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邪馬台国畿内説 Part552


1 :
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1578500526/
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2 :
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 :
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 :
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 :
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 :
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 :
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 :
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 :
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 :
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 :
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12 :
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 :
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 :
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 :
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 :
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 :
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 :
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 :
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 :
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

21 :
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 :
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 :
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 :
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 :
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 :
邪馬台国畿内説は破綻しました
邪馬台国纏向説は妄想です
キナイコシは無職です

27 :
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

28 :
無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職無職w

29 :
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

30 :
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

31 :
邪馬台国畿内説は破綻しました

32 :
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

33 :
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

34 :
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

35 :
破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職

36 :
邪馬台国畿内説は破綻しました

37 :
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

38 :
邪馬台国纏向説は妄想です

39 :
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

40 :
破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職
破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職破綻妄想無職

41 :
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

42 :
キナイコシは無職www
これは事実であって悪口ではない

43 :
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

44 :
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

45 :
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

46 :
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

47 :
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

48 :
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

49 :
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。
 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

50 :
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

51 :
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。

◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

52 :
鉄器が無い
蛙の骨をかじっている
木器で土木工事
被征服民が
木器で強制労働にかりだされ
石器でカエルをさばいて生食むさぼりくう世界

53 :
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

54 :
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。

◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

55 :
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。

◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」
 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

56 :
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有?損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

57 :
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

58 :
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

59 :
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

60 :
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

61 :
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

62 :
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

63 :
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。

 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

64 :
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。

◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

65 :
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。

◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

66 :
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大?・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。

◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

67 :
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。

◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

68 :
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。

◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

69 :
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

70 :
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

71 :
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。

◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

72 :
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

73 :
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君?高官」「保子?孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君?高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

74 :
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。

◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

75 :
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png

◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

76 :
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。

◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

77 :
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)

◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

78 :
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。

◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

79 :
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。

◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

80 :
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。

◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。

◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

81 :
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

82 :
前スレ>703
>当時TBSは裏取りしてるよ

裏取りしてるって根拠は?

素人が台湾大学のウェブサイトで確認するだけで、
周徳望という教授がいないことはすぐに確認できるんだが?ww

また適当なデタラメを書いてるだけだろ?w

83 :
日本の王都でカエルの骨をかじってて嬉しそうな反日キナイコシ

卑弥呼はみじめな地方の貧困領主

当時最先端の九州には絶対譲らないいいい

84 :
前スレ>717
>大集落の証拠が無いのが証拠じゃん

大集落の証拠がないというのが一部の九州説の駄々捏ねでしかないんだから無意味だろ?

85 :
前スレ>719
>樓觀城柵嚴設も巻向で無いじゃん

城柵はあるよ?


この城柵の内側の発掘が進めば「具体的な証拠」も出るだろう

86 :
いくらわめいてもキナイコシは無職の負け組ww

87 :
前スレ>719
>樓觀城柵嚴設も巻向で無いじゃん

城柵はあるよ?
https://imgur.com/DoW0DbB

この城柵の内側の発掘が進めば「具体的な証拠」も出るだろう

88 :
前スレ>>720
>その人が
>「三角縁神獣鏡」について、渡日中国人が日本で製造したと言ってるのは
>畿内説の学者は無視してるじゃん

その後、三角縁神獣鏡についての研究が進んで情報量がずっと増えたからね
利用できる情報の範囲が変われば当然に推定の結論も異なるものになる

無視しているというのはあたらない

89 :
>>721
>卑弥呼に送られた鏡として400〜500の鏡が見つかったが中国の鏡ではないと否定された

断定されてないよ
また九州説がウソを吐いている

逆に「中国の鏡ではない」という説の根拠がすべて、根拠にならないと示されているのが現状

90 :
>>82
>当時TBSは裏取りしてるよ

裏取り・・・引き?

91 :
日本の王都でカエルの骨をかじってて嬉しそうな反日キナイコシ

卑弥呼はみじめな地方の貧困領主

低レベルな銅鏡を鋳造してたのを嘲笑してる

92 :
前スレ>>733
>中国で見つかったという△は誰が見ても粗悪なコピー品だったよな
>模様なんかも不鮮明で

また九州説がウソを吐いてるw
むしろ超鮮明で錆が少なくて、新しいから偽物だというなら分かるがww
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/nishikawa20151224.pdf

93 :
テレビで放送している内容でも自分の考えに合わないものは間違いだと思い込む纏向信者w
このスレで喚き散らす前に、テレビ局に文句言えばいいのに

94 :
テレビで放送してると正しいと思い込む九州説信者って
どんだけパーよ

w
w

95 :
前スレ>>776
>日本で三角縁は500枚以上見つかってるんだから1枚ぐらい中国で見つかってもいいじゃん

以前から何度も教えているんだがな?
大陸でも何枚も「面径が大きな」「三角縁または斜縁」で「神獣図像」の銅鏡は
何枚も出土している

それが三角縁神獣鏡と「呼ばれていない」だけだ
そして、日本出土の三角縁神獣鏡という括りの中の最初期のものは三角縁ではなく斜縁になっている

単に名称の区切り方だけの問題

96 :
前スレ>793ほか
鉄は腐食しやすいし、置かれた環境次第で腐食速度が大きく異なるから出土量の比較には
意味がないと何度教えればww

石器で矢板を10,000枚作る合理的な方法を論証できない限り、纒向に鉄器がなかったというのは
完全に否定される

97 :
>>96
>石器で矢板を10,000枚作る合理的な方法を論証できない限り、纒向に鉄器がなかったというのは
>完全に否定される

お前の頭の中ではそうなんだろうなw
何が「完全に否定される」だよ。
おたまおかしいだろ。

98 :
>>97
罵っても反論になりません

99 :
>>87
>この城柵の内側の発掘が進めば「具体的な証拠」も出るだろう

出てから言えよ。
纏向そのものが、何か出るかもと期待を持たせて、200回以上も発掘したのに結局は何も出なかっただろ。

100 :
>>84

纒向に「大集落」があったという証拠は?
それを証明する責任は畿内説の側にあるはずなのに、何も証明せず他人の中傷ばかりしてどうするの?

101 :
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。

さて、日本国がした説明はどれでしょう?

おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。

102 :
三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。

母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳

>以上福岡

>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良

103 :
前スレ>884
>ある意味王墓かもな
>九州からの「征服王」

本拠地を空にして出先に大規模墳墓を作るバカな王朝がどこにある?ww

墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 

トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位 筑紫君磐井の墓で6世紀w

104 :
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況

奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72

古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから

絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0

105 :
>>104
>絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0

証拠は?

106 :
>>102
>これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。

素人の珍説ねw

107 :
>>101
>おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
>真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。

理由は?

108 :
>>100
>それを証明する責任は畿内説の側にあるはずなのに、何も証明せず他人の中傷ばかりしてどうするの?

どうして?
このスレのテンプレに
纒向に「大集落」があったとか書いてないよなあ

109 :
>>104

「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)

西暦300年以前弥生時代とか言ってる考古学者いませんけど

110 :
>>100
>纒向に「大集落」があったという証拠は?

この範囲のどこを掘ってもかなりの量の遺物が出土するし面での広がりを持った大遺跡なのが確認できる
https://imgur.com/587JKUC

元は太田遺跡などと発掘地点ごとに地名で呼ばれていたのが、
一つの大面積の人の営みのあった遺跡=大集落だと認識されるようになって、
纒向遺跡と呼ばれるようになったんだよ

111 :
>>104
>10種の魏晋鏡 福岡県398
またずいぶんとデタラメを盛ってきたなww
お前ら九州説の基礎資料、「邪馬台国の会」の数字でも
十種の魏晋鏡の福岡県の数は37面だぞ?ww
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/datadetail.htm
しかもこれは、平原遺跡の2000年の公式報告書を参照しながらその報告書で仿製鏡とされた32枚の
平原1号墓出土の方格規矩鏡を全部入れるというインチキをしている

112 :
>>104
>10種の魏晋鏡 福岡県398
398ってのは弥生時代全期間の鉄鏃の数だろ?ww
そのうち3世紀のものはいくつあるんだ?って何度訊いても答えないけどさw

113 :
平原のは塗装鏡なので別項目にしなければならないね

114 :
福岡は三角縁神獣鏡が奈良、京都に次いで3番目に多いから
畿内と同じ連合の重要視された地域だな

115 :
前スレの最後の方で「鉄器の普及はどうやってわかる?」ってのがあったけど、
鉄自体は腐食しやすく残りにくいので、
・鉄器で代替されることで消えるもの(石庖丁、石斧など)の消失時期
・鉄器による加工物(大量の矢板など)
によって推定するんだよ

奈良周辺で鉄器が少なかったと考えるべき根拠は一つもない

116 :
>>113
平原1号墓には、3世紀の舶載鏡が一枚たりとも存在しないから、卑弥呼の墓の可能性は皆無だよ
周溝に後になって(周溝が埋まってから)作られた土坑墓を、殉葬墓だと勘違いした人が
魏志倭人伝の狥葬者奴婢百餘人と短絡して結びつけただけなのに、いまだに卑弥呼の墓だと
言い張る人がいるのが滑稽で仕方がないw

117 :
>>81
いつもスレ立て、定説コピペお疲れ様です。

118 :
『歯車』『』・・・・読んでみた?

『鳳輿』
なぜか、この家の話ばかりしているでしょ?
葱の華の写っている写真の家の話w

119 :
例えているだけなんだろう
『聖ヂヨオヂ』
聖人(守護)だと言っていたり。

120 :
それにしても、
創価(宗?)か何かなんだろう?みたいな話ばかりだしな・・・、
家自身は創価ではないと言っているし、どういう話なんだろう。

121 :
あのドラムの達人wの曲、
なぜか同じような曲でしょ・・・歯車、スライム・プリーズ・・・。

122 :
>>82
台湾大学と組んでなんて無理
ばれたら社会問題になるよ
そんなリスクを負わないと思うよ
まぁ 台湾大学の教授であろうがなかろうがどうでもいいことじゃないのかな
地方公務員の研究者もありえるし

123 :
>>99
賛同
税金の無駄遣いのような調査は駄目

124 :
『プリンス・オブ・ダークネス』画像を調べてみて、・・・某の話。

125 :
>>94
マスコミ誘導は畿内説の得意技じゃん

126 :
むかーし泥棒のようなものに入られた?みたいな事を言っていたり。
ウラシマンの家の話・・・というか家?。

127 :
>>108
巫女千人や兵が通勤説がテンプレだな
どの学者がいっているのか不明だが

128 :
>>110
古墳だらけじゃん
人の営み・・・古墳造営の土木作業員の営み

129 :
当時の日本の話

全世界、国民(日本)を欺いていた、騙していたと、発覚したんだよw
と言っているのに。実際に、そういう話ばかりでしょ?

130 :
>>115
>鉄自体は腐食しやすく残りにくい<
それってさぁ 残りにくいのは各地同じとして
残っている数で比較しても良いと言うことだよ
すると 奈良は少なすぎる
矢板を鉄器で磨いた根拠は何もしめされていなかったな
決めつけるのは勝手だが
矢板を炭素年代で調べられないかなぁー
また『魏志倭人伝』には、「鉄の鏃」を使うと記されている

131 :
神武=土木作業員だったという話?

132 :
>>117
畿内説では巫女 兵 が巻向へ通勤が定説なの?

133 :
あと、
後の時代になり、渡ってきた人のほうが上の存在なんだけど、
説明しなくてもわかるはず。
例えば、中国人などがいるでしょ。

134 :
テンプレ作成中に「つぶやき」が現れない件について・・・

135 :
あとウラシマン(仮名、キャラクター名)w
なぜ、すごい存在にされているのか?とか。
王母〜・・・。

136 :
『倭の五王』
この辺りの話でもわかるでしょ。

137 :
家の老婆談wなぜか詳しかったり。
馬に乗っていて・・・とか、むかーしの中国の人物の話w
芸能〜歌舞伎?の話とか。

138 :
king・・・とある漫画でも、なぜか凄い存在にされていたり。
ドラムの達人の曲と同じような設定。
高いところから〜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

139 :
『北斗の拳』
king、なぜか同じような設定。それとも他のキャラだったかな。

140 :
『姥清水』
この辺りの話もしているし。
老婆の知る限りでは・・・この辺りに住んでいたことがあるとか。

141 :
>>134
連句点で出てて忙しいからだな

142 :
すらいむ・ぷりーず、
ドラムの達人の曲がリリースされた頃、
たしか、1□歳くらい・・・中学、小学生?
ほとんど合致しているし。

143 :
おどる亀ヤプシ・・・の頃・・・浦島太郎?
確か、小学・・・中学?

144 :
『ザ・モモタロウ』などは少し違う、年齢なども違うし。
「〜じゃん」などは合っている、神奈川県辺りの方言。

145 :
北斗の拳の・・・設定なども合っていないw

146 :
『サイバーパンクSPECIAL』に登場する・・・子供(ロトちゃん)、
 198□年(後半?)に発売・・・あの年齢も近いような。

147 :
『サイバーパンクSPECIAL』
1990年代?・・・詳しいことはわからないw

148 :
1990〜、たしか中学生(小?)だったというのは正解。
・・・・・・・なんで知っているんだろう。

149 :
>>102
>三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。

母鏡の出土例
藤崎方形周溝墓 天神森古墳 原口古墳 名島古墳 香椎ヶ丘古墳 以上福岡
湯迫車塚古墳 岡山 赤塚古墳 大分 造山1号噴 島根 椿井大塚山古墳 奈良 <

ふーん。
しかし、椿井大塚山古墳は、山城だね。

150 :
>>104
>「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 <

ふーん、成程。

151 :
>>103
>トップ101で数えると
恣意的な基準を使う詐欺師
前方後円墳が一番多い県は千葉県だが、そのことは無視

152 :
>>108
>纒向に「大集落」があったとか書いてないよなあ
ああ言えばこう言う詐欺師

153 :
>>115
>によって推定するんだよ
学会で話してみなw
鉄器そのものの考古学的証拠が一番大事に決まっている。
>奈良周辺で鉄器が少なかったと考えるべき根拠は一つもない
鉄器が出ない。

154 :
>>116
>平原1号墓には、3世紀の舶載鏡が一枚たりとも存在しないから、卑弥呼の墓の可能性は皆無だよ
だってもらった鏡は布教用だから関西に配ってしまった。
卑弥呼本人の鏡はそれより大きな超大型内行花文鏡である八咫の鏡。王権の象徴。

155 :
それにしても『歯車』w
>〜も復讐の神には勝てない
『アベンジャーズ』(あべんじゃー)

156 :
すぱいだーまんのようなキャラがいたりw
あべんじゃーの仲間でしょ

157 :
ζ(─奥)=1∧奥+2∧奥+3∧奥+(2*2)∧奥+5∧奥+(2*3)∧奥+•••+Ω∧奥
    

158 :
それにしても、なぜ知っているんだろう、
むかーし泥棒のようなものに入られたことがあるとか。

すぱいだーまん、土蜘蛛?あべんじゃー、アベんじゃー。

159 :
1は「Ωまでの全ての素数の0乗の積」
2は「2の1乗と2より大きなΩまでの全ての素数の0乗の積」

160 :
3=(2∧0)(3∧1)(5∧0)(7∧0)・・・(Ω∧0)

161 :
4=(2∧2)(3∧0)(5∧0)(7∧0)・・・(Ω∧0)

162 :
『安部 蝦夷』(あべんじゃー)
同じような話ばかりだしなw

163 :
>>154
>卑弥呼本人の鏡はそれより大きな超大型内行花文鏡である八咫の鏡。王権の象徴。

王権の象徴?
叩き割って埋めてるが?

