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竹中半兵衛、黒田官兵衛のどちらが優れて居たのか?


1 :2012/08/07 〜 最終レス :2020/01/18
二人とも秀吉に仕えた天才的な軍師で名高く
両兵衛とまで言われているが、実際はどちらの方が優れて居たのか?
激論しましょう。

2 :
激論はしないで仲良くまったりと話しましょうよ。
黒田官兵衛はそこそこ事績があるけど、
竹中半兵衛は最初の頃にちょっと活躍しただけだね。

3 :
ですね
難しい所は半兵衛が早死&逸話の信憑性が低いと言う事
IFで半兵衛がもし死んでいなかったら果たして官兵衛よりも活躍できてたのか?と言う所も肝になりますね

4 :
竹中半兵衛は、稲葉山城奪取と浅井の武将調略と、
あとは備前八幡山城に対する調略が主な功績かな。
ただ、竹中の事績は、信憑性がない武功夜話に書いてあるのがあるんだよね。

5 :
両兵衛とか言われてるけど二人そろってた時期は1年もないという事実

6 :
長政の命を救ってもらったんで、黒田さんちの家譜では竹中くんは
大感謝されてはいる。当たり前か
能力というか実績としては、
普通に黒田>>>(超えられない壁)>>>竹中だと思うけどね
クロカンは秀吉にとって中国攻略の要だったわけだから、
ちょっと竹中とは比較にならんでしょ

7 :
黒田は一部将としての秀吉も天下人としての秀吉も補佐できた訳だけど、竹中は後者は無理っぽいんだよなぁ

8 :
才能はありつつも若死にした人間が実力以上の評価をされるのはよくあること
まぁ仮に半兵衛がいたら官兵衛は多少やりにくかったとは思うよ

9 :
竹中が後継者として推薦していた神子田さんは黒歴史か

10 :
神子田さんはあんまりな最期だから、なかったことにされがちというかな
兜は福島くんに、刀は山内一豊に遺し、後継者に神子田を指名する竹中
このあたりが、多分生前織田家で仲良かった面子になるんだろうけど
わかるようなわからんような人選ではある
ぶっちゃけ「〜兵衛」が、秀吉のとこにたまたま二人いたから、後世、
黒田とユニット「二兵衛」を結成することになっただけという気もする

11 :
にへぇ

12 :
信長の野望では
どっちが強いん?

13 :
半兵衛と官兵衛で比べると経歴見れば明らかだわな。
と言うか官兵衛より優れた将を探すのが難しいんじゃね?
官兵衛に足りないのは腕っぷしと天下取りの野心ぐらいでしょ。

14 :
半兵衛って長生きしてたらどうなってたんだろう?
現代に伝わる竹中半兵衛って信憑性のない話が多いし

15 :
>>13
それはそれで如水を過大評価してる気がする。
まあ、確かに息子の長政含めて子飼い世代(1560〜1580年代生まれ)で
総合的に如水と渡りあえる器量を持つ武将はいないけどね。

16 :
半兵衛は美濃攻略以降、大した働きはしてないぞ
この辺過大評価しすぎ
竹中氏は武家の名門で源氏の一族としての家柄と名声で一目置かれた立場と見るべき
土岐氏と同等の名門なんだよね
官兵衛は秀吉の家臣より織田家の家臣であって秀吉の部下じゃない
協力関係と見たほうが無難
秀吉の軍師は弟の秀長と蜂須賀小六だよ

17 :
>>13
晩年は押さえつけられていた野心が顔を出して火事場泥棒やらかしたじゃないですかw
敗因は息子の教育を誤ったことか

18 :
>>17
何したっけ?
晩年は中央の執政に関わってないし、
家康から増石の提案も断ってるだろ?

19 :
多分、関ヶ原のことを言ってるのだろう

20 :
>>19
ハハハ、まさかそんなw

21 :
半兵衛が生きてたとしても如水のように警戒されなかっただろーし
秀長のようなポストに収まってたかもしれないな
調整役と遠征の指揮官。
秀長は戦が極端に下手だったから、半兵衛のほうが遥かにはまり役だったかも

22 :
いや、秀長は戦下手どころか指揮官としてはかなり優秀じゃなかったか?

23 :
うまけりゃもっと戦に関わってるよ>秀長

24 :
兄貴と違ってしっかりした人格者だから
お飾りでも代理の総大将としてはちょうどよかったんじゃないの

25 :
秀長は野戦の達人で四国や九州で活躍した

26 :
秀長は大軍を与えられ名目上は総大将を勤め上げたが
気が弱く、心配性すぎて
毎回、兄の秀吉に叱られてた。
戦には向かないんだよ。

27 :
半兵衛は美濃近江の国境付近に地縁があったからリクルーターとして活躍したんだろうが、
そのあと戦線が播磨に移ると目立たなくなる、って感じか
尾藤知宣とか神子田正治との関係はどんなんだったんだろ

28 :
>>25
野戦の達人()
部下に恵まれすぎてるに過ぎないから
島津攻めのときなんかあまりにも慎重すぎて部下の尾藤が秀吉に不満爆発させちゃったくらい
(それが原因で尾藤は失脚)

29 :
いや、あれは尾藤さんがセンゴクの失態を見て、慎重になりすぎたから
危うく宮部さん見殺しにしかけたり、追撃のチャンスを逃したりした。
そん時、秀長は尾藤さんの慎重策に従ったから確かにあんまし戦術眼は無いかもしれんが。

30 :
>>29
あーそれ秀長が尾藤に濡れ衣着せてるだけだから
両者はそれくらい仲悪かった
毛利や宇喜多とか他家の軍もいて合議してるのに尾藤一人の意見で慎重策をとるわけがない

31 :
ここまでは官兵衛の中国戦線での実績を半兵衛が上回れないという流れ?

32 :
そもそも半兵衛の実績なるものは、全く記録に残っていない。

33 :
そもそも半兵衛の秀吉軍内での役割何だ?
俺はそれすらわからない現状なので比較出来ませぬ

34 :
信長から派遣された寄騎武将。それ以上でもそれ以下でもない。

35 :
稲葉山城のっとりも諌める目的じゃなく自立しようとして失敗したって話もあるし

36 :
僅か10人前後でどうやって自立すんだよ

37 :
あれは、乗っ取ってみたのはいいけど、思ったように支持が広がらず、逆に逆襲受けそうになったので撤退した、
というのがホントのところだよ

38 :
適当なことばっかり言ってんじゃねーよ

39 :
稲葉山城に関しては主犯は安藤守就とも言われてるしね
しかも竹中半兵衛が10人規模で稲葉山城を乗っ取ってたとしても
軍略でも無ければ何かしらの計略でも無い
これだけで天才的な軍師か?と言われるとかなり疑問を覚える
内輪の謀反だったら半兵衛で無くても誰でも不意をつけるからね
やはり半兵衛は拡大解釈されてるで間違いないかと

40 :
とりあえず、織田に下ってからの半兵衛の活躍は創作です

官兵衛は秀吉の部下ではなく、協力者でもあり、秀吉のライバルでもある
丹羽とかと同じ立場

41 :
稲葉山乗っ取りって、安藤守就が城の周りに200の兵を構えてたって話しも聞いたことがある

42 :
>>40
じゃあ斎藤家にいた頃に信長の軍勢何回も撃退したってのは事実なん?

43 :
日本人は、戦争に負けた。
でも何時から奴隷になった?
あなた達は今目覚めないと、二度とその目は開かない。
歴史というのはいつも編集されている。平清盛がとても優しい人だった。
『江談抄』で平安を生きた公家が鎌倉期にそれを階述してる。でも『平家物語』では悪役にされるんだよ。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related

44 :
勝てば官軍ですよ
有名な言葉でしょ

45 :
>>42
そもそも美濃の国力だと斉藤家は普通に強いです
安藤と半兵衛が織田家をボコったことにしないと
信長が雑魚になるから半兵衛を天才にしただけ
斎藤義龍から家督を継いだ子の斎藤龍興は当時14歳、
信長がこんな子供にボコらてたとなれば恥もいいところ
結局、西美濃三人衆が織田家の内応に乗らなかったら美濃攻略はもっと泥沼化してた

46 :
>>40
>官兵衛は秀吉の部下ではなく、協力者でもあり、秀吉のライバルでもある
>丹羽とかと同じ立場
それはどう考えても完全に暴論というか誤り
信長からの小寺孝高宛ての感状や命令は、初期は荒木村重と秀吉、
中期以降は秀吉を仲介して出される場合がほとんどで、
明らかに秀吉の中国方面軍の配下に組み込まれているわけで
織田政権期から秀吉と孝高の間には完全に上下関係が成立している
秀吉の播磨平定後、蜂須賀・前野・浅野らとともに孝高が
初めて播磨内で2万石程度の大名に封じられた際にも、
秀吉からの知行宛てがいであって、信長自身からではない
というか織田譜代の丹羽や重臣の秀吉とは、孝高は立場が違いすぎて、
まったく比較にならない

47 :
>>46
1876年に信長の元に黒田長政を人質にだしているわけよ
1580年、信長から播磨国の1万石を与えられてここで正式に織田家臣なって
毛利攻めのために秀吉の与力に任命されるわけね。これは秀吉の協力者として
それ以前は織田家の協力者だよ
元々は小寺と宇喜多浦上のとの争いがメインで大活躍する、この後の鳥取城攻めと高松城攻め
での官兵衛の働きは秀吉の部下じゃなく、信長が官兵衛の才能を利用したと見るべきね
この2年の戦いでで信長時代の官兵衛は終る
その後の官兵衛は参謀より、協力者的な立場。毛利攻めを担った織田家の大名だしね

48 :
孝高とどちらが将として上かを比べるなら義光あたりが面白いかも。
あと景綱とか。
重治はやっぱ資料が少なすぎる。

49 :
竹中半兵衛は子供とか全然優遇されてないよね。
弱小領主クラス。
正直、あまり役に立ってなかったんじゃなかろうか。

50 :
【至急】キルミーベイベー公式ツイッターをフォローしてください!【緊急】
このたび、キルミーベイベーは新たな展開に向けて動きだそうとしております。
理由は分かりませんが、新時代の幕開けには10000フォロワー必要なようです。
達成には、あと1700のフォロワーが必要です。
どうかご協力よろしくお願い致します。

