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関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part23


1 :2019/04/15 〜 最終レス :2019/05/07
関ヶ原合戦(本戦)に限らず、関ヶ原戦役として捉えてどうすれば西軍が勝てるかを模索しましょう。



前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part22
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1549630474/

2 :
史実時系列表(仮・本戦後を加筆)

6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
6月23日 細川忠隆隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
6月27日 細川忠興隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着、毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月4日 瀬田の砦構築完了
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月16〜17日 市橋長勝・徳永寿昌・横井時泰らが福束城を攻略。
         福束城主丸毛兼利、大垣からの援軍伊藤盛正・武光忠棟・石田らは敗走
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月19日 市橋・徳永らは高須城高木盛兼、駒野城高木帯刀、津屋城高木正家を攻略
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日  京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9〜10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日   関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走

3 :
9月16日 伊勢亀山、桑名城など東軍に降伏し開城
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)、佐和山城落城、大津城開城、大垣城から相良秋月高橋などが降伏
9月18日 東軍前田利長小松城を開城させる
9月19日 東軍前田利長北ノ庄城を包囲
9月20日 大垣城の福原長堯が降伏
9月20日 家康大津入城、秀忠大津に到着
9月24日 権中納言九条忠栄が家康へ戦勝祝い
9月25日 輝元大坂城退去、福島黒田らが大坂入城、増田長盛、高野山へ退去
9月27日 家康大坂入城
10月1日 恵瓊、行長、三成が斬首される

4 :
8月20日時点での西軍戦力表
大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700

岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000

犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
     加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
     計7000

伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000〜8000(推定)、
おそらく南濃周辺:長島城への備えとして原勝胤(長頼)800

近江草津:宇喜多秀家10000〜15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)

伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、吉川広家ら5000、
  後続として毛利秀元ら1万、長曾我部盛親2100、鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700

その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。

瀬田守備隊等
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、

あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
大坂は輝元・元康15000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、
その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。

秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。

それと「9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)」
これは8月下旬以降、垂井〜赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2〜3日は到着が早くなる。

毛利は、毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)と仮定
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)

なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。

■安濃津城攻城戦での吉川隊(秀元等他の毛利含めず)の死傷者数。

・戦死75名、負傷226名。死傷者計301名。
負傷内訳:銃創126名、槍創60名、矢創24名、刀創1名、銃槍創5名、銃矢槍創2名、
       矢槍創8名、計226名。

吉川広家が推測で兵3000引き連れていたとしたら、安濃津城力攻めでの死傷率は10%と言える。
けっこう高いね。
毛利の他隊も同様の損害が出てるなら、南宮山の秀元&吉川は13500くらいかもしれない。


それと東軍先発隊の兵数については、一般的には渡河部隊約35000と言われているけど、
>>4にあるように福島覚書準拠でいくと49300〜58000くらい?となる。
かなり差があるのでこれをどう見るか、だけど。

5 :
8月22日木曽川渡河美濃侵攻時の東軍陣容(兵数は福島覚書準拠)

上流渡河組:池田6500、浅野5000、堀尾4000、山内2600、有馬豊氏2200、松下重綱1000、
        一柳直盛ら計21300〜22000

下流渡河組:福島6500、黒田1300、加藤1600、細川2000、田中4000、藤堂1500、筒井1000、
        京極1500、本多俊政、生駒一正、松倉重政、神保相茂ら計20000〜22000

下流渡河組の後続として本多忠勝、井伊直政。

犬山城の抑えとして中村一氏代理の中村一栄ら3000〜4000

清洲城守備:石川康通、松平家清、奥平貞治、(松平忠吉)ら1050〜4000くらい?
長島城:福島正頼、援将山岡景友、計780余

これとは別で徳永寿昌、市橋長勝らが8月中旬頃より木曽川方面の西軍諸城攻略して暴れてる。


あと木曽川渡河後は大垣城からの後詰阻止隊として黒田、藤堂、田中の陣容。

伊勢の東軍方は、安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉(史実では
寡兵での上野城防衛は困難とし安濃津城の富田に合流)、
松阪城の古田重勝、岩手(岩出)城(三重県度会郡玉城町岩出)の稲葉道通、
あとは去就不明の桑名城の氏家行広。


池田家履歴略記 巻之三には
上流渡河組18250余、下流渡河組16730余、とある。



上流渡河池田隊:18250 下流渡河福島隊:16730
犬山城抑え:3000〜4000 清洲城守備:1050〜4000?  
東軍先発隊総計約39030〜42980。 なお松平忠吉は駿府在番説と清洲滞在説あり。

