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秦氏はどこから来たか 3


1 :2020/01/30 〜 最終レス :2020/02/04
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

2 :
太秦が宗像からの渡来者や舶載品の受け入れ地として設けられた拠点だったことはほぼ確定的。
一方、伏見の深草はこうした渡来者や舶載品の関東への移出の拠点だったことも確定的だ。
全ては秦氏のトルコ語で判明する。
では、太秦がエルサレムに擬された宗教的拠点だったとする説は、どこまで信憑性があるのか。
まあ、ほちぼちそれを探っていくことにしよう。
わははははは。

3 :
埼玉行田へのユダヤ教徒の入植時期は5世紀後半で、この時期と秦酒君3世がぴたりと重なる。
そして、千葉芝山の武社国へのユダヤ教徒の入植は6世紀後半。この時期は秦河勝の若い時期に重なる。
この両者のうち、秦氏の広隆寺が建立されたのは7世紀初頭頃とされるので、この時期の秦氏は河勝の時代だと言える。
東北経営の橋頭保といえる国が大和政権によって千葉の芝山に新たに設けられ、その国の名に武社(ムサ)という武蔵(ムサシ)のムサと同じ名付けられたわけだが、
この命名には秦氏の強い影響力が発揮されたとみられる。秦河勝の中央政界に対する影響力が絶大だったことを物語るものだ。
その河勝が建立したのが広隆寺なのだ。
果たして、広隆寺はエルサレムに擬せられたのか。

4 :
>>1 ホータンとか言ってるのはトルコ語キチガイのお前だけだから! 
誰にも相手にされないからと妄想を撒き散らすなw

・ホータンは漢・唐代の中国では「于窴」として知られていた。
・発音は「ウテン(üdün)」
・テュルク語のイリチ(伊里斉)の別名でも知られる

>テュルク語のイリチ(伊里斉)の別名でも知られる

残念でした〜〜〜w トルコ語ではイリチでしたwwwwwww キチガイ完全敗北で生き恥さらしましたねww

5 :
>>4
アホォ〜!!!!!
その于チンは中国人からの発音じゃ。
現地人が呼んだのはホータンじゃ。
中国人側の別の表記では和田もある。
和田はファティエンよ。ホータンに近い。
また、チュルク語でiri=大 ci=〜め、irici=大きめ。
伊里斉(イリチ)は、大きい都市みたいな表現だろう。
チュルク語で大きな都市→ホータンということだから、問題なし。
トルコ語話していても、ホータンはホータンじゃ。

6 :
中央アジアのウラル南部〜黒海北岸の地方に紀元前4世紀〜紀元後4世紀にかけて跋扈したペルシャ系の遊牧民集団サルマタイの墓は、豊富な副葬品で知られている。
1世紀末〜2世紀にかけてのサルマタイ文化では、ローマ方面からの豪華な品物や中国製鏡の内行花文鏡ほかの物品がみられるそうだ。
つまり、カザフ平原ではローマや中国の東西の物品が盛んに行きかっていたということだ。平原に展開した商人たちによって売り買いされていたことになる。
こうした東西交易の物品の中には、日本の勾玉も含まれていた。
中央アジアの商人たちは、明らかに日本の存在を認識しており、ホータンの交易商人だったと考えられる弓月君たちにも、日本のことはよく知られていたことが分かる。
弓月君たちは、偶然日本に流れ着いたというわけではないのだよ。
現代の日本のアホらが、中央アジア? なにそれ? と呆け面を晒す以上に彼らは日本の存在をよく知っていたのよ。
もう少し、認識を新たにしないとな、彼らに笑われるぞ。

7 :
ナトロンガラスのような中央アジアを経由したであろう西域の交易品は弥生末期からあるが
ユダヤ教とは関係ない

8 :
広隆寺は創建時に本尊として弥勒菩薩像が安置されたとされている
ユダヤ教では十戒により、主が唯一神であり、偶像崇拝は禁じられている

9 :
>>7
ノンノン。
当時の商人三バカ大将はギリシャ人、ユダヤ人、ペルシャ人。
これらのうちの黒海沿岸地方に進出していたギリシャ人、ペルシャ人らは1世紀頃にユダヤ教に改宗した者が多い。
この中近東についての認識を改めないとな。

10 :
>>8
当時の政権トップの太子から、これあるけど祀る? と言われて辞退するアホはいない。
辞退したら、二度と政権中枢部に近寄らしてくれんからな。
太子のほうは踏み絵突き出した認識ないから、気楽なもんよ。
そんで、秦氏は当初は太秦から少し離れたところに寺を作って祀った。
なんで蜂の岡に寺作ったと思ってるの?
常識で考えような。

11 :
>>7
広島県三次市の松ヶ迫矢谷遺跡出土のガラス玉は、分析の結果、ローマ帝国領内(地中海〜中近東)で作られたことが分かっているそうだな。
この遺跡は弥生後期末(3世紀前半頃)とされる。
交易路はローマから日本まで横一線につながってたのだわ。
ここがユダヤ教徒商人の活躍の場だったというわけ。

12 :
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

13 :
>>9->>11
すべてがお前の作り話

14 :
朝鮮が優秀でないことは、日韓併合で簡単に韓国が併合された事実だけで充分だw

15 :
とっくの昔に韓国大統領と学者が朝鮮半島は負け組の歴史って白状してる。

16 :
>>14
併合前にすでに保護国だった。

17 :
まあ、民衆がたまったもんじゃないな。

18 :
>>12
皿なんて、テーブルなしじゃ、置き所がないしな。

19 :
>>13
真実じゃ。
わははは。

20 :
お前の妄想じゃないなら論拠を示せよ 出来ないだろう

21 :
>>18
じゃあ、7000年前の中国にはテーブルがあったんだな?
それなら、弥生人は中国には7000年前からあったテーブルさえも伝えなかった事になるが

22 :
日本では皿形土器という

23 :
足の無いテーブルなら古代からあっただろ

24 :
>>22
皿形土器は沿海州と交流していた縄文晩期以降の青森にしか見られない土器

青森以外の縄文弥生土器には皿形土器はない

青森以外で皿、または皿形土器が登場するのは4C末の古墳期の神戸の出合窯から

朝鮮南西部系の朝鮮陶質土器であり、日本最古のアナ窯でもある

25 :
弥生時代になると脚がついて高坏になる

26 :
だから青森以外の縄文土器に皿形土器はないんだっつの
いきなり!ステーキじゃなくて、いきなり高坏なの

27 :
青森、岩手に皿形土器、他地域では浅鉢形土器

28 :
>>8
秦河勝が聖徳太子から仏像を授けられ、寺を建てて祀るようになるが、この寺は蜂岡寺と呼ばれ、現在の北野廃寺跡あたりにあったとされている。
この時期に河勝がどこに住んでいたのか諸説あるようだが、
その蜂岡寺建立地が河勝の邸宅のあった場所だとする説や平安京である大内裏が河勝の邸宅だったとする説もみられる。
いずれにしても、河勝の邸宅付近に蜂岡寺があったわけではない。
つまり、この蜂岡寺は秦氏の氏寺ではなかったということだ。
なので、蜂岡寺に安置された仏像を秦氏の本尊としたわけではないようだ。
一方、秦氏は太秦に氏寺を持っていたとする説がある。
このあと、平安京が成立した時期に、この蜂岡寺が秦氏の氏寺に移転したと考えられている。
秦氏の氏寺と蜂岡寺が一緒になったのが今に続く広隆寺というわけだ。
そして、このときに本尊が弥勒菩薩から薬師如来に替わったとされている。
弥勒菩薩は未来に現れる悟りを開いた菩薩で、人々を救済するとされている。
ヤハウェを民族の神とするユダヤ人が、この弥勒菩薩を本尊とするのはおかしいではないかという意見がみられる。
そこで、ユダヤ教で重要な位置を占めるメシアをみてみると、ユダヤ教の終末論ではメシアは未来に現れる神的な救済者とされている。
してみると、このユダヤ教のメシアと仏教の弥勒菩薩はよく似た存在だということができる。
つまり、秦氏が太秦の秦寺に祀って来た本尊の弥勒菩薩は擬制であって、実際にはメシアを待つ姿勢を仮託したものであったとすることも可能なのだ。
実際、ユダヤ教の旧約聖書にはいたるところにメシアの言葉が出ており、そのメシアは実際の人物や物に対しても使われているという。中には異教徒の人物にもメシアの言葉は使われたという。
このような実態をみれば、性格のよく似た弥勒菩薩に対して秦氏はメシアの姿を仮託していたとしても、それほど異様なことではないといえる。
というわけだから、ユダヤ教徒の秦氏が仏教の弥勒菩薩を本尊とするのはおかしい、秦氏はユダヤ教徒ではないとする意見は、必ずしも正鵠を射たものではないのだ。
そういうことだよ。

