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☆無我なのか真我なのか☆


1 :2017/02/19 〜 最終レス :2019/05/05
自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう

2 :
結論もう出てるでしょ

3 :
>>2
DOCHI?!

4 :
DOCHIMO!

5 :
>>4
DOYUKOTO!?

6 :
MUGATOSHINGA
DOCHIMO
ONAJIIMI

7 :
とりあえず、無我と真我の定義は???

8 :
無我と真我は、こう理解すると分かりやすいです

無我≠自我
自我≠真我
無我=真我

仏教が「空」と語る「我」は無常である色受想行識の五蘊によって生じる、通常我々が「私」と信じている、仮初めの自我についてです
諸法無我です

では一方で、何が真に「ある」と言えるのか、と問えば

では凡夫が「ある」と思っているものが「無い」とすれば、真に「ある」ものは何かといえば、真如、法界、法性です

真如は「あるがまま」みたいな意味です
「あるがまま」は「ある」といっても、それは凡夫をそのままで容認する、という意味ではありません

全てには原因があります
悟りの状態の原因は「種」として我々の中に気付かれず微睡んでいます
その種を育てた後に得られる状態が真如なのでしょう

この真如の状態が仮初めの自我ではなく、本当の真我=無我の状態です

「一切皆空」は、実は裏をかえせば「諸法実相」という肯定的な思想に転じます

9 :
まぁ、ようするに一つの真理を二つの側面から語った時に、無我や真我という形になる、というだけの話やね

10 :
五蘊無我

11 :
五蘊無我。
五蘊は無我。
五蘊”は”無我。

涅槃は無記。

12 :
無我=真我に語弊があるなら↓でもいいで
意味は変わらん

無我⇒真我

13 :
ヤージュニャヴァルキヤは、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』など初期のウパニシャッド(奥義書)に登場する。
彼の哲学の中心はアートマン(真我)論である。
彼によれば、この世界はすべてアートマンにほかならない。
それは唯一のものである。
しかし一方では、アートマンは純粋な意味で認識の主体にほかならないのであるから、決して対象にはなりえない。
したがってそれは把握することも表現することも究極的には不可能であることを示し、アートマンは「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)としか言いようのないことを説いた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A4


 実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
 マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。

15. いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。

しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。

この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。

この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは捉えることができない。
捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm


アートマンとはいわば世界、人間、被造物の網の目をなす糸であり、万物の内制者だ。
それは認識の主体として万物に内在している。

私たちはアートマンによって初めて何かを認識することができるのだから、それが何であるかを認識することはできない。
アートマンとは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」なのだ。

アートマンが何であるかを言い当てることはできない。それはただ「非ず、非ず(neti, neti)」としか表現することができないのだ。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-upanishads/

14 :
アートマンというのは認識の主体であるから捉えることはできない。
捉えることができるのは認識の客体であり五蘊は認識の客体認識の当たる。

アートマンが世界の全てでありまたアートマンは万物に内在している、というのは密教の大日如来と如来蔵の関係と類似している。
密教がヒンドゥー教を取り込んだことによる。
一方で仏教の方でも釈迦のバラモン教を取り込んでいるのは、「非ず非ず」と「我(I am)ではない我が所有(mine)ではない我が本体(myself)ではない」の類似性からも見て取れる。

15 :
五蘊は認識の客体に当たる。

16 :
>>13-15
あなたはよく勉強されていますね。
専門家の人なのでしょうか?

17 :
>>16
いや、真言密教の修学をしている内にインド哲学にも興味を持ったので、趣味で本やネットで軽く文献に当たっている程度ですよ。

ちなみに混乱しがちなのが真我とブラフマンとアートマンの関係だけど、
古典的梵我一如論ではブラフマンとアートマンは一如なのでどちらも真我、
唯識の影響があるジャンカラの不二一元論でもブラフマン=アートマンで不二一元であってどちらも真我であり、
それ以外の一切は真我が創り出したマーヤ(幻影)であり実在ではないとする。

密教だとブラフマンは大日如来、人間を含む諸法は大日如来の現れ、アートマンは如来蔵と考えると、一元論であると分かる。
密教の場合はそれよりも、怒りや欲望を公憤や大欲に変えることが教義として第一だろうけど(一切の有情には如来蔵があるのでそれは可能であるとする)。

また真我=プルシャとするのにも色々あって、サンキャ派だとプルシャ(真我)とプラクリティ(それ以外)の二元論となる。

どの宗派か分からないがある?ヴェーダ(それともほぼ全ての宗派か?)では五蘊はムーラ・プラクリティである。
http://vedacenter.jugem.jp/?eid=1044748

仏教ではアートマンはともかくブラフマンについては人格神梵天という形式でしか用いないので、
アートマンや真我について一元か二元かという問題は問われない様子。
ただ、迷悟、苦苦滅、煩悩菩提、生死涅槃を対立させる小乗仏教は二元、不二や即として一如とし空と見做す大乗仏教は一元と言えるでしょう。
大乗仏教では空を涅槃と同一視して真我のように基台視することもあれば(中観)、
全ては阿弥陀仏に帰するとか大日如来の現れであるとか、そういった基台を想定しての一元論にする傾向もある。

長文失礼

18 :
アートマン
あーとまん
tman

「個体の本質」を示すインド哲学の術語。
「我(が)」と訳される。
原義については諸説あって一定しないが、『リグ・ベーダ』以後の文献においてしだいに哲学的意義を帯びるようになり、
ブラーフマナ文献を経て、生気(プラーナ)、意(マナス)、言葉(バーチュ)などの精神原理を超え、
個体を統一する普遍的な最高実在を示す語としての位置を得た。
ウパニシャッド文献において、宇宙の最高原理ブラフマンとの同一が説かれ、梵我一如(ぼんがいちにょ)思想が唱えられた。
以後、アートマンは、インド哲学諸学派によって種々に考察され、
ニヤーヤ学派、バイシェーシカ学派では、その実在性の論証に意を払い、
ベーダーンタ学派では、ウパニシャッド思想を継承して梵我一如思想を強調した。
仏教は、無我説を主張する。[松本照敬]
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3-26227

こう見ると仏教は古代インド哲学の一学派という位置づけになるな

19 :
アートマンって唯識の阿頼耶識と同じって理解でいいんですかね
アートマンは真我ですが、阿頼耶識はあくまでも識なので少しだけニュアンスが違うような気がしますが

20 :
まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、安泰であり、ブラフマンである(『ブリハッド 4:4:25』)。
http://sugano.us/butu/muga-0.htm

アートマン・ブラフマンは不滅で常住だが
阿頼耶識は無常で無自性で変化し続ける
だからアートマン・ブラフマンと阿頼耶識は違う
もっとも全てはアートマン・ブラフマンに帰属するというバラモン教の観点に立てば阿頼耶識もアートマン・ブラフマンの一部であるという表現は出来ると思う

ここに詳しく書いてあるよ
http://www.homyou.hello-work.jp/ron39.html

21 :
【大日如来】

「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」という如来の一尊。
摩訶毘盧遮那如来(まかびるしゃなにょらい)、大光明遍照(だいこうみょうへんじょう)とも呼ばれる。
なお、宇宙とはあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、および宇宙空間を指す。
大日如来は、無限宇宙に周遍する点では超越者だが、万物と共に在る点では内在者である。
全一者であり、万物を生成化育することで自己を現成し、如来の広大無辺な慈悲は万物の上に光被してやまないとされる。
三世(過去・現在・未来、前世・現世・来世)にわたって常に説法しているとも説かれる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5

>大日如来は、
>無限宇宙に周遍する点では超越者だが、→ブラフマン
>万物と共に在る点では内在者である。→アートマン

真言宗の僧侶は三密の行により大日如来と合一し即身成仏する。
なお、大日如来は人界に現れる時は化身の不動明王となって現れる模様。

22 :
>>20
参考サイト、とても詳しく書かれててよいですね
1点気になることが

↓で仏陀はアートマンに関して無記と述べている。

http://sugano.us/butu/muga-0.htm

仏陀はキリストがパリサイ派を批判するように、アートマンマンセーな当時の風潮を批判して、逆にエゴエゴになっとるがな、それよりおまい自身を見てみろよ、やることあるだろ、ってな文脈で、
非常にプラクリティカルな視点で、語りうる、誰でも観察しうる物事を足場に、この世の自我を無常である、と解体してゆく方法論をとっただけなのではないのか、と個人的には思いました

一方で上位ページの後半では結局はアートマンは否定されています

>永遠不変の実在という概念は、ものが原因と
>条件から生起変滅することを否定するものだからである。

様々な神秘主義はテオーシス(神人合一)を語ります
結局は「一」に収束されますが、神人合一までは、「より普遍」みたいな比較でしか語れないのは分かりますが、とは言え永遠不変との連続性はあり、近づくわけだよなー、と思います
その意味でも、仏陀の無我は当時の風潮に対する方法論でしかないと思うし、無我が誤解されているからこそ、仏教徒は涅槃に消えた後の仏陀の足取りを追えないのではないか、と思います

23 :
如来(修行完成者)の滅後については毒矢の喩えでは無記としそれよりも毒矢を抜くための修行をせよと説いているけど、
スッタニパータのウパシーヴァ経では少し踏み込んで学生ウパシーヴァに解説していて

http://suttanipata.com/acyaafaafafaaea/
>ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。
>かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
>あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。

と如来には測る基準が存在しないことを説いているね。
これは解脱者については測る基準がないということだけど、測る基準がないから滅後の議論の道もないということだと思う。

さらに中部経典のヴァッチャ火経には何故測る基準がないのか仏説として書いてあるけど
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/62268074.html?__ysp=44O044Kh44OD44OB44Oj57WM
五蘊を草や薪、修行者を火に喩えて、草や薪が尽きれば(煩悩の)火が消えるように、
(煩悩の因となる)五蘊は如来には捨てられているので五蘊で如来を認識しようとする者には如来は認識できない、と言ってるのだと思う。

しかし、五蘊への囚われを捨てた如来の「大海のように深く、無量であり、底が知られない。」とは何なのかという疑問は残る。
ヴァッチャは聡明だからそれを意に介さずにブッダに帰依したのだろうけど、凡夫の自分にはすんなりと納得は出来ないw
blogのコメントにはそれこそアートマン・ブラフマンであるとバラモン教からは言われるでしょうね、と書いてあるけど、自分もそう思うw
ただブッダは非ず非ずでしか捉えられないアートマンを何とか掴もうと頑張ってみたが結局掴めなくてアートマンについてあるともないとも語るのをやめたんではないかと穿ってみたりww

個人的にはアートマンのような永遠のものを信じた方が苦悩からは解放されやすくなるし、だからこそ仏教以外では何かしら永遠の存在を認めてるのだと思う。
仏教でも永遠のニルバーナという表現はよくされてるけどね。
でもニルバーナもアートマン同様に信じるか信じないかなんだよね、個人的には。

24 :
>>23
>個人的にはアートマンのような永遠のものを信じた方が苦悩からは解放されやすくなるし、だからこそ仏教以外では何かしら永遠の存在を認めてるのだと思う。

そうかな。むしろアートマンとか無我みたいな「跳躍」があるせいで、凡夫は思考停止になるような気がしてます

仏陀がレベルを凡夫に合わせてアートマンや無我までの道筋を整備したのは正しいように思われる

一方で無我もジャンクな思想に成り果てて、凡夫があーでもない、こーでもない語り、釈迦が生きていた時のアートマンと同様の害悪を生んでいる、とも思うが

25 :
>>24
>そうかな。むしろアートマンとか無我みたいな「跳躍」があるせいで、凡夫は思考停止になるような気がしてます

死後の不安とか苦しみから解き放たれたいというのが宗教の起こり。
仮に思考停止していたとして、思考停止が凡夫の苦しみを助長させているのならともかく、
死後の不安や苦しみからの解放への満足からの思考停止だったら問題はない。

26 :
>>25
>死後の不安とか苦しみから解き放たれたいというのが宗教の起こり。

これ、本当ですか?

27 :
宗教の起源

有史以前の宗教の証拠

ホモ・サピエンス以前の宗教的行為の証拠は明確ではない。
宗教的な思考のもっとも初期の証拠は死者の儀式的な埋葬である。
大部分の動物は同種個体の死にさりげない関心を向けるのみである。
したがって人間の死へのこだわりはユニークである[11]。
儀式的埋葬は人間行動の進化において重要だと考えられている。
儀式的埋葬は生と死の認識、来世や死後の生命の信念を意味している。
(以下略
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90

ちなみにネアンデルタール人も遺体に花を添えて埋葬していたという説が有力。

28 :
>>27
いや、そういう意味ではなく、宗教の根源を物的証拠によってのみ探求する学問を宗教に適応するのはカテゴリーエラーなんじゃないですか?
一般論の話なら別にいいですが、今は一般論の話をしてるわけじゃあないので

29 :
>>28
死後の不安とか苦しみから解き放たれたいというのが宗教の起こり。
仮に思考停止していたとして、思考停止が凡夫の苦しみを助長させているのならともかく、
死後の不安や苦しみからの解放への満足からの思考停止だったら問題はない。

30 :
>>29
私が知ってる限りは、神的世界に関する知覚能力を人類が失ったことが宗教の始まりですけどね
一部のまだ形而上学的事柄を知覚できる人から啓示をもらうしかなくなってから

31 :
>>30
ブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、「一切」とはなにか、次のように教えたと記述されています。

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。
よく聞いて下さい。
「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故でしょうか。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
http://sugano.us/butu/muga-0.htm

なるほど、ブッダも神的世界に関する知覚能力はないね。
それで仏教が始まったと。

32 :
>>31
一切とは、三科(五蘊、十二処、十八界)のこと。
一切は無常であり、苦であり、無我。

涅槃はそこからの解脱。
言語で表現できないものとして無記。

33 :
仏道は極端や決めつけ(断見と常見)を排した中道。

あると決めつけるのも思い込みによる決めつけだし、
ないと決めつけるのも思い込みによる決めつけ。

そして、>>31の解釈は断見。

34 :
宗教には、大きく二種類に大別できる。
妄想や迷信の類と、真実。
前者は、人間が考えて(頭のなかに)生みだした思考概念に過ぎない。
後者は、人間自我の枠組みのそとにあるもの。

人智を超えた真実は、人間自我のなかには生じない。
それは自我のそとにある。

35 :
実は、宗教を批判する人の宗教観というものも、実は思考概念にすぎず
頭のなかに生みだされた妄想でしかない。

36 :
そして彼は科学を信仰している。
たいてい、唯物論が前提になっている。
そして、我が身が自分だと思っているだろうな(有身見)。

37 :
>>33
それは>>30にいう言葉だろう

38 :
>>34
「それは自我のそとにある。」と言っているのが自我なのだから
ナンセンスになってしまうでしょう。

39 :
>>34
>宗教には、大きく二種類に大別できる。
>妄想や迷信の類と、真実。
>前者は、人間が考えて(頭のなかに)生みだした思考概念に過ぎない。
>後者は、人間自我の枠組みのそとにあるもの。
>人智を超えた真実は、人間自我のなかには生じない。
>それは自我のそとにある。

そういうのを自説という。
ま、押し付けなければ自説を述べるのは勝手だが。

40 :
あるかないか分からないものについて、あると決めつけるのは常見。
あるかないか分からないものについて、ないと決めつけるのは断見。

あるかないか見て確かめて、ないと確認したものについて、ないと言うのは中道。
あるかないか見て確かめて、あると確認したものについて、あると言うのは中道。

41 :
瞑想は、精神現象を対象とした観察。
観察に基づいて、あるものはあると言えるし、ないものはないと言える。
仏教の方法論は、実は自然科学と矛盾していない。

違いは、近代科学が観察対象を物質のみに限定している(物質還元主義)
のに対して、仏教の瞑想は、精神現象と身体現象(名色)を対象としている点。

42 :
仏教について、頭で考えた概念だけで理解しようとする人たちは、
上記の点をまったく分かっていない。

仏教の実践者たちは、自然科学と同じ観点で仏教を語っているのに、
批判者の多くは文学の観点、したがって妄想概念を批評する観点で
ものを言っている。

43 :
>>40
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は「比丘たちよ」と呼ばせたまい、彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、つぎのようの説いて仰せられた。
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。
それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。
比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、
それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。
何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html

さてはて、涅槃とはありもしないものなのか?
それとも涅槃とは一切の外であるとブッダが明確に言ってるのか?

44 :
自我そのものが、そもそも錯覚なのに
錯覚であるところの自我が頭で色々考えて、その頭のなかの妄想概念を
こねこねしているに過ぎない。

それは、巷に溢れる迷信の宗教と何も変わらない。

45 :
>>40
断見と常見というのは死後の霊的主体についてのことではなかったかな?

だから、「あるかないか見て確かめて」などいうことは不可能ですよ。

>>44
それはあなた自身が言っていることにもそのままあてはまるのですよ。

46 :
一切は無常であり、苦であり、無我。
われわれの考える一切のものは無我。
いま貴方が考えている、その思考も無我。

釈尊が説いた四諦は、苦諦、集諦、滅諦、道諦。
無常であり、苦であり、無我である一切から解脱する道を説いたのが、
お釈迦さまの四諦八正道。

仏教は、ただの断滅論ではない。

47 :
五蘊が自我だけど、自我である五蘊を生みだしている諸現象は観察で確かめられますよ。
その手法が止観の禅ですから。

48 :
>>46のレスも無常であり苦であり無我、よって却下。

49 :
言葉を発するのは、常に身体ですから、そこには必ず自我が介在します。
瞑想が三昧の域に達すると、自我は消えてしまいますが、しかし、話をする時は
自我が話さざるを得ません。

だから、瞑想から見えてくる真実について、話を聞いている方は、
常に誰かの自我が無我について話す光景をみる羽目になるのです。

こうした事情があるので、禅僧は禅について聞かれても、あまり外で話を
したがらないのだと思います。

50 :
ID:Xo9QHM9Mさんはまだ仏教というものが分かっておらんね。
そんな仏教の教科書に書いてあるようなことで説明がつくのなら、
大乗仏教は必要ないのですよ。

51 :
わたしは自身の瞑想体験に基づいて話をしています。
経典は、あとから読んで、やっぱりそうなのかと確認するような形です。

本で読んだ知識を話していると思っているのかもしれませんが、それは
聞き手の勝手な思い込みに過ぎません。
聞き手の自我に、思い込みのフィルターがかかっているだけです。

52 :
瞑想でみえてくる、人智を超えた真実は、智慧と呼ばれているものです。
この智慧は無分別智ですから、分別智である言葉や思考で表せるものではありません。
話されたものは、あくまで智慧についての間接的な表現でしかありません。

また、智慧は体験智ですから、学問や思弁による概念智では、智慧そのものを
知ることはできないのです。

53 :
>>51
私も自身の瞑想体験に基づいて話をしていますよ。
あなたもあなたのフィルターで人の話を聞いていることに気付くことが大切でしょう。

54 :
>>51
ほう、ではその瞑想の体験を自我でも無我でもなんでも良いから語ってごらん。
どんな体験をしてそれがどの経典の内容と一致したのかを。

55 :
概念智で体験智を批評しようとしても、前提が噛み合っていないので、エラーにしかなりません。

56 :
>>55
そうか、では話は終わりだ。
自説展開お疲れ様。

57 :
>>54
そんな義務はないので、お断りします。

58 :
>>57
いや、俺との話は終わりだということだ。
後は勝手にどうぞ。

59 :
自分の境地を誇りたいような気持ちがあるようでは、どんなに深い瞑想体験をしても
空しいものです。智慧は苦しんでいる人を助けるときにだけ発揮すればよいのです。
それ以外のときは石ころでいいのです。もともと何もないのですから。

60 :
>>47
何故観察で確かめられるのか?
それは観察する主体があるから
その主体こそがアートマン(>>13)つまり真我

61 :
>>59
自分の境地を誇りたいというより、仏教に執着しているんだと思います。
正法としての仏教が世間に広まって欲しい、という執着です。

62 :
ひどいなーw
まさに↓じゃないかw

>無我もジャンクな思想に成り果てて、凡夫があーでもない、こーでもない語り、釈迦が生きていた時のアートマンと同様の害悪を生んでいる

63 :
>>8
深層心理学の言葉で、自我、自己、身体、魂みたいなのがあるけど、これで無我、真我を説明するとどうなります?

64 :
>>63
いくら言葉で説明しようともそれは分別智で世俗諦であり勝義の真理ではありません。
真理は言葉では表現できないので誰にも教えることはできないのです。
己の自我をもって自我に属する言葉では説明できないのです。
正法としての仏法では、自分自身で瞑想して言語で示される世界を超えた無分別智の世界に入って無我や真我を観察するのです。
金星の表面を観察しようと思ったら天体望遠鏡なり探査機なりで観察するでしょう。
真理を観察するときには瞑想で観察するのです。
言葉の壁は瞑想で超えるのです。

65 :
>>63深層心理学に、自我、自己、身体、魂みじゃと?!

聞いたことがないのう

66 :
また、まことのデマか?!
こういうとき、1割5分の確率で本当だったりする

67 :
初めに言葉(ロゴス)があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった。
言葉のうちに命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は、光を理解しなかった。      
 (ヨハネ福音書 1:1〜1:5 )

言葉(ロゴス)こそが絶対真我ブラフマンです
言葉のうちにある命がアートマンです

68 :
結局、デマだったわけかwwww

69 :
>>63
トランスパーソナルとかが多分定義してると思うよ
ケンウィルバーとかのモデルを調べてみたらいかがでけうか?

ユングとかだと集合的無意識の「セルフ」が真我にあたるんかな

70 :
マズローの自己実現はユングの個性化で
その先にあるのがマズローの自己超越でユングのセルフでもあるのかな
自己超越からは宗教の領域でつね

71 :
帰納法的に考えると、世界の至る所にある神秘主義を始めとしたガチ宗教は一との合一、テオーシスを志向してて、それは仏教の真如とも等しい考え方で、さらに心理学も同様の事を語るわけだ

ユングは自我と自己の差異を語る
自我は仮初め(幻想)の我で、セルフから生じている

これも自我が無我であり、有と無の二元論を超えた有としての真如が真我に対応するのだと思うわ

72 :
ユング的には、凝り固まった自我ではなく、
自己に開かれた自我を求めてるんだよね?

で、はてはて、本来的なあるがままのはずの自己とは、どんなものなんだろう?

社会化される以前の赤ちゃんの意識に近い?

73 :
>>64
瞑想以外には手がないの?

>>69
調べてみるよ

74 :
仏教における諸概念と心理学上の概念を比較するのは無意味でしょう。
前者は悟りの体験から生まれたものであり、後者は知識人が頭で想像
したものなのですから。

75 :
↑こういうこという椰子がいるわけだよな
だから仏陀はアートマンに無記の姿勢を貫いたんだろうな

76 :
心理学上の概念をいくら追求したところで、何らかの体系的理解を得て
分かったような気になるだけで、何の実存的問題が解決される訳でもはありません。
宗教上の概念は中観や唯識の研究中に悟りが現われることがあるように、追求する者
の意識を変容させる力があります。当然なのですが、似て非なるものということです。

77 :
なんか、凄くカテゴリーエラーなこと語ってるね
ようは「行」の要素がないことが不満なの?

78 :
>>73
>瞑想以外には手がないの?

合一
梵我一如は瞑想で達成するが熱烈なる帰依(バクティ)でも智に到達できるみたいよ
あなたは神を信じますか?


必要なことはただひとつ、神を知ることだ。
なぜあなたは、世界、宇宙の創造、科学などというものに首をつっこんで、 人生を無駄にしてしまうのだろうか。
あなたの仕事はマンゴ−を食べることだ。
マンゴ−林に何百本の木があり、何万本の枝があり、 何百万の葉があるかなどということを知る必要はない。
あなたは、マンゴ−林にマンゴ−を食べるために行く。 行って、それを食べなさい。
人はこの世に、神を知るために生まれる。
ほかのことに心を奪われて、それを忘れてはいけない。
あなたはマンゴ−を食べるためにやってきた。
まっすぐそこに行って、マンゴ−を食べなさい。
そして、「幸せ」になりなさい。
(ラーマクリシュナ)

79 :
>>77
「行」は何の関係もありません。
仏教の「悟り」の体験から生まれた概念には、学ぶ者を悟らせようという意図が含まれて
いるのです。ですから、中観思想や唯識思想のように、それを頭で学ぶだけで「悟り」が
現われることが多いのです。「悟り」を知らない学者が頭で考えた概念とは表面的に似て
いても全く異なるものなのです。

80 :
>>79
うん、だからカテゴリーエラーだよね
純粋な評論本に絵画の実践方法が記載されてないから腹を立てるようなもんだ

81 :
>>80
貴方がまだ宗教・仏教というものがわかっていないということです。
一生空しい議論をしていたい人はそれでよいでしょう。

82 :
>>81
水族館に行って刺身が出ないことに腹を立ててる人みたい

83 :
ブラフマンとは宇宙の真理であり アートマンとは自我の魂であるとするのがヒンドゥ教である。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)が合一することを梵我一如(ぼんがいちにょ)とするのであるが 
自我を無と為(な)して大宇宙の一部となり 自分の中に大宇宙を取り込むことを解脱とも言う。
例えば 大海の中に塩で作った人形を入れるとする。
当然ではあるが塩は水に溶けて流れ出し 大海の一部と化す。
海には塩分があり 塩人形は自然に海に合一すると考えるのが梵我一如である。
座禅も同じであろう。只管(しかん)に打座(だざ)し無となる境地 これが梵我一如である。
鎌倉時代に一世を風靡した踊り念仏 それを始めた一遍上人も同じ考えであった。
衆生は全て阿弥陀如来の誓願により 極楽往生は決定しているとし その計らいに対する喜びを踊りで表現したのである。
無我夢中で踊り狂えば一種のトランス状態に陥り 煩悩多き個体が無と化して大宇宙に帰一すると考えたのである。
「唱うれば我も仏も無かりけり」の心境であろう。

神道で言う巫(かんなぎ)も同じである。
祝(ほうり)とも言うが神に仕え雅楽(がらく)を奉じ 神降ろしをする意味を持つ巫は表形文字である。
T字型の木型を人が2人でギッコンバッタンを繰り返すうちにトランス状態に陥り 神懸(かみが)かりなって託宣を告げる。
或いは憑依して神に替わって指令を下すのである。
この神職を務めたのが卑弥呼であり日巫子(ひみこ)とも書く。
即ち 梵我一如を達成した人間が大宇宙を司どる神の心中に入り そのご託宣を承って告げるのである。
その意味を考えればモーゼ、ノア、キリスト、ムハンマドたち一神教の預言者も 神の言葉を承るには梵我一如となる修行を積んだのであろう。
http://ameblo.jp/nobuyuki22/entry-11288237388.html

84 :
>>83
と紹介したブログには書いてあるけど
一遍上人の合一は踊り念仏以前に念仏を唱える時に既に合一されてるね

梵は阿弥陀仏
我は念仏を唱える衆生の阿弥陀仏への念

一遍『十一不二頌』
十劫正覚衆生界(じっこうしょうがくしゅじょうかい)
一念往生弥陀国(いちねんおうじょうみだこく)
十一不二証無生(じゅういちふにしょうむしょう)
国界平等坐大会(こっかいびょうどうざだいえ)

(意味)
十劫の昔、阿弥陀仏は、仏となる前の法蔵菩薩の時代に、すべての衆生が救われなければ私も成仏しないと誓いをたて、その誓いが叶って正覚し成仏した。
だから、衆生は一たび阿弥陀仏の名を念ずれば救われて弥陀国(極楽浄土)へ往生できる。
十劫の昔、法蔵菩薩が仏になったことと、現在の衆生が一回の念仏で極楽往生するのは同時である。
阿弥陀仏の極楽浄土と衆生の娑婆世界は一つであり、どちらの世界にいても阿弥陀仏の法会に坐していることになる。

この頌は時宗及び一遍上人の念仏観を見事に表現したものだと言われています。
特に十一不二証無生の後には『死』という言葉が省略されているといわれ、
「生もなければ、死もない、我々も無ければ佛もない。
我々は阿弥陀如来とお念仏によって向かい合うのではなく、生死や偶像的仏をも超越した名号世界の中で一つになっている。」
と理解されている。
http://fusyoin.com/jisyunituite.html

85 :
最近、とても面白い記事を読みました。

人は、無我を悟ると苦しみが無くなるのだそうです。
その理由を、読んでビックリ…

苦しみを受ける(感じる)自分というものが消えて無くなれば、
その苦しみも無くなってしまうはずた、と言うのです。

この話を読んで、次のようなことを連想してしまいました。
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/eaef4818c31d647af1259d47d0511d69/?cid=e6a843192fde408837fd303105d67d3d&st=0

86 :
(これはアートマンに)「非らず、非らず」でしか捉えることができないアートマンは大乗仏教の空に似てないかなあ?