6 :
伏見城攻防戦について
大雑把に
7月19日朝 城方鳥居勢が城外に出て近隣を放火
19日夕方 西軍が伏見近郊に到着し始め散発的に銃撃戦がある
20〜21日 西軍が外堀に取りつく。銃撃戦が激しくなる
22日 宇喜多、小早川、鍋島到着
23〜24日 西軍の銃撃が昼夜に及ぶ
25日 宇喜多秀家が陣立てをあらため諸将の攻め口を決める
26〜28日 西軍昼夜銃撃
29日 石田三成督戦に訪れる
30日 西軍力攻め、総攻撃4回敢行。城方死傷50余、西軍死傷500余
8月1日午前0時 松ノ丸で甲賀者の内応により火災発生、名護屋丸にも延焼
これを機に西軍突入、松の丸、名護屋丸陥落
午前10時頃より総攻撃再開、島津、治部少丸突入、治部少丸陥落
午後3時 伏見城落城


こんなかんじ。たしかに石田が来るまでは銃撃戦ばっかり。
だが西軍もまともに兵力が到着したのは22日で、仕寄って堀埋めて
30日に力攻めしてみたが大損害。
8月1日に城方の内応が出たのでそれを機に陥落。

これ城方の内応がなかったらもっと長引いてた可能性あると思う。
力攻めの寄せ手の損害数が大きすぎる。
伏見城は相当な堅城だったということだと思う。
瀬田で東軍を迎え撃つ、という方針になるのも無理はないと思う。
この彼我損害比ではもっと早い日時に力攻めしてても落ちないと思う。



関東方面在番状況

宇都宮城:本丸結城秀康、蒲生秀行、二の丸小笠原秀政、三の丸里見義康、
       宇都宮城総計約18000?

大田原城:大田原晴清、那須資景、福原資保、千本資勝、大田原増晴、岡本義保、
       伊王野資友、服部正成及び伊賀衆。

黒羽城:本丸岡部長盛及び甲賀衆100、二の丸服部保英及び伊賀衆100、三の丸大関資増、千本義定

鍋掛:皆川広照、水谷勝俊

蘆野口:蘆野政泰、  伊王野口:伊王野資信、

烏山城:成田泰親
厩橋城:平岩親吉
高崎城:諏訪頼水

江戸城:本丸松平康元、石川家成、松平清宗?、菅沼定盈、諏訪頼忠
     西の丸武田信吉、松平康忠、天野康景、
    

特記点としては、6月下旬頃より家康の指示で、大田原城、黒羽城は1000人規模の人足を
動員しての防備強化普請を行っている。
同じく宇都宮周辺も、秀忠、秀康らによって約一ヶ月間強化普請を行っている。
兵数については不明部分も大きく、わかる方いれば補足、訂正等よろ。

7 :
岐阜城後詰決戦の叩き台のプラン。
これを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。
以下コピペ。

403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R
>>374
長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。
そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。
織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。
そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。
痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。
そして武田軍は大敗。

これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。
宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。
岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。
部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。

そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。
しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。
甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。
東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。
そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。
岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。

8 :
史実での岐阜城は黒田、藤堂、田中の大垣からの後詰阻止隊を抜いたとして、
東軍21000〜23000対岐阜城2000〜3000.
それでも戦力比7〜11倍。単純に戦力比で落ちてもおかしくない計算。
それに加え敗走後の低士気状態、秀信の微妙采配、守備兵戦力分散、
ろくにしてないであろう籠城準備(野戦築城含む)
そりゃ1〜3日で落ちるだろう。

これを島津義弘1000を加え、8000で籠城準備もするなら落ちないか、落ちても東軍は甚大な損害を被ると見る。
29000対8000でも戦力比約4倍。この条件での攻城例がほとんどないように、一般的にこの戦力比、
守備兵数で力攻めは考えにくい。それでも力攻めするならその根拠を提示すべき。

9 :
■■1■■
798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:21:52.18 ID:aAd9kU2e [2/6]
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが

徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている

もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。

※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ  岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた

■■2■■
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:14:03.72 ID:jiua8RjV [14/17]
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流

膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…

■■3■■
810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 22:35:55.59 ID:aAd9kU2e [5/6]
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000〜2万(丹羽3000を付け加えるなら21000〜23000)と思われるので、
北ノ庄の16000〜17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。

大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。

10 :
以前のスレの岐阜城後詰決戦案まとめ

原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>7
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>8
岐阜城早期落城させない為の手段が>6の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700

8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川15000、安国寺1500、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊19600南宮山到着。

東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>7の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>9の1
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9の2のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>9の3

なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>6の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か

東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後


家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる

8月下旬〜9月上旬までが勝負

11 :
岐阜城関連

岐阜市 史跡岐阜城跡保存管理計画書
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/4567.pdf
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/3-4567.pdf