51 :
あれだれ趙雲と同じで子孫が「活躍を盛っちゃった」んだろ

52 :
>>50
わかった。みんなもミルキーベイベーをフォローしようぜ。

53 :
合体して竹田半兵衛になればいい

54 :
>>51
つーか、江戸時代に家名残した武将の武功の大半はそうなんじゃね?
一般に猛将や名将として知られてる人物も果たしてどこまでが本当だったか。
同時代の書状や史料に残ってるものは確実なんだろうけどな。

55 :
大坂の陣で真田幸村よりも活躍した毛利勝永が忘れさられ、幸村(信繁)がスーパーヒーローとして
君臨してるところをみると、語り継ぐものがいる事の大きさを感じるね

56 :
いやぁ幸村すごいだろ。
幸村を貶して俺って知識人だろwって人が多いな
歴戦の勇士達に言わしめた日本一の兵だからな

57 :
腐人気高い武将は過大評価される運命にある
政宗、幸村、半兵衛・・・・・・・・

58 :
石田三成「全くもって嘆かわしい風潮だよね」
直江兼続「そうだそうだ」
浅井長政「歴女は迷惑な存在だよ。」

59 :
お前ら誰だったら納得するんだよw

60 :
>>56
「たち」ってお前それ言ったの
適当にまた聞きした島津のおじいちゃんでしょ
徳川も「いやぁ強かったねー」って上から目線で
諸葛亮の死後に司馬懿が「天下の奇才である」とか言って
宿敵の評価上げしてそれに勝った俺凄いだろみたいなノリだろ
江戸期にやたら武田信玄が称揚されたように

61 :
>>59
このスレの主役である黒田官兵衛孝高を忘れてもらっちゃ困る。

62 :
>>60
日本一の兵ってのは島津義弘じゃなくて息子の評だね。

63 :
>>61
半兵衛は?

64 :
マジレスすると半兵衛は秀吉に仕えたわけじゃないけどな

65 :
初めは信長から派遣された秀吉の目付け役だけど、
秀吉が城持ち大名になった後は少ないけど禄を貰っていたのでは?

66 :
>>58
そこら辺は確かに過大評価だけど、だからといってネットで、
その人達を平均以下の人間みたいに言うやつも痛いと思う
>>60
司馬仲達が諸葛孔明を褒めたのは、実際優れていたからでしょ
自分が戦った相手だからって公孫淵を褒めたりはしないし

67 :
>>63
重治は功績が不明瞭な部分が多いけど、
孝高は鳥取城、高松城攻略の話を抜きにしても
その戦績、功績はケチのつけようが無いだろ。
荒木村重に捕らえられた事以外は失態らしい失態も無いし。

68 :
「よっしゃいっちょ説得してくるわ!」
「よく来たなお前」
「織田に逆らってもええことないで」
「そんなの関係ねぇ。とりあえずお前を帰すわけにはいかん」
ち○ばに

69 :
>>67
孝高大好きなんだけど、文禄の役で三成待たせて囲碁打って、
そのうえ無断帰国して謹慎処分で切腹寸前、
太閤に詫び入れるために出家する羽目になったのは、
まぁ普通にかなりの失態だと思うわ
これで、豊臣政権において完全に失脚したわけで
軍監で派遣されてるのに、無断帰国とかフリーダムすぎるだろwww

70 :
元を正せば三成が色々と諸将の妨害したり讒言したり足引っ張ったのが悪い

71 :
>>70
それや一揆衆調停後の謀殺なんかもあって、
秀吉に仕える事の意義を見失っていたのかも。

72 :
はいはい三成が全部悪いでたよ
なんでも佐吉のせいにするのやめろや
そもそも勝手に豊臣の名前使ったりするからだろ
「今度はお疲れでしたな。ゆっくりと茶の湯でもいかがか」とねぎらってるのに
「茶なんか飲めるかボケェ。ぬくぬくとしてやがって」と切れるのもどうかね

73 :
文禄の時は、クロカンが自分から秀吉に働きかけて軍監に任命された
経緯があるので、秀吉にすれば「お前!自分で立候補しといて職務放棄か!」
と怒り倍増だった
三成とは、九州征伐の途中から仲が険悪になってるので、
もともと相性が合わなかったんだろうね

74 :
むしろ、官兵衛の比較対象って半兵衛より蜂須賀小六なんじゃね?
小六のが合戦で指揮執る機会多かったし。
>>72
一般にみっちゃんは本多正純に近い感じの奴だったとされるが、個人的には江戸以降の人間が
「七将襲撃や関ヶ原敗北の経緯から考えてもきっとこんな奴だったに違いない」
みたいな感じで立場的に近い正純をベースにした三成像が出来た気がするw
実際にはみっちゃんは小田原以前も割と前線に出てるんだけどね。

75 :
>>74
竹中半兵衛は基本的に小部隊率いて戦ってる
播磨攻略のときは、小六や官兵衛と一緒に前線にいるわけで
とくに職務的な役割の違いはない

76 :
>>74
小六と比べたら全ての面で官兵衛に軍配が上がらないか?
小六には中国大返し以外これだ、って功が無いような。
聡明な人物だったってのは想像に難くないんだが。

77 :
>>76
小六は中国大返を入れるなら秀吉の与力として
斉藤攻略から浅井朝倉攻略に貢献している
ほぼ同時期に官兵衛と一緒に同じ播磨で大名になったが
官兵衛は一万石、小六5万石で織田家内ならライバル関係かもね

78 :
播磨平定後から豊臣政権の前期は、孝高と蜂須賀正勝・家政は
おおむねいつもセットで対毛利外交を担当している
似たような立ち位置だと言える
ただ、織田・豊臣政権下での地位としては、蜂須賀>>黒田だろう
秀吉は蜂須賀に対して、四国征伐後、早々に息子の家政を
大阪の喉元を扼する阿波一国の国持ち大名にしているわけで
これは地理的な重要性からいっても、豊前中津に封じられた
黒田くんとは比較にならん

79 :
いつの間にか蜂須賀と黒田の話になってるw

80 :
>>79
半兵衛と官兵衛で比べた場合の結果は出てるだろ?

81 :
なんで漫画だと官兵衛より半兵衛が多く描写されてて活躍してるんだろうな

82 :
こう言っちゃなんだが官兵衛は小者臭がするからな。
お隣さんの加藤は今なお清正公と呼ばれ神格化されてるのに
官兵衛は間違っても孝高公などと呼ばれる事が無いどころか
しまいにゃクロカンちゃん呼ばわりw

83 :
竹中半兵衛は江戸期に何だか良くわからんまま神格化されたが、黒田官兵衛は江戸期に家臣から
キチガイ呼ばわりされた(古郷物語)

84 :
清いイメージのまま死んだのと秀吉のそばで「君取りたるべし」とか言っちゃったり
息子に「そのとき片腕はどうしていたのだ」とか言ったり
秀吉存命時から警戒されてたり知謀はあるけど悪どいイメージがあるからだと思う
半兵衛が張良で官兵衛が陳平みたいな感じで(張良も撤退する楚軍を襲えとか言っちゃうけど)

85 :
>>84
中国大返しの時は何て言ったか分からないからまあいいとして、
長政を叱ったエピソードの所為で誤解されてるよなあ。
忠義の人、とは少し違うけど当時としては
珍しく道義を弁えた人格的にも優れた将だったと思うんだけど。

86 :
>>82
清正は明治〜昭和初期に大陸進出の象徴として神格化された。
同じく大陸で活躍した小西行長は清正の敵役としてネガキャンされたが。
>>84
家臣を理不尽に殺したことが一度もない戦国大名ってこの人くらいだよね。

87 :
世間にフィクションで広まってるイメージは>>84だと思う

88 :
官兵衛は変わり者な性格だったみたいだね。
それで家臣を困らせる事も度々だったとか。

89 :
息子のため円滑に家督譲るために晩年は家臣にわざと辛くあたったりして
早く息子の代にならないかなと思わせたりしたそうだよ
関ヶ原がもし長引いてたら九州(薩摩除く)四国くらいは取れたかもしれんね

90 :
>>89
九州を取る、の意味が分からんな。
当時盟友とも言うべき清正が熊本を統治してたのだが、
その清正を裏切ってまで官兵衛が九州を支配するとでも?
それともまさか清正と手を組んで九州統治?
忠義の士で野心無き清正と?

91 :
黒田如水は九州で、あくまで東軍の一員として行動していたわけであって、法的にも家康の指揮下にあった。
であれば家康の指揮権を否定するよほどの理由がない限り、家康の意図に反した行動は取れない。
仮にそういう行動を取れば如水自信が東軍の討伐の対象になる。
その程度のことのわからない如水じゃないわな。

92 :
一般的には>>89が言う、関ヶ原の際、如水が九州を支配しようとした
イメージが広まってると思う。だから>>89を責めないでやっておくれ。

93 :
その時歴史が動いたとか戦国関連で九州制覇に動いたみたいに書いてるのって嘘だったんだ…

94 :
>>92
俺も長政を叱りつけた話は長いこと信じてたから分からんでもないが、
戦国板に出入りする奴があんな与太話を信じるようじゃ困るな。
つか100レスにも満たないこのスレちゃんと読めば
官兵衛に天下取りの野心など無いことは分かりそうなもんだが。

95 :
>>83、88
「古郷物語」は基本的に如水礼賛の書物であって、
いかに如水が知恵が回るか、家臣に配慮したかを家臣の側から
愛をこめて描いたもので、
だからこそこの人は「仕えやすきこと、この上なし」と
書かれたわけですよ
よく戦国板で引用される、古郷物語の「きちがいのよう」というのは、
悪口ではまったくなくて、逆に「さすが如水様、考えることが常人ではない」
という肯定的なニュアンスであって、別に家臣が迷惑してるわけでも、
如水の行動が本当におかしいわけでもないのは、通して読めば一目瞭然なんだけど
全体の文脈とか背景を知らずに、個別の逸話や文章の断片を
スレで読むだけだから、勝手なイメージがひとり歩きするんだお

96 :
しかしそう言った評価に「気違い」という言葉を当てるのは流石に同時代でも他に例がなく、
黒田家中の特異な君臣関係、もしくは黒田武士のとんでもない言葉の悪さを感じさせるw

97 :
如水って後世でも損な役だな

98 :
黒田官兵衛って実際有能だったの?
恐れられていたから石高抑えられていたのではなく、石高相当の能力や実績って事はないの?

