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関ヶ原合戦の真実 Part10


1 :2019/03/24 〜 最終レス :2019/08/20
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part9
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1545542228/

2 :
過去スレ
関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1518176864/

関ヶ原合戦の真実 Part7 [無断転載禁止]©2ch.sc
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1489755617/

関ヶ原合戦の真実 Part6
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1477565218/

関ヶ原合戦の真実 Part5
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1474112000/

関ヶ原合戦の真実 Part4
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1470915006/

関ヶ原合戦の真実 Part3
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1464347783/

関ヶ原合戦の真実 Part2
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1453807317/

関ヶ原合戦の真実
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1430516022/

3 :
新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い
白峰 旬 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4863669283

関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。

【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?

【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?

【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す

【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである

【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?

【終 章】すりかえられた天下取りの戦い

4 :
白峰氏の石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた

ソース
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363

文禄の役の際、講和使節の内藤如安から提示された意見書の冊封の案

日本国王、豊臣秀吉

大都督、小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家

都督、豊臣秀次

亜都督、徳川家康、毛利輝元、前田利家、小早川隆景など

5 :
豐臣家五大老連署條目

 御掟

一 諸大名緣邊之儀、得 御意、以其上可申定事、

一 大名小名深重令契約、誓帋等堅御停止事、

一 自然御喧嘩口論者、致堪忍可屬理運事、

一 無實儀申上輩在之者、双方召寄、堅可被遂御糺明事、

一 乘物御赦免之衆、家康、利家、景勝、輝元、隆景、幷古公家、長老、出世衆、此外雖爲大名、

  若年衆者可爲騎馬、年齢五十已後之衆者、路次及一里者、駕籠儀可被成御免、於當病者、是又駕籠御免之事、

   右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、

     文祿四年八月三日      隆景(花押)
                    輝元(花押)
                    利家(花押)
                    景勝(花押)
                    秀家(花押)
                    家康(花押)

6 :
豐臣家五大老連署條目追加

 御掟追加

一 諸公家、諸門跡被嗜家々道可被專 公儀御奉公事

一 諸寺社儀、寺法社法如先規相守、專修造、學問勤行不可致油斷事、

一 天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者百姓可取之。菟角田地不荒樣可申付事、

一 小身衆者本妻外、遣者壹人者可召置、但別に不可持家、雖爲大身、手懸者不可過一兩人事、

一 隨知行分限、諸寺進退可相働事、

一 可致直訴儀、於擧目安者先十人へ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、

  各別之儀候間、此六人へ可被申、以談合上、御耳へ於可入儀者。可被申上事、

  十人衆

冨田、寺西、森壱岐守、堀田若狹、佐々淡路、石田木工、片切守善、石川久五郎、山中山城守、木下與左衞門尉
  
  六人之衆

家康、利家、景勝、秀家、輝元、隆景 


一 衣裳紋、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拜領者其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、

一 酒者可隨樣器、但大酒御制禁事、

一 覆面仕往來儀、堅御停止事、

   右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、

     文祿四年八月三日      隆景(花押)
                       輝元(花押)
                       利家(花押)
                       景勝(花押)
                       秀家(花押)
                       家康(花押)

7 :
明征伐の際の書状

8 :
文禄2年1月11日付石田正澄・長束正家宛前野長泰・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛連署状

此使者昨日路次迄出候処、先手小西方より注進御座候、又黒田甲斐守・隆景より注進御座候間、重而申上候、

一 小西手前兵粮一切無御座候間、とかく在陣不相続候之処、自大明罷立候大明御詫言之儀申候付而、其取?を仕可打入支度仕候処、加藤主計先手之者越度之儀、
  
又こもかい辺相動候衆新城不被攻落手負数人出来、其外舟手之儀など、事々敷北京へ申越候ニ付而、数万人唐人罷出小西手前へ取懸候由注進候間、
  
都より一勢かせんほい迄打出隆景人数さき?押出、黒田甲斐守小西所へ可令加勢由申遣候処、今月四日より七日まで昼夜責申、七日ニ及一戦、
  
壱万計討捨候へ共、敵も不相甘、小西兵粮無之ニ付而、小早川先手城迄四日路計打入由、重而注進候間、是非も無御座候事、

一 黒田甲斐守陣所へも右付打入以前ニ三万計取懸候を切崩千三百余打捨候事、

一 甲斐守手前兵粮久御座有間敷候、隆景申談差引無由断可相動候事、

一 都ニハ先書ニも如申上候、去秋手前?苅田以下たくわへ候兵粮正月中分可有之候、其外ニ去年洛中・洛外改置候兵粮、京着之刻、
  
各扶持方卅日分請取候残、壱万四千石御座候事、

一 都有人数、宰相殿・前但・加遠・治部少輔・刑部少輔・右衛門尉此人数壱万七千之高にて御座候、跡之つなき三ヶ所、河端之城、内裏蔵相抱候ハて不叶城、六御座候、

   聊無由断普請以下申付候事、

一 自是釜山浦之間、随分此中せんさく仕、つなきの城々丈夫ニ御座候やうに仕候、此以前之分にてハ異儀無御座候へ共、加藤主計先手之者越度以来小西先手引取候間、
  
国々逆徒等つのり可申候条、無人之手前如何御座候ハん哉と存候、別ニ可相加人数も無御座候、又十日路・十五日路わきに有之人数引出候事も合期不仕候、

其上相加候ても兵粮無御座候、とかく各不罷渡以前ニ廿日路・卅日路わき?の国々へ無人ニて入すこし候故、右之分ニ御座候事、

一 隆景なとハ各罷渡候てより、道筋先手へ引出候故、先々迄路さき是ほどニも相続申候、又先手打入候ても別条無御座候事、

一 加藤主計なと遠国へとひこし入過申候間、跡々人数可被引出由、度々申遣候へ共、静謐之由申候て、不罷出候間、是非も無御座候事、

一 去年も如申上候、とかく釜山浦へ兵粮相届候やうに可被仰付事肝要ニ奉存候事、

一 此方警固之衆被仰付候へ共、今之分にてハ順風に成候者、釜山浦辺へ敵舟出候を此方警固おさへ候事成かね可申と存候、其子細ハ此方舟之内ニハ敵かこひ舟ほとの舟ハ一艘も無御座候、
  
敵かこひ舟ハこもかい面ニも打見へ候分三百艘あまりも有之由申候、又都川へ去年氷はらさる以前ニおし入候も二百艘余乗入申候間、被成御校量かこひ舟の儀をも急度被仰付尤奉存候、

一 兵粮さへ御座候者、各申合、何程唐人罷出候共、打果可申候、何も手前?兵粮無御座候、又かりそめの陣替も五日路・十日路御座候間、御人数差引合期不仕事、

一 福島左衛門太夫手前なとへハ去年以来はや五・六度も敵三万・四万にて取懸申候、度々切崩五百・三百充討捨申候へ共、敵人数ハへり不申候、此方ハ手負重く次第ニ無人ニ成申候、

道具以下も損申候事、

一 なこやへ御着座之由候間、両三人ニ一人渡海仕候て可得 御諚と存候ツれ共、此節爰元一人成共引抜罷越候儀、如何御座候条、使者を以申上候、兵粮被仰付、釜山浦ニ慥之物主急度可被仰付事肝要奉存候、
  
此以後ハ跡々つなき城間々自由ニ御座有間敷候条、御注進申上候も難相届存候、路次つなきの城一ヶ所・二ヶ所自然きれ候所御座候をも相続候ほと御人数をも被仰付被差渡候様ニ御披露肝要奉存候、

恐々謹言、

 正月十一日
     増田右衛門尉 長盛
     大谷刑部少輔 吉継
     石田治部少輔 三成
     加藤遠江守  光泰
     前野但馬守  長泰

長束大蔵太輔殿
石田木工頭殿

9 :
秀吉死後の体制に関する史料

太閤様御覚書

太閤樣被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺

一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼樣を孫むこになされ候之間、

  秀頼樣を御取立候て給候へと、被成 御意候、 大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、

一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀頼樣御もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、

  内府年寄五人居申所にて、度々被成 御意候事、

一 江戸中納言殿ハ 秀頼樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、御煩氣にも御成候者、内府のごとく、

  秀頼樣之儀、被付御肝煎候へと、右之衆居申所にて、被成 御意候事、

一 虫ト肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 秀頼樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、

  御身ニ替り肝を煎可申と被 仰出、則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、役儀をも拾万石被成御候事、

一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀頼樣之儀ハ御遁有間敷候條、御奉行五人にも御成候へ、

  又おとな五人之内へも御入候て、ゥ職おとなしく、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、

一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀頼樣之儀御取立候て給候へと、輝元へハ直ニ被成 御意候、

  景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置候事、

一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさやの躰にて罷出、双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、

  若不屆仁有之而きり候ハゝ、おいはらとも可存候、又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外ハつらをはられ、

  さうりをなおし候共、上樣へと存知、秀頼樣之儀 大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、

一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を取候而、

  秀頼樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事、

一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、

一 伏見ニハ内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハコ善院、長束大藏仕、

  何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、

一 大坂ハ 秀頼樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、御城御番之儀ハ、

  爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成御意候事、

右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、

10 :
    遺言覚書

一、内符

  利家

  輝元

  景勝

  秀家

此五人江被仰出通口上、付縁辺之儀互可被申合事、

一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ中納言御下候事

一、奉行共五人之内徳善院・長束大両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、内符惣様御留守居候事、

一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、

一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事

  以上

  八月五日

11 :
豐臣氏五大老五奉行靈社上卷起請文寫

(端裏書)
「秀吉樣御他界之以後拾人連判誓帋寫」

敬白靈社上卷起請文前書之事

一 秀ョ樣御爲存候上者、諸傍輩に對し私之遺恨を企不可及存分に事、

一 此連判之衆中に對し、誰々讒言之子細在之共、同心不可申候、何時も直に申理、可隨其に候、

  自然不相屆儀承付候者、無隔心可令異見候、事により同心無之候共、遺恨には存間敷事

一 傍輩中不可立其徒黨候、公事篇喧嘩口論之儀雖有之、親子兄弟緣者親類知音奏者たりとも依怙贔屓不存、如御法度可致覺悟事

一 此衆中之うわさあしさまに被申聞仁於有之者、則其申主をあらはし、互可申屆候、左様に無之候て、拾人之外別人を近付、

  此衆中之うしろ事あしさまに取沙汰申間敷事、

一 諸事御仕置等之儀、其輕重をけつし、十人之衆中多分に付而可相究事、

一 拾人之衆中と、諸傍輩之間にをいて、大小名によらす、何事に付ても一切誓帋取りかはすへからす、

  如此相定上、若誓紙取あつかい仕候衆に至ては其徒黨を立逆意之基眼前候條、各相談仕、曲事に可被仰付事、

一 對 秀ョ樣、誰々惡逆之子細雖有之、出しぬきの生害不可有之、其罪科之通申屆、理之上を以可有御成敗、

  縱其身にけのひ候共、其在所へをしよせ可被加御成敗事、

    以上

右條々若私曲僞於有之者、忝も此靈社上卷起請文之御罰、各深厚に可罷蒙者也、仍前書如件

慶長三年九月三日     長束大藏大輔

    輝元          石田治部少輔

    景勝          搏c右衞門尉
    
    秀家          淺野驒正少弼 

    利家          コ善院

    家康 

12 :
「七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也」
一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、

一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺へ申候事、

一 安国寺御留之事、

一 伏見・大坂之しまり之事、

一 増右より参候書状、小摂へ遣申候事、

一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、

一 同名中務太夫(島津豊久)、爰元へ召留候事、

一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、

13 :
  直江兼続宛西笑承兌書状

     豐光寺承兌書狀寫

態以飛札申達候、然者景勝卿御上洛遲滞に付而、内府樣御不審候儀不少候、上方雜説穩便無之候付、

伊奈圖書、河村長門被差下候、此段者、使者口上に可申達候得共、多年申通上者、愚僧笑止に存如此候、

香指原新地被取立、越後津河口道橋被做候段、何篇不可然候、中納言殿御分別相違候共、

貴殿御異見油斷與存候、内府樣御不審無據歟存候事、

一 景勝卿御別心無之候者、靈社之起請文を以、御申開可被成旨、内府公御内存に而候事、

一 景勝卿律儀成御心入者、太閤樣へ幷内府公御存知之事候得者、被仰分之品々さへ相立候者、異儀不可有事、

一 近國堀監物一々申上候間、御陳謝堅無之者、御申分相達申間敷哉、何篇御心中に可有事、

一 當春北國肥前守利長異儀之處、内府公順路成思食に而、無別儀思之儘靜謐仕候、是皆前車之誠に而候間、

  其元兼而御覺悟、可爲尤歟之事、

一 京都に而揄E、大刑部少萬事、内府公へ被申含候間、御申分候者、御申越可有候、榊式太へも被仰越候而、可然歟之事、

一 千萬も不入、中納言殿御上洛遲候付、如此候間、一刻も早御上洛候樣に、取沙汰可被爲計事、

一 上方に而專取沙汰之事者、會津に而武具取集候と道橋被做候との事に而候、内府公壹入、中納言殿上洛御待被成候事者、

  高麗へ御使者被遣候間、各降參被仕候者、來年歟來々年歟、御人數可被遣候、其御相談可被成候由に候間、
  
  御入洛近々可然候、其上に而、無諫意被仰分候樣に、少も早御上洛尤候事、

一 愚僧與貴殿、數ヶ年無等閑申通候得者、何事も笑止に存如此に候、其地之存亡、上杉之興廃之境に候条、

  被廻思案之外、他事有間敷候、萬端使者口上に申含候、頓首、

     卯月朔日         豐光寺
                     承兌

    直江山城守殿
          御宿所

14 :
吉川広家の三成に対しての感情を表す書状

15 :
吉川廣家覺書

  對石治少我等所存之事

一 上樣以 御諚出雲伯耆に被 下置候領地之儀、御他界之後、宰相へ渡可申旨被申出候事

一 我等女五ヶ年之間、雖在伏見候、終不致 御目見候之儀、治少以時分可申由候而打過候事

一 高麗地御付城被  仰出候刻、二三ヶ國に一城宛被仰付候、我等國者方角他國に相替候、都合八万石之領地役とて、

  とくねきと申城五ヶ年之間相拘候事、

一 大明之人數、加肥後城うる山へ罷向候時、從 上樣七人之御目付衆御相談之刻、我等所存之段、彼衆中へ得御意候事、

一 うる山河越之時致先馬、大明之者壹人我等打捕申候、此両条をK筑前存知之前に候事、

一 至高麗都大明衆相動候刻、柳川、小早川致先手候、其一戰之時、壹人我等討取候事、

一 高麗都河下に、彼國之者共、一城取付在之處に、備前中納言殿、三奉行衆并前但馬、加遠江、小攝津守其外被相動候事、

  二之丸乘崩候刻、我等被疵候、手之者共頸五ツ討取候、本丸者かこひ能御座候て持居候、左候處に、

  大刑少被罷越、我等者共可引取旨致下知、被引取候事、

一 於伏見 上樣書院之御成申上度存、五ヶ年之間石治少雖奉ョ候、終不致成就候事、

一 上樣御逝去之刻、諸大名衆に御遺物被下候、我等式者不寄存候而在之處に、有方より承付儀候間、治少へ相尋申候處に、

  失念之由候而、至其時 御太刀拜領仕候事、

一 太閤樣 御感狀之寫如此に候、此御正判國本に御座候間、於 御不審者、可奉懸 御目候事、

一 太閤樣へ中國より奉得御意候儀、㝡初K如水、蜂彦右以御取次之筋目、萬事得如水御指南申候、然者、

  右兩人近年五奉行衆よ半御座候に付而、我等身上之儀不達 上聞候事、

    以上
    
    慶長十九年十一月十一日   廣家  

16 :
会津征伐の際の兵粮

17 :
6月15日付兼松正吉宛前田玄以・長束正家・増田長盛連署状

急度申入候、
一 会津表各出陣之定日従関東可被仰出候条、七月十日以前ニ被罷立儀者無用由候、急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事

一 於先陣軍法之儀、何様ニも内府様御下知次第ニ可被相働旨候、被背御下知自然心々ニ被相候者、可為越度事

一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫ニ被遣候上者自賭ニ可被申付旨候、為御目付御使番衆所々ニ被置候間、若下々非分之族有之者、

其主人可為越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、

六月十五日    増右     長大     徳善
           長盛     正家     玄以

金松又四郎殿
         御宿所

6月25日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状

今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人・馬三疋事、如帳面兵粮・馬飼料?可被計渡候、若雨降於逗留者、応日数可被相渡候、

則右米・大豆 公儀御算用ニ可被相立候間、其主人請取を可被取置候、恐々謹言、

六月廿五日       長大     増右    徳善
              正家     長盛    玄以

草津(近江)にて二日分
      新庄東玉(直忠)
      駒井中務(重勝)殿

亀山(伊勢)にて二日分
     岡本次兵衛殿

あつた(尾張)にて二日分
    羽柴左衛門大夫(福島正則)殿

すセ(三河嵩山(すせ))にて二日分
    田中兵部太輔(吉政)殿

見付(遠江)にて一日分
    堀尾信濃守(忠氏)殿

島田(駿河)にて一日分
    山内対馬守(一豊)殿

駿府(駿河)にて一日分
    中村式部少輔(一氏)殿

神原(駿河蒲原)にて二日分
    同人

18 :
毛利家臣が企みを聞かされた時の心情を表す書状

毛利氏老臣連署狀

  以上

態得御意候、今度安國寺出陣に付而甲州迄被罷出候處、石治少、大刑少手前如何被見及候哉、大坂被打歸候、其上、

輝元存候而被呼戻候樣被申廻、無是非次第に候、於此条者、輝元且而以被存間敷よ存候、於各々も不審千万に候、

此段被聞届候者、定而御理雖可被申達候、自廣嶋被申入候者、可爲遲々候条、先爲御分別、御旁々樣迄、爲留守居之者共、

前後之首尾、以飛脚申入候、追々爰許之樣子、至廣嶋申遣之候条、案外之仕合可被致仰天候、猶重々可得貴意候、恐惶謹言

    七月十三日 u田玄蕃頭
             元
          熊谷豐前守
             元直
          完戸備前守
             元次

吉川廣家自筆書狀
  
  以上

去五日、雲州罷立、至幡州明石罷着候處、安國寺於江州石治少、大形少手前見及子細候哉、大坂罷歸候て、

我等事も可相(てへんに只)由申候条、昨日罷着候、然者右御兩所御企承、驚入候、殊更安國寺自輝元被呼歸候樣申廻候段、

無是非次第に候、於輝元は、前後存間敷よ不審に存計候、爰許之樣子、留主居之者共、至廣嶋に申遣候、頓而可有到來候間、

追々可申上候、此由御心得所仰候、恐惶謹言
           
                         吉川藏人

19 :
内府ちかひの條々

一、五人の奉行、五人之年寄共、上巻之誓紙連判候て無幾程、年寄共之内弐人被追籠候事

一、五人之奉行衆内、羽柴肥前守事、遮而誓紙を被遣候て、身上既可被果候處ニ、先景勝爲可討果人質を取、追籠候事

一、景勝なにのとかも無之ニ誓紙之筈をちかへ、又ハ大閤様被背御置目、今度可被討果儀有間敷存、種々様々其理申候へ共、

   終無許容被出馬候事

一、知行方之儀、自分ニ被召置候事ハ不及申、取次をも有るましき由、是又上巻誓紙之筈をちかへ、忠節も無之者共ニ被出置候事

一、伏見之城、大閤様被仰出候留主居共を被追出、私ニ人數被入置候事

一、拾人之外、誓紙取やりあるましき由、上巻誓紙ニ載せられ、數多取やり候事

一、政所様御座所ニ居住之事

一、御本丸のことく殿守を被上候事

一、諸侍の妻子、ひいき?ニ候て、國元へ被返候事

一、縁篇之事、被背御法度ニ付て、各其理申、合點候て、重而縁?不知其數候事

一、若き衆ニそくろをかい、徒黨を立させられ候事

一、御奉行五人一行ニ、一人として判形之事

一、内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事

右誓紙之筈ハ少も不被相立、大閤様被背御置目候へハ、何を以たのミ可在之候哉、如此一人宛被果候て之上、秀頼様御一人被取立候はん事まことしからす候也、

慶長五年
   七月十七日

20 :
岐阜攻め前後までの西軍諸将の書状

21 :
六月十日付安田能元・甘槽景継・岩井信能・大石元網・本庄繁長宛上杉景勝書状

今度上洛不成様子、第一家中無力、第二分領仕置之ため、秋中迄延引之趣、奉行衆へ令返答之処、重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、

向当郡可被及行之旨候、就之存分雖有之、元来無逆心筋目之条、 抛万事可令上洛覚悟落着、併読人糺明之一ケ條申入候処、

無是非只不相替上洛与計有之而、剰日限を以催促如此被押詰、上洛之儀者如何としても不成候、数通之起請文反古ニなり、

堅約も、好も、不入讒人之糺明も無之躰、時刻到来無二思詰候条、譜代・旧功牢人不依上下、右之趣、無拠分別仕候者ハ、

供之用意可申付侯、自然、無分別を以、理不尽之滅亡被述懐を存候者ハ、何者成共無相違可出暇候、然者、上方勢下候日限聞届次第、

半途へ可打出候、諸口之儀ニ候条、領分端々被押破、 地下等心替可仕義必然候、其時節、或在所を無心元存知、

或妻子ヲ難捨心中候者、当座之不覚末代之名をくたすへく候条、兼而肉を切而、可存是候、内々無疑心仕置無二奉公存詰者之糺明直ニ申出候者、

人ニより遠慮可有之候条、各以分別急度可被相究者也、

六月十日        景勝

安田上総介殿

甘槽豊後守殿

岩井備中守殿

大石播磨守殿

本庄越前守殿

22 :
中川秀成宛西軍首脳書状

前田玄以等連署狀

 態申入候

一 去十七日折紙幷一書を以申入候、定而可相屆候、内府上樣被背御置目、上卷誓帋之筈を被違、

  恣之働に付而輝元、秀家、羽兵庫、年寄衆中申談、 秀ョ樣馳走被申、取立申可に相究及楯鉾候、

  其方儀太閤樣御恩賞不被相忘候者、秀ョ樣へ御忠節此時候事、

一 濃州之儀岐阜中納言殿、稻葉右京、大柿、犬山悉秀ョ樣忠節可被申に相究、人質進上被申候、

一 勢州之儀、桑名氏家内膳在城、爲加勢原隱岐被遣候、亀山岡本人質進上申、爲加勢池田伊與守、

  濱民部被差越候、~戸羽柴下総在城、津城、松坂、岩手何も御人數被入置候、勢州丈夫に御置目相澂候事、

一 輝元御人數弐萬餘勢田、守山之間に陣取、何之口へ成共東國より罷上候者可差向之由候、備前中納言殿、

  筑前中納言殿醍醐、山科、大津へ取續御陣取候、

一 大坂大小名共に人質丈夫に御卜、其上妻子、番等堅申付候事、

一 其方儀慥之留主居被申付、人數被召連早々可有御上候、此時候間、可被抽粉骨候、然者外聞可然樣に馳走可申候、

  恐々謹言

                 長大
 七月廿六日          正家
                 揄E
                   長盛
                 コ譱
                   玄以
 中川修理殿
     御宿所

島津義弘宛大谷吉継書状

態令啓達候、昨晩者被召寄、種々御懇之儀共誠此中候、散窮屈忝奉存候、以外大御酒を被下、于今ふせり在之事候、

今朝者早々預御使者、過分至極に存候、自是も早速可申上處、沈醉故御報迄に罷成恐入候、先爲御禮企一札候、

尚追々可得御意候、恐惶謹言

  七月廿九日                白頭(黒印)

             大刑少   
  羽兵入樣         白頭
     人々御中

23 :
真田親子宛三成書状

去廿一日に両度之御使札、同廿七日於江佐に到来、令拝見候

一、右之兩札之内、御使者持參之書に相添覚書幷御使者口上得心事

一、先以今度意趣、兼而御知も不申儀、御腹立無餘儀候、然共内府在大坂中、諸侍之心いかにも難計に付而、言発儀遠慮仕畢、

  就中貴殿御事迚公儀無御疎略御身上に候間、世間如此上者、争ととこほり可在之哉、いつれも隠密之節も申入候ても、

  世上不成立に付ては、御一人御得心候ても無専儀と存思慮、但今は後悔候、御存分無餘儀候、然共其段も、も志や不入事に候、

  千言万句申候ても、太閤樣御懇意不被亡思食、只今之御奉公所希候事

一、上方之趣、大方御使者見聞候、先以各御内儀かた大形少馳走被申候可御心安候、揄E、長大、コ譱も同前に候、我等儀者、使者如披見候、
  
  漸昨日伏見迄罷上躰に候、重而大坂御宿所へも人を進之候而御馳走可申候事

一、今度上方より東へ出陣之衆、上方之樣子被承、悉歸陣候、然者於尾、濃令人留、歸陣之衆一人一人之所存、永々之儀、秀ョ樣へ無疎略究仕、歸國候様に相と候事

一、大略無別条、各々無二之覺悟に相見候間、御仕置に手間入儀無之候

一、長岡越中之儀、太閤樣御逝去巳後、彼仁を徒黨之致大將、國亂令雜意本人に候間、即丹後國へ人數差遣、彼居城乘取、親父幽齋在城へ押寄、二の丸迄討破り候之處、
  
  命計赦免之儀、禁中へ付而御侘事申候間、一命之儀被差宥、彼國平均に相濟、御仕置半候事

一、當暮、來春之間、關東為御仕置可被差遣候、仍九州、中國、南海、山陽道の人數、既八月中を限、先江州に陣取幷来兵粮米先々へ可被差送之御仕置之事

一、羽肥前儀も 對 公儀毛頭無疎意覺悟に候、雖然老母江戸へ遣候間、内府へ無疎略分之躰に先いたし候間、連々、公儀如在不存候条、
  
  各御得心候て給候へとの申され分に候事

一、ヶ条を以蒙仰候處、是又御使者に返答候、又此方より条目を以申儀、此御使者口上に御得心肝要候事

一、自此方三人使者遣候、右内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返可被下候、殘弐人は會津へ之書狀共遣候条、其方より慥かなるもの御そへ候て、

ぬまた越に會津被遣候て可有候、御在所迄返事持來歸候者、又其方より案内者一人御そへ候て上着待申候事

一、豆州、左衞門尉殿、以別帋雖可申入候、貴殿御心得候て可被仰達候、委曲御使者可被申伸候

  恐惶謹言 七月晦日 三成
  
  眞房州
    御報

24 :
真田親子宛大谷吉継書状

25 :
眞田安房守       白以

左衞門佐殿

大坂より

猶以此方之儀、大坂いかにも丈夫に人質を取かたまり申候、伏見之城へは嶋津、輝元、備前中納言殿、小西御鐵炮、弓衆今日取寄候、

無程のりくづし可申候、此已後は留主御氣遣有間敷候、伊豆殿女中改候間、去年くたり候時、左衞門佐方へくやみ候樣子迄を

證跡に申無別儀候、豆州へも不苦候はは、御心得候て可給候、左衞方へは東海道うつの宮へ出合候樣、さわ山より兩吏くたし申候、

天下泰平無此上候へ共、御兩所の御事、心かかり不及是非候、以上、

大坂御留守より飛脚被差下由候間、申入候、

一 内府去去年已來御仕置 太閤樣御定被背相、秀ョ樣御成立難成由候而、年寄衆輝元、備前中納言殿、嶋津此外

  關西之諸侍一統上を以御仕置改申候事、

一 去十七日に西丸内府留主居理にて出し、輝元被移候事、

一 出陣之諸侍妻子御年寄衆より被相卜候、御兩所之御内儀、我之預分に仕候事、

一 内府置目御ちかへ、十三ヶ条書顯候、諸人存知に付中々無不審體候事、

一 何方に御在陳候共、右趣御分別候而、秀ョ樣御身捨有間敷事肝要候、倂御居住の所により、かぶりのふられざる仕合可在之候、

  此返事に御内狀を可給候、御年寄衆へもみせ申候樣に調可被下候、委曲御年寄衆よりの觸狀条目可被進候、

  萬々御左右待申候、恐惶謹言、

  七月卅日                  白以

26 :
8月1日付青木一矩宛石田三成書状

尚以小松表之儀切々御注進尤候、ふかと相働に付て、拙者人数つれ、不寄時日懸付、可有一戦候間、御気遣間敷候、

何時も可申便候、追々可得御意候、以上、

去月廿八日御飛札、今日朔参着、於大坂拝見候、拙者儀昨日当地着候、仍小松表之様子承候、令得其意候、

定為差働ニても不可在之候、?各令談、小松へも御加勢、其外大聖寺、丸岡、其他何へも御加勢可在之候、

相究御書立候条、頓て御人数可被差遣候間、於様子者、可御心安候、其上何時も拙者懸合可申候間、被成御気遣間敷候、

将亦、今日伏見城本丸へ悉乗入、西丸何茂焼失候、こほり落候者共数多討果候、殿主も悉焼亡、

加様早速相済候儀、天命難遁儀と存事候、猶小松表之様子、追々御注進尤候、恐惶謹言、

八月朔日         石治部三成
   青紀伊様
       御報

真田宛西軍首脳書状

急度申入候、太閤樣後不慮以来、内府被背御置目、上卷誓帋被違、恣之働無是非次第に候

殊更今度景勝可被相果段、不謂儀に候間、種々理申候へ共、無同心下向、如此之上、

秀ョ樣可被取立、非所行候之間、各申談、守御置目、秀ョ樣御馳走之為可申、上方之儀一篇に相固、

御仕置申付、關東へ罷立候衆も妻子人質於大坂相究候間、不可有異儀候歟、勿論上方在京在國之衆は、

何樣にも、秀ョ樣へ御忠節可申上由、無二之覺悟に候、就之伏見之城在番に關東二千計在之間、

卽時に諸手より乘崩、大將鳥居彦右衞門始候て、一人も殘討果候、誠以天罰與申事に候、

次丹後之事、羽柴越中兄弟餘多在之内、壹人秀ョ樣へ御目見をも申させす、悉召連關東へ罷立候、

其上御忠節も無之に、新知召置候段、不相屆儀候間、人數を遣城々何も請取、田邊之城町二ノ丸焼崩押詰仕寄候て、

堀際迄責詰候、落居不可有程候、其表之儀堅固の被仰付、秀ョ樣への御忠節此時候、

左候者各々被相談、御外聞も可然樣に可申談候、恐々謹言

八月二日  長大正家
      
      揄E長盛
      
石治三成
      
コ譱玄以
    
芸中輝元
    
備中秀家
 
眞田安房守殿 
御宿所

27 :
松井康之宛西軍首脳書状

28 :
急度令啓候、内府去々年已來、太閤樣被背御置目、上卷之誓紙を被違、恣の働付而、今度各申談、

及矛楯候、關東之儀も伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝申合、色を立候に付而、

則八州無正體事候、上方より罷立候衆も、妻子人質於大坂相究候故、是又懇望候、

就其越中方之事、大勢兄弟之内、壹人秀ョ樣へ御目廻をも申させす、悉關東へ罷立、

其上何之忠節も無之、新知召置候儀、不相屆に付而、丹後之事城々悉請取、田邊一城町二ノ丸まで令放火、責詰仕寄申付候、

落居不可有程候、貴諸之事、太閤樣別而被懸、御目、知行等まで被下候間、秀ョ樣へ御忠節可在之義候、

於樣子者太田美作守方へ申渡候て差下候、其郡之事、速可被明渡候、何かと候ては不可然候、恐々謹言

八月四日  長大正家
      揄E長盛
      石治三成
      コ善玄以
  松佐 御宿所

真田宛三成書状

巳上 態申入候

一、此飛脚早々ぬまた越に會津へ御通し候て可給候、自然ぬまた、會津之間に他領候て六かしき儀在之候共、

  人數立候て成共、そくたくに成共、御馳走候て御通しあるへく候

一、先書にも如被申候、貴殿事早々小室、ふかせ、川中嶋、すわの儀、貴殿へ被仰付候間、急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事

一、とかく物主共城々へ不罷歸御才覚肝要に候事

一、會津へも早々關東表へ御行被仰談、行に可被及之由申遣候、貴殿よりも御入魂候て、可被仰遣候事

一、從越後も無二に秀ョ樣へ御奉公可申旨、申越候間、妻子も上方に在之事候条、僞も在之ましく候、羽肥前儀、母江戸へ遣故候か、

未むさとしたる返事候、剩無二に上方へ御奉公と申羽柴五郎左へ手前へ人數を出候間、自越後越中へ人數可被出申越候、定相違有間敷候事

一、關東へ下上方勢、漸尾三内へ上り、御理半に候、それそれに承候儀究候て相濟候事

一、先書にも申候伏見之儀、内府爲留主居、鳥居彦右衞門尉、松平主殿、内藤弥次右衞門父子、千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、

当月朔日午刻、無理に四方より乘込、一人も不殘討果候、大將鳥居首は御鐵炮頭すすき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、やきうちにいたし候、

鳥居彦右衞門尉は石垣をつたい、にけ候よし、誠かやうなる儀、卽座に乘崩候段、人間之わさにて無之と各申合候事

一、先書にも申候丹後之儀、一國平均に申付候、幽齋儀者一命をたすけ、高野之住居之分に相濟申候、

  長岡越中妻子は人質に可召置之由申候處、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、大坂の家に火をかけ相果候事

一、備之人數書、爲御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀、公儀有御奉公、國数可有御拝領儀、天之あたふる儀候間、御由断在之間敷候事

一、拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人數出候、s左太只今御理申半に候、於相濟者、參州表へ可打出候、もし於不濟者、C洲へ勢州口一所に成候て、

