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♪邪馬台国ドンと来い!♪135


1 :2018/01/31 〜 最終レス :Over
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     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
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   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。

前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪134[転載禁止]©2ch.sc・ http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1512648703/l50

2 :
魏志倭人伝 全文掲載よろ


3 :
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

4 :
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。

三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。

その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

5 :
邪馬台国は阿波で決まり。

6 :
それはない

7 :
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身

耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に

4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた倭人の一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる

自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか

8 :
>>7
>一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察

征服した伊都国天孫族の故地であり利益の源泉である対馬海峡を一大率で管理した。

>薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃

肥国の南半分が肥後狗奴国、北半分の筑後肥前が邪馬台国。
だから王の名が似ている。

9 :
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國從郡至倭

循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國
其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國
官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國
有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之

東南陸行五百里 到伊都國
有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

10 :
南至投馬國
水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都
水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國

此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

11 :
男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里當在會稽東治之東

12 :
其風俗不淫
男子皆露紒以木緜招頭 其衣横幅但結束相連略無縫
婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無
與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣
有屋室父母兄弟卧息異處
以朱丹塗其身體如中國用粉也 食飲用籩豆 手食

其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

其行來渡海詣中國恒使一人 不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚 不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
其俗擧事行來有所云為輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬但搏手以當跪拝
其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服
収租賦有邸閣 國國有市交易有無

13 :
使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾

14 :
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

15 :
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都

其年十二月 詔書報倭女王曰
制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使
送汝 大夫難升米次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順

汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹

答汝所獻貢 直又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授

其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
政等以檄告喩壹與

16 :
師匠 乙です。 朝の読経ですw

倭人伝を読む上での問題の多くは
句読点はもちろん、文節、改行、段落が存在しないことにあります。

また、古代漢文であるため、文法や熟語の発達が十分でないように感じます。
その分、漢和辞典で文字の意味を引けば概ねは日本人でも素読可能です。

そのかわりに、読み下し文が成立しにくいと思います。
日本語訳にはいわゆる時代背景や制作要因などの行間の理解、語彙追加が必要です。
これについては、本スレでみなさまの議論でお楽しみください。

個人的に直読で文意が通っているつもりですが
改行等に問題が有ればご指摘ください。

弟子@名無史

17 :
やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci

この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです

掻い摘んで説明すると

・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
 90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた

・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
 防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった

・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
 創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
 防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった

・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
 不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった

・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
 私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
 防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
 ※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る

・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った

つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕

詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/bouhan/1516500769/

18 :
>>15
汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞
今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬 引見勞賜遣還
今以 絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
(改行)
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
だな。 

絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張・・・
は 汝の 獻貢した所に 答えて 直に 
難升米将軍が帰りの宿営に使うため与えた 軍旗と絨毯? 赤と青の幕?
又特賜汝 以降は装封して難升米に託した 卑弥呼へのおみや。

五尺刀は一本糸島だかで出たのが難升米の墓からなのかな?
もう一本は巌流島の神話で小次郎が吉備の武蔵に棒で負けるまで現役www

19 :
>>18
>五尺刀は一本糸島だかで出たのが難升米の墓からなのかな?

平原遺跡から一本出ています。
装飾品が圧倒的に多い平原遺跡で唯一の武器です。

20 :
>>19
壱与の墓でしょうか? 卑弥呼の場合、
相続しても戦争中に新品の武器は副葬しないように思えます。
まあ、誰に与えたかとかの事情は分かりませんが、
3世紀の墓なら五尺の中国刀は卑弥呼しかないかと・・・

21 :
>>20
そもそも刀は実用武器ではなく、漢の頃から威信財ですから。

22 :
戦争中て壱与のが真っ只中だじょ

23 :
弟子タソ〜サボタソ〜阿波タソ〜日本海論者タソ〜肥国王家タソ〜葛城タソ〜ナナシタソ〜(^O^)ノ
    , - ―‐ - 、
      /         \
     /    ∧ ∧  ,   ヽ
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   \ `'ー-、 ___,_ - '´
      ` - 、 ||V V|| \
        | ||   || l\ ヽ

24 :
倭人伝の構造について(解説、訳例)

【段落1 張政による行程記 伊都迄】(解説)
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國從郡至倭
(今、郡使の説明では魏と通じる30国が有り倭への行程説明によれば)

循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(海岸に従い韓(4千里)を過ぎる。すぐ南ですぐ東へ(3千里)北岸狗邪韓國に到る)

始度一海千餘里 至對海國 所居絶㠀方可四百餘里 
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴

又南渡一海千餘里名日瀚海 至一大國方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之

東南陸行五百里 到伊都國 有千餘戸
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴国 百里 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 有千餘家
(因齎詔書黄幢拝假難升米為檄告喩 大夫難升米は奴国王 奴の升米)
(段落、帳政の目的終了。冒頭、倭国の説明の30国が無い)

25 :
【段落2 梯儁による行程 女王之所都迄 及び旁國紹介】
(帯方郡より)南至投馬國(韓南岸倭人国)水行二十日 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
(梯儁は皇帝の使いで、詔書金印紫綬を邪馬臺の卑弥呼に授けに来た。到着)

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
(女王国北の道筋にある国の戸数里程は略載した、その他遠絶旁國に詳細不明だが記す)
 
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡
(以上が郡使の説明による女王国内の国です。前段含約30国)
(奴国王 難升米 都支國王 都市牛利 躬臣國王 載斯烏越 巳百支國王 伊聲耆掖邪拘)

其南有狗奴國 男子為王 不屬女王
(其官有狗古智卑狗 梯儁時は戦乱中でなく入国。王に会ってないけど官は雇った)
自郡至女王國 萬二千餘里
(帯方郡から九州島まで一万里、残り二千里の南界が女王国)
(なお官の名は略 統一律令以前の半島、日本に共通の官は無い。 
魏使は訪問地に魏の現地役人、正と副を雇った。通訳、案内、報告者だろう)