空もあらゆる存在を否定して否定しぬいたところに出てくるもので
サンスクリット語でプラバースラワ
その意味は難しくは本性清浄光明だが要するに「光輝くもの」である

龍樹の大智度論によると空とは
空即是涅槃。涅槃即是空。
である
http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm
要するに空とは「光輝くもの」であり「涅槃」である

空とアートマンの類似性はともに一切を否定したところで捉えることができるのもので光浄で涅槃であるところ
正しくはアートマンはブラフマンと一如になって涅槃だけど一如になるというのも無分別で空であるといえるかな(仏教側からの見方だけど

というよりも密教に先駆けて般若経などの空の理論の時点でバラモン教をけっこう取り入れてるのかもしれないね

87 :
般若理趣経

十二段 (有情加持の法門) 外金剛部の巻

ここで、大日如来は自らの姿に戻られて、「世の一切の有情(生きとし生けるもの)は互いに加持し合う」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
これは現象界にある諸々の低い次元の神々(外金剛部の諸天)に力を与えて悟りを獲得させるための「四種の蔵性」と呼ばれる。
@ まず、一切の有情は、その本質において、如来となりうる清浄な可能性を内に蔵している。
これは如来蔵と呼ばれる。
なぜならば、大日如来のあまねくゆきわたる光明は、一人一人を離れて、全一なる一切我として、広くあちらこちらにゆきわたっているからである。
これは普賢菩薩の徳として人格的に表現されている。(大円鏡智)



かくて、如来や菩薩のはるか外にある仏法の守護神である外金剛部の諸天も、
自己の本質において、宇宙そのものである大日如来の化身であることを悟り、大日如来自身の境地に入り、歓喜の声をあげ、
より一層に「有情みな加持す」という真理を明かにしようと考えて、「金剛のごとく不壊にして自由なる真理」を一字で表わす聖音「チリ」を唱えたのであった。

88 :
http://www.ab.auone-net.jp/~masami/risyukyoyaku.html
より

この般若理趣経十二段により
大日如来がブラフマン
如来蔵がアートマン
という関係如来蔵あることが何となく分かる

それよりも素晴らしいのは
仏法の守護神である外金剛部の諸天
(明王や金剛薩埵に調伏され仏教に帰依し仏教の守護神となった天部の神々だが、元々外教の神なのでマントラの外側に描かれる立場の低い神だった)
も自分達も如来蔵があり大日如来の化身であることを知って歓喜のあまり清音「チリ」を唱えるところ

この諸天は我々凡夫の象徴と言っていい(仮にも天部に住する諸天には失礼ではあるが)
我々凡夫にも如来蔵があり本質的には大日如来なのだからそれに目覚めて仏道を成じることを勧めているわけだ

89 :
大日如来はキリスト教でいうところのキリストっすね

90 :
67 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/02/27(月) 11:36:42.54 ID:N/lxA3B4
初めに言葉(ロゴス)があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった。
言葉のうちに命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は、光を理解しなかった。      
 (ヨハネ福音書 1:1〜1:5 )

言葉(ロゴス)こそが絶対真我ブラフマンです
言葉のうちにある命がアートマンです

91 :
言葉のうちにある命ってなんなんすかね
命って語源的には「霊の息」ですよね
生命とは少しだけ違う

キリストの語る「いのち」がまだ掴みきれてない

92 :
まず、口語訳では言葉と訳されてるロゴスの解釈からですかね。
ロゴスはギリシャ語ですが、全世界のどの人でもその訳に苦労したそうです。
日本では「言」と訳するまでは、カシコイモノ、真理、叡智、力、知恵などの候補が上がったそうです。
ヨハネ以外は創造主とか主とかの言葉を用いています。

ブラフマンは宇宙、宇宙の真理・法則、人格神ブラフマー(梵天)になると創造主ですかね。

そしてヨハネの福音書では、ロゴスである創造主によって命が創られたのを言葉のうちに命があったと表現し、
命は人間を照らす光であったとありますから、見ようによっては真言宗の自性清浄論と同じと言えるかもしれません(笑)

93 :
90.
言葉は記号である。
命、真我、とかは記号である。

94 :
僕の中でははじめに言葉があった、の言葉はイデアと同義ですね
いのちは霊魂を指すんだろうけど、そこに生命も足されてるような気がする

95 :
>>93
それは仏教的な観点

96 :
あ、自性清浄論をちらと調べてみたらなんとなく今より分かりそうな気がしました

ありがとうございます

97 :
95.
存在は記号として表現されることになる。
それらを否定したものが仏教である。

98 :
じゃあ記号とった後にそこに残るもんを観察すればいいじゃまいかw

99 :
98.
それは科学である。
宗教は、それらを否定することになる。
そのための記号が、無我、である。

100 :
仏教もある意味で科学でそこが仏教のいいところなのに仏教を語る人間がそれを知らないのはどうかと思うわw

101 :
100.
科学であると思うのはバカ丸出しである。

102 :
>>99
何が言いたいのかよく分かりませんが、分かろうとすると仏教は唯名論である、ということでよろしいですか?

103 :
102.
唯名論の内容が問題となる。
その具体的な内容の検証が必要である。

104 :
>>103
そうですか。
私はあまり興味はないのですが、もしあなたが興味をお持ちならは研究・検証してください。

105 :
観察って単語に反応しただけ、でFA w

106 :
無我なのか真我なのか。
その両者はイコールである。
無我であれば、それが真我である、と定義したものである。
それは宗教の定義である。
その定義を採用しないバカが多い。

107 :
日本で最初に丹田呼吸を広めたのは「白隠禅師」という人です。

禅師は一日に千回も丹田呼吸をしたと言われています。

そして「この丹田呼吸を2〜3週間続けて、神経衰弱や肺病が治らなかったら首をやる」とまで言ったそうです。

「心と体はひとつである。心と宇宙の精気はひとつである。」

丹田呼吸で心と体をひとつにし、宇宙と通じれば、自然治癒力が強くなり、どんな難病でも治せるようになると言うのです !!

丹田呼吸法をすれば、人は本来の自分の姿になり、その眠っていた能力を発揮出来るというわけです。

白隠禅師の丹田呼吸法により身体と宇宙を不二にしようという思想は、梵我一如の思想に通じるものがあります。

108 :
>>107
>「この丹田呼吸を2〜3週間続けて、神経衰弱や肺病が治らなかったら首をやる」とまで言ったそうです。

それは白隠禅師が苦しんだ(経験した)自律神経失調症が治るということであって、
神経衰弱(神経症)や肺病(肺結核)は丹田呼吸では治りません。
当時は、多くの病について未解明だったのですから仕方がありませんね。

昭和の初期に梅田薫という人が神経衰弱(神経症)患者に丹田呼吸をさせる療法を行なって
いましたが、それによって身体は健康になっても神経衰弱(神経症)は治らなかったことが
知られています。

また、白隠禅師の言う 「心」 は現代で普通に使っている 「心」 ではなく、「意識」 に近い
ものなので注意が必要です。中国の禅僧・馬祖道一の 「即心即仏」 の 「心」 も同様です。
中国の禅では 「心」 の文字が多用されましたが、現代人が使っている 「心」 とは少し違う
ことを知らない人が多いようです。

109 :
私の注意を聞かない愚か者がやっぱりいつの時代もいるものだ 正解は解脱者しかわからんのに.... また解脱したものは解説しようとしない 無駄に終わるとわかっているからだ まあ暇つぶしが済んだら瞑想しなさい 誰でも10年ぐらいやれば解脱手前までは絶対いけるから 頑張れよ
(by 釈迦)

110 :
>>109
(by釈迦)ではなく(by俺)だろ?w

111 :
個の原理であるアートマン(我)は、個の主体でもありますから、決して客体にはなりません。
客体とならないアートマンを観ることは、ほぼ不可能に思えます。
決して観られる対象にならないアートマンを観るというのは、通常の見方によっては無理です。
観たものをすべて、「これはアートマンではない(非ず、非ず)」と否定する瞑想によってのみアートマンを感得できるといいます。

112 :
観られる対象と観る視点の関係やね
右目は右目を見れない
右手は右手と握手できない
思考は思考を思考することができない
観る視点は観察するときに、「働き」になっている

一方で、過去の私は、今の働きによって観察できる
過去の我のみ、客体になる

「働き」に在る認識(する我)を通常の感覚では認識することはできない
しかし、「働き」に在る認識する我、より上位の存在性に在る時、人は我から抜け出る

我から抜け出て大きな我に在る時にのみ、低次の我を働きのまま認識できる
しかし、この運動は一に至るまで、フラクタルに永遠に続く

従って、その人物にとっての通常の意識状態では個は決して客体にはならないが、上位の存在性に在る時にのみ、客体化できる

しかし、それは上位の存在性に在る時の我を客体として認識しているわけではないから、やはり、アートマンは客体化され得ない、と言える

その運動を続けて一にたどり着いた時、全ては我で在る、と知るのだろう

113 :
人は特殊な意識状態に在る時、下位の我のみ客体化できる
人は通常の意識状態に在る時、過去の我のみ客体化できる

114 :
寡聞なわたしの知識によりますと、実在したゴータマ・ブッダの説いた布t婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)に、アートマンの有無について匂わせるような記述があるらしいです。
 《真のアートマンはあると言えるし、ないとも言える。ことばでは表現できない。ヨーガによって感じるしかない》
みたいなことを言っているとか、いないとか....

115 :
布藻k樓経は検索すると現代文で読めますね
リンクはなぜかNGになってしまい貼れませんが

長いですが以下の「無我」で無我と真我についていろいろと書かれています

ブッダダーサ尊者著「無我」翻訳

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2016/08/05/081713

116 :
ダンマパダ277 、
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。

有名な諸行無常を仏陀が説いた句ではあるが、
涅槃やアートマンは形成されたものではない(行=サンカーラではない)ので無常の対象とはならない。

そして一切の中にも入らない。
一切とは仏陀曰く
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
と六根六境の十二処であるが、アートマンは最初から十二処で認識できるものではないという設定だからである。

つまり、アートマンは一切にも入らないし形成されたものでもない、なので無常とはみなされない。

117 :
手の届かないもので人生を終えるより、
手の届くもので人生を豊かにしたほうが随分まし
その意味でアートマンとか無我とかどうでもよく
それらはどのように具体的におまいたちの人生の益になったの?
その答えに対して語り合いたい

118 :
ダンマパダ288
sabbe savkhara dukkha ti yada pabbaya passati
「一切の行(形成されたもの)は苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。」

これも同じ。
涅槃やアートマンは形成されたものではないので苦ではない。
また一切にも入らない。
アートマンについては一切外なのは>>116に書いた通りだが、涅槃についてももしこれを一切にいれると涅槃まで苦となる。
実際に仏陀が説いたのは、涅槃は苦ではなく安らぎである。

119 :
誰が何と言おうが関係なくて
じゃあおまいは涅槃にいるんかっ手の聞かれたら仏教を傘に着た虚栄の民たちはどう答えるんかなw

120 :
分からんもんを信じる時は
俺はこいつらのことを信じる、
なぜなら、これらのことが事実だったし、
共にこんなに生きたからだ
そして、私はコンな感じ
と答えるだろう

さて、この行為で俺たちの人生は前進したのだろうか?
単にカッコつける椰子ならそもそもいらんが
愚者の理想を押し付ける椰子もいらん

121 :
>>117
例えば入試の時に神頼みに行かなかったのか?
誰か愛しい人が亡くなりそうになった時に神に祈らなかったのか?
神など自分の手に届くものではないからどうでも良いという考えなのだったら君にとってアートマンや無我などどうでも良いのだろう。

人は苦しい時には変わらないもの、絶対的なもの、超越的なものに拠り所を求めるものなのだよ。
頼りとするのは自己だけという者も確たる自己の基盤がなければ自己を拠り所にすることは出来ないのだよ。

122 :
>>120
なるほど、君は神も仏も自己も拠り所としない人間であることは分かった。
そういうのを虚無主義という。

123 :
凡夫の視座は過ぎ去る故に虚妄なる五蘊。

では如来の視座は何なのか?
凡夫の虚妄なる五蘊を如実知見する如来の視座とは何なのか?
無記について書いてある火ヴァッチャ経によれば、
如来は五蘊からは解き放たれているとブッダ自らヴァッチャに諭しているので五蘊でないでしょう。
如来は五蘊ではない何かで凡夫の虚妄なる五蘊を観て苦であると知見しているというわけだね。

124 :
>>123を考察するに当っての参考

スッタニパータ
756
見よ、神々並びに世人は、
非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している。
「これこそ真実である」と考えている。

757
或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、
そのものはそれとは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758
安らぎは虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、
快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

パーリ原文はこちらに記載↓
http://76263383.at.webry.info/201501/article_14.html

757が凡夫の視座、758が如来(修行完成者)の視座であると言えるでしょう。

火ヴァッチャ経については>>23

読み返したら>>8は大乗仏教的な見解・解釈だけど書いてあることには同意。

125 :
仏教で言う「無我」と「非我」の違いはなんでしょうか?

我が無い、我に非ずなんですが・・・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12120021297?__ysp=6Z2e44GaIOmdnuOBmiDjgqLjg7zjg4jjg57jg7Mg54Sh5oiR

126 :
スッタニパータ
9
走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、
「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

758
安らぎ(涅槃)は虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、
快をむさぼることなく平安に帰しているのである。


スッタニパータの9と758を対比させれば、
涅槃は「(虚妄である)世間における一切」には入らないのは自明。

127 :
お釈迦様はアートマンとして、
五蘊以外の存在としての『自己』の存在を認めていないという解釈が大勢を占めているように感じます。
しかし、当時の哲学を研究する人の話ではお釈迦様以前の印度の哲学者ヤ−ジュニャヴァルキヤの言葉を持ち出します。

 「(自己は)見られることがなく見る者であり、
 聞かれることがなく聞く者であり、
 思考されることがなく思考する者である。
 これより別に聞く者はなく、
 これより別に思考する者はなく、
 これより別に知る者はない。
 これが汝の自己であり、
 内制者であり、
 不死なるものである。
 これより別のものは苦しみに陥っている。
(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』三・七・二三)
お釈迦様は詳細に語られなかったようです。
このような自己(アートマン)の存在は大前提であったからあえて語られなかったのか、
自己(アートマン)の存在を認めていなかったから語られなかったのか、
人はそれぞれの立場で都合のいいように解釈してしまうのです。
http://blog.o-baka.com/?eid=144

128 :
>>127
非我も無我も同じなのじゃ。
アートマンが有ると言っても無いと言っても同じなのじゃ。
体験があれば一目瞭然じゃ。
体験がなく頭で考えているだけでは死ぬまでわからんじゃろう。

129 :
この世の生命に限りがあるように、福業によって得られた天界もまた永遠の安住所ではない。
祭式・布施の果報が尽きれば再び地上に転生せざるを得ない。
究極の解脱に達するまでは輪廻を免れない。

ウパニシャッドにおける解脱とは、梵我の本質を悟って、この本体と合一することである。
「実にかの最高梵を知る者は梵となる」(ムンダカ3・9・2)。
ただしここに「知る」というのは、経験的あるいは学問上の知識を指すものではない。
「無知を信奉する者は、あやめもわかざる暗黒に陥る。知(理性による知識)に喜びを持つ者は、さらに甚だしき暗黒に陥る」(イーシャー12)。
無知に覆われながら、自ら賢明にして学識ありと妄想する者は危うい。
解脱は普通の知・無知を超えた真知による悟証を待つ他なく、ここに、真知に到達する手段が問題となる。

130 :
ウパニシャッドの教えるところに従えば、感覚を制御し、欲望を絶ち、禁欲に服し、
瞑想によって精神を統一し、思いを梵我にのみ集中する修行が最も有効である。
何となれば、欲望を離れたところに業(カルマ)の繁縛はおよぼないからである。
暗黒から光明へ、死から不死へ導くのは、梵我の悟証のみで、俗世の財宝や福利は、解脱の大理想の前に全くその価値を失う。
「われは現世にありつつしかもこれを知る。しからずんば無知と大なる破滅とあらんのみ。
そを知る者は不死となる。されどその他の者はただ苦に至る」(ブリパッド・アーラニアカ4・4・14)。
こうしてウパニシャッドの人生観は、必然的に厭世の方向をとるが、仏教に見られるような深刻な無常観は発達しなかった。

131 :
275: 神も仏も名無しさん[sage]
2012/07/10(火) 04:19:05.66 ID:CeHqfFcm.net [1/2] AAS
『ミリンダ王の問い』(平凡社東洋文庫)という本には、仏教徒のナーガセーナが、「無我」や「輪廻」をたとえ話で説明しているところがあります。
ギリシャ人の王に理解させようとして、ナーガセーナは無我を「車のたとえ」で、輪廻を「ろうそくのたとえ」で説明しているのですが、私はこのたとえに満足することが出来ませんでした。
『ミリンダ王の問い』は、仏教学者が「ギリシャ的思惟とインド的思惟の対決」と喧伝しているくらい有名な本なので、結構期待して読んだのですが、
ミリンダ王がすぐに「もっともです、ナーガセーナよ」と納得してしまうのを読むと、「お前、それでも『ギリシャ的思惟』の代表か、もうちょっとしっかりしろよ」とツッコミをいれたくなります。

こうした説明にどうしても納得できない人はやはり他にもいるらしく、インド哲学者の宮元啓一氏は、「このたとえはひどい。ろうそくの火を次のろうそくに移すのだったら、
その前のろうそくの火には消えてもらわなければ、輪廻は説明できないはず」と述べておられます(宮元啓一・石飛道子『ビックリ!インド人の頭の中ー超論理思考を読む』(講談社 2003年)
http://www.dia.janis.../~soga/excha258.html

↑仏教なんざ東洋哲学者ですらもツッコミを入れてしまう程度の書物を経典として有難がっているような宗教だからな。たいしたもんじゃねえだろ。w
ギリシア思想に精通しているはずのミリンダ王がすぐに納得してしまっているなんてのは、弟子が教団にとって都合がいいように捏造したんだろうな。
しかしまあ仏教はギリシア哲学の影響下で成立した宗教である可能性が高いんだな。

132 :
>>131
悟りというのは体験であって言葉による説明は対岸に渡る為の舟や筏に過ぎない。
機が熟している者は言葉による説明をきっかけとして悟ることが出来るが、
未熟者は言葉による説明そのものが真実だと勘違いして、説明に文句をつけることが多い。
宮元啓一などはインド哲学者と言っても悟りを知らない未熟者だということだ。

133 :
解脱は梵我の悟証と同時に成就するはずであるが、梵我との究極的合一は、死後に初めて完成する。
梵我の本質の完全一致を認める以上、解脱後に個人的区別は消滅しなければならない。
果たしてヤージュニャヴァルキアは、死後に意識なしと道破した。
もろもろの木から集められた蜜が合して一味の液となり、諸川が海に注ぐとき、以前の区別が失われるのと同じである。
しかし余りに高尚な哲理は俗耳に入りがたく、死後にも個別の存在の持続を要望する民衆の宗教心を満足させ得ない。
旧来の思想が混入され、俗間の進行が折衷されたのも怪しむに足りない。
根本原理への帰入が一種の昇天のごとく考えられ、到達する終点が荘厳を極めた梵天の楽土として描かれた例もある。

134 :
>>133
>ヤージュニャヴァルキアは、死後に意識なしと道破した。

それは道破したのでも何でもなく、ヤージュニャヴァルキアが悟っていなかった
ことを示す以外の何物でもありません。
悟りは時空を超えるので、悟りにおいては 「死後」 という観念は消えるからです。

一休禅師が弟子に 「お師匠様は死後どこに行かれますか」 と聞かれて、
「どこにも行かん、ここにいる」 と答えたことは有名ですが、それが悟った意識
というものです。
また妙好人の浅原才市は 「お浄土もろおて娑婆にいる」 と言っているが、それも
時空を超えた浄土真宗のお悟りをよく表わしています。

135 :
一休宗純は「死にとうない」と言って死んでいったわけだが

136 :
>>135
君は一休さんのトンチも理解できんのか?

137 :
ヤージュニャヴァルキアにしても一休にしても言葉一つだけを取り出して判断するのは早計。

ヤージュニャヴァルキアについては

>梵我の本質の完全一致を認める以上、解脱後に個人的区別は消滅しなければならない。
>果たしてヤージュニャヴァルキアは、死後に意識なしと道破した。
>もろもろの木から集められた蜜が合して一味の液となり、諸川が海に注ぐとき、以前の区別が失われるのと同じである。

この三行で梵我一如の悟りで出た帰結として「死後に意識なし」と解を得たと解釈しないとね。

138 :
(3)ヤージニャヴァルキヤの思想(ブリハドアーラヌヤカ・U 2・3・4) 

マイトレーイーとの対話---アートマンを知るということ
   (ヤージニャヴァルキヤが出家遍歴の生活に入るため家を出る時の妻との対論)

(前略)
4.5.11 たとえば湿った薪に火をつけると、その火から煙が別々の方向に立ち昇るように、じつにこの<偉大な実在mahat bhuta=アートマン>から、
この『リグ・ヴェーダ』も『ヤジュル・ヴェーダ』も『アタルヴァ・ヴェーダ』も、史詩も、古伝説も、もろもろの学問vidyaも、
もろもろの秘説も、もろもろの説明書も、祭式も、供物も、食物も、飲料も、この女も、かの世も、一切の生存する者どもも、
――これらすべてのものは、この<偉大なる実在>から息吹きだされて現われたものである」と。
4.5.12 「たとえば一切の水の合一点が大海であるように、・・・、同様に一切のヴェーダの合一点はことばvacである」と。
4.5.13 ヤージニャヴァルキヤはいった、「それは、たとえばひとかたまりの塩が、内もなく、外もなく、まったく味のかたまりにほかならないように、
同様に、このアートマンは、内もなく、外もなく、まったく純粋の叡智のみにほかならないようなものである。
[人は]これらの要素から生起して、またそれらの要素のうちに帰滅する。死後には[識別する]意識samjnaは存在しない。
わたくしはじつにこのように告げるのである」と。
http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm

139 :
>死後には[識別する]意識samjnaは存在しない。

samjnaは通常意識と和訳される識蘊vijnanaではなく想蘊のことのようです。
http://mumu.jpn.ph/forest/computer/2016/11/13/7195/

ヤージュニャヴァルキアにしてもブッダにしてもsamjnaはアートマンに非ずとしているのは同じ。
というか二人とも一切法はアートマンではないとしているけど、
違いはヤージュニャヴァルキアはアートマンを積極的に追い求め、ブッダはアートマンへの固執は避けたということかな。

140 :
>>137-139
「悟り」においては死の観念は(したがって、死後の観念も)なくなります。
時間のない世界において死後の世界などというものはナンセンスなのです。
また、仏教の唯識においては、悟りを得ていない迷いの世界にいる人々にとっては
「夢」と同じように死後の世界も存続することになります。

釈尊は苦行中に当時の印度の最高のバラモン達の指導を受けましたが、それらの
どの境地にも満足しなかったことは有名です。
釈尊にとってはヤージュニャヴァルキアの思想も境地も「未だし」だったのです。

141 :
仏教の経典にだけ出て来る最高のバラモン達ねwww

142 :
>>141
頭は大丈夫ですか?
釈尊を超える宗教家はそれ以前には誰も出ていないのですよ。

143 :
>>140
>釈尊は苦行中に当時の印度の最高のバラモン達の指導を受けましたが、それらの
>どの境地にも満足しなかったことは有名です。

あの無色界瞑想を教えた二人はバラモンではなく沙門だよ。
ま、当時のバラモンにあの二人を超える者がいたのかどうかは知らないけど。

144 :
>>140
スッタニパータ 老い
806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

老い経全文はこちら
http://suttanipata.com/eea/

>人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。

これと

>死後には[識別する]意識samjnaは存在しない。

を対比させれば言ってることに違いはありませんね。

145 :
>>144
あなたとっても親切ね

146 :
まとめてレスすれば良かったけど
>>140
>また、仏教の唯識においては、悟りを得ていない迷いの世界にいる人々にとっては
>「夢」と同じように死後の世界も存続することになります。

バラモン教(ウパニシャッド)においては、梵我一如を体得した人は死後は塩が大海に溶けていくように個は宇宙と完全に合一して輪廻から完全に解脱します。
よって個と宇宙は一体となるので個個別の死後の世界は存続しません。
死後には意識(想蘊)は存在しないとはそういうことです。

147 :
>>145
どういたしまして(//∇//)

148 :
>>147
もしかしてシャンカラのウパデーシャ・サーハスリーを読んでます?

149 :
812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、
それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

これもウパニシャッドの教えをそのままブッダが説いている。

150 :
>>144
国語の力は大丈夫ですか?
両者の言っていることは全く関係ありません。
前者は修行者の執着を解くための説明に過ぎず、後者は実体として死後の世界を
考えている人(時空を超えていない人)の言葉です。
先ず。国語の力を身に付けることが大切です。

>>146
あなたは何の宗教体験もなく、言葉の表面的な解釈で真実がつかめると錯覚している
ようですね。

>個と宇宙は一体となるので個個別の死後の世界は存続しません。
>死後には意識(想蘊)は存在しないとはそういうことです。

時空を超えた意識にとっては「個と宇宙」などという概念そのものがナンセンスなのです。
「個と宇宙」がどうのこうの・・・と言うこと自体が、迷いの意識の存在であることの証拠です。

あなたはまだインド哲学を学ぶ為の基礎的な宗教体験がないようですね。

151 :
>>148
いえ、シャンカラがそのような著書を書いていたのも存じませんでした…。
岩波で安価で出版されてるようで、レビューを見たら面白そうだし読んでみますね。

152 :
>>151
そうですか
ウパデーシャ・サーハスリーの内容を仏教用語で表現するとあなたのレスのように成るんだろうなと
感心していました

153 :
>>150
>前者は修行者の執着を解くための説明に過ぎず、後者は実体として死後の世界を
>考えている人(時空を超えていない人)の言葉です。

梵我一如を体得した人には死後の世界はありませんと書いているのですが。
それと意識は存在しないはヤージュニャヴァルキアが妻に向けて出家の説明をする中で語っていることです。

>>150
>あなたは何の宗教体験もなく、言葉の表面的な解釈で真実がつかめると錯覚している
>ようですね。

あなたは自分の宗教体験を余程誇りに思ってるみたいですが、あなたが見たものが真実の月であるかどうかは分からず、
またあなたの体験がバラモンの聖者とどう違うのかちゃんと把握できてるのかも分かりません。
とにかくネットでは宗教体験をしたというのは言った者勝ちになるだけであり、私は宗教体験に基づいて語ってますは根拠として頼りにはなりません。
それでも己の宗教体験どうこう語りたいのならどうぞご勝手に。

あと釈迦の言葉で「時空を超えた」といかうようなものって何かありましたかね?
むしろ形而上のことは無記として語らなかったはず。
時空を超えたのは私の体験からとかいうなら、それは貴重な体験をしましたね、と言うしかありません。

154 :
論争好きな人、特に己を大きく見せつけたり汚い言葉を使って相手を説き伏せようとする人は、
ブッダの言葉パスーラ経を熟読した方が良さそうですね。
http://suttanipata.com/afaafaf/

155 :
>>153-154
>あと釈迦の言葉で「時空を超えた」といかうようなものって何かありましたかね?

