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武田信玄は過大評価されすぎ part4


1 :2014/02/23 〜 最終レス :2016/10/20
武田信玄
戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
前スレ
武田信玄は過大評価されすぎ!!part3
http://www.logsoku.com/r/sengoku/1325991921/

2 :
・平和な甲斐に生まれる(父親、武田信虎の功績により甲斐の国主=武田の状態が確立)
・家督争いの引き金になる弟が、信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
・偉大な権力を持っていた父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
・重臣の中で権力を持っていた板垣と甘利が勝手に自爆→信玄にやりたいように政治ができる
ここまで恵まれた相続を行いながら戦って滅ぼした主な相手は
諏訪頼重 
高遠頼継 
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁   →  全て足して約40万石
戦国好きですら信濃豪族の勢力を全て網羅している人はそういないだろう
名前の残らない無名勢力を滅ぼしただけである
今川氏真   →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w

3 :
関連スレ
武田滅亡の原因は信玄が作ったのか?
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1391271218/
武田信玄の凄い所って結局どこよ?
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1386873617/
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part4
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1374535860/

4 :
>>1

5 :
山が面倒 はい論破

6 :
妄想に妄想で反論するスレばかり増やしてどうするw

7 :
過大評価なのは事実だしそこからよ

8 :
地方の弱小豪族相手に二度も死に掛け(上田原、砥石崩れ)、川中島では弟信繁を討死させ(自身も負傷)
莫大な犠牲と長い年月を費やし、まさに死ぬおもいで弱小豪族達から掠め取ったのが信濃一国(一部北信は除く)
その後は西上野の弱小豪族から領地を強奪、さらに弱体化しきった今川を若輩徳川家康と共同攻めも
逆に徳川と北条に挟撃されるまぬけっぷり
西上作戦では、三方ヶ原で織田徳川連合軍を壊走させたが、何故か滅亡寸前の織田(ソースは武田厨)を放置
徳川領の野田城、長篠城を落として、そのまま敵に後ろを見せる形で撤退し浅井・朝倉を見殺しにしてしまう
これが災いして、信玄没後僅か9年で名門甲斐武田氏は、西上作戦時滅亡寸前だった織田によって速攻滅ぼされる
どう贔屓目に見ても武田信玄は超が付く過大評価

9 :
ロクなことしてないしな

10 :
信濃 50万石
甲斐・駿河・西上野 50万石
信玄の最大石高って100万石かよ><

11 :
信玄は対信長、領地経営を見ればやってることは朝倉義景以下なんだよね

12 :
占い信じて軍事行動決め、
気に入らない奴は呪い殺そうとする。
重税で民の逃散が相次ぐ。
同盟破棄で敵を作りすぎる。
まともな政策してない…

13 :
論理的な思考は苦手っぼいね信玄
当時の武将の中でも、特に占いを重視してるし、
戦略も内政もその場しのぎのものが多い

14 :
信玄の思考回路と武田厨の思考回路は似ている

15 :
声優の遠近孝一さんがマニアックに戦国時代を語る無料配信番組です。
戦国ネット「すきらじ」
第25回「風林火山」
http://www.suki-radi.com/
孫子の旗について興味深くぶった切ってます(笑)

16 :
>>12
武田信玄は信濃だと諏訪村上などへの行状から蛇蝎の如く嫌われ
マンセーしているのは甲斐こと山梨県民くらいなんだが
その山梨県民の大半は甲州崩れ当時に武田を裏切った連中の末裔ばかりというw
当主からして武田の血など入っていないエセ子孫だし
所詮金儲けの道具でしかないw

17 :
>>16
長野県で嫌われてるとするソースはまだなの?

18 :
1582年に武田家臣自ら証明しちゃったじゃん

19 :
1582年2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
(一次史料を確認するとこの日が織田軍の信濃侵攻開始日なのがわかる)
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)      
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。

20 :
晴豊記 2/14   浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14  この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16    五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
        (陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
フロイス日本史  3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。 ttp://maechan.net/kanreki/
兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
        信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
        天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
        しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
       最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
       戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
       多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。

21 :
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、さらに様子見で軍を出すのを延期。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解(高遠城で百人討ち取られただけ)
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね

22 :
公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。
フロイスがなんで神の起こした災害の場所へ恐れを抱かず
信長が進んで行くのか疑問に思っていたが・・・
立入左京亮入道道隆佐記には浅間山噴火を見た信長について書いている。
信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬
はい、信長が火事場泥棒をしようと他国の災害を大喜びしていたのが確定w
先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。

23 :
浅間の獄の焼けるは東国の物怪とまで、
興福寺の僧侶は古人の言葉を引用してまで、
物の怪の怒り暴れる姿に恐れを抱いた。
中世における地球の活動から来る天変地異は、
物の怪と解釈されパニックとなったのである。
しかし凶悪極悪犯罪者にとっては、
そこは略奪虐殺三昧の治安崩壊地となるのであった。
天変地異を世界の滅亡と捉え恐れる良民とは実に哀れなものである。
実際に反社会的性向の札付きのワルの織田軍がこの世の終わりを現出させるべく、
考えられる限りの悪逆無道な行為をして回ったのだから。
大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw
江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。

24 :
いつになったらその噴火の被害に対する行政文書出せんの?

25 :
無政府状態になって混乱を極め、
ついに全域で一揆が発生するほど過酷な国情になってたのに行政文書なんてあるわけねーだろ。

26 :
山1つ噴火しただけで
家が滅亡するなら
信濃の連中は噴火する
その都度滅亡が
必要になるなw

27 :
武田の文書でなくていいよ
北条のでも徳川のでも織田のでも
噴火で被害が凄いから税免除ってなもんを
そういうのなしに噴火噴火行ってるわけじゃないよね、まさか

28 :
噴火は起きたとしても
他の大名家から特に記されないレベルの噴火で壊滅したのなら
武田もしょっぱいな

29 :
だがの頭が大噴火しただけやろ?

30 :
そもそも天災被害がわかるような一次史料なんてこれに限らずほとんど存在しない。
なぜなら記録を取る人自体が極めて限られた人のみしかやってないし、
その記録者がたまたま居合わせてないと被害記録がなされない。
日記をつける人が災害先に記録をしに出かけるなんてバカバカしい習慣は無い。

31 :
菅沼遼太理論だと行政文書が消滅するレベルの甚大な自然災害だったのに
なぜか浅間山付近に領地をもつ北条に被害は出なかったらしい
信濃には木曽義昌ら織田軍がうじゃうじゃいたがこれも被害は出なかったらしい
武田軍は被害甚大でまともな抗戦すらできなかったが噴火で死んだ武将もいなかったらしい

32 :
武田神社に行ったんだけど、社務所の若いアンチャンとネエチャンの
態度が酷かった。
御朱印をもらおうと思って「すいません」って声かけたら
アンチャンにガン飛ばされたわw
しかもそいつが御朱印を書くもんで一気に冷めた。
今まで行った神社仏閣で最悪。
もう二度と行かねえ。

33 :
武田神社なんて拝金主義の
連中が集まる場所だからな
信玄のことより現金のことが
好きな連中の集まり
上杉謙信を祀った上杉神社とは
えらい違い

34 :
>>31
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、
甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、
さらに様子見で軍を出すのを延期。
この延期で出遅れた北条はのちに信長の不興を買っている。
同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、
わざわざ敵地北条領へ逃げるため小山田領に逃げる謎。

35 :
それが行政文書?
面白いことを言うね
九州からも見える赤いソラを見て北条が書き残した史料はそれだけなんかいな?

36 :
浅間山が噴火するとまず一番
被害が蒙るのは山がある信濃と上野
なのになぜか「甲斐」からの情報が途絶したらしい

37 :
また破局的災害の中を普通に進軍できるという織田軍無敵伝説をやるの?

38 :
村上義清が信玄に二回勝ったって言うのは認めるけど
長野に六回負けたのはさすがにないよなって思う

39 :
災害記録の行政文書なんて、そもそもこれに限らず、さらに時代を遡っても存在しない。
昔の人はそれを記録することに意義を見出してないから。
だからほとんどが後代に言い伝えとして残っていれば幸いレベル。
もし行政文書として記録されていたなら、東北大震災での大津波被害と原発事故を未然に防ぐ手立てにもっと投資していたと言われている。

40 :
水損で減免って文書を信玄君が出してます
信濃史料ご覧あれ
天竜川が洪水で渡れねえって日記もございます
東海どころか九州からも観測された大災害で農作物その他への影響がなかったとは言うまいな?
農民の生産が停滞して困るのは領主
そのために開墾したらしばらく無税とかキャンペーン貼って生産を奨励すつわけだ
思いつきでいい加減なことを調べもせずに言わないように

41 :
まあそのIDで出てくることはないだろうけど、最後の「...言われてる」は誰が言っているのか具体的に書いといてね

42 :
それは徴税や徳政といった性格のものであり、
災害被害を調査する目的で記録された性格の行政文書ではないわけだが。

43 :
じゃあいいよ
徴税やらが目的のでもいいから噴火したって行政文書出して御覧なさいな

44 :
浅間山噴火と共に滅亡した武田に行政文書が発給できるわけねーだろ。
織田厨は底抜けの低脳馬鹿だな。

45 :
勝手に自分の首締めるのは結構だが、それで難癖つけるのは遠慮していただきたい
北条でもおだでも徳川でも、周辺大名は少なかたず影響受けてるだろうに、九州からでも見えたんだろ?
まさか武田滅亡と同時に火山灰マグマが消え去ったとでも言うのか?

46 :
>>45
>>39

47 :
40を読んでから来ましょう

48 :
あといま読み返したら一つ大きな事実五人がある
武田が滅んだのは噴火じゃないから
災害で滅んだのは帰雲城ぐらいだ
自害を選んだ勝頼、そこまで追い込んだ滝川、その上司の織田信長、どれでもいいけど
譲って噴火があって弱体化したとして、それで滅亡させたとは言わない
今川を滅ぼしたのは織田とは言わんだろう

49 :
大噴火して滅亡したのは個人情報を流出させられた菅沼君

50 :
行政文書だせ→そんなものない→信濃史料にあるけど?→災害記録の行政文書じゃない→記録目的でなくても良いから行政文書だせ→そんなものない
最初は記録に残す習慣がないとすら言っていたのにねえ

51 :
織田厨(笑)とやらに屈するのが嫌で言い訳こねくり回してるだけだからな

52 :
じっさい無いだろよ。

53 :
史料がないということは「噴火の被害」を証明する一次史料がないということだからめでたく解決だね
被害を書く必要もないほどショボかったと

54 :
信玄を過大評価する奴は歴史を知らない馬鹿

55 :
52
信濃史料ってわざわざ書かれているのが見えないのか、見たくないのかどっちかな?

56 :
で?って言うw

57 :
【高根城(静岡県浜松市)】
http://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html

58 :
2ちゃんでは過小評価、世間では過大評価って印象

59 :
ここで過小評価される原因は菅沼

60 :
すごいよな
菅沼のお陰で、「○○厨」と書き込むことも出来なくなったし(ただし、武田厨と書き込むのはOK)
武田を叩く書き込みに意見するとどんな内容であれノータイムで菅沼認定されるもんな

61 :
川尻が一揆に殺されるなんて、あきらかに甲斐が噴火の影響で荒廃したのが原因だろうしな。

62 :
で、あるか

63 :
>>60
今一番迷惑蒙ってるのって明らか武田厨(菅沼除く)だよなぁ・・・
菅沼遼太の情報が漏れるまでは他の厨もどっこいどっこいな迷惑度だっただろうけど

64 :
てか今じゃ武田関係なくキチガイは全部菅沼遼太扱いじゃん

65 :
一次史料の根拠を書いて論述されることで不都合が生じる
マンセー厨の織田24時間自宅警備在日にとって、
SUB・TOHO・だが・菅沼などと議論ではなくレッテルを貼ってまわり
単発ID自演で複数人を装い排除する手法が確立されてるからな。
同じ手法で信長は秀吉の才覚のおかげで天下統一寸前までいったという
論法をものすごく嫌がり、織田在日による強烈は敵愾心による豊臣政権排除を行うようになった結果、
現在の織田在日によるアンチ秀吉の爆撃コピペ人格が新たに生まれた。

66 :
論述に置いて述語のねじれに気をつけろって言われなかったのかしら

67 :
>>64
菅沼以外のキチガイもいるけど目立たないだけ
菅沼遼太が消えたら徐々に目立つと思うよw

68 :
菅沼がいるかぎり、どんなことをしても目立ちません。

69 :
菅沼がいる限り2chの武田評価はガタ落ちなままか
ある意味ですごい影響力なのかもな

70 :
なお菅沼は織田厨に責任転嫁しようとしているらしい
しかし武田を出さないのですぐバレる

71 :
責任転換も何も○○厨なんてどっちもどっちな奴らだろ

72 :
本当に○○厨であるならね

73 :
大岡城の城ラマ来てるね。
http://mirai660.net/castle/ookajyoh_model.html

74 :
これが武田信玄公だってよ。
ただの普通のおっさんじゃないか。
http://www2.harimaya.com/takeda/cg/singen_z2.jpg

75 :
>>1
信玄はしょせん雑魚w

76 :
信玄ってリトマス紙的な存在だと思う
歴史を知らない人〜初心者=信玄すごい!
歴史中級者頃=信玄は雑魚
歴史上級者=信玄はそこそこ凄いよ

77 :
ああ、三国志の孔明の評価も似たような感じだな。
中級者は演義の反動で低評価したがるけど
上級者になるとまた高評価になるという

78 :
仮にも中国王朝で時代屈指の名将扱いされている諸葛亮と
地方大名でしかない武田信玄を同一視するのは諸葛亮に失礼だろ
信玄は三国志でいえば袁術、劉表の如し

79 :
>>78
歴史を知るに連れて変わっていく評価の上がり下がりが孔明と似てるってだけの話だぞ?
信玄が孔明並みだのそんな話はしていない
孔明が好きなのか、信玄が嫌いなのか知らんけど、もうちょっと冷静になれよ

80 :
菅沼の反動がこの板での低評価の原因だろうが
まあ、地方ボス程度の器量はあった。
天下人の器には程遠かっただけで。

81 :
「器の大きさが〜」ってのは何かなぁ…
単純に信玄には先見の明がなかったと思う

82 :
地方のボスとしても上杉や北条に勝てないだろ

83 :
武田は山岳内陸国家だったから思いっきり不利なスタートなんだよな。
流通商業資本を一から育成しないとならんかった農業国家から
あれだけの成功を生んでいるのだから大したもんだ。

84 :
>>83
こう書かれると色々と荒れそうだな
まぁ、スタートが圧倒的に不利なのは同意
でも地形的に攻め込まれにくいっていう利点もあったわけで
世間ほどは凄くないけど、2ちゃんで言われるくらいに雑魚ではないな

85 :
いや駿河から超簡単に甲斐へ攻め込めるぞ。
小山田が北条と両属状態時代では、
小山田が町田領とかもってたくらいだから
小山田の協力さえあれば武蔵から甲斐へも簡単に侵攻可能。

86 :
>>86
擁護の意味わかってる?
「○○だから攻めやすい」と書いたら「なんで攻めやすかったのに武田は〜」という批判が出てくる
「攻めやすい」なんて言葉は武田擁護では使わないと思うけどなぁ…
>>84みたいに「攻め"られ"にくい」というニュアンスならわかるけど
あと信玄の信濃侵攻については2ちゃんでは過小評価気味だよね
信濃を甘く見すぎ

87 :
あんだけ山ばっかでだだっ広いところ取るのに時間かかるのはしゃあないけど
あらかた取った後で長尾上杉と泥沼の争いをまた10年近くやっちゃったのはなあ
関東片手間で空巣狙いまくれる相手なのに。

88 :
87
大抵「一方織田は平地だから攻めやすい」って珍説とセットだからな
何でもかんでも織田厨と言ってるやつ見てりゃわかるだろうけど

89 :
信長は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

90 :
信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。

91 :
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。

92 :
信長の周りには畿内で賢主と呼ばれた大名はみんな死んでいて最盛期が過ぎ 衰退に向かっていく弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。 仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
北条・武田・上杉の三国が互角の鼎のように竜虎獅子が合い戦う強豪っぷりだったしな。
武蔵国の名は武器の蔵と言われていたと信玄も言ってる。 家康は武田旧臣を配下に入れて翼が生えたようなもんだ。そのおかげで信濃や甲斐が統治できたしな。
そんな中で勢力拡大してた武田さんは素直に凄い

93 :
そんなチート性能持ってたのに、朝倉やらに協力仰いで、待機してお手紙をのんびり書いてたら死んだのか
チャンスを掴む能力がとことん欠如してたんだね

94 :
武田信玄は織田信長と同じように、徳川家の江戸幕府政権の影響があったから評価が過大になったんだよ。
それは信玄の次女が、保科正之をお江の魔の手から守って会津藩を作れるきっかけを作っただけでなく、水戸家の原点も作った
(頼房が生まれるとすぐに穴山家を継いだ信吉が死んだから、実質的に信吉の後は頼房が後を継いだと言っても過言でない。)んだし。
しかも武田の分家である柳沢吉保が綱吉に可愛がられて、御家人から大名に昇格するための権威付けのために、徳川家と接点持つきっかけとなった人物
(信玄の孫信道は大久保長安と親しかったため伊豆大島に流されたが、吉保は信道の孫である信正を旗本にした)として祭り上げたからなんだな。

95 :
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄
どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。

96 :
スレチでしょ
菅沼認定される前に去れ

97 :
また織田チョンの自作自演か。
相変わらず気持ち悪いな。
織田チョンによる偽だがの見分け方。
昔のだがレスを盗用してコピペ爆撃する。
だがは秀吉擁護であり、
偽だがはアンチ秀吉である。
織田チョンが装う偽だがは、秀吉の功績は信長のおかげであり、秀吉は無能だと主張し、信雄を必死に擁護する。
アンチ秀吉コピペレスは、だがに対する反論になっているので、
織田チョンが主張するだが像がデタラメであることがわかる。
アンチ秀吉コピペ爆撃荒らし行為を織田チョンは絶対に非難しない。

98 :
参考としてだがのレスをひとつだけもってきてくれたまえ

99 :
>>78
信玄って袁術そっくりだよな
勢力伸ばして調子に乗って無謀なことして
最後に悲惨な死に方して死後お家は滅亡

100 :
それでも、甲府ではそこそこの人気。
しかし、高知での坂本龍馬にはとても及ばない。

101 :
>>99
それまんま信長のことじゃんw
内政無視して略奪虐殺で軍資金稼ぎ。
自分は女踊り、鷹狩、相撲観戦、没収茶器コレクション、甲冑刀剣コレクション、
神獣鹿狩、香木集め、尾張から安土への魚調達などの美食、賄賂優遇
など悪政搾取して放蕩し遊んでいただけじゃん。
まー孔子の絵画など内装まで贅を尽くした安土城こそ贅沢の極みだけどな。

102 :
>>99
四世三公の名家に匹敵する家柄を持つのは天皇の子孫でもある甲斐源氏武田くらいのもんだからなあ
袁術の子の袁燿が孫権に嫁いだ姉妹である袁夫人をアテにして呉に仕官したのと
信玄の子の信清が景勝に嫁いだ姉の甲斐御前をアテにして上杉家に仕官したのは全く同じ構図だし
先祖の御威光を笠にきた栄華と、勢力拡大に敗れて衰退と言う構図がここまで被るとは

103 :
>>100
駅前に銅像があるのと館が神社になってるだけで他には何もないよ
どんなに資料館やグッズがあるのかと楽しみにして観光に行ったのにガッカリしてる

104 :
山梨は関東地方の植民地だからな
本人は関東の仲間気取りしてるけど関東からは相手にされてない。

105 :
略奪する場所がなくなり資金難の織田軍
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。

106 :
>>104
え、何でそうなるの…(ドン引き)
余りにも唐突な山梨県批判はNG

107 :
>>102
名門血統の没落と言えば日本じゃ武田と今川が2大代表例だよな
仮にも天皇家子孫の源氏と足利将軍家の縁戚だし
こいつらが滅んで領地を持てず、下賤の家である織田や徳川が生き残る
これぞ戦国を象徴する話だな

108 :
名家出身の守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。

109 :
>>107
大友や六角や大内や畠山や大崎や葛西や両上杉など
守護大名級は直轄地が全く無かったから加増約束も
ろくに出来ず、生き残りは超ハードモードだよ。

110 :
信長は戦前までまったく人気なかった
活発な中世最盛期だった信長統治と違って江戸時代は搾取された暗黒時代などと
左翼御用学者による信長英雄論や天才革命児などの捏造妄想を利用した
光栄がゲーム販促を通じて一般大衆に宣伝広報して洗脳されただけ

映画
『伊達政宗』(1912年、エム・パテー商会)
『伊達政宗』(1915年、日活京都、主演:尾上松之助(2代目))
『伊達政宗』(1919年、天活、主演:澤村四郎五郎 (5代目))
『独眼龍政宗』(1942年、大映京都・キネマ倶楽部、監督:稲垣浩、主演:片岡千恵蔵)
『独眼竜政宗』(1959年、東映京都、監督:河野寿一、主演:中村錦之助)

映画
織田信長(1940年 日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)
紅顔の若武者 織田信長(1955年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
風雲児 織田信長(1959年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
若き日の信長(1959年 監督:森一生 演:市川雷蔵)

111 :
>>102
そんなショボイ末路を迎えたから上杉や毛利、織田や豊臣のように
国を挙げて神様扱いしてくれなかったんだな

112 :
秀吉だけが信長の葬儀をしてるのに、何を言ってるんだ?
秀吉は葬儀の準備をしつつ、岐阜で監禁されていた三法師の近江安土への移動を催促していたんだぞ。
秀吉は死んだ信長の葬儀を立派なものにしようと、朝廷に掛け合って朝廷の職を辞して無官になっていた
故信長を贈従一位太政大臣に任じてもらい、大徳寺へ贈官宣命使として少納言舟橋国賢が派遣されてしまったために
これ以上、葬儀延引きができず、やむなく三法師を葬儀に招くことを断念して養子秀勝を喪主にして葬儀してる。
これほどの旧主への義理立てがあるかよ。だいたい信雄は秀吉に敵対した男だぞ。
それなのに信雄の官位官職を狂ったように急速に向上させて、甲斐信濃駿河遠江三河の超加増までやろうとしてたんだぞ。
信雄が我がままで自分で断ったのに、なんでそれを以って秀吉が批判されなきゃならないんだ?
やむなく信雄の代わりに秀信を取り立てて父の信忠の岐阜城を与えて官位官職につけてやったし、
信長への義理から信雄を許し、信長ですら信雄には従五位下しかくれなかったのに、
秀吉は政権No.2の正二位内大臣にしてやったほど、信雄を引き立ててやったんだぞ。
実力のない信雄に対して、旧主信長への義理立てから秀吉が厚遇していたのに、その恩を忘れて増長し、
家康家臣団が転封準備しているのを知った、信雄家臣団が、転封準備しないとまずいですよって忠告したのに
信雄は、絶対転封はないから、秀吉の命は無視していいなんて言い放って、秀吉の顔を潰してるのが信雄。
結局、信雄も秀信も有楽斎も西軍に付き、大阪陣寸前まで豊臣擁護をしているのだから、
織田家は秀吉に感謝していたのは行動でわかる。
しかし家康は何をした?秀吉や利家らが死ぬやにわかに野望を露骨にむき出し
幼君であることを良いことに、幼君のためと偽る奸臣となって
その地位を奪いたい一心で平時に乱を起こし、
幼君が成長する前に権力と権威を奪い取り独裁し
秀信を高野山で幽閉し22歳で死に至らしめたし、
信雄も公家や寺社に影響力を行使できる五山の僧たちの
全力擁護で家康を説き伏せ助命と領地宛がいをなんとか約束させただけだし
孫娘千姫と夫である秀頼を殺しただけでなく、国松まで殺し、
女子供を含めた大坂20万人大虐殺をして、秀吉の墓を暴き、神号を剥奪し、
自らは東方を照らす大権現となってる糞老人だろ。

113 :
糞中年アスペルガーだが、本名・菅沼遼太

114 :
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。

115 :
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。
10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。
秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。

116 :
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない

117 :
>>115
そのレスだけ大昔のだがレスからの盗用だな。
だがはそのレスを他の織田人脈よりも
有能な秀吉の辣腕ぶりを称賛するために書いていた。
お前は他人のレスを盗用して文意を180度真逆のアンチ秀吉での意味で利用して恥ずかしいとは感じないの?
そりゃ在日織田ちょんには恥の文化無いから何でもありなんだろうがw

118 :
変な改行といい「織田ちょん」という単語といい……

119 :
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。
家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である
佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。
信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。

1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

120 :
無能ぞろいだから簒奪していいとかもうね、アホかと。
自分を高い身分まで取り立ててくれた最も恩義のあるはずの主家を、
信長や信忠が殺され、明智が主殺しの大義名分を背負ってくれたからといって、自分が当主になっていい資格があるわけではない。
信雄や秀信、信孝など、トップにするべき人物がいるにもかかわらず、織田家の合議制を良い事に、専横しまくり、
謀略を謀り廻らし、ついに漁夫の利的に簒奪した秀吉など、初めから主家の当主の家柄の信雄からすりゃ、家臣であるのに主家を簒奪した大罪人であって
その後大した理由もなく攻め込んだり、改易したり、十分反逆すぎるといっていい行為を秀吉はやってる。
最初から主家を乗っ取った秀吉に対して、結果的にすずめの涙程度の待遇を与えたからといって
甘いも寛容も糞もない。超凶悪大罪人の「超」の部分が幾分薄れるかどうかという程度であって、
自分を取り立て出世させてくれた恩義のある主家に対して大反逆行為をやらかした事に何ら変わりはない。

121 :
アスペルガーだがは日付をスラッシュで表記します
これ豆な

122 :
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。
信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。
家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与

123 :
秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる

124 :
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

125 :
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

宇留津城の悲劇
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。

126 :
無能ぞろいだから簒奪していいとかもうね、アホかと。
自分を高い身分まで取り立ててくれた最も恩義のあるはずの主家を、
信長や信忠が殺され、明智が主殺しの大義名分を背負ってくれたからといって、自分が当主になっていい資格があるわけではない。
信雄や秀信、信孝など、トップにするべき人物がいるにもかかわらず、織田家の合議制を良い事に、専横しまくり、
謀略を謀り廻らし、ついに漁夫の利的に簒奪した秀吉など、初めから主家の当主の家柄の信雄からすりゃ、家臣であるのに主家を簒奪した大罪人であって
その後大した理由もなく攻め込んだり、改易したり、十分反逆すぎるといっていい行為を秀吉はやってる。
最初から主家を乗っ取った秀吉に対して、結果的にすずめの涙程度の待遇を与えたからといって
甘いも寛容も糞もない。超凶悪大罪人の「超」の部分が幾分薄れるかどうかという程度であって、
自分を取り立て出世させてくれた恩義のある主家に対して大反逆行為をやらかした事に何ら変わりはない。

127 :
>>秀吉は充分に主家に義理立てした
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。

128 :
>>118
菅沼遼太しか使わないワードをホイホイ出しても意味ねーよなwww
逆に発見するのに大変役立っているというwww

129 :
>>117
だがレス盗用してるのは他にも>>119>>122もそうだな。
だがは秀吉の才覚がすごいという論拠でこれらをレスしていた。

130 :
菅沼遼太「>>129

131 :
菅沼遼太は嘘が大好き
中身がないクズは嘘にすがらないと生きてけない

132 :
織田厨は発言の99%が嘘・妄想・願望
反織田厨は発言の10%程度が嘘(見誤りや勘違いであって厳密にはうそではない)

133 :
織田厨→意見の内容がほとんど自分の妄想・願望・嘘
織田厨を罵倒してる人間→意見の内容が歴史事例や時系列データベースや資料や論文の引用
よって嘘は織田厨であり反織田厨が事実

134 :
菅沼って奴はさ、こんな、異様に長いレス連投して、自分を異常だと、思わない
のかな〜。

135 :
思っていたら個人情報流出した時にでも消えてる

136 :
冷静に考えたら500年近く続く名門の家が
たかが50年もあるかわからない新興勢力に滅ぼされるのって
ちょっとした事件だよな

137 :
だがが自身の異常さは自己顕示欲だ

138 :
室町期からの旧守護勢力なんて衰退してて次々新興勢力によって倒されてる時代に
血筋や血統などを持ち出して敗戦の原因を言い訳するとか相当馬鹿だな。
家が成ってからの年月と、一人ひとりの仕えている武将の忠誠心とどう関係あるかちゃんと論じてくれよ
昔から、自分の親の親の代から何代も仕えてようが、自分の代になってやっと子飼いとして仕えようが、忠誠心も
何も変わらん
つうか昔から仕えてる家臣の方が変に自立心強くて言う事聞かなかったり謀反起こしたりしてるだろ
松平の譜代なんて三河一向一揆で家中半分に寝返ったり武田の譜代系も言う事聞かなかったりしてるだろうが
自分の代になって士官した子飼いなんて家臣として一番扱いやすい部類だわw

139 :
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。
尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。
斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、
簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、
守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。

140 :
菅沼浮上age

141 :
こんなに主張したいなら本でも出せよ…

142 :
菅沼の本は売れると思う
主に井沢路線で

143 :
井沢に失礼

144 :
江戸時代に徳川が採用したのが武田兵法
だから
江戸時代に武家は武田研究し
やっぱ武田スゲエエエエエエエエになった
と個人的には思っている
どう思う?
俺の発見?

145 :
風林火山のうち林と山しかあってないな
甲府盆地じゃ暑苦しくてなにもやりたくないだろ

146 :
信長が後継いだ頃は信玄は信長より石高上だっただろ。
信長に追い越された信玄でしかないわ。

甲斐信濃→停滞
  尾張→美濃伊勢 抜かされる

天下をとるなら信玄は意地でも越後をとるか、さっさと今川と同盟破棄して駿河に手をだすべきだったんだよ。
そしたら信長に勝ってたかもしれん。



毛利元就・織田信長・徳川家康・豊臣秀吉>長宗我部元親・北条氏康・島津義久>上杉謙信・武田信玄≧浦上宗景>今川義元

147 :
k

148 :
>>145
火山の噴火で風の如く滅びたから火と風もクリアしてますやん

149 :
IDを変えること風の如く
武田擁護すること林の如く
コピペすること火の如く
戦国板に居座ること山の如く

150 :
そろそろ信長の優れてる点を逃げ回り続けてないで、
具体的におしえてくれよ。

151 :
別に過大評価じゃないだろ

152 :
確かに2chでは過大評価ではないだろうな
ただ菅沼遼太のとばっちりで信玄にまでヘイトを向けてる人がいるから“妥当”な評価でもないけどね

153 :
百万石の領土を築き上げた名将
ぐらいだろ
天下だの戦国最強だの笑わせるなってはなし

154 :
アンチが過大評価してアンチが叩くという流れ

155 :
そこに菅沼遼太が介入してきてアンチも信者も皆菅沼認定されて終わり

156 :
過大評価されすぎって言うか
信長秀吉家康を嫌いまくって
ドラマ映画でちょっとかっこよく描かれようものなら
「これ脚色されてるだけでしょ 実際は卑怯者のクズだから」
とか言っちゃうクセに
武田信玄はドラマ映画で描かれる姿を
史実そのままだと思ってるヤツが多すぎるんだよな

157 :
仕方ないだろ家康が天下取ったんだから。
信玄なんて
集権化出来ず
信用されず
裏切りを繰返し
挙げ句の果てには上洛も出来ず
全ての負債を息子に丸投げした結果、家を滅亡させた一地方の守護大名(戦国大名では無い)

勝頼公の方が遥かに当主に相応しい。

158 :
>>157
で、それを証明する一次史料はまだなの?

159 :
家康が天下取ったことを証明する一次史料を、御所望の様子。

160 :
このおっちゃんって裏切りすぎでカッコ悪いなあ

161 :
なぜか英傑として描かれがちだけど
実像は悪役のテンプレみたいな人物だよな

162 :
日本人を大虐殺しまくり、日本人子孫に残すべき国宝級財産を大量に破壊消失させ
裏切り三昧をしてきた悪党信長が謀反で火刑になるのも当然の帰結

163 :
>>161
具体的には?

164 :
信長が信玄を裏切り露骨な背反行為が元で両者が開戦へと進む。
7/7には小里氏が織田の後援を受けてるのを信玄は知った上で止むを得ないし残念と語ってる。
5/13信玄宛ての義昭御内書が来ても・・・しかし信玄は同盟を大切に黙殺しそれでも動かなかった。
7/23川尻宛に信長は味方の小里には細心の注意をしろと伝えてる。
9/10に信玄が斡旋していた本願寺と信長の和睦交渉について顕如が伝えてきた。
9月中には小里に加担して信長が信広と川尻まで派兵させ
勝長の養子押し付け決定し岩村城の乗っ取りに成功させてる。
ここから織田と武田が岩村城を巡って紛争していて
11/15付けで信長が小里へ「岩村を乗っ取ったと聞いたから、落ち着いたら俺も出馬する。
川尻と信広から詳しく聞け」と岩村再奪回が図られていたが、
しかし信長が書状を書いたこの時にはすでに武田方に岩村城を再奪回していた。
あきらかに信長の背反行為を、信玄が甲尾同盟と本願寺と信長の和睦成就のために
見逃していたら調子に乗った信長がエスカレートさせた。
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
武田軍は岐阜よりわずか六里まで進出していた。
甲陽軍鑑では岩村と土岐の仕置きを信玄がしていたと書かれてる
三河鳳来寺に武田軍が陣を置いて 牛窪・長沢方面にも軍を動かし
岡崎の北わずか4里の宮崎に出城を築いている。

165 :
>>息子すらぶっR悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。
つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)
のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。
この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。
これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。
11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で
信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
信玄は義信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。
そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は
江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と
言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw
天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく
武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
なんでそんなにアホなの?
恥ずかしくて自害する気にならないの?