29 :
ユダヤ教徒は菩薩も如来も信仰しない
仏教(北伝)だから

30 :
>>24
写真でみると、皿というより浅鉢だな。

31 :
>>29
そりゃ、菩薩や如来そのものは信仰はせんだろうな。
擬制、仮託だよ。

32 :
菩薩と如来の意味もルーツあるんじゃなかったか?
東だの西だの

33 :
唯一神との契約を守るのがユダヤ教徒なので
お約束を破ったらユダヤ教徒ではない

34 :
>>33
ユダヤ教徒の歴史をステロタイプで割り切ってもなぁ。

35 :
>>20
以下の通り入力して検索してみてちょ。
「アシュケナジ系ユダヤ人」の遺伝子調査に関する記事について

36 :
>>34
ユダヤ教徒がどこで他宗教の偶像をお飾りしてるのか?

37 :
>>30
モロ皿もあるよ
青森を中心とする東北北部の亀ヶ岡文化は縄文晩期に沿海州と交流していたので、
皿形土器の他に鬲型土器もある
ただし、中国鬲のように足が粘土の内側から叩き出した袋足ではなく、
後付けの足である
しかも甑がないから鬲本来の利用をされていたとは考えられないため、
搬入した鬲型土器をコピーした宝器だと見られている

38 :
皿形土器がある亀ヶ岡式土器は近畿にも及んでいるが
皿形の器形は使わなかっただけということだな

39 :
>>28
広隆寺がキリスト教ネストリウス派=景教の寺だとする説がみられるが、信憑性はあるのだろうか。
これまでみたところでは、秦氏の氏寺は北野廃寺跡とされる地に建てられた蜂岡寺ではなく、現在の広隆寺の地にあった秦寺だということになる。
そして、この秦氏の氏寺に蜂岡寺が移転して一体となるのが、平安京遷都の時期であった。
広隆寺が景教の寺であるとする説では、まず、ペルシャから伝わった景教を唐王朝が公認して、その景教の寺を波斯(ハシ)寺、あるいは波斯教(ハシキョウ)寺と呼んだとする。
これは事実のようだ。中国ではペルシャを波斯(ハシ)と呼んでいたからだ。
そして、波斯教寺の「波斯教」を、ペルシャを表す「ハシ」+ヘブライ語の律法(教)を表す「ホック」の合成とし、ハシホク(波斯教)=蜂岡(ハチオカ)とみなして、蜂岡寺は景教(ネストリウス派)の寺であったとするようだ。
つまり、広隆寺が景教の寺であったとする説は、実は、蜂岡寺が景教の寺だとしていることになる。
先に述べたように、蜂岡寺は秦氏の氏寺とは別のところに建立されていた寺であり、この蜂岡寺は平安京遷都の時期まではその場所にあったとする学説が有力である。
このように、蜂岡寺は秦氏の氏寺とは別の寺であり、太秦から3キロほど東北に離れたところにあったことからして、この蜂岡寺=波斯教寺説は秦氏が景教徒であったことを示す根拠にはならないのである。
むしろ、仏像を安置して祀るように秦氏に指示し、その地に響く蜂の羽音にちなんで寺名をつけた聖徳太子を景教徒だったとするほうがしっくりくるのではないか。
秦氏景教徒説の根拠としては、やや薄いと言わざるをえないようだ。

40 :
>>36
コンベルソについての解説を読んでみたまえ。
偽キリスト教徒だったコンベルソも相当いたようだ。
事の善し悪しは
また別の話だがね。

41 :
15世紀末だろ

42 :
秦氏が大量の人員を連れて渡来した

これは事実として認めてるんだよな
問題は秦氏がチョンかチャンコロかユダヤかだったかという事だけ

争点はそこだ

43 :
アホなことを・・・ 奈良に大和政権があった時代から京都の奥地他でコツコツ水田作って稲作やっとった連中ですよ秦氏は 農民集団や
中央アジアの草原通ってきたユダヤ人がいたとしても、秦氏ではないw 全く文化が異なります

農業技術を駆使して京都の僻地を開拓して灌漑のための溜池作って稲作を熱心に行っていた事実からも緯度的に草原地帯から来た連中でないのは明らかwww 
http://miwa1929.mond.jp/index.php?%E7%95%91#p6cb4f8f

44 :
そんな低層の無能階級が大量にやってきたとして、記録に載せるわけないw

45 :
>>43
「新羅から来た」の仮定でバイアスかけまくり。
新羅から来た証拠なし。
これ、もうだいぶ昔の説。
新しいのと入れ替えるべき。
新しいのは、ホータンから来た説だからね。
今、トレンド!!

46 :
>>42
チョン、チャンの要素なしだから、残るのはユダヤ。

47 :
>>41
人間の本姓は、時代で変化せんよ。

48 :
>>46
くだらない。
日本にユダヤ人のハプログループ「J」はいない。
キリストもモーゼもハプログループJ。

東アジアでは満州のシベ族に少しいるだけ。

よって秦氏はユダヤ人ではない。

49 :
>>44
何を言ってるのか意味わからないね 弥生人否定するんですねあなたは

50 :
>>45
ホータンから来たって言ってるのお前だけだから 誰も相手にしてないからもう勘弁してくれ

51 :
>>44
秦氏は富裕な土豪 政治には関わらなかったし東漢氏みたいな 文書作成能力に長けた 戦闘集団でもない 何がユダヤ人だよ笑わせんな

52 :
>>39
深草秦氏の本拠地の神体山である稲荷山の元々の呼び名であるイナイ山のイナイは、イエスを表すINRIにちなむものであり、
深草秦氏はキリスト教徒=ネストリウス派だったとする説がある。
しかし、このINRIはラテン語の頭文字であり、ラテン語ではイーロンと発音し、イナイとはまったく異なる。
INRIをインリと発音するのはローマ字を日本語読みした場合である。
5世紀頃の秦氏がローマ字を日本語読みをしたとは考えにくい。
この点で、イナイ山のイナイの発音がキリスト教のINRI由来であるとする説は揺らいでくるのであり、秦氏景教徒説の根拠が薄くなる。
また、蜂岡(ハチオカ)寺が景教の波斯教(ハシキョウ→ハシホク)寺に由来するとする説についても、蜂岡寺は秦氏の氏寺ではなかったことからして、
秦氏が景教徒であったとする説としては根拠薄弱とならざるを得ない。
このように、秦氏景教徒説は相当に無理があるように見えてくるのだ。