164 :
ドラムの達人なども・・・、
あべんじゃーwの仲間でしょ。

165 :
某も、あベんじゃー・・・、某、某、某なども、あべんじゃー、
あと某も。

166 :
朝鮮民族の民族運動である、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏は、指数関数的な減衰を全く理解出来ていないのだったね。

167 :
気づいているだろう、
創価は・・・本当は、そっちのほうの組織だと言っている人がいたりw
あべんじゃーから見ると敵対(というか敵)勢力、〜コロコロと変わるとか。

168 :
畿内奥山の自作自演&エロテラ銭稼ぎスレ

169 :
一部のメディア、作家などもそうだとかw
当時の話〜戦前?・・・日本の話。

170 :
>>163
割って埋めるのは破鏡という葬祭の儀。
偉大なる女王を送るのにふさわしい。
最後の一枚だけ残しておいて、王権の象徴としたのだろう。

171 :
想像はさて置き、実際は何の根拠も無い畿内説は説と呼べるのか?

172 :
畿内奥山の自作自演、

&エロテラ銭稼ぎスレ

173 :
『プリンス』(アーティスト)
なぜか日本の話のような気がしたりw

174 :
>邪馬台国があった弥生時代には北部九州から瀬戸内海に及ぶ銅剣・銅鉾文化と、近畿・中部を中心とする、銅鐸文化の二代文化圏の存在が知られている

「銅剣・銅鉾文化圏」 と 「銅鐸文化圏」、両方に重なる位置の「阿波」が、「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」の発信地なのである。   @阿波

175 :
『すらいむ・ぷりーず』
この曲も・・・・・・・のような気がするし。

176 :
いい加減に気づいただろう、
家の親戚に右翼(?)のような人間がいたとか?
家の近所に何か(工作員など)が住んでいて、
そういう家(右翼?)だと思われた?
家自身は、そういう家ではないし。

177 :
>>171
根拠ないって証拠は

178 :
老婆が言うには、父親の兄だったかな、
自衛隊に入っていたことがあった・・・と言っていたような。

179 :
老婆談  「阿波で千年 京で千年」   @阿波

180 :
家の周辺。
在日の朝鮮、韓国人?(不明)・・・そういう人ばかり住んでいたと
言っているしな・・・。
老婆談(嫁に来た頃から)w

181 :
漫画やアニメ・・・ゲームなど、なぜか家のような話ばかりだしな。

182 :
鶴は千年 亀は万年 いきまんねん

183 :
畿内説はこのグラフで終わりました。
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron00.jpg
弥生時代から続く劣等感で古墳時代に古墳等を爆発的に増やしましたが、悲しいかな所詮は後進国の劣等民族 古墳の方角を揃える事に気が付きませんでした。
弥生時代〜古墳時代に産業、軍事ともに栄えるには日本海に面した場所というのが最低条件です。
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

184 :
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
これを見る限り邪馬台国は福岡で対抗出来る狗奴国は熊本宮崎連合になるでしょうな。

185 :
仏教・・・?何の話なんだろう。
たしか母親という人だけが裸足だと言っていたりw
あのアニメの話でもないし。

186 :
何々様なんていわれていたとか、
・・・・・・・・・・・・・・・・・ひみこではないしな。
サムライ・トルーパー?『サイバーパンクSPECIAL』?
山の上のほうに住んでいて・・・・・・・・・・・・・w

187 :
蚕を飼い、機織りなどをしていた家の話・・・も同じだしな。
何なんだろう。

188 :
「阿波の神様 大宜都比売」

大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。

名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。

『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

189 :
電気、発電(雷?)という話もしていたり・・・、
でもオウムではないし。

190 :
 朝晩深夜
 日がなこんな荒らしばっかりやっているのは
 九州説が論破され尽くした
 証拠だよ

191 :
>邪馬台国があった弥生時代には北部九州から瀬戸内海に及ぶ銅剣・銅鉾文化と、近畿・中部を中心とする、銅鐸文化の二代文化圏の存在が知られている
「銅剣・銅鉾文化圏」 と 「銅鐸文化圏」、両方に重なる位置の「阿波」が、「銅剣・銅鉾文化」および「銅鐸文化」の発信地なのである。   @阿波

192 :
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない
証明終わり

193 :
>>192
>三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富

「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ない後進県にも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地9か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。  
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」   @阿波

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

194 :
でも・・・ほとんどオウムの話のような気もする。
どういう事なんだろう。

195 :
>>192
これはダメだねえ
前提条件になる「北部九州の海人族の進出」云々がまず史的根拠提示ないだろ
そして「四世紀」とか「三世紀」とか編年上の根拠提示もない
つまり時系列が説明できてないので、論理が全く成り立っていない
ダメ押しに「四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない」とか、これまた根拠が全く述べられていない
こんなお粗末な考えを「証明」とか言ってしまう九州説の神経がわからん

196 :
畿内 奥山 劇団ひとり、
自作自演、自賛自傷、エロテラ銭稼ぎのスレ

197 :
>>196は病気

198 :
>>195
おやおや反論になっていないぞ畿内説さん

199 :
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国1】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国2】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(鬼=死者)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

200 :
>>199の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻)〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】東南 船行1年」

201 :
奥山は完全に畿内説を放棄したな
弱すぎて相手にならん

202 :
>>200
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

203 :
>>202
「南≠東」や「正北抵新羅」や「大和は倭國の別種の東征毛人五十五國の旧小国の一国」などの指摘に反論が出来ず、
朝晩深夜
 日がなこんな荒らしばっかりやっているのは
 大和説が論破され尽くした
 証拠だよ

204 :
>>202すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

205 :
>>204
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が卑弥呼と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の?景行?成務?仲哀、応神朝(邪馬台国)?応神(息子)?仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

206 :
>>192
>三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富

「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ない後進県にも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地9か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。  
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」   @阿波

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

207 :
>>205
ダイワ・オオワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

208 :
畿内 奥山 劇団ひとり、

自作自演、自賛自傷、エロテラ銭稼ぎ

209 :
>>198
>おやおや反論になっていないぞ畿内説さん

理由をひとことも言えないってことは
あなたは論破されました
お気の毒

210 :
>>207
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

211 :
奥山が他スレを荒らしすぎるから報復を受けているとしか思えないな

お互いにいいかげんにヤメロヨ

212 :
>>192

リンクに書いてある藻塩とは、アマモ(甘藻)の灰を使った製塩で
3000〜4000年前に関東の霞ヶ浦あたりで始まり
弥生時代になると紀元前1世紀くらいに岡山から備讃瀬戸、大阪湾で始まる
九州では遅く、博多で畿内の供献土器の模倣製作が始まる3世紀初くらいから
志賀島の海ノ中道で瀬戸内系の製塩土器で始まり
肥後では6世紀に天草で始まる

213 :
今城塚古墳に眠る治天下大王のピンクの石は、なぜ九州島の反対側から、遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

214 :
>>211
>お互いにいいかげんにヤメロヨ

などと言ってるこの人、全奥山病の重篤さからみて明らかにここ荒らしてる本人だよな

215 :
>>211
自作自演のサンプルのような書き込み

216 :
>>193
そこで作ってどうなったのよ
作業所があるだけの下請けだろ?
中心地であるならそれなりの防衛力があるが阿波に出土した鉄器は皆無

217 :
>>195
時系列はこれだね

http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

畿内説は普及しなかった根拠は述べられるのか?

218 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》

クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

219 :
>>217
>時系列はこれだね

なら
「三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない・・・そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる」
が間違いなので大前提不成立
証明失敗が確定


>畿内説は普及しなかった根拠は述べられるのか?

根拠は存在しない
「普及しなかった」が間違いなので

220 :
>>219
>「普及しなかった」が間違いなので
その根拠は?

221 :
>>102
>>149
踏み返しを前提とした古い考え方だね
現在は、三次元計測されていて、青銅製品では同型技法が多いなか、
三角縁神獣鏡は同笵技法が特徴的なことが明らかになってきている
>藤崎方形周溝墓 天神森古墳 原口古墳 名島古墳 香椎ヶ丘古墳 以上福岡
>湯迫車塚古墳 岡山 赤塚古墳 大分 造山1号噴 島根 椿井大塚山古墳 奈良
鏡種がバラバラで意味不明だが、このうち
三角縁天王日月銘獣紋帯三神三獣鏡 105は、同笵鏡で製作順序も明らかにされている
椿井大塚山M19→(x)→石塚山(2号)→赤塚→原口#1→天神森→(x2)→石塚山(1号)
※x、x2は想定される未発見の鏡

222 :
鉄が普及するも何も、4世紀までの巻向には、そもそも、定住する人民が少なかったのだったね。

223 :
同笵技法って日本の誇る青銅技術だろw
征服された銅鐸職人たちが作った倭鏡だw

224 :
王都ったって大型建物だけポツンと建ってるだけだからな
そう考えると倉庫だろう

225 :
>>222
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏が、意味のある反論をしてくるまで、素数の研究を進行させれば、良いな。

226 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73

227 :
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23

228 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23
2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 4 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37 2 19 3 13

229 :
29の前に4が混ざっているな。

230 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23
2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37 2 19 3 13

231 :
良いな。

232 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23
2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37 2 19 3 13
2 2 2 5 41 2 3 7 43 2 2 11 5 9 2 23 47 2 2 2 2 3 7 7 2 5 5 3 17 2 2 13 53 2 3 3 3 5 11

233 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23
2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37 2 19 3 13
2 2 2 5 41 2 3 7 43 2 2 11 5 9 2 23 47 2 2 2 2 3 7 7 2 5 5 3 17 2 2 13 53 2 3 3 3 5 11
2 2 2 7 3 19 2 29 59

234 :
59!には、素因数2の指数がいくつになるかを、数えて調べれば良いな。

235 :
キナイコシによると明確な証拠があるとのことだが、
NHKに具体的な証拠がないとはっきり言われてしまった畿内説www

236 :
素数荒らしの正体は畿内説に勝てなくてどうしようもなくなった九州説

237 :
>>222
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏が、意味のある反論をしてくるまで、素数の研究を進行させれば、良いな。

238 :
52個だろうか、、、

239 :
>>238
老眼鏡が合わなくなってきたのでは、ないのかな。

240 :
>>220
金原報告

241 :
2の5が1
2の4が3
2の3が7
2の2が14
2の1が29

242 :
>>223
>同笵技法って日本の誇る青銅技術だろw
いや、魏晉の特徴

243 :
正確に数えれば、54個あるのだろうか。

244 :
[59/32]+[59/16]+[59/8]+[59/4]+[59/2]

245 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

246 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

247 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

248 :
>>224
>王都ったって大型建物だけポツンと建ってるだけだからな
これもニセ情報
同軸上に少なくとも四棟、それを凸型の柵が囲っている

249 :
[59/27]+[59/9]+[59/3]

250 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

251 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

252 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

253 :
>>150

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

254 :
[59/25]+[59/5]

255 :
[59/49]+[59/7]

256 :
[√59]

257 :
先行する研究者は、やはり、計算が面倒になり、対数を使用した可能性が高いな。

258 :
23<26.28687885618983<29

259 :
691までを調べるのだな。

260 :
オイラー氏とガウス氏は頭が良いな。

261 :
>>260
荒らし爺さん頭が悪いよ

262 :
>>233
23の二つ前が9になっているよ。

263 :
奥山氏は、頭が悪いので、指数を全く理解出来なかったのだったね。

264 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73

2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23
2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37 2 19 3 13
2 2 2 5 41 2 3 7 43 2 2 11 5 3 3 2 23 47 2 2 2 2 3 7 7 2 5 5 3 17 2 2 13 53 2 3 3 3 5 11
2 2 2 7 3 19 2 29 59

265 :
>>259
スレッドの容量が勿体ないので、59までで実行すれば良いよ。

266 :
>>248
斎場だからそうなるのだよ

267 :
>>248
で、王都で暮らす人々の住居群は?

268 :
>>248
4棟が並んで建ってた証拠はあるのかな?
建て替え、建て替えて実際は1、2棟だけだった可能性も否定できない
柱穴の底に板や石、砂利類が無く長持ちする家屋とは思えない

269 :
>>268
万行遺跡も6棟と思ったら同時期は3棟の建て替えだったね

270 :
2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59 61 67 71 73
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2 3 3 2 5 11 2 2 3 13 2 7 3 5 2 2 2 2 17 2 3 3 19 2 2 5 3 7 2 11 23
2 2 2 3 5 5 2 13 3 3 3 2 2 7 29 2 3 5 31 2 2 2 2 2 3 11 2 17 5 7 2 2 3 3 37 2 19 3 13
2 2 2 5 41 2 3 7 43 2 2 11 5 3 3 2 23 47 2 2 2 2 3 7 7 2 5 5 3 17 2 2 13 53 2 3 3 3 5 11
2 2 2 7 3 19 2 29 59
59!=(2^([59/32]+[59/16]+[59/8]+[59/4]+[59/2]))(3^([59/27]+[59/9]+[59/3]))(5^([59/25]+[59/5]))(7^([59/49]+[59/7]))(11^1)(13^1)(17^1)(19^1)(23^1)(29^1)(31^1)(37^1)(41^1)(43^1)(47^1)( 53^1)( 59^1)

271 :
全ての素数の積は、思考を停止して、表現すれば∞だったね。

272 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。

>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  ?河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ?屈家?期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ?石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

273 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。

>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  ?河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ?屈家?期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ?石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

274 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。

>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  ?河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ?屈家?期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ?石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

275 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。

>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  ?河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ?屈家?期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ?石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

276 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間

589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。

>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  ?河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  ?屈家?期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  ?石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

277 :
指数が、5までなのは、[ln59/ln2]=5だからなのだな。

278 :
奥山氏が、邪馬台国畿内説を論破された腹いせに、素数の研究を邪魔しているな。

279 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

280 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

281 :
九州説はどうしても議論で勝てないから延々と素数を数えるしかなくなった

282 :
或る素数x以下の全ての素数の積を奥(x)とすれば、
x!=(奥(x))(2^([x/2]+[x/2^2]+[x/2^3]+・・・+[x/2^[ln(x)/ln2]]─1)(3^([x/3]+[x/3^2]+[x/3^3]+・・・+[x/3^[ln(x)/ln3]]─1))・・・(k^([x/k^1]+[x/k^2]+[x/k^3]+・・・+[x/[ln(x)/ln(k)]]─1))・・・(x^([ln(x)/ln(x)]─1)

283 :
>>222
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮民族の奥山氏が、意味のある反論をしてくるまで、素数の研究を進行させれば、良いな。

284 :
>>268
>4棟が並んで建ってた証拠はあるのかな?
建て替え、建て替えて実際は1、2棟だけだった可能性も否定できない
柱穴の底に板や石、砂利類が無く長持ちする家屋とは思えない<

良い指摘です
建物Aも最初は掘立柱建物と騒いでいましたがその後 取り消されていますし

285 :
Ω!の素因数の個数は、やはり、Ωより小さな素数の個数と深い関係性があるのだな。

286 :
畿内 奥山 劇団ひとり、
自作自演、自賛自傷、エロ・テラ銭稼ぎ

287 :
奥山氏は、円周率のことを完全には理解していないのだったね。

288 :
>>284
俺もそう思った
建物B、C、Dの順で作っていったかも知れない
古墳が増えるごとに参拝者も増えるから徐々に大きくしていったのだろか
まぁ斎場だろうな

289 :
>>266
九州説は今日も根拠なし断定
おばかですかと

290 :
奥山氏の全ての先祖の数は奇数の可能性もあるのだったな。

291 :
>>288
考古学を完全否定する九州説は
どんどん自分たち自身を
袋小路に追い詰めているな

292 :
必ず偶数となる自然界の物事には、何があるのだろうか。

293 :
>>289
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
今日も根拠なし断定ばかり
おばかですかと

退屈だなあ。

294 :
邪馬台国畿内説は、数学を完全に否定していたな。

295 :
必ず偶数となる自然界の物事には、何があるのだろうか。

296 :
>>282
[x/k^1]+[x/k^2]+[x/k^3]+・・・+[x/[ln(x)/ln(k)]]

この部分に誤りがあるよ。

297 :
>>296
最後の括弧も足りないな。

298 :
>>293
そうやって毎日ウソをつくと
九州説の信用はどんどん
落ちていくよ

299 :
少し、笑いリラックスした方が良いよ。

300 :
300

301 :
>>299
スレッドを読んで、邪馬台国畿内説の頭の悪さを、楽しめば良いな。

302 :
>>291
考古学的に4棟が同年に建ってたと言う根拠は?

