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1 :
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1565232265/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2 :
荒らさないでぇ〜!!!

3 :
やめてぇ〜!!!

4 :
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

5 :
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

6 :
きゃああああああ!!!

7 :
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く)

8 :
◆3ー2
(承前)
 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

9 :
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

10 :
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代皇帝・司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいたw)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる!
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

11 :
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

12 :
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」

13 :
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

14 :
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

15 :
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

16 :
(承前)
◆7ー2

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

17 :
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

18 :
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

19 :
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

20 :
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

21 :
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

22 :
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

23 :
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

24 :
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

25 :
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

26 :
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

27 :
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

28 :
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

29 :
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

30 :
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

31 :
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

32 :
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

33 :
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

34 :
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

35 :
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

36 :
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

37 :
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

38 :
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

39 :
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

40 :
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

41 :
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

42 :
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

43 :
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

44 :
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。

45 :
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

46 :
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

47 :
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

48 :
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

49 :
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

50 :
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

51 :
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

52 :
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

53 :
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

54 :
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

55 :
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

56 :
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

57 :
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

58 :
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

59 :
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

60 :
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

61 :
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

62 :
最初のボタンの掛け違い(南⤴東)により、畿内説はどんなに言説を左右に積み重ねようとも、砂上の楼閣に過ぎない。

63 :
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

64 :
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

65 :
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

66 :
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

67 :
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

68 :
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

69 :
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」

「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

70 :
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

71 :
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

72 :
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。

73 :
491>>444
>>九章算術の均輸1は「道里」ではなくて、「道里遠近」を使って計算しろとある<

>それ、間違いだと何度も指摘されてる
李淳風の注が「縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行衟日數約戸爲衰。」 だから
本文の「衟里遠近」が注の「行衟有遠近」に対応してる
つまり古代中国人の読み方は「『衟里』=『行衟日數』」 なのが明らかだ<


あれあれ?、
李淳風が「注を書く必要があった」という事は、
李淳風も、「道里」では「日数」にはなっていない、という九章算術の失敗が、
判った、という事ではないか。

74 :
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

75 :
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

76 :
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

77 :
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

78 :
最初のボタンの掛け違い(南⤴東)により、すべて消し飛ぶ畿内説。

79 :
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。


◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

80 :
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし

81 :
あー、スレ立て邪魔できなかった…

82 :
>>10の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>12
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲▲投馬国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜〜↙南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

83 :
>>981
>いずれにしても女王国の位置は
>その距離が指しているのは沖縄か台湾の辺り

畿内じゃなかったのか。。。
畿内じゃなかったのか。。。

84 :
>>10
>>82
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の入手を容易にするため。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈?B北海道?)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる上、鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮は、筑後川扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

85 :
スレ建ても低賃金バイトの仕事。

早番遅番の二交代、親分バイトは遅番で、夕方から力をいれるんだろうな。

86 :
>>83の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南「越」王の分家=狗奴国「卑弥弓呼」の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、「天子」隋煬帝に対等外交&(高句麗遠征の鍵)新羅の朝貢を契機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…大連・物部守屋を滅ぼし前方後円墳築造停止。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝→応神朝→継体朝の歴代倭王権@九州内の交代が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

87 :
>>85
九州説はそうなのか

88 :
>>83
九州でもないよ

89 :
>>86の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

磐井の乱で、その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である物部守屋を滅ぼし前方後円墳を廃止。その妹推古が悲願・仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

90 :
491>>454
>ーー邪馬台国の位置は「九州」が54.4%となる503票を獲得。「近畿」が330票(35.7%)<

投票は4〜5回位あったが、全部九州がはるか過半数であり、大和は3割位だった。

>「近畿」のほぼ全部は邪馬台国は畿内だということだろう<

いや、河内は盟主的であるし、
摂津や山城や近江説もあるし、
播磨淡路阿波や、丹後や、和泉紀伊なども、 独立的であったらしい。

>ところが「九州」の得票には博多湾岸、筑後、熊本、宇佐に宮崎とか割れることは間違いない <

いや、ほぼみな「倭國≒九州島付近」説だ。

>ちなみにフルタ説単独で10%取れると思う?<

古田説も「九州倭國」説だ。

91 :
魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東の沖縄や台湾とあって
すると書いてる行程は実際のものじゃなくて三角縁神獣鏡や前方後円墳などの考古学的証拠で
邪馬台国は畿内となって九州説は負けなのに
九州説は頭に血が上って負けるのが確定した賭けに金をつぎ込み続ける必ず負けるギャンブル中毒

畿内説としては
たっぷり稼がせて頂きますよ

92 :
>>89の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢恕東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!

93 :
491>>455
>「道里」は現代語の「距離」とほぼ重なる抽象名詞だ
漢字が組み合わされて熟語になった時点で、単漢字の組合せを超えた意味を
持つようになるのは当然のこと <

陳寿の「道里」は、(日数には直接には関係なく)、
「道の里数」としての使用だよ。

94 :
正攻法はもちろんイカサマやっても勝てない九州説

95 :
>>92の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に襲来し、当時の首都太宰府を殲滅できた大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、

A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府(瓦葺き)以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智以降の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
 →大和分家の摂政・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

96 :
>>93
1日60里で何日歩いたで里数にできるだろ
道里は原理的に里数でも日数でも表せるので
道里は里数日数両方の表記を含むものである

古代中国の算術所九章算術にも道里を用いて問題を解きなさいという例題に
行道八日と道里のことを日数で表記している

97 :
491>>456
>いまどき九州説=古田説だと思ってる人って相当ジジイなんじゃないか?<

何か、柳田の「硯」発見が、
倭人の文字使用が非常に古かった事の発見だ、という報道があったが、
「倭人の文字使用が古かった」事など、
古田説では、45年位前から言っておられた事で、
柳田の発見など、全くのインチキ報道。

98 :
>>95
纏向は、北部九州で発生した倭国大乱を避け、スサノオが大陸・半島へ輸出して外稼を稼ぐため、宮殿の柱用の大材確保→降水量が多く、日当たり良好な紀伊山地に杉の植林中、
偶然見つけた水銀鉱床から出た(朱)も輸出してみたら、凄い高値で売れたため、莫大な富を元手にして、本州島の勢力を配下に治めて建てた本州島毛人王権なのである!

息子・大国主の代に、倭国大乱を収拾させた筑紫女王卑弥呼が「親魏倭王」号を取得して(帯方郡管轄下の伽耶の鉄を独占して)しまったため、倭王権にはなれず(卑弥呼を討てば世界の支配者=魏帝の逆賊)、本州島の地方王権に甘んじることを余儀なくされた。
しかし、鉄がないことが逆に幸いして、阿波王・少彦名が献上してきた(鉄がなくてもできる)熱効率の良い丸底の庄内式土器を、本州島各地に普及させ、最新の治水や植林を伝えて国造りをして回り、本州島各地で神として崇められるに至った。

その子・大物主の代、父・大国主の庄内式土器を吉備の技術革新である内側を削って薄くし、さらに熱効率(燃費)を高めた布留式土器は、筑紫邪馬台国のあった首都圏・北部九州にも及んだ。
卑弥呼の死後、饒速日の代で、本州島毛人(夷人)纏向王権の人気に危機感を募らせた邪馬台国・台与(男弟)が、「更立男王国中不服」の汚名返上の機会を与えるため、
派遣した伊都国王神武の最新鋭軍勢に征服され、神武は遠く隔たっていることを良い事に、築造中だった饒速日の寿陵(箸墓)を自らの墓としてしまう(出雲の国譲りに仮託)。

邪馬台国台与の死後、漁夫の利で倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」が邪馬台国を受け継ぎ、崇神朝→応神朝→継体朝へと繋がる歴史が始まるのである!
以降、前方後円墳が倭王墓としてそのまま受け継がれ、古墳時代の幕開けとなったのである!

99 :
>>97
硯かどうかも怪しいし
硯が見つかったからといって即文字が使用されていたとも限らない
お正月の羽子板で顔にイタズラ書きするのに使ったり
それか魏志倭人伝にある鯨面文身に使っていたのかも知れない

100 :
このスレに書き込む限り九州説は負け続ける事が確定

101 :
北部九州から出土している弥生時代の削刀、案(文机)は纏向から出ているの?

102 :
それは邪馬台国に関係あるの

103 :
>>101
大型建物ABCD=倭迹迹日百襲姫命の祭殿(桃の種、カエルの骨、鍬再利用の木製仮面)、葺石&特殊器台搬入用の運河、飛鳥時代の大市&運河しかない纏向遺跡

弥生の鉄なし絹なし(副葬品のみ)、文字(硯・案・削刀)なし(金印不要w)、も納得。

104 :
纏向は発掘がまだ5%にも満たない一部だけだから
何か出たらそれは根拠になるが
なにが出ないーというのを論の根拠にすることは
物理的に不可能だ

105 :
>>103
卑弥呼の時代は古墳時代
3cの前方後円墳がない九州

106 :
距離も方向も魏志倭人伝に記載されている風習もなかったことにしないと成立しない畿内説
詐欺師の集まりだな

107 :
>>103がまた発狂しているな

108 :
畿内説は詐欺師集団

109 :
>>82
何が書いてあるのかサッパリ判別不明な、
この「アウトサイダー・アート」そっくりの気色悪いコピペ。

書いた奴の精神風景の不気味さが伝わって来るわ。

110 :
>>106
別になかった事にしてないけど
魏志倭人伝に書いてある女王国までの行程は九州よりはるか南の沖縄辺りの会稽東治の東
これをなかった事にしたい詐欺野郎は九州説じゃないかな

111 :
九州説は詐欺を働くのもいい加減にして欲しいものだ

112 :
九州説は今まで九州説の詐欺本買った人全員に返金をせんとな

113 :
九州説がこのスレに嘘を書いたり荒らしたりするのは
逆に畿内説への利敵行為に過ぎない

114 :
畿内説のスレ建ては、低賃金桜バイトの仕事

煽りカキコは二交代制、親分バイトは夕方から力をいれる・・・

115 :
もしバイトだったら何だというのか

116 :
九州説は自分が邪馬台国の会のバイトだから
畿内説もバイトバイトと言えば同じく焦ると思ってるんだろうけど
あっさりもしそうだったら何と言われて撃沈

117 :
しかし九州説は明らかに負けで
荒らし書き込みすればするほど不利になるしバイトに払う金も無駄だしそれなのに何でやめないかね
まるで合理的な理由が思い当たらん
アレか人間じゃなくて背後からサタンとかに命令でもされてるのかね

118 :
>>10の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>12
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲▲投馬国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

119 :
>糸魚川の長者原遺跡とかいう遺跡とか

その遺跡も北陸忌部の痕跡だよ。  蛇紋岩も加工している。   @阿波

120 :
「倭国(阿波)の翡翠」

黒谷川郡頭遺跡 http://yama4.web.fc2.com/oasa/kouzu.html

121 :
「倭国(阿波)の翡翠」

井出上遺跡 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%BB%B0%B9%A5%BB%D4%2F%B0%E6%BD%D0%BE%E5%B0%E4%C0%D7

122 :
サタンの手先九州説

123 :
月刊ムーの清掃員さん、おはようございます。
>>98
>>118
阿波王・少彦名が取り上げられていますよ。

124 :
「倭国(阿波)の翡翠」

「女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)」

頭部から上半身、石棺の床面に、赤色顔料の水銀朱。

頭部右側には、若い頃に負ったとみられる長さ約4センチの刃物傷。

石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、

鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。

例によって、「徳島南環状線道路建設に伴う調査」だった。

まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。   @阿波

125 :
>北陸の古墳は四隅突出型方墳だよ。出雲型式と一致

北陸忌部や出雲忌部による墓式なんだよ。 

方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型か?

蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群

蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。

このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。   @阿波

126 :
>だから翡翠も朱を墓に入れるのも縄文時代に各地でやってんの

だから縄文時代に各地で「忌部はん」 がやってんの

分からん奴だな   ワハハハハ   とにかく、「忌部はん」 しか、全国進出した部族は他にいないんだから。  この事実はどうしようもない。   @阿波

127 :
>縄文時代の遺跡で阿波が起源だって言うならわからんでもないよ

矢野遺跡や加茂宮ノ前遺跡、名東遺跡って知ってる?  初心者?  ワハハハハ

128 :
「矢野遺跡(縄文時代)」

徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。

このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。

用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。

土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。

祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。

石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。

文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊

129 :
九州説は背後にサタンが居るらしいから
バチカンとかにチクッた方がいいかな

130 :
「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」

阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。

その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。

集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。

注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。

1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。

人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。

また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。

配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。

縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。

後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。

一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。

しかし、発見された遺構は極めて少ない。

円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。

(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊

131 :
>縄文時代の遺跡で阿波が起源だって言うならわからんでもないよ


田井遺跡  所在地  徳島県海部郡美波町由岐田井

縄文時代前期〜中期・様々な道具とアクセサリー

田井遺跡は海水浴場として知られる田井ノ浜の北西約300mにある標高約20mの小山のすその微高地上にある。

2001年(平成13年)に道路建設に伴って発掘調査により、縄文時代前期末〜中期(約5,000〜4,000年前)にかけての、主に石器を製作した跡とみられる遺構が発見されている。

出土した遺物として土器・石器類が多いが、なかでも注目されるのは様々な石を材料とした石器の道具やアクセサリー類である。

石鏃にはサヌカイトやチャート、石斧には結晶片岩、けつ状耳飾には滑石や蛇紋岩というように、それぞれの道具に適した石を選んで製作していたことが分かっている。

※縄文人が、海を通じて広く交流をしていた様子が各種の遺物から分かる。 ← 言葉を濁しているが、倭国(阿波)の海人族のこと。   @阿波 

田井遺跡で出土したけつ状耳飾
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5022996/

132 :
この「けつ状耳飾」が、勾玉の原型なんだろう。  @阿波

133 :
>お墓と史書の記述もない。

まぁ、文献をこねくり返すのもいいが、もはや考古学で倭国(阿波)に決着済みだよ。  他説を圧倒する倭国(阿波)の遺跡群。   @阿波

134 :
阿波うるさいな

135 :
>>103
真の神武陵・箸墓、倭迹迹日百襲姫の祭殿跡である纏向遺跡がなければ、成立しえない畿内説w

136 :
それにしても九州説はサタンに命令されてるんじゃないのと書いたら
急に慌てたように荒らし連投が始まったな
まさかガチで

137 :
>>135
纏向遺跡の大型建物ABCD、一番奥のD棟は出雲大社、手前のC棟は棟持ち柱の伊勢神宮と同じ造り。
出雲スサノオ→大国主(子)→大物主(孫)を祀る、天皇家の倭迹迹日百襲姫の祭殿に相応しい。

138 :
>>135 箸墓後円部の断面図(北側)
………………………______
5段目……………/倭迹迹日百襲姫\←崇神が追加
4段目…………/ ̄ ̄ ̄磐余彦 ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

139 :
>お墓と史書の記述もない。

まぁ、文献をこねくり返すのもいいが、もはや考古学で倭国(阿波)に決着済みだよ。  他説を圧倒する倭国(阿波)の遺跡群。   @阿波

140 :
所詮 畿内説の根拠は
倭人伝に記述のない、前方後円墳とか三角縁神獣鏡しかないのだろう

141 :
>>137
纏向大型建物ABC(神明造り)D(大社造り)が王宮ではなく、祭殿なら、桃の種、カエルの骨、隙を再利用した木製仮面で十分で、周囲の都市施設の必要もない
当時沼地だった大和盆地に、古墳用の大坂山の葺石や吉備の特殊器台を運び入れる臨時の運河さえ掘れば桶

142 :
491>>65
>テンプレ荒らしをする奴は
奥山先生の素晴らしい説が
理解できないのであろう<

そうか。
「南→東」などの嘘付き騙しのスレ主は、
読売が紹介したように、やっぱり、
「奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)指導研究員の奥山誠義(42)」であったのか。
http://krf-textile.com/kouen1.html

143 :
>>140
魏から銅鏡百枚
径百歩の墓

144 :
三角縁は500枚出土
箸墓は長二百歩

145 :
いろいろ考えるところのあった読売は、さりげなく晒したのではないかな、、、

146 :
三角縁神獣鏡は国内複製品も多数
径百歩に相当する古墳は箸墓じゃなくても畿内に多数

147 :
結局判らず仕舞いってことだねw

148 :
倭人の国々への行程―邪馬台国畿内説は成立せず

149 :
九州説も成立せず

150 :
倭種の国・侏儒国・裸国・黒歯国・・・東へ渡海したらやはり倭人国がある、というのは邪馬台国が九州島であればこそ言えることで、
畿内説は伊勢湾を渡海すると考えているが、畿内ならわざわざ渡海せずとも東北方面に陸行しただけで倭種の国は沢山ある。
まして畿内説では東は北になるはずだが、畿内の北には渡海すべき海は無い。

151 :
>>84 >>98 な〜るほど・ザ・ワールド!

152 :
魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は
沖縄辺りの会稽東治の東

153 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏の頭は、出来栄えが悪すぎるので、
奥山氏とBBA氏は、2ちゃんねるを活発にするために固定された頭が悪すぎるアルバイトか、氷河期の無職かのどちらかでしかないことが、バレたのだったな。。

154 :
>>118 >>150 なるほどね

155 :
意味不明の罵倒しか出なくなった九州説

156 :
>>89の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!

157 :
畿内説に歯が立たず長文コピペで荒らす九州説

158 :
>>137
全く同意します。

ちなみに建物Dは大きいだけでなく、柱のピッチがやたらに小さい。
(吉野ヶ里遺跡の内郭大型建物に比較して、面積が約2倍。柱の本数が約4倍)
相当の重量物が上に乗っていたと考えられる。

http://inoues.net/ruins2/maki_k010.jpg
この復元模型で建物Dは、徳川時代の庄屋の建物のように復元されているが、
多数の柱で相当の重量物を支えていた訳だし、
すぐお隣の唐子・鍵遺跡では高楼跡や、高楼を描いた土器破片が出土しているのだから、
建物Dはもっと高さのある「高楼」として復元すべきじゃないかと思う。

159 :
九州説がモタモタしている間に
着々と纏向の復元は進んでいる

160 :
>>150
>まして畿内説では東は北になるはずだが、畿内の北には渡海すべき海は無い。

あほですか
倭人伝の方位記載に間違いがあると主張してる畿内説に、そんな難癖が通じると思う?
無効に決まってるでしょ

方角が正しいと言い張ってる九州説には致命的な指摘でも、畿内説相手には効かないのよ

161 :
帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。

162 :
3世紀の巻向には、大溝と大物主神の倉庫だけが、あったね。。

163 :
>>161
九州説はとうとう頭がおかしくなって
理解不明のうわごとを呟きだした

164 :
奥山氏は、頭が悪すぎるな、、、

165 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

166 :
するだけ無駄ではないかな。。。

167 :
奥山氏が、焦っているな、、、

168 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

169 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

170 :
3世紀の巻向には、大溝と大物主神の倉庫だけが、あったね。。

171 :
九州説は畿内説を鍛え強化するために存在してくれているんだな
ありがとう九州説

172 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、完全に論破されたので、反論を諦め、敗北宣言にしかならない嘘を言い放つしかなくなったな、、、

171日本@名無史さん2019/08/11(日) 14:07:49.53
九州説は畿内説を鍛え強化するために存在してくれているんだな
ありがとう九州説

173 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

174 :
記事中にある「東治」については、「東冶」の誤りとする説があり、そうだとすると会稽(揚子江下流、紹興市周辺)と東冶(台湾対岸、福建省周辺)とはかなり離れているので、
文字通りとらえると例えば「邪馬台国=沖縄説」などが出てきてしまう。
しかしこの文章を文脈全体でとらえるならば、会稽に封じられた夏(殷の前の王朝)の王族から始まったとされる風俗(文身=いれずみ)と倭の風俗が同じであり、
倭は会稽のまさに東にあると続くのだから、地理的には会稽山あたりのことを指すと理解するのが自然であろう。
ちなみに、会稽(紹興)から海に出ると寧波(ニンポー)で、ここから東シナ海を東に進むと九州である。そして寧波は唐以降宋、明の時代まで九州から中国までの航路における中国側の港であった。

175 :
>>160
中国の史書なんだから、南を東にするなら中国に言ってくれよ

176 :
とんがり帽子のサカ族、鳥をモチーフにした遺物がたくさん残っている

アカ族、ミャオ族、女性のとんがり帽子、元は既婚女性が被るものだったとか
鳥居に似たゲートに鳥形、鳥信仰かと思いきやそうではなくアミニズム

長江辺りで出会っていた可能性もあるな

177 :
>お墓と史書の記述もない。

まぁ、文献をこねくり返すのもいいが、もはや考古学で倭国(阿波)に決着済みだよ。  他説を圧倒する倭国(阿波)の遺跡群。   @阿波

178 :
491>>459
大和説って、「安本の偽筆跡鑑定」のツガル事案に乗って、
一緒に死んだんじゃないの?

179 :
491>>460
>裴世清の経路は、日本と大陸の両方の史書でクロスチェックできるから、
きちんとした通説があるし、特に疑義はない<

ダメだよ。
隋書は俀國伝として、
倭奴國や卑弥呼や(宋〜梁代の)倭の五王の、「九州の倭國」であった国だ、
とした記載をしているが、
書紀は、隋書に反して、九州の倭国を隠蔽盗用造作した記載をしている。

180 :
491>>474
「南→東」などの嘘付き騙しがバレたように、
まったく理由の言えない大和説の退化ぶりが痛々しいな

181 :
491>>482
「南→東」などの嘘付き騙しの時と同じように、
どんな無理押ししてでも、根拠ゼロでも
頑として「日数=道里」だ、と、主張しないわけにいかないのが、大和説
だって大和説が潰れるものね

182 :
>>156の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返した)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた大帝国・唐外交への忖度で生まれた古事記・日本書紀が消そうとしたのは、

A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府(瓦葺き)以前の倭王権(崇神朝〜応神朝〜継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台〜阿蘇邪靡堆〜天智の都・太宰府)にあったこと
 →3王朝ともその奥津城(王家の谷)畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
 →天智以降の倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
A新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
 →大和分家の摂政・厩戸皇子と合成し、憲法十七条「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐怖した九州本家・天智@倭京(太宰府)の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
 →舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)

-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

183 :
491>>494
>まずは畿内説の中で瀬戸内ルートか日本海ルートか決めてから出直せ。<

それだけはなく、大和説は、
「南→東」や「畿内」などの嘘つき騙しの反省をしてから、出直せ。

184 :
491>>496
>畿内説は行程で邪馬台国の位置を決めてんじゃないから、あとでもいい<

「あと」になっても、まだ「南→東」などの嘘付き騙しの言い訳をしていないし、
「畿内」や「邪馬台国」などの存在もしなかった文言を使い続けるから、
大和説者は、悪い。

185 :
491>>497
九州説の短里は、史料事実からの帰納的高確率的推論。
そして、「南→東」などの嘘付き騙しや、
6倍位違って嘘つき騙しになる「長里」を唱える大和説は、
ご破産ねがいまして
チーン

186 :
>>182
では、纏向遺跡とは一体何で、古墳時代の開始を告げる嚆矢(かぶらや)=箸墓の被葬者は誰なのか?

纏向は、北部九州で発生した倭国大乱を避け、スサノオが大陸・半島へ輸出して外稼を稼ぐため、宮殿の柱用の大材確保→降水量が多く、日当たり良好な紀伊山地に杉の植林中、
偶然見つけた水銀鉱床から出た(朱)も輸出してみたら、凄い高値で売れたため、莫大な富を元手にして、本州島の勢力を配下に治めて建てた本州島毛人王権なのである!

息子・大国主の代に、倭国大乱を収拾させた筑紫女王卑弥呼が「親魏倭王」号を取得して(帯方郡管轄下の伽耶の鉄を独占して)しまったため、倭王権にはなれず(卑弥呼に弓引けば、世界の支配者=魏帝の逆賊)本州島の地方王権に甘んじることを余儀なくされた。
しかし、鉄がないことが逆に幸いして、阿波王・少彦名が献上してきた(鉄がなくてもできる)熱効率の良い丸底の庄内式土器を、本州島各地に普及させ、最新の治水や植林を伝えて国造りをして回り、本州島各地で神として崇められるに至った。

その子・大物主の代、父・大国主の庄内式土器を吉備の技術革新である内側を削って薄くし、さらに熱効率(燃費)を高めた布留式土器は、筑紫邪馬台国のあった首都圏・北部九州にも及んだ。
卑弥呼の死後、饒速日の代で、本州島毛人(夷人)纏向王権の人気に危機感を募らせた邪馬台国・台与(男弟)が、「更立男王国中不服」の汚名返上の機会を与えるため、
派遣した伊都国王神武の最新鋭軍勢に征服され、神武は遠く隔たっていることを良い事に、築造中だった饒速日の寿陵(箸墓)を自らの墓としてしまう(出雲の国譲りに仮託)。

邪馬台国台与の死後、漁夫の利で倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」が邪馬台国を受け継ぎ、崇神朝→応神朝→継体朝へと繋がる歴史が始まるのである!
以降、前方後円墳が、崇神朝→応神朝→継体朝の倭王墓としてそのまま受け継がれ、古墳時代の幕開けとなったのである!

