミと申在所を未明ニ御働、一軒も不残放火仕り、
頓而其次野間の内海と申浦江御仕掛候処、
是ハ先代(源)義朝之御腹被召たる浦ニて候得者、
船本江人数差出相さゝへ候へとも、船よりの御仕掛丈夫候故、
終ニハにけくつし多分追討ニ仕り、
船本より一里半奥ニ義朝之御影御座候故、坊中江おひ入候故、
跡?足長仕ル儀ニてハ無之候条、各引取り候へと被仰付、
不残引取申候、礒兼加賀殿上下八人ニ而、
彼御影之寺放火不仕候へハ、此在所相働専ハ無之候条、
是非共ニ放火仕り引可申と被申候而ふかいりの故、
人数三十計討出取まき候条、別条子細も無之候間、
足床を見合高ミを取可相果覚悟ニ候、
壱人にても足を乱シ候而ハ不叶儀候之条、八人之者ハひつかけ相果覚悟ニ候、
其人数ハ加賀殿上下三人・乃美平左衛門殿上下弐人・
末永惣右衛門・世良源右衛門・末島(島末)与左衛門、
此八人ハ鉄炮弐丁御座候而、引懸五間ほとにて討候やうニと覚悟仕り候処、
敵も其覚悟ミきりはた?と不仕懸候処ニ、舟本江此聞候而、
乃美備後殿・村上八郎左衛門殿自身かけつけ候へハ、
のほりさきを見及引取申候故、無事ニ御しのき、
御両人衆殊外御しかり被成、(乃美)宗勝巳来上りはたらきの仕やうハ御存知ニ而、
深入沙汰之限りと被仰、無事ニ船本御引候事、
二日之間ニ六浦御働殊外出来候事、

14 :
関連スレ
関ヶ原合戦の真実 Part11
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1568083936/
関ヶ原合戦(慶長庚子争乱)関連史料スレ
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1567939457/
大坂の陣はどうすれば豊臣方が勝てたか?Part8
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1536754046/
【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 6 【徳川】
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1568890504/
二重公儀論について考察する [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1472608426/
【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1542893023/
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その27
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1544017538/
誘導は上記適当スレへ。

15 :
過去スレ
part1  https://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1477558509/
part2  https://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1484991108/
Part3  http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1487680538/
Part4  http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
Part5  http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1496748424/
Part6  http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1499775019/
Part7  http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1502195081/
Part8  http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1505981945/
Part9  http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1509028014/
Part10  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
Part11  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1514907315/
Part12  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1517843376/
Part13  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1522672144/
Part14  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1525775487/
Part15  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1528335113/
Part16  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1530344370/
Part17  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1532773324/
Part18  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1535414790/
Part19  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1537715258/
Part20  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1539777606/
Part21  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1543403991/
Part22  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1549630474/
Part23  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1555282251/
Part24  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1559037707/
Part25  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1563146550/
Part26  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1565664890/
Part27  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1568867483/
Part28  https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1570547952/

16 :
おすすめ参考書籍・資料・史料等
関ヶ原の役: 日本の戦史 (徳間文庫カレッジ) 文庫
? 2016/5/7 旧参謀本部 (編集) 1566円
いわゆる今までの一般通説的な関ヶ原合戦はこれ読めばひと通り書いてある。
「関ヶ原」を読む: 戦国武将の手紙 単行本 ? 2018/2/25
外岡 慎一郎 (著)  2160円
北陸方面の前田、大谷あたりを中心にあまり偏った見解なくわかりやすく書かれている。
関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日 (中公新書 (642)) 新書 ? 1982/2/23
二木 謙一 (著) 799円
一般的通説の各種エピソードを詰め込んだ小説風。読みやすいことは読みやすい。
直江兼続と関ヶ原 単行本 ? 2014/8/4
公益財団法人 福島県文化振興財団 (著)  1728円
近年出てきた新説、新解釈等は、笠谷和比古氏、白峰旬氏、光成準治氏あたりの
著書が参考になると思われる。
金出したくない人向けには、
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E9%96%A2%E5%8E%9F%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%A4%A7%E6%88%90&viewRestricted=0
ここで関原軍記大成が読める。

17 :
以上、時系列表等参考になるものと有力案のコピペ終了。
訂正等は遠慮なくよろです。
また、その他の案としては、美濃主攻案(P17>303)、北陸主攻案(P24>828)、
早期尾張進攻案(P26>188)、鳴海上陸作戦案(P24>137,405)、
9月7〜10日赤坂挟撃案(P19>841)、
西軍の基本方針としての後詰決戦案(P25>19)、
水口長束による上杉征伐時の大坂から江戸へ向かう家康の襲撃案(P28>317)等あり。
また、上記諸表の兵力数は戦闘の損害による兵力減少を考慮しておりません。

