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邪馬台国の倭人は鉄器使用


1 :2018/09/06 〜 最終レス :2020/03/04
倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】

3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」


倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて

時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで

リサイクル回収なんてしないw

あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?

マジくそん???www

2 :
文字もやね?
>>1 乙∧∧

3 :
庄内併行が卑弥呼さん活躍中なら玄界灘やな?

4 :
邪馬台国は伊都を首都とする北部九州国家

熊本など南部九州の狗奴国と戦っていた

東に渡海して日本海沿岸の倭種国家

壱岐対馬〜朝鮮半島南部投馬国
日本海沿岸倭種(青玉=翡翠)
などを伊都一大率が監視支配






鉄器ゼロとか倭人じゃねー

5 :
免田が狗奴国

6 :
黒歯国=河内(最古お歯黒出土)

朱儒国=阿波(国産朱)

裸国出身の生口が、生口島経由で船行一年かけて北部九州邪馬台国へ
→そこから魏へ献上された
→人生の晩年に洛陽にて陳寿と面会

7 :
吉備狗奴国物部さんは東に拡大し近江の鰐さんと結婚し三輪王朝とあいなった(解決

8 :
宗像さん来たりてヤマト王権完成(マジレス

9 :
鰐さんは北部九州から出てない

10 :
宗像さん来たりて平安京完成(マジレス

11 :
住吉や
ああ住吉や
住吉や?

12 :
>>9
因幡の白兎しらんの?

13 :
住吉は一大率だよ。
伊都から壱岐、奴国、東方倭種、を監視している。

14 :
平安エイリアン👽?(呟き先生風味

15 :
ダックは愉快や

16 :
ワニもカモもムナカタも
なんで河内にはいないの?

住吉だけ

17 :
日本海→琵琶湖→大和川の正規ルートで来たからさ

18 :
北部九州倭国邪馬台国はわかった。

瀬戸内海からの河内ではなく、
日本海琵琶湖からの大和に、後のヤマト政権主要メンバーが集結していく考古学的理由が知りたい。

海上治安?
単に日本海ルートが先行開発されていたから?
けど紀伊とか早くから開発されていたよね。

19 :
オンドル式探検

20 :
信長も秀吉も手こずった地域だな

21 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

22 :
末端の集落にも鉄器ゴロゴロ

リサイクルシステムとか関係ないよねwww

23 :
3世紀に鉄器ゼロの遺跡とかあるのん?

24 :
纒向とかいう田舎

25 :
うそつき

26 :
>>18
弥生期の特徴の一つに人口増加があります
農耕の発展安定と共に人口が増加する当たり前のことですが顕著な地域
たとえば美濃近江吉備等は農地拡大の限界農閑期の労働など問題も出てきます
一方で奈良盆地などは奈良湖跡の湿地であり度重なる水害等で過疎化していく集落もあります
2,3世紀河内辺りは河内湖が汽水から淡水湖に移行する時期で農耕を始めるのは数世紀またなければなりません
余剰の労働力を持つ東海や瀬戸内の勢力が奈良盆地に目をつけるのは自然な事なのですが
未開の湿地を干拓、開墾、灌漑するのは半端じゃありません
争って土地を手に入れるより共同で開発した方がお互いにwinwinの関係を築けます
地元の集落も抵抗するより土地を提供した方が得だと納得したでしょう
大規模な振興開発に必要なものに資材置き場、倉庫、現場事務所等があります
纏向に巨大な建物群が突如あらわれ消えていったのには理由があったのでしょう
工事の始まり農耕の始まりには祭祀を行う事もあったでしょう
開発も落ち着くと余った労働力と残土,産廃が残ります
ちょうど古墳時代の始まりがこの時期になります

27 :
ごめんsageはメール欄に入れるんだったねw

28 :
>>26sage

それは、「忌部一族の奈良盆地開拓史」ですね。  @阿波

29 :
>>26
そこらのお話しやったら奴隷制無しには語れんな
古代農業事情やね?マックスなんたら

30 :
ルソーの不平等起源なんたらもええ教材よ?

31 :
>>26
>未開の湿地を干拓、開墾、灌漑するのは半端じゃありません

これが間違い
弥生時代始めには、奈良盆地は既に陸地だよ

「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

32 :
奈良盆地は京都や大阪、兵庫と比べても
住居跡が少ないから、
低湿地で開拓が遅れていた地域なんだね。
そういう土地は水路を掘り
土砂を嵩上げして農地にするんだよ。

33 :
>>31
まあ陸地は陸地なんだけどね
どんな陸かが問題でね
↓のは良く出る図だけど
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2015/08/01/53narakojpg53.jpg
縄文期の遺跡が注目でさ
周辺の数m高いとこに多いでしょ
盆地の中ほどは竪穴式には無理だったんだよ
まあそういう土地だったって事でしょ
>>26も奈良湖跡の湿地って書いてあるでしょ
掘ってる人には分かると思うけどちょっと掘ると水が出るってあの辺のあるあるじゃない

