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播磨赤松氏について語るスレ


1 :2006/07/20 〜 最終レス :2020/04/19
三管四職

2 :
三管四職は細川以外没落しちゃったね

3 :
赤松は結構もったほうだよ
永禄十二(1569)年迄
没落後関ヶ原も出てるし

4 :
赤松様の子孫は存在するのかな?いたとしたら姓もやはり赤松だろか・・

5 :
母方が小寺氏のおいらが来ましたよ!
播磨を始め摂津・美作・備前あたりに赤松分家の子孫は多いだろ、
赤松三十六家というくらいだからね。
別所・小寺・宇野党などなど・・・。

6 :
579 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/06/27(火) 03:23:57
赤松左馬助則繁だな。
当主・赤松満祐の弟で25歳の時(1424年3月14日)に
前管領・細川満元の邸宅での酒宴で将軍の側近(安東某)を要撃して殺害して逃走(殺人事件)
嘉吉元年(1441年)6月には甥である赤松教康と共謀して将軍を殺害(殺人事件)
嘉吉の乱を起こして幕府軍と戦う(国内紛争を起こし、中央軍と戦う)
幕府軍に敗北後、菊池氏を頼って九州にまた逃走。
その後、対馬と朝鮮に拠点を持ち、高麗の官軍を相手に朝鮮半島を荒らしまわり(他国侵略)
嘉吉3年(1443年)6月に来日した高麗の使節団が赤松左馬助則繁を名指しで幕府に
討伐を求める(国際問題に発展)
文安5年(1448年)正月、対馬より九州肥前に上陸開始。
少弐教頼と連合して大内教弘と合戦(国内紛争・対地方軍戦)し
教頼・則繁連合軍は敗北し、三度逃走。
河内の当麻に潜伏中のところを細川持常の命を受けた甥の赤松則尚に討たれて(同族争い)
京都で晒し首。49年の生涯でまさにやりたい放題。

7 :
>>4
旗本石野氏(後に赤松氏)
赤松円心の長男範資の後裔で、氏貞の代に石野を称す
その子氏満は別所氏に仕え、後秀吉、その後前田に仕える
氏満の子氏置は家康に仕え、旗本家康御伽衆 二千百五十石(後、三千十五石)
宝永年間に範恭が、赤松姓に復する

8 :
大名家系が旗本か・・戦国だからしかたないね〜。。私は播州在住だが赤松や別所などの姓は見たことない〔いると思うが〕、もしいたらその流れの人と思っていいのかな?っていうか、美作とかって。。勢力大きかったんですね〜〔素人〕

9 :
六 ヤリタイ放題ですねー。だが・・・そこがイイ

10 :
>>4
有馬かと

11 :
しっかし、将軍暗殺の汚名を着てしまった、満祐は悲惨だね。
義持の男色相手に惣領家を挿げ替えられそうになったんだっけ?
満祐は怒って、京の屋敷を焼き払い、自領へ・・・
そして、義教にも・・・弟の領地を取り上げて庶流の貞村に与えたんだよな・・・そして惣領家の地位も・・・

12 :
義持、義教までの足利将軍って、勝手気まま
言い方を替えると、それだけ力があったってことかな、
とこのエピソードをみて思った
そういう意味では、満祐が戦国の引き金(遠因かもしれないが)引いたのかなとも

13 :
◆御一家衆・・・本家に次ぐ地位で、足利将軍の直臣になっていたのもいる
七条家、伊豆守家、播磨守家、有馬家、上野守家、在田家、本郷家、
広岡家、永良家
◆御一族衆・・・前者よりはワンランク下扱いの赤松一族
    別所家は16世紀後半に台頭したことは周知のとおり。
下野守家、遠江守家、能登守家、宇野家、間島家、上月家、別所家、
佐用家、豊福家、得平家
◆年寄衆・・・赤松一族以外の重臣
      御一家衆、御一族衆の分家もある
浦上家、喜多野家、富田家、小寺家、中村家、上原家、堀家、櫛橋家、
依藤家、明石家、薬師寺家、城所家、後藤家、衣笠家

14 :
浦上に幽閉、暗殺された赤松義村の辞世
立よりて影もうつさし流ては 浮世を出る谷川の水

15 :
赤松則英が大名家としては末代?

16 :
なんか異説もあるようだけど、
通説では豊臣期の大名としては(江戸期には存在しないけど)、
関ヶ原で敗れ自殺した、阿波国板野郡住吉一万石の則英が
最後ですね

17 :
>>10
久留米藩ね

18 :
あげ

19 :
ネギま

20 :
赤松も政則義村、までは頑張ってるんだけど
晴政は完全に浦上の傀儡だね

21 :
赤松が一番活躍したのはやっぱ太平記のころでっか?

22 :
円心、則祐
あとは良くも悪くも満祐かな

23 :
うむ

24 :
やっぱり赤松は将軍暗殺と神器奪還が華でしょう

25 :
北畠親房って人は気前よく系図をばら撒いた人だなあと思う。

26 :
神器を奪還したのは家来だったよな?

27 :
>系図
赤松は村上源氏に非ず
てか

28 :
でも鎌倉幕府の御家人帳に名前が載ってるんだから
単なる成り上がりでもないと思う。

29 :
>>27
名和長年と赤松円心は系図でみるとともに村上天皇の16代目にあたる。
12代前の源雅兼の子の代で分かれる。
久我氏流の北畠親房は自家の系図を貸し出してやり両者を同族扱いにしながらも
久我氏になれなかった庶流として差別化しているわけ。
ようは「お前らは俺の家の子・郎党なんだぞ」と暗に言ってるわけね。

30 :
どうも護良親王を介して、円心(親王に近侍したのは則佑だけど)が親房と近しくなり、
一族に入れてもらったのが、真相みたい

31 :
織田信長の子孫→有名フィギュアスケート選手
赤松の子孫の成れの果て→萌え漫画家

32 :
あの赤松って子孫なのか?

33 :
京都にも小寺という姓があるが播磨小寺氏とはまったく無関係らしい。

34 :
紀伊徳川家の家臣で
久留米藩の有馬家に養子を出した石野って
赤松の中ではどこの系統になるの?

35 :
赤松則村の先祖で確実なのって、
宇野(山田)則景からなのか?

36 :
系図が上になればなるほど怪しくなる宿命

37 :
則景の末子家範が赤松をはじめて名乗ったといわれる
山田則景=宇野頼景で赤松は宇野氏の庶流に過ぎないとも
この則景と源季房のつながりはあやしい
紀州の石野はちょっとわかりませんが
旗本石野氏と関係あるのかな?

38 :
>>37
紀州というのは勘違いだった模様。
旗本の石野家でしたね。
石野家の系統は
このソースでは則祐の系統みたいですが

http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/dy_hata.html
この2つのソースでは、則祐の兄(または従兄弟の父?)の範貞の系統みたいで

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/moto2.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052b.htm#005

39 :
>>37
紀州というのは勘違いだった模様。
旗本の石野家でしたね。
石野家の系統は
このソースでは則祐の系統みたいですが

http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/dy_hata.html
この2つのソースでは、則祐の兄(または従兄弟の父?)の範資の系統みたいで

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/moto2.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052b.htm#005

40 :
赤松義祐は早くから信長に誼を通じていたと聞くが本当?

41 :
>>40
1569年の時点では織田軍と戦ってるが

42 :
赤松氏って昔から可愛いよね
衆道的意味で

43 :
>>40
小寺や浦上の間違いでは?

44 :
浦上はないだろ?まあ小寺か黒田さんだろうな。

45 :
>>44
浦上宗景はどうだろう?

46 :
浦上は1569年に赤松義祐と結んで織田と戦ってる。
1572年に毛利の侵攻に耐えきれず織田を頼って毛利と和睦。
1573年にようやく信長から朱印状をもらってるくらいだから
決して早いとは言えない

47 :
赤松則房が織田に従うのは、
天正元年(1573)に浦上が朱印状をもらって以降
浦上が播磨、備前、美作のお墨付きをもらったため、対抗上じゃないかな

48 :
赤松氏って結構以外な所に一族がいるから面白い
上野の小川可遊斎=赤松祐正とか常陸の川尻赤松氏一族とか

49 :
晴政−義祐−則房−則英
赤松家代々の諱って何だろ? 最後は「則」の字になってるけど。

50 :
則でいいだろうよ。系図眺めてても一番多いし。

51 :
赤松政之

52 :
家格としては四職筆頭ですかな?

53 :
領地の多さでは山名に、家格では京極に敵わないかと。

54 :
http://hobby9.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1170859012/
ついでに投票もよろしく。

55 :
>>53
下には一色のみですか・・・。

56 :
一色氏は足利本家に最も近い庶家だもんね。(斯波は準嫡流、石塔・渋川・一色は庶子)

57 :
足利一門でもないし、赤松は四職末席だなw

58 :
元から尊氏についたのではなく南朝方を裏切った論功で四職に数えられるようになった赤松氏
嘉吉の変で決定打w

59 :
赤松則良っていう幕末〜明治の政治家がいるが、彼は子孫か?

60 :
実父赤松雄之進(後の吉沢政範)の生家は播磨の名族赤松氏の裔にして円尾を
姓として代々網干新在家で干鰯問屋を営み廻船業を兼ね、龍野藩の廻米御用を
勤め苗字帯刀を許され祖先の赤松姓に復した
ググって見つけたサイトから転載

61 :
>>58
だけど円心は悪党だから
大出世といえば大出世

62 :
江戸時代、末裔が交代寄合にもなれてないのか・・・。

63 :
>>13の各家の知行地や本拠地ってわかる人いますか?

64 :
悪党の裔ってどこまでがホントなんですか?

65 :
先祖が悪党であろうがなかろうが
末裔どものやった所業のほうが酷すぎる

66 :
北方の小説の話なんじゃ?
昔読んだが内容は忘れた

67 :
赤松政範は武勇に優れておったわ。

68 :
【四職家】一色一族を語る【丹後・若狭】
http://hobby9.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1183829686/

69 :
>>49
則房と則英は親子なのかな? 兄弟とかはなし?

70 :
美作とかには領地持ってなかったの?

71 :
>>67
置塩が居城だっけ?

72 :
関ヶ原で西軍から東軍に寝返った大名で唯一死んだ(自刃)のが
斎村政広(赤松広英)だが、この人が生きていれば近世大名への道
もあったろうな。
有馬家も赤松一族だが、宗家との行動があまりに違ったから赤松家
の生き残りとはまた感覚が違うしなぁ。

73 :
>>70
美作は尼子氏の台頭により、最も早く失った領地だった。
>>71
正範は毛利方についたかなりの豪傑だったが、たしか上月城だったか。
播磨西部で一大勢力を築いていた。
宗家の置塩はいち早く信長側について先見を見せたが、時期尚早だった。
同じ信長派だったかつての重臣小寺氏との結びつきが薄くなっていたのも
痛かった。播磨は分裂しすぎたなぁ。

74 :
美作は室町中期は山名と赤松の争奪戦だったんですよね?
赤松領→直義方・山名時氏を義詮方に引き抜き山名領、
しかし義満の時代に明徳の乱で赤松領(山名氏勢力縮小)、
嘉吉の乱で山名領(赤松宗家滅亡)、応仁の乱後赤松領だっけ
そして京極(尼子)が奪ったと・・・

75 :
小寺も一皮剥きゃ黒田

76 :
>>70
上野殿の末裔が久米南町の端の方に残ってたみたいだけど
浦上滅亡と同じ頃に宇喜多に攻め取られた。

77 :
則英や斎村政広の身の振り方でなく、
政則の時代まで遡って、どうしていたら
近世大名へと生き残れたか考えてみたいな。

78 :
>>49
赤松家周辺の武将で「範」の字を付けてる奴は、「則」を憚ったのかな?

79 :
>>78
赤松宗家でも「範」を用いる人はいるので、当人の好みで則と範を使ったのかもね

80 :
漢字よりも読みが大事らしい

81 :
このスレの前のほうで出てた旗本の赤松(石野)氏満がウィキに追加されてたよ

82 :
あんまり伸びないねこのスレ。
赤松氏は赤松氏特化サイトがあるからなぁ。
朝倉やってるとこ並に詳しいから、便利だし。

83 :
>>82
日本史板のほうに同じ名前のスレがある。
あと有馬スレともかぶるからね。

84 :
別所って赤松さんとこじゃどんな位置づけなんすか?
浦上さんは?

85 :
>>84
浦上は重臣筆頭格、別所は新興家臣。
赤松氏を頂点とする構造では、断然、浦上>>>>>>>>>>>別所

86 :
>>84
別所は家系こそ円心の弟から始まってるけど、政則を支えたのは浦上と小寺だった。
別所が東播磨であそこまでの力を持ったのは政則の養子の義村以後じゃないかな。

87 :
小寺さんは苦労した割りにあまり報われない。良い人っぽいけど

88 :
浦上則宗が傑物だったからなぁ。
それでも姫路、御着に勢力あったし、黒田官兵衛という家臣もいたんだから
信長方に常についてれば、うまく脱皮できたかもなー。
結局小寺家は逆に黒田家の家臣になっちまったんだよな。
ていうか、播磨はそもそも大きく分けて4分裂してたし、これがもっとまとまってたら
かなりの勢力になれたろうに。

89 :
赤松家臣の小寺・浦上・別所・松田がそれぞれ豪族化してたからなー。
こいつらが赤松当主を頂点に結束してたらさぞ威勢を張れたろうに……w

90 :
赤松だけで置塩、龍野、上月の3つに割れたのが痛かったな。
置塩と龍野は和解したからともかく、上月はあれだけの力がありながら
毛利方についちゃったからな。
ゲームにほとんど出ないから知名度は低いけど、力は龍野以上だったかもな。

91 :
播州皿屋敷の話に微妙に小寺が絡んでる件について。

92 :
番町皿屋敷の元ネタだっけ

93 :
>>92
皿屋敷ネタは割とポピュラーな怪談。
けっこういろんなところにあったりする。
岩波書店から出てた都道府県別の昔話の全集にそれぞれが載ってるのを図書館で読んだことがある。
と思いながらウィキ見たらやっぱいろんところにあるみたいでちょっとホッしたw

94 :
>>90
毛利方に付いた上月城を落とした後に入ったのが、尼子勝久・山中鹿之助の一党だっけ?

95 :
上月城は血生臭い歴史の連続で幕を閉じた感じだなー。

96 :
毛利はその後上月城に誰も入れなかったのかな?

97 :
>>90
西播磨における龍野の衰退と上月の成長は、織田方の龍野・別所対置塩本家・浦上・小寺連合の
争いで龍野が官兵衛と浦上宗景に大敗したのが大きく影響したんだろうね。
>>94
上月赤松+宇喜多援軍→尼子勝久→宇喜多家臣(上月氏)→再び尼子→毛利による包囲
>>96
近くの利神城に1583年頃には宇喜多家臣(服部勘助)、関ヶ原合戦後は平福藩池田氏が入り
上月城に代わって佐用郡一帯を治める立場となった。
上月合戦以降の上月城は、幾度の落城でどれだけの損害があったか分からず
そのまま廃城になったのかもしれないけど、支配はおそらく宇喜多家臣の誰か?

