TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼
【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
海の司令官〜小西行長を語り継ぐ
戦国武将の容貌
【秀吉の闇】関白秀次切腹事件について その3
もし武田信玄があと10年生きてたら、、、、二戦目
〓名前が格好いい武将〓
戦国時代における騎馬武者の実像とは 2騎目
織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
戦国最強の武器、戦法
相馬義胤〜伊達政宗に対抗した奥州屈指の戦国大名〜

戦国ちょっといい話45


1 :2017/06/08 〜 最終レス :2018/06/02
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話44
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1469664777/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話44
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1470783230/

2 :
一乙保守

3 :
前スレ987だけど巻き込み規制食らって後半投下出来なかったので再投下

牧野成里、池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 :
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。

5 :
>>1

6 :
>>1乙じゃ

7 :
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』

8 :
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)

9 :
「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと

寺の結構荘厳眼を驚かす。又ウルカン一人にては弘法力に叶うべからず。
本国より数人召しよべしと命ぜられる。ウルカン悦びて本国へ申し送る。
そもそも南蛮切支丹国と云うは国号イスパニヤならびにポルトガル、カステラと
云う海上日本里程一万二千余里世界の国を以て見る時は唐土日本よりは日本より
西方に当たる国なり。然るに南蛮と号することはこの国の従属の亜媽港、
呂宋等、日本の南方に当たれり。故に南蛮と号する者か。
アマカワ、ルスン等は日本より里程八百里にて殊に日本より南に当り、
イスパニヤの隣国にも非ずしてその国の従属たるアマカワ、呂宋等は守護も無き
島なる故南蛮人往々に其の島に船を止め今は南蛮人多く住居するが故に類属の国なりと云えり。
イスパニヤ隣国にエグレスと云う国あり(インギリヤともイギリスとも云う)
阿蘭陀の西に在る島国なり。日本里程一万千七百里と云う。
此のイギリスは南蛮国と別種なる由、云い伝う。
斯くてウルカンが本国より渡来するは浮羅天破天連、計理故離イルマン、弥理居須イルマンと云う。
(破天連と云うは師のごとく、イルマンと云うは弟子のごとく)是等が乗るところの南蛮船、
若州(若狭国)小浜に着船す。
南蛮人若州より江州海津へ至り船を湖上に浮かべて大津に至り京都南蛮寺に入りて
ウルカンに謁し信長へ注進す。信長悦びて安土へ召し呼ばわる。
浮羅天破天連はウルカンより背高きこと一尺五寸。色青く髪髭黄色なり。
衣類はウルカンが如く、相隣の両イルマンは医術外治ともに奇妙なり。
(最初ウルカンが安土へ来たりし時より南蛮人奏者は長谷川竹(秀一)に命ぜられる)
今般は六種の捧げ物あり。瑠璃の宝珠、香一包、犬皮十枚、瑪瑙の机一脚、虎皮十枚、
五色羅紗五十枚献上す。
不日に南蛮寺へ帰り重ねて信長へ訴え曰く。天帝宗はあまねく病難貧苦を救いて
起臥を安んじ法を伝え、現安・後楽の願望を成就す。
薬園を給いて薬種を植え、其の備を成さんことを願う。
信長許諾して山城近国の内其の地を選ぶべしとありければ、両イルマン江州伊吹山を願い得、
此の山に登りて五十町四方切り開き薬園として本国より三千種の薬草の苗種を取来せしむ。
伊吹山にこれを植え(此の故に今二百年の後までも其の根此の山に止まりて川芎艾(もぐさ)の類
此の山を以て名産とす。)それのみならず本国より財宝おびただしく取り寄せて
金銀に替え七宝の瓔珞金襴の幡錦の天蓋六十一種の各香、門外まで薫し、往来の人々止まる。
(此の寺常に一仏壇に本尊を立てすと云えり)。

落語「亀屋」に出てくる、灸に使う艾の宣伝文句が「江州伊吹山のほとり、柏原、本家、亀屋左京、薬もぐさよろーし」
だったけど、もとをたどればイエズス会のおかげだった?

