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【三十一谷人】福沢諭吉について(其の12)


1 :2015/07/01 〜 最終レス :2020/01/12
・「三十一谷人」とは、福澤諭吉の雅号です。

過去スレッド一覧
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の11)
ttp://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1404555135/
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の10)
ttp://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1380950643/
【三十一谷人】福沢諭吉について(その9)
ttp://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1345889094/
【三十一谷人】福沢諭吉について(其の8)
ttp://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1323680099/
【三十一谷人】福沢諭吉について(その7)
ttp://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1301829575/
【偉人】福沢諭吉について(その6)【悪人】
ttp://kamome.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1284343842/
【偉人】福沢諭吉について(その5)【悪人】
ttp://kamome.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1272338953/
【偉人】福沢諭吉について(その4)【悪人】
ttp://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1253956268/
【偉人】福沢諭吉について(その3)【悪人】
ttp://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1243898641/
【偉人】福沢諭吉について(その2)【悪人】
ttp://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1226896359/
【偉人】福沢諭吉について語るスレ【悪人】
ttp://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1147733623/

2 :
前スレの>>963です。

>>958
> 署名著作ではキレイゴトを言い、無署名社説ではホンネを書いた、ってわけでもないだろうねえ。
> というのは、初出の紙面ではどちらも無署名で区別されていなかったから。

たしかに初出の紙面ではどちらも無署名だったことはホントだけど、
後に署名著作となる社説は最初から一冊分のボリュームがあるため、
連載の社説として掲載されるから、区別は最初からあった訳ですね。

そこで、『時事大勢論』から『實業論』までの初出の情報を
慶應義塾図書館の「デジタルで読む福澤諭吉」で調べてみると、
以下のようになりました。

----
『時事大勢論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十五年四月五日から十日まで六回に亘り時事新報社説として発表
『帝室論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十五年四月二十六日から五月十一日まで十二回に亘って時事新報社説として発表
『兵論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十五年九月九日から十月十七日まで十八回に亘り時事新報社説として発表
『徳育如何』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十五年十月二十一日から二十五日まで四回に亘り「学校教育」と題して時事新報社説として発表
『學問之獨立』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十六年一月二十日から二月五日までの時事新報紙上に「学問と政治と分離すべし」と題して八回に亘り連載
『全國徴兵論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十六年四月五日から七日まで三回にわたって「全国兵は字義の如く全国なる可し」と題する社説を連載し、次いで明治十七年一月四日から七日まで三回にわたり「改正徴兵令」と題する社説を掲げた。
『通俗外交論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十七年六月十一日から十七目まで六回にわたり時事新報社説として発表
『日本婦人論. 後編』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十八年七月七日から十七日まで十回にわたって時事新報社説として発表
『士人處世論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十八年九月二十八日から十月五日まで六回にわたって時事新報社説として発表
『品行論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十八年十一月二十日から十二月一日まで十回にわたり時事新報社説として、発表
『男女交際論』福澤諭吉/立案・中上川彦次郎/筆記
明治十九年五月二十六日から六月三日まで八回にわたり時事新報社説として発表
『日本男子論』福澤諭吉/立案・手塚源太郎/筆記
明治二十一年一月十三日から二十四日まで十回にわたり時事新報社説として発表
『尊王論』福澤諭吉/立案・石川半次郎/筆記
明治二十一年九月二十六日から十月六日まで九回に亘り時事新報社説として発表
『国會の前途・国會難局の由来・治安小言・地租論』福澤諭吉/立案・福澤一太郎・福澤捨次郎/筆記
 國会の前途 明治二十三年十二月十日から二十目まで十二回に亘り時事新報社説として発表
 國会難局の由来 明治二十五年一月二十八日から二月五日まで八回にわたり時事新報社説として発表せられたもの。
 治安小言 明治二十五年二月二十八目から三月四日まで五回にわたり時事新報社説として発表せられたもの。
 地租論 明治二十五年四月二十九日から五月八日まで九回に亘り時事新報社説として発表せられたもの。
『實業論』福澤諭吉/立案・福澤一太郎・福澤捨次郎/筆記
明治二十六年三月三十口から四月十五日まで十五回に一旦り時事新報社説として発表
----
デジタルで読む福澤諭吉(慶應義塾図書館)
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_tbl.php


以下の時事新報掲載署名著作一覧にも、初出の情報があります。

時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その2
2. 参考:時事新報掲載署名著作一覧
http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h30/02/#ref

3 :
前のスレはdat落ちしたようです。

4 :
IWJ Independent Web Journalの杉田聡氏へのインタビュー記事です。

2015/03/29 「天は人の下に人を造る」 元祖「ヘイトスピーカー」で元祖「新自由主義者」の福沢諭吉の実像に迫る
〜岩上安身による帯広畜産大学教授・杉田聡氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/240836

2015/05/23 「万端を差図せられた事実がある」 朝鮮国内のクーデターを実際に支援していた福沢諭吉
〜岩上安身による帯広畜産大学教授・杉田聡氏インタビュー第2弾
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/246694

5 :
amazonの『天は人の下に人を造る』のページです。

天は人の下に人を造る―「福沢諭吉神話」を超えて 単行本 ? 2014/12/26
杉田 聡 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4755402506

まだ、カスタマーレビューは無いようです。

6 :
インパクト出版会の『天は人の下に人を造る』のページです。

天は人の下に人を造る 杉田聡著 303頁=定価2000円+税
http://www.jca.apc.org/~impact/cgi-bin/book_list.cgi?mode=page&key=fukuzawa

7 :
IWJ Independent Web Journalの安川寿之輔氏へのインタビュー記事です。

2014/09/03 「奴隷の群衆」「牛馬豚犬」…”元祖ヘイトスピーカー”としての福沢諭吉を徹底検証
〜岩上安身による名古屋大学名誉教授・安川寿之輔氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/166258

2015/03/21 【愛知】戦後70年 全戦争犠牲者追弔法要記念行事「“戦争”ってなに?」交流会
〜安川寿之輔氏講演「差別と戦場体験証言と福沢諭吉について」
https://www.youtube.com/watch?v=XV0QwlxHhQw

【IWJ特報最新号発行!】
知られざる福沢諭吉 侵略の肯定、そしてヘイトスピーチ
〜名古屋大学名誉教授・安川寿之輔氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/242406

8 :
IWJ Independent Web Journalの岩上安身氏の記事です。

(再掲)2014/01/04 【岩上安身のツイ録】「圧制もまた愉快なるかな」
〜福沢諭吉の「時事新報」論説を読む 「栄光の明治」の延長としての「暴走の昭和」、そして現代
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/118697

9 :
こちらが先にたっている。善処を。
    ↓
【偉人】福沢諭吉について【悪人】(其の12) [転載禁止](c)2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1435105647/

10 :
>>9
勝手にスレタイを変えるんじゃねえよ。ややこしい。

11 :
>>10
6までは偉人悪人だったのです。

12 :
馬場紘二ブログ
http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/07/02/7695272

13 :
【韓国】福沢諭吉1万円札が今も日本で流通している理由[07/24](c)2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1437711600/

14 :
天皇崇拝侵略主義者の福沢を
市民自由主義のアイコンに仕立て上げた
「丸山諭吉」神話を解体する

http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2015/0723/143766245545_20150723.jpg
福沢諭吉(左)と丸山真男。今も日本近代の国民的英雄として讃えられ、1万円紙幣を飾っている福沢。
日本の戦後民主主義をリードした“進歩的”政治思想家として学界に君臨した丸山は、侵略的天皇
主義者である福沢を市民的自由主義者として再創出した=歴史批評社提供//ハンギョレ新聞社

http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2015/0723/143766259975_20150723.jpg
丸山真男が創り出した“福沢諭吉”という神話 //ハンギョレ新聞社

丸山真男が創り出した“福沢諭吉”という神話
安川寿之輔 著、イ・ヒャンチョル 訳
歴史批評社・3万ウォン

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」。彼は壬午軍乱(1882)・甲申政変(1884)時、開化派の挙事段階
から深く介入し武器まで提供し、失敗後には中国に踏み込んで北京を陥落させろと主張した。

慶応大学の創設者で、今も日本の最高額紙幣である1万円紙幣を飾っている福沢諭吉(1835〜1901)。
彼は当時「支那兵…豚狩りのつもりにて」として、日本兵士たちにこのように注文までした。「目につく
のは捕獲物しかないので、なにとぞ今回は北京中を検索し金銀財宝をかき集め、(…)チャンチャン
(中国人)の衣服でもはがして持ってくることこそ望むところだ。 その中には有名な古書画、骨董、
珠玉、珍器なども多い(…)一稼ぎ…」

このような福沢を「典型的な近代市民的自由主義政治観」を持つ近代日本の「総体的師匠」として確立
させる上で決定的寄与をした人が丸山真男(1914〜1996 丸山真男)だ。 1940年に東京帝国大学法学部
助教授になった丸山は、天皇制を擁護し戦争動員にも加担したが、敗戦後に『世界』寄稿文「超国家
主義の論理と心理」(1946)で脚光を浴び、日本戦後民主主義をリードした“進歩的知識人”であり“啓蒙
の旗手”になった。

安川寿之輔・名古屋大学名誉教授(80)の『丸山真男が作り出した“福沢諭吉”という神話』(原題『福沢
諭吉と丸山眞男?「丸山諭吉」神話を解体する』2003年)は題名どおり福沢神話とその神話の土台に
なった“丸山神話”自身の解体まで正面から狙う。

ソース:ハンギョレ 2015.07.24 06:56
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/21426.html

15 :
安川教授は2011年に韓国語版が出た『福沢諭吉のアジア侵略思想を問う』(原題『福沢諭吉のアジア
認識』2000年)の後続編であるこの本を出した理由を語る。「この本(前編)だけでは、あの“典型的な
市民的自由主義者”福沢も、アジアに対しては偏見と差別意識を持っていたんだなという程度を伝える
だけであり、福沢の“民主主義”と“市民的自由主義”自体は問題視せずに放っておくようなもの…」、
したがってこの本とその後に彼が書いて出した『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006)、『福沢諭吉
の教育論と女性論』(2013)など、一連の批判書は当然に福沢が丸山の描き出した民主主義者でも
市民的自由主義者でもなかったことを立証することに集中する。

安川教授が福沢が遺した『学問のすすめ』『文明論之概略』『国会難局の由来』『時事小言』『帝室論』
『尊王論』『福翁自伝』『民情一新』などに出てくる言説を通じて、逐一論破する“丸山諭吉”神話は
おぞましい限りだ。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと云へり」、「一身独立して一国
独立する」などの言説で広く知られる福沢思想は、実は「日本人民の精神を一つに結集する中心」
としての絶対主義的天皇制に“感泣”し“愚民をもてあそぶ詐術”としての帝室活用を主張し、貴族特権
階級である華族制度、封建制、帝国憲法と教育勅語を擁護し、靖国神社敬拝の必要性を力説する
腐臭にまみれている。福沢は児童労働と男女差別、地主・小作人的労使関係を保護したし、士族を
はじめとする中間層の特権維持を主張して、下層民を“豚”などと卑下し、彼らを宗教により教化して
“強兵富国”作りに動員すべきで、内部安全と結束のためには対外侵略を積極的に活用する“内安外競”
の権謀術数方策を推奨した。 さらに公娼制度と売春婦による海外出稼ぎまで奨励し、キリスト教には
反対した。

福沢神話を作り出した丸山は、このような姿が初期啓蒙期を除く中期以後の福沢思想の例外的破片
ではなく、根幹をなした本質なのにこれを全く無視したり「そんなわけがない」という方式で避けたりして、
天皇の直接統治を超越的象徴権力に歪曲する形で言い逃れた。 本の内容の大部分を丸山のその
ような態度をKすることに割いた安川教授は、「丸山の福沢論は福沢を借りて丸山自身の思想を
展開したもの」という家永三郎の論評に共感する。だが、彼は丸山哲学自体に懐疑的だ。

とはいえ、安倍晋三首相も自身の政治行動の正当化に福沢を引用するように、“丸山諭吉”神話の
権威は未だ堅固だ。 戦争末期に陸軍二等兵として平壌(ピョンヤン)でしばらく服務したこともある
丸山は、朝鮮侵略と植民支配をはじめとする帝国日本のアジア侵略犯罪には徹底的に無関心だった。
近代日本の設計者で、明治維新以後の帝国日本の犯罪的過去事に直接的責任のある福沢が、
堂々と1万円紙幣を飾って征韓論者である西郷隆盛や伊藤博文、吉田松陰などが日本国民に最も
人気のある“英雄”扱いを受けている日本の現実。 彼ら大多数の日本識者が国民作家としての待遇
を受けた司馬遼太郎の“明るい明治”と“暗い昭和”論を信奉し、1931年の満州侵略以前の侵略犯罪
を認識さえできないのも、これと関係がないとはいえない。 日本と福沢の問題は、昭和ではなく明治
時期から始まったということを、この本は明快に示す。 福沢著作がまだ傑出した経世書として輸入
される韓国の“植民地的風土”を考え直すことになる。

ハン・スンドン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-07-23 20:46
http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/701615.html 訳J.S(2442字)

16 :
こうなったら、安川本をぜんぶ朝鮮語に翻訳したらどうよ?