98 :
>>96
廃城になったような気がする。

99 :
上月城は対立の最前線じゃなくなったから
宇喜多には不用だったのかもね。

100 :
戦国で赤松と言えば誰だろ?

101 :
龍野の赤松下野守政秀じゃね?

102 :
勢力で言えば龍野の政秀か上月の政範だろうな。
少なくとも本家よりは遥かに大きい勢力だった。
政範はゲームにほとんど出ないせいで知名度はいまいちだが、
政秀に勝るとも劣らない気骨のある豪将だった。

103 :
知謀に長けた晴政はダメですかな?

104 :
美青年が多い家系だったらしい。

105 :
俺は、赤松家の末裔なんですが、皆さんの方が、詳しいですね
祖父の生前に、もっといろいろ聞いとけば良かったと、今更ながら後悔してます・・・

106 :
>>105
菩提寺の過去帳見に行って明治以前の経歴を調べてくるといいぞ。

107 :
知り合いに赤松範忠の曾孫って人がいた。
家紋とかすごいこだわりがあったなぁ。

108 :
>>106
ありがとう
今度、纏まった休みが取れたら、調べてみます

109 :
範忠は石野の後裔だね。

110 :
石野は赤松の庶流から始まってるけど、今や唯一系譜がはっきりしている家系だな。
結局関ヶ原の時点での立場や身の振り方でほとんど決まってるね。
西播磨の斎村も亀井に濡れ衣着せられるという不運はあったが、最初から東軍に
属せばよかったわけだしな。一族揃って西軍ってのは利口ではなかった。

111 :
1987.5.24に男爵に叙せられた赤松則良は 石野だよね。

112 :
そのころは石野が赤松の主流になったいたのかな

113 :
浦上の台頭を抑える方法はあったかな?

114 :
>>2意味がわからん。
京極は江戸初期、出雲隠岐二ヶ国を領する大大名。
分家も丹後全域を領する国持ち大名。
畠山も河内の戦国大名で頑張った。
一色も丹後の戦国大名で頑張った。
山名も因幡の戦国大名で頑張った。
斯波赤松が守護代等に追われ衰えたのは分かるが、
それならば細川京兆もだろう。
細川幽斉は管領家細川京兆とは別物じゃない。

115 :
早い時期に浦上に取って替わられたわりに 後まで頑張った方さ赤松。

116 :
早い時期に下剋上されちまったから一般的には話題に上ることもないという…
浦上はもう少し知名度あってもいいと思う

117 :
>>116
盛り上げてくれよ。
ザ・浦上氏
http://hobby11.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1154943603/

118 :
関東で名を上げた赤松常範の話題はここまで出ていませんか。

119 :
川尻赤松氏か。渋いなー
もっと研究の題材になっていいよね。
>>116
たしかに東播磨での勢力は縮小したけど、
西播磨は龍野の赤松政秀、上月の赤松政範の2期に渡って
勢力を確保していた。
それぞれ黒田、秀吉に敗北して没落しちゃったけどね。

120 :
嘉吉の変も含めて、節目節目で「何でそこでそう言う行動するの!?」って疑問が抑えきれない一族ではある。

121 :
世の中に多い「何故、あの人があんな犯罪を……」って感じだな。
領国も多くなく、四職でも末席みたいな扱いなのに。

122 :
やってる事無茶苦茶なのに、意外と回りから憎まれていないのも不思議だ。

123 :
義教のお陰。

124 :
義教の一件はむしろ「よく殺ってくれた!」と当時は皆が心の中で思ったはず。

125 :
尼崎の上坂部の赤松家出身ですが赤松円心の墓も近くにあるのですがやはり末裔だろうか?母方なのでもう一つ調べられないけどね。あと小寺とか縁を感じる姓が尼崎には多い

126 :
>>124
光秀みたいなもんか

127 :
義教と一緒に殺されたり大怪我されたり、義教に取り入って上手い汁吸ってたのにダメになった奴とか
いろいろ貧乏籤ひかされた奴もいるよ

128 :
>>125
家紋は?

129 :
三巴?ですが代々神社にある赤松円心の墓は大事にするよう言われるてます。江戸時代は庄屋をしていています。本家は二両引を冠婚葬祭では使用してますが過去帳(元禄年間)は農民系の名前でした。

130 :
>>129
江戸時代は帰農してたんですかね?

131 :
>>124
それだけの存在感はあったんでしょうね

132 :
そういや応仁の乱のときも、空気読まずに赤松さんが講和に反対して、山名が自殺未遂したり
細川が出家騒動起こしたりで、大変なことになったな。

133 :
>>124
一門の一人が首とられて一緒にさらされちゃった山名一族は大怒り

134 :
嘉吉の乱の時に赤松の屋敷に居たのに無傷で逃げ仰せた持豊の悪運には言葉も無い。
取り逃がしたのは痛恨だったな

135 :
すぐに講和ムードにならなかったのは赤松のほかに畠山もね。
まぁ、この両家は目的があったからな。

136 :
赤松不人気だな

137 :
将軍や皇族に害を加えた松永もびっくりの悪党だからな。

138 :
>>134
もともと将軍以外はR気なかったらしいけどね
義教怖がってたのはどの守護もそうだろうっていう読みもあったし
山名の一門の守護の首もとって義教と一緒に晒しちゃったから
山名一門大激怒で赤松崩壊

139 :
首が晒されちゃったのは山名熈貴?

140 :
>>138
播磨と但馬は隣国だったし、山名とは不仲だったのかも?

141 :
>>140
めちゃめちゃ仲悪い

142 :
逆に細川は手加減してたっぽい
畠山は一度家督奪われた持国が弟の持永を殺して強引に家督復帰中
赤松に味方した直冬の孫の誰かが庇護を求めにいったけど
持国にあっさり断られて幕府復帰の手土産にされてる

143 :
赤松と細川は比較的いいって事かな

144 :
>>143
応仁の乱以降は特に、山名への牽制もあるしね。

145 :
大内と細川はずっと仲が悪い。
山名と細川は良好な時期もある。

146 :
赤松age

147 :
>>145
つーか、応仁の乱の直前くらいまでは、畠山に対抗するためにも
同盟と言っていい関係だった>細川と山名

148 :
あげ

149 :
>>147 婿さんだから

150 :
結局大内の扱いで決裂した

151 :
大内と細川は仲悪いから

152 :
貿易利権で対立してたからな

153 :
赤松は細川寄り、山名と仲が悪い

154 :
嘉吉や討伐も含めて怨念が深い。

155 :
細川も山陽に勢力張ってるからね。

156 :
瀬戸内を押さえる構想ありだね。

157 :
斎村政広の子ってみんな死んじゃったの?

158 :
次郎右衛門 善右衛門か。

159 :
誰それ?という感じだね。

160 :
赤松の直系は?

161 :
>>160
絶えた。
現在残っているのは傍系。

162 :
なるほど。そうなんだ。

163 :
石野とかですか

164 :
石野は子爵だっけ。

165 :
嘉吉後によく生き残ったと思う。でも室町期は完全に滅ぼされないのが普通かも。

166 :
山名も大内もか。やったことのレベルは違うが。

167 :
室町的だね。

168 :
赦すいうことをしなければ、室町初期に誰もいなくなる

169 :
江戸幕府とは違うから。

170 :
赤松農水大臣

171 :
赤松の由来はどこだ? 赤松庄とかあるのん??

172 :
>>171
播磨国にあった赤松村が元。
赤松村は佐用郡と赤穂郡の境目に位置し、
明治の廃藩置県で基本的に赤穂郡に属したが、一部は佐用郡に繰り入れられた。

173 :
もともと播磨の土豪なのね。

174 :
【東播磨】別所氏を語る【三木城】
http://gimpo.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1256229478/
旗揚げしました。何卒よしなに。

175 :
>>173 南北朝期に急拡大したわけか。

176 :
農水相は子孫?

177 :
赤松だらけの民家あるぞ

178 :
花粉で大変だな

179 :
嘉吉の乱を起こしておいて、よく御家再興が果たせたな。
神璽奪回って、播磨守護にも匹敵するほど大事なものなのかね?

180 :
山名の牽制に必要だった

181 :
浦上村国って地味に名臣だな。
晴政家臣で村宗と渡り合えたのこいつぐらいじゃなかろうか。

182 :
>>179
嘉吉の乱の時に、細川持之は実は知ってたんじゃないかって話もあるしね。
後々、お家再興に子の勝元が後押ししてるし、ありえない話ではないだろうね。
背景にある山名宗全の存在が大きいんだけどね。

183 :
ガセネタだったけど、巻き添えになった
大内持世あたりはそう信じ込んでいたらしいね
大内と細川の仇敵関係の構図は山名衰退後もずっとつづくから
根が深い

184 :
利権争いって恐ろしいね

185 :
>>182-184
赤松は首謀者じゃなくて、鉄砲玉ってことか……。

186 :
簡単に信じるなよ

187 :
浦上村国って最後どうなったの?

188 :
【『年報赤松氏研究』第2号(2009.3)目次】
開催報告
 福武学術文化振興財団助成 第4回・第5回赤松氏研究会開催報告
特集「赤松氏研究の最前線」
 小林 基伸 戦国末期の播磨における地域権力と荘園
 野田 泰三 戦国期赤松氏研究の課題と一、二の試論
 矢田 俊文 戦国期播磨国権力構造に関する一視点
          ―越後など諸国との比較から―
論文
 森脇 崇文 豊臣期宇喜多氏における文禄四年寺社領寄進の基礎的考察
研究ノート
 大西 泰正 宇喜多氏家臣の叙位任官
 渡邊 大門 播磨国赤松氏および被官人の官途について
          ―隣国受領名官途の在地効果説をめぐって―
文献目録
 渡邊 大門 赤松氏文献目録稿
おしらせ
 濱田浩一郎『播磨赤松一族』新人物往来社 刊行のご案内
投稿規定
【『年報赤松氏研究』創刊号(2008.3)目次】<残部僅少>
開催報告
 福武教育文化振興財団助成 第3回赤松氏研究会開催報告
論 文
 山下 晃誉  天文前期の播磨における尼子氏勢力の動向
 渡邊 大門  戦国期赤松氏の領国構造
研究ノート
 竹内 智宏  室町幕府と赤松氏 ―申次赤松満政の活動を中心として―

189 :
【『年報赤松氏研究』第3号(2010.3)目次】
論 文
 大西 泰正 宇喜多秀家と豊臣政権
 苅米 一志 明応五年備前国金岡県西大寺化縁疏并序の成立 ―龍澤天隠をめぐる人々と観音信仰―
 光成 準治 中・近世移行期における村落統治と法 ―備前・美作国を中心に―
 渡邊 大門 戦国期依藤氏の存在形態
研究動向
 片山 正彦 近年の宇喜多氏研究をめぐって
書 評
 森脇 崇文 濱田浩一郎『播磨 赤松一族』新人物往来社
文献目録
 渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2009年1月〜12月分・補遺)

190 :
播磨 赤松一族
著者名: 濱田 浩一郎【著】
出版社/発売元:新人物往来社
発売日:2009年 01月 出版
サイズ:227p 19cm(B6)
発行形態:単行本
ISBN:4404035624第1章 赤松一族の草創
第2章 南北朝動乱と赤松氏
第3章 嘉吉の乱
第4章 赤松再興と応仁の乱
第5章 戦国時代の赤松氏
第6章 落日の赤松氏
税込価格:2,940円

191 :
渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)
<目次>
序 章 赤松氏研究の現状と課題
第一部 赤松氏と守護代・国人層
第一章 西播守護代赤松政秀の権力形成過程
第二章 東播守護代別所則治の権力形成過程
第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏
第四章 赤松春日部家の基礎的研究
第五章 美作地域における奉公衆の研究
付論1 戦国初期の宇喜多氏について
付論2 中近世移行期における宇喜多氏の権力構造
第二部 戦国期赤松氏の領国支配構造と展開
第一章 戦国期赤松氏の領国支配の構造
第二章 戦国期赤松氏の領国支配の展開
終 章
あとがき

192 :
>>191
まだ読んでいないが買いました。

193 :
age

194 :
日本史板の赤松氏スレがついに落ちたので、保守age
http://www.unkar.org/read/kamome.2ch.sc/history/1143937207
赤松氏研究はまだまだこれからの分野だから、まずは各地方の資料をまとめる所からだろうなぁ。
大きく分けて、大名時代の播磨・備前・美作、旗本時代の上総、有馬氏の筑後。

195 :
斎村政広(赤松広秀)の竹田城がスレになってたage
【天候】竹田城跡が「天空の城」に・・・近畿でこの秋一番の冷え込み
http://kamome.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1288847415/
近畿地方は4日早朝、気温が大阪で8.4度(平年11.7度)、
奈良で4.1度(同8.3度)を記録するなど、
各地で今秋一番の冷え込みとなった。大阪管区気象台によると、
昨夜から晴れが続き、地表の熱が奪われる放射冷却現象が起こったためという。
明日から週末にかけては高気圧に覆われ、最低・最高気温とも平年並みに戻る見込み。
兵庫県朝来(あさご)市の竹田城跡では幻想的な雲海が現れ、
日の出とともに訪れた写真愛好家らがカメラに収めていた。
冷え込んだ朝に近くを流れる円山川からの朝霧が立ちこめ、
標高353メートルの山城は「天空の城」を思わせる光景となる。
.
ソース
http://www.asahicom.jp/national/update/1104/images/OSK201011040043.jpg
http://www.asahi.com/national/update/1104/OSK201011040040.html

196 :
久留米有馬って仮冒だろ

197 :
赤松氏の一族が摂津の有馬に領して有馬氏になり、
関ヶ原などの功績で久留米21万石を拝領した。
元々九州にいた有馬氏とは全く別だが、仮冒ではなく、
こちらはこちらで由緒ある有馬氏で、赤松一族だよ。

198 :
有馬温泉付近を本拠に三魔とかいわれ義政期の悪人扱いされた有馬持家の直系子孫。
確かに初代は庶流(本家の従弟)だが母親は細川澄元の娘。

199 :
子孫がたいしたこと無いとか言ってなかった

200 :
尼崎の小寺姓だけど親戚が 赤松、三田の小寺姓と見合い
結婚ってのが4人。なんか繋がりがあるのかな?
最近ルーツ探ししだしてちょっと興味持ち始めたとこでよくわかんないんだけど

201 :
>>200
小寺姓というだけでは何とも言えない。
失礼ながら明治の新姓で何のゆかりも無い人が
赤松だの何だのと名乗っているケースの方が多いし。
本当に子孫であれば菩提寺があるはず。
菩提寺があれば過去帳があるはず。
それらが無いとなると怪しい。
系図は何のあてにもなりません。
系図屋という系図を捏造する商売が流行った時期が
あり、かなりの家が系図を捏造してます。


202 :
〈〈201
ありがとう 
自宅にあるボロボロ過去帳見たけど解読不能な文字大杉 
宝永?没1708年の人が一番古い記録っぽいってだけしかわかりませんでした。しかも戒名のみ 
怪しいですよね
菩提寺に行って確認してみます

203 :
さすがに今の時期の小寺氏だと赤松氏との縁はかなり薄いだろうね。
関西における赤松家と小寺家は系図上は断絶しちゃってるからね。
たぶん元々関西に多い姓で、歴史的には繋がりのある姓ってことで縁があったのかもね。
旗本として系図が明治期までハッキリしている江戸周辺のほうで赤松や有馬だったら
調べればすぐに繋がりは発見できると思う。

204 :
晴政は義晴から一字もらってるけど、義祐は義輝?義昭?のどちらだろ?

