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【アクトゥアリテート】永井均 10【レアリテート】


1 :2015/01/16 〜 最終レス :2020/01/17
独在論などで知られる哲学者
https://twitter.com/hitoshinagai1
最新刊『哲おじさんと学くん』
関連話題をどうぞ。
次スレは>>925以降、宣言して立ててください。
落ちたら誰か立ててください。
前スレ↓
永井均 9
http://yomogi.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1384576350/
前前スレ↓
永井均 8 【独在性】
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/philo/1316015388/
著書リストは誰かよろ

2 :
とりまage

3 :
とりあえずスレ立てたが次からテンプレ作った方がいいかもな

4 :
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

5 :
>>1
誰か著作リスト作ってくれんかなw

6 :
どうでもいいけど、永井は『寄生獣』の映画・アニメを見たりしてるんだろうか
同じ曲の異なる演奏・歌手が好きなら、漫画の映画・アニメにも興味が
あってもいいような気がする

7 :
唐突にしばらく前のツイートについて話を振ってみる。
「だれでもないあなた」について、「信仰」というものは必要なんだろうか。
「私」「あなた」等々の共通の言葉を使っていれば、「だれでもないあなた」
も当然理解として成り立つというか要請されるというか、そういうものかと
思っていた。

8 :
注釈って私のメタフィジックスみたいに段落毎に逐一ある方がはるかに読みやすいわ
私の哲学を哲学するとか飛びすぎ

9 :
漫画の異なる演奏って言ったら鈴木翁二だな
雑誌、単行本、再単行本と掲載される度に小まめに部分的に描き直す
東京グッドバイの最終稿とか子供が死ぬってテーマにはぴったりだと思うけど

10 :
そんな人いたのかw
手塚治虫も単行本で描き直してたと聞いたけど(自分で確かめたわけじゃないが)
そういえば哲学界の某ビッグネームも増刷のたびにこっそり書き直してた
とか何とか(内容読まずにそんな知識だけ仕入れても何の意味もないけど)

11 :
誰か独現論の話詳しく教えてください

12 :
1.XだけのはずなのにXとYがある
2.XとYがあるはずなのにXだけがあり
1と2の循環

13 :
それって独現論に限った話じゃない気が

14 :
独現論(?)を表立って主張してる人なんているのかな
というか、「いやいや、君のその現実と全く同じように、この現実だって
ちゃんとあるじゃないか」とツッコんでくる人(?)なんて見たことないからなw

15 :
なんで今までの本で「独これ論」には触れられてないのかな
正真正銘比較対象がないから議論すべきこともないのか…
系列が生まれないっていうか

16 :
月姫ってマンガ(エロゲ原作)読んだ時に、「不死者」って〈私〉や存在の
例えだなぁって思ったんだけど、例の合同本で入不二が
4.この私だけが必然的にゾンビであり、他者はゾンビであることは不可能である
って言っててワロタw

17 :
保守

18 :
私の哲学を哲学するのP134に
「ラカンはこのことをしも「原抑圧」と」
ってあるけど「しも」は誤植かね?

19 :
〈私〉の哲学を哲学するの青山用語解説で初めて知ったけど、哲学で様相って
言ったら現実とか可能を云たらする時にでてくる用語っぽいね。
永井の場合の「様相化」はL.W.の「文節化されてない音声」を象徴的な意味で取った
場合に対応している語であって、現実と可能の対比で生まれてきた語じゃない。
だからもう一つ語を追加すべきだと思うな。
可能世界論に対応する「○○化」と、人称化や時制化よりも一段深いところにある
「これ」や「文節化されてない音声」に対応する「△△化」は別物だと思う。
パラレル化と様相化でも良いし、様相化と真様相化でもなんでもいいけど。

20 :
「言語化」でどうですか(適当)

21 :
タウマゼイン語法って何だ?

22 :
>>21
ツイートのどっかに書いてあるだろ…と思ったら、必ずしも明確な分かりやすい
定義のような形で書いてるところは見つからなかった。
まあ例えば外界の存在とか過去の存在とか他人の心の存在といったものについて、
あえて「疑える」「存在しない可能性もあり得る」といった語法を使うことで、
やはり疑えない、存在しない可能性はあり得ない、ということを把握する、
というようにまとめられるんじゃないですかね。

「68+57=5であることもあり得るのではないか」とかいうのは、その一例に
なるのかなあ?

23 :
さらに根拠のないしょうもない連想が働いてしまったが、「「人を殺してはならない」
を疑うことなどあり得ない。まともな子どもはそんな疑いを持ったりしない。」
とかいうのは、それによってかえって疑う可能性を開いたりするんだろうか?

24 :
倫理とは何かの「対比の拡張」のaとb、AとB云々がよくわからない
具体例を代入しておしえてください!

25 :
賑やかな呟きでバッハはバッハ、グールドはグールド〜みたいなこと書いてるのどこでしたっけ

26 :
>>25
147頁?
たまたま見つけたけど、小見出しから探すのはまず無理だなこれw

27 :
>>26
ありがとうございます!
この手の本で索引ないのは痛いですよねぇ

28 :
NHK批判したら早速キモウヨにたかられててワロタ

29 :
口や心についてのツイートは、個人的にはよく分からなんだ。

「心はおのれの発話意図を実現する口がどの口であるか知っている必要があるが」
知っている必要があるんだろうか。
例えば、目の前の鏡に映ってる口と、隣に座ってる口があるとして、鏡に映ってるほうが
この口だと思って発話したら、なぜか隣に座ってるほうが動き出した、というのは
別にあり得る(普通はないけど)という話だったと理解してたんだけど。

「心は「この心」がどの心であるかだけは知らなくてよい。」「というか知りえない」
これは、心というのは実はこの心しか存在しない(他の心というのは概念的構成物
でしかない)という観点からすれば、どの心なのか知るもへったくれもない、
というような意味だとすれば(あるいは、他の心がそれぞれ存在するという観点に
立った上で、それぞれの心がその心自身を認識するとかいう理解が成り立ってしまい、
ただの自明なことを言ってるとみなされてしまう、というような意味だとすれば)
今までの話と同じことだと理解できる。
しかし、そういう話ではないのかなあ。

30 :
>>28
ブサヨの間違いだろボケ

31 :
黄色い本で存在論もエンタメになっちゃう的なこと言ってたが、
個人的に口の話は一気にエンタメ存在論を真性の存在論に引き剥がしてくれて好きだわ
浸れる要素がないんだよね、理屈っぽくて

32 :
入不二のウィトゲンシュタイン私を消去できるかって本で、
独我論の参考図書が私今神になってたけど、
自分があとがき書いてるブラックジャックにしときゃいいのに

33 :
『〈私〉のメタフィジックス』は小中高の順に並んでて、大は最早興味がないらしいけど、
その後の著作は逆の順になってる気がする、『〈私〉・今・そして神』の最初の方とか一般読者
向けって感じだし、『倫理とは何か』に至っては「騙されたと思って最後まで読んで見て」って
最初に言ったことを最後に無化するみたいなやり方がすごく顕著
大→小の本は俺には相当苦痛だから、たまには小→高の本も書いて欲しいよ
あ、でも青色本の奴と意識のは結構後者だと思う

34 :
やっぱり直接講座聴いた方がわかりやすいわ・・
ライプニッツってアヴィセンナと関係あったのか
アヴィセンナ→ガンのヘンリクス→ドゥンス・スコトゥス→ライプニッツみたいな感じ?
朝カルでまたやってくれないのかな。。

35 :
ほっしゅ

36 :
魂に対する態度のP69最終行の「前者」って「後者」の間違えでは?
前者だとニーチェが社会的・法的観点を否定したことになるように思えるんだけど

37 :
糞プキは過大評価

38 :
にゃあにゃあうっさいにゃあ

39 :
保守

40 :
永井さんがエゴイズムについて論じた文章ってありますか?

41 :
子供が死ぬっていうけど、子供だって去年や昨日の自分と解離感感じたりするじゃん?
それこそ毎秒そう感じてもいいし、なんで「1回しか」死んだらいけないのか理解できない
それに子供が死んで大人になるってのもわからない、子供が死ぬこととその脱け殻が大人に
なることは別の事でしょ なんになったっていいはず ここには永井の主張が隠れてると思う

42 :
永井はそういう不思議なことは言いません

43 :
超越的長い物には巻かれろ主義ってググっても一件も引っかからないくらいマイナーな用語なんだな

44 :
いがらしみきおが朝日新聞の書評で『私・今・そして神』をとりあげている
いがらしみきおの『I』はタイトルそのまんまに独我論をテーマにした漫画
だったし、最近でた『今日を歩く』のあとがきでも独我論ぽいことを書いてる

45 :
マンガは哲学するじゃ取り上げられてなかったなその人w
軽くググったが電波臭すごいな

46 :
私今神の冒頭の学校の備品がただなくなる話、
具体的にどう哲学的なのかどうかして欲しいな
「なぜ意識」で関係のある話はあったと思うけど

でも中学生の発言っていろんな迷いや混じり気が
あるところが魅力だったりするから、そこを「趣旨」
の一言でまとめちゃうと台無しな気がする

47 :
どうかして× どうか解説して○

48 :
同じとこの音楽の比喩がずーっと意味わかんなかったんだけど、やっとわかった
後半の例えが哲学問題集を上手に解くだから理解できなかった
要するにカントが純粋理性批判を理解してないとか、ウィトゲンシュタインが論考を理解
してないかもしれないって事か
哲学問題集を上手に解ける人も「哲学を自分でやってない」って言われてる人なんだから
このたとえには使えないんじゃないかな たとえって言うかたとえられてる方だけど

49 :
>>46
アレは基本的には充足理由律の話
wikiでまさに永井のその個所を引用して説明されてる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B

50 :
>>49
おー、ありがとうございます

51 :
入不二の本は何であんなにつまらないんだろう

52 :
私は消去できるかって奴読んでみたけど結構おもしろかったよ
永井がハイデガーをエンタメって言う意味でだけど

53 :
入不二は永井がいうところの<魂>に対する態度を
生活の次元における振る舞いとして(も)語ろうとするところに違和感がある

54 :
〈魂〉に対する態度ってあの本以降見た覚えがないから撤回したのかと思ってた
永井の本であの本が一番「過渡期、模索期」って感じする

55 :
永井自身の語りが神の視点からの語りに読み替えられてしまうことに気づいたのだろう

56 :
「〈魂〉」というのは、後の言い方で言えば「「概念化されない私」という概念」
とか「《私》」とか言われてるもので、もう用語としては使われてないんじゃ
ないのかなあ。
むしろ、今と他時点との対比の議論がなされる前の用語であって、下手すると
「記憶の連続性にかかわらず時間を通じて存続する私の本質」とか何とかいう
誤ったイメージを呼び起こしかねないという点では、今となっては避けるべき用語
なんじゃないかという気がする。(適当)

57 :
今は道徳問題と存在問題を完全に一致させることに成功して説明もうまくなってると思う
「道徳のせいなのね」 あ、いや、なんでもない

58 :
最近の永井の本はすごいこと知ってるなぁって胸を借りるつもりで(勉強するつもりで)読むんだけど、
昔のは子供をあやすように「はいはい、それはわかってますよ、でもね」って感じじゃないと読めない
(私のメタフィジックスは例外)。意識は実在するか辺りで表現の仕方が革命的に進歩してる気がする。

59 :
>>51
プオタだからかな・・・

60 :
子どものため哲学のP187の最後から次のページにかけて
「概念体系が完全に横領されているというのは、自分[ニーチェ]自身が圧倒的に
道徳的な心性の持ち主であったことからくる錯覚にすぎなかった。」
って書いてるけど、今の永井哲学からすると錯覚じゃなくない?
そもそも概念自体が道徳の産物って見なしそうだけど

61 :
>>57
え?そんなことどこで言ってるの?

62 :
言語化と道徳のつながりって散々言ってると思ってたけど、俺の勘違いなのか

63 :
最近のツイートを見て反省した
素人のくせに勝手なことを放言するのは慎もうw

そういえば、文学界のここ2回の連載は、何だかすごい話が始まった…
ような気がする
(ような気がするとしか言っていない)

64 :
極めて少数の側を目指せばいいんじゃないの

65 :
ムリですw
まあ別にAmazon書評なんか書いたことないし、素人が何とか「ひたりつく」を目指そうとすることと、
「批評」をすることとは別なんだろう、と自己正当化を試みる

66 :
ウィトゲンシュタインの独我論を言語的独我論って言ってるけど、
これの意味がよくわかりません、おしえてください
それと、いろんな本で最近の考えをまとめる大書を予定中と書いてますが、
実現の目処は立ってるんですかね

67 :
L.W.の独我論は存在論敵独我論ではあるけれども、
存在論敵独我論は言語的にうまく表現される必要などないのだが、
ウィトゲンシュタインはそこに固執して、言語的に表現しようとした、ってことじゃないかなぁ

68 :
敵じゃなくて的だww すみまそん

69 :
今日は無為の日だそうですが、残念ながらあと1時間足らずで終わってしまうようだ
いや、このような、1日が24時間とか、明日との対比とか、そういう発想自体を
捨て去らねばならんのですなw(適当)
いや、ずっと捨て去るとさすがにまずいので、そういう今日とか明日とかいう発想を
今日だけは捨て去ればいいのかな(??)

70 :
どこもまずくない

71 :
『天女たちの贈り物』読んだ人いますか
ぷねうま舎の本って中規模店にはまず置いてないのよね

72 :
おそろしくつまらなそうに見える本だけど、つい買ってしまいそうだ

>語りえぬものを呼びだす天女たちの舞、宇宙崩壊ビッグクランチのシナリオをくつがえす
>想念の跳躍と祈り……形而上学と東方の神秘思想と現代宇宙論とがあやなす救済の物語。

本屋で見てもさけて通るレベルw

73 :
永井さん、完全にアカウント乗っ取られてるような…

74 :
>>73
初めて見に行ったが、そうみたいだな ワロタ

75 :
ショーペンハウアーを数ページだけ読んだけど、永井と言ってることほとんど変わらないじゃん
なんでどこでもかませ犬みたいな扱いなんだ

76 :
>>75
どの本のどのページを読んで
永井の議論のどの部分とどう類似していると判断したのか教えてください

77 :
ツイッターアカウントが乗っ取られたとかどうとか、そんなことは哲学的には
(あるいは少なくとも永井の議論的には)大した問題ではない
そのような問題は、せいぜい、他人から観察・確認可能な「永井均」という
一人の人間の同一性について何らかの議論になりうるかどうかという程度であって、
<私>の存在そのものの問題とは何の関係もないし、また<私>がそこから声を出す
(文字を書く)唯一の口(手)と、他人から観察・確認可能な「永井均」の口(手)が
なぜかたまたま一致しているという問題についても、それはたまたまに過ぎないから、
それに何らかのずれが生じて他人には理解しがたい状況となることも理解しうる
むしろ、このような議論、このような問題の区別を永井が論じてきて、それが
理解されているからこそ、誰も本気で「あれ永井がおかしくなったのか?」
などとは考え出さず、確信を持って「ちょw永井のアカウント乗っ取られたww」
と笑い飛ばして済ますことができるのであるw(適当)

(※これはちょっと適当すぎてだいぶ不正確だな、たわごととしてご容赦ください)

78 :
俺は「あれ永井がおかしくなったのか?」というか
「何かの実験を始めたのか?」「リツイート瞑想か?」と思ったけどね

79 :
>>76
意志と表象としての世界の2節、「すべてを認識するが、なにびとからも認識されないもの、
これが主観である。」のところから

80 :
森田宇宙ってネーミング、ネタ元あるんですか?

81 :
848:名無しさん┃】【┃Dolby:2015/06/11(木) 01:22:25.53 ID:1bEBMowN0
何が匂っていようと、匂っているのは私だ!
私は私の独我論をこのように表現する 待ちたまえ諸君っ、なぜ私から離れる??

82 :
W誤診のP174の3-4行に「どちらの論点」「後者の論点」とありますが、
この2つの論点がどこを指してるのか国語的にわかりません。
教えてください先生!

83 :
「法と政治の対立」は、言語と存在の対立に対応する部分があるのだろうか
もちろん直ちにイコールではないけど

84 :
W入門にピンセントは戦死って書いてあるが、従軍せずに飛行機事故で死んだんだから間違いじゃね?

85 :
鈴木康夫『天女(アプサラ)たちの贈り物(マーヤー)』刊行記念トークショー
永井 均(哲学者)×鈴木 康夫(作家) 宇宙的なわたし
https://www.youtube.com/watch?v=3Jb8N-t4IPI

86 :
朝日カルチャーセンターの話を聞いてから文学界の連載を読み直したら、
前より多少は頭に入ってきたような気がした
しかし「端的な動く現在」とは何なのか…

87 :
>>86
これです

88 :
>>87
そうですよねこれですよね、決してそのレスの書かれた時点のそれではなく、
今ここにあるこれですよね(やけっぱち)

89 :
>>88はあまりにやけっぱち過ぎて不正確に過ぎた
どの時点も紛れもなく現在で、いつでも現在なのだ
…?
???

90 :
>>88
いやこれで合ってるんじゃないか

91 :
私や今の議論に現実を加えるのってなんかうさんくさいんだよな
現実って言葉を可能世界云々の哲学的議論との比較で覚えてる人なんて
哲学習ってない人には皆無だろうに

ちょっと話変わるけど、ゲーテが
「自分の親しか知らない子供は、自分の親をも知らない」
って言ったらしいけど、この言葉って永井の議論を強烈に思い出すわ

92 :
それは例えば、本来は「客観的なもの」と「それに対する認識」という対比で
理解されるべき「認識」について、「全ては認識でしかない」などと理解しようと
すると、結局は「認識」も理解できていないことになる、といったことですか(適当)

93 :
認識じゃなくても「これ」でも「私」でも「今」でもなんでも代入できるよね

94 :
>>93
それらはどれも>>92には代入できないと思うけど
特に「これ」を代入するのは無理があると思うけど
「認識」のところに「これ」を入れるとして、「客観的なもの」のところには
何が入るの?

95 :
まぁ、「これ」って用語は最終的に「これ」という用語を否定してしまうし…
これ×が分解されて<これ>になったってのはおもしろいw

96 :
「アインシュタインを教授にしないのと同じだ」ってウィトゲンシュタイン入門の言葉の意味を、
アインシュタインが教授になってない=アインシュタインくらい頭が良いと教授の職は与えられない
って意味かと思ってたw 「今までウィトゲンシュタインを教授に推さなかったのはそういうわけだよ」と

ググったらアインシュタイン普通に教授だし・・・

97 :
アヴィセンニズムってググってもでないんだけど、なんなの?

98 :
対戦型スポーツであっても、実は本質は相手に勝つことではなく、例えば
型の洗練みたいなものが本質だということか
そうだとすると、議論の筋道自体は理解できるように思うけど、何か、
うさんくささを感じる
「対戦の結果などどうでもいい、自らの型を極めることこそ大事なのだ」
とかいう人がいたら、それこそまさに価値転倒による陰湿な勝利を目指してる
ことにならないだろうか
もうだいぶ前だけど、アメリカのどっかのじいさんが一人でフリースローを打ち続けて
ギネスブックに載るとかして、それを通常の対戦競技としてのバスケットボールの
中では史上最強の化け物というべき
マイケル・ジョーダンが称賛してた、
とかいうニュースを聞いたことがあった
これなど、うさんくささを禁じ得ないw
(ジョーダンその人というよりは、そんな取材をした人の問題かもしれないが)

99 :
これは私が開発した犬ひもという遊びである

100 :
うーんなかなか難しいな
「双方ともに」根本的な解釈が違うことが本質なのだとすると、実はルサンチマン的
価値転換は、というか少なくともその場でどちらが強いか(例えば腕力で勝っているか)は、
別に本質とは関係ないか
腕力で負けたほうだけが、ではなく、そもそも双方ともに最初から解釈で
戦ってるのが本質なのであれば

さらにひねくれると、むしろ、「喧嘩の理由だの言い分だのどうでもいい、
とにかく腕力で決着をつけろ」というのは、ただそれだけで健全な戦い方だ、
ということになるのだろうか(笑)

101 :
かいびゃく(の隠蔽)と結びつけてないニーチェなんかつまんない

102 :
>>100ではつい「ひねくれて」と表現してしまったが、そうではなくてまさに
解釈による戦いを捨て去ることがイノい願いということだろうか
うーむ
それがあまり理解できないのは、俺が汚れているからかw

なお、しょうもない話だけど、対等なルールの中での戦いだけじゃなく、
外からの評価を持ち込んでルール変更を求めたりするのは、汚れた醜い争い
ということになるだろうかw
(例えば近年では柔道の双手刈に関する話)
そうだとすれば、それは感覚的にも分かりやすい

103 :
密かな闘いのP312あたり読んでて思ったけど、永井も独我論の語りえなさを、
〈私〉のメタフィジックスやウィトゲンシュタイン入門で出してる文法的に言いたいことが
先取りされて常に言えてしまうから言えない(@)って趣旨とは別に、
隣合うものがないから言えない(A)って意味でも言ってるんだな

この辺りの永井の考察はもう先の方まで進んでて、「語りえるかえないか」みたいな
方向性から始めるやり方の限界より先に行ってると思う
なんで今更このやり方から始めてるんだろうと思ったけど、シンポジウムの議題自体が、
「語りえぬもの」だったからなんだな

104 :
たまに「それは一体なにがあることなのか」みたいに書いてるときあるけど、
文章のつなぎとしていれてるのか、それとも本気で未だにわからないのか、
どっちなんだろう

105 :
悪ではなく偽として批判、か
「端的におかしい」ではなく、「真である可能性も偽である可能性も認めた上で
偽と考える」ということとすれば、独我論者(「論」というのが不正確とすれば、
端的に独我な人(?))と独我論批判者に対応するのだろうか
いや、そうだとすると、世の中は相手を悪とする醜い争いに満ち溢れてることからして、
世の中の人々はみな独我論者だということになってしまいそうなので、なんかおかしいなw

106 :
1000年前の今日みたいいな言い方は半分冗談みたいに聞こえて少し笑っちゃうけど、
私に関する言語的独我論もこの感覚なんだろうか。1000年前なら今日じゃないじゃんみたいなw
まーこの場合はなぜ1000年前だけじゃなく今日までつけるのかというと、一年の内の特定の日付をさしてるからだけど

107 :
1年前の今日であろうと1000年前の今日であろうと、「今日じゃないじゃん」
であることに変わりはないので、後者だけが笑えるとしたら、それは体験やイメージなどが全然及ばないからとか
何とかいうことであって、言語的独我論とは
必ずしもつながらないんじゃないかね
むしろ、改めて言うほどのことでもないけど、体験やイメージなどはまるで
通じない「1000年前の今日」であっても、その言葉の意味は当然のごとく理解
できてしまう、というのが言語の威力かと

108 :
過疎ってるな

109 :
最近、Twitterで政治ネタやたら多くね?
何かあったのか?

110 :
立憲主義や法的安定性だのという、やかましそうな話題にわざわざ触れてるな
別に新しい話が書かれてるわけではないように思うけど

111 :
というか地味に政治大好きだよね永井先生

112 :
半神も良いけど、イグアナの娘もマンガ的な視点のすごさがあると思うんだけど、
永井は気づかなかったのかな 

113 :
永井さんも完璧じゃねえからなあ・・・自分の関心事以外は無視する度合いが俺らよりも強烈だろうし

114 :
やーいやーい永井キン、バーリアッ!

115 :
>>97アヴィセンニズムというか、存在と本質の問題は
岩波講座・東洋思想第四巻 イスラーム思想2 井筒俊彦著
イスラーム古典叢書 存在認識の道 モッラー・サドラー著 井筒俊彦訳
中公文庫 イスラーム思想史 井筒俊彦著

あたりを読むのがいいのではないでしょうか?
現代思想かぶれ?って感じの山内志朗ではちょっとあまりあてにならない気が・・
(誤読の哲学だけBOOKOFFで買えたのでちょっと読んだけど)
あとは「意識と本質」にも関連したこと書いてあったかも

116 :
井筒俊彦は哲学者じゃなくてシャーマンとか書いてたことあったよな

117 :
井筒氏は最近ぷねうまから「禅仏教の哲学に向けて」
英文からの和訳出てたよね

118 :
黄色い本で虚栄と実栄の話してるけど、虚栄と実栄と真栄って3つにわけたがいいと思うが。

一般的に虚栄というと持ってないのに持ってるように振舞うことだが、
宗教や文明批判の文脈だと持ってること自体が虚栄扱いだったりするし、
文脈に依存するわかりにくい言葉(虚栄)のさらに対比語(実栄)だからすごいわかりづらい。

「一般的な価値=虚栄」だとすると、実栄を求めるってことが「人々(人類)の真の価値を探して導く」
ってことなのか、「人々=虚栄」と判断して独我論の世界に入ることなのかもハッキリしない。

119 :
変性意識ってゲシュタルト崩壊と同じ?
変性意識の方を〈自然状態〉(なにも知らない幼児の見方)と定義するのか、
たとえばピアノの音をただそれだけの音としか感じられない人が、ハーモニー(音楽)として
感じれるようになること(あえて言うなら大人の見方)を変性意識というのか、どっちなんだろう。
簡単に言えば〈〉を変性意識ととるか、「」を変性意識ととるかの違い。

鉛筆や木炭のモノクロデッサンだと、うまい人が書くと何も書いてない下地の白の部分が空間
として抜けているから、ただの白色(紙の色)が空間に見えることを変性意識と言うべきだと感じるが、
実際は素人はそこが空間であるとは意識しないで自然に空間だと思って見てる、
むしろそこをただの白い背景と思う方が変性意識というべきかもしれない。
さっきとは別の意味だけど、この意味でも変性の定義はあいまい。

極端な例を出せば、月というホントは途方もなく大きいものが小さく見えることを変性意識というか、
むしろ「実は大きいもの」として見ることを変性意識というか。

120 :
>>118
134頁から始まる部分のことなら、別にそれほど分かりにくいことはないと思うけど?
あそこで言われている「虚栄」は「世の中一般で価値あるとされているもの」
とでもいう意味で、「実栄」は「世の中一般などを超越した、真に価値あるもの」
とでもいう意味だから、>>118で言われているような「(世の中一般で価値あると
されているものにつき)持っていないのに持っているように振る舞うこと」
という意味のことは全く議論されてない
あと「実栄」の捉え方については、少なくとも「人々を導く」という要素は
おそらく無いだろう(そんなに明示的に書かれてるわけじゃないけど)
「独我論の世界に入る」というのは、その表現の意味自体も、議論の中で
どんな文脈の中に入るのかも、俺にはよく分からないけど

全体の文脈として重要なのは、「虚栄」に留まることができずに「実栄」を
求めてしまうことこそが実はニヒリズムで、克服すべき課題である、ただし
それは難しい、ということで、これは
『これがニーチェだ』を読んでいれば
ほぼそのまんまだと思うけど

121 :
虚栄から自由になりたいという「脱虚栄(という意味での実栄)」(解脱)と、
新しいより良い虚栄を求める革命精神的な「ポスト虚栄(という意味での実栄)」とでは、
主語が違うと思う。前者は個人だが、後者は「我々」。

虚栄の範囲を価値判断や道徳倫理で取るか、永井が根源的道徳と呼ぶ
人称化等の言語化の範囲まで取るかでも具合が違ってくると思う。

「〈子供〉のための哲学」ででてきた「上げ底」という表現の方が混乱が少なくて好きだな。

122 :
>>121
「実栄」の中での性質の違い(当てはまる主語の違いとか)を考えるのなら、もはや
元の該当箇所の文脈とは全然違う議論になるんじゃないの?
別にそれが直ちにダメだと言いたいわけではないこと、元の文脈の理解と
自分が新たに論じたい内容の、どちらについての議論をしてるのかの区別は、
できるだけ明らかにするのがいいんじゃないかと

あと「虚栄」が道徳や価値の問題なのか、人称などの問題まで含むのかについては、
とりあえずは前者の問題だと理解しておいて、後者にはどのようなつながりが
あるのかがさらに問題、ということになるんじゃないかと
(実際、「つながりがあると思われる」という趣旨のことは書かれてるけど、
詳しい説明は(少なくとも該当箇所には)ないので)

123 :
さびしいときにさびしいという森田童子より谷山浩子の
FU・SHI・GIとかの方が同じテーマでグっとくるなぁ

FU・SHI・GI/谷山浩子 1980年

夕暮れに ぽつり たたずんでたら
誰かが つぶやいた あたしの中で
ことばは いつも ききなれた
何気ない たったひとこと
それなのに 思い出せない
不思議…… FU・SHI・GI

夜明けに 霧の中 ただよってたら
誰かが 黙った あたしの中で
今まで いつも 気づかずに
たくさんの 話をしてた
それが 今 思い出せない
不思議…… FU・SHI・GI

あれは 誰……
誰…… 誰……

124 :
表現にひねりがいるのって、規則の問題の問題提議にひねりがいるのと似てると思うな
アイドルはみんな姉妹だと思ってる親父を表現するのに「アイドルだから姉妹だろ?」と
そのまま書くと嘘臭くなってしまう まぁただの誤魔化しの厚化粧かもしらないせど

125 :
しれないけど○

126 :
最近はウィトゲンシュタインbotと絡むのをやめてしまったのか

127 :
中島botをなぶって遊ぶのも飽きたようだ

128 :
虚偽意識という言い方もしていた

129 :
保守

130 :
60過ぎた後期高齢者が
まだそこ(存在の不思議)に躓いているのか、
という気はする

ふつうの会社員などは
25歳ぐらいでおおよそを悟るのではないか

131 :
悟るというか忘れる、もしくは逃げなんだろう。
そして死ぬ直前になって、またぼんやり思い出す。

132 :
悟るというのはつまりどういうこと?

