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なぜ慰安婦問題は極東軍事裁判から除外された
西郷隆盛 【天を貫く至誠の人】
- 1 :2014/10/27 〜 最終レス :2015/01/24
- 前スレ
西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/history2/1410529239/
■注意■
前スレ、前々スレとも1スレッドに割り当てられた512kバイトの容量制限を
超えてしまったことにより途中で書き込みが出来なくなったようです(2ちゃんの仕様)
容量を超えた原因は、ガラケーIDの荒らしによる常軌を逸した書き込みです
(毎回毎回の無意味なレス、同じ荒らし文を毎回コピペ、卑劣な自演など)
該当者はこのスレ以降、書き込みは最小限にとどめることを強く願います。
もしくは出て行ってください。
以上、厳守をよろしくお願いします。
- 2 :
- ■ 西郷隆盛 伝説一覧 ■
伝説 : 比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ敬愛した
現実 : 実際に会った人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算高い」
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
現実 : 玉砕の数日前に自分だけ政府軍に助命嘆願 → 断られる
伝説 : 「晋ドン、もうここらでよか」と潔く自決
現実 : 玉砕当日城山から逃走 → 桐野利秋に見つかり射殺された
伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
現実 : 東北庄内人による創作
伝説 : 清貧、高潔、質素な食事
現実 : 政府からの月給が現在価値で2千万円 年俸2億4千万円
豚の霜降り肉の食べ過ぎで超肥満に
伝説 : 自宅は雨漏りするボロ屋
現実 : 千百坪の超大豪邸に暮らす。使用人20人、飼い犬20匹
伝説 : 「子孫の為に美田を買わず」西郷家家訓
現実 : 西郷一族で東京ドーム117個分の土地を買い漁った
伝説 : 「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」坂本龍馬による西郷評
現実 : 勝海舟の創作
伝説 : 江戸総攻撃を中止させ江戸百万人を救う
現実 : そもそも総攻撃を主張していたのが西郷本人だった
英国大使パークスに脅され断念
伝説 : 敬天愛人思想で道義を貫きとおした巨星
現実 : 浪士を雇い、江戸で放火、強姦、強盗、卑劣の限りを尽くし幕府を挑発した巨魁
伝説 : 征韓論「この西郷が一人朝鮮に渡り、殺されれば出兵の大義がたちもうそう」
現実 : 勝手に行けばいいのに、口だけで終わる
伝説 : 大久保利通の西郷暗殺指令
現実 : 政府の密偵を凄惨な拷問にかけ自白強要させており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
現実 : 子供を二人産ませた奄美の妻を捨て、
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡
伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
現実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」
伝説 : 鹿児島の民百姓にも慕われた西郷どん
現実 : 西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る
- 3 :
- テンプレ
Q : 西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。)
- 4 :
- もう一人、西郷をよく知る人物の西郷評を紹介します。
市来四郎。西郷とともに島津斉彬の片腕として働き、集成館事業を遂行した人です。
「 西郷は掛け軸などの書をよく描くだけで、学識は無く、文章をつくる能力も無かった。
性質は粗暴で理財にうとく、実務も執れなかった。
いつも少年とばかり付き合い、同年代の人との付き合いは二、三人しかいなかった。
西郷に異論を言う者とは付き合わず、可愛がっていた少年でも、
ひとたび西郷に敵視されると、憎悪を剥き出しに悪口を言われ、捨てられる者も多かった。
器量の大きい人とは言えず、相手が他県人か同県人かで、態度や言動が変わった。
議論をすることはなく、物事を進めるに腕力に頼る癖があり、
そういう意味で豪傑と言えなくもないが、君主の風采はまるで無かった。」
- 5 :
- ≪ 西郷が死ぬまで続いた奄美の砂糖地獄 大島商社と西郷隆盛 ≫
http://www.synapse.ne.jp/~amamian/tubuyaki/minaminihon-h11106.html
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑である
かもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であったにすぎ
ないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の大親分としか
映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では道之島
の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、奄美出身者
ということを他言するなと厳しく禁じた。島に残された母アイカナは非業の死をとげ
る。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる彼の政策論とも
表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、禄支給廃止
にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて不法な独占
「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び収奪をほしい
ままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する五十五人の嘆願団が上鹿したが、
いきなり全員投獄。老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の西郷軍に強制出陣
させられた。うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。許されて島へ帰還する途中、
二人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに二十四人であった。(前田長英著
『黒糖騒動記』参照)
西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、
その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)
からいかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。彼の諸政策に
うかがわれる基本的な理念は、「征韓論」や後の「大東亜共栄圏」などにも通じて
おり、弱者を無視し切り捨てる右翼国家主義そのものである。
- 6 :
- ≪ 西南戦争の真実 ≫
http://www.eurexcert.com/story-hangyakunoasa.pdf
薩摩の残虐行為は、田原坂の戦いで知られる西南戦争でも頻発し、人吉で赤ん坊を
含む家族全員の首を、わずかの食料が欲しいために切ったなどのエピソードがある。
http://sabasaba13.exblog.jp/i19/3/
この人吉根拠地の期間中、薩摩軍はこの地域に苛烈な軍政を布き、政府軍と
内通した容疑をかけられた住民が捕縛され、証拠も詮議も不十分なまま私刑同然に
処刑する残虐が加えられているそうです
http://lagattina.exblog.jp/pg/blog.asp?dif=m&acv=2013-05-01&nid=lagattina&p=2
・薩摩軍が人吉に後退すると、人吉隊は新たに兵を募り、二番隊を編成しますが、人吉
にはすでに薩軍劣勢が伝わっていたことから、募兵に応じる者が少なかったそうです。
このため薩摩軍は、募兵に応じない者は首を刎ねると脅し、半ば強制的に徴兵。人吉の
攻防では、多くの犠牲を出しました。
・継承殿は、人吉隊の宿舎となりました。門前には断首台を設けられ、募兵に応じ
ない者を処刑し、その首を晒したと伝えられています。
・薩摩軍の砲弾は、政府軍の本営まで届かず、琢磨川を挟んでの攻防は官軍の圧勝
で終わり、薩摩軍は、町に火を放って人吉から退却。町は、戦闘と放火により、
灰燼に帰しました。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_2_hanran.htm
明治10年の西南の役当時、軍費に窮した西郷軍は佐土原の通称ひょうたん島にて
「西郷札」を印刷して難局を乗り切ろうとした。日本最初の軍票である。だが実際に
使えたのは薩摩軍の影響力のある地域だけで、しかも薩摩軍の敗北とともに布切れと
化した。政府の補償はなく大量の西郷札を抱えて没落する商家が多かった。
http://blog.goo.ne.jp/uemura1048/m/201001
「西南戦争外史」 飯干憶著 みやざき文庫
西南戦争といえば、田原坂の激戦や熊本攻城戦が想起されるが、西郷軍が人吉に後退
して以降、あまり知られていないが宮崎県各地が戦場となった。「この戦いの全期間を
通じ、直接戦場となった場所と期間は、熊本よりも鹿児島よりも、宮崎(日向)が一番
長く、戦いの熾烈さも熊本、鹿児島の比ではなかった」という指摘は極めて正確である。
このため日向の人々は、多数の戦死者を出し、家を焼かれ、さらには西郷札の発行に
より終戦後まで経済は混乱を来たした。著者によれば、宮崎県の悲劇は、遡れば西南戦争
の前年に鹿児島県に併合されていたことが大きかった。このため宮崎各地で若者が西郷軍
に徴発され、反対派は捕えられて処刑・投獄されることになったというのである。
- 7 :
- 性懲りもなくまた西郷アンチメンヘラストーカーは、ウソ捏造で薩摩鹿児島県人を名誉毀損誹謗中傷か、バーカ
西郷隆盛が桐野利秋に銃殺されたなどという、トンデモ説を証明する証拠は何も無いわ、バーカバーカ
[転載禁止]の消し方も知らない情弱が、赤っ恥のスレ立てしてんじゃねえよ、バーカバーカバーカ
- 8 :
- >>7
いい加減事実を受け止めて、仕事探せw
ガラケーID(鹿児島県在住リアル無職、精神病院からガラケーで書き込み説あり)
一日の書込み回数(自演は別)
9月19日 24回 ID:romW9vIrO
9月20日 44回 ID:S/9ITJVlO
9月22日 23回 ID:IUuNPfC8O
- 9 :
- >>8
いい加減お前が西郷はじめ薩摩鹿児島県人の冤罪を捏造して名誉毀損しても、誰も信じない事実を受け入れて日本から出て行け、バーカ
ガラケーiPhonePC(宮崎産熊本在住リアル無職ナマポ、精神病院からガラケーiPhonePCで書き込み)自演常習犯、西郷アンチメンヘラストーカーが、バーカバーカ
西郷隆盛の血痕付きの桐野利秋の銃の弾でも出してからこいやウソツキが、バーカバーカバーカ!
