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邪馬台国畿内説 Part574


1 :
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1583050792/
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2 :
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 :
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代

4 :
へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。


◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 :
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 :
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 :
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 :
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 :
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 :
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 :
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12 :
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 :
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 :
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 :
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 :
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 :
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 :
荒らさないで〜!

19 :
無駄使いすんな

20 :
畿内説に質問しまーす

あんたは

@バカですか?
Aアホですか?
Bサルですか?
C朝鮮人ですか?
D用明天皇ですか?
Eボケ老人ですか?
F知的障害者ですか?
G日本語理解不能ですか?
H白痴ですか?
I愚鈍ですか?
J三輪山のチンパンジーですか?
Kそれは敗者ですか?
Lオッサンですか?シャーですか?アハハハハッ!ヘイッ!
Mみな死に絶えたですか?

畿内説って異常だなw

21 :
>>847
>>畿内説は倭地周旋5千里も無視してるよな

>してないぞ
対馬国から女王国の東の倭種の国まで五千余りに里になるだろ

五千余里は、侏儒國付近までの陸路計算であるから、×

22 :
>>852
>そりゃまあ、倭人伝の地理表記は間違ってるという立場だから、全面的に受け入れたりしなくても当然だろ

「倭人伝の地理表記は間違ってるという立場」が、結論先にありきの循環論法になり、×。

>あ、地理だけじゃなくて風土、文化も間違いを多く含むという説が今じゃ主流な

同時代の魏の役人たちの実地の見聞計測の記録であるから、確率が高く、
それを結論先にありきで否定する大和説学者らは、×人間。

23 :
>>856
>>東治は、会稽郡の中ではなく、揚州の管理下地。
>会稽郡の外に「会稽東治」と呼ばれる揚州の管理下地とやらがあったなんて文献は
いっさい存在しないよ 捏造はダメ<
「東治」は地名固有名詞ではなく、「東の治」という普通名詞合成の熟語。

24 :
>>857
「南≠東」などの嘘つき騙しがバレて、
論破されたまま、ただ馬鹿みたいに笑っていると
大和説が死にますね
あ、もう死んでるか

25 :
>そもそも魏志倭人伝は倭を中国から見て南東だと想定してるので、その解釈は成り立たない<
魏の役人たちは、韓の「方四千里」などの計測を知っているから、
一寸千里の法も知っており、
洛陽と山東半島南端や釜山付近が同緯度である事も知っており、
釜山付近から大体五千余里である事も知っており、
だから、「倭を中国から見て南東だと想定」する筈もなく、
江蘇省海岸付近の東方である事も知っている。

26 :
>>861
>陳寿が認識した倭人伝記載の行程が全て正しいとするなら
邪馬台国は沖縄くらい南にないとオカシイ!!
倭人伝は殆ど正しい。お前(類スレ主)の頭がおかしい。
>それは明らかに間違いだから
行程記事をひねくり回しても邪馬台国の位置はわからない <
間違いや差異が発生したのは、倭人伝の2000字余りの中の3文字であり、
間違いは殆どない。

27 :
>>862
>会稽郡の外ならそこの郡名を使う
わざわざ会稽とかく意味はなくなる
だから会稽東治は会稽郡内
会稽郡内なら「東治」という文言を書く必要がないから、×。

28 :
>>864
そうやって、「南→東」などの嘘つき騙しをして、
どんどん信頼性の劣る後代史料に逃げ続けないと大和説が保てない
その落ちゆく先が「ツガルの偽書説の破綻」だったりする

29 :
>>878
>九州説では女王の都が会稽東治之東には出来ないだろ?
女王国の入口が、北部九州。
投馬國は南九州であり、だから、女王國は九州島付近になり、
会稽東治之東になる。

30 :
奥山
 まだやるのーーー
陸行一月で論破されてるじゃん
南⇒東も、明確な回答ないし
巻向に住居跡も無いし
数えきれないくらい論破されてるじゃん
明確な回答でき無いじゃん

31 :
>>890
>武の東征は北や南、西にも軍を進めた一環だから
東より西の方が多くの国を征してることを考えても、九州から征西してるわけではないことが明白<
勿論、西は征服し終わっているから、「自昔・・・西服衆夷六十六國」というように、
「服属せしめ終わっている」という意味。
>しかもその上、その時代にも東西への軍事行動の痕跡はないから、史実ではないんだよ
架空の軍事行動で誇張した上表文を出してただけ<
「自昔・・・」の文であるから、何世紀にも渡っての征伐戦。

32 :
>>892
「南≠東」などの指摘に反論が出来ないので、また大和説の負け

33 :
>>898
ほら、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つきン騙しの大和説は、
反論が出来ない

34 :
>>964
いくら罵っても「南≠東」などに反論出来なきゃ
大和説がジリ貧で死ぬのは自明だよ

35 :
>>953
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの捏造をするから、
大和説は信用無いんだよ

36 :
>>964
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
中傷しか出来ないでいると
大和説はどんどん
落ちていくばかり

37 :
>>966
「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説の、
ウソと自己矛盾がどんどん露呈していくな

38 :
>>980
>>「道里」は侏儒國付近まで計測されている。

>じや、なんで投馬国に道里がないと言い張るわけ?
九州説自己矛盾しすぎ

魏の役人たちは、投馬國までは、行っていないから。

39 :
>>992の訂正
>陳寿は当時の常識として会稽東治がどれくらい南か知っていたんだから、女王の都がそのくらい南にならない倭人伝解読法は間違いだと解るんだよ
だから短里は不可能で、北部九州説もあり得ない

陳寿は当時の常識として会稽東治がどれくらい南か知っていたんだから、
女王の都がそのくらい南になる倭人伝解読法はるほぼ正しかったと解るんだよ
だから長里は不可能で、大和説もあり得ない

40 :
テンプレと嘘と亡者たち

41 :
畿内説は心肺停止状態です

42 :


43 :
奥山

生半可な知識で畿内説を語るな

迷惑だ

44 :


45 :


46 :
邪馬台国畿内説は破綻しました

47 :
キナイコシ無職wwwwww

48 :
寺澤先生は



箸墓は




卑弥呼の墓じゃないと言ってるよ



石野先生も吉備よりの発言増えてるし


随分 古い文献を参考にするなよ



49 :
朝鮮民族が、またもや、スレッドを作成しているな。

50 :


51 :


52 :
朝鮮民族が、またもや、スレッドを作成しているな。

53 :
陽子は、どのようにして自己崩壊するのだろうか。

54 :
陽子は、どのようにして自己崩壊するのだろうか。

55 :
陽子は、どのようにして自己崩壊するのだろうか。

56 :
57

57 :
57

58 :
.

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

59 :
あげ

60 :
はげ

61 :


62 :


63 :


64 :
ひひひひひひひひひひひひ

65 :
異常テンプレ
書き込みはハゲだけに許されています。

66 :
邪馬台国畿内説が、発狂した。

67 :
倭人伝には大和と別の国が書いてあるんじゃないですかw

68 :
無理に倭人伝に合わせなくてもいいよ
大和オリジナルの歴史で行け

69 :
畿内説



有名大学の教授いるのかい

関学 同志社 関大 の 偏差値の低い大学で考古学 学んだ奴の
地方公務員上りがメインの畿内説互助会じゃん

巻向もいいけどさ

無理だよ  ごね得で学問は成り立ってないよ

70 :
テンプレ 作業員 がんばれ
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71 :
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72 :
24時間奥山はいるから


深夜にテンプレ作業するよ


無職の奥山は、薄暗い部屋で 家族とも 音信不通の 状態で 


深夜にテンプレ作業  


一般人は寝ようぜ


つぶやき=奥山だから テンプレ作業中は来ないよwww

73 :
>>(前スレ)833 http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1583050792/833
> 現代の緯度経度で正確に会稽東治之東とするのはどういうこと?
  経度は関係ない、てか、把握不能でしょ。
>>(前スレ)928 http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1583050792/928
でも書いたが。
>>(前スレ)909 http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1583050792/909
> 佐多岬:北緯30度59分42秒・・・会稽(紹興市):北緯30度00分
  そうだね。佐多岬と会稽(紹興市)は、ほぼ同一の緯度だ。
> 東冶(福州市):北緯26度04分16秒・・・沖縄本島:北緯26度00分 - 27度00分
  東冶(福州市)の真東には何があるかも考えること。
>>(前スレ)936 http://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1583050792/936
> 誰も経度の話しとらんなw
  だからさ、経度は関係ないと書いたんだよ、粗忽者。

74 :
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

75 :
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。

◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

76 :
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。
 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

77 :
>>23 > 「東治」は地名固有名詞ではなく、「東の治」という普通名詞合成の熟語//
  そんなモノはないぞ、エテ公。
ただしサンズイの「東治」は、ニスイの「東冶」の書き間違えなんかではなく、
陳寿の時代はサンズイの「東治」だったんだよ。
むろん、サンズイの「東治」=ニスイの「東冶」= 現在の福州市だ。

78 :
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。

◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。
 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

79 :
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

80 :
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

81 :
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

82 :
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

83 :
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等

◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

84 :
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

85 :
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

86 :
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

87 :
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

88 :
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

89 :
>>28 > そうやって、「南→東」などの嘘つき騙しをして//
  そんなモン、知った事ではないね。
そういう事を云ってる畿内論者がいたとしてもな。
ダメダメ畿内屋の、ここの>>1 が何を書こうが、知った事ではないのと同じだよ。

いわゆる内藤白鳥論争では、道程記事には何らかの錯誤ありという事で、
地理記載から場所を特定する事は回避してるんだが、この時代から何も進歩してないね。
大和説にしろ九州説にしろね。
但し、陳寿が道程記事を論ったのには、理由があるんだけどもね。

90 :
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

91 :
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

92 :
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

93 :
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

94 :
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

95 :
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

96 :
>>88
> ◆FAQ 33「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と倭人伝にある!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない//

その場所って、現在の日本の領域ではないよ。当然に、伊勢から遠駿相総等なんぞではない。
邪馬台国は纏向、ってか、三輪地域であってもな。

97 :
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

98 :
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

99 :
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

100 :
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

101 :
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

102 :
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

103 :
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

104 :
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

105 :
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

106 :
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

107 :
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

108 :
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

109 :
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

110 :
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

111 :
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

112 :
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

113 :
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

114 :
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

115 :
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

116 :
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

117 :
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

118 :
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

119 :
>>94 > ◆FAQ 40 ・・・A:孫策に敗れた会稽太守王朗が
「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している//
  王朗までたどり着いたなら、会稽東治の意味も理解しろよな。
あ、なんでニスイをサンズイにしたかもな。
そんなんだからダメダメ畿内説なんだよ。
あ、云うまでもないが、邪馬台国は纏向なんだがね。
但し、クイズ番組じゃないんだから、当たってりゃエエってもんではない。
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1583050792/987
『三国志』には少なくとも5か所で「東冶」という言葉が出ている
・孫策が呉県の厳白虎を討つ前に、浙江を渡り、会稽に本拠地をおいて東冶城を落としたという話が1か所
・孫策が会稽に進撃して王朗を破った際に、王朗が東冶に逃げたという話が2か所
・呂岱伝に出てくる会稽東冶の賊の話が2か所
・・・・・・・鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けている//
その5箇所記載部のリアルタイムは、各々の事件のあった時点だよね。
倭人伝のクダリでのリアルタイムは、陳寿の時代だ。
つまり、三国時代ではニスイの「東冶」、陳寿の時代ではサンズイの「東治」だった。
いずれも、現在の福州市のことだよ。
なお、この使い分けには、まさにアナタも指摘してる、王朗が関係しているね。

120 :
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

121 :
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

122 :
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

123 :
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

124 :
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君?高官」「保子?孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君?高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

125 :
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

126 :
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

127 :
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

128 :
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

129 :
>>78
> 記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない//
はァ? 遣隋使も遣唐使も書いてるじゃん。
あ、邪馬台国の朝貢だって、書くには書いてるでしょ。
所謂、倭の五王の朝貢がシカトなのは、別の理由があるんだよ。

130 :
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

131 :
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

132 :
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

133 :
>>127
> 中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない//
  だったら邪馬台国は、ソウルから万二千里、6000km の場所でしょ。
日本の何処も該当しない。むろん、短里なんてシロモノはない。

陳寿はね、まさにこれを云ってるんだよ。
倭がソウルから6000km なんだとさ藁 といったニュアンスでね。
これが分からねば、一切が理解できないんだよ。

134 :
>>132 >注意*前スレが終了してから書き込んでください//
  今回は、とっくに終わってたがね。
てか、オ〆が左様な差し出口を叩くには及ばない。
確かに邪馬台国は纏向にあったんだろうが、
(まぁ、埋没したもっと巨大な遺構である可能性もあるが)
クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんじゃないんだよ。
莫迦は身の程を弁えな。

まぁ、非大和説ってのは、その地域の特徴的な遺構を邪馬台国の遺構だと盲信して、
フィクションとして読んでもツマランだけの妄想を書き散らしてるだけなんだが、
アンタの書いてるのも、それと全く同じなんだよ。
非大和説と違ってるのは、タマタマそこが邪馬台国の故地だった、というだけのハナシだ。

135 :
>>132 > 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし//

少しは進歩しろ、この莫迦アラシが。

136 :
またキナイコシのサンドバッグが立ちましたね
あわれ

137 :
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1

138 :
>>82> ◆FAQ 23−1 Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である//
  ダメだよ。張政が見た時点では、円墳だったんだよ。
彼は卑弥呼墓を、正確に記載せねばならなかった、或る理由でね。
箸墓が、現在我々が見ている状態だったならば、前方部や周溝の事も、キチンと書いた事だろうさ。
或る理由ってのは、彼がどういう目的で訪倭して、結果どうだったかから考えろ。
卑弥呼は「以死」、だった、行ってみたら既に死んでいた、急死だった。
書紀では、昼は人が作り、夜は神が作った、なんて書いてある。
急死だったから、突貫工事でみるみる内に作られた状態を記載しての事だ。
日中の記載は一致している。円墳を作るのが精いっぱいだったんだよ。 
> (ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
//
ダメでしょ、その例は。明確に半円の部分を径って書いてるだけなんだからさ。

139 :
ヤマは黄泉ヨミなんだなぁ
閻魔エンマも同じ
黄泉の国というのはヤマの国
閻魔様はお地蔵さんだからお地蔵さんの国でもある
あしびきのはヤマ山の枕言葉
あしびきのの意味はよくわからないが芦を引っ張ってきたということか?
芦原はアイヌ語でサル
イザナミが逃げ込んだのは黄泉の国
黄泉の国はサカ坂を介して芦原中津国に接する国
淀川河口、河内湖の葦が生い茂る低地が芦原中津国かな
境界をなすサカ坂は堺か
黄泉の国は山深い和泉かもな
山の井戸があったところかな
島根の神庭地方の栄えていた集落は弥生時代後期に終焉
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかっている
イザナミは神庭地方の姫神である幸神かもしれない
イザナミの別名は道敷大神
字の通りなら道を敷いた神
黄泉の国に逃れ道を敷いたのかな
道饗祭に出てくる八衢姫と関係があるのだろうか?
出雲地方の伝承では出雲の姫神幸神と東から来て文物をもたらしたクナトの神の子がサルタヒコとある
道饗祭にはクナトの神も登場する
出雲イズモの話がいつの間にか和泉イズミの話に不思議だ

140 :
>>137
> 大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります//
  普通に、4世紀築造、なんて書いてあるサイトもあるけどね。
> 纏向古墳群とは誰の墓なのか。私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます//
  邪馬台国にしたくないありき、ってだけだね。
なお、邪馬台国の次代の有力者とも思える崇神ってヒト、
邪馬台国と無関係とも思えないんだけどもね。
家康ってヒトだって、前代の信長秀吉と無関係でもないんだしさ。
魏志倭人伝にも登場している、んじゃないかな、なんて思っている。

141 :
>>139
悪く言うと、(寄生)背乗りとか、言っている話だろう。
いつ頃からなのか知らないけど、
芸能の世界はクズの集まりだという話みたいだし、チンピラとか。
実際は、ほとんど家の話。

142 :
漫画やアニメ、ゲームなども、そういう業界も同じ。

143 :
山の上のほう。輿〜など。家の老婆談の話だろう。
お前たちの想像している芸能人なども生まれていない頃の話だしな・・・、
説明しなくてもわかるはず。

144 :
劉備は巫から夷陵まで700里の間に数十の陣営を作った。
伝え聞いた魏の文帝は言った 「劉備は戦術を知らない。700里にわたって陣を布いて、敵を防ぐ手段があろうか」
この歴史的事実でアホの九州説が主張する短里とか言う珍説が崩壊した。

145 :
誰も劉備が短里を使っていただなんて言ってないっての
それで反論したつもり?
アホか

146 :
「唯呉時扶南王范旃遣親人蘇物使其國、從扶南發投拘利口、循海大灣中正西北入歴灣邊數國、可一年餘到天竺
江口、逆水行七千里乃至焉。」
ガンジス川河口より600kmのぼった所に天竺がある。三世紀には河口はもっと上の方にあった筈で500km程度
が7000里である。
同じく『梁書』諸夷伝に
「扶南國,在日南郡之南,海西大灣中、去日南可七千里」とあります。
日南郡は今のドンホイ辺りになる。扶南國はプノンペンだ
ハノイから南に3000kmも行ったらオーストラリアまで行ってしまう。
これで計算するとプノンペンまで600km位になる。短里の86mだ。
更に「狼牙脩國,在南海中。其界東西三十日行,南北二十日行,去廣州二萬四千里」
「狼牙脩國」は現マレーシアと思われるが広州から二萬四千里(一万キロ)も行くんでしょうか?
南極まで行ってしまう。
実際は直線で二千キロで1里83mと言う所だろう。
結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。

147 :
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で書かれている)。

148 :
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。

149 :
おい、プロ固定、はっけよい。

150 :
150

151 :
倭国とは、
日本で唯一、後追いで「倭大國魂・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。  @阿波

南に黒潮流れる温暖な海が無く、東にも海が無いようなところに「邪馬臺国」など興るわけがない。  なにを考えているのやらw   @阿波

152 :
>>148
当時の地理では平面の大地の荒域には
度量衡の里は使われていない

153 :
>>139
>あしびき
「あはしひくいの(会はし引くいの)」
http://kaitahito.world.coocan.jp/ongogen.html

154 :
>>149
角力狂人九州説

155 :
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。  
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

156 :
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、
石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 : 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡
原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
徳島県で勾玉が出土された遺跡 : 稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

157 :
「蓮華谷古墳群(?)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の副葬品出土資料は全国的にみても数少なく、 特に銅鏡は製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡の?製・古墳への副葬は、これ以降だろう。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

158 :
>>145
劉備がではなく魏が使ってないとわかる記述だぞ

159 :
>>147
それ、単に遠方の地理把握が不十分で距離を知らないだけじゃん
そんなんで反論したつもりとか笑止

160 :
短里ではなく倭里だろうな

161 :
>>146
>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。
説明不能ってまったく論証してないから
別に妥当でも何でもないよね
単に信頼性の極めて低い仮説なだけ

162 :
畿内説の方向音痴説よりマシだな

163 :
「蓮華谷古墳群(?)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡のぼう製・古墳への副葬は、これ以降だろう。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

164 :
「蓮華谷古墳群(?)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は ぼう製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡のぼう製・古墳への副葬は、これ以降だろう。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

165 :
>>160
また新発明かよ九州説

166 :
>>165
いや、古田が短里説を言い出した当初は倭だけでつかわれてるローカル里程だと言ってなかったか
それで反論されたときの言い逃れから魏晋朝短里に切り替わったはず
逆に言えば倭里では古田の詭弁ですら言い逃れできないほどの弱点があったはず、となる

167 :
>>138
>ダメでしょ、その例は。明確に半円の部分を径って書いてるだけなんだからさ。
つまり前方後円墳の円の部分を径って書いていいわけだ
円じゃない実例が出たんだから円墳説は難なく崩壊だろ

168 :
>>133
>だったら邪馬台国は、ソウルから万二千里、6000km の場所でしょ。
日本の何処も該当しない。むろん、短里なんてシロモノはない。
陳寿はね、まさにこれを云ってるんだよ。
倭がソウルから6000km なんだとさ藁 といったニュアンスでね。
これが分からねば、一切が理解できないんだよ。<
同時代の魏の役人らの実地の計測見聞の記録が元になった魏志倭人伝は、
信頼性も確率も十分にあり、役人たちは、当然、
後漢代最末期に再収集再注釈された周髀算経の一寸千里の法を知っており、
始皇帝の「1歩=6尺」の始皇帝里ではなく、それを否定して、
一寸千里の法に依る「里(周里)」を使って里数を計測記録したの。
方向も同じく、周髀算経に書かれた「日の出日の入りを結ぶ線で東西を決め、
それに直交する方向や、北極星や昼間の太陽の南中などで南北を計測していたの。

169 :
畿内説諸君は、
すっかり子供の言い訳に退歩しちゃった

170 :
>>134
>今回は、とっくに終わってたがね。
てか、オ〆が左様な差し出口を叩くには及ばない。
確かに邪馬台国は纏向にあったんだろうが、・・・<
「南≠東」などに拠って、×ね。

171 :
うんにゃ
年寄りの繰り言だな・・淋 寂

172 :
縁側で、渋茶でも飲みながらハシハカブツブツ、、、

173 :
>>166
帰納しても有意な値が出ないので、まともな九州説は100年前に短里説を諦めた
まともでないのが残ってるわけだ
非科学的な説なので帰納をしないから

174 :
>>168
信頼性も十分にあると証明されたことはない
九州信者がそのように主張してるだけで、信頼性の根拠を示せてない

175 :
>>138
>◆FAQ 23−1 Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である//
  ダメだよ。張政が見た時点では、円墳だったんだよ。 <
ダメだよ。「径」は、一般には、
どんな形状のものにでも、不定形であっても使う事が出来る、
大きさを示す「さしわたし」、ともいうべきもの。
その中に明確な方形のものには「方〜歩」などと言う説明が有り得、
完全円形のものには、「直径」という表現もあり得るもの。
そして、前方後円墳は明らかに不定形であり、
「径」は、前方部端〜後円部の先端の長径を示すもの。