まとめると、
纏向遺跡の変遷
大国主(庄内式土器)→大物主(布留式土器)→饒速日(寿陵箸墓)の宮殿→(神武東征後)→倭迹迹日百襲姫の祭殿(一番奥D棟:出雲大社造り、その手前のC棟:伊勢神明造り)

187 :
>>185
帰納したって証拠は?

w

188 :
491>>500
陳寿が使った「道里」は、きちんと「道の里数」を意図して、「道の里数」を書いている。
それに対して、九章算術は、「道里」と書いて「行道の日数」を書いており、
だから、本末転倒は、
九章算術の「行程」を、陳寿の「行程」の根拠に使おうとした大和説者の方だ。

189 :
491>>501
「南≠東」などという検証は終わってる
だから、瀬戸内説でも日本海説でも×だ

190 :
491>>504
陳寿の行程の説明で分かる事

「倭人の支配地」はほぼ九州島付近であり、
女王國は、ほぼ九州島。
これが確定する
お疲れさまでした

191 :
491>>505
>>畿内説は、自ら公言しているように
前方後円墳の分布範囲を「ワコク」と自称して成り立つ偽説。<

>偽説だと証明できてないから<

畿内なんて存在もしなかったし、
「倭國は、ほぼ九州島付近である」し、
前方後円墳は、「東征毛人五十五國」の九州から始まって、
瀬戸内近畿東海南関東などへ広がったものだから、
ゴマメの歯軋りだね、
醜態大和説

192 :
491>>510
「南→東」など嘘つき騙しに拠って、7割の国民が否定しているのに、
頑として認めず、
「教科書にも載ってる通説」だと自慢までしている大和説こそが
天下の奇説

193 :
491>>512
いろいろ言っているけれど、
陳寿は、「道里」と書いて「道の里数」だけを意図した記載をしているが、
九章算術は、「道里」と書いて「行道日数」を書いている変な本であるから、
九章算術の説明は、陳寿の「道里」の証拠にならないんだよなあ。

論点ずらしは諦めな。

194 :
>>186 >>138 
箸墓の築造者は饒速日で、被葬者は大和入りした神武、その上に崇神が大叔母・倭迹迹日百襲姫を追葬か!
崇神天皇10年に築造されたとする日本書記(710年)の記述と一応、整合性を持つな

「則ち箸に陰を憧きて薨りましぬ。乃ち大市(飛鳥時代w)に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ」

195 :
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。

196 :
491>>514
バカが踊るのを見たって、面白くもないけど、
「Korea fatigueと同じものを感じる」とかの排他的人種差別的な文言を見ると、
類スレ主らが、京都アニメ放火犯のような、
殺戮的テロや戦争を起こしかねない・・・・アホ人種であるのではないか?、
と思う。

197 :
491>>519
>南京大虐殺は、蒋介石の国民党(当時与党)が日本軍が南京に迫ってくるドサクサを利用して、
日本軍の軍服を着て行った、毛沢東の共産党(当時野党)の大弾圧。
つまり、中国人同士の共産党員大弾圧。
戦後、野党共産党が文化大革命で、蒋介石の国民党を台湾に追放してから、
日本軍が南京大虐殺をやったことにされたんだよねw<

ふーん?、そんな話は初めて聞いたなあ。
日本政府ですら、死者はもっと少なかった、と言い訳していた位だったし、
蒋介石と文化大革命も、全く年代が違うし、
この大和説男も、国民を騙して、また日中戦争を起こそう、と企んでいる、
戦争狂の・・・・なんだろうねえ。
こりゃ、

198 :
>>193
>陳寿は、「道里」と書いて「道の里数」だけを意図した記載をしているが、

それ、なんの証拠のないよねえ

なんの根拠もなく突然言いだした結論を言い張ってるだけ
さすがは文献無視の九州説

199 :
491>>525
>合ってるだろ?
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg

「南≠東北」などに拠って、×。
合ってないよ。

200 :
491>>527
だから、
「南→東」などの嘘付き騙しを大和説の、
教科書を造った大和説学者や教科書会社や、それも検定パスさせた文部省らは、
常識が歪みまくっているのであり、
どんだけ犯罪者的なのよ、大和説は。

201 :
>>200
そういう言動だけで
九州説の政治思想的偏りと
異常さが
よくわかる

202 :
491>>528
>偽説だと言いたいなら
「前方後円墳の分布範囲が「ワコク」ではない」ことを具体的に示せばよい<

魏志倭人伝では、倭國の範囲は、九州島およびその周辺の島々付近まで。
前方後円墳の始まりは、筑紫の那珂八幡などであり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などに拠って、瀬戸内以東にも広がった。

203 :
>>161
つまり、全順序集合という物事を理解すれば、魏志倭人伝は解読できるのだな、、、

204 :
491>>530
>どこかおかしいか? 里数は測定しなきゃ判らないが いや、しても正確には無理だが
日数は出張報告か日誌みれば正確にわかるだろ<

おかしい。
魏使らは、不彌國のすぐ南の「女王之所都」までの、
部分里数や、全体里数の「萬二千余里」を、きちんと書いており、
それと「郡から女王之所都」の総所要日数も、おそらく記録している。

205 :
>>203
そうだね、、、
邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、「次」という文字によって全順序集合であることが、明記されているね、、、
そして、7万戸の邪馬台国と2万戸の奴国の間の国々の戸数を順番に並べたと仮定したのでは、倭国の人口が大きくなりすぎるので、順番は道順のことでしかないのだね、、、

206 :
491>>532
>残念ながら、前方後円墳という墳墓形式と、それに伴う祭祀用供献土器が共通化されるので
祭祀統一がなされたことは、考古学的証拠から確定 <

残念ながら、「前方後円墳という墳墓形式」は、筑紫の那珂八幡などが最も早く、
「それに伴う祭祀用供献土器」の庄内も、筑紫は3世紀前半からであり、
大和の石塚の庄内1は、3世紀末。
つまり、筑紫が先行であり、大和などは、九州倭國の「東征毛人五十五國」のおかげ。

>次に、祭政一致の時代の祭祀統一の意味を考えるときに、この統一範囲において
政治、政権についても一定の合意がなされ、祭祀連合が成立したと考えるのも当然のこと
これを国家段階だと認めるなら、前方後円墳国家(広瀬和雄の用語)となるし、
国家ではないという立場からは、前方後円墳体制(近藤義郎の用語)となる<

広瀬も近藤も、また類スレ主に拠って、天下に「赤恥を晒されて」しまった。

207 :
491>>534
「南→東」などの嘘付き騙しのように、
何がどう「わかってないウソ」のか説明出来ない大和説者は
ぜんぜん「わかってない」人と見られて当然

208 :
491>>535
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者(含むお鏡さん)の特徴

自分だけ「わかってる」つもり
でも内容を自分の口では説明出来ない
それで相手を馬鹿にする以上のことができない

要するに「わかってる」つもりなだけ
実際には「わかってない」人

209 :
>>205
つまり、邪馬台国は、伊万里市から南東に山越えし、湾だった筑後川中下流域を迂回して、南下した22泊目の熊本城なのだったな。。。

210 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人達が、元気を失ってしまったのではないのかな、、、

211 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

212 :
全順序集合という物事を理解すれば、魏志倭人伝は解読できるのだな、、、

213 :
491>>537
>ここまで事細かに教えてもらわないと分からないなんて、九州説バカすぎww
まあ、それだけ「投馬国が女王國より以北の国」っていうのは
クリティカルポイントだからねw<

何度も説明してあるが、
先に、
「投馬國は不彌國や邪馬壹國女王之所都の南へ水行二十日の位置にある」
と書かれた後に、
「自女王國以北」の文言が出て来るんだから、
その「自女王國以北」には、投馬國は含まれない、という事になる。

そして、これだけで、大和説は即死、壊滅だから。

214 :
491>>540
100年位前から、「南→東」などの嘘付き騙しが全く訂正もされず、
情報が更新されない、更新できない、という大和説が
科学ではなく宗教・信仰だと言われる所以だよ。

215 :
491>>543
>は? 帯方の東南にあるのは近畿地方で、九州はほとんど南だぞ<

は?
帯方の東南にあたるのは関門海峡付近であり、
北部九州は少しかかっているが、
大和は、殆どかかっていないぞ。

216 :
491>>548
>>教科書の歴史が真実だと信じてる人が居るのに驚いたw<

>教科書に載ってりゃ それは奇説ではないんだよ 広く知られている説なんだから<

山川や東京や清水の教科書は、
幾ら文部省の検定で許可されたものであっても、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説に賛成しているから、
そりゃ「奇説」であり、
生徒や国民を騙そうとした犯罪者的な教科書だよ。

217 :
>>198
道里という漢字が読めないのかな?
勝手に日数も道里だなどと言い張る畿内説はおかしいよね?

218 :
491>>549
>富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された <

ふーん、凄い話ですねえ。

219 :
女王でもない百襲姫を卑弥呼にでっち上げて纒向が邪馬台国だなどと言い張るのはおかしいよね。

220 :
>>115
>もしバイトだったら何だというのか

やっぱり畿内説の書き込みはバイトだったのか。

221 :
491>>580
「会稽東治之東」と「自女王国以北戸数道里得略載」で
大和説は行程論でも死亡

「会稽東治之東」なのだから
陳寿の書いたとおり行って九州のどこぞに着くという説は正解

投馬国が女王国以南と陳寿が認識しているのだから
既存大和説の行程論は一つも生き残らない

222 :
491>>582
いや、そもそも陳寿は、先に不彌國で萬二千余里が終わる里程説明をして、
投馬國は不彌國から南に水行二十日の位置にある、
と書いているのだから、
その後で書かれた「自女王國以北」の中には、投馬國は含まれない、という事が自明。
投馬国が「以北」国の一員ではないのは明らかだ

なんでこんなザル大和説が、200年以上も昔から、存続してたのだろう

223 :
道里を日数と言ってるのは奥山だけだから
畿内説関係ないからヨロシク

224 :
>>220
一銭も貰ってないが
それでもしバイトだったら何かな
そして九州説こそバイトで荒らしてるの?

225 :
491>>604
>残念ながら、3世紀以降、文物、文化の移動は畿内から九州方向の一方通行だというのが
考古学的証拠で跡付けられていて、それが東遷説否定の一番の根拠になっている <

唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國は北部九州にあった事になり、
大和は、九州倭國から別れた別種の旧小国であって、九州倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国の、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の国であった事になり、
庄内は、筑紫は3世紀前半であるが、大和は3世紀末の石塚の庄内1からであり、
前方後円墳は、筑紫の那珂八幡の方が3世紀後半半ば過ぎで、石塚よりも古い、
という事になる。

>「纒向が田舎だから筑紫からの富の分配がなかった」というのは
いつもの典型的な「根拠は僕がそう思ったから」でしかないんだ <

だから、「東征毛人五十五國」などに拠って、
筑紫から大和に伝播があった、という事になる。
残念だったね!

226 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏の頭は、出来栄えが悪すぎるので、 田舎学芸会の会員や、大学院卒の研究者ではなく、
奥山氏とBBA氏は、2ちゃんねるを活発にするために固定された頭が悪すぎるアルバイトか、氷河期の無職かのどちらかでしかないことが、バレたのだったな。。

227 :
九州説は発狂し過ぎて
もう何を言ってるのか理解不能なレベル

228 :
負けて発狂九州説

229 :
ドミニオンというゲームのルールを、やっと、理解できたのではないのかな、、、

230 :
>>229
カタンよりも、シンプルなので良いな。。

231 :
>>229
全く偶然だが、孫達が購入したドミニオンというゲームは、倭国の構成がどのような構成だったかを考えさせられるゲームだね。。。

232 :
九州説現実逃避中

233 :
491>>614
>そして、域外からの搬入土器の比率が特に高いのは祭祀遺跡だ
つまり、祭祀用供献土器として各地の土器が持ち込まれたという側面が分かる
https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg

その図を見りゃ、祭祀用供献土器は、
筑紫は、全てで「搬入中心」になっており、
大和や出雲がその搬入の「中継地」的になっていた、という事が判る。

234 :
奥山氏が、焦っているな、、、

235 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

236 :
>>161
つまり、全順序集合という物事を理解すれば、魏志倭人伝は解読できるのだな、、、

237 :
>>236
そうだね、、、
邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、「次」という文字によって全順序集合であることが、明記されているね、、、
そして、7万戸の邪馬台国と2万戸の奴国の間の国々の戸数を順番に並べたと仮定したのでは、倭国の人口が大きくなりすぎるので、順番は道順のことでしかないのだね、、

238 :
491>>624
>畿内で三角縁神獣鏡が盛行しているときに、
沖ノ島の祭祀遺物でも三角縁神獣鏡が使われているww<

宗像は,出雲系の陶ケンが出土しているから、元は出雲系であったのであり、
壱岐対馬沖ノ島の天孫族(阿毎氏)が出雲に国譲りをせしめたために、
糸島の天孫族の支配下になって、宗像は沖ノ島祭祀を継承従事し、
そして、糸島の阿毎氏から神武が大和に東征したので、大和も沖ノ島祭祀に参画する事になり、
だから、三角縁神獣鏡の奉納も起き、
更に、大和の継体が阿毎氏の磐井を倒して糟屋を得て、
秦王國として九州倭国の王家に参画出来てから、
大和は、更に強く沖ノ島祭祀に参画した。

239 :
491>>634
結局また大和説の根拠は 「南→東」などのように、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、「オレ様がそう思ったから」
しか無かったようだ 。

それに対して、九州説者の論理は、いずれも大体、
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論であった、
という事で共通しているようだ。

240 :
>>239
それは
もちろん

真っ赤な うそ

 

241 :
491>>635
>古墳時代の最初期に、九州最大級の那珂八幡古墳をその首長墓として造営し
畿内様式土器を地場の胎土で生産して九州各地に配ってるからねw <

お気の毒だが、これが×ね。
「前方後円墳という墳墓形式」は、筑紫の那珂八幡などが最も早く、
「それに伴う祭祀用供献土器」の庄内も、
筑紫は(筑紫の胎土での)3世紀前半からであり、
大和の石塚の庄内1は、3世紀末。
つまり、筑紫が先行であり、大和などは、九州倭國の「東征毛人五十五國」のおかげ。

242 :
491>>637
>流行り物を取り入れる一方で沖ノ島には内行花文鏡もあったわけで、
畿内説が三角縁神獣鏡だけ取り上げるのは偏向であることがわかる。<

成程。ヤマタの鏡ね。

243 :
>>241
なんど
真っ赤なウソを
連呼しても

九州説の信用が落ちるだけ

244 :
>>194
箸墓が崇神の時に造られたって、そういうことだったのかよ!(さまーず三村)

245 :
前スレ>936
>また、周教授のように揚子江河口を会稽東治とする学者もいる
周徳望教授なんていないww

246 :
>>101
>弥生時代の削刀、案(文机)

九州のどこで出た?ww
ウソつきww

247 :
>>105
>3cの前方後円墳がない九州

那珂八幡古墳とかは3世紀だろ

248 :
九州説にはウソをつくことを恥ずかしいと思う文化がないのだな

249 :
491>>681
>九州はX式段階から畿内の強い影響を受け続けているのが分かっている <

第X様式に関しても、
筑紫と大和の庄内の先後は筑紫の方が50年位早いから、
第X様式も、筑紫の方が大和よりも古い可能性があり、
だから、大和が九州の影響を受けた、という可能性が十分にある。

250 :
>>163
九州説の一部に、島巡り仮説(インチキ)を主張するものがあって、
対馬と壱岐の方可四百餘里と方可三百里の「二辺分」行程に入れ込むっていうインチキ読みをしてるww

251 :
491>>683
>北部九州でもそれぞれの地域の盟主墳はみんな
前方後円墳=畿内中心の祭祀連合の墓制に従ってるんだけど?<

ダメだ。
筑紫と大和とでは、庄内は筑紫の方が50年位古いし、
前方後円墳も、筑紫の方が大和よりも20年位早い。

252 :
>>217
>勝手に日数も道里だなどと言い張る畿内説はおかしいよね?

勝手にじゃないねぇ

魏志倭人伝が書かれた時代に通用していた算術書の道里に記述に里数が一切書かれておらず
道里を使った計算に使う数値が日数で示されていることを根拠として明示してある

253 :
>>247
那珂八幡古墳は径百歩にはほど遠い

254 :
前スレ>657
>なお、其の(8国の)餘の旁國は遠絶にして不可得詳細なり、と読む。
> 今仮に「自女王國以北」の8国すべてについて「其戸數道里可得略載」であるならば、
>この、自女王國以北 其戸數道里可得略載、の内容は自明のことであり、既述された事実となる。
>つまりこれは、ここに書きいれる必要の全くない重複・冗長文なのである。

「今仮に「自女王國以北」の8国すべてについて「其戸數道里可得略載」であるならば、」
文を読む能力が低すぎるww
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」は、それ以前の部分の重複・冗長文「ではなく」
それ以降の余傍国に「戸数道里が書けない」ことの説明なんだよ

投馬国はどうやっても女王国より以北の国

255 :
九州説は現実を見なかった事にして
妄想をたれ流すだけになり果てた

256 :
>>253
そうだよ

3世紀時点で畿内の前方後円墳祭祀受け入れた、畿内の協力者が北部九州最大国・奴国の
首長だということを示す墓だ

そして纒向石塚古墳より小さいことから、纒向石塚古墳の被葬者より格下であることも分かる

257 :
>>252
比較・比例計算をまだ理解してないの?
均輸 1の設問
   行動日数で労働の配分・平等化を図ってるのだよ。それが道里遠近(遠近の比例)
均輸 4の設問は 距離÷速度で労働日数を割出してるのだよ

258 :
491>>704
>南至・水行二十日が道里略載の表現で、投馬国が女王國より以北の国ってだけで十分<

不彌國で、女王之所都への萬二千余里がほぼ終わっており、
南至投馬國で、投馬國説明は側副傍線国説明になり、
水行二十日が不彌國からの所要日数の位置説明になり、
だから、投馬国が女王國より以南の国ってだけ。

259 :
後漢書も同じく
FAQ78で引用している>其国大小、道里近遠、人数多少、<
も同じく、比較であり絶対値を示すものではない

260 :
>>256
奴国は伊都国より格下であることが魏志倭人伝から明白だからねw
畿内からやってきた集団は伊都国の支配下なんだろw

261 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏が、焦りだすのが分かったので、、、
「帯方から12000里にある女王国の入口は、伊都国と奴国の境界であり、奴国や奴国から南の国々が女王国なのだったな、、、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
だから、邪馬台国から女王国の境界の尽きる奴国まで次々に紹介された国々は、送られた生口や中国人にとっては、邪馬台国から「自女王国以北」までの宿泊地なのだったな。。
だから、邪馬台国から、北部九州の港までは、約1月かかるのだったな。。」
という真実を何度も発表すれば、良いな。。。

262 :
>>1
破綻した邪馬台国畿内説が、またしても完全に論破されましたね。。。

263 :
>>257
>行動日数で労働の配分・平等化を図ってるのだよ。それが道里遠近(遠近の比例)

「労働の配分・平等化」の内容が「移動であり輸送」で、それが「道里」で書かれているんだよ
そしてその道里が日数で書かれている

そして
「道里遠近(遠近の比例) 」これが全くのインチキ

道里遠近は「道里が遠いか近いか」というだけ
「行道八日は行道十日より近い」「行道十三日は行道十日より遠い」というだけのこと

比例配分するための比例係数「衰」は、戸数/道里で算出する
欲以道里遠近,戶數多少,衰出之
その道里の計算に使う数値として里数は示されていない

この時点で「道里は里数でなければならない」という主張は否定される

264 :
>>260
>奴国は伊都国より格下であることが魏志倭人伝から明白だからねw

どこにそんなことが書いてある?

>畿内からやってきた集団は伊都国の支配下なんだろw

逆だよ
伊都国がヤマトから派遣された一大率に検察される立場

265 :
>>258
不彌国までではまだ1万7百里
邪馬台国はそこから南に計水行30日陸行1月の沖縄辺りになる会稽東治の東と魏志倭人伝には書いてある

266 :
魏志倭人伝の女王国が
1.卑弥呼を共立した連合範囲
2.卑弥呼が都するところの邪馬台国
の2種類の意味で使われているものが混在しているのでちゃんと見分けないといけない

まあ、女王国=邪馬台国の意味で使われているのは「自女王國以北」の2ヶ所だけだけれど

そして質が悪いのは、女王国「以北」に女王国が入ったり入らなかったりしていること
陳寿はそこまで厳密に書いてない

267 :
>>259
>FAQ78で引用している>其国大小、道里近遠、人数多少、<
>も同じく、比較であり絶対値を示すものではない

流石にこれは酷いウソだな
各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料なのに
理由に一言も言わずに歪曲する
九州説はほんとに恥を知らないな

268 :
>>266
女王国は魏志倭人伝の行程中に出てきた国の中で一番南という想定で書かれている

269 :
491>>715
>>でも年代比定を無視した意見は不毛だよ。<

>編年研究は信じない!(キリ)ってやつだねww <

「南→東」などの史料事実の否定曲解をする通説大和説学者の「編年研究」なんか、
信じられないよ。

>現実はすべて九州説の敵だww<

文献考古の史料事実や史料実態の否定や曲解の嘘吐き騙しをする大和説者らは、
全て、学問や科学や人類の敵だ。

270 :
491>>717
>国力は動員力だ
そして、古墳時代に入ると、動員力・国力の大きさは古墳の大きさで可視化される<

古代の大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の旧小国の一つであり、
古墳の大きさは、東征将軍らが必要に応じて、決めた。

271 :
491>>719
>纏向祭祀は邪馬台国と女王国成立に主要な役割を果たした重要な構成国と、
女王国と対等のレベルの狗奴国や出雲のような大国が参加するものであると理解できる <

「南≠東」などに拠って、×。

272 :
おうザラコク
お前のあまりの狂いっぷりに九州説のお仲間も呆れて誰も居なくなっちまったぞ

273 :
>>268
>女王国は魏志倭人伝の行程中に出てきた国の中で一番南という想定で書かれている

自女王國以北と書いてあるところではそうだけれど、
余傍国記述の最後の此女王境界所盡を見ると、余傍国の最後まで女王の境界の内側としているから
記述ごとに女王國が何を意味するか考えないといけない

274 :
>>273
いけなくねーよ
女王国は沖縄辺りの会稽東治の東にある倭の極南界にある国

275 :
もうこのネタ実益ないからやめようか

276 :
どっちに転んでも九州説に不利だからな

277 :
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

例えば、1と5は伊都国と狗奴国について、女王に従うかどうかを示した文章で、ほぼ同じ文型を取っているけれど、属の目的語が「女王」と「女王国」になっている
5の「女王」は卑弥呼個人に属する(さない)というのは意味がないから、事実上「女王国」だろう

9と10も同様に、10の「女王」を去ること四千餘里も「女王国」でいい

結局女王国というのは、倭国の中で卑弥呼の都する国・邪馬台国に「属」する国の範囲をいうのだろう つまり「女王国」≠「倭国」
さらに言えば、「女王国(伊都国、邪馬台国を含む)」+狗奴国+α=「倭国」
ただ、属する、というのが、帰属、所属くらいの意味なのか、隷属を意味するのかは分からない

2,7は「自女王國以北」が共通していて「自(より)」で起点を示しているので、この起点となる「女王国」が広範囲だと、文意が取りづらくなる(取れないとまでは言わない)
この二つは「女王国」=女王がいる国=女王が都する国・邪馬台国と読む方が素直

278 :
家(『王母 龍宮 鳳 寒いな〜』)が、
お前の家の奴隷で・・・、工事現場(不明)で仕事をしていたと?

「wwwwwwwwwwwwwww」(大爆笑)という意味

そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞw

279 :
>>268
>>266
>女王国は魏志倭人伝の行程中に出てきた国の中で一番南という想定で書かれている

つまり伊都国、奴国、不弥国が女王国

280 :
>>274
倭の極南界、すなわち倭奴国が女王国ということじゃん。

281 :
王母〜?
中国の話だと書いてあるだろう、あと中国人だとも書いてあるでしょ、
・・・だと思われると言ってる人たちもいたり

何が嫌なんだろう、お前よりも上の家だからなんだろう

282 :
女王国ほぼイコール邪馬台国
倭国=邪馬台国+狗奴国+投馬国+海東の倭地

283 :
>>280
>倭の極南界、すなわち倭奴国が女王国ということじゃん。

それ順序が逆
三国志で、奴國此女王境界所盡と書いてあるので、
後漢書でそれを見て倭國之極南界也と書かれた

284 :
>>279
九州説って文献無視しすぎだね
伊都国は女王国に統属してるんだから
女王国のわけないのに

285 :
他のスレにも書いたことがあるんだけどw

一位、二位〜???七位・・・不明、そんなものは、あまり関係ない

286 :
そのような制度があったでしょ、
そもそも日本の話でもないし、天皇(日本の)が〜というのも関係ない

本当に精神病院に行ったほうが良いぞw

287 :
騙り、成り済まし・・・にはw
何を言っても、わからないんだろう

288 :
家と同じ名前の家があったりするけどw

正確には『かっぱっぱー』(あの写真w)の家ではないでしょ?

289 :
まさか・・・?
川崎区というところに住んでいるんだけど、そこの南部のほう、
むかーし住んでいたというところは他のところなんだけどw

290 :
一位、二位〜何やら〜とか書いてあったりするでしょ?
そもそも日本の話(制度)でもないし

291 :
九州説
 それは学問の敵

九州説
 それは害悪

292 :
本当に仮面ライダーと同じような話でしょ、脳改造(嘘の記憶、ストーリーなど)


これが事実『倭人 朝鮮人』

あと、むかーしの渡来人?の話、
頭の良い人たちがいて〜と言っている人がいたでしょ、

293 :
天皇と名乗っている人物(家)の話でしょ

『倭人 朝鮮人』

294 :
本当に、お前たちの話はデタラメ。

倭人というのがいて・・・、
朝鮮半島、中国〜大陸、いまのロシアのほうまで進出して国を建てたとか。

脳改造されたんだろう

295 :
河童の話、河童には耳が無いと言っていたり、読んでみた?

小説『河童』


あの『源平討魔伝』琵琶法師とか

296 :
Gary Moore『After The War』・・・『源平討魔伝』?

なぜ同じなんだろう、あと『』『』『』その他

297 :
『Yngwie Malmsteen - Best of [HQ]』

これも同じようなコンセプト()でしょ

298 :
>>267
>各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料<
その絶対値を示してくれませんか?

299 :
>>267
>各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料<
その絶対値を示してくれませんか?

