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JKなんだけど親でどうしたらいいなわからない


1 :2015/09/21 〜 最終レス :2020/06/05
初心者です初めてのスレ立てごめんなさい

2 :
初めての2ちゃんスレ立てわくわくだぜ。心臓バックバク

3 :
>>1

いつ頃産んだの?

父親は何やってるひと?

4 :
ごめん親の宗教でって書きたかったのに間違えた…。うわ…、

5 :
>>4

親の宗教のどこが問題で、どうしたいわけか?

6 :
>>4

親に強制されてるのなら、高校卒業までは我慢するのが無難だな。

7 :
ごめんなさいスレタイ間違えたので新スレ立てましたもしよろしければそっちで相談乗ってください

8 :
>>7

IDちがうやつに言われてもな。

で、その新スレのスレタイは?

9 :
>>8
名前変えられた!!
初心者です!JKだけど親の宗教に関わっちゃって話聞いてほしいってやつだけど、スレタイ変えられたのでこっちで大丈夫です。

IDはなんか規制されたのでWi-Fiきりました。

10 :
>>9

話し聞くから、カキコしろよ。

11 :
 

12 :
>>2
そうだなぁ、おじちゃんも中学2年生の頃に心臓がバックバクになったことがあるよ。
あれはたしか谷崎潤一郎の名作「卍」が僕の住んでいいる街で上映になったんだよ。
ところがその映画は成人指定でね、僕は未成年だから一応は観るのは諦めかけてたんだが・・

まあそういうことなんだけど、試しに切符を買おうとしたら、驚いたことに切符切りのおばちゃんが売ってくれるんだよ。
この時はさすがに驚いたね、なにしろ僕は中学生だからね。
まあ、おばちゃんもある意味においては心臓バックバクだったんだろうけど、
僕も心臓バックバクだったね。

おばちゃんは周囲を伺って、目撃者はいないと確認してから、僕に「早く館内に入っちまえ」ってジェスチャーしたんだよ。
それで僕もおばちゃんの好意に感謝しながら館内に入った。

そしたら銀幕に映ってたのは、かの若尾文子の後ろ姿だった。それも総天然色。
自分の裸体を岸田今日子に晒しているシーンだった。これで僕は二度目の心臓バックバクになったんだけど、
で僕は落ち着くために、館内の売店でジュースを買おうとしたんだけど、
なにしろ上映中だし、周りは暗いのでその売店には店員がいないようだった。

僕は小さな声で「ジュースを下さい」っていったらね、下の方から突然に顔がニューって出てきたんだよ。
あの時はさすがに驚いたね、まさか下から顔が出てくるとは思わないからね。
これが三度目の心臓バックバク。

まあ、なんというか、青春というもんはそういうもんだよ。多感な時期とかいうだろ。
いろんなことを経験することが人格形成に役立つ、ってことだとおもうね。じゃあ。

13 :
 
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

「我々が密集を看破した時、無我への領悟、了解が生まれる
  密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」

色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません

同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
プルシャは永遠に変化することがない
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/reincarnation/
チベットの場合は
すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている
一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続する
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

14 :
>過去と未来を掴もうとしている想いに依存して
> 今ここに戻ることが難しい

今というのを体得・会得している方はどれほどいるだろうか?
例えばですが、掃除している時は「今」ではない。
掃除するというのは、その目的のための手段の過程であろうし、それは今ではなく
目的の実践なのだ。こういうことを真剣に考えたことがあるだろうか?
(この修行を動中禅というが)

言葉の表面だけで理解したつもりであるなら、それは早計というものであろう。

ニーチェもよく勘違いされるのは「ニヒリズムに生きる」ということだ。
これも大間違いなのだ。

こういった言語に関する論理というのは、言語哲学というジャンルが扱ってきたが、
言語における無価値化・価値逆転化など、それは読む側のスキルに殆んど依存せねばならんだろう。

では道元における「只管に生きる」は、その本義は一体なにか?
あまり禅を舐めすぎてはいけない。
例えば「禅は常識的なもの」とか。とんでもごじゃらんせん。
それどころか、その常識を全く破壊しちまうのです。
この続きをまた暇なときにでも。

15 :
>>14のつづき
>掃除するというのは、その目的のための手段の過程であろうし、それは今ではなく
> 目的の実践なのだ。こういうことを真剣に考えたことがあるだろう

掃除していても五感や思慮は働いてます。たえまなく休むことはありません。
だけどそれが一瞬すべてが吹っ切れる。
つまり日常という流れ(実は流れてはいない)が刹那に止まったそのとき。
廓然無聖の「廓然」というのは、この瞬間なんでしょう。

つまり僕がここで言いたいことは、坐禅をしてても五感は働いているでしょうし、思慮も浮かぶこともある。
これが人間ですね。
ですから「人間とは何か?」をまず前提としまして、それで「只管に生きる」を考えていきましょう。

ああそれからですね、業報輪廻とかカルマとか、こういったことが心から離れないのも人間の業というもんですよ。
だからそういったことが正しいのか間違いなのか?この是非を考えあぐねるのも人間そのものでありますね。
とにかくその正邪については、禅では不問であります。
こういったこともこれから皆様で考えていきましょう。

16 :
>>15のつづき
>とにかくその正邪については、禅では不問であります。

禅では「不問」と書いたが、それは表向きであって、実際は全て解明される。
だからこその禅であろう。
禅宗が「常識教」である。というのは大間違いなのだ。
こんな認識だから、まともなコミュニケーションも成り立たない。これが現実なのだ。

「今に生きる」とは、こういったあらゆることを凌駕せしめる無限なるスケールと言っても過言ではない。
それほどまでに究極的意味合いがあるにも関わらず、そのフレーズは、
なんと!!「今に生きる」。
これほどまでにシンプルなフレーズがあっただろうか!!

しかしながらその奥義とは、シンプルの対極をなすものであろう。
         <机龍之介>

17 :
 
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧))

過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください

http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
何ものにも囚われることなく
植えさせて頂く功徳が必要である

18 :
 
>日常という流れが刹那に止まったそのとき

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
業(ごう)
(前世からの)
(過去からの)
心の流れ(心相続)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)
第一能変
異熟というのは
阿頼耶識(根源的な識)のことであり、あらゆる種子を内蔵している
感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する
感受は不偏であり
かつそれは障害のない中性である。感触その他もまた、同様である
そして、根源的な識は 『 激流のごとく活動している 』 『 暴流の如し 』
  _  _  _

無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていくために
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)

決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?と
そこで、意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想は消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』

19 :
 
>業報輪廻とかカルマとか、こういったことが心から離れないのも人間の業というもんですよ

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/22/155033
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
貪愛は
無明に依存して、初めて生起します
我々の菩薩を例にとると
彼は菩薩の生命に未練がありましたが、これは貪愛です
彼が菩薩は菩薩(という実体がある)と思っていたのは、無明です

(実有・実体ではない)無常という本質によって、仏陀も般涅槃に入るのです

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)ている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

20 :
 
>「常識教」である。というのは大間違い

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
八正道(はっしょうどう)

われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀法品第十八
(何かを掴もうとしている想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から客観的に観察して)

八正道を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する

21 :
http://asdlkj43.blog.fc2.com/

22 :
>>15のつづき
>ああそれからですね、業報輪廻とかカルマとか、こういったことが心から離れないのも人間の業というもんですよ。

では何故にかような妄念が自分に示現するかというと、それは明らかなのであります。
それは人生を深く生きていないからであります。
禅ではこれを脚下照顧と言います。
先ず自分の足下から考えよう、ってことですね。

今を真剣に生きようとせば、もはや全ての妄念が寂滅します。
何故ならば、ずっとそこにあるものを自分では気づくことができない。
それを気づくことにおいてしか、それは解決できない。ってこってすね。

「今」というのは、なかなか自分では気づくことはありません。
何故ならば本来は今というのが無いからであります。
それでもなお今はずっとそこにあるのですから。
この論理矛盾を合理的に整合性を追求したのが「有時の巻」です。
ではまた・・

23 :
>>22のつづき
妄念というのは霧に包まれておるような状態です。
ですから輪廻転生の是非を考えるだけでも心は疲弊してきます。
心は常に未知の領域を考えあぐねぐだけで日々は経過し、そのことだけに生きるようになります。
これでは「生きている」とは言えませんね。
ただただ亡霊に憑りつかれておるのと同じことです。

輪廻転生の是非を考える前に、先ずは脚下照顧です。
脚下照顧とは、今まで霧に包まれている状態がスッキリしてくる、その方法論です。

同じ光景を、100日・1000日見続けても、気が付かないものは10000日見続けても気がつくことはない。
ようは何らかの切っ掛けです。

>そして、根源的な識は 『 激流のごとく活動している 』 『 暴流の如し 』

暴流が、やがては表層意識にまで噴出することがある。つうことですね。
唯識的に言うなら・・・

24 :
 
http://budo.livedoor.biz/archives/17537944.html

脚下照顧(きゃっかしょうこ)
これは、少林寺拳法独自の教えではなく、仏教の教えでもあります
意味を簡単に言うと、「足元をよく見なさい」ということです
少林寺に関わらず、すべての武道においては
道場に入って靴を脱ぐときに、必ずきちんと靴を揃えて置くことを厳しく教えられます

靴を揃えて脱ぐ、というのも脚下照顧
でも、この教えは、もっと深い意味があります
つまり、自分の生活において、足元をよく見なさいよ、という事です
夢や理想を追うのも大事なことですが
自分の現在の姿や、置かれた位置をよく見直すことが大事だと思います

幸せを掴んだり、成功するためには
まずは自分の足元をしっかり見て、現状に対し、感謝することが大事だと思います

日々の生活に感謝していく

25 :
 
>表層意識にまで噴出することがある

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)

種子は
阿頼耶識から
 → 末那識
 → 第六意識
 → 前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)
 → 外界へ
外界からの縁を受けて
 → 前五識
 → 第六意識
 → 末那識
 → 阿頼耶識に種子として薫習される

これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行)
このサイクルを阿頼耶識縁起と言う

26 :
 
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
瑜伽行唯識

有相唯識派
認識は対象の形相を有していると考えます
玄奘以降の中国・日本の法相宗は、この系統です

無相唯識派
認識は対象の形相を有していないと考えます
スティラマティは、アサンガ、ヴァスバンドゥ兄弟が究極的には
識の実体性を否定したことを受け継ぎ、かつ、如来蔵思想の影響を強く受けました

無相唯識派は中観自立論証派の影響を受け
シャーンタラクシタが瑜伽行中観派を形成し、カマラシーラらに受け継がれます

27 :
>>24
>夢や理想を追うのも大事なことですが
> 自分の現在の姿や、置かれた位置をよく見直すことが大事だと思います

ええ全くそのとおりですね。
輪廻転生に興味があるのは大いに結構なんですけど、それが是であっても非であっても
それにおいて心が左右されるのであれば、それは本末転倒ということであります。

禅とは、つまり「不動心」なるが故の心の解放を最高の境地とされておるんです。

まあこういう書き込みは、かの縁起一代氏と僕は真っ向に対立するのでありますが、
縁起氏などは、「輪廻があるのと無いのは偉い違い」などと言うておるようです。
僕はここのとこがどうも分からんですね。

あのですね、机龍之介が是なのか?縁起氏が是なのか?それを考える以前に自分を省みよ。
そういう意味を含んでおるのが脚下照顧なんざます。

28 :
超簡単なお話ですね。

29 :
なぜ簡単な話を難しくしてしまうのかというと
頭で理解しようとしているからです。

30 :
そもそもが頭で理解できないものを
さも頭で理解できるかのように述べられたものに振り回され
そして延々とその頭のままドツボにはまっていく。

しかしどこまで行っても信じられない。

31 :
 
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

「空」の本当の意味を深く知るには
中観帰謬派と中観自立派の見解の僅かな差を吟味する必要があります
なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです

チベットの伝統では
中観帰謬派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています
これに次ぐのが
中観自立派の見解です
それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより
究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです

では、何が両学派の見解の差なのでしょうか?
よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう
これは、両学派の呼称にもなっています
けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です

自相とは
「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで
誤ったあり方を掴んで離さないような固執による想いです

32 :
 
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

中観自立派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

 − これに対して −

中観帰謬派は
そのような自相を、世俗の次元でも否定します
従って中観帰謬派の立場からすると
私たちが
(無明の暗闇に覆われて、そして
  誤ったあり方を掴んで離さないような固執による想いに依存して)
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります

33 :
>「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで
> 誤ったあり方を掴んで離さないような固執による想いです

ええそうです。
思い込みというのは誰にでもありますが、その「思い込み」を

自覚するのは大変なことです。
「気づき」というのは、この思い込みを気づくことにその本意があるのですが、
「気づく」ことは連鎖していくのであります。

つまり、「思い込み」だと気づいても、その「気づいた」ことが思い込みであったりするんですね。
こういった繰り返しこそが、つまり「今に生きる」ことであります。

現成公案ですね、生きることそのものが公案であると・・

34 :
 
机先生の場合は
何を主張したいのか? わからない

 − これに対して −

>縁起氏などは、「輪廻があるのと無いのは偉い違い」などと言うておるようです

例えば
おじゃるの場合は
前世の記憶はないけど
「輪廻を繰り返している!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
それ故に
(これを本当に実践するのか? は別として、考え方としては)
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく

という説明の方がわかりやすい

(でも輪廻を否定してる人には通用しないでしょ?)

35 :
>机先生の場合は
> 何を主張したいのか? わからない

ええ、それで結構なのであります。
禅というのは、同じ道を何度でも、それこそ100回だろうが1000回だろうが10000回だろうが、
同じことの繰り返しであります。

同じ光景が何度でも繰り返す訳ですが、そこである拍子に「なんだ、これだったのか」と気づく者もいれば
全く気づくこともない者もいる。

これは道すじに咲く花を見つけるようなもんです。
路傍の花は、おそらくは見逃してしまうかもしれません。
そういうもんですね。人生というのは。

人の出会いと同じようなもんですよ。
何でもない、ある切っ掛けを縁として男女が結婚することすらあるんですから。
チャンスみたいなもんでしょ?男女なんて。
仏縁も同じことなんですよ(笑

36 :
>(でも輪廻を否定してる人には通用しないでしょ?)

僕は輪廻を否定している訳ではない。輪廻があったら大いに結構じゃないですか?
ただ輪廻というのは、それだけで価値があるものか?ということですね。
無価値なものであるならば、輪廻があっても、輪廻がなくても、無価値であることは間違いない。

ただそれだけを人生の基軸として生きるには、あまりにも勿体ない。とこう思うのです。
せっかく生きてきたのですから。

でもしも輪廻があるとして、今を精一杯生きることの方が第一優先なんじゃないですか?
輪廻というのは属性ですからね、
後からオマケで付いてくるものです。

オマケですから、精一杯生きれば輪廻の是非はもはや考えあぐねる程もなかろう。

37 :
 
>ただ輪廻というのは、それだけで価値があるものか?ということですね

(これを本当に実践するのか? は別として、考え方としては)
それ故に
掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に

八正道(はっしょうどう)
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである

この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される

(という説明がわかりやすい)

38 :
>無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく

たぶんこういう方というのは、輪廻からの呪縛をされたままに生きておるのかと思います。
本来の自由解放というのを知らないんじゃないでしょうか?

縁起氏などは、僕のことを「一生苦しむ」などと言っておるようですけど、
考えようによっては非常に恐ろしいことです。
こればかりは考え方の違いが、その人の人生観を作りあげてしまう典型でしょうね。

そもそも仏教というのは自由解放への道筋を示したものです。
バラモン教とかヒンドゥー教とはそこが違いますからね。

もう苦しむことはありません。
どうか輪廻からの呪縛から解放されることをきぼんぬします。
本来の自由とは何か?を知るであろう。

39 :
 
>もう苦しむことはありません

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執に依存して
「自我(我・我所)はあるはずだっ!」と掴もうとしている想いに依存して
「過去からの心の流れ(心相続)もあるはずだっ!」と掴もうとしている想いに依存して

生老病死
愛別離苦
怨憎会苦
求不得苦
五蘊盛苦

を掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これを対処するために −

無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく

(という説明がわかりやすい)

40 :
>無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていく
> (という説明がわかりやすい)

そのような結論にいたったのでしたら、その「解脱へと導いていく」そのものズバリが
禅そのものですよ。結果論ですけど

僕は自分では輪廻から解脱しているかとおもいます。
輪廻からの解脱というのは、もはや輪廻から解放された位相そのものを意としておるんじゃないでしょうか?

あのですね、こういう場合はもはや輪廻の是非は全く無問題なのですよ。
そこのところをお気づきになられましたでしょうか?

輪廻があっても、輪廻がなくても、それに全く関係ない。
これこそが輪廻解脱です。

ですから輪廻の是非そのものが戯論である。とそのように書いてあるのが中論なんです。
縁起氏の中論解釈は「戯論寂滅」までは正解でしたが、その後の中論解釈は滅茶苦茶ですよ。
いや、ここは「隠れスレッド」ですから、貴殿にだけ教えるんですけどね。

41 :
 
http://muisinjinn.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司
「六根六境が『滅尽』した時に存在しなくなったのは、認知そのものというよりも
 そこにおいて『ある』とか『ない』とかいった判断を成立させる根底にある『分別相』
 即ち、拡散・分化・幻想化の作用である
 『世界の終わり』で起こることは、認知の消失ではなくて『戯論寂滅』であるということだ」
  _  _  _

  _  _  _

[PDF]ダウンロード - translation-buddhisttextのJimdoページ

パオ・セヤドーの
サマタ・ヴィパッサナー瞑想  47ページ参照

十二処とは、
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と
六境(色・声・香・味・触・法)

十八界とは、
十二処に
六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)を加えたもの

42 :
 
[PDF]ダウンロード - translation-buddhisttextのJimdoページ

パオ・セヤドーの
サマタ・ヴィパッサナー瞑想  50ページ参照

(1)サンカーラ(行、形成作用)の性質である
消失、崩壊、解体、消滅を直接の智慧で観察しながら「無常、無常」と繰り返して観ます

(2)サンカーラの恐るべき性質である
消失、崩壊、解体、消滅を直接に智慧で観察しながら「苦、苦」と繰り返して観ます

(3)サンカーラの性質である
実体がないこと、無我、魂がないことを直接の智慧で観察しながら「無我、無我」と繰り返して観ます

(4)この間に
サンカーラの厭うべき本性ついても観察します

名色分離智を育て見清浄を得たときに
精神性の集まりとルーパ・カラーパ(物質微粒子の集まり)について究極の真実を洞察し
すでに精神性と物質性(名色)の密集を打ち破っているので
ルーパ・カラーパはもう明確ではありません
ヴィパッサナーの洞察智が非常に鋭敏で速いので
サンカーラ(行、形成作用)についての究極の真実(勝義諦)が
智慧の中に急に明らかになってきます
サンカーラの生滅が非常に高速なため
生じ、住するのを観察することはできず、消滅のみを観察します
この消滅を観察する智慧を壊滅智といいます

43 :
宗教は古代の自然科学が
形骸化したものだと最近分かった

44 :
 
実有・実体ではないからこそ
それ自体の自性だけで成立しているのではないからこそ
自分だけでもなく周囲環境だけでもないからこそ

因と縁の双方の縁起に依存して
精神性の集まりと物質微粒子の集まりの仮和合が
色受想行識の仮和合が
現れ
そして、いつかは、やがて儚きものとして
地水火風空識に還元して逝くけど

仮設としての
我愛と戯論と善悪業に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

 − これを対処するために −

何かを掴もうとしている想いを手放し
微粒子を知覚して
今ここに戻って、今ここに目覚める
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます

45 :
 
>科学
今の現代科学においても
宗教関係者も携(たずさ)わっているらしい
(宗教関係者が、今の現代科学に携(たずさ)わっても良いと思うけど)とりあえず↓これ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
ジョルジュ=アンリ・ルメートル(1894年7月17日 - 1966年6月20日)
ルメートルは
イエズス会の学校で人文科学を学んだ後、17歳でルーヴェン・
カトリック大学の土木工学科に入学した
カトリック司祭で膨張宇宙論を提唱した
ルメートルは宇宙創生の理論であるビッグバン理論の提唱者とされている
  _  _  _

これ以外の宇宙論もあるらしい。とりあえず↓これ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96
プラズマ宇宙論(Plasma Universe、Plasma Cosmology)
宇宙的スケールの現象は
電気伝導性の気体プラズマの運動に起因する、巨大な電流と強力な磁場の影響を大きく受けている
http://wired.jp/2010/02/02/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%87%8F%E5%AD%90%E6%B5%81%E4%BD%93%E3%80%8D%E2%80%95%E2%80%95%E6%9D%91%E5%B1%B1%E6%96%89%E6%B0%8F%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%80%81%E8%B6%85%E4%BC%9D%E5%B0%8E/
宇宙の謎を解明するべく東大に設立された研究機関、数物連携宇宙研究機構(IPMU)の機構長である
村山斉氏は
宇宙は一種の超伝導状態になっているとの説を唱えている
http://wired.jp/2012/05/20/geeks-guide-brian-greene/
理論物理学者ブライアン・グリーンが語る「人間もホログラフィの一種」という可能性
「われわれは3次元のイメージでしかなく
  このイメージはわれわれの周囲にある2次元の表面上に存在する
  より根本的な情報が投影された姿かもしれない、ということだ」

46 :
>>30
>さも頭で理解できるかのように述べられたものに振り回され
> そして延々とその頭のままドツボにはまっていく。

人間というのは振り回されますね。
例えば縁起氏と僕では考え方が真逆ですよ。
僕はここでどちらが正論なのか?を問い続けることはないですが、
人間というのは、振り子細工のように考え方も揺り動かされます。

人間の理性というのは、限りなく条理を求め続けます。
それはあたかもそこに真理があるかの如く、その欲求だけで心は疲弊してきます。
そして何らかの結論を見出さなければ、それこそ自分自身に耐えられなくなるんじゃないでしょうか?
そして必ずそこに自分なりの結論を出すのです。

もともとが中途半端な結論なのですから、自分はその結論にしがみついてしか自分のアイデンティティを保てない。
これが人間の本性です。

そういった人間の本性を前提としまして、先ずは原点に立ち返り、頭が知識で満杯状態を一端クリアすることが大事ですね。
つまり情報を捨てる、ということです。
そうしないと、新鮮な情報が頭に入りこむ余地さえもないですから。
「思いの手放し」ということは、こういうことなんじゃないですかね?

47 :
 
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
想いを手放し
次のことを始めていく

48 :
>>46のつづき
>そうしないと、新鮮な情報が頭に入りこむ余地さえもないですから。

頭がクリア(澄んだ)な状態ですと、なにからなにまで新鮮そのものであります。
童心というのでありましょうか?感受性も鋭くなってきまして、心にスゥーっとなんでもストレートに入ってくるのです。
そりゃあもう、なんと言うのでしょうか?
世界がこれほどまでに美しかったのか、との印象もあるかもしれません。
しかしこんなことで驚いてはなりません。
それは序の口でして、まだまだ未知なる旅路は続くのであります。

そして何かにお気づきになるかもしれません。
でもその「気づいたこと」も、どんどんクリアされていきます。

もう僕がここまで書きましたら、僕の主張したいことがハッキリするでしょう。
つまりですね、心が何かに固執してしまったら、それから先の心は澱んでくるんですよ。
つまり腐ってくる、ということですね。

そういう腐ってる連中が掲示板にいかように書こうが、それは人の心を動かすことはできない。
なあに、それどころか、そういうレスを読む人間の心も次第に腐っちまう、という恐ろしいことにもなります。

こういうことは皆様おそらくは、ぼや〜〜っと感じているんじゃないでしょうか?
しかしその根源までは明確ではない。そうなんでしょ?
やはり因果ということですから、その原因まで深く探らなければ、その結果までは掴めんのです。
まあ、話は長くなりましたけど、これからは大丈夫です。そのような腐った書き込みはしないですから。
ではまた・・・

49 :
>>48のつづき
>つまりですね、心が何かに固執してしまったら、それから先の心は澱んでくるんですよ。
> つまり腐ってくる、ということですね。

ドストエフスキーの「罪と罰」において、政治犯が処刑される場面がありまして、
その処刑前に突然減刑される。
こういった筋書において、その処刑犯の心情をつらつら書き連ねた箇所があり、これは人間の心理を上手く露呈している。

処刑前では、もう考える余裕もなく、それは緊張していると推測されるが、
毎日輪廻転生のことを考えてる連中は、このようにアタマは緊張状態です。

アタマが緊張している状態ですと、それ以外のことを考える余裕さえもなくなる。
もしかしたら、これは誰にでもあるかもしれません。それを気づくことは先ず大変なことですからね。

実は、処刑犯の突然の減刑は、我々に何を伝えようとしておったのか?
これが文豪ドストエフスキーの魅力ですよね。

まあつまりですね、アタマがイッパイの人間が、突然にそのアタマがクリアされてしまう、ということですよ。
そんなことは我々は考えもしないですが、ドストエフスキーはそれを、文学を通して我々に追体験させてあげよう、
ってんですから、これはどうしてもその作品を読まずにはおられんのと違いますか?