34 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

35 :
>>32>>33
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

はちゃんと読んだのかい?
弥生時代の一番初めの頃から、奈良盆地の一番低いあたりで集落遺跡があるよ
集落遺跡として記録されてるのが200以上ある

住居が少ないというのも、奈良湖があって人が住めないというのも
はっきりと間違いだと言える

36 :
>>35
>弥生時代の一番初めの頃から、奈良盆地の一番低いあたりで集落遺跡があるよ
>集落遺跡として記録されてるのが200以上ある


で、弥生時代後期末の、一押し集落遺跡はどれ?  @阿波

37 :
>「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016) <
ざっと読んだ
寺澤君は庄内0での奈良盆地権力の外的要因再編なんたらは指摘してはるが肝心要の布留0大変革は無関心やな
まあ彼も美味いもん食べてよく考えたらええな?
つうかしょうもない話で論文ひっぱったるな(奈良は湖やったんか?

38 :
国土地理院
奈良盆地周辺の地形の変遷

縄文期(約6000年前)
「奈良盆地の中は、幾つもの川が大和川の谷に流れており、合流付近は、河川が氾濫したり湿地になったりする場所で、
排水の悪い場所は沼地や盆地湖になっていました。」

奈良期(約1300年前)
「奈良盆地においても同様に、沼地や盆地湖が消えかかり、氾濫原に変わってきています。」

http://files02.up.seesaa.net/image/5E4B887E588861E99B86E68890E59BB3E3808CE5A588E889AFE3808DE5A588E889AFE79B86E59CB0E591A8E8BEBAE381AEE59CB0E5BDA2E381AEE5A489E981B7EFBC88E59BBDE59C9FE59CB0E79086E999A2EFBC8F2010EFBC89narako28tiriin29.pdf

奈良湖推定図

ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg

39 :
>>35
奈良盆地の周辺の少し標高の上がった場所は大概扇状地で稲作には向かないんだよ
弥生期に入って水稲を耕作するようになれば湿地に足を踏み入れるのは当然で
殊更に強調する事でもあるまい
ただ湖沼跡の湿地は大変なの>>32の人も書いてるけどまず排水、それからかさ上げ
それでも集落ごとの開拓には限界があるんだよね
集落の遺跡も出てくるけど水害の痕跡も出てくるでしょ
奈良から覇権を持つほどの大きな勢力が出来上がったのか外部の大きな勢力が奈良を開拓したのか
纏向辺りが転換期だとすれば  どっちなんだろうね

40 :
>>39
>外部の大きな勢力が奈良を開拓したのか

その「外部の大きな勢力」とは、「忌部一族」。 後にも先にも「忌部一族」以外に存在しない。  @阿波

41 :
>>39
>奈良から覇権を持つほどの大きな勢力

>>35にあげられた論文にも書いてあるけれど、
奈良盆地は河内南部勢力が拡大していった地域

畿内第V様式土器を共通に使う、「大和+河内〜環大阪湾の地域」で一つの勢力圏とみなしていい
そう考えると、弥生時代最大規模の製鉄遺跡、淡路島の五斗長垣内遺跡もその勢力圏の内部になる

42 :
>>41
>奈良盆地は河内南部勢力が拡大していった地域

奈良盆地は「忌部はん」達が最も遅く開拓に入った地域。

>畿内第V様式土器を共通に使う、「大和+河内〜環大阪湾の地域」で一つの勢力圏とみなしていい
>そう考えると、弥生時代最大規模の製鉄遺跡、淡路島の五斗長垣内遺跡もその勢力圏の内部になる

その「淡路島の五斗長垣内遺跡」もその勢力圏、倭国(阿波)の内部になる。  @阿波

43 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

44 :
しらふのうちにおじいちゃんらにレクチャーよ(鼻ほじ
近畿V域いうんが政治ネットワークだとしてもそこの銅鐸祭祀が吉備祭祀に駆逐されるなあ?
これがまず庄内0異変な?淡路島も込みよ
この時期以降畿内への鉄供給が制限されるのは吉備が卑弥呼さんと不仲だったからよ?
吉備が狗奴国やで(マジレス
次に畿内とくに纒向に鉄供給されるのが卑弥呼さん亡くなったあとや
多分吉備が近江若狭と同盟したんやろなあ(遠い目

45 :
>>44
>吉備が狗奴国やで(マジレス

吉備忌部が狗奴国? そんなアホな。  @阿波

46 :
2世紀後半に吉備が畿内併合して日本の国【=狗奴】 の礎を築いたのな
葛城や神武さんはようわからん??