133 :
上げ底を不思議に思うか、思わないか

134 :
>>132
言語ゲーム
もしくは
言語ゲームからの卒業

135 :
疑問なんだが、言語ゲームからの卒業って可能なのか?

136 :
>>130からの文脈を踏まえると
普通の会社員は25歳ぐらいで言語ゲームから卒業するということか?

137 :
「悟り」とは、
人間あーだこーだごねてるけど、それらぜーんぶ後付けであって、
本当は「これ」しか無くて、みーんな、「これ」なんだよね。
それなのに、概念とか言葉とか後付けであーだこーだごねてえるのが、
「これ」から分離した「私達」
(「これ」は勿論、「これ」という具体的な何かを指している訳では無い)
例えば、おかーさんのおなかの中にできた時から早速、おとーさんとおかーさんの
DNAが記憶している事とか、おとーさんとおかーさんの夫婦喧嘩とか「後付け」されている訳。

とか理解する事だと思ってますが、
永井氏が問題にしているのは、

そもそも何故「ここ」から見てるの?「あっち」からでも「こっち」からでもいいよね?

ですよね?

悟りは、それを説明してくれない。「ただ起こった事」で済ますだけ。

と思ってます。

138 :
たしかに後期高齢者が悩むような問題じゃないね
13歳程度が悩むなら解るが

139 :
???「存在への問いを後期高齢者が悩むような問題でなくしている構造こそが興味深いのだ」

140 :
むしろ、後期高齢者こそが考えるべき問題だと思う。

ただ純粋に

「何故、今ここから視界が開けているのか?」

「何故、ごく当然のように、今ここから視界が開けていると思い込んでいるのか?」

「何故、ごく当然のように、今この思考が当然と思い込んでいるのか?」

な感じで思い直す事により、思考の硬直等を悟れるから。

141 :
多分、永井氏は、
いついかなる時も究極のシンプルな疑問を持ち続ける事
の意義を語り続けているんだろうと思う。

答えではなく。

142 :
子供の哲学ってやつだろ。

143 :
俺は永井が論じる問題を子供の哲学としてではなく論理によって初めて切実に理解できた

144 :
子供と年寄りってのは似てる。
この世に入りたての人と、この世から出て行く手前の人だから。
だから世界に対する素朴な疑問を持ちやすい。

145 :
問い続ける事を止め、「卒業」できたと思えてしまう人には、
哲学は必要無いんだろう。
哲学は思想では無い、と永井氏も言っている。

146 :
位階の高い神と低い神の違いって??
(これと志向性?ってどう関わってくるのかなあ)

147 :
永井先生よりギドー先生のほうが上だよな

148 :
収入?
印税?
ルックス?

149 :
>>132
自分の能力では考えたところでどうしようもない
と諦めること

150 :
>>149
理の外から世界を展望出来るようになること

151 :
悟りは知的能力ではないよ
諦めと同義
態度の問題

152 :
賢者タイムというのはいい言葉だ
勉強にも飽きてしまうということがある

153 :
それってファストフードのような薄っぺらい悟りだな

154 :
ファストフードのどこが薄っぺらいんだ馬鹿

155 :
そういうリアクションしか取れないところかな

156 :
この人原始仏教は知的水準が低いなんていってるけどそんな頭いいの?
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/676755629231378432

157 :
天才哲学者ランキング作ったら1位ウィトゲンシュタイン2位ニーチェ3位カント4位プラトン5位アリストテレスか

158 :
叩き台の水準が低いという考えの水準が低い

159 :
まあ今の日本ではこの人が一番だろうな、それだけ日本の哲学の水準が低いわけだけど(ただ現代は欧米も低いし似たようなものか?)

160 :
何?超越論的観念論を作ったカントはお釈迦様より頭いいの?白人様様なんですねわかります

161 :
後の時代の人間でインド哲学について散々議論された上で思想を作り出したから上なのも無理ないか

162 :
>>160
なんで人を対象とした議論にしてしまうの?

163 :
>>157
ニーチェがダントツだろうな
他の哲学は全てスタティックで運動がない

164 :
ビンゾって聞くと、相手からも自分が見えない存在のことを思い浮かべてしまうが、
当たり前のように見えると想定して、そうじゃない想定をした人は理解できてないって
あっさり言っちゃうとこが深いな。それ指摘されて「あっ」ってビンゾのなんたるかがわかった。

165 :
「〈私〉の哲学を哲学する」のP266-267にある、
身体が決して分割されないって箇所とその前後が難しくてわからない。
P266の8行目「私が私自身を口から〜」の部分から。
なぜ私の身体の数は必然的に「一」であるのかわからない。

他の本の「口」に関する議論は難しいなりに理解できてたつもりだが、
この本のこの箇所は難しいよ><

166 :
読み進めたらストーブの話で結構わかった気がしました。
たまたま自分の幾何学的身体と人々がストーブと呼び習わしている物体が重なっているということですが、
それは「たまたま」ではなく第一次内包のような全てがそこから始まるが故に疑い得ない一致ではないのかという疑問がわきました。

167 :
永井先生が何でこんな評価されてるのかわからないんだけどわかる人教えて
あの有名なウィトゲンシュタイン研究者+ちょっと奇抜な思想説いてるから目立つだけという印象しかもてなかった

168 :
なんで先生呼ばわりしてるかおしえろ

169 :
永井が思想を説いてるなんて
そんな読み方もあるのか

170 :
思想がないとか主張がないとかっていうのは周りの文化人と比べてって意味でしょ
子供相手に僕は主張がないなんていえるほど主張がなくはないよ
むしろ主張の塊 

171 :
何を言ってるのか分かりません

172 :
取り巻きが臭すぎる

173 :
>>172
永井のツイッターの取り巻きも臭いよな、森岡とかw

174 :
論として妥当かどうか指摘せず臭いだのなんだのって何も言えてないじゃん

175 :
第〇次内包を独我論と結びつけるのは元々離れ業だったんだけど、
無内包に関してはその離れ業の第〇次内包にしか対応してない気がする

176 :
〇って漢字らしいが、なんで学校で習わないんだろう

177 :
やっぱ幾何学的な口に関する議論を挟まないと、
「外部の無さとしての私」と「唯一動かせる身体って意味での私」(の問題)が
どう繋がって同じ問題としてあつかわれるのか俺にはさっぱり理解できんわ。
永井が口の議論を出したのは割と最近だが、むしろ永井哲学としては応用でなくて基礎だと思う。

178 :
ついでに言うとこのつながりに関しては入不二が〈私〉の哲学を哲学するの
P287辺りでも論じててうれしかったな。
今までの永井だと「問題を感じない奴は入ってくるな」しか言ってなかったからね。
そこの繋がりがわからない奴は永井哲学とは無縁の人って扱いだった。

179 :
口の問題はこの間の森岡正博との対談でも広がられているので
気になる人はamazonで電子書籍購入したら良いと思います

180 :
360円らしいけど、プライム会員とやらだと0円って・・・
なにこの格差

181 :
哲楽 第6号ってのも永井特集なんだな
これも545円と0円の格差・・・ くっ

182 :
プライムで無料なのは
Kindle端末に月一冊ダンロードできるサービスで
基本は有料だぞ
しかも値段分の価値は十分にある

183 :
独我論とか一見存在について考えるといつもわからなくなるんだけど、
なんで視界に良い悪いがあるのかな?
簡単に言うとなぜ『ピント』なんてものがあるのか。
なぜ独我論者(一見論者)もメガネをかけるのか。
世界に僕しかいなくてもなぜピントなんてものがありえるのか。
ありえるとしたらそれは「根源的道徳」と言ってもいいものではないか。
こんな感じでボンヤリ考え出してモヤモヤしたままになるw

184 :
面白い発想だな

185 :
ttp://www.amazon.co.jp/存在と時間-――哲学探究1-永井-均/dp/4163904298

新刊が出るらしい
たぶん文学界の連載の単行本化だろうけど

186 :
>>183
「ピント」なんて、なくてもいいんじゃないの?
生まれた時から目が悪くて、あるいは悪くなくてもいいけど一生を通じて
視力の変化があまりなくて、無人島で一生暮らした人がいたら、その人には
目がいいも悪いもなく、眼鏡の必要性
なども考えることなく過ごすんじゃないかね

187 :
>>185
ちょっと中身知らんからはっきりとは言えんが
これタイトル大袈裟すぎじゃね?

存在と時間に哲学探究ってもろ被せやろ…
どんな大作にするつもりなんだろうか?

188 :
ニーチェの誤診みたいな本は書かないのかな
存在と時間はエンタメとか笑ってたような・・
2000円なら結構分厚そうだ、って336ページか

189 :
『存在と時間』は連載を読む限りでは今までの著作の中で最も分かりやすい
しかし1ってことは2の予定があるってことなんだろうか
だとしたら1の続きというよりもそれを批判して乗り越えるような本であってほしい

190 :
どういう話だっけな
とりあえず時間には累進構造が成立することが可能だということしか理解できなかったわ
永井の著作を読むたびいつも思うが、彼の日本語は理解しづらい
単純に日本語が下手なのかそれとも内容が複雑だから複雑な日本語になってしまうのか
それとも水が合わないだけかな

191 :
著作全部合わせて全体の流れを掴むのはそりゃ難しいよ
でも日本語が難しいってのとは違うと思う

192 :
いわゆる論脈を読む訓練を受けていないのだろう

193 :
やばいおれのほうが頭良い罠か

194 :
分りにくい言い回しを一生懸命理解しようとして、分ったところで、他の人が言ってることとたいして変わらない
ことしか言ってないことが分ったらガッカリだな

195 :
哲学じゃそれ良くないか?
そういう言い回しを裏返し表返し何度も繰り返して気づいたときにはちょっと思考力が上がってるみたいな

196 :
>>183
すいません。「一見論」というのは、何のことですか。
独我論者でも眼鏡をかけるのは、過去の良好な(ピントのあった)視界の記憶
と、今のぼやけた(ピントの合わない)視界とを比較できるから、ではだめでしょうか。

197 :
>>196
ピントが合う合わないの基準をどこから持ってこれるのかが不明

198 :
かまってちゃんはお前だろwwwww

199 :
私のような子と仲良くなってしまったから
あの子は変な子になってしまったのかな

200 :
時間論ズブズブのめり込んでるな

201 :
ここ数年あの界隈の問題意識が重なりすぎてる
入不二も青山も中島も類似した問題に取り組んでいる

202 :
入不二と中島はともかく青山は弟子筋にあたる人間だから影響してるのは当然といえば当然ではある

203 :
>>201
そりゃ似た界隈ばかり読んでいるからだろ
似た界隈でも野矢とかは全然違う方向いてるし

204 :
野矢はわけわからなくなっちゃったなあ

205 :
でそんな2人はどこに居るの?

206 :
連載時のタイトルは「存在と意味」でこっちも広松のパクリだったのに、
よりメジャーなパクリの「存在と時間」かw サブタイのパクリに釣りあう
メインタイトルにしなきゃと思ったのかね。

207 :
というより意味まで進めなかったからじゃないか?

208 :
書いてる途中から時間(マクタガート)の話ばかりになってしまったらしく、
確か「この連載は存在と時間だったんだ!」というツイートまであった気がするw
自分で書く内容、自分の哲学の内容を、自身で統御できないという話は、
門外漢の素人にはよく分からんです

209 :
中島の時間論は浅い

210 :
永井先生の存在論はどうなっているのかね。
存在しているのは<私>であるところの<世界>だけという話になるのかな。

211 :
あるかないか以外なぜだかありえないこの仕組の窮屈さにまで踏み込んでくれるだろうね

212 :
概念は存在しているのだろうか(錯乱)

213 :
ハイデガーは疑問の筋はいいが語り口がまずいなって永井の意見
本当に分かる、ハイデガーは仲間だ、だからこそ色々惜しい

214 :
ハイデガーの本読むと当時のいろんな問題にドヤ顔で答えるために
脱線しまくりで自分の問題について書いてる箇所って少ないから疲れる

215 :
>>190
言ってることがわかりすぎて逆にわからんってことがある。
3段階くらいに分けてだんだんと自分のフィールドに持ち込もうとしてるときとか特に
前の2段階が意味不明で、1番難しいはずの3段階目は簡単に分かったり。
例えば独我論語るのに「痛み」に限定する意味がわからないで戸惑ってると、
あとのあとの方になって自分でもそう言い出したりさ。

216 :
今の永井はクリアできないクソゲーに挑むゲーム実況者を見てるのに似てる

217 :
>>215
そうまさしくそれだ
言ってることがわかりすぎて逆にわからない
おそらくその「わかる」感覚は錯覚で永井の問題系にまでたどり着くことなく
もっと手前、もっと日常的に解釈にしてしまっているがゆえにそんな感じが生まれるのだろうとは思う
また、それゆえに議論全体を通して何を言わんとしていて、そして今言っていることはそのなかでどのような役割を果たすかが一向に飲み込めない
もうこれ読み直すしかないか

218 :
私今そして神あたりから猛烈に難しくなっていってるのは自分も感じる
でもこれはわざと難しく書こうというもんじゃない

219 :
その本は俺も難しかったけど、「誤診」「意識」「西田」辺りからはむしろわかりやすくなった気がする。
〈これ〉が全てって解釈で全部読めちゃう。「〈私〉の哲学を哲学する」にもその辺の変遷の経緯は書いてある。

220 :
〈私〉の哲学を哲学するで可能って言葉にいろんな意味を詰め込みすぎてあって
難しいって話してたけど、私今神が難解なのはそのせいもあると思う。
すっげー専門用語なのに見た目は日常用語だから難しさに気づかない。

221 :
今度道元について本書きたいってどこかで言ってた気がする

222 :
瞑想じゃなくて禅の方か

223 :
「赤い」の否定で「赤くない」じゃなくて「あこくない」って言う例をウィトゲンシュタインが出したらしいけど、
なんで「あこい」じゃダメなの?

224 :
存在と時間って図書館で雑誌の連載コピーしたけど
単行本で増補される分ってどれくらいあるのかな?

225 :
永井哲学はある日突然理解がやってくる

226 :
>>225
その時って、本気で自身の既成概念を全てリセットして取り組み直そうと
した時とかじゃない?

227 :
>>226
丁寧に読むだけでいいよ

228 :
どうでもいい話題で恐縮だが、「反響が大きいので消した」にちょっとワロタ

229 :
これだけでは何なので
直近の連続ツイートから始まる「現実の私は、現実の今や現実の世界から独立している」
という話と、少し前のツイートの「私や今に対する現実の優位性」という話は、
整合するんだろうか、と、ちょっと思った
いや、直接整合するとかしないとかいう話ではないのかな

230 :
誰一人として「現実」を知り得る者は居ない
何故ならば「私」という認識を含め、認識は全て概念であるから

くらいしか分からん

231 :
誤診に出てくる「治療者」って病人のこと?医者のこと?

>これは、独我論の支店に立っている者でなければ語れないその治療の支点である異常に、
>より興味深いことには、治療者の始点に立っている者でなかれば知りえない独我論者の深い
>願望の表現である。

232 :
独我論本店には行ったか? 支店とは別モンだぞ

233 :
>>128虚偽意識の話してましたね今日の鼎談で

234 :
オスカー・ベッカーの本なんて日本では数学関係の本しか出てなかったと思いますが

235 :
どれが僕なんだろうを、動物とか木にも感じて良さそうだけど、なぜかそうは感じないって書いてたのどれだったっけ?
翔太かと思って読み直したけど違った。(P110に似たような記述はある)
〈子供〉も流し読みしたけど、気づかなかった。

236 :
〈子供〉のP119にありました!

まず第一に、特定の人間がぼくであることに驚くということはつまり、
ぼくでありえたのに現実にぼくではなかった他の人間、というものを
想定することではないか。そもそもそんなことが考えられるだろうか。
それに、ぼくでありえたものは、どうして人間でなければならないのか。
動物でも、ロボットでも、かまわないではないか。ではどうして木や石ではだめなのか。
これがひとつの問題だが、どういうわけか、ぼくにはあまり重要な問題だと思えない。
よくよく考えてみたいという気が湧いてこないのだ。

237 :
>>235
『〈私〉の哲学を哲学する』にもその点に関する議論があるよ
入不二が「ペットボトルの私」もあると主張して永井がそれはよくわからないと返答していたような

238 :
あれなんで永井がわからんって言ってるのか理解できなかったな
ウィトゲンシュタインの誤診や西田幾多郎で書いてる「森羅万象という意味での私」
を「ペットボトル」って言っただけじゃん

239 :
意外と、人とその他を区別しているのかな?
例えば、永井が猫に生まれていて、同じように哲学していたとしたら、

「それに、ぼくでありえたものは、どうして猫でなければならないのか。
 人間でも、ロボットでも、かまわないではないか。ではどうして木や石ではだめなのか。
 これがひとつの問題だが、どういうわけか、ぼくにはあまり重要な問題だと思えない。
 よくよく考えてみたいという気が湧いてこないのだ。」

こうなるんだろうか?

240 :
どうでもいいことやってるレトリック芸人?

241 :
脳や記憶や身体さえなくても良いような私と、
どの身体が私なんだろうって言うときの私の議論は普通に考えるとつながらない。
それを幾何学的な口の議論等で繋げて見せたのはやっぱプロの哲学者すげーなぁって思った。

242 :
いま、よしみっちゃんの不在の哲学
っていうの読んでるんだけどさ
よしみっちゃんって立ち現れ一元論や
永井さんの<私>とか
まったく理解してないんだね

243 :
理解していないというよりも無視しているのではないかな
中島義道は中島義道が現に独在的なこの私(と言っても置き換え不可能性は出てこないのだが)であるような世界が
中島義道が言語を習得した時点で必ず発生すると確信している
これは科学哲学としては妥当な態度であって永井が科学哲学に興味を持てない原因になっている

244 :
文庫本の翔太のあとがき書いてたけど、下品だったな

245 :
それはペネトレが言うような意味でかい

246 :
>>243
よろしければ、もう少し分かりやすく説明していただけないでしょうか。
大事なことが書かれている気がするのですが、恥ずかしながら理解が追いつきません。

247 :
>>246
永井の言う独在的な私は、私が客観的にはこの人であるままで、この独在性のみを失える
(それでも別の
独在性を持ち得るから現に独在の「現に」とは何かを探るのだが(「現に」もまたその現にに取っての「現に」になるしかない……))
中島の「私」は、例えば世界がまるごと同じ世界をやり直したとしても、また中島に備わる「私」であって、確かにこの世界で私だけ現に私なのだけど、その現にはこの身体に支えられ
ある種の同一性を保持している(内包という用語を使えば中島の「私」はまったく無内包ではないと言える)

私の永井・中島解釈なのでくれぐれも鵜呑みにしないでください

248 :
永井さんは「科学から哲学へ」佐藤徹郎著
の影響下にあるらしいですね。

249 :
>>247
世界がまるごと同じ世界をやり直したとしたら
必然的にまた中島に備わる私(と読み直した)

それって単なる個性ってことだよね
永井は個性なんてものはどうでもいいと思っているんじゃないかな
よしみっちゃんは全然理解してないと思うな
<私>を理解する、あるいは気づくってことは
無視したりこだわったりできる相対する立場なんてないってことに気づくことなんだから

250 :
中島さんの方が破たん的なまちがいをしているが
永井さんは根本的な間違いをしてる。

251 :
よしみっちゃんは、百歩譲って<私>を理解
しているかもしれないが、自分がいままさに<私>であるという自覚がない、あるいは<私>を味わっていない

この言い方どう?

252 :
どうでもいいことに拘泥させようとするレトリック芸人にしか見えないが

253 :
そのフレーズ好きね

254 :
記述を目指さないレトリックは不毛

255 :
どういう意味でレトリックと言っているのかよく分からんな

256 :
つーか、何か命題を述べてるの、この人?

257 :
誤診にでてくる「符合」って何気に重要ワードだよね 一冊本書いてほしいけど難しいだろうな

258 :
>>247
返答ありがとうございます。
まだよく分からない部分もありますが、少しは理解が進んだ気がします。

一言でいうと、世界と「私」との距離感の違い、ということなのかなと思いました。

259 :
それ永井自体も書いてる本や、同じ本でも場所によって違うことある気がする

260 :
例えば、Aという何者かが、「永井」というキャラクターを設定し、それを演じる。
「永井」だけでは飽きたらず、その周りの人物達も同時に演じたいと思う。
Aはそういう能力があるので、「永井」とその周りの人物達を、同時に演じ、楽しむ事ができた。

そのうちAは、演じているだけだと飽きたらなくなり、
「ずっと昔から永井であった」と思えるまで、「永井」になりきろうと思った。
Aにとってはもちろんそれだけだと飽きたらず、
「ずっと昔から永井であった」と思うと同時に、
「ずっと昔から、永井の周りの人物達であった」とも思おうとした。
Aはそういう能力があるので、
「ずっと昔から永井であった」と思いこみ、
「ずっと昔から、永井の周りの人物達であった」とも思いこんだ。

つまり、永井が模索している「私」とは、Aである。
そして、今これをタイプしている何者かが「私」と思い込んでいるのも、Aである。


今でっちげた思考実験ですが、これは永井さんが書いている「私」とは違うんですかね?
他に近い事考察している哲学者って居ますか?

261 :
良くわからんが、ぱっと見た感じ存在論的な感じがしないから全然違うと思う。

262 :
>>260
永井の議論のどのへんと関連させようとした思考実験なのか全然分からないので
何とも言えんけど、とりあえず取り出しやすそうなところを取り出すとすれば、
まずそこで書かれてる「A」のような「何か特殊な能力を持つ人間」というように
内容的な定義をするのであれば、それは永井が近年の本で言ってる「私」とは
全然違うんじゃないの
無内包やアクトゥアリテートという用語で言われてる、内容的には同じであり
ただ現に存在しているかどうかのみが違う、という点がポイントのはずだから

263 :
>>262
実は自分でもよく固まってないんですけけど、関連性と言うよりは、アンチテーゼかもです。
何故、「何故ここからだけ世界が開けているのか」と思い込んでいるのか?て感じ。
実は「私」て、共有されていて、ガワが変わることによって主観が変わるだけじゃないのかと。
ここで書いた「ガワ」とは、肉体的物理的な事のみではなく、記憶等概念も含みます。

思考実験がヘタクソでしたが、「Aの私」=「永井の私」=「こう書いてる何者かの私」て事です。
もし「この永井というガワからだけ見ている私」と思い込んでいれば、当然、「他のガワから見ている私」にはなれない訳で。

264 :
存在論的証明って百歩譲っても存在的証明だよな
超越論的証明って言ったが一番しっくりくる
ウィトゲンシュタインの「リアル」もそうだけど、永井と相反する用語法は自分の本の中では
変えて良いと思うんだけど。

265 :
>>263
私が2つの体を持つという「ツイン・マン」の話なんかは永井の議論にも出てくるけど、
それとは違う話になるの?
(多分、違うという趣旨なんだろうけど)

永井が明示的に書いてたわけじゃないように思うけど、私なりの理解を書いてみると、
例えば私は、他人は誰も気付かないけど、実はAとBという2つの体を
持っていたとする(A・B組(仮称))
一方、実はどうやら永井均と青山拓央も、同様に2つの体を持った状態
だったとする(永井・青山組(仮称))
(※この話はフィクションであり、実在のご本人たちとは何の関係もありません)
こういう想定をしたとして、それが>>262で書いた無内包あるいはアクトゥアリテート
という話に何か影響があるのかというと、実は全然ないんじゃないかと思われる
現在私はA・B組であるけど、永井・青山組も同様に「私は永井・青山組だ」と言い、
では何の違いがあるかというと、現に私であるかどうかというアクトゥアリテートの
違いしかない、という話になると思われる

そう考えると、263の言う「ガワ」や「共有」の意味合いがよく分からないので
何とも言えないけど、やはり永井の論じている「私」とは直接関係のない話に
なるんじゃないかなあ、と

266 :
佐々木淳子のSHORT TWISTってマンガで、人格転移するSFなんだけど、どんどんエスカレート
していって全ての人類が私でしたみたいなオチになる。独我論っぽいなぁと思った。
ウィトゲンシュタインの独我論をテーマにしたエロゲでも似た話あった。

267 :
>>260
最初に問題を感じているのは<私>のほうで、その<私>が提起した問題に対して、永井が頭を使って哲学する
…みたいなことまでは言っています。

268 :
>>266
偏在転生という概念をそのゲームで初めて知ったな
ググッたら何故か永井に対する批判として紹介されてるんだよな
全ての人間が私だとしてどうして特別な<私>又は<今>が存在するのかという神秘性自体はこの考えによって減衰するどころか寧ろ増幅すると思うのだが

269 :
へぇ、そんな用語があったんだ
マンガは哲学するの多重なんとか探偵サイコの所で
「今は俺だ!」ってセリフを紹介してたけど、あれって「今は〈俺〉だ!」が隠れてたんだな

270 :
>>265
その「現にAとBの体を持っている私」として、
そして、Aの体が事故に遭う直前に、何かの理由で
「現にAの私」と「現にBの私」に分かれたとして、

「さっきまでAとBの体だったのに、何故突然事故に遭っているのがこの私なんだろうっ!!
 今頃Bの体の奴は、Aでなくて良かったと思ってるんだろうなクソッ!!」
と思うから、苦しんだり、Bに逆恨みするのであって、

「AとBの体を持ってようが、Aの体とBの体に分かれてようが、私は私だ」
と理解していれば、苦しまずに済むんじゃないかと思うんです。

これって、「こう書いている私」の感覚から言えば、
人間の感情レベルで起こってる事なんですよ。

喜怒哀楽の感情に囚われていると、楽しい時に「怒りたくない」「悲しみたくない」とか、
怒ってる時に「何故こんなムカムカしなければならないんだ」とか
苦しい感情を拒否しますが、よく感情を俯瞰してみると、喜怒哀楽関わらず、
「私として感じる、その質」は変わらない事に気付き、どんな感情でも、「私として感じる、その質」を
意識していればいいだけなんだと気付いたんです。
喜怒哀楽関わらず、「私として感じる、その質」は、共有されている訳なんです。

そう実感してからというものの、「どんな感情であっても、私である事に変わりは無い」という安心感が生まれ、
だから、怒っても、哀しんでも、その感情そのものに苦しむ事は減りました。

多分これ、感情レベルではなく、「Aの体」と「Bの体」というレベルでも、同じ事が言えるんじゃないかと、拡大解釈した訳なんです。
ボロボロになったアソパソマソの顔も、「どの顔でも、私は私」と理解できれば、悲しむ事は無いんです。
http://macchiro.tumblr.com/
↑の下の方

271 :
長々とすみませんでしたが、
「私として感じる、その質」を
意識していればいいだけ
では、0次内包という事になるんですかね?