18 :
方面主攻別特徴
前田追撃・挟撃・殲滅のワンチャンに賭ける北陸主攻か、
尾張進攻をチラつかせる美濃主攻か
史実通りの伊勢主攻なら籠城からの岐阜城後詰決戦。
結局このあたりになる。
前田追撃以外は相手の動きを見ての受動的な籠城からの後詰決戦が一番合理的。
敵主力の撃滅をもって勝利を目指すのがいちばん可能性が高いと思われる。
ただ守るだけでは兵力劣勢を覆せない。各個撃破していくしかない。
状況次第では見捨てざるを得ないところもでてくると思われる。
手本は小牧・長久手時の家康・信雄方の立ち回り。
美濃・伊勢での後詰決戦適所は、岩村・苗木、岐阜(木曾川渡河させる)、桑名あたり。
要は攻めたら大軍の退却困難な場所。

岐阜城後詰決戦案おける東軍先発隊の対応想定
いくつか考えられるが列挙してみる。
1 岐阜城籠城につき攻略困難。とりあえず岐阜城にたいする抑えを置き、
 長良川に布陣し岐阜城への後詰軍を迎撃する方針。
 徳川が来るまで積極攻勢はせず長良川で対陣する方針。
 ただし西軍の加勢到着で彼我戦力比が逆転するようなら、尾張へ退却する。
2 岐阜城籠城につき攻略困難。とりあえず岐阜城にたいする抑えを置き、
  長良川に布陣し岐阜城への後詰軍を迎撃する方針。
 西軍に加勢宇喜多が到着し長良川まで進出した西軍に対し後詰決戦に応じる。
3 岐阜城籠城につき攻略困難。敵の後詰軍を長良川で支えるのは不利と判断し
 黒田城・伊木山・鵜沼の線まで後退し、犬山城孤立を強化する方針に転換。
 
4 岐阜城籠城につき攻略困難。美濃に留まるのは不利と判断に尾張に退却する。
 とりあえず黒田城・小牧山を前線拠点とし木曾川防衛。本拠を清洲とする。
5 岐阜城籠城につき攻略困難。後詰軍が来れば迎撃する方針だが、
 岐阜城は攻略する方針。長良川付近に一部の後詰阻止隊を配置し
 主力部隊で岐阜攻略を目指す。
6 その他。なにかあればよろ。

ポイントとなる部分は、決死の覚悟で木曾川を渡河したという点と、
岐阜への後詰が来れば迎撃する方針という点。
一応可能性が高そうな順に列挙した。

19 :
注意書き
スレタイと>>1をよく読むように。
ここはあくまでも、趣味カテゴリの戦国時代板であって、
初心者や戦国時代が好きな者を排除するスレではない。
ただし、ある程度は近年出てきた新説等は調べておくことを推奨する。
あと、このスレ的にはある程度の軍事知識もあったほうがよい。
スレタイと関係ない話でレスを無駄に消費するのはご遠慮願いたい。
(ただし過疎傾向が出てきたときは大目に見ましょう)

自演だのレッテル貼りだののくだらないことはこのスレでは禁止する。

20 :
>初心者や戦国時代が好きな者
定義としては
・専門書を読んで著者の意見とその根拠を理解しそれに最低限の敬意を払うこと
・必要条件と十分条件の違いくらいは理解して論理的な説明ができること
ってところかな

21 :
令和元年度岐阜城跡発掘調査を開始しました!
https://www.city.gifu.lg.jp/36652.htm
なにか新発見があればいいけど。

22 :
>>2

>9月1日 『岐阜城落城の報告を受け』家康は江戸から出陣
そもそも『』内は、「史実」で良んか?

23 :
R

R

24 :
>>22
8月28日付浅野長政宛徳川家康書状
書状則披見申候、仍去廿二日川を越被及一戦数千披討取、
翌廿三日岐阜の城乗取一人も不洩皆討取候註進有之候条、
来三日出馬申候、中納言(秀忠)ハ中仙道を相働申候間、
御同道被成御異見共頼入候、
今度左京大夫(幸長)殿瑞龍寺のつぶらに城を構候所、
即時に乗崩し壱人も不残被討取候、御手柄兵(共)ニ候、
可為御満足与致推察候、猶期後音之時候、
恐惶謹言、
八月廿八日       家康判
  浅野弾正少弼殿

岐阜城陥落の報告を受け、9月1日に江戸を出陣したでおかしくはないと思うが。
この書状だと3日に出陣すると言ってるけど。
ただ、岐阜城陥落がトリガーとなって出陣したのか、
元々この日に出陣する予定だったのかはわからんが。

25 :
>>24
9月3日出陣で16日着なら大津攻略隊がギリギリ間に合ったかもしれない。

26 :
>>25読んで気づいたんだが、>>24の書状の予定通り9月3日に江戸出陣ならば
家康の赤坂到着は15ないし16日(史実通り清洲で一日逗留すれば16日)。
秀忠の赤坂到着は史実通りなら18〜19日。
利根川の増水がなければ秀忠の到着は数日早まるだろうし、
家康の予定通りに進んでいれば9月15〜16日に赤坂に徳川68000〜71000が集まることになる。
それと同時に西軍も大津城組15000も間に合いそう。
田辺城組は9月13日からぎりぎり間に合うか間に合わないか微妙なところ。