176 :
>>168
>同時代の魏の役人らの実地の計測見聞の記録が元になった魏志倭人伝は、
言い張っても
何も根拠が出てこない

177 :
昔はよかったなあ、、、
飛ぶ鳥落とす勢いでなぁ橿原も纒向も、ブツブツ、、、

178 :
「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個(29遺跡)が出土している。
銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡の多さに驚かされる。
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。   @阿波

179 :
>>175
>「径」は、前方部端〜後円部の先端の長径を示すもの。
それ。根拠ない
その場合は「長」という言葉が普通だから
むしろ短径の方が感覚的に普通
だって原義が小道だもの
通り抜ける距離だから横断する幅

180 :
>>119
(つまり、三国時代ではニスイの「東冶」、陳寿の時代ではサンズイの「東治」だった。 )
同じ、三國志で鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けているから、
同じ場所と考える、根拠に欠ける

181 :
>>144
>劉備は巫から夷陵まで700里の間に数十の陣営を作った。
伝え聞いた魏の文帝は言った
「劉備は戦術を知らない。700里にわたって陣を布いて、敵を防ぐ手段があろうか」
この歴史的事実でアホの九州説が主張する短里とか言う珍説が崩壊した。<
劉備は、漢朝の出であるから、当然「始皇帝里の長里」を使用。
文帝は、即位の「受命改制」の詔書で、「度量衡の同一化」を指示したまでであり、
実質的には明帝になってから「周朝里(一寸千里の法の短里」を使用。
だから、この投稿者は、何か勘違いしているらしい。

182 :
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。   阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

183 :
倭国とは、
日本で唯一、後追いで「倭大國魂・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。  わははははは   @阿波

184 :
畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。
文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。   

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

185 :
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」細長〜い2つの島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

186 :
>>185の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」

187 :
>>155
>徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、
板材でつくった墓室・木槨を積石で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。<

「木槨」は、
285年の扶余の乱で流民となって伽耶に来た(陶質土器の)騎馬民族の墓がある。

>県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、
邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。<

「285年は、2世紀末〜3世紀初頭ではない」から、×。

>石で木槨を囲う例は、他には
弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。<

ホケノも、3世紀最末〜4世紀の墓であるから、×。

188 :
>>180
>同じ、三國志で鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けているから、

理由も言わずに「明らか」連呼が
九州説クオリティ

189 :
>>188
畿内説お得意のご都合解釈乙w

190 :
畿内説諸君のレスは、
子供の言い訳か、老爺の繰り言に退歩しちゃったなぁ

191 :
>>185
>>186
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

192 :
>>160
>短里ではなく倭里だろうな <

隋書が「夷人不知里數、但計以日」と、かなりはっきり書いていますから、
一般住民が使用するような「里」は、なかったんでしょうね。
しかし、卑弥呼やその大夫の難升米らは、「里」をある程度知っていた、
という可能性ならあります。

193 :
方向はデタラメで誤字脱字はあるが治と冶は厳密に使い分けられているとかwww

194 :
>>191すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

195 :
>>192
畿内説お得意の数百年ジャンプして隋書ネタかw
倭人の里が中国の里と異なるから倭人は里(本来の里)を知らないと書かれたとも考えられる
そもそも距離単位の概念を持ってないわけ無いだろ
畿内には無かったかもなw

196 :
>>161
>>結論として短里がなければ説明不能な距離記載が沢山あり、倭人伝の距離は短里で書いてあると考えるのが妥当である。

>説明不能ってまったく論証してないから 別に妥当でも何でもないよね
単に信頼性の極めて低い仮説なだけ<

いや、魏志倭人伝の行程説明に計測記載された沢山の「里数」、が根拠。

197 :
>>194
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

198 :
ヤマトの正史である記紀も短里だなw
崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
任那から筑紫まで2千余里とかw

199 :
>>197
ダイワ・オオワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

200 :
>>199
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

201 :
奈良時代でも訓読みは無い
弥生時代なら尚さら大倭は「ダーワ」と読むしか無かったという事
随分と後世になってからキラキラネーム感覚でヤマトと読むやつが現れたわけで
万葉集の時代かな?

202 :
今城塚古墳にねむる治天下大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

203 :
>>201
空想乙

204 :
日本国の正史によるとヤマト政権の誕生は邪馬台国時代から500年以上経過した8世紀頃なのだな

205 :
>>163
>「蓮華谷古墳群(?)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡のぼう製・古墳への副葬は、これ以降だろう。<
阿波は、元々は出雲銅鐸祭祀系部族であり、
銅鏡や鉄器は、九州倭国の東征毛人五十五國の征服軍の支配下になった事を示すもの。
どこかで「鏡片」が出土していたが、鏡片の年代が卑弥呼や壹與の頃になり、
238年の「魏の楽浪帯方戦」の直前に渡来の楽浪鏡師らの△が、
まだ入って来ていないから、3世紀前半半ば頃の墓。  

206 :
>>203
弥生時代にはまだ文字を知らなかった畿内の人ですか?w

207 :
>>196
>いや、魏志倭人伝の行程説明に計測記載された沢山の「里数」、が根拠。
「計測記載された」なんてのが確実に妄想なんだけどな
そんなことが出来る連中なら
唐津港あたりから糸島市街の方角がわからないとか
低脳白痴のうわ言でしかない

208 :
しかしながら九州説は北部九州に拘り過ぎてる感があるな
熊本や宮崎、鹿児島含めもっと広範囲に調査するべきだね

209 :
>>206
反論できないと罵ってボロヴォロな自尊心を慰めるって
すごいミジメな人だね

210 :
>>207
唐津港じゃなくて呼子港だろ
天然地形を利用する時代なんだから呼子上陸が現実的だぞ

211 :
>>209
>ボロヴォロ
まだ日本語を使い慣れてないんですねw

212 :
畿内説の根拠はファンタジー
奈良:纏向遺跡の宮殿(想像模型)
https://i.imgur.com/n9Qq7xG.png
現物(細すぎる柱)
https://i.imgur.com/rJscQF5.png

佐賀:吉野ヶ里遺跡の宮殿
https://i.imgur.com/4H1hFiP.png
集落全体
https://i.imgur.com/L3X8sWA.png

213 :
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。

徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、

国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。

(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)  

このことから、文武天皇の御宇に、倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことが分かる。   

http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

214 :
纏向厨のフェイクニュースを真に受ける必要なし

また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと
古墳時代のものが見つかることが多いので、
纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、
箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できない
ことに注意する必要がある。
石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である
弧文円板(こもんえんばん)が出土している。
ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

「しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は
3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の
大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が
3世紀後半以降の可能性がある。」

215 :
>>214
>吉備系の祭祀遺物である 弧文円板(こもんえんばん)が出土している。

吉備系は、すなわち阿波系だよ。   @阿波

216 :
>>214
楯築繋がりとして

阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域ですが、

銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」

が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。   @阿波

「弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27

217 :
>>214
>纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、
>箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できない
そういう考古学全否定が
九州説の負けフラグだって
なせわかんないのかな
ばかだから?

218 :
>>214
楯築繋がりとして
阿波では30遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域ですが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。   @阿波
「弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27

219 :
>>214
Wikipediaの記事に問題があるページだな

220 :
昔はよかったなあ、、、
飛ぶ鳥落とす勢いでなぁ橿原も纒向も、ブツブツ、、、

221 :
>>208日本@名無史さん2020/03/05(木) 10:25:13.15
>しかしながら九州説は北部九州に拘り過ぎてる感があるな
>熊本や宮崎、鹿児島含めもっと広範囲に調査するべきだね
まさしく仰せの通り、、、

222 :
>>188
『三国志』には少なくとも5か所で「東冶」という言葉が出ている
・孫策が呉県の厳白虎を討つ前に、浙江を渡り、会稽に本拠地をおいて東冶城を落としたという話が1か所
・孫策が会稽に進撃して王朗を破った際に、王朗が東冶に逃げたという話が2か所
・呂岱伝に出てくる会稽東冶の賊の話が2か所
・・・・・・・鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けている//

223 :
ヤっさんも、
先代旧事本紀に傾倒し始めたようだし、なんか肥後松野氏絡みで動きがあるんじゃないの

224 :
>>222
「明らかに」とか突然結論言い張るだけで
理由を言わない九州説クオリティ

225 :
>>166
>いや、古田が短里説を言い出した当初は
倭だけでつかわれてるローカル里程だと言ってなかったか <
嘘を付くな。
この投稿は誰の投稿であるのか?は知らんが、
古田さんは、第1書から、魏志はほぼ全体が短里説、だ。
そして、蜀志と呉志は、短里と長里の混在説だ。
>それで反論されたときの言い逃れから魏晋朝短里に切り替わったはず
逆に言えば倭里では古田の詭弁ですら言い逃れできないほどの弱点があったはず、となる <
古田さんはその後「魏西晋朝短里」説に発展されたが、
倭地や記紀に関しては、隋書の「夷人不知里數、但計以日」があるから、
直接的な意見を余り述べておらず、谷本さんらが短里例を幾つも挙げておられただけだ。

226 :
>>223
マスク売ってないからハンカチ買っただけだろ

227 :
「芝遺跡」
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/sibaiseki.ronnbunn.html
旧河道からは弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、
吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地の出土数が多い。   @阿波

228 :
>>224
だれが読んでも「明らか」だろう
ま、おまいは「暗い」のが売りだからなあwww

229 :
>>219
Wikipediaは人の善意で成り立っている
九州説が悪意でニセ情報を書き込み始めたら
終わりだ

230 :
ヤっさんが、ハンカチ王子を目指すのかwww

231 :
>>229
自分で書き直せばいいじゃん

232 :
>>217
4世紀の遺物が出ても3世紀と言い張る畿内説の人ですか?

233 :
>>173
帰納法か
サンプル数からすると、背理法(こう仮定すると矛盾が出るから仮定は間違い)ぐらいしか使えないし、そもそもサンプルの正しさの度合いが不明なので矛盾が出てるかどうかの判定もできないから、まったく使えない手法だよなあ

234 :
>>167
>つまり前方後円墳の円の部分を径って書いていいわけだ
円じゃない実例が出たんだから円墳説は難なく崩壊だろ <
ダメだ。
「径」はほぼ全ての形状のものの「大きさを示すのに用いられる」のであり、
原則はその「最大長」を示すものであり、
方形のものは、一辺長でも対角線長(これが径)でも用いられるが、
前方後円墳のような不定形の場合には、原則は、「最大長」で示す事になる。

235 :
>>173
>帰納しても有意な値が出ないので、まともな九州説は100年前に短里説を諦めた
まともでないのが残ってるわけだ
非科学的な説なので帰納をしないから <
Yahooでの議論で、大和説の「天誅」や「ハイエナ」らとの
魏志の中の記載里の関する議論で、
古田さんや生野真好さんらの、出発や到着時点は「居住外縁部」論に拠って、
長里説は、全部論破してあるよ。

236 :
>>180
使い分けの論拠を突き詰めると、最終的には「使い分けてるから」しか論拠が残らなくなってるから論証自体が問題外
使い分け仮説は根拠のない妄想としか言えないな

237 :
神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が全国で唯一、

式内社「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。

何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 、「宇志比古尊」を祀るはずがない。     


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

238 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

239 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

240 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

241 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

242 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

243 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

244 :
>>235


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

245 :
>>181
文帝の知る里程が短里なら報告を聞いて劉備がバカだと思うはずがない
短里なら五十キロ内外の区間に陣が分散してるだけなんだから、陣地のなかが複数ブロックに分かれてるだけみたいなもんだ

246 :
>>196
短里があった、実在したという根拠を問いただした結果が「短里はある」だけだとわかる

事実ではなく仮定にすぎない自分自身だけが根拠とか、論証と呼べない偽論証だね
ザラコクじいさんのいう根拠って、ほとんどこれだ
マトモでない論証しか受けてない妄想ばかり

247 :
>>201
君の心のなかでは万葉集の時代は奈良時代よりあとなのか……

248 :
朝鮮民族の奥山氏が、背理法という法のことで、論破されてしまっているな。

249 :
>>248
バスケットボールの闘いが、始まっているのでは、ないのかな。

250 :
NBAの闘いは、日程が過酷なのだったな。

251 :
>>234
>前方後円墳のような不定形の場合には、原則は、「最大長」で示す事になる。

素人のあんたが理由も言わず自分勝手にそんな原則を制定しても
だれがいうこと聞くと思う?

252 :
奧山氏は、頭が悪いな。。。

245 名前:日本@名無史さん 2020/03/05(木) 12:08:09.41
>>181
文帝の知る里程が短里なら報告を聞いて劉備がバカだと思うはずがない
短里なら五十キロ内外の区間に陣が分散してるだけなんだから、陣地のなかが複数ブロックに分かれてるだけみたいなもんだ

253 :
八村塁氏は、疲労しないのだろうか。。。

254 :
バンビシャスの選手たちは、リーグの再開に向けて、練習しているのではないのかな。

255 :
>>223
先代旧事本紀は平安時代に作られた偽書
先代旧事本紀〇〇等と呼ばれる別本は江戸時代に作られた創作物
白川本旧事紀とか先代旧事本紀大成経とかだな

ここでいってる系図とかは後者の創作本だ

256 :
>>229
つーか、そういう偽記事が多いことで既に問題になってるし

257 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。

258 :
>>252
あれ、俺の発言が奥山という、誰かしらんが他人の発言にされてるぞ
ひょっとして他にも奥山と混同されてるレスがたくさんあるのか?

259 :
奧山氏が、奥山氏であることを恥ずかしがっているな。

258日本@名無史さん2020/03/05(木) 12:29:59.83
>>252
あれ、俺の発言が奥山という、誰かしらんが他人の発言にされてるぞ
ひょっとして他にも奥山と混同されてるレスがたくさんあるのか?

260 :
バンビシャスの選手たちは、リーグの再開に向けて、練習しているのではないのかな。

261 :
>>255日本@名無史さん2020/03/05(木) 12:25:22.61
>先代旧事本紀は平安時代に作られた偽書

平安時代なら、まだ古代の記憶・伝承・資料は一定程度残っていたんじゃないかな。
それをどこかの氏族が書き改めたものだろう、
平安時代だから偽書というなら、奈良時代に書き改められた古事記・日本書紀も偽書と言われてもやむを得ない。

262 :
魏志倭人伝に邪馬台国がある位置と書いてある会稽東治の東とは
沖縄や台湾の辺りに相当
陳寿は邪馬台国をはるかな南にある国として認識していた

263 :
平安時代の人が「聖徳太子が書いた」と偽って作ったから偽書
この偽りがなかったら平安時代に作られた私撰の史書扱いされてたろうにな
自らの出自のような重要箇所にウソを書くような本だから、他にもすくなからぬウソを確実に含んでいる
そのウソを確実に除外して信用できるとこだけを拾い上げる技術でも持ってなかったら使い物にならないんだよね

264 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。

265 :
頭の悪い奥山は、顔の悪い奥山と勘違いされるのを、嫌がっているようだな。。。

266 :
3世紀に巻向に人がいなかったと誰も言っていない

邪馬台国の王都とか証拠不足で騒ぐから非難を浴びる

267 :
バンビシャスの選手たちは、リーグの再開に向けて、練習しているのではないのかな。

268 :
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、阿波の青石(結晶片岩)を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした阿波の青石(結晶片岩)を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

269 :
棺と郭の件は、高句麗の墓の研究で信憑性がなくなってしまった記事だね
魏書東夷伝の高句麗の条に書かれた高句麗の墓での棺と郭の記述は出土した墓と合わなかった
それでよく調べると、東夷伝の高句麗の記事の多くは現実の高句麗ではなく儒教の経書に書かれた東方に関する記事と荒服の記事からの引用だった
それではと、東夷伝の他の地域の記述を見ると、経書の記述からの引き写しとしか思えないものが大半だった
倭は東方と南方の要素を半分ずつ組み合わせたものに作られている
南方の代表としてタンジ・シュガイをあげ、そこから近そうだと述べることで南方要素の強さを強調してる
東冶も南方の代表のひとつもして挙げられてるんだろう
会稽ではなくもっと南だと。

270 :
。。。

271 :
>>270
ダンクシュートというシュートが、鮮やかだったね。

272 :
アシストなのだろうか。

273 :
バンビシャスの選手たちは、リーグの再開に向けて、練習しているのではないのかな。

274 :
>>263
奈良時代に書き改められた古事記・日本書紀もあり得ない事象を数々含んでいる。
つまり、古事記・日本書紀も偽書確定だな。

275 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。

276 :
>>274
偽書という言葉の意味がわかってない
素人の妄想

277 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

278 :
『先代旧事本紀』は、日本の史書であり、神道における神典である。
全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。
著者は不明だが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。
蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。
江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。
近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。

279 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。

280 :
バンビシャスの選手たちは、リーグの再開に向けて、練習しているのではないのかな。

281 :
>>276
>偽書という言葉の意味がわかってない
よしよし、聞いてやるから、玄人による「偽書」の定義を述べてみよ

282 :
ワシントンウィザーズは、集中力を失ってしまったな。

283 :
>>282
アメリカ大陸の反対側を転戦したので、疲労している可能性があるな。

284 :
ワシントンウィザーズは、バンビシャスよりも弱いのではないのかな。

285 :
バンビシャスの選手たちは、リーグの再開に向けて、練習しているのではないのかな。

286 :
https://news.biglobe.ne.jp/sports/0229/spa_200229_1552003507.html

287 :
ワシントンウィザーズが、活発化したのではないのかな。

288 :
ワクチン製造が、活発化したのではないのかな。

289 :
>>288
ワクチン製造が、活発化したという情報は、インサイダー情報という情報の可能性もあるのでは、ないのかな。

290 :
こういうのも奈良盆地の地質では溶けて無くなるのか?
益城の平田遺跡 弥生中期の男性人骨 甕棺に1体分 / 熊本
https://mainichi.jp/articles/20200304/ddl/k43/040/467000c

291 :
>>289
前科があるのだったな。

292 :
ワクチン製造が、活発化したという情報は、インサイダー情報という情報ではなく、株式という式の値段を上げるための方便の可能性があるな。

293 :
ワシントンウィザーズは、バンビシャスよりも、精神の集中力と、連携が悪いな。

294 :
>>290
>熊本県益城町の平田遺跡で、弥生時代中期(約2000年前)の男性の人骨が出土した。
>地震からの復旧・復興に向けた工事に伴う調査で見つかり、
>甕棺(かめかん)にほぼ1体分が残っていた。

金印の倭奴国王が勢力を誇った一世紀の頃は、肥後熊本も博多や吉野ヶ里と同じ甕棺文化だったわけだ。

295 :
甕棺文化と同様に鉄器文化という共通文化圏に属する地域が倭国の範囲だな
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png

弥生時代末期「ムラのナイフ工房」跡か 長崎で見つかる
https://www.asahi.com/articles/ASN2674JRN26TOLB001.html

296 :
>>295
>甕棺文化と同様に鉄器文化という共通文化圏に属する地域が倭国の範囲だな

倭国とは、
日本で唯一、後追いで「倭大國魂・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。  わははははは   @阿波

297 :
>>290
無くなるね

298 :
甕棺墓集団は首狩と顔面変形バケモノ制作もやっている

299 :
>>295
おんや!
奈良盆地の鉄器類はすっかり溶けてなくなっちまったのだな

300 :
>>274
誤った内容を含まない本などないので、誤りが多い少ないは偽書とは無関係
出自を偽って古く見せた本が偽書
現代でもゴーストライターに書かせたら非難囂々だが、その上さらに、古くから伝えられてるとの偽りによって価値を高めようとしてる詐欺行為だからな
美術品でも、むかしの有名人が作った作品と偽ったら詐欺になるだろ

301 :
>>290
甕に入ってるとか貝塚のような石灰成分の多いとこに埋まってるとかしない限り、日本中ほとんどの土地では土中の骨は100年もたたないうちに溶けてなくなるから残らない

302 :
>>299
鉄も土中だと大体なくなるよ
七支刀は奇跡的に残ったんだ

303 :
>>281
>しよし、聞いてやるから、玄人による「偽書」の定義を述べてみよ
製作者や製作時期などの由来が偽られている書

304 :
>>303
なーんだ、偽書というから書を偽ってるのかと思ったら、作者を偽っているのか。
だったら偽作者だな。
要するに署名とか鑑定書を偽造したようなケースで、神社の由緒なんかにもいっぱいあるわ。
ただ、それを以て偽書というのはいささかおかしいな。

305 :
>>301
纏向では数ミリのカエルの骨が出土してるわけだが?w

306 :
■奈良(纏向遺跡)で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■旧唐書の記録※倭国と日本国(ヤマト政権)が別記されている。
<倭國条> 〜631年
「倭國者,古倭奴國也。」(倭国はいにしえの倭奴国である。) 
<日本条> 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」(日本国は倭国とは別種である)
■同じ日本人でも免疫系に違いがある
湿潤耳垢:縄文系
乾燥耳垢:半島(ツングースク)系
https://i.imgur.com/VqqGojH.png

307 :
おサルさんの病気で母子感染であるHTLV-1ウイルスの分布を見ると
アジアではメラネシアと九州に偏在している
縄文人が多かった東日本には少ない

https://tahata.up.seesaa.net/image/HTLV-1_2.jpg
https://tahata.up.seesaa.net/image/HTLV-1_4.jpg

308 :
>>176
>>同時代の魏の役人らの実地の計測見聞の記録が元になった魏志倭人伝は、<

>言い張っても 何も根拠が出てこない <
当然、「有効数字1桁近似値」である事や、
「余」がある事が計測があった事の証拠である事などの、
証拠は何度も説明してある。

309 :
>>302
「なくなる」という方が嘘だとは思わないか?

