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◇◆◇西国の名門大名 大内氏◇◆◇


1 :2006/08/07 〜 最終レス :2020/01/28
中国地方の大大名大内氏について

2 :
       〈 ̄ヽ
 ,、____|  |____,、
〈  _________ ヽ,
 | |             | |
 ヽ'  〈^ー―――^ 〉   |/
    ,、二二二二二_、
   〈__  _  __〉
      |  |  |  |
     / /  |  |    |\
 ___/ /  |  |___| ヽ
 \__/   ヽ_____)

3 :
名門シリーズ1−西国探題・大内家
http://hobby.2ch.sc/warhis/kako/994/994707379.html

4 :
百済の琳聖太子の血筋名乗ってるが、違うよね?
多々良は周防の在庁官人で、朝鮮との交易を有利に進めるため
名乗ったって説も、有力だと思う

5 :
室町時代の超強豪なんだけどね、大内氏
戦国だって、富田城の敗退までは・・・

6 :
守護大名から脱却できなかったのが致命的
義隆もそれなりに努力はしてたんだけどね

7 :
義隆が没頭した、学問、文学等
儒学、仏教、神道、和歌、連歌、管弦、有識故実など

8 :
月山富田以降ボンクラになったと言われるけど、内政の功績も
認めてあげて下さい。

9 :
義隆は筑前、豊前、筑後、肥前、豊後で天文年間に大攻勢をかけている
最終的には小弐資元は、肥前多久城で自害
もちろん実際に活躍したのは、陶興房らだけどね

10 :
大内義弘の最盛期
周防・長門・石見・豊前・筑前・和泉・紀伊の守護
和泉や紀伊を除くと義隆の勢力圏は、匹敵いやそれ以上

11 :
陸奥の大内氏も何か関係があるんですか?

12 :
>>11
あれは九代目あたりで別れた遠い親戚。
ちなみに私の友人に陸奥大内家の末裔がいる。

13 :
大内持世の子義世の子孫といわれるが、証拠がないみたいだ
第一、各種の大内氏系図では、持世には子がないようだ

14 :
宗麟は何故大内義長を見捨てたんでしょうか

15 :
逆になんで宿敵大友から、和睦中とはいえ養子を迎えたのが気になる
単純に甥だからか
晴持の死が悲しすぎて、やはり身内を求めたのか

16 :
大内氏って新羅だか任那だかの王族末裔、って説もあるよね?
「古代氏族系譜集成」はそういう系図を載せていなかったっけ?

17 :
将棋棋士に大内延介というのがいる。

18 :
なまじ実力があったもんだから、戦国大名に脱皮できなかった。

19 :
>>16
それは百済聖明王の子琳聖太子の子孫って話
ただし伝承の域をでない

20 :
牛久藩主の山口氏は大内氏の庶流だそうだが。

21 :
織田に仕えたのは、教継かな
ここが詳しい
山口家譜
ttp://www.ushiq.net/~ushikuhan/yamaguchi_kafu.pdf#search=%22%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E3%80%80%E6%95%99%E6%88%BF%E3%80%80%E6%95%99%E5%B9%B8%22

22 :
陶って西国無双とか言われる割には実績があまり無い

23 :
吉田郡山城救援戦ぐらいかな、明らかな武功は
あとは月山富田城からの陸路での撤退w

24 :
陶興房は少弐氏を滅ぼすなど九州で大活躍

25 :
山名・赤松・細川・斯波・畠山といった有名どころと違って、うまく戦国大名に
脱皮できたと思ったんだが・・・

26 :
>>24
名将であることは間違いないけど結構負けも多いよ
>>25
支配体制は守護大名のときのまんまだったらしいからね
力があった分、斯波や山名みたいに分裂するのが遅かったんだろ

27 :
大内も応仁の乱以前から、結構継嗣争いがあるんだよね
・義弘・満弘の争い
・弘茂・盛見その後の持世・持盛の争い
・応仁の乱時の山名方政弘、細川方道頓の争い
政弘がやっと争いを収めて、義興の飛躍へとつながる

28 :
唯一円満継承だったのが義隆のときだったんだけど・・・・

29 :
ということは、分裂しがちでも大内氏が力を持ち続けられたのは、やはり日明貿易のお陰かな?

30 :
歴代当主が有能だったんだろ、ずば抜けて
渋川とか少弐とかがイマイチなのも幸いしたかな
足利義満ですら大内を解体させるまではできなかった

31 :
細川幽斎と違って世渡り下手だったよな

32 :
本当の意味で実力発揮できたのは、義興の代だよね
京の真の支配者なんだから
でも京に義興がいたお陰で、尼子が台頭するわけだけど

33 :
大内輝弘でも良いので、御家再興が出来てれば。。。

34 :
筑前 325,695/8140
豊前 140,000/3500
長門 130,660/3260
周防 167,820/4200
安芸 194,150/4850
石見 111,770/2800
大内氏って筑前はどの程度掌握してたんでしょうか

35 :
何のデータ?

36 :
太閤検地の石高と2.5人役で計算した動員兵力。

37 :
【西国】 毛利 vs 大友 【大攻防戦】
http://ex21.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1172070942/

38 :
Sue Harukata
ローマ字表記すると外人美少女っぽくなるこの不思議さ

39 :
大内氏の時代から中国地方での格言「国政は山口に任せろ」

40 :
>>34
渋川満頼が九州探題を辞したのち、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言、
宗金など商人たちは大友氏の保護下で貿易を行う。
当時の博多の町は、港がある北東部「息浜」(おきのはま)に6000戸、聖福寺・承天寺周辺の南西内陸部
「博多浜」に4000戸あり、息浜を大友氏が、博多浜を少弐氏が治めていた。
日明貿易が再開した1432年(永享4年)、少弐嘉頼家臣・三原入道の家人と秋月満種家臣・原田種泰の
家人が見物に来ていた博多祇園山笠の「追い山」の会場にて衝突、三原方50人余、原田方20人余の死者を
出した。
翌年には少弐家人と大内持世家人が博多で衝突。
さらに翌年には大内家人と少弐家人が箱崎にて衝突している。
この他にも守護大名同士や大身らは、筑前国の覇権や日明貿易の主導権をめぐって抗争を各地で起こした。
1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を博多から追放、筑前や豊前までを勢力下に置き、博多の町は
大内勢力と大友勢力の配下となる。

以上のとおり、博多も大内氏の単独支配にならなかったみたいだね。
他にも立花氏が大友方だから、半分以上三分の二以下といったところでは。

41 :
陶の謀反の時に、家中の殆どが義隆を見限ったの?

42 :
ほとんどと言って語弊ないんじゃない?
冷泉は最後まで従ったけど

43 :
陶晴賢の従兄弟とか陶と中の悪い人間も、最後まで従ったと思う。

44 :
隠居を強いるぐらいの気分で気軽に加担したのもいるだろうな。
>>42
吉見正頼も義隆派だと思うが、石見じゃ遠すぎたか。

45 :
だいたいこれであってる?
義隆寄り (死亡)
・天野隆良
・相良武任
・杉興連
・平賀隆保
・宗像氏男
・冷泉隆豊
義隆寄り (のちに陶・義長側)
・天野隆重
・杉隆泰
・弘中隆兼
・吉見正頼・広頼
陶・義長寄り
・(陶一族)
・飯田興秀・長秀
・杉隆相
・椙杜隆康
・問田隆盛
・内藤興盛
・平賀広相
・益田藤兼
陶・義長寄り (のちに対立or殺害)
・江良房栄
・杉重矩・重輔

46 :



age







47 :
>>45
後に毛利になびいた奴が大杉だな。

48 :
杉だけにな。

49 :
>>33
大内輝弘について詳しく紹介した本とかある?

50 :
再興したところで誰が戻ったのやら

51 :
博多商人がバックアップしてくれそうな
なにしろ大内滅亡後の博多はひどいから

52 :
kwsk

53 :
輝弘の様は、失地回復に失敗した大友義統を少し思い出す。

54 :
大内氏は今の山口市の街並の生みの親とも言っていいと思うが

55 :
>>54
言ってもいい、じゃなく実際に生みの親だろw

56 :
>>54毛利は何もしなかったの?

57 :
大内義弘君は朝鮮に領土要求したつわもの

58 :
前人未到の「斜め上の斜め上」大名だな。

59 :
大内は毛利の小早川や吉川の乗っ取りに賛成したね
普通なら自分の一族を送り込みそうなのに

60 :
大内は基本的に臣下に力与えすぎ

61 :
そもそも陶は臣下というのか微妙なんじゃない?

62 :
尻を愛でただけだからな

63 :
アッー!

64 :
(´・・∀・・`)ほう

65 :
>>56
毛利の時の藩都は萩だから。
毛利氏の時代の長州は、萩への一極集中というくらいの状況で
山口は幕末までは、山陰側と山陽側の、中間点以上の意味は持たなかったようだ。

66 :
今もそんなもんじゃないか

67 :
山口県に行ってみるとわかるが、萩の町はどこに行っても毛利の家紋ばかりだが
山口の町はどこに行っても大内の家紋ばかり。

68 :
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェー

69 :
幕末の長州藩がアレだけ活躍したのは、毛利家がかつて五大老の一角だった事に含めて
大内氏が同じ防長二州を領して国政に深く参画していた、と言う記憶も大きかったらしい。

70 :
それに比べ今の山口ときたら

71 :
あの名誉欲過剰総理のことか(´・ω・`)

72 :
大内全盛期の頃の山口は大都会だったらしいな。
それに比べ今の山口ときたら。

73 :
薩長は維新のときにも再浮上する機会はあったんだよねえ。
なんで山口・鹿児島は過疎県に落ちぶれちゃったんだろ?

74 :
>>73
鹿児島は西南戦争があった事が大きいだろうが、山口の場合志士たちの間で
「俺たちは長州の為ではなく国のために働いた、だから山口に利権を持ってくる事はしない」としたそうな。
そのため例えば鹿児島は初代県知事が薩摩藩の大物である大山綱良だが、山口県の場合
山口とは何のかかわりも無い兵庫出身の原保太郎が就任している。を

75 :
>>72
山口は大内が滅んでもまだ街として残ったからましでしょう。
細川・三好の勝瑞は、最近発展しつつありますが、ただの田畑ですよ。

76 :
山口って晴賢死後の内輪揉めで焼けたんじゃなかったっけ?

77 :
>>74
鹿児島でも同じように言われてるよ。大久保が当時から嫌われてる一因でもある。
>そのため例えば鹿児島は初代県知事が薩摩藩の大物である大山綱良だが、山口県の場合
>山口とは何のかかわりも無い兵庫出身の原保太郎が就任している。を
関係ねぇええ。地元の利を計るための知事は地元をよく知る者がするもんだろ。

78 :
>>77
新政府の方針は「新生日本は中央集権国家として旧藩時代とのしがらみを絶つ」が基本方針だから
基本的に県知事には、そこに地縁の無い人間が当てられた。長州はその国家方針に、他の藩同様
忠実に従ったが、薩摩は「維新の功」を盾に新政府の方針に反対したのだよ。

79 :
維新前は長州の方が圧倒的にキチガイ全開で、
薩摩は長州よりも多少は理性的というイメージがあるが、
維新後は薩摩もキチガイ化しているイメージに変わる
俺だけか?

80 :
故郷に少しでも利益を還元しようとしたのが薩摩人、
故郷にすら利益を還元せず全て自分の懐に入れたのが長州人。

81 :
>>80
で、欲張ってどんどん還元させようとした挙句故郷を戦場にしてしまった訳だねw>薩摩人

モットヨコセーカネヨコセーカネヨコサネエト政府ツブスゾー、ってね。

82 :
大内晴英(義長)って、本当に陶の傀儡だったのかな?

83 :
>>80
薩摩藩は島津幕府をつくるつもりで倒幕をしたという話も有るくらいだからな

84 :
>>82 義尊が誕生で義隆から離縁されてるから=義長

85 :
状況的にはよくまとめられたほうなんじゃないかね?義長

86 :
むしろ輝弘が二番煎じ

87 :
義隆の従弟だから血筋はいいだがね=輝弘。

88 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%BF%8D%E8%80%85%E4%B8%89%E4%BA%BA%E8%A1%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%95%B7%E4%B9%85
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8E%9F%E9%87%8D%E6%8C%81
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%B0%BE%E6%99%AF%E9%80%A3

89 :
麻羅観音は大内の守り神

90 :
守り神というか可哀想な話だよね

91 :
大内の凄いところは防長のみならず九州にも勢力圏を築き
かつ中央政界で幅を利かせた事かな。

92 :
一度は応永の乱でつぶれかかったのにね。一世代ごとにころころ勢いが変わる。

93 :
>>92
室町時代の大大名はみんなそうだな。>一世代ごとにころころ勢い
赤松とか有為転変にも程があるだろって感じだw

94 :
やはり義興が傑物なんだと思う。

95 :
輝弘は父親の代から豊後に亡命していたみたいだな。

96 :
輝弘の父親はクーデター未遂で逃げてるんだよね。

97 :
知らなかった。
ttp://grups.yahoo.co.jp/group/oouchi/

98 :
http://groups.yahoo.co.jp/group/oouchi/だよね?
でも正直眉唾としか言いがたい気が…。

99 :
他の捜し物中に見つけたんだが、家臣の佐々木氏と言うのが今まで見かけた事がないな。

100 :
大内って元寇のときは何してたの?

101 :
いたかどうかすら分からんw。

102 :
大内は完全に毛利の陰に隠れてしまってるな

103 :
大内は名門中の名門で当時上洛が可能だった唯一の大名だろ
結果は尼子に阻まれて上洛は叶わなかったが当時最強の権力者の一人であったのは違いなし

一度の敗戦が全てを狂わせた。

104 :
まて義興の立場は…

105 :
九州勢と尼子ととニ正面作戦してたからなぁ
成り行きとはいえ調子乗りすぎたな
尼子に大敗喫してからはヒキコモリになるしw

106 :
「尼子戦で世継ぎが死んで、それがちょっとショックで」ってのは義隆引きこもりの原因として信頼していいの?

107 :
そうは言うね

108 :
義隆は晴持をかわいがっていたようだから
敗戦+溺死のショックというところでは。

109 :
巷間ボンクラ大名とバカにされる尼子晴久だが実際はかなりの強敵だったからな。
撤退中の大内軍にガッツンガッツン追い打ちかけてたみたいだし。

110 :
山口市から移築された広島市の国宝不動院金堂の画像を見ると胸が痛む。
そして毛利氏は山口へ。
歴史とは数奇なものだ。

111 :
毛利は大内にとって替わったようにしか見えない

112 :
しかし山口市は未だに大内の町。毛利の町はあくまで萩。

113 :
少々板違いな質問だが
萩藩政下の山口(現山口市)ってどういう状況だったんでしょう
幕末になっていきなり萩藩政庁がうつされ、一瞬だけ歴史の注目を浴びたのは知っているのですが

114 :
>>113
萩と三田尻の物資や情報の中継地として、それなりに栄えてたらしい。

115 :
>>112
しかしどちらも下関に到底敵わない現実

そういや下関と北九州が海峡挟んで一つの街みたくなってるのは大内支配の名残か何かなの?

116 :
大内を彷彿とさせられる

117 :
>>115
>下関と北九州が海峡挟んで一つの街みたくなってるのは
平家の影響もあるべな 大内はもちろんだけど。

118 :
日本のイスタンブールだな
あの海峡は歴史的にもっと注目されて良いと思う

119 :
イスタンブールはオスマントルコの時代以前にそもそも東ローマとして
今から千数百年前には人口百万だったとか。

120 :
長州と小倉は仲良くないけどね

121 :
藩政の時代な。

122 :
秋月氏を忘れてはいけない。

123 :
大内は元々数カ国を領する大大名だったのが、義満により防長二州に押し込められた。
しかし、そこからまた勢力を盛り返し、天下の政治を動かしたりしてた。
毛利も数カ国を領する大大名から、家康により防長二州に押し込められた。
しかし、西国の雄として勢力を蓄え、明治維新の原動力となった。
このあたりの類似性はちょっと面白い。

124 :
ってかなんで押し込める先がいつも防長なんだ

125 :
京より遠い♪

126 :
よその地方に動かそうとすると、抵抗が激化して面倒だからでしょ

127 :
江戸期の毛利はそうはいかないけど、大内の場合は博多に手を出しすい位置だった=防長
しかし他の領国が石見・豊前・和泉・紀伊と飛々ではどうしようもないな

128 :
少弐に手を出したわけだな

129 :
>>109
ボンクラは義久なのにね。

130 :
なんだと

131 :
 何か折角の大版図を一代でいきなり潰すあたり今川とそっくりだな
 運悪いっつーか リスク管理が出来なかったんかな

132 :
>>131
潰すっつーか、陶に乗っ取られたんだけどね。
その陶があっという間に毛利に滅ぼされたから潰れたように見えるだけで。
越後上杉家の長尾とか尾張、越前の斯波氏における織田や朝倉、少弐における竜造寺、京極における尼子とかと
一緒。守護代に下克上食らったに過ぎない。

133 :
陶のはただの「乗っ取り」として捉えるべきものなのかね?

134 :
【忠臣?】陶隆房を大いに語る会【逆臣?】
http://hobby11.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1181055750/

135 :
痴情のもつれとは聞いた事はあるが

136 :
大内義典 で検索するとやたら出てくるんだが 大内義興の別名?ただの誤記?
http://www.google.co.jp/search?q=%91%E5%93%E0%8B%60%93T

137 :
大内義典…ホント間違ってる方多いのね

138 :
大内って盛とか弘が通字っぽいのに、義興以降は何故義?
義弘はその前にいるけど

139 :
っ 将軍様からの偏諱

140 :
そんな気はしたんだが、義の方は珍しいね

141 :
大内家の家格が上がったから

142 :
家格というより官位かな

143 :
>>131
義隆の代まで大内が他の有力守護大名みたいに分裂したり、
家臣筋にに実権を強奪されたりしなかったのは、
ことある毎に最有力家臣を難癖つけて謀殺したり粛正してたりするからなんだよな。
教弘→政弘→義興と来て、義隆で失敗。

144 :
>>143
一番粛清すべき侍大将様と恋仲だものなあ…

145 :
大内刈り

146 :
大内は家督相続のたびに内紛してる
唯一の例外は義隆のとき

147 :
それだけ豊かだったということかな?

148 :
豊かなら「金持ちケンカせず」って事になる。

149 :
それだけ基盤が弱かったということじゃないのかとマジレス

150 :
大内家の当主・義隆は
養嗣子を合戦で失って以来
学問・遊芸に耽り、
次第に家臣の信望を失っていった。
御館様、目を覚まされませ
相良は当家に害をもたらす輩
重用してはなりませぬ!
大内家を滅ぼすおつもりか!
ええい、うるさい!
わしの思うとおりにするのじゃ
おぬしの顔など見たくもないわ!
下がれい!
・・・
大内家もこれまでか・・・
さらに武断派・陶晴賢と
文治派・相良武任の対立が
激しくなり、名門・大内家は
最大の危機を迎えていた。
御館様・・・
陶殿が謀叛を企てているという
噂がございますが・・・
いかがなされるおつもりですか
はっはっは、晴賢に限って
謀叛などありえぬ
陶家は我が大内家
譜代の臣じゃぞ
御館様、連歌会の準備が
整いましてございまする
おお、そうか
すぐに参る
・・・・・・

151 :
そして、噂はついに真実となった。
晴賢率いる軍勢は
主君・義隆を討つべく
高嶺城目指してひた走った・・・
お、御館様!
陶殿の軍勢がこの高嶺城
目指して進軍中との
知らせが入りました!
な、何!?
晴賢の軍が!?
な、なぜじゃ!
もはやこれまででございまする
この隆豊が時を稼ぎますゆえ
早々にお腹をお召し遊ばれますよう
今生のお別れでござる!

な・・・なぜじゃ・・・
晴賢・・・
・・・こうして大内家は
陶晴賢の謀叛によって
滅亡したのであった。

152 :
…高嶺城?

153 :
居館を堅固な城郭化してたら持ちこたえたかもしれないのにね。

154 :
城の問題とかじゃないんじゃないかな

155 :
山口の町は平坦な盆地だから、城郭化した所であまり意味は。

156 :
だから条坊化したんですね

157 :
山口って条坊化されてるんだ?