47 :
阿波は凄い(まあようわからん?

48 :
おじいちゃんらに小学五六年生程度の理解力あったらレクチャー進めるんやが?(マティス国防長官風

49 :
海峡交易牛耳てはった卑弥呼さんも死期近づいては求心力低下するやろ?
細々と鉄分けてもらってた吉備や若狭近江が人口勝負で発言力増したに1000000勾玉

50 :
>>46
その辺が纏向の面白いとこだよね
搬入土器なんかは東海近江が多いのに弧帯文、特殊器台・壺とかの祭祀関係は吉備由来なんだよね
主従とか単純ではないんだろうが開発組織の上部に吉備が係ってたのは想像できる
神武がどこのどんな人かはともかく8年住んでた吉備から来たってのは興味深い

51 :
>>50
>搬入土器なんかは東海近江が多いのに弧帯文、特殊器台・壺とかの祭祀関係は吉備由来なんだよね
>主従とか単純ではないんだろうが開発組織の上部に吉備が係ってたのは想像できる

吉備は吉備忌部の開拓地。「弧帯文、特殊器台・壺とかの祭祀関係」も倭国(阿波)からの流れ。
楯築繋がりとして
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域だが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土している。  @阿波

「弧帯文土器」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27

52 :
>>50
もともと纏向あたりにいた銅鐸民が東海方面に押し出されただけで、東海から搬入されたものではない。

纏向以降で東海は独自の発展してるので、
吉備勢力に征服された、のが実態。

53 :
>>52

それらは、全部「忌部はん」の活動痕跡。  実に簡単な事。  @阿波

54 :
>>52
>もともと纏向あたりにいた銅鐸民が東海方面に押し出されただけで、東海から搬入されたものではない。

それは、時期的にはいつ頃のことなのかな?

もう、適当なウソばっかりなんだからww

55 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

56 :
>>54
よう嘘つきキナイコシ。なんで生きてるの?
嘘つきは有害だから死んでるいいぞ。

57 :
>>56
うそつきは>>52だよw

58 :
>>57
よう嘘つきキナイコシ自己紹介しなくていいぞ

59 :
いつもの伊都クズ「キナイコシ」とは口調が違うけど、別のキャラ作りを始めたの?

60 :
>>50
>主従とか単純ではないんだろうが開発組織の上部に吉備が係ってたのは想像できる <

まあそうなんやけど纒向で吉備が上位やったのは庄内までで布留0以降は近江若狭から日本海沿岸交易ルートの影響受けはじめてるんやなあ
鉄供給やら割竹なんたらやらもそうですけど布留土器自体が北陸始原らしいし
まあ近江の誰かさんに畿内に入っていた吉備物部?さんが泣きついたのかも
そもそも庄内期の吉備祭祀東進が近江に浸透せんかったんはここに一大勢力があったからや?

61 :
>>52
>纏向以降で東海は独自の発展してるので、
>吉備勢力に征服された、のが実態。

ふーん、纒向は筑紫を出て吉備に滞在していた神武らにより占領されたのか。
じゃあ纒向はニギハヤヒ=物部氏の集落だったんだな。
記紀の記述のままだな。

62 :
>纏向以降で東海は独自の発展してる<

前方後方のこというてる?
やったら高尾山と箸墓の設計者設計図同じらしいよ(多分

63 :
>>61
正解

東海の国造は物部系よ。

64 :
ほほう。
もう纒向は物部の集落だと宣言してしまえよ。
テンプレは文字数だけ長いだけの無用の長物。

65 :
>>64
>テンプレは文字数だけ長いだけの無用の長物

それ違うスレ

66 :
>>63-64

物部、物部言ってるけど、物部も含めてみんな「忌部一族」ってこと、未だに認識しとらんようだw
物部の本拠地は倭国(阿波)旧麻植郡。
その証拠:日本唯一「伊加々志神社」  @阿波 

67 :
>>62
>やったら高尾山と箸墓の設計者設計図同じらしいよ(多分

高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓に決定済み。  @阿波

68 :
>>65
あ、そうだった。

69 :
>>67
あ、そうだった。

稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩

徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。

中でも稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、
新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、
当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。  @阿波

70 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

71 :
まあ三輪王朝からは近江が主役やね?物部さんの娘さん孕ませて崇神さん産ませたのも近江に10000000近江土師器

72 :
近江の影に宗像さんあり?
佳子様の直系ご先祖様もまた近江

73 :
因幡より
おうみにうつり
てんかとる
だれぞしるらむ
わにが黒幕

74 :
佳子様の直系ご先祖様もまた近江???

75 :
姫川は糸魚川か?(翡翠はヌナ?

76 :
繋がった!
敦賀や?🐬イルカや!(あのあたりが玄関口や

77 :
神宮さんのご実家も近江やろ?
関西人の鉄は敦賀からや!