17 :
【日韓】「卑日」は解決しない…「卑日」の本質、「韓国が邪魔しても日本は手も足も出ない」姿を世界に示してこそ「韓国が上」[07/23](c)2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1437626599/

18 :
韓国が世界で展開する「卑日」――。日本人はようやくそれを身を持って知った。

■日本を貶め快哉叫ぶ

――世界遺産登録での韓国のやり口。あれが「卑日」だったのですね。

鈴置:多くの人からそう言われました。「『目下の日本』からドルは借りない――韓国は『反日』から『卑日』国家へ」で、
韓国の「反日」は「卑日」に変容している――と説明しました。

すると、かなりの人から「そんな、おおげさな。国を挙げて日本を卑しめ、快哉を叫ぼうとする国民がこの世に存在
するなんて、想像できない」との感想が寄せられました。

しかし、そんな人も「世界遺産事件」を見て「卑日は本当だったのですね」と言ってきました。

「卑日」というのはたぶん私が使い始めた言葉なので、改めて定義しておきますと「世界を舞台に日本を貶めて快哉
を叫ぶ韓国の国民的運動」です。

韓国専門家の間ではけっこう有名な動きで「ジャパン・ディスカウント」(Japan Discount)と呼ぶ人もいます。

一方、これまでの「反日」は「自分を見下す日本への反発」とでも言うべきものでした。表面は似ていますが、対応は
完全に変える必要があるので、はっきりと区別すべきです。

■大統領が歴訪先で糾弾

さて「『世界遺産で勝った』韓国が次に狙うのは……」で触れたように、日本が明治の産業革命遺産をユネスコの
世界遺産に登録するにあたっては2年前から韓国に根回ししていました。

韓国政府はその時は別段反応せず、登録直前になって「朝鮮人が強制労働させられた場所だ。登録に反対する」
と世界に訴えました。

下村博文・文部科学相が2015年4月10日の会見で「昨年、一昨年と韓国の文化大臣に説明した。その時は特に反論
はなかったのに……」と当惑を隠さなかったのもそのためでしょう。

この韓国の行動は「卑日」からすれば当たり前なのです。世界で「日本は悪い国だ」と宣伝するチャンスが到来した
のです。日韓の2国で話し合うなどという、もったいないことはできません。

当然、ユネスコの場に持ち込んで日本の悪行を公開の場で糾弾すべきなのです。実際そうしましたし、そのため
だけに外相を欧米に送りました。

韓国外交部は「朴槿恵(パク・クンヘ)大統領も海外歴訪のたびに各国首脳に直接訴え、日本の強制連行を世界
に認めさせた」と国民に誇りました。

韓国の目的は日本の世界遺産への登録阻止や、「強制連行」の言質を日本からとるだけではありません。「日本
は悪い国」というイメージを世界の人々に植え付けることにあるのです。

ソース:日経ビジネス 2015年7月23日
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/?P=2
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/?P=3
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/?P=4
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/?P=5
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/?P=6
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/072100004/?P=7

続きます

19 :
■「卑日」は解決しない

――日本の外務省は「韓国に騙された」とこぼしています。韓国の主張した「forced labour」(強制労働)では
なく「forced to work」(働かされた)を使うことに6月21日の日韓外相会談で合意した。しかるにユネスコの会議
の場で反故にされかけた――と言っています。

鈴置:そこで日本側が押し問答して、ようやく1日遅れの日曜日の7月5日に明治遺産の登録が決まったのです。

外交を担当する役所でさえ「卑日」を理解していなかったということでしょう。韓国にとって、世界の人々の前で
日本ともめて見せることが重要なのです。もめればもめるほど、「日本の悪行」を知らしめることができるからです。

「卑日」と、過去の「反日」が異なるのは、まさにこの点です。いずれも「ごねる」という点では同じですが「反日」
はモノなりカネなり謝罪なり、日本から何かを「得る」のが目的だった。だから日韓の2国間協議により、最後は
折り合いをつけることもできた。

でも「卑日」の目的は「何かを得る」のではなく「日本を貶める、卑しめる」ことにあるのです。他の国が見ている
前で日本を叩く必要があるのです。

そして問題は決して解決しないのです。今や韓国にとって「日本の存在」そのものが攻撃対象です。日本が
どうしようと韓国は非難を続けます。

■当たった木村幹教授の予想

日本の政治家も外交官もいまだ、韓国を「反日国家」と考えている。だから昔ながらの2国間交渉でコトが済むと
思い込んでいるのでしょう。「forced to work」という英語を使ってしのぐやり方も、昔の発想そのものです。

これまで日韓両国政府は、協定なり条約の英語を自分の都合のいいように解釈し、それをそれぞれの国民に
説明するという、玉虫色の解決方法を時にとりました。

「世界遺産」の問題でも、ユネスコの会議の場で日本政府代表が使った「forced to work」を日本政府は「働か
された」という日本語に訳しました。一方、韓国政府は自国メディアに対し、この単語は「日本が強制性を認めた
ことを意味する」と説明しました。

しかし今回は、それでは終わりませんでした。韓国の通信社はさっそく英語でこれを世界に伝えました(「『世界
遺産で勝った』韓国が次に狙うのは……」参照)。

福井県立大学の島田洋一教授は「英文で読んだ人は『強制連行』『強制労働』を思い浮かべることになる」
「いわゆる慰安婦の強制性にも影響を与えるだろう」と懸念しました。

神戸大学大学院の木村幹教授も「元慰安婦や元徴用工は米国で日本政府などを訴える準備を進めている。
韓国は『forced to work』という英語を米国で十二分に活用するだろう」と予想しました。木村教授の予想は
直ちに現実となりました。

20 :
■日本の栄光に泥

――7月13日に元慰安婦が米国で日本を訴えましたね。

鈴置:これを報じた産経新聞の「『元慰安婦』が日本政府や本紙を提訴」によると以下の通りです。

元慰安婦女性2人が、第2次世界大戦中に「性奴隷」の扱いを受けたことは人権侵害にあたるとして、日本政府
や日本企業に2千万ドル(約26億円)の損害賠償を求める訴えを米サンフランシスコの連邦地裁に起こした。

訴訟対象には、昭和天皇や天皇陛下、岸信介元首相、安倍晋三首相、戦時中に旧日本軍と関係のあった
日本企業などのほか、産経新聞も含まれている。

天皇を訴える――。韓国人にとっては「日本を卑しめ、快哉を叫ぶ」ための最高の手口です。2012年8月14日に、
当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領が「日王(天皇)が韓国に来たいなら、独立運動家にひざまずいて謝罪
すべきだ」と発言、韓国人の喝采を狙ったのと同じことです。

今回、ユネスコから世界遺産として認められた施設の1つである「松下村塾」に対しても、韓国人は「吉田松陰
は朝鮮侵略を提唱した」ことを挙げ、攻撃し始めました。

明治の産業革命遺産は日本近代化の成功の象徴です。松下村塾は明治維新の原点です。いずれも日本の
栄光の記録です。

それに何とか泥を塗りつけたい――と韓国人は思うものです。なぜなら西洋諸国が武力を持って東洋に押し
寄せてきた時、韓国は近代化に失敗し日本の植民地に転落したからです。

■卑しい根性から抜け出せ

ただ「卑日」を危ぶむ韓国人もいます。匿名で自らの国を厳しく批判する韓国保守の論客、ヴァンダービルド
氏です。

趙甲済(チョ・カプチェ)ドットコムの「先進国になろうとするなら、卑しい習性から抜け出せ」(6月8日、韓国語)
という記事の前文が以下です。

日本が(明治の産業革命遺産の施設で)朝鮮人徴用を明記したら、むしろ我々は自尊心と子孫の体面を考え、
その削除を要求するのが正常ではないのか。

日本人の栄光を世界に示す施設で、植民地にされた韓国人の屈辱の歴史を公開されて何がうれしいのか――
との憤りです。

憤りの背景には、日本を卑しめて喜ぶ韓国人に対する絶望感があります。見出しの「卑しい習性」がその深さ
を示しています。

――例によって、この人の意見は少数派なのでしょうね。

鈴置:その通りです。多くの韓国人にとっては、屈辱の歴史を隠すことよりも、日本を世界で貶め、快哉を叫ぶ
ことの方が重要なのです。だから、こうした意見は普通の新聞には載りません。

21 :
■外交官離れした外交官

――「反日」はいつから「卑日」に転化したのですか?

鈴置:2010年前後からです。それまでも「日本を世界で卑しめよう、貶めよう」と行動する韓国人は散見されました。
しかし、政府が音頭をとり、国民運動と呼べるほどに広範囲の韓国人が参加するようになったのはその頃からです。

2011年に私は以下のような経験をしました。香港で開かれた国際シンポジウムで、韓国の外交官が突然、前後
の脈絡とは関係なしに「慰安婦に関し謝罪していない」と日本批判を始めたのです。

あまりの唐突さに参加者は白けましたし、司会者も困惑しました。しかし、この外交官氏は涼しい顔。出席した
日本の外交官によると、この韓国人は各国の外交官が集まる場で必ず「日本は悪い国だ」と大声で叫ぶ
「外交官離れ」した人とのことでした。

この頃から「慰安婦像」を米国などで建立する運動が始まりました。それと並行して、米国の大学に留学した人が、
クラスメートから「韓国人留学生が陰で『慰安婦』など日本の悪行を言い募っているよ」と言われるケースが増えました。

■戦犯国家と決めつけ

日本の旭日旗を「戦犯旗」と呼び、サッカー場に持ち込んだ日本人を糾弾するのも、韓国紙が日本を「戦犯国」と
形容し始めたのも同じ時期からです。

日本海表記を「東海」に改めさせる運動はその前からありましたが、これも激しくなりました。ことに韓国人は
「日本海という呼称は日本が侵略に乗り出す過程で名付けた」と主張するようになりました。

事実関係は完全に間違っているのですが「日本の悪行」を宣伝するためにも、日本海の呼称問題を使い始めたのです。

2013年にスタートした朴槿恵政権は日本に対し「独島(竹島)領有権の主張を放棄せよ」との要求も打ち出しました。

竹島は韓国が実効支配しているので、国際紛争化しない方が韓国は得なのですが、敢えて言い出したのです。これも
「独島は日本の侵略主義により一時奪われた。日本の領有権主張は反省していない証拠だ」と世界に向け宣伝する
のが目的です。

■日本を見下すのは韓国だけ

「日本を見下すのは世界で韓国人だけだ」――という文句があります。韓国のSNS(交流サイト)でよく見かけます。
使われ方から見て、この文句が含む意味は3つあります。

(1)韓国は日本よりも優れた「上」の国である。

(2)しかるに、世界の人はそれを知らない。

(3)であるから、韓国が日本よりも「上」であることを世界中の人々に全力で知らしめねばならない。

私の見た限りでは、この文句が流行るようになったきっかけは、2009年頃の韓国紙の1本の記事でした。内容は
「韓国人が日本を見下すのを見て、第3国の人が驚いた」というものでした。韓国が日本よりも「上」である理由も、
驚いた人の名前も明示されていない短い記事でした。

そしてこの記事以降、「日本を見下すのは……」――という文句をあちこちで見かけるようになりました。韓国の
空気をよく表すエピソードです。

22 :
■米下院での勝利体験

――2010年前後から「卑日」が本格化したのは、その頃に「韓国が日本よりも上」との自信を付けたからですか?

鈴置:ええ、それが最大の理由でしょう。21世紀に入り、サムスン電子が日本の電機産業を圧倒しましたし、
現代自動車も販売台数でトヨタに迫りました。2010年頃には韓国産業が日本を追い越し快進撃中、との認識が
日韓で広まりました。

それに同年の尖閣諸島の中国漁船衝突事件で、菅直人政権は中国にいとも簡単に屈しました。これが効きました。
韓国ならずとも世界が日本の弱腰にあきれ果てたからです。

韓国は「日本には何をやっても大丈夫」との空気が満ちました。2012年、李明博大統領も竹島に上陸した後
「日本はもう恐れるに足らない国」との趣旨で発言しました。

見落としてならないのは2007年6月に米下院で「従軍慰安婦に対する謝罪要求決議」が可決されたことです。
韓国メディアは「官民が力を合わせて日本を屈服させた」と謳い上げました。

「米下院での勝利」は米国を味方に付け日本を叩く――という手法を韓国が活用するきっかけとなりました。
今年4月の安倍晋三首相の米議会演説を官民挙げて阻止しようとしたのも、相当な無理筋の話なのですが、
この成功体験が背景にありました。

■「日本との歴史戦に勝ち抜こう」

2014年2月8日の朝鮮日報社説「東海表記、慰安婦 マンガ展で日本に勝とうとする民間の力」(韓国語版)は、
韓国が米国の教科書に初めて「東海表記」を盛り込ませるのに成功した際に書かれたものです。

「日本との歴史戦は長期戦になるが、団結して勝ち抜こう」と韓国人に呼び掛けています。骨子は以下です。

韓国と日本は今、日本の侵略の歴史否定、独島(竹島)領有権主張、東海(日本海)表記などで世界のあちこち
で争っている。どちらが普遍的で妥当な論理を持って世論を動かせるかに勝敗がかかる。長期戦になるしかない。

米バージニア州は2014年7月から全米で初めて公立学校の教科書で「東海・日本海」表記を採用する。米国に
住む韓国人、韓国系下院議員が大きな力を果たした。韓国政府も後ろから助けた。

23 :
■約束を破ってこそ「上」

――しかしまあ、実に丹念に他人の足を引っ張る国ですね。

鈴置:他人の足を引っ張る人はどこにもいますが、韓国社会はそれが極端なのです。ソウル特派員時代、韓国の
識者をインタビューするたびに、必ず他の韓国人がその人の悪口を言ってくるので驚いたことがあります(「なぜ、
韓国は東京五輪を邪魔したいのか」参照)。

韓国人同士も日常的に激しく足を引っ張っているのですから、宿敵たる日本を貶めるのは不思議ではありません。

――とはいえ、韓国のやり方は露骨過ぎます。世界遺産の時も、約束を破ってまで日本を貶めようとしたのですから……。

鈴置:約束を破ってこそ「卑日」なのです。韓国社会では「上」の人は法律やルールを破ってよい。というか破ってこそ「上」
の人と見なされるのです。

日韓外相会談の約束も、破って見せてこそ世界に「韓国が日本の上にある」と示せると韓国人は考えたのだと思います。

東京五輪に関してもそうです。韓国が露骨に邪魔しても日本は手も足も出ない――この姿を世界に示してこそ「韓国が上」
となるのです。「卑日」の本質がここにあります。

24 :
苅部直さんも安川寿之輔さんの「脱亜論」の解釈は
「研究史の上ではすでに葬り去られている謬見」
であり「俗論」だとばっさり切り捨てています。

----
 研究史の上ではすでに葬り去られている謬見が、日本国内でも中学・高校の教科書など
に残存し、俗論となっていまだに流布している例は多い。とりわけ福澤の「脱亜論」につ
いては、プロの研究者として遇されている人々にも、それを信奉している人が少なくない
のである。たとえば、永原慶二監修『岩波日本史辞典』(岩波書店、一九九九年)の「脱亜
論」の項目にはこうある。「日清戦争を文明進歩の是非を問う戦いだとしたこの主張は、
その後の日本人の周辺諸国に対する大国意識と蔑視の根底を形成。アジア太平洋戦争敗戦
後も、米ソ冷戦のなかアメリカ追従国策で日本は再度脱亜への道を歩む」。

 項目執筆者が発表の年を十年あとと誤認したのかもしれないが、いずれにせよ、実は
「脱亜論」の文面に対清開戦論など書かれていない。この論説が広く知られるようになっ
たのは、『竹内好評論集 第三巻 日本とアジア』(筑摩書房、一九六六年。ちくま学芸文庫
の『日本とアジア』として再刊。収録論文「日本のアジア主義」が本書の序章と第一章で言及さ
れている)に収められた論文「日本とアジア」(一九六一年初出)が出てからのことと思わ
れるから、「脱亜論」それ自体が同時代の一般大衆に影響を与えたとも考えにくい。まし
て、日本人の「大国意識」や戦後の「アメリカ追従国策」についてまで責任を負わせるの
は、ほとんどたちの悪い冗談だろう。こういう見解が中国や韓国にまで流布して、反日感
情を支える一助になっていることを考えると、犯罪的である。
----
続きます。

25 :
重複していないレスを

【偉人】福沢諭吉について【悪人】(其の12) [転載禁止](c)2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1435105647/

に移して、こちらは廃止のほうがいいと思うよ。
こちらのほうが後から立っているので、譲るべきだろう。

26 :
続きです。
----
 しかしこうした俗論は、昭和五十二(一九七七)年に初刊された本書で、坂野潤治がす
でに破壊しつくしていた。しかも同時に、「脱亜論」か「アジア主義」かという、近代日
本の対外思想をとらえるさいによく用いられる図式に対して、その有効性に本書は大きな
疑問を投げかけている。俗論がいまだに横行しているのは、この本が長らく品切で入手困
難だったせいもあるだろうから、このたびの文庫化は大きな慶事である。

 いまふりかえると、本書は近代日本の対外思想をめぐって、先行する二つの有力説に対
する批判になっていた。まず第一には、丸山眞男が『福澤諭吉選集』第四巻(岩波書店、
一九五二年)の「解題」(『福沢諭吉の哲学 他六篇』岩波文庫、二〇〇一年、に再録)で述べ
た見解である。その説くところによれば、福澤諭吉は『時事小言』(一八八一年)を書いた
ころは、中国・朝鮮と提携して西洋諸国による侵略に対抗する構想を唱えていたが、やが
て「脱亜論」で「列強の中国分割への割り込みの要求」へと転換していった。