10 :
よく考えたら百人一首の藤原実方の歌で
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
とすでに歌われていた

11 :
俺も気になって調べたけど、イエズス会側の史料で薬草うんぬんの話は見つけられなんだ

12 :
>>9
>若州(若狭国)小浜に着船す。

まーた小浜か
前にもアラジンとかいう名前のイスラム商人とかも流れ着いてなかったっけ?

13 :
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』

14 :
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編X 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例

15 :
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 :
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 :
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 :
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

19 :
公方様、御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

  ある人がひそかに話してくれた。
公方将軍様が御鷹狩に鶴を獲られて丸肝をあげられたときは、
御上と御小納戸頭取がお供のものと心中で唱えさせる呪文があるという。

「業尽きるの衆生は、放つといえども生ぜず。
故に人仲に宿して、得らるるを以って善果とす。」

これは、禽類でも鶴は大鳥でかつ寿命を保つものなので、
これを害するのは殺生の中でも罪が深いに違いないからとの事である。
きっとこの呪文も確かにあるのだろう。
基本、神祖から受け継がれていたのであろうか、
御代々唱えられている事だと聞いた。

 秘かに神祖の御知遇を考えてみた。
この呪文を生み出したのは大樹寺の登誉上人であろうか。
この人は神祖が天下を取られたころにはもう亡くなられている。
また天海僧正だと、神祖とはちょっとの間にしか会っておらず、
力が盛んだった時期の多くは台猷の二世(秀忠・家光)の頃であった。
ならば増上寺の観智国師であろう。相応の時の人である。
きっとこの国師が神君に差し上げたのであろう。

 しかしこの呪文は仏経の何によるのであろうか、出所はまださだかでない。


(甲子夜話三篇)

20 :
心の中でしか唱えてないのになんて知ってるのw

21 :
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』

22 :
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

23 :
睡庵(渡辺勘兵衛了)が坂本に居住していた時、睡庵の家来が大津の町において喧嘩のこと有りと聞いて、
吉村又兵衛(宣充)、その頃は牢人であったが、睡庵のもとに急いで駆けつけてきた。

水庵は対面するや言った
「喧嘩見舞いであるのなら、特別のこともないので帰られよ。
ほかに話したいことがあるのなら、飯を食ってから話されよ。」

吉村
「喧嘩のことを聞いて急いで見舞いに来たまでである。そういうことならば帰る」
そういって帰ったが、この時睡庵は次男を道まで遅らせた。水庵は次男にこう申し含めていた

「私は直に言わない、汝、密かに吉村に伝えてほしい。今日の見舞いのこと、吉村には似合わぬことである。
我等の手の者の喧嘩のこと、別にこれといった仔細のあるものではない。こういう事には天下の大法が
大方定まっている。我が者が斬り殺されれば相手の者は切腹に成るし、人を斬れば此の方の者が切腹と成る。
である以上、気遣いに成ること無い。

こういったことに吉村が大急ぎで京より来るというのは、まるで一揆合いで手足の働きをするの若者の
ようではないか。以降慎まれるように、と」

然るべき事である。

(士談)

24 :
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』

25 :
横領とは酷い表現だな

26 :
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 :
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
      .__|  |/|||||||||||||||||||||; |____
       |  _|  .|/||||||||||||||||||||; |_____  .|
      | |:='ヾ‐イ:||:|l|l|l|l|l|l|ll|||||' |::::::::::::| |
      | |:::::::: | |;:|||||:l|:l|l|l|:l|:||||| イ=::::::| |  ザー ……
      | |:::::::::/ };|||||||||l|:l|l|l|:l|:|||.ノ:=:::::| |
      | |:::=!川!;|||||!l|||l|:l|l||||ー'‐'.;:::::::::::| |
      | |:::::::::!l.|ノ      / ./:::::=:::::::| |
      | |::::::::::::|:::      ノ }::::::::=::::::| |
      |  ̄ ̄~|:::      川リ ̄ ̄ ̄ ̄ |
      | ̄l ̄ ̄|::::      | ~ ̄ ̄ ̄| ̄|
      |_|:.::.:.:.:|:::::      |:.:.:.:.:.::..:.:.:|_|
      .:.:.:.:.:.:.:.:.:|;;;::::      .|.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:

28 :
忠広の生霊か

29 :
中根宗閑と内藤善斎がある時の話で申し上げなさった事には、

台徳院様(徳川秀忠)が、ある時に御鷹野をなさり、田の畦に
御腰を御かけ遊ばされて、御膳を召し上がりなさった。

その時、御湯がなかったので、「向かいの在所に参って湯を
沸かさせ申すように」との旨を仰せにつき、

百姓の家より御湯を御取り寄せ遊ばして召し上がりなさった。

その節などは、このように諸事に御軽きことであったとの由を
(宗閑らは)申し上げなさった。

その旨、戊戌閏10月21日に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』

30 :
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)

31 :
不人気だけ

32 :
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

33 :
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)

34 :
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

35 :
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』

36 :
立花家の紋所は古来より杏葉紋であったが関ヶ原の後に配流のある時、夜の夢で
筑後国祇園山が自身(立花宗茂)の頭上へ覆いかかる様を見て目を覚ました。

この夢より程なくして召し出されて、本国を賜った。これによって牛頭天王の神慮を
(宗茂は)かたじけなく思われ、かの社の守の形を家紋としたのである。

――『明良洪範』

37 :
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝と伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)

38 :
大坂落城直後のことでした。市内警護にあたっていた徳川方の役人が板倉勝重のところへ駆け込んでまいりました。
「容易ならぬ風聞を聞き及んでまいりました。」
「容易ならぬとは何か。」
勝重は煩雑な政務を執っていましたが、平生と少しも違ったところなく落ち着いてたずねました。
「さればでござります。大野修理の命令をもちまして、よからぬ禰宜どもが権現様の人形を作り申し、呪詛調伏申したとのことにござりまする。
まことに不届きなる者共、早速召し捕らえて重い罪科にと存じましたなれど、一応お耳に達してからと考えまして参った次第にござります。」
「それはご苦労。」
勝重は、水のように静かにうなずきました。
「せっかくであるが、禰宜どもが召し捕らえるには及ばぬぞ。」
「何と、何と仰せられます。権現様を呪詛いたす大罪人を、そのままにいたせと仰せあるのでござりまするか。」
「いかにも。」
勝重はは莞爾と笑いました。
「禰宜、山伏などと申すものは、金銭をもって依頼されれば、人を呪詛もし、悪魔退散も祈るものじゃ。商売のようなものよ。
我らが大坂方より多額の金銭を与えれば、秀頼公をも呪詛し調伏するのを拒むものではない。
また、彼らごときに呪詛されて御運の傾く権現様ではないはず。
たかが金銭欲しさの呪詛調伏、相手にするでない、すておかれい。」
勝重の一言は、家康の大きさを更に大きくするものでありました。
大坂方からの命で家康を呪詛した禰宜たちは、一時はどうなることかと心配したのですが、
何の咎もなく赦されて、今更のように板倉勝重の徳を讃仰したのでありました。

『明良洪範』(良将言行録)

39 :
土井大炊頭利勝は土井小左衛門利昌の養子である。実は水野下野守信元の次男なり。
一説には神君(徳川家康)の御落胤であるという。

ある人が殿中で利勝の髭を見て、「貴殿の髭は神君の御髭によく似ている」と、言った。
利勝は、翌日に髭を剃り落として登城した。この頃までは、髭を立てて置くのが風俗で
あったが、利勝が剃り落としたのを見て人々は追々髭を剃り落としたのだということだ。