310 :
>>179
>>「径」は、前方部端〜後円部の先端の長径を示すもの。<

>それ。根拠ない
その場合は「長」という言葉が普通だから <
「長」は、「細長いもの」に対して使うもの。
>むしろ短径の方が感覚的に普通
だって原義が小道だもの
通り抜ける距離だから横断する幅 <
勿論、そんな論理なら、
祇園山のサイズなら「径」でよいが、
箸墓に対しては、始めから「径」なんて使わない事になり、
箸墓説の自爆。

311 :
現代に書かれた歴史の教科書など、すべて偽書ということでよろしいか?

312 :
>>201
>弥生時代なら尚さら大倭は「ダーワ」と読むしか無かったという事
弥生時代にそもそも大倭の表記がないだろ。

313 :
>>182
>「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。   
大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。  
阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。<
出雲系であった阿波が、九州倭国の「東征毛人五十五國」の征服に拠って、
九州倭国の支配下になった証拠である。

314 :
>>139
>黄泉の国はサカ坂を介して芦原中津国に接する国
>淀川河口、河内湖の葦が生い茂る低地が芦原中津国かな
豊葦原中国の王となるために天孫が降臨したのが筑紫の日向。
そもそも、彼の曽祖父であるイザナギが禊をしたのも筑紫の日向(の小戸)。
豊葦原中国とは、福岡市のこと。

315 :
>>184
>畿内第V様式土器はあくまで、厚型重量弥生式土器。 そんなものの文化斉一性に意味はない。
文化的斉一性が見られるのは、軽量薄型丸底土器。 いわゆる「東阿波型土器」なのである。   
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。<
これも、九州倭国の「第?様式」の方が早くて古く、
九州倭国の東征毛人五十五國に拠って、阿波〜大和に「第?様式」が伝えらえた証拠。


企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。

316 :
>>188
>>同じ、三國志で鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けているから、<
>理由も言わずに「明らか」連呼が九州説クオリティ<
史料実態が、「東治」と「東冶」は使い分けてある。

317 :
庄内式は九州起源とか、第五様式は九州起源とか
剣道も茶道も九州起源とか
どっかの国みたいだね

318 :
>>316
>史料実態が、「東治」と「東冶」は使い分けてある。
そんな「実態」があるって証拠は?

319 :
>>193
>方向はデタラメで誤字脱字はあるが治と冶は厳密に使い分けられているとかwww<
方向は99.9%以上デタラメではないし、
誤字脱字は2000字余りの中の3字だけだし、
「治」と「冶」も、(書陵部本で「冶→治」の書き換えがあった以外は、
きちんと書き分けられていた。

320 :
>>311
>現代に書かれた歴史の教科書など、すべて偽書ということでよろしいか?
なんでそんな変なこと思いつくの?
まったく理由を言わない不思議な九州説人間って
何を考えているのか皆目見当がつかないな

321 :
>>319
数字の根拠も断定する理由も
何も説明しない
突然結論だけ
不思議な不思議な九州説

322 :
>>310
>祇園山のサイズなら「径」でよいが、
>箸墓に対しては、始めから「径」なんて使わない事になり、
これも全く理由を言わない
九州説って不可解

323 :
もう学者も見放した畿内纏向説にしがみつく奥山あわれ

324 :
>>323
纏向を学者が見放したって
九州説はまた奇妙な妄想かね

325 :
>>304
実際には江戸時代にかかれてるのに建前上は飛鳥時代、聖徳太子が書いたことにしてる本の中身が本物なわけないだろ
来歴を偽るのは大抵ウソを書くため。偽物と呼ばない理由があるか?

326 :
九州説の持ってくる情報は、どれも出所がわからない
九州説のいう結論は、どれも根拠がわからない
九州説のいう意見は、どれも理由がわからない
九州説は謎だらけ

327 :
>>311
教科書は執筆年代や執筆者などにウソを書いてないから偽書じゃないよ
ザラコクの書き込みは嘘八百だけど偽書じゃないでしょ

328 :
>>325
ただ、現代みたいな倫理観がなかったから悪意がない場合もある
自分の本気の意見だが権威づけしたくて昔の偉い人名義にするみたいな

329 :
>>316
その説明も、論拠を掘り下げていくと「使い分けてるから」しか残らない
仮定と結論が同じなやつであり、論証を装った戯言にすぎないね
そんなものを論理だと思ってるのは君のような知恵遅れだけだ

330 :
>>276
神話部分と現実を区別しないと記紀は✖
北朝鮮の将軍様の神格化と同じ部分は、信用しなほうがいいよ

331 :
>>207
>>いや、魏志倭人伝の行程説明に計測記載された沢山の「里数」、が根拠。<
>「計測記載された」なんてのが確実に妄想なんだけどな<
計測もせずに、そんな記載が出来る筈がない。
>そんなことが出来る連中なら
唐津港あたりから糸島市街の方角がわからないとか
低脳白痴のうわ言でしかない <
魏志らの記録は、見聞計測出来たものを記録しているのであり、
末盧國の出発時点や途中では、伊都国が全く見えないのだから、
方向の記録そのものが出来ず、記載できる筈がない。

332 :
径百歩は、郡使が実際に見てない 
見聞であろうな・・・
外交的には大きく見せたほうが良かったのであろう

333 :
壱与が謎の人物なんだよな?????

334 :
>>331
>魏志らの記録は、見聞計測出来たものを記録しているのであり、
>末盧國の出発時点や途中では、伊都国が全く見えないのだから、
>方向の記録そのものが出来ず、記載できる筈がない。

それって測量技術がないってことだから
「計測記載された」の否定そのものだ

335 :
>>332
>径百歩は、郡使が実際に見てない

全く理由を言わない九州説

336 :
江戸時代になってから、全10巻もの古代の歴史書を一からでっちあげるなんて考え難い。
そんな元気の或る者がいるとは思えぬ。
それに偽書を書いたとしても、系図ものはすぐ矛盾だらけになって足がつく。
大量に印刷して売り捌けるるわけではないし、せいぜいくたびれもうけだな。
いつ書かれたかは別にして、先代旧事本紀は、それなりの古代史の元データがあって完成したのだろう。、

337 :
>>217
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの文献考古の全否定が
大和説の負けフラグだって
なせわかんないのかな

ばかだから?

338 :
>>336
全十巻のは平安時代のもの
江戸時代のは七十二巻本旧事紀と呼ばれる先代旧事本紀大成経と三十巻本と呼ばれる白河本旧事紀だ
七十二巻本の関係者は伊雑宮をめぐる騒動の責任者として幕府に処罰された
なんせ死者百人以上とかいう大騒動だしな

339 :
>>336
系図に関しては、多くの武士や大名たちの系図からして矛盾だらけだった時代だからねえ

340 :
そうすると、平安時代の全十巻をどのように評価するか(あるいは評価できるか)ということなんだね
4月になれば、朝倉のとっつあんも講演するらしいから、一段とにぎやかになるんでないの。

341 :
どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。

342 :
>>236
>使い分けの論拠を突き詰めると、最終的には「使い分けてるから」しか論拠が残らなくなってるから論証自体が問題外
使い分け仮説は根拠のない妄想としか言えないな <
違うな。
「使い分け」説も、当然「絶対断定」ではなく、要は「確率の高低」の問題。
残存していた過去の版本などの校勘に拠って書かれた最も信頼性の高い張元済の「百衲本」では、
魏志の「東治」と、呉志の「東冶」とは、完全に区別して書き分けられており
使い分けられていた可能性や確率が非常に高い。
そして、同じ紹煕本の宮内庁書陵部本の「呉志における東治の記載」は、
張元済は否定して採用しておらず、「東冶」を採用していた。
だから、魏志の「東治」と呉志の「東冶」の書き分けがあった事が史料実態であり、
確率は非常に高い、という事になり、
この男(おそらく類スレ主)は、また、都合の悪い史料事実や史料実態に対して、
確率が100%ではないから×だ。というインチキ論法で否定抹殺してしまおう、
とする・・・・詐欺師。

343 :
僕も状況が分からず、家族から聞いているくらいなんですけど、学校が休みになったりというのは今までにないこと。
みんなで一緒になって手洗い、うがいをするとか、一人ずつが気を付ければ、邪馬台国畿内説が、広がらないと思う。オリンピックのためというわけではなく、日本のためにやっていってほしいと思います。

344 :
八村塁氏は、オリンピックよりも、日本を大切にしているのではないのかな。

345 :
>>333
>壱与が謎の人物なんだよな?????
肥前川上の與止日女様じゃないかと思っている。
畿内の淀川の名前の由来にもなった女王。

346 :
どのようにして、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだろうか。

347 :
>>342
>魏志の「東治」と、呉志の「東冶」とは、完全に区別して書き分けられており
だからそれが、なーにも理由のない主観でしょ
確率とかなんとか美辞麗句ならべても、算出根拠のないお飾りだし
無内容の典型だよ

348 :
>>246
>短里があった、実在したという根拠を問いただした結果が「短里はある」だけだとわかる
事実ではなく仮定にすぎない自分自身だけが根拠とか、論証と呼べない偽論証だね
ザラコクじいさんのいう根拠って、ほとんどこれだ
マトモでない論証しか受けてない妄想ばかり<
違うな。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
(条件設定下の数学や論理学のような)100%完全な断定論などあり得ず、
全て、確率の高低が議論や問題になるもの。
魏志の里記載は、短里であった確率は非常に高く、
長里であった確率は殆ど0%位にしかならない。
それを、
「100%完全ではない」として否定抹殺しようとする類スレ主らの大和説者らは、
・・・・アホ詐欺師。
世間の皆さま、・・・・アホ詐欺の大和説者には、気を付けましょうね。

349 :
>>348
>魏志の里記載は、短里であった確率は非常に高く、
そらまた
根拠もなく断定している

350 :
つまり、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのだね。

351 :
>>262
>魏志倭人伝に邪馬台国がある位置と書いてある会稽東治の東とは
沖縄や台湾の辺りに相当<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男は×男であるし、
女王国の位置推定の「会稽東治の東」は、「ほぼ九州島付近」になるから、
それでも、この男は×男。

>陳寿は邪馬台国をはるかな南にある国として認識していた<
認識していない。

352 :
朝鮮半島で、生物兵器との死闘を闘っている、完全に破綻してしまった朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮人の奥山氏は、死闘に負けてしまう可能性もあるのではないのかな。

353 :
生物兵器は、未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまったの可能性が高いのではないのかな。

354 :
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器は、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめているのではないのかな。

355 :
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

.

356 :
>>269
>棺と郭の件は、高句麗の墓の研究で信憑性がなくなってしまった記事だね
魏書東夷伝の高句麗の条に書かれた高句麗の墓での棺と郭の記述は出土した墓と合わなかった<

そりゃ、同時代の郡の役人たちが見聞した記録の方が確率が高く、確かであり、
現代学者の「3世紀の高句麗の標準的な墓だ」という見立ての方が、信頼性がない。

>それでよく調べると、東夷伝の高句麗の記事の多くは現実の高句麗ではなく儒教の経書に書かれた東方に関する記事と荒服の記事からの引用だった
それではと、東夷伝の他の地域の記述を見ると、経書の記述からの引き写しとしか思えないものが大半だった <

郡役人や陳寿が、「儒教の経書」の引き写し、という嘘つき騙しをした、
という可能性など、殆どないし、
判らなければ書かなければよいのであり、嘘つき騙しを必要もない。

>倭は東方と南方の要素を半分ずつ組み合わせたものに作られている
南方の代表としてタンジ・シュガイをあげ、そこから近そうだと述べることで南方要素の強さを強調してる<

風俗の類似があった、という事を述べただけであり、「そこから近そうだ」なんて述べていない。

>東冶も南方の代表のひとつもして挙げられてるんだろう 会稽ではなくもっと南だと。<

「東冶」なんて書かれていないから、この大和説男も、・・・・アホ詐欺師。

357 :
おい、プロ固定、はっけよい。

358 :
>>356
役人たちは高句麗に入国してないから見聞してない、よって信憑性がない、というわけだな。解決した

359 :
>>300
>誤った内容を含まない本などないので、誤りが多い少ないは偽書とは無関係
出自を偽って古く見せた本が偽書<
知り得た自然や歴史の事実や実態を、
隠蔽したり、盗用したり、造作したりした文書は、
偽書。
例えば、記紀。

360 :
>>320
>>現代に書かれた歴史の教科書など、すべて偽書ということでよろしいか?<
>なんでそんな変なこと思いつくの?
まったく理由を言わない不思議な九州説人間って
何を考えているのか皆目見当がつかないな<
「南→東」などのような、
「史料事実の否定曲解の嘘つき騙し」になる事を書いた教科書は、偽書。

361 :
>>358
>役人たちは高句麗に入国してないから
それ、誰が決めたの?

362 :
>>321
>>方向は99.9%以上デタラメではないし、誤字脱字は2000字余りの中の3字だけだし、
「治」と「冶」も、(書陵部本で「冶→治」の書き換えがあった以外は、
きちんと書き分けられていた<
>数字の根拠も断定する理由も 何も説明しない 突然結論だけ
不思議な不思議な九州説 <
これまでに、もう数え切れない位根拠を説明して来てあったものを、知らん振りして、
「数字の根拠も断定する理由も 何も説明しない 突然結論だけ」と嘘つき騙しの投稿をする、
不思議な・・・・アホ詐欺師の大和説者。

363 :
たとえ唯一無二の情報源であろうとも裏付けをとれないものは論拠にしてはいけないという基本中の基本を忘れた捜査員たちが多くの冤罪を産み出してきたという現実からなにも学んでないからザラコクなんだよね

364 :
>>359
>知り得た自然や歴史の事実や実態を、
>隠蔽したり、盗用したり、造作したりした文書は、
>偽書。
素人爺さんが理由なく勝手に決めても
世間の人には従う義務はない

365 :
>>362
>これまでに、もう数え切れない位根拠を説明して来てあったものを、知らん振りして、
知らないよ
どこにある?
どうして言わないの?

366 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、2ちゃんねるでも、完全に論破されたのだったな。

367 :
>>362


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

368 :
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

369 :
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

370 :
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

371 :
>>366
2ちゃんねるで、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が完全に論破された討論は、2ちゃんねるの倉庫に送られてしまったのだったね。

372 :
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

373 :
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

374 :
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

375 :
奥山氏が、焦り始めたのではないのかな。
373日本@名無史さん2020/03/05(木) 21:41:51.59
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

376 :
奥山氏が、焦り始めたのではないのかな。
373日本@名無史さん2020/03/05(木) 21:41:51.59
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

377 :
奥山氏が、焦り始めたのではないのかな。
373日本@名無史さん2020/03/05(木) 21:41:51.59
>>362

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

378 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、2ちゃんねるでも、完全に論破されたのだったな。

379 :
>>378
2ちゃんねるで、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が完全に論破された討論は、2ちゃんねるの倉庫に送られてしまったのだったね。

380 :
>>378
2ちゃんねるで、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が完全に論破された討論は、2ちゃんねるの倉庫に送られてしまったのだったね。

381 :
>>378
2ちゃんねるで、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説が完全に論破された討論は、2ちゃんねるの倉庫に送られてしまったのだったね。

382 :
>>322
>>>むしろ短径の方が感覚的に普通  だって原義が小道だもの
通り抜ける距離だから横断する幅
>>勿論、そんな論理なら、祇園山のサイズなら「径」でよいが、
箸墓に対しては、始めから「径」なんて使わない事になり、
>これも全く理由を言わない 九州説って不可解 <
魏論相手の大和説者(おそらく類スレ主)が、「径」を使うのは「短い距離」の時だ、
という意味の事を言ったから、
魏志倭人伝の卑弥呼の冢の「径百余歩」は、
150〜280mの箸墓よりも、25〜30mの祇園山の方がふさわしい、
という事になるから。

383 :
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器は、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめているのではないのかな。

384 :
>>383
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器が、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめていることを、笑いリラックスしながら、楽しむことは、卑劣なのだったね。

385 :
>>326
>九州説の持ってくる情報は、どれも出所がわからない<

史料事実や史料実態が出所。

>九州説のいう結論は、どれも根拠がわからない <

原則として、史料事実や史料実態からの帰納的高確率的な推論が、根拠。

>九州説のいう意見は、どれも理由がわからない <

史料事実や史料実態が理由。

大和説者は、史料事実や史料実態の隠蔽や曲解の嘘つき騙しばかりで、
謎だらけ

386 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族よ、手を洗い、うがいをし、日本にウイルスが飛び散らないようにしなさい。
これは、僕達日本人からの、真実のお願いです。

387 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族よ、手を洗い、うがいをし、日本に邪馬台国畿内説が、飛び散らないようにしなさい。
これは、僕達日本人からの、真実のお願いです。

388 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族よ、手を洗い、うがいをし、日本にウイルスが飛び散らないようにしなさい。
これは、僕達日本人からの、真実のお願いです。

389 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族よ、手を洗い、うがいをし、日本に邪馬台国畿内説が、飛び散らないようにしなさい。
これは、僕達日本人からの、真実のお願いです。

390 :
>>329
>その説明も、論拠を掘り下げていくと「使い分けてるから」しか残らない
仮定と結論が同じなやつであり、論証を装った戯言にすぎないね
そんなものを論理だと思ってるのは君のような知恵遅れだけだ <

史料事実や史料実態が根拠。

391 :
>>385
史料の曲解を繰り返しただけで、史料事実ではないよ

392 :
曲解のことを史料事実とか史料実態とよぶザラコクじいさんは論理というものをまったく理解できてないよな

393 :
>>377
おまえ、それって自分が連続コピペ荒らし犯人だって告白だろ、どう見ても

394 :
>>332
>径百歩は、郡使が実際に見てない 
見聞であろうな・・・
外交的には大きく見せたほうが良かったのであろう <

一般倭人は「里」を知らないから、当然、
同じ里歩系単位の「歩」も知らず、「径百余歩」という文言を言う事も出来ない。

395 :
>>334
>>魏志らの記録は、見聞計測出来たものを記録しているのであり、
末盧國の出発時点や途中では、伊都国が全く見えないのだから、
方向の記録そのものが出来ず、記載できる筈がない。

>それって測量技術がないってことだから 「計測記載された」の否定そのものだ<

いや、測量技術なんて関係がない。
見えていなければ、「方向」の計測そのものが出来ない。

396 :
>>349
>>魏志の里記載は、短里であった確率は非常に高く、<

>根拠もなく断定している <

史料事実と史料実態が根拠。

397 :
>>358
>役人たちは高句麗に入国してないから見聞してない、よって信憑性がない、というわけだな。解決した>

郡の役人たちは、高句麗に入国して、実地に見聞計測記録をすることが仕事。

398 :
やはり、奥山氏が、焦っているな。
393 名前:日本@名無史さん 2020/03/05(木) 21:58:14.69
>>377
おまえ、それって自分が連続コピペ荒らし犯人だって告白だろ、どう見ても

399 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族よ、手を洗い、うがいをし、日本にウイルスが飛び散らないようにしなさい。
これは、僕達日本人からの、真実のお願いです。

400 :
どう見ても、プロ固定が、焦っているな。

401 :
401

402 :
>>363
>たとえ唯一無二の情報源であろうとも裏付けをとれないものは論拠にしてはいけないという
基本中の基本を忘れた捜査員たちが多くの冤罪を産み出してきたという現実から
なにも学んでないからザラコクなんだよね <
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た事実情報で裏付けがまだ見つからないものであっても、
知り得た事実や資料実態からの帰納的高確率的な推論をすべき、なの。

403 :
>>400
貴方は、笑いリラックスし過ぎているのでは、ないのかな。

404 :
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器が、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめていることを、笑いリラックスしながら、楽しむことは、卑劣なのだったね。

405 :
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器が、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめていることを、笑いリラックスしながら、楽しむことは、卑劣なのだったね。

406 :
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器が、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめていることを、笑いリラックスしながら、楽しむことは、卑劣なのだったね。

407 :
未完成のまま、管理責任者の意図に反し、愚劣な横領によって、市場に漏れ出してしまった可能性が高い生物兵器が、邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族を苦しめていることを、笑いリラックスしながら、楽しむことは、卑劣なのだったね。

408 :
おい、プロ固定、真面目に闘い、悪い頭を活発にし、藻搔け。はっけよい。

409 :
>>408
貴方は、笑いリラックスし過ぎているのでは、ないのかな。

410 :
>>409
素数なのではないのかな。

411 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた奥山氏よ、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族よ、手を洗い、うがいをし、日本にウイルスが飛び散らないようにしなさい。
これは、僕達日本人からの、真実のお願いです。

412 :
>>141
お前の家の話の訳ないだろう
証拠を出せ
>>143
福島の話じゃねえぞ
お前は百済菅野じゃねえしパクるなよ
>説明しなくてもわかるはず
わからねえから説明してみろ

413 :
素菅貧野
何でも家の話で被害額が3000兆円
偽計業務妨害で賠償額が3000兆円

414 :
魏志倭人伝に書いてある会稽東「治」は会稽東「冶」の誤字
会稽東冶とは現在の福建省福州市あたりにあった会稽郡東冶県のことで
会稽郡東「治」県というのはなかった

後漢書にも会稽郡は中国最南部のハワイと同緯度にある海南島の近くと書いてある
魏志倭人伝には邪馬台国はその会稽東治の東にあると書いているので
陳寿は九州北部を邪馬台国と思って書いてはいなかったという事になる

415 :
>>395
>いや、測量技術なんて関係がない。
>見えていなければ、「方向」の計測そのものが出来ない。
それって、測量技術を持ってないってことなんだけど

416 :
うどんできる?これで
できるなら買ってあげよう

417 :
>>414
その論法だと鎮寿は
畿内を邪馬台国と思って書いてはいなかったという事になる
でも可?