当時と現代では同じことが違う言葉で表現されたり、異なることが似た表現で表わされたり
するので、表面的な表現そのものを比較しても意味はありません。
お釈迦様の時代には「時空」という言葉はサンスクリットにもなかったでしょうからね。
しかし、十二支縁起で「無明」・・・「生」「老死」とあるので、「無明が晴れれば、
生も老死も消える(時間も空間も超える)」と理解されていたことは明白ですね。
そのようなことを読み取れるかどうかは宗教体験がなければ難しいのです。
個人の宗教体験自慢の話ではなく、印度哲学の議論というのは西洋哲学の議論と違い、
議論する人間同士の宗教体験の照らし合わせという面があるのです。

156 :
梵、すなわち「ブラフマン」と我、すなわち「アートマン」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする。
これが梵我一如の思想である。

ブラフマンは、宇宙を支配する原理である。
ブラフマンは、もともとは、ヴェーダの「ことば」を意味する語で、呪力に満ちた「賛歌」「呪句」を表した。
やがて、それらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、
さらに、この力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされた。

アートマンは、私という一個人の中にある個体原理で、私をこのように生かしている「霊魂」であり、
私をこのような私にしている「自我」、もしくは「人格」である。
元は、ドイツ語のAtem「息、呼吸」と同じ語源から生まれた語で、「息」を意味した。
ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」という意味が派生し、
ついには「個体を支配する原理」とみなされるにいたった。
この語はさらに「ものの本質・本体」という意味でも用いられる。

この宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、
瞑想の中でありありと直観することを目指すのが梵我一如の思想である。
これによって無知と破滅が克服され、永遠の至福が得られるとする。
その代表的な思想家は、シャーンディリヤ、ウッダーラカ・アールニ、ヤージュニャヴァルキヤなどの哲人である。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm

157 :
  4.5.13 ヤージニャヴァルキヤはいった、
「それは、たとえばひとかたまりの塩が、内もなく、外もなく、まったく味のかたまりにほかならないように、
同様に、このアートマンは、内もなく、外もなく、まったく純粋の叡智のみにほかならないようなものである。
[人は]これらの要素から生起して、またそれらの要素のうちに帰滅する。死後には[識別する]意識samjnaは存在しない。
わたくしはじつにこのように告げるのである」と。
  4.5.14 マイトレーイーはいった、
「ここで、あなたはわたくしを迷いの極限に陥れました。わたくしは、このことを理解することができません」と。
ヤージニャヴァルキヤはいった、
「わたくしはまよわせるようなことを語っているのではない。じつに、このアートマンは不滅のものであり、不断滅の性を有する。
  4.5.15 なんとなれば、いわば二元の存在するところにおいては、
一方のものが他の一方のものを見、一方のものが他のいっぽうのものを嗅ぎ、一方のものが他の一方のものを味わい、
一方のものが他の一方のものに話しかけ、一方のものが他の一方のものを聞き、一方のものが他の一方のものを考え、
一方のものが他の一方のものに触れ、一方のものが他の一方のものを認識する。
しかし万物がその人のアートマンとなったときには、[その人は]なにによってなにを見るのであろうか?なにによってなにを嗅ぐのであろうか?
・・・なにによってなにを認識するのであろうか? そのものによって人がこの一切を認識するところのもの
――それを、人はなにによって認識することができるのであろうか?」と。
 「[ヤージニャヴァルキヤはつづけた]それだからこのアートマンは『…ではない。…ではない。』と[いわれる]。
それは把捉され得ない。なんとなれば、それは把捉されないからである。
それは破壊され得ない。なんとなれば、それは破壊されないからである。
それは無執着である。なんとなれば、それは執着されることがないからである。
それは束縛されず、動揺することなく、害されることはない。
ああ、認識する者(=主体)を、なにによって認識し得るであろうか?マイトレーイーよ。そなたはこのように教えを受けたのである。
不死性とは、じつはこれだけのものである」と。
ヤージニャヴァルキヤは、このようにいって、去って行った。』

158 :
ラーマクリシュナは幼少時より何度も神秘的体験をし、18歳でカーリー寺院の僧となり、
宇宙の大生命力、根元造花力を神格化したカーリー女神を愛慕し、熱烈に崇拝した。
その絶頂で遂に燦然と輝くカーリー女神を見神する。
と同時に全身が法悦状態となり、2日間、意識不明状態になったという。
その後、カーリー女神の神像を見たり、その名を聞いたりしただけで反射的に全身が硬直し、
トランス状態に陥ったり、宗教上の儀礼慣習をすべて無視して神に酔いしれるようになった。

そして、赤子のようにカーリー女神に仕え狂信する自らの信仰とは別に、他宗派のシャクティ派の世界にも飛び込み、
シヴァ神、クリシュナなどのヒンドゥー教の神々はもとより、仏教の釈迦、イスラム教のアッラー、キリスト教の神やイエスなど、
人格神はすべて見神し、無形の神も悉く実感したという。

こうして己の体を実験台にして、殆どのあらゆる宗教の本質を究め尽くした末、「どの宗教を通っても神のところへ行ける」という結論に達した。
彼は宗教の枠や垣根を取り払った先覚者であった。
「ひとつの宗教」「万教同根」ーーこれはヴェーダンタ哲学の奥義であるが、
ラーマクリシュナはこれを体験によって獲得したのだった。
彼によれば、我々も同じ体験ができるという。
「それには神を心の底から好きになること」「神が好きで求める気持ちがあればいい」
「神を求めるならば自分の中に求めよ」などと教える。
要するに神に惚れることで、人類愛に繋がり、いつしか自我は空となり、神人一体の妙境に達するようになる。
それが「解脱の境地」であるとした。

159 :
>>156-158
>この宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、
>瞑想の中でありありと直観することを目指すのが梵我一如の思想である。

>要するに神に惚れることで、人類愛に繋がり、いつしか自我は空となり、神人一体の
>妙境に達するようになる。それが「解脱の境地」であるとした。

それは言葉遊びなのです。
そのような表現の中に何かあると思って追求を続けても、人生を棒に振ることになるでしょう。
そのような体験が自分にも現われるだろうと思って夢を見続ける人は、一生何もわからないで
で終わってしまうでしょう。

なぜそうなってしまうかと言えば、宗教体験をした者はその体験を何らかの言葉で表現せざるを
得ないので、既成の概念と新たに創作した概念を用いて一つの世界観を作るものですが、読む側
はそれらの概念をわかったつもりになってその世界観を身につけようとするからです。
実は、教える側と読む側ではそこに使われている概念の意味内容が全く異なっているのですが、
ほとんどの人はそのことに気が付いていないのです。
言葉のトリックにひっかかっていると言えるでしょう。だから、言葉遊びで終わってしまうのです。

160 :
>>159
一番最初(>>129-130)にそのことを書いています。

161 :
自分の神秘体験に執着する典型だな

162 :
梵我一如っていうのは「無が有る」と考えるインド人に特有の考え方が分からないと理解できない。
数字のゼロを発明したのもインド人。ヴァイシェーシカ学派の「期体」の概念も元は同じ考え方。

163 :
>>162
訂正:「期体」でなく「基体」

164 :
>>160-163
>>129-130 のどこにも書いていないでしょう。
あなたは本の言葉をそのまま自分の頭の中の棚に整理して、何かを理解した
ようなつもりになっているだけなのです。
ID:DB4vD+mv君も同じ穴の狢。自分の頭の中に整理できればわかったことだと
勘違いするお目出度い人。

165 :
>>164
まあ、そう興奮すんな
>>161はお前へのレスだが>>162は違う

まあ、「無が有る」をお前も分かってないみたいだから考えてみたらどうだ
因みに、俺が言ったことは普通本には書いていない。

166 :
>>165
>梵我一如っていうのは「無が有る」と考えるインド人に特有の考え方が分からないと理解できない。

↑ そんなことを書くから、「お目出度い人間」 だと言っているんだよ。
梵我一如という概念も本で仕入れて来たんだろ。だから、同じ穴の狢なんだよ。

167 :
>>166
おまえ、上のレスで一休の名前だしておいて、この「無が有る」の意味がわからないっていうことは、
お前は何も分かってないと白状してるようなもんだぞ。

もしお前の言う宗教体験が本当に正しいものなら「無が有る」位わかって当然なんだが。

168 :
>>167
お前さんは仏教の勉強をしたことがないのか?
真理は「無」と「有」のどちらの立場からでも表現できることは常識なのだよ。
どのような表現(説明)も「悟り(宗教体験)」を得るための手段でありヒントに
過ぎないのだ。だから、禅も浄土教も成り立つのだよ。
だから、お前さんが「無が有る」などと言って何かわかったような気になることは
勝手なのだが、それによってお前さんの日常生活がどのように変わったかが重要なのだ。
わかったような気になること自体には何の意味も無いことに気付くことが大切だよ。

169 :
体験、体験、体験鳥の無我が来てるな。
こんなとこまで出張ってきてワンパターンの説教垂れて悦に入ってないで自分のスレに戻りなさい。
【不安障害治癒】「無我」の教え Part.2 【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.sc・
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1488727814/

170 :
>>168
お、少しわかってたか。
ではその宗教体験をお前の言葉で説明してみろ

> 勝手なのだが、それによってお前さんの日常生活がどのように変わったかが重要なのだ。
はいでました。大乗の欠点ね。日常生活に執着してたら永久に悟れないぞ。

171 :
>>168
だいたい「無が有る」はお前へのレスでは無いと言っているのに何がそんなに腹が立つんだ?
それが仏教の悟りか?

172 :
>>170
>日常生活に執着してたら永久に悟れないぞ。

はいでました。原始仏教の欠点ね。日常生活をおろそかにしていたら永久に悟れないぞ。

173 :
>>172
なんで原始仏教wwwwww

174 :
日常生活をおろそかにしても執着がないなら悟るよ

175 :
>>174
悟れません。悟りの生活を支えているのは日常生活だからね。
バラモンの生活は非バラモンによって支えられていたことに
気付きなさい。

176 :
>>175
悟りに執着してますよw

177 :
>>176
宗教は悟り・解脱が目的なのだから当然です。
それを捨てるのが究極だというのなら、その究極が悟り・解脱なのだから
捨てたことにはならないのだよ。

178 :
>>177
お前の大嫌いな言葉遊びですなwwww

179 :
>>178
何も分かっておらんな。
宗教における言葉遊びというのは、書物(宗教書)に書かれている概念・文言を
(分かってもいないのに)そのまま使ってああだこうだと論じることなのだよ。

180 :
>>175
> >>174
> 悟れません。悟りの生活を支えているのは日常生活だからね。

だいたい悟りの生活ってなんだよ。悟れば死後の観念は無くなるんじゃ無いのかよ>>134
死後の観念は無いけど、悟りの生活という観念(執着)は無くならないのか?

181 :
>>179
まさにお前のことだなw

182 :
>>164
>>129-130 のどこにも書いていないでしょう。

何処にも書いてないというのならあなたと私では文書はおろか物事の捉え方が違うとしか言いようがありませんね。
十二支縁起のとこでも突っ込み入れようかと思いましたが論争が面倒なのでやめておきます。

それよりもあなたは一体何をしにこのスレに来てるのですか?
梵我一如やバラモン教、バラモン教の聖者の否定のため?

183 :
梵我一如は無色界までの話で、涅槃は梵天界からも解脱してるでしょう。

184 :
五上分結の色貪と無色貪が、梵我一如の境地への執着のことでしょう。

185 :
>>183
無色界というのは仏教用語で梵我一如とは関係ない。

186 :
>>184
シャンカラはブラフマン(アートマン)に執着するなと言ってますが

187 :
>>184
色とか無色も『非らず。非らず』(neti neti) でアートマンではない。

188 :
真我が涅槃のことなら、仏教の立場としては無記ということで、お終いなのでは。
他宗教は語るのでしょうけど。

189 :
真我にしろ、涅槃にしろ、それを思弁哲学の対象としてしまった時点で
体験智である悟りや解脱に向かう方向性からは、逸れるよね。

解脱は修道と体験智の結果であって、概念智による理解ではないので。

190 :
>>180
真の悟りというのは 「悟りの生活」 を言うのですよ。
「悟りの生活」 というのは <観念> ではなく、悟りの <完成> なのです。
それが大乗仏教というものです。
生活を信者に支えさせていたバラモン教や原始仏教は宗教として未完成だった
ということです。

>>182
このスレを覗いてみたら、宗教上の言葉遊び(>>179)をしている人が多かったので、
それを少し指摘しただけなのです。

191 :
人智を超えたものについて、人智で以て思惟しているわけだから。
自ずと限界がある。

人智を超えたものについては、人智を捨てるからこそ(体験的)理解に至る。
人智でもって得意になっているのは、修道の観点からすると足踏み状態と言えるのでは。

192 :
>>190
托鉢を生活の糧としていた釈尊の立場はどうなっちゃうの?

193 :
菩薩道の完成者なのだが(苦笑

194 :
>>190
> >>180
> 真の悟りというのは 「悟りの生活」 を言うのですよ。
> 「悟りの生活」 というのは <観念> ではなく、悟りの <完成> なのです。
> それが大乗仏教というものです。
> 生活を信者に支えさせていたバラモン教や原始仏教は宗教として未完成だった
> ということです。

死の観念がなくなるとか言ってみながら、「生」への執着がすごいね
一休が死にとうないと言ったのもよく分かる。
確かに大乗とバラモン教や原始仏教とは違う。大乗は生への執着が捨てられないから。
結局死ぬのが恐い。これは仏教の体験智が不完全な証拠。さて、どちらが未完成なんだろうか?w

195 :
仏教の起源が、2500年前だと思っているんじゃありませんか。

輪廻転生のタイムサイクルで考えると、仏法はもっとずっと前からあるわけで
原始仏教は原始的で、大乗仏教は、発展系なのだという捉え方は、
あまりに人間的すぎますね。
平凡な、凡人の視点だと感じてしまいます。

196 :
>>194

> 結局死ぬのが恐い。これは仏教の体験智が不完全な証拠。さて、どちらが未完成なんだろうか?w

訂正。これは言い過ぎた。もちろん大乗でも生への執着すら捨てれる人も当然居る。

197 :
>>192-193
托鉢は生活の基盤を信者に丸投げしていたということですから、
宗教として未完成だったということです。
菩薩道は大乗仏教の概念ですよ。

>>194(ID:DB4vD+mv) >>195(ID:mf0yHT1I)
仏教の事を知らな過ぎます。もっと勉強しましょう。

198 :
ちなみにラーマクリシュナの師であるトータ・プリは病気になり自殺を決意して実行して初めて大悟したと言われる。

199 :
>>197
いくら仏典に出てくるヒンドゥー教を熱心に勉強してもヒンドゥー教は理解できないし、
その逆も同じですよ

200 :
>>197
菩薩は最終的に仏陀になるでしょ。

201 :
>>197
解脱って、欲六界から抜け出すことですから
欲六界の善悪の尺度そのものから自由なんですよ。

まだ、欲六界の善悪の尺度でものを考えてませんか?

202 :
欲六界の尺度で善をやることに執着していると、行き先は天界なのでね。

203 :
>>199 >>200-202
仏教は正しい師に就いて学べば知識だけではなく体験が現われます。
(仏教入門書を読んでも仏教はわからないでしょう。)

204 :
菩薩の波羅蜜に、禅定波羅蜜があります。
禅定を前提として、智慧波羅蜜の修行があります。

修道の過程から、禅定波羅蜜を除外しないで下さい。
神話やおとぎ話じゃないんです。

205 :
>>203
その体験が死ぬ間際の「死にとうない」に通じるのか
とりあえずお前の体験とやらを語ってくれない?ずっと待ってるんだけど。

206 :
>>203
ついでに正しい師って誰?
具体的に頼むよ

207 :
>>202
八正道も基本善行の勧めだけど行き先は涅槃でしょ。
ただ在家のままで八正道を実践するのは難しいようだけど。

208 :
医者の処方が患者毎に異なるように、どの法門が自分に適しているかも
人によって違うので、他宗批判は基本的に不適切。

処方が違っても、医学はひとつであるように
部派や宗派が違っても、仏法はひとつ。

209 :
>>205
私の体験は大乗仏教の祖師がたの体験と同じなので、祖師がたの著作を読んで下さい。

一休さんの 「死にとうない」 はごく普通の表現ですよ。
大乗仏教の悟りというのは生きてしたいことが山ほどあるのです。
(それは生に対する執着でも何でもないのです。)

「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」・・・至道無難禅師

210 :
>>209
> >>205
> 私の体験は大乗仏教の祖師がたの体験と同じなので、祖師がたの著作を読んで下さい。

結局答えられない。

> 一休さんの 「死にとうない」 はごく普通の表現ですよ。
> 大乗仏教の悟りというのは生きてしたいことが山ほどあるのです。
> (それは生に対する執着でも何でもないのです。)

大乗では悟っても死を克服できない人が多いことが良くわかりました。まじで修行不足じゃね?

211 :
バラモン教の場合、どうやって梵我一如の境地に到達するのか教えてくれ。

212 :
無我は駄目だよ、低偏差値の仏教大学で大乗仏教学んだのと、
正法眼蔵読んで何やら師の指導で何がしかの体験をしたと自称しているが、
お陰で大乗仏教こそが正しいという先入観で凝り固まっている。
大乗仏教を大事に思っているのはいいが、初期仏教や上座部仏教への批判、
しかもアーガマも満足に読んでないのに先入観だけで批判しているから尚更呆れる。
他人の宗教本、仏教本読んでの言葉遊びどうこう言ってるが、本人は言葉遊び以前に教相について大乗仏教以外ほぼ無知だし、
仏教大学で教えられ師から教えられた大乗仏教への至上主義で凝り固まっているのは、
宗教の知識だけに凝り固まっている人ーーこのスレにいるのかどうか不明だがーーよりよほどタチが悪い。

無我に必要なのはまずは自分自身への気づきだな。

213 :
>>211
仏教と同じ。結局は瞑想だよ。

214 :
>>210
君は仏教というものをゼロから勉強する必要があるね。
正しい師(悟った師匠)に就いて学ぶことが必要だよ。
では、おやすみなのじゃ。

215 :
>>214
でも誰が正しい師かは言えないwww

216 :
>>213
それはヨーガった。

217 :
一休さんは差別主義だし天皇の落胤なのを傘に立てて好き放題生きた破戒僧で中身は厨二病の俗物だよ。
厨二病なとこと頭の回転は早かった点では単なる俗物ではないんだろうが、まあそれで悟った風な言動をして気取っていただけ。
それに騙される人も多いが、実際の中身は単なる傾奇者。

218 :
>>209
>一休さんの 「死にとうない」 はごく普通の表現ですよ。
>大乗仏教の悟りというのは生きてしたいことが山ほどあるのです。

一休さんはあれ以上生きて何をしたかったんだよ?
女とイチャイチャか?

219 :
>>216
例えば、非ず非ずのアートマンって仏教の瞑想における観の事だからね。
あと、ウパニシャッドなんかでアートマンのことを睡眠にたとえて議論してるけどそれはそのまま瞑想のことを言ってるわけ。
シャンカラはシツコクそれを議論してる。。

220 :
ヨーガ・スートラ注解まで書いてるシャンカラが瞑想を否定してる訳ないし、その瞑想の説明も当然ヴェーダーンタ流だよ。

221 :
面白そうな対話で白熱してますね
後で、やりとりちゃんと読むのが楽しみw

222 :
>>128
その体験をもって

>非我も無我も同じなのじゃ。

「我ではない」と「我はない」は何がどう同じになるのか説明頂こう。

>アートマンが有ると言っても無いと言っても同じなのじゃ。

これも何がどう同じになるのか、貴方の体験をもって説明頂こう。

223 :
>>150
806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

>前者(↑)は修行者の執着を解くための説明に過ぎず

説明に”過ぎず”とは?

釈迦は
『「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。』
などとは本当は思っても考えてもなかった。認識もしていなかった。
思っても考えても認識してもいなかったが修行者の執着を説くための方便として
『「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。』
と言った、ということで良いの?

224 :
アートマンというのが涅槃のことを言っているのだとしたら、
きっと、在るとか、無いとか、我々が思考したり、認識するような在り方でもって在るわけではなないでしょう。
我々の思考というのは、無常なる五蘊の一部でしかないので。

225 :
>>175
>悟れません。悟りの生活を支えているのは日常生活だからね。
>バラモンの生活は非バラモンによって支えられていたことに
>気付きなさい。

これ、すごく共感するなー
なんで正しいこと言ってる人と喧嘩してる人がいるのだろう
正しさに腹をたてるってどういう状態なのだろう

自分の信条と自己が同化して、それに執着してて、
その執着の対象と異なる内容を提示された時に
自己を否定された、と勘違いしてるからなのかな

自分の信条なんて間違うことが当たり前である、それぐらい自分は無知である、という姿勢で生きてなく、自分は人より秀でている、自分が間違っているわけがない、に決まってる!な状態なんだろう

226 :
凄く子供染みた発言をすると、「私はそんな人間になりたくない。でも、私もそういうところが多分にある。だからあなたがたを反面教師として自らの欠点を学びたい」と思った

227 :
>wxUSr9iG
まず己の2chに入り浸りっぱなしの日常生活を顧みられよ。

228 :
言えてるw
まぁ、でもいいじゃまいか

229 :
>>222
あなたのように、宗教的知見を常識的な思考で理解できるものと勘違いしている人が多過ぎる
ようです。

<非我> も <無我> も同じ立場の概念ですが、<非我> は入り口の洞察であり、 <無我>
は 「悟り」 の体験による洞察です。ですから、宗教体験を伴わなければ空しいものです。

<非我> と <無我> をあえて理屈で説明すれば次のようになるでしょう。
<非我> というのは、「それは我によって見られている対象であるから我ではない」と
すべてのものに対して考えて行き、最終的に自分の身心に対しても同じように「自分の身心
も認識の対象とすることができるので我ではない」ということに至ります。
そして、最後に残るのは <全てを見ている意識> になりますが、それが個人性を超えた
普遍の意識であるという宗教体験を伴ったときに初めて <無我> の洞察が起こるのです。
見ている意識に個人性がある状態(= 通常の認識主体)では、いくら頭で考えてみても
<無我の洞察> は起こりません。

<無我> の洞察が起これば、「有」 の表現である臨済録の 「無位の真人」 もよく理解
できるようになります。
「無」 だと言っても 「有」 だと言っても、問題であるのは、そのように言っている主体
なのですから、対象化してアートマンを 「無」 だと言っても 「有」 だと言っても意味は
ないということです。

>>223
そのように考えていいのです。
「悟り」を開いた釈尊にとっては死はないのですから、「死によって失われる」 という
表現そのものが方便です。

230 :
>>229
無為の真人の観念はアートマンそのもの。

あと貴方は大般涅槃経を読んでないことが分かりました。

レス頂いたことにはお礼します、ありがとうございました。

231 :
瞑想やれよ人生変わるぞ
http://chaos2ch.com/archives/3582390.html

これに書いてあることは瞑想すれば皆が体験することだと思う。
でもこのスレの1はそれをいちいち誇らしげに書かないところで人の共感を呼んでいる。

232 :
別に人生変わらんでもいいやん

233 :
>>229
> >>222

> そして、最後に残るのは <全てを見ている意識> になりますが、それが個人性を超えた
> 普遍の意識であるという宗教体験を伴ったときに初めて <無我> の洞察が起こるのです。
> 見ている意識に個人性がある状態(= 通常の認識主体)では、いくら頭で考えてみても
> <無我の洞察> は起こりません。

これこそどっかの本の受け売りだなw
なぜすべてを<全てを見ている意識>が出てくるのかお前の言葉で言ってみろw

234 :
>>230
「無位の真人」 と 「アートマン(常一主宰)」 は全然違います。念の為。
「アートマン(常一主宰)」 は個人性のある存在で、「無位の真人」 には
個人性はありません。

>>233
君はまだ仏教というものを何も勉強をしていないようだね。
仏教を基礎から勉強しましょう。

235 :
>>234
やっぱり説明できずwww
立川武蔵氏が中国仏教は説明を放棄したと書いてたが、弟子も思考停止か。

236 :
日本で輪廻思想が定着しなかった理由が>>234のような奴の書込みを見ると良くわかる。

237 :
>>233
> そして、最後に残るのは <全てを見ている意識> になりますが、それが個人性を超えた
> 普遍の意識であるという宗教体験を伴ったときに初めて <無我> の洞察が起こるのです。
> 見ている意識に個人性がある状態(= 通常の認識主体)では、いくら頭で考えてみても
> <無我の洞察> は起こりません。

ちゃんと読んでみたらお前これ0点だぞ。お前も「無が有る」が全く分かってないな。
おまえが言ってることは、金さえ払えば体験できる神秘体験となにも変らん。

238 :
>>237
> そして、最後に残るのは <全てを見ている意識> になりますが、それが個人性を超えた
> 普遍の意識であるという宗教体験を伴ったときに初めて <無我> の洞察が起こるのです。
> 見ている意識に個人性がある状態(= 通常の認識主体)では、いくら頭で考えてみても
> <無我の洞察> は起こりません。

じつは俺も昔はお前と似たような考えをしてた。でもこれが致命的な間違えであると気づいたのは
臨済系の有る本だw。

239 :
>>237-238
仏教の勉強というのはいろいろな仏教入門書を読みかじって知識をため込んで
行くことではありませんよ。
正しい師(悟った師)について修行しながら、じっくり学んでいくことです。

それをしないで自分勝手にあれこれ考え続けても、死ぬまで何の宗教体験も
現われないでしょう。 では、おやすみなのじゃ。

240 :
なんかつまらん話をしとるが

体験を伴った云々の話は無我云々言っとるけど
結局、あさーい体験を無我を読んでるだけで
それは言葉で無我を語る椰子と同じ意味合いで
井の中の蛙なのは変わらんのでない

ようは、結論として同じ穴のムジナじゃんってのは変わらんってこと

小さな違いにズームして大きくしてるだけなんじゃない?

241 :
>>239
金さえ払えば体験できるようなレベルのものに何の価値がある?

242 :
ここで問題です!

Q小さな違いをズームして大きくしてるのは「誰」か?

243 :
>>234
>「アートマン(常一主宰)」 は個人性のある存在で、「無位の真人」 には
>個人性はありません。

アートマンはブラフマンと一如なのに何で個人性のある存在になるの?w

ブラフマンは宇宙、アートマンは小宇宙、
でも同じ宇宙であるにもかかわらず、ほとんどの人は実際には合一できずに輪廻転生を繰り返す。
というのは、自分の実体がアートマンであるのを悟らず、
実体性のない自我(こちらが個人性のある存在となる)を自分自身と思っているから。

常一主宰とか仏教側(しかもゴータマはそんな用語はマガダ語でも使わなかったと思う)の見方でしか
アートマンを語れないのでは仕方ありませんね。

244 :
無我に関する理解で戦うことで、実際の生活がどう変わるのだろうか?
お互い仏教好きなんだから、共感しあえるところで分かりあったら、少なくとも明日の朝には気分良く目覚められるでw

245 :
結論

住人 「無我なのか真我なのか?」
仏陀 「おまいらには関係ないよ。目の前のやることやろうぜ」
一休 「釈迦といふいたずらものが世にいでて、おほくの人をまよはするかなw」

246 :
一休が迷ってただけじゃない?

247 :
五蘊は無我。
涅槃は無記。
涅槃は五蘊じゃない。

248 :
じゃあやり直す!