無内包というのは、例えば、今このようにタイプしてますけど、
実は突き詰めると、「何故かこうタイプしている」としか言えない、
何故こうタイプしているのか、その理由を言葉で表す事はできないけど、
でも、だからこそ、言葉で表せない「それ」があるだろうと推測できる、
という事でいいのでしょうか?

272 :
>>270
論旨と直接関係なくてすまんけど、そのリンク先のアソパソマソ(?)の話って、
古い記憶さえ消去されればいいという前提に立ってるらしいことが
ちょっと面白いよなw

273 :
〈魂〉に対する態度〜〈私〉今そして神までとそれ以後で考え方が変わってると思うんだけど、どうかな?
前者は大学生以上の人が持ってる世界とか常識みたいなものを驚くほど素朴に受け入れて前提にした上で、
それとそりのあわないもの=〈私〉〈今〉を問題にしてて、後者はむしろ世界とか常識ってものが形成させる過程を描いてる。
だから前者でそりが合わなくてはじき出されたものの方を不動の前提として、それ以外をあぶくや糸のからみとして考えてる。
〈私〉のメタフィジックスは中間だと思う。

274 :
>>270
ヴィパッサナー瞑想とかに興味あるひと?
怒ったり哀しんだりという感情はあるんだけど
それをそとから観察している
みたいなことでしょ

275 :
>>274
そんな感じですね。
我流で似たような事意識していて、
後でヴィパッサナー瞑想がある事を知りました。

276 :
Don't believe the church and state. And everything they tell you.
Believe in me, I'm with the high command.

277 :
>>270ー271
瞑想のあたりの話が主な興味なのであれば、私の理解などを言っても仕方ない
かもしれないけど

無内包の話が恐らく一番イメージしやすいのは、「今」の話だと思う
昨日は、昨日の時点では確かに今だったはずであり、そして昨日の時点で
起こっていた出来事には何も変化がないにもかかわらず、今日の時点では、
今ではなくなっている
そして今日も、今日の時点では確かに今であるけど、それは何か特別な出来事が
起こっているからなどというわけでは全くなく、ただ単に今であるというだけであり、
そして明日になれば、やはり出来事には何も変化がないにもかかわらず、
今ではなくなるはず
このように、内容には何も違いがなく、ただ現に今であるかどうか、あるいは
ただ現に私であるかどうか、というだけの違いが、無内包あるいはアクトゥアリテート
という用語で言われている話だと思う

もし>>270の具体例を使うとすれば、むしろAもBも事故に遭う想定のほうがいいと思う
現にA・Bの体を持つ私が、両方の体とも同時に事故にあって、同じところを
ぶつけて同じ痛みを感じ、同じように「イテテ」とうめいたとする
しかし事故のショックで(?)、3秒後にBのほうの体は私の体ではなくなったとする
Bの怪我の様子もうめき声も、3秒前と変わらない
この場合、今やAだけになった私の痛みと、別人になったBの痛みは、内容的には
全く違いがない(と考えるとする)ので、ただ現に感じられているかどうかだけが違う
この違いが無内包あるいはアクトゥアリテートということになる

…と理解してるのだけど、素人がおかしな理解を蔓延させてたりしたらいかんので、
識者のご指摘ご批判歓迎

278 :
ロードス島の問題の意味が全然わからん
むしろあの本で自分で完全に解決してるようにしか見えない

279 :
>>277 いえ、大きなヒントになりました。
と言うより、私はそんなに熱心でもないのですが、
それでも、恐らく瞑想の本質とは、こういう事だと思いました。

>>247にも書かれている通り、実は、「現に」とか「今」とか「私」とか、言葉にした時点で、
落ちてしまうんですよね?「現に今」ではなくなる。

私の感覚だと、「私」を意識しようとした時点で、その「私」が逃げていく訳なんです。
そうではなく、ただただ、今感じている感情、今の行動に、ただただ自覚的であれば、
それを自覚している「私」が、自動的に立ち現われてくる訳なんです。ちなみにそうなると、
感情という内容は変わらないのですけど、それが「ただあるだけ」な感じに近くなり、
俯瞰して必要な対処をしやすくなるんです。

「今」もそう。「今キーを打とう」と意識する分だけ、「今」が逃げていく。ただただ「キーを打っている」だけで、「キーを打っている今」が立ち現われ、結果的に速く打てるみたいなw

永井さんの意図とはズレてるかもしれませんが、どうやら求めていたのは、こういう理解のようです。
ありがとうございました。

あと、>>263でアンチテーゼと思い込んでた、
「何故、「何故ここからだけ世界が開けているのか」と思い込んでいるのか?」
ですが、これは
「何故ここからだけ世界が開けているのか」
とセットでついてくるものかもしれませんね。こう問うたその問いを更に問うて見るというのは、思考の幅を広げるのに有用だと思います。

280 :
>>268
外部のなさってのを追求したところに偏在転生という考えがあるのなら、あっかんべえ一休の一休
みたいに、「私は木っ端微塵に吹っ飛んだのです、一体誰が〈私〉なんてものになりえましょう!」
って反論できるんじゃないかと一瞬浮かんだ。

281 :
ググった範囲でしか知らないのに言うのもなんだが、その遍在転生という
考え方によったとしても、ある時点(瞬間)を取り出したなら、そこで私と
私でない人の区別があるように思われるので、問題は何も変わらないように見える
後に実は私はその人に転生するんだ、と言っても、やはりその時点では、
その人である私と、その人以外である私でない人の区別があるのだろう
永井の私・今の議論との関係で何の意味があるのか、俺にはよく分からなかった
(ついでに言うと、別の議論との関係では、そのように転生して他の人に「なる」
ということはあり得ない、という永井の議論とは衝突するだろうとも思う)

282 :
所与のものとして世界、人間、時間みたいなものを認めるか認めないかの対立もあると思う。
この僕とかこの今とか言った場合は典型的に認めているけど、偏在転生という考え方は認めていない上で、
誇張的レトリックとして全ての人が自分だって言ってるのかも。もし他人の歯に歯痛があるなら、
それは私の歯痛だというように、もし他人なんてものがいるとしてもそれは私だ、と言うように。
ここで肝心なのはこの僕とかこの今と言ったときの山括弧内のなにかのような「点」ではないということ。
点、もしくはそこから弾き出された〈点〉として捉える思考法と、外部がないという意味で私という時の思考法は
相容れない。点で表現されることが本質的な山括弧論と、結果的に山括弧論と同じ点表現(私、今、これ)
などを使わざるを得ない外部の無さの表現は別物だと思う。
山括弧論は所与のものとして世界、人間、時間、様相を認める必要がある、外部の無さをただ表現したいだけの
人にはそれらを認める必要がない。ただし、なにかを表現しようとすればそれを認めているという前提でしか
日本語は機能しないがために認めているような外見を持つことになる。

283 :
ちょっと訂正
ここで肝心なのはこの僕とかこの今と→ここで肝心なのは、それは、この僕とかこの今と

284 :
>>282
永井がそのようなものを「所与のもの」として認めているとは、俺には思えないけど
所与ではないから、現にこの私にしか当てはまらないはずの「私」という言葉を
なぜだか誰でも使っている、だけではなく、皆が同じように「人間」である
という理解まで成り立つ、という過程の説明までをしてるんじゃないの?

そこは異論があるかもしれないので置いとくとして
遍在転生がレトリックというのがよく分からない
あるいは、そのようなレトリックで何が説明・解決されるのかが分からない、
とでも言えばいいだろうか
遍在転生こそ、私以外にも他の人間たちが存在している(だからこそ、その他人たちに
他の時点では私が転生している、ということが考えられる)という考え方のように
思うのだけど
そうではなく、実は全てが私であるということを強調しているに過ぎない、というのなら、
例えば他人が痛みを感じていても現に今の私は感じていない、ということは、
どのように説明されて、それと「転生」なるレトリックはどのように関係するの?

285 :
つうか仏教の何がそんなに面白いんだろう
唯識とかいきなり確かめようもない阿頼耶識とかほざかれて
反吐が出たんだが

286 :
自分が探してたものがそこにあったんじゃない?
求めてない人には需要がないから供給されても興味ないわってなるのは仕方が無い話しだよね

287 :
でも永井さんは阿頼耶識なんかは笑止千万な戯れ言みたいに書いてなかったっけ
仏教の面白いところはあくまでその哲学的疑問に対する目の付け所にすぎないみたいな

288 :
瞑想や禅への関連において言及したんじゃないの

289 :
統覚の数って数えられるの?
比類なきものじゃないの?

290 :
ちょっと新刊出てたから立ち読みしたけど
それ程連載のものと文章変わってない感じ?
直接見比べたわけじゃないから見落としているところも大分あるだろうけど・・
誰かほかにもう読んだ人いますか?

291 :
もうでてんのかよ フライングか

292 :
新刊『存在と時間―哲学研究1』発売記念age
内容はこれから熟読せねばと思ってるけど、とりあえず後書きにさらっと
「マクタガート「時間の非実在性」は近々に拙訳で出版される予定」
と書いてあって噴いたw
いや事情も知らない素人が反応する話ではないですが

293 :
28日発売と書いてあるのに

294 :
http://rapidgator.net/file/fc0582274a0dbae12b23ec89b91365e4

295 :
改行ないから読めたもんじゃない

296 :
奥付に書いてある日付より早く本屋に出るのが普通だと思うけど

297 :
アマゾンに頼んだけど、26日発送でまだ来ない
いつもなら翌日に来るのに止められてるっぽい
28日まで止めるなら100歩譲ってわかるけど、発売日の翌日まで止めんなアホ

298 :
マクタガードって客観的な時間の方を実在しないって言ったんであって、
矛盾の源泉たる〈私〉や〈今〉の方を本当にあるって言ったイメージなんだが

299 :
続編の存在と時間2は文藝春秋じゃなくて春秋社から出るんだって

300 :
別にどうでもいいけど、『存在と時間2』ではなく『哲学探求2』なんじゃないかと

301 :
哲学探究じゃなくて哲学探求とか哲学的探求にしてほしかった

302 :
自分のやっていることを「探し究める」と言い表すのは、
さすがに謙虚さに欠けるだろうか

303 :
「存在と時間」読むために古い本勉強しているのですが
敏→無内包、敏一→第一次内包、敏二→第二次内包、敏三→第○次内包
であってますか?

304 :
>>294
〈私〉の哲学はドイツ語やラテン語より日本語や中国語のほうが相性がいいというのは面白い

305 :
そのtxtファイル読んだのか 俺は目がチカチカしてギブしたw

306 :
保存したのを普通にタブルクリックで開くとメモ帳で開いて、改行されてなく読みにくいという意味なら、
保存して右クリックして「プログラムから開く」からワードパッドで開けば改行されて見られるよ。
そのままテキスト形式で保存し直せば、メモ帳でも改行されて見られるよ。
メモ帳の改行コード制限の問題。

307 :
アウトサイダーアートのほうが相性がいいというの

308 :
>>306
うぉぉありがとう できた!
ワードパッドの存在をはじめて知ったw

309 :
タテ問題とヨコ問題って言ってるけど、アイジンヒトってタテ問題もかなり言ってない?

310 :
アイジンヒト× インサイト○

311 :
5章の第一基準と第二基準が連載時と入れ替わってるから先に7章のあたり読んでいて混乱した

312 :
ところで今日BOOKOFFで中田考「イスラームのロジック」新品より大分安い値で売ってたから買った
あとがきの直前に永井さんの本からの引用ありました

313 :
新田恵海とAVでてる人は別人らしいですが、存在論的差異ですかね

314 :
新田恵海である私にとっても別人ならそうであるかもしれないが
単に他人であるだけだろうな

315 :
朝日カルチャーセンターの講座で『存在と時間』をやってるけど、本だけでなく
直接聴くとやっぱりいろいろ面白いな
「変化にA系列は関係ない、変化はB系列だ」って、確かにそう言われればそうなのかw

316 :
まだ途中だからあとで言われてるかもしれないけど、〈神〉の唯一性が〈私〉の唯一性へって逆だよね。
宗教学者に褒められて舞い上がったんだろうか。

317 :
>>316

<私>の唯一性のほうがむしろ先ですね、とp.105に書いてある。

318 :
やっぱ言われてんだw

319 :
復刻された滝浦静雄の「時間」(岩波新書)今のうちに買っておいた方がいいと思う
岩波は文庫もそうだけど一度品切れ重版未定になるとなかなか再版されない

320 :
気のせいか?永井さんのメインの本が出る時って地震起きる気がする
確か私・今・そして神が出た時、丁度新潟中越地震が起きた頃だった
本屋で立ち読みしてたら揺れて来た記憶がある

321 :
気のせいだな

322 :
「私・今・そして神」の出版日
2004年10月20日

新潟県中越地震
2004年10月23日

323 :
これだけ出してれば
まぐれ当たりぐらいあるだろ

324 :
永井さん以外の本も出とるがな。

325 :
「誤診」のあこくないがどうのって議論がどうしてもわからなかったんだが、
「存在と時間」で補完されててやっとわかったわ。
応用のようで後発の本の方が先発の本より言葉が足りててわかりやすいことがあるな。
でもウィトゲンシュタイン自身も存在と時間の論点でこの例を出したかは疑問だなw

326 :
人称=私、時制=今、様相=現実
で、様相性=現実性、が他の二つより上に食い込んでいて最上段にある、
っていう理解であってますか?

327 :
最上段をそこで持ち出すのは違う気がする

328 :
様相が直ちに最上段、というわけではなくて、例えば「あなた」や「彼(女)」が
「私」である可能性を想定できる、とか、「過去」や「未来」が「今」であった
(または「今になる」)ことを想定できる、というように、人称や時制を実は
可能性(様相)と説明することが可能であらる、というようなことじゃないかね(適当)

329 :
未だに最上段がたくさんの人達の中で自分だけ他とは違うあり方をしているという素朴な事実をさすのか、
それが全てだっていう私界未分をさすのかわからん。20年くらいわからん気がする。

330 :
そのどちらか、という疑問であれば、後者ではないのは明らかじゃないかね(適当)
私界未分というだけなら、誰にとっても(!)当てはまるだろうから

331 :
私界未分の私はそれ以外のものがなにもないってことだから
「誰」なんてものの成立以前のはず。
西田幾多郎の本で解説されてた、私の底で神に出会い、神を通して他者を認めるというプロセスが必要。
ウィトゲンシュタインが見ているものや自分や記憶すらどんどん変化して
いっても気にしないって言った時の表現が私界未分の気分に近いと思う。

独在性の私と私界未分の私は同じなのか違うのかどの程度一致するのか、そのあたりがわからない。

332 :
悪いけど、哲学の歩みが根底から間違ってると思うよ。
私を僕と言い換えることができますか?
できないとしたらなぜ?
できるとしたら、すぐに根本的な問題に気づくはず。

333 :
>私界未分の私はそれ以外のものがなにもないってことだから
>「誰」なんてものの成立以前のはず。

そう言われればその点はそのとおりだと思うけど、とはいえやっぱり「そうだ、
「誰」なんてものの成立以前だ」と誰もが(!)言うからねw

334 :
僕とは言えないけど、私とは言えると考えるとしたら、もう思考停止の表れなんだよね

335 :
>>332
子供の頃から、「これ」を指す一人称の、どれを採用すればいいかがわからない。

336 :
>>335
ペットボトルで良いじゃんってのが〈私〉の哲学を哲学するの議題だったな

337 :
「これ」を指す?
「これ」って目の前にあるもののことだよ?

338 :
ネタにマジレス
「私」「僕」「あたし」「それがし」「ミー」等々、単に表現としてどれを使おうと、
永井が論じているような一人称の問題とは何の関係もないのは明らかだろw

339 :
関係ないなぁと思って「ペットボトル」とか「今」とかにまで広げてしまうと、
永井自体が私と今を分けて論じてるからこんがらがるんだけどなw

340 :
永井とか読んでないからしらないけど、
一人称としてどの表現を使おうと関係ないなら、「一人称の問題」なんて
呼ぶこと自体が間違ってるんだよ?

341 :
まあ、「私」という一人称を使ってるのだから、「私」という一人称が
議論に関係ないと主張するなら、その根拠を示す責任は、それを主張
する側にある。

342 :
ペットボトルはペットボトルだしな。

343 :
「僕」「あたし」「それがし」「ミー」等々が関係ないと考える理由は単純
永井の議論のポイントは無内包なんだから、その人の性別とか生まれた時代とか
出身国(じゃないかw)とかの個別的な内容・性質(内包)は影響しないだろう、というだけ
しかし例えば「今」とは性質が違うところもあるし、「ペットボトル」じゃさすがに
意味が分からない(少なくとも俺には)という意味で、内包が本当に全く関係ないのかは、
よく分からない部分もあるとは思うけど
「今」で言えば、「now」と言おうが、あるいは「今日」と一日単位の区切りを入れようが、
議論のポイントには何も影響しないだろう(適当)

344 :
基礎から混乱してるとしか思えないね

345 :
「僕」と「私」で一方だけは言えるとか、意味が異なるとか考える人が、
基礎から混乱してるということですね分かります

346 :
地震のせいで新刊あまり読めてないんだけど、P158の12行目に
「〈私〉とは何か、という問いはどうだろうか。これには二つの問い方がありうる。」
という出だしで>>329の2つの最上段を問い方の違いだと言ってるね。

347 :
>>346
確かにその箇所にはそのような趣旨のことが書いてあった
しかし本当に後者のような問い方のみをするとすれば、「他の「これ」」などという
可能性を全く想定しないことになるので、そうなれば他の段などというものも
ないだろうから「最上段」という言い方自体がなく、また「私・あなた・彼(女)」や
「今・過去・未来」という区別もしないだろうから水平方向の系列もなく、
ということになるんじゃないかね

348 :
で、永井氏の結論はなんなの?

349 :
独我論

350 :
>>348
結論なんてあるのか?

351 :
じゃあ、なにがあるの?

352 :
永遠の問いでしょ

353 :
レトリック芸

354 :
複眼的に見なさいってことでしょう?

355 :
本質って単語、実存との対比で使うときと普通に使うときで全然意味違いすぎて読みにくいわ

356 :
>>355

たとえば何ページあたり?

357 :
>>356
存在と時間P167の最後の行やP168の5行目あたりからの
部分で「本質的-非本質的」の対比で使われてるんだが、
直前まで(P164〜)の文脈では「実存-本質」で使われてる。

関係ないけど、「存在論的差異」の「存在論的」と、
「存在論的証明」の「存在論的」も全然意味合いが違うと思うんだけど。

358 :
存在論的証明の方は、ロゴス原理的証明と言い換えられると思うけど、
存在論的差異の方はまさにそのロゴス原理に現れない差異のことを指摘するためのものだから。

359 :
ふつうの言葉で説明するとどうなりますか?

360 :
なんとか瞑想のことはよくわからんが、くしゃみが酷かったときに客観気取りで自分のくしゃみの
衝動を内観(観察)したらホントにくしゃみが止まったw

361 :
そりゃずっと学生だもんな
なんとなく頭が冴えないよな

362 :
>>357

そうですか。まだその前の章までしか読んでなかった。

363 :
>>357
そりゃしかし文脈で分かるだろう、としか

364 :
ここにはヴィパッサナーとか瞑想をやっている人はいますか?

365 :
>>364
ただ行動し、ただ歩く事を意識するとか、似たような事をやってると思っていて、
>>270にそのへんの感覚を書きました。

366 :
>>365


なるほど。
質を意識する、というところは瞑想的(というか、瞑想)だと思います。ヴィパッサナーのように特定の名前が付いた仕方ではないかもしれませんが。

367 :
ところで大学院の学費はあるの?

368 :
ttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SI/BunkoSyuppan?sppnscd=00004&taishongpi=201606&listcnt=0
『なぜ意識は実在しないのか』の改訂版の情報が出てたようだ

369 :
そんなのでるのか

370 :
永井さん一度書いたものを書き改めるというのは聞いたことがない
単行本の内容に「私の哲学を哲学する」のビンゾの話とかを足すぐらいでは
実質増補版的な内容と予想

371 :
元々文庫とさして変わらんサイズだったのを文庫化って

372 :
増補でなくて書き改めたみたいですね。
そういえば中田考さんの「イスラームのロジック」大幅に書き足されて
「イスラームの論理」筑摩選書として再版されましたね。

373 :
小学生のとき授業参観のときの変な授業で「心はどこにあるのか」ってことを
話し合う奴があったんだけど、「なぜ意識」はあの授業の解決編って感じがするわw

374 :
あの本の「自他の非対称性」って言い方がちょっとのっぺり?とし過ぎている気がして
(「と累進性」って併記されている箇所もあるとはいえ)
「自他の階層性」?ぐらいの表現でもいいような気がします

375 :
階層性という意味では他者は現実に他者なのだから現実に私が私であるのと同じ階層で他者は他者だろう
その他者もまた私である(そう認めなければ私が私であるということに意味がなくなる)のが累進構造なのだから

376 :
そうやってボクはパパとママから逃げ出したんだ

377 :
大文字のパパとママか

378 :
アナロジーとかディスアナロジーとかって
どういう本読めばいいのか

379 :
存在と時間読んでるけど、中盤あたりで執拗に人称と時制を比較しようとしてるのが、
なんでそんなにやりたがるのかまだわかんないなw

380 :
「無為の日を危うく忘れるところだった」ワロタ
しかし「無為」を意識的に忘れないようにしたり、ましていちいち記録したり
したら、「無為」ではなくなってしまうのではなかろうかw
とは言え、どうでもいいことにかまけてるうちに時間が経って、真に重要な
「無為」をつい忘れそうになるのは、感覚的には分かるような気がする

381 :
>>380
それ、単に6月1日=無為の日だったという事実を忘れかけてた、
て事でないの?


悪は善を知っているが、善は悪を知らない。

カフカ知らない無教養者だけど、ゾッとした。
戦争は、正義の味方しかしない。

382 :
よくよく行為の元を辿れば、「ゲームをやっているこいつ」もただ起こっているだけで、
行為をしている何者かなど居ない訳だけどね。
それに気付けば、いつでも無為。
永井さんは、それに気付いていると思う。

383 :
そうか、そっちの発想はなかった(元のツイートの文脈からは外れるだろうとは思うけど)
もちろん、いつでも無為の境地に達していれば、6月1日などという個別の日付など
どうでもいいことになるだろう

384 :
脳梁がガバガバで観念奔逸なのは露骨だけど
前頭葉にも機能的な障害があることが判明するなんて

385 :
6月1日が無為の日って
事実なのか

386 :
前頭葉の機能的な障害とかは双極性障害だろ

387 :
鼎談仏教3.0も書籍化ですか
うちの近所の書店では「存在と時間」
精神世界のコーナーに置いてあります
スピリチュアルみたいな扱い・・

388 :
正直旧版も持っていた方が分かりやすいような?旧版絶版?
朝カルで「意識は実在しないのか改訂版」の講座とかやって欲しい

389 :
図書館で借りてきた
アサファパウエル存在忘却。。

390 :
遅ればせながら『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』発売記念age
確かにウサインボルトへの変更ワロタw
大きく変わった部分について、後書きで頁数が明示してある親切設計ですな
しかし、なお十分な説明になっているのかは、少なくとも俺ごときが一読したくらいでは、
正直よく分からない
「私の第〇次内包」というものは、第〇次内包と無内包とを明確に
区別した場合に、なお成り立つものなんだろうか?

391 :
そりゃ成り立つでしょ
私と全く同じく傷んだり喜んだりする存在はいくらでも実在していいんだから

392 :
尼で中古をほぼ新品とか書いて2000円越えで売ってるマケプレがw

393 :
可能性はこの現実が前提であってその逆ではない
可能性というのはこの現実から、脳が勝手に「あれだったら」「これだったら」と
空想を暴走させた後にできるまがい物
なのに可能世界論とか真面目に議論してるやつはこっちを前提にしてしまってる
ライプニッツの弁神論なんてその典型例
「神はあらゆる可能な世界からこの最善の・・・」ああもうここで間違えちゃってる(笑)

394 :
カントの超越論的なものも同じだと思う
まず経験があってこその超越論的なものであってその逆ではない
ましてや超越的なものでは絶対にない
別に夢を見ていて夢の原理を知ったところで夢から覚めるわけではないんだよ
もちろんカントは馬鹿じゃないからそんなこと分かってたけどね

395 :
だから永井さんよ
私は家康でもよかった、ヒトラーでもよかった・・・でも私はなぜか永井均だ!
なんて馬鹿な議論はやめましょうよ
この人プラトンの『国家』とか読んだことないのかね?
自分が洞窟にいることが分かったからといってイデアを見たわけではないのだよ
永井くん

396 :
>>393の書込という現実は、
>>393を書いた人間の脳が勝手に「あれだったら」「これだったら」と
空想した後にできたものではないの?

397 :
>>395
その問いを問いと感じない者は、永井さんはどうだっていいんだよ

398 :
言語というものが、世界の唯一性を遡求的に否定して可能世界を作り出す力を持ってるんじゃないかと思う
永井は世界の不思議さや自己の不思議さではなく、そういうものについて語るときの構造の不思議さの話をしている

399 :
>>398
ああ、そうだったんですね
私のミスリーディングでした
てっきり神秘的なことを言おうとしているのかと
それだったら理解できます。ありがとうございました

400 :
俺は神がキリストを派遣して人の世のもめごとを解決しようとしたようなイメージが永井哲学にあるなぁ
私今神で書いてたある名づけえぬもの(という神)が人称様相時制という人の世にあえて堕して、
その内側からしか暴けないそれらが隠蔽したもの(ある名づけえぬもの)を思い出していくっていう
哲学する理由は様々とか理由がないなんて微塵も思わない ただそれを思い出すの気持ち良いって一点だけ

401 :
「自分はなぜ自分なのか」という文には違和感を感じる。
それと同じという事か。

402 :
誤爆した。すまん

403 :
哲学ってやっぱりうまく生きられない悲しい人がするんだなあと思う
しかもうまく生きられない人には宗教が用意されているけれども
それさえも救ってくれない本当にかわいそうな人たち
もちろんこれは太宰治的な「うまく生きられないからこそすごい」
みたいな屈折した優越を意味しているのではなく
純粋にかわいそうな人たちということ

404 :
>>403
ルサンチマン乙
真理を体得した人間が得た悦楽など
お前ごとき凡夫にはわかるまい
一生地べたを這いつくばって生きてろ平民w

405 :
>>403
ここに引き寄せられたのもなにかのご縁だろう。
憧れに似たもの?を胸に強く生きろ。

406 :
人はそれぞれ上手く生きられない何かがあって(完璧な人間なんて幻想でしかない)
それでも解決策を見出したくて何かを求めるのんだと思う
僕たちはそれがたまたま哲学だったってだけの話じゃないかな
僕はそういった仲間が欲しい
身近にいないからこうやってネットを使って(これ自体画期的で、親世代はこういう方法は不可能だったんだから)
何か共通なものを見つけたい
個人化が進んで、身近な他者と上手く関係を築けない時代だからこそ、ね

407 :
ビンゾの話とかも改訂版に盛り込んで欲しかった

408 :
永井さんは、そういう悲壮感とは無縁じゃなかった?
単に
「なぜか<ここ>からしか世界が開けていない」
事に気付いて、それを問い続けているだけだったかと。

409 :
>>408
生きる苦しみから始めんなってどの本か忘れたけど言ってたな

410 :
まぁその辺は逆のことも言うし

411 :
人称・時制・様相が「言語の見せる夢」なのだったら、抽出される私なるものも「言語の見せる夢」なのでは?