99 :
青山・土器山で織田軍3000を300の兵で撃退
九州征伐に於いて島津軍3万5千を秀長本隊の救援無しで撃退
中国大返しの際に毛利軍と調停、国境を確定
立花宗茂の居城、柳川城無血開城
そのついでに島津義弘を海に沈める
北条親子を説得、小田原城開城
朝鮮軍8000を1500の兵で撃退
毛利・織田の板挟みで信長を選んだ慧眼
名護屋城や中津城築城に携わった築城の名手
他にも官兵衛の功とされるものに鳥取城、高松城攻略等があるし、
小牧・長久手なんかでも活躍してるらしいけど、その辺は不確実なので割愛。
少し誇張気味なのはご愛嬌ってことで。

100 :
>>99
実績から考えたら、豊臣で何万石ぐらいが適正だったと思う?
適正っていうの難しいと思うけど。

101 :
>>100
加藤福島が17万石だっけ?
仕えた年数や功績を考えたら少なくともこの二人と
同等かそれ以上貰って然るべきだと思うけどね。
と言うか確か家康から40万石ぐらいを提示されてたような。

102 :
>>101
加藤福島は、実績に比べてもらい過ぎだろうな。
まぁ親戚筋だから、当然かもしれんが。
40万石は、妥当かもしれんな。
その石高だと、秀吉の信長時代から下にいた中ではトップだろう。
(秀長は別格として)
40万石というと蒲生と同じ立ち位置かな。
蒲生は、陸奥会津に移封され時に42万石で、のちの検地・加増により92万石だから。

103 :
>>99
・鳥取攻めの時は、並行して淡路〜四国に派遣されていたので
 実際はほとんど関係していない
・小牧長久手の戦いは、そもそも戦場に不在で参加してない
 この時は蜂須賀小六と一緒に、備中をめぐる毛利・宇喜多の国境紛争を
 調停するため中国にいた。中国大返しの外交的な事後処理ですな
・備中高松水攻めは、一番の難所の堤防工事を担当し、
 船を沈めて水攻め完成させたのは黒田くんなので重要な役どころ
黒田孝高の石高自体は豊臣古参の標準なので、そこそこ妥当という気はする
蒲生くんは織田家家臣といえども、そもそも出自が大名なので
黒田や蜂須賀あたりの国人出身の豊臣古参とは、地位が比較にならん
仮にも信長の娘婿だぜ
黒田家は、もともと姫路城主時代は一万石にも満たない播磨の土豪
だったんだから、普通に考えればむしろ大出世ではある
ただ場所は唐入り前提の配置とはいえ、上方から遠いので
古参の蜂須賀・前野や五奉行からは待遇が一段落ちるのは確かだし
九州平定後は政権中枢から外れていったのも事実なので、
孝高の側で不満があっても不思議ではないけどね

104 :
昔は「弟と同じ」って言われてたのにね

105 :
>>104
秀吉は同じような事を、他でも何回も言ってそう。

106 :
>>65
蜂須賀なんかもそうじゃなかったか?小谷→長浜のあたりで家臣団に組み入れ
られた。半兵衛の方は死後に弟が家督を次いで秀吉の配下になってた筈。

107 :
黒田は九州取次役やってたからエリート官僚だった

108 :
>>49
秀吉の部下達で万石級がゴロゴロ出て来るのは半兵衛が死んでからだったから
一概に比較はできないんじゃないか。
関白就任まで生きてたら、流石に半兵衛が5000石のままとは考えにくいし。
重門に関しては・・・まぁその・・・

109 :
>>108
竹中くんの知行は、同じ時期の寄騎の蜂須賀やセンゴクに比べても、
極端に少ない。
この時期は、播磨領有前で、秀吉が家臣に領地を割いて与えていない頃なので、
つまりは竹中に対する信長の評価が、他の織田の寄騎より低かったとしか考えられない。
>>107
いやいや、九州取次はやってませんw黒田は中国取次な。
でも、黒田は奉行系のエリート官僚ではまったくない。
むしろ息子だけでなくお父さんの方も、バリバリの武断派ですわ。
取次も時期によって職能が変わるんだけど、後期の浅野長政や
石田三成などの奉行系の取次は、内政に介入し、検地まで実施する
まさに中央官僚による取次職。
でも、黒田や蜂須賀の時代の初期の取次は、中国攻略以来、
毛利との外交担当者だったの延長で、基本的に内政にまで指南しない、
いわばゆるやかな仲介役にすぎなかった。
だから、のちに秀吉は、黒田・蜂須賀を罷免して、かわりに中央による
統制を強めるために、石田・増田を中国・四国取次に任命することになる。
実は、主に北九州全般をあつかう九州取次は小西行長なのな。
北九州の取次は、海外との交易の管轄という非常に重大な役割を兼ねて
いるので、小西くんが任命された。これは黒田くんには能力的に無理なのよ。
ちなみに、南九州の島津の取次は石田三成。

110 :
ハンベーの子供世代も零細国人だったからなぁ。

111 :
>>109
なんで信長の半兵衛に対する評価は低かったんだろう。
伝わる通りの人なら優秀な人間だったはず。
信長とウマが合わんかったのか?

112 :
簡単に言えば伝わる通りの人間ではなかったという話だ

113 :
竹中に対する高い(後世の)評価は、ほとんどが息子の父親自慢がソース
になってるからでは?
信長の評価が不当に低いんじゃなく、後世の評判が不当に高いんだよ
息子の重門が自著「豊鑑」で、やたら自分の父・半兵衛をもちあげて
評価を盛りまくる→絵本太閤記や名将言行録あたりに拡散→神話化
という流れな

114 :
江戸時代に名前が残った中小大名の殆どはそうじゃね?
○○家譜とか先祖自慢のオンパレードやん。
実際は単に従軍しただけっぽいのに「最前線に出て無双しまくった!」とか
「この作戦は実はうちの先祖が発案したんですよ!」とか。

115 :
半兵衛は頭脳は優秀だったけど、体が弱くて、早死・・・
官兵衛は体も強く、苦労したけど、長生き。
体力面では官兵衛が上

116 :
>>111
むしろ実務優先の信長が半兵衛を重用するイメージが湧かない

117 :
絶賛武功夜話スレだな

118 :
>>109
肥後国人一揆後に小西行長が入ってくる前の
九州の取次は誰?

119 :
>>118
行長以前は取次はいない。
秀吉は、毛利輝元を領国ごと中国から九州に加増・転封させて、
九州全体の取次を命じる計画だったが、輝元が九州転封を固辞したので、
この案は流れた。

120 :
つまり黒田が緩やかな仲介役をやる予定だったのかな

121 :
>>120
それはない。というのは、豊臣政権が制度的に整うにつれて、
取次の権限は全般的に、秀吉の側近である奉行に集中してゆくのよ。
政権の初期に、黒田が蜂須賀とともに中国取次(正確には、孝高時代には「中国取次」
という職はなく、のちの奉行系の取次とは性格が異なるんだけど、面倒なのでこう書く)
だったのは、秀吉の中国攻略期に毛利との外交を担当した名残だった。
ところが、蜂須賀は、正勝(小六)死後、息子の家政は中国取次の役目から外される。
代わって、浅野長吉(長政)と秀吉の右筆である木下吉隆が奏者として
登用され、孝高とともに毛利との間を取次ぐようになる。
(ちなみに黒田の場合でも、長政は孝高から取次を継承していない)
しかし、次第に毛利との取次も、孝高ではなく、石田三成・増田長盛・大谷吉継らが
秀吉の朱印状に福状発給を行うのが主流になってゆき、文禄二年(孝高が失脚した年)
以降は、完全に奉行が担当するようになる。
要するに天下統一以前は、主に戦にともなう外交交渉の窓口だった取次が
統一の前後から、制度的に奉行が担当する、非常に権限の大きい
内政の専門職に変化してゆく。
その過程で、武断派の黒田や蜂須賀らは、取次職という政権の中枢からは
外されていったということ。

122 :
毛利輝元の九州取次(計画)について補足しとくと、豊臣政権の初期には
上杉・徳川らの大大名による「取次」と、浅野・石田ら秀吉の側近による
「取次」、黒田や蜂須賀ら旧来型の「取次」が、並存している。
九州征伐時点では、秀吉は景勝・家康に命じたのと同じように、
輝元に九州諸大名の取次をまかせようと考えていたわけ。
北条氏滅亡以降から、制度化が進んで、石田・増田ら奉行クラスが
取次を務める動きが本格化してゆくことになる。

123 :
>>122
>九州征伐時点では、秀吉は景勝・家康に命じたのと同じように、
>輝元に九州諸大名の取次をまかせようと考えていたわけ。
これはどんな内容の史料から判断されるの?

124 :
>>123
史料的に言うと、取次を論じる研究では、主に大日本古文書の家わけ文書に
収録されてる、秀吉が発給した朱印状の分析がもとになっているお。
豊臣政権の取次についての研究は、山本氏をはじめとして、津野氏、田中氏
など多くの研究者による論文・著書があるので、個別の具体的な史料名が
知りたければ、自分で入手して調べてください。

125 :
>>124
ゆくゆくは輝元に取次を任せたいといった
秀吉側からの朱印状があるの?

126 :
天正15年6月時点で、秀吉は、
毛利領のうち:備中・伯耆の一部+備後・伊予(小早川隆景領)を返還させ、
九州のうち:豊前・筑前・筑後・肥後を代わりに毛利に与える構想を立て、
実際に毛利側に打診している(結局、輝元が断ったので、構想だけで終わった)
このとき、九州転封と、それにともなって「九州取次」を任せたいと輝元に
打診した朱印状がある

127 :
>>126
確かに構想倒れだ
それで結局秀吉は取次無しでどうするつもりだったんだろう?