この利勝は衆人よりも智謀に優れた人だった。先年、関白秀次が太閤の御不審を蒙り、
一大事となるという時、利勝の智謀によって秀次の謀の罪に陥らず、台徳公(徳川秀忠)
と御同道で太閤の御前へ出なされば、太閤は殊の外喜びなさり、

「さすが新田殿の子孫である」と賞美なさった。神君も御上京なさり、利勝の智謀の計らい
を御賞美なさった。その時、利勝は17歳であった。

後年、執権であった時、密事を評議することがあった。しかるに、これまでは密事を評議
するには茶室などのような狭い所でその周辺の障子襖などを皆仕切って評議したが、

この度は利勝が大広間の真ん中に座り、その周辺の障子襖を残らず取り払って評議衆
のみ一座し、他は人払いして評議したため、余人が忍び聞きすることはなかったので、

これ迄のように密談が漏れる事は少しもなかったのである。利勝の知慮は衆人の及ばぬ
ところと、将軍家(徳川秀忠)も深く賞美なさった。

また本多正純が罰せられた時、ある人が言ったことには、「正純は不届きとはいえ、正信
以来旧功の家であるのに、此度の御仕置きは余りに厳重すぎである」とのことだった。

利勝はこれを聞いて、「いまは天下創業の時なれば、賞罰などは厳重でなければ平天下
長久ならず。それにはまず御譜代を厳重に罰しておくことが天下への示しである。正信が
どうして泉下において、恨み申すことであろうか」と、申したということである。

――『明良洪範』

40 :
村越茂助は家康の家臣でしたが、ふとしたことから勘気にふれ、目通りの叶わぬ身分となりました。
茂助は心中不平でなりませんでした。一にも徳川、二にも権現様と主家大切に働いて来たのに、
身に覚えの無い理由で遠ざけられるということは憤懣にすら値するものでありました。彼は門を閉じました。
戸外へ出ません、出たところで見るもの聞くもの、ことごとく癪に障ることばかり、いい加減なおべんちゃら武士が、
大手を振って歩き、正義の士はすべて不遇にいるように見えて、腹が立ってたまらないのでありました。
ほど経て、家康の方から茂助を呼び出しましたが、茂助は応じません。
「拙者は御勘気にふれた身の上でござる。お目通りはおそれ多い。」
嫌味と鬱憤とを言って、決して伺候しませんでした。ところがそこへ伏見の大地震が起こりました。
人畜の死傷も数多く、建物の倒れたものは枚挙にいとまありません。世間は物情騒然として、流言は日に盛んです。
こうなると根が忠義一徹な茂助ですから、家康の安否が気になってたまりません。
「権現様はいかがなされましたか。」
まず本多正信まで問い合わせました。
「その方、それほど心配になるか。」
正信はにっこり笑って言いました。
「よい機、と言っては悪いが、今こそお詫び申し上げる時ではないか。のう、すぐ参れ、参ってお見舞申し上げい。」
しかし、茂助は頭を横に振ったのでした。
「拙者は御勘気にふれた身でござる。押し付けがましく参上するのは如何かと存じまする。」
「それがいかぬと言うものじゃ。」
正信は言葉を尽くして説き聞かせた上、家族の者をそれぞれ知人にあずけて、ただ一人伏見へやることになりました。
もし家康の気持ちが元通りであれば、その場で討たれる覚悟をしていたのです。まことに悲壮な見舞い人と言わなければなりません。
伏見の家康の住居は、地震のためにひどく破損し、見るからに酷い有様になっておりました。
しかし隆々たる家康の声望は、そうしたうちにも無言の威力を示しました。
諸国の大名はこぞって見舞いにやってきます。家康は家康でこの機を逃さず、大名の心をつかむ工作を怠りませんでした。
彼は自ら握り飯を握って、見舞いの大名にそれを接待していたのです。村越茂助は、そうした家康の前に進んで、
「村越茂助にござりまする。」
こう言って、言葉のかかるのを待ちました。一言、言葉があったなら、すぐその場の仕事を手伝おうと思ったのです。
ところが、家康は横目でじろりと見たきり、ついに一言の言葉も与えませんでした。
茂助の失望といったらありません。彼はすごすごと立ち戻りましたが、途中から再び引き返して、
「茂助でございます。殿、茂助でございます。」
ほとんど泣くばかりに言いました。が、これも白い目で黙殺されてしまったのでした。