418 :
仕方が無いよな
鎮寿は九州にも行ったことが無いのだから

419 :
陳寿も後世のバカにバカ扱いされようとはかわいそうに

420 :
我らは漢漢委奴国王の民
倭の後裔なんだ
自覚して東アジアに生きろ
大和の奈良とかチンケな事言うな

421 :
>>417
不可
「陳寿の言ったとおり行ったら畿内に着いた」という説がないから

422 :
東治と東冶
『三国志』には少なくとも5か所で「東冶」という言葉が出ている
・孫策が呉県の厳白虎を討つ前に、浙江を渡り、会稽に本拠地をおいて東冶城を落としたという話が1か所
・孫策が会稽に進撃して王朗を破った際に、王朗が東冶に逃げたという話が2か所
・呂岱伝に出てくる会稽東冶の賊の話が2か所
・・・・・・・鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けているので会稽東「治」は会稽東「冶」の場所では無い・・

423 :
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。   @阿波

424 :
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」  九州や畿内などとの圧倒的な差。  @阿波
?勾玉
?軽量薄型土器
?前方後円墳
?水銀朱
?緑色片岩製柱状片刃石斧
?泥質片岩製石棒
??類鉄鍛冶炉
?造船・航海術
?その他もろもろ

425 :
陳寿の正体(晋書より)
丁儀の息子に陳寿が言った 「米千斛を贈ってくれたならば父上のために立派な伝記を載せてやろう」
賢明にも丁儀の息子は拒否した。陳寿は汚職官僚だったのです。

426 :
>>422
>・・・・・・・鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けているので
理由も言わずにそんな主観を言い張られても
納得する人いないし

427 :
やはり、今朝も、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されてしまっているな。

428 :
>>427
毎日九州説が論破されてると自覚してるようだな

429 :
フハハ
奴は四天王でも最弱

430 :
何年経っても妄想に浸ったまま社会と無縁な奥山あわれ

431 :
>>426 名前:日本@名無史さん 2020/03/06(金) 07:55:11.07
>>・・・・・・・鎮寿は明らかに「東治」と「東冶」は使い分けているので、、
>理由も言わずにそんな主観を言い張られても
これはいささか違和感ありのレスだねえ、現に「東治」と「東冶」は使い分けられているのだから理由も何もない。
もし理由ありとすれば、それは陳寿に聞いてみなくてはわからないことだ。
陳寿にメールでも送って確認してみろ。

432 :
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証なのである。   
阿波国国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波

433 :
>>430
だからさ、そういう妄想に浸ってるから九州説が馬鹿にされてんの

434 :
>>414
>魏志倭人伝に書いてある会稽東「治」は会稽東「冶」の誤字
会稽東冶とは現在の福建省福州市あたりにあった会稽郡東冶県のことで
会稽郡東「治」県というのはなかった<
宋明清代の「三国志の写本版本」の校勘でも、
「計其道里、當在會稽東治之東」の「治→冶」の校勘はなかったなかったから、
「会稽東治」で正しかった。

>後漢書にも会稽郡は中国最南部のハワイと同緯度にある海南島の近くと書いてある<
後代史書の後漢書の「邪馬臺國」も、「邪馬壹國とは違う邪馬壹國の中の一地域呼称」であり、
また「会稽東冶」は、後漢書筆者の范曄の「魏志の東治の誤読曲解」である。
>魏志倭人伝には邪馬台国はその会稽東治の東にあると書いているので
陳寿は九州北部を邪馬台国と思って書いてはいなかったという事になる<
この男は、自分の宗教思想に拠って、
「史料事実や史料実態を否定曲解する」狂人的な狂気の・・・・アホ詐欺師である。

435 :
>>426
理解できない あんたがおかしい
俺は納得したがね

436 :
>>423
>弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。<
、阿波は、元は、出雲銅鐸祭祀國の支配地として、
→吉備→讃岐→阿波と広がった地域の一つ。
そして、九州倭国の卑弥呼や壹與の頃に、
鏡片を持った「東征毛人五十五國」に拠って、九州倭国の支配下になり、
出雲以来の古い縄文的な祭祀を持っていたから、「忌」部として、
東征毛人五十五國の中で出雲系祭祀伝統を残し伝える役目を果たした。
>温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石<
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。<
狗奴國も「南≠東」などに拠って、×。

437 :
>>435
本人ひとりで理由もなく納得しても意味がない

438 :
>>424
>「倭国(阿波)の最先端文化・技術」 九州や畿内などとの圧倒的な差。@阿波
?勾玉 ?軽量薄型土器 ?前方後円墳 ?水銀朱 ?緑色片岩製柱状片刃石斧
?泥質片岩製石棒 ??類鉄鍛冶炉 ?造船・航海術 ?その他もろもろ<
倭國は「正北抵新羅」に拠って、北部九州が中心であるから、阿波は×。

439 :
>>431
>現に「東治」と「東冶」は使い分けられているのだから理由も何もない。
理由がないと認めてる馬鹿
しかも、何の証拠も出せないまま
現に使い分けられているいるいると言い張るだけ
この異常なまでのおつむの弱さ
もしかして、現に八咫鏡が平原で出てる、事実だ事実だ理由はいらない、とか言い張ってた人?
頭の悪さが同じくらいだぞ

440 :
>>425
>陳寿の正体(晋書より)
丁儀の息子に陳寿が言った 「米千斛を贈ってくれたならば父上のために立派な伝記を載せてやろう」
賢明にも丁儀の息子は拒否した。陳寿は汚職官僚だったのです。<
はるか後代の(後漢書中心主義の)唐代の晋書の記載では、信頼性が全くなく、
また、「米千斛」という膨大な話は実態に合わず、
陳寿の「資料事実に沿った三国志の著述」の実態にも合わず、
おそらく唐代晋書の「陳寿の三国志」の価値を貶めようとした策略的な記載だな。

441 :
>>428
>毎日九州説が論破されてると自覚してるようだな<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説が、
毎日論破されてる、
と自覚してるようだな

442 :
>>439
そうかそうか、まあもう少し面白いことを云え

443 :
>>442
九州説は、まったく反論ができない
また簡単に論破されたようだ

444 :
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証なのである。   
阿波国国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354

445 :
>>432
>それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、
阿波に倭の王権・王都があった証なのである。<
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、倭國の中心は北部九州にあったのであり、
出雲銅鐸祭祀部族の一つであった阿波も大和も、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って征服された地であり、
阿波は、たまたま古き出雲の「忌」祭祀を保持し残していた、
というだけの事。
   

446 :
>>433
>だからさ、そういう妄想に浸ってるから九州説が馬鹿にされてんの<
だからさ、「南→東」や「治→冶」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
そういう妄想に浸ってるから大和説や阿波説が馬鹿にされてんの

447 :
>>437
>本人ひとりで理由もなく納得しても意味がない <
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の嘘つき騙しの、
・・・・アホ詐欺師の大和説者の、
本人ひとりが、理由もなく納得しなくたって、何の意味も価値もない

448 :
>>439
>>現に「東治」と「東冶」は使い分けられているのだから理由も何もない。<
>理由がないと認めてる馬鹿 しかも、何の証拠も出せないまま
現に使い分けられているいるいると言い張るだけ この異常なまでのおつむの弱さ
もしかして、現に八咫鏡が平原で出てる、事実だ事実だ理由はいらない、とか言い張ってた人?
頭の悪さが同じくらいだぞ 理由がないと認めてる馬鹿 しかも、何の証拠も出せないまま
現に使い分けられているいるいると言い張るだけ <
陳寿の三国志では、
260年の建安郡の分郡前の呉志の「東冶」と、分郡後の魏志の「東治」とは、
混乱もなく、確実に書き分けられている。
それを否定する「類スレ主?」の、異常なまでのおつむの悪質さ。

449 :
>>443
>九州説は、まったく反論ができない また簡単に論破されたようだ <

「南→東」や「治→冶」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
まったく反論ができない
簡単に論破されたようだ

450 :
>>448
>260年の建安郡の分郡前の呉志の「東冶」と、分郡後の魏志の「東治」とは、
>混乱もなく、確実に書き分けられている。

という証拠は?


何もないよね

451 :
>>444
>奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、
日本で一番古い出土木簡である。日本で一番古い出土木簡である。<
文字使用の関しても、九州倭國は、
漢委奴國王の印を貰っているし、
室見川の銘板を刻んでいるし、
卑弥呼は上表文を書いているし、
記銘銅鏡を持ち、ホウ製記銘鏡も造っているし、
渡来の呉系楽浪鏡師らが記銘銅鏡を沢山造っているし、
硯もいくつも出土している。

452 :
>>450
>>260年の建安郡の分郡前の呉志の「東冶」と、分郡後の魏志の「東治」とは、
混乱もなく、確実に書き分けられている。<
>という証拠は? 何もないよね<
宋明清代の三国志の写本版本の校勘の、
事実や実態が証拠。

453 :
何十年も掘ってるのに、いまだに邪馬台国関連の遺物が出土しない纏向遺跡あわれ

454 :
>>450
おまいのかきこは芸に欠けるんだよなぁ、只のデクの坊、
おまいのカーチャンでべそー、
とかナントカ、小学生だってもう少し面白いこというんだぞ、何とかしろってんだ

455 :
脳が眠っているのに起きていると勘違いしてうわ言をタレ流す奥山あわれ

456 :
>>454
罵っても、何の反論いならないよ
反論のできない九州説の負け

457 :
>>456
おまいのカーチャンでべそー、
おまいのトーチャンもでべそー、

458 :
>>456
>罵っても、何の反論いならないよ 反論のできない九州説の負け

「史料事実や史料実態」の根拠を出さずに罵っても、
何の反論にもならないよ
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しに関しての、
反論のできない大和説の負け

459 :
顔の悪い奥山が、いつも着けているマスクでは、新型コロナは防げないという事実に、奥山は気付いてないのでは、ないのかな。。。

460 :
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

461 :
>>425
裴注で否定されてる説ではなかったか
晋書の成立より裴の方が古いけど、その説自体は裴の時代に既にあったのだろう

462 :
>>446
自分が電波だと言わんばかりのバカ投稿を少しは減らしたらどうだね?
あまりにもバカ丸出しすぎて、あきれ返る毎日だよ

463 :
>>458
史料の記述それぞれについて信頼性を評価することなく、史料に書いてあるから書いてあるから としか言えない君の知能レベルは、テレビで言ってるからと信じ込んでしまう人たちと五十歩百歩だぞ、ひゃっぽくん

464 :
>>437
一人だけ納得できないと駄々を捏ねているだけでは?

465 :
>>464
理由を言わなければ誰も納得しないよ
人は理由を聞いて納得するのだから

466 :
>>465
理由が書いてあってもどうせコミュ障だから読み取れないくせに。

467 :
>>461
>>陳寿の正体(晋書より)
丁儀の息子に陳寿が言った 「米千斛を贈ってくれたならば父上のために立派な伝記を載せてやろう」
賢明にも丁儀の息子は拒否した。陳寿は汚職官僚だったのです。
>裴注で否定されてる説ではなかったか
晋書の成立より裴の方が古いけど、その説自体は裴の時代に既にあったのだろう
ふーん。

468 :
>>462
>自分が電波だと言わんばかりのバカ投稿を少しは減らしたらどうだね?
あまりにもバカ丸出しすぎて、あきれ返る毎日だよ
だからさ、「南→東」や「治→冶」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
そういう妄想に浸ってる、あきれ返る毎日だから、
大和説や阿波説が馬鹿にされてんの。

469 :
>>463
>史料の記述それぞれについて信頼性を評価することなく、
史料に書いてあるから書いてあるから としか言えない君の知能レベルは、
テレビで言ってるからと信じ込んでしまう人たちと五十歩百歩だぞ、ひゃっぽくん
だからさ、
史料事実や史料実態のそれぞれについて、その信頼性や確率を評価することなく、
教科書や先生やテレビや教育委員会や文部省が言っているから、
としか言えない君の知能レベルは、
麻原が言ってるからと信じ込んでしまう人たちと五十歩百歩だぞ、ひゃっぽくん

470 :
>>465日本@名無史さん2020/03/06(金) 12:58:40.20>>466
>>464
>理由を言わなければ誰も納得しないよ
>人は理由を聞いて納得するのだから
つまり、オレ様が納得できない理由は理由でない、と駄々をこねているわけだ、大笑いwww

471 :
>>470
まったく理由を言わなければ
誰も納得しないんだよ

472 :
>>471
そういう思考結果に至った理由は?

473 :
>>472
人は理由を聞いて納得するから

474 :
>>473
理由を聞いたら納得すると何故断定できる?

475 :
>>469
古田の発言ならデタラメや妄言でも信じ込んでる君の発言だと思うと、実に面白いね

476 :
日本で一番古い温泉と言われている四国道後温泉。

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波

477 :
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

478 :
>>475
>古田の発言ならデタラメや妄言でも信じ込んでる君の発言だと思うと、実に面白いね<
別に古田さんの発言が全てであった訳でもないし、
中高大学時代は、普通に教科書や一般書を読んでいただけだし、
古田さんの「史料事実や史料批判をされた史料実態」からの、
推論の論理性や確率の高さは、その時点では最も確率が高い、と思っていたし、
しかし現在では、
古田さん以外の別の方の「史料事実などからの推論」も取り入れている。
いずれにしても、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、×ね。

479 :
>>474
>理由を聞いたら納得すると何故断定できる?
日本語のわからない人だな
誰も「理由を聞いたら納得する」なんて言った人はいないぞ
あなた、異常に知能低い?

480 :
>>479
なんで?

481 :
473日本@名無史さん2020/03/06(金) 14:53:53.42>>474
>>472
人は理由を聞いて納得するから

479日本@名無史さん2020/03/06(金) 15:39:14.55>>480
>>474
>理由を聞いたら納得すると何故断定できる?
日本語のわからない人だな
誰も「理由を聞いたら納得する」なんて言った人はいないぞ

あなた、異常に知能低い? ←おまえが?w

482 :
理由を聞いても納得しなきゃキナイコシはどうすればいいのか

483 :
つまり、
オレ様が納得できないのは理由ではないし、理由を言ったことにもならない、、、と相変わらず駄々をこねているわけだ、ゲラゲラwww

484 :
キナイコシは日本に来て間もないから仕方ないな

485 :
畿内説笑われてるよ、どうする?

486 :
日本で一番古い温泉と言われている四国道後温泉。

なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波


九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、

九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。

なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

487 :
>>486
越前の継体朝だから

488 :
>>486
>日本で一番古い温泉と言われている四国道後温泉。
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?
あとは、推して知るべし。   @阿波<

大体「畿内」とか「天皇」とか言っているようでは、
それだけで、「南→東」などの嘘つき騙しをしている事がバレバレであり、
「正北抵新羅」や「日本國者倭國之別種也」や「「東征毛人五十五國」などを無視する嘘つき騙しをしており、
九州にも温泉はいくらでもあり、
道後温泉など、九州倭国王家にとっては、東征路の一つに過ぎず、
別種分家の大和政権にとっては、価値があるかも知れないが、
九州倭国王家にとっては、温泉の一つに過ぎないではないか。

489 :
>>486
最近、阿波の発掘報告が無いな

490 :
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、

九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。

なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。   @阿波

491 :
>>1 奥山よ!

他説は論じてるが、奥山は罵声だけでレス進めるつもりだろう

だから勉強しろ と  何度言ってるんだよ

奥山は漢文も読めないし

理解力も無いよ

だから、罵声に走る


あんたの頭が停止してるないだろう

温故知新もいいけどさ、

議論について行ってねーナ

あんたの知識は遅れてるよ

492 :
>>1 奥山よ!

石野も寺澤も箸墓=卑弥呼の墓から遠ざかったよ
橋本は口をつぐむようになった
これら、今の畿内説の現状なんだよ

閉じこもってたら情報が入らないよ
SNSもいいけど、いつの情報なのか精査したほうがいいよ

493 :
>>492
平気でこんな嘘をつく九州説

異常

494 :
>>478
>いずれにしても、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、×ね。
かつてヤフー掲示板の邪馬台国関連のコーナー(トピック)で、cやmやtやiら罵倒四天王と互角以上に罵倒合戦を繰り広げたzarakokuさんだけあって、さすがに口が悪いですね
当時は60代の会社経営者だと自称していたと記憶していますが、それから十余年を経た現在でもご壮健なようで、なによりです。そろそろ後期高齢者になりそうですか?

495 :
>>492
嘘じゃないよ
石野や寺澤の論調は箸墓=卑弥呼じゃないよ
反論があるなら、最近の論調 貼り付けるなり
君が行った 彼らの最近の後援会の記録 出してみたら
寺澤なんか、箸墓は卑弥呼を否定してる

お友達に聞くか、調べてみたらいいよ

496 :
アンカー間違い
>>493
嘘じゃないよ
石野や寺澤の論調は箸墓=卑弥呼じゃないよ
反論があるなら、最近の論調 貼り付けるなり
君が行った 彼らの最近の後援会の記録 出してみたら
寺澤なんか、箸墓は卑弥呼を否定してる

お友達に聞くか、調べてみたらいいよ

497 :
>>351
会稽東「冶」は現在の福建省福州市の辺りと確認されている
そしてそれとは別にあったと九州説がいう会稽東「治」という地名は確認されていない
九州説は会稽東治があったと言うならこの資料にこう書いてあると出典を示せば済む話
昔に中国の九州辺りになる位置にあったと言い張るだけでは何の証拠にもならない
証拠を示せなかったら魏志倭人伝に邪馬台国のある場所と書いてある会稽東治の東は
現在の福建省福州市辺りにあった会稽東冶の転写ミスで
その東は沖縄や台湾の辺りという事実は覆らない

498 :
大和弥生社会の展開とその特質
寺澤薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

499 :
>>417
それはどうかはわからない
けど陳寿は邪馬台国は少なくとも九州北部と思っていなかった事は確か

500 :
>>499
対馬海峡三千里を渡ってから二千里足らずのところが邪馬台国だと思っていたのだから、九州のどこかだと思っていたはず。

501 :
巻向は
古墳造営キャンプ地で
決定したみたいだな

502 :
そんなことよりも、池沼は精神病院に行ったほうが良いぞ。
ちなみに家は『鳳輿』(調べると出てくる)このような名前の家なんだけど。

503 :
>>501
学者が誰も認めない九州説
w

504 :
あと天皇というのは?
どこの天皇なんだと聞いているだけ、家の話だろう。

505 :
>>500
九州北部の端までで1万700里だからそれはないね
邪馬台国までは少なくともあと南に1300里あると魏志倭人伝には書いている事になる

506 :
女王国から船で南に向かうと侏儒國(種子島)があると書いてある
博多基準で畿内を南だと勘違いしていたという説は矛盾するな

507 :
それと、お前たちの好きな聖徳太子(不明)など・・・、
いない頃からの〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜家なんだけど。
『鳳輿』は中華だと言っている人がいたり。

508 :
あと、なぜか数年前のKPOPスレ、
『王仁』さんが〜とか?

そういう話をしている人がいたり。

509 :
日本の神話(記紀神話)の話なのかな?
時系列〜、そういうものがデタラメだと言っている人がいたり。

父親と母親・・・子供が生まれて、このような神話。

それ(日本の神話)以前というのが、中国や朝鮮半島だという話(定説)。

510 :
>>506
侏儒国は経書から引き写された架空の国で、実在しない
もちろん侏儒国を種子島だといってる人は邪馬台国九州説論者だけ

511 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

512 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

513 :
お前たちの好きな、
テンノウ(実際は???このような人物、どこかの馬の骨)というのがいるでしょ。

『倭の五王』この辺りなども調べてみた?

514 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

515 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

516 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

517 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

518 :
>>488


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

519 :
>>510
>架空の国で、実在しない

畿内脳内説による希望的観測が根拠w

520 :
わかりやすく言うと仏教というのがあるでしょ。
テンノウ(日本の)?
説明しなくてもわかる、デタラメ。

521 :
「倭の五王」などの話、
とあるスレによると『ヌルハチ』とか、
そういう系統なんだろう。と・・・w

522 :
ヌルハチとか、そういうのも、
『中華(漢民族)視点』
(その『王仁』さんとか、なぜか後に日本人になっている?)

523 :
NHKオンデマンドとは、どのような物事なのだろうか。

524 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。

525 :
成り済まし、騙り・・・、
何なのか知らないけど、いい加減に消えろと言っているんだよ。
いままで(近代〜現代になるまで)?
何も知らなかった人々がいる、いたというだけ。

526 :
武漢のP4研究所が人民解放軍に依って爆破解体されたという情報は、真実なのだろうか。。。

527 :
畿内説の幼稚な言葉遊びに付き合うのはもうやめだ
これからは九州説はのびのびこのスレでやっていく
自説の開陳、議論のすりあわせ、真偽の沙汰もろもろは
もちろん、他説の受け入れ、論評、批判もやって
スレを一気に活性化させる

528 :
あと上皇とか、何やらとか、何の話をしているんだ?
さっぱり『❓』?
テレビの話www

529 :
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

.

530 :
テレビなどがあるでしょ、馬の骨の話ばかりしているしw
よくわからない現象ばかり。

531 :
ほんとーの話、数年前のとある。
「私は憧れてなんていません」
このような謎のレス(>>)があったり、何なんだろう。

532 :
小椋佳の曲の話?
『きみは それ以上』

533 :
家の老婆がいるでしょ、
なぜか『渡辺 源氏』と同じ話をしているし。
『ドンバ 仙人』(キュウリのような葉、葱の華w写真)
家が龍宮〜?鳳輿〜、そういう名前。

534 :
>>519
するとお前さんは、女しかいない国「女人国」も実在していたと言うのか。驚きだな
ちなみにこれも経書からの敷衍で創作されている
辺境の方に行けば行くほど女の比率が高くなって、世界の最果てでは女だけになるとされていた
倭人伝の女人国は、要するに世界の果てという意味だ

535 :
畿内説スレだけどあくまで畿内説はギャラリー観客
だってマキムクの話したら逃げ回るんだもん

536 :
九州? 近畿? 最大の謎に挑む シンポジウム「邪馬台国の今」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200306-03496714-saga-l41

537 :
なぜか伊達郡とか、そっちのほうの話もしているし。
あと芸能とか芝居関係の話。

538 :
たしか『旧広瀬座』というところの話、
詳しいことはわからないんだけど、凄い土地を持っていたとかw
何かの家だったのかな?老婆の家(旧姓 渡辺)も保存されていたり。

539 :
>>527
自前のスレでやれ
そもそも九州説が書き込むスレではないのだが

540 :
>>535
纏向の話をしたら逃げるのは九州説だろ

541 :
あの謎のゲームも三姉妹が出てきたり・・・。
家の老婆と同じ、たしか三姉妹の二女。
それとも母親の話なのかな、家の母親も二女だしなw

542 :
武漢のP4研究所が人民解放軍に依って爆破解体されたという情報は、真実なのだろうか。。。

543 :
誰が作ったのか「???」、なぜ知っているのかも『❓』ばかり。

謎の『チェーンソー ゲーム』

544 :
完全に破綻してしまった朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、朝鮮半島で、生物兵器との絶望的な死闘を闘っているのではないのかな。

545 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。

546 :
NHKオンデマンドとは、どのような物事なのだろうか。

547 :
一人相撲九州説

548 :
実際に住んでいるところは、
川崎市の川崎区というところなんだけど、おかしな話ばかり。
(老婆が)嫁に来る前なども、何かの家の人だと言われたとか。
凄い家(龍宮?)に住んでいて、離れがあって・・・。
いま住んでいるところは、本当の家ではないのかな?