303 :
どのような4棟についての討論が、実行されているのだろうか。

304 :
巻向には人民の住宅が、何棟見つかったのだろうか、、、

305 :
九州説がどんどん社会から信用されない説になっていく
いたましいな

306 :
数式は、手書きの方が、遙かに速く正確に書くことができるな。

307 :
>>291
>考古学を完全否定する九州説は
考古学を完全否定する九州説は
どんどん自分たち自身を袋小路に追い詰めているな <

文献の「南≠東」などの人類の常識を完全否定する大和説学者は、
文献よりも「証拠性が落ちる考古」でも、年代の曲解の嘘つき騙しをして、
また国民や人類を騙そうとして、
どんどん自分たち自身を、袋小路に追い詰めているな

308 :
>>291
4棟連続に建ってたと考えるのも説だし
建て替え建て替えで4棟の柱穴ができた言う説も否定はできないだろう

309 :
またしても、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破され、討論での反論を諦めて、敗北宣言にしかならない嘘の悪口を言い放っているな。

305日本@名無史さん2020/01/11(土) 16:15:43.98
九州説がどんどん社会から信用されない説になっていく
いたましいな

310 :
>>298
そうやって、毎日、
「南→東」などの史料事実や史料実態を否定曲解をするウソをつくと
大和説の信用はどんどん
落ちていくよ

311 :
>>309
邪馬台国畿内説は、頭が悪いので、すぐに、笑いリラックスできましたね。

312 :
>>307

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

313 :
スレ荒らすかオウム返しか素数数えるしかなくなった九州説は
ギブアップという事でいいな?

314 :
>>310

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

315 :
>>310

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

316 :
>>310

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

317 :
>>310

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

318 :
>>302
>考古学的に4棟が同年に建ってたと言う根拠は?<
推測であり根拠的は無い

319 :
>>310

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

320 :
>>310

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

321 :
>>318
賛同
○4棟連続した柱穴が見つかった
△OR✖ 4棟連続して建っていた

322 :
>>305
福永らだったかの有名な大和説学者らが、いくら新しい説や論を公開宣伝しても、
直ぐに「南→東」などの嘘つき騙しである事がバレ、
「大和の年代をこっそり古くするインチキをした」事もバレて、
大和説がどんどん社会から信用されない説になっていく
いたましいな

323 :
>>308はしばらく泳がせて充分恥をかいてもらおうかな
自主的にやってくれるのは、よいことだ

324 :
考古学的には、
同時期に4棟が建っていたとは断定できないであろう

325 :
>>313
「南=東」や「魏志の里=始皇帝里」とか「冢=前方後円墳」などの嘘つき騙しをして、
スレ荒らしをするしかなくなったする大和説学者らは
ギブアップという事でいいな?

326 :
>>323
暇だろうから ゆっくり考えるなり、調べるなりして回答したらいいだろうな
学者が4棟連続と言ってるなら、その根拠を記せばよいだけだろうが

327 :
>>325
言われたたそばからオウム返し
九州説にはもう物をマトモに考える頭は残っていないようだ

328 :
>>326
>>323は今必死で根拠を調べまくっているところだろうwww
知っているならすぐ書けばいいだけなのにwww

329 :
>>318
梅の炭素年代に開きがあるのもそのせいかもしれないな
憶測だけどね

330 :
>>328
同意 奥山の頭はその程度

331 :
>>327
大和説者らが、言ったそばからオウム返しされる、という事は、
大和説者の投稿には自己反省が全くなく、
投稿がすぐに自分らの論理の欠陥に当てはまってしまっていた、という事であり、
大和説者らは、もうそういう事も判らないような、
物をマトモに考える頭は残っていないようだ

332 :
楼観なし、厳設城柵なし、奴婢千人住居跡なし、守衛兵の武器なし、特殊器台の巨大古墳に殉葬なし…

333 :
ホケノ山が西暦250〜275年、箸墓は西暦275〜300年というのが研究者の一致した見解。

334 :
>>328
九州説ってほんと、オツム弱いな
同時に立ってるように学者たちが復元してるんだから
根拠はとっくに発表されてるんだよ
そして誰でも知っている
九州説信者が無知なだけ

335 :
>>333
>ホケノ山が西暦250〜275年、箸墓は西暦275〜300年というのが研究者の一致した見解。
その研究者の名前言ってみな
言えないだろ
妄想だからだよ

336 :
>>332 >>333 なるほど

337 :
>>195
>前提条件になる「北部九州の海人族の進出」云々がまず史的根拠提示ないだろ

常識のないアホ

338 :
>>209

キナイコシは論理的な反論ができていないなあ。

339 :
纏向全体で何人くらいの集落だったの?w

340 :
>>248
>これもニセ情報
>同軸上に少なくとも四棟、それを凸型の柵が囲っている

大きいのは一つだけだよ。
嘘をつくな。

341 :
>>301
>>299
>スレッドを読んで、邪馬台国畿内説の頭の悪さを、楽しめば良いな。

その通り。

342 :
>>331
オウム返しされると自己反省が全くないとか
九州説は基本的な文化が普通の人とは異なっているようだ

343 :
>>324
>考古学的には、
>同時期に4棟が建っていたとは断定できないであろう
同意。
次の建物を建ててから古い建物を壊したのかもしれないし。

344 :
>>339
3世紀中ごろに最盛期を迎えていた吉野ヶ里遺跡は、5,400人(千百戸)くらいだったらすぃよw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1#%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
纏向はせいぜい1,000人(200戸)くらいじゃない?

345 :
>>327

キナイコシはなぜか自分に対する批判を、主語だけ入れ換えているんだよ。
だから主語をキナイコシにするとそのまま真実になる。
内心では自分が誤ってことを主張していると気がついているのだろうねえ。

346 :
>>333
どの学者?
証拠は?

347 :
現代の畿内倭種は、何でもかんでも三世紀の中ごろに一斉に起こったと考えてしまう悪いクセがあるようだ。
しかし、事実は長い時間の中でゆっくりと順々に起こったのだ。

4棟の建物も、順々に、時間を追って建て替えられた可能性は小さくない。
なのに、一挙に建てられ、一挙に放棄されたと、短絡的に即断したがる・・、
つまり、時間差という宇宙の法則を想定・理解できない特殊な人種=典型的倭種なんだろな。

348 :
>>333
>ホケノ山が西暦250〜275年、箸墓は西暦275〜300年というのが研究者の一致した見解。

そんなにピンポイントで年代がわかるという論文を示せよ。
あるわけないけどな。
妄想もいい加減にしろよ。
風説の流布は場合によっては犯罪だぞ。

349 :
>>345
それは九州説じゃないの

350 :
>>333
石野・寺澤・橋本は畿内説破門!

351 :
>>344
建物がそんなにないよ。
現在までに見つかっている遺跡で考えると、それより一桁小さいと思う。

352 :
>>350

寺澤は、内心では逃げたがっているようにも見える。

353 :
>>350
あの三馬鹿のせいで、九州説ごとき漏れらがネットで押しまくられてる。許せん!

354 :
>>352
内心九州説の寺澤は裏切り者!!!破門しろ!!

355 :
>>347
>4棟の建物も、順々に、時間を追って建て替えられた可能性は小さくない。

小さくないと思う理由は?
九州説がどんどん破滅の淵に沈んであくな

356 :
>>333
>ホケノ山が西暦250〜275年、箸墓は西暦275〜300年
というのが研究者の一致した見解。<

「南→東」などの人類の常識に反する嘘つき騙しをする、
・・・・アホ詐欺師の大和説学者らの「研究者の一致」など何の価値もない。
実際には、前方後円墳は、壹與の遣使らが学び、
モンゴル〜半島の前方後円墳形を発展させた筑紫の那珂八幡などが早かったのであり、
大和などの前方後円墳は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らが、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や墓守り人にして、
奴隷のようにして巨大墓を造らせたから出来たもの。
つまり、最も古い(庄内1の)石塚でも3世紀末頃であり、
(庄内3〜布留の)ホケノは3世紀最末〜4世紀であり、
(布留1の)箸墓は、4世紀。
これは覆しようもない事。

357 :
>>349
つか、アレも鸚鵡返しだから

358 :
>>355
沈んであくよw

359 :
>>352
九州説の願望が笑えすぎて腹いてえ

360 :
>>358
もうタイプミスくらいにしか反論出来ない九州説って
あきらかに瀕死だよね

361 :
>>334
>九州説ってほんと、オツム弱いな
同時に立ってるように学者たちが復元してるんだから 根拠はとっくに発表されてるんだよ
そして誰でも知っている 九州説信者が無知なだけ<

大和説者ってほんと、オツム弱いな。
「南→東」や「正北抵新羅」の無視や、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の無視などの嘘つき騙しがバレた大和説学者らは、
もう始めから国民からも人類からも、
「全く信用されていない・・・・アホ学者」らだ、という事なんだよ。

362 :
>>355
うゎゎわ!!!九州説が沈んであ〜くぅ〜!w

363 :
>>352
>寺澤は、内心では逃げたがっているようにも見える。

寺沢氏、徳島へ来て、へこんで帰って行ったよ。  わははははは   @阿波

364 :
>>342
オウム返しされても自己反省が全くないとか
大和説者は、基本的な「脳の神経の電流共鳴回路」が普通の人とは異なっているようだ

365 :
>>354
寺澤が沈んであく〜!!!w

366 :
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

367 :
>>355
宇宙の根本法則である時間差という現象を理解し、
それが地上で生起することを理解できない典型的な東夷人倭種アタマ、、。キミは真正の倭種の血筋・・、

368 :
>>200
畿内説石野船長「南⤴東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向と左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大氷山発見→)!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ正面衝突し、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南⤴東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」

369 :
>>359
「南≠東」なんて、
小学生でも「おてんとさまは、東から出て南を通って西に沈む」という事を知っているから、
小学生でも常識。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの願望がら、
笑えすぎて、腹いてえ

370 :
>>355
箸墓も、ホケノも、特殊器台も、4棟の建物も、桃の種も、蛙の骨も、崇神天皇も、倭の五王も、聖徳太子も、
みーんな三世紀中ごろと思ってしまうんだろうな。
倭種アタマ。。。

371 :
寺澤は、
橿原ホケノにほうり投げて、とっくに逃げ出しちまったんだろ。

372 :
九州説むざんやな

373 :
寺澤だけじゃなくて研究者は、みんな纏向は4世紀の遺跡で、卑弥呼と無関係だって知ってるんだよ。
でもそれを言うと文部省に睨まれて予算が削られちゃうから誰も言い出せないわけ。だからみんな猿芝居してる。
誰もアメリカに降伏するなんて弱腰なことを言い出せずに、一億玉砕w作戦なんて始まっちゃって、本土空襲されて焼け野原になった太平洋戦争と同じw

374 :
既存の畿内説はオワコン
奥山一人だけ置いてきぼりになってるんだよ
社会と接しない井の中の蛙だからw

375 :
>>373
まぁ、ある意味、漏れらも「畿内」説に付き合ってる大○○かもしれんなw

376 :
畿内説は焼野原となってしまうのだね。

377 :
>>375
暇つぶしでからかっているだけだから。

378 :
>>373
真実(天皇は中国人>>204)は言ってはダメ! 上手に愚民を惑わしハグらかして〇丸〜く収める。
それが日本と言う国の本質なのれす。

379 :
>>359
もう「南≠東」や「正北抵新羅」や「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「冢≠前方後円墳」くらいにも、
反論出来ない大和説って
あきらかに瀕死だよね

380 :
>>362
うゎゎわ!!!、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説学者らがら、
沈んでい〜くぅ〜!

381 :
>>373
>寺澤だけじゃなくて研究者は、みんな纏向は4世紀の遺跡で、卑弥呼と無関係だって知ってるんだよ。

あんたそれ、宇宙から電波とかで受信したのか?

w
w
w

382 :
>>364
お、おう

383 :
じゃあ九州説はオウム返しされたら自己反省するのかな

384 :
>>381
うゎゎゎ!!
九州説が沈んであくぅ〜!!!w

385 :
>>372
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説学者、
むざんやな

386 :
>>385
短里などの嘘つき騙しがバレた九州説
むざんやな

387 :
九州説が沈んであく!沈んであくよ!w

388 :
>>389
うゎゎゎ!!
「南≠東」などで、嘘つき騙しがバレた大和説学者らが
また沈んでいくぅ〜!!!

389 :
九州説さん
古墳時代が3世紀中頃からと書いてある教科書で勉強してるお孫さんはね
「おじいちゃんボケてるから」って言って
悲しそうな顔してるよ

390 :
>>344 なるほど

391 :
おう九州説のザラコク
>>385
>>386
の通り早く自己反省しろ

392 :
>>386
>短里などの嘘つき騙しがバレた九州説むざんやな<

魏志に記載された里が、「始皇帝里だ」という、
5〜6倍も違う嘘つき騙しがバレた大和説の東大理系博士らは、
無残やなあ。

393 :
>>392
オウム返しされても自己反省が全くないとか
九州説者は、基本的な「脳の神経の電流共鳴回路」が普通の人とは異なっているようだ

394 :
>>389
奥山は何大学の「理系博士」号であるのか?、は知らんが、
類スレ主は「東大理系博士号」やそうで、
古墳時代が3世紀中頃からと書いてある教科書で勉強してるお孫さんはね
「おじいちゃんや教科書がボケてるから」って言って
悲しそうな顔してるよ

395 :
九州説は自己反省とか皇国史観とか
言う事がいちいち学生運動用語っぽい

396 :
九州説と学生運動全学連
左翼勢力との黒い繋がり

397 :
>>394
その孫、進学無理だな
気の毒に

398 :
宇宙線の想像以上の威力が明るみになったので、ついでに破綻した炭素年代法の、そのまたついでに、破綻したくだらない仮説かあったね。

399 :
果たしてその孫は本当に存在してるのだろうか

400 :
399は、非素数。

401 :
400

402 :
畿内説は桜井市の新興宗教の回し者か?