 この見解に対して坂野潤治は、テクストの表面に見える「表現」や「言葉」の次元では
なく、その奥にある筆者の意図、すなわち「東アジア情勢の具体的認識、およびその認識
にもとづいて具体的に意味されている対外政策」に目を向けることを提唱し、それを「対
外論」あるいは「思想の実像」と呼んでいる。

 その次元でとらえるならば、表面上は中国・朝鮮との連帯を説きながら、日本が「朝鮮
の国事に干渉」することを通じて「文明」化を進めようとした時代の福澤の方が侵略的で
あり、「脱亜論」は反対に、その朝鮮改造の努力を放棄した宣言にすぎないのである。そ
してそうした転換をもたらしたのは、壬午事変・甲申事変の過程で中国の軍事力の強大さ
を知ったという状況認識の変化であった。
----
苅部直「解説 「脱亜論」と「アジア主義」のまぼろし」、210-212頁、
坂野潤治『近代日本とアジア 明治・思想の実像』ちくま学芸文庫、2013年。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095763/

解説の中の「中国や韓国にまで流布して」というのは、安川寿之輔さんの
『福沢諭吉のアジア認識』が中国語や韓国語に翻訳されていたことを
指しているのかもしれませんね。

安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識 日本近代史像をとらえ返す』高文研、2000年。
http://www.koubunken.co.jp/book/b201732.html

そして今度は安川寿之輔さんの『福沢諭吉と丸山眞男』が韓国語に翻訳されて
しまったという訳です。

安川寿之輔『福沢諭吉と丸山眞男 「丸山諭吉」神話を解体する』高文研、2003年。
http://www.koubunken.co.jp/book/b201784.html

27 :
>>12
> 馬場紘二ブログ
> http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/07/02/7695272

情報ありがd!!
青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書会なんてあったんですね。
荻生徂徠ってそんなにすごい学者だったとは知りませんでした。

28 :
>>25
なんだか、元祖スレと本家スレの暖簾争いみたくなってきましたね(笑)。

29 :
アフリカの爆弾ですか^^

あ、またしばしカキコ予定ですのでよろしくお願いします。

30 :
安部さんの談話てどんなんだったん?

31 :
>>30
スレ違いゆえ、できればこちらで。

70年談話狂詩曲【安倍氏は修正主義者の代理人?】
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/l50

32 :
こちらが本スレ

【偉人】福沢諭吉について【悪人】(其の12) [転載禁止](c)2ch.sc
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1435105647/

33 :
ヤフオクに「福澤諭吉全集」が出品されています。
全21巻+別巻で3,000 円は安いと思われ。

「福澤諭吉全集(全21巻+別巻)」 *岩波書店/総価49600円
終了日時:2015.08.27(木)20:50
開始価格:3,000 円
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b176023866

34 :
確かに安いな。

35 :
>>34
ヤフオクには『丁丑公論・痩我慢の説』も出品されています。
価格が1000円と安いのは、最後が欠丁だからかな?

a617和本 福沢諭吉 丁丑公論・痩我慢の説 最後欠丁古書
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g156159847
終了日時:2015.08.23(日)21:25
開始価格:1,000 円

36 :
第100回──三田評論 2015年6月号
ttp://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1506_1.html#story

金玉均の生涯
 李朝後期時代に、日本を範に朝鮮の近代化を図ろうとした金玉均(キムオクキュン)は、一八五一年二月二十三日、忠清南道公州市で生まれる。
本貫(始祖の出身地)は安東で、安東金氏は名門の家柄であったが、金玉均の生家の生活は楽ではなかった。
二十二歳で科挙に合格するという秀才で、書、詩、絵画、音楽にも優れた才能を持ち、中堅官僚のホープであった。
そして世界の情勢を学び、西欧の科学技術や民主的な政治を導入していく開化思想を抱いた。
当時の朝鮮は、李氏朝鮮王朝第二十六代王・高宗(コジョン)の父・大院君と王妃・閔妃(ミンビ)との権力闘争が繰り返されていたが、いずれにしても専制政治が行われ、
清国の朝貢国の立場にあって、鎖国攘夷を行うという旧態依然としたものであった。そこで彼は、明治維新を範として、日本の協力によって朝鮮を近代化し、真の独立を目指そうと志した。
明治十五(一八八二)年二月から七月にかけて日本に留学し、大阪慶應義塾で学んだ東京東本願寺別院の僧侶寺田福寿の斡旋で、福澤先生と出会うことになる。西洋列強の支配を受けないために、
アジア諸国も近代化して独立を果たさなければならないという考えを持っていた福澤先生は、既に明治十四年に二名の朝鮮人留学生を慶應義塾で受入れるなど、朝鮮の近代化を支援していた。
金玉均は先生の卓見に感服し、先生は彼の情熱に共感して広尾狸蕎麦の別邸(現幼稚舎)に住まわせ、政府高官、民間の名士などに会見させた。

明治十五年九月から翌年三月まで金玉均は二度目の来日をした。同年七月、大院君が、政権を握っていた閔氏一族打倒を画策した壬午(イムオ)事変が起こり、
日本公使館員、日本人軍事顧問などが殺害された。
その結果、日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問としての再来日であった
。この時、福澤先生の尽力で横浜正金銀行より朝鮮政府への十七万円の借款を得ている。
さらに彼の求めに応じて、朝鮮改革の顧問として、福澤の門下生牛場卓蔵、井上角五郎を遣わしている。
井上は、『漢城旬報』という朝鮮初の新聞を発行し、漢字ハングル混じりの新文体を提唱した。
明治十六年六月、国王の国債委任状を持ち、三百万円の借款を得ようとして三度目の来日を果たす。先生の紹介で知己を得た後藤象二郎等が支援するが、
閔妃の妨害や日本政府の非協力によって借款は成功せず、失意のうちに翌年五月に帰国した。
金玉均はじめ開化派は、平和的方法による改革をあきらめ、清国を頼って守旧的な事大政策をとっていた閔氏政権打倒のため、日本軍の支援によるクーデターを実行した。
明治十七年十二月四日、郵征總局(ウジョンチョングッ)(近代的郵政業務を取り扱うために設置された官庁)の落成式で、政府の要職を占めていた閔氏一族を殺害した甲申(カプシン)事変である。
清国への朝貢廃止、門閥の廃止と人民平等の権、窮民保護、不正官吏の取り締まり、地租改正というまさに近代化の政策が発表されたが、清国軍の介入により、政権は三日で終わってしまった。
クーデターに失敗した金玉均は、十二月十一日仁川を出港し、十三日に長崎へ着いた。十二月下旬に東京へ赴いた金玉均は、三田の福澤先生を訪ね、狸蕎麦の別邸に匿われた。
その後は、朝鮮からの刺客から逃れるため、岩田周作と名乗り、日本政府の庇護を求めたが、外交上の紛議を懸念して国外退去命令を出すなど彼を厄介者として扱うようになり、
横浜、関西、小笠原諸島、北海道などを転々とした。その間、先生を始め、犬養毅、尾崎行雄、朝吹英二、井上角五郎などの門下生は、生活資金の援助を惜しまなかった。
明治二十七年三月二十八日、金玉均は朝鮮、清国両政府の奸計によって上海に誘い出され、刺客洪鐘宇(ホンジョン)によって暗殺されてしまった。
遺体は朝鮮に運ばれ、切り刻まれて各地で晒しものにされた。

37 :
日本と韓国に残る墓所
福澤先生は、金玉均供養のため、寺田福寿に法名を依頼し、「古?院釈温香」と付けて位牌を作り、自宅で法要を営んだ。
暗殺後、縁のある人々が交詢社を中心に集まり「故金玉均友人会」が組織され、
金玉均の付き人であった和田延次郎が密かに持ち帰った遺髪と衣服の一部をもって、五月二十日浅草東本願寺別院で、会
葬者二千余名という盛大な葬儀が営まれた。そして、明治三十七年青山霊園の外国人墓地の北1種イ7側に犬養毅、頭山満によって墓碑が建てられた。
墓碑は高さ約三メートルもあり、上部に「金公玉均之碑」とあり、下部に同志であった朴泳孝の撰文、大院君の孫・李呵Oの書で彼の事績が刻まれている。


また、ソウルで写真店を営み金玉均を慕っていた甲斐軍治も、遺髪と衣服を持ち帰り、寺田福寿が住職を務めていた真浄寺に埋葬し、
明治三十三年三月二十八日甲斐軍治によって墓碑が建てられた。
東京メトロ本駒込駅から徒歩四分の真浄寺(文京区向丘二- 二六- 九)の本堂右手奥に高さ三メートル程の「朝鮮國金玉均君之墓」が目に入り、傍らに甲斐軍治の墓もある。
元は「大朝鮮國金玉均之墓」とあったが、頂部が昭和二十年三月十日の東京大空襲で破損してしまったという。

38 :
韓国には忠清南道牙山市霊仁面牙山里(チュンチョンナムドアサンシヨンインミョンアサンリ)一四三に金玉均の墓所がある。
丘陵の斜面に羊、僧侶、文官の石像に見守られて墳墓があり、その左手に「古?居士安東金玉均之墓 配貞敬夫人杞渓兪氏?左」と刻まれた墓石がある。
また、右側には廟堂が建てられている。これは金玉均の養嗣子金英鎮が牙山郡守であった大正三年に、青山霊園より遺髪の一部が移され、同年に逝去した夫人と合葬して建立したものである。
公州市正安面広亭里(コンジュシチョンアンミョンクヮンチョンリ)三八の生家跡は、「金玉均遺墟」として二四七三uの広い敷地が鉄柵で囲まれ、
亀を下に敷き、竜を頂いた立派な「古?金玉均先生追慕碑」(平成元年建立)が建てらている。
甲申事変の舞台になった郵征總局(ソウル特別市鍾路区郵征局路(チョンノクウジョングッロ)五九)は、ソウル地下鉄安国駅(アングクニョク)から徒歩五分、
大韓仏教・曹渓宗の本山である曹渓寺(チョゲサ)に隣接し、文禄の役直後に建てられたという郵征總局本舍であった建物のみが現存している。


各地に残るゆかりの物
日本では、十年に及ぶ亡命生活で、多くの日本人と交流を持ち、達筆な彼は懇願され、あるいは生活のために多くの書を認めた。それが形として残っているものを紹介しよう。
JR両毛線・東武佐野線佐野駅から徒歩十五分の妙顕寺(栃木県佐野市堀米町二六四)の本堂正面に「開本山 金玉均書」と当寺の山号を記した扁額が掲げられている。
佐野の豪農出身で、慶應義塾で学んだ須永元は、純粋に朝鮮の自主独立を願って、金玉均を始め日本に亡命中の朝鮮人を支援した人物である。
金玉均は、佐野の須永邸や須永が檀家総代を務めていた妙顕寺に寄宿したこともあり、その縁でこの扁額が妙顕寺にある。
金玉均が小笠原に配流になっていた時、久我山村出身の「小笠原の砂糖王」飯田作右衛門の知己を得る。二人は遠く離れた老父に親孝行ができない身の上に共感し
明治二十二年、彼は、作右衛門の父を思う気持ちに感激して文を贈った。そして、明治三十三年に作右衛門によって碑が建てられた。上部に体は遠く離れていても心は同じという意味の「人心同」が金玉均の書で刻まれ、
下部に金玉均が飯田の父に贈った漢文が書かれている。京王井の頭線久我山駅から徒歩五分、久我山稲荷神社(杉並区久我山3-37-14)の正面階段を上ると、本堂の右手に碑が見える。
JR・東武北千住駅から徒歩五分、赤門寺とも呼ばれる勝専寺(足立区千住2-11-1)の鐘楼の石垣に明治二十四年四月に作成された「鐘楼建築記念碑」が埋め込まれている。鐘楼の由来が漢文で書かれているが、
その上部に「鐘楼記念之碑 金玉均」とあり、金玉均の揮毫である。東京メトロ千駄木駅から徒歩七分、三崎坂を上った右手の永久寺(台東区谷中四-二-三七)に、「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」を著した仮名垣魯文の墓がある。
正面にかなり磨滅しているが聖観音を線刻した板碑がはめ込まれ、左側面に「遺言本來空財産無一物 俗名假名垣魯文」右側面に
「韓人金玉均書 佛骨庵獨魯草文」と金玉均の書が刻まれている。病床にあった魯文が、彼に依頼したものだが、彼が暗殺される方が早かった。


明治二十七年七月、甲午(カボ)改革によって開化派が政権を握り、近代化政策が進められると、金玉均の反逆者の汚名はそそがれた。韓国では、親日の売国奴という評価もあるが、
彼の生家跡、墓所が忠清南道の文化財に指定されていることからも、近年は韓国の近代民主主義の先駆者として評価が高まっている。

39 :
>>33
ヤフオクに現行版『福澤諭吉全集』が出品されています。
売れ残ったようです。

「福澤諭吉全集(全21巻+別巻)」 *岩波書店/総価49600円
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b176023866
開始日時:2015.08.27(木)20:51
終了日時:2015.09.02(水)20:51
最高額入札者:なし
開始価格:3,000 円

ヤフオクに大正版『福澤全集』が出品されています。

福澤全集 1巻〜10巻 福沢諭吉 大正時代
http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r131156462
開始日時:2015.08.27(木)21:29
終了日時:2015.09.02(水)21:29
最高額入札者:なし
開始価格:6,000 円

40 :
送料こみだといくらになるんだろ。

41 :
>>40
現行版全集は送料が1600円のようです。

> ・ 宅配便2個口(全国一律:1600円)にて発送いたします。

大正版全集は発送方法しか情報が無いようです。

> 発送方法
> :はこBOON
> :ゆうパック

出品者に質問してみたらどうでしょうか?

http://auctions.yahoo.co.jp/jp/show/qanda?aID=r131156462

42 :
講演:「浜口梧陵と諭吉」語る 四天王寺大・曽野教育学部長 広川 /和歌山
毎日新聞 2015年08月23日 地方版
http://mainichi.jp/edu/news/20150823ddlk30040260000c.html

毎日新聞和歌山面で「範は紀州史にあり わかやま教育今昔」を連載中の四天王寺大学の曽野洋・教育学部長が
22日、広川町広の稲むらの火の館で「浜口梧陵と福沢諭吉のコラボレーション」と題して講演。約50人が熱心に耳を傾けた。

津波から村人を救った浜口梧陵について「紀州藩と福沢諭吉を結びつける役割を果たした」と指摘。
例として、浜口が構想し、福沢諭吉が教育方針を与え、諭吉の門下生が運営を担った西洋の学問を授ける「共立学舎」について紹介。
「紀州藩が新設資金を負担して和歌山城下に開設し、民間の学者が運営する先進的な方法だったが
、藩内の理解を得られず、成果をあげないまま数カ月で頓挫した」と話した。

また、政府が国家戦略特区で、地方自治体が建てた学校の管理運営を民間企業に任せる公設民営方式の導入を進めていることに触れ、
「共立学舎の失敗に学び、学校の公設民営化の意義を国民と共有する努力をしてほしい」などと話した。【谷田朋美】