412 :
んー違うな
<私>は全てがそこから始まる根源的な場所を指してて
もはや指し示すことも出来ないんだけれども
正直、これはその境地に達した人にしか理解できないんじゃないかな?

413 :
唯一本当にあるものを私と呼ぶのはただの筆者の癖 それこそペットボトルでもいいし、
言語で表現すべきいわれもない

414 :
>言語で表現すべきいわれもない

じゃあどうやって表現するんですかね?
まさか直観とか言わないよな?

415 :
言語化という車を走らせるための透明な道路がドコにしかれているか、見てとるだけで良いんだよ
車を無視するのではなく分析することで、道路とその元の地盤に達することができるってのが哲学の偉大なところだと思う
ジャングルを研究するのに車を分解するようなもんで、普通は思いつきもしないよ

416 :
>言語化という車を走らせるための透明な道路

だからそれも言語の見せる夢でしょ

417 :
洞窟に縛られていることを知ることとイデアを見ることを混同するやつが多すぎる

418 :
今話題のスラヴォイ・ジジェクと期待の新鋭マルクスガブリエルの共著『神話・狂気・哄笑』を読みました
いろいろ興味深かったけど最後のリルケの詩が一番深かった
特に「否定なきどこでもない場所」ってやつ
まんま永井じゃんと思った

419 :
しかしヘーゲルをあんな風に読めるとは思わなかった
世界精神だの理性の狡知だの言ってるから永井とは全く無関係だと思ってたが
また『精神現象学』チャレンジしてみようかな
挫折しそうだけどw

420 :
ヘーゲルはわりと分かりやすいと思う。
なんかいわゆる用語とか述語に煙に巻かれる感じがするけど、
無視して感覚頼りで読み進めると、ははぁ〜んって来るよ。
難解って思わない方が楽に読めると思う。あのオッサンのひらめきを共有できるかどうかやな。

オレが世界で世界がオレでってやつは、永井の独在論にもつながってくる話。
ヘーゲルはそこから進まなかったけど、西田なんかはオレは世界だけどオレの世界、
オマエはオマエだしオマエの世界、でも世界は一つ。
なんつって絶対矛盾的うんたらって話。

<私>とか<物自体>なんていう話は哲学では普遍的で2000年かけて
ゆっくりゆっくり理解が進んでる話なんだと思う。
数多の哲学者が討ち死にしてきた崇高かつ原点のテーマなんだろう。

永井が生涯でどこまで迫れるか、彼の著作を楽しんで読もうと思ってる。

421 :
語りえぬことについては沈黙せねばならない

んじゃ黙ってろカスww
口を真一文字に結んでその場に佇んでろw

422 :
『なぜ意識は実在しないのか』の最後の部分

――この講義の内容も言えないんじゃないですか?
永:おそらく正しい解釈だと思います

んじゃ授業料返せやボケwww

423 :
>>421
ウィトゲンシュタインが考えに考えぬいて到達したその地点に
お前はなんでそんなに安易に立てるんだ?

じゃあ、語れや。無理だろうけど。

424 :
もちょっとぶあつくなってもいいから、文字大きくして欲しかった、小さすぎ
意識改

425 :
>>411
「抽出される私なるもの」なる表現が何を指してるのか、よく分からんけども
誰にでも当てはまる「私」を指してるなら、それも言語の見せる夢なんじゃないかね

426 :
>>422
改訂版で記述が変更されてて、しかもTwitterで直近の話題になってた部分を
わざわざ取り上げるとは、なかなかベタなネタ振りですなw

427 :
>>422
論理哲学論考と同じだろ

428 :
>>422
屋根に登ってしまったら梯子はもはや必要ないが
だからといって初めから梯子がいらなかったことにはならない

429 :
時間の話は「存在と時間」の方が「私・今・そして神」より分かり易くて
(というか国語的に読み取りやすい)
これはこれで面白かったけど
それよりも自他非対称とか内包と志向性とか
そっちの話の方をもっと詳しく読みたい
「存在と時間」の続編でもう一回その辺の話を書いてほしいし
機会があれば講座も聞いてみたい

430 :
デカルトの神を脳へ置換たのが養老孟司(笑)っていう理解(笑)でよろしいでしょうか(笑)

431 :
最初と中盤からで想定してる読者が違うって存在と時間に書いてあったが、
連載を単行本かした奴じゃいつもの話じゃねーかと思ったw
私今神もまさにそれだし

432 :
しかしタイトルが『存在と時間』って
ポスト・ハイデガーでも狙ってんのかな?

433 :
存在と時間に関する哲学的探究です

434 :
風間って人の「ならなぜそれを言葉で考えていくことが出来るの?」という問いは、
『ウィトゲンシュタインの誤診』や『ウィトゲンシュタイン (KAWADE道の手帖)』の
「たまたまの孤独」の言語化に関する論旨(見地)、それに『存在と時間』の「針に見立てる」という
議論と密接な関係があるのに、なんでわざわざ私今神の話題を引っ張りだして論点ボカしてんのかな。
『誤診』のときも「ロードス島」に対するひとつの方策として言語化の視点は出されたわけだけど、
俺には一つの方策じゃなくて完全に解決させてるとしか思えない。
そもそもこれしかないという見地にはタウマイゼンがない。〈場所〉は驚かない。
〈場所〉(の哲学の見地)は針化を許さないので、文字盤のどこかに自分がいる驚きとも真の意味で無縁。
私今そして神のタウマイゼンは文字盤のどこかに関するタウマイゼンだった。
裸の王様を使って表現すると、〈場所〉は王様で文字盤が服。服の存在は今現に王様自身が捏造していくしかない。
文字盤が透明なら、文字盤のタウマイゼンもまた透明の上塗りだった。

435 :
数学的ソーメンしか存在しない世界には、幾何学は含まれるのだろうか(適当)
いや数学は正直全然分からんのですが

436 :
主体なき世界って正直全く理解できない

437 :
数学的素麺っておいしいのかな?

438 :
>>436
任意の主体が存在しない世界が想定可能なら
それを一体ずつ増やしていけばいずれは主体のない世界になるよ

439 :
そもそも複数の主体が同じように世界の中で存在しているというのは、
言語の見せる夢なわけで、その夢のような見方をしなくなれば、それがすなわち
主体のない世界だろう
と、理解してよければ、別に難しい話でも何でもないとは思うんだけど

440 :
>>439
なんで言語の見せる夢なわけ?
君はビッグバン宇宙論や進化論、認知科学や脳科学の知見を全否定するわけ?
まさか言語が太陽やアンドロメダ銀河を生み出したとか言うんじゃないだろうな?

441 :
>>440
いやむしろ物理学にも認知科学にも主体などないわけだが・・・

442 :
>>440
その点は>>441のとおりで、ここで言ってる「主体のない世界」は、物理学とは
別に関係のない話だと思うけど
物質と、心とか意識とかを対比して、後者だけが存在する(観念論?)と考え、
かつ、その心とか意識とかは私のものしか存在しない(普通の独我論?)と考えるなら、
ビッグバンとかを否定することになるかもしれないが、「主体のない世界」は
別にそういう話じゃないと理解してるので

443 :
いや、ある「主体」のある「世界」において
その世界の中での「主体の無い」ものがあるだけだろう。

それこそ有即無なんじゃねーの?

444 :
>>443
>ある「主体」のある「世界」において
>その世界の中での「主体の無い」ものがある

どういう意味?

445 :
西田幾多郎の本の
「無の場所」とか「無のさらなる無」とか「別の無の場所」とか
そういう対比で無内包とか0次1次2次内包とか累進構造説明した方が直観的にわかりやすい気がする。。
説明というかあの図が。
正しく分かる人いたら当てはめて説明してみて下さいm(__)m

446 :
無の場所はここにしかないはずなのに、あり得ないはずの「別の無の場所」が
なぜだか認められ、さらにその「別の無の場所」のほうも「無の場所はここにしか
(以下略)」と言い出す…というのが累進構造
無の場所が無内包
そして、このあたりの話と〇次・一次・二次内包の話は、実は厳密には関係ない
と、とりあえず適当に答えてみた

447 :
>>444
世界は一つだが、同時にお前の世界はお前の世界だし、オレの世界はオレの世界でしか無いってのが同時に成り立つってことよ。

448 :
>>447
累進構造を考慮に入れないとすれば、「世界は一つ」と「同時に」、
「お前の世界はお前の世界だし、オレの世界はオレの世界」というのが成り立つ
(つまり世界は複数?)というのは意味が分からない
しかし累進構造を考慮するのだとすれば、それぞれみんな私であるわけで、
つまり複数の主体が存在すると考えるわけで、もとの「主体のない世界」
という話との関係が分からない

449 :
>>447
お前の世界はお前、の中に出てくる「お前」が何を意味しているのかさっぱり分からない
〈私〉の世界で〈汝〉は絶対に現れず、現れるのは「彼」つまり〈私〉の中の汝←(〈〉が付いてないのに注意)でしかない
>>447がお前というのは全く勝手だが、そのお前は<汝>ではなく「彼」でしかない

450 :
一応付け加えておくと
一行目の「何を意味しているのかさっぱり分からない」とは
理解できないということではなく、そもそもそれは言えないだろうということ

451 :
「私は殺されることによって生まれる」『西田幾多郎』(p96)
=「殺されることによって、私は生まれる」
つまり
私が〈汝〉の場所で生まれること=〈私〉が〈汝〉によっての私となること=〈私〉が殺されること

452 :
× によって
○ にとって

453 :
竹宮恵子のエデン2185って100年かけて別の惑星へ移住しにいく話読んだけど、
結構おもしろかった。移住のために最も苦労した人達は年数的に全員移住できないという内容。
セス・アイボリーの21日の紹介読んでくだらないとしか思えなかったけど、一端こういうので
「人生の目的」みたいなお題目に単純に感情移入したあとに読むとおもしろそうだと思った。
最初からなんの感情移入もできてない状態だとセスアイボリーの皮肉が皮肉として響かない。

454 :
>>449
「お前」はたまたま質問を投げかけてきた君に言ったまでで、
<他者>以外の意味は持たない。
用語をめんどくさく使っていくとゾレンに嵌るぞ。

世界は複数? って言ってる時点でなんだかなぁ。
そんなもん、一即多でしょうよ。

オレにはオレの世界があり、お前にはお前の世界がある。
オレの世界にとってはお前の世界はオレという主体は無いし、
お前の世界にオレという主体は無い。

用語で緻密に行くのもいいけど、
ここってとこでは感覚でちょい飛躍して欲しいと思うんだな。
そこんとこはウマく説明出来ん。能力不足で恐縮せざるを得ない。
だけど、なんだか、肌感覚で「分かる」ってのは君も体験してるだろう。
ヘーゲルに「おぉ!」ってなった後に幾多郎にさらに「おぉ!」って感じたアレ。
永井氏の言説には同様の「驚き」を感じるんだよ。だからオモロイ。

455 :
30年近く人間をやっていると、
そんなものに驚きを感じる貴方の若い感性の方が興味深い、
と思ってしまうのだが、
これはまあ、ニヒリズムなんだろう。

456 :
年は関係あるのか?

457 :
運命には逆らえないみたいな言い方するときの二義性にきづいた
運命=事象内容、と捉えておいて事象内容に現実性は関与できないという意味のときと
運命=因果応報、と捉えておいて事象内容の内部から事象内容の内的性質を謳ったもの
の2つ 上が存在論的で下が存在的

458 :
野矢の『心という難問』の注で『哲学の密かな闘い』所収の「野矢茂樹『語りえぬものを語る』一八章における私的言語論の批判」が一蹴されてて笑った

459 :
>>458
あれは吹いた
でも本人はどう答えるんだろう
単なる誤読の指摘だからあんまり面白くはない返しではある

460 :
>>459
永井と野矢で問題にしている「私的言語」がズレているだけだからなあ
この点に関して言えば0次内包と無内包の区別を導入している永井のほうが優れている
というか野矢は無内包をおそらく認めない

461 :
痛みそのもの(第〇次内包)概念がなければ痛みの身ぶり概念もあり得ないこと考えると

前第一次内包を経て第〇次内包からさらに経由して第一次内包になるんじゃないかな?
無駄に言葉を上乗せしてるだけだろうか

462 :
該当箇所近辺をパラッと眺めただけで言うのもなんだけど、野矢は確かに
無内包を認めない(レアリテート・内容のあるものしか存在しないとする)ような気がする
しかしそれ以上の疑問があって、野矢はひょっとして第〇次内包も認めないんだろうか?
もしそうだとして、それは感覚や体験を語る言語、つまり普通の人が
普通に使っている言語を、適切に説明できるのかなあ?
というのが素朴な疑問
いやそれとも第〇次内包は認める、ただしそれは野矢の定義する私的言語ではない、
というだけのことなんだろうか

463 :
宇宙の缶詰の話で「逆なんかでもない」って言ってるけど、
同じ調子で「どの缶詰が僕なんだろう」に対して「どのなんかでもない」って言えないかな

464 :
「私の言語の有意味性がカイビャク」って論旨が全くこれっぽっちも理解できないんだが、
これって「何が見えていようと見ているのは私だ」ってカイビャクとは違うものなの?

465 :
第一次内包って外延だと思うんだけど違うの?

466 :
一次内包が外延なら二次内包もおそらく〇次内包も外延なのでは

467 :
最近のツイート見て、一瞬「なぜこのタイミングでいきなり政治的発言?」
とか思ってしまった
有為に毒されてていかんですな、来年6月1日が待ち遠しいw

468 :
『存在と時間 哲学探究1』P.283の註で

 『なぜ意識は実在しないのか』(単行本版)では、意識とは「私秘性を実体化したもの」
 だといっているが、これはのっぺりした世界像の変形にすぎず、誤りである。むしろ、
 この意味での独在性をどこまでも相対化したものだ、と言うべきであった。

って書いてあるのに、『改訂版なぜ意識・・』の方で訂正されずに「実体化」のままになってるけれど
これはまた実体化の方が正しいかなということに変わったのか?

この人のカスタマーレビューも「私秘性の実体化」になっているけれど。。
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4006003501/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=helpful

469 :
中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)

性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ:  ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってRするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。

470 :
現実性って世界や人物みたいなのを無理矢理固定したときにでてくる「しわ」みたいなもんだと
考えるとすげーつまんない話に思えるよね 味のしなくなったガムみたいな

471 :
様相化って可能化とも言い換えられるけど、可能化で社会が出来上がると考えると、
アンチ可能化(ひとつの可能性にすぎないものを絶対化して外部をなくす)で社会が出来上がるって
側面もあるよね

472 :
質疑応答でメアリーが自分が赤だと思ってたものが青だった云々聞いてる人いるけど、
「赤」って単語は使わずにそう思ってるだろうからそれは起こりえないのでは。
逆から考えると英語と日本語の世界が初コンタクトするときに、英語で赤を「AO」と表記
していて青を「AKA」と言ってたとして、「逆だ」とは思わずに「ある程度一致しててビックリ」
ってなると思うんだけど。
あと永井の色の話は色同士の関係性の話を完全に無視してるのがナイーブに感じる。
ウィトゲンシュタインが色彩についてで探ってるような洞察が全然ない。

473 :
その話は確かに何か変な気がするけど、どこがどう変なのかは結構難しいように思う
(素人としては)
その話が成り立つとすると、「赤とはこれこれの波長が網膜に到達して云々」
という物理学的知識(第二次内包)を得て、さらにそれを自分で使用して「なるほど、
これが赤なのか」と見て感じて(第〇次内包)、そして外の世界に出て夕焼けやトマトを
見たら確かに赤く見えるのだが、ところがなぜか人々は夕焼けやトマトを見たら
「青い」「ああ青いねえ」と言ってる(第一次内包)、という事態が生じることになると思われる
それがおかしいように思われるのは、夕焼けやトマトと切り離した「赤」の概念
などは考えられないからだ、という理由ではないかと思われる
それがつまり第一次内包が根底的であるということだ、という理解でよいのだろうか
しかし、痛みで同じように考えてみると、「神経細胞がこれこれの状態」という知識
(第二次内包)があり、自分は痛みを感じている(第〇次内包)のだが、同じ状況の人々は
「痒い痒い」と言って該当箇所をポリポリ掻いている、という事態になり、それはしかし
当人が痒いと言ってるのだから痒いのだろう、と理解することも可能と思われる
ううん何だかこんがらかるな

474 :
こんがらがるよなw

475 :
独在性も現実性も理解できない
読み替えを問題にしたいなら「読み替え性」って最初から言えば良いのに

476 :
独在性や現実性を理解できない人が、「読み替え」だけを理解するということが、
あり得るの?
永井の言う「読み替え」は、現に唯一ある(はずの)独在性が、なぜだか誰にでも
一般的に成り立つこととして理解されてしまう、ということであるはずだから、
独在性を理解してない人が「読み替え」だけを理解するなんてあり得ないことのように
俺には思われるんだけど
(これは理解できるのが偉いとか理解できないのが悪いとかいうことでは全くなく、
ただ専ら、用語・概念の問題としてそうならざるを得ないのでないか、という疑問)

477 :
「私は私という言葉で特定の人物を意味しない。」
これが読み替えられていくことを独在性という一方で、
特定の身体を指すことが読み替えられていくことも永井は独在性って言ってない?
その辺がわけわかんねーなぁといつも思うんだ。

あとなにかしらの軸を受け入れた上でその軸に収まらない自分に驚くってやり口と、
そもそも軸なんてなくてあるのは自分だけだってことに驚くやり口の区別があいまいなときがあるのもわけわかんない。

478 :
それぞれの「独在性」があって(独在だから当たり前だけど)、
でも共通項は「読み替え」可能ってことなんじゃん?
なんかそう読んだけど、オレは。

479 :
>>478
違います

480 :
チャーマーズについて書いたものとか英訳されて
本人が読んだりしているのかなぁ

481 :
すまんけど「それぞれの独在性がある」などという言い方を何の留保もなく
使いだす時点で、何かよほど該当箇所の頁を示すなどして詳しい説明でもないと、
どこをどう読んだのか首をかしげざるを得ない
いや、簡単に理解できる話だと思ってるわけでもないけど、本当に「なんで?
どこを読んだらそうなるの?」というのが第一声にならざるを得ない

482 :
私とはEigentlichkeitなんだよ
死を思えばいい、それは私の死であってあなたの死ではない
他人の死は私の死ではない
それぞれの死という語り方が違和感ありまくりなのがわかるだろう
死について三人称視点はありえない

483 :
ウィトゲンシュタインの誤診で表現されてるような独我論だと、
いちいち死なんか持ち出さなくていいんだけどな
なぜ意識でハイデガーと死のこと言ってる質問者も「辛うじて開示される」
ときっかけになる程度のニュアンスで言ってる 投げ捨てるはしご的な

484 :
永井ファンこそ読むべき、メイヤスー『有限性の後で』
http://www.amazon.co.jp/dp/4409030906

485 :
われわれはやがて「珪素」によって自己複製する存在者に敬意を払わねばならない時代がくるだろう
そのとき、この人間、すなわちわずか数百万年前に生まれ、たかだか数千年前に自意識―世界と分離した何か―つまり存在!を生み出した
そのような存在者になぜこの宇宙における特別な席を割り当てなければならないのか
ジジェクやガブリエルは人間の主体を重要視し、メイヤスーの科学主義を批判しているけれども
新たな存在者に、もし伝達できるものがあるとすれば、それは人間によってわずかに示されうる主体なるものではなく
数学や物理学による検証可能な実在知にほかならない―おそらく言語によって伝えられるものではなくなるかもしれない―0と1からなる情報の連なりが私には聞こえる・・・
新実在論はあくまで人間に限定されているが、メイヤスーの思弁的唯物論は他の存在者―珪素なやつら?―にまで範囲は及ぶ
それゆえにメイヤスーは21世紀の新たなる哲学と呼ばれるに相応しく、それは哲学をもはや必要としない「非哲学の哲学」時代における哲学なのだ!

486 :
高校生の頃「我々」とか「思想」って言葉は「かめかめ波」と同レベルの空想用語としか思えなかったなぁ
え?あ、今もだけど

487 :
入不二 時間は実在するかP254
「現実化している現実(まさに「今」であること)がただ一つしかないというのは、
複数個の中から選んだ、かけがえのないただ一つということではない。
そもそも複数ということが意味を持ちえないということなのである。そして、
複数性がそもそも意味を持ちえない「現実化している今」は、それがどこかから
どこかへ「動く」ということも、不可能である。それは、じっと止まっているから
動けないというのとは、まったく違う。「現実化している今」は、そもそも止まって
いることとも動くこととも、まったく無縁なものだということである。」

>複数個の中から選んだ、かけがえのないただ一つということではない。
この意味で現実性や独在性なんてない、理解できない、とは言えないかな
独我論世界の中≠フある基調(人称・時制etc)の中の一つに世界そのものが裏変えされていく
(決して完全には成功しないが)という永井自身の考察は、独在性の否定としか思えないんだけど

488 :
本当の独在性の世界に生きてるやつはそもそも永井の本なんて読まないだろう
たとえばダニの世界のような

489 :
どれだけ念仏のように、独在性だの私秘性だの言ったって
それを他者と共有している時点でなんだかなあって感じ
日本も戦後個人主義が進んだけど、その影響がここまで来たのかって思う

490 :
差別社会で人間扱いされず、口を聞くことも言葉を扱うことも許されてない人間にも、
独在性の問題ってあるのかな

491 :
そもそも独在性って何だと思っていますか?

492 :
永井が自分の問題をギョーカイの他の問題と差別化したくて出した言葉
そもそもギョーカイの流れを知らない人には意味のない言葉
意外と永井用語にはそういうの多い 「主張」とかね

493 :
独在性がギョーカイの流れを知らない人には意味のない言葉ならギョーカイの流れって何なのか誰かわかる人いますか?

494 :
こいつtwitterやり始めた時点で終わったなと思った

495 :
mixi始めた時点では思わなかったのか

496 :
>>487
>この意味で現実性や独在性なんてない、理解できない、とは言えないかな

ここの「この意味で」の意味合いが俺にはよく分からないけど、全体の論旨として、
「唯一特別なはずの存在が人称・時制等々で説明されていくという観点に立つならば、
独在性や現実性なんて存在しないと言えるのではないか」というなら、別に永井自身も
反対しないんじゃないかと思うけど
1 唯一特別な、比類のないもの(私、今、現実)が存在する、はず
2 ところが、なぜか誰でもいつでもそれと同じことを言えてしまう
3 そして、そのことが人称・時制・様相といった装置で説明されていく
ということの全体を永井は問題にしてあれこれ論じてきている
なので「そのうち2、3の観点に立つならば1など否定されるのではないか、しかし
完全に否定することもできないけど」と言われたら、まあそれはそうですねとしか

497 :
それは3から1にも進めるよね
人称・時制・様相から独在性が立ち現れるとも

498 :
というわけで無自性や縁起、不二の哲学を展開したナーガアルジュナは天才ということで

499 :
ていうかもしかして入不二って「不二に入る」って意味なんじゃないの?

500 :
>>499
詳しくはないんだが、ウィトゲンシュタイン私は消去できるかって本で
そう言ってたよ。先祖からして偉い人だったんだなぁと思ったが、
言ってることはわかりやすい独我論で親近感が湧いたw

501 :
>>496
1の表現の違いか解釈の違いかわかんないんだけど、
唯一あるものって外部もないからいちいち「ある」とは言えない、言いたくないって気持ちがある。
ただ永井はそういう論旨で説明するときもあるんだが、チェスの冠の例みたいにチェス盤(と駒)を
付与のものとみなして取ったりつけたり(神が)できるものとして語るときもあるんだよね。

502 :
対話空間_失われた他者を求めて 人間は意識を持つか?
http://dialogue-space.hatenablog.com/entry/2016/06/18/153301
このブログのコメント欄の議論はオレが今まで読んだ中では永井氏とは大部考えが違ってるけど一番永井哲学を振り回しているように見えた議論で面白いw まあ永井氏が読んだらいやがりそうだけれど

503 :
>>501
あるいは何かしらの理解・解釈の違いがあるのかもしれないけど、前半部分には
別に異論はない
そして、もし、チェスの冠の比喩について「チェスのルール(や通常の駒の形状等々)に
付け加えて、何かが増やされたり、着脱されたりする」という意味に思えて気になるなら、
その比喩は別に無視してもいいんじゃないですかね
あるいはもしその比喩を使うとすれば、冠がつけられるというのは、実はそこから
チェス盤や全ての駒が開けて(?)初めてプレイが可能になる(?)原点のような意味がある、
はずなのだが、しかし相手は「何を言ってるんだ、君じゃなく私こそが冠を
つけてるんだ。というか実はそんな冠は誰でも持ってるものにすぎない」と反論してくる、
というように、ちょっと改変して理解してもいいんじゃないかと
と、素人のくせに言ってみる

504 :
ついでに>>477について
ちょっと疑問の趣旨がよく分からないのではあるけど、まず押さえるべきなのは、
>>496で書いた1と2の対比
「特定の個人を意味する、しない」という話は、3の面が入ってる話だと思われるので、
もし「1と2を対比する議論と、1と3を対比する議論があるように思えて、どっちなのか
分からない」というのが疑問の趣旨であるとすれば、明らかに前者をまずきちんと
確認すべきで、後者はとりあえず無視していいんじゃないですかね
後者のように見える議論は、もともとウィトゲンシュタインの議論を参照しながら
論じ始められたことの名残であって、最近の本からポイントを取り出すという意味では
気にしないほうがいいんじゃないかと

とか素人が放言したら、有識者のお叱りを受けるのだろうか…

505 :
>>502
途中までしか読んでないけど面白いね
互いに相手を包み込み合うのを繰り返す運動を実際に2人の人間が演じてる。
のちに投げ捨てられるべき梯子をかけようとしたときに「そんな梯子をかけちゃダメだろ!」と言うような振り回し方だ。

506 :
哲学って、ある習慣や慣習を受け入れられなくて始めるんじゃなくて、
一番最初に疑問を持つべきところで全く疑問を持たず素通りできた奴が、
あとになって中途半端に一部分だけおかしいと思い始めて始めるようなところあるよね。
例えば「私」は「とって」を受けれることによって変質するみたいに説明されるけど、
そもそも「とって」をうけいれたから「私」なんだろうと。

507 :
>>506
「とって」等を受け入れないと、
「ここから世界が開けている「私」」と気付く事はあり得ない、て事?

508 :
>>502
のリンク先を読んで、

>他にも驚きを表明する人はいるでしょうが、“これ”に驚いているのは僕しかいませんから。まずはそこを断っておかなければなりません。

これの意味が、初めてピンときた。

「他にも驚きを表明する人はいるでしょうが、『私の』“これ”に驚いているのは僕しかいませんから。まずはそこを断っておかなければなりません。」

でOK?

509 :
あー・・・だから、「他者」にも“これ”があるとしたら、「他者」も「私」になってしまうけど、
しかしながら、「私」は「他者」ではない、だから、「他者」には“これ”が無い、て訳ですか・・・
だったら納得。

510 :
>>507
それも言えると思うけど、もっと単純に私という言葉を使う人は最初から
とってを受け入れてるだろうなと。
「私」という言葉から語りだすのは原初の道徳って言ってたけど、
私の哲学もまたその道徳の中のものなんじゃないかな。

511 :
>>506
ある概念とか考え方などをとにかく何とか一旦は受け入れないと、それに対して
後から疑問を持って考えていくということ自体も不可能ではないか、ということは、
確かにありそうな気がする
例えば「2+2+2+2…などと、同じ数を同じように足していく」ということをとにかく
受け入れなければ、しかし100以降は104、108…とならないと言えるのか、
そのような根拠は本当に説明できるのか、という疑問も提示できない、とか
もしも「でも「同じ数」「同じように足す」って何だよ?+++って並んでるが、
それで2、4、6…になるって、何なの?」とか言って最初から全く理解しない人が
いたとしたら、そもそも少なくとも計算については全く話が通じない奴とみなされて、
疑問を持つもへったくれもないんだろうね、多分

で、そのように一旦は受け入れないと仕方ないとして、それが何か悪いの?