166 :
>>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して
上洛してきて協力しろよ交渉の時も
9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、武田側に非は見られない。
(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)
>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・
むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を
正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。
>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。
武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。
それ北条氏照が
武田が今川を攻めたのも止むをえないと言ってるんだが。
そもそも義昭が甲越相の同盟の話を実現させようとしていたのを
今川が嗅ぎ取って、秘密条約をやるんなら、俺に内緒にせずに
俺を同盟の保証人として参加させてくれよと言ってきた時に
そんなのないよと隠していたのが北条。
それで疑心暗鬼になった今川が上杉との同盟を結んで武田挟撃を計ったんだぞ。
北条も義昭の使者が訪れているのを内緒にしていて同罪なんだよ。
だから氏照も武田の今川攻めを容認してる。

167 :
>>同盟を破って家康を攻撃した同盟破り常習犯信玄
絶対許さんと書いてるのはたしかだけど
あれは完全に絶望的屈辱感から来る逆恨みだろw
つーかそのくせ謙信にビビッて勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと信玄を裏切って家康が上杉と内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は前後の書状と辻褄が合わないために真偽が疑われている書状で
(信長マンセー愛知県史ですら検討の要あり書状認定)
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
家康へ遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も彼らに誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に対して氏真と氏康親子と敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶
家康が大苦戦する氏真の掛川城を開城させたいために、
北条と私が武田を挟撃して駿河を氏真に取り戻してあげますと大ウソを言って開城させて信玄を裏切っている。
遠江の人質を武田から家康が受け取った途端に家康は豹変し
上杉&北条へ氏真を渡して恩を売る詐欺的手法を弄してる。
完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するしな。

168 :
>>天文22年に謙信が天皇直々の「治罰」令を貰っている。
>>が、それでも信玄はへっちゃらだし、謙信の配下も謀反。
>>後年、謙信と信玄の和睦が成ると信玄は見返りに朝廷から信濃守の官位貰っているが、
>>和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。それでも特に不利蒙ったことなし。
この頃の謙信は越後を統治するのも難しい状態で
平子と松本の山俣の領地を巡る紛争は幕府の介入による解決を謙信は依頼してるし
越後守護上杉家の伊達時宗丸養子問題から対立していた揚北衆の抗争もいまだまったく解決できてない。
その挙句に関東管領山内上杉まで越後に逃亡してきた。
そこで混乱する越後統治の正当性と北条化した上野国への対応として天皇権威が必要だったんで
天文22年4/12治罰の綸旨を謙信は貰っているが、
一方の5月には武田も後奈良天皇の綸旨と義輝の御内書をもらってる(村上氏と一進一退の攻防中)
7/23には義輝が嫡男に義の字を与える使者も甲斐に来てる。
8/20には後奈良天皇が諏訪大社に自筆文書を奉納してるが
それには信玄の戦勝を祈願し信濃を安定させた上で禁裏奉公するように頼んでる。
8月中に村上氏との勝敗が完全に決したことから、謙信が危機感を抱き9月に南下開始しており
それ以前の段階である謙信がもらった治罰の綸旨が信玄を朝敵にしたとする曲解捏造は非常に気持ち悪いぞ。
>>朝廷から信濃守の官位貰っているが、 和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
織田チョンってほんと偏執的に武田貶しに必死だが、毎回無知を晒して真性のバカじゃないのかw

169 :
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。
>>諏訪氏を裏切った信玄
武田と村上と諏訪は同盟していたはずなのに諏訪氏が突然、
関東管領上杉の軍勢を信濃に呼び込んだ挙句に
佐久郡を管領軍と分割してしまう背反行為に
諏訪と同盟していた武田と村上が激怒した挙句に、武田が管領軍を大破し
信濃で孤立無援となった諏訪氏が滅亡するのは当たり前です。
【むしろ信長の方が裏切り三昧の悪党です】
まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。
一度決着のついた話を繰り返すのは無駄だからテンプレにこれいれよう
・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ

170 :
なんでいきなりコピペしたの。やめてくれ。

171 :
好きな信玄が悪役扱いされたからだよ

172 :
織田厨が常に信玄の悪口中傷してまわっていたために
完成したテンプレを
泣きながらコピペと言い換える織田厨w

173 :
1人で作ったものはテンプレと言わないよ

174 :
織田厨のアンチ秀吉コピペ爆撃の場合は、
都合が悪い論破レスに対して即応して絨毯爆撃でデータオーバーのスレストまで持っていく100レス連投コピペだから狂ってる。

175 :
コピペ狂人がコピペ狂人を非難しても、ため息しかでんわ。

176 :
だがと菅沼遼太の共同コピペ爆撃でしょう。以前にあったね

177 :
これで対立煽りをしてるつもりなんだからおそれいる

178 :
信玄がまともな武将だったら天下とれているはずだし過大評価だな

179 :
当初は後継者である義信のために官位すら貰ってきてやったのに
勝頼はほとんどサポートされないまま当主継承。
やはり義信事件の影響は大きかったのだ

180 :
義信って戦に出陣した証明になる一次史料が全くないんだよね。
だから病弱か臆病のどちらかと言われてる。
勝頼なんて元服するなりすぐ信玄と一緒に戦場に出て、かなり経験積んでるよな。

181 :
信玄勝頼の連名書状とかあるからね。
だいぶ前から勝頼の相続を意識して準備してるよね。

182 :
嫡男がいるのに家督譲渡を他所へ養子出した子にさせるのか
諏訪御前に絆された哀れな信玄よw

183 :
元就は妻が死んだ後に、妻がやっていた子供達の仲の取りもちを
自分がやるようになったがうまくいかず、
外の事は父が、内の事は母がやるという話はまことのことだったと嘆き、
長女と息子たちが互いに対立し険悪になっていくのを調停できず憂いながら死んだ。
そんな元就だが、坊主からあなたは家督を譲渡しながら、
あれやこれやと何でも口を出し何でも決めるから、
嫡男は政治も武事も全く関心がないと周りの人々どころか国外まで噂してる。
などと元就の老害っぷりを非難してる。
信忠もほとんど発給文書がなく岐阜の行政支配実績がない。
信長もまさしく老害だったのだろう。
だから50年前に流行った下剋上という時代遅れの本能寺の変を招き寄せた。
そして信長が濃姫を冷遇した為に
織田家の内の調停できず
信雄と信孝が対立し織田は瓦解し
家臣団によるダブル下剋上をされ崩壊した。

184 :
崩壊?ああ甲州征伐で一族皆殺しにされて大名復帰できなかった武田のことかww

185 :
北条ですらできた大名復帰が不可能に終わった武田
それどころか高家旗本になるのすら遅い
恨みは恐ろしい

186 :
はっ?北条も織田も陣屋であって大名復帰できてねーだろw
勝頼と同母である弟の仁科盛信の嫡男の武田信基が4100石扶持高家旗本になって現在まで男系でつながってるし。

187 :
仁科が勝頼と同母なんて初めて聞いたなあwww
仁科の母親は油川夫人だったはずだがwww

188 :
おまけに「陣屋だから大名に復帰出来ていない」という謎判定まで
北条は1万石、織田は信雄系だけでも5万石、それ以外を含めると大体10万石。
一方の武田って全員あわせて何万石だっけ?
あ、何千石と言った方が正しかった?www

189 :
こうやってみると、織田信雄って有能だったんだな。
数々の戦国大名が潰れていく中で、きちんと子孫に大名の座を継承させてるもんな。
誰だよ、愚将扱いしてた奴は?

190 :
織田家のリーサルウェポン!

191 :
勝頼の母も油川夫人だけどな。
諏訪御前が母なんて井上靖ら作家が飛びついたネタじゃん。
信雄「系」wwwワロタwww

陣屋が大名になったとする一次史料出せやwこの証明をおまえは昔からずっと逃亡してるよなwww

192 :
大辞林 第三版の解説

じょうしゅかく【城主格】

江戸時代,無城で城主に準ずる待遇を受けた大名。

193 :
>>191
知識もガバガバなところ悪いけど、
おまえが飛びついてるのはWikiにある弟の信清の母親である禰津御寮人が
諏訪御前と同一人物ではないか?っていうネタだろw
油川夫人が勝頼の母親なんてどの歴史学者も言ってないぞw
この世でおまえ1人だけw


>信雄「系」

信良と高長のことも知らないのかw

>陣屋が大名になったとする一次史料出せやw


おまえアホすぎじゃね?ww
「陣屋」は「陣屋大名」の屋敷そのもののことであって
「陣屋」などという名称で大名を区別することは歴史上一切ない。
また「陣屋」の扱いはかなり適当で、城郭を使っていても「陣屋」扱いされていたところなど山ほどある。
しかも菅沼遼太は織田が国主格扱いされていたことももう忘れているらしいwww

194 :
菅沼は相手にする価値無いな。
全く調べないで嘘をごり押しするから、1レスで3カ所くらい叩かれて
すぐ逃亡、もしくは、コピペ連投。

195 :
子孫を誇るなら完全に後継がはっきりし、 従三位武田家十六世当主武田邦信は
代表取締役兼国連UNHCR協会の役員で山梨観光大使に正式任命されてる武田家の方が明らかに勝ち組じゃねぇかよ。
米沢藩上杉家の16代当主上杉邦憲は宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授だし。
現在の織田の後継って誰だよ?まったくきまってない曖昧なままじゃん。あぁ?完全に負け組じゃんよw
織田家も現在で繋がっているのは女系のみだな。男系は明治維新まで直系で繋がっているが
それ以降は相馬家の人間が継いでいる。女系を経て繋がっているのは有楽系の傍流

公称で3万石となってた熊本藩の分枝の宇土陣屋の細川行芬の三男を迎えて
1836年に丹波柏原藩第8代の織田信敬www 細川本家じゃなくて貧乏陣屋同士www
柏原藩の重臣は織田家の血を引く鶴姫に再度婿養子を迎えることを考えてたが、鶴姫に拒絶されてるしwww
やむなくまた養子に迎えた黒田長元の四男の織田信民は福岡藩の分枝の公称5万石の秋月陣屋からの養子www
織田信雄系直系子孫からしてこんなぼろぼろの家系じゃん。

ただの茶道の先生の長功って柳本陣屋1万石の末裔だろ。
そもそも有楽の家系を信雄の家系が乗っ取った下克上事件だし誇れるもんじゃないだろ…
ただの茶道のおっさんだから、有楽流の後継である長益の茶説もまとめた貞置流すら名乗れないんだろ。

現代に織田なんて嫡孫家すらいないのが事実。 いるのは、ただの親族家だけ。 だから織田に〜代目当主なんて存在はいない。
上杉も武田もいまも領民に慕われてるけど 織田って愛知県民からまったく慕われてないよな。
天童市ともケンカ別れしてるしな。 天童の相続も織田家ではなく、相馬・・・・ 相馬秀胤が朝日新聞に入社して
織田小星となって日刊アサヒグラフで4コマ漫画の正チャンの冒険の原作者になった人だよな。これ有名。
ちなみに相馬秀胤の父は東京府癲狂院に入れられ家督を乗っ取られた疑惑が生まれた相馬事件で有名な人
上杉や武田や伊達同様に相馬も地元で慕われてるしな。 相馬市名誉市民相馬家32代当主相馬恵胤(日本馬主協会連合会第8代会長)
ttp://www.city.soma.fukushima.jp/profil/meiyo.html

196 :
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。

197 :
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
上杉氏は実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。
一方、浅井三姉妹との親戚関係だけと言う理由で大名家の家格すら失いながら
お情けで再興を許され命脈を繋げていた乞食の醜態を晒す恥さらし織田陣屋家は?

柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩


天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。


芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。


柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩

信雄は秀吉のオモチャにされて 栃木や秋田や愛媛に流罪に次ぐ流罪でしかも小姓1人しか御付人いなかったし
こんなブザマな状態だったのを救ったのは市が懐妊したからだし家康にオモチャにされた時はコジキになって細川や前田らに押しかけ居候して捨て扶持を催促して
親子が食い繋いでただけだしそれでも栄養失調で上の息子3人は早死に追い出され最後はプライド捨てて大坂城で生活保護。
こんなブザマな状況を救ったのはお江が次男駿河大納言徳川忠長との縁組を計画したからだし。
おかげで残った食い扶持減らしで仏門行だった下の息子3人を呼び戻して陣屋主とその家臣にしただけ。
それでも家光に忠長が遠ざけられると 織田家への待遇も地に堕ちたしな。

198 :
信長の嫡孫は野垂れ死んだじゃん。
嫡子系以外を持ち出したら後北条は氏規の孫の氏盛が、
後北条本家とは縁もゆかりもない河内国で狭山陣屋1万石で継続したから、
後北条は滅亡してないと見苦しく強弁することと変わらん。
なぜ織田好きは織田だけは特別扱いの例外と妄想するんだ?気持ち悪い。

ところで勝頼の母が諏訪御前だとする一次史料は昔からずっと出せずに逃亡してるよねw
逃亡を続けている気持ちってどんな気持ちなの?

199 :
慶長5年
8/21 信雄西軍として旧領回復のため尾張へ出陣するも東軍に捕縛され東軍に組みすることを誓う。
8/22 池田・福島らの軍が木曽川渡河し織田軍を破り岐阜城に秀信を捕縛。
   のち福島により秀信の助命嘆願が行われ死一等を免じ高野山へ幽閉される。
慶長10年
5/8 秀信、22歳で死去。
慶長19年
9/27 信雄が大坂城から金品盗んで逃亡し京都竜安寺に隠れる。
10/26 五山僧徒の保護の下に信雄が家康に謝罪のために二条城で土下座。
   五山の僧たちの全力擁護で家康が折れ、のちに領地を与えることを約束させられる。

織田家の最末期の生き汚さと見苦しさは異常www

200 :
>>195-199
「陣屋だから大名に復帰出来ていない」という謎判定は放置のまま。
論破されるとコピペ連投するという、菅沼のうわさは本当だったんだな。

201 :
そもそも当人達が死んで30年後の大名配置で、当人の評価をしようとする時点で馬鹿なのに、
それを上書きして400年後の子孫の地位で優劣を語るとか、馬鹿を超越した馬鹿だわ。

202 :
そもそも上杉は女系で繋がっているけど
武田は男系女系含めても信玄の血は皆無だからな
男系でも女系でも信長の血統が反映されてる織田家と、
とりあえず適当に子供入れた武田家は雲泥の差。

まあ諏訪の子である勝頼に武田の通字を継がせないまま家を継がせたり
血縁もない松平の家から養子を貰ったりしているから
利権が確保できれば武田の当主なんて誰でもよかったんだろう。

203 :
仁科盛信→武田信基の系統は現在まで男系でつながってるんだなこれが。

204 :
ホンマにちゃんと繋がってるのか?
現在まで繋がってたらいるはずだけど
武田家旧温会でもそれっぽい人いなくねーか?

205 :
ggったら林正彦っつうすっげー怪しい人出てきてわろた


>仁科信正は茂原下永吉村に落ちのび林家の婿養子に入ったと言われている。それから17代続いて現在当主は林正彦氏である


途中に養子が入っていない保証もなければそもそも本当に婿養子になったことすら怪しいw
これがアリなら織田秀信とか普通に長生きしてるだろw

206 :
徳川幕府が認定してんだから
怪しいわけねーだろアホ
織田厨は願望妄想しか書かないな。

207 :
仁科盛信の子孫で認められているのは信基と信貞だけだが?
信基の系統は断絶しているとあるし
信貞の系統だって現存しているかわからん。
少なくとも武田旧温会で該当する人物は仁科信正の子孫を自称する林正彦だけ。

幕府に認定されたからといって現代まで綿々と続いているかは怪しいし
実際武田家旧温会でそれらしき人物がいないところを見ると江戸末期か明治に途絶えたんだろ
そもそも江戸時代の家系図では信基も信正も実在していない扱いだったはずだが
甲斐国志に至っては盛信の後裔などいないと認定している。

208 :
仁科盛信の子孫で認められているのは → 仁科盛信の子孫で幕府に認められているのは

209 :
信長の野望「創造」では
あり得ないほど評価高いけど

210 :
などとさしたる根拠を出さずに願望妄想で否定する織田在日

211 :
武田信玄て、ゲームでは政治力が
やたら高い評価なんだけど
堤作って金山掘り尽くした以外
何をしたんだ?

212 :
>>210
むしろ根拠大有りなんだがwww
幕府が認めたというなら現代にいる仁科家の直系は誰だよ?www
家系図使って当然証明できるはずだよな?w
「現在の仁科家直系は◯◯で、これは仁科盛信の子である△△の子の□□の系統の何代目です」って言えるはずだろ?w
当然幕府の認証も証明できるよな?www


何一つおまえが言えてない時点で今考えた「願望妄想」レベルじゃねーかw
織田の子孫も上杉の子孫も間に入っている人間全て克明に記されているのに
武田の子孫は嘘と捏造ばかりだから言えませんってか?w

213 :
天正20年(1592年)美濃国岐阜13万石 織田秀信(断絶)
慶長5年(1600年)河内狭山1万1,000石 北条氏盛
慶長6年(1601年)出羽米沢30万石 上杉景勝
慶長7年(1602年)常陸国水戸25万石 武田信吉(断絶)
元和元年(1615年)大和国宇陀郡、上野国甘楽郡5万石 織田信雄

214 :
武田信吉って家康が武田乗っ取るために用意した子供やろ
そんな赤の他人の人間を当主扱いするとか節操なさすぎだろ・・・

215 :
武田を乗っ取る?

216 :
>>212
個人情報を書き込めるキチガイはチョン国籍の織田厨のみw

217 :
>>215
武田信吉は家康の子供だし、母親は400年前に武田から別れた秋山家の出。
信吉の生誕年は甲州征伐の翌年で、信玄どころか武田家のことすらロクに知らない。
そんな人間が武田家の跡を継ぐとか無理やりにも程が有るからな。
しかも信吉は21歳で早死するのだが、その後は利用価値がなくなったとばかりに何の関係もない弟の頼房に基盤を継がせ、
一縷の望みを抱いて信吉に仕えていた旧武田、穴山家臣が完全に取り込まれる形となった。


>>216
家系図を纏められないとか嘘子孫丸出しの、それこそチョン国籍特有の手段じゃねーかw
朝鮮人は貴人出身の人間がやたらと多く、そのほとんどが家系図を出せない似非子孫ばかりw

そもそも本当にその家に対して尊敬の念があるなら、先祖が有名であるかどうかにかかわらず、
うちの先祖にこの人がいますという先祖の足跡を残す家系図はしっかり持っていてしかるべきなのに、
その家系図がないとか有名人の威光をタテにするために、その人の子孫だと嘘をつく奴の典型じゃねーかwww

結局ソースもなし系図もなし、仁科の子孫も嘘捏造だったってわけか
武田の子孫って武田と全く関係ない奴が当主名乗ったり滅茶苦茶だな
韓国人でも武田の子孫名乗れるレベルwww

218 :
武田信吉の正妻って武田家じゃなかった?

219 :
勘違いだったわ。

220 :
武田家旧温会に入ってない人なのに
入ってる人から探そうとする
意味不明な行動。
やはり日本語が不自由な織田チョンwww

221 :
それ「存在しない」って言うんだろwww
仁科の直系とか引っ張りだこなのになぜ入らないのか意味がわからないwww
つうか入らなくても、「存在していれば」信玄直系の子孫なんて超有名人として世間に認知されるはずなのにww

222 :
仁科信基は安土桃山時代から江戸時代初期の人物。通称は勝五郎。
武田氏当主武田信玄の子である仁科盛信の長男で母は武田信綱の娘とされ、
信玄の孫。史料によっては秀基と記載されている。弟に仁科信貞、子に仁科盛忠。
父の盛信の元にあったが、1582年の織田信長の甲州征伐が開始され、
織田軍は仁科盛信の守備する高遠城に侵攻してくると、
その直前に、信基は盛信の妹である松姫と信基の妹・督姫、
武田勝頼の娘の貞姫と武田家臣小山田信茂の娘・香具姫と共に、
後北条氏の勢力下にある武蔵国八王子へと落ち延びた。
身体があまり健康では無く、甲斐武田氏滅亡後は、
戦乱の時代が終わる1600年代に入るまで、八王子の心源院で過ごしている。
武田遺臣の大久保長安の取り成しで、徳川家康と対面した時に仁科氏の存続と
仁科盛信の家系を名乗ることを願い出て、3100石扶持の江戸幕府旗本に列し、
子孫の代に加増されて4100石となる。江戸時代を乗り切り、両系統とも現存している。
仁科盛信(武田晴清)-信基-盛忠-信照-盛晴-盛朝-忠盛-高信-盛次-信真-定盛-盛照-信国-盛輔-盛定
武田信貞は武田信玄の五男である仁科盛信の次男。通称は源兵街。
甲斐武田氏滅亡の際に兄とは別行動で祖母方の油川氏の元に逃れ、油川氏を称した。
後に徳川家康に謁見した時にも、仁科姓を隠したままであった。関ヶ原の戦いでは東軍に従う。
子孫の代になって仁科一族であることを公称し、武田姓に復したという。
子孫が、仁科盛信次男の家系を名乗ることを願い出て、それを許され武田姓となる。
子孫は明治時代に兵庫県に移住し、血を受け継いでいる。
参考文献 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)

223 :
Wiki丸写しかよwww


で、その

「子孫が、仁科盛信次男の家系を名乗ることを願い出て、それを許され武田姓となる。
子孫は明治時代に兵庫県に移住し、血を受け継いでいる。 」


にある子孫って誰なの?もうとっくに直系断絶しているんじゃないの?現在の子孫って誰?

224 :
個人情報だから書けないという予防線が張ってあるのだ

225 :
>>224
個人情報って言っても名前くらいは出るもんだけどね
どこに住んでるかってのはまだしも
特に武田は直系子孫がロクにいない(当主からして信玄と縁のない赤の他人)なので
本当に信玄の直系子孫がいれば相応に有名になってるはずだし

226 :
参考文献 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)

ちゃんとソース元があるなら間違いないだろね。

227 :
>>220
アスペルガーだがはいつまでニートやってるんだ?

228 :
>>226
で、現代の仁科直系子孫は誰なの?
ソース元とやらに書かれているんでしょwww
早く家系図と一緒に出してよ

229 :
哀れソースを出せない菅沼遼太

230 :
Dage

231 :
だがクンは基本的に嘘つきだからね

232 :
織田家最強武将 織田信雄

永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折(現在の愛知県江南市)の生駒屋敷で織田信長
の次男として生まれる。12歳の時に、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠
具房の養嗣子となり伊勢に乗り込む。しかし北畠一族は信雄を侮り織田家に叛旗を密かに
翻していた。この状況を憂いた信雄はわずか19歳にして畠一族の粛清を決意、これを決行
した(三瀬の変)。更に北畠一族の手下と成り下がっていた補佐役・津田一安を粛清、
この英断により、北畠信意(信雄)の勇名は織田家家中に轟き、皆震え上がったという。

その後、数々の戦場で勇名を馳せた信雄は、21歳にして魑魅魍魎の跋扈する伊賀国への第1次
伊賀国攻めの総司令官に自ら就任、見事にこの威力偵察を成功させた。これは信孝の四国攻め
総司令官就任より3年も早く、2人の地位の違いがうかがえる。この時、更に、重臣で伊賀国人に
内通し私腹を肥やしていたと思われる柘植保重の暗殺にも成功している。(但し、この第1次伊賀国
攻めは信長による秘密任務であった為、表向きは叱責処分となった。)その後、第2次伊賀国攻めは
当然の如く成功し、大和・伊賀・伊勢の武将は信雄が完全に掌握したため、織田家の諸将は
その武功に震え上がったという。

本能寺の変に際して信雄は近江国甲賀郡土山まで進軍したため、明智光秀は震え上がり、
主力のほとんどを安土城防衛に振り向けたが信雄はこれを粉砕、主力を失った光秀は
劣勢のまま山崎の戦いに臨み、滅びて行った。

清州会議では信雄は織田家筆頭の地位にあったがあえて沈黙し、織田家当主を三法師、
後見役を信孝に譲り、大器であることを証明して見せた。この威光に織田家家臣は
ひれ伏し、本拠地尾張が信雄に献上され、若くして伊勢、伊賀、尾張100万石の
長老格として遇された。

その後、賤ヶ岳の戦いでは織田信孝を誅殺、小牧長久手の戦いでは重臣の津川義冬・岡田
重孝・浅井長時を誅Rるなど、正義の番人として振る舞い、常人なら躊躇するその英断に
織田家の諸将は「三介殿(信雄)のなさる事よ」と心底震え上がったという。その後も、秀吉の
転封命令には、家臣とその家族の為に断固として断り、自ら領地を天下泰平の為返上したという。

その後は関東、四国、奥州を視察し、その深遠なる見聞についに秀吉もひれ伏し、
三顧の礼で秀吉の師として栄えある御伽衆に迎えられた。

その後、関ヶ原の戦い、大阪の陣では、自身の兵団の圧倒的な戦闘力を抑えきった為、
徳川家康に感謝されその子孫は代々織田家筆頭として恐れ敬われたという。

本能寺の変から大阪夏の陣にかけて、信雄の行動が一つでも間違えば、戦国時代が
終わることは無かっただろう。寛永7年4月30日(1630年6月10日)死去。

人物
・伊勢国河合において、杉を無断で切った家臣を許さず、追っ手を差し向けて誅殺したという話がある。
・信雄は家臣の処刑だけでなく能にも秀でていたという。

233 :
>>217
いや、そういう意味じゃなくて、既に乗っ取ると言うほどの価値があったか
どうかって言う事。
当時の時点で武田より徳川の方が上だろうし、名家だし家名断絶は惜しいと
思った事と、旧武田領が収まりやすいと考えた程度ではなかったかと。

234 :
>>226
ソース元があるなら安心だね。
ところで織田の子孫についてのソース元の文献がまだ出てないようだけどまだなの?

235 :
明治時代に兵庫に住んでそっから消息不明の存在するかもわからないっていう論が証拠になるなら
エセ子孫扱いされてる織田信成も立派な織田子孫だなwww


武田の子孫はこんなやつしかいないという哀れっぷりwww
家系図を出せないからこうなるんだろうなwww

236 :
織田信長と武田信玄、後世の違いwwww


建勲神社(織田信長らを祀る) → 明治天皇が直接子孫を呼び、ここに建ててくれと御下命
                信長公を慕ってくれる人間なら誰でも歓迎、拝観料も無料

武田神社(武田信玄を祀る ) → 信玄ブームに乗っかる県民が子孫無視して勝手に建てるwww
                信玄公を慕う我々に金を落とせと強要w小学生からもガメつく金を取るwww



織田家の子孫 →  男系女系直系で通じる本物の子孫がいるが、先祖を思う心は皆同じ。先祖を区別なく代々きちんと祀り、各人家系図はきっちり持つ。子孫の間に上下関係はないが、交流はきちんと持つ。先祖を慕う心に私利私欲はない。


武田家の子孫 →  未だに第何代当主とかいう時代錯誤なことをやるwwwしかも当主は武田信玄と全く血縁なしwww武田旧温会という他人を家臣としか思わない団体がいるwww
          「信玄公」「勝頼」と先祖の格を明確に区別wwww「信玄公」の顔が万札に見える銭ゲバっぷりwww

237 :
>>236
で、いつになったら証明できるソース出せるの?

238 :
先祖全員出ているのに「いつになったら証明できるソース出せるの?」と言い出す菅沼遼太www


ほれほれ、仁科の直系子孫はまだ出てないぞ?www
現仁科家の信玄直系子孫は誰だ?
その父親は?祖父は?高祖父は?w


適当に本の名前出してハイ終わりで済むと思ってんの?w
しかもWikiの丸パクリwww

239 :
信玄の自称子孫は信玄のことを金ヅルとしか思っていないという事実www
だから「信玄公の子孫です」とはいえても他の先祖の名前は出せないw
なぜならそいつらにとっては「信玄と同じ家」ということだけが重要なのであって武田家そのものに全く関心がないから。

だから「第何代当主」だの名乗りだしたり、近代のご時世にその家の正嫡を決めるだけで三十六も立候補してお家騒動を巻き起こすとか
端から見たら先祖の面汚しみたいなことを平気でやりだすwww

まあ、こいつらの場合は実際に血を継いでるわけでもないので当然といえば当然だが
そんな下衆い人間しかありがたがっていない、金のなる木のように思われている信玄を
本当に尊敬崇拝されていると思い込んでる馬鹿www

240 :
なにここ、糞スレ過ぎだろ

241 :
明治天皇が呼ぶも何も、あれは子孫が勝手に運動してただけだし
長州も毛利の官位を上げまくったりしてたが、
大内も勤皇だからと運動したら長州が拒否ってるように
完全に政治活動の結果。

242 :
むしろ子孫は全く運動してないんだよなあwwww
当時明治天皇に呼ばれた織田信敏が当主だった天童藩は戊辰戦争では勢力拙く
旧幕府方に参戦して新政府に降伏しているという事実
そしてその後織田信敏は領地を没収されて東京で謹慎させられている。

明治新政府に媚びを売るどころか喧嘩を売りまくっていたのに
明治天皇は信長を高く評価して建勲神社を建てるよう御下命した挙句
大正時代には秀吉と並んで正一位になっているのだから
いかに新政府がこの2人を評価していたかがわかるwww

その他大勢の従三位にしかなれなかった信玄とは全く違いますなあwww

243 :
毎回そうだけどアスペルガーだがの嘘のごり押しは何とかならんのか?
最初から偏った見解で間違いだらけだから議論にすらならない。

244 :
>>243
議論にならないのに、君らいつも何で構うのかよくわからない。
第三者からすると「またいつもの人達が、いつものつまらない問答始めたわ」って感じ。
無視して、他の人にレス付ければいいんじゃないの?

245 :
けっきょくこのスレで信玄公クサしてんのは信長ヲタなんだろうなw

246 :
>>244
基本的にはかまってないよ。
たまたま今回書いただけ。
わざと嘘のごり押しやっている奴に教えてやっても無駄だからね。

247 :
毎週出てくる第三者w

248 :
無視したらしたで発狂コピペ爆撃でスレ潰ししてくるからね

249 :
>>246
推測を元に歴史上の人物の誹謗中傷を繰り返すって、
歴史家の風上にも置けない奴の典型だよな。
全く相手にする価値無いし、ましてや同レベルでレス付けてる奴見ると、
掃き溜めで糞同士がじゃれあっているようにしか見えない。

250 :
まあアレです。
嘘のごり押しは勿論、人の話を全く聞かなかったり煽り文句でしか語れない人のレベルまで下げて議論するのはしんどいというのが本音。
アスペルガーだがが発狂してスレを荒らしているから今日はもういいやって感じですよ。

251 :
もういいやって気持ち理解できる。
凄い負けず嫌いだから、嘘が多いし、嘘がばれて不利になるとコピペしたり、
議論相手を煽ったり、wwwとか使ったりして毎回心理状態とかバレバレで、
見ててやたら恥ずかしいし、もうなんかいいやって感じ。

252 :
大内も勤皇だからと主張したことに対して、
それを滅ぼした側の毛利という都合の悪さから
大内の叙勲を反対したのが長州であって
大内が明治政府に敵対した藩だったなんて
バカな誤認をしててワロタwwwwww

天童なんて木っ端2万石陣屋なんて長州がいちいち相手するわけねーだろwwww
だいたい明治天皇は信長を高く評価して建勲神社を建てるよう御下命なんて
子孫の自己申告の自称だしwwwwwww
そもそも【別格】官幣社なんてwww同じような経緯をたどった山内神社なんて、
土佐藩歴代山内藩主全員が祭られていたりとまったく価値がないわな。

そもそも天童藩知事を免職になって全てを奪われたゆえ
集金システムとしてのカリスマ性を勤皇ワード捏造で
織田家内での合意もなく天童織田が勝手にやって、
自分トコが織田正統だと主張したかっただけだからな。
そんなことで天童市とも仲が悪くなったし、
織田宗家何代目とかいう合意もまったくなしで仲たがい。

相馬からの援助欲しさに相馬からの養子織田小星って漫画家を受け入れた屈折した想いが織田天童子孫にそうさせたんだろうなぁ。
子孫はついに信の通字まで捨てたんだってなぁ。よほど大虐殺者信長が嫌いなんだろ。

253 :
つか、天皇が招いて建勲神社を建てるようにって
ソースを出せって言われてずっと逃亡続けてるのに
また蒸し返して自爆してんのかワロスw

254 :
別格官弊社が権威ないとか流石に無茶苦茶すぎてわろたw

歴史上の人物で別格官弊社が建てられているのは藤原鎌足、上杉謙信、徳川家康、豊臣秀吉、楠木正成など
いずれもそうそうたる人物ばかりで、しかも別格官弊社の中には総理大臣が拝謁することで有名な靖国神社まである。
靖国神社が権威ないとか靖国神社にションベンひっかけてアピールする韓国人と発想が同じだなwww
本格的に在日認定されるから気をつけたほうがいいぞw


挙句「子孫は信の通字を捨てた」とかwww江戸時代の織田家の通字は「信」と「長」で、嫡系以外は皆「長」が通字なんだがw
だから織田家の子孫は「織田長○」の方が圧倒的に多いし、実際に現在まで続いている織田長功さんは織田長○なんだがww
どうせソース根拠を提示しないおまえのことだから、大方週刊誌の情報に載せられたんだろうけど、
織田家の子孫で「織田信○」と名乗らない人は普通にいるし、一応言っておくと織田信弘さんは「信」の通字そのまま継いでるからなwww


>>天皇が招いて建勲神社を建てるようにってソースを出せって


流石基礎知識の欠如が激しい菅沼遼太くん
あのね神社って勝手に建ててはいけないんだよ
県民のゴリ押しで建てた武田神社だって、一応国の許可取ってるわけね
(まあゴリ押しで建てたから格式が「別格官弊社」ではなく「県社」なんだけどw)

だから子孫が勝手に建てろって言ったり、実際に勝手に建てようとしても、国が認めなければ建てられるわけがないし、
仮に建てられたとしても、別格官弊社なんて格式を貰えるわけないのねw

実際、武田神社は別格官弊社に認定されていないし、対に語られる上杉謙信は別格官弊社なのにって押し上げる声もあったくらいだ。
まあ当の武田神社の人間がこうだから、格式の高さなんて答え出てるんだけどねw

255 :
暇だし菅沼遼太に追い打ちもかけておくか

>>252

http://news.livedoor.com/article/detail/9473172/

織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず



おまえが煽りネタに使ったのは十中八九この記事だろ?www
なんせ俺もこれ見た時「絶対これで煽ってくるな」って思ったくらいだものw


まあでも残念だけどさ、この人柏原系なんだよね。
織田信長の直系血脈を現代まで延々と伝えている天童系と違って、
柏原系は早々に血脈が断絶して、細川や黒田から藩存続のために養子をもらっていた、まあ「断絶子孫」なわけで、
この人も例に漏れず、織田の子孫じゃないんだよね。山崎家の出身で、もちろん信長の血は一滴も継いでいない。

そういう武家社会特有の建前で、嫡系でも直系でもないのに通字を使ってきた人が、
子供に通字を名乗らせないというのは時節的にも適した発想だし、
血縁的には織田と何の関係もないのだから「まあそらそうだろうな」という反応が返ってきたと記事にあるくらいだしな。


ところで菅沼君、武田家って直系いたっけ?www
そういえば本庄に家を乗っ取られた米沢系の武田家の人間の名前、「信」の通字入ってないよね?
「信」の通字入ってるの、武田となんの関係もない人間だったよね?w
本当に先祖のこと敬ってるのかなあ?www「信玄公」「勝頼」なんて差別してるけどw

256 :
www抜きで会話できないのか。

257 :
所詮田舎の中堅領主

258 :
盛信の子の仁科信基家系で盛信長男の信基と次男の信貞が残り、
徳川旗本として仁科信基の系統に3100石を与えられ、
後に1000石加増されて4100石となる。 
江戸時代を乗り切り、両系統とも現存している。 
仁科盛信(武田晴清) - 信基 - 盛忠 - 信照 - 盛晴 - 盛朝 - 忠盛 - 高信 -
盛次 - 信真 - 定盛 - 盛照 - 信国 - 盛輔 - 盛定
仁科氏 北澤 繁樹 東京図書(2010/10/5)

259 :
4100石もの大身旗本にも関わらず幕府の公式文書である寛永諸家系図伝にも寛政重修諸家譜にも仁科信基の名は存在しないという事実。
ちなみに実際に旗本になった弟の仁科信久はしっかりと寛政譜に記録されているという有様
本当にそんな人物が実在したんですかねえ・・・・
本家武田が500、今川が1000、高家織田が2000の時代に4100石ねえw

ちなみにその家系図だと、仁科盛定が一族最後の末裔のようだが、
信基の子孫家系図が仮に全て正しかったとしても、その仁科盛定という人物は大正時代の人間で
「現存している」ということにはならんのだがねぇ・・・・

260 :
お前より著者の方が信用できるだろw

261 :
つか大正時代の人間とどこに書いてあったの?