家康の予定通りだったら西濃大垣関ヶ原あたりで
史実以上の一大合戦になってた可能性が高いかもしれない。

27 :
>>24
岐阜落城と家康江戸出発の関連性が明らかじゃないなら、
「家康、岐阜落城の報告を受ける。江戸を出陣する。」とかの方が適切じゃないか
もっというと、他日との平仄の観点からは「家康が江戸を出陣」だけで良いんじゃないか

なんか、「岐阜城が落ちなきゃ家康は江戸から出てこない」という
前提で話を進めてるレスを見かけるけど、必ずしもそうじゃないだろと

28 :
源氏出身の大名と藤原氏出身の大名なら、どっちの方が家柄が良いと思われますか

29 :
アホか

30 :
アホです

31 :
>>28
なんでここで家柄の話が出てくる。

32 :
過去スレを見てると岐阜城後詰決戦については2年前にかなり話が進められててよく考えられてるなと感心した。ただ惜しいのは最近、もしかしたらこの二年間議論がすすんでないかも知れないこと。これを機会に議論をさらに進めて欲しいね。

33 :
後詰決戦案(岐阜城後詰決戦案)まとめ

作戦
清須城に調略をかけつつ美濃伊勢の防衛線を早急に構築し
その後は調略が成功したら三河まで進出し
調略が失敗したなら美濃伊勢両軍が一手になり清須城を攻略する。ここまでは史実と同じ(三成書状)
もし東軍が本格的な先制攻撃をして来たら最前線は籠城し防御に徹して後詰を待ち、
他の方面軍は即急に転進し後詰に向かい後詰にて敵を殲滅する
岐阜に来たら岐阜城後詰決戦。大垣、桑名方面、越前方面等々に来た場合も同様に後詰決戦を志向する

利点
少なくとも西軍最大の失態の岐阜城瞬殺は回避できる
徳川軍が合流する前の東軍先鋒軍をまず叩き先鋒軍、秀忠軍、家康軍と兵力分散の愚を犯してる東軍を各個撃破する戦略なので西軍の弱点の正面戦力不足を補える
相手の出方を見てから動くので西軍の弱点の情報不足を補える
事前に方針を確定させておくことで西軍の弱点の合議制ゆえのタイムロスを補える
東軍先鋒軍を引き込んでから討つ作戦なので簡単に撤退されるそもそも攻めてこない等の東軍の行動を制約できる
事前合意に基づいて半自動的に行われる作戦であり期間も比較的短いので毛利の心変わりや広家秀秋京極などが蠢動できる隙が少ない
史実からの変更点が小さいので不確定要素も少なく考察しやすい
興ざめする強引な西軍有利な設定も特には必要はない。

事前準備
前線の諸城は籠城に向けた準備を万全にする
各方面軍は即急に後詰に行く準備を怠らない事。
各軍の連絡連携は密に行うこと
前線の小城など彼我の戦力差が圧倒的不利の場合は時間稼ぎが可能と思われる次の拠点に移りなるべく戦力を減らさないようにすること
等々を事前に合意しておく

34 :
日程
7/30〜8/4
大坂城に西軍首脳部が再集結してるので作戦決定と前線諸将の合意を取り付けておく

8/5〜8/21
西軍の行動は史実とほぼ同じ。
必然的に東軍も史実をなぞる事になるので以後は岐阜城後詰決戦に焦点を絞る

8/22
東軍先鋒隊の渡河開始。
岐阜城は全力で籠城しつつ即時救援要請
竹ヶ鼻城、加賀野井城の将兵は即時救援要請、出来れば撤退し大垣の合流、(兵力1000前後)

8/23
岐阜城攻防戦開始。
大垣勢は前線まで出陣しつつも戦わず黒田藤堂隊を誘引
犬山城の石川以外の加藤、稲葉、竹内らはすでに内応しており戦力として期待できなので史実通り中村隊を誘引してもらう
伊勢方面軍の後発隊のうちの毛利秀元や長宗我部隊らは竹ヶ鼻城辺りからの第一報で転進準備、岐阜城からの救援要請で転進開始
先鋒隊の広家らはそのまま安濃津城の抑え
宇喜多隊は草津付近より大垣に直行
明石隊、東軍の動きを見ながら大垣に移動(史実と同じ)

8/24
伊勢方面軍より長束安国寺らも転進。以後他部隊も順次転進

8/25
宇喜多隊(10000)大垣に到着(明石隊を待たずに直行)

8/27
明石隊(6000)大垣に到着(史実と同じ)

9/1
毛利秀元隊(10000)長宗我部隊(4000)大垣に到着(史実7/29頃出立9/7到着より6日早いので)

9/2
東軍先鋒軍3万5千 対 西軍5万(後詰軍4万4千+岐阜城6千)で後詰決戦

岐阜城
秀信一手5300、石田加勢1000、計6300
大垣城
石田5700、小西2900+与力4000、島津1000、計13600
大垣城援軍
宇喜多10000、明石6000 計16000
後詰
秀元10000、長宗我部隊4000、計
合計49900