53 :
>>24
皿を地べたに置いたら、ゴミ入って食べられんな。

54 :
>>51
ユダヤ人とはいうとらんわい。
ユダヤ教徒なんだよね〜♪

55 :
>>50
鷲の秦氏ホータン出自説を覆せないので、今、みんな思案中。
わはははは。

56 :
ハハハ ユダヤ教徒が寺建てて仏像祀ってたんかよ そっちのほうが有り得ないね バカ過ぎだなお前 支離滅裂

57 :
>>53
ゴザをひけばイイだけ

58 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》

クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

59 :
秦氏が俗物なら、沢山の秦氏の研究書籍が出版されるはずないんだよな
アマゾンで秦氏で検索かけると、たくさんヒットするし。
ゴミ民族なら研究してもしょうがないだろw

60 :
>>54
ホータンとか言ってるのはトルコ語キチガイのお前だけだから! 
誰にも相手にされないからとネットで妄想を撒き散らすな基地外
歴史的事実は
・ホータンは漢・唐代の中国では「于窴」として知られていた。
・発音は「ウテン(üdün)」
・テュルク語のイリチ(伊里斉)の別名でも知られる
>テュルク語のイリチ(伊里斉)の別名でも知られる
残念でした〜〜〜w トルコ語ではイリチでしたwwwwwww ハタなんて読み方どこにもありませんでした 捏造野郎

61 :
>>59
口では何とでも言えるよなオカルト野郎 秦氏が建てた寺でも神社でも古墳でもいいから早くヘブライ語の刻まれるか書かれるかした遺物見つけてくれよw
答えは簡単で 何でもユダヤ人に結び付けたいだけの妄想家が多いってだけの話 もちろん根拠は示せない何一つないからだ

62 :
ナラが都の時代から京都の奥地で水田作って稲作&蚕飼って絹を織ってた秦氏 
仏像を祀ってた秦氏
彼らがユダヤ人、ユダヤ教徒?w どうやったらそうなるんや 病気やろ

63 :
>>48
鷲説では、秦氏はユダヤ人ではない。
ギリシャ系改宗ユダヤ教徒だ。
ホータンに来るまでにY遺伝子は入れ替わってる可能性は少なくない。
あのあたりはO、C系だからな。
秦氏はそのいずれかとちゃう?

64 :
>>56
それは、日ユ同祖論者に言うてやれよ。
鷲は日ユ同祖論なんぞ知らんわ。
秦寺ではヤハウェを祀ってんかもよ。
わははははは。

65 :
>>57
茣蓙敷いても、床面が凸凹してたら皿が傾いて、中の物が旨くない感じするんとちゃうの?
それに、誰か茣蓙の上歩いたらホコリが立って、皿の中にゴミ舞い落ちるし。

66 :
>>62
水田つくれるように川堰つくって治水するの5世紀後半やし。
それまで湿地が広がっていたのとちゃう?
秦氏が太秦に入るのは、別の目的があったと思うわ。

67 :
>>61
ヘブライ語は聖書読むための文字になってたからな。
話し言葉としてのヘブライ語はすたれて、だれもヘブライ語で話ししてなかったし。
中国のネストリウス派ですら、その石碑には漢字使ってるくらいで、ペルシャ文字は書いてない。
そんなもんよ。

68 :
>>59
謎があって、それがそこらの兄ちゃんらの謎とは違う感じ。
日本書紀では、最初から大物扱いだからね。

69 :
だいたい中の大兄の皇子が大陸にいたってのが無茶苦茶な話し
向こうは倭の五王が軍事的支配している時代だぜ

70 :
蘇我氏物部氏どこいる?

扶余人てな高句麗百済らしいが扶余ってもん自体ルーツ辿りゃ匈奴高車なんかと同じ支配権で1番右側にいた連中らやで(╹◡╹)

71 :
>>65
それは高坏でも浅鉢でも同じ事だろ

詭弁カス

72 :
ユダヤだのトルコだの言ってるけど、秦氏の生活痕遺構から出土する衣食住に関する
生活文物や住居跡からは何らの考古立証もできないね。

秦氏は新羅系の生活土器を遺して、土壁の住居跡を遺した。

秦氏は新羅系か、それに近い集団だとしか考古立証できないね。

73 :
倭の五王って呼ばれたのが中華王朝から安東大将軍て官位をもらったわけさ

高句麗と百済および日本史にも名が出る伽耶だのはその倭王が支配した地域に組み込まれたわけ

74 :
北朝からもらうか南朝からもらうかは知らんが安東大将軍て地位を安堵してくれる王朝に付いたわけ

75 :
金や朴の話?
そういう話(ネタ?)も出てくるし。

76 :
たしか家の近所にも住んでいるけど、
在日3〜4世くらい?とか、日本名(日本で名乗っている名前)もあったり。

77 :
>>72
しかし、大覚寺3号墳から出た新羅土器は7世紀初頭のものだと言うじゃないか。
弓月君が渡来したのは4世紀後半だから、その新羅土器はそれより200数十年も後だよ。
この頃には秦氏は大豪族なんだから、墓から新羅土器が出ても別におかしくない。
この新羅土器一つでもって秦氏新羅出自説唱えるなんてね、笑われちゃうのとちゃう?
渡来したときに新羅系土器出てもいいのに、そんな気配どこにもないし。

78 :
>>73
5世紀後半には、小伽耶の固城に前方後円墳が造られているし。

79 :
>>71
ちゃうちゃう。
高坏の台の高さだけでも、ゴミの入り方少ないしな。

80 :
>>64
お前はオカルトスレ行け 妄想カス

81 :
>>63
このバカ 自分で黒海周辺に移住したユダヤ人がいたからホータンにユダヤ人が来てたと己が書き込んだことも忘れてる低能ジジイです

82 :
>>79
浅鉢は?
どうでもイイけど、一番重要な事は縄文末に西日本に渡来した弥生人は、
中国には7000年前からあった皿も壺も高坏も鼎も鬲も甑も釜も竈も、
何一つ伝えなかったという事な。
つまり、3000年前になっても、それらの器種がなかった未開な場所から
渡来したという事。
彼らは渡来時に甕しか伝えなかったのだ。
そして渡来してから50年以上経ったあとに、朝鮮土器から壺と高坏という器種を
パクったのである。

83 :
中国は広いからな

84 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》

クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

85 :
>>81
ユダヤ教徒=ユダヤ人と思っている脳みそ硬いアホ。
日本人がユダヤ教徒になったら、そいつはユダヤ人か。
ちゃうよな。
その日本人はユダヤ教徒。
鷲が言うたのは、黒海沿岸に移住したギリシャ人がユダヤ教に改宗したというもの。
だから、このギリシャ人は改宗ユダヤ教徒なんよ。
ワカルカナ?

86 :
だが日本には松尾の堅パン屋はいない

87 :
>>86
広隆寺の門の横に店開いてるだろ。

88 :
>>84
菜畑の木製クワ、エブリは縄文人の農耕具だったのじゃないの?