403 :
>>401
401は、素数だね。

404 :
>>398
想像以上のエネルギーの1次宇宙線が繰り返し大気に命中して、中性子が出現し、1700年間、桃の種に、想像以上の量の中性子が命中し、炭素14を外部要因で、崩壊させていたのだったね。

405 :
最近、またしても、強力な宇宙線が、観測されたな。

406 :
>>396
大和説者は、畿内とか大和朝廷とか皇国史観とか
言う事がいちいち、やくざ暴力団の極右国粋皇国史観の宣伝用語っぽい
大和説学者らと文科省や文化庁らの右翼勢力との黒い繋がり、
私は、50年以上前に、美智子さんと会釈を交わした事があり、
その時の皇太子さん(=今の上皇様)は向こうを向いておられた。
そして、昭和天皇らの天皇家は、
強い戦争後悔のお気持ちを持っておられた事も知っている。

407 :
>>406
それが今じゃすっかり気の触れた掲示板荒らしに
上皇もさぞや嘆かれるだろう

408 :
奥山氏は、天皇家に対して、礼儀が悪いのだったね。

409 :
>>408
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、朝鮮民族の誇りがあるのだったな。

410 :
まあ上皇陛下は左翼主義だったらしいと有名だけれど
しかし九州説の成立せんもんはせん

411 :
邪馬台国畿内説は、天皇家を憎んでいるのだったな。

412 :
2013年に明らかになったのだったね。

413 :
強力な宇宙線が、頻繁に観測されるようになってきたな。

414 :
宇宙線の観測は、奥山氏の自宅でも、手軽に出来るのだったな。

415 :
畿内説に勝てないからってとうとう宇宙の話をしだす九州説

416 :
10進数では、1桁が、0 2 4 5 6 8の二桁以上の自然数は、非素数なのだったね。

417 :
魏志倭人伝の真実では、近畿地方は、非邪馬台国なのだったね。

418 :
>>398
想像以上のエネルギーの1次宇宙線が繰り返し大気に命中して、中性子が出現し、1700年間、桃の種に、想像以上の量の中性子が命中し、炭素14を外部要因で、崩壊させていたのだったね。

419 :
>>418
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しているのだな。

420 :
同時期の4棟連続は立証できない畿内説じゃねーの

4棟連続でもいいが周りに住居跡無いのに大集落??


うーーん
奥山は
奥山は巫女千人、兵は通勤だから住居跡は必要えーかwwww

421 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

422 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

423 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

424 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

425 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

426 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

427 :
>>392


で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?


で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?



早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

428 :
しっかりせいよ>>1

これ畿内説のスレじゃない

何が目的なんだよ

あんたのマスターベーションに付き会うスレじゃないよ

このスレの好いところは他説の言い分を聞くところだけだよ

2ちゃんだから良いけど過去の名1#okuyamaへ

つぶやき???を何とかしないか・・
類つぶやき=オクヤマじゃないと信じてるから なんとかしろよ

駄目ならシバシスレを閉めればよいよ


>>420は2ちゃんを理解してないようだ 通勤なんてどうでもいいよ
テンプレは話題提供

429 :
九州説は狂うのもほどほどにしといたらどうか

430 :
畿内説の方が狂っている。

431 :
>>?さん
あのーーーーーーーーーーーーーーーーーー

巻向の4棟の掘立柱建物だけど
同時期に4棟あったのかどうか 
これ考古学的に興味あるのだが
明確な解説ないのと思うけど
同時期に4棟揃い済みの根拠 知りたいのです

432 :
>>384
アホか
ここは畿内説のスレなんだよ
九州説に振るほど畿内説は落ちぶれてねーよ

433 :
>>422

お前誰???

つぶやきといっしょじゃん

ハイハイあんたの言うとおり

ごめんなさい

偽書でした スンません

私の投稿が謝ってました

ごめんなさい

434 :
>>430
畿内説は荒らしたりオウム返ししたり素数数えたりしないよ

435 :
>>428
>テンプレは話題提供<

これを畿内説の定説と言う奴がいるんだよなwww

笑いませう

436 :
素数だと証明された最大の素数よりも、更に大きな自然数を、素数なのだと発表しても、証明することは、難解なのだな。

437 :
>>436
貴方は、遠回しに、邪馬台国畿内説が、頭が悪い理由を指摘しましたね。

438 :
素数関数を完成させれば、良いな。

439 :
非自明な零点の実部は、必ずしも、1/2だけではない可能性も残されているのだったな。

440 :
>>439
邪馬台国畿内説が正しい可能性よりも、無量大数倍以上高いな。

441 :
邪馬台国畿内説はイケメン。邪馬台国九州説はブサメン。

442 :
邪馬台国畿内説は、朝鮮民族。邪馬台国九州学は、日本人。

443 :
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

444 :
邪馬台国畿内説を宣伝する奥山氏は、くだらない自作自演で、朝鮮民族だとバレたのだったな。

445 :
>>431

それ立証は無理だと思う
巻向は100年以上続いた遺跡だから
4棟が同時期にあったかどうかは立証するのは難しいと思う

BUT 同じ方向に建てられたのは確かでしょうな

446 :
4棟の建物は、時間を追って建て替えられた可能性は小さくない。
なのに、一挙に建てられ、一挙に放棄されたと、短絡的に即断したがる・・、
つまり畿内説は、「時間差」という宇宙の法則を想定・理解できない低能力人種=倭種なんだな。

447 :
寺澤は、
橿考ホケノにほうり投げて、とっくに逃げ出しちまったんだろ・・。

448 :
>>323
>>308はしばらく泳がせて充分恥をかいてもらおうかな
自主的にやってくれるのは、よいことだ<

奥山だろうがこれ保存しとくから、4棟が同時期にあった根拠よろしく

畿内説批判じゃなくて 学者の資質を問うているのだよ

449 :
>>373
>寺澤だけじゃなくて研究者は、みんな纏向は4世紀の遺跡で、卑弥呼と無関係だって知ってるんだよ。
>でもそれを言うと文部省に睨まれて予算が削られちゃうから誰も言い出せないわけ。だからみんな猿芝居してる。

なるほど、みんな本音はわかってるんだよな、、。

450 :
>>446
賛同

451 :
>>448
あほだなあ
庄内2のとき出来て庄内3で取り壊しされてるんだよ
その間に建て替えが何度もあるわけない

452 :
>>441
>>442

九州説はおおよそについて全て逆を言う
という事は

453 :
>>445
正論
4棟連続なら
1棟毎にその役目を解説すべきだでしょう
建物B 20数? 建物D 200数???

各々の役目はわかりませんね

454 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。

455 :
邪馬台国畿内説は、頭が悪いな。

456 :
もわっとした言葉遊びだけで科学的考察がないですね キナイコシさん

457 :
へーーー
やるね-

こんどは掘立者建物群の4棟同時期への疑問だな

巻向王都説は畿内説の一部の説と分かってくれないかな・・・

巻向学研究センターのHPでも王都と言ってない

>>1の思い込みが 

458 :
頭の悪い邪馬台国畿内説が、どのような意見を発表しても、読んだ者達が笑いリラックスできるので、良いな。

459 :
>>452
九州説が永遠の負け組ってことよ

460 :
同時期に 4棟連続に掘立柱建物群があったと言って無い
王宮

461 :
>>451
それ 無理 
各論の質問に答えて無い

462 :
若者達の新しいアルゴリズムが、走行中なのだったね。

463 :
>>457
>巻向学研究センターのHPでも王都と言ってない

九州説がいかに「なんにも見てない情弱」か
自分で証明してくれて
とても楽だ

464 :
>>462
僕達の予測では、ジャバスクリプトというスクリプトを不許可にしながらの2ちゃんねるを表示するためのアプリケーションの作動は、若者達のアルゴリズムには、悪影響が無いのだったね。

465 :
>>461
>庄内2のとき出来て庄内3で取り壊しされてるんだよ <

ハーー
4棟が同時期になかったと言うことなの??
土器編年の問題もあるが

466 :
>>464
だが、別のパーソナルコンピュータで、このスレッドにアプローチした方が、良いのではないのかな。

467 :
メモリの問題を解決したのではないのかな。

468 :
>>466
あまり、影響はないよ。

469 :
走れ。

470 :
邪馬台国畿内説は、頭が悪いな。

471 :
おい、奥山氏、はっけよい。

472 :
走れ。

473 :
九州説が本格的にヤバイ

474 :
奥山は弱すぎ

475 :
奥山のオナニー見せられてるような気分だよ
ツッコミどころ満載の畿内説をテンプレに貼ってさ

476 :
見なければいいのでは
誰も頼んでないし

477 :
もわっとした言葉遊びだけで科学的考察がないですね キナイコシさん

478 :
炭素14C年代測定法と副葬品で
前方後円墳ホケノ山は3世紀前期〜中期の卑弥呼の時代からあったものと判明
卑弥呼の時代にはすでに畿内には大きな勢力があった

479 :
>>465
あんたの脳のほか
なんの問題もないだろ

480 :
邪馬台国畿内説の脳は、問題だらけなのだったね。

481 :
若者達が作製したアルゴリズムが、走りきったな。

482 :
ソース、スパゲティ、改善余地有り。

483 :
もわっとした言葉遊びだけで科学的考察がないですね キナイコシさん

484 :
三角縁神獣鏡の舶載品とされる物をSPRING8で蛍光分析というのをやったら
魏鏡と銀・アンチモン比が一致
三角縁神獣鏡は魏鏡
三角縁神獣鏡の発見が多い畿内は魏と国交があった
そして景初や正始元年など
魏志倭人伝に卑弥呼が魏に使者を送って銅鏡を貰ったという年号も鏡に入っている

485 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

486 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

487 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

488 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

489 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

490 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

491 :
>>465

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

492 :
公開オナニーしといて見るなはないわ

493 :
畿内説はどんどん頭がおかしくなってる

494 :
球種節のやってる荒らしの方がよほど公開オナニーに該当するのでは

495 :
畿内説が不利になると定番コピペで流して
九州説を批判するコメントを張り付ける
これの繰り返しですねえ
専守防衛?w

496 :
印象操作しようとしても無駄

497 :
九州説の猿芝居はとっくにバレてる

498 :
>>434
でも畿内説はよく呟いているよね。

499 :
>>451
>その間に建て替えが何度もあるわけない
あるわけないという根拠は?
むしろその間に建て替えがない方がおかしい。

500 :
>>457
>巻向王都説は畿内説の一部の説と分かってくれないかな・・・
それなら>1のテンプレを直させろよ。

501 :
>>463
>九州説がいかに「なんにも見てない情弱」か
「畿内説」のテンプレから目をそらすな。

502 :
>>498
九州説は荒らしとオウム返しと素数数えを認めるの

503 :
>>498
という証拠は??

504 :
>>499
>あるわけないという根拠は?
>むしろその間に建て替えがない方がおかしい。
庄内2から庄内3までの間に、どうして
「建て替えがない方がおかしい」って理由は?
同時に存続してなかったら企画性が保てない
そもそも性格の違う建物を「建て替え」る意味がない
これまでの常識に照らし、建て替えは同じ場所か完全な隣接だ
掘立柱建物の寿命についての研究も踏まえて
だれもが一括の建物群と考えた
非常識な異論を唱える九州説はもはや学会の孤児ですらなく
完全に非学問だよ

505 :
>>459
>九州説が永遠の負け組ってことよ<
史料事実及び史料実態からは、
卑弥呼の都関しての大和説は、「永遠の負け組」、
って事よ。

506 :
>>463
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定や曲解をする嘘吐き騙しの大和説が、
いかに「なんにも見てない・・・・アホ詐欺の情弱」か
自分で証明してくれて
とても楽だ

507 :
>>478
>炭素14C年代測定法と副葬品で
前方後円墳ホケノ山は3世紀前期〜中期の卑弥呼の時代からあったものと判明<
木棺の炭素14C年代測定法と副葬品で
前方後円墳ホケノ山は3世紀最末〜4世紀の墓であり、
卑弥呼の時代ではなかったものと判明
>卑弥呼の時代にはすでに畿内には大きな勢力があった <
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
大和は、毛人と出雲系銅鐸祭祀部族と、阿毎氏の東征の神武らの欠史八代の、
3者の婚姻共存地域であったが、
3世紀後半半ば過ぎに、
新たな「東征毛人五十五國」の軍の侵入に拠って、征服された。

508 :
>>484
>三角縁神獣鏡の舶載品とされる物をSPRING8で蛍光分析というのをやったら
魏鏡と銀・アンチモン比が一致
三角縁神獣鏡は魏鏡<
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの、
手持ち材料銅と、古銅鏡や銅剣銅矛銅鐸を材料にした銅との混合であったから、
成分比が近縁であった。

>三角縁神獣鏡の発見が多い畿内は魏と国交があった<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡であり、
大和の△は、当初は葛城の麓付近だけであった。
>そして景初や正始元年など
魏志倭人伝に卑弥呼が魏に使者を送って銅鏡を貰ったという年号も鏡に入っている<
明帝の詔書は景初二年12月で明帝は景初二年大晦日から翌元旦に亡くなったから、
景初三年鏡や正始元年鏡は、明帝鏡ではないから、
この・・・・アホ詐欺の大和説男は、×人間。

509 :
>>497
>九州説の猿芝居はとっくにバレてる <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの、大和説の猿芝居は、
とっくにバレている。

510 :
>>502
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐きがましの大和説は、
荒らしとオウム返しされと、史料事実などの否定曲解の嘘吐き騙しであった事を、
認めるの?。

511 :
>>508
>明帝の詔書は景初二年12月で明帝は景初二年大晦日から翌元旦に亡くなったから、
>景初三年鏡や正始元年鏡は、明帝鏡ではないから、
それ、理由ないですけど
つまり他人には理解不能
ということは、説として成り立ってない

512 :
>>504
>庄内2から庄内3までの間に、どうして 「建て替えがない方がおかしい」って理由は?
同時に存続してなかったら企画性が保てない
そもそも性格の違う建物を「建て替え」る意味がない
これまでの常識に照らし、建て替えは同じ場所か完全な隣接だ
掘立柱建物の寿命についての研究も踏まえてだれもが一括の建物群と考えた
非常識な異論を唱える九州説はもはや学会の孤児ですらなく 完全に非学問だよ<
「掘立柱」に「石床」などの基盤のない、大型や高層の 建築は、
長持ちしない。

513 :
>>512
>「掘立柱」に「石床」などの基盤のない、大型や高層の 建築は、
>長持ちしない。

で、どこに「石床」などの基盤のある建物があるの?

514 :
>>485
>>465だが、人違いするな

515 :
邪馬台国畿内説の脳は、問題だらけなのだったね。

516 :
>>513
過去レスで誰かが何枚かの写真付きで柱の基礎を解説してたよ
思いだせるのはこれ

http://inoues.net/ruins/hiratuka.html

517 :
畿内脳は、関数や論理を理解不能なのだったね。

518 :
掘立の薪小屋を建てるのを手伝ったことがあるな。

519 :
>>518
2つの剣先スコップの刃先を、向かい合わせに挟み込む形状の道具を、使用したのだったね。

520 :
穴の底に石を敷き詰めたのだったね。

521 :
>>516
お疲れさん
円を描くのが大和では先進技術なんだから、
柱の基礎が無いのはあたりまえ
よわっちいぃ家

522 :
>>491
伝承がなかったとする証明を自分でしたらどうだい?

523 :
>>520
出雲の?遺跡は石を敷き詰め柱の基礎としてたな・・

524 :
>>484
「発見が多いから」はどうだろうね
広範囲で発見されているだけにその考えは浅い

525 :
>>478
しかし鉄器は乏しかった
ライバル国と目される地域も乏しかった

石の投げ合い?