岐阜城が持つ期間が長ければそれだけ九州勢合流、伊勢方面軍後続合流などで兵力は増す。
岐阜城守備隊や伊勢方面軍転進隊の兵数は調整可能


その後の展望
敗れて退く先鋒隊を清須城まで追撃して清須城を囲む。
救援の家康軍を再度の後詰決戦でさらに破る。(兵力的には優位)
※もし家康が出てこなければ先鋒隊を見捨てた家康の求心力は大幅に低下し抗戦は難しくなる
敗れて撤退し秀忠軍と合流した家康軍をさらに破る。各個撃破の完成
後は煮るなり焼くなりなどが考えられる

35 :
Q、諸将が同意する可能性は
当時の人間の心の中までは見られないので確かなことは言えないがIFということで。
史実からの変更点は最小クラスで慎重論よりで博打的要素も少なく
当時としては常識的な後詰決戦であり大垣城後詰も発生しておりそれを早めようというだけのものなので他の案よりはハードルは低いと思われ
この程度が認められないな他の案はもっと認められないと思われ


Q、岐阜城がどのくらい待つか
岐阜城は編纂史料や絵図では大規模な城塞と書かれているが、
通常は廃城の資材は転用されてしまうので現在は本丸しか残っておらず疑問視されてる面もあったが
発掘調査で残存石垣などが発見され史料が正しいと証明され十分な防御力があったと予想される
当時の武将も「東軍本隊に攻められたら50日は持たないだろう」と落城を予想しながら短期で落ちるとは考えていな
なお岐阜城欠陥説は根拠が薄いので蒸し返さないものとす
他城を参考にすれば1週間から十日は持つと想定。


Q、東軍先鋒隊が岐阜城を損害度外視の力攻めをした場合は?
兵力的に岐阜城は短期間で落ちるだろうが損害が出て疲弊し半壊した岐阜城に寄る東軍と戦えるのでそれはそれで有利


Q、東軍が後詰決戦を避ける可能性は?
八月十九日付黒田長政・徳永寿昌・奥平貞治連書状
決死の覚悟で木曽川を越えて天下之勝負に決着をつける決意でいる

八月二十二日付井伊直政書状
来ないと思われるが、大阪から後詰が来たら岐阜に抑えを置いて
先に後詰を叩いてそのまま大垣を乗り崩すことを諸将は決議している

状況は多少違うが9/7に大垣城包囲戦の時に伊勢方面軍が南宮山に到着し
それ以上の兵力的劣勢(東軍先鋒隊3万5千、西軍6万)になっても先鋒軍は撤退してない

平野の奥に大河がある追撃のは絶好の地形なので撤退は難易度が高く
史実(の可能性が高い)では織田信秀が同地での撤退戦で大打撃を受けた井ノ口の戦いがある

等々、東軍先鋒の決意と士気は高く後詰と戦うことも想定しており兵力的劣勢でも引くことは無かったので
後詰軍が現れた若しくは報告があったとしても即引く可能性は低く後詰決戦は成立する可能性が高い
仮に撤退されても、東軍を退けた実績と宣伝効果と追撃による損害と
畿内を固める時間的猶予が得られるのでその後は優位に戦え、史実に比べればずいぶんとマシ


Q、3万5千対5万で西軍勝てんの?
分かりません
実戦派武将の集まりの東軍先鋒隊には質で大きく劣るので負けるかもしれません。ぶっちゃけ負けそう。
その場合でも岐阜城が想定最低限の1週間より持てば兵数をさらに増やす事は可能
つか合戦実戦でどうなるかは限られた史料上机上の空論にしかならないので
個人的には「史実より有利な状況を整える」でとどめたいと思います。

36 :
前まとめてみたのを更新。
IFとしては隙すくないんじゃね。IFとしてはね

37 :
まあ、ここまで考えられる能力は、石田には
なかっただろうな。

38 :
>>33-35
まとめおつです。うまくまとまってるしQ&Aもついてるから次スレからは>>33-35
岐阜城後詰決戦案まとめとして使いましょうか。
大きな反対がなければ、ですが。

補足や追加の必要性や疑問点等今スレにて受け付け。各位よろです。

39 :
畿内で蜂起した三成を最初から西軍に入れず、光秀のような謀反人という扱いにして
中国から来た毛利の率いる西軍が謀反人三成を討伐して勝利するという
18年前の秀吉と同じ方法をとるのが最善の道だろ
謀反鎮圧の功績があれば政治的に優位な立場になり東軍も遅るるに足りない
西軍が勝つためには、三成との合流だけは絶対に阻止しなくてはならない

40 :
>>33-35
とりあえず

>大坂城に西軍首脳部が再集結してるので作戦決定と前線諸将の合意を取り付けておく
 ←「合意」が東軍に漏れないでしょうか?史実だと西軍の動向は筒抜けですが

>調略が失敗したなら美濃伊勢両軍が一手になり清須城を攻略する。ここまでは史実と同じ(三成書状)
 ←史実で西軍は清須城を攻略したんですか?

>相手の出方を見てから動くので西軍の弱点の情報不足を補える
 ←相手の出方を見てから動く、というのは情報収集能力と機動力が相手以上でなければ不可能では?
  「情報不足」が弱点の西軍に実施可能なんですか?