300 :
うっかりスレ荒らしをしたせいで滅ぶ九州説

301 :
491>>733
>>県ごとに、戸(の数)は多かったり少なかったりの差があり、
     行道(の日数)は遠かったり少なかったりの異がある
>戸数多少の「差」と、道里遠近の「異」で、あわせて「差異」<

>おんや? 戸数多少の「差」のところはそのままだが、
行道(の日数)は異がある、の部分は道里遠近の「異」に変わってるな??<

そうなんですよね。
類スレ主は、「南→東」などの嘘吐き騙しの時と同じように、
国民を騙そうとして、
「行道(の日数)→道里遠近」と書き換えるインチキを、
ずっとやり続けているんですよね。

302 :
>>263
少しづつ理解できるようになりましたね
以下はいまいちですが・・・
>道里遠近は「道里が遠いか近いか」というだけ
「行道八日は行道十日より近い」「行道十三日は行道十日より遠い」というだけのこと<

303 :
491>>734
>その物部氏が凋落するのは、仏教の導入により、祭る神が神道の神ではなく仏教の神になったからである。
仏教の導入に反対した物部氏は蘇我氏により倒された。
その蘇我氏の祖というのが、筑紫において倭国の全権を掌握していた武内宿禰なのである。
筑前一宮の住吉の神は武内宿禰の別名である。
筑後一宮の高良の神も武内宿禰の別名である。<

ふーん、成程。

304 :
全てが論破されて発狂する九州説のさまをゆったりと眺められるスレ

305 :
>>302
少しヒント
本題の水行に置き換えて考えてください
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
道里遠近は「道里が遠いか近いか」というだけ
「水行八日は水行十日より近い」「水行十三日は水行十日より遠い」というだけのこと<<
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

306 :
491>>756
>そうなるよな 女王国以北は倭国ではないことになる。<

一大率は検察する地は、当然女王共立國の範囲内であり、倭国の範囲にもなる。

307 :
距離は里でも移動日数でも表せるという
当たり前の事を否定しないと崩壊する支離滅裂な九州説
当然言う事も支離滅裂

308 :
>>10の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>12
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲▲投馬国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓〜〜
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」〜〜
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

309 :
491>>758>(キウス)
>九章算術は、もういいと思います 博識ある方がいろいろ解説してますが
水行20日は誤情報??? ^^^
FAQ3−1 >行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、
所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる<<

キウスも、大和説学者やスレ主や類スレ主らと同じく、
「南→東」などの嘘吐き騙しと同じように、
大和説にとっては都合の悪い史料事実を否定するインチキ人間であったらしい。

310 :
>>263へでした
少しヒント
本題の水行に置き換えて考えてください
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
道里遠近は「道里が遠いか近いか」というだけ
「水行八日は水行十日より近い」「水行十三日は水行十日より遠い」というだけのこと<<
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

311 :
491>>765
>1、纒向が王都だから南は東と解説するテンプレ・・・太平洋ルートがわかりやすい<

キウスもスレ主も阿波も、
魏使らの「安全最短の人類の常識」知らずの、
・・・・アホ。

312 :
九州説で一二を争う無能のザラコクが
他の九州説にマウント取ってる様は滑稽
まさしく儒教的な態度よのう

313 :
491>>766
>道里は日数でも表現可能 投馬国では道里略載に日数が使われているだけ <

陳寿は、「道里=道の里数」説明と、「所要日数」説明とを、
違う説明であるとして、
判りやすいようにきちんと書き分けている。

314 :
>>282
>女王国ほぼイコール邪馬台国

正解!


>倭国=邪馬台国+狗奴国+投馬国+海東の倭地

時代により、異なる。
卑弥呼時代の倭国=邪馬台国+狗奴国+讃岐+淡路程度   @阿波

315 :
儒教=狂気
あらゆる物に儒教は通用しないからな

316 :
>>307
距離の定義?

2点間に対する長さの量では?

317 :
あわてません
>>267
>各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料<
その絶対値を示してくれませんか?

318 :
>>313
里と日数は違う説明だとすると
里数の行程と日数の行程は別のものという事になって
日数行程は帯方からの里数をかかった日数で書き直したものという
九州説の言ってる事は成り立たなくなる
九州説は里と日数は同じものとしなきゃ
けどそうすると今度は道里が里数と日数の事になって
投馬国は女王国以北の国という事になり
邪馬台国は九州北部という九州説の言ってる事はやっぱり成り立たなくなる

319 :
>>1
頭が悪すぎる者達が宣伝している邪馬台国畿内説が、また、完全に論破されましたね。

320 :
>>316
AからBまで100里
AからBまで2日
何もおかしくないしなぜ距離の定義と言い出したのか意図が不明
九州説はやはり支離滅裂

321 :
342日本@名無史さん2019/04/28(日) 10:52:03.18
バカのために、現実との対応の取りやすい例示で説明してやるよ

箱がたくさんあって、たくさんの箱の中である条件を満たす箱を考える
ある条件を満たす箱を今、 「特定の十個の箱」と呼ぶことにする
この「特定の十個の箱」がたくさんの箱の中のどれなのかは分からない

この時
赤の玉が箱に入っていることがあるが、赤の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
青の玉が箱に入っていることがあるが、青の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている
緑の玉が箱に入っていることがあるが、緑の玉のうち75%が「特定の10個の箱」に入っている

赤、青、緑の玉がどの箱に入っているかは独立である

この時、ある一つの箱に「赤、青、緑」の玉がすべて入っていたら、
その箱が「特定の10個の箱」ではない確率は1.56%で
「特定の10個の箱」のうちの一つである確率は98.4%になる

この多数の「箱」が「遺跡」、「特定の10個の箱」が「邪馬台国の範囲にある遺跡」と
読みかえればイメージが湧くだろ

322 :
架空の世界で、架空の奥山氏を含む宣伝係員が、10人、宣伝に失敗したので、キム委員会長の命令で、銃殺されることに、なりました、、、

処刑場には、ミサイルの作製に失敗したので、銃殺されることになった化学者が、90人、そして、架空の奥山氏を含む宣伝係員が、10人、お互いに、固まらないように、並べられました。。。

赤の玉が100万発込められた機関銃を持って、銃殺係員が、1人入場しました、、、
青の玉が100万発込められた機関銃を持って、銃殺係員が、1人入場しました、、、
緑の玉が100万発込められた機関銃を持って、銃殺係員が、1人入場しました、、、

機関銃の玉の命中率は、全弾、75パーセンテージです、、、
狙いは、架空の奥山氏を含む宣伝係員の10人でした、、
死体は、100体になり、全ての死体に、赤い玉も、緑の玉も、青い玉も、突き刺ささっていました、、

323 :
>>1
頭が悪すぎる者達が宣伝している邪馬台国畿内説が、これからも、また、完全に論破されるのではないのかな。

324 :
>>307
✖>距離は里でも移動日数でも表せるという<

水行20日の移動日数は停泊も含まれるから
稼働時間(停泊も含めた一日当たりの平均速度でも可)がわからないといけませんよ

325 :
>>320
1,AからBまで100里
2,AからBまで2日

1は距離です 
2は休みも含めた所要時間です

326 :
>>320
1,AからBまで100里
2,AからBまで2日

100里=2日×速度(1日当たりの移動距離)
よつて1≠2

327 :
>>324
じゃあ水行10日と陸行1月は
九州北部の1万2千里にかかった日数との説明はできなくなるという九州説に自己矛盾が生じるので
魏志倭人伝の水行は里数にならないとするのは倫理的に破綻してるということ

328 :
>>325
100里も休みを含めた所要時間だったらどうするよ

329 :
九州説も里数は日数でも表せるという当たり前の事を認めようよ
そして滅びよう

330 :
>>326
100里を2日
1日50里
よって2日移動=100里

331 :
それよりも『鮮卑』について調べてみて、
朝鮮人(不明)ではない人々の画像も出てきたりするから

332 :
九州説は量子論風味にデタラメ言えば少しは周りをケムに巻けるかもな
距離を正確に測定すればするほど日数は不確定になる
日数を正確に測定すればするほど距離は不確定になる
よって1万2千里は日数で表せるかどうかは不確定である

333 :
>>317
奧山はバンザイするしかないよ
後漢書では国々をすべて特定できてないのだから
>旻具答言西域本三十六国,後 分為五十五,稍散至百余国<
百余国は大きな国もあれば小さな国もある
同   遠いところもあれば近いところもある
同   人数が多いところもあれば少ないところもある

>>259
>比較であり絶対値では無い<


>>267
>各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料<

334 :
>>330
それでいいです
速度の概念が必用ですね

335 :
>>334
いらん

336 :
奧山は数字に弱すぎ
それともボケてきたかもなww

337 :
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290
解説

単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割〜8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。

失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。

http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1556294803/303

338 :
奥山氏は、頭が悪すぎますね、、、

339 :
九州説は水行10日陸行1月は1万2千里の九州北部といいながら
邪馬台国までの道里の話になると日数は里数にならないと発狂するしかない

340 :
>>339
陸行一月で詰んでるからね、九州説は。
なのでそんなに無茶苦茶な詭弁を弄さざるを得ない。

341 :
>>318
里と日数は違う説明だとすると・・・・・・・・・説明しなくても違うで○
里数の行程と日数の行程は別のものという事になって ・・・・ならない 行程(道のり)は同じ
日数行程は帯方からの里数をかかった日数で書き直したものという ・・書き直していない いずれも実数値
九州説の言ってる事は成り立たなくなる ・・・・・・・・・・・・・・成り立つ
九州説は里と日数は同じものとしなきゃ ・・・・・・・・・・・・・・同じものでは無い 距離と所要日数とは違う
けどそうすると今度は道里が里数と日数の事になって ・・・・・・・・ならない、上記参照
投馬国は女王国以北の国という事になり ・・・・・・・・・・・・・・・・・あなたのここまでの前提がおかしい
邪馬台国は九州北部という九州説の言ってる事はやっぱり成り立たなくなる ・・・成り立つ

342 :
>>333
あのーあんたに質問してるのではないのだが・・・

>>267
>各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料<
その絶対値を示してくれませんか?

343 :
>>341
全部に単純にならないならない言ってても否定した事になんねーぞ
結局のところ九州説は里数は日数とするのかしないのかはっきりしろ
どっちにしても滅亡だけど

344 :
畿内説も陸行一月では崩壊するね。

345 :
崩壊してるのは九州説の頭

346 :
>>284
>伊都国は女王国に統属してるんだから

根拠なし

347 :
>>340
日本海ルートの陸行一月は示されているが
瀬戸内ルートの陸行1月のはどこからどこまで?

348 :
>>341
里と日数は違う説明だとすると・・・・・・・・・説明しなくても違うで○
里数の行程と日数の行程は別のものという事になって ・・・・ならない 行程(道のり)は同じ

2行で矛盾

349 :
>>310
>道里遠近は「道里が遠いか近いか」というだけ

魏志倭人伝には道里「遠近」なんて書いてないだろ?

行道、陸行、水行が移動の様態を示す修飾語
道里の表現としては「○日」の部分が本体であり、道里は日数で表現できる

350 :
>>283
>それ順序が逆
>三国志で、奴國此女王境界所盡と書いてあるので、
>後漢書でそれを見て倭國之極南界也と書かれた

これは間違い。
魏志倭人伝では邪馬台国の南にも狗奴国などがあるので、極南界ではない。
後漢の頃は倭奴国より南の情報がなかったのだろう。
つまり、後漢書は三国志とは別の情報源があった。

351 :
九州説は里数は日数でありかつまた日数でないという
量子論じみた世界に住む異次元人

352 :
>>334
>畿内説も陸行一月では崩壊するね。

しないよw
丹波から大和まで陸行でいいw

353 :
>>330
>100里を2日
1日50里
よって2日移動=100里<


あのーー1日33里移動すると3日になるのだけどーー

354 :
はい

355 :
>>328
>100里も休みを含めた所要時間だったらどうするよ<

あのーー愚論
知人に聞いてください

356 :
>>346
>根拠なし

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、『皆統屬女王國』

統属してるねぇwwwwww

この「根拠なし」とかの一言書き込みを多用する人が「邪馬台国の会」の関係者でしょ?
バイトじゃなくて、中の人ww

357 :
地図上の直線距離では1kmでも
まっすぐな道のりと山あり谷ありの起伏に富んだ道のりではかかる時間=里数が違ってくるのだ
里とは相対的なもの
相対性里論

358 :
>>353
>あのーー1日33里移動すると3日になるのだけどーー

その場合でも、3日という日数で表現できるね!

「道里が日数で表現できる」としか言ってないんだ

別に日数と里数の換算が固定されているかどうかはどうでもいい
実際、九章算術でも荷を積んだ車と空車では1日あたりの移動距離が違いって書いてあっただろ?

でも、目安となる標準はあるし、日数でも「行程の長さ=道里」を「表現できる」のは変わらない

359 :
>>357
>時間=里数

これは間違い

時間は道里の表現法の一つ、というのが正しい

360 :
>>348
ゴメン
確かに矛盾しているね「里数の行程」という摩訶不思議な言葉に引っ張られてしまいました
直すよ・・・
里数の行程と日数の行程は別のものという事になって・・・別物でいい
                           水行の場合
                          「里数の行程」これは直線距離
                           日数は実際の運航行程を移動した日数(停泊も含む)


他 あれば指摘してください

361 :
>>10の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>12
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓〜〜
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」〜〜
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」

362 :
>>357
その場合、里数って実用的な意味がないんだよね
つまり、人は距離を時間で表現したいって需要があるわけ
道理にはニーズに合わせて、いくつも表現法があってよい

363 :
>>360
> 水行の場合
> 「里数の行程」これは直線距離

そんなもの測れないでしょ

364 :
>>361
帯方郡→女王之所都12,000里は、帯方郡→東冶12,000里の転用か

365 :
>>360
じゃ九州北部が1万2千里と九州説が言ってるのと
水行10日と陸行1月は水行10日が帯方から九州上陸
陸行1月が邪馬台国までの陸行と言ってるのとどう整合性をとる

九州上陸までの1万里を水行10日で1日あたり千里
二千里を陸行1月で1日あたり70里と直せるではないか
里数と日数は別のものという言い分は明白な自己矛盾

366 :
491>>812
>ダイワとしか読めない大倭を「ヤマト」と読ませるのは
魏志倭人伝の「大倭」に由来するとしか考えられない
・魏志倭人伝では邪馬台国を大倭と表現した
・倭国ではヤマト(奈良)に「大倭」の漢字を当て字した
邪馬台国が奈良ではないとしたら この2つが偶然の一致ということになってしまう<

「ヤマト」の音は、 おそらく、
九州の「邪馬(山)部族の国の門戸(入り口)」の意味。
「大倭」は、九州倭國の地方の市を監督する身分名の「(使)大倭」)から来た。
古事記伝承では、神武の後の欠史八代の中の四人の呼称に、
「大倭」文言が入れられているから。

367 :
>>156
ああ言えば上祐、奥山誠義!w
社会実験、畿内説!www

368 :
>>362
実用的だろ
機械的な直線距離より歩いてどのくらいかかるかの目安で示された方が古代ではずっと有用
1日歩行で60〜70里と大体の目安があったようだし
里とは直線では同じ距離でも道のりや起伏でかかった移動時間で伸び縮みする
相対性里論

369 :
>>349
だから、FAQ78のAに九章算術や後漢書を持ちだす必要はないのです
あなたのおっしゃる通り 水行は移動を表現しています


>なお実際、九章算術でも荷を積んだ車と空車では1日あたりの移動距離が違いって書いてあっただろ?<
これは九章算術均輸の設問4ですね
設問4は距離÷速度=時間(日数) つまり労働日数を出させる式です・・・ここでは倭人伝にない速度が記述されています
均輸の設問1は、労働日数が記述されてますからこの計算は不要なのです だから設問1では道里(距離?)には言及していません

370 :
>>367
畿内説が淫死邪教・オ〇ム真理教で、上祐史浩がスレ主・奥山正義(奈良県橿原考古学研究所研究員)ってこと?

371 :
>>368
>機械的な直線距離より歩いてどのくらいかかるかの目安で示された方が古代ではずっと有用

勝手にほざいてろ

372 :
訂正
✖スレ主・奥山正義→〇スレ主・奥山誠義(奈良県立橿原考古学研究所研究員)

373 :
>>371
おうほざくよ
古代では正確な距離は測りようがないので
歩きで移動するのにかかる大体の目安でしか距離を出しようがないし手間もかからないし
感覚的に理解もできるしはるかに有意義
里とは絶対的な距離とは違う相対的なもの
相対性里論

374 :
>>360
謙虚でよか
奧山に爪の垢を煎じて飲ませたいナ

375 :
>>370


〜代目マシモト(ポケモソの声優)の座を狙っているんだろ


有名でしょ『ポリゴン 事件』

376 :
しかし、研究員の分際でここまで言い切ってしまっていいのだろうか?>奥山

377 :
491>>825
>>范曄は、表題文言からして「倭」であって「倭國」ではなく、<

>だから「其」の指すものが「倭」なんだよ
だから「其国」で「倭国」を指すことになる<

いや、「去其國萬二千里」の「其國」の前に書かれた國名は、
「其大倭王居邪馬臺國」の「邪馬臺國」だけだから、
「邪馬臺國」を指している事になる。

378 :
キナイコシは弥生時代の倭人が相対性理論を使っていたと?

379 :
>>378
相対性理論じゃなくて相対性里論だよ

380 :
>>363
測れる 目的地が見えていれば中国の古代天文学でたやすく測れる
    対馬から韓国は見える
    対馬から壱岐は見える
    壱岐から北部九州は見える

381 :
>>367
「奈良県立」橿原考古学研究所の我田引水(県からの補助金確保)、畿内説!

382 :
対馬〜壱岐〜九州北部を測ったんなら
全部一律千里ピッタリになるのはおかしいではないか

383 :
491>>836
>どう考えても後漢書の「大倭」も魏志倭人伝からだろうw<

いや、魏志倭人伝の「大倭」は、
倭国の地方の市を監督する「(使)大倭」という地位身分を示しており、
しかし、後漢書の「大倭王」は、宋書に書かれた、
「自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」
のような、
「数か国以上を督する大倭王」を意味させており、
全く違う。

384 :
>>358
コミュ障の極致

385 :
>>373
物理尺の現物によって妄想

386 :
>>369
>均輸の設問1は、労働日数が記述されてますからこの計算は不要なのです だから設問1では道里(距離?)には言及していません

真っ赤なウソ
言及してる
「欲以道里遠近、戸数多少、衰出之。」

つまり所用日数で表現しても「道里」なのだ

387 :
>>384
旧醜説は論破されると罵倒だけになるので
じつに解りやすい

388 :
>>363
周髀算経で距離測定は可能じゃねーか
適当ww

389 :
>>385
上から見た見かけの直線距離が同じでも
起伏があると移動時間が変わる事実で現実

390 :
>>344
>畿内説も陸行一月では崩壊するね。

だから、成立するのは倭国(阿波) だけと、何度言えばw   @阿波

391 :
>>373
里にこだわっているが、人類の常識的感覚ではそれを日数で把握しているよ

地理的な離れ具合 遠近を日数で計ることと
道里を日数で表現することは全く意味が異なる

392 :
491>>842
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説がやってるのは、
都合の悪い「史料事実や史料実態」の否定曲解の、
学問や人類の常識などの無視

393 :
>>384
>コミュ障の極致

そういうふうに自分から罵り言葉で会話を打ち切って意思疎通を拒否する常習者を
世間じゃ「コミュ障」と言うんだけどね

394 :
人間にとって重要なのは
 どのくらいの時間で到着できるか
 労力はどのくらいかかるか
 予算はどのくらい必要か
だからね

395 :
>>391
史書に出てくる百単位の里は基本歩いた日数を換算した相対的なもの
もちろんモデルケースや正確に測った場合は違うだろうけど

396 :
倫理思考が破綻してて時おり発狂する九州説の方がよほどコミュ障

397 :
>>387
畿内説は不利になると罵倒ばかり

398 :
>>382

誤差だろ

399 :
>>398
それじゃ測る意味ないだろ

400 :
>>380
>測れる 目的地が見えていれば中国の古代天文学でたやすく測れる


測れる 目的地が見えて・い・な・く・て・も、現実に測れている。 

15世紀だが、測量に関しては古代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。   @阿波

「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg

401 :
>>399
誤差はあっても、測る意味はあるだろう。
バカか?

402 :
測ったとしても帯方から沖縄までの距離だよ

403 :
>>401
最大で倍ぐらい誤差があるんだが?

404 :
>>403
弥生時代だもの
それくらいの誤差は大目に見ろよ

405 :
>>380
>測れる 目的地が見えていれば中国の古代天文学でたやすく測れる


測れる 目的地が見えて・い・な・く・て・も、現実に測れている。 

15世紀だが、測量に関しては古代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。   @阿波

「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg

406 :
>>404
だったら測る意味がないだろ
適当に全部千里にしとけばいいんだから

407 :
491>>912
>魏志西域伝には大月氏までは1万6千3百里とあるようだ
邪馬台国までの距離がそれに対抗したものだとすると
なぜ1万2千里から南に4千里なのかも説明がつく <

魏朝の正使である魏使らが、
「大月氏までの距離に対抗する」という嘘つき騙しのインチキ忖度をした事が、
バレれば、
そりゃ、皇帝を騙した事になり、首が飛ぶから、
魏使らは、普通の人間であれば、そんなインチキ忖度をしないもの。

408 :
>>380
>測れる 目的地が見えていれば中国の古代天文学でたやすく測れる


測れる 目的地が見えて・い・な・く・て・も、現実に測れている。 

15世紀だが、測量に関しては古代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。   @阿波

「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg

409 :
>>397
>畿内説は不利になると罵倒ばかり

畿内説は不利になったことがないので
罵倒ばかりになったこともない
実にわかりやすいな

410 :
>>407
1万2千里に4千里足したのは恐らく陳寿

411 :
>>382
確かに
1〜2割ぐらいの誤差はあってもいいが

対馬のどの地点から壱岐のどの地点 
同じく北部九州のどの地点かによって誤差は出るだろうが
魏使のみぞ知る

412 :
>考古学は物的証拠が全てなのだよ
>勝負あり(´・ω・`)

まさに、勝負あり(´・ω・`)だね。  ワハハハハ   @阿波

413 :
>>411

それは、この地点だよ。   @阿波

帯方郡

↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m

狗邪韓国

↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m

津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)

↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m

一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)

↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m

末盧国(四千戸)(福津市辺り)

414 :
>>411
島々の間を測ったとの確証がない
これすなわち測ってないのと同じこと

415 :
桜バイト連中もネタ切れか、
おんなじフレーズで堂々巡り・・、でも、なんとかスレが進めばゼニにはなるがww

416 :
>>414
同じだという根拠は?

417 :
>>411
そもそも千里余とあるから、誤差があることは陳寿も認識している。
自然の距離だからぴったりの数字にならず誤差があるのは当たり前。

418 :
>>416
オレは実はハーバード大卒でNASAに勤める超エリート
証拠は出せないけど

419 :
>>418
そんなことは聞いてない。

420 :
>>382
津島国 方400里
一支国 方300里

このあたりで誤差は出るな

421 :
>>411

それは、この地点だよ。   @阿波

帯方郡(平壌)

↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m

狗邪韓国(順天)

↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m

津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)

↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m

一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)

↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m

末盧国(四千戸)(福津市辺り)

422 :
>>419
いや本当にアメリカに住んでる超エリート
年収3億
証拠は出せないけど

423 :
確証になるもの出せないけれど
九州説は信じてくれるんだろ

424 :
対馬の方が大きいと理解しているが、比率はかなり誤差があるから、まあ弥生時代の測定はその程度なんだが、彼等なりにちゃんと里数を記録したんだろう。
想像の数字を設定したというのは、明らかに誤まりだ。

425 :
>>422を見てて
九州説の懲りない面々は
自分がやってることを恥ずかしいと
思わないとしたら
人間やめてます

426 :
倭人は里を知らず日数で距離を表す

427 :
>>424
いつも「弥生時代の測定」とか言ってるけど
誰が測ったのよ?

428 :
スペースシャトルで宇宙に行った時は地球が綺麗だったなあ

429 :
>>421

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。   @阿波

430 :
陰陽とか円周率とかやりだすととことんやりそうな中国だけど見えてる島に向かうのに距離を正確にしようとは思わないよ、大体こんなもんでいいなだよ。

431 :
トンデモさん達、まだ飽きないの? わはははは   @阿波

432 :
阿波は飽きた

433 :
491>>983
>それを言うなら魏志倭人伝も12世紀の成立<

それを言うなら、古本写本以外のほぼ全ての中国文献は、12世紀以後の成立。

434 :
いや、マジで阿波はおもしろい。  遺跡発掘の度に、いつもわくわくする。   @阿波

435 :
491>>988
>邪馬台国は大和<

「南≠東」などに拠って、×。

436 :
今だよ!  恐竜時代と古代をやるなら!  阿波一押し!   @阿波  

437 :
>>433
いや、同じじゃないのだ
三国志は大幅修正が入ったことが判ってるからねえ

438 :
ところでトンデモさん達、 もうネタに錆やカビが出てないかい?  わはははは   @阿波

439 :
阿波にはキノコが生えている

440 :
492>>143
被害妄想の「南→東」まどの嘘つき騙しの偏執狂の大和説者が、
陰湿なイヤガラセをして
大和説の評判をさらに落としているな

441 :
>>427
郡使だよ。
倭人は里数を知らないから。

442 :
492>>153
>>『弥生時代鉄器総覧』<

>今は卑弥呼の時代は古墳時代に入っていたと考えられているから、
弥生時代の数で見てもしょうがない <

これもまた、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者に特有のインチキ。
大和説者は「古墳時代」として、古墳≒前方後円墳というインチキをしているが、
卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではなく、前方後円墳時代ではない。

>そして、古墳時代初期のホケノ山古墳、椿井大塚山古墳、黒塚古墳の3つだけで
鉄鏃の数は福岡の弥生時代全期間の数を超える<

ホケノは、有棺有槨で庄内3〜布留であるから、3世紀末〜4世紀。
椿井大塚山古墳、黒塚古墳は、竪穴式石室だから4世紀であり、
いずれも卑弥呼の時代ではなく、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓であり、
だから、鉄鏃も多い。

443 :
492>>156
>後漢書も編集されたのが5cで成立はそれ以前
記述内容の最古の部分は1世紀の後漢と倭奴国の時代に遡る
范曄が5cにそれまであった後漢書を編集したからといって
書かれている内容をそれ以前の時代の参照にしてはいけない理由は何もないのである <

後漢書は、5世紀半ばの執筆であり、
倭に関しては、3世紀の魏志などの記載を、
5世紀時点での范曄の「自己解釈に拠る書き換え」がなされた箇所が多いから、
3世紀の魏志記載の証拠にはならず、半分×書。

444 :
(郡使が通過した)女王国より北についてはおおよその里程を記載できる。
(そして記録は伊都国、奴国、不弥国までで終わっている)

445 :
492>>163
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをし、
考えもなく国粋皇国史観儒教の怨念に突き動かされているだけの大和説者。

446 :
492>>164
>魏志がいくら短里で書いてあっても
短里を具体的に証明するものがなければ循環論法<

周代以前の「大陸東西幅の歩測」結果や、
周髀算経や淮南子の一寸千里の存在や、
山海経や戦国策や如淳注や文穎らの記載や、魏志や江表伝や海賦や梁書や書紀などでの、
短里記載の存在が証拠。

>1歩≒1尺の尺定規とか<

尺定規の寸法は、周代から殆ど変わっておらず、
短里の論拠にも関係がないから、×。

447 :
反日本政府の怨念に突き動かされているだけのザラコク

448 :
492>>165
>楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその纒向王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
>大魔王は纒向邪馬台国にいる。<

「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
纏向説は、「南≠東」などに拠って、×。

449 :
492>>166
魏志の「里」記載に関しての、
具体的な証拠がさっぱりない「長里」説の、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者。

450 :
>>448
>大魔王は纒向邪馬台国にいる。<

なぬ、大魔王とな!