512 :
>>511の続き
そういう意味で>>506の全体の論旨は理解できるとして、末尾の
>そもそも「とって」をうけいれたから「私」なんだろうと。
という断定の趣旨はよく分からない
とにかく受け入れた「私」には、しかし、唯一特別なこの私を指すという面と、
なぜだか誰にでも同じように当てはまるという面とがあって、この矛盾している
かのような両面を持つのはどういうことだ?という疑問を持っていくのが、
なぜおかしいの?
あるいは最初から「そもそも「私」って何なんだ?今現に口を動かしているこいつ
(と言って自分を指差す)を指すようでもあり、しかしこいつではなく今まで「私」という
言葉を使っていた親、先生、等々を指すようでもあり、矛盾していてさっぱり
意味が分からない」とか言い出す(そして狂人とみなされる?)というなら、また
それはそれで分かるが
なぜ「とって」だけを断定的に受け入れるべきことになるの?

513 :
>>509
永井哲学では

だから「私」にも“これ”があるとは言葉では言えないとなるのでは

514 :
>>510 
>「私」という言葉から語りだすのは原初の道徳って言ってたけど

どこでですか?
>言語は原初の道徳であるといえるはずである。「私は~」と語り出すことは、原初の道徳的行為である。誤診p224
のことですか?
だとすれば原初の道徳は言語であって「私」という言葉から語りだすのはあくまで原初の道徳的行為であって原初の道徳の一部でしかないのではないでしょうか?

515 :
>>513
累進構造を使えば語れると解釈する方もいますが

516 :
>「そもそも「私」って何なんだ?今現に口を動かしているこいつ(と言って自分を指差す)を
>指すようでもあり、しかしこいつではなく今まで「私」という言葉を使っていた親、先生、
>等々を指すようでもあり、矛盾していてさっぱり意味が分からない」
なんか想像したら笑った

517 :
個人的にはどっちか言うと、

そもそも、こうして知覚・認識している、体、感情、思考、感覚等、“これら”って、
べつに“これら”である必然性なんて無いよね?
なのに、何のブレも違和感も無く、“これら”が続いていると思えてしまっているっ!!

て方に、心底びっくりたまげたんだが。

518 :
ちなみにこの「必然性なんて無いよね?」というのは、
「こうもできるはずだよね?」ではなく、
「何故か“これら”が起こっている」の方ね。
「私」が意図してやっていたつもりだったのに、実はその意図はそう意図する必然性などなく、
(だって、同じ状況でも「意図」は変わる場合もあるし)
ただ起こっているんだな・・・ってえええええっっっ!!!????て、そういう驚き。
それを追求すると、「私」が無くなってしまう。

519 :
>>518ごめんわるいけど理解しにくいので質問させてください
まず「私」という言葉をどういう意味で使っていますか?「私」が無くなってしまうってどういうふうにですか?

520 :
>>519
 「私」が意図してやっていると思い込んでいた
→でも、「何故、そう意図したのか?」の根本を追求していくと、
 「何故か」としか言えない。
 因果関係を理由にしたところで、今度は
 「何故その因果関係を理由にするのか?」となって、
 それも「何故か」としか言えない
→これを追求すると、実は全ての「私」が「意図してやっている」と思い込んでいた事が、
 「何故か起こっていた」
→全て「何故か起こっている」という事は、「意図する」「私」というものは無い

こんな感じ。

521 :
返答ありがとうございます。
全て「何故か起こっている」としたら「意図する」「私」というものは無いと言えないことはなくても「意図しない」「私」は無いとは言えないのではないでしょうか?
意図とつながる形でしか「私」は存在しないということでしょうか?
なんとなく相互に「私」という言葉の解釈が違っている気がしますが

522 :
まあ意図は独在性の話とは別だよね

523 :
>>521
まず、「意図している主体」を探して、見つかったそれを「私」としようとしたけど、
累進構造で永遠に「何故か」としか言えないので見つからず、
結果「意図する」「私」が見つからなくなる、という驚きですからね。

「意図しない」「私」と言うか、「何故か起こっている意図を受け取る」「私」はあるよね、という事に
希望(?)を見出して生きている今日この頃です。
それよりも、「何故か起こっている意図」が、>>517に書いたように
何のブレも違和感も無く、“これら”が続いていると思えてしまっているっ!!
と感じてしまってるのが、更にビックリ、とこういう訳でした。

524 :
映画館で例えると、永井さんは、「私」を「ここから映して(開闢して)いる」「映写機」と捉えているように思うけど、
>>517>>523の感覚からすると、「私」は「映しだされている」「スクリーン」としか思えない、こんな感じですかね。

525 :
100回以上は読みましたが残念ながら概念や考えなどが違い過ぎてあまり内容意図するところが理解できませんでした。永井氏の著作の一部分より難解に感じたぐらいですw
>累進構造で永遠に「何故か」としか言えないので
あまり自信はありませんがここは累進構造ではなくて無限背進ではないでしょうか少し似ているところもあるようにも思えますし
>何のブレも違和感も無く、“これら”が続いていると思えてしまっているっ!! と感じてしまってるのが、更にビックリ
こういうことに驚きを感じることができる感度をお持ちになっていることにかんしては正直羨ましい限りです。
あと永井氏は何度か「私」を映画の「スクリーン」に喩えています誤診や闘いなどで。

526 :
>>522自己レス
「別」とだけ断言するのは不適切だったかもしれない
意図とその実現の間には、無内包の違いしかないとすれば、その点では
独在性の問題と共通していることになるだろうか

しかし、私が仮に何ら意図を持たないような生活をしていたとして、それで
私が存在しなくなるとも、また他者との違いがなくなるとも思えない、
という意味で、別に直接のつながりは何もないんじゃないか

527 :
永井用語って最終的にそれが間違っていることを見て取ることで解法を行う面ってないのかな
そう感じるときはよくある

528 :
例えば「パースペクティヴ」や「力への意志」といった用語が、それによる説明を
最後まで貫くことは結局困難であると見て取られる、というような形で?
あるいは「規則の懐疑」が、結局は疑い得ない岩盤に突き当たる、とか?
そうであればそれは大変意味のある検討だと思うけど、具体的に永井用語のどのあたり?

529 :
goo辞書
い‐と【意図】
[名](スル)
1 何かをしようとすること。
2 何かをしようと考えている事柄。(一部略)
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/13895/meaning/m0u/
意図を持たないなんて想像すらできない強い意味で不可能でナンセンス矛盾している。

530 :
>>528
『意識』の最後の質疑応答みたいな形で

531 :
>>525
誤診や闘いは、まだ読んでませんでした。ありがとうございます。
それから、もう一度考え直してみます。
累進構造は、無限背進の方が適切ですね。下手に用語使うんじゃなかった・・・

532 :
あと思い出したんですが、「私」と<私>を使い分けてるんでしたっけ?
「私」が、認識している私で、
<私>が、「ここから世界が開けている」という私、でいいんでしたか。
一応、その上で、改めてここまで書いてきた事をまとめると、

この体、思考、感情、感覚という「これら」を「私」であると思い込んでいるけど、
そうである必然性なんて無いよね?それら関係無い<私>ってあるよね?とまず気付きました。
この時点では、まぁそうだよなぁてだけで、驚きってまではなかったですね。

じゃあ、「私」が現れる元となっている<私>ってどこ?と、
つまり意図だけではなく、この体、思考、感情、感覚、考えつく限り全ての事の根本を追っていこうとしても、
無限背進で「何故かある」「何故か起こっている」としか言えず、<私>が見つからない。
見つかるのは、何故か結果として現れている「私」だけ。

だから、「映画館」で例えると、「私」が「映写機」で映していたと思い込んでいたけど、
実はただ「スクリーン」に「何故か」「私」が映しだされていただけだったんだ!!とまずビックリ。
「映写機」であるはずの<私>は、どこまでいっても見つけられない。
例え、<私>を見つけたつもりになっても、それは必ず「私」となってしまうから。

あと「PC」や「スマホ」で例えると、なんとなく「私」のある部分(脳みそとか)が「CPU」で、そこで演算等して
「ディスプレイ」に映していたと思い込んでたけど、実は「私」全てが「ディスプレイ」に映しだされていただけでした、
「ディスプレイ」は「CPU」がどこにあるかなんて、想像すらできない、
(想像してしまった時点で「ディスプレイ」に映し出されるものになってしまうから)
て感じ。

で、「何故か」「スクリーン」「ディスプレイ」に映しだされている「私」が、
何のブレも違和感も無く、続いていると思えてしまっているっ!! と感じてしまってる事に、二度ビックリ。
だって、「ゲーム」で例えると、どっかバグがあっても良さそうなんだけど、どこにも見つけられない、すげーっ!!て驚き。
(例え自分が狂っていると自覚していても、それも含めての話)
以降、日常生活の事あるごとに「このゲーム凄くね?」と、驚きっぱなし。

まぁ、そんな感じです。

533 :
私の表記の違いは初期は厳密だったが、あとからラフになったというか
ほぼ消滅して文脈で判断する方向に変わった

534 :
>>530
そうであれば内容的には異論はないけど、その該当箇所(旧版)には明示的に書いてない
というだけで、全編にわたってひたすらその話、つまり本当はこれしかないから
他人に伝わることなどあり得ないはずなのに、なぜだか誰にでも同じように
理解され当てはまることになってしまう、という話をしてるんだと思うけどね

535 :
独在性って事象内容ではないのかな
世界の中でどれが僕かなんて事象内容としか思えない
勿論他人とは共有できないけど、永井が俗な意味での私的言語を
可能に決まってるというように私的な事象内容くらい可能に決まってる

536 :
>世界の中でどれが僕かなんて事象内容としか思えない
これはまた、最近の本を読んでるのか自体を疑うレベル…

537 :
イデオロギーの人だよね

538 :
今思い出すあのときのアイスクリームの味があのときの味と同じでなければならない
みたいな話って志向性って奴とは違うんですか?

539 :
アサファパウエル
リレーには出てたみたいよ

540 :
 〈仏教3・0〉を哲学する 単行本
 藤田 一照 (著), 永井 均 (著), 山下 良道 (著)

9月23日発売だって

541 :
すごく、うさんくさいれす・・・

542 :
やはり「世界最速の男」などといった記述は固有名の代わりにはならない、と、
改めて感じたところである(冗談)

543 :
ゲームの極限脱出って3部作、3作目で急に長いっぽい話がたくさん入ってきた

544 :
言語によって存在論的差異は抹消するって言うけど、前言語的世界にはいかなる差異もないのだから、
むしろ言語によって存在論的差異という苦しい言い訳が生まれてくるんだと思う

545 :
意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、
まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。

って永井も言ってるしな

546 :
存在(論的差異)とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、
まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。

おー、なんか通る気がするなw

547 :
なぜかこの私だけが私であるという事実を言葉は言い表せないが、それと同時に、「なぜかこの私だけが私である」ということは言葉があることで初めて言い表わせる問題である。
という感じ?

548 :
>>546
実際そういう対応になるんだろうと思うけど、違うところを考えると、
「まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。」の部分に
引っかけて言うと、「意識」は言語の働きによって世界内の普通のもの(石ころとか)と
同じように名付けられて扱われることになるが、「存在」のほうは、普通のものと
同じように扱われるというニュアンスはなさそう、というところだろうか

549 :
 ツイッターで本人に@飛ばしてみるのもいいかもよ。
結構答えてくれる。

550 :
>>549
きちんと考えて真摯に質問すれば結構答えてくれるであろうとは思うけど、
おそろしゅうてなかなか踏ん切りがつきませんわw
いや永井がではなく、こっちの心の持ちようとしてね

551 :
>>550
確かにw
でもツイッター眺めてると、やりとりの中で永井先生が新たに気付くこともあって
先生も望んでるんじゃないのかな、と思うよ。
少なくとも、ウィトゲンシュタインを読み込んでないと質問できない
って話ではないし、素人が素人なりの質問てのを逆に期待してる感じはある。

552 :
存在と時間って雑多感がすごいな
最近のだと意識が一番まとまり良かったけど、改訂版は追加でちょっとぐだぐだだったし

改訂ってかいとうって読むのかと思ってたけどなぜかかいていと読む世界が今ライプニッツ原理で選択されたらしい!
そして選択されたあとは改訂をかいとうと読む世界の可能性事態が抹消されるのですね

553 :
哲ねこってラジオドラマ聴いたが、全然哲学的じゃなくて苦笑い

554 :
可能世界論って大きな物語とか大きな人を前提にしてると思う
常識的なものの見方を異様に神格化してその上での遊びって言うか
こどもにとってはその常識的な
見方(大きな物語)や観測者(大きな人)すら可能性のひとつにすぎなかったと言う可能性は完全に排除されてる
大人の世界がこうあって、その流れの中で自分が生まれたっていう大きな物語は可能性にすぎない
自分が別ようにも生まれることができたと言う可能性ではなく、その大人の世界の時間の流れがある
という考え方自体を可能性の範疇に入れるべき
太宰治は小さい頃空腹を感じず、なぜごはんを食べないといけないか理解できなかったらしいが
ご飯を食べないといけない世界(と身体)はその子供にとっては可能性にすぎない
それはこれからなるかもしれないことだが、最初からそうなってることではない
こういう視点を『見上げ型』、もしくは『自分視点の可能世界論』と呼びたい
逆に大きな物語を不可逆的に前提にした可能世界論を『見下ろし型の不可逆的可能世界論』と呼びたい
永井が様相や内包の問題で取り上げるのは見下ろし型
例をもうひとつ、見下ろし型では小学生は中学にやがて行く可能性があるが、見上げ型では中学と
いうものが存在する可能性があり、別のものがある可能性もあった
そしてこの2つの可能世界論を論じる文章自体は見下ろし型に位置する 見上げ型の特徴を見下ろし型
の記述では「とって」を連発してしか語れないが、それはもっとも重要な点を取り逃している

555 :
趣旨がよく分からないけど、「ご飯を食べる必要がない世界」「中学校というものが
存在しない世界」などといった内容であれば、永井の論じる可能世界でも、別に
何も否定されてないと思うけど

556 :
タウマイゼン語法って見て思ったけど、酒呑む奴って酒呑み語法使うよな
まず酒を飲むを呑むの一語で表す時点で

557 :
「驚き」も「呑む」も、それそのものが通じない人に説明するだけ野暮、てことですか
通じる人とだけ、その先の話をする意味があるって感じ?

558 :
〈私〉の独我論はそれを語る言葉が既に用意されてるが故に語りえない、
みたいな話でよく思い出すのは葬式文化
お悔やみやらなんやら葬式で礼儀作法に取り込まれてるもんだから、
本当のお悔やみとかそういうものがなくなってしまった

559 :
何かを感じ、感動しても、
それを言葉にしてしまえば、
言葉にその感じや感動が取り込まれてしまい、
その言葉を超える何かが無いと、
感じや感動として評価されない

て事ですかね

560 :
人間は、何かを使おうとして作るけど、
うっかりすると、その作ったものに使われたり支配されてしまう
というに気付いたのが驚きでしたね。

酒は呑んでも呑まれるな。

561 :
「儀礼的なお悔やみ」と「真に心のこもったお悔やみ」の違い(?)とか、
「ありきたりな言葉で表現される感動」と「ありきたりでない真の感動」の違い(?)とか、
そういうふうに内容の違いがあるのであれば、<私>についての無内包あるいは
アクトゥアリテートという問題とは違う話だと思うけど

562 :
小泉さんの靖国の話?

563 :
累進構造すら言語の見せる夢に取り込もうとする入不二の比類なき見解には感動するわ
音楽で一瞬すごいきれいな旋律流れるとこみたいな
永井なら洞察って言いそうだけど、むしろ入不二には他に考えようがないだけなんだろう

564 :
永井の本読んで考えてるうちに全然関係なさそうなことを根底で繋がってるように
考えるようになったが、話すときにごく普通にそれやってしますとヤバイw
永井も日常生活で「この人話が飛ぶな」って思われてたりして

565 :
なにとなにが繋がってしまったのかkwsk

566 :
すいません23日の第四回現代哲学ラボ
これって後日また音源公開されるんでしょうか?
ちょっと行けそうもないので・・
誰か教えて下さいm(__)m

567 :
公開されないんじゃないの

568 :
問題を理解しない奴は入ってくるなって言ってるけど、こういうこと言う時永井は
普通の人は既に入ってるところがあるって前提で話してると思う
どこにも入ってない人に向けては言ってないどころかいないもの扱いしてる

569 :
>>567残念・・

570 :
青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』をパラパラと読んでみた
果たして最後の7章までパラパラと読んでしまってよいのかどうか分からんけど、
7章が印象深かった(素人の永井ファンとしては)
ここで言われている「遊戯」と、ウィトゲンシュタインの言う「チェスの駒に
冠を被せる」(の、永井による紹介)は対応するのだろうか、とか

571 :
ものすごくどうでもいい個人的感想だけど、永井的観点(?)からすると、
確かにシン・ゴジラって全然面白くなさそうな気がするなw
(別の観点からの面白さを否定するつもりでは全くないので、念のため)
あえて無理やり引き付けると、一時期のツイートに出ていた、永井の用語法での
「右翼」「左翼」という観点から見ると、いかにも「左翼」っぽいことを言っていながら
その実は「右翼」でしかない(実は自国中心的な利害に基づいてるに過ぎないのであって、
本気で普遍化する気などない)のではないか、と思わせる台詞などがあって、そこは
多少面白いとみる余地がないではないかもしれない

572 :
「ゴジラの叫びの根源的解釈」には結構ワロタ
もしエンターテイメントとしても上手く仕上げた作品ができたら、画期的すぎるわw

573 :
『哲学の誤読』面白かった。
ド素人にはこういう本はありがたい

574 :
〈私〉の哲学を哲学するP196に、『意識』は無内包的観点をせずに逆から語った野心的なもの、みたいなことを言ってるよね?
それからすると無内包を取り入れて書き直した改訂版って半端物になってるんじゃないかと思うんだけど

575 :
現在ゾンビで「本当は(なかったorあった)」という問いは成立しようがないって存在と時間P292で
言ってるけど、どうして? 神が心を与えたり奪ったりするのと同じだよね?
マンガは哲学するの漂流教室の所で子供に未来を託すって話も、「本当は」(私の底の神)の成立の話だよね?

576 :
まあだから「神が心を与えたり奪ったりする」ことも、一見すると成立しそうに
思えるけど、実は成立しないということだね(適当)
「他人だから心なんかないに決まってる」という自明な事実と、「人間(私と
同じ種類のもの)なんだから最初から心があるに決まってる」という別の自明な
事実があるだけ

577 :
…と思ったけど、その該当箇所近くの「現実の動く現在」の議論に引っかけると、
他人の心(が実はない)の問題よりも、現在ゾンビの問題のほうが、より強い意味で
あり得ない、と言えるんだろうか
他人の心の問題はただ現実と概念の対比の問題だけど、現実の動く現在の問題は、
過去や未来も確かに一度は現実の現在である、という意味で
(これはしばらく前の朝日カルチャーセンターの講義から安易に思い付いたので、
本当に適当です)

578 :
意識なんてどこにあるんですか?ってノリで今なんてどこにあるんですか?
って言えると思うけど、その方向では論じないんだな

579 :
学問的な見方が端的な今を認めないのと独我論者が端的な今を認めないのは内容が違うと思う
独我論者はそれが全てであるものをいちいち名指し(文節化)したくないだけ

580 :
存在と時間の後書きに風間くんの質問で『私今神』がどんな画期的な内容になったか書かれてるけど、
言いたいことが言えてしまう故に言えないなんてそれこそ『〈私〉のメタフィジックス』の頃からえんえん
言い続けててどこが画期的なのかわからない。
それに、風間くんの質問も本文で訂正された方の本当の質問(煎じれば「なぜ言葉で考えることができ
るのか」という疑問)の方が深いのに、また前ver.に落とされてて不満。
神の存在論的証明の方は〈端的な今〉に比べて〈現に存在するあの神〉が説明不測で不明瞭だと思う。
『私今神』までの本は全体としてロゴス原理(を所与のものとみなした)の話だから、〈これ〉の側から
言語というウソが構成していくのを観察した『誤診』『意識』『たまたまの孤独』の方が画期的だったと思う。

581 :
>>578
その「ノリ」のニュアンスがよく分からないけど、「今なんてどこにあるんですか
(と言うより、いつなんですか)」というのは、『存在と時間』のまさに主題だと思うんだが

582 :
>>580
「言えない」というのが、無内包・アクトゥアリテートの問題だ、ということを
明確に打ち出したことが画期的なんだろうと思うけど
(用語が明確にされたのはもっと後だけど)
それ以前は、正直個人的には、何がどういう理由で「言えない」とか「語り得ない」
とされていたのか、結局よく分からなくて、無内包という説明でようやく何となく
分かるようになってきた(気がする)

583 :
ビンゾの設定ってなんであんな特殊なのかな。
普通感覚だけって聞いたら幽霊みたいなの想像すると思うけど、
精神の中だけって要するに夢じゃん。しかも人がいて私がいて
他人がいてって通常の夢の規定よりかなり限定された夢。

584 :
なんでって、そりゃゾンビ(物理的には人間と全く同じだが、ただ心だけがない)
との対比で作られた概念だからだろw
そんな設定よりも普通の幽霊のほうがより有意義な議論ができるはずだ、
などと言うのなら分かるけど
しかし普通の世界の中にフワフワと幽霊が存在する(という想定)って、何らか
有意義な議論になるのかな
(ならないと断定したいわけではない)

585 :
ゾンビとの対比で凡人に思いつくのは「わたしは真悟」に出てくるような体のない子供(幽霊)とかだと思う。
夢の中だと自分が自分じゃなかったり自分がいなかったりとか普通にあるけど、ビンゾが見てる夢はそういう夢じゃなくて、
正気の現実の作りと全く同じ作りの精神世界。それに「真の現実世界」を前提として想定しておく必要もある。
これはかなり特殊な議論の流れじゃないと出てこないと思った。

幽霊の想定をするならゾンビの想定が「哲学ゾンビ」と注釈されることがあるように、「哲学幽霊」に限定されると思う。

586 :
改めて熟読もせずに自分流イメージに乗っかって言わせてもらうと、永井が
『なぜ意識〜』(旧版)でゾンビに関連して論じていたのは、「ある意味で本当に
存在するのは私だけだ」「ある意味で本当に存在するのは今だけだ」と対比して、
意識にも実はそれらと同様の構造が当てはまる、という議論(だと理解してる)
すると「ある意味で本当に存在するのは(私の)意識だけだ」ということになり、
「表返した缶詰」という比喩もそれを表しているのではないかと思われる
しかしもちろん、私についても今についても、「他人(他時点)は存在しない、
あるいは通常思われているのは別の内容で存在する」という話をしてるわけじゃない
そういう議論の中でビンゾを想定するとすれば、他人も客観的世界も全てその中に
入ったものとして想定し、ただし内容的には何ら変わっていないとするのは、
別に自然なことじゃないかと思うけど
普通の世界の中に幽霊という特殊なものがポンと存在する、というような想定だと、
普通は存在しない(と考えられる)特殊なものを想定するという点や、ある意味で
本当に存在するのはそれだけだ、とは言えない点で、永井の議論の流れとは
そぐわないから、そんな想定はしないのだと思うけど

587 :
他者(他時点)は普通に存在していい、でも現に〜ってのは永井の昔からの主張だけど、
『なぜ意識〜』(旧版)に関しては前言語的〈これ〉さえあれば良いとも読めて、
『〈私〉の哲学を哲学する 』でも青山って人がその点について質問してる。
昔からの主張と新しい語り口(本人曰く野心的な)が混ざってる本で、整理して読むのは難しい本だと思うw

588 :
ゾンビの場合「実は(魂があるない)」に意味が込められるけど、ビンゾの場合だと「実は(実在しているいない)」に
意味が込められないんじゃないのかな

589 :
要は、「ビンゾ」=「無内包」でいいですか?

やっとビンゾの出典がわかって、
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?tag=%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BE
の引用しか読んでないんですが。

590 :
〈私〉の哲学を哲学するは名著だから読んだが良いよ
むしろあれ読まないで今の永井の本読む方がハードすぎる

591 :
身体に独在性が成り立つとか、身体は生物学的にどれだけ分割されても原理的に一つ、
ってのがよくわからない。
幾何学的な目に置き換えるとわかる。生物学的に分割される思考実験をするまでもなく、
現に目は二つあるけど、幾何学的な目は常に一つだろう。
(これは単にウィトゲンシュタイン-永井の言い回し上の定義かもしれないけど)

でも、また身体に戻すとよくわからない。

592 :
誤植が誰にも気付かれないという話はちょっと面白いけど、なんでそうなるのかな
例えば事実を報告する本であれば事実関係と照らし合わせることが可能だろうし、
論理的整合性を重視する本(形式論理学とか数学の教科書みたいなもの)だと
論理的にどうもおかしいというチェックが可能のように思われるけど、
哲学書はどちらも不可能(な場合がある)のだろうか
では小説とか漫画とか(特にフィクション・ファンタジーの要素が強いもの)、
あるいは楽譜?とかはどうなんだろう、と、よく分からない連想をしてみた

593 :
最近の永井の本の誤植なら結構みつけてるけど

594 :
しかし〈私〉とは神の別名ではないのか。今や〈私〉の歴史性、
〈私〉の「歴史的アプリオリ」といってもいいが、
解明される時がきたのではないか。スピノザのいう神=自然、
そしてコナトゥスとしての「私」は、すなわち自然の一部としての、神=〈私〉ではないのか。
しかしここにおいて内在性が問われる。「私」が〈私〉として語られうることによって、
すでに「私」は自然=神を越え出る存在として、すなわち、超越として把握されるのではないか。
それは近代哲学以降、へーゲルをその頂点とする、つまり神を殺し人間が頂点になった世界
記述する伝統の末裔に永井は位置いているのではあるまいか。
ニーチェの「神は死んだ」は〈私〉の出来を予想していたのではあるまいか。彼がニーチェを根拠にしているのは不思議ではない。
その神=〈私〉=賢者としての哲学者こそが、歴史が、そのヘラクレイトス的生成が織りなす「語りえぬものとしての語る者たち」として、
永井の位置、その歴史性は現在するのであって、
〈私〉=神の永の生成が永井の根本意想であるという結論にいたるのではあるまいか。

595 :
冠絶って形容語、ウィトゲンシュタインの冠の比喩に合わせるとなんかおもしろいw

596 :
物理的世界も他人の心も普通の意味では在っていいって昔の永井の見解だと、
記憶も普通にあって良いんじゃないかな。
なんか記憶を奇妙な合成物みたいに語るときあるけど。

「○○は普通の意味ではあってもいい、でも現実には〜」って考察と、
「○○がどんなふうに構成されていくか」の考察方法とはソリが合わない気がする。
カント原理ライプニッツ原理は前者でしか使えない用語で、
独在性も基本前者で考えてたんだろうけど、後者にも使ってて(読むのが)難しい。
無内包は半々でさらに難しい。

597 :
永井さんやっぱり三浦雅士好きだったんだ
「幻のもうひとり」なんかは
only oneとしての自己とone of themとしての自己との区別
みたいなものを論じているとも言えるし

598 :
themは言語の見せる夢だろうな。しかしthemがなければ、only oneも言えないわけで…

他者が私の成立根拠で、しかしその一撃後(私が成立した後)は遡及的に、つまり私の根拠を遡ることによって他者が発見される。
でもその二番目の他者は最初の他者とは別もので、たぶん二番目の他者は語り得る他者で、最初の他者は語り得ぬ他者
つまりただ示されうるだけの、あたかも神であるかのような他者、そしてそれが根源であり、世界開闢の時なのだろうな。
ただこの全ては私がまさに言語を用いる動物(人間)であるからこそ可能なわけで…

599 :
世界に自分ひとりしかいなくても問題は増えも減りもしないって言ってるから関係ないでしょ

600 :
>>597興味あったらここ読んで見たら
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-29.html
基本的に井筒俊彦氏について論じているところだけど
永井氏の<私>とあと終りの方で三浦雅士氏がカントの『視霊者の夢』について書いているものが引用されてる

601 :
マンガは哲学する読むといつも思うのが「夢の真相」の章読んで夢の真相を理解する人
はほとんどいないんじゃないかということw いつも期待して読んで結局わからない

「中心化」って主題は一時期重要視してたみたいだけど、今全然言わなくなったな

602 :
ウィトゲンシュタインの誤診を書く前と後じゃ、永井のW観って結構違うんじゃないかな
子どものための哲学対話のW観とかもう捨ててそう

603 :
朝カルで講座聴いてきたわ
ライプニッツ原理の説明
(カント原理によって儚く消え去る・・とか)
が当人から聞けて味わい深かった

もし<私>がトランプだったらとか即興的にやってくれるかと多少期待してたけど
それはやらなかった(変な人とは言ってたかな)
もしトラじゃなくてまじトラだったからかな

時々聴きに行きたいからこれからも講座は続けて欲しいな

604 :
ライプニッツ原理って今は別の言い方になったんじゃなかったっけ

605 :
独特の説明の仕方で当人から直接聞けたからちょっと感動的だったな
ライプニッツ原理
っていうかどちらかと言えばデカルト主義者(?)なんだろうけど

606 :
デカルトの〈これ〉だけがあると、この〈私〉の存在に関わるライプニッツ原理って
直接は関係ないと思う デカルトの場合人間なんかいらないから

607 :
ウィトゲンシュタインが独我論の問題を感覚与件や「私」の文法の問題に閉じ込めようとしたのは、
自分が論理学者だと思ってた名残りなのかな。いくらなんでもバカすぎる。

608 :
デカルトのコギトは、私ではない。コギトは狂気をも包み込む。私は「自分を南瓜だとおもっている狂人」を排除するだろうが、コギトはこの狂人さえも包摂する。そしてこのコギトこそ〈私〉に他ならない

609 :
独在性の私と独我論の私がどう違うのか詳しく書いて欲しい
こういう比較するとき急に独我論を軽く見積もりだすのが永井のダメなとこ
真正の独我論は独今論も含むし、他人と共有できないし、そもそも言語で表現される必要もない

610 :
永井氏の著書そんなに読んでないからかわからないのですが永井氏が何処でそんなことしているのですか

611 :
デカルトのコギトは恐ろしいが、さらに恐ろしいのはこのコギトをコギトたらしめている力ではないだろうか?
この力こそ、自我や主体に先立つ、原初的自然であり、哲学の歴史は、この原初的自然を指し示すための努力の軌跡ともいえる。
どのみちデカルトがコギトの確信のあと、神の要請が必然的だったように、〈私〉には〈神〉が必然だと思われる。
しかしその神は、デリダの言うように、なんら実体的なものではなく、それは未だ果たしえぬ約束であり、「摩擦を確保する」(へーゲル)ために、想定される「説明項X」なのだ。
神をも超える(殺害する)〈私〉…神の死を宣告するニーチェの狂気…

612 :
西田幾多郎くらい読めよ

613 :
神殺しはへーゲルだろう。あの閉じた円環の哲学に神の入る余地はない。永井も言っているがニーチェは明らかに有神論者。

614 :
ニーチェは存在論的な神を考えられるほど哲学的感度がないみたいに言ってない?