205 :
有馬持家

206 :
義の字は義則以来の伝統でしょ。晴政の親も義村だしな。
その義則は元々は足利義詮からだと思うが。

207 :
渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房(2011年1月10日刊行予定/定価3,000円・税別)

208 :
『戦国期赤松氏の研究』なら読みたいけど高いなぁ。

209 :
>>206
代々将軍から拝領してるんじゃないの?

210 :
播磨赤松氏の庶流の斎村政広の所に、源頼政由来の獅子王剣が伝わってたのは何故?

211 :
赤松政秀の息子だっけ?

212 :
>>210
血縁はないはずだが、いつ誰にもらったものかは不明。
政則あたりが将軍からもらって、代々伝わったのかもなぁ。
>>211
政秀(政則の庶子の孫)の子で、七条系の義村の家系より血統的には正統に近いんだよな。
亀井茲矩に陥れられなかったら、いい大名になってたろうな。
嫁の宇喜多秀家の妹は離縁したほうが良かったかもしれんが。

213 :
今年は、江戸期赤松氏研究でも頑張るか。
それなりに資料集めメドは立ってきた。

214 :
>>213
がむばれw

215 :
>>212
遅くなったがありがとう。感謝。

216 :
>>213
成果が出たら報告頼むぜ

217 :
有馬
石野

218 :
摂津有馬は赤松則祐の五男義祐の末裔という、赤松氏の庶流。
有馬則頼の活躍で久留米藩として栄えたが5代で絶え、大身旗本赤松範恭の従弟の則維が養子に入り、
以後この家系が幕末まで続く。伯爵。
旗本石野・赤松は赤松範資の末裔という、赤松氏の庶流。
赤松政則の養子となる事で惣領家入りした赤松義村の弟の末裔で、有馬則頼の娘婿の石野氏満の家系が
生き残り、大身旗本として交代寄合となり、外国奉行、軍艦奉行など要職を歴任し、幕末まで続く。男爵。
有馬を語るのに石野・赤松は欠かせず、石野・赤松を語るのにも有馬は欠かせない。

219 :
有馬則維は旗本石野・赤松の氏任の弟で、わずか300石の則員の子だが、
元々は有馬家の分家旗本有馬規故の養子になっていたから、最初は有馬本家を
継ぐ予定はなかったのかな。
30〜50倍の領主になれるとわかっていたら、本家のほうを入れちゃうだろうし。
幕府も絡んでいたようだし、色々と事情があったんだろうけど、気になるな。
また、則維は栄達を果たしたが実家にはどんなメリットがあったのか。
宝永年間に有馬の家督を継ぎ、同じ宝永年間に本家の範恭が赤松の家名を正式に再興しているから、
そのへんに絡んでるのかもしれないな。
日光奉行という要職で2000石の足高もあるし、この後も幕府の要職に度々就いているしね。
ただ、やはり21万石に比べると、パっとしない気がする。

220 :
てすつ

221 :
ネタ投下。男爵赤松則良について。
御家人吉沢雄之進の子で、祖父は赤松良則。
赤松氏の末裔で赤松政秀がかつて領有していた龍野で干鰯問屋をやっていて、名門の末裔と大商人だった事とあり、
名字帯刀を許されたとある。
則良は良則の娘の子で、造船関係に関わるきっかけとして大身旗本で幕末の軍艦奉行赤松範静がいた。
この赤松範静の範の文字をとって、則良は息子に範一と名づけたとするのが有力。
範は七条赤松家でよく使う文字で、基本勲功ではあるが、旗本赤松家の名跡を継ぐような形で、男爵を拝命
したと考えるのが自然だね。
則良は静岡藩に移ったけど、実は赤松範静も静岡藩に移った形跡がある。

222 :
やはり、渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)を読まないとな。特に、15世紀半ばから16世紀末頃までの内容は、めちゃ詳しいぜ。参考になる。
<目次>
序 章 赤松氏研究の現状と課題
第一部 赤松氏と守護代・国人層
第一章 西播守護代赤松政秀の権力形成過程
第二章 東播守護代別所則治の権力形成過程
第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏
第四章 赤松春日部家の基礎的研究
第五章 美作地域における奉公衆の研究
付論1 戦国初期の宇喜多氏について
付論2 中近世移行期における宇喜多氏の権力構造
第二部 戦国期赤松氏の領国支配構造と展開
第一章 戦国期赤松氏の領国支配の構造
第二章 戦国期赤松氏の領国支配の展開
終 章
あとがき

223 :
近所の図書館に入荷したぜ。
一般的によく知られてないのが西播磨や美作だよな。

224 :
>>221
庶民が名字貰っただけで血統的には播磨赤松とは無関係?自称子孫?

225 :
>>224
旗本赤松家は大身旗本で有馬とかなり濃い親戚で、江戸初期から名家の末裔が
よくなるとされる御伽衆だったり、寛政系譜にも載ってるから、播磨赤松家の末裔
とするのは良い。というか現在唯一確証を持つに値する赤松家の血筋だね。
一方で赤松則良はたしかに怪しいと思ったほうがいいだろうな。
母方の祖父の血統が江戸時代から龍野藩で赤松姓を許されたとあって、
当時から末裔として藩レベルで認知されていたのは確かだろうから
いわゆる明治の新姓(完全自称)とは違う。
この一族と旗本赤松家の関係についてはまだ研究中。
何かしらの関係を持ったのは範静と則良の立場を見れば明らかなんだが。

226 :
渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010年5月刊行/定価 7,900円・税別)は、西播磨にも触れている。それより、渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房(2011年1月10日刊行/定価3,000円・税別)が刊行されて、備前や美作のこともよくわかるようになったな。

227 :
>>221
へえー
名門扱いは受けていたんだね

228 :
赤松円心に1票

229 :
有馬頼底
当主の従兄弟だったのか

230 :
情報提供だぜ。
 『年報赤松氏研究』第4号(98ページ)が刊行されました。申込方法は、次の2種類になりますので、よろしくお願い申しあげます。なお、この機会にバックナンバー(3号のみ在庫あり)を同時にご購読いただけると幸いです。
【誌代+送料】
 誌代1,000円+送料180円=1,180円
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 銀行振込で「年報赤松氏研究」購入希望の方は、私までメールをください<wdaimon■hotmail.com(■を@に変更してください)>。折り返し銀行の口座番号をお知らせします。振り込まれましたら、私までメールをいただけると幸いです。
【申込方法A/郵便小為替】
 申込に際しては、@必要な号数を記したメモ、A180円分の郵便切手+郵便小為替1,000円分を同封し、下記まで郵送しててください。
■送り先
 〒341-0037 埼玉県三郷市高州3-458-1-21 渡邊大門
【複数冊の購入】
 @4号を2冊購入される場合は、誌代2,000円+送料290円となります。
 A3号と4号を購入される場合は、誌代2,000円+送料290円となります。
 なお、上記以外で複数冊を購入される場合は、郵便料金が変わりますので、あらかじめご連絡をお願い申しあげます。
【『年報赤松氏研究』第4号(2011.3)目次】在庫あり
論 文
 中 脇  聖 戦国期一条氏の家領維持政策に見る福原荘と幡多荘
 畑  康 明 戦国期播磨国における「地域権力」の形成過程
          ―播磨国清水寺を通じてみた依藤氏を中心に―
 渡邊 大門 美作国後藤氏の権力構造
書評と紹介
 片山 正彦 大西泰正著『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』
 中村 直人 渡邊大門著『戦国史研究叢書7 戦国期赤松氏の研究』
文献目録
 渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2010年1月〜12月分・補遺)
投稿規定・バックナンバー
【『年報赤松氏研究』第3号(2010.3)目次】在庫あり
論 文
 大西 泰正 宇喜多秀家と豊臣政権
 苅米 一志 明応五年備前国金岡県西大寺化縁疏并序の成立 ―龍澤天隠をめぐる人々と観音信仰―
 光成 準治 中・近世移行期における村落統治と法 ―備前・美作国を中心に―
 渡邊 大門 戦国期依藤氏の存在形態
研究動向
 片山 正彦 近年の宇喜多氏研究をめぐって
書 評
 森脇 崇文 濱田浩一郎『播磨 赤松一族』新人物往来社
文献目録
 渡邊 大門 赤松氏文献目録稿(2009年1月〜12月分・補遺)

231 :
信長の野望全国版ではデフォの播磨は別所のほうだったな。
滅亡すると赤松が出てくることもあった。
群雄伝から赤松になったけど、播磨は当時大きく分けて3勢力だったからな。

232 :
>全国版ではデフォの播磨は別所のほうだったな
(´;ω;`) ぶわっ

233 :
自称赤松って武将あんまいないな

234 :
自称浦上(堀田とか)はいるのにね

235 :
え?

236 :
古くに滅亡した家系のほうが自称元には適してる。
赤松は江戸にも続いてたし、それは難しい。
宮本武蔵が赤松の末裔なんて話はあるけどもろ戦国時代の話だしなぁ。

237 :
宮本武蔵はどうなんかねぇ

238 :
武蔵の生家とされる新免氏は赤松氏の一族と言われてるけど(円心の次男貞範の系統)、
貞範から数えて4代の家貞の代で途絶え、娘の子の貞重を養子にとって家督を継がせ、
その家が新免家だから新免を称したそうな。
武蔵の親父の無二斎はその新免氏の家老格だった平田氏の出で、新免の婿養子になって
新免を名乗ったようだな。
武蔵はその無二斎の実子でなく、養子とも言われてるから、繋がりがあるとしても縁遠いね。

239 :
養子説の場合は生家は田原氏になるね。
この田原氏も赤松の一族。家貞ってのも2人いるし、ややこしいわw

240 :
摂津有馬って家格的にはどうなの?
三魔持家の末裔だが分家。でも母親は細川澄元の娘

241 :
三魔の持家から3代後の則秀は赤松とも称されて、その子が惣領の家督候補として推されたから
このへんまでは家格は高かったんだろうね。
嫡流はそこから3代後に断絶して、重則や則頼が継承したわけでもないから、摂津有馬氏も正確に
言えば断絶してるんだよね。
則頼はその摂津有馬の分家で、あまり本家との結びつきがあった形跡はないけど、
父の重則が細川澄元の娘を娶ってるから、家格が悪いというほどなかったのかもね。

242 :
まあ有馬本家と則頼は従兄弟だったからそこまで遠いわけではない。
それに細川はあれだったから、それに便乗して嫡流争いしていたんじゃない

243 :
しかし、赤松家関係者として筑後久留米23万石の大名にまで栄転された有馬はすごいと思います
それがしは、有馬さんについて活きます

244 :
有馬家は則頼が世渡り上手だったのと、強運が何度も重なったというのがあるね。
ただ、その久留米藩の嫡流が途絶えた後に旗本赤松(石野)が跡継ぎになったって所に
面白さを感じる。
有馬のほうにまったく男子がいなかったわけでもないのに、則頼まで遡らないと繋がらない
血統(娘婿の系統)で繋げていったわけだからね。
有馬の分家も赤松(石野)が跡継ぎになってるし、単なる偶然とも思えないね。

245 :
男子いたの?

246 :
分家に結構いる。
則頼の外孫の血統からもらってくるよりは遥かに近い。

247 :
ほほう

248 :
友藤というんだけど、赤松の一族らしいです
だれか、加東市西古瀬の友藤一族についてしりませんか?

249 :
全く聞いたことがない

250 :
御先祖が依藤を名乗ろうとして漢字を間違えたとかじゃないだろうな

251 :
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_kakit.html
と思ったら嘉吉の頃にすでにあった名字みたいだ

252 :
ネットで調べてみたところ、江戸時代の先祖友藤新右衛門が札を発行していた
くらいしか分かりませんでした。
別所からわかれたそうです。
家紋は片喰で、依藤氏とかぶってますね

253 :
分布からして依藤氏と関係ありそうな気はするんだけど
なんか関係ありそうなネタをいくつか拾ってきた

依藤(推定1700人)60%が兵庫、主に西脇市。ほかに大阪。
友藤(推定730人)60%が兵庫。ほかに大阪。
伴藤(推定270人)鳥取・岡山に20%。ほかに大阪・福井。ばんどう。伴→友?

古瀬館(友堂屋敷)加東市西古瀬:友堂和泉守の居館跡か。 藤→堂?
※湯通堂(推定220人)鹿児島40%、兵庫20%。ゆつどう。
井ノ口構 上荘町井ノ口:志方家臣・依藤三河守、依藤小八郎(別所安治の末子)らの居城。
天正6(1578)年、依藤氏は三木に篭城した。加古川温泉「みとろ荘」が城址。
※治定1561〜79 安治の子、小八郎

254 :
赤松則房系は断絶?

255 :
断絶。娘の家系はわからん。
今のところ残ったと言えるのは七条系(旗本)くらい。
まぁ則房も元々七条系だけどな。

256 :
赤松則英
政54 戦61 采58 知53

257 :
関ヶ原で赤松則英、斎村政広、赤松祐高の3人の大名がいずれも西軍についたけど
これは利口じゃないね。
政広は寝返ったのに謀殺されたから不運だったが。
妻(宇喜多直家の娘)も離縁しとくべきだった。

258 :
生き残ったのは、有馬赤松家ぐらいか

259 :
赤松政元はそこそこ良将だな

260 :
有馬は頼旨の時に途絶えて、則維の代から七条赤松になってる。

261 :
>>257
領地的に厳しいんじゃないかなぁ。東軍参加を表明したところで毛利・宇喜多が大坂行くついでに踏み潰されるよ。

262 :
斎村政広は但馬だから地理的にはどっちでもいいけど、
妻が宇喜田家だから、仕方なくって感じだろうね。

263 :
そんな背景があったのか・・・

264 :
斎村政広って
うちの地元じゃ今でも「あかまっつぁん」て呼ばれて
墓碑も建ってたりするけど、
後から来た割りには、山名氏より慕われたのかな

265 :
竹田城最後の城主だからでは?
竹田城址って今は天空城として名所だしね。

266 :
短い間だけど統治もそれなりに評判が良かった。
三公七民とかいうアホみたいな低税率でちゃんとやってた。

267 :
その評判が400年後も生きてるとはとても思えないけど、
兵庫県だと赤松氏は古い領主として郷愁を感じる人は少なくないみたいね。
それにしても儒学にも通じていたし(藤原惺窩はその死を惜しんだ)、人材的にももったいなかったな。

268 :
@wdaimon
渡邊大門
『赤松氏研究会会報』第3号(PDF)を無料で送信します。どなたでも、遠慮なくお申し込みください。
申し込みは、メールでお願いします。創刊号・大2号もありますので、必要な方は遠慮なくどうぞ。
拙稿「新出の赤松政秀書状について」が掲載されています
http://twitter.com/#!/wdaimon/status/76243391662407680

269 :
age

270 :
赤松政英は中大兄皇子の生まれ変わり

271 :
政秀じゃね?
その政秀も2人いるけど。

272 :
最近播磨の赤松、小寺、別所、浦上、黒田あたりのごちゃごちゃした争いを
勉強してるがなかなか楽しい

273 :
生き残った赤松って有馬と石野だけ?
藩士でもいない?