43 :
 慶応大に保管されている福沢諭吉の愛用品の中に、明治時代の高松の漆工、
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/culture/20150828000132

藤川蘭斎(らんさい)(1840〜1915年)の作とみられる蒟醤(きんま)の硯(すずり)箱があることが分かった。
蘭斎は「讃岐漆芸の祖」玉楮象谷(たまかじぞうこく)のおいで、象谷の技法を受け継ぐ彫りの名匠でもある。
蒟醤の調査を行っていた同大経済学部の鎌田由美子専任講師(美術史学)が発見。現在、美術学術誌に発表する論文の執筆作業を進めている。

 昨年夏、同大が諭吉の使っていた硯箱の写真を学内図書館の展覧会に出品。それを見た鎌田氏が、硯箱に蒟醤の文様が施されていることに気付いた。
同氏が実物を精査したところ、蘭斎が屋号にしていた「文綺堂(ぶんきどう)製」の銘がふたの裏に記されていることが分かった。保存状態は良好という。

 「文綺堂」は蘭斎と、同じく漆工だった父親の藤川黒斎(こくさい)が屋号に用いていた。鎌田氏は「作風などから蘭斎の作ではないかと考えられる。
東西の文化に精通していた諭吉が讃岐漆芸に魅力を感じていたことを示している」と評している。

 硯箱は縦23センチ、横13センチ、高さ4センチ。重厚な文様が深い色合いの蒟醤で表され、内部には硯や3本の筆などが納められている。
鎌田氏は「抽象的なデザインで、日本の伝統にはない異国情緒が漂う。諭吉はそこに面白さを感じて大切に使っていたのでは」と分析する。

 諭吉の遺族が同大に寄贈し、現在は同大三田キャンパス(東京都港区)の「慶應義塾福澤研究センター」が所蔵する。諭吉がこの硯箱をどのようにして入手したかは分かっていない。

 玉楮象谷の弟に当たるのが藤川黒斎で、黒斎は象谷が基盤を築いた讃岐漆芸の産業化の道を切り開いた。蘭斎はその次男として生まれ、
象谷や黒斎の下で技術を学んだ。蒟醤や存清(ぞんせい)の名作を多く残している。本名は新造。蘭斎の弟の藤川米造の子に、ロダンに学んだ彫刻家の藤川勇造がいる。

44 :
実際の福沢は、「支那人親しむ可し」と主張していた。

平山洋「福沢諭吉の「脱亜論」と<アジア蔑視>観」 常葉叢書 [Kindle版]
ttp://www.amazon.co.jp/dp/B00C6AUCNC

福沢諭吉の「脱亜論」は、アジア蔑視の侵略論ではありません。

左翼的思想をもつ人々は「脱亜論」執筆の動機を福沢のアジア蔑視と西洋崇拝に求
めてきました。私はそのいずれもが間違いであると思います。確かに福沢は西洋的
価値観を尊重していましたが、その理想をアジアにおいて裏切っている他ならぬ西
欧の文明国への批判をけっして弱めることはなかったからです。

福沢にとって目的とすべき西洋文明は、現実の西洋の文明のことではなく、自由や
向上心の尊重や個人を守るものとしての理想とでもいうべきものであったのです。
それらを損なおうとするものはたとえ誰であろうとも悪いのであって、人種や民族によってその基準は変動しないのです。

45 :
元祖アジア主義者やな。

46 :
>>45
これ面白そう。ヽ(・∀・)ノワチョーイ♪

Amazon.co.jp: 脱亜論 (まんがで読破): 文庫 ? 2015/9/19 発売予定
福沢諭吉 (著), Teamバンミカス (イラスト)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4781613543/

47 :
【コラム】1894=韓国(1)
http://japanese.joins.com/article/415/205415.html

1894年中国戦勝節閲兵式は壮観だった。三軍儀仗隊が121歩を歩いて五星紅旗を掲揚した。一歩ごとに激動の歴史に染みついた血がほとばしった。
それは「1894」から蓄積した中国の鬱血を今こそ解き放ったという大陸の宣言であった。1894は、患者になった東洋の巨人が新興帝国日本の一撃を迎えて人事不省に陥った年、
人類文明の発祥地という自尊心を埋めて苦難の道程を始めなければならなかった年だった。20世紀の中国は、世界の国々が体験した惨状の博物館だった。
帝国分割、侵攻、内戦、抗日闘争、大飢饉、文化革命、そして社会主義的市場経済に至るまで121歩は破滅から再起へと成功した新たな生命のドラマであった。

習近平主席が話した「偉大な復興」には、そうした悔恨が隠れている。彼が叫んだ。「鳳凰涅槃浴化重生」、鳳凰が自らを燃やしてさらに強くなって復活すると。
中国時代の到来を知らせる荘厳な報告だったが、その矛先は日本を狙っていることを私たちは分かっている。1894は中国がアジアの禍根という黄禍論を西洋帝国に立証してみせた年だったからだ。
日本はアジア盟主を自任して西洋的東洋を構築するには「野蛮の表象」である中国を馴致しなければならないといった。日清戦争に出た日本軍を、文明の十字軍として褒め称えた。
福沢諭吉は「文野の戦争」とし、徳富蘇峰は「偉大な戦争」と称賛した。

牙山(アサン)湾に上陸した清軍は壊滅し、平壌(ピョンヤン)戦闘で清軍の遺体が積み重なった。1軍司令官の山縣有朋は黄海道(ファンヘド)を通り過ぎながら伊藤博文に電報を打った
。「黄海道の土地は肥沃だから日本の食糧倉庫として使うべきだ」と。丁汝昌が導く北洋艦隊は、威海で水葬された。1895年、下関で李鴻章と伊藤博文が向かい合って座った。
遼東半島・台湾・澎湖諸島などの割譲、賠償金2億テール、4つの省・市港を日本に開放する条項に印鑑を押した。
下関条約の第1条には「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認する」とあった。15年後、朝鮮は植民地になった。
朝鮮総督府の寺内正毅・初代総督が話した。「東洋禍乱の根っこを除去した」と。

48 :
日本遺産:諭吉の里・中津、登録運動「盛り上げる」 市民グループ、議会に請願 /大分
毎日新聞 2015年09月01日 地方版
ttp://mainichi.jp/feature/news/20150901ddlk44040365000c.html

 中津市の市民グループ「中津を粋にする集い」(小野節子代表)は、福沢諭吉ゆかりの中津を
「諭吉が息づく壱万円札の里」として日本遺産に登録する運動を展開しようと、9月市議会に請願を提出した。

 1万円札でも名高い福沢諭吉(1835?1901年)は大坂で生まれ、幼少期から中津で育った。
19歳で長崎に遊学し、翌年には大坂の緒方洪庵の「適塾」で勉学に励んだ。明治時代に国家主権の確立を先導し、近代日本の礎を築いたほか、慶応義塾を創設した。

 市内には国史跡の福沢旧居のほか、▽獨立自尊の碑▽諭吉が創設を勧めた洋学校・中津市校跡(現南部小)
▽諭吉が山林の一部を購入し、美観を守ったとされる競秀峰(同市本耶馬渓町)??など、諭吉の足跡は枚挙にいとまがない。

 同グループは、諭吉が多くの人材を輩出するなどした中津は「日本遺産にふさわしい」としている。
グループ顧問で福澤諭吉協会員の福田一直さん(90)は「慶応(同窓会)の三田会も全面協力するそうで、市民運動として盛り上げたい」と話した。【大漉実知朗】

49 :
新・脱亜論 「内なる中国」と闘え - 平野聡(東京大学大学院教授)
http://blogos.com/article/130057/

中国中心の「華夷秩序」に対峙してきた日本。対中関係「最大の失敗」はどこにあったか

 日本の存立を考える上で、すぐ西に存在する大国である中国との関係は無視し得ない。ある意味で日本の歴史とは、如何にして中国とは違った国家を存立させるのか、
そして中国からも一目置かれて並び立つにはどうすれば良いのか、という困難な課題の積み重ねであったと言えよう。それは同時に、一歩選択を間違えれば、
日本という存在が中国の影響(あるいは、中国をみる国際社会の「幻想」)にからめ取られて致命的な失敗に陥ることを意味する。

 清朝史・近現代中国史を主に学んできた筆者のみるところ、戦前、ことに昭和における最大の失敗は、このような難題をめぐって明治期になされた努力の精華を、日本自身の傲慢によって食いつぶしたことにある。

華夷秩序と対峙して
 前近代の日本が常に直面してきたのは、中国中心の世界観に基づく「天下」の秩序とどのようにして付き合うべきか、という問題であった。

 漢字と豊かな農耕社会を生みだした中国文明は、自らを完全なる「華」、他者を不完全な「夷」=野蛮人と見なし、「夷」は「華」の影響力を自発的・積極的に受け容れるべきで、
そしていずれは「華」に同化して行くべきという考え方をとった。しかも、上下の関係を遵守することこそ万物が安定する基本と考える儒学思想が、このような世界観を補強した。

 具体的にいえば、「天下」の中心たる「華」に君臨する「天子=皇帝」が、権力のみならず文化、価値観、道徳の解釈権を独占する。
そして、外国=「夷」にも恩恵を与えて臣下の位に登らせ、「天下」における然るべき居場所を与える。その結果、「夷」は皇帝の恩情に感激し、皇帝が営む秩序の安定を助けることが期待された。
この「天下」の論理、「華夷秩序」こそ、中国文明を貫く原理である。

 しかしこの結果、「夷」とされた周辺諸国は難しい選択を迫られた。黄河の中流で生まれた中国文明の権威を無条件に受け容れて慕うのか。
抵抗せずにその影響力の大きさを表向き認めて面従腹背・是々非々の関係をとるのか。いずれにしても「華夷秩序」を受け容れれば、その国は朝貢国となる。
前者は例えば明と朝鮮、明清と琉球の関係があるし、後者は大部分の朝貢国が当てはまった。

 いっぽう、彼らの自己中心的な主張を拒否し、明確に抵抗の意思を示すならば、「天下」の中心に君臨する皇帝権力は、たちどころに不遜と見なして怒りに震え、「天威」をふるって懲罰しようとするだろう。
とはいえ実際には、「天朝」の側にはそこまでの予算はないため、総じて「化外」(教化の外)として放置される。

50 :
 あるいはたまに、大陸の側が勢いに乗って、武力で朝貢・服従を迫ることもある。元寇はその典型的な事例であろう
(元はモンゴル帝国の一部分であるが、大都=北京遷都後は、中国的な支配の論理を採り入れた)。

 逆に、貿易の利益を狙ってうごめき略奪を働く辺境の民に手を焼いた「華」が、辺境民を管轄する権力者に対し、略奪民を取り締まることを条件に、
朝貢を認めて莫大な貿易の見返りを与えると約することもある。明の朱元璋が足利氏に倭寇対策と朝貢を要請し、足利義満がそれに応えて「日本国王」の号を受けたことは、その代表的事例である。

 こうした歴史を経て、「夷」とされた日本の側に強い疑問が浮かんだ。江戸時代に入って「天下泰平」が実現し、
学問への関心の高まりから儒学思想が流入する中、果たして「華」の側のいう通りに日本は彼らを慕わなければならないのか、「華」は本当に「華」と呼ぶに値するものなのか。
権謀術数や奸民の跋扈により、どんな「天下」も必ず二?三百年で倒れて断絶する「から・漢」の歴史よりも、
たとえ南北朝問題や戦国武将による混乱はあっても「万世一系」が保たれ、人心も「素直」な日本の歴史の方が好ましいのではないか。

 このような発想が、本居宣長に代表される国学の核心にある。また儒学の側も「万世一系」こそ「天理」とみなし、日本を「天下」の中心とする原理主義=水戸学へと転化した。

 要するに、「華」の言説がいつの間にか日本固有のものとして換骨奪胎され、日本中心の「華夷秩序」が理念上出来上がったことになる。
そのことを端的に示したのが、水戸学の代表的思想家である会沢正志斎『新論』の、天地万物を総攬する天皇と、その秩序を乱そうとする
強大な「夷」=白色人種との全面対決の構図、すなわち「尊皇攘夷」であった。

51 :
福沢諭吉の「国体」論
 しかし、19世紀において西洋がアジアへと勢力を拡張した結果、「華」「天朝」たる清がその座にとどまることを許されなくなったのみならず、日本版「華夷秩序」をも根本から揺さぶった。
既に清は、アヘン戦争後の南京条約(1842年)において、これまでの朝貢関係の延長における管理貿易とは全く異なる論理による自由貿易港=条約港の設置を認めさせられた。
さらにアロー号戦争では、西洋が求める対等外交に清の守旧派が反発するあまり、英仏軍が北京に攻め込む惨事に見舞われた。
そこで結ばれた北京条約(1860年)では、西洋との外交関係において最早「夷」という卑称を用い得なくなり、万国公法=国際法のもとでの相互の対等を旨とする近代的な国際関係を認めさせられた。

 日本も、まさにアヘン戦争の結果日本近海に姿を現した米国による開国要求に応じ、日米和親条約(1854年)を締結し、目まぐるしく動く国際情勢への対応を強いられた。

 このような状況に至れば、唯我独尊的な発想によって他国との往来を拒み、高圧的な対応に終始することはできない。
むしろ当面、西洋のハード・ソフト両面の力が優れていることを認めつつ、しかも西洋が持ち込む万国公法の下における諸国の平等という発想の中に生き残りの道があることを見出しつつ、
人々の思考を伝統の狭い枠の中から解き放ち、西洋と自国の長所を組み合わせて新しい文明と社会を切り開くことの方が得策である。これこそが、明治という時代を成り立たせた啓蒙の精神であったといえよう。

 福沢諭吉の代表作として知られる『文明論之概略』は、このような危機感に基づいて書かれた。

 当時の国学者・水戸学者・攘夷論者は、日本を「金甌無欠・万国に比類なき国体」と称し、「万世一系の皇統」の絶えざることを誇っていた。しかし福沢のみるところ、そのこと自体は必ずしも重要ではなかった。

 何故なら、西洋文明が圧倒的に存在感を持ち、あるいは歴史的に中国文明の強い影響を被りかねなかった日本にとって、
何と言っても日本人自身が日本という国家を成り立たせ維持してきたこと(外国人に政治の主導権を奪われないこと)こそ「国体」の本質であり、
その一点においては足利氏などの「朝敵」であっても問題なかったからである。一身が独立不羈の個人となり、創意工夫を探求することによって、ひいては社会・国家が繁栄し、
独立が保たれて「国体」も続き、尊皇攘夷論者が死守しようとする天皇家の威光も輝くことから、決してこの順序を間違えるべきではない、と福沢は説いた。

 当面、西洋近代の流儀を採用して、一身の独立と一国の独立を両立・維持するという福沢の戦略に、二重の意味で立ちはだかったのが、旧い中国文明の遺物であった。
一つは、専制権力が価値観や道徳の基準を独占し多様性を阻む問題であり、もう一つは「華夷」「天下」秩序が、対等な国家間関係を旨とする近代外交と著しく矛盾するという問題であった。

 価値観の問題をめぐって、儒学思想の伝統は、人間そして万物を上下の秩序に固定し、価値を独占した権力者に服従させる。しかし価値観を一元化すれば、
あらゆる創意工夫や競争は芽を削がれ、個人の進歩、文明の進歩、一国の独立という構想は到底実現し得ない。