78 :
>>77

伊勢神宮度会氏の直系ご先祖様は「忌部はん」なんやでぇ  @阿波

79 :
卑弥呼さんが亡くなった後は輸入鉄のレート決定権は翡翠商人になったのかも?

80 :
阿波は凄い(なんべんいったらええんや?

81 :
対馬海峡海運と日本海沿岸海運のせめぎ合いが3世紀までにダブルオークションで決着したんかも

82 :
>>80
>阿波は凄い(なんべんいったらええんや?

いつも唱えなはれ!  @阿波

83 :
>>79

卑弥呼さんが生きてるずっと前から輸入鉄のレート決定権は倭国(阿波)商人に決まってるがな。  @阿波

84 :
保守

85 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

86 :
ヨーロッパ文明史のような、 石器時代⇒青銅器時代⇒鉄器時代という推移は、
日本(倭国)では見られない

日本には、青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたため、鉄器が実用に、
青銅器が祭具に、と使い分けされるようになる

土中では青銅器の方が鉄器より残りやすいので弥生時代は青銅器時代のようなイメージがあるが
青銅器だけで鉄器のない弥生文化などはない

鉄器が出ない地域があったとしても、弥生文化である以上は鉄器は存在するものと
考えてよい

87 :
例外があり、交通事情が悪い未開拓の地であった大和などが該当する。

88 :
鉄の扱う技術伝播を論じないとそんな総論はただの妄想。

89 :
日本は縄文の昔から、広域流通の交易圏を持っていた
ヒスイも黒曜石も干し貝も、特産品として遠隔地にもたらされている

内陸まで、この交易圏は届いているよ
諏訪までタケミナカタが逃げ込んだという神話は、内陸の諏訪まで
出雲からの交易路があったことを示しているし、内陸の遺跡からでも
ヒスイが出ている

鉄がもたらされて、鉄もその交易路に乗っただけ
鉄が届かない地域があるという想定がそもそも恣意的なもの

90 :
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

91 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

92 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

93 :
鉄刀で絹裁断してた卑弥呼さんが伊都に居た頃の巻向は無鉄器無文字やな?

94 :
つうかここも無人?

95 :
そりゃあ無人だろうさ

おもしろいこと、何も書いてねーもん

96 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

97 :
もともと龍は、揚子江ワニなんだってば

98 :
そうだったのか。

99 :
龍の記録を古く遡っていくと、想像上の神獣ではなく、飼うこともでき鳴き声も
記された普通の生き物として描かれていることが分かる

100 :
縄文末に渡来した渡来人、いわゆる弥生人は龍信仰を伝えなかったでしょ。

だから彼らが中国系ではないという事が簡単に分かる訳。

101 :
>>96
先生?質問?
玦状耳飾りの始原はどこですのん?

102 :
>>101
俺は遼河文明系の文物だと見てるけどね。

それが中国に搬入されて中国にも広がった。

満州経由で沿海州にも広がり、交流のあった対岸の日本にも搬入されたのではないかと。

103 :
あーなるほどなー
江南にも北陸にも同じタイミングで伝播したいう見立てやね
まあ弥生関係ない頃やな

104 :
素環等
遼寧式
支石墓など

興味深い地だ。

105 :
結局、縄文末までに日本と交流があったのは朝鮮半島と沿海州しかなかった訳。

縄文末の渡来人、いわゆる弥生人が来たのはそのいずれかという可能性が高いという訳だ。

しかし、渡来系弥生人骨をコンピュータ形質解析にかけると朝鮮人骨とはかなり離れていて、
オロチやギリヤークなどの沿海州の北方民族の人骨にかなり近寄った数値を示している訳。

さて、真相はいかに?

106 :
沿海州からドラヴィダ人が来た言うとるやんけ

107 :
扶余百済と同族ということか。
(百済は朝鮮半島にいたけれど朝鮮民族ではないよね?)

108 :
伝説通りなら百済は姫氏

109 :
どこの伝承?
姫氏というと肥国王家、卑弥呼の実家ですね。

110 :
>>109
>どこの伝承?

箕子朝鮮って知らないの?
まあ、姫氏じゃなくて箕子だけどさ
商周演義で商の王族が朝鮮に封じられたとあって、それが箕子朝鮮
後に衛満朝鮮の追われて、馬韓に入り韓王になったことになっている

その馬韓の地に建国されるのが百済

111 :
もともと百済は遼東半島にあったからね。しょうがないね。

112 :
>>110
ありがとうございます。
半島の歴史には疎いもので。
いろいろ教えていただいたので勉強させていただきます。

113 :
>>111
>もともと百済は遼東半島にあったからね。

百済は、三国志魏書東夷伝韓条の伯濟國が周囲を併呑したものだろ?