41 :
駄目だ!絶望のあまり、茂助はよろよろと立ち上がって戻りかけました。その時です。
いたわるような声が耳元でしたのでした。それは阿部正勝です。茂助はすがりつかんばかり、それまでのことを話しました。
「わかった、が誠意じゃ。誠意が通るまでの辛抱、よいか。」
「はっ。」
再び、茂助はとって返しました。が、もう物を言う元気もなく、黙って家康の前にうずくまったのでした。
しばらくして、家康は、茂助の居るのに気づきました。二人の目がはたと会いました。
滲むような柔い人情が、お互いの目の中に光りました。
「茂助。」
「殿。」
茂助の目先は、ぼうと霞んできたのでした。嬉しさのあまり、罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに開けたのです。
「いかが致した。」

『明良洪範』(良将言行録)

42 :
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』

43 :
>>41
身に覚えがないんだろ
折れるな茂助!

44 :
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

45 :
そろそろ鮭様のいい話頼む

46 :
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

47 :
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 :
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

49 :
>>41
笑った

50 :
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』

51 :
既述のように、当時テンカ(=天下)の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。
彼は完全に自らに服従せしめていた大和国の、奈良の市街に近いタモンヤマ(=多聞山)という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じた事以外は何も為されぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。



フロイス日本史から、1563年頃の松永久秀の話

52 :
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)

53 :
武術でいうところの「気」か

54 :
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/

55 :
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 :
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg

57 :
補陀落渡りでもするのかと思った

58 :
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

59 :
古の者の云えることを記せる書に、一番先陣、一番乗り、一番頸のそれぞれに軽重があるとしている。
但し名を得て人々から唱えられる為には、一に天命、二に国、三にその場、四に主人、といった要素が
必要であり、こう言った条件が揃わなければ、世に隠れない高名というのは成り立ち難い。
永禄天正以来の名を顕す輩は、この4つの条件を外していないのだ。
しかし高名があっても隠れて人に知られないのも、また皆天命であるから、更に恨むべきではないだろう。

また永禄天正以来、一番槍には千石、二千石、三千石、八千石までの賞が与えられている。
一番乗りには、豊臣秀吉は、一万石を宛てがうべきと定めたそうである。

保元・平治より織田信長の頃までは、槍という功名はなかった。信長の頃より、槍を以て世に誇るようになって、
それより皆以って、槍にあらざれば功にならない程に成った。

(士談)

60 :
安定の毛利勝永

61 :
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八にんも居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)

62 :
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63 :
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

64 :
信濃木曾義昌の家臣に、知村、山村という者があった。木曾義昌没落の後、両人ともに流浪していたのを、
徳川家康が関東において堪忍分を与えていた。

関ヶ原の役の折、家康は木曽路の通行の安全を確保するようにと命じ、ここに知村、山村の両名を、
先遣隊として遣わした。

そこで、鳥井峠の”こなたならい”という場所から、山村は福島(木曽福島)方面に手のものを遣わし、
説得することによって大方は徳川方へと属した。しかし未だ完全に徳川方となった状況ではなかったが、

「先ずは木曽福島が別状無く徳川に随身した旨を注進仕る」

そういって飛脚を馳せて、『木曽福島は相違なくこちらに従った」と家康へ言上した。

この時、知村はこれを危ぶんだ
「まだ木曽福島に実際に足を踏み入れておらず、この先どうなるかもわからない。なのにこのように、
逸りすぎて注進を行うのはいかがだろうか。」

