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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14


1 :2018/08/23 〜 最終レス :2018/09/16
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1525790222/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。

2 :
世有王

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。

3 :
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。

4 :
【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。

【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。

※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。

5 :
都を中心に場所を考えるのではなく王を中心に国家を考えれば、邪馬台国の謎は
全てとける。むしろ倭人たちの使者は「おまえたちの国の都はどこにある」と問われて
困惑したのではないか。日本にはそのような統治システムなどなく、どこかが国家の
中心などという概念が存在しなかったからである。だから自分たち使者がどのような
経路をたどってここまで来たかを述べ、それを筆記官が解釈して、中国流の概念で
解説した。こういうことであろう。

6 :
ヘブライ人たちはモーセに導かれるまでは自らの都市という概念をもたない民族であった。
ただ個々の部族が指導者や説教者により指導されるばかりで、一方で明らかな統一性を
保持していた。和人についても同じことであり、倭人についても同じことであり、魏の官人に
問われて初めて国家の都市という概念にみずからを合わせる必要をもとめられ、そして
困惑した。この可能性が高い。

7 :
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

8 :
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

9 :
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg

10 :
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入


11 :
>>1 乙(まあ伊都=邪馬壱はありえんが
卑弥呼さんの都をわえより先に見つけたんは褒めてもええです
つうか無人スレやね?

12 :
無限不毛ループのどこぞよりはまし?

お題

ミラーはなぜに割られて副葬されたるや?

13 :
方々のスレで、伊都国説の根拠とされていたものが全部否定されたからなぁ

今さら伊都国説っていっても人も集まらないだろ
無人スレもやむなし

14 :
伊都国を否定した主張が全部論破されて
それでも見えなかったかのように繰り返し主張し続けて
放置されていたのは見てたがな。

15 :
畿内説っていつもそうだからね。

16 :
>>14>>15
>伊都国を否定した主張が全部論破されて
>それでも見えなかったかのように繰り返し主張し続けて

>畿内説っていつもそうだからね。

ミラーリング
自分への批判を、相手のこととして言い返すだけの簡単なお仕事
詭弁使いの技法の初歩のひとつ

17 :
伊都国説の否定はこれだけでOK

邪馬台国と伊都国は別の国として描かれている
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺

18 :
反論は、
「具体的な論点」について、
「具体的な根拠・理由」を示さなければ無意味だよ

19 :
>>17
別の国という読み方が二重帳簿詐欺?
広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提だと思うが?

20 :
>>19
>広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提だと思うが?

そんな前提はない
奴国、出雲国、ヤマト国の3つが、倭国内の大国として特記されているだけ

21 :
>>19
>広域の国名と国邑の名前の二重表記

そういう主張をするなら、
広域の国名として何があって、国邑の名前がどれなのか、
具体的に示せなければ意味がない

22 :
で、具体的に書いてね!っていうと、九州説は消える

この繰り返し

23 :
邪馬台国の中の伊都国と奴国だよね。

24 :
>>23
何が?

25 :
>邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
          ↑
倭人伝では、これを「倭国」と定義しておる。

それにテンプレがくどしい、いや、たどたどしいな。
ま、糸島は高麗人の植民地だったから、やむを得ないかもしれぬが・・・。


26 :
倭とヤマトは同意だよ。

27 :
大和・・・ヤマト
倭 ・・・ヤマト
大倭・・・ヤマタイ
邪馬台国・・・ヤマタイ国

28 :
>>21
投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。
>>25
倭人が韓に進出していたんですよ。

29 :
>>25
>倭人伝では、これを「倭国」と定義しておる。

それだと事実上、倭国=邪馬壹國だよね?

それだと、邪馬壹國女王之所都が意味を持たないことになる
つまり無理な読み方なんだよ

国を重ねるのは二重帳簿詐欺

30 :
>>28
>投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
>狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
>その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。

狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?

伊都国、奴国が国邑なら、どうして伊都国に女王之所都と書いてないの? おかしいでしょ?

奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?

邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?
説明つかないことだらけでしょ?
旅程記事も投馬国が矛盾する

「広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提」はない

国を重ねるのは二重帳簿詐欺

31 :
>>29
>邪馬壹國女王之所都
これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味


>>30
>狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?
狗奴国は女王に敵対しているので詳細は不明
投馬国の国邑としては狗邪韓国

>どうして伊都国に女王之所都と書いてないの?
伊都国には「世有王」と書かれてる
「魏の世、倭王が居た」とね。

>奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?
馬韓は10万戸、辰韓、弁韓は4〜5万戸
奴国よりは遥かに大きい
馬韓での最大の国邑も10000戸以上の規模

>邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?
北部九州26か国の国邑ですから7万戸は説明出来ます。

>旅程記事も投馬国が矛盾する。
水行20日で7000里の場所が投馬国。

32 :
>>30
>>28
>>投馬國と邪馬壹國が韓での馬韓、辰韓、弁韓に相当する
>>狗奴國も馬韓、辰韓、弁韓に相当するものでしょう
>>その他の伊都國や奴國などは国邑ですね。

>狗奴国、投馬国の国邑は? どうして書かれていないの?

どちらも郡使は行っていないから、国邑まではわからないのです。

>伊都国、奴国が国邑なら、どうして伊都国に女王之所都と書いてないの? おかしいでしょ?

「世有王」と書いてあります。

>奴国は戸数2万餘戸なのに、どうして馬韓、辰韓、弁韓に相当しないの?

奴国はあくまでも国邑だから。
地域名とは区別します。

>邪馬壹國の人口、7万餘戸が説明できないでしょ?

国邑としての奴国の人口が、地域としての邪馬台国に含まれますよ。

>旅程記事も投馬国が矛盾する

投馬国が宮崎なら矛盾しませんよ。

>「広域の国名と国邑の名前の二重表記は魏志倭人伝の前提」はない
>国を重ねるのは二重帳簿詐欺

畿内だって、大和と畿内の二重帳簿でしょう。
まさか奈良盆地に七万戸あったなんて言いませんよね?

33 :
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が置いた「トロイの木馬」みたいなものだな

34 :
>>31

35 :
>>31
>これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味

広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

投馬国や邪馬台国は馬韓や弁辰にあたるという主張だが、
弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ

投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?

36 :
>>31
>投馬国の国邑としては狗邪韓国

狗邪韓国が投馬国という倭人国の国邑だったらだったら、狗邪倭国になるんじゃないか?
狗邪韓国は後の伽耶で、弁辰二十四国のうちの一つ、弁辰狗邪国だよ

37 :
>>31
>「魏の世、倭王が居た」とね。

詭弁にもなってない
倭王なんて書いてないじゃないか
魏志倭人伝の旅程記事は、地理を示す記事でもある
伊都国に女王の都があるのに、そこで書かないでもっと大きな
括りである邪馬台国にある何て書いてたら情報量、むしろ0だろうに

38 :
>>35
>弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ
その書き方だと女王の都は弁辰にあるでしょ

女王の支配下に投馬國と邪馬壹國があり
邪馬壹國は女王之所都
つまり邪馬壹國の中に女王の都が在る
投馬國の中にはない

>投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?
倭の一部なので投馬國も女王国とみなしていいでしょうね。

ここで投馬國を宮崎だと主張してる一人がいますが
私は投馬國は朝鮮半島南岸で、宮崎、鹿児島は狗奴國との立場です。

39 :
>>31
>馬韓は10万戸、辰韓、弁韓は4〜5万戸
>奴国よりは遥かに大きい
>馬韓での最大の国邑も10000戸以上の規模

漢文の原文を読めない人ならそれで騙せるかもしれないけれど
魏志倭人伝の原文は
弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。
となっていて、弁辰韓合わせて四五万戸だ
半分なら二萬戸程度だろ?
十分に奴国の二萬餘戸は、辰韓、弁辰レベルだよ

40 :
>>31
>北部九州26か国の国邑ですから7万戸は説明出来ます。

そのうち20国は道里戸数が分からないんだけど?
分からないものを足しても、分からないにしかならないだろ

インチキはダメだよ

41 :
>>31
>水行20日で7000里の場所が投馬国。

だとすると、投馬国五萬餘戸は、弁、辰合わせたすべてということになる
>>39にも書いたとおり「弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、
小國六七百家、總四五萬戶。 」なんだから

だったら、この地域は、弁辰、辰韓、ではなく投馬国と書かれなきゃおかしいよな?
投馬国が弁辰、辰韓と並ぶ括りという詭弁は成り立たない

42 :
>>36
倭人国の国邑であっても朝鮮半島に存在してたから狗邪韓国
狗邪韓国と弁辰狗邪国は名前が似ているだけで同じ国邑ではない
投馬国が後の任那。
>>37
伊都国に女王が居たと書いて更に邪馬壹國の中に女王の都が在ると書かれているですから
邪馬壹國の中に伊都国が在ることになりますよね。

43 :
もう面倒になったからいいや

これまでに全部否定したことあるし

投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ

44 :
>>39
馬韓の説明では「大國萬餘家 小國數千家」とあり国邑の規模にはバラツキがあり
大きいサイズでは万クラスと書かれています。
>>40
「可七萬餘戸」と書かれています
可とは推測されるとの意味ですから
分からないものを推測して足したってことです。

45 :
>>43
>半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ
半島南部に五萬戸が入らないなんて朝鮮はそんなに狭くはありませんよ。

46 :
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が仕掛け置いた「トロイの木馬」みたいなものだな

47 :
>>41
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」とある通り
韓には馬韓、弁辰、辰韓が在り、その南に投馬国が在ったんですよ。

48 :
>>35
>>31
>>これは女王の支配下にある投馬國と邪馬壹國の内邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味

>広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。

>投馬国は女王国に入るのか入らないのかどっちだと思ってるんだ?

入りませんよ。

49 :
>>36
>>31
>>投馬国の国邑としては狗邪韓国

>狗邪韓国が投馬国という倭人国の国邑だったらだったら、狗邪倭国になるんじゃないか?
>狗邪韓国は後の伽耶で、弁辰二十四国のうちの一つ、弁辰狗邪国だよ

たぶんその通りです。

50 :
>>39

一国邑で他の地域全体に匹敵するほど、福岡の女王国は栄えていたのですよ。
だから金印が福岡に与えられたわけです。

51 :
>>41
>だったら、この地域は、弁辰、辰韓、ではなく投馬国と書かれなきゃおかしいよな?
>投馬国が弁辰、辰韓と並ぶ括りという詭弁は成り立たない

同意します。
投馬国は宮崎です。

52 :
>>43
>投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
>半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ

これも同意します。
邪馬台国は福岡、投馬国は宮崎ですね。

53 :
>>44
>「可七萬餘戸」と書かれています
>可とは推測されるとの意味ですから
>分からないものを推測して足したってことです。

ここも同意します。

54 :
ははん、このスレは、
九州説を引っ掻き回すために、畿内ヤマトン説が仕掛け置いた「トロイの木馬」みたいなものだな

な訳あるか〜い!

55 :
>>52
8世紀でも宮崎県の人口は30,800〜47,700人と推定されている
五萬戸なんて無理ですよ。

56 :
近代以前の日本の人口統計
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

57 :
一戸平均、何人だったのかい
古代の男不足・通婚時代には、せいぜいがとこ、3人さ。

58 :
>>57
8世紀段階でも人口が30,800〜47,700人だから一戸1人でも五萬戸にならないな
その500年前ですから宮崎県に投馬国をもっていくのは無理ですよね。

59 :
発掘された遺跡数からの推定では、発掘事業の多寡によって左右されるので、値に意味がない。
せいぜい、最低数はこれだけという程度。

60 :
>>52
>邪馬台国は福岡
筑前が85,400〜112,000人ですから、筑前は伊都国、奴国、不彌国で一杯ですね
邪馬壹國「可七萬餘戸」は福岡県だけでなは収まりきれないので北部九州全域ですね。

>>59
8世紀の推定ですから遺跡数からの推定ではなく9世紀等の文献からの推定ですよ。

61 :
>>60
八世紀の数字は確かかもしれぬが、
その八世紀の数字と三世紀の数字との間に、
邪馬台国時代を推定するに足る信頼できる関係があるというのか

62 :
>>61
北部九州では2600年前から稲作が行われていて3世紀だと既に1000年くらいは開発がなされてます
その後稲作で技術革新とか無いですから
九州では1300年前と1700年前で殆ど人口は変わらいと考えていいでしょうね。

63 :
>>62
よろしい、大正解!