89 :
>>88
開発過程なく、突如として完成形で菜畑に登場してくるの

だから半島南部からパクったものだと分かる訳

それに菜畑の土器は山ノ寺式という弥生土器だよ

しかも最古の弥生土器ではなく、すでに次の段階の弥生土器なの

つまり、渡来人は渡来時に稲作なんか伝えていない事が分かる訳

渡来してから50年以上経ったあとの渡来人の子孫の時代になってからようやく、
朝鮮南部から稲作をパクってきた事なんかが分かる訳

90 :
米より粟の方が先に入ってるんだから
粟作用の農具なんだろ

91 :
>>85
これお前だよな 自分の書き込みぐらい覚えとけな虚言癖のクズ
クリムチャク人ってのが黒海沿岸に移住したユダヤ人、トルコ語を話すユダヤ人はいっぱいいたから〜のあとのお前のロジックは意味不明だが
どこにギリシャ人が出てくるんだよ詐欺師がwww
↓↓
>922日本@名無史=さん2020/01/27(月) 15:20:55.82
クリムチャク人知らんのか。
ユダヤ人で、チュルク系の言葉を話しとる。
ずっと昔は、トルコ語話すユダヤ人はざらにいたのよ。
秦氏の先祖はホータンにいたのだから、普通にトルコ語を話した。
何の不思議もない。
カザフ平原で商売したユダヤ教徒は、なぜか中国に入らなかったんよ。
その理由は、道教、儒教が肌に合わなんだからからやろな。

92 :
コロコロ発言変えてんなよトルコ語キチガイの精神異常者で低能のオッサン

93 :
>>85
とことん笑わせるわこのアホ 
日本に移住して仏像祀ったり農業神や狐を拝んでた秦氏は一神教のユダヤ教徒ですか違うんですか?
お前のロジックならユダヤ教徒なわけないんだけどね!
自分のダブルスタンダードに気づけよ低能バカ

94 :
東にむかった
日本が約束の地だったというオチでOK

95 :
けっきょく、失われたユダヤ十支族って、けっこう融通のきく人たちだったんだよ
http://www.historyjp.com/images/silk_high.jpg
ガチガチの2支族と違ってな。だから移住した国の文化を受け入れ、その国に溶け込んだ

96 :
移住した国の文化を受け入れて仏教徒になったら
ユダヤ教徒ではなくて仏教徒

97 :
>>95
それって結局のところフェニキア人なんじゃないですかね

98 :
>>89
縄文人が畑つくっていたことは十分考えられる。
栗林で栗栽培してたんだから、畑で野菜つくるのは当たり前。
木製クワ、エブリなどはその縄文人の農耕具。
山ノ寺式は縄文土器。
縄文土器つくつて、縄文農具使っていたとかんがえるのはごく自然。
渡海者集団は籾だけ持って、渡ってきた。
渡ったところに、便利な木製の農具あったから、それ使っただけ。

99 :
>>91
秦氏の先祖ギリシャ系説は、ギリシャ人とペルシャ人の2者選択確率50%の賭け。
黒海南岸のコミュニティーに入植していたギリシャ系ユダヤ教徒の商人が、カザフ方面へ進出したというのが鷲の優秀なモデル。
クリムチャク人らも、そうした改宗ユダヤ教徒。人種的にはやはりギリシャ系だろう。
まあ、ここらへんはあくまでモデルだが、歴史の真実だろうな。

100 :
>>92
黄身よりはましだと思うがね。
わはははは。

101 :
>>94
ほとんどそれでOKね。

102 :
>>97
海はフェニキア人、内陸はアラム人。

103 :
>>96
コンベルソの例を言うてやったのに、すぐ忘れる鶏だな。
擬制、仮託した例はいくらでもあったのよ。

104 :
>>92
長い肩書やな。

105 :
>>103
コンベルソは15世紀末のスペイン王国でユダヤ教徒追放令が出されたから
ユダヤ教徒が偽キリスト教徒に改宗した
お前は関東にモーセの墓をこさえてユダヤ王国を作ったという妄想なので
松尾の堅パン屋は偽仏教徒に改宗したふりをする必要がない

106 :
お前は自説に都合のいいように解釈を使い分けるなよ 嘘つきめ ギリシャ人なのかユダヤ人なのか? はよ説明しろ
コンベルソ? コンベルソは在住ユダヤ人が改宗した事実はスペイン人は知っていました またスペインにいた多くのユダヤ人は改宗せずに国を出ていきました
大和政権が ユダヤ教徒に 改宗を迫ったような事実はどこにもありません
ヤマト政権は一神教でもないのに改宗させる理由ないわ低能が 意味不明な言い訳してんだよクズめ
現代に至るまで日本の歴史上、どこかの秦氏の人間が自分たちは元々ユダヤ教徒であると発言した事実がどこにあるのか? 逆に京都の秦氏の人間が仏教の僧侶になって わざわざ中国大陸で学んで帰って来たりしているのが現実

107 :
>>103
宛です

108 :
>>90
>>98
中卒だろおまえ

しかし、どういうわけか日本でアワやキビを栽培していたという証拠は出てきません。
これが日本で初めて出てくるのは、水田稲作が始まる紀元前10世紀だと、
現在は考えられています。
つまり、朝鮮半島ではアワやキビを栽培していたにもかかわらず、九州の人々は
そうした動向には見向きもせずに採集生活を続けていたという状態が、
何千年も続いていたということになります。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

109 :
>>105
関東は百済人や新羅人ほか外国からの渡来人が多く安置されたところだ。
百済、新羅ほか外国の習慣、宗旨などいろいろごっちゃだたから、ユダヤ王国の宗旨の者たちがいても、大和政権はたいして関知しなかった。
しかし、その大和政権中枢部に深く関わった秦氏は、そうそうユダヤの宗旨をおおぴらにしないほうが利益にかなったのよ。
しかし、秦氏の支流の者が仏教僧侶になったというのは平安時代だろう、もうそのころには秦氏の支流は日本に同化して、日本教ユダヤ派に変身していたから、
問題ない。

110 :
>>98
山ノ寺式は弥生土器だバカ中卒

下のブログの中ほどにある歴博年表でしっかり確認しろ中卒

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/02/528.html
.

111 :
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

112 :
>>106
まあ、ギリシャ人だろうな。
ペルシャ系はやっぱ、新シルクロードの南回廊だろう。
中国に入った景教徒もペルシャからの南回廊通ったはずだ。
北のカザフからアルタイの北回廊はギリシャ系だろうよ。
この北回廊は、日本からサルマタイまで東西の物品が行き来していたからな。
カザフには、早くからギリシャ系商人が進出していた。

113 :
>>110
山ノ寺土器が縄文土器から弥生土器に組み替えられたのは、稲作は弥生時代からという陰謀ドグマのため。
山ノ寺土器を作ったのは縄文人。
したがって、菜畑は縄文遺跡ということになる。
これを弥生遺跡と言い換えたのは、陰謀。

114 :
>>110
歴博もドグマ的だからな。
菜畑の稲作は、縄文文化の中で行われていたんだよ。
これを、稲作っていたから弥生だというのは脳天ファイラ。
弥生はせいぜい板付からだろう。

115 :
>>113-114
菜畑の稲作は最後の縄文土器である黒川式を一掃した山ノ寺式の元で登場している。

黒川式にはなかった弥生土器の基本器種となる壺や甕や高坏が揃ったのも菜畑の山ノ寺式だ。

菜畑の山ノ寺式から弥生時代で何の問題もない。

20年前に終焉したカビの生えた知識など誰も要らないのである。

116 :
>>109
お前の作り話では埼玉行田へのユダヤ教徒の入植時期は5世紀後半
東国方面に移住させた記録は7、8世紀だから
先に妄想ユダヤ王国(松尾堅パン店)が建設されている
利益のために神様との約束を破って他宗教の仏教を広めたら
モーセのように約束の地には入れいてもらえない
そういうお調子者が許される宗教ではない

117 :
>>109
>問題ない。
唯一絶対神ヤハウェが決める
お前が決めるな、ばかちんが

118 :
>>113
この操作も庄内3土器や布留式0土器を250年あたりに遡らせた操作とおんなじ臭いがするよ。
何やら、意図のありそうな組み換えにみえる。
たいがいにしてほしいわ。

119 :
>>117
アホォォォォォ〜!!!