住人 「無我なのか真我なのか?」
仏陀 「おまいらには関係ないよ。目の前のやることやろうぜ」
住人 「おまいが言うなwww」
一休 「釈迦といふいたずらものが世にいでて、おほくの人をまよはするかなw」
住人 「おまいは論外www」
一休 「死にとうないw」

249 :
一休さんはパンクだな
俺にとってはパンクパイセンだw

250 :
>>248
>仏陀 「おまいらには関係ないよ。目の前のやることやろうぜ」

いや、コレはコレで正しいんだよね。

251 :
そうだよ、でも現実問題、迷わせてるじゃん

252 :
まぁ、厳密に言うと、迷わせてるのは仏陀にじゃなくて自我なんだけど、弟子が手放さないならしょうがない

253 :
幼子がこのスレ見たら、ねぇねぇ、お母さん、なんであのおじちゃんたちは喧嘩してるの?って聞くだろうな

そんで、徳の高いお母さんは自分が嫌いだからなんじゃない?と答えるんじゃないかな

それが現実に起こってることだと思われる
まぁ、それはそれでいいけどねw

254 :
まあな。そもそも仏陀は「無我」なんて言葉使ってないだろうし。言葉にすると執着してしまう。
シャンカラなんかはアートマンに関してあれこれ言っといて最後に
「お前らアートマンに執着するなよ。執着が苦しみの原因だからな」
なんて言ってるからな。

255 :
>>242
>>134から流れがおかしくなった

256 :
結論

どいつもこいつも真我から程遠い、という意味では一緒で、だから同志で仲間じゃまいか、だなwww

257 :
真我というのが、涅槃のことを指しているなら、言葉上の名称の問題でしかない。
議論しても仕方ないと思う。

258 :
仏教徒のわたしは、個人的には
梵我一如は、涅槃ではないと思っているけれども。

259 :
そうだそうだ、その上で、差異を発散して理解を深め合う場合はみんなのためになるんだ!

ようするに、おまいら、ありがとう!勉強になった!

だからもっと続けてくれ!

260 :
ヒンズー教の梵我一如というのは、非想非非想(有頂天)のことだろうと思ってる。
根拠のひとつは、釈尊がウッダカ・ラーマプッタに師事して後、そこを去ったエピソード。

261 :
僭越ながら、梵天、しかも無色界梵天になってしまうと、気の遠くなるような歳月を
そこで至福の中に過ごしてしまって、涅槃の機会を逃すことになるわけなので、
生きているうちに、仏縁のあるうちに釈尊の話も聞いておいた方がいいのとちゃうか、
と一応お勧めはしておきたい。

仏陀は、真のバラモンともいわれていたらしいし。

262 :
>>243
>ブラフマンは宇宙、アートマンは小宇宙、
>でも同じ宇宙であるにもかかわらず、ほとんどの人は実際には合一できずに輪廻転生を繰り返す。

それは言葉の定義の問題ですね。
最近はアートマンは真我と訳されるようですが、以前は真我はプルシャで
アートマンは常一主宰(個人性の核のようなもの)と訳すのが普通でした。
(ブラフマンは同じで、梵ですが。)

アートマンを個人性のないものとして定義するなら、それは 「無位の真人」 に近い概念には
なりますが、決して同じものではありません。なぜなら、「無位の真人」 は、さらに上位の
何かと合一する必要などはないからです。つまり、ヴェーダンタ哲学と禅・仏教は根底となる
世界観が全く異なるのですから、両概念を比較して同一・非同一を議論することは無理なのです。

そして、もっと本質的な問題があります。
それは、アートマンだブラフマンだと言っている現代の人達は(専門の学者も含めて)単に観念
的真理として語っているだけで、実際に自分が 「梵我一如」 の世界に入って弟子を導いている
ような人は一人もいないということです。
ところが、仏教の場合はさまざまな系統において 「至るべきところに至った人」 が沢山出ていて、
多くの人々を導いています。

ヴェーダーンタ哲学に由来する宗教はすべて個人が清浄になることが求められますが、大乗仏教の
「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」 などと比べると、やはり、大乗仏教の方が
哲学的にも内省的にも深いことが解るはずです。

まあ、実際に 「至るべきところに至れる」 ならヴェーダーンタ哲学でもいいと思いますが、
果たしてあなたはそうなれるのでしょうか・・・?

263 :
体験が大事やでと言いながら
言葉の定義に固執する矛盾にすら気付いていないのは
一体何が原因なのか、各々で考えて見ませう

264 :
>>262
>「無位の真人」 は、さらに上位の何かと合一する必要などはないからです。

真人は老荘思想の完成者のことで根本真理とも言える「道」と合一します。

265 :
>>262
>大乗仏教の「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」 などと比べると

誤解を招くので親鸞の「不断煩悩得涅槃」と言い換えましょう。
能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
http://www.indies4japan.com/?p=161

初期のインドの浄土教徒の間では五濁悪世においてはとても仏道修行など望むべくもないから、
阿弥陀仏に頼って極楽浄土に生まれて、そこで仏道を修行し、
やがて悟りを開いて涅槃に入り仏になるということを目指していた。
ところが日本の親鸞によると、浄土に往生することが、すなわち涅槃である(往生即涅槃)。
親鸞の思想は、浄土教の目指した方向に進んで行って、ぎりぎりのとこほまで達したといえよう。
(中村元)

ただし注意が必要です。
親鸞もあくまで悟りは極楽浄土にて開くものとしています。
>信心の定まるときにひとたび摂取して捨てたまわざれば、六道に輪廻すべからず、
>しかればながく生死をば隔て候ぞかし。
>かくのごとく知るを、さとるとは言い紛らかすべきや。 あわれに候をや。
(歎異抄十五章)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/4022/tanni/04.html

266 :
>>262
> >>243
> ところが、仏教の場合はさまざまな系統において 「至るべきところに至った人」 が沢山出ていて、
> 多くの人々を導いています。

だからそれが誰なのか一人でも名前を言ってみろよ。「至るべきところに至った人」が↓

> そして、最後に残るのは <全てを見ている意識> になりますが、それが個人性を超えた
> 普遍の意識であるという宗教体験を伴ったときに初めて <無我> の洞察が起こるのです。
> 見ている意識に個人性がある状態(= 通常の認識主体)では、いくら頭で考えてみても
> <無我の洞察> は起こりません。

こんな間抜けな事言ってるんだぞ。

267 :
>>262

> アートマンを個人性のないものとして定義するなら、それは 「無位の真人」 に近い概念には
> なりますが、決して同じものではありません。なぜなら、「無位の真人」 は、さらに上位の
> 何かと合一する必要などはないからです。つまり、ヴェーダンタ哲学と禅・仏教は根底となる
> 世界観が全く異なるのですから、両概念を比較して同一・非同一を議論することは無理なのです。

だから何度も言ったろ。「無が有る」がまるで判ってないと。まあ、臨済系は昔から外教と同じと批判されて
来たから過剰反応するんだろうけどw。

268 :
同じ歎異抄十五章の

>弥陀の願船に乗じて生死の苦海を渡り、報土の岸につきぬるものならば、
>煩悩の黒雲はやく霽れ、法性の覚月すみやかに現れて、
>尽十方の無碍の光明に一味にして、
>一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候え。

(現代語訳)
阿弥陀仏の本願の船に乗って、苦しみに満ちた迷いの海を渡り、浄土の岸に至りついたなら、
煩悩の雲がたちまちに晴れ、さとりの月が速やかに現れて、
何ものにもさまたげられることなくあらゆる世界を照らす阿弥陀仏の光明と一つになり、
すべての人々を救うことができるのです。そのときにはじめてさとりを開いたというのです。

この部分が往生即涅槃を示しています。

269 :
> そして、最後に残るのは <全てを見ている意識> になりますが、それが個人性を超えた
> 普遍の意識であるという宗教体験を伴ったときに初めて <無我> の洞察が起こるのです。
> 見ている意識に個人性がある状態(= 通常の認識主体)では、いくら頭で考えてみても
> <無我の洞察> は起こりません。

この発言がなんで0点なのか可哀そうだから説明してやるよ。本当は0点ですらない。マイナス点だ。悪化してるw。
サーンキャやヨーガのなどの二元論では純粋精神(プルシャ)と原質(プラクリティ)という二元を立てる。純粋精神(プルシャ)
は文字通り精神的、原質(プラクリティ)は物質的なものだ。純粋精神(プルシャ)は観照者とも呼ばれている。
問題は我々人間という存在はその意識も含めて原質(プラクリティ)、つまり物質的な存在ということだ。にもかかわらず、
その原質(プラクリティ)は自分のことを精神的なものだと勘違いして思い上がってる。これが全ての問題の始まり。
で上の文を読んでみると、まさに物質的存在である原質(プラクリティ)が自分のことを純粋精神(プルシャ)だと言い始めてる
訳ね。こいつは厳しい修行をして宗教体験(w)とやらをして原質(プラクリティ)がどんどん自惚れを強めていっている状況なのね。
サーンキャやヨーガから見れば目的からどんどん外れて悪化してるんだからw。

で、この考え方は二元論のサーンキャやヨーガだけでなく一元論のヴェーダーンタも同じなわけ。ヴェーダーンタは一元論
特有の説明の面倒くささがあるけどな。

270 :
>>262

> ヴェーダーンタ哲学に由来する宗教はすべて個人が清浄になることが求められますが、大乗仏教の
> 「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」 などと比べると、やはり、大乗仏教の方が
> 哲学的にも内省的にも深いことが解るはずです。

清浄に成れないだけだろw。これは、大乗がヴェーダの宗教よりもレベル的に下だと宣言してるような
もんだけど良いのか?w。

> まあ、実際に 「至るべきところに至れる」 ならヴェーダーンタ哲学でもいいと思いますが、
> 果たしてあなたはそうなれるのでしょうか・・・?

大乗で 「至るべきところに至れる」 人間が死ぬ間際に「死にとうない」なんて言うレベルなら
なーんも修行もしてないそこらへんの人間と同じだろwww

271 :
死にとうない、いいじゃん
愛があってw
一休さんは菩薩道一直線だな

272 :
とっとと人間界(苦界)から解放されたい出家僧が、死にたくない、などと本心で思ってるはずがないだろ。
ジョークというか、一休流のカブキだろ。

273 :
>>272
> とっとと人間界(苦界)から解放されたい出家僧が、死にたくない、などと本心で思ってるはずがないだろ。

これは悟ってない証拠だぞ。

274 :
菩薩はみんなが救われるまで何度でも生まれ変わるんだい!

275 :
なんか、死にとうないって「あぁいい人生だった」に対する素直な感想なんでないかな
憶測でしかないけどさ

276 :
>>265
>ただし注意が必要です。
>親鸞もあくまで悟りは極楽浄土にて開くものとしています。

それは初心者の間違った理解なのです。
大体、歎異抄は浄土真宗の奥義が書かれた書物ではありません。
歎異抄の文言で親鸞思想を説明することは無理だということは常識なのですよ。
親鸞思想は教行信証と末燈鈔などを読まなければなりません。
「お浄土もらって娑婆におる」 という妙好人の浅原才市の言葉が
浄土真宗の悟りをよく表わした言葉だと言えるでしょう。

>>269-270
君が、>>179 で書いた「言葉遊び」をしている典型なのだよ。
何の体験もなく、ただ本で仕入れた純粋精神(プルシャ)や
原質(プラクリティ)などという言葉を頭の中で整理して
理解したつもりになっている御目出度い人だね。

>>272
その通りですね。

総じて、ヴェーダーンタ哲学や原始仏教にとらわれている人々は
大乗仏教の根本がわかっていないので、一休禅師の言行などは全く
理解できないのです。

277 :
原始仏教徒 「原始仏教が最強」
大乗仏教徒 「大乗仏教が最強」
仏陀・キリスト 「おまいらより徴税人のほうがよっぽどましだわw」
幼子 「ねぇ、お母さんなんであのおじちゃんたち意地が悪いの?」
徳の高い母さん 「自分より偉い人を利用して自分を偉く見せたいからよ」
一休 「フェイクの刀www」

278 :
>>276
> 君が、>>179 で書いた「言葉遊び」をしている典型なのだよ。
> 何の体験もなく、ただ本で仕入れた純粋精神(プルシャ)や
> 原質(プラクリティ)などという言葉を頭の中で整理して
> 理解したつもりになっている御目出度い人だね。

言葉遊びではなくお前はサーンキャやヨーガではじめに否定されることを主張して喜んでるんだよ。
非ず非ずのアートマンにおいて、最も否定しなければいけない物を残してるんだからな。これは言葉遊び
でも何でもない。正に実践の核だ。

> >>272
> その通りですね。
> 総じて、ヴェーダーンタ哲学や原始仏教にとらわれている人々は
> 大乗仏教の根本がわかっていないので、一休禅師の言行などは全く
> 理解できないのです。

そうやってインドから仏教が滅んで言った訳かw。そして欧米なんかでは仏教はラーマクリシュナミッションの
おこぼれに授かってるだけだろw。どこに行ったんだ? 大量に居るはずの「至るべきところに至れる」 人間は?w

279 :
>>278
>大量に居るはずの「至るべきところに至れる」 人間は?w

君は引きこもりの人ではないのかな・・・?
本を読んで何か理解したつもりになっているだけで、現実生活には何も役に立たない知識
ばかりを頭に詰め込んでいるだけなのだろう。
私はいろいろな宗派のお寺と関係していたので、、一般の信者さんや居士と言われる人々で
安らかな境地に達した人に沢山会ってきたのだよ。一般人なので名前などは意味がないのだよ。
君も役に立たない理屈はいい加減で捨てて、引きこもりを治してくれる真実の教えを学ぶこと
が大切でしょう。

280 :
>>276
>親鸞思想は教行信証と末燈鈔などを読まなければなりません。

はいはい、教行信証と未灯抄で親鸞は何と語ってますか?
現世涅槃を説いてますか?
まさか不断煩悩得涅槃や証知生死即涅槃の涅槃を現世涅槃だと誤読してないですよね?

281 :
>>279

> 本を読んで何か理解したつもりになっているだけで、現実生活には何も役に立たない知識
> ばかりを頭に詰め込んでいるだけなのだろう。

やっぱり現実生活への執着が凄い。煩悩丸出しってやつか。あ、煩悩即菩提だっけwww
そんなこと言ってるからインドでは仏教徒は怠け者と思われて衰退したのかなw

で、お前はその馬鹿丸出しの宗教体験によって現実世界でどんな役にたってるんだ?
言ってみろよ。


> 私はいろいろな宗派のお寺と関係していたので、、一般の信者さんや居士と言われる人々で
> 安らかな境地に達した人に沢山会ってきたのだよ。

でも最後はやっぱり「死にとうない」wwwwww

282 :
>>280
「お浄土もらって娑婆におる」 の意味も理解できないのですか?

それなら、浄土真宗について語るのはやめた方がいいでしょう。

http://bschawaii.org/shindharmanet/japanese-course-intro/c11/

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF

>>281
>やっぱり現実生活への執着が凄い。煩悩丸出しってやつか。

君は先ず心の病気を治すことが大切ですね。
その心の病気から自由になりたいから宗教に関心を持ったのでしょう。
それなら、現実逃避の手段としての観念遊びはやめて本来の目的に戻りましょう。
君の「現実生活への執着」を捨てるという思いは、現実逃避であることに気付くことが
大切です。

283 :
>>282
結局現実生活でどんな役に立つかは言えないわけねwww
なんか俺の人物像を勝ってに作り上げてるけど観念遊びしてるのはどっちかなw

284 :
>>283
君の書き込みを読むと、君が心を病んでいる人だということはすぐにわかるのです。
君に大切なことは実際に生きている師を見つけて仏教を学ぶことでしょう。
本を読んで自分勝手な解釈に浸っていても宗教体験は現われません。

285 :
>>284
> 君の書き込みを読むと、君が心を病んでいる人だということはすぐにわかるのです。

お、もしかして神通力ですかwwww.。しかし平気でオカルト真っ青なこと言い出すほど追い詰められてるんだね。
ごめんねw。

> 君に大切なことは実際に生きている師を見つけて仏教を学ぶことでしょう。
> 本を読んで自分勝手な解釈に浸っていても宗教体験は現われません。

あなたの体験が偽物でより執着を強めるような代物なんでそんな宗教体験は要りませんし、
あなたレベルのような人物も必要有りませんw。

286 :
>>285
素直にならなければ、あなたの心の病気は治りませんよ。
もちろん、ここで告白する必要はありません。
自分の中でだけで深く反省すればよいでしょう。

287 :
>>282
やっぱり誤読していましたね。
http://komyouji.com/hougocalender/2012-08.html

でもあなたは誤読したまま、正定聚した我の身は仏と「全く等しい」と自分に言い聞かせてもいいかな。
それで安らぎを得られるのでしたら、そしてその安らぎが過ぎ去らず継続するのなら、
初期仏教経典にあるようにその安らぎをもって涅槃とするという見方もできなくもないですし。

Sn.757
或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、 そのものはそれとは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。 過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

Sn.758
安らぎ(ニルヴァーナ)は虚妄ならざるものである。 諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

288 :
>>284
>君に大切なことは実際に生きている師を見つけて仏教を学ぶことでしょう。

この部分が気になったのですが
やっぱり師は必要なのでしょうか?

また、大切なことは仏教を学ぶことなのでしょうか?
こころの病の大半は仏教を学ぶ以前のところからやって来てる気がします
また、必ずしも師は必要ない気もします

師を見つけてって投稿を前にもされてたので、強調してるのかなと思ったので質問させてください。

289 :
>>287
君も >>179 で書いた「言葉遊び」人間ですね。
誤読も正読もないのです。妙好人のように 「行き着いた」 体験があれば、
その上にさらに求めるべき境地などはもうないのです。
君のように体験もなく、ただ言葉の上で 「同じ」 と 「等しい」 は違う
などと言ってみても何の意味もないことに気付くことが大切です。
ヴェーダンタ哲学や原始仏教至上主義の人達はそういう人達がほとんどですね。
観念だけで 「〜〜が完全な境地だ」 などと言って、自分が将来そのようになれる
かのごとく夢想・錯覚してしまっているのです。
(自分自身の足もとを見ずに、宗教を言葉遊びの世界にしてしまっているのですね。)

290 :
>>289
質問に答えられないならレスしなくていいですよ

291 :
>>289
引きこもりだの心の病気だの、あなたの達磨批判、感動しましたwwww

292 :
>>289
> ヴェーダンタ哲学や原始仏教至上主義の人達はそういう人達がほとんどですね。

そもそもヤージュニャヴァルキヤが悟ってないとか言って否定して、梵我一如は大乗よりレベルが下だとか言い出したのはお前だろ。
お前のほうが大乗至上主義の基地外だろ。そもそも日本でヴェーダーンタに興味がある奴は多かれ少なかれラーマクリシュナに影響
受けた人間が多いだろうから、そんな連中がヴェーダンタ哲学や原始仏教至上主義な訳ねーだろ。

293 :
>>289
あーまた体験に逃げちゃった。

ま、それであたなの「神経症」が落ち着くのなら
誤読して自分にとって都合がいい解釈の親鸞の言葉の下で得られた
自己の体験とやらをあなた自身の拠り所としてれば良いかな。

ただ親鸞は煩悩肯定主義だったような発言だけはやめてね。
親鸞が誤解されてしまうのは悲しいから。

294 :
一応、教行信証の現代語訳&解説を貼っておきます。
http://seppou.com/08kyou/index.html

パソから見られる場合はCtrl+Fで検索バーを出して煩悩と入れると親鸞が煩悩をどう捉えていたかわかります。
体験の人はどうでもいいですが、体験の人のレスで親鸞が誤解されると悲しいので、
もし親鸞が煩悩肯定主義なのかなと疑念を持たれた方がいましたら検証してみてください。

295 :
お釈迦様はシュードラであろうとアウトカーストの不可触民であろうと遊女であろうと一切差別をせずに弟子にしたりした菩薩でもあった
一休はハンセン病患者やえたを軽蔑し差別していたこんな人菩薩でも何でもない

296 :
>>293
>ただ親鸞は煩悩肯定主義だったような発言だけはやめてね。
>親鸞が誤解されてしまうのは悲しいから。

「煩悩肯定主義」?
君の国語力は小学生並みだね。
私の書き込みのどこに親鸞聖人が煩悩肯定主義だと書いているんだね。
まともに人の文章を読む力もない人間が「教行信証」を読もうとしても無理」ですよ。

297 :
>>288
>やっぱり師は必要なのでしょうか?

仏教を学ぶのに正師は不可欠です。
師匠なくして宗教体験が現われる人は一部の例外的な人
(前世でほとんど悟っていたような人)だけだと言われています。

>大切なことは仏教を学ぶことなのでしょうか?

そうです。仏教を学ぶことが大切なのです。
(頭だけで学ぶのではなく、頭でも心でも体でも学ぶのです。)

>>こころの病の大半は仏教を学ぶ以前のところからやって来てる気がします

原因はさまざまでしょう。しかし、「無明」が晴れれば心の病気はすべて治ります。
特効薬のようなものです。

298 :
>>297
お返事ありがとうございます

>仏教を学ぶのに正師は不可欠です。
>師匠なくして宗教体験が現われる人は一部の例外的な人
>(前世でほとんど悟っていたような人)だけだと言われています。

私はそう思いません
仏陀は輪廻という法の力で学びを深めたし
師は別に生きてる人じゃなくてもいいわけです
夢の中で教わればいい
また、まだその段階ではなければ過去の私から学べばいい
学び方なんて砂漠の砂の粒の数ほどある
これだけが正しい、なんてないと思いますよ

>そうです。仏教を学ぶことが大切なのです。

なぜ、精神疾患から救われるために仏教を学ぶことが大切なのですな?
まともな求道者なら、むしろ宗教にはまだ近寄らないほうがいい、と本当のことを教えると思います

おそらくあなたは魔境に入ってるんですね
言葉通り応援してるので、そこから抜け出してください

299 :
>>298
君はまだ何も勉強していない若い人のようですね。
年寄りの言うことは聞いておく方がいいですよ。

>なぜ、精神疾患から救われるために仏教を学ぶことが大切なのですな?

読解力は大丈夫かな?
その答えは>>297に書いたでしょう。

>そこから抜け出してください

抜け出さなければならないのは君の方です。
私はもうすべてから抜け出したのだからね。それも、ずっと以前にね。

300 :
> 抜け出さなければならないのは君の方です。
> 私はもうすべてから抜け出したのだからね。それも、ずっと以前にね。

魔境こえー

301 :
>>299
宗派が違うのさ
魔境に入ってたらそんなことにも気付けないんすね

ということで、>>299さんに絡んでる人はもう底が見えたんだから無意味な争いやめて無我と真我のありがたい話を続けようぜw

302 :
大人だな

303 :
>>296
>私の書き込みのどこに親鸞聖人が煩悩肯定主義だと書いているんだね。

不断煩悩得涅槃の意味を履き違えて、
歎異抄の「悟りは浄土にて開く」というのは間違った理解であり親鸞思想ではないなどと言ってるようではね(>>276

体験、国語力、神経症、言葉遊び…
あなたは「根拠を挙げて自身が吐いた言葉への弁明」ができなくなるといつもこのパターンに逃げるね。

304 :
このスレ好きなんよw
エゴエゴの争いで穢されたら哀しい

305 :
>>303
君にまともな国語力があるとはとても思えません。
小さい頃からの学力を思い出せば、君自身がわかっているでしょう。

「悟りは極楽浄土にて開くもの」などと考えているのは浄土真宗の入門者
だけなのです。
大体、個人の心境が進んで「悟り」に至るなどという考えを根本から否定したのが
大乗仏教なのですから、君は大乗仏教というものを全く理解していないのです。

306 :
>>257-258
真我というのがアートマン単独を指してるのかアートマンブラフマンを指しているのか分からないけど、
梵我一如と涅槃を同一視しているのならその可能性はかなり大きいと思う。

しかしラマナ・マハルシの言葉より

信奉者:
 ブッダのニルヴァーナとは何ですか。
マハルシ:
 個人性の喪失です。
http://arunachala-saint.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html

個人性とはアートマンではない自我のことでそれを手放すことでアートマンが残る、
それがニルヴァーナだと言っているのだと思う。
なので、貴方の真我がアートマン単独を指していてもマハルシの思想からだとそれが涅槃を指しているということになる。

ちなみにマハルシは誰かとは違って、体験が先にあってその後不二一元論の教理と自分の体験が同じだと確認したという。
全くのバイアスが無い状態でいきなり悟ったのだから間違いなく本物の覚者でしょう。
「わたしは、ブラフマンや輪廻などを聞いたことがなかった。
万物の根底には、 一つの絶対的な本質、すなわち非人格的な実在があるということを知らなかった。
のちにティルヴァンナマライ(アルナーチャラの丘のふもとの町)で、いくつかの 古典を読んだとき、わたしは、つぎのことを発見した。
すなわち、わたしが直観的 になんの分析することもなく体得していたことを、書物は分析しているということ を。」
http://www.geocities.co.jp/noboish/case/syukyoka/ramana.htm

>>260
梵我一如と非想非非想は違うと思う。
根拠の一つは、ウッダカ・ラーマプッタが経歴不詳の沙門であるということしか分かってないこと。
もう一つは、釈迦に梵我一如を体得させるために非想非非想を体得させる意図は見られなかったこと。

>>261
僭越ながら梵天は無色界にはいない。
天部の神様がいるのは欲界から色界。

307 :
>>262
>つまり、ヴェーダンタ哲学と禅・仏教は根底となる
世界観が全く異なるのですから、両概念を比較して同一・非同一を議論することは無理なのです。

法身説法と言って真理の仏である大日如来が三千世界の中心から宇宙語で常に説法しているのw
真理は常に一つだから、その宇宙語を何らかの形で受信できれば悟れるわけで、
それを受信したのが釈迦でありキリストであり老子でありバラモンの聖者でありギリシャ哲学者なの。
禅でも無情説法の公案として有名でしょう。
だから真理を説く者は大体同一の事を説くのさ、受信感度(機根)などによる細かな差異はあるだろうがね。

その意味では、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ラマナ・マハリシ、シルディ・サイババ、
バクワン・シェリ・ラジニーシ、クリシュナムルティといったインドの聖者の方に共感を覚える。
特定の宗教や教義に固執しない、万教同根的な思想で真理を追究し体得していった聖者にね。

というわけで、両概念を比較するのは無理でもなんでもない。

>大乗仏教の方が哲学的にも内省的にも深いことが解るはずです。

哲学?内省?それらよりも体験が優先だろう?君の場合w

308 :
>>307
>というわけで、両概念を比較するのは無理でもなんでもない。

と言いながら、「無位の真人」と「アートマン」が同じだという大間違いを
しているのだから笑い話だね。
そのような考え方では、大乗仏教というものは逆立ちしても理解できませんよ。

309 :
取り敢えず、おまいら仏陀の無記について思いを馳せたら?

310 :
>>307
大間違いというのは言い過ぎだったので訂正したい。
確かに重なる部分はありますね。
ただ、重要なことは、どちらの表現も本来は言葉で表わせないものを
モデル化して表しているに過ぎないと言えるでしょう。
だからこそ、お釈迦様の教えから一見矛盾する禅と浄土が生まれて来る
訳ですね。

311 :
無我が出没するスレは毎回殺伐とした雰囲気になるな
これも無我の独善性のなせる業だな

312 :
無我は自分のスレに帰って説法してればいいよ

【不安障害治癒】「無我」の教え Part.2 【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.sc・
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1488727814/

313 :
>>309
「〔自己が存在することは〕否定できないから、『に非ず、に非ず』といって〔自己が言外に〕残されたのである。
人は、『これはわたくしではない(idaM na Aham)、 これはわたくしではない』といったふうにして、〔自己に〕到達するのである」

(シャンカラ)

314 :
顕浄土真実証文類(教行信証) 四

愚禿釈親鸞集

【1】 ^つつしんで、 真実の証を顕せば、 それは*他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、 この上ないさとりという果である。
^この証は必至滅度の願 (第十一願) より出てきたものである。 ^この願をまた証大涅槃の願とも名づけることができる。
 ^さて、 *煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れた*衆生が、 仏より回向された信と行とを得ると、 たちどころに*大乗の*正定聚の位に入るのである。
正定聚の位にあるから、 浄土に生れて必ずさとりに至る。
^必ずさとりに至るということは、 *常楽我浄という徳をそなえることである。
この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽した境地、 すなわち畢竟寂滅に住することである。
この寂滅はこの上ないさとり、 すなわち無上涅槃である。
この無上涅槃は消滅変化を超えた真実そのもの、 すなわち無為法身である。
この無為法身はすべてのものの真実のすがた、 すなわち実相である。
この実相はすべてのものの変ることのない本性、 すなわち法性である。
この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、 すなわち真如である。
この真如は相を超えた絶対の一、 すなわち一如である。
^そして阿弥陀仏は、 この一如よりかたちを現して、 *報身・*応身・*化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。
http://www.yamadera.info/seiten/c/honden4_j.htm

315 :
>>311-312
議論になるのは悪いことだと思い込んでいる君がおかしいだけ。
昔から宗教・宗派間での議論は当然であって、親鸞聖人も天台宗の学僧たち
からの強い批判に応酬するために教行信証を書く必要があったのだ。
唐代には禅宗各派同士のはげしい議論の応酬があったことも有名だ。
(「初期禅宗史書の研究」・柳田聖山著)

316 :
>>314
> ^さて、 *煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れた*衆生が、 仏より回向された信と行とを得ると、 たちどころに*大乗の*正定聚の位に入るのである。
>正定聚の位にあるから、 浄土に生れて必ずさとりに至る。

回向…
B浄土真宗で,阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し,またこの世に戻って人々を救済すること。
前者を往相廻向,後者を還相(げんそう)廻向という。
http://www.weblio.jp/content/%E5%9B%9E%E5%90%91

正定聚…
〘仏〙 三定聚の一。必ず涅槃(ねはん)の世界に至ることに定まっているものたち。
見道以上の聖者をいう。
真宗では,浄土往生が決定している他力念仏の行者をいう。
http://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E5%AE%9A%E8%81%9A

317 :
ありとあらゆる生き物がアートマンこれを持ち、宇宙原理であるブラフマンと究極的には同一のものとされる(梵我一如)。
それを知識としてだけでなく、真に認識することにより輪廻から脱出することができるという。

言葉としてのアートマンは「自分」「自己」「我」という意味を持つが、
ブラフマンと一体であるところのアートマンには、記憶や認識、思考といった
一般的に「自己」と聞いて思い浮かばれる物を構成する要素を持たない。
肉体や精神をアートマンとみなすことは無明(無知)によるものであり、真理ではないとされる。
人格的要素を持たない、という意味で他文化における「霊魂」とも異なる。

318 :
http://i.imgur.com/d6qYZ5P.jpg
http://gorich.jp/blog-entry-478.html

319 :
栄光のからだの概念って仏教ではどう呼ばれてるか知ってる人はいますか?