526 :
キウス氏だったかな解説してたの????
柱の基礎は大きくなればなるほど重要だな
巻向の大型建物Dは、長持ちしないと思うがな
それも湿地帯だろ

527 :
>>513
勉強になって良かったねww

巻向の建物の建て替え説に1票 入れとくよ

528 :
>>503
反応するあんたが証拠

529 :
>>504
根拠が畿内説の得意技の憶測

530 :
いつ見ても畿内説は論破されてるな
今回は掘立柱建物の同時期に無かったのでは?の指摘になんら答えられないなwwwwww
同時期でもいいが斎場だよ

531 :
>>516
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html
なるほどね 

532 :
尻尾を巻いて逃げたキナイコシであった チャンチャン
つぶやきに変身するかもな

533 :
>>531
平塚川添遺跡すごいなーー
巻向なんて屁じゃん 巻向は墓場でいいんでねーの

534 :
ネット社会って怖いねーー
畿内説互助会の妄想が暴かれるなww

535 :
>>534
>ネット社会って怖いねーー

九州説や畿内説の妄想が暴かれるなww  わははははは   @阿波

536 :
>>533
おれもそう思う
巻向に税金を突っ込む事無い

537 :
>>535
阿波も気をつけたほうがいいよ

538 :
>>534
その通りだ
学者の説が多くの素人の研究家に論破されてしまう時代だろ

539 :
畿内説は巻向王都説から距離を置いたほうが良い
巻向は穴だらけで、王都と言わなければよかったのに・・・・
卑弥呼 卑弥呼 と騒いで助成金(税金)を取りたい気持ちはわかるがな

540 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

541 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

542 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

543 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

544 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

545 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

546 :
>>512

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

547 :
それにしても、創価(何宗?)なんだよな、なぜ嫌われているのかとか?
家の老婆談も創価関係の話だしな・・・・・・・・・・・・・・・・w

548 :
キュウリの葉、葱の華・・・、
あの写真があるでしょ?当時、家は創価ではなかったしw
老婆も詳しいことは、わからないとか。

549 :
>>530
>今回は掘立柱建物の同時期に無かったのでは?の指摘になんら答えられないなwwwwww
これもウソ
>>512で説明を受けたのに
「根拠が畿内説の得意技の憶測」
としか言えなかった
つまり通説側の説明に何も反論できなかったのが事実

550 :
これすごいぞ
大型建物の柱穴に注目・・・縄文期だけどねこれなら基礎もいらないかもな
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/

551 :
>>549
同時に存続してなかったら企画性が保てない
そもそも性格の違う建物を「建て替え」る意味がない
これまでの常識に照らし、建て替えは同じ場所か完全な隣接だ
掘立柱建物の寿命についての研究も踏まえてだれもが一括の建物群と考えた
非常識な異論を唱える九州説はもはや学会の孤児ですらなく 完全に非学問だよ


これか・・

552 :
家のほうが正解だった?みたいな話なんだろうけど。

553 :
なぜか漫画『ザ・モモタロウ』
うらしま・・・とシュテンドルフ、
むかーしの知り合い?みたいな話とかw
『』『』『』『』・・・その他の先品も同じような話だしな。

554 :
同時に存続してなかったら企画性が保てない
  ⇒なんの企画性?
そもそも性格の違う建物を「建て替え」る意味がない
  ⇒建て替えるたびに大きくなったりしてもいいじゃん また4棟のそれぞれの役割を説明されてないじゃん
これまでの常識に照らし、建て替えは同じ場所か完全な隣接だ
  ⇒隣接でいいよ 当然建て替える前の家は建て替えが終わって崩すから 接してはいないけどね
掘立柱建物の寿命についての研究も踏まえてだれもが一括の建物群と考えた
 ⇒寿命は何年でその根拠を示した文献は?また一括の根拠は?

555 :
『ヱヴァンゲリヲン』の某、某、某・・・などもw同じでしょ。

556 :
国民を欺いていた、騙していたということなども発覚しただろう。
当時の皇国何やら(不明)?創価も、そういうのだと言っているしw

557 :
老婆が言うには、香野という家があってという話もしていたり、
謎の埼玉苗字辞典w
『浄誓寺 埼玉県』?

558 :
>>550
そこ色々と疑問を指摘されてるな
縄文の小集落跡だったのにあまりに大規模に再現されてるとか
ゴッドハンドw

559 :
ウラシマン(仮)がいるでしょ?なぜか国王とか、そういう話。
シュテンドルフ(仮)とも・・・知り合いなのかな、知っているような・・・みたいな話。

なぜか『ザ・モモタロウ』w

560 :
『サムライ・トルーパー』『ドラクエ』
『ドンバ』でもないし・・・、でも、なぜか同じような?

561 :
何の家だったんだろう、
そういう家があって?供えたりするもの、
落雁のようなものを作っていたりしたとか。

562 :
『サムライ・トルーパー』?

563 :
>庄内2から庄内3までの間に、どうして
>「建て替えがない方がおかしい」って理由は?

あれほどの大きな建物に石の床がないということは考えにくい。
移築するときに、柱といっしょに床石ももっていったのだろう。
床石になる平面石はなかなか得難いからな。

564 :
>>504
>同時に存続してなかったら企画性が保てない

それこそ根拠のない思い込み

565 :
>>504
>これまでの常識に照らし、

根拠がない。

566 :
>>536

同意する。
桜井市の予算なら知ったことではないが、国の予算を使うな。

567 :
浅学で悪い 教えてくれ
庄内3式布留0が見つかったのは4棟のうち建物Dからだけじゃなかったっけ?

568 :
>>549
それ、他人には理解不能
ということは、キナイコシの主張は説として成り立ってない

569 :
>>534日本@名無史さん2020/01/12(日) 07:56:31.41>>535>>538
>ネット社会って怖いねーー
>畿内説互助会の妄想が暴かれるなww
まこと、その通り、、、

570 :
王都ったって都民の住居がないんじゃーな

571 :
このスレでも言われている倭人というのは、
『ザ・モモタロウ』にも出てくるでしょ、倭〜何やらとか。

572 :
>>512
巻向編年では
2世紀末葉に突如出現して、4世紀中葉に巻向は終わってるのだろ
4棟が200年近くも同じ形態を保ち建ってたと思えないな
それも 柱が細いし 基礎もしっかりしていない
建て替え 建て替えでいいんでねーの

573 :
石野も寺澤も素人研究者の文殊の知恵にあっけなく論破されてしまうな
畿内説から破門すべきだな

574 :
>>572
また九州説が発狂してるな
だれも「4棟が200年近くも」存続してたなんて
言ってないのに妄想してる

575 :
倭〜(後に日本の皇族?)は朝鮮人みたいな話ばかりだしな・・・、
ほんとーに、おかしな話。

576 :
巻向の掘立柱建物は建て替えたでいいよ
卑弥呼が倭国の女王になった時にそれにふさわしい大型建物Dを作った

577 :
>>572
その通り、
湿地なのに基礎がなかったということは、基礎板、基礎石もごっそり持って行ったのだろう。建て替えだな。

578 :
石野も寺澤も、
考古学は専門かもしれぬが、建築はド素人のようだな、、。 奈良の土建屋、建築屋にお伺いを立てろ。

579 :
当時(不明)、泥棒のようなものに入られたと言っているしw
あの話と同じ、都市伝説?


老婆の家が泥棒に入られたわけではない。

580 :
>>558
あの柱穴は大きいぞ
あとで掘ったのならすぐばれちゃうし
スゴイ労力だから組織だって捏造したとは思えんな
またまた 学会の汚点とは思えんな

581 :
>>574
じゃあどこに住んでたんだよ

582 :
『サムライ・トルーパー』
本当はマサカドとか、そういう話でしょ?

583 :
位置も形も大きさもぜんぜん違う建物を
建て替えだとか言い出す九州説って
発狂状態が日常化してるよね

584 :
>>583
位置も形も大きさも同じなら、建て替える必要はない。 なにトンマを云ってるんじゃ

585 :
>>583
だからさ おのおの建物の役割はなんなの

586 :
邪馬台国も倭〜?朝鮮人みたいだしなw

587 :
>>584
はい、九州珍説「建て替えじゃぁ〜」死亡

588 :
>>584
はい、九州珍説「建て替えじゃぁ〜」死亡

589 :
>>585
FAQにあるよ

590 :
>位置も形も大きさもぜんぜん違う建物

阿波で仕上げた建材を持ち込んで作ったからでしょ
現地仕上げなら同じ大きさだけど
持ち込みだから形も大きさもバラバラになる。

巻向には鉄器がないんだしw

591 :
建物の形状がバラバラで建て替えられている
→現地では建材を仕上げる能力がなかった

592 :
建築でも何でも良い、
朝鮮人のためにしているわけではないんだけど。

そう思っている人もいるだろう。

593 :
残念ながら、湿地帯に建物がポツンと建っているだけだったようだな

倉庫

594 :
以前から書いているはずなんだけどw

595 :
>>590
>阿波で仕上げた建材を持ち込んで作ったからでしょ

倭国(阿波)の「古墳造営前線基地」だからね。   @阿波

596 :
斎場の話で盛り上がってるみたいだなww

597 :
>>593
敗残の九州説
もう完全に現実逃避モードか

598 :
少数の考古学者と子分で古代都市の建築から社会構造・統治・庶民生活までをも占有・占拠し、
つまりは国県市の予算を独占して酒盛りをしようとしたから、あちこちでほころびが出まくったのだ。
よくばり爺さんたちの末路だな。

599 :
それよりも家の写真があるでしょ、
なぜ老婆談・・・と同じなんだと思う?

謎のコミックなどもw
家は川崎区というところに住んでいるんだけど。

600 :
『サイバーパンクSPECIAL』

ロトちゃん・・・・・・・・・・、川崎区の南部のほうに住んでいるでしょ、
この作品が正解。

601 :
『川俣 軍司』
おかしな話ばかりだしな・・・。

602 :
老婆の話によると、川俣町・・・?
そういうところの話をしていたり、おかしな話ばかり。

・・・・・・・・・・・・・・・謎の刀(剣)の話もw

603 :
あと歌舞伎・・・、そういう話もしていたりw

604 :
>>602

老婆談 「阿波で千年、京で千年」   @阿波

605 :
『マサカド』
歌舞伎・・・?老婆談、なぜか詳しいんだよな・・・。

606 :
日本海側には鉄器が普及していたから、
万行遺跡での建て替えは現地で建材を仕上げて
同じ大きさの建物群を建て替えている。

纏向遺跡では鉄器が出土しておらず、
阿波などで建材を仕上げて持ち込んできたから、
大きさも形も異なる建物が建て替えられていた。

607 :
>>606
>日本海側には鉄器が普及していたから、
>万行遺跡での建て替えは現地で建材を仕上げて
>同じ大きさの建物群を建て替えている。
そっちは、北陸忌部だね。   @阿波

608 :
畿内説に都合が悪い流れになると必死で流して精神勝利宣言挟んでくるねw

609 :
>>606
だから建て替えじゃないんだろ
脳停止してんのか

610 :
>>608
畿内説に都合が悪い流れなど存在しないぞ
なにマボロシ見てんだ?

611 :
基礎がしっかりしてないから200年もたない、建て替えだ
建て替えなら形と大きさが異なるのはおかしい、建て替えじゃない
鉄器のある阿波で作った建材を運び込んだから形も大きさもバラバラなんだ、建て替えだ
キナイコシ逆切れ 今ココ

612 :
キナイ湿地は、レベル低ーい
キナイコシも、レベル低ーい

613 :
少数の考古学者とその子分で、
古代都市の建築から社会構造・統治・人民の生活痕までをも占有・占拠し、
つまりは国県市の予算を独占して酒盛りをしようとしたから、あちこちでほころびが出まくったのだ。
よくばり爺さんたちの末路だな。

614 :
どのスレだったかな、
ウラシマンは(実際は)何もしていないだろう、
みたいな事を言っている人もいたり。
でも何かはしていたんだろうけど。

615 :
>>611
それで畿内説がどうしてキレると思う?

616 :
湿地帯に倉庫が一つポツンと建っているだけだったから

617 :
>>616
九州説爺さんが変な妄想すると
なんで畿内説の者がキレなきゃあかん?

618 :
九州説が発狂するくらい纏向遺跡が脅威ってことよ

619 :
邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮民族の、頭の悪いプロ固定は、2ちゃんねるを活発化するために、日本人に悪口を言い放ちながら、朝鮮民族の民族運動である破綻した邪馬台国畿内説を宣伝し、日本人を苛つかせ、刺激するのだったな。

620 :
ほら、発狂してる

621 :
基礎ができていないから建物が長持ちしない
反論できないキナイコシが逆切れ

622 :
>>619
プロ固定の頭が悪いことを見抜いた僕達には、効かないのだったね。

623 :
また畿内の鉄器ガーが沸いてるのか
畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品
○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品

624 :
研究をするために、時間を獲得したので、無駄使いは慎めば良いな。

625 :
2 3 2 2 5 2 3 7 2 2 2

626 :
奈良盆地に、初めて出現した前方後円墳は、4世紀なのだったね。

627 :
では、自然数を少ない方から、数えれば、最初に出現するスキューズナンバは、幾つだろうか、、、

628 :
いろいろ検索などしてみた?
老婆談、ムーとか超能力・・・そういう話(投稿?)と同じ。
結婚する前など・・・何かの家の人だと言われたとかw

629 :
或る区間の自然数をしらみつぶしに素因数分解するためのには、終点の平方根未満の素数のデータベース表が必要なのだろうか、、、

630 :
なんとか纏向サゲしないと九州説が滅ぶって危機感もつのは正しいが、方向性を見失なってるな
無理に新しい珍説を作れば作るほど一般人の九州説支持率サゲになるのに

愚かなことだ

631 :
或る広域の魏志倭人伝時代の都会の有無を知るためには、範囲全体をしらみつぶしに発掘調査する必要があるのだろうか、、、

632 :
>>631
3%程で十分だね。

633 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。

634 :
捨て鉢九州説

635 :
反復深化探索という探索方法があるのだったね。

636 :
ジリ貧敗勢の九州説としては
教科書で纏向遺跡が載ったり「大型建物=卑弥呼の宮殿」説が紹介されたり
そりゃ自暴自棄にもなるわな

637 :
素数表を持たない奥山氏が、691691691691691を素因数分解するとき、まず、どのようなことを考えるべきなのだろうか、、、

638 :
巻向を5%程も、調査した揚げ句の果てに、日本国が設置した公的機関から、具体的な証拠が無いと判定された、頭の悪い邪馬台国畿内説が、焦って、日本人に対して悪口を言い放っているな。

639 :
115281948615281

640 :
>>574
>>572
>また九州説が発狂してるな
>だれも「4棟が200年近くも」存続してたなんて
>言ってないのに妄想してる

都合が悪くなると言っていないことにして、ついには畿内説は中身がなくなった。
嘘つきの末路だ。

641 :
>>593
>残念ながら、湿地帯に建物がポツンと建っているだけだったようだな

仮に4棟が同時でも、やはりポツンとだよね。
王都でもなんでもない。

642 :
なぜか漫画やアニメ、ゲームw

何やらの家の人を探していますとかあるでしょ、
それの元祖なのかな?老婆・・・というか老婆の親戚w

643 :
畿内説としては、纒向の建物は何年から何年まで立っていたんだ?
あれこれ言い訳ばかりで、一向に畿内説の中身が見えてこない。
中身がないからか?