120 :
>>115
黒川式と寺ノ前式が共伴することがあるのだから、
黒川式を造った縄文人がその寺ノ前式を造ったことになるよ。
黒川式を縄文土器とするなら、この寺ノ前式土器も縄文土器とするべきだね。
そして、その寺ノ前土器が菜畑遺跡で出るのだから、菜畑遺跡も縄文遺跡になる。
一方、灌漑施設を持つ水田が始まった時期をもって弥生時代の始まりとするとの定義を出したのは佐原真だ。
この定義に従って、「現状では灌漑式水田稲作が出現する山ノ寺、夜臼T式土器の成立をもって弥生時代の始まりと認定している」とする考えが出されている。
しかし、この考えは少し変だ。
文章としては「現状では灌漑式水田稲作が出現する(菜畑遺跡)をもって弥生時代の始まりと(認定している)」とするのが佐原の考えに従う文章になるはず。
そして、「(その菜畑遺跡で出る)山ノ寺、夜臼T式土器(は弥生土器とみなしている)」となるべきものだ。
ところが、先に述べたように黒川式と寺ノ山式が共伴するのであるから寺ノ山式は縄文土器であり、その寺ノ前式が出る菜畑遺跡は縄文遺跡とすべきであることからして、
菜畑遺跡は縄文時代に行われた灌漑施設を持つ水田であるとなるべきものである。
これと佐原真の考えを擦り合わせた場合、菜畑遺跡は縄文末遺跡であるとともに水田遺構からみれば弥生最初期の遺跡でもあるとするのがよいだろう。
土器編年でも庄内3式末と布留0式初頭はかぶさるのだから、上のように考えてもおかしくはない。
それを変な文章を書いて山ノ寺式土器を弥生土器と操作するのは、何か意図があってのことだとみられてもしかたがないな。

菜畑遺跡は縄文遺跡であり、るが、灌漑施設を持つ水田であるので、
つまり、最初の「 」の中の文章は、一種の詐術を弄しているとみられてもしかたがない。

121 :
寺ノ前式土器、山ノ寺、寺ノ山式
正確に書けよw

122 :
>>120
寺ノ前式とか寺ノ山式なんて土器ないぞ
山ノ寺式だろ?
黒川式が変化して山ノ寺式刻目突帯文土器が生まれた訳じゃないんだよ
島根や広島、岡山などの中国地方に広がっていた前池式刻目突帯文土器が
九州北部の黒川式を乗っ取る形で山ノ寺式刻目突帯文土器になるんだよ
黒川式を造っていた縄文人がそのまま山ノ寺式土器人になったとは考えにくいの
それに弥生土器の基本器種である壺、甕、高坏が揃うのも山ノ寺式からだ
菜畑の山ノ寺式から弥生時代で何の問題もない

123 :
>>90
>>98
中卒だろおまえ

しかし、どういうわけか日本でアワやキビを栽培していたという証拠は出てきません。
これが日本で初めて出てくるのは、水田稲作が始まる紀元前10世紀だと、
現在は考えられています。
つまり、朝鮮半島ではアワやキビを栽培していたにもかかわらず、九州の人々は
そうした動向には見向きもせずに採集生活を続けていたという状態が、
何千年も続いていたということになります。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

124 :
>>122
なんか、バイアスかかった頭してんな。
「壺、甕、高坏が揃うのも山ノ寺式からだ」じゃないだろ。
「壺、甕、高坏が揃うのも山ノ寺式と同じ時期からだ」が正しい。
つまり、弥生式土器の最初期と山ノ寺式縄文晩期末は同時期なの。
その縄文土器の山ノ式に弥生土器のレッテル貼るなということ。
稲作は弥生時代から説に従えば、弥生時代最初期なのは、菜畑の水田遺構だけなんよ。
その他の土器などは縄文時代というわけ。

125 :
>>121
山ノ寺式だよ。
わはははは。

126 :
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

127 :
>>52
中国で景教の寺を意味した波斯教寺(ハシホク)が山城の蜂岡寺(ハチオカ)の名のルーツであり、
蜂岡寺を氏寺とした秦氏は景教徒だったとする説は、蜂岡寺は秦氏の氏寺ではなかったとする有力な学説によって信憑性が極端に低下してしまう。
このほかの秦氏景教徒説としては、太秦寺が取り上げられる。
景教の寺としては中国では波斯寺と呼ばれてきたが、その後、波斯寺の呼び名は大秦寺と改められる。
これは、当時、大秦はローマ帝国を指す呼び名であったが、この大秦の字をもって景教の寺を呼ぶようになったものだとする。
この大秦と太秦の字はほとんど同じであり、太秦寺と呼ばれた秦氏の氏寺は秦氏が景教徒であったことを示すものであるとする。
しかし、太秦寺は正式名称ではなく、太秦(ウズマサ)にある寺という意味の他称だろう。また秦寺とも称されたようだが、これも秦氏の寺という意味の他称と思われる。
このように、太秦(ウズマサ)寺は太秦(ウズマサ)にある寺の意味の呼称であるとされていることから、中国で景教の寺を大秦(ダイシン)寺と呼んだことと、太秦にある寺という意味の太秦寺の呼称とは無関係であると考えることができる。
ただ、ローマ帝国を表す大秦の字は、3世紀にまとめられた「魏略」にすでにみられるものであり、秦氏の拠点であるウズマサに冠した太秦の字は、このローマ帝国を意味する大秦の字にちなんだものであった可能性は高い。
いずれにしても、太秦寺の太秦と景教の寺を表した大秦寺とは無関係とするのがよいようにみえる。
したがって、太秦寺の名から秦氏が景教徒であったとする説は、信憑性が低いと言わざるを得ないのである。

128 :
>>127
このように色々見てみても、秦氏の氏寺である広隆寺と景教説はほとんど結びつかない。
秦氏と景教とが結び付かないのであれば、ここからは秦氏のトルコ語の出番となる。
ぴったしカンカンと行くのは、やはり秦氏のトルコ語だろう。
広隆寺は漢音ではkouryuzi(コウリュウジ)。意味は「広く高まる」である。
この「コウリュウ」の音をトルコ語と重ねてみると、
エルサレム
トルコ語 kudus(クデュ)
kudus(クデュ)は、ペルシャ語由来の言葉である。
このkudus(クデュ)と広隆(コリュ=コウリュウ)の発音は、実によく似ている。
トルコ語のkudus(クデュ)はユダヤ人の都だったエルサレムのことであるから、
広隆寺(コウリュウジ)とはエルサレムを意味するために秦氏が名付けた名である可能性が出てくるのだ。
そして、広隆寺がエルサレムを意味しているとすれば、広隆寺の境内の近くにある「いさら井」の意味も従来説とは大きく異なってくるのである。
次に、その「いさら井」を見てみることにしよう。(続く)

129 :
>>128
追加

9行目の「ペルシャ語由来」は「ペルシャ語、アラビア語由来」とする。

130 :
>>122
壺、甕、高坏が揃うのも山ノ寺式からだ、と胸張っているが、
菜畑遺跡の最古の水田跡となる12層で山ノ寺式土器が出土したと書いているものが見られるが、
その12層で壺、甕、高坏が出たとはどこにも書いてないわな。
それらが菜畑で出たとすれば、もっと新しい層からだろう。
縄文晩期後半の菜畑の12層水田には、弥生を示すものは出てないということだ。

131 :
秦氏の末裔ってなら一番可能性が高い武将が織田信長

織田氏はもともと越前に根を張った神社の神官の家柄

斯波氏が越前守護になったときに家老に取り立てられて尾張に来たのが始まり

平氏を名乗ったがな

古代の有力者は朝廷で職あまりでやることなくなったやつらにはおまえ神官やれや〜(╹◡╹)って神社⛩の神主に転身させられたやつらが多かっただ

それを取り仕切る政庁もあった

それが神祇官

132 :
ペルシャ由来?アラビア由来?