 また、至高の専制権力が英明にして、「民に親しむ」という儒学の理想通りに善政を行うならばまだしも、もし専制権力とその取り巻きが暗愚に陥ればどうなるか。
判断ミスや失政をチェックし正す仕組みが働かず、社会全体が蒙る災厄は計り知れない(中国文明における王朝交代期の混乱は総じてこのようなものである)。

52 :
福沢は、価値を独占しようとする儒学的体制を「支那の神政府」と呼び、日本は幸いにしてこの悪弊からは免れていることを尊んだ。
日本では武家政権が生じて以来、天皇と武家に権威と権力が分散しており、したがって特定の存在が価値を独占せず、自由に行動し考える多元的な空間が存在したからである。
そこで福沢は、日本は中国文明と比べ、西洋文明を採り入れて新境地へ進みやすい位置にあり、中国文明は一旦破綻して根本的に悔悟しなければ生まれ変わることは出来ないと喝破した。

 明治新政府は天皇を元首と位置づけ、国民=臣民にその存在感を知らしめたが、総じて福沢の文明化構想に則って国家建設を進めたと言ってよいであろう。

 明治新政府にとっての悲願である条約改正によって名実ともに欧米と対等な国家となるためには、西洋文明の価値観からみて劣ることなき公正な規範を整備して社会を運営し、
経済発展を図ることが第一であり、その一つの達成点こそが大日本帝国憲法の発布・帝国議会の創設による立憲主義への移行であった。

「脱亜=脱華夷」のための日清戦争
 国内において西洋と日本の折衷を図る以上、外交面において近代外交に基づいて周辺国との関係を改め、主権の範囲を確定し、自立を図ろうとするのは当然であった。
そのためには、清・朝鮮とも対等な外交関係を結ばなければならない。琉球のように、薩摩と清双方の影響が及ぶ曖昧な場所については、帰属を整理しなければならない。

 そこで清との関係については、江戸期における「互市」関係(=日明・日清関係のこじれゆえに双方が疎遠を選んだ結果、朝貢関係を設定せず、冷淡な貿易のみを行った)から
、一躍対等な外交関係に持ち込んだ(1871年の日清修好条規)。しかし琉球の帰属については、1874年の台湾出兵(琉球属民が台湾南東部に漂着し殺害された事件の報復を日本軍が行い、
その結果を清に認めさせた結果、国際法上、琉球=日本という図式が確立)を経て、1879年の琉球処分=琉球藩廃止・沖縄県設置という痛みを伴わざるを得なかった。

 そして何と言っても朝鮮については、朝鮮が清に朝貢することを除けば、内政や日本との関係のいずれも自主的に判断していることを根拠に、日本は朝鮮を独立国と見なした。
これに対し清は、朝貢関係を国際法上の宗主国と属国の関係に読み替え、朝鮮の独自外交の余地を否定しようとした。清は西洋との対等外交と、周辺との「天下」秩序に由来する宗属関係が並存しうると考えたが、
もし日本がそれを容認すれば、清中心の「天下」の影響下で外交を展開するという苦境を強いられる。

 1885年、朝鮮の開化派がクーデタで潰えたのちに書かれた福沢の「脱亜論」は決して、今の中国や韓国が非難するごとき、日本がアジアを脱して彼らを卑下するという趣旨ではなく、
清や朝鮮が固執する「天下」意識と「支那の神政府」ぶりに日本が巻き込まれることを拒み、冷淡に対応するよう主張したものといえる。

53 :
 そして、この矛盾を一気に強行突破するために断行されたのが1894年の日清戦争であり(詳しくは陸奥宗光『蹇蹇録』を参照されたい)、
その結論たる下関条約の第一条は「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」、すなわち朝鮮の独立に尽きる。

 日本国憲法の下で教育を受けた筆者は、今後の日本が紛争の解決手段としての戦争を永遠に行うべきではないと信じるが、かりに日本近代史上戦わざるを得ない戦争があったかと問われれば、
日清戦争を挙げる(当時はまだ戦争違法論の時代ではなかった)。平等・公正・自由を旨とする近代国際秩序と、上下・恣意・反自由(民は依らしむべし、
知らしむべからず)の「天下」秩序には天地ほどの懸隔があり、福沢が『文明論之概略』で語った通り、後者から前者への転換は相当の政治的・思想的衝撃がなければ進まないためである。

 もし日本が日清戦争に敗北していれば、朝鮮=韓国の独立など有り得ない。今頃は中華人民共和国の一部分であるとしても不思議ではない。

 もちろん、国際法の規範や近代の諸々の理想は、強者のみが享受するものであったことも否めない事実である。実際に日本は列強との関係において、
条約改正を実現し国際政治上の相応の地位を得るなどしたが、逆に敗北した清は凄まじい勢力圏分割の餌食となった。アジア・アフリカにおける植民地支配の拡大も、とどまるところを知らなかった。
しかもその現実は、当時流行した優勝劣敗論(社会進化論)や「文明の責務」論によって正当化されていた。また朝鮮をめぐっては、朝鮮改め大韓帝国の混乱を経て、
日本が彼らの意に沿わない支配をすることになり、下関条約第一条の意義を日本自身が損ねたことも忘れてはならない。

 しかし同時に、日本が近代国家として台頭したこと自体が、国際社会における権力と知識の偏在に風穴を開け、非西洋世界にも多種多様な言論を巻き起こし、独立と自由を鼓舞したことも事実である。
そのような動きは何処にも増して、清末社会において巻き起こった。当時の若手エリートは、最早「天下」に君臨するという態度では列国が競い合う世界の現実に適応できず、
専制支配を一刻も早く廃して立憲制へ移行すべきで、活力ある民間社会あってこそ富強な国家を営みうると説いた。

 この動きは1898年、戊戌変法と呼ばれる改革運動として沸き起こり、一旦保守派のクーデタによって潰えた。それでも、リーダーの一人・梁啓超は日本への亡命を余儀なくされた後、
ますます立憲主義的な近代国家形成の意気に燃え、日本語に翻訳された西洋政治・社会学説の膨大な成果を漢語に翻訳したほか、改革志向のメディアを日本で経営した。
梁の議論に触発された膨大な数の知識人は、「日本経由の西洋近代」に目覚め、全面的近代化政策=清末新政の素地が作られていった。
一部の知識人は、満洲人皇帝に見切りをつけて革命派へと転じたものの、日本の近代国家としての成功に鼓舞されて、独立・自主の主権国家として生き残りうる中国をつくろうとしていたという点では全く同じであった。

日本自身が「神政府」化した
 20世紀前半の日本が、もし福沢が構想した通り、華夷思想・上下関係の「天下」とは全く異なる、独立自尊・相互尊重を前提とした外交モデルを展開すれば、その後の歴史はどうなったか。
日本に刺激された諸国(とりわけ中国)のナショナリストと適切な関係が生まれ、第一次大戦を挟んで西洋でも民族自決・戦争違法論が台頭する中、
日本がアジアと西洋の利害関係を調整する存在として広く期待されたのかも知れない。

54 :
しかし、歴史的にはそのようにならなかった。福沢は『文明論之概略』にて、現実の明治日本が祭政一致を掲げていたことに警戒の念を隠さず、
もし将来価値の独占が発生するならば、日本のたどる運命は中国文明と同じく暗いと予言した。「華」を相対化する日本のナショナリズムは、一面では「天下」秩序を過去のものとすることに成功したが、
別の一面では天皇・日本中心の新たなる「天下」を志向していた。とりわけ、黄色人種と白色人種の対立という図式が帝国主義の時代に喧伝され、
黄色人種・アジアを一元的に指導する日本という存在が強調されるに至って、「支那の神政府」に抵抗していたはずが、「日本の神政府」を他のアジア諸国に押しつけ、日本に対する抵抗を招くという逆転を許してしまったのである。

 既に日清戦争の時点で、戦勝に沸く日本国内の世論は激しい反清論・対外拡張論に沸いていた。それが本来の日清戦争の目的をはるかに超えて、逆に日本の国際的立場を弱めてしまう可能性について、
陸奥宗光『蹇蹇録』でも「勝者がかえって敗者よりも危険の位置に陥るの恐れあり」「もし深慮遠謀の人あり、妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、毫も愛国心なき徒と目せられ」等々、生々しく語られている。

 だからこそ伊藤博文内閣は、早々に戦争を終結させてナショナリズム的感情を満足させるとともに、外交上の妥協を模索したのであった。そして西洋からの「非キリスト教国であっても、
戦時中の振る舞いは『文明』の基準に達した」という称賛についても、陸奥は「本当に日本が、西洋によって代表されていた文明の価値を極限まで進める存在になりうるかは、
将来の課題である」として、決して日本の置かれた国際的・文明史的位置に満足することはなかった。

中国に及ぼした一大災厄
 ところがその後の日本は、1915年の「対華21ヵ条」以後、中国権益(とりわけ満蒙)に固執するあまり、中国ナショナリズムの期待(日本に学んで近代国家として生まれ変わろうとする中国を、日本も支持すること)を裏切った。
とりわけ?介石は、日本陸軍に学んだ知日派の中の知日派であり、他の居並ぶ中国ナショナリズムの名士の多くも、日本で近代の何たるかを身につけた人々であったことを考えれば、自ら信じた日本から受け続けた屈辱は計り知れなかったであろう。
そして日本は中国問題をめぐって英米とも懸隔を生じ、第一次大戦後に固めた国際的立場を自ら狭めた。

 ?介石・国民党は確かに独裁的であったが、将来設計として中国の立憲政治確立(民権主義)を掲げていた(最終的には台湾の民主化として結実する)。
そのような国民党の体力が日中戦争で削がれ、代わりに台頭した毛沢東の酷政のもと中国は未曾有の大混乱に陥った。

 今日の中共も依然として「党の指導」という名の価値独占を図り、権力の恣意に対する歯止めを欠いた中国社会では矛盾が山積している。
私見では、これはある意味で、日本が中国に及ぼした一大災厄であろう。

55 :
いっぽう日本では、国際環境の悪化や世界恐慌の影響の中、一部の軍人が「君側の奸」を取り除くと称して、穏健かつ立憲主義的な内政・外交に努めていた人々を排除し、
「国体明澄=明徴」の名のもと、自らこそが天皇の真意を体現した政治を行い得ると称して価値観を独占した(柴田紳一「天皇機関説事件」)。

 その結果、70年前の日本は国家滅亡の淵に陥り、GHQの支配するところとなり、福沢諭吉が何よりも重視した国体(=日本人が日本の政治を執りおこなうこと)を一時失ってしまった。

 敗戦という未曾有の危機にあたって、統治権を総攬するとされた昭和天皇が透徹した理性の持ち主であったからこそ、日本は完全なる滅亡を免れて再生するきっかけを得られた。
しかし、もし昭和天皇の人格がそのようなものでなければ、日本はどうなっていたのか。最後に天皇という人格に頼らざるを得なかったこと自体、国家としては失敗である。
それは一歩間違えれば、天皇という象徴的存在自体を棄損しかねなかった。

 要するに戦前の日本は、外交秩序と文明観の両面において、中国的な「神政府」の発想=価値の独占を否定しようとして、その実いつの間にか、自らの成功物語に基づく新たな「天下」志向、
明治体制に組み込まれた価値の独占志向=日本国体論にとらわれ、かつての中国文明と全く同じ陥穽に陥ったものと考える。戦後の日本の平和で自由な国家としての歩みが、そのような「内なる中国」を自省して距離を置くものであったと信じたい。

 そして今改めて中国が台頭し、旧い中国文明の自己中心的な発想そのままに「中国夢」を展開してアジア太平洋地域を攪乱しつつある中、日本が引きつづき、
自由で開かれた国際社会の担い手として多くの国々から尊敬を受けて存続・繁栄するためにも、我々は「内なる中国」と闘わなければならないのである。

■プロフィール
ひらの さとし 1970年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。著書に『「反日」中国の文明史』(ちくま新書)、『大清帝国と中華の混迷』(講談社)など。

56 :
>>49
はっきりいって、二番煎じ、三番煎じくさいな。

東大教授ともあろうものが、今さらこんな他人の物まねみたいなことをするとは、
恥ずかしくないのか。

古田博司や西村幸祐とどこが違うのか、と。

57 :
古田?西村?って研究者か?

58 :
>>57
古田は研究者だろう。
あと渡辺利夫の『新脱亜論』ともソックリに感じられる。
平野のオリジナリティはどこにあるのか?

59 :
>>57
古田さんは立派な研究者ですね。

古田博司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E5%8D%9A%E5%8F%B8

60 :
ひろた まさき氏の『福沢諭吉』が岩波現代文庫から発売予定です。
これは1976年に朝日評伝選として出版された単行本の復刊のようです。

福沢諭吉 (岩波現代文庫) 文庫 - 2015/9/17 発売予定
ひろた まさき (著) ¥ 1,361
http://www.amazon.co.jp/dp/4006003315/

内容紹介
「一身独立」を熱く説き、日本の近代への転換に大きな役割を果たした福沢諭吉。
幕末・維新の激動期を生き抜いた66年の生涯をつぶさに辿り、その代表的著作を
読み解きながら、福沢の思想的変遷・転回の意味を歴史の文脈の中で問い直す。
民衆史の視点からの本格的評伝にして、いま21世紀の課題に照らして福沢を読む
ための最良の手引き。(解説=成田龍一)


朝日評伝選の『福沢諭吉』は、Amazonで古本ながら1円でお得かも。
内容は1970年代では通説だった
「市民的自由主義者」から「侵略的絶対主義者」への二段階・変身説です。
たとえば、9章の題名は「欧化亜侵 『時事小言』と「脱亜論」」です。

福沢諭吉 (1976年) (朝日評伝選〈12〉) - 古書, 1976/11
広田 昌希 (著) 中古品の出品: ¥ 1より
http://www.amazon.co.jp/dp/B000J6JFH4/

内容紹介
進んで文明を逐わんか,退いて野蛮に返らんか――
近代国家の出発にあたって,「文明への参入」と「一
身独立」を説き,強き国民の創出を畢生の課題と
した日本啓蒙思想の巨星,福沢諭吉,その生涯の
栄光と悲惨を,近代史研究の気鋭が克明にえがく

61 :
>>60
朝日評伝選の『福沢諭吉』は、Amazonで古本を買うと、
本体価格1円 + ¥ 257 (関東への配送料)= 258円 です。


ヤフオクでは、今のところ
本体価格100円 + 送料 164円(クリックポスト) = 264円 です。

福沢諭吉 ひろたまさき(著) 朝日新聞社
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w115502363
終了日時:2015.09.17(木)21:30
最高額入札者:なし
開始価格:100 円
送料 164円(クリックポスト)

62 :
岩波から出版って時点で嫌な予感がするんだが。

63 :
月脚さんの新刊情報です。
2015/10/10に発売予定です。

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ) 単行本 - 2015/10/10
月脚 達彦 (著) ISBN 978-4-06-258613-9
http://www.amazon.co.jp/dp/4062586134/
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内容紹介

福沢諭吉はレイシストだったのか?