山上部・山林部の分布調査では、金華山及び周辺の山の尾根線上に多数の遺構が存在すること
が明らかになりつつあり、その多くが絵図に描かれた砦と対応する。また絵図や文献の検討の結
果、江戸時代に尾張藩が管轄した範囲が戦国時代の直接の城域である可能性が高く、その大半が
現在の金華山国有林として受け継がれていることが判明した。城下町を取り囲む惣構の土塁はこ
の直接の城域に対応しており、城と町が一体として成立・機能していたことを示唆している。調
査成果から岐阜城の城域を最大限に捉えると金華山に瑞龍寺山、上加納山を含んだ山塊全体、西
側の岐阜城下町とそれを取り囲む惣構、東側の達目洞を含んだ範囲となる。


国史跡岐阜城跡で石垣が新たに見つかりました!
http://www.city.gifu.lg.jp/32568.htm

一部抜粋
<山城としての岐阜城の評価について>
・ これまでの岐阜城の概念(山上の詰城+山麓居館という二元的構造)を
考え直させる大きな発見。

国史跡岐阜城跡 山上部の発掘調査で信長期に築かれた石垣を確認しました!
http://www.city.gifu.lg.jp/26193.htm

◎岐阜城跡で初めて鉄の矢じりを発見(2区)
 鉄鏃(てつぞく)の長さ14.6cm、幅2.0cm  
→慶長5年(1600)8月23日の関ヶ原の戦いの前哨戦で使用された可能性がある。
遺物は軒平瓦、飾り瓦、鉄鏃など コンテナ4箱、破片数約500点が出土


歴史遺産と都市文化創造V――都市城壁(惣構)を町づくりにいかす
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2006/03/0603hist-heri.pdf

近代岐阜忠節用水流域における都市形成に関する研究
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00063/2011/2011-04-0072.pdf


農林水産省東海農政局 木曽川水系土地改良調査管理事務所の案内
http://www.maff.go.jp/tokai/seibi/kensetu/kisocyou/html/pdf/014-99.pdf

上記より抜粋
忠節用水は古来、金華山麓に取入口を設けて、岐阜の旧称井ノ口村
の名を生んだといわれる農業用水である。天文3年(1543)の長良川の大
洪水により岐阜市忠節の地に取入口を移し、以来400余年幾多の変遷を
経て引水が続けられた。



関ヶ原当時の引水部や用水経路がいまいちよくわからないが、
惣構の水堀が用水兼用だったとするならば、非常用水源となりうるのではないだろうか。

また、水の手口という名称から、その麓、丸山の辺りが取水口じゃなかったのではないかと
思うがどうだろう?

12 :
野間・内海合戦については詳細は不明で、

白峰氏は考察論文、「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その1)―津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討

の中で以下のように述べられている。

本稿で扱う野間内海合戦については、前掲『三重県史』通史編、近世1に、
「九鬼義隆西軍に加勢」として立項され解説されている中で、「九月九日・十日両日
尾張知多半島(愛知県)先端部付近での戦闘」であり、
「当時の知多半島は、長島城主福島正頼が預かっていたとみられる(『新訂寛政重修諸家譜』
第二一)ので、北伊勢において東軍に付いた長島城の背後、
ひいては岐阜方面に集結しつつある東軍の背後を脅かす作戦を実行したのであろう。
この作戦には瀬戸内水軍が主となったものと思われ、
これに九鬼水軍が参加したかもしれない。」としている。


野間・内海合戦関連

愛知県史資料編13織豊3より引用

東軍の攻勢によって主戦場が尾張国内から木曾川を越えて美濃国西部へと
移っていく中、尾張・三河両国の海岸部では、西軍方に与した
志摩国鳥羽(三重県)の九鬼嘉隆の軍船が焼き打ちを行っており、
九月には毛利輝元の臣乃美景継・村上景弘らの軍船も伊勢湾に現れた。
毛利氏の水軍は九月九日未明に伊勢湾を渡って知多半島に押し寄せ、
各地で放火や合戦をおこなった。「慶長年中記」九月十日条にも
九鬼水軍による焼き打ちに関する記述がみえるが、
毛利氏の水軍もこれに加わっていた可能性がある。


慶長年中記 巻一
十日 熱田西の海辺四五ヶ所、是ハ敵方九鬼大隅(嘉隆)焼候よし、
岡崎?地鯉鮒(池鯉鮒)へ行に焼見ゆる、熱田海辺より五六町ほと大船一艘、
地ハ紫に白き桐のとうのまく張たる九鬼大隅守のミよし先へ被遣候、
御馬印持候ものさんたか橋にて 御目見いたし候、とかくの御意なし、