【段落3 倭人の刺青考 漢古文書】
男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
計其道里當在會稽東治之東
(その刺青の道理は會稽東治の風習と同じと推測できる。文中里程は不要、里は理。
漢文献、倭人の奏上、呉王家太伯の後が三国の魏に配慮し削除され東は不明。有か由)

26 :
【段落4 倭人の暮らし 漢古文書 付見出】
(民度)其風俗不淫
(男装)男子皆露紒以木緜招頭 其衣横幅但結束相連略無縫
(女装)婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央貫頭衣之
(繊維)種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
(獣畜)其地無牛馬虎豹羊鵲
(武器)兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無
(気候)與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜 皆徒跣
(住居)有屋室父母兄弟卧息異處
(粧食)以朱丹塗其身體如中國用粉也 食飲用籩豆 手食
(葬儀)其死有棺無槨封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
(渡海時の持衰)其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹
(特産、樹草獣)出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
(占い)其俗擧事行來有所云為輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
(宴会)其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬但搏手以當跪拝
(寿命婚姻)其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
(犯罪)不盗竊少諍訟 其犯法軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族
(身分制)尊卑各有差序足相臣服
(税と市場)収租賦有邸閣 國國有市交易有無


【段落5 梯儁による倭人国の所見 付見出】
(一大率)使大倭監之 自女王國以北特置一大率 檢察諸國畏憚之常治 伊都國於國中有如刺史
(貿易)王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
(官礼)下戸與大人相逢道路逡巡入草 傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬 對應聲曰噫比如然諾

27 :
【段落6 女王についての歴史と梯儁による所見】
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫婿
有男弟佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍
唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室 樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

【段落7 女王国以遠の倭人国 梯儁による聞き取り】
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

28 :
【段落8 女王国と魏、帯方郡の外交史 付西暦と魏帝等】
景初二年六月 (238年明帝 公孫淵誅殺8月郡戦中 太守劉マ以景初三年説有)
倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都

其年十二月 詔書報倭女王曰 (以下明帝詔書 文面)
制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米次使都市牛利
奉汝所獻 男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
汝來使難升米 牛利渉遠道路勤勞
今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬引見勞賜遣還
今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
還到録受悉可以示 汝國中人使知 國家哀汝故鄭重賜汝好物也

正始元年(240年明帝没 曹芳8歳戴冠、佐治曹爽・司馬懿)
太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表答謝詔恩
其四年(243年 曹芳元服) 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬
其六年(245年 正始七年五月迄郡対韓戦 太守弓遵戦死)
詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
其八年(247年 韓滅亡) 太守王頎到官
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之

29 :
【段落9 張政の報告】
卑弥呼以死大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服更相誅殺當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
政等以檄告喩壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺(?248年)
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
(249年の場合は嘉平元年、魏は司馬懿がクーデターで実権 曹爽一族追放誅殺)

⌒ ☆ <ソースを書きなさい!
 ∩`Д´) <♪ドン来いスレだい!!

30 :
>>24 変わったテンプレだな。注釈をつけているつもりらしい。

31 :
>>3
このデータは素晴らしいですね。
私のイメージでも 周旋可五千餘里 はその位の範囲だろうと考えていました。
出元が判りませんが、公開されてるようなら勉強したいので教えてください、エロい人。

>>25 の女王諸国に当て嵌められると思います。
九州知らんし、アースで見てますが、おおむねで推測可能が↓
上陸は糸島半島西岸付け根に、倭人船母港の末羅国
伊都千戸南東500里福岡西陵高周辺 不彌国千戸福岡市動物園辺り
奴国2万戸油山山麓広域 邪馬國八女南麓

あとは、データを頼りに周旋で奴国周辺から時計回りで周回します。
私の判断は東北域の宗像、飯塚。 唐津以西は ご都合主義ですが入りません。
王名が判る奴国王 難升米 都支國王 都市牛利 躬臣國王 載斯烏越 巳百支國王 伊聲耆掖邪拘
は、そこそこの有力地域と思います。
今日は、これで遊べるネ! 師匠ちら裏、お借りします。

32 :
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は?
12番 華奴蘇奴国は?
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番 支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。

狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)

33 :
>>32
>肥国から肥後狗奴国を除いた範囲、おおむねそう思います。 
長崎佐世保っていうか
私は唐津〜佐賀ライン以西は縄文人国として、
渡来人卑弥呼国とは異文化の可能性を見ています。

時計回りの意味として、梯儁がまず丸を書いて 倭人に伊都はここ奴国はここを図示、
で、次は何?次はどの辺? で、周旋して聞いたデータをイメージしてます。

その、時計回りの根拠は 邪馬国を八女で梯儁も既知、帰路が5国は
佐賀、武雄、伊万里(入海で縄文国かも?)唐津、糸島しか道がないと思います。
福岡博多大宰府久留米平野佐賀平野は一筆書きじゃなく、ジグザグで
だいたいの順番になっちゃいますwww
貴説、ご教示、感謝です。

34 :
筑前・豊前・豊後は大陸から倭国(阿波)への往路で発展し、

肥前・筑後は倭国(阿波)から大陸への復路で発展したんだろう。  @阿波

35 :
時計回りにしては八女が出てくるのが遅い。

36 :
>>35
そう思うけど? 八女=邪馬国やめ。 
邪馬国はもっと南でみやま。
こじつけは無意味だけどなんか見つかるかと思って
梯儁聞き取りの和音も参考に入れて表にした。
何もなしw

