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【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2


1 :2014/08/05 〜 最終レス :2020/03/19
パート2立てました。
前スレ http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1384515586/

2 :
 古墳時代は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。
 古墳の成立とその衰滅をいかに捉えるかによって、古墳時代の時期区分にも僅かな差異が生じる。
 現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。
 中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。

3 :
○時代区分
 3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、4世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。
 実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。

4 :
●古墳時代前期
 3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。
 その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的である。
 最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。
 埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。
 この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。
●古墳時代中期
 5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化した人物埴輪が現れた。
 5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古墳が出現し出した。
●古墳時代後期
 6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
 6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行するようになった。
 西日本で群集墳が盛んに造られた。
●古墳時代終末期
 全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。

5 :
 弥生時代末期には、発掘調査の結果から北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。
 3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。
 いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。
 成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。
 北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もあるが、この説は科学的に証明出来ていない。
 成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。
 弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していた。
 前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。
 ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。
 倭国を代表する政治勢力へと成長する過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。

6 :
 中国の史書に266年から倭国の関係記事は皆無である。次に出てくるのは約1世紀半後の5世紀の初め、413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀の記述である。
 421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事があり、これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。
 これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。
 武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。
 5世紀末時点ではまだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していないとされている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘の「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」から推測されている。
 一方島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」の銘から、6世紀中頃までには部民制の施行がうかがい知れる。
 また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。
 4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。
 この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。
 これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。

7 :
 安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。
 王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。
 地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。
 宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増した。
 後の崇峻期(587年 - 592年)を経て稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めることになる。この権力の掌握はは645年(皇極天皇4年)の『乙巳の変』までの約半世紀間続いた。
 欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。
 また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。
 仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わっている。

8 :
(_ _ )   < >>1さん、
 ヽノ)      乙でございます。
  ll

wikiからの丸写しなテンプレも変だといえば変なんだけど、
テンプレっぽいものがないのも変なので>>2-7までやってみた。
容量間違えて>>2>>3を2つにしてしまったり、5回連投規制に引っかかったりとけっこうドタバタした。

しかしこのwikiの要約見てもすぐに気づくくらい、空白の4世紀だなぁ  orz
やっぱり文献って偉大だよな。発掘だけでは歴史の再構成には限界があるな。
もちろん文献だけでは真偽がわかるわけでもないのも自明だけどね。

9 :
日本至上最も大規模な祭祀が行われた時代。
世界史上でも有数の規模だ。

10 :
祭祀の舞台としては最大級だよね。
巨大なモニュメントとは、それを造ったものの権威の象徴であるけど、
強大な権威が有るもの故に、それに相応しいモニュメントが造られたのか、
巨大なモニュメントに相応しい権威が欲しくて造られたのか、そのどちらかでしょうね。

11 :
大掛かりな権力の簒奪があった可能性が高くなるな。
その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう、
なんてことが血筋が連続しているのに、起こりようがない。

12 :
弥生期の方形墳丘墓で40m四方程度が上限
これが
古墳時代の100m超の古墳になるときの
途中の移行期に当たる古墳とか
比定されていないのかな?
50m級とか70m級で、いわゆる纏向型のプレ形式を
持ってるとされているものがあるのかな?

13 :
しかし、盾築からして、既に80m超ではないか。

14 :
そもそも、わからなくなったわけではない。

15 :
>>11
そうだな。
平安時代の人物なのに5世紀に築造されて平城京建設の際に前方部が取り壊された古墳が陵墓になってる平城天皇も今の皇室とは関係がないな!