128 :
何だかスレ違いの毛利の話ばっかりになってて、恐縮なんだけど
クロカンごめんと謝っておくわ
正規の取次は小西行長まで不在だけど、この時期にも、中央の秀吉と
九州の諸大名を仲介する外交ルートはもちろんある。
九州征伐以前から、秀吉と直接交渉していた鍋島や大友以外にも、
たとえば、筑前に移封された小早川隆景は、それ以前から
取次なしで秀吉と交渉できる特別な立場なんだけど、移封後は
筑後の諸大名(立花など)と秀吉との仲介役を果たし、実質的には
筑後の諸大名の取次として機能している。
あるいは、地理的には縁のない浅野長吉が秀吉に取次ぐ例もあったりで、
要は、のちのように交渉ルートが一本化されていなかっただけ。

129 :
要するに取次って窓口が公式に設置される前は
誰に仲介してもらおうが自分で直接持ち込もうが自由だった
九州の反大友だった連中からすれば
同陣営だったと言える毛利なら仲介を頼みやすいだろうという感じか

130 :
龍造寺家も小早川隆景に取次してもらったって鍋島直茂がお恨み状に書いてたな

131 :
>>129
自分で直接秀吉に持ち込めるのは、のちの五大老クラスの大大名で
それ以下の中小大名は、秀吉の直臣や奉行、あるいは上のような大大名に
取次いでもらう必要がある

132 :
立花宗茂って柳川のイメージ強いけど、実際は福岡市東区の立花山が元々の居城なんだな

133 :
ケケ中だろ
黒田は野心を隠せない阿呆。

134 :
ケケ中さんも稲葉山城取って野心みせたやん

135 :
竹中の伝説、稲葉山城を数十人で奪い取った
黒田の伝説、関ヶ原の時、軍勢をかき集めほぼ九州を切り取った
この差は大きくないかな?城と国の差があるよ

136 :
「ほぼ九州を切り取った」は、いくらなんでも盛りすぎ、盛りすぎ!www
関ヶ原終了まで:豊前・豊後の大部分(全域ではない)
↑ここまでが、黒田くん単独での軍事行動
東軍の勝利確定後:北九州の西軍諸城を攻略
↑ここからは、関ヶ原後の敗戦処理
もっとも、東軍兵力の空白地帯だった北九州にいきなり
大兵力をつくりだして席巻した手腕は、さすがとしか言えないけど

137 :
ちょうどうまい具合に東軍に転向したがってた大兵力持ちの鍋島さんがいたからね

138 :
かつて自分が一度調略した武将を安国寺に最調略され幽閉にまで至った事があったが
関ヶ原では安国寺に調略された武将を見事に再調略し返したことになるんかな

139 :
>>137
うまい具合も何も、鍋島は東軍に転向したがってたというより、
もともと東軍につく気だったのに、結果的に西軍に加担する羽目になっただけで、
関ヶ原での状況判断は普通に下手くそなんだが

140 :
秀吉に野望ばれた時点で野心家的に終わりだろ

141 :
バレたっていうか秀でた才能を警戒されただけって気がする
「殿が死んじゃったよーえーん(さてどうするか)」
「you取っちゃいなよ(ボソ…)」
「このちんばめ!不謹慎な!(こ…こいつ…わしの心を読んだのか…)」

142 :
ニ兵衛の共通点といえば、正室以外の女性がいなかった(らしい)ことがあるわね。

143 :
官はキリシタンだからな

144 :
竹中本家は石高が少ないといわれるが、
信長や秀吉や家康・・・らその時の主君に頭下げて恩賞もらって
かわりに先祖伝来の地から遠く離れた辺地に行かされた黒田家が、比べて幸せだったのかな、とはおもっちゃうけどね。
もともとの所領はしっかり安堵した竹中家の身の処し方は、なかなかに素敵だと思うよ。
つか、半兵衛は、漢の張良(高祖から、西の海際の斉の地に3万戸やるっていわれて、いえ中原の3千戸がいいです。といって故郷に近い小さな町をひとつもらって引退した)をすごく意識してると思う。
つうか長浜時代の1053石って何だ、何か意味あんのかね、この半端な数字わ。

145 :
張良は漢の裏も表も知り尽くしてて、能力も飛び抜けてたから
猜疑心の強い劉邦から危険視されていずれ難癖つけて殺されるだろうと読んで
早々に仙人になるから職を辞しますと逃げた
その後、鯨布や韓信ら異姓の諸王が続けて処刑されたのは知っての通り
親友の呂綰にまで逃げられるほどやたらにRべきではなかっただろうに…

146 :
単に早く死んだだけのことでしょ。
秀吉が播磨を領国にした時まで生きてればそれなりの知行を宛がわれるかもしれんが

147 :
3万戸か
筑紫国くらいかな

148 :
1053石に意味なんてないでしょ?与えられた所領の取れ高なだけだとおもう。わざわざキリの良い数にしなきゃならんわけでもないしな

149 :
自分は戦国武将のなかでは黒田孝高が一番好きなんだけど
でも竹中も黒田も、ぶっちゃけ「秀吉に天下をとらせた功労者」
というより秀吉の寄騎なり家臣になったからこそ
引き立てられもし活躍の場も与えられたわけであって
黒田くんはさらに「天下も狙えた男」(客観的には無理だろ)
秀吉に恐れられた男という、いわば加褒の名誉までもらったわけでさ
このふたりの評価は秀吉の七光な部分がすごく大きいし、ゲームでも小説でも
むしろ秀吉の能力が両兵衛に反映されてる感がある
そういう意味では、まさに後世の評価まで豊臣恩顧の恩恵を蒙ってるわけで
秀吉に感謝しないとだな

150 :
優れてる とか 能力高い というんが、何を尺度にしてるかにもよるよなー。
天下を獲る ことを尺度にするなら、秀吉や家康がいちばんなんだろうけど
秀吉や家康が天下を獲れた理由は、能力において優れていたわけではなく(秀吉なんか漢字の読み書きもろくにできなかった)、
適度な猜疑心や嫉妬心、怠惰さや鈍感さといった弱点を内に抱えていたからこそだよね。
官兵衛が結局天下を取らなかったのも、恥も外聞も捨てて下衆な人種になることに
知識人、文化人としてのプライドが耐えられなかったんだろうし
半兵衛に至っては、天下どころか加増さえ断ってたというしね。

151 :
wwwwww
きもすぎ。釣りかなw

152 :
黒田孝高って、当時の知識人・文化人の水準としては、特に際立った点なんてないだろ
残ってる数首の連歌も、お世辞にも上手い出来とはいえないし、
茶道もひととおり利休に習っただけで、特に茶人として名高いわけでもない
キリシタンも流行と言えば、当時の流行だったわけだし
そら秀吉以外にも農民・商人出身もザラにいる織豊系の大名のなかでは、
出自が小なりといえども国人城主だから、相対的にもともと教養があるっていえば
そらそうだが
あと息子があまりに武断派だから、父親の方が比較で文化人に見えるって
いうのはあるかもしれん
竹中に至っては、天下どころか、特筆すべき文化的事跡が残ってないわけで

153 :
>>152
趣味に属する連歌や茶道に関してはそうかもしれないが
つまり官兵衛に対する知識が偏ってるな

154 :
>官兵衛が結局天下を取らなかったのも、恥も外聞も捨てて下衆な人種になることに
>知識人、文化人としてのプライドが耐えられなかったんだろうし
とあるから、文化的事跡をあげただけで
もし偏ってると言うなら、当時の水準・概念で「文化人・知識人」として
どう優れていたか、具体例を挙げて述べてもらえるといいんですが
黒田にせよ竹中にせよ人並みの野心は十分にあった人物だと思うし、
クロカンは別に文化人・知識人としてのプライド(?)とやら邪魔をして、
天下を取れなかったわけでは、まったくないという意見な

155 :
趣味に属するって言ってるんだから
実務に関する部分を指してると読み取ってくれれば良かったんだが
武将や大名や軍師としてね

156 :
知識以前の問題
ほとんど妄想の域

157 :
官兵衛の母方実家は京都の公家で歌道の家柄で官兵衛も幼少時から母から和歌文学を教えられたってのは有名な話だよな。

158 :
好きなのは確かだし、特に左遷されてからは連歌の会によく参加してるけど
じゃあ上手いかというと別の話で
確かに残ってる歌は、むしろ下手なんだよなw
細川幽斎も如水の歌に、ふつうこんな語は使わないけど、
まあ武将の歌だからこれでもよしとしましょう、なんて評をつけてるくらいで

159 :
逆に、中年以降になって、はじめて幽斎に習った秀吉の歌はとんでもなく上手い
秀吉は、ほとんど文化的背景や素養を欠いた出自なのに、
歌にせよ、茶道にせよ、能にせよ芸術的な天分は非常にあったわけで
そこは素直に凄いと思うけどね

160 :
知識人 文化人 ていうのはさ。
知識や文化が、人生の指針となっている、生き方を規定している、そういう人のことをいうんだと思うわけ。
そうゆう意味で、竹中黒田の両兵衛の晩年の処し方の見事さ、一貫した潔い態度ってものは、間違いなく知識人のそれで、
だからこの二人は事績以上に現代までも信奉者が多いってことなんだろと。
かたや秀吉の、老醜晒した晩年をみるにつけ、到底、知識人とは呼べない。
所詮農民出身の成り上がり者だと、系図なんぞに頼らずとも、本人の言動が示している。

161 :
>>160
うーん?そこまで「文化人・知識人」の意味をひろくとってしまうと、
ほとんど本来の定義が失われてしまうわけで
(大体、知識人という観念自体が、きわめて近代的な概念でしょ?)、
結局のところ、あなたが、その武将の生き方が好きか嫌いか、
というきわめて恣意的な話になってるんだけど
それでも、なお戦国時代の「文化人・知識人」について云々するなら
どうとでもとれる人生哲学のようなものではなく
やはり目に見える文化的業績で評価すべきだと思うけどね
その意味では、桃山文化全般に与えた秀吉の影響力は、疑いなく大きなものがあるし、
もし竹中や黒田に、例えば直江兼続くらい、実際の文化的な業績があるのなら
知識人と呼んでも文句ないですよ、という話