>兵力的劣勢(東軍先鋒隊3万5千、西軍6万)になっても先鋒軍は撤退してない
 ←東軍の木曽川渡河は、西軍が手薄である、との状況認識(佐々マサタカ書状)に基づいての行動なので、
  その前提を変えるならば、東軍もそれに対応(家康到着まで渡河を控える等)すると想定すべきじゃないですか?
  それをしないのは『興ざめする強引な西軍有利な設定』じゃないですか?

>畿内を固める時間的猶予が得られるのでその後は優位に戦え、
 ←時間の経過は、家康・秀忠・利長軍の順次来援及び清正・如水により北部九州が制圧が想定される東軍に
  有利ではないですか?

その他、
・そもそも史実の西軍は、会津従軍諸将を味方にできる前提で挙兵しているわけですが、
「事前合意」というのは、要するにそれが失敗する(味方にできない)という前提でないと
出てこない発想ではないでしょうか?

41 :
>>40
最後の行が気になった。
西軍は東軍を味方になる前提で動いてるというがその根拠は何?
前提というがそうであればいいなという程度かもしれないよ。味方にならなければそれもよしぐらいじゃないのかな。前提とまでは言い過ぎかもしれない。当然味方にならない時のことは頭に入ってるだろ。

42 :
そもそも石田三成は武断派に襲撃されるほど嫌われてて三成のいる西軍にホイホイ加入してくれるなんて本人ですら思ってないんじゃないの?

43 :
>>40
>>36のひとではないが、わたしなりに返答。

>一段目
漏れるかどうかではなく、そのタイミングで作戦方針の合意を得るということ。

>2段目
石田書状とあるように、味方しなければ清洲は攻略する方針だった。

>3段目
都度対応作戦を策定するのではなく、予め決められた作戦方針を半自動的に
遂行するだけなので情報不足による博打的戦力配分をする必要がないという意味。

>4段目
8月22日時点での美濃の西軍戦力量に変更はない。
変わっているのは岐阜城勢が渡河迎撃せずに籠城策を採る部分。
ならば東軍先発隊は史実同様木曾川渡河は実行すると思われる。
その後清洲に撤退するかどうかは既に触れられている。

>5段目
岐阜城が落ちないことによって挙動がわからなくなる部分は、
大津京極の離反、犬山城勢の動向、小早川秀秋の動向、田辺城組&大津城組、
鍋島勝茂、家康・秀忠の前線到着時期、前田利長の南下の可能性、
丹羽長重と前田利長の和睦、このあたり。
九州・東北情勢は長期戦になれば全体への影響はあると思われるが、
それは早くても10月以降と思われる。

>6段目
味方しない者がある程度はいるだろうことは想定しており
(史実ではある程度の範囲ではなかったが)
現に東軍についた伊勢諸将は攻撃されているし、清洲も味方しないなら
攻略するつもりであった。
というか、事前合意というのは作戦方針についてのこと。

44 :
>>40
「合意」が東軍に漏れないでしょうか?史実だと西軍の動向は筒抜けですが
A、後詰は当時常識的普遍的な軍事行動で史実の東軍先鋒隊も織り込み済みで行動してるので別に漏れても構かまわないです
平たく言えばIF西軍は味方が攻められたら助けに行くという当たり前の事を言ってるだけですから


史実で西軍は清須城を攻略したんですか?
A、作戦です。実際に行った行動ではありません。


相手の出方を見てから動く、というのは情報収集能力と機動力が相手以上でなければ不可能では?「情報不足」が弱点の西軍に実施可能なんですか?
A、「情報不足」で攻めてくるのを事前に察知するなどとてもできないので実際に攻められてから動く作戦です。
機動力に関してはスタート位置を変えてるだけで日程は史実に近づけています強行軍で〜とかできれば楽ですが


東軍の木曽川渡河は、西軍が手薄である、との状況認識(佐々マサタカ書状)に基づいての行動なので、
  その前提を変えるならば、東軍もそれに対応(家康到着まで渡河を控える等)すると想定すべきじゃないですか?
  それをしないのは『興ざめする強引な西軍有利な設定』じゃないですか?
A、木曽川以北の西軍戦力は基本的には変わっていません。


時間の経過は、家康・秀忠・利長軍の順次来援及び清正・如水により北部九州が制圧が想定される東軍に有利ではないですか?
A、東軍先鋒隊が無傷ならその通りですが、東軍先鋒を退けた宣伝効果と追撃の損害ののために展開が変わると思います。
今回は後詰決戦が成立する可能性が高い事と冗長になるので取り上げてませんがこれはこれで一個のIF案となるべきものでしょう

45 :
先に答えてくれた人いたのね

46 :
>>40
その他、
・そもそも史実の西軍は、会津従軍諸将を味方にできる前提で挙兵しているわけですが、
「事前合意」というのは、要するにそれが失敗する(味方にできない)という前提でないと
出てこない発想ではないでしょうか?