16 :
墳頂部を再利用している可能性は否定できないけどな

17 :
>>11
天武vs天智みたいな争いは各年代で繰り返されてきたんではないかな
つまり、その時々の政権にとっての仇はその都度抹殺される
生き延びた血統はさらに骨肉相食んで潰し合う…
つまり、広義の血脈は受け継がれてるが、政権血統そのものは100年前の祖先に義理立てするようなものではない…
とか

18 :
>>12
それがホケノ山古墳ではないのかな
違ったら失礼
いわゆるホタテ貝型で不恰好な前方後円墳だが

19 :
>>17
伝統に則って祭祀を主宰するというのは、伝統的な権力の正統性の根幹じゃないか。
カンボジアポルポト政権や、中国文化大革命のように直近の伝統を
丸ごと否定し忘却してしまうのが古墳時代の日本の権力では当たり前だったということ?

20 :
>>19
その2種の事例をなぜ同列に扱うのか意味不明だし、論調が極論で乱暴すぎる。
天皇家でも南朝・北朝の分裂期に相手の祭祀に関しては無視しただろうし、
(こちらは幸いにも60年程度でちおう再合一ということになったけど)
もちろん1百年では短いだろうけど、2〜3百年も廃れていたのなら
比較的簡単に忘れ去られてしまい、伝承のみが残るようになると思う。

21 :
南北朝は祭祀の破壊とは正反対の事例だよ。
ひとつの祭祀をめぐってどちらが祭祀の主宰として正統なのかという争いだ。
河内古墳群の規模の大きさからして、当時の余剰経済力のありったけをあの稜に
注ぎこんだのは間違いなく、当時の国家の政の根幹を成していた可能性が高い。
なのに、100年後の仏教伝来時の論争にはこれらの古墳群についてまともな言及がない。
古墳の墓守が間違えたとかいうくだらん問題じゃないんだよ。

22 :
>>21
文書の類いが見つからないとこを見ると口伝だった蓋然性が高い
口伝者が死んだらどうなるだろうか
致死率の高い時代だ。何もかも弟子に伝えて死んでくれただろうか
古代人が伝承を死ぬより大事にしていた、という前提も、我々現代人の誤解かも知れんよ
人間、大事なのはまず自分だからねぇ

23 :
>>20
祭祀つったって平安時代の陰陽道重視の祭祀はそれ以前のものと大分異なってるしね
この点は吉野裕子の研究が面白かった
いろいろと事情はあるが、我々がアメリカ化を意識しないのと同様、中国化(唐)を無邪気に進めた時代もあったというわけだ
人間はその時代の空気の中にしか存在しない。無邪気に流行を追うだけだ
江上波夫のように、ここで埴輪が変わってる、馬に乗り始めてる、服装が遊牧民風になってるだとかで、
わざわざ民族移動を想定する方が異常だった

24 :
中央の人達にとっては文書化していたかも知れないけど
現地レベルで墓守する一般住民?にとっては又聞きの口伝レベルなのはありそう。
中央とて、火災などで焼失したり、没落が長引けば散逸するのは普通にあるきがする。

ややスレチだけど、無邪気というか、より高い文明・文化に触れたらそれは積極的に
取り込みたいのは世の常、人の常だも知れない。

25 :
>>11
つーか>>15もいうように平安時代の平城天皇陵ですら取り違えてるのに
古墳時代の天皇陵がすべて正確なわけないじゃんって前スレで突っ込まれてたろが
そんなことも忘れるぐらい頭が悪いのか?

26 :
>>25
頭が糞悪いやつだな。
平安時代は、稜は政の中核でもなんでもない。ただのお墓なんだよ。

27 :
相手が先にしてきたから自分もやり返すとか、
同レベルでしか争いは起こらない説は確かに正しいかもしれんw

28 :
>>25
その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう
この前提がすでに間違いなんでは?
当時はきちんとわかっていたの
ただその後長い月日を経てわからなくなったというのが真相
記紀編纂時はきちんとわかっていた。わかる?

29 :
>>28
頭が腐ってるんか?
大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
5世紀は謎の世紀でも何でもない。
スレッドタイトル自体にケチつけてるようなもんだw

30 :
ん?
ちゃんとこの天皇はどこそこに埋葬されたって書いてあるじゃん?
ちゃんと読んだ?