451 :
桜バイト連中もネタ切れ・知恵切れ・脳みそ切れか、
でもまぁ、なんとかスレが進めば、小ゼニ稼ぎにはなるんだろうなあww

452 :
492>>168
>魏で使われていた一里437mの魏里は<

魏朝里は、一里437mではない。

>その当事に使われていた1尺=24cmの定規の実物が見つかっている <

尺定規やその寸法は、周代から殆ど変化していなかったから、関係がない。

>一方九州説がいつも周、漢、魏で使われていたとホラを吹いては自爆する
1里75mだったとされる短里には1歩≒1尺になっている尺定規などの実物が一切見つかっていないのである<

「一尺定規」があれば、一歩定規の近似的代用になるし、
一足底長も「一歩定規」の近似的代用になる。

453 :
今だよ!  恐竜時代と古代をやるなら!  阿波一押し!   @阿波  

454 :
>>411

それは、この地点だよ。  

帯方郡(平壌)

↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m

狗邪韓国(順天)

↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m

津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)

↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m

一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)

↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m

末盧国(四千戸)(福津市辺り)


狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。   @阿波

455 :
492>>183

456 :
492>>183

457 :
>なんで数ある有力豪族の内の一豪族に過ぎない忌部氏のしかも一品部にすぎない阿波忌部だけ特別視する必要があんだよ


ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。

忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。

その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波

458 :
九州説はどこにも出典がない話ばかりしてる
おかしな左翼政治思想に狂った無学な老人がトンデモ本を読んだだけの知識で妄想を垂れ流すだけの九州説だな

459 :
ごめん。492>>183の投稿ミスで、再投稿。
>帯方にいたのは漢の役人だったので 使われていたのは漢里<

魏志の東夷伝での、遼東や玄菟や扶余や高句麗や韓などの記載では、
明らかな「短里」が使われているから、
公孫氏も楽浪や帯方の役人たちも、魏代になれば、魏使らと同じく、
おそらく、魏朝の里(短里)を使っていた可能性が高い。
また、陳寿は、
記録などを(自己解釈に拠る書き換えをしない性格であるようだから)、
役人たちの記録をそのまま転載していた可能性が高い。

460 :
492>>185
>正確な距離や道のりはどうせわからないのだから
そんなことをあれこれ言うよりも 実用的には遠隔地まで 何泊 でいけるかの方が重要だ<

いや、中国では、
周代には「里」の距離計測は、かなり出来るようになっており、
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測が出来、目測や所要時間測や日数測なども、
かなり出来ていたし、
有効数字1桁概数程度の計測もかなり出来ていた。

461 :
魏志倭人伝に南の方と書いてあるのに東の近畿が候補にあがるのはなぜ?
南だと太平洋だからなんてのは答えにならないからね。

462 :
>>461
>魏志倭人伝に南の方と書いてあるのに東の近畿が候補にあがるのはなぜ?

8世紀に大和朝廷が興ったから、候補にあがっただけ。   @阿波

463 :
>>393
オレオレ定義乙

464 :
>>367
>>156
>ああ言えば上祐、奥山誠義!w

その>>156のコピペ貼ってるの九州説のやつだぞww
嫌がらせとして長文コピペを貼ってるw
たぶんやってるのは連続句読点あたり

465 :
>>395
では道里を日数で表現しているという主張に根拠がなくなったね


ーーーーーー終了ーーーーーー

466 :
492>>191
>歩き移動は1日60里という基準があったらしいんだよ
日数で書いてれば里数に直せるし逆もしかり
ゆえに行道八日は480里という表記と同じく道里を表している<

九章算術などの私的な算術書は、魏朝の公的度量衡を使わず、
私的個人的な度量衡や、秦漢朝の度量衡を使っているから、
魏代文書の度量衡根拠には使えず、
三国志の裴松之注の「陸行は車駕1日300里、歩行1日200里」の方が、
根拠になる。

467 :
琉球説を推してるのか

468 :
>>369
>だから設問1では道里(距離?)には言及していません

これがウソ! 大間違いww

欲以「道里遠近」,「戶數多少」,衰出之

問題文のメインのところにばっちり書いてある
そして、この道里に使う数値として「里数が書いてない」

「道里」に言及していないのではなくて、道里を使って計算しろといいながら
「里数」に言及していないんだよ

つまり、道里の表現に必ずしも里数を使う必要はないことが確定

たったこれだけのことが理解できないまたは理解できないふりで、
論点ずらしを延々と試みているのが、九州説の現在の窮状であり惨状ww

469 :
>>369
>だから設問1では道里(距離?)には言及していません

これがウソ! 大間違いww

欲以「道里遠近」,「戶數多少」,衰出之

問題文のメインのところにばっちり書いてある
そして、この道里に使う数値として「里数が書いてない」

「道里」に言及していないのではなくて、道里を使って計算しろといいながら
「里数」に言及していないんだよ

つまり、道里の表現に必ずしも里数を使う必要はないことが確定

たったこれだけのことが理解できないまたは理解できないふりで、
論点ずらしを延々と試みているのが、九州説の現在の窮状であり惨状ww

470 :
>>373
>里とは絶対的な距離とは違う相対的なもの

そういうガバガバなことを書くから、九州説に論点そらしのえさを与えることになってるんだよ

「里」は公定尺の体系の固定値である長さの単位
絶対値の長さが皇帝権力で決められている

相対的な表現になっているのは「道里」だ

「里(単位)」と「道里(概念)」をごっちゃにすると
いろいろごっちゃにしてごまかそうとする九州説にえさをやることになるから注意して

471 :
492>>197
>魏志倭人伝を読む限り、船で水行1日の行程をおよそ千里としているようだ。<

3つの海峡がいずれの「千余里」という概数になってしまった、という事が不可解。
だから、おそらく、海峡でも、
一寸千里に拠る「有効数字1桁」程度の近似値計測があったんだろう、と思う。

472 :
>>780
>測れる 目的地が見えていれば中国の古代天文学でたやすく測れる

どうやって?ww
具体的に説明してごらん?

そして、「具体的に」訊くとそこで消えてしまうのが九州説ww

473 :
>>471
>一寸千里に拠る「有効数字1桁」程度の近似値計測があったんだろう、と思う。

漠然と「思う」だけだろ
思う理由がない

それはただの欲望だ

474 :
>>384
>コミュ障の極致

この意味のない一言書き込みが、「邪馬台国の会の中の人」ww

どこがどのようにコミュ障なのかは「具体的に」一切述べることなく、
引用もとのコメントで指摘された「九州説の言い分の矛盾点」に
言及することなく逃げる逃げるww

逃げるためのごまかしww
それが九州説の書き込みの基本理念ww

475 :
>>388
>周髀算経で距離測定は可能じゃねーか

測れないよ?
周髀算経は、1里=1800尺と書いてあるから短里がないことの証明だし、
冬の午後三時でも千里離れたところの影の長さの差は1寸になるというデタラメな
蓋天説で机上の計算をしただけの書だから
https://i.imgur.com/73rgfWR.jpg

476 :
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の、奥山氏とBBA氏の頭は、出来栄えが悪すぎるので、 田舎学芸会の会員や、大学院卒の研究者ではなく、
奥山氏とBBA氏は、2ちゃんねるを活発にするために固定された頭が悪すぎるアルバイトか、氷河期の無職かのどちらかでしかないことが、バレたのだったな。。

477 :
>>393
>そういうふうに自分から罵り言葉で会話を打ち切って意思疎通を拒否する

矛盾点を突かれて、意味のある返答ができなくなって逃げてるだけの
無能な卑怯ものってだけww

コミュ障とはちょっと違うww

478 :
>>432
>阿波は飽きた

泡は永島文書で死んでるから放置でいいよ
古田武彦氏が東日流外三郡誌で死んだのの劣化版w

479 :
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。

480 :
492>>205
>そんな定規が見つかってない
九州説の言うように1歩と1尺の関係が25.5cm≒24cmなんて単位があったとしたら
互いに目盛りがそうなってる定規か何かが見つからなくては
ややこしくてやってられない
とくに短里は九州説によれば周・漢・魏と長きに渡って使われたそうだから
もし1歩≒1尺が実在したならいずれかの時代のものが最低1つは見つかるはず <

長距離計測の「里歩系」単位である歩の定規なんて、短か過ぎて使用困難。
普通は例えば「縄測」。
そして、「歩定規」の代わりになるものは、おそらく「1足底長」。

481 :
>>441
>郡使だよ。

そして、郡使であれば皇帝権力による公定尺の体系以外の単位を使うことは
皇帝権力に対する反逆を意味するから、短里を使うはずはないねww

「邪馬台国の会」でも、この辺突き詰めて論議してごらんよw

482 :
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、2ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。

483 :
>>444
>(そして記録は伊都国、奴国、不弥国までで終わっている)

これがウソww
そこからさらに水行陸行2ヶ月かけて行く遠地に邪馬台国がある

484 :
>>478
対馬海流を利用して

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)  わはははは   @阿波

485 :
>>482
だが、頭が悪い奥山氏が作製した、このレベルの低いスレッドとは全く別の、つまり、レベルの低い2ちゃんねるとは、全く異次元の、高度なレベルの、インターネットの掲示板では、邪馬台国畿内説は、巧妙に、細々と生き残っていたな、、、

486 :
>>485
邪馬台国九州学の立場の、頭が良い者達が、魏志倭人伝時代の分析を厳密に公平に実行したので、
邪馬台国畿内説という殆ど破綻した仮説にも、宇宙の全ての原子数を分母にしたときの、分子が1の確率が、完全には、叩き潰されずにギリギリで残っていることがわかり、
邪馬台国畿内説の立場の者達が、まだ、巧妙に空想を貪っているのだったな、、、

487 :
>>461
>魏志倭人伝に南の方と書いてあるのに東の近畿が候補にあがるのはなぜ?

そこに倭国の中心と想定される巨大権力の遺跡が存在するからだよ

>南だと太平洋だからなんてのは答えにならないからね。

これは根拠の下地にはなってる
つまり「そんなところに七万戸の大国がない=陳寿の認識が間違っている」と
いうところまでは『確定』
 ⇒ 魏志倭人伝の地理記述はあてにならない

そして、陳寿がはるか南方に倭国を設定している以上、行程上の南は
単に帯方郡から遠ざかる方向程度に読めばよい
∵ 行きつ戻りつする旅程はありえないから

488 :
492>>207
>1里250mになってる所もあるぞ 普通の里の方が近いんじゃ<

その「250m」というのが、
国の比定地のインチキや、出発地点や到着地点の決め方のインチキに拠る数字。

489 :
>>465
>では道里を日数で表現しているという主張に根拠がなくなったね

どうして?ww

その「では」の部分を、具体的に説明してごらん?

どうせ逃げるんだろうけどw
九州説はそんな無能しかいないw

490 :
いまだに畿内のサクラバイトが、
道里≠日数で転げまわってるな・・、自分で難題Qを出して自分で苦しむ、自業自得だ。

491 :
>>487
>そこに倭国の中心と想定される巨大権力の遺跡が存在するからだよ


やけくその、開き直りはイカンぜよ。  わはははは   @阿波

492 :
492>>218
相変わらず「南→東」などの嘘付き騙しで、
内容のない大和説だな

493 :
普段の巻向集落は、滅ぼされた銅鐸王家の死者を鎮魂する役目の、後の時代に崇神天皇と名付けられた、天皇の祖先や、十数件の建物に天皇の祖先の家族や部下や馬を飼う奴隷が住む、合わせて100人くらいの集落で、
箸墓古墳を積み上げている間に、労役を課された者達が集まり、240人程に人口が増える程度の、
夏場は、朝鮮半島から馬や奴隷を捕獲し連行していた九州王国の中国名である倭国から購入した、50頭ほどの馬が草原に飼われているだけの、都というには閑散としすぎた草原の中に疎らに存在していた集落だったことが判明してしまいましたね、、、

494 :
>>471
>3つの海峡がいずれの「千余里」という概数になってしまった、という事が不可解。

ザラゴキですら不可解と思うってことは、
測定値であると考えること自体が「おかしい」んだよw

要するに「測定値ではない=測ってない」ことが分かるだけw

495 :
>>466
>三国志の裴松之注の「陸行は車駕1日300里、歩行1日200里」の方が、

こんな文章無いですよ。
あると言うのなら原文を示してくださいね。

496 :
韓国に修学旅行に行く奈良の高校生が、弁才天の力を信じて、野球場で熱中症と闘っているのではないのかな。。。

497 :
トンデモ説さん達は、錆てカビだらけのネタを、また洗いなおして永遠に使うつもりのようだwww   @阿波

498 :
韓国と奈良は、密接な関係があるので、朝日のマスコミに奈良判定して貰える可能性もあるのではないのかな、、、

499 :
492>>223
>後漢書が三国志を参照しているという話は実は根拠が非常に薄弱
編集する際に後漢書としてある文書をそのまま編集するのが自然で
出典も出さず三国志をそのまま書く理由が何もなく不自然
実は三国志こそ当事あった後漢書の原テキストを参照した可能性が
非常に高いのである<

5世紀の范曄にとっては、「後漢代の倭」に関する記載文献自体が非常に少なく、
大半は、魏代の記録である魏志や魏略などに拠って補わなければならない状態。
だから、魏志などの記載を元にして、「後漢代の倭」の状態を、
「自己解釈に拠る推定」で書かなければならなかった。

500 :
>>498
残念ながら韓国と仲がいい人たちが支持しているのは九州説なんですよw
日本の始まりは半島の影響下にあったというストーリーにしたいんだそうです

501 :
492>>230
>じゃ何で1里=300歩≒300尺なんて九州説は一生懸命主張してるんだよ
1里=300尺でいいんじゃないの<

元々、「尺寸系」単位は、家屋以内程度の寸法表記単位であり、
「里歩系」単位の計測対象は、田畑サイズ以上の長距離計測の時の単位であったから、
両者がピッタリ合う筈もなかったから。

>魏志は短里で書かれている これは魏志に短里か使われてる証拠 循環論法 <

魏志に使われた里数記録からの帰納的推論をしたものだから、
結論先にありきの循環論法になっていない。
逆に、大和説者のように、「短里は存在せず、1里=434m位の里だけしかなかった」
という論の方が、結論先にありきの循環論法になっている事になる。

>魏里は1里約430mだからそれから見ると全部おかしいね<

それが、循環論法。

502 :
492>>231の(不足部分の)追記
>あと一日ごとの進む距離もバラバラだろうし、雨の日は進まなかった日もあるだろうし、
次に訪れる人への情報としては、日数の道里情報で十分だしね<

日数ではバラバラなんだから、「次に訪れる人」への情報として余り価値が無く、
勿論「道里」情報にもなっておらず、
「里数」記録の方が、はるかに、「次に訪れる人」にとっては参考になる。

503 :
492>>232
「南→東」や「1里→434m」や「存在もしなかった邪馬台国」などという、
嘘つき騙しの、トンデモ説が歴史学で認められる見通しはまったく立たない
したがって、それに依存した大和説が
生き残る目はない

504 :
492>>233
行程で分かるのは一つ
「南→東」などの嘘付き騙しの大和は、
女王国にさえ含まれない属国であった、と言う事
お疲れさまでした

505 :
492>>234
「南→東」などの嘘付き騙しだけでなく、
「筑紫では、庄内は3世紀前半で、前方後円墳は3世紀後半半ば過ぎ。
大和では、庄内も前方後円墳も、3世紀末」や、
「筑紫では、布留は3世紀後半頃で前方後円墳と近い頃。
大和では、布留は4世紀である」 なーんて批判に対して、
それに対する反論根拠のまったく出せないで、
「ワシの考え」で現代考古学を完全に否定しないと
大和説はまるで成り立たない、という悲劇。

506 :
邪馬台国九州学では、中国人に倭人と呼ばれていた、元々は中国南部にいた、南西諸島や沖縄や九州の民族が、朝鮮半島の南部にも進出し領有した最初の民族であり、
倭人が、朝鮮半島で鉄を採掘し奴隷を捕獲し、九州に運搬していた、という真実を究明したのだが、
韓国政府や北朝鮮政府には、その真実が都合が悪すぎるので、邪馬台国畿内説という完全に破綻した嘘の仮説を宣伝し続けるのだったな、、、

507 :
302 305(自演) 310 317 325
326 334 336 337 341 342 353
355 360 369 374(自演) 376
380 381 373 388

508 :
畿内説と九州説の違い

畿内説は文献やデータを引用して論証する
九州説は自分の考えだけで喋る

この違い、わかりますね?

509 :
奈良県の教育関係者が、日本の高校生を修学旅行先の韓国で、韓国人に謝罪させているという噂話があるな、、、

510 :
韓国と奈良は、密接な関係があるので、殴り合いのスポーツの会長の韓国人に奈良判定して貰えた可能性もあるのではないのかな、、、

511 :
高校生が熱中症になりそうなので、可哀想だな、、、

512 :
古代複歩の半歩分=1歩・・・75p
10歩=1丁・・・7.5m
10丁=1里・・・75m

(この75mが古代の1里で、いわゆる韓倭の短里の1里)

513 :
高校生に熱中症を発症させる危険を高めているテレビ局や新聞社が、あるのではないのかな、、、

514 :
492>>247
やっぱり、
「南→東」などの嘘付き騙しがバレただけではなく、
「九章算術」でも、大和説は、致命傷受けたんだな

515 :
>>512
九州説はまた捏造してんのか
よく飽きないな

516 :
>>277
陰謀論の大和説者って頭腐ってだろうな。
日本の九州倭国という物を 中国が、
わざわざ公式の史書を捏造し隠蔽してました、
なんて、そんなものどこにありますか?。

頭どうかしてんじゃねぇの?.

517 :
492>>281
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
頭がどうかしているようなレベルだからこそ
「中国は九州の倭國を書かなかった」説みたいな、
詐欺的言説にひっかかる

518 :
>>516って明らかに書いてる人間の頭が狂ってるね

519 :
492>>285
>>一寸千里と大体の方向が判れば、作図に拠って、概算出来る。<

>会稽よりずっと北だってこともバレるよ<

陳寿の女王國の位置推定が、
会稽ではなく「計其道里、當在會稽東治之東」であった事もバレるし、
会稽東治之東がほぼ九州島付近であり、
沖縄台湾や赤道付近や大和説もインチキであった事がバレる。

520 :
>>512
>古代複歩の半歩分=1歩・・・75p

ここから事実誤認で無意味ww
九州説はこんなのばっかりw

「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩

https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497

説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。

521 :
492>>286
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「陳寿の位置推定が沖縄だ」なんての、そういうウソ書いてて、
大和説者は、何か楽しいの ?
むなしくない?

522 :
大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ

長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
現代日本語の1歩に当たるのは「跬」という別の文字がある

周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)

523 :
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm

さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png

524 :
短里を言い出すと、結局「短歩」を言い出さないと済まなくなるし、
九州には径百歩の墓がないからその意味でも「短歩」に飛びつくのだが、
その場合でも、>>512のように「古代複歩の半歩分=1歩・・・75p」と言ったり
ザラゴキのように「一歩≒一尺=25センチ内外」とか適当なことを言うばかり

まあ、根拠なしの思いつきだから、意味のあることは一切言えないし
具体的な根拠も出せない

歩については書けば書くだけ恥をかくww

まあ、九州説ってのは適当デタラメインチキ捏造でできているんだから、
ウソも恥も平気なんだろうけれど

525 :
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。

526 :
492>>287
じゃ、陳寿の女王國の位置推定の「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って、
魏志に短里が使われてる証拠があったって事だな。

527 :
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。

528 :
492>>296
>もう思考停止して、南ィ〜南ィ〜と口走るだけに堕ちてしまった末期九州説の悲惨<

もう思考停止して、
「南→東」などの嘘付き騙しの釈明も停止して、
口先騙し文言を口走るだけに堕ちてしまった
末期大和説の悲惨

529 :
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、2ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。

530 :
邪馬台国九州学では、中国人に倭人と呼ばれていた、元々は中国南部にいた、南西諸島や沖縄や九州の民族が、朝鮮半島の南部にも進出し領有した最初の民族であり、
倭人が、朝鮮半島で鉄を採掘し奴隷を捕獲し、中国に邪馬台国と呼ばれた女王の都のある九州に運搬していた、という真実を究明したのだが、
韓国政府や北朝鮮政府には、その真実が都合が悪すぎるので、邪馬台国畿内説という完全に破綻した嘘の仮説を宣伝し続けるのだったな、、、

531 :
492>>299
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、
どれを見ても、なんの理由と言わず
「相手の説明を否定誹謗」する文言を言い張ってるだけだよな
口先で言い張るだけであるのが大和説。

532 :
九州説は反論するのをやめて、ひたすらウソを書いた長文を垂れ流すようになってしまったな
やはり日数も道里だという証拠を突きつけられて行程論が崩壊してしまったのがキッカケだろうな

533 :
邪馬台国畿内説も高校生も、奈良判定をされることもなく、正々堂々と闘って敗北したので良いな。。

534 :
野球場には、屋根がある物もあるのだが、巻向の掘っ立て柱の遺蹟や高校生が走り回る野球場には、屋根がないのだね。。。

535 :
492>>302
>尾張から奈良へ文物が動いた、とそこまでわかっているのであれば、
前方後方墳墓→前方後円墳墓となったこともお見通しのはず。
後方部を後円にしただけだよね。 前方後円墳のルーツは尾張でOKね<

大和の前方後円墳のルーツは、筑紫の那珂八幡などの前方後円墳ね。

536 :
高校生に、温暖化した真夏の昼間に太陽の下で走り回る物事を、させている大人は、やはり、良くないな、、

537 :
492>>303
>円墳の形が不整円であるのは弥生の証拠。
纏向遺跡の箸墓古墳の後円部は整円墳であり、石塚古墳など5基は後円部はすべて不整円形。
石塚などは弥生墳。<

人類の文化は、壊滅的は敗戦破壊が起きず、平穏であった限り、
「セレモニーは進化する」がセオリーであり、
石塚と箸墓とでは、箸墓の方が「セレモニーが進化した」形。
そして石塚は撥型前方後円墳であるから、
そうではない那珂八幡などの進化型であり、那珂八幡よりも後。

538 :
>>470
>>里とは絶対的な距離とは違う相対的なもの

>そういうガバガバなことを書くから、九州説に論点そらしのえさを与えることになってるんだよ

畿内説の中で意見をまとめてくれないかなw
それもこれも、畿内説そのものが無理筋だからだからしょうがないのかもしれないけどねw

539 :
日数が里数でないとすると、郡使は九州北部までしか来ていないことになるから、キナイコシが必死だなw

540 :
>>508
>畿内説は文献やデータを引用して論証する

畿内説は文献もデータも無視しているよね?

541 :
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。

542 :
492>>313
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
すでに終了

543 :
492>>315
FAC78のせいで、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が、
瀕死ってことか?。

544 :
>>540
>畿内説は文献もデータも無視しているよね?

このように
全く証拠を出さない
具体的なことも言わない
それはね、九州説が妄想だからだよ

545 :
例として>>541を見れば
よくわかる

ひとことも理由が書いてない

それはね、九州説が妄想だからだよ

546 :
畿内説って、何か根拠を示したっけ?

547 :
一般人のほとんどは九州だって判断してるのにここの人たちときたらw

548 :
492>>332
>>部分里数と、全体里数の「萬二千余里」と、
「水行十日陸行一月」の「全体日数」の、両方が並記されている。<

>その「部分里数」の総計と全体里数の「萬二千余里」が
けして等しくならないフルタ説は 決定的に破綻しているのだよ <


古田説では、「部分里数」の合計と、全体里数の「萬二千余里」とが、
一致しているから、
大和説が決定的に破綻したんだよ。

549 :
倭人有り 帯方東南 大海の中

そもそも最初の一行目から方角を捻じ曲げるようでは、とうていまともな人種ではないな。。。

550 :
492>>334
>>卑弥呼の墓は冢であって前方後円墳ではなく、

>いつも結論言い張るだけで理由を言わない九州説は クズ説<

もうこれまで、数えきれない位理由を言ってあるのに、
それを聞いていない振りして、また「理由を言わない」と言い続けて、
議論に勝っているかのように世間の人々を騙そう、とする大和説者は、
・・・・アホ詐欺師人種。

551 :
492>>338
>フルタは、「倭国」の範囲をどのように考えていたのかなあ・・?<

倭国の中心部はほぼ九州島付近で、
「自女王國以北」には半島南岸の狗邪韓國まで含めておられ、
しかし、其餘旁國としては、本州まで考えておられた。

552 :
492>>339
このように、
いつも「南≠東」などの証拠を出しているのに、その事を伏せて隠して、
大和説は「証拠を絶対に出さない」とヘイトスピーチするから、
大和説者は、・・・・アホ詐欺師。

553 :
492>>348
>>いえ、卑弥呼の墓でも、まだ「冢」であって、前方後円墳ではありません。<

>ほら、理由も言わず 結論連呼するだけ だから九州説はクズ説と言われる<

ほら、
「卑弥呼の墓でもまだ「冢」であって前方後円墳ではありません」
という理由を言ってあるのに、
大和説者は、「理由も言わず 結論連呼するだけ」と叫び続ける。
だから、大和説は、京都アニメ放火犯人のような、
・・・・クズ詐欺師の殺人鬼ではないか?、と言われる。

554 :
>>550
ほら、また理由を言わなかった

これだから九州説はインチキだとよくわかる

555 :
南が東ではないことは自明の理
なぜキナイコシはそれを無理に言いくるめてしまうのか?

556 :
>>553
>「卑弥呼の墓でもまだ「冢」であって前方後円墳ではありません」
>という理由を言ってあるのに、

いや、それ・・・
理由を言わない決めつけの
典型だから

557 :
>>555
>なぜキナイコシはそれを無理に言いくるめてしまうのか?