次は 慶長見聞書 二

同日(慶長5年7月21日)岩手(伊勢国)城稲葉蔵人(道通)手勢九百六拾人籠候処、
九鬼大隅守(嘉隆)町口迄取懸候へ共、堅固被相抱候間、
敵の人数引退申候、其後九鬼大隅守・堀内安房守(氏善)以下船手の衆卒し、
尾州・参州之灘浦を焼払、漁人村老男女僧侶に不限切捨狼藉前代未聞也、
尾州毛呂崎(師崎)江寄ンとす、
浦のもの内々近日従関東御上を聞て、其間敵をたるめ魚を取て日々に送り、
様々の音信におよひけり、
然るニ案のことく千賀孫兵衛(重親)一夜の内ニ而のりつけ、
大勢籠たるやうニ見せ、浦々に旗を立置候間、
敵驚寄せ不申、其間に松平紀伊守(家信)・小笠原新九郎(広勝)・
同安芸守(小笠原信元)次第ニ乗付申候間、
弥敵船驚きこきのき申候、右ノ海上浦々の悪行の天罰にや、
此口の寄手の大将達のすへ?迄後ニ皆たへはて申候、
武家の習殺業なくて不叶されとも、
分の敵を討て非分の者を不討とはかやうの事にや、

此時戸田三郎右衛門(忠次)・清水権之助(政吉)ハ
大野・とこなへ(常滑)に罷在候間、
舟を出し防候間、敵不叶舟をこきのき引取申候、

13 :
野間・内海合戦関連

浦備前覚書 巻一 無尽集第七七冊

先年関か原御弓矢之時、伊勢地数船之御船指廻し、御国?ハ村上八郎左衛門殿
(景広)・乃美備後殿(景継)御船手不残被差出、
大坂よりハ菅野平右衛門殿(管達長)・村上彦右衛門殿なだ声古ヲ被差添御廻シ被成候、
伊勢之鳥羽ニ者九鬼大隅殿(嘉隆)大坂へ之御馳走ニ、
右之御方々大隅殿江御座候而方角万事御談合被成、
尾張灘手を御働被成御儀定ニ相澄、
おふミなと(伊勢国大湊)まて御座候而、彼表ニ而長々船中各御苦労被成候条、
一夜彼在所にて御休め被成之由、悉宿を取り御休息候処ニ、
乃美備後殿野せつちん(雪隠)へ参と被申、
五六丁家はつれへ被参候而都合被見合候処ニ、
彼在所より弐里間にて岩手と申城を敵方?持堅、
おふミなとの在所からも殊外手広不審ニ相見候条、
各うかと罷居儀ニ而無之候条、夕飯を仕廻、
夜入候者船へ各被召可然之通被申付而、悉船ニのり申候へハ、
夜半迄(過)ニ岩手?夜打ニ心懸人数差出、殊外物あぶなき躰にて、
下々共ニ備後殿御見合之段感入候、一日間ニて血地江御働ニ、
不残御渡り被成候、尾州之内大野と申浦江九月九日未明ニ被打入、
一段仕合能発向被成候、其次ニ二浦同前ニ候而、各御談合ニ、
今日之働ハ不残出来申候へ共、放火不仕候条、
明日之働ニハほうくわ(放火)を専ニ仕候様ニと仰事ニ候、
かたかミと申在所を未明ニ御働、一軒も不残放火仕り、
頓而其次野間の内海と申浦江御仕掛候処、
是ハ先代(源)義朝之御腹被召たる浦ニて候得者、
船本江人数差出相さゝへ候へとも、船よりの御仕掛丈夫候故、
終ニハにけくつし多分追討ニ仕り、
船本より一里半奥ニ義朝之御影御座候故、坊中江おひ入候故、
跡?足長仕ル儀ニてハ無之候条、各引取り候へと被仰付、
不残引取申候、礒兼加賀殿上下八人ニ而、
彼御影之寺放火不仕候へハ、此在所相働専ハ無之候条、
是非共ニ放火仕り引可申と被申候而ふかいりの故、
人数三十計討出取まき候条、別条子細も無之候間、
足床を見合高ミを取可相果覚悟ニ候、
壱人にても足を乱シ候而ハ不叶儀候之条、八人之者ハひつかけ相果覚悟ニ候、
其人数ハ加賀殿上下三人・乃美平左衛門殿上下弐人・
末永惣右衛門・世良源右衛門・末島(島末)与左衛門、
此八人ハ鉄炮弐丁御座候而、引懸五間ほとにて討候やうニと覚悟仕り候処、
敵も其覚悟ミきりはた?と不仕懸候処ニ、舟本江此聞候而、
乃美備後殿・村上八郎左衛門殿自身かけつけ候へハ、
のほりさきを見及引取申候故、無事ニ御しのき、
御両人衆殊外御しかり被成、(乃美)宗勝巳来上りはたらきの仕やうハ御存知ニ而、
深入沙汰之限りと被仰、無事ニ船本御引候事、
二日之間ニ六浦御働殊外出来候事、

