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奥州藤原氏って天下狙ってたの?
- 1 :2019/05/01 〜 最終レス :2020/06/23
- 源平合戦ってあるけど大体源氏と平氏の戦いみたいになるけど
源氏 平氏 奥州藤原氏 の三つ巴だったと思うんだよね。
ちょっと三国志っぽいと思うんだけど。平氏と藤原氏が組んだりする可能性ってなかったのかな?
- 2 :
- 立てれた。
義経を匿ってたりしたから源氏に擦り寄る事は考えてたんだろうけど。
平家に近づこうとは思わなかったのかね。
- 3 :
- 三つ巴だったのは
平氏(西日本)
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)
- 4 :
- 当時、九州は平氏の勢力だったの?
- 5 :
- 関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」
- 6 :
- 義経が死んだあとの鎌倉幕府VS奥州って鎌倉の圧勝だったの?
- 7 :
- 鎌倉軍 28万4千
奥州藤原軍 2万
- 8 :
- それはかなりの戦力差だな。
ていうか奥州って2万しか動員できなかったのか。たいした勢力ではなかったのかな。
金色堂作ったりお金もってそうなのに
- 9 :
- >>1
天下は狙ってないだろうね
将軍として奥州の覇権をというのが基本で
将軍としての権威は朝廷が重要でもあり
- 10 :
- てか天下って朝廷ありきで考えてもっていうか
日本の武士の時代はそうだな
ちょっと勘違いした
ただ天下は狙ってなかったとは思う
- 11 :
- だとしたら平家を倒そうなんてしないほうが良かったんじゃないかな?
平家が生きてたら奥州王としてずっといられた気もする。
- 12 :
- 奥州藤原氏は奥六郡の安倍氏の系譜で全国指向は無かったと思う
東北モンロー主義
- 13 :
- いっそ北海道方面を開拓して王国作っちゃえば良かったのにね。
- 14 :
- そもそも義経差し出したのに攻め込まれたのはなんでなの?
- 15 :
- >>14
また将来、鎌倉幕府に逆らう謀反人を奥州藤原がかくまうかもしれんな
予防のために潰しておくか
by 頼朝
- 16 :
- >>4
壇ノ浦の頃には源氏優勢になってる
- 17 :
- >>13
ちょうど鎌倉に入ったあたりから全国的に寒冷化するので厳しいね
- 18 :
- >>15
徳川家康は秀頼挑発するのにいろいろやったのに
こんな開戦理由でいいんだな。
- 19 :
- 奥州合戦も9月で終わったみたいだけど雪が降るまで耐えられてたら
また違った展開になってたかもな
- 20 :
- >>2
秀衡がはじめに義経を匿わなくて平氏に差し出していたら源氏は天下を取れたかな?
- 21 :
- 天下三分まで持っていったのは頼朝だから義経居なくても何とかした可能性は高いんじゃね
屋島に戻ってきた平家は実は九州から追い出されてきた格好だし
- 22 :
- 最近、源範頼が再評価されてるんじゃなかったっけ?
義経がいなくても時間はかかるだろうけど平家は倒せてたって評価になってたと思う。
- 23 :
- 無策無能の平家が瀬戸内海で恐怖にブルブル震えてる間に範頼軍が九州まで攻め入って押さえちゃったからね
逃げ場は無くなった
- 24 :
- >>18
だから長く続かなかったんだろう
- 25 :
- でも梶原景時が頼朝を見逃さなかったら。
- 26 :
- そんときゃ範頼が神輿になってるよ
- 27 :
- なんか平家ってあっけなさすぎない?もっと粘れなかったんだろうか?