64 :
で、朝鮮半島南部の推定人口は?

65 :
>>64
馬韓10万戸・・・50万人
弁韓、辰韓5万戸・・・25万人
投馬国5万戸・・・25万人
韓国計20万戸・・・100万人
大韓民国2018年・・・5166万人

邪馬壹国7万戸・・・35万人
狗奴国?万戸・・・?万人
九州2018年・・・1286万人

現代は韓国が九州の4倍くらいの人口
邪馬壹国7万戸、35万人なら狗奴国0万戸としても韓は28万戸、140万人となる
投馬国5万戸・・・25万人を入れても韓の人口は少ないな。

66 :
投馬国までと邪馬台国までを連続読みするなら、帯方郡から邪馬台国までのべ3ヶ月以上かかってしまうよ?

67 :
>>66
「東南陸行五百里 到伊都國」と「東南至奴國百里」が
「陸行一月」に当たりますから600里に陸行一月は掛かりません
陸行600里なら陸行一日で十分なので「陸行一月」は「陸行一日」の誤記ということになる
従って帯方郡から邪馬壹國までの日程は31日ですね。

68 :
邪馬壹國は肥後・山鹿に在った(女王之都は阿蘇・高千穂)

すなわち、まず唐津・末蘆国に上陸した。、
ここから東南陸行500里の佐賀川上に伊都国大環壕があった。(なおここから東南100里の方角に佐賀市の奴国が見える。)
この伊都国から東へ行くこと100里で神崎吉野ヶ里の不彌国に至った。
(ここから南の方角に投馬国がある。帯方郡からは水行20日)
(又、同じく南の方角へ行くと、邪馬台国・女王之所都に至る)

具体的には:
神崎・不彌国から川堤を下り、千代田〜諸冨辺りから、筑後川の干満遡上潮を利用して対岸の城島へ渡った(今の六五郎橋付近)。
ここから微高地伝いに県道15号線で八女市中心街の福島へ。
この福島の南で、岩礁地帯を利用して矢部川を渡った。
そして国道3号線、又は県道4号線伝いに南下を続け、熊本県山鹿市ウテナ(台)へ到った。

ここが邪馬台国の国衙(翰苑にいう邪馬嘉国)であった。
そしてさらに東南に山道行を続けることで、阿蘇・高千穂の火の神・卑弥呼の都砦に至ったのである。
以上唐津から、〆て陸行一か月。帯方郡からは水行十日陸行一月也。。。

69 :
糸島は → 高麗人の植民地

久留米の高良山は → 高麗山
高良大社は → 高麗大社
その麓の高良台は → 高麗台
その台地の祇園山古墳は → 高麗人の墓場

70 :
>>48
>伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。

おいおい、すぐ上で余傍国20国も全部入れるって書いた直後にそれかい?
本当にいい加減だな

だから九州説は矛盾だらけで説にもなってないって言うんだよ
伊都国と奴国に限定するなら、戸数は二万千戸にしかならないぞ

五万戸近く足りない

適当すぎ

71 :
>>58
>その500年前ですから宮崎県に投馬国をもっていくのは無理ですよね。

日本よりも寒くてその分米があまり穫れない半島南部に
投馬国を持っていくのはもっと無理

72 :
>>66
>投馬国までと邪馬台国までを連続読みするなら、帯方郡から邪馬台国までのべ3ヶ月以上かかってしまうよ?

古代の旅ならそんなものだと思うけど?
帯方郡から北部九州まで1月もかかるとは思わないけれど

73 :
>>67
>陸行600里なら陸行一日で十分なので「陸行一月」は「陸行一日」の誤記ということになる
>従って帯方郡から邪馬壹國までの日程は31日ですね。

またご都合主義の捏造をしているww

それ(600里を一日)だと、伊都国を素通りしてることになるぞ?
一大率は何をやっているんだ?ww

74 :
>>68
>そこから東南陸行500里の佐賀川上に、伊都国国衙の大環壕があった。

これってさ、ひょっとしてもしかしたら、グーグルマップの航空写真で
見つけたとかいう東西1キロの大環壕集落のこと?ww

見たい人の心の中だけにある、発掘による証拠が一切なくて、
ヤマトタケルに殺されたのが「川上」梟帥だからという類推に頼った、
例のあれ?ww

75 :
半島南部にツマなんていう地名はない。

76 :
>>70
邪馬壹国70,000戸の内訳は、
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、
斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算

77 :
>>74
そうさ、例のアレよ。
ま、いいとこどりではあるが、昭和23年の航空写真でも、全く同じ大きさ形状の田舎道が見えるからな。
決して、近年の土木工事・道路工事・圃場整備などの結果ではない。
何かの歴史的由縁があるのであろう。

78 :
>>73
末廬國から500里〜600里の範囲が伊都国です。

79 :
>>78
末廬國からちょっきり500里が伊都国です。

80 :
>>77
>昭和23年の航空写真

つまり根拠は昭和の地割りww
すげぇなw

81 :
環濠跡が道路だとかバカの発想だなw
環濠の跡ってことは一度掘り返してるから
地盤はゆるゆる、雨降りゃ水が溜まってドロドロ
誰も好き好んで歩いたりしない

82 :
>>76
>邪馬壹国70,000戸の内訳は、
>1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+
>1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

それだと今度は>>35
「広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

 投馬国や邪馬台国は馬韓や弁辰にあたるという主張だが、
 弁辰の都は弁辰にあるって書いてあっても無意味だろ 」
に答えられなくなるだろ?

これに対して、>>48で「伊都国と奴国なら十分に限定された地域です。」と答えて、
それじゃおかしいと言われたら、20カ国も入れるから大丈夫という

その場しのぎで適当に書いてるだけで、全体の整合性は取れない
そんな破綻した、互いに矛盾する根拠を雑に束ねたものが九州説の実態

83 :
>>82
>広域では、女王之所都が意味を持たないだろう?

その書き方なら
韓の都は弁辰にある
倭の都は邪馬壹国にある
でしょ。

後の会話は私じゃなく、見解も違います
何人かの意見をごっちゃにしてるんで全体の整合性が取れなんでしょうね。

84 :
キナイコシは、どうしても九州説が一人だと思い込みたいらしい。
だから話が通じない。

85 :
いや、説として成り立ってないと指摘してる

86 :
相手と話が噛み合っていないじゃないか。

87 :
キナイコシは、揺れ揺れ内心を隠してカキコ厨

88 :
マップが読めない畿内虫

89 :
熊襲タケル=カワカミノタケルの墓は、をぎ船塚の前方後円墳

90 :
>>83
>倭の都は邪馬壹国にある

邪馬台国女王之所都と書いてあるが、
この邪馬台国(面倒だから壹とか臺とか書かないよ)が、
馬韓や弁辰と同様の広域だってのは成り立たないだろって話

馬韓、王之所都と書いてあっても意味がない

九州説が何人居てもいいけれど、これ(ある国の都の所在地が「ある国」でも意味がある)を
説明できるやつがいるなら説明してみな

91 :
>>89
>をぎ船塚の前方後円墳

船塚古墳、調べてみたけど、これを小城というのは厳しくないか?
所在地は佐賀郡の範囲で、小城郡からは外れる

きちんとした発掘がされていなくて、情報が少ないけれど、

前方部と後円部の規模がほぼ等しい
石室内には箱式石棺が2基

ということを踏まえると、ウィキペディア記載の
「築造時期は古墳時代中期の5世紀中頃」というので妥当だと思う

ヤマトタケルが4世紀半ばだから、ヤマトタケルに討たれた川上梟帥の墓とするのは
ちょっと厳しいな

佐賀県最大の古墳だから、これにしたいのは分からないでもないけれど

92 :
>>90
>馬韓、王之所都と書いてあっても意味がない

意味はあるだろ、馬韓に都が在る。
辰韓、弁韓にはないってことになる。

93 :
まあ、でかいのは5世紀以降だろうけどね。

北部九州はあまり大きさにはこだわらず
5世紀以降あたりから他の地方に影響されたのか
大きくなっていく。

北部九州の弥生王墓は30×30m以下くらい。
吉野ヶ里のような40mクラスは珍しい程度。

だから副葬品が充実した
小さい墳墓なんてものになる。

94 :
川上あたりの中小2000基は、あらかたミカン畑になったそうだから、
タケルの墓も残ってないかもねえ

95 :
>>92
>意味はあるだろ、馬韓に都が在る。
>辰韓、弁韓にはないってことになる。

そう言い張りたいなら、それでもいいけれど、邪馬台国の位置を特定するのには
毛ほども役に立たないな?

まあ、投馬国が半島南部にない時点で、そのたわごとも意味を持たないんだが

96 :
>>94
>川上あたりの中小2000基は、あらかたミカン畑になったそうだから、

川上梟帥を倭王だと主張していたのに、中小2000基でいいのか?

ヤマトタケルの頃は、九州も完全に古墳時代で、100メートル級の
地域主張墓は各地にあるぞ?

倭王なら、もっとしっかりした古墳じゃないとおかしくないか?

97 :
>>93
>北部九州はあまり大きさにはこだわらず
>5世紀以降あたりから他の地方に影響されたのか
>大きくなっていく。

そんなことはない

九州最初期の那珂八幡古墳でも墳丘長約75メートルあるし、
これが奴国首長の墓だろう

伊都国の三雲遺跡群の最初の古墳、端山古墳も墳丘長78.5メートルある
これが伊都国首長の墓

各地の首長墓は、やはり地域最大の盟主墳になっている

古墳時代に入っていて、王の墓が小さくてもいいという道理はないよ

98 :
>>95
>まあ、投馬国が半島南部にない時点で、そのたわごとも意味を持たないんだが

根拠のない希望的な意見ですね。

99 :
>>96
>倭王なら、もっとしっかりした古墳じゃないとおかしくないか?

それはあなたの主観にすぎない。
平原の卑弥呼の係累であれば、大きくなく、前方後円墳でもないだろう。

100 :
>>96
カワカミノタケルは倭の王だったというから、
前もって大きな墓を用意していたかもしれない。しかし、そうでなかったかもしれない。
もし用意していなければ、暗殺されたのだから、質素な墓だったということもありえる。
地元に手がかりは残ってないのかな?

101 :
ttp://chimei. sakura. ne.jp/f-32yodohime.htm

川上タケルの墓や淀姫神社の話はここが一番詳しいと思う。NGワード回避のため、スペースを挿入してあります。

102 :
>>98
>根拠のない希望的な意見ですね。

根拠はこれまでにも何度も書いてるだろ?