誤字脱字はご勘弁。

14 :
関連スレ
関ヶ原合戦の真実 Part9
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1545542228/
大坂の陣はどうすれば豊臣方が勝てたか?Part8
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1536754046/
【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 5 【徳川】 [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1498216606/
二重公儀論について考察する [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1472608426/
【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1542893023/

誘導は上記適当スレへ。

15 :
過去スレ
part1
https://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1477558509/
part2
https://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1484991108/
Part3
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1487680538/
Part4
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
Part5
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1496748424/
Part6
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1499775019/
Part7
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1502195081/
Part8
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1505981945/
Part9
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1509028014/
Part10
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
Part11
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1514907315/
Part12
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1517843376/
Part13
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1522672144/
Part14
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1525775487/
Part15
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1528335113/
Part16
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1530344370/
Part17
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1532773324/
Part18
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1535414790/
Part19
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1537715258/
Part20
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1539777606/
Part21
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1543403991/
Part22
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1549630474/

16 :
以上、時系列表等参考になるものと有力案のコピペ終了。

訂正等は遠慮なくよろです。

また、その他の案としては、美濃主攻案(P17>303)、北陸主攻案、早期尾張進攻案、
鳴海上陸作戦案(P15>702)、9月7〜10日赤坂挟撃案(P19>841)等あり。

また、上記諸表の兵力数は戦闘の損害による兵力減少を考慮しておりません。

17 :
おすすめ参考書籍・資料・史料等

関ヶ原の役: 日本の戦史 (徳間文庫カレッジ) 文庫
? 2016/5/7 旧参謀本部 (編集) 1566円
いわゆる今までの一般通説的な関ヶ原合戦はこれ読めばひと通り書いてある。

「関ヶ原」を読む: 戦国武将の手紙 単行本 ? 2018/2/25
外岡 慎一郎 (著)  2160円
北陸方面の前田、大谷あたりを中心にあまり偏った見解なくわかりやすく書かれている。

関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日 (中公新書 (642)) 新書 ? 1982/2/23
二木 謙一 (著) 799円
一般的通説の各種エピソードを詰め込んだ小説風。読みやすいことは読みやすい。

直江兼続と関ヶ原 単行本 ? 2014/8/4
公益財団法人 福島県文化振興財団 (著)  1728円

近年出てきた新説、新解釈等は、笠谷和比古氏、白峰旬氏、光成準治氏あたりの
著書が参考になると思われる。

金出したくない人向けには、

国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E9%96%A2%E5%8E%9F%E8%BB%8D%E8%A8%98%E5%A4%A7%E6%88%90&viewRestricted=0
ここで関原軍記大成が読める。

18 :
真実スレリンク間違い。
現スレはこっちです。

関ヶ原合戦の真実 Part10
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1553429187/

19 :
織田信雄が西軍を率いていたら勝てた

20 :
西軍が何も考えずに家康の首だけを狙って、京大阪は最低限の抑えだけ残して、
輝元総指揮の元、ほぼ全軍で東海道を下っていたら、どうなっただろう。

21 :
>>20
城は放置?

22 :
水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ帰ります

23 :
前?利?「やったぜ」

24 :
東軍も上杉や佐竹放置だからな。

25 :
前スレのテンプレを微妙に削ったのは何でだ?

26 :
>>25
追加と修正はしたけど削ってはいないよ。どこのこと?

27 :
あとどれも行数がいっぱいいっぱいで分割したものはある。

28 :
1レスには60行しか入らないから。

29 :
どうすればもなにも、どうもせんでいい
負けるが勝ち、と言うだろ
すなわち関ヶ原は西軍の勝ちだ

30 :
>>26
前スレ>>14、このスレだと>>16の部分
アンカー以降の書き込みがなくなってたから気になった
スレ立ててくれたのに指摘してごめん
スレ立て乙でした

31 :
>>30
特に変わってないよ?

32 :
西軍が勝ったら勝ったで、輝元が征夷大将軍になって
やっぱり大坂の陣が起こるんだろ

豊臣の天下は一代限りと承知していた高台院が正解

33 :
淀を殺さない限り豊臣は滅びる運命

34 :
いやいや淀を殺したところで他に頼りになる一族もいないし
とにかく豊臣家に人材がいなさすぎる
創業者の秀吉がある意味万能人だったから、手足となる吏僚は発掘できても
他家と渡り合えるだけの「政治家」を育てられなかったのが秀吉最大の失敗

35 :
如水がいた!