しかし山村はこう言った
「勿論、この先どうなるかわからない。だが、我等が今まで接触した者たちの反応がこれほど様子の良い
状況である以上、別状はないだろう。それに、木曽福島を従えることが出来なければ、我等は再び
家康公に対面など出来ない。このような時分は急ぎ注進すべきなのだ。」

これに知村も止め得ず、注進に連署した。

果たして木曽福島に入ると、かつての木曾義昌の居城であった木曽福島城も難なく抑えることが出来た。
この時、木曽福島の者共の人質は、西軍の石川備前守(貞通)の催促により尾張国犬山城に入れ置かれていたが、
「木曽福島城が取られた以上、所々の人質共をここでRのも詮無きこと。」と、皆これを開放したという。

山村の策略が完全に当たったわけで、これは才の逞しさによるのであろう。

(士談)

65 :
結構、綱渡り染みたことをする人多いんだな

66 :
山村さんって材木管理だけかと思ってたから意外だった

67 :
貞通じゃなくて貞清じゃね

68 :
テレビから出て徽宗

69 :
淀殿に仕えた各務兵庫の娘


森家の家臣・各務兵庫(元正)には息子が2人、娘が5人いた。
長女は森重政の妻だった。
次女は大坂衆で落城後に切腹した竹光伊豆の妻だった。
三女は丹後の田中七兵衛の妻だった。
四女は作州の各務勝太夫の妻だった。
五女は淀殿の侍女だった。

大坂城が落ちる前、淀殿は不憫に思い城を出るように勧めたが
どうあっても出ていかない旨を述べ、小脇差を懐に差したという。

後に京極高知の側室となり一男一女をもうけた。


――『武功雑記』

70 :
脇差が欲しかったのか

71 :
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)

72 :
尾州の西琳寺という寺に順正という長刀の術に熟達した僧がいた。順正が祖始旧跡24輩の巡礼をなして
棚倉に到った時に霖雨のためしばらく逗留することとなった。
一夕、領主の立花宗茂公を訪ね意気投合し、公から寺をこの地に移すことを勧められた。
順正がそれを承諾したため、宗茂公は白指山の山号を自書して与え、それを以って証左とした。
尾張に帰った順正が転寺の準備をしていると、宗茂公が柳河に再封されたため、
順正は宗茂公に従って柳河にやってきた。宗茂公は一寺を創建して順正を開山とした。
それが白指山西琳寺である。
(旧柳川藩志)

尾張の僧侶が奥州棚倉で誘われて九州柳川に移住したという話

73 :
筑紫町にあるんだな。今度訪ねてみようかな

74 :
羽柴秀吉が、自らを関白に任じ天下のことを預かり白すべき事を望んだ時、禁裏は勅定として

『古より執柄に任じられる家は定まっており、藤原氏が相続している。秀吉の姓はいかなるや。
このような事は、その姓に従っているものである。』

とあり、伝奏もそのように秀吉に説明した。

秀吉はこれを聞くと

「私は元百姓の子であり、姓氏ともにあらず。天子はこれを知り給いながらかくの如き勅定、
甚だ以て心得がたし。

ここで考えてみるに、往古より、生まれながら姓氏を持って出て、これぞ源平藤橘と、
自然に相備わるような事はない。時の天子がその生縁に因ってその姓を賜り、その人の住む場所により
在名を名乗る。

しかれば我、今武威を以って天下を併呑した。天子はどうして相応の姓を与えないのか?