31 :
記紀に書かれている地域に、
10や20の古墳があることも
ざらだけどな。

32 :
仲津山古墳こそが仲哀天皇陵だと思うんだけど、どう?
他に候補ある?

33 :
>>29
> 大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
> 5世紀は謎の世紀でも何でもない。
>
正論だね

34 :
>>31
天皇家陵以外の陪墳の説明なんかもキッチリ書き記してあると良かったろうが、無い物ねだりだろうなぁ

35 :
>>29
は?これはひどいジョークだね
記紀には5世紀のことについてちゃんと書かれてる
はい論破

36 :
>>35=池沼さん

37 :
五島にも古墳があるんだね。
「此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、 恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
とか風土記に書かれてるのに。

38 :
見てるだろうが、参考までに。
蘇我馬子の父、稲目の墓?都塚古墳、国内初の構造も(14/08/13)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000032580.html
https://www.youtube.com/watch?v=W-5rcQr_8Q0
https://i.ytimg.com/vi/W-5rcQr_8Q0/hqdefault.jpg
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140813/K10037848311_1408131933_1408131944_01.jpg
都塚古墳は“ピラミッド型”か
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140813/k10013784831000.html

蘇我稲目より前の蘇我氏は出自が不明。記紀の武内宿禰の子孫云々は
史実とみなされていない。
記紀によれば、稲目の父の名は蘇我高麗、祖父の名は蘇我韓子。
墓のつくりは高句麗のそれそっくりで、もはや古墳とは呼べないような代物だ。

39 :
ちなみに記紀には、蘇我高麗はでてこない。
結構、知識が試される部分である。

40 :
>>38
高句麗人を妻にしてたとか知らんかったな
日本書紀は読んだんだけど
やはり渡来系なのか?しかし葛城系なんだろ?

41 :
>>39
おっしゃるとおり。記紀と書いたのは間違い。
>>40
稲目以前の蘇我氏の出自については、通説すらない状態。
葛城系というのも、秀吉が平氏だったレベルの話。

42 :
蘇我氏
具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、
それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。
河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町
一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説
葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説

43 :
蘇我氏渡来人説
門脇禎二が1971年に提唱した[1]が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、
百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[2]を得た一方、
加藤謙吉や坂本義種らが批判[3]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない[4]。
問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である[5]。
「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と
「木満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること
満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、
水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている[6]。
また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)
を娶りて生めるを韓子とす)[7]とされているように、外国人との混血児の通称であり、実在の人物名としては考えがたいとする[8]。

44 :
蘇我高麗
蘇我 高麗(そが の こま)は古墳時代の豪族。蘇我韓子の子。
蘇我稲目の父[1]。本名は蘇我 馬背。母は、高麗毘賣(こまひめ)[2]。
母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれたとする説がある。
業績はいっさい不明で『古事記』『日本書紀』にも登場しない。

45 :
大伴狭手彦が高句麗を攻めたときの戦利品として、高句麗の姫を欽明天皇に献上した。
高麗毘賣は大臣の蘇我稲目に下賜されて、妻となった。
というのが日本書紀のストーリー。

46 :
高麗という名前が初めて出てくるのは、紀氏家牒で、
蘇我高麗ではなく、「蘇我馬背宿祢、亦曰二高麗宿祢一」という形で出てくる。
同資料に「物部守屋大連亦曰二弓削大連一」とあるから、
本名は馬背であり、高麗というのは母方に由来するのだろうといわれる。

47 :
>>42
雄略に滅ぼされた葛城氏が『我は蘇る』と名乗った…という合理化は一応できるね

48 :
>>43
キタナマロみたいに悪名つけたりするもんな

49 :
蘇我氏の系図で怪しいと言われる理由の一つに他の武内宿祢の子孫と違い石川から高麗まで分家が全く出てない点がある
蘇我氏は武内宿祢の直系の子孫ではなくて葛城氏か平群氏の分家だったのかもしれない

50 :
なぜか紀氏家牒に系譜が出てくるから紀氏の分家じゃないの?