158 :
山口古図を見る限りはそうは言いがたいなあ。
http://ymonjo.ysn21.jp/HQ_DL/images/kozu_data.jpg

159 :
何か自然な感じの街だね。

160 :
>>158
基本的には方格のプランによって形成されてる町だね

161 :
方格とは?

162 :
>>161
四角形

163 :
川が大きく回ってるところの「陶氏出屋」の上らへん、なんて書いてあるの?
  毛
  利
  上
陶|


みたいな

164 :
あっげ

165 :
>>163
「毛利上の陶屋敷。○○二年に御茶屋と相成る」

『毛利氏の屋敷の上にある陶氏の屋敷。○○二年に御茶屋となった。」

166 :
d。御茶屋ww
肝心の毛利氏屋敷がどこにあるのかわからない…

167 :
あ、橋の下側も関連した説明か。
元和二年ニ出来 毛利家ニテ作ル 御茶屋馬場ト云?

168 :
>>166
下のほうにある馬場御殿、もしくは馬場屋敷がそうじゃないかな?>毛利氏屋敷

169 :
それより、大内御殿の左側にN大和守

170 :
>>163
※山口・中河原の御茶屋
現在の「C.S.赤れんが」の位置にありました。
陶晴賢の旧邸地とその西隣の一画とを敷地として建設。
藩主の参勤帰国や、その家族が山口に来たときの旅館、
あるいは休息所にあてられました。
宝暦11年(1761)の火災のときまで、
台所は陶氏時代のものを使用されていたといいます。
http://www.city.yamaguchi.lg.jp/oouchi/yamaguchicity_histry/bakumatsu_human/02.html

171 :
火事でもうないのは残念だな(´・ω・`)

172 :
毛利氏に召し抱えられた大内旧臣はどのぐらいいたんだろう?
防長制圧後、地侍のことは徹底排除したらしいけど、毛利氏。

173 :
>>112
山口市は大内氏で、萩市は毛利氏で売ってるね。
大内氏も陶の謀反がなければ、防長二国だけでも大名として・・・

174 :
>>20>>21
山口重政(織田信雄の家来から徳川家康の家来になった)を大内家当主にして再興すれば・・・>家康
重政は徳川家臣で新参者だし、理由は知らないけど関ヶ原合戦から数年後に家康の勘気に触れちゃったし、ね

175 :
>>174
大内氏と何の関係もない家康が大内家を再興する理由がないじゃん。

176 :
家康が名家マニアといっても
それは源氏につながる家系に限る話だからなぁ・・・

177 :
自称分家の陸奥大内でいいじゃない

178 :
つーか家康が名家マニアってのも古い認識だし。

179 :
一応、隆元は義隆の義子だから、毛利が偽大内を滅ぼして吸収した、ってことでいいのでは

180 :
は?義子??

181 :
新田一族は本宗系、山名氏、里見氏・越後新田里見一族、世良田・得河氏、岩松氏の5系統に分かれる。
得河氏の名前ぱくって、徳川だったかな?
乞食坊主が源氏の名門に。家康は山名も優遇してる。

182 :
大内氏の嫡流は山口氏だろ

183 :
>>180
隆元室(輝元母)の内藤興盛女は大内義隆の養女になってるから、
そういう意味でしょう(=大内義隆は舅にあたる)

184 :
>>182
どこがだよ。

185 :
大内氏、陶氏滅亡後の話だろ

186 :
吉見が支持しているから大内義隆の弔い合戦という名目はあったよな

187 :
大友からすればものすごくオイシイ話だったんだろうな。

188 :
多々良氏嫡流の流れ
大内氏→陶氏→山口氏

189 :
その嫡流の定義は何ぞ?
山口氏は大昔に周防から離れていて政治的繋がりなんぞ途切れてるんだから、嫡流も何もないだろう。
んで、陶は実権を握っただけで形式的な当主は大内義長。これで陶を「嫡流」ってのも無理がある。
君が言いたいのは「多々良氏の一族のうち、一番の権力者」だろ?
それと「嫡流」はまったく別物だよ…(´・ω・)っ [国語辞典]

190 :
内藤興盛の娘って大内氏と女系ではつながってるんだっけ?

191 :
生母は誰?>尾崎局

192 :
義隆の養女なだけでは。

193 :
だよね( ・´ω・`)

194 :
内藤氏は義興室の実家だし、有力家臣なので、その縁で
義隆の養女になったんだろうね

195 :
本家と血縁は島根に住んでるらしいが

196 :
内藤のか

197 :
内藤は藤原道長の後裔を名乗ってるんだね。

198 :
藤だもの

199 :
さっきNHKで、大内義興が武家目線の源氏物語を上洛した時に作らせたってテレビで言ってた。

200 :
現在の多々良氏の嫡流はどこよ?

201 :
だからあ、嫡流の定義を先に絞り込まないととだな('A`)…

202 :
俺、山口市大内地区在住だけど大内氏ってあんま言わないなぁ。
確かに山口市には大内が始めた祭りとか、建てた寺とかあるけど、山口は事あれば「維新、維新」だもん。
大内氏といえば、百済から来たりんしょう太子の末裔(漢字を忘れるぐらい)→→→→→義隆が陶に裏切られて大寧寺で切腹。以降(義長の存在は無視して)陶の治世→→宮島で陶が腹切った=(義長の存在は無視して)毛利の治世
という認識です

203 :
家臣の冷泉さんってお公家さん?

204 :
昔の母系祖先が冷泉家の人だよ。父系は大内だったはず。
なんでわざわざ冷泉を名乗ったのかは知らんが、結果的にはいい味出してるよね。

205 :
良いですよね冷泉さん。

206 :
1 名前: 冷泉隆豊 投稿日: 2001/07/10(火) 04:36
どうか皆様方
後世では碌な事を言われていませぬが
わが主君のこと語ってくださりませ
かつて三戦史板で老舗とも言われたあのスレの>>1を思い出したから貼っておきますね

207 :
大内義隆with藤谷美和子

208 :
>>207
大内義昭?
北九州出身みたいだけど、大内輝弘あたりの系統の縁者なのか、それともただのオマージュか。

209 :
大内の義って 義弘と義興以降に限られるんだね。
歴代は弘のつく人多いね。

210 :
「義」は将軍から下寵された片諱
大内氏の通字は基本「弘」だね。

211 :
「世」はなんだろう?

212 :
弘世、持世、光世ぐらいかな、一時の流行り?

213 :
光世→満世でした

214 :
「世」の字だとむしろ百済王の誰かに由来がありそうな

215 :
大内が河野を攻めるときは宇都宮も河野とは敵対、
大内方の一条氏とは同盟関係の
宇都宮豐綱は大内氏とはどのような関係にあったのでしょうか?
これは伊豫宇都宮も大内の影響下に置かれていたものと見ても良いのでしょうか?

216 :
河野は大内とよかったんじゃなかった。

217 :
河野が大内と敵対したのか何なのか攻め込まれたことがある
最終的にはまた大内に属することになったらしいが

218 :
盛見の死後家督が義弘の子に移った事情は?
結局は盛見の系統に戻ったが・・・

219 :
基本的に幕府が最終的な決定権を持ってるから、
わざと守護職を別々の系統に安堵したりみたいなことも可能になる
もちろん、大内みたいな家だと実力で覆されることもある

220 :
                      ▲
                    ▲▼▲
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                      ▼

221 :
大内って最大何万石あったの?

222 :
どこからどこまで領域とみる?

223 :
守護職として任官されたところを領域と考えると
最大領域は大内義弘の時の和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見6ヶ国守護だから、
これを太閤検地の時の石高で言えば、おおよそ83万石。

224 :
石高の知識はないけど、石見・安芸・周防・長門・豊前・筑前の義隆のときとか、義隆に加えて山城があった義興のときのほうが多そうな気がする。

225 :
隆房には武力以外の選択肢は無かったのかな?
内藤、杉とも連携済みだからもっと上手くやれそうな・・・
後知恵か

226 :
謀反以外の方法で義隆を退けるって事か?最初はそのつもりじゃなかったっけ
義隆を隠居させて義尊を当主にするってやつ
ソースが思い出せないけど

227 :
相良武任との対立があったんじゃなかった。

228 :
陶の謀反は個人的な感情の部分があるんだよね。

229 :
義隆に問題があるんですよ。

230 :
出雲遠征失敗がそんなにショックだったのかね

231 :
>>220
そんなに断定的に言えるものだろうか

232 :
出雲遠征は大きいわな。

233 :
もともと左程好きな訳ではないだろが 負けて一気に自信を失った感じだ。

234 :
うーん、初期の少弐攻めのあたりは結構格好いいと思うんだけど。

235 :
立ち位置が変わらないのに、前半生と後半生の評価がこれだけ違う大名も珍しいな

236 :
上杉憲実の墓あんの?

237 :
長門市の大寧寺にあるみたい。

238 :
大寧寺には益田元祥とかの墓もあった
ひっくりこけていたけど

239 :
大寧寺は冷泉隆豊の最期の解説が凄かった記憶が
なんか腹かっさばいてはらわた敵に投げつけたとか書いてあったんだけど

240 :
諏訪頼重もそんな感じに死んだはず
はやってたんじゃね?

241 :
尋常のない痛さだろうから
早く死にたいがためにそんなことやってるんでないかな

242 :
腹を十文字に切るのと同じで恨みの作法だと聞いたことがあるぞ
幕末に攘夷派の武士が外国人に自分のはらわたなげつけて
気絶させたという話もあるし
諏訪さんは状況からして武田への恨みがあるだろうし
冷泉隆豊も陶さんが謀反起こすのを避けようと
義隆にいろいろ言ったり陶さんと相良の間に立ったりしてたけど
それでもやっぱり謀反を起こした陶さんへの恨みは大きかったんだなあ
と思わざるを得ない

243 :
なんだーただ流行りかと思ってたよ

244 :
柴田勝家もそういう伝説あったよな
やっぱり恨みの文化か

245 :
>幕末に攘夷派の武士が外国人に自分のはらわたなげつけて
>気絶させたという話もあるし
ビビるよなw

246 :
相良を重用しすぎた義隆が悪い。

247 :
糞毛利にも晩年は好き勝手されていたみたいだし義隆しっかりしろよ

248 :
そういえば大寧寺は大内菱のステッカー売ってたよ
交通安全って書いてあるの

249 :
>>248
それって寺紋ってオチじゃねーだろーな?

250 :
山口は今でも大内の町

251 :
>交通安全
ということは隆房、網代車の行列はやっても構わぬという事じゃな?

252 :
萩は毛利!
やっぱ山口県民は大内以外応援してはいかん

253 :
山口県は市や町によってプッシュしてる人がそれぞれだよね
ていうかほとんど幕末だけど

254 :
周南は陶だったりするのだろうか

255 :
岩国・・・吉川、へび
萩・・・毛利、幕末
山口・・・大内
光・・・伊藤博文
下関・・・幕末
長門・・・みすず
勝手な俺のイメージ

256 :
>>255
岩国・・・吉川、へび
萩・・・毛利、吉田松蔭、幕末
山口・・・大内
光・・・伊藤博文
下関・・・幕末、高杉晋作
長門・・・みすず
その他・・・まとめて高杉晋作

こんな感じじゃね?

257 :
へび・・・

258 :
シロヘビ吹いた
だいたいあってる

259 :
山口に詳しくないんだが、
岩国周辺には蛇にまつわる逸話でもあるのか?

260 :
>>259
岩国のシロヘビ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%98%E3%83%93

261 :
>>260
おお、すっげーw
何か守り神っぽいな

262 :
こちらスネーク

263 :
>>254
ちょっと前に周南市のフリーペーパーで陶氏特集みたいなのやってた
けっこうおもしろかった
若山城跡入り口に石碑とか看板立ってるらしいね

264 :
>>263
>周南市のフリーペーパーで陶氏特集みたいなのやってた
詳しい内容を、是非!!

265 :
>>264
「月刊まるごと周南」っていうフリーペーパーで
2008年9月号の特集「陶氏の時代」というのをやっている
陶氏の流れや系図、陶弘護、陶晴賢あたりが特に詳しい
若山城跡のことも地図付きで書いてある
正直フリーペーパーにしてはかなり濃いと思う
あとバックナンバー見たら「栄光の徳山藩」なんて特集もあった
個人的にそっちも欲しかったりする

266 :
>>265
いいねいいねー
やっぱりお膝元だとそういうのがあるんだな、うらやましい
それはそうと誰かアンサイクロペディアの大内義隆の項目を
いじってはくれんかね
このままじゃ陶の時みたいにまた記事が消されてしまう

267 :
>>265
ありがとうございます!
いいなあ、フリーペーパーでそんな記事を読める環境…
弘護のことはよく知らないから、是非読んでみたいな。
あと若山城跡も興味深いし。
発行元に頼めばバックナンバーを貰えるかなあ。

268 :
>>266
( ^ω^)更新したお

269 :
>>268
実にアンサイクロペディアっぽい加筆修正乙です
赤リンクの多さには笑ったw

270 :
大内義隆 - アンサイクロペディア
ttp://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86
これか…

271 :
保守

272 :
エクストリーム勘合貿易・・・・・ゴクリ

273 :
やはり大内は室町政局の軸 細川と対極の。

274 :
細川と大内が室町で対局

275 :
大内の架空戦記ものってないのかな
あったら読んでみたいと架空戦記スレ見てて思った

276 :
そういえば応仁の乱の架空戦記はあんまり見ないなあ

277 :
大内も小弐との争いで苦労してんるんだな。

278 :
それでさんざん朝廷に献金して大弐の位もらった。

279 :
そのうち大弐氏に改名してたんだろうか

280 :
それは無い

281 :
わろた

282 :
なんで大内や毛利は有事になっても兵を動員するのが遅いの?

283 :
大内・毛利と一口で言ってもそれを支えるのは周辺の国人衆の寄せ集めだから

284 :
それはわかる
でも他の大名だって似たようなもんなのに
もっと早く動員していると思うんだけど

285 :
毛利はそんな動因遅くないだろ。
大内は、戦国期に広く行われた、大名直属の常備軍である旗本衆の形成と
それを城下に集合させる流れに乗り遅れた感じだな。

286 :
毛利は彫塑壁討つ時にクロカンから到着が遅いとか言われてなかったっけ?
ソースは思い出せないけど

287 :
身内のエケイにも遅いって言われてたはず
どうなんじゃろ?まあ俺の勝手なイメージだが

288 :
大内で遅いっていうとあれか、吉田郡山城が尼子に攻められた時か
あれは途中で厳島によって戦勝祈願してるからなあ

289 :
>あれは途中で厳島によって戦勝祈願してる

やべえなんかすごくかわいい姿が頭に浮かんできた

290 :
行軍の途中で戦勝祈願は、別に珍しい話じゃない。
信長も桶狭間の時やってるし。

291 :
陶隆房の初陣はこの戦だったのか?

292 :
吉田郡山は大将だから 初陣って事はないと思う。

293 :
1534年(天文3年)の勢場ヶ原の合戦ですお(^ω^)
(VS大友)

294 :
勝ったか負けたかよくわからんやつか。

295 :
陶は元服は遅かったが初産は結構早かったんだな

296 :
ごめん
×初産
○初陣

297 :
ごめん、吹いたw

298 :
これは吹くわw

299 :
わしをよんだのは>>295か?

300 :
陶隆房の初産って何か生々しい

301 :
生々しすぎるな

302 :
やっぱ生なのかな

303 :
大河の見過ぎですが、細川俊之さん(左京大夫)のイメージが強いです。
国人衆に目を光らせるために武田刑部少輔(宍戸開さん)に帰国を命ずる場面に
大内と武田の力関係がよく判ります。

304 :
大河の毛利元就以外に大内が映像化されたのって見たことがないな…

305 :
細川さんの義興はステキだった
あのいい声も相まって迫力があったわ
大河の大内家は本当にゴージャスな演出されてたな

306 :
あわてふためく相良武任はワラタw

307 :
>>304
時代的に3傑に重ならないからな・・・
でも思いっきり絡んでいるはずなのにキンジバ以外ではほぼヌルーの朝倉よりまし

308 :
もうちょっと滅びるのが遅かったらな…
まあ隆房が謀叛起こした時点で大名家としては八割ぐらい詰んでる気もするがw
それにしても義隆って養子もらうの早すぎね?
晴持も死なずに義尊生まれたらどうするつもりだったんだ

309 :
あの複雑な愛憎関係は、大河より昼ドラ向きだと思うんだ。

310 :
>>308
陶隆房が晴持を担いで謀叛起こすシナリオに突入します

311 :
>>309
「妖臣伝」読んだら昼ドラ大内家は十分いけると思ってしまった
あれは昼ドラどころの話じゃないが

312 :
あれ男色とオカルトが強すぎてあまり読み返せない

313 :
雅やかでアッーな昼ドラは視聴者層に合致しそうだな

314 :
大内氏はチョンだから嫌い

315 :
まーたそんなことを…

316 :
大内義隆は、百済王家の出として知られていたため、源氏や平氏を名乗れず管領になれなかった
つまりはチョン

317 :
大内歓寿丸ってチンポ切られてどうなったの?
その場で死んだの?生きて坊さんにでもなったの?

318 :
殺されたらしい

319 :
>>316
百済王家と名乗っていたただけで実際どうかわからないし
母方は代々日本人なわけだから、どちらにせよ
百済の血は薄くなってるだろう

320 :
>>316 その論法でいくと武寧王ゆかりとも自称するやんごとなき方は…。

321 :
本当で十分由緒正しいですよ。偽かもしれないけど。 

322 :
本当であればです。

323 :
多々良氏

324 :
よく戦国大名に仕えるなら誰なんて話があるけど大内が一番いいよな
義隆にさえ気に入られれば金も女も手に入りそうだし
ハーレムにも混ぜてくれそう

325 :
そして武闘派の陶隆房に目をつけられるのですね。わかります。

326 :
陶が城にこもった時点で山口を焼き払って毛利にでも頼って落ちて行けば生き長らえたのに

327 :
位置的に毛利の方まで逃げるのは難しいだろう

328 :
山口焼いちゃったら大内なんてもうどうでもいい存在になっちゃうな

329 :
落ちぶれた義隆を毛利がかくまうかね
保身のために陶に引き渡しそうだが

330 :
陶が城にこもってからかなりの時間があるから
義隆にやる気があれば色々手立てはあったはず

331 :
>義隆にさえ気に入られれば金も女も手に入りそうだし
気に入られた時点で女じゃないほうも手に入りそうだな(*´・ω・`*)

332 :
手に入るものもあるが失うものも大きいってことか…

333 :
女じゃない方だけ手に入って
肝心の女が手に入らないという状況が一番ありうる

334 :
義隆に実子はいなかったっけ?

335 :
いるよ
女子も含めると4〜5人いたはず

336 :
>>332
いいじゃん減るもんじゃないし…

337 :
>>336
義隆様乙です

338 :
>>335 そうなんですか。

339 :
男子は誰?

340 :
大内義尊
他数人

341 :
大内義義

342 :
晴持の没後なんだね 義尊が生まれてるのは。

343 :
>>316大内氏が百済王の末裔という証拠は一切ないよ。
当時の日本からしたら外国は支那か朝鮮でしょ。
その朝鮮でも百済と日本は行き来があった間柄。
それに当時は、支那や朝鮮から入ってくる物は
唐物といって京や他の都で人気があったんだよ。
そういった時代背景があって、大内氏が権力の誇示で
百済王の末裔と言い出した可能性もある。
大内氏は最初から百済王の子孫だと名言してないんだよ。
むしろ自分の力が大きくなってきてから言い出してる。
つか、本当にそんな事言ってたかどうかすら不明だよ。
現代の日本人が欧米などの国に興味を示すように
大内氏も単に外国であった百済に興味があっただけじゃない?

344 :
わざわざ上げて遅レスしてまたこのネタで活気づけようとするのか
大内はホモと朝鮮の話題でしか伸びないもんねー

345 :
>>324
義隆は重度の男好きだろw

346 :
実は男だけじゃなくて女もかなり好きなんだよ。

347 :
側室が分かってるだけで三人だっけ

348 :
尼さんに手を出したって逸話もあるな

349 :
人妻に手を出そうとして失敗した逸話もあるな
ああ、なんて人間味に溢れる方だろうか

350 :
まあいろんな意味でお盛んな人だったんだな

351 :
女といえば…おさいの方は相良武任と並んでかなり悪く書かれてるな
義尊が義隆の子ではなくて他から種をもらったとかひどい言われようだ

352 :
正室も側室も公家方面からきてるのか…さすが大内さん。

353 :
家柄はどうでも権勢は凄いから

354 :
Gaagle - 大寧寺之變
http://gaagle.jp/q.php?s=s&q=%C2%E7%C7%AB%BB%FB%C7%B7%DA%CE

355 :
>>354
いやん
怖くてそのURL踏めない

356 :
ガーグルwwwww

357 :
義興に比べると義隆は大人しそうな気もするが。

358 :
閨では激しかったよ

359 :
>>357
大内関係の本を沢山書いている福尾猛市郎が
義隆の気の弱い部分は母親似と分析していた

360 :
内藤弘矩の女か。武家だけどね。

361 :
母親ってどんな人物だったの?