奥州藤原も源氏と平家が削りあって勢力落ちるの狙ってたんじゃないかな
- 28 :
- >>27
平氏は天下を取ってからは都に君臨するのみで、支持基盤の西国のケアがなおざりになった
そして平氏が都を追われて西国へ逃れたら、西国武士にそっぽを向かれた
それをみていたから頼朝は京都に住まず、鎌倉を本拠地とし続けたところもあるのだろう
- 29 :
- 奥州藤原氏の目的は東北地方の自治でそれ以上でもそれ以下でもない
- 30 :
- >>27
倶利伽羅峠で侍大将クラスが吹き飛んだにしては粘った方
- 31 :
- >>29
だったら源氏が天下取った時点で義経を即座に差し出すべきだろう。
- 32 :
- >>31
今から考えれば本当はそうすべきだったと思う
しかし秀衡は義経をかわいがって育てた第二の父親だ
窮鳥懐に(略ということわざもあるが、義経を斬って鎌倉へ首を送るのが忍びなかったのだろう
また頼朝がもし奥州へ攻めてきたら、義経を大将にして迎え撃つというカードを
残しておくことで、頼朝の奥州征伐を思いとどまらせたいという気持ちもあったり
(もともと義経を秀衡がかくまった時は平家の天下だが、万が一平家が奥州征伐を起こしたら、義経を旗頭にして源氏の蜂起を狙っていたのではとも考えられる)
- 33 :
- >>26
範頼は義仲と合流せんのか?
- 34 :
- >>33
範頼は小山の神輿だから利害関係対立する
- 35 :
- 藤原秀衡って平清盛や源頼朝と比べても遜色ないぐらいの政治家だよね?
- 36 :
- 関東 源頼朝
東北 藤原秀衡
関西 平清盛
として九州でこれらに肩並べられる大物っていたの?
- 37 :
- 北九州は清盛の重要拠点よ
- 38 :
- けど奥州合戦みたいのがなくて九州は簡単に源氏に取られたって
印象なんだけど。名のある武将とかいなかったの?
- 39 :
- 親から勘当されて追放された13歳の為朝が
たった3年で平らげたのが九州よ
- 40 :
- 蝦夷がもともと勢力を振るっていた東北地方は例外として
武士が台頭した平安時代以降の日本列島の地方では、
都から脱落した貴種(源氏平氏など)を旗頭として地元の武士たちが結集して、
巨大な勢力を形成するという特徴があった
すなわち貴種に頼らず、地元の武士だけで巨大勢力は築きにくかった
ただ戦国時代になると、地元の武士だけで、貴種に頼らずに巨大勢力を築いていくようになった
- 41 :
- 島津家って鎌倉時代に九州に行ったわけだよね。すんなに九州に根付けたんだろうか?
- 42 :
- 鎌倉方が最も恐れていたのは軍事の特に騎馬戦の天才である義経が
奥州騎馬軍団を率いて敵対することだった。
だから恫喝はしても実際には攻め込まなかった。そう義経が健在な
間は…。
状況判断が出来なかった藤原氏は結局義経を差し出してしまい後は
皆さん御存知の通り速攻で滅ばされた。
- 43 :
- 義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。
近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年)
- 44 :
- 奥州藤原氏は広大な土地を支配していたが、兵士の動員力は2〜3万程度に過ぎなかった
当時の東北地方は米の生産量は低く、人口が少なかったためである
辺境地帯の有力者ではあるが、中央貴族の平家や関東の穀倉地帯の覇者である源頼朝とは、
比較にならなかったと思う
また、軍事貴族の地位と勢力を持ち、公卿に上った平家や源頼朝とは格が違った
- 45 :
- 平家みたいに貿易とかしてなかったの?