一番簡単なのは、>>43

投馬国が半島南部を占めてたってのは噴飯物
半島南部には五萬戸を容れられるような平野はないよ

帯方郡の南に韓の領域があって、そのさらに南に投馬国五万余戸の大国があると
するなら、韓、在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接。「方可四千里」。も、
おかしなことになる

有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓で、
馬韓が凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。
辰韓と弁韓が弁、辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。

韓が全部で十四・五万戸で、方可四千里なら、帯方郡の位置、朝鮮半島の形からして、
半島の南半分が全部韓じゃないと収まらない

そこにさらに、その三分の一にあたる大国を押し込んだら、韓は東西4千里、
南北3千里くらいにしないといけないし、そこまでしても、朝鮮半島南部は
リアス式海岸で、内陸にも多くの人口を容れられる平野はない

半島南部に戸数五万余戸の投馬国を考えるというのは無理読み以外の何ものでもない

それから、もっと根本的に、魏志倭人伝冒頭の
倭人在帶方東南「大海之中、依山島」爲國邑とも矛盾する

倭人の国が帯方郡と地続きの半島上にあったら、
「大海中の山島」の国とは書かれない

103 :
>>99
>それはあなたの主観にすぎない。

いいえ
古墳時代には、その権力の大小に合わせて、墳丘の大きさが調整されるというのが
全国的にはっきり観察されている

九州も前方後円墳祭祀を受け入れている以上、その枠組みから外れることはない

「主観に過ぎない」ことにして、逃げようとしているだけ

104 :
>>99
>平原の卑弥呼の係累であれば、大きくなく、前方後円墳でもないだろう。

逆だ、逆
平原1号墓が、卑弥呼の墓でもなく、倭王の墓でもないから、
大きくなく、前方後円墳でもないんだよ

まあ、前方後円墳ではないのは、そもそも時代が合わない二世紀頃の
墓だってこともあるけれど

105 :
>>104
根拠なし

106 :
>>103
古墳時代は、だろ?
卑弥呼の時代は、3世紀前半
まだ各地には様々な墓の様相があり、それぞれの埋葬の仕方が違う時代だよ

107 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

108 :
>>106
>まだ各地には様々な墓の様相があり、それぞれの埋葬の仕方が違う時代だよ


いずれにせよ、古代大王(おおきみ)の陵墓は平地には造営しないよ。 根本的に間違い。  @阿波


109 :
金印は出土状況が全く不明、
あんなもの国宝にしてはいけない代物。
あれを国宝にしたのは昭和6年、満州事変の時の軍部。
その意図は、

「古代天皇及び大和朝廷は中国に朝貢などしていない、朝貢してたのは九州だ」

これを印象付けたいためだ。

110 :
>>106
>卑弥呼の時代は、3世紀前半

三世紀後半には古墳時代に入るんだよ
そして、2世紀末には、各地の首長墓は吉備の楯築墳丘墓のような
大規模な墳丘を持ついわゆる王墓級墳丘墓の時代に入っている

平原1号墓は、その時代に届いていない
実際その後の平原3号墓・4号墓が、家族墓地である平原遺跡の、
1号墓被葬者の次世代の墓として方形周溝墓で築かれており、
平原1号墓の次の世代がまだ古墳時代に入っていない

その点でも、平原1号墓は卑弥呼の時代に古すぎて合わない

また、墳丘の長軸延長上に大柱を立てる葬送文化が共通している吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓と比べても、墳丘サイズが10分の1だ

吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が吉野ヶ里の地域首長の家族墓であって、倭王墓でないことを
考えても、平原1号墓を倭王墓と考えるのは無理がある

111 :
>>105
>根拠なし

根拠は今までにも何度も書いてきたが、>>110にも改めて書いた
根拠はてんこ盛りにあるんだよ

112 :
卑弥呼の時代は三世紀前半だから
古墳時代に入ってないですね。

113 :
キナイコシがまた卑弥呼よりあとの時代のことを持ち出して何かつぶやいている。

114 :
>>110
無理だよ
北部九州の墓制が統一されてないことは
平原や吉野ヶ里、吉武高木遺跡を見るだけでも
明らかなんだから。

そんなところで同一の価値観は語れないよ。

115 :
>>112
>卑弥呼の時代は三世紀前半だから
>古墳時代に入ってないですね。

3世紀後半に古墳時代に入るためには、3世紀前半にその合意ができていなければいけなくて
その合意形成の時点から新しい秩序新しい時代に入ったと考えて、その時点から古墳時代と考える、
というのが最近の通説

卑弥呼の治世の間になされたことだよ
つまり卑弥呼の存命中に古墳時代に入っている

卑弥呼の墓は古墳であると考えるのが当然

平原1号墓は、その後、一世代古墳時代に入らないんだから、卑弥呼の墓は無理なんだよ
平原1号墓に関しては、古墳より前に吉野ヶ里の北墳丘墓に
負けてる時点でどうしようもない

116 :
400年前と墓制が違うことを、その地域で統一されていないことの根拠にしてはダメだろうww
吉武高木遺跡は紀元前2世紀だよ

そして、時代の近い吉野ヶ里遺跡と平原遺跡では
墳丘墓、その長軸方向に立てられた大柱、その延長上の小建築物、の三点セットが
吉野ヶ里の北墳丘墓
平原5号墓
平原1号墓
で共通している(5号墓の小建築物は未発掘)

これらは同じ葬送祭祀文化だと認められるだろ?
九州説は、時間経過を無視しがちだし、視野が狭い

平原1号墓を平原遺跡と言って、5号墓、2号墓、3・4号墓をまったく顧みない

117 :
>>115
>3世紀後半に古墳時代に入るためには、3世紀前半にその合意ができていなければいけなくて

勝手に前倒しするな。

118 :
>>116
>平原1号墓を平原遺跡と言って、5号墓、2号墓、3・4号墓をまったく顧みない

女王墓は一号墓だけだから、別に構わんよ。
重箱の隅をつついても意味がない。

119 :
卑弥呼は女王ではない。神に仕えるシャーマンである。

天照大神は男神。神の一夜妻であり、神の衣を織るのが仕事。

穀物の実りがよくなかったり天変地異があると、神の持て成しが
よくないからということで追放される。

人間に神意を伝える役目もある。ただし、人前に姿は見せない。
いつもは機屋(はたや)の中にいて機を織っている。
この機屋は、誰も覗くことができない。

女王ではないのだから、卑弥呼のために国家的祭礼が行われること
などない。死んでから巨大墳墓が造営されることなどもない。

120 :
>>117
>勝手に前倒しするな。

九州説は、そうじゃないと困るからww
何の合意もなくいきなり古墳を作り始めるはずがないだろw

何の理由も根拠もなく一行レスで文句だけつけるのが九州説にデフォルトw

121 :
>>118
>女王墓は一号墓だけだから、別に構わんよ。

一般庶民は女王にならないんだよ
当たり前だろ?

>重箱の隅をつついても意味がない。

これを重箱の隅だと思ってるのが九州説

歴史の真実とはまったく縁のないところで、
結論ありきで文句だけ言うのが九州説のデフォルトww

122 :
>>119
>女王ではないのだから、卑弥呼のために国家的祭礼が行われること
>などない。死んでから巨大墳墓が造営されることなどもない。

魏志倭人伝
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。

造営されてるね、巨大墳墓

その>>119のいう卑弥呼は、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼とは別の存在だな

123 :
>>121
立派な墓域を持っていたなら、庶民ではないな。
しかし王家の直系でもなさそうなことは魏志倭人伝から読み取れる。
その意味でも平原遺跡は卑弥呼の墓として申し分ない。

124 :
>>120

基本は初期古墳の拡がりは思想の流行だよ

3世紀後半に同じ規格や埋葬方法が同じ墓ならば何らかの関連があったとみなしていいと思うが…まだバラバラだよなぁ

後、布留0〜の年代は定まってなく、個人的には3世紀末〜4世紀初頭と考えている

布留0は楽浪土器の出土激減期にあたるのでね

桃核のJCALとも合致するし

125 :
卑弥呼の死後に急速に西日本の再編があったのかもしれないが、卑弥呼が即位したと思われる2世紀末の時点では、九州北部以外に倭国の王都を比定する根拠は何もない。

126 :
>>122
卑弥呼がいた時代の日本に魏の使者は日本に来ていない。
卑弥呼の墓の話なんだから、これを伝えたのは台与が派遣した使者、
ないしその答礼として派遣された魏の使者。
その魏の使者も邪馬台国まで来ていない。つまり、聞いた話を伝えただけ。

「徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」なんてのはいかにも白髪三千丈風の表現。
台与の使者が伝えたのなら見栄をはって大きな話をしたのだろう。
卑弥呼の墓なんぞどこにも作られていない。

なんで女王国なんて話になったのかというと、「日本を支配しているのは
神様です。」とか、王様はいなくて「巫女が神様の言うことを聞いて皆に
伝えているのです。」などと言う話だが、そういうのは中国人にはよく理解
できないので、巫女が女王ということになってしまった。

127 :
>>99
それはあなたの主観にすぎない。

128 :
日本においては、神様というのは後世の概念にすぎない。
そもそも神社に祀られている神様は、いずれも古代倭国の王族たち。
つまり、神という概念より先に王族の支配が成立している。
神代とはすなわち倭国創成期の弥生時代のこと。
その最後を飾るのが八咫の鏡を持つ平原遺跡の卑弥呼だよ。

129 :
ご託宣

それが九州説のすべて

130 :
「神の手」

それが畿内説のすべて

131 :
>>128
日本の神は祖先神だが、祖先神のさらに向こうには神がいる。
神武天皇の先祖には天孫降臨したニニギノミコト、ニニギノミコトよりさらに
遡っていけば天照大神になる。
神の子孫だから王族は尊いのである。
神の子孫でなければただの人。

神の概念より先に王族の支配があったなどとんでもない。

132 :
>>130
中傷

それが九州説のすべて

133 :
>>131
弥生時代に神という概念があったとあう証拠は?
記紀の神々は神と呼ばれているが、事実上、王族として振舞っている。
特に大国主と天照大神は国譲りという政権交代を行なっている。

134 :
>>123
>立派な墓域を持っていたなら、庶民ではないな。

その家族墓地の他の墓が仮にも一国の王になった者の一族の墓じゃないんだよ
平原1号墓のあとに造営されている3・4号墓は、1号墓被葬者の直接の次代の後継者

だが、国の中枢とは無縁の普通の墓だ

>しかし王家の直系でもなさそうなことは魏志倭人伝から読み取れる。

伊都国の領域には、
「三雲遺跡群に墓を作る伊都国王家」の家系と
「曽根遺跡群に墓を作る有力者(鏡作り?)」の家系があり、
平原遺跡は曽根遺跡群の家系の弥生時代の家族墓地だよ

>>118のいう重箱の隅をきちんと見ていくと、こうしたことが見えてくる

>その意味でも平原遺跡は卑弥呼の墓として申し分ない。

一大率より下位の伊都国王家ですらない、地方の有力家系の家族墓なのだから
それを倭王墓にでっち上げるのは5階級特進くらいの無茶だぞw

135 :
>>128
>その最後を飾るのが八咫の鏡を持つ平原遺跡の卑弥呼だよ。

そうやって平原1号墓出土鏡を、皇室縁のご神鏡に擬えるのは止めな

いまだに平原遺跡と平原1号墓の区別も付けられていないし、
九州説は出所不明の思い込みだけが根拠の戯れ言に過ぎない

136 :
>>134
一昔前は田舎大名の墓と例えられていたこともあったが、最近は畿内説の学者でさえ平原は認めているよ
2世紀末より古くならない事がわかったからかな?大乱後の墓になるしね

まず、一市民だと平原の副葬品が説明できない

あの時代の鏡をかなり独占しており、最新の技術のガラス製品にジトウや素環刀、瑪瑙の管玉と水銀朱、国際色豊かすぎ

鏡なんか、三雲等の大量鏡副葬からの流れなのは一目瞭然だし

規模等はその時代の情勢や考え方次第で変わってくるから、副葬品を鑑みれば、平原1号墓は王墓でいいだろうね

それが倭国の王か伊都国の王かわからんが

137 :
>>134
>その家族墓地の他の墓が仮にも一国の王になった者の一族の墓じゃないんだよ

根拠は?

>平原1号墓のあとに造営されている3・4号墓は、1号墓被葬者の直接の次代の後継者

根拠は?

>だが、国の中枢とは無縁の普通の墓だ

根拠は?