362 :
けっこう長生きだったよね
陶晴賢死後も生きてたんだっけ?

363 :
大内義長が死んだ後も生きてる

364 :
みんな短命だから

365 :
とのさまとのさまおとのさま♪

366 :
>>365w

367 :
もうそんな季節か
よいよーい♪

368 :
山口でよい祭りでもあるのですか?

369 :
一つ質問したいんだが
最近よく2chの東亜板にあがるスレで大内家の子孫って人達がいるけど
この人達って本当に大内家の子孫なの?

370 :
>>369
しるか

371 :
七夕ちょうちんまつりてあんだね。

372 :
山口県民なら殆ど知っている、山口の町を歌ったCMソング
1、
一つ二つみつけた
豆子郎さん通りゃんせ
四つ五つに伊勢大路
六つ向こうは瑠璃光寺
七つ懐かし常栄寺
八つ八坂さん通りゃんせ
九つここは洞春寺
十で豆子郎さん通りゃんせ
2、
一つ二つみつけた
豆子郎さん通りゃんせ
四つ五つに石原小路
六つ向こうはザビエル記念堂
七つ懐かし大内館
八つお山は東山
九つここは鰐石橋
十で豆子郎さん通りゃんせ

373 :
ザビエル記念堂だけなんか浮いてて面白い

374 :
大内館は懐かしでいいのか

375 :
備中からや伊豫から肥後まで12カ国にまたがる義隆期の石高はどのくらいでしょうか?

376 :
伊予とか肥後とかって守護でもなんでもなくて、国人に影響力を持ってるってだけだろ?
それじゃあどこまでを勢力範囲に入れていいものやら定まらないし、石高も特定しようがないんじゃ?

377 :
守護でもなく国人に影響を与えていたにすぎませんが
守護なのに自国内に大した影響も及ぼせていないような大名だっているのでそれらよりはまともに見えていました。

378 :
>守護なのに自国内に大した影響も及ぼせていないような大名
こら!安芸武田氏をいじめるな!

379 :
あいつら守護だったのか…。
でもエケイちゃんがちょっとだけ歴史に名を残したんじゃない?

380 :
>>378-379
南北朝初期の安芸武田氏(安芸守護家)は安芸国の北朝勢力を結集させて足利尊氏に味方してるぞ
若狭に本拠を移したから影響力は低下したけどね
ちなみにエケイちゃんの血統の安芸武田氏(若狭武田の分家)は安芸国守護じゃないよ
佐東郡付近の分郡守護で、支配年数はほんの数十年

381 :
若狭が本家なのね。

382 :
若狭、若狭ってなんだ

383 :
若狭生活

384 :
義隆の頃の若狭守護はたしか武田信豐だが
ここも狭い若狭一国すら完全に掌握出来てないな
中部の小浜辺りに安東氏の代官を置かれ、西部は三好に侵食されている
東はどうかというと後には朝倉義景が攻めてきてその軍門に降ることになるし若狭生活も大変だな

385 :
ためらわないことさ

386 :
若狭ゆえ とか。
大内に戻そうか。

387 :
金子みすずで有名な仙崎って大内の頃から大規模な港だったの?

388 :
瀬戸崎とし有名だね。

389 :
仙崎の蒲鉾は戦後なんだ

390 :
そういえば大内って蒲鉾があったなあ

391 :
山口って外郎が有名なのね。

392 :
出雲の敗戦で武に目覚めた陶

393 :
今週のフラッシュの「絶対部下になりたくない!」戦国の愚将ワースト20
第16位 大内義隆
第17位 陶晴賢
おめでとうございます
どちらもきっぱり名将だと言える武将ではないけど
愚将の一言で片づけられるとなんだかなー

394 :
どっちにせよ中途半端な順位ではある。
それにこういうのは実態云々より、知名度競争だからなあ。

395 :
大内義隆も前半生はそこそこ名君だしなあ

396 :
>>393
トップ3は?

397 :
>>396
1位は豊臣秀頼だったかな
フラッシュはどこのコンビニにも置いてるから
自分で確認してくれ

398 :
秀頼より俺は金吾中納言の方が嫌だな

399 :
むしろそれぐらいのランクに付けてもらえるほど知名度があったのかと驚く>両者

400 :
見てきたけど大内や陶と同じく戦国ヲタクには分かるが
一般人には微妙な大友義統や宇喜多秀家も入ってるから
そういうランキングなんだろう
20人も名前挙げるにはそれなりに広くやらないと埋まらないからな

401 :
大友義統と宇喜多秀家が同程度の知名度?

402 :
義統入れるなら義長も義鑑も参加したいな。

403 :
一般の人から見たらどれも似たようなもんだな

404 :
義隆だって知らないだろな。弘世とかの方が教科書のってたりする。

405 :
せめて上洛した人の名前は覚えてほしい

406 :
上洛した人といえば毛利興元

407 :
義興関係の本って全然ないな
功績の割に大内家や義隆の説明を補足するレベルにしか取り上げられていない

408 :
やっぱり尻すぼまりなのがまずかったのか

409 :
あーそういうのいいから

410 :
ああ、そういう意味にもとれるのか。

411 :
義隆にだっていい所あるでしょ
文化面を除いても…きっと…

412 :
最初の何年かは神がかっている

413 :
出雲遠征までは失敗殆どなし

414 :
つまり、挫折を経験したことのない優等生みたいな感じだったのかな…。

415 :
晴持が死んでどーでもよくなった

416 :
実子でもないのに晴持に入れ込みすぎ

417 :
でも遠方に嫁入りしてしまったお姉ちゃんの子供でしょ?かわいかったんじゃ?

418 :
可愛かったのは確かだと思うね
俺も甥っ子かわいいよ

419 :
通報しますた

420 :
大内義隆の生母もなかなか波乱の境遇

421 :
毛利時代まで生きてたんだっけ。
孫(晴持)の死、息子(義隆)の死、陶・大友による乗っ取り、厳島、そして義長滅亡、輝弘の再興失敗まで全部目にしてきたのかな。

422 :
いや、義長死亡まで

423 :
義興の時代から一転だもんね

424 :
義興の事績はもう少し見直されてもよいよね。

425 :
そうだよねー

426 :
実際は興元の言いなりだった義興とか?

427 :
腐女子は消えろ
なんでもかんでも目ぇつけるな

428 :
このスレの一体どこに腐女子が

429 :
>>428
たぶん427は426を 毛利興元(攻)x大内義興(受) と受け取ったんだと思われ。
実際そうだったのか、また426がそれを指してレスしたのかは不明。

430 :
天下の大大名の義興様が
弱小豪族にケツを掘られるなんて涙が出てくるわ

431 :
>>429
何をどうやったらそんな発想が出てくるんだ…

432 :
>>429
(> <)キャー

433 :
さすが大内家のスレやな!

434 :
>>431
しょうがないだろw
興元っていう有名人は安芸国人一揆の盟主を務めた毛利興元ぐらいしか思いつかねーw
真相知りたきゃ426の再登場を希望するレスでもしとけw

435 :
いや431は434に対してでなく、
434が解説してくれた426の発想に対して感想を述べたまでではなかろうか

436 :
426じゃないな、427の発想だ。426には悪いことをした。

437 :
内藤興盛と書こうとしたのでは
それでも不自然極まりないけど

438 :
大内義興が内藤興盛の操り人形だったとでも?

439 :
何で義隆はわざわざ大宰大弐を欲したんだろ。
少弐氏とは室町初期から争って当主も何度も敗死させてる。
更に力をつけてた当時の大内氏なら無くても滅ぼせた気がするが。

440 :
だらだらと戦争続けるより朝廷への献金で決着するのならそっちのほうが安く済むし早い。

441 :
滅ぼしても大内じゃ支配の正当性の点でいまいちだからこそわらわらと復活してくるわけで

442 :
少弐の復活力はなかなか

443 :
大内の献金額はずば抜けているから

444 :
大内がいなけりゃ朝廷は更に困る

445 :
信長の野望 天道で大内義隆の能力がえらいことになっている
本来は大内義隆 鼓舞 BDBCB 統率76 武勇34 智謀77 政治89 ランクA 義理48の二線級だが
これに官位・兵部卿効果で統率・政治が+8 役職・西国探題効果で指揮兵力+4000がつく。
さらに金持なので保有家宝が
上杉瓢箪 茶入一等級 政治+10
青磁松本 茶碗一等級 政治+10
大内筒  花入一等級 政治+10
藍韋威肩赤鎧 具足三等級 統率+8
これだけ所有している(効果は重複しないので政治+10 統率+8しか上がらない)
それでも修正後は
統率92 武勇34 智謀77 政治107
となる。
官位と家宝で大きく化けたな

446 :
>>445
俺が尼子スレに書いたやつじゃねーかw

447 :
      足騎弓鉄兵水 統 武 智 政格 義  戦 
      軽馬  砲器軍 率 略 謀 治付 理  法
大内義長 D D D D B   22 20 12 36 C 56 兵器強化
青景隆著 D D C D D   09 08 70 60 C 06 同討
天野隆重 C D B D D   73 62 72 50 C 49 斉射之三
飯田興秀 D C B D D   27 53 69 72 B 30 斉射之二
陶晴賢  A B B D A   90 86 78 75 A 50 槍衾之四
杉重良  D D C C D   26 34 27 35 C 22 威圧
問田隆盛 D D C D D   31 30 53 62 C 38 斉射之一
内藤隆春 D D B D D   53 20 64 62 C 51 鎮静
仁保隆慰 D D C D C   50 41 62 67 C 43 罵声
弘中隆兼 B C D D D   70 64 72 51 C 82 混乱
吉見正頼 D D C D D   52 50 71 68 B 74 罵声
吉見広頼 D D C D C   33 31 43 64 C 67 斉射之一
益田藤兼 B D C D D   59 54 60 59 C 40 槍衾之一
益田元祥 C D D D D   11 10 53 87 B 71 鎮静
大内義隆 B D B C B   76 34 77 89 A 48 鼓舞
相良武任 C D C D D   35 27 81 79 B 22 同討
杉興運  C D B D D   62 38 74 76 B 69 鼓舞
杉重矩  B D C D D   52 58 40 64 B 57 混乱
内藤興盛 A D B D C   84 52 79 74 B 58 足軽強化
冷泉隆豊 B D A C C   74 80 68 70 B 89 弓強化
城井正房 D D C D D   43 40 59 69 C 46 斉射之二
城井長房 C D C D C   62 54 44 53 C 51 斉射之一
城井鎮房 C C A D D   74 80 68 45 B 35 斉射之二
佐田隆居 C D D D D   48 44 63 55 C 66 罵声
佐田鎮綱 C D D D D   53 50 45 57 C 74 槍衾之一

448 :
あ、今回水軍なかった。
平均的だった家臣が底上げされている。
とくに内藤興盛が大幅に強化されているな。

449 :
隆房が完璧な名将になってるな
他の勢力でやってても進んで登用したくなるレベルになってる
今まではノーキンだったのに

450 :
大内家
周防・長門・石見・豊前・筑前守護職・・西国探題のみ
尼子家
出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆守護職・・出雲守護のみ
革新での中国地方の大名に対する扱いは酷かったな
西土佐・東土佐 南伊予・北伊予とかどうでもいいところは分割しておいて
周防+長門でひとつ 備前+備中+美作でひとつ 安芸+備後でひとつ
石見+出雲+隠岐でひとつ 因幡+伯耆+但馬でひとつ
って具合に割愛されまくった

451 :
たまには門司一族のことも思い出してあげてください

452 :
大内氏の最盛期は筑前・豊前・長門・周防・安芸・備後・石見におよんだといわれていますが
安芸・備後は毛利、石見は尼子のイメージが強いです。
実際、大内はどのくらいの割合を支配していたのでしょうか?

453 :
尼子はともかく毛利は義隆時代に急拡大しただけじゃ?

454 :
ぶっちゃけ毛利が、領域を支配し家中を統率する戦国大名化したのは大内の滅亡後だしな。

455 :
>>452
安芸は毛利弘元が国人一揆の盟主を務めているのでそれなりに影響力があったが、
毛利氏の所領が芸北に位置しているため、その影響範囲は芸北と備北(備後北部)に留まる。
府中や銀山などの芸南地域に対して大きな影響を与えたのは大内氏及び安芸武田氏で、
大内義興時代に安芸武田氏が衰えると芸南はほぼ大内氏の支配下に入った。
広島や呉には安芸武田氏の影響下にあった警固衆という水軍がいたが、
彼らも大内氏に従うようになった。
ちなみに水軍を率いた白井氏や野間氏らは陶と毛利の争いでは陶に味方している。
また吉川氏も相当の影響を与えており、芸北は毛利と吉川で二分状態だった。
但し吉川と毛利は友好関係にあったため敵対的な二分状態ではない。
ということで、安芸に関しては
芸北…国人衆による一揆契約が存在しており、大内氏の影響があるとはいえ支配されてはいない。
芸南…安芸武田旧臣や豪族も大内氏との結びつきを強めており、事実上支配下にあったと言える。
と個人的には解釈している。

456 :
>>447
最初、義長が義隆に見えてしょんぼりしてしまったw
にしてもちょっと大判振る舞いしすぎでは・・・

457 :
個人的イメージ
    応仁以降     その後〜    戦国中期〜     
芸北 吉川+国人    吉川+毛利    毛利吉川
芸南 安芸武田     大内        毛利
備北 高橋        尼子        毛利
備南 国人+小早川  大内+小早川  小早川毛利
吉川に関しては傭兵のようなイメージがある
領土欲が少ないのに兵は強く鉄を産し領主家臣は一癖ありだが揃って戦上手
高橋は武家というか木材商人として興り商人らしく滅びたイメージ

458 :
>>445
水墨画一等級の瀟湘八景図を忘れちょるよ

459 :
吉川は応仁の乱でも活躍してるし、赤松氏の要請で播磨にも出兵してるしな。
末期を除いて歴代当主が異様に長命なのもすごいが。

460 :
吉川は残念なことをしたな・・・

461 :
毛利が手を出さなくても興経は残念な事になってそうだが

462 :
小早川も残念であった・・・

463 :
陶とて残念。

464 :
逆に残念でない結果だった例はあるのだろうか・・・?

465 :
益田とか?
吉見は残念。

466 :
吉見と内藤の残念っぷりは異常

467 :
残念スレかここはw

468 :
【大内周辺勢力の残念な結果】
吉川……元就に残念される
小早川…元就に残念される
陶………元就と重輔に残念される
杉………晴賢と輝元に残念される
内藤……元就と輝元に残念される
吉見……輝元に残念される
問田……重輔と元就に残念される
宗像……晴賢と鑑連に残念される
城井……孝高に残念される
龍造寺…家久と直茂に残念される
その他残念な結果追加募集中

469 :
城井や竜造寺やあと名前がないけど大友は
さすがに大内と関わって残念という訳ではないな

470 :
というかこっちのほうで残念じゃないのって立花さんぐらいだよね

471 :
残念からの復活だからなぁ立花は格が違う

472 :
結構どこも残念だね。

473 :
「戦国時代の最大領域を江戸に持ち越せなかった」を残念と定義すると、
九州方面で真に残念ではないのはいないんじゃなかろうか。

474 :
戦国大名クラスでは全国でもあまりいないでしょ

475 :
甘利というか津軽氏くらいしか思いつかん

476 :
最上とか?江戸時代始まってから20年で改易されたが

477 :
そろそろスレタイ読んどけ

478 :
政弘はさほど目立たないね。

479 :
西の山口
東の小田原
間違いないね。

480 :
山口の繁栄は、東国では今川氏時代の駿府の方が近いだろ。

481 :
http://www.gamecity.ne.jp/musoumrsp/
真・三國無双 MULTI RAID Special
メジャーからマイナーまで!あの戦国武将を使える、ゲーム初心者でも楽しめる爽快感あるメジャータイトルがPS3でついに発売!

482 :
小さい時からここの血筋だと言われて育って興味あるのですが
小説も無いし全然分かりません
何かいい情報サイトや書き物ありませんか?
逸話を知りたいです

483 :
>>482
大内氏の子孫というと、家伝で義弘の裔と称する山口氏と、
同じく家伝で義隆の子孫と称する豊田氏がいるが、そのどっちかってことか?
大内氏のwikiで歴代当主ごとにグーグルで検索すれば逸話はいっぱい出てくるぞ。
家臣団もある程度列挙されてるし、信用できるかどうかは別として、
入門としてwikiを参考にするのは悪くない。
だが、あくまでwikiは参考に留めておいて、絶対に盲信しないように。

484 :
大内のいい本ってあるかな?

485 :
とりあえず基本は人物叢書

486 :
大内氏は献金の功で官位を賜り、僭称があたりまえであった家臣まで正式な官位を持っていたと聞きます。
おもな正式叙任者
大蔵大輔・・吉見正頼
下野守・・内藤興盛
豊後守・・杉興運
伯耆守・・杉重矩
近江守・・相良武任
尾張守・・陶晴賢
中務大丞・・弘中隆兼
左衛門少尉・・冷泉隆豊
しかし、良く考えてみれば下野守は宇都宮家の世襲であり
宇都宮尚綱も叙任されていたはず。
〜守は僭称が多く同時代に何人もいましたが
正式の官位も複数叙任されていたのでしょうか?
それとも大内側が金の力で宇都宮から官位を奪ったのでしょうか?

487 :
>>486
片方でレス貰えずに時間を開けての書き込みならともかく
このスレに書き込んだ1分後にマルチとかRよ
自称された官位について
http://gimpo.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1211096514/

488 :
>>486
朝廷が乱発したとか?w

489 :
>>486
「受領名」

490 :
自称ってやつですね。
大内さん本人は朝廷に大金積んで貰ってますけど。

491 :
政策においても保守的で、奢侈禁止令や段銭徴収に関する法令を発布する。
寺社の復興に寄進し、大宰大弐となると大府宣を布告した。
さらに義隆とその家臣団の官位も他の戦国大名のような自称官位ではなく、
朝廷に奏請して賜っている本当の官位である。このように、復古的な政治が多く見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86
だれが本当の官位だったんでしょうね?
たしか毛利元就は大内義隆にいわれて献金して右馬頭を手に入れていたよな

492 :
閥閲録や湯殿日記、大館日記辺りに書状関係が残ってるんじゃね?

493 :
今川と大内どっちが大きいんだ?