- 10 :
- 西郷さんの最期
エピソード1《 まさかの命乞い 》
明治10年9月24日、鹿児島市城山。7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く切腹した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた、
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・なんとこの人、助命嘆願してたんです。
19日、政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
西郷軍への従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が助命嘆願、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍に助命を拒否され、山県有朋に、武士であるなら潔く自決するよう諭されるという始末でした。
- 11 :
- 西郷さんの最期
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に処刑されていた 》
西南の役の最後の日、城山で西郷は足を撃たれたあと自決したとされていますが、
その西郷の足を撃ったのは、じつは西郷の部下である桐野利秋であったという説をご存知ですか?
政府軍に助命を拒否された西郷さんですが、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、洞窟を出て投降しようとした。
しかし玉砕を主張する桐野がこれを発見、激怒して西郷を追いかけ銃撃したというんです。
思わず「ホントかよ?」となりますが、しかしこの、桐野による西郷銃撃は、
目撃者の証言があるのです。
- 12 :
- 西郷さんの最期
エピソード3≪ 創られた西郷自決 ≫
ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、
別府晋介に首を刎ねさせたいう逸話、出典はご存知ですか?
西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、
西南の生き残りが書いたわけではないし、誰それの証言であるなどのソースの提示も無し。
貴重な資料ではあるが、細心の留意が必要な代物なんです。
基本的に、右翼主義者による西郷礼賛ありきのプロパガンダ本であり、
西郷や、西郷軍のイメージに傷が付きそうな史実がばっさり省略されていたりするのも特徴です。
かねてから、銃弾飛び交う切迫した戦場で、前述のような芝居がかった自決が可能なのか
という見方はありました。また、重傷を負い駕籠で運ばれていた別府晋介がこのときばかり
駕籠を降り起ち上がり、肥満した西郷の首を一刀両断できるは不自然ではないかという見方も。
じつは東大図書館に西郷遺体の検死報告書が保存されているのですがそこにはこう記録されています。
「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
腹部に刀創はありませんので、切腹はしていない。
また、銃弾が骨を貫通していることから(当時の銃の性能を考慮すると)至近距離から被弾した可能性が高い。
「頭(頸)体離断」は首が無かったということです。
つまり、大腿を至近距離から銃撃されたあと、
首を切断されたということです。
- 13 :
- 西郷さんの最期
エピソード4≪目撃者≫
桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。
城川の証言によると、「 西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った 」というものです(出典「肚乃西郷」)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体のプロパガンダ本よりよほど信憑性があります。
ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は、”城川”なる人物の実在が証明されていないとし、
この説を奇説として退けた。
架空の人物による、架空の目撃証言だと言うのです。
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。
- 14 :
- 西郷さんの最期
エピソード5≪わが眼で見た話し≫
しかし、その数日後に同じ南日本新聞で入佐俊興氏が、昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として「別府晋介附従卒城川市二」との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのです。
さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
何事か話しをしていた。
城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
”今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
”わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐しています。
参考文献
「肚乃西郷」竹崎武秦
「横目で見た郷土史」片岡吾庵堂
- 15 :
- 西南戦争の最後の日、桐野が、官軍に降ろうとして
城山を下る西郷を撃ったという話があります。
「久留米藩難事件から新撰組まで」という松本茂(海鳥社刊・福岡)さんが
書いた本に在ったんですが、これは司馬さんは「翔ぶが如く」で否定しています。
この話を残した城川という郷士は、城川という姓が
鹿児島に無いという事で否定したようです。
へーとおもって、鹿児島の電話帳を繰ると城川姓はあるじゃありませんか。
司馬さんは何故単純な調査ミスをしたのでしょうか。
- 16 :
- 松本さんは史家で、奥さんが鹿児島の人で、その実家に行った際、
古い手紙の中に城川さんからの手紙を見つけ、
桐野の西郷射殺説を信じたようです。
城川さんと一緒に輿を担いでいた相棒(小杉恒吉衛門氏のことか)も同じ事を残しています。
西南戦争の後、鹿児島では神と崇められ、批判が許されなかった時代に
二人はこの話を生涯語ったといいますから、これは真相だと思いますね。
私も桐野を始め40人も居たという諸兵が、西郷自刃を見取らず、
別府晋介一人が残って介錯したなどおかしいと思います。
- 17 :
- 一説に拠ると、西郷自刃を円座を組んで見取ったという話もありますが、
このとき、別府晋介は負傷していて歩けず、輿に担がれていた身で、
介錯できたのか、元気な桐野や村田が何故、代わって介錯しなかったのか。
40人もいて、何故、西郷の遺体を捨て置いたのか、おかしい事だらけです。
桐野や別府など幹部の西郷に対する不信は以前からあって、
最後に爆発したというのが真相ではないでしょうか。
- 18 :
- 毎日新聞連載中の「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は当時わざわざ一日分を費やして
「別府晋介の従僕に城川なる者はいなかった」として桐野射殺説を否定されたが、
「葛城彦一伝」に”別府晋介附従卒城川市二、同小杉恒右衛門”と明記され、
墓碑まであるのだからこれは当然司馬氏の勇み足だろう。
「跳ぶが如く」の連載が終わって、歴史家萩原延寿氏との対談(朝日紙)の中で、
「当時の桐野の心境を考えると西郷を撃つという事も状況としてあり得る。」
と述べて、司馬さんもその後の考えを変えておられるようである。
- 19 :
- 西南戦争で薩摩軍の敗色が決定的になると西郷は、この反乱を主導した桐野利秋と口をきかなくなり、
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。
「征西従軍日誌」の捕虜の証言に重要なものがある。
「 9月20日、城山の洞窟で桐野が「もはや再興の機を失せり」と嘆いた。
洞窟に潜んでいるあいだ、将校みな激沸喧騒、議論していた。
(玉砕するか降伏するか西郷助命嘆願の返事を待つか、などの議論であろう)
西郷は席に肘を付いて、もたれたまま何も言わなかった。
突然大笑を発したかと思えば、うつろに天井を見上げるのみ。
(心神喪失状態の西郷さんの姿が窺えます)
そのような西郷のあり様を見て、辺見十郎太などはキレそうになり、西郷を睨みつけていた。」
- 20 :
- 西郷助命嘆願の使者を政府軍に送った時点で、
薩軍内では投降論が多数派になっていた。
いや薩軍諸将は自分が投降したいとは言わないが、
西郷の助命は戦争の終結を意味し、
なしくずしに全軍降伏となるであろう。
直情型の辺見十郎太でさえ敵の砲丸落下が激しくなるのを
見て、西郷助命嘆願に同意している。
- 21 :
- 城山籠城時の薩軍諸将とその存意は以下の通りである
○・・投降論を主張または同意
×・・玉砕論を主張または同意
?・・記録が無く不明または存意を語らず
本営幹部
?西郷隆盛
×桐野利秋
?桂久武
○村田新八
○池上四郎
?別府晋介
○辺見十郎太
○坂田諸潔
○野村忍介
前線隊長クラス
○讃良清蔵(砲隊)
?蒲生彦四郎 (狙撃隊)
?藤井直次郎(城山方面)
○河野主一郎(岩崎本道方面)
○佐藤三二(私学校・角矢倉方面)
○山野田一輔(県庁・二ノ丸・照国神社方面)
?高城七之丞(大手・本田屋敷方面)
?堀新次郎(大手・本田屋敷方面)
○河野四郎左衛門(上の平・広谷・三間松方面)
○別府九郎(夏蔭方面 別府晋介の兄)
○中島健彦(新照院・夏陰下方面)
?岩切喜次郎(夏陰)
?園田武一(後廻)
?市来矢之助(後廻・城山間 )
- 22 :
- ↑
投降論に反発した記録が残るのは桐野利秋だけであり、
桐野の同意あらば無条件降伏もあった体である。
西郷が土壇場で投降を試みたとしても、薩軍の空気としては
唐突なことではなかったと分かる。
- 23 :
- アンチがこの調子だから512kすぐに越えるんだろ。w
- 24 :
- パクリと捏造ウソだらけのコピペばかりの西郷アンチメンヘラストーカーテンプレ厨のせいだろ、バーカ!