138 :
>>136
>それが倭国の王か伊都国の王かわからんが

同時期に同じ程度の副葬品の墓が他の地域にも見当たらないので倭王でしょう。

139 :
>>136
>まず、一市民だと平原の副葬品が説明できない

伊都国の有力家系だと書いてるだろ?
曽根遺跡群に古墳時代に入ってからも累代的に古墳の増募が見られるから、
伊都国の有力者なのは間違いない

だが、伊都国王(首長)家ではない

鏡作りを職掌とする一族から、伊都国王妃が出て、夫の彦王の死後
しばらく伊都国の王位を預かった女性がいたと考えれば一番座りがよい

鏡作りの一族から出た出世頭の女性の墓に、精一杯の一族の宝物を副葬した
くらいが、平原一号墓の大きさ副葬品に一番似つかわしい説明となる

140 :
>>136
>あの時代の鏡をかなり独占しており、最新の技術のガラス製品にジトウや素環刀、瑪瑙の管玉と水銀朱、国際色豊かすぎ

>鏡なんか、三雲等の大量鏡副葬からの流れなのは一目瞭然だし

まあ、伊都国の鏡の扱い方の伝統なんだろうね
だから、鏡作りの一族の出世頭という説明がフィットするんだが

当時の仿製鏡が、古い青銅鏡を原料に作られていたことを考えると、
平原1号墓の「多数の破砕鏡」は、鏡作りの家にあった、
仿製鏡原料の青銅鏡片とも考えられる

鏡作りの家なら、勝手なデザインの大きな鏡も作れるだろうし

141 :
>>136
>副葬品を鑑みれば、平原1号墓は王墓でいいだろうね

伊都国王までは、合ってもおかしくないが、
伊都国王家の王墓の地、三雲遺跡群ではなく、もともとの家族墓地に葬られていること、
また被葬者が女性と見られることから、一時的に王位を預かった有力家系出身の伊都国王妃が
一番ぴったりなんだよ

142 :
>>137
>根拠は?

これだよ
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/2c9cac26ffdc644a177f62ea5a9aabe5202dd80c.78.2.9.2.jpeg

墓の築造順は
5号墓

1号墓・2号墓

3・4号墓
の順という推定が、発掘の結果なされている

で、>>110を再掲
三世紀後半には古墳時代に入るんだよ
そして、2世紀末には、各地の首長墓は吉備の楯築墳丘墓のような
大規模な墳丘を持ついわゆる王墓級墳丘墓の時代に入っている

平原1号墓は、その時代に届いていない
実際その後の平原3号墓・4号墓が、家族墓地である平原遺跡の、
1号墓被葬者の次世代の墓として方形周溝墓で築かれており、
平原1号墓の次の世代がまだ古墳時代に入っていない

その点でも、平原1号墓は卑弥呼の時代に古すぎて合わない

また、墳丘の長軸延長上に大柱を立てる葬送文化が共通している吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓と比べても、墳丘サイズが10分の1だ

吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓が吉野ヶ里の地域首長の家族墓であって、倭王墓でないことを
考えても、平原1号墓を倭王墓と考えるのは無理がある

143 :
>>138
>同時期に同じ程度の副葬品の墓が他の地域にも見当たらないので倭王でしょう。

同時期に、仿製鏡がやたら多いことを除けば、それ以上に副葬品が豪華な
丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓がある

同時期に同程度以上の副葬品の墓が、他の地域に見られるので
倭王という根拠はないよな

144 :
なにを必死になっているんですか?
他の古墳は武器ばかりで軍人の墓というのが学会的には定説でしょう。
もしくは大きいばかりで副葬品がほとんどない。
倭人伝に書かれていない石積であることも検討しなければなりませんね。

平原については副葬品の豪華さは
同時代の他墳墓の追随を許しません。
明らかに女王墓。
代々の男王が失脚した後に共立された女王の墓なのですから、
代々の三雲墳墓群と一線を画す平原遺跡女王墓は
倭人伝に書かれた共立女王卑弥呼の条件に完全に一致しています。

145 :
>>144
>平原については副葬品の豪華さは
>同時代の他墳墓の追随を許しません。

そういう無理押しの教鞭はやめな

>>143
「それ以上に副葬品が豪華な
 丹波の赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓がある 」
という具体例を挙げて否定されてるんだからww

146 :
>>145
墳丘墓の名前を挙げただけで具体例になるのん?
その内容は?
どの部分が「それ以上に副葬品が豪華」なん?

後半部分には反論できないねぇ
負け犬キナイコシさん

147 :
>>144
>倭人伝に書かれた共立女王卑弥呼の条件に完全に一致しています。

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

148 :
>>146
ほいよ
赤坂今井墳丘墓
http://www.geo cities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/akasakaimifb.html

大風呂南墳丘墓
http://www.asy ura2.com/0403/ishihara8/msg/321.html

立派だろ?

149 :
>>147
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず

へええ
キナイコシさんは銅鏡が権威の証なんだ。
平原遺跡には世界最大の超大型内行花文鏡が5枚も副葬されているねえ?

で、対抗馬の墳丘墓さんには?

150 :
>>148
え?
なにが立派なん???

>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず

え?

ええ??

151 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

152 :
>>151
オンドル式?

153 :
>>141

倭国王家の王墓の地、三雲遺跡群ではなく、もともとの家族墓地に葬られていること、
また被葬者が女性と見られることから、一時的に王位を預かった有力家系出身の倭国女王が
一番ぴったりなんだよ

魏志倭人伝そのままだろう?

154 :
>>143
>同時期に、仿製鏡がやたら多いことを除けば、それ以上に副葬品が豪華な

除くなよ。
倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり、伊都国そのものがわずか千戸で列島の他地域を抑えるだけの力を持っていたということだよ。
まして鉄器もない纒向なんて競争相手にもならない。

155 :
>>147
>魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず

それこそ、後漢が滅亡した後の卑弥呼の墓だという証明ですね。
本来、鏡は漢の冊封の証だったけれども、その漢がなくなれば漢鏡にこだわる理由は無くなります。

156 :
>>152
オンドルは満州やろ。

沿海州とはちょっと場所が違う。

157 :
>>154
>倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり、伊都国そのものがわずか千戸で列島の他地域を抑えるだけの力を持っていたということだよ。


調子に乗りすぎ!  @阿波


158 :
>>155
>それこそ、後漢が滅亡した後の卑弥呼の墓だという証明ですね。
>本来、鏡は漢の冊封の証だったけれども、その漢がなくなれば漢鏡にこだわる理由は無くなります。

前にも同じこと言ってた人がいるけれど、
卑弥呼がもらったのは、魏王朝から!
漢王朝の滅亡後に魏に朝貢に行ってるんだよ

しかもその後も遣使を続けてるんだから、もらった鏡はすぐに鋳つぶしましたなんて
通る訳がないだろうに

魏晋鏡も新しい漢鏡も1枚もない時点で、卑弥呼の墓の候補にはかすりもしない

159 :
新しい魏にはそれほど期待をしていなかったということでしょう。
平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。

160 :
>>159
>平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。

調子に乗りすぎ!  @阿波


161 :
>>154
>倭国の銅鏡生産の最先端の技術を持っていたということであり

青銅器の生産技術では、銅鐸製作の方が高度だぞ
平原1号墓出土鏡がでかいといっても50センチに届かない
銅鐸はでかいのは1メートルを超えてるよ

倭王が倭国最高技術が使えないってのも恥ずかしいよな

162 :
>>159
>新しい魏にはそれほど期待をしていなかったということでしょう。

なら、そもそも朝貢に行かないだろww

>平原遺跡はまさに卑弥呼の墓にピッタリ。

詭弁もここに極まれりだな

163 :
>>161

倭国(阿波)矢野銅鐸の正式名称は鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る「突線袈裟襷文(とっせんけさだすきもん)銅鐸」で、
銅鐸の中でも最新型式。国内でも最大級。弥生時代後期に作られたとみられている。  @阿波


164 :
>>149
>キナイコシさんは銅鏡が権威の証なんだ。

「キナイコシ」は>>149の個別識別子

銅鏡が権威の証というより、魏晋鏡が魏朝に朝貢した卑弥呼の墓の証拠なんだよ

弥生時代にも古墳時代にも鏡の副葬が続いていて、魏朝から銅鏡100枚をもらった倭女王が
それを一枚も副葬していないというのはあり得ない

165 :
銅鐸と銅鏡では製造技術が全然違うよ

166 :
銅鐸の製造技術が高度なのは間違いないが
それが失われたってことだろうな。

少なくとも大和朝廷の時代にも発見されてたらしいが
それ何?、状態だったそうだし。

まあ、畿内周辺は何度か文化の断絶が
あったってことだろうね。

167 :
畿内の文化や技術は断絶し、筑紫の文化に塗りつぶされている。

そしてキナイコシとは>>164のこと。

168 :
>>164
副葬品に使われなかっただけでしょうね
三雲や潤地頭給などの周辺の遺跡からは魏晋鏡が出てるから問題ないでしょ

169 :
平原女王は当時の倭国の富(特に輸入品)を独占していたので、大率で対馬海峡貿易を独占していた卑弥呼本人だろう。

170 :
>>169
>平原女王は当時の倭国の富(特に輸入品)を独占していたので、

弥生時代で一番綺麗なガラス釧は丹波から出てるんだけどねw

171 :
>>168
>副葬品に使われなかっただけでしょうね

どうして使わないの?
使わなかった理由は?

>三雲や潤地頭給などの周辺の遺跡からは魏晋鏡が出てるから問題ないでしょ

それ、三角縁神獣鏡と一緒に畿内から分けてもらったやつww

172 :
>>169
平原の人は二世紀には死んでるんだけどなー

173 :
>>161
>銅鐸はでかいのは1メートルを超えてるよ

銅鐸文化は途絶し、「倭国」には継承されなかった。
銅鐸文化圏(畿内)は倭国ではなかったんだよ。
倭国の中では伊都国が最も栄えていた。

174 :
>>164
>それを一枚も副葬していないというのはあり得ない

あなたの主観に過ぎない。

175 :
>>172
耳璫3世紀以降だよ。
鏡だって、2世紀に超大型内行花文鏡を作ることができたことを証明しないとね。
2世紀は後漢鏡を輸入していた時代だよ。

176 :
>>175
抵抗しても無駄

177 :
>>176
反論になっていない。

178 :
卑弥呼の墓なんてないよ。
卑弥呼は女王ではない。

179 :
>>174
>あなたの主観に過ぎない。

というのは>>174の主観にもとずく判断

副葬されている銅鏡は、手に入った舶載鏡が副葬品の中でも
最もよい位置に埋納されているのは多くの墳墓で確認されている

魏皇帝から直接銅鏡100枚を贈られた卑弥呼の墓に、
1枚も副葬されてなくてよいというなら、どんな墓でも卑弥呼の墓にできちゃうよ

平原1号墓は、魏志倭人伝の記述を無視しないと、倭王卑弥呼の墓にはならない
そして、魏志倭人伝の記述を無視した卑弥呼の墓の比定は意味がない

平原1号墓を卑弥呼の墓と主張するのは、単に九州説の願望ってだけ

180 :
>>173
>銅鐸文化は途絶し、「倭国」には継承されなかった。


ずっと倭国(阿波)で継承されているよ。  @阿波


181 :
では畿内に魏からの鏡があるかというとないという。
キナイコシはただ文句をつけるだけ。

182 :
>>179
>平原1号墓は、魏志倭人伝の記述を無視しないと、倭王卑弥呼の墓にはならない

魏志倭人伝の俺様の説を無視しないとだろw

183 :
>>181
誰が、ないというの?

184 :
あると言うならそれを示しなさい。
ないことの証明を求めるのは悪魔の証明です。

185 :
>>184
誰が無いと言ってるのか、答えられないの?

そんなことも答えられないの?

186 :
やっぱり>>181はウソをついていたんだな
さすが九州説

187 :
>>171
三角?なんて一緒に出てないよ
弥生終末期
蝙蝠鈕座内行花紋鏡だね
潤地頭給の物なんか位至三公銘だし

同時代に存在して、蝙蝠鈕座内行花紋鏡は副葬されなかった…ただそれだけだよ

蝙蝠鈕座は大型化にも採用されていないから、ちょっと気になっている

思想的に合致しなかった?のかもね

188 :
>>187
で?
それが魏晋鏡だという根拠は?