114 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

115 :
>>105
サルマタイ 猿田彦

オンドル式

積石墓

116 :
>>109
卑弥呼の実家が肥国王家=大国主直系(=各地ヒナモリが配下)だと?

117 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

118 :
このスレも早くも死んでるな

邪馬台国スレ、乱立させるの止めようよ

119 :
キチがいるから止めるのは無理ぽ

120 :
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg

121 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

122 :
>>120
間違ったコピペを延々と貼り続けるしかできることはないのかい?

123 :
>>122
で、どこが間違ってるのか教えてくれ

124 :
>>123
>どこが間違ってるのか教えてくれ

一読しておかしいと分からないのは、能力が足りないよ

>>120
>摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

これがウソ
弥生時代の初め頃から奈良盆地の最低部に集落遺跡があるし、河内南部はもっと古い

>農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
>吉備や尾張の方が全然上

これもウソ
尾張にも銅鐸鋳型の出る銅鐸祭祀の中心の一つがあるがより広く、三遠型銅鐸の範囲を包む形で
畿内起源の銅鐸の分布範囲が確認できる
吉備にしても古墳時代の前代以降、畿内最大の墳墓を超えるものを一度も作っていない

>九州に比べれば2桁違う

これも資料解釈がおかしい
淡路島の五斗長垣内遺跡や彦根の稲部遺跡は、弥生時代の列島最大規模の製鉄遺跡で、北部九州より多くの鉄を扱っていたことが分かる

これを書くと淡路島と近江まで鉄があるのに、畿内には鉄が入っていない後進地って言い出すやつがいるけど、>>120の示す資料で「淡路島や近江の鉄の出土例」がどうなっているか見てごらん
最大の製鉄遺跡のお膝元でも、鉄はあまり「出土しない」んだよ
「鉄が出土しないこと」は、「鉄がなかったこと」を意味する訳ではない
単なる発掘バイアスだよ

弥生文化では実用に鉄器が使われ、祭器に青銅器が使われる
弥生時代に鉄器がないと考える方がどうかしている

125 :
お前の言ってることは支離滅裂だ。勝手にそう言い張ってればいい。ないのにあるといい
あるのにないという。

証拠がない以上妄想に過ぎない。

126 :
イメージや上っ面でしか語れない伊都クズの主張は全く学問的に意味がない

127 :
>>124
まともに間違いを指摘できないのは、能力の問題だな。
相手に伝えるプレゼン能力の不足、コミュ障。

おはよう、キナイコシ

128 :
>>124
>淡路島の五斗長垣内遺跡や彦根の稲部遺跡は、弥生時代の列島最大規模の製鉄遺跡で、北部九州より多くの鉄を扱っていたことが分かる

日本海文化圏と瀬戸内文化圏だから、東海文化圏の纒向は関係ないよ。
そんなものを持ち出しても意味がない。

>弥生文化では実用に鉄器が使われ、祭器に青銅器が使われる
>弥生時代に鉄器がないと考える方がどうかしている

海岸沿いは集落なども発達し、外部から文化がもたらされる。
しかし、奈良盆地のような内陸は違う。
人も少なく耕地も狭く、鉄器が見つからない後進地域、早く言えば田舎だよ。

129 :
具体的内容皆無

130 :
反論が具体的でないキナイコシ

131 :
論にもなってないものに反論など無意味

132 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

133 :
淡路島の五斗長垣内遺跡や彦根の稲部遺跡は、「大和+河内〜環大阪湾」に
入るか入らないかくらいの地点

まあ、普通に通商圏内

そして、淡路島でも近江彦根でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されるまで、
弥生時代の鉄はほぼ出土していなかった

でも、そこに鉄がなかったという人は今はいない

鉄ってのは朽ちやすいから、現実に出るかどうかってのは、鉄があったかどうかとは
別の問題なんだよ

134 :
>>125
>お前の言ってることは支離滅裂だ。

どこがどう支離滅裂なのか、「具体的に説明」してごらん?
できるものならなww

135 :
>>128
>日本海文化圏と瀬戸内文化圏だから、東海文化圏の纒向は関係ないよ。
>そんなものを持ち出しても意味がない。

近江の土器も、淡路島の土器も、纏向ではきちんと出てるよ
普通に通商圏内

136 :
>>128
>しかし、奈良盆地のような内陸は違う。

諏訪盆地のような内陸でも、古くから栄えているし、この図でも分かるように
畿内様式土器もきちんと流入してるよ
https://i.imgur.com/63f11W7.jpg

「内陸だからー」に何の説得力もないのに早く気づくといいね

137 :
>>134
相手に自分の意見を伝えられないのは自分の責任だと思わないか?
コミュ障

138 :
>>135
尾張を介しているので、直接の交流ではないよ。
纒向はあくまでも終わりに従属する立場の田舎。

139 :
>>136
諏訪盆地は記紀にも建御名方が逃げ込んだという記録があるので、例外だよ。
纒向は何の謂れもない。

140 :
>>137
>相手に自分の意見を伝えられないのは自分の責任だと思わないか?

