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【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】
- 1 :2007/02/09 〜 最終レス :2020/01/17
- 四国地方の戦国大名について語り合うスレです。
瀬戸内、淡路、豊予、太平洋側の水軍(海賊)の話もOKです。
四国は三好、長宗我部、村上水軍だけじゃないはず!
【河野・安芸】四国の戦国大名【長宗我部】
http://hobby9.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1149000541/
- 2 :
- とりあえず有名どころ
伊予・・・河野、西園寺、宇都宮、来島
土佐・・・長宗我部、一条、土居、安芸、香宗我部
讃岐阿波・・・阿波細川、三好、十河、池田、香川、大西
淡路・・・篠原、安宅etc...
水軍・・・風早河野、三島村上、来島村上、飽塩、篠原etc...
その後の四国にまわされた武将、藩主など。
伊予…加藤嘉明・光泰、藤堂、脇坂、戸田、福島、小早川、安国寺、伊達、一柳、蒲生、久松etc...
土佐…長宗我部、山内
讃岐阿波…十河、香川、長宗我部、生駒、蜂須賀
淡路…仙石etc...
- 3 :
- いらさい。
- 4 :
- ( ´゚ω゚` )
- 5 :
- 良かった良かった。
- 6 :
- 100に届くかな?
- 7 :
- 鳥無き島
- 8 :
- 土佐佐竹氏は常陸の佐竹氏と遡れば同族なの?
- 9 :
- 河野氏は同名の武将が多くて分かり辛い。
- 10 :
- 河野ってどうやって滅びたの?
- 11 :
- 長宗我部の侵攻に耐えきれず降伏
その後、秀吉の四国征伐で長宗我部共々所領没収
- 12 :
- 伊予は水軍が発達して交易が盛んだったろうから
湯築城下はかなり賑わってたんだろな。
石高も32万石(伊予全体で)とまずまず豊かなほうだ。
河野家の当主がもうちと出来た人物だったらな。
- 13 :
- 四国の戦国は
土居清良に
名を為さしめるために存在したようなものだな
- 14 :
- >>12
河野通直の後継を娘婿の来島通康にする話がすんなり通ればよかったのにね
- 15 :
- >>12
伊予全体を支配していないから。
- 16 :
- 河野氏の功績は
大山祇神社を保護し多数の武具等を後世に伝えたことだな
- 17 :
- 伊予の西園寺家はマイナーかな?
- 18 :
- 金子氏の方がマイナーだな。
- 19 :
- >>17
公良が伊予松葉城(岩瀬城)に入ったのは 永和2年(1376)と
土佐一条よりだいぶ前なんだけどね
- 20 :
- 河野氏の別れで得能氏っていましたよね?
- 21 :
- http://human7.2ch.sc/test/read.cgi/honobono/1175259936/
- 22 :
- 国虎タン
- 23 :
- アゲ
- 24 :
- >>21
確か南朝方について没落したんだよね
- 25 :
- >>24訂正
>>21→>>20
- 26 :
- 吾妻鏡にみえる西園寺公経が宇和郡を欲した話って、どんな話なんだろうか?
- 27 :
- >>26
ここ面白いよ
網野善彦 「西園寺家とその所領」
ttp://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm
- 28 :
- >>16
でも世間では全然知られて無いよね
- 29 :
- 四国と同じで地味なスレだな。
- 30 :
- 本山氏の出自って結局どこなんだろうか。
- 31 :
- 鳥無き島の蝙蝠以下の人達だから。
- 32 :
-
- 33 :
- 西園寺と河野との力関係はどうだったの?
- 34 :
- 河野に「通直」って名前の奴は、何人いるんだ?w
- 35 :
- 15世紀末期からだと、
通直(教通)−通宣−通直−通政(晴通)−通宣−通直−通軌
なので約100年の間に3人もいるなw
- 36 :
- ところで通軌って実在するの?
河野家譜の築山本には宍戸元秀の子と書かれているけど、
宍戸氏の系図にも出てくるんだろうか…。
- 37 :
- あれー江戸時代の伊予って松平じゃないの?
- 38 :
- あげ
- 39 :
- 松山藩
加藤嘉明(1600〜1627/蒲生氏と入れ替わり会津へ)
蒲生忠知(1627〜1634/嗣子なく断絶)
松平定行(1635〜/久松松平)
今治藩
藤堂高虎(1600〜1608/転封)
松平定房(1635〜/久松松平)
大洲藩
脇坂安治・安元1608〜1617/転封)
加藤貞泰(1617〜)
宇和島藩
(1595年〜1600迄藤堂高虎)
富田信高(1608〜1613/坂崎直盛との政争で改易)
伊達秀宗(1614〜/政宗庶長子)
小松藩(西条藩主一柳直盛より相続分与で立藩)
一柳直頼(1636〜)
そんなわけで久松だけではなく伊達、加藤、一柳がいる。
そして紀州藩支藩の西条藩は久松じゃなくて紀州徳川。
- 40 :
- 我が軍には鶴姫がいるではないか
- 41 :
- >>40
大祝氏の娘云々の「鶴姫」は戦前の作り話だけどね
- 42 :
- >>39
伊予は南予、中予、東予の地域差があると聞いたことがあるけど、諸藩の配置にも関係するのかな?
- 43 :
- 東予と南予が藤堂高虎と関連してるんだよね 確か。
- 44 :
- 南予は西園寺の勢力圏だね。
- 45 :
- 東予は細川?村上?
- 46 :
- 四国の大名は元弘・南北朝・応仁でどのように分かれたの?
- 47 :
- その時期の四国はほとんど細川一色じゃないかな
伊予や淡路が南朝の根城だったらしいけど
- 48 :
- 鎌倉時代から残っている家はほとんどないんじゃ。河野は本家は六波羅主力→北朝。分家は討幕→南朝だったはずだけど。
- 49 :
- 土佐に満良親王が派遣されたんだって?あまり聞かないね。
- 50 :
- 親王は彼方此方に派遣されてるからな
- 51 :
- 脇屋義助くんも来ていたよ。
- 52 :
- >>45
伊予は原則、河野の守護領国だったけど、東予は細川が分国守護だったらしい。
- 53 :
- 東予は河野氏の支配も今ひとつ浸透しなかったようですな。
- 54 :
- 南予だって西園寺が事実上独立してたし、実質的に河野は中予だけの戦国大名だな。
- 55 :
- 河野氏は代を重ねる毎に弱体化していったのですな。
数多の分家や被官をまとめる求心力がね。
- 56 :
- 最後は毛利に寄生するような感じだったしね(最後の当主が舅の小早川隆景に寄宿)。
フェードアウトというか、縮みっぷりが物悲しいw。
- 57 :
- >>56
かく申す私の家も元は河野氏支流なので悲しさ一塩なのですな・・・。
- 58 :
- 南北朝期の伊予は河野本家は北朝方で伊予国守護・宇都宮氏に従っていました。
河野支族の土居氏・得能氏は南朝方ですな。海賊衆の村上氏・忽那氏・祝氏らと共に
活躍し、一時の伊予は南朝方が優勢ですらありました。
しかし讃岐守護・細川頼春の西進によって壊滅するのですな。
それに端を発している訳でもないのじゃが、河野本家は求心力に欠けているのですな。
- 59 :
- 連投で相済みませぬ。
戦国期になっても伊予一国を支配するほどの大名は遂に現われず、
中予の河野氏・宇都宮氏、南予の西園寺氏あたりが大名クラスですかな。
宇都宮氏は鳥坂峠で敗れて後は家臣の大野氏に取って替わられますな。
大野氏は河野支族でありながら長宗我部氏と結んで反河野行動をとります。
東予はも細川氏の元被官の石川氏がおりましたが、家臣の金子氏・高橋氏が
台頭、金子氏は長宗我部氏と同盟を結びますな。
長宗我部氏の伊予進出は中予・東予では在地勢力との同盟関係で行われたが
南予では軍事行動でしたな。
九州の大友氏や土佐一条氏との戦いで弱体化した西園寺氏を最終的には制圧。
もはや河野氏にとっては毛利氏との結びつきを強める事でしか存続を図れなかったと
いう事ですな。
その甲斐あって秀吉の四国侵攻まで河野氏は中予支配を維持して、長宗我部氏の
四国統一を完成させなかったのですな。
長文にて申し訳ございませぬな。
- 60 :
- バチカン四国って、バチモンくさいな。
- 61 :
- 江戸時代の来島氏って、九鬼氏みたいに内陸の大名家になってるんだな。
- 62 :
- >>61
関ヶ原合戦の際、当初は西軍として村上水軍と共に伊予の東軍方を攻め、
のちに東軍側に加わって、豊後国の内陸部に1万2000石を賜っています。
九鬼氏同様に徳川幕府の水軍封じ込めの一環だと思われますな。
村上水軍は東軍の加藤嘉明居城を攻めた際に当主の元吉が戦死、嫡子は
毛利氏の船手方として周防国三田尻に移り、海賊衆の伝統を残したのとは
対照的ですな。
- 63 :
- >>62
時代を下るにつれて、水軍の技術は失われていったんでしょうな。
残念なことです。
- 64 :
- >>63
同感ですな。
ただ今でも周防から長門あたりには「○○丸」等の船名のような苗字の方も
おられますが、もしかするとその名残りなのかも知れませんな。
- 65 :
- >>64
「〇〇丸」の元は船の名前ではなく、小高い丘のことを「丸」と俗称することに由来すると思われ。
西日本(北九州と山陽)に多い苗字らしいので、船名を由来とする家も中にはありそうだけどね。
- 66 :
- 源五郎丸洋のことかー!
- 67 :
- >>65
ご指摘に感謝します。
確かに城の「一の丸」などの呼称もそうでしたな。いや、これは失礼!
私の知り合いは長門の漁師の出で「今朝丸」と申したもので。
- 68 :
- 河野は秀吉の四国征伐まで滅びなかったんだから
毛利の助けがあったにせよ底力はあったんじゃないか
周囲の強豪に何度も攻め込まれているが防戦に関しては9割方勝ってるよ
しかし四国の戦国大名ってひとつ残らず滅亡したな
- 69 :
- 仙石のせい?
- 70 :
- 仙石がいなかったら戸次川で信親が戦死する事もなかったかも。
そうしたら四国の歴史も少しは変わっていたのでは。
- 71 :
- あれって四国の大名を一掃する為のわなだったんじゃないかとすら思う
- 72 :
- だとしたら・・・猿め、なかなかやりおるわいw
- 73 :
- 元親夫人の奈々が亡くなったのって1584?それとも九州征伐の頃?
- 74 :
- 戸次川合戦で信親を失い、伊予の日振島で落胆していた元親が
妻の死の報にも接して、さらに落胆したとする史料もありますね。
- 75 :
- 盛親に家督をつがせたのは、菜々の子だったから?
- 76 :
- 単に上の2人はもう養子に出しちゃってたからじゃね?
- 77 :
- 信親も菜々の子だから、2人が亡くなってショック受けたため、菜々の子で信親の実弟の盛親に家督を譲りたかったのかも
- 78 :
- 他家に出た二人は別腹だったの?
- 79 :
- 全員が同腹の子かと。
- 80 :
- そうだったのか
自分77だが、夏草の賦には「菜々の子は盛親だった」みたいに書かれてたので養子に行った二人は側室の子かと思ってた
間違ってたならすまん
- 81 :
- 美濃の斉藤伊豆守利賢の娘を娶ったのは永禄6年(1563)、元親が25歳といわれる。
以来、5男4女をもうけたと伝わっているよ。
長男・孫三郎信親、次男・五郎次郎親和、3男・孫次郎親忠、4男・右衛門太郎盛親、
長女は一条内政室、次女は吉良親実室、3女は佐竹親直室、4女は吉松十左衛門室、
そして5男が右近大夫だと。
- 82 :
- 右近大夫が正室腹ってのは見つけないけど、何の史料?
- 83 :
- >>82
81です。誤解を招いた言い方で申し訳なかったです。
これは徳永真一郎氏の採っている説ですが、典拠についてはまた調べてみます。
(司馬遼太郎氏は信親と盛親が正室腹だとしておられますね。)
- 84 :
- >>81
25歳って、随分嫁をもらうのが遅かったんだな。
今なら40歳くらいの感覚かな?
- 85 :
- >>84
元親の初陣と家督相続が22歳なので当時としては遅いですよね。
また、本山氏との戦いの最中でもありますしね。
- 86 :
- >>83
真面目に言ってると思うからマジレスするけど、どちらにしろそれ小説家。
むろんそんじょそこらの歴史オタよりよほど収集、分析はするだろうけど、
説の正しさや史料への準拠より「フィクション」「作品」としての完成度を
求めるべき人たちの名前をこういう場であげるのは場違いだよ。
>>84
元親の正室に関しては年齢から継室なんじゃないかとは言われてるね。
最初の正室は子供生まずに、あるいは最初の数人生んで若くして亡く
なったんじゃないか、と。
- 87 :
- 信親が生まれたのは菜々が嫁いだ後のこと
- 88 :
- 元親の婚姻に関しては土佐国編年紀事略の永禄六年には「頃年、元親〜」
としか記載がない。25歳で結婚と特定しているのはあくまで土佐物語の話。
まぁ俺も信親は正室腹と思うけど、継室と考えれば長女も含めて可能性は
否定できない、て事で一応併記した。
- 89 :
- >>86,88
83ですが、もちろん場違いなのは承知ですよ。
80さんが「夏草の賦」のお話をされていたので作家ベースで語らせていただきました。
諸方に誤解を招いたようですね。申し訳ないです。
元親の婚姻についても然りで、あくまでも「といわれる」「と伝わる」と記したのも
それが正説ではないかも知れないとの理由からです。
重ねてお詫びいたします。
昨今は小説やゲームで長宗我部家にご興味を持たれる方々も増えていますよね。
ですので、貴殿のように史実をあげて解説いただける方はとても貴重な存在かと。
当方も長宗我部関係者として頼りにいたしております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。
- 90 :
- 香川の戦国大名や豪族について調べてるんだけど、
寒川氏の居城のうち寅丸館って今現在大きい公園があるあの辺でいいのかね
昼寝城とかはしっかり看板とかあってわかったけど
- 91 :
- >>90
虎丸山の麓、別所地区に居館があったと思われるがハッキリとはわからない
「城の内」と呼ばれる地名もあるし、城内と繋がっていたであろう道もあるにはあるけど
- 92 :
- >>91
ありがと、とらまる公園とかいうあたりだと勝手に思い込んでた
引田城とかもいってみたけどあれは江戸時代の遺構だったお
- 93 :
- >>92
引田城も今ひとつ調査されてないんだよねぇ
生駒氏入城以前の状況がよく判らんのよね
落ちてる瓦は生駒時代の物で間違いないそうだ
石垣積みなおしたりすれば何か判ることもありそうだけど
- 94 :
- 讃岐の香川氏が相模国香川庄出身とすると 県名も相模から来た事になる・・・
- 95 :
- >>94
香川氏と香川県は関係ない
- 96 :
- >>94
県庁所在地のある高松は旧地名でいうと讃岐国香川郡高松だよ。
現在の県名が外から来たこと例もあるけどな。
例:福岡県(備前福岡から)
- 97 :
- >>14
最近は、来島騒動は、通直の後継争いなどではなく、
親大内派と親大友派の争いで、親大友家臣団が晴通をかついで
通直に対抗したもので、当時の西日本の情勢の変化に影響された結果だと
いう研究があるね。
っていうか、来島通康も晴通も通宣もみんな通直の実子だそうだし。これが事実なら、
通康は妹とケコーンってことに。萌える。
- 98 :
- >>35
通直(教通)のひいじいさんも通直(通尭)だ。
ともに、刑部大輔なので官名で呼び分けることもできず、厄介だ。
- 99 :
- >>97
全くの空想なんだがその場合は通康の妻が実は来島村上氏の出だったて可能性は?
- 100 :
- >>99
まあ、来島通康の妻として有名なのは河野通直の娘だけど、
宍戸隆家娘もいるからね。
来島の末裔の誰かが、河野氏の総領家としてふさわしいのは、
我が来島だ!として、通直の娘婿だったんだぞ、さらに通直は
通康に家督を譲ろうとしたんだ!くらいのことをでっちあげたのかも。
なにしろ、河野氏って、戦国時代は弱弱で、これといった実績もないくせに
支族末裔はえらい多いし、何故か伊藤博文までが河野氏の出と言い出す
始末。正岡子規や秋山兄弟がが河野の末裔を名乗ったのは、同じ松山だからわかるとして、
なぜ、伊藤。明治時代の西瀬戸内は突然の河野氏ブームだったのか。
- 101 :
- なるほど、昔は地元でそこそこ活躍したけど今に本流の子孫が残っていない(あるいは発言力が無い)家として便利だったと言う事か
- 102 :
- 河野宗家は通直で断絶したんだね。
- 103 :
- 予州家とか池原とか、いろいろあった分家はどうなったんだろ
- 104 :
- >103全く根拠ないけど、
通直の竹原移住に付いて行って、
目端がきいたやつは宍戸家に仕えて
毛利家臣になったりしたんではなかろうか。
そういう連中の末裔が>100の伊藤博文だったりして。
- 105 :
- >>71
結果として戦国期に四国で活動していて江戸期に大名家として残ったのは来島家だけ、だと思う。
伊予の西園寺氏も戸田氏に謀殺されているし、同時期の竹原での通直の死も病死でないのでは、
としている研究もあるね。
- 106 :
- 伊藤博文が河野末裔?
長州人がどうせ名乗るなら(名門で地縁があり)大内とか尼子がいいのに・・・と言う事は真実なのかもよ
- 107 :
- 本能寺の変直後の伊予国のパワーバランスってどんな感じですか?
国力・兵力など。
なんか伊予=河野みたいなイメージ強いけど
その頃にはもう全然支配力なくなってたわけでしょ?
河野家を10として基準にすると
西園寺・金子・来島村上・能島村上とか、どんな規模だったんでしょうか?
- 108 :
- 詳しい比率は分からんので、とりあえず所属だけ。
西園寺 ――― ギリギリ大友配下だっけ
金子 ―――― 一応長宗我部
来島村上 ―― 羽柴に寝返り済み
能島村上 ―― 毛利だけど半自立
正直、伊予だけの国力差みても意味ないと思うけど。
- 109 :
- >>108
いや、その辺の外交関係?は把握済みなんだけど
某ゲームで兵力バランスをどうしようか参考にしようと思ってて。
戦国末期(四国征伐直前くらい)の勢力バランスって
どんなもんだったのかなーと。
伊予で一番勢力保ってたのはどこ?程度でもいいんだが。
- 110 :
- それなら、長宗我部が文句無く第一等だろう。
東予は完全に抑え、南予もかなり侵食してる状況だし。
かなり恣意的だけど、長宗我部:河野:西園寺で6:3:1くらいじゃないかな?
これでもまだ後者に補正かけてるくらいだと思うけど。
- 111 :
- ありがと。
いや俺の書き方が悪かったんだけど
長宗我部が一番なのも理解してるんだ。
長宗我部を除いた、伊予の諸勢力の兵力・国力比率を知りたかったんだ。
少なくとも河野>西園寺ではあったの?
なんかイメージ的に西園寺の方が合戦の記録が多いような気がするんだけど。
- 112 :
- 土佐から伊予に入ろうとすれば、南予に行くか、
阿波・讃岐方面から東予に入るしかないんだし、
東予が河野領でない以上、西園寺との交戦のほうが多くなって当然じゃね?
比率に関してはゴメン、適当。
道後平野の分、石高では河野の方が上かなと思ってみたりしただけ。
- 113 :
- まあ、そうなんだけど
河野氏は小早川隆景の庇護下にあってどうにか勢力を維持していたのに対し
西園寺は大友や長宗我部に最終的には降伏してるけど
そこそこ善戦して、局地戦では勝ってる事も多いし(久武親信を討ち取ったり)
四国征伐までは何とか家を保ってたわけだから、
(よく言えば、時の権力者に次々乗り換えて、家を残したともいえるし)
組織力的には単独で考えた場合、河野より上だったのかなあ?とか。
河野は末期にそれまで従えていた石川・金子・来島とかにも離反されてるし。
- 114 :
- 室町中期に東予2郡は細川家の分郡守護なわけで。
ということで石川、金子はそもそも河野配下ではないのでは…
- 115 :
- 石川氏、金子氏ともに在地豪族で、室町期以前より河野氏配下だよ。
細川氏は東予二郡守護とはいっても、当時の中予以西は河野氏の勢力圏内。
しかも南北朝期には敵対関係となったこともある両者だから推して知るべし。
石川氏の居城とされる高峠城も元々は細川氏に対して河野氏が築き家老の
石川氏に守らせたもの。
この後、戦国期に石川氏は河野氏からの独立を企て、阿波の三好氏を手引き、
却って河野氏に攻められて弱体化、更に長宗我部元親の攻撃に降伏。
石川氏の家臣だった金子氏は主家の衰退をみて独立を図って長宗我部氏と
密かに通じて、長宗我部氏に東予への楔を打ち込ませたんだよ。
- 116 :
- 知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1417233679でも
質問させていただいているのですが
「長宗我部親吉」について、わかる事がありましたら教えて下さい。
「長宗我部一門で、秀吉の四国侵攻で抗戦し、土豪に討ち取られた」以外に
何か伝わっている事績はあるのでしょうか?
また、戸波親清が「親吉」を名乗っているのは何か関係があるのでしょうか?偶然?
実在を疑われる(資料に乏しい)人物なのか
家系図等にもでてくる存在が確実視されている人物なのでしょうか?