494 :
そりゃ大内だろ。貿易利権があるし、なにより一時的ながら確かに天下人だった。

495 :
>>493
どう考えても大内
今川氏の最盛期ですら駿河・遠江・三河の大部分・尾張の一部
大内氏の最盛期は豊前のほとんど筑前のほとんど長門周防石見半分安芸半分備後の一部
石高に関しては豊かな平野を持つ今川氏が上かもしれんが、
海外貿易の一拠点である博多の重要性は高い(奪い合いしてるが)
公的な地位や幕府への影響力も今川氏とは比較にならない
でも大内も今川も大名としては滅んでるんだよなぁ

496 :
ありがとうございます
実は下記スレに今川の方がすごいと言ってきかない変な人がいて困っていたんですよ
信長の野望で過大過小されている武将六十六人目
http://schiphol.2ch.sc/test/read.cgi/gamehis/1255074838/
157 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/11(日) 17:26:56 ID:Ig8Z3BGT
今川>>大内
当時の最強勢力は今川家
歴史の常識
172 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/11(日) 20:37:42 ID:Ig8Z3BGT
>>158-162
今川は小和田哲男の著書を読めば
その凄さがわかる
で、大内の研究してる大学の歴史学者は
どう言ってるわけ?w

239 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 19:26:35 ID:Tl9mCxeT
>>236
大内・大友が戦争が得意?
なんという戦いでその実力が発揮されたのか教えてくれよ。
島津一門や道雪・紹運は過大だし。
242 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 19:54:52 ID:Tl9mCxeT
>>240
今川が最盛期の時には大内義興は死んでいます。
また、船岡山合戦をもって大内・大友が戦争が得意だと証明できるの?
248 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:08:51 ID:Tl9mCxeT
別に俺は>>157じゃないけど、東海・甲信越の歴史がファンタジーで、
大内・大友が戦争が得意だと言うなら、その証明をしてもらいたい訳だが?
今川と大内のどちらが上かなんてのは、大して興味のないところだ。
251 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:13:26 ID:Tl9mCxeT
>>249
だから、そのレベルの高さとやらを何をもって証明するんだい?
大内は確かに文化的には高いレベルだったけどね。
それが戦の強さに結びつくわけではないが。
266 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:41:09 ID:Tl9mCxeT
>>259
どこが最強かなんて知らん。
大内・今川についてもどうでもいい。
東海・甲信越は確かに美化されている点もあるだろう。
それより、大内・大友のレベルの高さについての証明は?
織田・徳川・武田・上杉は西じゃ通用しないって?
271 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:57:08 ID:Tl9mCxeT
>>268
やっぱり何も言えない訳だ。
レベルが高いと言い切るなら、すぐにその証拠が出せるだろうに。

497 :
今川了俊のことじゃないよな

498 :
こういう比べあいっこってさ、
基本的に片方が詳しい人間同士がいがみ合うから平行線なんだよな
両方詳しい人間がソース出さないと相手方が上だとは納得できないんだろう

499 :
>>496
496のレスを見ると「当時」とあるから、天文末から弘治にかけての大内と今川の比較か?
それなら今川>大内だと思う
当時の大内は豊前・筑前に親大友派が出没し、石見は尼子が優勢な状況で、
安芸・備後は毛利に侵食されつつある状態
つーかさ、Tl9mCxeT の主張は別におかしくもないだろう?
一般論として今川>大内と言っているわけではないみたいだし
恐らく大内義興の全盛期で大内と今川を比較したら、大内最強と言うぞそいつ
そもそも大内氏の戦いと今川氏の戦いは別物すぎる
そのレスで大内派の連中は反論や反証をしてないっぽいが、そっちのが問題だろ

500 :
領国 筑前(2/3)・豊前(2/3)・周防・長門・安芸(1/2)・石見(1/2)・備後(1/2)
津   博多・赤間が関・宮島・鞆
vs
駿河・遠江・三河・尾張(1/3)
津   清水
大内派とか今川派とかはどうでもいいけどこの状況で今川>大内と言うアホに
反論するのも馬鹿らしいだけだろw

501 :
ま・・まあ東西の麻呂大名同士仲良くしようではないか・・・

502 :
>>500
今川と大内の最盛期同士を比較するから荒れてるだけ
そして「〇〇が最強!」と言い出すと荒れるのは定説

503 :
そもそも今川が勢いあった時にはすでに大内は滅亡ry

504 :
桶狭間の3年前だね

505 :
よく毛利は国人の代表なだけで織田や武田みたいに独裁じゃないから云々って聞くけど
大内氏はどうだったのでしょうか?
大内は長門守護代内藤・周防守護代陶・安芸守護代弘中・石見守護代問田
筑前守護代杉・豊前守護代杉ら多くの守護代を従えています。
頻繁に守護が守護代に乗っ取られることが多かった時代にしては
守護代を抑えているようですが独裁体制を確立していたのでしょうか?

506 :
その陶ちゃんに乗っ取られてるじゃないですか

507 :
>>505
陶氏の歴代当主を調べるとわかるかもしれない。

508 :
家督相続のたびに内訌があるのは大内のお家芸。
そういう意味では、むしろ義隆は珍しくすんなりと当主の座につけたんだ。最初はよかったんだ。

509 :
室町初期から中央政権とやたらめったら揉め事起こしてたので守護代は文字通りの
大内家の家宰だった点もあるかな
弘世  直冬奉じて幕府と合戦
義弘  九州南朝方の掃討、鎌倉公方と呼応して畿内攻め→敗死
盛見  幕府が推す弟一族ぶっ殺して大内家継承。色々あって少弐により敗死
持世  幕府が推(ry     ぶっ殺して大内家継承。
教弘  少弐・細川・安芸武田と合戦
政弘  少弐・細川・応仁の乱
義興  畿内転戦・大友・尼子・細川と合戦
家督相続で争い、周辺国にちょっかいを出し続け、幕府と争い、幕府を助け、
明でも細川と争い
・・・これだけ合戦していれば衰退しそうなものなのに代を重ねるごとに隆盛
(盛見継承直後は一時的に衰退)という恐ろしい家

510 :
山名が宗全没後に急速に衰退したのとは対照的だな
まあ、山名さんは生き残り術では上だったが

511 :
防長の地盤がしっかりしていたのと 交易押さえてたから。

512 :
茨城県の牛久市に来たのが子孫?

513 :
とりあえず先祖が百済末梢だから
韓国にも山口県つくれよってくらいの強欲ぷり
本当なんで戦国時代に生まれなかった・・・義弘よ・・・

514 :
山口が西京市として大都市になって欲しい

515 :
山口市の死にっぷりは異常

516 :
現代まで守護代体制が続いていたら、下関を抱える内藤さんがウマーで周防の陶さんは残念な感じか

517 :
長門の方が発展してるんだ。

518 :
山口いい街なんでしょ

519 :
ニュー速によく立つ山口スレはよく地域ごとに喧嘩してる
全体的に山口市が軽んじられてる感が

520 :
山口市なんて県庁があるだけの田舎だし

521 :
山口は静かで落ち着いてていい町だよ。確かに田舎だけど。
正直今の時代、周防と長門の中間地点と言う利点が生かせなくなってしまった。

522 :
山口県の都市と言ってもねぇ
下関は北九州に獲られ
岩国は広島に

523 :
防長の「大内氏」といえば、室町初期から近隣に因縁をふっかける、
迷惑な守護として、この地方に知られている。
難癖のあと、男達は山口館に集まり、鎧兜に着替え、でかける。
合戦は、領土が増えてウハウハになるから、家臣も喜んで出陣する。
俺はいつもそれが狙いだ。
近所の、できるだけ弱い奴の土地を、こっそり奪って所領に持ち帰る。
そして、俺一人の戦国時代が始まる。

524 :
>>523
ずいぶんマニアックなものをコピペ改変するなw

525 :
>>523
ワラタ
>>522
北九州も広島も大内勢力圏じゃないか!やったね

526 :
博多も大切な拠点だよね。

527 :
大内は交易で勢力伸ばしたから

528 :
中国の港で暴れちゃったりするからな。

529 :
義興の上洛ってなんであんなにあっさり成功したの?
海運力があるにしても途中の勢力の支持をとりつける必要があるだろうに

530 :
瀬戸内航行安全保障付き(村上水軍)
山陰山陽の主だった国人衆強制連行(尼子や毛利、小早川など)
南北朝の頃より文字通り戦い続けてきた守護大名家として家臣団の充実(杉、陶、内藤など)
義興本人の資質(その気になっていれば戦国時代がそこで終わっていたかも)

531 :
義興はそんな凄い人物だったのか・・・

532 :
山城群代の杉興重って義隆期も存命して
1537年には從五位に叙任しているみたいだが、
その山城愛宕郡はいつ細川(三好)に手に渡ったんだ?

533 :
>>530
三好や尼子が黙っちゃいないだろう。
三好元長は安宅家を乗っ取り東瀬戸内海と堺兵庫の港を支配していたぞ。
尼子は大内の後をつける位置にいるし。
九州にはいまだ宿敵少弐氏健在。

534 :
>>533
530は義興の上洛が何でうまくいったのかという質問への回答だぜ?

535 :
>>533
尼子が背後を突くも何も義興上洛に付き従って上洛しているよ
余りにも長期間の滞在(文字通り滞在してるだけ)になったので後に帰国したけどね

536 :
>>533
安宅氏を乗っ取るも何も、その頃は祖父の三好之長の時代だろ

537 :
>>536
之長の段階で、淡路守護を滅ぼして、淡路はほぼ三好氏が掌握してたようだな

538 :
>>537
その後一旦は没落してるし、今の話題は之長の頃の話だけどな

539 :
なんだかわけわからなくなってきたヨ

540 :
大内桐金地金襴
この人
どんだけ名物持ってんだ

541 :
そりゃね

542 :
末世の道者と呼ばれていたのに評価が低いね

543 :
>>542
その肩書きkwsk

544 :
大内義隆記
多々良朝臣義隆卿ハ末世ノ道者トヤ申ケン、文武ニ達シテ双ナク慈悲勝レテ無類

仏神ヲ尊ミ玉ヒテハ世ニ聞エアリ

545 :
生まれる時代を間違えたよな
戦国大名でこう言われる人間は多いけど、義隆レベルで
初めてそう評するべき

546 :
多々良大内氏の野望〈1〉将軍邸を模し山口に造営
 16世紀前半、戦国時代の京都の街並みを描いた『洛中洛外図屏風』(国立歴史民俗博物館)。左隻に大きく描かれているのが
将軍邸及び管領細川邸で、方形の区画内に檜皮(ひわだ)ぶきの御殿が連なり、景石や樹木を配した池泉庭園を設けている。
規模は御所や五摂家筆頭の近衛邸をしのぐもので、衰えたりとはいえ室町幕府の健在ぶりをうかがうことができる。
 この将軍邸、管領邸とそっくりな遺構が都から遠く離れた山口市大殿大路で出土した。南北朝〜戦国時代の約200年にわたり
北部九州、西中国を支配した大内氏歴代の館跡だ。現在、龍福寺がある場所が中心で、大内時代の山口を描いたとされる
『山口古図』(山口県文書館)では、「大殿御殿」として区画されている。
 市教委による発掘で、15世紀半ばから16世紀半ばにかけて、溝や堀、土塁で方形に区画された館が営まれていたことが
明らかになった。大内義興が当主となった15世紀末〜16世紀初頭には、館(主郭)の規模は東西160メートル、
南北165メートルに拡大され、東南隅に巨大な池泉庭園が造営されている。
庭園は南北39メートル、東西20メートルの池を中心としたもので、南北14メートル、東西7.5メートルの中島や、池の東側に注ぐ
遣水(やりみず)を持つ。「池の北端と西側は直線的で、池に面して庭園を観賞する建物があったと考えられる」と市教委文化財保護課の
増野晋次主任主事。
 義興はなぜ将軍邸、管領邸を模倣した館を造営したのだろうか。増野さんは庭園造営の時期が、明応9年(1500年)の前将軍・足利義尹
(よしただ)の山口下向と一致することに注目、「前将軍を迎えるにあたって、京都の将軍邸を模して造営したものではないか」とみる。
 義尹は室町幕府十代将軍であったが、明応2年に細川政元のクーデターで将軍の座を追われ、各地を流浪の末、義興を頼り政元が
擁立した義澄に対抗した。
 国立歴史民俗博物館の小野正敏助教授によれば、当時の将軍邸を規範とした館の空間は儀式や接客を行うハレの空間と、日常生活に
用いるケの空間に分かれていた。広大な庭園はハレの空間であり、庭園に面した会所では連歌や饗宴(きょうえん)などが行われた。
 義尹の下向を受けて会所で盛大な饗宴が執り行われたことは、明応9年3月5日付の『将軍御成雑掌注文』(山口県文書館)が記す、
二十五献に及ぶ料理のメニューや、進物のリストからもうかがえる。これを考古学的に裏付けるのが、庭園遺構の周囲で出土した、
直径5〜16センチの大量のかわらけ(土師器(はじき)皿)だ。
 かわらけは1度用いると水分を吸収し汚れが付着するため再利用が困難で、それゆえに清浄なものと貴ばれた。
「武家にとってかわらけは、権威の象徴として最も意識された道具であり、儀式や饗宴で大量に使い捨てることは1番のぜいたくだった」と
増野さん。
 『山口古図』には「大殿御殿」の北側に、ほぼ同規模の「大内御殿」が描かれている。現在の八坂神社の一帯で、義興の祖父教弘が
築いた別邸(築山館)と伝承されてきたが、発掘調査では15世紀末以降の遺物しか出土せず、これも義尹下向に伴い造営された可能性が
出てきた。
 その場合、「大内御殿」「大殿御殿」の関係は、『洛中洛外図屏風』の将軍邸と管領邸に例えることもできるだろう。
 義興は永正5年(1508年)、細川氏の内紛に乗じて大軍を率いて上洛、将軍義澄を廃し義尹を将軍に復職させ、自らは管領代として
幕府の実権を握る。山口で自らを管領に擬していたふしのある義興の野望は、現実のものとなったのである。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_040925.htm
『洛中洛外図屏風(歴博甲本)』の将軍邸。広大な庭園に面して会所がある(国立歴史民俗博物館蔵)
大内氏館跡で出土した池泉庭園遺構。池の北側(右)および西側(上)に面して建物(会所)が設けられていたらしい(山口市教委提供)

547 :
多々良大内氏の野望〈2〉朝鮮貿易意識した系譜
 15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、大内氏の祖は百済(くだら)の琳聖(りんしょう)太子で、推古天皇
19年(611年)に周防多々良(山口県防府市)に上陸、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(あがた)
(山口市・大内盆地)を賜ったという。
琳聖太子の実在は疑わしく、この始祖伝承は史実とは思われない。ほとんどの武家が源氏か平氏を称して自己の権威を
高める中で、なぜ大内氏は自らのルーツをわざわざ朝鮮半島に求めたのだろう。
 文明4年(1472年)、興福寺大乗院門跡の尋尊(じんそん)は日記に「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」と
書いた(『大乗院寺社雑事記』)。当時大内政弘(義興の父)は応仁の乱で西軍の主力として在京中で、前後の文脈から
「日本人でないから天下を乱している」と読める。当時の武家社会では、百済系であることにそうメリットがあったとは思われない。
 ところがこのような系譜が極めて有利に働く場合がある。ほかならぬ朝鮮王朝との関係においてだ。
 朝鮮の外交官申叔舟(シンスクチュ)はこの前年に著した『海東諸国紀』で、「係百済に出ずるを以て最も我に親し」と書いている。
大内文化研究会の山本一成さんは「大内氏の始祖伝説は対朝鮮を意識したもので、朝鮮貿易を有利に進めようとの
意図から出たもの」と解説する。
 大内氏が自らを百済系と言い出すのは14世紀後半で、高麗および朝鮮の記録に登場している。
 『李朝実録』によれば大内義弘は定宗元年(1399年)、朝鮮の倭寇(わこう)禁圧要請を受けた幕府の命により九州を討伐した。
このとき義弘は朝鮮に独自に使節を派遣して「我は是れ百済の後也」と述べ、恩賞に百済ゆかりの土地の給付を求めている。
 朝鮮は「義弘に討賊の功有らば賞するに銭帛(せんはく)を以てす可き也」と、さすがに土地は与えなかったが、討賊や
捕虜返還への恩賞や、朝貢への回賜という形での貿易を認めた。
 『李朝実録』が記録した大内氏の通交記事は約150年間で200回を超える。朝鮮は太宗14年(1414年)以降は通行者を
徐々に規制するようになるが、大内氏には日本国王(将軍)に次ぐ巨酋使(きょしゅうし)の地位を与えて例外とした。倭寇禁圧で
培った信頼関係のほか、同祖関係が信じられていたからに違いない。
 このような大内氏と朝鮮の関係をうかがわせる遺物が2004年、山口市大内御堀の乗福寺跡で出土した。滴水瓦(てきすいかわら)
と呼ばれる、瓦当(がとう)面が三角形をした朝鮮系軒平瓦で、龍の浮き彫りが施されている。ほかにも鳳凰(ほうおう)の浮き彫りが
ある軒丸瓦、龍の形をした飾り瓦が出土した。
 滴水瓦が日本に普及するのは16世紀末で、文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)に従軍した武将が帰国後に城郭建築に使い始めた。
これは異国趣味がブームとなった桃山時代の気風を反映しており、それ以前の日本建築にはこのような異国的な瓦は受容されて
いない。ところが乗福寺の瓦は、直下の整地層に含まれる土器の編年から、15世紀後半に葺(ふ)かれたとみられる。
 このころの絵図『乗福寺伽藍図』の仏殿にも、日本の寺院としては珍しい鴟吻(しふん)(鯱(しゃち)瓦)がある。乗福寺は琳聖太子の
供養塔もあるなど大内氏歴代と関係の深い臨済宗寺院で、市教委文化財保護課の佐藤力主任主事は「朝鮮から技術者を招いて
作った瓦で建物全体が朝鮮風だった可能性が高い。朝鮮貿易で栄えた大内氏を象徴する遺物だ」と話す。
 乗福寺には京都東福寺の了庵桂悟(りょうあんけいご)、南禅寺の梅屋宗香(ばいおくそうこう)ら著名な外交僧が滞在した記録がある。
おそらく外交や貿易の拠点であり、朝鮮風の建物には朝鮮からの使節が滞在する迎賓館的な役割があったのかもしれない。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041002.htm
乗福寺跡で出土した滴水瓦。瓦当面に龍の浮き彫りが施されている(山口市歴史民俗資料館に展示) 

548 :
多々良大内氏の野望〈3〉領内で銅山開発進める
 大内氏は朝鮮貿易でどのようなものを輸出していたのだろう。『李朝実録』世宗28年(1446年)6月18日条によると、
大内教弘は僧徳模ら25人を派遣して以下の品々を献上している。
 金磨畳扇100本、青白練貫(絹織物)各20端、胡椒(こしょう)80筋(きん)、玳i(たいしょう)輪花台20枚、赤漆果子盆20枚、
楪子(ちゃつ)200枚、金磨銚子提子(ひさげ)20具、金覆輪(きんぷくりん)大刀20腰、銅1600筋
 扇や漆器などの工芸品が並び、赤漆果子盆や楪子は現在の大内塗の原型ともいわれる。東南アジア産の胡椒は、大内氏が
博多商人などと結んで琉球との中継貿易を行っていたことを示すものだ。
 これらの中で1600筋(約960キロ)と、他を圧倒しているのが銅だ。銅こそは朝鮮貿易、また明との勘合貿易における
主力輸出品だった。
 15世紀後半の『海東諸国紀』は産地として、備中、備後、長門を挙げている。大内氏が貿易で栄えたのは、領国長門で銅を
生産できたことが大きかった。
 大内氏の銅山として史料的に確認できるのが、山口県美東町の長登(ながのぼり)銅山だ。天文23年(1554年)ごろ、
大内氏奉行人が山口の国清(こくしょう)寺にあてた書状には「当寺領大田長登鉛山」「銀山大工」という記述があり、天文年間には
採掘されていたことがわかる(『常栄寺文書』)。
 長登銅山は奈良の大仏や皇朝十二銭の原料を産出した律令国家直営の銅山として知られ、標高346メートルの榧(かや)ヶ葉山に
採鉱跡、東の大切谷に精錬遺構が広がる。町教委の発掘調査によると、8世紀初頭に始まる製銅は10世紀半ばに1度廃絶するが、
谷入り口の北側で、14世紀末〜15世紀前半の小規模な精錬遺構が出土している。前述した書状よりおよそ150年も古いが、
この時期は大内氏が貿易に着手した時期にあたる。
 町教委の池田善文・社会教育課長は「貿易開始にあたって、大内氏が主力輸出品を領内で確保しようと、開発したものではないか」
とみる。国清寺は大内盛見(もりはる)によって創建され、精錬遺構の年代と重なる応永14年(1407年)に落成。これより前の
応永7年に盛見から銅山のある長門国大田郷の地頭職を寄進されていた(『常栄寺文書』)。当初から、大内氏の命で銅山開発に
携わっていたのではないだろうか。
 出土したのは、円形の焼土面(炉跡)が2つと、坩堝(るつぼ)、鞴羽口(ふいごはぐち)、銅鉱石、からみ(精錬かす)など。からみは
復元直径25センチと20センチの円盤状で、当時の精錬法は銅鉱石を火床炉で溶解し、比重の軽いからみを水を打ってはぎ取り、
底に残った銅を採取していたようだ。
 ところで大内氏が精錬技術に通じていたのは、もともと大内氏の先祖である多々良氏が、周防国府の在庁官人(地方公務員)だった
ことが影響しているものとみられる。古代の周防は長門と並ぶ産銅地で、天長2年(825年)には鋳銭司(じゅせんし)(銭貨鋳造所)が
長門から周防に移されている。
 多々良氏はこれらの業務に携わったものとみられるが、そもそも〈たたら〉という名称自体が、たたら製鉄法を連想させ、精錬技術を
有する一族だったことを示唆している。
 「出土木簡から、長登銅山には秦氏や宇佐八幡宮系の渡来系技術者が関与していたことがわかっている。多々良氏もそうした
技術者集団だったのかもしれない」と池田さんは指摘する。
 そうだとすれば大内氏の百済始祖説も、王族だったかどうかは別として、あながち根拠のないこととはいえなくなってくる。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041009.htm
長登銅山の採鉱跡である大切4号坑口。古代の鉱山遺跡として知られるが、中世には大内氏も関与したとみられる(山口県美東町で)