615 :
永井って岡田淳の児童小説読んでると思う それで自分の方がもっとうまく書けると思ったアイデアが翔太に入ってると思うな
二分間の冒険のもっとも確かなものが自分ってのも翔太にさらに捻りを入れて本質をついた形で入ってる

616 :
時代はいずれ永井均のものになるだろう(byニーチェ)

617 :
https://mobile.twitter.com/hitoshinagai1/status/807237983040520192
永井均&#8207; @hitoshinagai1
拙著『改訂版なぜ意識は実在しないのか』のアマゾンのレビューでアマゾン太郎という人が訳知り顔で書いていることは(アマゾンのレビューによくあることですが)全く出鱈目なので注意。現段階で原本を読む理由など全くないです。必ず最初から改訂版を読んでください。その下に書いていることもただの嘘
午後11:58 · 2016年12月9日

こんなツイートがあった
まあそれはそうなんでしょうね
無内包が明確に打ち出されてるから、最近の本にもつながるし
逆に原版を読むと、私と他人の違いを、いわば内包の違い(本当に感じられる
意識や感覚と、感じられない意識や感覚の、内容の違い)のように理解してしまう
おそれがあるんだろうか
個人的には、今振り返ったら、同じ累進構造図が使われてるんだし同じ議論だろう、
としか思ってなかったけど

618 :
カントの往路とか良く言ってるのに笑う

619 :
大学入試の問題に作者が口出すの嫌ってるけど、自分のときは軍馬のごとくw

620 :
〈私〉の哲学を哲学するで無内包概念が外部の無さと現実性に分裂してるとこあったけど、
新版だと後者寄りで旧版だと前者寄りなんだよね
人称時制様相がいかに形成されるかってのが前者の哲学で、〈私〉今そして神の開闢の
哲学だと、それは最初から前提にされてるから裏に回って哲学することができない。
現実性は開闢の哲学の系譜だから永井がどんなふうに混ぜ混ぜで考えてるのか知りたい。

621 :
<魂>に対する態度かなんかで全く別のことを受け取ってくれると嬉しいって言ってたのが懐かしい。

622 :
無印はアクセル全快で改訂はところどころブレーキ踏んでる感じ
講義自体はもっとガンガン言ってたのかな

623 :
哲学書は整理して書かれてない奴の方がおもしろい(俺は別だから!)

624 :
ウィトゲンシュタインが青色本なんて読む意味ない、哲学的探求だけ読めば良い
青色本読めって奴は何一つ理解してないでたらめだ!って言ったとしても、
既にその両方とその間の変遷を自分の内側から味わい尽くしてる人には何の意味もないわな
作者にそんな権限はない 青色本で言えば独我論、意識で言えば野心的と言われた部分に変化がある
入不二の無内包をある方向に (独在論の側に) 誘導した議論すら他の本にのってて本当に味わい深い
ペットボトルを思い付いたのが意識の思考のトレースでそれが永井本人に否定されるところも含めて
しかもその部分は実は永井は認めた上で一段高い議論をしたともよく読むと読めたり本当におもしろい

625 :
旧版含めて全部読んで研究する勢いの人なら、また別論なんじゃないの
問題のレビューは一冊だけ読むなら旧版と指定してる(しかも、研究する種類の人じゃなく
むしろよく知らない人が多いであろうAmazonレビューという場で)ところが問題なんじゃ
あと、人称(や時制)が形成されていく手前の話が詳しくされているという点で
『西田幾多郎』と似ているという指摘は、分かる気がしたけと、そこに『誤診』が
入っていたのはよく分からんかった

626 :
自分が見たときにはAmazonレビュー既に消されてた
旧版を薦めていた事は判ったが

>その下に書いていることもただの嘘

何が書かれていたのか凄く気になる

627 :
ほんとだ、早くも消えてるわw
「その下」という部分は、旧版と通じる内容なのは第一に『誤診』、第二に
『西田幾多郎』、というようなことが書いてあった

628 :
つーか、解釈とか抜きに単純に見ても改訂版から入ると私の哲学を〜で何を指摘されてるか
わからないと思うんだが、なんでこんなヒステリックになってんだろう
出版社とかの大人の事情か

629 :
永井を永井的に読まれることの同族嫌悪w

630 :
>>627
なるほどありがとう
単なる解釈の違い、勘違い、曲解の範疇だと思うが
これを嘘呼ばわりするのは嘘という概念に反するのでは

631 :
私は原本どころか存在と時間(あえて言うならヘーゲルの辺り)も一緒に読まないとダメだと思う
本だけじゃなくて自分でも考え続けないといけないし

632 :
吉田戦車を言語ゲーム的に楽しむ感度が云々って言ってるけど、
ウィトゲンシュタインも自分のことを単なる器用な人間と思われたくなくて
背景にある考え方を大事にした上で細部にこだわるって方針だから、
普通の人がいきなり細部が気になるのはむしろウィトゲンシュタイン哲学の才能がないのでは

633 :
モノラル音源をデジタリリマスターでステレオ化したら味がなくなったって文句言われてたドラマ思い出した()

634 :
なぜなにかを書いたり書き直したりして良いのかって疑問がある
既に書かれたものの素朴な神聖視というか
これも私界未分の哲学で考察できると思う 世界は元々分節されてないという

635 :
しかし旧版に価値がある、しかも「読み比べて深く検討する」ではなく「一冊だけなら
旧版を薦める」とまで評価することに同意する人が、そんなに多いの?
無内包と、マイナス内包的な発想との区別って、初心者が一番気を付けるべきこと
じゃないかと個人的には思うので、そこを永井ご本人が強調したくなるのは
もっともなことだと思うんだが
いや、本当にそう思うのなら、ご本人が何と言おうが、旧版のポイントを詳しく説明して
みせればよいのじゃないかと思うけど

636 :
中の人など

637 :
PsycheRadio &#8207;@marxindo &middot; 3時間3時間前

エリートが「弱者」に優しくできるのはそれらの人々と一緒に暮らしたり一緒に働いたり資源を取り合ったりする心配がないからラジよね。

昼寝猫 &#8207;@tcv2catnap &middot; 2時間2時間前

ラジ先生、しかし本邦の「真のエリ−ト」が弱者に優しいの近代史的に見たことないラジw

638 :
それは当然のことである。なぜなら、私自身も他者に対しては、そのように振る舞うことにしたのだから。

639 :
子供が死ぬって言うけど、子供は子供で毎年毎日毎秒死に続けてると思う

640 :
ボルトから苦情が来たんだよ

641 :
ガンダムの富野のこのDVDは、買ってはいけません!思い出した

642 :
歌手や演奏家に昔の曲聴くなって言われるのはショックではある

643 :
富野のこのDVDは、買ってはいけません思い出した

644 :
複数の訳文と原文読み比べてる人が自分のことだと1つしか認めないのは商売上の都合か

645 :
永井が自分の問題と関連付けられた西田幾太郎しか紹介できないと言ってるように、
読者が自分の問題と関連づけられた永井均しか紹介できないのは当たり前のことだと思う
問題は自分の側にあるのだから

646 :
上野さんの大文字の他者の話おもしろいと思うけど永井先生は全スルーしててワロタ

647 :
意識は実在するかで<私>表記を永井さんがしてなかったのを入不二さんは
重大な点だとみなしてて、いざ永井さんに聞いたらたまたまって言われたらしいけど、
私もここ大事なところだと思ってたからズコってなったな。
正確には<>を使わなくなったのはマンガは哲学するかららしいけど。
(つまりたまたまではない)
<>も最初期に抹消記号で使おうとしたときと、魂に対する態度からは意味が違ってると思う。

648 :
『もし興味があれば、何が変わったのか(変えざるをえなかったのか)を、
対比検討していただけるとさらに面白いと思う。』
ほんすご

649 :
「これ」を現実性や独在性と見なすか見なさないかの対立だと思う
見なさない場合、原書の方が混同をしていない優れた書物ということになるし、
見なす場合は改訂版の方を買えばすむということになる。
少なくともこの対立は俺には軽視できないもっとも重要な点だな。

見えているものがすなわち世界で俺だという「これ」論に、現実性や独在論は入り込む余地がない。
余地はないがそこから様相などの分節化が始まり、「私・今・そして神」のP40に顕著な
「対比が持ち込まれて、{私}とか{今}とか、いろいろな名づけがなされていく」
という仕方で現実性や独在性概念の誕生をたどることはできる。
そのくだりのあとに「それこそがわれわれの唯一の現実なのだから、
それを認めてやっていかなければならない。」とあるけど、
俺はそれを諦めて認めたのが独在論や現実性の議論で、
認めてないのがこれ論だと思う。少なくとも認めないのが可能である
(これを身をもって示したすっっごい奴の名を永井均という)という点で、
認めるしかないという解釈はただの倒錯したイデオロギーだと思う。

ただ、リアリティという言葉を使って2つの世界観と解釈するやり方もある。
リアリティって単語で語り出すのは結構すごい画期的発明なんだにゃあ。

650 :
>>649
「これ」を独在性や現実性と見なさない? ???
そうであるとすると、「これ」とは何であると理解するの?
恐らく、言語概念で整理される以前のもの、とでもいうようなことだろうけど(例えば
「痛み」でなく「このような感じ」とか?)、つまりマイナス内包のようなことだろうけど
そのような「これ」が考えられるとして、それは他人も他時点の自分も当然持っているの
ではないか、という点については、どう考えるの?

651 :
作者が作品を完全にコントロールできると思うのは端的に間違いだと思う
永井さん自身がデカルトの省察等を作者がコントロールできてない部分を題材に何度も取り上げてるんだし

652 :
ゲームのリメイクだと昔のが好きな人多いよなw

653 :
なぜ意識は実在しないのかの講義原稿書いてるときは、
他の本とかが全然わからなくなったらしいけど,
それすごいわかる気がする. 文庫版の手直しするときは
そんなことなかったんじゃないかな.
今までとは違う切り口で書いてたのがオリジナルで,
それを既存(〈〉の哲学)のやり口で手直ししたのが文庫版だから.

654 :
永井が入不二さん独特の哲学でおもしろいと言って無視した(笑)ところの話がすごいおもしろい
4つくらい箇条書きで意識や無内包の矛盾を含む内分を書いてるところ

655 :
風間君の質問の意味はもう一段深い(あっけらかんとした深さ)のを捉え損なってるのではないか

656 :
『なぜ意識』における無内包否定派(?)のみなさんは、では例えば、3日目の
志向性についての議論をどう理解してるのだろうか
心の中の表象と外界の対象の関係や、絵と描かれた対象の関係が、「似ているのではなく、
同じでなければならない」というのを、どう理解するんだろう
もしも普通の独我論風(?)に、心の中だけが全てであって外界の対象だの何だのは
存在しない(あるいは存在するかどうかなど分からない)、というふうにのみ考えるんだとすると、
「同じでなければならない」の意味が分からなくならないかね

いや他人事ではなく、俺も正直最初に旧版を読んだ時は何も分かってなかったもんで、
3日目の議論が何を論じていて、2日目までとどうつながっているのかピンと来ず、
難解に思えてたんだが
しかし今振り返れば、ああ無内包のことだったのか、それの認識に関する現れや
偽・否定の問題につながるところだったのか、と考えればすんなり飲み込める、と思う

657 :
自分の疑問と哲学を結びつけるのに10年かかったらしいけど、
読者も永井の本と自分の疑問を苦労しながら結びつけて読んでるとは思わないのかな

658 :
学生の頃から自分の教授に哲学を教えていて習ったことはないらしいけど、
自分の読者もそうだっていうのは盲点なのかな

659 :
ヴィトゲンシュタインの感覚与件の話やそれをうけた第一次内包とかの話もそうだけど
なんでそんなこと知ってるんだろうって気分になる
よく知らないことを直感と勇気で補ってるんだろうけど

660 :
>>658
本気でそこまで自信があるなら、「教え」ればいいんじゃないの
永井本人が何と言おうが、自分の問題を論じてみせればいいんであって、
別に文句言う必要も削除する必要もないと思うけど

661 :
L.W.の私的言語のテクストが2通りに読めてNが片方の読み方を重視してるみたいに

NのテクストもNの意思に関係なくそんな風に受容されることもあるだろう

662 :
筆者の意向も元テキストを補完するテキストにすぎない。
それは特権的な地位にはあっても
元テキストの正しい解釈を保証するものではない。

663 :
>>661
イニシャルだけだと断言できかねるがw、NがL.Wの私的言語のテクスト(?)の
片方の読み方(?)のみを重視してるなんて事実は、別にないと思うけど
独我論的な面と、それを否定する治療者的な面との、両方を問題にしている
(とりわけ、治療者的な面では「そんなことは言えない」と言うのだが、しかし、
それも実は独我論的な面が言いたいことは何であるかを知ってはいる上での
発言のはず、というところがポイント)と思うけど

664 :
記念アーカイヴ
http://archive.is/MzqoE 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322)


665 :
なんか余計なの付いたけど、MzqoEまでね

666 :
>>664
改めて見ると、「詳しくない人向けの読書案内」なんて表題を付けてたのか
あかんやろw
独自の解釈として、実は旧版のほうこそ価値がある、とか主張するならまだしも

667 :
『<子ども>のための哲学』は著者と出版社へ末永く利益をもたらすって日銀総裁が言ってた。

668 :
http://bookclub.kodansha.co.jp/calendar
講談社学術文庫
2017.02.10
時間の非実在性
マクタガート,ジョン.エリス 永井均

2月になったみたいね

669 :
仏教2.0と3.0って
「個体と全体」pictureと「始点と総体」picture
の違いの話にちょっと重なるのかな??と思いました

670 :
でたらめだと思っていた兎と、絶対至高の真理と思ってた兎が実は一つの兎だった、
というのがこの本のメッセージなのだから

671 :
極めてどうでもいい指摘で恐縮ですが、「でんでん現象」って、一部界隈では、
全然違う意味で以前から使用されている(いた?)用語らしいんだよなw
アニメ番組について、放映開始には不特定多数の人が視聴していたが次々脱落していき、
ところが残った少数の人たちの間だけで高評価され、結果として客観的には
全然人気がないのに「90%以上の以上が評価した」などと見えるようになる、
というような意味らしい

いや、ひょっとして関係あるのだろうかw
価値についても同様のことが当てはまるのか
いや、価値についてはそれは変か

672 :
四畳半大学 宮国研究室
純粋経験に「私」がないのに、なぜ”あえて「私」と言う”必要があるのか
http://miya.aki.gs/mblog/?p=4140
独特の純粋経験論からの永井均の西田本批判など...
メンドイから隅々まで読んでないけど哲学観からして全然違う感じ

673 :
http://plaza.rakuten.co.jp/thisman/

674 :
>>672
議論の前提がだいぶ違うんじゃないか、という気はするね
正確にどこが違うのかは、熟読しないといかんだろうけど
とりあえずちょっと面白いと思ったのは、「場所なんていらないんじゃないか、
なぜそんなものを想定するのか」という趣旨(と思われる)のところ
確かに、思ったり現れたりというもの以外を本当に全く想定しないのなら、
その「場所」なんてものも想定しなくてよいのかもしれない
逆に永井がそれを想定したり論じたりするのは、やはり別の場所(他者)の存在が
永井にとっての問題だから、だろうか
あるいは素朴に考えても、思ったり現れたりというものも、時間を通じて
出現したり消えたりということが起こるわけで、そうすると(それらも全く
何の関係もなく、その都度現れたり消滅したりするだけだ、などと考えないなら)
同じ場所に時間を通じて現れたり消えたりする、と捉えるのも自然な気がする
するとこれも今と他時点の問題につながるだろうか

ちょっと後者は我ながらだいぶ適当だなw

675 :
翔太の培養液SFの話はいきなり「我々」からはじまるからわけわからんわ
我々で夢見るってなんたよ この時点で飛躍しすぎ

676 :
後れ馳せながら『時間の非実在性』発売記念age
『誤診』と違って、まず原文(の翻訳)がまとめて載っていて、その後に永井の
注解と論評がまとまってるのは、原文目当ての人への配慮だろうか
というか普通の訳書はそうなってるかw

677 :
青色本と違って訳書が今まで出てないからそういう配慮したのかもね

678 :
http://plaza.rakuten.co.jp/thisman/

679 :
無内包という内包
って0次内包とどう違うのか

680 :
〇次内包は私であるところのその人にだけあるだけで
その点では可能的に私である誰にとっても存在する
無内包はそのような事象内容に依存しない

681 :
無内包という内包って
アクトゥエルに存在しているものがレアリテートの水準にどこまでも引き下げられる事であり
端的な事実が複数存在している事であって
これが0次内包に該当するかどうかって事だと思うけど

永井自身はツイッターで
>一次、二次、0次(言葉、物、心)こそが同じ穴の貉(レアリテート)
と言っているし、0次内包は飽くまで内包の中の一ジャンルって認識かな

もっと深い理解が出来そうだけどわからん

682 :
無内包という内包(概念としての無内包)は〇次内包とは違うでしょ
この体だけから「実際に」「見え」この体だけが「実際に」「痛く」などという時の「実際に」がだれにでも当てはまってしまう
それゆえに語りうるというのが無内包という内包で
「見え」や「痛く」が〇次内包なのでは

683 :
時間…妄想、農耕文化が生み出した?暦の誕生との関連も面白い。大洪水の予測のために?
他者…妄想、定住民族が生み出した?「こんなことしたら罰当たる」ニーチェの道徳論ともつながるかも
時間と他者から様相へ→「こうだったらなあ」可能性、そして「苦」の誕生…仏教とのつながりは?
〈いま・ここ〉からのズレ、大いなる存在の連鎖との乖離、楽園追放?
宗教も哲学も約2500年前に生まれた…言語との関連は?古代人は言葉をリズムに乗せて、つまり歌とともに言葉を使っていたらしいが
永井さん、人類史とか興味ないのかな?

684 :
>>672
いやあ素晴らしいね
むしろ私と表記してしまうと誤解を生むとさえ言える
自己ってのもそうだけど、もうそれって自己じゃないじゃんっておもう
もう感覚の問題じゃないかなあ、実存といえばいいのか、とにかく「それ」はある
そしてそれは私でもないし、自己でもない

685 :
「我思う、ゆえに我あり」

「思う、ゆえに思いあり」

「感じる、ゆえに感じあり」

「…、ゆえに、…あり」

「…あり」

「…」

686 :
ガンマー線追尾自然値0.058μSv/hをはるかに上回るガンマー線を27万円程度の測定器で否が応でも測定してしまう
https://www.youtube.com/watch?v=usXXWJpzZ1w

1:32:58人工衛星(確実に使える部分)
https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI

687 :
>>685
コギトは類語反復です

688 :
コギト エラソーな奴。役員ぐらいのレヴェルじゃいの?
悪霊ぐらいでどうのこうの。

689 :
ちょっとまだよく読んでないけれど
入不二氏のマイナス内包って
「無内包という内包」のことなのか?

690 :
昨年の話題ではありますが、『なぜ意識は実在しないのか』の改訂版が出た今となっては旧版は読まなくてもいいのですかね?
それとも旧版は旧版で読む価値ありますか?

691 :
>>690
未来技術板にいる者だけど、意識が実在しなきゃ困る。
将来的には肉体や物質から完全に離れた意識だけの生命体に
なるのが人間の目標なんだがね。

692 :
>>690
旧版は読まなくていいと思います
永井本人がそう発言されてた(ツイッターで)し、それに新版で加わった箇所は、
俺がざっと確認した限りでは、ほぼ「問題の指摘や説明がさらに増えた」もので、
「旧版の内容が削られた」というのはほとんどないから

693 :
>>692
ありがとうございます
安心して新版だけ買ってきます

694 :
重役失禁。

695 :
>>683
人類の運命みたいな話ならば哲学で扱う課題ではないという考えなのでは
人類どころか地球の運命でも
一社会人としてどうこうという話ではないという前提ですが

696 :
http://www.shunjusha.co.jp/web_shunju/01_sonzai.html
存在と意味 ―哲学探究2―
ご本人がTwitterで紹介されたものですが、新連載開始記念age
下世話な話だが、これってずっとタダで読めるのかなw
いや単行本になったら買うけどねw

697 :
10年くらい書くなんて言ってるけど、永井もWeb文春も自分もそこまで生きてるかどうか
まあ何にせよ楽しみができた

698 :
文春じゃなくて春秋だからw
さすがに2を連載出版させてくれるほど
文春は甘くないw

699 :
永井の〈私〉とハイデガーの「明け開け(Lichtung)」って同じことを言ってると思うのですが誰か分かる人いませんか?