まあ禅というのは、こういったことの連続なんですね。
僕の好きな禅語は「無可無不可」です。

「想いの手放し」とか、そういったフレーズにおいても、文字列を追うだけではその本意というもんが掴めんということですよ。

50 :
 
>根源

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)思想の特色
仏教の中心教義である無常・無我を体得するために
インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した
瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である

心の動きを分類して、八識を立て、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に注目した
『法華経』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた(五性各別)
『般若経』の空(という性質)を受けつぎながら
まず識は
(空という性質に依存して
  因と縁の双方の縁起に依存して
  『仮設としての』という意味で)
仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする

(意識の階層について)
外界の現象から縁を受けて
 → 前五識
 → 第六意識
 → 末那識(まなしき)
 → 阿頼耶識(あらやしき)に種子として薫習される
(阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ))

51 :
 
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを空なりと観ぜよ
そうすれば
(『生じてくる・滅していく』という想いを手放し、そして)
死を乗り越えることができるであろう

中論觀法品第十八
八正道を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する

そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

☆しかし
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている。真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

仮設としての、我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので

それ故に、『解脱すれば仏だ!』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい

(例えば、唯識(ゆいしき)の場合は
  誰もが(この現世において即身)成仏するわけではないことを説いた(五性各別))

52 :
>>49のつづき
トルストイの晩年も哀愁に満ちてますけど、どうもトルストイ本人にとってはそうでもなかったのかな?
と、これは興味をそそりますね。
人生を長く生きてきたらこその、その受け止め方も十人十色なんでしょうけど、
もしもこういったことに関心がありましたら、是非とも研究の対象にしてください。

トルストイと妻との関係とか、晩年は清貧に暮らしたとか、それよりも根底にある彼の思想とか。
かれは一応は無政府主義者と言われてますけど・・・

トルストイの人生というのは、文化的にも非常に日本人に馴染みやすい。
何故なんでしょう?ロシア文学に嵌っちゃうのは、もしかしたら根底にはこういった親近感があるのかもしれませんね。

あともし映画に興味がありましたら、是非とも「ドクトル・ジバゴ」をお勧めしたいですね。
この作品は叙事詩的に描かれてまして、作風は「ニーチェの馬」と似ています。
退屈になるか、それとも印象に残るか、そのどちらかです。

日本人には、どちらかというと抒情的作品が好まれますね。
イタリア映画は、こういった日本人の感性にはよく合うんじゃないでしょうか?

まあそれはさておき、生きているうちに沢山の作品を読書したり、鑑賞するのが良いかもしれません。
ただ何もしないで一生を終えてしまうのは勿体ない気がしますね。じゃあ。

53 :
>>52のつづき
あれは僕が小学生の頃です。当時↓の映画が上映されてましてね、僕は映画タイトルに非常に興味がわきました。
https://www.youtube.com/watch?v=05kutNCA2jc
禁じられた遊び Romance de Amor

「禁じられた遊び」って何だろう?それだけを考え続けておったのです。
これだけはどうしても僕は知りたかったのです。その好奇心は湧きいずる泉のごとし、
いてもたってもいられず、僕は金を握りしめて映画館にいきました。

そして映画を観ている状況において、僕はその「禁じられた遊び」の内容を知っていくのであります。
「なんだ、そういうことだったのか」。と、僕が想像してたのとは違ってましたが、
あのマルチェロ・マストロヤン二の哀愁を帯びたギターに心はうっとりするばかりでした。

人生というものはそういうもんです。
人間の憶測とか推測なんて、本当に狭いもんです。そういうことを僕は小学生のときに学んだのです。

当時はそんな印象しかありませんでしたけど、
大人になって改めてこの映画を観てみますと、これは反戦の映画なんですね。

ドクトル・ジバゴもそうですが、当時の映画音楽は素敵なものばかりですね。
https://www.youtube.com/watch?v=BT0qd0vTOoE
Maurice Jarre 映画「ドクトル・ジバゴ」 Lara's Theme

54 :
× マルチェロ・マストロヤ
○ ナルシソ・イエペス

マルチェロ・マストロヤンニは、イタリアの男優です(汗

55 :
他スレより
> 机先生とかが
> 「止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の実践は必要ない」とか言ってた気がする

禅定というのは”実践”するものではない。
これは中国禅からの法灯で、日本禅においても盤珪を筆頭に道元においてもその脈絡は受け継がれている。
只管打坐もそれだ。只管に生きる、もそれだ。
ただひたすらに、一筋に、を含意するものの、それは”実践とは意を異にすることに他ならない。

非常に機微ではあるけど、またこれは非常に重要なことだ。

これは禅宗に限ったことではないけど、浄土系や日蓮宗系においても通用する。
修行においての何らかの目的意識が基底にあるとすれば、もはやそれは一切が空虚である。
     <机龍之介>

56 :
 
[PDF]『五百頒般若経Jのサンスクリット写本 - 龍谷大学学術機関… 12/17ページ参照

『解深密経』「無自性相品」の主張の背景には
「一切法は無自性である」等の経句を字音どおりに理解することにもとづいて
「一切法はすべて無い」と損滅してしまう者たちや
『般若経』を「仏語ではない」と誹誇する者たちの存在があった
『解深密経』はこうした『般若経』の誤解者たちに対して
「一切法は無自性である」というのは決して文字どおりの意味で理解してはならないのであり
相無自性・生無自性・勝義無自性の三無自性を意図したものであると説く
その三無自性のうち
相無自性は絶対的な非存在(無)であるが
生無自性と勝義無自性は強い否定をうちに含みながらそれぞれに存在するものとみなされる
つまり「一切法は無自性である」という経句は
すべては存在しないと説くものではなく
生無自性と勝義無自性の存在性を言外に意図したものである
というのである

57 :
>「一切法は無自性である」というのは決して文字どおりの意味で理解してはならないのであり
> 相無自性・生無自性・勝義無自性の三無自性を意図したものであると説く

これはそもそも間違い。中論が正しい。
無自性というのは、「自性ではない」というだけの文意しかない。

例えば「縁生ししかも縁滅す」においての定義とすれば「縁生・縁滅ではあるが、縁生・縁滅する訳ではない」となる。
これが「自性ではない」の論拠。
そもそも論理的に仏教は定義することは困難なのだ。

>龍谷大学学術機関…

とあるから、珍説を書いただけの話なのだw

58 :
 
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%B8%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86
遍計所執性
まったく(遍く)分別(計)せられ
しかも実体あるものとして執着された性質ということであり
概念的構想によって実体のあるごとく妄想されたものをいう

依他起性
他に依って起る性質ということであって
因縁によって生起するものをいう
それは固定した実体はなく、ただ現象としてあらわれているものである

円成実性
完全(円成)にして真実なる性質ということであり、諸法の真如をさす

http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%80%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86
相無自性
遍計所執性の否定的側面をいい
言葉でとらえられたもの(相)には実体性がないことをいう

生無自性
依他起性の否定的側面を言い
他の縁によって生起したものは自らの力で生じたものではないことをいう

勝義無自性
円成実性の否定的側面をいう
円成実性はあらゆる存在の究極の真理であり、そのような真理は最高の価値をもつもの
すなわち勝義であるから、また、勝義においては
すべての実体的なるものが存在しない、すなわち無自性であるから、円成実性を勝義無自性という

59 :
>>58
第一義空経においては、「自性ではない」と書かれておっても、その論拠においては何も書かれていない。
また第一義空経に基づき中論は書かれたとしても、中論においてもその論拠については何も書かれていない。
つまり「縁生・縁滅」においての矛盾性を中論においては指摘したものの、
それ以上の論理整合性は今だかつてないのだ。

それはなによりも、世俗論理でもって勝義の論理性を追求するのは無理、ってことを、
中論そのものの「戯論寂滅」において既に論証済なのだ。

だから相無自性とか生無自性とか勝義無自性とかをもってしても、もはやそれ自体が戯論でしかない。
「否定的側面」があろうとどうと、それをトータルに含んだものが「戯論寂滅」なのだ。

60 :
>>59のつづき
自性であるものとか、自性でないもの。とか
あるいは、実践するものとか、実践しないもの。とか

ある語意を否定するには、その語意自体を把握していなければ所詮は無理なのだ。

禅定とは実践しないものだ。と言っても、禅定はしない、という意味ではない。
むしろ実践という日常そのものの断絶こそ禅定なのだ。
とは言っても、果たして「日常とは何か?」まで言及せねばならんだろうし、そこまでやるのか?
という話になる。
しかしそれは暗黙の了承というのがある。

それが無いのであれば、もはや禅定と日常が並列であろう。どうだ。
だったらもはやそれでは禅定の意味はない。

日蓮宗の勤行でも、それはない。
もしも勤行が日常という連続性においてあるのなら、もはやそれは「乞食信心」にまで
堕するであろうし。
いくら日蓮宗(正宗も)でも、それは暗黙の了承というのがあるだろう?

それはキリスト教にしても、禅宗にしても、日蓮宗にしても共通なのだ。

61 :
(つづき)
http://toyokeizai.net/articles/-/371
谷山豊:「楕円曲線はモジュラーである」

>碁盤を目の前に碁というゲームのルールを自ら考えながら遊んだというのだ。
>そばにルールブックがあるにもかかわらずである。それはルールは必然的にあるものであり、
>ならばそれを見つけられるはずだと、
>そのルール探しをせずにルールブックをみるなどとはしたくないと豊は言っていたそうだ。
>これはまさに数学者の思考そのものである。

道元の而今も、而今というルールがある訳ではない。それは自分が発見することだ。
        <机龍之介>

62 :
>>61のつづき
禅においては生死というのは等価としてあります。
ですから死後とかの発想はそもそもない。もしあるのであればそれは迷いでしかない。

生老病からの最終的救いは、もう死しかありませんから、むしろ死を受け入れてこそ生老病ありき、ですね。

ですから道元の而今においても、実存そのものこそ自分という世界観がそこに見て取れるのでありますが、
ここまできますと無私というのですか、もはや自分そのものが世界と一体という境涯ですね。

祖師西来意というのは、そういう境涯を言ってる訳ですから。
ここの板でいろいろ書き込みしている連中は、少し思慮深くなって真面目に考えた方が良いんじゃないか?
考えが浅いから、いつまでもアタマが纏まらんのですよ。
ではまた・・

63 :
 
>世俗論理でもって勝義の論理性を追求するのは無理、ってこと

それ故に↓『段階的な説明が必要である』ということ

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

世俗諦(せぞくたい)と、勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は

ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない

究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない

64 :
>>63おじゃる氏
貴殿は「実践」という言語を何気に使っているようですけど、
実際に、実践について検索(国語辞書)かけたらいかがですか?

観行ならともかく、禅は止行ですから、止行というのはそもそも実践するかどうか調べたらいいんじゃないですか?

禅では言語の一つひとつが大変重要です。
何故なら、ちょっとした誤解が大きな誤解に発展するからです。

また、ちょっとした気づきであっても、それが切っ掛けとして大きな発見にもなることがある。
この繰り返しこそ禅なんじゃないですかね?
じゃあ・・

65 :
 
>観行ならともかく、禅は止行ですから、止行というのはそもそも実践するかどうか調べたらいいんじゃないですか?

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

止禅
刹那定(予備定)、近行定、安止定

刹那定
似相(たとえば、安般念似相)を縁にして対象としたもので、近行定の前の定において生起します
これは止観行者について述べたものです

純観行者においては、また別の刹那定があります
純観行者は通常、四界分別観から修行を始めなければなりません

もし系統的に四界分別観を修行して
彼が色聚と、一つの色聚毎の中の四界が見えたならば、彼は近行定または刹那定に到達したと言えます
  _  _  _

止禅 → 刹那定 → 近行定の前の定において生起します → これは止観行者について述べたものです

純観行者 → また別の刹那定があります → 四界分別観から修行を始めなければなりません
 → 彼が色聚と、一つの色聚毎の中の四界が見えたのならば
 → 彼は近行定または刹那定に到達したと言えます

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある

66 :
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%BF%E7%9E%91%E6%83%B3
サマタ瞑想(漢訳 : 止行)
「戒定慧」における「定」に相当するものでもある

サマタとは心を落ち着けるということである
まず、サマタ瞑想(止行)によって禅定を得ることが修行の根本となる

その準備段階としてサマタ瞑想の一種である慈悲の瞑想が行なわれる
最も一般によく使われるサマタ瞑想は呼吸を対照するもの(安般念、アーナーパーナ・サティ)である

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten5.htm#%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%88%E7%A6%85%E5%AE%9A%EF%BC%89
禅定(ぜんじょう):定(じょう)、褝那(ぜんな)とその訳語の定(じょう)とを合わせたもの。慮りをやめて心を平静にたもつこと
三昧は心を統一して目的に向かうことであるから
一見異なるようでもあるが心が散乱しないあるいは波打たないことから考えると、三昧は禅定に含まれることが分かる
独楽が澄む状態
禅定(ぜんじょう):定(じょう)とは三昧(さんまい)ともいい、心を定めて揺れ動かさないことで、禅定はこの一分である
褝那(ぜんな)とは、静慮ともいい、一つの対象を深く思惟審慮すること
さらにそれが進むと思惟審慮は停止し、完全な三昧に入る

1)生得定(しょうとくじょう):色界無色界に生れただけで備わる定
2)修得定(しゅとくじょう):欲界に於いて修行して得られる定
3)有心定(うしんじょう):色界の四禅、四無色定をいう
4)無心定(むしんじょう):無想定、滅尽定をいう
共に心、心所を滅尽するものであるが
凡夫の定を無想定(むそうじょう)といい
聖者の無余涅槃の境地を滅尽定(めつじんじょう)という

67 :
 
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
彼は、滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである

滅に触れ、心作用の滅が生起する、想滅定を実践して逝く

http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀
坐禅をするときは、静かな部屋ですべきであり、
飲食に節度をもって、雑事を忘れ、全ての関わりから離れ、事の是非、善悪を思わず、
心に念が浮かぶことも意識に想像することも、
何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、
また
『仏に成ろう』と掴もうとしてもいけない

「『仏に成ろう』と思ってもいけない」という普勧坐禅儀を実践して逝く

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%8F%AA%E7%AE%A1%E6%89%93%E5%9D%90/m0u/
余念を交えず、ただひたすら座禅する、只管打坐を実践して逝く

68 :
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

 − これを対処するために −
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践し、そして
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
ヨーガ(瑜伽)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
とりあえず心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり
仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)

69 :
>止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践し、そして
> この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる

止行も観行も、そう簡単には出来んのですよ。簡単に出来るんでしたら誰も苦労はしない。
止行というのはつまり心を落ち着かせることが前提ですから、
心を落ち着かせるには先ず、呼吸というのが大変重要になってくる。
呼吸が乱れていたのでは、そもそも禅定なんて所詮は無理ですから。

で、よく精神疾患患者はそもそも坐禅は無理、と言われるのは、呼吸が浅いから落ち着いていられんのです。
深い呼吸というのを先ずマスターしませんと、そもそも止行は無理です。

ましてや観行となりますと、止行が出来ませんと無理です。

で止行というのは基本的には、日常という時間における、非日常を追体験することと言われている。
つまり時間という流れを切断した空白の空間を作為的に示現するわけですから、
もはやそこに一切のノウハウを無にした、無なるが故において、それを止行という訳ですから。
ただただ無であることが肝要なり。
「想いの手放し」とはそういうことで、それは何らかを実践することではない。
むしろ実践という心の方向性もなにも無い、無、これこそが止行であろうし、
只管打坐とはそういうことで、これは南宗禅の法灯です。

70 :
(つづき)
「実践」を国語辞書で調べてみたところ、簡単な説明では
>《名・ス他》実際の情況のもとでそれを行うこと。

つまり止行というのは「行う」こととは違います。
止行というのは「行わない」ことです。

言語というのは、それ自体が既に何らかを指し示すことにおいて、それで言語が成り立つ訳ですけけど、
その言語を通して、何かを指しし示すことについての疑を呈すことを疑団ともいう。
こういった疑団の積み重ねこそ、禅においては重要になってきますし、
これなくばもはや駄目かもしれんですね。

という訳で、駄目だ、駄目だ、を言っても分からんものには一喝する訳ですよ。
人間というのは一喝されて、それで気づく者のいる、つうことですね。

小さな気づきは重要なんです。それがやがては大疑となりまして
大疑は悟入へといずれ導くことになる。では。

71 :
 
>止行も観行も、そう簡単には出来んのですよ。簡単に出来るんでしたら誰も苦労はしない

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶 内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

(中略)

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか?
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ
「何もの」としても構成されることはないでしょう

72 :
 
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の実践は難しい、それ故に

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

純観行者は通常、四界分別観から修行を始めなければなりません

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
四界分別観は止禅の修行に属しますし、観禅の修行方法でもあります

もし段階を追って四界分別観を修行したならば
修行者は浄色(透明な物質)を見る事ができます
密集を看破する前、浄色は氷の塊のように見えます
この段階は止禅です

次に
修行者が浄色の中の空間に注目すると
彼らは浄色が細かく砕けて
色聚(微粒子)になるのを見る事ができます

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

73 :
>>71
ええ、そのとおりです。
止行ですから止”です。止めることですね。何から何まで止める。なにもしない。
これが止行です。

そもそも南宗禅は、瓦を磨いても仏にはなれない。つうか
瓦そのものが仏であるのなら、何もあえて磨くことはない。
磨こうとするそのものこそ邪道である。とこのようなことですから。

しかし禅定をしちゃ駄目、ってことではない。
そういった可でもなければ不可でもない、というような非言語の領域にて信解了承することに本懐がある訳ですから、
これをどう説示するか、ってところが禅のダイナミックなんじゃないでしょうか?

指一本でこれを表わした優れた禅師もいる訳ですから、
これをどう受け止めるかは全部個人個人の裁量ですよ。
禅というのは、あくまでも”自分ひとり”ですから。つまり対象がない。
対象がない、ということは、そもそも行じるとか、行じないとかの範疇から逸脱しているわけです。
無可無不可。

74 :
そうかちょんこ湧いてて気持ち悪い(=_=V

75 :
 
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ

http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2013/10/24/230312
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院  パオ・セヤドー
生滅随観智

http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)と現代

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論(ゆがしじろん)

http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ  中村 元訳

76 :
 
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳  第一義空經(勝義空經、真実空經、勝義空契經)

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm
上座部である部派仏教徒の一部は
実体我の存在は否定するけれども
五蘊、十二処、十八界などの法は存在するという「我空法有」を主張し
その法は現在だけでなく
過去にも未来にも三世にわたって常恒であるという
説一切有部の「三世実有法体恒有」の思想を展開させた

http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/susima.html
心にしみる原始仏典
『サンユッタ・ニカーヤ』12.70(PTS Text,Vol.II,pp.119-128)
スシーマ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%B8%89%E9%83%8E
衛門三郎(えもんさぶろう)

http://yamisoku.com/jinkaku/754.html
うっかり地雷を踏もうものなら、その日はもう台無し
【人格障害の嫁を持つ旦那】

http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm
シパ・バルドゥ  再生へ向かう迷いの中有

http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page240.html
帰依三宝  道元禅師
この上ない正しい悟り・阿耨多羅三藐三菩提

77 :
 
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典  第9経  ポッタパーダ経(心作用の消滅)

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/test/post-122.html
エンサイクロメディア空海
真魚という小宇宙(人間)が大宇宙(虚空蔵菩薩という宇宙の仏)と無二一体となった

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-art/cat25/post-50.html
空海は
天皇と高僧たちの前で
手に印 契を結び、口に真言を唱え
心を仏の三昧に住するという三密行を示し
自身金剛身(大日如来)となり
即身成仏の境地に入ってみせ、体から黄金の光を放ちます

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html
曹洞宗の僧侶  内山興正
死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?
(ある老医師が「死後の霊魂はあるかないか」についてアンケートを送ってきた話の続き)
こんな算術に対しては
はっきり「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
こんな先生にもし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます

78 :
 
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/6329/1/003-%E8%A6%8B%E7%94%B0%E5%85%88%E7%94%9F.pdf
法門寺地宮出土の真身宝函に表される八大明王について

http://yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
護摩の思想は
インドから中国を経て空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され
火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼くという思想に至ったと解説する
さらに
拝火の起源はバラモン教や釈よりも古いゾロアスター教にもある
とその歴史を解説する

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正
「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです

http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀  道元禅師著  現代語訳

http://www.j-theravada.net/sakhi/thera-g-1.html
テーラガーター  和訳
http://www.j-theravada.net/sakhi/therii-g-1.html
テーリーガーター  和訳

79 :
 
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院  パオ・セヤドー

もし段階を追って四界分別観を修行したならば
修行者は浄色(透明な物質)を見る事ができます
密集を看破する前、浄色は氷の塊のように見えます
この段階は止禅です

次に
修行者が浄色の中の空間に注目すると
彼らは浄色が細かく砕けて
色聚(微粒子)になるのを見る事ができます

80 :
 
http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話

http://www.onedhamma.com/?p=5200
15/08/09 右の掌で微細なエネルギーが感じられないひとへ

http://www.onedhamma.com/
15/12/06 エイリアンに乗っ取られないための「感謝」

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています

掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることがない智慧を以て客観的に

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
色受想行識の仮和合は
地水火風空識に依存している仮の現れなので、それゆえに
自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを空なりと観察して
「無明がある、渇愛がある」と掴もうとしている想いを手放して逝きましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです

81 :
とりあえずパンティうp

82 :
 
http://www.ekayana-vihara.com/wp-content/uploads/2014/11/%E6%B0%B4%E6%BA%90%E7%A6%85%E5%B8%AB%E6%B3%95%E8%A9%B1%E9%9B%8624.pdf
13ページ参照
すべてを捨てるというサドゥー(全てを投げ捨てる)

http://www.j-theravada.net/raihai.html
ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー サンマー サンブッダッサ
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼したてまつる

ブッダム・サラナム・ガッチャーミ

バーナーティパーター ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
カーメース ミッチャーチャーラー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
ムサーワーダー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ
スラーメーラヤ マッジャパマーダッターナー ヴェーラマニー スィッカー パダム・サマーディヤーミ

83 :
>机先生
> 「仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
> 我々が修行したり、悟り証したりすることもないはずである
>  仏に成ろうと思ってもいけない」

ええそのとおりであります。
道元もこのことについて非常に悩んでおりました。
本来仏であるのならば、どうして修行するのでありましょう?