- 117 :
- >>116
親吉は阿波平定戦で脇城を攻略しているが、それ以外だと四国征伐の時ぐらいなので、
よくわかってないことが多い。
元親の叔父・甥とも言われるが、不明。
元親の叔父とすると生年が兼序死去以前になるから、1585年当時の年齢が80歳頃となり、極めて不自然。
逆に甥とすると、1539年生まれの元親の甥ということは1585年当時に20歳前後となり若すぎてまた不自然。
実在を疑うことは可能だが、では脇城で活躍した人物は誰なのかかを新たに発見しなければ、
親吉の実在を否定する意義は余り無い。
系図に載ってるかどうかは知りたいところだね。
戸波親清が親吉を名乗ったかどうかは不明のはず。確実な文書は見たことがない。
親吉は勇猛だったとされるから、それにあやかって一時名乗ったと考えることはできるので、
その際に混同されるようになった可能性は否めない。さすがにその確率は低いと思うが。
偶然だと思う。
ちなみに親清は元親にとっては従姪(じゅうてつ)に当たるため、
「親吉は元親の甥」という説明に関しては、親吉が親清を指す場合は誤りではない。
- 118 :
- 長曾我部家って大阪の陣の時に子供もろども殺されたんちゃうん
- 119 :
- >>118
盛親系はその通り。
元親の妾腹の子とされる長宗我部康豊が酒井氏に召し出されて仕えて子孫を残したほか、
吉良親実の子孫である町氏が明治になって長宗我部氏に復したはず。
- 120 :
- >>117
なるほど。ありがとうございました。
とりあえず、それらしい人物は確認できるが
詳細は不明、って事ですね。
戸波親清同一人物説は低いにせよ、親吉自体は
誰か複数の人物の事績が混同されている可能性も否定できないわけで。
(例えば一門・某の親と子の事績が一緒になっているとか)
- 121 :
- 福留政親についてなのですが・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%95%99%E6%94%BF%E8%A6%AA
wikiでは「大阪の陣では、長宗我部盛親の陣に参陣」とあり
http://www.geocities.jp/masaru_mania_top/KtosaH.html#han
こちらのサイトでは、「長宗我部改易後は徳川家に仕えて、大阪の陣では井伊隊に所属」とあります。
どちらが、本当なのでしょうか?
盛親に付いたか、徳川に付いたかで、彼の人生は大きく変わると思うのですが・・・
また、彼の大阪の陣後、の記録は何も残っていないのでしょうか?
- 122 :
- >>115
宇都宮氏も西園寺氏も河野氏配下だよと言うのと同じ位には
石川氏や金子氏も河野氏の配下と言えるかもね。
新居、宇摩の石川氏は河野氏系列ではなくて、元は備中守護細川氏の配下の
石川氏系統だったような気がしたのだけれど違いました?
- 123 :
- >>121
誤爆しました。すみません
- 124 :
- >>122
何かイヤミな物言いだよね。
そこまで言うならご自分で調べてみたら如何かな?
- 125 :
- >>124
122じゃないが、調べてみたら115より114や122のほうが相応しいという結果だった。
石川氏は122の言う通り細川氏の家臣で、在地豪族じゃない。
高峠城を守ったのは石川氏じゃなく河野氏で、河野宗家と対立する河野予州家っぽい。
河野宗家vs河野予州家<<従属<<石川氏<<従属<<金子氏<<支援<<細川氏・三好氏
河野宗家と予州家が講和状態のときは石川・金子は河野家臣といえるが、
両家が対立状態のときは家臣とはいえないみたいだ。
ややこしすぎるぞ石川w
- 126 :
- 予州家と宗家の抗争は約百年も続いたのね
- 127 :
- >>118
>>119氏に補足すると、香曽我部親泰の子孫は、最終的には春日局の縁を
頼って堀田氏の重臣となっています。
また、佐竹親直の子(元親の外孫にあたる)は柴田外記で、仙台藩に仕えて
伊達騒動の中心人物のひとりになり、その子孫は船岡城代を世襲。
- 128 :
- その事件の首謀者と目される伊達兵部が土佐に流され
生涯を閉じたのも何かの縁でございましょうな。
- 129 :
- 一条や西園寺のような公家大名が結構な武力保有してるな、四国って。
信長にあっさりやられた北畠や姉小路よりがんばったともいえる。
- 130 :
- 姉小路はもはや公家じゃないような
西園寺・一条は周囲に強大な勢力がいなかったのが大きいような
- 131 :
- 北畠はかなり粘っていると思うが
- 132 :
- >>129
天正年間に滅んだ姉小路は公家の姉小路とは別物だ。
公家の姉小路は天文〜弘治に三木に取って代わられて滅んどる。
北畠も何だかんだ言って藩士として江戸時代にも生き残ってるしな。
逆に一条や西園寺は子孫がなく滅亡してるし、
少なくとも北畠よりは頑張れていないな。
- 133 :
- 建武期に上り調子で国司になった北畠氏と比較するのも如何なものかと・・・・。
- 134 :
- 信長さえいなければもっと長続きしただろうな、と思わせられる北畠
誰が隣国でも勝手に自滅するんだろうな、と思わせられる一条
つーか一条って大名だったなの?
- 135 :
- 今住んでるところは、狭い地域に曽我部さんという苗字の人がすごく多いんですが
長宗我部となにか関係あるんでしょうかね、落人の子孫とかですかね。
ちなみに愛媛側なんですが
- 136 :
- 長宗我部も香宗我部も元々は曽我部氏で、長宗我部の方が後から土佐に来たけど
区別のために居住地の郡名(長岡郡・香美郡)を名の上につけたのが始まりだから、
関係あるといえばあるけど、さすがに子孫ってのはないと思う。
- 137 :
- >>134
名目上長宗我部元親の主君なので、形骸でしかないが一応は大名かと。
大名に含める必要性は無いとは思うが、一応は、ということで。
- 138 :
- 主君ではないのでは?
- 139 :
- >>138
多聞院日記に「一条殿の内」と記載されているので、
一条氏の家来という認識をされることがあったのは確か。
ま、一条が長宗我部の主君であるという典拠はそれぐらいしかないけどw
- 140 :
- 国司という地位が当時の地方ではさほど意味のない事を
中央は判ってないしね、仕方ないかw
- 141 :
- 国司や摂関家に連なる氏族だったからこそ
一条はうまくやっていけたんじゃないか?
突然土佐に流れてきてあの存在感はすごいだろ
- 142 :
- 守護の細川家が土佐にはあんま興味なかったから
- 143 :
- 明治生まれの徳島の祖母が
悪いことをしたら、ソガベが首を取りに来ると
脅かしていた。
ソガベ」て鬼のことと理解してたが、
やっと、意味が解った。
- 144 :
- そういう話は南予地方にも残っていますね。
- 145 :
- 讃岐にもあるよ。
- 146 :
- 結構ひどい事をしたの?
- 147 :
- ひどいことをするから地下人は豪族について侵略者と戦うんだよ。
- 148 :
- それは長宗我部に限らんでしょうが。
- 149 :
- 特に強暴だったの?そうでもないんじゃ。
- 150 :
- 部落県徳島の自演につきあうなよ
どマイナー武将しかいないどマイナー県のヒガミやから
- 151 :
- そうかな
いろんな名族の自称ご落胤とやらには事欠かない地域
南北朝時代では激戦地だし、戦国時代にしても、瀬戸内海交通の要地だったことには変わりない
- 152 :
- そんな要所も三好家の没落とともに終焉が
- 153 :
- >>134 オフランス貴族
- 154 :
- 河野や十河が大名なら大名だろな。
- 155 :
- そもそも四国の大名の定義って何だろね???
- 156 :
- 河野氏で像があるのは六郎さんだけ?
- 157 :
- >>156
松寿丸もある
- 158 :
- 元親の家臣で、四国統一の際には香川や徳島で戦った野中家の子孫の一人です。
野中肥後守貞吉やその長男の右近重治、次男の市正頼綱、
三男の三郎左衛門親孝、四男の貞俊についてなにかご存知の方いませんか?
小学校の時には同じクラスに曽我部さんがおり、そうして野中家の子孫がいたという
戦国時代そのままだったんだなと今感慨にふけっています。
- 159 :
- うちのクラスにも野中くんいましたよw
他に津野くん福留くん別役くん五百蔵くんなどなど
今にして思えば凄いメンバーだったんだなとw
ちなみに私も高岡郡下の土豪の子孫です。
- 160 :
- 中学時代は吉良・三宮・久保
高校時代には一円姓の友人もいたな〜
- 161 :
- レスどうもです。
いましたよね。
ほかに萩野、浜田、細川、横山、豊永、吉田、谷、佐竹。。。
どうしてこんなに多いのかというと香北町(野中家の居城があった−芳野城)の隣町、
土佐山田町の山田小学校と鏡野中学校の出身だからです。
小中のみを通じてみると、私のクラスメートで野中姓は3人いました。
そのほか長宗我部氏に敗れた山田氏関係で言えば、山田、楠目、西峯もいました。
香北町には萩野、五百蔵といった地名があるし。
- 162 :
- >>161
こちらは高知市内で高校まで育ったんだけど
前述のような長宗我部遺臣の姓がゾロゾロでした
あ、私も遺臣の子孫だったwww
- 163 :
- こんな時間まで起きておられてお疲れさんです。
ところで長宗我部氏遺臣というとき、どうですか、
家系図とかで確認しています?
うちは両親ともに家系図のほかに町史や村史で確認していますが。。。
そのあたりどうです?
- 164 :
- >>163
いえいえ、貴殿こそ乙です
もちろん史書類、家系図をはじめ寺の過去帳などなどですね
ちなみに家系図は先日、新調しましたw
- 165 :
- >>164
子孫としては万全ですねぇ。すばらしいです。
- 166 :
- >>165
いえいえ、それを子々孫々に伝えていくのも私の仕事かと
思っておりますのでw
お互いに頑張って残していきましょうね!
- 167 :
- 阿波…三好氏 大西氏 佐藤氏 (阿波)足利氏 新開氏 一宮氏 海部氏 仁宇氏 阿佐氏
香川県…十河氏 香川氏 安富氏 香西氏 羽床氏 寒川氏 奈良氏 由佐氏
愛媛県…西園寺氏 河野氏 土居(河野系)氏 土居(穂積系)氏 久留島氏 能島村上氏 宇都宮氏 大三島大祝氏 重見氏 大野氏 忽那氏
二神氏 金子氏
高知県…長宗我部氏 安芸氏 本山氏 香宗我部氏 一条氏 大平氏 津野氏 吉良氏 山田氏 豊永氏 片岡氏
- 168 :
- 長宗我部氏の家老
吉田備中守、桑名藤蔵人、福留飛騨守、中嶋大和守、姫倉豊前守、久武肥後守、江村備後守、吉田次郎左衛門、
久武内蔵助、国吉甚左衛門、中嶋右兵衛、桑名丹後守、馬場因幡守、吉田伊賀守、南岡左衛門太夫。
若年寄
久武彦七、桑名弥次兵衛、桑名将監、国吉三郎兵衛、姫倉太郎左衛門、中内源兵衛、江村孫左衛門、野田甚左衛門、
南岡四郎四郎兵衛、山川五郎左衛門、吉田弥右衛門、十市新右衛門、比江山掃部助、桑名太良左衛門、野中三郎左衛門、
横山九郎兵衛、横山三郎左衛門。
- 169 :
- キリシタンだったタミアン桑名古庵(桑名瀬兵衛)のお墓へいってきたら、「香」宗我部氏のお墓が二つありました。
香宗我部氏のお墓なんてはじめてみた。
- 170 :
- ちょっと前まで土佐一条氏や伊予西園寺氏を扱った(扱おうとした?)サイトがあったんだが
殆どが工事中で全コンテンツを埋めるまでにサイトを閉じちゃったんだよな・・・ 期待してたのに
やはり資料が乏しすぎるのかな?四国の公家大名は
- 171 :
- 元親は南予対策のため、一部を除き一條旧臣を中村や宿毛から排除した。
彼らやその息子は山内家、中村山内家、伊賀家(宿毛)、深尾家(佐川)に召し抱えられたらしい。
宿毛町は郷土史の研究が盛んで、伊賀家の家老・騎馬に一條遺臣・津野遺臣(とその末裔)が多くいたことが判る。
吉田茂の実父たる竹内綱の竹内家も一條遺臣末裔で伊賀家の家老の一つ。
林有造を生んだ林家は重臣とはいえないが、これまた一條氏遺臣末裔で、家老に次ぐ身分の騎馬。
幕末に林家長男(有造の長兄)だった英俊は家老の一つ岩村家(こちらは
一豊の国入りと共に入ってきた家だったような記憶がある)の養子になった←後に脱藩するが。
- 172 :
- 道俊 ○
秀俊 ×
秀俊は岩村通俊の親父さんだ。もしかしたら岩村家に養子か婿養子になったのは親父さんの代だったかもしれん。
林有造は親父さんの実家(林家)を継いだような。
あと、岩村通俊を林有造の長兄と書いたけど、長兄も何も有造は次男だから兄貴は通俊しかいない。
記憶が曖昧な上、寝ぼけててスマソ。後日出直します。
- 173 :
- 道俊じゃなく通俊の書き間違い。(・∀・)ダメダコリャ
- 174 :
- 林譲治も関係ありか、ああ有造の長男なんだ
- 175 :
- てす
- 176 :
- 一条の遺臣なのね。
- 177 :
- 戦国武将のご先祖の土地を500年来いまだに守っているという人いる?
うちはそうだけど。。。
- 178 :
- 守りたかったけど元親に滅ぼされちゃったからなあ・・・・。
一応、一族の末裔が住んではくれてるけどね。
- 179 :
- 人生いろいろ、運命いろいろ、そんでもって先祖もいろいろですなぁ。
うちの八幡様は古ぼけた小さなお宮なのでいま兄弟で
どうにかようせんといかんと思案中です。どうしたものやら。。。
- 180 :
- 城跡にそこの城主の子孫が今でも住んでるってのは何例か聞いた事があるな
- 181 :
- ヤフー知恵袋でも同じ質問をしていますので、御存知の方がいらっしゃいましたら、回答お願いします。
河野通秋について
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1322523158
- 182 :
- >>181
教通の弟(子ではありません)の通秋とは別人ですね。
教通の弟は一時期教通の跡を継ぎましたが教通よりも先に亡くなっていますので、
生年も没年も15世紀の人物になります。
吉見氏の食客として出てきている通秋については私もわかりません。
吉見広頼の娘が河野通直に嫁いでいますので伊予を失った後に
吉見氏を頼った河野一族がいたのかもしれませんが、
萩藩毛利氏の閥閲録にはそれ以前から毛利元就配下で活動している
伊予出自を謳う河野氏もいたようですのでそうした流れの人物の可能性もあるかと。
生没年がはっきりしているようなので、吉見氏関連の史料に詳しく出ているか、
位牌でも現地に残っているのかもしれませんのでその辺の詳細がわかれば
何らかの手がかりになりそうですが。
字が違う河野通昭であれば河野通宣(左京大夫)の子で後に築山氏と改めた系譜がありますが
年代が微妙にあわないように思います。
通昭あるいは宍戸氏から入ったとされる通軌など、竹原で亡くなった通直以後の系譜として
築山本河野家譜に現れる人物についてはどこまで1次史料で確認されているのかは
私も興味があるのですがあまり論じられているものをまだ見たことがありません。
こちらでも質問されるとまた別の情報が得られるのではと思います。
ttp://www.ehime.net/bbs/yuduki/index.html
- 183 :
- >>182
御意見ありがとうございます。
とりあえず、教通の子でないという事がわかっただけでも収穫です。
河野氏の一族が毛利に入っているのは知っていたのですが
河野家没落後に入った連中と、その前から入っていた連中との区別が難しいので
どっちなのかなーと思いまして。
紹介されたリンク先でも聞いてみますね。ありがとうございました。
- 184 :
- >>163
おや、うちは河野の子孫なので敵同士ですなw
掲示板越しに会話出来るなんて平和な世だなぁ
- 185 :
- >>184
最近の研究だとそこまで単純な敵対関係じゃなかったようで面白いですよ。
織田、長宗我部、毛利のパワーバランスによって状況が刻々変化していたようで。
実際、戦闘も郡内表(喜多郡)や宇和郡を巡るものがほとんどで
現在の松山市、今治市あたりには長宗我部軍は入ってきてないんじゃないかと思いますが、
あちこちに長宗我部軍と戦った伝承が残ってるのが興味深いです。
- 186 :
- >>185
ご丁寧にありがとうございます。
色々ご存知なんですなぁ。確かに、調べると面白そうだw
思い込みで敵認定ってのも失礼な話ですしね。反省。
- 187 :
- 最近は四国の戦国関係のサイトが次々と無くなってしまっていき寂しい。
- 188 :
- ブームも過ぎ去った感がありますね。
- 189 :
- >>125
河野予州家の本拠地は高峠城ではないよ。
河野通之が細川頼之の後援を得て、東予を支配したってのは嘘!
河野通之は御幸寺山城、通之の嫡男・通元は菊ヶ森城、通之の次男・通重は
名越城、通之の三男・通忠は行基山城を、それぞれ本拠としている。
全て中予地方だ。
ちなみに河野通元の子・通春は湊山城が本拠地だしね。
河野通之が兄・通義から家督を譲られた後、東予の諸将が新居・宇摩郡を
支配する細川氏に寝返るのを防ぐ為に、桑原通興に命じて鷺森城を築城して
るくらいだ。自分(通之)が高峠城にいて新居・宇摩郡を支配してるのなら
鷺森城を築城する意味がないだろ?
- 190 :
- >>189
125には
>河野予州家の本拠地は高峠城
なんてことは一言も書かれてないわけだが?
高峠城は予州家の属城ってことにしか読めんが。
元レスも河野予州家の話ではなく石川や金子は〜って話だし。
遅レスの上に見当違いなことを書くなよ。
- 191 :
- >>190
>高峠城を守ったのは石川氏じゃなく河野氏で、河野宗家と対立する河野予州家っぽい。
ここのとこに過敏に反応し過ぎてしまいますた。スマソ。
高峠城を築いて細川氏と戦ったのは河野通直(通堯)なのは
間違いないと思うんだけど、(この時点では河野氏の城)
1379年11月6日に佐志久原で河野通直(通堯)が討死した後、
細川氏との和睦の条件が新居郡と宇摩郡の割譲だったわけで、
この和睦以降、高峠城は細川氏の支配下にあったと考えるのが妥当では?
西條誌や保國寺縁起には、河野通直の討死後、石川通之が高峠城に入城し
支配したという記述がある。石川通之が河野通直の四男で幼名鬼王丸という
説明付きでね。まるで、戦国期に西条地方を支配した石川氏は河野一族だと
いわんばかりにね。
この話が誤伝だということが言いたかっただけでつ。
石川氏は河野一族ではなくて、備中石川氏の一族で細川氏の被官だお。
- 192 :
- 私の親の里が香川県の丸亀・旧・鵜足郡(飯野山南西・土器川中流周辺)なのですが、
戦国当時、鵜足郡はどの豪族が治めていたのでしょうか?
香川氏(観音寺周辺)、羽床氏(讃岐中央南部)、奈良氏(宇多津周辺)と考えているのですが、
上記三氏の中間地帯あたりにあるので、イマイチわからず気になったのでカキコさせて貰います。
お詳しい方居られましたらお教え下さい。
- 193 :
- >>191
熱くなりすぎだが、それぐらいに戦国時代にハマッてるのはいいことかもしれんなw
現在に伝えられる「歴史」をしっかり考証する姿勢を持ちつつ、
遊びの部分では妄想を膨らませて「歴史」を楽しみたいもんだね。
- 194 :
- >>191
たまたまなのか石川氏が通字に「通」の字を使っていたせいで、
子孫か誰かが河野氏との繋がりを誤解したか、利用したのでしょうね。
戦国期の石川通昌が備中から来たという話の検証が、以前の伊予史談に掲載されていましたが。
逆に細川通薫は宇摩郡から備中に戻ったと言われているんでしたっけ。
- 195 :
- 南北朝後期〜室町初期の河野通堯は、なかなかの人物だと思うんだけど、
みなさんの評価はいかが?
- 196 :
- その前にここは 戦 国 板 だ
- 197 :
- 14世紀初めから15世紀初めまでは南北朝時代の括りだろう。
さすがに戦国時代とはちょっと板的にズレすぎだ。
- 198 :
- 丸亀城は長宗我部軍により攻め落とされ、土佐の山崎氏が130石を賜ったことがある。
- 199 :
- 丸亀城は生駒が築いたと思ってた
- 200 :
- アンジェラ・アキって安芸氏の末裔か?
- 201 :
- 知らなかったの?
あき竹城が宗家だがな
- 202 :
- 分家が半島に渡り、戦後のドサクサで日本に不法に住み着いたのが和〇アキ子の先祖なんだけどね
- 203 :
- ほし〜のあきは、武家の血がそうさせるのか、馬にこだわっているね。
- 204 :
- 四国で栄えていたのは瀬戸内でいい?
- 205 :
- 大体合ってる
- 206 :
- 米の収穫量より交易か。
- 207 :
- >>206
別に交易の方が盛んってこともないだろうが、そもそも米がいっぱい取れる平野部も
瀬戸内海側とか吉野川の河口あたりに集中してるといってもいいと思う。
- 208 :
- 戦国後期の四国では石高はあんまりステータスにはならないだろうなあ。
河野、三好あたりは交易の利益がかなりあったろうし長宗我部は一領具足で石高以上の強さを持ってただろうし
- 209 :
- >>208
実力を必ずしも反映しないならむしろステータスでしかないんじゃ
- 210 :
- え?
- 211 :
- 米以外の部分も大きいということか。
- 212 :
- 細川は交易強いから 三好もそうなんだろうね。
- 213 :
- 長宗我部は外国から傭兵を雇っていれば良かったのにな
- 214 :
- ポルトガルとかスペイン?
それともスイス?
- 215 :
- 傭兵以前に外来文化あまり入ってないっぽいから
いろんな意味で無理そうな気がする
- 216 :
- ポルトガル人の記録にあるのも一條さんの海外派遣使節くらいか
- 217 :
- 中国とも貿易してたぞ土佐一条氏
- 218 :
- >>217
どう考えても中国人傭兵や中国文化の話ではなく南蛮人傭兵や南蛮文化の話だろ
- 219 :
- >>218
213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/12(日) 10:33:29 ID:17Gjizjv
長宗我部は外国から傭兵を雇っていれば良かったのにな
- 220 :
- 中国・朝鮮人傭兵ってかw
強制連行された謝罪と賠償(ry
- 221 :
- 秀吉に対抗する為に
長宗我部の外交力で西日本軍事同盟を結び
長の国を作る
そして東は北条の手で東日本軍事同盟を結ぶそして北の国を作る
秀吉は畿内で秀の国を作り均衡する
- 222 :
- >>219
その「外国」がポルトガルやスペインだろってことだよ。
>>214-216も当然「外国」=「南蛮」って解釈をしてるし、普通はそうする。
中国人傭兵なんて聞いたことないしな。
- 223 :
- そのスペインポルトガル人が日本人を傭兵にしなければやっていけない台所事情だったというのにw
- 224 :
- はぁ?
- 225 :
- >>223
逆だ逆w
台所事情が厳しい場合自軍の兵士を傭兵にして報酬を要求するだろw
スペインの国家財政が破綻していたのは間違いないがw
フェリペ2世軍事介入しすぎ&イギリスの海賊スペイン船襲いすぎ。
- 226 :
- 無敵艦隊負けた頃だよね
- 227 :
- 「西園寺十五将」って呼び名だけはカッコいいよね?