また関白職が藤氏に限定されるというのもこれまた心得がたい。
関白は天下の政務を預かり四海の権を執る職であり、今この職に任じられるのは私以外に誰がいるというのか。
藤氏歴代関白に因循するといえども、ただ有名無実な存在であり、何の意味もない。
かつて朝廷が関白職を設置した由縁を、能く考えてみることだ!禁裏にはそのように返答してほしい。
よき勅答を待つ。」

これにはさしもの伝奏の公卿も、言葉もなく退出した。
そして天子はついに豊臣の姓を下し、秀吉を関白の職に任じた。

(士談)

75 :
関白就任は棚ぼただったんだよね
この話の様に姓のせいで関白就任が断られたなら別に太政大臣でもいい気がする
清盛の前例があるし

76 :
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)

77 :
 毎日城を見廻っては普請などを命じ、朝飯は城より弁当を取り寄せて、
所構わず道端や堀の端で食事をし、その日の普請の当番には声をかけては話を聞いた。
侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物とし、結構な仕立てを嫌って、いかにも質素であることを好んだ。
 寺の門前に無用な植木などがあれば、この木を掘り除き、茶を植えて信徒たちに茶を分け与えるよう指示した。
また知行所は残らず見て廻り、農家の周りに堀があれば用心は田中に任せよと言い、堀を埋め立てさせ稲や畑を作らせた。
年貢高を決めるための調査には自ら赴き、作柄の見立てを行って収穫のよしあしに従って年貢率を決めたので百姓たちは喜んだ
 また、罪人があると、首を切る代わりに荒地の開墾をさせるこのような仕置きは九州小倉の越中殿にも聞こえていた。
知立から西尾の間にある三里に及ぶにし野という芝原を囚人たちを使って開墾させ、
ここに松を植えたので後にここは松原となって毎年塩木として売る事ができるようになった。
(石川正西聞見集)

塩木(海水を煮沸し塩を作る際の薪用の木)

田中吉政、岡崎時代の統治

78 :
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)

79 :
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80 :
いい話に書いちゃったけどまあいいか

81 :
神君(徳川家康)は、

「武道を嗜む士は、戦場へ赴くからには必ず死を遂げるという心掛けが
なければ叶わない。白歯の者は、歯が黄色にならないように心掛けて、
髪も香りを留めるのが良い」

と仰せられたということである。

上田主水入道宗古(宗箇)と申す武士は、

「討死の首になった時のことを心掛けるべきである。されば月代が後ろ
下がりでは首になった時に詫び言顔になって見苦しい。

それゆえ、後ろ高(後ろ上がり)に剃るのが良い。その前日には月代を
剃って首を綺麗に致す心掛けが第一である」

と申した。

――『明良洪範』

82 :
白歯のものってなんつうか初めて聞いたな

83 :
 三成は並の者ではないので、今日落ち人となりても明日は又様々な謀略を企むことも考えられる。
したがって田中を一人に捜捕させるのはいかがなものかと私議するものもいた。
しばらくして吉政は石田を捕らえ出て進じた。
その時、田中はかねてより治部と仲がいいゆえに少しも疑いがないとはいかなったが
此度の功によって我が疑いは晴れたと仰られた。
諸人は初めて盛慮の深淵を感じた。
(徳川実紀)

84 :
読売新聞に載ってたので。
兵庫豊岡でラスボスから茶々への愛の見舞状
秀頼公出産直後に贈られたもので、10月7日から11月26日まで兵庫県姫路市の県立博物館で公開されるそうな。
内容は茶々が高熱を出し、何度も灸をすえて体調が回復したのでそれを喜んだもので、
「これから食事をしっかりとるように。また秋刀魚を送ったので味わうように」とねぎらう一方で、追伸でこんなことも書いている。
「灸が嫌いなはずなのに、それほど高熱だったと聞きましたさすがは拾のおふくろです。」
ラスボスの細やかな性格と茶々への愛情の深さがうかがえると記事には書かれていました。