支離滅裂だと判断しているのは、>>137の中の内観なんだから、
それを具体的に書き込めばいいんだよ?

自分の考え一つ、文字で書けないのかい?
まあ、九州説の人ってのは、大体そのレベルだよねww

>コミュ障

「コミュ障」が、まだマイブームなんだww
すごいね!wwwwww

141 :
>>139
>諏訪盆地は記紀にも建御名方が逃げ込んだという記録があるので、例外だよ。
>纒向は何の謂れもない。

この辺がとことん頭が悪いよね?

纏向は、新しい都を空いてる場所に作った場所
謂れがあるのは大和だよ

建御名方が逃げ込む前の時代というか、その前の代、大国主の時点で、
大国主の家出先に選ばれるくらい大和は謂れのある土地だぞ?ww
古事記 上卷-4大國主~
又其~之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲~、和備弖三字以音、
自出雲將上坐「倭國」而、束裝立時、

この倭国は、古事記の表記だから、大和の国

142 :
>>141
>この倭国は、古事記の表記だから、大和の国

アホか
筑紫のことだよ

143 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

144 :
>>124
>河内南部はもっと古い

河内は瀬戸内だから纒向とは関係ないでしょ

>吉備にしても古墳時代の前代以降、畿内最大の墳墓を超えるものを一度も作っていない

古墳時代以降の話をしてどうするの?
畿内説は後世の話しかできないの?

145 :
後世の話を持ち出すのは伊都クズの得意技だな

146 :
>>142
>アホか
>筑紫のことだよ

相変わらず何一つ根拠もなしで喚くだけw
古事記は大和朝廷の編纂で倭国はヤマト国と訓むんだよ

147 :
>>134
あるのにないといい
ないのにあるという

ま、表現力を身につけてから出直せ。まずは卒論をちゃんと指導してもらえ。論証の体を成してない。

148 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

149 :
キナイコシはレトリックだけで人を騙そうとしているが、それに引っかかる人は少なく、キナイコシが孤立する結果となっているな。

150 :
>>147
>あるのにないといい
>ないのにあるという

>>147が日本語を読んで理解できないだけだろ

淡路島でも近江でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されるまで、
弥生時代の鉄はほぼ出土していなかった

その頃は、淡路島にも近江にも鉄は少ないといわれていた
でも、弥生時代最大級の製鉄遺跡、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されて、
鉄が少ないなんてとんでもないってことが分かった

でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡以外で鉄の発掘が増えたかと言えばそんなことはない
要するに、あったと考えるのが相当だが、実際には出土していない

出土していないことが、鉄がないことを意味するわけではない
なぜなら、鉄は朽ちやすいから

これだけのことを、理解できないことにしないと、自説が維持できない九州説は大変だww

151 :
>>150

あるということと
あったはずということ

この違いがあなたがわかってないからね。

あなたの文章では全く意味が通じないよ。ちゃんと指導してもらったら?というのはそういうこと。

152 :
キナイコシは妄想を言いふらすだけ。

153 :
福岡にも熊本にも製鉄遺跡はあるのに、まるで関西にしか製鉄がなかったかのようなことを言っているバカがいるな。
畿内説はどんどんその領域を広げないと、証拠が足りないらしい。
大和説とか纒向説とか言えないのは、根拠があまりにも不足しているからだよね?

154 :
>>150
その遺跡でな…ますます奈良の田舎加減がさらに露呈してしまった

155 :
>>153
>福岡にも熊本にも製鉄遺跡はあるのに、まるで関西にしか製鉄がなかったかのようなことを言っているバカがいるな。

また捏造してるww
こっちの主張は、弥生時代の日本では「どこにでも鉄があるのが当然」だ
そして、鉄が出ないといわれていた地域で弥生時代最大規模の製鉄遺跡が見つかって、
最大量の鉄を使っていても、出土量が少ないことがあることが実証されたと言っているだけ

福岡や熊本のことは一切言ってないだろ?