可及行候、猶言事可申承候、恐々謹言

八月五日   三成
  眞田房州
  同 豆州
  同 左衛門介殿
      人々御中

29 :
真田宛三成書状

30 :
去三日之御狀今六日子刻至佐和山參着、令拜見候、

一 先書に度々申入候、參着如何、其國一ヶ國之仕置責取に被仰付之旨、輝元、秀家、揄E、長大、

  コ譱從拙者可申遣旨被申候間、其心得而深志、河中嶋、諏訪、小ゥ、甲州迄之儀、成程弓矢御才覺可被仰付候、

  何も上方に妻子有之衆に候間、不可有異儀候、若愚之意方者、押付成敗有之可有配領旨相談之上被申定候間、

  其旨可被仰付候、被移時日候而者其詮有間敷候、但餘御手候衆者此方に可承候、美濃衆可被差向儀候、

  羽右近儀者各別之遺恨、其故者御若輩之 秀ョ樣を申掠新地拜領曲事よ被仰候事候、

一 會津被越候飛脚可被仰談儀肝要候事、

一 越後之儀者堀久太差執心無之候条、上方缺國多候間、越後者被遣景勝、久太上方に而拜領の樣有搆、

一 河中嶋儀者御手に餘に付而者可承候、從此方被仰付方可有之候、

一 前肥州江戸に老母幷家老人質に置候故歟、其補ひとての事に候哉、于今慥に御請をも不申、剩丹五郎左へ出人數等と申付、

北國へも如形被遣御人數候、堀久太上方へ無二之覺悟候、越後筋に候間、越中に亂入候得よ申遣候事、

一 丹後國之儀者一國平均所務半申付候、幽齋事色々懇望に付赦一命流罪候、息越中事故御法度被誑内府、

御若輩之 秀ョ樣を申掠取新地候故遺恨深候、被か妻子居大坂候つ、焼討に被申付候事、

一 先書にも申候、大坂西丸に家康留主居之者五百餘居候を追出して遣伏見城、西丸に者移輝元候、其已後伏見城鳥井彦右衞門大將に而手八百餘人置候、

各申談、去る朔日從四方乘破不殘壹人討取、城中御殿此間雜人原踏荒候間、悉火を懸一字も不殘焼払候事、

一 内府上杉、佐竹敵に被任、僅三萬之人數を持、分國抱十五城、廿日路被上事成物候哉、路次筋之面々今度出陣候上方衆如何内府次第よ申共、

廿年已來 太閤樣之御恩を内府去年一年懇切に相替、 秀ョ樣へ如在仕、剩大坂に差置たる妻子を捨可申候哉、

其上内府此中各へ差而懇も無之と承候、右之分別も無之衆之壱万、上勢壱万計を語ひ候半を尾、參之間に而可討取儀誠に天之與に候、

然者會津、佐竹、貴殿等者着袴可有亂入存候、但被捨天道仕置見之候間、被上候事も可有候、唯今進候備如左右被相究候事、

一 載此書立候衆何も無二之覺悟候、可御心易候、日本國之諸侍之妻子入置大坂候間、於仕置可御心易候、

免角愚意違背之輩可被討取覺悟專要候、此方爲仕置明後八日尾州表へ被出候、岐阜申談候、不可有御氣遣候、

一手之筑紫衆者殘置佐和山、用次第可被打出候、尾州表へも輝元之人數壱万計吉川、安國寺召連、長大同道に而昨日被打出候、

其外勢州表書立次第に候、鈴鹿越を被打出、輝元之儀者、自然家康被上候者、濱松迄被着候時分人數弐万召連至勢州出馬可仕相定候、

此書立之人數五三日已前に悉從國々馳上相知候、於仕置者可御心易候、其上金銀、玉薬料入候者可承候、從 秀ョ樣可被遣候、

太閤樣御貯之金銀幷闕地何も御忠節次第其々に可被下候、今度伏見表手柄仕置九州衆、内府江州之地行十万石令割符、

當座之引出物金銀に添感狀被下候、

一 定而可被聞召候、水野和泉守參州池鯉鮒に居候處に、加々井弥八郎よ申者出陣仕立寄致口論、弥八郎刺殺和泉守、

帯刀者新池を取候仕合よ相違候、中式も病死候、猶吉事切々可申承候、御用無之共可預御飛脚候、御内儀方大坂に御入候、

一段無事に候、宇多河内父子當城爲留主居今日當地へ被參候、下野事先日責伏見候節、被取合候而家中之者少々手負得共、

父子共に無事に候、可被御心易候、今度九州衆不大形 秀ョ樣へ御奉公振に候、抛命無二之體に候、輝元も同然に候、恐惶、

                           石田治部少輔

       八月六日

        眞田安房守殿

31 :
真田宛三成書状

去五日之御狀、今日於濃州大垣令拜見候事

一、度々爰元之様子、其地之儀申越候、未無參着候哉、只今の御書中無御心元候事

一、羽久太儀、何樣にも秀ョ樣次第と度々到來候間、羽柴肥前老母幷家老之人質、江戸へ遣取、未御事請不申、剩加州小松表へ人數を出なとと風説候条、

急度越中へ亂入可在之旨度々申遣候、定而早々被面へ可及行候事

一、石玄番事は大坂に妻子其上兄弟在之事候間、致推量に公儀慮外難成身上候間、石備前を以巨細申候き、定而別条在之間敷歟難計事

一、羽右近事、定而兎角に内府儀無二に可存候、新知拜領候、其上上方に妻子一人ならて無之、菟角貴所より早々可被及御行事

一、石玄事も濟候へは能候、不濟候はは、是又其方より可被御行候、越後より之道明候へは、會津へ之通用共に自由候事

一、信州之儀は不及申、甲州迄も貴所御仕置可在之旨、輝元をはしめ各被申候事候、拙□より能申候へとの事、此段先書に申候、

早々人をも御拘候て、方々へ之御仕置此時候、拙子儀しかと濃州に在陣候、長大勢州に在陣候、此口之儀、家康ほとの者十人上り候共可御心安候

  討果候より外他事不可在之候、今度關東へ罷立めんめん、尾、參州の間に集居候て、懇望申族も候、又江戸にて人質をしめられ、致迷惑族も在之事候、

味方説に申候哉らん、家康急度上るなとと申成候由候、あわれ上り候へかしと念願迄候事

一、菟角早々會津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、不及申候へ共、國ならひにて物のそかどを申方□候間、

如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、物やわらかに、彼方気に入候樣に被仰越、御入眼此時候事

一、先書にも如申、伏見之城、家康留守居鳥居彦右衞門をはしめ七頭歟千八百餘殘置候處、

  此時宜候間、關東へ明退候へと申候へ共、りくつ申候間、去朔日四方より乘入、

  一人も不殘討果候、鳥彦右首は御鐵炮頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雜人はらふみけがし候間、

  不殘焼払候、大坂の儀も西之丸に人數五六百ほと殘置候を追出、伏見へ追入、輝元被入替候、

  是又伏見にて同然に討果候、伏見にて各手を砕乘崩候、九州なとの衆別而手柄を被仕候、

  大坂には揄E被居候、輝元も在城候、伏見にも六七千にて、掃除、普請以下申付候、

  然間京都、大坂静に候、勢州江安國寺、吉川壱万餘召連、長大同道にて罷越候、尾、濃へは拙子罷越候、

  嶋津其外九州衆佐和山へ被參候、人數入次第、尾、濃之間へ可打出候、丹後之事はや一圓平均に申付候、

  幽齋事可被成敗に義定候處、自 叡慮色々被 仰出、命之事相助、九州中流罪之體候、則諸方へ之備書立進入候、

  此備書立之内に在之面々□、無二 秀ョ樣可抽忠節覺悟候、せいしにまて相究候、此外先手に在之衆、

  書此立に不乘衆も可在之候、右之段先書に雖申候、不相屆候哉、又申入候、恐々謹言

  八月十日  石治少三成
    眞田安房守殿
    同左衛門尉殿  御報 

32 :
佐竹義宣宛三成書状

33 :
追て、來春は、頓て御上洛可被成候間、被御禮仰上可然奉存候、無御油斷御用意專一に奉存候

去月廿三日に其地を罷立候飛脚無異儀大坂へ罷着候、同月廿六日之御狀も於江左拜見、此飛脚大坂へ罷通候、而歸遣候節可申候事

一 内府日來之恣之仕置狼藉、追日曲事之次第有之付て、此備書之面々申談、可打果議定候、大坂西の丸留守居、

五百計殘置候を追出し、伏見之城へ追入、伏見には、鳥井彦右衞門大將にて千八百餘籠置候、大坂西の丸へは輝元被移候事、

一 伏見之城に、右之者共置候へは、不濟事に候間、去朔日四方より乘入、籠居候者、壹人も不殘打果而、

殿中此間雜人原ふみちらし候間、一宇も不殘焼捨候事、

一 長岡越中、若輩之 秀ョ樣を申掠新知行拜領候間、曲事無是非次第候、依之丹後國へ人數被遣一國平均に申付候、
  
幽齊居城に楯籠候を可討果に議定候共、禁中より命之儀赦免任叡慮一命被免候事、

一 眞田事、無二に京家次第と被申候間、信州之仕置彼人に被仰付候事、

一 羽玖太も無二京家次第と被申付而、早々越中へ可被亂入之由申越候事、

一 羽肥前事、老母家老人質に江戸に遣に付而、未た慥之御請を不申、剩加州表へ被動候、定而江戸へ之

おきのいたるへく候歟、兎角曲事に候間、此口へも御人數如此被差向候事、

一 日本國諸侍妻子、大坂に申置候間、此段可御心易事、

一 會津よりも度々到來に候、伊達最上相馬、何も入魂被申由候、其國之儀勿論會津必可爲御入魂候旨、

被仰談、家康可被討果御行此時候事、

一 萬か一も家康うろたへ候て上候はは、尾州參州之間に而討果儀案中に候、然間參口被遣御人數備、書立、爲御披見進候事、

一 右之書立にはつれ候者は、多分今度其許へ出陣候衆に而候、漸尾州へ遁上、御理申半よ存候、

  然共後々迄之究、それそれに申付候、人々より歸國之儀申付候、於仕置者可御心易候事、

一、爲仕置輝元人數壹萬餘、先吉川安國寺長束大藏同道に而勢州へ一昨日出陣候、輝元儀は濱松邊へ出陣、

  家康上着之刻三萬召供出連、可上候に相定候、其外勢州へ一手向之人數すすか迄とし、次第次第にくり出候之事、

一 我等事、尾濃境目之爲仕置、尾州衆表一昨日八日に罷出候、岐阜衆と申談事候、九州衆は佐和山に

  殘置人數入次第可打出候申事候、尚追々可申入候、恐惶謹言

  追而水野和泉、家康おちに候、それさえ出陣之刻、彼居城參州ちりうにおゐて馬廻かかの井弥八と申者と口論いたし、

  弥八和泉を切ころし、堀帯刀其座に在合、痛手を負い相果候、新地を取候仕合に相違、中式少も痛死候、以上

  八月十日              石治少
                       三成
  義宣

    御報 

34 :
島津忠恒宛義弘書状とその追伸

35 :
  嶋津惟新書狀

猶々内府公より貴所へ預候之鷹、ここもと陣立に付而、取亂候間、幸山路市兵衞尉罷上候条、下申候、

將又帖佐方之人衆定上候、自然濱市、かこしま之人衆同然に罷立候へなとと候ては、可致遲遲事可在之候、

帖佐之人衆者今程過上御座候条、盛にては罷成ましく候、伊勢平左衞門尉、本田六衞門尉兩人として、

人衆すすめ候て、早々可差上よし○被仰候而可給候、

七月廿九日之書狀、八月十七日濃州至垂井上着、令披見候

一 龍伯樣御上洛之儀被聞召合之由、御尤に存事候、然者被成御上洛。かみ樣へ御替候はん哉と申越候も、

  世上靜謐之時分、内府公御意候条右之分申越候っ、當時者上方之成立諸式被成改易候条、于今者龍伯樣御上洛之儀不入儀候、

  委細先書に申下候条可相屆候、

一 去春已來伏見御留主番に付而、人衆可被差上由數度雖申下候、無合點候哉、終に壹人も不被差上候、千萬無心元存候、

一 今度上方就轉變、前嶋太郎兵衞尉差下樣子具に申越候、雖然、御人衆被差上候之共、又者被上間敷とも否之返事無之、

  大方成 御文體に候、畢竟太郎兵衞尉若輩故委細不申屆候哉、不審深重に存事候、連々御家中より在京之人衆七千人之御盛、

  兼日相定由及承候条、先甚内半分と存、三千五百程急度可被差上由前嶋太郎兵衞尉を以申越候き、此如申下候樣子者、

  御國元之儀も心遣存候ての由事候、然處九州衆過半被成在京。當時  秀ョ樣御用に被相立候、在國之衆者皆々被召上候、

  其上分國よりも御人衆馳走可仕由被仰聞候間、其後申越候は、㝡前三千五百人可被差上由雖申下候、他國なみの儀候間、

  有樣之軍役被仰付肝要之由細々申下候、然者此度之御書中、何方とも無一着遠慮之體と相見得申候、

  定於御心中者、別儀有間敷候へ共、何としたる御事候哉、無心元存事候、

一 今度之御使、態上方亂入之體被及聞召、被差上候御札候之条、上方之行、御國元之仕置、旁被入御念被仰越候へ者、

  愚意も又在之儀候、然處一着之樣子も無御座、一段大方成書面無心元事深重に存候、

一 秀ョ樣御奉公と申、御家御爲と申、拙者儀一命を捨可申事覺悟之前候、然間不顧恥辱御奉行中任御下知、

  濃州垂井と申在所迄出陣仕候、當分在京之人衆はかこ嶋、冨隈、帖佐役人存知之前候条、人衆付今度差下不申候、
  
  伏見御城攻に手負死人多々御座候間、彌無人共、中々可申樣無之候、今申分成共、御人衆被仰付、早々可被差上事、

  且 秀ョ樣への御忠節、且御家之御爲、旁以御分別此時候、必拙者へ御見次申事にては會以無之候、

一 御奉行中へ書狀認可申由候て、判紙二まい慥かに上着申候、雖然此度上方就物忩、御人衆可有御馳走共、

  又者上せ有間敷共、更に御書中に相見得不申候条、書可申樣雖無御座候、餘無音に罷成候、又爰元成合次第と承候条、
  
  後日之首尾を不存候へ共、書狀調申候、案文差下申候、

一 内府致御供被罷下候上方之人衆幷井伊兵部、榊原式部東國之人衆引率、尾州至C洲上着之由申來候間、

  定近々可被及一戰候、然時者再書可進之事不存儀候条、不遺胸懷申達候、

一 出水表之儀定可為不番候之条、被添御心候而可預候、將又肥後表之御人衆此度之覺悟何程に御座候哉、

  無申迄候へ共、可被聞合事肝要候、不可有御由斷候、

一 此書狀長文にて候条、御六ヶ敷被思召候共、よくよく被御覽屆候而可預候、恐々謹言
  
  八月十九日   惟新

  少將殿
    まゐる

  嶋津惟新書狀

 追而申候

一 判紙二まい被差上候条、書狀調候而、御奉行兩人へ進入申候、石治少老へは判紙不參候間認不申候、

  何も重而人衆可被成馳走も、又者馳走有間敷候者、其理急度被仰分候而、書狀可被上事肝要候、

一 長宗我部殿人衆之事、二千之軍役而候へ共、此度之御忠節に候と被仰、五千めしつれ被罷上候、是又為御心得候、

一 K田加兵衞尉上着之砌、被仰上候誂物之事、具に承屆候次第に調させ差下可申候、然者内府公より貴所へ御給之刀可被上由被仰越候、

  一段祝着申候、今度之御弓箭はれかましき儀に候へ共、然々之かたな所持不申候条、急度御上せ候而可給候、恐々謹言、

  八月廿日   惟新

  少將殿
    まゐる  

36 :
本田正親宛島津義弘書状

  嶋津惟新書狀寫

「御文庫四拾八番箱中」

猶々出水之儀者國堺之儀候間、惣別在國之人衆は彼表へ在番可申付候、其外衆中氣任無之樣に連々之置目稠可申付儀專一候、

乍勿論貴所事者在國候而、諸式可申付事肝要に候、將又長宗我部殿事者惣別人數弐千人之御盛而候へ共、

秀ョ樣へ爲御馳走五千人被召列、近日勢州へ着陣之由候、立花殿事者千三百人之御盛而候へ共、是も爲御馳走四千人召列、

今日爰元に上着之由候、餘國如此候處、さつまの仕立僅千人之内而爰元を仕舞候事、幾度申ても無面目次第難載筆紙候、

然者中書事は、此方より佐土原へ注進候てより人數早當陣上着候、然處出水、帖佐兩役人として一到來無之事更以無心元候、

幸便之条申越候、仍上方忩劇之由度々申下候、定而可相屆候、然者關東與京都之御弓箭而候条、尾州と濃州之堺を隔防戰候、

就其拙者事も御奉行中任御下知、濃州垂井與申在所に着陣候、當手之人數も伏見城攻に手負死人多々候条、

彌無人而晴かましき出陣、手前之迷惑さ各推量之外候、殊近日者 内府公御供候て、東國へ下向候上方之人數幷井伊兵部少、

榊原式部少、東國之人數を引卒、至尾州C洲上着候由申來候、定近々可被及一戰候、重々申下候やうに帖佐より之續衆、

分限、少分限を不謂、可有心人數者可罷上事此時候、能々無由斷可申付候、於巨細者旅菴可申候之間閣筆候、恐々謹言

   八月廿日                惟新

     本田六右衞門尉とのへ

37 :
八月二十五日付長束正家・増田長盛・石田三成・前田玄以・毛利輝元・宇喜多秀家宛上杉景勝書状

38 :
一 太閤樣御不慮已來、内府被背御置目、被違上卷誓帋、恣之仕合故、各被仰談、被立御置目、秀ョ樣御馳走之段、肝要至極存候事、

一 日本國諸侍妻子人質、大坂に被召置に付而、無二忠信之覺悟被仕候由、御尤候、彌堅固之御仕置たるへき段、令校量候事、

一 伏見之城在番之關東勢、早速被仰付、爲始鳥井彦右衞門、悉討果之由、誠天罸不淺存候事、

一 羽柴越中、条々罷違に付而、丹後被召上國平均に被仰付之旨、珎重に候事、

一 當表之儀、如蒙仰、去月廿一日、内府江戸を被打立、廿六七時分白河表發向儀定之處に、上方變化之樣子に動轉、悉敗軍候、

  内府者今月四日に小山より江戸へ被打入候、則關東表可罷出處、最上、政宗見合、慮外之軆候条、急度申付、奧口相濟、
 
  關東一三昧可仕候、只今卆爾に關東表及調儀、奧口蜂起候へは、手成見苦候条、右之分候、但内府上洛儀定に候者、

  佐竹令相談、抛萬事、關東亂入之支度、無油斷候条、可御心安候事、

一 南部、仙北、由利中之面々、 秀ョ樣へ御奉公可申上由、此方へ使者到來候事、

一 越後之儀、江戸へ人質を出、無二内府一味之軆に候条、一揆等申付、少々人數をも遣、可討果由存候處、 秀ョ樣へ無二忠節之段、

  就中越中口動等被仰付之由候条、羽久太へも令入魂旨、申屆候、一揆等も相靜候、溝口村上兩人之儀者、前廉より無別儀候事、

一 當表之儀者、隨分丈夫に可申付候条、可御心易候、諸口申付候故、急速關東表へ不罷出候儀、所存千萬候、倂來月中者、

  佐竹相談、是非可及行候、猶當表仕置、最上、政宗儀も、御指図次第、可存其旨候、恐々謹言

                       會津中納言
   八月廿五日                  景勝(花押)

      長大
      揄E
      石治少
      コ譱院
      輝元
      秀家
       參御報人々御中

39 :
戸川達安明石守重宛書状とその返書

戸川達安書狀寫

此表近々に御在陣之由候条、御床敷存一書申入候事、

一 今度は不慮之御たてはかり無是非次第に存候事、

一 其表貴殿御壹人御陣取之由承候、如何樣なる仕合にて御越候哉、承度候、秀家何に御在陣候哉、

  貴殿御そはに無之儀不審に存候事、

一 此表之儀、上方爲御手遣諸勢C洲邊御在陣に候、井ノ兵部少輔、本田中書、松平下野殿其外先手衆一兩日中に

  此表着陣に候、石川左衞門大夫、松平玄蕃爲先勢頓にC洲被罷着候、内府樣去十六日に江戸御立候、
  
  廿五六日には必C洲可有御着との追々御左右在之事候、

一 我等儀此表先手衆に相加罷越候、左京儀は富田信濃守緣者に付て、爲加勢あのの津へ渡海仕分此表へは不參候事、

一 御弓箭之儀、内府樣御勝手に可罷成事、程有間敷候、さてさて秀家御身上之儀此時滅亡と存事候、

  貴殿いかに思召候哉、侍從殿御事幸内府樣むこにさせられ候、御事に候間、御家あひ續候樣には貴殿御分別にて

  如何やうとも可罷成事候、此時無是非當家被相果候段我等式まて無本意存事而候間、其御心得尤に候、

  惣別秀家御仕置にては國家不相立とは天下悉しりふらし申事に候、其上侍從殿御取立候へは、

  貴殿なと筋目少も不相替候間、此刻之御分別專一に存まてに候、我等事對貴殿少も如在を不存候間、

  思召寄儀不被殘御心底御返事にくわしく可被仰越候、然はたそ御存知之もの壹人進之候而尚以可申承候事、

一 我等事、今度身上に付て内府樣御厚恩をかうふり申候、其上關東にも重々御懇に御意共に候間、
 
  女子、母何も其方に雖有之と、内府樣へ無二に御奉公を仕、とにもかくにも御下にて可相果覺悟に候、

  くれくれ善惡御返事奉待候、恐々不宣、

八月十五日  達安

40 :
明石守重書狀

C洲迄御上付、御使札本望存候

一 如被仰越今度者不慮御立別、互無是非御事候、

一 拙子事、伊勢表御仕置等爲可承、十日已前より此地罷越候而有之事候、秀家事伏見落城之後は大坂被罷下候、

  又此比は草津表被罷出在陣之事候、

一 内府御先手衆至于C洲御着岸之由尤可爲左樣と存事候、其付貴樣御事先手衆に御加候て其元御出候由、

  此度善惡に可懸御目と存候事、
 
一 内府公去十六日江戸被成御立之由、此度之義被成御上候はて不相叶儀候条、尤可爲左樣候、

  内々存候は只今迄無御上事不審存候き、

一 御弓箭之儀内府御勝手程有間敷之由被仰越候、其方に而は左樣に思召事尤候、此方衆中被仰候は、

  秀ョ樣御勝手に可被仰付事は案中候、倂内府於御上は菟角可被及防戰候之間、其上而の御事候、

一 秀家御家中儀被仰越候、誠各御無覺期故外實惡罷成候、然共御聞及も可有之候、

  於上方人之存たる衆餘多被相抱候、存外丈夫に有之事候間、於其段は可御心安候、

一 浮左京殿あのの津表へ爲加勢御出勢之由候哉、津より迎致候を途中に而被打果候条、いまた津へは御越有間敷と存候、

  津之城儀急度御取詰に而候、定不可有程候と存候、

一 御兩人事度々此方に而申出候、此比御左右不承候つ、預御書中滿足此事候、

一 貴殿御事内府御厚恩之由候間、とにもかくにも御しかたにて可有御果との御内存尤候、然者貴所御妻子事、

  只今和州郡山に御在宅事候、秀ョ樣可爲御勝手候間、右之衆中少も如在不可存候間、可御心安候、

一 善惡之返事可申越之由承候、只今之御書中に而は樣子不相聞候間。御内意爲可承壹人相副進之候、恐々謹言、

八月十九日      明掃部頭
              守

  戸肥樣まゐる

       御報

41 :
岐阜攻め前後迄の東軍諸将の書状

42 :
輝元家臣宛家政書状

蜂須賀家政書狀

猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、

態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、

さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、

拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、

年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、

    七月十六日         (家政花押)

                 蜂須賀阿波守
     堅田兵部少輔殿   

家臣宛忠興書状

目出度期見參候、以上

急度申候、石治部、輝元申談色立候由、上方より内府へ御注進候、如此可有之とかねて申たる事に候、

其外殘衆ことことく一味同心之由候、定而内府早速御上洛可在之候、然は則時に可爲御勝手候、

此狀參着次第、松井と市正は番子まで不殘召連、丹後へ可被越、自然之時は松くらをもすて、

女子をつれ宮津へ被越可然候樣にすまさるへく候、ョ入候、四郎右其外之者共之儀は其國のていを見合、

可成ほと木付にい候て、其上は居城にうつるへく候、かねて申合てをき候、此狀は丹後よりひめち邊へ遣、

舟にて屆候へと申付候、

一 内府は江戸を今日廿一御立候由候、我等は昨日うつの宮まて越在之事に候、さためてひつくり返し、

  上方へ相働たるへくと存候、恐々謹言

   七月廿一日               忠(花押)


      松井殿
      四良殿
      市正殿        

43 :
松井康之宛清正書状

 尚以、其許番衆入候者、此返事に委可承候、則申付可遣候、以上、

急度申入候、越中殿御身上之儀、秀ョ樣より曲事に被思召由而、丹後國へ隣國衆を差遣、城請取候へと、從奉行衆被申付候由候、

就其、越中殿御女房衆、爲留主居衆つれ候て退候由候、慥に我等者罷下、其樣子申候仕合者、屋敷中へ十七日之夜火をかけ

自害之樣子に仕成退候由候、則丹後へ遣上使衆への觸狀寫進之候、然時者其元に四郎右壹人被殘置、松佐早々丹後へ御越尤候、

か樣に可有之と存、先書へも申候き其元少にも候はは、自是似相之番衆をも合力可申候間、必可有御越候、爲其以飛脚申候、

委曲立本かたより可申候、恐々謹言

    七月廿七日子刻         C正(花押)


      松佐渡殿
      有四郎右殿
          御宿所

清正家臣立本斎宛松井康之書状

已上、

被差越使者去廿七日御狀、今日晦午刻到來、拜見、彼口上承屆候、

一 主計樣より種々御懇之御書中忝存候、度々被入御心被仰越、可申上樣無之候、御報申上候間、御被露候て可然樣に御取成奉ョ候事、

一 大坂より慥成御使者被罷下、越中屋敷之樣子被仰越候、此方へ追々申來候、女房衆大畧可爲自害と存候事、

一 丹後へ去十九日、おく丹波衆、但馬衆、城請取に越被由、此地へも慥に相聞へ申候事、

一 幽齋田邊に被居候事、

一 丹後城々不可有異儀候、河守なとは兼而引払、殘之城々丈夫に可有之候、可御心易候事、

一 丹後城々兵粮等も、當年は國中米留仕、一切不出候間、可有之と存候、此段不可有御機遣候事、

一 松井罷上儀、先書に如申、加子一切無之候、倂不捨置談合仕候、聊無由斷候事、

一 當郡之知行拜領を第一に被申之条、城請取に可參由承候、可爲其分候、各一返に覺悟仕候、其段可御心易候、

  兵粮、玉藥之儀、被仰越、忝存候、如形用意仕候条、自然不足之儀候者、重而可申入候事、

一 御加勢之儀、是又過分に候事、松井有之間は不及御加勢候事、

一 大坂之樣子、如水御小性直口先書に申入候事、

一 忠興 内府樣御共候て可被上候、然者隣國則時申付可遂本意候、尚口上に申候間、書中不具候、恐々謹言、

     七月晦日                 康之
                          立行

      立本老
         御報

44 :
中川秀成宛如水書状

  尚々甲斐守分領之儀、少も御氣遣被成間敷候、丈夫に致覺悟候、已上、

如貴札久敷不申承候、仍上邊之儀、不慮之仕合無是非候、如承候甲斐守致出陣候間、一入氣遣可有御推量候、

津國之儀候間、互に可申合候、其元之儀者、一揆多所候間、其御用心專一候、上方之樣子去月廿五日に出候舟申候、

何茂替儀者無御座候、

一 伏見之城者堅固に御座候、

一 丹後之儀、幽齋、越中殿居城堅固之由、申來候、丹波衆押に被居、但馬衆者江州へ被參候由候、

一 P田に中國衆城を拵申之由候、

一 伊勢、江州之堺目城を拵、其大將に刑少被參之由候、右之樣に城へ相拵候時者、内府之御一上國と見へ申候、

一 上方之樣子追々可相聞へ候間可申入候、委細態藤介方迄申入候間、不具候間、恐々謹言

                         如水軒
         八月朔日              圓C(花押)

         中修理樣 參
             貴報

K田如水自筆書狀

  廣家
   
    參人々御申    如水

天下之儀てるもと樣御異見被成候樣にと奉行衆被申、大坂城御うつりなされ候事、目出度存候、左候て、

秀ョ樣へ別心存者あるましく候条、やかて目出度しつまり可申候、左樣候て、九州四國衆人しちてるもと樣

御あつかり候やうに被仰上可然存候、九州にても鍋賀州、賀主、羽左近、毛壹、嶋津此衆專存候、甲州人しちは、

貴所樣てるもと樣より御あつかり候やうに御才覺給へく候、左候て、何樣にも御馳走可申候、人しち奉行衆候へは、

てるもと樣御馳走不成事候条、其御分別專一候、内府公上國は必定あるへきと存候、左樣時は、又貴所樣御きもいりにて、

てるもとさま御事相澄可申候、とかく此節御分別專用候、扨々不慮之事共如何成行可申候や、其表樣子具令仰聞、

一人御下候へかしと存候、左候て、我等心中も貴所樣へは不殘可申上候、かしこ、

  八月一日

時慶記 8月17日 天晴、請取番早参、中山中納言番所ニテ物語アリ、

退出ノ後近衛殿へ参上、大坂ト内府間ノ拵ノ義被仰聞数刻伺候候、 麦飯・酒給、柳原ト間ノ義紫竹ノ一義ヲ申入御合点也、

又御所へ参、宿ノ義ハ阿野へ語テ退出、豊国社へ参、衣冠ハ御供所ニテ改、於神前拝、如例、参詣ノ衆大略下向ニテ静也、

吉田父子(兼見・兼治)へ遣人、丹後義モ無心元旨申候、照門へ参上、月待トテ乍立御物語?ニ申入御酒給、

月ハ二条辺ニテ拝、左近丞雇番所ニ置、花園左近二郎ハ瘧病煩由ニテ不出、餅・酒如例出、新内侍在付由聞、准后御方(勧修寺晴子)ニモ御懇ニ承、

女御殿同、於豊国社神楽可参??候処ニ吉田私ニ可取行由候、不謂由ニテ伝奏ヨリ被押テ此度ハ無之由候

45 :
井伊直政本多忠勝宛黒田徳永書状

46 :
K田長政コ永壽昌等連署狀

犹以穩密之書中に候之条、御他言御他見在間敷候、卽此狀可有火中候、以上

態以飛札申入候、仍而此表之儀蹟々人數相揃候、内々犬山表に押之城を仕、各御出次第に河を越可相働旨惣談相究候處、

村越毛介殿爲御使御越候て俄談合相替、とても 内府樣御馬きりきりと出不申はか不參候間、何事も不入義候、

一刻も急河を越、いか體に成共可相果候由誰々なく就被申出、各其分に同意に候、然者天下之勝負河越に相究候間、

御兩所急御越候て今一御談合候て尤に存候、御人數は被爲置、御自身迄片時もはやく御出專用存候、恐惶謹言

    八月十九日         K田甲斐守
                     長政

                  コ永法印
                     壽昌

                  奧藤兵衞
                     三明

  井兵部樣

  本中書樣
     人々御中

47 :
佐々政孝書狀

秋藤太樣         佐々淡路守政孝

  御報

尚以上方之儀御てま入申間敷候間、可御心安候、無何事有之事候はは、早馬一つ御もとめ候て可被下候、

いまほともちたへし申候間、扨如此候、此書中頓而火中被成可被下候、以上

御書中并口上之子細具以得其意候、内府樣へ之御狀田C六先陣へ罷越候間、西隱州申談、御使者口上之樣子をも得

御意申、御返事之通口上に具申含候間、其御分別尤に候、重而東へ於被成 御出馬者樣子可被仰遣候条、

其御覺悟尤候、隨而先度上方御人數此表へ就出陣、大刑部少も可罷下旨候てつるかより催人數、たるい邊まて罷立候處に、

石治部少方より使をよひ越、於佐保山二日令談合如此企別心、内府樣、奉行衆御手切之樣に罷成、上下機遣共可被成御推量候、

一 上方への路次中、駿河中式少監物同長丸共人しち江戸へ被召寄、城々には内府樣御人數を被入置候、

  遠州懸川山内對馬、濱松堀尾信濃、參州吉田之儀は不及申、田中兵部、尾州s大夫殿兄弟しち物羽三左へ被請取、

  是も右之分に御座候、

一 甲州淺見、信濃國千越前、日根野織部息子、石川玄蕃、京極修理、さなだ伊豆兄弟參人是も無別儀候、
  
  さなた親、中むすこは宇都宮より引返し別心之儀候事、

一 濃州木曾川かち渡り餘多御座候、何方を御越候はんも御儘候、かち渡り無座候ても、あかめ、いもう、吉里、

  かやう之所此方より相抱候条、濃州へ成共、江州佐保山へ成共、御働之儀は成安義に御座候、

一 濃州より相抱候城々之事、竹かはな百々越前、大柿に伊藤長門息加勢、河尻肥前、伊藤左馬正、rヒにたきのまるも、

  郡上稲右京、金山稲右近、遠山田丸此分相抱候、岐阜之事も中納言殿無人而御座候、日數五十日と被相抱候事成間敷と風聞候事

一 勢州桑名氏内膳、加勢原隱岐守 ~戸羽下、亀山岡本次兵へ、加勢大和衆少身者五六人已上二手ほと入置之由、

  鳥羽嶋九鬼持分、此分上方一所之事、

一 勢州之内此方より相抱候城之事、津冨田信濃守、松坂古兵部少、右二ヶ城相抱候事、

一 尾州犬山は濃州より相抱候、石備前、加勢加藤左衞門尉、竹中丹後、かやう之者共相籠候、

一 江州佐保山水口大津、則侍從如此相抱申事、

一 伏見去朔日に致落居、城主鳥井彦右衞門、内藤与次右衞門、松平主殿、其外諸人五六百打果之由候事、

一 大坂本丸右衞門尉、西丸輝本居申之由候、其外口々番勢之事もてるもとと被申付之由候事、

一 羽越中殿妻子、其外國持衆女子なと改、二丸へ可入置旨使立改候處に、羽越中殿留主居稲冨、小笠原右兩人として

  越中殿妻子をさしころし、火懸、腹を切り相果申候間、双方女子とも堅改申候儀は打置、人しち有之は取、

  無之は留主居之人しちを取置申候由其聞候事、

一 丹後へも人數を出し羽越父子之居城を責申候由候、然共已上四ヶ城を二つははらい、二ヶ城へ相つほみ丈夫に被相抱之由候

  國中之一きをおこし寄勢數多打取申候由候事、

一 北國肥前殿去月之末より被相働、加州表羽五郎左居城へ被取懸、はしはし放火取出二ヶ城被申付、

  其より先へ被相働大庄寺へ取懸、山口玄蕃父子其外二三千も籠有之を去二日に責崩、山口玄蕃父子其外軍兵九百餘

  被打果候由御注進候、然所に小松近邊少通路無人に付面、又取出を可被申付、其より上方へ可被相働之旨御注進被成事、

一 丸岡山修理、北庄木紀伊守、府中堀帯刀、かやう之衆も無別儀肥州次第之由候事、

一 大刑つるかに居申、羽肥前殿御上之由をね、木のへに取出を仕ふせき可申由候て、筑前中納言殿を爲物主、

  其外若狹侍從、鍋嶋信濃、毛利豐前、かやう之衆壹万餘之つもりにて、右之取出をこしらへ申候由候、

此廿六日に可被成御出馬之旨候、頓而上方より御吉左右可申上候、何も委細之儀は口上に可被申候、恐惶謹言、

  八月廿二日             正敞
  秋藤太樣
      御報

48 :
家康側近等宛井伊直政書状

49 :
  井伊直政書狀寫

此表存之外に各被出精候、今朝之注進には幸田之渡りの仕合不相聞候間不申上候き、敵二千計に而河端へ出候を、

河を被越被及合戰、羽三左衞門殿手計へくび五百程被打捕之由飛脚之申口に候、直に可有御注進候間具には其に可相聞候、

どどの越前、犬間勘平討死之由申候、岐阜中納言殿やうやう山へ迯上之由申候、手負も多は無之由申候、

一柳監物殿案内之事之事候間、先を被致候に付而、彼家中隨分之者討死申之由候、岐阜へ取懸可申之由候處に、

河越各くたびれに付而今夜は北方に陣取、明日はぎふへ動可被申之由候、大方ぎふも落居程有間敷之由何も申候、

此地羽左衞門大夫殿組之衆は明日先岐阜へ押詰候而、羽三左衞門尉殿組之衆惣構をも被破候者、ぎふの上之かち渡りを越、

佐和山へ動相上り可申之由今夜談合相定申候、三左衞門尉殿之組、淺左京殿、山内對馬殿、松下右兵衞殿、池田備中殿

有馬玄蕃殿、堀尾信濃殿、一柳監物殿は今度道筋に付而被致案内者候、

一 羽左太と此筋へ被越候衆、賀藤左馬殿、羽越中殿、K田甲州、藤佐渡殿、田中兵部殿、本多因幡殿、生讃岐殿

羽修理殿、筒井殿、松倉豐後殿、秋山左近殿、~保長三郎殿、大形如此候、一昨日は無理に羽左太に押つつき

本中、我等河を越申候處に、今夜何も御理而惣之蹟に可押之由候間、兩人之儀者從 内府樣御使之儀に候間、

近罷立、得御意をも申ために候条、是非共左衞門大夫殿御人數之蹟に押候樣に被成候て可給之由申候へ共、

達而被申候間無是非候、か樣に候ては何事候て御注進申候共、三里、四里蹟而候間遲々可申候、其上何も被入精候處に、

致見除候樣而一段迷惑申候、

一 自當地岐阜へ三里御座候、北方よりは二里にて候間、明日も甼を被破候事は、三左衞門尉殿之組衆たるへきと申事に候、

一 石治少此間者岐阜へ切々見廻申、其上河手と申所に陣取申候事も候處、河越候而より大柿へ引入、

  ものみを壹人此筋へ出し申事無之候、今日赤坂邊迄も押申候者大方佐和山に迯け入可申候と何もわらい申事候。

一 たる井には嶋津、たちはな居申候由申候、恐々謹言

    八月廿二日      井伊兵部少輔直政

    本多佐渡殿
    西尾隱岐守殿
    村越茂介殿

50 :
浅野長政、結城秀康宛福島正則書状

   s正則書狀

  以上

遠路御狀忝拜見見仕候、爰元之樣子羽三左殿、左京殿申談候、隨而一昨日廿二日に三左衞門殿、左京殿、

遠州衆川越在之處に、岐阜衆少々罷出候候を、被及一戰被追崩候、手柄共に候、次昨日羽越州殿、加左馬殿、

我等いなは山へ取つめ早束落去仕候、中納言殿儀いろいろかうさん被申候間、小しやうとも二三人にて、

尾州へおくり申候、爰元之儀彌○はかゆき申候樣に、羽三左左京殿談合いたし秀ョ樣御爲よきやうに可仕候、

於樣子は可御心安候、恐惶謹言

     八月廿四日      羽左衞門大夫
                    正則

    淺彈正樣

  s正則書狀寫

急度致言上候、一昨日廿二日はきわう、おこし舟に而我等爲先手相越、かしのい、竹かはな近邊令放火、

翌日未明に岐阜へ押懸、則時に町追破、すいりゆうしに丸三つ御座候、弐つ其外二三ノ丸悉乘崩、

本丸も天主まて責詰申候處に、木作、百々已下罷出三郎殿御身命無異儀樣にと降參仕候に付而、

井兵部少輔、本中務令談合、くるしかるましき由被申候に付而、先尾州まて退申候、城中之者數多討捕候、

其段井兵、本中渊底被存候間、定而可申上候、次城責申候刻、うしろつめ心に石治部者かうと河向まて罷出候處、

K田甲斐守、藤堂佐渡守ら向河を越、一戰に及、追崩數多討捕候由候、定而樣子直に可被申上候、

今日各相談仕明日佐和山表へ相勤、重而御吉左右可申上候、恐惶謹言

     八月廿四日      羽左衞門大夫
                    正則

       羽參州樣
           人々御中

51 :
中川秀成宛松井康之・有吉立行連署状

尚々内府様漸北伊勢へ可被成御働と存候、大坂無正躰籠城用意候旨、已上

急度申入候

一 大坂去十八日出船之者、夜前此地へ下着、慥ニ申来候、長大ニ人数被添南いセへ打越、阿野津・松坂・岩手三ノ城可請取由候て使被立内ニ、

  富信州(富田信高)・古兵少(古田重勝)・稲蔵(稲葉道通)三人舟七十艘斗にて着岸、城々へ被入候、筒井も伊賀へ帰国之旨候、就其矢手関地蔵へ被引退由候事

一 北国之儀、府中城へ大刑少人数寄、色々被申候へ共、堀帯(堀尾吉晴)留守居堅固ニ申故丈夫相抱ニ付、手当残置北庄へ通、彼表ニ在陣之旨候事

一 丹後之城弥堅固之由申来候、御奉行衆才覚にて禁中へ申、勅使ニて雅楽殿(生駒親正)・阿波殿(蜂須賀家政)並ニ被仕候様ニと被申候へ共、一切取相無之旨候、

  越中かたヨリ追々人ヲ小々被打上様子申、城中弥強申由候、尚吉左右可申承候、恐惶謹言

八月廿五日

松井佐渡守(花押)