しかし道元は、宋に渡りある僧と出会うことによって、自分の考えが間違いであると悟る。
実はここが肝心であります。

誰でも疑問に思うことは、それは悟りへの切っ掛けであります。
疑なくして開悟はありません。
つまり悟る、ということは疑の氷解なのであります。
何らか新発見をすることではない。
自らの疑なくば悟りなし。

またこの続きは暇な時にでも。

84 :
(つづき)
例えば「石のかけら」があったとする。それはただの「石のかけら」に過ぎません。
で、「木の棒」があったとする、それはただの「木の棒」に過ぎない。

そこに何ら関係ないような二つの概念でもあっても、それが無意識のうちに関連付けられていくと・・・
「ヤリ」という新たな概念(上位概念)がうまれることもある。
これは人間特有のメカニズムなのだ。

ある文脈におけるその解釈も、それらの意とするところの直観と客観によって仮設をたて
それを丹念に検証し、発想力を最大限に生かしきったなら、
それは新たな発見になるはずだ。

発想力の乏しさの好例が、某真言阿闍梨の言説であろう。
「死後の世界があるのと、ないとではエライ違い」というものだ。
ものごとの一面性だけ捉えようとすると、その発想力は極端に結論つけられ、そしてそれに固執しちまうのだ。

85 :
JK→JD

86 :
w

87 :
o

88 :
大阪府三島郡島本町は大阪の糞ダメとも呼ばれているガラも程度も悪い暴力とイジメの町?

89 :
本スレ(?)

http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1442811990/

はdat落ちしてしまって、このスレだけが残ってしまったのだが、

スレ主さんは元気にしてるだろうか?

90 :
明日は雪

91 :
花粉症

92 :
潔癖症

93 :
3月

94 :
証人喚問

95 :
寒い

96 :
最重要証人を出せない教団(教祖の強姦、確定)
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/11/blog-post_14.html

私は以前、大川隆法氏が不倫で傷つけた女性の個人相談を受けました。
最近、さらにその被害が広がっていることを確認しました。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/07/blog-post_12.html

最初はおそるおそる手をだしていたのが
意外に簡単に女性が思いのままになることに気をよくした隆はだんだんと
行動が大胆になっていきました
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/41

過去世悪用の強姦
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/37
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/36
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/35
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/34

大川の日常生活に 触れる職員はほぼ全員が女性である
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/33

【恐怖!霊障の科学】
知人のお子さんは支部エルカンターレ像の首に緑色の蛇が巻き付いていることを霊視
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/30

エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/28

97 :


98 :
もも尻

99 :
おそロシア

100 :
あげ

101 :
余談だが、先日、爆笑問題の田中がやってる番組でバックに不動明王の像を置いてるのを見かけた。バカかと思う。
不動明王(シヴァー)は実は一番中心になって東大震災を起こした張本人といわれている。
こいつによってそうゆう因縁でもないのに不正に障害者にされたものもいる。また古代から不正にひどい陰謀を
たくまれてきた者もいる。赤不動、青不動、黄色、白、黒とあって、家のは赤だからあるいは白だから大丈夫と
言ってるのもいるが、全部同じで百面相でごまかしただけ。ひがみの因縁がきれてない。共産党の悪化したみたい
にみんなで引きずり落としあいになってしまう、また何らかの形でからかわれるようにばっかもなる。
そんなものを拝んじゃダメだ。オーム教と同じ。さっさと何処へでも納札してすててこい!アホッ!!

102 :
眞子内親王殿下

103 :
ラーメン

104 :
本スレ(?)

http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1442811990/

はdat落ちしてしまって、このスレだけが残ってしまったのだが、

スレ主さんは元気にしてるだろうか?

105 :


雷鳴の馬車 糸車の間隙 光もて此を六に別つ
縛道の六十一 六杖光牢

君臨者よ 血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ 蒼火の壁に双蓮を刻む 大火の淵を遠天にて待つ
破道の七十三 双蓮蒼火墜

第232話 袖白雪vsルキア 心の惑い
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/71y0Bg-uQvL._SL1466_.jpg
http://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/g6236074.jpg

リトルウィッチアカデミア
ロクでなし魔術講師と禁忌教典
クロックワーク・プラネット

武装少女マキャヴェリズム
アリスと蔵六
つぐもも

ソード・オラトリア ダンまち外伝
ブレイブウィッチーズ
装神少女まとい

http://gno.blog.jp/
http://anime-twitter.blog.jp/
http://niziiro.livedoor.biz/

106 :


リトルウィッチアカデミア
ロクでなし魔術講師と禁忌教典

神撃のバハムート VIRGIN SOUL
武装少女マキャヴェリズム

ソード・オラトリア ダンまち外伝
アリスと蔵六

クロックワーク・プラネット
つぐもも

ブレイブウィッチーズ
装神少女まとい

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anime-twitter.blog.jp
niziiro.livedoor.biz
ponpokonwes.blog.jp

107 :
ダンまち 8話
live☆door.blogimg.jp/ponpo☆konwes/imgs/2/2/2203130d.jpg
ponpo☆konwes.blog.jp/arch☆ives/31177871.html

108 :
ソード・オラトリア ダンまち外伝 10話感想
nizi☆iro.live☆door.biz/arch☆ives/1066329756.html

109 :

おじゃるです
仏教以外の、お話でも良いと思います

ここのスレに書き込みをしましょう スマソm(_ _)m

110 :
108.
おじゃる、の心理学が完成しない。
なんでか。
その主体論が欠落しているからである。
人間の心理学では限界がある。
仏の心理学を完成せよ。
されば悟りである。

111 :


仏教関係の書き込みのときは

初心者向けの
現代語訳で、わかりやすく、ご教示願います  m(_ _)m

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E8%83%9D%E8%A6%B3%E9%9F%B3

准胝観音

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し。
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん。

準提尊とその功徳がある(曼荼羅の)聖衆を、心を鎮めて一心に、毎日(常々)念じたならば、
あらゆる災難や大事故に遇ったとしても、その人は大難を逃れることができる。
何故なら準提尊の誓願に「人天を救う」というのがあり、天神と人間は仏と同等の福を受け、
この如意宝珠にも等しい仏を本尊とすれば、必ずや仏の覚りの無上正等覚を得るからである。

ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m

112 :
110.
それは人間の心理学である。
その限界が問題となる。
悟れば、人間の心理学は卒業である。

113 :

ID:vX6FAT/Y殿

移動して頂き、ありがとうございます  m(_ _)m

仏教以外の、お話でも良いと思うので
自由に書き込みして下さい

>人間の心理学では限界がある
>仏の心理学を完成せよ

わからないけど↑そんな感じなのかもしれません

仏の心理学?↓
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf

迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり

無明滅するが故に → 行滅し、行滅するが故に → 識滅す

縁起したものを離れることがある

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである

114 :
112.
それは人間の心理学である。
ブッダは説かない、か。
それも人間の心理学である。
それで、苦しみが終わる、ことはない。
そこに誤解があることになる。

115 :
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである

1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべて一切を
地水火風に分解して
小さい粒子に分解して
最終的には
すべて一切が消滅してる世界を観察する
『空性である』と観察せよ

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
無明している世界から解脱して

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

一切の有情は、もともと仏なのだ
と気づくこと

しかし
誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので

『一切の有情は、もともと仏なのだ』ということに
気づくまでは、気づくことは難しい

116 :
114.
それは人間の心理学である。
仏、を対象として理解している、ことが限界となる。
仏なのだ、と理解しないことが重要である。
なんでか。
宗教は対象の問題ではないからである。

117 :
>>115
>無明が頭であると知れ
通常、意識してるとは、みずからしているのか、おのずとしているのか。

118 :
レスありがとうございます

ID:vX6FAT/Y殿の説明は難しいでつね?

とりあえず
段階的に少しずつ進んで
世俗諦から → 勝義諦へ

中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

ダルマについてのブッダの教えは
二つの真実(二諦)に基づいている
世俗諦 − この世の現象的な真実と
勝義諦 − 究極の真実である

現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない

それゆえに
まず
とりあえず
『地水火風に分解させていく』と観察させる
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
(無明している世界から解脱するためには)
密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
(小さい粒子に分解させていく)

119 :
ID:MkH9tswb殿も
移動して頂き、ありがとうございます  m(_ _)m

>通常、意識してるとは、みずからしているのか、おのずとしているのか

これも難しい難しいでつね?

とりあえず
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten5.htm#%E3%81%8C
我(が)
他に対して、自分こそは特別な存在として妄信している

我所(がしょ)
自身を我といい
自身以外の万物を我所有という

>みずからしているのか、おのずとしているのか

意味がわからないけど?

我が、みずからしているのか?

我の、おのずと − 我所としているのか?

120 :


おのずと、我所が、しているのか?

因と縁の双方が相応一致して縁起しているので

それゆえに

因と、縁が、縁起している

我と、我所が、している

おのずと(我所が)している?

わからないけど↑こんな感じでつかね?  m(_ _)m

121 :
五位75法
有るものは何か。決して、それ自体として、一つとして実体がないのだから、
仮に存在したというものだけのもの、仮有でしかない。
これに対し、それらを構成する究極な要素にあたるものはがあるとすれば、
事実あるもの、実有とよべるだろう。
物理的に分割しても、知的に分割しても、これ以上分けられないものこそが実有であり、
一方、それらの集合体は、一つのものとして存在するのでないのだから、仮有でしかないだろう。

さてこのさきがあるが。疲れたw

思考するとはどうい事か。瞑想すれば、雑念になやませれる。油断すれば、雑念の一部に飲み込まれ、いつの間にか思考している。
その場合意識して、思考しているわけではないのだけど。夢も同じだと思う。
外があれば、興味のあるものに、対象がズレ、それに沿って、いつの間にか思考している。

一体自分とは何だろう。

122 :
なにか、こだわりがあれば、外の対象があっても、見ながらでも違うこと思考している。

それが悪いということではないが、苦の原因かね。
しかしその経験によって世界が構成されているのか?

123 :
>こだわりがあれば、外の対象があっても、見ながらでも違うこと思考している

無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
「身体の働き・言葉の働き・心の働き」の行為を行う(カルマを積む)

誤ったあり方を掴んで離さないような
固執しようとしている働きは
渇愛(タンハー)の働きに依存している

渇愛(タンハー)の働きは
無明している働きに依存している

https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
無明に縁りて → 行、行に縁りて → 識、苦しみ…集まり…起る

十牛図

ついに童子は修行の頂点に達した
「空」となり、円が描かれているだけの無の世界

さらに無の世界を超えると、童子は菩提心を起こして修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
平等性智の世界から観察して
(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)無明している世界から解脱して
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
(八正道の正見で、正しく)ありのまま見つめている

124 :
 
平等性智の世界から観察して
(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)無明している世界から解脱して
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
八正道の正見で、正しく観察することができるのなら

    ↓    ↓    ↓

スッタニパータ 21
(智慧をもって)
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
(智慧の世界を知覚して?智慧の世界に住んでいるのなら?)
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m

125 :
123.
神よ、雨を降らせよ。
されば、雨に打たれて、我が身と筏とは流れ去ることになる。
智慧があるからとて、どうなるものではない。
それを知恵に溺れる、と言う。
その限界を理解しないバカである。

126 :
>智慧があるからとて、どうなるものではない

totuto☆tudojin.jim☆do.co☆m/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97/
地水火風空識
一切諸法は(大日如来の智である)法界体性智と異ならない
(大日如来の智である)法界体性智は世界すべてに満ちている
智慧の世界が満ちている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
智慧をもって観察して

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5
智慧
分別的な知恵(智)を超えた
無分別の智慧(慧)が釈迦の悟りの境地

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
(第六階層の更に深層にある第七階層の)
末那識は
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており
障害があることから「有覆無記(うぶくむき)」という

(第七階層の更に深層にある第八階層の)
阿頼耶識は
さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で
「無覆無記(むぶくむき)」という

https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E6%80%A7%E6%99%BA-121381
第七識が転じて → 平等性智
大慈悲心を起すもとで
『すべて一切諸法が差別なく平等である』と観察する智慧

127 :
125.
自分を否定する智慧を除外している。
智慧があれば、どうでも自分は救われるのか。
大日如来の智慧と自分の智慧とが同等なのか。
その相関関係が問題となる。

128 :
>>124
>(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)無明している世界から解脱して
>計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
>八正道の正見で、正しく観察することができるのなら

少々質問します。わたし、こういう事うとくて。
無明の前の働きは、ないのでしょうか?

129 :
>大日如来の智慧と自分の智慧とが同等なのか

(大日如来の智である)
法界体性智
智慧の世界から観察して
(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)
無明している世界を手放すので

平等性智の世界から観察して
我所も我も手放している
(我所・我の働きが依存している、無明の世界を手放している)

我所 − 自身以外の万物
我   − 自分こそは特別な存在として妄信している

無明している世界を手放して
法界体性智の世界から観察して
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図

無の世界を超えて、そして
童子は
菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
(八正道の正見で、正しく)ありのまま見つめている

130 :
128.
答えになっていない。

131 :
>無明の前の働きは、ないのでしょうか?

仏教ではなくて、サーンキヤの場合なら

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
  → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
  → 因と縁の双方が相応一致して縁起してる世界が
    変化して、現れ − 滅していくことになる

仏教ではなくて、サーンキヤの場合なら

プルシャから → 縁起している無明の世界が始まる

  ↑ という感じであるらしい  m(_ _)m

132 :
 
サーンキヤの場合は

プラクリティを手放して
『始めの、プルシャである』ということに気づくこと

みたいな感じかも?
  _  _  _

>答えになっていない

「大日如来」と掴もうとしている想いも手放して
「自分」と掴もうとしている想いも手放して
分別を手放しているのなら

(たぶん?)
大日如来の智慧と − 自分の智慧とが同等である(かもしれない?)

133 :
>>131
>プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
> → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

物質のビックバンで、

プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
  → 因と縁の双方が相応一致して縁起してる世界が
    変化して、現れ − 滅していくことになる

こちらは、精神のビックバンみたいですね。

なかなか面白い。

134 :
>>133 ID:MkH9tswb殿へ

プルシャから → プラクリティへ

仏教ではなくて、サーンキヤでつので  m(_ _)m
(一応、念のために…)

135 :
関心がなければないようなものですからね。関心を持つと、あらやこれやで、二元ですか。
では、なぜ、関心したものは、現れるのでしょうか。

136 :
>>134
理解していますw

137 :
131.
智慧の内容に大日如来と自分との属性を捨象したものを設定するのか。
想いを手放す、か。
それでは心理学になってしまう。

138 :
>>関心がなければないようなものですからね。関心を持つと、あらやこれやで、二元ですか。
>>では、なぜ、関心したものは、現れるのでしょうか。

この質問はやめます。
無関心と無分別は違うのだろうか。

139 :
>なぜ、関心したものは、現れるのでしょうか

輪廻否定派の場合は、どうなのか?わからないけど

前世の記憶はないけど
仮設としての
とりあえず輪廻肯定してもらえれば

前世からの
心の流れ(心相続)している働きに依存して

現世に
関心したものは、現れる場合もあるし
関心したものでも、現れない場合もある
かもしれない

前世からの
縁起している働きに依存して

みたいな感じ

2chに書き込みしてる人の場合は
輪廻否定派が多いようなので

前世の記憶がないので、それゆえに
仮設としての
とりあえず輪廻肯定という
そういう前提の説明は
理解してもらえないかもしれないでつね  m(_ _)m

140 :
>>139
そうすると、無明の前に前世の因子があると解釈していいのですか。

141 :
>無関心と無分別は違うのだろうか

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して

関心がある場合とか
関心がない場合とかが現れ滅している
  _  _  _

無分別は↓これ
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm

非想非非想処も超えて → 想受滅を成就して

そして

十牛図

無の世界を超えて、そして
童子は
菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
(非想非非想処も超えて → 想受滅を成就して)
ありのまま見つめている

無明している世界から解脱して、そして → 無分別

といような感じかも?

142 :
無明の現れとは現代風の言葉でいえば、無意識に当たるんですか。欲って結構無意識ですから。
無意識といえば、歩くとかもそうですね。記憶が小脳に記憶すれば、思わずともあるけますから。
欲とか、思わずとか、無分別とは違うのだろうか。

143 :
>無明の前に前世の因子があると解釈していいのですか

輪廻から解脱する観察する方法として
「前世の因子がある」と掴もうとしている想いも手放して
「来世に果報がある」と掴もうとしている想いも手放して

前世も来世も、そして現世も、すべて

地水火風に分解して
小さい粒子に分解して
最終的には
すべて一切を滅していく

というような観察をして

輪廻から解脱するための観察をするらしい

ちなみに、おじゃるの場合は
ネット検索と
一法庵のpodcast法話を、ほぼ毎週、聴いているだけなので

初心者向けの観察の実践もしたことがないので
間違っているかもしれないでつ  m(_ _)m

144 :
>無明の現れとは現代風の言葉でいえば、無意識に当たるんですか

唯識を批判する人も多いけど、とりあえず
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
仮設としての
無明している世界の中で

人が死ぬときに
我愛と戯論と善悪業によって
中有が現れて、そして
中有が次に生まれるべき処を求めて
母胎に入り
精子と卵子が結合するときに
中有が滅すると同時に生有が現れて
阿頼耶識がこれに結合して胎児を形成し出生に至る

これも、とりあえず(仮設としての)輪廻を前提としちょります

>無意識

第七識に依存して → 中有が現れて、そして中有が滅すると同時に生有が現れて
第八識に依存して、胎児を形成し出生に至る

こんな感じかも

145 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
種子は第八識を飛び出して → 第七識・第六識に作用することがある
さらに、前五識に作用すると → 外界の現象から縁を受けることもある
この種子は前五識から → 第六識・第七識を通過して
  → 第八識に飛び込んで、第八識に種子として薫習される

阿頼耶識縁起

↓無意識で歩いているときでも、そして
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設としての
無明に依存している
第七識が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である第八識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
(六識の更に深層にある第七階層の)
末那識は
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており
障害があることから「有覆無記(うぶくむき)」という

無明に依存している
第七階層の末那識が障害がある有覆無記

 ↑解脱の妨げになっている

ということであるらしい

146 :
 
無明に依存している
第六識が無意識であったとしても

解脱の妨げになっている
第七階層の末那識に依存している

無意識と
  _  _  _

(第七階層の末那識が依存している)無明の世界

この無明の世界から解脱して
平等性智の世界から観察している

無分別は

とりあえず
『違う』というような気がします

147 :
>>146
ありがとうございます。
最後にもう一つ質問させてください。
分別と無分別は、どこからきているのでしょうか。あいまいな質問ですいません。

148 :
>ありがとうございます

いい加減で、そして適当なので、信用しないで下さいませ m(_ _)m

>分別と無分別は、どこからきているのでしょうか

無明から
渇愛(タンハー)から

渇愛が生じると
同時に誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れて

分別して
気に入る
気に入らない

と掴もうとしている想いが
変化して
現れ − 滅している
  _  _  _

掴もうとしている想いを手放して
無明している世界から解脱して
平等性智の世界から観察して
そして
無分別

↑この観察は実践したことがないので、本当なのか?わからないでつ m(_ _)m

149 :
>瓦だろうが鏡だろうが、  そこで何が喩えられているか?

鏡は、もともと仏なのだ
心は光り輝いている=自性清浄=真如=法界=如来蔵=仏性=如来の法身

仮設としての
縁起している世界の中で
無明している世界の中で

鏡に
(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)無明している世界が取り憑いている

鏡に取り憑いている
(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)無明している世界を取り除いて

(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)無明している世界から解脱して
平等性智に転ずる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
パーリ増支部に
「…心は光り輝いている。
   ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」とある。
自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。
そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。
垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。

150 :
148.
瓦も鏡も、それは智慧の道具である。
その道具で救われる、ということである。
人間が救われる。
その救いの主体は誰か。
鏡なのか。

151 :
おじゃるさんに、さきをこされましたね。
ちなみに、鏡という例えは、中国と日本にしかないそうです。

152 :
全てが心をあらわしているのだと思います。
かわらが無明で、鏡が明なのでしょうか。すると古鏡とは?

153 :
三界唯心というのもあるかも。
三諦(空、仮、中)というのあるかも。

154 :
古鏡
いま言われる古鏡には、磨く時もあり、まだ磨かないときもあり、磨いた後もある。
しかし、一様にどこまでも古鏡である。そうであるから、磨く時は古鏡の全体を磨くのである。
古鏡とは違う水銀などを混ぜてみがくのではない。
自らを磨くということでも、自らが磨くということでもないが、古鏡を磨くのだ。まだ磨いていない時も、古鏡が暗いわけでもない。
黒いといえるが、暗いのではない。磨くということは古鏡を生かすことなのだ。
総じていえば、鏡を磨いて鏡とし、かわらを磨いて鏡とし、かわらを磨いてかわらとし、鏡を磨いてかわらとする、ということである。
磨いてできないことも、できることもあるが、磨くほかないのだ。仏祖が受けついてきた家業なのだ。

かわらを磨いて、そのかわらが鏡になった時、馬祖が仏になったのである。その時に、馬祖が馬祖となったのである。
馬祖が馬祖になったとき、坐禅は速やかに(ほんとうの)坐禅となったのである。そうであるから、かわらを磨いてかわらとすることは、
古仏の骨髄で受け止められ、受け継がれてきたものである。それゆえ、かわらが作り上げた古鏡がある。
この鏡を磨き続けるとき、一貫して汚れを離れるというあり方が実現する。

かわらに塵があるから磨くのではない。
ただ、かわらであるものを磨くのである。鏡とするという功徳が現生する。
これが、仏祖の実践のありようである。

テキストして、貼っておきます。

155 :
>一様にどこまでも古鏡である。そうであるから、磨く時は古鏡の全体を磨くのである。
>鏡を磨いて鏡とし、かわらを磨いて鏡とし、かわらを磨いてかわらとし、鏡を磨いてかわらとする、

この二つの文章がわかりずらいです。

心、有心、無心とした場合。
一様にどこまでも心である。そうであるから、磨く時は心の全体を磨くのである。
無心を磨いて無心とし、有心を磨いて有心とし、無心を磨いて有心とし、無心を磨いて有心とする、

末那識で言っている。意と識の関係に似ている。

156 :
そういうことではないのだろう。山は山などだから。

157 :
>山は山などだから。
失礼しました。

そういうことではないのだろう。山は山なのだから。

158 :

とりあえず↓リンク貼り憑け

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_539/_article/-char/ja/
『正法眼蔵』「古鏡」考
3/6(541)
「鏡を磨して鏡となす、塼を磨して塼となす」と記し
慧能のいう無自性空を認めた上で
更に磨して身心脱落の本来的、鏡・塼にせねばならないことを付け加えている
仏性の本来具有を単純に確信する立場への安住(安心感?)が
(もともと仏であるのならば、菩提分法とかの実践をしなくても良いんジャマイカ?というよな?)
いかに危険に満ちたものかの認識が禅師にあったといわざるを得ない

道元禅師は
塼がもし鏡とならないならば、人がなんで仏となり得るのか、と…

5/6(543)
鳥は飛ぶことで初めて鳥たることを自身に証明する
飛ぶこと自体が鳥としての証したり得るのである

人は坐禅を行じることで自身の仏性を初めて確認する
坐禅官体が仏としての証したり得るのである

6/6(544)
二者択一の禅ではなく
一が全てを包括する禅を道元禅師は開示するため
只管に打坐する時、全てが自身に帰結すると同時に
彼我の相対的対立の概念は消滅するというのである

159 :
たぶん、読んだ。かも知れない。でも、わからなかったw
今は今でしょうを教えてくださった方がいたらだと思います。
完全ではなくても、見た感覚というものが、山が山がどちらがどちらかと。
最初は無分別の山、分別の山が、まぁ、二重に感じたんですね。
どちらがどちらかといえば、

一様にどこまでも古鏡である。そうであるから、磨く時は古鏡の全体を磨くのである。

涅槃に、即今はあるのだろうか?