274 :
常陸の忠臣菅谷一族が旗本になっている

275 :
日本史史料研究会研究選書4
渡邊大門著『中世後期の赤松氏―政治・史料・文化の視点から―』
(A5版 本文348頁 人名索引4頁)
多様な視点から赤松氏を分析した一冊。赤松氏の細部を追究する。

目次  
序                                            7頁
第一部 中世後期赤松氏の様相                      21頁
第二部 中世後期における赤松氏庶流                  93頁
第三部 赤松氏関係史料の周辺                      197頁
第四部 中世後期赤松氏と文芸                      239頁
結                                           335頁
     
初出・原題一覧                                   344頁
     
あとがき                                       347頁
http://www17.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html

276 :
渡邊さん本人が宣伝してるのか勘繰りたくなってきた
まさかね

277 :
ふふふ:::

278 :
私の性は鵜野といいます。
赤松氏の侍大将の鵜野小太郎か弥太郎の子孫のようです。
現在も刀が家宝として伝わってますが、いかんせんルーツが曖昧で・・・
先祖にどこそこの家老の娘が嫁いできたとかいう話がありますが
確証もないのでほぼ御伽噺です。
どなたか鵜野家の記録に関わった方はいらっしゃいませんかね?
一応第何代目かの当主として先祖のことを知っておきたいのです。

279 :
>>222
その書籍の
「第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏」
この宇野と関係ありそうだな。
今は住んでいませんが父親までは伊和神社の側に住んでいました。
伊和神社近辺に墓地もあり、彼岸の時期には墓参りに訪れています。
しかし、なんで「鵜」じゃなく「宇」なんだろう・・・

280 :
赤松家臣に宇野氏はいたけど鵜野氏はいないですよ
たぶん、同じ「ウノ」という読みから連想して
宇野氏の子孫を自称されたのかと思います

281 :
>>280
そうですか
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_sen01.html
の鵜野弥太郎かと思ったんですが・・・家紋も我が家と同じ左巴で「これは!」と思ったんです。
もしかしたら蔵にあった巻物に何か書いてあったのかもしれないんですが、
祖父と父親が中のもの全部燃やしてしまって残ってるのがその刀だけという状況です。
嫁いできた家老の娘が誰なのかもう一度父に確かめてみます。

282 :
>>278
へーすごいね
でも代数はわかんねえや

283 :
うぼあああああああ

284 :
IDがアホだとレスまでアホになっちゃうのかw

285 :
わろたw

286 :
アホマツ氏

287 :
>>275
最近購入して読み始めたところ…

288 :
最近赤松氏関連の新著多いな

289 :
有馬氏って北条氏にとっての名越氏、北畠氏にとっての木造氏みたいな存在だったのか?

290 :
けっこう権力握ってるなw

291 :


292 :
>>289
斎村・別所のほうがそれっぽくないか?

293 :
債務らは新しすぎ

294 :
名越・斯波にあたるのは春日部家
有馬は赤松は独立性高いから小山と結城みたいなもん

295 :
独立性ならその名の通り別所。

296 :
小山・結城も末期は・・・・

297 :
親子。

298 :
うm

299 :
小山氏は小物

300 :
播磨を見ていると
当時の国人領主はみな独立勢力だったんだな
ということがよくわかる

301 :
一揆連合と揶揄される安芸と実態は変わらないんじゃないかな。
上に戴く者があるかないかくらいの違いで。

302 :
赤松はのらりくらりと凌いできた感じ

303 :
石野氏って七条家のことだったんだ

304 :
赤松義祐は5万石くらいしか、実質統治できてなかった

305 :
守護大名は所詮点の支配でしかないからな

306 :
点の支配
線の支配
面の支配

307 :
あかまつのチビの家でかわいいカモが見える
あかまつのチビの土地をわたしの部下にあげる
赤松の部下の剣にわたしのいのちが消える


308 :
順番変

309 :
何それ。

310 :
落葉松じゃね
かなり無理があるが

311 :
嘉吉の乱?

312 :
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1317840988/

313 :
あかまつのチビの家でかわいいカモが見える→呼び出し名目?
あかまつのチビの土地をわたしの部下にあげる→?
赤松の部下の剣にわたしのいのちが消える→義教殺害?

314 :
>>313
( ^ω^)???

315 :
チビっていうなぁぁぁ     ザクッ

316 :
えええええ

317 :
播磨の状況は甲斐と同じ、みんなバラバラ
甲斐は信玄みたいな強力なリーダーが生まれたから偶然まとまれたから強かった
信玄死んだら甲斐も播磨みたいにバラバラになって滅ぼされた
播磨も赤松の血筋に信玄みたいなリーダー生まれていたら団結して強くなっていたはず
個々の能力なら優秀な武将が沢山いたじゃないか、
信玄は赤松家に生まれてた良かったのに、播磨なら京の都は目の前だ、天下取っていた事は確実

318 :
浦上をどうにかしないと思い通りには動けないよ

319 :
有馬「私たちは生きている」

320 :
浦上は織田家になりそこねた家だな。
村宗が大物崩れで死ななければ、もしくは政宗と宗景が兄弟で争わなければ…。

321 :
石野.別所「小さいですが生き残りました」
七条「名門なのに降伏駄目でした」
斎村「亀井に捨てられました」

322 :
イイハナシダナー

323 :
今、赤松氏の研究といえば、誰が第一人者なのだろうか?

324 :
七条斎村には遺児いなかったの?
室町名門御用達の細川か同族の有馬が引き取ってくれてそうだが

325 :
>>323
依藤、小林、野田等の各氏。

326 :
他にいたら、具体的に教えてくれよ。

327 :
お前

328 :
やはり赤松氏研究は人材難か。

329 :
そりゃあ、そうでしょうねぇ

330 :
赤松氏の通字は祐?

331 :
あんまり知らないけど赤松氏はたぶん楠木正成と同じ悪党出身だよね
鎌倉幕府には認められてない武士で、認めてくれた後醍醐天皇のために戦った
楠木はそのまま後醍醐天皇と共に滅亡したけど赤松氏は途中から足利尊氏側に
ついたので室町幕府では播磨を中心にけっこうな所領をもらってた気がする
悪党出身の2家だけど明暗がわかれたな

332 :
赤松は御内人では? まあ元守護の播磨島津も悪党化する世の中だけど

333 :
そもそも悪党の定義は同時代でもはっきりしてない。
反体制、反社会的な悪党行為をしたものは、立場関係なく「悪党」と呼ばれていた可能性が高い。

334 :
>>331
wiki見てきた
立派な御家人だせw
確かに悪党が鎌倉幕府に与できないのは当然だが
御家人は北条家の奴隷じゃないのも事実。
責務を果たさない頭領に従わないのが封建制クオリティ。
悪党ってのは、公権力の庇護に入ってない在野勢力の総称ってところじゃね?
赤松みたいな血統書付きは悪党って範疇に入らないだろ

335 :
まあ中世の言葉によくあるが、足軽などと同じく「悪党」も、名詞であり動詞であり形容詞なんだよな。

336 :
まあ公権力(幕府・朝廷)から見た呼び名だし
また悪人と言うより猛々しいと言う意味が強い

337 :
龍野赤松どこいった

338 :
>>317
部下に浦上、小寺、黒田、別所、宇喜多、
長船、岡、戸川、花房、明石、、
人材には苦労しなさそう

339 :
独立心強そうだがw

340 :
ほんと、赤松の家来(ほぼ独立しちゃってるのかもしれないけど)って
すごい名前がゴロゴロしてるよね うまく統率できれば毛利にかわって
山陽・山陰の覇王になったかもしれないし、織田にかわって首都圏を
制圧してたかもしれない

341 :
晴政・義祐親子の対立がなく政秀がうまく補佐していたらあるいは?

342 :
たつの市埋蔵文化財センター開館5周年記念特別展
「西播磨の戦国時代 赤松氏の興亡」
平成23年11月12日〜平成24年1月29日

343 :
赤松氏は、なぜ、親信長だったんでしょうか?

344 :
アンチ三好だったから

345 :
赤松家はどの時期まで権力をもってたのかわからんな〜〜
浦上と宇喜多、小寺と黒田の関係も主従関係のような同盟関係のような・・・

346 :
久留米有馬は本当に赤松の血を引いてるの?

347 :
>>334
赤松は三好に助けてもらった経緯があるからアンチではないだろう
普通に織田信長=足利義昭=幕府→播磨安堵・・・この流れだろう
三好がどうのこうのよりも浦上の方を何とかしたいはず


348 :
スマソ
×>>334→○>>344


349 :
>>346
海賊王 藤原純友の子孫だよ

350 :
>>349
有馬違い

351 :
>>348
村上源氏
北畠具房の末裔だよ

352 :
義村の代に浦上を屈服させられていたら戦国大名化できたかもね

353 :
義村はいい線行ってたと思うんだがな、浦上村宗も失脚してあとは討伐するだけだった。
まさか2年後には何もかも奪われて自分が座敷牢にぶちこまれる事になろうとは。

354 :
(´;ω;`) ぶわっ

355 :
>>342 オールカラーで写真が豊富、良かったですよ。
■特別展「西播磨の戦国時代〜赤松氏の興亡〜」図録(A4版・70ページ)の購入方法について
価格:1,000円、送料:80円
※2冊以上希望の方は、たつの市立埋蔵文化財センターまで、送料をお問い合わせください
【郵送の場合】
 図録代金と送料の合計を下記へ振り込むか、現金書留または為替で送金してください。確認後、図録を発送します。送金の際には、氏名・住所と、書籍名と希望冊数を明記願います。
郵便振替口座  00980−9−277678
口座名義    たつの市立埋蔵文化財センター
申込み先
〒679-4392  兵庫県たつの市新宮町宮内16
たつの市立埋蔵文化財センター(0791-75-5450)

356 :
宣伝キターw

357 :
摂津有馬氏
七条系石野氏

358 :
赤松義祐 播磨5万石

359 :
五万もあるのかw

360 :
播磨って70万石ぐらいはないか?

361 :
赤松義祐はその10分の1も実効支配していないかと

362 :
石野範種の子孫がどうなってるのかご存知の方いらっしゃいませんか?

363 :
過去に書き込みしたものです。嫁いできた家老の娘がようやく聞き出せました。
安志藩の家老の娘が過去に嫁いできたことがあったそうです。
嫁いだ際に安志家の矢立を嫁入り道具として持ってきたらしく、実際に今でも自宅に保管してありました。
鵜野弥太郎が先祖かどうかは分家なもんではっきりと調べることはできないとの話でした。
中途半端だけどとりあえずご報告まで。

364 :
>>363
報告乙
嫁入り道具がどれだけ揃っているのかわかりませんが
それを拝むことができて羨ましいです

365 :
>>364
家にあったのは矢立のみです。安志家の家紋入り。
http://www1.axfc.net/uploader/Img/view.pl?dr=1468782373&file=Img_136612.jpg
何代目の誰の家老の娘かなど細かい情報は祖父祖母が亡くなってるためわかりません。
父親曰く小作料を取ってた家だから分家(うち)は武家ではない。本家なら武家の可能性アリとの話でした。
また刀見る機会があったら写真撮ってうpしてみます。

366 :
>>365
うp忝い!
しっかり堪能させて頂きました
やっぱり古き品は萌えます

367 :
ほほー

368 :
播磨って小雄群立で人材の宝庫だね
糾合できてれば相当な勢力になれたんじゃないか?
惜しむらくは抜きん出た雄がでなかったことか

369 :
織田と毛利の間の緩衝地帯ってかんじだな

370 :
秀吉は播磨を根拠地にして天下をとった。

371 :
>>369
播磨だけに限らず中国から近畿は国衆の力が強いから毛利も織田も手を焼くしかない
緩衝地帯という捉え方は結果論だと思うよ

372 :
義祐の器量はどうだったのかな
政才はそこそこありそうなんだが

373 :
>>372
足利義輝のような悲哀を感じるよね

374 :
義輝ほどじゃねえな

375 :
うm

376 :
>>360
播磨の支配なんてほぼ失ってただろ

377 :
せやな、小寺のほうがマシやった

378 :
小寺?それはないわ

379 :
播磨は雑魚ばっかりだな。黒田だって余所者だし。

380 :
まあけっこう大きな国だから統一者はいなかったようだなあ
織田と毛利の間の空白地帯ってかんじだ

381 :
>>379
赤松満祐の乱が無ければ・・・・。

382 :
そしたらもっと影がうすく・・・

383 :
満佑

384 :
赤松義祐はイケメン

385 :
はげしく同意w

386 :
自演乙

387 :
一族の有馬豊氏が筑後久留米23万石、国主格待遇を受けました

388 :
(#^ω^) ビキビキ

389 :
義祐救援という名目で出陣している以上は宗景は攻撃してこず龍野を攻め立て、また則
房も戦意は無かった。11月には池田勝正・和田惟政・伊丹忠親らが政秀救援に駆けつけ
たが同月中に政秀が浦上に降服したため、ほとんど戦うこと無く畿内へと戻っていっ
た。また、則房も浦上が播磨を去ると置塩に戻っている。翌元亀元年(1570年)に息子
則房に家督を移譲し隠居する。隠居から6年後の天正4年2月15日(1576年3月15日)に死去。

390 :
研究会千葉に引っ越ししたのか

391 :
>>390
えっ

392 :
赤松広隆は末裔なの?

393 :
赤松なんて播磨には山ほどいる。まあ何かしらどこかとつながっているのかもしれんが

394 :
赤松の子孫は播磨に散らばっている
ってこと?

395 :
>>394
というか播磨は赤松由来を名乗る連中だらけだろ

396 :
久留米有馬氏って赤松の傍流って触れ込みなんだが、本当にガチなのか?
いまひとつピンとこない

397 :
そんなピンと来るとか来ないとかで判断されても…
有馬は紛れも無く一門。

398 :
>>395
そりゃ、播磨守護を二百年もやっていれば、国中に一門が居るだろう

399 :
だからこそ播磨はクソ面倒くさい事態になった

400 :
400get!

401 :
赤松家の1560年頃の直接動員兵力ってどれくらい?