有吉四郎右衛門尉(花押)

中修理様
人々御中

52 :
堀直寄、真田信幸宛家康書状

53 :
急度申候、仍大柿エ治部少輔、嶋津、備前中納言、小西攝津守、籠居候、卽取巻可被成水責とて、早速令出馬候、

自然景勝其口於相働者、眞田伊豆守、本多豐後守、平岩主計頭、牧野右馬允申付候条、各へ談合、其元城堅固可被相抱肝要候、

爲其以飛脚申候、恐々謹言

    九月朔日            家康

     堀丹後守殿

急度申候、仍大柿治部少輔、嶋津、備前中納言、小西攝津守、籠居候、卽取巻可成水責とて、早速令出馬候、

坂戸へ敵於相働者、無油斷加勢尤候、切々飛脚を遣、被添力事肝要候、恐々謹言

    九月朔日            家康(花押)

     眞田伊豆守殿

黒田長政、藤堂高虎宛利長書状

態飛脚を以申入候、仍今度濃州表爲御先手早々御越、岐阜表之仕合羽越、加左馬より申來候、誠ここち能仕合可申入樣も無之候、

がうど河口迄治少罷出候處、御兩人河を被越彼人數被追崩、數多被討捕之旨、御手柄共候、就其、すくに佐和山表可被押寄儀、

彌其分候哉、樣子承度候、此表之儀、一兩日中に小松表急度可相働覺悟候、尚追々可申入候、恐々謹言、

                         羽肥前守
    九月三日                   利長(花押)

     K甲州樣
     藤佐州樣
        御陣所 

吉川広家宛如水書状

K田圓C自筆書狀

              如水軒
   廣家樣         圓C
      參人々御中
  以上

態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、

兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、

九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言

   九月三日             圓C(花押)

     廣家樣
        參 

54 :
ふんことの(村井豊後長頼)   はひ(羽柴肥前、前田利長)
                        まいる
金法印(金森長近)よりひきやく給候、しうちやく申候、 我々事七月廿六日ニ小松おもてへはたらき候所に、

ふしミのしろせめ申候由うけ給候間、八月一日ニ大せう寺へはたらき、ふしミのしろのたよりにもなり可申候と存、三日に大せう寺へ取かけ、

そくしニせめほし、山口おやこ(山口宗永・修弘)うち取候、すなわち越前へはたらき可申と存候所に、

ふしミのしろ一日ニおち申候由候、其上越後いつき(一揆)おこり申候由、久太(堀秀治)よりちうしん(注進)候間、まつ人しゆうち入候て、

おいさし物いけなをし申候而、二日中ニはたらき可申候と存候、 孫四郎(前田利政)おんなとも、上方にい申ニつゐて、

孫四郎色々の申分候、のとい申人しゆおたて候ましきよし申候間、此中もしゆえことわり申候、なかはにやかてもさかいめへ出度候所に、

かやうの事にてはかゆかす候事、てんとうつき申かと存候、かやうの申ひらき、大ふへ申されす候事候間、

われ?のめいわくすいれう候へく候、左馬助なとハわれ?かたへ人しちを出し申候、其ほかの人もちも、大方人しちを出し申候、孫四郎かたよりわれ?に、

色々さま?のふそくかましき事申候、此ひころ、おとゝいのなかにても、一人ならてハなく候間、あらけなくいけんを一つ申さす候間、とうさめこ上方に候つるとて、

がてんすまざる事申候、此よしかうしつへもよく申度候、大なこん殿おり、色々せいしなとおもいさせ候、、其上かうしつなとも、其方に御いり候間、

一かとせいおも入候て、よく候所に、かやうにふんへつちかい候事、われ?しやわせあしきゆへニ候、めことも上方に御入候物とも何ほとも御入候、

孫四郎ハよ人にかわり、かうしつをゑとにおき、其上われ?をしうにもおやにももち申候間、おんなめこらをすて候てくるしからぬ事候、

おかしきしやわせ候、しかしなからせかれの事候間、くるしからぬ事、心やすかるへく候、

大せう寺の事にひきやくまいらせ候へハ、ろしにとゝこうりあるへく候、 かしく

九月五日

55 :
京極、伊達 最上宛家康書状

56 :
切々使札御懇意之段、難申尽候、去三日大津江被打返、手切之行可有由、修理殿、井伊兵部方より申越候間、一刻も出馬急申候、

中納言は中山道罷上候、我等は今日七日、至遠州中泉着陣候、委細修理殿、可被仰候間、不能具候、恐々謹言

     九月七日           御名乗御直判(家康)

      大津宰相殿

追而申候、この書狀最上へ御屆候而可給候、以上

急度申入候、大津宰相以日來好味、此方と同意被成、去四日手合に候、京極殿書狀、爲御披見進候、

其元無油斷御行等肝要候、恐々謹言

    九月七日           家康(花押)

     大崎少將殿

急度申

一 備前中納言、嶋津兵庫、石田治部少、大柿へ追籠、切通路陣所事。

一 就夫、父子共令出馬候、其口政宗相談、無油斷行等分別尤候、

一 大津宰相相此間は越前在陣之處、日來無等閑故、大津へ歸城。今月三日手合被申候、恐々謹言、

    九月七日           家康

     最上侍從殿

57 :
家康側近宛加藤清正書狀

58 :
(後筆)
「女共罷下に付、其注進として大坂への便宜に遣候、大坂より才覺仕遣候へと申遣候」

 跡書

態致言上候、何方迄被成御馬候間、承度存申上候、

一 拙之女房共今月朔日熊本に至而召寄候、若御機遣被思召候はんかと存申上候事、

一 從奉行衆我等かたへ申談候はんとて、毛利壱岐守を差下之由候、書狀は相越候へ共、其身は小倉在之由候、

  其後去月晦日に大坂我々留主居之ものに申付、互之誓帋之案文差越、 秀ョ樣へ御忠節此時候間、

  家老之者共人質をも出罷上御奉公申候樣にと被申越候、于今不能返事候、樣子により如水申談返答可申遣候、

  か樣之儀若御耳にたち候共、被成御不審間敷候、重々如水と申合在之事候間、御心安可被思召候、事三申上候へ共、

  于今壹人も不罷戻候、小山より被下候我等もの壹人參着候、其已後又壹人進上申候、重而又如水申談壹人つつ進上候事、

一 此面之儀尾州C洲邊へ被成御着候御一左右承、いつれの道にも此鄰國可申付と存、如水申合候て在居候、

  聊卆爾之儀仕間敷候条、御心安可被思召候、委儀は右如水相談進上申使口上に申含候、此等之趣可然樣に御披露所仰せ候、恐々謹言、

   九月七日         加藤主計頭
                   C正
     本多佐渡守殿

     西尾隱岐守殿

 跡書

急度致言上候、今度無二御奉公申上、心底立御耳御判頂戴之儀、御前に付置候小性昨日罷下口上に申聞候、

誠忝御諚共可申上樣無御座候、於此面之儀者聊無越度樣に可申付之条、御機遣被成間敷候、將又大坂より我等女房共仕合能召下候条、

御心安可被思召候、然者先度拙者もの小山より被仰付被成御下し候、口上に尾州表迄不被成御馬已前に卆爾之働仕間敷之旨被仰下に付而、

今迄相かかへ申候、はや尾州迄被出御馬濃州口御勝手之樣子も相聞候条、此方角之儀如水申談、急度相働無程鄰國申付御注進可申上候、

此等之趣可然樣に御披露所仰せ候、恐々謹言、

   九月十一日          C正

     本多佐渡守殿

     西尾隱岐守殿

跡書に重而は此印判にて可申入候間、可被成其御心得、爲其に只今おし候て進之申候、

59 :
前田、土方宛家康書状

三枝源三罷歸、其表之樣子承令滿足候、然者濃州一篇申付、大柿城に備前中納言、石田治部、嶋津、

小西已下取籠置候得者、爲後詰敵罷出候所をくい留置候由申來付而、爲可討果、以夜次日罷上候、

殊大津宰相も罷歸色を立候、其許早々御手合之儀尤存候、爲其申入候、恐々謹言、

   九月八日       判(家康)

    加賀中納言殿

急度申候、仍小松宰相方書狀指越候間、爲披見中納言殿へ進上候、此節有御入魂、先々墓行候樣に尤候、

木紀伊守も内々申越候間、何樣にも乳納言可爲相談旨申遣候間、其方被致才覺、御入魂候て、

早々越前表江御手合候事肝要候、今十三日岐阜着陣候、近日凶徒可討果、可心易候、恐々謹言、

  九月十三日          家康

      土方勘兵衞殿

高畠定吉宛利長書状

 尚々るすの事たのみ入候、

わさと申入候、小松表すみ候、明日大しよう寺まてちんかへ申候、左候時は越前もきをひ有ましく候間、

すくにきの本へ出可申候、跡の事たのみ入候、かわる事追而可申入候、以上

   九月十八日         はひ利長  判

       岩見守殿

60 :
上田攻めに関する史料

61 :
方針の転換の告げる里見義康宛秀忠書状

此表之仕置申付候處、大柿之城に石田治部少輔、備前中納言、嶋津、小西已下楯籠候處、先手之衆取巻候間、

早速可罷上由、内府より被申越に付て、急上洛令候、將又其表長々在陣御苦労悉く存知候、猶彼地より可申達候段、

一二不能候、恐々謹言

   九月十一日             江戸中納言
                       秀忠

    安房侍從殿
        御陣所 

曽祢原盛安宛渡辺金内書状

  定

一 今度さなたあわのかみ(真田安房守)でじろくわしやかたけ(出城冠者嶽)におゐて、

  當月六日に、一之きと(木戸)にてたたかい、身方四人打死ておい八人有之所に、其身てをおい、きとをやふり、
  
  てきの旗をとつて石川玄幡守へ參上仕候き、目前之かせき(稼ぎ)しやうこ(証拠)に不及候条、

  以来之しうもん(証文)可然旨拙者に被仰渡れ候故、如此出し置者也、仍如件、

   慶長五年          渡邊金内
      九月十五日

      曽祢原C七殿

62 :
東北戦線に関する上杉方史料

63 :
八月四日 直江兼續書狀寫

追而其方越後へこし候事無用に候、可越由申遣用所相調尤候、書狀披見上方へ之飛脚申付候由尤候事、以上

一 越後一揆之儀者度々如申付候、あか北には先々手を不付、あか○春日山山の方へ成次第おこし候やうに可申付候、

  久太郎も上方○之御ふれ狀によつて此方次第と存軆ときこへ申候、咒哉溝口、村上事は勿論候、侍之筋目公儀に候条、

  兩人領分は先々取除候、其外は成次第可申付候事、

一 方々聞合、御備も今月廿日時分まて尤かんよふに存候条、先々一揆等にふかく人數を遣候事無用に候、太軆さへすみ候へは、

  成事にて候条、其心得專一候、此方之儀、最上、正宗討果候事、輒候へ共、内府之手成しられす候まま、

  手をみきりこらへ候指向候、一大事尤つつしみかんよふに候、越後之一揆成次第と可存候、爲其申遣候、謹言

   八月四日    兼續(花押)

     山田喜右衞門尉殿

八月五日 直江兼續書狀寫

追而爰元之儀今少見合可罷移候、御歸は今月中相極候条、各御相談、萬事不可有御油斷候、下々齋幷先方衆へも傳言申度候、以上

御狀披見、白川表より日々注進、内府いまた小山在陣之由申候条、其元無御油斷御仕置專一候、簗川之御加勢入置候、珎儀者可申述候、

次に佐竹より使者、昨日罷越候、從義宣如御斷者、今度上方之儀に付而、内府より證人こわれ候得共、不通に申きり候条、

定而手切可有之候、左樣に候はは、御加勢申請度との事に候条、ふかくふかく請申て、使者かへし申候、可御心安候、

又御奉行中諸國へ被遣候ヶ条書狀之寫進之候、猶自是可申入候、恐々謹言

                      直山
   八月五日                兼續

   岩備州
      御報

八月十二日 直江兼續書狀寫
     
追而勢三方所勞之由、無心元存候、無油斷御養生專一に候、以上

御便札本望至極存候、白川表彌無事之由、珎重存候、其許御在陣衆以御相談、御普請等可被仰付之段、乍御太儀可然御事に候、

宮中より珎敷到來次第、可預御狀候、將又此方無相換義、白石表之儀、郡近邊へ打出候人數、一昨々何も引除候に而付、百姓等先以還往申候、

上方之樣子、正宗も聞屆候故と存候、又最上口之儀も南部仙北衆上説を聞候て引払之故、最上無正軆取亂候由申來候、油利は庄内一味仕候、

小野寺殿も同前に候、越後之儀、村、溝無別条と計に而も不相濟候条、四五日已前、堀兵殿を遣申候、定而可相濟候、自然停候はは、

仕やう共有之事候、可御心安候、一兩日中に佐竹より使者之由申來候、自然若松へ參候はは、御左右可申入候、恐々謹言、

                      直山
   八月十二日                兼續

   岩備殿
      御返事 

64 :
九月三日 直江兼續条書寫

  覺

一 奧口御無事之儀、兩使御相談にて可被相濟候、連々如御申候、御不足之儀候共天下江御奉公と思召、白石なとの事に無御構、
  
  公儀さへ能候はは御調尤候、

一 關東御出馬之砌、政宗御同陣被申上候歟、不然は家老五三人も相濟、人數五千も三千も被相立候而、萬一御弓矢御むつかしき事出來候とも、

  關東御靜謐中別心無之樣、御堅め第一に候事、

一 最上之儀は政宗同前に付、延々見合候と聞得申條引詰承屆候て、手堅相濟候者、最上存分之儀可相調、自然不相濟存に而、

  日を送軆に候はは、外聞も不可然候條、一動可申付、左樣に候はは、若政宗より手切に申來候共、推返し使者を被遣、

  先々無事御つつけ可然候、其内に自米沢御左右可申入候事、

一 此中御意候、簗川城とりかへられ候儀、當城と白石之つなきにも相成、又は簗川のかはりにも可相成、地形御覽しつもり、

  政宗無事可相濟休に申來候はは、急御普請に御取次可然候、左樣に候はは栗刑も可被相招候事、付城引つめられ二三百にて可相抱御分別專一候、

一 自此口奧口筋御出勢は、最上手成次第と存候、彼表の樣子追而可申述候事、

   以上
                      直山
   九月三日                兼續

   本庄越州樣
      參人々御中

九月四日  直江兼續書狀

御狀披見、仍昨日爰元迄罷越候、最上表先度可相働處、少々懇望之儀候条、延引候、二三日中に相濟可申候、可御心安候、正宗も右同然に候、縱働成候共、

人數無不足候、上方之儀、所々城落之由、心地よき義候、猶重而可申入候、恐々謹言

                      直山
   九月四日                兼續(花押)

   甘備
     御報
 
九月八日  直江兼續書狀寫

追而、佐竹へ被遣候返礼、披見仕候、關東の儀、無相替儀候、以上、

御書拜見、仍而此表之儀、度々申上候最上付延々仕不相濟候、明日當地罷立、相動可申由存、先衆は今日より遣申候、人數も相調候条、

御心易可被思召候、敵地へ討入候事者、十二三之時分たる可、其内追々注進可申上候、此等之段可然樣に御披露、恐々謹言、

                     山城守
   九月八日 亥刻             兼續
         助次郎殿

九月二十一日  直江兼續書狀寫

追而直に可申上候へ共、無 御心元可被思召候条、貴所御心得之樣になされ尤候、爰元之儀は、可御心安候、以上、

幸便之条申入候、仍而只今白川より申來候は、上方散々に罷成候由相聞得申候、左樣に候へは、關東口は心安罷成候条、

但馬守米沢へ被指越、自然正宗白石おもてか米沢邊へ相動候時分、いつかたへ成共懸助候樣に被仰上尤候、當表儀、隨分申付候条、

見合候て、御直馬之御左右申上候儀も可有之候、内々其御用意專一候、大切之儀に候条、うらかたなとも御させ候て内々御心持候へく候、

自然此口へ加勢か、又正宗罷出候はは、兩國共に相濟候樣に支度候、とかく此方之儀は急度申付候条、御氣遣有之ましく候、恐々謹言、

                      直山
   九月廿一日                兼續(花押)

   安上樣
     參人々御中 

十月四日  直江兼續書狀

追而今度不慮出來仕候樣子、具安田申上候、とかく已來は御吉事とそんする事に御さ候、以上、

御書拜見、仍而今度之無仕合、中々迷惑仕候、半途に在陣、可致言上由存候へ共、庄内境目へ相動候故、彼庄仕置、又彼是有進處、

昨日當地荒戸まで打入申候、於此地、領中仕置申付、重而可致言上候、仙道表御仕置彼是に付而、安田上総介、今日相立可申候、

御人數もそんし申さす候、ひたち少手負申候、くるしからす候条、御心安可被思召候由、御披露候、恐々謹言、

                     山城守
   十月四日                兼續(花押)
   助次郎殿

65 :
決戦直前の秀家、広家、三成の書状

66 :
家臣に人質提供を申付ける秀家書状

急度申遣候、

一 此表之事、赤坂之敵陣へゥ口より取寄候故、敵うろたへ候てはやく敗軍可仕軆と相見へ候、五三日中に吉左右可申遣候、

  可御心易候、てんのあたゆる所天下之弓箭此時隙明事態も入度所へ敵參候て有之事候間、壹人も不殘可討果事眼前之事、

一 關東之儀は家康領内じぇ三日他行申候、景勝より切入候て關東ゥ所みたれ候て無正軆由上々注進候故、中々内府可罷上覺悟梦に無之候、

  あわれ上り候へは壹度に打果度候事、

一 大津之城輝元より城をかり可申よし被申候へは、人質遣申うへは城を渡事迷惑之由申候へは、則大坂より被取詰、本丸一つに罷成候、

  餘之儀は定可有宥免やと存候、此段このついてに一段可然成行候間、可心易候事、

一 其元番等之儀、此刻肝要之候間不可有由斷、然は各手前うたかい候て申遣にてはなく候へ共、爲外聞候間、

  其方面々人質之儀被差越尤候、

一 岡山在番之儀は宍太御座候間、此兩人人質之儀早々差上尤候、四郎左衞門事むす子を早々差上可申候、我々そはに召遣へく候間、

  一刻も差急此表へ差越尤候、然者河内守に申候て壹人案内者こい候て差越尤候、太郎兵衞人質之儀、おとこの子の無之候はは不及是非候、

  お子之候へはおとこの子差上尤候事、

一 常山在番丹後事、是又慥候人質差上尤候、自然實子無之候て養子成共差のぼらせ可申事、

一 小串在番新右衞門事は、せかれ爰元に有之事候へ共、今壹人差のほせ尤事、

一 小倉長田右衞門丞事、左近、越中守所に有之事候へ共、今壹人せかれ於有之は此方へ差越可申事、

一 廣P宍太郎右衞門、牧藤左衞門兩人事、七郎右衞門外にせかれおいて有之は早々差上可申事、宍太郎右衞門にはむす子有之由候間、

  早々差越尤候、不可有由斷候、

一 赤穗平兵衞、六右衞門事、是又せかれ於有之は早々差越可申候、六右衞門はせかれ有之由候間、差上早々可差上候事、

一 田中務事、助兵弟於有之は早々差越候可申候、自慥成就人質差上可申候、自然於無之は右之姿に可申付候事、

一 倉敷四郎兵衞事、是者せかれ此方に居申候間、今壹人も人質として差出尤候、何誰所に壹人奉公仕有之樣に申候、

  是はわれわれ一切不知候、此段は其方より能々入念候て申越候はは、其上を以我々そはへ可召寄候事右之通、

  早々何待及、むすめ子なとは差上事堅無用候間、可有其心へ候事、

一 各人質取候へは、家來能には不及事に候へ共、各内にて知行かたをも取申もの之人質之儀、是又家中能を収集、

  岡山四郎、太郎兵衞兩人所へ相渡尤候、女房とむすめとは出事無用候、むす子又は兄弟又親にても差出尤候、

  此通堅可被申付候、小給之者は不入事、惡心をたくみ候てもいかかと存候ものを収集候て岡山へ差越尤候、

  是又不入事候へ共、爲人寄候間如此候、久しく留置候事にあらす候、先此刻如此申付候は何かと結句わきより申候へは惡候間、

  此上に可被申付候少も不可有由斷候、是方へ差越候共、河内所より人をこひ候て差越尤候、各尤之人質、

  拾三よりしたの子は於大坂にかわちに渡尤候、拾二三よりうへの子は陣へ差越尤候、先岡山より大坂迄相計候は、

  以其上又かわち所より到注進候へと申遣事候也、

    九月十日             御在判(秀家)

     宍甘四郎左衞門とのへ
     宍甘太郎兵衞とのへ
     川端丹後守とのへ
     小P中務正とのへ
     明石四郎兵衞とのへ
     沼本新右衞門とのへ
     中吉平兵衞とのへ
     延原六右衞門とのへ
     宍甘太郎右衞門とのへ
     牧藤左衞門とのへ

67 :
祖式長好宛吉川広家書狀

去月廿四日津城落城去之儀付而、態飛脚、令祝着候、於干今者、趣具可有其聞候間、不能申候、其以後濃州表へ打出之、

去七日南宮山と申に陣執り候、敵は樽井赤坂に有之事候、双方中間一里候、只今まては弥行無乘之候、追々可申遣候、

其地番衆普請等無緩之由肝要候、諸事犹以不可油断候、従香又(香川春継)、山九(山縣春佳)可申候、謹言

九月十二日         廣家花押

  祖九右

祖式長好、佐々木長綱宛吉川廣家書狀

尚々、其元万之心持肝心まて候候、此状兩人之外は拜見仕間敷候、まじく、追而申聞候、此表敵三万計陣取在之事候、

味方人數ははるばる多候。乍去、いかにもかたまり不申候、彼是以被申下さる子細共多候間、各心遣之此事候、

内府も被出候よし申候、ぎふ、いぬ山被越候間、被出候事は此節にて候候、菟角大事まて候候、心持之ため申遣候之、

兩人少も他言候ては不可然候候、爰元はやかて可相聞之候、吉事まじく、

九月十二日          廣家花押
  
  祖九
  
  佐九

68 :
搏c長盛宛三成書状 石田三成書狀寫

69 :
 態申入候

一 敵至今日赤坂何之行も無之延々と居陣、ものを待樣にしかと有之體に候、不審成と各申候事、

一 從江州被出候衆、勢州より被出候衆參着候はんとて、今日たきのかなやと申所へ被出逢候、拙子儀はおほかきに在之事に候、

  當城へ近邊の人質伊藤家來之もの幷町人のしちもつ迄入置候、敵より火付之才覺伊藤若輩故、家中之者共樣々之才覺仕候に付て、

  心ゆるし不成候、殊に拙子之者共さき手に有之所は敵相二町三町之間に候之条、拙子は城中にしかと有之體に候、

  今日之談合にて大形味方中之仕置可相究候、あらあらなから一昨日長大、安國寺卷題陣所へ我等參、彼内存承分にては

  諸事相濟間敷と存候、その故は殊之外敵を大事に懸られ候て縱敵はいくん候共、中々可相果行も無之、

  菟角身用心之御陣取之積り計にて候、陣所は垂井の上之山候に山取之用意に候、彼山は人馬之水も有之間敷程の山にて候、

  自然之時は懸合にも人數の上り下りも不成候程の山にて候、味方中も不審可仕候、敵も可爲其分事、

一 爰元苅田候へは、兵粮は何程も有之事に候へとも、敵を大事に懸られ苅田にさへ人を不被出候、

  兵粮は江州より可出候由候間、成次第に持出可申候、近比味方中ちちみたる體に候事、

一 味方共に勢州江州之人數出候はは、何とそ一行可有之と存候處に延々としたる體に候、依之敵も亦ためらい候體に候

  拙者所存候通も長大、安國寺へも申候へ共、一圓御取合無之候間、其通に仕候事、

一 菟角如此延々と候はは、味方中も心中難計御分別之前に候事、敵味方下々の取沙汰には妻子人質之儀は何樣にても

  苦しかるましき體に候、揄E、内府へ被迎合筋目に候とても、妻子なと一人も成敗之義有ましきと申なし候、

  是もK白を存たる者は不申下々申事に候、倂申も無餘儀候、既に如斯討被討候へ共、其者之妻子御成敗穩便故、

  先書にも如申犬山加勢衆謀叛なとも出來候歟、さりとては有間敷儀なから是も妻子氣遣無之故と下々申候、

  爰元諸侍申され候も敵方之妻子五三人も成敗候はは、心中替可申と申事に候、爰許承候通申入候、御分別に不過候事、

一 大津之義、去とては此節根をたやされ候はては、已來御仕置之さはりたるへきと存候、殊に伊奈之侍從殿、

  當表にて種々之才覺御推量之外にて候事、

一 敵方へ人を付置聞申候、佐和山口より被出候衆之中、大人數もち敵へ申談らるる子細候とて此中相尋候、

  其故は勢州へ被出陣をも申留、各面々在所在所に被相待候樣にと申談なとと申、此二三日は頻にかけ口有之、

  敵方いさみ候つる然るに江州之衆悉山中へ被出而、かけの口違候樣に敵申候とて、唯今申來候、菟角今之世は

  人質不入體に見へ申候、終に出し候人質無御成敗候間、人質に不搆も無餘儀候事、

70 :
一 何れ之城之傳々にも、輝元御人數入被置候御分別肝要に候、此段子細有之候間御分別あつて勢州を初、

  太田駒野に今度城を搆候而能候はんと存候、江濃之境目松尾之御城、何れ之御番所にも中國衆入可被置御分別尤にて候、

  如何程にも慥成遠國衆にて候へ共、今時分は國郡之心差し有之付て、人之心難計候、御分別之前に候事、

一 當表之儀は何とそ諸侍之心揃候はは、敵陣は廿日之中に破り候はん儀は何れの道にも可多安儀に候へ共、

  此分にては結句味方中に不慮出來候はん體眼前に候、能々御分別肝要に候、羽入兵、小攝抔も其被申樣に候へ共、

  遠慮有之と見へ申候、拙子儀は存知之たけ不殘申候、

一 長大、安國寺存之外遠慮深く候、哀々貴所に當表之儀、一目御目に懸度候、扨々敵之うつけたる體家中之不揃儀

  思召之外に候へ共、それよりは味方中事をかしき體に候事、

一 輝元御出馬無之事拙子體は尤と存候、家康不被上には不入かと存候へ共、下々は此儀も不審たて申事に候事、

一 度々如申入金銀米錢遣はさるへき儀も此節に候、拙子なとも似合に早手之内有たけ此中出し申候、

  人をも求め候故、手前之引廻し御推量可有之候、然は此節に極り候と存候間、其元も可有其心得事、

一 從江州被出衆之手前、自然之不慮之儀も候へはと存、是のみ迷惑に候、輝元御出馬無之候はは、

  佐和山下へ中國衆五千計入可被置候儀肝要之御仕置に候、菟角勢州へ被出衆之歸りは大垣、佐和山の通路にも不搆、

  自然之時分は太田幷駒野へ取つき、畑道を江州へ御通用之積計と相見え申候間、長引可申と存候事、

一 備前中納言殿今度之御覺悟、さりとては御手柄、是非なき次第に候、此段自諸口可相聞候間申に不可及候、

  一命を棄而御かせきの體に候、其分御分別御心得可有之羽兵入、小攝同然に候事

一 當分御成敗有之間敷人質妻子、宮島へ御下可有之歟、御分別部不可過候事、

一 今度勢州口より被働衆、中國は不逮是非其外長大、大刑幷御弓鐵炮衆も長大、安國寺一手に被引向樣に相見え之候間、

  大人數廻り兼候、人數も少々そつに罷成體に候事、

一 丹後之儀隙明之由に候、少にても外聞に候間、彼表之衆當表に被立候樣に可然候、恐々謹言

  九月十二日    石田治部少輔

    搏c右衞門尉殿

71 :
決戦の経過、結果に関する書状

72 :
伊達政宗宛徳川家康書状

今十五日午刻、於濃州山中及一戰、備前中納言、嶋津、小西、石治部人衆、悉討捕候。直に佐和山迄、今日着馬候。

大柿も今日則捕候。可御心安候。彌其表之様子、彌御仕置等、尤候、恐々謹言

  九月十五日   家康花押

    大崎少將殿

年次欠(推定関ヶ原直後)養徳院(池田恒興母)宛徳川家康書状

御文ことに二いろを くり給候、しうちゃくに そんし候、うけ給候ことく、てんかとりしつめ候、

三さへもん殿一たんと 御しんらうともにて候、 いつれもめてたき事、かさね々申うけ給候へく候、めてたくかしく

やうとく院  内ふ

松平和泉守宛石川長門・彦坂小刑部書狀

早々御飛脚本望存候、其樣子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻關ヶ原へ指懸被為及一戰、

治部少輔、嶋津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、關ヶ原へ一所に打寄申候つる

此地之衆幷井兵又s殿、爲先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、

わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、

大將分は大谷刑部少輔、嶋左近、嶋津中務、戸田武蔵平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、

打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、

田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不殘きりころし、

てんしゅに火を懸、悉焼払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候處を一人も不殘うちとり申候、

皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戰場より行かた于今聞へ不申候、

將又安國寺をは吉川、ふく原兩人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候

犹替儀候者追々可申入候、恐々謹言

九月十七日   石川長門
        彦坂小刑部
  松平和泉守殿へ

73 :
近衛信尹宛て近衛前久書状

昨朝御見廻申候ヘば、早天に大津ヘ御越之由候間、大助に申置帰山申候。主水をも遣し候ヘ共、

未内府は大軍に付、路つかへ、江州守山辺に居陣之由申、昨日主水も従((二)中途(一)帰申候。御仕合如何候哉

一 一昨夕彼陣床より拙者ヘ参候者、直に語候趣、為に御心得一申候。内府は当月朔日に国本を出馬候て、
  
  十四日に大がき表ヘ被(二)押寄(一)候を、大がきの軍勢石治少・島兵入・小西など見候而、山ヘ取上リ候。
  
  内府は五万程にて、手人数各別ニ備られ居陣候

一 先手之人数は、福島一番・長岡越中二番・金森法印三番・田中兵部其外上方之人数四万計、面々に備、
  
  青野ヶ原にての合戦にて候。即時に切立得(二)大利(一)候。

  番ひに金吾手をかへされ候。其太刀場にて、大谷刑部討死候て、其ままきり崩候。上方より出陣の人数五万計候。
  
  四五千も討死候と申候

一 十九日に沢山ヘ取かけらる、則落居候て、石治少子・杢など討果候由候

一 石治少・島兵入は山すたいに引退候と相見、行方不れ知候。越州へのき候はんかと申候。生捕に仕候との沙汰は、

  うそにて候と申候

一 きっ川は輝元被れ取候。知行分悉給置候者家康ヘ味方に可れ参候との(あつかい)にて候ヘどもそれは余之□之由候て、

  半分の契約にて、一味申候との事候。

  安国寺は乗物にてのき候を、きっ川者共追懸候ヘ共、行方しらす見失候。生捕之沙汰不(レ)存候と申候

一 備前宰相は討死との事雑説候。無(ニ)異儀(一)之由申候。是以味方には不(レ)成被(レ)申

一 長尾景勝との和睦は無れ之候。其手当に結城三河守・政宗など被(レ)残候と申候。政宗は一筋に家康ヘ一味之由候。

  白石と哉らん申候城、景勝抱候を此方ヘ被(レ)取、政宗入城之由候。此城前々政宗城由候

一 佐竹は景勝・石治少などヘ一味之由申候而隔心と相聞候と申候

一 信州さなだは敵に成候て、中納言忠秀・榊原式部少輔などは、彼国ヘさしむけられ候と申候。是も手間不(レ)可(レ)入候間、

  一途被(二)申付(一)、上洛との事にて候と申候

一 なつか大蔵は、みなくちの城に居候。それへも人数さしこされ、可(二)討果(一)之由ト申候

  三奉行は可(レ)有(二)成敗(一)之由にて候と申候

一 昨日より風聞は、なつか大蔵は内府ヘかけ入候と申候。内府被レ申候は、よくとも悪くともの事候由候と申候。
  
  此儀は昨日より承候、事実は不(レ)存候。

右之趣は水不(レ)入慥之事候、彼虎口より直に当所ヘ参候ものにて候。直に承候間、為(二)御心得(一)ニ申候。以上

  九月廿日     東入

猶々如れ此処に、津小平かたより書状くれ候て、内府今日大津へ被(レ)越候由、由来候間、主水をも又さし遣し候。

今日又御越候哉、定可(レ)有(二)御聞(一)候へ共、令レ申候。書中御らんじ候はば火中々々

74 :
本多正純書状

追而申候、内府樣一昨廿日、至大津被成御着馬候、然者中納言様、同廿日草津迄御着陣、明日廿三日伏見へ御出馬被成候、

依之内府樣は、今明日は爰許御逗留被成候事、

一 秀ョ樣幷御ふくろ樣より昨日御書被進候、如此候間、大坂之儀も、大方五三日中可相濟分御座候事、

一 勢州一國幷伊賀悉相濟申候、九鬼は舟に而行方不知迯申候事、

一 小西攝津守者御一戰に而被討洩候處、濃州ほたいと申處に而、溺取參候事、

一 長束大藏は、かしらをそり、水口之城被渡候事、

一 大坂よりぬきぬきにぬけ候而、爲御迎參候事、

此上は天下無殘所平均被仰付候間、御心安可被思召候、猶々吉左右重々可申入候、恐々謹言

   九月廿二日      本彌八郎

  石日向樣
  伊備前様
  板四郎右樣
  本佐渡様

如此申來候間、到寫進覽申候、以上、

   九月廿九日      本多佐渡(花押)