549 :
2020/3/6(金) 16:15配信 佐賀新聞
 邪馬台国論争が残る「吉野ケ里遺跡」と「唐古・鍵遺跡」の両面から議論を交わした記念シンポジウム
=佐賀県立美術館ホール=
 邪馬台国はどこにあったのか-。古代史最大の謎に迫るシンポジウム「邪馬台国の今」が2月、
佐賀市の県立美術館で開かれた。九州説と近畿説それぞれの立場から、「吉野ケ里遺跡」と
奈良県の「唐古・鍵遺跡」の発掘を手がけた専門家が語った。

550 :
最近、佐賀新聞はリキが入っているじゃないか。
大いにけっこう、期待して待とう、、、。

551 :
どう考えても家のほうが上wという話ばかり。
中国(むかーしの中華?)

552 :
>>540
何の話でも逃げるよ九州説は

553 :
すっから菅野がまた出てきた

554 :
■内田 現在の邪馬台国論争を整理してほしい。
 高島 今日の邪馬台国論争には三つある。「九州説」、「近畿(畿内)説」、そして九州説から出てきた「東遷説」だ。
日本の考古学は近畿説が主流であり、九州説は傍系的と位置づけられている。
傍系的だってさ

555 :
高島は、もともと畿内説から派遣された間者だからなあ
まあ、其のうち時は流れ、時代も変わるだろう。

556 :
>>502
それは百済菅野だ
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)

557 :
>>504
日本の天皇(すめらみこと)だけど
菅野が日本朝鮮中国で天皇だったことなんかない

558 :
>>507
百済なんかないころからの倭王なんだけど

>言っている人がいたり
意味がない
誰が言っている

559 :
>>509
神話化された後の話はどうでもいい

>それ(日本の神話)以前というのが、中国や朝鮮半島だという話(定説)。
御中主の前なら不明なのは当たり前
中国朝鮮の文献でも出してもらおうか

560 :
下(実際。正確には上なんだけど)とも言える。

あと戦争をしているときの話もしていたしな。

たしか伊達郡というところ(家)に行った、
老婆と誰々は、老婆の家(確実に、あの辺り・・・霞ヶ城とかw)に行ったとか。

561 :
>>513
倭王
朝鮮の王でもなければ菅野でもない
朝鮮は倭の属国

562 :
>>520
日本の天皇は仏教と関係なく存在する

563 :
>>520
>説明しなくてもわかる
説明してみろ

564 :
>>521
>とあるスレによると『ヌルハチ』とか
妄想がどうした 無意味
文献を出せ

565 :
>>525
日本の天皇は外国、仏教と関係なく存在する
菅野ごときが騙りで天皇を乗っ取ろうとしている

566 :
数年前のとあるスレ。

ホンモノ(?)だと言っているだろう、
みたいな謎の書き込みをしている人がいたり。
何の話なんだろう『ドンバ』?

567 :
>>528
何を勘違いしてるのか菅野ごときが
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)
お前菅野の偽物だろう

568 :
>>530
菅野が馬の骨

569 :
>>532
恋愛の歌だということもわからない知恵遅れ

君(天皇)はそれ(菅野)以上

570 :
確実にw
家は戦争などにも行っていないし、老婆の家も、
上の家なのかな?『川俣 軍司』でもないしw

571 :
すっから菅野
何でも家の話で被害額が3000兆円
偽計業務妨害で賠償額が3000兆円

572 :
>>494
>かつてヤフー掲示板の邪馬台国関連のコーナー(トピック)で、
cやmやtやiら罵倒四天王と互角以上に罵倒合戦を繰り広げたzarakokuさんだけあって、
さすがに口が悪いですね

ご忠告有難うございます。
cというのはcyber ekさんですね。
mというのは無党派さんか?mkpoか?でしょうね。
tというのは天誅でしょうね。

>当時は60代の会社経営者だと自称していたと記憶していますが、

少し違いますね。「会社経営者」と言った事ありません。
また、2chでは、「類スレ主」と呼んでいる大和説男が、私のPCに侵入して、
私の電話番号を知ったらしく、PCと電話回線に侵入して壊してしまい?、
NTTに来て貰って、修繕をした事がありました。
だから、Yahooも信用していませんでしたが、2chも信用していません。

>それから十余年を経た現在でもご壮健なようで、なによりです。
そろそろ後期高齢者になりそうですか? <

もう後期高齢です。
しかし、あなたは、Yahoo時代は、何というネームであったんですか?。

573 :
>>538
老婆の家でもお前の家でもない他人の家

574 :
>>541
ゲームと家が同じで喜ぶ知恵遅れ

575 :
>>572
>また、2chでは、「類スレ主」と呼んでいる大和説男が、私のPCに侵入して、
>私の電話番号を知ったらしく、PCと電話回線に侵入して壊してしまい?、
病気

576 :
>>548
貧乏で猫稲荷神社を捨てて出てきた

577 :
>>548
福島に帰った方が
コリアタウンの朝鮮人と張り合う必要もなくなって
歴史を捏造する必要もなくなるぞ

578 :
当時、住んでいた家があったんだけど、
凄い刀(謎の剣?)が飾ってあったとか。
家(龍宮〜)のほうの話。

579 :
>>551
どう考えても菅野が下という話ばかり
お前は百済菅野ではない
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)

580 :
>>545
このての、九州信者による連呼が激しいほど九州説の劣勢に対する焦りが丸見えになるね
そんだけ必死になっても盛り返せてないわけか

581 :
 これらの投稿を見てればわかる話だが
 病気でない九州説など
 いない

582 :
>>497
>会稽東「冶」は現在の福建省福州市の辺りと確認されている
そしてそれとは別にあったと九州説がいう会稽東「治」という地名は確認されていない
福建省福州市の辺りの地名として?「東治」という文字を書いたのは、
宮内庁の書陵部本の作者だよ。
>九州説は会稽東治があったと言うならこの資料にこう書いてあると出典を示せば済む話
昔に中国の九州辺りになる位置にあったと言い張るだけでは何の証拠にもならない
この男は、未だにアホだね。
私は「東治」は地名ではなく「東の治」という普通名詞の合成熟語だ、という解釈だよ。
>証拠を示せなかったら魏志倭人伝に邪馬台国のある場所と書いてある会稽東治の東は
現在の福建省福州市辺りにあった会稽東冶の転写ミスで
その東は沖縄や台湾の辺りという事実は覆らない
ならんよ。

583 :
>>554
近いうちに、熊本日日も乗り出してきて、
肥前佐賀と肥後熊本でコラボが始まるんじゃないかな、それが本来のカタチだよ。そうすれば大きな力になる。

584 :
>>581
このスレの投稿を見れば誰でもキナイコシは基地外だと思うだろw

585 :
>>505
>>>500
>九州北部の端までで1万700里だからそれはないね
>邪馬台国までは少なくともあと南に1300里あると魏志倭人伝には書いている事になる
そうだね。
それは対馬海峡の半分にも満たない距離だ。

586 :
>>566
数年前に一人いただけか
>人がいたり
こればっか 意味がない

587 :
>>499
>けど陳寿は邪馬台国は少なくとも九州北部と思っていなかった事は確か
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、×であるし、
陳寿は不彌國で萬二千余里がほぼ終了する書き方をしているんだから、
「少なくとも九州北部」と思っていた事は確かであり、
更に唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、中国は唐代まで、
「倭國は北部九州にあった」と思っていた、という事も確か。

588 :
>>570
徴兵検査に落ちた
仕事は何をやっていたか言え
渡辺も下だな

589 :
>>578
猫稲荷

590 :
>>503
>学者が誰も認めない九州説 w <
国民の過半数や中国学者らや世界の殆どの学者らが、誰も認めず、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説学者らだけが主張する、
大和説。

591 :
>>560
下以外にない
>老婆の家
二本松の菅原神社の裏だ

592 :
何につけても妄想でしか反論できない畿内説あわれ

593 :
>>509
卵から生まれたり
父親が違ったり
でたらめだろうな 満州

594 :
>>510
>侏儒国は経書から引き写された架空の国で、実在しない<
魏の役人たちが実際に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」をして、
更に「五千余里の陸路の参問」の結果、
四国西岸の南陸行で、足摺付近で侏儒國付近を見聞した記載があるから、実在した。
>もちろん侏儒国を種子島だといってる人は邪馬台国九州説論者だけ<
種子島にも低身長人の発掘があった記録があるが、
足摺の西沖の「沖の島」に、江戸初期まで低身長部族がいて、江戸時代に混血して消えてしまった、
という記録がある。

595 :
>>585
なら魏志倭人伝には邪馬台国は少なくとも九州北部とは書いてない事は認めるんだね

596 :
>>534
>するとお前さんは、女しかいない国「女人国」も実在していたと言うのか。驚きだな
ちなみにこれも経書からの敷衍で創作されている
辺境の方に行けば行くほど女の比率が高くなって、世界<
倭人伝には「女國」なんて書かれていないよ。
「女國」が書かれているのは、梁書だよ。

597 :
霞ヶ城(二本松?)、
どこかの石垣の前で撮影した(写真?)もあったような。
老婆の若い頃だから、確実に昭和の初期の頃w

598 :
それにしても、キュウリのような葉、葱の華・・・w
(老婆も生まれていない)むかーしの写真だと言っているし、有名人なのかな?

なぜ知っている人がいるんだろう。

599 :
>>540
>纏向の話をしたら逃げるのは九州説だろ<
九州説は逃げないよ。
纏向は、九州倭国の別種の旧小国であり、地方の市を監督する大倭職を置き、
更に九州倭国の「東征毛人五十五国」で在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を征服して、
生口や守墓人にして巨大墓を造らせたんだよ。

600 :
>>547
>一人相撲九州説

国民の7割や、中国学者らや世界の学者らから見放されて、
一人相撲の大和説者

601 :
>>552
>何の話でも逃げるよ九州説は

「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説者は、
史料事実や史料実態を示してやると、
何の話でも逃げるよ、大和説者は

602 :
>>599
逃げてるじゃねーか

603 :
>>580
このての、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの大和説信者による、
連呼が激しいほど、大和説の劣勢に対する焦りが丸見えになるね
そんだけ必死になっても盛り返せてないわけか

604 :
>>581
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの投稿のような、
これらの投稿を見てればわかる話だが
 病気でない大和説など
 いない

605 :
小手子の像とか、そういうモノも無かった。
話自体、悪く言うと、家のパクリだろう。
家の話なのかな?・・・老婆談とも同じようなw

606 :
『姥清水』
漫画などのキャラの話でしょ、
元ネタ(モデルとされる家とか、人物w)。

607 :
『311 放射能』(大震災)なぜだと思う?
ほとんど、
人の家(他人、お前の家ではないという意味)の話だからなんだろう。

608 :
漫画やアニメ・・・ゲームなども、
人権侵害のようなモノばかりだしな。
そういう、やり方なのかも知れないけど、
わかりやすく言うと、ただのクズ、チンピラ。

609 :
例えば『ドンバ』wでも何でも良いんだけど、
老婆が言うには、たしか嫁だったかな?と言っているし。
ドンバと一緒にいるキャラ(サカナのような)がいるでしょ、
あの写真で言うと、龍宮(竿〜『鳳輿』)〜の家の?

610 :
漫画などの設定はわからないけど。
ドンバの家の妹なのかな?

611 :
設定などを調べてみた?
『ドンバ』〜『菅野力夫』

お前の家の話ではないだろう?

612 :
損害賠償(いろいろな侵害を含め)など・・・、
もう5000兆円で良いと言っているのに。

613 :
右翼の大物・・・?何なのか知らないけど、
チンピラだろうと言っているだけ、それに、お前のことなんて知らないし。

614 :
成り済まし、騙り・・・など、
いろいろwいると思うんだけど。
たしか家は、
そういうチンピラとの付き合いはないし。

615 :
数年前のとあるスレなどw

ホンモノだと言っているんだよ。
みたいな事を言っている人がいたりしたでしょ。


確実に家のことだろう、あの写真とか。

616 :
殺しても良いぞ
(人の家に寄生、成り済ましなどの話)と言っている人もいたり。

617 :
返せないだろうと言っているだけ、
漫画やアニメ、ゲーム・・・その他、侵害などを含めた金額。

618 :
誰々の家の話(家の話だろうw)。

いま、どこに住んでいるの?
みたいな書き込みをしている人もいたしな・・・w


「川崎に住んでいるんでしょ」(神奈川県の)。
「むかーし(いまの)福島県のほうの〜」何やらとか。

619 :
返せないだろうと言っているんだよw
もう3000兆円くらいで良いと言っているのに。

よくわからない創作キャラ(仮名)などがいるでしょ、
侵害など・・・・すべて含め。

620 :
『天王宮 山王院 菅野』
ほとんど同じような話ばかり。

『天財若子』
調べてみると、なぜか小野〜も出てきたり。

あと菅原某、神社などの話とか。

621 :
『福島 民家園』
むかーしの何かの家なのかな?

622 :
山の上のほうに住んでいて〜・・・、
ほとんど合っているような?


老婆談。

623 :
水道・・・水、井戸の話をしている人もいるし。
『ドンバ』?『姥清水』?

624 :
とあるスレの話。
家(老婆の旧姓ワタナベ)のことではないんだけど、
渡辺陛下 渡辺陛下と言っている人もいたり。
むかーしの皇族?

625 :
それと老婆談(旧姓ワタナベ)w
なぜ家のほうが上だと言っているんだと思う?
『鳳輿』このような名前の家なんだけど。

626 :
例えばワタナベという家の話、
上の名前が同じだというだけなんだろう。

(老婆談のような)
保存されたりしている家ではないとか?

627 :
テレビなどに出てくるテンノウ(不明)など?
老婆は知らないね・・・と言っているし。

628 :
その前もwww平成、昭和・・・?
知らないね・・・みたいな話、なぜだと思う?

629 :
あと『河童 平氏』
このような話もあるし。

630 :
また九州説は徹夜で発狂してたのか

631 :
>>630
つふやきのことかだろう
特徴はね、
1.空気読めないが、テンプレ作成中は、投稿しない。
2.レスが進んでる時は、あまり投稿しない。
3.24時間、居着いている。
4.議論についていけないと、その議論の邪魔をする

632 :
倭国とは、
日本で唯一、後追いで「倭大國魂・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。   @阿波

633 :
>>631
>特徴はね、
>1.空気読めないが、テンプレ作成中は、投稿しない。
うそ
構わず荒らし投稿している
九州爺はウソばかりつく人ばかりだ

634 :
南に黒潮流れる温暖な海が無く、東にも海が無いようなところに「邪馬臺国」など興るわけがない。   @阿波

635 :
やはり、今朝も、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏が、完全に論破されてしまっているな。

636 :
完全に破綻してしまった朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、朝鮮半島で、生物兵器との絶望的な死闘を闘っているのではないのかな。

637 :
>>631 は奥山が呟きだとか誰も信じないデマをしつこく流してる九州説のバカだな
まあ>>631 が十中八九呟き本人なんだろうが

638 :
大和朝廷の前に筑紫朝廷があったと言う話

639 :
上陸してから二千余里
対馬海峡より狭いな

640 :
二千里を南南東だ
北部九州=福岡? 畿内?

641 :
完全に破綻してしまった朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、朝鮮半島で、生物兵器との絶望的な死闘を闘い、2ちゃんねるでは、夜中に訳の分からない物事を呟くのだったね。

642 :
>>639
>上陸してから二千里
そもそも、これが間違いの元!   @阿波

643 :
>>641
ほらほら、呟き荒らしが自白しちゃってるよ
お前って1の名を騙って幾つもニセスレ立ててる狂人だろ

644 :
>>641
貴方は、誰もが知っている真実を発表してしまいましたね。

645 :
八村塁氏は、何かを遠慮しているのだろうか。

646 :
>>638
>大和朝廷の前に筑紫朝廷があったと言う話
実は公式の日本史である日本書紀も、大和の前の王都は筑紫としている。
天孫が豊葦原中国の王となるために降臨した王都が筑紫の日向。

647 :
>>604


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

648 :
>>604


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

649 :
>>604


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

650 :
>>604


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

651 :
>>604


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

652 :
>>604


で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

653 :
>>604

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

654 :
九州説は出自が朝鮮だから畿内説を朝鮮と罵る

655 :
>>633
>>631はつぶやきの特徴を見事に描写しているな
実はお前がつぶやきなんだろwww

656 :
畿内説が不利になると呟きが始まるんだよ。

657 :
>>655と>>656は呟き荒らし本人だな
焦っちゃって
w

658 :
>>646
つまり筑紫は東から来た天孫によって併合された

659 :
上陸してから二千余里
対馬海峡より狭いな !

660 :
>>656
それなら呟きの正体は九州説だな
畿内説が不利になる事などないのだから

661 :
>>659
万二千余里から先が旁國を合わせた女王国

662 :
>>658
天孫の曾祖父(イザナギ)さんも筑紫にいたよ。

663 :
神武が「東征」してようやく大和が歴史に登場する。
それまでの記紀の舞台は筑紫と出雲ばかり。

664 :
>>145
>誰も劉備が短里を使っていただなんて言ってないっての
>それで反論したつもり?
ザラゴキをはじめとして、古田史学では三国志は全部短里だという主張だよww
>>145はまずザラゴキを否定しないとなww

665 :
>>663
「橘」や「楠」が自生しない筑紫や出雲は論外!  わははははは   @阿波

666 :
.

◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

.

667 :
>>146
このコピペもいい加減シツコイ
単に漢土の外のことはより遠くに書くというバイアスがかかっているだけ
なぜなら、より遠くまで中華皇帝の徳が行き渡っていることになるから、という
単純で合理的な説明ができる
短里は不合理で矛盾しか残らない
https://imgur.com/ihiyGSO

668 :
>>154
それ、連続句読点w
投稿数は連続句読点が最多だよ

669 :
>>662
イザナギは黄泉の国へ行ったので穢れを清めるために筑紫で禊ぎをしただけ

670 :
>>160
>短里ではなく倭里だろうな

里を含め度量衡の公定は皇帝の専権事項
倭独自の単位があったとしても、その長さに何の注釈もなく皇帝欽定の里と
いう単位を流用するのは魏の官人には無理だよ

それは皇帝権力、権威の否定になるからね

671 :
>>191
>「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、
短里以上に短歩はない
歩は最初から複歩の長さ

672 :
>>198
>崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
九州説でこれを繰り返しコピペするやつがいるが、これは
短里という決まった長さが存在しないこと
短里で計測した正しい数値など存在しないこと
の証拠でしかないんだが?ww
九州説は自らの根拠の基盤を重機で掘り崩すのが得意ww

673 :
スレッドのタイトルと名前を間違えた阿呆が出現しているスレはここですか?

674 :
>>673
>スレッドのタイトルと名前を間違えた阿呆が出現しているスレはここですか?
はい、その通りです
このスレのことですよね?↓↓↓↓↓↓↓
ttps://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1567755289/
あまりにもバカすぎて涙が出てきますねw

675 :
>>210
>天然地形を利用する時代なんだから呼子上陸が現実的だぞ
喫水の深い大型船の時代じゃないんだから、天然地形を言うなら松浦川河口の潟湖こそ
天然の良港だよ
呼子近辺にクニを思わせる遺跡はないし、銅鏡100枚を含む大荷物を運ぶのには
極力海上輸送を使うのが合理的
呼子が末盧国というのは東南を説明するためのでっち上げでしかないし、
呼子にしてなお東南にならないところが九州説の残念なところwwwww
https://imgur.com/POHiSA8

676 :
福沢諭吉「朝鮮人は救いようのない最低の民族だ」
新井白石「朝鮮人は都合が悪くなると平気でウソをつく」
津田梅子の手紙より「動物の方がこのような汚い朝鮮人よりましだ」
夏目漱石「余は朝鮮人に生まれなくて良かった」
伊藤博文「ウソつき朝鮮人とは関わってはならない」

677 :
>>263
先代旧事本紀は聖徳太子に仮託した物部氏の私撰史書
国造本紀の史料価値は十分にある
ニギハヤヒやウマシマジが実在の歴史とか言いだしたらトンデモにしかならないけれど

678 :
>>290
>弥生中期の男性人骨 甕棺に1体分 / 熊本
甕棺墓でも中の人骨は溶けてなくなっているものが大半だよ

679 :
>>299
>奈良盆地の鉄器類はすっかり溶けてなくなっちまったのだな
土壌水分と直接接触しない等の条件が揃ったところの鉄は残っているよ?
そうでないものは奈良盆地でなくても溶ける

680 :
>>306
><倭國条> 〜631年
>「倭國者,古倭奴國也。」(倭国はいにしえの倭奴国である。) 
その631年までの記録の倭の使者も大和朝廷の貴族で、
日本側の記録とも対応が取れているんだが?