51 :
そう言われれば確かに紀氏の可能性が高いかも

52 :
そういえば奈良の都塚古墳が
基壇を整えてその上に階段状に積み上げられていた方墳?だったと
発掘でわかったとかいう記事がでていたね。
実際に稲目なのかどうかはわからんらしいけど。

53 :
武内宿禰関連の子孫云々の記述は他の豪族も全部あてにならんだろう。
何百年も生きたという人間の子孫がどうのという記述を素で受け取るやつは
頭がおかしいとしか思えない。
武内宿禰について書いてたやつは、漢文は下手くそとは言え、当時の朝廷内での
知性は卓越していたろう。当然そんな記述の非現実性については重々承知。
そんな非現実的なことを書いた理由は、当時のいくつかの豪族の格付けを同格と
位置づける手段が、血筋しかなかったからだ。
伝承上の人物の年齢を何百歳と書こうと誰も困らんが、
朝廷権力の担い手同士の諍いは非常にまずい。
書いた当人も、よもや千数百年後の人間が、その記述を素で受け取るほど
頭が悪いとは思っていなかったろうさ。
とはいえ、蘇我以外の名前が挙がる豪族は歴史的に実在した可能性が高い。
蘇我については、そもそも豪族だったのか?というのが問題の出発点だ。
蘇我のように自身の祖神を持たない「豪族」というのは一種の形容矛盾だろ。

54 :
寿命の長さがありえないことが
武内宿禰の実在性や子孫の系図を否定する根拠にはならない

55 :
なんていうか「古代史のなぞ」的な本読んでそれで古代史語ってる感がすごい
武内宿祢の年齢を理由に非実在とすれば多くの学者が実在と認める120歳の崇神・110歳の応神・124歳の雄略ですら非実在になるんだが

56 :
第一すでに没落した葛城・平群と中堅豪族の紀、大臣を出し続けた蘇我をどうしたら同ランクに見えるんだw

57 :
都塚古墳関連で、稲目が高句麗の女を娶った話は信じられている割に、
狭手彦が高句麗の姫を奪って来た話が信じられていないのは何で?

58 :
武内宿禰って武内が姓じゃないの?
宿禰が姓なの?
この人の身内ってナントカの宿禰ばっかりだよね。
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん?

59 :
質問に答えるよスレがあるんだからそちらでどうぞ。
単発Q&Aなモノを書いてもスレチでしかない

60 :
サデヒコは批判しかできない学者が重箱の隅をつついて
この話は信用できませんねえとか言ったんじゃないの
武内宿禰の時代は姓は未発達だし、そもそも皇族なので姓はない
宿禰はこの時代の豪族の尊称の一つで豪族なら貴賤に関わらず使われた

61 :
「宿禰」で興味深いのは、日本書紀における6世紀代の実例が、蘇我稲目・蘇我馬子・紀男麻呂の3名に限られること、
紀男麻呂が皇別の紀氏出身なら「紀臣男麻呂」あるいは「紀男麻呂臣」とでも書かれていて良さそうなのに(神別の紀氏なら紀直)、
欽明朝〜崇峻朝まで一貫して「紀男麻呂宿禰」という記載であること、
そして、蘇我馬子についても「宿禰」の称が付されるのは基本的に崇峻朝までであり、その後は回顧的記事での使用を除けば、
天武朝の八色の姓の「宿禰」(むろんそれまでの宿禰とは意味が違う)まで、上記の称号としての「宿禰」の用例は見当たらないこと、
などが挙げられる。

62 :
>>58
スクネは役職というか身分みたいなもんで子孫に継承されるんだな
スクネの子もスクネ

63 :
>>61
稲荷山鉄剣の【足尼】がスクネだとする見解もあるがどうなのかねぇ
デキスギのような気もするが

64 :
>>63
たしか続日本紀に、「足尼」は「宿禰」とするように、とかいう記事があったと思う。
その他、古文献で「足尼」と「宿禰」が対応するようだから(例えば平群の都久宿禰と都久足尼)、
まず間違いないと思う。

65 :
宿禰って象眼するのは難しそうだし。

66 :
蘇我稲目も上宮聖徳法王定説・天寿国繍帳で足尼って書かれてるな

67 :
>>65
なるほど実務上の問題だな

68 :
刀禰は、戸主 > toushi > toshi > toji > 刀自のように、戸の兄(tonoe)からきている気がするけど、
宿禰ってどういう意味なんだろうか?