549 :
多々良大内氏の野望〈4〉日明貿易と石見銀を独占
 大内義興(よしおき)が明応9年(1500年)、流浪の前将軍足利義尹(よしただ)を山口に迎えたことは、現将軍足利義澄の
室町幕府と敵対することを意味した。翌年には義興治罰(じばつ)の綸旨(りんじ)が出され、領国豊前への少弐、大友氏の
侵入を許すことになった。義興はなぜこのようなリスクを冒したのか。
 大内文化研究会の山本一成さんは「背景には応仁の乱(1467〜77年)から続く、日明貿易の利権を巡る管領細川氏との
対立があった」と解説する。
 日本国王の名でほぼ10年に1回行われた日明貿易で、大内氏は幕府に代わって船や貿易品を調達し、自らの貿易船(大内船)
も船団に加えて利益を得ていた。ところが応仁の乱で細川氏と戦ってからは、3回連続で貿易から外された。船団は細川氏管下の
堺商人によって調達され、瀬戸内海を避けて紀伊水道から九州南方を抜ける新航路がとられた。
 明は日本国王との貿易のみ認め、皇帝の代替わりごとに交付する勘合符(通行証)の所持をその証明とした。大内氏が貿易に
参加するには、細川氏の傀儡(かいらい)である義澄でなく、義尹を立てるほかなかった。
 遣明船に2度乗船した楠葉西忍の言によれば、「唐船の理(利益)ハ生糸に過ぐ可からず」。唐糸1斤250文が、日本では20倍の
5貫文になった。輸出品の銅も1駄10貫文分が中国では40〜50貫文の値がついた(『大乗院寺社雑事記』)。これほど貿易の
もたらす利益は莫大で、朝鮮貿易と比べ規模もはるかに大きかった。
 さて、少弐、大友氏の侵入を退け、義尹を擁して幕府に対抗していた義興に、思わぬ好機が訪れた。永正4年(1507年)に始まる
細川氏の内紛だ。
 義興は庶流の細川高国と結んで翌年、将軍義澄と細川澄元を近江に追い、義尹を将軍に還補させた。このクーデター成功で
義興は管領代に就任。その結果、永正8年の遣明船は大内船2隻、細川船1隻となり、義興は明から新たに交付された勘合符を独占。
同13年には将軍から「渡唐船勘合事」を一任された。
 この2年後、義興は管領代を辞職して山口に戻る。永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、ついに幕府を
滅ぼして天下布武の道を歩むのと比べると対照的な行動だ。
 守護大名から抜けきれない大内氏の限界と言われるところだが、山本さんは「大内氏の目的はあくまで貿易の利権であり、
その視線は国内ではなく、中国や朝鮮といった東アジアに向けられていた」と積極的に評価する。
 日明貿易を独占した義興が東アジアを見据えて着手したのが、石見銀山(島根県大田市)の開発だ。
 大内介義興当国を領する時、筑前の博多に神谷寿亭といふもの有……銀峰山(ぎんぶせん)(仙ノ山)の谷々にて石を穿ち地を堀て
大に銀を採り、寿亭皆収め取り九州に帰りけり……義興矢滝の城主を以銀山の押とす(『銀山旧記』)
 同書は19世紀前半の編さんで、この記述をすべて信頼することはできないが、神谷寿亭は天文8年(1539年)の遣明船副使の
日記『初渡集(しょとしゅう)』に船主的立場で登場する神屋寿禎と同一人物とみられる。このときの遣明船は3隻すべて大内船で、
総船頭は一族の神屋主計が務めている。
 『銀山旧記』は寿亭が天文2年、宗丹、桂寿を連れて銀山を訪れ、銀吹(灰吹法)という精錬技術を伝えたとも記す。武野要子・
福岡大名誉教授は、福岡県香春町の香春三ノ岳にある宗丹鉱山を「宗丹の名に由来するもの」と注目。
 「神屋一族はもともと大内氏のもと朝鮮貿易や銅山経営に携わった一族で、朝鮮から灰吹法を習得して銀山開発に成功し、
遣明船経営に乗り出したもの」と推測する。
 義興を継いだ義隆の実録『大内義隆記』は「石見ノ国大田ノ郡ニハ銀山ノ出来ツ丶宝ノ山トナリケレバ、異朝ヨリハ是ヲ聞、唐土、
天竺、高麗ノ船ヲ数々渡シツ丶」と記している。大内氏は全盛期を迎えていた。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041016.htm
石見銀山で栄えた大森の街並みと仙ノ山(後方)。『銀山旧記』は山が輝くのを神谷寿亭が発見したと伝える(島根県大田市で、本社機から)

550 :
多々良大内氏の野望〈5〉尚武の精神忘れ下克上招く
 享禄元年(1528年)に22歳で家督を継いだ大内義隆は、父義興と違って在京経験はなかった。それだけにまだ見ぬ京への
あこがれが募ったのか、多くの公卿や文人、高僧を山口に招いて、諸芸や学問、有職故実(ゆうそくこじつ)の師範とした。
神社仏閣の造営にも意を注ぎ、山口は「西の京」というべき文化隆盛を極めた。
 文化摂取の費用は惜しまなかった。京都の儒学者清原宣賢が『四書五経』の抄物(しょうもつ)(注釈書)を所蔵すると聞いて、
青銅5万疋(500貫文)を贈って書写させた。一貫文=5万円とすれば2500万円となる。京都大徳寺の玉堂宗条を「参学ノ師範」
として山口に招いた際も、龍福寺の住持にして500余貫を寄付した(『大内義隆記』)。
 山口市教委による大内氏館跡(同市大殿大路)の発掘でも、義隆の京都崇敬をうかがわせる遺物や遺構が出土している。
 池泉庭園付近で出土するかわらけ=土師器(はじき)皿=の製法が、16世紀前葉を境に、従来のろくろ製から、手づくねの
ものに変化する。ろくろ製と比べて厚手で一見粗雑な印象を受けるが、これこそ京都で行われていたハイカラな製法だった。
京都の饗宴(きょうえん)の形式的な模倣に満足せず、かわらけの製法にまで京風にこだわったことを示すものだ。
 館の東北隅には16世紀第2四半期に、枯山水庭園が営まれた。南北15メートル、東西6メートルの範囲で景石や玉砂利が出土、
東側に書院とみられる建物の礎石も確認された。規模が小さく、池泉庭園の対角線上にあることから、義隆の私的な接客空間と
考えられている。
 この庭園が注目されるのは、全体の規模や滝石組(たきいわぐみ)、平石敷による枯流れが建物の縁を取り囲む形で伸びる構造が、
永正6年(1509年)に創建された、大徳寺大仙院の庭園(約100平方メートル)と酷似していることだ。大徳寺は義隆の「参学ノ師範」
玉堂が住持を務める京都の名刹(めいさつ)だ。
 山口市史編さん室の古賀信幸室長は、「玉堂は天文5年(1536年)に大徳寺住持となっているが、天文10、11年に龍福寺住持
として出した書状(『大徳寺文書』)が残っている。庭園遺構の年代とも一致し、このころ義隆の招きで山口を訪れ、庭園を自ら
コーディネートしたのではないか」とみる。
 義隆は天文3年には天皇の即位費として20万疋、翌年も内裏日華門の造営費として1万疋を献上して大宰大弐(だざいのだいに)
(大宰府次官)に任官され、名目上とはいえ朝廷から九州経営を任された(『後奈良天皇宸記』)。直接的には筑前支配を巡る
宿敵・少弐氏が世襲した大宰少弐の上官として討伐の名分を得ることが目的だったようで、翌年の任官後ただちに少弐資元を
肥前多久に攻め滅ぼしている。
 ところが義隆はこれに満足せずその後も献金を重ね、天文16年には兵部卿を兼ね、位階も累進して翌17年には従2位に達した。
従2位は左右大臣に相当する位階で、時の将軍足利義藤(後に義輝に改名)を超えるものだ。朝廷の官位で室町幕府に対抗
しようとしたのかもしれないが、義隆は名実ともに公卿になってしまい、尚武の精神を忘れてしまったようだ。
 公家ニナリ玉ヒ位階タカクアガリツ丶、冠ヲ着シ装束色々ナリシ有サマニテ、舞猿楽ヤ犬追物計ニテ、弓馬ノ道ニウトクシテオロソカニ
有事ドモヲ、家来ノ老中若輩ニ至ルマデ此事歎キツ丶、無益ノ公家ノ出立ヤ、当家ノ武士ハスタリナント、ツブヤク事限ナシ(『大内義隆記』)
 天文12年の出雲遠征失敗からくすぶっていた譜代の重臣の反感は、ついに同20年のクーデターに帰結する。高い官位が下克上の
世には何の意味も持たないことを義隆自ら証明することになる。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041023.htm
大内氏館跡で出土した枯山水庭園の遺構。立石(想定復元)による枯滝と、平石や玉砂利による枯流れ(山口市教委提供)

551 :
多々良大内氏の野望〈6〉陶、毛利も権威利用
 7か国守護と大宰大弐、兵部卿を兼ねた西国最強の大名・大内義隆は天文20年(1551年)、周防守護代の陶隆房らの
クーデターであっけなく倒された。
 『大内義隆記』によれば、背景にはともに重臣である隆房と相良武任(たけとう)の対立があり、義隆は武任の意見を入れて
隆房追討を検討していたようだ。隆房は「代々我家ニ謀叛ノ事ハナケレドモ、此時ニ至リテハ我身ニカユル事アラジ」と、
8月下旬に決起した。
 義隆は豊前守護代の杉重矩(しげのり)、長門守護代の内藤興盛(おきもり)を頼りにしていたが、杉、内藤は陶に加担、
合わせて5000余騎が29日、山口に来襲した。義隆はなす術(すべ)もなく山口を逃れ、9月1日、湯本の大寧寺
(山口県長門市)で自刃した。44歳だった。
 相良武任のほか、山口に居住していた前関白二条尹房(これふさ)、前左大臣三条公頼(きんより)ら公卿も多数
殺害された経緯から、譜代の守護代勢力が結束して、貴族主義的な政治にふけった義隆と取り巻きの「無益ノ公家」を
排除したところに、クーデターの本質を見ることもできそうだ。
 隆房は表向きは大内氏を存続させ、豊後守護大友義鎮(よししげ、後の宗麟)の弟晴英(母が義隆姉)を当主に迎え、
自らは家臣の礼をとり晴賢(はるかた)と改名した。彼らの守護代という地位も、守護大内氏の存在によって保証されていたからだ。
晴英は翌年、大内氏の祖琳聖太子の渡来伝説に倣って多々良浜(防府市)から上陸した。
 山口市教委による大内氏館跡(同市大殿大路)の発掘調査でも、クーデターの時期にあたる16世紀半ばに遺構の断絶が
見られない。文化財保護課の増野晋次主任主事は「西側には一部火災の痕跡も見られるが、東南隅の池泉庭園は継続しており、
通常の下克上にありがちな前代のものの否定が認められない」と指摘する。義隆が好んだ京都系の製法による
かわらけ=土師器(はじき)皿=も引き続き出土している。
 おそらく晴英は義隆の館をそのまま使用することで、自らが義隆の正当な後継者であると内外にアピールしたかったのだろう。
後に義長と改名もしている。その効果があったのか、天文22年、朝廷から大内氏歴代が世襲した左京大夫に任官されている。
 その一方で、館の防御は著しく強化されている。周囲の堀が幅8メートル、深さ3.5メートルに拡幅され、約2メートルの土塁が
築かれた。ここには自らの正当性に自信がなく、家臣団の分裂、抗争におびえる晴英政権の本音がかいま見える。
 ここに台頭したのが、義隆の武将であった安芸郡山(広島県安芸高田市)の毛利元就だ。天文23年に義長に反旗を翻すと、
翌年には厳島で陶晴賢を敗死させた。義長も追いつめられて、ついに弘治3年(1557年)、長府の長福寺(下関市)で自刃。
大内氏は名実ともに滅亡した。
 元就の長男隆元は義隆の娘婿で、毛利氏は主君の仇(あだ)討ちを大義名分とした。ところが毛利氏が陶隆房のクーデターに
関与していたことは、天文19年8月24日付の、元就の二男吉川元春にあてた隆房の書状(『吉川家文書』)などから明らかだ。
 義隆某(それがし)間の儀、更に赦免無く候の条、若子の事、取立つるべき心中候の由、杉、内藤と申談候。此節御入魂預り
候はば、本望為るべく候。仍(なお)御望の儀候に於ては、聊(いささか)も疎略に有るべからず候(義隆との関係が修復不可能に
なったので、若子を擁立することを杉、内藤と合意した。協力してくれたら本望であり、お望みの件は決して粗略にはしない)
 毛利氏はそうした過去をおくびにも出さず、大内氏館跡に龍福寺を再興して義隆の菩提(ぼだい)寺とし、明治に至るまで
年忌法要を盛大に営み続けた。毛利氏もまた大内氏の権威を無視することはできなかったのである。(おわり)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041030.htm
毛利隆元が大内義隆の菩提寺として再興した龍福寺。もともと義隆とゆかりの深い寺院で、『大内義隆記』も龍福寺関係者の筆
とみられる(山口市大殿大路)

552 :
マーノーンー('A`)

553 :
評定衆のメンバーってわかりますか?

554 :
大内義隆(1507年12月18日‐1551年9月30日)
1507年 胎児 義興が足利義稙を奉じて上洛
1522年 14歳 父に従うようになる
1523年 15歳 寧波の乱
1524年 16歳 安芸国内を転戦
1528年 21歳 家督相続
1530年 22歳 九州出兵。田手畷の戦い
1532年 24歳 献金にて大宰大弐を望むが失敗
1533年 25歳 神谷寿禎を通じ宗丹・慶寿を招聘。灰吹法伝来。この頃満田彦三郎も帰国し博多織を発展。
1534年 26歳 龍造寺家兼懐柔。勢場ヶ原の戦い
1536年 28歳 大宰大弐叙任、少弐氏滅亡、日明貿易再開
1538年 30歳 大友義鑑と和睦
1540年 32歳 吉田郡山城の戦い。第18次遣明船湖心硯鼎を明に派遣
1541年 33歳 安芸武田氏滅亡
1542年 34歳 出雲遠征失敗
1549年 41歳 第19次遣明船策彦周良を明に派遣
1550年 42歳 サビエル来訪
1551年 43歳 大寧寺の変

実質34歳で戦国大名としては終わっているわけだが
それまでは若年にしてはかなり辣腕だな。

555 :
だよねえ。


556 :
負け戦は何度も経験してるのに
出雲遠征で立ち直れなくなるなんて撤退戦でよほど怖い目にあったんだな

557 :
それまでは身近な人間がバタバタ死んでく、っていう修羅場ほどでもなかったのでは

558 :
今山口の龍福寺で義隆の肖像が公開されているぞ。
毛利博物館じゃ日本国王印がみられるようだ

559 :
>>554
単に周りの補佐が良かったんじゃないの?
それで歳を食って自分の能力で政務を取るようになって
馬脚を現してきたとも勘ぐれる。

560 :
他の戦国大名と違って義隆の転機は
出雲遠征失敗からととても分かりやすいから
>それで歳を食って自分の能力で政務を取るようになって
>馬脚を現してきたとも勘ぐれる。
あまりこういうのはないよね

561 :
なんでもPTSDっていうと軽い印象になっちゃうけど
>>557の言うように、絶対的な戦力を擁して鎧袖一触の予定が
重臣の相次ぐ討ち死にに無惨な潰走、極めつけに養子の死亡
という余りに壮絶な展開が、順風満帆だった御曹子の身には
衝撃が強すぎたんじゃないのかねぇ。
BOBのコンプトン中尉みたいに限界を超えてしまったのかと。

562 :
福津市の上西郷ニホンスギ遺跡から、戦国時代(15世紀後半−16世紀)の大名・大内氏家臣の居城「亀山城」
に関連する建物群の遺構が見つかった。大内氏の支配を示す土器や中国の青磁などが出土しており、
同市教委は「明との貿易を進めた大内氏がこの地に家臣を配置したという文献史料の内容を裏付ける貴重な発見だ」としている。
 遺跡は、JR福間駅の東側で進む土地区画整理事業に伴い、昨年10月から調査。
面積は約2千平方メートルで、19棟の掘立柱(ほったてばしら)建物跡と建物の間などに掘られた溝12本、柱穴500基、井戸1基の遺構が見つかった。
 大内氏の拠点だった周防・長門国(現在の山口県)を中心に分布する瓦質(がしつ)土器の足鍋(あしなべ)をはじめ、
中国・明の時代の白磁、青磁、李氏朝鮮時代の陶器、「永楽通宝」などの渡来銭8枚、
漁網の重りとして使った土錘(どすい)28点などが見つかっている。これらの出土品から市教委は亀山城関連の遺構と判断した。
 江戸時代の文献によると亀山城は、遺跡の北方、西郷川を挟み約150メートルの丘陵にあり、
「河津伝記」には大内氏家臣の河津氏が居城したと記されている。
今回発掘された遺跡は、城との間に川を挟んでいることから、商人や職人が暮らした町屋とも考えられるという。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/161335

563 :
んー

564 :
んー

565 :
社会工学研究所(1974年)による1550年頃の推定人口は日本全国 1029万0100人

石見 8万4700人
備後 11万9900人
安芸 15万2800人
周防 11万1200人
長門 8万7800人
筑前 12万3100人
豊前 9万4000人
大内支配下合計 77万3500人
(比率換算で大内支配下5/全国66)

566 :
それは多いのかな?

567 :
 
  応  如  諸  討  討
 
  作  露  共  る  人
 
  如  亦  に  ゝ  も
 
  是  如      人
 
  観  電      も
 

568 :
討つ人と討たれる人ってどういうことだよ

569 :
義隆と晴賢。長い目でみれば人の命などはかないものだと。

570 :
ためになるスレだ

571 :
ムササビ? 瑠璃光寺塔に穴
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006010058.html

572 :
ムササビならば仕方ない

573 :
ハグレメタルはのんきじゃのう

574 :
挫折に負けない強い心を持っていたらよかったのに

575 :
大内はifの妄想しがいがあるなあ。

576 :
       ______
      /   \ , , /\
    /    (●)  (●) \
     |     \  ・・ / |     王打ちだお
      \     |  ◎ | ,/   強い気持ちだお
.      /⌒〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄

577 :
義隆時代は分岐点が多いからね
もっと人気大名だったら大いにifを語られたことだろう

578 :
今では陶と痴話喧嘩で殺されたって説があるのは酷いけどねw
尼子攻めを失敗しなかったら天下取ってたかな

579 :
陶隆房と相良武任は絶対に並び立たない二人なんだから
どちらかを早めに始末しておくべきだった
義隆の優柔不断で情に厚い性格が仇になりすぎ

580 :
如露

581 :


582 :


583 :
信長の野望天道を買ってみた。
このゲームには大名家ごとに技術を開発して情況を有利にする要素があるのだが
以下の技術があるにもかかわらず、大内氏が最初に保有しているのはわずかに草鞋と軽弓だけ。
大内氏が木版印刷や鉱脈調査を持っていないとか酷過ぎる。
草鞋 三間槍 腹巻鎧 革足袋 陣羽織 胴丸 仁王具足 当世具足 脇槍 軍太鼓
牧場 馬上槍 馬面 蹄鉄 母衣 馬鎧 耳覆い 馬上組打 朱塗具足 旗指物
軽弓 矢衾 歩盾 遠矢 竹束 弓騎馬 速射法 避来矢 横矢 破魔弓
鉄砲鍛冶 散弾 金創医術 早合 火薬改良 鉄盾 馬上筒 連式銃 陣押 半鐘
安宅船 攻城櫓 台車 水密隔壁 鉄甲船 大筒 車盾 製鉄法 施条砲 炸裂弾 
草肥 新薬 刀狩 品種改良 検地 灌漑 地引網 馬防疫 二期作 兵農分離
鉱脈調査 木版印刷 番匠 挽割製材 弓狭間 伝馬制 携行食 割符 製図 関所撤廃

584 :
大内氏に詳しい人間がコーエーにいるとは思えないし
大内だけ反映されたらそれはそれでおかしい

585 :
普通にしたら史実では没落したはずの大内家が西国支配しちゃうからね
ハンデだよハンデ

586 :
>大内家が西国支配しちゃう
これはどのゲームメーカーも一度は悩んでそうだな

587 :
天道でもほっとくと中国九州あたりを大内が支配しちゃうからな
大内家の家臣は皆能力が控えめで城もスカスカで少なめなのに

588 :
知名度低いのに勢力伸ばすものだから「ちょww大内って誰www」になると。

589 :
大名が死んだら忠誠度や他国との友好度が変化するとかしないとね
下克上の時代に大名が死んだら家督争いや謀反が起こらない訳がない

590 :
実際義興までの大内はそうだったしね>家督争い

591 :
義隆は弟が早死にしたのが幸運だったにゃー

592 :
ん?ゲームの話?
蒼天録PKの早雲シナリオの大内ってどうなん?