キリストは栄光のからだで復活するわけですが
からだを持つから個別でもあるし同時に全とも一つでもある

単純にアートマンやブラフマンを語る人間は肉体でそれを書いたり語ったりするわけで、睡眠時の魂のからだでアートマンやブラフマンを体験したとしても魂のからだはあるわけで

320 :
アートマンやブラフマンを「語る」時点で個別性に「戻ってる」わけですよね

じゃあなぜ個別性は必要なん?って話になる

321 :
>>319
まず「栄光のからだ」とは何なのか分かりやすい説明を

322 :
>>321
キリストがゴルゴタの十字架上での贖罪を果たした後の地獄巡りでの解放、その後で復活するわけですが、その際に人類に現れた姿(からだ)のことです
「肉のからだ」に対する「霊のからだ」の開示、という意味で、霊の肉に対する勝利、天の地に対する勝利の象徴でもあります

ようするに、キリストは人の子として、人が歩む道やゴールを人類に示すわけですが、そのゴールの象徴として霊のからだを示すわけです

323 :
個人的には仏教とキリスト教の違いはこの、栄光のからだにあるんでないかな、と思っとります

だから、霊のからだという単語で、それが仏教が語るあの単語、概念となかなか想起しづらいんでないかな、とも思います

でも、詳しい人いないかなと思い質問しました

324 :
>>323
それは仏教の三身(法身・報身・応身)の考え方と似ていますね。
ただ、仏教の中でも解釈はさまざまですし、仏教とキリスト教では土台から違う部分が大きいので、一対一の対応を考えるのは無理があるでしょう。

325 :
>>324
はたしてそうだろうか

326 :
答えを持ってるとしたら大乗だな

327 :
二元論に立てば
肉の体はプラクリティ
霊の体はプルシャ(霊我、神我)

一元論だと
肉の体は現像世界
霊の体はブラフマンアートマン

仏教だと
肉の体は欲界、色界
霊の体は無色界
もっとも、華厳教ではこの三界も心が映し出したものと説くんだっけな(三界唯心)
その三界唯心を説いている法界にこそ霊の体があるかもしれない!?

こんな感じかなあ?

328 :
うーん、違うなぁ

329 :
>>328
どう違うのか説明してくれないと

330 :
>>323
原始経典の説く「意生身」やチベット僧の「虹化」(虹の身体)が該当しそうですが、
広義的には大乗でいう「化身」(ニルマーナ・カーヤ)に含まれるのかもしれません。
--------------------------------------------------------------------------
 『「虹化(こうか)」とは密教の修煉者が長年の修煉を終え、この世を離れて天国へ行く際に見られる現象である。空に輝く
虹のように光を放ちながら身体が徐々に溶けて縮んでいき、修煉の完成度が高い場合は完全に溶けて消え、修煉の完成度が低
い場合は数十センチまで縮んだ身体が残る。小さくなって残った身体の姿形は本人と全く同じだが、鋼鉄のように硬くなる。』
(チベット密教僧の「虹化」実例)
http://www.epochtimes.jp/2015/12/24895.html

 『仏がかりに現した姿をいう。サンスクリット語ニルマーナカーヤnirmakyaの訳。変化した身体の意。変化身(へんげしん)
ともいう。仏の三身(法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、化身(けしん))の一つで、仏が生きとし生けるものを救済しよう
として、その生きものと同じ姿をとったものをいう。教化すべき人々の能力や素質に応じて現れる身体という意味から、応身
(おうじん)とも漢訳される。
 三身とは(1)法身(ダルマ・カーヤdharma‐ka^ya),(2)報身(サンボーガ・カーヤsambhoga‐ka^ya),(3)応身(化身,ニルマーナ
・カーヤnirma^ṇa‐kaya)の3種,あるいは(1)自性身(スババーバ・カーヤsvabha^va‐ka^ya),(2)受用身(サンボーガ・カーヤ
sambhoga‐ka^ya),(3)変化身(ニルマーナ・カーヤnirma^ṇa‐ka^ya)の3種をいう。』
(コトバンク)

331 :
 『また、このようにして心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は思考から成り立つ身体(意生身を化作する
ことに、心を傾け、心を向けます。彼はその(物質的な)身体から、別の身体、(すなわち)形はあるが思考から成り立ち、
四肢も完全にそなえ、(目や鼻の)感覚器官もそこなわれないままの身体をつくりだします。
(『ディーガ・ニカーヤ第二経』出家の功徳/沙門果経85)
<訳注85-1>
 父母から生まれた肉身ではなく、意によってつくり出された身体。形はあるが、物質的ではない。死後の中有の存在や、
禅定にはいったときの身体がこれに相当する。 しかし、ここでは、恵学を完成することによって、思いのままに、随意に、
自分の身体を物質的な肉体から離脱させることをいうのであろう。』
(『世界の名著1/バラモン経典 原始仏典』中央公論社刊p532-533)

332 :
チベット密教僧の「虹化」実例・・・???

それらは神格化のための幼稚なフィクションで、そんなものを信じているようでは
真の宗教の世界を知ることはできません。
お釈迦様でもマハーヴィーラでもそのような最期の姿は伝えられていないでしょう。
真の悟りを知っている弟子達には、そんな空想話を作り上げる必要はないからです。
「沙門果経」などは悟りを知らなかった弟子達が観念の世界を現実として綴った
おとぎばなし経典であると考えるのが正しいでしょう。

333 :
沙門果経って初期経典だし有名だけどフィクション性強いんですか?
自分はくわしくないですけど他の初期経典と照らしてどうなんですかね
たしかに超常的なことが書かれて独特なかんじはあるけど

334 :
阿難が釈尊にその金色の美しい衣をお着せしました。
すると、不思議なことに、釈尊の皮膚の色が金色に輝き出したのです。

すると、釈尊は申されました。
「阿難よ、如来は二度皮膚の色を金色に輝かせる。
この二つの時間に、如来の皮膚の色はきわめて清らかに、美しくなるのである。
一度目は、無上の仏陀の悟りを得た夜であり、二度目は、無余依涅槃界に入る夜である。
阿難よ、今夜の夜の終わる最後に、クシナガラのマッラー族の林の沙羅双樹の間で、余は般涅槃に入るであろう。さあ阿難よ、河へ行こう」

ブックサが持ってきた柔らかい金色に輝く一対の絹衣によって釈尊の体は金色に輝いたという、現代の仏像が一般的に金色に輝いているのは、この故事に来歴していたのですね。
http://www.saikoji.net/houwa/houwa1110.html

335 :
私は(私の)師匠に初めてお会いした時に師匠が光を放っているように見えて
驚いたものです。金色に輝くとか光を放って見えるのは物理的なことではなく、
心の(霊性の)次元の話です。物理的な現象だと勘違いしてはいけません。
これは聖徳太子が「感応相承」と言われたものと同じ消息だと言えます。

336 :
>>332
>神格化
>幼稚なフィクション
>空想話
>観念の世界
>おとぎばなし

イヤハヤ...失笑
ゴータマは唯物論否定者なんだがね。
あなたこそ何も分かってない。

337 :
>>333
“三明とニルヴァーナ”の関係も
知らないような知ったかぶりなど信用しないほうがいい。

>>334
空海にも似た現象の記録が残されている。
穢れ(煩悩)が剥がれるほどに
“自性清浄心≒アートマン”の本来の輝きが増す。
最後は光だけとなる。

338 :
>>336-337
君は(自らの宗教体験がなく)本の知識だけで宗教の世界を夢想している典だね。
「この経典にはこう書いてある・・。・・・だと伝えられている・・。」 などと、
おとぎばなしを信じて一生を生きて行くつもりかな?

>ゴータマは唯物論否定者なんだがね。

唯物論を否定することが幼稚なフィクションを信じることにもつながると考えるよう
では幼稚過ぎますね。

正しい師に就くことなく、一人でオカルトまがいの宗教本をたくさん読み漁っていても、
何の体験も出て来ませんよ。

339 :
  ↑ 訂正

夢想している典だね。 (×)

夢想している典型だね。 (○

340 :
>>338
“正しい師”って、
それはまさかの断滅唯物論者かい???

そして、この私をただの読書家にしてしまうような
その勝手な妄想癖こそ、これ如何に?
少なくとも、この私は超常現象については自ら体験しての確認済みです。
唯物論などチャンチャラ可笑しいね。
そんなものは分からない無知な凡夫の戯言に過ぎないから。
とにかく最低限、仏教を勝手に唯物論化するのは止てくれる?

341 :
>>327
>二元論に立てば
>肉の体はプラクリティ
>霊の体はプルシャ(霊我、神我)

プルシャは「霊我」であって「霊のからだ」とは違う

>一元論だと
>肉の体は現像世界
>霊の体はブラフマンアートマン

これも「からだ」のことではない

>仏教だと
>肉の体は欲界、色界
>霊の体は無色界

これも「からだ」のことではない

やっぱり仏教は霊の「からだ」について直接的で明確な概念はないんかな

だから仏陀は仏教徒の視界から消え失せたんでないだろうか

342 :
>>330
虹化はなんだか近い気がします
でも「現象の説明」のための概念で「からだ」にフォーカスがあたった概念ではないみたいですね

三身は「姿」なので「からだ」とは別軸ですね

343 :
>>333
沙門果経は確かに六人通とか超常的なことが書いてあるけど、
同じ阿闍世王を題材とした浄土三部経の一つ観無量寿経の方がよほどフィクション性が強いし、
お伽話云々言い出すと切りがなくなるよ。

344 :
>>343自己レス
六人通×
六神通◯

345 :
光の中にあって光を見ることは出来ない。
光を見るということは闇の中にいるということ。
闇の中にいる者だけが光を見、光について語るのである。
・・・これが大乗仏教の本質。

>>343
そうではないのですよ。
大乗経典は象徴なのです。彼岸に渡る為の舟なのです。
沙門果経のようなおとぎばなし経典とは次元が違うのです。

346 :
仏陀は仏教徒の視界から消え失せたけど、キリストはキリスト者の視界から消え失せず共に在るのは、霊のからだが原因ではないだろうか

仏教徒は仏陀という個別存在の働きかけを現代でもありありと感じているのだろうか

347 :
>>333

沙門果経 仏教 原始仏典。仏教の中心思想を述べる重要資料。

これこのままコピペしてくぐってみてね

348 :
>>346
>仏教徒は仏陀という個別存在の働きかけを現代でもありありと感じているのだろうか

そのような疑問が生じるのは仏教を勉強していないからですね。
個別存在はゴータマ・シッダールタであって、仏陀ではありません。
仏陀は個別的存在ではないのです。

>>347
「沙門果経 ・・・仏教の中心思想を述べる重要資料」 ???

まったくの間違いです。
原始経典の多くは玉石混交で創作がたくさん含まれています。
そのような教えによっては誰も悟りが得られないことが分かったので、
大乗仏教が生まれたのです。

349 :
>>346
如来(ニルヴァーナ)の不死性を理解できない
未熟な弟子によって姿を消してしまわれたのです。
いつの時代でもそう。
解脱した完成者というのは、唯物論者たちには「どうぞご自由に!」といってその奇跡を見せてはくれない。
けれど、正しい信仰を貫いている清き信者たちには、その“証”(祝福)を示す。

http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1472976578/160
>>さらに仏陀はつづけて、八つの集、八つの(「悟り」の)境地、八つの解脱について教えを説いたあと、
>>以前の悪魔との対話の内容を話し、三ヶ月後にニルヴァーナに入ることをアーナンダに告げましました。
>
>>アーナンダは、はじめて事態を理解し、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しましました。
>
>>仏陀(ブッダ)は、修業完成者に懇請してはならないと答えましました。
>>アーナンダが三度おなじ懇請をしたとき、仏陀はつぎのように答えましました。
>
>
>>「アーナンンダよ、かつて私はラージャガハ(王舎城)においても、ギッジャクータ山(霊鷲山)においても、ヴェーサリーにおいても、
>>「修業を完成した人(如来)は、四つの大きな霊力を修したので、もし望むなら寿命のある限りこの世にとどまるであろうし、
>>あるいはそれよりも長くとどまることもできるだろう」とほのめかしたではないか。
>
>>そのとき、お前はその意味が洞察できなくて、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しなかったではないか。
>>もしお前が懇請していたなら、二度目までは退けたかもしれないが、三度懇請されたなら承認したであろう。
>
>>これは、お前の罪です。
>>お前の過失です。
>http://buddha-osie.com/last_trip/trip08.html

350 :
>>348
>原始経典の多くは玉石混交で創作がたくさん含まれています。
>そのような教えによっては誰も悟りが得られないことが分かったので、
>大乗仏教が生まれたのです。

大乗こそフィクションのオンパレードでしょうが。
大乗諸経典は非仏説という仏教学の基本も知らないとは...。
少なくとも、実在したゴータマ・ブッダについて知るには原始経典に拠る以外にはない、
というのが覆すことのできはない基本的な定説なのです。

基本も知らないなら対話、辞めるわ

351 :
>>350
>大乗こそフィクションのオンパレードでしょうが。

宗教体験のない人はそう思ってしまうのです。

>大乗諸経典は非仏説という仏教学の基本も知らないとは...。

君こそまともに仏教を学んだことがないのでしょう。
(私は大学の仏教学科で学んだ人間です。)
明治時代に 「大乗非仏説」が唱えられた時に大騒ぎをしたのは、仏教の素人
の人達だけだったことを知らないのかな?
非仏説の仏は、先にも述べたようにゴータマ・シッダールタのことであって、
仏陀のことではないのですよ。
原始経典は悟りの体験のない弟子達によってゴータマ・シッダールタの言葉の
表面だけをとらえて誇張と創作を加えて作ったものなのです。だから、お釈迦様
が亡くなられてからは悟りを得る弟子がいなくなってしまったのです。
大乗経典というのは悟りを得た弟子達が言葉の表面ではなく、お釈迦様の真意を
伝えるために新しく作った経典群ですが、それによって悟りを得る人達がたくさん
出て来たので、大乗仏教は印度全土に広まって行ったのです。大乗経典を作った人々
はお釈迦様の悟りを脈々と受け継いでいた本当の仏弟子たちだったのですよ。

352 :
大乗仏教でも結局悟りを得る弟子はいなかったのかいなくなったのかインドで廃れてしまいましたとさ。
結局ヒンドゥー教が覚者をたくさん輩出したのでヒンドゥーはインド全体に広まって大乗仏教を駆逐しました。

353 :
>>352
君も仏教を何も勉強していないんだね。
大乗仏教になってからは非常に多くの覚者が出て、玄奘のような中国僧
が大乗の経典と論書を中国に伝えるために命懸けの旅を繰り返したこと
は有名ですね。印度で仏教が滅びたのは好戦的・破壊的なイスラム教に
よるものですが、本体はもう中国に移っていたので大乗仏教そのもには
実害はなかったのです。
後のヒンドゥー教では仏陀は聖者の一人として扱われていますが、学者
の中にはタゴールのように「仏陀は頂点であった」と言うような人も
多いです。

354 :
宗教体験君
ID:TOO7PAXW = ID:Az3RXDm4 = ID:JcRcwyY5 = ID:w1z4XHAj = ID:aZ3g0Hx0 = ID:49hBLwAk


宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
AIBOよりも出来が悪いのでご注意を。

355 :
エゴエゴ魔境の典型的症状

356 :
>>353
その玄奘がインドに来た時には既に仏教は完全に衰退期に入っていたし、
また玄奘は大乗仏教以外に説一切有部や声量部などの部派仏教が信仰されてた地域も残っていたことを報告している。
仏教が衰退したのはヒンドゥー教国家のグプタ朝の頃からでそれ以降衰退の一途を辿ることになった。

大乗仏教に傾倒するのは良いが嘘をついちゃいかんよ!

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80

357 :
魔境さんから大乗の匂いがまったくしない件について…w

358 :
>>354
>宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。

真実は一つなのだから、同じことを言うのは当然だろう。
書く度に違う内容の君達の方が間違っているということだね。

>>357
>嘘をついちゃいかんよ!

全然嘘じゃないだろう。
最終的にイスラム教によって破壊され駆逐されたのだから。
それに、説一切有部など原始仏教系統の教えは玄奘たちには魅力のない
内容だったので、大乗経典の研究と翻訳に全力が注がれたのだからね。

>>357
君は何が魔境かを判断できないだろう。

359 :
魔境さんは必ず文中に感情的な他者への批判、自己の賞賛の2点を入れ込みますな

ようするに、「おまいら全然ダメ、俺様スゲー」これが全てで、内容はこれに従属してますな

こんなことすらわからんくなるのが魔境だな
怖いですねぇ〜

360 :
そりゃあ仏陀は無記を取るわw

361 :
>>359-360
感情面に注目・反応してしまうのは、君自身に原因があるのです。
それと、「無記」 の意味も全然わかっていませんね。勉強しましょう。

362 :
ん、感情面に反応できるのはレスにエゴエゴ感情が乗っかっとるからだろ?
エゴエゴがないところに反応は出来んから
だからマジレスすると、おまいに原因がある、に決まっとるでないか

363 :
>>362
私と張り合っても仕方がないのだよ。年齢も全然違うのだからね。
余計なことに目を向けないで仏教を勉強することだ。

364 :
張り合ってると思ったんだね
あと、年寄りはそれだけで偉いと言っとるんだね
仏陀が悟ったのはおそらく30歳前後だろうが魔境さんの価値観的には若造が知ったような口をきいてからに、になりますなw

365 :
>>341
まず「栄光のからだ」というのは調べたらパウロの教説じゃないの?
キリストは「永遠の命」では?ま、これも弟子が書いた福音書に書いてある言葉だけど。

366 :
仏教側の答えとしては、まずは基本の火ヴァッチャ経を抑えておくと良いと思うよ。
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/62268074.html?__ysp=54Gr44O044Kh44OD44OB44Oj

ヴァッチャよ、それと同じように、物質として如来を認知する者は、如来にはその物質は捨て去られており、
根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は物質という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、再生しつつ、
しかも再生しないというのは適切でなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない。

感受として如来を認知する者は、如来にはその感受は捨てられており、
根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は感受という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、
再生しつつ、しかも再生しないというのは適切でなく、
再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない。

形成力として如来を認知する者は、如来にはその形成力は捨てられており、
根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は形成力という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、
〔底が知られない。それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、
再生しつつ、しかも再生しないというのは適切でなく〕
再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない。

意識として如来を認知する者は、如来にはその形成力は捨てられており、
(以下、物質・感受・形成力と同文)

367 :
ま火ヴァッチャ経も福音書と同じく弟子による如是我聞なんだけど、
これによると如来は五蘊を捨て去っており、五蘊では認知できず、
「大海のように深く、無量であり、底が知られない。」ものとなっている、と。

そこで>>134
>ヤージュニャヴァルキアは、死後に意識なしと道破した。
この言葉一つに捉われてしまった人がいるということだが、
意識というのは釈迦が分類した五蘊の一つであり
死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw

368 :
>>365
共観福音書にも記載ありますよ
あと、キリスト教神秘主義(仏教でいう密教みたいなもの)でも詳しく語っとるのがあります

あと、キリストは「道であり、真理であり、命である」が正しい理解だと思われます

369 :
>>369
>死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw

方便として説いただけなの。釈尊には「死」はないの。
だから、死に関することはすべて「無記」。勉強しよう。

370 :
>>369
>死に関することはすべて「無記」。勉強しよう。

如来の死後の世界については無記、勉強しよう。

しかも全てが無記ではないのは火ヴァッチャ経を読めば分かることよ。
五蘊では認定出来ない大海のように深く、無量であり、底が知れないことまでは語って、
それで死後の世界については無記とした。

371 :
>>368
共観福音書にどのような記述があるの?
http://ichurch.me/gesewa/f_death2-gospels.html

372 :
死後・輪廻はあるか
--「無記」「十二縁起」「無我」の再考--
http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

373 :
横から失礼します。

無我についてですが、「無我である」と認識している主体は何ですか?

374 :
>>351
>明治時代に 「大乗非仏説」が唱えられた時に大騒ぎをしたのは、仏教の素人
>の人達だけだったことを知らないのかな?

そうではなく、
日本仏教はシナ経由の天台仏教が流入したものであり、
すでに日本は大乗の宗派仏教に洗脳されてるから宗門は聞く耳を持たなかった。
そして、僧侶の中にこっそりと原始経典の勉強してるのがバレルと
宗門からは破門されてメシの食えない坊主にされてしまったのです。
つまりは見せ絞めということ。

>非仏説の仏は、先にも述べたようにゴータマ・シッダールタのことであって、
>仏陀のことではないのですよ。

史実の確認できる唯一の如来はゴータマだけです。
そのゴータマが説かれた教えが仏教であり、それ以外なし。
成仏の仕方は仏陀となられた御本人にしか語ることができない。
仏教とはつまり、ゴータマの実体験に基づくものです。
その伝承された教えが経典として纏められたのが原始経典。
すなわち、パーリ五部聖典と漢訳四阿含ということ。
大乗の如来というのは架空と設定上のホトケであり、
後代の弟子らが自分たちの勝手な内容を盛り込んで創作したものが大乗諸経典。
それは解脱成仏の体験に基づくものではなく、外道に由来するものです。
あなたは史実の唯一なる如来であり、
仏教の開祖であられるゴータマを「非仏説」などと呼称する仏教徒に有るまじき暴徒です。

>それによって悟りを得る人達がたくさん出て来たので

ハァ? 一体、それは誰々のことですか? 
初耳ですな。

375 :
>>351
>君こそまともに仏教を学んだことがないのでしょう。
>(私は大学の仏教学科で学んだ人間です。)

 『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・
ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗
仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
 大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その
内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としてい
るのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
 口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口
伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。
 大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の
創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。』(Wiki)

376 :
>>373
本来、「無我」は“アートマンはない”という意味ではなくて、
“それらはアートマンではない”という「非我」の教えからきたものです。
無我をアートマンはないなどという意味の存在論へと変色、誤認したのは部派でした。
そして、結果的にはニルヴァーナをニルヴァーナであるとして知覚するのはアートマンだといわざるえないのです。
ただし、アートマンの有無そのものについては無記の姿勢でしたが…。

377 :
>>367
>意識というのは釈迦が分類した五蘊の一つであり
>死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw

ゴータマは、「識」が輪廻主体であると明言しました。
当然、それは死後にも継続するので「断滅」しません。
ただし、これをアートマンと勘違いする者がいるから、
誤認してはならないと弟子たちを諭したのです。

378 :
>>371
復活した後のシーンの記述です

379 :
>>374-375
>史実の確認できる唯一の如来はゴータマだけです。
>そのゴータマが説かれた教えが仏教であり、それ以外なし。

それは何の宗教体験もなく、ただ言葉の上だけで仏教と関わっている
哀れな人々に共通する見解なのです。
数学(微積分学)に例えれば、ニュートンから微積分学を学んだ人々が、
ライプニッツの方法で同じ問題を解いた人に対して、「それは正統な表記法
ではないので答えも間違っているはずだから認めない」 というのと同じぐらい
馬鹿げた考え方なのです。

ゴータマ・シッダールタに現われた真理が尊いのであってゴータマという個人が
尊いのではないのです。初期の弟子達はそのことが解っていなかった為に釈尊の
言葉を表面的にしか理解できず、重要ではない原始経典が沢山残されてしまった
のです。

>ハァ? 一体、それは誰々のことですか? 

その書き込みによって、何も仏教の勉強をしていないことがバレてしまったね。

君のような浅はかな考え方をしている人は元オウムの人に多いから、君もオウム
だったのかな? 大乗仏教に目覚めてオウムときっぱり絶縁した人の中には立派な
境地になった人達もいるようだから、君を彼らを見習うとよいでしょう。

380 :
↑ 訂正

君を彼らを見習うとよいでしょう。 (×)

君も彼らを見習うとよいでしょう。 (○)

381 :
>>375
>最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、

それは「文献学」としてそう言えるということに過ぎず、宗教的には無意味なのです。
数学の大学教授が小学生に算数を教えた時に、その小学生たちがノートに書き留めた
内容はその教授が直接に話したことだからと言って、その内容を大学教授の数学の世界
だと考える愚かな人はいないでしょう。原始仏教至上主義の人達はそれと同じ愚かなこと
をしているのです。(それは宗教体験を持った時に初めてわかることなのです。)
「大乗非仏説論」などは、本物の宗教体験のあった僧侶・学者にとっては何の意味もない
ものだったのです。

382 :
>>377
「死後には[識別する]意識samjna(仏教でいう想蘊)は存在しない、は梵我一如を達成した解脱者の場合ね。
凡夫はブラフマンに帰入しないのでsamjnaは存在し続けて輪廻する。
これがヤージニャヴァルキヤの思想。

釈迦も解脱者(如来)は五蘊は捨てられているとした。
これは解脱者の話、そういうことね。


  4.4.6 [ヤージニャヴァルキヤはつづけた]「これについて、[次の]詩句がある。
 それゆえにこそ、執着のある人は[輪廻における]微細な原理lingaであるかれの心manasが執着しているところに、業とともにおもむく。
この世においてかれがいかなることをなそうとも、その行為の終末(=報い)を得て、かの世から、またもとどおりこの世に還って来る。
――行為をなすために。以上は欲望をいだいている者である。 
 次に欲望を起こさない者(=解脱した人)を説こう。
欲望を起こさず、欲望を離れ、アートマンのみを欲望として、欲望を達成した人からは気息は出て行かない。
[それら(気息)はそこ(=アートマン)に合一するのである。
彼は]すでにブラフマンそのものであるがゆえに、ブラフマンに帰入するのである」と。

383 :
>>358
>それに、説一切有部など原始仏教系統の教えは玄奘たちには魅力のない
>内容だったので、大乗経典の研究と翻訳に全力が注がれたのだからね。

仏教大学では説一切有部を原始仏教系統などと出鱈目教えるの?
せめて小乗仏教系統というのなら話は分かるけど
あと玄奘は説一切有部の教理が大半を占める阿毘達磨倶舍論30巻を翻訳してるんだけど仏教大学で習わなかった?