無理だと決めつける根拠は?
根拠がないこと世間では妄想という

558 :
今までのレスの中で
畿内説の誰も魏志倭人伝の南が東だったから邪馬台国は畿内とは言ってない
それを言ってるのはむしろ九州説

559 :
九州説は南→東の嘘つき騙し

560 :
>>539
>日数が里数でないとすると

「日数が里数」ではなく、「日数を使った道里の表現は普通」というだけ

投馬国が女王國より以北だと九州説は一部のトンデモ説以外は壊滅する

一部のトンデモ説としては
「半島南部投馬国説」
「邪馬台国鹿児島説」なんてのがあるが、九州説の中でも特に支持が少ない、というか
ほぼ一人か二人の頭のおかしい人がそう言っているだけ

561 :
>>549
>倭人有り 帯方東南 大海の中
>そもそも最初の一行目から方角を捻じ曲げるようでは、とうていまともな人種ではないな。。。

これ、連続句読点じゃないだろ?ww
たぶん「邪馬台国の会の中の人」

どうしてこういう姑息な真似をするかねぇ?w

562 :
492>>388
「南→東」などの嘘付き騙しや、
悪口しか言えなくなった大和説
末期症状だなあ

563 :
492>>398
まして、手漕ぎ程度の倭船では、海上一泊は避けられないだろうなあ。
この時点で、郡から難波まで全中国船の大和説は破綻
お疲れ様でした

564 :
492>>399
投馬国は女王國より以南の国で、
たいていの大和説は破綻する

565 :
>>561
>そもそも最初の一行目から方角を捻じ曲げるようでは、とうていまともな人種ではないな。。。

纏向は帯方郡から見て東南にあるよね

566 :
492>>402
>投馬国は女王國より以北の国ww<

投馬国は不彌國や女王國から「南へ水行二十日」の位置にあるから、
「自女王國以北」の国ではない。

567 :
>>563
>まして、手漕ぎ程度の倭船では、海上一泊は避けられないだろうなあ。
    と
>この時点で、郡から難波まで全中国船の大和説は破綻

    が
論理的に繋がってないぞ
九州説のいうことは、わけわからん

568 :
淮南子は萬二千里、魏志倭人伝では萬二千余里で
「余」が付いてるから実測値に決まってるというザラゴキ理論では、
對海國では方可四百餘里と「余」が入っていて、
一大國には方可三百里と「余」が入っていないのはどのように説明するのかな?ww

569 :
492>>409
>官も副も戸数も所要日数も得られている投馬国を
名前しか判らない其余の国と同列に
情報が「不可得詳」だと言い張るのは・・・<

「不可得詳」だと言い張っていないから、
この男(類スレ主?)が嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師。
おそらく、京都アニメ放火犯人になる男。

570 :
>>566
>投馬国は不彌國や女王國から「南へ水行二十日」の位置にあるから、
>「自女王國以北」の国ではない。

投馬国は不彌国から南へ水行二十日の位置にあるけれど、
女王國(ここでは邪馬壹國)は、不彌国の近くではなく、
投馬国からさらに南へ水行十日陸行一月の位置にあるから
投馬国は女王國より以北の国でいいんだよww

571 :
>>566
>投馬国は不彌國や女王國から「南へ水行二十日」の位置にあるから、

投馬国が
女王國から「南へ水行二十日」の位置にあるなんて
倭人伝に書いてありませんが?

572 :
>>564
>投馬国は女王國より以南の国で、
>たいていの大和説は破綻する

オウム返しすら破綻しているww

「投馬国が女王國より以南の国」というのは、
魏志倭人伝からはどうやっても導けないぞw

573 :
>>569
>おそらく、京都アニメ放火犯人になる男。

こんなこと書くから世間で九州説が異常者だと思われる

574 :
492>>415
>行程で分かる事
1万2千里未満の九州は都の邪馬台国どころか、女王国にさえ含まれない属国
お疲れさまでした <

行程で分かる事 。
「南≠東」などに拠って、大和は女王國にさえ含まれない属国。
お疲れ様でした。

1万2千里未満の九州は都の邪馬台国どころか、女王国にさえ含まれない属国

お疲れさまでした

575 :
492>>416
>>投馬国は其餘旁國では無いと言っているのだが・・投馬国は其餘旁國に入れるつもり?<

>入らないから女王国以北だと言っているのだが <

投馬國は、萬二千余里がほぼ終わる不彌國や邪馬壹國女王之所都から、
南に水行二十日の位置にあるから、
「自女王國以南」だ、と言っているんだが。

576 :
492>>418
「南→東」などの嘘付き騙しをして脳が狂ってしまって、
脳内でちゃんと論理を構成できないのが
大和説者の特徴

577 :
492>>419
萬二千余里がほぼ終わった不彌國や邪馬壹國女王之所都

↓南 水行20日で移動

投馬国

よって、投馬国は自女王国以南

578 :
492>>422
萬二千余里がほぼ終わった不彌國や邪馬壹國女王之所都

↓南 水行20日で移動

投馬国

よって、投馬國は、萬二千余里がほぼ終わる不彌國や邪馬壹國女王之所都から、
南に水行二十日の位置にあるから、
「自女王國以南」だ、と言っているんだが。

579 :
>>578
要するに、とうとう九州説は
墜ちるとこまて墜ちたわけよ


南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。

という文章を
「南至」は不弥国から
「水行十日陸行一月」は郡から
なんて読み方するまでにね

こんなの発狂してる人以外は賛成しないだろ

580 :
ここまで倭人伝を破壊しないと
九州説はデッチ上げられないと
w
すごいことになってら

581 :
つまり
九州説というのは
まったく前例のない奇妙な読み方をいくつも発明して
それらを幾つも積み重ねることで
ようやく作り出されている珍説というわけだ、

582 :
492>>427
1万2千里を経て北部九州のクニグニを経て、
「郡から萬二千余里の不彌國や邪馬壹國女王之所都に入る

不彌國の南に水行二十日の位置に投馬國がある。

どこをどう読んでも大和になんて邪馬壹國女王之所都はありません
分かるのは九州島付近全体が、卑弥呼共立の女王国だと言う事だけです

本当にありがとうございました

583 :
492>>428
ほら、また大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しの理由も全く説明出来ない

大和説は無内容でみじめすぎるな

584 :
492>>431
魏使らは、見聞計測した通りを報告する事が仕事であるので、
外地の地理を誇張して、より遠く描くバイアスなどかかっていない。

だから結果として、一里の長さも、魏朝の決めた命令通りの寸法で計測した。
だから、九州北部までの道のりを誇張して、
フィリピンやら沖縄やらに届くくらいの里数になっていない。

585 :
492>>434
中国の日本についての記述や説明を簡単に書くとこうなる。
唐会要倭國伝の「倭奴國」や「正北抵新羅」や「世與中國通」や、
隋書俀國伝の「倭奴國や卑弥呼や自魏至于齊梁代與中國相通」に拠って、
日本列島では、九州にあった倭国が、倭奴國の時から白村江まで、列島盟主であって、
大和は、新唐書によって、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったのであり、
梁書で「顯宗と仁賢」情報が中国に伝えられたが、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で初めて倭国からの独立を広言し、
白村江で大敗した九州倭国を併合吸収継承し、701年の大宝元年から列島盟主になった。

だから、書紀に書かれた聖徳太子は、
厩戸を「俀王姓阿毎、字多利思北孤」に仕立てた騙しであった、という事になる。

586 :
492>>438
>肝心の中国が「邪馬台国は大和です」と書いてるわけで<

肝心の中国が「邪馬台国は大和です」なんて書いていないわけで。
どこのバカが、「南→東」などの嘘付き騙しをして、
大和説とか言い出してるのか理解できんわな

587 :
倭人有り 帯方東南 大海の中

そもそも最初の一行目から方角を捻じ曲げるようでは、とうていまともな人種ではないな・・。

588 :
>>443
意味は明確だぞ
投馬国は、萬二千余里がほぼ終わった不彌國や邪馬壹國女王之所都の、
南へ水行二十日の位置にある国である。
また投馬国は側副傍線國説明が済んでいるから、其餘旁國にも入らない
だから、投馬国は女王之所都以南の国だ

これを理解できないと知能が低いことが判明するぞ

589 :
492>>444
>テンプレ嫁 <

「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師のスレ主のテンプレは、
読む事自体が時間の無駄だし、むしろ害になるから、
読むのは嫌だ。」

590 :
>>589
だからお前がテンプレに反論しようとしても
全部デタラメになるのだ

591 :
492>>445
>属国・・・これが倭人伝がしつこく記載してる九州の姿だ
ご理解いただけましたか?<

「属国」なんて、倭人伝のどこに書いてあるんだい?。
また「南→東」などと同じように、
嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺をしているんかい?。

592 :
492>>448
>統属してるんだもんなぁ<

属国なんて、書かれていないよ。

>伊都国は 中央から派遣される一大卒に監視されて怯えてる状態で<

これも書かれていない。

>最大の奴国も辺境扱いで守備兵が駐屯してると<

それも書かれていない。

>その上で「女王国の外です」と書かれてる<

これも書かれていない。
という事は、この男も「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者と同じ、
・・・・アホ詐欺師であった訳だ。
相手にしたのは、全く無駄であった。

593 :
492>>450
>>また、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳  で
明らかなように、投馬国は其餘旁國に含まれないから女王国以北<

>この論理では、其餘旁國は女王国以南ということになるが、其餘旁國は遠絶ゆえ不可得詳で、
東西南北どこにあるか不明であり、以南とは限定できない。
依って、 其餘旁國でないから投馬国は以北である、とは言えない。<

成程。

594 :
492>>451
何をどう読んだら大和に邪馬壹國女王之所都なんて湧いて出てくるのか
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の異常者の、
思考回路は本当に理解不能だな

595 :
>>567
そいつは九州説の中でも雑魚w

対馬海峡は千里ごとに1日
途中で海上泊は無理
だからこその帯方郡から九州北岸まで水行十日すなわち一万里

596 :
492>>453
と言うか
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・バカは分かってないみたいだから言っとくが
仮に行程をいじくり回して
大和に邪馬壹國女王之所都が来るように捏造したとしてもだ
「大和はただの倭種です」と書かれた記事に何の変化もないわけだ

はい、どう頑張ってもただの倭種です
本当にありがとうございました

597 :
492>>460
投馬国は「其余」国でなく、
萬二千余里がほぼ終わった不彌國や邪馬壹國女王之所都の南の、
水行二十日の位置にある国だ。
したがって投馬国は「自女王國以南」の国だ

598 :
492>>461
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説バカは、
邪馬壹國女王之所都は大和の辺りにあると言いたいのかw
そりゃおもしろい

599 :
492>>463
もちろん「南→東」の嘘つき騙しの大和説情報は、
最初から最後まで 出所不明の怪情報だ

大和説はいつもそれ

600 :
492>>465
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者の解釈は、、
方向も距離も間違いだらけ
それが大和説者の頭。
おそらく脳の中でさえも間違いだらけ
こんなもん、どの説でも本来なら参考にならない
でも都合のいい部分だけピックアップしてこねくり回して、
存在もしなかった嘘つき騙しの邪馬台国でございますとかw
流石は低能大和説

601 :
上九一色村のサリン製造施設は読売が暴いた。
旧石器ねつ造事件は毎日が証拠写真を撮った。
3Dネタとかで大新聞の関心を買い、畿内説のステマに使ってるなんて思ってるとしたらアレだよ、大マスコミはけっこうしたたか・・。、

602 :
492>>472
中国の日本についての記述を見ると大和説など全く存在していないのが分かる
簡単に書くとこうなる
隋書俀國伝でも、俀王姓阿毎字多利思北孤の国は、
倭奴國や卑弥呼や「自魏至于齊梁代與中國相通」であった国であるとし、
唐会要倭國伝でも「正北抵新羅」として北部九州にあった国だとし、
倭奴國から「世與中國通、其王姓阿毎氏」であった とし、
であったいずれも、倭国は北部九州に中心があった国である、と証言している。

603 :
492>>473
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・詐欺師の大和説者の為に
何度でも教えてやるが
中国は「邪馬壹國女王之所都は北部九州にあった」と明記してる

本当に時間の無駄伝でございました

604 :
ごらんよ、これだ

結論部分を言い張るだけ
証拠は出さない
立証もしない

それが九州説

605 :
九州説は幼児と化した

606 :
物のわかってない子供なら言えばわかるけど
九州説はもう老年というのにこれだ

607 :
幼児から一切成長のない九州説は
今までの人生において一体何をやってきたのか

608 :
492>>476
>なんで?
どうして九州説はいつも全く理由を言わないの?<

これまでに理由は一杯言って来てあるのに、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者は、
知らん振りして、
「九州説はいつも全く理由を言わない」と世間に吹聴しようとする、
・・・・である事を知っているから、
・・・・は、相手にせず、出来るだけ放置するようにしているから。

609 :
492>>477
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
根拠を言わずに決め付ける大和説者は
妄想の世界に住む・・・・アホ詐欺師の人々

610 :
492>>481
またも、「南→東」などの嘘付き騙しの理由を、全く言わず、
口先で世間の人々を騙そうとする・・・・アホ詐欺師の大和説

611 :
>>608
>これまでに理由は一杯言って来てあるのに、

また理由を言わない
九州説は、そんなに理由を言うのがイヤなの?

612 :
492>>484
>不彌國のすぐ南の「女王之所都の説明」
なんて九州説爺さんの脳内以外の どこにあるんだ?<

そりゃ、不彌國で「女王國までの萬二千余里がほぼ終わっている」、
という事は読めない・・・・アホの異常な大和説者には、見えないんだろう。

普通の人なら見えるぞ 。

613 :
バブバブ九州説

614 :
引きニートは24時間書き込めるんだな。
あ、畿内説はバイトだっけ?

615 :
NASAに勤めてるっつったろ

616 :
ウマウマ九州説

617 :
492>>501
また「南→東」などの嘘付き騙しの大和説が論破され、
同じ質問の繰り返しの騙し戦法も国民にバレて、
無残に蹂躙されたようだな

618 :
>>595
>対馬海峡は千里ごとに1日
>途中で海上泊は無理
>だからこその帯方郡から九州北岸まで水行十日すなわち一万里

水行と渡海を区別しない行程論は稚拙すぎて意味がない
水行と渡海は区別されている

渡海は海上泊が無理だからこそ強引に渡りきる

水行はいつでも岸につけられるから、そんな無理は必要ないし
水行1日は渡海1日ほど進まない

619 :
この世のありとあらゆる物を否定し続けたら
老年になっても精神は何も知らない幼児のままという事だ

620 :
492>>502
>里数が書いてないではないか!
・・・書いてないが移動してたのは確実(自女王國以北 其戸數道里可得略載)<

「至」の前に、移動をした事を示す文言がないから、移動していない。
移動しておれば「里数」が書かれる筈なのに、
書かれていない事からでも、移動していない。

621 :
>>612
>そりゃ、不彌國で「女王國までの萬二千余里がほぼ終わっている」、

そのために
・短里はありまーす
・島巡り仮説
・水行の起点は帯方郡
・水行10日に渡海も含める
・陸行は韓地陸行
という一つ一つでも間違いだと示されているインチキを重ね合わせないといけない

デタラメなんだよ

622 :
体は老人
頭脳は幼児
奇怪な生物九州説

623 :
>>620
>「至」の前に、移動をした事を示す文言がないから、移動していない。

でも南至投馬国は、不彌國から移動しているというご都合主義ww
古田ザラゴキ行程論はこれ以上ないくらいデタラメ

624 :
492>>511
そして大和説者は、
「南→東」の場合みたいに、悪口いうだけになる
この無残な負け犬の姿
大和説みじめすぎ


笑い者だな

625 :
492>>513
>つまり後漢書が三国志を参照したのかそれとも逆なのかは
確実にこうだとは断言ができない<

陳寿は范曄の後漢書を見れないが、范曄は陳寿の三国志は見れるし、
後漢代の「倭人」の事を記した後漢代の史書は殆ど知られていないが、
後漢書は魏代の魏志の倭人の事も少し書いており、宋代の事も書いているし、
実際に、後漢書は魏志の記載を「自己解釈に拠る書き換え」を実行した部分が幾つもある。

>後漢書が三国志を参照したのなら書いている事が丸写しではなく所々違っているのが若干不自然<

だから、後漢書は、魏志倭人伝の記載を、「自己解釈に拠る書き換え」」の実行している、

>そして参照したのなら出典を明記するのが通常
これは後漢書が単純に三国志を引き写したものではない事を示す<

范曄は、始めから「出典明記」もしていない。

626 :
孫達が、興奮しているハチとは、どのような物事なのだろうか、、、

627 :
>>626
わかつみ

628 :
>>626
分かっている振りをして、ニコニコしていれば良いな。。。

629 :
492>>514
こんなふうに
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
史料事実や史料実態の否定曲解の嘘つき騙しばかりをし、
その立証が可能なことばかり主張し、
だから必ず論破される
そうやって大和説は滅亡した

630 :
492>>517
なら、例えば、
「南→東」などの嘘付き騙しの理由が答えられる筈だろ大和説

なぜ理由を答えない?

631 :
奥山氏が、また、論破されました。

632 :
492>>520
>>516だって、畿内が存在しない、という 珍説連呼の珍説連呼
まったく理由は言わない<

以前に何度か、「畿内」とは天子や皇帝や天皇の近辺の、直接的支配地域を示すが、
日本や大和の古代には、(タリシホコ以前には)
「天子や皇帝や天皇」の存在そのものがなかった、
と過去形にして説明しておいた筈だよ。

そんな事を隠しているこの男が、異常だと思わんの?
大和説の人 だれもコレ異常と思わんの?

633 :
492>>534
もう「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐き騙しや、
口先での悪口専門になったになった大和説
むざんっす

634 :
>>619
>この世のありとあらゆる物を否定し続けたら
>老年になっても精神は何も知らない幼児のままという事だ

キナイコシのことだよね

635 :
>>634
キナイコシって誰?

「具体的な根拠」を示して論証してね!

636 :
>>489
里は尺とともに長さが決まった単位であるにもかかわらず
日数を反映した相対的なものということも認める

両方は成り立たず矛盾する

637 :
>>632
池沼によると

>天子や皇帝や天皇

同じ人物らしいよ、日本の天皇のことだった?

638 :
脳改造、嘘の話、記憶など・・・、
を治すために精神病院に行けと言っているのに行かないし、
読めないのかも?

639 :
492>>603
>自明なことを書いてはいかんって理由は?
ないよね はい、論破<

陳寿の三国志の叙述方法は、事実関係の叙述と自分の判断の叙述とを、
出来るだけ重複を避けて簡明に書く、という方針を貫いているようだから、
先に、不彌國と邪馬壹國女王之所都で萬二千余里がほぼ終わっている記述をして、
投馬國がそれより南へ水行二十日の位置にある事を書けば、
それで、投馬國は、女王之所都以南にある事を確定させており、
だから、その後の「自女王國以北」の文には、投馬國は含まない、
という積りであった事は、陳寿にとっては「自明」であったんだろうねえ。

はい、論破。

640 :
492>>614
◆FAQ 78で大和説が致命傷を受けたって
自覚はあるわけね

641 :
492>>639
「普通の人類は東西南北の方位を殆ど間違えない」
という人類の常識の主張を無視して、反論しないでいる限り、
大和説が何を言っても、、九州説はキズひとつ付かないよ
こっちの主張を聞いてない人が何を言っても必然的に的外れなのだから

642 :
492>>644
>魏志倭人伝によれば帯方より南1万2千里の女王国の位置が会稽東治の東<

邪馬壹國女王之所都は、大体「南東〜南南東」だな。

>会稽東治の東とは沖縄とか台湾の辺り <

これは明らかな間違いであり、詐欺。
会稽東治は揚州の海岸地域を意図しており、沖縄や台湾は全く関係なく、
ほぼ九州島付近にぴったしになる。

>魏志倭人伝の邪馬台国への行程が実際のものではない故に嘘解釈が入り込む余地もあり<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの詐欺文言であり、
倭人伝の行程説明も、同時代の魏使らの実地の見聞計測したものであるから、
ほぼ実際の行程を示すものだ、と言える。

>それをいい事にそれっぽい事言って詳しくない人を騙そうとするだけの九州北部説は
畿内の三角縁神獣鏡や前方後円墳の考古学的証拠に負けて終わり<

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
それを悪用して、それっぽい事言って、
詳しくない人を騙そうとするだけの大和説は
三角縁神獣鏡や前方後円墳の考古学的証拠にも負けて、終わり。

643 :
>>635
テメーのこと

644 :
492>>646
道里とは「道の里」であると言う、
ごく当たり前の事を書くだけで
大和説は勝手に発狂してぶっ倒れるから、
楽なものだ

645 :
>>636
>里は尺とともに長さが決まった単位であるにもかかわらず
>日数を反映した相対的なものということも認める

ほら、違うもにを混同してごっちゃにしてごまかしてるw

「『里』は尺とともに長さが決まった単位」これは正しい
「日数を反映した相対的なもの」なのは『道里』

『里』という単位と、『道里』という概念は別のもの

『道里』という概念の内容を表現するのに、
『里』という長さの単位を使った表現法と
『日数』という時間を使った表現法があるということ

>両方は成り立たず矛盾する

矛盾しないよねww

646 :
>>645
はいはい、自分で矛盾がわからんアホはお呼びでないよ

647 :
492>>648
>>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳は、
行程が南下していたということであり、
南という方位が間違っていない という、ことを裏付ける記述。<

>そう思っているだけで、どうして裏付けになるのかな<

「以北が其戸數道里可得略載出来た」という事は、
行程移動がほぼ「北から南」へ移動して来た、という事を示すから。

>>會稽東治之東=上海付近から東、帯方郡から満二千里<

>肝心の「上海付近」というのがウソなので、こうして九州説は崩壊するわけよ<

会稽の東治付近は、分郡に拠って、
臨海郡から江蘇省海岸付近まで揚州の管轄下になっていたまでから。

648 :
492>>652
>1万2千里は魏里で約5000km
洛陽から南に5000kmは赤道越えたインドネシア <

「魏里」というのが間違い。
魏使らや陳寿らは、「周朝や魏朝の里」を使ったのであり、
1里は約76.5m位。

649 :
>>655
大和説は、
嘘をつくという奇怪な生命維持装置によって、
辛うじて存続している異常な説だよ
ま、学説としては存続しないけど

650 :
>>643
>テメーのこと

なら、間違いだねw

私はこの畿内説スレシリーズに途中から来るようになったけれど、私が来た頃にはすでに
キナイコシって連呼しているバカがいたものw

つまりキナイコシは、私に対して作られた呼び方ではない

それに>>378でキナイコシと呼ばれているのは日数で相対的に示せるといっている人だが
これは私とは別の人だ

単にキナイコシ呼びも全1病の亜型ってだけだなw
九州説の病理の一つの現れ方だ
九州説の人は頭がおかしいというのは、故なしではないんだよww

651 :
>>650
ハイハイ、アホの自己紹介はいらんよ

652 :
>>646
>はいはい、自分で矛盾がわからんアホはお呼びでないよ

『道里・概念』と『里・単位』を区別しないことで論点ずらしをして
間違った主張をさも正しいかのように見せかけようとしている、と
具体的に不正な点を指摘されているのに対し、マウントした体でごまかしているだけ

九州説は概して無能ww

『道里』は『里』という長さの単位を使った表現法と
『日数』という時間を使った表現法がある

たったこれだけのことからなんとか逃げてごまかそうとする九州説は、
哀れで惨めなことこの上ないw

『日数』を使った場合、荷車が満載か空車かで当然日数は変わってくるし、
平坦な道か山岳地帯かでも違ってくるため、相対的な性質を持つが
旅程における道里の記述としてはむしろ実用性が高い

登山地図で、ポイント間の行程がメートルと所要時間の両方で書かれているのと同じこと

653 :
>>646>>651
たぶん、吉井信号バカと同じ人だと思うが、議論から逃げてるだけだよなw
本当に○国人気質だな

まあ、九州説の連中に共通の性質なんだがw

654 :
>>652
>登山地図で、ポイント間の行程がメートルと所要時間の両方で書かれているのと同じこと

なかなか良いたとえだ。
つまり距離メートル(里)の表示と、時間アワー(日)の表示は、相互に互換できないという好例で、
両者は別の概念だから両方が書かれているのだ。
・所要距離は道の里、
・所要時間は道の遠近(古代の遠近は「遠い過去のこと、近頃の出来事」などの時間差を意味する)

655 :
吉井信号バカは、吉井信号の辺りが弥生末にはまだ半分海ってことで否定され
呼子上陸バカは、可也山が呼子上陸前後にも見えることから方角が正しいという駄論が否定され
伊都カントリークラブの辺りが伊都国というのは、ゴルフ場が作られるくらい過去からずっと
未利用地で否定され、もう書くことがなくなって一言コメントでごまかしているだけになってる

これが>>651の中身だろ?

九州説として、方角は正しい、短里はあるんだ、でがんばろうとしてたのに論拠が全部潰されて
何も言えなくなった惨めな人

656 :
日数と里数は同一のもの
日数で表せる距離は里数で表せるし
里数で表せる距離は日数でも表せる

657 :
>>652
「九章算術」
臣淳風等 謹按、 縣戸有 多少之差、 行道有 遠近之異。

戸数には多少という(数字上の)差あり、道行きには遠近という(所要時間の)異あり

658 :
>>361 >>84なるほど
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
訳)
女王国より北には特に一大率という検察を置き、諸国はこれを恐れている。伊都国にあり、中国の監察官のようなものである。
女王が京都(洛陽)や帯方郡、韓国内に使いを派遣する時、および、帯方郡が倭国に使いを派遣する時にも、港に赴いて荷物を検品し確認して、文書や下賜品を女王に伝送するが、数や内容の違いは許されない。

つまり、一大率@伊都国が監視していた諸国とは、女王国の玄関口である対馬、壱岐、末盧の三カ国で、魏郡⇔倭双方の使者が宿泊休息や水食糧補給のために立ち寄った時、彼らが荷物(鉄)の抜き取りをしていないかどうか、その都度確認していたわけで、
そのために親魏倭王の金印(封泥)が必要だったということ。つまり、一大率の役人は当然として、邪馬台国の官も(女王から魏帝の親書)、漢字の読み書きをしていたということw

659 :
>>658
加筆訂正
つまり、一大率の役人は当然として、邪馬台国の官も(女王から魏帝への親書)、漢字の読み書きをしていたということw

660 :
>>652
【異】こと
[名]
1 別のもの。他のもの。「下の十巻を、明日にならば、異をぞ見給ひ合はするとて」〈枕・二三〉
2 名詞の上に付いて複合語を作り、別の、他の、などの意を表す。「異所」「異人」

[形動ナリ]
1 それぞれ別々なさま。まちまちなさま。→異なる。「唐とこの国とは、異なるものなれど」

661 :
『鮮卑』

調べてみた?朝鮮人(不明)ではないでしょ、
あと有名なネタ、というか本当の話?