262 :
>>260
俺が出しているのは独自研究ではなく史料のトレースなわけだがw
史料に名前がない以上存在しないと考えるのが当然だろ
ましてやショボちい存在じゃなくて4100石の旗本だろ?
その辺の田舎武士レベルなら存在を抹消されていただけとかなんとでも言えるが
4100石みたいな大名一歩手前レベルの旗本が史料から消えるなんてありうるのかねえw
それよりずっと少ない実弟の信久はちゃんと記載されているのに不思議だなあ・・・

>>261
代の数を数えることすらできんの?


つうか北澤繁樹とか歴史学者ですらないんだが頭大丈夫か?
井沢や井上靖の小説をソースにするようなもんだろ
頼むから「歴史学者」の中で、仁科の直系子孫、および仁科信基を実在人物だと明言した人物をあげてくれよ
偽子孫の武田アンリや織田信成とかわんねーじゃんw

263 :
北澤繁樹は仁科の地で生まれ育った
フィールドワーカーな地元人だから郷土歴史研究家だぞ。

264 :
自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html

☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆

265 :
>>263
おいおい仁科の地の人間は皆歴史研究家かよ・・・・
純正日本人なら皆日本史の研究家か?

266 :
日本人がみんな日本史を研究し出版しているわけでもないのに
バカ低脳が>>265みたいな比喩をしてくるから超ワロタwww
頭悪いにもほどがあるだろwww
郷土研究やフィールドワークの意味すら理解できてないから
そーいうおかしな論法をおかしいとは認識できないんだろうなぁ。

267 :
>弱小豪族をすべて倒したあたり

何かのアンチが語る持論って、必ずこういう決めつけと結論ありきの前提から入るんだよね
何を根拠に信濃勢が弱いと言ってんのか
まさか上杉だの北条だのと比べてるのか。国や豪族がいくつあったと思ってんのか

268 :
>>266
で、結局北澤繁樹が歴史学者で
仁科信基が実在の人物で
信玄の直系が現存しているという
確たるソースはまだなの?www

269 :
で、結局のところ
天皇が招いて建勲神社を建てるようにって
ソースまったくないのを
うまく誤魔化したつもりなのかよwww

>>268
子孫は明治時代に兵庫県に移住し、血を受け継いでいる。
参考文献 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)

270 :
どんどん脱線して議論じゃなくて罵りあいばかりしてる奴らって何なの?

271 :
>>269
社格制度も知らない菅沼遼太くん
建勲神社は何社か調べてくるといいよ−
その社はどうやって成り立つのかもw


>>子孫は明治時代に兵庫県に移住し、血を受け継いでいる。
>>参考文献 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)

これWikiの丸写しだよね?w
本当に書いてあるなら何ページかわかるよね?

272 :
>>270
もともと「武田信玄の直系子孫は現存している」と、とある人が根拠なく言い出し
その証拠が明確に示していないにもかかわらずスレ違いのことばかり話続ける人間がいるからでしょ。

スレタイを見ればわかるけど、ここは信玄の評価を是正するスレ
信長がどうとか全く関係ない。信長スレは他にあるしな。

273 :
武田信貞と武田信基は仁科から油川経由で逃げた時に
武田を乗っ取った叔父の武田信実と信俊親子に見つからないように家系図を改竄したからね。
一条信龍や葛山信貞に繋がる家系図に修正しとる。
のちに孫を武田信貞として自称させてるのが河窪武田氏の後ろめたさの表れで、
穴山武田氏を滅ぼしたのも河窪武田氏と言われる。

274 :
間違えた一条信龍の次男の一条信貞ね。

275 :
いやいやあれはどちらかと言えば一条信龍と武田信友がごっちゃになっているのが
すでに信基の系統の解釈を難しくしているから
信長公記の斬首記事がでっち上げゆえのでたらめなのが悪い。

276 :
ちなみに別に自演じゃないからね。

277 :
で、結局参考文献とやらの何ページに書いてあるかは出せないままなの?w

278 :
川窪信実の家系と偽って、仁科信基が徳川に仕えていて
家康もそれを知っていたけど自分の息子を入れた穴山武田信吉を尊重してた。
それに信玄次男海野信芳の子を伊豆武田として信道を立てていたが
大久保事件で改易されのちに500石高家旗本にしてるなど
なまじ幕府成立に陪臣として徳川直臣に貢献して
幕府中枢に絡んでいたため武田家は毀誉褒貶してる。
結局、穴山武田信吉系と伊豆武田系が幕府内紛や徳川忠長家臣団系統になったりと
武田両統が失脚してしまい、
川窪信貞が1664年寛文4年12/29に幕府に仁科の家系であることを認められ
4代将軍徳川家綱の時代になってカリスマ武田復活の潜在的トラウマも薄れ、
やっと仁科家系と公認される時勢がきた。
それで将軍の仰せで信玄流武田姓に復帰できた。

279 :
小説家になれそうだねw

280 :
>>254
無知で山口県人や中韓に利用されて踊らされてる低脳らしい発言だなw
順位からしてこれだぞw官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社
『別格』官弊社なんて山口県下関市の櫻山招魂場からスタートし
藩の財政崩壊での神社の荒廃に追い討ちをかけるように
神仏分離令と廃城令が元凶で藩が先祖を祀る場所が失われたことに始まり
それに明治時代の各地の旧藩国民の招魂ブームでやたら乱立して全国に作られた歴史の浅いもんだし。
明治天皇が発議した建武中興十五社だけが価値があるといっていい。
靖国神社にしたって明治2年に招魂社を東京にもってことで陸軍主導で作られた
戊辰の戦没者3,588柱という幕府側や東北列藩戦死者を除く官軍戦死者だけを慰霊する(もちろん国賊西郷隆盛なども排除)
長州の政治的意向で作られたものだし。だから山口県が選挙区の安倍晋三がこだわってるだけ。
それを近代日本が行った戦争での戦死者の招魂も兼ねるように歪な方向性が加わり
軍人軍属は護国の英霊だから祭神に祭り上げて軍国主義鼓舞などと性格が変化して、
戦後はそこに中韓の基地外が戦犯ガ!とかくだらん因縁つけてきてるから
それに反発するやすっぽいナショナリズムを刺激されて特別視してるだけ。
政治的なプロパガンダの場なんだよあそこは。国家神道とも本来関係なくのちに無理くり関連付けられてる。
だからその実態は大空襲などで死んだ銃後の無垢な国民を招魂することすら拒絶する狭い思考でしかない。
結局、戦傷病者戦没者遺族等援護法による国家賠償といえる障害年金や遺族年金や弔慰金という
公務員の公務による恩給法に連なる既得権益が絡んでるからであって
強欲で国家から金を毟り取る輩に利用されてるだけ。
そういう勢力は戦後強制抑留及び引揚死没者をも追悼する
千鳥ケ淵戦没者墓苑の存在を隠して言及しようとしない。
なぜなら靖国に葬られた者のみが特別に選ばれた国民に仰がれる神だとしたいからだ。
ここは完全な政教分離が為されているので神社ですらなく国民公園である。
どの宗教宗派であっても自由に儀式が行える配慮ゆえだ。
国幣社へは国庫からだが、官幣社へは皇室の金を出させる点で乞食が皇室を喰いものにしてるに過ぎんわ。
ほんと無知のエセ右翼の思考は悲しいまでに誘導され操られ利用されるだけなのがよくわかる。

281 :
アホすぎてわろたwwww
Wikiのコピペしかしないからそんなアホな発想がでるんだよwww


>> 官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社

あのな、一応言っておくけど
「別格官弊社」以外、国弊小社以上の社格は、
全て「古の神様」か「歴代の天皇」を祭神しているわけw
この辺でもうわかると思うが、別格官弊社ってのは、実在した一般人物を
無理やり神に並ばせるという、端から見たら異常なまでの好待遇を、しかも国家主導でやってるわけ。
これがどれだけ凄いことか、在のつく菅沼遼太はわからんのだろうなw


>>(もちろん国賊西郷隆盛なども排除)

主導しているのが明治新政府及び皇族なんだから当然なのだが
もともと国に対して尽くした人間を祀るためにやってるのであって。
評価が歪んでいるとでも言いたげだがその割には「建武中興十五社」なんて思いっきり身内の顕彰を認めるんだなw


ところでなんとか脱線させようとしているけど、仁科信基が実在しているとするソースはまだなの?
ページ数と該当記述も添えてちゃんと明示してねwあるんだよね?www

282 :
>>281
お前の願望妄想に基づく落書きはいらないから、
早く明治天皇が自ら信長を祀る神社を建てたいと言ったとするソース出せやwww

283 :
事実じゃねーかw
何を祀ってるのか知らずに社格の話を出したおまえがアホなだけだろ
実際俺の言ってることは何一つ間違っていないし
そもそも別格官弊社は天皇自らが許諾して作られてるものだって
おまえ自身散々建武中興十五社を取り上げて言ってんじゃねーかw
まさか建武中興十五社のほとんどが別格官弊社だって知らなかったとは言わないよな?w


ところで仁科信基のページまだ?w
はぐらかしてる時点でわからないのはわかってるけど
知ってたら堂々と出すもんなw

284 :
おまけに靖国神社が

>>軍人軍属は護国の英霊だから祭神に祭り上げて軍国主義鼓舞などと性格が変化して、
>>戦後はそこに中韓の基地外が戦犯ガ!とかくだらん因縁つけてきてるから
>>それに反発するやすっぽいナショナリズムを刺激されて特別視してるだけ。


と言い出すあたりがもう救いようのない発想で、
靖国の神格化が行われていたのは戦前の方が強かったという事実
当時は合祀する際に天皇の意思が必要だったから、靖国に祀られる人間は全て天皇の意思によるものとして大変名誉なことだった。
ところが戦後になると形式もかわり、昭和天皇も1975年に参拝をやめてから天皇家も参拝や関係を持つこともやめてしまい、
総理大臣もほとんどが参拝しなくなっていったという事実。



あ、投稿する余裕があるんだったら早く仁科信基の件頼むわ
ついでに仁科の直系子孫が現存しているという明確なソースもね

285 :
で、なんだかんだと屁理屈たれてるが
結局、信長を天皇がまつりたいと頼んだってのはソース皆無なんじゃんwww

286 :
ソースとっくに出てるじゃんwwww
おまえが認めたくないだけだろw

そもそも旧幕府方の織田が直接天皇にどうこうできるわけねーのに
毛利や山内といった新政府連中と同列に語るところがアホだわなw

287 :
そもそも明治天皇が何も関わっていないという前提そのものが無茶苦茶だわな
「建勲」という神号が文字通り「建国の勲功」という明らかに他と違う神号がついてるのに
これで国家が関わっていないとしたらそちらのほうが大惨事と言っていいレベル。
事実上杉や武田や山内は「上杉神社」「武田神社」「山内神社」と氏姓をそのまま神号に使っている。
仮に織田が子孫のゴリ押しで無理やり神社を作っていたら「織田神社」という名称だっただろうにw

288 :
弱小武田二十四将奇形軍団

289 :
ソース出せない以上は
天皇が信長を祀りたいって言ったってのは
天童藩主の子孫の自称で間違いないな。

290 :
自称だったら「建勲」の神号は貰えないって何度も言ってるんだけどなーwww
ところで仁科信基が実在していて、信玄の直系子孫が現存しているというソースはまだなの?
ページ数すら出せないなんて本当に書いてあるのかなーw

291 :
ちなみに突っ込むのも野暮だと思うけど実は建勲神社って3つあるんだよねー
1つは天童、1つは柏原、まあこの2つは子孫が江戸時代に建てたのがそのまま名残として
残ってるわけだけど、一番有名な船岡山は子孫全然関係ないんだよねーw

船岡山周辺は江戸時代の織田家子孫は一切領有していない。
そしてこの船岡山周辺の建勲神社のみが、別格官弊社に列しているんだから
もう答えは1つだよねーw

292 :
ついでに建てた当時の名前は「織田社」だねー

293 :
あ、仁科信基のソースも早く持ってこいよなwww

294 :
ソース皆無でまったく証拠なしwww織田チョン涙目www

295 :
菅沼遼太くん、ソースがないからって誤魔化しはよくないぞw
いくら信玄の直系子孫が本人と何の関係もないエセ子孫ばかりだからって
捏造子孫まで付け加えるのは感心できないなw

296 :
織田チョン『論破されてるが絶対にみとめないニダ❗️』

297 :
論破していると考えてるのは菅沼遼太本人だけじゃんwww
建勲神社が3つあり、かつ織田の子孫が建てた2つは「織田社」だった時点で
建勲という称号が誰が与えたものかと言うのは猿でもわかる

菅沼遼太は神社建てるのは家建てるのと同じ感覚なんだなw
靖国神社が権威ないとかのたまってたし、本当に日本人かどうかも怪しいwww

298 :
あ、そうそう仁科信基が実在する、信玄の子孫は現存するというソースはまだかな?
ページ数も明示しないでWikiの丸写ししている時点で大体わかるけどw

299 :
馬鹿でもわかる建勲神社の成り立ち


江戸時代頃 織田信長の直系子孫にあたる小幡家、柏原家がそれぞれ信長を祀る神社を「織田社」として建てる


明治時代  戊辰戦争で天童藩(織田家直系子孫)は旧幕府方として参戦。戦後は東京でそのまま蟄居する


1869年 既に2つも「織田社」があるのに、明治天皇が唐突に国家で織田信長を祀ろうと言い出し、天童藩の信長直系を呼び寄せてまで3つ目の「健織田社」を船岡山に建てようとする。


1870年 明治天皇が建てるように言った3つ目の「健織田社」が建勲神社として完成。その後先に立っていた2つの「織田社」も建勲神社とされる。



1875年 明治天皇が建てさせた3つ目の「健織田社(建勲神社)」が別格官弊社へ。残り2つの「織田社(建勲神社)」はそのままの扱い。





これを子孫のゴリ押しと言い出す菅沼遼太www

300 :
まあ信玄が長生きしたとしても、本能寺で信長が討たれても右往左往して動けず、
そのうち秀吉が光秀が討ち取ってから秀吉に擦り寄って、5大老筆頭に収まるだろう。
秀吉は不安に感じで、5大老に上杉謙信と家康も任じて信玄を牽制。残り二人は
毛利輝元と前田利家。
信玄と謙信+家康+毛利+前田連合で関ヶ原
ただ毛利と徳川は武田に付く可能性もあり流動的。

301 :
徳川は武田につくかな?
色々な面で武田を参考にし尊敬していたと思うけど、一番苛められたのも、地域的に邪魔なのも武田。
転封されていたり、状況によってはつくかもしれない。

302 :
徳川が武田につくなら三方ヶ原直後に降伏してそうな気もするが

303 :
>>300
信玄が生きてるなら本能寺前に織田が潰されてるよ
包囲網は信玄が糸引いてるんだから
徳川云々以前に上洛して一気に勢いついた武田が第二の織田になるというだけの話
ただしどちらにせよ信玄に甲斐武田直系の後継ぎがいない限り、死んだ後は家臣が分裂して武田は没落する

304 :
家臣が分裂したのは信長だろ。
信玄死後にはそんなことは起きてない

305 :
信玄が生きていても織田を潰せるとは思えんな
信玄が織田を強行に攻め滅ぼすとも思えないし
史実でも三方ヶ原以降徳川すら滅ぼせていない。
信玄が生きていたところで、天正元年の軍事行動をあれ以上続けられる保証もない。
織田からすれば信玄と戦うことはもちろんのこと、信玄との戦闘を避けて
他の勢力から潰していくという選択肢も取りうるわけで
結局長篠のような武田の圧倒的敗北がなくなるだけで織田武田の勢力間はさほど変わらん。

306 :
>>305
いやいや、信玄が信長包囲網や一揆を扇動して織田上杉を足止めしてる間に上洛するって話だよ
だから末期患者の信玄に徳川を滅ぼしてる暇なんてなかった
生きてる内に京都入って、後は家臣に任せようといいのが恐らく信玄の考え

ところが寿命のが早くて引き替えせざるを得なくなった
信玄が死んだら上洛を待ってた朝廷や幕府は消沈、本願寺も後ろ楯無くて和議、朝倉浅井も各個撃破された
これが信玄が健康体で生きてたら、武田でなく浅井朝倉と本願寺に織田はやられてる
そうなると毛利は戦線を上げるし、最悪はそこに上杉の追撃が加わるから、信玄死亡、謙信死亡、本願寺と和議の朗報3つで信長は助かったと言える
信玄末期の頃の信長は一番辛かった時期だと思うよ

307 :
凄まじく希望的観測だな。
この時点と上杉と毛利は織田に対して明確な敵対行動を取っていない。
もちろん不穏な動きそのものがないわけではないが、織田と全面衝突するのはかなり後。
そしてこの頃の浅井朝倉本願寺に織田を倒せるような力は既にない。
特に浅井はロクな戦力も兵力もないので、むしろ滅亡寸前と言ってすらいい。

そして何より一番の問題は、武田が軍事行動を開始してから既に半年近く経っていること。
仮に信玄の病が快癒したところで、それ以上の軍事行動ができる保証は全くない。
無論そのまま武田が引き上げてしまえば、結局史実通りの展開になるのは否めない。
実際、武田方は信玄が死んだという情報を秘匿し、信玄が病にかかったとして引き上げたため、
武田家の公式記録では信玄は1575年に死んだことになっている。


信玄、謙信、本願寺にしろ、それが無事であったからといって、織田が即滅亡するという考えは架空戦記に等しい世迷い事で
実際にそうなったかどうかはまた別の話。事実、信玄謙信の存命中に信長は滅ぼされちゃいない。
あとよくありがちだが、反信長連合の形成勢力は第一次から第三次まで全く別個の勢力、別個の規模であって
第一次から第三次まで全てごっちゃにするのは史実から大きく逸脱する

308 :
希望的観測なんて言い出したら全部そうだよ
史実からして憶測な物のさらにifを語るのに希望も糞もない
ただ一つ言えるのは信玄や謙信が死んで時期的にも戦力的にも一番命拾いした大名は信長
本能寺で信長死んで一番特したのが秀吉と家康、命拾いしたのが長曽我部と毛利
後はいくらでも妄想自由

309 :
信玄が死んだことで一番命拾いした大名は徳川だろう。
織田は信玄が生存していても滅ばなかった可能性が高いが
徳川は信玄が生存していれば高確率で滅んでいる。
謙信が死んだことで命拾いしたのも、織田よりは北条の方が度合いとしては強い
これは謙信が生きていれば、関東に手を付けていたとする史料研究を考慮した結果だが。
本能寺の件にしても、もともと秀吉や家康はしかるべき地位にいたのであり、
一番得をした、とはとても言えない。それは彼らが自らの実力でのし上がってきたことによるもの。
両方とも直後に危機に瀕している点を考慮すればはたして得と言えるかどうか。
早い話滅亡寸前まで突っ込んでおきながら五大老までのし上がった上杉の方がよほど本能寺で得をしている。

310 :
毛利は反織田丹波国人の求めに応じて但馬までやってきてるからな。
信玄死んだのを知り義昭が降伏すると近江や若狭の将軍奉公衆も降伏。
それを知り石山本願寺も和議に傾いたから近江一揆衆が浅井支援をやめた。
さっそく信長は毛利に但馬は俺の領地だから家臣派遣するって半ギレしてるし。
信玄死んでなかったら毛利が丹波から京へ侵攻してるのは間違いない。

311 :
義昭って挙兵当時信玄の死なんて知らなかったじゃん
毛利がやってきたところで所詮大内の二の舞
国情不安を利用に国元へ帰るのがオチだな

312 :
利用→理由

313 :
はっ?槇島城で戦わず義昭は降伏してんだろアホ無知織田在日。

314 :
ロクに兵力が集まらなかったから降伏しただけで
信玄が生きていても同じことなんだよなあ
そもそも信玄は公的には1575年に死去したことになっていて
その翌年になってようやく武田は信玄の葬式をあげているという事実
大体信玄が死んだことで戦略が破綻するなら他の勢力はこぞって反織田の方針を放棄するはずなのに
どの勢力もまるで信玄の死などなきがごときに戦い続けて滅ぼされているという事実

315 :
>>314
>信玄が死んだことで戦略が破綻するなら他の勢力はこぞって反織田の方針を放棄するはずなのに

バカでしょ?
あれだけ楯突いておいて不利になったら許してもらってなぁなぁなんて何度も出来るわけないじゃないか
だから決断力や先見性が必要なんだよ
上洛という一字で並みいる勢力動かしてる信玄はそれだけ畏怖されてたって事

316 :
ロクに兵力集まらないなら
そもそも籠城しようとしないからwww
徹底抗戦するつもりで籠城するんだからな。
ロクに兵力集まらず籠城やめて降伏する領主なんて
そんなアホの実例を一次史料でだしてみろよw

317 :
>>315
松永久秀「せやせや」

>>316
>ロクに兵力集まらず籠城やめて降伏する領主なんてそんなアホの実例を一次史料でだしてみろよw
他ならぬ足利義昭、1573年の槇島城籠城ですよ
具体的には兵力が集まる前に信長軍がやってきたのだが

318 :
>信玄死んだのを知り義昭が降伏すると
この順番は正しいのかな。当の義昭は追放されるまで信玄の死は知らなかったというのはよく言われるが
じゃあ毛利や畿内の勢力がその時点で信玄の死の確証得ていたのかね

319 :
浅井朝倉や三好松永、本願寺辺りの信玄に通じてる勢力は乱波で情報掴んでるでしょ
となればそこから毛利も知ってておかしくない
そもそも情報の入手に早くても数日かかるのは敵も同じだから
無論、嘘を流布するのも戦なんで互いにすぐは動けない
話それるが、そういう事で本願寺後の秀吉と家康の動きがあまりに早すぎるんで臭いと言われてる
まぁ武田と毛利ほど離れた距離ではないが

320 :
>>318
少なくとも書状の上で信玄の死を把握していた人物はいなかったはず。
しかも武田家は信玄の死を秘匿して、表向きは信玄を隠居とし、
勝頼が信玄の後見の元当主についたとしているので、信玄が死んだと
各勢力が考えていたかどうかはかなり怪しい物がある。

重要なのは「信玄が死んだ」ことではなく「武田軍が撤退した」ことであり、
この結果だけを見て信玄が死んだと考えたところでそれは根拠のない言わば憶測。


>>316
実際に義昭は籠城はじめたのに織田軍がやってきたら速攻降伏したのだがw
まさかこの原因が信玄の死のせいだとは言わないよな菅沼君?w
信玄が死んでから数ヶ月くらい経ってるんだが

>>319
いやそれ言い出したら秀吉や家康よりも早く動いた北条が一番臭くなるのだが
そもそも得をしたやつが裏で糸を引いていたなんてのは根拠の無い、安っぽい陰謀理論でしかなく、
そういうのが蔓延るなら今川義元の戦死は武田信玄のせいになるし、
斎藤義龍の早逝は織田信長が黒幕という無茶苦茶なことになる。

321 :
>>319
ちょっと貴方の日本語が解らないですね
本能寺に秀吉や家康が関わってたとする見方は陰謀論じゃなくて反乱や御家騒動の類いでしょ
イルミナティがどうとかの与太話とは別物

322 :
>信玄死んだのを知り義昭が降伏すると
この順番は菅沼理論でいくと実はどうでもいい。

この時の織田の勢力圏は山城・近江に孤立した拠点がいくつかと尾張・美濃の一部だけだからだ。
義昭は山城・湖西・若狭を支配。
六角は南近江と湖東の横山城以南を支配
ほかの畿内および丹波は反信長勢力しかいない
後に信長に合流する荒木や細川は根無し草になっているから勢力とは言えない。

こんな状態なのになぜか京まで来れてしまう織田軍。
そして圧倒的に優勢な状態で降伏する義昭。

323 :
結果だけ知ってる後世の人間の意見

324 :
信玄って最強だよね。

325 :
信濃の小兵に2回も負ける奴が最強?w

326 :
最終的には勝って信濃を手に入れたけど合戦が強いとは言いづらいよね

327 :
強い奴にはことごとく勝ってるんだけどな。
信濃は異常なのか?

328 :
牧島を攻める寸前になってやっと信長も信玄の死が確実なのを知ったじゃん。

329 :
信長が信玄死んだから東側はもう安心ってことで
槇島城に攻め寄せて槇島城の義昭に信玄死んだって
証拠を突きつけたんだろうね。
信長は城から出てきた義昭に
京に戻ってきて欲しいって
秀吉を通じて義昭に土下座してるが
拒否られちゃうし。

330 :
信玄は外交で勝つタイプの当時としては先進的な大名
それでも戦が最適解と判断したら上杉にも徳川にも北条にも戦術で勝ってる
上杉には損害大きくて引き分けに近いが、領土取ったのは武田だから形式的には武田の勝ちでしょ
間違いなく戦国屈指の戦巧者

331 :
なんと言おうと同盟国の今川を裏切ったのはどうかと思うけどな
行き当たりばったりで結局滅んだし

332 :
今川はまだ義元死んだ後の氏真がもて余してる無政府に近い時だから解らないではない。徳川も侵略してるし、むしろ他の大名が取らなきゃ盗賊等の空白地域になる
信玄が非道なのは今川に限らず、織田も諏訪も北条も友好関係にあった国には必ず先に反故にしてる
まぁ戦国時代に卑怯も糞もないし良く言えば先手打ってるんだが、信玄の暴君ぶりのツケが勝頼にいったのは否めない

333 :
上杉と今川が武田を挟撃しようとしてんだから、
そりゃ信玄だって同盟破棄して先手を打つわ。

334 :
信玄に限らず衰退した同盟相手を助けろってのはないわー
むしろ衰退したことこそが同盟に対する裏切りだろう

335 :
その結果が家臣の裏切りで自家滅亡じゃあ世話ねえわな

336 :
なんで信長の話がいきなりでてくるんだよw

337 :
滅ぶ時って大抵家臣が裏切るよね
織田斉藤朝倉大内今川武田北条・・・

338 :
そもそも織田は滅んでいないだろ
北条も後で再興されたし

339 :
>>337
朝倉とか財政破綻するまで同盟守って戦ったのに家臣が裏切りまくりだな

340 :
そりゃ家臣も見限るだろ。財政破綻するまで戦えば。
多くの場合、家臣の裏切りは信義でなく負担と利益の大小で決まる。
それが戦国乱世

341 :
今川切るのは問題ないと思うが、北条を敵に回したのはあからさまな失敗だわな。

342 :
北条氏康が外交音痴すぎた。
なぜ強力な同盟相手だった武田じゃなく仇敵の今川をとったのか
理屈がわからない。
ただの感情優先なのか?

343 :
>>337
戦国の武家社会は特殊で、主君と家臣に普遍的な序列が最初からない
互いに自分を家を残す為に利用しあってる間柄
だから人質という慣わしがあるわけで
日より見ばかりだから、強い大名は良くも悪くも広報戦略が大切になる
○○は敵に内通してるとか、××は戦に大勝したとか、△△はお家騒動でやばいとか、色んな流言を使って家臣分裂を狙うのが戦国の常套手段
これを得意としてる大名は全部強い。武田信玄や毛利元就がそう

344 :
>>342
武田は駿河取って早く西進したいわけです
対して北条は関東を治めるのが目的であり上洛の意思はない
つまり立場が違う

345 :
>>344
ならば武田との同盟を守って今川を見捨てれば済む話
ちなみに信玄は駿河侵攻に際して北条氏康にも協調を持ちかけていたが
氏康は今川方救援のために出兵し甲相同盟は解消され、
北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた

346 :
>>342
今川を助ける為じゃないよ
北条が勝っていれば駿河は完全に北条領になっていたよ

347 :
北条は関東を治めるのが目的てのは北条厨の妄言にすぎない
氏康は三国同盟以前は何度も駿河に攻め込んで撃退されているし
駿河の東半分を占領していた時期もあった

要するに北条も駿河に固執しており、この時なら駿河を取れると判断したのだろう
信玄にひっくり返されたが

348 :
氏康もアホだな
武田と一緒に駿河攻めてれば労せず河東くらいは手に入っただろうに

349 :
氏康は名門今川の全てが欲しかったんだろ
氏真の窮地につけこんで今川の家督を北条に譲る約定交わしてる

350 :
しかし、そんな小細工も信玄に駿河を占領され、
その後の再同盟で武田の駿河領有を認めて御破算

氏康が信玄を敵に回したのはあからさまな失敗だわなw

351 :
挙句の果てに謙信に泣きつく有り様。
氏康が賢ければ関東制覇なんて余裕だったんじゃないのか?

352 :
北条は三船山の大敗から氏康死亡までの迷走がなければ
秀吉が来るまでに関東制覇できたかもね

353 :
地理的にも無理かもしれないが、北条がすぐに島津や長曽我部と同盟していれば中央の秀吉を囲めたけど当時は大半の大名が戦疲れで和睦を願ってたっぽい

354 :
んなことはない。みんなが先祖代々の土地を取り返そうとして戦を起こしていた。

355 :
>>352
三船山の敗戦がなかったら里見は瀕死だろうし
北関東も佐竹義重みたいな盟主がいなかったら沼尻みたいに長引くこともなく
余裕で関東統一してたかもね

356 :
里見に負けた直後に武田との同盟を破棄したのか。
酷い迷走だな。

357 :
まあ武田に2方面に陣取られると邪魔だしな。
牽制、勢力誇示と決戦覚悟の意味が大だろう。

で、ここにも信玄の信用無しが反映されてるわけで。まあ隙見せたらすぐ取られる時代ではあるけど

358 :
里見、上杉に敗れている状況で「牽制、勢力誇示、決戦覚悟」って、
第二次世界大戦中の大本営発表みたいなお脳だな。

359 :
信用ない信玄
裏切り常習犯信玄
などと事あるごとに
捏造歪曲を繰り返し書き込むから
すぐ織田チョンって馬脚を現してんだよな。
織田チョンの我田引水思考の池沼意見なんて誰も必要としてない。

360 :
南朝鮮では日本の天下人は武田信玄で
高貴な天皇と韓国人の血を引いていて
信義に厚く仁徳の高い君主ということになってるらしいw

361 :
お前らサイコ―w

362 :
暴君信玄が義や徳に厚い君主だなんて微塵も思えないけど、真田昌幸に
「北畠が如何様に高く売り付けようと買い取れ。まもなく、武田水軍は伊勢水軍と合流するであろう。余が西上の折にはこの駿河の海が武田の旗で埋め尽くされる時である」
「ははっ」
これ最高にかっこいい

363 :
君主とかwww
一次史料皆無の誇張表現またぞろ白髪千丈の中国史脳丸出しでアホすぎwww

364 :
またぞろ白髪千丈?

365 :
菅沼遼太はアホだから皮肉と主張の違いもわからないw

366 :
>>362
信玄の魅力は義や徳じゃないもんなw

367 :
暴虐で信用ゼロなのは信長の方だから完全にブーメランw
織田厨涙目で信玄貶しw

368 :
暴虐で信用ゼロの信長の一族は丁重に遇されて存続
かたや仁徳に厚い信玄の一族は皆殺しにされた挙句豊徳政権に無視られるとwww

369 :
だから家臣にすら信用されずに殺されたバカ信長
犬死と蔑まれた足利義教と同じ末路。

370 :
一方信玄は諏訪勝頼に家を乗っ取られたとw
しかも好き放題された挙句誰も再興してくれないw

家康が天下取れたのは武田家臣のおかげ!なんて言ってる割に
旧主家を誰も再興しないとは薄情者ばかりだw
織田は何度も丁重に遇されてるのになw

371 :
織田が丁重に遇されたって頭大丈夫?
信孝も秀信も末路は悲惨じゃね?
もしかして織田信雄が丁重に遇されたって言いたいのかwww

372 :
菅沼遼太くんの末路は悲惨だが

373 :
織田信雄伝説が始まる!
伊勢で育った天才が織田家存続の為に放った奇策とは?
秀吉と家康が最も恐れた男、NOBU−O。鬼神が如く!

374 :
信孝 → 自爆しただけ
秀信 → 関ヶ原で西軍加担


織田信雄は丁重に遇されてる方じゃん
他にも織田信高や織田信貞も旗本入り


武田子孫で優遇されてる奴言ってみ?w
優遇されるどころか八丈島に追放されたよな?www

375 :
京都五山の僧に泣き土下座したから
五山の僧が家康を説得してくれたから
信雄は家康から領地もらえて乞食にならずに済んだだけじゃんw

376 :
史実の織田
史実の武田

どうあがいても織田より武田の方が落ちぶれている
史実を受け入れない限りアスペルガーだがに歴史を語る資格は無いな

377 :
末裔が武田に完全勝利したことって、ほとんど織田信雄様の努力の結果だよね?