37 :
適当に書いていたが、二つのスレで同じ話をしているな。

38 :
前スレ970の続き。
【ヒメヒコ仮説】概論 8) 母家を継承する弟(ト)、共同体に出向する兄(エ)

「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。」
卑彌呼死後、宗女(男系の女子)壹與が立つ。卑彌呼の母家から継承者が出なかったのは、卑彌呼自身母家を継承するヒメではなかったからだ。

@母系社会は、子を上手く産み育て男系相続に良くある相続争いを避けながら長期安定社会を目指す。故にその相続は【末子相続】である。
Aつまり、ヒメヒコは死ぬまでが任期であり、次の代のヒメヒコは神事が行える1番若い子(孫や曾孫でも可)から選ぶ。当然代替わりの回数が減り長期安定化する。
Bつまり、兄(エ)はヒメヒコになれず、弟(ト)がヒメヒコになる。当然傍系の弟(ト)は駄目。つまり、継承できるのは親も祖父も先祖代々弟(ト)であった直系の弟(ト)のみ。
C尚、「〜根(ネ)」は「〜の兄(エ)」のこと。「〜のウシ」が詰まって「〜主(ヌシ)」と同じ。また弟(ト)は(オト、ド)でもあり「トメ」「トベ」は「弟(ト)女(メ、べ)」。
D例えば。安寧天皇(シキツヒコタマテミ)は自家の従妹に妻問し、常津彦某兄(長男)、懿徳天皇(次男)、シキツヒコ(末子)を生む。中兄の懿徳天皇はシキツヒコを継げない。
E孝霊の時もシキ家やその傍系と改めて血固めしているようで当時シキ家が主家とも想像できる。見換えれば懿徳以降はシキ家の傍系=兄(エ)とも見える。
Fそして懿徳以降の事績や婚姻相手、和名号等を眺めると、開拓地に都市を建設して治め、新たな交易先を開拓して政略結婚を進める事が兄(エ)の役割と見える。
Gつまり、継承者の弟(ト)は母家に残ってヒメヒコとなり、祖霊崇拝をしながら先祖から受け継いだ土地に引きこもる。こうした母家が各地に存在する。
H時代が進み各母家が合同するようになると、各母家から共同体の運営に直接従事する者が出向してくる。この大役を担うのが兄(エ)である。
Iこのように考えると、卑彌呼が「各地のヒコ達と神的婚姻関係を結ぶ」ことができたのは共同体に出向した兄(エ)であるからだと解る。
J更に卑彌呼と男弟は共同体内ではヒメヒコ(邪馬壹ヒメと邪馬壹ヒコ)だと解る。更に壹與が卑彌呼の宗女なら卑彌呼と男弟は同父系異母家の親戚で壹與は男弟の実子だと解る。
*尚、邪馬壹ヒコの筈の男弟はヒコミコと呼ばれず、狗奴の男王を卑彌弓呼(ヒコミコ)と呼ぶ謎は、今後別途解説する。

39 :
九州北部 『周旋可五千餘里』 のイメージ(伊都発時計回り)

伊都/城南 不彌/博多 奴/那珂川 斯馬/志免 巳百支/香椎
伊邪/糟屋 都支/須恵 彌奴/春日 好古都/大野城 不呼/宇美
姐奴/筑紫野 對蘇/筑前 蘇奴/朝倉 呼邑/うきは 華奴蘇奴/鳥栖
鬼/吉野ヶ里 為吾/久留米 鬼奴/八女 邪馬/みやま 躬臣/佐賀
巴利/武雄 支惟/唐津 烏奴/今津

で、伊都〜奴に戻り、女王国周回五千里
ちら裏の私事だが、邪馬の王宮(臺)を八女説はアースで検討したら やめ。
最南じゃないので みやま にした。←これはひどいwww

40 :
で、わし が女王国30国を周回した所見を記す。(使大倭監之w 梯儁風、アースでw)

1、往復で4千里を5千里で周回する中、2千戸程度の30国を繋ぐ。 案外細かい。
2、国名はひらがな一字一音の二字が主で濁音は希少。 弥生渡来人に中国語の影響がない。
故に、逆に巳百支、好古都等は後期の移民国っぽい。
(↑日本海ルート先生のレスも参考になりました、感謝です)
3、倭人名、奴国王升米しょうみ 都支國王牛利にうり 躬臣國王烏越うえつ、
他官名も漢字起源っぽくない? (略して読んでたので、検証不十分です。m(__)m)
中国人が長い和名を略してる可能性や、古代九州語データを知らないので単なる印象です。
逆に巳百支國王 伊聲耆掖邪拘やなく? は漢字用法に外来語(北方系?)ムードが有るかも?

完全な私見だが
九州地理に疎いので >>3 とかの、遺跡データと照合すれば楽しそうかと思う。
集落遺跡と遺品宝物の出る墳墓とが同じ場合、縄文的なのかと思う。
後期古墳の豪華さは、諸豪族が王権継承で王家の経済的強勢を削ぐ意味しか感じない。
始皇帝は元祖馬鹿であり、薄葬令時代に日本の古墳時代開始は頓珍漢である。←(略)www

41 :
兄ウカシ、弟ウカシはどうなの?