「福沢は偉い人だ」「悪いやつだ」論争は建設的な成果をみないまま、
いまだに蒸し返されます。福沢の朝鮮論が悪罵に満ちていることは事実
だからです。先駆的な啓蒙思想家として福沢読む立場にとって朝鮮論を
あげつらってのレイシスト扱いは耐えがたいものですし、植民地主義に
目を向ける論者にとっては帝国主義者としての側面を無視できません。

本書はこの論争に終止符を打ちます。福沢のアジア論を丹念に追い、
一つ一つを朝鮮の政治過程と照らし合わせることで、福沢のアジア論に
貫徹する思想を明らかにします。

福沢のアジア論は「絶えざる転向」に満ちているため多くの解釈を生みました。
本書は、朝鮮で開化派と呼ばれた人々と福沢との関係を主軸に、福沢の
議論から一本の筋を見出します。そこに見えるのは朝鮮開化派への肩入れと
彼の激情です。福沢は、情報が限られる中で自らの弟子でもある開化派人士を
愛し、その一挙手一投足に一喜一憂し、その都度のリアクションとして
賞賛と呪詛を交互に書き綴っているのです。

さらにその奥に見えるのは「リベラルな帝国主義者」という19世紀的な
立場が挫折してゆく過程です。朝鮮史の立場から見た福沢諭吉の姿は、
彼のアジア論について最も説得力のある解釈を提供します。
----

64 :
>>62
1976年に朝日新聞社から出版。
↓ そのまま忘れられて(?)39年
2015年に岩波書店から復刊。

たしかに嫌な予感っていうか、サヨク電波ゆんゆんですな。

65 :
福澤諭吉における「立国の公道」 拓殖大学総長・渡辺利夫
ttp://www.sankei.com/column/news/150916/clm1509160001-n1.html

中国は“遅れてやってきた帝国主義国”である。持続的な高成長により掌中にした資金力をもって軍事力の強大化を図り、
新覇権国家として世界に君臨したいという欲望を抑え切れないのであろう。 さもありなんである。米国は9・11同時多発テロ事件以来、
世界の警察官であるよりも前に米本土防衛を主眼とする戦略へと舵(かじ)を取り、ピボットと称される東アジア基軸戦略も東シナ海・南シナ海への中国の膨張を押し止める力を発揮できないでいる。
日本は平成不況にはまり込んで以降の長期低迷から脱する見込みがなお立たず、加えてこの間、少子高齢化の顕著な進行により経済社会の全体が衰亡化の様相を呈している。

 ≪憲法を生命より上位に置く倒錯≫

 東アジアの現状変更勢力が中国であることに疑いはない。これに抗して東アジアの勢力均衡を辛くも保持する力量をもつメカニズムが日米同盟である。
国際秩序を守るメカニズムが勢力均衡だという論理の基本には、古典も現代もない。違いは、現代の勢力均衡のありようが古典の時代に比べて格段に複雑化し、
その分だけ高度の戦略的思考と情勢分析能力が必要だということだけである。

集団的自衛権は個別的自衛権とセットになってすべての主権国家に賦与されている固有の権利である。
中国の尋常ならざる軍拡を前にしながら、憲法の制約のゆえになおこの固有の権利までが認められないというのであれば、帰結は憲法を国民の生命と財産より上位におくという倒錯である。

 個別的自衛権をもって外敵に対処可能だと主張する者がいる。本気でそんなことを考えているのだろうか。国益の核心への侵犯がいよいよ差し迫り、
それでもなお座して死を待つ国家などどこに存在しえようか。個別的自衛権の法的な閾値(いきち)を大きく超えて他国の領域に侵入せざるをえなくなる羽目に陥る危険性は、
国家が生存本能をもつ存在である以上、十分にあり得る。その程度の想像力を人々はなぜもてないのか。

66 :
≪ナショナリズムの強化を≫

 米国の覇権の大樹の陰に身を隠し秘やかにも安穏な人生を送ることができた時代はもはや過去のものだ。戦争は非道である。
ならばその非道の抑止にはいかなる戦略が最適かに関心を向けないのであれば、人生の平仄(ひょうそく)が合わないではないか。
官軍に矢を引いて西南戦争を引き起こした西郷隆盛を批判する往時のジャーナリズムを「政府の飼い犬に似たり」と蔑(さげす)み、
国民の抵抗の精神を衰頽(すいたい)させる「文明の虚脱」だと難じたのは福澤諭吉である(「丁丑(ていちゅう)公論」)。

福澤といえば「文明開化」なる用語を編み出し、著作『西洋事情』『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に絶大なる寄与をなした啓蒙(けいもう)思想家である。
その福澤の思想的立脚点の一つが「立国は私なり、公に非ざるなり」(「痩我慢之説」)であったことに思いを致そうではないか。

 帝国主義列強がアジアを蚕食する一方、支那、朝鮮がこの「西力東漸(とうぜん)」の国際政治力学を理解できず「旧套(きゅうとう)」の中に「窒塞(ちっそく)」するという現状を前にして、
福澤は「公」(コスモポリタニズム)ではなく「私」(ナショナリズム)の強化こそが「立国の公道」であることを激情をもって訴えた。

 文明は普遍である。この原理において欧米は日本より先んじているとはいえ、普遍には遠い。この段階にあっては、国家という存在と忠君愛国なる「私情」が不可欠である。
確執限りなき内外条件からすれば「自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦(せんしんばんく)、力のあらん限りを尽し、
いよいよ勝敗の極(きょく)に至りて、始めて和を講ずるか、若(も)しくは死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可(べ)きものなり」と語り、
これを痩我慢の説だと銘じた。

67 :
≪独立不羈の国民育成≫

 人間という存在は、他の生命体と同じくその根本においては私であり、個の私情こそが至上の価値をもつ。
しかし外国に対する場合には必ずや同胞としての私情が湧出し、国民としての私情すなわちナショナリズムという「偏頗(へんぱ)心」が優位を占めなければならないと福澤は説く。
私情といい偏頗心というからには普遍としての文明からは隔たる心理ではあるが、各国民が私情と偏頗心を露(あら)わにしている以上、自らもこれを重んじなければ国はもたないと主張する。

 福澤は好戦主義者ではない。学問を究めて高尚なる人間として「一身独立」し、もって「一国独立す」べきことを説き、
「独立の気力なき者は、国を思ふこと深切(しんせつ)ならず」と論じて、独立不羈(ふき)の国民育成の緊急性を生涯にわたって主張しつづけた人物であった。

 現代の極東アジア地政学は幕末・維新期を再現させるかのごとくに剣呑(けんのん)な状況に入らんとしている。他国が自国の領域を平然と侵害する現状を拱手(きょうしゅ)傍観し、
集団的自衛権のあれほど限定的な行使容認までに異を唱えるというのであれば、福澤はその「文明の虚脱」に泉下で深い慨嘆の息を吐いているのに違いない。(わたなべ としお)

68 :
厳しく混沌とした現代の社会を生き抜く術は、福澤諭吉の言葉にあり!
ttp://www.sankei.com/economy/news/150915/prl1509150023-n1.html

ぴあ株式会社
『超訳 福澤諭吉 生き抜く哲学』9月3日(木)ぴあ株式会社より発売
「学問のすすめ」をはじめ、福沢諭吉が残した多くの名言。
現代に悩み傷つく方へ「生き抜くためのアイディア」を超訳して贈る
『超訳 福澤諭吉 生き抜く哲学 / 盛田則夫 著』

報道関係者各位 御中

『超訳 福澤諭吉 生き抜く哲学』。9月3日(木)ぴあ株式会社より発売致します。
[画像: http://prtimes.jp/i/11710/107/resize/d11710-107-241703-1.jpg ]

福沢諭吉といえば、慶応義塾大学創設者であり、「学問のすすめ」の著者というイメージしか、
一般的にはないかもしれません。

「学問のすすめ」という言葉があまりに浸透しているので、「諭吉は机の上で学ぶこと」だけを
推奨した人のように、思われがちです。

しかし実は、「実学」という実生活で役に立つ学問を学ぶこと、そして閉鎖的な日本の文化に
西洋の文化や慣習を伝え、より個人が、「一人の人」として、の生きていくための知恵を授けた人でした。

終身雇用の神話は崩れ、自らの生き抜く力が社会・仕事・そしてグローバル化する環境の中で必要ないま、
「いち早く西洋文化を実践、下級武士出身の身分から成り上がり、混沌の時代を生き抜いた福沢諭吉」からは、
現代の私たちが、改めて学ぶことが多くあります。

「学問のすすめ」をはじめ、福沢諭吉が残した多くの言葉から、現代社会で悩み傷つく私たちが、
「生き抜くためのアイディア」を超訳した一冊が、『超訳 福澤諭吉 生き抜く哲学』です。

自ら考え、自分の足で立つために。

厳しいこの時代に悩む人々に、諭吉の言葉は生き抜くための、強い武器となることでしょう。

<超訳例>
●「自ら熱源になれ」
●「着眼大局 着手小局」
●「我慢の先に光がある」
●「空は高く、世界は広い」
●「できない理由を年齢のせいにしない」
●「周りを巻き込む馬鹿になれ」
●「人生に必要なのは2つの勇気である」
●「なりふり構わず生き残れ」 など・・・

【商品概要】
●タイトル:『超訳 福澤諭吉 生き抜く哲学』
●著者:盛田則夫
●発売日:2015年9月3日(木)
●価格:1,404円(税込)
●発行・発売:ぴあ株式会社
※「BOOKぴあ」 (http://piabook.com/shop/)、全国書店、ネットショップで発売!

69 :
>>68
情報ありがd!
発売日:2015年9月3日(木)ということは既に発売されているんですね。

超訳 福澤諭吉 生き抜く哲学 単行本 ? 2015/9/3
盛田 則夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/483562842X/
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内容(「BOOK」データベースより)

近代化に向けて日本が劇的に変化を遂げる時代に諭吉は生きました。
今を生きる私たちも同じような混沌の渦の中にいると言えるでしょう。
これまでの概念や行動ではもう通用しないからこそ、自分の頭で考える
きっかけをくれる諭吉の言葉を心に刻んでほしい。独立自尊。自らの力と
尊厳を重んじる諭吉の言葉は、きっと今という混乱の時代を生き抜く
私たちに武器をくれるはずなのです。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

盛田/則夫
1966年生まれ。現役ビジネスマン
----

70 :
奥武則教授は最後に「福沢諭吉とブラックをつなぐもの」に言及した。 
1926 (大正15)年3月大阪毎日新聞社・東京毎日新聞社発行の『十大先覚記者傳』 という本がある。 
十大先覚記者は、岸田吟香、柳河春三、福地櫻痴、栗本鋤 雲、成島柳北、藤田茂吉、末廣鐵腸、沼間守一、福澤諭吉、ブラック。 
福澤 諭吉とブラックが並んでいるのが、興味深い。

 奥武則教授は続いて、福澤が慶應元年『ジャパン・ヘラルド』を翻訳して、 「横浜出版日本形勢新聞」「横浜開板日本新聞」として、諸藩の江戸留守居役な どに買ってもらい、
その収入で中津から連れて来た塾生の学費をまかなってお り、それは「幕末英字新聞譯稿」として『福澤諭吉全集』第7巻に収録されて いる話をした。 
私はインターネットで検索して奥武則教授の論文、「『ジャパ ン・ヘラルド』のジョン・レディ・ブラック―「ジャーナリスト」としての原 点―」を読んで、
2014年4月28日のブログ「J・R・ブラックと福沢諭吉」に、 福沢の「幕末英字新聞譯稿」の時期は、ブラックが『ジャパン・ヘラルド』の 編集責任者として、腕を振るっていた時期に重なることを、書いていた。

 現存する『ジャパン・ヘラルド』の原紙で、福沢の翻訳と対応するものは、 残念ながら194号、195号、196号、197号、198号のみだそうだ。 
奥さん は、福沢が1865(慶應元)年10月、中津藩に提出した建白書「御時務の儀に 付申候書付」の、幕府だけが唯一の正統的な主権者であるとして、
幕府擁護を 主張していることに、ブラックの論説の影響は明らかだとする。

 さらに、福沢が1866(慶應2)年11月7日の福沢英之助宛書簡で述べた、 有名な「大君のモナルキ(絶対君主制)」という言葉も、ブラックが『ジャパン・ ヘラルド』
で何回か使っている、と指摘した。 福沢英之助宛書簡は「大名同 盟の論は不相替行はれ候………如何様に相考候共、大君のモナルキに無之候て は、
唯々大名同士のカジリアイにて、我国の文明開化は進み不申、今日の世に 出て大名同盟の説を唱候者は、一国の文明開化を妨げ候者にて、即ち世界中の 罪人、万国公法の許さゞる所なり」。

 福沢が書き、門下生の藤田茂吉、箕浦勝人の名前で『郵便報知新聞』に、1879 (明治12)年7月27日から8月14日まで連載した「国会論」は、イギリス 型議院内閣制の導入を提唱した。 
イギリス型議院内閣制は、かつてブラック が1874(明治7)年の「民選議院論争」で、しきりに主張していたものだった。

ttp://kbaba.asablo.jp/blog/2015/09/19/7798901

71 :
ttp://kbaba.asablo.jp/blog/2015/09/13/7790442
『福澤諭吉事典』に写真付きの「釈宗演 しゃく そうえん」の項目があり、 寺崎修さんが執筆している。 
「安政6(1859)〜大正8(1919)年。明治・ 大正期の臨済宗僧侶。若狭国大飯郡高浜(現福井県大飯郡高浜町)の一ノ瀬信 典の二男として生まれる。
12歳のとき京都妙心寺の越渓(えつけい)のもとで 出家、妙心寺のほか、建仁寺、大法寺(伊予)、曹源寺(備前)などで修行、の ち鎌倉円覚寺の今北洪川(いまきたこうせん)に師事した。
明治18(1884) 年、26歳のとき円覚寺塔頭仏日庵住職となったが、仏教にも学術が不可欠との 考えから翌18年9月、慶應義塾に入学した。
「勤惰表」によれば18年3期に 科外、19年2期に別科6級、同年3期に別科5級に在籍したことが確認でき る。
20年、山岡鉄舟、鳥尾小弥太らの支援を受けてセイロンに2年半留学、イ ンド、タイ、中国を歴訪した。のち円覚寺、建長寺の管長を歴任、臨済宗大学 (花園大学)の学長も勤めた。
26年にシカゴで開かれた万国宗教会議に出席、 世界に向かって初めて禅を紹介、その後も鈴木大拙と共に禅の海外普及に務め た。/
福沢諭吉との交流は、宗演が古木の硯を贈ったり還暦祝いを贈るなど、 福沢の晩年まで続いた。漢詩二篇を添えた宗演宛の福沢書簡(礼状)が残って いる。
著書に『西南之仏教』(1893)、『金剛経講義』(1900)、さらに『釈宗演 全集』全10巻(1929〜30)がある。大正8年11月1日没。」

 『福澤諭吉全集』の索引で、「釋(釈)宗演」を引くと、二か所に出て来る。  一つは、第18巻702,3頁の釈宗演宛書簡と、第21巻126頁「金銭出入帳」で ある。 「金銭出入帳」では、
明治26年7月25日に「土宜法龍釈宗演へ」30 円を支出している。 上記『福澤諭吉事典』の「シカゴで開かれた万国宗教会 議に出席」した時の餞別であろう。