- 46 :
- >>45
やってるぞ
日本海交易に噛んでて渤海とも交易してた
- 47 :
- 普通貿易対農業みたいになったら貿易が勝つとおもうだけど
平家と源氏だけは逆なんだよな。
- 48 :
- 後白河の逃亡を許してなかったらまだ展開はわからなかったね
西国一帯の大飢饉他、天変地異がかなり起こってたとはいえ東西拮抗からの巻き返しは充分ありえた
- 49 :
- そういえば奥州藤原は金が沢山あったわけでしょ。金のちからでなんとかならんかったのかな。
- 50 :
- 公家が天下を掌握していた頃は、奥州の金を献上して、うまく付き合いができていた
頼朝にその手は通用しなかった
平清盛の場合はもともとの勢力基盤の西国とか、貿易相手の海外には関心が高くても、
関東より先に関心が低かったからね
- 51 :
- 頼朝に完全服従してたら東北王ぐらいにはしてもらえたんじゃないかな。
- 52 :
- 奥州藤原氏が東北に君臨できたのは、朝廷(院・摂関家)、平家が京都にいて、遠方で
あったから、中央にある程度従順な辺境の有力者として振舞えたからだろう
中央貴族とも友好関係を築いていた
関東という至近距離に強大な軍事力を持った武家政権ができたことが、奥州藤原氏に
とって命取りになった
- 53 :
- あれ?奥州藤原氏が滅びた後って誰が東北を支配したの?
鎌倉幕府から誰か派遣されたわけでしょ?
- 54 :
- 奥州総奉行、秋田城介
- 55 :
- 奥州征伐後に頼朝が奥州を関東御家人に分け与えた
蘆名氏は三浦氏の分家
相馬氏は千葉氏の分家
伊達氏
葛西氏は豊島氏の分家
- 56 :
- 幕府の宿老・大江広元の子孫も東北に所領をもらっているね
長井荘とか寒河江荘を拝領して、室町時代まで続いている
- 57 :
- 東北って奥州合戦以後は伊達政宗が出てくるまでは存在感ないよね。
藤原氏が東北収める前は前九年と後三年とか東北を巡る争いもあったのに
- 58 :
- それもみんな稙宗ってやつが悪いんだ
なお洞の乱
- 59 :
- と、ひょっとして大膳大夫の方だったか
- 60 :
- 南北朝期に後醍醐天皇に加勢するために、北畠顕家が奥州の大軍を率いて鎌倉を落とし、
東海道を進軍して伊勢、大和から摂津天王寺まで達し、京都上洛を目指すも、
足利将軍家執事・高師直に敗れて和泉で戦死
東北から大阪まで、敵と戦いながらの大遠征とは日本史でも唯一だと思う
- 61 :
- https://youtu.be/Wp-N-5xF1M0?t=2015
ドラマ「太平記」で足利軍が北畠軍と戦うシーン
足利尊氏役 真田広之
足利直義役 高嶋政伸
高師直役 柄本明
細川顕氏役 森次晃嗣
佐々木道誉役 陣内孝則
北畠顕家役 後藤久美子
- 62 :
- 北畠顕家というのも代表的お飾りだよな
東北に所領を持つ関東武士どもが東北へ下る
北畠を担いだ東北武士という名の関東武士が故郷へUターン、鎌倉を攻める
多くの武士が領国へ散り去りスッカラカン状態の鎌倉を落とす
その後西へと進軍
- 63 :
- >>62
護良親王は?
- 64 :
- 護良親王は関係ないやろ
北畠が奉じていたんは義良親王(後村上天皇)やで
- 65 :
- >>64
だから宮とか貴族は神輿で指揮を執っていたのは武士かと言うこと?
- 66 :
- 当時はまだアイヌは東北にもいたの?
- 67 :
- 擦文時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%A6%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
と言うよりアイヌ民族が出現し始めたのがその時期なような
- 68 :
- >擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。
>これは、確認された遺跡の数の少なさと共に、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。
>11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。
>分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、
>10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)
>青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。
- 69 :
- そもそもアイヌがいわゆる大和民族なのか違うのか?ってのもわかってないんだっけ?
- 70 :
- この時代バージョンの信長の野望みたいの出たらおもしろそうなのに。
- 71 :
- >>65
南朝は気骨ある公家や宮様が多かったからね
武士も顔負けですよ
- 72 :
- たとえば頼朝は平家を倒すときに裏から藤原氏が攻めて来るかも
って警戒してたりはしたんだろうか?