- 25 :
- 鹿児島にこないだいったけど、やっぱり鹿児島のシンボルはいまだに西郷だね。
土産物も西郷の土産だし。 市役所のすぐそばにでかい西郷像がたってるし。
城山の洞窟もみたけど、ほんとに狭かったね。あんな洞窟に三百人も
はいれないだろうって、洞窟の数は十くらいあったそうな。 洞窟の中には
掲示があって、西郷は最期、切腹せずに介錯されたって書いてあったね。
桜島に観光にいったら、西郷岩ってのを見せてもらったw ある角度から
三つの岩をみるとなんとなく西郷に見えるって、それだけの話なんだが。
となりの熊本だと西郷はやはり賊軍の首魁で、政府軍を顕彰することに
もっぱら力をいれてたねw かといって西郷を完全に無視、黙殺してた
わけでもなかったが。熊本城で西南戦争の展示をやってたわ。
- 26 :
- 宮崎の婆を持ち、チッソだ水俣病だ謝罪と賠償が口癖の熊本県人の、西郷アンチメンヘラストーカー
西郷が気になって気になって鹿児島に行かずにはいられない上にどこへ行っても西郷のことばかり考えてる、正真正銘メンヘラストーカーだ、バーカ!
- 27 :
- 【私はこうして西郷信者を辞めました】
原口虎雄さんの場合 前篇
これまで鹿児島に赴任する人々の間では、「南洲と斉彬の悪口は言うな」という、鹿児島社
会の風潮を恐れるタブーがあったそうであるが、顧みるにこの私も尖鋭な西郷絶対論者の一人
であったから、恥ずかしい。
庄内藩士書き留むるところの「南洲先生遺訓」や西郷の詩文、親しみ深い「上野の西郷さん銅像」
や「キヨソネの西郷肖像」などが、わたしと西郷を結びつけてくれた。
私の母校の田上小学校の門標は西郷の直筆で、この学校を出、県立一中や第七高等学校への
通行の途には武の西郷屋敷があった。
七高では敬天会に入り南洲寺にもよく参禅したが、なかんずく西郷糸子夫人の生家、岩山先生
の御宅には朝夕にお世話になり、立派な温かい家風を慕った。
幼時から青年期まで武の西郷屋敷附近で育った私にとっては、西郷は神様であった。
西郷の一言一動が価値の尺度であった。
少しでも西郷を批判する者がいたら、すなわち私の敵であり、「打ち殺せ」という気分にかられた。
しかしのち東大法学部に法制史を学び、さらに薩摩史を専攻するようになってからは、私の思考
の軌跡に変化が生じた。
−中略−
- 28 :
- 私はこうして西郷信者を辞めました】
原口虎雄さんの場合 後篇
西郷は道義国家の建設を目標としていた理想家だから維新革命に身命を賭したが、それ故に
第二、第三の維新を夢見た永遠の不平家である。
彼と同輩、または年長の人で尊敬したのは島津斉彬ぐらいで、他はおおかた彼の酷評の的に
なっている。
『西郷先生遺訓』は彼の理想であるが、現実の姿ではない。
維新草創の際、政府収入源は農村に求めざるを得ず、仮借なく封建貢租を取り立てたから、
明治元年から10年までの百姓一揆は維新前より頻発した。
少ない財源のうち4割を旧士族に与えねばならぬ当局の苦しみを西郷は知らなかったのだろうか。
米が1石、5、6円のころに1500円の巨大な年俸を受け、対外膨張論を唱えている。
西郷を取り巻く、財政も経済も世界情勢も知らない粗暴な私学校と袂をわかって、
多くの良識派の薩人が政府に残って近代国家建設の苦難に耐えたことを忘れてはならない。
弟の従道や従弟の大山巌、そのほか多年の朋友の心底は悲壮である。
もともと薩摩は日本南端の門戸で、黒潮岸辺を洗い、季節風が中国や異国の船を運んできた
外国と日本との接点である。
だから真っ先に外国文化の洗礼を受け、ハイカラ性が薩摩を支えてきた。
薩英戦争の結果、こだわりもなく英国文明の偉大さを学ぼうとして欧米に留学生を派遣した
聡明さや、敵味方を一様に供養する博愛の精神は、島津日新以来の薩摩の伝統である。
私学校の猛者たちの剛勇は、「薩摩的美学」の両面性の一つ、隼人以来の「バンカラ性」の
伝統であって、もう一つの美学「ハイカラ性」の欠落である。
太平洋戦争の誤りを二度と犯さぬためにも、
「西郷神格論」からの脱却は今日的課題である。
- 29 :
- 朝から晩まで一日中西郷のことを考え、西郷のことをスレに書いてからでないと、夜も眠れない西郷アンチメンヘラストーカー、バーカ
- 30 :
- ↑
ガラケーID
鹿児島県在住リアル無職
歪んだ郷土愛で24時間365日鹿児島関連のスレッドを監視
宮崎、熊本、東京を激しく憎悪
一日の書込み回数の例(自演は別)
9月19日 24回 ID:romW9vIrO
9月20日 44回 ID:S/9ITJVlO
9月22日 23回 ID:IUuNPfC8O
- 31 :
- チッソ水俣連呼熊本県在住リアル無職、歪んだ西郷愛で24時間365日西郷薩摩鹿児島関連のスレッドを監視
宮崎婆ルーツ、熊本在住、東京在住のフリをしたが数々の画像を残し自演用iPhoneバレしただけのバカ
西郷アンチメンヘラストーカーヒキニートバレバレの一日の書込み回数の例(自演は別)
ID:+6nvsf6W0
合計レス数:37
スレッド
1:西郷隆盛 【正論では革命をおこせない。】 (656)
2:空襲に遭わなかった都市について (34)
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- 32 :
- またアンチ西郷はブーメランを受けてるね。w
- 33 :
- ■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■
バカ 「西南戦争で、西郷隆盛の助命嘆願は部下が勝手にやったことで、西郷本人は知らなかった」 ↓
西南戦争が最終局面に入った明治10年9月19日、西郷軍から政府軍に使者が赴き、
西郷隆盛の助命嘆願をしています。
通説(wikipediaなど)では、助命嘆願について西郷本人は知らなかったとされています。
事実はどうだったのでしょうか?
西郷軍の軍議で最初に西郷助命が議題に上がった際、
西郷は助命について是とも非とも言わず「開戦以来何人が死んだのか」と言ったと伝わる。
桐野利秋は猛然と反対し、助命論はいったん潰れた。
しかし再び、助命論が起こり、9月18日、河野主一郎が村田新八、池上四郎、ほかの諸隊長らの同意を得た。
この時の西郷軍内での様子を記した史料が二つある。
「薩南血涙史」では、このことは桐野には黙っていたとある。
「西南記伝」では、桐野は合議の席上で「投降は後世に対する侮辱だ」とあくまで反対したとある。
西郷本人はただ莞爾(にっこり)して「よしよし」と言っただけだったので、河野らが嘆願に赴いたとある。
つまり、西郷は助命嘆願を知らなかったなどという記録は史料のどこにも無いのです。
史料から分かるのは、西郷は助命嘆願を知っており、これを許可したと
思われる様子さえ記されているということです。
西郷は助命嘆願を知らなかったという説は、
西郷自身は命を惜しんだわけではない、ということにしておきたい人々
(西郷軍の生き残り、反政府主義者、鹿児島県人など)の願望が作りだした俗説です。
それがいつのまにか通説化してしまったものと思われます。
- 34 :
- ■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■その3
バカ 「西郷隆盛は僧月照と心中しようとした」 ↓
通説の美談はこうだ。薩摩藩が西郷に、お尋ね者の月照をRよう命じた。
西郷にとって月照は大切な友人ゆえ裏切ることはできない。
しかし西郷は藩命にそむくこともできず絶望し、月照と相計って心中することにした。
二人で船から海に飛び込んだが西郷のみ助かり、月照は死んだ。
真相はどうだったのでしょうか? じつは西郷自身の証言がある。
昭和12年鹿児島県教育会発行の「南洲翁逸話」の冒頭に、
伊集院の郷士本田元右衛門と西郷の対話として、
「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。
月照が船のトモに出て小便をしている所を後ろから抱きこんで飛び込んだら、
月照のみは死し、自分が生き残ったのは至極遺憾なわけである」との記述がある。
戦前の日置郡伊集院小学校の調査報告による、とあるから信頼性は高い。
ようするに心中ではなく、死ぬ気の無い月照が小便しているところを
背後から西郷が抱きついて海中に引きずり込んだのだ、
と西郷自身がポロっと漏らしているのです。
殺害したとなると世間の聞こえが悪いので、心中であったかのように偽装したのでしょうか?