700 :
おーぷん2ちゃんねるのオカルト板に行って
意味不明って検索してから260番のレス見てみ。
きっと必要なことが書いてある。

701 :
1次内包
世界にたくさんいる人間に宿っている心(私)
0次内包
並列化された世界=私
無内包
端的にあるこの世界=私
て理解でいいのかね
ちなみに2次内包は私が現象しているときの物理的脳内状態

702 :
総意

703 :
0次内包と無内包の間に
無内包という内包
という段階?があるのだと思う

704 :
うーむ、最近の一連のツイートが、「言葉の用法を示すため」であることは、可能なのか?
(いや不可能とまで思うわけではないけど)
例えば「蚊に刺されてもちっとも痛くないが(かゆいことはあっても)、蟻に噛まれると非常に痛い」
という文章が、「痛い」という言葉の用法を示すものだ、と理解できるだろうか
いやこれだと普通すぎてダメか
「蟻に噛まれてもちっとも痛くないが、蚊に刺されると非常に痛い」が、
「痛い」の用法を示すものだと理解できるだろうか
何らか共通の「痛い」の理解があって、それがなぜか普通の因果関係や脈絡とは
違う場面で起こっている、と理解することになるのではないか
ここで言われている「面白い」が、「痛い」などとは全然違う性質ということだろうか
なかなか難しいな
例えば「そうだ、ニーチェについて書かれた他の本は全然面白くないが、本人と永井の本だけは、
とても面白い」と思った人がいたとして、しかしその人はウィトゲンシュタインについて
書かれた本は、他の本も普通に面白いと思っていたとすると、その人は、何を理解したことになるのか?
うーむ頭がこんがらかるなw

705 :
西田にあったけど、人称を時制のアナグラムでとらえらることと、時制を人称のアナグラムでとらえることは
永井の中じゃ全然別のことなんだな 後者だけがカイビャク哲学らしい この辺の感覚を理解するのが一番むずい
10年近く読み込んでるがさっぱりだ

706 :
永井均の弟子 金川真大。

707 :
選挙は、自由選挙・平等選挙・秘密投票等々といった建前を仮に取っ払って考えてしまうと、
要するに、徒党を組んで自分達の共通の利害・意見を押し通す手段に過ぎない、と考えられるだろうか
そうだとすると、その利害・意見の内容と徒党を組んで実現する意志とを自覚して共有してる人は、
投票することは自分にとって良いことになるから、まあ投票に行くことは別におかしくない
それで、そこまで自覚して共有してるわけではない人に「投票に行こう」と呼び掛けるのは、
実は自分達の利害・意見を相手に押し付けているに過ぎないのに、あたかも投票が相手にとっても
良いことであるとか、さらには義務であるとかいう「嘘」をついている、というように、
永井の道徳に関する議論を応用することはできるだろうか

もちろん単純に応用するにはいろいろ疑問があると思われると思われるところで、特に、
投票の場合は利害・意見の対立する複数の候補のどこに投票するのかという問題があるのが、
とりあえず思い付くところだけど
しかし、若者が何となく投票に行きたがらない(らしい)ことの説明の一端にならないかなあ、
と勝手に思い付いた
徒党を組むほどの自分自身の利害はまだあまり自覚しておらず、かつ「嘘」の胡散臭さを
何となく感じたり、あるいは逆に「正しい投票をしなければ。間違った投票をすることは悪だ」(?)
などと道徳的に(?)悩みすぎてしまったり、ということで、結局足を運べないということがないかと、
勝手に思ってる

708 :
>>707に書いたようなことだけだと、投票が「祈り」に近いような聖なる行為だという意味合いまでは、
なかなか理解が及ばないところではあるけど
しかし仮に、「祈り」というのが、手軽に書かれた教典とか身近にいる指導者・聖職者などに
とりあえず従うのではなく、自分自身の理解と信念のみによって一人で神に向かい合う、
というようなことであるとすると、そしてそれと対応して現代の投票というものが、
手軽に思い付いた利害・意見とか身近にいる徒党にとりあえず乗っかるのではなく、
自分自身の理解と信念のみによって一人で国政のあるべき方向を責任持って選ぶ、というような
意味合いを持たされているとすると、そんなしんどい行為を好んでしたがらない人が
(特に若者が)相当の割合で存在するのは、何もおかしいことではない気がする
(それで結果としては、自覚的な徒党や、自分の利害・意見を押し出すことをためらわない
図々しい年寄り達(失礼)が勢力を得ることになってしまうのだろうけど)

しかし、投票がそこまでただ一人で何か通常の利害・意見を超えたものに立ち向かうといった意味合いを
持ってしまっているとすると、それを上手いこと利用して常識はずれの選択をさせるよう
導くのが得意な人物が現れたら、非常に危険だというのも、何となくイメージしやすくなった気がする
特に、いろんな利害やしがらみがまだそれなりに残っていそうな地方よりも、
それがない大都市などに現れそうなのも、理由があることなのだろうか(いや誰とは言わんけど)
哲学とほとんど関係のない妄想ですいません

709 :
クソレスで大変恐縮ですが、「冗談で冗談を言ったら真面目に戻る?」という冗談(?)にはワロタ
超越論的冗談可能性は、冗談にだけは通用しないのだろうか(謎)

710 :
いや待てよ、クソレスにクソレスを重ねて恐縮ですが

例えば
「今回の選挙では共産党に投票します」(※例文)
という真面目な発言(※一例)があったとして、これに「な〜んちゃって」を付け加えることで、
いかに真面目な発言であっても常に冗談にできてしまう、というのが超越論的冗談可能性であった
しかし、この「な〜んちゃって」に、さらに「な〜んちゃって」を付け加えることで、
元の真面目な発言に戻すことが可能であるとすれば、真面目な発言を常に冗談にできてしまう、
ということが成り立たなくなってしまうのではないか
つまり、「な〜んちゃって」にはさらに「な〜んちゃって」を付け加えることはできず、
「な〜んちゃって」だけは常に真面目な発言でなければならない、というのが、
超越論的冗談可能性の成立条件であるということか(謎)

711 :
あれ、そうすると、元のツイートの「冗談を言うときはいつも真面目にそうするのか」
という問題につながるのかな(そうだ、という回答になる)
あれおかしいな、そんなプロの方々の議論に真面目に参加するつもりなど全くなかったのにw

712 :
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171022-00000004-asahi-pol
自身の一票を生かすために ゲーム理論の専門家に聞く

ここで紹介されているような「戦略的投票」は、永井のいう「祈り」のような投票には
反することになるんだろうな、多分
投票は「祈り」でなければならないのだろうか
あるいは逆に、「戦略的投票」を推奨したりするのは、実は投票の本質に反することで、
民主主義の理念や選挙・投票の捉え方を掘り崩すものだったりするのだろうか
ちょっと考えただけだと、道徳については、もし「善なる嘘」を全く無くしてしまったら
えらい事態を招きかねない気もするけど、それと比較すれば選挙はわりとあからさまに
要するに権力争いのための制度なのだから、もし過剰な「嘘」によってかえって適当に
行動することができない人がいるとするなら、そのような「嘘」は取り払って気軽な投票を
勧めるのも、悪いことではない気もするけど

713 :
https://mobile.twitter.com/hitoshinagai1/status/925353400497143808

このツイートの話って考えてみるとなかなか難しいな
言葉を自在に話せる人なら、自分の話す言葉の意味と他人の話す言葉の意味を
同じように理解できると考えるのは、まあ自然だろう
それに対して芸術家だと、自分で作品を作ることはできるが他人の作品を芸術だと
捉えることができない、というのは、素朴にイメージすると、あってもおかしくない気もする
しかし、その芸術家も、自分で作品を作って世に出そうとする以上は、「これは芸術だ」と
何らかの判断をしている(別の面からは「これは失敗作だ」「これはまだ未完成だ」などとして
世に出さないという判断もしている)だろう
そうすると、そのような判断を何らかの判断基準によって自分の作品には下すことが可能なら、
なぜ他人の作品について同じように基準によった判断を下すことが全然できないのか、
というのは、確かに疑問かもしれない
そのような判断を全然できない芸術家が現にいるのなら、その人は、実は自分の作品についても、
一見すると完成された作品を世に出しているように見えても、実際はどれが芸術として
完成された作品で、どれが未完成品や失敗作なのか、自分でも分かっていない、ということになるだろうか
それが「偽者」の意味ということだろうか

714 :
時間がなくてまだ10までしか読んでない
ここまではまあなんとか理解できた(と思う)

715 :
時間の非実在性、1万円くらいで売れば良かったのにね。

716 :
>>715
1万円だったら読者が激減すると思われるけど、それで誰が得するの?w
と思ったが、もし余計な読者が増えない(専門書を読むような層にしか読まれない)
ことを目指すのなら、それでもいいのかもね

717 :
5刷とか売れるのは、手頃だから。
3〜4000円だったら、そうはいかない。

718 :
テスト

719 :
幾何学的な眼と物理的な眼を、TVゲームの一人称と三人称でとらえるとすごいくだらない気がする。
どっちも似たようなもんだから。
<私>のメタフィジックスの「<私>とその頽落形態」や
「直接的なA系列と一般化されたA系列」の対比のような形でこちらも置き換える必要があると思う。
一人称視点という意味での幾何学的な目を〈〈私〉〉になぞらえて〈〈幾何学的〉〉な眼とし、
世界そのものとしての幾何学的な目を〈幾何学的〉な眼と表記して対立させるなど。
前幾何学的な目と幾何学的な目と対立させても良い。最早「幾何学」に特に意味もないのので「物理」でもいい。

720 :
パッと見てくだらないと判る書き込み。

721 :
事象内容を世界内の出来事と捉えて独在性も事象内容に含めた方がおもしろいと思うけどな
そうでないと事象内容にはさじ加減が全てでしかない恣意的な操作が介入することになる
どっかの誰かが主張してる即席の常識を世界の規則に据えることになる
私界未分の世界では普通の事象内容という考え方は出来ないけど、世界内の出来事という定義ならできる

722 :
永井もウィトゲンシュタインも独在性を事象内容に含められないって一方的に主張してるけど、根拠を示してないんだよなぁ
夢の懐疑は考えるけど、事象内容の懐疑は考えないのはなぜなのか 俺には夢という言葉と事象内容という言葉は同じに見える
そもそも最初から事象内容は独在性の対概念だからだというのが答えなら、事象内容はそれ以上拡がりをもたない専門用語になる
すなわち存在論の言葉としては使えない

723 :
独在性の懐疑は合ってもいいと思う よって独在性も事象内容であるという形で

724 :
西田の弟子が哲学を戦争や天皇と切り離して考えられなかったように、永井も自分が信じてるものから切り離せないんだろうな
どう転んでも

725 :
永井が出してた例えだと、宇宙に浮かぶテレビの中の出来事に独在性は含まれるから、
テレビのオンオフの問題である存在の問題にはコミットしないと思う
テレビの中の出来事は世界のありかたの例えなので、イコール事象内容で、事象内容に独在性も含まれる
マンガは哲学するの佐々木淳子の映像装置とかインド思想のマーヤーの中に、独在性は含まれる
最初から社会契約を極端に自立させる思想だと事象内容を別の捉え方もできるかもしれないけど、
そんなプロパガンダにはついていけない

726 :
私と他人との違い、今と他時点との違いを、どうやって事象内容で説明するの?
その説明ができるのなら、独在性も事象内容の問題と言えるのだろうけど

727 :
独我論と観念論の違いなんて捉える側が問題を最深部で捉えてたらありはしないし、
単なる評論用語として捉えてたらあるかもしんないけどそんなのどうでもいいんだから
(その用語が生まれた発想の根元をないがしろにしながら付随物ばかり比較しても意味がない)、
独我論と独在性の違いこそを論じてほしいよ。
独我論は私の身体が何個あろうがなかろうが関係ないが独在性は必ず一つ、なぜならそこを出発点にした概念だから。
ウィトゲンシュタインの独我論とこの独在性をしょっちゅう混同してるのはなんなんだ。

728 :
たまたまの孤独と文法上の孤独ってわけてるけど、いきなり文法が自立してタケノコみたいに
生えてくるわけじゃあるまいし、たまたまの孤独の派生形態が文法上の孤独と考える方が自然
なぜ文法を自立させたがると言えばそうしないとたまたまではない単なる全面的な孤独になるから
よく言えば循環だが悪く言えばどちらも自立せず間違ってるだけ 循環とでも言って誤魔化すしかない
そもそも文法って言葉はアカデミズムのうさんくささの象徴みたいな言葉だと思う
みんな中学生くらいまではいやおうなくそれわかってるんだけどな

729 :
『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫)2018/2/10
永井 均 
文庫¥ 1,220

青色本 (ちくま学芸文庫)2010/11/12
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン (著),&#8206; 野矢 茂樹 (解説),&#8206; 大森 荘蔵 (翻訳)
文庫  ¥ 972

730 :
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/957904879925673984?ref_src=twcamp%5Ecopy%7Ctwsrc%5Eandroid%7Ctwgr%5Ecopy%7Ctwcon%5E7090%7Ctwterm%5E2
これは、大多数が善いと思っていることに自分の行為を合わせることが生きるのに便利でなく、つまり不快であるような場合には、道徳的に善いとされていることに従わない、ということを意味するのだろうか。あるいは、そういう場合はありえないという前提があるのだろうか。「から」の意味が知りたい。


これは、倫理・道徳についての議論だから「から」の意味が問題になるのかな
「私がカレーを食べるのは、カレーが美味しいと思うからだ」という人に対して、
「では不味いカレーがあったら、それは食べないのか」と聞いたら、「そりゃそうだ」
という返事になりそうだけど
その場合にも、「いや不味いカレーはあり得ない」という返事はあり得るのかなw

731 :
結局、『ここから』しか世界は見えてないけど、
その『ここ』って、絶対に認識できないよね。
『ここ』って認識した時は、既に『認識した結果』を見ていて、
『認識する元』たる『ここ』は認識できてないから。
それが無内包であって、>>722の疑問に対する答えも、
そういう事ではないんだろうか?『語り得ない』という。

732 :
>>730
「私が『美味しいとされているカレー』を『美味しい』と言うのは、
 大多数が美味しいと思っていることに自分の味覚の表明を合わせた方が
 生きるのに便利だから、社会から排斥されないから、つまり快だからであり、
 それ以上の意味はない」

と読み替えてみると、

『美味しいとされているカレー』を食べて「不味い」と感じた時、
「不味い」と表明することで、生きるのに不便になったり、社会から排斥される『不快』を選ぶより、
「美味しい」と表明することで、生きるのに便利だったり、社会から排斥されない『快』を選ぶ

ということではないでしょうか?

もし違和感があるなら、『カレー』を『戦闘部族が好んで食べるもの』に読み替えるといかがでしょうか?
自分だったら、死にそうに不味くても、実際に殺されたくないから、
不味いとは言えないと思うw

733 :
>>732
そういう状況であれば、「私が戦闘部族の食べ物を「美味しい」と言うのは、
(実際に美味しく感じているかとは関係なく)そうしないと戦闘部族にひどい目に合わされるからだ、
つまりその状況の下では快である(大きな不快を避けられる)からだ」と表現すれば、
話は単純で、状況が違えばそんな行動は取らないことが明らかなんじゃないですかね
しかし、もし何らかの理由で、それが美味しいという「嘘」を自分でも信じ込むようになったりしたら、
道徳と類似してくるんだろうか

734 :
ちょっと思い付いたので書いてみると、道具的価値と内在的価値という考え方をここに応用できるだろうか
(※などと思いながら『倫理とか何か』の関連しそうなところをちょっと拾い読みしてみたけど、
そもそもこれらの用語自体が直接は見つからなかったので、完全に適当です)

「私が(道具的価値に従った行動)をするのは、それが(内在的価値の実現に役に立つ)からだ」
と、まとめられるとすると、内在的価値の実現に役に立たない状況だったり、役に立つと思っていたが
実は役に立たないことが判明したりしたら、道具的価値に従った行動などはしない、
ということになるだろう
逆に、「その行動をしないこと(と言うか、その行動が内在的価値の実現に役に立たないこと)が
あり得ない」と言えるとしたら、それは、実はその行動自体が内在的価値の実現に直接つながる、
という場合だ、ということになるだろうか
例えばスポーツをするような場合、「試合に勝てれば楽しいから」「金が手に入るから」などの
別の価値のための道具的価値に過ぎないなら、別の価値の実現に役に立たないならしないことがあり得るけど、
本当に大好きなスポーツをするような場合、すること自体に内在的価値があるので、一見すると
「楽しいから」などという理由になりそうに見えるけど、実際はしないこと(することが価値の実現に
役に立たないこと)はあり得ない、ということになりそうに思う
カレーの場合が不自然に見えるとしたら、通常は内在的価値になるのは「美味しいものを味わう」
などといったことで、カレーはその手段(道具的価値の一つ)に過ぎないと考えるのが自然だからではないかと
(カレー研究者(?)といった人なら違うかもしれない)

735 :
(続き)
こういうふうに整理できるとすると、価値一般について当てはまりそうで、別に
道徳の場合だけ特別問題になるわけではなさそうに思った

しかしそれでも道徳の場合に特に問題となる理由があるとすると、道徳は、(『倫理とは何か』の
私の大雑把な理解とその勝手な応用の仕方が的外れでないとすれば)もともと道具的価値しか持たない、
つまり自分(に限らず社会契約のメンバー)にとって、快を実現するための手段に過ぎないのだが、
作られた後になって、「いや道徳は内在的価値を有するのだ、しないことなどあり得ないのだ」
という「嘘」が作られ、しかもやがて本当に内在的価値を有するようになる(少なくともそう信じられる)
という特別な性質を持った価値だ、という点だろうか
道具的価値と内在的価値の両方の面を有してしまうので、果たしてそのどちらなのか、というのが
特に問題とされる、と

736 :
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

Z9GHZ

737 :
Z9GHZ

738 :
『哲学の密かな闘い』が文庫化されて「新版」となってるけど、旧版との違いはどこ?
もうチェックした人、教えてくれ

739 :
hitoshinagai1
そんな話はともあれ、今回の新版では、第T部に「存在の孤独な祝祭」と「〈今〉と〈私〉の謎 」を新たに収録した。どちらも短いが、とくに後者は3頁半なので、買わない人もぜひ立ち読みしてください!

740 :
新版 哲学の密かな闘い (岩波現代文庫) 永井 均 https://www.amazon.co.jp/dp/400600379X/

『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫) 永井 均 https://www.amazon.co.jp/dp/4062924498/

香山リカと哲学者たち 明るい哲学の練習 最後に支えてくれるものへ 中島 義道 https://www.amazon.co.jp/dp/4906791670/

〈仏教3.0〉を哲学する 藤田 一照 https://www.amazon.co.jp/dp/439313592X/

741 :
「明日のために、いま寝る」
これはすなわち言語の成立であり、時間の成立であり、道徳の成立のための第一歩でもある(違

742 :
この世界の上で繰り広げられる哲学談義なんてどうでもいい
そういう心持ちじゃないと永井さんの言わんとする事は分からない
こういうことなんじゃないかなあ・・・

743 :
>>742
あはははは、『この世界の上で繰り広げられる哲学談義』という『内容』なんて・・・・・なwwwwwwwwww

744 :
永井氏の不思議なところは、
「皆も当然そう思っている」ではなく、
「自分しかこれを知らないのか」という不安ではなく、
ただ、ただ
「『ここ』からしか開けていない、え?俺も?違う、そういう事じゃない」
という『確信』から始まっているところだなぁ〜・・・・・

745 :
ネルケ無方さんの座禅(@朝カル)に永井さんも出てましたね

746 :
サルトルちょっと読んだけど、昔の永井がよく言ってたみたいに
「我々」から話が始まってるから問題を飛び越してるってのを強く感じた
ハイデガーは「我々」から始まっても念頭においてるのが〈〉なんではと擁護
したくなる箇所が多いけど、サルトルはまるでダメ 哲学的緊張を感じない

747 :
サルトルほどの思想家をつかまえて
こんな無能が、偉そうにまあ・・・

748 :
ここ数年の6月1日は無為の日だった(と提唱者が宣言していた)が、それによって、
今年の6月1日も無為の日であると言えるだろうか、それとも提唱者がその都度
宣言することによってのみ無為の日となるのだろうか(適当)

749 :
『無内包』とは、『無内包』という『定義』に注目してしまった時点で
『無内包』ではなくなってしまう。

『無為の日』も、『無為の日』という『定義』に注目してしまう時点で
『無為』とはならないことを、
これを提唱した人は気付いているだろうか?

750 :
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1003798480043716608?s=19
今となっては2018年6月2日が今日であることは史上初だと言えることは米朝首脳会談が史上初だと言えることと同種のこととなっていると思います。2018年6月5日が今日であることは史上初だのほうは違います。まずはこの違いこそがポイントですね(あくまでも「まずは」ですが)。

この話って結構難しいような気がする(少なくとも俺にとっては)
同種のことではなく特別なことだ、というのだけがポイントだとすれば、
6月2日(今から見て過去の日)が今日であることも、6月10日(今から見て未来の日)が
今日であることも、同じように特別なことにはならず、6月5日が今日であることのみが
特別なことだ、ということになると思う
(もちろん今日は実際には6月8日なのだが、日付を変えると無駄に面倒と思ったので)
しかし「史上初」や「今となっては」という表現に注目すると、6月2日(今から見て
過去の日)が今日であることは史上初だ、というのと、6月10日(今から見て

未来の日)が今日であることが史上初だ、というのが、同じように特別なことには
ならない、と言えるのかどうか?

751 :
>>750
ツイートされた月日が6月4日というのがポイントですかね?

752 :
本日が6月4日であると仮定して、

仮に、目の前に展開していく現実の全てが
デジャブ=既に脳内で思い描いていたこと
という人が居るなら、
6月2日も、6月5日も『同じこと』ではないかと。
と言うより、
目の前に展開していく現実の全てが既に脳内で思い描いていたこと
であれば、『史上初』という概念すら無いか。

自分が疑っているのは、実のところ、『全ての人』が、
本当は既に脳内で思い描いているにも関わらず、
目の前に展開していく現実の全てを『史上初』と勘違いしてしまっているのかも、
てこと。
その立場からすれば、『既に起きた史上初』と『まだ起きていない史上初』は
違っているかと。

753 :
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1010342935026544640?s=09
あたりのツイートを見て

同じ一つの価値(=球)の存在を前提として、その中で優劣を競うのがスポーツ(のうち
多くのもの)の本質で、その価値とは別の駆け引きみたいなものが多く混じるのは好まれない、
ということだとすると、多人数の格闘戦のようなスポーツが(あまり)ないのは、それだと
一つの価値の優劣になりにくく、むしろ例えばタイミングよく一対多の状況を作るのに
長けたほうが勝ちやすくなるなど、駆け引きの部分が多くなるからだろうか
だとすると3チーム以上の乱戦のようなスポーツが(あまり)ないのとも、統一的に考えられるか
するとさらに、例えば同時に2つ以上のボールを使うサッカー、なんてのはどうか
例えば、一方のチームが見事な技術・体力で1点取る間に、相手チームが
タイミングのうまさだけでそれ以上取り返す、なんてことが起こってしまう
これも同じように流行らない、ということになるかなw

しかしそのように考えると、「銃弾」という物騒な比喩から始まった話なのに、
何だかずいぶん価値・ルール重視の話になって、むしろ(身も蓋もない現実としては
いかにもありそうな)剥き出しの駆け引きとかやったもん勝ちの世界とは離れていくのが、
何だか面白い
サッカーのワールドカップは比喩的には「戦争」と言われたりもしてたと思うけど、
実は道徳的なものだったのか、それとも道徳的な戦争(?)なのか
と言うか、ここでの文脈では「戦争」はそもそも道徳的なのか(?)

754 :
サッカーの日本チームは「フェアプレー・ポイント」なるものの差で決勝トーナメントに
出られるそうですが
「戦争」の決着が、ぎりぎりのところで道徳的優劣(?)によってつけられるとは興味深い(適当)

755 :
長谷部、本田語録“きよきよしい”を支持!?「もう日本語変えちゃったらいいじゃないですか」(スポーツ報知) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180708-00000059-sph-ent

ここにも「でんでん現象」が(古)
しかし、もしもこのように、公共で認められた読み方と異なる私的な(?)読み方のほうが、
後に公共的に認められてしまうことが起こったら、それはどんな現象と考えたらよいだろうか

756 :
永井先生の火の玉ストレートが炸裂

757 :
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1020965382423601152
しかし『これがニーチェだ』の時点では,ニーチェは思想家としては完璧に敗北したと
言われていたのに,なぜ急にこんなことになったんだろう
「急に」というわけではなく,もともとニーチェが取り上げていたような道徳や価値は
実はあまりに弱いもので,ニーチェの議論は邪悪すぎたのだろうか
でも道徳や価値そのものを公の場で堂々と否定したり,的確な議論を組み立てたりする人が
別にそんなにいるとも思えない(思想家として敗北していることには変わりはない?)ので,
公には否定されているはずのものが簡単に勢力を伸ばすというのも,なんかよく分からない

758 :
新刊『世界の独在論的存在構造』発売記念age
新潟の書店にあったので、多分もういろんなところにあると思われる

759 :
暦がずれているのは自明だが、個人で各々ずれていないと暦を策定できないし
占いも当たらず、意味をなさない。ワールドカップが戦争家かというと
どちらかというと調教、統率力兵役実務につながる訓練だと思う。
戦力を見たり、軍事コマンドの人事には使えるだろうが、ショセンはメディア
客商売である。



人によって時間の進み方は違うが、同じ☀の速さ 同じ夜のながさ、同じ日付日めくりを生きている
という保証はない。確認できないのだよね。独我論の世界があくまで正しいから。

760 :
ニーチェは古典文献から邪悪になっていっていいのかというといいと思うが、
それだけではつまらない文献学者だろう。道徳の基盤はカントが詳しいが、
道徳を持ち合わせるのは貴重種で、常に戦いに猛っているような魔女の才覚だろうな。

761 :
つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ

762 :
つまらないのはあなたの人生に対する姿勢が、僕に哲学的心理で皮肉られているのでしょう。顕在化されえない力で。
つまらないのはあなたの方だ。世界を詰まらない人がつまらない世界を作り出し
それを必然的に感じているだけ。
と臆面もなく言うことが出来る。
つまらないなら盛り上げて、僕ではなく、面白い世界に彼を導いていけばよい。

763 :
と思います。書き込まないというより、掲示物の範疇だから
法律的にはね、つまらないならスルーしてもらって結構。反論も結構。
同じことを言われるとオタク瞬間時間が流れてしまいます。

764 :
>>727
独在性という語が成立するかは差し当たり保留して「それ」とし
「それ」が言語に反映され得ないとしたのがウィトゲンシュタインで
「それ」が言語に反映され得るとしたのが永井であろう
もちろんウィトゲンシュタインは独在性なる概念を認めはしない

765 :
いや、言語に反映され得ないというだけで認めてはいるかな?
ウィトゲンシュタインの独我論と永井の独在性の違いはそこだけで

766 :
今という驚きを考えたことがありますかp51より
(前略)独我論と観念論は全然違うじゃないですか。
独我論とは、この〈私〉だけがほんとうに実在するものであり、
外界の物質はもちろん、他人の心も実在しない、もしくは実在するかどうかわからない、
とする考えです。一方で観念論は、物質と精神の対比において精神こそが実在すると考えます。
ここでは精神というものが存在することが前提されています。
すなわち他人にも精神があることは前提になっています。
しかし、独我論との対比で考えたとき、みんなに精神があると考える観念論は、
もっとも反独我論的です。(後略)

いまさらだけど…

767 :
観念論は関係無い
永井は独在性が伝達可能であるという立場であるから
中心化された世界が1つだと主張しているわけではないであろう

768 :
たぶんあなたに対してのレスではありません流れを切って申し訳ないけど

769 :
だろうね

770 :
世界の独在論的存在構造のアマゾンのカスタマーレビューのコメント欄で議論がおきている。
https://www.amazon.co.jp/review/RSHTLF3TZQA2X/ref=cm_cr_srp_d_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4393323793

771 :
またえらく単純な誤読に陥ってるな、このレビュアーは

772 :
密かに前言撤回したのに相手が誤読したせいなどと付け加えるやつのレビューなど何の価値もない

773 :
自分で議論と思ってるものが意見である場合があるのがなぜか、この人が暴き出してすごいなぁと思ってたけど、
この人、自分だけは違うと思ってるのなんなんだろうな

774 :
この人って誰のことですか?

775 :
小説家になろう 永井均の「世界の独在論的存在構造」批判
https://ncode.syosetu.com/n1632ez/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3)


776 :
神の世界創造を信じてないっていった人って、現に世界があるってことを信じてないっていったんじゃないの
他人の発言を根っこでとらえず自分の型で捉えて切っちゃうよね

777 :
@hitoshinagai1
西田序で。NHK出版から出ていた拙著『西田幾多郎』の増補改訂版がKADOKAWAの文庫版で出ます。
文庫版の付論においては、西田哲学で時計の成立を説明し、道すがら仏教における解脱とキリスト教における復活、
西田における自覚と仏教におけるサティ(マインドフルネス)の関係を論じ、本論と繋げます。

778 :
こどものための哲学を読んだのはもう10年以上前です
永井さんがいまだに<私>にこだわっているとは、少しびっくりしました
さすがに飽きただろうと思っていました

779 :
清水将吾氏、どうしたんだろうか
いつも通りの永井論法なのに、イチャモンつけてるようにしか見えんのだが

780 :
確かに、なんでああいう流れになってしまってるんだろう
論理的構造だけで言えば、単に、「もしAを前提とすればそこからB、C、…が言える」という
話をした時に、B、C、…が実際に事実と合致しているかどうかはいろんな場合がある、
というだけのことではないかと
(「帰謬法」というと、逆に結論が間違いや矛盾を含んでいないといけないことになるので、
そこは訂正したと)

それと別に事実のコミットメントということになると、純粋に事実といえるかは別として、
永井がよく言っている「自分の哲学のみが真に重要な問題で、それに比べれば世の中の
大抵のことはどうでもいい(そして大抵の人はそういうことを日々頑張っている)」という発想を
暗に前提にしてる、ということにはなるかと思うけど
まあもちろん、その発想を全然知らない人、その中でも現にブラック企業で苦しんでいたり
その問題解決に取り組んだりしている人々にとっては、現実を無視した馬鹿げた発言と
感じられる可能性はあると思うけど
ただ元々永井が永井らしいツイートから始めた文脈に、そういう感じかたを持ち込むのが
適切か、ということになるんだろうけど
(当然ながら、そういう感じかたから話を始めれば、別の議論になるわけで)

781 :
永井氏がたびたび指摘しているのは
永井氏のテーマとはまったく関係がない事柄に引きつけて永井氏の考えが解釈されてしまうことが多いということだが
本人も他の哲学者に同じことしてるんでおあいこ

782 :
>>781
永井は少なくともそれを自覚しているということだろう

783 :
ろくでなしじゃねえか

784 :
ろくでなしもなにもカントですらしてる

785 :
自覚してやってるからろくでなしなんだよ

786 :
>>775
ライプニッツとかホワイトヘッド的な解釈だとこうなるんだけど
永井はこっち方面にあまり関心がないらしいね

787 :
ニヒリストに対して勝負を挑むことはできない

788 :
>>783
ろくでなしだよ
蔑みを抑え切れない人格なのは間違いない

789 :
>>778
飽きるはずないだろ
世界の偶然性だけでも一生飯が食えるのに
世界の偶然性そのものの偶然性を相手にしてんだから

790 :
清水将吾という輩は一体何を怒ってるんだ?