160 :
>総じていえば、鏡を磨いて鏡とし、かわらを磨いて鏡とし、かわらを磨いてかわらとし、
>鏡を磨いてかわらとする、ということである。

>>最初は無分別の山、分別の山が、まぁ、二重に感じたんですね。
だとすると、無分別を単体にすると鏡を磨いて鏡とし、この説明ができないのじゃないかと。

161 :

仏性の本来具有を確信するためには

鏡も瓦も

地水火風に分解して
小さい粒子も分解して
すべて一切の法も滅して

十牛図

無の世界を超えて、そして
童子は
菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
(八正道の正見で 『 鏡も瓦も、分別することなく 』)
ありのまま見つめて、そして

鏡を磨して鏡となす、瓦を磨して瓦となす

平等性智の世界から観察することができるのなら
鏡も瓦も
(たぶん?)分別することなく観察できる

更に磨して身心脱落の本来的、鏡・瓦にせねばならない

162 :
どちらでもあって、どちらでもない。かな。

163 :
また、夜にでも。

164 :
>更に磨して身心脱落の本来的、鏡・瓦にせねばならない

身心脱落 脱落身心。

165 :
>鏡を磨して鏡となす、瓦を磨して瓦となす

>平等性智の世界から観察することができるのなら
>鏡も瓦も
(たぶん?)分別することなく観察できる

>鏡を磨いて鏡とし、かわらを磨いて鏡とし、かわらを磨いてかわらとし、鏡を磨いてかわらとする、ということである。

わたしは、単純に、かわらを磨くことは、同時に鏡を磨くことであり、鏡を磨くことは同時にかわらを磨くことである。
と解釈する。

166 :
>平等性智の世界から観察することができるのなら
>鏡も瓦も
(たぶん?)分別することなく観察できる

無分別そのものが平等性智なのだから。

167 :
菩提心なければ、ということを聞く。
無分別だけであれば、善悪の基準がないし。一方、分別は善悪の区別があるし。

168 :
我執・ものへの執着がある限り分別はなくならない^^

169 :
鏡を磨くとは心の止滅にほかならない^^

170 :
これおもしろい^^

我執を落とす技術
http://www.yorokondeitadakimasho.jp/niconico/20111119.html

171 :
人は刺激のない空間で生きていると、ボケるように感じがする。
逆に、刺激激流の如く、入り込むと、ちょっとやばいかも。
捨てるんだと思っていてちょうどよいような。
仏祖は自分の意志で修行したのだと思います。

172 :
我執・・・煩悩障

法執・・・所知障

2つの執着がある^^

173 :
>鏡を磨くとは心の止滅にほかならない^^
そうかもしれませんね。
でも、想受滅にいすわるということでもないような。

かわらを磨いてかわらとするとは、何なのだろうか?

174 :
瓦を磨いて鏡となす
http://www.zen-essay.com/entry/nangaku-masen

これじゃね^^

よくわからんけど^^

175 :
非想非非想かな。

176 :
かわらを磨いて、そのかわらが鏡になった時、馬祖が仏になったのである。

若諸相実相見、即見如来

177 :
完全に滅している状態を観察する智慧
誰が完全に滅している状態を観察しているのか?
http://www.yorokondeitadakimasho.jp/niconico/20111119.html
我執を落とす技術

…心を離れて(想いを手放して(滅して))
心を見る仏眼を初めて知るのです
これを「本当の自己」と呼んだり、「如来」と言ったりします…
http://www.zen-essay.com/entry/nangaku-masen
【南岳懐譲】瓦を磨いて鏡となす(南岳磨甎)- 禅僧の逸話 -

↑これを読むと
「無明している世界から解脱しなくても良い」と勘違いする人がいるような気がする

たとえば「我癡・我見・我慢・我愛の働きは仏でる」とすると↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483660814
空海
菩提分法是れ法宝なり
道元禅師
菩提分法、即ち仏祖の眼晴鼻穴、皮肉骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを菩提分法と参学しきたれり

↑「菩提分法しなくて良いんジャマイカ?」と勘違いする人がいるんジャマイカ?

178 :
>(もともと仏であるのならば、菩提分法とかの実践をしなくても良いんジャマイカ?というよな?)
いかに危険に満ちたものかの認識が禅師にあったといわざるを得ない
>「無明している世界から解脱しなくても良い」と勘違いする人がいるような気がする
>「菩提分法しなくて良いんジャマイカ?」と勘違いする人がいるんジャマイカ?

とはいうものの、即でむすびつけてますから。
無常即仏性 仏性即無常って感じですね。

であれば、修即証 になければならないような。

179 :
無明もなく、無明の尽くることもなし

180 :
>>177 の続き

たとえば
「我癡・我見・我慢・我愛の働き、それは、そのまま仏でる」とすると

「菩提分法しなくて良いんジャマイカ?」と勘違いする人がいるので

『(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)
  無明している世界から解脱すれば仏である』

↑という導きの方が勘違いしなくて良いと思う

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
(仮設としての)
(我癡・我見・我慢・我愛の働きが依存している)
無明している世界が
『もともと仏である』と気づくことの障害になっている

八宗綱要 だるま文庫 法相宗
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性

(仮設としての)
(遍計所執性の働きが依存している)
無明している世界が
『もともと仏である』と気づくことの障害になっている

181 :
釈尊が生きてたらどのように思ったか、気になる次第ですw

182 :
もともと仏である。ということを土台に新たなものを、構築するのでしょうね。
それが、どのようなものになるか。神のみぞ知る。この場合、仏のみぞ知る。

釈尊のみぞ知る。

183 :
もともと仏である。
ふと思った。もともと仏なら輪廻もないのじゃないかと。
また、中国に仏教がうけいられたのは、輪廻思想があったからだと。
とうじ、科挙に落ちた人たちが、輪廻思想に群がったとか。出典はわすれた。

184 :
 
>もともと仏なら輪廻もないのじゃないかと

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論
第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
第二十五章 ニルヴァーナ(涅槃)の考察

師は生成と消滅の放棄を説かれた
涅槃は
「存在である」という想いでもない
「存在ではない」という想いでもない
というのが正しい

涅槃と輪廻している世界との間には
わずかな違いすら存在しない

しかし、それでも
世俗諦、勝義諦
この二つの間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

「もともと仏であるのだから何もしなくても良い」
と勘違いしている人は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

185 :
執着が滅しろば輪廻は滅する^ ^

186 :
十二因縁即ち輪廻である^ ^

187 :
この十二因縁を止滅しなければならない^ ^

188 :
ではどうすればいいのか^ ^
それが仏道である^ ^

189 :
>輪廻もないのじゃないかと

たとえば
仮に
輪廻している
魂のようなものを想定して

その
仮設としての
魂を

地水火風に分解して
小さい粒子も分解して
最終的には
すべて一切の法も滅して

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり

縁起したものを離れることがある

輪廻である
輪廻ではない
という想いも手放して

無明している世界から解脱して → 戯論寂滅

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである

190 :
 
ID:pU9rTDCJ殿へ
このスレも極力、長く温存して置きたいので
レスを、たくさん消費しないで下さい
たくさんレスを、消費されると迷惑です

ひとつのレスで
(長い文章を、改行して、わかりやすく)まとめて下さい

(初心者向けの、現代語訳で、わかりやすく、お願い致します)

是非、ご協力を、お願い致します スマソ m(_ _)m

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m

191 :
鏡を磨いて鏡とし、かわらを磨いて鏡とし、かわらを磨いてかわらとし、
鏡を磨いてかわらとする、ということである。

もう一度くりかえしになるが。仮説として、
鏡を無分別、かわらを分別とし、

無分別を磨いて無分別とし、分別を磨いて分別とし、分別を磨いて無分別とし、
無分別を磨いて分別とする、というこである。

>ブッダは
>そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
>死ぬことも、生まれることも説かない
>それこそが苦しみの終わりである

>そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
>死ぬことも、生まれることも説かない
この場合、分別を磨くとは、非想非非想は、なのかな。いや、非想かも。

>それこそが苦しみの終わりである
無分別になる。いや、非非想かも。

非非想を磨いて非非想とし、非想を磨いて非想とし、非想を磨いて非非想とし、
非非想を磨いて非想とする、というこである。

192 :
古鏡は、また取り上げたいと思います。 浅薄な者の知識として、今だ、その一端もうかがい知ることもできないでしょう。
すべては、正法眼蔵を読んで、その都度、確認していかなくてはならないかも知れません。文字を当てはめればいいというものでもないでしょうw
はい、わたくしです!
でも、その一端は、知れたかもしれません。

おじゃるさんの興味のある。37品菩提分法を取り上げたいと思います。
以前あげましたが、それとはちがう。初心者用解説を使ってやっていきます。

たしかに、道元は天台教学に通じてますが。それとは、別に、自分独自の解釈をしています。
まぁ、読んだけでは、わかりませんので、初心者用ですが。

少々お待ちを。本ですので、書き写すのが面倒なので。
あと、ある程度まとめなくてはいけませんので。

おじゃるさんの、正法眼蔵の中でとりあげてもらいたものがあれば、どうぞ。ただし、現世公案は、駄目ですよ。一番最後ですから。

193 :
good-par.shiina@docomo.ne.jp千葉県八街市八街ほ973-13椎名 教泰043-442-1501がたがたいってないで勇気があったら電話しーや090-3202-8219

194 :
>正法眼蔵の中でとりあげてもらいたものがあれば

道元とか禅宗とか興味がないでつ

↓興味があるもの
密教
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
根本仏典
テーラワーダ

>ある程度まとめなくてはいけませんので

そうですね、ある程度、まとめて(特に、ID:pU9rTDCJ殿へ)

初心者向けの、現代語訳で、わかりやすく

それと一応↓念のため
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という

「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想も超えて → 想受滅

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
すべて滅して、そして → 不生不滅(涅槃)

とりあえず m(_ _)m

195 :

正法眼蔵の菩提分法については
四如意足(四神足)とかを
特に、わかりやすく、お願い致します

ウィキペディアの
四如意足(四神足)と比較したいので

よろしくお願い致します  スマソm(_ _)m

現代語訳ではないので意味が↓わかりゃん
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou60/
正法眼蔵 菩提分法
四如意足(四神足)


ネット検索で色々なサイトの、ところ見ても
正法眼蔵の菩提分法の意味が、わかりゃん  スマソm(_ _)m

196 :
スレ乗っ取っておいて
スレ浪費するなとか
アホか?

197 :
>>196
ごもっともです。
>>194
おじゃるさんも自分のスレ、立ち上げればよろしのではないかと。

>それと一応↓念のため
つっこまれましたねw
http://jump.2ch.sc/?http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
これは、わかりやすいですね。

>>195
四如意足(四神足)の説明がのってないのですね。
観身不浄と最後の維摩故事の論評ですね。

四如意足のなかに図作仏という言葉がありますが、少々頭に入れとくといいかも。感です。

【定義】

図ははかるであり、作仏は仏となることであるから、悟りを開き、仏となるべく期して修行すること。

【内容】

悟りを開くための修行とは、修行と悟りとがどこまでも対待し、悟りは永遠に得られないものとなってしまうため、
修行とは悟りを求めないものだとして考えられている。
したがって、図作仏は否定すべきものだとして、「莫図作仏(作仏を図ること莫れ)」として示されることが多い。

*なお、道元禅師は本証妙修の立場から、むしろ本証として作仏を図らざるを得ないとし、かならず作仏を図るべきだとして説く。

しるべし大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり。坐禅かならず作仏の図なり。
図は、作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし。 
『正法眼蔵』「坐禅箴」巻

密教
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
根本仏典
テーラワーダ

わたしも、密教からですからwくわしくありませんが。密教って仏教なんだ。そして、仏教とは、何ぞやって。
テーラワーダ つい最近知りました。
禅を選んでいるのは、無を趣味としているからでしょうね。

四如意足は、推測しましょう。現代語訳かんしては、やってみます。最後ですが。

198 :
>http://jump.2ch.sc/?http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
これ間違い。

想と受の滅

 「受」と「想」と三つの「行」が滅するというが、これは、どういうことだろうか。
五蘊の教説では、色受想行識の五つで、「色」は物質、「受」は苦・楽・不苦不楽の感覚作用、
「想」は表象作用・認知作用、「行」は主に思(意志作用)で受想識以外のすべての心理作用、「識」は、了別・判断作用である(1)。
想がなければ、識も働かないので、想受滅のただ中では、五蘊のうち、心作用と言われる「受想行識」のすべてが滅していることになる。
そうすると、物質のみ残り、心作用がない。

*この部分の解説がいいです。
心作用がないとは言っても、「諸根は浄静である」というから、眼耳鼻舌身などの働きは、破壊されていない。
心作用は主観といってよいから、浄静な諸根と客観がある、という状態である。諸根がありながら、「想」の作用がないのである。
物のみ心にある。物が心になっている。見る主体、聞く主体はない。これを経過した人は「生が尽きた」という表明をするというが、
生きている自我、自我に執著する人が「有ると感じる自我」がない、ということであると考えられる。物のみあって自我がないというのであれば、
輪廻から解脱することにもなる。これを明確に断言することは、知識や論理、思想の操作ではとうてい達しえないものであり、
禅定を重ねた修行者の心の内に起こる体験的なものといえる。

これは、唯識説の真見道・無分別智や、中国・日本の禅者の見性体験・悟り体験の言語表現と比較してみる必要がある。
さらに初期仏教では、滅尽定、身証、寂静解脱などの教説も、想受滅という一種の自我の滅尽の体験が重要視されていることに関係があるものと考えられる。
それも、詳細に分析する必要がある。
パーリ経典では、想受滅を得て、心解脱する。想受滅は、唯識説の真見道、禅の見性体験であると思われるが、学問的には解明されていない。
唯識説が、無分別というところを、原始仏教は、想、受が滅尽するという表現になったのである。
想い(分別)以前の事実(もの)のみあって、「想」にならない寂静を体験することとされる。

199 :
>>196 >スレ乗っ取っておいて、スレ浪費するなとか、アホか?

お邪魔致します スマソm(_ _)m

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%82%81%E3%81%A4%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%88%E6%BB%85%E5%B0%BD%E5%AE%9A%EF%BC%89
滅尽定:滅受想、心と心所(心の働き)をすべて滅する

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/03/082823
心と心所を合わせて名(nāma)といいます
受蘊、想蘊、行蘊、識蘊になります
名蘊です

http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html
心所は
「心にあるもの」「心によるもの」で…心は必ず心所と共に生じます
この場合の『心』とはパーリ語のcitta(チッタ)のことで、「生きている」というような意味です

心も、心に溶けている心所によっていろいろな心があります
優しい人、明るい人、落ち着きがない人、怒りっぽい人…鈍感な人、敏感な人など
人間の性格はどの心所がその人の心に溶けやすいかということで決まります
性格は固定されたものではありません。人格は条件によってコロコロ変わります
心は純粋な水のごとく善でも悪でもありません。心に怒りが溶けたら怒りの人になる
心に慈しみが溶けたら優しい人になる。次の瞬間にどの心所が生じるか、自分にもわからないのです
孫を見てニコニコしていた好々爺も嫌いな人を見たとたんに怖い顔になってしまいます
すごく優しいと思っていた人の意外な一面を見ることはよくあることです

200 :
>密教って仏教なんだ

2chに書き込みしている人の場合は
「密教は、仏教ではない、外道である!」と書き込みする人が多いような気がする

おじゃるが興味があるのは↓これ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
仮設としての
縁起している世界の中で
無明している世界の中で
自分、自らが妄想を作り出している幻術師のようなものだからこそ
それゆえに
諸法は夢の如しと観察せよ
道の本体は阿頼耶の自性に置くこと
(平等性智のことかしらん?)

トン(与え)レン(受け取る)
息を吐く時に自分の幸せを白い光の形で衆生に与え
息を吸う時には衆生の苦しみを黒い煙の形で受け取る。と観察する

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
護摩
火を真理とし、薪を煩悩とし
真理をもって → 煩悩を焼く
白い光をもって → 黒い煙を滅していく

智慧をもって → 思惟観察する

201 :
 
地水火風の粒子から
魔法で具現化させる
最優等生、ダイアナ・キャベンディッシュ
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/7/f/7f6dcd88.jpg
聖なるたてがみを持つ生き物よ、星々の光を受け、湧き出る泉より甦れ!
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/8/f/8f570d76.jpg

悲しみから「嘆きの亡霊」になった王族が解放された
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/9/a/9a8d184f.jpg
嘆きのバハロワが地水火風の小さい粒子に還元していく
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/8/b/8b3619af.jpg

最劣等生アツコ・カガリを、どこまでも導いていく、アーシュラ先生
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/6/0/603aabdf.jpg
箒で空を飛ぶこともできない、最劣等生アツコ・カガリは、きょうも元気に泣いている
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/3/8/386d03d2.jpg

ダイアナが魔法で(地水火風の粒子から)ユニコーンを具現化させて

アーシュラ先生の導きで
アッコが王族を解放させて
バハロワが地水火風の小さい粒子に還元していく

 ↑アニメを仏教的に解釈してみました スマソm(_ _)m

リトルウィッチアカデミア
http://gno.blog.jp/izumi/22615007.html

202 :
心作用がないとは言っても、「諸根は浄静である」というから、眼耳鼻舌身などの働きは、破壊されていない。
心作用は主観といってよいから、浄静な諸根と客観がある、という状態である。諸根がありながら、「想」の作用がないのである。
物のみ心にある。物が心になっている。見る主体、聞く主体はない。

この中でも、浄静な諸根と客観があるという一文です。

夢をみているれば、時間を感じない。感覚が目覚めていれば、時間がある。熟睡していれば、何もない。
何もないのに、わかるというのも、浄静な諸根と客観があるということでしょうか?

>>199
心とは心王のことですか、どの心所につながりやすいかわ、その人の環境、遺伝でもあるのでしょうね。
その所だけが脳神経が太くなっているかも。

>>200
阿頼耶識そのものが、わかりません。

イメージでもって、導くということもあるのでしょね。

でも、火とか水とかは、見入られます。小さいころ、真冬に釣り堀に行っていて、池の水をジーっと見つめていたら、
気が付いていたら、落ちていましたw足がつかなくて、おぼれかけた。挙句の果てに、肺炎になってしまいました。

空海さんの論評は、おいちゃんに、軍配が上がるようなw

>>201
アニメでも、小説でも、自分の好きなイメージまたは、言葉とか対比してしいますよね。

203 :
 
心王という言葉は今、初めて知りました↓ネットで調べて見たところ
>心とは心王のこと
みたいな感じでつね
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%83%E7%8E%8B-82404
心王(しんのう)
心作用の主体となる識のこと
心王に従属して働きをなすのが心所である
心所の王という意味からこの名称が生れた
http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html
チェータシカ:心所
「心にあるもの」「心によるもの」で、言い換えれば、心の成分のようなものです
心は心所と共に生じます
この場合の『心』とはパーリ語の citta(チッタ)のことで、「生きている」というような意味です
心も、心に溶けている心所によっていろいろな心があります
優しい人、明るい人、落ち着きがない人、怒りっぽい人…

>阿頼耶識そのものが、わかりません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98
仮設としての
阿頼耶識は、さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で、『無覆無記』という
第七階層の我癡・我見・我慢・我愛は、障害があることから『有覆無記』という

苦集滅道への障害がある
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界から解脱すること

そのための『智慧の働き?』みたいな? m(_ _)m

204 :
規制されましたね。少々やりすぎましたw
>>203
『正法眼蔵」「古鏡」考
理解しましたか。

いや、全く前に進まないw
心王とは、いろいろなところ出てきますが。

説一切有部の考え方です。有為法の一つ、心法として独立しています。
心、全てということではないみたいです。

心所あっての心王、心王あっての心所ってところでしょうか。

205 :
>規制されましたね
おじゃるも連続、書き込み規制対象になりましたでつ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
世親は
「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない実体があるとした

たとえば
仮設としての
無明している世界は
『世界は個人の表象、認識にすぎない』

この無明している世界から解脱するためには
『言い表すことのできない実体の世界から観察して』

智慧をもって → 観察して  m(_ _)m

阿頼耶識 → 第七識 → 第六意識 → 前五識 → 外界
外界 → 前五識 → 第六意識 → 第七識 → 阿頼耶識

たとえば
サーンキヤの『プルシャは変化することのない実体である』
唯識の『阿頼耶識は変化している、激流のごとく活動している、暴流の如し』

スッタニパータ1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
『無明している世界(阿頼耶識も)すべてを空性である』と観察せよ

206 :
谷藤裕明盛岡市長、谷藤文明株式会社橋市社長・盛岡剣道協会会長、谷藤文明の伜・谷藤大樹

倍加、お祝い金(上納金)→借金漬け→家庭崩壊→精神崩壊→精神病院

これも剣道。

谷藤裕明盛岡市市長の実家は、橋市という包装資材、不動産屋などの会社を営んでいる。
また、橋市道場という剣道場もやっているが、道場の2階で朝起き会、実践倫理宏正会という社団法人の体裁のカルト宗教をやっている。

この朝起き会の実態は、信者を洗脳し、信者に莫大な借金を背負わせ、実践倫理宏正会に寄付を強要する悪徳団体なのである。
やっていることは、暴力団も真っ青な集金システムと言えるだろう。

剣道は人殺し、即刻廃止へ。
https://m.facebook.com/daiju.tanifuji
http://s.webry.info/sp/58807828.at.webry.info/200910/article_28.html
http://m.webry.info/at/58807828/201109/article_18.htm?i=&p=&c=l&guid=o
http://kansindo.mods.jp/blog/?p=11198
http://www.geocities.jp/sonomama_da/asaoki2.html

207 :
>無明している世界は
>『世界は個人の表象、認識にすぎない』

>この無明している世界から解脱するためには
>『言い表すことのできない実体の世界から観察して』

>智慧をもって → 観察して

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。
即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)

実体のないものであるそれらが、諸存在である。空即是色。

208 :
 
仮設としての
因と縁の双方が相応一致して
縁起している世界の中で
無明している世界の中で
我愛と戯論と善悪業に依存して
地水火風の微粒子に依存して、そして↓

中論 観涅槃品 第二十五
(「変化することのない色受想行識が結合している」というような固執に依存して)
諸の因縁を受けるが故に、生と死の中で輪転する
顛倒を如実に知らないが故に、色受想行識を受けることに因って、生と死を往来する

 − これに対して −
(地水火風の色聚(微細な粒子)を識別して
  「変化することのない色受想行識が結合している」というような固執を看破して
  密集を看破した時、無我への領悟、了解が生まれて)

諸の因縁を受けないことを、涅槃と称する
顛倒を如実に知るが故に、五陰を受けることに因って、生と死を往来することはない
無性の五陰は相続しないが故に、涅槃だと説かれる

十牛図

ついに童子は修行の頂点に達した
空(くう)となり、円が描かれているだけの無の世界 ← 色即是空

さらに無の世界を超えると
童子は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた ← 空即是色

209 :
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/38/2/38_2_539/_pdf

如浄は、蓋・欲をもって形成された執着の対象としての外界は、
蓋等が脱落することにより、虚妄なるが故に同じく脱落するという。
そこで初めて自己と外界の関係が現成すると説く。
とすれば、脱落すべき蓋・欲を認めることになる。

道元禅師においては、眼横鼻直である自己が、朝には東より陽が出て、
夕には西に沈む実相の中で生きていること、
そのままを妙修といい、外界と自己とが一体であることの体得
こそが仏法そのものであると示す

本証の妙修
完全なる他者として自己を認識できない限り、自身による
自己の確認が必要となる。それを本証の妙修と禅師は表わし、
「馬祖すみやかに馬祖」とならねばならないとの立場に立つ。

いま読み直している。古鏡から離れられないね。

十牛図は、如浄の立場みたいですね。古鏡とは、違うかも。

210 :
208.
外界と自己とが一体である、か。
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。

211 :
 
禅宗とか興味がないけど↓とりあえず

ウィキペディア参照
天童如浄(てんどうにょじょう、1163年 - 1228年)
日本曹洞宗の開祖道元が師事したことで知られる

道元(どうげん、1200年1月19日 - 1253年9月22日)
鎌倉時代初期の禅僧
日本における曹洞宗の開祖
一般には道元禅師と呼ばれる
徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり
修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた

見性(けんしょう)
人間に本来そなわる根源的な本性を徹見すること
性(しょう)は本来、煩悩に汚されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す

自性清浄(じしょうしょうじょう)
自性として(本来、生まれつき)清浄なことを意味する
パーリ増支部に
「…この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」とある
自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている

無記(むき)
我癡・我見・我慢・我愛は、苦集滅道への障害があるので有覆無記(うぶくむき)という
阿頼耶識は、苦集滅道への障害(「覆」)がないので無覆無記(むぶくむき)という

212 :
道元のことも如浄のことも、わからないけど↓とりあえず

如浄は
蓋・欲をもって形成された執着の対象としての外界は
蓋等が脱落することにより、虚妄なるが故に同じく脱落するという
そこで初めて自己と外界の関係が現成すると説く
とすれば、脱落すべき蓋・欲を認めることになる

第八識 → 第七識 → 第六意識 → 前五識 → 外界
外界 → 前五識 → 第六意識 → 第七識 → 第八識

知慧をもって観察して
我癡・我見・我慢・我愛(第七識)を手放して
第七識が → 平等性智に転じて、そして

道元禅師においては
(平等性智の世界から観察することができるのなら)
眼横鼻直である自己が
朝には東より陽が出て、夕には西に沈む実相の中で生きていること
そのままを妙修といい、外界と自己とが一体であることの体得
こそが仏法そのものであると示す

十牛図

さらに無の世界を超えると、童子は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
(平等性智の世界から観察して、そして)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている

この説明の方が↑わかりやすい

213 :
宏智の本証を、如浄と禅師の師資は本証の妙修となす。
その師資間においても如浄は坐禅を行じるのは、離れるべき五蓋六蓋があるによる、

と主張するのに対し、禅師は
全てが坐禅により保たれ、離れるべきものはなく、
付加すべきものもないのが妙修であると示した。

>禅宗とか興味がないけど↓とりあえず
わかっております。ハイw

>徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり
>修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた
なぜ、そうなのだという疑問。

>見性(けんしょう)
>人間に本来そなわる根源的な本性を徹見すること
>性(しょう)は本来、煩悩に汚されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す
わたしは、自性清浄心に気づくというよりも、無我とはですから、別に禅宗に固執しているわけでないかな。
たまたま、道元とはどういう人かなというぐあい。まぁ、しらべているうちに、少々執着はするね。


本証の妙修
完全なる他者として自己を認識できない限り、自身による
自己の確認が必要となる。

これって、結構、気づいているんじゃないですか。我というものが出来上がるのか。

>無記(むき)
悟りとは、あまり関係ないという意味合いですか。

山は山、どちらがどちらかといえないわけで。衆生と仏、どちらがどちらとはいえないわけで。
「仏となる修行」を否定し、「仏としての修行」を採る道を表している。

214 :
208.
外界と自己とが一体である、か。
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。

215 :
おまえさんも、儂のように、早く、悟るのじゃ

216 :
(ごく一般的な知識教養ではないという意味で)
× → 知慧をもって観察して
〇 → 智慧をもって観察して

>無記
>悟りとは、あまり関係ないという意味合いですか

↓ウィキペディア参照

無記(むき)
釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う
仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される
主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった
仏道修行に直接関わらない・役に立たない問いに対して、こうした態度が採られた


唯識思想においては
阿頼耶識は善・悪の種子を蔵する拠り所となるが
たとえば
悪ならば、迷いの世界を脱することができず
善ならば、迷いの世界は、ありえないことになるので
阿頼耶識は
善・悪いずれの性質も帯びてないので、そして
苦集滅道への障害もないので無覆無記(むぶくむき)であるとされている

我癡・我見・我慢・我愛は、苦集滅道への障害があるので有覆無記(うぶくむき)という

217 :
>「仏となる修行」を否定し、「仏としての修行」を採る道を表している

たとえば
おじゃるの場合は
いつも妄想しているので
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐は無理なので
それゆえに

苦集滅道
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
無明滅するが故に → 行滅し、行滅するが故に → 識滅す

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
どこかへ飛んでいってしまう心の働きをいつも集中対象である呼吸に戻してくる
ヴィタッカ(尋)も手放して

たぶん↑これも無理だと思うけど↑この説明の方が、わかりやすい

なぜ難しいのか?
智慧の世界から観察して手放していく。という
この『智慧の世界から』というところが難しい

↑この観察も実践したことないので、わからないけど

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m

218 :
無記の説明ありがとうございます。
阿頼耶識は、ピンとこないけど。苦集滅道への障害もないので無覆無記(むぶくむき)であるとされている。

非想非非想なら、そうじゃないのかと。違うかは、わからない。


智慧の世界とは、これのことですか。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。
それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。
即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)

おじゃるさんも、実践を、いろいろと挑戦しているんですね。

>四つの禅定   パオ・セヤドー
わたし、これのほうが難しいです。不器用なもんでw

思い手放すという、内山興正老師のが、やりやすいのでは、雑念を、思考にまで、もっていかなければいいし。
坐禅にこだわらず、散歩でもしながら、思いを手放すでは。

妄想は、思考までいっちゃてるからね。わたしも、妄想すぎですよ。でも、いまでは、妄想する元ネタがなくてw

あっ、そうだ、夢に古鏡が出てきます。必死に考えてます。起きると忘れてます。

219 :
 
非想非非想の状態から出る(出定する)と
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界の
苦集滅道への障害がある有覆無記の状態に戻ってしまう
それゆえに
釈迦は
菩提樹の木の下で
「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した
すると、心を乱そうとマーラが現れ、この妨害が丸1日続いたが、ついにこれを退け、悟りを開いた


非想非非想も超えて → 想受滅へ

身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

仮設としての
自らを灯明とし、自らをより処として、法を灯明とし、法をより処として

四念処の実践をするように自灯明法灯明の教えを説いた
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
四つの要素に従って観察する
『地の要素 、水の要素、火の要素、風の要素がある』と

仮設としての
無明している世界の中で
すべて一切の法も
地水火風に依存して現れて
そして
地水火風に還元していく

>実践しているんですね
観察の実践もしたことがないでつ  m(_ _)m

220 :
218.
欲と憂いを捨て去る、べきか。
元々ないものを捨て去る必要がない。

221 :
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/4/0/407025ef.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/8/b/8ba8b0b2.jpg
キャベンディッシュ慈愛の家訓
たとえ戦争状態の時でも
(智慧をもって)
((我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して)
(平等性智の世界から観察して)
(『生きとし生けるものが幸せでありますように』という慈悲に基づいて)
「慈愛の魔女」の家訓に基づき、敵味方の区別なく治療を行ってきた

http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/6/c/6c9aeae8.jpg
蛇の毒で負傷しているアッコを放置しておくことはできないので
http://livedoor.blogimg.jp/guran2016_ms06/imgs/1/f/1fff0da7.jpg
今も「慈愛の魔女」の家訓に基づき(智慧をもって)治療している
http://gno.blog.jp/izumi/21601008.html

↑アニメを題材として『智慧の説明』をしてみました

http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
智慧をもって
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して
平等性智の世界から観察して
慈悲の冥想
生きとし生けるものが幸せでありますように  m(_ _)m

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E8%83%9D%E8%A6%B3%E9%9F%B3
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

222 :
長く出息すれば「私は長く出息する」と知り、長く入息すれば「私は長く入息する」と知る。
短く出息すれば「私は短く出息する」と知り、短く入息すれば「私は短く入息する」と知る。

出息すれば、とは、なんですか。あらためて、私をつけていますが。なぜですか。

あるいは、「身」を他己における身であると絶え間なく知覚して住み、
あるいは、「身」を自他における身であると絶え間なく知覚して住む。

自身の身をいたわるということが、前提ですか。
自身に負荷が、感じないと、倫理道徳の範疇になってしまうような。
逆に、自身の負荷を感じ、倫理道徳が、身に染まる。言い方は、ちょっとまずかったか。

223 :
第四禅定
アナパナを通して入れる禅定では、第四禅定が最も深い禅定です。
この禅定にはとても顕著な特徴があります。
心身がきわめて平安で静まった状態になるので、この禅定に入っている間は、呼吸が止まっているのです。
1時間第四禅定に入っていると、1時間呼吸をしないということです。
そういう非常に強烈な特徴があります。
第四禅定に入れるようになったら、今までのように、それを自在にコントロールできるようになってください。

1時間第四禅定に入っていると、1時間呼吸をしないということです。
これがよくわからなかった、本当ですか。呼吸にきがつかなかったということなのでしょうか。
いや、止まっていると書いてあるし。仮死状態ですね。

224 :
実践したことないので、わからないので↓おじゃるの妄想としての説明でつ  m(_ _)m

仮設としての
過去への妄想も手放して
未来への妄想も手放して
意識的に呼吸を長く息を吐いて
今この瞬間を切っ掛けにして
想いを手放して
おじゃるは意識的に呼吸を長く吐いている。と気づく

私→おじゃるとかID:FqbIu23v殿とかのこと
出息→息を吐くこと
入息→息を吸うこと
知る→((智慧をもって)今この瞬間を切っ掛けにして)気づくこと

我所も我も手放して
分別も手放して
平等性智の世界から観察して
慈悲の冥想
私に悟りの光が現れますように
そして
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように

> 1時間呼吸をしない

(実際には呼吸してるけど)呼吸している。という(観察も)想いも手放して、そして
十牛図

ついに童子は修行の頂点に達した。ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
とういことかもしれない
(実践したことないので、わからないでつ  m(_ _)m)

225 :
223.222.
呼吸などは生理学である。
それは宗教ではない。

226 :
>>224
>我所も我も手放して
>分別も手放して
>平等性智の世界から観察して
>慈悲の冥想
>私に悟りの光が現れますように

平等性智の世界から観察して 、これ、どのように知るのですか。

おじゃるさんの貼ったのにこのように書かれてますよ。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
心作用がないとは言っても、「諸根は浄静である」というから、眼耳鼻舌身などの働きは、破壊されていない。
心作用は主観といってよいから、浄静な諸根と客観がある、という状態である。諸根がありながら、「想」の作用がないのである。
物のみ心にある。物が心になっている。見る主体、聞く主体はない。これを経過した人は「生が尽きた」という表明をするというが、
生きている自我、自我に執著する人が「有ると感じる自我」がない、ということであると考えられる。物のみあって自我がないというのであれば、
輪廻から解脱することにもなる。これを明確に断言することは、知識や論理、思想の操作ではとうてい達しえないものであり、
禅定を重ねた修行者の心の内に起こる体験的なものといえる。

浄静な諸根と客観があると。
完全に滅却していないということですか。

この場合、客観とは、どれにあたるのでしょうか?

227 :
>浄静な諸根と客観があると
>完全に滅却していないということですか

>この場合、客観とは、どれにあたるのでしょうか?

実践したことないので、わからないので↓おじゃるの妄想としての説明でつ  m(_ _)m

智慧の世界から観察して
仮設としての
おじゃるの
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放していく

おじゃるは完全に滅している
すべて一切の法も(おじゃるも)滅している

智慧の世界から(客観的に) → 観察している

↓これは特に適当な妄想でつ m(_ _)m

勝義諦の世界から(客観的に) → 世俗諦を観察している

ダルマについてのブッダの教えは二つの真実(二諦)に基づいている
この世の現象的な真実と究極の真実である

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに解脱(涅槃)は達成され得ない

中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

228 :
 
ごく一般的な世俗の人の場合は

世俗諦の世界のなかで

我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続けて
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

我癡・我見・我慢・我愛が『おじゃる!』と掴もうとしている

 − これを対処するために −

智慧の世界から(客観的に) → 観察して

勝義諦の世界から(客観的に) → 世俗諦を手放していく

(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放していく

(光り輝いている)自性として本来清浄ではあるが
現実には汚れているので

悟りの世界から(客観的に) → 諸煩悩を手放していく

↑これも適当な妄想でつ  m(_ _)m

229 :
浄静な諸根と客観があると。

想蘊(そううん、梵: saṃjñā) - 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)

想の作用のみある。


仏教で、能力や知覚をもった器官をいう。サンスクリット語のインドリヤindriyaの漢訳で、
原語は能力、機能、器官などの意。

物のみ心にある。物が心になっている。

客観とは、自分の体含め物のみ状態でよろしいでしょうか。
浄静な諸根とは思考やその他の器官、能力等が、静かに収まっている。

それぞれの感覚器官が、静かにおさまり、想だけが作用しているときに、主体的自己は、静まり、外と一体になっていると。

若し諸相は相が非ざれば、即して、如来を見る。

ナーガルジュナが『中論』において述べているブッダ論は、異色のものである(中略)
「如来は本体の無いものである」(中略)
「戯論(形而上学的考察)を超絶し不壊なる仏をいろいろと戯論する人々は、
すべて戯論に害せられていて、如来を見ない」(中略)
つまり仮現であるというのである。(中略)
では真実のブッダとは何であるか。

それはわれわれの経験している世界にほかならない。
この言葉が印象的ですね、これを言われちゃうと

「仏となる修行」を否定し、「仏としての修行」を採る道を表している。
わかりますねw

では、戒の目的は、おじゃるさんのコピーに、いいのがあったのに、どれだかわからなくなった。
たぶん、上座部の人たちは、悟るとどうなるかってことを前提に、戒をつくりあげているのかもです。

意味不明もあるかもしれなませんが、よしなに。

向き不向きが、あるかもしれませんね。

230 :
あった。

戒律は、不善心所を抑えるはたらきをします。
身口意の行為は、必ず行為に応じた心所を生じさせます。
悪い行いをするときには悪い心所が生じています。
他の生命を殺したり、不倫をしたり、酒を飲んだりすることは、すればするほど心を弱く狭くするのです。
お釈迦さまは、智慧の目で心を観て戒律を定められたのです。
ですから無理をしてでも戒律を守るならば、自分を守ることができます。

http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html

231 :
あれ、私の読み方がw
別の本と混ざってしまったw

232 :
実践したことないので、わからないので↓おじゃるの妄想としての説明でつ  m(_ _)m

>浄静な諸根と客観がある、という状態である

非想非非想の世界から(客観的に)観察して
「想う」も手放して
「想わない」も手放して

想受滅の世界から(客観的に)観察して
非想非非想の世界も手放して↓そして

https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html

決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起する

受滅して → 想滅して → 行滅して → 識滅する

実際に(例:桜の木をみて「美しい」と感じる。といような)
感受作用を滅させることができるのか?わからないけど、とりあえず

たとえば
おじゃるの我愛(渇愛)から主観的にみるのではなくて

非想非非想の世界から(客観的に)観察する
想受滅の世界から(客観的に)観察する
有余涅槃の世界から(客観的に)観察する

無余涅槃の世界から(客観的に)観察して → 色(身体、物質)も手放していく

色滅して → 受滅して → 想滅して → 行滅して → 識滅して → 無余涅槃(無為法の世界)

233 :
てす

234 :
とりあえず、おじゃるさんへ。

心法(心王)は、いわば心の中心となるものである。説一切有部も唯識も、心というものを、
決して一つのものと見ない。

我々は一つの心があって、それが種々作用すると思い込んでいるが、
彼らは、そうは見ず、多様な心理現象は、多彩な心理的要素が、その都度そのつど組み合わせを
変えつつ生起しているのみだと説く。

その多彩な心理要素を心所有法(心所。心王に所有される法)
というのであり、その中心となるのが、心王である。心王は対象の全貌を認識し、心所はその個別相を
ここ認識するという。

心王と心所は、同時に共に起きる(心王なしに、心所のみ起こることはない)このことを、相応するという。
それは、時を同じく、器官(根)を同じくし、対象(諸縁)を同じくする。
そして、一つの心王に対し、各々の心所は各々一つのみ相応する。

同時に聞きながら、見るというのは、素早く心所が入れ替わっているため、同時に見る聞くが可能である。

打ち込むのが大変だw

235 :
231.
滅、か。
神秀、の真似をしているバカがいる。
六祖慧能は天才である。

236 :
根本識に依止す。五識は縁に随って現じ
或るときにはともなり、あるときにはともならず。濤波(とうは)の水によるがごとし。
意識はつねに現起す。無想天に生じたると
及び無心の二定(無想天と滅尽定)と睡眠と悶絶と除く。

唯識三十頌から、

無心の二定をだれがわかるのか。客観の説明がわからない。

237 :
>無心の二定をだれがわかるのか。客観の説明がわからない。
これ間違い。
無想天に生じたると 及び無心の二定をだれがわかるのか。客観の説明がわからない。

238 :
235.
バカのやることである。

239 :
だれが、いや、どうしてわかるのか。

240 :
>説一切有部も唯識も

説一切有部も唯識も、経典・論書・解説書を読んだことがないので、わからないけど
有部の教理を批判して(そして、受け継いで)注釈した論書↓みたいな感じであるらしい  スマソm(_ _)m

ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96
『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)
ヴァスバンドゥ(世親)を作者とするインドの論書である
説一切有部の教義は、カーティヤーヤニープトラの
『ジュニャーナプラスターナ・シャーストラ』(阿毘達磨発智論)によって確立する
この『発智論』を注釈した論書に『マハー・ヴィバーシャー』(大毘婆沙論)がある
説一切有部の教理の行きすぎた点を経量部の立場より批判した点に特色がある

ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%A4%A7%E6%AF%98%E5%A9%86%E6%B2%99%E8%AB%96
『大毘婆沙論』(だいびばしゃろん)
本論は説一切有部の教説をまとめたとされる『発智論』に関する広大な注釈書である

だるま文庫 八宗綱要 法相宗
世親(ヴァスバンドゥ)
小乗を学び論を書き、後に大乗を学び論を書いた。釈尊一代の教えにことごとく通じていた

ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
世親は
『世界は個人の表象、認識にすぎない』と強く主張する一方、『言い表すことのできない実体がある』とした

(仏の智慧)法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智のことか?
(実体ではなくて仮設としての)無覆無記の阿頼耶識のことか?わからないけど↑とりあえず  m(_ _)m

241 :
唯識三十頌も読んだことがないので、わからないけど↓とりあえず

>無想天
>だれがわかるのか。客観の説明がわからない

無所有処定(むしょうじょじょう)無所有処は無想なり

智慧の世界から(客観的に)観察して
『無想である』と気づくことができるらしい

>どうしてわかるのか

智慧の世界を知覚して
智慧の世界に住んで
智慧の世界から(客観的に)観察して、そして

無想の世界を知覚して
無想の世界に住んで

このときに
我所でもなく我でもなく『無想の世界である』ということに気づくことができるらしい

無所有処(無所有処は無想なり)
 → 非想非非想(有想も無想も手放して(捨てる))
 → 滅尽定・滅受想(すべて一切の法も手放して(滅して))
 → (すべて一切の法も手放して(滅して)、そして)涅槃

(滅させることができないと無明と我愛(渇愛)に依存して輪廻を繰り返す  m(_ _)m)

242 :
 
× → 滅させることができないと
〇 → 手放して滅させることができないと

とりあえず
まず始めに手放す。ということであるらしい

仮設としての
過去への妄想も手放して
未来への妄想も手放して
意識的に呼吸を観察して
今この瞬間を切っ掛けにして
おじゃるは意識的に呼吸を(智慧の世界から)観察している。と気づいて

とりあえずは↓これから始める。という感じであるらしい  m(_ _)m

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正 思い手放し

(智慧の世界から観察して)
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって
(我愛(渇愛)が依存している無明している世界の)その「何か」をつかむことです

ところが今
(過去も未来も手放して → 今この瞬間を切っ掛けにして → 智慧の世界から観察して)
その何かをつかもうとする
「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです。実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

243 :
241.
思いの手放し、か。
無いものを、どうやって手放す、のかや。
バカ丸出しである。
内山輿生は人生論をやっているだけのことである。心理学かも。

244 :
>智慧の世界から(客観的に)観察して
少々疲れ気味で、頭が回りませんw

検索くしていたら、四句分別がでてきた。
本で書かれた唯識も上げようと思ったが、写すのが面倒なのでw現在に対してのことが書いてあった。

そこで、四句分別も何か参考になるかなと。これも、まとめるのがめんどいw

245 :
すべては真実であり  

ロビンソン教授の説明
 第一句は一般の理解(世俗)としての真理による教え
 
 チャンドラキールティの説明
 すべては真実だと第一句を説き。

 青目の説明
 たとえば異なった色や味の流れが大海に入れば、一色一味となるように、
 しるしのない真実、空性を理解した人にとってはすべては空なるものとして真実である(第一句)

あるいはまた真実でない
 
 ロビンソン教授の説明
 第二句は最高の真実(勝義)による教え
 
 チャンドラキールティの説明
 真実であるものは変化しないと教えるために、すべては真実でないと第二句を教え

 青目の説明
 まだそこまで悟っていない人がいろいろな見解にしたがって存在を構想しているときには、すべてのものは真実でない。
 ただ依存的になりたっている非実のものである(第二句)

真実でありかつ真実でない
 
 ロビンソン教授の説明
 第三句はその二つの真理を複合した立場からの教え

 チャンドラキールティの説明
 第三に、ものは凡夫にとっては真実だが、聖者にとっては非実であると第三句を教え

 青目の説明
 衆生には上・中・下の三種があって、上の者はもののしるしは実でなく不実でないと直観する(第四句)けれども、
 中のものは、すべては実であり不実であると考え、下のものは一部分は実、一部分は不実である、
 すなわち、涅繋は実であるが、生滅する制約されたものは不実であると考える(第三句)。

真実でないのでもなく真実でもない

 ロビンソン教授の説明
 第四句はヨーガ行者の神秘的直観の立場を表わす

 チャンドラキールティの説明
 すでに煩悩と誤った見解とからほとんど自由になった人に対して、子を生まない女の子供は白くもなく黒くもないように、
 すべての現象は真実でもなく真実でなくもないと第四句を教える

 青目の説明 
 第四句の非実非不実はこの第三句の実不実を否定するために説くのである、と。

246 :
このように、かんがえたことがなかったが、ちゃんと理屈があるのだと知った。

なにやら、正法眼蔵から、離れているような、近づいるのやらw

247 :
>上の者はもののしるしは、実でなく、不実でない、と直観する(第四句)

仮設としての
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界に依存して
「〜は実である」「〜は実ではない」と
掴もうとしている想いが(地水火風に依存して)幻の如く現れる

智慧の世界から観察して
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して

「実である」という想いも手放して
「実ではない」という想いも手放して

「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えて、そして

決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである(心作用の消滅)

(受が滅して → )想が滅して → 行が滅して → 識が滅して → 有余涅槃

色が滅して → 受が滅して → 想が滅して → 行が滅して → 識が滅して → 無余涅槃

世間一般の人達の場合は
想を滅させるのが難しいので → 我愛(渇愛)と戯論と善悪業に依存して → 輪廻を繰り返す  m(_ _)m

248 :
246.
想を滅させるのが難しい、か。
滅して、どうなるのか。
バカ丸出しである。
滅すれば涅槃、か。バカ丸出しである。

249 :
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経

無明に縁りて → 行、行に縁りて → 識 「苦しい!」という想いが現れる

作者無し、それゆえに
渇愛と戯論と善悪業報有るので
此の現世の色蘊(肉体)滅し已らば異蘊相続で輪廻していく

 − これを対処する為に −

智慧の世界から観察して
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放すために

無明滅するが故に → 行滅し、行滅するが故に → 識滅して、そして
 → 「苦しい!」という想いが放れ(滅し)ていく

縁起したものを離れて、そして
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」という想いの終わりである

手放し(滅し)て、そして不生・不滅によって仏陀が形容されている  m(_ _)m

250 :
248.
滅、バカの言うことである。
滅、して、どうなるのか。
バカには理解できない。
涅槃とか仏陀とか言ってる、のはバカ丸出しである。
他人の説に溺れているだけのことである。
自分の頭で考えよ。

251 :
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世は、中論を理解するために26・18・24章の順に読むことを勧めているおり、
18章の前に12支縁起を説く26章を位置付けている。それは、、なぜ私と私のものがなりたたず、執着が生まれないと解説
するのかというこの箇所の理論的裏づけとなってきるのが、12縁起であるためであろう。

この箇所は、ナーガールジュナが12縁起(無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死を一方的な時間的
前後関係としてのみとらえず、煩悩と業と苦の循環としてとらえていることを知っていないと、十分理解できない。

*循環としてという言葉を使っているが、これはどういうことなのだろう?