644 :
老婆談は、
漫画やアニメ、ゲームなども、なかった頃の話なんだけど、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・おかしな話ばかり。

645 :
九州説は自分のとこで語れるものがないから
畿内説にケチをつけてばかり

646 :
>>645
>>643に対する回答は?
自分も聞きたい

647 :
>>640
>都合が悪くなると言っていないことにして、ついには畿内説は中身がなくなった。
>嘘つきの末路だ。

  ↑
これが嘘つきの典型なー
他人の発言を捏造し、「言った」という証拠は絶対出さない
嘘つきで詐欺

それが、九州説の実態だ

648 :
>>646
庄内2から庄内3までの間だとは言ってる
実年代は言ってないね

649 :
>>647

すぐ前のスレで200年も続いたとほざいていたろ。

650 :
>>648

ああ言えばこう言うキナイコシ

651 :
兵・巫女の住まいも不明
柱も細い、基礎もなし、同時期に4棟建っていたのかも不明、
いつからいつまで建ってたのかも曖昧なあばら家を王宮とする畿内説
バカの集団だなwww

652 :
少数の考古学者とその子分で、古代都市の建築から社会構造・統治・人民の生活痕までをも占有・占拠し、
つまりは国県市の予算を独占して酒盛りをしようとしたから、あちこちでほころびが出まくったのだ。
畿内の欲ばり爺さんたちの末路だな。

653 :
で、纒向の建物の年代は?
纒向全体では何戸の建物があった?

654 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

655 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

656 :
ゴジラ(ウルトラマン)、
それともマラソンのほうの人だったかな、
知人がいるような・・・?とか、
そういう話もしていたし・・・、元祖?

657 :
>>649
>すぐ前のスレで200年も続いたとほざいていたろ。
証拠は?
出せないの?
九州説さん、またウソ?
毎日ウソつき通しだね

658 :
>>655
九州説は言うことが支離滅裂だな

659 :
友人が来訪し、長話を楽しんだので、研究の進行内容を忘れてしまったな。

660 :
邪馬台国畿内説は、頭が悪いのだったね。

661 :
巻向を5%程も、調査した揚げ句の果てに、日本国が設置した公的機関から、具体的な証拠が無いと判定された、頭の悪い邪馬台国畿内説が、焦って、日本人に対して悪口を言い放っているのだったな。

662 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

663 :
691691691691691を6で割ったときの余りを計算したのだったね。

664 :
>>651
九州説の言い分が正しいなら畿内説が間違いだって主張なら、それトートロジーだから馬鹿のセリフってことだ
つまり今日も九州説は自分が馬鹿と自白している

665 :
6n─1型なのだな。

666 :
>>648
だから
何年から何年? 根拠は?
4棟とも一緒という根拠は?

667 :
邪馬台国畿内説は、頭が悪いので、意味のないことを言い放つだけなのだったな。

668 :
>>664
いいかげんな回答ばかりするキナイコシ

669 :
>>667
貴方は、遂に、「邪馬台国畿内説」という言葉を「頭が悪い者」と擬人化して、定義したのだな。

670 :
>>618
ちがう 巻向が畿内説の足を引っ張ってるのだよ

671 :
奈良大学の名誉教授である酒井先生が説いた
古墳造営キャンプ地説が有力だな

672 :
>>666
>何年から何年? 根拠は?
>4棟とも一緒という根拠は?
建てたときもう庄内2が始まってて取り壊しは庄内3の中だから、だいたい3世紀第二四半期の中
ということは存続期間が最大二十年ちょいだから途中建て替えはナシ
囲いの柵が建て替えナシなのだから当たり前だが

673 :
>>671
いや、無力
大型建物もなにも発見されてない前世紀の説だから賞味期限切れ

674 :
卑弥呼と関係なさそうなんだが?

675 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

676 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

677 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

678 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

679 :
纏向の建物は鬼道に使われた可能性のある桃種やカエルの骨等から見ると
鬼道を行っていたという卑弥呼と台与の治世の3世紀中葉〜後葉
魏志倭人伝からAD240〜270年くらいになるのでは

680 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

681 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

682 :
敗勢の九州説がまた荒らし

ゴミすぎる

683 :
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html

684 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

685 :
>>684
ガセも連呼すれば信用されると思うのは九州説特有の幻想
実際は信用が落ちる

686 :
>>685
どこがガセなん?

687 :
マキムクは「他地域からの搬入土器が多い」とあります。実は搬入土器の多くは炊飯用の甕であり
古墳造営基地の土木作業員が持ち込んだものと考えられます・・・巻向に向かう道中および巻向で使用

688 :
土木作業員はどこに寝泊まりしたのさ?

689 :
天皇から与えられる名誉を、奪い合う闘いが、闘われているのだな。

690 :
>>686
ホケノ山は庄内2か3

691 :
試合が、終了したのではないのかな。

692 :
それよりも、傾いた松の木の話。

扶余国()とか書いてあるでしょ、いまのロシアのほう。

693 :
ホケノ山古墳という、そこに埋められた死体の棺の中に、4世紀の花のついた枝が添えられた古墳が、あったね。

694 :
>>688
つまり作業員用の飯炊き土器ではない

695 :
なんで知っている人がいるんだろう、
あの謎の苗字辞典・・・、他の本にも同じようなことが書いてあったり。

696 :
『ザ・モモタロウ』で言うとシュテンドルフ。

697 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

698 :
連呼馬鹿

699 :
九州説は完全に議論を放棄
荒らすだけ

700 :
ホケノ山は布留1っしょ

701 :
>>700
根拠なし
報告書は纏向3類中葉

702 :
>>701
小型丸底土器

703 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

704 :
>>373 なるほど

705 :
>>703
連呼はガセとの自白です

706 :
>>704
飯のタネ(予算獲得手段)だから「畿内」説は必死なんだねw

707 :
>>705
なるほどテンプレ連呼しているキナイコシとはそういうことか

708 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0(小型丸底土器)

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

709 :
>>706
その通り、九州以外の研究者や博物館の学芸員たちの生活が掛かっているからね。
真実>>210は口が裂けても言えない。

710 :
鉄器ザクザクのホケノ山は力づくでも年代引き下げないと九州説困るもんな

711 :
>>710
4世紀の小枝が出ちゃってるからねえ

712 :
>>597
>敗残の九州説 もう完全に現実逃避モードか<
「南≠東」や「掘立柱建築の柱に基礎がなし」で敗残の大和説。
もう完全に現実逃避モードか。

713 :
ポツンと一軒家、、、
ポツンと一軒家、、、
ポツンと一軒家、、、
ポツンと一軒家、、、

714 :
>>702
>小型丸底土器

小林行雄氏による弥生土器の編年
? 弥生土器?様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
? その後、庄内式大和形甕の登場   @阿波

715 :
畿内説は、溶ける鉄板
九州説は、曹操所縁の金銀宝飾鉄鏡

716 :
>>679
>纏向の建物は鬼道に使われた可能性のある桃種やカエルの骨等から見ると
>鬼道を行っていたという卑弥呼と台与の治世の3世紀中葉〜後葉
>魏志倭人伝からAD240〜270年くらいになるのでは
「邪馬台国と関係がある」という結論を先取りした詐欺だろ。

717 :
>>710
九州から鉄を持った支配者が乗り込んできた証拠じゃん。

718 :
>>699
>九州説は完全に議論を放棄
>荒らすだけ
畿内説では、纒向は何年から何年まで使われていた?
纒向には全部で何戸の建物があった?
そこに千人の奴婢は住めた?

719 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

720 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

721 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

722 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

723 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

724 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

725 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

726 :
>>712

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

さっさと言わねえと偽書になっちまうぞ!

727 :
>>722
>小型丸底土器

小林行雄氏による弥生土器の編年
? 弥生土器?様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場
? その後、庄内式大和形甕の登場   @阿波

728 :
>>1
巻向から離れて本論の畿内説に戻らないか
石野先生はOKだが寺澤先生は??
邪馬台国の一施設ぐらいに巻向を考えようよ
それで展開したほうが畿内説にとってプラスだよ
関西の学生たちも疑問を持ちつつあるあるよ
同志社大学の今は宮内庁の研究者の友人に聞いた話だがね・・

729 :
畿内説は、溶ける鉄板 www
九州説は、曹操所縁の金銀宝飾鉄の鏡

730 :
>>716
魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼は鬼道を行うとあるから
何かの儀式に使われたと見られる桃種やカエルの骨が見つかった纏向は
邪馬台国と関連あると見れるだろ
九州説はカエルの骨を見つけてから邪馬台国は九州と主張するんだな

731 :
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す「。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流した。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨している。
倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人達は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨をし水魔を払う。
倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

732 :
荒らしと対話拒否の連呼で押し切ろうとする九州説
もう敗色濃いの自覚してんだな

733 :
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)
重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。
その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人達は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。
「晋書」第九十七巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?

734 :
>>728
>関西の学生たちも疑問を持ちつつあるあるよ
そりゃ、阿波の遺跡を知れば、そうなるわね。  わははははは   @阿波

735 :
>>730
魏志倭人伝には桃は記載されとらんのだよ

736 :
朝鮮正史 新羅本紀
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから
かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」と言った。

737 :
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
408年 春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え
我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。
倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが
舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。
ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。

738 :
>>728
>関西の学生たちも疑問を持ちつつあるあるよ
そりゃ、阿波の遺跡を知れば、そうなるわね。  わははははは   @阿波

739 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

740 :
>>623
>畿内で見つかっている鉄器<
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>○ホケノ山 畿内 3世紀中葉 鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口 <
3世紀最末〜4世紀だから、×。
>○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉 鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、
鉄鏃約200本、 銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本、その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品<
大和ではないし、4世紀であるから、どっちにしても×。

>○黒塚古墳 3世紀後半 刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品 <
4世紀だから×だし、
その3つは、いずれも九州倭国の「東征毛人五十五國」の、
「鉄武器を一杯持っていた将軍らの墓」であるから、鉄器が一杯副葬されたの。

741 :
>>732

畿内説はどうして聞かれたことに答えないの?
答えないから議論にならないのでは?

742 :
>>630
「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説者らは、
なんとか九州サゲしないと大和説が滅ぶって危機感もつのは正しいが、
方向性を見失なってるな
無理に新しい珍説を作れば作るほど一般人の大和説支持率サゲになるのに

愚かなことだ

743 :
>>728
関西の有名大学で 石野や寺澤・橋本は教鞭してない雑魚だよ

744 :
それよりも『ドンバ 仙人』画像を調べてみて。

UFO、ムー、超能力・・・とか、何やら某(末裔?)を探していますとか。
ほとんど創価か何かなんだろう。

745 :
>>636
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、ジリ貧敗勢の大和説としては
教科書で、纏向遺跡が載った事や、
「大型建物=卑弥呼の宮殿」説が紹介された事で、
仲間の教科書会社や教育委員会や文科省らの「高校生を騙すインチキ」もバレて、
そりゃ自暴自棄にもなるわな

746 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0(小型丸底土器)

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

747 :
証拠の出せない情報しか無いのが九州説
そりゃ亡びるわな

748 :
>>743
ザコかもしれんが、無職の奥山よりはるかにマシだな

749 :
>>747
プッ

750 :
>>645
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説は、
自分のとこで語れるものがないから
九州説にケチをつけてばかり

751 :
>>735
卑弥呼は鬼道を使うと書いてる
それに使われたのかも

752 :
>>751
だから植生など博物学を詳しく記している魏志倭人伝に桃は記載されとらんのだよ

753 :
>>647
これが「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説典型なー
史料事実を捏造し、「南→東」などの証拠は絶対出さない
嘘つきで詐欺

それが、大和説の実態だ

754 :
なぜ知っている人がいるのか・・・なんだよな。
オウムも?何か知っている、知っていたような・・・だしな。

wikiなど読んでみた?ストーカー?

755 :
>>658
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
言うことが支離滅裂だな

756 :
いつからなのか知らないけど、国、役所などがあるでしょ?

それ自体がストーカーのようなことをしているんだろう。

757 :
>>752
無いと書いとらんだろ?

758 :
おそらく偽の系図(・・・偽造、捏造)なども作成しているだろう。

759 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0(小型丸底土器)

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

760 :
>>664
>九州説の言い分が正しいなら畿内説が間違いだって主張なら、それトートロジーだから馬鹿のセリフってことだ
つまり今日も九州説は自分が馬鹿と自白している<

違うね。
九州説は、史料事実や史料実態から帰納的高確率的に推論されるから、ほぼ正しい。
大和説は、史料事実や史料実態から殆ど否定されるから、ほぼ間違っている。

761 :
お前の家を正当化するためのwww池沼のような手法。

『ドンバ 仙人』
サイバーパンク・・・未来うらしまん、なんでも良い、
家の写真なんだけど。

762 :
龍宮〜・・・鳳輿・・・の家の写真w
子供の頃、何かの白い制服を着ているでしょ。

『未来 うらしまん』?

763 :
はやく刑務所に行ったほうが良いぞ。
オウムに対して言っているわけでもないし。

764 :
畿内説は、溶ける鉄板 www
九州説は、曹操所縁の金銀宝飾 鉄の鏡

765 :
後のカミタマ・・・仙人・・・、
何なのか、よくわからないけどw
王母〜〜〜〜〜〜〜寒いな〜〜。

766 :
巻向を5%程も、調査した揚げ句の果てに、日本国が設置した公的機関から、具体的な証拠が無いと判定された、頭の悪い邪馬台国畿内説が、焦っているな。

767 :
私がやりました・・・と言って刑務所
(わかりやすく言うと死刑)に行くまで、終わらないんだよと言っているだけ。
人の家を利用して商売(人権侵害)をしたり、
そういう事は気づいているはず。

768 :
>>752
種の現物が出てるから桃はあったろ

769 :
>>672
>建てたときもう庄内2が始まってて取り壊しは庄内3の中だから、
だいたい3世紀第二四半期の中 <
「3世紀第二四半期の中」というのが、始めから、×。
大和は、九州倭國の「東征毛人魏十五國」の征服國の旧小国であり、
前方後円墳も、九州倭国から東征将軍らを介して大和に伝搬したものであり、
九州の前方後円墳は266年の天円地方の学習の後だから、
最も早い那珂八幡などで3世紀後半半ば過ぎであり、
従って、大和の最も早い庄内1の石塚などは3世紀末になり、
従って、庄内2や庄内3は、3世紀最末期頃になってしまう。

770 :
>>768
魏志倭人伝には記載されていない

771 :
>>770
けど桃の種が出てるから

772 :
>>771
ということは、邪馬台国ではないということだ

773 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

774 :
>>679
>纏向の建物は鬼道に使われた可能性のある桃種やカエルの骨等から見ると
鬼道を行っていたという卑弥呼と台与の治世の3世紀中葉〜後葉
魏志倭人伝からAD240〜270年くらいになるのでは<
「南≠東」などに拠って×。

775 :
何か知っている・・・?
犯人がいたとしても、既に死んでいるのかな?
むかーしの写真だと言っているし。
例えば『ドンバ』w

776 :
でも『ドンバ』(例えばw)自体は・・・最近の作品のような。

777 :
>>682
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレて、
敗勢の大和説がまた荒らし
ゴミすぎる

778 :
例えばw
『ドンバ』〜『ドラクエ』のキャラになったり。どう考えても最近の作品。

779 :
>>772
いいや魏志倭人伝の記述の不備だね
書いてない桃の種があるんだもの

780 :
>>685
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのガセも、
連呼すれば信用される、
と思うのは大和説者特有の幻想
実際は信用が落ちる

781 :
>>699
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説は
完全に議論を放棄
荒らすだけ

782 :
>>779
邪馬台国論争から脱落ですか。さよーならーw

783 :
>>782
なら魏志倭人伝にない
曹操の鉄鏡だかが見つかった九州は滅亡

784 :
或る素数x以下の全ての素数の積を奥(x)とすれば、
x!=(奥(x))(2^([x/2]+[x/(2^2)]+[x/(2^3)]+・・・+[x/(2^[ln(x)/ln2])]─1))(3^([x/3]+[x/(3^2)]+[x/(3^3)]+・・・+[x/(3^[ln(x)/ln3])]─1))・・・
(k^([x/(k^1)]+[x/(k^2)]+[x/(k^3)]+・・・+[x/(k^[ln(x)/ln(k)])]─1))・・・(x^([ln(x)/ln(x)]─1))

785 :
数年前の、とあるスレ。

もれ(仮)が書き込みをしたあと、
(一緒に?)温泉に行きたいという謎の書き込みとか。

・・・・・・・・・何か知っている人がいるんだろう。

786 :
>>783
ざーんねん
>旧百余国 漢時有朝見者
曹操さんは後漢の人
魏の皇帝にもなっていない
曹操の鉄鏡は「漢時有朝見者」がもらったんでしょうなあ
卑弥呼が外交したのは魏の第二代皇帝明帝
時代が全然ちがう

787 :
>>784
昨日のようなタイピングのミスや考え違いは、ないだろうか。

788 :
小型丸底土器や小枝の年代を無視して、
南→東や、桃の件を無視するしかない。
いと哀れなり。

789 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

790 :
邪馬台国畿内説は、頭が悪いのだったね。

791 :
>>747
批判や質問に答えられない畿内説は滅亡するのみ

792 :
結局また九州説はすべての面でアンチ通説、少数関所を、とるってことで、いいの?