事件後、月照の辞世の句とされる書き付けが出てきたと言われています。
”月照”と署名が入っていたそうなんですが、月照の生前の署名はほとんど”忍向”という雅号であり、
果たして月照本人が書いたものか非常に怪しい。
しかもこの書き付け、西郷の懐中から出てきたそうです。
自殺に見せかけるために偽の辞世句を計画的に
準備していたとしたら、なんとも後味の悪い話しですが、
この時の西郷は30歳になったばかりの若者。薩摩藩での立場も強いものではなく、
藩命には逆らえなかったのかもしれません。
- 35 :
- ■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■その1
バカ 「西郷隆盛は廃藩置県を行った」 ↓
明治3年、新政府は廃藩置県に先立ち、
鹿児島の西郷隆盛と5千人の薩摩藩士を御親兵として東京に出仕させました。
廃藩置県に反発する武士層の反乱が予想されたため、
これを鎮圧するのに、薩摩兵とこれを束ねる西郷の力が必要であった。
同時に、もっとも反乱を起こしそうなのが鹿児島住みの薩摩藩士と西郷であったために、
これを未然に懐柔しておくためでもあった。
ではなぜ西郷は懐柔されたのか。
西郷にとっての廃藩置県は、藩主に権力を返上させ、士族が実権を持つ
という意味であったからだ。
西郷は、出仕の際に出した意見書(「西郷吉之助意見書」)で、
「新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、
近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようである」と糾弾しており、
廃藩置県には同意しても、士族中心の国体を固守する考えに変わりはなかった。
旧弊にとらわれない中央集権国家を目指す新政府とは同床異夢であったといえる。
新政府からの同様の懐柔措置は長州と土佐に対しても行われており、
いずれも御親兵を東京に出仕させている。
つまり西郷隆盛はあくまで、廃藩置県に協力した一人である、
という話しなのです。
よく言われる、岩倉使節団が洋行しているあいだに、
西郷がその声望と求心力で、廃藩置県を断行した、という類の話しも
まったくのデタラメです。
新政府が廃藩置県を断行した後に、岩倉使節団は出発しています。
- 36 :
- スレ主が認めたように、その多くのネタは「横目で見た郷土史」(片岡吾庵堂・著)に依拠しています。
片岡氏は本名、片岡八郎。大正5年、鹿児島市の商家のお生まれです。
戦時中には二度の応召を受け、戦後は運輸会社に勤めたのち、
自営の傍ら、文筆活動やラジオ、テレビ出演をされていました。
その内容は艶話を交えたような、軽妙なものでした。
鹿児島では地元の文化人として活躍された方です。
さて、片岡氏と「桐野による西郷射殺説」についてです。
これを最初に唱えたのはいつか、ということは実は「横目」には、
明記されていません。「同年八月十八日」といった表記はありますが、
この「同年」が書かれていないのです。ただ、前後の記述から、
どうも「翔ぶが如く」の最終章が毎日新聞に連載されていた、
昭和51年であるようです。
この年、作家・石牟礼道子ら三名が主宰する雑誌「暗河」の西南役特集号に、
「肚乃西郷」の引用記事が載った。
その内容を地元紙南日本新聞の知り合いの記者に語ったところ、同紙をはじめ、
共同通信社を通して全国紙に紹介され、週刊朝日・現代にも掲載された。
これが昭和51年の六月頃のことのようです。
- 37 :
- これに対し、同年8月18日の南日本新聞に、
「西郷研究の第一人者」である地元短大教授・村野守治氏の反論が掲載される。
「自分の手持ち資料の中に城川なる人物はないから実在しない。証言は頼りにならない。」
(小説「翔ぶが如く」の中でも、この村野説に沿って「肚乃西郷」は否定されている)
すると数日後、加治木在住の入佐俊興氏が、昭和10年発行「葛城彦一伝」の中に、
別府晋介従卒として城川市二の名がある、とその実在を証明する旨を、
南日本新聞に発表しました。
そして、片岡氏は入佐氏に伴なわれて、加治木の城川市二氏の孫嫁(73歳)を訪問する。
鹿児島市から加治木町までは車で一時間足らずです。
もしJRを使っていたら、岩崎谷を通ったかもしれません。
そして、テンプレに引用されている、
「お祖父さんは八十三歳で亡くなられるまで…」に続きます。
昭和51年とすれば片岡氏は60歳位か。老婦人との語らいは楽しいものだったようです。
そして城川市二氏の墓参りをします。
さて、片岡氏が「肚乃西郷」における城川証言を「信ずる心境になった」理由は、
以下のように書かれています。以下長いですが「横目」より引用します。
- 38 :
- (引用)
一当番兵の城川市二氏翁がわざわざ虚構を作りあげて、何の益もないことは明白で、
先の戦争での従軍中の経験からしても、将校の当番兵勤務を命ぜられるのは要領のいい兵隊ではなく、
言葉は悪いがバカ正直な性格の者が選ばれ、そういう兵隊が長続きして実直に勤めたようである。
この石亀が同年兵のことを回想すると、当時の朴訥な人柄の当番勤務に服していた
戦友たちの顔が思い出される。
司馬さんは終戦時には関東地方の戦車部隊の、学徒動員出身の陸軍少尉殿だったそうだが、
同年兵のそういう観察は、将校という身分であれば難しかったのかも知れないし、
あるいは将校当番の兵隊が身近にいて、もっと優れた観察をされたかも知れない。
事務室当番兵の兵隊には要領がいいのがいて、将校が「お茶を持って来い」と命じると、
必ず湯呑の蓋をあけて自分で少し飲んで、その飲みかけをうやうやしく捧げていく光景や、
「飯もって来い」と怒鳴られると、飯の上に頭のフケをガリガリ掻いてフリカケ代りにして、
これも何食わぬ顔をして、フケ飯を捧げ持っていくのをよく見たものだったが、
司馬少尉殿は温厚な人柄だったと思われるから、フケのフリカケ飯には出逢われなかったことだろう。
(引用終わり)
- 39 :
- 似た要旨は、「横目」の中に三度出てきます。
城川氏の証言が真実なのは、「自分の経験より、兵卒は嘘をつかないものだ」からです。
それ以上の理由は述べられていません。
「横目で見た郷土史」は決して無視されたわけではありません。
鹿児島の南日本新聞はもちろん、全国紙、週刊誌で報道されています。
片岡氏は何度となく新聞、テレビ、ラジオと地元マスコミに登場しているのです。
また、大河ドラマ「翔ぶが如く」が放映されたころには、
ずいぶん講演に招かれたとあります。
片岡氏自身が述べておられます、まさに「人生のハイライト」であったと。
そして「桐野が西郷を撃った」説により、脅迫電話はありましたが、
実際に暴行を受けたという話は聞いたことはありません。
- 40 :
- さて、以下は私の感想です。
城川氏が実在することと、「肚乃西郷」の内容が真実ということは、イコールではない。
昭和16年に発行された「肚乃西郷」の著者は、
三州社の社長であった竹崎一二氏の息子・竹崎武泰氏。
城川氏が一二氏に話し、それを武泰氏が書いた。
果たして城川氏と武泰氏は、面識があったのだろうか。
少なくとも武泰氏が、城川氏から直接「桐野が西郷を撃った」話を聞いたという記述はありません。また聞きです。
あくまで仮に、ですが、
城川氏は名前を使われただけではないのか。
竹崎一二氏に思い違いや勘違いはないのか。
武泰氏に何か特別な意図はなかったのか。
- 41 :
- 「肚乃西郷」の、桐野が西郷を撃った記述は、
「桐野は西郷の後ろ姿に黙礼し、心に罪を謝しつつ涙を呑んで西郷を鉄砲で射ったのである。」としかありません。
桐野と西郷の距離は。西郷から見て桐野はどの位置にいたのか。桐野はどんな姿勢だったのか。そういった具体的記述はありません。
もし複数の証言者が出てくれば、ずっと信憑性が高まったでしょう。
戦時下であろうと、師匠(仲間)を撃てば重大な犯罪です。
通説を覆し、桐野を「西郷殺し」と断言するからには、具体的証拠が必要です。
しかし「肚乃西郷」には、桐野の心理描写(推量)あっても、
裏付けとなる記述は何もないのです。分からないことが多すぎる。
「これが真実だから信じろ」以上の内容がない。信じさせようという気概がない。
「桐野が西郷を撃った」説をとるなら、「肚乃西郷」は根拠として非常に弱いものです。
- 42 :