なんでみんな織田信雄様をもっとリスペクトしないのか理解できない。
ていうか呼び捨てにするなよ。>374

378 :
織田信高2000石、織田信貞1000石 雑魚すぎwww

織田信雄様の足の裏でも嘗めてろって感じwww

379 :
>>375
泣きつく機会すら武田には与えてくれなかったじゃんw
50年も八丈島に追放されてた武田を擁護して言っても説得力ねーわw

380 :
武田信玄が過大評価されるようになったのは、次女が養女を家康の側室にして、穴山家を土台にして水戸藩を作ったことと、
保科正之をお江の魔の手から逃して会津藩を立てることができたんだしな。
とどめは綱吉が将軍になったことで、柳沢吉保を引き立てるための権威づけとして武田信玄を用いたんだよね。

381 :
「武田家」凄い優遇されてるな。織田家負けてるじゃん。

382 :
幕府は武田復活を恐れていたからね。
だから武田を崇拝し、家康は信玄に学んだと持ち上げた。
織田なんて幕府は全く無警戒だし。

383 :
武田復活を恐れている奴が自分の息子を養子にしてまで武田を名乗らせるのかw

384 :
>>382
えーと、馬鹿なの?

385 :
武田軍が浜松城の最後の補給路である二俣城を落としたのが元亀三年(1572年。ちなみに他の浜松に向かう城砦は残らず陥落済み)
三方原の戦いはこの直後なんで、事実上浜松城は孤立して織田の援軍待つ以外に戦う術が無かった
同じ年、美濃の重要前線基地である岩村城も武田軍別動隊によって陥落。これは信長の喉元に迫れる場所である
元亀二〜三年は、信長が小谷城を囲んでいる折りに朝倉に挟撃され戦線が膠着していた期間
そして二俣城陥落により浅井軍の士気が一気に上がり、近隣の土豪が揃って信長を攻める気配を見せる
三方原の戦いはこの時なんで、これで事実上信長は信玄の戦略に完璧と言っていいくらい負けてる

史実はこの直後に幸運にも信玄が病死した為に朝倉撤退、小谷城陥落と続き包囲網は瓦解するわけだが
上記の状況もまた史実なわけで

386 :
よーするに過大評価どころか、誇張でもなんでもなく間違いなく戦国時代最強の大名の1人なわけです

387 :
>>386
最も〜な人の一人っていうのは元々英語を無理に日本語に訳した言い回しであって
日本語的には間違った言葉だよ
最も強い大名の一人って、言葉的におかしいと疑問に思ったことないの?

388 :
ちなみに武田が過大評価かどうかはどうでもいい
少なくとも当時の信長は今の状態では絶対に勝てないと思ってたと思うわ。

389 :
三方ヶ原で2万の織田援軍が大敗。
岐阜1万しかない織田に対し、
義昭がついに蜂起。
さらに武田に東美濃でも大敗し
八方塞がりの織田が岐阜に引きこもりなり
浅井はついに琵琶湖西岸にまで出陣して
将軍奉公衆と連携を取れるまでになる。

390 :
武田厨って兵站の概念抜け落ちすぎだよな
領国から遠く離れた場所で半年近くいるのに戦略的に大勝利って

大勝利してんなら信長の首とれよって話なんだがw
信玄の挙兵が10月1日、信玄が退却途中に死んだのが4月
6ヶ月ももたついておいて完璧な戦略かw

391 :
>>389
岐阜1万じゃなくて足利攻撃の兵力が1万な菅沼遼太君w
まあ君の時空じゃ5万4千の兵が突如として消失するからアテにしてないけどなw

挙句の果てに武田厨はすぐ「信玄が死んだから負けた」って寝言いうけど
信玄の遺言のおかげで武田信玄が死んだ年は史料では1575年の扱い

足利も浅井も三好も朝倉も信玄が死んだから撤退したなんて事実は一切ない
それが証拠に信玄死後半年近く立っても織田に対し挙兵している。
信玄が死んで意気消沈しているならここでの挙兵はありえないわなw

結局信玄が死んだおかげなどと云うのは戦略的欠陥、敗北を認められない敗者の哀れな発想
そもそも信玄の容態が悪いなら最初から隠居して総大将を勝頼にしておけば何の問題もなかったわけで
これができなかった時点で信玄のミス。まあ義信に反逆された時点でそんなことできようはずもなかったんだろうなw

392 :
血統で言ったら佐竹の方が上だよね
義光の嫡男の系統の佐竹に対して、二男の血統だし

393 :
>>390
行軍における常識をもう少し調べたらいいよ
歴戦の大名が君が言う程度の問題で行き詰まると本気で思ってんなら、昔の人間を舐め過ぎにも程がある
だから織田厨は知識ないって言われてんだよ

394 :
史実を見たら武田の方が織田より没落したのは分かる
武田が織田より没落してないとごり押す奴は馬鹿としか言いようがないね

395 :
尾張まで侵攻できなかった信玄と甲斐まで侵攻できた信長

396 :
実際、信玄を妄信的に崇めている奴は知識も知恵も無い。

397 :
>>394
優遇自慢から没落比べにトーンダウンしたんだね。
そして悔しくて連投っと。

398 :
>>390
現地調達が基本の戦国時代に兵站の概念とか相当頭悪いよ。
クラウゼヴィッツやグスタフアドルフが何世紀の人間か調べてから出直して来たほうがいい。

ニワカ知識で武田厨を非難するとかかなり恰好悪い。

399 :
悔しくて連投の例
>>397-398

おまえってホント無知でバカだよなw

400 :
で、織田厨は話逸らすばかりで>>385という史実からはひたすら目を背けるだけ

401 :
完璧な戦略勝利にもかかわらず、信長を倒せなかった信玄

402 :
信玄の病死が惜しまれるな

403 :
現代でも病気だけはどうにもならないからなー
運が無かった。

404 :
病気だけはどうにもならないって言ってる奴はまず問題を履き違えている。


そもそも信玄は当時50歳を超えていて隠居を考えるのに十分な時期。
信長、元就、氏康、秀吉、また家康もしかりだが高齢になればなるほど
自らの死を考え事前に後継者を明言しておく。例えお飾りだろうが
実権は自分が持ってようがいざ自分が死んだ時に組織の頂点に君臨する人物は言っておくのが普通だわな


ところがこれを信玄は一切やってない。
武田家的に考えれば義信が廃嫡された時点で後継者候補なんて数えるほどしかいないのだから
勝頼にしろ、他の奴が継ぐにしろ後継者はこいつだと明言しておくべきだった。
信玄の嫡男だった義信は准三管領の扱いを受け、武田家後継者として明確に扱われていることから、
「信玄が考えていなかった」という理屈は一切通じない。


つまるところ信玄は、勝頼ないし他の子供たちによる、義信謀叛を二の舞を恐れており、
そのため勝頼含む他の子供に権力を与えることも、後継者として明言することもできなかった。
それが信玄が死んだだけで軍の組織が崩壊する欠陥構造を創りだしてしまった。


信玄が放置していた武田の欠陥が、たまたま西上作戦という最も重要な戦略上に出ただけ。
この時点で信玄が「完璧な作戦」を立てていなかったのがまるわかりだなw

405 :
>>398
あれ?菅沼遼太くんって「兵站の乏しい織田は3万以上動員できない」とか
なんとか抜かしてた気がするんだけど気のせいかなあ?www

当時の武田軍は倍の6万だよね?この6万の兵站全部現地調達で賄うんだへぇーwww

406 :
>>405
武田軍の兵糧は原則持参と現地調達
信玄はこの際に地元の恨みを買わない様に金で購入している
さらに物資専用の小荷駄隊が各部隊に配備されているが、小荷駄隊は狙われやすく隊の弱点になる
その為に街道を整備し、信濃、駿河から三河までは行軍に有利なように改装させて進軍した
信玄は金山の金をこういう点に多様し、また甲軍の強さは兵士だけじゃなくこれら事前行動にある
これは武田の合理的な戦略は三河物語や本多武功書、敵対する織田家の信長公記等にも散見される
さらに織田に至っては、援軍の佐久間と水野は武田兵の怒号を聞いただけで戦わず逃亡し、ヒスッた信長に粛清された
家康や信長はじめ諸大名がいかに信玄という年寄り一人を恐れたかがわかる

もう一度言うが天運が信長に味方しただけであり、勝頼を倒した信長が信玄より強いってのはナンセンスで無知もいいとこ

407 :
6行目で止めとけばいいのに。

408 :
菅沼文太君の「どっちがつおい論」こそナンセンスだと思うw

409 :
菅沼遼太最新発言

「戦国時代に補給はいらない!」

410 :
だがwiki管理人大喜びっぽいw

411 :
ゲームじゃ甲斐や信濃から畿内に補給できるもんな

412 :
織田厨涙目

413 :
兵站の概念が頭悪いと言っておいて>>406で「原則持参」と言っちゃうのかw
叩かれたくないから主張を変えてさも最初からそうであったかのように振る舞う菅沼遼太君・・・・

414 :
アスペルガーだがってまだ2chで武田を崇め織田を蔑むネガキャンやってるんだ。
HPを作成する知能が無いのはまあいいとして、twitterとかfacebookとかmixiとかやってないの?

5年以上2chでネガキャンやってるんだからそろそろおまえが主張する持論をまとめておけよ。

415 :
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。

元就が息子に家督を譲ったのは、 大内や正妻の父になった重臣内藤の意向だよ。
バカ元就がまた尼子側につかないように大内の人質としてホモ可愛がりした隆元に継がせた。
信長の場合は長篠で武田に花押が書けない身体にされたんだろ。

長篠で大勝したから岩村を3日で落とすと謙信に宣言した信長も
信忠が岩村で大苦戦して半年経っても落ちる気配なく困っただろうなw
家康がキレて清康を援軍に岩村に送り込むからって言われて
焦って織田の総司令官佐久間を援軍に送るからいらんって書状だしてるし
しかも全く落ちず、謙信からも過大戦果吹聴のウソ吐き野郎って見限られる信長www
ついに勝頼本人が岩村へ援軍に出発したと聞いて慌てて岩村と和睦www
和睦だまし討ちで岩村を手にいれてみたら
謙信が織田に宣戦布告で、いそいで勝頼に甲濃和睦を申し込む信長wwww

信忠が超絶バカだったからなー。 岩村城で苦戦して全く落とせない愚将ぶり。
仕方なく家康がうちの信康を派遣するからって言われて、
信長が信康に落とされたらやべえって織田軍総司令官佐久間信盛を派遣したのに
しかも信盛をうまく活用出来ずに落とせないw
結局、勝頼が自ら岩村城の援軍に出撃したのを知ると、
安全に撤退する為に和睦交渉を岩村城に申し出て、
人質交渉しにきた秋山を騙して奪うという天下に徳を失う愚人ぶり。
武田征伐でも川尻や滝川の後見無いとダメな無成長ぶり。
森や団らすらまともに統御出来ないバカぶりで、
森らは信忠の命令違反しても、武功をあげて信長に訴訟すりゃあいいやwって高を括り、
案の定、信忠の指揮が拙いから森や団は罰せられるどころか領地を貰い褒賞を受ける始末。
佐久間や滝川や川尻もガッカリした愚人信忠は本能寺の変で自爆する最上級のアホ
朝護孫子寺や諏訪大社や恵林寺らを焼き討ちした罰があたった愚か者破壊者ノブタダw

416 :
菅沼遼太がファビョってなぜかスレと関係のない信長のネガキャンwwww

417 :
信玄の最後の軍事行動って、

・京に上洛するつもりだった
・徳川領の制圧及び尾張・美濃への進出までが目的だった

のどっちなんですかね。

418 :
>>417
確たる資料(直筆の書状等)が無いから不明
学説では三方原の戦いは織田徳川に対する牽制と城築が目的だったという説の支持者が多い
信玄の容態考えたら京まで持たないのは予想出来そうなもんなんで、自分も上記説優位は妥当かなと
ついでに言うと、信玄の死に場所も資料に諸説あり余計に最後の軍事行動の本意が不明瞭
甲陽軍鑑、妙法寺記、高木仙元の書状でそれぞれ死んだとされる場所が違う
しかも全て3年以上経過してから書かれた物

419 :
補足すると、美濃までは既に進出に成功し岩村城が武田重臣の秋山信友に落とされてるからリーチ掛かってる
岩村城主は女で信長の親類だったんだが秋山に寝取られて信長は憤慨した
勝頼期に奪回すると秋山諸共切り殺したらしい
ちなみにさらに後年、岩村城は蘭丸に与えられた(金山城説あり)

420 :
zeqYoT8sさん

ご意見ありがとうございます。
私も上洛ではなく、あくまでも西方面への領国強化で主に徳川制圧が
目的だったのかなと思います。

それに、三河湾を抑えれば、尾張を経由しないで伊勢方面へ
進出できそうですよね。

421 :
>>420
>それに、三河湾を抑えれば、尾張を経由しないで伊勢方面へ進出できそうですよね。

実際それを考えてた節があって、信玄は三河進出前に北条や畠山傘下の水軍を引き抜いて水軍編成をしてる
元々武田の西上軍は三手に分かれて進軍し、その内の一つが岩村城落として、昌景と信玄の本隊が徳川織田連合を倒してるから信濃を手懐けた信玄の動員兵力は水軍も含めて相当だったと思われる
とはいえ資料に残ってる数字がまちまちでこれも確証はない(この時代の資料は殆どそうだけど)

422 :
信玄が西上作戦で最終目標と自分の体調をどう認識していたか分からんが、「信長との早期決戦」狙いでも
「徳川領国を併呑後に信長と対決」という構想だとしても、やったことは中途半端だね。

「織田と手切れしたのに(三方原後でも)家康すら抹殺できていない」という状況を残して死んだことが、
勝頼の命運も絶ったようなもの。

423 :
明智光秀家中軍法によれば百石六人が動員基準らしいからな
この理屈で当てはめれば武田は総計約6万、織田は総計約10万余の兵力を動員することは可能。
武田はここに北条が、織田は徳川の兵力が加わる。

武田は防備の兵も必要だけど上杉は釘付けで北条は味方
織田は各地の敵と戦ってるが防衛が主目的なので多少無理はきく。

とするなら、従来説より大規模な軍事展開だったと思うけどね

424 :
>>423
だから何度も言われてるがその机上の動員数がナンセンスなわけ
上でもレスされてる通り、織田は桶狭間からたった12年で畿内と美濃を制圧したから国内に造反予備軍を大量に抱えてる
特に鉄砲造らせてる堺の商人や京の将軍始め各豪族は信長と戦う旨を信玄に送っている
だから織田の動員数は実際その半分しかないんだよ
ここに信長の弱さがあるって事を知らず石高だけで強いと思い込んでるにわか人がなんと多いことか
攻め滅ぼしたら明日から「はい仲間です」なんて都合良くはならない。そこに内政手腕や外交力が試されるわけで、信玄は伊達に信濃に20年使ってるわけじゃないんです
織田推しの連中はここ理解出来てない人多すぎ
この戦力比で浅井朝倉、本願寺、伊勢一揆が総力戦仕掛けるから信長はヤバかったわけ
この期間、信長は上杉に泣きついてる書状も残ってる

425 :
織田の造反予備軍より浅井朝倉足利あたりの造反予備軍の方がよっぽどヤバイわけだが
なぜ武田厨は朝倉浅井足利のような第三勢力を、まるで自分の従属勢力のように扱うのか。
事実浅井朝倉足利、そして三好いずれの反信長第三勢力も、造反者が現れたことで滅んだ。
ちなみにこの造反者の存在は信玄の死亡関係ないからね。この時信玄の死を知っている旨が一次史料にないから。


つまり、武田が織田に勝つなら、反信長勢力における造反者、信長への共闘者が出る前に
信長の造反予備軍を煽って、明確に信長を裏切らせて、決戦をしかけて織田軍を破るしかなかった。
武田がいくら気を吐いたところで、朝倉浅井などの第三勢力と連携を取らなきゃいけない以上、これができなかった時点で武田の負けだよ。

426 :
一次資料と言うなら信長は常々信玄を畏怖していたのはフロイスの記述にあるし、信長が最大の危機を迎えた折りに信玄に対して具体的な策を何一つ示した痕跡ないのも紛う事無き一次資料だろ
それで信玄病没した後の勝頼持ち出して「織田の勝ち」()とか織田厨はそんなんばっか
侍大将である佐久間も水野も真っ先に逃げて、平手は討ち死してる織田軍が造反勢力抱えてどうやっても信玄に対抗策なかったのは資料がありありと示してるんですが

427 :
信玄西上でたった1万しか動員出来なかった織田w
長篠の戦いで家康5000と合わせて3万しか動員出来なかった織田。
越前一向一揆討伐で北陸の織田方国人を合流させて限界3万動員するも維持できる兵糧が無いので越前で大量虐殺して物資略奪大会w
隣国信濃出兵で食料が足りるように人数調整した織田。
しかも武田滅亡を確認したら速攻で軍を解いて急いで帰ろうとするも諏訪で大量に栄養失調で兵が寒気に耐える熱量が体に無く死にまくる織田www
現地調達なのだから、その駐留地から離れたら途端に兵糧不足になるのが織田。
それを解消するには、国主なしになった越前で補給を兼ねてやった
越前府内は見渡す限り生きている者は見当たらないと信長が喜んだ超大虐殺による世紀の大略奪大会。
謙信には兵糧がなくて勝頼の追撃ができない理由を兵糧が尽きたからと言っていたが、
その解決策が釜茹、磔などで越前を無人にしての食料財産没収。
秀吉のような規格外の圧倒的な戦力を一戦線に集中する位攻め戦略が最後まで使えなかった信長www
よって信長が大敗した紀伊一揆共和国を、位攻めでわずか一ヶ月かからず秀吉は制圧し、
そのまま四国まで一気に制圧。
秀吉自身が紀伊にも四国にも行く必要がまるでない楽勝ぶりだったから、
手持ち無沙汰な秀吉自身は越中へ向かう余裕っぷり。
信長があんだけ苦労したのは兵站概念欠如し位攻めが使えなかったからに他ならない。
だから信長は天下など統一出来ない。
そもそも国力を正当に活かせられない張り子の虎が織田。
兵站概念がない織田は総力を集めた決戦用で一戦線に集中できる兵力上限3万が限界。
織田は一国亡国平均政策のもとに、
軍を各地に駐屯させて恐喝略奪放火虐殺をして兵を養うため、
各地に駐屯するしか維持することが出来ない。
南北朝や源平での数十万動員なんてのは軍記話であって一次史料では存在しない誇張表現にすぎない。
略奪軍は一次的に兵力増大は可能だがすぐに枯渇し長続きしないため現実的じゃない。
だから知将名将はそういうダメ戦略を用いない。
日本と大陸では比較対象にならない。
中国のような兵糧を集積した施設や、
富が集中した長期籠城に対応した城郭都市からの補給が可能な地域では長く兵力を維持し養うことが可能。
しかし、日本には城郭都市は無いし、兵糧集積地も無いし、
通商キャラバン商隊との合流や、
遊牧民族のような燃やし奪い移動する廃都遺棄前提の略奪移動型のような馬による大移動型軍隊ではない。
まあ信長のやっていたことは遊牧民族のような行為であったのは事実だが、
それを逃げることが出来ない土地に依存していた農民相手にやったら喰えなくなった領民に支えられる領主も含めて、
一揆謀反だらけになるだけで、
まともな統治は行えないから撫で切り根絶政策に陥り、次から次へと敵が増えるだけ。
結局、信長は石山本願寺を支えていた、
高野山、粉河、根来、雑賀などの4大宗教団体で組織構成された
フロイス曰く紀伊共和国に敗北し謀反死した。
しかし兵站概念を持つ秀吉は規格外の大兵力を投入した位攻め戦略で彼らを速攻で降伏に追い込み、
彼らに船を出させて四国すら瞬く間に制圧してみせた。
家康は彼ら同盟者を見捨てて震えあがりビビっていた。

428 :
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

実は信長とは違って家康は石山本願寺とは敵対していない事実。
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。

429 :
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて
1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、
それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
織田厨の話の誘導パターンは毎回下記のように家康攻略が目的と話を強制的に変更させる。
「どうしても野田城で苦戦してたから三河制圧なんて出来ないし
そこからさらに尾張へいくなんて無理w」
実際は鴨川氏「信玄が三河方面に出てきたのは
信長を誘い出して殲滅するため。
その一方で別働隊に岐阜を突かせるつもりだっただろう
もし出てこないなら別働隊と本隊が合流して岐阜を攻めただろう」
森田氏「信濃と美濃国境の神坂峠の雪解けは当時の暦だと
3月下旬からなので、信玄は雪解け待ちをしていた。」
朝倉などへの手紙でも信長を敵として戦っているとか
来春に美濃攻撃すると信玄が書いている上に、
3/6付けで信長が東美濃にやってきたので三河や遠江は別人に任せて
秋山隊は信長を追い払えと先陣を命じている。
その後の情勢を見ると明らかに信長が東美濃で大敗しているとしか思えないw


まぁ、信玄西上の頃の織田の石高なんて
美濃ですら信玄に内応してるし、伊勢一向衆が岐阜の近くに砦を構築してるし
かなり削りとられているし
近江だって街道の維持すら不可能で、柴田らが琵琶湖を渡海して大津へ移動してるし
蒲生まで朝倉に内応してるし
石高ですらも武田以下だろう。
バカな織田厨は最低でも300万石以上とか言ってて池沼ぶりを発揮してるがw
信玄死んでないなら、吉川軍が丹波へ突入して丹波の赤鬼の赤井と合流しちゃうし
三好軍は京の西端の桂川以西に駐留しちゃってるし
六角義堯の書状から四国から大規模な三好軍の上陸が開始される寸前だろうし
完全に織田が終わってるのは明らか。

430 :
天皇家は武田を信任してるからね。
後奈良天皇も天文22年8/20に宸筆の般若心経で
天下泰平を諏訪大社で祈願して晴信の戦勝祈願もしてるし。

悪党家康信長を討つ大義名分を高らかに謳ってるよね。
特に朝倉や比叡山との勅命和睦無視して
比叡山焼き討ちし、権門や寺社らを侮り
税を好き放題にかけたり、略奪したりと京内外でやりたい放題に怒り
正義と秩序を取り戻す宣言をする信玄。
これ義昭の取次ぎ宛なのに、天皇が手に入れて自ら筆写してんだよね。
天皇が自ら行動するのは、ほかには古今和歌集絡みで細川幽斎助命に動いた後陽成天皇くらいか。

かなり大雑把な要約だね。原文はすげー長文。
特に>>朝倉や比叡山との勅命和睦無視のところで
信玄は5つの大罪を挙げて信長を非難してる。

信玄が信長を討った後の政治についてははっきりと述べてるだろ。

元亀4年1/11信玄→義昭側近上野秀政宛て

家康押妨神社仏閣諸仏物(三河一向宗弾圧のこと)
害民事利欲心、恣振逆威条、前代未聞之次第也
然而信玄起一挙之義兵、靡大軍令発向処
と信玄は民を救うことを誓って大義の軍を出してるじゃん。

さらに所詮誅伐信長・家康以下逆党、静謐天下旨趣になると宣言し
抑信長企逆乱、山上山下消亡(延暦寺)、諸仏物落取、已厳私用、
極栄花諸人閉口、頻申眉仕立、偏仏法王法破滅、天魔破旬変化也、
合昇殿登高官、奉軽尊体之咎、無所遁其罪、
一、不弁己叵(己の立場を弁えることができない)、夫向月卿雲客、
猥令放言、侮権門、無礼之咎、不浅其罪
ニ、洛中洛外徘徊、相懸徳分之課役、押領砂金財宝咎
三、累年之錯乱以来、或成敵或成味方族有之、然而一度令赦免、
彼高槻今中城(高槻市今城町?)高宮以下士、忽行死罪、併同籠鳥何以為実、
何以為頼哉、誰不悪之其罪、
四、去永禄十三年、至東坂本、義景与信長互連魚麟・鶴翼之陣、決雌雄之刻、
掛忝蒙 勅命、同被成
御下知之上、捧数通之起請文令和睦、自他下国訖、然而翌年元亀二年九月、
令上洛、坊舎仏閣成廃燼、非背 勅載(裁?)耳、御下知云、天罰也、旁以悪逆無道之其罪
五、此五逆者、千古未聞、況於末代哉、若彼逆徒等、被宥置者、讒巨乱国、
窮鼠却而噛猫、還而滅怨敵、欲傾国有企、此条隠(雖?)未入上聞、諸国普所知也、
行及猶予、可起可成大乱元歟、早信長・家康以下之凶徒等、可致誅戮之旨
などと信長の罪を5つ挙げて糾弾し、
百民開愁眉処安寧、苟信玄以不背(肖?)之身、尽正儀、運策於帷幄之内、
静四海逆浪、台嶺之伽藍・七社霊鑑遂建立、并顕蜜(密?)兼学成霊地、
現世安民之政、燿日月余光、可致天下静謐之功、宜被達上聞、誠惶誠恐謹言
と信長を討った後の政策を掲げている。
天皇がこの文章を読んで感激のあまり筆記して保存していたため
写しが真言宗醍醐寺理性院文書として残っていた。
信長のように、自分に従わない者はすべて敵として禽獣のように
アチコチで戦争と貧困を輸出するキチガイと違って、信玄は和を以って貴しと成すを掲げ
政治的解決で民を救い天下を安定させると述べている。

431 :
鴨川氏が家康に一撃を加えた後に東美濃の別働隊と
信玄が合流して岐阜を攻めて信長を滅ぼせたかも知れないと主張しているが、
森田善明も新著で鴨川氏の意見に賛同して
信玄が朝倉や浅井に5月を目標スケジュールに据えていたのは
飯田から東山道を使って東美濃へ進出する際に通過する
神坂峠の雪解けを考慮していたからだと主張してるな。
信玄は野田城攻略完了して信濃へ進軍した時は
まだ花押も書けるほど元気で、その後に急に病状悪化し急死したと。
(信玄は面倒な時は朱印で誤魔化していた)
そして信玄が死去した時期がちょうど雪解けして進軍可能な時期になっていたと。
(永禄の暦だと雪解け3月下旬から4月上旬)
だから信玄は「信長滅亡の時がきた」と自信を漲らせていたと主張してる。

天正4年の信玄葬儀記録である天正玄公仏事法語によれば
天正元年2/10に野田城を攻略して北上した信玄だったが
4/10に信玄が突然、軍営中に俄然斃れたりと書いていて4/12に死んだと書いてあり
その死は急だったようだ。雪解けするまで待った上でやっと東美濃へ侵攻する寸前に死去だから無念だったろう。
武田は宗教改革もやってんだよな。富士山本宮浅間大社の宮司の富士氏は富士兵部少輔や蔵人と呼ばれ大宮城主で
有力な武将だったはずが兵神分離政策によって武力のない神職である大宮司になっていってる。

432 :
比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。

父が准三宮関白二条晴良だった義演(足利義昭の猶子)がいた醍醐寺に天皇の写が残される。
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛について
遠藤が執筆した論文によれば差出人の下に花押までしっかり書かれている書状なので、
一度、正規に発給されたが、その後に見直し 法性院の後に僧正が挿入されたり、重ね書きがあるので、
複数の訂正箇所が見つかり改めて発給された方が使者の四辻大納言李遠に渡され
こちらの書状は控えとして保管になったと書いている。
そしてこの書状の存在を反信長勢力による信玄上洛戦を促す目的のものと断じている。

433 :
細川藤孝の従兄弟で吉田神社当主の吉田兼見 誠仁親王の妃と姉妹の勧修寺晴豊 太政大臣の近衛前久はグル
2/14の浅間山噴火で甲斐崩壊を知ったのか、武田滅亡阻止のために信長暗殺を策謀。
2/25 竹内殿(信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕で信玄を官軍に、信長を朝敵にした人)
による天神講(3/2夜執行?)に勧修寺晴豊が出席(延暦寺の大ボスと勧修寺の秘密会談。信長への叛意相談か)
誠仁の妻の兄である勧修寺晴豊は祖父の尹豊・子の光豊とともに
元亀3年末に信玄を官軍に、信長を朝敵にする活動をした
比叡山延暦寺の大ボス166世天台座主の准三宮曼殊院覚恕と
信長が武田征伐に集中してるドサクサに密談しているのであったw

信玄を尊敬していたからね快川。信玄の供養もやってる。
京で晒し頸にされた勝頼親子の頸を弔ったのも快川の師弟であった南化だしな。
土岐氏一門最大の天才として光秀と双璧を成していたとも言われ
本能寺の変を経た快川一周忌に南化が「過去の大通智勝仏(快川) 分身は今日扶桑(日本)に現れた」
などと書いていて快川がひそかに生きているとも取れる文章を書いている。
本能寺の変には朝廷と快川と光秀の共謀があった可能性が強い。

天正9年9/6に天皇が快川に国師号を下賜した時、 綸旨に「快川和尚は天下にその名が知れ渡っていて
朕は遥かに和尚の道風を聞き及んで感動しているので特別に大通智勝国師の号を授ける」と書かれ、
恵林寺の公式には快川と関係が深い武田氏が信長と敵対していたのに
この時期にこのような行為をする天皇の強い信長への反骨精神を感じたと評しているし
天正9年2/28に皇居で馬ぞろいを信長が行った時に、宣教師ヴァリニァーノに対して
信長が「予が国王であり内裏であり天皇に価値はないので会う必要はない」
などと答えているのを知った天皇の武田氏への救援の意味がこめられているとも言う。

また天正6年冬に大垣にいた南化が安土を訪問して信長から話を聞かされており、
南化が7年8/23付けで出した書状に甲濃和睦の文字が登場し
信長→稲葉一鉄→南化→快川→勝頼への窓口があったようで
天正9年11月以前に織田勝長返還という
甲江同盟の交渉への布石を信長が依頼していたとされ
信長は武田氏が織田領へ攻めてこないように愛撫活動をしていた。
しかし浅間山大噴火とともに信長による火事場泥棒が開始され、
この裏切り行為に激怒した快川が信長への抗議を込めて信忠に屈せず火の中に消えた。
美濃で強い影響力を持っていた快川は
尾張の半分を手に入れた斉藤義龍と対立し、義龍を突然死に追込み信長を助け、
信玄が信長のために東美濃を譲渡した際に尽力し
その挙句に手のひら返しされた信長を暗殺したのが快川和尚。
まさに火に囲まれ死せる快川、生きる信長を焼死させたのである。

434 :
織田の自滅を狙う信玄の過大評価

435 :
5/13に信玄からの起請文への返書を義昭は出しているなど義昭は信玄の死を知らない。
(勝頼が信玄の名で家督交代を報せており、信玄を御隠居様と書いている)
7/13付けで信長が毛利輝元へ宛て信玄死去確定を伝えている。

義昭は毛利から兵糧をもらい槇島城で籠城するも信玄死去確定で毛利・本願寺が支援を打ち切り義昭降伏

7月3日、義昭は信長との講和を破棄し宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害槇島城で挙兵。
7月18日に織田軍がやってくると義昭は戦わず降伏。山城近江若狭大和摂津の将軍奉公衆もこれに伴い降伏。


領国支配の深化の証明でもある家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないのが織田軍。支配実態を表す書状皆無。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。 軍の整備による質の向上も図られていない。
一次史料をみる限り織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。よって国力の単純比較は成立しない。

公記で織田3万と記述されてるのは下記の2回だけ。
長篠の戦いで織田徳川双方を合わせた連合軍が3万と
長篠の戦い後に一向衆に奪われた越前に織田が攻め入った時の記述において、
かき集めた牢人衆や朝倉旧臣や浅井旧臣らも率いてた上でやっと3万に達してる。


言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
そして柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と並び称された
坂井政尚と森可成が討死しただけでなく織田信治・蒲生定秀の弟の青地茂綱らが討ち取られる志賀の陣で
(青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態)
信長は屈服するなど次第に追い詰められていく織田の兵力が激減し朝倉浅井3万の前に
織田は1万まで減少して志賀の陣で土下座
(三河物語にも信長が朝倉に負け宣言をして天下は朝倉殿が取りたまえ。私は2度と天下を望まないと発言)

尾張伊勢長島一向一揆衆には朝倉滅亡前の段階で林道政以外にも
織田信興・氏家卜全・蜂須賀正勝の弟が殺され柴田勝家も負傷。
そんな状態で、ついに金も兵糧も鉄砲も足らず三条河原で軍列を整え
知恩院に陣した総兵力織田軍たった1万だけ(年代記抄節)しか動員できず
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)
朝倉軍は浅井の援軍として25000(朝倉始末記)もしくは2万(信長公記)を動員しているわけだ。

436 :
また織田厨のデタラメ大嘘がバレて涙目敗走か。
在日は相変わらず懲りないなw

437 :
菅沼君による各勢力の最後

足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。

朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
 若狭守護は知らないうちに消滅しており将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

六角
蒲生氏を除く横山城以南を制圧していたが知らないうちに消滅

北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。

長島一向一揆
第二次で現在の海津市一帯まで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。

三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れた。

武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたらな信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡

438 :
>>427-435
涙目キチガイコピペひさしぶりーー

今回は誰がだがさんを大泣きさせたの?