全くと言って良いほど知られてないけどw
- 228 :
- 必ずしも西園寺に従っていた武将ではないらしいのもイイw
- 229 :
- 渡辺教忠は一条房基の三男だったっけ
公家大名同士が隣接していたのなんてこの辺ぐらいだよね?
これは結構すごい
- 230 :
- >>227
〜四天王、とか
〜何人衆とか
〜何勇士とか
そういう奴って大概活躍してないよな、まとめてよくやく1つの勢力扱いみたいな
- 231 :
- 土佐との国境付近の十五将は、一条家との掛け持ち家臣のようなもんだからなあ。
だから興味深いんだよね、伊予西園寺家は。マイナー大名にしとくのは勿体無い。
- 232 :
- >>230
仁井田五人衆をなめるなよ!
もちろん「まとめてようやく一つの勢力」だけど・・・w
- 233 :
- 西園寺十五将と並び立つマイナー勢力は、出羽の由利十二頭ぐらい?
- 234 :
- 東肥前十九城将とかも西園寺十五将や由利十二頭に並ぶんじゃね?
仁井田五人衆や天草五人衆とかはその下か。
長野十六槍はさらにその下とか。
常陸の南方三十三館はどの辺かな?
那須七騎は西園寺十五将よりは上だろうなぁ。
数字スレみたいw
- 235 :
- 戦国伊予の事が調べられる、入手し易い文献って無いですかね?
- 236 :
- 問・信長の野望 天道で岡豊城・中村御所・黒瀬城・湯築城・勝瑞城は投石攻撃なのに、
讃岐の十河城だけ熱湯攻撃なのはなぜでしょう?
ヒント 香川県 うどん
http://jun.2chan.net:81/b/src/1252477913688.jpg
- 237 :
- 万年水不足のクセに生意気だぞw
- 238 :
- そうだそうだ土佐に謝れ!
- 239 :
- ___ /ヽ ヽ / / } __,,/ ノ
,.-''" `ー---ヽ l / /`ー-'" `ー--''"{
/ ..... ::. ヽ 、__.j /i ,. / ::. ..... ..: :: |
〉 :: ::.. ,,. `ー-'__, /ヽニン :: :: ::: : l
/ ...:: /  ̄ヽ `ー-' ...::: .: ..: .:: l
/ ::: ..:: `‐=ニ-く --‐‐‐‐‐‐-----, ::. : l
/ .:: :: ,.ー'" ,.-、 ヽ ,.-、 ,.-、 | ...... :: /
i ::. ヽ_/ ノ ノ し' し' | :: :: :::. /
,.-l .. ::::::.. | / /`ヽノ⌒j | ::. .:: :::/
/ `ー 、 .....::: ___//`ー、 / ,,. 、 | :::::: ::{
ヽ ヽ ヽ :::  ̄| ̄ / ,.' ノ 〉 | :::: :: l
`ー-、 j }...:: | { (___,.-`j / / | :: ノ ヽ: l
/`ー-' ......::: | ヽ_______,,,,.-'/ '‐'"`ヽ' / :: l
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{ :::::::::: ....:: ....::::::::::::::...... ヽ__/ `ー-' ....:::: /
`ー----、_____ ___,. -、___/
`ー----、_________,,..--''""""
- 240 :
- 4県同士仲良くないの?
- 241 :
- >>240
仲がいいも悪いもない。基本的に国境は山深いから繋がりが深まるはずがない。
国境近くではお互いまったく無関係とはいかないだろうけど、山より海を越える方が早いし海の方が豊か。
戦国の世なら尚更。
- 242 :
- だから統一しようとする奴が出てこなかったのか
- 243 :
- 高知歴史民俗資料館が主催する、戸次川の古戦場や長宗我部信親の御墓を訪ねるツアーがあったが、携行人員40名の選に漏れてしまって悔しい。
- 244 :
- 個人的に行ったほうが予定も自由に組めていいと思うよ。
- 245 :
- >>242
伊予辺りはちょっとでも油断したら大友や毛利が介入してくるし
讃岐・阿波の勢力は中央に目が向いているし・・・
四国を統一しよう等と余計な事を考えられるのは土佐を統一して暇な長宗我部ぐらい?
- 246 :
- っていうか実際は戦国時代に一定の領土を統一しようとする人物自体が稀だしな
- 247 :
- 通常の国人や地侍クラスなら自分の土地を守ったり
隣の領地を少々侵すのが関の山ってこと?
- 248 :
- そんなとこでしょうかね。激しい戦乱にいかに巻き込まれないようにするかって国人もいただろうし。
- 249 :
- まさに「一所懸命」だった訳ですね。
- 250 :
- >>247
そういう事だよ
ほとんどの領主はいかに勝ち馬に乗るかしか考えてないじゃんか
「四国を統一する」とかメンドクサイしできるかどうか分からんからって感じで
とりあえず引きこもって温々してる奴らばっかだしね
外に出ようとするより内輪もめを収集するのに忙しいしね
- 251 :
- 伊予の豪族は瀬戸内の利権を守った方が経済的に有利だし、
険しい山脈があるから簡単に背後を突かれることも無いからなあ。
あえて土壌もあまり豊かでない土佐に攻め込んでも益は少ないかな。
阿波や讃岐に至っては畿内の一部だし、伊予以上に土佐には関心が無い。
九州と違って統一する価値が全く無いのな。
- 252 :
- 高松城を水攻めにしてみた
↓
香川県民は喜んでうどんを茹ではじめた
∧,,∧
( ´・ω・)
(っ=|||o)
 ̄ ̄ `――´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
- 253 :
- >険しい山脈があるから簡単に背後を突かれることも無いからなあ。
大友と長宗我部がアップを始めました。
- 254 :
- 四国山脈はそれほどけわしくはない
冬に山越えはキツいが
- 255 :
- 標高的にはそれほどでもないが、軍勢がまともに通過できるような道はなかった。
住民レベルでの阿波・伊予間の交流は多かったが。
元親の白地城攻めの際も吉野川沿いの崖っぷちの細道を恐る恐る進んだとか。
今も大歩危小歩危辺りで国道32号から見上げると岩の縁に旧道が残っている
場所がある。
- 256 :
- 道は険しいよね
- 257 :
- 大歩危小歩危で合戦なんかしたら
酷いことになりそうだ
- 258 :
- いつのまにかウィキの四国征伐が充実してた。
- 259 :
- 四国から統一する意義が無いんだ。
いままでも統一した奴は一人も居ない。
- 260 :
- 統一した人って戦国期で言えば東海地方からだけだよね。
- 261 :
- よく知らないんだけど、四国のアクセスってどうなって居るんだろう?
吉野川沿いに「S」の字を伸ばしたように阿波から土佐まで道があって、
それ以外は阿波−讃岐も讃岐-伊予も海沿いのみ?
- 262 :
- 讃岐〜伊予は南北に狭いこともあって、ほとんど海沿いだけど
阿波〜讃岐は山越えルートもあるよ
- 263 :
- 私女だけど彼氏が香川県民だった 死にたい。。
∧,,∧
(・ω・`) どこでも食うぜ
ズルズル(っ=|||ol丶l丶
/`― ( ) やめて!
(ノ ̄ と、 i
しーJ
- 264 :
- >>216
塩飽に外人さんきてたよね確か。
- 265 :
- 四国は意外と山が険しいよね。
- 266 :
- だから土佐が流刑地になったんだと思います
- 267 :
- 讃岐も流刑地じゃんか
- 268 :
- んな事言い出したら流刑地なんて日本全国にw
ttp://empire-of-japan.org/archives/24872004.html
- 269 :
- それは>>266に言いたまえよ。
- 270 :
- ええ、「あなた方に」言っているんですよ?w
- 271 :
- 阿波守護の自立が細川京兆家政権を粉砕した
- 272 :
- 戦国四国の動員能力って、どう考えても1万石≠2500人は行ってるよな
旧参謀本部(の見立て)も裸足で逃げ出す余裕の総動員振り
- 273 :
- >>272
水増し親告とか誇大記録じゃなくて?
- 274 :
- >>192
もともと奈良氏は細川氏は鵜足・那珂の2郡をもらっていた。
拠点は宇多津の聖通寺城。
三好政権の時代になると、三好家から課せられた軍役で領内は荒廃、
香川氏の調略と侵攻によって那珂を獲られてしまう。
その後、長宗我部氏の侵攻にあたり、阿波勝瑞へ逃げ、
中富川合戦で数百名の家臣と共に当主も討死。
四国の役の後には仙石氏が入部。
仙石失脚後は生駒親正が入るも、高松に移ったため聖通寺城は廃城。
その他、鵜足の戦国期のマイナー豪族だと、三谷氏、小川氏、高木氏、増田氏、長尾氏など。
ちなみに那珂の丸亀城は元々、奈良氏の支城。
- 275 :
- >>274
細川氏は…×
細川氏に…○
失礼しました。
- 276 :
- >>273
参謀本部の論法で計算すると、戦国四国全土の合計石高でも動員できるのは2万人を切るぐらい。
長宗我部は土佐と阿波・讃岐それぞれ半国ぐらいの石高で、2.3万人も動員して十河を攻めてる...
やっぱり中富川の合戦時の兵力は誇大記録なのかな?
- 277 :
- >>276
誇大に記録されてるのが半分、一領具足で根こそぎ動員っていうのが半分では?
大体3万人が楽々動員できるならもっと早くに阿波も落とせてるだろうし、
伊予の中心部まで攻め込めてるだろうに。
- 278 :
- >>276
引田合戦の際も長宗我部は白地より2万の軍を率いて讃岐に向かっていますね。
別働隊として香川氏の西讃、大西氏の西阿から計5千が動員されている所を見ると
土佐と東阿が中心となって2万動員されている、ということになります。
おそらく讃岐で合流した東讃諸氏の数も含まれているとは思いますが…。
これも誇大でしょうかね。
- 279 :
- 讃岐の戦国時代は面白そうだけどあんまり扱われてないのは
やっぱり武将たちが江戸時代を迎える前に一掃されて大々的に語り継がれなかったからかな…
香川氏牙城の天霧城が史実は早めに和睦したはずの長宗我部に攻められたという言い伝えもあったりと
秀吉の家臣の生駒氏の半世紀の支配によるゆがみも大きそうだ
- 280 :
- 江戸時代の四国は地栄えの大名がな…
- 281 :
- >>279
ノブヤボとかじゃ一緒くたに三好勢力にされてますが、
香川、香西などは同盟結んで三好長治に抗ってますよね。
その間も毛利や河野、織田と通じたり。
長宗我部侵攻の際も十河の言うこと全然聞かないし。
ただ、やはり全体的に地味…ですね。
- 282 :
- >>281
戦国時代も信長以降だと単なる地方勢力になってて地味だけど
細川政権まではむしろ細川京兆家の内衆として畿内の情勢に深く関わってたから
重要な存在だと思うんだがなぁ。
だがやはり細川もその後の三好没落するしでやはりあまり語り継げない、それを足掛かりにして研究もできないじゃ
評価されないのかな…。
讃岐に限らず織田以前の畿内とその周囲ってなんか神聖ローマ帝国にも似た扱いの悪さな気がする
- 283 :
- >>277
2.3万人と言うのは2万3千人の事です。
ややこしい書きかたして申し訳ない...orz
- 284 :
- >>280
いませんねぇ。
それどころか戦国期に四国で活動していた家について江戸時代の禄高ランキング作ったら
陪臣まで見ても地元に残って取り立てられるのも小身ばかりで、大身がほとんどいなくて悲惨なことになると思います。
試しに私の知るところだとこんな感じ。石高は時代とともに変わるのもあって大まかですが。
1. 久留島家(豊後森、大名)15000石。唯一の大名家
2. 村上家(村上景広系)(細川家)10000石。村上武吉の従兄弟。忠興に重用されるも次代かその次で致仕
3. 村上家(村上彦右衛門系)(福島家、紀州徳川家)5000石。来島通康の子、紀州徳川家に召し抱えられて続く
4. 村上家(能島系)(毛利家)3000石。武吉の子、元吉の系統。景親の系統も毛利家に残る
1000石を越えていそうなラインだと他に萩藩の因島村上家とか紀州藩の村上吉継系などがありますが、
ってここに挙げたのは全部村上水軍になってしまいました。
あとは長宗我部系で藤堂とか細川に仕えた人たちがいたはずですが、
この人たちはそれなりの禄を貰ってそうです。
阿波、讃岐で探すと縁がありそうなのは三好政勝系の旗本ですが、三好も康長系はともかくとして
政勝だと四国というイメージがあまりないのですけれど。
ということでフォローがあればぜひ。
- 285 :
- 一応、稲葉氏と一柳氏は河野氏の流れ、ということですが、伊予に戦国時代まで住んでいたかというと
微妙な年代なのではないかということもあって外しておきました。
血を引くということであれば、来島通康の娘が毛利秀元を生んで、後には萩の本家の藩主までつながってます。
長宗我部や三好の娘たちもどこかにつながってそうですけれど。
- 286 :
- 伊達家に保護された元親の外孫の柴田外記の子孫はどうなったんだろう。
柴田家は一応ずーっと船岡城代だったらしいけど血脈としては繋がっていたのかな。
- 287 :
- 三好氏の末裔といえば伊吹島だけど
香川氏の末裔は土佐に土地もらった後どこにいってどうなったのか
- 288 :
- >>287
戸次川で戦死という説もありますが、おそらくそういう記録が無いのでガセかと。
肥後で死んだというのもありますが、「なぜ肥後に?」となりますね。
あと、満濃のあたりに住んで、子孫は医師になったというのもあります。
塩江の豪族川田氏も香川の傍系だという系図になっていますが、
これもかなり怪しいですね。途中で通字がおかしい人が出てきます。
おそらく、阿波の川田から来た豪族がなんらか香川氏と血縁をもったか、
後世に偽造したかのどちらかではないかと思われます。
香川の末孫と名乗る家は多数ありますしね。
ただ、香川氏の家系図はすでに戦国以前にも色々な系図があり、(もっと言えば鎌倉氏もそうですが)
また、通字の「景」と偏倚を合わせたものが多いので、どの人物がいつこの名を名乗ったのか…など
これまた不明なことばかりです。
昔、どこかの歴史掲示板で子孫と名乗る方が書き込みしておりましたが、これも真偽は不明です。
個人的には土佐でそのまま無死んだか、上記の満濃説がまだ「らしい」かなとは思いますが、
確証はまったくありません。
- 289 :
- >>282
おそらく畿内の戦乱はドロドロした金や権力絡みがほとんどなので、
普通の人にはキナくさく思えてしまうのでしょう。
個人的に好きな時代なんですけどね、戦国前夜って。
- 290 :
- >>288
讃岐の南端にいたのは本当としても分家の者じゃないかと思う。
長宗我部が引き取るにしても家臣団まるまるというわけにはいかないだろうし、途中で脱落したのかも。
家臣たちは一旦土佐に行ったものの政治的な事情か知らんがまた讃岐に戻ったとかいう話も。
宗家は所領を与えられたから長宗我部の統治時代は土佐にいただろうがその後はどうなったんだろうか
- 291 :
- >>290
家老の河田と三野は生駒から知行を得てますね。
信景自身は正直不明としかいいようがありませんね。。
ただ土佐に当てがないのなら讃岐に帰るほうが妥当かと思います。
もしくは岩国の安芸香川氏を頼ったということも考えられなくはありませんね。
信景自身、毛利とも友好を結んでたふしがありますので。
- 292 :
- >>291
香川宗家のことが書かれた土佐藩の史料ってないのかね…
陪臣になるなり郷士になるなり
- 293 :
- 信景と分家の者など一部の家臣が土佐へ
長曽我部の後継者争いか山内の支配か何かの影響で土佐にいられなくなる
讃岐に戻ろうとするも生駒氏の支配体制は確立してて居場所はない
仕方なく讃岐や阿波の山奥に定住
ってところかね
- 294 :
- >>292
香川傍系の一族は土佐の森郷に移り住んでいたという伝承があります。
そういった所を頼ったのかもしれませんね。
- 295 :
- 讃岐の城を簡単に攻略する方法
うどんを差し入れる
↓
水不足で降伏
- 296 :
- >>294
土佐国森郷は親の故郷です
香川傍系の苗字なりが判れば調べますよ
- 297 :
- >>296
ちょっとググってみたんだけど
これのことじゃないかな?
川田景村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E6%99%AF%E6%9D%91
床鍋の森
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/tosa/36.html
けどまたなんで讃岐から土佐へ行ったんだろう。
なんか和田氏の一族とかもあのへんに移り住んでいたよね。>森郷
細川氏の命令か何かだろうか。
てか森郷の領主って森氏だっけ?
山内時代はどうなったの?
- 298 :
- >>297
土佐に行ったのは香川氏が早々に長宗我部氏に下って同盟者として四国統一に関わってたので
秀吉の四国攻めの結果退去させられたから。この頃には細川氏の影響力は消えている。
長宗我部と同盟したのは単に攻められて持ちこたえられなかったというのもあるだろうが、
永正時代の細川政元の養子の後継者争いの頃から続く阿波勢力・三好氏との確執も大きいだろう
- 299 :
- >>298
>>297の話は川田氏についてだろうから、土佐に行ったのは細川氏との関係?っていうのはごくごく普通な考えでは。
土佐は京から遠いし、細川家だと当主はほぼ在京、いろいろ大変な面もあったんだろうなと。
守護代(又守護代)の力が強くなりすぎないように在地の土豪と競わせるような
手を打っていたのでは、という趣旨の論文も読んだ記憶がある。
- 300 :
- >>288
関係ないかも知れんが長尾の前山辺りで庄屋をやってた川田氏は阿波から来たそうだ
- 301 :
- >>297
川田氏が何故に土佐の森郷へ来住したのか詳細は不明ですが、
他の方のおっしゃるような理由が主因なのでしょうね。
天正15年の地検帳には森郷の相川名(現在の土佐郡土佐町相川)に
川田染衛門はじめ川田一族の名が見えます。また床鍋の森にある
川田氏が勧請と伝わる河内神社には文亀2年と文禄5年の棟札が
あるとの事です。もちろん現在でも当地一帯に川田姓の家があります。
森郷和田村の和田氏は和田義盛あるいはその弟の後裔といい、応永
初めに讃岐を経て来住といいます。越後守義宗の代に北隣の本川郷に
移り、子の義清は長宗我部氏に仕えて本川五党に数えられました。
天正15年の森村地検帳の和田名に和田氏の名が見当たらないのは
既に本川郷に移住していたからかも知れませんね。
ちなみに和田氏は今でも土佐町地域では結構ポピュラーな苗字です。
また、森郷領主の森氏ですが、6代・森頼清が豊後戸次川で戦死、その
子孫は長宗我部氏没落と共に現在の高知市瀬戸で帰農したようです。
山内藩政時代の森郷は中心地の土居に大庄屋、諸村には名本が置かれ
ました。幕末近くまで大庄屋は和田氏が勤めたようですよ。
以上、ご参考になりましたら幸いです。
- 302 :
- 細川といえば長宗我部の侵攻の時にいた細川頼弘と細川氏政ってどういう経緯で西讃にいたんだろう。
香川氏の臣下だったそうだけど土佐と比べると細川氏の支配体制にがっちり組み込まれて、実際畿内の政争に関わり振り回された讃岐で
すぐにその権威をないがしろにはできないと思うんだがなぁ。
- 303 :
- >>301
いやーすごいですね。歴史って。
けど川田氏がなぜに土佐の森にいったかは不明ですね。。
>>302さんの疑問もたしかに…。。
讃岐って不思議なことだらけですね。
- 304 :
- てか森さんまで戸次川で戦死とは…
仙石、まじでイラつくわ。
自分のことだけ考えて小田原で復帰とは。
- 305 :
- >>303,304
川田七兵衛の森郷来住が文明年間といわれているので
応仁の乱の波及で・・・とも考えられる位で詳細な理由までは???です。
仙石には全くもって同感です。
我がご先祖も戸次川では家臣を失っておりますので。
- 306 :
- >>305
森城って今もなにか残っているのですか?
今度、本山城に行こうと思っているので、ついでに行けたらいいなと思ってます。
東京人なもので地理に疎いのですが、今は昔と違い、高速が通って行きやすくなったみたいですね。
- 307 :
- >>274
遅ればせながら、ありがとうございます。
>その他、鵜足の戦国期のマイナー豪族だと、三谷氏、小川氏、高木氏、増田氏、長尾氏など。
このあたりの名前は初耳でした。
- 308 :
- >>306
森城については森氏ご子孫の方も行かれたようですね。
↓
http://www2.plala.or.jp/tyosokabe/shiseki001.html
本山から行かれるのでしたら、国道439号を車で15分も走れば土佐町土居です。
国道から右手に土居の集落が見えたら、その左手の山が城跡です。
花瀬山といわれる山で、その中腹には私の先祖の墓もあるので時々行きました。
旧地名に「城山」等は残るものの、切り崩されて植林されています。
土佐町の調査でも遺構は確認されていないようですよ。
森氏の菩提寺・鏡峯寺は土居集落の北東側に残っています。(新しい建物ですが。)
それから長宗我部氏没落後の森氏の詳細ですが、戸次川で戦死した頼清の子の
頼国は山内一豊の土佐入国で巡検使となった山内内記から仕官を勧められました。
しかし頼国の母がこれを固辞、頼国は森喜右衛門と改名して浪人になったとも
天保9年の森郷郷士・森綱次郎の先祖書指出に記されていました。
和田氏の城跡でしたら、土塁や堀切が現存していますよ。
行かれる際には土居から南越トンネルを通って早明浦ダム湖岸経由で和田の集落、
和田小学校を目指して下さい。和田氏が鎌倉から勧請したという子守神社を挟んで
本城と西城があります。本城には和田若狭守の墓もありましたよ。
上記が土佐町域の比較的判り易い城跡です。国道部分はかなり整備されて楽に
なりましたが、それ以外の道は林道並みなので走行にはご注意下さいね。
行かれる前に土佐町教育委員会にも確認しておいたほうがよいかと思います。
また、私が本山城に行った時は公民館(コミュニィティセンター)に駐車させて
もらいました。近くには東光寺があり、本山攻防戦での長宗我部側戦死者を供養
してありますので、立ち寄られてみては?