162 :
詩歌や茶器なんて文化のごく一部に過ぎないだろうに
それで文化人や知識人としてのレベルが全て決まるかのような物言いはどうだろうね

163 :
史的根拠のない妄想は武将スレでやれ
そっちでもうざがられるだろうが

164 :
>>149
「秀吉に天下をとらせた功労者」はどちらかというと小早川隆景という印象
秀吉が日本の蓋にしても余りあるって言ってるくらいだし
黒田家譜でも官兵衛より賢人扱い

165 :
>>164
言われてみればそうだな
本当に「取らせた」って感じ。秀吉になんかビビっと来るものがあったんだろうかね

166 :
>>164、165
意外(?)にも、秀吉は黒田くんより小早川隆景とのつきあいの方が、
年代的には古かったりする
まだ織田と毛利が交戦状態になる以前、秀吉が信長から毛利との申次を
命じられ、外交窓口になってた頃からの知り合いになるから
(当時の毛利の対織田外交のカウンターパートが小早川隆景だった)
のちに、中国大返しで隆景が周囲を抑えて慎重論を主張したのも、
豊臣政権下で隆景が重用されたのも、
このふたりのつきあいの古さは大いに関係しているとは思う
まあ自分は黒田くん贔屓なので、やっぱり播磨攻略〜中国攻略期の
孝高の功績を一番に評価するんだけどさ

167 :
竹中のほうが秀吉の初期からの立身出世を共にしているから愛着がわく。
黒田が活躍する頃は秀吉はもう多数の部下をもっているからね。
なにがなんでも黒田ってわけじゃないでしょ。
秀吉から信頼されない以上、竹中のほうが上だわな。

168 :
キリシタンはイギリスやスペインのエージェントのような役割だからね。
イギリスなんか勝手に列島を測量しだしたりね。
キリシタンになるところが黒田の甘いところ。

169 :
・・・どっちも優秀じゃダメですか?

170 :
>>167
秀吉に信頼されてない?
何か、世間話をそのまま受け取った様な気が。
どっちにしろ、竹中、黒田は活躍する時期が違うので、比較は出来ないと思う。
と言ったら、このスレ終わりかw

171 :
>>74
三成の悪いイメージは徳川史観が〜なんて妄想じゃなくて史料を持ってこいよカス

172 :
>>171
三成のイメージ悪いのは江戸時代入ってから幕府が情報操作した結果だけどな
というかここは二兵衛スレだ三成の話は別でやろうぜ?

173 :
>>172
イメージ操作なんかされてねえよ。むしろ同時代のほうが激しく印象が悪い

174 :
>>171-173
お前等ちょっとスレタイ見てこい
ここは三成について語るスレじゃねぇぞ

175 :
俺はどっちかっていうと官兵衛

176 :
竹中って本当に優秀だったの?
色々怪しいなこいつ

177 :
黒田さんの真価を見抜いてたってだけでも凄くね?
狂犬織田信長に逆らってまで なんてさ。

178 :
そのへんの信憑性が問題視されてんだろうにw

179 :
そのへんの信憑性は、疑う必要はないと思うわ
「孝高が裏切るわけねーと思って、竹中が信長に反論したけど
聞いてもらえなかったので、こっそり長政を匿ってくれました
本当にありがとうございます」
と、当の黒田家譜にも経緯が書いてあるわけで
劉備の三顧の礼まんまの「太閤の三度通い」とか、
ほかの天才軍師系の竹中の逸話は、息子や絵本太閤記や司馬遼が盛りまくりだが

180 :
知らぬ顔の半兵衛 とかいう言葉が残ってる割には
実際の行動は、友情や義ってものを重んじていて、それが尊敬される所以というか
生前も死後も影響が大きい人だよね、竹中さんわ。
黒田さんちとの縁もそうだし
横山城で討ち死にしかけてた加藤さんを竹中さんが助けた縁で、亡くなった後でも息子の嫁に加藤さんが娘をくれたりね。

181 :
くすんくすん

182 :
竹中半兵衛の実績のほどんどが後世の脚色で、実際はそれほどの人物ではな
かったという説があるね。
荒木村重に捕まった黒田官兵衛が謀反の疑いをかけられたときに、
半兵衛が松寿丸(長政)を匿ったとのことだが、たぶんこのことによって、
黒田家から半兵衛が名軍師だったという噂が流れて広まったのではないかな?

183 :
そもそも例の岐阜城乗っ取りも、味方の国人とともに行った謀反の失敗だった、という認識が今は一般的だろ

184 :
乗っ取りいうても陪臣だしな
まったくの他人がやったわけじゃない
後世の人々が盛りすぎてハードル上げた感はあるが好人物ではある

185 :
同時代人の快川紹喜は、乗っ取りの件で竹中を不忠だと罵ってるけどな
まあ、当時の基準でもふつうに下剋上だと思うわ
乗っ取り自体には成功したものの、
竹中も舅の安藤も、稲葉山城を維持できるほどの支持を美濃の
国人から得られなくて、結局退去せざるをえなかったというだけの話
別に隙があればそれくらいするだろ、戦国だもの。とは思うけどね

186 :
「軍師の門」読んだ奴いる?

187 :
読んだ
でも火坂の小説だから駄作だぞw過大な期待はするな
黒い竹中、白い黒田の設定が面白いと言えば面白いけど

188 :
後世の創作というか半兵衛はなにしたのか本当にわからない

189 :
>>182
黒田家がというより、息子の重門自身が豊鏡で、
秀吉を劉備に、父親を諸葛亮に例えて、名軍師説を唱えてる
このあたりが竹中=名軍師説の起源だと思うわ
「おい、孔明が劉備より先に死んでもいいのかよ!」
という根本的なツッコミどころがあるが

190 :
>>187
今、「上」読み終わったけど
半兵衛の過大評価ぶりがもう…ね…

191 :
うーんそうか?
稲葉山城の件は、信長が長年攻めあぐねてたのを20歳そこそこの若造がたった十数人で落としたってことと、
その後の去就の鮮やかさ、潔さ(内情はどうであれ、結果として
斎藤家にとって変わろうとしたり、信長の誘いに乗ったりはしてないわけだから)が
当時としても特異なエピソードとして人の記憶に残ったんだと思うけどね。
現代の我々が聞いたって、ちょっとありえないような話なわけだし。
信長に逆らってまで松寿丸を助けた話も、ありえなさ、潔さって点で稲葉山城乗っ取りと通じるものがあるよ。
この二つの出来事だけでも、竹中半兵衛って人の非凡さは充分感じられると思うが。

192 :
えーと、信長の誘いを断ったも何も、信長はそもそも
稲葉山城占拠時に、竹中や安藤相手に、美濃半国と引き換えに
稲葉山城よこせなどという交渉自体してないわけでな・・・
当然、信長公記をはじめとする史料にも信長からの勧誘は
一切でてこないんだわ
もちろんドラマや逸話のように、代わりに秀吉を派遣した事実もなく
美濃国内の形勢がクーデター側に不利になったので、
再度龍興に明け渡して、逃げざるを得なかっただけなんだが

193 :
そーなんだ。勉強なった

194 :
未だ謀士の骨を残すを見ず

195 :
いや、信長公記に載ってないだけで、他の史料には出てるから。
信長公記はそもそも稲葉山城クーデター事件を故意に無視してけどね。
(信長公記はそもそも信長に都合悪いことは書かないことが多いってのは有名だよね)
この時期の信長にとって、喉から手が出るほど欲しかった後の岐阜城が
クーデターで半年間城主不在状態で、何もしませんでした。なんてことのほうが 不自然だろうに。

196 :
>>182
黒田家譜では名軍師として描かれてるのは如水で
半兵衛さんに関しては二つのエピソードが書かれているくらい。
ひとつは信長に背いて松寿を助けたこと、
もひとつは三木攻めの一戦で、官兵衛が伏兵伏せてたのを打ち合わせもしてない半兵衛が察して
神子田に策を授けたりして側面援助して大勝利し「秀吉両人の謀を大に感じ給ふ」話だね。
この話はそれだけ見ると半兵衛をすごく持ち上げているように見えるけれど
「或時〜」ではじまる、如水が優れた作戦で敵を打ち破ったよ!エピソードの中のひとつとして書かれているので
読んだ印象はそんなに目立たないよ。

197 :
結局軍事の門(下)借りてきたった

198 :
小説に噛み付くなよ

199 :
>>195
いや、この話に関しては、後世編まれた史料や逸話にしか記載がないんすよ
甫庵太閤記の逸話が一番有名になってるけど
同時代の一次史料には、信長公記を含めて記載がないんで
史料的な裏付けは客観的にはない、としか言えない
城の乗っ取り自体の記載は、同時代の史料があるんだけど

200 :
そもそも信長公記って一次史料じゃないんじゃ。

201 :
太田さん一人の曖昧な記憶&信長中心物語の信長公記なんかより、
後の時代に作られたとしても、徳川幕府が公に命令して各家に残る系図や古文書(当時の)を証拠として提出させて
当時の一流学者を集めて編纂した寛永諸家系図伝とかのほうが、はるかに信頼性あるように思うがね。

202 :
んで、その信用性の高い家系図伝にはどう書いてあるの?<稲葉山

203 :
>>197
おお、下巻も借りたのか?
きっと読んだのを後悔するぜ

204 :
>太田さん一人の曖昧な記憶&信長中心物語の信長公記なんかより
史料的な信頼性からいうと、江戸期には既に戦国関係の史料として、
高く評価されているわけで
『信長公記』は、幕府や藩レベルの公的な歴史書の編纂の際にも、
信頼性の高い典拠として活用されている
江戸期のさまざまな歴史書の典拠なり記述の元ネタを、
実際に調べてみればいいお。いかに『信長公記』が引用されてるかよくわかるから
竹中半兵衛関係でいうと『浅井三代記』(史書としての信頼性は落ちるけど)もそう
逆に言うと、『信長公記』より、もっと信頼性の高い史料なりが発見されるとかされない限り、
なかなかその記述を否定するのは、難しいってことなんだけど

205 :
信長公記が一級資料であることは間違いないが、一次史料とか言っちゃうのは痛杉。
史料の評価としては、現代では江戸時代ほど神聖視されてないってことでしょ、単純に。
そりゃそうだ、信長自身が書いた日記とかではないのだし、信長がやったこと全て横で見て書き留めてたわけでもなし。
現に、稲葉山城事件は、あったにもかかわらず、書いてないわけですよ。
信長公記絶対主義者の方は、『信長公記』に書いてない=後世の捏造に違いない!とか上でも力説しているけど
本末転倒もいいところだよね。

206 :
えっ?一次史料だが一級ではないということだろ?