しかし如水は…

36 :
>>35
政治家か?
相談役としては一流だが

37 :
如水は交渉窓口だったし
君主もできたかもしれない

半兵衛がいればあるいは

38 :
秀次をそうしようとしてたのに自分で潰した
豊臣家の死因は自殺といっていい

39 :
永遠に続いてるな、関ヶ原オナニーサロン

ところで、関ヶ原関係者で一番ポコチンでかかったのはだれだ?
秀秋か?あ?

40 :
>>39
💩!

41 :
情けない総大将と
人望軍功皆無の現場監督

42 :
輝元のポコチンは巨根だろ?ちがうか?あ?

43 :
輝元のポコチンは巨根だろ?ちがうか?あ?

44 :
>>43
43歳になるまで子供作れなかった輝元の粗チンを馬鹿にするな😡

45 :
正則のポコチンは短小だったてことはしってるわい

46 :
>>38
頼朝思い出すねぇ
そういえば、家康は頼朝を相当研究してたみたいだね

47 :
さ、キンタマ関ヶ原、はじめようぜ!

48 :
楚漢戦争の劉邦を真似して、西軍は美濃大垣も京都も放棄して、大坂城に籠城する
毛利宇喜多長曾我部など中国四国の諸大名が海上から大坂城を補給する

頃合いをみて、大谷吉継が韓信のように大国前田家を滅ぼし、
信濃へ出て真田と合流して関東の徳川領を圧迫する

問題は楚軍の補給路を切断した彭越を誰がするかだな?

49 :
三成が埋伏の毒として東軍に参戦していれば、あるいは

50 :
>>39
チンポのデカさは鼻の大きさに比例するという
となると一番は象鼻山近くに陣を取ってた長宗我部盛親であろう

51 :
つまらねーよ、粘着バカ

52 :
>>46
なにをするにしたってお手本があるならそこから学びたいしね。家康が勉強家という以前に、秀吉が机の学問を怠っていたんじゃないかな
晩年の秀吉は目の前の脅威を排除することに躍起になりすぎて、その直後に起こるであろうことから目を逸らしていたんだと思うよ

53 :
>>52
秀吉が学問を怠ってたという事はないな。
御伽衆を800人もそろえて毎日耳学問で中国の古典とか
日本の和歌とか読ませてたそうだし(自分では読まない)
足利義昭なども御伽衆に加えてたけど純粋に単なる飾りというわけでもなく
足利家の歴史とかもしゃべらせてたと思うよ。

54 :
>>53
それ天下を取ってからの、50代も半ばを過ぎた辺りのことだろう
ものを学ぶにはちと歳が行き過ぎているな
そのくらいの年齢になると頭に吸収しにくい上に自らの経験値が仇になって
聞いたことをバカにして謙虚にならず、身にならないこともある
特に天下を取って自尊心が最も高揚した時期だろうし
家康のように幼年期の頭の柔らかい頃から吸収し続けたのとは知識の血肉化に歴然とした差があったろう

55 :
>>53
身に付いた学問が一つでもあるかい?
学ぶ気持ちさえあれば何歳からでも学問はできると思うけど、社会的成功をおさめた人物ほど自分の経験則が邪魔してしまうものだしね
少なくとも秀吉の学問は秀次を殺し、その子供や妻を大半殺し、長年仕えてくれた家来を殺せば豊臣家がどうなるかという事に対するブレーキとしては役に立たなかったんじゃないかな

56 :
>>52
逸話レベルで申し訳ないのですが、
秀吉と頼朝評に関する話があって
大雑把意訳で同じ天下人でも俺の方が苦労したから俺の方がすげー!
というエピソードがあります
本当に言っていたのなら、軽視してた可能性はありますね
まぁ、事実かどうかはわからないので参考程度にしかならないですが

57 :
>>56
小田原征伐の頃の話だな
頼朝の木像の肩を叩いて天下友達だな、なんて不遜な態度をとるような性格ということ
陽気で型破りと言えば言えるが生まれついての才覚だけで天下取りまでした男が
歴史に謙虚に学ぶなど性格的にも土台無理だったろう
前天下人の足利将軍家継嗣争いというまだ生乾きの歴史からすら学べなかったのだから

58 :
いつまでスレチが続くのか

59 :
>>56
そりゃまあ滅んだ足利氏をほめる理由もないよね
末期なんて落ち目の代名詞みたいなもんだし

60 :
西軍は中途半端だよな
豊臣家を無視して私財に手をつけたり増田など邪魔者を暗殺したり
清洲城を強行接収したり
田辺城をさっさと落としたりとやる気出せば簡単にできるだろうに躊躇したりして
電撃作戦の挙兵の効果を自ら減じてる