189 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

190 :
お話しぶった切りますよ
平原1号の編年材料は副葬品だけなんか?
つうかミラーて伝世するかもだからお墓の古さの下限は決められんちゃうの?(外野の素朴な疑問

191 :
邪馬台国は神託政治。
邪馬台国を統治しているのは神である。
卑弥呼は人々に神の言葉を伝えるシャーマンにすぎない。
シャーマンにすぎない者のために巨大墳墓を作るわけがない。

192 :
径100歩
殉葬100の
ありさまぞ(恐ろしい一句や

193 :
卑弥呼さんは宇気比の達人にして公平正大なる抽選装置よ?
お御籤の始原やな

194 :
根拠きかれたら一目散に逃げまくる
これが九州説の処世術

195 :
>>190
鏡だけで邪馬台国云々とは、厚顔無恥。  @阿波

鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。


196 :
ダック?が逃げたんか?
何の根拠聞かれたん?

197 :
>>196
参りました
三好君のが凄い!

198 :
ダック?が聞かれたんミラーの製造場所年代の根拠やな?
おじいちゃんらより中国人のが詳しのちゃうの?
つうか平原1副葬品同じのが出てる墓で年代確定してるのとすり合わせたら3世紀半ば位になるかもよ?
ミラーばかりに拘らずやってみそ

199 :
まともに返事もできないのが九州説

200 :
「ビロウ」で検索
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AD%E3%82%A6
>沖縄市の市の木である
>・・・檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ・・・(古事記・仁徳天皇御製)
   (半島との関係が深かまった大阪湾の河内王朝。しかし南方系祭儀(琉球神道)が主流と思われる)
>古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物・・
>天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材
https://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54240971.html
>・・遺伝子検査をしたところ、どうも沖縄から・・・移植されたことが想定されるらしいです

大嘗祭はお風呂から始まる。琉球神道祭祀の大嘗祭
天皇と2人の采女の計3人だけしか知らない秘儀。もっとも謎めいた秘儀(秘事口伝者がいる)
高さ2メートル、径2メートル?の超狭いドーム形の「百子帳」という簡素な幕屋の中で3人で秘儀
ドーム形の幕屋の天頂に、亜熱帯の蒲葵(びろう)樹の葉で作られた笠の蓋を置く?、葉は宮崎青島神社(神武王朝跡地)か琉球神道から葉を入手?
琉球神道は蒲葵づくし。蒲葵の葉の中で一夜を過ごす。神武天皇や卑弥呼は琉球神道出身?神武は太陽に向かって矢を射るのは畏れ多いとして迂回作戦。
前回平成2年、公開された映像に蒲葵の大きな笠?をさしてもらって出てきた今上天皇のお姿は
蛇に化して堂々と人々の前に現人神として現れたお姿。神として表す笠
蒲葵の葉は、晒せば白くしなやかになる。
琉球神道が本家、天皇家神道は分家。琉球神道は海の果てにある神国を重視する。昇る沈む瞬間の「海を渡る太陽神」信仰。祭祀権は女性にある
(本土では、鹿島神社が昇る太陽を、出雲神社が沈む太陽を拝む。両神社は365日、海の水平線の太陽が確保できる)
(病床の昭和天皇は、同位者である琉球神道の大君(女神官)との面会を希望したが実現しなかった・・・)


201 :
>>190
>平原1号の編年材料は副葬品だけなんか?

魏晋代の耳璫が出ていますから、概ね3世紀以降でしょう。

202 :
>>179
>最もよい位置に埋納されているのは多くの墳墓で確認されている

例えば?

203 :
畿内にある魏から貰った鏡はどれ?
古墳の名前と合わせて答えてね。

204 :
>>201
魏晋代の耳璫だと言う証拠は?

205 :
>>201
イヤリングはようしらんが鉄剣がポイントじゃね?割りと長いし
日本海沿岸のあのサイズの素環副葬してるお墓ほぼ3世紀やったと思います

206 :
>>188
中国で「位至三公鏡」は魏晋代に流行した鏡だよ

207 :
3世紀いうより古墳出現期以降いうてもええなあ?

208 :
>>205
すまん、長さはあまり根拠にならないかと

同じ糸島で上町向原遺跡から出土した約120cmの太刀が「五尺刀」ではないか?と期待されていたが、化学分析で1世紀後半〜2世紀前半に作られた物だと判明したのだよ

しかし、この時期(1〜2世紀)の糸島には敵無しだね

209 :
>>208
>しかし、この時期(1〜2世紀)の糸島には敵無しだね


なにをおっしゃる。 大陸の玄関口(末盧国)の福津・宗像の比じゃないよ。  @阿波


210 :
>>208
日本や朝鮮で流行したのが3世紀じゃね?

211 :
兎君がいうてたよ?

212 :
>>185
>誰が無いと言ってるのか、答えられないの?

前原市教育委員会発行の報告書「平原遺跡」
具体的には出土鏡の鑑定を行った柳田康雄先生

平原1号墓出土鏡のうち舶載鏡は、平原遺跡の鏡のナンバリングで
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡
の2枚のみ
「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」が漢鏡5期で「四螭二朱雀龍虎鏡」が漢鏡3期

どちらも卑弥呼の時代から見て100年以上古い鏡
残りは全部仿製鏡

213 :
>>212
それ根拠が希薄なんだよな

214 :
>>186
畿内から魏の鏡なんて未だ一枚もみっかってないよな。

215 :
>>213
という理由は?

216 :
>>212
国産なら尚更時代が新しくなる
鏡がいつ作成されたか?が問題
他の国産鏡との技術との比較で考察しなければならないが、この時期の墓には他には国産鏡は殆どないから比べようがない

平原は謎だね〜

217 :
>>210
いや、素環刀は弥生後期に箱式石棺から結構出ているから、流行はこの頃からだね

218 :
箱式石棺は5世紀以降では?

219 :
>>216
>他の国産鏡との技術との比較で考察しなければならないが、この時期の墓には他には国産鏡は殆どないから比べようがない

はい、どうぞ。
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」
カネガ谷遺跡:段状遺構(環壕)をもつ弥生時代の高地性集落
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。  @阿波


220 :
>>218
縄文からみられる

221 :
>>219
カネガ谷って後期初頭じゃないの?
鏡はう〜ん、平原と比較できるレベルでもないというか…そもそも時代が違いそうだね

222 :
>>221
>鏡はう〜ん、平原と比較できるレベルでもないというか…そもそも時代が違いそうだね


う〜ん、平原も「弥生時代後期初頭」だろうね。  @阿波


223 :
材質から言って2世紀が下限

224 :
>>221
>鏡はう〜ん、平原と比較できるレベルでもないというか…そもそも時代が違いそうだね


お墓の副葬品より、弥生集落遺跡から出土した弥生土器・石器・朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧からの年代考証のほうが正確だろうね。  @阿波 


225 :
>>216
>国産なら尚更時代が新しくなる

ただ、平原遺跡はワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳という3基の
前方後円墳が作られる曽根遺跡群の、それらの古墳に先行する家族墓地

曽根遺跡群に代々造墓する伊都国の有力家系があったと考えてよい

そして、平原遺跡には、平原1号墓ののちに、1号墓被葬者の次代である3号墓・4号墓が
方形周溝墓が造られていることから、古墳時代に入るまでに1,2世代程度の時間差がある

そう考えると、漢鏡五期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡がもたらされて、それほど
時間を置かずに葬られたと考えてよいのではないかとする推定もあり、個人的には
それくらいだ妥当だと思う

226 :
>>217
素環のサイズや形で流行の時期分類しはった人いるんやけどな?
兎君ちごて禹君?

227 :
>>225
勝手な想像ばかりで何の説得力もない。

228 :
>>227
>勝手な想像ばかり

どこがどう勝手な想像なのか、「具体的に指摘」してくれ

曽根遺跡群には、平原遺跡に3世代、その後にワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3世代の
継続的な造墓活動が見られ、三雲遺跡群に墓を作る家系とは別だと考えられるのは
遺跡の分布から直接推定できること

で、どこがどう勝手な推定なんだ?

229 :
>>216
>他の国産鏡との技術との比較で考察しなければならないが、この時期の墓には他には国産鏡は殆どないから比べようがない

2世紀だと思うとオーパーツになりかねない。
まあ、倭国の中でも超先進地域であり王都であったのならギリギリ説明できなくはない。
3世紀なら三角縁神獣鏡が西日本に登場するらしいから、国産化もされていた。
その中で最高の技術水準を達成したのが伊都であったことになる。

230 :
>>228
平原遺跡の被葬者が卑弥呼であったことと関係あるの?

231 :
>>228
>2世紀だと思うとオーパーツになりかねない。

いや、北部九州だってでかい矛を青銅で作ってるじゃないか
平原1号墓出土の仿世鏡は鋳上がりも悪いし、オーパーツどころか
王墓の副葬品としては恥ずかしいレベルだよ

232 :
>>230
>平原遺跡の被葬者が卑弥呼であったことと関係あるの?

平原1号墓の被葬者が卑弥呼じゃないから、卑弥呼とは関係ないよ

233 :
>>231
平原遺跡がよほど怖いんだな。

234 :
いやバカにしてる

235 :
>>231
>いや、北部九州だってでかい矛を青銅で作ってるじゃないか

鏡の編年で言えば、2世紀に平原遺跡を比定するのは無理。

236 :
>>235
無理だって理由は?

237 :
>>235
>鏡の編年で言えば、2世紀に平原遺跡を比定するのは無理。

前述のとおり、舶載鏡に関しては
「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」が漢鏡5期で「四螭二朱雀龍虎鏡」が漢鏡3期の
二面のみ

3世紀から見れば、200年以上古い

仿製鏡のうち、32面出ている方格規矩鏡はそのモデルが後漢初期のもので、紀元1世紀
3世紀とする理由にはならない
問題の大型内行花文鏡は、内行花文鏡の作図の伝統に則っていない仿製鏡なので、
編年を特定するすべがない

ということで、鏡の編年で言えば、平原1号墓を3世紀とする理由はないし、
もっと早いと考えた方が、不必要に長い伝世を考える必要がなくなる分合理的

238 :
>>233
>平原遺跡がよほど怖いんだな。

平原遺跡と、平原1号墓を区別せずに書いているやつが何を言ってるんだかww
平原遺跡の5号墓、2号墓、3号・4号墓を見たら、王家の墓地だなんて言えないよ

魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない

他にまともな卑弥呼の墓の候補があれば、九州説だって平原1号墓は持ち上げないよ
他にまともな卑弥呼の墓の候補すらない時点で九州説は終わってる

239 :
>>237
はい、どうぞ。
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」
カネガ谷遺跡:段状遺構(環壕)をもつ弥生時代の高地性集落
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。  @阿波


240 :
>>233

お墓の副葬品より、弥生集落遺跡から出土した弥生土器・石器・朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧からの年代考証のほうが正確だろうね。  @阿波 


241 :
>>239
粟の言ってるのは、この鏡のことか?

http://awakouko.info/uploads/webphoto/middles/a00004a4a41a43f15f9f.jpg
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%CC%C4%CC%E7%BB%D4%2F%A5%AB%A5%CD%A5%AC%C3%AB%B0%E4%C0%D7

これでは、内行花文鏡の参考にはならないだろうが

242 :
>>229
>その中で最高の技術水準を達成したのが伊都であったことになる。


倭国(阿波)の詰めの垢でも煎じて飲みなさい。  @阿波


243 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

244 :
>>237
>問題の大型内行花文鏡は、内行花文鏡の作図の伝統に則っていない仿製鏡なので、

2世紀までの内行花文鏡の編年には乗らないのだから、それより後ということ。
大きさから言っても、2世紀以前にそのような記述があったという根拠がなく、倭国側にも政治的動機がない。
漢の滅亡に伴い自国生産に切り替えたと考えるべき。

>もっと早いと考えた方が、不必要に長い伝世を考える必要がなくなる分合理的

イミフ

245 :
>>239
そもそも内行花文鏡ではないな。

246 :
>>245
そんなに疑うなら
「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡) カネガ谷遺跡」 で検索してごらん。
カネガ谷遺跡の(Adobe PDF)にヒットするから。  倭国(阿波)はウソはつかん。  @阿波


247 :
>>244
>2世紀までの内行花文鏡の編年には乗らないのだから、それより後ということ。

それより後だろうが同時だろうが、なんちゃって仿製鏡だから、いつでも作れる

のちの鏡の形式に則っているというなら、のちの鏡の時代以降と言えるが、
「どの時代の内行花文鏡」とも異なるのだから、編年根拠には使いようがない

248 :
>>246
14005_8_四国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告.pdfは見てきたけれど、
やはり粟のいう「内行花文放射線状文仿製鏡」は>>241で引用した鏡だな

まあ、そういう名前をつけた人がいるってことだろうが、これは連弧文鏡の範疇には
入っても、内行花文鏡とは言わないぞ、普通は

249 :
>>248
>まあ、そういう名前をつけた人がいるってことだろうが、これは連弧文鏡の範疇には
>入っても、内行花文鏡とは言わないぞ、普通は


じゃ、普通はこれはなんという鏡なのかね?  @阿波   


250 :
まずは九州人の九州説は、もうお腹いっぱい。
九州人じゃない人の九州説を聞きたい。

251 :
>>249
連弧文鏡って、>>248に書いてあるだろ

http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/zenkankyo.htm

252 :
>>247
>それより後だろうが同時だろうが、なんちゃって仿製鏡だから、いつでも作れる

そんなわけあるか。
編年とか無視の暴論だな。

253 :
阿波の鏡に比べたら、平原遺跡の最大の鏡は立派な内行花文鏡だな。
しかも大きさが円周八咫だ。

254 :
>>251

異議があるようなので
あとは、徳島県埋蔵文化財センターに問い合わせをお勧めします。  @阿波


255 :
>>252
>そんなわけあるか。
>編年とか無視の暴論だな。

他の鏡とつながりのない、ガラパゴス鏡をどこに編年するつもりだ?