207 :
>>205
ん?稲葉山の乗っ取り自体は、信長公記以外に同時代の一次史料あるんだよな?
信長公記には記述がないだけで
ということは、あなたが信長が半兵衛らに稲葉山よこせと勧誘してたという説なら
信長公記以外で、そういう記述がある一次史料を出せばいいだけでは?

208 :
他の史料にはちゃんと載ってる、載ってるとはあるけど
具体的に史料名なり箇所を提示しないと、説得力ないわな

209 :
稲葉山城占拠のときには、安藤と竹中は越前の朝倉に接近を試みる
→コネがない→美濃の国人に仲介を頼む書状は残ってるな。
朝倉と結ぶつもりだったらしいが、結局上手くいかなかった。
織田との間には、交渉したような史料や書状ないと思うが。

210 :
乗っ取りには成功したが誰も協力してくれなかったので維持しようにも出来なかったということか。
なんだか間抜けな話だなあ。

211 :
知ってる限りでは、信長が稲葉山と引き換えに美濃半国うんぬんは、
甫庵太閤記の記述が、一番年代的には古い出典かなぁ
つか当の「竹中家譜」にも、そんな話は載ってなかったはず

212 :
美濃古城領記と美濃雑事記にも載ってるけど
たぶん書かれたの江戸時代だよな

213 :
知らぬ顔の半兵衛 とかいう言葉が残ってる割には
実際の行動は、友情や義ってものを重んじていて、それが尊敬される所以というか
生前も死後も影響が大きい人だよね、竹中さんわ。

214 :
功績を残したという意味で「優れて」いたのは官兵衛
人間性という意味で「優れて」いたのは半兵衛

215 :
稲葉山城の件で快川和尚に半兵衛に従った奴は不義理と書かれちゃってるけどね

216 :
2人の天才軍師(竹中半兵衛・黒田官兵衛)ゆかりの地で大河ドラマサミットを開催
【開催日】2013年07月13日(土)
http://miki-museum.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=1490&bbs_id=1&res#1373641200
 「三木城跡及び付城跡群」の国史跡指定とNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映されることを機に、
竹中半兵衛公434回忌法要の日に合わせて「大河ドラマサミットin三木」を7月13日(土)に三木市立中央公民館で開催します。
 サミットには、竹中半兵衛や黒田官兵衛のゆかりの地の岐阜県垂井町や大野町、姫路市からもご参加いただき、
“三木の干し殺し”で有名な「三木合戦」が織りなす歴史絵巻をお楽しみください。      
 2人の天才軍師と三木の歴史について学べる良い機会ですので、ぜひご参加ください。
【時間】 14:00〜16:15
【参加費】  無料
【対象・定員】  250名
【問い合わせ】 (市)産業環境部観光振興課
          (市)教育委員会教育部文化スポーツ振興課
          TEL 0794-82-2000(代)

217 :
半兵衛は松寿丸助けたので後世に名が残った一発屋の印象ですな

浅井攻めでの半兵衛の功績っていうのも
信長公記では弟の久作の手柄として記載されてますしお寿司
天才軍師とか冗談にもほどがあるですよ

わずか千石という半兵衛に対する信長の評価は
同時代の半兵衛に対する見方を考えるうえで
かなり客観的な指標だと思うわけです
ま、大河ドラマで美化されるのはもう火を見るより明らかですが

218 :
>“三木の干し殺し”で有名な「三木合戦」が織りなす歴史絵巻をお楽しみください。
むむむむむ、これが何気にひどい気がするwwwww
歴史絵巻というか地元の三木城下は地獄絵巻の間違いじゃね?
なんか三木が大河便乗で黒田や竹中推すのは根本的におかしいような
別所長治号泣!!!!のような

219 :
黒田にも竹中にも地獄絵巻への責任はないし致し方ないかと
「有名な」じゃなくて「知られている」くらいの
落ち着いた言葉遣いの方がいいのかもしれないけど
気軽にご参加下さいっていう主催者側の配慮かも知れない

220 :
>>219
三木の干殺しは竹中半兵衛の建策だと黒田家譜に明記されてる
史料に残る竹中半兵衛の数少ない具体的な実績のひとつで
持久戦を提案し糧道を絶って干殺しを秀吉に提案したのは半兵衛
ちな黒田くんはそのころすでに有岡城の牢屋なう

221 :
>>220
あいや半兵衛にせよ官兵衛in牢屋にせよ
戦いを回避する権限など無かったろうって感じ

222 :
竹中半兵衛は水攻めの奇策はなかった。
http://mirai660.net/castle/

223 :
鍋島

224 :
>>217
おっと、その千石は秀吉の領内からの分だ。
もともとの竹中家の領地は別。あわせて6000石くらい。
その論法で行くと、黒田君は当初は信長から領地をもらっていないので(小寺の一門衆なので当然だけど)、
評価0になっちゃうぞ。

225 :
6000石っていう数字の根拠が不明
在地の豪族の領地はこの時代そもそも石高制で換算してないから
わからないんじゃないの?
正確な美濃菩提山の竹中領の石高が確定するのは、豊臣政権期の秀吉が
重門に宛てた朱印状までないと思う
あと竹中家は美濃平定後から弟が兄より時期的に先に信長の馬廻りで
仕えてるわけでその間、旧領は弟が持ち越しで認められる可能性がある

226 :
>>224
アホか。評価も何も臣従したばかりの外様の小寺の家臣で、織田家の直臣でも
寄騎でもない黒田に信長がなぜ知行をやるのかと・・・
主家の小寺が離反・御着退去した播磨領有後に秀吉から朱印状を
直接もらって秀吉の家臣団に編入。蜂須賀・前野・浅野ら豊臣恩顧の大名と
同時期に2万石程度の知行をもつ大名になったけど、黒田が織田に帰属した
時期を考えるなら遅い割に十分高い評価だと思うけどね

227 :
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/

228 :
>>227
面白い!

229 :
>>217
ということはやはりあれか?半兵衛はポッと出てのスマッシュヒット歌手で、
官兵衛は毎年紅白に出るような存在。でも北島三郎の域には達しなかったと。
>>160
けだし明察。

230 :
黒田官兵衛
http://dozereturns.cocolog-nifty.com/sky/2013/12/post-9de0.html

231 :
官兵衛は糞だろ。後悔していたとはいえ、城井家に対する騙まし討ち、皆殺しは戴けない。
主君に忠実なだけではダメだよ、かんべぇ君ww

232 :
子育ては官兵衛

233 :
>>231
平和の為に苦渋の決断とかになるんじゃないの?

234 :
そもそも半兵衛って身体が結構虚弱なイメージあるしあまり前線を引きずり回したらあっさりダメになっちゃいそう
その点湿った牢に1年ぐらい閉じ込められてもなんとか生きてた官兵衛の方が使い手あるというか
頭が優秀でもすぐ壊れちゃう子だと不安が残るよね

235 :
>>234
戦国時代の価値観だと敵を斬れる武士が「強者」になるから
半兵衛より官兵衛のほうが強く見られるのは当然
でも軍師としての才は持病のせいかどこか達観している半兵衛のほうが有能なイメージ

236 :
テーマ自体がナンセンスw
軍師(参謀)としても武将としてもケースが違いすぎて
比べようがない。例えば、半兵衛なら朝鮮の役を諫止
出来たか?或いは九州を統一出来たか?…とか、官兵
衛なら稲葉山城をもっと効率よく陥落出来たか?或い
はその後の美濃支配を確実に出来たか?…とか、そん
な議論をいくら続けたって答えなんか出る訳がない。
当時に行って確かめられない以上、どこまでいっても
論争は五分五分で終わるw

237 :
長政を半兵衛が助けた事で、本来黒田家は竹中半兵衛に足を向けて寝られないはず。

238 :
半兵衛は美濃時代に10数人で稲葉山城を乗っ取ったのが大きい

239 :
上のほうに書かれてたわ

240 :
>>237
半兵衛が長政助けたなんてのは後世の作り話だぞ。
そもそも信長からの長政殺せという命令すら無かった

241 :
自分が信じないものを後世の作り話とする都合のよい
ヲタク脳どうにかしろ
それを言い出せばそもそも竹中も黒田も秀吉も後世の作り話ですよ

242 :
>>241
だから同時代にそういう記録は存在しないっつーの。如水や長政死んだあとの、後世の軍記物や家譜で初めて出てくる話。
同時代の記録で言えば信長は官兵衛が幽閉されたあとも黒田家を信頼するとした書状を2度も発行している。
信長は長政Rどころか、播磨戦線を崩壊させないため黒田家を懐柔することに必死だった。

243 :
半兵衛が生きていた時に関しては半兵衛の方が立場が上だったのは事実。
播磨時代を比較すると
半兵衛・・・立場は寄騎(信長の直臣)。
      組織上は秀吉の部下であっても家臣ではない。
      先手を勤めていたように野戦指揮官タイプ。
官兵衛・・・立場は陪臣(小寺の家老)。
      小寺の代理人でしかない。
      本人も犀を振るう方が得意といっていたように幕僚型。
一度説得した播磨の豪族達が再度毛利に寝返っている事や、
誓書を半兵衛に破かれて窘められたりしている所をみるとこの時点では半兵衛の方が上と思う。
その後は半兵衛が死んでいるので比べる術がない。

244 :
>>242
たとえ書状を出したとしても後だしだっと考えるのが自然

245 :
>>244
お前は結論が先にあるから変な考えを正常だと思うんだよ

246 :
なら>>245は半兵衛が長政を匿ったうんぬんの説を全否定するのか?