85 :
 この国(筑後)の殿(田中吉政)は一般的にその発展を妨げずにいたところ、
眠ってはいけない悪魔は、その手下である数人の異教徒を通じて、
その発展を邪魔するだけではなく、殿が発した若干の言葉をきっかけにして
既にキリシタンになっている人たちを帰京させることさえ望んだ。
その言葉とは父祖の教法を変えるのは望ましくない、というものであったが、
彼らはその言葉の意味をねじ曲げて自分たちの邪な悪意に従って解釈した。
こうして、かの異教徒たちは、殿の公の役人であり、
キリシタンがいる数ヵ村を治めていたので、
既にキリシタンになっているものは回心せよとそれらの地区に布令を出した。
(中略)
 さて、キリシタンたちがこのような窮状におかれているときに、
殿がたまたま司祭たちの修道院に来て食事をし、そこにある楽器を見た。
その折、司祭に対してすこぶる愛想がよく、優しい態度を見せ、
(司祭は)彼に大いに敬意を表して厚くもてなした。
キリシタンは、自分たちがキリシタンたちに対し企んだことを殿がもし知ったならば、
よい結果にはなるまいと考えて、その悪企みを断念することにし、
キリシタンたちは自由に、平穏になり、敵たちは困惑し恥いった。

(イエズス会日本報告集1−4)

86 :
図書館ってこんなサービスしてるの?
どこでもやってる?

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179545

87 :
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)

88 :
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)

89 :
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg

90 :
>>88
これ信長の威光の話だよねw

91 :
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 :
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 :
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

94 :
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、蒲生氏郷をこの城の押さえとし、
秀吉は秋月へと向かった。

この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を
派遣した。二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、そこにはひと一人無く、食を食べた
跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。

次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを
知れる証拠も無かった。

その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り

「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました」

と報告した。

「その仔細は?」

「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、必ず足跡が
残っているはずです。」

この報告に氏郷は「見るべき所を見ている」と、褒美を与えたという。

(士談)

95 :
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)

96 :
悪い鼻スレが落ちてたので立ててみる

97 :
出来た。悪い話はこちらに

戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.sc
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1500251516/

98 :
>>97
おっつー

99 :
戦国時代の男色にまつはる佳話を是非ともお聞かせ願ひ度いものぢや。

方々、何卒よしなに頼み入り申す。

愉しみにして居りますぞ。

100 :
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』


100〜のスレッドの続きを読む
【陸奥】白河結城氏を語るスレ
武田は甲相駿同盟ではなく越後と同盟すべきだった
【陸奥】葛西氏を語る【奥州】
最も人気のある戦国武将は誰?
信長が1581年に突然死した場合の武田勝頼
歴代足利将軍を語る
武田信玄、教科書から削除される
自分の先祖が有名戦国武将だった奴いる?
【切支丹】天草島原の乱【吉利支丹】
【名将】 畠山義就を語るスレ 【戦闘オタ】
--------------------
機動戦士ガンダムオンラインPart6313
【バイオハザード】BIOHAZARD RESISTANCE【レジスタンス】 Part.11
【5千円以下】低価格実用アウトドアナイフスレ 6
☆【画像】テンプレ
禁煙の森 避難所 Part. 1
【悲報】住所を特定された高校生が受けた仕打ちが酷すぎる・・・ [875850925]
【女優】結婚発表の橋本マナミ(35)、“独身最後”の写真集発売!ビキニでエロス炸裂
ジョイフルのメキシカンピラフ
【米グーグル】ファーウェイとの一部ビジネス停止=関係筋 ★2
【医師法違反】「身元保証人」がいないと 医療機関の8%余りが入院認めず★2
【酒井健太】チョコレートナナナナイト!3枚目【矢端名結】
【サッカー】久保建英はモドリッチの控え? スペイン全国紙がレアル・マドリーの「最新序列」を掲載!
西村菜那子
☆好きなお人形5体でプロファイリングしてもらうスレ★
宮城・仙台の負け組スレッド
本間日陽と言う大人気ない事をして張り切ってる老害はなんなの????
おまえらのヤクルトの飲み方を教えろや
【江坂】北急を模型で楽しむスレ1【千里中央】
身体障害者手帳〜vol. 26
【新型】タントTanto Part17【ピラーレス】
TOP カテ一覧 スレ一覧 100〜終まで 2ch元 削除依頼