402 :
5人

403 :
>>402
ぶちこるすぞこら

404 :
きゃーこわいー

405 :
のぶやぼだとことごとく低能力の一族ってイメージが強いな

406 :
実際、戦国中期から末期は何も功績ないからな
浦上や別所のが活躍してる

407 :
黒田大河で赤松政秀は悪役で出番あるかなぁ

408 :
最近の大河の傾向見てると如水を引き立てるために、必要以上に馬鹿で無能な武将扱いされるのがオチだろう

409 :
政秀の存在ごと青山・土器山の戦いも、あっさりスルーする気がする<黒田大河

410 :
まぁ最近の大河どころか播磨灘物語でも、播磨の豪族は、
黒田家以外は、どうしようもない田舎者の馬鹿の集まりとして
描かれてるので、登場してもいいことは一つもないだろうけどね

411 :
播磨灘物語だと、別所長治は若いだけが取り柄、赤松広秀は見るからに愚人だったっけ?
そんな広秀さん、見たくないなあ。
まあ、出てこないとは思うが。

412 :
播磨灘物語は今度の大河の原作にはならないから、そういう描写は無いでしょう。
脚本家オリジナルの台本になるみたい。
どちらにしろ、ジャニタレ主演という時点で終わってる感があります。

413 :
播磨赤松氏を祖先に持つ城主一族が近所にいます。
その城主から姓を賜られた方も沢山いますね。

414 :
昔農水大臣やっていた人ってココの子孫なの?
だったら播磨赤松の無能と信長の野望での低能力っぷりにも納得するけど

415 :
黒田家が赤松の分家だったとほぼ確定の話は既出?

416 :
なにその与太話

417 :
>>403
谷繁乙

418 :
赤松家て下手したら
円心や満祐より政秀のほうが知名度高い?
ノブ野暮ファン層からしたら糞弱い大名にしか思われてるのは悲しい

419 :
[六分一殿から]戦国山名氏[交代寄合]
にも赤松氏発見

420 :
今の但馬竹田城って赤松が築いたんだったよね?
山名の豊国さんが赤松に代わって竹田城候補だったらしいよ

421 :
庶流・別所長治

422 :
>>360
播磨一国まるまるだったら十六郡で50万石以上だな
太閤検地では36万石だっけか

423 :
有馬記念の有馬理事長は赤松の血を引いてたのか

424 :
引いてるよ
細川や赤松(有馬)は
本家没落しても庶家が大大名で残ってんだからマシな方かな
一色の末裔とか何処行ったよ?

425 :
昔、一色麗矢っていうAV女優がいたよ。

426 :
ごめんよく調べたら源姓丹羽氏と金丸土屋氏がいたわ
大名じゃないけど崇伝も
管領四職のなかで庶家支流も含めて
大名華族で残れなかったの畠山氏だけか

427 :
一族の有馬なんとかっていつの間にか大大名になってるね
地味にすごい

428 :
相国寺派にも有馬和尚がいる

429 :
>>428けっこう有名

430 :
竹田城、良かったよぉお

431 :
あげ

432 :
>>427
肥前有馬氏と久留米藩主の有馬氏を混同してる人多いよね

433 :
いるな
多分歴史的には則頼・豊氏より
有馬晴信の方が有名

434 :
九州出身だけど最近までそう思ってた
周りが黒田、立花、鍋島、細川と有名大名の中で無名、20万石の大名としては実績が余りにも?過ぎる

435 :
有馬晴信も日野江周辺で5万石程度の大名だったしな>晴純の時代はさておき

436 :
九州に移封されたから余計混同されんのかな。
かの有名な有馬頼義さんがだったかと思うけど
内のご先祖様大した武功ないのに
なんで大大名になったか分からないって言った逸話は聞いて笑ったことある

437 :
>>414
>昔農水大臣やっていた人ってココの子孫なの?
元農林大臣でJRAの理事長をやっていた有馬さんはココの子孫。

438 :
>>407  
祝!赤松政秀 大河ドラマ出演確定(実質的には)
こいつにぬっころされた黒田の妹が出演確定した

439 :
大河の赤松はわかりやすい悪役になるぞこれwww
なぜか妹じゃなしに広峰神社の娘で官兵衛の初恋の女という
謎設定になってるが・・・

440 :
それはもうヒャッハーな悪徳室町権力者になるだろう
キャスト考えようぜ

441 :
本田博太郎か片桐竜次で決まりだろ

442 :
>>439
NHKのHPを見たら、「宿敵赤松家」って書いてあったぞ。
置塩赤松も龍野赤松もごっちゃにされる悪寒。
小寺官兵衛祐隆って名乗っていた時期もあるし、官兵衛に対する赤松本家からの
信頼は高かったと思うぞ。なんせ置塩から一番近い大名だし。

443 :
>なぜか妹じゃなしに広峰神社の娘で官兵衛の初恋の女という
なんか
始まる前からハズレ臭ただよってんな。>黒田大河

444 :
先日の大雨強風で、赤松家のルーツである佐用町が土砂崩れ警報発令地域に
指定されていたのを旅行中のカーラジオで聞いていた

445 :
今週但馬播磨の城をずっと見てきたが
竹田城の資料館にあった赤松家の系図、
政秀〜広秀(政広)については記載されていたが
晴政〜則房の系譜は省略されていたw
その資料館には斎村政広が文化人として高い評価を
得ていたことを強調していたこと、朝鮮の役で捕虜になった
あっちの官僚が政広を評価していたことと、
政広の死について(亀井某の悪謀で〜)と嘆いていた文書が公開されていた

446 :
姜と藤原惺窩と親しかったという話な>斎村政広について

447 :
俺は行っていないが、あげておこう。
知られざる戦国の名君 龍野城主・竹田城主 赤松 広英
父は、黒田官兵衛の最初のライバル 赤松政秀!
姉または妹は、信長の養女として関白・二条昭実に嫁いだ さごの方
※義昭の側室になったのはスルーなのか???
http://web.pref.hyogo.lg.jp/whk01/press/documents/chirashi.pdf

448 :
>>445
山名氏一族の山名豊国が、斉村広秀の後、竹田城(朝来2万石)を徳川家康から
もらったと村岡の山名家家譜でなってるみたいだけどホントなのかなあ?。
但馬朝来郡から七美郡になにげに郡替えってなってるらしいけど。
その家譜の記述って信じられる?。
2万石から減封のうえ転封で0.67万石になったのも本当なら理由が知りたいです。

449 :
>>448
禅高はお伽衆だよな・・・>家康政権時代

450 :
>>448
もらったのは領地であって、その時既に竹田城は廃城になっていたよね。
国境警備の城として戦国〜織豊時代は重要地であっても、その頃にはもや
朝来はただの田舎に過ぎなかったと思うよ。

451 :
>>448
【六分一殿から】戦国山名氏【交代寄合】
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1151734735/

452 :
>>450
返信 ありがとうございます
やはり領地としては、竹田領2万石もらっていたのですね
関ヶ原の戦い直後の混乱を収める為に竹田に入ったと家譜にあるようですが
廃城になった年月日わかりますでしょうか
広秀は東軍に寝返り後、改易御家断絶になったと思うので竹田城はほぼ無傷
のはずです。誰かが故意に壊さないと、建ち続けてますよね城の建物?

453 :
>>452
江戸時代初期に、一国一城令ってのがあってな・・・

454 :
>>453
ありがとうございます
1615年、一国一城令成立
ですね
山名豊国が入城したのは1601年前後と思われますのでやはり建ってますよね
城割りがなされてないとすれば、風雪により壊れたのかもしれませんね

455 :
大抵の城は木と土でできてるから
毎年修理しないとすぐボロボロになるよ

456 :
赤松広秀が鳥取城攻めに行った直後に、入城したのだから
そう簡単にはボロボロにならないんじゃないの?
平和的な(?)城受け渡しだったろうし、御留守居役から。

457 :
笠原屋形、孝橋左馬助の十八代目(初代は則繁)です。朝鮮をもう一回荒らし回るのが夢です。

458 :
>>448
室町の名族は江戸時代では高家になっている
山名豊国の子孫は、その高家並になっているんだから山名家は名族といえる
(もちろん赤松家も名族だけど)
高家は、格式や位では、そこらへんの中小大名以上だった(例:吉良家)
山名豊国の子孫のうちもう一方は交代寄合(石高一万石以下の大名)だったらしい
赤松家と親密な細川京兆家も、なぜか高家になっていない

459 :
>>458
細川京兆家が高家入りしていないのは、細川頼範(元勝)が大坂の陣で豊臣方に付いたせい

460 :
>>457
中道寺退去後、一族はどこでどのような変遷を辿ったの?

461 :
自分は448じゃないけど
>>450
竹田城をもらったと書いてあるよ
だから竹田城の最後の城主は山名豊国じゃないの。
>>460
山名但馬守護家が高家入りしてないのも、山名堯煕、山名堯政が大坂で豊国方に付いたせい

462 :
赤松なんて誰も知らないからスルーして問題ないよ
その分戦闘シーンを濃厚にしたほうがドラマとしてかっこよくなるね

463 :
>>462
懇切丁寧に解説すると視聴者混乱するだけだろうしね
播磨周辺は赤松の分家だらけ

464 :
紹介
兵庫県立考古博物館 特別展示室
2013年10月05日(土)〜2013年12月1日(日)
動乱!播磨の中世
−赤松円心から黒田官兵衛まで−
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005eas.html
◆概要◆
兵庫県の中世史を語るうえで欠くことのできないものに播磨国守護赤松氏があります。
赤松氏は円心則村(1277〜1350)の時、後醍醐天皇の命に応じて鎌倉幕府倒幕に尽力し、
後には足利尊氏に従って室町幕府の成立に果たした多大の功績により嘉吉の乱後の
一時期を除いて戦国時代に至るまで播磨国守護として君臨します。
一方、戦国時代末期の播磨に赤松氏の陪臣の子として生まれた黒田官兵衛孝高
(よしたか)は、羽柴秀吉の軍師として縦横に知略を巡らし、やがては天下人
秀吉さえも恐れさせた播磨が生んだ英雄です。
今回の展覧会では、赤松氏ゆかりの遺跡から出土した発掘資料や伝世資料を通して、
円心に始まる南北朝時代の赤松氏の台頭から戦国時代末期の黒田官兵衛の登場と
赤松氏の滅亡までをたどります。

465 :
>赤松氏の滅亡までをたどります。
有馬はスルー?

466 :
>>465
戦国負け組の赤松一族だとバレたら恥ずかしいから苗字の「有馬」と名乗って
いたようなやつらは当然スルー

467 :
県道で時速146キロで走行した男を逮捕 兵庫県佐用町の男
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131112-00000554-san-soci
赤松氏のルーツ:佐用の庄で円心入道もビックリの暴走男だなw

468 :
>>444
赤松家のルーツは赤穂郡上郡町だろ?

469 :
赤松政秀は団時朗が演じるらしい

470 :
キャー政秀さん頑張って黒田をやっつけてー!
こんな感じで応援すればよろしいか

471 :
大河HPの人物相関図に赤松が出てなくて泣いた
宿敵とはいったいなんだったのか

472 :
初回なんと政秀さまが一番かっこ良かった件
どうゆうことだよ今年の大河www
いろいろ大丈夫なのこの大河
不安な予感がOP開始からすごくしたんだけど
政秀と広英でてる最初の3回くらいは見る予定だよ
黒田ファンは一年間気を確かにもって が ん ば っ て(震え声)

473 :
>>472
麿赤児もカッコよかった。
ただ、広英が出てくるのは、もっと後だ。

474 :
>>469
>>470
>>472
帰ってきたウルトラマンだから政秀無双が見られそうだw

475 :
次回は赤松無双だな
播磨の宴会は地獄だぜ

476 :
宴会暗殺は赤松のお家芸だから(震え声)
これにかけては家来の家来の宇喜多某とかより上手いから
次回のサブタイは「殺ったね!政秀ちゃん☆」でお送りします

477 :
しかし、政秀だって最後は暗殺されてなかったか?
そのせいか、初代天下統一では非常に低い能力設定 軍事5 内政1 w
ちなみに 赤松晴政は 軍事2 内政4
       赤松義祐は 軍事3 内政4
       小寺政職は 軍事4 内政4
(MAXは16)
みんなひどすぎるw

478 :
>>477
ノブヤボだと播磨では政秀は十分エース級
政職も赤松家でプレイするなら頼りまくりになる
でも肝心のお屋形の義祐は…いるだけっていうか…
嘉吉の変の折、運悪く赤松主催の暗殺宴会に居合わせ
巻き添えで瀕死の重傷を負ってしまった周防の大内持世くん(あららー)
長い長い家督争いにようやく勝利して、将軍義教の要請で上洛した途端
これだよwww(ある意味自業自得の義教より最大の被害者かもしれない)
結局一ヶ月近くも苦しんだ挙句「赤松父子だけは絶対絶対殺してくれ!」
と遺言を残して他界
それだけでは腹の虫がおさまらず、当時細川・赤松共謀説が流れていたので
「細川と赤松、あいつら絶対グルだから!おれが死んだら管領・細川持之の
屋形に駆けこんで嫌がらせにお前らみんなで切腹してくれ!頼む!」
と当てつけ切腹を家臣に言い残してお亡くなりに
嘉吉の変の心温まる後日談である

479 :
その嘉吉の変の則親・満親は親子?
満親の弟、親則が小豆島へ逃れてずっと末裔が居るけど。
「広瀬氏系譜」の中に
兄満親と長水城に居る乱を避け阿波に逃れ小豆島に移り坂手に寄住し民間に下り
時節を伺い居さるも多病にして(分からん)空しく卒す
と書いてある。
小豆島では名家で有名で室町時代からの古文書が町役場にある。
修行中リンク禁止と出るから「九州大学デジタルアーカイブ 長沼文庫 小豆島資料」でぐぐって。
それの19番画像。

480 :
>>478
その頃から反細川になったのか。

481 :
もっと前から大内・細川は仲悪いよ
大内義弘(3代将軍義満の時代)の頃から
すでに細川と大内は対明貿易でライバル関係になってた

482 :
大内義興と細川高国が組んで、将軍足利義植を擁立するも、対明貿易問題でケンカ⇒大内帰国。
将軍足利義稙は細川高国を恐れて出奔。激怒した帝に将軍を解任される。
細川高国は、浦上村宗の下の足利亀王丸を擁立して、将軍足利義晴とする。
この間に、赤松義村は浦上村宗に殺害される...
という経緯。

483 :
>>481
支配国力も中央政界の権力も細川が圧倒しているのに
一地方大名がライバルになり得たのは不思議です。

484 :
>>483
細川家は戦は弱いということでは

485 :
いや、細川は少なくとも永正の錯乱で内部分裂するまでは強いよ
大内が強すぎるだけ

486 :
応仁の乱〜戦国初期の最強は東軍が鬼吉川(初代)吉川経基。
西軍が斎藤妙椿。
浦上則宗とかは、東の前頭筆頭くらいか?