A、その前提をまずは証明してください。明確でないと答えられない案件です。
今回は史実で当てが外れてもなおやる気があった面子がたまたまそろうタイミングなので現象をIFに当てはめるだけで済むので触れてないですが
これは他のIF案ではすごく重要なので代わりに証明してくれるならありがたい
0か1ではなくその強弱、まったく当てにしてないということはまずないですので。
例えば豊臣恩顧が味方に付かないのが明らかになった時点で西軍が吹っ飛ぶほどの前提だったか
この場合は今でも成立の余地がほとんどない最初から豊臣恩顧を敵に回してしまう先制攻撃案は120%成立しなくなるし
今のところ不利になるだけで済んでる持久案やその他のIFのほとんども飛びますし
まぁしゃーないで済む程度なら言及する必要がなくなります
そんな極端なことはないのでその中間のどれだとすると何処なのかで成立するIFとしないIFが出てくる根幹議案です
別の言い方をすれば面倒なここに触れずに現象を当てはめるだけ済むのが後詰案を支持する理由の一つです

47 :
>>41
>根拠は何?
 ←7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
>>43
>都度対応作戦を策定するのではなく、予め決められた作戦方針を半自動的に遂行するだけ
 ←東軍の攻略目標や移動ルートを事前にいくつか想定して、それを部隊間で共有するということですか?
>8月22日時点での美濃の西軍戦力量に変更はない。
>変わっているのは岐阜城勢が渡河迎撃せずに籠城策を採る部分。
 ←西軍の部隊配置が変われば、東軍の行動も変化すると想定すべきでは?
  「前線の諸城は籠城に向けた準備を万全に(>>33)」するなら尚更
>家康の前線到着時期
 ←史実の家康は岐阜城が落城したから江戸を出発した、というお考えですか?

48 :
真田昌幸は、大坂方(西軍)に応じる旨を、7月21日付けの2度の書状で、近江佐和山の石田三成のもとに申し送った。その書状が27日、佐和山に到着、それに対する三成の返事である。
 長束正家等よりの最初の密書が、7月17日付けであるから、それが21日までに、下野に着き27日には昌幸よりの返書が、三成のもとに届いているわけである。ずいぶん迅速な急飛脚であったことがわかる。
 この書状により、石田三成は、挙兵の計画を事前に、昌幸に相談しなかったことについて弁明するとともに、昌幸等の妻子は、幸村の義父大谷吉隆が預っているから安心するように、などの事項を伝えている
とあるがどのへんが西軍が東軍の諸将が味方することを前提にした根拠なんですか?

49 :
>>47
大筋ではその通り。
東軍主力がどこを攻めるかなどわからない。
だからこその後詰決戦案。ただ、常識的に言って、
福束城に東軍が攻めてきたから福束城後詰決戦を行う方針とかじゃないよ。
その地域の基幹となす拠点、犬山、大垣、岐阜、桑名、北ノ庄等、
そこで籠城し後詰を待つというもの。
木曾川対岸に西軍の渡河阻止部隊がいなかったら東軍先発隊は木曾川渡河を
止めると言いたいわけ?
史実でも岐阜城はそれなりの城強化普請は行ってるよ。居館付近や瑞龍寺山等。
渡河迎撃隊がいないのは罠だと判断して攻撃先を犬山に変更する可能性が
ないとは言わんが、その可能性は極めて低いと見るし、その場合
犬山城後詰決戦になるだけ。
家康の江戸出陣は元々の予定だったのか岐阜城陥落がトリガーとなったのかは
わからないとしか言いようがない。
どちらとも取れる。

50 :
あと以前にも書いたけど、西軍の基本方針として後詰決戦案の弱点は、
多方面同時攻勢には対処しきれないというもの。

ただ、信長包囲網を見てもわかるように、外線側の同時攻勢というのも
また難しい。この時代の部隊間連絡の形態からはまぁそうだろうと言える

51 :
島津義弘の書状だかで関東の上杉征伐軍がロクに戻ってこない事、
奉行たちの予想と展開が食い違っているって感じの話が過去スレだか
別スレだか忘れたが言及されてたな
全員かはともかく、過半数以上は家康から離れて征伐軍が事実上崩壊状態になるのは
前提だったんじゃないかなあ
ぶっちゃけ家康が諸侯の支持を失ったら、場当たり的な侵攻は出来ても
まともな遠征なんか短期ではほぼ不可能だから、西軍の初期想定だと
積極的に攻勢をかける理由がないんだよね
前スレでも考察したけど、割と豊臣御為ってロジックに縋ったというか、
その言葉に悪い意味で酔っちゃった挙兵なんじゃないかな、少なくとも奉行は

52 :
>>48
そのページの下まで読めば書いてあるの分かるだろ

53 :
なあ
順番って知ってるか

54 :
7月中旬頃の当初の西軍の想定では、内府違いの条々の効果により、
いくらかは徳川に味方する者もあるだろうが、
多くは帰国等し、上杉征伐軍は事実上崩壊するであろうというものだったろうと予想する。

この時点での徳川の味方をするであろうと想定していたのは、
具体的には池田、浅野、黒田、細川、加藤、藤堂あたり。
理由は、九州、四国等遠国にもかかわらず早い時期から上杉征伐に従軍していたり、
つまり徳川与党であろうと。
逆に東海道筋の者達は、帰国して日和見するか
味方するであろうと見ていたと思われる。
この想定ならば、東軍先発隊として西上してくるのは、池田、浅野、黒田、藤堂、加藤、
細川あたり、およそ15000〜20000となる。
たしかにこの数字ならば、史実の美濃の西軍戦力で支えられる。