247 :
岡田准一の頭髪が危機的状況だという。
岡田准一にこんな噂が…
---
「岡田といえば、どんな役であっても本気で役作りに挑む役者バカ。
時代劇に挑むにあたり、髪を伸ばして地毛で
官兵衛になりきるかと思いきや、
なんと、カツラをつけて撮影。」(NHK関係者)
地毛だけで演技に臨めないのは、やはり岡田自身に問題があるようだ。
「3年ほど前、当時高岡奏輔と結婚していた宮崎あおいに
ちょっかいを出していた。
その後、不倫疑惑が報じられると、岡田は高岡に土下座までさせられるハメに。
その頃から精神的にストレスを抱え、抜け毛が激しくなった。
にもかかわらず、仕事が忙しくて満足なケアができない。
そのストレスをヤケ酒で発散するものだから、抜け毛はひどくなる一方。
悪循環の抜け毛スパイラルに陥っていた」(テレビ関係者)
さんざん悩んだ挙句、相談を持ちかけたのが事務所の先輩でもある
SMAPの中居正広と草g剛だった。
「中居も草gも薬用シャンプーのCMに出ているということもあって、
切り出しやすかったのでしょう。
ところがアドバイスをもらうどころか、
事務所の関係者に言いふらされる始末。
ジャニーズの後輩タレントたちも、頭を見てはいけないという
プレッシャーから、次第に岡田と距離を置くようになった」(週刊誌デスク)

248 :
半兵衛の弟子が有能だったとした場合の小説
非常に読み応え有り
ってか無料ではもったいない
http://ncode.syosetu.com/n0785cf/1/

249 :
我々「横浜プロレタリア党」は「人類に残される最後の生活とは何か」を模索する、新左翼の政治結社である。
https://twitter.com/YOKOHAMA_PP
フォローよろしく!

250 :
官兵衛なんて秀吉に疎まれて豊前に左遷された小物
所詮12万石程度しか与えられない過大評価の小物

251 :
秀吉が天下統一した時に半兵衛が生きてたら何万石貰えたの?

252 :
やっぱり官兵衛以上の危険な人物だから東北に10万石ぐらいだろ

253 :
つか怖い奴ほど石高おさえられるもんじゃないか?

254 :
>>250
敵に回ったら怖い家臣は少なめの領地にするのが普通
徳川とかは家臣とは少し違うからできないけど官兵衛みたいに最初っから
家臣の人はよほど裏切らないという確信がなきゃ大封は与えない

255 :
徳川四天王も10万石くらいだし
黒田所水が格別低かったわけでもない
譜代はいないわけだけども陪々臣だったわけだから破格ともいえる。

256 :
そもそも両方軍師でも何でもない

257 :
竹中半兵衛は大垣3万石・黒田如水は豊後中津12万石
こう考えると黒田のほうが優れていたともいえる。
中国地方攻略の途上で夭折したので豊臣政権成立まで存命だったら
知行はいくら増えたか?という仮定の話は無しとして

258 :
優れるってなんだろうな
例え豊臣政権成立まで存命だとしても如水のほうが石高が高いような気がする
しかしそれが優れた結果と言えるのだろうか
与えられる石高で文句を言わず、戦で土地を失った農民に出来る範囲で
山林や畑を寄付していた半兵衛のほうが人間味として優れていると個人的には思う
まあ感情論

259 :
派手な戦闘や城攻めは下の下だと孫子も言ってる様に、調略を最上の手法として
実践した半兵衛が最高の軍師といえるだろう。そもそも官兵衛の水攻めとか
孫子に言わせれば、下の下と言われるだろし、半兵衛なら調略で毛利まで
味方にするのは訳ないと思われる。ゆえに半兵衛の勝ちだろう。
しかも官兵衛は調子に乗って天下取りの野望までいだいちゃうという思慮の
なさ、半兵衛なら勝てない戦は最初からしないと思うし、もし勝てると思ったら
数十人でも城を乗っ取ってしまう大胆さもある。計画性と実行力どれをとっても
上だと思うね。

260 :
半兵衛は与力だしな両兵衛とはいうものの
陪臣でも大名なのであながち稲葉山城乗っ取りも嘘ではないのだろうが

261 :
稲葉山城乗っ取り俗説はいろいろ盛っていると思うけど
実行したのは事実だからね
出るところと引くところの見極めが素晴らしいと思うよ>半兵衛

262 :
>>261
でもそんな経歴があると
秀吉もいつ乗っ取られるかとの恐怖心が常にあるわな

263 :
宣教師が本国に送った手紙の中に、秀吉が宣教師に肩入れする黒田官兵衛に対して
「お前がキリシタンであり、バテレンらに愛情を抱いておったために、お前に与えようと
最初に考えていたよりも低い身分にしたことをお前は心得ておらぬのか」と叱りつける逸話が紹介されている
黒田官兵衛が低い石高におさえられたのは その才能を恐れられたからというだけじゃなかったみたいだな

264 :
>>263
その手の話で宣教師を信じるな

265 :
バテレンは自ら奴隷輸出に関与してたからなw

266 :
保守

267 :
半兵衛長生きしてたら、どっちか一人は消されそう

268 :
ノブヤボ作り手/ユーザーが、ライトな戦国ファンの典型だとすると、
黒田官兵衛は、知略だけでなく政治や統率も高く、軍師であると同時に、
政治家であり、戦闘指揮もできる男
竹中半兵衛は、統率力もあるものの、どちらかと言えば軍師特化
ただし、義理の値が示すように、半兵衛は清廉で誠実なイメージがあり、
官兵衛は腹黒い
それがライトな戦国ファンのイメージかな

将星録  統率 戦闘 智謀 政治 義理
  黒田      78  95  91   6
  竹中      55  71  77   9

蒼天録  統率 武勇 知略 政治 義理 野心
  黒田  81      88  81  35  98
  竹中  48      73  63  72  35

創世   統率 武勇 知略 政治 義理 教養
  黒田  81      88  81  35  73
  竹中  85      90  50  78  72

革新   統率 武勇 知略 政治 義理
  黒田  91  60  99  91  35
  竹中  96  61 102  57  78

天道   統率 武勇 知略 政治 義理
  黒田  81  60  99  91  35
  竹中  78  36 102  57  78

創造   統率 武勇 知略 政治 義理
  黒田  89  70  97  81  12
  竹中  90  74  99  57   4

269 :
黒田も竹中も好きなんだけど関ヶ原の陣跡に黒田竹中陣跡というのは間違い
黒田の陣跡であって竹中は招かれただけにすぎない

270 :
そもそも竹中の活躍は子孫の創作ではないかと言われてるからなぁ

271 :
福岡50万石と大身旗本の差

272 :
黒田家の史料は、主に、「黒田家譜」と、「古郷物語」で
はっきりいって嘘臭い

豊前国6郡12万石は自己申告で
実際には18〜20万石とも。

秀吉に警戒された、左手は何してた?の話は創作だな

273 :
>>1
真田昌幸や本多正信は?

274 :
>>269
だって関ケ原町は竹中の地元だもんね

275 :
官兵衛>>>>>>半兵衛
だろ。
半兵衛は過大すぎ

早死にしたから持ち上げられやすいけど
官兵衛とは比較にならないだろ・・・

半兵衛いなくても秀吉は天下とったろうが
官兵衛いなかったら秀吉は天下とれない可能性が高い

276 :
半兵衛生きてたら
五大老ではなく半兵衛をいれた六大老になってた
美濃・尾張・伊勢

277 :
黒田総裁のご先祖が販売していた目薬の原料となったのメグスリノキ
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201802160003/

黒田総裁のご先祖様 黒田官兵衛
黒田家の祖とも言われている
https://i.imgur.com/v4BiT4b.jpg

278 :
半兵衛は美濃の名士ってだけで東美濃と西美濃の対立の中心にいただけなのね
つまり半兵衛がどっちを支持するかで斎藤氏と美濃の情勢が決まる
織田は美濃を制圧するのに、この半兵衛の取り込みが必要だった
半兵衛と美濃はセットで美濃以外の半兵衛はただのボンボン武将で将としては微妙

279 :
竹中半兵衛に関するよくある勘違い

×軍師である
ただの武将です。後方で指揮をとっていた訳でもなく、普通に前線に配備されて敵と交戦してました

×秀吉の部下である
信長の部下です。秀吉とは友達関係だったかもしれませんが上司と部下ではありません

280 :
頭のエエ奴のこたぁわからん…皆、そう思うて遠ざかっとたんじゃろうの
半兵衛様だけはわかっとったんか。小寺官兵衛ちゅう男を

281 :
伝説めいた逸話を除けば半兵衛がやった事跡なんて
安藤守就主導でやった稲葉山乗っ取りクーデーター(結果維持に失敗して放棄)と
近江に逃げてた時のコネを生かした浅井家臣の調略くらいだろ?
小物も小物だよな半兵衛
一族が後に厚遇されていないのを見ても
たいしたやつじゃなかったってのは一目瞭然

282 :
半兵衛の評価はともかくとして遺族が厚遇を受けないのは当前じゃね?
重門は半兵衛死んだときまだ子供で後見役の重利だってまだ二十歳にも達していないから
若い当主でも厚遇されるってのは宇喜多みたいな政治的配慮が必要な場合か
残された家臣が強訴した堀みたいな事情がなければ
遺族の器量次第の待遇しか受ける事はできないんじゃないか

283 :
それでも父親がそれなりに功績があれば
いきなり大削減とかはしないでしょ信長は
そういうところ縁故とか過去の実績割と重んじる方じゃん

284 :
まことは、挑発さえすれば、オレ様が質問に答えると思ったらしい
が、オレ様は、質問に答えなかった

これには、まことも心を痛めた

285 :
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪

286 :
浅井家家臣団の調略で活躍したくらいだけど、逆にこの調略成功がなければ小谷城を孤立できなかった(小谷城ー山本山城ラインで北国街道を封鎖して背後の朝倉の後詰を容易にしていた)し、
後に秀吉が長浜城を築城することもなかったことを考えればこの一件だけでも歴史を左右する活躍はしている

287 :
それが半兵衛だけの活躍かどうかわからんし
仮に山本山城が寝返らなかったとしても力攻めでも行けたべ
それがでかい功績だっていうなら、竹中家ももっと加増されていただろうしな

288 :
>>287
山本山城を力攻めで攻略できたら信長はとっくにやって小谷城孤立させてただろ
小谷城を孤立できなかった最大の理由は山本山城とかあの辺の城の連携で北國街道を封鎖していて織田勢が小谷城の背後に回って朝倉の後詰めを叩けなかったこと
とはいえ竹中の成果は北近江の一向一揆の切り崩しの方に役立ったんじゃないかな

289 :
んだから、それが大功なら竹中は何故加増されなかったのか?と

290 :
浅井の切り崩しやってた頃は
まだ竹中は信長の直臣で、浅井滅亡後あたりで
秀吉の与力になるんだよね
つまり対浅井での調略が評価されていたなら
直臣のまま出世しただろうし
秀吉の与力に甘んじる事もなかっただろう
少なくとも信長は評価していないって事になるわな
秀吉政権下の知行を多く得ているわけでもないし

291 :
直臣と言っても美濃衆のくくり
秀吉とは微妙に立場が違う

292 :
その美濃衆(三人衆)は出世してますけどね

293 :
美濃衆が出世したなんて事実はあるの?
稲葉一鉄が城一つもらったくらいじゃない?