実体視を離れることが即ち解脱・涅槃であり、有ったものが無い状態に移行するわけではない、というのが、ナーガールジュナ
の解脱・涅槃の解釈である。

心の作用領域(対象)が死滅するときには、言語の作用領域(対象)は、死滅する。まさに、法性は、不生不滅であり、涅槃
のようなものである。

*心の作用領域とは?

私が成り立たないことを悟った境地は、概念的思考(戯論)にもとづく実体視から解放された状態、言語機能が働かない状態
である。しかし、それは言い換えれば言葉であ表すことができない境地だということである。

*非想非非想を語っているように思えるが、受に対して、これは答えているのかという疑問?
即ち解脱・涅槃でありと書いてあるし。

252 :
>なにが循環してるの?

無明→行(志向作用)→識(識別作用)→名色(物質・精神)→六処(眼耳鼻舌身意)→触(外界との接触)
→受(感受作用)→愛(渇愛)→取(執着)→有(存在)→生(生まれる)→老死
→また次の無明から→行へ

たとえば
今この現代においても
チベットでは
(仮設としての)輪廻を前提として、そこから → 苦しみを離れた仏の境地に導いていく

(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界では
(仮設としての)輪廻を繰り返している

それゆえに
…愛(渇愛)→取(執着)→有(存在)→生(生まれる)→老死 → また次の無明から→行へ

 − これを対処するためには −

輪廻から解脱するときは
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
無明滅→行滅→識滅→…→愛(渇愛)滅して、そして→有余涅槃→無余涅槃

智慧をもって観察して
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して
『光り輝いている盧遮那仏(大日如来)である』と気づくこと

253 :
>心の作用領域とは?

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/03/082823
(仮設としての)
心と心所を合わせて名(nāma)といいます…受想行識

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%98%8A
(仮設としての)
受蘊 − 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
想蘊 − 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
行蘊 − 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと)
識蘊 − 認識作用(例:「桜」と認識すること)

>受(感受作用?)に対して、これは答えているのか?

質問の意味が、わからないので、後で、また ヨロ m(_ _)m

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
非想非非想
想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という

非想非非想も超えて、そして
滅尽定:滅受想
心と心所(心の働き)をすべて滅する

http://www.j-theravada.net/pali/key-cetasika.html
感じているのは心ではなく心所です
「私は悲しい」と言うときは、悲しませる心所が心にあるということです

254 :
ナーガールジュナは、ものがさまざまな原因や条件によって生起し消滅する縁起の現象は、
自性がないからこそ可能であることを主張し、ものが自性として生起も滅尽しないことを「不生不滅の縁起」と呼びます。
そして、そういう縁起を説いたブッダを「もろもろの説法者のうちで最もすぐれた人」と最大の敬意を表します(中論「礼拝の言葉」)。

*循環としてという言葉を使っているが、これはどういうことなのだろう?
おもしろいですね。自性がないから縁起する。

実体視を離れることが即ち解脱・涅槃であり、有ったものが無い状態に移行するわけではない、というのが、ナーガールジュナ
の解脱・涅槃の解釈である。

*実体視を離れることが即ち解脱・涅槃であり
この言葉が、受が入ってないのではと。

非想非非想は、目をぱっちりと開けて、主観にとらわれず、見る聞くことかな?

255 :
>自性がないから縁起する

仮設としての
無明している世界の中では
縁起しているので自性ではない
縁起しているので変化しないものではない

チベット ゲルク派 中観帰謬派
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 94ページ参照

それ自体の自性によって成立しているのではない
  _  _  _

無明している世界の中では
縁起に依存しているので
それゆえに
変化しないものではない
自性ではない

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
縁起したものがある
縁起したものを離れることがある

256 :
253.
実体視を離れる、か。
バカ言ってる場合ではない。
非想非非想は、目をぱっちりと開けて、か。
バカ言ってる場合ではないよ。

257 :
>「実体視を離れることが即ち解脱・涅槃であり」この言葉に、受が入ってない

https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E6%A9%9F%E8%AA%AC%E6%B3%95-90970
(経典の登場人物とかの)
相手の精神的能力(→機根)や性質などに応じて、それにふさわしい手段で説法する

という場合もあるので
「例:桜の木をみて「美しい」と感じる」という受の説明がない場合もある

たとえば↓これ
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
(非想非非想も超えて)
決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?と
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
(「すべて滅して、そして、現れてくることもなく滅していくこともない」に触れる)
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』

想いを手放して(滅して)、そして
無明滅して → 行滅して → 識滅して、そして
それこそが「苦しい!」という想いの終わりである
(とりあえずは(無明と)想いを手放し(滅)すれば良いのかも? m(_ _)m )

258 :
>目をぱっちりと開けて?

仮設としての
過去への妄想も手放して
未来への妄想も手放して
意識的に呼吸をして
意識的に呼吸を観察して

今この瞬間を切っ掛けにして
おじゃるも、そして
ID:0CXqtaNp殿も

智慧の世界から観察して
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して

そして↓
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
常にどこかへ飛んでいってしまう心の働きをいつも集中対象である呼吸に戻してくる
ヴィタッカ(尋)も手放して

http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
智慧の世界から観察して、そして

無の世界も超えて、童子は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
(平等性智の世界から観察して、そして)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
八正道の正見をもって(目をぱっちりと開けて?)ありのまま見つめている? m(_ _)m

259 :
ああ イイネェ。

260 :
>>252 真理だね。

261 :
256.
苦しいという想いの終わり、であるか。
無いものを、どうして終わりにできようか。
257.
無明している世界を手放して、か。
そんな世界は存在していないのに、どのように手放すのかや。

262 :
ID:j0mZeaJy殿は、チベット密教とかにも興味があるのかしらん?

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
チベット ニンマ派 トゥルシック・リンポチェ師の場合は?

これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

そのような自相を、世俗の次元でも否定する
中観帰謬派でもあり、そして
唯識もあるのかも?

仏の智慧は
法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智です

智慧の世界を知覚して?
智慧の世界に住んで?
智慧の世界から観察して?
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して、そして

平等性智に転換していく。菩提・涅槃へと転換していく

生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように  m(_ _)m

263 :
261.
智慧の世界から観察して、か。
無明している世界を手放す、か。
その二世界が存在しているのではない。
それでは子供の絵本となる。
地獄極楽の焼き直しであるよ。

264 :
 
地獄!という想いも手放して
極楽!という想いも手放して

想う!という想いも手放して
想わない!という想いも手放して

非想非非想も超えて

決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?と
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
(「すべて滅して、そして、現れてくることもなく滅していくこともない」に触れる)
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』

想いを手放して(滅して)、そして
無明滅して → 行滅して → 識滅して、そして
それこそが「苦しい!」という想いの終わりである

平等性智に転換していく。菩提・涅槃へと転換していく

生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように  m(_ _)m

265 :
263.
想いを手放して、か。
その結果はどうなるのか。
菩提、涅槃か。
それはバカの言うことである。
菩提、涅槃に行ったことのないバカの言うことである。
バカは死んでも、直らない。
その結果に不明でもってして、他人の説に溺れているバカである。

266 :
中論 第十八章 自己と実在物の考察
(仮設としての)
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ

ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
仮設としての
無明している世界の中で
自ら幻を作り出している
幻術師のようなものなので
諸法は夢(幻)のような 『 空性である 』 と観察せよ

道の本体は阿頼耶の自性に置くことです
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
体を包むようなかたちで光が現れてきて?そして
智慧の光の世界から観察して

だるま文庫 八宗綱要 法相宗
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放して、そして
識が転じて → 『 平等性智である 』 と気づいていく?  m(_ _)m

267 :
>>この言葉が、受が入ってないのではと。

受蘊(じゅうん、梵: vedanā) - 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
想蘊(そううん、梵: saṃjñā) - 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
行蘊(ぎょううん、梵: saṃskāra) - 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと)
識蘊(しきうん、梵: vijñāna) - 認識作用(例:「桜」と認識すること)

よくよく読むと、すべて、思考のような気がする。

基礎、知らなくてすみませんw

すぐ、意思、感情、感覚で考えてしまう。
もしも、これを当てはめると、どうなるのですか?

268 :
>すべて、思考のような気がする

桜の木をみて「美しい」と感受して   → 掴んで妄想している
眼をつむって「桜」という表象して    → 掴んで妄想している
桜の枝を瓶にさしてみようと意志して → 掴んで妄想している
「桜」と認識して              → 掴んで妄想している

↑すべて、掴もうとして妄想してる

↑これが一番の原因である。としている

それゆえに
妄想を手放していく
想いを手放していく
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
無明している世界の中で
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

↑これが一番の原因である。としている

269 :
>この言葉が、受が入ってないのでは?

受の説明ないと、なぜ良くないのか?
その理由が、わからないので
この質問の意味が、わからないでつ  m(_ _)m

受の説明が、あっても、なくても
たとえば最終的には
止観とかの実践をするのなら
すべての想いを手放していく為の
初心者向けの現代語訳の
分かりやすい説明の方が良いでつ

ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
…もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば
この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます
それが有部の『倶舎論』などでは無我とはいわず,破我といい,そして業感縁起を説きます
さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより
いまいうような霊魂についてばかりではなく
われわれ日常行為における因果関係についても
まったく詳細巧妙に説明する心理学を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
  _  _  _

(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界の中で

↑この世界の中で、すべてを掴もうとして妄想してる
↑これが一番の原因である。としている

270 :
どいつもこいつもキチガイだ

271 :
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
仮設としての
>どいつもこいつも
衆生は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して↓そして

ttp://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)
  _  _  _

仮設としての
無明に依存して、そして
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れているので
それゆえに

>どいつもこいつもキチガイなのか?  m(_ _)m

272 :
>真如に薫習し

浄法薫習
これに二つある。真如薫習と妄心薫習である。
真如薫習とは、衆生が真如の法を具備しているので、無明に冥熏することができる。
冥熏の因縁によって、妄心に、生死の苦を厭い涅槃を楽求させるのである。
これを真如薫習という。
妄心薫習とは、この厭求の妄心が還って真如に薫習することによりその勢力を増し、
種々の方便随順の行を起して無明を滅する。
無明が滅するから心相みなことごとく涅槃を得て自然の浄業を成就する。
この薫習によって浄法が不断となる。

*真如という言葉を使っているので、いい意味でつかわれていると思ったのですが。
>>衆生が真如の法を具備しているので、無明に冥熏することができる。
今一、わかりません。真如の法とは、生まれつきということでいいのでしょうか?

273 :
270.
無明、なんてものはない。
それは迷信である。
無明の商売で儲けているバカ集団がいる。

274 :
フォアグラを喰べたことのない者に
フォアグラの味はわからないのじゃ

275 :
境地に入らない者が、境地がわからないのと
同じか

276 :
273.
フォアグラを食べて、その味が理解できないバカがバカ鬼和尚である。
食べたと自慢しているバカである。
その内容がない。

277 :
>真如の法とは?

真如 → (とりあえず)自性清浄 → (とりあえず)光り輝いている

無明している世界の中に ← 真如が浸透して?そして
真如が勢力を増し、種々の導きをもって随順の行を起して無明を手放して(滅して)いく

おじゃるの場合は
初心者向けの、現代語訳じゃないと、わからないので
[冥熏する][厭求]の意味が、わからないので
それゆえに、間違ってたら スマソ  m(_ _)m

智慧をもって
(とりあえず)光り輝いている。をもって
  ↓
種々の
たとえば
>>257 のところに貼り憑けてある
悉檀とか
対機説法とかをもって
おじゃるとか
ID:ocI339mq殿とかの
心の働きに合わせて導く
随順の行を起して無明を手放して(滅して)いく

(渇愛が依存している)無明している世界を手放して(滅して)
渇愛滅 → 取滅 → 有滅 → 生滅 → 老滅 → 死滅

無明している世界を手放し(滅)することができたのなら  → 有余涅槃
そして、更に、この現世において肉体を手放して(滅して) → 無余涅槃

縁起したものを離れることがある
それこそが「苦しい!」と掴もうとしている想いの終わりである  間違ってたら スマソ  m(_ _)m

278 :
>>277 の続き

どうして?

仮設としての
無明している世界の中に ← 真如が浸透すると

おじゃるとか
ID:ocI339mq殿とかの

心の働きに ← 真如が浸透するのか?

その理由は↓これ

仮設としての
おじゃるとか
ID:ocI339mq殿とかの
第八識が
外界にあると認識されるものも生み出している↑それゆえに、心の働きに真如が浸透する

しかし、それでも
↓誰もが成仏するわけではない(五性各別)その

第七識(我癡・我見・我慢・我愛)が
想いの手放しをするときの、障害になる有覆無記(うぶくむき)なので、それゆえに

渇愛→…→生滅→死滅→(仮設としての)輪廻を繰り返して、そして→無明→行→識→…

 − これを対処するために −
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明している世界を手放していく  間違ってたら スマソ  m(_ _)m

279 :
>>278 を訂正して、お詫び申し上げます スマソ  m(_ _)m

× 渇愛→…→生滅→死滅→(仮設としての)輪廻を繰り返して、そして→無明→行→識→…

   病気しない人もいるかもしれないけど、とりあえず
   仮設としての
〇 渇愛→…→生老(病)死→(仮設としての)輪廻を繰り返して、そして→無明→行→識→…

↓[仮設としての]ってどういう意味なのか?

無明している世界の中で
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存している→(幻のような)仮の現れ←これが[仮設としての]という意味でつ

↑この場合の識は(光り輝いている智慧?)智である
(通常の「識」の場合は[無明に依存している]ので注意して下さい)
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
無明している世界の中で
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風(空識)に依存しているので

(単独で)それ自体の自性だけで成立しているのではない

縁起している
自性ではない
我所でもない
我でもない

『地水火風(空識)に依存している仮の現れである』と観察せよ
世界すべてを『(幻であるかのように)空性である』と観察せよ

280 :
意味はよくわからないが、無明熏習を真如薫習で染め直すということかな。

話題がそれるが、平等心と実相で、私の思考が混乱しているw

281 :
ウィキペディアを参照すると
(光り輝いている智慧の世界から観察して、そして)
実相とは
(たとえば八正道の正見をもって)
「無相である世界」に気づいて
「無相である世界」に住んで
「無相である世界」から観察して、そして

コトバンクを参照すると
平等心
(たとえば八正道の正見をもって)
「すべて平等である世界」に気づいて
「すべて平等である世界」に住んで
「すべて平等である世界」から観察していくこと

ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図


ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界。それゆえに
実相とは「無相である」と気づいて。そして↓


さらに無の世界も超えて、童子は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
(八正道の正見をもって)
すべて平等である世界から観察して、そして
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている  間違ってたら スマソ  m(_ _)m

282 :
280.
無相である世界、なんてないよ。
それは迷信である。

283 :
頭が少々混乱しているのは、山は山、一切法一心 一心一切法ですね。
この間、主観する心、また、客観する心。
主観即客観 客観即主観 
客観即客観 

どちらも一如なわけで、山は山 主観が入っている場合もあれば、客観だけのときもある。
客観だけの場合は、非想非非想であり、平等心かな。即今であるのは前提です。

おじゃるさん、いつもありがとうございます。
厳密に、言葉を選べます。

284 :
まちがっているかもですw

285 :
一心一切法から → 一切法一心へ
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12148488702
仮設としての

一心 → 心=精神作用で認識することのすべて
阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出している

一切法=すべてのコトガラは、ダルマ=縁起の法、により生滅し続けている

十牛図

(菩提分法をもって)
一心一切法
縁起したものがある世界から → 縁起したものを離れることがある世界へ。そして
ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界。そして↓

さらに無の世界も超えて、童子は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
(菩提分法をもって)
一切法一心
縁起したものを離れることがある世界から → 縁起したものがある世界を観察して、そして
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている

一切法一心
縁起したものを離れることがある世界から → 縁起したものがある世界を観察して、そして
慈悲の冥想
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように  m(_ _)m

286 :
284.
縁起したものを離れることがある世界、か。
そんな世界はない。
それは事実誤認である。

287 :
多くの善男子よ、わたしと阿難とは、ひとしく、空王仏のところにおいて、
同時に、最高の完全なさとりを得ようという心をおこした。

それから阿難はつねにつとめて精進努力した。

このゆえに、わたしはすでに最高の完全なさとりを成就することができた。

しかるに阿難は、わが法を護って受持し、またこれから先の多くの仏の法の蔵をも護って、
多くのボサツたちを教化し成就させるであろう。その本来もっている願いはこのようであった。
ゆえにこの予言を得たのであると。

阿難は、こうして、仏の眼前において、自分自身が未来に仏と成るという予言が授けられるということ、
およびその国土がおごそかにかざられるということを聞いて、自分の願っていたところをが充分にかない
満足させられたので、その心は大いに喜び、未だかつてないことを得た。

そのときすぐに阿難は、過去の無量の千万億の多くの仏の法の蔵のとを思い返してみると、
それらにすっかり通達しており、自由自在であることが、たったいまきくように容易であった。

また自分の本来もっている願いをも識ったのである。

*わたしたちは、釈尊の徒であると同時に、阿難の徒でもあるのだなぁと。
 法華経 授学無学人記品の一節から抜粋 現代語訳

 内山興正老師のいう8万4千の法は心の内ある。


そのとき、阿難は詩を説いていった。

世尊は、非常にめったに出現しない。それなのに、私に過去の、
無量の多くの仏の法をじっと心に思い出させることが、ちょうど今日聞いているごとくである。
わたしはいま疑いもなくなり、仏道を安住しているものの、

やはり教化の方法として、仏の侍者となって、多くの仏の法を護持しよう。

*やはり、わたしは、菩提心が足りないです!

288 :
つまらん!
おまえの話はつまらん!

289 :
それはどうもw
わたしは、勉強しているだけですので。
別に境地の話をしているわけではないので。

290 :
何を勉強というのじゃ

291 :
言葉

292 :
時節性の問題組織を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの要を示しているわ(☆∀☆)

293 :
>>291 もう少し、要領良く
勉強するのじゃ

294 :
おもむくままにw

295 :
理解するとはどういうことなのだろう。

296 :
菩提分法
つねによく気をつけ、自我に固執する想いを手放して(滅して)
地水火風空識に依存している
仮設としての
世界すべてを(夢・幻のような)空性であると観察して

自在力・神通力を具現化させて、そして導くための・四如意足
智慧をもって観察して

>過去の無量の千万億の多くの仏の法の蔵のとを思い返してみると
>それらにすっかり通達しており

https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E6%A9%9F%E8%AA%AC%E6%B3%95-90970
(経典の登場人物とかの)
相手の精神的能力(→機根)や性質などに応じて、それにふさわしい手段で説法することも

>自由自在であることが容易であった

しかし
誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので
『解脱すれば仏だ』ということに
気づくまでは、気づくことは難しい。それゆえに

>菩提心が足りない?と言うことなんでつか?  m(_ _)m

297 :
>>菩提心が足りない?と言うことなんでつか?
いえ、たんに、信仰心が足りないっていうだけで。しいていえば、慈悲が足りない。

>気づくまでは、気づくことは難しい。
言いて妙ですね。
理解するとはどういうことなのだろう。

298 :
>理解するとはどういうことなのだろう?

たとえば
仮設としての
(おじゃるも含めて)通常の世俗の人の場合は
無明している世界の中で

無明の暗闇に覆われて、人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った、身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)

(渇愛(タンハー)が依存している)無明に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執に依存して

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である・遍計所執性に依存して

(変化している)妄想が現れ滅している
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
(おじゃるも含めて)通常の世俗の
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
 − これを対処する為に −
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(であり、変化しないものではない)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

無明が頭であると知れ
明智が、信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである  m(_ _)m

299 :
>>295 理解するということじゃ

300 :
いい答えだ

301 :
お二方、わたしは、それどもいいよw

おじゃるさんも、いっているでしょ。
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)

まぁ、私は、人に説明できるようなものはないが。
疑問を投げかけているだけだから。

302 :
>>292
美魔女さんは、難しいですね。
>時節性の問題組織を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの要を示しているわ(☆∀☆)
どの部分でいっているのか?

303 :
>何を勉強というのじゃ
読み違いをしていました。
何を勉強しているのじゃってね。

言葉

304 :
みにつけるためだろうね。
この場合、主観とはどういものか?

305 :
>主観とは?

仮設としての
無明に依存している
渇愛(タンハー)
苦集滅道への導きに障害がある:我癡・我見・我慢・我愛

http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
たとえば
仮設としての
(おじゃるという主観が依存している)無明している世界の中で妄想を繰り返して繰り広げて
無明から渇愛(タンハー)が生まれるのです
無明と渇愛によって、(輪廻を繰り返して)無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
 − これを対処するために −
(光り輝いている智慧の世界から観察して → 想いを手放して)
客観的に自分を観ることによって
無明と渇愛を(手放して、そして)消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も超えて↓そして

https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅(涅槃)に触れて順々の正しい智慧による想滅定が生起する

306 :
>>305
非想も、主観だし、非非想も主観だし、その想いを手放した時、客観が現れ、自他の境がなくなる。
これでいかかですか。

307 :
>非想も、主観だし、非非想も主観だし

主観(我愛)で
非想をすることはできない
非非想をすることもできない

それゆえに
智慧の世界から客観的に → 主観(我愛)を手放して、そして
非想と
非非想で
想いを手放していく
ということであるらしい  m(_ _)m

主観で
止(シャマタ禅定)をすることはできない
観(ヴィパシヤナ智慧)をすることもできない

それゆえに
智慧の世界から客観的に → 主観(我愛)を手放して、そして
止(シャマタ禅定)と
観(ヴィパシヤナ智慧)で

無相であると気づくいて、実相の世界から客観的に観察して、そして

無の世界も超えて、IM05jmVT殿は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
IM05jmVT殿は
智慧の世界から客観的に → 主観(我愛)を手放して、そして
すべて平等である世界から観察して
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている  m(_ _)m

308 :
心理学をやっている場合ではないよ。

309 :
 
「主観(我愛)がある!」という想いを手放し(滅)するために↓

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
そのために
(すべての法を(主観も)地水火風空識の微粒子に分解して最終的には、滅していく。という観察法の)
四界分別観から修行を始めなければなりません

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分(主観)であると執着し続けている

だるま文庫  八宗綱要  法相宗
(独立している主観は)存在しないにも関わらず
(独立している主観が)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)(独立している主観が)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(主観ではない)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
主観(我愛)ではなくて
仏の智慧は、平等性智とかの世界から客観的に観察していく  m(_ _)m

310 :
せい‐あ【井×蛙】 の意味
出典:デジタル大辞泉
井戸の中にいるカエル。見識の狭いこと、また、その人のたとえ。
おじゃるさんと会話するのにコテハンがないとふべんなので。
seiaにします。

311 :
>「想う」という想いも手放して
>「想わない」という想いも手放して
この言い回しだと、主観に感じてしまう。
主観とは、末那識で言うところの意ですか?