またそれ以前に西軍としては時期はわからんが徳川方が西上してくるのは想定しており、
当初は瀬田で迎え撃つつもりで砦構築をしていた。
また前田も南下し大聖寺城を陥落させ、7月末には内府違いの条々が想定通りの効果を
発揮していないのはこの時点で認識していると思われる。
ならば西軍としては、8月初頭以降は現有戦力での徳川方の撃滅の作戦方針を策定しても
別におかしいものではないと考える。

55 :
>>54
主であろうが順番な

56 :
>>54
3回読んだがイライラする

57 :
>>49
史実は、渡河阻止に来た秀信を撃破し追撃する過程で岐阜城攻めに
なったので、その前提が違うなら東軍の行動も変わるだろうと。
そっから先はなんとも。
例えば、竹ヶ鼻や福束を攻略したり小早川秀秋を調略したりしながら、
家康が到着を待ち、それから岐阜城なり大垣城なりを攻めるというこもと
考えられるでしょう。そもそも、家康が到着してから渡河、が東軍の当初
予定だったようなので。

58 :
岐阜攻めは追撃する過程じゃないでしょ

59 :
やっとまともな議論をしているようだな。
毛利のチンポコしゃぶった議論ばかりだったが。

60 :
>>51
別にさあ、福島正則一人が西軍が中立的な立場に成るだけでも家康の反転攻勢とか
不可能に成る気がするんだよね。
史実の流れは飽く迄も清須の莫大な兵糧と軍需品有っての物ですよ。
家康は確かに凄腕の賭博師だけど、ちゃんと或る程度以上の勝算有る時しか賭けてません。

情勢が流動的な状況で退却すると、行き成り味方が総崩れに成ったりした事も史実はでは良く有ります。
一度東海道に出てしまえば、作戦上の退却すら致命傷に成る可能性ありますよ。
東海道の豊臣恩顧は飽く迄も勝てそうな方に付いただけですし。

まあ、結局福島正則が帰国する8月14日までに何するかだと思う。

61 :
>>60
福島正則が8月14日に帰国した根拠は
この辺研究者によってまちまちなんだけど

62 :
>>60
まず、三成たちの心根を叩き直すことから始めないといけないな
勝手に蜂起しておいて、家康から離反するのが当然なんて
福島でなくとも三成たちは何様のつもりだ?となるよ
秀吉の威光で威張り散らしていた時代の感覚そのままで行動しているのだろうが
そんな時代は終わったことを理解して三成たちが悔い改めないと西軍に勝ち目はない

63 :
家康が自Rれば西軍が勝てたよ

64 :
>>61
そいついつもの荒らしやから触ったらあかん

65 :
漸く前スレ埋まったな
史実や資料や荒らしとか言うなら、順番な。日本人なら
で、鍋島と小早川の九州話はあまり出ていないので、皆さんの知識と考えをごひりろうつかぁせえ
何か思いつかなかった突破口が、あるよな気もします

66 :
漸く前スレ埋まったな
史実や資料や荒らしとか言うなら、順番な。日本人なら
で、鍋島と小早川の九州話はあまり出ていないので、皆さんの知識と考えをごひりろうつかぁせえ
何か思いつかなかった突破口が、あるよな気もします

67 :
漸く前スレ埋まったな
史実や資料や荒らしとか言うなら、順番な。日本人なら
で、鍋島と小早川の九州話はあまり出ていないので、皆さんの知識と考えをごひりろうつかぁせえ
何か思いつかなかった突破口が、あるよな気もします

68 :
三回も言うほど超大事なことだとは思えないな

69 :
怪しい日本語だなぁ

70 :
まぁ次から次と

71 :
大事な事だから3回書いたんだろうけど、何回読んでも意味が分からんわ

72 :
>>57
じゃ東軍先発隊はどのような目的で決死の覚悟で木曾川渡河したわけ?
下流渡河組はともかく、上流渡河組は渡河迎撃がなかったらどうしていたと?
そして渡河迎撃がなかった場合清洲に帰るとでも?
岐阜城後詰決戦案では東軍先発隊は長良川東岸あたりに布陣するであろうと想定してるけど、
それとどう違ってくると?

73 :
>>72
あくまで考察になるけど、東軍の先発隊視点で西軍の迎撃態勢が予想以上に
脆く見えたんじゃないかな
戦闘を開始しても西軍の抵抗が東軍の想定よりずっと弱いから、岐阜までもが
陥落してしまったんじゃないかと
渡河するってのは軍事的に結構危険なのは言うまでもないけど、
迎撃態勢が緩いのを西軍の罠ではないか、引き付けて殲滅する作戦ではないかと
警戒していたんじゃないか

74 :
福束の前哨戦でも石田方が3000しか出してこなかったから余裕戦力ないと判断したのかも
池田の旧領で案内人いたように息のかかった人材いるだろうし敵情を探れない理由はない

75 :
>>74
小西と全軍でいっていれば落ちなかったかも

76 :
これで上流に島津と織田軍全軍でいけば破られない

77 :
西国大名の多い西軍が東国というアウェーで戦うことが間違いだよ
ただでさえ西国大名の大半は朝鮮での疲弊が回復していないのだから
未知の東国まで行くだけで疲れ切ってしまい、戦うどころではなくなる

美濃なんて捨てて平家のように畿内から都落ちして、西国での戦いに移行するべきだった

78 :
伏見城のあとすぐに鍋島と立花を岐阜城に

79 :
>>78
西軍視点、そいつらが信用できんので先行させるのは無理
そいつら足止めして西軍に組み込んだだけだから

80 :
>>79
立花も?