793 :
>>710
3世紀最末〜4世紀の鉄器ザクザクのホケノ山を、
力づくでも年代引き上げないと、
大和説困るもんな

794 :
>>791
畿内説がまだ答えてない批判や質問って、どれ?
そんなの、あった?

795 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

796 :
>>786
それなら明帝時代の魏年号景初が入った三角縁神獣鏡の見つかる畿内は
邪馬台国でいい

797 :
邪馬台国畿内説は、巻向を200回程の発掘で、全体の5%程も調査したが、通説では、具体的な証拠が全く無いのだったね。

798 :
>>797
日本国が設置した公式の機関から、今年度中に、繰り返し発表されていましたね。

799 :
>>730
>魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼は鬼道を行うとあるから
何かの儀式に使われたと見られる桃種やカエルの骨が見つかった纏向は
邪馬台国と関連あると見れるだろ
九州説はカエルの骨を見つけてから邪馬台国は九州と主張するんだな <
魏志倭人伝には、「桃」も「カエル」も記録されていないから、根拠にならないな。
強いて「鬼道」に使われた可能性があるものというのなら、
おそらく「銅鏡」だな。

800 :
つまり、邪馬台国畿内説は、事実上、完全に破綻したのだな。

801 :
801は、一目みてわかる3の倍数だな。

802 :
>>732
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しと、
荒らしと対話拒否の連呼で押し切ろうとする大和説
もう敗色濃いの自覚してんだな

803 :
803は、素因数を幾つ持つだろうか。

804 :
邪馬台国畿内説は、一目見て判る破綻した仮説だな。

805 :
>>747
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのように、
証拠の出せない情報しか無いのが大和説
そりゃ亡びるわな

806 :
オイラー氏は、ゼータ関数の複素解析を考えなかったのだろうか。

807 :
>>799
鬼道というのはどういう事をやっていたのかは不明
もしかしたら桃やカエルを使ったのかも知れない
魏志倭人伝に鬼道の内容がはっきりと書かれてない以上
纏向の桃の種とカエルの骨はそこで鬼道の儀式の行われていた痕跡という可能性が残る

808 :
相撲取りは、果物と肉が好きなのだった。

809 :
相撲取りは、掘っ立て柱が必要なのだったな。

810 :
それにしても、邪馬台国畿内説は、頭が悪いな。

811 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

812 :
>>783
>なら魏志倭人伝にない曹操の鉄鏡だかが見つかった九州は滅亡<
卑弥呼からの献上のお返しの下賜品には、鉄鏡は載っていないが、
壹與は、献上しか書かれていないが、当然お返しの下賜品があった筈であり、
そこに、鉄鏡があった可能性がある。

813 :
847 日本@名無史さん[] 2020/01/12(日) 20:05:25.64 ID:
前にも書いてあったけど
鏡の発見場所が
九州と畿内じゃ違う
九州は墓の中、畿内は墓の外
文化や埋葬か何かが違う

814 :
相撲というのはどういう事をやっていたのかは不明
もしかしたら桃やカエルを食べたのかも知れない
日本書紀に相撲の内容がはっきりと書かれてない以上
纏向の桃の種とカエルの骨はそこで相撲の訓練が行われていた痕跡という可能性が残る

815 :
鬼道ってのは神道だろう
原始神道
銅鏡祭祀だよ
道の中央をあける
拍手してお辞儀する
神道そのもの
現代まで残る鏡祭祀や鉾祭祀
桃やら蛙やら銅鐸やらは無関係

816 :
相撲取りは、掘っ立て柱が必要なのだったな。

817 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

818 :
巻向の相撲神社は、歴史が、古いのではないのかな。

819 :
桃も古代神道では魔を払うとされる果物ではなかったか

820 :
>>807
後漢の曹操恩顧の五斗米道の流れだからコメだろ、
手引きしたのは難升米
桃の種とかカエルの骨なんでいかにも畿内は貧乏食

821 :
>>792
結局また「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
すべての面でアンチ「史料事実や史料実態」をとる、
ってことで、いいの?

822 :
オイラー氏は、ゼータ関数を整数論としてだけではなく、拡張して解析した可能性があるな。

823 :
畿内は、溶ける鉄板

九州は、曹操ゆかりの金銀宝石をちりばめた鉄の鏡

824 :
巻向は、残酷な相撲大会の開催地だったね。

825 :
>>820
それなら鬼道とは書かれず
五斗米道と書かれただろう


桃(オオカムヅミ)

オオカムヅミは、日本神話に登場する桃であり神。『古事記』では
意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と表記する。
「大いなる神のミ(霊威)」の意味であるが、大いなる神の実と解釈し、
「大神実命」と表記する場合もある[1]。『日本書紀』にも登場するが、
名前は記されていなくて、

『古事記』では黄泉の国の条に登場する。
伊邪那岐命が、亡き妻の伊邪那美命を連れ戻そうと、
死者の国である黄泉の国に赴くが、
失敗して予母都色許売や8柱の雷神、黄泉軍に追われる。
地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓まで逃げてきた時に、
そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、
雷神と黄泉軍は撤退していったんだぞ

826 :
奈良盆地には、幕の内弁当があった可能性があるな。

827 :
>>796
>それなら明帝時代の魏年号景初が入った三角縁神獣鏡の見つかる畿内は
邪馬台国でいい<

畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、」
「南≠東」であるからでも、×であり、
「景初三年」の△は、明帝の詔書が景初二年12月であって、
明帝は景初三年元旦に亡くなってしまったんだから、明帝の下賜の銅鏡百枚にならず、
その事でも、×。

828 :
それにしても『ドンバ 仙人』ググってみた?漫画、アニメ・・などのネタ。


前世(転生)〜何やらを探しています・・・とか、そんなものは通用しないんだよ。
家の話は家の話、前世でも転生でもない。

829 :
おい、奥山氏、はっけよい。

830 :
巻向の掘っ立て柱の相撲部屋では、どのような訓練が実行されていたのだろうか。

831 :
カエル取り大会

832 :
畿内説の妄言は聞くに堪えないね
捏造に手を染めた畿内説の哀れな証拠に何の価値もない

833 :
そういうのを何とかの遠吠えという

834 :
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』

このような広告が出てきたことがあるでしょ、
別に、そういう職業ではないんだけど、説明しなくてもわかるはず。

835 :
何の話なのか・・・・・わかりません^^^みたいな、
例えばかりでしょ。

ちなみに「^^^」は目の意味らしい。

836 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

837 :
キナイコシの遠吠え

838 :
建物群が庄内2から庄内3までの間

ホケノ山が布留0(小型丸底土器)

箸墓はホケノ山の後

あれ?卑弥呼?王都??

839 :
桃は一切どこにも一本も生えてないとも書かれてない
まあ神話にも出てくるし種の現物も出てるから倭国に桃はあった
記録しに来た魏の使者がたまたま見逃したんだろ

840 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

841 :
纏向から種が出ている

842 :
ということは、邪馬台国ではない

843 :
>>840
>魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない
魏志倭人伝の植生に「橘」が記載されている。
ということは、北部九州や奈良盆地は邪馬台国ではない。  わははははは   @阿波

844 :
桃は神話に出てくるから
纏向の桃の種は卑弥呼の鬼道の行われていた証拠

845 :
都合のいいときは神話を盗用する奥山

846 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

847 :
銅鐸は神話に出てこないから
纏向の銅鐸片は卑弥呼の鬼道とは別の祭祀だった証拠

848 :
纏向から桃の種が出ている

849 :
ということは、邪馬台国ではない

850 :
ほんとーに・・・予言スレというのがあるんだけど、
そういう()書き込みをしている人がいたり。

あなた(おまえ)は予言者、戦士何やら〜など、
投稿していたやつだろうとか。

『ドンバ 仙人』
なぜ同じような画像が出てくるんだと思う?ググってみた?

851 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

852 :
>>825
黄泉比良坂か。
ヒラは上り坂、サカは下り坂のこと。
つまり峠だ。
黄泉比良坂を越えて帰ってきた筑紫の日向の小戸(福岡市西区)でイザナギは禊をした。
黄泉の国は福岡から峠を一つ越えただけのところにある。

853 :
桃は日本神話に出てくる古くから神聖とされていた果物
なら纏向の桃の種は卑弥呼の鬼道の儀式が行われていた証拠の可能性

854 :
>>839
少なくとも邪馬台国では桃を特別視していなかったことが魏志倭人伝からわかる。
畿内はやはり邪馬台国と関係ない。

855 :
>>852
なるほど
たとえ日向が宮崎だと主張しても陸続きだから九州からは出られないわけだな
やはり九州説が正しいのだ

856 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

857 :
>>852
ヨモツヒラサカは出雲にあるらしいけど

858 :
>>853
>なら纏向の桃の種は卑弥呼の鬼道の儀式が行われていた証拠の可能性
「忌部はん」 だよ。   @阿波

859 :
>>807
>鬼道というのはどういう事をやっていたのかは不明
もしかしたら桃やカエルを使ったのかも知れない
魏志倭人伝に鬼道の内容がはっきりと書かれてない以上
纏向の桃の種とカエルの骨はそこで鬼道の儀式の行われていた痕跡という可能性が残る<
桃もカエルも、実際に存在するものであるから、「鬼=不可思議なものや現象」にはならないが、
「鏡」なら、「自分や他の事物を映し出す不可思議な現象」もあれば、
「凹面鏡」であれば火を起こす事も出来、
「平面鏡」であれば、相当遠くまで信号を送る事も出来、
「凸面鏡」であれば、鬼のような巨大な顔を浮かび上がらせる事も出来る。

860 :
>>857
根拠は?

861 :
>>853
日本の史書である記紀に記載されていない卑弥呼の鬼道なのだから
日本神話に出てくる桃とは無関係である

862 :
>>857
>ヨモツヒラサカは出雲にあるらしいけど
阿波だよ。   @阿波

863 :
>>854
卑弥呼は鬼道を行った
日本神話に桃は神聖な果物として出てくるから
鬼道では桃を使った儀式があったのかも知れない

864 :
巻向の掘っ立て柱の相撲部屋では、どのような訓練が実行されていたのだろうか。

865 :
畿内は、カエル取り大会
九州は、高尚なカルタ取り大会

866 :
>>863
日本の史書である記紀に記載されていない卑弥呼の鬼道なのだから
日本神話に出てくる桃とは無関係である

867 :
ドスコイ、ドスコイ。

868 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

869 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

870 :
桃といえば吉備だろう。
なぜそこを飛ばして畿内に持っていこうとするのか?
畿内説はやはり結論が先にありきの詐欺なのではないか。

871 :
>>860
島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、
1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。
同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。
近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。
2010年の日本映画『瞬 またたき』では、亡くなった恋人に会いたいと願う主人公が
訪ねる場所のロケ地として使われた[3]。
江戸時代に書かれた『雲陽誌』によると、
松江市岩坂の小麻加恵利坂にも、イザナギが雷神に桃の実を投げた伝説がある[2]。

872 :
鬼といえば吉備だな。
なぜそこを飛ばして畿内に持っていこうとするのか?
畿内説はやはり結論が先にありきの詐欺なのではないか。

873 :
巻向遺蹟は、相撲部屋遺蹟だった可能性が、急激に高まってきたね。

874 :
>>871
それ、ただの観光の町おこしじゃん。
根拠はないということかな?

875 :
明治の古南以来の怨念爆発
一日24時間、言いたい放題になっとるな!

876 :
前方後円墳は、相撲会場だったのだろうか。

877 :
>>871
これが畿内説の根拠www

878 :
前方後円墳が成立したのは吉備
畿内ではない

879 :
そしてその吉備の民衆もまた鉄器を持っていなかった

880 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

881 :
畿内説は吉備の歴史を盗んだ。
神武の大和即位に踊らされた古臭い妄想。

882 :
>>759
ホノケ山古墳の悲愴者は、
親魏倭王 豊媛命/豊来入媛命/稚日女貴命/稚日女命、豊受日女命、/宇佐女命。改め、ウズメの命
豊国宇佐宮の月の女神/月読命の媛巫女、豊日女命。
共に九州から出陣して大和を平定した異母兄の物部イクメ王(垂仁。=東征した神武天皇の実像)と正統性や権力を争った豊国宇佐族勢力が敗れて大和を放棄。
丹波(丹後)に逃避(転進w)
丹波でも豊国宇佐族の月の女神/月読命信仰を布教した媛巫女の豊媛命/稚日女命は、
丹波で、月読命が豊受大神/豊ウカノメ神、媛巫女の豊媛命も豊受媛命/豊ウカノメ命等と呼ばれました。
更なる追撃を受けた豊国宇佐族勢力は一旦伊勢に転進した後、
伊勢湾(=鼓ヶ浦)を渡り東海地方に転進。
(豊国宇佐族らは最終的には関東に至り、上毛野国造/豪族化して。後に同家の竹葉瀬君が神功皇后の実子、ホムタ御子が七歳で死亡。それを隠ぺいする為養子に迎えられてホムタの御子として成長即位したのが応神天皇)
豊媛命/稚日女命は伊勢一宮、椿大神社の宇治土公家に庇護を求めて
その保護下に入りました。
その際、豊媛命/稚日女命が宇佐女命と呼ばれていて、それでは正体が露見してしまう為、
宇佐女命→ウズメ命に改名させ、祭神、サルタ彦大神の后神だとか何とか話(神話)を創作。
斯様に最大限注意と警戒をして保護に努めました。
が、異母兄、物部イクメ王が放った刺客の手にかかり敢えなく絶命。
遺体は大和に移送されてホノケ山古墳に葬られました

883 :
ドスコイ、ドスコイ。

884 :
ドスコイ、ドスコイ。

885 :
ドスコイ、ドスコイ。

886 :
>>832
>畿内説の妄言は聞くに堪えないね
>捏造に手を染めた畿内説の哀れな証拠に何の価値もない
で?
妄言とは何?
捏造とは何のこと?
具体的に指摘どうぞ
具体的に言えないのなら
あなたの発言が妄言で捏造ということになるよ