593 :
年寄りほど能力が上がるなので尼子経久が最強
武将名  政治統率知略相性義理野心兵科 特技 策戦
大内義隆77  69 26  J  30 87 足軽 茶湯 混乱 誘導
大内義興 88  86 80  J  54 97 長槍 商業 離反 誘導 分断
陶興房   72  55 77  P  62 64 長槍 茶湯 収拾 修復 誘導
陶晴賢   69  72 67  P  50 73 騎馬 農業 鼓舞 焙烙 破壊
内藤興盛 63  21 52  P  27 68 足軽 茶湯 治療 迎撃
龍造家兼 79  70 76  O  70 87 長槍 改修 鼓舞 焙烙 誘導
北条早雲 87  81 90  N  67 98 騎馬 農業 虚報 焙烙 突入
北条氏綱83  74 81  N  67 88 長槍 商業 離反 鼓舞 誘導
今川氏親 82  80 81  F  75 89 長槍 登用 離反 破壊 誘導
今川氏輝 73  67 72  K  52 76 長槍 商業 混乱 離反 迎撃
尼子経久 75  78 85  P  02 95 騎馬 登用 混乱 虚報 放火

594 :
それでふと思ったけど(ゲーム外の)陶興房ってもう少し評価されてもいいよね。

595 :
毛利輝元以降の毛利氏によって大内義隆は文芸に溺れた暗愚な当主とする風潮が広まってしまいましたが
・備後における神辺合戦のように軍事活動も成功している
・一揆の拠点にされやすい寺社を復興させることは民衆の一揆抑止に役立った
・公家を迎えることは地方の山口において機密情報入手の手段としては適切
・文化人を招いたり、産業を奨励したことは領内における輸出物品の生産という結果をもたらし、投資として成功している
・経典を積極的に求めることは現在人からみれば散財に過ぎないが、当時は四書五経の知識量で人物の優劣を決める経典主義だった
・この方針は中国では1905年まで続いていた。(現在の受験戦争において良い塾に通わせるようなニュアンス)
・出雲遠征以降衰退したとされているのに倭寇取締に支障をきたすこと無く、明王朝から国王として認められ続けている
・同じく衰退しているはずなのに朝廷も従二位を授けている。
・死後、倭寇の台頭。倭寇衰退後の日明貿易途絶と国内通貨危機。それによる南蛮人によるボッタクリなど日本経済の打撃。
略奪や労役で軍事施設を作り国土と民を疲弊させただけの地方豪族達が
合戦の結果だけで戦国大名として優秀と言われていますが
大内義隆を評価できる面は多々あります。
山口県は縁の薄い毛利元就を広島から横取りして戦国ブームのネタにしようとしていますが難しいでしょう。
そろそろ大内義隆を再評価させていくべきではないでしょうか?
運が悪いことに、「大内滅亡を予期していた」と各地の武将に後出しで言われた為に不当に世間の評判が低くなっています。
これらは朝倉宗滴や山本勘助の人物像を高めるために講談で利用されている側面もあります。
佐藤藍子的な後出しであることを各方面に抗議していく必要があると思います。

596 :
佐藤藍子的わらた

597 :
>佐藤藍子的
あるあるw
でも義隆の評価は徐々に上がってきてはいるな
一昔前は何もできない文弱の京かぶれ暗愚大名として鉄板だったけど
最近では前半生の功績と共に文治主義に傾いてしまった理由もちゃんと書かれていたりする
義隆の場合の評価は偉大な父親と比べて矮小にされてるってパターンでないのは良かったかもな
身内と比べて貶められるパターンはホントに悲惨

598 :
当時ですら大内義隆の実績は家臣に理解されていなかった。
「家中を豊かにする手段→侵略により領土を拡張する」
というのが当たり前な戦国時代において、献金や寄進や投資という権威主義の副次的効果として
「国内の産業・文化が活性化し貿易の収益が拡大、つまり侵略というリスクを冒すことなく家中を豊かにすることに成功している。
家臣たちはこれが理解できず、「なぜ公家や職人に金銭をばらまく?」「国力が高いのだからなぜ他国へ侵略して増やさない?」
「大内義隆を廃して侵略する体制にすれば国人衆も豊かになる」という不満と期待が大寧寺の変につながったと予想する。

599 :
だが陶隆房の考えも間違っていない
いくら戦わずに領国を豊かにしても周りの家が
>侵略により領土を拡張する
ならば攻められたら終わり
攻められるリスクを無くすには先に攻めるしかない
戦国時代に武力放棄して国を保つのは不可能

600 :
実際のとこ、義隆時代の収支状況はどんなだったのけ?

601 :
つまり中世の多数の人々にとって富は蓄えるものではなく、奪い取るものだったのね。
義隆様って新しい考えの持ち主だったんだな。

602 :
今も同じだろ。奪いとる手段が買収だったり価格競争から来る消耗戦だったりするだけで

603 :
第二次大戦までの植民地拡大政策と
それ以降の内需拡大政策みたいなもんじゃね?

604 :
この家が天下を獲る気だったのなら義興の代で室町将軍家、細川京兆家を滅ぼして天下に
号令してるんじゃないかな
そうなれば、いわゆる戦国時代はなかった可能性もけっこうあると思う
畿内滞在中、実質的な室町御所の支配者として勤め上げた政治力
およそ10年国許を留守にしたのに主だった家臣団の反乱など皆無という統率力
およそ10年に渡り兵を遠方に動員し続けた国力
船岡山合戦で見られるようにここぞという果断な判断力に裏打ちされた合戦巧者

605 :
義興のマイナーっぷりは異常

606 :
>>604
でも尼子に抜け駆けされた上に
大友・少弐・武田と結託されて苦戦したからな
息子のほうが優秀かも

607 :
安芸武田!
そういうのもあるのか

608 :
  ,..、_      _  __  ..,,__         _,, ,,_  _           __
  l ./====/ \| .l ,、| ./ , 、    \''゙ <.| i=' `l ヽ\     _  7 フ,、
  / /.l`‐- ゙、| |=| .i- l ./= ,>   /,_、.ノ| |.| !∧.| l'    !、`'゙ _,,,..ゝ_,、
. /  |.| || | | |.|`' __'`ノi、l / /    二| /'゙∠,,> = '゙l .|     ゙7 .l ∠~_,,,,.)
 ~| |.| !! |.| .|.| | | .|ヽ. ./     .フ  <'ヾフ / .| .|    /!./ /_  ゙
  | .|.!-'`二l  .|| |._| .|/  `‐-   /,、 |゙、ノ.>  '-┐、 `.-‐'' .// ./ ヾ‐---‐、
  |_,,,|   \_丿!-‐'>,.-'゙~`、/   ` |_,,l/-‐'゙‐、_| `‐- -‐' ヽ_/  `‐- - ‐'

609 :
義興が娘嫁がせた後も大友とは小競り合いやってたんだっけ?

610 :
上に出ている大内義隆公の再評価はなかなか面白いと思う

611 :
というか、統治面において毛利が甘い評価されすぎなのな。

612 :
勝ち組はいつだって勝ち組なんよ

613 :
このありさまの定まれる身に、か…。

614 :
分国法や撰銭令や朝廷への献金(猟官運動)など大内が先駆けて行った方針は他大名にも真似されているんだよな
よその大名が真似をするということはその政策が参考になりえたって証拠になる
世間では鉄甲船・車懸り・三段撃ち・騎馬鉄砲など講談で人気が高いけど
他の勢力が参考にしていない時点で効果は微妙臭いんだよな

615 :
>>614
鉄甲船は技術とお金がいるからともかく、後のは確かに頷けるよなぁ。
当時、実際に流行した戦術ってなんだろう?

616 :
バカ殿スレで義隆が「最初から最後までどうしようないバカ大名」にされてるのを見ると
義隆再評価の流れなんて夢のまた夢だにゃーと思いました
つかどれだけ義隆に厳しい論調の識者でも、文化面にだけは一定の評価を与えてるから
義隆が最初から最後までバカ大名だったって論調は逆に珍しく感じたわ

617 :
さて

618 :
>>616
むしろ晴持を失うまでの義隆については、低い評価を下しているやつを見たことが無いが。

619 :
そう?

620 :
バカ殿スレ見てこいって
知ったかコテが一刀両断してるから

621 :
あの程度で騒ぐなよ、たかが100スレもいかないのに。
今では信長の野望ですら義隆と大内は初期シナリオ最強クラスなのに。

622 :
ゲームの話w

623 :
喧嘩しない

624 :
ウィキペディアでもアンサイクロペディアでもホモネタで溢れているが
江戸時代の軍記物以外に出典はあんの?

625 :
大内義隆の事ね。

626 :
大内義隆記

627 :
日継須益は江室町時代の人間?

628 :
who?

629 :
大内義隆記の著者

630 :
大内義隆記読んでみたい

631 :
なるほど読んでみたい

632 :
多々良朝臣義隆卿ハ末世ノ道者トヤ申ケン、文武ニ達シテ双ナク慈悲勝レテ無類
(中略)、仏神ヲ尊ミ玉ヒテハ世ニ聞エアリ…

633 :
義隆様は慈悲深いというより…

634 :
>>609
勢場ヶ原の戦いだね。

大内義興の娘に関して面白い話がある。
大友義鑑に嫁いだ松殿が、身持ちが悪く、大友館に逗留している公家や館を訪れる旅芸人にまで懸想する。
怒った重臣たちが松殿を山口に送り返そうとしているのを知った松殿の侍女が山口に知らせ、その代わりに
送られてきた家中選りすぐりの美女二人のうち一人が、大友義鎮の母親だと言う。
結局、大友家中では、口実を見つけて、大内と手を切りたがる声も大きかったと言うことだね。
>>624
宣教師の記録


635 :
>>634
それ悪い話スレに貼ってもいいと思う
初めて見たけど面白いわ
じゃあ大友晴英の母は誰なんだって思うけど

636 :
ハングル板にスレたってるな
日本国王・大内氏総合
http://kamome.2ch.sc/test/read.cgi/korea/1284890501/

637 :
>>635
義鎮と同じ。
ちなみにこの女性の母(つまり義鎮の祖母)が、公家の娘で親王の妾だった。
そして、その女性は、後に天皇になった親王のご落胤。
よくある大友宗麟の母が、公家の娘の娘だったと言うのがこの話。

一応、毛利に強奪された大内家の文書にある話らしい。


638 :
>>637
へー面白いな
義鎮の母親が曖昧なのがちょっと不思議だったんだけど
そういう説があるのか
当時もそれが既成事実だったのかな
だったら陶は大内の血が流れていない人間を主に据えたのか

639 :
それ以前の時代に、大内・大友の婚姻があっても不思議じゃないけどね

640 :
明治になった時に牛久山口家あたりから人出して大内家を再興しようみたいな動きは無かったのかね
毛利は明治になって小早川家を再興してるけど

641 :
>>639
あるよ。
大友政親が大内政弘の妹と結婚している。
しかし、これは悲劇的な結果に終わってしまう。
大友政親が、息子の大友義右と激しく対立するようになる。
その最中、大友義右が急死してしまう。
大友政親は、豊後を脱出し立花山城を目指すが、大友義右(妻は大内政弘の娘)の縁者大内政弘、大内義興に
捕らえられて、処刑されてしまうという前代未聞の事態に。
この混乱を、治めたのが第18代当主大友親治(大友宗麟の曽祖父)。

642 :
確かに前代未聞だな

643 :
この大友親治は、後に息子の義長、孫の義鑑を補佐する。
かくして大友には、大内に対してぬぐいがたい不信感と警戒感が
残りましたとさという話。


644 :
コーエーのゲーム 信長の野望天道パワーアップキット(12月17日発売)の詳細が発表されました。
http://www.gamecity.ne.jp/tendou/win/pk/index.htm

文化
勢力強化の新要素として武家公家寺社南蛮という4つの系統の「文化」が登場。
戦闘を有利にする新施設の建設や、朝廷の権威を利用した新たな外交が可能になるなど
「文化」を振興していけば戦略の幅が大きく広がる。
AIエディタ
シリーズ初、大名家の思考を自由にカスタマイズできるAIエディタを搭載。
騎馬軍団専用AIの作成や、他のプレイヤーが作ったAIと競い合うなど
プレイヤーの工夫次第で楽しみ方は無限に広がる。
追加シナリオ
鉄砲が伝来する以前の時代を描く「信長誕生」や秀吉死後の時代を
舞台にした仮想シナリオ「慶長大転封」など11シナリオを
新規収録。さらに100人を超える武将や多数のイベントを追加。
カスタマイズ
武将や勢力、城などのデータを自由に編集できる定番のエディット
昨日はもちろん、登場する大名家を自由に設定できる機能や収入量
の調整など多岐にわたるカスタマイズが可能。

645 :
「信長の野望・天道 パワーアップキット」で登場する新要素「文化」や
新機能「AIエディタ」といった詳細な内容が明らかに
http://www.4gamer.net/games/120/G012031/20101019025/
文化
http://www.4gamer.net/games/120/G012031/20101019025/SS/001.jpg
AI編集
http://www.4gamer.net/games/120/G012031/20101019025/SS/009.jpg
新シナリオ
http://www.4gamer.net/games/120/G012031/20101019025/SS/005.jpg
勢力登場切り替え
http://www.4gamer.net/games/120/G012031/20101019025/SS/003.jpg
武将編集
http://www.4gamer.net/games/120/G012031/20101019025/SS/004.jpg

646 :
文化について
・武家
 技芸
 兵法
 演芸
 砲術
 八幡宮
 競べ馬
 五射六科
 設計術
・公家
 殿上儀礼
 浪士斡旋
 招待作法
 和解礼法
 古今伝授
 仲立礼式
 勤皇論
 聚楽第
・寺社
 宿院仏師
 加持祈祷
 財神信仰
 五重塔
 鎮守信仰
 大社
 道祖信仰
 黄金大仏
・南蛮
 洗礼
 騎士道
 救済思想
 教会堂
 西洋建築
 近代戦闘
 要塞聖堂
 城塞

647 :
つ、つまりどういうこと?

648 :
文化に傾倒した大内の時代ってことさ。1534年シナリオもあるよ

649 :
ほおー。もはや信長じゃないな。

650 :
>>649
信長の誕生年ですよ

651 :
なるほど、そういう意味なのか…

652 :
山口氏の信憑性どんくらい

653 :
山口市というより宣教師の記録じゃないか?

654 :
>>646
少なくとも以下は確実か
八幡宮(宇佐八幡宮庇護)
五重塔(瑠璃光寺)
大社(傘下に宗像大社大宮司)
教会堂(大道寺)

655 :
え?

656 :
文化面と技術面において大内家は戦国大名の中でも群を抜いていた存在だが
コーエーのゲームでは他家と差がない設定だろうね。

657 :
天翔記の義隆さんマジやる気満々

658 :
システム面で技術を売りに出しているくせに
木版印刷(大内版)とか鉱山技術を大内氏が初期状態で持っていないあたり
最近のコーエーが大内に興味がない(勝たせたくない)のは確実だな。
毛利を独立させたり、長門や石見を削ったり、江良房栄もいないし。
2強の細川・大内が3国、大大名である今川が2国・尼子と北条が1国という冷遇の反面、
当時はそれほどでもない伊達・本願寺・大友の領土数が2国と露骨に贔屓されている。

659 :
>>658
大友の二カ国は、適正。
豊後以外に支配下だし、筑前・豊前・肥後にも拠点はあった。

660 :
筑後は飛騨や隠岐と同じ下国
上国の長門、備後、美作、備中、伯耆が抹消されている中で
下国の筑後がわざわざ新設されたのは仮想シナリオで大友家と別に立花家を新設するためと思われ。

661 :
なる

662 :
義興末期・義隆初期時代を再現してしまうと軍事経済力で1582年の織田家並に、領土位置的には
それ以上になってしまいそうなのでしょうがないんじゃないかな
金はある
技術はある
家臣はいる
領土も広い
朝廷にも幕府にも影響力ある

663 :
織田政権は畿内を掌握していたが、大内には大陸貿易と荒廃前の博多があったからなあ
経済力はなかなかのものだ

664 :
山口に居た人間が博多に逃げて
その博多からさらに焼き出された人間はどこに行ったんだ

665 :
萩から逃げ出した者は大内派として
毛利軍に殺された。
逃げ延びた者は毛利と対立していた大友の商業都市豊後臼杵に逃げた。

666 :
訂正
×萩
○山口
このため山口の復興に毛利は大失敗した。

667 :
毛利元就が山口の復興に成功していれば
防長減封で萩なんかに行かずにすんだのにな

668 :
>>660
???
筑後は上国だが?
石高も周防や豊前、出雲、安芸、日向、薩摩、大隅などよりも↑。
大体上国とか下国なんてのは平安時代の格付けなんだから全然あてになんない。
例えば美濃尾張なんかと因幡但馬なんかも同じ上国なんだぞ。

669 :
最近の信長の野望には石見がないのか?昔やってた武将風雲録にはあった気がする。(たしか毛利が領有していたとおもう)

670 :
おめーこの前からageてゲームの話ばっかだなー
スレが活気づくからいいけどさ

671 :
相良武任の重用は結果的に大失敗だったが大名の中央集権化が完成していれば
長州藩のように2派で競わせるのは有効だと思います。

672 :
その場合は当主のバランス感覚が必要ですね
もしくは置物に徹するか

673 :
徳川家康も岡崎派と浜松派がいて苦労していますが
それでも家中を統制できたのはさすがですね。

674 :
>>667
むしろ本拠を山口に置けたら、それを機に復興出来てたんじゃね?
好き好んで不便な萩に本拠置く奴はおらんだろw

675 :
大内氏強いというけどな、あの家は代々陶氏の力もかなり強くて大内家当主の好き勝手放題というふうにも
いかなかったと思うぞ。

676 :
代々?

677 :
室町・江戸時代の山口・萩は文化が多いのに
なぜ明治以降はいまいちなんだろう?
http://bunkazai.ysn21.jp/support/tushi/

678 :
天道したい。Wiiでは出てないの??

679 :
えー?

680 :
>>675
強いだろ。
戦国大名で従二位を上回る官位持った奴なんて、織田豊臣ぐらいじゃねーの?

681 :
本願寺顕如の祖母が従二位もらっているな
本願寺の朝廷工作は評価されて
大内は凋落と評価される不思議

682 :
本願寺は残ったけど大内は消滅したから

683 :
義隆は晴持が死んで腑抜けになったって言われてるけど
尼子経久も毛利元就も息子を失っても立ち直ってるわけで理由としては薄いと思う。
義尊が生まれた頃まで生きていたらどのみち用済みになっていただろうし。

684 :
精神的なものを他人と比べられる筈ないやん
だったら秀吉や長曽我部元親も持ってこないとフェアじゃない

685 :
どっちかっていうと
リスクの高い軍事よりも、リスクが低く利益の大きい内需・交易拡大政策に転換しただけじゃね?
これを後世の毛利が長州を支配する上で「前の統治者は遠征で失敗して駄目になった」
と情報にバイアスをかけたと思われ。
毛利の支配は特に関ヶ原以降は評判悪くて一揆が多かったし。

686 :
>>685
>>リスクが低く利益の大きい内需・貿易拡大政策
時々聞くけど、それってどれだけ利益が大きいのか、納得のいく説明を俺、見たことないや。
   国内で流通する明銭を大内家(行政機関)が一番早く手にできる
                 ↓
 これは近代において発券銀行たる中央銀行の機能を抑えるに等しい
                 ↓
常に手元に潤沢な資金があることになり、大内家(行政機関)の取れる選択肢が増える
ということ?
と理解しているけど、独立性を失った中央銀行が何を始めるかなんて、はっきりしている。
当時の日本経済の実態に合わせた明銭の供給まで、大内家が責任を持つわけない。
文句つけてるんじゃなくて、
明銭を手にするということがどのくらいのインパクトがあることなのかが知りたいんだ。

687 :
戦争でかねかけて領土紛争するより黙っててもやってくる貿易船相手に
マージン取ったほうが楽。じゃダメなの?