- 73 :
- 頼朝は挙兵したころ、いったん奥州へ逃れる案もあったらしいから、奥州藤原氏は
友好的勢力と考えていた可能性が高い
奥州でかくまわれていた義経が頼朝の陣に加わるために出征するときも、藤原秀衡は
義経に従者をつけてくれた
- 74 :
- ってことは味方だった藤原氏を滅ぼしたってわけか。
やっぱ天下取る人は非情だね。
- 75 :
- >>72
朝廷から木曽義仲追討のために頼朝上洛を求められた時には、
留守を奥州藤原に狙われるからという理由で断ったりしている
奥州藤原は義経を匿うなど源氏に好意的だった一方で、
平氏政権から陸奥守に任じられるなど平氏とも付き合いはあった
奥州藤原とすれば、源氏と平氏どっちが勝っても上手に立ち回れるように
外交したんだろうが、頼朝からは潜在的脅威と認識されるようになったと思われる
- 76 :
- よく漫画やドラマだと、義経が逃避行の末に奥州平泉へいきなり押しかけて、
秀衡が情にほだされて義経を保護したというお話になっているけど、
実際は奥州藤原の家来か御用商人(金売り吉次?)が秀衡の密命を受けて、
畿内で行き場を失った義経を奥州平泉へ密かに案内したのではないかと思う
- 77 :
- 義経は頼朝との戦いを決意して後白河法皇から頼朝追討の院宣を得た際に、
畿内や九州の兵力を当てにしていたようだ
義経が都落ちする時も奥州へは向かわず、正反対の九州へ向かおうとした
これは豊後(大分県)の緒方氏を味方と頼んだからだ
しかし船が難破して九州行きは失敗、京都は鎌倉軍に占領され、
緒方氏も鎌倉に降伏。
義経は畿内の公家や寺社に密かに匿われて転々としていたが、
その間に義経の協力者で和泉に勢力を持っていた源行家、大和に勢力を持っていた源有綱、
義経の家臣で伊勢の山賊出身の伊勢三郎が鎌倉軍に相次いで見つかって討ち取られ、
義経は再起の道筋が見えず途方に暮れていたと思われる
そんな中で頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけていた
これまで奥州藤原氏は京都の朝廷に直接献金していたが、それを頼朝が仲介して献金することと
一方的に言い渡してきたからだ
頼朝の事実上の挑発とみた奥州藤原は、「有事」に備えて義経を平泉で密かに匿うことと決めて、
迎えの者を畿内の義経の潜伏先へ派遣したのではないかと思う
なぜならはるばる畿内から奥州平泉まで行って、秀衡から「いきなり来られても、匿えません」と断られたら、
義経としては行き場を失うわけで、そんな行き当たりばったりなハイリスクはしないと思うからだ
- 78 :
- 秀衡は源氏派平家派ではなく強いて言うなら後白河派
- 79 :
- もし泰衡が義経と手を組み、頼朝の奥州征伐軍と戦い、
義経が鵯越の逆落としのように頼朝本陣を奇襲して頼朝を討ち取ったら、
どうなったのかな?
義経には幕府を開く構想はないから、京都に住んで朝廷や院に仕えるだろう
それこそ義経が権大納言右近衛大将となる
泰衡は陸奥守鎮守府将軍となって、奥州の自治を名実ともに実現かな
- 80 :
- >>79
幕府を開く構想はなくともその頃には頼朝が幕府みたいなものを開いてるわけだから
幕府構想を乗っ取るんじゃないかな。東北に幕府ができてたかも。
- 81 :
- >>79
義経が存命だったら頼朝前線に出なかったんじゃないかな
- 82 :
- 範頼が大将か
ただ西国中心の源平合戦と違って、奥州と関東は隣だから
範頼が討ち取られたら頼朝出馬も避けられんな
- 83 :
- >>79
鎌倉軍が相当な兵力を動員できたのに対して、奥州は兵力が少なく、兵力差があまりに
大きいので、たとえ義経を加えたとしても奥州側に勝ち目はない。
おそらく、義経は泰衡とともに、平泉を捨てて奥地へ退却して、鎌倉軍を引き込み、
ゲリラ戦に持ち込むだろう。
津軽あたりまで引き込まれたところで、季節が冬になり、大雪が降れば、鎌倉側の
騎馬隊は立ち往生する。恐らく、そのタイミングで義経は頼朝の本陣を奇襲する
と思う。
- 84 :
- >>83
ゲリラは大河兼任がやって失敗してる
- 85 :
- >>84 >>83
それで頼朝敗死したらどうなるの?