本山氏最後の抵抗地・瓜生野への道も結構な林道区間がありますので、行かれる
のでしたら充分にご注意下さいまし。
- 309 :
- 追伸です。
例の川田氏関連の床鍋の森や河内神社のある相川地区へは
土居地区からすぐです。こちらは判り易いかと思います。
そう言えば、直接関係があるかどうかは判りませんが、土佐町の
教育委員にも川田さんがおられたかと。
ちなみに土居の中心部辺りの事を今でも「森」と呼んでいますよ。
- 310 :
- >>309
どうも色々とご丁寧にありがとうございます。
10年くらい前に瀬戸川渓谷には行ったことがあるのですが、
あの辺りは、色んな伝説があって不思議な感じがいいですね。
たしか瀬戸川渓谷には安徳天皇の言い伝えがありましたよね。
森氏は白髪神社の伝説など、元ネタは山賊退治かな?とか思ってしまいますね。
しかし現地の方はやはりお詳しい。
こっちではとてもそういう資料はお目にかかれませんが、
案外、色々な地元の言い伝えをつなげていけば、色んな謎が解明されたり、
以外な豪族同士の関係性が浮かび上がるかもしれませんね。。
あと家紋にも興味があるのですが、森氏、和田氏、川田氏は伝来の家紋なのでしょうか?
森氏=?
和田氏=三つ引両に檜扇?
川田氏=不明(香川氏のままなら巴九曜)
また、森郷のその他の豪族などにも興味がわいてきました。
地理に疎いので色々まわることは困難かもしれませんが、
本山城と森城、和田氏の城跡(和田城?)には行ってみたいですね。
あと床鍋の森の関連で見たのですが、川田八幡って徳島県にもありますよね?
そう考えると自然な流れとしては阿波川田→讃岐安原→土佐森と流れたことになりますが、
もしかしたらそういう宗教絡みの事情も、移動の理由かも知れない、、なんてことも思ってしまいます。
- 311 :
- 追記
ちょっと色々調べてみたました。
川田景安が岩部に川田八幡の分霊を仰いだのも文明年間…
同時期に森郷に景村が移住したのも同時期…
この徳島の川田八幡は阿波忌部氏とのつながりの深い神社だそうです。
また、室町時代には同地の材木、藍などの生産、輸出が有名とあり、
移住の背景にはそういった関係もあるのかも…
といったら飛躍しすぎでしょうか。
あと土佐の話に戻りますが、
滝山一揆で有名な滝山とは瓜生野のことでしょうか。
本山行きは高石左馬助の足跡を訪ねて…という意味合いで行きますので、、
しかし瓜生野=滝山だとすると、なんとも因縁の深い地ではありますね。
なんだか聞いてばかりですいません。
- 312 :
- >>310
いえいえ、どういたしまして。
土佐町にご興味を持っていただき光栄です。
私は土佐を「脱藩」して幾年月の浅学者ですが(笑
山間ゆえの良さもまたあると思っております。
我が先祖が江戸期に入って以来、言わば「第2の故郷」でもある訳ですしね。
森郷に来住した頼実は近江守を名乗り、近江国・鏡山城主との事ですよね。
また、例の白髪神社も有名な近江の同社から勧請したといわています。
近江でそれに該当するのは蒲生郡竜王町鏡の鏡山城(星ヶ崎城という呼称が
現在では一般的です。)。その城主は鏡氏で近江源氏・佐々木氏の流れです。
太平記でも有名な佐々木判官(道誉)の兄・貞氏に始まるともいわれています。
森郷の森氏がその末裔だとすれば家紋もそれに準ずるはずですが、未確認
です。高知の森さんの中には「上がり藤に左鎌」紋の方もいらっしゃるとか。
土佐・森家ブログの管理人さんにも尋ねてみなくては(笑
川田氏ですが、例のWikiでは「左三つ巴」とありますね。これも未確認です。
和田氏も同じく未確認ながら、「三つ引両」系と共に「七曜星」の可能性も
あるかも知れません。家紋ではあまりお役に立てず残念です・・・。
森郷の他の主な土豪は、瀬戸川のある瀬戸(せど)には西内氏、古味に
川村氏。南川(みながわ)の山野内氏は森氏を敗退させた事もあり、
江戸期に藩主・山内氏が土佐に入国すると山中と改姓、代々が南川の
名本を勤めました。南川にその大久保城と檜尾(ひお)城の跡があるよう
ですが、そちらへはまだ行った事がありません。
川田八幡の件、香川景兼兄弟が阿波麻植郡川田荘を攻めた際に川田
八幡に祈願し戦勝して川田に改姓、讃岐安原のち岩部に居して勧請した
ともいいますから、おっしゃる通りの流れになりますよね。それが嘉吉から
文明年間といいますので、畿内での抗争も絡んでいるのでしょうか。
ちなみに森氏の来住は文安年間といいますから、川田氏とも何らかの
関係があったりしたのかも知れませんね。
- 313 :
- >>311
貴殿の「追記」を拝見せずに書き込んだもので前後して申し訳ありません。
阿波・忌部氏まで辿り着きましたか。
忌部氏については別件で私も調べているのですが、なかなかに不可思議な
一族でもありますよね。川田八幡も関係があったとは知りませんでした。
材木関連で気になったのは森郷も長宗我部時代にその産地として着目され、
結構な奥地にも森一族と思える人物が配されていた形跡がある事です。
もしかすると川田氏もその方面に明るい人物だったのかも知れませんよね。
それから川田氏は森氏の傘下でもあったようですよ。
高石氏とはまた・・・古い友人が嫁いだのも本山の高石家だったなぁ(笑
滝山一揆で敗退した左馬助の逃走路が瓜生野で、滝山は本山町北山に
あります。本山城跡のある中心部から、まずは「滝山の滝(大樽の滝)」を
目指して下さい。吉野川対岸へ本山大橋を渡り、東へ車で数分で北山地区
です。そこから栗ノ木川を遡る舗装林道で数分走ると最奥の細野です。
私が行った時には集会所に駐車させてもらいましたが、もう少し奥まで車で
行けるようですね。私は滝を見に行ったのですが、結構切り立った岩崖で
その上方に一揆勢が立て籠もった岩屋があると聞きました。展望台まで
行かれた方のHPをご参考までに。
↓
http://www.kcb-net.ne.jp/jjjsss/takiyama/takiyama.htm
また、本山中心街からのルート取りのご参考にどうぞ。
↓
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/motoyama/22.html
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/motoyama/26.html
敗れた左馬助は西へ山越えで汗見川沿いに瓜生野へ逃走、伊予から讃岐へ
逃れたと伝わっています。
ちなみに我が一族ももともとは一領具足、本山近辺の郷士となり、のちにこの
一揆の報告書を土佐藩庁に提出している事に因縁を感じています。
- 314 :
- >>312
>>313
さっそくの回答感謝致します。
家紋の件、お気になさらないでください。
なんとなく、家紋が同族間でどう変化していくのかが気になっただけですので、、
土豪について、ちょっと気になりましたのが
「山野内」家が「山中」に改姓したのはやはり
山内家に対しての避諱のようなものなのでしょうか。
昨今、山内氏は「やまのうち」ではなく「やまうち」と呼ばれているというのが定説になっているようですが、
当時より「やまのうち」との呼称も存在していたのでは、、などと考えてしまいました。
単に「山」と「内」を使うのを避けただけかも知れませんが、、
城跡等については、森城も含め
戦後の植林の影響で遺構が失われた所もずいぶんあるのでしょうね。
仕事の絡みで山梨の山村へ行ったとき、住民の方が
「今は中国から安価な木材を大量に買っているので林業がなりたたなくて、
戦後植林された木々も手入れされていない」というのを聞き、
なんだかせつない気分になったことを思い出してしまいました。
川田氏についてですが、床鍋の森や八幡の杉、>>301の内容など、
讃岐から来たよそ者にしては、森一帯に結構な土地を持っていたようですね。
これが不思議でなりません。讃岐でもそこまで強大な勢力ではないので、、
いきなり召しかかられたよそ者が、数代で多くの知行を貰っていたら
他の家臣や在地の有力者なども納得しないと思います。
やはり、ここは森氏傘下の「部将」としてではなく
技術などを通じた職人的な位置づけだったと考えるほうが自然な気がしますね。
とくに城なども持っていた形跡もなさそうですし。
滝山についての詳細、ありがとうございます。本当に助かります。
また、友人の方の繋がりなども聞けてよかったです(笑
あと、土佐藩では長宗我部遺臣が郷士になったと聞きますが
あの辺一帯の在地の豪族、有力者、上記の森氏、本山氏やその旧臣などで帰農していない家は
ほとんどが郷士となったのでしょうか。
- 315 :
- 土佐って讃岐や阿波みたいに畿内の争いに深く関わってなかったの?
- 316 :
- >>314
これはまた、ご丁寧に。
山野内氏の改姓はご指摘通り山内家への憚りからという説と
土佐藩側の意向からという説があります。
森郷の近隣の本川郷に割拠した本川五党が和田氏・筒井氏・
伊藤氏・中ノ内氏・山内氏で、そのうち山内氏は前述の山野内氏の
事、あるいは同族と考えられ、土佐藩主・山内氏と同祖ともいいます。
こちらも土佐藩の意向により山中に改めたといわれていますね。
川田氏については私も前述のように材木関連に明るかったのでは
ないかと思っています。おっしゃるように「部将」というよりも職能を
もって森氏に仕えたのでしょうね。
土佐町宮古野にある森郷の白髪神社ですが、それ以前に森氏が
近江国から土佐入国の際に最初に勧請した地は本山郷(本山町)の
白髪山。ここは江戸期には土佐藩の御用材木の御留山となり、檜等
を伐り出して吉野川を利用して阿波経由で大坂まで搬出された地でも
あります。もちろんそれ以前からそのルートは利用されていたでしょう。
となると、材木資源にも注目していた森氏と搬出経路にあたる阿波の
川田氏との関係も想像に難くないですよね。その縁で川田氏が森氏に
招請されたのではないかと考えられるのですが如何でしょうか。
森郷や本山郷の在地土豪も長宗我部時代にはその傘下となった訳で、
かつては対立していた本山氏も長宗我部家臣となっていますよね。
長宗我部氏没落時に森氏のように在地を離れた者もいるようです。
残った者ですが、本山采女の系統は土佐藩の参勤交代経路の立川
上名(大豊町)の番所の道番と庄屋を兼ねたり、同じく立川下名の庄屋
と番所道番は在地土豪の川井氏、その他の者も村役人や庄屋、上層
農民になっていますね。
ご存知のように郷士という身分は土佐藩に取り立てられてなるもので、
江戸初期には長宗我部遺臣ばかりでしたが、遺臣の全てが郷士になった
という事ではありません。これは森郷等にも当てはまる事です。
郷士は随時募集されましたが、郷士株を売買できた時期もあり、先祖が
士分でなくても郷士になった者もいます。逆に郷士でなくなった者も
あります。幕末に郷士だった者は藩全体で1,000名余りです。
その中で森郷の者を全て確認していませんが、在地土豪の子孫で庄屋や
上層農民だった者は他の郷と同様に郷士格の者となっていたでしょうね。
ちなみに森氏の重臣だった波越(なみお)氏はやはり戸次川で戦死、
子孫は幕末の土佐勤皇党に加盟していており、今でも町内に波越姓は
残っています。
都会でも地方でも歴史的遺構は時の波に呑みこまれたかのように消えて
しまって寂しい限りですよね・・・。
- 317 :
- >>315
土佐も細川氏の領国で応仁の乱には長宗我部・大平・安芸ら諸氏が
在京したようですが、土佐での細川氏の権威は徐々に失墜。
その頃、下向してきた一条氏を求心力として国人領主の間では
一時的に平和が訪れたものの、畿内での細川氏内紛に絡んで
守護代一族も土佐から離れると、再び国人領主間での争乱状態。
土佐での細川家有力被官だった長宗我部氏とて所詮は寺奉行程度、
それも他の国人領主らに反長宗我部連合を組まれるほどで阿波の
三好氏らほどの力もなく、畿内進出の野望があったとしても無理
だったのでは?
- 318 :
- >>317
へぇ、土佐にいた細川氏は早いうちに引き揚げて影響はなくなってたってことか。
なんで土佐には京兆家-内衆/同族体制ってのが確固とした形で築かれなかったのだろう
讃岐や阿波では畿内の争いでも守護や守護代は宗家や分家が在国して引き揚げるってことはなかったわけだけど
引き上げざるを得ないほど統制が取れてなかったのかな?
戦国時代に入る前も土佐の支配は弱かったのかな?
- 319 :
- 横レスですけど。
>>318
単純に遠いから、ではないかと思ってます。
細川氏が四国統一できなかったというのもあるかもしれませんけれども。
京兆家から見れば土佐は飛び地ですし、畿内から近いとも言い切れません。
讃岐は引き上げるも何も有力家臣の根拠地になっていますから他に行く宛もないと思うのですが、
侵略地とも言えそうな土佐では家中で内紛が起これば求心力はなくなりそうです。
河内畠山家にとっての越中と同じような位置づけとは言えないでしょうか??
- 320 :
- >>318
再びの補完レスです。
>>319さんもおっしゃるように地勢的なことが主因ではないかと考えます。
応仁の乱では土佐の国人衆も上洛していたものの、讃岐勢や阿波勢に比べて
在京期間は短かったと思われます。それには経済的な事情もあったでしょう。
京兆家の支配体制にしても讃岐のように細川氏と共に入国した部将に分郡の
支配を任せたりするような形跡もありませんし、また阿波の三好氏のように
かなり有能な家宰的な国人も育たなかったと。その為に派遣した守護代の
細川氏ですが、結局は土佐の国人衆をまとめ切れなかった事もあるのでは?
- 321 :
- なんでキャリアかえて無駄な自演する
補完なら補完でいいだろよ
文体一緒なくせに
- 322 :
- >>319の補完レスは私ですが、横レスされた>>319さんとは別人ですよ。
おっしゃるように「無駄な自演」などする必要性もないですしね(笑
- 323 :
- 間違えてしまいましたので訂正いたします。
「>>320の補完レスは私ですが、横レスされた>>319さんとは別人ですよ。
おっしゃるように「無駄な自演」などする必要性もないですしね(笑 」
- 324 :
- 私もなんで>>319の内容で自演扱いされてるのかわかりませんが、これも自演カキコ扱いされるんでしょうかww
それはさておき余計なレスで変な流れになってしまい失礼しました。
失礼ついでに、細川氏の話を。
室町期に伊予の新居、宇摩二郡は幕府裁定で細川氏の分郡守護地となっていたと思いますが、
宇摩郡が備中細川氏(野州家)、新居郡が京兆家だったでしょうか。
なのでこちらも京兆家にとっては讃岐から飛び地と言えそうです。
土佐同様に細川氏の統制はとれなくなって、備中細川氏の守護代(?)石川氏の一族が
新居郡に入り、さらに金子氏が台頭して野々市原の合戦に繋がっていく、と。
- 325 :
- >>324
詳しくないので誤ってるかもしれませんが、分郡守護は宇摩郡が野州家、新居郡が備中守護家で、
石川氏は備中守護家の守護代として新居郡にいて、備中の各守護代同様備中守護家の衰退・断絶により
実権を握り、そしてその後国人が台頭したというのが自然でしょうか。
- 326 :
- >>325
適当に書いてしまったみたいで、野州家と備中守護家は別物なのですね、失礼。
石川氏は16世紀初頭くらいに通昌が備中から来たという
「澄水記」の裏付けを取られていた方がいたはずですが、
それまでの間の支配はどうなっていたのか……。
ただ、備中守護家も早くに衰退しているので京兆家支配下でなくてもやはり細川氏からは離れてしまいそうですね。
- 327 :
- 外野の雑音など気にせず続けてください。
傍から見ている者ですが大変興味深く読んでいます(個人的には伊予西園寺家に興味があるのですが)
まあ、このような書き込みも自演呼ばわりされるのでしょうが・・・
- 328 :
- そうですよね。
面白いスレだと思いますし、有名無名の様々な武将や土豪の動きまで
判りますので、個人的にも楽しみにしています。
このスレに関わる方々、どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。
- 329 :
- 新居・宇摩って讃岐との経済や政治的な結びつきは深かったの?
讃岐弁の境界が新居浜市というけど。
- 330 :
- >>329
せっかく上がってたので(?)書いてみる。
詳しくは、多分話を鎌倉幕府滅亡まで遡らないといけないが簡単に説明すると、足利義満の頃に幕府内部の争いがあった。
幕府の反細川派は一気に細川頼之を滅ぼそうとするが、機先を制した頼之が伊予に侵攻し、反細川派の河野通尭は敗死。
将軍義満の仲介で細川氏に伊予東端の新居、宇摩二郡を分郡守護として割譲を条件に細川、河野両氏が和睦した
(その後も伊予は度々細川氏の介入を受け続けるのだけれど)。
以後、戦国時代に至るまでこの二郡は細川一門の支配下にあったので、近隣で同じく細川支配下の讃岐とは
親しい地域であったということは言えると思う。
(元々地理的にも予讃の国境は四国の中では平坦な部類なので関係が浅かったとは思えないけれど)
なお、何故かこの二郡に河野宗家と争いを続けた分家(予州家)の根拠地があったとするものがあるが、
「河野家譜」で通尭の遺児の一人通之の烏帽子親に頼之がなったとしているのが影響しているのかもしれない。
この名乗りも普通に考えれば河野氏の通字「通」を上に、頼之の「之」を下に置いていることから、
偏諱を受けた訳ではないと理解した方がよさそうだけれど。
通朝、通尭と二代続けて細川氏に敗死している恨みもあるだろうし。
- 331 :
- >>330
>>325によると備中守護家と野州家が支配してたようだけど
讃岐と言語が似かよるようになったのは人や物の交流の結果なのかな?
上の二つの家が香川氏に対して二郡の統治に関して協力や指図をした例はあるんだろうか
- 332 :
- >>331
あー、確かに>>330は地理的、政治的には条件が揃ってた部分はあるってことにはなるけど、
強い証拠とは言えないかも。
ただ、京兆家が弱体化するまでは、野州家も備中守護家も強く独自の動きをとる事はなかったろうから
伊予東部が讃岐の動向に左右されることは多かったのではないかな。
逆に言えば細川氏の力もせいぜいそれも室町期の200年位のことなので、それがどの程度影響しているのか
そもそも言葉がどの程度新居郡まで影響しているのか、という所でもありますし。
むしろ、上方へ向かう沿岸航路の影響の方が考えられるのかな?
新居郡からであれば沿岸部を東へ向かい讃岐を経由するのだろうけれど、
越智郡より西からであれば芸予諸島沿いに安芸、備後へと抜けるのではないかと思われるので。
- 333 :
- 京兆家の指示で河野氏に対する防衛策は取ってたと思うけど、
讃岐から移民させたりはしたのかな?
- 334 :
- 方言でいうと香川徳島は似てて関西より、愛媛は中国より、高知は独特
これはやはり室町時代の頃の影響なのかな。
- 335 :
- >>334
細川京兆家は内衆(重臣)の一族を畿内や他の各地に行き来させて手足のようにしてたから
言語的な影響は大きいと思う。讃岐はとりわけ京兆家自身が守護を勤めてたし。
実際に讃岐弁はイントネーションが室町時代の京に近いとか。
阿波は近世以降の影響も強いみたい。
土佐が独特なのは細川氏の支配があまり行き届いてなかったためか。
現地にいた細川氏も守護じゃなく守護代のみ、しかも頼春流(頼之の兄弟)じゃないし
在京することのあった大平氏もあまり名前が見られなかったり、畿内の国の守護代になることもなかったりと
内衆と呼べるかあやしい。
- 336 :
- 南海通記で細川四天王とされた香川奈良香西安富の四氏の所領だけで讃岐の大半を占めるからなぁ
- 337 :
- 内衆とされる者に限らず、讃岐の主な国人は被官化されて京にのぼったりもしてたようだ
- 338 :
- 天霧山,甲山と高瀬にある山、すべて香川氏の支配下の城のあった山が
ことごとく採石場になってるけど何か意味があるのかな?
いつ頃から崩しだしたか分からないけど不気味だ。
北朝側の細川氏の家臣だった事と関係あるんですかね。
- 339 :
- >>338
単にどっかの業者が目につけただけなんでは
しかしあんあ重要な史跡を…
- 340 :
- >>338
20年くらい前から採掘されてた気がする。
- 341 :
- 三好は
四国なんか捨てて
畿内に勢力集中すれば良かったのに
- 342 :
- >>341
させてたじゃないか。
讃岐や阿波の豪族は在京の者を立てて兵役を課してた。
言っておくが信長の野望みたいなのは無理だぞ。
- 343 :
- 畿内に進出すると、寺社勢力との軋轢がどうしても生じる。
その点四国は畿内に比べると寺社勢力の力が弱いし、(0では無い。)
水軍を使えば陸路より素早く兵を送り込める。
わざわざ権益を捨てる理由は無いと思うが、どうよ?
勢力のピークの時期も短いし、完全に畿内を掌握出来てなかったのが実情ではないのかな?
- 344 :
- 天霧城包囲戦以降といえば篠原長房だけど、
薬師寺元一の反乱の結果讃岐守護の地位が阿波守護家に渡されて以降の讃岐って
阿波守護家の実効支配を受けてたの?
大内義興の上洛でフイになったりはしてない?
- 345 :
- >>341
兵力供給源でもあるし、根拠地を捨てるのはパスポート持たずに外国を放浪するようなもんだなw
- 346 :
- >>344
持隆の伊予遠征の際、阿波淡路讃岐の兵を率いてるなど
まったく影響力がなかったわけでもないみたいだけど、
実質的には管領家の影響のほうが強かったと思う。
香川氏などはずっとそうだし。
- 347 :
- >>346
その遠征は晴元が管領に決まって以降だね。
義興・高国時代には東讃には義興に主君を変えた国人もいたようだけど、
香川香西安富のような有力内衆は高国の下で元の地位に戻れたのかな?
高国単独政権の1525年頃の京を描いた絵の解説本によると、
将軍の邸宅を香川氏の家の跡に持ってくるうんぬんってことが書かれてたけど、
これは単に洛中の別の場所に引っ越したんだろうか、
それとももう京に居場所がなく在地領主化してたのか…
- 348 :
- >>347
内衆自体がフェードアウトしだした時期な上に
敵側だった三氏は讃岐に戻らざるを得なかったんじゃないかな。
てか三氏としても親族の相次ぐ討ち死にに嫌気さしてただろうし。
天文年間からは在地領主としてかなり自発的に動き始めてるよね。
けど香川香西両氏の三好嫌いは異常(笑
細川の管領の入れ替わりや三好への入れ替わりとかで
散々兵役課せられてブチきれたのかな。
- 349 :
- ちょっと調べたけど遊初軒の戦いに至るまでに脱落してる者がいたり、高国の離反にも内衆の働きかけがあったりと
永正の錯乱でそれまでの内衆が一掃されたわけではないようだ。
当時の記録に香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕などと個人名が記されてるから内衆の氏族全体が行動を共にしたようなことはなく、
その勢力もまだ健在だったってところかな。
となるとやはり高国政権の崩壊自体が画期かなー…
>けど香川香西両氏の三好嫌いは異常(笑
これについては、阿波守護家の反乱に対して政元が譲歩し、澄元の後見人の三好之長に立場を脅かされたのだからまあ当然というか。
細川成之が澄元の後見を従来の京兆家内衆に任せてればあれほどの混乱にはならなかったんでは…。
- 350 :
- あ、そもそも京兆家に反乱を起こした時点でそれは無理な話か…
- 351 :
- 土佐に武田勝頼あるいはその遺児が流れてきて土佐武田氏になったっていうのはマユツバかな
うちの親戚がソレなんだけど
- 352 :
- >>351
安芸か若狭の武田氏が流れてきたってほうがありそうな気が…
- 353 :
- >>351
大崎玄蕃のことですね。
ということはそのご親戚はこの会の会員さんでしょうか?