312 :
わたしが、間違っているか。
意からはじまって、意を手放す。

313 :
仮設としての
過去への妄想も手放して
未来への妄想も手放して
意識的に呼吸をして
意識的に呼吸を観察して

今この瞬間を切っ掛けにして
おじゃるも、そして
ID:IM05jmVT殿も
生きとし生けるものにも悟りの光が現れて

仏の智慧の世界を知覚して
仏の智慧の世界に住んで
仏の智慧の世界から観察して
(「主観がある!」という想いが依存している)無明している世界を手放して

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
(「それ自体の自性によって成立している!」という)
概念があるときに「独立している主観がある!」という想いが現れる

 − これを対処するために −
「独立している主観がある!」という想いを、看破するためには
(すべての法を(「主観がある!」という想いも)
  地水火風空識の微粒子に分解して最終的には、滅していく
  という四界分別の観察をして)
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

(すべての法を(「主観がある!」という想いも)
  地水火風空識の微粒子に分解して最終的には、滅して)
密集を看破したときに
(主観ではないという)無我への領悟、了解が生まれる

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
主観ではなくて → 仏の智慧は法界体性智  m(_ _)m

314 :
今読んでいますが、禅相の色というのがありますが、
昔、音を感じる神経と色を感じる神経が近くにある場合
音が色になって見えることがあると聞きます。

315 :
seia殿 了解おじゃる  m(_ _)m

>主観とは、末那識
>意からはじまって、意を手放す

実践したことないので↓たぶん間違ってるかも

仮設としての
第六意識から → 妙観察智から → 平等性智へ

平等性智の世界から観察して
末那識を手放していく
(このときに「主観がある!」という想いも一緒に手放される)

第六意識から → 妙観察智から → 平等性智へ
このときに
止(シャマタ禅定)と
観(ヴィパシヤナ智慧)が必要である。ということであるらしい  m(_ _)m

中論  第十八章  自己と実在物の考察
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)(主観)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩(主観)は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたもの(主観)は空性によって消滅する

中論  第二十六章  十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は
止(シャマタ禅定)と観(ヴィパシヤナ智慧)を通して生じるのである

316 :
>音が色になって見える

これかしらん?↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
共感覚
文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする

ちなみに
おじゃるの場合は
メジャー音階(明るい曲)は、うるさい曲だ
マイナー音階(悲しげな曲)は、良い曲だ。と感じまつ  m(_ _)m

https://www.youtube.com/watch?v=AXKu1NWwQvk
ありがとう ToHeart2 EDx (←悲しげな曲でつ)
↑この恋愛シミュレーションゲームは、やったことないけど良い曲でつ

https://www.youtube.com/watch?v=2fs9fGsTjco
Lance N Masques OP (←悲しげな曲でつ)

https://www.youtube.com/watch?v=Fxff_OqRPM8
そらおと fallen down (←悲しげな曲でつ)

317 :
意識(いしき、サンスクリット語: मनोविज्ञान、mano-vijJaana)
六識の一つ。意根によって起こり、法境を了別する心王(しんのう、心の主たるもの)をいう。これに4種ある。

独頭意識 他の五識とともに起こることなく、独り生起して広く十八界を縁じる。

五同縁意識 他の五識と同時に起こって、ともにその境を縁じ、明了依となる。心の現量。

五倶意識 五識と同時に起こって五境を縁じ、傍らに十八界を縁じる。

五後意識 五倶意識の後念に生じて、前念の五境の境を縁じて、他一切法を縁じる。

前五識が現在の事象のみを対象とするのに対し、意識は過去・未来・現在の三世を対象とする。


前五識はいわば無分別のあり方で対象を認識するのに対し、意識には、過去を再構成したり推理したりする働きがあり、
分別のあり方が顕著である。

*これは、わかりやすい。

言語活動なども意識に固有の機能である。

よく執着ということがいわれるが、仏教ではそれは悪見(誤った見解を固執する働き)の一つであり、
それも主に意識と相応する。

>>316
そうです、おもいだしました。共感覚です。

318 :
>>316
奇遇ですね、とある科学の超電磁砲をみていましたw
ありがとうという歌があったんですか。わたしはでだしがすきです。
とある魔術の禁書目録を昔に、漫画の代わりにライトノベルを読んでいてはまりました。
でも、音は
https://www.youtube.com/watch?v=YoMRp3P8d_g
新日本紀行  富田勲 / Isao Tomita こういうのが好きです。

歴史がすきなので、youtubeで見ています。

319 :
>前五識はいわば無分別のあり方で対象を認識する

実を言うと、意識が介在しなければ、これが客観かって。

>非想非非想は、目をぱっちりと開けて、主観にとらわれず、見る聞くことかな?

4種類の意識の説明は、おじゃるさんに任せます。
あと、心王の解釈が、違うかな。私の持っている本と。確認しようと思ったら、車の中だ。
心王が意識とは書いてなかったような?

自分のコテハン、なんだっけなぁって、すぐわすれるw

320 :
318.316.
意識とかの心理学の問題ではないよ。

321 :
少々まずいですね。仏教の基礎を勉強しないと。今、識の勉強中。
正法眼蔵を読む前にw

人間の構成要素を五蘊(ごうん)と分析する際には、識蘊(しきうん)としてその一つに数えられる。
この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいい、
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって、六境(色・声・香・味・触・法)を認識する働きを総称する。
事物を了知・識別する人間の意識に属する。
例えば、桜を見てそれが「桜」だと認識すること。

ところで、六根では意なのに、六境では法になっているの?

322 :
320.
仏教とか宗教の問題が、そこにあるのか。
宗教の問題とは何か、の把握がない。

323 :
>意識には、過去を再構成したり推理したりする働きがあり、分別のあり方が顕著である

仮設としての
第七識が
苦集滅道に導くことに障害がある。無明に依存して妄想分別している
(第七識が依存している)無明している想いを手放していくことが難しい

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

中観自立派
仮設としての
(第七識が依存している)無明している想いを手放していくことが難しいので、それゆえに
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、(「我がある!」という想いを前提としている)私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

 − これを対処するために −
中観帰謬派
「我所である!」という(外界のものに対する執着)想いも手放して
「我である!」という(自己に対する執着)想いも手放して
(今この瞬間を切っ掛けにして、そして)

平等性智の世界から観察して
世俗の次元でも(「我がある!」という想いを前提としている)自相を否定します
(第七識が依存している)無明している想いを手放していく

324 :
322.
想いを手放して、も何の効果も発生しない。
それは単なる心理学である。
そこに涅槃が発生することは、ない。

325 :
時間性はそもそも存在者ではなくて時間性は存在するのではなくて時熟するということですよね✨👰

326 :
>意識が介在しなければ、これが客観かって

とりあえずは
第六意識が
意識的に呼吸を観察して
今この瞬間を切っ掛けにして

菩提分法をもって
平等性智の世界から客観的に観察して
仮設としての
(「自我」という想いが依存している)無明している世界を手放して
分別のない 『 仏の智慧をもって 』 移り行く世界の様をありのまま観察していく
  _  _  _

>六根では意なのに、六境では法になっている?

とりあえず
『仮設としての』という意味で
↓主観・客観ありとして話を進めていく

六境 − 客観の側
外界にあると認識されている、すべて一切の法(無明している、すべて一切の世界)

六根 − 主観の側
(無明している)自分の意識
第六意識(←表面的に表れ(滅し)ている意識。寝てるときは、お休みしてることもある)
第七識(←無明に依存して妄想分別して、そして苦集滅道に導くことに障害がある)
第八識(←苦集滅道に導くことに障害がない)

327 :
325.
主観、客観は心理学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
宗教の問題とは何か。
そこを理解していない。
単なる、物知り、だよな。

328 :
>涅槃が発生することはない

心は光り輝いている。これに付着して
仮設としての
外来のもろもろの煩悩によって汚れている

無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習

第七識が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である第八識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

(独立している自性としての「我」は)存在しないにも関わらず
(独立している自性としての「我」が)有ると思う虚妄の執著をしている。遍計所執性

 − これを対処するために −
菩提分法をもって
(想いを手放してから)
滅に触れて順々の正知による想滅定が生起して、そして
有余涅槃から → 無余涅槃へ
  _  _  _

>時熟する
「その人、個人々の世界観としての相対的な、あいまいな時間の観念」みたいな意味でつか?
難しくて意味が、わからないので、初心者向に、お願い致しまつ m(_ _)m

329 :
327.
虚妄の執着、か。
それは事実の問題である。
その事実があると仮定して、それを否定したものが宗教となる、ことはない。
だからして、想滅定から、涅槃へ、となることは、ない。
想いを手放せば、バカ、痴呆症になるだけのことである。

330 :
>存在論を解体することの要を示している

おじゃるが、たぶん勘違いしてると思うけど、とりあえず

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
(無明している、すべて一切を → 地水火風に分解していく)
四界分別の観察から始めて、そして

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
たとえば
「独立している自性としての我がある!」という想いを、看破するためには
(無明している、すべて一切を分解して)微細な粒子を識別しなければなりません

(無明している、すべて一切を分解して)密集を看破したときに
(『自性ではない』という)無我への領悟、了解が生まれる

仏の智慧の世界から → 空即是色の世界を観察して、そして
慈悲の冥想
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように  m(_ _)m

(ちなみに空即是色の色は肉体も物質もでつ m(_ _)m )

331 :
>時節性の問題組織を手引きとして存在論の歴史を現象学的に解体することの要を示しているわ(☆∀☆)
わたしだったら、こうかな。
縁起の考察において、存在論の歴史的考察を現象学的に解体してしまっている。

332 :
>>六根では意なのに、六境では法になっている?
おじゃるさん、ありがとう。
六根と六境に客観と主観をあてはめるとは。
考えもしなかった。わかりやすい。

すると、意をどのように当てはめるか。
わたしは、雑念そのものは、頭が勝手にまわっているとおもっているが。

>六境 − 客観の側
>外界にあると認識されている、すべて一切の法(無明している、すべて一切の世界)

>六根 − 主観の側
>(無明している)自分の意識
>第六意識(←表面的に表れ(滅し)ている意識。寝てるときは、お休みしてることもある)
>第七識(←無明に依存して妄想分別して、そして苦集滅道に導くことに障害がある)
>第八識(←苦集滅道に導くことに障害がない)

あれ、これ逆じゃないですか。

333 :
>>六根と六境に客観と主観をあてはめるとは。
すいません。自分で言っていました。
忘れていましたw

すると、六根の意だけが、問題になってくるわけで。

334 :
>六根の意だけが、問題になってくる

第七識が(問題になってくる)
仏の智慧に気づくことに障害がある

第八識は
仏の智慧に気づくことに障害がない
それでも
第八識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出している

 − これを対処するために −
たとえば、おじゃるも、seia殿も
無明している世界すべて一切を
地水火風に分解して
微粒子も更に分解して
最終的には
(手放してから)滅して
涅槃に触れて、そして
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図

ついに、おじゃるも、seia殿も(色即是空から→)頂点に達して
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界、そして

さらに無の世界も超えて、おじゃるも、seia殿も
菩提心を起こして(→空即是色で)以前の世界に戻ってきて
妄想もなく分別もなく、移り行く世界の様をありのまま観察している  m(_ _)m

335 :
329.
想いを手放して、バカ、痴呆症になった、おじゃる、は何を想うのかや。
そこから慈悲が出て来るのかや。
そこから来た慈悲では誰も信用しないよ。
根拠がないからである。
もっと、ましな理由を考えよ。

336 :
>>存在論を解体することの要を示している
>縁起の考察において、存在論を解体してる
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(光り輝いている智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけて(今この瞬間を切っ掛けにして)自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を『(地水火風に依存している幻のような)空性である』と観察せよ
21
ブッダの(『仏の智慧に気づくための』菩提分法)筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(仏の智慧の世界から観察して)
激流を離脱して、すでに渡りきって彼岸に到着している
もはや激流を渡るための筏は必要ない

道元は ← 仏の智慧の世界から観察している
妄想を手放して、ただひたすら坐禅にうちこむ只管打坐
人々皆仏法の器なり
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou60/
『今、草履をはいて歩いている』ということに気づいて
今この瞬間を切っ掛けにして → 妄想を手放していく
世界の成立期に当たるのが「空劫」であり、それにすらまだ到らない
仏の智慧に触れて
(想いを手放して)巡らさずして到る

337 :
六識の一つ。意根によって起こり、法境を了別する心王(しんのう、心の主たるもの)をいう。これに4種ある。

独頭意識 他の五識とともに起こることなく、独り生起して広く十八界を縁じる。

書いてありましたね。まだ、私も理解できていないです。

意根もまた、機能でしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
意識 (仏教)

>第八識は
>仏の智慧に気づくことに障害がない
>それでも
>第八識が
>自分の意識も
>外界にあると認識されるものも生み出している

この辺は難しいですね。

意が意で空回りする。と妄想か?
意根と見れば機能だけですから、客観を認知できるのかも。

338 :
私も間違っているかも。
意はあくまでも機能、識とくっついてということか。

339 :
>意根と見れば機能だけですから、客観を認知できるのかも

たとえば
仮設としての
おじゃるは
(第七識が依存している)無明している世界の中で客観することはできない

 − これに対して −
たとえば
seia殿は
仏の智慧の世界から客観的に
(第七識が依存している)無明している世界を観察している

仏の智慧の世界から客観的に観察するための
自在力・神通力を具現化させるための → 四如意足
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou60/
↓道元の四如意足の解釈?
草鞋
『今、草履をはいて歩いている』ということに気づいて
今この瞬間を切っ掛けにして → 想いを手放していく

空劫已前
世界の成立期に当たるのが「空劫」であり、それにすらまだ到らない
仏の智慧に触れて

運らさずして到る
(想いを手放して)巡らさずして到る  間違ってたら スマソ m(_ _)m

340 :
338.
仏の智慧の世界から客観的に無明している世界を観察している、か。
仏の智慧があれば、観察する必要がない。
観察せよ、と命令している仏は、存在しない。

341 :
未だ、運らさずして到るを如意足となづく
巡らさずして到る。

音でも、音がしているところまで、思いを馳せなくて、いきなり聞こえる。そういうのを如意足という。

六根でそのものみたいですね。
思いを手放す。識をてばなす。または、境をてばなす。

意根を意根だけにするかな。私流解釈。違うかもしれない。

客観側にいた場合、夢の中にいるようなとも思う。さめるには、主観にもどらなければ、あれw

342 :
340.
思いを手放して、バカ、痴呆症になりたいバカがいる。
迷信がはやることである。

343 :

>客観側にいた場合、夢の中にいるようなとも思う。さめるには、主観にもどらなければ

実相の世界から
空即是色で
夢・幻のような
無明している世界を ← 客観的に観察する

仏の智慧の世界から
実相
諸法実相
無相である
(たとえば八正道の正見をもって)
すべて一切諸法のありのままのすがたを ← 客観的に観察する

十牛図
…さらに無の世界も超えて、童子は菩提心を起こし以前の世界に戻ってきた
童子は
(無明している世界を手放して、そして)
妄想もなく分別もなく、移り行く世界の様を
実相の世界から客観的に
ありのまま見つめている

間違ってたら スマソ m(_ _)m

344 :
342.
十牛図は宗教の問題ではないよ。
それは牛使い、の話でしかない。

345 :
いえいえ、おじゃるさん、わたしもわからないですから。
基礎を勉強しようとしているのに、疑問をなげかけると仏教はすぐ深淵にいっていしまいます。
そこが楽しいのですが。俱舎8年唯識3年。

坐禅、作務(仕事もふくめて)等で非想非非想を実践しながら、ゆっくり前を進んでいきます。
仏だ、衆生だ、本当はないのだと思いますが。まぁ、夢の如し夢の如し。
衆生が修行しているのか、仏が修行しているのか。

346 :
ひとは、プラスマイナスいろんなことを考えるからね。
苦悩もつきないわけで。
即今ならば考える暇すらないのだろう。

阿頼耶識とはなんぞや、
唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。
それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、
後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

真如薫習とは、衆生が真如の法を具備しているので、無明に冥熏することができる。
冥熏の因縁によって、妄心に、生死の苦を厭い涅槃を楽求させるのである。
これを真如薫習という。

良き癖をなせってことか?

347 :
菩提心とは、基準のように感じる。
菩提心がなくとも、悟れるだろう。
しかし、仏道ではないと思う。

348 :
>非想非非想を実践しながら

たとえば禅定には段階があって

第一禅定を支える五つの要素の
一番目から → 五番目まで

第一禅定から → 第四禅定まで
空無辺処から → 非想非非想まで

非想非非想も超えて → (滅に触れて、そして)想滅定
(滅に触れて、そして)想滅定で、有余涅槃から → 無余涅槃

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定を支える五つの要素
一番目から → 五番目まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A6%85
第一禅定から → 第四禅定まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A
空無辺処から → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想まで
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
非想非非想も超えて → (滅に触れて、そして)想滅定

いきなり非想非非想でも良いかもしれないけど…(説明不足だったんでつね スマソ m(_ _)m )

349 :
347.
それは単なる心理学である。
それは単なる催眠療法である。

350 :

>仏だ、衆生だ、本当はないのだと思いますが。まぁ、夢の如し夢の如し

青目(ピンガラ)
中論 観如來品 第二十二

仮設としての
無明している世界の中で
空性の中で
妄想して
滅度の後の如来の有無を分別してはならない

(無明している世界の中の)諸の法の実相は空性である
如来の滅後も
有るのか?無いのか?と妄想してはならない

如来は、無明している世界を手放して、そして超えている

しかし
(無明している世界の中の)
おじゃるは
妄想して戯論を生じている
戯論して智慧を破れば
仏を見ることができない

間違ってたら スマソ m(_ _)m

351 :
>後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた

今のところの現状では
第七識 − 苦集滅道への障害がある(それゆえに有覆無記)
第八識 − 苦集滅道への障害がない(それゆえに無覆無記)

それゆえに
仏の智慧をもって
仏の智慧の世界から観察して
(第七識が依存している)無明している世界を手放していくことが重要である
ということであるらしい

http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
仮設としての
無明している世界の中で
自らが幻を作りだしている幻術師のようなものなので
それゆえに
『無明している、すべて一切の諸法は夢・幻のような空性である』と観察する

道の本体は阿頼耶の自性に置くことです

『阿頼耶の自性』というのは『大円鏡智』のことかもしれない
それでも(苦集滅道への障害がある)第七識を手放しするのなら
平等性智に気づいて
平等性智の世界から → 第七識を手放していく
という説明の方が唯識的には、わかりやすいかもしれない  間違ってたら スマソ m(_ _)m

352 :
 
>>351 を訂正して、お詫び申し上げます

ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf

道の本体は阿頼耶の自性に置くことです

『阿頼耶の自性』というのは『大円鏡智』のことかもしれない
それでも第七識が苦集滅道への障害がある有覆無記であるのなら

平等性智に気づいて
平等性智の世界から
(第七識が依存している)無明している世界を手放していく

という説明の方が唯識的には、わかりやすいかもしれない  間違ってたので スマソ m(_ _)m

『縁起したものを離れることがある』という
無為法の世界から観察する
という感じなのかもしれない

>良きことをなせってことか?
ttp://☆yu☆san.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
功徳を植えるべきだが、(功徳のことだけに)囚われてはならない
(功徳のことだけに)囚われないもの、それこそが(本当の)功徳である

353 :
351.
無明している世界を手放していく、か。
その世界を所有しているから、手放していくのかや。

354 :
おまえも、儂のように、早く、悟るのじゃ

355 :
主観客観で、話を進めているので。
どれだけ、主観にとらわれているかということだと思います。
自分の志向性というのがありますので、その環境にいれば、そのようにもなるし。
志向性を、もっぱらに考えれば、その環境から、出ていくでしょう。それらを決めるのも主観でしょうね。

主観のときは、客観はわからず、客観のときは主観はわからず。双方とも夢の如し。
双方とも心であることには違いないと思いますが。
目安は、即今でしょうね。山は山ですので。

諸法と実相を見る若し(ごとし)は、即して如来を見る。

あっているかというと?

356 :
353.
バカ鬼和尚の登場である。

357 :
354.
主観とか客観とかは心理学の問題である。
如来を見る、か。
その内容がない。
諸法と実相を見る、か。
それは対象の問題である。

358 :
法相宗では、心は阿頼耶識までの八識とする。
天台宗では阿摩羅識を加えて九識、
真言宗ではさらに乾栗陀耶識を加えて十識とする。

阿摩羅識(あまらしき)
天台宗では、阿摩羅識をけがれが無い無垢識・清浄識、また真如である真我、如来蔵、心王であるとし、
すべての現象はこの阿摩羅識から生れると位置づけた。
したがってこれを「真如縁起」などともいう。

乾栗陀耶識(けんりつだやしき)
この(一者・ブラフマン・乾栗陀耶識)が対象に向かうと
分離していない分離が起こり(真我・仏性・阿摩羅識)となる。
初めの一者(存在・乾栗陀耶識・ブラフマン)と(真我・仏性・阿摩羅識)の
異なりは(一者・ブラフマン・乾栗陀耶識)は完全な円であり
全てが含まれており、分離せず分離している故に(真我・仏性・阿摩羅識)は
個人性(個性)を備えているがまた同じ性質なのである。

ヨーガで体得したのか?
一つの宇宙が消滅して、また、誕生する前の一瞬。物理学みたいですね。よく知らないけど。

359 :
 
>世界を所有している
((それ自体の自性として)所有することは)存在しないにも関わらず
((それ自体の自性として)所有することが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性

>手放していく
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
…今,その何かをつかもうとする
「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

>それは対象の問題である
世俗諦:勝義諦
現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない

>ヨーガ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめた…

360 :
アニメを仏教的に解釈してみる
(歴史上に実在する人物ではなくて)
↓アニメの登場人物の

ジャンヌ・ダルクは
ニーナ・ドランゴの父親を(間接的に?)殺してしまった
それでも
ニーナ・ドランゴの母親は
(夫を殺してしまった)ジャンヌ・ダルクを
(慈悲の心をもって)抱きしめた
ttp://pbs.twimg.com/media/DEJgyW0VwAAna4t.jpg

ニーナ・ドランゴの母親
ttp://pbs.twimg.com/media/DEJgOBhUMAAfJse.jpg
ジャンヌ・ダルク
ttp://pbs.twimg.com/media/DEJhSSUVYAA-UPk.jpg
ニーナ・ドランゴ
ttp://pbs.twimg.com/media/DEJdVeyUAAACGEr.jpg

ttp://anime-twitter.blog.jp/archives/23511079.html

というわけで今回も
生きとし生けるものにも悟りの光が(慈悲の心も)現れますように m(_ _)m

361 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
現象学なる学問があるんですね。今は、首を突っ込まない。面白うそうだけど。
説明してくれる方がいらっしゃるなら、話はきいてみたいです。
>アニメを仏教的に解釈してみる
なんでもしたくなるんですねw
ここの文句がなぁ、なんて。
今朝、法華経を読んでいた。
正しい法と、正しいのに似た法は、みなことごとく同等だろう。という文章に出くわした。
興味深い。授学無学人記品の一節。これは、阿難さんのことをいっているのだろうか。
でも、やはり、諸法実相ではないかとおもいます。
諸相と実相を見る。
客観をみる。非想非非想なのだろうね。たぶん、自他がなくなる?
主観と客観は便利だなぁと、理解するには。
ちょっと、ネタがなくなってきたw

362 :
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=ポール・サルトル
これ読んでいると、意識というものを、どう理解していたかわかるね。
これを唯識または、俱舎で解釈するとw
サルトルは即自と対自という対概念を導入する。
これは物事のあり方と人間のあり方に分けて対比させたもので、即自である物事とは、
「それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの
<l'être est ce qu'il est et n'est pas ce qu'il n'est pas>」であるとした。
これは物事が、常にそれ自身に対して自己同一的なあり方をしていることを意味し、
このようなあり方を即自存在<être-en-soi>という。
それに対して、対自<pour-soi>である人間とは、
「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」とした。
人間は、何をやっているときでも常に自分を意識することができるので、物事のように自己同一的なあり方をしていない。
AはAであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはAはAであったとしか言われえない。
対自は仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無<néant>である。
これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。
このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、
人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。
*自ら創りあげる?なんかネタがでてきたぞ。

363 :
即時(即自存在)
それがあるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの
対自(対自存在)
それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの

即時
有るということでもあり、無いということでもない。
対自
有るということも無い、無いということでもある。

364 :
このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、
人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。

この辺は古鏡のかわらをかわらとするという意味合いに近いような。

365 :
古鏡と主観と客観は使えますね。

366 :
即時
有るということでもあり、無いということでもない。

対自
有るということも無い、無いということでもある。

禅僧なら、このように言うでしょう。
これを、一緒くたにして、
あるということもない、ないこともない。と。

367 :

>人は自分を意識することができるので…
これを仏教的に解釈してみると
たとえば、おじゃるの場合は
『仮設としての』という意味で、輪廻肯定派なので
渇愛(タンハー)が依存している
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている:無明薫習
無明の暗闇に覆われて、人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執によって
(「意識している」ではなくて)いつでも妄想している
 − これを対処するために −
身体の動きを観察して
呼吸を(意図的に)観察して
今この瞬間を切っ掛けにして
(光り輝いている智慧の世界から観察して)
色即是空から → 無明滅して(涅槃) → 空即是色まで スマソ m(_ _)m