256 :
大型化、簡略化の傾向が見られており、後漢鏡より新しい、魏代の鏡だね。

257 :
てす

258 :
王の鏡である というのと
簡略化してある というのがつながらないのには気づいてないんだろうな

259 :
古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3#/media/File:%E6%9F%B3%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E3%81%A0%E9%BE%8D%E9%8F%A1.JPG


2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000700000/e6c59c8777c949b69a9e966a571ddb2d
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
http://www.emuseum.jp/detail/100584/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D825%26num%3D2
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
https://lh5.googleusercontent.com/-tkY1W-oL8vY/VNdKvPWKogI/AAAAAAAACPM/HIci-6ZXnNg/s2560/shimoike376.jpg


5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
https://lh6.googleusercontent.com/-wXRTdJSy-nk/VLPb5HnPYRI/AAAAAAAABc8/pCaHbl_7i9I/s2560/sikin359f.jpg


6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000680000/c1f396e370674f8ca9253bba0298bae6
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000690000/afe97a03a9d2456899e83ea787ce89f2
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001000670000/13fd29465df845d1a1d1953cf8a64290
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Ryobo/Viewer/7001001000000/1e1c67f63291436080316c0bd8086302

こうして並べてみれば、権威の象徴として作られた大鏡は細かいところまで細工が行き届いてるだろ?
平原1号墓出土鏡は、他の内向花文鏡で流水文になっているところをただの同心円にして、しかも
幅を広く取って面積を稼いでいる手抜き図案なんだよな

260 :
いやだ、平原が一番じゃなきゃいやだ

261 :
>>260
直径だけなら1番だよ

262 :
やった〜  やっぱ一番じゃい

263 :
>>216
紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型が福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡で見つかっているから、鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議ですね。

264 :
大きさ一番、手抜きは二番、
三・四がなくて、お値打ち五番。 やったぜ〜〜〜

265 :
うちにはこれしかね〜んだがや

266 :
>>263
>鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議ですね。

単純に、新しい鏡を作る原料に融かして使ってたんじゃないの?

267 :
>>266

おまえはあほか  新しくできた鏡が殆どないっていってんだよ


268 :
漢の頃には鏡は冊封の証として朝貢貿易で手に入れていたので、国産の模造品に意味はなかった。
しかし漢が滅亡すると、舶載鏡に意味はなくなり、国産で自国の王権の象徴として巨大な鏡を作った。
つまり平原遺跡の鏡は漢の滅亡後、卑弥呼の時代の鏡となります。

269 :
>>267
>おまえはあほか  新しくできた鏡が殆どないっていってんだよ

お前はあほだなぁ

そうやって新しくできた鏡も、次の鏡を作るときにまた融かすんだよ
そうやってリサイクルしていけば、最後の鏡以外は残らないだろ?


270 :
>>269

墓に副葬したら手元に材料がなくなるべ?

271 :
>>270
>墓に副葬したら手元に材料がなくなるべ?

だから、副葬してないんだろ?
>>263
「鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議」

272 :
>>271
どこに古墳の副葬以外にあるんだ?

273 :
>>272
>どこに古墳の副葬以外にあるんだ?

だから、どこにもないんだろ? 国産鏡は?
>>263
「鏡の国産化は進んでいたはずのなのに国産鏡は殆どないのは不思議」

274 :
>>259
八葉紐座のオリジナルだね

そして、その中で一番古くて、一番大きい

やっぱ凄いよな

275 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

276 :
>>274
>八葉紐座のオリジナルだね

オリジナルというか、one & onlyだよ
他には一切ない

つまり、お手本もなく適当に作って、その後どこにも
引き継がれなかったガラパゴス鏡ってこと

>そして、その中で一番古くて、一番大きい

一番も何も、後にも先にもこれしかないんだからw

>やっぱ凄いよな

大きいだけなら、銅矛でももっと大きいのがある
細工の見事さなら>>259にあげた鏡の方が見事

277 :
八岐大蛇は越の八口に渡来したオロチ族や?
ただし倭人は南越系漂流民(解決
つうかここは平原&卑弥呼さんスレよ?卑弥呼さんと無関係なレスは畿内説スレに投下せー

278 :
時系列考えてレスすれとあれほどゆうてもあかんてか?
ジョーカー君?は文化庁の判定しらんの?

279 :
>>276
そもそも出土した墓の時代が違うだろ?
技術の比較であれば、同時期の墓からの鏡じゃなきゃ

それに、模倣もいいが、オリジナル性と最大の鏡というのは評価に値するよ

後、矛と鏡を比べてどうする?
これは全く意味がないよ

280 :
まあミラーの価値は興味ないけど?

281 :
>>279
賛成やな

282 :
つうか刀の話せえ!

283 :
ああごめんなさい空気読んで以後生暖かくロムります
気にせず御歓談ください(ミラーのお話しでええ

284 :
>>276
>オリジナルというか、one & onlyだよ
>他には一切ない

まさに八咫の鏡にふさわしい。

285 :
そもそも畿内の銅鐸文明は滅んでしまったし。
魏志倭人伝に銅鏡や銅矛、鉄鏃は書かれているが、いずれも九州に多く畿内に少なく、特に纒向には皆無。

286 :
>>282
>つうか刀の話せえ!

刀の話なんてどこかにあったっけ?

287 :
平原遺跡で唯一の武器は、魏から貰った刀です。
これがあるので、平原遺跡は三種の神器が揃います。
揃えるためにわざわざ入れたのです。

288 :
弥生時代段階では3種の神器は意識されてないけどな

289 :
卑弥呼がもらったのは五尺刀
平原1号墓の刀は三尺刀

290 :
>>287
平原遺跡には三種の神器の原型がありますね。

291 :
>>290
平原の田舎に「三種の神器の原型」?  なにを考えているんだかwww  @阿波


292 :
平原遺跡の他の副葬品はすべて宝飾品か、鏡です。
なぜ女王墓に使うことがない刀をわざわざ入れたのか。
三種の神器の様式を整えるためです。
平原遺跡においては、三種の神器が完全に定型化していたわけです。
この時代の大和はまだその水準に達していません。

293 :
ふむふむ
ひらばるの中だけで通用する自己満三神器だったというわけか。

294 :
現代でも通用しますね。
当時の「倭国」は九州北部だけでしたが、その後に筑紫の勢力が大和を含め列島全体を支配するようになり、今日に至るわけです。
畿内の銅鐸文化は消滅しました。

295 :
>>294
>当時の「倭国」は九州北部だけでしたが


なにを考えているんだかwww  @阿波


296 :
>>294
>当時の「倭国」は九州北部だけでしたが、

これをいった時点で、トンデモ確定なんだがな

薄地の部分は「畿内系土器の流入が目立って多い地域」
https://i.imgur.com/H58CQro.jpg
大体、この範囲が倭国でいいだろ?

297 :
>>296
>大体、この範囲が倭国でいいだろ?

そうだね。 忌部はんの開拓地をよく表しているね。  @阿波


298 :
<原文>
倭人在帯方東南大海之中、、、

畿内や阿波は、帯方東方にあたる。
この書き出しだけで、倭人・倭国・倭王は九州にいたことを明確に物語っている。

299 :
>>298
あほ

畿内や阿波が北朝鮮の東方かどうか孫の地図帳でも見せてもらえ

300 :
>>298
>畿内や阿波は、帯方東方にあたる。


まさに倭国(阿波)は帯方東南に在って、大海之中だわ。  「この書き出しだけで」即決。  @阿波


301 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

302 :
もしかして北朝鮮ゆかりの方ですか
北朝鮮にあったのは、むしろ楽浪郡ではなあいですか

帯方東南に在ったといえば、まさに九州島がふさわしい。残念ながら阿波は東南東方≒東方。

303 :
>>292
神武が東征を開始した日向は筑前の日向峠付近でしょうね
神武は伊都国の伝統を継承していたんですね。

304 :
>>302
>帯方東南に在ったといえば、まさに九州島がふさわしい。

「帯方東南」に九州島は不適。
「大海之中」にも九州島は不適。 もはや、救いようがない。  @阿波


305 :
帯方東南なんたらのくだりは王君らが本州が北東方向に伸びてたことを知ってはった証やな
王君は沃祖の長老に対岸の高志に渡来したオロチ族の生け贄文化も聞いてるし(須佐君に退治された生き残りやね?

306 :
大海は日本海(解決

307 :
倭国とは
筑紫から越
海の国
反対側が
狗奴たるヤマト(57577

308 :
>>304
その前に四国が大陸側に認知されてたかどうか
今の若者は四国が島だということすら知らない奴が多いぞ

309 :
>>306
邪馬台国は佐渡ヶ島ってか

310 :
>>308
>その前に四国が大陸側に認知されてたかどうか


「温暖」で、「橘」が採れることまで知ってるよ。 そして「其山有丹」もね。  @阿波


311 :
>>309
夏草や
佐渡に横たう
天の河(なんかちゃうな?

越のやまたいのオロチは考えたことあるが却下した

312 :
石川さゆりさんかわえかった?

313 :
>>308
>その前に四国が大陸側に認知されてたかどうか

九州は大陸側に認知されていただろうが、倭国(阿波)までの通過点の認識だね。
「帯方東南」に九州島は不適。
「大海之中」にも九州島は不適。 もはや、救いようがない。  @阿波


314 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

315 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

316 :
おい@阿波 九州には熊本や大分以外にも辰砂は出るんやで
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12260057894.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoATgA

317 :
>>316

おめでとう。  それはよかった!  @阿波


318 :
>>316
おや、
こんなところにも、例の「巨大前方後円墳」の赤村が登場してるな。辰砂のほうが本命か。

319 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

320 :
>>318
「グーグルで見つけた巨大前方後円墳」の赤村と、「辰砂採掘跡」の赤村は同じ村のようだね。
但し、「巨大前方後円墳」と「辰砂採掘跡」は、北−南に約5q離れている。

321 :
>>320
>「グーグルで見つけた巨大前方後円墳」

これ、恥ずかしくないのかねぇ?