↓
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html
けっこう色々なイベントやアプローチをしているようですよ。
彼を祀る大崎八幡宮は新興宗教です。
↓
http://www.choseikyo.com/honin/index.htm
- 354 :
- その会の会員かは知らないけど子供のころからそんなこと聞かされてて嘘ばっかじゃんと思ってたら
ネットでそんな説があることを見たもんでつい聞いてみた
- 355 :
- 源義経は大陸に渡りジンギスカンとなった。
明智光秀は家康に匿われ天海僧正になった。
豊臣秀頼は真田幸村と共に薩摩へ落ち延びた。
西郷隆盛は生存しており、ロシア皇太子ニコライ二世と共に帰国する。
- 356 :
- 四国に武田一族がいるとしたら、鎌倉時代に
小笠原の手先としてついていったって考えるのが一番自然だろう
安芸武田の一族とか若狭武田の一族も十分ありうるけど
- 357 :
- ttp://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/01/0104/rekishi/re0703.htm
一応高知市が書いてることだから資料のあるものなんだろう
奇遇だけど板垣退助は武田信玄の育て役と名高い板垣爺の子だか孫だかが掛川城主になった一豊に仕えてそのまま土佐藩にもついてきたってことになってるんだっけ
これもマユツバくさいけど
- 358 :
- >>349
香川、安富両氏討ち死の記録があるから内衆てか京都班は機能しなくなったんじゃない?
- 359 :
- 馬場美濃の子孫も幕末土佐にいたな
わざわざ甲斐の山田舎から土佐の島山田舎に来る物好きな名将の末裔がそんなに多いとは
- 360 :
- >>358
政元暗殺の首謀者の香西氏なんかその後の畿内政権にも居続けたりするからその両氏だけ縁が切れるのは疑問
- 361 :
- 源平の昔から落ちゆく先は決まっているじゃないですか。
だから「わざわざ」来る方もおられるのでは?
(真偽のほどは別として。)
- 362 :
- 「〇〇平」何て付いた地名は
殆どが平家の落ち武者関係
- 363 :
- 土佐は源氏系の落ち武者が多いのかな
源希義が土佐に落ち延びてその末裔は吉良氏になってるし
- 364 :
- 「○○平」地名はもともと山間の平坦地形のことのようですね。
詳細な統計をとった訳ではありませんが、土佐でも源氏より平家の後裔を
名乗る家が多いようですよ。
- 365 :
- てか>>362はヘタな冗談だと思っていたが
- 366 :
- だとすれば、まんまと引っ掛かってしまいましたねw
- 367 :
- 保守
- 368 :
- >>360
香西は完璧に京都と讃岐で別れたからでは?
一方、香川は立て続けに京都組が死んで本家まで危ういことになったことがあるし、
安富も大内絡んでから地元で手いっぱい。
香川・安富「もういいよ>京都」
- 369 :
- 篠原さんが「そうだ京都にいこう」と言いたげなようです
- 370 :
- 土佐での山内さん家の嫌われ方は異常です
- 371 :
- それって現代の話じゃないですよね?
- 372 :
- 大河で取り上げられた時にはそれなりに活用していたね>山内一豊&千代
実際に高知に行ってみると、地元の人に関心を持たれているのは
長宗我部でも山内でもなく坂本さんなんだなあ・・・と思うよ。
- 373 :
- >>351
鎌倉初期。
甲斐源氏の当主武田信義の嫡子一条忠頼が、頼朝に粛正されて
その遺児が土佐にやってきた。
次男の板垣兼信もアボーンされてる。
- 374 :
- 夏草の賦に出てくる一条兼定と十河存保は酷く矮小化され過ぎなんじゃないか?
- 375 :
- 主役は長宗我部なんだし仕方ないんじゃね?
- 376 :
- だとしても一条兼定の扱いはかなり酷いと思う
幾らバカ殿でも普通他家の妻女をNTRしようとはしないだろう?
まあ、家臣の妻をNTRするのならO友宗麟の悪例があるけど・・・
それに兼定の復帰戦四万十川の戦いが全くスルーされてるのも頂けないな
司馬センセは四万十川の戦いをご存じなかったのかな??
- 377 :
- 小説ですから・・・・・・
- 378 :
- その小説を史実として鵜呑みにする奴がいるのが大問題・・・特に司馬遼は
- 379 :
- 大河ドラマ化希望
- 380 :
- 河野水軍の子孫って愛媛と大分に広がっているよね。
- 381 :
- 毛利と大友の抗争に巻き込まれたからその影響かな?
- 382 :
- 愛媛はお膝元だから居ても当たり前でしょ?w
- 383 :
- ポンジュース県のクセに生意気でちゅわ!?
- 384 :
- 鳥坂峠の合戦の全容が解る文献が出たら本気出す・・・
- 385 :
- ゴキブリに火、作業場全焼 駆除の炎が建物に広がる
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111001000865.html
>10日午前11時35分ごろ、香川県三豊市のしいたけ栽培農家で、
>ゴキブリ駆除のためアルコールをまいて火を付けたところ、ゴキブリが逃げ炎が広がり、
>鉄骨平屋のしいたけ栽培作業場約500平方メートルを全焼した。
>燃えたのは同市高瀬町、香川忠さん(64)方の作業場。
香川さん焼き討ち失敗…(´;ω;`)
- 386 :
- >261
伝承とかでは、現久万高原町の大野直昌とかが長宗我部にだまし討ちにされたとかあるが、
金子元宅が元親の影響下にあったとか、元親くらいだな、山越えようと考えて実行したのは。
土居清良とか清宗の逸話を考慮すると、
元親以前は、土佐〜伊予も四国西南部の海沿いっぽいし。
- 387 :
- >380
確証がなくていいなら、
伊藤博文だって、河野の子孫なんだぜ?
愛媛は本拠し、大分の森に来島氏がいくじゃん?
来島通康は、通直(ノブヤボでの初代)の実子という説もあるから、
河野の子孫を名乗る連中がいたんじゃねーの?
美濃稲葉氏が河野子孫を名乗ってるのが意味わからん。
- 388 :
- 河野通宣は河野通直の子
河野通直は河野通宣の子
- 389 :
- >388
牛福の通直は通康の子とかいう説もあるんだぜ?
- 390 :
- ここの人に質問!
一宮ナリスケに娘っていたんですか?
俺の爺様の話だと、その娘のせいで当時城下町だったところの土地に触れれば破傷風におかされ指が腐り、水を飲めば、大腸菌かなんかの菌で腹痛をおこし死ぬって伝説があるのですが…娘の名前はイトらしいです詳しいかた情報よろしくお願いしますm(_ _)m
- 391 :
- 河野水軍
- 392 :
- >>387
一応美濃に領土持ってたっぽい
だから通盛は六波羅滅亡時番場から鎌倉に逃げれた
- 393 :
- 村上の親分は河野水軍
- 394 :
- 時代は違うが通盛君て京都いる間に伊予全てからそっぽむかれたの
- 395 :
- 一時衰退していた河野家を通有君が元寇の時の活躍で盛り返した。(瀬戸内の三島水軍を率いて敵将を討ち取る大手柄)
- 396 :
- それが河野家の最後の光明であった
- 397 :
- 河野通有は、海音寺潮五郎の蒙古来たるの中では国士無双として
描かれてるんだけどな〜。
河野通有の末子である河野通盛なんかは、太平記の中に頻繁に出てくる
勇将だし(蓮華王院の戦いを参照)、有力庶子家の土居・得能両氏が
敵対する中で、相当頑張った方だと評価できると思う。
河野通盛の孫の河野通堯(通直)なんか、もうその生涯がまさに波乱万丈。
田中芳樹の小説でいうならば、アルスラーン戦記の主人公並みの人物なんだけど
なぁ〜。マイナーだけど、河野氏は、結構いい題材になる人物を輩出してる
とおもうな〜。
河野通堯以降の河野氏は、確かに物足りないけど。。。
- 398 :
- 燧灘二郎の「伊予河野一族」を読んだ。
なんだこりゃw
とんでもない駄作だなw
- 399 :
- >>390
一宮成助の娘って松永久秀の側室の?
- 400 :
- 土佐国なのに安芸氏とはこれいかに?
- 401 :
- >>400
土佐の「安芸」の由来は安芸氏の先祖「蘇我赤兄」に由来する…とか聞いたことがある。
本当かどうかはわかんないけどね。
広島は安芸は元々「阿岐」と書いていたみたいなんで
この2つ(安芸郡と安芸国)の名前が一緒なのは単なる偶然かなと思う。
- 402 :
- 戦国三国司に数えられることもある阿波国司一宮家
- 403 :
- 残りのうちの1つは国司元相さんとこかい?
- 404 :
- >>403
飛騨国司姉小路家、伊勢国司北畠家、土佐国司一条家の3家
ごく稀に一条家の代わりに阿波国司一宮家が入ることがある。
- 405 :
- 誰か長宗我部モグ親の画像ください
- 406 :
- あげる。
- 407 :
- ありがとうございます
- 408 :
- 元親に各個撃破を許した四国大名・豪族の連携の無さは嘆かわしい
- 409 :
- 十河存保&仙石秀久タッグも長宗我部に敗北したな
- 410 :
- 一条とか西園寺とか勧修寺とか公家系の
勢力が多いのは何故
- 411 :
- おちんちん
- 412 :
- 香川氏は四国征伐後の改易されたかとどうなったのですか?
- 413 :
- 名前は忘れたが本山氏を中心に書いてあった本を読んだがすごかった
- 414 :
- >>412
土佐内で領地もらった
親和死後はよく分からん
- 415 :
- 今度本山最後の決戦地瓜生野にいこうかと思ってますが何かあとは残ってますか?
- 416 :
- 戦国BASARAに河野(大祝)鶴姫が出てたのね・・・・。
- 417 :
- 話のネタに四国の武将について研究してるんだが
あんまり書き込まれてないな
やっぱマイナーなのか
- 418 :
- 大名として残ったのが
久留島(来島)家だけだから
- 419 :
- みんなどこ行ったの?
- 420 :
- 十河家は大名として残るチャンスはあったけど
アホの仙石と生駒家のせいで消滅
- 421 :
- (´;ω;`) ぶわっ
- 422 :
- 三好家って 最終的にどうなったの
- 423 :
- 十河家は存保が戦死し、その遺児は生駒氏によって謀殺される
安宅家は清康が所領を失い、その後没している
三好康長は豊臣秀次を養子にするなどして生き延び
その子・康俊は山内家に仕えている。
- 424 :
- 河野の傍流は稲葉、一柳と残ってるな
まあ、系譜がちょっと怪しかったりするけど
- 425 :
- 細川四天王って言われた 香川家以外の家はどうなったの
香西家とか奈良家とか安冨家
- 426 :
- 織田はともかく、羽柴・徳川と連続して滅ぼされたイメージがある四国土着大名たち
とくに罪も無い西園寺家を潰した戸田勝隆は許せねえ・・・
- 427 :
- 戸田勝隆はキチガイ
- 428 :
- 三好系で徳川の旗本になったのもいくつかあるな
- 429 :
- 伊予西園寺って結局どこからでたんだ。
南北朝らしいが南朝についた竹林院公重の子孫?
- 430 :
- >>428
三好為三の系統が2家だっけ。
造船学の三好晋六郎が幕臣三好幽叟の子というけど、為三系の三好氏なのかな
あと、家光が取り立てた浅井氏の係累の三好家もあったりするけど
- 431 :
- 西園寺公望
- 432 :
- あげ
- 433 :
- 稲葉とかはどうなんだろうな
河野通治が近江番場越えて鎌倉まで逃亡成功してるから美濃辺りに領土持っててもおかしくないが
元寇&頼綱討伐の恩賞は伊予国内だっけ?
- 434 :
- 河野通通
- 435 :
- 四国統一に苦戦=長宗我部元親の書状発見−高知
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011121600957&rel=y&g=pol
「元親が四国を完全には統一できていなかったことをうかがわせる史料の一つ」としている。
- 436 :
- 河野氏の直系の子孫(本家)っているんですか?
- 437 :
- 「チョウソカベはあらゆる時間と空間に偏在している、
恐ろしく巨大な他者だ。僕が反抗すると、
祖母はチョウソカベが森からやってくると威嚇したが、
その声の響きは、幼児の僕のみならず八十歳の祖母自身にも、
われわれと同時代に生きている恐ろしく巨大なチョウソカベの気
を実感させた」
大江健三郎 愛媛出身
- 438 :
- >>435
ちょうそかべ信者涙目w
- 439 :
- >>438
今更だろ
- 440 :
- 島嶼部確保できなかったから最初から完全でないのは自明
- 441 :
- ふと思ったんだが河野の分家の予州家ってなんなんだろうな
予州ったら河野の本貫地なんだから武田で言えば「甲州家」って言うようなもんだろ?
- 442 :
- うm
- 443 :
- 阿波守護細川氏が讃州家で、讃岐守護細川氏が京兆家、というのと同じ
単に本家の官途が刑部大輔で分家が伊予守だっただけだよ
- 444 :
- 安芸虎虎
- 445 :
- なんだこいつ
- 446 :
- 道も柔道もサムライも文化財も韓国の文化になってしまっている。
泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。
この板でやたら質問してんのがもしかしたらチョンでそれを参考に細かいところつめて
「韓国サムライ」ストーリーをもっともらしく作ろうとしてんじゃね?
盗まれてるかもよ。
http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&src_vid=RnnLj7ChmL8&v=sW4H2PGj6JU
- 447 :
- 長宗我部って帰化系だっけ?
- 448 :
- 秦氏の傍流って名乗ってるね
- 449 :
- 中華皇帝系
- 450 :
- 嘘だろうけどな
- 451 :
- まあ確実に嘘だろうね
ただまあ秦氏系って自称するからには渡来人系であるにはあるんじゃないかな
しかしまあ岡豊ってちょっと山下れば香美平野で根城には良いかも知れんが
毎年この時期になると高知なのに雪が積もって住むのに大変そうな気がする
- 452 :
- 帰化人設定すると交易に有利だったらしい。なので室町期は貿易やってる大名にそういうのが多い
- 453 :
- 朝鮮に朝貢しにいってる大名もいたそうな
- 454 :
- 八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。
【学習歴の記録】
美幌幼稚園 卒園 美幌小学校 卒業 美幌中学校 卒業 美幌高校 卒業 ※高校は途中転入で、しかも不登校でした!
順天堂大学 体育学部 健康教育学専攻 卒 業 ※ガンガン勉強しました!
青山学院大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!
東洋大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!
立教大学・大学院 文学研究科:博士課程(前期) 教育学専攻 修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!
カリフォルニア神学大学院日本校 博士課程 キリスト教神学 修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!
米ニューポート大学大学院 博士課程 教育学専攻 修 了 ※論文執筆に燃えました!--------------------------------------------------------------------------------
資 格
1973年03月19日 中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日 衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得
,「精神保健福祉士(登録番号 第32657号)」
および「社会福祉士(登録番号 第114083号)」の有資格者
- 455 :
- 長宗我部氏って、実は忌部氏系?
- 456 :
- お前らこのゲーム糞面白いぞwww
http://www.max.hi-ho.ne.jp/asaka/
このゲームの天文戌申ってシナリオで長曾我部で四国統一できないwww
- 457 :
- 戦国史か
懐かしいな
- 458 :
- >>456
旧サンプルシナリオの元になったのが四国志全国版(四国シナリオの作者の作品)だっけ。
最初期は四国志ともう一つしか全国シナリオが無かったような。なつかしいな
- 459 :
- >>455
いや、どうだろう
>>456
m9(^Д^)プギャー
- 460 :
- こやつめ!ハハハ
- 461 :
- HAHAHA
- 462 :
- 随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
- 463 :
- マルチ乙
- 464 :
- 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
- 465 :
- 安芸国虎って本当に戦上手だったの?
- 466 :
- 前田家が加越能百二十万石と四国を交換するよう幕府に言われ、断った
- 467 :
- 四国の石高ってどれぐらいあったんだろ?
- 468 :
- うどん高なら高松
- 469 :
- きいてねえよw
- 470 :
- あほか、高松じゃなくて丸亀じゃ!
- 471 :
- 四国って全部合わせても百万石もないだろW
ただ、幕末の前田家のグダグダっぷりからすると、四国王になってた方が活躍出来たかも
まぁ、前田家の家風からすれば、どこにいたって大したことは出来ないかなwW
- 472 :
- 前田式石盛計算術なら100万ぐらい楽に超すよ
- 473 :
- 淡路足しても100万なんてほど遠いな
- 474 :
- 加賀藩は田畑に上下の等級つけず1反=1.7石ぐらいでまとめて計算するから
だいたい他の藩の基準からしたら四割から五割増しで計上されるんだよ
だから太閤検地の基準で75万もあれば前田家が入っていたら110万前後に修正されたはず
- 475 :
- 一条さんのおかげで今の四国がある
- 476 :
- 加賀藩の百万石って隣国越中の一部まで込みでその数値じゃなかったけかな
現代における富山県高岡市辺りまで含んでたような気がする
- 477 :
- 越中国は、支藩の富山藩十万石以外は全て加賀藩
- 478 :
- 丸亀市の急な京極氏押しに驚いてる
丸亀に住んでたけど全然知らなかったよ
- 479 :
- 丸亀城に篭城するということは
亀が丸くなって手も足もでない状況です
- 480 :
- 【毛利】中国・四国地方の戦国時代【長宗我部】
http://engawa.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1202468140/
- 481 :
- ヤンジャンのクソ漫画が終わったらしい。めでたいな
- 482 :
- 秀吉の時代に伊予で六万とかじゃなかったっけ
- 483 :
- 河野分家の得能って南北朝がピークなんかね
本籍が西宇和郡でそのあたりが気になるんだけど
南予に大友が来寇した時、萩森宇都宮旗下の伊方や保内の土豪や城主城代に得能の名がちらほら
伊方には得能神社まであるし
その後長宗我部に滅ぼされたみたいなんだが
室町時代前に足利に備えて築城したとか、新田義貞の落胤と一緒に落ち延びてきたとか
その辺の時代の城主とごちゃごちゃになってる気もする
個人的には河野宗家との争いに敗れて流れた一派が土着したのかなぁと
主筋の「宇都宮or萩森or髯刷 房綱or元教」もよくわからん
八幡浜(萩森)の土豪が、宇都宮の勢力拡大で服属して宇都宮姓を下賜されたけど
大洲の宇都宮が毛利にやられて毛利に本領安堵されそっち系の名乗りにしつつ
領地経営に便利なんで宇都宮一族でしたってことにしてたとか想像してます
飯森の得能も萩森の房綱も彦右衛門なんも気になる
この地区で由緒ある名前なんだろうか
- 484 :
- 長宗我部三代記の大河ドラマ化がピンチに
韓国テレビが元親の朝鮮人拉致を問題視
カツオのたたきは<丶`∀´>韓国起源ニダ
韓国TVが高知県内各地でロケ
カツオのわら焼きたたきなどの食文化と長宗我部元親による朝鮮人の連行をつなぐ内容
http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=290821&nwIW=1&nwVt=knd
- 485 :
- >>481
本誌打ち切りでネットで連載してなかった?それも終わったなら感激だ
あの漫画のせいで長宗我部が糞に思えてきたからな
- 486 :
- 長宗我部っていうか元親公以外は大したことないからね
お父さんの国親さんは頑張ってたけどその孫以降はまったく大した人物がいない
- 487 :
- >>437
超時空太閤秀吉って著者はこの人?
- 488 :
- 大穢嫌座侮老は愛媛県民が最も嫌う有名既知害です。
あいつは大嘘吐きです。得意分野は歴史の改竄です。
- 489 :
- だな。
なんで、あんなのがノーベル賞貰ったのか不思議。
- 490 :
- そりゃアベコウボウが死んじゃったからな。本人も分かってることだ。
- 491 :
- 実力があるプロの作家に本当の長宗我部漫画を描いてほしい
ドラマ化も希望薄いし人気のピークは過ぎたか?
- 492 :
- 北方謙三辺りが書いてくれればなぁ
ないか
- 493 :
- 長宗我部とかって日本人ぽくないですよね
どっから来たんですか
香宗我部と何が違うんですか
- 494 :
- >>長宗我部とかって日本人ぽくないですよね
どうしてそう思うの?
ただキミの勘は当たってる
祖先は中国からやってきて秦の始皇帝の子孫だったとか
初めは信州の辺りで「曾我部」と名乗ってたが
ある時に土佐の長岡郡に引っ越した
んでその近くの香美郡って所にたまたま無関係の「曾我部」さんがいたらしい
それらと区別するために香美郡の曾我部さんは香曾我部(香宗我部)、
秦の始皇帝の子孫の曾我部さんは長曾我部(長宗我部)って名乗るようになったんだとさ
- 495 :
- 愛新覚羅辺りを想像したとか
- 496 :
- >>80
おじいさんなのかと思った
- 497 :
- 毛利の木原と長宗我部の和睦とか...
信長の野望IV.
- 498 :
- 長宗我部元親式目が偽書の可能性があるってマジですか
- 499 :
- 長宗我部元親って本州の大名と比較したら実力はどのぐらいだろうな
里見義暁ぐらい?