まったくのデタラメ

誰だそれ主張しているキチガイ

133 :
1953年にジュネーヴで開催された世界ユダヤ人会議
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/World_Jewish_Congress_Geneva_1953.jpg

134 :
未発展の土地を大和朝廷は渡来人をあてがうんだよな
太秦とか洪水が多いゴミみたいな土地で
よくがんばって残ったよな秦氏
開発にかなり苦労したと思うよ

135 :
渡来人アメノヒボコも兵庫県の佐用辺りの土地を
出雲勢力と争って負けて(播磨国風土記)
結局兵庫県の北のほうで寒い出石を垂仁天皇からもらう(記紀)
やっぱりクズみたいな土地
いい場所は豪族が抑えてて渡来人は開発作業させられた

136 :
次の大河ドラマは秦氏の渡来だな

137 :
>>136
いいアイデアじゃないか。

138 :
>>136
トルコ語も喋らせろ。

139 :
>>135
5世紀頃と言えば、稲作できるところはもう全部、弥生渡来人系に押さえられていたしな。

140 :
>>134
最初に住んだのは伏見の深草だけどな。
ここは弥生時代から稲作が行われてきた土地らしい。

141 :
>>133
戦前からあるんだな。

142 :
>>132
トルコ語にはペルシャ由来の語彙が相当あるらしい。
このエルサレムを指すkudus(クデュ)もその一つだな。
チュルク系の集団が今のトルコへ向かう途中で、ペルシャ語と接触があったのだろう。
別に不思議なことじやないよ。

143 :
ジャワにkudus(クドゥス)って町あるよ
聖という意味だな

144 :
>>131
信長の織田氏が秦氏の支流だてか。
越前秦氏とつながりあんのか?

145 :
織田は藤原

146 :
>>128
広隆寺のコウリュウはコリュと短縮することができるが、秦氏のトルコ語からすると、そのコリュ(広隆)とトルコ語のエルサレムを表すkudus(クデュ)の音はよく似ている。
広隆寺は秦氏の氏寺であり、秦氏はユダヤ教徒だったとすると、コリュ寺はユダヤ教徒の聖地エルサレムに擬して建立された寺の可能性が出てくる。
太秦のウズマサはトルコ語では「3っの机(3っの祭壇)」の意味で、これをユダヤ教との関連でみると、幕屋を表し、幕屋は神が所在する場所なので、太秦(ウズマサ)は「神の国」を意味したと解することができ、
これと同じように、その発音からみて、広隆寺はその神の国の聖地のエルサレムであるとした場所であったと考えることができるのだ。
そうすると、常々話題にされる「いさら井」の謎も解けてくることになる。
次に、この「いさら井」の謎解きをしてみることにしよう。

147 :
広隆寺の隆は法隆寺の隆だろ

148 :
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

149 :
>>143
このジャワ島のkudus市の名は、ジャワ島にイスラムを広めた聖人9人のうちの1人の名だそうだ。
sunsn kudusという人らしい。1549年のことらしい。
ペルシャ語のkudusと関係あるのかもね。

150 :
>>149
訂正

上から3行目のsunsn→sunanが正しい。

151 :
>>147
漢字の意味としては、その通りだな。
仏法が高まるという意が法隆寺だ。
聖徳太子関連の寺。
秦氏のトルコ語とは関係ないだろう。

152 :
>>148
すでにオロォチ(大龍霊)があったからな。

153 :
kudusはアラビア語からの外来語だろう

インドネシア語 kudus
http://indonesia.tabimanabi.com/ja/web-apps/kamus/search.html?term=kudus&how=1

154 :
>>131
一番可能性が高いというなら論拠を示せよカス!!

155 :
>>151

広隆寺とkudus(クデュ)が関係ない

156 :
>>143
ペルシャ語のkudus(クデュ)は、聖域の意味のようだ。

157 :
ユダヤ教徒爺さんが先ずやるべきことは
松尾の堅パン屋探しだ

158 :
>>155
法隆寺は聖徳太子だから、聖徳太子は景教徒だとする説もあるみたいだから、法隆寺のホリュはペルシャ語のkudus(クデュ)かもな。
トルコ語のkudus(クデュ)とは別だよ。

159 :
>>157
松尾神社の鳥居の影で店開いているな。

160 :
>>158

空耳アワーやってもしょうがない

161 :
>>145
中臣系か。

162 :
>>160
こんだけ秦氏の周辺にトルコ語と重なる地名が出てくると、空耳が真耳に変わってくるな。

163 :
2音なんか何語でも似るよw

164 :
この動画が詳しい
八幡神社はヤハウェ神社だった
https://www.youtube.com/watch?v=a6J4tTZWfqE

165 :
ヤハウェ=八幡神=応神天皇なんてユダヤ人が聞いたら怒りそうだけどなあ

166 :
日蓮大聖人は八幡大菩薩の本地は釈迦だと言われてる

167 :
>>146
キリスト教ネストリウス派(景教)の世界的な権威であった佐伯好郎が、秦氏景教徒説により、秦氏の氏寺の広隆寺境内に接続するところにある「いさら井」の「いさら」は、
イスラエルを表している言葉だとした。
つまり、ユダヤ人の建てたイスラエル王国に擬したのが「いさら」の言葉だというわけだ。
発音の類似からそう解釈したのだろう。
それ以来、この「いさら井」はイスラエル王国に擬した言葉だと信じられる傾向にあるようだ。
そもそも、「いさら井」の「いさら」は「水が少ない、水深が浅い」という意味の和語だとされている。
「ささやか」は少ないの意であり、「ささ」がその少ないの意の語幹のようだ。「細雪(ささめゆき)」の「ささ」も少ない意だ。
この水量の少ない意の井戸を表す「いさら井」が、佐伯氏が景教寺院とみなす広隆寺の境内のすぐ側にあることから、この「いさら」の音の類似からイスラエルの意が「いさら井」の言葉に仮託されたと考えたようだ。
しかしながら、このケースはどうも音の単なる類似によるものであり、積極的な根拠は乏しい。
で、秦氏のトルコ語からすると、この「いさら井」はどのように解釈できるか見てみることにしよう。(続く)

168 :
>>166
菩薩は仏教だからなあ。
日蓮さんがそう言うのももっともだよ。
菩薩はあとで付けたものだろう。
問題は「八幡」にあるよ。
この「八幡」は「やはた」と読むようだ。
八本(多くの)の幡(はた)だ。
そして、八本(多くの)は修辞だろうから、語幹自体は「幡(はた)」だよ。
この「幡(はた)」は秦氏のハタと同じで、秦氏は宇佐八幡の八幡神を奉じる辛嶋氏がルーツで、その辛嶋氏は半島からの渡来人だとする説があるな。
しかし、この説では八幡(やはた)の「幡(はた)」が秦氏のハタと同じだとするものの、その根拠がどうもはっきりしない。
後にこの地域の渡来人集団を秦氏が囲い込んだフシがあり、そのような秦氏との関わりから、辛嶋氏=秦氏説が出てきているのではないのだろうか。
また一方では、この八幡(やはた)はヘブライ語のユダヤ人を表すイェフディの音写だとして、八幡神(やはたのかみ)=ユダヤ教の神=ヤハウェとする説もあるようだ。
根拠としては、宇佐八幡宮の元宮である薦神社にある三角池を造ったのは渡来人だとする伝承があり、その渡来人が秦氏だったとするわけだ。
ただ、その渡来人が秦氏であったとする根拠は、いまひとつはっきりしない。