61 :
木像は木像よ
秀吉は、頼朝依頼の天下人だから当然過去の偉人より上
頼朝が墓から這い上がってくるものでもなし

62 :
秀吉のライバルは神功皇后とか始皇帝とかだろ。
なんで田舎武者の頼朝如きに謙虚にならねばならんねん

63 :
>>55
漢の初代皇帝・劉邦は文字すら読むことに暗く、学問に精通どころじゃなかった

儒者の陸カが劉邦に儒学のすばらしさを説くと、
劉邦は怒って「私は馬上で天下を取ったのだ。詩経や書経にかまっておられるか」
と叱り飛ばすと、陸カは「馬上で天下をお取りになっても、
馬上で天下をお治めになれましょうか」と言った。
さらに「もしも秦が天下を統一したあと、仁義に則り古代の聖王を見習っていたら、
陛下が天下をお取りになれたでしょうか」と続けたので、ついに劉邦も陸カの言い分の正しさを認めたという

64 :
チンギスハーンも自身は馬上で天下を獲ったので死ぬまで文字を学ぶことは無かったが
息子たちには「国を治めるのには文字は必要だろう」と全員に学ばせたとか

65 :
>>62
烏滸がましいな一代政権の分際で

66 :
一大帝国築いた幹部連中が文盲である混沌環境の海外に対して程度の差はあれども読み書きできる大名
比較すると面白い。

関ヶ原で西軍が勝つこととそも関ヶ原に持ち込ませないことならどっちが難易度が低いのだろう?
やっぱり後者かな?でもそれだとスレの趣旨に沿わないし難しいね。余程のハプニングが起きない限り負けそう

67 :
関ヶ原で開戦した時点で詰んでた

68 :
三成が大将を辞退して、純粋軍人の島津義弘に全権任せてたら圧勝

69 :
大将島津義弘と仮定、当然、戦術は「釣り野伏せ」
関ヶ原は、霧の中
東軍の一番槍は福島正則と井伊直政
ご存知の通り、井伊軍は霧モヤの中、抜け駆けで宇喜田の先っちょに接触してしまうチョンボ+島津の退き口で死にかけた準ノウキン
福島は、日本最強のノウキン

この2軍を上手に宇喜田が引っ張り出せたら、それはもう日本最大規模の釣り野伏せ完成!

70 :
右翼を小早川の裏切りで突き崩されて、半包囲の陣形になっていた西軍は逆に包囲されて壊滅するのでした。どっとはらい

71 :
関ヶ原を避けるには諸将を西軍側に引き止める以外にない
だから岐阜城落とされてはいけないのだけれど
いや東軍先発隊が結束して西上した時点で仕方なく西軍に組した諸将はぐらついてるか
西軍の優位は揺らがないと戦で示さないといけない

72 :
何をどうやっても無駄だよ
味方の中に裏切り者・内通者がいるというのならよくある話だが
毛利家という総大将家が敵方に通じてる戦なんて古今東西前代未聞、空前絶後の話
つまり西軍なんて最初から存在しないも同然なんだよ

73 :
2千も居ない島津義弘に総大将はちょっと厳しいだろ。
実績や経験は両軍で随一だけどな。

74 :
>>72
そんなことはない。すべては岐阜城陥落の西軍劣勢印象から始まっている。
戦況次第で日和見連中は有利な方に態度を変える。

75 :
実戦経験ゼロのガキが守る城が落ちるだけで劣勢の印象がもたれるのだから
西軍はその程度の存在に過ぎないということ

76 :
島津の戦術には、吉川広家も小早川秀秋もいらない

東軍を峡間に引っ張りだしたら、三成の大砲を活用、一気に混乱+桃配り山まで押し返しで、逃げ惑う肥満体爺の家康なんて楽勝で首落とせる。
小西行長でも島左近でも島津豊久でも、簡単な仕事だろ

77 :
まあぶっちゃけ日本の武家の半分は豊臣の支配がイヤだったわけだ

78 :
>>76
無骨な武人である義弘とエリート官僚意識が強い三成では相性が悪い
島津は豊臣に負けて降伏した身分であり、豊臣に取り入るために三成の取次が必要だったから
加藤や福島のように不満を見せられる立場ではなく上手く不満を隠し通していただけで
一緒に戦をしたら対立で関係が破綻して戦術どころではないよ

義弘と三成はどちらかが西軍から去るしかない
戦経験を考えたら義弘が残るべきだが、兵力の少なさと外様の立場では主導権を握れないから
義弘が自分の意見を何も通せないことを理由にして西軍を去るべきだった