487 :
室町幕府は将軍直轄の軍事力が弱く有力守護大名のバランスのうえに
維持されてるけど、足利将軍からすると細川や斯波は領国数も多いし
頼れる反面、同族でも潜在的には怖い
応仁の乱以前から、三管四職の畿内近国の有力守護大名を抑えたい時に
将軍が上洛させるのが大内。在京義務のない大内は幕政に参加する資格がないので
中央政権での影響力では細川に敵わない。でも領国数が多いので軍事力としては強い
だからここぞという時は京に呼んで将軍に反対する守護大名を牽制させる
ある意味「影の幕府直轄軍」的な役割を担っていたという研究者もいる
同じように斯波・細川を抑えようと遅れて管領にしたのが畠山
こっちが畿内での幕府直轄軍的な役割を長らく担ってた

488 :
そうだね。
畠山は凄い。
まがりなりにも織田期まで現役の守護大名として行き残ったし。

489 :
畠山はお家芸のように二流であれだけ延々内乱やってて
当主も守護代による暗殺・追放・傀儡政権化がテンプレになってるのに
なんだかんだと守護大名として畿内で勢力を維持できたのは
・戦力と逃亡先として紀州の国人をあてにできたのと
・根来衆が実質的に畠山のボディガードとして機能してるのが大きい
三好長慶相手でもとりあえず負けても紀州に逃げて再起図れば
なんとかなってるし。立派立派

490 :
>>489
紀伊だけじゃなく越中にも逃げてるな

491 :
大河見ててこの地域に興味持ったけどなかなかわかりにくい。

492 :
龍野赤松ばっか名前出て宗家は出てこないな

493 :
赤松家のスレがあるのにびっくりしました。私の祖先は常陸国の多賀谷家に身を寄せ、戦功により古澤(現下妻市の地名を賜り)を名乗ってきましたが、江戸時代になり、多賀谷家の滅亡により、赤松姓に戻す家もありました。現存の墓碑には赤松と古澤が混在しております。

494 :
>>478
その話嘘だよ
「建内記」に
 「後聞、虚説也、赴死門者、残党可進発播州之由遺言」
   ((細川の所に押しかけて切腹って話は)嘘だった。
    (管領邸ではなく)播磨に発向しろの間違いだった。)
ってちゃんと否定されてる
たぶん一次史料の誤読

495 :
史料の解釈の問題ではなく、単に嘉吉の乱当時、大内がそう遺言したという
風聞が世間では流れてたってことでは?

496 :
>>495
うん、そう言う意味ではそう
説明のし方が悪くてごめん
でも、大内持世の遺言は、全文をちゃんと読むと本当に素晴らしいから
誤解されたままなのが忍びなかったんだ

497 :
今日も広英様が大活躍みんな見てくれたかな

498 :
>>497
佐江村に謹慎中の赤松広英がなぜ加古川評定に出ているのかと、小一時間...

499 :
お城好き声優さんの「竹田城」ガチトーク
画像も多くておもしろい
遠近孝一PRESENTS「戦国ネットすきらじ」
http://www.suki-radi.com/

500 :
>>498
赤松別所小寺の三家がともに上洛して信長と面会した時、
司馬の「播磨灘物語」では如水の目からみた広英は
「見るからに愚人だった」と
ひどい描写だったよね(´・ω・`)

501 :
たしかにw

502 :
播磨灘物語でも今年の大河でも
播磨は馬鹿しかいない国(黒田家のぞく)という設定だから(震え声)

503 :
そういえば、今年の大河みてないんだが
別所家に仕えてる「軍師」の三宅治忠って出ているの?
それこそ播磨灘・・・では広い世間を知らないうぬぼれやの大馬鹿として
描かれてる武将。
(陰陽と軍学を自己流にかけあわせて何の意味もない講釈を延々と垂れ流して
秀吉旗下を呆れさせた・・・云々)

504 :
>>503
大河には三宅さんはでてない
代わりに別所家の叔父さん(毛利に味方した方)が長講釈をたれて
わざと秀吉をイライラさせる作戦をやってたが

505 :
>>504
なるほど、別所賀相(吉親)と三宅治忠をミックスさせたのかw

506 :
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507 :
将軍殺しの赤松家がよく復活できたもんだ

508 :
>>507
三種の神器奪還に貢献

509 :
将軍殺した赤松が消えたら山名が増長してメンドクサイ事態になったので
じゃあ山名シフトの赤松という壁を復活させましょうということ

510 :
>>10
他にもおるよ
ここにおるよ
名字は変わったけど

511 :
>>507-508
やっぱり悪いことしたらバチ当たりますわ。
三種の神器を奪還した時も、後南朝で人殺しまくったそうですからね。

復活した政則は、鷹狩りへ行って泊まった寺で急死(たぶん暗殺)
養子の義村は、家臣に幽閉されて殺害。
その息子の晴政は、家臣にそそのかされた我が子に攻められて、分家の城に
避難して死亡。
その息子の義祐は、家臣とも我が子とも折り合いが悪く、もうめちゃくちゃのうちに死亡。
その息子の則房は、秀吉に降伏したものの、その後どうなったか不明。
豊臣政権下で阿波住吉1万石の大名になったという説が有力だが、
独立した大名ではなく、徳島の蜂須賀家の属将扱いだった可能性がある。
そうでなくとも、1万石って但馬竹田城主になった分家の2万2千石の半分以下。
分家は、但馬の鉱山の管理もしており、竹田城の遺構からして10万石く
らいの力があったと言われるので、赤松本家の体面も糞も無い。
いつ死亡したのかすら不明。
関が原の戦いの後の佐和山城籠城戦で、城内で死んだ武将の1人に赤松左兵衛
の名があり、それが則房の可能性が高いそうだが、石田家の家臣扱いになって
いたのか? 別の大名が特別に応援に来たにしては扱いが小さすぎ。
いやいや、そいつは則房の息子の則英だと言う説もあるが、則英は実在しなか
ったという説もある。
少なくとも、則房が小さいながらもチキンとした大名であったなら、
こんな曖昧な結末にはなっていないはず。
豊臣政権下でよっぽど冷遇されていたのでは。
で、但馬竹田城主になった分家は、騙されて寝返って切腹。

512 :
やっぱり南北朝期が一番輝いていたと言えるか

513 :
>>493
私もまさか赤松のスレがあるとは思いませんでした。
でも書き込む人も最近はあまり居ませんね (笑)

他のスレでも書きましたが、私も赤松の子孫です。
円心の長男、範資の何番目かの息子で、彦五郎を名乗り、則祐の養子になった人が遠い先祖です。
室町時代に赤松から別の苗字に変わりました。
江戸時代に藩主になる武家の女性と結婚したのがきっかけです。
今もその苗字です。

514 :
赤松氏、上月氏、小寺氏、明石氏、黒田氏、

今でも男系で続いてる家ってあるの?

515 :
赤松祐高
永禄2年(1559年)、赤松政秀の子として誕生。兄に斎村政広などがいる。
天正5年(1577年)、中国地方に侵攻してきた織田氏の家臣・羽柴秀吉に
兄・政広と共に降伏する。以後も秀吉に従い、半田山家鼻城1万石を領す。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは兄同様、はじめ石田三成方につくが、
徳川方に寝返った兄・政広の切腹後に流浪した。
大坂の陣では浪人衆として、豊臣秀頼に仕え大坂城に篭城。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に
篭るが、池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救わんとして切腹した。
享年57。
嫡男・赤松祐則は半田山で帰農し、郷長となる。
子孫は曽谷氏と称し、現在に至る。

516 :
赤松の末裔で一番栄えたのは久留米藩主の有馬か
なんせ有馬記念

517 :
>>516
結果論としては、位置的に良かったんでしょうかね。
赤松一族の中では、比較的摂津や京都の情報が入りやすい位置にいたこと。
赤松本家からは、比較的古くから分家して別行動を取っていたこと。
赤松本家とは別に、直接足利将軍家に従っていたので、別行動を取りやすかったこと。
あとは、やはり結果論ですが、先見の明があったこと。
最後に、これも結果論ですが、織田・豊臣・徳川政権下で上手く立ち回ったこと。

518 :
石野氏の子孫は今でも続いているんだろうか?

519 :
多分続いてはいるだろうけど
今は一般人と変わらないじゃないか?

旧有馬伯爵家や旧赤松男爵家の末裔の人とかは
セレブではないだろうけど今でも上流階級に属してるぽい

520 :
現在の有馬家の当主は人形町にある水天宮の宮司。
スレから外れるけど。

521 :
久留米藩五代藩主頼旨に子がなかったので、石野氏出身の則維(のりふさ)が頼旨の養子となり六代藩主に
石野氏では則維から数代前の氏満の妻が有馬則頼の娘
密接な繋がりがあるんですね

522 :
>>520
本家は久留米の水天宮ね。

523 :
wiki見たら有馬氏、嘘ばっかり書いてあるな。独自研究もいいとこ。

524 :
ウィキの赤松氏に、

称 村上源氏季房流
(藤原氏)
とある。藤原氏説もあるのかな?
説は色々あるみたい

525 :
五人の剣道十段

小川金之助 1957年(昭和32年)授与
持田盛二 1957年(昭和32年)授与
中野宗助 1957年(昭和32年)授与
斎村五郎 1957年(昭和32年)授与
大麻勇次 1962年(昭和37年)授与

子孫かな

526 :
>>114意味がわからん。
山名も但馬の戦国大名で頑張った。じゃないの?。
六分の一殿の末裔で嫡流なのは山名氏政。有子山城の最後の城主です。

山名は大族なので山陰山陽各所に庶流の子孫はたくさんいるとは思うけど。
赤松則房を赤松氏の当主とするなら山名氏は山名氏政でしょう。
山名氏政は赤松則房以上に頑張ったと思います。

527 :
>>468
ルーツは関東なのでは?と言う説も最近出て来ているようです
関東御家人説。

528 :
水天宮、東京が本社だと思ってる人多いよな。

529 :
まったく同感だ。則房は頑張りが足りなかったんだよなぁ・・・

530 :
水天宮の宮司さんのインタビュー記事読んだけど、志村のバカ殿様のモデルは久留米藩主らしい

531 :
赤松が最初に姫路城を築いたとは知らなかった。

532 :
赤松の頃は姫山城かな

533 :
>>526
赤松氏が則房さんの頃、山名氏は山名義親と山名氏政(堯煕)が当主だね。
山名氏政の子孫に江戸幕府の作事奉行になった人がいて
山名豊明というらしい。
幕府の作事奉行だから殿中では大名待遇だね、石高は旗本だけど。
山名氏は江戸時代も健在だね。

534 :
>>532
姫山城だよね

赤松円心が鎌倉幕府倒幕の際、姫山に兵を集め縄張りを定めた時に小さな砦が出来る
1346年、二男の貞範が円心の意向を受け、姫山に山城(姫山城)を築く

535 :
今秋から始まるNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデルとなった女性の嫁ぎ先、加島屋の広岡家は家伝によると、円心の孫にあたる則弘(範資の子?)の末裔だとか。
加島屋は江戸から戦前にかけての大阪きっての豪商。

536 :
>>511
赤松則房の最期が曖昧になっている件ですが、
蜂須賀家の家臣・賀島政慶(細山帯刀)が強く関係しているようです。
賀島政慶は則房の養子になり、赤松姓を名乗らなかったため赤松氏が絶えたと
いう話があるようですね。
その養子というのも曖昧で、家督を継いだのか?
則英(実在を疑う説がある)との関係はどうだったのか?
など不明なままです。

領地にしても曖昧で、
四国征伐の後、置塩から阿波・住吉へ移ったという説(私はこれしか知らなかった)
と、置塩の領地はそのままで、阿波・住吉が加増されたという説とがあるよう
です。

賀島政慶(星山帯刀)が謎を解くカギになるような気がします。

赤松氏を中心に書かれたものでは、則房が秀吉に従った後、「赤松殿」「置塩殿」
と呼ばれて厚遇されたと書いてあるのがありますが、
私は反対だと思います。
「赤松殿」「置塩殿」と呼ばれるのは、厚遇ではなく当たり前のことです。

ここからは私の想像です。
むしろ、秀吉が蜂須賀家政に赤松を潰せと命令したのではないかと思います。
「中国征伐も四国征伐も終わり、播磨は京・大坂に近いので、蔵入地と
近臣の領地にしたい。そこで赤松は用済みで、他に与える領地も無いので、邪魔
だから潰してしまえ」と。
置塩から阿波・住吉へ移る時は、ただの転封ということにして行かせて、
行った先は、秀吉の命を受けた蜂須賀氏の監視下におかれ、蜂須賀の家臣を使っ
た詐欺のような養子縁組で家を潰されたのではないかと思います。

実在が疑われる則英については、佐和山落城の前夜に城を脱出して、
京都の戒光寺で自害したという説があるようですが、これも詳しい事はわかりません。

537 :
>>423
有馬氏は赤松その物ですよね
有馬氏の祖、有馬義祐が則祐の五男というのは知っていたけど、久留米藩主になってからは途中から石野氏を養子に迎えていたのは知らなかった
石野赤松は範資の系統ですよね

自分は前にも書いた赤松の子孫です
先祖代々伝わっている話と、江戸時代の初め頃にはあったと聞いている古い家系図しかありませんが、円心の孫の直系です

そう言えば現在の京都仏教会の会長も確か有馬家の人だったような

538 :
>>536
> むしろ、秀吉が蜂須賀家政に赤松を潰せと命令したのではないかと思います。

考えすぎ。
秀吉が主犯なら、偽養子を送り込むなんて回りくどいことしなくても、いくらでも
やり方はある。

単純に、蜂須賀氏が国持ち大名として阿波を独占したいから、潰しただけだろ。
生駒氏による十河氏撲滅と同じだ。

 十河千松丸
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%8D%83%E6%9D%BE%E4%B8%B8

539 :
国持ち大名と、国持ち大名扱いじゃ、式典での待遇や
自分のプライドの面で大きく違うからねえ
国持ち大名扱いでも、豊臣家や徳川家の蔵入地ならまだしも
別の大名がいたのでは嫌だろう
そういえば、蜂須賀家は幕末・明治維新の際にも、徳島藩から
独立して淡路藩を立藩しようとした淡路国の代官・家老である
稲田家を襲撃する庚午事変(稲田騒動)を起こしている

540 :
ちなみにうちの会社にも「赤松」という姓の人がいて
先祖以来兵庫県で、赤松氏の庶流で江戸時代に
帰農して庄屋になったいう言い伝えが実家にあるそうだ

541 :
>>538
そうそう、>>536は考えすぎ。
秀吉にとって、赤松なんてはなから眼中に無いから、わざわざ「赤松を潰せ」
なんて言うわけないし、思いもしない。
則房はその他大勢のうちの1人。

ただ、落ち目の、しかも降伏した小大名は、豊臣系大名からしたら邪魔だった
ろうから、何かにつけて嫌がらせをされたのでは・・・

542 :
>豊臣系大名からしたら邪魔だったろうから、何かにつけて嫌がらせをされたのでは・・・

想像ねw

543 :
ここだけの話、実は秀吉と家康が最も怖れていたのは則房なんだぜ(´・ω・`)

544 :
則房が本気出さなかったおかげで家康は幕府を開けたんだぜ(´・ω・`)
言ってみれば、則房は家康の恩人なんだぜ(´・ω・`)

545 :
秀吉も家康も小さい小さい。
則房から見ればウンコ以下なんだぜ(´・ω・`)

546 :
まぁ、赤松則房公より優れた大名なんているわけないわなぁ(´・ω・`)

547 :
ぶっちゃけ、安土城も大坂城も江戸城も、
置塩城に比べたら犬小屋以下だから(´・ω・`)

548 :
釣れるとええね

549 :
   ∩___∩         |
   | ノ\     ヽ        |
  /  ●゛  ● |        |
  | ∪  ( _●_) ミ       j
 彡、   |∪|   |        J
/     ∩ノ ⊃  ヽ
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |
  \ /___ /