681 :
>>674
九州説はあまりに畿内説に勝てなさ過ぎて
もはやどうでもいいようなケチしかつけられなくなったのかな

682 :
>>309
>「なくなる」という方が嘘だとは思わないか?
実際になくなってるだろ?
古来の鉄が全部残ってたら、そこら中鉄だらけだww

683 :
>>331
>末盧國の出発時点や途中では、伊都国が全く見えないのだから、
南東が出発方向だと言うためにザラゴキ説では出発地点は唐津港付近なんだが、
唐津港から可也山は見えるんだよなww
https://imgur.com/NfjPIhP

684 :
>>336
>江戸時代になってから、全10巻もの古代の歴史書を一からでっちあげるなんて考え難い。
江戸時代に書かれたのは旧事本紀大成経
これは伊勢外宮の宮司家の渡会氏の手によるもの
ここで言う旧事本紀は先代旧事本紀十巻本と呼ばれるもので9世紀成立とされている

685 :
>>682
残ってる鉄の残量の比較で
各地の実際あったであろう鉄の量の比較はできる

686 :
>>366-381
全部連続句読点

687 :
>>382
>「径」を使うのは「短い距離」の時だ、
100里とかに比べて短い距離の時にしか使わないなww

688 :
難波から巻向まで1月かかったという根拠 まだ提示できない畿内説

689 :
税金から捻出されている貴重な科研費がキナイコシみたいな畿内説のアホどもに投入されているのかと思うと本当に腹立つな
こいつは科研費で買ったパソコンを使って、連日朝から晩まで2chで工作活動を行い、
しかも税金を払っている日本国民への罵倒を繰り返している。実にいいご身分だな
キナイコシをはじめとする畿内説の連中は税金で研究させていただいていることにもっと感謝の念を持つべきじゃないのか?
現状ではこいつらは日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニ、日本国民の敵、反社会勢力と言わざるを得ない
ひょっとしたら学会や所属施設もキナイコシが2chを荒らしまくっているのを見て見ぬふりして容認しているんじゃないか?
だとしたら大問題だぞ?
あ、そっか。キナイコシ無職だから、所属施設あるわけないかwww

690 :
根拠 使節饗応の宴

691 :
福岡から久留米まで1月かかったという根拠 まだ提示できない九州説.。

692 :
>>482
>理由を聞いても納得しなきゃキナイコシはどうすればいいのか
理由が書いてないもしくは理由になってないと言われているのにww
「僕ちんの書いたことは根拠がなくても理由なんだい」
「分からないなんて言うのはお前だけだぞ」
九州説のやっているのはこういうことww

693 :
>>670
>里を含め度量衡の公定は皇帝の専権事項
>>いう単位を流用するのは魏の官人には無理だよ
度量衡の公定は皇帝の専権事項といっても、
それは中華帝国の中のみのお話だよ。蛮夷族がすむ東夷や倭地はけがらわしい国外だから適用されない。そこんとこ勘違いするなよ。

694 :
>>691
>福岡から久留米まで1月かかったという根拠 まだ提示できない九州説.。
そうだな、そういうあやしい北部九州説もたくさんあるな。

695 :
>>500
>対馬海峡三千里を渡ってから二千里足らずのところが邪馬台国だと思っていたのだから、
短里なんていう捏造を信奉しているから認識が歪んでいるんだよw
中華の感覚で二千里は遙か彼方だ
それこそ2ケ月かけて行くような距離だぞww

696 :
オレ様が納得しなけりゃ、根拠にも理由にも説明にもならん・・、下がり居れ下郎。
これが、いつも頭と鼻の高〜〜〜い畿内説。

697 :
アニメ 「母をたずねて三千里」 は感動する。

698 :
>>519
>畿内脳内説による希望的観測が根拠w

人長三四尺のところなんて地球上のどこにもないだろ?ww
架空に決まってるw

黒歯国も裸國も淮南子等からの引用だし、この辺を日本周辺の実在国だと
考えるやつは知能が足りない

699 :
>>685
単純な比例計算だが、キナイコシは理解できない

700 :
>>527
>これからは九州説はのびのびこのスレでやっていく

九州説スレを立てろよww

701 :
>>555
>高島は、もともと畿内説から派遣された間者だからなあ

高島先生は吉野ヶ里の発掘責任者みたいなものだから、
吉野ヶ里の人気が落ちることは立場上言えないってだけ

「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」って言葉が
一人歩きした責任を背負わされているようなところもあるし

702 :
古代九州にはエラ族と細目族が住んでいました。それらは土蜘蛛と呼ばれていました。

703 :
悪口では畿内説はひっくり返らないよ

704 :
>>699
>単純な比例計算だが、キナイコシは理解できない
単純だからダメだと
なんで理解できないんだろう

705 :
>>596
>倭人伝には「女國」なんて書かれていないよ。
>「女國」が書かれているのは、梁書だよ。
その代わりとして、三国志では女王國連呼なんだよ

706 :
>>637
>まあ>>631 が十中八九呟き本人なんだろうが
つぶやきは>>631程度ですら意味のある文は書かないよ

707 :
>>662
>天孫の曾祖父(イザナギ)さんも筑紫にいたよ。
でもそのイザナギさんの墓は九州にないんだよなww
つまりイザナギさんの時代も大国主の時代も卑弥呼の時代も、
倭人は日本列島中を行ったり来たりしてるんだよ
九州世油が固執する九州だけが倭国ってのは、成立する余地が最初からない

708 :
>>685
>残ってる鉄の残量の比較で
>各地の実際あったであろう鉄の量の比較はできる
できません
なぜなら、
溶ける速度は一定ではないし
残る場合というのが基本的に特殊例だから
いずれにしても、弥生後期(畿内第V様式)の時点で大量の矢板を作れたことが確認できる以上
「畿内に鉄がなかった」というのは九州説が惨めに必死にしがみついているが
すでに間違いだと確認された古い説だと言うだけ

709 :
>>688
>難波から巻向まで1月かかったという根拠 まだ提示できない畿内説
ここのテンプレは丹波を軽視しているけれど、古墳時代初期の丹波の充実を見れば
丹波竹野までが水行でそこから陸行1月というのが合理的

710 :
>>669
黄泉の国から帰ってきて、禊をしたのが筑紫。

711 :
>>693
>それは中華帝国の中のみのお話だよ。蛮夷族がすむ東夷や倭地はけがらわしい国外だから適用されない。そこんとこ勘違いするなよ。
三国志はその中華帝国の中で読まれること以外は想定されていないことを忘れるなよ?ww
そして、九州説の設定では、魏皇帝の使者である建中校尉の梯儁さんや塞曹掾史の張政さんの
記録が短里だったことになってるんだろ?
建中校尉や塞曹掾史が、魏皇帝の欽定単位を勝手に蕃夷の単位に
当てはめちゃダメだって理解できるか?
魏朝への報告書の中で、魏皇帝の権威を蔑ろにした記述はできないよな?
そこんところ、話をずらすなよww

712 :
>>677
トンデモだという理由はない。
実際、ヤマト王権では饒速日の末裔である物部氏が権力を持っていたが、その理由として饒速日がアマテラスの孫であったからというのは無理ないこと。

713 :
>>682
もともとなかったんだよ。

714 :
>>691
>福岡から久留米まで1月かかったという根拠 まだ提示できない九州説.。
1日の誤記だろう。
魏志倭人伝で唯一の誤記。

715 :
>>696
>オレ様が納得しなけりゃ、根拠にも理由にも説明にもならん・・、下がり居れ下郎。
>これが、いつも頭と鼻の高〜〜〜い畿内説。
そういうのはいいから、循環参照ではない根拠と
主観以外の客観的な論証を示せばいいんだよ?
それができないから九州説はバカにされる

716 :
>>664
>ザラゴキをはじめとして、古田史学では三国志は全部短里だという主張だよww <
これ×ね。
陳寿も、原則として、採取資料事実通りに三国志を記述しており、
後漢代資料や上表文や蜀や呉の里情報には、始皇帝里(長里)がいくらでも有り得、
魏代の記録や陳寿の地の文では、殆どが魏朝里(周里、短里)の記載になっている。

717 :
>>699
>単純な比例計算だが、キナイコシは理解できない
測量もしていないし縮尺も定義されないのに、単純な比例計算ができると考えるやつがバカ
https://imgur.com/S4YwM8M
これのどこに比例計算が適用できる基盤があると言えるのかww

718 :
>>710
筑紫(島)は神社の手水舎みたいなもんだな

719 :
>>713
>もともとなかったんだよ。
それは通らない
なぜなら北部九州でもそこら中鉄だらけではなく、鉄の絶対多数は溶けているのだから

720 :
>>715
>そういうのはいいから、循環参照ではない根拠と
>主観以外の客観的な論証を示せばいいんだよ?
その客観的な論証を、畿内説の主観で判定するからなあ、、、。

721 :
>>714
>1日の誤記だろう。
>魏志倭人伝で唯一の誤記。
一日だったらわざわざ書かないと何度言えばww
一日の距離なら着いた海岸もその国だろ?w

722 :
>>707
>九州世油が固執する九州だけが倭国ってのは、成立する余地が最初からない
後漢書がそうなっているからしょうがない。
一番早く弥生時代に突入した博多湾沿岸がそのまま倭を代表していたんだろう。
たまに出雲の方が勢力を持つと潰しに行ったりしたんだろうね。

723 :
>>711
>建中校尉や塞曹掾史が、魏皇帝の欽定単位を勝手に蕃夷の単位に
>当てはめちゃダメだって理解できるか?
単位がすり替わったことに気がつかなかったんじゃないかな。

724 :
>>711
>三国志はその中華帝国の中で読まれること以外は想定されていないことを忘れるなよ?ww
だからよ、その中華帝国の中で読む人たちが、
ガハハ、こいつ古臭い短い里で書いてやがるわ・・、と軽蔑しつつ、優越感に浸りながら読んだんだよ。そこんとこ間違えるな。

725 :
>>719
九州北部は鉄だらけだよ?

726 :
>>721
>一日の距離なら着いた海岸もその国だろ?w
意味不明

727 :
>>716
>魏代の記録や陳寿の地の文では、殆どが魏朝里(周里、短里)の記載になっている。
九州説にはバカしかいない
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

728 :
>>722
北部九州の甕棺首狩族はど没落した
全羅南道では5世紀くらいまで存続する

729 :
>>720
>その客観的な論証を、畿内説の主観で判定するからなあ、、、。
そういう戯れ言は客観的な論証を具体的に示してからだと何度言えば?ww
「客観的で具体的な論証」から逃げ回る九州説ww

730 :
>>724
書いたのは陳寿

731 :
>>727日本@名無史さん2020/03/07(土) 16:03:19.27
畿内説にはアホしかいない ↓
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

732 :
>>725
>九州北部は鉄だらけだよ?
そうじゃないだろ?
かつて使われた鉄の総量と出土する鉄の量はまったく異なるし、その差分は溶けてるんだよ
北部九州でも鉄の絶対多数は溶けている

733 :
>>728
それが天孫族の夜逃げだろ。
なぜか大和では甕棺を作らなくなったらしいが。
居候先の饒速日の前方後円墳を受け入れたのだろうね。
そして甕棺天孫族が没落した後の筑紫に卑弥呼が共立された。
何もかもぴったり付合する。

734 :
邪馬台国について高い見識のお持ちのキナイコシ先生はどこかの有名大学の教授をしておられるものと思っていたが、まさか無職だったとは・・・
ビックリですね

735 :
>>732
それでも九州で鉄がたくさん出るのは、九州が鉄だらけだったということだよ。

736 :
>>730
読み違えとるな。↓こういう意味だ。

だからよ、その中華帝国の中で読む人たちが、
ガハハ、ここの韓倭の部分は、古臭い短里で書いてやがるわ・・、と軽蔑しつつ、優越感に浸りながら読んだんだよ。そこんとこ間違えるな。

737 :
>>667
>単に漢土の外のことはより遠くに書くというバイアスがかかっているだけ
なぜなら、より遠くまで中華皇帝の徳が行き渡っていることになるから、という
単純で合理的な説明ができる<

バイアス論では、例えば、魏の役人らにとっては、
楽浪郡や帯方郡があって、韓の大きさが殆ど周知のなっているのに、
それを「方四千里」というように、
漢や魏の大きさに匹敵するような巨大の大きさに記載する、というような事が起こり得ないし、
狗邪韓國までの七千余里や海峡幅の三千余里も、
韓の方四千里に比率がほぼ一致するような記述になる事が有り得ないから、
やはり×。

類スレ主のバイアス論は不合理で矛盾しか残らない

738 :
>>722
>後漢書がそうなっているからしょうがない。

そうなってないよ
倭で地名が出ているのが九州というだけ
帥升の国が吉野ヶ里というのはありうるが

>一番早く弥生時代に突入した博多湾沿岸がそのまま倭を代表していたんだろう。

最初の稲作遺跡がどこだと思ってるんだ?
唐津は博多湾岸じゃないぞw

>たまに出雲の方が勢力を持つと潰しに行ったりしたんだろうね。

ただの主観ですね
最古の硯は出雲だぞw

739 :
>>733

天孫族は出雲の大国主に国譲らせて
筑紫島の中央に降臨した

740 :
>>723
>単位がすり替わったことに気がつかなかったんじゃないかな。

すり替わるって何だ?

魏使が魏朝への報告で書かない限り、三国志に記載されるはずがない
そして魏使が魏皇帝欽定以外の単位を使う理由がどこにもない

ゆえに魏使が倭の距離を短里で書いたという九州説の考え方は根本から間違っている

741 :
古代日本に日本民族の大移動などと言う珍事は起こらなかった。

742 :
>>736

お前の作り話

743 :
>>670
>>短里ではなく倭里だろうな<
>里を含め度量衡の公定は皇帝の専権事項
倭独自の単位があったとしても、その長さに何の注釈もなく皇帝欽定の里と
いう単位を流用するのは魏の官人には無理だよ<
「夷人不知里數、但計以日」であり、一般倭人はおそらく「里」を知らず、
原則は「(所要)日数」を使用をしていた。
しかし、卑弥呼や魏の臣下になった難升米らは、「里」を使わないまでも、
「里」を知っていなければ 魏の臣下が務まらないから、「里」を知っていた可能性はある。

744 :
>>724
>だからよ、その中華帝国の中で読む人たちが、
>ガハハ、こいつ古臭い短い里で書いてやがるわ・・、と
>軽蔑しつつ、優越感に浸りながら読んだんだよ。そこんとこ間違えるな。
こいつ、古臭い短里という捏造をいまだに信じてやがるわ
と軽蔑してるのは事実だけどさw
中華帝国の中の人は倭國のことなんて知らないし、それが古臭い短い里だと考える道里がない
秦の始皇帝の度量衡の統一からすでに400年以上経っていて、
その長さ以外の里を知っている人もどこにもいない
「古臭い短い里」などと考える人間は、そもそも3世紀世界のどこにもいないんだよ
九州説は短里ありきで初めて成り立つ説だが、短里があったというのは最初から間違っている
そこんところからお前は間違いだ

745 :
>>726
>意味不明
お前の理解力が不足しているだけだよ
旅程で一日だけの表記などどこにもない

746 :
>>731
>畿内説にはアホしかいない ↓
その矢印の先は九州説の主張なんだが?

747 :
>>735
倭人伝の時代に使われた鉄器は3世紀後半に副葬、遺棄された鉄器

748 :
>>671
>>「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、 <
>短里以上に短歩はない<
里があれば、1里=300歩に拠って、歩もあった。
>歩は最初から複歩の長さ<
歩は最初から「成人男子の1足底長」。

749 :
>>733
>それが天孫族の夜逃げだろ。
>なぜか大和では甕棺を作らなくなったらしいが。
>居候先の饒速日の前方後円墳を受け入れたのだろうね。
>そして甕棺天孫族が没落した後の筑紫に卑弥呼が共立された。
>何もかもぴったり付合する。
時系列って言葉、知ってる?
神武(が実在だとしても)が来たときに畿内に前方後円墳なんてない
甕棺墓が衰退するのは、卑弥呼の共立より100年くらい前
何もかもデタラメじゃないかww

750 :
>>735
>それでも九州で鉄がたくさん出るのは、九州が鉄だらけだったということだよ。
違うよ
多く残っているのは、多く使っていたからではなく
「鉄が残る環境が多くあった」というだけ

751 :
>>672
>>崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
>九州説でこれを繰り返しコピペするやつがいるが、これは
短里という決まった長さが存在しないこと
九州説でこれを繰り返しコピペするやつがいるが、これは
短里で計測した正しい数値など存在しないこと の証拠でしかないんだが?ww
九州説は自らの根拠の基盤を重機で掘り崩すのが得意ww
これは、大和でも、崇神から書紀まで、大和倭人は長里を使っておらず、
短里で計測していた、ということの証拠でしかない

752 :
>>675
>>天然地形を利用する時代なんだから呼子上陸が現実的だぞ
>喫水の深い大型船の時代じゃないんだから、天然地形を言うなら松浦川河口の潟湖こそ
天然の良港だよ <
唐津市の北側の陸繋島の内側の「唐津港」が、安全で適切。

753 :
楽浪土器の出土や地形からして
実際は糸島の伊都国に行くのは舟だから
倭人伝の行程は地形を説明するためと考えたほうがいい

754 :
>>691
難波から巻向は諦めたようだなww

755 :
>>704
またまた、奈良は鉄が溶けやすいとでもいうのかねww

756 :
>>708
鉄の多寡を言ってるんだよ
奈良が鉄の溶ける速度が速いと言う根拠は?

757 :
>>708
大量の矢板って何枚見つかってんの?
鉄で磨いたと言う根拠も希薄
また、鉄で磨いたとしても鉄が無い
矢板は外部から持ち込んだかもね(@阿波は阿波からと言っていたな)

いずれにせよ鉄の出土が少ない
鉄の量は文化程度の表れとういう人もいたなww

758 :
>>684
>これは伊勢外宮の宮司家の渡会氏の手によるもの

その伊勢外宮の宮司家の渡会氏が、忌部の末裔なんだがw  わははははは   @阿波

759 :
>>709
距離的にそんなにかからない
魏の使いは2往復してるしその距離で毎回1月もかからない

テンプレでも日本海ルートは否定されている

760 :
>>725
>九州北部は鉄だらけだよ?

九州北部は倭国(阿波)による被鉄器供給地域だよ?  わははははは   @阿波

761 :
>>680
>><倭國条> 〜631年
「倭國者,古倭奴國也。」(倭国はいにしえの倭奴国である。) 

>その631年までの記録の倭の使者も大和朝廷の貴族で、
日本側の記録とも対応が取れているんだが?

違うね。
唐側の記録は、(隋と「此後遂絶」した)九州倭国の、
(旧唐書の)再国交の模索の貞観五年(631年)の、
「遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢」があったが、
しかし、(唐会要の)、
貞觀十五年十一月使至。太宗矜其路遠遣高表仁持節撫之。表仁浮海數月方至。
・・・表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。由是復絶。
で、また巧くいかなかった。

しかし大和日本國とは、(書紀や延喜講記に拠れば)
唐の(616年頃の)武徳中に、裴世清の大和渡来があったようで、
大和日本國の国号や存在が唐に認知承認されたの。

762 :
>>717
3世紀の鉄の残量が10%とした場合
鉄が10個出土すれば実際は100個あった
鉄が1個出土すれば実際は10個あった

こんな簡単な比例計算もできないのかね

あんたも畿内は鉄が溶けやすいとでもいううんか

763 :
>>681
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言の大和説は
「南≠東」などで、あまりに九州説に勝てなさ過ぎて
もはやどうでもいいようなケチしかつけられなくなったのかな

764 :
>>727
奥山は信用してないから、読まないよ

765 :
>>764
信用してない理由は?