384 :
>>383
『阿毘達磨倶舎論』は後に大乗仏教哲学者として大活躍をした「世親」の
著作だったので、関連を研究するために翻訳する必要があったということ
ですね。著者が「世親」でなければ完訳することはなかったかも知れません。
日本で研究されて倶舎宗ができたのも同様の理由によるものです。
大学者がまだ若かった頃の著作・研究を調べることには大きな意義がある
ことは他の学問でも同様ですね。

385 :
六足論
阿毘達磨発智論
阿毘達磨大毘婆沙論

世親関係なし

386 :
大乗仏教というものが解っていない人があまりにも多すぎる。
大乗仏教というものの本質が解れば、仏教は大乗と非大乗に分けてよい
ことがわかるはずだ。それ以上の分類はどうでもよいのである。
大雑把に言えば、煩悩を滅して悟りに至ると考えるのが非大乗で、煩悩の
あるままで悟るのが大乗である。
小乗は一人乗りの舟で、大乗は大きな客船に喩えられることがあるが、
その喩えの真意を理解している人は非常に少ない。小乗は一人で悟る道で、
大乗は大勢で悟る道だなどと考えているようでは話にならない。
端的に言えば、小乗というのは個人が存在していることを前提にして求道
を始めるのであるが、大乗では先ずそれが誤りであることを知ることが
出発点になるということだ。
「個」が浄化されて行って普遍的なものと合一するのではないのだ。
これが解らなければ大乗仏教の道に入ることは出来ないと言ってよい。

387 :
>>386
あなたが小乗仏教だと思っている、その仏教で修行している人たちが
修道の過程でなにを経験するかというと、その個人の自我がもともと
虚構であることを知るんですよ。

しかも、概念智としてではなく、体験智としてね。

388 :
>>381
>本物の宗教体験のあった僧侶・学者

いつもの、中論を読んで悟ったと言ってる人でしょう。
脳内仏教乙。

389 :
>>387
>修道の過程でなにを経験するかというと、その個人の自我がもともと
>虚構であることを知るんですよ。

君も、「修行を続けていけば、いつか自分もそうなれる それも体験智で」
と思っているのでしょう。

それが間違いなのです。だから原始仏教・部派仏教は印度で衰退して行ったのです。

>>388
頭は大丈夫かな?
仏教の入門書しか読んだことがないの?

390 :
五蘊であるところの自己は無我であって、もともと執着の対象ではないのだから
>>386 の批評は的外れ。
頭で考えた「僕の仏教」でしかない。

391 :
>>390
そのまま求道を続けて行っても、晩年に後悔することになりますよ。
世親(天親)が舌を切ろうとした逸話でも調べて、よく勉強することが大切です。

392 :
キリスト教もスピも仏教も一緒やな
必ずエゴエゴの魔境を生んどる

393 :
>>392
それはまったく間違いなのだよ。
日蓮上人があれだけ他宗を強く批判したのも、自らが歩んだ道によって
必ず人々が救われるという自信と信念があったからなのだ。
だから、宗教者たちが自分の宗教が正しいと言って論争するのは何も間違っては
いないのだよ。それが個人のエゴに見えるのは、宗教体験を知らずに宗教が道徳
の完成か何かと勘違いしている人間だけなのです。

394 :
例えば、妄想で相手の言ってることミスリードしても気付かん酷い人とか

395 :
>>394
ミスリードの正しい意味を勉強しましょう。

396 :
エゴを常に守らんといけんのも大変だなぁ

397 :
今日の宗教体験君ID:1gimmpbw
ID:1gimmpbw = ID:TOO7PAXW = ID:Az3RXDm4 = ID:JcRcwyY5 = ID:w1z4XHAj = ID:aZ3g0Hx0 = ID:49hBLwAk


宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
パン君よりもコミュニケーション能力が有りませんのでご注意を。

398 :
魔境って基本的に教条主義だけど、エゴの都合の良い解釈を教条主義的に扱うんだな

だから、自分の発言のコピペになる

相手が誰かとか、何について話し合っとるか、
とかどうでもよいわけだ

ただエゴエゴ教条のbotと化すわけだな

399 :
真実は一つなのだから、いつも同じことを言うのは当然なのだ。
宗教体験のない者は核となるものを持っておらず頭で考えたことを
言うしかないので、いつも言うことがコロコロと変わるのだ。

400 :
あー、コテ付けてくれないかな。

401 :
第十八章 我に関する考察
もし諸蘊が我であるのならば、生滅あるものとなるだろう。
もし諸蘊とは異なるのなら、蘊の特質は無であることになる。
我が有るわけではないのに、我所が一体どうして有るだろうか。
我と我所とが寂滅するが故に、我執と我所執も滅するのである。
我執と我所執を欠いているもの、それもまた存在しない。
我執と我所収は無いと見る者、彼はまた何も見ていない。
内部でも外部でも、我と我所執が尽きているならば、
取は滅するだろう。それが尽きることで生も尽きることとなる。
業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別による。
それらは戯論より派生するが、空性によりそれは滅することとなる。
我であるとも増益されるし、無我であるとも説かれている。
諸仏たちは我と無我とのいづれもが無いと説かれている。
語られるべきものは消滅している。心の活動領域が退けられているからである。
不生不滅であることが、法性なのであり、涅槃に等しいものであるからである。
すべてのものは正しく、また、正しくなく、正しく正しくなく、
そして、正しくなく正しくなくない。これが諸仏の教えである。
他によって知られず、寂滅しており、戯論によって戯論されず、
無分別であり、別異なる対象ではないもの、それが実義の特質である。
何らかのものを縁として起こっているもの、それはまずそれ自身ではない。
更にはそれとは異なるものでもないが故に、それ故に不断・不常なのである。
同一の対象でもなく、別異なる対象でもなく、不断にして不滅なるもの、
これが世間の救い主である仏たちの教えの甘露である。
正等覚が未だ出現しておらず、声聞たちが既に滅している時でさえ、
独覚たちは智慧を師によらずとも生じるのである。
https://www.mmba.jp/archives/17129

中論によると煩悩や業は空性であり、第二十四章をも踏まえると世俗諦ということになるのだろうが、
仏性や如来蔵は空性なのだろうか?彼岸に行ったら捨てられる筏に過ぎないのだろうか?

402 :
>>373
認識する主体をプルシャという

心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たるプルシャは自己本来の態にとどまることになる。
ヨーガとは心の働きを止滅することである。
(ヨガスートラ1-3)

403 :
真我 と 智慧  #ニサルガダッタ・マハラジ

 真我を忘れることが暗闇なのだ。
 真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
 それは不自然なことではない。
 しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
 体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧があるのだ。

404 :
>>402
プルシャと呼ばれるものは、ブラフマンと同一化されているのですか?

405 :
>>404
http://blog.livedoor.jp/yukamangalam/archives/1008671926.html

406 :
>>405
404です。
ブログ教えて頂きありがとうございました。
勉強になります。

407 :
無我説ではなく非我説をとる人についてスマナサーラさんは
「要するに彼らは『仏陀は我がないとは言っていない』と言いたいのですね。
子供の言いがかりのように感じます。
これは彼らが『無い』ということの難しさを理解していないからです」
と仰っています。

408 :
存在する全ては「意識」だ。
それは現象が生じてくる「源泉(Source)」だ。
個人の意志ゆえに起こることは何もない。
神の意志でなければ何事も起こりえない。
そして、私がここで「神」と言うのは「源泉」を意味している。

まず第一に、存在する全ては「源泉」だ。
「意識」と呼んでも、ラマナ・マハルシの言うように「真我」と呼んでも、あなたの好きなよう呼んで構わない。
それが意味しているのは、一つの源泉=二番目のない一なるものだ。

(ラメッシ・バルセカール)

409 :
>>407
仏教の無我説は本来、「非我」であり、
元々は「アートマンは無い」などということではなかったことが仏教学的な事実として判明しています。
その意味を変色させたのは部派であったことも知られていることです。
残念ながら、ゴータマの教えに近いと評価されている現存する南方仏教とて部派の生き残り(継承)に過ぎません。

 『仏教は無我説を立てることで有名であるが、その思想内容は歴史的にかなりな変遷がある。それにともない「諸法無我」の解釈
にも変化がみられる。
 無我説の始まりは、最古層の経典の執着するな、わがものという観念をすてよという教えにある。初期の無我説は、「我は存在しな
い」ことを説くのではない。倫理主体としての真の我の確立は、むしろ積極的に求められていた。
「常に思念をたもち、自己に関する誤った見解を捨てて、世界を空なるものとして観よ。そうすれば、死を超越したものとなるであ
ろう。このように世界を考察するものは、死神には見えない。」(Sn.1119.)
 無我説はこのように、我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教えから始まる。当初の
「諸法無我」は、無執着の立場から、「すべての事物は我(自己)ではない」と説かれたものである。したがって、無我(我がない)
説というよりは非我(我ではない)説であった。』
(インド思想史略説)

410 :
 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。 これは、「主語+述語」の
文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我 ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という
意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ
論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるもの
であることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。
 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな) これは、経典を作
りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(石飛道子ヴェブサイト『マニカナ掲示板過去ログ2739.』)
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm

411 :
五蘊無我。
五蘊はどこをとっても非我だから、五蘊は無我。
涅槃は五蘊じゃない。

おわり

412 :
学僧や学者さんの世界の話だよなぁ。
戒と定に支えられた、体験智としての慧がない。

立体データを言葉で表現しようとするから、文章が長いこと。

413 :
>>409-410
それらは言葉に捉われているからであって、結局は同じことなのですよ。
無我の「我」をどのように捉えるかということに過ぎないのですから。
アートマンを個人性のあるものとして捉えれば「否定」することになり、
個人性のないものとして捉えれば、真我として「肯定」することになります。
言葉の定義によって説明自体はどのようにも変えることが出来る訳です。
解脱の体験のない人が書いた宗教関係の書物を読んで勉強すると、初心者には
却って迷いのもとになることが多いですから注意が大切でしょう。

414 :
瞑想しない学者さんの言葉は概念智のみで、体験智の裏付けがまったくない。
全然ない。
びっくりすぐらいなんいもない。
すっからかん。
人間の思考の産物しかない。

415 :
>>413
いえ全然、同じじゃないですよ。
「アートマンは無い」などというゴータマが説きもしないことを頑なに信じ続けたインド仏教は、
バラモンたちにも、そして、大衆の庶民らにも相手されなくなって入信者が絶えて、遂に滅んだのです。
彼らは、これがブッダの教えだといって忠告の声に耳を傾けようとはしなかった。
>>411は正解ですが...。

>>414
確かにそうではあるけれども、
しかし、間違った信仰(迷信や洗脳)を打ち破るのは学問ということだと思います。
もちろん、自分自身がその境地まで体験すれば真実を確認できますけれど...。

416 :
>>415
同じなのですよ。
解脱の体験のない人だけが言葉の違いに捉われてしまうのです。
宗教は体験であって概念を整理して分かったつもりになることではありません。
日本仏教の中でも、体験がない人は禅宗も浄土真宗も日蓮宗も別々の宗教だと
思ってしまいますが、体験があれば同じ仏教であることがわかるのです。

417 :
シャンカラが説いたことは、仏教的です。
シャンカラは、「仮面の仏教徒」と言われていたくらいです。

歪んで伝承されていた仏教を、シャンカラは、ヒンドゥにおいて是正したとみなすこともできます。


仏教に、ヒンドゥ(アドヴァイタ)やヨーガを取り入れることは、真っ当であると思います。
真我を仮にでも認めないから、他の宗教と相入れなくなる。
「諸法無我」の文言を額面通りに受け止め過ぎ。
究極の答えにたどるための、方便としての真我は実際は有益。

後世の大乗仏教は、真我を取り入れているのですが、
テーラワーダも真我を認め、取り入れる必要があります。
そうすれば、「テーラワーダだけが正しい」みたいなドグマなことは言わなくなるでしょう。
これだけでも「健全」になります。

伝承されたパーリとかアビダンマだけ云々とするのは、
原理主義的過ぎるように思います。
http://blog.livedoor.jp/yururinn/archives/12402535.html

418 :
>>417
そのサイトの人も解脱の体験がないので言葉に捉われているのですね。

>「諸法無我」の文言を額面通りに受け止め過ぎ。

というところも全くわかっていない証拠です。
なぜなら、「「諸法無我」と言った時点で、そう言った主体があることが
表れているるからです。「認識主体もない」などと言う場合も同じです。
「認識主体もない」と言っている者がいるのですから。

419 :
>>418
諸法無我の文言を額面通りに受け止め過ぎ

ているのは

テーラワーダの人というのがそのサイトの人の主張でしょ

420 :
>>419
そのサイトの人自身が
「テーラワーダは、いきなりゴールのニルヴァーナを目指します。
途中経過としての真我は否定しています。しかし、実際問題として、
途中経過としての真我は必要だと思います。」と書いてあるでしょう。
「真我」という言葉にとらわれているのです。
「我」の定義によって「真我」の意味はどのようにでも変わります。
表現に捉われているのはテーラワーダの人々もそのサイトの人も同じです。

421 :
>>420
あなたは逆にもう少し言葉に対して慎重になった方が良い

サイトの人の
「実際問題として」
「真我を仮にでも認めないから、他の宗教と相入れなくなる」
「方便としての真我は実に有益」
をスルーして自分の価値観だけで我というものは言葉の定義だけでうんちゃら言っても仕方ない
サイトの人は一般論として言ってるわけだから


「結局、仏教は他の勢力によって滅ぼされたのではない。仏教はインドの風土に合うことなく自然死していったのだ」
「ジャイナ教は賢明にもこの点でヒンズー教に妥協した。インド哲学の主流である有の哲学の立場をとり、
インドの現状を認めカースト制度を認めた。賢明にもインドの伝統的、支配的な風潮と妥協した」

  ジャワハルラール・ネルー(インド初代首相)「インドの発見」より
http://i.imgur.com/lWm9FIq.jpg

「ネルー氏は何も体験がないからそんなことが言えるのです」とか言うのならどうぞご勝手に

422 :
>>421
そこに書かれているネルー氏の説明は別に間違っているとは思いませんが、宗教の本質には
関係のないコメントでしょう。仏教がインドに残ることが良かったとは限らないのですから。
より合った土壌に渡って深化・発展することの方が後世の人類のためには良いことだったと
言えるでしょう。

423 :
>>422
>より合った土壌に渡って深化・発展することの方が後世の人類のためには良いことだったと
>言えるでしょう。

その深化・発展はまず真我に変わるような土着の精霊を受け入れたり
儒教の先祖崇拝と結びつけて霊魂の存在を認めたりしたからあり得たこと
在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1244.html?sp

だから実際問題として方便として真我やそれに類するものを取り入れた方が深化・発展のためにも有益なんだよ

424 :
>>423
>方便として真我やそれに類するものを取り入れた方が深化・発展のためにも有益なんだよ

あなたは「(方便としての?)真我」を取り入れて悟りを開いたのですか?
そうでないのなら、すべて想像(妄想)の話になってしまうでしょう。

藤山みどり ? そんな仏教の素人が頭で考えたものを読んでいても本当のことは何も
わかりませんよ。

425 :
>>424
論点が完全にずれている
もう一度>>423を読み返して下さいな

特に
>在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから
の意味を汲んで読み返してくださいな

それでも分からなかったら
「瑩山紹瑾が現れなかったら曹洞宗は廃れていた可能性が非常に高いと言われている」
と書けば分かるかな
道元の悟りとか教えの問題じゃないんだよ

426 :
>>425
宗教の本質を考える場合は、論点がずれているのはあなたの方なのです。
あなたの関心は料理のメニューのようなもので、それでは何の栄養にもならないのです。

「在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから」などと言っても、私は禅宗でも浄土真宗でも
見性したり救われたりした在家の人をたくさん知っています。その比率は昔とそれほど変わらない
と思っています。
世間的なデータなどに意味はありません。創価学会や幸福の科学の信者が増えたからと言って、
そこに何か宗教的な意味があると考える愚か者はいないでしょう。それらは社会現象の問題であって
宗教の本質とは何の関係もないのです。
曹洞宗についても、瑩山紹瑾禅師のおかげで悟りを得る弟子が増えた訳ではありません。信者や檀家が
増えただけのことです。宗教的本質だけを考えるなら日本曹洞宗(道元禅)は「正法眼蔵」だけで十分
なのです。

427 :
>>426
瑩山紹瑾がいなければその正法眼蔵も日の目を見ることがなく
今日君が正法眼蔵を目にしてたかどうかも怪しい
そういうことを言っている

428 :
>>427
瑩山紹瑾禅師が出ようが出まいが「正法眼蔵」の宝石のような輝きには何の変わりもないのです。
心ある人々に読み継がれて、やがて八百五十年後に私の手元まで来て私に身心脱落の体験を与えて
くれたことに変わりはなかったでしょう。
宗教というものは本質だけを見なければいけません。周辺の非本質的なことがらに惑わされるなら、
単なる宗教文化のお勉強で終わってしまい、貴重な人生を無駄にしてしまうことになるでしょう。

429 :
↑ >>427 の訂正

八百五十年後 (×)
八百年後 (○)

430 :
心身脱落って、要するに三昧体験のこと?

431 :
>>430

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1279288617?__ysp=44Go44Gk44KJ44GP44GX44KT44GX44KT

http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/06.htm

432 :
ブラフマンがどんなものか口では言えないのだ。
塩人間が海の深さを測りに行った。どれほど水があるのか報告するつもりだった。
でも報告することができなかった。海に入ったとたんにとけてしまったから。
−いったい、誰が海の深さを知らせることができるかね?
(ラーマクリシュナ)
http://fuu-nirvaana.blogspot.jp/2010/01/blog-post_07.html?m=1

塩人間とはアートマンのことで
とけてしまったというのはブラフマンと合一した
という解釈でいいのかな?

433 :
頭で考えた概念は、ぜんぶ違う。
言葉で表現されたものは、ぜんぶ思考概念になってしまう。
「それ」じゃない。

434 :
>>433
>頭で考えた概念は、ぜんぶ違う。

これも頭で考えた概念で言葉で表現されたものだから真ではない

435 :
おれ 「思考概念はすべて思考概念に過ぎない。」
お前 「同意。」

↑お前が言ってるのはコレ

436 :
>>435
違う、>>433に書いてあることは頭で考え出され言葉で表現されたものだから
単に思考概念であって真理や真実ではないと言っている。

437 :
>>433
もう少し分別智である言葉を大切にした方が良いと思う
特に言葉によって成り立っている掲示板のようにコミュニティに参加している以上は

言霊はオカルトかもしれないが信じている人には効果はあると思うし
羽生結弦はアファメーションしてから本番に臨むことで有名
https://grong.jp/blog/about-affirmation

438 :
難しい

439 :
真我にはとうていたどり着けなさそう

440 :
>最初に苦を観察しない者は個我をアートマンじゃと間違ってみているのじゃ。
>だから苦があるのじゃ。
>苦を観察して個我はアートマンではないと気付けば苦はなくなるのじゃ。
>間違ったアートマンの使い方を否定しているのじゃ。

鬼和尚のこの理解は正しい。
ゴータマは(六師外道や唯物論についての)間違いはキッパリと否定されるが、
アートマンについては否定していない。
そう、これもその通りです。

441 :
これまで時折、拝見してきたところでは
鬼和尚の見解がこの私と特に異なることは今まで何もなかった。
だから、鬼和尚だけに聞くのもよし。
私にも聞くのもよし。

私からなら、またもう少し違う話もできるかもしれないし...。

442 :
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、

われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)


「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)

「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。

(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁)


wwwwwwwwwwwwww

443 :
>>442
あのね...
この私は、パーピマンを相手するために投稿したわけじゃないから。
私は忙しいのwww

それ鬼の首を捕ったつもりの経文提示だけども、
まっ、それらの現代語訳は翻訳が下手なのだと思うね。
本来の非我の教えを訳が悪いとそのようにアートマン否定意として書くのです。
その証拠に今だにそういう訳語調を好んで提示する学者などは、もう殆どいないから。
それと増谷氏は阿含経の研究は素晴らしいけれども、ただし残念ながら典型的な唯物論者。
そして、ダライラマはもちろん素晴らしい方だが、この方も南方的な間違った無我の教えを洗脳されて誤解してる。
つまり、あの一代と同じムジナということ。

当時のバラモン聖者はジーヴァ(魂)を永遠なるアートマンと勘違いしたのです。
それがゴータマが否定的に指摘した梵納経の内容なのです。
まっ、パーピマンにはジーヴァ(魂)とアートマンの違いも理解できないし、
所詮、唯物論者にとってはどちらも無いものとしては同じ扱いでしょうから(笑)
「唯物論」についてはゴータマは明確に否定しており、それは最も低い見解だと説いたにも関わらずです。

パーピマンとの対話は、
以上にてお・わ・りです

たのむから、もう、邪魔しないでくれる?
悪いけれども、この後はスルーさせて頂くから。
もし、対話したくてウズウズしてるなら、他の相手を見つけてくれ!!

444 :
>そして、ダライラマはもちろん素晴らしい方だが、この方も南方的な間違った無我>の教えを洗脳されて誤解してる。

wwwwwwwwwwwwww
宝珠の見解は、ダライラマを超えているそうだw

ありがたい、ありがたいw

445 :
>しかし悟ればアートマンとブラフマンは一つで
>あったと知れるのじゃ。
>本来別の法であったものも悟った後には一つと
>知れるだけなのじゃ。


バカ鬼のレベルが分かるだろw

446 :
バカ鬼は、「釈迦はブラフマンに至る道を説いた」と言っている。
そして、「ブラフマンは空と訳すべきかの」と言っている。

頭ピヨピヨのデパスマンだよwww

447 :
>>444
くぅ〜〜〜
たくっ、もう一言だけ相手しておくわ。

この私がダライラマより上なんじゃなくてw
つまり、あのですね...
仏教者の多くというのは「縁起」と永遠性の、
要するに、「恒久」「不死」「永遠」「永久」「永劫」「不滅」...
といったものとの関係についての理解を失敗してるのです。
だから、「仏性」を説いて如来蔵思想を展開するに至ったヒンドゥー化の大乗と
南方仏教の説く縁起とは矛盾するものとして混乱してるのです。
これは数百、いや無我の間違いと同じく二千年来、こうしてずーと混乱を続けてるのです。
ハテ、理解に悩む平均的仏教徒らは、果たして「縁起と仏性」のどちらの方を最終的に選択するでしょうかね?????

しかし、混乱しない私のような者は、
この関係をまったく矛盾しないものと知るのです。
矛盾してるのは彼らの勝手です。ダライラマも然り。

はい、最後です。

448 :
>>445-446
むしろ、仏教者の中にこれだけ分かってる人がいることの方が驚きです。
わたしには...。

大抵はだんだん嫌気が差してきて、
仏教枠からは自ら出ていきますからね(笑)。

まっ、
内容が伴っていればすべて仏教扱いとする鬼和尚ですから、
それは当然といえば当然のことです。
私は、ゴールは仏教でなくても他の宗教からでも可能と言うことが多い....。
もちろん、和尚のようにいうこともある。
ゴータマは元々、「これから仏教を説く」などとは教えてなかったでしょうからね。

449 :
宝珠さん、パチパチパチパチ
そのとおりであります。

応援してまっせー(´・ω・`)

あとコピペして天空寺に貼るわ。よろぴこー

450 :
宝珠さんは悟った方なのですか?
どのような方なのですか?
煽りではありません
どのような方がそういう理解に至っているのかお聞きしたいのです

451 :
>>450
仏教徒たちの話をみていると、
“悟った”という云い方についても間違った使われ方があまりにも多いのです。
よく上げられる事例として、「コンダンニャが悟った!」などという時というのは、
実際には、何か一つの事柄や事象の関する疑問を解消したことを示すものに過ぎません。
本来の意味での悟りというのは完全解脱のこと。
輪廻を脱してニルヴァーナ(涅槃)に到達し、修行を完成したことをいうのです。
智慧が生じて一切智者であるところの生ける如来となった時に、初めて人は“悟った”ということになる。

私は生まれついての霊的思考者であり、
小学低学年からすでに誰に教わることもなく自力で思索して、
人間の意識(命)は不死であり、そして、後に知ることとなる仏教の説く業報輪廻を真実だと見なしていました。
また、誰からも教わることなく瞑想の習慣を持ちました。
なので小学低学年の頃から私の基本的な理解は何ら変わっていません。
自然内的な自覚としてはそれだけです。私のレベルなど全然低いです。

私が仏教(原始経典と密教)と出逢ったのは、18歳頃のことですでに35年になり、
間もなくして、すぐにヒンドゥー・ヨーガを学び、その後は近代神智学へと傾倒。
現在は真言宗の不動尊信仰を日常としつつ、ババジ直系列でパラマハンサ・ヨガナンダ指導のクリヤ・ヨーガ、
そして、アリス・ベイリー派の神智学を学びつつ、ベンジャミン・クレームの運動を支持しています。

452 :
>>448
そうですか。
私から観たバカ鬼は余りににも酷くてね。
ありゃ精神を病んでますよ?

453 :
>>446
>>452

こりてないなあ・・・ジャンキー君。

454 :
>>451
悟りの定義などお話にあることはわかるつもりです

ところで仏教以外もお詳しいようですが、
鬼和尚さんがマハラジの弟子のラメッシやダンテスダイジ、非二元の教師あたりを悟ってない(完全解脱してない)と言っていましたが、それに関してはどういうご意見ですか?
聞いてないですがヨガナンダやアリスベイリーなども悟ってないと言いそうな気がします。

ちなみに宝珠さんはババジをどういう存在だとみなされているのですか?
悟った存在ですか? よく話にあるように時空を超えて出現したりできる存在ですか?