- 惜しいのは片岡氏です。
城川氏の孫嫁に会った時に、竹崎氏の子弟、関係者も探し出し、
詳しい話を聞けばよかった。
昭和51年ならそれが可能だったと思うのです。
そして竹崎親子について具体的なことが分かれば、
「横目」の資料的価値は高まり、「肚乃西郷」の信憑性も増す。
平成26年の今、仮に竹崎氏の子弟を探し出したとしても、
「そんな戦前(73年前)のことは分からない」と言われるだけではないか。
では何故片岡氏はそれをしなかったのでしょうか。
「反骨ガメ」を自認する片岡氏は、
正史を扱う短大教授の村野氏、そしてそれに乗っかった天下の司馬遼太郎の鼻をあかしたことで、満足してしまったのではないか。
実在しないとされた城川氏の存在を明らかにしたのだから、
村野・司馬両氏に過ちがあったことを指摘したのは間違いない。
在野の郷土史家の片岡氏が短大教授を、
一兵卒にすぎなかった片岡氏が著名な作家・司馬遼太郎「陸軍少尉殿」を、
やっつけたのはさぞ痛快だったことでしょう。
「エライサンに兵卒の気持ちなんか分かるまいよ。兵卒は嘘をつかないもんよ。」
片岡氏はここで終わった気分になってしまった。
- 43 :
- 城川市二氏が実在することを指摘したのだって、入佐俊興氏です。
片岡氏は入佐氏についていって、城川氏の孫嫁に会っただけです。
自分で竹崎氏を探そうなどとは思いつかなかったらしい。
「横目」がアームチェアディテクティブに過ぎないと思うのはこの点です。
城川氏の孫嫁にしたって、明治生まれの薩摩オゴジョが、
嫁ぎ先の祖父(大舅)のことを、祖父について尋ねてきた人に、悪く言うはずはない。
まあ城川氏は実際実直な方だったのでしょうが。
また入佐氏が「肚乃西郷」をどう思っていたのか、全く記述がないのも気になります。
「横目」は、実証・考証を必要としないエッセイ(放談)です。
だからこそ自由にものが言え、読んで面白い。
息詰まる専制支配を行った鎌倉武士・島津はいわばカレーで、
温和な人情を持つ隼人族=ライスの上に、覆いかぶさって、
下の白いライスを見えなくしてしまった、
という「薩摩隼人はライスカレー論」などは面白いと思います。
しかし、史実の裏付けには到底なり得ない本です。
だから、センセーショナルな見出しで全国的に取り上げられても、
精力的に講演会をして回っても、「桐野が西郷を撃った」説は、
発表から四十年たって、顧みられているとは言い難いのです。
- 44 :
- ただ片岡氏の名誉のためにも、二点の功績はあげなくてはなりません。
○鹿児島は決して西郷万歳、島津万歳一色ではなく、
厳しい批判を持つ者が地元にもいることを、全国に対して示した。
○その厳しい批判を地元のマスコミが取り上げ、また講演会も行われた。
「横目で見た郷土史」も地元の高城出版から刊行された。
排他的な面は確かにある鹿児島だが、言論が封じられているわけではないことを示した。
以上の点は、片岡吾庵堂氏の、魅力的なキャラクターがあってこそ成り立ったものだったと、賞賛を惜しみません。
- 45 :
- 横目の著者、片岡吾庵堂というペンネームからしてふざけてる。
「片岡ごわんど」標準語では「片岡でございます」
まあ、話題優先な人物かと想像はたやすい。
こんな漫談調の読み物を拠り所するアンチ西郷w
- 46 :
- ■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■
バカ 「“西郷逃亡→桐野が射殺”説のもとになった片岡氏の文章は、エッセイである」 ↓
“西郷逃亡→桐野が射殺”説(城川説)は片岡氏しかとりあげてない珍説、ではありません。
城川説をとりあげた文献は自分が知っているだけでも以下のものがあります。
1行2行の紹介程度ならもっとあるでしょう。
「横目で見た郷土史」片岡吾庵堂
「跳ぶが如く」司馬遼太郎
作者の司馬遼太郎は、城川の姓が薩摩領に存在せず、
別府晋介の従僕にもそのような名の人物はいないという理由(司馬の誤認)をあげて
城川説を奇説としているものの、3ページに渡り解説している
「久留米藩難事件から新撰組まで」松本茂 海鳥社
・・松本さんは史家で、奥さんが鹿児島の人で、その実家に行った際、
古い手紙の中に城川さんからの手紙を見つけ、
桐野の西郷射殺説を信じたようです
城川さんと一緒に輿を担いでいた相棒(小杉恒吉衛門氏のことか)も
同じ事を残しています・・ だそうです
「不平士族ものがたり」野口武彦
この著者は、「征西従軍日誌」の桐野介錯説をとっていますが、
城川説を強力な異説として紹介している
「西郷隆盛」山本盛孝
これはかなり突拍子もない本ですが、城川説をとっている
- 47 :
- そして、
「肚乃西郷」竹崎桜岳
>>36-44さんは、本書には城川説を信じさせようとする気概が無いと言うが、そんなことはない。
「肚乃西郷」から、長いですが引用します。
「この事実を書きし、西郷の伝記はおそらく世に無いと思うが、
これは別府晋介の従僕城川が著者の父に話せし実話である。
西郷が大義名分を重んじて、江藤新平を諭せし事を思う時、
寸秒の疑う余地は無いのである。
西郷が簡単に切腹するのであれば、最期の陣営たる洞窟の前庭において、
幹部と共に枕を並べて死すべきである。
何もわざわざ岩崎谷を下り敵陣近き、現在建設せられある『西郷終焉の地』まで
のそのそ出て行く必要はないのである。
一度鹿児島に遊び、彼の洞窟と終焉の地とを検討せば、著者の論が実証せらるるであろう。」
と、城川説が“実話”であると断じている。気概十分じゃないですか?
- 48 :
- 「肚乃西郷」著者の父は、鹿児島私学校の後身ともいえる三州社の社長です。
三州社は明治14年、河野圭一郎(初代社長)、伊東祐高、中原万次、河野半蔵、美代助座衛門、
樺山資美、伊地知壮之助、児玉軍治ら西郷軍の残党らが設立した結社で、
会員の互助と士族授産、子弟の教育を目的とした。
会員は城下士出身者が中心で、このため「第二の私学校」とも呼ばれました。
肚乃西郷著者の父竹崎一二はこの三州社の社長です。
いわば西郷軍の人的遺産と郷中精神の継承者だった。
そのような人物が、桐野が西郷を撃ったんだと、完全に事実と断定しています。
珍説どころか、“西郷軍正史”と言っても過言でない形で世に示されていたわけです。
- 49 :
- 「跳ぶが如く」で司馬遼太郎は、城川説を“余談”の中で、奇説として扱っていますが、
奇説とする理由として以下の3点をあげています。
逆に言えばこの3点が、司馬氏の“誤認”であれば、城川説は少なくとも、
幾つかある通説の一つに加えることは容れられるんじゃないでしょうか。
司馬遼太郎は、城川説が成り立ちにくい理由として、以下の3点を挙げている
1. 城川姓の者が薩摩領におらず、別府の従僕にもそのような名の者はいなかった
2. 仮に西郷が降伏するつもりで山を降ったとしても、岩崎谷口の竹の大矢来がこれを阻んで
政府軍側に行けるものではない。これは西郷も桐野もよく知っていたはずだ。
3. 司馬の言いたいことがちょっと分かりにくいのでそのまま引用します。
「桐野が西郷との意思疎通を欠いていたという条件も、
西郷が、坂を下って適当な地点にくれば介錯をたのむという旨を
別府晋介にかねて言っているかぎり、成立しがたい。
別府は桐野とはいとこ同士とはいえ親友以上の仲であり、西郷の意中は
十分桐野に伝えていたはずであることを思うと、この条件も
考える材料になりにくい。」
- 50 :
- 1は、
すでに、司馬の誤認であったことが証明済みです。目撃者の城川は実在しています。
2は、
西郷が自力で竹のバリケードを乗り越えるというわけでもあるまいし、
そもそも死が迫っているから投降するわけで、
無事に敵陣に保護して貰えるかどうかは、西郷の判断に影響するとは思えません。
城山に籠城した者は400人でそのうち戦死は157人、投降200人余、逃亡40余だそうです。
城山での投降が、他に例の見られない行動であるならともかく、
投降・逃亡はみんなやっており、十分可能であり、それは西郷も桐野もよく知っていたはずです。
- 51 :
- 3は、
「西南記傳」で紹介されている「大野義行実話」のなかの一節、
「別府を顧みて「兼ての約束通り頼む」と言い介錯をうけた」
というのが根拠になっているんでしょうが、
ちょっとおかしな話ですよね。
事前に介錯を誰かに頼むのなら、重傷の別府に頼むでしょうか?