766 :
>>750
奈良は鉄が残る環境が悪いと言う証拠は?
福岡の方が溶けやすいと思うよ
海岸近くの錆びやすいのは常識
沖縄ほどでは無いがね
(沖縄の車が錆び止めが必要なの知ってるだろ)

767 :
>>765
君が奥山なら答えてやるよ
コテつけて、もう一度質問してご覧

768 :
健康病院入ってます? もちろん

769 :
>>766
逃げ回る九州説
w

770 :
>>683
>>末盧國の出発時点や途中では、伊都国が全く見えないのだから、
>南東が出発方向だと言うためにザラゴキ説では出発地点は唐津港付近なんだが、
唐津港から可也山は見えるんだよなww・・・<
唐津港は到着地であり、出発地は、唐津の町外れの唐津駅付近。
また、伊都国の方向は、その町並みが見えていなければ全く判らないのであり、
可也山が見えたって、何の足しにもならず、
まして山越えでは全く見えず、五百里もあれば、町並みも全く見えない。
伊都国→奴國の百里(7.5km位)なら、町並みが見えた可能性がある。

771 :
>>769
イミフ
鉄の残る環境について、彼は投稿してる
あんたの考える環境を投稿すべき

772 :
>>763
ザラコクが九州説にウン十年かけて到達した境地がこれ

773 :
>>692
理由が書いてないもしくは理由になってないと言われているのに
「僕ちんの書いたことは根拠がなくても理由なんだい」
「分からないなんて言うのはお前だけだぞ」
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説のやっているのは、
こういうこと

774 :
ザラコクが九州説に人生をかけて到達した境地が
2chの掲示板でオウムのモノマネとは
親もさぞや嘆いていることだろう

775 :
>>694
>福岡から久留米まで1月かかったという根拠 まだ提示できない九州説.。
そうだな、そういうあやしい北部九州説もたくさんあるな。

それ間違い。
古田説は、邪馬壹國は「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」説。
女王国は、「ほぼ九州島付近」説。

776 :
>>759
>テンプレでも日本海ルートは否定されている
いや、ちゃんと両論併記してるな
押しではないようだが

777 :
現在 箸墓は卑弥呼の墓と断定してる
著名な学者いるのかね?
できれば、有名大学の教授がいいのだが

778 :
>>695
>>対馬海峡三千里を渡ってから二千里足らずのところが邪馬台国だと思っていたのだから、

>短里なんていう捏造を信奉しているから認識が歪んでいるんだよw
中華の感覚で二千里は遙か彼方だ それこそ2ケ月かけて行くような距離だぞww<

これも間違い。
「二千里」は、の「方四千里」の韓の一辺の半分位の距離であり、
海峡の渡海部分の三千余里の3分の2位の距離だ。

779 :
>>698
>人長三四尺のところなんて地球上のどこにもないだろ?ww
架空に決まってるw <

ピグミーやホッテントットやネグルトや白木実?。
人類の血の中には、人長三四尺の遺伝子群が存在している。

>黒歯国も裸國も淮南子等からの引用だし、<

いや、侏儒國付近まで行った時に、
「又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」と伝え聞いた情報。

>この辺を日本周辺の実在国だと考えるやつは知能が足りない <

いや侏儒國付近から「東南、船行一年可至」と聞いた。

780 :
>>702
>古代九州にはエラ族と細目族が住んでいました。それらは土蜘蛛と呼ばれていました。

縄文期〜古代の列島には、毛人や蝦夷やアイヌや碧眼紅毛人らが住んでいました。

781 :
>>705
>>倭人伝には「女國」なんて書かれていないよ。
「女國」が書かれているのは、梁書だよ。

>その代わりとして、三国志では女王國連呼なんだよ<

「女國」は、おそらく、
(平安時代の絵巻物に描かれた)白人や鮮卑系の紅毛碧眼の蝦夷の人々だよ。

782 :
今日も、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏が、完全に論破されているな。

783 :
>>707
>つまりイザナギさんの時代も大国主の時代も卑弥呼の時代も、
倭人は日本列島中を行ったり来たりしているんだよ
倭人は、唐会要倭國伝の「正北抵新羅」に拠って、ほぼ北部九州にいたのであり、
そこから、「東征毛人五十五國」をしたのだよ。

784 :
畿内説と朝鮮民族運動がどう繋がるのか
やはり脳がスポンジ状の九州説

785 :
>>708
>>残ってる鉄の残量の比較で
各地の実際あったであろう鉄の量の比較はできる
>できません なぜなら、 溶ける速度は一定ではないし
残る場合というのが基本的に特殊例だから <
西日本の中央構造線の北側は、古い深成岩の隆起や断層があった地域が中心であり、
それが風化し河川などに流されて堆積した地に人々が住んでいたのであるから、
特殊例なんてあまりない。

786 :
>>772
でもさ 3世紀に畿内なんてないと思うよ

787 :
>>709
>ここのテンプレは丹波を軽視しているけれど、古墳時代初期の丹波の充実を見れば
丹波竹野までが水行でそこから陸行1月というのが合理的 ここのテンプレは丹波を軽視しているけれど、古墳時代初期の丹波の充実を見れば
丹波竹野までが水行でそこから陸行1月というのが合理的
「南≠東北」などに拠って、×。

788 :
>>786
思う理由は?

789 :
>>711
>三国志はその中華帝国の中で読まれること以外は想定されていないことを忘れるなよ?ww
そして、九州説の設定では、魏皇帝の使者である建中校尉の梯儁さんや塞曹掾史の張政さんの
記録が短里だったことになってるんだろ?
建中校尉や塞曹掾史が、魏皇帝の欽定単位を勝手に蕃夷の単位に
当てはめちゃダメだって理解できるか?
魏朝への報告書の中で、魏皇帝の権威を蔑ろにした記述はできないよな?
そこんところ、話をずらすなよww <
建中校尉や塞曹掾史やその部下の魏の役人らは、
魏朝への報告書の中では、魏皇帝の命令した「里」での記録をしなければならない、
という事は蔑ろに出来ないよな。
そこんところ、話をずらすなよな。

790 :
>>782
そうだね。
今日も、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏が、完全に論破されてしまっているね。

791 :
>>776
テンプレ読んだの?
それともご都合主義????
テンプレより
>寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。<
> 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。 <

どうでもいいけど畿内説間で議論しろ
このスレの狙いだろ・・・畿内説間で議論するのが
最近 どうも他説が気になり批判してるけど畿内説は他説批判で成り立ってるのかね・・・・・・

792 :
>>752
>唐津市の北側の陸繋島の内側の「唐津港」が、安全で適切。

浦というのが海岸の港で、そこの水は潮水。
津というのは川べりに作られた港の事で、その港の水は真水。唐津は津だから、やや内湾に入った真水域(或は汽水)ということ、

793 :
>>715
そういうのはいいから、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの根拠と
主観以外の客観的な論証を示せばいいんだよ?

それができないから大和説はバカにされる

794 :
>>786
なかったら何なのか

795 :
>>788
文献が無いから

796 :
>>717
>>単純な比例計算だが、キナイコシは理解できない
>測量もしていないし<
「余」があるし、有効数字1桁近似値にしてあるから、測量している。
>縮尺も定義されないのに<
周制への復古の上表が幾つもあり、周里で計測された事になる。
>単純な比例計算ができると考えるやつがバカ
https://imgur.com/S4YwM8M
これのどこに比例計算が適用できる基盤があると言えるのかww
その地図の比定地が、意図的に間違っている。

797 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。

798 :
>>794
3世紀に畿内なんて
無いから無いと言ってるけど
何か問題でも

799 :
>>740
>魏使が魏朝への報告で書かない限り、三国志に記載されるはずがない
>そして魏使が魏皇帝欽定以外の単位を使う理由がどこにもない
>ゆえに魏使が倭の距離を短里で書いたという九州説の考え方は根本から間違っている
その魏使説が大いなる勘違いさ。
帯方郡は韓国倭国の支配強化を目的に公孫康が開設した。だから開設直後に倭地の綿密な調査をしたはずだ。
もちろん帯方郡の小役人は、蛮夷のことだから短い里で書き留めて、倭国調査報告書を完成させた。
これが後世、三国志の地誌ネタになったのだろう。

800 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

801 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

802 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

803 :
>>717
まーたこのデタラメ地図か。糸島だけに、糸的に捻じ曲げてよろこんでるな、、。

804 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

805 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

806 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

807 :
>>793

で、松野連系図の呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが遺した漢字の記録に
基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

偽書確定ですかな?偽書確定ですかな?

808 :
>>717
>単純な比例計算ができると考えるやつがバカ
https://imgur.com/S4YwM8M
まーたこのデタラメ地図かい。糸島絡みだけに、糸的に捻じ曲げて喜んでるなwww

809 :
>>1よ
九州説の批判するスレになってねーか
他説の持論はこのスレと何の関係あんの
他説はどうでもいいよ
畿内説の反論を他説に振るほど自信がないのかね・・
まともに答えられない畿内説  うーーーーん
 

810 :
>>798
それが何か

811 :
>>791
>最近 どうも他説が気になり批判してるけど畿内説は他説批判で成り立ってるのかね・・・・・・
また妄想ばっかりか
九州説が場違いな学問板に来て
あえなく撃退されてるだけだろ
みじめな奴だな

812 :
>>777
イネーーーよ

813 :
>>798
>3世紀に畿内なんて
>無いから無いと言ってるけど
>何か問題でも
つまり九州説には論理も証拠も
ないにもないのだ
という回答いただきました
自分たちをゴミと立証して何が楽しいのかね

814 :
>>785
俺もそう思う

815 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏が、完全に論破されてしまったので、スレッドのレベルが低いままだね。

816 :
>>812
確信してても断定はしないのが学者だからな

817 :
>>705
倭人伝で書いてないことを言うなよ
まあ、梁書で女国と記述されてるのは認めるよ
倭人伝しかり、梁書しかり、国があった事は記載されてるから
侏儒国は実在したんだろうな
すると、畿内説は侏儒国の場所を述べるべきだな

818 :
>>814
九州説は非科学的だから仕方ないね

819 :
>>811
あんたネ 
畿内説に自信がないのかね
ここで九州説を論ずる人も人だがネ

820 :
>>817
>倭人伝しかり、梁書しかり、国があった事は記載されてるから
>侏儒国は実在したんだろうな

と思ってるのはアンタなのに

>すると、畿内説は侏儒国の場所を述べるべきだな

などと考えちゃう脳って
もしかして深刻なレベルで壊れてない?

821 :
>>728
>中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。

その通り。だから、魏の役人たちは、魏朝の命令した単位を使って、報告書を上げた。

>敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。

問題は、その里記載情報が、魏朝や西晋朝の直属の役人であったか?、
在野の学者らであったか?、
あるいは、東晋以後の後代の役人や学者の説明であったのか?、という事である。

822 :
>>819
>あんたネ 
>畿内説に自信がないのかね

そう思う理由が言えない九州説って



頭が弱い

823 :
>>821
>その通り。だから、魏の役人たちは、魏朝の命令した単位を使って、報告書を上げた。

その短里があり得ないのが確定してるから
九州説が死んでるんだよ

824 :
>>821
>問題は、その里記載情報が、魏朝や西晋朝の直属の役人であったか?

そりゃ、帯方郡がやとった地元の東夷の測量技手たちが計って書き留めたのさ。
日頃なじんでいた短い里でね。。、

825 :
>>824
ハクチさんですか?
雇い主の知らない単位で報告する奴
だれが雇う?

826 :
朝鮮民族の奥山氏が、社会参加していない強味を活かし、新型コロナウィルスと闘っている社会を尻目に、朝鮮民族の民族運動である、完全に破綻した邪馬台国畿内説を、宣伝しているな。

827 :
>>826
そうやって
すぐ論破される九州説は
悪口や中傷しか反抗するすべが無い
みじめだな

828 :
>>825
わかってねえなあ
魏のお役人は、やってきても帯方郡どまりさ。
命令したら、あとは酒でも食らって、地元のネーチャンたちとよろしくやって待つだけ。
荒波越えていのちのかかる倭国調査なんか、下っ端に投げてノホホのホン。
あとは上がってきた報告書を担いで帰るだけなんだよ。
そんな事は洛陽の役人もお見通しさ。
短い里だろうが、長い里だろうが、東夷の地理なんだからどうだっていいんだよ。
役人世界の仁義を知らねえ奴らは悲しいね。

829 :
邪馬台国畿内説と朝鮮民族運動
全く関係ないものを一緒くたにするスポンジ脳の九州説

830 :
あれだね。
馬鹿正直学者には、陳寿みたいな融通自在の役人/官人が書いた倭人伝は無理だね。

831 :
朝鮮民族の奥山氏が、社会参加していない強味を活かし、新型コロナウィルスと闘っている社会を尻目に、朝鮮民族の民族運動である、完全に破綻した邪馬台国畿内説を、宣伝していることを、バラされたので、朝鮮民族の奥山氏が、焦っているな。
827 名前:日本@名無史さん 2020/03/07(土) 20:08:38.34
>>826
そうやって
すぐ論破される九州説は
悪口や中傷しか反抗するすべが無い
みじめだな
829 名前:日本@名無史さん 2020/03/07(土) 20:13:26.33
邪馬台国畿内説と朝鮮民族運動
全く関係ないものを一緒くたにするスポンジ脳の九州説

832 :
>>828
それ、中国人はバカたってお話を作らないとダメな物語だら
だから九州説はゴミやのに

833 :
>>727
>「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。<
「十五里」は長里であるようだが、
光武陵と光武原陵の違いが不明であるし、
古今注具は何時の誰のものか?も不明であるし、
四面百歩と山方三百二十三步では、始めから別のものであるようだし、
であるから、挙証になっていない。

834 :
>>828
それって、九州説は
中国人がゴミでバカでないと成り立たないって
差別的なゴミ説って
決めていいの?

835 :
>>816
正体現したな畿内説

836 :
>>820
宗教みたいな事言うなよ
侏儒国が存在しなかったという論拠が必要じゃねーか

837 :
>>727
>明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
明帝は、当然薄葬令に従っているんだろうから、
三百步=1里(約75m)は、短里であり、短歩だろうなあ。
 

838 :
>>834
畿内の馬鹿正直ゴミ学者

839 :
>>837
なんで九州説がまったく理由を言わなくなったのか

840 :
>>838
正直な人が、なんでゴミなの
九州説は言ってることが
根本的におかしくないか?

841 :
>>831
やはり、貴方は「朝鮮民族の奥山氏が、社会参加していない強味を活かし、新型コロナウィルスと闘っている社会を尻目に、朝鮮民族の民族運動である、完全に破綻した邪馬台国畿内説を、宣伝している。」という真実を、見破りましたね。

842 :
>>796
鉄の話題がえするのもいいけどさーー
その図さ、各説いろいろ答えてるじゃん
畿内説の課題でもあるじゃん
個人的には、魏の使いはそのルートは2往復の初回の1回だけだと思うよ
帰りは最短ルート・・伊都国から帰った
次来る時も朝鮮半島のに向かい伊都国経由
回り道はしないと思うよ

843 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏が、完全に論破されてしまったので、スレッドのレベルが低いままだね。

844 :
>>729
>「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
これは、太平寰宇記や後漢書劉昭注や陸機『洛陽記』では、
後代史家や、西晋朝の直接的な臣下とは言えず、長里だな。

845 :
>>796
ごめん間違えた
>>717へだった
鉄の話題がえするのもいいけどさーー
その図さ、各説いろいろ答えてるじゃん
畿内説の課題でもあるじゃん
個人的には、魏の使いはそのルートは2往復の初回の1回だけだと思うよ
帰りは最短ルート・・伊都国から帰った
次来る時も朝鮮半島のに向かい伊都国経由
回り道はしないと思うよ
勅使は速く伝えたいから

846 :
それよりも老婆談・・・wなぜ詳しいんだろう。

847 :
>>727
>(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
始皇帝冢は一辺が400m余りであった筈だから、その「里」は長里だな。

848 :
イミフの反論か罵声で自滅するキナイコシは惨め
なんか、語れよキナイコシ
畿内説にも見放されてるぞキナイコシ
仲間いねーだろ 24時間貼り付けもいいけどさ
テメーの延命治療にボランティアがカキコしてるんだよ
まだ、理解できないのかなーーーーーーーーーーーーーーーーーー

849 :
馬鹿はしななけりゃ治らないじゃないよ
奥山 今の日本は温かいぞ 馬鹿も人権があるから皆で守ってやってるよ
ところで、テンプレの参考文献だけどさ
寺澤氏は巻向は卑弥呼の墓と言ってねーよ

850 :
>>728
>北部九州の甕棺首狩族はど没落した
別に、部族が没落したり全滅した訳ではなかった。
吉野ケ里のように、支配層の墓祭祀法が前方後円墳や前方後方墳に変わっただけ。

851 :
◎ところで、テンプレの参考文献だけどさ
寺澤氏は「箸墓」は卑弥呼の墓と言ってねーよ

852 :
>>729
そういう戯れ言は客観的な論証を具体的に示してからだと何度言えば?
「南≠東」などの指摘に対して、
「客観的で具体的な論証」から逃げ回る大和説者。

853 :
>>732
>>九州北部は鉄だらけだよ?
>そうじゃないだろ?
かつて使われた鉄の総量と出土する鉄の量はまったく異なるし、その差分は溶けてるんだよ
北部九州でも鉄の絶対多数は溶けている
大和盆地も北部九州も、水分量では、同じ位の土質だよ。

854 :
>>111 ◆n7jxAxKCBhb6 2020/03/04(水) 21:16:59.08
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


855 :
>>736
>読み違えとるな。↓こういう意味だ。
だからよ、その中華帝国の中で読む人たちが、
ガハハ、ここの韓倭の部分は、古臭い短里で書いてやがるわ・・、と軽蔑しつつ、
優越感に浸りながら読んだんだよ。そこんとこ間違えるな。
魏の役人たちは、魏朝の使用里を、忠実に使って、計測したの。

856 :
>>853
しかり
塩分は海岸地が多いと思うよ
大和盆地で岩塩の産出地があればいいけど無いよな

857 :
>>738
>最古の硯は出雲だぞw
ふーん?、今のところ、やはり国譲り前の盟主であった出雲の方が、早かったのか。

858 :
>>740
魏使が魏朝への報告で書かない限り、三国志に記載されるはずがない
そして魏使が魏皇帝欽定以外の単位を使う理由がどこにもない
ゆえに魏使が倭の距離を短里で書いたという事を否定する大和説者の考え方は
根本から間違っている

859 :
(纏向遺跡166次調査)
>遺構面の状況 3世紀前半段階の遺構が存在する下層の遺構面は大きく分けて黄褐色粘質土(地山)・黄褐色粘賞土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)の2つの土壌から構成されています。<
考察
この土壌はこのpH条件下では、岩石に含まれた珪酸は溶け出しますが、土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
これは遺構面の調査に基づく、土壌であり巻向全体がどうだったのかはしりません。
またその土壌が1700年近く同じ状態であったかは不明です。

860 :
>>850
甕棺が消えて登場したのが方形周溝墓の平原遺跡なんだけど。

861 :
>>744
こいつ、古臭い長里という捏造をいまだに信じてやがるわ
と軽蔑してるのは事実だけどさw
中華帝国の中の人は倭國のことなんて知らないし、
魏志の記載が古臭い長い里だと考える道里がない
秦の始皇帝の度量衡の統一からすでに400年以上経っていて、
そんな里を知っている人も、倭地にはどこにもいない
「古臭い長い里」などと考える人間は、そもそも3世紀の倭地のどこにもいないんだよ
大和説は長里ありきでかろうじて成り立つ説だが、
長里があったというのは最初から間違っている
そこんところからお前は間違いだ

862 :
>>746
大和説にはアホしかいない ↓

その矢印の先は大和説の主張なんだが?

863 :
>>749
時系列って言葉、知ってる?
神武(が実在だとしても)が来たときに大和に前方後円墳なんてない
甕棺墓が衰退するのは、卑弥呼の共立より50年くらい後

何もかもデタラメじゃないか

864 :
>>750
違うよ  鉄が多く残っているのは、多く使っていたからであって、
「鉄は同じように残ったのであって、土質や水分量も殆ど変らなかった」というだけ

865 :
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.

866 :
魏の使いは朝鮮半島南部から伊都国だろうな

特に末盧国については、不思議なことに官の記述が無いんだよな

867 :
>>753
>楽浪土器の出土や地形からして
実際は糸島の伊都国に行くのは舟だから
倭人伝の行程は地形を説明するためと考えたほうがいい

いや、他の商人らではいざ知らず、
魏使らは、大事な詔書や金印や大量の下賜品を卑弥呼に渡す事が仕事であるから、
「安全最短の原則」であり、陸路が最優先。

868 :
>>765
>>奥山は信用してないから、読まないよ
>信用してない理由は?
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しであったから。

869 :
朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏が、完全に論破されてしまったので、スレッドのレベルが低いままだね。

870 :
>>769
「南→東」などぼ史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレて、
逃げ回る大和説

871 :
>>750
>多く残っているのは、多く使っていたからではなく
「鉄が残る環境が多くあった」というだけ<
その環境を説明しないと、論としては成り立たないと

872 :
畿内説は嘘つき詐欺師

873 :
>>822
だから 畿内説間で議論しろよ
それとも一人芝居かいな

874 :
>>774
大和説者が大和説に人生をかけて到達した境地が
2chの掲示板で、
オウム返しで非論理を指摘されるだけとは
親もさぞや嘆いていることだろう

875 :
ほんとーに・・・・・・、
老婆の話(談)は何の系統の話なんだろう。

876 :
>>839
スレチだよ
九州説に振るほど軟弱な畿内説の
根拠を固めろよ

877 :
>.786
>でもさ 3世紀に畿内なんてないと思うよ
賛成です。

878 :
>>811
また妄想ばっかりか 大和説が
九州説者に「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを指摘されて、
あえなく撃退されてるだけだろ
みじめな奴だな

879 :
>>813
つまり「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説には
論理も証拠も
ないにもないのだ
という回答いただきました
自分たちをゴミと立証して何が楽しいのかね

880 :
>>818
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
非科学的だから仕方ないね

881 :
>>823
>>その通り。だから、魏の役人たちは、魏朝の命令した単位を使って、報告書を上げた。
>その短里があり得ないのが確定してるから 九州説が死んでるんだよ <
その短里が有り得て、長里が有り得ない事が確定しているから、
大和説が死んでいるんだよ

882 :
>>840
スレチだよ
九州説に振るほど軟弱な畿内説の
根拠を固めろよ

883 :
>>825
ハクチさんですか?
雇い主の知らない単位で報告する奴
だれが雇う?

884 :
とあるスレ。
神、仏・・・(むかーしの祭祀、斎祀?)、
そんなものは、やりたい人間がやれば良いんだよ、
みたいな書き込みをしている人がいたり。

もう、そのような事は、やりたくない人(家)がいるんだろう。

885 :
>>827
そうやって、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの
すぐ論破される大和説は
悪口や中傷しか反抗するすべが無い
みじめだな

886 :
・王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國
・正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
・遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状遣塞曹掾史張政等
魏の使いは倭国へいってはおらぬ。
いずれの場合も、魏の全権代理人である帯方郡太守の命で郡勤めの役人が倭へ渡っており、決して魏の人間が渡ったのではない。
このことは官の形式として極めて重要である。

887 :
深夜に類スレ主が独り言を言う予感www

888 :
>>832
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しって、
それ、中国人はバカだってお話を作らないとダメな物語だろ
だから大和説はゴミやのに

889 :
今日もキウスが自演中毒発症

890 :
>>834
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しって、
それって、大和説は
中国人がゴミでバカでないと成り立たないって差別的なゴミ説って
決めていいの?

891 :
>>840
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、
正直ではない大和説の人が、なんでゴミでないの でない?
大和説は言ってることが
根本的におかしくないか?