  本多次郎八樣
  眞田伊豆守樣
  堀雅樂介樣
      人々御中

75 :
吉川廣家自筆書狀案

追々重々致言上候、

一 今度惣御和談之事、其許相伺候而可相調事候つけ共、敵之手前先書に如申上候、内府着に付而、

  至野ヶ原、悉先陣衆は打出、㝡前陣所へ者内府被入移候、左候て行之樣子相聞え候分は人數二手に分候而、

  一手は山中へ押入、筑中左然候處へは筑中御逆意はや色立仕合候、就其大柿衆も、被地被居候事不成候而如山中、

  大刑少陣無心元之由候て、被引取候、是は佐和山へ二重番引可仕覺悟と相見え候、惣別眼前候、
  
  さ候へは御弓鐵御味方として被出候○衆○○衆は、多分心合之樣子と相聞え申候、其地被罷居候衆も、

  使者付置候はぬかた衆は、多も無之由候、一つとしてはや御弓矢御勝手に可成立ふり無御座候、此時者、

  數代之御家をむさむさと可被相果事、餘殘多存、長大、長老其外之衆へも不致談合、兩人短息之餘、

  別に傳無之候条、K田甲斐所へ廣家内三浦と申かち者を、口上計狀をも不持せ○に遣惣和談之手筋、
  
  可有如何哉と計申遣之候へは、K甲mカへ談合候て、即内府御本陣所へ使召連被参、

  井伊兵部、本多中書被引合せ候て、被遂披露候、内府御對面候左候へは候て、先伊兵、本中以~文無別儀旨申候へ、

  以其上、吉川lエ~文人質候者上、到來の上にて、内府直御~文対輝元樣可被進之由候而、井兵、本中書前書之~文、

  對兩人被差越候、勿論血判筆本を此方使に見せ候、其条數、一 惣和談不可有御別儀之事、一 對輝元、内府少も無御別心事、

一 只今御分國相違有間敷事、此条々にて候、又mカK甲ら、如此相調候上者、上者以來兩人少も無別儀馳走可申之由、

  對兩人~文誓紙被仕候て、三浦にmカ者一人、K甲者一人被付越候条、此上者、又此返事仕候はてはとの談合仕事にて、

  兩人請紙仕使者歸○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、兩使へ相尋申候處、

  兩使申事には、山中へ之先手は、mカ太、K甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、

  打合中にたて候て可討果候、可合戰仕候、

  南宮山へ之手あては、先手池田三左衞門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、

  此衆にて土佐侍從陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、

  是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候、於于今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と

  申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先兩人計存候、長大、安國寺、

  長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戰候、さ候へは、此首尾相違の樣候条、

  ○○○○一圓に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出樣相(手偏に只)候て可罷居候由申候て歸候へは、

  其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候、此方御人數之事不被打出候て御(手偏に只)候て

  御座候へとの可然之由申て歸候右如申上候とかくあひ候する仕合にて中々無之趣候つる条長大、

  安國寺は人數たかり候つけ共、兩人面白おかしく申候て、御人數打出候はて、敵手ふり聞合申候處、案中山中之儀事

  即時被乘崩、悉被討果候、嶋津なとゑり勢三千にて、隨分一合戰は可仕之由候つけ共、中なか馬を被入不相成候て

  其身一騎のりぬけ伊勢地のことく被退候、式候つる条、幾重々とい候はぬ仕合にて御座候つる由申候事、

76 :
一 mカK甲より山中へ被打出さまに、又使者二人被越、人質之事lエ弟、粟屋彦右衞門尉子を早々出之候て可然之由、
  
  被申候申越候条、合戰之仕合は右之分候、於于今はひかへ候ては不成ふりにて候条、如望兩人兩人差出之、

  内府直之内府直之殿樣へ之御誓紙之事、㝡前申談辻にと申候而、廣家nョ使者兩人相副差出之候、

  mカK甲先手へ被參候故、兩使は先さまへ參、未罷歸候、人質をは、別而内府於御本陣被○請候て候て一段

  御懇に被仰、堀尾信濃殿にお預け候、當手御人數之事も、如江州被打出可然之由、mカK甲被申置候条、

  任其辻、昨日南宮山より陣易仕候、路次案内者をも堀尾信濃殿より被出候へと内府被仰出候て兩人被出候道筋も

  信濃殿被參候北すちのみちへ罷出候、今日佐和山着可仕候条、追々趣可申上候、

一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、

  山中之合戰勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、

一 長大大藏殿も、山中合戰惡敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、

一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引歸候而、南宮山被罷越候、

  然者、此和談之由被聞候て、定而腹可被切せ候条、覺悟可仕之由、使者にて候条、且而左樣有之事にても無之候条、

  人數武具なとのけらけ候て、しのい候て出家一分之安國寺にて先被參可然候はん由候て、右之とをりにて候、

一 爰元調之儀は右之分候、はや余日無之事候者、不及申、一刻もはつけ候へは、御無事之調不成仕合候つる故、

  其元相伺申候事、中なか不罷成候て、右之分に先爲兩人相調申候条、其元御事何もかも兩人そこつに○被○作せせ候てらけ候て、

  この節御家之御續千言万言肝心迄候、口上申分候衆一人早々下之候て申上度候へとも、路次のほといかにも不被計候て延引仕候、

  何も今明日中一兩人差下之以口上具可申上候、其内爲御分別有搦|以書中申上候、

  重々致言上候、爰許御無事之筋目、當分國中無相違可被進之由、~文被易、爲人質lエ左近、

  粟屋彦右衞門尉子十郎兵衞可差出之由、御好に付而、其辻に差出相調申候、s左衞門太夫殿、K田甲斐守殿被相調、

  井伊兵部、本多中書務御取次にて候、何も段々出入者口上被申分候衆一兩人を明日中差下之候て可申上候条先以其元之事、

  右之辻に被思食候て可然候、一昨日十五日内府樣直に山中へは被押寄被及合戰、即時被討果候、昨日至江州二手に被分亂入候、

  當手之事、北口之手同前に打出可然之由、mカK甲より被申候条、其辻に致陣易候、mカ、K甲先手へ被參候故、

  人質之儀堀尾信濃殿へお預け候、即又路次案内者をも信濃殿より被差出候、一昨日は當手之事は南宮山㝡前之陣取に候て、

  手前引堅かまはすに有之たる趣候、兎角於于今は、其元之御事此地にての調手はす違候はぬことく

  御覺悟尤存候、候て御家被續候事此時と存迄候千言万言無別条候右如申上候口上之衆軈而差下之可申候路次之計を仕延引候此由

押紙

   敬白靈社上卷起請文前書事

一 今度之儀以御取成被思召分忝候事
     
     慶長五年九月廿二日  安藝中納言輝元

     羽柴左衞門太夫殿

     K田甲斐守殿

   起請文前書之事

一 御身上之儀向後 内府樣不可有御相違之事

     慶長五年九月廿九日   K田甲斐守
                    長政

        羽柴藏人殿
             參

77 :
村越直吉今井宗久宛政宗書状

78 :
  伊達政宗書狀

  以上

去十二日自C洲之書狀共相屆候、卽自之可申上候處、今少最上表之樣體をも爲延引仕候、

一 其表之儀、大柿爲助衆毛利宰相、長大、吉川、安國寺被罷出之由、依之先衆へ可打向、卽時に可被討果之旨尤存候、

  可被得勝利必定と存候、

一 此表之儀最上へ直江爲始、仙道、白河之人衆迄も參二千騎計足軽三萬程に而陣取仕、先達而如申入候はた屋之城攻切候条、
  
  河西過半一返仕付而出羽守散々取亂、已山形之城可相敗樣に候間、息修理大夫爰元へ被越候、而加勢之儀被申候間、

  内府樣御爲と存候而手前を指置、拙者祖父に候上野介に五百餘騎鐵炮千挺其外人衆五六千、卽遣申に付而、

  陣取候候敵取亂已長井へ可引入體相見候条、出羽守上野申談、敵陣近所へ相働候へ共、兩方そなへ之間に大惡所候而

  合戰不仕由申越候、然間敵除候事も不成候而于今在陣仕候、

一 此砌與存候而、去廿五日長井口へ下關と申所にかかり、人衆少し遣候而湯之原之城へ押懸撫切に可仕と存候處、

  彼所之者共普代之筋を以頻懇望仕候間、身命計相助入手申候、依之新宿之城も明迯仕候、最上へ申合、

  此上我等自身長井へ亂入可仕由存候、左樣に候者最上に在陣之衆も可爲敗軍由存候、最上所々迄も此邊拙者壹人迄之樣而
  
  賦等申付候、扨々人衆も數多持候衆鷹野計に而遊山仕、皆々なかめて居申候、あたら知行哉らんにて候、是は貴所迄への之ざれ事に申候、

一 最上へ悉人衆取越、會津も景勝小性共計指置候而、用立候者者皆最上へ參候由迯人共何も申候間、此砌白川境迄も

  關東之御人數被出候者、自之も伊達筋より仙道へ罷出候、卽手を合可申由、參州樣又御留主居之本佐州、石日向守各へ追々爲申上候、

  于今無御報候、何篇五三日中、何方へ成共罷出、追々御吉左右可申上候、

一 南部境も種々六箇敷御座候を、我等使者を遣候而、上方之御樣子、又御爲不存逆意之旨少も候者、南口に人衆殘置、
  
  我等馬廻計に而南部へ罷出候共、則時に可申付候条、如何候はんとおとしかけ候へ共、一段こまり候て、今者何樣にもと申事候間、

  近日仙北よりも最上へ手切候而景勝へ一味之由候間、近邊と申南部より仙北へ後詰仕候へよし申付候、

一 此方之儀者乍若輩拙子壹人にても可仕候条、無申迄候へ共、上方御備專一候、

  此書狀被入御披見可被下候、書中に少も僞不申入候、次有中書へ此由申度候、別而書狀も進候、御吉左右互可申承候、恐惶謹言、

  九月廿九日           政宗

   村茂介樣

   宗椈V
      人々御中

79 :
浅野幸長宛清正書状

  加藤C正書狀

                加主計
   淺左京樣          C正
     人々御中

  已上

急度申入候、今度者彼惡逆人徒黨を企候處、早速御上候て、於濃州面御手柄之由承及候、然處内府樣御出勢に付而、

於關原面被成御合戰、悉所被討果、打續各御手柄共御羨敷候、此等之儀爲可申入、同名右馬允指上候、其元之樣子、

一々被仰越候て可給候、此面事、只今宇土之城取詰、本城二丸迄に仕成候間、落去程有間敷候、然者其面より被討洩立花左近、

妻子ぬすみ取罷下、則柳川へ令入城候、彼者罷下事少は拙者仕合に候、宇土面隙明次第相働、則時討果御注進可申候、

不及申候へ共、九州中之表裏もの共、壹人も不被成御免候樣に、連々可被仰上候、上方いつせの國々にても惡黨同心之者共、

身上無恙不被成御赦免樣に是又可被仰上事尤に存候、定而上かた御手に立もの在之間敷候、國々之樣子具に可被仰越候、

此面之儀何も如水申談、きつと可申付候間、可御心安候、恐惶謹言

      十月二日          C正

     淺左京樣
        人々御中
 
     
吉川広家宛如水書状

K田圓C自筆書狀

   廣家樣         圓C
      貴報

尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、

去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、

一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、

  備前中納言同前之御覚悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、

一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、

一 彌羽左太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、

一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、

  御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、

一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、

一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、

  罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言

     十月四日             圓C(花押)

     廣家樣
        貴報

80 :
吉川廣家自筆覺書

81 :
一 先年治部少輔安國寺致同心企逆意候、於大坂申出候刻、宗瑞留主居之者共令相談、
 
  更に非如此子細に之段、再三異見仕候事、

一 右之樣子安國寺不致承引、逆心之存立、宗瑞事呼越候而大坂西之御丸罷上候、以來無是非之次第に罷成候事、

一 大御所樣數年對宗瑞に悉之子細、其限無御座候、宗瑞内々不致忘却候之、下々まて悉被存候、然者、

  其刻治部少輔安國寺致同意に付而、右之申わけ不罷成之事、

一 於大坂、揄E其外相談之子細共身及申躰、K田筑前殿まて至關東言上仕候處、大御所樣如此に被成御書候之事、

一 於赤坂に井伊兵部殿本多中務殿へ得御意、㝡前之辻無相違覺悟仕候事、

         以上

       五月朔日      吉川藏人(広家花押)

        本上州樣

82 :
吉川廣家自筆覺書案

 (この文書は、慶長五年の九月のものにかかる)

  覺

一 内府樣會津へ御出馬之刻、爲御供我等安國寺被遣候事、

一 然者、七月六日に本國出雲罷立、同十三日、於幡州自安國寺の使に參合候事、

一 七月十四日に大坂參着、同晩に安國對談候事、

一 此時安國より申かけ候段、此方返答に 御所樣宗瑞へ別而御懇に被仰出、其上御契約之筋目等迄申候事、

一 同返答に、太閤樣御死去之刻、御遺言之趣御納得、起請文血判等迄被成、其後如右御契約之時、

  御~文御取替、其儀相違、不可然之由申候事、

一 九州に被殘居候衆も人數至

一 内府樣先年尾州小牧山御一戰之時、三ヶ國之御領主にて太閤樣御引懸一戰之勝利は被得候事、

  内府樣御手被任候處に太閤樣種々以御計略御あつかいに被成候へ共今八ヶ國之御領主、其外覺有諸大名衆、

  只今東國へ被致御供候、其上隆景ほとも被相果候上者今程之衆は縱可及合戰題目在之共

  中國西國少々在之衆は○方故被存寄候共支度可爲儀も成間敷迯候中國より被罷上衆は

  或は其覺も不及年又は皆々若き衆候間、旁以不可然候と申候事、

一 右之段々安國寺に申聞せ候へは、是非此度 内府樣被致謀叛事不可然之通申候へは左候者、

  安國寺可及切腹之由申候間、縱左樣に被存候相極候共、無如在輝元に安國寺はかへらけ不申と申候事、

  第一㝡前深重に 内府樣と被申合候筋目違候事は何ヶ度申候ても不可然之由申候事
  
一 如此申候内に大坂之樣子餘無心元被存、輝元大坂へ被罷上候事、

一 太閤樣御時、我等事K田如水は以來對中國取次候故、以其手筋、右之段次第申段半之事候間

  右之段輝元少も不被寄存處を、安國石治少大形少に被催立安國寺計を以悉皆如此成行候段を

  K筑州へ甲州へ以飛脚申遣候へは、其返事に 大御所樣御書相添甲州より飛脚被指返、于今所持候事、

一 南宮山之事、

一、右拵之段甲州へ申達候へは、上者無用捨拵之儀iz後申談甲州へ申届九月十四日に御和平調申候事
  
  則井兵部本中書mカ太K甲州靈社之起請文血判被申易候間此方よりもiz我等等~文進上候て

  九月十四日に御和平調申候

一 實子之證人被成御赦免候事

一 御返納過分に御宥免候事

83 :
吉川廣家自筆覺書案

 (この文書は、慶長六年のものにかかる)

84 :
 中場言樣へ申上候条數之案
今度和睦相調、我等満足此事に候、此中之儀、世上之批判之所承及候之通、雖申上度候、

此御調無殘致首尾候而と存、延引仕候、就其事多御座候へ共、初中後之樣子、以一書申上候、

一 去七月、安國寺佐和山被罷越候て、石治大形被遂相談、如何御座候つるか、忍候而大坂被罷下候、

  吾等儀、早々可罷上之由候而、七月十三日、飛脚到來候、於幡州参會候、大坂罷越、長老對談候之處、彼被申樣者、

  内府樣會津御出馬被相定候、今度景勝上洛延引之儀者、太閤樣依 御諚、國之仕置被申付候

  三年役儀御免被成候、故如此候、其身非如在候間、先拵に可被仰出哉之段、爲各度々雖言上候、

  無御承引、今度御出馬被相極候、彼表之儀可相果迄に候、か樣に候へは、諸大名進退更無安堵之事に候、

  已來之儀者、 秀ョ樣御爲も如何可有御座候哉、會津堅固之内、各申合、可及弓矢之通、於佐和山、

  石治大刑申合、揄E其外も同意に候、於于今者、 中納言樣一刻片時も早々御上洛尤之通申下之由被申候、

  然者、我等申樣者、日本二つ之御弓矢、大篇之儀候間、我等式存道無御座候、安國寺御分別此時に候、

  先吾等令申所者、先年 太閤樣御逝去之前かと、諸大名被召集、靈社起請文以血判、向後各深重に申合、

  公儀可有馳走之旨、可申上之由候而、重疊於 御前被相究候、其後 内府樣よ奉行方御半之刻、 中納樣別而被仰談、

  已來御兄弟御契約、并藤七樣被成御契約に付而、又以御~文被仰合、已來内府樣被對 中納言樣無御等閑御座候故、

  天下之聞え異于他儀共候、然者、憐國之諍、又は自他國引請候儀者、其身無如在候ても不及是非候、

  何之道にもあらす候て、内府樣へ御別心非可有之儀候、其上今度謀叛候衆中被成御同心、御弓矢被思食立候事如何に候、

  縱天下屬御勝手候而も、後代之聞え無曲候、左候へは、奉行方一味中よ被仰候衆中は備中、筑中、九州衆奉行衆に候、

  兩中納言殿御若輩に候、其上家來區々に候、九州之儀者、遠國と申、如水、加主計別儀御座有間敷候、

  惣國之衆中手前之覺悟可有馳走衆も、人數至來可爲不自由候、又奉行衆之儀弓矢方之儀は不承及候、

  朝鮮已來屬彼御手に候下々批判をも承候、然間、世上之沙汰も不存之儀に候、又中國之儀者、隆景御死去已後者、
 
  前々に相替候、惣樣天下之さけすみも、此御弓矢御まけに可成哉と心得候、

  又先年 太閤樣内府樣、於尾州小牧山御陣被及一戰、毛利武藏、池勝入被討死候、關白殿も先手を被崩、被失御覺候、

  其一戰内府樣雖被得御勝利候、太閤樣以御思慮御拵に罷成、御緣邊以下相調、大躰者大形御勝手に罷成候、

  其時太閤樣は、五幾内、中國、北國之諸大名被屬御手に御發足候、 内府樣は、其刻三ヶ國御領知候、

  於于今者、八州御隨逐候、諸大名も在覺人者、悉東國方に有之事に候、然時は、御弓矢懸合不申候かと存候、

  日ョ樣被仰置候も、當分五ヶ國十ヶ國御手に入候段は、時之御仕合にて候、已來之儀者、於御子孫も、

  天下御竸望曾以被思召寄間敷通、連々被仰聞たる之由、元春内々申候き、万一天下御手に入候共、

  權柄者可爲奉行衆候、左候はん時者、 内府樣へ被屬候よりも、御外聞實共可爲御心遣候、御まけに成候上にては、

  惣之大名衆は、任時之躰に不可有實儀候、相極所者、揄E、石治、大刑、 中納言樣可爲御迷惑候哉、旁以安國御思慮此時に候段、

  再三申候、然處、大坂西丸御留主居衆申理候間、此方人數可入置之通達而被申候、 中納言樣御意承届候はて、

  各我等式不及同心之由、返答申候、然者、長老被申樣は、於此儀者、 中納樣御内證得申候、去春nョ、堅兵木津に被殘置候も、

  此儀に付而之事之由被申候而、一圓に無同心候、宰相殿、完戸殿其外もか樣之儀少も無御存知之由に候、此時は長老いかに被申候ても、

  御意承届候はては、聊爾之働不相成事に候段申候、其時長老其申分に候時は、無曲次第に候とて、腹可仕之由候て、

  以外違亂被仕候き、縱左候共、御爲には替不申候間、長老被相果候而も、中國之御爲に候間、不及是非之通申候半、

  はや可有御上之樣に御至來も少々御座候、其時各申段、椙杜下總守至廣嶋被罷下候へと申候、此節は先以廣嶋被成御(木偏に只)、

  御分國え被仰付尤に候、此方之儀者、木津各被籠候而、世上之儀承届可申下之通、相含差下申候之處、於中途被參會、

  然々不申達候て、被罷上候之事、

85 :
一 中納言樣無御上之内、益玄被申樣は御弓矢に罷成候時之ささはりには成間敷候、若 中納言樣無御存知之由、被仰度時は、

  可然候之間、木津御留主居之者として言上仕之通、關東へ可申遣候哉、其旨趣は、中納言樣此企會無御存知候、其段自廣嶋雖可申開候、

  遠路に候之間延引仕候、先輝元不被存之段、木津留守居之者共言上候由、申捨度候、後々御用に立御事もやと被申候、

  是は無余儀被申樣と申候て、完戸、益玄、熊豐より榊式、本佐、長右近迄之書狀被認候、吾等も書狀相調、

  完戸殿飛脚同然に可遣と催候之處、中納言樣御上着候間、此時は此文言僞に候間、飛脚指留申候、私儀者、

  如水已來K甲州累年懇切に候間、一旦不申遣之段も無曲存、此儀 殿樣無御存、安國以計如此成下候通申遣候、

  其返書に大御所樣御書相添到來候、則nョへ見せ申候事、

一 安國寺佐和山より被罷戻戾、於大坂被申趣は、 輝元此儀に付而被呼返候間、從江州罷歸候通、大名衆御馬廻へも數通書狀被遣候、

  聞召も被可及候、又何方にも多々可有之間、已來紙面可有御覽候事、

一 伏見之城へ人數差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相働之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州北國兩口之仕置、

  堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、

  あのの津近邊掠本よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、

  其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、

  不數城乘崩候ても無詮候、万一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、

  手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、

一 如此御弓矢出來候而、御名利共に、無曲可成行事如何に候、於此上も以御拵御家被續尤に候哉と、

  nョ申合、堅兵少勢州呼越申、此段之物語申、差返候、其後 御諚之段、一日一日と奉待候つる事、

86 :
一 石治、大刑兼々相談被相澄樣子、大垣關か原人數、南宮山へ相まるみ一戰可仕に被相極候處、

  九月十三日、 内府樣赤坂御着候刻、治少、大刑少大垣南宮を捨候て、山中へ引取候時は、前日之儀定相違候而、

  佐和山へ可被打入催露顯候、然者、拵之儀連々申上も、此時に候間、K甲州へ可申試之通、
  
  nョ申段、一人遣之、以口上申候處、則井兵、本中、mカ太、K甲州靈社血判之以起請文被申易候、

  此方よりもnョ我等~文進之候て、九月十四日、御和平相澄候事、

一 同十五日、 大御所樣於關か原一戰被仰付候、其刻、廣家nョをくれ候て、治少合戰失勝利之由御沙汰候、

  たとへは當日可爲勝利見懸仕候共、前日に血判起請文を以申替候辻、違返非可仕之儀候、其上南宮山と關か原之間二里之中間にて候、

  又南宮へ之手宛、羽三左、一柳右近已下二万計指むけ被置候、其當日霧ふかく候て、五間十間相隔候所會見え不申候、

  又は高山にて候故、山下行之趣、一圓見え不申躰に候、兼々も南宮衆一力之一戰可被申付との議定無之候、

  何之条も其時筈難被仕合見え申候、只今世上之人口と、其刻之有躰には可爲相違よ存候、先年備中高松之城

  太閤樣御責之刻、信長御生害之故、當方御和平被仰談、御陣可被打入之折節、從紀州雜賀、信長不慮之段、

  遂に申越候、下々申樣は、此時手を返矛楯に及候者、天下則時に可被任御存分に所を、隆景元春御分別違候と各被申へ共、

  前日~文被取替候辻、無忘却被相届之段、太閤樣御感候而、其故御當家于今如此御安堵候段、隆景折々御物語候て、

  御自慢之一に候、定而各も可被及聞召候間、不及申候、併去年之御和平、此時に相應候哉之事、

一 九月十五日、南宮山にて合戰、只今各如被申候、其程被見懸候者、幸大將之長大藏、長老兩人被罷出候間、

  nョ我等には不被搆、則時に一戰可被仕儀に候處、臨其期は、長束、安國寺不被相進候、只今世上之讃談は相違申躰に候、

  又可成よ被見懸候所は、我等式へ一言之尋無御座候而も被申付候、其故は、津之城にて八月廿四日進陣、廿五日に仕寄候て、

  廿六日に可乘崩よ申合候筈悉違候て、長束責口より町口へ被仕懸、其まま城乘に罷成候、爰を以可被成御推量候哉、

  事過候て何かと致沙汰方も御座候哉、か樣之事は連々相聞え可申候間、已來可被 聞召合之候、已上

                          吉川藏人
                            廣家

87 :
島津家臣の覚書

88 :
~戸五兵衞覺書

一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、

  六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、

  備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、

  此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、

  然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又本之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、

  南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、

  自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、

  我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、

~戸五兵衞覺書木脇休作働之次第

一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、

  此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、

  貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、

  其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、

  惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、

  其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、

  御共に而御下向に而候、

89 :
~戸久五郎覺書

一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、

  岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、

  上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而

  一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
  
  何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、

  此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、

  其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、

  過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、

  きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、

  刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、

  人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、

  敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、

  敵之間四五間參候迄は、菟角之樣子無之軆に仕而參、間三間計に罷成候時、皆々刀をぬき、ゑいとう聲を上切通被申候時、

  年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、

  御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、

  然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、

  西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、

  少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、

  さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、

  如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、

  何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、

  南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、

90 :
~戸久五郎覺書

一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、

人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、

  一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、

  何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、

  其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、

  我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、

  早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、

  後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、

  そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、
  
  扨被討候事一定に而候と申候處、そなへ之内より馬を乘出、歸宅被成候を人々見申候、扨者心替にに而無之由人々被申候、

  左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、

  此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、
  惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、

  最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、

  楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々

91 :
帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」

大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」

舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
 □大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」

当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
 金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」

十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
 何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」
「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」

92 :
終わったんだけど、ダブってしまったみたいだね
申し訳なかったです

93 :
>>1
超絶乙彼。

94 :
読みきれないほどの資料、これはすごい。
スレが続くうちに溜まったのか。
ペーストだけでも大変だ。乙です。

95 :
こっちが本スレでいいのかな?
>>94
と言っても、関ヶ原関連の史料はまだまだあるからなぁ

96 :
史学の原則があるなら証明してみろ

それとも悪魔の証明要求か

ちなみに一人のバカが言っているだけではダメだよ

97 :
>>96
くせぇんだよデブ

98 :
ゼビオで買い物♪

99 :
>>66>>67>>69の史料を見ると西軍は負けるべくして負けたって感じだな

100 :
結局、果断に打って出た東軍の勝ちなんだね。
西軍も朝鮮戦役などで実践経験は負けてないどころか豊富だったのに、家康のほうが一枚うわ手だったんだろうか。

101 :
情報戦では家康の足元にも及ばない

102 :
狂人とその取巻きだけが残ったか・・・

103 :
偏屈史学百万候らえど、

104 :
>>101
秀家とか家康の動向掴めていないばかりか、今更家臣から人質集めてるくらいだしなぁ

105 :
そもそも朝鮮征伐なんかは軍歴にすらならんからね。きちんと兵站確保して日本で戦歴ある方が強い。西軍って戦慣れしてるのって島津義弘や立花宗茂位じゃない?
東軍は戦慣れした連中が多いから士気も高かったんだろうね。

106 :
しかし徳川なんて10年ぶりの実戦だよな?
移封してからははじめてだ。

107 :
徳川の兵なんて殆んど前線に出てないだろ、軍監くらいで

108 :
軍監とっても本多・井伊だし、家康の子松平忠吉も戦っている

109 :
>>106
1591年に葛西大崎一揆や九戸政実の乱が起きて東北が荒れた時に徳川軍も兵を出してて最低でも井伊直政は直接戦闘してるから9年ぶり

110 :
なお池田輝政や山内一豊等、東海道の徳川旧領にいた豊臣恩顧大名も
天正18年以降は実戦を経験していない

111 :
劣悪な環境の朝鮮で疲弊しきった兵より10年間日本で鍛錬して力を温存してる兵のが強いに決まってる。
朝鮮の役なんかは戦歴にならん。無抵抗に近い朝鮮の民を惨殺しただけ。
逆に朝鮮の役が無ければ西軍にも勝機あったかもしれない。軍役で家臣や民から不信感が出るからお家騒動など起きやすい環境になるからね。

112 :
>>111
>朝鮮の役なんかは戦歴にならん。無抵抗に近い朝鮮の民を惨殺しただけ。
明の軍隊との戦いは無いことになってるの??
朝鮮の役の経験で、鉄砲が以前にも増して重要視されるように
なったというのが常識だけど??

113 :
>>110
輝政と言えば、岐阜攻めでの正則との先陣争いが思い浮かぶが
正則の書状を読む限り、そんな険悪な感じはしないんだよな

114 :
>>112
朝鮮の役の経験で得られたのは
三成の讒言は危険なので派閥舎弟でもなければ一緒に戦わないこと
小西は偽講和を仕掛けたり信用できないので一緒に戦わないこと
きちんと恩賞が支払われるかを考えて豊臣から領地を切り取ってでもばら撒いてくれる人間を選ぶこと

鉄砲や大砲よりも人間関係が以前にも増して重要視されるようになったというのが常識だよ
その経験が関ヶ原で活かされたのは一目瞭然だろう

115 :
>>113
井伊直政の書状を読んだ印象だと、そもそも先陣争いがなかったんじゃないのかな

116 :
岐阜城の戦いも通説とはちがうようなのか

117 :
動員兵力は両陣営を足しても5万人もいないと言われてる説もある 自分の領国の近くならともかく遠くから参戦している大名が3000人を連れるだけで莫大な食と費用がいる
当初より長期の戦いを予想してたが持って行ける食料も限りある上に現地で調達できる訳もない
中山道を行軍した徳川軍は1万程度だったとの文献もある

118 :
>>94
暇な時読んでいると、結構いい時間潰しになるけどね

119 :
みんなはこの史料の文章、普通に読めるのか

120 :
慣れればまあまあ

121 :
読書百遍義自らあらわるというし、繰り返し読んでいればなんとなくね

122 :
読めない

123 :
まず古文書解説書か釈文と読み下し文と現代語訳が載ってる本読んで当時特有の言い回しや単語覚える
あまり言葉の種類が多くない時代だから覚えるのは比較的簡単。
あとは単語ごとに分解して見やすくしてなんちゃって漢文の下から読む部分には返り点付ければだいたい読めるようになるよ
まぁ当時の文章は基本的に箇条書きみたいなもので省略されてる所が多いから時代背景分かってないとピンと来なかったり誤訳しやすいけど

124 :
近時の説は、池田照政、細川忠興、加藤嘉明を外して、福島正則、加藤清正、浅野幸長、黒田長政、藤堂高虎、豊臣豊雄、脇坂安宅が襲撃7将にカウントしている

125 :
蜂須賀至鎮の豊臣下賜は1603じゃないの?

126 :
家政と混同しているんだろう

127 :
幕末の人物である脇坂安宅がいるし……
というか、7人じゃなくてそれ以上の大名がいたってのが最近の説じゃないの

128 :
>>124
それは知らなかった

129 :
この時期、蜂須賀至鎮はまだ子供だろ

130 :
>>124
豊雄って誰?

131 :
>>130
蜂須賀至鎮

132 :
七将なのに10人は名前が出てくるぐらい三成が嫌われてたってのは事実なんだろうな

133 :
>>116
通説だと先陣争いで輝政に先を越された正則が、夜を徹して進軍して
岐阜城に攻めかかった事になっているけど、>>49を読むと木曽川を渡河後、
直政が進軍を進めたにもかかわらず、諸将達が疲労を理由に拒否
明朝まで休む事に、その後正則隊は岐阜城へ輝政隊は惣構えを攻撃した後
佐和山に進軍が話し合いで決まったという感じかな

134 :
>>133
>>49には、井伊隊が下流渡河組に続いて進軍しようとしたが、渋滞してなかなか進まなかった、
という解釈かなと思うが。
疲労を理由に拒否というか、渡河作戦で疲労したので岐阜攻城は明日、
下流渡河組が先陣、上流渡河組は惣構を攻撃、と軍議で決まったという解釈かなと思う。

135 :
当時の史料からは正則を激情家とするのは難しい

136 :
>>50の浅野長政宛の書状を見ても幸長と一緒に輝政の事も称えているし
争って激情している印象はないね
正則が激情家ってイメージはいつ頃出来たんだろうか

137 :
江戸時代の清正公人気とかの煽りな感じがしないでもない
清正を関羽に見立てたら、片一方は激情家で酒飲むと暴れる張飛ってイメージだろうし

138 :
蟹江敬三のせいだろうな

139 :
>>133>>134
先はまず(先ず)、候者は〜ありますれば(そうらはば)と私は訳しました

福島組は明日まず岐阜へ追い込んで、池田組に(岐阜の)惣構も破られたならば、
(福島組は)佐和山へ動き上るべきことを今夜談合で定めました

直訳するとこんな感じかと思います

140 :
>>137
絵本太閤記で清正正則が当時人気だった三国志演技の関張になぞられたのが今のイメージの主な元やろな

141 :
井伊直政ら徳川家臣の無謀な先駆けで始まり
早くも東軍敗戦に傾いたところを

小早川秀秋の裏切りでなんとか東軍が勝利したというね

結局徳川軍の伝統的な弱さを見せつけた合戦

142 :
釣り針でけぇ

143 :
>>141
やはり三成の無礼で尊大な態度と人望のなさが西軍の敗因だよね
三成さえいなければ勝てたはずの戦いが三成の傲慢さにぶち壊された

144 :
これは迂闊であったわ。じゃが今、兵に弁当を与えておる

145 :
>>143
じゃあ蜂起後に
三成を殺して東軍諸将に味方になってもらえば勝てた

146 :
>>145
そもそもどうして西軍は三成を前面に押し出して戦おうとしたのか不思議で仕方がない
三成は戦下手なうえに現場を引っ掻き回すから武将たちに嫌われている身だし
大軍を持っているわけでも高貴な身分であるわけでもない
三成は後ろに隠すべき存在であって前面に押し出す理由がない
これでは関ヶ原で西軍の半分以上が戦闘拒否したのも必然の結果だった

147 :
何の前面かさっぱり
総大将は輝元だし軍の主将は宇喜多や秀元だし三成はしょせん参謀格だろ

148 :
>>140
そうなんですよね
インスパイア元の三国志演義が三国時代の歴史として誤って語られることが多いように
秀吉・清正・正則・三成、あたりの事績って絵本太閤記で作られたイメージのまま語られることが多いんですよね

お話が面白すぎると史実とごっちゃにして語られてしまうさだめというか

149 :
石田三成と仲が悪かったやつは全員武断派みたいなイメージがあるな

150 :
高虎や田兵のような近江人もいたのだ

151 :
高虎と仲が悪くなるなんて相当な事件でもあったのかな

152 :
>>147
戦下手で嫌われ者の三成が参謀格だったら
それだけで西軍諸将の不安が高まりの士気が低くなるのも仕方がない
戦は遊びじゃなて命がけだからな
素人に引っ掻き回されたらたまったものじゃない

153 :
島津惟新を中洲に取り残したまま撤退したせいで、同心諸将の顰蹙を買ったというエピは真実なんですか?

154 :
別に、石田三成が戦下手だったわけではない

記録に残された開戦時の両軍の布陣をみると

どの軍事的な専門家が見ても、
どうみても西軍優勢どころか圧勝という判断がほとんど

最終的に合戦が始まり
早々に西軍圧勝の形になったところを
裏切られたというのは、人心を掴むことができなかったということ

155 :
>>154
>記録に残された開戦時の両軍の布陣をみると

陸軍参謀本部が後世の軍記とか参考にしたでたらめな布陣図以前には、ねえよそんなもん。

156 :
戦国時代板というその筋やたらに詳しい連中が跋扈してる場所で
よく知ったかぶりをかまそうとできるなぁ

157 :
最近だとまともな合戦というより撤退している最中に追い付かれてなんとか迎撃しようとしたが脆くも崩れ去ったというような説まで出てるぐらいだしな

158 :
小早川は裏切っていないが

159 :
今だと戦闘開始した時から小早川は東軍で問鉄砲もなかったって話だからなぁ
仮に小早川が戦闘を開始したきっかけが鉄砲の音だったとしても
それは普通に東軍と西軍が戦闘を始めた際のものだろう

160 :
瞬殺はありえんがね

161 :
>>155
いや、あることはあるよ

162 :
小早川は伏見城攻めをノリノリでやってたのに何故だ

163 :
ノリノリって根拠は?

164 :
>>147
>軍の主将は宇喜多や秀元だし三成はしょせん参謀格だろ

10代、20代の若造や文系官僚が主将や参謀格とか論外でしょ
秀吉が用意した安全な場所で少し仕事しただけの経験不足な連中ばかり
現場で唯一経験豊富な島津は発言権がないし
西軍はとても天下分け目の戦に臨む様な体制ではなかった

165 :
>>161
何という史料にあるの?