322 :
衛星で探す考古学なんて珍しくもないからなあ。
ずいぶん昔にエジプトの人も
東海大と組んでやってたな。

323 :
結局は探すひとの知識レベルによる

324 :
地上でうろうろしたのではわからないところを、空からの画像で補うわけで、
あくまで有力な助っ人みたいなもんだろ。
水戸黄門さまより前に出てはいかん。
が、かといって助さん格さんがいなくても物語は進まぬからな。

325 :
九州の浮羽や田川の辰砂の話しが出てきたので、夫々グーグルで確認したが、
景行天皇が、平野部の道を進まず、なぜ筑後から山道を越えて浮羽に立ち寄ったか、
その謎が解けた気がした。、
@阿波も、九州の大辰砂鉱山を知って、安心して眠れるだろう。

326 :
まあ、グーグルで見て、面白そうなのがあった
  ↓
確認してみた
  ↓
確認したら違った

ってことでいいんだけれど、「確認したら違った」の部分がほとんど報道されず、
バカみたいに信じてるやつがいるから、罪作りだなと思う


327 :
昔々、大新聞の大記者から聞いた。
うける新聞記事の要素とは、恨み・妬み・嫉みをかうことなんだそうだ。
マスコミは結構罪作りだし、そのマスコミ受けを狙う一部市民もそのクチなんだよ。
畿内方面にも居るんじゃないの。

328 :
>>325
筑後から浮羽が山道?

329 :
>>325
>@阿波も、九州の大辰砂鉱山を知って、安心して眠れるだろう。


いつもぐっすり、よく眠れているよ。 @阿波

330 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

331 :
>>328
>景行天皇は、九州の西征におもむき、南九州を平定し、
>熊本方面から福岡県八女市を経て、耳納(みのう)山地を越えて、
>うきは市に入ったとされます。

肥後熊本から筑後に入り、山よりの八女市から耳納山地(山道)を超えて浮羽へ・・・。
グーグルで見ると、八女から浮羽へ近道がある。浮羽への出口(小塩)に辰砂採掘地あり。

332 :
<佐賀郡椅寺>(いでら、椅は漢音・呉音ともにイ)
先に述べたように、
佐賀川上の五社大明神を中心とする一角に大願寺廃寺跡(約250m×125m)という遺跡がある。
この寺は7世紀には存在したようで、665年築城の佐賀/福岡・基肄城と同はんの百済系瓦が出土しているらしい。
またその規模及び地理的関係等から見て、
倭人伝に云う、「末蘆国、東南陸行五百里到る伊都国」の官衙跡地に相当すると考えてきた。

しかし付近一帯の地名は大願寺、小隈、山田、川上などであり、伊都を伺わせるものは見つかっていなかった。
ところがその後、「大願寺」に関して調べるうち、
千葉県で出土した梵鐘(歴博所管中)に「佐賀郡椅寺」(イ寺)とあり、
佐賀県や佐賀市では、これがこの大願寺の古名ではないかと推定しているらしい。
で、この古名の「椅(イ)」であるが、どことなく伊都国の「伊(イ)」を連想させないでもない・・・、

333 :
>>332
末蘆国は宗方
以上

334 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

335 :
>>333

@粟は付けないの?ww

336 :
>>335
>@粟は付けないの?ww


残念ながら、違う人だよ。  @粟  


337 :
>>333
宗像は 紀元前から銅鐸圏の青銅取り入れた
邪馬台国とは別の、本州勢力の大陸フロントだよ。

末羅国は糸島半島北岸
伊都は、今宿の港から早良で
福岡平野の北西山麓には首都の山城がある
意外に有り得ないだろ?

いまだに、パズルが完成しないとかw 馬鹿じゃねwww

338 :
で、銅鐸は?w

339 :
>>337
>宗像は 紀元前から銅鐸圏の青銅取り入れた
>邪馬台国とは別の、本州勢力の大陸フロントだよ。


だから、福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」なんだよ。  @阿波


340 :
>>337
大陸フロントを九州にするかね?
出雲あたりならわかるが。

341 :
>>340
もともとは、
越、糸魚川、隠岐、丹後、出雲、隠岐、宗像、沖ノ島、対馬
の 日本海ルート これは、縄文以来の 黒曜石、翡翠 の道でしょ。

青銅の移入だと、結局半島も海岸水行になるんじゃないのかな?
公孫氏外交は卑弥呼より出雲〜宗像〜沖ノ島〜対馬だったり、もありでしょ。

342 :
>>341

だから、福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」なんだよ。  @阿波

それはね。長崎方面は渡来人が半島へ帰る出航地だからなんだよ。  @阿波


343 :
>>340
出雲に直接はアクセスできず、当時の航海術では壱岐や対馬を一渡海丸一日かけて、筑紫経由しかない。
つまり筑紫がフロント。

344 :
>>341
魏志倭人伝では、壱岐対馬からは、宗像ではなく末盧国となっている。

345 :
>>343
>つまり筑紫がフロント。

だから、福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」なんだよ。  @阿波


346 :
おそらく末路は阿波れ。。。、

347 :
346日本@名無史さん2018/09/07(金) 18:11:28.07

おそらく末路は倭国(阿波)。。。、  @阿波


348 :
当時の対馬は縄文海進で2つに分かれてたらしいな

349 :
今だって、橋はあるけど二つ

350 :
阿波の海洋知識だと関門海峡は永遠に使えなくないか?
潮時ってのは、太平洋、日本海、瀬戸内海、東シナ海での干満の時間差で決まるだろ?
海流ってのは安定してるけど、大潮や小潮は月の満ち欠けでも判るんだよ。 
阿波は瀬戸内海から出れんよ。 そんなんで淡路島行けるのか?
末路は水の泡だな。 海流の話はやめとけ。

351 :
ニュー速プラスのミラースレで卑弥呼さん伊都説レスしてやったよ
わえの知的オーラに気圧されだれも逆らわんかったわ

352 :
三好君のイチ押し四国は壱与ちゃんの邪馬壱かもなー?
なきにしもあらず

353 :
障らぬバカに手を出すやつがいなかっただけじゃないかな(ボソ)

354 :
>>350
>阿波は瀬戸内海から出れんよ。 

瀬戸内海出れん?  どうも、倭国(阿波)の地理を知らずにスカタン言ってるようだね。


>そんなんで淡路島行けるのか?

どうも、倭国(阿波)の地理を知らずにスカタン言ってるようだね。  @阿波


355 :
>>353
お?ジョッカ君か?まあAMS根拠に纒向が狗奴国やともレスつけといた(まあだいぶ割愛しましたが

356 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

357 :
>>353
>ジョッカ君か?

それなんね? 女媧?

358 :
>>356
もっとシンプルでいいと思う

縄文人は縄文時代から結構濃厚な農耕体験を持っていた
旅人が食料として持ち運んでいた米を、そのまま栽培し始めた、でいいんでね?

最初は陸稲から

359 :
>>358



で、最古水田以前に農耕と陸稲があった事を証明する証拠遺跡と、
その痕跡たる農具と陸稲の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?


で、最古水田以前に農耕と陸稲があったとウソブいている
頭の湧いたキチガイ考古学者の氏名と所属団体は?


.

360 :
陸稲はしょせん雑穀の1つに過ぎず、縄文人がそれを食べていたとしても意味はない。
水稲は生産体制、暦、灌漑システムなど、社会の構造の改変を要求する。
弥生時代という、王政が成立する時代が水稲の導入された時代でもあるのは、偶然ではない。
その変革の中心地は玄界灘沿岸であり、そこが倭国発祥の地だ。

361 :
>>359
>で、最古水田以前に農耕と陸稲があったとウソブいている

水田に陸稲はないだろ?
水田遺構もないのに、やたら古いイネのプラントオパールが出たとか言ってるところは
陸稲でいいんじゃないかね?

>>360の言うとおり
「陸稲はしょせん雑穀の1つに過ぎず、縄文人がそれを食べていたとしても意味はない」んだからさ

362 :
>>349
対馬は元々は一つの島だったんだよ
明治に船舶の往来の為に島がクビレた場所を掘削して水道が造られ橋が架けられたんだよ。

363 :
私の話が邪馬台国の時代よりも古すぎるから、興味ないかたはご免なさい。

糸島にある現在の怡土(読めるかな?)が、伊都国。

平原遺跡。

日本最古の女王墓(時代が古すぎるから、卑弥呼ではない)であり、ここでは、世界最大級の鏡を使った祭祀が行われていた。
夏至の日出、冬至の日出、そのまん中の日の日出(中日という)の方角には鳥居のような後が発見された。中日の日出の鳥居の延長線上には、三雲遺跡と日向峠を望むことができる。また、日向峠のすぐ左をクシフル山、その隣の山を高祖山という。
夏至の日出の山には神岩がある。
そこには奈良時代に聖武天皇の勅令で42坊のお寺、染井山霊鷲寺が建立された。
後に神聖な山として山を囲むように怡土城が築かれた。
高祖という場所には伊勢の山という地名がいまでもある。
ここからは、三種の神器が多数出土している。

364 :
むかーしむかし。
日本は大きく二つのグループに別れていました。
西を治めていたのは、伊(倭)国。東を治めていたのは、大和(邪馬台)国でした。
西の伊(倭)国は、先進国の漢と近かったため、最新の文化、芸術、技術が入ってきて栄えました。
東の大和国は、独自の文化圏を作り上げ、すごーく発展しました。ある日、サミットが開催され、伊都国王の師升が、『お互いに手を取り合ってスゲー日本を作ろうぜ!』と言いました。
首都の場所は大和で、治める人は伊(倭)の都の王さまでよくない?と言いました。

そして、日本は誕生しました☆

すなはち、倭と大和は別物。


魏史倭人伝もいいけど、旧唐書にも、いろあろ書いてあるよん☆


倭⇋伊
邪馬台国⇋大和

金印に記されている『漢奴倭国王』。
当時の奴国と伊都国は少なからず政治的連携していましたの証。
実際、岡本遺跡、三雲遺跡、井原遺跡、平原遺跡は連動している。

365 :
頭の病院に行けと言っているんだよ

『倭猿』

これは、どういう意味だと思う

366 :
>>363
>日本最古の女王墓(時代が古すぎるから、卑弥呼ではない)であり、ここでは、世界最大級の鏡を使った祭祀が行われていた。

古すぎません。
副葬品の年代からは、むしろ卑弥呼の年代以降だと考えられています。

367 :
今こそ血涙の文字で告白しよう!!
僕たちが純粋な輝きを失って大人になってしまったらお座なりとおべんちゃらと、陰口と
服従と妥協と打算と倦怠と保身の中で、ずるがしこく、チョロチョロと動き回りながらネズミの
一生を送るようになるんだ。
それから結婚して子供を作って、世の中でいちばん醜悪な母親という大人になるんだ。
ああ、時間の流れとはなんと残酷なのだろう!!
生きることと老いることが同義語だという過酷な命題を直視しなければならないんだ。
老いはまさしく肉体と精神の双方の病気だったが、老い自体が不治の病だということは、
人間存在自体が不治の病だというに等しく、われわれの肉体そのものが病であり、
潜在的な死なんだ。
衰えることが病であれば、衰えることの根本原因である肉体こそ病だった。肉体の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれていることは、衰亡の証明、滅びの証明に使われて
いることに他ならないんだ。老いはすさまじい恐怖であり苦痛であり真実である。
このままだと僕たちは腐敗して汚れて蝕まれたおぞましい大人になってしまうんだ。
テチには限られた貴重な時間を死にものぐるいで生きてもらって思う存分に輝いてもらいたい。
ああ、一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人はなんという稀薄な生の意識で
すりぬけるのだろう!!そして血が失われるように時が失われていく。
そしてテチが二十歳になったら、その最後の輝きの絶頂の中でステージ上で美しく鮮烈に
死んで欲しい。
ああ、テチの光輝あふれる美しい肉体と精神が劣化することも衰退することもない永遠の伝説
となり歴史となるために無慈悲な時間の流れを止めたい!!
その時、テチには誰かもわからない僕も自Rる。
大人になるテチなんか絶対に許さない。僕はテチと血まみれになって心中する。
テチをRことを許してください。テチをステージ上で銃Rる。
僕の血とテチの血が混ざり合って純化されるのだ。
これだけはわかって欲しい。僕が誰よりも平手友梨奈を永遠に愛していることを・・

368 :
>>364
>倭⇋伊

倭wi≠伊yi

子音が違うから別の発音だし、同じ国には使わない

369 :
>>368
了解です!
では、伊は怡で間違いないですか?