 釈宗演と並んで、「慶應義塾精神界の二大明星」とうたわれたという土宜法龍 (どき ほうりゅう)についても、見ておきたい。 
安政2(1855)年〜大正 12(1923)年。 近代日本仏教史を代表する仏教学者、僧侶。 尾張国名古屋 生れ、尼である伯母により4歳で出家、
明治2(1869)年から高野山の伝法入 壇に入る。 明治9(1876)年慶應義塾別科に入学し卒業。 明治26年にシ カゴで開かれた万国宗教会議に、
日本代表として釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)、 芦津実全(天台宗)、八淵蟠龍(浄土真宗本願寺派)と4名で出席した。 横 浜正金銀行ロンドン支店長・中井芳楠宅で南方熊楠と会い、
以来没するまで30 年間にわたって膨大な往復書簡が交わされた。 西域、チベットなども旅し、 伝統的な真言教学の上に、近代欧州のインド古典学、仏教学の研究方法を導入 し、以後の密教学研究の基礎を築いた。
 明治39(1906)年から真言宗御室 派管長。

 『全集』第18巻の福沢の釈宗演宛書簡は、『福澤諭吉書簡集』第8巻に書簡 番号1999として収録されている。 明治28年12月25日付、還暦祝と以前も らった硯のお礼を述べ、
「還暦一首」と題したものと、六十に為り戯れにつくっ たという漢詩二篇を贈っている。 「御一笑可被下、老生は少年の時より色々 の身情に妨げられて詩も書も学びたることなきゆゑ、
今に至るまで頗る拙なれ ども、十七、八歳頃に記憶したる韻字などは今に忘れず、時として詩を作るこ とあり。」 福沢が手紙に漢詩を書くのは、親しい相手に限られているから、
釈 宗演も門下生として、そういう感じを持っていたのであろう。 

  還暦一首

 児戯々来六十年 一身苦楽附天然

 痴心自笑尚難去 枉学摂生祈瓦全

 (児戯戯れ来る六十年/一身の苦楽天然に附す/痴心みずから笑う尚お去り 難きを/枉(ま)げて摂生を学んで瓦全(がぜん)を祈る)

 吾是十方世界身 由来到処物相親

 人言聞去皆称善 耳順何期六十春

 (吾れは是れ十方世界の身/由来到る処物と相親しむ/人言聞き去って皆善 と称す/耳順何ぞ期せん六十の春)

72 :
諭吉って宗派何だったかな

73 :
ヤフオクに安川本が出品されています。

福沢諭吉の戦争論と天皇制論 中古
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終了日時:2015.09.23(水)20:57
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開始価格:100 円
発送はゆうメールで¥300の予定です。


ヤフオクに「まんがで読破」『脱亜論』が出品されています。

9月新刊 まんがで読破 『脱亜論』 福沢諭吉
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終了日時:2015.09.21(月)21:01
最高額入札者:なし
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送料164円(定形外郵便クリックポスト)

74 :
>>73
自己フォローです。Kindle版は、なか見!検索できるようです。

脱亜論 ─まんがで読破─ [Kindle版]
福沢諭吉 (著), Teamバンミカス (著)
http://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B015CM5FMI/

75 :
ttp://igoshi.blog.fc2.com/blog-entry-682.html
以前、青山霊園にある李氏朝鮮末期の政治家・金玉均の墓を紹介しましたが、文京区向丘の真浄寺にも金玉均の墓があります。
明治15年に日本を訪れ、明治維新とその後の発展に刺激を受けた金は、朝鮮の近代化のためには清国の属国からの独立を目指す必要があると考え、
帰国後の1884年(明治17年)にクーデター(甲申事変)をおこします。しかし、清軍の侵攻により新政権は敗退し、金は日本へ亡命します。
 亡命中は福澤諭吉や頭山満らの支援を受けますが、清との関係を憂慮した政府により明治19年、小笠原諸島へ配流されます。
その後、北海道に移り自由の身になって東京に帰ってきたのは明治23年になってからでした。
 金玉均は日本の囲碁界とも大きな関わりがあり、支援者を通じて方円社の村瀬秀甫に囲碁を教わっています。やがて、本因坊秀栄とも知り合い、
年齢も近かった二人は意気投合し無二の親友となりました。対立していた方円社と家元側が和解し18世本因坊秀甫が誕生した背景に金玉均の働きかけもあったとも言われています。
 金が小笠原諸島に流布された時は、秀甫の死去により19世本因坊を再襲した秀栄が、度々訪れています。北海道へ引っ越した時も秀栄は同行し長期間北海道に滞在しています。
 また、後に21世本因坊秀哉となる元方円社員・田村保寿を秀栄に紹介したのも金玉均でした。
 亡命から10年たった明治27年に金は周りの止めるのも聞かず上海に渡り、そこで暗殺されました。遺体は朝鮮に運ばれ、バラバラにされて晒されたといいます。
日本での支援者は金の遺髪や衣服の一部を日本へ持ち帰り葬儀を行います。青山霊園の墓は、犬養毅や頭山満らの支援で建てられたのですが、
真浄寺の墓は甲斐軍治という人物により遺髪等が持ち込まれ建立された墓だそうです。甲斐はソウルで写真家をしていたと言われ人に
頼まれて金玉均の遺髪等を手に入れ日本の送りました。墓の隣りに甲斐軍治の墓もあります。

76 :
鶴見俊輔の特集を見ているけれども、なんか・・・恵まれた環境の金持ちの左翼がお金にならないことを
をただひたすら偉そうに語っているように見えてしまった。失礼な話だけれども。

穿った見方だけれども、シベリア抑留帰還者の生々しい話を聞く機会があって、帰還して
赤として見られて就職も決まらない状態であっても、力一杯生き抜いた庶民層の話から
すると、鶴見の語りはかなり白けるぐらいのギャップを感じられた。

『「丸山眞男」をひっぱたきたい』という赤木智弘氏の主張もあまりナンセンスでない
感じもする。彼の記述は丸山の記載が薄いけれども、それに似たものを感じる。

77 :
>>73
ヤフオク!の『脱亜論』が50 円値下げで再出品されたようです。

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終了日時:2015.09.25(金)21:04
最高額入札者:なし
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送料:クリックポスト郵便(164円)

78 :
『慶應義塾図書館史』(←ネットで見られる)の面白さは、過去に紹介したけれど、館内の派閥についても言及されている。
ttp://d.hatena.ne.jp/jyunku/20070222

庄内閥の代表選手として、国分剛二という人が登場する。この人は、明治25年鶴岡に生まれ、大正8年雇員として就職後、同13年事務員に昇格。
学歴は、高等小学卒業後、正則英語学校に一年ばかり在学したのみだが、勉学心に富み、山形県の郷土史を中心に幅広い趣味を持っていたという。
また、筆がたつので、郷土史ばかりでなく、図書館雑誌などにも投稿し、昭和3年発表されて急速に普及されつつあった
森清の「日本十進分類法」に対する批判を執拗に繰返し、図書館界にも名を知られていたという(同書第4章5)。森清対国分剛二なんて「書物蔵」には出てなかったね。

それはともかく、この国分と図書館の相談役だった幸田成友の間でも戦いがあったようだ。三村竹清の日記*1によると、



大正11年2月9日 国分剛二君きて 羽柴古香翁之遺書 慶応図書館へ納めたるに 其中古文書を幸田君のそミ 其事にて国分君とごたごたしたり 云々と これも山中翁之話

大正11年2月14日 午後 慶応図書館に国分剛三君をとふ 羽柴君之遺物見る 羽柴君 生前不治之病をさとりてか 自鈔之書其他をこの図書館へ納れるへく交渉して 
納れることゝなりし也 それより八日斗にて没し あとの書物中(中略)其余古文書を写したるもの百五十斗と 金石史十巻 同草稿 補遺か 一束(中略)其他を国分氏こゝへ持来りて 
買上けて貰ふつもり之処 幸田君見て 金石史なとも五円位之評価なりし由 其時は国分氏不在なりしか 其後国分氏立会ての評価ニは 国分氏より色々説明したる為 
古文書なとも一枚十五銭としても四十円位はありませうとて これはこゝの図書館へ納めるもの故 四十円と計上したるに 其外之もの全部を二十円にて幸田君自分之方へよこせといふ 
それかいやなら図書館之方も破談にするといふ故 国分氏も面白からす 実は 羽柴氏にてハ(中略)旁金子も入用なるに 丁度先日尽日に幸田君駄々をこねしなれは 国分氏も四十円才覚して 
図書館之方か不調となれは 其金を融通するつもりにしたる処 幸田君また 二十円の方かいけなけれはこの方を自分か引取る より分けて図書館へも其一部分は納める 
とて持去りしとか 二十円の方は価か安いといふなら 五円位なら買上けるとの事なりしか(中略)幸田君之書婬には時々利益問題か交るのて 先生とかく名を汚す也

読解力がないためか、2月14日の条の文意がよくわからないが、結局、職権を乱用して横取りしたということだろうか。その古文書も結局、今では幸田文庫となって、慶應義塾図書館に納まっているのかしらね。

79 :
【コラム】建国大統領の顔が載らない韓国の紙幣
ttp://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/19/2015091900399.html

英国の中央銀行、イングランド銀行は、紙幣の中の人物を周期的に変える。来年は、5ポンド札に第2次大戦の英雄ウィンストン・チャーチル元首相を印刷する。
2年後には、『高慢と偏見』を書いた小説家ジェーン・オースティンが10ポンド札の主人公になる。現行の20ポンド札の図案に登場する人物は、『国富論』を書いたアダム・スミスだ
。イングランド銀行は、アダム・スミスに代わる新たな顔を選ぶための投票を先月19日まで行い、チャーリー・チャップリン、アルフレド・ヒチコックなど436人を候補に挙げた。

 しかし、これらの人物はいずれも紙幣の裏側の主人公だ。どういう人物が紙幣の裏を飾るにせよ、表は必ずエリザベス2世女王になる。
自国の政治・経済・文化面における業績を多様に反映しつつも、国家のアイデンティティーの象徴として、国家元首たる女王を前面に登場させているのだ。

 米国の紙幣では、歴代の主な大統領がその役割を担っている。1ドル札は初代大統領ジョージ・ワシントン、
2ドル札は第3代大統領トーマス・ジェファソン。リンカーン(5ドル札)、ジャクソン(20ドル札)、グラント(50ドル札)の各大統領もそれぞれ顔を出している。
大統領ではない人物は、初代財務長官のハミルトン(10ドル札)と、避雷針を発明したフランクリン(100ドル札)だけだ。

 日本では、明治維新の後、日本を世界的な列強へと押し上げた政治・社会・文化界の大物を紙幣の図案に使っている。
その中には、福沢諭吉(1万円札)や伊藤博文(旧1000円札)など、韓国に拒否感を与える人物も含まれている。

 韓国銀行券がこうした役割を遂行しているかどうか、問わずにはいられない。韓国の紙幣には、ワシントン大統領やエリザベス女王のような建国や国家統合を象徴する人物も、
アダム・スミスや樋口一葉(5000円札)のような近代知性の育成に寄与した人物も登場しない。植民のくびきを脱して離陸した、大韓民国建国の意味を思い出させる人物も、
6・25戦争(朝鮮戦争)の廃虚を踏みしめ、わずか半世紀で経済発展と政治的民主化を成し遂げた奇跡の歴史を象徴する人物もいない。紙幣に登場するのは、
そろって朝鮮王朝時代の偉人ばかりだ。20世紀以降の韓国現代史を、どこまでも隠しておくべき恥部と考えていなければ、こういうことにはならない。

金泰勲(キム・テフン)文化部次長

80 :
>>79
朝日新聞かと思ったわ。

81 :
福澤諭吉の友人、やんちゃな蘭方医・高橋順益(京都府)
 
―――〔種痘医の指定〕 痘瘡(天然痘)は人間一世の難症にして、父母たる者これが予防すべきは勿論、自今小児生まれて75日の後は、
必ず左の姓名の医官へへ銘々相対にて種痘を頼み、天然痘に罹らざるよう致すべき旨御布令ありたり。
明治2.4.11新聞雑誌

―――〔種痘、東京で一割〕 この頃来途中にて小児の葬送に逢うこと多し・・・・・・疱瘡の流行あるなりと。近年人々大いに発明して、種痘は小児の大厄難を免れしめ、
人間天然の寿命を保たしむるの神力なることを知り、殊に御上よりも毎々懇切なる御沙汰もあれば、東京に住むほどの者の子供は皆早く種痘仕るべしと思いしが、
真の東京人は種痘する者、わずか十分の一に過ぎずと言えり。なんぞ愚のはなはだしきや。
明治7.12.6東京日日

82 :
予防接種をもたらした日蘭交流の物語『種痘伝来』を毎日新聞書評で知った。天然痘に立ち向かった人々、
ジェンナーの牛痘ワクチン、幕末日本の蘭方医についてなどが解き明かされ、しかも読みやすかった。
 とくに後半「ネットワークを構築する――蘭方医たち」の章、名だけは知る蘭方医の学問や医術が垣間見え、
医師たちが情熱をもち繋がっていく様が手に取るように記されひきこまれた(アン・ジャネッタ著、廣川和花・木曾明子訳2013岩波書店)。

 表紙写真:「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」佐賀城における1849年の牛痘種痘。
 このほか本編に挿入の、野長英らシーボルト【鳴滝塾の門人】、【お玉ヶ池種痘所発起人名とその生没年表】など図表がまた興味深い。

 前出の大野松斎も含む「お玉ヶ池種痘所発起人」83名、生没年不詳、本編で紹介のない医師も多い。
 発起人筆頭の箕作阮甫はロシアのプチャーチンが通商を求めて来日の節、長崎で上司の川路聖謨らと応接している。
その縁もあってか種痘所開設にあたり、川路は土地の提供を申し出、彼の名で幕府に種痘所開設を願い出る。
なお、発起人名簿には伊東玄朴ら名の知れた蘭学者・蘭方医がいる一方、出身、経歴が判らない者がいる。
何人か見てみたら、幸田露伴の弟、学者の幸田成友が高橋順益について書いていた。

83 :
高橋順益 (たかはし じゅんえき) 
 1832天保3〜1865慶應元年。丹後宮津藩、松平伯耆守藩医で十人扶持。江戸では芝源助町に住んでいた。
 ペリーが軍艦をひきいて浦賀に来航した翌年、高橋順益は蘭学者で医者の緒方洪庵が大阪に開いた蘭学塾(緒方塾・適々斎塾・適塾)に入門。
半年後に福澤諭吉が入門するや順益と福澤は息が合い、生涯の友となった。
 二人が学んだ師の緒方洪庵は、坪井信道や宇田川玄真、長崎でオランダ人医師に学び、1838天保9年、大阪で蘭学塾を開いた。
以後、緒方は25年にわたり青年を教育、福澤諭吉、大村益次郎、橋本左内、佐野常民ら人材を輩出した。
 適塾での勉強振りや暮らしぶりは『福翁自伝』に描かれ知る人も多いだろう。「新版 福翁自伝」から高橋順益を抜き出してみると、
学問のかたわら遊女の偽手紙を書いて塾生に渡すなど悪戯好きやんちゃな若者像が浮かぶ。ほかにも次のような話がある。
―――(芝居見物の失策) 道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が大いばりで芝居をただ見する。緒方の書生が、気味の悪い話さ、
大小をさして宗十郎頭巾をかぶって役人の真似をしてたびたび首尾よく芝居見物をした・・・・・・ある日ほんものが来た。詐欺だからこっちは何とも言われない。
進退きわまり大騒ぎになって・・・・・・この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益という男が頭取であったが、わたしは元来芝居を見ない上に、
このことを不安に思うて(順益に)「・・・・・・マサカのときはたいへんだから」といったがきかない・・・・・・とうとうつかまったのが、おかしいどころか一時大心配をした。
―――(禁酒からたばこ) 緒方の塾に学問修業しながら、とかく酒を飲んでよいことは少しもない。これは済まぬことだとことだと思い、あたかも一念ここに発起したように、
断然、酒をやめた。スルト塾中の大評判ではない大笑いで・・・・・・ひやかす者ばかりであるが、親友の高橋順益が「君のしんぼうはエライ。よくも続く見上げてやるそ。
ところがおよそ人間の習慣は、たとい悪いことでも頓に禁ずることはよろしくない、とうていできないことだから、君がいよいよ禁酒と決心したならば、酒の代わりにたばこをはじめろ
。なにか一方に楽しみがなくてはかなわぬ」と親切らしくいう。