166 :
>>165
江戸時代の配陣図は結構ある

http://rekimin-sekigahara.jp/his/?page=1880&keyword=&cate0=all

167 :
>>166
瞬殺説のやつらはこれを何て言ってるんだろう

168 :
布陣図やら屏風絵図はいろいろあるけど、
いずれも布陣が微妙に違ってて、
結局のところはよくわからない、というものだと思うけど?

169 :
例えば、「笹尾山」っていう地名は当時の史料にはまったく出てないとかが山中説の根拠のひとつだっけ?
まぁ現状は諸説あり、ってとこじゃないの?

170 :
そもそも本戦前夜には調略で西軍の一部が機能しないというのが分かってるわけだしな
布陣がどうこうよりそっちの方が重要

171 :
>>167
瞬殺説の人達は布陣図とかより、当時の書状や覚書を基本史料にしているからなぁ

172 :
朝鮮出兵みたいに異国で異民族と戦うならともかく
関ヶ原は日本人同士どころか豊臣政権下での顔見知り同士の戦いだろ
顔見知り同士で交渉ルートが無数に存在するのだから
何の交渉も調略もないまま全面戦争するわけがない
そんなことができると思っていた三成たちの脳筋ぶりがおかしいだけだ

173 :
>>171
あの人達、合戦の翌年には成立している『内府公軍記(太田和泉守記)』を
サクッと無視しているし
これが通説の布陣図の源流なのに

174 :
白峰は論理が破綻している

175 :
慶長年中卜斎記や太田和泉守記とか全文読んでみたいけど
掲載されてるのってなにか売ってる?
愛知県史とかに一部抜粋されたものなら載ってるんだけど。

あと慶長軍記の現代語訳されたものが売ってるけど買う価値あるかなぁ?
けっこう高いからほぼ通説なら別にいらないし。

176 :
ここで聞くよりもあなたの判断が第一です。

177 :
ここの人たちにとって内府公軍記はどんな評価?
信用できる?

178 :
いつの時代も勝った側の都合や計算で大本営発表は作られるから慎重な分析が必要じゃね?

179 :
西上してきた花房正成から明石全登に文書が送られた。
一、内府(徳川家康)は両日中に濃尾に参着するでしょう。
一、内府は、宇喜多秀高を婿にして、大身に取り立てると約束しています。
一、上方の諸将は、皆々様内府につくでしょう。

明石殿、あなたの判断が大事です。
と送ってきた

180 :
勝った側の都合や計算があるというのと同じくらい
きっと勝った側の都合や計算があるはずといってもう片方にすこぶる寄った見方をする人も同じ数だけいるから
ほんと慎重に分析しないといけない

181 :
敗者の自己欺瞞も往々にしてあるからね
俺は悪くねぇってやつ

182 :
>>175
>>179の書状みたいにテンプレにあればいいけどね

183 :
>>181
吉川広家関連の文書なんて、自己弁護ばかりだしね

184 :
ほとんどの武将にとって東西どっちが勝とうがどうでもいいんだよな。
問題は自領がどう確保されるか、どう増やせるかだけ。
だから多くの西軍大名が内紛によって分裂した。
加藤清正すら島津との領土争いの関係で東征しなかったという。
そういう情勢の中で家康はよく統率して倒せたと思う。
日本の歴史を決めるような大決戦において大義が弱いんだよな。
中国だったら秦の圧政がーーとかあるけど
日本はそういうのが弱い。だから英雄不在なんだな。

185 :
1ミクロンもこの辺りの前後関係調べてもいない頭悪そうなコメントだなぁ

186 :
当時の人に金吾が裏切ったって書かれてるからやっぱ決戦直前に寝返ったのは事実なのかな

187 :
星稜の馬鹿監督まだグチグチ言ってるのかよ
・証拠ない
・むしろ自分たちが盗んでいた証拠が出た
・一度不正なしと判定されたのに相手陣営に二度も突撃
・言ってることがコロコロ変わる
・ソースの大半が脳内で第三者の証言なし
早く球界から追放されろ
星稜のサイン盗み
サイン盗むのに夢中で遅い牽制で刺される
https://i.imgur.com/p696xXY.gif

188 :
小早川が裏切ったのって松尾山占拠した時じゃなかったっけ?
それで小早川討つ為に三成達が出陣し、なしくずし的に東軍と激突という流れだと思ったけど

189 :
その前から西軍の言うこと聞かずに近江と伊勢をうろちょろしてるな
まるで家康到着まで時間稼ぎしてるかのようだ

190 :
いやもともと東軍、正確には豊臣軍

191 :
立花宗茂がなぜあそこまでヤル気があったのかわからない

192 :
大義ありと見た…

193 :
立花の大津城攻めなどでの「活躍」は、どうも後世、立花家の家祖称揚の過程でかなり盛られたフシがある

194 :
>>188
『慶長記』には、むほんを仕置きとはあるものの、小早川を討つとまでの積極的意志があったとは
断言できないんじゃなかろうか。

 
陣替えについては、なぜそれまでの拠点だった大垣をあっさり放棄してるのかが個人的にかなり謎。
当時は合戦が半日で終わるとは思ってもいなかっただろうし、先々東軍への移動牽制や兵站攪乱に
使えたんじゃないかと。
兵力集中やら後方に孤立するのを危惧したと言えばそれまでなんだけど、太平洋戦争で言えば、
ラバウルの航空戦力を引き上げたせいで南方戦線が一気に押し込まれたのと似たような印象なので。
まぁ、トラックに相当する岐阜城が早々に失陥してはいるんだけど。

195 :
放棄してないと思うが

196 :
上の覚書で関ヶ原で敗戦後、島津が大垣城に戻ろうとしたけど燃えてたから無理だったって言ってる訳だから
放棄した訳では絶対ないでしよ

197 :
>>195-196
あ、申し訳ない。とんでもなく思い違いしてたようで。
 
確認してみると7500人も留守に置いてたのね。

198 :
東軍が勝ち、焦れきった日向守勝成が攻め込んできたんだから大変な殺戮だったのではあるまいか

199 :
>>197
留守を置いているのにも関わらず、>>72に有る様に外曲輪を焼払ったのは何故なんだろう。

200 :
>>199
確か前パートで言及してる人がいたはず
大垣城は小城で大勢収容が不可能なため陣城を築いて駐屯してたと
で、その陣城(外曲輪)を自分たちが移動する際に東軍に利用されないよう焼いた
とのこと

201 :
水野勝成覚書より抜粋

拙者并に水野市正十五日夜のうちより罷立、かくてんを押やふり、
大垣の城へのりこみ二の丸まてとり引足に町中に火をかけ、
林と申寺内大垣より北に御座候それまて引取申候、
(中略)
大垣十五日之朝のりこみ二の丸まてとり本丸はかりに仕候よし
関か原権現様へ注進仕候、
(中略)
十五日関か原の御合戦よりはやくおしこみやふり申候、
(中略)
十五日の朝、おしこみ申時、
(中略)

一 十六日之夜、相良左兵衛・高橋右近・秋月長門三人の名付にて
  城中より文をこし申候、(以下略)

このような記述がある。
この水野勝成覚書と、当日の天候がポイントかなとも思う。
14日夜〜15日早朝くらいまで小雨か雨でしたっけ?
そんな天候で雨に濡れた木材等が燃えるのかなという点と、
15日朝に水野勝成も放火してるらしきこと。
外曲輪と町中が別物なら別々に燃えた、となるが。

202 :
関ヶ原で島津豊久に加担した名主の三輪内助入道一斉
奈良の三輪山平等寺では島津勢が70日間匿われたと伝わる

この二つのエピソードに同じ氏族(三輪氏)が関わっている
三輪氏は大神神社(おおみわじんじゃ)を祀る古代豪族

三輪氏(大神氏)は九州にも縁がある
宇佐神宮創建に関わった大神比義も三輪氏
平家を追い詰めた緒方三郎惟栄も同族

徳川が加茂氏ならば、三輪氏の同族ということになる

歴史には埋もれた真実が沢山ある
信じるか信じないかはあなた次第

203 :
すれ開いてこんだけ史料あるならレスで羅列するよりもドキュメントファイルなりにした方が良さそうに思えた

204 :
もったいない

205 :
>>193
京極家の大津籠城合戦記でも毛利や筑紫との戦いでは優勢だったけど
立花軍が相手だとボロクソにやられるって描写されてるんだよなあ

206 :
このスレが>>1にとってはドキュメントファイルだから

207 :
関ヶ原後の徳川後継ぎ議論って本当にあったのかな?関ヶ原前の扱い見ると、どう見ても秀忠が後継ぎ扱いだけど
あったとしたら茶番劇にしか思えないんだよなぁ

208 :
長丸が嫡子扱いは史料上ゆるぎないが
豊臣がそう扱ったから徳川が追従してなし崩しに後継者になったのではなく
徳川主導でちゃんと議論して人物を見極めて決めましたよアピールってことじゃないかな

209 :
ないでしょ
秀康はその時点で結城家の惣領だし、腐っても鎌倉時代からの名門結城家に不義理はできないでしょ

そういった跡継ぎ議論が仮にあったとしても関ケ原より前

210 :
典型的な大久保アゲ

211 :
計画では家康が東海道を、秀忠が東山道をすすみ、ゆるゆる諸城を鎮撫しながら美濃表で合流の予定だった
しかし、村越の口上に発奮した福島らが竹ガ鼻、犬山、岐阜まで独力で落としてしまい、発言力低下を恐れた家康は慌てて急行した。洪水で秀忠には連絡が遅れたが。
このように、秀忠には東山道鎮撫という大役があり、他方、秀康は、奥羽越佐の覇者だけが目的で、南下の恐れのない上杉に対する警戒兵の役分しかなかった
くわえて、秀忠は中納言、秀康は宰相。
これらを見ても、正式な後継は秀忠としていたことは異論の余地御座候はず哉?

212 :
『実記』の按文
 今案ずるに、此公世子に定まり給ひし事は、明文なしといへ共、M松城にて國士の拜賀を受給ひしに始り[註1] 、
 御位階もまた御兄弟の並にこえ給へば、今[註2] 忠隣が議を待て定給ふべきにあらず。
 神祖もとより、公の仁孝恭謙の御コすぐれ給ふをもて、守文の主と定め給ひしはいと明らかなり。
  しかるに當時諸老臣をめして、かく議せられしものは、國本を動搖し給ふべきにあらず。
 たゞ人心の向背を試て、宗廟社稷の大計を定め給ひしものなるべし。

註1:1583年の正月
註2:関ヶ原前後

秀忠後継は豊臣臣従前から、ただし関ヶ原前後に(茶番かもしれないが)後継議論があったというのが幕府公式見解

幕末までに「忠隣の功績で秀忠の継承が決まった」みたいな事がある程度人口に膾炙してて
後継会議の存在を明確に否定できる証拠もなかったというのは確実、それ以上は闇の中

213 :
すると、その茶番会議は、越前黄門や薩摩守推挙の動きを断つための、念を入れた根回し会議だったわけですな

214 :
徳川実記も書き始めるまでにかなり年空いてるからなぁ
この記述をもってありましたっていうのはいささか尚早すぎかと
恐らく分かった上であくまでも幕府の公式見解として張ってくださったんだと思いますけども

215 :
不可抗力ではあるものの関ヶ原の遅参で失態を犯したように見られがちな秀忠に対するフォローとかかね

216 :
>>214
>>212は実記の史料的価値を十分に理解されて書かれていると思いますよ
実記は江戸幕府の公式史書と言うだけであって後年の編纂史料である以上妥当性について
史料批判は必須の文献ですからね

この史料は後継に誰が相応しいかと言う議論より、秀忠の後継としての正統性の根拠に重点が
置かれていてその説明のためにわざわざ挿入された逸話と感じる
だから実際にその様な議論が行われたかは正直どうでも良いのかもしれない

217 :
俗説だと三成と正則は犬猿の仲って事になっているけど
三成の書状を見ると正則は味方に出来ると考えていたみたいだし
イメージ程険悪な関係じゃなかったのかな

218 :
小山会議で福島らが提出してきた誓詞は、家康にとって光ってみえただろうけれど、家康からすれば、福島正則は元来は思慮のほどはあてにならない男だ。
だからこそ、相模国愛甲石田まで進軍していた黒田長政を呼び戻して、福島の変心の懸念を率直に吐露している。
容易に江戸からも動かなかった。
福島が石田の諜略にうまうまと乗せられるリスクは十分ありえた
袋小路に陥った時局を打開する使者として、村越茂助直吉が選抜されました

219 :
三成と正則が不仲じゃなかったらなんで襲撃したんだよ

220 :
正則は家康から信用されてなかったが
岐阜で戦い、自らの行動と結果で証明して家康を江戸から出立する気にさせた

三成もね、まずは自分自身で結果を出さにゃ駄目だったのよ
その結果を以って、輝元が自分から動きたくなるようにね
「こうしちゃいられん、俺も大坂城を出立して参加するぞ!、このままじゃヂヴばかりに功績と発言力を取られちまう」って気にさせるくらいじゃないとならないのに
毛利のせい輝元のせい来てくれなかったせいが言い訳になるようじゃ駄目駄目、話にならんのよ

この正則と三成の器の違い、能力の違いよ、東軍西軍の勝敗を分けたのは

221 :
仲が悪いから戦争するってわけでもねーしな
仲よかろうが状況によって普通に敵対するじゃろ

222 :
戦と襲撃は違うのでは?
襲撃は完全に私怨だろ

223 :
加藤清正、福島正則、池田照政、長岡忠興、浅野幸長、黒田長政、加藤嘉明(他に、藤堂高虎、蜂須賀家政、脇坂安治が参加の説あり)に追い掛け回された石田三成が逃げ込んだのは、
伏見徳川屋敷ではなく、伏見城治部少輔丸だという説があるが、それはホントなんですか?

224 :
襲撃つったかてアレほぼ戦になりかけてたしな
そもそも私怨やと思いこんでる根拠はなんぞや?

正則と三成の不仲を示す書状かなんかあったか?
それとも勝手に正則は三成に何か遺恨あるに違いないと思ってるだけ?

225 :
襲撃事件は黒田長政が主役。あれは朝鮮の役や親父さんを追い込んだ三成に異常な程憎しみを抱いていた。
黒田長政はキレやすくクセが強くて仲が良い武将は加藤嘉明と福島正則くらい。襲撃の際福島正則は黒田長政が引きずり込んだ。
で福島正則と仲良い加藤清正も入った感じ。
加藤清正と仲良い浅野幸長・細川忠興・池田輝政もそれで入った。
黒田長政が襲撃も関ヶ原も率先してやっている。黒田長政は反三成の筆頭。
他の六将も三成に思うとこあったんだとは思うが。
藤堂高虎は襲撃参加してないと思う。三成とはそこまで軋轢が無いし。
藤堂高虎は豊臣の先が無いのを理解してたのと徳川家康と相性が良かった。
福島正則なんてのは押しに弱い人だから徳川家康も三成側に付いてもおかしくないとは思われてた。
それを黒田長政に何回も聞いている。

226 :
そそ。なにしろ黒田を相模愛甲郡から小山まで呼び戻してるんですよ。さすがに1日2日じゃ往復できない

227 :
私婚問題で石田と福島は対立してるからね
福島の養子と家康の養女の婚姻も咎められた私婚の一つなので
家康が大老辞任させられた場合福島も何らかの罰を受けた可能性が高い
だから福島の襲撃事件の動機は私怨というより私婚問題に対する報復といった方がよいのでは

228 :
それは私怨というのでは

229 :
政治的な利害関係も含む対立だからね

230 :
私怨と言えばもっと個人的な事柄のイメージ

231 :
私婚問題については内府違いの条々でも奉行は家康の罪として批判している
だから福島からすれば西軍に寝返ったところで襲撃事件の事もあって
家康の共犯者として冷や飯を食わされる立場になるのは容易に想像がつくから
味方になんかなるはずないと思われるわけだけど
逆に石田からすればこちらに味方すればそれらの罪を不問にしてやる(=恩恵を与える)ということで
味方にできる可能性を感じていたのではないか

232 :
味方に付いたら不問は最低ラインじゃないのかな。味方に付いても処罰しますじゃ誰も味方につかないでしょ
西軍が絶対有利という状況でもないかぎりは

233 :
秀頼を擁している点で八月上旬辺りまでは自軍有利と考えていたと思う
そもそもが自軍有利の想定を基に決起してるわけだし

234 :
>>231
そもそもクビになったはずの三成が豊臣に居座って当然という態度がおかしいよね
福島でなくとも、三成は追放して二度と豊臣に戻しませんと西軍が確約するのが先だろ
不問にしてやるとか三成は何様のつもりだということになる

235 :
身柄引き渡しを要求する七将らをどうにか抑え、家康が呈示したのは三成隠居、福原、垣見ら軍目付の逼塞処分。
三成が動く名分は確かにない

236 :
内府ちがひの条々で会津征伐に従軍してる諸将が離反すると思ってる時点でバカすぎる

237 :
とはいえ、西軍が公儀だと主張する研究者もいるわけですし

238 :
むしろ西軍の蜂起で豊臣公儀が崩壊して全国統治機能が一時的に消滅したというのが事実でしょ
それにより地方の大大名は好き勝手に縄張り拡大を行える状況になった
だから毛利も上杉も家康そっちのけで縄張り拡大にいそしんでいたわけ
まさに一昔前までは日常的にやっていたことだからね
西軍公儀というのは豊臣公儀の崩壊を認めたくない人間が私情によって無理矢理ひねり出したものに過ぎない

239 :
仮に勝っても総大将輝元、当主は幼い秀頼、人望がないらしい三成でどうやって
組織運営するの
戦乱に戻るだけだ

240 :
>>237
白峰のことなら、「西軍が公儀って書状で書いてるから公儀」と言ってるだけのような。
小山評定論争でもそうだが『徳川史観を否定したい!』ってスタンスが前面に出すぎてて、正直眉唾。

241 :
>>240

>>4に書いてあるよ。

242 :
秀頼を大坂城本丸に監禁して秀頼の身柄を確保したうえで秀頼の名前を使って命令を出してるんだから公儀は公儀だろ
まぁ普通それはクーデターと言うんだがな

243 :
>>241
秀頼や朝廷が西軍を認めたという証拠を提示してんの?

244 :
認めるわけねえだろ。クーデターなんだから

245 :
西軍の公儀性については、少なくとも現職の3大老(毛利、宇喜多、上杉)と
すべての奉行(増田、長束、玄以)が西軍を支持し、
さらに西日本を中心に諸大名の多くも西軍を支持した。
そしてそれらによつて大軍も動員された。

この事象を当時の大小名が豊臣公儀と受け取ったかどうかはまちまちだと思う。
西軍に公儀性があると思った者もいれば思わなかった者もいたと。

大軍による威圧もあるが、開城した蜂須賀、生駒、伊賀上野や桑名もあれば、
安濃津、丹後田辺のように抵抗したところもある。

東西両方が公儀を主張してるなら、あとは当時の受け取り手の見方次第じゃないかと
わたしは思う。

で、おそらくは勝ったほうが公儀。

246 :
>>245
「諸大名の多く」ってのは過半数が支持したってこと?定量的な検証はしてるの?
朝廷の意向を考慮に入れなくていいの?

247 :
認める認めないはどうでもいいんだよクーデターだから。
武力で言うこと聞かせても事が成ったら事後承認しかできないのが当時の豊臣家とおまけの朝廷
秀頼を戴いてる(監禁)五大老と五奉行が秀頼の指示(偽造)だつって命令を出す。形式的には秀吉が定めた公儀に他ならない
公儀か公儀じゃないかと言えば公儀。正統かどうかと言えば正統じゃない。これだけの話

248 :
そもそも白峰の他に主張してる人おるんかいな

249 :
白峰は結論が非現実的

250 :
秀頼を監禁して公儀を横領してるんだから公儀性は確かにある。あるけどだからどうしたという話
白峰はそれを公儀性があるから西軍は正統と結論付けるからなんのこっちゃになる

251 :
軍団を背景に乗り込んできて、これで公儀を名乗れるのなら、子供を拐った誘拐犯も実の親を名乗って親権を要求できるんじゃね?

252 :
たとえがよくわからない

253 :
よくわかる

要は犯人が正義になるかどうか

254 :


255 :
全く無関係の誘拐犯が親権を主張しても誰も認めんだろ
例えも的外れのような

せめて親族が虐待されてる子供を保護して養育権を主張とかなら

256 :
大阪城に入ったといっても西の丸まで
本丸に入れず西の丸に居座ることしかできなかった
本丸に武力突入だと完全な謀反だし

257 :
世間知らずの主婦みたいな書き込みが多いな

258 :
白峰説についてはX07JAzxDの受け取り方が妥当で理解しやすい
白峰説は適切な史料を提示して西軍公儀を論証している点は自然で反論は少ないと思う
だが西軍公儀の成立を根拠に徳川家康中心の公儀が失われたとする考え方に論拠がなく飛躍が見られる
この点に多くの人は違和感を感じるのであって西軍公儀の成立の否定はまた別の話になる

259 :
そもそも公儀って一般用語でいう中央政府のことでいいの?

260 :
>>259
公儀は時代によって意味合いが多少変わって来るが、公権力と理解するのが一番しっくりする

261 :
だからクーデターで城に乗り込んできた連中がなんで公儀を一方的に名乗れるんだよ
こんなもんただの犯罪だろ
これが正当化されるのは戦に勝って自分の都合のいいように歴史を書いた場合だけであって、負けたんだから話にもならない
肝心の主権者の豊臣家は徳川を討伐しろとも会津征伐をやめろとも会津征伐軍を解体しろとも言ってないじゃないか
おまけに朝廷からも認められてないんじゃ強弁のしようもないでしょ
こんなんでなんで公儀なんて思えるんだ?
西軍はその発足から崩壊まで、どこの権威からも正当と認められて無いんだぞ

262 :
クーデター勢力が、公権力と認められるケースは、最高権威のお墨付きを得られた場合だよ。
つまり、西軍は豊臣家なり朝廷なりのお墨付きがなければ、どこまで行っても惣無事令違反の謀反組織。
クーデター政権として政権運営能力を有することは出来ても、公儀としての正当性は具備されない。

263 :
数か国を有する大名と公権力の違いはなんでしょうね
双方ともに家臣に知行を与える、あるいは改易に処すといった白峰氏が唱える権力を有してますけども
一般的にはあくまで前者は私的支配扱いかと思います

となればやはり朝廷、あるいは今回の場合豊臣家から認められる状態にならないと公儀とは言いにくいんでしょうか

それとちょっと気になったんですけど白峰氏の主張をまとめた内のひとつ
政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
の記述なんですけど、当時の政権の所在地って大坂なんすかね?伏見なイメージ持ってたんですけど

264 :
家康が大坂に移って以降の伏見はもぬけの殻状態だったらしいぞ

265 :
テロリストが国会議事堂を占拠して新憲法だのを発布しても誰も彼らを新政府だと思わないだろ
西軍が改易だなんだと文書を発布したって、その時点で彼らが公儀になったと思う人がどうかしてんだよ

266 :
秀吉の遺言で豊臣政権の運営は家康と前田利家のツートップになった
利家が死んで家康と豊臣家当主の秀頼の所在地が同じ大阪なんだから

267 :
>>264
>>266
なるほど、家康が大坂城に移った時点で政権の所在地も伏見から大坂に移ったと認識するんですね

268 :
実効支配が正しい

あるいは政権として振る舞ったとかね

269 :
西軍はタダの空き巣だろ
持ち主が出払ってるトコに出没した空き巣が
ここは俺のモンになったぞwと喚いてる
で、引き返してきた持ち主にあっさり駆逐されて終わった事案

270 :
西軍は東軍のメンツを過小評価し過ぎたかな

271 :
石田三成が東軍を甘く見てたよね。島清興や大谷吉継や島津義弘は徳川家康を警戒して三成に何度か献策してるが何れも却下してる。三成は自分に酔い過ぎな所が命取りになったよな。
他の西軍諸将は徳川家康を関東の猛牛と言っている。

272 :
三成は豊臣恩顧の諸大名が秀頼のためなら私憤を捨てて自分に加担してくれると思っていたんじゃないのかな

273 :
別に三成は単なる一官僚であって、豊臣恩顧のリーダーとか豊臣一族代表者とかではないからな
三成は秀吉に寵愛されたことで自分の立場を勘違いしてしまったのだろう
豊臣がピンチの時は特別な立場である自分が蜂起して、豊臣恩顧全員が特別な立場である自分に協力するべきだと思い込んでいた
加藤や福島でなくても、三成に協力する義務など誰にもないことを理解していなかった

274 :
可愛がられていたペットが主人亡きあとになんかキャンキャン吠えてんだけど、なにを吠えてんだか誰も理解できないし、それより遺産の分配にみんな夢中だったんだよ
その後、この親族が外戚のおっさんにいいようにやられてひどい目にあったんで
「ああ、あの犬はこの事を心配して警告していたんだな」
と解釈しただけ
犬がなんで吠えてたかなんて本当は誰にもわからなかった

275 :
なお無闇に吠えるなというのが主人の言いつけだった模様

276 :
犬は前と変わらず高級ドッグフードを寄越せと言ってるんじゃないのか?

277 :
そもそもその犬はおっ死ぬ前から主人に遠ざけられてた節もあるっていう

278 :
現代で治部が忠臣扱いされるのって後の歴史から見た逆算だからな

279 :
遅くとも黄門の時点で忠臣であるって認識はあったろう
同時代ではどう捉えられてたかは微妙だが

280 :
水戸光圀公、アンチ徳川のはしりの人ですからねぇ
大日本史も非常に素晴らしい編纂物ではあるものの、おかしな部分も多いし
そのまま水戸藩はずっとその姿勢のままになるし

281 :
>>280
お前大日本史読んだことないだろ。アレは徹頭徹尾徳川の支配を正統化する内容だぞ

282 :
>>281
アンチ徳川のはしりの人ってのと大日本史の記述がおかしな部分が多いってのは分けて見てください、ややこしい書き方で申し訳ない

283 :
>>282
承知いたした

284 :
>>280
主義を奉ずると殺し合いに至るという例
イスラムとか共産も同じ

285 :
キリスト教も資本主義も同じくらい殺戮を引き起こしてるわな

286 :
主義・主張・信念なんて思想の左右とかに関係なく相手に強要したら喧嘩になるのは当たり前だわさ

287 :
明石全登はホントにキリスト教保護を真に受けて大坂城に入ったのかね

288 :
大坂の陣スレで聞いてくれ

289 :
>279
当時は奸臣扱いで再評価の切っ掛けだったという記事は見かけた
他の史料名は書いてなかったからどこまで本当かはわからんけど

290 :
祖父の敵対者を忠臣とか思い切った事したな
逆に実の孫だから出来たのか
外様なら取り潰されそうだな

291 :
三成たち奉行連中は、家康が招聘されるよりも10年以上前から誰より政権中枢部で活動していたわけで
そもそも三成たち奉行連中に豊臣を守る忠義や能力が不足していたから秀吉は家康の招聘に踏み切った
豊臣を守ってこなかった三成たちを家康がクビにするのは当たり前だし
三成は10年以上も豊臣を守ってこなかったくせに、クビにされた途端に忠臣面して豊臣を守るとか言い出したら
加藤や福島でなくても三成に激怒するのは当然だろ

三成みたいな都合のいい時だけ忠臣面する人間に騙されて称えてしまうのは日本人の最大の欠点だろう
水戸光圀は詐欺に引っかかる日本人の典型例だな

292 :
大西泰正氏の「前田利家・利長」の加賀征伐に関する論考が興味深かったので
それに関係する史料を一つあげてみる

293 :
島津忠恒宛義弘書状

尚以帖佐、山田、蒲生、吉田之人衆出水表へ可被召移之由、度々御談合申定候き、然處庄内堺へ御城取に付、

右四ヶ所之人數被召移之由相聞候、無心元存候、當時之地頭に内談いたし、移望申儀も可有之候、

倂庄内事は一節の儀に候、いつみの儀は肥筑表之一の城戸にて候間、彼表之儀手かたく御かくこ候はては、

貴所御爲に罷成ましく候、其御心得專一候、我等事は老軆にて候間、後年貴所御手前可然樣に可被仰付候、

はや肥筑表きざし候之由申來候、就夫もいつみ表之儀於不番は、庄内口の御行も急に難濟候之条、さて申入候、

以上、

態令啓達候、

一 今度於大坂 内府樣天下之御仕置被仰定候に就き、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿當時賀州へ在國候を、

  無上洛樣にと被仰下候、自然強而於上洛者越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿、

  石治少之内衆壱千餘、越前へ被下置候事、

一 加藤主事も無上洛樣にと被仰付候、其上に罷上におひては、淡路表にて可被相支之由候て、菅平右衞門尉殿、

  有馬中書兩人に被仰付彼表へ被指越候、如斯必定承付候間、爲心持申入候、乍不申諸人不承樣に、

  校量肝心候、其故は京都之出合、國元へ申通候と露顯候へは、爰元の仕合も難計候之事、

一 出水表之儀心遣候之条、 竜伯樣江被逐御熟談、彼境之番尓々可被仰付事に、ョ入候之事、

一 加主事は連々氣任之仁候之間、無思慮弓箭をも被取出儀も可有之候之歟、左樣なる時、出水表於不番に者、

  油斷に可罷成候、殊佐敷表之儀も、小攝、相良なと被乘取軆に候ては、後年御爲如何敷候、

  又加主方より手色不見處に、從御方角佐敷表へ楚忽なる儀をも仕出候へは、一揆の手初に可罷成候間、

  いかにも丈夫なる仁を被召置、其仁壹人迄に内證被仰聞、油斷をも不仕、又楚忽なる儀をも

  不申出樣に能々被仰付、彼表之樣子被聞屆、賢慮ョ入候事、

一 庄内表之儀いまた於無落去は、右之出合承付候はは、彌下城之御侘も六ヶ敷可申歟と存候、從有方の内證は、

  先此節は下城仕候樣に被仰調候はは、後日はいかやうにも御噯可有之と被思食候間、時分からと申、

  分別可入由被仰候、定而加主方よりは庄内へ山くぐりをも被指越、樣子可被申談と推量申候、
  
  能々才覺此時候、恐々謹言

      九月廿一日       惟新(花押)

      少將殿

294 :
>>292
どんな内容の論考なの?

295 :
太田和泉守記 (岐阜関連部のみ抜粋)

八月廿一日 福島左衛門大夫 萩原の渡り打越、西美濃より打廻の足軽を出し候、
追払おこし(起)の渡り打越、大良(美濃大浦)近辺焼払、其夜者大良の堤にて夜を明し、

八月廿二日 払暁に茜部を打越、岐阜近所に陣を取、犬山口推の事、
駿河衆・遠江衆さし向られ、池田三左衛門萩原口相図の煙を見て河田の渡り被乗渡、
爰にて一柳監物(直盛)先陣也、御敵岐阜の中納言秀信卿閻魔堂まて被取出、
足軽飯沼小勘平(長資)かけ来、川口にて禦戦あり、
金松又四郎(兼松正吉)懸合しはらく勝負を争、頸者池田備中(長吉)手へ小勘平を討取也、
さて推懸?かゝる処に御敵津田藤三郎あかきほろをかけ乗返し?殿也、
金松又四郎き成ほろをかけ前後左右へ引付、何ゾ勝負も不見分、
互の心はせ在之、去而其夜者芋島・平島に陣取、

八月廿三日
未明に両口の人数一手に成、一同に?と岐阜町口へ押寄、若武者共争先乱れ入、
福島伯耆守乗込、散々に相戦高名あり、梶田新介是又同事に粉骨の働有、
諸手の軍兵不劣我爰かしこにて思々さま?武名之規模有、高名の浅深あり、
数千人の事なれは一々紙書に載かたし、
瑞竜寺山三ヶ所の取出、樫原左近父子拘之城、浅野左京大夫(幸長)攻上り、
一旦に乗崩し数輩の高名無比類、大手の口七まかり責上り、
御敵小作左衛門佐(木造長政)返し合?随分の働也、
京極侍従者荒神洞柴田修理亮古屋敷達目洞口を攻上り、
大手・搦手の人数入合本丸をとり詰、
中納言秀信卿屋形稲麻竹葦なんとの如く鉾先を並てとり囲ミ、
瑞竜寺山三ヶ所の取出も不及申攻落し、樫原左近父子残党千余人刎首、
其外討死不知其員、過半奈賀良(長良)の川へ逃入溺水ニ死する者無際限、
哀成有様目も当てられぬ様躰也、
岐阜城羽柴左衛門大夫うけ取、中納言秀信卿去人なれは、
可有御自害之由候を、各として宥申、先尾州へ越申され、夫より高野山へ御上り候之也、

八月廿三日
濃州岐阜山攻落し数多討果の趣

八月廿六日 早飛却(脚)武州江戸ニ至て内府公へ御注進参着御満足候之也、
是をは不知、岐阜煙を見て、為後巻石田治部少・小西摂津守・島津兵庫頭・
備前中納言卿、がうど(河渡)渡りの口まて懸来候を、
黒田甲斐守・田中兵部少・藤堂佐渡守・賀藤左馬助(加藤嘉明)、争先かゝり合、
数剋戦無勝劣、大将の治部少輔、東国武者の習にて馬を入られ、
叶ハしとや思けん、大柿をさしてかけ入也、
数多討捕勝に乗たる軍兵共不休此競、?井(垂井)・関か原山中迄焼払、
既及薄暮士卒其儘赤坂に陣取、翌日より虚空蔵山構要害対陣也、
敵合五十町隔候間、日々戦無止時、

296 :
>>290
まあ、そこが儒教を真面目に習った人の矛盾だね。

家康が儒教を導入したのは諸大名の牙を抜き徳川に忠誠誓わせる為なのだが。

でも、それで行くと豊臣家子飼いの家臣の三成が主君を守ったのも認めざるを得ない。

297 :
>>296
どこが忠心なのか説明できる?

298 :
>>296
百歩譲って守ろうとしたまでならともかく、守ったなんて結果を残したような言い方はおかしいな
そもそも三成って関ヶ原はもちろん、忍城でも朝鮮出兵でも失敗ばかりで何の結果を残していないんだよね

三成を忠臣にしようとすると逆に失敗ばかりで成果を残せない無能な人間となってしまうジレンマに陥る
むしろ奸臣として扱った方が讒言で利休や秀次を倒したという結果を残したことになるから
奸臣説の方が三成の能力を認めて配慮しているんだけどね

無能な忠臣よりも有能な奸臣の方が三成本人にとって良いことだよ

299 :
三成の本領は戦や謀略じゃないんじゃないの?
まあ検地とか内政面で期待されながら戦方面にシフトしていった清正とかもいるけど

300 :
側近官僚から武将に進んで大名になるのも普通のルートの一つやでな
三成も秀吉に九州で一国やるから朝鮮征伐軍の司令官の一人になれって言われたけど断った。
秀吉のために異国で苦労するより中央で権勢振るいたい人物とみればそりゃクーデターくらい起こすわな

301 :
>>299
本領が戦や謀略ではないのに自分で勝手に戦を起こしたのだから
三成は忠臣というより素人の思い上がりというのが正しいだろう

忠臣の大前提はその分野で有能で人望があることだよ
戦の才能がなくて現場から嫌われている門外漢が勝手に戦を起こして惨敗したというのは
忠臣かどうかを論議する土俵にすら上がっていない論外の段階でしょ

302 :
景勝への使者の事に触れている忠恒宛、義弘書状

以上、

幸便之条令啓候、

一 庄内の儀相濟候て、先以目出度存候事、

一 先書に申候樣に、御かみ樣小腦氣に御座候つれ共、此比者御快氣之軆候、然共よりより少御煩被成候へ共、

  致御養性候条、急度可爲御快氣候事、

一 伏見へは西國衆可爲御番よし、御掟被仰出候處に、何程之儀候哉、諸大名悉大坂へ家居已下被引越候、

  我等事とかく不承候間、ふしみへ致御番候、今分に候はは、伏見之儀者荒野に可罷成軆候、

  然共 御城へは 内府樣御息御番被成候事、

一 都今ほと御無事候、乍去景勝致出仕仕間敷よし被申候に付、搏c右衞門佑殿、大谷刑部少輔殿、

  度々雖御噯候、不事濟候条、伊那圖書頭殿來十日に打立、奥州あいつへ下向候、
  
  勿論樣子者不存候、就夫とにかくに、さつまより茂人衆被召上候はては不叶砌と存事候、

  不可有御由斷候、猶追々可申候事、

一 爰元諸大名、少之所へ他行被成候にも、道具を事々敷持せ被成候条、上洛之時者其用意專一存候、

  恐々謹言

      卯月八日       惟新(花押)

      少將殿

猶々上樣御煩、此比はすきと能御座候而、今日者御幸八幡へ御參詣候間、可御心安候、

將又先札にも申入候景勝御噯之儀に付伊那圖書頭殿去十日に爰元打立、會津へ下向候、

毛利殿、搏c殿、大谷殿使者同心にて罷下候、樣子聞得次第注進可申候、誠御音信之しるしまてに候、

此度貴所始而之出陳與申、天下之取沙汰無穩儀共候之處、庄内之儀思召侭に罷成、我等大慶此事候、

定而貴所滿足可爲御同前候、如此之爲御祝儀、 上樣より御使者被差下候条、乍次令啓候、

尤別使を以可申候へ共、同篇之儀候間、無其儀候、定頃者庄内置目等被仰付、

いよいよ目出度相調候はんと存候事、將又此表今程別条無御座候、替儀共候者、追々可申越候、

  恐々謹言

      卯月十八日       惟新(花押)

      少將殿

303 :
これ見ると家康、承兌以外にも会津へ使者出しているんですね
毛利、増田、大谷と後の西軍の首脳なのが少し気になるところですが

304 :
ついでに西軍決起の際の景勝宛、義弘書状

雖未申通候令啓候、此度内府貴國へ出張に付、輝元、秀家を始、大坂御老衆小西、大刑少、治部少被仰談、

 秀ョ樣御爲に候条、貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治より可被申候、以上、

                    羽兵入

   七月十五日               惟新

   景勝
     人々御中

305 :
>>294
通説の加賀征伐は虚構って感じだったかな

306 :
じゃあなぜ人質を出した?