81 :
>>77
とにかく7月中に清須に5万の兵で囲む
福島来るまで休憩
残りで伏見城 伊勢方面

82 :
>>80
豊臣御為で戦うと宣言した連中が、
政権や豊臣家と縁もゆかりもない、たかが外様をどうして信用できる?
>>81
内府違いの条々で、家康に従う理由のなくなった上杉征伐軍は
大半がこちらに戻って「政権を不安定にさせてすいませんでした」って
頭下げに来る予定なのに、なんでそんな無意味な事をせにゃならんのだ
後で関東征伐の時に精々使いつぶさせてもらう連中だぞ
そんな事したら、散々利用しておいしいとこだけ奉行支持派が持っていく事が出来ず、
関東征伐の時にこっちが矢面に立たされていらん損害を被るだろ

83 :
>>82
勝って石高増やす

84 :
まだ清洲ガイジに構うバカがいるのか
「清洲」でNGしてもいいレベルだぞ

85 :
>>84
勝つには清須

86 :
あと何回、石田三成が生首になれば勝てるんだよ

87 :
何度でも甦る

88 :
そもそも三成が首謀者なのかどうかも怪しい

89 :
>>88
家康だったりして

90 :
三成は西軍内では美濃方面の担当者っぽいな
だから伏見城攻めとかの他方面の戦には参加してなくて
やった仕事も秀信を味方に付ける説得工作とか美濃関連のもの
だから美濃で行われた関ヶ原本戦も三成の担当であり三成が西軍側責任者なわけよ
逆に言えば美濃は三成の責任なんだから毛利が参加して戦ってくれたらとか大津城攻撃軍が間に合ってくれたらとか
ムシがよすぎるんだわ
お前が任せられてんだからお前が何とかしろよという話だ

91 :
>>90
じゃあもっと美濃制圧しろ
福島いがいを

92 :
>>91
ちゃんと学校通ったか?

93 :
美濃方面は治部が中納言にあれこれ命令できるわけでもなく籠城要請するも断られ
むしろ中納言の指揮系統に入るほうがすっきりするのでは

94 :
>>93
中納言って秀信か?豊臣政権は中納言多すぎるから…
ただ、秀信のこと言ってるのならそれもちょっと難しいかと
そもそも秀吉が一応の旧主筋に当たる秀信に「飾り」以上の役割を求めてたかどうかってのがあるし、
奉行たちはその秀吉の側近としてその影響を色濃く受けていると思われるので
秀信に方面軍指揮権なんて大きなもの与えるかなあ
第一、政権上の役職より官位の上下が重要ってことにしてしまうと、
それこそ奉行たちの立場を貶めるようなものだし

95 :
>>90
後方支援係で戦経験も乏しいうえに
トラブルメーカーとして揉め事を繰り返して嫌われている三成を重要な美濃方面の担当者にするとか
もはや西軍には真面目にやる気がないと疑われても当然だな
本当に東軍に勝ちたいと必死だったら三成なんか前方で使うわけがない
三成がいる時点で胡散臭さが全開で論外でしょ
西軍が勝つためには三成外しを敢行するのが最低条件だよ

96 :
>>95
非現実的な話ばかりされてこれが当然と語られても困惑してしまう
三成外しって、いきなり奉行同士で仲間割れするような軍に誰が参入したがるものかね

97 :
>>84
孫子を読んだ事無いんかね?
緻密な作戦よりも、やっつけ仕事でも速さを重視した方がましってあるじゃん。

関ケ原の前哨戦の状況は正にそれって感じなのにさ。
多少危険でも、伏見なんか僅かな押さえで清須まで進撃した方が一番可能性有りそうなのに。

現代でも、どんなに準備しても天候までは支配出来ないですからね。
戦争自体が大博打なのに、そこまで緻密な作戦が必要ってのがおかしいのでは?

家康だって、秀忠軍と合流断念して野戦に出てるじゃん。
博奕ってそんなもん。

98 :
最初から投げっぱなしで戦に臨むのもねーよ
想定に想定を重ねたうえでそれで最小限の博打要素が出るって話すらわからんのか荒らしは

99 :
荒らしなんだからわかるもわからんもないだろ
そうやって構ってほしいだけ

100 :
強運に賭けて清洲を攻略。その勢いで東海道を爆進する
と言われると他人はまともにクチを挟めないよね
たしかに、なにかの偶然が重なって事態が激変することは歴史上ままあることだから、絶対に無理とは言わないけど、幸運を前提に計画を述べられると何を言っても「運がいいから」で済まされてしまうのがわかりきっているから、議論する意味はないよね


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