42 :
香椎を入れるなら支惟国っしょどう見ても
あと、宗像とか遠賀とか入れたのを見かけないけど、どういうこと?
九州説なら、女王国から東は海なんだからきっちり海まで到達しなさい
畿内説なら、たとえば投馬国が宮崎なら、九州東岸までは行かないと南へ水行できないでしょ

43 :
>>42
現代地名は基本的に古くて律令古墳時代以降の命名、
神社成立の600年以降、むしろ戦国等の領主にちなむと推定してます。

香椎は梯儁が時計回りで聞き取りした前提で奴国の右側から選考です。
また、周回5千里的に長崎、平戸同様
香椎はこれ以北、以東の宗像遠賀、海進縄文以来国との国境とし
巳百支國王 伊聲耆掖邪拘を志賀島海神、国境の有力王として巳百支國を選びました。

ご意見ありがとうございます。

44 :
東は海について、 東の倭種については聞き取りで
魏使は二人とも瀬戸内海を見ていないと判断します。
特に特徴的な関門海峡は見たら東へ渡海千里とは言わないと思います。

45 :
だから、倭人伝にある通り、不弥国より以遠は伝聞でしょ。
そりゃ関門海峡なんて見てないでしょうよ。

女王国の領域を説明しているのだから、
関門海峡までの地域が国々の中に入ってないと
東が海にならない。

46 :
香椎は不弥国。
宗像より東は豊国なので倭の中でも別の氏族。
卑弥呼の支配は筑紫と肥国。
ただし反抗した肥後を除く。

47 :
>>45
変則テンプレだけど
>>14 女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
女王国の東に海が有る可能性はここだけだが、

郡使は女王国、倭人国、倭国、邪馬台国の用法を恣意的に混同している。
ちなみに、東夷伝において、倭人国の北は海ではなく韓である。
混同した国名で語られる地理には懐疑が必要だと思う。

混同の理由 >>28
郡は景初二年六月 (238年) 公孫氏討伐が終わっていない
郡を訪れた卑弥呼の使 難升米 を郡の安定に有意とみて
倭王の使者として皇帝に引き合わせた。 大歓迎である。

だがしかし、2年後に金印紫綬を届けに来た梯儁は周回5千里の小国の事実を見た。
郡はもはや間違いでした・・・ とは言えなかったのであるwww
倭人伝の齟齬の根本原因はここにある。

48 :
違うな

49 :
なんでだよwww

カラカミ遺跡
弥生後期の土器に漢字 国内最古級、中国製か 長崎・壱岐

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/193630

50 :
阿波さんやったね!

http://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20180201/8020001148.html

51 :
https://i.imgur.com/hgGoTIM.jpg
試し

52 :
>>49
この記事大丈夫かよ?
弥生時代後期(1〜3世紀ごろ)中国・遼東半島で作られた弥生土器って何?
1〜3世紀なら公孫氏の漢四郡が遼東文化なのは当たり前だろ?
弥生時代の人々が文字を理解していたかどうか?
倭人伝では倭人が洛陽や漢四郡と金印で交流してるって書いてあって、弥生人中国渡来説が有るのに何で倭人に文字が無かった必要があるんだ?

>>40の 九州の弥生人が漢字系の名前とか固有名詞を知らないみたいなのは
昔の渡来系の土器、農具厨の豚レイシストアラシ君が言うように
弥生渡来人が中国固有文化の集団で一時期に渡来してる可能性はないんじゃなねーの?
邪馬台国が九州なら、海外知らない畿内が文字を知らないのは当然としても
邪馬台国が九州だとモモタロウや河童が出てきちゃう日本の歴史学がおかしいだろ?

53 :
弥生文化には中国系の生活土器も、中国系の耕作用農具もないのはもちろん、
中国系の服飾文化も、当時の中国の中粒種のイネすらない。

しかも、中国系の住居さえもない。

中国は6000年前から木骨泥墻という土壁の住居。

4000年前から既に土壁の戸建ての時代。

中国から渡来人なんてあり得ないね。

あほです。 

54 :
河童やオニ?テング・・・など

当時の一般(不明)の人々では、
見たことのない人々のことだという説があったような

55 :
時計周りの説だが、伊都国の南には山地がある。
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=635x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i7accac250c8d104e/version/1465632678/image.jpg
その山裾に国々が並んでいるのだから、円周状に国々があって、
時計周りに説明していくのは妥当なんだよ。
だから、次に○国あり、次に○国あり、となる。シマ国からはじまって一周して
奴国に戻る。
ちんじゅが見た資料には、地図があったんだよ。それを文字にしたから、
次に○国あり、次に○国あり、となる。
筑後川の北岸に国々がある。吉野ヶ里もそのひとつ。
一周して、最後に、きい城、うの城があって、奴国に戻る。反時計周りだが。
山塊があるから一周せざるをえない。

56 :
支惟国は肥前国基肄郡、次の烏奴国は大野城もある筑前国御笠郡、その次に有るのが奴国。
香椎は筑前国糟屋郡に広がっていた不弥国の中心地、もしくは重要拠点。

宗像は古墳時代も博多湾沿岸や有明海沿岸とはまた違った文化を持っていたように
そこだけ独立した強力な海人族の集団もしくは国家。

神功皇后の集団が岡の湊に来襲したときに降参してきた熊鰐(嘉麻大王)は筑豊の嘉麻盆地に本拠を置き
当時は関門海峡まで支配下に置いていた豪族、同じく降参してきたイ・トデは伊都国王族の末裔か。

57 :
>>55
はじめから反時計回りと書いてくれないか。

58 :
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

59 :
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)の吉野ヶ里遺跡
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/hgGoTIM.jpg

60 :
>>55 時計回り説で邪馬台王宮=みやまと推定しましたが
陳寿がこれを往復した後に、地図?概念図を作っていると思います。
方法論として、九州島の概念は有ったようなのでまず丸を書く。
(倭人相手は砂上でも良いけど多分、筆と板)
そこに、自分の方角、距離感で、まつら、いと、な、女王宮 の位置を記す。
余談ですが一月行の単位は一般が知らない宮廷独自の世界地図系表記用単位の可能性を感じます。

経路は大宰府越えと思われるので、順次宿営地、其餘旁國の距離方角を聞き記す。
これが、女王宮までの概念であって、皇帝軍の宿営を張りながら行軍したはずで
その過程も記録での詳細聴取による後述で周辺の国を記したと思います。 
この、九州概念図は梯儁が初めて作った、はずです。