『2ch 在日通名、帰化人に多い苗字』

662 :
>>654
>つまり距離メートル(里)の表示と、時間アワー(日)の表示は、相互に互換できないという好例で、

この辺が浅慮だよなw

距離メートル(里)の表示と、時間アワー(日)の表示で、
「同じ区間」の「遠近」が示されている例なんだよ

「ポイント間の隔たり=道里」が、メートルでも時間でも表示できるという実例

>・所要距離は道の里、

これがバカ一級w
「道のり」は漢字で書けば「道程」だ
「道を行くときの行程」
「道のり」の辞書的意味は「目的地までの行程や道順、などの意味の表現」

こうして見てくると「道里」は距離というより「道程みちのり」の方がぴったりくるな

投馬国の記述で言えば
「南至」投馬国「水行」「二十日」が道里略載に当たる
『「二十日」が里じゃないから道里じゃない』というのは、
「南至」「水行」を無視した妄言だ


>・所要時間は道の遠近(古代の遠近は「遠い過去のこと、近頃の出来事」などの時間差を意味する)

また勝手定義のウソをついてるww
遠交近攻は時間差じゃないってひと目でわかるだろう?
どうして反例一つで否定されるバカ定義を楽しそうに書けるんだろう?

バカなんだろうな、根本からww

663 :
>>658 >>659
大陸半島情勢を細かく分析し、魏の将軍司馬懿によって公孫氏が滅ぼされる直前の絶妙なタイミングで、魏帝に遣使し破格の厚遇&親魏倭王号を得た
タフ・ニゴシエイター・倭国王卑弥呼の宮殿跡に相応しい出土物は次のAとBのどちら!?

A.弥生の硯、弥生の削刀、弥生の案(文机)

B.桃の種、カエルの骨(齧った歯型)、木製仮面

664 :
『在日通名、帰化人に多い苗字part2』

モンゴル、ロシア、トルコ人?
むかーしの渡来人がいるでしょ

665 :
『デスラー』
どう見ても日本人ではないし、何か知っている人がいるのかな

666 :
>>662
だいぶ、血圧が上がっとるぞ・・、ここ数日考えた名案なのに、朝早くから蹴散らしたからな、、、

遠近には2つの意味がある
そのとおり遠交近攻の例は、時間差じゃなくて距離里数の「差」だ。
しかし、九章算術のくだんの遠近は所要時間がさまざまであることを言っており、だから「異」と註されているのだ。

667 :
『デスラー』

なぜか家と同じような植物が写っていたり、
温泉に入っている画像w

668 :
>>657
>戸数には多少という(数字上の)差あり、道行きには遠近という(所要時間の)異あり

戸数には多少という(数字上の)差あり、道行きには遠近という(数字上の)異あり

だぞww
カッコ書きでウソを紛れ込ませるのは稚拙w

きちんと意訳すれば
各県は県ごとに戸数が多かったり少なかったりで差があり
行道の遠かったり近かったりの異がある

これ、最初は道里と遠近は異なるって意味で引用してたんだよな、九州説はww

669 :
>>656
はい嘘つき

670 :
>>666
>遠近には2つの意味がある
>そのとおり遠交近攻の例は、時間差じゃなくて距離里数の「差」だ。

いいえ、距離里数の差ではなく、道里・道程の差だよww
道里と里数をごっちゃにしてごまかすというインチキを一貫して続けているのが姑息

>>662の「古代の遠近は「遠い過去のこと、近頃の出来事」などの時間差を意味する」は不正
デタラメインチキの類い

671 :
あと『夫余』?
そのようなところもあるでしょ、民族も入れ替わっている?
または、かなり混血しているとか

『デスラー』?

672 :
>>669
1日60里とすればいくらでも日数は里にできる
嘘だと思うなら試して見たら

673 :
逆に里数を日数にする事も可能

674 :
>>679
また連呼してる。類スレ主も、・・・・ばかですか?。

>重複したこと書いていけないなんて決まりは無いんだよ
強調、まとめ、対比、評文にはいろんな役割がある<

陳寿は、簡明で平易な記述であり、重複は、殆どない。

>そんなことより各種情報を得ている投馬国を不可得詳と呼ぶという矛盾
これこそ致命的だね 投馬国は女王国以北だ ゴマカシは無理<

陳寿は、先に、投馬國は、
(萬二千余里がほぼ終わった)不彌國や邪馬壹國女王之所都から、
南へ水行二十日の位置にある、
と書いているんだから、
その後で書かれた「自女王國以北」には含まれない、
という事が、陳寿の思考だ。

675 :
>>670
現代日本では、遠近といえば距離の差に限定された日本風二文字熟語になってしまっているようだ。
>>670は、この日本風二文字熟語に囚われ続けている)

しかし古代においては、二つ有り、
「遠交近攻」は遠い近いの距離の差を意味するが、この他に過去現在未来の時間の異をも意味する。
これは以前にも数回レスした通りだ。

で、くだんの九章算術では「道里遠近」、つまり「道の里(距離数字)と道の遠近(時間数字)」として、性質の違う「里」と「遠近」が続けて書かれている。
その両者の性質の差異を明確に示しているのが、「行道有り遠近の異」の註なのである。

676 :
論拠が根底から覆され
くたばり損ないの九州説ザラコク

677 :
>>697
大和説は理由もなく「南→東」や「陳寿の記載の決め付け断定」ばかりしているから
歴史学の世界にいられなくなったんだ。 自覚しろよ。

また大和説はまた自分の主張をまったく立証することが出来ない
だから大和説は失格なんだよね

大和説にとって致命的なのは、説としての欠陥もさることながら、
むしろ信者の説明能力欠如、つまり無能さの方なのだな

678 :
>>698
大和説者は、
水行も陸行も都合よく全部無視
そして距離も方向も全部捏造
はい、(存在もしなかった嘘つき騙しの)邪馬台国です

これがバカ大和説

679 :
>>701
幼稚園児か、国粋皇国史観戦争狂のボケ老人並みの言い返しか ?。
これだから大和説はダメなんだ

680 :
>>652
>『日数』を使った場合、荷車が満載か空車かで当然日数は変わってくるし、
>平坦な道か山岳地帯かでも違ってくるため、相対的な性質を持つが
>旅程における道里の記述としてはむしろ実用性が高い
>登山地図で、ポイント間の行程がメートルと所要時間の両方で書かれているのと同じこと

>>673
>>逆に里数を日数にする事も可能

652が、両者違うといってるとおりで、相互に換算はできない。

681 :
>>702
>つまり畿内説には何の問題もないということでokね <

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×だ。

>重複はあっても構わない<

陳寿は、簡明で無駄が殆どなく、重複も殆どしないようにしているから、×。

>しかし矛盾はあってはいけない<

大和説者は、矛盾ばっかりだから、×だ。

>官も副も戸数も道里も書かれている投馬国を <

実地の確認計測ではなく、倭人からの説明だ。

>「不可得詳」とか称することはあり得ない <

陳寿は、投馬國を「不可得詳」国に含めていない。

投馬国は「女王国以北」には分類されず、
強いて分ければ「自女王國以南」に分類される。

682 :
>>703
投馬国は、強いて言えば、女王国以南だ。
わかったか、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・大和説。

683 :
今朝もはよから「道の里は道の日数」にこだわってるのは >>1 か。

よほどの危機感を持っているようだな。
どうした、もしかして「道里」で畿内説は絶命の危機なのか。

684 :
>>704
>はて畿内説がいつ行程を捏造しましたか <

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しをしゃべった「今」も、捏造した。

>魏志倭人伝には会稽東治の東で沖縄か台湾辺りと書いてあると
魏志倭人伝に書いてある通りの主張をしてますが<

「沖縄か台湾辺り」と書かれていないから、これも捏造であり、×だ。

685 :
>>672
コミュ障の返事は無価値だから生まれ変わって学習し直してこい

686 :
>>675
またキナイコシの妄想だ
キナイコシ流に言うと循環論法だね

687 :
>>705
大和説は会稽東治が、揚州の管理したになり、その中心が上海付近である、
という実態を否定し、捏造してるよね

大和説者は、嘘がつけなくなるとほんとに死ぬんだろうな

688 :
>>707
>洛陽から上海まで、萬二千余里
ほど良い距離感。<

成程。「東南」だしね。

689 :
>>714
>行程論と考古物も畿内説有利<

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
行程論と考古物でも、九州説が圧倒的有利。

690 :
>>717
>いくら距離感がほど良くても
魏志倭人伝に書いてある女王国の位置は沖縄かパプアニューギニア<

幾ら、陳寿を誹謗しようと、
陳寿は漢書の「會稽海外有東魚是人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」を知っており、
倭人の南に東テイ人がいた事も知っており、
だから、倭人が「沖縄かパプアニューギニア」にいた、とかいう事を書く筈がない。

691 :
>>675
>現代日本では、遠近といえば距離の差に限定された日本風二文字熟語になってしまっているようだ。

いいえ?
現代日本語でも、遠い過去、近未来のように、時間についても、遠・近の語を使ってるよ?
以前私もこのまま指摘している

英語でも、as long as, as far asで、時間と距離を遠近で表す表現がある

>「遠交近攻」は遠い近いの距離の差を意味するが、この他に過去現在未来の時間の異をも意味する。

だが、九章算術では道里=道程(道のり)の遠近だから、時間の遠近と取る必要はない
インチキ詐術もネタ切れだなww

692 :
>>675
>で、くだんの九章算術では「道里遠近」、
>つまり「道の里(距離数字)と道の遠近(時間数字)」として、
>性質の違う「里」と「遠近」が続けて書かれている。

何度書いてもごまかされるやつはもういないよ
「道の里(距離数字)」これがインチキなのは確定
道里は現代語では「道程・道のり」にあたる概念
道里は道の「里」ではないし、距離数字でもない

行道○日で書かれている>>675の言うところの時間数字が、
「道里を示す数字」そのもの

>その両者の性質の差異を明確に示しているのが、
>「行道有り遠近の異」の註なのである。

これも文脈無視のデタラメ

この注は、各県ごとに戸数と道里に「差異」があるから、それを使って
衰を計算するという説明書きだ

「邪馬台国の会の中の人」としては、投馬国が女王國より以北の国を認めたくないの
だろうが、九章算術の字義解釈でそれを覆すのは無理だよww

693 :
>>680
>652が、両者違うといってるとおりで、相互に換算はできない。

長距離の概算なら換算できるよ
個別区間のでこぼこが均されるからね

はい論破ww

694 :
>>675
>しかし古代においては、二つ有り、

はい、その場しのぎの手のひらくるくる確定ww

>>654の「古代の遠近は「遠い過去のこと、近頃の出来事」などの時間差を意味する」は
思いつきの根拠なしだったってことを自白している

現代語でも時間に遠・近を使うし、二重にデタラメw

695 :
>>683
>「道の里は道の日数」

はい、デタラメ捏造ww
道里は「道の里」ではないww

「道の日数」などという言い方を畿内説側はしていない

どうして、九州説はこういう底の浅い捏造を書きたがるんだろう?
まあ、バカだから、なんだろうなww

696 :
>>686
>>675は九州説の「邪馬台国の会の中の人」だぞww
キナイコシって書きたいだけだろ? バカ?www

697 :
>>722
「南→東」などの嘘付き騙しの捏造ダメよ、
大和説

698 :
>>728
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
ずいぶん九州説に追い詰められてるなあ

699 :
>>731
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて追い詰められた大和説が
発狂して意味のないことを
呟き始めたな

700 :
>>733
もう、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説とか言うバカは、
存在そのものを恥じろ

701 :
>>736
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説、
終わってるな

702 :
>>740
「南→東」などの嘘付き騙しがバレて、
脳死した大和説が、
怨念のままに無意味なことを呟いているな

703 :
儒教九州説に全てを捧げ
一生を棒に振った哀れで愚かなザラコク

704 :
>>703

碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

705 :
>>703

「辰砂採掘遺跡」の無い畿内に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

706 :
阿波は自分の普段の言動で
言ってることをまともに取り合ってもらえると思っているのか

707 :
>>692
>道里は現代語では「道程・道のり」にあたる概念<

ほれみろ、自分自身がまるきり現代語で解してるじゃないか

708 :
ああ言えばこう言うキナイコシ
ますます畿内説の信頼が低くなるだけだろ

709 :
>>692
自分の言ってることが一貫性がないとwsかってないぞこいつ

710 :
>畿内説の言い分は、「道の里は道の日数」<

これを書くと、面白いように釣れる、、、。
長年、行程論には我関与せずといってきたのに、今になって道里問題を相当気にしているようだ。

711 :
ああ言えばこう言われてしまう九州説

712 :
>>707
>ほれみろ、自分自身がまるきり現代語で解してるじゃないか

バカに対して「現代語で説明」してあげてるんだよww

道里は「二つの場所の間の隔たり」を意味する概念だ
道里は「道の里」とか、バカすぎて笑えるww

しかし、相手の書き込みを> <でくくるとか、ザラゴキにあこがれてるのか?ww
まあ、「邪馬台国の会の中の人」と書かれたくないがゆえの偽装のつもりなんだろうけれど、
こういうところを見ても、レベルの低いバカなのを自白していく趣味なんだろうなとか

713 :
九州説は畿内説に
何とか九州説も存続する余地を残しといて下さいよと懇願しているようだけど
答えはNOだ

714 :
畿内説の目的は九州説の徹底的な根絶

715 :
釣れる釣れる、!釣り針一つで5匹くらい釣れる!

716 :
>>645
それと、FAQ78と何の関係があるの?

717 :
>>706
>阿波は自分の普段の言動で
>言ってることをまともに取り合ってもらえると思っているのか

すこしも反論できないので、取り合っていないようなフリをせざるを得ないトンデモさん。  哀れへなりょこ説。  わはははは 
碌な集落遺跡の無い九州や畿内に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

718 :
哀れへなちょこ説。  わはははは 

719 :
お おう・・・
わはははは

720 :
>>748
>日数と里で同じ道を説明してるとか言うアホが九州説 <

「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者は、
陳寿が几帳面で正確な性格であって、
郡から女王之所都までの移動の説明を、
部分行程の方向里数の説明と、郡からの総所要日数の説明の、
両方を書いておいた、
という事も、当然判らない・・・・アホであったらしい。

721 :
このスレに書き込む畿内説以外の他説はキ印ばかりだからな
扱いには気をつけろ(小声)

722 :
>>706
>阿波は自分の普段の言動で
>言ってることをまともに取り合ってもらえると思っているのか

すこしも反論できないので、取り合っていないようなフリをせざるを得ないトンデモさん。  哀れへなりょこ説。  わはははは 
碌な集落遺跡の無い九州や畿内に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

723 :
哀れへなちょこ説。  わはははは 

724 :
そうでちゅねー
阿波ちゃんは賢いでちゅねー

725 :
長年、行程論には我関せずと大見えを切っていたのに、
ここにきて一日中、行程・道里へのこだわりようはどうしたことだ。
つまり「道里」の解釈一つで、畿内説全滅に至るとやっと気づいたのか、、ww、

726 :
>>724

すこしも反論できない、哀れへなちょこ説。  わはははは 

碌な集落遺跡の無い九州や畿内に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

727 :
あのー
道里遠近だが、、
山越えなどがある難所の道10キロと、
平坦な道12キロ、どちらが遠くになるの?

728 :
はぁ?
道里がどうあっても九州説は根絶
畿内説は考古学的物証で成立するんだが

729 :
>>750
>なるほど、日数表記を道里の略載と捉えれば、投馬国と邪馬台国の両方が郡から女王国までの経路上の国であった、、
つまり、自女王国以北の国にしなければならないということになるな<

成程。
この男も、
陳寿が里記載と日数記載をきっちり書き分け、
更に、倭人からの伝聞では(里数ではなく)日数の伝聞だけであった、
という事も、判っていないアホであった、という事だな。

730 :
>>727
そんなのケースバイケースだろ
かかる時間=里みたいなもんなんだから

731 :
>>725

行程論争は決着済み!!

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   


狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波

732 :
>>709
>自分の言ってることが一貫性がないとwsかってないぞこいつ

それはね、>>709が3人くらいから批判されているのを
一人だと思い込んでいるからだよww

3人でニュアンス、力点が違うのを一人だと思ってるから
一貫性がないと思い込んでるだけww

まあ「>>709は無能」だという証明だよなw

733 :
九州説が消滅したら
今度は阿波説を総攻撃だなあ

734 :
>>727
時間がかかる難所の10キロが遠くになる。
9章算術設問1では、時間(日数)の比較だから
距離(里数)は考慮しない

735 :
>>730
嘘つき

736 :
「九章算術」
臣淳風等 謹按、 縣戸有 多少之差、 行道有 遠近之異。

各県の戸数には多少という(戸数数字上の)差あり、道行きには遠近という(所要時間の)異あり
つまり九章算術では、
「道里遠近」、則ち「道の里(数字距離)と、其道の遠近(数字時間)」として表され、
性質の違う「里」と「遠近」が続けて書かれている。
その両者の性質の差異、とりわけ遠近問題を明確に補説しているのが、「行道有り遠近の異」の註なのである。

737 :
>>716
>それと、FAQ78と何の関係があるの?

FAQ78の2行目
「里数が書いてないではないか!」の否定だよ
これが理解できないなら、日本語を使うだけ無駄だ

「『里』は尺とともに長さが決まった単位」これは正しい
「日数を反映した相対的なもの」なのは『道里』

『里』という単位と、『道里』という概念は別のもの

738 :
>>733
>九州説が消滅したら
>今度は阿波説を総攻撃だなあ

いやぁ、たのしみだなぁ。  はやく九州説を消滅させてね。  でも、トンデモ同士、永遠に無理だわw わはははは   @阿波

739 :
畿内説の総攻撃を受けたら阿波説は一瞬でくしゃんくしゃんのゴミ屑になって
歴史からその姿を消す

740 :
>>738
九州説はもう消滅してるぞ?

741 :
>>739

いやぁ、たのしみだなぁ。  はやく九州説を消滅させてね。  でも、トンデモ同士、永遠に無理だわw わはははは   @阿波

742 :
>>735
嘘つきという証拠は?

743 :
>>733
>九州説が消滅したら
>今度は阿波説を総攻撃だなあ

そんなことしなくても、泡はすでに永島文書で死んでるから放置で十分

744 :
>>741
というか畿内説が手を下すまでもなく
阿波はくしゃんくしゃんのゴミ屑だから

745 :
>>742
1時間かかる登り道の距離と、同じ1時間で下る距離は違う、

746 :
他説の死刑執行人 畿内説

747 :
>>745
そうだな

748 :
>>737
>『里』という単位と、『道里』という概念は別のもの

倭種異人の畿内限りでは、それで通用してるのかもしれぬな

749 :
>>743
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)

↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m

末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)  わはははは   @阿波

750 :
>>748

行程論争は決着済み!!

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   


狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波

751 :
>>758
あいかわらず、「南→東」などの嘘付き騙しの証拠を絶対に出さない大和説は、
異常だな
ロクな反論もなく
そろそろ消滅かなあ

752 :
>>736
キウスですらこれには分がないととして撤退してるし、
ザラゴキですら書いてある内容自体では「道里は日数で書ける」ことにしかならないから
九章算術自体を否定する方向に行ってるのに、どうして>>730はこんなにがんばるんだろう?
連続句読点ですら、長文コピペでスレ流しして逃げてるだけなのにww

>>736(邪馬台国の会の中の人)が一番利害があるから必死なのかな?wwwwww

>各県の戸数には多少という(戸数数字上の)差あり、道行きには遠近という(所要時間の)異あり

各県の戸数には多少という(戸数数字上の)差あり、道行きには遠近という(道里日数上の)異あり

括弧書きをつけるなら、こうしないと意味がない

>「道里遠近」、則ち「道の里(数字距離)と、其道の遠近(数字時間)」として表され、
>性質の違う「里」と「遠近」が続けて書かれている。

何度書いてもごまかされるやつはもういないよ
「道の里(数字距離)」これがインチキなのは確定
道里は現代語では「道程・道のり」にあたる概念
道里は道の「里」ではないし、数字距離でもない

行道○日で書かれている>>736の言うところの数字時間が、
「道里を示す数字」そのもの

753 :
>>752

行程論争は決着済み!!

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   


狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波

754 :
移動の目安は1日60里

755 :
>>760
このように、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の後期高齢者たちは、
現実逃避しか余生の生き方がない

756 :
>>754
>移動の目安は1日60里

「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) ? 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ? 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

757 :
>>762
このように、「南→東」などで、徹底してウソをつく
それが大和説者の晩節の穢しかた

758 :
>>756
じゃあその比定は間違ってるんだな

759 :
里数は日数にならないと言い張るから九州説は滅んだ
里数は日数で表せるというのはごく当たり前の原理
むしろ表せないとする方がこの世に存在する当然の摂理に反している

760 :
>>767
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の三角縁神獣鏡も前方後円墳も、山ほどあっても、
皆、3世紀末以後になってしまう、という時点で、
大和説は負けなんだよ

761 :
里数は日数であり
日数は里数である

762 :
>>768
長年「南→東」などの嘘付き騙しをやってると、
ウソつくことが平気になっちゃうって、
京都アニメ放火犯のような事になりそうで、
恐ろしすぎだろ大和説

763 :
>>567

それ以外に提示がないので、確定!!  へなちょこ説さん。   わはははは   @阿波

764 :
>>730
>かかる時間=里みたいなもんなんだから

畿内説の主張はこのように未熟である。

765 :
>>754
>移動の目安は1日60里

「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) ? 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ? 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波

766 :
>>652
>『日数』を使った場合、荷車が満載か空車かで当然日数は変わってくるし、
平坦な道か山岳地帯かでも違ってくるため、相対的な性質を持つが
旅程における道里の記述としてはむしろ実用性が高い <

>登山地図で、ポイント間の行程がメートルと所要時間の両方で書かれているのと同じこと<

行程AB間の所要距離と所要時間は違う・・と、自ら力説しているではないか。

767 :
里は地図上での一定の絶対距離に比べ伸び縮みする相対的なもの
これを受け入れられないのは科学的なセンスがないなあ

768 :
>>767

行程論争は決着済み!!

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   


狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波

769 :
倭人は里数を知らず、日数で距離を測る(未開人である)。
(隋書)
もちろん、中華文明の人間はそのような無知なことはしないから、
(郡使が通過した)女王国から北は道里を略載できる。
(魏志)
そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。
(魏志)

770 :
>>768
魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東の沖縄か台湾辺りと書いてる時点で
行程論は全て無駄なものということ

771 :
>>767
では一里が100メートルくらいでも問題ないわけだ。

772 :
>>732
匿名掲示板で何言ってんだこいつ

773 :
>>770
朝鮮半島と九州の南北の長さを過大評価しただけだろう。
里は地図上での一定の絶対距離に比べ伸び縮みする相対的なものだから、誤解を招いたんだよ。

774 :
>>737
ハイ嘘つき

775 :
>>767
はい矛盾

776 :
光の速さも昔は一定と考えられていたけれど
相対性理論によって縮む事事が明らかにされた
里も同じく昔は長さが一定と考えられていたけれど
相対性里論によって伸び縮みする事が確認された

777 :
>>771
ないよ

>>775
どこが

778 :
相対性里論は自分で実証もできる
何時間歩いたら1里と決めといて
平坦な道と起伏の激しい道を歩いて見たら

779 :
>>730
同じ日数の水行でも、荒波と、穏やか海、
海流、潮待ち、停泊日数、、、
移動した距離は左右される

780 :
>>761
奥山をからかうのはあかん

781 :
>>766
>行程AB間の所要距離と所要時間は違う・・と、自ら力説しているではないか。

そうだよ?
そして、所要距離も所要時間も行程AB間の道里の表現として、
今も昔も同じように使われている普通の表現だし正当な表現だというだけの話

782 :
>>759
水行10日の里数はいかに?
陸行1月の里数はいかに?

783 :
>>767
>里は地図上での一定の絶対距離に比べ伸び縮みする相対的なもの

「里」は地図上での一定の絶対距離を測るための、絶対値の決まった長さの「単位」
>>767の言う伸び縮みする相対的なものは「里」ではなく「道里」だよ

784 :
>>781
均輸の設問4かい!
速度が記述されてるだろ!

倭人伝の水行は、速度が記述されてないから、里数は出ない!

785 :
>>769
>そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。

これが間違いだって何度教えても直さないww

「駐在」じゃない

「駐する」で一時的に立ち寄ること
入国管理でスキップできず、必ず伊都国で手続きが必要というだけ
そこにずっといる訳じゃない

この誤読を元に伊都国が都とか言い出すから、邪馬台国の会の中の人は
頭が悪い

786 :
>>772
>匿名掲示板で何言ってんだこいつ

九州説の人には「文は人なり」っていうのが分からないみたいだからなw
キウスがコテなしで書いてもすぐにバレるだろ?

>>772は、何を書いているのがどの人なのか分からない程度の読解力、
知的能力だという自白をしているただのバカ

787 :
>>774
どこがウソなのか、具体的に指摘してね!と何度書いても九州説は逃げるだけww

788 :
>>775
>はい矛盾

どこが矛盾?
この人はこれを一貫して主張してるよ?

私はことあるごとに、修正してるけど

789 :
>>737
水行20日まるまる停泊したと、誰も思っていなよ、ある程度の距離は進んだな、誰も異論は無いよ、
FAQ78の質問も奥山が作ったのだろう!
それに、知ったかぶりの9章算術や、後漢書で、回答する気がしれない^_^

790 :
>>781
所用時間で距離は出ないよ^_^
速度が必要!これ常識!
だから、均輸設問4では速度を記述して、
距離÷速度の計算をさせているの!