洞窟で儀式的に介錯するとか、逆に不測の事態が起こり、
別府しかいないなら別府が無理してでもやるかもしれませんが、
特攻中の介錯を、重傷で動けない別府に、しかも事前に頼むって・・・
エクストリーム自決と名付けてもいいぐらいの神掛かった段取りですよ。
しかも司馬は、それは桐野も承知なので、桐野と西郷との意志の齟齬は
成り立たないという、よく分からない理屈ですし。
だいたい、かねてから頼んでおいたことなら、
「頼む」の一言でいいはずなのに、
何で「兼ねての約束通り頼む」と説明調なんでしょうか?
私の想像ですが、「大野義行実話」の著者は、重傷の別府が共に特攻し、
介錯したという説に多少なりとも疑問を持っていて、
かねてから約束してあったことだから無理にでも敢行したのだという形で
説得力を持たせようとして、「兼ねての約束」を創ったのではないか。
- 52 :
- 西郷さんのクズエピソード教えてください!
- 53 :
- 西郷さんのクズエピソード教えてください!
- 54 :
- 相変わらずお手製のクズ以下テンプレ作って連投規制だわ、自演でまた連投するわ、西郷アンチメンヘラストーカー必死すぎワロス
- 55 :
- ■西郷隆盛に関する典型的な勘違い例■その5
バカ 「西郷さんは、西南戦争が勝ち目の無い戦であることをはじめから分かっていた」 ↓
よく言われますよね。勝ち目が無いことは分かっていたが、自分を慕い、
共に立たんと願う若者たちを放り出すは忍びなく、西郷はその身を差し出したのだと・・・
上の見解の史料的な根拠は、西南戦争中の3月12日、熊本にいた西郷から
鹿児島の大山綱良県令に宛てた手紙です。
「 初めから我々は勝敗を問題にしてない。ただ正理を主張して斃れるだけの
つもりであるから、理解してほしい 」と西郷は書いたそうです。
しかしこれは本当に西郷の偽らざる“初めから”の覚悟なのでしょうか?
3月12日といえば、開戦以来包囲しつづけていた熊本城は陥ちる気配はまるで無く、
田原坂では政府軍の猛攻を受け始めていた頃です。
西郷軍の敗色を感じ取り、西郷の精神状態に何らかの“変化”が起きていたとすれば・・・
↓
- 56 :
- かつて西郷の同僚であった市来四郎は、西郷が出陣する4日前の、
1877年2月11日のこととして、日記に次のように記している。
「 明治10年2月11日、晴れ後雨、寒冷。
西郷が言うには、川村(純義、海軍大輔)は十に四、五はこの西郷に助力するはずだ
これを一人取り込めば海軍は全てわしのものになる。
熊本には樺山資紀(鎮台参謀長)がいる。熊本県境に我が軍が進めば、一、二大隊の
鎮台兵はわしに帰順する 」
(鹿児島県維新史料編さん所編『鹿児島県史料・西南戦争』)
つまり当初西郷は負けるなどとは思っておらず、それどころか戦わずして勝てると
自信すら持っていたのです。
西郷軍のあまりに無計画な全軍出兵も、戦わずして勝てるという前提があっての
ものであれば合点はいきます。
ところが、熊本に進出した西郷を待っていたのは、あまりにも厳しい現実でした。
政府軍のなかから、西郷のもとに駆けつけた将兵はただの1人もいなかったのです。
さらに、桐野利秋がバカにしていた百姓兵が頑強に抵抗し、西郷軍の損耗は増すばかりでした。
そんな中で大山県令に送ったのが、先に紹介した、辻褄の合わない不思議な手紙でした。
これは、歯車が大きく狂いだした西郷の、現実逃避だったのでしょうか。
西郷先生と桐野どんは仲たがいしていると、薩軍内で噂が立ったのもこの頃だったそうです。
- 57 :
- 相変わらず■の記号がお気に入りの西郷アンチメンヘラストーカー捏造テンプレ厨、お前が固執してるが誰も賛同しない『桐野が西郷銃殺した説』は『噂』が根拠かよ、バーカ
西郷の血痕付きの桐野の銃の弾丸でも出して来いよ、バーカバーカ!
- 58 :
- 「横目で見た郷土史〜言いたい放題でごめんなんせ〜」
(平成8年刊行 片岡吾庵堂・著 城書房)
という本がある。過去スレでレスの中にもちらっと名前は出てきた。
スレ主のバイブルである。
テンプレにある、
重野安繹や市来四郎の西郷評、「肚乃西郷」を元にした桐野による西郷射殺、
他にも月照との入水、奄美関連のエピソードなどは、この本がタネ本になっている。
桐野が西郷を射殺したとする城川市二氏の、孫嫁のエピソードなどは、
まるっきりの引用である。
- 59 :
- さてこの本。タイトルに「横目で見た」とあるように、気楽な読み物である。
老石亀(オンジョガメ)が、鹿児島の風土を斜めにとらえた放談というスタイル。
郷土史を振り返るにしても、「思われる」「言えよう」「思えてならない」など、
推量表現が目立つ。エッセイとして読めば面白い。
郷土史だけではページが足りなかったらしく、
自分の軍隊時代の思い出や、生野菜を食べない健康法の話も収録してある。
およそ真正面から郷土史を語るという本ではない。
- 60 :
- 片岡氏は「横目」で、作家石牟礼道子の小説に
「桐野が西郷を撃った」話が出てくる、
と誤読されかねないような書き方をしている箇所がある。
しかし、石牟礼が書いた西南戦争を主題にした小説の中には、
「桐野が西郷を撃った」という描写は、どこにも出てこない。
「横目」の他のページには出てくるのだが、片岡氏は、
石牟礼道子ら三名が主宰していた雑誌「暗河」の「西南の役特集号」の中に、
「肚乃西郷」を紹介した記事があってそれを読み、
たまたま古本屋で「肚乃西郷」を見つけて、内容にびっくり仰天。
旧知の南日本新聞記者に「西郷は桐野に撃たれたという説がある」と話したら、
「西郷は桐野に撃たれた?」といった風な見出しで、その地元紙に掲載され、
やがて「肚乃西郷」に基づいた「桐野による西郷射殺説」は、
朝日新聞、週刊朝日や週刊現代等にも取り上げられた(昭和51年ごろ)、
ということのようだ。
- 61 :
- 「肚乃西郷」の元になった城川氏の孫嫁を実際に訪ねた話でも、
結局城川氏の人柄が分かったというだけで、「肚乃西郷」以上の情報は得ていない。
「城川氏が嘘をつく理由はない」と再三述べているが、
その根拠になっているのは、自らの軍隊経験から、
「兵卒は嘘をつかないもの」ということらしい。
もしかすると城川氏は名前を使われただけかも知れないなどとは、
思いもしなかったようだ。
少なくとも「横目」の中には、
城川氏自身が「桐野が西郷を撃った話」をどんな言葉で語ったのか、
ということは全く出てこない。
東大の先生が話を聞きに来た(何の?)、と思わせぶりな描写があるだけで、
肝心のその話の内容は全く分からない。
- 62 :
- 片岡氏の説は決して無視されたわけでも、抹殺されたわけでもない。
氏が述べるように全国的に報道されたからである。
「横目」は今でも鹿児島の図書館に置かれていて、自由に手に取ることも出来る。
片岡氏自身も、南日本新聞や朝日新聞の鹿児島版に連載を持つなどしていた。
鹿児島ではそれなりに知られた人物だ。
しかし、「桐野が西郷を撃った」という説は、贔屓目に見ても異説の一つで、
歴史家からまともに相手にされているとは言い難い。なぜだろう。
「横目」は、アームチェアディテクティヴの域を出ず、
推論と個人の思い入れから成り立っている。およそ迫真性に欠けるのである。
訴え方が悪いというより、決定的な証拠を示していない。
あくまで「老ガメのヨンゴ(屁理屈)」なのだ。
- 63 :
- 片岡氏が名誉欲の為に「桐野が西郷を撃った」説を唱えたとは思わないが、
原口虎雄氏(鹿児島大名誉教授)や司馬遼太郎も自分の説に傾いていたと書いたり、
なんと言っても「横目」の巻頭を飾るのは、
自分のことを取り上げた朝日新聞の天声人語全文なのである。
「桐野が西郷を撃った」説を唱えることで、注目を浴びるのは、
氏にとっては悪くない気分であったに違いない。
しかし最初の発表(昭和52年)から40年近くたっても、
後追い、裏付けとなるような資料は出ていないのだ。
それでも片岡氏は、自分の本名も住所も「横目」の中に明記して、
「桐野が西郷を撃った」説を始め、島津の殿様にも暗君はいたなどと書いているから、
まだ筋は通っている。
- 64 :
- ここのスレ主がどうしてそんなに「横目で見た郷土史」に入れ込んだのか分からない。
最初のうちは出典も示さなかった。指摘されてしぶしぶ書きだしたが。
おそらく読めばエッセイ以上のものじゃないというのは、一目瞭然だからじゃないか。
「横目」はアマゾンなどでも手に入るようです。
いかにも鹿児島の面白いじいちゃんが書いた本です。皆さんもどうぞ。
- 65 :
- またてんで見当違いな片岡批判か・・・ しかもコピペ
上のコピペはよく読むと分かるが、
西郷信者が「西郷射殺説」を史料的にも論理的にも覆せないので、
苦肉の策として片岡という人物を感情的に叩いて、
論点のすり替えを図った、というだけのものである。
「西郷射殺」は片岡氏が言い出したものではなく、
西南戦争に参加した城川市二氏がその目で目撃し、
また、西郷軍の後身とも言うべき三州社の社長が、事実であると断じたものである。
片岡氏はただの一紹介者にすぎないが、
城川市二の子孫を探し出し、訪ね、証言を引き出している。
これは近年のどの歴史家もやらなかったことであり、
片岡氏がアームチェアディテクティブであるわけがない。
また西郷信者は、歴史家は「西郷射殺説」を相手にせず否定していると言う。
ではどの歴史家がどんな論拠に依って否定しているのかと問うと、答えが返ってきた試しが無い。
ようはウソなのである。
- 66 :
- 西郷伝説は鹿児島の人たちが心から大切にしてきた宝物である。
しかしそのことと、宝の真贋は別である。
西郷信者は、西郷伝説にしがみつくために、
ただただ感情的に反発し、ウソを付き、論点をスリ替えるために同郷の片岡氏までをも不当に叩く。
厳しいことを言うようだが、それがこのスレの西郷信者の心底である。
- 67 :
- >>65
またてんで見当違いな西郷批判はお前だろバーカ
しかもまた無許可パクリコピペだ、泥棒
お前が「西郷射殺説」を史料的にも論理的にも証拠を出して証明出来ない、
片岡も専門家でもなんでもないという事をバラされて火病、西郷を感情的に叩いて論点のすり替えを図った、というだけのものだ、バーカ
『西郷軍の後身とも言うべき三州社の社長が、事実であると断じたものである。』
はあああああああああああ?