69 :
大兄(オホエ)に対して少兄(スクナエ)ではないかと。

70 :
あるいは
オホアニ(ネ)→オホネ〔大尼・大禰〕
スクナアニ(ネ)→スクネ〔足尼・宿禰〕

71 :
大碓命 オホウス
小碓命 ヲウス
のようにオホエとヲエになるんやないかという疑問はあるけど、
ありえそう

72 :
孝元天皇の子には、大毘古命(大彦命)と少名日子建猪心命(少彦男心命)という例があるね

73 :
三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦
倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。
于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて
「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。
倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、
わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。
于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、
私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って
「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、
軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。
倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。

74 :
>>73
三国史記は時代的には日本書紀を参照可能なんだが、こんな屈辱的な話が朝鮮の記録に独自に存在したんだろうか

75 :
"大兄"去来穂別(履中)と雄朝津間稚子"宿禰"(允恭)ってのも似たような範疇かも。

76 :
>>70
興味深いけど、これだと音読み訓読みごっちゃになるよね
その辺掘り下げてみたい

77 :
于道朱君おもしろいね
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/uchi/uchisuk1.htm
これを読む限り、三国史記って、
全然史料批判されずに、基本無視されつつ、都合のいいところをひっぱられている印象を受ける

78 :
>>76
大尼・大禰のことでしょうか。
これは「先代旧事本紀」に出てくる、物部氏の役職や一種のカバネ的名称です。
実際にあったかどうかは分かりませんが、伝えられてきたのだとすれば無論後世の当て字と思われます。

79 :
つか奴らが資料使うときって、チェリーピッキングしてる所しか見たことが無いんだがwww
対馬は昔朝鮮領だった〜とか實聖尼師今七年の記事(倭国が対馬に軍営を置いて兵糧を蓄え、我が国に侵攻しようとしている!)知ってたら絶対言えんわな。
瓠公とか絶対知らんだろうし。

80 :
>>75
確かに天皇なのにスクネっているんだよね
となると、役職やカバネだと説明つかなくないか?!

81 :
>>78
初めて知ったよ、ありがとう

82 :
>>79
日本人を絶対的劣等民族と言っときながら、片方で古代朝鮮人の子孫だと言うからな

83 :
>>80
カバネというよりカバネ的「名称」かな。
○○ワケ天皇(皇子)、なんてのも相当するかも。
時代は違うけど、○○大兄皇子とかもね

84 :
武内宿禰って武内が名字じゃないの?
なんか身内の名前がナントカの宿禰ばっかりなんだけど。
宿禰が姓なの?
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん?

85 :
ごめんなさい>>84=>>58です。
うちのケータイが>>56で止まってたんで
二度質問してしまいました。

86 :
>>83
となると、>>70が真実味を帯びてくる
単なる大小を指す言葉なのか
ところで、仁徳天皇紀にスクナという怪物が出てくるが無関係なのか

87 :
もしかしたら邪馬台国の時代から蘇我入鹿まで二重統治制だった?
邪馬台国時代は聖権の卑弥呼と俗権の男弟とによる祭政二重統治制
崇神天皇〜蘇我入鹿は聖権の大兄(オホネ)系の天皇家と俗権の少兄・(スクネ)系の宿禰の祭政二重統治制

88 :
二重統治じゃなくて多元統治だろ
王族含め諸豪族がそれぞれ土地と人民をもつ小首長
大王はそれらの最終的なまとめ役
7世紀はそこから天皇を頂点とする公地公民・中央集権・官僚体制への移行の歴史