307 :
>>306
>じゃあなぜ人質を出した?

だれ?

308 :
ホーシュー院のことだろ

309 :
武田法性院信玄

310 :
前田は徳川に母親のまつを人質に出したろ

311 :
いつだよ?

312 :
>>311
お前は脳みそをアップデートしろ

313 :
>>305
そこより他所の研究者に対する暴言がオモロイ

314 :
> 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。

315 :
>>294
本屋なり図書館なりで、自分で読んで見ればいいんじゃないかな

316 :
大西泰正・・・暴言・・・アップデートしました

317 :
>>294
参考までに目次だけ書き出せば
はじめにー「加賀藩成立史」への疑念
第一章 豊臣秀吉書状の偽作ー利家伝説の虚実@
第二章 前田利家の領国支配
第三章 前田利家と豊臣政権
第四章 前田利家遺言状の偽作ー利家伝説の虚実A
第五章 前田利長と豊臣政権
第六章 「加賀征伐」という虚像
おわりに
前田利家・利長関連年表
主要参考文献

318 :
>>306
加賀征伐なかった説もう論破されたのかよ
いつぞやの秀次切腹と同じように誰にも相手にさないだろうな

319 :
人質について論考に書いてあるかも知れないのに読まずに論破も何もないんじゃ?
なんの責任も責務もない匿名任せにする前に自分で読むのがまず第一じゃないの?

320 :
あ・・あなた様は・・・もしや大西さん?

そんなこと言って本買わせようとしたって、そうはいきませんわよ!

321 :
図書館で読めば?買うだけのお金ないなら
この手の読めばいいって話でなんで即買うって認識になるのか謎

322 :
そりゃまあその辺の図書館にはまず置いてない本やでな

323 :
大西さんゴメンナサイm(__)m
どうかお怒りを鎮めてください!

324 :
>>322
あーそうなの?
ウチの市の図書館だと置いてあったから、あるもんかと

>>323
俺は別に先生でもなんでもない
知りたいなら読めっていう当たり前の事言っただけで茶化してくるな
すこぶる不愉快、バカしにてんのかお前

325 :
一人で熱くなってるようだが、いくらあがこうと大西が306に論破されたことは覆らない

それに、どれをとっても大西泰正にしかみえない
>>319
本じゃなくて論考と書くところ(書いた本人目線)
なんの責任も責務もない匿名任せと書くところ(自分は2chなんかより上のところに書いてるぜ)
>>324
先生と書くところ(大西を先生と呼ぶ奴いない)
なぜか過激になってるところ

大西は本の中で
芳春院を人質に出したけど代わりに豊臣に人質にとられていた玉泉院を取り戻したから損ばかり蒙ったわけじゃない
と書いたことを言いたいのだろうが
306に対して何も返せてねえよ!

326 :
すげぇな、その程度の推理で本人特定とかサイキッカーかよ
いいこと教えたるわ、家中にアルミホイル張っとくと火星人からの毒電波防げるぞ

327 :
イかれたコメ書くやつってホントsageも使えないのばっかりだなぁ

これ何かしら要因あるのかな?
見分けやすくて丁度いいんでそのままsageも使えない脳みそでいてほしいけど

328 :
>>292の本って7020円もして高いんだよね。
前から気にはなってたけど高いんでわたし的には購入優先順位が低い。
図書館って提案もあるけど図書館行ってるひまなんかない。

前田征伐は>>293にもあるけど、

一 今度於大坂 内府樣天下之御仕置被仰定候に就き、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿當時賀州へ在國候を、

  無上洛樣にと被仰下候、自然強而於上洛者越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿、

  石治少之内衆壱千餘、越前へ被下置候事、

一 加藤主事も無上洛樣にと被仰付候、其上に罷上におひては、淡路表にて可被相支之由候て、菅平右衞門尉殿、

  有馬中書兩人に被仰付彼表へ被指越候、如斯必定承付候間、爲心持申入候、乍不申諸人不承樣に、

  校量肝心候、其故は京都之出合、國元へ申通候と露顯候へは、爰元の仕合も難計候之事、


とあって家康が越前と淡路で警戒態勢をとるよう指示してんだから
なにかしらの騒動があったのは間違いないと思うが。

329 :
論破されたされないぐらいでアホなくらいにムキになる時点で本人でしょ。
こんなにかまってもらえてよかったな。

330 :
ワイは読んでないから内容についてはなんとも言えんが、情報について知りたいのに
金も支払わない・本読むために図書館に行く程度の労力も払わない
なのに他人から情報を欲しがるってクレクレ乞食じゃん

331 :
図書館は通うものだと思ってた

332 :
最近の図書館はネットで蔵書検索も予約もできるから、見たい本が決まってるなら、それだけ取りに行くのもあり。
県内の図書館でネットワークを構築してお取り寄せできるところもあるしね。

333 :
>>328
>>317の目次をみた感じ、戎光祥出版社のではなく、平凡社から出た方じゃないの

334 :
明日は映画関ヶ原が全国ネット放送だな。もっとも、司馬遼ベースたったよな、あれ。

335 :
>>293
これ読むと島津、清正のこと信用していないな
清正が義理堅いってイメージがそもそも間違っているとは思うが

336 :
清正は庄内の乱を裏から支援してたからじゃないか?

337 :
清正って義理堅くも情に厚くもない印象だけどな
九州関連だと他に立花の助命関連の俗説があるけど
>>79の史料をみると、むしろ最初は処罰させる気満々で
情勢をみて助命に変節しただけだろう

338 :
映画見てるけどこれキツいな。
戦いの経緯が全くわからん。

339 :
ただ合戦を2時間流した方がマシかもね。

340 :
駄作過ぎてビビった。

341 :
このあと葵〜徳川三代見るといい

342 :
>>332
忍者みたいな女が出てきた時点でチャンネル消したわ。
三成があんなにモテるわけがないだろ。

343 :
三成が黒田官兵衛にしか見えなかった

344 :
>>337
清正、二条城の会見後、秀頼が屋敷で休憩させて欲しいと言ったら
恐れ多いと理由を付けて断った挙げ句、疑われない為か、接待の場所を
屋形船にしたくらいだしな。

345 :
關ヶ原も小山評定、問鉄砲が無かっただの、加賀征伐がなかっただの
西軍が公儀だの、三成が吉継を西軍に誘ったのではなく、
吉継が三成を西軍に誘っただの、清正は家康に九州を任されたのではなく
家康に参加を拒否され、九州に留まっていただけだの
正則と輝政は岐阜で先陣争いをしていないだの、色々な説が出てきていて困る

346 :
加賀征伐がなかったとか、馬鹿なの?って思った。
同時代の資料がないは、分からないだけであって、なかったことにはならないだろ。
まぁここに挙がっているのは大抵そんなのばかりだけどな。

347 :
耳目を集めるにはそういう手法をとるのが手っ取り早いからでしょ

348 :
そのうち七将襲撃事件はなかったとか言い出しそうだな

349 :
>>348
既にそういう主張はあるよ
七将は襲撃したのではなく三成の朝鮮での所業を家康に訴えただけ
だから三成だけ処罰されて七将が処罰されないのは当たり前という主張

350 :
「##はなかった!」は、あくまでもとっかかり的としての見出しが普通。

351 :
(通説通りの)○○は無かった!ちゅうだけやでな。安易に使いすぎて辟易

352 :
慶長四年三月四日(もしくは五日)付毛利元康宛毛利輝元書状で
三成を襲撃した者共は一向に成果をあげることができないでいるので、これを機にこちらから仕懸ける方がよいので、輝元に尼崎に陣取りしてくれと三成が言ってきている
とあるから間違いなく襲撃事件はあっただろうに

353 :
>>352
それは三成や輝元がそういう解釈してる、という考え方もあるからなあ
例えは悪いけどやくざやチンピラ、不良なんかの因縁付けみたいな感じで

もしくは豊臣家と家康が協議して『彼らは襲撃ではなく、三成罷免を要求しただけ』
という事で話をまとめたっていう形にしている以上、襲撃事件なんて『なかった』
って解釈をしているのかもしれない
要するに書類上、あるいは形式上そういうことになってるってこと
それに異議を唱えたり文句を言うのは豊臣政権を立てる以上、するはずがないよね?って話

354 :
なんにしても精査するのはいいことだよ、
キャッチーさを重視して通説ダメみたいな売り込みはやめてほしいけどね

355 :
家康、西軍の蜂起を予想していなかったから、伏見城攻めも勿論予想しておらず、だから少数の兵しか残さなかったって説もどこかで見たな

356 :
一番びっくりした戦国関係の話は、
「上杉謙信は女だった!」

357 :
>>345
隠居した三成を誘う価値、あまり無さそうな気もするが
それとも佐和山城、戦略的地理価値高いのかな?

358 :
>>357
佐和山城は重要拠点だよ。
関ヶ原の戦い後に向かいに彦根城築いたくらいだから。

359 :
グーグルマップなんかを見れば一発で分かりそうなもんだが

360 :
そもそもなぜ関ヶ原で決戦になるのかという話に繋がってくる

361 :
つかまあ、佐和山を味方にしないと西軍のクーデター自体戦略面から言っても成り立たないわな。

362 :
毛利輝元は引き込まれたどころか積極的で、
西国各地に軍勢を送り込んでいた。
三成は主導グループの一人ではあるが、毛利のスケープゴートとして主将扱いにされた、みたいな論調みたことあるな。

363 :
関ヶ原当時の三成の書状見ても、西軍幹部なのは確かだが、事態の主導は明らかに出来てないしなあ。
大阪城からの命令を実行する係

364 :
西軍って反家康でなんとなく集まっただけだからな
ちゃんとした組織ではないんだよ

365 :
>>362
家康が輝元と共謀して三成を首謀者にでっち上げたから、三成は被害者だって関連スレで書かれていたっけ

366 :
関ケ原前日の時点で三成ら主戦派は吉川広家の寝返りに気づいて無かったのだろうか?

367 :
裏切りも何も恵瓊が勝手に連れてきただけだろ。

368 :
>>360
豊臣家は西軍に対して軍資金も兵糧も拠出していない
西国大名の大半は朝鮮出兵で財政面でも消耗しており、自腹で東国遠征なんて不可能
三成自身も金を貯めていないので自腹で東国遠征なんて不可能

つまり西軍本隊はそもそも東国遠征そのものが不可能
畿内より東は真田や秀信みたいに自発的に西軍について単独で戦ってくれることを願うのみであり
畿内から少し出た大垣あたりが西軍本隊が遠征できる限界となる最東端なんだよ
それですら兵站が破綻して現地で稲刈りして兵糧調達をしているから大垣城での篭城戦も兵糧不足で不可能
だから関ヶ原が西軍本隊の戦える事実上の最東端になる

といっても地理的に最東端なだけで金も米も不足していれば士気が低下して
東軍に抵抗しない大名が続出しても不思議ではない
関ヶ原で決戦になるのも西軍の大半が諦めてしまうのも経済的に考えれば自然なことだ

369 :
そういえば家康の出立が遅れたのは東軍先鋒の動向を見ていたんじゃなくて、どうも
兵糧の輸送を先行させて家康隊が通れる道が開かなかったのが原因らしいな。家康が輜重部隊に早く道をあけるよう
催促してる書状が有る。

370 :
村越直吉「然らば、有体に申し上げる!
      先陣の諸将、旗幟を鮮明にせざれば、家康公の御出馬是無く
      こぞりて合戦の火蓋を切らば、直ちに御出馬あるべし」
山内一豊「まーだ疑うておいでか!?」
蟹江敬三「ほ〜ぉ、速やかに手出しをせよと、そういうことか」
村越直吉「いかにも」

これでいいんだよこれで

ジェームス三木氏のような脚本家の解釈の方が遥かに説得力があることにね
史料が史料がで無意味に蒸し返すしか能がない衒学だけの歴史学者は恥じるべきだね

371 :
>>370
おまえはこんな三文芝居に説得力を感じるのか。詐欺に引っかからないよう気をつけろ。

372 :
自分の好き嫌いと史学の解釈の見分けのつかない子なんだろね

373 :
いつもの講談小説厨でしょ。よっぽどうっぷん溜まってると見える

374 :
なぜ正則だけ役者名なのか

正則の名前が浮かばなかったんかな?

375 :
>>370
この前葵徳川三代観ただろ

376 :
>>369
その理由だと一か月は長すぎるような。輜重隊が一月近くも道塞ぐかな

377 :
横からだけど
輜重隊が道をふさいでたことにプラスして
先に人質を江戸へ移動させることや、尾張での兵糧徴収と東海道をスムーズに移動するための普請を行ってたからみたいよ
輜重隊オンリーが理由ではないみたいね

378 :
徳川家康は八月上旬までは尾張美濃の情勢より奥羽北関東の情勢を重視していたと思う
美濃への進出も徳川家康より福島正則を中心とした東軍先鋒が積極的だったと思う

上方と奥羽の二正面作戦を避けるために上杉景勝の動向を本来は時間を掛けてでも見極めたかったが、
美濃方面の西軍の参集が思いの外遅れていたために先鋒の岐阜城攻略の献策があって許可をしたと
言うのが本来の姿だったのではないか

379 :
その説に従うなら最上は大殊勲だな。

380 :
どうも秀忠隊は中山道を通って西上するのが目的じゃなく、北への備えだったみたいだし
奥州北関東を秀忠と秀康隊にそれぞれ任せた上で上記の東海道普請や尾張の兵糧徴収があるんで
その説は少し難しいんじゃなかろうか

381 :
秀忠の目的は真田征伐だったのに、急遽家康の方針変更で関ヶ原に行くことになったわけだし、
おまけに決戦の日なんて予想不可能なわけだから、間に合わなかったからって仕方ないことだと思うんだけど
叱責される程の失態だったかな

382 :
怒られたのは無理な行軍をして隊列を乱したから

383 :
たしか軍勢おいて単身で来たからだろ。遅参自体は怒られてない

384 :
秀忠遅参説の成り立ちが知りたい

385 :
遅参をおおっぴらにして怒ると秀忠を廃嫡しなければいけなくなる

関ヶ原で勝ったとはいえ、まだまだ徳川の天下は固まっていない
秀忠の妻は淀殿の妹という縁もある
豊臣家はまだ大坂城で毛利輝元に担がれて健在だ
わざわざ不安定要素を増やしたくなかったのだろう

だからもともと関ヶ原に来る予定じゃなかったの北の備えだったの言って、
お茶を濁したのではないか?

386 :
>>385
書状類でちゃんと証明されている

387 :
単純にいわゆる創業者上げのために2代目が不当に下げられやすいのと
江戸時代の途中で秀忠系の家系が途絶えてるはずなんで、それもあって下げに使いやすかったんじゃないかと

388 :
遅刻をごまかすために秀忠が捏造したんだよ

389 :
>>388
お前は脳みそをアップデートしろ

390 :
優秀な二代目だった織田信忠毛利隆元の影が薄いのと一緒

391 :
信忠は優秀とは言えないだろ
有楽をはじめ逃げ出した連中全員が何の問題もなく無事に脱出できた状況下で
勝手に自爆切腹をやらかした無能だよ

392 :
信忠は近所に親王がいて見捨てて逃げられなかった説

393 :
優秀な二代目
徳川秀忠
北条氏綱
毛利隆元

394 :
徳川秀忠はだいぶ見直されたが織田信忠はまだまだやね

395 :
本能寺の変時で自決は誰があの立場であの状況になっても腹切るレベルだから落ち度にはならないけど
信忠の評価点が見つけにくいのよね、隠居してたはずだけれど最後まで信長が織田家の実権握っていたように現状見えるし
唯一本人が自己判断で行ったと素人目に見えるのは甲州征伐時の手腕くらい?

信忠研究にいい本って何があるんでしょうね

396 :
つか本能寺の時、信忠は父親の信長の安否がわからない間は逃げるに逃げられないだろ。
一人で逃げた後で父親が無事なの解ったら面目を完全に失うし、良くて廃嫡悪ければ切腹。

397 :
その辺の真面目さが守勢の2代目にぴったりなんだけどな。惜しい死に方したな。

398 :
その辺は信忠をドロップキックして逃して、自分は殿で死ぬ三河武士がいなかったから

399 :
>>387
三河物語の上田城攻めの描写や真田家や仙石家の自家ageの為の家譜とかの
影響もあったんじゃないかな

400 :
結局どのドラマや映画1番史実に基づいてるの?
この前の映画の関ヶ原?
それとも真田丸?
おススメを教えろい!

401 :
>>400
史実に基づいている関ヶ原はない。

402 :
1番増しなのは葵三代やろ

403 :
だな。

404 :
金かかってて見栄えいいですからね、あれ
とはいえさすがにそろそろ関ケ原合戦単体としても戦国時代の軍制の部分でも今の定説に沿わなくなってきてるし、新しく撮りなおしてほしいけれど
今もうあんだけ金かけられるところないんだろうなぁ

両軍とも緑の服着せて後からCGで色変えてどんな合戦にも対応できる汎用合戦シーンでも撮ったら面白そう

405 :
中国の歴史ドラマだと兵士をCGで増やしてるよね

406 :
>>404
漫画の実写化には金かける癖に時代劇には金かけられないのかね
情けない

407 :
現在の史実もっとも近い関ヶ原って西軍があっさりやられましただからドラマにならんやろな

408 :
>>390
その2人は親が生きてるうちに家督を譲られたけど、親と同時または親より先に死んでいる。
親(家康)が死んでから自分だけで政権運営できた秀忠は違うよ。

409 :
>>406
時代劇だと金にならないけど、漫画やアニメ原作なら金になるのがわかってるから

410 :
映画にしろドラマにしろ時代劇やろうにもちゃんと演じられる人もいなくなってきたしな
ジャニーズとかそんなんでは興醒めだよ

411 :
演技以前に脚本が酷すぎるよ

412 :
金にならんといってやめてたら、そりゃあ脚本も経験値はないわ熱意もないわで
まともな脚本なんて出し殻になっていなくなったでしょうね

413 :
>>408
秀忠や義詮は評価見直されてきているけど、頼家は無理なのかな
実朝は中公新書の承久の乱読むと見直されてきているみたいだけど

414 :
>>411,412
バブルのころに主婦でも脚本家に!とみずから沈下していった業界だし

415 :
>>404
全然関係ないけど八重の桜は使いまわしよくしてるよね
あのシーン金掛けたNHKの自信作だから

416 :
>>413
twitter見てたら、秀忠に関する話題のまとめサイト作った人がいるんだな

417 :
https://togetter.com/li/1367108
無能?平凡?それとも優秀?二代将軍「徳川秀忠」を語ろう

418 :
全身毛でモジャモジャのマッチョ(銃創あり)で性格は穏やかとか
これもうゴリラだろ

419 :
伊乱記原典とか読んだ人いる?
筒井定次が上野城奪還した時期とか福島もしくは徳川本隊に合流した時期がwikipediaだと分らんのだが

420 :
>>419
筒井のことなら>>51に少し書いてある
18日夜現地入りした者の情報で筒井も伊賀に帰国したので敵は関地蔵まで退いたとあるから奪還はこの頃じゃないの

421 :
https://i.imgur.com/C3Zlug2.jpg

422 :
>>412
実際いなくなったんじゃね?日本の実写業界で漫画・アニメ業界に勝てるのいんのかな?

423 :
いなくも無いんだけど実写業界は上が詰まっていて若手が作品を出しにくい
そこにアニメ界隈のひとがコッチにおいでと誘ってくるもんだから育つ前に有能な人ほど引き抜かれる
実写でポルノばっか取ってるよりその方が人の目に付くし評価されるから仕方ないね

424 :
アニメも酷いもんだが

425 :
明日の北九州いけないからレポよろ。

426 :
關ヶ原から話題がずれてきているので、中山道での秀忠の書状でも上げてみる
未だ図書館等でしか読めない史料もあるけど、デジタル化された史料も増えてきて
有り難い。信濃史料とか読み下し文付いているし

427 :
K田長政宛秀忠書状

其已來不申入候之間、令啓達候、然者此中宇都宮に有之而境目丈夫に申付候間、信州眞田表仕置為可申付、

去廿四日彼地を罷立、今廿八日上州至于松井田令着陣候、近日彼地へ押詰、子置等申付、隙明次第可遂上洛覺悟に候、

將亦其地之樣子、如何承度存候、猶追々可申入候、恐々謹言、

  八月廿八日    江戸中納言
               秀忠(花押)

   K田甲斐守殿
       御陣所

森忠政宛秀忠書状

重而御狀披見、本望之至候、先書如申入候、近日此表へ可爲參陣候付、以面萬々可申談候条、不能一二候、

恐々謹言

                    江戸中納言
   九月朔日               秀忠御判

      羽柴右近殿御近報

428 :
蘆名平四郎宛秀忠書状

眞田表爲仕置、令出陣付而、御見舞之御使札令祝着候、仍去廿五日、義宣御歸陣由尤存知候、然者、

貴所于今御在陣由、御苦勞察入候、就中眞田安房守事、卽可申付と存、彼居城近邊に押詰候處、

身命可相助之旨、眞田伊豆守を以、種々懇望申に付而、赦免候、猶大久保相模守、本田佐渡守可申候、

恐々謹言


                    江戸中納言
   九月三日               秀忠 

    蘆名平四郎殿

森忠政宛秀忠書状

御狀令披見候、仍而眞田安房守事、頭をそり罷出、可降參之旨、眞田伊豆守處を以、種々詫言申候間、

命之義可相助與存、昨日以吏者申入候處、至今日存分にて申候間、不能赦免候、然間、急度可相働之条、

其御心得御尤候、恐々謹言

                    江戸中納言
   九月四日               秀忠御判

      羽柴右近殿御返報

429 :
浅野長政宛秀忠書状

被入御念、大久保相模守、本多佐渡守所迄御狀披見申候、如仰眞田安房守事、㝡前は身命相助樣にと、

眞田伊豆守を以、種々侘言申候つる處、至只今、存分を申候間不能赦免、今日上田表爲順見相動候處、

と石之城あけ退申候間、則眞田伊豆守を彼城へ入置申候条、先以可御心安候、如被仰越候、此表仕置申付、

頓而可令上洛候間、可御心安候、猶兩人かたより可申入候、恐々謹言、


                    江戸中納言
   九月五日               秀忠(花押)

    淺野彈正少弼殿

本多忠勝宛秀忠書状

此度濃州表、各被及一戰、敵悉被討捕、岐阜之城取詰、則時落居、其上爲後詰、石田治部少輔人數出候處に、

是又不相殘被討果之由、無比類次第に候、此邊通能々相心得可申候、將亦、眞田表爲仕置出陣候、

頓而隙明次第可令上國候也、

   九月五日       秀忠(花押)

      本多中務少輔とのへ

井伊直政本多忠勝宛秀忠書状

兩三人方迄來書披見候、伊奈侍從殿至于赤坂御着陳に付而、此表御手合之儀延引由尤候、眞田表仕置申付、

近日可上國候間、期其節候也、

   九月七日       秀忠(花押)

      井伊兵部少輔殿
      本多中務少輔殿

430 :
森忠政宛秀忠書状

態以使者申入候、仍從内府急可令上洛由被申越候間、先々明日小ゥ迠罷越候、其表萬事無油斷樣、

彌可被仰付儀肝要存候、猶口上申含候条、不能詳候、恐々謹言、

                    江戸中納言
   九月八日               秀忠御判

      羽柴右近殿
           御陣所


里見義康宛秀忠書状

此表之仕置申付候處、大柿之城に石田治部少輔、備前中納言、嶋津、小西已下楯籠候處、先手之衆取巻候間、

早速可罷上由、内府より被申越に付て、急上洛令候、將又其表長々在陣御苦労悉く存知候、猶彼地より可申達候段、

一二不能候、恐々謹言

   九月十一日             江戸中納言
                       秀忠

    安房侍從殿
        御陣所 

431 :
森忠政宛秀忠書状

從内府之書狀幷御懇札令披見候、然者、此度貴所も我等与被仰合可有上洛之由、内府より申來に付而、

被任其儀候由承候、尤相待申度候得共、一剋も早く可罷上旨申來、其上今日罷登候旨、諸軍に申聞候間、

急罷上候、其元程遠に御座候間、御用意有へく候、早速御上待入候、將又、今度御行已下御苦勞の段、

具内府江申可候、猶追々可申伸候、恐々謹言、

                    江戸中納言
   九月十一日               秀忠御判

      羽柴右近殿
           御返報

森忠政宛秀忠書状

先日以吏者申入候處、委細御返事、本望之至候、然者、貴所御上洛之儀、先々御遠慮被成、

其元御仕置丈夫被仰付尤存候、罷上、御如在無御座通内府へ申聞、御上候而可然候はは、

御左右可申候間、其次第御上洛尤候、恐々謹言、


                    江戸中納言
   九月十五日               秀忠御判

      羽柴右近殿
           御返報

432 :
しかし家康と秀忠の書状、だいたいこの親子文章が短いんだな

433 :
書状がすごい簡潔だから史学の世界でも「何考えてるかわからん」って言われちゃう

434 :
無理に旧字にしなくてもいいぞ
時間かかって大変だろ

435 :
森忠政宛の書状が多いな。単純に残っている数の多さかも知れないけど

436 :
里見義康宛の書状は原本もトーハクの古文書データベースで見れるな

437 :
>>432
まぁ戦国時代の書状は防諜のために使者の口上がメインで文章は必要最低限だったからね
そっちから入ってきた人間としては豊臣式のだらだらした長文の方が特異に見える

438 :
>>435
なんで忠政はこんな徳川べったりになったんだろう

439 :
>>438
親や兄弟が殺されたのにという例は、池田輝政もそう
中入りを発案した秀吉をより憎んだのかね

440 :
当時の価値観だと普通に戦場で討たれたなら悪感情もそこまでじゃないだろうし
二人とも兄貴が生きてたら日の目を見れない立場だし

>>435
時期を考えれば真田対策のために森と連絡密にするのは自然だな

441 :
勝手に感情斟酌する時点でろくでもないぞ
感情から読み解こうみたいなことするべきじゃない

442 :
>>30の書状を見ると三成、忠政に結構腹立てているみたいだけど
味方に誘われた時、どんな対応したんだろうか
そう言えば忠政の継室秀長の養女なんだよな。秀長の家老だった高虎が
やはり徳川と深く結びついてるけど、何か関連性があるのかな?

443 :
森長可なんて弟の蘭丸を直接討ち取った旧明智家家臣の安田国継を家臣として採用しているからな

444 :
男色つながりで

445 :
秀忠や氏政とかが評価が上がっている一方で、秀長とか逆に評価が下がっている気がするな

446 :
秀長は元々が若干マイナーながらも最高評価されてたところがあるし
今は評価が下がるというよりは、過大評価が是正されてるだけじゃないかな
評価下がるといってもあくまで経済面のみで、他の評価下げてる人はいないだろうし

447 :
スレ違い

448 :
白峰氏が八月に平凡社から関ヶ原本を出すみたいだね

449 :
真実など無い その場にいた者たちにも状況がよく分からない

450 :
>>448
これか

新視点 関ヶ原合戦

昨今、日本歴史界隈では関ヶ原合戦の実態を巡る議論が激しさを増している。
その中心的存在である著者がさまざまな“通説”を覆す。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b457713.html

451 :
税込みでほぼ2000円か
たっけえ

メルカリで売るからいいけど

452 :
字数は分からんが300ページ2000円は安いやろ。この手の本買ったことないのか
まぁ安いってことは従来の主張の焼き増しっぽいが

453 :
>>452
同意。2000円くらいなら許容範囲。
5000円とか7000円とかだと、いい加減にしてくれと思うが。
前の「関ヶ原合戦の真実」が1400円くらいだから
多少は期待できるんじゃないかな?

454 :
井伊直政の死因て実際は何だっけ

455 :
病気負傷過労の数え役満

456 :
島津に受けた銃槍から破傷風や敗血症を患ってだの
鉛中毒だの暗殺だの過労だの諸説あるが確定したのってあったっけ?

457 :
確定は病死

458 :
井伊直政って関ヶ原の合戦前にすでに大病患ってた記憶あるんですけど、どうでしたっけ

459 :
関ヶ原以前から病気がち、
手を抜かない苛烈な性格で激務をこなす
ついでに負傷

これ全部合わさって若くして病死だろ

460 :
湯治先からの手紙で全身に痛みが走り、起き上がることも叶いませんと書いてあったな。

461 :
関ヶ原翌年の真田信之宛の書状にも「よこねふるひ」で寝込んでるって書いてたな

462 :
直政の病気で忠勝との交代を伝える正純の書状

463 :
黒田長政宛本多正純書状

  以上

御使者幷御一っ書之趣懇申聞候、何も理相濟候之間、御使者返申候、然者爰元内府出馬之儀少も不被存由斷候条、

御心易可思召候、先々之儀はかゆき申候樣に御相談尤令存候、井伊兵部者煩氣候之条、本中務C洲迄被進置候、

能々御談合可被成候、恐惶謹言

              本多彌八郎
   八月八日           正純判

     K田甲斐守樣
           尊報

464 :
ついでに同日に出された正純の書状

465 :
黒田長政宛本多正純書状

一 從吉川殿御口上之段、一々令披露候、樣子之儀者、御使者へ申渡候事、

一 自大坂貴所樣へ參御狀之趣、御口上之段、是又同前之事、

一 羽柴左衞門大夫殿より大坂へ御返答候口上之趣、被得其意候、何樣にもゆるやかに御返事可被成由之事、

一 早川武藏守殿儀申候處、被得其意由之事、

一 備前衆之事、別紙に道阿彌かたへも備前衆へも書狀進候事、

一 花房助兵衞殿、頓而其地へ可有御上候事、

一 加藤左衞門尉殿の事、右之御口上之段は、御使者へ懇申渡候、可有御尋候、

   以上
        
   八月八日           本多彌八郎

     K田甲斐守樣

466 :
あと>>461の信之宛の直政書状
>>460の方は見つけられなかったので、見つけられたら

467 :
真田信幸宛井伊直政書状

夜前者雲州迄御出之由承候得共、よこねふるひ申候而散々之軆に而候つる間、不致參上候、然者被仰越儀、

扨々忝存候、御理申候分少も僞にて無御座候、頓而罷上候条、卒度得内證申候而、是非共首尾相違仕候はぬ樣に可申談候、

其前々儀も左樣に申談候はす共、思召寄候通忝存候間、於我々義者、日本國中大小~祇少も御無沙汰彌存間敷候、

定貴樣之儀者勿論之儀に而可有御座與存候事、くり返し思召寄候儀不淺存置候、是非是非罷上候而内府に卒度申聞、

有摧V儀可申談候、其内之義も右申分に存候上者、同前之儀に候間、其御心得被成候而可被下候、恐惶謹言、

                 井伊兵部少輔
    七月六日             直政(花押)

      眞田伊豆守樣
         人々御中

468 :
>>460の書状は多分これだな

稲葉道通宛井伊直政書状

従有馬帰宅申候条、一書申達候、
在湯之節者遠路御使者御音問本望之至候、以参御礼可申達候得共、筋痛平臥之躰ニ候条、参候而可申述候、恐々謹言、

井兵部少輔

正月十二日 直政

稲蔵人様

469 :
>>467
この書状、信之が直政に何か頼んだことに対する返事みたいだけど、何を依頼したのだろうか

470 :
父と弟の命の保証もしくは放免かな?

471 :
高野山追放後の年月日だから、減刑のお願いかね

472 :
>>465の書状は、東軍の西軍に対する内部工作に関しての報告でいいのかな?

473 :
最近dot.で三成ageの記事の連載しているな

評価一転“忠義の漢” 石田三成が支持されるワケ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190618-00000042-sasahi-life

歴史家たちの「石田三成像」全24説徹底検証
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190618-00000076-sasahi-life

石田三成、関ヶ原前夜の攻防戦「美濃迎撃ライン構想」とは
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190618-00000078-sasahi-life

474 :
中国じゃ楚漢戦争のほうが人気あるのにな

475 :
>>473
どちらかと言えば、今でも過大評価気味だと思うけど

476 :
>>473
三成の忠義なんて現代でいうなら
アラーに忠義を誓って自爆テロを実行する過激派となんら変わりないけど
日本でもこういう暴走破壊行為に憧れる人間は多いんだよな

477 :
浅井長政もそうだけど、一度義の将っていう勲章つけられてしまうと人情とかその方がかっこいいのに下げるなとかいう感情のせいでなかなか再評価は広まりにくいよね
すげぇ厄介な史観だと思うわ、義の将史観

478 :
浅井長政はむしろ徳川史観のせいじゃね
家光公のお袋様の父上だから持ち上げとけみたいな

479 :
三成の挙兵が忠義とかいい出したのは水戸光圀からで、有る種の徳川史観と言える

480 :
直江兼続を義の将とか言い出したのは誰でしたっけ
一度義の将呼ばわりされるとそっから実像を再評価が定着するのが非常に困難になるという点が言いたかっただけですので、どこが始まりだろうと義の将というありもしない虚像は厄介だなと

481 :
>>479
光圀が言い出したことなのか
どんな史料に載ってるの?