- 86 :
- >>85
後白河小勝利って感じ
- 87 :
- 義仲残党ってどうなったの?頼朝に吸収されたの?
- 88 :
- >>87
頼朝に吸収
北陸系は比企じゃねえかな
- 89 :
- 頼朝が義仲、平氏を滅ぼしていく中で、奥州で中立を守り続け、
最後は日本列島の大半を制した頼朝に滅ぼされてしまった奥州藤原氏をみていると、
古代中国で秦の始皇帝に最後に滅ぼされた斉国を思い起こす
中国大陸は当時七つの国に分裂していたが、
斉国は他の国々が次々と秦に滅ぼされても、何もせずに放置していた
とうとう中国大陸では各国を滅ぼして強大化した秦と、
元のままの勢力をキープしているだけの斉の2か国のみが残った
秦は蒙恬・李信・王賁(漫画「キングダム」ではおなじみの3人)の三将に大軍で斉に攻め込ませ、斉はなすすべもなく降伏。秦が天下統一を果たした。
斉王は幽閉され、餓死させられたといわれている
- 90 :
- 平家 頼朝 義仲 奥州藤原 朝廷
この5勢力って感じだったのかな?
平家の中では勢力争いみたいのなかったの?
- 91 :
- >>90
ざっくり宗盛派池殿派小松殿派
- 92 :
- 清盛の跡は宗盛が継ぎ、同母弟の知盛・重衡が宗盛を支えた。
これに対して宗盛の長兄重盛の子である維盛・資盛ら小松家、
清盛の異母弟の平頼盛ら池家とは微妙な関係であった
- 93 :
- ちなみに摂関家も松殿近衛九条でそれぞれ独自路線歩んでて朝廷はもうむちゃくちゃ
- 94 :
- 後付けだが、奥州藤原氏が生き残るためにやるべきだったことは、
源平合戦が長期化・泥沼化するよう工作すべきだった
都落ちして衰退した平氏に、奥州藤原氏が黄金や軍船、軍馬を用立ててもよかった
- 95 :
- 義経が存在しなかったら長期化してただろうね
- 96 :
- >>94
頼朝は激怒するだろう
でも頼朝が東国と京を維持しつつ西国の平家と奥州藤原氏の両面を同時に相手して
戦うのは無理だから奥州藤原の「勝手な」振る舞いにはある程度我慢して交渉するほかない
- 97 :
- 当時、奥州の藤原氏以外にも、関東には志太先生義広、上総介広常などの独立勢力があった。
これらの独立勢力は、源頼朝に対しても強い自尊心、独立心で接しており、やがて頼朝に
危険視されて滅ぼされていく。
頼朝の鎌倉幕府は東国の独立勢力を許さない体制だった。
平家や摂関家のような緩やかな支配のほうがまだ都合がよかった。
- 98 :
- おとなしい国土のイメージがあるから、野心はそれほど多くないだろう。
しかし欧州の藤原氏も、精力的には敵に押されているのでは。
- 99 :
- まぁ鎌倉幕府にとっては頼朝健在で勢いあるうちに潰せてラッキーだったよね
下手に大勢力として臣従されちゃうと揉め事の種が増えるだけだし
- 100 :
- 誰も「鎌倉軍28万4000騎」に突っ込まないの?
よく「中国人は白髪三千丈だからw」とか言って嗤うやつがいるけど、人のこと言えないじゃん。
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