887 :
>>882
根拠のない長文

888 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

889 :
>>859
鏡は畿内の古墳からたくさん出る
>>861
それを言うなら卑弥呼だって邪馬台国だって
日本の史書には記されていない
>>874
さ−神話の事はわからん
火のないところに煙は立たずというから
それなりに根拠はあるんでないの

890 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

891 :
若者達が作製したアルゴリズムは、桁数の限界を超えることが、困難なのではないのかな。

892 :
纏向から桃の種が出ている
という事は桃はあった

893 :
メモリの増設は、どのようなアルゴリズムにとっても、限界があるな。

894 :
ということは、邪馬台国ではない

895 :
相撲取りは、桃が好きなのだったね。

896 :
桃は古くから神聖とされた果物
卑弥呼の鬼道では桃を使った魔を払う儀式をやっていたかも知れない
纏向の桃の種はその痕跡の可能性

897 :
>>825
>桃(オオカムヅミ) オオカムヅミは、日本神話に登場する桃であり神。
『古事記』では意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と表記する。
「大いなる神のミ(霊威)」の意味であるが、大いなる神の実と解釈し、
「大神実命」と表記する場合もある[1]。『日本書紀』にも登場するが、
名前は記されていなくて、
『古事記』では黄泉の国の条に登場する。
伊邪那岐命が、亡き妻の伊邪那美命を連れ戻そうと、死者の国である黄泉の国に赴くが、
失敗して予母都色許売や8柱の雷神、黄泉軍に追われる。
地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓まで逃げてきた時に、
そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、雷神と黄泉軍は撤退していったんだぞ<
まあ、魏使らが記録した「鬼道」とは関係がないな。
吉備や出雲では桃を「お宝」や「大事な食糧」にしたかも知れんが。

898 :
卑弥呼や邪馬台国は、日本の史書である記紀に記載されていない
卑弥呼の鬼道は、日本神話に出てくる桃とは無関係である

899 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

900 :
桃は古くから神聖とされた果物
ノミノスクネ氏の相撲道では桃を使った魔を払う儀式をやっていたかも知れない
纏向の桃の種はその痕跡の可能性

901 :
>>897
鬼道はどういう内容だったのかは不明
桃の実を使った魔払いやカエルを使った雨乞いをやっていたのかも知れない

902 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

903 :
九州説が壊れたテープレコーダーのようになったな

904 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

905 :
邪馬台国畿内説が、壊れてしまった。

906 :
>>903
で、畿内説の考える邪馬台国の人々の暮らす
代表的な集落遺跡ってどれ?

907 :
やはり、アルゴリズムが凍りついてしまったな。

908 :
>>839
>桃は一切どこにも一本も生えてないとも書かれてない
まあ神話にも出てくるし種の現物も出てるから倭国に桃はあった
記録しに来た魏の使者がたまたま見逃したんだろ <
まあ、桃太郎の吉備では、桃は(米が不作の時の)一種の非常食であり、
カエルも、一種の非常食であったんだろうなあ。

909 :
>>861
三輪山の媛巫女、モモソ媛命。
一人目のヒミコ。
鬼道、、、これ、じつは古事記に詳細に記述された天照大神の岩戸開きの場面が正にモモソ媛命が発案、実施なさった革新的な祭祀方法。
この時、初めて神鏡(物部の道教由来の神獣鏡)が太陽の女神/大日霎貴命の形代となった。
また、神社の本殿に神鏡が据え付けられる原点かと思います。

910 :
>>906
唐子鍵遺跡
>>908
いいや鬼道の儀式の行われていた証拠かもよ

911 :
>>844
>桃は神話に出てくるから
纏向の桃の種は卑弥呼の鬼道の行われていた証拠<
「南≠東」などに拠って、×。

912 :
>>910
あれれ?
纏向遺跡からずいぶんと遠いねえ

913 :
>>910
唐古鍵遺跡から「桃」は出土してるのかい?
唐古鍵遺跡から「蛙の骨」は出土しているのかい?
唐古鍵遺跡から「鉄鏃」は出土しているのかい?

914 :
>>852
>黄泉比良坂か。 ヒラは上り坂、サカは下り坂のこと。 つまり峠だ。
黄泉比良坂を越えて帰ってきた筑紫の日向の小戸(福岡市西区)でイザナギは禊をした。
黄泉の国は福岡から峠を一つ越えただけのところにある。<
ふーん。

915 :
>>853
>桃は日本神話に出てくる古くから神聖とされていた果物
なら纏向の桃の種は卑弥呼の鬼道の儀式が行われていた証拠の可能性 <
「南≠東」などに拠って、×。

916 :
逆に言えば、纒向遺跡に人が住んでいた痕跡が無いから、
唐子鍵遺跡を出さざるをえない

917 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

918 :
>>912
纏向は王宮だから多少はね

919 :
>>918
唐古鍵遺跡は環濠集落
で、
はるか離れた 纏向が王宮?????
ポツンと建ってる一軒家
頭大丈夫?????w

920 :
>>913
桃の種とカエルの骨は纏向遺跡
鉄鏃はホケノ山や椿井大山古墳や黒塚遺跡などから沢山

921 :
垂仁天皇(3世紀後半)の居城 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
景行天皇(4世紀前半)の居城 纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)

922 :
天子は南面するから纏向が王宮なら王都はその南に広がるんじゃないかな
藤原京平城京平安京ほか全部そうだし
唐古鍵は北西だからどう見ても纏向王都の一部ではない

923 :
>>920
唐古鍵遺跡から「桃」は出土してるのかい?
唐古鍵遺跡から「蛙の骨」は出土しているのかい?
唐古鍵遺跡から「鉄鏃」は出土しているのかい?

唐古鍵遺跡から「桃」は出土してるのかい?
唐古鍵遺跡から「蛙の骨」は出土しているのかい?
唐古鍵遺跡から「鉄鏃」は出土しているのかい?

924 :
>>923
桃の種とカエルの骨は纏向遺跡から出土だけど
鉄鏃はホケノ山や椿井大山古墳や黒塚遺跡などから沢山

925 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 

縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!

926 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

927 :
>>922
中華思想の流入が少ない頃だから少しはね

928 :
>>889
>鏡は畿内の古墳からたくさん出る <
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和の鏡は、ホケノの「3世紀最末期〜4世紀」。
>それを言うなら卑弥呼だって邪馬台国だって日本の史書には記されていない<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言であるし、
日本の史書(記紀)は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であるから、
根拠にならず、×。

929 :
九州説は纏向の桃の種一つで
何もそこまで大騒ぎしなくても

930 :
ホケノ山古墳という、そこに埋められた死体の棺の中に、4世紀より新しい花のついた枝が添えられた古墳が、あったね。

931 :
>>930
奈良盆地の前方後円墳は、全て、4世紀以降に出現したのだったね。

932 :
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだな。

933 :
>>903
>九州説が壊れたテープレコーダーのようになったな<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者は、
壊れたテープレコーダーのようになったな。

934 :
九州説の
眠りを覚ます
桃の種
たった一粒で
夜も眠れず

935 :
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドでは、相撲部屋の研究に使用されるた方が活発になるのだったね。

936 :
>>935
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドでは、相撲部屋の研究に使用されるた方が活発になるのだったね。
という文章は、
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドは、相撲部屋の研究に使用される方が活発になるのだったね。

937 :
邪馬台国畿内説は破綻しました
邪馬台国纏向説は妄想です
キナイコシは無職です

938 :
議論に勝てない相手を無職無職と罵るのみの九州説

939 :
>>920
>桃の種とカエルの骨は纏向遺跡<
掘立柱建築のそばの土坑は庄内3だから、3世紀最末〜4世紀であり、関係がない。
>鉄鏃はホケノ山や椿井大山古墳や黒塚遺跡などから沢山<
いずれもほぼ4世紀であるから、関係がない。

940 :
>>938
事実を書いただけ
悪口のつもりはないし、罵ってもいない

941 :
>>940
ならそりゃあ事実と違うなあ

942 :
>>938
2chで暇つぶししてばかりいないで論文書いたら?
じゃないといつまで経っても無職のままだよ

943 :
>>936
「邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドでは、相撲部屋の研究に使用されるた方が活発になるのだったね。
という文章は、
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドは、相撲部屋の研究に使用される方が活発になるのだったね。」
という文章は、

「邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドでは、相撲部屋の研究に使用されるた方が活発になるのだったね。

という文章は、
邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、プロ固定が作製した、このスレッドは、相撲部屋の研究に使用される方が活発になるのだったね。
とタイピングしたかったのではないのかな。」
とタイピングしたかったのではないのかな。
=============================*===*==*=============おらにはたかたなかちにつなきにたあちきにまゆはさにてまやはすら

944 :
イヤ忙しくてね

945 :
>>929
大和説は吉備の桃の種で
何もそこまで大騒ぎしなくても

946 :
>>943
貴方は、ついに、アルゴリズムを完全に完成させたのだな。

947 :
>>934
大和説の
眠りを覚ます
吉備の桃
たった一粒で
夜も眠れず

948 :
>>946
漁師に計算させるためには、ファンディングが必要なのだったね。

949 :
>>938
議論に勝てない相手の九州説者を
無職無職と罵るのみの、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説

950 :
驚いたな。。。

951 :
九州説こそ学会の定説になりたいなら論文を書いたら
大分で曹操の鉄鏡が見つかったから邪馬台国は九州
畿内には鉄器がないから邪馬台国は九州
纏向に建物が4棟しかないから邪馬台国は九州
ドスコイ、ドスコイ

何度もくり返し書くから相当自身があるんだろうしな

952 :
■ 祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす

953 :
>>892
でも魏志倭人伝で桃は重視されていないから、桃を重視していた畿内は邪馬台国ではない。

954 :
>>889

つまり出雲説は根拠がない。

955 :
>>918
卑弥呼の王城にいたと書かれている千人の奴婢はどこに住んでいたんだ?

956 :
>>953
日本書紀では重視されていた
桃の種が見つかった纏向は卑弥呼の鬼道が行われていた

957 :
>>929

他に畿内説の根拠となりそうなものは何もないし。

958 :
>>938
キナイコシが質問に答えればいいだけだと思うけれど?

959 :
>>955
徒歩10分ぐらいの所に住んでたんじゃ

960 :
>>958
九州説が発狂しすぎてて会話が成立せんのよ

961 :
>>956
>>>953
>日本書紀では重視されていた
>桃の種が見つかった纏向は卑弥呼の鬼道が行われていた
すごい飛躍だな。
桃の種で邪馬台国と言い張るのだから、畿内説はいかれている。

962 :
>>957
魏年号の入った三角縁神獣鏡に
卑弥呼の時代からある前方後円墳など沢山あるが

963 :
>>960
こうしてキナイコシがグダグダ言い逃れをするばかりで、畿内説は何も証明できずに終わる。

964 :
>>962
>卑弥呼の時代からある前方後円墳
根拠は?

965 :
>>961
魏志倭人伝にある鬼道の行われていた証拠かも知れない
桃は日本では古来より神聖な果物とされてきたから

966 :
>>964
ホケノ山の木棺サンプル片5つを炭素14C年代測定法で分析
結果〜240年
副葬品も240年以前のもの
卑弥呼の時代もそのくらい

967 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器、4世紀小枝)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

968 :
>>958
なんて質問に?

969 :
>>968
どうやったら出土物を無視したり年代改竄したり
文献を無視したり改竄したりできる
キナイコシ脳で恥ずかしげもなく生きていけるのか教えてください。

970 :
>>969
それは九州説に聞いた方がいいんじゃないかな

971 :
>>956
>日本書紀では重視されていた<
記紀は倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した嘘吐き騙しの半分偽書。
>桃の種が見つかった纏向は卑弥呼の鬼道が行われていた<
「南≠東」などに拠って、×。

972 :
>>960
>九州説が発狂しすぎてて会話が成立せんのよ<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐き騙しの大和説者らが、
発狂しすぎてて会話が成立せんのよ

973 :
驚いたな。。。
やはり、実部が1/2以外の数字がある可能性は、否定出来ないのだな。

974 :
一つ見つけるだけのことは、簡単なようでも、時間が必要なのだな。

975 :
つまり、邪馬台国畿内は、完全に破綻したのだな。

976 :
新しいスレッドが、活発になっているよ。

977 :
>>962
>魏年号の入った三角縁神獣鏡に<
魏年号の入った△は、
楽浪帯方への魏の攻撃を知って列島へ避難して来た呉系の楽浪鏡師らの内の何組かが、
明帝の下賜の銅鏡百枚を知って、魏年号△などを造ったもの。
>卑弥呼の時代からある前方後円墳など沢山あるが<
卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではなく、
大和の前方後円墳は、3世紀末の石塚などから後。

978 :
>>965
>魏志倭人伝にある鬼道の行われていた証拠かも知れない
桃は日本では古来より神聖な果物とされてきたから <
「桃」では「鬼道=不可思議な道」にはならない。

979 :
>>966
>ホケノ山の木棺サンプル片5つを炭素14C年代測定法で分析
結果〜240年<
寝かせ期間や、樹皮〜採取部位の年輪数や、プラズマ化の失敗などに拠って、
100〜200年位古く出てしまうから、3世紀最末〜4世紀。
>副葬品も240年以前のもの 卑弥呼の時代もそのくらい <
副葬品からも、庄内3〜布留であるから、3世紀最末〜4世紀。

980 :
>>977
明帝下賜の三角縁神獣鏡が倭国内に存在してるのを見て作ったなら
倭国内に明帝下賜鏡は既に存在していたという事になるな
畿内に魏の年号入り鏡が多いから畿内は魏と交流していた事になる
前方後円墳はホケノ山が3世紀前〜中期
>>978
鬼道の内容は不明
日本で古来より神聖とされていた桃を使っていた可能性
>>979
ホケノ山は100年の誤差を見込んで
木棺の炭素測定結果が120〜240年

981 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器、4世紀小枝)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

982 :
>>980
詐欺師

983 :
ドスコイ、ドスコイ

984 :
魏志倭人伝の植生に桃は記載されていない

985 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

986 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

987 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

988 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

989 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

990 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

991 :
卑弥呼が遣使したのは景初二年だよ
それ以外の年号がダラダラ書かれてる
しかも「呉の年号」まで書かれている
三角縁神獣鏡は
日本が誇る倭鏡

992 :
>>979

で、松野氏姫氏系図に記された呉王夫差という記録がBC5Cに子孫の忌らが
遺した漢字の記録に基づくものである事を証明する証拠の金石文や土器文は?

で、呉王夫差の伝承があったという証拠は?

早く言わねえと偽書になっちまうぞ!

993 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器、4世紀小枝)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

994 :
>>991
呉の年号が書いてある三角縁神獣鏡はなし
卑弥呼の遣使は魏志倭人伝以外の史書と突き合わせると景初三年が正しいというのが定説

995 :
>>994
>景初三年が正しいというのが定説
あんたのスポンサーのコトバンクに書いたからといって定説ではないよw
学問を偽装するなら対案も書いとかないとw

996 :
農民が畑で見つけた、という伝聞だけの一枚が
骨董市で、売りに出されていたというだけで
洛陽近郊で発掘されたと必死に喧伝する輩

997 :
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

もともと第一の道論は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新されるという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行された橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。

こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテーマを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。

(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。

998 :
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

999 :
石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」

1000 :
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
http://inoues.net/yamahonpen2.html

1001 :
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