550 :
真田丸なんていってんじゃねぇよ(´・ω・`)
人気じゃ負けないからな

551 :
兄が、25年前に亡くなった父から聞いた話の一部。
代々伝わっている話。

赤松は関東にも領地を持っていた。

先祖(赤松)が亡くなった時
遺体に甲冑を着せて
普通の墓ではなく、塚に埋葬した。
本人が使っていた刀も一緒に埋葬した。

赤松の武将だった先祖は
修験道に出家している。
うちは父方が明治維新の頃まで
天台系の修験道のお寺だった。
何百年か続いたお寺。

552 :
嘉吉で全国に散らばったそうだね
多賀谷の下について北条撃退に勇名を馳せた人物もいたようだ

553 :
常陸国(茨城県つくば市)の手子生城に赤松則実という人が城主だったと
いう伝承が残っていますね。どんな人だったのかは不明です。
ただ、播磨赤松氏の名前の通字の「則」を名乗っているので、播磨赤松氏の
流れをくむ人だったか、そうでないなら、その伝承を作った人が播磨赤松氏
の通字を知っていたことになりますね。

554 :
Wikipediaを見ると、範資の子に範実という人が出て来るのですが
この人は南北朝時代の人で、手子生城の則実とは時代が違うので
たまたま名前が同じなのか、(範実と則実ですが)それとも何か関連があるのか気になります。

555 :
たまたま同じ名前の人、いるよね かなり混乱する

556 :
常陸の赤松氏は
伝承だと円心の子で南朝方についた赤松氏康の流れ汲むらしい

557 :
多賀谷の下にいた赤松は嘉吉で逃げ延びてきた一族らしいが、筑波辺りにコネがあったということになるのか

558 :
源平合戦の頃
たぶんまだ赤松を名乗っていない時代
武家として、源頼朝の側に付いていた事。
或る関東の武家が家来だった事。

家来だったと言うのには?だけど
家に伝わっている話の一つ。

おそらく(宇野)則景と言う人の頃の事。
円心より四代位前の人物

559 :
実は、堺雅人は真田信繁(幸村)なんかより赤松則房を演じたかったんだぜ(´・ω・`)

560 :
将  軍  殺  し

561 :
義教は暴君だったからねえ
普通なら速攻で追討されるところが同調者に誰がいるのかを見極めるために
幕府側もしばらくの間は追討を見送っていたという

562 :
満祐=半沢
義教=大和田常務or浅野支店長
・・・ということで視聴率40%

563 :
>>537
京都仏教会理事長

564 :
高野山の本に赤松寺(赤松家菩提寺)は小寺氏黒田氏の庇護を受けた。とか。

赤松末裔で一番栄えたのは黒田なんだな。

565 :
赤松氏は悪党とか言われているけど、鎌倉時代には既に従五位の地位にはあったし。
鎌倉初期には北条氏とも姻戚関係にあり、梶原景時とも交流が深かった名家。
つまり、元々は関東出身の御家人な。
公家で活躍した他の村上源氏とは距離のある庶流だけど、
それなりの名家だったんだよ。

566 :
>>564
黒田は赤松の末裔じゃねえぞ。
赤松臣下の小寺氏のそのまた臣下。
しかも室津の室山城で婚儀を行っていた黒田官兵衛の妹と浦上清宗を
龍野城の赤松政秀が奇襲して殺害したという敵対関係にあった。
赤松末裔で明治維新まで栄えたのは久留米藩の有馬家のみ。

567 :
官兵衛の母親は播州明石氏だから、赤松と血はつながってるかも。

568 :
あさが来た

の加島屋が赤松末裔(家伝 大同生命文書)

569 :
去年発刊された「播国宍粟(しそう)郡広瀬宇野の史料と研究」で、近年発見された史料(鎌倉初期)を紹介している。
以前の論文で関東出身の御家人説を唱えていた研究家も「関東からの西遷御家人と推測した。これは見なおしの必要があるようだが
円心が御家人として鎌倉幕府の一員であったとの主旨はより確実性を増したと言える」
と書いている。

あともうひとつ、去年、渡辺達郎という人が書いた赤松氏の系図に関する論文
「赤松氏先祖のこと」がなかなか面白かった。

570 :
訂正

播国広瀬宇野氏〜
ではなく
播磨国広瀬宇野氏〜

571 :
>>566
官兵衛誕生地の候補の1つ、兵庫県西脇市の資料では、黒田氏は赤松則村(円
心)の弟の円光の子・重光が今の西脇市黒田庄町の中に領地をもらって黒田を
苗字にしたことになっています。

572 :
>>567
明石氏は明石国造の末裔との伝承。

573 :
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574 :
>>569に関して。赤松氏は関東出身の鎌倉幕府御家人ではないかと唱えていた研究者は
赤松円心の先祖とされる宇野則景の存在について、一次史料が見当たらず、あくまでも系図上の人物であって、実在したかどうか疑わしいとされて来た。
ところが近年、則景が鎌倉幕府の御家人であった事を示す鎌倉初期の史料が発見された事で
則景が実在した事がはっきりした。

宇野則景は(西国から)関東に下向後、北条義時の娘と婚姻関係を結び、源頼朝から佐用庄の地頭職を拝領したと伝わっている。

575 :
>>574
そういや佐用町の春哉という土地に北条氏の像が確か重文で存在するけど関係あるのか?

576 :
黒田も謎だよなあ。西脇説興味深い

577 :
高野山って本で黒田や有馬が赤松を祀ってるって書いてたな。

578 :
赤松則村が円心の法名を名乗った場所だからねえ
まさに赤松院の名前の由来でこれが元弘の乱直前の話
応仁の乱で赤松氏の追従した細川氏がその縁で細川家の菩提寺にもなっている
黒田や有馬が後世改めて赤松氏を祀ったわけではない

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580 :
>>574
宇野が鎌倉以来の名門と言うだけで、赤松が御家人出身というわけでもない。
赤松の先祖が宇野という前提が怪しい。

581 :
あけおめでございまする(´・ω・`)
今年も、JKの人気No.1の戦国期赤松氏を褒めちぎりましょう。

582 :
竹田城は天空の城として全国的に有名になったが、
ただの山城から現在に残る石垣の城に大改修した
赤松(斎村 )政広はメジャーになれないままで不憫だ。

竹田城が紹介される時は必ず山名氏が築城としか紹介されない・・・・・
山名が作ったのは今とは違うただの山城ですよ・・・・
今に残る大石垣の城は赤松が作ったんです・・・・

583 :
天空の城って言うから、どんなにすごい城かと期待して行ったけどガッカリだった。
城なのに城が無い。これには残念を通り越して呆れて笑っちゃったよ。
詐欺もいいとこだ。
城なんだからちゃんと城を建てろよ。
姫路城のは言うまでもなく、名古屋城よりも大きい城を山いっぱいに建てればいい。
それから、致命的な欠陥として、山の上は石を積んだ段差が多いので歩きにくい。
これは大きな欠陥なので早急に段差を無くせ。
客が歩きにくいなんて、たとえ城が建っても城とは言えない。
健康な大人でも歩きにくいのに、お年寄りや足腰が不自由な人のことを無視
するようでは城たりえない。
山の上にあれだけ土地が余ってるんだから、売店やレストランを建てて、
客がくつろげるようにするべきだ。
また、車道が狭くて危険なので、山をもっと削って道幅を広げないと。
これらの事が実現できれば、竹田城が有名になるばかりか、城としての価値
が高まり、市民、県民、そして日本国民が誇りに思える城になるに違いない。

584 :
本気で言ってるのか悩む

585 :
ツッコミポイントがいちいち細かすぎるのでわざとやってんだろ

586 :
足利義晴飼ってたんだよな

587 :
>>583
石の土台しかないよね。本当にガッカリだった。
しかも土台の石と石の間に隙間が多い手抜き工事だから余計にガッカリ。
かっこいい城を建てればいいのに。

588 :
真田信繁(幸村)の宿命のライバルは赤松則房をおいて他にいないんだぜ(´・ω・`)

589 :
↑黙れ小童ぁ!!

590 :
>>514
確か、有馬家は赤松の男系子孫
江戸時代に赤松範資の系統から養子が入って藩主になっていて、その後ずっと男系で続いていたと思う

591 :
いまは有馬記念に呼ばれることもなくなった有馬氏

592 :
>>583
エレベーターむき出しの名古屋城は最高ですよね!
今後のとれんでぃーは、名古屋を見習って「全国のお城のバリアフリー」です!

593 :
赤松好きは黒田大嫌い系?
播磨って大変だな。

594 :
唯一大河になったのに播磨の誰からも愛されない黒田哀れ。

595 :
>>591
子孫の功績で有馬記念って名前が残っているだけでも立派

596 :
黒田も有馬も福岡県。江戸時代、赤松は福岡県で生き延びた。

597 :
大同生命の本社でやってる広岡浅子展見て来た
加島屋の先祖が播磨赤松氏とか書いてあったな

598 :
赤松氏の末裔自称する家なら加古郡や加古川市にいっぱいいてるよ

599 :
兵庫県の一部の地域では赤松の末裔を名乗るところが多いんだ?
自分はいま関東住みで、曾祖父の代までは福島県の北会津に住んでいたのだけど
先祖が赤松と聞いているよ。
苗字は赤松じゃない。
前にも書いたけど、幕末まで修験道の寺と、村の神社の宮司をやっていた。
赤松満祐が将軍を暗殺しているから
その関係で逃げて来たのかと思っていたけど
最近家族に話を聞いたら
戦乱か何かで逃げているけど、将軍暗殺とは関係ないと話していた。
赤松範資の子で、将軍暗殺よりも昔の人。
家系図に「父子三人剃髪す」と書いてあり
親子三人で播磨から逃げ、ひとりは鎌倉に残り、二人は東北に行った。
そして修験道の寺を開いた。
修験者になった赤松の武将が亡くなった時
寺の近くの塚に埋葬した。
炭を敷いた檀の上に座らせて
遺体に甲冑を着せて、手に本人が使っていた大きな太刀を握らせたとずっと伝わっている。

600 :
wikiに載ってる光範、朝範、直頼、師範、則弘、則春、範実のどれか?

601 :
>>599のご先祖様は戦乱か何かで逃げているけど、
将軍暗殺とは絶対に関係ないんだぜ(´・ω・`)

602 :
>>600
>>599のご先祖様は将軍暗殺とは絶対に関係ないから、
詳しい話はできないんだぜ(´・ω・`)

603 :
>>600
範実。
家系図を見たのが10年以上前だからはっきりと覚えたていないけど「則実」になっていたような記憶が・・
兄から話を聞いたのが、子供の頃か若い頃、彦五郎を名乗っていて、円心の三男の則祐の養子にもなっている人との事。
ちなみに亡くなった父が昔、鎌倉に残った赤松の子孫と会っていると話していた。
代々鎌倉に住んでいるとか言う話。

604 :
置塩城の登山口にある櫃蔵神社の門は、置塩城の門だと聞いたのですが、
本当でしょうか?
ネットで検索しても、そういう情報が見つからないので確信が持てません。

神社なら門ではなくて鳥居でしょうし、並みの規模のお寺の門にしては高さが高いと思います。
置塩城の遺構で、馬に乗ったまま通れる高さになっているのでは?という気が
するのですが・・・

605 :
>>604
置塩城の遺構なら、自治体もそのことを宣伝したいでしょうから、説明板を
立てたり、Webページにに説明を掲載したりすると思います。
それが見当たらないので、自治体がその門が遺構だと認識していない可能性が高いです。

私は櫃蔵神社へ行ったことがあり、その門をくぐりました。
門の瓦に赤松氏の家紋が付いていたと記憶していますし、私も城門の遺構では
ないかと思いましたが・・・

606 :


607 :
まぁ、徳川は攻めたのが上田城で良かったわなぁ。
間違って置塩城攻めてたら江戸時代は無かったに違いないぜ(´・ω・`)

608 :
ホンマやな
深い洞察力に脱帽や

609 :
質問です。
江戸時代の旗本の有田氏は赤松朝範(朝則)に始まる在田(有田)氏の末裔でしょうか?

赤松範資の次男・朝範(朝則)から始まった在田(有田とも)氏は、
加西市の殿原城から勢力拡張ととともに河内城、多可町の野間城へと居城を
移り、北播磨一円に勢力を伸ばしましたが、定説では天正3年(1575)、新説で
は永禄12年(1570)に東播磨制圧を目指す別所氏により滅ぼされたことになっています。

ところが、
江戸時代の旗本の有田氏が赤松氏支流の在田(有田)氏の末裔であるという
情報をググっていて見つけました。
領地は神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町や川崎市などに点在していたようです。
多い時には2千石を領していたとか。
ググってみると、有田吉貞、吉久、貞吉、・・・、基敦?、貞勝、・・・
という名前が出てきました。
旗本有田氏は赤松一族で播磨の在田荘の出であるとのことです。
この旗本の有田氏は播磨の野間城の在田氏の子孫なのでしょうか?

通説では野間城の在田氏は滅亡したことになっていますが、
一説では、野間城の最後の城主・在田元長が別所氏に降伏した後に隠居した
という話があります。

610 :
宍粟、430年ぶりに黒田の殿様お里入りしたよ

611 :
調べて頂きたいのですが、赤松満祐の血筋が播州福崎で牛尾と姓を変え生き残ったと聞いたのですが…

612 :
最近、難しい話ばっかりだね(´・ω・`)

613 :
>>582
政広は秀吉によって龍野城から竹田城に追ん出され
せめてもの慰めに石垣作るぐらいしか楽しみがなかったという哀しいイメージしかないw

614 :
あくまでもイメージ どこぞの一人のなw

615 :
実は、真田信繁は置塩城に真田丸を作りたかったに違いないぜ(´・ω・`)

616 :
信繁はんの気持ちが分かるのはアンタ一人だけや アンタが大将

617 :
秀吉なき後の豊臣政権に則房がいれば、
家康の横暴を止めることができたのになぁ(´・ω・`)

618 :
ほんまほんま。則房さえ健在なら、家康はビビって天下を奪おうなんて思わなかったやろなぁ。

619 :
良く、天正初年頃の播磨は別所が20万石、小寺10万石、龍野赤松5万石って書いてあるけど
実際どんな物だったんかね?
それに黒田官兵衛の黒田家って、10万石程度の大名の家老ならせいぜい2000〜3000石って事
なんだろうか?
それじゃあ、城主とも言えんような身分の気がすんだよなあ?
それとも、この年代でも播磨は中世的雰囲気で、この程度の地侍がわらわらいたんだろうか?
なんか色々と謎ですよね。

620 :
城主に万石以上必要とかどこの江戸時代だよ
あちこちにちっこい城主様がいたのが戦国時代だろ

621 :
砦レベルの拠点でも城と称するのが戦国時代

622 :
北播磨の在田氏も忘れないで。

623 :
実は、柴咲コウは女戦国大名めしを演じたかったに違いないぜ(´・ω・`)

624 :
>>622
在田氏の関係者?子孫か何か?