688 :
うむ

689 :
神辺に出兵したりと軍事活動も行っているし、国人の取り込み調略も継続している。
衰退原因を文化に傾倒したせいにする意見が多いけど
やっぱり新派閥を重用することで武断派の発言力を削ごうとし、内紛が勃発したのが大きいよね。

690 :
まずは一旦内部体勢を整えて…のつもりが、って結果か。

691 :
でも出仕しなくなった陶隆房を
頑なに討たなかった辺りはやっぱりちょっとおかしいよ

692 :
>>687
貿易もなあ。
一時は大内が独占的だったのかもしれないけど、尼子も実は結構やってるんだよね。
これが経久代には見られなくって、晴久、義久の時代に。
晴久代から始まったってことは、大内の衰退と関係あんのかな?

693 :
山陰には美保関があるし、良質な鉄を利用した刀剣の強みがあるからね
私貿易をするのに尼子の刀剣や銀は倭寇と商人には垂涎の的

694 :
ふむ

695 :
大内の最盛期と毛利の最盛期ってどっちが領土広い?

696 :
大内最盛期は中国地方の大半抑えてなかったかな

697 :
抑えてた?抑えてなかった?

698 :
よう分からんけど経久が独立するまでは、
中国地方で一番でかい勢力だったはず
だからこそ義興も京都に呼ばれたわけで

699 :
義興がその気になればいわゆる戦国時代は開幕せずに終わっていた

700 :
西国最大の戦国大名、大内義興が死去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110114-00000807-yom-ent

701 :
>>700
この人の演じる大内義興はよかったね

702 :
細川さん、葵徳川で大谷吉継役もやってたよね
ご冥福を祈ります

703 :
細川なのに大内とは如何に。

704 :
細川と大内はなかよしにはなれないの?

705 :
細川とは仲良くて三好と仲悪いんじゃない?

706 :
寧波の乱…

707 :
中国まで行って喧嘩すんなよ・・

708 :
義興さんが経久の年齢まで元気に長生きしたらどうなってただろう?
尼子滅亡なではできたかな?あと三好、毛利は出番なしか?

709 :
義興って有能or無能?
どっちなんだろう

710 :
普通に有能

711 :
>>710
理由を教えてください
私は
有能→将軍擁立
無能→在京中に尼子の反乱
と思ってるのですが

712 :
反乱起こされるのが無能なら
日本には優秀な戦国大名は一人もいないな

713 :
尼子経久ですら息子の興久に反乱をおこされているしなあ

714 :
尼子の反乱は別に無能とは思わんけど在京中に高国の首根っこを
掴んどくくらいの事はやって欲しかった。

715 :
尼子興久に大内が加勢していたら経久も危うかったとおもう

716 :
うむ

717 :
将軍擁立していいことあったか?

718 :
北九州制覇には絶大な効果あり
不死鳥少弐もしばらくは大人しくなった

719 :
不死鳥少弐に笑った

720 :
吉永正春の本に出てくる、「不死鳥」って

721 :
佐竹に歯向かい続けた小田氏も不死鳥だな

722 :
ウンコ漬物の鹿は不死鳥になりきれなかったな

723 :
一瞬何のことを言ってるのかわからなかった

724 :
まだわからない

725 :
山中鹿之助は死んだってこと

726 :
逆に生きてるやつはいるのだろうか

727 :
?

728 :
さて

729 :
最強の守護大名

730 :
yes

731 :
age

732 :
?

733 :
義隆って江戸時代くらいに生まれてれば有能な殿様なのにな・・

734 :
確かに?

735 :
大内公夫って何者?
大内姓のまま生き残った子孫いるの?

736 :
>>735
いかにもきな臭いよねえ。

737 :
ああいうのはスルーにかぎる

738 :
ト伝で高国と勘合符争ってたな

739 :
「塚原卜伝」の大内義興役者は吉見さんというんだね、面白い。吉見一豊って戦国っぽい名前。細川俊之は室町っぽい名前w

740 :
西国一の名門・大内氏が
何故に京文化に傾倒していったのか・・・一時期は京都を凌駕していたらしいが

741 :
周防に落ちてきた公家の影響でないの

742 :
大内氏は華麗だね。貿易のせいか平家と重なるわ。
この家の数代の興亡を大河ドラマで見たかったな。昔の大河で、だけどね。

743 :
対外貿易で巨万の富を得て中国・九州北部を含めた
西国一の名門が何故・・・ミステリーやね

744 :
>>740
お金があるから文化が栄えたんじゃないの。

745 :
勿体ないよな〜朱印船かなんかで荒稼ぎしてたんだろ?
交易独占って儲かるんやね

746 :
なんかかみ合ってないな

747 :
大寧寺の変が発生しなければ南蛮・朱印船貿易も牛耳っていたかもしれないな。

748 :
age

749 :
>>742
大河は無理でもBS時代劇ではいけそうだな
世紀末ウィーンのような華麗で愛憎入り混じるドロドロのドラマを希望する

750 :
優雅でドロドロっていいよね

751 :
大河の毛利元就で義隆が侍女に手を出したのが正室にばれて揉めるという
昼ドラ的なシーンがあったな

752 :
あの大河は昼ドラ以外の何物でもなかったな

753 :
ううむ

754 :
義尊が生まれる頃まで晴持が生きてたらお家騒動になりそうだ。
晴持が義尊の中継ぎか後見人になれれば話は別だろうが。

755 :
晴持が生きてたら義尊は生まれてたの?

756 :


757 :
陶の息子に嫁兼人質として嫁いだ相良武任の娘はどうなったんだろ

758 :
嫁いだん?
一笑に付されてお流れになったのかと思ってた

759 :
晴持が生きてても義長みたいに実家に戻されるのがオチだな

760 :
お公家様×姉ちゃんのブランド力でも戻されるもんだろうか

761 :
細川澄之
関白の息子

762 :
大内家って家督をめぐってよく兄弟と争ってるから
義隆が溺愛してても家臣達は戻ってもらおうと考えるんじゃないかな

763 :
なんか秀次と秀頼の関係みたいだ

764 :
金吾…

765 :
大内の最盛期は石高に換算すると何万石なんだ?

766 :
どう換算するんだ?

767 :
GDP出せりゃ一発なんだけれどなぁ。

768 :
>>765
石高換算というのは大寧寺の変や倭寇討伐で渡来銭の輸入が滞った後、
言い換えると通貨不足を米で代替する時代の考え方なので
大内が健在だった頃は石高に換算する必要がなかった。

769 :
(´‥∀‥`)ほう

770 :
調べたんだけど大内氏ってやりようによって信長が台頭する以前に天下を統一できたんじゃない?
全国の大名で最も経済力があり
(フロイスやザビエルが日本で最も栄えていたのは山口って記述に書いてある)
日明貿易でのコネで鉄砲を大了入手する事も可能だっただろうし
(信長は堺を手に入れるまで鉄砲は戦場で殆ど使ってない)
兵農分離も大内領よりも途上地帯だった尾張で出来たから
大内もやろうと思えば出来たんじゃないの?

771 :
このスレを「天下」で検索したら
大内がかつて「天下人」と呼ばれた時期があったこと
そしてどうしていわゆる天下統一が出来なかったことも分かる・・・はず、きっと。

772 :
そもそも信長以前の時代に天下統一を意識する人がいたかどうかが疑問だな
極端な事を言えば鎌倉時代から小国に分裂してたようなものだし

773 :
天下ってのは天子の下つまり畿内を指す
天下人は畿内の覇者って意味だべ

774 :
公家は殿上人の類似概念で天下人を使ってるな

775 :
    天
―――――
          ←天の下かつ殿の上
―――――
    殿

こういうこと・・・(・∀・)!?

776 :
>>770
いくらなんでも本国が周防山口じゃ遠すぎるよ。
義稙見捨てて国に帰ったのも、どこかの尼子さんが本国を強襲するとかいう話があったからだし。
同じ可能性を言うなら、三好長慶のほうがあったと思う。

777 :
大内は小京都にまでなった本拠地で貿易利権だけ守れれば
よかったということだろうな

778 :
そりゃそうだ。何で貴重な人も金も使って自分御領地でもないもの守らんとアカンのかと。

779 :
少弐や大友と早いうちに同盟組めれば後顧の憂いなく東進できたんだろうけど

780 :
>>779
それをするには、九州にちょっかいを出しすぎた。
大友政親(宗麟の大伯父)なんて、大内氏に捕まって処刑されているし
義長(宗麟の祖父)への反乱も後ろで糸を引いていたし。
義鑑と縁組できてようやく小康状態って感じで簡単にはいかなかったろうね。
大友の長老、吉岡長増は、大内と争っていた豊前の行政責任者。
大内と手打ちしてから宗麟の家督相続まで、なぜかずっと無役、
10年以上干されていた。
同じく重臣の吉弘鑑理の領地は国東・豊後高田で大内とは海を挟んで
目と鼻の先、しかも父親は大内との戦で討ち死にしている。
こんな影響力の強い二人が、大内に対してどんな感情を抱いていたかを
考えると完全に無理だな。


781 :
おお、よく知らんが名前だけ聞いたことあるぞその2人。

782 :
>>781
宗麟の時代、豊後の二老とか三老と呼ばれた重臣だよ。
大友家は突出した実力者を作らないようにしていたけど、
そんな中でも影響力とか功績の大きい重臣だ。

783 :
大寧寺の変は公然と挙兵準備していたと言われるけど
これは創作?

784 :
えっそうなの

785 :
>>832
東大寺の関係者が、大内義隆と陶隆房の関係が悪化しているのを
心配していたという古文書が残っているんだよね。

786 :
ああ、東大寺。

787 :
陶氏の領地にもともと東大寺の荘園が含まれているので
それを返上することで揉めたという説もあるね

788 :
たしか周防は東大寺の知行国という事情もあって>>785
ように東大寺の耳に入った模様。
>>787
そいつは興味深い説だ。
今まで聞いたことがあるなかで説得力があったのは、
相良武任の重用に対する反発説。
しかも相良武任は、大内氏の大名権力を強化しようと
していたためわりを食うことになる陶氏などの有力者が
反発したというもの。
ちなみに大友氏の二階崩れの変の原因でも、似たような説がある。
・大友義鑑 肥後への政策を変更。菊池氏と仲良くしたい。
    ↓
・そういうわけで菊池氏から取り上げた領地を菊池氏に返還する。
 
    ↓
・そんなわけで家臣にやった領地(旧菊池領)は没収な。
    ↓
・家臣たち反発
    ↓
・大友義鑑 反発する家臣を更迭、加判衆総入れ替え。
    ↓
・だったら代替わりさせてやる。 




 


789 :
ふむ

790 :
ふむ

791 :
隆房は勇名を轟かせた親父越えをしたくて大寧寺の変を起こしたのではないかと思ってる

792 :
「キル穂は周防の守護大名だったようです」で大内義隆が好きになった
ふざけた内容なのに謎の感動を味わえる迷作
意外にも歴代の大内家もしっかり調べてあったよ
ちなみにそこでは痴情のもつれだったw>大寧寺

793 :
大友義鑑の妻になった大内義隆の姉は浮気をするので
送り返され、内藤氏の妻になったそうだな。

794 :
最近は新解釈的な発想から異様評価されて
漫画とか笑ってしまうような描かれ方をしている同系列の大名今川なんか
京っぽいド田舎を作っただけで、歴史的にも文化扱いされる大内家とは比較にならないよね
普通に考えれば、ね

795 :
今川は義興の模倣だしなあ。

796 :
NHKドラマ「塚原卜伝」では勘合目当てで上洛したみたいな描写だったけど実際どうだったん?

797 :
大河ドラマ・大内義隆あってもよさそうなのにな
波乱万丈で最高だろうに

798 :
最終回で陶隆房が「敵は大寧寺にあり」と叫んで攻め寄せるんですね
で、義隆がにょろにょろ言って自害と

799 :
>>796
あってる。
元々応仁の乱の参戦理由も細川の交易利権の奪取が目的だし
足利義稙再擁立も幕府・細川の交易利権の確保が目的。
別に貧しい土地に侵攻して天下統一する気なんてさらさら無い。

800 :
貿易利権確保したらさっさと帰国したしな

801 :
それだけおいしい利権だってことだよね>勘合貿易
元値の数倍〜数十倍の利益がでたそうな
プレミア付きすぎだろ

802 :
尼子とは殴りあいしつつも、鉄の輸出では提携してたり奇妙な関係だった。

803 :
いわゆる経済的互恵関係ってやつか

804 :
↑間違えた
「戦略的互恵関係」ね

805 :
新品同様の「大内氏史研究(マツノ書店・復刻版)」がバザーで1000円で売ってた
書き込み、線引きなどないことを確認して速攻で買ったw

806 :
細川や大内って戦国時代を語る上で重要な勢力なのに全く研究されていないよな。
せめて山口大学の学者は毛利だけでなく大内も研究すべきだ。

807 :
大内の治世は遊行の為に重税が課せられて領民が困っていたと言われるのが通説だけど
毛利の治世も関ヶ原以降に付いてきた家臣を養うために七公三民で大内以上に過酷だった。

<全国藩別百姓一揆発生件数>
01 盛岡(南部)   97件
02 広島(安芸)   69件
03 秋田       65件
04 荻(長州)    61件
05 金沢(加賀)   57件
06 宇和島      56件
07 徳島(阿波)   42件
08 鳥取       38件
09 松山(伊予)   36件
10 会津       35件
11 庄内       32件
12 仙台       31件
13 高知(土佐)   29件
14 福山       29件
15 名古屋(尾張) 28件
16 岡山       27件
17 新庄       24件
18 延岡       22件
19 上田       22件
20 熊本       21件
青木虹二著「百姓一揆の年次的研究」

808 :
はて

809 :
弘中は当時の山口県史資料にある書状を見ても隆兼しか見あたらないのに
なぜ隆包に

810 :
へえ、そうなのか

811 :
読みがあってれば漢字はわりと適当に当ててたのかね

812 :
そういうのあるよね

813 :
ふむ

814 :
/
 
 
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
http://www.karilun.com/img_shop/15/ss52_1368685958.jpg 
 
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
 
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
 
 
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
弊社としましても今後メールでのやり取りを差し控えたく、浪速建設様
と同行の上でお会いさせていただきたい所存です。
 
http://rfi.a.la9.jp/hn203/kb/kb-main3.html
 
 http://homepage2.nifty.com/e-d-a/hn203/ansec/animal.html
 
 
/

815 :
信長の野望の最新作では優遇された点と冷遇された点がある。
・優遇
1551年時点だからギリギリ大寧寺の変発生直前である。
中国地方の城が大幅に増えた。ただしライバルの城も増えた。
大内 本城4 支城7 武将23 人口139310 石高2692 兵数19137
(石見:支1 周防:本1支2 長門:本1支1 豊前:本1支2 筑前:本1支1)
尼子 本城4 支城3 武将10 人口99685 石高2321 兵数14416
(石見:本1 出雲:本1支1 伯耆:本1 備後:本1支1 美作:支1)
大友 本城2 支城6 武将16 人口89661 石高2493 兵数13295
(豊後:本1支3 筑後:本1 筑前:支1)
毛利 本城1 支城5 武将19 人口53806 石高1207 兵数8738
(安芸:本1支4 備後:支1)
龍造寺 本城1 支城3 武将8 人口44537 石高1027 兵数6196
(肥前:本1支3)
・不遇
官位、役職の廃止
家宝は大内筒2級、青磁松本2級のみ。瀟湘八景図は持っていない。遠眼鏡もビードロ杯も自鳴鐘も無し。
毛利が傘下ではなく同盟扱い。佐東銀山や神辺も領有している。
龍造寺が従属ではなく同盟扱い。
山口の人口がたった2万2179人。
戦国伝という汎用イベントで南蛮貿易を推進せよ、灰吹法を導入せよ、西国探題(≒長門守護)を自称せよ
というのが発生するけど、全部1551年以前に大内は通過している出来事なんだよな。

816 :
なるほど、そう考えるとすごいな

817 :
大内支城が多いな。革新では中国地方はスっカスカだったけどな

818 :
城は増えたけどよく見ると有名大名の毛利と宇喜多の領国意外は
露骨に扱い悪いことに気がつく。特に尼子と山名は悲惨。
本城1、支城0 因幡
本城1、支城1 美作、備中、長門、但馬、伯耆、出雲、石見
本城1、支城2 備後(毛利)、周防(大内)
本城1、支城4 備前(宇喜多)、安芸(毛利)
石見は高津城だけで山吹城は尼子の領有
周防は山口館と徳山城と周防高森城
長門は指月(萩)城と櫛崎城
豊前は城井谷城と小倉城と中津城
筑前は立花山城と鷹取山城で秋月城の秋月文種は独立しているね
石見の本城が銀山の監視の意味合いの強い山吹城というのはちょっと変。どう見ても小京都の津和野でしょ。
長門の本城が櫛崎城じゃなくて指月城なのはもっと変。萩城はまだ存在しないじゃないかw
ちなみに島津なんか薩摩1国だけのくせして支城が8個もあって露骨に優遇されている。

819 :
そのへんはやっぱりメインストリームのゲームだね

820 :
ううむ

821 :
山口県は戦国ネタにしても幕末ネタにしても売り出し方が下手すぎる。
これもひとえに多くの県民が出身偉人に対する無教養なのが原因だ。
それを思うと嘆かずにはいられない。
他の地域は郷土の偉人のためにNHK大河ドラマの誘致合戦を行っている。
http://bushoojapan.com/book/2013/10/05/7033
安倍晋三の働きかけでNHKが38年ぶりに長州を扱ってくれたものの
吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文と主役になりえた人物を差し置いて吉田松陰「の妹」という糞企画に。
これに対しても地元は喜ぶだけで全く異議を唱えない。
近年メディアに流されて地元の偉人をテロリスト呼ばわりする無知蒙昧な輩が増えている。
彼らほどではなくとも多くの県民は20年前に会津で起きた観光史学に関心を向けず
八重の桜を見てやっと事態の異常に気づいて抗議し始めた程度の認識力。
新時代を切り開いた先祖達が泣いているぞ。

822 :
やっぱこのスレは山口の人が多いのかな

823 :
山口は田舎だからな。全国的にこういう傾向がある。
要は日本の教育レベルの低さにある。
中津城?あんなのクロカンが左遷されたときに造った城だが、ひょっとし60年代にはあるのかw コーエーw

824 :
中津城は萩城をモチーフにしているから
中津が売りに出した時に山口県と萩市で買い取って移設すればいいのにな。
天守閣があるとないでは観光の目玉としての価値に雲泥の差がある。
世界遺産になるかどうかわからない遺構だけでは萩を観光地として売り出すには弱い。

825 :
コンクリ天主の移設?

826 :
実は本来の大内氏の嫡流は、牛久藩で有名な山口氏のほう。
足利義満の時代に有名だった
大内氏当主の大内義弘の男系の直系の子孫が山口氏。
大内義弘が乱を起こして鎮圧された後
大内氏の当主の地位は、最終的には義弘の弟の大内盛見に移った。
この大内盛見の子孫が、大内義興、大内義隆と
戦国大名としても活躍。
でも、この大内氏は最終的に滅亡し
ずっと前に嫡流から外された山口氏のほうが生き残ったのは歴史の皮肉。

827 :
おや、そうなのか。

828 :
と言っても、なぜか盛見の長男の教弘が持世の養継嗣になって家督相続したもんだから、
教弘が持盛の次男なんじゃね説と教幸が盛見の次男なんじゃね説があるみたいね
あの辺系図と家督が錯綜してて良く分からんちん
あと、柿並の方はまだ分からんでもないけど、任世が実は生きてましたって話は
どの程度信憑性があるんだろうか

829 :
山口氏て仮冒じゃないの?