368 :
歩いているとき、運転しているときは、妄想はやめましょうw
あぶないです。妄想にとらわれていると事故ります。
たしかに、意識しているといえば聞こえがいいが、実のところ妄想だろうね。
対象と焦点合っていれば、意識しているともいえるが?
自分を意識しているなんてのは、対人がある場合のときぐらいかなぁ。
常には、妄想のほうが多そう。あとは、思わない。まぁ、これは意識的に。

369 :
当初、クソジジイも、それくらいの
計算があるように見えた

370 :

>自分を意識しているなんてのは、対人がある場合のときぐらいかなぁ
おじゃるの場合は
たとえば
seia殿と 2chで対話してるときでも
(無明に依存して)妄想して
「あれは善である!」「これは悪である!」と善悪とかの分別をしちょります
それゆえに
おじゃるの場合は
仏の智慧を知覚して
仏の智慧に住んで
仏の智慧から観察して
(渇愛が依存している)無明している世界を手放していく
仏の智慧が人々を導く
世界悉檀(人々の心の働きに合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的な心の働きを考慮しながら説く)
というような導きが必要である。という感じになるのでつ
それゆえに今回も
生きとし生けるものにも仏の智慧の光が現れますように m(_ _)m

371 :
セミを見て、人はセミと思う。しかし、そのセミはその人だけのセミである。

ちょっと、早く寝すぎた。目が覚めてしまった。

372 :
269.
仏の智慧だよ、人生は。

373 :
一つ面白いのをあげましょう。
井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますが
ーーを取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ。
 しかし、それよりもっと大事なことは、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、
そのままそこに坐りこんでしまわずに、またもとの差別の世界に戻ってくるということであります。
つまり、一度はずした枠をまたはめ直して見る、ということです。
そうすると、当然、千差万別の事物が再び現われてくる。
外的には以前とまったく同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として。
はずして見る、はめて見る。この二重の「見」を通じて、実在の真相が始めて顕になる、と考えるのでありまして、
この二重操作的「見」の存在論的「自由」こそ、東洋の哲人たちをして、真に東洋的たらしめるもの(少なくともその一つ)であります。
「畛」すなわち事物相互を存在論的に分別している境界枠を、はずすとかはめるとか、口で言えば、すこぶる簡単なことのようですけれど、実際には非常にむつかしい。
特に、はずすことがむつかしい。
とても普通の人に出来るようなことではありません。ましてや、はずしてはめる、しかも両方を同時に行うことなど、問題外です。
*まず、畔(あぜ)という解釈。
*はずして見る、はめて見る。これ、自由自在ならすごいですね。
見るとは、人の脳で、何工程もあれまして、まず最初に、輪郭にあてはめる。その型は確か100種類ほどあり、
その型を外し自由自在というのも・・

374 :
>事物間の存在論的無差別性を覚知しても
>そのままそこに坐りこんでしまわずに、またもとの差別の世界に戻ってくる

身体の動きを観察して
呼吸を観察して
今この瞬間を切っ掛けにして

仏の智慧から観察して
地水火風の微粒子に分解して→滅して→手放して、そして
色即是空から→無明滅して、手放して、無差別の世界から観察して→空即是色まで

ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

色即是空から→無明滅して、手放して、無差別の世界に住んで、そして
ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界

無明滅して、無差別の世界から→空即是色を観察して、そして
さらに無の世界を超えると、童子は菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は
無明滅して、無差別を覚知して、そして
分別のない心で、移り行く世界の様を(菩提分法をもって)ありのまま見つめている

ということで、これからも
生きとし生けるものにも仏の智慧の光が現れますように スマソ m(_ _)m

「チュッ!どーんっ!」と爆発するのでつ↓
ttp://pbs.twimg.com/media/DDp1VtsVYAAKIpP.jpg
ttp://pbs.twimg.com/media/DDp1WUUUMAA2wyn.jpg
ttp://pbs.twimg.com/media/DDp1Rx_V0AEBc6S.jpg

375 :
仮設としての
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習
無明に依存して
渇愛(タンハー)が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
((単独で自性だけの)我は)存在しないにも関わらず
(自我を成立させている魂のようなものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び
『無明している、すべて一切を空性である!』
と観察して → 滅して → 手放していく、この空性の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誰もが成仏するわけではない。五性各別なので
『解脱すれば仏だ』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい

>(無明して妄想して、そして)分別している境界枠を、はずすことがむつかしい
>とても普通の人に出来るようなことではありません
それゆえに、余念を交えず、ただひたすら只管打坐は難しい スマソ m(_ _)m

376 :
>>(無明して妄想して、そして)分別している境界枠を、はずすことがむつかしい
見る機能とかんがえると、輪郭なのだが、意識という分別で考えると、見られるものと、見る働きと、見る者にわかれるわけで、
縮めるれば、見るもの、見られるもの、この場合、主観と客観とういうことになるのだが、感覚と点でいえば、見るもの見られものは、全一で、境がない。
ただ、ここで疑問に思うのは、主客の定義で、わたしは、以前、仮に全一なるものが、客観で、分別なるものが主観と言ったのだが、
もう少し、調べる。
>それゆえに、余念を交えず、ただひたすら只管打坐は難しい
笑う。知ってます。
まぁ、でも、余念を交えず、別に坐禅だけじゃないですから、できることをやればよろしいかと。

377 :
>感覚と点でいえば
間違いました。
感覚という視点から見れば、見るもの見られものは、全一で、境がない。

378 :
写生。
わたくしが思うに、赤とんぼは、誰が、見ても、赤とんぼであるが、その赤とんぼは、その人だけの赤とんぼである。
例えば、不幸にも、左脳がない方がいる、でも、ものすごく温かみのある絵を描く。
わたしくしからみたら、抽象画にしか見えないのだが、でも、れっきとした写生画だと思う。
小さい子供たちが絵を描く、あれも、きっと写生画なのだろうと思う。
思う思うで失礼しました。

379 :
原始仏教の縁起を中論の縁起
 縁起は中論の論理の基礎をなす概念です。
中論での縁起は、物事の相対関係・依存関係を意味します。
これはいわゆる有名な「十二因縁」とは(全然)別のものとなります。
縁起は元来「これがあるから、あれがある。これが無くなると、 あれも無くなる」という関係を指しています。
原始仏教での縁起の一例は、「執着があるから苦しみが起こる、 執着を無くせば苦しみは消える」となります。
 これは「原因」と「結果」の関係です。
(これが発展して十二因縁となっていきます。)
この「これがあるから・・・あれも無くなる」の発想は踏まえているのですが、
中論での縁起は「原因」と「結果」を意味するのでは無く、 相互依存の関係(のみ)を意味しています。
具体的な例ですと「善と悪」や「長い棒と短い棒」が解りやすい 例となります。
「善」は原因でもなく、「悪」は結果ではありません。 「善と悪」は「原因と結果」の関係にはありませんが、 「これがあるから、あれがある」の関係(相互依存)はあります。
この発想(縁起)が、中論の論理の背景、基礎にあります。
*おじゃるさん、これはいかがかなぁ。
〇中論での縁起は「原因」と「結果」を意味するのでは無く、 相互依存の関係(のみ)を意味しています。

380 :
中論は難しくて意味が、わからないけど、とりあえず
中論 第十八章 自己と実在物の考察
仮設としての
無明している世界(が滅して)を手放して
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明智(光り輝いている仏の智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
無明している世界すべて一切を『(夢、幻のような)空性である』と観察せよ
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
無明滅 → 行滅 → 識滅
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
無明している世界(が滅して)を手放して
縁起したものを離れることがある
青目(ピンガラ) 中論 観法品 第十八
光り輝いている仏の智慧をもって
八正道をもって、我・我所の因縁を滅して → 無我・無我所を知覚する
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は、止(禅定)と観(智慧)を通して生じるのである

381 :

↓中観(中論)も瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)も受け継いでいる密教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
密教においては
仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し
縁と:因の、縁起をもって
(仏の智慧と:衆生の、縁起をもって)
死後の成仏をはじめとする、各種の効果を成就させる

だるま文庫 八宗綱要 法相宗
仏の智慧と:縁と:因の、縁起をもって、現れ滅しているけど、それでも
(単独で自性だけの成立は)存在しないにも関わらず
(単独で自性だけの成立が)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性
無明している世界の中で
諸々の縁によって生まれた諸法で
たとえば
地水火風空識をもって
色受想行識の仮和合
因縁仮和合している。依他起性
無明している世界(が滅して)を手放して
縁起したものを離れることがある
成就。光り輝いている仏の智慧。涅槃。円成実性
唯識の場合は↑こんな感じであるらしい(↑間違ってたら スマソ m(_ _)m )

382 :
自からも、他からも、
両方からも、無因からも、
どこにおいても、いつにあってもも、
もろもろは生じない。

中論 第一章 第一偈が論議の大前提みたいです。

分解すれば、
A もろもろのものは自ら生ずることはなく、かつ
B もろもろのものは他(非自)から生ずることはなく、かつ
C もろもろのものは自および両者からしょうずることもなく、かつ
D もろもろのものは自でもなく他でもない領域から生ずることはない。

どこにも生ずるものがなければ、AからDまでの四命題はすべて同時に真となります。
どこからであれ、物がともかく生ずるのであれば、この連言命題は偽となります。

ただ、インド、中国人、日本人では、とらえ方が違うみたいです。現代人はどうかは、わかりませんが。
どうもです。スッタニパータ中論中論解釈唯識密教まで、出していただきましてありがとうございます。
〇中論での縁起は「原因」と「結果」を意味するのでは無く、 相互依存の関係(のみ)を意味しています。
この方は、専門家さんじゃないんで、あっているのかどうかは、わかりませんが。
因と果だけだよとおっしゃる方もいますし。
たまたま、中論の時間の考察を読んでいたら、実際はどうなのだろうと、ちょっと触手を伸ばした次第です
また、中論での縁起は「原因」と「結果」を意味するのでは無くという文章に、
おじゃるさんであれば、どうこたえるかと思いまして。
おじゃるさんの文章を読めば、如来側から見たら、こうなりますよということでしょうか。
今日は、この辺で。 <(_ _)>

383 :
ものはすべて元素を因として成立しているが、そのことが縁起によって成立しているということであり、
もしものがこのように、あるものに依存して成立しているならば、それ自体(自性)としては空である。
したがって、ものはすべて空である。(空七十論 53自注)
眼[見る作用]は依存関係から生じたものであるから空である。
なぜなら、眼[見る作用]というものは[見られる対象との]依存関係によって成立しているからである。
依存関係によって成立しているならば自体[自性]として成立していないから、したがって眼[見る作用]は自体[自性]が空である。
(空七十論 同上)
およそ、ものが縁起しているということを、われわれは空であると説くのである。(中論 24:18)
およそ、どのようなものでも、縁起しないで生じたものはない。
したがって、いかなるものであろうと、空でないものは存在しない。(中論 24:19)
また、ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれは言うのである。
他による存在には本体[自性]はない。(廻諍論 22)
*こういうのもあるんですね。

384 :
二諦にもとづいて、もろもろの仏陀の法の説示がなされている。
すなわち世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。
…〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。
最高の意義に到達しなくては、涅槃は証得されない。
誤って見られた空であることは、智慧の鈍いものを破滅させる。
あたかも、誤って捕らえられた蛇、あるいはまた、誤ってなされる呪術のように。
それゆえ、鈍い者たちには、法が体得され難いことを慮って、法を説示しようとする、牟尼の
心は、押しとどめられた。
『中論』二四章八〜一二偈)

385 :
四諦といふは、苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。
これをききこれを修行するに、生老病死を度脱し、般涅槃を究竟す。
この四諦を修行するに、苦・集は俗なり、滅・道は第一義なりといふは、論師の見解なり。
もし仏法によりて修行するがごときは、四諦ともに唯仏与仏なり。
四諦ともに法住法位なり。
四諦ともに実相なり。四諦ともに仏性なり。
正法眼蔵『仏教』(二・三〇二)

七仏通誡偈の「諸悪莫作」についても、悪をなしてはならないとはとらない。
やめるべき悪がありそれをやめるという行為によって結果を得ると解釈しては。
修と証を分けることになる(正法眼蔵『諸悪莫作』二・二三二)。
『三十七品菩提分法』巻では同様の
56
姿勢で、三十七品菩提分法すべてを読み解いている。

*となると、因果はどうなるどだろう。
なんとか、もどってきたが、やはり龍樹の著作もよみたくなってきた。

386 :
おじゃるさん、でてこないなぁ・・
ゲーム三昧ですか?

387 :

仮設としての
無明してる世界の中で
たとえば
仮に
お腹が痛いときに
「(単独で自性としての)魂のようなものがあるから痛みが感じるのだ!」
と掴もうとしてる想いが現れる
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって
(単独で自立して自性として)存在していると信じ込んでいたからです

388 :
 
>おじゃるさん、でてこないなぁ・・ゲーム三昧ですか?
書き込み規制対象になっちょりました
またこれから規制対象になるかもしれないので
↓こちらに、よろしくお願い致します
ひだ =^・ ・^= まり©2ch.sc
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/siberia/1500265524

シベリア超速報は
IPアドレスが表示されます(xxx.yyy.zzz.xyz)
アクセス規制中でも書き込めます
生きとし生けるものにも仏の智慧の光が現れますように m(_ _)m

389 :
わかりました。レッツラゴー・・

390 :
何度か不思議なアクセス規制があるのう

391 :

鬼和尚?殿も
こちら >>388 にどうぞ

392 :
>>390
まことの仕業だよ
ハッキングバカだから(笑)

393 :
また、まことか

394 :
変なのにスレを乗っ取られてしまったが、
スレ主さん、元気にしてるだろうか

395 :
夏休みだなぁ

396 :
夏休みももう終わりだな

397 :
秋だな

398 :
中秋の名月

399 :
寒暖の差が激しい

400 :
明日は投票日だが
台風が来ている

401 :
すっかり秋が深まる今日この頃

402 :
冬はもう間近

403 :


404 :
本スレ(?)

http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1442811990/

はdat落ちしてしまって、このスレだけが残ってしまったのだが、

スレ主さんは元気にしてるだろうか?

405 :
明けましておめでとうございます

406 :
寒い・・・

407 :
おやおや

408 :
オイオイ言葉の遊び過ぎじゃよ
言葉は方便の道具じゃぞ意味を語れやアホ
子供にも解るように天皇陛下のように優しく語れないのか
どんなに理屈捏ねても心が穏やかな幸せの状態にならなければ何の価値も無い
その状態を大仏の心アヌクタラサンミャクサンボーダイ言うんじゃ

409 :
花粉が…

410 :
桜が開花

411 :
2018年 4 月 1 日 
平成30年度 始まる

412 :
GW真っ只中

413 :
新緑の季節ですね(^^)

414 :
  徳島県出身の「三木武夫・元総理の霊」を困らせた質問

ーー17行割愛ーー

 やはり、「四国の地は、弘法大師空海が八十八箇所の霊場を定めて以来、千年以上もの間、霊的な地として護られていた」ということが大きいのではないかと考えています。
 生まれ育った環境から、やはり、文化的なものの影響をそうとう受けるので、「そうした霊的な環境のなかに生まれた」ということが大きかったのではないかと考えているのです。
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https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1508977768/150

415 :
沖縄に台風が

416 :
暑い…

417 :
スレ立てたJKもおばさんか

418 :
猛暑

419 :
女を騙ったりして色々なステマ実験をする気持ち悪い釣り師
クリック乞食

420 :
【何故シヌの、JK″】 島津論文「安倍とオウムに接点」 露国防相「気づかれてないと思うな晋三」
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1532569537/l50



地震多すぎ! 日本は地震大国だから、は大ウソだった! ほら吹きの安倍が、地下核実験をやっている!

421 :
また台風来てるな

422 :
大雪山初雪

423 :
新学期始まる

424 :
豪雨に台風に地震

平成最後の夏は呪われている・・・

425 :
今日は涼しかった

426 :
「野良犬」って日本から消滅したけど、どうしていなくなったの? 猫はたくさんいるじゃないの。
http://leia.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1537539535/

427 :
レス 募集中

428 :
ようやく秋本番、という感じがする

429 :
涼しい

430 :
    __, -ー"´|
.    \フノリハリル
     イ从) ゚ヮ゚ノi、 全裸でコーヒー
.      ミ□. . r‐'
     ,:'゙ ( 、,.ノ
   ノ_,ノ し'ノ

431 :
秋らしい陽気だな

432 :
山は紅葉真っ盛り

433 :
北海道の平地でようやく初雪

434 :
犬ほど迷惑なペットはいない

435 :
なんだか南の海上に台風が発生しているなぁ

436 :
ようやく冬らしくなって来た

437 :
あと何日?

438 :
あと何日?

439 :
あと282日

440 :
あと281日

441 :
あと278日

442 :
あと276日

443 :
野菜が安い

444 :
あと273日

445 :
年末寒波が襲来

446 :
帰省ラッシュ

447 :
【憲法九条は対バカウヨ条項″だった!?】 死者600万人も、海軍と皇族は生き延び、権力も保持
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1545975199/l50

448 :
明日は部分日食

449 :
あと111日

450 :
東京で初雪

451 :
寒波が日本列島を襲う

452 :
明日は関東でも雪が降るだろうか

453 :
あと88日

454 :
CNN.co.jp : 公の場で犬の散歩禁止、車の同乗も イラン首都
https://web.archive.org/web/20190202161214/https://www.cnn.co.jp/world/35132084.html

455 :
立春
昨日は暖かかったのに今日は寒い

456 :
明日は関東でも雪が積もるのだろうか

457 :
あと77日

458 :
受験シーズン真っ只中

459 :
あと69日

460 :
花粉飛散開始

461 :
あと68日

462 :
あと66日

463 :
あと65日

464 :
梅や河津桜が見頃

465 :
【幸福の科学】千眼美子(清水富美加)、結婚拒否された醜聞の数々。困った「観世音菩薩」!
https://togetter.com/li/1322561

千眼美子(清水富美加)の父親は離婚、倒産。
借金5000万円!?肩代わりの出家なのか!?
いったい、何処が「幸福を科学」しているのか?


清水富美加を待ち受ける教団の“VIP待遇”、マネジャー呼び出しは「高級ホテルのスイートルーム」

清水富美加 債権者集会に現れた実父の姿、出席者からは怒号

清水富美加の父親が借金5000万!幸福の科学が借金を肩代わり?

https://togetter.com/li/1322561
http://o.8ch.net/1ebk8.png

466 :
【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】

オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。

創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。

創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。

創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。

池田大作を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです uj

その他の入ってはいけない宗教
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華

創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)

467 :
卒業シーズンになりましたね
別れの季節

468 :
梅が見頃
河津桜も見頃

469 :
2015年にJK

470 :
あと57日

471 :
あと56日

472 :
あと53日

473 :
花粉が飛散して悲惨

474 :
あと48日

475 :
平成最後の3月22日

476 :
東京で桜が満開

477 :
桜咲いたのに昨日くらいまで結構寒かった

478 :
この時期に雪とは
驚いた

479 :
豚コレラの移動制限、一部解消 愛知・田原の15農場:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM4C3578M4BOIPE00V.html

愛知県は10日、豚コレラ発生による移動制限がかかっている養豚場から、条件付きで豚の出荷を認める方針を明らかにした。多くの農場で出荷できない多数の豚を抱えている現状を解消する狙いがある。

対象は2月と3月に移動制限がかかった愛知県田原市内の15農場。県が遺伝子検査で異常がないと確認し、運搬車両が消毒されていることなどが条件で、愛知県豊橋市の東三河食肉流通センターに限って出荷できる。
まず11、12日に出荷を認め、その後も週に1、2回予定している。

 県によると、移動制限によって出荷に適した時期を超えた豚を抱える農場が多くあり、飼養密度が高くなって衛生状況が悪くなっているという。
田原市では2月13日からの出荷制限が3月25日でいったん解除された直後、新たな感染確認によって3月28日から再び出荷できなくなっていた。

 大村秀章知事は10日、記者団に「しっかりと検査するので、感染拡大のリスクはない」と説明した。

480 :
新緑の季節

481 :
あと5日

482 :
明日から10連休

483 :
結構寒い

484 :
平成も
あと1日

485 :
明日から令和

486 :
GW後半戦

487 :
GW も今日で終わり

488 :
一年で最も過ごしやすい季節になりましたね
新緑や花々がとても美しいです

489 :
本スレ(?)

http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1442811990/

はdat落ちしてしまって、このスレだけが残ってしまったのだが、

スレ主さんは元気にしてるだろうか?

490 :
4年前で高3なら、今はもう大学4年生か

491 :
奄美沖縄梅雨入り
屋久島大雨

492 :
5月だというのに、なんだこの暑さは…

493 :
水不足の地域もあるようなので、空梅雨でないことを願う
もちろん災害が起きない程度に

494 :
関東も梅雨入り

495 :
梅雨寒

496 :
291名無しさん@├\├\廾□`/2018/12/17(月) 18:04:39.15ID:95L4vyOf
   /\
 /__ \ 
/|へ へ|\
 |の の|
 | も | 
 | へ |お前ら働け
  \_/

497 :
沖縄は大雨

498 :
西日本は少雨
水不足が心配

499 :
台風一過

500 :
南九州で豪雨

501 :
関東は寒い

502 :
海の日だというのに本当に寒い

503 :
参議院選挙投票日

504 :
一気に暑くなりましたね。
熱中症にはくれぐれもお気をつけください。

505 :
連日の猛暑日、恐ろしい

台風も近づいているし…

506 :
連日の猛暑日、恐ろしい

台風も近づいているし…

507 :
西日本に台風襲来

508 :
九州で豪雨の被害が…

509 :
台風が東京を直撃

510 :
千葉県の台風被害

511 :
10月だというのにこうも暑いとは

512 :
もう台風来ないでくれ…

513 :
台風のあまりの惨禍に、ただ茫然とするのみ…

514 :
また台風が、しかも2つも発生している
もう台風は来なくていいのに…

515 :
本スレ(?)

http://wc2014.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1442811990/

はdat落ちしてしまって、このスレだけが残ってしまったのだが、

スレ主さんは元気にしてるだろうか?

516 :
また千葉県で大雨…

517 :
ようやく秋らしい気候に

518 :
北日本は大荒れだそうです

519 :
053−145−4900

520 :
今年は暖冬なのだろうか

521 :
日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、自殺を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人・職人気質はブラック企業擁護論である。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。

職人気質は悪しき文化
http://mevius.2ch.sc/test/read.cgi/rail/1573270987/755

ety

522 :
雪国なのに雪が少ない

523 :
記録的暖冬&少雪
雪がなくて雪国は悲鳴

524 :
雪国に雪がないと、春以降の農業(稲作)にも影響が出て来ます
心配です

525 :
ようやく冬らしい天候になった
来週後半はまた暖かくなるらしいが

526 :
コロナウイルスが蔓延

527 :
イベント中止、休校、品不足
恐ろしい…

528 :
東京で桜の開花日に雪が降ったのは、この50年で初めてのことらしい

529 :
桜満開で積雪

530 :
桜の開花は早かったが、その後寒い日が続いたおかげで入学式まで桜が持ちそう
今年は入学式が開かれなさそうだが…

531 :
マスクの残りが100枚切った。
N95はもう19枚しかない。
2015年のJKは薹が立ちましたか?

532 :
世界はもう終わりだな…

533 :
花粉もおさまって出かけるのに最適な気候になって来たというのに、
コロナのせいでどこにも出かけられない…

534 :
GWなのに閑散とする観光地
ガラガラの飛行機・新幹線・高速道路…

535 :
つい乗ってみたくなる

536 :
JKに?

537 :
緊急事態宣言は解除されたけど、本当にコロナは終息したのだろうか

538 :2020/06/05
そろそろ本州も梅雨入りかな

浄土真宗の僧侶がヴィパッサナー瞑想することについて
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