84 :
禁酒して順益に勧められ煙草をはじめた福澤諭吉は、酒とたばこの両刀使いになり、ほんとうの喫煙家になってしまったという。
慶應義塾で教壇に立ったこともある幸田成友によれば、
―――順益はよほどの徒者(いたずらもの)であったらしいが、福澤先生が順益を指して「親友」と言はれて居る所を見ると、
単なる徒者では無く、学問においても人物においても、余程確乎した所があった男に違ひない。
 福澤諭吉伝「高橋順益との交情」という一節があって、先生が土岐家から夫人を迎えられるにつき、順益が周旋した・・・・・・順益が結婚する時、今度は福澤先生が順益の「親戚」として列席せられている。
先生と順益の関係は親友から親戚に進んだ(『東と西−史話』1940中央公論)。
 順益は結婚後2年足らずで病死する。順益の藩侯が将軍の御進発(おそらく第二次長州征伐)に扈従することになったので、
順益は先発して京都に赴き、任に充たり・・・・・・早く戻ったが、感冒に罹り、全癒しないのに無理して、発熱下痢、うわごとをいうようになった。

 坪井信良・渡辺春汀(ともにお玉ヶ池発起人)らが治療にあたったが、治療の甲斐もなく33歳で没した。
道半ばで斃れた高橋順益の葬儀と後の処分を、福澤は親身になって世話をした。
 江戸の昔といえども、33歳の生涯は短すぎる。しかも妻は身重だったという。何とも惜しくいたましい。

85 :
徳富蘇峰の福澤諭吉のけなしかたは凄いよな。
蘇峰はなんであんなにも諭吉を嫌ったんだろうなあ。
いや面白い。

86 :
>>85
「蘇峰は明治一五年(一八八二)の夏に、慶應義塾生で従兄弟の江口高邦の紹介により、
諭吉と面会している。『時事新報』創刊半年後、壬午軍乱が起こった時期のことで、『蘇峰
自伝』には、「予は平生福澤翁の立言に余り多く感心せず、特に当時翁が官民調和論を
唱へ、姑息の妥協論を主張するかの如くに考へられて、頗る不満であつた」(一八八頁)
とある。そして実際にもその三年後、蘇峰は思想上の父・天保の老人福澤諭吉を、倒す
べき最大の敵とすることで論壇へのデビューを果たしたのだった。」(平山洋著『福澤諭吉』
363頁)

蘇峰の親父である徳富一敬が属していた肥後実学党と諭吉は維新前から協働していたらしい。
肥後藩と中津藩は日田を介して隣り合っているからね。

87 :
>>86
それは知らなかったな。
会ってたのか。

>予は平生福澤翁の立言に余り多く感心せず、特に当時翁が官民調和論を
唱へ、姑息の妥協論を主張するかの如くに考へられて、頗る不満であつた

言論人としては蘇峰は第二世代なのになんで官民調和が気に入らなかったんだろうな。
まあそういう風潮だったのかね。

88 :
明治維新以降

89 :
1万円札は欲しいが、福沢さんはどうも・・・

 この師走、12月8日(火曜日)の夜、名古屋市公会堂の4階ホールで
学者先生たちからこんな話を聞く集会が開かれる。なんとこれが豪華灯
おすすめの集会の一つなのだ。
さて皆さま、世に「ドルは欲しいがジョージ・ワシントンはどうも・・・」とか
「人民元は欲しいが、毛沢東はどうも・・・」という方がいるだろうか。
そんなにはいないと思うよ。ところが日本には「1万円札は欲しいが
福沢さんはどうも」という学者先生が何人かいるのだ。そしてその話は
傾聴に値し、広がりつつある。豪華灯もついこの間まで「福沢さんは
どうも・・・」などという発想はなかったが、去年とある会場で安川先生の話を
聞いてから1万円札の見方が変わって来た。そこでまず、なぜ12月8日に
集会があるのか、入手したチラシを紹介しよう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
アジア太平洋戦争開始74年 12・8不戦の集い
  福沢諭吉の正体 侵略戦争で果たした役割 一万円札から追放を
◆日時 12月8日(火) 18:00〜 ◆場所 名古屋市公会堂 4階ホール
◆講演 安川寿之助さん 名古屋大名誉教授 「福沢の戦争論と天皇制論」
     雁屋 哲 さん  「美味しんぼ」「2年C組特別勉強会 福沢諭吉」
     杉田 聡さん   帯広畜産大教授、「福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集」
                 (いずれも「  」内は著書のタイトル)
◆資料代 500円
★主催 2015・12・8不戦のつどい実行委員会
       愛知県平和員会、日本ジャーナリスト会議・東海、日中友好協会(愛知)
       愛知憲法会議、 名古屋三菱・勤労挺身隊訴訟を支援する会、
       新日本婦人の会愛知県本部、不戦兵士・市民の会東海支部
       日朝協会愛知県連合会
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
8・15(敗戦)と12・8(アジア太平洋戦争開戦)

 以上がチラシの骨格、チラシには万札の肖像よりチョッと若い感じの
福沢像や3人の講師のプロフィールが載っている。

 豪華灯たちのJCJ東海(ジャーナリスト会議)はほかの団体と共同して
毎年敗戦の日8月15日に平和を語る8月名古屋市集会を開いているが、
数年前から「敗戦の日だけでなく日本がアメリカなどに戦争を仕掛けた日、
12月8日も重視しょう」ということを申し合わせ、
「12・8不戦のつどい」実行委員会に参加するようになった。

 1万円札から福沢諭吉を追放して、代わりにだれを招くのか、
そこまで話が進むかどうかはわからないが、ジングルベルを聞く時間を
ちょっと割いて名古屋市公会堂を覗いてみてはどうだろう。
望年会の話題が一つ増えるかも・・・     20150930

「福沢諭吉」追放運動・・・? (完)
http://blogs.yahoo.co.jp/rkrk597tzw/36139538.html

90 :
>>89
> 雁屋 哲 さん (「美味しんぼ」「2年C組特別勉強会 福沢諭吉」)

雁屋 哲 さんの『2年C組特別勉強会 福沢諭吉』って何だろう?
と思ってググってみると、こんな情報が見つかりました。

雁屋哲『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(遊幻舎)を読む
2015/04/29 by 安川寿之輔
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/1925
----
1.待望の反論書の刊行―健忘症日本社会に向けて

 本書は、2014年4月末以来の全マスコミを巻き込んだ『美味しんぼ』
「鼻血出血描写」騒動、とりわけ安倍晋三内閣を先頭とする「風評被害」
云々の誹謗的コメントにたいする、原作者・雁屋哲の
(近刊『2年C組特別勉強会 福沢諭吉』[遊幻舎]の執筆を中断・先延ばし
しての)反論の書である。
----

雁屋哲の近刊『2年C組特別勉強会 福沢諭吉』[遊幻舎]は執筆中のようです。

----
備考:本稿は、安川寿之輔さんが発行しているミニコミ誌『さようなら!福沢諭吉』
創刊準備2号に掲載された論考を安川さんの了解を得て転載したものである。
なお、安川さんが発行する無償提供のミニコミ誌を希望される方は、
「公共空間X」の「窓口」によりお問い合わせください。

(やすかわじゅのすけ 近代日本思想史研究家)
(pubspace-x1925,2015.04.29)
----

ふうん、安川さんが発行しているミニコミ誌『さようなら!福沢諭吉』
(創刊準備2号)なんてあったんですね。

91 :
>>89
アンチの面子ももう説得力無くなってきたな。

92 :
「20世紀のアヘン戦争」シリーズを下記にup中。歴史を考える一助になれば。
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/13-25
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/29-31
途中、イイネくださった方、サンスクです。<(_ _)>
この場を借りましてお礼を。明日もup予定です。

93 :
ここにも告知。
「20世紀のアヘン戦争」シリーズは1937年の通州事件までup中。
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/13-25
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/29-42

1908年の芳賀矢一『国民性十論』の翌年……、
1910年の朝鮮併合の前年にあたる……、
1909年以来、日本は大陸においてアヘン戦争の20世紀バージョンを
展開していた歴史を辿ってます。ご笑覧いただければ幸い。

94 :
こんな本が出ているようです。

『名著全一冊シリーズ 福澤諭吉』呉PASS出版、\1,800
http://store.shopping.yahoo.co.jp/kure-pass/nrtidzifrx.html
----
福沢諭吉の主著を一冊にまとめました。
収録内容:
@「文明論之概略」
A「学問のすすめ」
B「家庭習慣の教えを論ず」
C「教育の事」
D「文明教育論」
E「教育の目的」
F「痩せ我慢の説」
G「養生の心得」
H「尊王論」
I「帝室論」
J「脱亜論」
全11作品。B5、二段組、読みやすい活字の大きさ。グラスレスです
----

底本の情報は無いようですが、どうやら青空文庫のコンテンツを底本にしたようです。
収録作品のABCDEFGが青空文庫で公開されています。

作家別作品リスト:福沢 諭吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html#sakuhin_list_1

95 :
交詢社オープンフォーラム第七回「日本の進むべき道〜戦後70年を振り返って〜」
動画を再生する
基調講演
講演者
麻生 太郎 氏(副総理、財務大臣、金融担当大臣)
パネルディスカッション
パネリスト
伊藤 憲一 氏(公益財団法人日本国際フォーラム 理事長)

コーディネーター
稲田 朋美 氏(衆議院議員、自由民主党政務調査会長)
岡本 行夫 氏(外交評論家、MIT国際研究センターシニアフェロー)
古森 重 氏(富士フイルムホールディングス株式会社 代表取締役会長・CEO)

96 :
ヤフオクで富田さんの『考証 福澤諭吉』が出品されています。
100円はかなりお買い得だと思われます。

考証 福澤諭吉 上下巻 2冊一括 富田正文 岩波書店
http://page21.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j371321225

入札件数:1
開始日時:2015.11.15(日)23:32
終了日時:2015.11.22(日)21:32
現在価格:100円(税 0 円)

オンデマンド出版だと2冊で22,000円です。

考証 福澤諭吉【オンデマンド出版】
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/73/8/730065+.html
考証 福澤諭吉 (上) (富田 正文)
定価(本体 11,000円 + 税)【オンデマンド出版】
考証 福澤諭吉 (下) (富田 正文)
定価(本体 11,000円 + 税)【オンデマンド出版】

97 :
こちらのスレは先行スレが埋まってから実質part13として使うのでしょうが、
それまで少し告知させてください。<(_ _)>
脱亜論をふくめ、アジアとの歴史的関係を捉える意味でご参考にしていただきたく
ご紹介しときます。

      「20世紀のアヘン戦争」 【概要】
戦前日本は、
1908年に『国民性十論』 が中国人は食人すると偏見を煽った翌年、
1910年の日韓併合により半島を植民地化する前の年の……、
1909年来、日本は大陸で20世紀版アヘン戦争を開始していた。

★19世紀の「英清戦争」を【アヘン戦争】と呼ぶしかないように、
★20世紀の「満州事変や日中戦争」も【20世紀のアヘン戦争】であり、
【侵略】と呼ぶしかないとする視点を、以下の歴史をとおして紹介中です。
                 ↓
(前スレ)70年談話狂詩曲【安倍氏は修正主義者の代理人?】
               【目次】
■20cアヘン戦争概要1/東京裁判★        アンカー (14
■20cアヘン戦争概要2/南京虐殺とアヘン★         (15
■20cアヘン戦争概要3/歴史認識の常識★          (16
■1909年のアヘン戦争/密輸のはじまり★          (17
■1918年のアヘン戦争1/一次大戦★            (18
■1918年のアヘン戦争2/英国報道★            (19
■1918年のアヘン戦争3/政治資金★            (20
■1919年のアヘン戦争/日本の報道★            (21
■1923年のアヘン戦争/関東大震災★            (22
■1923-24年のアヘン戦争/孫文★              (23
■1926年のアヘン戦争/中村屋のボーズ★          (24
■1928年のアヘン戦争/済南事件★             (25
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/13-25(※含イントロ)

98 :
■1928年のアヘン戦争/済南事件余話★    アンカー (29
■1931年のアヘン戦争1/末端のひとびと★       (31
■1931年のアヘン戦争2/特殊権益を守れ★     (32
■1931年のアヘン戦争3/満州事変へ★       (33
■1933年のアヘン戦争1/国連脱退★         (34
■1933年のアヘン戦争2/アヘン専売★         (35
■1933年のアヘン戦争3/報道管制★ (36
■1934年のアヘン戦争/民衆の嫌悪★ (37
■1935年のアヘン戦争1/周作人★            (38
■1935年のアヘン戦争2/排日・侮日★          (39
■1935-1937年のアヘン戦争/言い換えれば★       (40
■1937年のアヘン戦争1/阿片の商標日の丸★ (41
■1937年のアヘン戦争2/通州事件★ (42
■1937年のアヘン戦争3/通州・冀東地区と麻薬★ (43
■1937年のアヘン戦争4/麻薬のカネで戦闘機★ (44
■1937年のアヘン戦争5/青島の神社と忠魂碑★ (45
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1439524235/29-45 (※含レス)

99 :
70年談話狂詩曲(part2)【20世紀のアヘン戦争】
                 【目次】
■1937年のアヘン戦争6/青島の神社と忠魂碑2★       (4
■1937年のアヘン戦争7/ふたたび通州保安隊★       (5
■1937年のアヘン戦争8/一旗組と神社と思霊塔★      (6
■1937年のアヘン戦争9/日本国内のケシ栽培★       (8
■1937年のアヘン戦争10/密輸・密売人の愛国心★     (9
■1937年のアヘン戦争11/漸禁から10年断禁へ★      (11
■1938年のアヘン戦争1/里見甫と宏済善堂★        (12
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1446629229/4-12(※含む罵声)

■1938年のアヘン戦争2/カイライ政権の財源★      (37
■1938年のアヘン戦争3/優越感★             (38
■1938年のアヘン戦争4/優越感2★            (39
■1938年のアヘン戦争5/満洲国のその後★         (40
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1446629229/37-40
          (続編は後日)

100 :
■1938年のアヘン戦争6/世界の反響★ >54
■1938年のアヘン戦争7/剣と阿片と興亜院★ >55
■1938年のアヘン戦争8/特務機関★ >56
■1938年のアヘン戦争9/中島成子1★ >57
■1938年のアヘン戦争10/中島成子2★ >58
■1939年のアヘン戦争1/テロ合戦と謀略★ >59
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1446629229/54-59


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