439 :
>>426
ホンマ武田厨前提条件抜けすぎて失笑


織田>>>>>>>>>武田が基本勢力図で

武田は六角+浅井+朝倉+足利+三好+本願寺+その他反信長勢力の連携があって
はじめて織田に対抗できるということを全くわかっていないww

だから「信長が信玄を恐れる」だの「武田は織田にとって脅威」だの言ってるのは
全て第三勢力(六角浅井朝倉ら)のお膳立てありきで成り立ってる結果w

そのお膳立てがなくなった長篠で武田が負けるのは当然の帰結だし
逆に言えば武田はこのお膳立てを維持したまま織田と決戦して勝利するのが唯一の近道
だから織田の造反予備軍がいようが織田優勢のままなら寝返るわけないし、実際遠藤あたりは寝返らないまま終わったしなw


それをはぐらかしてる時点で何を言っても説得力皆無なのよw
武田厨はすぐ武田が単独で織田と対抗できる勢力を持ってるとのたまいだす。
そんな状況なら数に勝る信玄は1月2月しないうちにあっさり信長の首とって上洛してるっつーのwww

440 :
織田厨って願望妄想しか書かないよな〜。
全く史料的根拠皆無。
だいたい信長は近江へ向かう予定だった
加賀北部一向宗軍団&越中一向宗軍団を謙信公が引きつけてくれたおかげで
破滅せずに済んだだけだろうが。
しかもそれでさえ洛中洛外を放火して恐喝虐殺して
天皇をビビらせて義昭との和睦を斡旋して
室町幕府を事実上終了させたおかげで
信長が破滅せずに済んだだけじゃん。
だからフロイス曰く味方だと思ってた信長の誤算で
丹波最大勢力の内藤氏が鉄砲隊を連れて
到底落とせそうにない二条城を開城できたんじゃん。
このような不利な情勢に追い詰められたのは三方ヶ原での
信玄の決定的勝利により大半の国人から見限られた織田が兵力欠如したから

1685年頃成立の『織田軍記』の三方ヶ原の戦いの織田3000の援軍記述は根拠が怪しく前橋酒井家旧蔵聞書によれば織田の援軍は2万。
家康が江戸時代に「神格化」されたため、ほぼ同兵力での合戦で家康が信玄に大敗したことを書くことは「隠ぺいされた」と磯田氏は指摘。
ソースは読売新聞2013年11月27日朝刊、29ページの磯田道史「古今をちこち−『家康大敗』の真相は」

441 :
勅命破りの大逆者にして大量虐殺者のキチガイ信長が自滅して朝廷も安堵しただろうね。

442 :
荒木栄司氏によれば慶長4年に家康は京都阿弥陀ヶ峰の豊国大明神社に諸大名が参詣するのを禁止し、
修理もせず立ち腐れにせよとと通達をしたのに
清正はこの年の11/29に豊国大明神社を肥後の立田山の勧進して阿蘇社復興を約束してる。
一見、家康に背いて豊臣へ忠節を示しているようにみえるも
清正はこの年に家康養女と結婚して家康と接近しており、
この武断派重鎮清正との婚姻同盟が家康の豊国神社立ち枯れ政策を進めさせた原動力にも思える。
農民出身の秀吉が光明皇后が730年に発願して作られた施薬院が400年間打ち捨てられていたのを嘆き悲しみ
施薬院復興を天皇に涙で直訴してみたら天皇も大喜びで許可し、
秀吉が推薦した比叡山延暦寺の僧であった全宗を早速に施薬院使に任命、
従五位下に叙され昇殿も許す破格の出世をさせた上で派遣し
貧しい人や病人や孤児へ自愛の施しをしたわけだが、
そのことを敬愛して豊国大明神社を慈悲の象徴と捉え肥後統治のアイテムとしていただけなのだろうか。
ちなみにバテレン追放令は全宗の筆によって書かれたものである。
しかし家康が信長を真似た破壊屋で、おまけに超がつく吝嗇家で
一度恨みに思ったら絶対に忘れず報復するため誰もが恐れて表面上は従っているが心では従ってない人徳ゼロの人物で
秀吉が創業の人で、敵であったものでも簡単に許すどころか領地までくれるかたじけない人
っていう世情の評価も納得できるものだねぇ。

信長のような鬱憤を晴らして快楽を求めるためだけの虐殺略奪の絶滅ホロコースト戦争という私戦ではなく
秀吉は天皇に政治を委任され惣無事令を発布し
官軍として従わないものに対して私戦ではなく公戦として戦ったので
毛利・長宗我部・島津・伊達を許した。
北条は上洛する約束を反故にするなどの表裏をしでかすほどに
悪質だったため調停失敗した無能家康に一番重い兵役賦課して先陣を命じた。

443 :
禁裏御蔵職の立入宗継が朝廷の使いをして
信長を応援する永禄5年から
いきなり美濃攻略がうまくいくようになり
結果、小牧山に移転するし
永禄7年には立入本人が清洲にやってきて
信長後援に力をいれ美濃攻略をバックアップしてる。
永禄10年には天皇の勅使として上洛へ向けた朝廷の応援と
六角氏の背後を牽制する立入城から調略し、
織田に勝った三好軍を退かせたりして大活躍してんだよな
栗田口に信長を迎えいれたのも立入。
朝廷が信秀の遺徳から信長を贔屓しまくってたから
美濃も近江も簡単に攻略でき、斎藤や六角の家臣団が崩壊してる。

南北朝が大覚寺統と持明院統という天皇家の争い大乱になったように
天皇にはがっつり権威が存在してるからね。
朝廷が貧困だったから戦国時代の天皇にはなんの力もなかったってのは大嘘。

永禄5年10月24日に京を出て清洲に行ったんだよね。
万里小路惟房は乗り気でなかったけど、
信秀の勤皇っぷりから織田ファンの天皇が夢告を得た!とか言って
献金や修理費要求のため上洛要請の聖旨綸旨を与えて強行した。
永禄7年9月28日にも立入が尾張へ天皇の叡慮の御内意を書いた綸旨を伝えにいった説もある。
永禄10年11月9日には観修寺晴豊奉じた案文を元にして天皇綸旨が
惟房の書状と共に立入の使いで岐阜に届けられ元服費用や献金要求の上洛要請がなされた。
天文12年2月の信秀の4000貫文献上にわざわざ言及する念の入れよう。
信長も聖旨のおかげで此の御威光を以ってすれば凶徒を退治致し追い付き罷り上がるのは簡単で
随分の御馳走を申し上げることができるでしょう。
永禄11年9/14には立入を陪臣とした万里小路を勅使に天皇が綸旨を以って
入洛之由既に達すとの内容で京都内での軍勢の無乱逆の下知と
京都の禁中御警護を信長に申し付けて京都の織田に警察権を与えている。
9月27日に信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入っているが9/14にすでに天皇は六角に敗北した織田軍が
京都へ入れるのを確実視していたのは、六角重臣群の後藤、長田、新藤・永原、池田、平井、九里ら
六角7人衆が必勝綸旨に応じて六角氏に反旗を示していたから。
11/4には早くも上洛成功後の元服費用2000疋の負担約束が無視されているため
言継から立入経由で信長に約束遵守の要求がなされており12/19に元服式が執り行われたが
信長は嫌味のように悪銭で支払って不興を買っている。
しかし御所修理は無視し続け、朝廷は約束実行の要求を続けた結果、
立入の苦労が数々の結果、元亀2年10月にやっと竣工できた。

御所修理費は京都鎮護と天皇護衛の役目を負う比叡山延暦寺を焼き討ち虐殺した時に
大略奪した財産を充てたんだよね。

信長が畿内へ進出できたのは天皇のおかげなんだよなぁ。
そりゃあ天皇が応援してくれたら誰でも成功するわな。

444 :
菅沼遼太ID変わってるぞw

445 :
アスペルガーだがの特技は自演IDによる大量爆撃
これは戦国板の名物の一つ

446 :
天皇の力で上洛イージーモードになり
朝敵になって兵力が1万しか集まらなくなったのか
なるほど

447 :
だがは困るとすぐ敗走するよね。

448 :
武田厨vs織田厨の戦いは、いつもアスペルガーだがが織田厨に痛烈に撃ち込まれて、
敗北宣言(コピペ連投)で終わるんだよなー。

449 :
毎回、織田チョンが執拗に蒸し返しては
繰り返し大ウソを吐き続けてきた為に
テンプレが完成してしまっただけじゃん笑

450 :
基地外の妄言爆撃はテンプレとはいえんわなw
テンプレなら住民に支持されるはずだろwww
自演IDでセコセコしなきゃいけない時点で終わってるぞ菅沼遼太w

451 :
つか、信玄も何気に可哀想やね、次男は盲目で出家したし、三男は早世したし、もし次男か三男がちゃんと跡を継げるようだったら、武田家の命運も変わったかもね

452 :
後継ぎの事で色々言われる武将多いけど、逆に自分の代だけじゃなく後世の繁栄まで徹底したから徳川幕府は250年続いた
信長とか信玄はその意味では強い大名だってだけなんだよね
本人の活躍は目覚ましいけど、後継ぎのありふれた落ちぶれ方は悲壮感すらある

453 :
>>449
敗軍の将は兵を語らず

だがちんはもう降伏宣言(白旗コピペ)したんだから、
もう言い訳とかしないで潔く黙ってたほうがいいと思う。

454 :
アスペルガーだがのごり押しはツッコミどころ満載だからいつも火達磨大炎上
最終的に連投爆撃やら自演自爆やら恫喝排撃で逃走を図る

まずは日本の歴史教科書を理解することですよ

455 :
織田チョン『絶対認められないニダ!』

456 :
>>452
織田は曲がりなりにも大名だが?
アスペルガー君なのか?

そもそも、幕府を開けたのは徳川だけで、織田はそこまでの権威は手中にしていない。
位人臣を極めて血筋が絶えたのなんて豊臣秀吉だけだろ

457 :
幕府を開けるのは清和源氏の血縁っていう暗黙の了解があって織田は平氏の末裔を自称してたから幕府を開かなかっただけでしょ

458 :
>>457
三職推任問題

459 :
>>457
じゃあ、なんで織田は源氏の名前を名乗らなかったの?徳川は捏造してまで源氏にしたじゃん。

460 :
松平は織田と比べ物にならんくらい血筋が曖昧だから、源氏詐称は却って楽だね。

461 :
信長が平家ヲタだったから

462 :
じゃあ、なんで武田は源氏の流れなのに天下を取れなかったの?野心剥き出しに必死で頑張ってたじゃん。

463 :
頭おかしいのかこいつ

464 :
だが級の大型新人だなw

465 :
彼も菅沼遼太史観の被害者でしょ。
実際あいつの話をまともに聞いてたら
「なぜこれで武田は天下取れないんだ!?」って思うわな

466 :
は?馬鹿か?

467 :
まあ落ち着け
馬鹿はだが一人だけ
この事実だけは変わらない

468 :
>>459
自分が室町幕府滅ぼした張本人だから、源氏を名乗らなかったんじゃね?
平氏は源氏に滅ぼされ、その源氏を滅ぼしたから平氏を名乗ったとか。

469 :
>>422
三河・遠江の制圧が目的であれば家康を討ち取ることが最重要、
西上が目的であれば、早々に北上し美濃へ転戦するべき。

結局、どちらとも断言できない行動をしている。

470 :
信玄の本音は信長と殺り合ったら瞬殺確実だからまともに突っ込めない。
だからといって家康には勝てそうだけど万が一敗北したら信長が突っ込んできそうだし、突っ込んでこなくても上杉北条がどんな反応を示すのか分からん。
家康との対決は遠江の様子を見て勝てそうなら戦うな感じなんだろう。
そして信長本隊が来ないから場当たり的にやってしまったってことだな。

471 :
徳川家康が出てこなかったらスルーだったんだろうけどな
勝ち馬に乗りたかった武田信玄としては織田・徳川と本格的に争うなんて考えもしなかったろうよ

472 :
前提として信玄の行動がタダ乗り思考なのがな
浅井足利朝倉六角あたりに頑張ってもらって、信長を釘付けにしている間に
織田徳川領掠めて行こう感がありあり
西上目的にしろ、三河遠江制圧目的にしろ、織田徳川と
まともにやりあうつもりならもっと進軍スピードが早くなるはず

三方ヶ原後に即織田に向けて転身することも、浜松攻囲して家康討ち取ることもせず
三河の山間部せしめているようじゃダメでしょ。あるいは織田徳川軍の総数が通説よりももっと多かったか。

473 :
ただ単に三方ヶ原後は
本格的な厳冬に入るから
美濃信濃間の峠の雪解け待ち時間調整待ち体制に入っただけだろ。

474 :
散々資料を絡めた信玄優位のレスに押されて黙り混んで、武田厨が飽きていなくなるとソース無い妄想レスで織田が勝ってるアピールする織田厨

475 :
北条は土下座して再同盟して下さいって言って
西上作戦に援軍2000を出して実質属国。
上杉は最強だから越後侵略は厳しい。
そしたらもう最弱の常敗信長が朝敵になった以上、
織田を撃つのが一番簡単だろね。

476 :
そもそも天下人ってのはどの時代、どの国でもどう考えても神憑った運で助かってるケースってのが多々ある
天下人は最終勝利者であって最強の軍略家じゃないんだからな
織田厨はここ履き違えてて、織田は不動の最高軍事力あると思っている
だから石高からそのままの兵力を根拠に持ってくる。知識あるならそれが出来ないから信長が追い詰められたって事くらい理解してるのが普通

477 :
>>475
その一番楽な選択肢で失敗した武田信玄って無能の極みだね
反論あるならそのIDで書いてみ無能君

478 :
おれ武田厨だけど、コピペより今の流れのほうが全然いいわ
考え方は人それぞれで、それはそれで面白いし

479 :
だがみたいにこっちを崇めあっちを蔑む偏見丸出しの御都合主義な嘘のごり押しは困るけど考え方人それぞれには賛成

480 :
そうそう、
困るというか、武田礼讃コピペごり押し連投は武田厨の自分が読んでも気持ち悪い
まだワイワイガヤガヤ厨同士の叩き合いの方が、自分と違う異論や考え方が知れて勉強になる

481 :
織田厨「私は武田厨です」

482 :
信長の兵は弱かったって聞くけど、結局織田の兵も農繁期には畑耕してたの?兵農分離とはなんなんだ?

483 :
>>477
まあ菅沼遼太史観なら武田信玄は



・自軍が6万いて共闘軍込み18万以上。北条は実質属国、徳川は降参寸前、上杉は絶対武田を攻めない、織田の美濃衆一部寝返り

・本願寺は伊勢石山を中心に跋扈、武田水軍の支援つきで岐阜城すぐ近くに砦があり織田の動きを逐一監視

・朝倉は織田に大勝して蒲生を下し近江の大部分を占拠。3万の軍勢を保持し織田に連戦連勝

・浅井も朝倉を助け近江を分捕る。湖北寺社衆と協力しその軍勢は主軍以上。

・六角は義賢、義堯を中心に2万の大軍でゲリラ戦、織田を苦しめる

・三好は一枚岩で大軍を引き入れる。既に畿内への上陸作戦も成功しつつあり織田を追い詰める

・足利は信長の逆ギレ攻勢を一網打尽にする軍事力を持つ

・北畠は織田から離反して信雄を人質にし、1万5千の軍勢で信長と敵対


・織田は反信長連合軍18万に加えて上杉毛利も実質敵。徳川も武田に降参寸前で実質離反。総兵力1万足らずで部下は離反しまくり。信長はブルって岐阜城に引きこもり



の状況で織田を倒せなかった無能だからしゃーない

484 :
>>483
文章センス無いなお前。
相手が見やすい文章を心がけないと菅沼になるぞ。

武田信玄は

・自軍が6万いて共闘勢力込み18万以上。北条は実質属国、徳川は降参寸前、上杉は絶対武田を攻めない、織田の美濃衆一部寝返る。
・本願寺は伊勢・石山を中心に跋扈、武田水軍の支援つきで岐阜城すぐ近くに砦があり織田の動きを逐一監視。
・朝倉は織田に大勝して蒲生を下し近江の大部分を占拠。3万の軍勢を保持し織田に連戦連勝。
・浅井も朝倉を助け近江を分捕る。湖北の寺社衆と協力しその軍勢は主軍以上。
・六角は義賢、義堯を中心に2万の大軍でゲリラ戦、織田を苦しめる。
・三好は一枚岩で大軍を擁する。既に畿内への上陸作戦も成功しつつあり織田を追い詰める。
・足利は信長の逆ギレ攻勢を一網打尽にする軍事力を持つ。
・北畠は織田から離反して信雄を人質にし、1万5千の軍勢で信長と敵対。
・織田は反信長連合軍18万に加えて上杉・毛利とも実質敵対。徳川も武田に降参寸前で実質離反。総兵力1万足らずで部下は離反しまくり。信長はブルって岐阜城に引きこもり。

の状況で織田を倒せなかった無能だからしゃーない

485 :
こんな無能な信玄を崇めるだがは戦国時代の知識が全く無いんだな
日本の歴史教科書を頑なに認めないのも認めたくない史実を受け入れたくないからか

486 :
>>484
10行近くあるなら行間開けたほうが見やすくないか?

487 :
うんこ

488 :
一次史料の根拠を出している者に対して
根拠皆無で願望妄想と誹謗中傷だけで否定する低脳織田在日w

489 :
>>488
一次史料を提示して説明しても人の話を一切聞こうとしなかったアスペルガーだがが何言ってるんだ?
馬鹿なの?死ぬの?

490 :
>>489
はっ?そんなこと一度もないだろwwww
じゃあ該当先のリンクかコピペを貼ってみろよwwww

491 :
まただがが嘘のごり押しを始めたか
毎回飽きもせずによくやるよな

492 :
>>486
小学校の貼り紙か?
誰に読ませたいかによるけど、「ひらがな」だらけの文章と同じで読みづらい。
そもそも空行は、(小説などの)普通の文章では文章の切れ目や強調を表すわけで、
多用は目的を果たさないだろ。
全文章が重要です!とかいう馬鹿と同じ。

493 :
あと489みたいな「w」を多用するのも、逆に余裕の無さを感じさせるな。
相当痛いところを突かれたんだろうか?

494 :
>>493
で、またいつものようにリンクもコピペも貼れずに無様に逃げ回るつもりなの?
ほんと織田チョンって可哀想だなあ。

495 :
誰からも支持を得られない菅沼遼太哀れw
あとはもう必死に「ジエンガー」か、
IPポチポチ変更して「オダチョンガー」しか言えない


まあせいぜいJIMを恨むこったw

496 :
>>494
壷の話でみんなから逃げ回ってること自分で忘れてる?

497 :
年に三割しか税をとらなかった信玄すごい!って独自解釈してたの誰だっけ?

498 :
あと、フロイスの手紙を曲解して、
斎藤利堯が明智に呼応して岐阜を制圧したとかいう妄想は、
みんなに説得されてもう取り下げたんだっけ?

499 :
織田在日得意の自作自演の捏造歪曲で勝手に勝利宣言w
相変わらずの平壌運転。

500 :
>>499
嘘のごり押し戦法で窮地回避を試みるアスペルガーだが
毎回失敗しているのに何度でも挑戦する学習力の無さが面白い

501 :
窮地というかもう死んでる

502 :
壺どころかこのスレでも仁科信基のことから逃げ回ってるなw
ソースのページ数要求してるのに全然出てこないw

503 :
滅亡原因スレで新人洗脳しようとしてるけど、いつ見捨てられるかなー。
わくわくしながら様子見。

504 :
いつものようにアスペルガーだがは逃走しちゃいましたね。
答えられないなら嘘吐かなきゃいいのに。
そもそも嘘吐き扱いされるわけだから2chに来る意味無いのに。

505 :
アンチ秀吉厨(本人曰く別人格)の方の活動に忙しいだけだろう。

506 :
信玄じゃ信長に逆立ちしても勝てないからって秀吉を持ち出すあたりが最高にダサい
対立煽りの基本的手法、菅沼遼太だからバレバレだけど

507 :
だがが戦国最強と崇める武田信玄は史実で見ると大したことをしていない
織田、豊臣、徳川の三英傑より格下なのは教科書での扱いを見たら一目瞭然

そもそも三英傑の一人織田信長と比較してしまったのがだがの間違い
上杉謙信や北条氏康、今川義元、三好長慶、毛利元就と比較しておけばまだ変なおっさんで終わっていたと思うよ

あと嘘を吐くことや、自己顕示欲剥き出しの性格を何とかしないとな

508 :
今は変なおっさんじゃなくて、変態おじさん?

509 :
>>507
そもそも菅沼遼太史観の武田信玄が史実なら武田幕府開けてるしなw

510 :
当時の木曽馬とサラブレッドが武者騎乗させて、走ったらそんな差がなかった。
検証番組で計測してた

511 :
検証番組見てみないことには何にも言えない

512 :
>>510
サラブレッドに騎馬武者乗せて走らせたら、脚が折れるんじゃないか?

513 :
>>510
動画はよ

514 :
>>507



827 名前:人間七七四年 :2015/05/08(金) 07:55:37.13 ID:4ZJyC4tM
実力じゃ朝倉軍に連敗しまくってた織田軍だしなー。
相変わらず信長は運だけはよいよな。

828 名前:人間七七四年 :2015/05/08(金) 20:31:19.13 ID:4ZJyC4tM
そのかわり運から見放された瞬間に大転落したけどな。



本日も元気に自演中

515 :
5月8日も元気に通常運転のアスペルガーだが!

516 :
誰からも相手にされないだがは自演自慰で楽しむしかなかった
哀れなおっさんだよな

517 :
文献史料を偏って解釈しているのは知識が無いからしかたがないとしても
嘘のごり押しや自分の質問だけを押し付け他人の質問は全て無視とかアレじゃ誰も相手にしなくなるさ

518 :
などと自作自演自慰に夢中な織田在日

519 :
>>518
>>514

520 :
コピペ連投する人は、なんでみんな必ず自作自演もするの??

521 :
>>518
まずは嘘を吐くのを止めようね
戦国板の住人は君より知識があるから無駄だよ

522 :
後の家康のやり口が嫌われれば嫌われるほど、それを唯一撃滅した武田への畏怖の念はどうしても高まるよね
ずっと後年の上杉や石田が万全の態勢でも政戦も合戦も家康には負けてるわけだから、やっぱ天正10年以前の群雄割拠を生きてきた大名は相当な遣り手だったんだろう

523 :
>>520
そら支持する奴がいなかったらただの基地外荒らしだからね
菅沼遼太に限ったことじゃない、どの板でも基地外は絶対自作自演するんだよ
それが上手いか下手かって差だけ。菅沼は絶望的に下手なだけ

524 :
>>522
武田の遠江・三河侵攻時と関ヶ原じゃ、家康の国力や政治的影響力が違い過ぎて比較は無意味だろ?(笑)

それと江戸以降の武田リスペクトはアンチ徳川だけでなく、家康崇拝からの派生が大きいんじゃないか?
「神君すら苦戦させた」という意味で。徳川による武田軍学や遺臣取り込みの影響も含めて。

525 :
>>523
自作自演ってばればれだよね。
基地外ってすべてが特徴的だから、長く居るとだいたい見分けがつくようになる。
相手するの面倒で言わないもんで、本人だけが上手にやれていると思ってるっぽい。

526 :
>>524
あと、甲斐を天領にしたのはなんでなん?良く時代劇で甲府勤番とかあるし

527 :
武田復活を恐れたから

528 :
江戸への通り路は天領か親藩・譜代がほとんど。幕末には御三家すら官軍についたが。

529 :
幕府筆頭井伊氏の彦根藩が幕府を裏切り官軍側になった時点で終戦。

530 :
>>525
ただ基地外は基本的に議論を終了させたがるからな
「自分のゴリ押しする主張が正しい」という結果にするため
ありとあらゆる手を使う。罵倒中傷で他の人をウザがらせたり
自演して支持者がいるように見せたりして、自分以外の他人の口を紡ぎたがる。
菅沼が自分のコピペをテンプレだと言いはるのもこれと同じ理屈。


なもんで、実は基地外はガッツリ対話されたり、それがわかりやすく別の場所に残ることをめちゃ嫌う。
菅沼遼太もだがWikiはめちゃくちゃ嫌ってる。ああいうの基地外は一番嫌うんだよねゴリ押し効かなくなるから

531 :
アスペルガーだがもだがwikiを嫌がるくらいなら個人サイトを立ち上げたらいいのにね

532 :
嫌がっているとする発言はどこにあるんですか?

533 :
>>532
530氏ではないけど発言してたよ
菅沼遼太はだがスレでの発言でHPの知識が無いことがバレてしまい
それ以来トラウマになって自作HPの声を嫌がるようになった
結果現在もだがの自作HPは存在しない
存在するなら531氏が教えてくれるとありがたい
まあ無理だけどね

あいつ都合が悪くなると主張をころころ変えるから証拠を残したくないだけなんだろうな
2chでの馬鹿すぎる発言は「あれは俺じゃない」とか「証拠は?」とかで逃げ回れるから
これが2chに必要以上に執着する理由だな

534 :
ネットの基地外って、リアルで言えば恫喝恐喝まくしたてなんでもござれのDQNと一緒なのよ
ひたすら相手を威圧して、相手を無理やり詰まらせたり敬遠させたりする。
主義主張なんて支離滅裂で、どう見てもトンチンカンなこと言ってるのに、
何度もまくし立てるもんだから誰も相手にしなかったり、場合によっては勢いに呑まれたりする。


ところが、当然主張は支離滅裂なわけだから、いざ一言一句並べてみたら、どちらが間違ってるかってすぐわかるのよ。
それを誤魔化すためにまくし立てたり恫喝したりする。ネットだとコピペ連投しまくったり、相手の悪口言いまくったりね。
菅沼遼太って確か一時期在日朝鮮人扱いされてたけど、こういうのが根底にあると思うわ。人種に限らないけど、悪質な連中って発想が同じなのよ。

535 :
530氏ではないけど発言してたよ ←その発言の場所を教えて下さい。

536 :
ハァ〜人口無ぇ 石高無ぇ 治水もそれほどはかどらねぇ
朝起きて 馬連れて 飛騨と上野をぐーるぐる

面積は あるけれど ほとんど 山と石ばかり

鉄砲もねぇ
美人もねぇ
常に来るのは上杉勢

オラこんな村いやだ〜オラこんな村いやだ〜
京都ぅさあ出るだぁ〜

537 :
恐れ入りました

538 :
>>536
>常に来るのは上杉勢
これワロタ

539 :
>>517
見ようによっては菅沼遼太が一番武田を馬鹿にしてるからなあ
冬休みで武装解除して信玄崇拝中に攻め滅ぼされたとか
他のどんな大名よりマヌケな話w

540 :
尾張平野の実力
http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=2563&comment_sub_id=0&category_id=233

昔の平野は沼地だらけだったそうだけど、よくこんなとこよく住んでたな。

541 :
また、菅沼君が袋叩きに会う。惨め


899 :人間七七四年:2015/05/19(火) 23:37:53.82 ID:wfNsbsDS
岐阜城からわずか34キロしか離れておらず
現代人ですら徒歩7時間で到着できる明智城への
後詰の援軍すら勝頼を恐れて援軍送れず
落城寸前のタイミングを見計らって出陣する信長wwwww

901 :人間七七四年:2015/05/20(水) 00:33:09.63 ID:ruVNDcK0
>>899
は?直線距離でみても60kmはあるだろ。
可児市の明智城と勘違いしてるのか?
徒歩5km/hも頭おかしい。不動産屋に毎回騙されてるのか?

もうさ、武田と織田を語るのは1000年早い。
キングオブ国道を百往復して出直して来い。

542 :
一次史料を見る限り間違ってないな。
織田厨の主張には根拠がまるでない。

543 :
で、その一次史料とは?

544 :
菅沼遼太が「明智城が2つある」ことを知らずに
なぜか可児郡の方の明智城だと勘違いして書いたのが全ての始まりだな

信長勝頼の対立渦中となった美濃遠山氏の領有する城がどちらかを考えれば
すぐにわかりそうなものなんだがなw


まあ菅沼遼太が言うには「一次史料を見るとわかる」そうだが、
そもそも可児市にある明智城は一次史料にでてきたかのうw
少なくとも、美濃明智氏が廃れてから廃城になってるから、信長勝頼の時代にはたして使われていたかどうかw

545 :
「信長公記」の織田を持ち上げる記述は捏造呼ばわり、武田優勢(と解釈できる)箇所は一次史料扱いというダブルスタンダード(笑)

546 :
本当にダブスタですな。一次史料でも
織田に有利なものは誇大宣伝と切り捨て
武田に有利なものは鵜呑み。
史料批判がまったくできてない。
なので圧倒的優勢な武田が滅亡…

当時にも信玄の誇大宣伝を真に受けて
織田に背いて悲惨な滅亡を遂げた気の毒な国人が
東海あたりにはそれなりにいそうな気がする。

547 :
菅沼くんは日本の地理にうといなぁw
「石山はただの山」発言といい、今回のアケチどこだろう事件といい

548 :
算数の勉強と平行してスキルアップしよう!

549 :
>>542
見栄はって無理矢理自分のミスを正当化しようとするから、
サンドバッグ菅沼とか、嘘つきゴミ菅沼とか、言われるんだよ!

550 :
菅沼定盈「子孫が迷惑をかけて済まぬ…済まぬ……」

551 :
>>550
あいつは在日中国人ですから無関係でございます

552 :
適当に嘘ついて、嘘がばれてみんなに責められて、ごまかしコピペ連投して。
いったい何が楽しいんだろう?

553 :
明智城と明知城の漢字書き分け説なんて初めて聞いたわw

554 :
今度は今川氏真を叩き出したぞ

555 :
明智と明知で書き分けてるのを知らずにまた恥をかいたのか織田厨くんはw
地図で妄想せずに原文読めよアホw

556 :
当て字が普通の時代の文章に書き分けとかw
コイツ本当に古文書読めるの?

557 :
明智の城取り巻くの申注進侯。則ち、後詰として、二月朔日、先陣、尾州・濃州両国の御人数を出ださる。
二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取、次の日高
野に至りて御居陣。翌日、馳せ向かはるべきのところ、

山 中 の 事 に 侯 の 間 、 嶮 難 ・ 節 所 の地にて、互ひに懸け合ひならず侯。



https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E5%8F%AF%E5%85%90%E5%B8%82/@35.4147049,137.069385,14530m/data=!3m2!1e3!4b1!4m2!3m1!1s0x600314104053e367:0xc2f572441cc9e60d!6m1!1e1


可児のどこに山があるん?www
見渡す限りだだっ広い平野部ですがwww

558 :
>>556
御台を「御壺」と読んでなんのことかわからんまま
妄想垂れ流していた菅沼遼太が読めるわけ無いだろw

http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/79.html

559 :
困ったな。554も馬鹿だが556も相当馬鹿だ。

560 :
お、菅沼遼太の尻尾きりか?

561 :
菅沼のやりたがってる、史料を使った罵り合いなんて誰も参加するはずないのに
なぜアイツは分からないんだろうな。

562 :
>>557

明智城レポ(可児市)
http://ameblo.jp/kunikuni001001/archive-201106.html

可児市の明智城
https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B025'16.4%22N+137%C2%B005'04.2%22E/@35.4236325,137.0716684,40615m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x0:0x0!6m1!1e1?hl=ja

563 :
だが君、知ったかぶりは見苦しいと思うよ。

564 :
一次史料の裏づけがない地図上での願望妄想を垂れ流す織田在日www

565 :
だが君って本当に馬鹿ですね。

566 :
だが君が馬鹿なのは昔から変わらんよ

567 :
>>562
すがぬまー、一応言っておくとそこは山じゃないぞ?
もしかして木が生えてたら山とか思ってないかなー?
嶮難・節所の地とは無縁の場所だよそこは

568 :
>>567
ちなみに、菅沼が叩かれるのはデタラメ言ってるからじゃなくて
自演で荒らすのと、間違いを認めずに押し通そうとするから。

569 :
馬鹿は自分じゃ治らないけれど、必要以上に馬鹿を晒すことは自分で止められる。

570 :
だが君滅多うちw

571 :
村上氏は更科郡を領地としていた。
南北朝時代の義国の代に埴科郡を奪い本拠地とし、
京へ逃げて甲斐行きを拒んだ武田氏と違い、
村上氏は確実に領地を拡げ着々と次世代の飛躍にむけて支配を浸透させ磐石な体制を築いていく
義清の代に入り川中島4郡を統治し、小県郡と佐久郡の一部を手にいれ甲斐への道を手に入れようと領地を東進させてきた。
そこに諏訪氏が関東管領軍を信濃に呼び寄せてきた。
ここに佐久郡と小県郡を舞台に新局面が生まれたのである。

572 :
つか、なんで義信は今川家存続にこだわったのかね?戦国武将らしくないがな

573 :
義信は今川存続じゃなくて今川を敵に回すことによる三国同盟破綻を嫌ったんでしょ
案の定北条は今川につき、上杉も今川に肩入れしであっという間に四面楚歌
結果美濃に勢力を伸ばす織田に同盟を申し入れるしかなく、美濃方面への拡大は頓挫し、
挙句信長の雄飛を助けてしまう結果になった

574 :
>>573
言っている事は理解できるが、時系列が全然違う。

織田と武田が同盟→甲駿同盟破綻→義信自刃→信玄が駿河侵攻→甲相同盟破綻

という流れ。

575 :
織田と武田の同盟は武田としては何が目的だったの?

576 :
松姫と信忠の婚姻同盟の結納金代わりに
信玄が東美濃を信長へプレゼント。
しかし東美濃を受け取るや信長は裏切った。

577 :
武田は織田と同盟しないと、対上杉(と駿河侵攻)の後方の安全が確保できない。逆に、美濃へ全力を投入したら
織田と史実より強い同盟を組んだ上杉に川中島周辺を奪われかねない。

578 :
>>576
サンクス
>>577
サンクス 度々質問で申し訳ないけど、そんな状況での同盟だったのならば、信玄の最後の出陣の時点では武田は既に詰んでいたって受け取るのは間違いかな?死なずに進行した場合は武田黄金期が来たのかな?

勝頼の代になっても武田家自体は強いんだろうけど、八方塞がりで最後は滅んでるし


信玄の絶頂期はいつかしら?
選択を誤ったポイントがあったとするならばどこなんだろ?

長文、駄文すいませんでした。

579 :
信玄西上の時、超信長マンセーの捏造歪曲を書きまくる信長公記ですら
信長八方塞がりと書いた口で
なお松永久秀の降伏を一年前倒しの大嘘で山城南部が平定できたと平気な顔して書いてるからなw
織田軍が朝倉軍に大敗したので朝倉軍目的を達して帰国→三方ヶ原で前橋酒井家旧蔵聞書によれば織田の援軍は2万が武田軍に壊滅。
岐阜から一歩も出れずに籠城の構えでブルってた信長。
信玄が美濃信濃国境の峠の雪解け寸前死去で
信長は助かった。

580 :
武田って最初が甲斐の時点で詰んでると思うが

もし三国同盟でなく二国同盟で今川か北条を倒していれば
安定して勢力拡大できたようにも思う
とはいえ時代の流れで三国同盟となったのでこれも足枷になった

難しいねえ
今川が織田を倒したとしても苦しいし織田が伸びれば史実だ

581 :
信濃の山奥を目指した時点で終わってる

582 :
所詮信玄は隙間領土でセコセコ利益分捕ってただけだな
織田徳川上杉北条今川が勢力拡大しそうなところを避けておこぼれ頂戴していただけ

583 :
>>575
織田との同盟の信玄の狙いは美濃侵攻じゃないかな。
織田信長が三河と遠江に進出した場合、信玄が美濃とついでに駿河を領有する狙い。

584 :
>>580-582
信濃侵攻は信虎からの継続案件。狭く貧しい甲斐を統一した大名家にしてみたら、隣の信濃が国人&落ちぶれ守護の
割拠状態なら、攻めとるのは本能みたいなもの。武田は信濃で得た国力と策源地があってこその大大名だった訳だし。

獲れそうな所を獲りに行くのは、どの大名もやっているから仕方ない。

585 :
>>584
まあそうなんだろうが、信濃は隣接国が多すぎて余計な敵を増やす原因だな
北は越後で上杉、南は徳川、織田だから全部と同盟して東へ出るしか
なくなる気もするな

やっぱ信濃に出ても詰みだわ

586 :
謙信の存在が痛すぎる。
信濃攻略、上野攻略、飛騨攻略、美濃攻略、、
こいつさえいなけりゃ、永禄前半に完了する勢いだった。

587 :
ついでに言えば北条としても謙信さえいなければと思っただろうね
武田の北上も頓挫、北条の関東掌握も連年越山して来て阻まれる
3国同盟のうちの2家が上杉と対峙した時点で膠着状態に陥った

588 :
謙信がいなけりゃ上野は北条領のままだし、謙信に邪魔されない北条がどんどんでかくなっていってしまうよ
当然北条も越後を狙うだろうしね

589 :
山梨住んでた事があるけど…

とにかく地理・経済から見放されている
すげー非凡だけど、生まれた場所が詰んでいる

逆に当時の中央が東京あたりだったらワンチャンツーチャンあると思う

590 :
戸石城は、本城、枡形城、砥石城、米山城の4つの城から構成されている巨城であった。
村上氏の巨大な権力と経済を反映した信濃最大の城郭である。

591 :
やっぱ謙信ってナチュラルに紙一重な人だったんだろうな

592 :
謙信の祖父からして相模国まで遠征してきて扇谷上杉を無条件降伏に追い込んだから
越後兵が強すぎると思う

593 :
>>589
だったら何で若狭なり安芸についていかなかったんだろ?
嫡流は安芸に行ったんじゃなかったっけ?