482 :
>>481
桃源遺事

483 :
謙信も義将かどうか

484 :
謙信は大義名分と実際にやってることのギャップは少ないから
まあ義将と言っていいんじゃないか

485 :
義の将というか大義名分の将
まぁそれって大体どこの大名もそうだけれど

486 :
謙信に義とかナントカやたら強調されるようになったのは江戸時代だしな

487 :
謙信本人は義がどうとか言ったことはない
だけど筋を通す性格だってのは何度か書状でも書いてるから
その表現はよく言っていたかも

488 :
また光圀のしわざか

489 :
>>479
豊臣家にとっての忠義とは、秀頼にきちんと事前に許可を取って行動し、秀頼の決定に対して服従すること
それ以外の忠義なんて存在しない

家康は会津征伐をしていいですかと事前に許可を申請して、秀頼が許可を出しているのだから何の問題もない
逆に豊臣家の決定に反抗して勝手な武装蜂起をした三成が不忠というだけだ

三成の内心なんて豊臣家にとってはどうでもいいことだし
内心に忠義があるから豊臣家の決定に反抗していいことになったら、豊臣は何の命令もできなくなる
そういう意味では、三成の挙兵が忠義であることは豊臣史観ではありえないんだよね
豊臣家が求める本来の忠義を三成が崩壊させたという光圀の見方は興味深いものがある

490 :
君の忠義の定義は誰も興味ないから
とりあえず桃源遺事読め、国会図書館で公開してるから

491 :
無駄に煽るな

492 :
三成にとってはジェノサイドによって豊臣を守ることが忠義だからね
忠義を貫いて利休や秀次などを殺しまくったのにまだ豊臣を守りきれていないから
更なる殺戮によって豊臣を守ろうとしたのが関ヶ原だよ

光圀の言うとおり、三成の挙兵は豊臣を守るための忠義と言えるだろう
ただ三成の忠義に豊臣の方が耐えられなくなっただけだ

493 :
家康暗殺計画の密告者、三成説もあるみたいだし、前田封鎖の為の兵、大谷と一緒に三成も出している様だし、どれ程忠義があったのやら

494 :
忠義と言うより豊臣家奉行への復権闘争だわな

495 :
徳川家19代目は負けそうな情勢らしい。

@nekokumicho 静岡駅近くにて、福山議員と見かけました!
http://pbs.twimg.com/media/D-sg_a7UIAErHuo.jpg
https://twitter.com/NoriChannel4649/status/1147046812919816193
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496 :
そりゃまぁ静岡人は馬鹿じゃないからな

497 :
負けたのは安国寺のせいだと政宗が石川親子に報じた書状

石川大和守昭光・同中務義宗宛伊達政宗書状

唯今子刻、従内府様御注進候、大柿より去十四日之夜、石治為始打出、美濃山中と申所ニ陣取候処、翌日十五日早天ニ被押寄、即時ニ切崩、大谷刑部少輔、嶋津又一郎、戸田武蔵、其外先を心懸候衆者、悉被討捕之由候、石治其外者、はやく被逃候間、山中へ追入、于今不出由申候、
依之大柿助ニ被出候毛利宰相、吉川者、三里ほと隔陣取候、右之合戦ニ者、不被合之由候、彼敗軍ニ付而、此度之義安国寺所行にて候間、相渡懇望被申之由候、恐々謹言、

内府様者、はや東福寺表へ御陣越之由候、飛脚江州たかミやより参候、此方より付置申中間にて候、さほ山も勿論落城之由候、早々明日此方へ御越待申候、以上、

九月晦日 政宗(花押)

石川州
同中書参

498 :
>>497
毛利が西軍に参加したのは安国寺のせいという意味でしょう
通説通りの主張が当時から行われていた証左だな

499 :
そやね

500 :
建前だろ

501 :
太っていて家康ぽいな

502 :
>497
「即時に切り崩した」派か

503 :
>>493
加賀征伐に関する>>293とは別の史料

504 :
島津忠恒宛太田一吉書状

態以書狀申入候、先度者爲御見舞以使者申入候つる、定參着可申候、其後御左右承不申候、其元樣子無御心元存候事、

一 昨日從上方申越候、内府樣羽肥前殿へ御間之儀少被仰御座候て、雜説雖御座候、先々無相替儀之由候、乍去、

  近日中村式部、堀尾帶、生駒うたを以、羽肥前殿へ御使を被立由候、か樣之儀にて如何成行可申哉と存候間、

  爲御心持申入候、定從兵庫殿可被仰遣候へとも、海上不自由時分候間、自然をそく候はんかと存、申入候、

  御仕立等之御心持にも可罷成かと存まて申入候、彌無御油斷可被仰付候、慥成儀は無之候、風聞には、

  右之衆羽肥前殿へ御使に被遣候上にて、いかか可成行哉と申候間、其御心得候て萬御心遣尤候、

一 豐前之儀、彦山之座主職之儀付、K田甲斐守、毛利壹岐守申分出來候、是又いかか成行可申哉と存候、

  もうはや互にいろたち候て在之由候、乍去、于今人數なと出候とは不相聞候、是も爲御心持申入候間、

  此書狀をちちり不申候樣に可被成候、不申存候へ共、庄内之儀何とそ被成御才覺、相究候樣に御分別肝要候、

  猶々其元樣子、無御心元存候、御返事委待入候、將亦、内府樣兵庫殿別而御入魂之由候間、是又可御心安候、

一 上方之雜説付、我等も可罷上と存候處、彦山之儀、當國と境目候間、か樣之儀付而罷上候儀も無用と、

  從上方も申越候間、不罷上候間、何にても御用之儀可被仰越候、猶々可申入候、恐惶謹言、

                   太田飛驒守 
     九月廿八日             一吉(花押)

       薩广少將樣
            人々御中

505 :
週刊文春記事
【立憲民主党徳川家19代目の245万借金トラブル】
「あの徳川宗家十九代目から無心されるとは思いもよりませんでした。
ところが彼はいつまで経ってもそのお金を返してくれず、結局、裁判になったんです」
そう憤るのは会社経営者のA氏。十九代目とは今夏の参院選で立憲民主党から
出馬予定の徳川家広氏(54)のことだ。

政治部記者の解説。
「家広氏は慶応大卒業後、米ミシガン大で修士号を取得。国連食糧農業機関に勤務
していた頃にベトナム人女性と恋に落ち、十数年前に結婚しました。
帰国後は語学力を生かした翻訳の仕事や政治経済の評論を生業にしていた。
当時はブログで『ボンクラ揃いが民主党』と書いていました」

そんな家広氏に白羽の矢を立てたのが立憲の枝野幸男代表だった。
「十七年衆院選で家康も連なる深溝松平家の末裔、松平浩一氏が当選した際、
枝野氏は『やっぱり殿様はいいね』と嬉しそうでした。その成功体験から
殿様系の候補者を探していた節があります」

出馬するのは徳川家と縁が深い静岡選挙区だ。
「改選2議席で現職の牧野氏と榛葉氏らと争う形です」
そんな十九代目に発覚したのが、冒頭の金銭トラブルだった。
「もともと金融関係の仕事をしていた私は友人の紹介で家広氏と知り合い、
親しくなりました。その後2006年9月共同で健康サプリメント会社を設立し、
彼の自宅を本店住所にします。対等などビジネスパートナーとして、互いに
資本金900万円のうち半分の450万円出資しました。ところが家広氏は当時
預金が50万円しかなく『400万円貸してほしい』と頼まれた。彼を信頼していたので
無利子無担保無保証で現金を貸したのです」(A氏)

A氏によれば家広氏は商品の海外販売担当だったが、売り上げは低迷。結局、
起業後半年もしないうちに辞任を申し出てきたという。
同じころから借金の返済も滞るようになる。
「返済額も最初は毎月50万円でしたが、25万円、15万円と徐々に減っていき
全く支払われなくなった。それで借金返済を求め、2007年9月東京簡裁に提訴したのです」

506 :
小誌が入手した2008年1月の裁判資料によれば、家広氏に
<金245万円の支払い義務があることを認める>
と記され、毎月5万円ずつ家広氏が返済することで決着した。
ところが二年近く経っても一度として返済されなかったという。

「差し押さえするにも費用がかかるので、困った末にお父さんの恒孝さん
(徳川記念財団理事長)に『返して欲しい』と手紙を書いたのです。
すると2010年1月恒孝さんから245万円の振り込みがありました。」(同前)

確かに恒孝氏は自宅を含め、都内一等地に少なくとも約1330平米の土地を保有。
資産価値は15億円はくだらないとみられる。
その恒孝氏は「政治については発言は控えたい」と執事を通して回答。
かたや家広氏はどう答えるか。
静岡県での遊説を終えたところで直撃した。
―借金で裁判に?
「報酬やその他でとにかく思っていたのと全く違った仕事だったんですよ」
―返した?
「いやでも・・・最終的に完済したと記憶しています」
―父親が払ったのでは?
「ええ、立て替えてもらいました。その時の私にそれだけの現金がなかったということです」
親のスネをかじって、借金トラブルを収拾した十九代目。
「困窮したる時を思い出すべし」とは家康公の遺訓である。

507 :
主力の毛利本軍が内通していたんじゃ馬鹿らしいなw

508 :
>>507
毛利が東軍と交渉するのはおかしくない、というか当たり前

朝鮮出兵みたいな異国で異民族と戦うならいざ知らず
日本人同士どころか豊臣政権下の顔見知り同士の戦いなんだから交渉チャンネルなんて無数に存在する
それらを全て潰して交渉なしの全面決戦なんて不可能
東軍も西軍も交渉しながら敵を絞って、倒さなければいけない相手の数を抑えていくしかない

むしろ交渉を一切断って全面決戦あるのみという三成の方針が異常なんだよ
おそらく三成の意識は、元寇から日本を守るのと同じようなノリだったのだろうが
そんなことは関ヶ原でできるわけがない
結局のところ、話し合いの通じない三成たちを切り捨てて早期終結に舵を切ることは不思議でもなんでもない

509 :
最初はノリノリだった輝元が次第に冷静になって和睦しようとしたようにしか見えないんだよな
それを恵瓊と吉川に全部押し付けてるだけで

510 :
>>497
政宗がどこから情報を得て国元へこの書状を出したかだね
「内府様より御注進」に対応する9月15日付政宗宛の家康書状はそこまで書いてない
・濃州山中において一戦に及び、宇喜多秀家・島津義弘・小西行長・石田三成たちの軍勢をことごとく討ち捕らえた
・15日に佐和山に着陣して大垣城の敵も捕縛した

511 :
>>510
家康の場合、重要な情報は口述で送られたのだろう
この辺も家臣の層の厚さが伺える

512 :
吉川広家って黒田長政を通じて東軍に内通しときながら安濃津城の戦いはノリノリとかで良く分からん奴だな。

513 :
>>510
使者の口述も勿論そうだけど、追伸にあるように
「此方より付置申中間」とあるから政宗が付けた中間からの情報もあっただろうな

514 :
使者と言えば村越茂助って俗説だと木訥者というイメージだけど、後年駿府老中も務めているし、史料からだと
木訥者って印象が薄いんだよなぁ

515 :
例によって司馬

516 :
そもそも茂助の言葉に直政達は慌てたものの、正則が同意して岐阜攻めが決まったっていうのが創作だろう

517 :
【2019参院選】「徳川宗家19代目」家広氏が駿府城跡で第一声
https://news.livedoor.com/topics/detail/16725525/

出陣式には水野忠邦の子孫ら“元幕府関係者”も多数参加。陣営幹部は「お殿様の初陣にふさわしい戦いになる」と息巻いた。
http://pbs.twimg.com/media/D-quzxxVUAEDosU.png
https://twitter.com/livedoornews/status/1146921264226811905


江戸幕府が続いていれば19代将軍になっていたかもしれない“令和のお殿様”はスポーツ報知の取材に
「首相になるつもりはないですよ」と天下統一の野望を否定した。
目指すのは、約250年間戦乱のなかった江戸幕府の平和政策の復活。
「江戸は平和主義で、民の世話を焼く福祉国家的発想がありました。そして何より立憲主義を非常に大切にしていたのです」。
禁中並公家諸法度を幕府の憲法とみなす徳川氏は「(太平洋戦争)敗戦後に憲法ができて江戸のような平和が実現できたわけですが、
現政権でおかしくなった。
築いたものが崩れつつある幕末のようなこの時代、元号が令和に変わったのは極めて示唆的なのです」と話す。
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518 :
やっぱりモノノフはいくさ場で死にたいでおじゃる?w

519 :
>>516
今の説だと、どんな感じなの?

520 :
>>519
特に何事もなく家康の方の状況説明されて、家康の指示の下岐阜城攻めに入った

521 :
この時代、農民は食糧も充分ではなかったと思うんだが、働きもせず生活できた僧侶ってどうやって食糧を手に入れてらたの?そんで農民は僧侶になりたいと思わなかったのかな?

522 :
>>521
僧侶めっちゃ働いてる。寺院の所領管理とか産品の流通を含む経済活動とか超大変。彼等も一種の領主とその配下

523 :
徳川家19代・家広が立憲民主党から出馬もお膝元東照宮は「応援できない」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190711-00570154-shincho-pol

>それは自民党を応援するしかありませんよ。神社界が憲法改正を求めているのに、立憲民主党は護憲派でしょう。

524 :
自民党もかなりの人が護憲派やし笑い話かや?

525 :
せめて禁中並公家諸法度が何なのかくらいは勉強して発言すべき

526 :
>>522
なるほど
確かに大変そうだけどさ、農民よりずっとマシな気がするんだけど、農民は僧侶希望する人で溢れなかったんだろうか?年貢もないし

527 :
>>526
寺には寺役があるんだぞ。あと当然だが僧になるには相当の修行と学習が必要。文字がかけるだけじゃなく
かなり高度な計算能力も必須。それが可能なだけの実家の財力もな。

528 :
>>519
直政達は>>46の書状を見ると、茂助が清洲に来て家康の意見を伝えた時
まだ清洲に到着していない
逆に木曽川越える事が決まったので、軍勢を置いてきても良いから
早く来いと催促されている始末

529 :


530 :
失敬リロつて無かった
>>527
乞食坊主なんて農民より大変だし豪農は坊主より金持ちだしあまり意味のある比較とは思えませんね

531 :
共産党に応援してもらえれば勝てそうだ。

FNN情勢調査(7/6〜7,最終版)結果

◯静岡※サンプル数1051
牧野(自)35.3(38.4)
榛葉(国)20.5(22.4)
徳川(立)17.2(18.7)
未定 19.3(11.9)

https://twitter.com/lovelovesarah/status/1149548614923894785
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532 :
無理だろ
民主党支持者は共産党好きじゃないし逆もしかり

533 :
いい加減スレ違いの話はやめてくれないかな

534 :
>>450
小山評定はなかった。問鉄砲はなかった。小早川は裏切っていない。三成は首謀者ではない。加賀征伐はなかった。秀忠は遅参していない。
最近の通説否定だと、他に何があったっけ?

535 :
>>534
堀尾茂助の煽りは無かった
家康は西上を遅らせたわけではない
「関ヶ原の戦い」は2時間程度で終わった
南宮山の毛利勢は吉川広家の独断で講和したのではない
このへんか?

536 :
三国志演義と正史よりひどい。

537 :
>>521
この時代も江戸時代も
貧乏人は生み過ぎて養いきれない子供を、
捨てるようにお寺の小僧にやったよ。
そしてその99%は短期間で栄養失調死、病死。
三成みたいな優秀な例外が成長して
寺領を管理する。
室町時代の東大寺の兵庫北関入船納帳が残っている。

538 :
でかいところは金貸しを兼ねていたり武装していたりといまのイメージとはちょっと違うみたいね
神屋宗湛なんかは関ヶ原前に西軍の諸将と茶会を開いたりしていたようだけど、寺院で西軍に近い立場の所ってあったのかな?

539 :
>>534
岐阜攻めの先陣争いはなかった。加賀征伐の際、芳春院は加賀ではなく
上方におり、利長を説得していない。清正が九州に留まったのは
家康から依頼された為ではなく、庄内の乱に独断で介入した為に
家康の不審を買い、会津征伐参加を拒絶されたとかもあるかな

540 :
宮本武蔵が参加していたのは、宇喜多軍ではないとかもあるか

541 :
https://i.imgur.com/m3Y9Tki.jpg

542 :
http://pbs.twimg.com/media/D_btkR9U8AAmi7M.jpg

543 :
>>542
征夷大将軍とは思えぬ哀愁漂う後ろ姿w

544 :
子孫だろ?

545 :
現徳川宗家世子だけど男系で遡ると一番近い征夷大将軍は家康だから
将軍位からはかなり離れてしまっている

546 :
慶喜の子孫の珈琲屋の将軍様が家系的にも血統的にも一番将軍職に近かったが、数年前に亡くなられたそうで御家断絶されたようだ。

とはいえこの家ヒロさんは父親は松平姓で父の代で養子で宗家を継いだだけだから世が世でも将軍職とはほど遠いな。

547 :
>>534
秀吉は10人による合議制を望んでいない、徳川と前田による内府・大納言体制を望んでいた。

家康は豊臣を守ろうとしたにもかかわらず、石田のせいで日本の政局が大混乱してしまった。

直江状は偽書・偽文書ではないが、現存しているものは大幅に改竄されている。

548 :
関ヶ原で暴露されたのは豊臣公儀の壊滅的な機能不全だからな。だからこそ家康は豊臣家を内包した上での
新たな体制の構築を図らざるを得なかった。

549 :
浅野家にある遺言状から見ると秀吉は家康と対抗馬としての前田利家を上位に置いている
いわゆる五奉行と輝元景勝秀家はその下

気になるのは秀忠利長が上記8名より上の扱いのような書き方がしてある点
これは家康利家の後継を公式に認めたものという程度のことなのか、家康利家の死後も徳川前田体制を維持してほしいという思いからなのか

550 :
そうでしょ
2人とも高齢でぶっちゃけいつ何があっても不思議じゃないからな
死にました。はい、遺言体制崩壊じゃ困る。(実際利家はすぐ死んだ)

551 :
うひー

慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利
輝元書状(「厚狭毛利家文書」)の解釈について

白 峰   旬

【要   旨】
 通説でよく取り上げられる、いわゆる豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は、
歴史的事実ではないということを、筆者は昨年(2018年)、拙稿「豊臣七将襲撃事件
(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である −フィク
ションとしての豊臣七将襲撃事件−」を発表して指摘したが、その際、同時期の毛利
輝元書状(「厚狭毛利家文書」)について、紙幅の都合から考察できなかったので、
前掲・拙稿の補足として本稿では考察する。
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/gk02109.pdf?file_id=9477

552 :
秀吉の遺言が前田利家が死ぬ事を想定してなかったのが原因

553 :
仮に利家があと5年生きたとしても利家が死んだ時点で終わる基盤の柔い五大老制度だった。

554 :
>>551
白峰氏と光成氏で書状の年次比定の見解がわかれてますね。

555 :
>>552
想定してるから、利長が利家の後を継ぐこと前提になってるだろ。
問題は、利長に家康と争ってまで自分の政治的立場を維持するつもりが無かったこと。
前田と徳川が牽制しあって、ツートップで安定する目論見が崩れた。

556 :
>>551の46号文書の下線c部分、「輝元天馬のことく罷下陣取、
あまさきへ持つゝけ候様ニと被申候事、」
この「あまさき」の解釈だけど、「あま(が)さき」の「が」というか「か」を略した可能性は
ないのだろうか。
地名の場合だと「ヶ」とか略すケースありますよね、
関原軍記大成とか。三方ヶ原を三方原とか。
人名でも略して長大、増右、石治とか。

あまがさき、尼崎をあまさきと略した可能性。

白峰氏の解釈だと言ってる意味がわからない。
白峰氏は国語に忠実だけど、妙な解釈ぶっこんでくるから、??なかんじな印象に
なる部分が多いと思う。

557 :
なんで家康を内大臣にしたんだろな。

家康を内大臣にするなら利家の官位も上げてやらないとツートップ出来ないだろ。

558 :
ツートップというか、徳川主導で構想してて前田は意見役ぐらいのつもりだったんじゃないか?

559 :
そもそも秀吉の妹婿であり嫡男の嫁も淀殿の妹という、親族筆頭の家康と、せいぜい娘が秀吉の養子になって
宇喜多に嫁いだ利家が同格なわけがなかろう。

560 :
ぶっちゃけ前田利家にそこまでの才があるかと言えば、甚だ疑問

561 :
まて内大臣の一つ下が大納言だろ

562 :
250万石だから倍以上の官位でないと釣り合いが取れないんだが?

563 :
位階で言えば家康が正二位で利家が従二位か

564 :
>>555
そもそも利家が死んだ途端に奉行が前田を追い落としに走ってるからなあ
そんな事したら政権のパワーバランスが徳川一強になるからマズイとか
そういう事を考えなかったのかね、奉行は

565 :
上でも言われてる方がいるけど家康主導で利家はせいぜい補佐とかなんだろう
この構想自体は別に問題ないと思うわ

崩壊したのは中納言たちと奉行がさらさらこの構想守る気すらなく
地方で中央でめいめい勝手し始めたことだし

566 :
>>348
このレスがあった直後に白峰が七将襲撃事件はなかったと本当に言い出したな

567 :
豊臣秀吉は豊臣家を摂関家、徳川家を清華家扱いとする事で実力的に他大名と比して抜きん出ている徳川家康に
政権を簒奪されない仕組みを作ったと考えられている
早い時期に清華成した宇喜多は別にして前田毛利小早川上杉と言った後に清華成した家は徳川に対する牽制の意味合いが強い
清華家が増えればそれだけ徳川家の相対的な地位は下がるからね

関ヶ原の戦いはこの様な豊臣秀吉の努力も全て水の泡にしてしまった

568 :
別にそれで牽制にもならん思うが
考えられてるって誰の主張よ?

569 :
なんつーか、秀吉は家康オンリーを警戒してて他大名は無条件で信頼されてる
みたいな主張する人おるけどさー
んな事あるわけねーし、大体そこまで家康信用してなきゃそもそも官位も領地も仕事も与えない訳よ

伊達みたいに領地に帰る許可ほぼ与えず、伏見にずっと釘付け監視するわ

570 :
>>268
秀次の切腹は秀吉の指示では無いと唱えた矢部健太郎の説

571 :
>>569
むしろ逆で当時の豊臣の脅威は西国の方なんだよね
朝鮮での酷使に不満を抱いた西国大名が秀吉の死後に謀反を起こすかもしれない
特に中国・四国の大名はその気になれば、すぐに大坂を攻められる位置にいる
仮に毛利のような大大名が大坂を襲撃したら、共鳴する西国大名が続出する可能性もある

そのために秀吉は家康を筆頭に取り立てて、西国への牽制と鎮圧役の要としていたけど
秀吉の誤算は奉行連中が毛利と結託してしまったことだろう
これで毛利を筆頭とした西国大名は易々と豊臣への謀反を実行できるようになってしまった

572 :
>>571
それが関ヶ原の戦い?

たしかに首都を掌握したが

573 :
家康を西国の抑えにするなら関東から再び領地替えすべきでは?

574 :
西国の抑えではないだろうね、家康に自身死後の政権丸投げしてるから全国の抑えというべきかもだけど
毛利に関しては有力家臣の一つ小早川を乗っ取ったりとけん制できてるという認識だったんじゃないかな
秀吉の誤算はおっしゃられてる通り奉行が自分の死後即毛利宇喜多と結託して、家康に任せるという構想をぶっ壊しにかかったことかと

奉行たちの中央政府牛耳りたい欲と地方大諸侯の中央政府邪魔って考えを汲み切れてなかったのかなぁ

575 :
流れを読まずに久しぶりに史料投下

576 :
鈴木重朝宛西軍首脳書状

去々年已來、内府、被背太閤樣御置目、上卷誓帋被違、恣の働に付而、爲可被相立御置目、被及鉾楯候、

第一伏見御城被仰置候留主居を追出、關東之凡下野人者共、御座所を踏荒候段、無是非次第に付而、今度堀際迄、

各被押詰卽時被乘崩大將鳥井彦右衞門を始而八百餘被討果之儀、無比類儀候、殊其方事、鳥井彦右衞門首を被討捕、

御粉骨之至、秀ョ樣御感不斜候、仍御太刀一腰、御馬代銀子拾枚、竝御知行千石被宛行畢、猶以可被抽御忠功之由、

被仰出之狀如件

  慶長五           長束大藏大輔
   八月五日             正家
                 搏c右衞門尉
                    長盛(花押)
                 石田治部少輔
                    三成
                 コ 譱 院
                    玄以
                芸中
                  輝元(花押)
                備中
                  秀家(花押)
    鈴木孫三郎殿

577 :
前田利長宛家康書状

其許無心元存候而、度々以飛脚申入候處、御注進狀本望之至候、殊に大正寺被乘崩、始 山口父子數多被討捕之由、

潔き御事候、先々小山まて御歸陳之由尤に候、猶期後音之時候、恐々謹言、

   八月廿四日           家康 判

    加賀中納言殿

578 :
西尾隱岐守書狀之寫

  尚々、五三日少相煩申候條、早々申入候、以上、

從内府以飛脚被申候、自然景勝坂戸口へ於相動者、爲加勢眞田伊豆守、平岩主計、本多豐後守、牧野右馬丞被申付候、

御注進次第、右之衆可相動候條、被仰談堅固被相抱候事尤に存候、將又濃州表之樣子、定而其地へも、はや相聞可申候、

此方より罷立候人數、きふ口おゐて及一戰數千人打取り、被得大利候、就其今日朔日、内府、濃州大柿へ被相動候、

上方之儀、程有間敷候條、可心安候、委曲重而可申達候、恐々謹言、

                                名乘判
    九月朔日                        西尾隱岐守

     堀丹後守樣
        人々御中                   名乘

579 :
>>576は書状じゃなくて感状だった

580 :
この史料厨は、どういう基準で史料上げているんだ?

581 :
ここはほぼほぼ彼のメモ帳代わりのようなもんだし
情報の集積って面では便利だしいいんじゃない?

582 :
https://i.imgur.com/gBviYm8.jpg

583 :
自分は史料を楽しく読んでいるから有難いけどなぁ

584 :
同意。ろくに史料も出さんやつはだまっとけと思う。

585 :
徳川の威光を以てしても敵わなかったか

586 :
共産党が徳川を応援すれば勝てたかもね。
https://i.imgur.com/0cmU4Qr.jpg

587 :
いいことを教えてあげよう
共産党支持者は民主党が嫌い
民主党支持者も共産党が嫌いなんだ
だからこいつらの野合は成功しない

588 :
せめて徳川家総合のとこでやれ
ここマジでなんの関係もないやろ

589 :
>>576
大将首で太刀一振、銀十枚、千石か。多いか少ないか分からんけど

590 :
>>589
信憑性は置いといて、川口氏先祖書系図にはこうある。

則八月朔日伏見城追手口へ押寄、孫作(川口宗信、宗勝の子)真先ニ進ム、
家臣川口九兵衛・小島又十郎相続テ堀際へ付、
川口孫作一番乗ト名乗テ差物ヲ投入ル、
続テ人数攻入追崩シ頭首ヲ討取テ引取ル、
五奉行より連名ノ感状ヲ添、当座ノ為褒美千石并白銀十枚賜下之、

とある。また、
嫡子孫作宗信初陣也、 ともある。

わたしの書き間違いじゃなくて「五奉行」ね、(ママ)って付けてもいいけど。

591 :
褒賞として多いか少ないかって話じゃないのかな

592 :
→576の史料の出典は?

593 :
>>576
この史料の出典は?

上に同じレスがありますが、返信どうしたらいいのかわからなくて誤投稿しました。すみません。

594 :
徳川家康文書の研究 中巻ですよ

595 :
「五奉行」は、浅野除いて小西か大谷か安国寺入れた数なのか、子孫が当時の状況知らないまま適当に書き加えちゃったのかね

596 :
>>594に捕捉で「日光雑賀家文書」になる様ですね

597 :
三成は首謀者ではないと言う説が出てきてから久しいけど
首謀者ではなく実務に苦労する担当者としての立場から
>>69とかの書状を読むと、輝元は戦場に来なくても大丈夫ですとか
愚痴や媚びや哀願にも別の趣が感じられる気がするな、

598 :
三成が首謀者だろうとなかろうと実務に苦労したところで
東軍はもちろん西軍の大半も「そんなに奉行に返り咲きたいのかw」と白々しく思われるだけ
三成なんて秀吉の威光で威張っていただけの過去の人なんだよ
いつまでも奉行職に未練たらたらな姿を見せられたって西軍の士気が低下するだけだろう

599 :
じゃあ誰が西軍を仕切っていたんだよ

600 :
最初はやる気満々だった輝元さんじゃないか?

601 :
三成が仕切ってたとしたら、大軍が伊勢にいる間濃尾に回されて、しかも敵の渡河を防ぐのに
最低限の兵力すら回してもらえないなんて閑職にはならんだろうな

602 :
石田は中山道攻略担当だからあれで十分でしょう
西軍首脳は内府ちかひの条々で崩壊せず上杉と交戦もせず関東割拠策も取らず東軍が戻ってくると想定してないもの

603 :
西軍は臨機応変さに欠けるんだよなぁ

604 :
小早川が裏切るなんてあったら臨機応変もクソもないだろ

605 :
京極は大津城を監視していたから即対応できたけど
小早川は根拠地もなく伊勢近江でふらふらしてるからなあ

606 :
内府ちがひの条々で東軍が崩れなかったあとに何か次善策は取れていたのかとか、岐阜城陥落まで何してたんとか
そういう時期の話じゃないの?

607 :
西軍は会津行きの軍を無理矢理止めて仲間にしてるから潜在的な裏切候補ばかり

608 :
ナイフ違いの上場に説得力が無かったんだろな

609 :
内府違いの条々の内容ってびっくりするくらい、西軍首脳以外に関係がないんだよな

610 :
三成に文才があればあれ見て迷ってる勢力が徳川打倒に立ち上がらせる事ができたはずなのに

611 :
内府違いに三成は何も関わってないもんな。

612 :
増田長盛は結局何がしたかったの?

613 :
いろいろ西軍有利に進んだのにチャンスつかめなかった

614 :
西軍贔屓の連中にすれば全て徳川が悪いって事になるんだろうけどな
ifスレだと何故か宇喜多騒動まで、徳川の陰謀って言ってた奴も居るし

615 :
割と真面目に、内府ちがひの条々で会津征伐諸将がこっちに寝返るだろうと西軍首脳が思い込めた理由はなんなんだろ
自分たちの正当性を本当に妄信してたのか、家康よりも自分たちの政務が好まれていると考えてたのか
それとも単に秀頼抑えたらみんな黙るだろと思ってたのか

616 :
内府違いは秀吉の遺言をよく知らない西国に送ったものなんじゃないかな?

- 東国に通じる内容ではない。
- 九州は朝鮮から戻ってきたばかりで、秀吉の遺言と国内情勢を理解していない。
- 九州は東国より西軍が活発。

617 :
その場合、西軍は会津討伐軍どうするつもりだったんだろか
あくまで大坂抑えたらもう動けなくなると考えてたのか

618 :
細川とか、ガラシャ自害してもう引くに引けない状況だろうし、そういった連中をどうするつもりだったのかね

619 :
細川も西軍連中に憎まれているしな

620 :
別所吉治宛三奉行書状

羽柴越中守事、何之忠節も無之、太閤樣御取立之lエ右馬介跡職從 内府公得扶助、今度何之咎も無之景勝爲發向内府へ助勢、

越中一類不殘罷立候段、不及是非候、然間、從 秀ョ樣爲御成敗、各差遣候条、可被、抽軍忠候、至于下々も依動可被御襃美候、

恐々謹言、

      七月十七日       長束大藏
                  搏c右衞門尉
                  コ譱院

         別所豐後守殿      

621 :
>>620
細川忠興が福原長堯の跡を襲ったと読めるが、具体的には何を指すのだろう?

622 :
>>621
忠興は何の忠節もないのに太閤が取り立てた福原の跡目を家康から扶助された
この文面からは忠興が福原に直接何かしたってことはないと思うけど

623 :
>>622
福原の役職を忠興が手に入れたとしたら、それはなんだろう?取次?代官?

624 :
九州の飛び地の加増のことでしょ。

625 :
>>624
あれ福原と関係あったっけ?

626 :
細川に与えた新領は元々福原から召し上げたもの

627 :
>>626
杵築と福原は関係無いはず

628 :
あの時に忠興に与えられたのは速見郡と由布院だね
それで速見郡が旧福原領でいいんだろうか

629 :
福原が没収されたのが六万石、忠興に与えられたのも六万石
そういうことじゃないのかな

630 :
直接は旧福原領じゃないが玉突きで空いた六万石を得たのが忠興ちゅうことやね

631 :
福原長堯って唐入りの時まさしく現地組を厳しく監査して反発招いた張本人だし
この書状見る限り忠興への遺恨も彼が端を発してるようだし

かなりキーパーソン?

632 :
>>631
福原ってかなり嫌われてたっぽいからなあ
あいつ処分しとけば秀吉死後のトラブルがなくなるとまでは言わんが、
揉め事の規模が相当小さくなったんじゃないかと割と本気で思ってる
ただ三成の縁戚だったはずだから、三成が福原処分に納得するわけないんだよな

633 :
府内に復帰できた早川長政とか東軍についてもおかしくなさそうだけど
やはり足止めくらったのかな?

634 :
五奉行で自分の派閥作ったのって三成だけ?

635 :
浅野

636 :
5奉行って言われ方なのに三成以外の派閥というか行動があんまり取り沙汰されることないよね
玄以に至っては名字前田じゃない可能性もあるんだっけ?奉行筆頭の割に深く掘り下げられないというか

浅野は仕事ぶりあまり宜しくなかったり他4奉行からハメられたり大分独自路線みたいだけども、縁故採用ゆえかな?