791 :
フォローを外されたからこそ書ける好きなこと・・・

792 :
>>789
私も一時期、<私>に気がついてびっくりしましたが
今じゃ、熱くなってみんなに語った自分を恥ずかしく思いますよ
永井さんも、本当は分かってると思うんです
引っ込みがつかないだけなんですよ

793 :
それは引っ込みがつく=精神力が尽きた
引っ込みがつかない=精神力が尽きていないと言い換えれば
君も否定したくならない類の指摘なんだろうな
くだらない

794 :
宗教板でサティと呼ばれる人が、永井均の独我論で
「霊の実在を悟性として理解しました」と言ってるんですが、
哲学者が「霊の実在」なんて語っているのですか?


【イエス】 これはわたしの愛する子part37 【キリスト】
http://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1535314321/492
492 :神も仏も名無しさん :2018/08/29(水) 00:33:14.20 ID:GdL7qnw0
>>485
僕はデカルトの独我論で霊の実在を悟性として理解しました
厳密には、ウィトゲンシュタイン→永井均の独我論ですが

それを通ったお陰で霊とは何か、なぜ神の名が「私は私は在る」なのか、理性で触れるようになった感じです

>>491
美魔男の構って欲しい人をディスる癖がまた始まったようじゃなw

http://hissi.org/read.php/psy/20180829/R2RMN3FudzA.html

795 :
>>794
「霊の実在」というのが何のことかよく分からないけど、多分、永井はそのようなものを
認めて(少なくとも積極的に論じて)いないと思うよ
特に、普通にイメージするような、肉体と切り離されてフワフワ浮かんでるような
精神のみの実体(?)のようなものを指しているのであれば

796 :
「私は身体を度外視しても存在しうる」ぐらいの意味で言ってるんだと思うが

797 :
永井は、魂については、「脱人格的自我」のことを
昔からそう呼ばれてきたものとして、名称だけ借りている。
もちろん、夜の墓場で青白く光る炎のような目に見える実体のあるものではないが。

霊という言葉を使っているのは知らない。

798 :
せめて来世があるなら死の概念は無意味程度の認識は持っといてほしいよね

799 :
>>794を読む限り、

飽くまで>>794の引用元が永井均を読んで、そこから得たインスピレーションかなにかで
「霊の実在を悟性として理解しました」
と『>>794の引用元の言葉』で語っているだけでないの?

『霊の実在』や『悟性』を想起させる内容を永井均はどこで書いているのか?
のような質問ならわかる。

800 :
探究2は誤字が今までで一番多いな
今までも結構あったけど倍以上ある
後ろの方のなにも書いてない紙も異様に多いし、なんかあったんかな

801 :
なぜ意識は実在しないのか
結局これがベスト・オブ・ベスト

802 :
永井先生はハイデガーの記述のダサさのせいでハイデガーを軽視してるけど
自分はハイデガーの感じた恐怖の方がウィトゲンシュタインよりも共感できるかな

803 :
>>213
間違いなくこれだよね
"ある"か"ない"か以外に選択肢が"ありえない"この現状
こんな不思議な状況に放り込まれてるのに一切疑問を感じず
放り込まれた世界をただただ探求しようとするその姿勢
実に無邪気だ

804 :
>>746
でも目の前の木を"マロニエ"ではないと見抜いて恐怖するセンスは
決して一般人のものではない、叙述が拙かったとはいえやはりサルトルも哲学者だったよ

805 :
永井均 @hitoshinagai1
12月29日
かつて勤務していた大学での大学院の入試面接の際、他専攻の教員も参加していたが
受験者の提出論文の非常に優れた議論を全く理解できずにとんちんかんな質問を連発。
受験者は試験官が素人だとは夢にも思っていないため、質問が理解できないことでしどろもどろに。
試験官はその受験者に最低点を与えた。

永井均 @hitoshinagai1
12月29日
これが「評価者の識見が評価対象の水準に遙かに及ばない場合の低評価」の「興味深い事例」で、
「アマゾンを始めとする今日のネット上では馴染みの現象」ではあるが、
実のところは昔も今もよくある(あった)ことだろう。
人は理解できないものを出来が悪い(と理解できた)と思い込みがちのようだ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)


806 :
どんなブーメランよ

807 :
森田童子とおばけについて解説頂けますか

808 :
森田童子とおばけについて解説頂けますか

809 :
永井均Twitterより

永井均
禅僧のネルケ無方さんが、拙著『哲おじさんと学くん』を紹介してくれていて、しかも本書に固有のポイントを(お坊さんなのに!)正しく指摘してくれています。

ゆう
下らない質問で申し訳ありませんが、ネルケさんの動画を見るまでずっと、「哲おじさんとガクくん」だと思っていたのですが、「マナブくん」だったのでしょうか?

永井均
書いているときは私は「ガク」と思って書いていましたが、担当者も書籍版編集者もみな「マナブくん」と言っており、本の題名の正しい発音も「てつおじさんとまなぶくん」です。

ゆう
ありがとうございます。著者がつくった名前を、著者だけが誤読していたのだとしたら、面白いですね。

810 :
無内包の現実性とは常にトラウマのようにしかやってこない。
永井の独我論は子供だましの虚構

811 :
ほんのひとことついでに触れただけの貨幣をタイトルにしたり、
あとがきで無理矢理宗教のホットワードを自分の解釈にかぶせたり、
他の著作と比べても独自性のあった西田幾多郎本に最近の論法からめたり、
もうすっかり耄碌しちゃったな

812 :
神の死により自我同一性という虚構がばれそうになり啓蒙主義のルソーの社会契約論、カントの
定言命法による騙し。
哲学とは自我同一性という虚構・秩序維持活動

813 :
>>812
自己同一性という虚構の根拠を神(過去の起源)から未来(進化論、文明)への置き換え

814 :
「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義
シェリー・ケーガン
https://bunkyosha.com/books/9784866510774/article/1
無料公開ページ

原書 Chapter 2 二元論と物理主義
原書 Chapter 3 「魂」は存在するか?
原書 Chapter 4 デカルトの主張
原書 Chapter 5 「魂」不滅性についてのプラトンの見解
原書 Chapter 6 「人格の同一性」について
原書 Chapter 7 魂説、身体説、人格説ーーどの説を選ぶか?

815 :
哲学探究一の第一章p19の「我々の記憶は最初から過去そのものに届いており」の「届く」という言葉の意味がよくわかりません 教えてエロイ人

816 :
美魔女が芸能界デビューして、センターで歌って踊って
やがてイケメン俳優と結婚する記憶は、
過去そのものに届いているのだろうか?

817 :
美魔女の記憶が徐々に前田敦子の記憶と入れ替わるとき、
美魔女はいつ前田敦子になるのか?
前田敦子はいつ美魔女になるのか?

818 :
美魔女と前田敦子の記憶が完全に入れ替わったとき、
美魔女のその記憶は、過去そのものに届いているだろうか?

819 :
神をみんなでRのも同かな、マンツー神じゃないと、生き死にしても無意味。
定言命法については漢字では完全じゃないけど、完全なありようを目指しても、
ついていけなくて破綻する存在があると思う。
自我同一性を感じる人は食道楽や
オシャレもなく犠牲心もないんだろうなあ。生まれ変わるより死に変わる方がいいよ。

820 :
また子供部屋おじさん

821 :
それでは否定反論になっていないがな。

822 :
>>812
なぜ我々が神を信じてないのに自我同一性を失わずに狂人にならずに済んでいるのかと
いう疑問がわいてくる
言語習得の最初の段階は意味の側面でなく音の側面であるが哲学では意味の側面しか考察できないという
限界を哲学者は気づいていない

823 :
>>822
その狂人=独在性に至ろうとして永井センセは瞑想に励んでるw

824 :
17 :神も仏も名無しさん :2019/07/05(金) 22:51:37.03 ID:QwCXyyiF
この話に興味がある

833 神も仏も名無しさん 2019/07/03(水) 12:55:44.10 ID:EyBmaQ23
永井さん、内容的に手切れとも取れる講義をしたらしい。
アスペにはその内容の意味がわからない。
秋に本になれば、はっきりする。

841 神も仏も名無しさん 2019/07/03(水) 14:23:40.40 ID:2yDoWBDz
>>833
そうそう
永井さんは山下をすでに見限っている。

山下が勘違いしている。
永井さんは山下と距離をとり始めてり

825 :
18 :神も仏も名無しさん :2019/07/05(金) 23:00:43.79 ID:83zqFDG4
<span class="AA"> 永井均@hitoshinagai1 6月25日
後者(27日木曜)に関して。
「内山興正の「いきづまり」は素晴らしい!」
1、内山興正の自己誤解
第一図と第五図はまったく違うことを言っている−私秘性なしに独在性はありうる
すると、どちらからどちらへと「目覚める」べきかは明らか
2、「映画−映画館」解釈と「現世―涅槃」解釈

永井均@hitoshinagai1
3、じつは第四図と第五図こそが同じことを言っている!
  変化は単に「即自的にそうある→対自的にそうある」 視点(始点)の移動
4、超越的vs.超越論的 「死なない」のではなく「生死概念のとどかぬところ」
5、道徳的行為(菩薩の実践)をそれ自体として崇めないこと </span>

826 :
哲学者・永井均「私は北公次の『光GENJIへ』の愛読者だった。」
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/morningcoffee/1562770791/

827 :
1 :サビぬき。 ◆THkSItvq3E :2019/07/10(水) 23:59:51.28 0
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1148947350364160001
 
永井均@hitoshinagai1
 
「私は北公次の『光GENJIへ』の愛読者だった。
テレビでは良識的なコメンテーターとして知られている人までもが
ジャニー喜多川をまるで偉人のように礼賛しているのを見ると、
世の中というものは恐ろしいという思いを新たにざるをえない。」
https://twitter.com/2chan_nel (2ch newer account)
(deleted an unsolicited ad)

828 :
107 :fusianasan :2019/07/11(木) 18:15:17.95 0
永井は前にHey!Say!JUMPの知念が好きだとか書いてたような記憶がある

一応ちょっと知ってる人だけど、
ずっと家にこもって本ばかり読んでるようなタイプだよ
まあ学者はそんな感じが多いんだろうけど・・


116 :名無し募集中。。。 :2019/07/11(木) 21:26:36.91 0
これか
 
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1112688809651527680
 
永井均@hitoshinagai1
 
「平成」にはなんの思い入れもないが、終るとなると、ただ一つ、
私がずっと大ファンであった Hey! Say! JUMP が一時代前の存在になるようで、
それだけはちょっと感慨深いものがある。
たしかに、山田くんも知念くんも…立派な大人になったけどね。
https://twitter.com/2chan_nel (2ch newer account)
(deleted an unsolicited ad)

829 :
118 :名無し募集中。。。 :2019/07/11(木) 21:28:49.94 0
永井均@hitoshinagai1
  
Hey! Say! JUMP の大ファンであったというのは本当か、と尋ねる方がいますが、
例えば『ウィトゲンシュタインの誤診−「青色本」を掘り崩す』の
「31 痛みを感じている人は口から泣き声を出している人か」のウィトゲンシュタイン批判は
「NYC論証」と呼ばれ、各々のキャラを知らないと面白くないですよ。
  


119 :名無し募集中。。。 :2019/07/11(木) 21:30:42.40 0
永井均@hitoshinagai1
  
ただし、NYCは Hey! Say! JUMP とは別グループ。
N=中山優馬,Y=山田涼介,C=知念侑李。
この「論証」は超簡単だが重要なので、そこだけでも読んでもらいたい。
なぜウィトゲンシュタインの主張が受け入れられてきたのか不思議だ。
講談社文庫版では『「青色本」を掘り崩す−ウィトゲンシュタインの誤診』。

830 :
哲学探究2p 18で

デカルトが欺く神に勝ちうる理由は明らかであった。それはデカルトが自分を捉える際に用いてる「ただそれだけが現にあたえられているから」という理由を欺く神の側は持ち得ないから、であった。

この点なんですが、欺く神もデカルトを捉えることが出来るのではないかとは思ったのですが間違ってますか?(神は全知全能なので)

831 :
デカルトを捉える?

832 :
>>830
あなたのおっしゃる通り神はデカルトを捉えます

833 :
956 :神も仏も名無しさん :2019/09/01(日) 09:31:10.44 ID:TeGoTQlz
一般の人は騙されても哲学者は騙されない。
仏教3.0鼎談、永井さん最後の言葉。

834 :
その「捉える」という表現は、古代ギリシア語の"κράτος"に対応するような意味で使っているのでしょうか

835 :
どうしてそう思ったかと言うと、最近、Twitterで紹介されていた本を眺めて
みたところ、古代ギリシア語の"κράτος"という表現は、支配という政治的
な意味の外に、その動詞形において、「消化する」とか、「保持する」とか
の意味で用いられて、包み込むようなイメージでも捉えられていると説明
されていたからです。

「捉える」という表現は、「とらふ」に由来し、「とらふ」は、明白に
「とる」+「ふ」の形態をとっている「とる」の再帰表現であると考える
ことができます。すると、「消化する」という意味を考えてみると、
「栄養を摂(と)る」という表現が思い浮かび、この場合、「とらふ」が
「自らにとる」ことを意味していることと類似していることが分る。
さらに、「とらふ」が捕まえることを意味するように用いられる場合、
それが「保持する」ことに近いことは言うまでもないでしょう。
その上、「囚(とら)ふ」という漢字を考えてみると、包み込むような
イメージにも合うことになる。古代ギリシア語を勉強したことはないので、
よくは分りませんが。

836 :
833考える名無しさん2019/09/01(日) 18:15:00.470>>824

と表示されていますが、私のレスは、>>824とは無関係です。
誤解のないよう。

837 :
>>833
>一般の人は騙されても哲学者は騙されない。

その「騙される」というのはどういう文脈で出たんですか。
よろしければ簡単にでも。

838 :
永井さんと山下さんがすれ違ったポイント。
「心と宗教」の山下スレッド(もう落ちちゃってるけど)と、
鼎談直後のポッドキャストを聞いたら、大体のところは分かりました。

839 :
山下良道は「第五図に出ると慈悲、アガペーがある」という。
取り出してほれと見せられるものではないし、
そもそも慈悲とかアガペーついては永井哲学の対象ではないだろう。
確定した事実、法則性などとしては扱えない。
哲学者として「ほーそうですかーあるんですねえ」などと言うことは出来ない。
いくら話の終わりだからといってもね。
宗教者と哲学者では興味の領域が違うよねという話だな。

840 :
仏教3.0〈哲学〉鼎談は、人間の共通言語としての哲学(数学のように)の代表者として
永井先生の見解をお聞きし、それに沿った仏教解説を試みたといったところでしょう。

以下2つの話は永井さんの話を踏まえた上での仏教者によるもの。
全部で4時間もあるし、ここの人にはつまらないかもしれないけど、
一応紹介しておきます。

山下良道vs藤田一照
19/09/03 帰ってきたアップデートする仏教 in 大阪
https://www.onedhamma.com/?p=7302

19/09/07 世間は虚仮、ただお浄土だけがリアル
https://www.onedhamma.com/?p=7306

841 :
永井均「 テーラワーダ仏教の伝統には「生きとし生けるものが幸せでありますように」等と唱える
「慈悲の瞑想」というものがあり、冒頭で触れた鼎談は実は二回目なのだが、その一回目から
この瞑想の評価をめぐって意見の違いがあった(この意見の違いは、
藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』幻冬舎・一五一〜一五二頁に表われているので、
興味のある方は参照されたい)。私が注目したのは、他の瞑想(や坐禅)とは異なり、
これは言葉を使ってしかできないこと、しかしその言葉の質は普通のヤリトリの言葉とは
まったく違うこと、であった。私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、
先ほど述べた意味での無為なる存在が、他,の,無,為,な,る,存,在,に,呼びかける、いわば超越者に
対する祈りの言葉なのである。そして、おそらくはそれが、たぶんそれだけが、われわれの場合の蔓なのである。」

https://samgha.co.jp/websamgha/nagai/%e8%87%aa%e5%b7%b1%e3%81%8e%e3%82%8a%e3%81%ae%e8%87%aa%e5%b7%b1%e3%80%81%e3%81%a8%e3%81%9d%e3%81%ae%e8%94%93%e3%81%a4%e3%82%8b/


・・・けれど、哲学者に「慈悲がぶっ続きですよ」と言っても誰も納得しないだろうね。
そういう意味なのでは。

842 :
> 藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』幻冬舎・一五一〜一五二頁に表われている
https://i.imgur.com/WUsLtyP.jpg
https://i.imgur.com/SBwbR8P.jpg

843 :
三人称の事実の積み重ねでは時間を捉えられない、辞書的な出来事の単なる積み重ねは時間ではない
主観から見た変化でないと本当の変化ではない、時間は捉えられない
しかし、主観から見た時間が一方向の線形な順序を持つためには前者を持ち込まないと駄目
だから時間は存在しない

844 :
三人称の客観を否定して一人称のこの主観にとやる理論はたくさんある
唯物論や自然主義に対抗するカント以来の観念論の系譜が多様にあるが、本質は主観にとっての変化、事実だけが唯一の正解だ
主観にとって繋がる系列、それだけが現実という哲学
マクタガートの発想が参考になる

しかし、主観の系列とは何か

この一瞬前の私と今の私の繋がっている根拠は
一瞬前の私は今はあの犬に
一瞬前の太陽が今の私ではないな
一瞬後の今の私は自転車で
一瞬後の私は今は絵葉書ではないか
また、私が現在過去未来と線形で連続している必要がどこにあるか?
三時間毎に私がいても過去に遡っても全然構わない
そうでないと言う理屈はない

845 :
>>844
>主観の系列とは何か

客観に解体されない独我論

846 :
一人称のこの私はどこまで行っても三人称の辞書的系列のネガでしかない
私があるとしてもその一人称視点で順序づけられるような私ではない
そう解釈し、順序づけた時点で私ではないし、内包とか系列づけられるものなど私ではない

847 :
郵便ポストが赤い
しかし、一秒後も郵便ポストと比較してやはり赤いと認識しなければならない理由は何もない
猫でも鉛筆でも半沢さんでもいい
郵便ポストの系列を三人称客観を前提にしないと郵便ポストは赤いという認識は成立しない
これは私のことを語っているわけで私が私であるとか私の内包とか語っている時に既に三人称客観が密輸されている
マクタガートが気づきながら目を逸らした一点
既にそれは私でも変化でも時間でもない

848 :
郵便ポストは一秒後には猫であり二秒後には消しゴムで構わない
私の真の体験はそういう無差別なものだ
郵便ポストは郵便ポストで赤いなどと言うのは既に一般性に三人称客観に系列づけられた私ならざるものだ

849 :
それは、どの点が問題なんでしょうね?
単に、視界の中央にあるものが1秒ごとにポスト→猫→消しゴムと変化していった(ように見えた)として、
それだけであれば、普通の物理的常識とは反する(ように見える)ことが起こった、というだけで、
特に問題ないようにも思うんだけど。
(巧妙なトリックとか幻覚のような場合を考えれば、別に物理的にもあり得なくはないし)

そうではなく、今見ている赤と1秒前や1秒後の赤とが同じ「赤」と呼べる理由はないのではないか、
という趣旨とすれば、永井の言う私的言語の問題と多分つながるのではないかと思います。

850 :
この今ここのクオリアもそれが何であるか、右側の視覚の郵便ポストと左側の視覚の薔薇の花が同じ赤なのか
何の根拠もない
右側と左側の視覚、知覚が同じ私である根拠なんかない
a1、a2という体験から何を導き出せるか、そもそもそれは私の体験かなどはわからない
この今のa1という私と、次の今のa2という私に何の関係があるか
永井読者なら何の関係もないことはわかるだろう
私はクオリアではないし、体験でも知覚でも現象でもない
また、ばらばらのままの私かそれでも総体として私だとか間抜けなことは言わないで欲しい
私なるものがもしあるとしたらありうるとしたら少なくともそんなものが私ではない
a1a2とかは私とは関係ないしそれの内包だ何だは私とは全く関係ない
マクタガートの私の主観的系列は三人称を密輸した汚染された客観に過ぎない

851 :
というようなことを
14歳がノートに書き付けるのならまだ良いのですが、
60歳にもなってまで発する、というのはどうなんでしょうね

「周りからブン殴られて終わり」

というのが、ありそうな現実だと思いますが。

852 :
なんで暴力に訴えかけるようなこと言うのかな
気にくわないなら彼にちゃんと反論すればいいのに
揶揄してないで

853 :
a1というこの今の瞬間の私だけは確実だの議論は自己論駁的で
右側の視覚と左側の視覚は関係ないだろとか、次の瞬間はa1は無だろとか、a1とa2を関係づけようとしても無限に否定できるし、a1自体が否定される
三人称客観から一人称主観を分離し確保する戦術はマクタガート代表に自己論駁的で矛盾している

854 :
a1、a2、a3、…an
b1、b2、b3、…bn
c1、c2、c3、…cn

m1、…mn

一人称、私の哲学はこの世のあらゆる事物、事実、系列の中から
a1… anだけが他と違い特権的だとする
事実の辞書的三人称客観的な系列と一人称の私は違うと
しかし、a1とa2…anは本来何の関係もない
関係あると言うならa2と同じくらいc2もb4も関係ある、平等だ
a0やaマイナス1に遡るかもしれない
入不二の関係に対する無関係性の先行性、本質性を考えてみればいい
三人称一般性を否定する一人称の特権性の哲学は自己論駁的に一人称の特権性を論理的に否定できるし、するしかない

ばらばらのa1a2a3の哲学になった時にaの系列、bの系列、cの系列、どれかを特権的取り扱わねばならない根拠は何もない

一人称の哲学は論理的に破綻している

855 :
>>854
論理的に破綻してるもなにも
そもそもそういう話では全くないのだが
頭が固いのだろうけど

856 :
特権とか、はぁ?としか
もう呆れて

857 :
一人称哲学は三人称哲学の頽落したものに過ぎない
少なくとも同じレベルの足の引っ張りあいで平等に価値はない

858 :
>>857
一人称もなにも厳密には哲学じゃないんだが

859 :
>>858
厳密な哲学とは何か?

860 :
>>859
それは人間じゃないとは何か?
と同じくらい説明が難しい。

それは哲学ではない。
哲学とは違う

に訂正しても問題ないだろう

永井さんは一応哲学者ということに
なってるから哲学の枠組みに入って
るのだろうが、本人も哲学だとは
思ってないだろう。

哲学だとするから余計に分からなくなる
最初は感覚的なものだよ。
頭で理解しようとしても解るものでは
ない。

861 :
>>860
たしかに説明が難しい質問でしたね。問題ないので訂正受けいれます。

あらためまして貴方にとっての哲学とは何なのでしょうか?

>本人も哲学だとは 思ってないだろう。 哲学だとするから余計に分からなくなる

永井均氏の昔の見解とは一見真逆の様にもみえます。
〈子ども〉のための哲学p199から
>それに対して、自分の哲学ほどわかりやすいものはない。なぜって、世の中で通用しているふつうの考え方がわからないから、自分に理解できる考え方でそれをおぎなおうとしたとき、
そこに生まれるのが哲学なのだから。どう考えたって、これほどわかりやすいものがほかにあるはずはない。
それどころか、哲学とは本来、究極のわかりやすさそのもののことなのだ。

862 :
>>861
私にとって哲学ですか。
そうですね、あまり足を踏み入れたくはない領域ですね。
何故なら頭がおかしくなりかねないからです。ですので、触れていません。
哲学とは真理の探究なのでしょうか?
もしそうであるならば、答、正解を
求めていることになるとです。
しかしながら、答はないことは本当は
分かっているはずです。それでも
求めてやまない、人間の性質なんでしょうね。
永井さんにとって、「私の問題」は
哲学だと思ってないと思いますよ。
直接会ってお話ししたわけではないので
真相は分かりませんが。
以前、この問いに対する答がないならば
哲学以前の問題であると云っていたと
されるので、要するに、それは彼にとっては哲学ではないのでしょう。
私もそれには同意しますね。
こんな根元的な問いの答が分からないままでは、哲学に何の意味があるのだろうかと。
生きる意味とは。幸福とは。美とは?

863 :
>>862返答ありがとうございます。

>以前、この問いに対する答がないならば
哲学以前の問題であると云っていたと
されるので

ソースがわかりませんがもしそうであるならば
それは彼にとっては哲学ではないのでしょう。
私もそれには同意します。

864 :
「日本ではなぜか否定的にとらえられることがあるけれど、私はフェミニスト。
専門的な教育を受けたわけではなく、自分で学んでたどり着いた自分の
立場だと思っている。上智大の三浦まり先生が言った「性差別主義者でない人は
みんなフェミニストだ」という定義に賛同します」(川上未映子)。

865 :
共同体がA=Aという根本誤謬のうちにしか成り立たないというのがすべての根本
哲学というか権力はその誤謬を徹底されない論理で丸め込む。永井の哲学とは論理を徹底することにより
あきらかになる矛盾を通して根本誤謬を一般人に気づかせようとしてるんだと思うが

866 :
A=Aというのは誤謬なんですかね?(少なくとも、永井の議論の中で)
むしろ、私と他者が同じ「私」だという面、今と他時点が同じ「今」だという面も、間違いなくあるということが
前提の議論だと思うのだけど

867 :
まさか〈子供〉が自分のこととは知らずに20年も見過ごしてしまった
翔太と猫のインサイト読み始めた
これからで良いんだよね?

868 :
>>865
ゲーデルの不完全性定理みたいな感じか

869 :
>>867
はい、その後は
<子ども>のための哲学、ウィトゲンシュタイン入門、これがニーチェだ
の3冊がおすすめです

870 :
>>188
存在と時間はエンタメ
精神現象学はオッサンの説教
さすがに自分にはこのノリはついていけない

871 :
<私>で躓いちゃったからね

872 :
「これから」って今からでも遅くないというような意味かと思ってたけど(それには異論ない)、
そうではなくて、どの本から読んだらいいかという話?
そうであれば、『私・今・そして神』以降のどれかにするのがいいんじゃないですかね
永井自身が、この本が大きな転機だったと書いているし
その中でも、いっそ一番新しい『世界の独在論的存在構造』でいいんじゃないかと思うし、
もしいきなりハードカバーは値段・大きさ的にためらわれるなどがあれば、文庫版になってる
『哲学の秘かな闘い』の1、2章あたりはどうかと
『翔太と〜』は、永井の議論のポイントそのものではなく他の問題についての議論や
前提となる考え方にも触れられるという点で、人によっては勉強になったりとっつきやすい、
という特徴はあると思うけど(私自身もそうだったので)、ポイントそのものについて
割かれているページはその分少ないのと、やはりちょっと古いところが、どうなんでしょうね
あと、こう言ってはなんですが、『<子ども>のための哲学』は、永井の議論のポイント
そのものについては、今からあえて読む必要はない(ひょっとして読まない方がいい?)
のじゃないかなあ、と

873 :
意見分かれましたが、ありがとうございます
僕は哲学童貞なので今は翔太と猫くらいが丁度いいレベルかな
永井さんおすすめ哲学入門本のバートランド・ラッセル、マンガ哲学入門、哲学の謎(野矢)から入って
それらをまずしっかり読み込もうかとも思ったけれど、、、
すでに読み始めた翔太とインサイトをしっかり読もうと
〈ぼく〉がどう生きていけるのかということを今の言葉で確かめていきたいから
猫のアインジヒトも読みたいと思うし
そのうち「私・今・そして神」も読もうと思ってます

874 :
永井自身はtwitterで哲学入門には『翔太と猫のインサイトの夏休み』、
永井哲学入門には『哲おじさんと学くん』て言ってたな
『世界の独在論的存在構造』は哲学に慣れていないと難しいとも
個人的にも同意で
特に『哲おじさんと学くん』を一文ずつ確実に理解しながら読むのがお薦めかな

875 :
なるほどじゃあ次は「哲おじさんと学くん」読みますわ

876 :
これか
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1192091486965288961
(deleted an unsolicited ad)

877 :2020/01/17
https://plaza.rakuten.co.jp/yoiti2gou/diary/200509020000/

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