791 :
>>781
>そして、所要距離も所要時間も行程AB間の道里の表現として、
今も昔も同じように使われている普通の表現だし正当な表現だというだけの話<

その「道里」とは、現代日本語の二文字熟語の場合の解釈のようだな。
漢の「道里」とは、書いて字のごとく「道の里」、或は道の里の数、もしくは道とその里の数

792 :
奥山は確率も✖道里も✖
どんどんドツボにハマルさまが面白い🤣

793 :
>>785
>この誤読を元に伊都国が都とか言い出すから、邪馬台国の会の中の人は

誤読だという根拠は?

794 :
>>790
>所用時間で距離は出ないよ^_^
>速度が必要!これ常識!

そして、陸上移動・陸行には「速度の常識」があって、何度も書かれているけれど
一日60里くらいが標準

でも、水行に関しては大陸民族の魏人・郡使は見当もつかなかったから、そのまま
日数で書いたってくらいだろ

795 :
>>783
>>767の言う伸び縮みする相対的なものは「里」ではなく「道里」だよ

里が伸びちじみしては役に立たない。里は里だ。
>>767の云う「道里」は現代日本熟語の、しかもあいまい軟弱な我流解釈。

796 :
>>789
>FAQ78の質問も奥山が作ったのだろう!
>それに、知ったかぶりの9章算術や、後漢書で、回答する気がしれない^_^

これはテンプレへの批判?

797 :
畿内説は「魏里は尺で決まっている」から「里は伸び縮みする」まで、ずいぶんと後退したな。
もう救いようがないほどにポロポロなのか。

798 :
どっちにしても九州説は滅亡

799 :
>>782
1万里と2千里

800 :
>>791
>その「道里」とは、現代日本語の二文字熟語の場合の解釈のようだな。

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

現代ww日本語のwww二文字熟語のwww場合のw解釈だって!!!www
腹イテェ!!!

現代日本語には、「道里」なんていう熟語は、あ・り・ま・せ・ん!!

どこまでバカなんだw
「道里」を現代日本語で説明するために出してきたのは
「距離」であり「道程・みちのり」だ

距離にも、道程にも、「里」の字は入ってないだろ?
距離はメートル等の長さの単位では示さなければならないなんていう縛りはないし、
現代でも時間を用いた道程の表現は普通に使われる

>漢の「道里」とは、書いて字のごとく「道の里」、或は道の里の数、
>もしくは道とその里の数

これが大嘘だって、何度も何度も書かれているのにただ同じように書くだけ
無能の極致

801 :
>>800

行程論争は決着済み!!

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   


狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波

802 :
>>793
>誤読だという根拠は?

伊都国に駐在していたら、親魏倭王に金印と魏の皇帝詔書を渡す務めが果たせない

伊都国は、女王の都するとことである邪馬台国と別の国名で表示されているのに
伊都国と邪馬台国を重ねる二重帳簿詐欺をやってるから、九州説は最初からデタラメなんだよ

803 :
>>783
例えば光の速さは秒速30万kmと定義されているけど
重力などの条件によっては遅くなる

里もそれと一緒で
1里437mと定義はあっても長距離を時間や歩測で測った場合
道の状態などで原理的に1里が200m300mになったりもする
絶対距離を測る方法や道具それと必要性がないから

804 :
>>802
>伊都国は、女王の都するとことである邪馬台国と別の国名で表示されているのに
>伊都国と邪馬台国を重ねる二重帳簿詐欺をやってるから、九州説は最初からデタラメなんだよ

うん、それは畿内説の云う通りだ。   @阿波

805 :
>>795
>「道里」は現代日本熟語の

そんな熟語はないんだ

道里でぐぐってみ?
北九州のふぐ料理の店とか、みちさと君という男子の名前くらいしか出てこないよww

806 :
里は伸び縮みするから九州説は滅亡

807 :
登山の例で説明しよう
上りの1里は10時間かかる。同じ道を下山するときは1里を1時間なんてことは良くある。
つまり、
上り道の1里は10時間だから「遠い」といい、同じ道を下りの1里は1時間だから「近い」という。
則ちこれを、同じ道行き1里でも「遠近の異」があるという。。。
(なお10時間を10日、1時間を1日に置き換えても、同様に「遠近の異」があるという)

808 :
>>805
>>「道里」は現代日本熟語の

>そんな熟語はないんだ

そうかい、道里という熟語がないのであれば、「道程」なども外れる。
よって「道の里」とよむほかないであろう。

809 :
>>807
>同じ道行き1里でも「遠近の異」があるという

そういうのは関係なく、道里遠近というのは
道里が行道八日、行道十日とか書かれていて、
行道八日は行道十日より近い、
行道十日は行道八日より遠い、というただこれだけ

遠近の異(違い)は単に日数の数値が違うということ
里数に換算する必要もないし、この問題には一切出てこない

810 :
>>808
>そうかい、道里という熟語がないのであれば、「道程」なども外れる。

お前、どこまでバカなの?
というか、日本人じゃないのか?

道里という熟語は現代日本語にはないが、
「道程」は「ドウテイ」と読む熟語であり、またそのまま訓読みで
「みちのり」と読む、辞書にも普通に載っている言葉だぞ

「ドウテイ」でも「みちのり」でも普通に「道程」と変換できるし
ぐぐれば普通に予測変換で「道程 意味」って出てくる
まあ、最初に出てくるのは高村光太郎の道程(詩集)だけどな

道里は現代日本語の熟語じゃないから外れるが、
道程・道のりは現代日本語の普通の熟語だから外す必要はない

811 :
倭人伝の云う道里とは何か
> 裴秀は『禹貢地域図』の序文で、「製図六体」という正確な地図を作成するための6要素について解説をしています。
「分率(ぶんりつ)」「準望(じゅんぼう)」「道里(どうり)」「高下(こうげ)」「方邪(ほうじゃ)」「迂直(うちょく)」の6つです。
ここで詳細は省略しますが、
分率(縮尺)、準望(方位)、道里(距離)を、それぞれの道の高下(高低)、方邪(直角/斜め)、迂直(曲がり/まっすぐ)を考慮して修正すれば
隅々まで正しい地図ができると述べています。<

> この中で、「道里」とは「所由の数を定める所以である」とされ、後の清朝の学者である胡渭(こい)の解釈を借りると、
「道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処に至るに、里数如何程かの謂いなり」
(『禹貢錐指(うこうすいし)』訳文/『古地図と邪馬台国』弘中芳男著 大和書房収載)となります。
つまり、「道里」とは、「A地点からB地点に至るまでに人の歩いた(移動した)路(道路や航路)の距離であり、里数で表されるもの」であると定義されているのです。<

812 :
>>811 (リンク先)
倭人伝の云う道里とは何か
https://ameblo.jp/yamatai-nihongi/entry-12395495340.html

813 :
また素人のHPかw
これだから九州説は・・

814 :
>>811>>812

「『禹貢地域図』は、西晋の裴秀(はいしゅう)が270年頃に完成させた、
 (中略)ほぼ同時代に生きた二人なのです。」とし、
「陳寿が『三国志』を撰するにあたって参考にしたであろう『禹貢地域図』に
 「道里」が明確に定義されていれば、当然、陳寿が「道里」という言葉を
 用いる場合、その定義にそって用いるはずです。」

ここまではまあいい
それなのに、道里の定義として出してきたのが、
「後の清朝の学者である胡渭(こい)の解釈」

現代語で考えてもダメだと言っていた人がいたけれど、
清代では三国時代の字義を見るには不適だろう

815 :
つーか・・・>>811をかる〜く流し読みするだけで
18世紀の人の「解釈」を
いつの間にか「定義」にスリ変えてるという
お粗末すぎるインチキが丸見えだなー

816 :
>>811
《禹貢地域図》を出してくるということは、1:1800000の縮尺を認めるということなんだよ。
つまり1里=1800尺を認めるということ。
短里は無いでいいんだね?

817 :
陳寿のスタンスははっきりしてるんだよ
 自女王国以北、其戸数道里可得略載、
 其余旁国遠絶、不可得詳。

「自女王国以北」と「其余」で2つに分けてるだろ
「其余」=「それ以外」だから、ほかは無いんだ

官も副も戸数も所要日数も得ている投馬国が
名前しかわからない「其余」と同じ分類であるわけがない
不合理である
だから陳寿が「水行20日」を「道里」として使ってることは確定なんだ

818 :
>>815
>お粗末すぎるインチキが丸見えだなー

九州説の素人としては、いろいろと自分で調べててがんばってる方だよ
引用されてるブログを書いてる人はね

このブログを書いてる人に、このスレのテンプレを読んでもらったら、
九州説を諦めると思うけどww

819 :
>>811
>つまり、「道里」とは、「A地点からB地点に至るまでに人の歩いた(移動した)路(道路や航路)の距離であり、
里数で表されるもの」であると定義されているのです。<

成程 やはり里数で表されるのか?

日数ではないのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

820 :
>>817
自己流の解釈より
>>811みたいに、学者の文献を示せばよいと思う

821 :
492>>777
大和説者だ、とか言った時点で、
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師である事が確定だから、
もう人間の恥であり、失格だな

822 :
>>796
間違いの指摘

823 :
492>>779
まぁこの、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の、必死の誤魔化しぶりを見ると、
行程のホラも自分でももう終わってるの分かってるんだろうな

それでも、ついたホラが引っ込められなくて、ホラを吹き続ける
大和説とか言う奴らは本当に惨めな奴らだな

824 :
魏略の冒頭の一文が、「倭が帯方郡の東南の海中にあって、その倭から舟でさらに千里行くと別の倭種の国がある」というものである以上、
奈良に邪馬台国があるとする説はもはや無意味になる。
九州に女王国があり、そこから千里の所に別の倭種の国があるというのであるから、魏志倭人伝の文章も加味するとその倭種の国は奈良にあることになり、
考古学的にはその奈良の国とは纏向の政権のことだということになる。
この魏略の文章からは、魏の朝廷は九州の倭の政権と奈良の倭人の政権とを特別に非常に注目していたことが分かるのである。

つまり、邪馬台国大和説は、無理になったのよ。
奈良にあったのは倭種の国であり、その倭種の国とは纏向政権のことなのだよ。
大和説は力尽きたのだから、もう旗を降ろしたまえ。

825 :
jき

826 :
492>>785
そもそも何故か「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のアホは、
「使節は大和まで行った!」とか意味不明の事を、
当たり前の事のように喚いてて笑う

大和は、神武らの侵入が、磐余付近の一部分をかろうじて占拠出来ただけで、
3世紀までは、残存毛人や出雲系銅鐸祭祀部族らとの「婚姻による共存」状態であって、
そこへ、九州倭国の「東征毛人五十五國」の軍が入って来て、神武の後裔の崇神らは、そのお手伝いをして、
ようやく、大和の支配者側に立てた、というだけら。

つまり大和は、3世紀頃は、未だに弥生時代レベルのムラで終わってるショボい勢力だった、
と言う事が分かるだけの話
これをもって大和朝廷だとか畿内だとか喚だとか、だから、
笑いしか出ない

827 :
>>824
最近見ないすげえ馬鹿に会った

それ、要約すると
「九州説が正しいから畿内説は間違いだ」
だよな

828 :
>>822
それ、なにも指摘してないよな?

829 :
>>820
そんなことする必要が何故あるの?
昔の学者の根拠のない解釈より目の前にある論理だろ

830 :
>>811によると
「「道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処に至るに、里数如何程かの謂いなり」 という」
「後の清朝の学者である胡渭(こい)の解釈」 についてのネタ元は
「『禹貢錐指(うこうすいし)』訳文」だそうだが、「禹貢錐指」の原文にはそんな件はないぞw

「禹貢錐指」中の『道里』は9箇所
6巻
張勃、酈道元、張守節、陸龜蒙、李宗諤諸家之說,雖名稱各殊,「道里」互別,然皆在太湖上下二三百里之間。
8巻
其《王制》所言,不過言南河至江,江至衡山之「道里」耳。

11巻
今按阜平縣在真定府西北二百十里,大茂山在縣東北七十里,與《括地志》所指為恒山者,「道里」相符。
戊己校尉徐普欲開以省「道里」半,避白龍堆之厄。
劉三吾《書傳》謂孔氏以遼東屬青州,隔越巨海,「道里」殊遠,非所謂因高山大川以為限之意。
計其「道里」,並阻且長,有殼者難於轉漕,其所謂粟,當即是米也。
以「道里」計之,此二山者,與幽洲、三危皆在荒服之中,則四罪之刑皆為流可知也。
自秦、漢開阡陌,於是「道里」始迂,此古今里數多少之不同一也。
句股之數密,則於山川迂回之處,與「道里」曲折之間,以句股之多,計弦之直,而得遠近之實。

いろんな書の道里を調べて、一致するかどうかを述べてるのが多い
一致しない理由として、山川を迂回するときの曲がり方で違ってくるとかは書いてあるが
「人跡経由」だとか「里数如何程か」とかは書いてないぞ

結局、『古地図と邪馬台国』を書いた弘中芳男氏の解釈でしかないようだw

831 :
>>802
>伊都国に駐在していたら、親魏倭王に金印と魏の皇帝詔書を渡す務めが果たせない

逆だよ。
伊都国に駐在しているのに卑弥呼に謁見できているので、卑弥呼はその近くに居たんだよ。

>伊都国は、女王の都するとことである邪馬台国と別の国名で表示されているのに

これは邪馬台国が領域の名前であることで解決できる。7万戸が単一の国邑ではないだろうから、その中に伊都国や奴国があってもいい。
畿内説だって邪馬台国は畿内全体という領域を示していると考えているのだろう?

832 :
>>827
アホちゃう。
魏略がそう書いとるワケよ。
魏略と魏志倭人伝がそう書いとるのを、(シラナイ、シラナイ)して奈良に倭人伝の邪馬台国があったとネツゾウ・シツコイのは、なんなのよ。

まあ、長年そのシツコサで暮らしてきたから、すぐにはイヤ〜、マチゴウテマシタと頭下げられんのは理解できる。
なので、そのうちに手のひら返して、マチゴウテマシタと頭下げなさい。
良心があるのなら、そうしたまえ。^^

833 :
>>817
>官も副も戸数も所要日数も得ている投馬国が
>名前しかわからない「其余」と同じ分類であるわけがない

もちろん、投馬国は傍国の扱いではないよ。
魏志倭人伝の中で、邪馬台国と投馬国だけ人口と日程を別に示してあるから、投馬国は邪馬台国に匹敵する遠くの大国であることがわかる。
それぞれ福岡県と宮崎県なら規模も互角でピッタリだ。

834 :
>>831
>畿内説だって邪馬台国は畿内全体という領域を示していると考えている

纒向遺跡は大集落であり、奈良は7万戸からなる大都市だったなどと言ってたねw
住居跡が見つからないと悟ってからは、人口の少なさが聖地であることを示しているとか妄想を言い始めたねw
ほんで今では河内も大阪北部も含むとか随分と拡大してるw

835 :
「禹貢錐指」の文章で
「道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処に至るに、里数如何程かの謂いなり」に
近いのはこれかな?

而《漢志》云南北萬三千三百六十八里,則真視《禹貢》幾二倍矣。
原其故,由武帝開百越、定滇池、置牂牁、收交趾,大斥南疆,悉以其地為郡縣,
故有若是之遠,非句股之法廢,而所言里數皆以著地人跡計也。

漢志では、南北萬三千三百六十八里であり、すなわち禹貢の約二倍である
その原因は、武帝以来、百越、定滇池、置牂牁、收交趾,大斥南疆を漢の領土として
ことごとく郡県を置き、それによって句股の法にあらざるを廃し、
皆人跡の著す地を計るを以て里数を言うようになったところ故に、是が遠くなったのだろう

句股の法というのは、3:4:5の三角形で直角を作って測量・製図をする方法
曲がりくねった道の長さの見積もりを、句股の法を使ってやると正確という考え方

836 :
>>832
>アホちゃう。
>魏略がそう書いとるワケよ。

ならパーか
魏略に「九州に女王国があり」とか書いとらんわ

837 :
>>834
>纒向遺跡は大集落であり、奈良は7万戸からなる大都市だったなどと言ってたねw

九州説の虚言癖
医者必要

838 :
>>833
>もちろん、投馬国は傍国の扱いではないよ。

なら女王国以北で
九州説死亡

839 :
>>837
ああ言えばこう言うキナイコシ

840 :
魏略逸文

倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
(前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注)

従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(翰苑 卷三十)

倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視坼占吉凶也
(北戸録 卷二 鶏卵卜)

其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
(三國志 魏書 東夷伝 倭人 裴松之注)

倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里
(法苑珠林 魏略輯本 所引)

841 :
結局、《禹貢地域図》にも、「禹貢錐指」にも「道里の定義」は書いてないし、
「里数如何程かの謂いなり」という記述もないことが確認されたんだが?ww

具体的な根拠が示してあれば、こうやって検証することができる
だからいつもいつも「具体的な根拠は?」って訊いているんだけどなw

そして、具体論に入ると九州説の主張が間違っていることが分かる訳だ
ひと昔前なら「「禹貢錐指」の訳文にこう書いてあった」と言われれば、
そういうものか、と思う人も多かっただろうが、今の世の中では
それが全部、元の漢文が検索できる時代だから九州説による騙しが
効かない世の中になってる

「禹貢錐指」の原文はここで読めるから、不満があるなら自分で確認してくれ
https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=943731

そして、それができず、日本語訳などの二次情報しか読まない九州説は
「情報リテラシー」が低いって言ってるんだよww
新しい情報をきちんと抑えれば、九州説にはならないw

842 :
>>833
>それぞれ福岡県と宮崎県なら規模も互角でピッタリだ。

わはははは  碌な集落遺跡の無い福岡県と宮崎県に、邪馬台国や投馬国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

843 :
>>838
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日

844 :
>>834
>纒向遺跡は大集落であり、奈良は7万戸からなる大都市だったなどと言ってたねw

かつては確かにそうだね。  @阿波

845 :
>>844
うそ800の九州説

846 :
>>840
>東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也
>女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
>自帯方至女國万二千余里

魏略では九州から一歩も出ていないね。
伊都国の説明の後、女王のさらに南に狗奴国とある。
「其國王」が誰を指すのかやや意味不明だが、畿内どころか本州も視界に入っていないようだ。

847 :
>>824
>その倭から舟でさらに千里行くと別の倭種の国がある

これが、九州説の自己都合に合わせた恣意的な誤訳ww

間違っているのは
その「倭」から「舟で」『さらに』千里行くと『別の』倭種の国がある
の部分

原文は「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」

「倭」からと読む必要はない
むしろ素直に読むなら「帯方郡と地続きのところの端(狗邪韓国)」から、となる

「舟で」は渡海だから、まあ意訳としては許されるが、
「さらに」と読むべき文字はない
『別の』は完全にインチキ訳で、旧唐書の倭の別種からの単なる連想に過ぎない
魏略に書いてあるのは『皆』倭種であり、渡海千里の前もあとも、
帯方東南大海中の島にある国は「みんな全部」倭種であると書いてあるに過ぎない

848 :
>>807
ホレ「南→東」などの嘘付き騙しの大和説のスレ主は、
もっと気合いを入れて、橿原考古研究所?の上司の説を批判して、研究所を立て直さないと、
バイト代も出なくなるぞ。

849 :
>>840
魏略百万遍
どこをどう読んでも九州説は出て来ない

w

850 :
>>831
>伊都国に駐在しているのに

この「駐在」が間違っているんだから、その論理は通らないってのにww
水行十日+二十日、陸行一月と整合性が取れない時点で、「読み方がおかしい」んだよ

都合がよさそうな読み方だけをつなげていくそのやり方が、チェリーピッキングだって
言われ続けているのに、治らないな九州説はw

851 :
>>839
ああ言ってもこう言っても
ウソしか言わない九州説

852 :
>>847
>「倭」からと読む必要はない

「倭」からと読む以外にあり得ない!!   @阿波

853 :
>>831
>これは邪馬台国が領域の名前であることで解決できる。

これも、九州説のインチキ読みの発明だよなww

七万戸だからある程度広い領域だというのは構わないが、
その中に二万戸の奴国があるとか言うのが二重帳簿詐欺なんだよ

邪馬台国が領域の名前であるとしても、その中に別の国名(戸数道里略載)が
入るのは記述法としておかしいし、そんな入れ子の国の描き方は大陸史書に
一例たりともない

854 :
492>>810
「南→東」などの嘘付き騙しの国粋皇国史観戦争狂の大和説者は、
なぜ必ず失敗するのか
考古発掘物や文献や科学調査結果の全てに嘘をでっち上げ、
邪馬壹國女王之所都を大和にするという、
妄想に近いおよそ非現実的な目標に向かって、
何も考えず全力で突っ込んでいくから
京都アニメ放火犯のように、
狂気の妄想に取り付かれてガソリンを振りまく狂人に同じ

855 :
>>846
>魏略では九州から一歩も出ていないね。

断片みてもそんな結論は出ないぞ
間に何行抜けてるかわならないんだから

856 :
>>850
>この「駐在」が間違っているんだから、その論理は通らないってのにww

その通り、意味を間違えている。   @阿波   

857 :
>>812
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や大和説学者らは、
現実的な世界じゃなくて、
狂気の世界に住んでいる

858 :
>>853
>その中に二万戸の奴国があるとか言うのが二重帳簿詐欺なんだよ

指摘の通り、二重帳簿詐欺。   @阿波

859 :
>>833
>それぞれ福岡県と宮崎県なら規模も互角でピッタリだ。

宮崎県、弥生終末期の遺跡としては、福岡に明らかに劣るぞ
互角ではない
それに、五万戸の大国なら>>831で書いてたように
ある程度広い領域の国家じゃないといけないんじゃないのか?
宮崎の遺跡はそんな広がりはない

そして、投馬国を別の領域にしてしまったが最後、伊都国や奴国を
どう集めても邪馬台国が七万戸に届かなくなるぞww

こうして、その場しのぎの思いつきで糊塗しようとしても、全体として
整合性の取れる論にならないのが九州説の限界だww

投馬国は女王國より以北の国ってのは確定だから諦めろw

860 :
>>846
>伊都国の説明の後、女王のさらに南に狗奴国とある。

いや、その文章は続いてないから
バラバラの別の文だから

861 :
>>859
>宮崎県、弥生終末期の遺跡としては、福岡に明らかに劣るぞ

碌な集落遺跡の無い福岡に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

862 :
>>843
>帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)

帯方郡から福岡県まで物理的に十日では着かない
陸行が1日だったら、書かれる意味がない
舟で着いたところがもう邪馬台国なんだから

何度もきちんと否定されているのに、繰り返し同じことを根拠もなく
書き続ける九州説は無能

863 :
>>862
>帯方郡から福岡県まで物理的に十日では着かない

その通り。


>陸行が1日だったら、書かれる意味がない

その通り。   @阿波

864 :
魏略魏略と連呼するおばかさんは
魏略を読んでません
確定

865 :
>>840
「従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
 始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
 又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也 」

「女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
(翰苑 卷三十)

866 :
492>>816
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和説というのは、学問とは関係なく、
白村江の後で九州倭国を併合吸収継承した大和日本国が、
天地開闢以来ずっと列島の盟主であって来た、という皇国史観政治思想のために、
創作されたものだ。
だから、地名の恣意的当てはめや、「南→東」などの嘘付き騙しや、
魏志倭人伝の史料実態を無視して「長里だけだ」、
のようなインチキ読み方の工夫で、無理して創り出された
だから、体系として成立していない個人個人のインチキ説の集合の総称であって、
「畿内説」という学説もあったわけではない

現代になって文献考古の全体で古代史を考えるのが普通になってくると、
大和説は、歴史学の分野には残れなくなった
平成の終わり頃には、事実上もう学説としては廃棄物だった
いまは、精神的に異常な特殊な人だけが奇妙に過激な態度で支持をしている

ひとことで言えば、過去の遺物だ

867 :
>>1

笑われてるぞ

868 :
>>852
>「倭」からと読む以外にあり得ない!! 

そうはならない
原文は「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」

倭在帯方東南大海中 依山島爲國までが、倭国の地勢を示す第一文
度海千里復有國 皆倭種は、倭種の範囲を示す第二文

第二文の冒頭の渡海は、素直に読めば帯方郡のある土地からの渡海で、
実際に魏略でも魏志倭人伝でも、半島から対馬の渡海が千余里とされていて
整合性が取れる
ただ、倭種が国を作っている山島から渡海でも意味は通るので、
「倭を構成する島のひとつ」からと読むことは可能

869 :
>>1

笑われてるぞ

870 :
>>811>>812を書いた人、消えちゃったかな?

素人の個人ブログの二次情報では、意味がないって分かったかな?
同時代資料の原文をきちんと解釈して、道里の意味を考えるのが正道であり、
同時代に読まれていた算術書、九章算術の記述から明確に道里が日数で示されていることが
確認できる訳だ

道里が里数じゃなきゃダメだ、投馬国には道里が略載されていない、というのは
間違った解釈だよ

871 :
>>868
>第二文の冒頭の渡海は、素直に読めば帯方郡のある土地からの渡海で、


第二文の冒頭の渡海に、第一分の「帯方郡」は無関係!

第二文の冒頭の渡海は、素直に読めば倭国のある土地からの渡海である。   @阿波

872 :
なんだ なんだ なんだ 
このスレ
畿内説内の議論ないじゃん

テンプレの鉄則は
表題と>>1で決まるが・・・・・・・・・

なんだよ、畿内VS九州VS阿波 のスレじゃん

873 :
>>865
それがそれぞれ離れたところに書いてある
ぜんぜん別の文章だって
知らないでしよ
ばかだから

874 :
492>>865
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
稚拙でインチキ過ぎて、
相手にならんな

875 :
492>>873
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
破綻して終わったようだな。

876 :
ほんと、九州説って「南」の一字しか頼るもんが無いんだな

877 :
492>>885
そろそろ「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者が、
狂気に染まりすぎて
まともに会話もできないようになって来たな

878 :
492>>886
「南≠東」などと、
「投馬国が女王国以南」なのが、
大和説者にとっては、致命傷だったのかねぇ

879 :
492>>888
「南→東」などの嘘付き騙しがバレた大和説は、
みじめなんてもんじゃないなあ。

880 :
南→東よりも、

・放射読み
・架空の短里、しかもそれを韓人や倭人ではなく帯方郡の魏の役人が使う
・帯方郡起点
・陸行一月は半島における行程 or 呼子上陸かつ一月は誤記で伊都国まで一日で全力疾走
・人口二重カウント

この無理ゲー条件全部をandで同時に成立させなければ、
九州のどこかに比定することが出来ない時点で、
誰がどう見ても九州説なんてあり得ないんだよ。

881 :
>>880
>この無理ゲー条件全部をandで同時に成立させなければ、
>九州のどこかに比定することが出来ない時点で、
>誰がどう見ても九州説なんてあり得ないんだよ。

その通り。   @阿波

882 :
492>>890
>ばかですか
学説が時代によって変わるのは当たり前だ <

バカですか?。
普通の成人にとっては、「東西南北」の区別が出来る、ってのは、
太古の昔から変わっていないんだよ。

大和説よ お前のティラノサウルスはまだ直立しているんだろう
大和説は学説ではないからだよ

883 :
492>>892
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
妄想が好きすぎ

884 :
>>882
じゃ、方位を間違える人が後を絶たないのは何故?