625 :
実は、則房NHK大河の主役にならない理由は、密かにハリウッドデビューが
進行してるからに違いないぜ(´・ω・`)

626 :
小寺豊職
神璽奪回に活躍し、赤松再興に活躍した忠臣と言われる
でも、名前の豊の字は山名氏からもらったものだろうし、赤松滅亡後は普通に山名氏に仕えてたんだよね多分

627 :
赤松は将軍に尽くしたのに残念な末路だった

628 :
将軍殺してますやん

629 :
伏見宮貞成親王「このように犬死した将軍は古来から聞いた事がない」(看聞御記)

630 :
2〇〇〇い〇〇せい〇〇〇か〇まよ〇〇×だに〇〇〇だみんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
消えうせろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
まーおれのことじゃーないから気にならん
か〇〇〇げ〇みんなぁぁぁぁぁぁぁぁ
消えうせろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
まーおれのことじゃーないから気にならん
おどれがRみんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
消えうせろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
まーおれのことじゃーないから気にならん

631 :
>>629
伏見宮は日記に自業自得とまで書いてる。

632 :
>>626
小寺は赤松庶流って事らしいけど、いまいち良く分からんよね?
実はまったく関係無い奴だったりしないのかな?

633 :
西郷どんがどんなもんか知らんが、
西郷隆盛が置塩城を築くことができなかったことは確かなんだぜ。
その点、赤松の足元にも及ばないんだぜ(´・ω・`)

634 :
>>633
全然面白くないからもうレスしなくていいよキミ

635 :
>>634
じゃぁ、代わりにおまいさんが戦国期赤松氏を褒めちぎってくれよ。
他に誰ができるんだよ。

636 :
>>635
君、それなりの歳なんだろうけど書いてる事が幼稚だよな。まるで中学生だな
詰まらないし痛いから止めた方がいいよ

637 :
まことは、自演がバレた
普通なら、ここで遠慮するものである

が、この56歳ニートのばあい、ますますエスカレートするのである

638 :
わたしは東京の渋谷に住んでいる巨乳で処女の18才よ。
そんなわたしがいつも思うのは、戦国時代と言えばやっぱり赤松ってことね。
そして、城と言えば置塩城に決まってるわ。
JKはみんなそう思ってるに違いないわ。

639 :
>>638
嘘つけ
あんた女装した汚いオッサンだろ

640 :
>>632
系図的に言えば赤松氏の有力家臣や有力陪審の殆どが赤松氏の流れを組んでるよ。
だからか一族衆とは別に御一家衆なんていう家督相続権有する特別格の高い一族が定められてるし

641 :
>>611
福崎の牛尾氏は市川町に牛尾庄に牛尾氏という永良氏(赤松一族)の被官がいるからその流れじゃないかなー
牛尾といえば福崎町内でも一党形成している家だからそれなり古い家ではあるんだろうけど

642 :
まことは、オレ様の騙りらしきキャラを作って
一人で喧嘩自演をしている

643 :
それにしても過疎スレだな。
赤松に人気が無い理由はなんだろう?
みんなはなぜ赤松の素晴らしさに気づかない?

644 :
>525
福岡藩には斎村政広の子孫らしき斎村氏はいるんだが、
「剣聖十段」斎村五郎とつながるかどうかはわからない。

645 :
播磨は赤松の歴史

646 :
まぁ、「軍師官兵衛」の序盤に赤松と別所がちょこっと出てきたから、
赤松・別所ファンはそれで満足するしかないんじゃないかな。
「花の乱」は第1話の始まりが満祐の謀反からだったし。応仁の乱の1シーンで政則出てきたし。
別所は「秀吉」にも「おんな太閤記」にもチョイ役で出てきたし。
なんだかんだ言いながらも、赤松一族(別所含む)は恵まれているよ。

647 :
>>643
人気になる理由がない

648 :
そうだあった! 将軍殺しやってるじゃん赤松! 将軍殺しでブレイクだ!

649 :
赤松の末裔は久留米藩21万石として残ったんだから上等だな。

650 :
岡山の赤木家出です。祖父は先祖が赤松で足利尊氏に仕えていて、家から出て来た宝の地図を掘り起こしたら財宝と刀が出て来たと言っていました。家系図と財宝は見た事ありませんが、赤穂城にあるそうです。誰からの系列なのか解るかたおられますでしょうか。

651 :
今ネット検索したところ、
備中国(現岡山県)の赤木氏は、信濃国(現長野県)から移った一族で、
赤松氏の一族ではないようです。
しかし、赤松氏に従っているうちに血縁関係が出来た可能性があるかも知れません。
赤松氏の分家のそのまた分家くらいなら、それなりの地位でいたはずですが、
赤松氏の家系図には記されていないというような事が多くて、謎が謎を呼ぶという
ことがあります。

何しろ、嘉吉の変で本家が一旦滅んで、一族があちこちへ散り散りになりましたから。
さらに関ヶ原の戦いで西軍についてまた滅びました。
本家(播磨・置塩城→阿波・住吉城)1万石、分家(但馬・竹田城)2万石、
どちらも滅びましたが、歴史には残っていない親戚とかがいたはずです。
20万石の大大名になった有馬氏や旗本になった石野氏以外に。

私自身の昔のかすかな記憶では、「赤松一族の赤木さん」というのを苗字の本か何か
で読んだ気がします。

何か証拠になるものが見つかるといいですね。

652 :
婚姻関係は知らないが
備中国は赤松氏の領国じゃないから、備中赤木氏はそもそも赤松氏に従ったことはない

653 :
すいません、言葉足らずでした。
赤木家ですが(美作地方)何かで逃げた際に赤松から赤木に変えたらしいです。家系図には赤松とある様ですが、伝えてくれる世代と墓守どこまで信じて良いかも、わからずです。皆が口を揃えて言うのは足利尊氏に仕えていたものの子孫だと言う事だけです。
ちなみに祖父の家は使用人もいる屋敷だったそうです。

654 :
赤松を憚って赤木に変えたってのはすげー嘘くさいね
美作に実際にある地名を名乗ったんならいくらかそれらしいけど
時代にもよるけど赤松氏の宿敵である山名氏の根拠地に近い美作に逃げたってのがそもそも嘘っぽいけど
一応美作には春日部赤松家の所領があったけど。美作の何処かによるね。春日部赤松家の所領のあったところならまだ可能性は残るかな

655 :
赤松氏は、浦上政宗の息子、黒田識高の娘の結婚式を襲撃し、
浦上、黒田氏とも族滅したが、ただ一人生き残った黒田官兵衛により
関が原後復讐で皆殺しにされ、地球上から抹殺された。だから、
子孫は残っていない。

なお、現在日本に残っている赤松姓は、明治時代の平民苗字必称義務令で
生まれたのと、第2次大戦で創氏改名で生まれたのと両方あり、いずれも
守護大名赤松氏とは無関係。言うまでもなく在日率の高い姓。

656 :
結婚式襲撃皆殺し怖えええええええ

657 :
嘉吉の時に関東に逃れたのがいるんじゃなかったっけ?

658 :
>>657
色んな所に逃げた。東北にも赤松氏か逃げて来たんじゃないかっていう跡が残っているみたいだし。
上に、赤松氏は地球上から抹殺されて一切子孫は残っていないってあるけど、メチャクチャな事を書いている
日本の造船の父として明治から大正にかけて活躍し、貴族議員だった赤松則良、
江戸時代に旗本家だった石野氏(後に赤松に複姓)、久留米藩21万石の大大名で、戦前の伯爵家だった有馬氏も赤松氏の直系の末裔。
競馬の有馬記念は有名。有馬氏から来ている

659 :
東北とか関東のは正直なあ
逃げてきた可能性があるってのを逆手取った仮冒臭いのばかりな気が

660 :
がいしゅつですが、常陸国(茨城県)の手子生(てごまる)城の城主が赤松則実です。

661 :
美濃斎藤氏には赤松氏の血が入ってる

662 :
>>660
そう言えば常陸国の赤松氏について書かれた本もありました。本の名前は忘れたけど、検索しても色々出て来ますね

663 :
>>655
嘘をつくな
浦上は政宗・清宗父子は死んだけど、誠宗は生き延びたぞ。
黒田の場合は官兵衛の妹のみだし。生存説もあるし。
あと、職隆(職高)だぞ。
赤松が族滅しかけたのは嘉吉の乱〜1455年までだぞ

664 :
晴政と義祐の不和って
過去の流れから三好派の晴政と
現在の勢力的に尼子派の義祐の対立なんですかね
当時の三好対尼子の冷戦の最前線?

665 :
松ばやしが元々赤松ばやしから来ていたのにはちょっと驚いた

666 :
俺もお父さんと不和だった。
高校出てからずっと別居してたのもあるけれど、
仲直りできないまま父が他界しました。
「親孝行 したい頃には 親はなし」
ごめんなさい。

667 :
うーん。
ここにも詳しい人いないか…。
当時の尼子の東征が
「三好を牽制する為に義輝が望んだ(それ故の守護職大盤振る舞い)」
みたいな構図を最近知って
それを踏まえて考えるとこの「三好VS尼子」の最前線が播磨になって
戦国期によくある家中がA派B派に分かれるってのが
晴政と義祐の分裂抗争と考えると新たな視界が開けるんだけど
そこんとこそのものずばりの論説が書籍でもネットでも見つからないんだよね

668 :
赤松の元々の根城は佐用だったよな
播州といっても岡山に近い相当辺鄙なとこか
と考えると、播州制覇だけでも凄いのに、近隣数カ国とは凄い出世だ

669 :
円心が播備作を斬り従えたわけでなく
室町幕府創世の褒美としての三国(一瞬、摂津も含め四国)守護だから

670 :
従三位になった赤松の奇跡。従三位ってただの男に与えませんもん

671 :
満祐の弟?は播磨を脱出して九州少弐氏を頼り、はては朝鮮でも一旗あげたそうではござらぬか。

672 :
>>667
そんな大きい話ではない。尼子はもう当時撤兵している。
家中の主導権争い。
晴政を推す龍野赤松氏ら対して義祐、小寺氏のクーデター。
一説では義祐の弟である政祐が赤松春日部家、永良家を継承したことなどから兄弟間の軋轢からとも
春日部家、永良家はどちらも惣領家を継承できる格にある上、政祐は晴政政権下では重要な軍事力を担っていたことを思えば嫡子であった義祐は危機感もあっただろう

673 :
>>668
赤松は、商人的性格の強い武装勢力が元って説が有るらしい。
治安悪いから、大規模な交易やる商人は用心棒軍団を雇ってたんだし。

674 :
楠のような悪党みたいな感じ?

675 :
>>674
元々悪党説が言われてたけど
途中から関東御家人説が唱えられらけど……
出自に関してはあまり詳しくないけどなんとなく関東御家人説のほうが有力だった気がする……

676 :
>>654
赤木性に変えた可能性はあるけど領国である美作に逃げたってのは違和感ある。
美作は赤松春日部家の所領もあるけどむしろ赤松上野家の本拠。赤松上野家の分家とかならわんちゃん……
赤松春日部家の分家は伊豆、剣持、塩田、稲田とあとなんか1つあったと思うが覚えてないが赤木ではなかった筈。

戦前戦後位まで使用人を抱えてた家くらいなら中小地主でも普通にありえるから武家由来ではない可能性も。それこそ大庄屋だとか家ではコメを作ってないけど莫大な小作米が舞い込むような大地主なら武家由来だろうけども

677 :
>>672
おお!
詳しくありがとう!
晴政がかつて阿波三好を頼って播磨落ちからの帰還やってたり
浦上兄弟が親尼子と反尼子で割れてたりだったんで
晴政と義祐も?と思ったんだが。
お話の辺りに詳しい書籍やサイトってございます?

>惣領家を継承できる格
赤松はがっちり嫡流となってないから
この辺がどうしても難しくなっていきますよね。

678 :
>>675
御家人説が有力みたいだけど、出自が関東かというと異を唱える研究者も結構いるような
赤松氏の祖先と伝わる宇野則景に関する史料が存在しないので、関東御家人説を唱える研究者の間で、この人物は実在しないのではないかと言われていたけど、何年か前、この宇野則景が実在し、播磨の鎌倉幕府御家人だった事を証明する史料が発見された
宇野則景と赤松氏、赤松円心との関係は確定的なものは出ていないようだけど
存在しないのではないかと言われていた人物の史料が出て来た意味は大きい
関東御家人説を唱えていた研究者も「関東御家人説は見直さなければならないかも知れない」と書いている

679 :
軍記物には宇野則景が関東に「下向」し手柄を立て、源頼朝から播磨に地頭職を賜ったと言う記述があるので、上に書いた史料の発見はこの内容の裏付けになる可能性があるし、則景が赤松円心の先祖と言う事になれば、円心が御家人だった可能性がより強まる
実際に円心が御家人だった事を示唆する史料もある

680 :
>>677

置塩城発掘調査報告書内収録の 依藤保「播磨置塩城主赤松氏の動向」
渡辺大門『戦国・織豊期 赤松氏権力構造』岩田書院、2014
あたりが比較的詳しいかと。

格云々については『赤松家風条々録』という史料からわかっている一族分類で
そのうちの播磨殿(赤松大河内家)なんかは惣領家の家督を狙って何度か蜂起し成敗されているし
義村の養子入り前には赤松家臣団は政則が敗戦からの生死不明に陥った際、新当主として有馬殿から人を迎えようとしてたりも。
実際義村自身も七条殿出身であるし。

把握しているサイトだとふーむ氏運営の「落穂ひろい」というサイトが比較的戦国期赤松氏に詳しいサイトかと思います。
赤松以外にも浦上氏関連も詳しいです。運営されてる方は研究者なので情報自体ある程度信が置けるかと思います。

681 :
>>680
重ね重ねありがとうございます。
渡辺大門氏はとりあえず漁ってたのですが、依藤保氏はまだ手付かずだったので手を付けてみます。
「落穂ひろい」は少し覗いたんですが濃厚ですねw
こちらも熟読させて頂きます。
当方、岡山者で故に宇喜多を掘り下げてたんですが、そうなるとどうしても浦上が絡み、浦上を知るためには赤松がと泥沼ですw

赤松に限らず嫡流がしっかり繋がらないとどこも衰退してしまいますね。
足利しかり三管領しかり近くでは三好も。
養子となるとどうしても派閥がそれぞれを担ぎ出し。
政則が男子を持てれれば妻は洞松院だし、嫡流の柱をしっかり固めれたんでしょうが。
そうなれば則宗、村宗という梟雄も押さえれたのかも。

682 :
>>679
は、
「播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究」
より。

683 :
>>679
>>678
のレスは
>>682
を読んでのレス

684 :
>>682
情報感謝です。
購入したいと思います。

685 :
>>681
岡山の方でしたか
でしたら図書館に年報赤松氏研究が置いてあるかもしれないですね。
あれ美作大学の関係での出版なのでどの程度置いてあるかわからないですが

686 :
>>684

年報赤松氏研究置いてありました。
ただ持ち出し禁なんで今度時間が取れたときにゆっくり読みたいと思います。
「備前(美作)の赤松」はあまり印象なかったのですが
踏み込んで行くと、さすが御館様の痕跡が随所にあり興味深いです。

687 :
年報赤松氏研究にせよ論集赤松氏・宇喜多氏の研究よ
また再開という訳にはいかないのかね

688 :
保守

689 :
良すれ

690 :
保守

691 :
保守

692 :


693 :2020/04/19
保守

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