みやま〜唐津への経路に佐賀、武雄が有るので徒歩の可能性を聞き
周回5千里とした と推測しました。


>>56 記紀以前の資料は文字以前の考古学になるので
古代地名の同定が可能と考えてはいないのですが、ほぼ同意です。
神功皇后は倭人伝以降の史書同調説や、実存に壮大な無理があるので、
大和朝廷と九州の関係はヤマトタケルでの方がシンプルで好きです←これはひどい

61 :
女王所属国30国については、梯儁が王宮往復で倭人聞き取りで地図を作った推測と
奴国王 難升米 都支國王 都市牛利 躬臣國王 載斯烏越 巳百支國王 伊聲耆掖邪拘
の国(郡または洛陽での聞き取りで別字)が、梯儁の漢字国名の音と一致したことで、
比定する推測に意味を持ったと思います。
場所の詳細は、九州の地誌遺跡に詳しい先生方の紹介が既にあるだろうと思いますので・・・

卑弥呼王宮みやま説について
原典の万二千里と国境南限と狗奴国国境から久留米南麓八女を邪馬国と想定してましたが
実際に行ってみると、アースでw みやまが国境ですね。 
ググってると山門説ありました。 地名とは関係なく南限国境はここでしょ?

きわめて理想的な古代荘園向きの山間の谷戸地形が多数あって
天木公園〜東側山麓は古代城(徒歩戦?)適地に見えます。
汽水域や海じゃない大牟田の山麓や南関も理想都市向きですが、
熊本平定しないと戦場化しそうです。
三池炭鉱で遺跡好適地じゃないかもですが、両陣営はゴルフ場で対峙してましたw
ビューで赤土丹採掘地を見た? 気がする。

私としては、みやまが卑弥呼の王宮最優先地としました。
♪ドン来いテンプレにあった倭人伝や後漢書にも、そう書いてあったし・・・
地形の検討は、学校の地図よりアースが良いですw

62 :
方角や道里が大まかにはわかる伊都国までの記述があって、
その南には傍国が約20カ国ある。(筑後川の北側)
さらに其の南に大きな女王国があって(筑後川の南側とくに河口の広い平野部)
またその南にはクナ国がある。(熊本県)
という構図だろ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Tsukushi_Plain_Relief_Map%2C_SRTM-1.jpg

反時計周り説の人のサイトから
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/77735/795584100795442a41ebf4937633d5ec_1e3e38d30b0cf39772ebf9af991fa52f.png
国名は、タテ書きにしなければならない。山地沿いに国が東西に並んでいるのだから。
伊都の駐在する使節からは、南の山脈の向こうを想像しながら倭人が言う
国名を筆記するわけだ。倭人は当時、文字は少し書けたが、その国名と魏志倭人伝の国名は
漢字が全く一致しない!から、倭人は国名を文字で書けなかったことになる。ただの口頭説明。

まず、唐津市から山道を通ってその先の国から説明することになる。
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=635x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i7accac250c8d104e/version/1465632678/image.jpg
已百支國の位置は難解。あとまわしにする。
傍国20カ国のうち中間ぐらいに對蘇国(鳥栖市)、 呼邑国(おぎ=小城市)という
発音がぴったりの地名がある。山裾を左から右へとたどっていって
不明の国名がつづくが最後のあたりで、支惟國(キイ=基肄城)、烏奴國(うの=大野)
というまた地名がぴたりの箇所があって、奴国に戻る。反時計周りというが、単に地形に沿って
順番に説明しただけ。これらは筑後川の北岸に乱立する小国だが、南側は
女王国がまとめて大きなひとつの国になっている。
反時計周り説の特色として、投馬国は、サツマ国だという。サツマを漢字にあてると
卑字を使うとして、殺馬国。殺の字と投の字は似ているから、誤写したのだという。
ともあれ、そうするとまつら国の北端に船を付けて、右(東)に行けば、伊都国。
左に行けば殺馬国(投馬国)となり、長崎沿岸のいくつかの国は水行ルートの重要な
寄港地になり、傍国20カ国のうちついでに加えられることもありうる、
といったところか。

63 :
邪馬台国鹿児島
https://ncode.syosetu.com/n2362di/

天照から神代三代は鹿児島

答え書いてた

種子島が侏儒国であると比定される動きが、一部に出ている。
これは、種子島から発掘 された弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、
「極端な」短頭、低頭、低 身長特徴を持ち、魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致していると の見解による。
この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、
本州などには 見られない特徴で「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3)


64 :
>>62
投馬国は反時計回りの中に含まれない。
書き方からすると、別情報だ。

65 :
>>64
投馬国のことなんか無くても、魏略と廣志の記述では
女王国にたどりつけるのだから(筑後平野)、
投馬国は別情報のおまけでついでに書き加えただけだろう。
おまけのついでなら、こだわる必要性はうすい。

66 :
>>52
隋書倭国伝に 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 って書いてありますしお寿司。
しかし漢字を理解できる奴はいただろうな。

それと弥生式土器とは書いてないぞ。

67 :
ついに鹿児島説来たか胸熱w

68 :
>>41 自分だよね?(笑)

兄宇迦斯・弟宇迦斯も、弟宇迦斯の方が弟(ト)なので継承者です。因みに、兄師木と弟師木も同じ。
ココらはパターン的で、弟は地位を約束されるので帰順に応じ易く、兄は帰順後の地位が危ういので反抗的。
或いは、弟は継承者でその母家の直系の先祖に当たるので賢く描き、兄は愚かに描く。