169 :
>>163
name=名前てか。

170 :
>>164
一種のパッチワークだよ。
そのパッチをつなぎ合わす縫い代に対する根拠が希薄。
このようなパッチワークでいいのなら、苦労はせんよ。

171 :
織田が藤原か?
越前の神官の家柄だぞ
鎌倉時代

172 :
諏訪氏は三輪氏やしな
大和三輪山伝承のあの三輪氏だろ
大神氏と神氏に分かれて豊後にいったんが大神氏、諏訪にいたんが神(諏訪)氏だんべ

173 :
大神比義の伝承記録がなきゃ宇佐八幡なかったろ

174 :
秦氏=ユダヤって聖徳太子の母親がペルシャ人だったというのと同じレベル、いやそれ以下だよな
オカルトスレ行って欲しいな

175 :
権力者が珍しい人種の女を嫁にするのはあり得る話じゃない?
前者と違ってゼロ%の話では無いと思うが

176 :
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

177 :
>>173
今でも比売神が上位神だし。

178 :
聖徳太子も彫りの深い顔してたとか。

179 :
>>171
藤原・忌部説もあるな。

180 :
>>174
新羅信奉者か。

181 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。

>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  ?河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ?屈家?期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ?石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

182 :
中国は地震があまりないからな
竹小舞しなくていい工法なら土壁のほうが簡単だろう

183 :
>>180
なんだそりゃ お前はしょせんその程度の認識なんだよな

184 :
>>178
いとこの蜂子皇子があれだもんな

185 :
あれだもんなって父親が兄弟だから

186 :
当時ペルシャ人をハシ人と呼び、波斯人と書きました。太子の個人教授の一人である覚袈(かくか)がペルシャ系の人ではないかという推測は、 太子の母が穴穂部間人(あなほべのはしひと)と書かれている事と、大いに関係があります。
間人(はしひと)とは波斯人(はしひと)でペルシャ人のことで はないか!と、いうわけです。
https://trakl.exblog.jp/17654666/

187 :
韓国の煙草パッケージが実に秀逸

https://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/4/6/463b3f88.png

https://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/c/3/c389f950.png

https://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/9/e/9e49d3b8.png

188 :
渡来したユダヤは日本に溶け込んだんだけど、完全にヤハウェを消し去る事はできないから
八幡大菩薩をヤハウェとして祀った。全国に八幡社が一番多い理由がそれだろうな
またメシアや神がユダヤを保護し解放するという言い伝えにも合致する。
応神天皇はメシア、神としてユダヤを保護したんだからな
ヤハウェ=ヤハタ

189 :
ハハハ ユダヤ人かユダヤ教徒か書けよ基地外w 「ユダヤ」でごまかすなよw

190 :
稲荷神社は八幡神社の3倍くらいあるんですが

191 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

192 :
中国コラム 中国が憎む日本は中国に最も力を貸した国だ 
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20180313/Recordchina_20180313064.html
70年代の中国にとって、日本のODAはまさに命を救うお金だった。
当時中国はようやく安定し発展が待たれる時期だった。西洋国家と良好な関係を築いていたが、
最も多くの資金を出し、最も必要としていた技術者を派遣し技術的な援助をしたのが日本だ。
日本を憎む中国人も少なくないが、日本は中国の発展に力を貸してくれたのだ。
30年以上に渡り、日本は中国を援助し続け、日本の援助により中国は空港や地下鉄といった
インフラを整備することができた。中国の資金が豊富になった21世紀以降は資金的な援助から
徐々に環境保護や人材育成などの援助に変化している。中国の急速な経済発展における
日本の貢献はとても大きく、否定することができない事実である。

193 :
なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか
https://bookmeter.com/books/7742728
最強11神社 八幡・天神・稲荷・伊勢
出雲・春日・熊野祗園・諏訪・白山・住吉

194 :
ユダヤ教徒は戒律により神の名を呼ばない

195 :
>>194
大正解。
八幡(ヤハタ)=ヤハウェ説は崩壊。

196 :
>>193
蒙古撃退の神さんだからな。
それに、八幡社の宣伝がうまかった。

197 :
>>192
それを悪玉日本の宣伝で帳消しにした。

198 :
>>188
ええぞ、ええぞ、がんばれ。

199 :
>>186
間人(ハシヒト)と書かれるのは、他に間人皇女があるぞ。
この間人皇女は孝徳天皇の皇后だが、その母親は皇極天皇やな。
間人がペルシャ人を表しとるのなら、孝徳天皇の皇后の間人皇女もペルシャ人やないとな。
彼女の母親は皇極天皇やぞ。父親は舒明天皇や。
どうすんのや。

200 :
「八正道より迹をる故に八幡と申す」(八幡宇佐宮御託宣集)
八正道とは仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目で
釈迦が最初の説法(初転法輪)において説いたとされる

201 :
>>200
八幡の名の由来は昔から不明らしく、いろいろ解釈をつけているようだ。
この文句もその一つだな。
  自八正道垂権迹、皆得解、脱苦衆生、故号八幡大菩薩

八正道より権迹を垂るるに、皆、解を得て、苦衆生を脱す。ゆえに八幡大菩薩と号す。
しかし、八正道がなんで八幡になるのか説明はない。
そこらは、修行して悟れということか?
修行しても、語源は分からんだろうがな。

202 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

203 :
>>184
成形失敗だろう。

204 :
木簡に「波斯人」と書かれていたり、ペルシャ人の似顔絵が描かれていたりするから、
ペルシャ人が都に来ていた可能性はあるわな。
で、蜂岡寺や蜂子皇子の名があるわけだから、聖徳太子が景教徒だった説は当然出てくることになるな。
しかし、秦氏はユダヤ教徒だよ。

205 :
>>201
そんなの後付けでしょ
八幡神と廬舎那仏の習合は大仏建立の時だから
それ以前は八幡神と仏教とは何のかかわりあいも無いよ

206 :
仏教と習合してから譽田天皇廣幡八幡麻呂(八正道由来の八幡神)を祀って
その前は辛嶋氏が持ち込んだ朝鮮語の神名だろう

207 :
>>199
鼻長かったのでは。

208 :
半島南部からパクるもんあるかよ、、、
それよりは倭寇にしろ海賊(源氏)らが暴れまくったからな
嵯峨天皇だのそっから発生したんが嵯峨源氏とか言うやつらだがそんなんが海賊(武装集団)やってたの
すっげ〜元を辿れば名門

209 :
参ったね
松浦海賊があれ惣領は源氏やろ
幕府にそりゃ文句くるわな

210 :
八幡神とは、応神天皇のころに百済のアケ王擁立で功績のあった羽田矢代宿祢であろう。
当時のスーパースターであった。
お墓は百舌鳥古墳群の中にある百舌鳥八幡神社で間違いなかろう。
神社の本殿が前方後円墳の石室につながっている、つまり埋葬された人物そのものを祀っているのだ。
秦の名前も羽田を背乗りしたもの、20世紀になって在日が明治天皇ゆかりの竹田姓を名乗ったのと同じ。
ユダヤだなんだいい加減にしてくれ。

211 :
出雲の尼子も源氏やしな
あれ佐々木氏だから宇多源氏

212 :
つまりな源氏の連中らが半島に押し入り海賊行為やったんだね
源氏集団ちゃ日本屈指の武装集団やからね

213 :
>>167
佐伯好郎は、広隆寺側の「いさら井」を音の類似からイスラエルを意味したと考えたが、
井戸の名がイスラエル王国の名に仮託されたとするのは、いささか不釣り合いではないか。
また、広隆寺の発音のコーリューがトルコ語でエルサレムを意味するkudus(クデュ)由来だとすると、
広隆寺の境内の脇の井戸の名がイスラエルという国の名だとするのもやはり不釣り合いで、むしろ逆の印象がする。
そこで、「いさら井」の発音をトルコ語のエルサレムの発音に重ねてみると、どうか。
トルコ語でエルサレムはyerusalim(イェルサレイム)の発音となる。
これはほとんど「いさら」と同じであり、必ずしもイスラエルの発音を重ねなくても済む。
では、エルサレムと井戸は関連があるのだろうか。
実は、おおいにあるのだ。(続く)