その場を目撃してもいないただの社長の息子の作者が『事実』?ちゃんちゃらおかしいね!
どの歴史家、学者がどんな論拠に依ってトンデモ説を肯定しているのかと問うと、答えが返ってきた試しが無い、要は西郷アンチメンヘラストーカーのウソなのである
だからな、物的証拠出してから来いやバーカバーカ!
- 68 :
- >>66
西郷アンチメンヘラストーカーがしつこく出すトンデモ説こそ、何も無いお前が唯一しかみついてる宝物なんだろ、バーカ
しかしそのことと、宝の真贋は別だっての、バーカバーカ
西郷アンチメンヘラストーカートンデモ説盲信者は嫌われモノのヒキニートでぼっち
だから人気者西郷が憎くてたまらない、しかし攻撃手段はトンデモ説だけだからトンデモ説にしがみつくために、
ただただ感情的に反発し、ウソをつき、証拠な何も出せず論点をスリ替え無関係な鹿児島県民までをも不当に執拗に叩くしかない
それがお前、西郷アンチメンヘラストーカートンデモ説盲信者の正体だ、悔しかったら物的証拠出してみろバーカバーカバーカ!
- 69 :
- しかし見苦しいねこの人
- 70 :
- 証拠は出せない、捏造は暴かれる、それでもまだ名誉毀損誹謗中傷続ける見苦しい、西郷アンチメンヘラストーカートンデモ説盲信者テンプレ厨、ワロス
- 71 :
- >>70
おまえだよおまえ
鹿児島の恥さらし
- 72 :
- かごんまのおなごんけっされ
- 73 :
- 恥晒しはパクリ捏造テンプレにトンデモ説のデタラメっぷりが暴かれたのにまだ繰り返すお前だ、西郷アンチメンヘラストーカーのウソツキ泥棒が、バーカ
悔しかったら物的証拠出してみろ、バーカバーカ!
- 74 :
- 人の足を引っ張る、嫉妬狂いのアンチ西郷こそが
おなごんくっされ。
鹿児島で最も嫌悪される人物像そのもの。
- 75 :
- >>46
>「横目で見た郷土史」片岡吾庵堂
郷土史家による気楽な読み物。
>「跳ぶが如く」司馬遼太郎
司馬遼太郎自身は、そういうこともあり得たと可能性は認めているが、
「桐野が西郷を撃った」説を真実としたことも、
それを元に小説を書いたこともない。
第一、スレ主はタイトルを間違っている。正しくは「翔ぶが如く」。
スレ主の認識のレベルを良く示す誤字例の典型。
>「久留米藩難事件から新撰組まで」松本茂
福岡の医師による郷土史。それ以上でもそれ以下でもない。
福岡南部の歴史を考えるには良いが…
>「不平士族ものがたり」野口武彦
元は三島由紀夫や石川淳の評論から始めた文芸評論家。
文芸評論は売れないからか、宗旨替え。
近年は、歴史を変わった切り口で取り上げる著書多数。
読み物としては面白い。
うーん。これで「桐野が西郷を撃った」説が、広く認められている言えるのか。
もっと「おお、これは!」と唸るような引用例はないんですか。
星亮一センセイとか引っ張ってきますか(笑)
- 76 :
- >>75
ああ、一ヶ所「と」が抜けてますな。失敬失敬。
- 77 :
- >>75
>>76
冗談抜きに、バカだろおまえ
「私は、誤字脱字の指摘しか物言えないガラケーの自演です」って、
自分でバラしてるじゃねえか
こんなローカルスレに、誤字脱字探しに血道あげる陰険な人間が何人も居るはずないのに、
わざわざ自演でキャラ替えた書き込みでまで誤字脱字探しとはねぇ・・・
まあ、自演は知ってたが、自演で誤字脱字探しとは、目を疑ったわ
実生活でもそんな感じなの?
誰かがしゃぺると、「いやそこは」とかいちいちどうでもいい間違いを指摘して、皆に嫌われてるでしょ?
ああ、誰とも会わない生活だから、自覚する機会が無いのかw
- 78 :
- >>77
>誰かがしゃぺると、
>誰かがしゃぺると、
>誰かがしゃぺると、
アンチ西郷 wwwww
- 79 :
- スレ主の誤字で一番驚いたのが、
例の東大図書館にあると言い張っていた西郷検死書。
いろんな本に引用があると言って書いたのが、
「陰嚢水槽」と「陰影水腫」。
なんでこんな間違いが起こるのか理解できなかったが、
どうも、スレ主は文書リーダーを使ってパソコンにおとし込み、
ろくに読み返しもせずに貼り付けている、ということのようだ。
これならいくらでも他人の長い文章を持ってこれる。
つまりは自分の言葉は持っておらず、他人の文を読む力も文書リーダーなみ、
ということだ。
きっと自炊マニアなんだろう。くわばらくわばら。
- 80 :
- スレ主は「コピペ」も「コピべ」とコンスタントに書いていたし、
老眼が進んでいるとしか考えられない。
特にムキになった時、間違いの頻度は顕著だ。
いい歳してお疲れ様ですね。
- 81 :
- >>46
>>75
ちなみ星亮一センセイのホームページでも「久留米藩難事件から新撰組まで」
は取り上げられています。ちょっと長いですが、引用します。
(以下引用)
会津降伏式で桐野が西郷の命令で嘘泣きしたというのは、驚きです。
いかにも悪辣な西郷のやり方ですね。
西南戦争の最後の日、桐野が、官軍に降ろうとして
城山を下る西郷を撃ったという話があります。
「久留米藩難事件から新撰組まで」という松本茂(海鳥社刊・福岡)さんが
書いた本に在ったんですが、これは司馬さんは「翔ぶが如く」で否定しています。
この話を残した城川という郷士は、城川という姓が
鹿児島に無いという事で否定したようです。
へーとおもって、鹿児島の電話帳を繰ると城川姓はあるじゃありませんか。
司馬さんは何故単純な調査ミスをしたのでしょうか。
松本さんは史家で、奥さんが鹿児島の人で、その実家に行った際、
古い手紙の中に城川さんからの手紙を見つけ、
桐野の西郷射殺説を信じたようです。
城川さんと一緒に輿を担いでいた相棒も同じ事を残しています。
西南戦争の後、鹿児島では神と崇められ、批判が許されなかった時代に
二人はこの話を生涯語ったといいますから、これは真相だと思いますね。
私も桐野を始め40人も居たという諸兵が、西郷自刃を見取らず、
別府晋介一人が残って介錯したなどおかしいと思います。
一説に拠ると、西郷自刃を円座を組んで見取ったという話もありますが、
このとき、別府晋介は負傷していて歩けず、輿に担がれていた身で、
介錯できたのか、元気な桐野や村田が何故、代わって介錯しなかったのか。
40人もいて、何故、西郷の遺体を捨て置いたのか、おかしい事だらけです。
桐野や別府など幹部の西郷に対する不信は以前からあって、
最後に爆発したというのが真相ではないでしょうか。
これは凄い話です。
最後の場面というのは想像を絶する修羅場です。
何があってもおかしくはない、
そう思います。(引用終わり)
スレ主の文章や発想とそっくりですね。くわばらくわばら。
- 82 :
- ぶっちゃけ庄内藩を降伏させるのに忙しくては会津にかまけとる余裕が有ったようには見えん 西郷
会津降伏は土佐の板垣と会津の実質的指導者 手代木直右衛門の間で取り仕切られたと記憶している
- 83 :
- >>75=76=78=79=80=81
おいガラケー
自演バレして、必死の話題変え連続投稿かよw
しかも全員誤字ネタしか語れないバレバレ自演キャラって•••
今どのキャラを自演してるのか分からなくなるほど自演しすぎるから、
ボロが出るんだよ
まじアホこいつ
- 84 :
- >>83
自分が自演するからといって、人も同じと思うな。
西郷を評価する普通の日本人はそんな卑怯なことはしないんだよ。
- 85 :
- >>83
アンチは前スレで言い訳のしようのない自演があったよな。
同じIDに他人のふりして話しかけてたし。w
捏造、なりすましなど手段を問わないのがアンチ西郷の特徴。
- 86 :
- >>83
自分以外はみんな敵。
2ちゃんにこだわり、スレ主の立場を譲らないのに、
一度として「スレたて乙」とは言ってもらえない。
なんという孤独の闇。
- 87 :
- プッw 自演がバレて逆切れかよ
スレ主が一人で運営してるとか、とんだ妄想だな
おまえが妄想にとりつかれて一人で自演しまくってるから、
自分以外は全員スレ主に見えてくるんだよ
昼間からそんなことやってるのおまえだけだよw
鹿児島は時差でもあんのか?