455 :
>>454

鬼和尚のリカちゃん人形かもな。
宝珠を乗せるネタがでてこん。

456 :
>>454
 ババジは恐ろしく驚異的な存在です。神智学においては悟りを開いた者(覚者)の意識レベルを進化段階における第五段階イニシ
エートと評しますけれども、この方は他の天体から来られたアヴァターであり、その進化段階は第八段階以上です。ババジはこの
惑星を支えるロゴス的な役割をされていて、現在の青年の姿のままヒマラヤ山中において変わらず数千年の不老不死の肉体を保持
しており、更にこのまま数十万年この惑星に留まる決意をされています。もちろん自ら時空を超えて肉体の現出消滅や瞬間移動な
ど意のままです。ヨガナンダ著には、ババジがヒマラヤの断崖絶壁から飛び降りて死んだ男を瞬時に蘇らせた出来事などが紹介さ
れています。
 ヨガナンダはババジの直弟子ラヒリマハサヤのそのまた直弟子スリ・ユクテスワの直弟子であり、彼らはすべてアヴァター(基本
的に五段階以上のイニシエート)存在です。ヨガナンダはババジ直伝のクリヤ・ヨーガを欧米に伝える使命を全うして、若くして自
ら肉体を脱ぎ捨てました。そのマハー・サーマディの脅威の奇跡は彼の死後の肉体も腐敗することのない不朽現象を示して、その偉
大なる死に対してインド政府より記念切手が発行されました。ヨガナンダのこの驚異の境涯は昨年、この日本でも映画が上映されて
います。
 アリス・ベイリーはチベット人/ジュアルクール覚者の弟子でその教えを著した3.2段階のイニシエートでした。仏教的にいえば
阿那含(不還向)に近いあたりでしょう。マハラジ系列というのは、まだまだ覚者の域ではないと私は思います。
 私自身は、これまで完成者からの本物の教えを求め続けて歩んできました。それが結果的に宗教の何教であるか?といったカテゴ
リやレッテルなどは実際、どうでもいいこと。

 映画「永遠のヨギー 〜ヨガをめぐる奇跡の旅〜」
  http://yogi-movie.com/index.html

457 :
>>456
それはすべて妄想・魔境の世界ですね。
そのようなことに興味が向くということ自体が宗教の本質がわかっていない証拠です。

458 :
無我なのか真我なのか非我なのか、
さてまたアートマンとかブラフマンとかなんとかかんとか。

それらは全て、単なる言葉遊びに過ぎないことに気付いてこそ、
初めて、スタートラインに立つことになる。

それまでは迷路をうろうろしながら毎日を送るのみ。

459 :
>>456
454ですが、自分も宝珠さんほどではないですがババジやヨガナンダ、アリスベイリーや神智学の本も読んだことありますので、
そういう知識的なことはある程度知っています。
もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが文面から伺えるのでそれで納得します。
ありがとうございました。

ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、
ヨガナンダ本人を知っているわけでもないですしわかりません。
ちなみに自分は鬼和尚さんは好きですし疑問に思うこともありますが基本的に納得しています。

460 :
とりあえず、アートマンは我や真我ではない。
アートマンは決して認識できない。

と鬼和尚が言うとった(´・ω・`)

461 :
必死だなw

462 :
>>460
認識できない認識主体をアートマンと呼び、漢訳では真我と訳しただけの話だよ。

463 :
無我なんて聞いたこともない
仏教?何そのカルト

464 :
>>463
これを読むと無我について分かるよ
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7051902.html

465 :
>>463
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

466 :
宝珠のコテで、最近読んだ本で行き当った。
http://www.k-jz.com/price/9784864030038.html
稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

宝珠は伏見稲荷の密教の伝統を受け継いでいるのであった・・・・・。
宝珠は大きい狐。

467 :
やっと、宝珠とやり取りできるネタを手にいれた、伏見稲荷。
しかし、野狐の霊が憑いて騙しに来るとか。
伏見稲荷に行ったことはねえが。
伏見稲荷のお山に登る根性が出ねえ笑。

宝珠と、やり取りする付き合い程度だな。

468 :
>>459
>そういう知識的なことはある程度知っています。

了解。

>もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが

私は自分なりの見解というものも持っていますが(そして、それをとても大切にしている)、
けれども、大部分においては神智学の特にベイリー著とクレーム著、
そして、クレーム氏の師である覚者から提供された情報をとても信頼しています。
なので特に異なった個人的な見解でない場合には、そのまま学んでいる教えと情報に対して私も同意しているということです。
クレーム氏の師である覚者から提供されたイニシエートたちの進化段階の公表についていえば、
これまで私自身の評価する殆ど想定通りそのままのものばかりが発表されてきたので、これについてはとても信頼しています。
尚、ただし当初において少しだけ面食らったのは空海の進化段階2.0についてでした。
真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。
それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。

>ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、

クレーム氏もごく一部についてですが、あまり評価しない部分を持っていたような気がします。
ただし、アヴァターというのは意図的に不可解なところや未成熟な印象を態と演じている場合などもあるので難しいところです。
そもそも人間の人生における霊的歩みの模範を演じているのがアヴァターですから。
そのために敢えて受肉し公衆の中で生きているということ。
また、仮にもしヨガナンダが五段階のレベルだったとするならば、
仏教の開祖、ゴータマ王子の肉体を通して働かれたシャンパラのブッダの八段階と比較するならば、
そのレベルの違いは歴然です。

469 :
>>454
>非二元の教師あたり

これは近年〜現代だとどういう教師たちがいるのでしょう?
さすがに新しめの情報にはちょっと疎いかもしれません。
私がとても強く認めているのはラマナ・マハルシです。
神智学協会が見出した元世界教師の器だったクリシュナムルティは4.0段階でしたね。
私もまだ覚者には至ってないものと見てましたから、これはまさに想定通りの進化段階でした。

470 :
>>466-467
ハテ?私のこと?
それとも、狐が加える玉(摩尼宝珠)のことかな?
確かに私のハンドルネームは「マニ宝珠」「チンター・マニ」からきてるが...。

まっ、稲荷には関心ない。
というよりは、むしろ意識的に全く関わらないようにしてる。
参拝もしないし、無視です。

471 :
あと...時間とれたら、
本題の栄進さん宛てを投稿します。
栄進さん、宜しくお願いします。

472 :
「この人の悟りのレベルは〜の段階」、「あの人の悟りのレベルは〜の段階」 などと言って
いる間は、まだ宗教の本質がわかっていない状態だと言ってよい。

殺人教のオウム真理教では、麻原も弟子達も修行によってステージが上がるなどと馬鹿げたこと
を信じていたことで有名だ。

「無我」 なのであるから悟る主体などは存在しない。
ステージの上下などは存在しようがないのだ。

このスレの宝珠真範とか言う者は
「それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。」
などと子供のようなことを書いている。
時空を超えた世界では神通力など何の価値もないのだ。
神通力うんぬんを言う者は時空を超えた世界を知らないオカルトおたくに過ぎないのである。

473 :
>>472
イエス・キリストは第4段階、臨済宗の栄西で2.2段階だったとされています。

474 :
マニ宝珠は「世界」そのもの、お釈迦様の「見明星」もこれを指しているんでしょう
それなら、神通力といった超能力どころか
「能力」 それ自体が認められないことは自明なのでは?

475 :
>>462
アートマンは主体でもない、とも言うとった。
ワシのアートマン探究はここどまりや(´;ω;`)
>>471
ゴクリ(´・ω・`)こちらこそ宜しくです。待ってます。

476 :
余談ですが、鶴太郎は最近ヨガにはまってるらしいが、シヴァ(不動明王)は絶対唱えてはいけない。
こいつは実は何万年も人類をだましてきてます。嫉妬とひがみの因縁が切れておらずわかりやすく
いえばオーム心理教と同じです。記憶や思いも都合いいように変えられてしまいます。実際には
そうゆう不徳じゃない人が不正に障害者にされたり借金地獄にされたりしています。
たけしもいつかテレビで見たが密教の寺を興味もってたずねていたが不動は絶対
お参りしてはいけません。また、密教の寺のほうももう不動は悪にいってしまったので曼荼羅から
はずすべきです。APPLEのジョブズは何も知らずに禅宗にいったのでそのとき不動にまきこまれ
癌になって死亡したのではないかとも思われる。

477 :
>>472
禅がさとりに段階をつけてるのと同じようなもんですよ

478 :
>>477
全く違う。禅は超能力などには何の価値も置いていない。

479 :
>真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。


そう書く宝珠は、やはり江戸期伏見稲荷密教。確定。

480 :
>>478
逆にいえば違いはそこだけ

481 :
>>480
そこが違うということは根本が違うということ。次元が違うということです。

482 :
>>481
>「この人の悟りのレベルは〜の段階」、「あの人の悟りのレベルは〜の段階」 などと言って
>いる間は、まだ宗教の本質がわかっていない状態だと言ってよい。
>「無我」 なのであるから悟る主体などは存在しない。
>ステージの上下などは存在しようがないのだ。

見性と印可の段階の違いは?

483 :
>>482
見性・印可は臨済宗だけにあるもので、曹洞宗には存在しない。
見性・印可は此岸における方便であって、彼岸にはそんなものはない。
悟る主体などは存在しないのであるから段階などは本来あり得ないのじゃ。

484 :
栄進さん今、執筆中です。
有る程度の量になってから、随時、分割して何回かに分けて連投したいと思います。
やはり数日の時間を要するので、どうか気長に待ってもらえれば助かります。
雑音は今はなるべく無視放置の方向ですが、
その他の気になったことについては時折りレスを附けます。

>>472
>イエス・キリストは第4段階、

これについては少し補足をさせてもらいます。
イニシエート、イエスのイエス個人としての最終的な進化段階は確かに4.0でした。
しかし、イエスのバプテスマ以降〜十字架死までの3年間は、
キリストであるMaitreya(カタカナ表記は規制対象にて)からのオーバーシャドゥ
(高次の意識がより低位の存在の手足を自分のものとして使用する)でした。
なので、オーバーシャドゥにあったイエス・キリストとしての教えはMaitreyaからのものです。
ハイアラキー(人類の進化に関わる覚者方で形成されるグループ)の頂点に立つMaitreyaの進化段階は「第七段階」とされています。
つまり、福音書のイエスの教えは7段階イニトエートからのものです。

485 :
訂正
 「7段階イニシエート」

486 :
>>484
了解です(´・ω・`)

487 :
>>484
未来仏の弥勒菩薩(まいたれーや)とはキリスト教のキリストと同じなのですか?

488 :
<時空と個人性を超えた世界> を知れば、「悟りの段階(ステージ)」 などは妄想で
あることがわかるようになります。
段階(ステージ)があると思うのは <時空と個人性を超えた世界> を知らない者だけ
なのです。
お釈迦様も達磨大師も悟りの段階などは方便としてしか語っていません。未熟な弟子達が
その方便を真実だと思い込んで一部の経典に書いていますが、それらは 「此岸」 から見た
妄想に過ぎないもので、「彼岸」 ではそのような妄想は消えてしまいます。

人の本体に個別性があると思う 「無明」 の状態にある者だけが悟りに段階があるという
妄想を抱いてしまうのです。
それは、「着ている衣装の生地やデザインが立派だから、その人のステージは高い」 と思う
のと同じように愚かなことなのです。

宝珠真範という男は、まだ 「無明」 の中で夢を見ている人間なのです。

489 :
神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。
ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。
だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。
ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。
神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。
無性のブラフマンを知るためには自我を完全に滅却する必要があり、普通の人間には難しい。
一方、有形で人格を持つ神の方は親しみやすい。
人の個性は様々であるから、人と神との繋がりもまた様々である。
神と繋がるための具体的な手段としては宗教儀式や偶像崇拝がある。
迷信として非難される偶像崇拝もラーマクリシュナは「真珠を育成するために必要な母貝」として称揚する。
それによって神を愛せるならば偶像大いに結構とするのである。」

490 :
>>488
彼岸からみた妄想という表現すごくよくわかります。
体験すると、本当にハッとしますね。

491 :
>>490
間違えました。彼岸からみると妄想だったとわかる、でした。

492 :
>>484
はい。
秘教徒には知られている事実です。

これまで長い間、キリスト教と仏教における類似性についての指摘や、
イエスの“謎の空白期間”(12歳のときにエルサレムでの議論をした後、
30歳で洗礼を受けるまでの謎の空白期間)にイエスは仏教を学んだとか、
イエスがインド〜カシミール地方に出現していた記録が現地に残されている・・・等々として、
噂され続けてきたことも頷けるものがあるということです。
そして、最新神智学のもたらす情報は、
未来仏Maitreyaは、1977年以降〜すでに肉体にて現代社会の中に入られているというもの。
彼は世界を動かすためには世界最大宗教であるキリスト教徒の影響を考慮し、
御自身を宗教的にはキリストとしてのイメージを重視されます(聖書三大宗教への影響)。
しかしもちろん、仏教徒に影響を及ぼされる際には弥勒仏として御自身を顕されます。
スレ違いにて、ここでは詳細は省きます。

神智学の説く、“Maitreyaと世界五大宗教の関係”
  http://houjugusya.web.fc2.com/world5.htm
キリストの再来と奇跡の水(94年頃放映/日本テレビ『スーパーテレビ』)
  http://www.youtube.com/watch?v=ajp5p0b0-6E
シリア騒乱の中で“白い天使”の出現としてメディアに現地報道された傷ついた人を助け出すMaitreyaの姿
  https://www.youtube.com/watch?v=sSGVtJOeXAo

493 :
施設に収容されている宗教性妄想患者が作成した文章の例。

>俺は、最近裏工作的に牧師の霊的指導を笑、
>当然そういう風に魅せずにな笑。
>世話になっている坊主に俺は、自分の修行が
>進まんのにクリスチャンの世話ばかりしてい
>ると笑。
>今日は、さっき書いたが、修行マニアの書い
>た本(どちらかというと仏教、神道系など、
>神秘主義修行の内容が多いのに笑)に、世話
>になっている坊主の公案修行、鈴なのど本を
>書いてあるのを読んだ。
>彼は本物だと知っていたが、きちんとした出
>版社に載るようになったとは笑。

494 :
アートマンとブラフマン
http://gamp.ameblo.jp/pom1920/entry-10034551494.html

495 :
↑この人分かってない。
参考になりませんね。

496 :
>>495
あんたは分かっているのか?

497 :
>ゴーダマ・シッダルタによると「我は無なり」
>と言うことから「色即是空」おける「空」と
>考えられている。

>ブラフマンを仏教では「色即是空」おける
>「色」と考えられている。

ブログ主は、アートマン=空、ブラフマン=色と捉えている。
捉え様がないものを言語で仮設したものが空であり、また、仏陀は無(非)我を説いた。

498 :
> 悟りを得た人のみが見ることのできる
> ニルバーナは実際には場所だと勘違い
> している人が多いが正確には「異界」
> のことでこの世に有りながら垣間見る
> 事の出来るもの、と考える事ができる。

オカルトだね。

499 :
【聖母マリア出現】ファティマ第三の予言が明らかになった!!【SPEC】
http://fate.2ch.sc/test/read.cgi/spiritual/1503930220/

151 THISMAN ◆rfvLewovkA

でも、考えてみてよ。死後の世界に帰って来る人達が
いつまでも居ないことには、説教も始められないのよ。

あの世で待っている人達がいつまでも宗教を終わらせないよう、
あの世で待っている人達がいつまでも説教を終わらせないよう、

この世には記憶がない状態で人が生まれてくるんだよ。

毎年、生まれる赤ん坊がもし、日本で二人位しか居なかったら、
あの世の宗教家も、どうやって喧嘩をさせたらよいか解らない位だよ。

傍にいて、「早く喧嘩をしろ、あとで喧嘩をしない平和な気持ちを教えてやるから」と
云っても、なかなか喧嘩をしてくれないというか、二人を出逢わせる為に大変だろうね。

500 :
 中国で生まれた禅宗には、先に触れた老荘思想の影響か、梵我一如化の傾向を感じます。
 仏性(ぶっしょう)という考えは、「一切有情悉有仏性」という表現で示されるように「仏となるべき本性」であり、
「わたしの中にある肯定すべき本来の私」、すなわちアートマンとほとんど同意ですが、大乗仏教では広く見られ、禅宗も例外ではありません。
 もっと分かりやすい事例を挙げると、唐の時代の有名な禅僧、臨済義玄は、『臨済録』に「赤肉団(心臓)の上に一無位の真人がいる」「随処に主となれば、立処皆な真なり」という言葉を残しています。
一無為の真人とは、アートマンそのものですし、「随処に主となる」というのも、第一原因たる主体であろうとすることでしょうし、自由不羈のアートマンであろうとすることだと思います。
釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
http://mujou-muga-engi.com/honron/shitai/dou/jou/

501 :
>>500
まだこんな変な論文引き合いに出してくるとはw

松本さんは正師に参じて見性を許された方じゃ無いでしょw
体験無しに字面だけ追って憶測で梵我一如云々と決めつけるならなんでもありだわwww

502 :
>>501(続き)

>>500
> 一無為の真人とは、アートマンそのものですし、

いや、違うってw、一無「位」だよwww
しいて言うなら、アートマンは否定によってしか表せない「有」位の真人、臨済のそれは「無」位なw
龍樹の言う四句否定と変わらんよ。
公案貰う時「有に非ず、無に非ず」と言われるからw

503 :
>>502(続き)

>>500
> 「随処に主となる」というのも、第一原因たる
> 主体であろうとすることでしょうし、自由不羈
> のアートマンであろうとすることだと思います。

いや、これも違うわw
真空妙有(用)、無位の真人が自由な働きをなすが、肘外に曲がらずで、不自由ままに自由なんですわ。

504 :
禅に対する体験や知識が無いのに、語録の字面だけ追ってたら、例えば、「殺仏、殺祖」とかどーなるの?
「富士山をここに呼んでこい」とかなw

アホ過ぎる。

505 :
>>500
>・・・・・。釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)

何の宗教体験もなく、単に言葉の上だけで仏教を学んでいる愚か者だけがそのような
ことを考えてしまうのです。

宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。
それがわかるから、原始仏教が大乗仏教に発展していった理由も理解できるのです。
体験のない者は言葉で表わされた世界が真実だと勘違いしてしまう為に、表現の違い
に惑わされて 「原始仏教と大乗仏教は違う」、「この教えとあの教えは違う」などと
考えてしまうのです。

宗教体験のない者が書いた仏教書ほど無意味で有害な書物はないと言ってよいでしょう。

506 :
 最晩年の釈尊は、悪魔から「もう死ぬべき時だ」と誘われた時にこのように答えます。

「わが修行僧であるわが弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師からおしえられたことをたもって解説し、
説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、
異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。」
(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳 岩波文庫)

 この言葉も、無念無想の無分別知とは正反対の、言葉によって分析し合理的論理的に説明し伝えるという姿勢をはっきりと示しています。
禅宗の不立文字の伝統とは正反対です。

507 :
>>506
こりゃ又禅に対する体験や知識が無いのに不立文字を騙ってるねぇw

真理そのものは言葉で表現出来ない旨のスタンスは禅だけでなく仏教全般(一部除く)でしょうがw
求道者のあり方や著作物については、むしろ禅宗が圧倒的に多いと思うけど?

また、公案を通して理や事を明らかにしたり、漢詩や俳句、著作物にて合理的、論理的に説明しているのも、禅宗に多いと思うけど?

あんた、実参もせんで想像で禅宗を語るんだったらなんでもありだわwwww

話にならんわw

508 :
 タイのブッダダーサ比丘(Buddhadasa Bhikkhu、タイ語ではプッタタートとも)は、
『Handbook for Mankind』という冊子で定についてこんなことを言っています。(英文からの曽我による訳)

「言葉を替えれば、それ(正しい定のあり方)は、働くのに適したものであり、(知るべきものを)まさに知らんとするものである。
これが目指すべき定の程度であって、気づき(念)のない、石のように固まって座る深い定ではない。
このような深い定で座るなら、なにものをも詳しく観察することはできない。
これは(念のない)不注意の状態であり、慧の役には立たない。
(それどころか)深い定は、慧の修行に対する主要な障害のひとつである。内省の修行のためには、まずもっと浅い定のレベルにもどらねばならない。
そうすれば心が得た力を使うことができる。
高度に開発された定も、(完成の境地や目的ではなく)(慧の修行のための)道具に過ぎない。」

​「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、
釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」

509 :
>>508
はいはいw
禅宗でも同じですからw

>​「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」

禅宗でもそれは魔境とされてますからw

510 :
あー、禅宗の祖師方の言葉は劇薬みたいなもんもありますから、禅に対する体験や知識無しに解釈すると、野狐って言葉もあるように、変な方向に行くかもねw

511 :
お釈迦様は
真実は言葉では表現できない
なんてこと言ったの?

512 :
>>511
吹いたwww

「真実と真理は全く違う」などと、余りにも当たり前過ぎた事は、お釈迦様もいちいち言わんかったろうねw

513 :
真理そのものは言葉で表現出来ない

真実は言葉では表現できない

この二つの文章は同じか、違うか?
仏教云々以前に、そこから考察してみようね^_^

514 :
>>505
>宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
>それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。

515 :
それ、俺じゃねーしw

516 :
宗教体験をして分かったこと。

うんこは口からは出てこない。

517 :
396ジャンキー大山2017/08/20(日) 06:32:36.61ID:xWgIhXwS>>403

実参しないで禅を騙るとかw
てか、実参しなきゃ分からないよ、「これ」は。

飯台看でも作務でも経行でも立ち振る舞い見て「あ、この人無字だ」「それ無字」ってあるから、分かるから。

ある程度長く坐禅やってれば自ずからそうなるもんだし、その人の無字の深さが分かるから。
そうした観察眼が備わるから。

     その境地、参照
         ↓

三毒怒りまみれの早朝覚醒で朝の4時からマルチポストレスするぐらいだから、まともじゃない笑。
下記参照
608ジャンキー大山2017/08/24(木) 04:18:29.60ID:ib6Zu9df

えへん!

俺様は天台三昧王、禅定力No.1こと、
パキシルくんでおーだじょー!
 \( ‘ᾥ’ )/
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1470504214/608
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1503284353/853
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1503284353/852
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1502977325/840
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1502382941/541
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1501323114/991
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1502945602/63
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1493379895/875
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1502361839/285
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1503209179/962
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1503489135/5

518 :
偉大なジャンキー様に皆の衆、ひざまずくのじゃーーー笑。

68 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 05:51:16.64 ID:wfppEgVn

一度でも良いから自Rる位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?

悟りを舐めてるわ、マジで。

華厳経の世界をリアルで体験して来いや?
一念三千の世界をリアルで体感して来いや?

何の苦労もなしに何が悟っただ、ただの異常心理か嘘だろ?

519 :
苦労して悟っても意味ないと思うのだが

520 :
>>519
それはポッたんという覚者を騙る紛い物に対して書いた文章を、でおーという、これまた覚者を騙る紛い物が、悪意を持って一部抜粋して何百回もコピペしているもんです。

521 :
真理って言葉を語る人間でまともな奴を見たことがない

522 :
知る主体は孤独
きちがいなら人間で、まともなら…

笑うのは心
誰もいない

自分が笑ったと思うとかね
人の気持ちが解るとかね
きちがい病

でもぶっ国土は始めからここにある

見いだせ

好きと嫌いは同じものだ
そこにある愛?が
見えない訳がない
だってそれってわたしじゃん

見いだせ

523 :
そろそろここも復活させようず

524 :
偉大なジャンキー様に皆の衆、ひざまずくのじゃーーー笑。

525 :
俺はしんが派

526 :
自我(エゴ)の中にある(であろうと期待される)本質としての真我のことを言っているのか、
自我(エゴ)を脱ぎ捨てた状態のことを言っているのか、による。

後者であれば、言葉のうえで無我と言っても、真我と言っても、たぶん同じではないかと思っている。

527 :
ただし、涅槃については四諦八正道、つまり仏道を通して到達する他ないだろうと思っている。

528 :
無我の観測者は誰なん?

529 :
その問いは、自我を起点とした発想から出てくるものだから、実は問い自体が不適切なんじゃないかな。
その発想の延長線上には答えがないから、瞑想するわけでしょう。

530 :
>>528
君が道を歩いている時に、誰かが後ろから君の名前を呼んだら君は振り返るでしょう? 
お釈迦さまも同じで、振り返ります。
その振り返る主体が無我を知ったり知らなかったりするのですよ。
無我だから名前を呼ばれてもわからないということはありません。
何もわからなくなるのは単なる忘我であって、無我と忘我は全く異なるものです。

531 :
>>528
「観測者」は「観測者」でしかないでしょ?

むしろ、なぜ、

   「観測者」=「我」

という等式が、

 《無批判に》 《無謬の》 《前提とされる》 理由

の方が不思議な事ではありませんか?

532 :
>>530さんの見解も、>>531さんの見解も
梵我一如が前提になっているかどうか?で受け取り方が違ってくる様に感じますが、如何でしょうか

533 :
>>532
「梵我一如」も、梵(ブラーフマン)と我(アートマン)を如何に定義するかによって、その内容は
どのようにでも変わります。
「梵我一如」を中心思想とするヴェーダーンタ学派の覚者であったタゴール父子は、「無我」を説いた
お釈迦様を崇拝していたことで有名です。
真理は言葉を超えているので、「悟りの意識」を実体視するかしないかは本質的な問題ではありません。
それらは人々を導くための説明に過ぎないからです。

仏教の唯識学派でも有形象唯識(有相唯識)派と無形象唯識(無相唯識)派があり、前者は
「悟りの意識」を実体視しています。それは、そのように説明する方が人々が悟りを得やすいと考える
からであって、どちらか一方だけが正しいということではありません。

そもそもが、「無我」という概念は「有我」(凡夫の考え方)を否定する言葉であって、「迷い」から
「悟り」に入る境界点での認識です。悟りの世界に入ってしまえば、もう「無我」も意味はなくなります。
(「有我」という対立概念なしに「無我」を考えることは出来ないからです。)悟りに入った後は、
「無我」も迷いの中にある人を教え導くための概念でしかないことになります。
(四聖諦なども同じで、あくまで悟りに至るまでの話に過ぎません。)
「悟り」の世界そのものは言葉を超えた世界なので、もはや無我うんぬんも、縁起うんぬんもないと
言わなければならないでしょう。

534 :
西洋では存在論者が認識論者に弓矢を構え「目を瞑れ、さすれば矢も存在しまい」と言ったとか言わなかったとか

535 :
存在してるが、実在はしてない。
ってことだろう。

536 :
さて、存在と実在とは?

537 :
4月1日 エイプリルフール
平成30年度 始まる

538 :
538

539 :
無、という名前の自分がいる。
真理、と言う名前の自分がいる。
バカという名前の自分がいる。
眠っていると、忘我、という名前の自分となる。
簡単である。

540 :
540

541 :
ブッダ>サーンキャ哲学

∴無我が正しい

しかし輪廻転生が在ると仮定すると、「輪廻する主体」在り、という話になるので、
真我を認めざるを得なくなる。

542 :
>>541
その問題は唯識で解決済かと。

543 :
>>541
自我自体は生きてるあいだも、(その性質として)ずっと無我でしょ。
自我を生みだす業があるだけで、自我は、生きていようが、死んでいようが、常に(その性質は)無我。

輪廻の主体というのは、頭で考えているから(自我の内部に生じる、自我の思いつきだから)、坐禅で
思考の外側に飛び出さないと、実感としては分からないと思うよ。

544 :
思考というのは、自我の内部に生じる現象だから、
自我の外側から自我を見た時に、自我が無我だなということは分からない。
構造的に無理なのね。

545 :
明鏡止水

546 :
モブはゾンビで無我やろ

547 :
 例えば、ほとんどの人は、「テレビに出てみたい」という気持ちを持っていたとしても、実際に交差点あたりでテレビカメラが撮影していて、テレビ局の人が三人ぐらいウロウロしていたりすると、カメラを避けたくなるものです。実際、私自身でもそうなります。
 「ここでテレビに出れば、一つのパブリシティとなって、無料で広告になるかな」と思ったりするものの、交差点で大川隆法がインタビュアーに捕まって、ろくでもない話をしたらどうですか。
 「これから、どちらに行かれるのですか」という質問に対し、「ええ、ちょっとそこまで、お腹がすいたので、ラーメンを食べに行きます」などと答えているところをテレビ番組に流されたら、全国の信者はがっかりしてしまうでしょう。
もう少し高等な質問で迫ってもらえればよいのかもしれませんが、なかなかそうはいきません。
 このように、テレビ局の人が「テレビに映したい」と思っていても、やはり、たいていは断られるものなのです。

go
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1414259356/643

548 :
キチガイだな。

549 :
仏教者の多くというのは「縁起」と永遠性の、
要するに、「恒久」「不死」「永遠」「永久」「永劫」「不滅」...
といったものとの関係についての理解を失敗してるのです。
だから、「仏性」を説いて如来蔵思想を展開するに至ったヒンドゥー化の大乗と
南方仏教の説く縁起とは矛盾するものとして混乱してるのです。
これは数百、いや無我の間違いと同じく二千年来、こうしてずーと混乱を続けてるのです。
ハテ、理解に悩む平均的仏教徒らは、果たして「縁起と仏性」のどちらの方を最終的に選択するでしょうかね?????

550 :
中道だから、結論に至る道は人それぞれ。
タイミングもひとそれぞれ。

551 :
>>544
あなた自我が大好きですね。

大好きな自我を前提に無我を考えているから間違う。

妄想を止めて五蘊を眺めてみれば、自我は存在しえないことに気づく。

無我以外ありえない。自我は前提になりえない。

552 :
言葉での表現が正確でないだけで、言わんとしていることは別に矛盾してないと思う。
我なんてない。

ただ、どうやって言語でそれを伝えるか(表現するか)というところには、センスが出る。

553 :
言語表現と伝達というのは、我が前提だからね。
その伝達形式の上に、どうやって無我を乗せるか、伝えるかっていうこと。

554 :
どこまで行っても無我を説明してる主体は自我ではないの?