- 500 :
- 流石に里見義堯よりは下だろ別所氏くらいかな
- 501 :
- 「金子備後守元宅」の著者は神社仏閣の破壊は毛利や織田もやってるのに
なんで長宗我部元親ばかり非難されるんだと書いてるな
今は大友が有名だけどこの頃は長宗我部が有名だったらしい
- 502 :
- 「金子備後守元宅」の著者は神社仏閣の破壊は毛利や織田もやってるのに
なんで長宗我部元親ばかり非難されるんだと書いてるな
今は大友だけどこの頃は長宗我部元親が有名だったらしい
- 503 :
- 501
すまん二回書き込んじまった
- 504 :
- 【大学野球】戦国武将末裔の亜大・長曽我部竜也内野手、V打で打率・500
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1367468379/
東都大学野球第4週第1日 亜大5―0専大 (5月1日 神宮)
1回戦2試合が行われ、亜大と駒大が先勝した。亜大は長曽我部(ちょうそかべ)
竜也内野手(3年)が決勝打を放つなど5―0で専大を下した。駒大は西村凌外野手(4年)が
今季2号となる2点本塁打を放ち、青学大を5―4で破って開幕5連勝を飾った。
今季初めて2番に座った亜大の長曽我部が、3回1死一、二塁から決勝の右前適時打を放った。
「後ろにつなぐ意識で行った。2番でも9番でも自分の役割は変わらない」と胸を張った。
四国で活躍した戦国武将・長宗我部元親の末裔(まつえい)で「何代目かは分からない。
名前に負けないようにしたい」。オフの一日2000スイングが実を結び、16打数8安打、
打率・500はリーグトップ。それでも「打率は全く考えていない」と謙虚だった。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/02/kiji/K20130502005722080.html
- 505 :
- 長曽我部竜也内野手 乙
- 506 :
- 長宗我部友親さんに関係ある人なのかな??
- 507 :
- そういえば高松にある田村神社の昔の宮司に長宗我部なんとかっていう人がいたはず。
明治くらいの宮司だったと記憶してるけど、縁者かな?
- 508 :
- 吉良とか香宗我部さんの子孫はおらんの?
- 509 :
- 香宗我部は、乗っ取られた方も乗っ取った方も健在
- 510 :
- 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
- 511 :
- 第三の性別:姫若子
- 512 :
- 徳島の四国放送のアナに長宗我部家の子孫の人がいるんだよな
- 513 :
- >>512
もっとくわしく
- 514 :
- もしかして曽我部アナウンサーかな
長宗我部も土佐に赴任する前は曽我部だったそうだ
- 515 :
- 「やっと土佐に着いたか。どうやらここは曾我部郷というらしい。心機一転、曽我部と氏を変えて一から頑張ろう」
「たのもう!」
「はいはい。どなたですかな?」
「俺はここの東の地を治める曾我部だ」
!?
「私はここら一帯を治めている曾我部だ」
「知っている。だからこうして訪ねてきた。このままではややこしくてかなわん。だから相談に来た。おまえ、氏を変える気はないか?」
「ない。ようやく馴染んできたところだ。おまえの方こそ変えてくれないか?」
「無理だ。そんなことをしたら先祖に笑われよう」
「そうか。・・・何かいい方法はないものか」
「そうだ。ここは長岡郡。おまえ、長岡郡の長を付けて長曾我部と名乗ってはどうだろう?
勿論おまえだけ買えるのは不公平だ。俺は俺のとこの香美郡から香をとって香曾我部と名乗ることにしよう」
「そうだな。それがいいか」
こうして隣接する2つの曾我部はそれぞれ長曾我部、香曾我部と名乗るようになった。
ちなみに長岡郡は今の南国市、香美郡は香美市+香南市
- 516 :
- >>514
そう曽我部さん
「先祖がご迷惑をおかけしてすみませんでした」
ってテレビで言ってたことある(笑)
- 517 :
- >>516
自虐的なかたなんだろうか?(笑)
- 518 :
- 長宗我部さんちからは秦さん、江村さん、蒲原さん、久礼田さんなんかが出てるけど曽我部さんはいなかったと思うよ。
長岡郡の曽我部郷(そがべきょう)に居着いた秦さんが長(宗)曽我部さんに、香美郡の曽我部郷に居着いた山田さんが香曽我部さんになったんであって曽我部さんとは無関係ですよ。
- 519 :
- いや、元々が長宗我部は「曽我部」って名乗ってたからありえない話じゃないんだけど
- 520 :
- >>519
曽我部郷に入って曽我部氏を名乗ったのは土佐に入国した初代秦能俊。で香美郡にも曽我部氏がいたからと長岡の長をつけて長宗我部と改めたのも初代秦能俊。長宗我部さんは初代から長宗我部さんだったということですよ。
途中の分家に曽我部さんがいないとは限らないけど曽我部の名で代替わりしてないし、長宗我部家の主だった分家として残っていないんなら分家と言ってもほぼ他人に近いレベルだよ。
- 521 :
- いや、一系だけが土佐に赴任したって考えるほうがおかしくね?
元親の祖先の曽我部さんは確かに長宗我部になったけど他はそれに習ったかどうかは分からんよな
まあそんなこと言ってもキリがないけどさ
当時の習慣を考えると夫婦とその子どもたちだけが移民したって考えるほうがおかしくない?
由緒正しい家柄なんだからぞろぞろ大所帯でやってきたはずだよ
- 522 :
- >>521
可能性はゼロではないってのは史実から考察するのとは違う次元の話だと思うんですがね。
それと仮に一族が曽我部さんを名乗ったとしても長宗我部さんは秦能俊の流れを汲んでないといけないので、どのみち曽我部さんが長宗我部さんの子孫である可能性は極めて低いんじゃないかって言ってるだけなんですよ。
念のためですが自分的には事実がどうであれ誰かの子孫を自称するのが格別悪い事だとは思ってませんよ。
- 523 :
- 長宗我部家が生き残る方法はなかったのだろうか?
- 524 :
- 後継者問題が無ければ改易されなかった
- 525 :
- とりあえず信親さんを九州遠征に連れていかなきゃよかったんじゃないかね
- 526 :
- >>525
元親が討ち死にしそう
- 527 :
- 地理的に四国は畿内に近いからなあ…
良くて讃岐と阿波は領土召し上げ、あるいは関東かどっかへの転封は避けられなかったかも
- 528 :
- そう考えると明らかに不利な国替えに従った家康や政宗は先見の明があったのかも
太閤の天下は持たないであろうと
- 529 :
- >>527
多分九州だろう
島津潰した後の薩摩大隅に転封とか
- 530 :
- >>529
ただその後の歴史が基本変わらないなら、九州は土着の大名を除けば
黒田や細川・小西ら秀吉と関わりが深い武将が封じられてる
畿内から遠い場所でかつある程度の石高がある土地といえば関八州か北陸くらいしかない
山国は流石に酷だろうから、安房と下総あたりで落ち着きそう
本能寺の時点で秀吉支持をしてれば土佐と伊予までは安堵かもしれない
転封の場合は安房と下総にくわえて上総かな
- 531 :
- >>530
で、関が原で東軍に属して土佐に返り咲きと
しかし立花宗茂ってのは凄いんだな
- 532 :
- >>530
その場合、里見はどこに飛ばされちゃうの?
- 533 :
- >>530
安房には一応里見がまだ健在か、でも飛ばすならやっぱり関東のどっかだろう
あと元親は光秀を窓口として織田に接近してたわけだから
秀吉とはやっぱり相容れなかったんじゃないかなあ
- 534 :
- 秀吉支持=阿波、讃岐の放棄だからまずありえない
- 535 :
- >>534
最初は讃岐と伊予を返せって要求だったけど、突っぱねた
で、秀吉の勢力が磐石になってか慌てて返しますって言ったけど
今更ふざけるなってことで四国征伐
- 536 :
- 突然ゴメン
先日、図書館に行って何となく本を見ていたら、長宗我部家の
再興を明治天皇に願い出て許されたって内容の本が有ったんだけど、
これ実話なのかな?
借りるのを忘れた上に書名をチェックせず帰ってしまって、
今になって慌てて探しに行ったら見つからず著者も判らない状態
オイラはガキンチョの頃から長宗我部ファンなのだけど、
今までお家再興の話を聞いた事が無くて、実話だったら嬉しいし
嘘だったら嘘を憶えたくないので、出来れば教えて欲しい
(勝手言ってスマン)
- 537 :
- ファンなら長宗我部友親(現当主らしい)の長宗我部って本を読んでみるべきだろう
その辺りのことも載っていた
もしかしたらこの本のことかも知れんな
大阪の陣後お家を取り潰さたれ長宗我部は元親の子供(島弥九郎)も
長宗我部を名乗ることができなかったけどひっそりと血脈は続いていたのが
幕末ごろに時代の流れで再び名乗ることができるようになった
恐らく明治天皇に許されたというのは、大政奉還してすぐに
元親などご先祖を祀る神社を作らせて欲しいって願い出て許可されたことを指すのだろうと思われる
江戸幕府からすれば長宗我部(盛親)は敵方についた逆臣だったからなかなか許されなかったが
時代も変わり先祖の名乗りをあげてもお咎めを受けなくなったから
大々的に私達は元親の子孫なんですって言えるようになったってこったね
- 538 :
- 島弥九郎は子供じゃなくて弟だったな
だから現当主は元親の子孫ではないね すまん
元親の親の国親の子孫で生き残った家系だね
そして弥九郎は若くして死んでたから長宗我部性を名乗りたくても名乗ることができなかったのは
弥九郎の子供からってことになるね
他の兄弟同様、他の家に出向して継いだからその時点で長宗我部じゃなくなってる
- 539 :
- 【文化】 長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前 [共同通信]
http://peace.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1403521414/
戦国時代に土佐の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手
紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日発表した。
信長は、四国を元親の自由にさせる方針から一部しか領有を認めないことに変更。手紙は明智光秀の家臣
斎藤利三に宛てたもので、元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。
手紙は1582年5月21日付で6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役の光秀が信長の
方針転換に納得しなかったことが原因と考える説もあり、美術館は「本能寺の変に大きく影響した要因ではな
いか」と話す。
2014/06/23 19:00 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html
- 540 :
- うん
斎藤氏とも関係あったから長宗我部が影響を及ぼしたってのは多からずあるだろうな
ほんの一要素ではあるだろうけど無くはない、ぐらいにはね
- 541 :
- >>539
本能寺の変の動機の一端が明らかになったかも?
まあ単なる時間稼ぎの可能性もあるけど
- 542 :
- それは前からあったけどね
一因ではあっただろ
けど原因じゃあないね
- 543 :
- >>537さん
丁寧に有り難うございます
以下なさけない言い訳です
実は今のようにネットが無かった頃にファンになりまして、
その頃に目に入った長宗我部関連の本を見る度に読んで居たので
勝手に「十分かな?」と判断していました
本当にファン失格ですし、何よりネットの時代になったので、
色々と本を買ってみます
- 544 :
- 本能寺の一因に長宗我部と明智の関係があるのは知られていたけど、
元親が信長に恭順の手紙送ってたのは新発見だな
この時点で信長の四国遠征軍(信孝)と戦っていたら正直、
毛利と同じくらいには粘れてた筈なんだけど
- 545 :
- 信長が元親の恭順を拒否した理由は何なんだろうな?
阿波と土佐に恭順した長宗我部を配置して、伊予から毛利の小早川を牽制させた方が
秀吉の毛利攻めも楽になる筈なんだけど。
信長に取り入ってた三好と十河との絡み?
恭順の手紙を明智が故意に信長に渡さなかった?
兎も角、今回の発見は新しい見解を産む可能性がある。
- 546 :
- 本能寺の一因に長宗我部と明智の関係があるのは知られていたけど、
元親が信長に恭順の手紙送ってたのは新発見だな
この時点で信長の四国遠征軍(信孝)と戦っていたら正直、
毛利と同じくらいには粘れてた筈なんだけど
- 547 :
- 備中高松城が落ちれば毛利は詰みも同然
今さら長宗我部の力を借りるより土佐も阿波も取り上げて息子に分配した方がいい
- 548 :
- >>545
妄想乙
信長が拒否したかどうかの史料はまだ無い
- 549 :
- 無いも何も信孝丹羽の軍勢が大坂に集結していたのがその証拠だろ
ただの時間稼ぎと看破されたんだろうな
- 550 :
- てか、手紙が届いたか分からないし、一通だけだったのかも分からんし
- 551 :
- >>550
そこまで疑うか?
それ言うならすべての文書は本当に信長が読んで信長が花押したかどうかとか分からんだろw
- 552 :
- だってこれ石谷家に伝わったものだしょ?出せてれば、坂本か安土あたりで燃えててもいいんでないかい?
- 553 :
- >>549
時間稼ぎしてどうするんだ
- 554 :
- 守る側は時間が経てば経つほど有利になる
それで優位に立てる保証はないけどやらないより全盛まし
- 555 :
- 四国制覇寸前だったからね
- 556 :
- 故意に光秀が手紙を信長に届けなかった可能性もある
そうなるとそれはそれで面白い
- 557 :
- >>549
無知乙
集結命令が出されたのは今回の元親の書状が出されるより前だ
- 558 :
- 集結命令が出た
↓
先陣の笑岩が阿波に乱入
びびった元親が書状を出した
↓
集結継続でシカトされたと同然
ってことで>>557が無知な
- 559 :
- >>558
集結命令が出た
↓
先陣の笑岩が阿波に乱入
元親が書状を出した
↓
(斎藤利三に書状が届いたか?斎藤が信長に書状を披露したか?信長の返答は?これら一切不明)
↓
当然ながら信長の返答が来るまで軍勢は集結したまま解散しない
というわけで無知乙
まあ元々>>552にも言い返せてないがw
- 560 :
- 少なくとも長宗我部との交渉がまとまるまでは解散しないだろうな。
でないともし交渉が決裂した場合に三好その他を見捨てることになる。
- 561 :
- それ以前に交戦中の敵が書状送ってきただけで帰る奴はいねぇだろ
- 562 :
- 信長は京に政権を開く事を考えていて、長宗我部側が恭順を
心から考えていても、京の喉元の四国に「何であれ」反乱の種が残った
状態は見過ごせないと考えた・・・・・・って可能性はどうかな?
- 563 :
- そもそも恭順の書状もまだ詳しい内容が公開されたわけじゃないんで、これ以上の推測はいらないっす
- 564 :
- 明智氏がまたヘンテコ解釈してる……
- 565 :
- 書状を突っ返すって当時の常識からしてありえんからな
- 566 :
- >>536
明治時代に古い有名武将に官位を配ったんだよ。そのついでに家系を認めたって話だと思うよ。しょせんは天皇自身の権威付けの為だろうけど。
長宗我部家は元親の弟の子孫もいるのにそれを無視し遡って国親の子孫(?)が正統を名乗ってるくらいだから当時としても結構適当。現在じゃ枝葉の一人が勝手に当主を名乗ってるくらいにか思ってない。
- 567 :
- >>566
元親の弟の子孫=国親の子孫じゃないかw
『長宗我部』の子孫は島弥九郎の子孫だっけ。あとは香宗我部の子孫は堀田家の
家老になった系統が存続している
- 568 :
- 国親の息子は元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島の四人だから確実に弥九郎の子孫が今の当代になる
他でも長宗我部の末裔を名乗ってる人がいくつかあるみたいだけど傍系とかかもね
元親の直径は途絶えたから別に枝はが勝手に名乗ってる訳じゃなくて正当性はあると思うけど
- 569 :
- 盛親がバカ過ぎる
- 570 :
- すいません、谷忠澄について教えていただきたいのですが、幕末にいた谷千城や新撰組の谷兄弟とかは、忠澄と関係あるんですかね?
- 571 :
- ないだろ あったらそういう記載があるはずだし
- 572 :
- 岡山県立博物館
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/schedule.htm#kikakuten
「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」
期 間
平成27年1月16日(金曜日)〜2月15日(日曜日)
平成23年度より始まった高知県との文化交流事業の最終年。室町時代後期、
それぞれの地域で力をたくわえて戦国大名となり、関ヶ原の戦いによって
滅んでいった長宗我部氏と宇喜多氏。両氏にゆかりのある甲冑や古文書等の
資料を通して、戦国時代の高知県や岡山県の歴史について紹介します。
- 573 :
- >>567
単に元親の弟の子の子孫と書くと正統に見えるだろう。だがその元親の弟は1570年代に死んでるんだが肝心の息子は1590年代に生まれてるんだな。
まあ石鎚山に氷室を作って精子を冷凍保存してた可能性も無くはないんだが
- 574 :
- http://www.asahi.com/articles/ASH4W4SY5H4WPLPB00B.html
http://archive.is/ExjAp
イケメン容姿、歴女の反応は? 高知に長宗我部元親像
2015年4月27日19時35分
大坂夏の陣から400年となる今年、戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の銅像が、
居城跡にある高知県南国市の県立歴史民俗資料館前に設置された。
全国から約1500万円の募金が集まり、像のデザインをカードゲームなどで
武将を描くイラストレーターに依頼したところ、イケメン風の容姿に。
鎧兜(よろいかぶと)姿で、約3・7メートルの長槍(やり)を持つ。
呼びかけ人で資料館の前館長、宅間一之さん(80)は
「歴史ファンのハートを貫きたい」。
除幕式は5月3日。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150427003683_comm.jpg
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150427003689_comm.jpg
全国から約1500万円の寄付を集め、設置された長宗我部元親の銅像
=高知県南国市岡豊町八幡の県立歴史民俗資料館 ?? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322)
- 575 :
- カードゲーム担当するような絵師が描いたからイケメン化ってどんなんかと思ったら諏訪原じゃん
http://www.city.nankoku.lg.jp/data/3456/L20583.jpg
- 576 :
- そいや讃岐の軍記の一篇に由佐長曾我部合戦記ってのがあって、
由佐城の北側からの寄せ手の大将に、元親の末子で小三郎元成ってのがいたけど、他で見ない名前なんだよね。
長宗我部の一族でそれっぽい年の人物っているんかえ。
- 577 :
- >>576
元親の父・兄弟・叔父・従弟に付いている「親」が付いてない
武功を立てて、元親から「元」をもらった家臣じゃないか?
- 578 :
- 言ってみれば、異常すぎる姑息さは、
50代まで引き篭った負のエネルギーそのもの
なのである。
まことのネット中毒は、脳まで逝ってしまっている。
- 579 :
- >>577
ご返事ありがとう。
確かに「親」の字は判断材料の一つになるね。
この一篇にしか出てこない名前だから創作か、
もしくは側室の子か養子で「親」が付かないのかとも思っちゃったよ。
小少将の子の右近大夫は諱不詳だし、
足立氏の子の康豊は誰が名付けかわからないもんね。
軍記の中では未熟な若大将として描かれてて、
混戦の末、副将の香宗我部何某、桑名八郎左衛門が小三郎元成を助けて討ち死にしてるんだよね。
この軍記は由佐家文書の1つで、香川叢書に漢字仮名交じり文で収められてる。
香南町史 生活と文化・資料編には現代語訳があるので、気になる方は是非どうぞ。
- 580 :
- >>576
へえ 面白いね
なんっていう軍記なん?
- 581 :
- >>570-571
谷忠澄の直系じゃなくて、谷忠澄の兄弟の家系が、江戸時代に儒学者を輩出して、
その一人である儒学者・谷景井の子が谷干城じゃなかったっけ?
- 582 :
- ごめん、>>579でちょっと嘘書いた。
原本見たことないけど、由佐家文書に秦元親与秦小三郎書って文書があるみたいだ。
他にも小三郎宛ての長宗我部元親感状も。
由佐氏に小三郎という人物がいたかはまだ知らないけど、
由佐氏は元親に降伏後、三谷氏の王佐山城を小三郎元成と一緒に攻めてるから、
その時に小三郎元成から受け取った文書かもしれない。
秦小三郎ってことは長宗我部姓の可能性が高いしね。
- 583 :
- >>580
興味持ってくれてありがとう。
軍記の名前は「由佐長曾我部合戦記」だよ。
出典は>>579の通り。
現代語訳は「香南町史 生活と文化・資料編」のpp.386-398。
国立国会図書館なら書名とページがわかってればコピーして送ってくれるけど、
香川県立図書館はそんなサービスはなかったかな。
手元にスキャンデータあるから送ってあげたいけど、
匿名掲示板でうpするのは著作権云々であれなので自粛しますね。
なんか今読み直してたら、元親の末の弟だったかもって気がしてきた。
- 584 :
- >>580
香川叢書が近代デジタルライブラリーで公開されてたので、
漢字仮名交じり文でちょっと読みにくくてよければうpするよ。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org308053.zip.html
passは合戦のあった「1583」年
- 585 :
- 血族かどうかはいろいろ考えられることはあるけど
これから調べてみる価値はあるね
元親の弟という筋はないだろうな
島弥九郎はもうすでに死んでただろうしその子供とか
あるとしたら父親の国親の親戚とかそういう筋だろうと思われる
それなら「親」がついてなくてもおかしくはないし
- 586 :
- 「末の弟」がどこに書いてあったか見つからないけど、最後の項「香西伊賀守城江寄事」に、
元親已に由佐を攻て和談し、弟小三郎に由佐勢を指添え三谷を責る處に 〜云々と書かれてるので、
少なくとも軍記書いた1700年ごろの由佐氏の末裔は元親の弟だと思ってたらしい。
自分が十河の人間で、長宗我部氏には全く詳しくないのだけど、
島弥九郎親房が死んでなくてご本人の可能性は、・・・ないよね。
長宗我部友親さんの「長宗我部」を読み返すとそんな気起こらないな。
この方、親房の末裔のはずだし、親房の最後について入念に調べてないはずないもんね。
そういう意味では一番有力そうな親房の子の可能性も怪しくなってくるんだよね。
ただ友親さんも五郎左衛門親典のことを、親房の家系に連なる、としか書いてないから
なくもないんやろうか。
結局「親」の字がないのが決定打に欠けるんだよね。
由佐氏、三谷氏、香西氏の文書漁れば他にも小三郎がらみのものがでてくるんかもね。
今は戸次川の戦いのこと調べてて、ろくに草書体も読めないのに手書きの古文書を入手しちゃって、
そっちに気を取られてるから後回しかな。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org306302.jpg
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org308395.jpg
どなたか読めたりしませんでしょうか。
豊後の大友氏の軍記「豊筑乱記」です。
長宗我部信親討死の描写があって、十河家やうちんくのこと書いてるかと期待したんだけど、
仙石以外の讃岐勢に全く触れられていないことくらいしかわかりませんでした。
読めそうな方いらっしゃったら本項の全文うpします。該当箇所全文で6ページ、写真4枚分です。
- 587 :
- 小三郎という名前からして「三男」であるということと
「幼名」であるということは考えられないの?