830 :
陸奥大内氏みたいに?

831 :
弘中や陶は文書がないのかな?

832 :
何の文書?

833 :
家の文書だよ

834 :
あー、家の文書か。

835 :
山口県内って室町期の龍の絵や像は無いよね?
日本国内に現存する龍は「三爪」が圧倒的に多い。
これは「五爪天子、四爪諸侯、三爪大夫」の思想に基づき皇帝や孔子関連の施設しか五爪は許されず
日本では三爪で制作することが常識だったことに由来する。
(冊封を賜る琉球や朝鮮は四爪の扱いをされている。)
諸侯的な扱いをされていた大内がどのように制作していたか気になるのだけど現存していないのが悔やまれます。
近代に制作された京都の天龍寺や建仁寺の雲龍図はあえて「五爪」にしているようです。

836 :
ふむ

837 :
はなもゆじゃなくてだな。おい。幕末はもう飽きただろ。
しかも主人公知名度低すぎだろうが。

838 :


839 :
竜は無理だけど虎なら大内氏や宗氏とも密接で
朝鮮経由で調達した虎皮や豹皮を室町幕府や諸大名に対して贈答しているね。
信長が送った逸話の方が有名ですけど。

840 :
確かに竜は厳しいな

841 :
五本爪の龍はどうも収まりが悪いからじゃね
中華皇帝の文物見てもうーん・・・って感じがする
室町はまだしも、鎌倉や安土桃山江戸時代は冊封関係なんて気にする必要ないし

842 :
うーんワラタ

843 :
★無名の大大名 大内氏について語るスレ★
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1406984771/

844 :
大内義弘 大内輝弘 大内光弘 大内章弘
なんで、大内はみんな最後が弘なのか
弘法大師からか

845 :
大内義弘 大内輝弘 大内光弘 大内章弘
なんで、大内はみんな最後が弘なのか
弘法大師からか

846 :
島津義弘に聞け

847 :
調べる価値ありか。

848 :
0845 人間七七四年 2014/08/04 01:05:09
大内義弘 大内輝弘 大内光弘 大内章弘
なんで、大内はみんな最後が弘なのか
弘法大師からか

849 :
とりあえず弘はバランスがいいから
0845 人間七七四年 2014/08/04 01:05:09
大内義弘 大内輝弘 大内光弘 大内章弘
なんで、大内はみんな最後が弘なのか
弘法大師からか

850 :
名前の画数で検討すれば
大内光弘 > 大内義弘>大内章弘
かな

851 :
行政からの注意喚起
【ご注意下さい。美容医療で危害を受ける人が増加しています!】
http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/seikei/1397401747/

852 :
>>850
なんでだよ
大内義弘 大内章弘 大内光弘の順でしょ 画数では

853 :
バランスでは大内義弘か大内章弘がいいかな
大内章弘は大名じゃなく軍師みたいな感じじゃなかった?

854 :
バランスでは大内義弘か大内章弘がいいかな
大内章弘は大名じゃなく軍師みたいな感じじゃなかった?

855 :
名前の画数で検討すれば
大内光弘 > 大内義弘>大内章弘
かな

856 :
京都を凌ぐ隆盛を誇った大内文化が歴史に埋没してるのは何故か?

857 :
ううむ

858 :
>>856
宣伝が下手なのと山口県民が日本唯一の観光資源があるのにその価値を理解できていないことが大きい
例えば美祢には日本の産業史が大きく影響を与えた長登銅山と大嶺炭田があるけど全く整備せず秋芳洞・秋吉台ばかり宣伝している
仁保にはKDDIパラボラ館があり、やまぐち号もあるのに連携するといった試みもない
山口高嶺城や萩城には本物の城下町が残っていても天守閣がないので外人が尽くスルーしてしまう
外人はシンボルとなる復元城郭があるかどうかの興味を抱くということがわかっていない

859 :
本当、山口県は観光資源に金をかけていない。それは、郷土愛がないから。

860 :
模造天守は最近人気ないんだけどな
通は城の縄張り含めた往時の雰囲気を好む
外人に関してはその限りではない

861 :
通の話は誰もしてないだろ。マスに目を向けてもらえるかじゃないか。

862 :
        ヽ;;;;;;;;;;;;',
         ヽ;;;;;;;;;;', /''''''''''ヽ
         ヽ;;;;;;;;;',' /ヽ、 ヽ
.       ___ヽ;;;;;;;;', /  .ヽ ヽ
     ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヾ   ',  ゙,
    i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、l、,   |  .|
.   /`'''''''''''''''''''''"´ ヽ:::ヽ |  |
   /            l:::::| |  .|
  _」,,,_     ,,、、、、,,  l::;:」、|  .|
 "゙, ̄`'   '"    `  '"r-,l.|  .|
.  'エiヽl   -:l,コニ=-   ")ノ||  |
   |  /          ´.ノ|  |
   ',. ,'  ,ヽ        .l |  |
   ',__,ニ ニ、,,_      l-:゙lァ、,,,」
--.、ィベ '''''''' ``'   / ./  フ__,、-''"
.   `'ヽ ==   ,、r.''" / ,、r'" |
    /.l マ,if;フ'"   / ,、r'"  /
  / l ヽヾ'"_,,、r,"r'"  //
/   l,   ̄     ,、r''" /
     `'ー――‐'''"´  /
     大内義隆

863 :
最盛期で比較すると大内氏って大名家の中でも上から何番目くらいの勢力だったの?

864 :
難しいな
守護の数だけなら尼子や大友は大内を越したとも言えるし
戦国大名としてなら毛利が尼子併呑した時点で大内より上ともいえるけど
上から何番目、みたいな言い方は考えにくい

865 :
評価軸がいろいろ考えられるからなあ

866 :
勘合貿易の独占とか、他の大名とは比較できないものもあるしな

867 :
>>844
大内一弘を忘れてるぞ

868 :
who?

869 :
>>863
大内義興の代は、間違いなく細川とトップ争いをしていただろう。
大内義興、八幡和郎のおかげで相当メジャーになったし、最近八幡に便乗して
大内義興を書く人も出たし。

870 :
知名度も評価のうちなのか

871 :
>>855
逆では

大内光弘 > >大内章弘 =大内義弘
でしょ

大内文化を埋没させてはならない

872 :
ちなみに弘だけでなく義も多いな

0845 人間七七四年 2014/08/04 01:05:09
大内義弘 大内輝弘 大内光弘 大内章弘
なんで、大内はみんな最後が弘なのか
弘法大師からか

873 :
大内義隆は男色相手の陶晴賢に最後は裏切られたわけだ

874 :
お家の中枢が腐ってやがる(男色的な意味で)

875 :
福岡の宗像・沖ノ島と関連遺産群、世界文化遺産候補に
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2550564.html

宗像氏経〜宗像氏男(黒川隆像)まで被官だったわりには
筥崎宮や厳島神社のように特に大内が社殿を支援したという話がないよね

876 :
百済の末裔名乗ってたから日本の神社仏閣には興味なかったんじゃない?(適当)

877 :
適当すぎるw

878 :
吉田松陰の杉氏は信長の野望にも出てくる杉興連や杉重矩ら杉氏の庶流
つまり大内氏の庶流

高杉晋作は高杉氏で信長の野望にたまに出てくる安芸武田元繁の子孫
むしろ武田信玄の9代前 武田信武の次男 武田信宗の家系と言った方がわかりやすいか
ともかく武田氏の庶流

徳川幕府は直接的には毛利氏に潰されたわけだが
間接的に大内や安芸武田の末裔の活躍により滅ぼされたかと思うと不思議な因縁を感じる

879 :
無理やり倒幕のときに長州藩が活躍したのは大内や安芸武田のおかげだと
こじつけてるだけ

880 :
倒幕テロの使いっ端だった下級武士はヨソ者主流なんだから
そら旧大内や旧武田の家中が多めになりますな

あとは出自不明の韓服大好き俊輔さんとか

881 :
どうも陶晴賢のやったことがわからんな?政に興味を失った大内義隆なんて放置
して、義隆から政治・軍事の全権を委任されてるなら、自分の好きなように政を
行えばよかった思うんだが?謀反おこしてまで飾り物の主君を殺して、その後大友家
から新しく飾り物の主君を連れてきてもあまり意味がないと思うぞ??あれでもし
大内義長がやがて晴賢に背いたら晴賢はどうするつもりだったんだろ?大友家との関係
も悪化するし、よいことないだろうに?

882 :
相良武任に注目してみるといいよ

883 :
>>881
商人・職人に補助を出して交易品を作らせて、大陸交易で利殖するという考え方
坊主に補助を出して坊主の人脈で外交するという考え方
公家・朝廷に補助を出して公家の人脈で情報を集めるという考え方
陶隆房はこれらを否定して軍事予算を厚くした

が、結果はセルフ経済制裁で自滅

884 :
しかし大内義隆には問田亀鶴丸がいるのになぜわざわざ義長を養子にしたのか
こちらの方が当主としての正当性も高く、内藤家も分裂しなかっただろうに

885 :
>>884
自分も疑問だ
義隆の母が内藤弘矩の娘で、内藤興盛の正室も弘矩の娘で、亀鶴丸の母は興盛の娘
それで内藤隆世(興盛の孫)は義長派で最期まで仕えて
内藤隆春(興盛の子)は毛利派になって、甥でもある亀鶴丸を擁した大内氏残党の蜂起を鎮定し亀鶴丸を処刑する

886 :
>>884
内藤家も亀鶴丸を擁立しないのが不思議だ
もし亀鶴丸が家督を継いでいたら、明は簒奪と言わないで貿易を続けてくれたんだろうか?

887 :
一番わからないのは大内義長の心理だな。阿呆じゃないんだから、大内家
当主といっても名ばかりの傀儡、実権は全て陶に握られることぐらいわかって
いたろうに、何故引き受けたのか?まあ見方を変えれば大友による大内の乗っ取りだし、
よほど兄貴にいろいろ吹き込まれて引き受ける気になったんだろう。いざという時は
守ってやるのなんのと…大友宗麟というのはああ見えて相当な食わせ物だからな。
結局茶釜一個と引き換えに見捨てられるとは哀れというかなんというか…。

888 :
なに陶晴賢は大内という巨大な後盾を失って、反逆者という汚名を着た以上、
大内に変る後盾が欲しかったんだよ。独力で乱世を泳いでいくことに不安を感じて
いたんだ。陶というのは案外な小者だったのかもしれん。

889 :
当時の京都は焼け野原で大内氏は雅な生活していたわけだが
よほど大陸貿易というのは儲かるらしい

890 :
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足アイフォン貸出)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田コスト

891 :
           _,,,,. .,,_
       ,.-''"´    `゙''-、
      ,:"          ::ヽ
   _/         -    :::::|
  "゙⌒ヽ,,_   ,/⌒"  :::::」.、
   ゙, _ `'  '"  _    '"r-,l
   .ノ-・、.〉 ,  /-・ヽ.   ")ノ|
    |  ̄./     ̄      ´.ノ
    ',. ,'  ,ヽ       . l
    ',__,ニ ニ、,,_       ノー'lァ-、
 'ー、,.ィベ.ヾ二ノ ``' 、_.,ィ´ /   ,,)ー-''"
    `'.ヽ ==   ,、r.''´ / ,、r'" |
     /.l マ,if;フ'"   / ,、r'"  /
   / l ヽヾ'"_,,、r,"r'"  //
 ./   l   ̄     ,、r''" /
      `'ー――‐'''"´  /

892 :
陶晴賢が義隆父子を殺したのは不味かったな
やはり義隆は隠居、出家させて生かしておいて
幼児の義尊を擁立して実権掌握に留まるべきだった

893 :
義興強すぎ

894 :
>>893
そりゃ戦国初の武力上洛を果たした訳だしねえ

895 :
>>884
その場合、実権を握る人物が陶から内藤に変わる可能性がある。

896 :
>>872
大内義弘 大内輝弘 大内章弘 画数を調べてみて。これで謎が解けるよ。
大内文化

897 :
>>896
この三大大内の中で1番の器量は誰?

898 :
大内義弘> 大内輝弘> 大内章弘
大内義弘が器量では圧倒
知名度も大内義弘が圧倒

899 :
改訂
こうな
大内義弘> 大内輝弘> 大内章弘
http://bushoojapan.com/tomorrow/2016/12/21/89749
大内家は渡来人の末裔と称している家の一つですが、同じような伝承がある長宗我部氏ほどハッキリした記録はありません。現在の研究では「たぶん自称だろう」とされています。
それでも、古くから周防(現・山口県)に根ざしていたことは間違いないとみられていて、義弘の父・弘世は南北朝時代に南朝方として働いていました。
つまり、元々室町幕府とは敵対関係だったのです。

900 :
大内義弘
大内輝弘
大内章弘
この輝とか章とかの名前は確かに渡来人の名前だな

901 :
章弘って誰だよ

902 :
輝は義輝の偏諱な

903 :
じゃあ足利政権からは正統って見られてたって事?

904 :
>>899
信長の野望に出てたやつか?

905 :
なかなかの名スレになってきたな

906 :
>>900
名前のレシピより
章弘
名前の運勢
観察眼が鋭く言葉の裏を読むのが得意 幼少時からお人好しで同情心に厚く、おだてに弱いタイプ。
行動的ではありませんが観察眼は鋭く、人の言葉の裏を読むのも得意です。半面、疑り深かったり、言葉不足で誤解されやすい点には注意が必要でしょう。また、会話中に別のことを考える癖があるため、冷めた印象を与えますが、
根が真面目で正直なので周囲から頼られ、交際範囲も広いはず。

907 :
豊かで圧倒的な金運、
そして聡明で輝かしく、健康的でいつまでも美しく、
人間関係で困ることもない、
日本で最も強力なパワーストーンを手に入れて、
願望が叶えられるならばあなたはどう活かしますか?
https://www.youtube.com/watch?v=WzqTe4MFlsU
http://6807.teacup.com/noroikingdom/bbs
http://noroi.top/noroi.top.product.html

908 :
>>902
初めて知った。勉強になりました。

909 :
>陶晴賢が義隆父子を殺したのは不味かったな
こいつさえいなければ!

910 :
>>899
男塾の民明書房かよ

911 :
>>899
大内義弘さえ生きていれば

912 :
龍造寺勢だけど勝屋勝一軒って元々大内の人らしいけどどんな人なの

913 :
なんか陶晴賢って元就に負けたというより、大内に潰されたって感じがするな。大内を支える大黒柱として
どっちに転んでも大内と心中する運命だったとしかいいようがない。辞世の句に結局どうすることもできなかった
晴賢の心境がよく現れるよな

914 :
山口県に住む家来の子孫だと言う友達の祖父に聞いた話だと東に逃げて常陸國に向け幹部クラスの家来は子供を連れて逃げ出したという話をきいた。

915 :
>>903
後継争いに敗れた父親と一緒に豊後に逃げていた。
正統というわけじゃないけど、大友でもそれなりに扱っていたようだ。
多分、大内との間で、密約とか暗黙の了解みたいなものがあったのだろう。
例えば、豊後・府内から出ないように見張るとか。

916 :
輝弘名乗ったのは義長が亡くなってから?
この義も足利将軍家から?

917 :
>>916
>輝弘名乗ったのは義長が亡くなってから?
それはわからん。
>この義も足利将軍家から?
yes

918 :
応仁の乱では西軍

919 :
大内義長はイケメン

920 :
こないだ大内氏館跡行ったけど、普通の寺でわろた。
史料館もちっさいのが奥にあるだけでしかも16時30分に閉まるし。
お前らもっと大事にしたれよ。

月山富田城→吉田郡山城→ここ と来たから余計しょぼく見えちった。

921 :
閉まるの早いなw

922 :
年末の29日に行ったら除夜の鐘付きの 準備のためとかで閉館してたよ
しかも紙に手書きの汚いメモみたいのが入り口に貼られてただけ

923 :
ゲームの話になるけど、大内義隆って結構能力高いな信長の野望で。コーエーは大内義隆は評価しているわけ?

義長は悲惨すぎるけど。

924 :
そうなのか

925 :
>>923
月山富田城で息子死ぬまでは割と頑張ってるからな。

義長は劉禅とかと同様にthe傀儡って感じのステータスだけど

926 :
>>923
後半燃え尽きただけでかなり有能やぞ!
ザビエル関係でワンチャン教科書に載るしな!

927 :
塩冶興久が反乱を起こした時に興久を支援して尼子を討つべきだったな
尼子を滅ぼして興久に恩を売っておけば上手く傘下に組み込むこともできたのに

928 :
>>923
将星録・INTERNET・烈風伝の時だけ無能設定だった。
もちろん大河ドラマの影響だけどw

929 :
わしははぐれメタルであった。みたいな台詞覚えてるわ

930 :
関東の学歴マップ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c9/Kanto-daisotsuritsu2010.png

関西の学歴マップ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/Kinki-daisotsuritsu2010.png

931 :
細川忠興の四男立孝は大内義興の女系子孫
その子孫が元内閣総理大臣細川護熙

大内義興→娘(大友義鑑正室)→大友義鎮→ジュスタ(清田鎮忠継室)
→娘(清田鎮乗室)→幾知→細川立孝

932 :
へええ

933 :
代々経てきた後継者争いなどの権力闘争や粛清と無縁だったことが災いした典型ですな。
若いうちはビギナーズラックと潤沢なリソースで持ってただけで、これという政治手腕があったわけじゃない。
陶とかとっくの昔に粛清していれば暴君程度の評価で済んでた。
挙げ句杉や内藤にまで寝返られてるし。もっとも晴賢は賢いので(笑)速攻粛清したけど。

934 :
>>931
大友宗麟の生母が大内義興の娘かどうか不明だけどね

935 :
大友宗麟の次女が小早川秀包(毛利元就の九男)に嫁いでいるね。
久留米13万石だったけど、関ヶ原で負けてからは長州藩の一門家老になったから、大内家や大友家の子孫は毛利藩上層部になっいると思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%8C%85

936 :
私腹肥やすためにチョンコになりすまし
歴史ある名門大江氏発祥の毛利氏、名門工藤氏発祥の吉川氏、名門土肥氏発祥の小早川氏にフルボッコされて当然ですね。

937 :
改訂
こうな
大内義弘> 大内輝弘> 大内章弘
http://bushoojapan.com/tomorrow/2016/12/21/89749
大内家は渡来人の末裔と称している家の一つですが、同じような伝承がある長宗我部氏ほどハッキリした記録はありません。現在の研究では「たぶん自称だろう」とされています。

それでも、古くから周防(現・山口県)に根ざしていたことは間違いないとみられていて、義弘の父・弘世は南北朝時代に南朝方として働いていました。
つまり、元々室町幕府とは敵対関係だったのです。

938 :
>>934
あ、不明なんだ・・・・

939 :
>>937
叔父・甥の争いから南北に割れただけで、室町幕府と元々敵対だったってのは言い過ぎではないの?

940 :
大内が天下取っていたら今頃半島は日本を統治したとか言いそうだな

941 :
毛利に食われたとこか

942 :
むしゃむしゃ

943 :
>>933
少弐滅ぼした事実だけでも、大内義隆は優秀だと言えると思うが。

944 :
信長の野望、義興の統率100だって
さすがだな
信長と同じ性格なら天下統一できた

945 :
尼子が空気読まなかったからなの?

946 :
尼子と大内は評価しにくい 2大強国が間の弱小にうまいこと打倒されちゃう

947 :
AMAGOもうまいことやった弱小じゃないの?
うまいことが毛利ほど続かなかっただけで

948 :
尼子は元は京極氏だし代々守護代やってたわけだからむしろ名門で弱小ではないな
上手いことやったのも確かだけど

949 :
ごめん確かに弱小は変だったわ
ある程度うまくいったのが尼子で
まるっきりうまくいかなかったのが武田かなっていうイメージだった

950 :
>>143
これを忘れた義隆が一代で滅ぶのは当然。
見えてる地雷にすら無為無策のお公家様に人望があるわけない。

951 :
いうてそんなコテコテの公家イメージで正しいんか?

952 :
>>943
一体いつから、見えてる地雷そっちのけで
京文化振興一辺倒になったんだろうね?
結果として家中の有力者ほとんどに見限られるとか
氏真勝元含めた戦国三バカ大名の中で義隆だけだよ。

953 :
うーん

954 :2020/01/28
https://i.imgur.com/grq3tMA.jpg

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