294 :
他の美濃衆は多方面の与力として地盤を切り崩され
転封になった連中がほとんどだが
三人衆は信長の本拠とも言える美濃に強い地盤を持ちながら
転封されることはなかったし、ずっと直臣の立場だった
ゆえに多分「何とか死なねえかな」と
北陸から中国方面までありとあらゆる戦に駆り出されるが
その度に軍功を増やして帰ってきてる(卜全は戦死したけど領土はそれほど縮小していない)
ゆえに安藤は難癖つけて改易されたし(それだけでかい権益を有していたので邪魔だった)
氏家・稲葉も扱いを粗略にされる事なく秀吉政権下でも万石持ちの大名として生き残っている。

対して竹中家は???

295 :
>>294
所領安堵が出世なら死ぬまで菩提山城を安堵された半兵衛も出世になるね
西美濃三人衆は元々貫高の高い所領を持っていたから動員兵力が多かった
特に氏家は西美濃一の動員兵力を持っていたんで各地を転戦とさせられた
その割には他の譜代武将や一門衆、馬廻衆の出世に比べてパッとしないのは直臣ではなくてあくまで新参衆の中の美濃衆であるから

296 :
その「もともと高い所領」を安堵されたり
後期、危険視されて追放されたり(安藤)
秀吉期に万石級の所領を与えられたりするのが
「厚遇されている・出世している」で何が間違ってるんだ
美濃は岐阜を拠点にしている事からも
信長の第二の本拠みたいなもんで
そこにでけえ知行もってんのに国替えにもならず
権益を保持されているだけで厚遇されてるのはわかるだろ
対して竹中は??

297 :
>>296
完全に国衆扱いでしょそれ
実際姉川の戦いの頃は近江の蒲生や伊勢の津田、若狭の粟屋、三河の水野と同じ有力国人衆のくくりだったしね
天正6年に至ってようやく蜂屋や蒲生、斎藤利治と同じ旗本の武将にはなったけど天正9年の馬揃えには織田信忠傘下の美濃衆とだけで蜂屋のように一隊を任せられていない
美濃三人衆はこき使われた挙げ句に美濃周辺が安定したら放逐されただけでしょ
同じ美濃衆の斎藤利治くらいの扱いでないと出世とは言えないね

298 :
竹中も美濃の国人衆扱いで所領の動員兵力を考えるとあまり期待できないので秀吉の与力で生き残ったというところだろうね
どんなに浅井家臣を調略しようが三人衆のように戦で功績上げようが国人衆の扱いはそんなもん
所領安堵され続けたことは美濃の三人衆と何ら変わらないので比較対象にもならないじゃない?

299 :
ハッキングが、バレて優越感を感じたいと
まことは、思っていた

300 :
宮田 討死
神子田 斬首
尾藤 斬首
戸田 断絶
蜂須賀 17万石
前野 10万石 切腹
山内 5万石
生駒 17万石
堀尾 12万石
中村 14万石
竹中重治 1万石未満
竹中重門 1万石未満
黒田如水 4万石→25万石前後

ぶっちぎりですがな。゚(゚´ω`゚)゚。

301 :
↑竹中の雑魚っぷりが改めてわかりますね

302 :
山内は天正年間は2000石だけどね

303 :
訂正
天正年間→天正始め

304 :
おそらくを二度書いたのは、ネット検索の限界が
わからないほど、まことはバカなのである

305 :
おそらくを二度書いたのは、ネット検索の限界が
わからないほど、まことはバカなのである

306 :
天正6年頃は
生駒1000石
山内2000石
堀尾1500石
中村200石
くらい?よく知らんけど

307 :
豊臣時代には半兵衛死んでるだろ

308 :
父親の功績が大なら幼君でもない限り
子息だって所領安堵はされるし
生前に活躍が認められていたなら
そもそも現役の時代に小禄のまま終わるわけがない

はい論破

309 :
信長が付けた鬱陶しい連絡将校

310 :
>>308
半兵衛死んだ時息子は6才な

311 :
で?大幅に半兵衛が知行を得ていたとか
それを代替わりで削られたわけ?
そもそもが微禄なんだから話にならん

312 :
ここまで半兵衛がすごかった!高禄だ!って誰も言ってないけどおまえは誰と戦ってるんだ?

313 :
ロンパマンが出してくる美濃三人衆とか秀吉子飼いの例が雑すぎて全く比較対象にならず逆に論破されるの繰り返し
頭悪そう

314 :
竹中は大名ですらない万石未満の木っ端やん
黒田と比べるとか恥ずかしくないのか?
竹中の比較対象はせいぜい平野長泰レベルじゃろ

315 :
>>314
いやいや、そんな大名未満の人物が、龍興の側近を斬殺して稲葉山城乗っ取るとか、第六天魔王の命に反して松寿を匿うとかしたから、後世に名が残った。
後者はよほど肝が座っていたのか。弟も嫡男もいただろうし。
もっとも、半兵衛は信長のことを、結果良ければ全て良しの人と見切っていたのかもな。
「良い」というのは、「正しい」ではなく、信長に利をもたらすという意味ね。

316 :
>>315
才覚なさ過ぎて大名に上がれなかっただけなんだよなぁ

317 :
>>315
馬鹿じゃないのかお前は

318 :
黒田はそもそもそこそこの家格があるからな

319 :
というか竹中が5(+1)千になったの重門本人の功績の方が大きくないか
武功は親父を完全にうわまわってね?

320 :
>>315
稲葉山乗っ取りは実質、安藤守就勢のクーデター
竹中主導で行われたわけではない

321 :
よくこの手の伝説が付随する軍師って
実力も功績もあったが、権力者に能力を危険視されたとか
本人に出世浴が無かったからとかで知行が少なかったみたいな言われ方するけど
実際、実力(功績)=知行なんだよなあ
当然、権力者の身内とか血縁ってだけで不相応な知行を受けている人物もいるけど
実績があるけど知行はもらえなかったって人物がほぼいないんだから
結果を出せば出すだけ知行は増えるし、権力者も与えるってのは普通だからな…
実際、竹中以上に外交・調略・合戦と全ての分野で活躍した蜂須賀さんは
播磨時代で龍野5万3000石とかもらってるわけだし
竹中の伝説が事実ならあんな知行で終わるわけがない

322 :
×出世浴
○出世欲ね

323 :
>>321
国人衆扱いなんで知行ではなく領地の安堵で済む話
美濃三人衆も含めて美濃衆は織田軍団では基本的にすべて国衆扱いだよ

324 :
蜂須賀さんも国人衆ですが?なんで知行安堵で済まなかったのかな?
信長・秀吉時代とも厚遇されてるし、それを認める信長・秀吉の書状もある

325 :
>>324
蜂須賀が美濃衆だったなんて聞いたことないぞ?
美濃の国人=美濃衆だと思ってるな

326 :
>>323で「国人衆」「国衆」と書いてあるからそう書いたのだが
蜂須賀はウィキペでも「尾張を拠点とした国衆」とある
蜂須賀が美濃衆だとは言っていない

327 :
拠点が尾張か美濃かってだけの違いで
方や万石クラスの国持大名となり
方や1万石にも満たない知行で生涯を終えたってだけで
実力なんて知れるだろ

328 :
>>327
例えの前提が間違ってるからねぇ
蜂屋頼隆のように美濃の国衆出身でありながら黒母衣衆として直臣になったりしないと出世云々で比べるのは評価の対象にならない

329 :
だから竹中が伝説の軍師並みの活躍がったのだ、って屁理屈には繋がらない

330 :
ならば竹中は蜂屋以下って事だろ

331 :
>>329
誰も竹中を評価してないんだが
それよりも下にある頭の悪い例を見下されてるだけだろ

332 :
(´・д・`)バーカ

333 :
黒田如水って朝鮮出兵後の関ヶ原に5千人送り込んで貯めてた資金で九州で5千人編成って幾ら何でも無理ありすぎでしょ
どう考えても12万石や18万石で出来る芸当じゃない
いったい関ヶ原前の黒田家の石高はどれくらいなんや…

334 :
32万石

335 :
良スレ

336 :
>>263
実際これだろ
キリシタンだっていうのが一番ネックだったんでしょ
九州転封だって左遷というより先々の朝鮮出兵を考えたら前線配置でしょ
出兵の本拠地名護屋城築城も官兵衛にやらせてるし
後に官兵衛が如水と号して入道するのもキリシタンがネックになってたのを正しましたって意思表示でしょ

1年幽閉されても寝返らなかった官兵衛を疑うなんて
本願寺狂いするかキリシタン狂いするかしかないでしょ

337 :
竹中半兵衛・・・裏切らない、武力95
黒田官兵衛・・・すぐ裏切る、それを逆手に取られて能登半島で氾濫起こして処断

338 :2020/01/18
官兵衛は過大評価過ぎる
半兵衛は早死にで評価できない

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