どっちにしろ親益ではありえないね
- 588 :
- そっかー。
島弥九郎が生きているかも、みたいな伝説どっかに残ってればなくもないかと期待したんだけどな。
襲名じゃなければ三男なんだろうね。
嫡男信親の弥三郎は実父元親から、
次男親和の五郎次郎は養父香川之景から、
三男親忠の孫次郎は養父津野勝興からの襲名だけど、
四男盛親の右衛門太郎は後継ぎに決まったから太郎なんかな。
三男だとすると元親の兄弟、元親の子どもという線はほぼなさそうね。
たまに変則的な名づけ方された人もいるみたいだから確実とは言い切れないながらも、
元親の兄弟や、父国親の兄弟の系統の三男って可能性はまだまだ残るのか。
弥三郎も幼名みたいだし、〜〜郎の幼名も確かに考えられるね。
元服前でも初陣はあるだろうし。
その場合、「小三郎元成」と「秦小三郎」の表記が気になるや。
幼名+諱や、氏+幼名の表記って一般的なんだろうか。
一般的じゃなくても、小三郎が幼名だと筆者が知りませんでした、って可能性が捨てきれないな。
書かれたのが元親の讃岐攻めから100年以上経ってるしね。
幼名だったとしたらどの家の人物なのか、今は見当もつかないや。
- 589 :
- 流れを読まずに>>2に名前の出ている家の子孫が通りますよー
面白い個人ブログがあったのでご紹介(●取ってね)
地元の方なんでしょうかね、ウチに関する部分は聞いた話とほぼ同じだったので
へー凄いなと思って。
h●ttp://homepage3.nifty.com/~manabe/nii.htm
裏話として、ウチは負けた後、敵だった皆さんの夢枕に立って殿様を狂死させるとか
その家の長男を病気にしたり、あちこちで色々と祟りまくった挙句
こりゃどうしようも無いってことで神社に祀られてしまいましたw
結局、明治の終わり頃に四国を離れたんですが、昭和の頃に某市の何かの行事に
親が招待されてたりして、まあ今でも一応子孫だと認定されているんだなという状態です。
その時に先祖の神社に行って記念撮影したら、境内で撮った分は全部心霊写真w
丸い物がフワフワしてたり帯状の光が入ってたり、マトモな写真が一枚も無いw
帰って来てウチの寺(ってのがあるんですわ)の坊さんに見せたら絶句して
「・・・・ご先祖、喜んでますね」みたいな感じw
親は「じいちゃん何やってるんだ、肝心な所が写ってない」って残念がってましたがw
更に一代下った自分は今度「じいちゃん、最近は女体化されてるよ」って言いに行こうと思ってますw
- 590 :
- 幼名?のお話が出ているようなのでウチの家系図を見てみましたが
幼名の記載は無いみたいですね〜
ってかいつ纏めたんだろうコレ?って感じです
男は「××(土地の名前)守(役職)○○(名前は二文字)」
女は「室」
某家から来たお嫁様だけ別格らしくて名前がありますね
負けた時にその人が子供を連れて逃げたので、ウチはまだ続いている模様です。
何か子供の頃は「○○家の血の人は気が強い」とか「念が強いから」とかで
年寄りに嫌がられた記憶が急に蘇ってきましたw
余談ですが「佐村河内守」が出てきたときはサムラゴウチノカミ・・・名前は?と
ちょっと混乱しましたw
- 591 :
- 書き忘れ
ウチに嫁に来て子供を産んだ人は「室」
ウチで生まれた娘は「女」になってますねー<家系図
で、格上の某家から来た嫁さんだけ「○」(漢字ひとつ)で名前があるという
男尊女卑というか何というかw
- 592 :
- 国立・宮城教育大学 教員一覧 「香曽我部 琢(コウソカベ タク)」
職名:准教授
所属:家庭科教育講座
学位:博士(教育)
http://www.miyakyo-u.ac.jp/cgi-bin/KyouinDB/DB.php?id=151
https://www.facebook.com/taku.kousokabe
- 593 :
- >>590
佐村河内守は広島出身
佐村という姓は山口に多く見られ、佐村河内は広島県広島市に数十世帯いる
恐らくは周防・長門・安芸あたりの国人で、大内氏・毛利氏に仕えたのだろう
その佐村氏の中で、「河内守」を代々自称、または任官した佐村氏の家系が、
他の佐村氏と区別するために「佐村河内」を姓とするようになり、その末裔が
自分の子供に、偶然または意図的に「守」と名前を付けたのだろうね
- 594 :
- >>590
コメントありがとう。
やっぱ幼名はほとんど記録に残ってないよね。
真鍋氏って讃岐国山田郡拝師郷(現・高松市林町)の向城(むかい-じょう)の、
源平合戦で平氏についた真鍋五郎橘助光しか知らなかったけど、
伊予のほうにもいらっしゃったんやね。
でも>>2のどの家かはわかんなかったよ。塩飽水軍かな。
〜守ってことは国司の百官名の方かえ。
なかなか立派なお家っぽいね。
江戸時代以前の女性の名前って記録少なくてわかるのは珍しいらしいよ。
よかったら参考程度に教えてもらえない?
聞くだけじゃあれなので、うちの記録も見ると、
江戸時代末期に、こちらも漢字一文字で「夏」という名前の女性がおります。
多分夏に生まれたかどうかは関係なく名付けられたのだろうね。
- 595 :
- 向城の位置をちょっと間違えました。
拝師郷だけど現・木太町の方でした。
林と木太の両方含んでるみたいね。
失礼しました。
- 596 :
- せっかく久々にいいネタが入ったのに人が少ないからいかんせん続かないな
あんまり有益じゃないかもしれんけど
19日にNHKの知恵泉って番組で元親公の特集やるみたいだぞ
- 597 :
- 元親の特集かー。
情報ありがとう。
明日を楽しみにしとこう。
- 598 :
- 津野倫明さん出てきてたね。
本持ってたけど見るのは初めてだった。
1時間弱で長宗我部元親と、獺祭の酒蔵の社長さんとを交互に紹介して
更に対比までしてるとあまり詳しいことは言えないやろうし、こんなもんかー。
四国制覇も一瞬で、中央勢力との駆け引きは紹介されず、
いつの間にか豊臣秀吉に降伏した話になってた。
十河氏は名前も出てきませんでしたねー。
三好氏は、たぶんあれ中富川の戦いのくだりやろう、そこでだけ出てたね。
河野氏はでてなかったような。
知らないこともあったし見てよかったけど、前提知識として
元親記、長元物語、土佐物語あたりは読んどいたらよかったな。
手元にないんだけどこのあたり網羅してる手ごろな本ってない?
- 599 :
- >>598
南海治乱記(教育社新書) by 香西成資
香西成資
江戸時代前期-中期の兵法家。
寛永9年生まれ。讃岐出身。
通称は武兵衛。号は本立軒常山。
小早川能久,のち小幡景憲にまなぶ。
天和2年(1682)黒田家につかえた。
著書に四国の中世史を描いた軍記物『南海治乱記』『南海通記』など。
- 600 :
- >>594
塩飽水軍ではありませんです
国司の百官名?でもないと思うんですがw
まあ負け方なので、家の自慢をしたいという事でもないというか何というかw
でもこのスレのお話は大体分かりますよ。
自分はウチの中の話しか聞いていないので、何だよアレは本当だったのか
ボケた年寄りの寝言かと思っていたのに・・・と驚いている状態というか何というか
勉強させていただいておりますw
その年寄ですが、ウチの方は集落?ごと四国から某所に移住したもんで、
周りは四国方言ネイティブばかりw
自分も子供の頃は普通に「〜〜しよる」とか「そんなことせられんわぁ〜」とか言ってましたねw
今でも出身地の方言は馴染まないですね。
ちなみにウチの正月の雑煮は「餡の丸餅を薄い出汁」というキワモノですw
- 601 :
- そういえば「刀」が話題になっているようでw
ウチにもあるんですが銃刀法違反なので「ある」とは言ってないんですが
まあウチにあるって事はご近所の皆が知っているというw
油紙に包んであって、戦時中も何とか見逃してもらったので
鶏を潰すとかに使っていたらしいんですがw
そんな風ですから美術館とか博物館に出せるようなモノではないので
「ウチにある」ってだけの話になってます。
由来としては中将とか少将とかの「お姫様に頂いた」ってことになってる模様ですが
なんかもう申し訳ありません、って感じでw
- 602 :
- まことは、動揺していた。
「二言目にはソースか?」
この男は言った。
まことは、そういう空気に合わない言い回しをしながらも、
「都合の悪い質問」を逸らそうとしている。
- 603 :
- やっと仕事の山が過ぎました。
お返事遅くなって申し訳ないです。
>>599
南海治乱記にあったんだね。
4か月前くらいに買って、ここ3か月くらい手元には取るけど読む時間少なくて毎日数ページしか読めてなかったよ。
応仁考、細川考、三好考、長曾我部考なんかがあるね。今細川考読んでるとこ。
表紙の原著者名の香西(こうざい)に「かさい」って読み振ってあってちょっと内容が不安になるよね。
もっと古い刊行本は仮名遣い難しくてすんなり読めないから十河周りの一部分しか読めてないや。
>>600
長宗我部土佐守元親、十河讃岐守一存とか、
国司というよりこういう武家官位からの百官名なんかな。
こういうのついてると〜〜介よりもすごそうに見えるけど、
十河家にも自称だろうなって感じの名前の人が多いしそういう百官名なんかな。
十河壱岐守、久保佐渡守、植田美濃守、神内石見守、三谷伊豆守、由良遠江守、溝渕(溝口)飛騨守、池田遠江守、大熊丹後守、云々。
あれ、こうやって見ると〜〜介のほうが珍しく思えてくる不思議。というか十河家の人はひとりも思い浮かばない。
植田若狭允の〜〜允は介より等級が下がるっぽいし、池内主殿助は太政官の名前だし、前田頼母助の頼母は官名ですらないしね。
私も讃岐の出身で餡餅雑煮は大好きだよ。
ただこちらは東讃なので白味噌だけど、小豆島ら島嶼部、西讃の特に満濃辺りは澄まし汁に餡餅を入れるらしいね。
その辺り出身の方でしょうか。
最近就職して今は中部に住んでるんだけど、餡餅雑煮ってだけで話した時の周り人の引きっぷりが凄いよね。
刀ですか。
うちにも戦時中持っていかれないように隠し通したぼろぼろの脇差があって、
目釘抜いてばらして見ましたけど、茎(なかご)には差表にも差裏にも銘は入ってなかったです。
うちのも、薪割りに使ってた、と祖父から聞きましたよ。伝来の詳細はわかりません。
- 604 :
- 一条さんを追っ払った「前科」があるから、
秀吉時代には朝廷から警戒されそうなもんだが
そういう史料は残っていないみたいだな。
官位も石高相当みたいだし。
- 605 :
- 四国の人は大野川合戦祭行くんかな
今年は11/14(土)やって
長宗我部家、十河家の方々は例年通り参加するみたいだけど
仙石家の方とか来たことあるんかな
- 606 :
- >>605
これは信親が死んだ時の戦?
それとは違うん?
- 607 :
- >>606
そうだよ
今の大野川の、大分市の街中より少し上流の辺りが戸次川って呼ばれてたらしいね
信親の戦死した「戸次川の戦い」の合戦祭が大野川合戦祭
十河さんに毎年お誘いいただいてて是非行ってみたいけど、今四国にいないのもあってまだ行ったことないんだよね
岐阜に住んでた時に仙石さんっていたから、仙石権兵衛の末裔の方もいそうだね
岐阜から参加だと遠いかな
- 608 :
- >>590
気が強いとか、念が強いとかって憑き物系ってことですよね
自分は関東の平野部なんでそういう慣習には幸いにして縁がなかったけれど、いまも残っている所は残っているんですね
- 609 :
- 安芸に行ったけど安芸城跡は本当に町外れにあるのな。毒を投げ込まれたという井戸も残ってたし。
国道沿いの国虎うどん美味しかった。2号店がフランスのパリと聞いてかなり驚いたな。
- 610 :
- 小説で当時の土佐に嫁に行く事は現代においてアフリカの奥地に嫁に行くようなものとか書いてあってドン退き佐久間。
この2月ようやくセブンイレブンが上陸した事を考えると仕方ないのかも…。民放も3局しかないし。
- 611 :
- 四国っていうのは流刑地だったからな
それも四国の奥深く 海に面してる成れの果てって感じなのかもね
けど意外と近代化っていうか文明化はしてたようだ
戦国期でも四国四県の石高は軽く百万石越えてたしな
- 612 :
- >>611
実家が安芸市なんだけど現在でも流刑地なんだよな。小学生の頃東京から転校生が来たんだけど親が仕事で大ポカやらかしたとかで。
- 613 :
- 高知って台風来ると毎年のように他県につながる道は全面通行止めで陸の孤島になるもんね
四国じゃなくて土佐単位でも島流しと言っていいくらいじゃないか
- 614 :
- >>611
土佐 10
伊予 35
讃岐 13
阿波 17
80万石にもならんぞ>太閤検地換算なら
- 615 :
- >>612
なるほど!
- 616 :
- わかる方いましたらお願いします。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11153776981
祖母井之照という人物について。
- 617 :
- >>616
すまない。わかりません。
- 618 :
- 山内氏は、一介の地侍から土佐20万石を徳川将軍家から賜り、大きな恩がある。
土佐では、前の主君・長宗我部氏が一両具足という常備軍を作っている。一両具足は、長宗我部元親により百姓身分から武士階級に取り立てたことから、長宗我部氏への忠誠度が半端じゃない。
関ヶ原では国主・盛親が徳川方と一戦も交えることなく敗れた。そのため、盛親に対する処分は、斬首とするわけにもいかず、改易ととなった。盛親は一国の大名から突然、土地を持たない浪人として、京で隠居することになった。
家康は、関ヶ原で功労のあった山内氏に、国主が去り、空いた国となった土佐一国を賜る。しかし、忠義心半端ない一両具足達が本来の主君と奉ずる盛親が存命のまま、敵から強要された新たな主を素直に迎え入れるわけがない。
家康は、山内氏に土佐一国を与えたように見えて、同時に厄介な一両具足を押し付けたとも言える。
20万石もの領地を突然得ることになった山内氏は、土佐全土を治めるには明らかに家臣不足だった。そのため、城に仕える武士には主に譜代の家臣を用いて、これを上士とし、土佐山村部の支配には長宗我部からの武士を用いて、これを下士とした。
このため、土佐藩の武士は家系で上下の身分が定まり、上士は生涯上士、逆に下士は如何なる功があっても生涯下士のままという特有の制度が生まれた。
ただし、山内氏支配確立の過程で長宗我部氏の家臣ながら山内氏の支配を支持し、功績のあった武士には白札という事実上の上士階級が与えられた。
こうした経緯が後の世まで続く土佐の複雑な立場を形作る。
- 619 :
- 城仕えには主に少数の上士と白札が
山村の支配は、長宗我部からの武士である下士がそれぞれ任されていた。
しかし、江戸後期からは非生産階級である武士階級の財政もひっ迫し始め、
財ある地主や商人を養子に入れるなど、身分をカネで売るようなことが頻発した。
坂本龍馬の家系がこれに相当する。
長く支配階級だった武士は、商いなんていう、人に頭を下げて利益を得るような行為を毛嫌いしていたが、
下士階級だった坂本家は、上士だけを顧客に高利貸しを営んでいた。
上士が相手なら、いくら頭下げても恥じることはない。それどころか、秩序を重んじる武士らしい。
上士も江戸後期になれば、藩の財政事情が厳しい時は高利貸しの世話にならないとやっていけなかった。
藩に必要な財を調達して利益を得るなら、武士としても恥と感じるところはない。
これが明治の世になって生まれる政商の考え方の元になる。
- 620 :
- 三好長慶を、人気作家に小説にしてもらい、花の慶次みたいに人気マンガにできたら徳島の文化が変わる。
- 621 :
- 十河の町起こししたいんだけどアイディア貰えんかな
板違いで申し訳ないけど、ここに来るような人が一番この話題に関心ありそうでアイディアも的を射そうかなって
十河の人たちは、その郷土に戦国大名がいたなんて知ってる人すら3%くらいのもので知名度もまったくないんだ
最近、十河の公民館に「戦国武将の町」って横断幕を掲げ出して俄かにアピールしだしたけど、まだまださっぱりだろう
天正10年から天正12年まで丸2年の籠城戦だった十河城の戦いとか、押し出したいところだけどあんま詳細に記録残ってないよね、戦記も
その時に城を守ってた十河隼人が実休の子の十河存保なのか、鬼十河の庶子の存之なのかすら誤記も多くてよくわかんないし
十河や前田の小学校で郷土史の授業やってて最近の子どもには多少は郷土の英雄を知る機会があるようだけどね
小説でも作ろうかと思っても、この籠城戦で戦果を挙げてるの十河側で前田甚之丞宗清と十河(池内)主殿助孝晴くらいかな、結局最後は開城だしね
鬼十河の活躍はほぼ畿内だし、
存保は秀吉の四国征伐の後に山田郡2万石に復してすぐ戸次川で戦死だし、司馬遼太郎さんの「夏草の賦」では長宗我部憎さに勝ち目のない仙石の渡河作戦に同意したことにされてるし、
存保の嫡子の千松丸は生駒親正に毒殺されて大名家としては廃絶だし、
存保の子とされてる存英は大坂の陣でそれまで匿ってくれてた宇喜多の軍に属して(と十河では言われてるけど、秀家出てこないから明石全登かな)落城後は尼崎で討死だし、
物語性に欠けるというか、まあこの辺は筆先ひとつなんだろうか
司馬さんの「十一番目の志士」みたいな手法も良さそう
どの方面から行くべきなんだろう
十河関係のお土産を開発するのか(ゆるキャラ路線とか?)
まず小説などのメディアで有名にするのか(まだ十河が主役の有名どころは海音寺潮五郎さんの「十河物語」くらいしかない)
JTBさんとかの旅行会社に頼んで十河のネタを仕込ませてもらうのか
市役所や県庁で援助頼むのか
まずもっと郷土史の資料を掘り起こすべきなんだろうか(出てくるのか?)
民間の有志の集まりは60代以上の人ばかりみたいだから、若手で興味ある人を探す必要もありそう
三好長慶は徐々に有名になりつつあるね
三好長慶会さんとか、最近よく本見る天野忠幸さんのおかげかえ
ただ劇的には展開できてないし、町起こしに有効策を打ててるかはクエスチョン
三好長慶会さんのHPはかなり有効な気はする
十河にこの手のページはないし
まずは三好にスポットライトが当たってからじゃないと十河まで光が届かんやろうか
長宗我部は元親も信親も戦国BASARAの影響なのか人気爆上がりだよね
十河もおこぼれに預かってるけどさ、、
宮下秀樹さんの「センゴク」ももうじき戸次川の戦いだし、戦国時代好きに十河存保の名前が売れるチャンスではあるか
でも三好三郎として出てるんだっけ
十河じゃなくて三好が売れそう
- 622 :
- 三好十河は諦めて篠原長房を宣伝しまくる
- 623 :
- >>621
最低でも三好と十河で連携しないと駄目。
さらに
・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
・三好氏、十河氏のHP作成
ここまでは個人で出来る。
その後、
・十河氏子孫会の結成
・十河氏研究会の結成
・各家庭の史跡保護
・お土産開発
・政治家への陳情
・香川県・和歌山県の連携
・テレビ番組の誘致
・小説の執筆
・他県との連携(和歌山、大阪?)