信玄公の駄目な所は、後世の歴史書愛読者が持つ神の視点が持てなかったこと
そこが信長公との致命的な違いだろ

594 :
>>589
戦国時代の東京にワンチャンなんかあるわけないだろ。
あの辺は当時、海、沼地、河原の湿地地帯だぞ。
400万石〜天下普請で徳川家が当時の最新技術で治水してやっと住めるようになっただけ。

平安時代の東海道は、京都→相模→上総→下総→武蔵と東京は迂回されるレベル。
古墳時代から千年も放置されてた事実を考えなよ。
これは大阪もかわらない。淀川の河口から遠い堺の方が栄えていた。

逆に鎌倉、上野、下野は京に近い先進地域。甲斐も悪くない。

595 :
平将門←関東独立国
源頼朝←坂東武者を使って天下獲り
徳川家康←天下獲りのときは関東の主

596 :
>>595
将門公、上方武者に撃たれる
頼朝公進撃、近江源氏フルメンバーで参戦。一部坂東武者日和見。
徳川家康、肝心の関ヶ原で関東勢役立たず。
坂東武者って一致団結して戦うってことが出来ないんだろうね。

597 :
>>595
平将門(茨城県坂東市)
武田信義(山梨県笛吹市)富士川の戦いの主軍
源頼朝(神奈川県鎌倉市)
徳川家康(江戸は徳川秀忠に任せ、自分は伏見城、大坂城に常駐。)

598 :
武蔵西部は上野国から鎌倉を結ぶ最重要ルートだから、
扇谷上杉や山内上杉の城が大量に見つかっているのも知らんアホwww
長尾景春の乱を制した道灌も
鉢形城が関東を統治する要地と進言して
山内上杉が上野国平井城から遷都してるし
扇谷上杉も川越に遷都してる。
東京を含む武蔵国が伸びしろがたんまりある要地だったのは
当時から認識されていたし、
武の蔵と表記されたことを最強武士が育つ国と
軍鑑でも指摘されてる。

599 :
>>598
>武蔵西部は上野国から鎌倉を結ぶ最重要ルート、川越や鉢形が関東を統治する要地
って意味わかっていってるのか?
当時の東京の地位が窺い知れるわけだが?

600 :
国分寺や八王子あたりはかなりの要地だよね。

601 :
>>600
あそこを抑えられたら甲斐から関東には出られないんじゃね
秩父党とかの拠点だっけ?

602 :
甲斐から秩父は今でも繋がってないのか?

603 :
23区外など東京に値しない

あえて言おう!カスであると!

604 :
>>603
>>603
えっと、それだと

山梨>>八王子>>東京23区

という事を自ら認めていることになるけど。

605 :
また菅沼遼太が知ったかしたのか

606 :
>>586
つっても謙信と戦わなくなった後でもそんなに言うほど伸びてないだろ
相手の自滅以外はロクに拡大できてないしそれも微々たるもの

607 :
>>606
第四次川中島の時点で武田の勢力圏は甲斐一国と
信濃の内、善光寺平より南だけ
軍記じゃ二万とか動員してるから錯覚するが
石高的には50万石程度にすぎない
謙信とまともに争わなくなってから信玄死亡までに武田の領土は倍増している

608 :
信長みてればわかるけど領土なんて倍倍ゲーム。謙信さえ居なかったら、
美濃、上越、飛騨、越中、越前、尾張くらいまでは全く強敵が居ないんじゃね?

609 :
北条と武田で交互に相手しても上杉を落とせなかったんだから大誤算だろうな

610 :
>>608
信長みたいな基地外がそうそういてたまるか

それぞれの場所で搾取するのに夢中で尾張にたどり着く頃には結局寿命が尽きてる

611 :
毛利も長宗我部も島津も伊達も豊臣もみんな倍倍ゲーム。
違うのは上杉、武田、北条くらいだな。

612 :
>>611
伊達ww

613 :
謙信が初めから越中能登を目指してれば武田ももっと簡単に伸びたのに

614 :
春日山と直江津が基盤である以上、信越国境まで武田が来たら、謙信は戦わざるを得ない。
北陸遠征に全力を注ぐとしても、その留守や側面を衝かれるから。

615 :
これな
なので謙信も加賀能登を伺える体勢になった頃にはもう寿命という

616 :
結論、信玄は謙信より弱かった。

617 :
確かに謙信の強さは異常だけども、信玄は甲斐ってのが他の大名よりも明らかに恵まれてない

618 :
貧しい国出身でがんばったけど、結局は豊かな国に敵わなかった、と言うのが
判官贔屓を呼んで、過大評価につながるんだろ

619 :
甲斐から始めて、西上野〜東濃・奥三河に至る巨大な領国を形成したんだから、当時も後世も印象は強烈だわな。

620 :
信虎の代も割とすごい状況だったみたいだね
超大国の今川・北条にくわえ信濃の諸豪族がガンガン攻め込んで来るという

621 :
>>620
>超大国
だね
武田信虎や晴信に喧嘩売るには超大国くらいでないとね

622 :
結論
超大国
最強は織田
次点に今川、北条、上杉

最弱は武田

これで決定

623 :
と、うつけ者が申しております

624 :
単純な領土の広さで比較するのは素人。
地域に対する政治的支配の深さで比較するのが玄人。
織田厨は素人丸出しw

625 :
過去ログ漁って、スレ主の主張をみてきたけど…

小学生が思い込みで建てちゃったのかな、と思うぐらいまあドンマイでしたわ。解散

626 :
大国=領土の広さとか菅沼遼太史観は相変わらずだなwww
むしろ武田なんて領土の広さで得をしている勢力なのに
地盤が甲斐信濃のド辺境なんて朝倉レベルの地盤しかないぞ

627 :
朝倉レベルって何だ?
もしかして越前=ド辺境だと勘違いしてるのか?

628 :
もし越前に謙信いれば中央制覇できる位置と財政地盤なのにね

冬の雪が厳しいがあそこを抑える強い勢力がないから信長が
強くなったとも言えるな

629 :
但馬の山名、美濃の斎藤、越前の朝倉、備前の浦上、近江の六角、阿波の三好、
みんな上洛に成功しているし、山名以外は将軍を領国で一時的に保護している強国。
これらが衰退していたから信長は上洛できた。

630 :
>>629
強国の時に何を成したかが問題ですね

やる時にやらなかったため衰退してしまった国
やる時にやったから繁栄した国

そこが凡将と名将の差なんだろう

631 :
>>628
謙信が合戦に糞強いのは確かだけど、信長はそれだけじゃない何かを持っているからどうなるかわからないかもよ

632 :
>>629
京都に行ったことがあるのを上洛と言うのか?
不勉強で悪いが斎藤なんて上洛出来たのか?
(道三に乗っ取られる前の斎藤なら土岐にくっついて上洛してるだろうが)

633 :
謙信も五千の兵を率いて上洛してるね

634 :
>>633
輝って名前に付けて貰いに行ったんだっけ?

635 :
関東管領の就任を公認してもらうためだよね
五千もの兵を率いていったのは三好長慶討伐って説もある

636 :
>>632
斎藤妙椿は美濃から上洛して足利義材を将軍に即位させているから、
上洛に成功でいいと思ったのだけど、どうかな。

637 :
あ、1490年には死去してたんだね。

638 :
>>627
ヒント:朝倉は武田よりも領土少ない


つまり「武田は領土こそ広いがど辺境ばかりで、内実朝倉と同レベルの領土しかないのと同じ」

639 :
信玄を支えていたのは金
金が出ないならあんな領地いくらあっても有難くはない

上杉、北条、今川の領地が羨ましくてしょうがないのが信玄の本音

640 :
>>639
全くその通りだと思うけど、だからこそ余計に今も昔も信玄は強いねって結論になるんだよ
金で戦争に勝つっていう徹底した合理性をずっと貫いてるんだから
それでいて白兵戦とか戦術の天才的な妙技もある
三増瀬峠や三方原の戦法やられたら多分誰だって引っ掛かる
ああいうのって白人の戦争では殆ど無い
白人は肉体スペック宛にする分、そういうの全く評価しない人種だけどね

641 :
>>640
>誰だって
そりゃ軍学も兵法も武家故実も習ってない俺達なら引っかかるし
尾張の成金の子供にも厳しい所はあったろうな

プロ野球の世界で長嶋が輝く為に村山が存在したように、
武田信玄を輝かせる為に存在したのが織田や坂東の蛮族だったんだろう

642 :
>>640
いや、信玄が強いとかって無いわ

現代風に例えるなら
イケメン、金持ち、社会的地位ある恵まれた環境の人間に社会のクズが難癖を吹っ掛ける図にしか見えんわ
上杉、北条、今川、ついでに織田も武田なんかにかまっていたらクズになり下がるから仕掛けなかった
これが普通の人の間隔でしょ

643 :
素姓ロンダリング長尾
都落ち役人伊勢
破産寸前から復帰今川
成金織田

一番、良いところの坊ちゃんが武田だろうに

644 :
>>643
血統だけしか取り柄のない武田
今川や北条よりも弱小で上杉や織田にも追い抜かれ肝心なところが欠けている

645 :
>>626>>638
相変わらず出鱈目な言い訳が凄くて全く意味不明だけど、
「ぼくは武田と朝倉がきらいでちゅ。織田がすきでちゅ。」
って結論でFA?

646 :
ものすごい遅レスで申し訳ないんだが、
ウィキペディアの「仁科信基」に参考文献として載っているこれ
>>226
>>参考文献 北澤繁樹『仁科氏』(東京図書出版会、2010年)
これってただの小説だよ
歴史研究本ですらない、純然たるフィクション
しかも、ウィキペディアの仁科信基の今とほぼ同じ内容の記事ができてから出版されてる本だし

そもそも仁科なる大身旗本なんて寛永諸家系図伝にも寛政重修諸家譜にも干城録にも出てこないから
信基が3100石扶持の旗本になったっていうあの記事は完全にでたらめだよ

647 :
また菅沼遼太が大敗北したのか
小説ソースとか司馬遼太郎や北方謙三の本をソースにしてるようなもんじゃん
そんなちんけなソースでゴリ押しするなら信長も本能寺で死んでないとかいくらでも言えそうだなw

648 :
>>642
はいはい知ったかぶり知ったかぶり
無知は必死に入らなくていいから黙ってようね
甲斐武田は幕府公認の守護職を歴任していて織田、長尾、後北条よりずっと名家ですよ
成り上がり不良大名がイチャモンつけてるのは織田や長尾
故に教養も上
越後上杉も山内上杉から家名を貰っただけで関東の名門上杉との血の繋がりは一切無い
ついでに肖像画見ても解る様に、織田や上杉より武田のが全員イケメンですが?
馬鹿丸出しは二度とレスしない方がいいよ

649 :
越後上杉氏→山内上杉氏の庶流で血の繋がりは濃い。
長尾氏→上杉氏と婚姻しまくりで血の繋がりは濃い。
後北条氏(伊勢氏)→伊勢平氏の末裔、室町幕府でも政所執事となっていた名門。

650 :
>>648
お前全然わかってないじゃんwww
夢見すぎで無様すぎるぞ
馬鹿なの?死ぬの?

651 :
>>648
その名家を10年以内で滅びる基盤を作った信玄ってすごいねw
勝頼がいざ継いでみたら\(^o^)/になったんだもの。

652 :
>>649
だから?
結局
長尾=血統ロンダリング
怪しい血筋の家がよくやるやり方だよね

伊勢=都落ち役人
伊勢平氏って(笑)
じゃあ武田は河内源氏じゃん。

その名門をふっ飛ばしたのが信玄公の凄すぎる失敗だけどさ

653 :
>>652
無知な素人の感想文ほどつまらないものは無いな。
早く結論を言え。

654 :
>>653
文字が読めないバカには伝えようがない(笑)
お前は、まず日本語の勉強から始めろ

655 :
やっぱりただの感想文だったかw

656 :
ただの感想文というよりだがの感想文か
菅沼遼太は何度敗走すりゃ気が済むんだろうか

657 :
>>652
名門(河内源氏?武田家?)をふっ飛ばしたばしたのが信玄公の凄すぎる失敗???
菅沼って馬鹿なの?死ぬの?www

658 :
このように内容の話は知識不足で出来ないので無意味な芝や菅沼ガーで必死に誤魔化すのがいつもの恥ずかしい織田厨である

659 :
馬鹿丸出しは二度とレスしない方がいいよ

660 :
むしろ500年近く続いた名門甲斐源氏を滅ぼす原因を作った武田信玄と
織田とかいうどこの馬の骨ともわからん家の傍流をメジャーにした織田信長の存在の差を言いたいんじゃね?w

661 :
名門甲斐源氏:小笠原氏、三好氏、南部氏、蠣崎氏(松前氏)、武田氏、、

662 :
>>660
「名門甲斐源氏」と言いたかっただけなのだろうけど、、、

663 :
アスペルガーだがは嘘がお好き

664 :
武田を崇める奴が口だけ番長なのは鉄板!

665 :
守護権力が全く確立できず、
リアル下剋上連投で恐ろしい余りに京まで逃げてきて、将軍から甲斐の任地に赴任しろと強制されるも
泣いて拒否したのが武田氏だからな。
もともと甲斐に基盤などない。
だから信虎は家臣らにより追放。
晴信は傀儡スタート。

666 :
>>664
つ鏡

667 :
>>666
涙目だな

668 :
>>667
口だけ番長w

669 :
>>668
勢いよくツッコミ入れているけど完全にミス突
残念

670 :
>>669
口だけ番長w

671 :
完全にブーメラン。663は余計なこと言わなきゃ良かったんだな。

672 :
>>670
わかっていいないのか?
IDをよく見てみろよ
それとも粘着必死な人か?

673 :
アスペルガーだがが武田信者って知らない人かな?

674 :
667=アスペルガーだが
武田信者であり戦国板でも有名な口だけ番長

このおっさんは馬鹿にされたら支離滅裂になって粘着します

675 :
>>674
アスペルガーだが云々以前に完全にブーメランだよw
もう少し中身のある話をしないと駄目。

676 :
>>675
中身のある話っておまえが一番阿呆ちゃうか
だがはその手の話を嬉々として荒らす
まさに口だけ番長や

つーかブーメランの意味理解してへんやろ?

677 :
菅沼遼太は信玄番長

678 :
667氏が必死杉

679 :
真面目の話
武田氏は織田氏に瞬殺滅亡させられました。
これは史実だから問題ない

680 :
つか、武田が元々甲斐にゆかりがないなら、佐竹なんて常陸に島流しみたいなん受けたやん。

681 :
>>679-680
両方、何を言っているのか分からない。
何年から何年の話なのか?

682 :
>>681
理解できないならROMってろ
駄々っ子はマジうざい

683 :
基本的な質問に答えられないからって逆切れは格好悪いな。

684 :
基本的なことを質問する方が狂っている
このスレで武田が織田に滅ぼされたことを知らないとか馬鹿の極み
じゃなければ事実を認めようとしない菅沼本人

685 :
>>683
御託はいいから君が答えてやれば?

686 :
>>685
それって学会とかで一番惨めなパターンじゃね?

687 :
>>686
回答拒否
菅沼遼太格好悪いw

688 :
うかつに>>679みたいな妄想設定考えると、基本的な質問をされて、

質問に答えると滅多打ち
質問に答えないと延々と馬鹿にされ続ける

ガクブルすぎる。

689 :
>>688
学会じゃ普通の光景。

690 :
瞬間滅亡どころか、信玄死んだ後の武田にすら10年以上手を焼いていた織田徳川
ようやく武田を滅ぼした天正10年、領土と家臣を抱えきれなくなりすぐに後追って同じ年に滅亡した織田

691 :
>>690
あのね、馬鹿なこというのもいい加減にしたら。
状況が全く違うでしょう。一応、ちゃんとした形で家督を相続した武田と、当主が優秀な嫡男ごと吹っ飛ばされた織田じゃあ比較することがおかしい。
しかも、信玄が死んだのは1573年。甲州征伐が1582年なのに10年以上手を焼いたとかワロスw
馬鹿なの?死ぬの?

692 :
アスペルガーだがじゃ算数は無理だよ
あいつはホンモノのバカだから

693 :
あの時代に東進する意味を教えてくれ
費用対効果悪すぎ

694 :
今だに信玄は天下を狙っていたとかバカ言うやついるんだね

695 :
横槍すいません

信玄が死んだ後、勝頼の代になってからの9年という期間は武田家としてはどんな感じだったんですかね?
長篠合戦がターニングポイントなのかなと思うんですが、それまでの武田家は織田も恐れるくらいの右肩上がりだった?
それとももはや詰んでて負けるべくして負けて滅ぶまでのシナリオはできてた感じ?

696 :
長篠合戦前までは織田も武田も伸びてたからな。
天正3年5月というと織田はやっと河内を制圧した頃か。
差がつくのは摂津、河内、播磨、越前を手に入れたあたりからだから、
この年までは徳川の戦いぶり次第でどっちに転ぶかわからなかったんじゃないかな。

697 :
>>694
天下はともかく足利義昭や松永久秀との共同戦線で
上洛は狙ってたんじゃないの?否定する材料が特に無い。

698 :
将軍が京で兵を挙げたのだから、武田が上洛してくるのを期待していたのは
確実だろう。京まで上洛が難しかったとしても、小谷城まで行けば(行ければ)
武田にとっては味方の城があったわけだ。でも北陸方面から進出していた朝倉が
撤退していったので、信玄は罵倒して怒っているが。

699 :
また罵倒して怒っているとか捏造歪曲を連呼してんのか。
信玄はせっかく織田を破ったのに戦果拡大を図らず帰るなんて
兵が疲れているのもわかるけど勿体無い驚いたよって書いただけなのに。

700 :
どうでもいいけど。

雖然、此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、
不可過御分別候、猶附與彼口上候、恐々謹言、

織田信長を滅亡に追い込める好機が到来した時に、そのような寛容な備えでいても、労あるのみで功などはない。
判断を誤ることなかれ。なお、使者に口上を与えたのでそちらも聞いていただきたい。恐々謹言。

701 :
>>694>>699
馬鹿丸出しは二度とレスしない方がいいよ

702 :
>>699
前半部分は一ヶ月前にあった朝倉と織田の江北遂一戦と呼ばれる大決戦のことだね。
朝倉軍が織田の美濃尾張兵数多討死させて大勝利していて、
織田軍を敗走させた結果、朝倉軍は浅井救出という戦略目標を達して、
織田の大身の三人ほどが朝倉側の調略に内応し近江平均成功し満足し帰国している。
後半部分が一ヶ月後の三方ヶ原勝利後の話で>>700の話と一ヶ月前にあった前提話をリンクして語っているから非常に分かりやすい。

703 :
近江は浅井朝倉の手に落ちたはずなのに、
なぜか元亀4年の3月に織田信長が京にいる義昭を攻撃しようと言い出す
どうやって信長は攻めたんですかねぇ・・・・

704 :
>>702
嘘っぱちにはうんざり

705 :
>>702
当時は敵地で負けても勝ったと書状を出して領地に帰国しないと、
勝ち馬に乗ろうとする部下に下克上されてしまう時代。

負け→辛勝
引き分け→大勝
勝ち→敵殲滅大勝利

「真に受けるのは女子供くらい」だけどやらないよりはマシ。

706 :
>>703
ワープで行軍したんだろ

707 :
>>702
かような誇大戦果に踊らされ、滅亡した御仁は数えきれぬ。
貴殿のような方は戦国の世では命がいくつあっても足りませぬぞ。

708 :
>>702
いやいや、妄言に惑わされてはなりません。
信じる者こそ救われるのです。あなたのようなお方こそ戦国の世に真の武名を残すはず。
「進めば極楽、引けば地獄」
貴方の全財産を浄財とし貴方のお命を一揆へ投じれば、
浄土で永遠に暮らせましょうぞ!

709 :
織田軍団はワープ機能を持つターミネーターと言いたいわけですね?菅沼君

710 :
朝倉に大敗し岐阜城で引きこもり。
朝倉大勝利で義昭挙兵。
近江が敵地なため陸路が使えず湖上を船で移動し上洛。
近江から織田に参加する者皆無で摂津荒木や山城細川と合流し
やっと1万にしかならない織田軍は義昭の二条城すらまったく落とせそうになかったとフロイスに書かれる。

711 :
近江が浅井朝倉領なのに敵地のど真ん中である琵琶湖を通って進軍・・・・?
信長は船や岸をどこから借りてきたんですかね・・・・?

712 :
朝倉大勝利の人、史料とか出して努力してるのに他の人のレスと違ってまったく説得力が
無いのはなんでだろうね?

とりあえず
1.客観的な意見、反対側の意見が皆無で分析がされていない。←つまらない文章。
2.全体的に文章構造が雑(なぐり書き)で、他人に読ませる文章じゃない。←著者の人間的な印象が悪い。
3.分析対象を誹謗する単語が存在する。←客観的な分析に見えず、代わりに著者の人間性が低く見える。

こんなとこか・・・

713 :
(修正検討)

朝倉義景に大敗したため、信長は岐阜城に数ヶ月篭城。事実上の手詰まりと思われる。
逆に朝倉大勝利の報を受けて、足利義昭が二条城で挙兵した。
これに対し信長は、上洛しようとしたが近江が敵地となってしまったため、
陸路が使えず、湖上を船で移動したと思われる。

しかし上洛したものの、近江から織田に参加する者は皆無であり、
摂津の荒木村重や山城の細川藤孝と合流したものの、
やっと1万にしかならなかった織田軍は、

「義昭の二条城すらまったく落とせそうになかった」

とフロイスの日本史に書かれる始末だった。

714 :
(分析が無いから言葉面だけ直しても、やっぱりつまらない文章のままだな。)終了〜

715 :
>>712
1.ワープで琵琶湖の船上に移動し船の上から再びワープで京都に移動した。
2.戦国期の琵琶湖は近江を分断し美濃・山城に隣接していた。
3.戦国期の近江は南北に分断されており、湖西は山城・湖東は美濃だった。
4.琵琶湖の船が置いてあるところまでトンネルが掘ってあり地下を移動した。
5.空を飛んでで琵琶湖の船上に移動し船の上から再び空を飛んで京都に移動した。

いずれかと思われる。

716 :
武田厨は何年経っても馬鹿で困るね
いいおっさんなんだから史実から目を反らすなよ

717 :
自分に味方すると思っていたら二条城に入る丹波の内藤w
目の前の二条城の義昭の前から撤退すると背後を襲われる。
かと言って背後はすでに六角&百済寺に閉じられ袋のネズミ信長。
三方ヶ原で大敗した家康に援軍を寄越せと泣いて頼む。
天皇が義昭へ勅命和睦を斡旋しなければ信長死亡確定。

718 :
あほくさ

719 :
>>715
そんなオーバーテクノロジー使えたんならどっちみち織田の勝ちやな
武田が攻めてきても空爆して撃退すればええわ
流石武田厨は信長を誰よりも評価している

720 :
菅沼理論によると織田軍団は火砕流に巻き込まれても平気なターミネーターらしいから
そうだよね?菅沼君

721 :
なんかもう、菅沼君はみんなにボコられるために生きてる様なものだね!

722 :
菅沼君、またもや珍説でめった打ちwww
「川越野戦は捏造で一次史料に存在しない!!」
「上杉朝定も天文6年死亡、根拠は上杉系図!!」

723 :
だがの敗因
1戦国時代の知識が偏り過ぎ
2協調性が無く自己顕示欲が激し過ぎ
3簡単にバレる嘘を吐き過ぎ

人として失格だな

724 :
そんな人間だから個人情報がバレたんだよ
JIMも内心してやったりじゃないのかな
●を荒らし目的に使ってたやつ、菅沼遼太以外にも結構いたみたいだし

725 :
まぁそれも織田厨の自作自演だしな。

726 :
織田厨の自作自演のはずなのに、なぜか赤の他人が苦しんで発狂しだす構図。哀れ

727 :
菅沼遼太って本当に馬鹿な奴だよな
人として恥ずかしい個人情報が漏洩したんじゃ人生詰んでるし

728 :
そもそも個人情報漏洩なんて本来起こりえないからな
JIMが盛大にやらかしたのは全くの偶然だから、予想していた奴は誰も居ない
だから企業内部の人間やまとめブログの管理人の正体まで流出して暴かれた


こんな偶然の産物の不祥事を期待して織田厨が有料2chビューワー買って
自作自演で電話番号住所氏名を埋め込んで毎月毎月金払って
菅沼遼太のフリをしていたのならよっぽどの狂人だなw

729 :
個人情報とか言ってるがそれが事実かどうか
どう検証したの?

730 :
菅沼遼太も菅沼文太も両方うざいな。

731 :
>>723
分かりやすいから、偽の菅沼遼太君はバレるんですよね

732 :
上杉に嫁いだ菊姫の援助もあり松姫が八王子で保護していた
葛山十郎信定の武田系仁科氏が幕府の公式に記されていないのは数百年の遺恨ある小笠原氏の横やりのせいだから。
特に小笠原貞慶は大町館を中心に仁科氏根絶の虐殺を繰り返していたので
それを仁科氏側から書かれるのを恐れていた。
小笠原氏は大坂夏の陣で親子揃って戦死してるため幕府としてもこの大功を無視できなかった。
大久保から武田信基の生存を知らされた家康はむしろ保護を申し出てる。
1604年に家康に拝謁し旗本3100石扶持として八王子千人同心を設置し大久保がバックアップしてる。
秀忠が将軍として最初に召し抱えたのも信基で妻の面倒もみてくれている。
信基の弟の信貞は油川氏に保護され油川信貞として家康に謁見し、のち武田に復名してる。
この兄弟は死ぬまで会ったことがなかったとされてる。
いまも仁科の里で仁科を名乗る人はほとんどいないほど壊滅しているのも小笠原氏の報復のせい。

733 :
菅沼遼太の嘘は異常

734 :
議論に大敗した織田チョンは
人格攻撃の悪口中傷と
自作自演で自己正当化工作に必死。

735 :
>>734
事実を突かれ涙目必死に踊りだすアスペルガーだが
この10年間同じ行動パターンで笑える

736 :
ファビョる菅沼遼太を見て笑うは板住人

737 :
もはやマスコットみたいなもんだな、菅沼は
ああ、またやってるなと失笑するだけだが

738 :
板住民「〜〜で」
菅沼遼太「ファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッwwwwwwwwwwwwこいつアホンゴwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
板住民「!?」
菅沼遼太「熱い信長語りwwwwwwwwwwwwwwwwくっさwwwwwwwwwwwwwwwwwRwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
板住民「菅沼遼太君!反対するならちゃんと意見を述べてくれないか!」
菅沼遼太「うっせえええええええええええええええwwwwwwwwwwwこっちはコピペで論破してんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!
   反論おせーぞホラホラホラホラホラホーラホラホラホラホラホラホラホラホラ!!!!!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwww
   ホラホラホラホラホラホラホラホラホラホラどーしたビビってんのか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
板住民「」
菅沼遼太「はい織田厨大敗北wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」

739 :
だがはまずスルーを覚えないとダメだ
すぐ自己擁護に走る時点でアウト

自身を庇えば庇うほど小者感が半端無い

740 :
根本的に荒らしとは別種だからね

どの掲示板やSNSにも言えることだが、荒らしというのは例え自分が非難されても
それを放置する。それによって荒んだ状態をむしろ好み、非難された自分をダシにしてまで荒らしていく。
対立煽りや対立荒らしというのは基本的にはこれの応酬で多数の異なる存在でマッチポンプしまくってわけわからん状態にする。


菅沼の場合はあくまで武田愛し、織田憎しでやってるだけだから
自分の主張をメタクソにしてさらに荒らすなんて芸当は無理。
自分の主張を否定することは、自分が(勝手に)嫌っている織田厨の意見に賛同することだからな

741 :
コピペ連投する時点で完全な荒らしだよ

742 :
>>740
アスペルガーだがは都合が悪くなったり矛盾を突かれたりするとすぐ主張を翻していたよ
みんなに指摘されると決まり文句の「証拠は?」で逃げ切りを図っていたし

743 :
>>740
だがの主張自体がメタクソだから荒れに荒れたわけで
それに自己否定もあいつの得意技という事実

744 :
>>740
>非難された自分をダシにしてまで荒らしていく。
非難された自分を正当化しようして荒らしていく。
だががやってることはこれだよな

745 :
>>738
コピペ連投する時点で完全な荒らしだよ?