555 :
>>554
眠っている時の自我はどこに居るか、と。

556 :
>>555
夢の中さ(´・ω・`)

557 :
裏っかわの世界に登る真夜中の太陽の下に魂とともに居るw

558 :
>>554
それじゃあお釈迦様は常に自我を張って説法してたってことになるじゃない。
無我ですよと言われて、そうですねでおしまい。
無我と言うあなたの自我はどうなんだっていちいち問題にすると、無我が分からなくなる。

559 :
>>158
よくわかります。私も同じ境地を経験しました。

560 :
神、ブラフマン、アートマン、真我=戯論。

論ずるだけ時間の無駄。

まず存在を証明してから議論しようか。無理だけど。

561 :
ブッダは、五蘊、六処などの誰にでも理解できる、観察できる対象を基準に議論し、瞑想し、

最終的に無我という答えを導きだした。そしてそれは誰にでも再現可能な真理。

ブッダの勝利、無我の勝利だな。うん。

562 :
無我を完全に悟る涅槃の境地の前に、四つの禅定と四つの無色界等至がある。
涅槃が最高の境地だが、涅槃以外の境地がないというわけではないと思っている。

563 :
例えば、仏陀は次第説法において在家の信徒に対しては生天の教えを説いた。
涅槃、無我が最高の真実ではあるが、欲六界の天界がないわけではない。
仏陀のご生母は、第二天界に生まれたとされている。
パーリ経典にも仏説としてそのように記録されている。

564 :
無我だけな真実なら、天界に化生した我はないのか。
人間界に生きているあなたやわたしも、欲六界の一境界なのだが。

問題は、仏教徒を自認し、無我といいながら、死後の断滅を信じている人がいるということ。

565 :
人間界の人間の常識におさまる範囲に、三十一の境界すべてにおける
三千大千世界すべてがあると思ったら、とんでもない大間違い。

蟻んこが上から目線で人類の叡智を判定して分かったつもりになってるのと変わらん。
そんなもん蟻んこの脳内妄想でしかない。
蟻んこが自分の脳内妄想に向かって、そんなもん脳内妄想だと突っ込みを入れて得意になっている。
悟っていない人が頭で考えた、「正しい仏教」なんてものは、そういう蟻んこの脳内妄想と同じ。

566 :
>>564
天界も無常ですから、いずれ落ちてきて輪廻しますよ。
無我を完全に悟れば天界にすら行きません。そのまま涅槃です。
全部の禅定を修めなくても無我は悟れます。

567 :
>>565
そう言う方向性自体、顛倒妄想の可能性は考えないのねw

お釈迦さんが、菩提樹の下で何を見たか、
誰も知り得ていない(伝わっていない)というのに・・・・。

568 :
問題(スレタイ)は、とっくに論決している。
分かってない者だけが、あーでもないこーでもないとやってるだけのこと。

この私から言わせてもらえば、まず第一にして、
“アートマンは無い”という意味での「無我」vs「有我 (論) 」という図式、
その構図そのものからして間違ってる、ってこと。
無我の教えというのは、「アートマンは無い」といったものではない。
そのことについては、ゴータマ・ブッダ自らが、その意志をハッキリと経の中で示されている。
つまり、「アートマンは無い」などと説くことについては、明確に否定したのです。
それがアートマンの有無については示さないという無記の姿勢です。

【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
 その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(サンユッタ・ニカーヤ.44 第10経)

569 :
無我の教えというのは、正しくはアートマンは無いといったことではなく、
それら(五蘊)はアートマンではないという意味です(これを「五蘊無我説」という)。
だから、「非我」と訳されることが本来的には正しい。

なので、
「非我」の教えはそもそも「有我(論)」との対決の位置付けにはない。
非我の教えとは、「アートマンでないものをアートマンと見なすことなかれ」であり、
アートマンでないものをアートマンと誤認(同一認)することから我々の苦悩が生じるのだといっているのです。
これを言い換えるからば、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということ。

要するに、
ヒンドゥーとは方法論、その手法の違いの差でしかない。
尚、当時のアートマンを認知したつもりとなっていたバラモン行者たちというのはすべて、
アートマンでないものをアートマンとして誤認していたということ。
その指摘がパーリ『梵網経』です。

570 :
>>567
>お釈迦さんが、菩提樹の下で何を見たか、
>誰も知り得ていない(伝わっていない)というのに・・・・。

いえ、それは知られていることだと思います。
これについては相当.何年も以前にこの私が述べたように、
菩提樹下の深い瞑想においてゴータマは、宿命智と天眼通による神秘的な超常体験をしたのです。
自分のあらゆる過去世のすべてを再体験して自覚した。
そしてまた、すべての人間の業に拠る死後の行き末と生まれ変わりを見たのです。
仏教の理法のすべてはこの体験にもとづいて語られたものです。
ここから業報輪廻、縁起、四諦、八正道と菩提分法、非我...すべての仏教理論が出てくることになる。

法(教え)を説くことを憂慮したというのは何故か? というと、
人々は到底、この宿命智と天眼通による神秘的な超常体験の内容を信じることなく、
理解しないものと思われたからです。

571 :
>>569
「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ」とおっしゃるのなら、
まずアートマンの存在を証明してからにしてください。

>>570
あなたお釈迦様の見たもの、考えたことを知っているんですか。すごいですね。
お釈迦様が何を見たか、考えたかより、自ら真理を確かめよ、というのが仏教だと思ってましたが。

572 :
>>571
アートマンの有無については、
自らが体験によって確認すべきことだということでしょう(経験主義)。
アートマンは“非ず”としてしか語ることができないから。
尚、菩提樹下の体験については知られています。
ブッダは語ったことと説かれなかったこととがあるということ。

 『菩提樹の下で瞑想をはじめてからどのくらいの期間で悟りを開いたのでしょうか。
いろいろな説がありますが、ここでは七日目としておきます。ゴータマ・シッダッタはついに悟りを開きます。
南伝仏教国ではヴァイシャーカ月(太陽暦の四月または五月)の満月の夜、
北伝仏教国では陰暦の十二月八日と解釈しています。日本は太陽暦の十二月八日です(「ブッダ伝」G参照)。
 満月のその夜、まず天眼通(人の生と死の繰り返しを見ることができる能力)を得ます。
さらに夜更けには宿命智(自分や衆生の過去世の生涯を知る智慧)を、
明け方には因縁の理法(すべての事象には原因があり、結果があるという理法)を、
太陽が昇るころには四諦・八正道(生老病死はどうすればなくせるか。
それを滅する八つの実践法)を明察して、覚りを開いた――と仏伝は記しています。』
 http://blog.livedoor.jp/taktag555-0216/archives/16890977.html

『[B]仏伝経典
@ NK.(vol.T 
p.075, 南伝28 p.159);斯くて太陽がまだ〔西に〕傾かない間に、大士は魔軍を
打ち亡ぼし……初夜に宿住智を〔獲〕、中夜に天眼を清め、後夜に縁起を観ぜられた。……太陽が
さし昇る頃、……菩薩は一切智を得られ……。』
(【資料集3】仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧/菩提樹下の成道)
 http://www.sakya-muni.jp/monograph/03/3-1/2324.html
 http://www.sakya-muni.jp/pdf/03_01.pdf

573 :
では実際、
ゴータマは具体的には何を見たのか?
それがこれらの経だということになるのです。

この天眼通についての経文(サンガーラヴァ経)とほぼ同一の内容が、
宿命智通の体験内容を伝えたこの沙門果経/出家の功徳に続いて説かれています。

 『また、心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は過去の生存の境涯を想起する知(宿住通)に、
心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すなわち、ひとつの生涯、二つ、三つ、
四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯 を想起します。そしてそれは幾多の生成の宇宙期(成劫)、
幾多の壊滅の宇宙期(壊劫)、幾多の生成・壊滅を含む宇宙期を(通して)想起します。
「あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、
こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、
そこでも同じように、自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不幸を体験し、
これこれの年齢まで生きた。そしてその世から今のこの世に生まれ変わってきたのだ」というように、
具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。

 たとえば、大王よ、ある人が、自分の村から他の村へ行き、その村からまた別の村へ行き、
そしてその村から再び自分の村へと戻ってくるとします。彼はこう考えるでしょう。「わたしは自分の村からあの村に行き、
そこでこういうように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そののち、その村からあの村へ行ったが、
そこでもこのように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そして今はその村から再び自分の村へ帰ってきている」と。
 まさにそれと同じく、大王よ、心が安定し・・・堅固な不動のものとなったとき、比丘は過去の生存の境涯を想起する知に、
心を傾け、心を向けます。---(93節の繰り返し)--。
 これまた、大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であります。』
(『ディーガ・ニカーヤ2:93〜94』出家の功徳)

574 :
 『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確立し不動になったときに、
多くの人々の死と生を知ることに心を向けた。すなわち、わたしは清浄で超自然的な天眼によって、
多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、
幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
 「じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、多くの聖者を非難し、
よこしまな見解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。
また、他のこれらの人々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難せず、
正しい見解をもち、正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死んだ後、善い所、天界に生まれる」と。

 わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。
バーラドゥヴァージャよ、これが夜の中間の部分において得られた第二の明知である。
 ここに無明が滅び明知が生じたのである。暗闇は消滅して光明が生じたのである。
それはつとめ励み、努力している人に現れるのである。』
(『マッジマ・ニカーヤ100』サンガーラヴァ経)

575 :
>>572
あなたはアートマンを体験しましたか?
わたしはしていません。共通認識できないものは議論できません。

お釈迦様が菩提樹の下で宿命智と天眼通を得たのはそうでしょうが、
私が言いたかったのは、お釈迦様の智慧は超越的で、お釈迦様の頭の中は、
我々には分かり得ないという事だったんです。
あなたに宿命智、天眼通は無いでしょう?もしかしてあります?
なので、釈尊の頭の中を想像するより、自分で真理を確かめる事の方が重要じゃないかなと思います。

576 :
個人的には、
他宗教でアートマンだと言われているものも、阿羅漢の智慧を通してみれば実は無我だった。
他宗教でアートマンと言っているものが、仏教の涅槃と同義語であるか
そのどちらかだと思う。

梵天はいるし、それを最高の境地だと考える宗教はいくらでもある。
仏教以外は、涅槃を知らんだろうし。

577 :
梵天はいないとか、梵我一如という宗教体験は幻覚の一種だとか思っているとしたら
それこそ脳内妄想に過ぎない。

それを考える人の色眼鏡のフィルターを通して、その人の頭の中に生みだされた
ただの思考概念に過ぎない。

578 :
なんか最近の仏教徒って都合よく経典を解釈してないか?
日頃から仏典を根拠にしてるくせに瞑想して梵天が見えたりしたら魔境とか矛盾することを平気で主張するし
どーなってんねん
普通、自我が停止すれば見えるだろ

579 :
>>578
仏教は解脱が目標ですから、梵天が見えても放っておきなさいということだと思いますよ。
梵天は放っておいて、さっさと解脱しなさいということだと思います。
涅槃には梵天も何もいませんからね。

ちなみに仏教的には自我は停止しません。
そもそも自我なんて始めから存在しないよというのが無我です。

580 :
>>579
>涅槃には梵天も何もいませんからね。

あなたは涅槃を体験しましたか?
私はしていません。共通認識できないものは議論できません。

581 :
>>580
涅槃については議論できませんが、涅槃に至る道については議論されています。

煩悩を無くし、執着を無くし、渇愛を無くした状態が涅槃ですから、
梵天として存在している時点で、まだ執着が残っているわけです。
ですから梵天はまだ涅槃に入っていないことになります。
輪廻する衆生ということです。

582 :
悟りの階梯
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html

583 :
不還果の梵天もいる(浄居天)。

584 :
論理的には、浄居天で阿羅漢に悟った梵天も存在し得る。

585 :
梵天界の阿羅漢に仏道成就への助力をお願いすると、助けてくれる。
わいは助けてもらった。

586 :
>>581
あなたはその仏典の記述に従ってどれだけの体験をしてこられたのですか?

587 :
仏菩薩たちの智慧の光、慈悲の光は、われわれを取り巻いて世界中に遍満している。
われわれを取り巻いているどころか、我々は最初からずっとその光のなかに浮かんで
溶け込んで、渾然一体ですらある。
わいはそう感じた。

でも、人間の方が自我にしがみついて、五蓋に執着して、仏菩薩の慈悲を心から
閉め出してしまってるんだよね。

588 :
>>586
12年ほど修行してきて、色々体験しましたが、
仏典に関しては正しいと確信を持ってます。

>>584
不還果の梵天は、いつ阿羅漢果に逹するんでしょうか?
五上分結があるから涅槃に入らずに梵天界に転生する訳でしょう?
生まれた直後はまだ阿羅漢ではないはず。
梵天界で瞑想するんですかね?

589 :
>>588
どこでどのような修行をされどのような体験をしてこられたのですか?

590 :
>>589
スマナサーラ師の本をよく読んで、戒を守り、瞑想しただけです。
いろいろと煩悩、執着が無くなり、智慧が現れる経験をしました。

591 :
>>590
そのスマナサーラさんは
>仏教は堂々と 「涅槃こそ 、本物であり 、真理である 。他は全部 、幻覚だ 」と言っています(『智慧は人生の羅針盤』)と書いています。

その幻覚ではなく唯一本物である涅槃を証明してください。

ちなみに同書には
>涅槃は認識の対象にもならない(小部 自説経71)とありますが、真我実現ならぬ涅槃実現した者でなければ涅槃は認識の対象にはならないようですが、
それでも頑張って涅槃の存在を証明してみてください。


560 名前:神も仏も名無しさん :2018/08/21(火) 10:15:44.68 ID:pGynuBOH
神、ブラフマン、アートマン、真我=戯論。
論ずるだけ時間の無駄。
まず存在を証明してから議論しようか。無理だけど。

592 :
>>591
簡単ですよ。
人間には煩悩、執着があるでしょう。
それが完全に無くなった状態が涅槃です。

例えば、裁判で検察側が証拠を出すでしょう?
その全てが嘘だ、捏造だと分かれば完全に無罪である証明でしょ?

ですから涅槃は、神やアートマンなどの、よく分からない妄想概念とは違います。
人間が実感できる、体感できる境地です。
かなり修行が必要ですが。

593 :
>>592
あなたが最後に書いている通り煩悩執着を完全滅するのは全然簡単ではないですよね。
さて、煩悩執着を完全に無くすのに成功した人間は近年どのくらいいたのですか?
涅槃は完全に煩悩執着を無くした人間が体感できる実感できる境地というのなら、その人間をまず紹介してみてください。

あと涅槃は無為とお釈迦さんは説いています。
涅槃が無為であることの証明をしてください。

594 :
>>593
涅槃に入ったことのある人を見つけても何の意味もないですよ。
自分が涅槃に入らないと。プリンがおいしいかどうかは自分で食べないと分かりません。
プリンを食べたことのある人に聞いても意味がないです。
大念処経には最速で7日でいけると説かれています。

無為という単語は私はよく知りませんが、行、サンカーラが止まった状態のことだと思います。
十二因縁の二番目です。無明が無くなったとき、行が無くなります。行が無くなれば識が無くなり、
結果生老病死が無くなります。生老病死が無くなれば、苦しみ、煩悩が無くなり、無執着の境地、涅槃です。

行というのは人間が生きていたい、何かをしたいというエネルギーです。
そのエネルギーが無くなった状態を無為と呼ぶのだと思います。
それが無くなれば、悩むこと、苦しむことは無い訳ですから、涅槃に入れます。

595 :
>>594
再現性がないのなら唯一の本物であり真理である涅槃というのは仏典を通した信仰でしかないですよ。


560 名前:神も仏も名無しさん :2018/08/21(火) 10:15:44.68 ID:pGynuBOH
神、ブラフマン、アートマン、真我=戯論。
論ずるだけ時間の無駄。
まず存在を証明してから議論しようか。無理だけど。

596 :
>>594
追伸

無為は無明が滅して行が滅した状態ではありません。
そういう縁起がもともと働かない、縁起によって形成されたものではない、つまり無常ではなく恒常な事物を指します。
仏教では涅槃が無為だと説かれます。

その涅槃が無為である証明をしてください。

597 :
>>595
誰にでも再現できます。仏教の「来たれ見よ」というスローガンの通りです。
少し努力が必要なだけです。

理論的には涅槃は証明されているでしょう?
煩悩、執着はみなさん経験しているものですから。
それが無い状態が涅槃です。

598 :
無為というのは縁起しないことではありませんか?

二念を継がなければ、則ち、環滅門を実践すれば、そもそも初念自体が根無し草ですから消滅してしまいます。

これが縁起しないという事では?

599 :
二念を継がなければ縁起はそこで終わりです。

600 :
>>596
諸行無常という言葉があるでしょう。
行が縁起によって、瞬間的に生滅変化していることを諸行無常といいます。
この諸行が無くなった状態を涅槃といいます。
涅槃は不生不滅です。不生不滅は生まれないものは滅しないという事です。
なので涅槃は無常とは言えません。
恒常ではないです。生まれおらず、滅しないものは恒常ではないです。

無為という言葉はおそらく釈尊の言葉では無いと思います。
パーリ語では何ですかね?私はよく知りません。

601 :
>>600
お釈迦さんの言葉です。
自説経73に出てきます。

比丘たちよ 。生まれることがない 、成る 、起こることもない 、なすこともない 、原因によって作り上げることもない境地がある 。
(小部自説経 7 3 )

パーリ語では無為はasaṅkhataṃです。

602 :
>>597
だから誰にでも再現できるというのなら再現した人を紹介してくださいとさっきから何度もお願いしてるのですが(笑)

603 :
>>601
多分それはサンカーラの否定型じゃないでしょうか。
サンカーラが無いという意味だと思います。
パーリ語も不勉強なもので、間違ってたらすいません。

604 :
>>602
あんまり意味ないと思いますがいちおう。

お釈迦さま、サーリプッタ尊者、モッガラーナ尊者、マハーカッサパ尊者、
達磨大師、六祖慧能、黄檗、臨済、馬祖、百丈、
道元、良寛、応燈関、白隠、盤珪、山岡鉄舟、澤木興道、ネルケ無方、
山下良道、スマナサーラ、アーチャンチャー、プッタタート、マハーシなど。

605 :
>>603
サンスクリットの方だと

saṃskṛta 有為
asaṃskṛta 無為

違いはaが付いているだけかどうかだけ。

行はサンスクリット語で

saṃskāra、

でsaṃskṛtaとよく似ているし確かに語源は一緒だと思います。

>>604
達磨大師以下は煩悩・執着が"完全に"無くなったのかどうか疑わしいですが。

それらの仏教徒が無為なる涅槃を体験したというのならラマナマハルシが真我実現したでも変わりはない。
というか権威だけで言えばマハルシの真我実現のら方が説得力があるかもしれないね。

606 :
>>598
無為は最初から無縁の果なので二念を継がないとはまた違うのではないかと。

607 :
>>605
仏教徒は、権威も経典も伝統も肩書も盲信せず、
自分で真理を確かめるのを良しとします。

実践して確かめてみるのがいいと思います。マハルシのやり方で。
真我実現できるかどうか。

608 :
>>607
その前にあなたは仏教徒なのだからお釈迦さんのやり方で涅槃までとは行かなくてもせめて色界第一禅まで到達できるのか実証してみればいいのです。

609 :
もし本当に涅槃が見られるんだったら、もう禅定入れると思うよ。
預流果だから。

610 :
預流果の聖者が、妄想の光と智慧の光を判別できないはずがない。
もう知ってるはずだから。

611 :
>>608
初禅ぐらいは2、3年真面目にやったら入れますよ。
たいした事じゃないです。

612 :
>>611
それは頼もしい。
ならそのまま頑張ってお釈迦さんのやり方で涅槃に到達できるかやってみてください。

613 :
一度経験するといいよね。
究極の健康だよ。

614 :
>>579
自我が停止中なら放っておく(観照する)ことしかできないと思いませんか?
なぜ釈迦は菩提樹で梵天と会話したんですか?

615 :
>>606
実際論としては、二念を継がなければ縁起は無くなるのだし、環滅門の働きで初念も滅すると思うんですが、どうでしょう?

616 :
>>579
確かに梵天は涅槃ではありませんが、基本的に仏教では禅定の過程で梵天の状態を経るものだと言われてませんか?

617 :
>>615
涅槃においては最初の一念すら起きないのだと思います。

「比丘たちよ、その場所(処)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、
という瞑想の境地)なく、この世なく、他世なく、月と日の両者はない。…
(自説経71)

非想非非想処すらないということは想念が全く起きないのが涅槃ということなのでしょう。
想受滅定により涅槃に達するというのは想念が滅した世界が涅槃ということだと思います。
ただし、滅ニローダの意味をヨガやチベット仏教のように制御とした場合なら想受滅に於いても一念はありかもとも思います。
スマナサーラさんはニローダを滅尽と訳していましてこの場合は最初から一念は生まれないとなるのでしょう。
ヨガや北伝仏教と南伝の解釈の違いは滅の字一つとってもあるようですね。
もっとも中国仏教での滅の意味はむしろ南伝での滅尽のニュアンスになってるとも思います。

618 :
>>617
二念を継がなければ、初念は滅します。

その状態(というのも変ですが)が続けば念は生じない事となるのでは?

619 :
>>614
自我は妄想です。存在しません。それが無我です。
存在しないものは停止しません。
梵天との会話についてはよく分かりません。
超越的な何かがあるのだと思います。

>>616
無色界禅定に入れば、梵天と同じレベルの状態になるみたいですが、
禅定から出れば、煩悩はそのままです。
禅定と涅槃とはまた別の話です。

620 :
>>619
いわゆる有頂天ですよね。
それとは違うと思います。

621 :
>>618
自説経73の訳色々

@正田大観訳

比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。

Aスマナサーラ訳

比丘たちよ 。生まれることがない 、成る 、起こることもない 、なすこともない 、原因によって作り上げることもない境地がある 。

Bhttp://d.hatena.ne.jp/pali/touch/20120918/p1のサイトの訳

比丘たちよ、[そこでは、新しく]生まれるものがなく、[すでに]存在しているものもなく、働き(活動)なく、縁起の法も受けません。

@Aの訳なら「生じたものではなく…」「生まれることがない…」は無為である涅槃のことであり、その境地に座する個人の最初の一念は生まれるのかもしれません。
Bの訳なら「生まれるものがなく…」なので最初の一念すら生まれないのかもしれません。


思い出しましたが私は涅槃を体験してないので、共通認識できず、議論できないのでした(笑)
なので涅槃の話はここまでにします(笑)

622 :
>>619
自我とはマインドのことでありマーヤ(幻影)などとも呼ばれます。

623 :
二念を継がないのは涅槃に至るための修行法だと思います。
涅槃そのものではないです。

624 :
>>619
梵天は色界禅の第四番目の状態に留まっていて、個別の身体も有しています。
その下の世界である第六天もよく言われるとおりのエロい存在です。
で、釈迦はこれらの誘惑をスルーして解脱し、梵天に対してあなたは永遠の存在ではないと看破します。

もしも有形の存在たちの状態を経験したり見たりしないと、的確に比較したり理解や看破も出来ないんですよ
あなたの言うように一時的に梵天を経験した修行者は瞑想から出れば元に戻りますが
梵天の世界にいる存在そのものはずっとそこに留まって第四禅の状態を経験しつづけてます。

625 :
ちなみにわたしはしばらくの間、第六天の状態にハマってました

626 :
>>624
第六天というのは六欲天の事ですか?
だとしたら死なない限り人間は行けないと思いますよ。六道輪廻の中ですから。
人間は頑張って禅定状態を作れば、色界、無色界に行けます。
梵天は色界、無色界にいます。四禅だけではないです。

627 :
転生して天界に行くのではなくて、なんかの化身で行くんではないかな。
釈尊や高弟が、天界に行った話は仏典に出てきますし、現代の修行僧
からも天界に行った話は聞いたことがあります。
(今生の)自分ではまだ未体験ですが。

628 :
>>627
神通力を使って行くんでしょう。

629 :
欲界は化身で体験できるんですけど、梵天の状態は光を超えてるので化身では行けないですね
あれは体験が勝手にやってくるだけです
本質的には無形なんでしょうし、信仰の違いによっても形を変えるのかもしれませんが
オリジナルの形態もあるようです

630 :
π

631 :
自我から、無我となり、それから真我となる。それから、どうなるのか。

632 :
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180922-00000026-jij_afp-int
 マイク・ポンペオ(Mike Pompeo)米国務長官が21日、中国政府に対し、イスラム教徒の少数民族ウイグル人を多数拘束していると
異例の強い論調で批判し、不穏さを増す米中関係に新たな火種が浮上している。

 中国が過激主義の抑止を口実に、西部の新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)でウイグル人を多数拘束しているとの
国連(UN)の報告を受け、ポンペオ国務長官は、
「数十万人、事によると数百万人のウイグル人が、いわゆる再教育キャンプに強制的に収容され、重度の政治的な洗脳をはじめとする虐待に耐えている」
「彼らは宗教的信仰を奪われている」と警鐘を鳴らした。

 米議会の超党派議員団は先月末、ポンペオ国務長官とスティーブ・ムニューシン(Steve Mnuchin)財務長官に宛てた書簡の中で、
ウイグル人の強制収容に関わっているとして、中国当局者らに制裁を科すよう求めていた。

 ポンペオ国務長官は米国による制裁措置の導入については言及しなかったが、中国ではキリスト教徒も政府の弾圧の標的にされているとの
懸念を表明し、中国政府が「教会を閉鎖し、聖書を焼き、信徒らに棄教を認める文書への署名を命じている」と述べた。

633 :
レス 募集中

634 :
ジル・ボルト・テイラーさんが脳卒中のときに体験したことは、生きている間に経験できるワンネスとほぼ同じですね

635 :
んだ。

636 :
>>634
経験した?

637 :
>>636
もちろん
しなきゃわからない

638 :
異性を見た瞬間に性エネルギーを昇華できる状態→ 経典に第六天として記されてるもの
ワンネス→ 梵天

多分こんな感じなのかな
解脱とかジーヴァンムクタとか言われる状態はこれより更に先なんだろうなあ

639 :
>>638
私も経験したよ。
でも異性を見て〜?とかじゃない。

640 :
異性云々は第六天の状態なので、ワンネスとは関係ないですよ
梵天の下の第六天の状態の生命体はそういう性質をもっている、ということを書いたまでです。
ワンネスの状態では異性とかもう関係なくなりますね

641 :
うん。関係なくなる。
恋愛もなくなる。

642 :
ワンネスを経験したならば、いずれ時間の流れが存在しない広大無辺な闇の空間を垣間見ることになるでしょう
そして、さらに闇の空間の中心を見ることになるでしょう

643 :
δ

644 :
 ┌───‐─v┐
 │【.麺 罪 符.】│
 │/.∧,,∧ .\│
 │ .( ´・ω・)  |
 │ (っ=|||o)  |
 │\.`――´./|
 │.食い改めよ..|
 .  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

645 :
    (  (⌒( ´・ω・`)\  ガバッ!!
    \ ヽノ(,,⊃⌒O〜 ヽ     あーびっくりした 親に殺される夢見たわ
       \ //*;;;::*:::*::::*⌒)
       ( (*:::;;:*::;;::*.::::*::::(
          \\:;;;*::::*:::*::::*:::\
          \`〜ー---─〜' )

             ____
             || ___ |
     彡 ⌒ ミ    || └ヾ::::| | 起きたらコーヒー
    ┌( ´・ω・)∫ ||__/._/_|
    | (  っc□┌━┷┷━┐

646 :
 ┌───‐─v┐
 │【.麺 罪 符.】│
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 │ .( ´・ω・)  |
 │ (っ=|||o)  |
 │\.`――´./|
 │.食い改めよ..|
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647 :
平成最後の12月7日

648 :
あと74日

649 :
あと何日?

650 :
あと72日

651 :
あと68日

652 :
あと67日

653 :
あと63日

654 :
あと62日

655 :
『異性を見た瞬間に性エネルギーを昇華できる状態』って意味不明なんですが、
美女を見た瞬間に射精しちゃうの(´Д`)?

656 :
あと58日

657 :
☆無我なのか真我なのか☆

658 :
あと110日

659 :
あと94日

660 :


90日

661 :
あと87日

662 :
あと80日

663 :
あと76日

664 :
あと71日

665 :
あと68日

666 :
あと67日

667 :
667

668 :
あと53日

669 :
あと52日

670 :
あと51日

671 :
あと39日

672 :
あと38日

673 :
あと37日

674 :
あと36日

675 :
駄目だ 駄目だ 

 『令和』なんて 絶対 駄目だ

せめて『永和』にしろ

ひろ君(浩宮殿下)だって゛令和天皇”なんて呼ばれたくないと思う

676 :
あと23日

677 :
あと6日

678 :
あと4日

679 :
あと2日

680 :2019/05/05
 ○、 ________
  || |/|◎ヽ巛巛巛巛巛|三
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