ここまでがよくあるパターン。
その先は
・十河氏博物館の建設
・十河城の観光地化
・十河氏の菩提寺
で最低3箇所(1日分)のハードが揃わないと
観光地としての成功はしていないのが現状。
- 624 :
- https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨーク従業員英産プルトニウムチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田
- 625 :
- 高知は長宗我部の中央政権への影響力や豊富な歴史資料と戦国ゲームの描かれ方に恵まれてる
愛媛は河野村上水軍の歴史と明治〜現代に紡がれる歴史、風光明媚なしまなみ海道に恵まれてる
十河はあんまり聞かないけどね三好は結構アイデンティティ大事にしてる三好さんいるんだよ四国〜関西
でも近畿圏の中央政権による排除に飲み込まれた感じあるしよく分かってないことも多い
子孫会の結成であったり魅力の発信は>>623と同じ意見
- 626 :
- 返信大変遅くなって申し訳ないです。
622です。
>>622
また天野忠幸さんの新しい本出てて、三好一族と織田信長、っていうのね。
これ読んで篠原長房のことこれまでより詳しく知って、なるほどなかなか劇的だとは思ったんだけど、
三好長慶、義継、松永久秀あたりがいての篠原長房だとは感じたよ。
この本読んで自分の中で評価が上がったのが三好義継、松永久秀、篠原長房、三好長治、長宗我部元親。
松永久秀、全然不忠者じゃないね。
元親は最初からずっと信長に付いてたのね。
土佐物語とかの軍記でよく見かけた、切り取り次第〜云々、のくだりは物語くさいと思ってたけど、
それ以外の実際の書簡や物品の遣り取りで念入りに友好関係築いていたのがよく分かった。
ほぼ四国制覇していたのも間違いないね。
それが秀吉のために土佐一国のみになり、秀吉の子の秀頼のために土佐すら失う没落っぷりはまさに悲劇。
逆に下がったのは羽柴秀吉かな。
讃岐山田郡二万石を十河存保にくれたけど、どうやら大名とは認めてなかったっぽい。
常に存保を十河孫六郎としか呼ばず、戸次川の戦いでは討死の後は十河家を改易したの、
後者はもちろん以前から知ってたけど改易は初めから秀吉の既定路線だったように感じる。
十河存保はプラマイゼロ。
一存は大体堺にいたの知ってたけど、存保もそうやったんやね。
十河家を継いでるのにほとんど三好姓ばかり名乗ってたみたいだなあ。
三好を継ごうとするなら一存の庶子で、母方不明だけどおそらく十河の人間を母に持つ十河存之に十河家を継がせて欲しかったよ。
十河としての売りがなくなるじゃない。
ここマイナス。
特にこの書籍で言及無かったけど、十河城は存之が城代で、存保は勝瑞から帰った後ずっと虎丸城で籠城してたんだなと思う。
存之が天正12年6月に十河城を脱出した後も、虎丸城がしばらく残っていたのは複数の一次資料があることからほぼ確信。
でもその後落城してるだろうね。
最近になって香川県埋蔵文化財センターのページに紹介されてるけど、発掘の結果土佐軍の改修の跡が見つかったようだし。
ここ若干プラス。
あと信長とはずっと敵対してたようだね。
どこかで三好咲岩とかに説得されて信長に服属してるんだと思ってたよ。
阿波・讃岐の国人の糾合や戦略も思っている以上に評価されるべきと思えるくらいには成果あったみたいだし。
ここの気骨ある感じはプラス。
どうでもいいとこでは土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)の「蠧」の字が、
「蠢」(うごめ・く、シュン)になってるところが4か所はあったのが気になったね。
少なくとも2か所は「蠧」の字だったのに。
著者さんは手書きで、編集さんか誰かが活字に起こしてるのだろうか。
- 627 :
- >>623
詳細にご返信くださり真に痛み入ります。
これだけの価値あるご回答への返事が遅くなり自責の念に堪えません。
> ・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
> ・三好氏、十河氏のHP作成
三好氏、十河氏関連の史跡は実はあまり存じておりません。
地元にあんまりそういうの紹介されてないんだよね。
なかなか知れない。
だからこそ作ればいいってことでしょうけど、自分の持ってる情報だけじゃ全然不足してるんだ。
香川県の県立図書館の郷土史料は粗方漁ったんだけどね。勉学の傍ら8年ほど。
情報系の学科も出てるからHP作成は勉強すればどうにかなるかな。
今後どうやって情報収集するかが課題。
> ・十河氏子孫会の結成
これは実はあるんだ。十河同族会が昭和の時代から。
でも私が生まれてからは活動してるの見たことない。
うちは十河城のあったとこで、小字は城なんだよね。
昔は武者行列とかやってたみたいだけど。
会報も十何年止まってるだろう。香川県立図書館や国立国会図書館で初めて見た程度。
有効活用させていただくとして、今はどれだけのマンパワーが得られるかな。
> ・十河氏研究会の結成
これも、十河氏に限らず地元の研究してたり、史跡保護をしてる団体が複数あるんだ。
勧誘していただいたこともある。
私が県外就職してしまったので残念がられましたが。
70-90歳くらいのお爺様がたなので電話でアポ取るのも大変で、
メールをできる人に会ったことがないです。
地元に帰るタイミングじゃないと交流が難しそう。
三好長慶会はIT化されててメールで遣り取りできるのに。
> ・各家庭の史跡保護
これに就きましては十河城跡の周囲だけでもなかなか、なかなか。。
言い伝えはほぼ消滅してまして、史跡だったのに処分されてしまったパターンをいくつか知ってます。
2代前までは言い伝えられてたはずの家が今は何も伝承されてなかったり。。
うちも古文書で残ってなかったら消滅してた。親戚の誰も内容わかってなかったし。
ここ実は急務かもね。
古文書は活字で残しましょう。内容は失われないようにネットの海に撒きましょう。
と研究者としては言いたいところだけど、伝えてきた家としては共有財産にしたくはないんだろうなあ。
家系図とか特に。十河氏の系図も群書類従のしか公開されてないし、植田家譜、前田家譜はどこにある。
史跡のことを知っている人がいないから守れないっていう負のスパイラルもあります。
知っている人に情報の供出を促す、情報を出しやすくする仕組み作りが必要かもしれない。
そしてその仕組みそのものに知名度がなければ、その仕組みが利用されることはないんだよね。
> ・お土産開発
この辺りしようとすると組織で運用する必要があるかな。
鬼十河饅頭。月代を頭の後ろまで剃ったスタイルのデザイン。うん普通の饅頭じゃないかなこれ。
資金調達は最近はやりのクラウドファンディングでしょうか。
若輩の身では自己資産の捻出は高が知れてるもの。
もう少しで定年って人なら資産運用や年金とか、
人生のノウハウなんかを利用して趣味でできそうだけど、定年までまだ40年あるし。
組織の持続的運用には継続的な収入がいる訳で、
法人化するなら企業勤めのままじゃ社規違反で懲戒になりそうだね。
この年明けからの長期出張中に簿記2級の勉強して2月末に受けてみたけど試験難しかったです。
教科書レベルの基礎的は内容は把握できたけど、今後もし機会があっても財務会計は専門家に任せよう。。
- 628 :
- > ・政治家への陳情
現職じゃないけど元市議会議長が十河にいて、
同窓に孫がいて昔何度か遊びに行ったこともあるという伝手もあるし、手がなくはないかな。
コネがなくても、郷土振興は市の利するところでしょうし、市民の望むところでしょう。
十分な活動をして行動力を示し、説得力を上げた後にはこの一手だろうね。
> ・香川県・和歌山県の連携
和歌山県と連携できる点はどこなのでしょう。
県外、特に四国外の歴史には疎くて申し訳ないです。
本願寺や、篠原長房の子の松満が逃げ込んだ絡みでしょうか。
三好氏流十河氏を称する一族が代々紀州の寺の住職か何かをやっていたような気もします。
> ・テレビ番組の誘致
> ・小説の執筆
テレビで放送して反響を期待できるレベルまで行けば小説を書く方も出てくるでしょうね。
地元放送局のリポータにも親しい友人がいるので、継続的に活動できれば企画も組んでくれそう。
> ・他県との連携(和歌山、大阪?)
十河歴史資料館の十河さんは、高知県の長宗我部祭や大分県の大野川合戦祭には毎年参加されてるけど、
徳島や大阪での活動は聞いたことないね。
長慶会さんとはお知り合いのよう。
十河さんからは長慶会さんを、長慶会さんからは十河さんを紹介されたので。
少なくとも徳島では三好十河関連で何かはしてるんだろうなあ。
でも大阪は何かご存知でしょうか?
今大阪に住んでるんだけどね。出張でほとんどいなくて、今も出張先からコメントしてますが。
> ・十河氏博物館の建設
これは十河歴史資料館の拡充のことだね。
古文書をネットで仕入れて読んでみて、関係ありそうなものは寄付したりしてるけど、
まだまだ所蔵点数が微々たるものだ。先は長そう。
展示物は研究家さんたちの研究成果が多いし。
> ・十河城の観光地化
これは、うーん、生駒氏が移してきた称念寺が本丸跡に建って400年経ってるんだよね。今は墓石も無数に。
縄張りに就いては江戸時代の東十川村の庄屋の池内武存が遺してる図があるし、
棚田や水路や池が往時を残してるらしいのでそれっぽくはできるのかな。
ここが土塁で、ここが大手門で、ここが北門、ここが長宗我部親政の陣所、とかって。
> ・十河氏の菩提寺
そういや十河氏の菩提寺ってどこだっけ。
称念寺は生駒氏が十河家の怨念を鎮めるために移築したもので菩提寺じゃなかったはず。
北東450mくらいのとこにある朔方寺もできたの1580-90年くらいで西本願寺系列かなんかだっけ。
十河の分家らしい池内武存の墓は朔方寺境内にあったけど、十河姓の檀家は1つしかなかったような。
三好氏から嗣子が入った前後で菩提寺も替わってそうな気はするけど。
これは次帰った時に調べよう。
技術職やってると平素忙しすぎて帰りも遅く、夜中寝る間を惜しんで勉強するしかないってのが大変。
今後海外出張もあると思うと今の仕事しながらでは首突っ込む程度で、町興しを主動するのは無理なのだろうか。
- 629 :
- >>624
土佐は言わずもがなだよね。長宗我部元親も坂本龍馬もあるもん。
伊豫も河野氏や西園寺氏はもちろん、海には村上水軍や日本総鎮守の大山祇神社の鶴姫伝説もある。
秋山好古や真之、正岡子規は司馬遼太郎さんに坂の上の雲で描かれてるし、羨ましい限り。
阿波も古代最大級の穀倉地帯か集落かの遺跡がここ1,2年内くらいに出てきてたような
阿波忌部氏は四国の歴史の曙だし、三好氏の本領あるしで前面に押し出せるとこいっぱいあるよね。
隣の芝生は青いのか、讃岐はヤマトタケル伝説、大明法家讃岐永直、弘法大使佐伯真魚というか空海、
源平屋島合戦、応仁の乱(細川方、舞台は京都だけど)、あとは十河氏、
うーんと水戸光圀の兄の松平頼重から始まる讃岐松平家、金刀比羅宮、平賀源内に、菊池寛、壺井栄、、。
ああここ四国の戦国大名板だし、やっぱ応仁の乱と十河氏くらいしかないのかな。
ヤマトタケルの弟の神櫛王の家系で、奈良時代には讃岐永直を介して連なる十河氏ならちょっとは絡めさせられるかも。
羽床氏や香西氏は祖の藤原章隆の母方が、ヤマトタケルの息子の武殻王の後裔氏族の綾氏だし。
香川は戦国時代もまとまりなかったから、全体を巻き込む方向がよさそうなんかな。
- 630 :
- 先のコメント >>625 でした。ごめんなさい。
- 631 :
- 伊予の人ごめんね
マジゴメン
爺さんに聞いたら、なんと俺の家系は戸田勝隆の家臣兼親族の戸田豊前守重治って人の子孫らしい
- 632 :
- 祭には早いが、初めて岡豊城に行ったわ。
なんつーか、関東平野にざらにある山城と変わらんな。
こんな小領主が四国統一しようとしてたのか。
一方、浦戸、長浜まで行くと完全に漁師町の雰囲気だな。
土佐は、山と海両方揃った南国の地でした。
- 633 :
- 大名じゃないけど吉田政重は過小評価だと思う
- 634 :
- >>628
なんで和歌山なんだろう?全く思い出せない。
十河一存の足跡で考えるなら岸和田城だよねぇ。
子孫会や研究会は消滅する前に史料を回収しないといけない。
でもネットで拡散してしまうのもよくない。
会報にして売るのが保存、継続に繋がって、最終的に皆の利益になると思う。
- 635 :
- 長宗我部遺臣末裔の土佐藩上士って吉田氏、谷氏、本山氏、吉松氏、明神氏、
横山氏、高島氏、中山氏(中山田氏←香宗我部氏)、馬場氏、町氏、
植木氏(正確には津野遺臣末裔)、上村氏(上林氏だったかな?)、志和氏、ぐらい?
鹿持氏、平井収二郎の家、武市半平太みたいに下士や白札から新留守居や留守居に
昇格した家は別として
- 636 :
- >>589
負け戦というのが氷見高尾城の籠城戦の事だったら
言い伝えなど、聞いてる事を教えてくれると有り難いんだけど…
- 637 :
- >>635
直参は必然的に山内直轄地の中の家になるから県中央部の家になるんじゃないかな。地理的な部分が大きいと思うよ。中央部から離れたとこの家だと家老の封地になるから陪臣=郷士になるし。
- 638 :
- 長宗我部家の血縁者が勢州津藩の藤堂家に剣術指南役として仕えており、藤堂家に預けになった荒木又右衛門と渡辺数馬が数年間弟子いりしていたようだな
- 639 :
- 長宗我ってマイナー扱いなの?
Microsoft IMEの一般だと変換できなかった
ほかの大名だとほぼ抑えてるのに
- 640 :
- 「ちょうそがべ」で変換できるよ昔から
- 641 :
- 実は山内よりも悪、長宗我部のクズ逸話を打線にしてみた。
1.盆踊り大会とみせかけ、
伊予曾根歯長城を殺害、鼻を削ぎ落とす。(山内の相撲大会の前)
2.盆踊り大会でRのを気に入り、
おまけとして惟宗国長も殺害する。 (信親暗殺前)
2.自分(長宗我部元親)が出した禁酒令を自分で破り、ぶちギレた儀重に従者が殴られる。 (信親暗殺前)
3.一条兼定に悪口を吹き込み土居宗珊を殺害させた。(信親暗殺前)
4.敵対していないのに四国のほとんどの寺を焼き討ちにし、良僧も女子供も殺害した。 (信親暗殺前)
5.延命寺の名鐘を盗もうとして仏に祟られる。
5.長宗我部盛親が嫉妬で実の兄を殺害。(盛親は気性が荒く家臣からも嫌われていた)
6.実の兄弟の吉良親実、比江山親興などを殺害し七人ミサキとして霊に祟られる。
7.信親暗殺前も普通に悪すぎて大河に出来ない。(宇喜田直家レベル)
8.信親死後、飛脚は時間に遅れたら死刑。 百姓は道を自費で直さないと厳罰とかだったため実際には山内の善政を喜んだ百姓が多かったという。
(このため、肥後と長崎の3万人の一揆と比べ高知の一揆は200人しか集まらなかった。)
9.中国人の秦氏として土佐に入り、
清和源氏の香宗我部氏から宗我部の苗字を乗っとった。
DH.新開実綱一族を酒宴を装い虐殺。天井の血が今も消えない模様。
- 642 :
- 信親暗殺?
- 643 :
- >>641
> 7.信親暗殺前も普通に悪すぎて大河に出来ない。(宇喜田直家レベル)
そういうところはカットするから大丈夫だよ。
- 644 :
- その手の所業を非道とか言ってたら大概の大名は似たようなことやってるよ
そういう時代なんだから
- 645 :
- 山内家が捏造した逸話の可能性もあるからな
- 646 :
- 山本太郎、安倍首相をメッタ斬り!
「TPPはゲームセット、完全に詰んだ!」
抑制のない成長に基づく経済政策は終焉
日本国民はどう対処すればいいのか
新しい政権は民意を反映し、
食糧、住宅、健康、教育、最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、
極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
民衆の指導者は
職業的政治家ではない人々から見つかるのです。
世界平和の脅威は、
イスラエル、イラン、アメリカです。
イスラエルの役割は跪いて、
パレスチナに許しを請うことです。
アメリカによる他国の虐待に
反対の声を上げなければなりません。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したい
という衝動(世界を支配する)をコントロール
するのは、マィトレーャの任務です。
非常に間もなく
マィトレーャをテレビで見るでしょう。
彼は「匿名」で働いております。
彼は非常に物静かなやり方で話します。
彼の控えめな態度に混乱してはなりません。
マィトレーャは毎日テレビに現れ、
質問に答えるでしょう。
- 647 :
- 長宗我部元親がクズなのはいわずとしれたことだからな
今まで山内が悪いとし過ぎただけだろ
長宗我部の盆踊り大会、山内の相撲大会で仲良くやれば良いだけの話
- 648 :
- 質問させてもらいたいんだけど俺の苗字は別役って言うんだ親父とかに聞くと戦国時代は長宗我部の重臣だったって言うけどホントかな?
ネットで調べると苗字と同じお城があったりするが、関係あるのか詳しい方いらっしゃったら教えて頂けるとありがたいです
- 649 :
- 小物すぎてわからん
- 650 :
- 香北町あたりに500石強の領地を治めていたようだね
- 651 :
- >>650
>>649
レスありがとうございます。
やっぱり小物ですよね...文献漁っても全然出てこないし
九州出兵の際に当主が信親と一緒に戦死したとか聞いたこともありますが親父は亡くなっているので身内でも知ってる人少ないんですよね
- 652 :
- 1000石以下の人物とかよほどなんか変わった事やってないと
記録にほとんど残らんからな
織豊とか徳川あたりなら残ってるかもだけど
長宗我部あたりじゃ・・・
- 653 :
- >>652
本家の方行けば家系図やら文献やらあるらしいのですが、大分疎遠になってしまっていて...これを機にお邪魔してみようかな
- 654 :
- >>651
戸次川合戦で戦死者に別役三郎左衛門の名前があるね
凄いね信親と最期まで戦ったんだね
- 655 :
- >>654
そうですその方がどうも直系では無いですが、御先祖様だそうで
かの有名な長宗我部の家臣として戦ったと言うのは誇りにしてますww
許すまじ仙石
- 656 :
- >>655
郎等一人連れていたみたいだね
おそらく血縁関係がある人だと思う
戦死者の名前の順が早いのでなかなかの身分だったのかも知れないね
- 657 :
- >>656
わずかですが所領と城を頂いていたみたいですね。
でも、全然文献がないので今度訪ねてみようかな
- 658 :
- >>657
是非行くべきだよ
大分県の戸次川合戦場跡に長宗我部のお墓があるからそちらも行きなされ
- 659 :
- うらやましいのう
父親の実家の隣町に姓と同じ小城跡があって、城主も同姓だからひょっとするかもしれんが、だとしてもこちらは陪臣よw
まあ、うちは分家の分家なんで本家とは付き合いなんてないから調べに行くきもおきないが
- 660 :
- >>658
東京からだと長旅になる予感...でも自分のルーツ巡りができるって幸せ者なのかもしれないな信親様のお墓に手を合わせてこよう
- 661 :
- >>659
まぁ家も分家だし、本家と殆どの縁が切れてるから貴方と同じようなものですがねw
本家も武家の直径かどうか...聞いて見ねば
神社やってるから宗家ではあるんだけれど
- 662 :
- 昔、谷忠澄だか滝本寺非有だったか
どっちか忘れたけど、子孫だっていう和菓子屋の女の子と
お知り合いになった事あったなあ・・・
当時は信長の野望くらいしか知識なかったから
長宗我部の内政要員が先祖なんだーくらいしか思わなかったけど
- 663 :
- 私の先祖は徳川の家臣で友達の先祖が武田の家臣だったな
戦場で会ったかもねと話してる
- 664 :
- やっぱり四国の人たちは仙石秀久大嫌いなの?
長宗我部って薄幸なイメージあるけど
子孫が龍馬なんだよね
それだけで凄いわ
歴史上の人物ナンバーワン人気
- 665 :
- 長宗我部に使えてた者の子孫ってこと
- 666 :
- 坂本龍馬が自称してたのは明智の子孫だろ
- 667 :
- 明智の子孫ってすごいのかすごくないのかわからん
- 668 :
- 名前が残ってる人の子孫だから一応凄いと思う
よっぽど悪行を積み重ねて悪名高くないかぎりは子孫を自称したくなるでしょ
織田信長の子孫にとっては悪者だろうけどね
- 669 :
- 【青戸6丁目住民一同のK】
秋葉原通り魔事件で逮捕された加藤智大氏は、明らかに冤罪
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%99%BA%E5%A4%A7%E3%80%80%E5%86%A4%E7%BD%AA
(※50分超の動画を見て下さい)
- 670 :
- 愛媛県 PUMA
,,,llll、 , ,, ,,,,,
iiilllllllllli、 ,,iiiiiiiiii,,,iilllll iiillllllliiiiiii,、 ,iillllll!
iiillllllllllllllllllllllllllllllllllll!!!!!! `!l!!!lllllllllllllllliiii、 ,ill!!´
llllllllllllllllllllll!!´` ,,iiiiiiiiillllllllllllllllllllllliii、 ,,il!´
,,,,,,iiillllllllllllllllllll!!´ `` ``!!!!!´`!!lllllllllllllliiii,,,、 ,,,,iill!
,,,,illllllllllllllllllllllllllll, `!!!!!!!!!!!!llllllllllli、
,,,iiii!!!!!llllllllllllllllllll`´´´ `!llllllllli
´´´ lllllllllllllllllllllllli `llllllll
``llllllllll´´ `!!lllii、
!!lllllll`´ `ll、
llllllllll !!!!
!!!!!
- 671 :
- 河野氏絡みの冊子欲しくて愛媛まで行きたいけどそれだけのために道後公園行くには遠すぎる
取り寄せとか出来たら良いんだけどな
- 672 :
- ついにセンゴクで次週戸次川の戦い来るでー♪
なお権兵衛は「強いやつと戦いてぇ!」という理由で家久と戦う模様
- 673 :
- 悟空かよ
- 674 :
- 前代未聞の大逃走はどう処理するつもりなんだろうな
蒼天航路の赤壁並にわけわからんことになりそう
- 675 :
- 大敗したのは事実だけど讃岐まで逃げたってのは司馬遼太郎の創作だって話は本当?
- 676 :
- 今日のその時ー♪
センゴクで遂に信親死亡………
- 677 :
- 知らんけど司馬史観がさも事実かのように語られてるケースは多々あるわな
- 678 :
- 豊臣政権下では長宗我部氏は一条氏の陪臣扱いだったって話がネットでちらほらあるけど本当かなあ?
- 679 :
- ごく一時期だけはね
- 680 :
- 長宗我部家臣の、「国吉甚左衛門」と「宿毛甚左衛門」ってどういう関係なんでしょうか?
ネットでいろいろ調べてるんだけど、どちらも「野田氏」、「上村氏」と関係があるので。
事績が違うから同一人物ではないんでしょうけど。
たまたま甚左衛門って名前が同じだっただけなのだろうか。
- 681 :
- 伊予河野 山内氏朋
西園寺 山内氏朋
土佐一条 中脇聖
長宗我部 平井上総、津野倫明
ってな感じか研究者
- 682 :
- >>20
米米CLUBにそんな苗字の人居る
- 683 :
- 山内治朋じゃなかったっけ
- 684 :
- 色々資料手に入れたから久々にこのスレ来たけど過疎ってるなあ
- 685 :
- 実際こんなところに新情報書き込んでやるくらいなら
ツイッターとか個人HPとかで自分の名前でやったほうがいいと思う
- 686 :
- 新情報なんてほどの話じゃないからこそゆるくやれるところが欲しかった
まあニッチ過ぎるしそこらへんは仕方ないか
- 687 :
- いいからさっさと書けよ
- 688 :
- 「過疎ってるから書かない」とかいう理由で書かないなら
そもそもこんなとこ来るな
- 689 :
- ■ハプログループで語るスレに出没し、数年に渡って荒らしまわる危険人物
IP:221.52.219.121 = Y染色体ハプログループO2a2b1a1= キットナンバーN264217 = Chosogabe
https://www.familytreedna.com/public/japan?iframe=yresults
本物の秦氏の子孫、秦の始皇帝の末裔と考えられるY染色体保有者
■バレたスレ
【IPなし】ハプログループで語るスレ 裏スレ3
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/geo/1535447834/276
■荒らしているスレ
【Y-DNA】ハプログループで語るスレ44【mtDNA】
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/geo/1524323706/
【IPなし】ハプログループで語るスレ 裏スレ3
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/geo/1535447834/
■内容
・漢民族(O2)にアイデンティティを持ち、O1bを朝鮮人、D1bを土人として決め付け徹底的に差別。
・天皇家が自分と同じO2であると妄想し、異なる意見を片っ端から罵倒し粘着する。
・人がいない時は延々と根拠無い妄想を垂れ流し、自己満足に浸る(数年継続中)。
・縄文人が気に入らないらしく、下層階級、底辺、エタ、土人とこき下ろす。
・弥生人も気に入らないらしく、チョン一重とこき下ろす。
・ヒートアップすると相手を精神病扱いする癖あり。
・口癖は「一重二重」「んだよ」 ←妄想の押し付け
・立場が悪くなったらコピペ連打のパラノイア。
おい、長宗我部のガチの直系子孫(遺伝子確認済)がトチ狂って2chで荒らしまわってるぞ。
家臣団の子孫が居たら救いにいってやってくれ。
- 690 :
- 河野家譜築山本に名前のある河野通昭ってその当時活動した記録あるんだろうか
本自体の信憑性の問題もあるしどこまで記述を信じていいものか分からない
- 691 :2020/01/17
- 通用しない情報もあるだろうけどわかりやすいな
ttp://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7858
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