79 :
だいたいねえ
高名で個人能力の高い武将に任せたら軍全体が急激に全部上手くいくみたいな妄想ってゲームのやり過ぎでしょ
義弘に限らず宗茂が間に合ってたらとか言い出す輩もそうだけど
たぶんあれでしょ、光栄のゲームとかで有名武将がスキル発動するだけでピカッと画面が光って軍勢全体のゲージの色が変わって一気に強くなるとかねw
あんなイメージで語ってるんでしょ
馬鹿馬鹿しい、現実の戦がそんなに甘いわけがないでしょ

80 :
はたして土壇場で皆が皆戦上手な人に従えるのか?
まず無理でしょうねぇ
仮にその場の全員が賛同しても、やりたくても無理じゃないかなぁ
仮に出来たら、今現在の合同軍事演習なんぞやらないでしょう。現実と即してない。

81 :
島津にせよ、立花にせよ、10万規模の軍勢を指揮した実績は無いし、
自分が総大将となって軍勢を指揮した経験もない。

82 :
そもそもゲームに限らず戦術シミュレーションって
軍団師団部隊兵士それぞれの単位で統制と訓練でユニット化を徹底した近代以降の戦争でこそ通用するけど
軍勢の成り立ちからして相互の利害関係やら政治的思惑やらで「烏合の衆」であることが前提の
中世以前の、特に封建制下の戦争では机上の空論にしかならないんだよね

83 :
そういえば、今の技術をもってしても統率できる人数は1万人程度と聞くし、10万人の大将は家康でも秀吉でも無理
なんで、分けて連携をとるしか無いけど、西軍は東軍より難しそう
そこからどうにかしないとみんなの話を聞く限りどうにもならんと思う
それ以前にこんな状況にするなと言われたら返す言葉もないけど

84 :
島津自体中央から見たら二流だからな。ネットじゃ戦闘民族とか持ち上げられてるけど実体は無い

85 :
>>79
同感。島津義弘なんて結局ただの猪武者
なればこそ兄貴からも見限られて兵を寡兵でしか用意できずにあんな羽目に。
数居る「鬼○○」の異名をもつ連中なんてだいたい突出して横死してるバカばっかりだしそれと変わらん

86 :
島津義弘の実績と名声は否定しないけど土地勘もない美濃の地で
土地勘も地の利も活かせる相手に戦うの大変だろうよ
しかも作戦立案しても意見が通らないし言葉も通じてるかどうかも怪しい
土地を良く知る旧織田系が指揮したほうがよさそう

87 :
>>85
知識無さすぎ

88 :
島津なんて田舎の落ち目そのものじゃん

89 :
鬼島津だから(震え声

90 :
なお自称

91 :
戦国最強は徳川家康だからね。
戦う相手は常に2倍以上、家康が動くってだけで大名がびびる

92 :
鬼なんとか、は結局イノシシ武者の自滅話でしかないよな

93 :
西軍美濃で一度も勝ててないどころか東軍の勢いにびびって逃げること数回
渡河する側が不利なのに強行してくる東軍におそれをなして逃げるってやる気あんのかよ

94 :
結城秀康を寝返らせれば、西軍バンザイ

95 :
具体的なプロセスも書かずに成功したらいいなぁっていう希望だけ書いても意味ないってわからんのかな

主張したいなら「最低限」、結城秀康がどうやれば寝返るのかを書こうや

つっても少しでも調べてりゃ結城秀康は巷説で言われるような宗家の跡取りになれなかったから徳川に不信感持ってるとかいうのは一切見えず
徳川家にかなり親密で、裏切る余地なんか1ミリもないってわかるんだけどもね

96 :
そもそも、豊臣は織田家家臣で清洲同盟以来徳川の同盟者の家を乗っ取って出来た逆臣の家だしね。
関白の地位で正当化しながら関白一家虐殺をおこなう反逆者。

秀康が養子にされたのも豊臣のせい。なぜ織田家の盟友たる徳川の一門が豊臣なんてクソを助けて寝返ると思うのか

97 :
ああ、豊臣に寝返るんじゃないか。家康は前太政大臣の遺言にもとづき、内大臣として帝の下賜を受け、豊臣の支援を受けて軍を動かしている。
石田は更迭された元奉行にすぎず、毛利は権大納言にすぎないし、前太政大臣の遺言で政治をたくされたのは徳川と前田。
関ヶ原時に豊臣も公認していない。

つまり西軍は「賊軍」。豊臣にすら認めてもらえない賊軍になぜ寝返る。

太政大臣の遺言で政治をたくされた最高位の内大臣が帝の下賜され豊臣の援助を受けて軍を動かしているのに、なぜ徳川一門が寝返ると思うのか。

98 :
>>91
更に寡兵の真田に敗退したけどな

99 :
ていうか太政大臣ってそんなに偉いのか。

100 :
よくあきないで同じことを延々と


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