892 :
どのようにして、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝してきた朝鮮民族の奥山氏は、完全に論破されてしまったのだろうか。

893 :
もう、やりたくないという人(家)たちは
『北斗の拳』のような事がしたいのかな?
なぜか、そのような気がする・・・というか確実。

894 :
横からスマン
巻向の矢板だけどさ
鉄器で磨いたのか、どうも疑問なんだよな
疑問1 鉄器で磨いたのなら、その道具らしき鉄器はなんなのだろうか?
疑問2 石器の切れ味はすごいと思うが・・獣の皮を剥ぐ石器は鋭いと思う
疑問3 巻向では矢板を削るだけで鉄器使用だったのか・・都なら鉄器の使用の多様性があってもいいと思う
疑問4 矢板の出土数が余りにも少ない 現段階で発掘されてる水路のすべてに矢板が使用されてたいう事実は無い 

895 :
>>891
おかしいよ
とにかく邪馬台国が大和にあればいいだけだから
なんでもありよ

896 :
べつに何でも良いんだけど、
例えば『集英社』wikiを読んでみて。
関連人物(創業者)の話。
>夫婦で日蓮宗に帰依する。
連載作品(過去の作品を含め)などにも反映されているとか?

897 :
おーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つぶやきーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

898 :
>>713
20世紀なかば頃までは日本の大多数の人は土葬で埋められたが、骨も釘も溶けてなくなってるのが大多数。日本の土壌では百年も経たずに溶け去る事例の方が多い

899 :
>>716
お前さんの言う史料事実というのは史料を曲解することだと広く知れ渡ってるんだけど

900 :
>>892
朝鮮民族の奥山氏が宣伝してきた、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説は、日本人によって、鮮やかに、完全に論破され、完全に破綻しました。

901 :
つぶやきも何もない、
はやく精神病院に行ったほうが良いぞ。

902 :
>>874
折角だからもっとオウムっぽくやれ

903 :
何度、言えばわかるんだ、
精神病院に行けと言っているんだよ。
池沼か何かなんだろうwww

904 :
>>863
甕棺墓の年代を50年以下の誤差で比定できるとは驚きだ。
君はエスパーなんだね!

905 :
>>864
(纏向遺跡166次調査)
>遺構面の状況 3世紀前半段階の遺構が存在する下層の遺構面は大きく分けて黄褐色粘質土(地山)・黄褐色粘賞土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)の2つの土壌から構成されています。<
考察
この土壌はこのpH条件下では、岩石に含まれた珪酸は溶け出しますが、土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
これは遺構面の調査に基づく、土壌であり巻向全体がどうだったのかはしりません。
またその土壌が1700年近く同じ状態であったかは不明です。

906 :
>>867
>魏使らは、大事な詔書や金印や大量の下賜品を卑弥呼に渡す事が仕事であるから、
>「安全最短の原則」であり、陸路が最優先。
それならむしろ水行(渡海ではない)だよ。
九州北部上陸から陸行一日で邪馬台国。

907 :
謎の震災など、人工地震だと思う。
と言っている人達がいたり、なぜだと思う?
あと、あの千葉の災害なども。
『千葉 漁師 日蓮』?

908 :
>>753
>倭人伝の行程は地形を説明するためと考えたほうがいい
そう考えたところで、方角が間違っていることに違いはない
魏志倭人伝の倭国内の方角はあてにできない

909 :
907

910 :
家は創価(不明。日何やら。)ではないと言っているし、
ただ老婆が入っただけ?だとか。

911 :
>>755
>またまた、奈良は鉄が溶けやすいとでもいうのかねww
誰もそんなこと言ってないだろ?
捏造乙ww
日本全国どこでも、どころか世界中で鉄は溶けやすいんだよ
場所の問題ではなく、鉄という金属の持つ性質

912 :
>>901,>>903
おまえ
◆小中学生30人のクラスに2人は発達障害の可能性あり
 2012年の文部科学省の調査によると、全国の公立小・中学校(通常学級)に在籍する生徒のうち、6.5%は発達障害の可能性があるとされる。
つまり、単純に考えれば30人のクラスには約2名いることになる。
この数字からも、子どもの発達障害が決して珍しいものではないことがわかる。

913 :
>>866
>特に末盧国については、不思議なことに官の記述が無いんだよな<
だから、東松浦半島の西北沖の鷹島や黒島には松浦水軍家がいて、
その後裔であるという「都市」氏が福岡市におられたんですよ。
だから、都市牛利は、
九州北岸から半島への海峡交通を支配していた松浦水軍家の祖先であり、
末盧國は都市氏の国であった可能性が高く、
しかし、都市牛利は「率善校尉」という魏の直接的な役人になってしまったので、
「官の記述がない」んですよ。

914 :
九州説の方へ
南は南であってるよ
不彌國は北部九州ですよ
不彌國から南へ投馬国(宮崎)
投馬国から南へ向かい、黒潮ルートで
紀伊半島南端もしくは伊勢近辺そこから陸行1月で邪馬台国の王都
王都は巻向ではない京都・大津付近が都 畿内説ではないけどね(最近 近江に興味を持っています)
万2千里の課題は残りますが・・・たぶん郡からのおおよその直線距離?
不彌國から里から日数に変わったのも気になります(いろんな学者の見解も参考にしてますが)
あと、前方後円墳は邪馬台国と関係ないと思います。後世か当時の流行でしょう・・日本人がズボンをはいたら西洋人になるかな?
三角縁円獣鏡はあまりにも多すぎだし、これも根拠としません。
この一文が気になりますが、いまだよくわかりません
悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

915 :
>>756
>奈良が鉄の溶ける速度が速いと言う根拠は?
だから、話をすり替えるなっての!
残っている鉄は残りやすい場所にたまたまあった鉄
鉄の出土量は1700年前の鉄の量ではなく、
鉄が残りやすい環境がどれだけあったかを示しているだけ
纒向大溝の矢板1つとっても大量の金属器で加工したのは確実なんだから
奈良盆地に鉄がなかったというのはただの妄言

916 :
□ アニメや映画に感情移入して世界に入り込んでしまう

917 :
なんでもいいけど、はやく精神病院に行ったほうが良いぞ。
それとも、この世から消えるとか。

918 :
>>914です
阿波をどう考えるかも 難問ですが

919 :
『熊本 地震』こういうのも、
同じみたいな事を言っている人がいたような。

920 :
つぶやき登場
新スレ奥山が建てるから 途中で昨夜同様に連投しろやwwww
これ、罠だけどさ・・

921 :
>>757
>大量の矢板って何枚見つかってんの?
推定で10000枚
https://imgur.com/EaD9Ol5
たくさんあるだろ?ww
現実は否定できないぞw
>鉄で磨いたと言う根拠も希薄
金属器以外でこういう平らな薄板を作る方法を「具体的に提案」できない限り
その言いがかりには意味がない
金属器で加工したと考える以外の推定は無効
そして木材加工用の金属器は鉄器以外にない
>また、鉄で磨いたとしても鉄が無い
鉄は溶けるから、出土しないことに不思議はないし
鉄用の砥石が出ているしhttps://imgur.com/Bl882Nt
鉄器も出ているしhttps://imgur.com/feuhRba
鉄鍛冶跡も出ているhttps://imgur.com/yxUOFaW
>矢板は外部から持ち込んだかもね(@阿波は阿波からと言っていたな)
まったく合理性がないww
バカ丸出しw

922 :
>>605
お前がパクリ
小手子は菅野じゃねえし
菅野の伝承は川俣にはないし

923 :
>>917
>>916

924 :
>>759
>距離的にそんなにかからない
>魏の使いは2往復してるしその距離で毎回1月もかからない
20日以上かかれば1月だよ
>テンプレでも日本海ルートは否定されている
否定はされてないよ
瀬戸内に分があるというだけで
瀬戸内重視は物流を重視しているから
出雲という大国を重視すれば魏使のルートとしては日本海航路が合理的

925 :
>>612
ス菅ピン野

926 :
>>762
>こんな簡単な比例計算もできないのかね
鉄は溶けやすいし、残っているのは偶然だし
場所によって溶ける速度が6倍異なるという実測値も出ている
簡単な比例計算をするのはバカだけww

927 :
>>905
だよな
巻向に限らず、畿内は鉄が溶けやすいとは言えないな
畿内の土壌がすべて鉄が溶けやすいと一致してるならともかく
>褐色粘質土(地山)・黄褐色粘賞土ブロックを多く含んだ灰褐色土(整地土)<
化学的には鉄が溶けやすい土壌で無いことは確かだと思うよ。比較論だけど

928 :
>>624
>言っている人もいたり
こればっか 無意味
菅野がだめなら今度は渡辺

929 :
家の老婆談w
なぜか『渡辺 源氏』と同じ話だしな。

930 :
>>625
川崎東北菅野(天皇の家来) (百済菅野(天皇の家来)ではない)

931 :
>>627,>>628
馬鹿 ぼけた
テレビを見てない 見てもすぐ忘れる

932 :
>>929
最近テレビでやってたのを見て言い出したな
nhk 日本人のおなまえ だったか

933 :
>>777
>現在 箸墓は卑弥呼の墓と断定してる
>著名な学者いるのかね?
断定はしていないがそうだろうとしている人は多数
たとえば白石太一郎、福辻 淳、加藤一郎、坂本 稔、福永伸哉の各氏は2014年の
箸墓再考というシンポジウムで卑弥呼の墓だろうと広言している

934 :
一月を一日に改竄するなら、倭人伝のどこを改竄してもいいことになる

935 :
それにしても、あのゲーム(チェーンソー)なんだよな。
海賊ごっこが何やらとか、海賊ごっこは終わり?
三人姉妹で・・・。

936 :
>>624
>話を作るなよ

937 :
>>924
なんだよ
どのルートなんだよ
奥山は瀬戸内だよ
畿内説で議論しろよ
テンプレの趣旨に従い 議論しろよ
だから他説のやつが来るんだよ
テンプレより
> 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <

938 :
>>791
>>924でも書いたが、基幹交通路としては瀬戸内航路でいいが、
出雲に寄る必要を考えれば魏志倭人伝の下敷きになった魏使の経路としては日本海航路が合理的

939 :
>>624
テレビで見てから話を作った

940 :
>>799
>帯方郡は韓国倭国の支配強化を目的に公孫康が開設した。
>だから開設直後に倭地の綿密な調査をしたはずだ。

調査を「したはず」だww
ただの勝手な想像ですねww

公孫氏と倭國の通好は記録が「一切ない」んだww
これが現実だ

941 :
>>624,627,628
知らないなら偽物

942 :
中国人が好きな玉の産地である出雲経由のルート情報を書いているのだろうな

943 :
>>921
それさ一部の写真だろ、右側に矢板ねーし
またさぁーー
矢板を磨いた?削った? 木材加工用の鉄製道具は何?
バカ丸出しでもいいけどさ
矢板をどのような鉄器で磨いたの?大量生産可能な発掘物はあるの?

944 :
>>799
>もちろん帯方郡の小役人は、蛮夷のことだから短い里で書き留めて、倭国調査報告書を完成させた。
その帯方郡を設置した公孫氏も漢人で、後漢の度量衡で生まれ育っているし、
後漢尺の1800倍の里以外の単位なんか知らないし使う理由がない
公孫氏も最後の最後まで後漢朝から官職(左将軍)を
もらっていた中華の人だってのを無視してはダメww
「短里はあるにだ」って結論ありきで結論に合わせて説明のための駄説を
思いつきで書いても合理的な説になんかならないww
バカすぎw

945 :
>>803
>まーたこのデタラメ地図か。糸島だけに、糸的に捻じ曲げてよろこんでるな、、。
これ、九州説の主張通りに地図に起こしただけのものだぞww
つまり九州説の主張=方角(伊都国は末盧国の東南)は正しいというのがデタラメってことだww

946 :
>>938
日本海ルートもわかるけど、
魏の使いは2度(2往復) 邪馬台国に来ている
倭人伝で陸行1月を2往復で集約したのかな????
距離的にも、1月かかるのかな???

947 :
>>808
>まーたこのデタラメ地図かい。糸島絡みだけに、糸的に捻じ曲げて喜んでるなwww
これ、九州説の主張通りに地図に起こしただけのものだぞww
つまり九州説の主張=方角(伊都国は末盧国の東南)は正しいというのがデタラメってことだww
具体的な反論をしなよw
できないからごまかしてるだけ

948 :
気づいていると思うんだけど、家は漁師ではないし、先祖も。
成り済まし、騙りがいるんだろう?

949 :
>>946だけど
持論としては 陸行1月が突如現れるのは
投馬国から邪馬台国まで水行なら10日、陸行なら1月と思うよ

950 :
>>929
源氏で天皇を知らない
偽物だな

951 :
「從郡至倭」だから行程記事は魏使のルートということではないだろ

952 :
>>948
騙るが
菅野じゃ成り済ませない

953 :
>>943
うーーん
矢板を磨いた鉄器ってなんだろう?発掘されてないよね?
剣も貴重だし、矢じりじゃ無理だろうし

954 :
菅野で全てが分かる
お前がどう足掻いても無駄

955 :
>>824
>そりゃ、帯方郡がやとった地元の東夷の測量技手たちが計って書き留めたのさ。
>日頃なじんでいた短い里でね。。、
おいおい、投馬国には魏使が行っていないから測っていないって言うのが九州説の主張だろ?
魏使が行ったところは魏使が計ったから里数が書いてあるって言ってたのが九州説だろ?
自分の移動距離が6分の1の数字で出てきたら、魏使さんもおかしいって気付くだろ?ww
言ってることがいつもその場しのぎだから、支離滅裂になるんだよ

956 :
>>828
>魏のお役人は、やってきても帯方郡どまりさ。
建中校尉の梯儁さんや塞曹掾史の張政さんは、魏のお役人ではないとww
魏皇帝の詔書や黃幢を預かる人が木っ端役人だとww
九州説、もう無茶苦茶だなw

957 :
つぶやき
そろそろ奥山がテンプレの準備開始
いつものように、長時間にわたりテンプレの途中で投稿しろよ
wwwwwww
昨夜も深夜で投稿してたからできるだろ
wwwwwww
見ものだな
wwww
奥山 深夜に新スレ建てないという逃げ道もあるぞ・・・
wwwww
つぶやき ばれてんだよ

958 :
>>836
>侏儒国が存在しなかったという論拠が必要じゃねーか
侏儒国が存在したと考えるべき合理的な理由がないし、
お前もそれを主張も論証も挙証もしていない
あったと考えるやつがバカ

959 :


960 :


961 :


962 :


963 :


964 :
964

965 :
>>850
>吉野ケ里のように、支配層の墓祭祀法が前方後円墳や前方後方墳に変わっただけ。
この時点で、伝統を捨てて畿内様式を受け入れた側だと確定するな

966 :


967 :
テスト

968 :
>>965
証拠は

969 :
>>853
>大和盆地も北部九州も、水分量では、同じ位の土質だよ。
だから同じように大和盆地でも北部九州でも1700年前の鉄の絶対多数は溶けてなくなってるだろ?
ごく一部の偶然残りやすい条件の場所に位置した鉄だけが残ってるんだよ
畿内で言えば古墳の埋葬主体のような場所では残りやすい

970 :
>>965
前方後円墳は後世だよ
それも、流行であり国とは関係ない

971 :
前方後円墳は流行
蝦夷征伐で立証されてるじゃん
ズボンをはいてたら欧米人かい

972 :
>>969
そのとおり

973 :
がばちょ

974 :
>>858
>そして魏使が魏皇帝欽定以外の単位を使う理由がどこにもない
魏皇帝欽定の度量衡での里が短里ではないのは、
正始弩尺の現物が出ている以上確定事項だよ

975 :
桜井市が悪では無い
利用されても市の役に立てばいい
でも これ以上の調査は市民に申し訳ない

976 :
蝦夷、何やらとか、ただの妄想なんだけどな。
蝦夷=むかーしの中国人(中華)だと言っている人がいたり。
いたでしょ?

977 :
>>859
>土壌として鉄とアルミニウムは溶けにくいです。
これは土壌鉱物に吸着されているイオンの溶出の話で、
金属片の溶けやすさの記述ではないと何度教えても無意味にコピペを続ける
九州説の知的能力はこの程度

978 :
>>974
質問
韓伝で韓は4千里四方をどう説明する?
韓伝では1里?メートルなの
倭人伝と関係ないけど、同じ鎮寿の記述なんだけど

979 :
>>860
>甕棺が消えて登場したのが方形周溝墓の平原遺跡なんだけど。
甕棺が消えてから平原1号墓が作られるまで100年以上隔たっている
方形周溝墓はむしろ畿内などでよく見られる墓制
平原1号墓はおそらく吉野ヶ里北墳丘墓のミニチュアのような方形台状墓
いろいろ認識がおかしい

980 :
エミシ(不明)・・・?、ほんとーは、王(king)とか、そういう家、中国の人。
ほとんど後の時代の話、後付けだという話をしている人もいたり。

981 :
>>864
>違うよ  鉄が多く残っているのは、多く使っていたからであって、
違わない
>>864の認識が間違っている
どんなに多く鉄を使っていても、通常の土壌中の環境では1700年あればすべて失われる
通常と異なる環境に偶然置かれた鉄が残っているだけ

982 :
>>871
>その環境を説明しないと、論としては成り立たないと
地下水に触れない環境や、逆に粘土質などで密閉され酸素の届かない嫌気的な環境がそれに当たる
科学的思考ができれば、言われなくても分かるだろうに
九州説は非科学かつアンチ科学だから基礎的な基本事項すら分かっていない

983 :
>>977
アハハ
鉄の溶けやすい土壌を紹介しろよ
イオンもようわからんで投稿するのwww
もう少し勉強したらwwww

984 :
畿内天皇家が、母体であった倭国王阿毎本家をつぶした大化の改新は、
畿内天皇家側の阿倍内麻呂と天智天皇らの乙巳の変、白村江の戦いが布石で、
その後の壬申の乱。畿内阿倍が大海人皇子側について、筑紫君(倭国本家)側は大友皇子。
乙巳で天皇記と国記を阿毎氏の丘(甘樫丘)で立てこもってしんだ蘇我氏も
大彦関連3韓成敗氏族・・・つまり倭王阿毎・阿倍の関係筋。
阿毎Abeiって磐井阿部のABEだな。阿倍比羅夫・・・、

985 :
>>981
あほか
偶然が数う多く重なれば必然になるんだよ
確率論だろ
畿内こそ偶然の積み重ねしろや

986 :
>>906
>九州北部上陸から陸行一日で邪馬台国。
だから一日の行程なんてどこにも書いてないだろ?
海路でその国に着きましたの先にわざわざ一日かかりますって書く理由がない

987 :
>>982
炭素年代法を出すわりには
科学知らんね あんたは

988 :
             /::::::::ソ::::::::: :゛'ヽ、
           /:::::::-、:::i´i|::|/:::::::::::ヽ
 ___         /::::::,,、ミ"ヽ` "゛ / ::::::ヽ
「 ヒ_i〉       /::::::==         `-::::::::
ト ノ       |::::::::/ .,, ,=≡, ,≡=、、l:::::::l
i  {        i::::::::l゛  .,/・\,!./・\ l:::::::!
i  i       .|`:::|  :⌒ノ/.. i\:⌒ |:::::i
|   i       (i ″   ,ィ____.i i   i // <日本をトリモロス
ト−┤.      ヽ i   ./  l  .i  .i /
i   ゝ、_       l ヽ ノ `トェェェイヽ、/´
ヽ、    `` 、,__  |、 ヽ  `ー'´ /
  \ノ ノ   ハ ̄l ヽ ` "ー−´/ ̄ 
     ヽ.     /   |/>-<\/  丶
       `ー 、    \ヽ/ |/     r

989 :
>>937
なんか このスレさ
畿内説のスレとしてはお粗末だね
ニュー速のほうがいいな

990 :
>>983
>鉄の溶けやすい土壌を紹介しろよ
どこまでもバカだな
これは「植物栄養学」の話なんだぞ?
引用の意味をなしていない
石灰質アルカリ土壌では、植物の生育に必須の栄養素である鉄が、水に溶け難い水酸化第二鉄の形態となっているために、植物は鉄を吸収できません。
逆に酸性土壌では鉄やアルミニウムが溶出しやすくなり、アルミニウム毒性が問題となる場合があるので、石灰をまいて中和します。

991 :
>>971
そのとおりだなぁ\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
笑っちゃうよな前方後円墳
学者もばかだね

992 :
>>990
それで
奈良は鉄が溶けやすいの?

993 :
>>886
>いずれの場合も、魏の全権代理人である帯方郡太守の命で郡勤めの役人が倭へ渡っており、
>決して魏の人間が渡ったのではない。
その郡勤めの役人も後漢尺あるいは魏尺の度量衡で生まれ育っているし
それ以外の単位を使う理由がない
また、報告書を上げるのも魏朝の役人なんだからやはり魏朝の度量衡以外を使えば
魏の皇帝権力の否定を意味することになる
帯方郡は魏ではないというのは、無理な言い訳だww

994 :
>>992
>奈良は鉄が溶けやすいの?<
誰もそんなバカなことは言ってないと思うよ
畿内に鉄の出土が少ないのは確かだが
丹はあるよ

995 :
つぶやきがこないなwwww

996 :
>>985
いいこと言うね
交通事故は偶然として、同じ場所で数多く起きれば
危険地帯になるね
これは、経験の積み重ねでしょう
あほかは、よくありませんが

997 :
>>943
>それさ一部の写真だろ、右側に矢板ねーし
片側を掘り上げたところでの写真だよ
右側はまだ掘ってない状態
>矢板を磨いた?削った? 木材加工用の鉄製道具は何?
鑓鉋や釿
何度も話題に出てるぞ
もう畿内に鉄がなかったという言説はとっくに否定された古い妄言
九州説はそれにしがみつくしかないんだろうけれどw
和銅が元号になるくらい、それまで倭国内で銅は採れなかった
つまり銅も全量輸入品なんだよ
同じ輸入品の銅が出土して鉄が出土しないのは、
鉄器を輸入する北九州と繋がりがない別の国だから、というのが
論理的に破綻しているのが分かるかな?

998 :
つぶやきが現れない件について

999 :
記紀に記述がない邪馬台国がなぜこんなに注目されるのか不思議。

1000 :
>>970
賛同するな
前方後円墳は流行だと思うよ
青森まで当時 統治してないと思うから

1001 :
2ch.scからのレス数が1000に到達しました。

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