214 :
朝鮮のザコらが倭寇、倭寇騒いでいたべ
松浦海賊にしろ源氏から分派したやつらが海賊集団となって成長したんだね

215 :
本来かなりの名家やから鎌倉幕府の連中らも下手に口をだせない
なんとか言うことを聞かせようと下手に出るしかない

216 :
松浦党は平家の家人

217 :
出身の話だよ

218 :
家人てのはそれ仕事
家人てよりそちらの勢力についた連中らをそう呼ぶだけ
みな独立した考えを持っているから場合により付く相手なんざすぐ変える

219 :
特に中世以前なんてみなそおさ
みなそれぞれ独立した集団ながら勢いのある勢力に付くな当たり前

220 :
エルサレムの民の生活の元となる水は、シロアムの池と呼ばれる池に溜められる。
このシロアムの池の水源は郊外のギボン泉だ。
ギボンの泉から石溝を造って水を流してエルサレムのシロアムの池に溜めた。
紀元前700年頃は、ユダ王国はアッシリアに服属していたもののたびたび攻められることがあり、
ユダ王国の王が籠城する際の水源確保のために、ギボンの泉に蓋をしたうえで地下水道を新たに掘ってシロアムの池まで水を通した。
この結果、エルサレムは籠城を成功させることができて、シロアムの池はエルサレムの民の生命線となったわけだ。
したがって、この池はエルサレムの栄光の礎ということができるのである。
さてここで、広隆寺の「いさら井」に戻ると、「いさら井」は現在広隆寺の境内の外に位置しているが、それは境内が削られたことによるもので、元々の境内はこの「いさら井」を含むものだったという。
広隆寺をエルサレムに擬制したとすれば、「いさら井」が広隆寺境内にあることの意味が分かる。
つまり、「いさら井」の「いさら」がトルコ語のエルサレムの発音とよく似るとこからして、「いさら井」とは「エルサレムの井戸」とすることができ、
「エルサレムの井戸」とはエルサレムの生命線であるシロアムの池のことになってくるのである。
エルサレムを防衛した栄光の池が、この「いさら井」に重ねられていると考えることが可能になるというわけだ。
このように考えると、佐伯好郎が「イスラエル」とした「いさら井」は、実は「エルサレムの井戸」の意味であったと解釈できるのである。
これは、秦氏のトルコ語に従うと、実にすんなりと解けるというみごとな例なのだ。
わははははは。

221 :
>>220
この>>220は>>213の続きな。

222 :
井戸だけエルサレムw
井戸以外は仏教

223 :
>>210
八幡神は、元々から武神とみられていたかどうか分からんけどな。
八幡神が武神とみられるようになるのは、720年の隼人の反乱の討伐軍の守り神として参陣し、
その戦いが勝利したことから八幡神が武神とされるようになったのではないのだろうか。
宇佐八幡宮の祭神となる応神天皇も、日本書紀では武人であったとする記述は見られんし。
八幡神が武神に見立てられるのようになるのは、720年の隼人の反乱のあとからではないか。

224 :
>>222
なんだ、地震か?

225 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

226 :
八幡神が武神に見立てられるのようになるのは、
鎌倉時代からだろ

227 :
>>222
コンベルソを忘れたか。

228 :
>>226
源氏が武神として信仰するようになるのは、平安前期に建立された石清水八幡宮かららしいな。
それも、源義家が石清水八幡宮で元服したからだという。
義家が八幡太郎と呼ばれるのは、そのためだ。
ということは、源氏の棟梁としての威信が八幡神に転化したということになるな。

229 :
石清水八幡宮を創建したのが清和天皇だからな
八幡神を宇佐からもってきたのは山城守紀魚弼(紀氏)の子の行教

230 :
この石清水八幡宮の武神性を決定づけたのが、元寇降伏祈願ということか。

231 :
>>222
広隆寺の本殿である上宮王院は聖徳太子を祀る所であるし、
その傍の太秦殿は秦河勝を祀っているそうだ。
実際に、いわゆるご本尊(菩薩など)というものはない。
仏像は安置しているだけだろう。
また、広隆寺は真言宗とされるが、真言宗教団宗派には属さない単体のお寺だ。
随分変わったお寺ではないか。

232 :
>>231
広隆寺は創建当初から信仰対象が変化していったようだが
旧約聖書が朗読されることはない

233 :
>>227
一神教のキリスト教国で改宗を迫られたユダヤ教徒と一緒にすんな低能

234 :
>>232
祈ったんだろう。

235 :
>>233
都合が悪ければ、表には出さんよ。

236 :
>>234

毎度何の証拠もないお前の作り話ばかりだな

237 :
>>231
聖徳太子や秦河勝を祀っているのだから、これは寺の形式をとった神社だよな。
仏教なら仏像祀るはずだし。
広隆寺を仏寺だと思っているから、黄身らの思考が混乱するのよ。
神社だと思いなさい。
そしたら、聖徳太子祀るのも秦河勝を祀るのも、別段不思議なことではないからよ。

238 :
>>236
ユダヤ教徒だから、普通に祈るだろう。

239 :
>>210
羽田矢代宿祢が八幡神だとすると、どういうわけで宇佐に祀られるようになったのか。
その説明がいるな。

240 :
>>238
ユダヤ教徒じゃないから

241 :
反応するからいつまでもユダヤの話が続くんだよ
無視しろ

242 :
まあ、広隆寺はエルサレムを表しているのだとすれば、エルサレムにある有名なシロアムの池に対応するのが「いさら井」だということになるな。
シロアムはエルサレムの街の南の端にあり、「いさら井」は広隆寺境内の西の端にある。
南と西の違いはあるものの、いずれもエリアの端にあるのは同じ。
そして、エルサレムの神殿はシロアムの池の反対側の北の端に設けられている。
広隆寺の本殿は「いさら井」の反対側の東の境内の端にある。
つまり、エルサレムの北側の神殿や南のシロアムの池の配置を90度右に回転させれば、広隆寺の本殿と「いさら井」の配置構図にぴったり重なるというわけだ。
広隆寺境内の配置は、実はちゃんと整っているということになるな。

243 :
>>242
このくらい具体的な物証でもって、佐伯好郎の「いさら井」=イスラエル説を否定しないことには、やはり信憑性に欠けるよね。
黄身らも、単に意見を述べるだけではなく、鷲みたいにかなり具体的に物証を示さないとだめ。
精一杯、具体的物証を示してちょ〜だい!

244 :
>>243
まあ、黄身らは「作り話だァ!」と吠えるだろうが、こうも物証が揃ってきては、しょせん犬の遠吠えよ。
わははははは。

245 :
ユダヤ人からユダヤ教とったら、普通のフランス人やイギリス人だろ

246 :
>>244
ハハハ お前によるとユダヤ教徒ではあるがユダヤ人ではないトルコ語話すホータンにいた連中なんだっけ?
そいつらがエルサレムにあったとかいう池をどうやって再現すんの?w
広隆寺を作った連中がそんなエルサレムにあったとかいう池のことなん100%知るわけないよ?w
だってユダヤ人ですらないんだろお前によるとwww
ご説明くださいな いつもみたいに逃げるなよ低能

247 :2020/02/04
>>243

早くても9世紀末成立の平仮名で彫られた井戸なんぞ何の物証にもなってない
刻字は見たところ明治以降のものだろう

奥州藤原氏って天下狙ってたの?
なんで日本で革命が起きないの?
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