ヤマトタケルの熊襲タケル兄弟の討伐に出てくる兄建と弟建も同じ。ヤマトタケルの武勇を褒めヤマトタケルと名乗るよう言う名文句を言うのは弟健の方です。
日本書紀にある出雲降根の話も同じ。崇神から神宝の献上を命じられ、無断で献上した弟の飯入根を兄の出雲振根がR。弟にも根が付くので複雑そうですがコレも弟が継承者の筈です。

ココらはフィクションならば尚更兄・弟が明確に描き分けられているんだろうと思います。
神武の大和入りなんかは多分に倭人伝からの発想でしょうしね。

69 :
ヤマトタケルが倭國王になれなかった理由は母親の血筋のおかげ
でも
女王家の娘とつがう機会が与えられたからでかした子は倭國王になれた

70 :
>>66
文字は57年の金印時代の木簡でも、九州弥生人には入ってお升。お寿司。
壱岐で漢字記入の弥生土器出土ならともかく、中国土器に漢字が書かれていても
王にあてた木簡同様、学校もない倭人の漢字使用には関係ないです。
中国人渡来説の証拠にするにも、壱岐はこの時 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴 です。

九州女王国での漢字使用は、倭人伝
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
>傳送文書 これが語っています。
考古学者は歴史に対して、秋目蔵w なのです。

隋書倭国伝って、600余年、日出処の天子を見た皇帝の命で
遣隋使の小野妹子の帰国便で裴世清が来日、
新築法隆寺、斑鳩の天皇に謁見した報告の後成立でしょ?

で、 >無文字唯刻木結繩 / 敬佛法於百濟求得佛經 始有文字
この文、前半は250年まで、後半は仏教伝来の550年以降ですね。

北朝の隋はこの間、空白の4世紀、ま、南朝の倭の五王外交は暴露されますがw
記紀が隠蔽した半島放棄以前の百済、新羅、建国冊封、南朝外交、
人質の皇太子を送還した白村江海戦の事情の詳細、
半島進出400年までの、高句麗馬移入、富国強兵開拓期の日本を全く知らない証拠です。

邪馬台国論争をわざと頓珍漢にしてる目的が判る気瓦斯ます。(主語略)

71 :
>>63
>種子島が侏儒国
>>14 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
正解です。
邪馬台王宮は九州上陸後一月行二千里、九州島南北は三月行=約六千里

これは、侏儒國奇譚を聴取した中国人が
九州島南北三月行=6千里の概念を既に持っていたことを意味します。
南遥か、もう一つの邪馬台国がムー大陸上陸後、陸行一月でない限りwww
私訳は、実際に到達できていないと考えます。

三国志東夷伝にも 倭人国=九州の南端まで使訳した記録は有りませんが
漢以降、西域を使訳した記録、高句麗を追討して沿海州まで行った記録は有ります。
コツン ⌒☆∩`Д´) < ヤダヤダー!!  東夷伝序文参照

これは、梯儁の九州2千里の行軍や聴取記録同様、概念図化されてるはずですが、
国家の正規軍将軍でもなければ、図の書写で拡散は困難だと思います。 
これが史書の一月行単位の使用例希少の原因でしょう。

一月行、三月行五月行等の定義は、
公開はしているので軍事機密とまではいかないと思いますが
この中国王朝独自の地理概念=地図における座標にあると推測しています。

72 :
>>70
>>無文字唯刻木結繩
>この文、前半は250年まで
>傳送文書 これが語っています。
なんじゃなかったの?

>邪馬台国論争をわざと頓珍漢にしてる目的が判る気瓦斯ます。(主語略)
???

>>71
>これが史書の一月行単位の使用例希少の原因でしょう。
???

>この中国王朝独自の地理概念=地図における座標にあると推測しています。
???

73 :
>>72
>>無文字唯刻木結繩
>この文、前半は250年まで
>傳送文書 これが語っています。
なんじゃなかったの?

つまり、>>無文字唯刻木結繩 は倭人一般の話で
隋書倭国伝では、女王国が文字を使用していたことは考慮していないということです。
倭人伝の国は文字を使用してますが、倭人庶民は仏教伝来以降でも普通は文字を知りません。
これであれば、教育のゆきわたっていない近代の日本、中国人も文字は知りません。
中国史記の著者の中華礼賛 皇帝おだてw おごりかと思います。

刻木結繩が、意思疎通可能な言語に変わるものなら、
刻木結繩という文字列が何を意味するのかは興味があります。

推測的には固有名詞を表すのには、刻木 結繩という行為に
共有性を含有させるのは困難なので、単に土器の模様のようなことかと思います。
表現として砂に絵文字の方がましなので、著者がアホです。

ちら裏解説なんで、自己理解の上に、言葉が足りないのは判っているのですが
??? 何が欲しいの??? 
昔のエロい人は言いました。
触れないものはその手に得ることはできません。

74 :
>>70
ヒント。アイヌ

75 :
倭人伝解読に関する、日本語訳による恣意的ミスリードの存在について
その可能性の一例として、スレ主師匠の原文テンプレに段落を付けた
変形テンプレのほかに >>24 から >>29 を掲上しました。
ご迷惑な、おみやげです。

文節、改行、段落に関して、その行間にある時代状況の背景を読むべきなのです。
行程記はもちろん、記載30国の地理で、検証は試みますた。

陳寿の研ぎ過ぎた文体では、執筆過程でのデータの所在も想定して読まなければ、
段落や地図の存在の可能性や文の真意は想定できない。
猶、風俗、風物詩、外交史についても検討の必要は存在しています。
ご都合主義の介在できる翻訳ではなく、直読で意味を把握してから語り合うべきです。

>>74  師匠ありがとうございました。 
ホント―の事を書いちゃってネトウヨと呼ばれる、jc歴女の名無しに戻ります。
テンプラ揚げて語る窮屈さは、乙でゲソ天♪ドンと来いwww
相手してくれた皆さま、いじめっ子や、畿内系梅嵐の皆様にも感謝です。

吉備のモモタロウが犬猿雉と、巌流島で
卑弥呼の五尺刀を持った小次郎と戦い、船の櫂の木の棒で勝った、
九州征伐神話の九州説を信じます。
映画化決定!