370 :
>>366
糸島では、平原遺跡は、2〜3世紀前半。三雲、井原は2世紀。東谷、伊勢乃山は、1〜2世紀、西堂は、紀元前と勉強します。『いとしま学』教科書より。

371 :
>>370
副葬品の作られた時代を遺跡の年代としてるために副葬品の埋葬された年代よりは50年くらい古くなってるようですね。

372 :
平原は卑弥呼が使っていたものを死後に埋葬したと考えるとぴったり。

373 :
>>369
>では、伊は怡で間違いないですか?

怡も yi だよ
怡 yi =伊 yi
http://www.zdic.net/z/19/js/6021.htm

374 :
>>372
>平原は卑弥呼が使っていたものを死後に埋葬したと考えるとぴったり。

>>370「平原遺跡は、2〜3世紀前半」
平原1号墓の後に、もう一世代分、平原3・4号墓が作られている
そしてその3・4号墓の後で、曽根遺跡群は古墳時代に入るから、
平原1号墓の編年は3世紀まで持って来たとしてもかなり前半にしかならない

というか、九州説の人はいいかげんに平原遺跡と平原1号墓を区別できるようになろうよ!

375 :
3世紀前半はまさに卑弥呼の治世。
その頃の品が副葬されていたなら、卑弥呼の墓と考えるのは不適当ではない。

376 :
>>374
>というか、九州説の人はいいかげんに平原遺跡と平原1号墓を区別できるようになろうよ!

あんたが勝手に混ぜっ返しているだけで、普通の人は1号墓の話をしているんだよ。

377 :
だな

378 :
>>375
>3世紀前半はまさに卑弥呼の治世。
>その頃の品が副葬されていたなら、卑弥呼の墓と考えるのは不適当ではない。

副葬品の年代じゃなくて、墓の築造年代の推定値だよ>「平原遺跡は、2〜3世紀前半」

卑弥呼の生前に作られた墓が、卑弥呼の墓のわけがないだろうに

379 :
>376
>あんたが勝手に混ぜっ返しているだけで、普通の人は1号墓の話をしているんだよ。

それがごまかしww

平原遺跡といって1号簿のことと言いかえることで
平原5号墓、平原2号墓、平原3・4号墓のことを考えないようにしている

平原遺跡は、累代的な造墓がみられる伊都国地域の有力家系の家族墓地と見るのが相当
そして、1号墓以外は厚葬墓と呼べるだけの副葬品を持つ墓はなく、どうみても
伊都国王(首長)家の家族墓地ではない

伊都国王(首長)家の墓は、紀元前から古墳時代まで三雲遺跡群に作られることからも、
平原遺跡は伊都国王(首長)家の墓地ではない

伊都国が卑弥呼の都で、伊都国に居るとされた王こそが倭王だという、伊都国説の根幹は
平原遺跡を5号墓から3・4号墓までの全体と把握すると、もろくも否定されてしまう

380 :
倭国の女王の家族や子孫が近傍に墳墓を作るのは
まあ、普通のことだろうからな。

381 :
平原伊都国説は、方角と里数でペケ

382 :
>>378
>副葬品の年代じゃなくて、墓の築造年代の推定値だよ>「平原遺跡は、2〜3世紀前半」

耳璫を無視かよ。
副葬品からは2世紀は厳しく、3世紀中頃以降だよ。

383 :
>>379
>平原遺跡は、累代的な造墓がみられる伊都国地域の有力家系の家族墓地と見るのが相当

その家系から女王が共立されたんだろ。

384 :
卑弥呼の親は倭王じゃない、同族のトヨも墓は別

385 :
つまり平原はむしろぴったりの状況だ。

386 :
>>380
>倭国の女王の家族や子孫が近傍に墳墓を作るのは
>まあ、普通のことだろうからな。

近傍に作るのはいいが、倭王が家族墓地というプライベート空間に墓所を作ると
いうのがおかしい

まあ、その前に、平原1号墓の墳丘サイズは長辺12メートル
魏の度量衡で十歩に満たない

径百歩は誇張混じりでもよいと思うが、10倍はないだろう
平原1号墓を卑弥呼の墓の候補にするのは、
「他に候補がないから」以上の理由はない

387 :
>>386
おかしいというのはあなたの主観であり、意味はない。

388 :
平原伊都国説は、方角と里数でペケ

389 :
それは魏志倭人伝の読み間違い

390 :
>>373
ありがとうございます♪

391 :
10月20日朝6時30分頃に、平原遺跡にいらっしゃれば平原がただの女王様のお墓ではないことが、全て解ると思います。

伊勢神宮の関係者の方も多数こられますので。

392 :
>>387
>おかしいというのはあなたの主観であり、意味はない。

では、主観ではない実測地で示そうか

平原1号墓の墳丘サイズは、遺跡公園の案内看板の数値で
12メートル×8メートル

これまで、北部九州で王墓とされている甕棺墓の墳丘サイズが
三雲南小路遺跡王墓で30メートル四方程度とされており、
須玖岡本遺跡D地点王墓も墓域が確定できていないけれども同程度の30メートル四方くらい

200年前の王墓と比べても、平原1号墓はしょぼい

同時代の他の地域の王墓級地域首長墓は
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

これらと比べても、平原1号墓は圧倒的に小さい

北部九州で、ほぼ同時代の倭王墓ではない地域首長一族の家族墓である吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓でも南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある

墳丘の底面積で、平原1号墓は吉野ヶ里の首長家族墓の10分の1にすぎない

そんな倭王墓はないし、魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」と書かれた卑弥呼の墓である訳がない

393 :
>>391
>10月20日朝6時30分頃に、平原遺跡にいらっしゃれば平原がただの女王様のお墓ではないことが、全て解ると思います。

>伊勢神宮の関係者の方も多数こられますので。

またうそをついてるww

それ、照富神社の宮司さんがやってる「みあれ祭」のことだろ
というか、10月20日に平原遺跡でやってるお祀りはそれしかない

そして、夜明け時じゃなくて昼前の11時ごろからやってるものだし、
伊勢神宮の関係者なんかは一切来ないよ

「平原遺跡で10月20日に みあれ祭をやっているのは、「糸島市の神社ではなく」
 「那珂川町の照富神社」
 その平原遺跡でのみあれ祭は、「夜明けとは関係なく午前11時頃から」行われる
 「みあれ祭」という名称は、通常、宗像大社の秋季例大祭の海上の祭礼を指す
 宗像大社のみあれ祭は10月1日催行で、10月20日には関係ない

 また、平原遺跡のみあれ祭についての古い記録も一切ない 」

394 :
>>392
すぐ近くの三雲などが王墓なのに、同じ系列の平原が王墓でないと思う方がおかしい。
平原が王墓でないなら、遥か離れたところのまったく違う墓制の箸墓が王墓なわけないよな。

395 :
>>394
伊都国推しなら、伊都国の考古学的状況くらいは自分できちんと把握しておきなよ

>すぐ近くの三雲などが王墓なのに、同じ系列の平原が王墓でないと思う方がおかしい。

伊都国には、
三雲遺跡群の井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳という首長簿の系列と
曽根遺跡群の平原遺跡(5号墓、1・2号墓、3・4号墓)、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の系列の
二つの累代的造墓が想定される家系が想定できる

三雲遺跡群の方が、伊都国中枢でありこちらが首長墓(伊都国王墓)と想定されるのが当然
曽根遺跡群も伊都国の有力家系であるのは間違いないだろうが、王墓の地が使えない時点で
伊都国首長の家系ではない

それに、平原遺跡の立地が三雲遺跡群基準で決められているように見えるのも、
曽根遺跡群の家系が従の立場であることを伺わせる

平原が王墓でないなら、遥か離れたところのまったく違う墓制の箸墓が王墓なわけないよな。

396 :
平原1号墓の墳丘サイズは、遺跡公園の案内看板の数値で
12メートル×8メートル
ほぼ同時代の吉野ヶ里遺跡の地域首長一族の家族墓である北墳丘墓でも
南北約40メートル、東西約27メートル

ほんとだ、面積で1/10にすぎない。土量なら数十分の一とかになるんじゃないの。

397 :
>>394
>平原が王墓でないなら、遥か離れたところのまったく違う墓制の箸墓が王墓なわけないよな。

箸中山古墳は、卑弥呼の共立によって確立された倭国の新しい秩序を具現した「まったく新しい墓制」
なのだから、それまでとはまったく違う墓制である点からも、初代共立(統一)倭王の墳墓にふさわしいといえる

まあ、現在の標準編年では、卑弥呼の死より数十年新しいから、卑弥呼の墓で確定とは言わないがね

398 :
>>393に反論がないから、>>391はガセネタでしたってことでいいな!

九州説はこんなのが多すぎる
まあ、まじめに論じようという人もいるんだろうけれど

399 :
平原は戦争中の墓だからな

400 :
また、そういう適当なことをww

魏志倭人伝の記述を「信じるなら」、
邪馬台国の向こうっ側に、次有斯馬國、以下20カ国の余傍国があって、
そこまでが女王国(此女王境界所盡)

で、争う相手の狗奴国はその向こうなんだから、邪馬台国は戦場になんてならないぞ
戦中とは言うけれど、侍女千人使えるんだから、墓を作るのに男衆千人くらいは当然
駆り出せないとおかしい

平原1号墓の縦12メートル横8メートルの方形周溝墓くらいなら、
成人男子が10人もいれば、1週間とかからずに作れるだろ?

逆に言えば、戦争中といっても、そんな小さな墓しか作れないような倭王は
ありえないよ

401 :
>>395
三雲の男王たちの時代の少し後に平原の女王が共立される。
これで全て説明できる。

402 :
>>397
>まあ、現在の標準編年では、卑弥呼の死より数十年新しいから、卑弥呼の墓で確定とは言わないがね

何を用いた編年?
耳璫は魏晋代以降だよ。

403 :
>>400
筑紫が邪馬台国なら、狗奴国は肥後。
それほど遠い敵ではない。
かなり緊張状態だったと思うよ。

404 :
>>401
>これで全て説明できる。

「其山有丹」の説明はどうするの?  @阿波


405 :
>>402
>何を用いた編年?
>耳璫は魏晋代以降だよ。

何をかん違いしているんだい?
>>397は、箸中山古墳の話だよ?

平原1号墓を卑弥呼の墓だとか寝言をいうのは、
本当に何も分かっていない、考えていない人だけ

406 :
>>401
>三雲の男王たちの時代の少し後に平原の女王が共立される。
>これで全て説明できる。

それで、古墳時代に入っても、伊都国の首長墓が端山古墳、築山古墳と
三雲遺跡群に作られ続けるのと、どう整合性をとるんだ?

思いつきで適当なことを言っても、周辺上をを少し広く見るだけですぐに破綻する

407 :
>>403
>筑紫が邪馬台国なら、狗奴国は肥後。
>それほど遠い敵ではない。
>かなり緊張状態だったと思うよ。

それ、勝手に>>403が「そう思った」ってだけじゃん

侍女千人使っているかなりの緊張状態の女王の宮室なんてないよ
侍女が逃げるだろww

408 :
>>406
複数の王家が併存していたということだろ。
国津神と天津神だな。

409 :
>>407
前線は筑後平野だから。

410 :
大きくなければ王墓じゃないとか、根拠のないお話

411 :
キナイコシは何十行も書いてようやく反論しているけど、キナイコシに反論するのは1、2行で済むなw
もうくだらない言いがかりレベルの反論を繰り返すのは無駄だからやめたら?

412 :2018/09/16
伊都クズもくだらない妄想を繰り返すのは残り少ない人生の無駄だからやめたら?

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信濃の戦国時代について語るスレ
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【JC】中央線快速・各駅停車part.97
●●【都知事選】桜井誠の立川駅前の神演説【マスコミ偏向】●●
松村ってバラエティに自信あるみたいだけど言うほど面白くないよな
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