89 :
武内宿禰の話が嘘っぱちとは思わないね。
成務天皇と同日生まれで、5代の天皇に仕えた。
日本書紀の120歳とかを信じるとうそっぱちかもしれないけど。
有栖川宮幟仁親王は73歳まで生き、4代の天皇に仕えた。
亡くなった時大正天皇は生まれていたから、5代ともいえないことはない。
どんな庶民でも、祖父、父、自分、子、孫の5代を知ることは難しくはない。
特別長寿と書かれているんだから、80歳に近かったのかもしれないが。
活躍したのが、30代〜50代に相当する働き盛りの期間だと考えられる。
でっち上げる必然性はない。

90 :
>>87
ありえるかも
『隋書』「東夷傳俀國傳」より
俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
(訳)
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して座す。
日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと
兄 大兄 オオエ 天皇 祭 聖 
弟 少兄 スクネ 宿禰 政 俗(軍)

91 :
二頭政治という指摘は今までにもあったと思うけど、
それを大兄、宿禰という名前と結びつけたのは画期的かも。
乙巳の変によって「宿禰」の意味が分からなくなって、
記紀ではその扱いがぞんざいになった可能性もある。
また、大王が亡くなって次の大王が決まるまでの間、宿禰が大王になる、
あるいは兼任するということもあったのかもしれないが、
そういったことが乙巳の変によって失われてしまったということも考えられる。
そう、考えると、兄弟統治(実際の兄弟である必要はないが)ということで、
一つの名前で記されてたとすると、
一人の天皇が100年以上も生きたという事も説明がつくかも。

92 :
二王制ってスパルタかよ
新羅の王家が三系統あるってのも意味わからん

93 :
日本書紀は年齢を盛ってるね。
だけど、古事記には年齢はなくて没年の干支がある。
崇神没年318年説を取れば、武内宿禰の年も荒唐無稽ではないかな。

94 :
継体の晩年になって、それこそどこの馬の骨ともわからん蘇我がいきなり登場し、
以降他の豪族を押しのけ、継体後の歴代天皇の外戚となる。
まあ、そもそも継体自身もどこの馬の骨ともわからんやつだが。
仏教導入時にも、他の豪族の「んなよその宗教入れて、祖神はどうすんだよ!」という
猛反対にもかかわらず、蘇我と天皇は、受け入れ強行。
「もうでかい古墳なんてつくるんじゃねーぞ」と禁止令まで出す。
異文化の二人組み押し込み強盗にのっとられたんだよ、畿内は。

95 :
>>94
継体天皇の皇子が続々即位しちゃって王権が乱立したってのも結構リアルだよね

96 :
>>90
欽明天皇→蘇我稲目
用命天皇→蘇我馬子
聖徳太子→蘇我蝦夷
山背大→蘇我入鹿
生没年から検証しました。

97 :
>>94
傍流が何かの拍子で王統を継いだ場合権威づけに外来の思想や宗教持ってくる
ってホントどこにでもある話だな

98 :
>>91
ヤマトタケル(明治以前の読みはヤマトタケ)=「武」内宿禰(弟は「甘美」内宿禰)
景行天皇=武雄心説があるみたいだね
ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/

この幻の皇統系譜説を参考にするとこんな感じかな
  皇統    スクネの系譜
開化天皇   大彦
崇神天皇   彦太忍信命
垂仁天皇   景行天皇=武雄心
仲哀天皇   成務天皇=日本武=武内宿禰
麛坂皇子   応神天皇
仁徳天皇   宇治稚彦皇子(武・内宿禰の内は宇治に通ずる>>77)   
履中反正   允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)宿禰から異例の即位 倭の五王済は前王との関係不明

99 :
>>96
ちなみにこれは天智天皇が山背王=蘇我入鹿暗殺して、日本書記を編集したという意味です。武内宿禰以降の子孫は歴代の天皇ということになります

100 :
基地あらわる


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