746 :
まぁ家康が一番恐れたんだから ま、多少はね

747 :
菅沼遼太完全敗北

748 :
>>743
菅沼遼太は自己否定大嫌いだよ
あいつが自論否定してもいいと思ってるのは信長とか秀吉、家康くらい
これは菅沼当人がこいつらが大嫌いだから、別にこいつらがどれだけ
ボロクソ言われようが叩かれようが、菅沼遼太本人からすれば痛くも痒くもないって仕組み


ところがこれが武田信玄とかになってくるとそうはいかないわけ
過去の菅沼遼太の発狂ぷりをWikiで見ればわかるが、全てにおいて
信玄が第三者に否定されることから始まっている。

上洛スレは存在そのものが信玄の限界を認めるスレだったし、信玄過大スレは言わずもがな、
他にも数上げればキリがないくらい信玄が絡んでいる。菅沼の中では、ここは絶対否定出来ない「聖域」なんだよ。


普通の「荒らし」ってのはこの「聖域」って部分がないのね。あっても見せない。
だから荒らしても、どういう目的で荒らしているのか第三者にわからない。
菅沼遼太の場合は、この点においては単純明快だろ

749 :
アスペルガーだがは嘘吐き荒らし
自作自演が大好きなクズニート

750 :
>>746
家康が信玄を言うほど恐れていたとは思えんな
それならとっくに臣従してそうだな

751 :
菅沼遼太って働いてないのか
無職って楽そうでうらやましいな

752 :
信長が怖いから信玄に味方しなかった
信玄に攻め込まれてもだ
家康的には信長>信玄

753 :
子供の頃からの力関係も影響してんのかな

754 :
武田晴信って言うとたいして強そうでもないが
武田信玄になると途端に強そうになるな

755 :
まあ晴信時代の戦績は雑魚だからね
ほとんど勝ってない

756 :
などとデタラメを吐く織田ちょん

757 :
>>755
勝ち戦の方が倍以上あるんだけど?
落とすのに時間かかったのは砥石城と箕輪城だけ
しかも箕輪城の敗戦は大将が晴信でなく義信や信廉で、城主が長野業正
だいたい小県、佐久、信濃、西上野を取ったのは晴信の頃で既に領土だけなら最大の部類
有名な第四回川中島も晴信の時
誇張でも何でもなく真面目に、生涯通した負け数なんて片手で数えるくらいだよ

758 :
>>752
家康は嫌いだけども、日和らない所は好感もてる
そして戦国の世を終わらせたのは最大の功績だろう
秀吉は嫌いじゃないけど信長、家康と肩を並べて語られたくない

759 :
信玄が長野業正に敗戦したなんてのは軍記だけの話で、
一次史料にはまったく存在しない。

760 :

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
      ○
       O

.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
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   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈           
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,      と思う菅沼遼太であった
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
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:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |        

761 :
武田晴信って名前を聞くと信玄よりも逮捕された奴の方を思い出すよ。

762 :
>>751
こいつの場合逆に毎日イライラしてそう

763 :
夏といえば上洛スレ64自演自爆事件
屈辱的大敗を喫した菅沼くんの黒歴史

764 :
武田晴信と武田信玄は実は別人なんじゃないの?
肖像画も信玄はやっこさんみたいなやつで
晴信はもう少し痩せてる奴と
完全に使い分けなされてるし

765 :
「読むだけですっきりわかる戦国史」/後藤武士
というのを読んだら、信玄について過大評価だったんだなって思った。
過大評価と思った部分を抜粋すると、

・晴信が自力で取ったのは信濃だけ
・実績は信虎>>>信玄
・信虎は極めて有能。晴信の恵まれたスタートは信虎の恩恵
・信玄は女好きの評判
・謙信の存在を差し引いても「ホントは戦が苦手なのでは?」と勘ぐってしまうような戦歴
・信玄には戦略の点でこれといった道筋が無い

そう言われればそうだなって納得してしまった。

766 :
歴史好き一般素人向けの500円前後のゴミ本を読んでも
損するだけでなにひとつ得るものなどあるまい笑

767 :
褒めてる部分もあったよ。宣伝力はすばらしく、先見の明があると。

ただ、信玄が現在評価されているのは江戸時代に書かれた甲陽軍鑑によるところが大きく、
その内容には信玄が家中の教育で宣伝力を造成したことが影響してるとも。

768 :
具体例もなく曖昧でイメージで語ってるだけで意味不明。
その時点で糞本確定。

769 :
>>765
>>そう言われればそうだなって納得してしまった。
まったく納得できないので詳細を一次史料の根拠つきで書いてくれ。

それと信玄と誰を比較して過大評価だと言っているのかも教えてくれ。

770 :
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
上杉房定は守護領国制を完成させたと羽下徳彦氏も断じてるほどの名君。
そして自らは信濃半国守護を兼任し
息子を関東管領山内上杉氏の当主にして事実上の関東王状態

三好長慶が在世中の時にすでに朝廷は超金満織田家を頼り、
三好に内密で使者を送って上洛を促すくらい織田家は朝廷に覚えめでたかったからなー。
朝臣の立入宗継が三好や松永はほしいままに振舞ってると激怒し、
万里小路惟房も三好や松永は大したことでもないのに大騒ぎして嫌がらせするが、
君の御為に私たちは何度でも憂き目に合うのも覚悟のうちだと言って、
三好らに内緒で永禄5年11/9付けで、女房奉書を出して宗継に信長の清州へ伝えて、
皇太子元服費用と禁裏修理と御料所回復の要求をして上洛支援している。
どんだけたんまり財力あんだよ織田家
信秀評
備後殿はとりわけ器用で仁を持つ肩で諸家中のよき者と知れ渡っていた。
信長評
大欝気(おおうつけ)と言う言葉以外の言葉が見つからないほど

771 :
権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記)
此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、
カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。
勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。
それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で
見違えるような国にしたんだよな。

信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ
塩山向嶽禅庵小年代記

信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評
「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」
武田研究で有名な上野晴朗氏
「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、
北条と今川の友好関係が破れた。
このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、
対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」

信虎はホントに終わってるよな。
前年に大麦売買金額が安すぎて、しかも疫病まで発生して多くの人々が死んだと高白斎記にかかれる天災まで発生してたのに戦やって人民を苦しめていながら、
天文10年春は勝山記によれば百年内にも無かったほどの大量の餓死者を出してるが何も手当てした形跡すらない悪政ぶりで、
5月から諏訪と村上を勧誘して一緒に小県郡攻めをやる始末…
6月に今川へ旅行に出かけたから、悪行に限界がきて重臣たちによるクーデターでついに追放される。
7月になると小県郡へ上杉軍が攻めてくると単独で進軍した諏訪が謎の和睦をして小県郡は上杉が奪回。
これには村上と武田は下手したら挟撃されてたかもと唖然。
この年になっても穴山しさ命禄2年などと私年号を使って武田配下になってない始末

信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。
これは道三や信長とも共通した性格であろう。
一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た

772 :
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。

773 :
>>平和な甲斐に生まれる
どこが平和だよw甲斐国は実質、武田、穴山。、小山田の三国の合同政権で
しかも武田の支配していた地域は専横家臣だらけ。
結局、その専横家臣団によって武田の集権化を進め統合しようとした信虎はくにを追放され
専横家臣団に都合が良い傀儡として信玄が擁立されただけ。
>>信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
そうではなく、専横家臣団の意向で信玄が当主に祭り上げられてたくらい武田当主なんて誰もやりたがらない傀儡守護職。
それは戦国時代に大半の守護が家臣による下克上で滅んでいることでもわかる。守護を延命させる方が難易度が高い。
>>信玄にやりたいように政治ができる
>>287のように信玄の国の整備と経営の努力によって指導力を発揮していったことを周りが認めていった結果だ。
国人たちによる合議政権だから信玄の意見だけで勝手なことができるわけねーだろ。
>>父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
そんなことどこにも書いてない。お前の妄想。

織田厨の捏造歪曲の実例
信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ
信虎は在京守護としてほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、
甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。
越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、
信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた

穴山信君に関しては最近、面白い説が登場したね
武田家の外交を信玄から任され、義昭や六角やら三好やら蒲生やら朝倉との
書状のやり取りをしていた信君が天正2年〜3年で急速に外交権を奪われていったっていう
そして勝頼の従兄弟の信豊が外交権を奪い取った。
そしての信君は甲斐府中の中央政界から左遷され対徳川の取次役という閑職になり
ただの出先交渉機関に成り下がり府中中央からの命令を待つ身に落ちた
軍鑑で信豊と信君が武田滅亡の元凶って名指しされてるんだっけ。
特に信豊は武田の副将と言われ、勝頼と同年代でむちゃくちゃ仲が良かったとか。
信豊は戦も下手そうだし父の古典厩信繁とは比べられないほどの小人だったみたいだな。
しかも弟の望月信永を殺して望月家を乗っ取る為に長篠の戦いで勝手に撤退した疑惑もある。
穴山と対立して政権排除したってのもあり得る話だな。信繁さえ生きていたら穴山との対立もなかっただろうな

774 :

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
      ○
       O

.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈           
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,      後藤武士は糞、信玄非難なんて日本人の所業じゃない
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,    こんなムック本より俺のコピペを信じろ織田厨
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |        

775 :
>>765
基本的に戦争パターンが火事場泥棒、漁夫の利戦法だからな
弱ってるところの勝ち馬に乗って領土をぶんどるやり方
名将といえば名将だが、これでは失うものも大きい
そしてそのツケが次代にきた

776 :
菅沼遼太ってやつはホント使えねえなw

777 :
>>775
そう主張する根拠を一次史料をあげて具体的に説明してください。

778 :
>>775
特に今川家を滅ぼしたあたり、えげつないね。

779 :
>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。
武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。

それ北条氏照が
武田が今川を攻めたのも止むをえないと言ってるんだが。
そもそも義昭が甲越相の同盟の話を実現させようとしていたのを
今川が嗅ぎ取って、秘密条約をやるんなら、俺に内緒にせずに
俺を同盟の保証人として参加させてくれよと言ってきた時に
そんなのないよと隠していたのが北条。
それで疑心暗鬼になった今川が上杉との同盟を結んで武田挟撃を計ったんだぞ。
北条も義昭の使者が訪れているのを内緒にしていて同罪なんだよ。
だから氏照も武田の今川攻めを容認してる。

780 :
容認しているどうのの話ではないと思うが・・・。
攻めて領土を奪ったのは事実だからね。
ただそれも、戦国の世なので仕方ない。

781 :
阿さ

782 :
>>774
この信玄のAAかわいいな

783 :
菅沼遼太史観で言えば武田は清く正しい存在なので武田が悪いなんてことは絶対にありえません。武田の侵略略奪は綺麗な行為。ゲスの信長とは違うのです

784 :
自分の息子を自害に追い込んでまで人様の領地を奪うなんて、なんて綺麗な行為なんだろう

785 :
対上杉路線が行き詰まったから駿河に目を向けたというのは全くの見当違いでしょ
てかなんで上野を無視する? 信玄は本庄繁長を謀反させることに成功し、
信濃北端の飯山城まで北上する程、 当時の武田は上杉を追い詰めていた。
そこに上杉を救う為に今川による上杉との挟撃を策する動きだ。
だから止む無く本庄支援を断念することに追い込まれた。
だから越後との国境が封鎖されている冬期を利用して、
挟撃の野望を打ち砕く為に止む無く駿河に侵攻する必要に迫られただけ。
そもそも武田は上杉と敵対してるのにわざわざ今川と北条まで 好き好んで敵に回すわけねーだろ。
お前がいうように美濃に攻め込んだら、今川、上杉の挟撃に織田と徳川まで参加して 武田が包囲されるだろが。

>>息子すらぶっR悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。
これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してる
バカ長厨は江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてる。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてる
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?

786 :
刃向かった息子を許さず廃嫡した信玄と苦しみながら死んでいった義信
命令違反した息子を怒ったがちゃっかり軍を預けて息子に華を持たせた信長と織田存続に力を尽くした信雄
どこで差がついたのか。まあ親を追放した信玄に親子の情なんてあったとも思えんが

787 :
実際、信長も家督を譲ってなかったとも指摘されてるからなぁ。
信忠を岐阜城主にはしたけど。
ただ単に安土城に信長が移転したからだし。
その理由として信忠発給の書状があまりにも極端に少な過ぎて、
織田当主としての行動が確認できないこと。
そもそも出家して家督を譲るという事態には、
失政が原因で、装いを新たにして新外交方針で臨む表明でもあるし。
家臣団による強制家督交替と対して変わらない。
たとえば福川氏によれば大友義鑑の死去で後を継いだ大友宗麟にしても
大友宗麟が天正5年に後見していた義統へ家督を正式に譲渡したのも、
信長による対中国、対四国政策が本格化してきたので、複雑な同盟政策を展開する必要性が生まれたからだとしている。
備前の浦上宗景や出雲の尼子残党と同盟関係を構築するなど、大友の外交同盟政策は複雑化していってる。
佐竹義昭の死去で家督を継いだ佐竹義重も後見していた義宣に家督を譲渡したのは対秀吉外交が原因だし。
北条氏康も悪政が原因で氏政に家督を譲渡しているし、その氏政も武田の攻勢に上野国を失いそうになった甲相同盟破棄の失策の挽回のため
氏直に家督を譲り、武田とともに織田を敵視していた政策を撤回し、徳川の仲立ちによる北条と織田の婚姻同盟を推進する刷新からだし。
信長が本当に信忠に家督を譲っていたのなら、そこに信長のなんらかの致命的失敗による家臣団との軋轢がきっかけになっているはず。
何も問題が生まれなければ戦国大名というのは終身維持する身分であり、致命的失策が己の威信の低下を呼び家臣団により家督譲渡を強制させる。
元就が息子に家督を譲ったのは、 大内や正妻の父になった重臣内藤の意向だよ。
バカ元就がまた尼子側につかないように大内の人質としてホモ可愛がりした隆元に継がせた。
信長の場合は長篠で武田に花押が書けない身体にされたんだろ。

788 :
>>765>>784=信玄像として、とりあえず俺の中では確定した。

789 :
長篠で大勝したから岩村を3日で落とすと謙信に宣言した信長も
信忠が岩村で大苦戦して半年経っても落ちる気配なく困っただろうなw
家康がキレて清康を援軍に岩村に送り込むからって言われて
焦って織田の総司令官佐久間を援軍に送るからいらんって書状だしてるし
しかも全く落ちず、謙信からも過大戦果吹聴のウソ吐き野郎って見限られる信長www
ついに勝頼本人が岩村へ援軍に出発したと聞いて慌てて岩村と和睦www
和睦だまし討ちで岩村を手にいれてみたら
謙信が織田に宣戦布告で、いそいで勝頼に甲濃和睦を申し込む信長wwww
天正9年9/6に天皇が快川に国師号を下賜した時、 綸旨に「快川和尚は天下にその名が知れ渡っていて
朕は遥かに和尚の道風を聞き及んで感動しているので特別に大通智勝国師の号を授ける」と書かれ、
恵林寺の公式には快川と関係が深い武田氏が信長と敵対していたのに
この時期にこのような行為をする天皇の強い信長への反骨精神を感じたと評しているし
天正9年2/28に皇居で馬ぞろいを信長が行った時に、宣教師ヴァリニァーノに対して
信長が「予が国王であり内裏であり天皇に価値はないので会う必要はない」
などと答えているのを知った天皇の武田氏への救援の意味がこめられているとも言う。
また天正6年冬に大垣にいた南化が安土を訪問して信長から話を聞かされており、
南化が7年8/23付けで出した書状に甲濃和睦の文字が登場し
信長→稲葉一鉄→南化→快川→勝頼への窓口があったようで
天正9年11月以前に織田勝長返還という
甲江同盟の交渉への布石を信長が依頼していたとされ
信長は武田氏が織田領へ攻めてこないように愛撫活動をしていた。
しかし浅間山大噴火とともに信長による火事場泥棒が開始され、
この裏切り行為に激怒した快川が信長への抗議を込めて信忠に屈せず火の中に消えた。
美濃で強い影響力を持っていた快川は
尾張の半分を手に入れた斉藤義龍と対立し、義龍を宗教闘争で突然死に追込み信長を助け、
信玄が信長のために東美濃を譲渡した際に尽力し
その挙句に手のひら返しされた信長を暗殺したのが快川和尚。
まさに火に囲まれ死せる快川、生きる信長を焼死させたのである。
信忠が超絶バカだったからなー。 岩村城で苦戦して全く落とせない愚将ぶり。
仕方なく家康がうちの信康を派遣するからって言われて、
信長が信康に落とされたらやべえって織田軍総司令官佐久間信盛を派遣したのに
しかも信盛をうまく活用出来ずに落とせないw
結局、勝頼が自ら岩村城の援軍に出撃したのを知ると、
安全に撤退する為に和睦交渉を岩村城に申し出て、
人質交渉しにきた秋山を騙して奪うという天下に徳を失う愚人ぶり。
武田征伐でも川尻や滝川の後見無いとダメな無成長ぶり。
森や団らすらまともに統御出来ないバカぶりで、
森らは信忠の命令違反しても、武功をあげて信長に訴訟すりゃあいいやwって高を括り、
案の定、信忠の指揮が拙いから森や団は罰せられるどころか領地を貰い褒賞を受ける始末。
佐久間や滝川や川尻もガッカリした愚人信忠は本能寺の変で自爆する最上級のアホ
朝護孫子寺や諏訪大社や恵林寺らを焼き討ちした罰があたった愚か者破壊者ノブタダw

790 :
ナナメ読みしました。
スレチ

791 :
.      \   ソース?自分で調べろよ         /ナンダコイツ   ヒィィィッ
─────\       ∧_∧ ∩ ヴォケ!!   / ∧_∧     ∧_∧
織田厨はアホ!\   〈 `∀´〉ノ______    /  (; ´Д`)    (´Д`; )
───∨──  \  (入   ⌒\つ  /|.  /    ( つ ⊂ )    ( ⊃   ⊃
    ∧_∧     \  ヾヽ  /\⌒)/  |/      〉 〉 く く   //( (
   〈 `∀´ 〉彡   \ || ⌒| ̄ ̄ ̄|  /        (_.)(_)  (_) (__)
Σm9っ   つ      \∧∧∧∧  /織田信長 長篠合戦で大敗し半身不随 
    人  Y       <   菅 > 今川義元病死 武田信玄 上洛して天下統一 
   し (_)      <   沼 > 土下座 天皇のお墨付 焼死 騙まし討ち
              <   遼  > それよりも そうじゃないことを証明しろよ
─────────< 予 太 >─────────────────
             < 感 の >   < 菅沼さーん!家賃払ってくださーい!
  __ ナニコレ…   < !!!    >   
 ||daga Λ_Λ    /∨∨∨∨\
 ||__(Д`; )   /バカ長厨  だ\       ∧_∧
 \_ ⊂´   )./じゃあお前も   ね\     〈 `∀´〉 < 織田在日は歴史を語る資格なし!
     (  ┳/運だけ 転載乞食   え \  _(__つ/ ̄ ̄ ̄/_
       / 氏は信長を ネット廃人カス子 \   \/      / カタカタ
      /だが 一次資料を たのは間違いない\

792 :
的外れなこといってんなー相変わらず

793 :
氏真裏切って信長と先に同盟結んだの信玄なのにねえ

794 :
そもそも織田と今川は領土接してないから関係ないだろ。
今川の敵はあくまで主君に謀反した家康だろうし。

795 :
氏真は織田との同盟は敵対行為と見なすって言ってあるのに先に織田と同盟しといてそれはないわ

796 :
氏真は織田との同盟は敵対行為と見なすって言ってある←その一次史料は?

797 :
氏真は織田との同盟は敵対行為と見なすって言ってある←その一次史料は?

798 :
そもそもの原因は今川が桶狭間で負けた上に徳川に独立されたことにあるのに
それはないわ

799 :
越後侵攻失敗して南進戦略に切り替えただけ

800 :
同盟破ったのは信玄じゃなく氏真だよ
同盟ってのは均衡を保つ為に結ぶものであって、それぞれの国に相互利益が保証されて始めて履行してると言えるもの。これは理屈でなく、単純に事実
氏真は政務を怠り、家臣を掌握せず、松平の独立を助長してしまった
この時点で氏真側が同盟に違反してるも同然
そうなったら損するのは北に敵抱えてる武田だ
松平にやられる前に駿河取ろうと考えるのは当然

801 :
なんだ?その酷い理論はw

802 :
>>800
お前バカだろ?
信玄が同盟を破ったことも知らんのかド素人
全く嘘ばかりで詰まらない
何で史実を見ようとしないんだ?

803 :
そもそも一次史料の義元は不慮の死と書いてあって突然死だし。
討死と書いてあるのはことごとく写しの書状だけwww
信長公記首巻の桶狭間の戦いの年もまったくの出鱈目だし
あきらかに信秀が義元軍を撃退した時の戦いをリスペクトしてるだけwww

804 :
桶狭間の戦いが存在しなかった事を証明したら、余裕で大学教授になれるよ。
控えめに見ても小学校〜高校の教科書が全て書き換わる。
これ以上この件については一切口外せず、誰かにパクられる前に、
早く論文書いた方がいい。

805 :
ここまでくると信玄信者って言うよりも、信玄信者=キチガイってイメージを植え付ける為のネガキャン君に見えてくるな

806 :
昔はたまーにそう言われてたんだけどな
菅沼遼太自身は織田厨で、信玄マンセーはネガキャンだと
ただ、菅沼本人が自分が織田厨だと主張し始めて、自分の悪行を織田厨になすりつけ
はじめてから、これはないなと住民に思われて下火になった

807 :
>>806
菅沼文太くんちーすwww

808 :
江戸時代の奉公じゃあるまいし、和議や同盟破るのは悪い事だとは思わないんだが
まして戦国時代、他国に負けて断絶するよりは大正義だろう

809 :
アスペルガーだがの自己否定は夏の風物詩

810 :
幕末の故事なので時代は違うが勝てば官軍の通り、同盟破りやら何でもありなのはいいけれど、結果断絶してるのでは意味がない
歴史に興味を持ったきっかけが信玄公だから好きなのだけど、無批判に評価するのとは別問題だと思う

811 :
信玄のなりふり構わない和議違反、同盟破棄の負の遺産は勝頼にのし掛かってしまったね
信長の甲州攻めでは信頼がないおかげで逃亡や寝返りが相次いで早期崩壊してしまった

812 :
餌に釣られてついてきた家臣だから餌が無くなって他から投げ込まれればそっちに食らいつくのはしょうがないわな
人は石垣…てのは信玄自身が学ぶべき心得だったのかもな

813 :
おっと信玄じゃなくて信長と勝頼だな。

814 :
>>811
それは信長のことだろアホw

815 :
もう史学界もいい加減、桶狭間の戦いなんて無かったと認めるべき時がきてるね。
ぶっちゃけ天文19年8月2日に大雨洪水が発生したのを機に今川義元が駿河・遠江・三河の5〜6万の大軍を率いて
知多郡の織田へ攻めてきたが、信秀が国境を支えて侵攻を許さず12月には今川軍を撤退に追込んでる。
この日覚の本成寺への書状内容が桶狭間の戦の元ネタで定光寺年代記にも同様の内容がみえる。
その後、信秀主導で今川と織田は無事を結んで(朝廷は御所修理費などが欲しくて、将軍も三好と戦うために近江・美濃・尾張・駿河の無事を願った)
天文21年に信秀の死を挟み信長が弘治2年3月に今川攻めするまで平和だった。
信長公記は信秀死去を前にずらして天文21年に信長によって桶狭間の戦いが起きたことに順序を逆にしてる。
桶狭間の戦いは信秀によって起されたものであるのは明らかで、
公記は今川の侵攻年と信秀の死去年を交換して調整してる。
現代の史学者は公記の天文21年を書き間違えただけで、実際は永禄3年と書くつもりだったなどと
大きく改変してまで桶狭間の戦いで信長が勝ったなどとウソにウソを重ねて史学者として恥ずかしくないのかねぇ
誰が書いたのか不明で江戸時代に付け足された信長公記首巻に出てくる、
信長が戦った合戦に関する一次史料はすべて偽書状とされてしまい、
もはや首巻に書かれる信長の戦いはすべて架空話になっちまってるからな。
桶狭間だけはあったなんて都合が良い話が認められるわけが無い
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。
そこに義元急死、 遠州総劇が勃発し、
駿河と三河の連絡線が切断されたことを良いことに家康が自立し、火事場泥棒で三河を盗んだだけだし

816 :
信長は信秀の遺産として三河国碧海郡を中心とした水野氏+尾張国+美濃大垣+信秀姉妹の美濃岩村を領土としていた。
他に婚姻関係の下に斉藤道三の後見と
信秀の献金力を背景として朝廷と六角氏の圧力で今川義元が土下座して織田との同盟を結んでいた。
鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
(鳴海を今川が調略していた証拠はなく、ただ単に信長が見限られ離反されただけ)
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。

そもそも一次史料をみる限り、どう考えてもすでに清洲城に織田敵対勢力なんぞいないわw
清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統は天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に消え去るので間もなく死去と思われる。
清洲城主尾張下郡守護代織田大和守信友は架空人物。
岩倉城主尾張上郡守護代織田伊勢守信安や子の信賢も江戸期の軍記の架空人物。
織田信清も軍記の架空人物。ただ犬山城は金山城などと共に斎藤氏が信長から奪って支配していた可能性が高い。
織田信光は名古屋城で信長に暗殺されたっぽい。
美濃では婚姻同盟を結び、北条とも通信し、
美濃と尾張の協調を背景に三河戦線では今川に同盟したいなら刈谷城を水野に返すように迫り
朝廷が和睦するように申し出ても拒否していた今川だったが、信秀の恫喝の前には城を差し出す
これで岡崎が動揺して東条松平家の甚二郎が織田方になっちまって、あわてた岡崎城代たちは甚二郎の弟を引き上げて兄跡職を給与してる。
美濃では大垣を確保し稲葉山城を牽制する状況で道三を折れさせて濃姫を人質に同盟
三河では水野氏を以って三河西部に足がかりを残し、信長は万全の体制のまま引き継いでる。
(今川は北条が駿河や遠江の国人と内通していたりと地盤が弱い)

817 :
信秀って日本一の金持ちだったよな。
天文12年の1月に信秀が四千貫を内裏の四面の築地代を献上した時に、
あまりにも桁違いにデカイ金額に朝廷も驚いてるし、
大和までその豪勢さが響き、
多聞院は口先や書面上での話では無く、
早くも修理代を進上してしまったそうだと、
驚きのあまり信秀の行為を不思議の大営だと感心してる。
しかも4月末に平手が信秀名代で上洛してくると、
今度は経費代(要脚)として、
さらに十万疋を朝廷に進上する凄まじさ。
本願寺も信秀が門徒を弾圧する悪党だとは言うものの、
超絶富裕っぷりの前では、
もう平手を丁寧にもてなすしか無い始末。
どんだけ超絶金持ちだよ。
天文9年の5月に伊勢神宮外宮の造営費を信秀は出したばかりだしな。
伊勢神宮内宮の仮殿造り替え費用だけは、
六角定頼が負担してくれたが、
外宮の金が全く作れず難渋し、
院宣上意も公武御教書が出されても誰も金を出さないから全く意味なく
ただ威信が落ちていくだけで、
ついに信秀に懇望したところ、
信秀が則御納受・則御同心して負担してるからな。
よっぽど伊勢神宮側も嬉しかったのか誠に相叶本懐と平手宛の書状に書いてるし。
織田家の人望たるや轟いただろうね。
5/11と5/29の二回も信秀と平手に大感謝してる。
6/6に信秀と平手が、一神主へ宛て、
織田家への大感謝の気持ちを込めて、
神宮一同抽懇祈丹誠の気持ちで一万度御祓太麻を進呈した感謝状を出して答礼してるし。

818 :
>>旧織田家臣団も誰から領地安堵の発給を受けるのが一番信用でき安心できるか?という切実な要求が発生した。
易姓革命に似てるところがあるんだよね。
人望や実力が権威を上回り下克上を経ずして
あくまで下々の選択による要求で主人の変更がなされるという。
天文12年2/21の守護代織田大和守達勝安堵状には
「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。
この主客転倒した逆転現象は巨大な衝撃である。
熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
下々が上位権力を信用できず、今の世の中においてこの人物なら
自分の領地や相続を保証してくれるに違いないと認めることで世間公認の政権交替が発生する。
長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時は
「何様御屋形様御定りの上、継目の御判、追って申し沙汰すべきもの也」
などと上杉による御判が後で出されるので安心してください」
という文面があり最後まで上位権力を凌ぐことができず、
続く謙信政権でも知行安堵書状に「御屋形様御判の儀は追って申し成すべく候」
と上杉氏による最終保証がないと家臣団は納得しないのである。
長尾政権が長く苦悩していた上位権力による政治機構が簡単に解体されていく姿が
織田信秀により尾張に生じているのである。
(一方、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで
越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
天文16年(1547年)に義輝が斯波氏を廃絶して、斯波邸を自らの邸にして
事実上、斯波氏はこの時をもって滅亡している。
ちなみに一次史料上では清洲城で傀儡になっていた尾張守護斯波義統が
天文13年に稲葉山城攻撃中の信秀の援護射撃で禁制を出したのを最後に
消え去り尾張国における斯波氏の活動は消え去りいち早く信秀により滅亡させられたと考えられている。

819 :
中身のない長文ってキモイ

820 :
2ちゃんに書き込んでないで学会に発表しましょうね

821 :
>>815>>818は、テキストエディタに全文コピペして「武田」・「信玄」・「晴信」など探したが無いです。
つまりスレチなので読む必要無しです。

822 :
>>811
金子氏も信長は国境を接していない時は友好的だが、
国境が接し始めると途端に自称「おれは天下を仰せつかっているから、おれの命令を聞け!」などと
途端に豹変して友好関係を破棄して攻め込んでくるって書いてるし。
裏切りを繰り返しているのは信長だし、
信長が死ぬや美濃や尾張からもまたぞろ謀反人が現れたと秀吉が書いてるように速攻で信長領は崩壊してるわけだが。

823 :
主君と後継者がいっぺんに死んだらそりゃあ各自勝手に動くわな

824 :
>>821
サンクス
かけらも読まなかったわ
>>815-818
長文投下するなら、最後に「4行以下の要約」書け。
そしたら無駄なスレ違いゴミコピペかどうかすぐ判断できて、
俺たち住人様が粗大ゴミ再利用として読んでやってもいいと思うかもしれへんぞ?

825 :
>>815-818
>もう史学界もいい加減、桶狭間の戦いなんて無かったと認めるべき時がきてるね。
この一文でID:ONuJRZx4のレス(>>815-818)は嘘で埋め尽くされていることが分かる。
日本ではそんな恥ずかしい嘘を主張する人なんか皆無なのにこの痴れ者は馬鹿なのか?
日本で使用されているまともな歴史教科書でも読んで日本という国をしっかり学び直せ。

826 :
歴史教科書はどんどん変わっていくから、必ずしも正解じゃないけどな。
主張する人が皆無=嘘
というのは多数派信仰に侵されすぎだろ。

827 :
>>826
そういうことは変わってもいない時に言っても無意味ですよ。
ID:ONuJRZx4さん、ID変えてまで必死杉。

828 :
なんで馬鹿(菅沼含む)って明らかに自分より賢い奴に噛み付くんだろう?
822と824は同一人物だぞ?

829 :
噛みついたおまえが一番の馬鹿ってことでOK?

830 :
はいはい、それでいいよw

831 :
それじゃ菅沼以下のクズは君で決定
これなら菅沼も満足だろう

832 :
調べたら、武田二十四将って、黒田家の二十四騎よりも成立したの後なんだよね。
黒田家の家譜に24騎すでに出てるから、武田二十四将の成立はそのあと。

833 :
菅沼遼太のような見栄っ張りが当時にもいて
テキトーにそれらしい家臣ピックアップして並べたんだろ
正直大した勢力でもないのに顕彰者が20人近くもいると微妙感が拭えんけどなw

834 :
いい加減に信長信長とうるさい馬鹿は信長スレでもたててそっちに行ってほしいわ
比較するのも今川や北条や長尾上杉としてほしいね
もしくは同時代にいた九州や中四国や畿内の大名
信玄が病気にならず家康を攻め続けたら〜みたいな仮想話はもう飽きた

835 :
秀吉からお前ら動員あまりにも遅すぎるアホなの?などと激怒された毛利軍を始め、
一揆的結合や寄親寄子の中世前期のままの後進国だらけの中国九州の大名を語る必要性を感じない。

836 :
上杉氏との戦いで味方が2倍以上の大軍なのに厳罰覚悟で敵前逃亡した秀吉が、
ほぼ単独で毛利相手に連戦連勝なんだよな。
こうなってしまうと、逆に比較が難しい。

837 :
???
寄親寄子は武田信玄及び武田家に関わってる重要な仕組みなんですがそれは

838 :
言うまでもないけど今川や北条も寄親寄子
武田今川北条の3国同盟は仲良く寄親寄子を採用してた
常識だけど

839 :
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。しかし武田は6万動員してる。
武田や上杉や北条を見習った秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、
海外遠征まで実現できた。 また武田の制度を導入した家康が頭角を現しているのも納得できる。
織田のような略奪による現地調達方式からそういった
信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて3万の壁を越えて大軍を一戦場に集中できるようになるのか。

840 :
6万も動員して信長に勝てなかった雑魚信玄wwww

841 :
そんなことより暗君で無教養な秀吉を然り気無く信玄と同列に起き、家康には少ししか触れてない
軍隊の秩序がどうであろうが勝てなきゃ意味ないし、政権が続かなきゃ元の木阿弥
この「秀吉の軍隊は近代的」論はほんと無意味

842 :
信玄謙信>>>>家康>>>>秀吉>>>>中国九州の大名
でOK?

843 :
アンチ秀吉の在日涙目乙www

844 :
>>843
政権が続かなかった点については秀吉も信玄も同列だろ。
菅沼君は頭大丈夫か?