ただ、福岡も熊本も、製鉄遺跡のある辺りは「真っ先に畿内様式土器が流入する地域」なんだよなww
いいところは、畿内と誼を通じてるんだよ

156 :
畿内を征服した主体だったということか。

157 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

158 :
>>156
正解

159 :
>>155
「嘘も百編吐けば真実になる」と思っているのか?
朝鮮人みたいな奴だなw

160 :
3世紀の遺跡から鉄器ゼロって嘘が書いてあるスレはここですか

161 :
纒向限定

162 :
弥生時代の日本では「どこにでも鉄があるのが当然」だ
そして、鉄が出ないといわれていた地域で弥生時代最大規模の製鉄遺跡が見つかって、
最大量の鉄を使っていても、出土量が少ないことがあることが実証された

163 :
全部九州に上納したんだろ。

164 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

165 :
>>163
>全部九州に上納したんだろ。

また理屈に合わないことを書いてるな
九州説では半島から鉄が来るから九州優位っていう「筋立て」なんだろ?

どうして淡路島や近江まで原料を運んで、製鉄してそれを九州まで戻すなんていう手間をかけるんだ?
九州にも製鉄遺跡があるって誇ってたんじゃないのか?

九州ではまともな製鉄もできないから、淡路島や近江から鉄を仕入れていたって言いたいのか?ww

166 :
森林資源の調達するためよ。
鉄を持ち運ぶ方が木材運ぶより簡単だからな。

167 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

168 :
>>166
九州には森林資源もないのか?

169 :
九州はなんもないところ

170 :
あるけど、丸裸にするわけにはいかない。
だから畿内を植民地にしてそこの森林資源を利用する。

171 :
>>170
アホか

172 :
>>171
当たり前のことだよ。

173 :
でも纒向はカスみたいな鉄さえももらえない。
内陸では搾取する価値すらない。
淡路島とかは、海路で便利だからいいように開拓された。

174 :
なにゆえ中九州や西中国とかの近場に移動しなかったのかね?
バカ丸出しだな

175 :
>>170
九州の森林資源が丸裸って???  やっぱりアホや

176 :
>>174
畿内に相手してもらわんと辻褄があわへんから

177 :
移動しただろ。
九州中部なら熊本とかにも製鉄遺跡はある。
瀬戸内海沿岸にもあるだろうけど、遺跡は見つかってないんじゃないか?
畿内の開拓者である三島溝杭耳を祭る本社である大山祇神社が愛媛県にあるから、間違いなく拠点の一つだったろうね。

178 :
>>175
少なくとも、大人口を抱えていた奴国の周辺は生活のための伐採だけでかなり森林は失われていただろうね。
倭国の成長に合わせて、周辺地域の資源に手を伸ばさざる得ない。

179 :
いいサンドバックがやって来た

180 :
>>178
たとえば江戸時代はどうだったんだ?

181 :
>>177
その移動を、各遺跡名と操業時期で表記してみてよ


○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)

○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)

○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)

182 :
サンドバックがとんずらしやがった

183 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

184 :
>>150
>淡路島でも近江でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されるまで、
>弥生時代の鉄はほぼ出土していなかった

>その頃は、淡路島にも近江にも鉄は少ないといわれていた
>でも、弥生時代最大級の製鉄遺跡、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡が発掘されて、
>鉄が少ないなんてとんでもないってことが分かった

>でも、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡以外で鉄の発掘が増えたかと言えばそんなことはない
>要するに、あったと考えるのが相当だが、実際には出土していない

出土していないんだから、鉄がない
なぜなら、鉄は朽ちやすいが、五斗長垣内遺跡と稲部遺跡でも、
同じ日本の北部九州でも鉄が出土しているのだから

これだけのことを、理解できないことにしないと、自説が維持できない説は大変だww

185 :
>>184
↓の返事がまだだよ

その移動を、各遺跡名と操業時期で表記してみてよ


○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)

○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)

○○県○○遺跡(○○式 ○世紀○四半期)

186 :
>>165
また理屈に合わないことを書いてるな
半島から鉄が来るから九州優位っていう常識

木材が貴重だから
淡路島や近江まで原料を運んで、製鉄してそれを九州まで戻すなんていう手間をかけたんだ
九州にも製鉄遺跡があるが、王族や貴族向けの高級製品だけを作っていたんだろう

九州に製鉄所なんて置きたくないから、淡路島や近江で鉄を仕上げていたってことww

187 :
>>155
また捏造してるww
こっちの主張は、弥生時代の日本では「どこにでも鉄があるのが当然」だ
そして、鉄が出ないといわれていた地域で弥生時代最大規模の製鉄遺跡が見つかって、
最大量の鉄を作っていても、地元では出土量が少ないことがあることが実証されたと言っているだけ