885 :
>>896
>纒向が邪馬台国と関係はないとしても、纒向遺跡の存在価値は非常に大きい と思う
古墳時代の幕開けはまぎれもなくこの纒向の地であるし、・・・<

ちょっと違う。
古墳時代が前方後円墳時代であれば、
列島では、筑紫の弥生銀座付近の(くびれ部が少し滑らかな)那珂八幡などが、
3世紀後半半ば過ぎであって、最も古く、
大和の石塚は、くびれ部がシャープな撥型であるから那珂八幡よりも「進化」型であり、
那珂八幡よりも新しく、3世紀末である。

886 :
>>885
考古学者は九州説をせせら笑う

887 :
>>871
>第二文の冒頭の渡海に、第一分の「帯方郡」は無関係!

なぜ?
それに、帯方郡が無関係とするなら、
渡海の基点は「倭国の中の島」になるんだが、
その「依山島爲國」も第一文にあるという矛盾

第一文だから関係ないってのは無意味

888 :
三世紀のデカい古墳がない所に、邪馬台国は存在しない。
http://kamnavi.jp/log/k11426.png

卑弥呼の墓は、現時点での考古学的年代比定によれば、纏向石塚。

後円部の大きさ(魏志の記事にある径百余歩と完全に一致)と4段築成(注)、
今後の考古学的年代比定の変更(現時点で箸墓は本体が調査されていない)を視野に入れれば、箸墓。

注:ウェディングケーキの段数のような、古墳の段数のこと。
段数の多さが被葬者の格付けを表す。
日本中の古墳は、唯一、箸墓古墳だけが4段築成。
それ以外はいわゆる仁徳天皇陵、大仙陵古墳も含めて全て3段以下。
つまり、箸墓は大王や天皇よりも格上の人物の墓であると言うこと。
それは倭の五王(安東大将軍倭国王)よりも格上であった、親魏倭王卑弥呼しかいない。

889 :
>>876
>ほんと、九州説って「南」の一字しか頼るもんが無いんだな

あと、短里で萬二千里だから九州ってのも頼りにしてるつもりだよww

でも「短里はない」し「萬二千里は観念的な数字で現実の土地を指さない」から
もう九州説はどうしようもない

890 :
>>899
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説、
妄想しすぎ

891 :
>>886
>考古学者は九州説をせせら笑う

碌な集落遺跡の畿内に、真の考古学者は畿内説をせせら笑う    @阿波

892 :
>>885
>列島では、筑紫の弥生銀座付近の(くびれ部が少し滑らかな)那珂八幡などが、

箸墓とおんなじですけど
https://i.imgur.com/zJCqyag.png

893 :
>>901
>じゃあさ 倭人伝どおり投馬国を女王国よりも北に ちゃんと比定できてる
九州説って あるの?<

倭人伝では、投馬國は女王之所都よりも南になる記載になっているから、×。

894 :
《禹貢地域図》を持ち出した九州説の人、消えちゃったなww
きちんと漢文が読めれば、こんなバカなことは書かなくて済んだのに

情報は自分でソースを確認できるようにしないと!
それが情報リテラシーの根幹であり一番大事なところ

九州説の人はそれができずに、何十年も前から変わらない二次情報の再生産しか
していないから、まったく進歩なく同じ間違いデタラメを同じように書き続けるだけ

惨めだと感じないのかねぇ?

895 :
今日のギャグとして面白かったのが、
・「道里」は現代日本語の熟語
次点が
・「道程」は現代日本語の熟語じゃない

九州説に、日本人はいるのか?と疑問に思うww

まあ、ザラゴキはとりあえず日本人だと思う
連続句読点は現在の国籍は日本人だと思う

キウスは日本の学校教育をまともに受けていないのは確定
「邪馬台国の会の中の人」は「邪馬台国の会」を内部から腐らせている最中のように思う
国連が先代事務総長の時代に腐ったのと同じように

896 :
>>887
>渡海の基点は「倭国の中の島」になるんだが、

ならない!  渡海の基点は「帯方東南大海中の島=倭国」になる。
  

>その「依山島爲國」も第一文にあるという矛盾

矛盾しない!  「依山島爲國」=倭国だから。   @阿波

897 :
>>893
>倭人伝では、投馬國は女王之所都よりも南になる記載になっているから

なってないww

南至投馬國、水行二十日(官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月(官名)可七萬餘戶。
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。   ←ここが境目
次有斯馬國、次有已百支國

邪馬壹國までが女王國より以北の国
それ以外の読み方はない

898 :
>>892
>箸墓とおんなじですけど

おんなじ「忌部はん」 のお墓だからね。   @阿波

899 :
>>896
>ならない!  渡海の基点は「帯方東南大海中の島=倭国」になる。

では、その「帯方東南大海中の島」には、最初どうやったら行けるんだ?
渡海千里しないと、大陸にある帯方郡からその島まで行けないだろ?

泡はやっぱり論理的思考ができないんだな
永島文書に騙されてるしww

900 :
>>847
>原文は「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」

海を渡ること千里で「また」国があり、皆倭種である。
倭とはまた別の国があるけども、みんな倭種である。

901 :
>>850
>この「駐在」が間違っているんだから、その論理は通らないってのにww

間違っている根拠をどうぞ。

902 :
>>855
>間に何行抜けてるかわならないんだから

九州から旅立つ逸文を見つけてから出直せ。

903 :
>>909
>「道里」を計って会稽東治の東なのだから
陳寿としては、そこまで「道里」が判っている <

女王國の入り口の「邪馬壹國女王之所都」までの「道里」と、
侏儒國近くまでの道里は、判っている。

>そこが投馬国だというなら<

言わない。魏使らは投馬國までは行っていない。

>投馬国まての道里は判っていることになる <

魏使らは行っていないから、判らない。

>したがって投馬国は「女王国以北」になる<

従って、「投馬國は自女王國以南の水行二十日の位置」になる。

>すると女王国は会稽東治の東より さらに南になる<

水行二十日なら、ほぼ南九州になる。
大和説の崩壊は止まらない。

904 :
>>859
>宮崎の遺跡はそんな広がりはない

西都原古墳群は古墳の数としては全国トップクラスだ。

その場限りの脆弱な反論は無駄なあがきだぞ。

905 :
>>860
根拠なし

906 :
古墳の大きさ (比例) 余剰労働力 (比例) 兵力 (比例) 人口 (比例) 国力。

当時の魏国が、親魏倭王の称号(親魏大月氏王と同格)を授ける相手が、九州の小国のはずがない。
大月氏(だいげつし)というのは、クシャーナ朝のこと。そしてこれがクシャーナ朝の領域。↓
https://www.y-history.net/map/0201/india_2_kusyan.gif

当時の魏国が、この巨大なクシャーナ朝と同格の称号を与えたのが、親魏倭王・卑弥呼。
その候補となり得るのは、当時の倭国の中で一二を争う大国(畿内勢力と東海勢力)。

そして畿内勢力が邪馬台国であり、東海勢力が邪馬台国と争った狗奴国。

907 :
>>876
南としか書かれていないから、どうやっても畿内にはならないね。
ご愁傷様。

908 :
>>899
>では、その「帯方東南大海中の島」には、最初どうやったら行けるんだ?


この行程で、「帯方東南大海中の島」に行けるよ。 ワハハハハ   @阿波

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。

909 :
>>899
>では、その「帯方東南大海中の島」には、最初どうやったら行けるんだ?

もしかして、「帯方東南大海中の島」を「四国」と理解できていないってこと?  だとすれば、相当な石頭だね。  わはははは   @阿波 

910 :
>>900
>倭とはまた別の国があるけども、みんな倭種である。

「倭とはまた別の国」ではなく、倭種の作っている倭人の国がまたあるんだよ
「別」なんてどこにも書いてないだろ?
旧唐書に引きずられすぎ

911 :
キナイコシ、弾幕薄いよ、何やってんの!

912 :
>>910
中国からの倭国の見方は一貫している。
倭は九州北部の国。
それが変わるのは、白村江を経た新唐書から。

913 :
>>901
>間違っている根拠をどうぞ。

伊都国に駐在する理由がない

>>902
>九州から旅立つ逸文を見つけてから出直せ。

ないものを根拠に否定することはできない


この、句点「。」をいちいち付ける態度の悪い人、
たぶん吉井信号バカと同一人物だと思うけれど、悪魔の証明系の
否定することは原理的にできないことを、根拠に論立てするバカなんだよな

914 :
弥生自体後期の倭国は、祭祀の様式により大きく5つの勢力に別れていた。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/25/76b989b4194ac362008ba711ee0dd388.jpg

@銅矛(北九州)
A四隅突出型墳丘墓(出雲)
B双方中円墳・特殊器台(吉備)
C近畿式銅鐸(近畿)
D三遠式銅鐸(東海)

そして倭人伝の行程記事に見える大国の戸数は、

ア.奴国(博多湾):2万戸
イ.投馬国:5万戸
ウ.邪馬台国:7万戸
エ.狗奴国:戸数の記載はないものの、邪馬台国と抗争していることから、邪馬台国と同等と考えられる。

となる。両者を対応させると、

ア.(奴国)  → @(北九州)
イ.(投馬国) → A(出雲)
ウ.(邪馬台国)→ C(近畿)
エ.(狗奴国) → D(東海)

となる。

九州説論者は、ア.イ.ウ.エ.の全てが九州に存在したと主張するが、
そんな途方もない大人口は九州に収容出来ないし、南九州にはそれを示す遺跡も存在しない。

ちなみに、行程記事の最後に投馬国から「水行十日陸行一月」で邪馬台国に到達するが、
その「陸行一月」は、丹後半島から奈良盆地までの行程を指す。
若狭湾→琵琶湖ルートの方が近くはあるが、もしかすると卑弥呼の時代も狗奴国の勢力下にあり、
そのルートを使えなかったのかも知れない。

915 :
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)

916 :
>>904
>西都原古墳群は古墳の数としては全国トップクラスだ。

古墳群の大きさではなく、国としての大きさを言っている
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg
この網掛け部分の面積が、静岡あたりよりも宮崎は狭いだろ?

それに、古墳の数という場合群集墳が入ると数だけは多くなるからあまり意味がない

917 :
>>905
つながっていない別の場所に書いてあるものを、
つなげて読んでいるのが間違いだというのはきちんとした根拠だろうが!

918 :
>>910
>「倭とはまた別の国」ではなく、
>倭種の作っている倭人の国がまたあるんだよ

「倭」=「忌部はん」 の本国・阿波   「皆倭種」=「忌部はん」 が開拓している畿内地方   @阿波

919 :
>>908
>この行程で、「帯方東南大海中の島」に行けるよ。 ワハハハハ   @阿波

帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m    ←これが、渡海千里皆倭種だなww
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)

920 :
>>909
>「帯方東南大海中の島」を「四国」と

そんな奇矯な読み方をするのは泡だけだww

「帯方東南大海中の島」は、対馬、壱岐、本州、九州、四国、
五島列島、隠岐の島、佐渡、淡路島 ほかだよ

921 :
>>916
静岡は明らかに植民地に過ぎないからな。
王都福岡、副都宮崎、別種は尾張と出雲

922 :
>>915
このコピペも意味ないからもう止めなよww

一行だけ修正しておくよ
日本國者、倭國之別種也。
日本国は、倭国の別種の呼び方、新しい国号であり、今後は日本国として記す

923 :
>>921
>王都福岡、副都宮崎

また、新しいでっち上げ新造語を出してきたよww
「副都」だってww

そんなことはどこにも書いてないww

>>859のこれからも逃げてるしww

それに、五万戸の大国なら>>833で書いてたように
ある程度広い領域の国家じゃないといけないんじゃないのか?
宮崎の遺跡はそんな広がりはない

そして、投馬国を別の領域にしてしまったが最後、伊都国や奴国を
どう集めても邪馬台国が七万戸に届かなくなるぞww

924 :
>>919
>↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m    ←これが、渡海千里皆倭種だなww

「渡海千里皆倭種」をなんで行程記述文章に持ってくるんだい?  ぜんぜん、でたらめじゃん!  わはははは   @阿波

925 :
偉そうなことを語っているけど、おまえの名前は?

926 :
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

陳寿はマメなやつだ。

927 :
>>921
>王都福岡、副都宮崎、

碌な集落遺跡の無い九州に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。   @阿波

928 :
>>922
>日本国は、倭国の別種の呼び方、新しい国号であり、今後は日本国として記す

日本国は、8世紀に奈良大和へ遷都してからの国名。  遷都以前は倭国(阿波)    @阿波

929 :
どこの池沼なんだ?

930 :
>>923
>宮崎の遺跡はそんな広がりはない

ないという根拠は?
宮崎県は平野も広く海岸線も長く、農業に適しており、大きな人口を支えられる。

931 :
>>924
>「渡海千里皆倭種」をなんで行程記述文章に持ってくるんだい?  

これ、魏略の文章だから、これでいいんだよ
行程文で渡海千里を書いていく前に、そうやって次々に或絶或連の島を渡っていっても
みんな倭種と書いてあるってこと

932 :
>>926
>20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

これがインチキ
戸数道里略載すらできない国の戸数を足しこめばいい、なんていうのは
結論ありきのご都合主義以外では考え付きもしない暴挙だ

933 :
>>930
>ないという根拠は?

根拠として地図が貼ってあるだろ?
https://i.imgur.com/pOB095u.jpg

畿内、北部九州と比べて、宮崎は広がりがない

934 :
>>933

それは古墳の分布の図であり、人口は関係ない。

935 :
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。

936 :
>>935
>日向 373,101
>大隅 242,040
>薩摩 242,500

この辺りが投馬国の範囲かな。

>>935
>筑前 790,063
>筑後 623,581

邪馬台国には届かないな。

>>935
>肥後 1,579,117

狗奴国はバケモノw

>>935
>大和 554,600

国別だと大和も健闘している。

937 :
>>935
>【稲作の分布】

そんなものより、弥生後期集落遺跡の分布は?  わはははは   @阿波

938 :
邪馬台国大和説は、急激に存在感を無くしているな〜。
倭種の国だと認めるまで、あと数日だな。
君子は豹変すだから、突然手のひら返してもいいのだよ。
早く豹変したまえ。

939 :
どこの池沼なんだ?

940 :
>>934
>それは古墳の分布の図であり、人口は関係ない。

古墳の位置じゃなくて、色がついている畿内様式土器出土範囲の面積を見なさい
これがそれぞれの勢力の広がりを示しているから

941 :
>>940
>色がついている畿内様式土器出土範囲の面積を見なさい
>これがそれぞれの勢力の広がりを示しているから

畿内様式土器出土範囲の面積より、弥生後期集落遺跡の分布は?  わはははは   @阿波

942 :
>>938
>邪馬台国大和説は、急激に存在感を無くしているな〜。

邪馬台国九州説もね。  わはははは   @阿波

943 :
>>935
九州説はこのコピペも好きだよなw

>畿内の開墾が進んだ時代でさえ

まずこれが間違い
九州の開墾が進んだのが古墳時代以降
弥生末には筑紫平野はまだ半分海の底だし、深さ1メートルを超える川は灌漑に利用できなかった
古墳時代に土木技術が進んで九州の開墾が進んだんだよ

平安時代の延喜式で弥生終末期を語るのが時代錯誤

そしてこれは収穫高でも税収でもなく出挙稲数だ
これは貸し付けられたイネの量
豊かさの指標じゃないよ

944 :
>>943
>平安時代の延喜式で弥生終末期を語るのが時代錯誤

その通り。   @阿波

945 :
アワサク御魂

946 :
>>927
>静岡は明らかに植民地に過ぎないからな

そんな根拠はどこにもないだろ?

947 :
お前たちの書き込み(話)なんて相手にされていないんだけど、
いつになったら気づくんだ?

948 :
>>946
登呂遺跡には支配者層の痕跡が乏しいんだよ。

949 :
>>940
畿内式土器で語らなくてはいけない必然性がない。
都合の良い資料で話を歪めるのは詐欺まがいの行為だぞ。
恥を知れ。

950 :
492>>913
>虚実2つあって会稽東治乃東と書いてる女王国が虚
実は畿内大和国<

「南≠東」などに拠って、×。

951 :
>>943
>そしてこれは収穫高でも税収でもなく出挙稲数だ
>これは貸し付けられたイネの量
>豊かさの指標じゃないよ

そもそも貸付できる稲がなければ成り立たないし、出挙に応じた作付けがされていたわけだから、その地域の稲の作付け面積と収量をおおよそ反映する。
つまりその地域の豊かさの指標となりうるよ。

952 :
492>>919
>ならば 投馬国を女王国の南にひん曲げても「倭人伝どおり」であると
証明してごらんよ 無理だろ?<

「萬二千余里」がほぼ終わってしまう不彌國や邪馬壹國女王之所都の地の、
南へ水行二十日の位置に投馬國があるから。

953 :
492>>920
>言っても畿内説は消滅しないがね<

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠って、大和説は消滅した。

954 :
492>>924
>>考古発掘物や文献や科学調査結果の全てに嘘をでっち上げ
邪馬台国を畿内にするという<

>証拠でも、あるの? それとも、負け組の九州説は中傷専門?<

「南→東」などの嘘吐き騙しをした。

955 :
奧山さん まだ出ませんか
>>267
>各国の面積や距離や人口などなど
具体的な絶対値を報告したって史料<

その絶対値を示してくれませんか?

956 :
492>>928
>水銀朱鉱山も稼働してなくて<

魏志倭人伝には「水銀朱」なんて書かれていないし。

>硬玉ヒスイと採れなくて<

地方の市から送られて来るし。

>卜骨も局地的にしか出ない <

出雲や越の文化の伝来だろうし。

そんなものがないものがない大和が倭人伝に描写された倭国の主要部で
あるわけなし 無理無理

957 :
492>>929
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和者説は
脳がインコやオウム並に小さいから
オウム返しばかりされるのかな

958 :
>>906
その、畿内勢力に鉄の武器がねーんじゃ話にならん
東海は何国かも不明

959 :
492>>937
>>畿内説が根本から崩壊するからねえw<

>崩壊する理由が無いな <

「南→東」などの嘘吐き騙しが、バレたから。

960 :
東海 狗奴国から土器が纒向へ行ってたら
畿内説じゃなく東海説になるじゃん

961 :
>>914
奧山の瀬戸内ルートは✖なのか?

962 :
492>>932
>畿内説のいう卑弥呼倭国は、九州から群馬チバラギあたり迄、前方後円墳のあるところ全部。<

畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」だから、×。

963 :
492>>933
投馬国を女王国の北に比定しても
「倭人伝どおり」であると
証明できないと 自白いただきました

大和説崩壊の決定です

964 :
492>>935
>女王国は沖縄か台湾と魏志倭人伝に書いてある<

書いてない。
「不彌國から南へ行ったらすぐに入り口がある、というように書かれている。

>それなら今まで言われてきた広島の鞆の浦でも宮崎の妻でも
どちらが投馬国でも女王国以北<

「鞆の浦」は、「南≠東」に拠って×だし、
「宮崎の妻」なら、可能性はある。

965 :
492>>936
>会稽東治の東は鎮守が記述
魏使が見聞したのではない
たぶん鎮守が短里を長里と勘違いしたのであろう<

陳寿は勘違いしていなかったから、×。

966 :
492>>938
つまり、「南→東」や、
存在もしなかった嘘吐き騙しの「邪馬台国=大和」説が、
崩壊したわけです
なむあみだぶつ

967 :
九州説は破綻してて議論になると負けるから単なるオウム返しに狂奔するオウム人間ザラコク

968 :
492>>944
>じゃ九州説は短里を必死で証明しなきゃならないな<

「必死で証明」なんて必要がないね。
だって、魏志倭人伝の記載里は全部(長里ではなく)短里だし、
魏志だって、殆どは「短里」だし。

>魏の里は普通の里だった事は物的証拠からも明らかだけど<

尺定規は、短里とは関係なく、周代〜魏代はほぼ同じ寸法。

969 :
>>964
どちらにせよ投馬国は女王国より北にある想定
よって邪馬台国九州北部説は破綻

970 :
492>>846
「会稽東治之東」にほぼ九州島がある。
この動かしがたい事実は
倭人伝の解釈が正しいか間違っているか以前に
陳寿の書いた行程そのものが間違っていなかった、
ということの証明である

971 :
955 958 960 961w

972 :
>>968
尺定規は短里とは関係ないかも知れないが普通の里には関係ある
また短里の基準となるような1歩≒1尺の定規や
その他短里を証明する考古物は今まで1つも見つかっていない
魏志やその他の史書に一見すると1里=80mになる箇所があったとしても
それが短里かどうか判別できないので魏志あるいはその他の史書に短里が出てくる
これが短里のあった証拠というのは循環論法

973 :
492>>949
魏志倭人伝の行程や方向から、邪馬壹國女王之首都が大和はありえないというわけだ
そもそも九州北部から南に水行二十日すると書いてる時点で
九州島付近である事は明らかだけど
そして畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和の三角縁神獣鏡や前方後円墳等のは、3世紀末〜4世紀のものだ。

974 :
492>>950
>という根拠は?<

九州説者の根拠説明に対して、いつも言うね。

そして大和説は、「南→東」などの嘘吐き騙しの言い訳や根拠は、
決して言わないね
いつもいつも
言わないね

975 :
>>972
>魏志やその他の史書に一見すると1里=80mになる箇所があったとしても
>それが短里かどうか判別できないので魏志あるいはその他の史書に短里が出てくる

何言ってんだ、こいつ。

976 :
このスレももう終わりにしてもいいんじゃないかな

977 :
纏向土木事務所も閉鎖したことだしね

978 :
>>781
出たよキナイコシの得意技
あるけどない ないけどある
違うけど同じ 同じだけど違う

979 :
>>786-788
無能が大漁大漁

980 :
新スレ立てました。
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1565711726/

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

981 :
>>946

それ、東海忌部入植の痕跡だよ。

「静岡県沼津市の高尾山古墳」から出土した水銀朱や滑石勾玉(蛇紋岩か)、鉄鏃などから、まず間違いなく東海忌部が持ち込んだもの。   @阿波

982 :
>>946

それ、東海忌部入植の痕跡だよ。

「静岡県沼津市の高尾山古墳」から出土した水銀朱や滑石勾玉(蛇紋岩か)、鉄鏃などから、まず間違いなく東海忌部が持ち込んだもの。   @阿波

983 :
>>949
>畿内式土器で語らなくてはいけない必然性がない。

呼び方としては畿内様式土器だけれど、要するに卑弥呼共立後の祭祀統一に
付随する共通様式土器なんだよ
だからそれを受け入れた地域では、その分布域がそのまま勢力圏の大きさを示すことになる

非常に合理的な指標だ

>都合の良い資料で話を歪めるのは詐欺まがいの行為だぞ。

上記のように、畿内説の都合ではなく、3世紀当時の列島の社会状況を考察するのに
もっとも好適な考古遺物なんだよ

>恥を知れ。

「邪馬台国の会」の都合だけで、インチキゴマカシ話題そらしを続けるのは
恥を知る者の行動なのかな?

ある意味、ザラゴキ以上の恥さらしだと思ってるよw >>949は恥ずかしい人w

984 :
>>975
日本語、読めないんだねww

「魏志やその他の史書に一見すると1里=80mになる箇所があったとしても
 それが短里かどうか判別できない」ので
「魏志あるいはその他の史書に短里が出てくる⇒これが短里のあった証拠」というのは循環論法

ここまで文飾すれば理解できるだろww

985 :
>>983
>呼び方としては畿内様式土器だけれど、要するに卑弥呼共立後の祭祀統一に
>付随する共通様式土器なんだよ

勘違いをしてはいけない。

畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。

文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   

鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。

中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。

企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。

類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。   @阿波

986 :
>>979
>無能が大漁大漁

九州説側の主張が全否定されて、「投馬国は女王国より以北の国」と確定し
九州説が壊滅状態になったから、一生懸命虚勢を張ってるんだね!

もう九州説側には主張すべきことが何も残ってない

987 :
>>951
>つまりその地域の豊かさの指標となりうるよ。

いろいろぐちゃぐちゃ言った挙げ句に「なり得るよ」だってwww

そもそも荘園化してるところは国司のコントロールの外にあるから、
延喜式の出挙稲とは関係ないし、平安時代の社会状況が分かるだけ

3世紀の各地域の繁栄は、延喜式では示せない

>>949のいう「都合の良い資料で話を歪めるのは詐欺」の典型だな
旧国 『延喜式』出挙稲数(束) で3世紀を騙るのはww

988 :
>>987
>3世紀の各地域の繁栄は、延喜式では示せない

その通り。   @阿波

989 :
埋め込み

990 :
>>983
>呼び方としては畿内様式土器だけれど、要するに卑弥呼共立後の祭祀統一に
>付随する共通様式土器なんだよ

前提が仮定を事実と決めつけた詐欺まがいの主張だな。

991 :
ここまで
日本海航路VS瀬戸内航路の議論なし
一人何役もこなす馬鹿

992 :
>>984
> それが短里かどうか判別できない」ので

なぜ判断できないの?
なぜ判断する必要があるの?
短い距離が里という名前で使われていたという事実で十分でしょ?

993 :
>>991
どつちも矛盾だらけだからね。
つまり畿内説はどうやっても、成り立たない。

994 :
>>993
また具体的指摘のできない九州説の悲惨

995 :
えらいやっちゃえらいやっちゃえらいやっちゃ

996 :
えらいやっちゃえらいやっちゃえらいやっちゃ

997 :
えらいやっちゃえらいやっちゃえらいやっちゃ

998 :
えらいやっちゃえらいやっちゃえらいやっちゃ

999 :
えらいやっちゃえらいやっちゃえらいやっちゃ

1000 :
えらいやっちゃえらいやっちゃえらいやっちゃ

1001 :
2ch.scからのレス数が1000に到達しました。

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