637 :
浅野長政は五奉行に箔をつけるために秀吉がぶち込んだだけだからな
奉行的な仕事もしてはいたが豊臣準一門で豊臣家の家宰的地位かつ本来は諸侯系の大名
秀吉を裏から支えた官吏系武将みたいな穏健なイメージがあるが性格はかなりあれで豊臣政権の狂犬やでな
取次相手の奥州北関東の大名を全部改易しようとした基地外
宇都宮は領地返上、佐竹は三成のおかげで逃げれて伊達は徳川のとりなしで助かって浅野に絶縁状
その他大坂城で吉川広家と大喧嘩するし残りの四奉行と家康の仲裁に耳もかさない深刻な対立繰り広げたり
前田征伐の真相は奉行派による浅野長政の排斥が目的だったとするのがしっくりくる
つか調べるとこいつ面白いな

638 :
増田長盛は研究不足かな自分が知らんだけかもだが石田と並ぶ奉行ツートップでキーマンの一人なのにあまり研究が無い
長束正家と前田玄以はもともと格が上記3人より一段劣るし前田は朝廷寺社担当で長束も実務家と言われてる
長束は一緒に仕事してた実力者仲間達が秀次事件で失脚してるし派閥作るのは難しそう
前田玄以が奉行筆頭ていうのは朝廷相手にしてるから官位だけは高く官位順に署名すると筆頭に来るってだけで官位順じゃない時の署名順は末席だったり

639 :
あれ?ツートップなの?
秀吉の置目だと5奉行の中で唯一石田が外されてるって聞いたけども
んで死後の連署状ではメンツに入ってると

640 :
小早川は東軍なんだが

641 :
浅野長政が秀次事件で失脚したってのも実は違うのか。本買っても飛ばし読みはいかんよね

642 :
増田もどっちに味方しようとしてたのか、考えがよく分からんなぁ
家康も当初三奉行は味方だと思っていたくらいだし

643 :
浅野が外されかけてたってのはよく聞くけど
それは秀次事件が理由なのか単純に仕事ぶりがあれすぎてなのかはかなり議論の余地あると思う

644 :
増田長盛主役で大河ドラマでもやればいろんな側面描けて面白いかもな。

645 :
西軍の決起に関しての書状

646 :
輝元宛三奉行書状

大坂仕置之儀付而、可得御意儀候間、早々可被成御上候、於樣子者、自安國寺可被申入候、長老爲御迎、可被罷下之由候へ共、

其間も此地之儀申候段付而、無其儀御座候、猶、早々奉待存候、恐惶謹言、

    七月十二日  長 大
           掾@右
           コ 譱

  輝元樣

647 :
永井直勝宛増田長盛書状

一筆申入候、今度於樽井、大刑少兩日相煩逗留、石治部出陣事申分候而、爰許雜説申、猶追々可申入候、恐惶謹言、

                        搏c右衞門尉
    七月十二日                    長盛

     永井右近大夫殿

648 :
最上義光宛家康書状

急度申候、治部少輔、刑部少輔以才覺、方々觸狀を廻付而、雜説申候条、御働之義、先深者御無用に候、從此方重而樣子可申入候、

大坂之儀者手置等堅申付候、此方と一所に候段、三奉行より之書狀、爲披見進之、恐々謹言、

    七月廿三日      家康

     出羽侍從殿 

649 :
秋田実季宛榊原康政書状

榊原式太殿の狀七月廿七日の日付、八月七日傳内持來る

猶々其表御行之儀も先以御延引尤候、以上、

遠路御使札忝存候、御帋面之趣、則内府に爲申聞候處、被入御念段祝着に被存候、然者於上方石治少、大刑少別心仕に付而、

大坂より 御袋樣幷三人之奉行衆、北國羽肥州なと早々内府被致上洛尤之由申來候間、右之別心仕兩人爲成敗、

今度此方へ御下候上方衆致同道、上洛被申候、路次中城々へも番勢を入、仕置丈夫に致被罷上候、此表之仕置者、

武藏守へ被申渡候、旁可御心安候、拙者式今度者、此方に殘置被申候、相替儀候者節々可申達候、恐惶謹言、

                   榊式部太輔 
   七月廿七日              康政(花押)

   秋藤太様
       御報

650 :
黒田長政宛家康書状

先度御上已後、大坂奉行衆別心之由申來候間、重可令相相談與存候處、御上故、無其儀候、委細之樣子、

羽三左へ申渡候之間、能樣可被相談候、猶山本新五左衞門尉、犬塚平右衞門尉。可申候、恐々謹言、

  七月廿九日          家康(花押)

    K田甲斐守殿

651 :
同じ>>646の史料に対し笠谷氏や石畑氏と光成氏や水野氏で
解釈が違ってくるのが興味深い

652 :
毛利から三奉行宛ての書状、宛名を苗字と官位縮めててえらいフランクなのね

653 :
>>651
解釈がどう違うのか、肝心なそれを書いてくれないと
>>652
逆で奉行から輝元への書状じゃないの

654 :
>>653
あ、ほんとだ 暑さで頭がやられてたなぁ
指摘ありがとう

655 :
>>647
この書状が本物かどうかで増田長盛の立ち位置が全然変わる。648との関連で本物とすべきか、悩ましい

656 :
>>653
三奉行が輝元に対して三成の決起騒動鎮圧のために上坂するよう要請したものなのか、
はたまた三成決起に際して輝元に味方につくようにって意味の上坂要請なのか意見が分かれてるってことだと思う

657 :
>>655
それについては、西軍の謀略説もありますね。
石田と大谷が挙兵したとこにして、その間に毛利・宇喜多が大坂に兵を集める時間稼ぎと
口実作りとして。
シンプルに見れば、増田が負けたときに備えて保険をかけておいただけ、ってかんじだけど。

658 :
>>647は出典が慶長年中卜斎記に載ってる写しだから信頼性の高い編纂物とはいっても信憑性に一定の難が残る
>>648や益田ら連書状との整合性や家康がなかなか三奉行の関与を認めなかったことや
長盛が戦後に命を助けられ旗本に取り上げられてしかも駿府衆と言われてるので家康直属の厚遇を受けたことも
(厚遇受けたせいで息子が大坂方に参加した大坂の陣で腹を切らなければいけなくなったが)
すんなり説明が付くから自分的には本物としたいところだが。

本物の場合は石田大谷の不穏な動きを察知し家康に急報するとともに
安国寺の強い進言により輝元に上坂を促すがこの時点ではクーデターに積極的な関与はしていなかったと取れる
その後は安国寺石田の説得とすでに話が付いていた輝元が異常なスピードで上坂してくる事を聞き
クーデターへの積極的関与を(15日以前)決断したというストーリーが考えられる(笠谷・石畑説)
ただの保険だとしても保険をかけれる程度の本気度という立ち位置。あるいはスパイとまで(従来説)

偽物だとすると増田長盛の家康寄りと取れる発給史料が皆無になり残りの史料からクーデターは当初から四奉行輝元主導であり(光成・水野説)
増田が大坂城に残り全体の指揮を執ったことから増田長盛謀主説まで考えられる(高橋説に近い)
>>648や長い間反乱を石田大谷に限定してたのは家康によるブラフ。益田ら連書状も言い訳ということになる)

659 :
自分の中じゃ増田長盛が熱いな。今まで影薄すぎだったが

660 :
増田は肝心の関ヶ原の日和見がどうしても印象悪い
関ヶ原での強力な指導力を見せる資料が残ってれば石田大谷のような悲運の将と言われたかもな
助命されたのもあって輝元玄以と同類に思えてしまう

661 :
別段歴史上の人物全員ストーリーにされたくて立ち回ってる訳ではないし
もしかしたらかなり強かに立ち回ったのではと言う点で興味持ってる人の後への書き込みとしてはかなり的外れかと

662 :
輝元の立ち回りを強かと評する人もいるしな

663 :
大坂の大名の妻女たちを人質にとったのも石田大谷の決起に備えて石田方につかせないという口実で集めたという見方もあるとか

664 :
ほんとにそうだったら軍隊どころか組織にすらなってないな西軍は

665 :
とりあえず真田宛の西軍首脳の書状を三通ほど

666 :
昌幸宛三奉行書状

急度申入候、今度景勝發向之儀、内府公上卷之誓帋幷被背 太閤樣御置目、秀ョ樣被見捨出馬候間、各申談、

及楯鉾候、内府公御違之条々別帋に相見候、此旨尤と思召、 太閤樣不被相忘恩賞候はは、 秀ョ樣へ可有御忠節候、

恐々謹言、

                  長大
   七月十七日            正家(花押)
                  揄E
                    長盛(花押)
                  コ譱
                    玄以(花押)

     眞田安房守殿

667 :
昌幸宛三奉行書状

態可申入處、好便之条令啓候、去年已來、内府公被背御置目、上巻之誓帋を被違、恣之働仂条々一書先度進之候、

相達候哉、殊更今度景勝可被相果儀、不謂旨樣々理申候へ共、無同心下向候、如此壹人宛被相果候ては、

秀ョ樣可被取立儀にあらす候に付而、各申談、西之丸之留主居追出、伏見に有之留主居爲可討果、堀際まて取詰、

築山を申付、大筒、石火矢にて責詰候、急度可爲落居候、大坂之事、西之丸へ輝元被移、長大、コ譱、揄E丸々へ移り、

何も日本國諸侍妻子番等堅申付、其上に人質を取置候、美濃、伊勢手先之城々へは加勢を入、自身之事は不及申、

家老まて人質を相卜申候、九州、西國、北國、一篇に申候段、但羽肥州は老母人質に出候間、先引切候事迷惑之由、

内儀之理に候、關東へ罷立候衆、妻子人質も堅召置候間、不可有異儀歟、貴殿之御事、 太閤樣別而御懇無御忘却候は、

此節 秀ョ樣へ御忠節肝要候、其上景勝申談候者、關東卽時に破滅たるへく候、伊達、最上事も大坂に自分之妻子不及申、

家老まて悉妻子有之付而、相卜申候、惣別下向之刻より何時も 秀ョ樣へ御忠節可申上由被申置旨候て、爰許之有姿申下し申候、

御手前之儀被見合候て、是非共御忠節此時候、猶石治少より可被申入候、恐々謹言、

                  長大
   七月二十九日            正家(花押)
                  揄E
                    長盛(花押)
                  コ譱
                    玄以(花押)

     眞田安房守殿
           御宿所

668 :
昌幸宛輝元書状

態啓達候、去年已來、内府被背御置目、誓帋被違、恣之仂無是非候間、今度各相談、及楯鉾候、上方之事一篇に申合、

妻子人質悉相卜候、景勝申談上者、關東之儀可屬平均事、案之内候、貴殿連々 太閤樣御懇意於無忘却者、此節 

 秀ョ樣へ御忠節肝要候、猶從年寄衆可被申入候、恐々謹言、

   七月廿九日         藝中納言
                    輝元(花押)

     眞田安房守殿
           御宿所

669 :
後ろ二通と同日の秀家の書状もあるけど>>668の從年寄衆の部分が
自石治少になっているだけで後同じなのでいいかなと
出来れば休みの今日中に、あと一通上げる予定

670 :
昌幸宛二奉行書状

石備より飛脚可被相越由候間、申入候、今度上方平均に申談候儀、兼申入度候つれ共、か樣之事前廉に口外候ては不相調候に付て、

不及是非候、何れも不殘相卜候儀に候条、可御心易候、御手前之事、 秀ョ樣へ御忠儀此時候、景勝、佐竹可爲一味候、

其子細は此中内證承候、其上妻子歴々此方に候、伊達、最上も其分に候、被罷下候刻、何樣にも 秀ョ様次第覺悟仕候へと被申置由候、

一 今日伏見之城に有之關東者鳥井彦右衞門を始、八百餘悉討果候、如何樣 太閤樣日本國之者共に被仰付、

   被入御念候御城を諸手より壹度に卽時に力坂に乘入候事、偏 太閤樣御計と諸人申事にて候、追々可申承候、恐々謹言、

                  長大
   八月朔日           正家(花押)
                  揄E
                    長盛(花押)
                  
     眞田安房守殿
           御宿所 

671 :
いずれにせよ秀吉、秀頼の威光頼みな感じがしますね

672 :
伏見城が落とせたのは秀吉の御計のおかげって人々が言ったとか
知らなかったんだけど、どの程度広まった話だったんだろう

673 :
>>672
そんな発言あったんですか、参考までにどちらの出典か教えてもらってもいいですか?

畿内なら西軍のプロパガンダもなかなか役に立ってたってことなんですかね
今ですら西軍は義挙だと思ってらっしゃる人多いんで、当時の情報操作もバカにできないなと思いますけども

674 :
>>673
いや、>>670の史料読んで書いたんだけど

675 :
>>674
ほんまや、申し訳ない 確認不足で

この書状だと自称人々がそういってるなんで、ほんとにそんな噂あったのかかなり怪しいですよね
とりあえず威勢がいいことを言い続けないといけないですし

676 :
>>667の關東卽時に破滅たるへく候と>>668の關東之儀可屬平均事では
ニュアンスがやや異なるように感じるけど、どうなんだろう

677 :
>>676
奉行衆は「家康は滅亡する」としているが、輝元は「家康は屈服するだろう」という見通しを述べている、
という感じかね

678 :
上田軍記の石田三成人数書立

679 :
三口へ之御人數備之覺

伊勢口

一 四万千五百人      安藝中納言殿

  右之内壱万人息藤七郎殿付有之、右三万餘は輝元自身召連出馬、

一 壱万八千人        秀家

一 八千人          筑前中納言殿

一 弐千百人         土佐侍從

一 千人           大津宰相

一 三千九百人        立花左近

一 千人           久留米侍從

一 五百人          筑紫主水

一 九千八百人        龍造寺

一 千弐百人         脇坂中書

一 三百人          堀内安房守

一 四百人          羽柴下總守

城加番

一 四百人          山崎右京

一 三百七拾人        蒔田權之介

一 三百九拾人        中居式部少輔

一 千人           長束大藏大輔
  
  以上七万九千八百六拾人

680 :
美濃口

一 六千七百人       某石田治部

一 五千三百人       岐阜中納言一手

一 千四百人        羽柴右近
               稻葉彦六

一 五千人          羽柴兵庫頭

一 弐千九百人       小西攝津守

一 四千人          同與力衆四人

一 四百人          稻葉甲斐守
 
  以上弐万五千七百人

681 :
北國口

一 千弐百人        大谷刑部少輔

一 三千人         若狹少將
               同宮内少輔

一 五千人         丹後七頭衆

一 弐千五百人      但馬弐頭衆

一 七百人         木下山城守

一 八百人         播摩姫路衆

一 弐千人         越前東江衆

一 五百人         戸田武藏守

一 五百人         lエ右馬允

一 三百人         溝口彦三郎

一 三百人         上田主水正

一 五百人          寺西下野守

一 五百人          奧山雅樂頭

一 弐千五百人       小川土佐守
               同左馬允

一 千人           生駒雅樂
 
  但主煩故家老名代人數召連候

一 弐千人          蜂須賀阿波守

  但主煩故家老名代

一 六千人         木紀伊守

一 八百人         山修理

  以上三万百人

682 :
勢田橋東番衆

一 千廿人         太田飛驒守
               同美作守

一 四百五人        垣見和泉守

一 四百五人        熊谷内藏允

一 六百人         秋月長門守

一 八百人         相良左兵衞佐

一 八百人         高橋右近

一 五百人         伊東豐後

一 三百六拾人       竹中伊豆守

一 千五百人        中川修理

一 五百廿人        木村彌一右衞門

  以上六千九百拾人

683 :
一 大坂留主居      七千五百人

一 御小姓衆       八千三百人御馬廻

一 御弓鐵炮衆      五千九百人

一 前備後備        六千七百人

一 輝元衆         壱万人

一 コ譱院         千人

一 搏c右衞門尉     三千人

此外七千人 伊賀在番
  
  以上四万弐千四百人

都合 拾八万四千九百七拾人也  

684 :
島津の兵数多くないか

685 :
参加諸将が忠実に軍役果たしたらこんくらいは集まりますよ。っていう8/5時点のあくまでも予定表だから実数と違ってるのも居る
三成の子分の伊集院ぶっ殺して睨まれてて三成に政権取らせる訳に行かない本国が援軍差し止めた島津や
援軍率いてた直茂が途中で引き返して東軍に参加した鍋島なんかはもっと少なかった
逆になぜかやる気満々な長宗我部は弐千百人と書いてあるのに倍の4000人連れてきてたり

686 :
龍造寺勢だけ高房でも勝茂でもなく「龍造寺」なのがなんか異様だな

687 :
一人だけ諱の秀家も浮いているな

688 :
金吾の兵力はやっぱり8000ぐらいと見られてたのか
本番で倍近い15000になるとかいうことがあり得るのかな

689 :
伊賀に七千も駐留していたのによく筒井は上野城奪還できたな

690 :
上田軍記にある書立も真田家文書に伝わってる三成備口人数書立と一言一句同じなんだな
上田軍記がそのまま引用したってことか

691 :
上田軍記って個人のサイト名じゃないの

692 :
>>689
筒井の動向に関しちゃ、伊乱記とかいう怪しげな本と>>55の書状以外見たこと無いんだが、
この数字って筒井と新庄の和睦が成立したのをいいことに筒井の兵を味方にカウントしてるか、
筒井の留守部隊が勝手に西軍に加入しちゃったんじゃないかと思う
さすがに領土奪還して速攻で伊勢の西軍の脇すり抜けて岐阜城攻略に参加してるの不自然だし

693 :
>>691
国立国会図書館デジタルコレクションで上田軍記を検索すると
蕗原拾葉. 第2輯で出てくるよ

694 :
>>692
一応こういうのならある。

8月21日付筒井定次宛徳川家康書状

十五日之書状今日廿一日令披見候、仍従富信濃守(富田信高)注進付而、
羽三左・道阿弥被相談渡海之由尤候、我々出馬之儀廿六日相定候、
万事先々無越度様仕置等肝要候、猶永井右近大夫(直勝)可申候間令省略候、
恐々謹言、
八月廿一日    家康
伊賀侍従殿(筒井定次)

695 :
>>693
ああそうなんだググったらそれが出てきたからてっきり

696 :
>>692
>>49の井伊書状を読むんだ
渡河参加諸将の交名の中に筒井の名はあるが他の大名と違って筒井だけなぜか官職が付いてない
つまり岐阜城攻略に筒井軍は参加してるが伊賀に行ってる伊賀守は不在ちゅうことやね

697 :
会津征伐前の上方の樣子を伝える書状

698 :
慶長四年島津忠恒宛大谷吉継書状

追而是式候へ共、御持筒拾挺進候、聊御音信之驗迄に候、已上、

態企使札候、其後者遙久得御意儀も無御座、無沙汰背夲意存候、倂近年病中故、何方へも無音之条、非疎意候、

一 秀ョ樣日々御成人、御息災之御事、諸人大慶不過之候、於樣子者可御心安候事、

一 内府樣大坂然と被成御在城、爰元御仕置被仰付儀に候、因玆彌上方靜謐之儀候間、御氣遣被成間敷候事、

一 其表相替儀も無御座候哉、伊集院源二郎事、于今不致還住楯籠在之由、不及是非御事に候、 内府樣御内存も、

   何樣にも貴所樣如御存分被仰付候樣に、可被成御沙汰之旨候間、是又可御心安候、則御使者被付置之由候条、

   萬事被成御相談、可被屬御存分事、尤に存候、

一 武庫前篇より被懸御目に付て、於爰元萬事得御意候事、自然此方相應之御用之儀も御座候者、無御隔心可被仰越候、

   不可存疎意候事、

一 上方之樣軆、定而武庫より懇可被仰越候、別条雖無御座候、永々御在國之處、餘久敷無沙汰之条、爲御見廻如此候、

   猶追々可得御意候間、不能巨細候、恐惶謹言、

    十月二日            吉継(墨印)

    嶋又八郎様
       人々御中

699 :
慶長五年信幸宛昌幸書状

尚々、其已來御煩如何候哉、無御心元候、無由斷御養性肝要候、伏見之衆悉大坂へ近々被相移用意迄候、其外無別儀候、

相替儀候者、急度可申達候、以上

急度申入候、其已來御機合如何候哉、無心元存候、不及申候へ共、せつかく御養性肝要候、此方無別儀候、可被心安候、

將亦先日如申入候、其方屋敷之事、塲所可然所候間、此已前請取候屋敷に引替置申候、左衞門佐屋敷其方竝に而候、

二間之内一間地形低候而手間入申候、其方事者留守と申、よき所を請取候はてかなはぬ由存、手間入候、

屋敷わ左衞門佐かたへ相渡候、然者内府樣大坂に御座被成候に付而、大名、小名悉伏見之衆大坂へ被引移候、

我等も近日可相移令支度候、替儀候者、追々可申入候、恐々謹言、

   三月十三日        昌幸(花押)

 伊豆守殿             安房守

700 :
>>696
たしかに。渡河組と伊賀上野城奪還組に分けた可能性あるね。
ただそれでもどうやって伊賀上野から赤坂まで
戻ったのか疑問なかんじもするが。
それか関ヶ原本戦は筒井家臣のみの参加で
定次本人は参加しなかったか。
筒井ってたしか論功行賞でも加増なしの現状維持だったよね?
味方はしたが戦功はたいしてなかったと扱われたか?

701 :
そもそもあの書立は予定表だから、実際七千配置出来たか分からんし

702 :
コ川家康毛利輝元小早川隆景連署起請文前書案

敬白天罰靈社起請文前書事

一 御ひろい樣へ對し奉り、聊表裏別心を不存、もりたてまつるへき事、

一 諸事 太閤樣御法度御置目之通、無相違樣に可相守候事、

一 御ひろい樣之儀疎略を存、幷 太閤樣御置目等相背輩於在之者、縱雖爲緣者親類知音、ひいきへんはなく、

   糾明之上を以、成敗之儀可申付候事、

一 板東法度置目公事篇、順路憲法之上をもつて、家康可申付候、坂西之儀者、輝元幷隆景可申付候事、

一 不斷致在京、 御ひろい樣へ御奉公可申候、自然用所候て下國之時者、家康輝元かはりかはりに御暇申上、可罷下事、

右条々、若私曲僞於御座候者、此靈社上卷起請文御罸深厚に罷蒙、今生にては白癩K癩之重病をうけ、弓箭之冥加七代迄盡果、

於來世者、阿鼻無間地獄墮罪し、未來永功浮事不可有之者也、仍起請文前書如件、

               羽柴筑前宰相
   文祿四年七月      隆景
               羽柴安藝中納言
                  輝元
               羽柴武藏大納言
                  家康

703 :
何、これ?

704 :
休みなのである程度纏めて上げてみている

705 :
七将襲撃事件に関する史料

毛利元康宛毛利輝元書状

たそ進之候而申度候へとも、左樣之者には用申付無寸暇候、先書中にて申候、

一 自治少小西、寺澤被越候はねらいたて仕候者一かう珎事なく、結句手おきたる、於于今は仕合候条、

   自此方可被仕懸候、左候はは、輝元天馬のことく罷下陣取あまさきへ持つつけ候樣にと被申候事、

一 面むきはさ樣申候か、彼衆申候所は御城は彼方衆持候と聞え候、此方衆一切出入とまり不入立之由候事、

一 揄E被申事に、とかく治少より身を引候はては、すみ候ましく候と被申たる由候、

一 右分候時は、はや彼方へみな成候と聞え候、此時はかぢ之取さま肝心候間、禪高先長老を以内々調畧可申候と安國被申候、

   何も爰元へやかて被越候而可相談にて候、禪高折ふし昨日被越候、種々引成たかり被申候間、

   自此方申候者可成候、いかか被思召候哉、可承候、

一 上樣被仰置之由候而、昨日内府、景勝緣邊之使、互に揄E案内者にて調候、内心はそれにはそみ候はす候、

   公儀は上樣御意ままと景勝は被申由候へとも、是もしれぬ者にて候にて候、とかくはやよいめに成行候間、

   爰は分別之ある所候、

一 御城つめにはこいて、かたきりなと居候、是は内府かたにて候、如此候時は、何もかもいらさる趣候、

一 自大刑少被申事に、下やしき罷下之由、不可然候、内府むかいつらに成候樣に候との事候、

   治少へも此中秀元に人數三千副遣たるとさた申候、大刑よく存候間、一圓左右にてはなく候と申へく候、

   たた引取てかたんむやくにて候、辻合はかり可然候との内意候、

一 下やしき普請事は申付候するや、いかか候はんや、申付候而可然候すると存候存候、被思召所可承候、

   先あらまし申候、透候はは何にても可申候、

一 御氣分いかか候や、是非此節候、又いわうにてよく候や、具可承候、恐々かしく、

内々たんきも此時候此時候、かしく、

706 :
毛利元康宛毛利輝元書状

面むきあつかい之事、いまた不澄候、揄E治少より被申分には、景勝、我等覺悟次第、何に分にも可相定との儀候条、

景勝申談候而異見申候、可有分別哉と存候、趣可申候、

一 夕部禪高被越候而かたり被申候、内府入魂は非大かた候、於其上も~文等とりかはし候樣にとの被申事候、

   彌無異儀候、可御心安候、

一 下やしきへ罷下候と聞え候て、尤可然と被申たる由候間、彌可相尋と申事候、一段可然被申樣と聞え申候、

   只今之あれまはり候物、氣に少もあい不申、又そこ用心に聞え候、御賢慮之前候前候、趣追々可申候、

一 御氣分可然之由肝心候、尚以不可有御緩候、時分からにて候、夕部もそとはさわきたる由候、

   禪高とはるかまてかたり候て不存候つる候つる、早々しつまり申候樣にと申事候、かしく、

707 :
毛利元康宛毛利輝元書状

面みきあつかいの返事、いまたなく候、返事候者可申候可申候、

御書中拜見候、誠於于今は彌彼間之調入事候、安國寺へも其申事候、彼方ことのほか入魂とは聞え候、尚以調肝心と存候、

一 其元普請はとかく早々調罷下度候間、普請急申事候、榎中被仰談候而可給候、

一 彼間ことに申ふらし候ことせうし千萬候、さたのかきりにて候、其用心之儀專一候、彼者書中み申候、

   先度已來次の番事をのみ申候つれとも、右之段をさとり候て無同心候處、それさへ此成候間、さたのかきりにて候、

   何よりわるきことは如此事候、御方如此承候事、天道も照覽、ちかころの之御心中眞實と存候、則書進申候、

   御書中も返し申候申候、

一 御氣分はやはやよく候之由、一段悦申候、尚以不可有御油斷候、灸尤可然候可然候、恐々かしく、

708 :
毛利元康宛毛利輝元書状

昨日彼方と間如此相調候、

一 治少身上面むき之あつかい三人衆へ申渡候、是も此中あつかいかけ有之候由候、
 
   治少壹人さほ山へいんきょ候て天下事無存知候樣との儀候、是に相澄候、揄Eをもみなみな種々申候へとも、

   治少壹人にて可澄と内意候、さ候とも揄E者其ままにては被居候ましく候条、可爲同前候、是ほとに澄候へ者可然候、

   治少ことのほかおれたる被申事候、長老へふしをみなみたなかし候、此一通事、家康よりも一段みつみつ候へとの事候、

   壹人にも御さた候ましく候、よくよくその御心へ候へく候、梅りん、渡飛、兒若其元へ被召寄候而、みつみつにて被仰聞可給候、

   召上せ申候へ者ことことしく候、少も口外候ましく候由、かたく可被仰候被仰候、かしく、

709 :
毛利元康宛毛利輝元書状

兩三人に被仰聞候哉、可然候、

一 下やしきへ事尤候、我等も其申事まて候、此意わ一刻も急たく候、只今安國寺へも申候申候、へいをも先急候へと榎中に申聞事候、

   御方も御方も可被仰候而給へく候、

一 蜂阿、如水、加主ささへはさたまりたる事候、彼衆身にはあられぬと聞え候、何篇被思召寄所よるひる可承候、かしく、

御方御氣分よく候事肝心候、尚以不可有御緩候、

710 :
毛利元康宛毛利輝元書状

あつかい調、治少は佐ほ山へ被罷越、息は大坂へ被罷居、秀ョさまじぇ御奉公候へとの事候、爲一礼夕部内府息被罷越候、

右之趣不存候てやらん、夜前も所により大さわき候つる、安國寺やかて治少へ被罷越候、彌樣子可聞之候、

内府へも被參候而萬被申談候へかしと申候、氣分惡せうし千萬候、御氣分如形候はは、後刻可有御出候御出候、かしく、 

711 :
福島、蜂須賀、浅野宛家康書状

石田治部少輔佐和山へ閉口に相定、明日可參候、子息昨晩我ら所へ被越候、猶井伊兵部少輔可申候、恐々謹言、

    後三月九日          家康(花押)


   C洲侍從殿
   蜂須賀阿波守殿
   淺野彈正殿 

712 :
桂広繁宛秀包書状

小早川秀包書狀寫

猶以爰元たたいは委細別帋に申候、可有御分別候、先樣被越候衆歷々にて候、注文進之度候へ共、何之用にも不立事候間、

不進之候、ぬけぬけ承及候、被戾候衆も御座候、已上、

追而申候、爰許之儀は内府被上候へ者譱惡艮見疊申事候、たたいなか御弓箭にて候、其元にて承及候よりも丗間不調事候、

越前に山口玄蕃大勝寺と申城に被居候、父子共に被立御用方御氣遣成事にて候、我々式なと事も此時之儀候、御用立候歟、

丗間目出度儀申候かにて可有之候、然間何にもかまい不申、人數をもよひ上申候、菟角内府上に候へ者一戰に極申候、

其元之事、境目彼是あやうく存候へ者、爰元にて中々申たて候事も不相成候、かさおしまてにて候、我々着候事もやうやう申理軆候、

立左なとはや着樣にてせうし候、 爰許人數之きわめもきひしく候間、人數をもめし上候、其元は於于今は成次第まてにて候、

自然不慮之儀も可有之候、妻子はちをかき不申樣ョ存候、かりそめに上り候て長々と在做可申候、

無左候共大畧此度かかきりのやうに存候、餘之方へは不申候、出陣人者申度事も不相成候間、

御方樣計へ若輩よりの御なしみに心底之所不殘申入事候、能々御得心尤候、御校量之前候間不能申候、恐々謹言、

    八月十三日          秀兼  御判

      快友まいる
         申給へ  

713 :
垣田勘左衛門宛秀元感状

毛利秀元感狀寫

今度濃州南宮打納之刻、敵付立跡手六ヶ敷候之處、其方事返合候段、無比類候、幷至勢州楠原爲加勢鐵炮之者相副遣之候處、

別而肝煎仕、組之者共敵數人打臥候、同國於津城茂三丸門口に而碎手、同門内に而敵壹人討取之段、粉骨此事候、

仍太刀一腰、馬一疋遣之候、猶於國夲可加襃美也、

   慶長五年
      九月廿三日          秀元御判

          垣田勘左衞門殿

714 :

〵(踊り字)のくり返し部分が間違っている所もあるかも知れません

715 :
>>714
わたしはそれ「?」でごまかしてる。

716 :
次スレテンプレ百越えそうだな
まぁ、いつもの人が立ててくれるんだろうけど

717 :
この史料の人、旧字体多用するから、時々読めない字があるんだよなぁ

718 :
どちらかと言うと史料専用スレたてて、そこを長期保存したほうが合理的だと思うぞ

719 :
はっきり言う
脈絡もな史料を貼って何がしたいのか分からない

720 :
史料読んでて面白いから、私は良いけどね

721 :
見たい人は見ればいいし必要ない人は飛ばせばいい。

722 :
まともな学校に通ってなくて史料を読めない人には怪文書にしか見えないのだろう

723 :
どこかにwikiでも立てて言いたい場所を引用しながら話せば効率的では?

724 :
王朝文学とかそっちの方ばかりで候文って学校ではやらんかったなあ
接したのは中学のクラブ活動くらいだったかもしれん

725 :
>>723
そういうのはすでにある
http://tidurumoeguti.blog.fc2.com/

726 :
じゃあなんの為にこの人は史料貼り続けてるの?

727 :
>>726
ものすごく参考になるんだからべつにいいじゃん。
すべて関ヶ原に関連してるものなんだし。

728 :
>>726
趣味なんじゃないの
まぁ>>725にはない史料もあるし、いいんじゃないかな

729 :
なしてここに史料はり続けるのそんな否定するんじゃろか

730 :
生産性のない否定をしないで、変わりに話題を提供すればいい
自分は史料はありがたいし、楽しく読ませてもらっている

731 :
史料が読めないんだろ
読めないなら読めないなりにこの史料は何て書いてあるのかと聞けばいいのに

732 :
戦国スレで史料貼るの否定されても困るわな
ただテンプレは毎回大変だろうから倉庫スレでも立ててここに貼ったら向こうにも貼るでもしたらいいとは思うけど

733 :
それだと他の出来事の史料とごっちゃにならないかな

734 :
馬鹿だから文系のくせに無学で読めないよ。
意味も分からん。

735 :
読み下し文が欲しい。

736 :
>>705-710
何で輝元が三成に同情的なのか分からない。
そもそも白峰氏によれば訴訟に敗れて隠居しただけの話で
涙流したり、気分が悪くなったりする程のものなのか
あと>>712で立花がなぜ笑止なのか、理由がよく分からん
>>725
それって個人のブログじゃないの?勝手に晒して良いの?

737 :
>>736
石田襲撃事件については、光成氏と白峰氏でまったく見解が違う。
白峰氏:ただの強訴
光成氏:七将は石田の襲撃に失敗、伏見に籠もる石田に手が出せず膠着。
毛利が吉川広家を援軍に呼び、毛利・石田等連合対七将の一触即発の戦寸前状態。

738 :
例えば>>705

>輝元天馬のことく罷下陣取あまさきへ持つつけ候樣にと被申候事、

この「あまさき」の解釈。
白峰氏は、「天の先」(比喩表現)と解釈。
光成氏は「尼崎」(地名)と解釈。

書状の年代比定でも両者見解が分かれてる(日付しか書かれてないので)。


白峰氏は国語に忠実に訳してるが、解釈がなんかおかしい印象。

個人的には、わたしは光成説のほうが合理的と感じるので光成説を支持する。

739 :
まぁ光成説のほうが自然やね

740 :
立花の方は前後の史料から遅参かな

741 :
こないだ関ケ原歴史街道を通る機会があって、家康初期配置陣跡の横通過したけど
予想以上に南宮山が近くてびびった。
こんな毛利の近くに布陣できるとか、よっぽど毛利が動かない確信があったんだなと思った

742 :
>>736
もしも輝元が、三成が蟄居しただけで涙を流したり気分が悪くなったりする人間なら
戦わずに家康に降伏して「騙されて三成に担がれた」とか言い訳して
三成に全ての罪を擦り付けて処刑させた時はどういう気分だったんだろうねw

743 :
涙流した云々は輝元の自己申告だしなぁ
そもそも輝元、保身の為なら家臣平然と犠牲にする人間だし

744 :
>>741
家康の初期配置って、今は否定気味じゃなかったっけ?

745 :
関ヶ原のは例の参謀本部作成の布陣図を元にしてるからなあ。
現段階の研究レベルだとほぼデタラメ

746 :
あれは太田和泉守記を基にしているって、スレなかったかな

747 :
太田牛一だよね?
信長公記と比べると信頼性落ちるの?

748 :
著者本人の信頼性ってのも重要だけど
著者が実際に見聞きしたのか、もかなり重要だから
また聞きとかならもちろん信頼に疑問をつけざるを得なくなったりする

あとはちゃんと史料批判がなされているのかどうか
史料批判の厳しい目をクリアしたうえで信用できるなら二次史料だって信用できる

749 :
参考してる痕跡ないが?

750 :
>>713
毛利って関ヶ原では何もしていない印象があるけど、感状を与える様な戦闘あったのかな?

751 :
南宮山の毛利は追撃されたんじゃあ

752 :
>>751
吉川広家も毛利秀元も、「東軍に合流」している

753 :
まじか

じゃあ吉川は東軍だったんだな

754 :
吉川はというか
輝元承知の上で東軍に降伏してる

755 :
なので「輝元はあのとき大阪城に籠城していれば云々」は論にすらならない

756 :
石田三成が天敵で西軍をまとめて天下分け目の戦いをしたふうに語られてるけど本当のところは徳川の世は盤石で石田三成が勝手に伏見城攻略したり家康相手に反発始めてそれを家康が懲らしめただけなのではないかとも思う。それを徳川が大袈裟に脚色して報告しただけ。

西軍なんて概念ははじめから無かったのではないだろうか。

757 :
徳川の世?

758 :
輝元は関ヶ原当日にノリノリな書状を書いてなかったか
和睦は吉川広家の独断だと思う

759 :
いや南宮山に居た秀元や毛利の重臣たちも同意してるから。広家指揮下以外の毛利軍も全く動いていない。
独断じゃあんな事できねえよ

760 :
>>759
空弁当は本当に空だった

761 :
輝元が重臣たちに見限られたかもな

762 :
>>761
彼らが見限ったのは西軍だろう
関ヶ原後も、彼らは輝元や秀就を主君として扱っているのだから

763 :
輝元が承知してなきゃそれこそ輝元ご乱心で主君押込でもするわね

764 :
実際孫の綱広は家臣団から押込め食らってるな

765 :
自衛隊が過去にワープして戦ったんでしょ

766 :
>>763
映画関ヶ原の小早川秀秋が日和見を止めて
「三成に味方するんじゃー」
と叫んだら稲葉平岡に押込られていたね

767 :
>>766
秀秋善人説?

768 :
毛利は国人一揆的性格が後々まで色濃く残ってたんだろうな
志道広良の「殿様は船、家臣は水」とかいう

769 :
>>765
米軍「キル ゼム オール!」

770 :
今月白峰氏が平凡社から關ヶ原本出すけど、渡邊大門氏も
来月PHP新書で關ヶ原本出すんだな

771 :
石田三成らが山中に移動した理由について
大谷の救出だったり、小早川の討つためと
研究者によって微妙に理由が違うね

上杉討伐の理由も
豊臣軍を自分が動かせるようにするため
かたや、家康に野心はなく、単に景勝の野心をくだくためと

あと、輝元の天下への野望がどの程度だったのかも不明
三奉行に呼ばれた形だけど
それまでの計画を初めて知ったわけでもなさそうだし

772 :
家康の野心も何も、近隣大名から上杉の不穏な動きが報告されてるのに、
呼び出しに応じないのを放っておいたら、上杉家は豊臣公儀の権威に服さなくてよい、
と認めることになる。

浪人の雇い入れや領内整備はともかく、最上領の山中を突っ切って、飛び地を結ぶ
道路を勝手に作るのは完全に侵略行為で私戦禁止を無視してる。。

773 :
越後に上杉家臣置いてってたのも問題じゃなかったっけか
堀家からしたら一揆扇動されたらたまったもんじゃない
実際扇動してたはずだし

774 :
伏見城の戦いで、おもしろい絵日記描いてた人がいたけど生き延びたっけ?

775 :
伏見城の戦いで日記といえば松平家忠だが、彼は負傷して自刃
おもしろい絵日記書いてたというのが別人なら調べないとなんともいえないが
>>670にあげてくれる史料にもあるように、基本的に伏見籠城勢は全滅

776 :
これだろ家忠くんの絵
https://i.imgur.com/aZDKd9n.jpg

777 :
実際に読めば分かるが
絵(というか落書き)なんてほとんど出てこないんだがなぁ

778 :
史料が読めるようになると松平家忠とか上井覚兼とか日記残してた人に親近感が湧いてくる

779 :
史料が読めるって、草書体の解読も含めてのことか?

780 :
>>777
日本最古の将棋の局面図として有名だから仕方ない
ちなみに日本最古の将棋の棋譜は大御所家康の前での御前対局

781 :
家康、囲碁は殿堂入り、将棋は十段貰っているからなぁ
そんなもの貰っても有り難がるタイプには思えんが
まあ浅野長政とは囲碁仲間だったらしいから、
囲碁を嗜んでいた事は、役には立ったんだろうけど

782 :
>>776
この後自刃する事を考えると切なくなる

783 :
>>782
その将棋は1587年の項の余白に書かれてたものだから多分セーフ

784 :
現代の将棋の戦法とも通じる棋面だなー

785 :
ウィキペディア見たら指し手の棋力は低いと酷評されてた
この頃ってまだ取った駒使い回せないルールだったんだっけ

786 :
>>785
いや、ルールは現代と変わらない

787 :
棋譜も定石も少ない時代だし、情報が手に入りにくいからね
棋力が低いのは仕方ないと思う

788 :
今流行の王の仲立ちだが、後手の中飛車に向きあっとる

789 :
>>776
これ子孫が書いたものとかいわれてなかったけ?

790 :
西軍も伏見、安濃津、田辺攻めくらい迄なら調子良かったんだけどな
書状もその頃くらいのは、強気なものが多いし

791 :2019/08/20
その時期は広家も黒田長政への書状、停止しているんだよな

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