倭人伝をちゃんと読みましょう。 ←おまいう

76 :
【東夷伝 序文】
書 稱東漸於海 西被於流沙 其九服之制 可得而言也
然荒域之外 重譯(調査団を度々派遣した)而至 非足跡車軌所及 未有知其國俗殊方者也

自虞暨周 西戎有白環之獻 東夷有肅慎之貢 皆曠世而至其遐遠也如
此及漢氏 遣張騫使西域窮 河源經歷諸國 遂置都護以總領之
然後 西域之事具存故史官得詳載

焉魏興 西域雖不能盡 至其大國 龜茲 于ゥ 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師之屬
無歲不奉朝貢 畧如漢氏故事

而公孫淵 仍父祖三世有遼東 天子爲其絕域委 以海外之事遂隔斷 東夷不得通於諸夏
景初中 大興師旅誅淵 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 而後海表謐 然東夷屈服

其後高句麗背叛 又遣偏師致討窮追 極遠踰 烏丸 骨都 過沃沮 踐肅慎之庭 東臨大海
長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國 采其法俗 小大區別各有 名號可得詳紀

雖夷狄之邦而 俎豆之象存中國 失禮求之四夷猶信
故撰次其國 列其同異以接 前史之所未備焉

77 :
>>75
バシィィィィン‼︎師匠を置いて出て行く奴があるかっ‼︎大事なことだから二回言いました。(みのもんた

御主に言い忘れていたことがあった。
倭人伝あたりの陳寿の資料は張華によってもたらされたのじゃ。

78 :
卑弥呼亡きあとは台与などが登場したけれど九州内では紛争がつづいて、
そのうち小勢力の一派が近畿に東征に出発して、畿内の大勢力に加担して
うまく大きな勢力になることができた。
そのあとは西に東に征服戦争を起こして、九州方面には
神夏磯姫のエピソードが残った、ということでいいんじゃね?

79 :
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

80 :
>>69
ヤマトタケルがクマソタケルを討つ場合,だけど
卑弥呼〜台与の女王国の頭越しで戦争は無いとして
九州女王国と本州の後の朝廷勢力が並立してるよね。

神功皇后は記紀のキャストで、倭人伝の実在の卑弥呼〜台与と同一として
血筋的にはヤマトタケルの子が仲哀天皇なら、嫁の神功皇后が台与にするには
卑弥呼の前にヤマトタケルが九州来てないと順番が違くネ。
>>68 日本海ルート論者さんのヤマトタケルがヒコで台与がヒメ?

卑弥呼と台与が同一ならヤマトタケルと仲哀天皇も同一かも?
これって、多分三国志読んで記紀の作者が帳尻合わせした場合、の筋書きだよね。
俺もw

実話で九州が弥生渡来人発祥の地として、記紀だと九州何回征伐されてる?
記紀でも皇統は応神天皇辺りからにしないと神話なんじゃない?
東遷じゃなくて、里帰り?

81 :
【邪馬台国の周辺の国】
それぞれの中心地は

1番 斯馬国は肥前国杵島郡(武雄)
2番 己百支国は肥前国彼杵郡(佐世保)
3番 伊邪国は肥前国松浦郡(伊万里湾沿岸)
4番 都支国は肥前国小城郡
5番 彌奴国は肥前国三根郡
6番 好古都国は肥後国八代郡?(女王国連合に属さぬ南方の芦北国、球磨国に睨みを利かせていた?)
7番 不呼国は肥後国宇土郡
8番 姐奴國は肥後国益城郡?(狭野尊の幼名を持つ神武天皇の本地?)
9番 對蘇国は日向国臼杵郡
10番 蘇奴国は肥後国阿蘇郡
11番 呼邑国は日向国児湯郡
12番 華奴蘇奴国は肥後国菊池郡?
13番 鬼国は肥後国合志郡?
14番 爲吾国は肥後国山鹿郡?
15番 鬼奴国は肥後国玉杵名郡
16番 邪馬国は筑後国八女郡
17番 躬臣国は豊後国玖珠郡
18番 巴利国は筑後国夜須郡?
19番 支惟国は肥前国基肄郡
20番 烏奴国は筑前国御笠郡
21番 奴国は筑前国那珂郡

82 :
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

83 :
>>76
序文だと陳寿データの漢籍には
邪馬台国以前の日本については何も書かれていないっぽい。

>景初中 大興師旅誅淵 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 而後海表謐 然東夷屈服
九州の卑弥呼が 大興師旅誅淵 の時に、多分公孫淵に朝貢に行って、
たまたま戦後進駐の郡太守によって皇帝に謁見させた感じ、運良く使が派遣できた。
なのに 然東夷屈服 は中華礼賛の大法螺っぽい。

>長老說有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國
聖徳太子の発想これだろ、見っけ、パクパクwww

>重譯(調査団を度々派遣した)
まあ、この訳が通訳にのわけないのは判る。

それと倭人伝の最後にも
評曰
史漢著朝鮮兩越東京撰錄西羗魏世匈奴遂衰更有烏丸鮮卑爰及東夷
使譯時通記述隨事豈常也哉

もあるのに、なんで一緒に読まないんだ?
使譯時通記述隨事豈常也哉 
って、書いてあるんだけどね。 使って探検家じゃん? 譯は探検記。
帳政が来て、女王が倭国王じゃないのがバレて外交終わった でも良いかも。

84 :
重譯っつうのは、
倭語→朝鮮語→中国語みたいに通訳が複数いたの

85 :
重譯というのは、それだけ相手が遠隔の地にいたという常套句だよ
それほど言葉の通じない遠くまで中国皇帝の威光が届いているという

86 :
常套句www 通訳?
トンチキ ってのは頓珍漢のことだったか?