- 88 :
- >>87
ふーん。
じゃあ私に文句言う前に、スレ主に「スレたて乙」って言ってあげなよ。
あ、「遅くなってゴメンね(ハート)」って付け加えてあげなさいね。
- 89 :
- ID:qn3+Ap2R0
ID:WRKdxvlF0
昼間どころか朝から誤字まみれのマヌケなレス、しかも既に過去スレでPCとiPhoneガラケーでの自演バレしてるお前が言うんじゃねえよ、バーカ
卑怯者のお前と違うから自演なんかする必要ねえわ、バーカバーカ
さっさと物的証拠出してトンデモ説の証明してみせろよ、西郷アンチメンヘラストーカーウソツキ捏造泥棒テンプレ厨が、バーカバーカバーカ!
- 90 :
- >>89
自演もなにもその二つはおれが普通に書き込んだものだがw
おまえと違って昼間家に居るわけじゃないんでね
誰が見たって同一人物のID違いなのに、自演と言われるとは思わんかったわ
おまえ自演と誤字探しのやりすぎで、感覚おかしくなってんなw
ここ一日で登場した信者は全員誤字探してるバレバレの同一人物じゃねえかw
しかも自演バレしたとたん、必死にIDころころ変えて連続投降するというバレバレの不自然さw
そして全員が誤字がどうたらこうたら言って、ガラケーに変えてもまだ誤字誤字言ってるw
バカだろおまえ
- 91 :
- >>90
自演がバレたらヘタな言い訳だな、みっともねえ
ID変わったら、普通は変わったと断るんだよバーカ
昼間家に居るわけじゃないから変わっただ?
へえ、じゃあわざわざ外出先から携帯でもないのにここチェックしてるわけだ、必死だなお前
誤字探し?お前がバカで誤字まみれなのに開き直ってんじゃねえよ、バーカバーカ
お前は頭がおかしくなってんだよ、この期に及んでまだ誤字に気づかないでやんの、バーカバーカバーカ
>連続投降
投稿どころか投降までしまくってるというバカはお前だ、もう敗北認めて投降までしてやんの、ワロス
西郷アンチメンヘラストーカーは日本語がまともに使えない正真正銘のバカだ、バーカバーカバーカ!
- 92 :
- 地味に続いていたな。このスレ。うむ。よくまとまってますね。
東大図書館の検死結果のくだりは無くなりましたな。無いんだから当然ではあるな。
でも不思議なんですよ。じゃあ、西郷隆盛(隆永)の首無し死体だとか、首は見つかってただとか、
死体の検証についてのいろいろ伝えられてる事の出どころってどこにあるのかな?
- 93 :
- >>90
他人に文句言う場面で、
「連続投降」はいくらなんでも恥ずかしいなあ。
自分に誤りが多いのに気づいて、ちゃんと気をつければいいのに、
「誤字探ししかできないのか」なんて開きなおるんだもんなあ。
この人の主張の仕方は一事が万事この調子。
くわばらくわばら。
- 94 :
- 俺なんか漢字はパソコンのワープロ機能まかせで書きなぐるから、誤字の指摘はありがたいね。
自分で手紙とか文章とか、鉛筆で書き出せばこんなに沢山の漢字書けない。
それにしても誤字脱字にうるさいね(意味深)。
- 95 :
- ガラケー自演厨にとってこのスレがこの世でただ一つの居場所だから誤字みたいなどうでもいいことにこだわるんだろ
ガラケーが自分で書いた汚物みたいな文章を投稿前に血まなこで校正してる姿を思い浮かべるとゾッとするわ
- 96 :
- ID:2qPiZpw+0
何自画自賛してんだ、相変わらずパクリと捏造しかしてないまとまりなんて無い泥棒ウソツキテンプレだろうが、バーカ
しかもワープロ機能とかいつの時代だ?
PCiPhoneガラケー使って自演してようが、お前が誤字ばかりしてるから1人なのがバレバレなんだっての、バーカバーカ
まともな日本人ならきちんと推敲し、間違えばすぐ訂正するよう教育されてるからみんなすぐお前のバカな誤字に気づくんだ、バーカバーカバーカ
特に今は千年恨む民族が日本人になりすまして、日本の偉人をウソ捏造で名誉毀損誹謗中傷したり
とっくの昔に収まってる争いごとを蒸し返して日本人同士を争わせようとしてるからな、誤字は何よりの判別方法だ
悔しかったらこれから絶対に誤字せずに書いてみろよ、西郷アンチメンヘラストーカーテンプレ厨にはどうせ無理だがな、バーカバーカバーカ!
- 97 :
- ID:2qPiZpw+0=ID:orc3Ghls0
>>95=汚物
西郷アンチメンヘラストーカー、PCiPhoneガラケー自演厨のお前にとってこのスレがこの世でただ一つの居場所だってのはよくわかったわ、ヒキニートワロス
誤字みたいなどうでもいいこと?まともに働いてる社会人なら絶対に言わない低学歴丸出しバカの言い訳だ、バーカ
お前は血眼になって『連続投降』してろバーカ!
- 98 :
- >>97
> 社会人なら絶対に言わない
プッw 完全無職のおまえにとって2ちゃんのこのスレが「社会」で、
このスレに昼間から粘着してるおまえは「社会人」だったわけだw
- 99 :
- >>97
自分は間違わない、自分は完璧だ、自分は誰よりも良く物事を知っている。
まともな社会人なら言わないよ。そういう考えを捨てることで成り立つんだから。
俺がこのスレ定点観測して遊んでるのは、要するに俺は西郷隆盛(隆永)の事をよく知らないから楽しいのだ。
だいぶ、わかってきたけどね。大雑把な輪郭は。
- 100 :
- 絶賛『連続投降』中の>>98=>>99
誤字ばかりでヒキニート完全無職バレに発狂してやんの、バーカ
悔しかったらこれから絶対に誤字せずに書いてみろよ、バーカバーカ
西郷アンチメンヘラストーカーがPCiPhoneガラケーで自演しまくりなのは、過去スレでとっくにバレてんだよ、バーカバーカバーカ
物的証拠は何一つ出せない
ウソと捏造とパクリコピペ、誤字ばかりで何年にも渡る逆恨み
西郷アンチメンヘラストーカーはまさに千年恨むウソツキ民族だ、バーカバーカバーカ!
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