845 :
家康なんてすべてが劣化コピーのかたまりじゃんw

846 :
秀吉はまがりなりにも天下取ったわけだが
信玄は具体的に何したの?
甲斐信濃とかいう当時も現在も田舎っぺしか
行かないような山国でお山の大将こいてただけじゃん
信玄と秀吉が同列とか唐入りの朝鮮攻撃を憎んだ在日くらいしか主張しないわw

847 :
実際、家康政権は旧武田家臣団と旧北条家臣団で組織された軍団だからねぇ。
織田系は秀頼の叔父と言う立場で全て大坂方だったから。

848 :
その主力で秀頼の特別待遇相談役の信雄さんが
大坂冬陣寸前にふくらはぎがつって痛いから
大坂を出て京の石風呂で養生するわって
妹の岡崎殿(天正12年に秀吉に降伏する際に人質として出した松平信康室)
のいるトコへ逃亡したからね。
皆々が信雄の行動が予想外過ぎて奇特な行動って不思議がった。
ガチのヘタレ。

849 :
徳川信雄連合軍との戦いで
信雄と家康派遣の将を桑名と長島に
秀吉が追い詰め、高台から桑名を眺めた秀吉が、
信長様の恩を思うと信雄を絶対に助けたいから和睦したいって涙したって
申し出たって竹中半兵衛の孫が豊鑑に書いてるよな。
それで信雄が出てきたから秀吉が何も罪に問わないからってことになり
感激した信雄が秀吉に親子の誓いをしたんだけど
秀吉は家康を許すつもりがなく、三河に乱入して焼き払うって言った。
信雄は子である私に免じて家康を許してあげてって
種々懇望しまくったから、家康を許してあげたんだよね。
そんな大恩ある信雄を家康が冷遇してたから
大坂で生活保護を受けていたんだよね。
関ヶ原後の大名級大坂衆No.1だったのが織田信包。
ちなみにNo.2が片桐。
冬陣では逃げた信雄に代わり大坂城籠城していた
同じ秀頼卿御親類執事の有楽も夏陣寸前に逃亡。
豊臣政権首脳のお市と信雄と有楽がアホ過ぎてな。

850 :
豊鑑を書いたのは竹中半兵衛の子で
実際に信雄家康との戦いの戦場にいた重門だった。

851 :
秀吉は信長様の慈しみをありがたがっていて、
織田の後継をキチンとして恩に報いたいって感じていて
信雄と戦いたくなくって、信雄とは和睦したがっていたからね。
でも信雄が底抜けのバカなんで。
まぁ信長生前から三介さまのなさることよ笑って織田家臣団から呆れられていた信雄だからね。
ちなみに三介とは上総介や上野介や常陸介の三つを兼ねており事実上の関東支配者であり、
信忠の秋田城介に比べて優遇されているとし、
また北畠家という鎮守府将軍として幕府を開く権利ある高い家格も所持していて
実は信長後継が信雄になる可能性がかなり高かったとされている。
少なくとも信孝を討つどころか信忠を朝廷のために討つ正当性を信雄の家格には内包されていた。

852 :
>>849
>徳川信雄連合軍との戦いで 信雄と家康派遣の将を桑名と長島に 秀吉が追い詰め、
>高台から桑名を眺めた秀吉が、信長様の恩を思うと信雄を絶対に助けたいから和睦したいって涙したって
いやいや追いつめられてたのは秀吉の方だよ。
秀吉は小牧長久手後も雑魚の信雄に負けまくってる
小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
雑魚の信雄に、秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉の配下として、秀吉の意志を伝達する役割を与えられていて実質的に信雄が東国取次役
秀吉が、「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座する際の、取り成し役をやれやれと思ってやってただけ。
佐々攻めの際とか、家康の上洛要請の際とか、秀吉はギリギリまで家康討伐を考えていて、各大名に宛てて出兵計画立てまくってたが
直前になるとビビリまくって信雄に取り成し頼んだり、母や妹を差し出したりして家康に土下座してるのが秀吉。
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

853 :
>>849
http://iup.2ch-library.com/i/i1495793-1440639248.jpg
上記の史料を見ればわかるが、和議自体秀吉が信雄に負けまくり
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。

854 :
>>849
>信雄は子である私に免じて家康を許してあげてって種々懇望しまくった
いやそんなこと微塵もしてないよ。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座依頼してるのが11/4の秀吉→顕如への書状でわかる
また秀吉は天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
しかし直前になると秀吉はビビりまくって信雄を仲介に送って戦争を避けてる

855 :
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

856 :
家康が秀吉に養子を出したのって
北条が藤田や大石家に養子を出したり
毛利が吉川や小早川に養子を出したりした
織田が神戸・長野・北畠 などに養子出したのと同じ事でしょ。
屈服させた相手に、関係を強固にしたり、自家との一体化や支配を強固にするために
従属下の大名に養子出しただけ。
小牧長久手の結果秀吉が家康に土下座して顕如に取り成し依頼してもらったり
母や妹を差し出して家康に土下座して講和してもらったり
250万石やチート官位差し出す等土下座しまくってるし
結局それが原因で豊臣家を滅ぼされる事になったんだから家康の圧勝でしょ。
秀吉なんて指揮采配能力じゃ家康どころか信雄相手に蹴散らされまくった雑魚じゃん。

857 :
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし

858 :
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、お情けで秀吉を生かしてやっただけ

859 :
秀吉は雑魚の信雄に敵の8倍の兵力で挑みかかって大敗し
11/4に顕如に土下座して信雄との停戦の取り成しやってもらって
家康を孤立させた癖に家康相手にも自力では全く何もできず
寝返りの連鎖・天正11年からの災害の連発に備えた徳政令連発・石川らの離反による軍事機密露見で
領国が崩壊した自国の10分の1以下程度の国力の家康に必死に土下座して、従ってくれ〜と母や妹に加えて関東240万石まで差し出すヘタレっぷり。
結局自力では全く歯がたたないから滅ぼされたってだけの事だろ。
家康が温情深い性格だから、自分に土下座してきた相手だから仕方ねぇって家康は何もしなかっただけ。

860 :
指揮能力や采配能力が劣っていようが数でごり押しすれば勝てるのが戦だが
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

861 :
それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
5/9の家康書状にも二重堀で勝ったなど書いてないし、5/9の信雄書状も秀吉が小牧から引き払って
濃州の境目に逗留してるから喰い留め置くべく一戦、是非手合わせ油断べからずと書いてて
二重堀で勝ったなんて書いてない。むしろ家康が消極的でビビっている反面、
信雄の方が秀吉にビビってない。
だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
キチガイ織田チョンは「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
しかも秀吉は大坂へ納馬する時もきっちり手を打っていて、上杉の新発田攻め計画を止めさせて
8/2に上杉景勝が家康与党攻撃で北信濃出兵してるし(6/25の段階では新発田を討つため近日越後下郡出馬予定だったが)
続いて10/26には佐々を攻撃して越中宮崎城を攻略してる(来春には必ず下郡出陣したいと10/10には述べてる)
また中国四国戦線では毛利軍が四国へ上陸開始し
8/21には毛利軍の杉原就良が大筒を使って伊予の新居郡御代島の構を落として
そのまま伊予に駐留開始し、長宗我部は毛利への対応を余儀なくされ讃岐攻略作戦どころではなくなったw
そんな状況も知らない情報諜報能力の皆無な家康・信雄は長宗我部に三カ国を宛がうからと
執拗に執拗に上陸して秀吉の背後を襲ってくれ書状の連投(淡路すら長宗我部のものでないにも関わらず)
家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
>>蟹江合戦の敗戦
この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
反論あるなら一次史料で証明してみせろよ。
>>二重堀合戦は家忠日記にある
お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ
細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
5月朔日たる5/1には秀吉が小牧表から移動したと家忠が書いてる。
4/26時点ですでに秀吉は美濃鵜沼へ陣替済なのを家康は知っている。
ちなみに5/2付けで秀吉は犬山に加藤、羽黒に山内、楽田から小牧原は堀、
尾口西南は稲葉に守備を任せていると書いてる。
同じ5/2で秀勝らが竹鼻城攻めを開始いてるのが信雄書状でわかるし、
5/3に信雄も長島へ帰ってるのが家忠日記でわかる。
5/4に羽柴勢が加賀野井城の包囲をしてるのが家忠日記でわかる。
5/5の秀吉書状でも5/3に竹鼻・祖父江を放火しまくり
加賀野井城の外構を乗り崩し5、60討ち取り堀一重に押し寄せ陣取りと書いてる。
それに対して家康や信雄は救援すると口約束をするだけで見殺しにしてるだけ。
あぁ?家忠日記のどこに二重堀合戦の記述があんだよ?嘘ついてんじゃねーよw日付明示してみろよw

細川家記とは現在では綿考輯録と呼ばれていて
明智軍記からの引用もあって見事に怪しさ倍増になっている。
(本能寺の変から120年後に書かれた明智軍記から40年後に細川家記が書かれている)

862 :
つか細川家記の作者はアホだから在日くん同様に
二重堀が実は町の名前なのを知らんで書いてるのが笑えるんだよなwww

863 :
相変わらず自演は楽しいかね?菅沼君

864 :
伊木文書
如此申遣候處、家康儀頻懇望候間、人質請取相済候、可被得其意候、態申遣候、
一 此表之儀、長嶋・桑名押詰、城々数ヶ所相拵、即縄生城(伊勢国)に秀吉令越年、
  長嶋一着申付候ハん躰を信雄被見及、就衍懇望、令同心相済候条之事、
一 人質覚、信雄御實子併源五殿(有楽斎)實子・滝川三郎兵衛尉(雄利)・中川勘右衛門尉・佐久間甚九郎(正勝)
  ・土方彦三郎(雄良)・松庵(雑賀)以下、何も實子又は母出人質、何様にも可為秀吉次第由被出誓帋事、
一 北伊勢四郡相渡、今度拵候城々、敵味方破却之事、
一 於尾州者、犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)秀吉人数入置、其外新儀に出来候城々、敵味方破却事、
一 家康儀、之又同前懇望候、雖然今度信雄若人を引入、対秀吉重々不相届儀候条、即三州表押詰、
  存分に可申付覚悟候處、家康實子・石川伯耆以下出人質、何様にも可為秀吉次第由候、併信雄御外聞候間、
  侘言由、種々信雄懇望候へ共、秀吉対家康存分深候間、思案未落着、就不免置者、日來可散無念雖心底候、
  莵角打任躰にて候を聞候えば、我々慈悲成覚悟にて候条、過半可免候歟、心中難計候事、
一 右之分候えば、悉隙明候条、五三日中可納馬候、猶追々可申候也、
十一月十三日 秀吉 朱印
伊木長兵衛尉殿(忠次)
同文で他にも池田丹後入道&荒尾次郎作宛てや土蔵四郎兵衛尉宛てなどが存在するので偽文書の疑いはない。

他にも下記のような書状もある。
態令啓候、此表之儀御無事相調、去十五日に三介殿被成御参会、即、十六日に秀吉様御馬被納候、
今度御入魂之御仕合中々不大形儀候、天下静謐之段誠以珍重存儀候、家康近日人質可被出之由候間、
定而其節い各可為御甘与令察候、此中御苦労不及是非候、次尾州表為城破、拙者可罷越之由被仰出候、
被成御意候處、又御用被仰付罷帰候、何篇此方へ御帰之刻、旁々可承候間、不能詳候、恐々謹言、
十一月十七日 小野C重次(花押)
藤堂高虎様 人々御中

865 :
顕如日記にはさらに秀吉が
家康長男の嫁である岡崎殿も人質に取ったと記録してるんだよなー。

866 :
>>864
それは明らかに秀吉の誇大喧伝
9/23の織田信雄書状には
追而染筆候、羽柴此中無事之事、色々雖懇望候、一切無許容、此節可遂本意覚悟無二候間などと全く逆の事を書いていて
一方秀吉は9/8丹羽宛書状、前田あて書状  9/9秀吉→あて先不明 書状などで 信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などと真逆の事を書いていて
どちらが正しいのかと検証すると、秀吉はなぜか9月の時には11月と同条件の信雄の懇望を許さず
11月には許すという間逆の行動をとっている上に、秀吉はhttp://iup.2ch-library.com/i/i1495793-1440639248.jpg
のように天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼してる
この事から言えるのは秀吉に言ってる事は誇大喧伝ばかりで、家康や信雄の子を養子として取ったのを人質として取ったという事だけ。
秀吉の小牧長久手の戦果の誇大っぷりは下記の学者も指摘してる
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

867 :
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

868 :
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。

869 :
>>864
まあ顕如日記は秀吉の誇大喧伝フィルターによって歪曲された情報ばかり書いてるからな
下記を見ればわかるけど一次資料と照らしても大嘘ばかり書いてるし
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。

870 :
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ

871 :
>>861
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこない
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
>>明日から竹鼻城の包囲を開始すると書いていて秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
秀吉の方が小牧長久手で1万人ぶち殺されて楽田から大敗走し、8倍も兵力差ある状況で
家康や信雄から逃げ回って、家康が絶対に出てこれない木曽川筋を攻めまくってたのを
秀吉が家康が小牧に引きこもってるから会戦できないとか捏造をデッチあげてるだけじゃん。
つうか兵力差から言っても普通に城攻めするには十分すぎるし、小牧山周辺の砦を一つ一つ落していけば家康は自然孤立する
のは目に見えてるのに、家康や信雄にビビリまくって二重掘合戦に大敗して楽田から大敗走したのが秀吉じゃん。

872 :
>>864
>伊木文書
>
>如此申遣候處、家康儀頻懇望候間、人質請取相済候、可被得其意候、態申遣候、
>
>一 此表之儀、長嶋・桑名押詰、城々数ヶ所相拵、即縄生城(伊勢国)に秀吉令越年、
>  長嶋一着申付候ハん躰を信雄被見及、就衍懇望、令同心相済候条之事、

これだけで秀吉の書状の内容のハッタリっぷりがよくわかるな。
まず第一にこの書状で秀吉は即縄生城(伊勢国)に秀吉令越年、長嶋一着申付候ハん
などと書いているが、
秀吉の10/28丹羽長秀宛書状には
此表二二十日計も隙入可申候条、執出出来次第、至大阪可納馬候
更に11月10日秀吉→大井 秀吉→土井 秀吉→には
執出数か所相拵、悉明隙候条、頓而可納馬候と書いてるし
11月11日の秀吉→津田  宛先不明書状でも
此表儀取出以下丈夫二相拵、悉明隙、二三日中可納馬分候
などと書いていて秀吉は納馬予定だったのがわかる。
第二に秀吉は、人質請取相済候などと大嘘を書いてるが
これは小野木秀次の11月17日の書状で論破済みだ。
11/17小野木→藤堂書状 家康近日人質可被出之由候間  つまり家康は11月17日時点でも人質を出していないのに秀吉は13日に人質を出したなどと大ぼらを吹いてるんだよ。
さらにこの書状によると
去15日に三介殿被成御参会、則十六日二秀吉様御馬被納候、今度御入魂之御仕合、中々不大形儀候
と書いていて秀吉と信雄の間は「入魂」といって親密な仲、つまり仲間のような関係であって臣従したわけではない事がわかる。

873 :
>>861
>>秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)

滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。

874 :
いつ見ても武田じゃなくて他の大名の話してるなココ
武田珍玄が人気も魅力もないからって他の大名の話ばかりしてたら可哀想だろ

875 :
>>861
蟹江合戦が滝川の単独行動というのは絶対にありえない。
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
蟹江合戦が秀吉の作戦というのは下記も根拠になる
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

876 :
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

877 :
霜月23日皆川→浅葉書状
将亦其御国(三河)之儀、羽柴筑前被及対人候之処、於度々御勝利之段、天下無其隠候由風聞候、誠家康御名誉不及申上候、余御無沙汰背面目候条
羽柴ト者御無事二可罷成之由存候、委細此者可申上候間、不能具候、恐々謹言

878 :
長い
以上

879 :
このキチガイ在日織田チョンのコピペ爆撃まじうぜぇ。
他人のレスを盗用改竄の上で武田厨のフリをして自演して気持ち悪いし。
鴨川達夫先生も小牧長久手での秀吉軍の被害は3000であり、
1万というのは家康側の誇張吹聴だと断じてますね。
2011年5月に鴨川氏が発表したあと、
誰も反論する人がいないよね。なんで、ほぼ決着したね。
そうだね。鴨川の発表に反論した学者は誰もいないよね。
そりゃ今までのは徳川幕府史観のただの家康贔屓だから反論できるわけがない。
キチガイ在日コピペ爆撃アンチ秀吉の織田チョンは
藤田達生編 小牧・長久手の戦いの構造
っていう2006年の大昔の糞本を持ち出して必死なだけのアホだから
相手すんな。白峰旬や谷口などと、さも分けて書いているが
すべてこの本に書いている古いもんばっかで
誰もいまさら見向きもしない。
鴨川氏は小牧を半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略。
しかし秀次が暴走して岩崎より先に進出してしまったのだろう。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観いよる捏造歪曲なのでしょうね。
織田在日アホすぎwお前こそ自分の都合よいものだけしか抽出してねーし、
しかも捏造歪曲しまくりじゃんw
鴨川は一次史料の原文書状を確認し一字一句レベルでキチンと読み込む達人だしw
鴨川は武田、毛利に続いて秀吉研究をしていたからな。 だから誰も反論できないのよ。
原文書状確認作業やれる人は限られてるからな。
むしろ小牧・長久手の戦いの構造って本の方がまったく
史料列挙してねーじゃん。ウソはいてんなよ。
幕府史観のままに疑念もなく家康勝利を前提にした結果ありきの
願望妄想を背景に戦を論じてる本だろうが。
そんな8年も前の当時の常識で語った本なんて読む価値すらないわ。

880 :
鴨川氏 戦いの模様を再現する時はやはり当事者の書状をおいて他にはありません。
後世の著作家による伝記や家譜、合戦記や軍記物語などは
当事者の書状とは同一視できませんし、してはいけない。
合戦記や軍記物語もそれなりに真面目に作られているのでしょうが、
今日の学術的な研究とは違います。
谷口氏 後世の著作物の性質については例えば、
戦国武将たちの死去の年月日や享年を確かめる作業についても
「何の裏づけもなく作られたいい加減なものばかりである」
堀氏 徳川史観に影響され続けていることにわれわれは注意しないといけない。
江戸幕府は林羅山に秀吉が足利義昭に養子入りを断られ仕方なく関白になったと
書かせていますが、実際の秀吉は多聞院日記によれば、
天正12年10/16条において秀吉は天皇に将軍任官を勧められたが断ったと書かれています。
史観によっていつのまにか源氏しか将軍になれないとする言説が流され信じられてきました。
また小牧長久手の戦いと徳川史観も密接でその虚構性がよく現れています。
小和田氏が指摘したように家康は実際「長久手の戦い」と呼ばれている局地戦で勝利したのみでした。
実際の戦場は小牧長久手よりも遥かに広範囲にわたっています。
美濃や伊勢なども含めて全体像をみると、実際は秀吉の勝利だったのです。
だからこそ跡部氏が指摘したように信雄も家康も秀吉に人質を提出して停戦したのです。
(秀吉の人質策 藤田達生編「小牧・長久手の戦いの構造)
そして家康が勝利したという「長久手の戦い」も実際には岩崎城を奪われた家康が、
何とか長久手で秀吉軍を捕らえて逆転勝利に持ち込んだに過ぎません。
この局地戦の焦点は岩崎城の攻防にあったのですから、本当は「岩崎城の戦い」と呼ぶべきでしょう。
しかしいったん岩崎城を奪われたことを隠蔽して家康の勝利を強調するため「長久手の戦い」と呼ばれるようになったと
鴨川論文で明らかになりました。

881 :
続く2014年6/10発表での鴨川氏は三河から尾張を分断すべく
小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画だとしているね。
楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
しかし秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう。
森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
鴨川氏は陸軍参謀本部の妄想戦記の思考を踏襲した岩澤愿彦氏が2000年に発表した
愛知県史研究「羽柴秀吉と小牧・長久手の戦い」という論文の定説化に対して下記のように論難してる。
【三河行きの部隊に誘き出された家康を楽田の本陣と一緒に挟撃するのが秀吉の策だと断じた件を批判し、
秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わないと言っており、
家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています】
小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
これについても鴨川への批判はいまのところ皆無です。
はっきり言って原文の正確翻訳の達人鴨川への反論など不可能ですしね。
鴨川氏は秀次の迅速な侵攻は見事で、まんまと家康を出し抜いて
岩崎城を落してしまってそれを知って焦った家康がなんとか巻き返しただけと書いていますね。
鴨川氏が指摘するように長久手は主戦場ではなく、一次史料などを見ても岩崎の戦いと書いていて
後世に4/9に勃発した戦を長久手の戦いと呼んでいるのも徳川史観による捏造歪曲なのでしょうね。
一年に渡る小牧対陣をあたかも長久手での家康の勝ち戦だけをクローズアップさせて
天正12年戦役全体を家康の勝利にミスジャッジさせてきた徳川史観が鴨川によって論破された。

882 :
森は羽黒の戦いで敗北するや、鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願するようになる。
秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かったため、
森は26日にむさしの名で自筆遺言書を書き、死を決意し、宛先には秀吉軍監だった尾藤になっており、
尾藤この由御申し候べく候と書き、自分の死後に遺された家族の身の振り方を指図してる。
つまり最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた。
ちょうどそのタイミングで家康が28日に小牧山を占拠したこともあり秀吉も対応し29日に楽田に集結。
この際、秀吉文書目録を作り上げて秀吉研究の第一人者になられた方である
三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しており、
その中から別働隊に割ける兵力も少ないながら、死に急ぐ森らを危惧し三好秀次を支援に付ける温情を示した。
しかし秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。
敗因を作ったのは秀次であり、 しかも元々、汚名返上のために死ぬ覚悟だった森らが、
(名古屋市博物館蔵で森の遺言状が存在してるように最初から死ぬつもりだった)
秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、森らが生還を考えず勝手に討ち死に。
しかし秀次や長谷川や堀らは無事生還したので、 森や池田が討ち死にしたが、
その後も池田や森は秀吉の元で動いていることからも大した損害にもならなかった。
絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
ことごとく一万討ち捕らえたと、 戦果を過大に言い触らし回っている。
無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は無事に生還しており、
自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死にしただけである。
天正12年4/11 秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候
などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白で、
池田家中を納得させるためには敗戦を呼び込んだ秀次に対するケジメが必要だった。

883 :
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
秀吉に嫡男を人質に出した酒井は徳川四天王筆頭じゃん。
最古参筆頭として石川数正と同格。
他の四天王って言っても本多忠勝と榊原康政は21歳も差があって親子並に離れていたし、
井伊直政に至ってはさらに13歳下。
本多重次も譜代最古参で三河三奉行の1人で民衆に慕われた行政のスペシャリスト。
つか出世より家康へのイラつく直言で有名で、
その命を惜しまぬ直言ぶりで三河武士の見本と呼ばれ鬼作左と言う名前の方が有名。
おかげで北条征伐後間もなく蟄居になってるからあまり有名になってないだけで、
一筆啓上、火の用心〜の日本一短い手紙でも有名で、
現存天守が残る福井県の作左の嫡男が封じらた丸岡城の宣伝文句にも採用されてる。
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
アンチ秀吉の織田チョンは相変わらずバカだねw
天正15年正月時点で、
本多重次は岡崎城代で、
酒井忠次が吉田城代なんだけどwww
天正17年6/22時点ではまだ重次は岡崎城代を続けているのがわかる。

884 :
長いあげいん
以上

885 :
あほや

886 :
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎

小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

887 :
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

888 :
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画
そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

889 :
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

890 :
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言
それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw
>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう
秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ
>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

891 :
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない
それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね
>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

892 :
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。
169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎

小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

893 :
秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)

小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
元春は秀吉との関係が悪いどころか広家を人質に出したりして関係は良好だったからねえ
ドラマは無理矢理すぎて違和感だらけだった。
秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

894 :
◎小牧長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

895 :
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

896 :
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる
伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

897 :
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな
秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
\
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる
3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

898 :
秀吉は家滅ぼしまくりだぞ
家康や信雄も当初は滅ぼすき満々で書状に徳川を討ち滅ぼすとか何回も書いてるが
実力では全く歯が立たなかったので母や妹や関東250万石まで差し出して土下座講和した。

・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
・利休の愛弟子の山上宗二を耳と鼻を削がれた上で打ち首にする
・利休は秀吉に完全に心を閉ざすようになりツッケンドンな態度を示すようになり、利休を殺してる
・宇留津城で城主の加来与次郎は討ち死に降伏した男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することになり、周防灘が赤く染まる
・天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国・美作国・播磨国
の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は磔)した

899 :
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか
秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが…
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな
秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる
秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな
だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし
実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだよ

900 :
秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
6 名前: 名無しさん@chs :2014/12/02(火) 11:16:15 ID:9c5dfae37
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

901 :
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない
そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだか

902 :
小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
天正14年初頭までは出兵計画を散々部下や諸大名に具体的に話しておきながら
天正14年初頭には信雄を仲介に送って交戦さけてるんだからビビりまくってるからに決まってるじゃん
秀吉は11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
と書いていて、戦争する気満々だったんだよ。
木曽・小笠原・真田・石川・水野が寝返っていて家康なんて100万石弱程度だから
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 、信雄対策には顕如に土下座して仲介してもらって
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

903 :
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎

小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

904 :
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言
それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw
>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう
秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ
>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

905 :
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画
そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

906 :
>>そもそも最初に徳川側が1万人以上討ち取ったとした書状には
>>総大将の秀次や堀秀政らそうそうたるメンバーをすべて討ち取ってることになっている。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし

907 :
>>それが柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言でもわかる。
大嘘
秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる
3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

908 :
3/13秀吉の丹羽長秀宛書状
此表十四五日之内ニハ、世上之物狂も酒酔の醒たることく二、筑前以覚悟しつめ可申候間、
4/8秀吉→丹羽書状
去6日に池勝入・森武・孫七郎・左衛門督人数二万四五千にて至小幡表差遣、小幡城二ノ丸迄攻入首百余討取、則龍泉寺山を根城二拵、柏井・大草
何も取積丈夫之普請申付候、今名中に首尾候間、然者小幡・森山其他不残令放火、至参州表令手遣可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼国へ差遣候事
家康さへ討果候へは彼等儀者不入儀候間、助首城を可請取由申遣候間、彼表人数二万余も五三日中に可令着陣候、併泉州表為番勢備前衆一万計相越候条、
岸和田・大阪に達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令着陣候事
家康を取巻、即時可討果候間、少しも御気遣有間敷候事
5/9秀吉→毛利輝元書状
必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす
長岡越中宛5月11日書状 
小牧表人数討入刻、家康於相慕者、遂一戦可討果処
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
3月22日渡辺清忠書状
家康尾州境陣取候之条、可被討果之由候て、筑州御人数十万余にて至濃州御陣替候、一両日中二家康城清0州申へ
被成御取寄候、天下之御弓御一大事之儀候間
3/23桂広繁→棚守書状
徳川事三介殿後見被仕候付而、可被討果之由候て尾州表へ陣替候
佐竹義重宛書状
清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たす
29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/10 秀吉→亀井書状
家康小牧山二居陣候間、拾四五町二押詰陣取候、急度可討果候間可心易候
3/24秀吉→生駒書状
此表儀越川清州可押詰ため今日岐阜へ相移候
3/29秀吉→木曽書状
家康小牧山上居陣、其節為先手森武岩渓山・窪、稲葉伊予青塚、其外諸勢十町・十五町に陣持せ申候、我等儀ハ
楽田城着申事候、大略今明内に可為敗軍候哉、於相踏者悉可討果事案内候
4/1 秀吉→羽柴秀勝書状
敵小牧山取上候条、十五町計に責詰、荒手を上堀構を申付候間、急度可討果候、可御心安候
4/8秀吉→毛利輝元
我等者楽田と申所に致居陣候、小牧山十四五町におし寄、
不罷退様に陣取候条、急度可討果事案之内候事
5/9秀吉→毛利輝元
加賀野井城二屈強之者相籠候間、彼等を於取巻者、
必家康後巻可仕儀にて候間、此口へ引出及一戦可討果と存

909 :
>>小牧の東方を縦に楽田(秀吉本陣)・柏井(重点強化)・小幡(壊滅させた)・岩崎(三河尾張国境)と
>>長く長城の如く半包囲しつつ、家康が出撃してきても取り合わないことを秀吉の計画
そんな事秀吉の書状のどこにも書いてないし秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる

910 :
>>柏井・大草を普請丈夫に構えて、敵が身を捨てて攻めてきても取り合わず
>>いかにも嬲りまくって大網を置いて家康を取巻くのが完成した後に討ち果たすという宣言
それが書かれてるのは小早川隆景の5/2の書状だけど原文を読むと
三河衆勝利を得、其後は一円取り合わず、小牧山を要害に取り誘い持ち固められ
と書かれてて明らかに家康の事なんだがw
>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう
秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ
>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

911 :
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

912 :
小牧長久手合戦後の出来事
4/30日〜5/2頃
二重堀合戦が起こり、信雄1000が秀吉50000を奇襲して楽田から叩きだす(家忠日記)
6/19信雄が秀吉の尾張下市場城攻略(家忠日記)
6/23信雄が秀吉の尾張前田城攻略(家忠日記)
7/3信雄が秀吉の尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10信雄が秀吉の伊勢浜田城攻略(7/14秀吉→津田)
11/10信雄が秀吉の尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
4/12には秀吉が吉村氏吉に敗北(信雄→吉村書状)
秀吉はそれ以外でも5/5に小浜・間宮に伊勢の生津・村松で敗北してる(5/5家康→小浜・間宮)
また、3月から戸木城
4月から松の木城、東駒野城
6月から河波城、
などを攻略していたが
いずれも落ちずに撃退されてる
6月は特に信雄から吉村などへ感状ラッシュで度々秀吉軍を撃退した功績を賞賛されてる
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。
天正14年初頭までは出兵計画を散々部下や諸大名に具体的に話しておきながら
天正14年初頭には信雄を仲介に送って交戦さけてるんだからビビりまくってるからに決まってるじゃん
秀吉は11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
と書いていて、戦争する気満々だったんだよ。
木曽・小笠原・真田・石川・水野が寝返っていて家康なんて100万石弱程度だから
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 、信雄対策には顕如に土下座して仲介してもらって
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。

913 :
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない
そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

914 :
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。
169 :人間七七四年:2015/04/22(水) 23:16:41.87 ID:kZloFQJ/
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし₍長久手町史102号103号₎
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」₍長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。₎

小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

915 :
>秀吉はちゃくちゃくと包囲を築き家康が捨て身の攻勢に出てきても取り合わない
それはおそらく5月9日の毛利宛書状とか6/4の佐竹宛書状の秀吉のハッタリ喧伝書状を曲解した解釈だと思うが
どちらも小牧長久手合戦前後で秀吉の戦略が少し変更された後だし、
原文を読むと小牧表10町15町陣を張り、野合之合戦を挑むと雖も、家康小牧山城中一切罷出候間、便々在之も不入儀と存じ
などと書いてて、家康が秀吉からの合戦の挑戦を受けないと書いてるだけだぞ。
しかもこれも秀吉のハッタリ誇大喧伝で、実際には秀吉からの挑戦受けて小牧長久手で秀吉を木端微塵にしたからね
>家康とあえて戦わないというのが秀吉の考えだと断じています
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
秀吉が短期戦構想で決戦を挑んでいるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀雄氏は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

916 :
>>楽田・柏井・岩崎で半包囲して家康を窮せしめ、家康が捨て身で戦闘を挑んできても
>>要害堅固にして守る大網戦略(大あみ)を遂行していたと。
そんな事秀吉はどこにも書いてないし、秀吉が持久戦戦法に変わり出すのは小牧長久手合戦より後の事だよ
しかしそれでも何回も三河遠州への大々的な出兵画を何回も書状で書いてる
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

917 :
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す

918 :
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた

919 :
小牧長久手の戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる
伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

920 :
秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな
秀吉が短期決戦構想で戦いを挑んでるのは
3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や
3日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」
佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
4/8の丹羽長秀宛書状などでも明らかなんだが。
\
秀吉は下記のように家康を滅ぼす気満々だった。
実際に領内の主力を総動員して決戦しかけてるので実行にも移してる
3月13日丹羽宛書状 「半月程度で決着つけてやる」
4月8日丹羽宛書状 「康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための進軍であり
また「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。
龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し
家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。
桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし
小早川秀包に同道してた渡邊清忠『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる
長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も
『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)
と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
白峰旬 小牧長久手の戦いに関する時系列データベース より
P43  時系列DBによれば、長久手の敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいた様子がうかがえ、敗戦前日の四月八日の時点では丹羽長秀に対して、池田恒興などの兵力を三河へ発向させる予定である旨を報じているので
三河への攻撃は単なる陽動作戦ではなく、短期決戦を目指した本格的な軍事作戦であった事がわかる。
その証左として、その後も秀吉は家康の本国である三河・遠江への総攻撃を志向している。
長久手の敗戦後、秀吉は長期戦を予想し、本営の防備強化という意味を含めて楽田城の本格的普請に着手した
P49 秀吉は当初短期決戦を目指して家康の本国である三河攻撃を企図したが主力部隊が長久手の敗戦で壊滅したため
五月上旬には岐阜まで退却し
来秋(太陰暦なので7〜8月)に軍事行動を行う予定であった。

921 :
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
秀吉が一万人殺されたのは徳川方史料はもちろんの事秀吉の同盟者の毛利の部下の書状とか
秀吉の家臣の細川側近の松井の書状にしっかり書いてあるんだが…
別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな
秀吉はできるとなれば光秀、柴田、信雄や宇都宮や南奥州の大名や東北の諸侯を改易しまくったり殺しまくってるし
信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させてる
何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込んだあげく信雄と和睦した後特に理由もなく失脚させてるし
佐々成政にいちゃもんつけて改易したり
関東攻めでも中国計略や朝鮮出兵でも降伏する人々を殺しまくってる
秀吉は結局実力では家康はおろか信雄にすら敵わなかったからな
だからその結果家康に母妹関東250万石と官位と大老職まで土下座して差し出す事になり、結果家を滅ぼされただけだし
実力がない者が家を滅ぼされるという当たり前の事が起きただけだ

922 :
秀吉は元々家康を潰す気満々で135000の兵力(3/22渡辺清忠→元行書状や4/8秀吉→長秀書状
6/2小早川秀包→藤四朗書状享禄以来年代記)を率いて短期決戦志向で戦を望んだ
(3月13日の丹羽宛書状「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」3月22日渡辺清忠書状3日桂書状佐竹義重宛書状)
が信雄相手に1万人を戦死させられる大敗を喫し全く歯が立たなかったので
敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを土下座して依頼して 和睦が成立しただけだよ。
そんな状況なんだから滅ぼせるわけがない
そもそも豊臣家自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
いくら指揮・采配能力が桁外れに違っても数でごり押しすれば勝てるのが戦。
しかし秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や輝元や家康には到底敵わないため 数でごり押ししても雑魚の信雄や輝元に全く勝てなかったり
防衛戦ですら家臣を殺されまくるほどの雑魚だったが
土下座能力はチートだったので信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
ありえないような事実と言われても秀吉が雑魚の信雄に10000人殺されたのは4/13北条氏政・氏直書状
5/2小早川隆景書状イエズス会年報 フロイス日本史当代記 に書かれてるし
吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい
長久手合戦後に京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる 。
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね。
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

923 :
>秀次が暴走して岩崎から出撃してさらに三河方面へと先へ先へと焦って進出してしまったのだろう
秀次が襲撃されたのは白山林で岩崎城よりも北に位置してるからそれはまずない
秀吉の書状によれば、岩崎城を攻略しさらに岡崎方面へ行軍中、不慮の体となり勝利を失ったと書いてるから。
ついでに敗戦前日の丹羽長秀宛書状を読んでも
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかるし
秀次は秀吉の命令通り、岩崎城を攻略のち、岡崎方面へ行軍中背後を襲撃されて敗北しただけでしょ
>森長可は出撃前に遺書を書いて死後の森家のことを家族に託しているように自殺出撃であったわけだし。
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
>(だから岩崎から一番近い位置にいて柏井を堅く守っていた生駒や一柳らは、徳川が出てきても
>こちらからは出撃せずに要害に留まり間違いがないようにとの命令を受けていたため秀次救援に出撃しなかった)
彼らは最初から情報収集目的と砦や屋敷の普請が目的で派遣されてるだけでしょ

924 :
>小牧から出た兵力が小幡へ(補充のため)移動するなら納得するという秀吉の考えを
>小牧から家康が誘き出されて満足に思うと間違った解釈をしているのを批判しています。
それは柏井に宛てた一柳宛書状の解釈だろうがどちらの解釈も明らかにおかしいね
小幡城=家康方の拠点
小牧山=家康方拠点
だから小牧出候人数、小幡へうつり候者、得其意候は
小牧を出た家康方の軍勢が小幡城へ移ったら、その旨を知らせるように
という白峰や谷口が小牧長久手の戦いの時系列データベースに書いてる解釈が正しいでしょ
鴨川は小牧や小幡城を秀吉方拠点と勘違いしてとんでも解釈してるけど。
258 :人間七七四年:2014/12/01(月) 14:10:22.94 ID:mxc/WJMy
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし?長久手町史102号103号?
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」?長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。?

小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

925 :
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
長久手町史通史編 谷口央氏
P276
4月8日付丹羽長秀宛秀吉書状で
楽田からかなり南東へ移動した小幡城への攻撃と竜泉寺砦への移動が記されてる
この書状からは、この行軍は隠密行動ではなくかなり堂々としたしかも戦闘を行いながらのものであったことになる
大軍での移動であり隠密とは程遠いものであったといえよう。
続いて史料を見ていくと秀吉は一柳直末や、山内、矢部らに宛てて柏井、大草などの普請を行わせる書状をだし?長久手町史102号103号?
その後に三河国への進軍を計画していたところである
以上長久手の戦い前日となる4/8付け丹羽宛書状を詳細に見てきたがこれによると秀吉はかなり計画的に三河中入り作戦を立てていたことがわかる
この書状の内容を裏付ける事柄として前記のように長久手への行軍と同時に道中にある屋敷の普請が秀吉の命令のもと行われてあり
その行軍状況が計画的に見えること、同時に大がかりな計画であったことを彷彿とさせるようなゆっくりとした行軍状況であったことがあげられる
このような事実を考え合わせるとこの書状に記された内容はほぼ事実を反映しているといってよい。
そうすると長久手への行軍は隠密ではなくかなり堂々としたものであったのである

谷口央氏
「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」
秀吉は、小牧長久手敗戦当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候者、得其意候椰」?長久手町史106号
と柏井にいる一柳に伝えている
このことから、家康自らか、もしくはその一部の部隊の小幡方面への進軍を把握していたことがわかる
しかし秀吉は、このときすぐに進軍せず、長久手での敗報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。
しかし家康が小牧に戻ったことを知り、楽田もしくは犬山に引き返した。?

小牧長久手合戦は秀吉の立てた三河方面総攻撃作戦がウンコすぎたからね。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

926 :
何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

927 :2016/10/20
武田信玄の過大評価はまず家康5男が穴山家を相続したのが始まりで、その後は信玄次女が保科正之母子を匿い、家光が死んだ時は家綱が元服してなかった為正之が代理役を務めるようになったこと。
さらには綱吉が将軍になったので柳沢吉保が実権を握るようになったため権威づけのために利用されるようになったこと。
そして新井白石の親父の主君土屋直樹も武田家ゆかりの人物であったことから、江戸幕府文治政治の流れの原点を担ったといってもいい存在だったからだ。

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