87 :
>>79
3番 伊邪国は平戸島なら、
そこから東南1日の島はどこよ?
伊邪と平戸では表音も全くあわない。
根拠不十分だぞ

88 :
>>79
>4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)

早岐(はいき)に対し、都支は「とき」か?
都は「はい」と読むのか?
これまた根拠不十分。

広志に1番から3番までは載っていて
3番では西南に分国があるのだから3番の国は筑後川の河口あたりだろ。
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日 有伊那分國
無布帛以草為衣盖伊耶國也

だから、2番 己百支国は
志摩と筑後川河口との中間あたりが予想されるわな。
しかし、それとは関係なく西の沿岸国の可能性もあるわけだ。次に有り、
だから隣接しているはずではある。
>5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)

投馬国の彌彌みみ と同じ漢字だから「み」がつく国名になる。
三根でいいかも
6番 好古都国は?ハカタという説もあるがさすがに無理。
7番 不呼国は? 不明。
このあとは佐賀県中央部の地名と一致する。
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)か、耶馬渓のあたりか。
太宰府に近づいていく。
>18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨
どちらにもとれる。
19番からは太宰府周辺の国名になり、21番で奴国に戻る。

89 :
>>88
いやいや、志摩を起点に西南へ向かうなら、伊万里から平戸方面だよ。
筑後川には出ないだろ。

90 :
>>89
女王国の傍国のほとんどは伊都付近から見て
南方にあるんだぞ。女王国の北には一大卒を置くからな。

伊万里から平戸方面などの西方の国を見てどうする。
つじつまあわせに、南を東どころか
今度は南を西にか?

91 :
>>90
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日 有伊那分國

西南だろ!
勝手に南に変えるな!

92 :
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=635x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i7accac250c8d104e/version/1465632678/image.jpg
魏の使節は、唐津から海岸沿いを通って伊都に駐在する。
しかし、唐津から南(南東)へ行くルートがあって、そちらに行くのは禁止されたかどうかは
知らないが、佐賀市のあたりにでて広い筑紫平野に出る。
筑紫平野の上部に、左右に通じる道路がある。それは現代の道路だが、
その道路沿いというか、山裾に小国がずらずらと並んでいるんだろ。
まさに次有○国、次有○国、次有○国、だ。
その小国の南(佐賀市の右下)に邪馬台国があって、さらにその南方には
クナ国がある。(熊本方面)
地図の平戸城のあたりは、国が隣接しているわりには西に突出しすぎている。
南どころか明らかに西である。
表音文字で、魏志倭人伝の傍国の読みがなと、現代に残る地名の発音が激似の
ところがあるというなら、オマイの意見も認めてやるわ。
現時点では、平戸の昔の地名にすらも傍の国名によく似たものは無い。

93 :
>>91 あのな・・・
20カ国のうち最初の方のは反時計周りだから
3番目くらいの国は、西南なんだよ。10番目くらいは南の国ばっかりになる。

94 :
>>93
それは92に言ってやれよ。

95 :
>>94
92を書いたのもオイラだから。お前はカンも悪いな。

96 :
志摩から平戸ならおおむね西南だろ。

97 :
>>96 その主張を言うなら
これのつじつまあわせをしろよ。
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日 有伊那分國

しま國がある。つぎは 巴百支國がある。次は伊那國がある。
西南海行一日には、伊那分國がある。
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=635x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i7accac250c8d104e/version/1465632678/image.jpg
平戸から西南海行一日は、どこの土地が該当するんだよ?ああ?

98 :
平戸島が南西に伸びているだろ。
その沿岸のどこかだよ。

99 :
>>80
もっと単純な話ですよ。

6世紀に仏教が本格的に取り入れられていくにつれ、漢字が日常的なものとなってきます。
勿論、倭の五王の時代から倭の遣使はしっかりとした漢語を使っている訳ですから、国際的な利用としては一部の人はバッチリ使えたんでしょうが、
それが国内向けに国家的に使えるようになったのは6世紀からだろうということができると思います。
そのことにより、様々な物語だけでなく学術書や政治書、思想、文学など多岐に渡って知識を深め広めることが、倭国内の至る所で同時多発的に行えるようになった訳です。
その中でも、自分達のルーツである倭國の歴史に関しては、皇族や中央官僚のみならず、各国の豪族・貴族たちも、非常に高い関心を持って読んだ筈です。

倭人伝で倭語と思われるものの内、高い関心を持たれただろうものとして、卑彌呼・卑彌弓呼の2語がある。
3世紀の邪馬壹國時代と300年しか違わない6世紀であれば、より単純に卑彌呼をヒメミコと読み、卑彌弓呼をヒコミコのことを指すと読む筈です。

倭人伝を読めば、ヒコミコは南九州におり、ヒメミコは大和にいるとわかる。
そこから、ヒコミコとヒメミコが結婚する神話が作られた。
つまり、それが南九州出身のカミヤマトイワレビコと大和出身のヒメタタライスケヨリヒメの結婚神話という訳です。

100 :
>>99
>卑彌呼をヒメミコと読み、卑彌弓呼をヒコミコ

ミは、彌彌(ミミ)でよく使われる言葉だろ。
卑彌弓呼をヒコミコって、読み違いにも限度がある。

>倭人伝を読めば、ヒコミコは南九州におり、ヒメミコは大和にいるとわかる。
>>99の話は前半はいいのに、後半はひどい。


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