ただ、福岡も熊本も、製鉄遺跡のある辺りは「真っ先に畿内様式土器が流入する地域」なんだよなww
いいところは、畿内と誼を通じてるんだよ

鉄を畿内で精錬してから九州へ運ぶんだから
その勢力は
畿内から労働力も運んでくるからな

188 :
江戸幕府ですら木材を必死に管理していた

五斗長垣内遺跡と稲部遺跡なんて長期稼働してたら
周囲の山々は禿げ上がって
洪水が頻発してただろうなあ

>奈良時代の石高www

189 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

190 :
>>188
九州のアホは森林の管理も出来ないらしい

191 :
鉄器を作るには
製鉄、精錬、鍛冶の行程を得なければならない。
日本国内で製鉄が確認されたのは5世紀以降。

朝鮮半島で製鉄を行い、国内に持ち込んでいる。
精錬、鍛冶遺構は北部九州ならば
弥生中期以降は至るところにある。

日本国内では製鉄遺構と言っても、
実態は鍛冶遺構であることが多い。

国内の製鉄は5世紀以降のたたら製鉄が
よく残っている。

192 :
今のところ5世紀以前の国内の製鉄遺跡で
確実なものはない。
製鉄遺跡=5世紀以降、と判断して良い。
精錬、鍛冶遺跡を製鉄遺跡と呼称して
いることがあるので注意せよ

193 :
>>187は九州のアホ

194 :
>>190
森林を保護するため、製鉄の場を各地に分散させ、日本海ルートと瀬戸内ルートで九州に運び込んだのだろう。
海が使えない大和は後進地域のままで、畿内でも摂津など大きな港が作れるところは発展したわけだね。

195 :
森林保護の最先端だったと言うわけだな
北部九州は。

196 :
>>194
九州のアホは森林の管理も出来ないらしい

197 :
>>192
>製鉄遺跡=5世紀以降、と判断して良い。
>精錬、鍛冶遺跡を製鉄遺跡と呼称して
>いることがあるので注意せよ

なるほど。
_φ(・_・
倭人は朝鮮半島で製鉄した延べ板を買い込んでいたのだったね。
それも九州の森林資源に役立ったかもしれない。

198 :
>>197
九州のアホは森林の管理も出来ないらしい

199 :
>>198
イミフ

200 :
鉄器出土数

奈良県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 0 弥生中期 0 弥生後期・終末期 1 弥生後期・終末期 5

徳島県 弥生前期 0 弥生前期 0 弥生中期 3 弥生中期 0 弥生後期・終末期 28 弥生後期・終末期 0

福岡県 弥生前期 2 弥生前期 48 弥生中期 46 弥生中期 365 弥生後期・終末期 213 弥生後期・終末期 753

熊本県 弥生前期 0 弥生前期 1 弥生中期 20 弥生中期 21 弥生後期・終末期 311 弥生後期・終末期 1254

各時代が2つあるのは(前)鉄鏃と(後)その他鉄器に分けてあります。

弥生時代九州が鉄器時代だったのに対して本州は未だ石器時代

201 :
九州の山が丸禿になるらしい

202 :
鉄鏃しかない阿波は攻め込まれた土地なのかな。
福岡と熊本の覇権争いが目立つから、これが邪馬台国と狗奴国だろうね。

203 :
>>202
倭国(阿波)には、大概のものはあるよ。  @阿波

「宮谷古墳」
https://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_63.html
倭国(阿波)には、大概のものはあるよ。  @阿波
「矢野遺跡」
http://inoues.net/club5/4kokureikai_yanoiseki.html

「樋口遺跡」
https://sitereports.nabunken.go.jp/13840

国高山古墳の副葬品:内行花文鏡、長方板皮綴短甲、鉄鏃(鳥舌鏃)、鉄剣、鉄槍、石製鞘入刀子、滑石製勾玉、鋤先、鉄製釣針ほか。

204 :
>>201
まあ、奴国の周りの乱開発で早良の倭王の権威が失墜して、伊都の天孫族の王権が成立したのかもしれないし、同じことを天孫族も繰り返して、伊都を追い出されて東征して、卑弥呼の共立につながったのかもしれない。
卑弥呼に森林保護まで目が届く才能があったかは不明だが、重臣の中に伐採禁止と鍛治施設の外部への移転を進めた人物がいたのかもしれない。
必然的に邪馬台国の影響は東の瀬戸内海などに及んで行く。
それが瀬戸内ルートを確立し、古墳時代の到来の基礎となったのだろう。

205 :
>>203
九州北部の支配下に入ったことがよくわかりますね。

206 :
>>205
九州など相手にしてませんよ。

「倭国(阿波)は鉄器王国」

倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。 

こんなに集中的に鍛冶遺跡があるのは、倭国(阿波)だけ。  @阿波

「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」

207 :
>>200
をちゃんと見ろよ。
現実から目をそらすなよ。
阿波は後進地域だぞ。

208 :
>>203
をちゃんと見ろよ。 @阿波

209 :
>>207
>阿波は後進地域だぞ。


現実から目をそらすなよ。  @阿波

210 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

211 :
>>200
鳥取の方が多いんじゃね

212 :
景行親子の活躍がなければ宇宙戦艦ヤマトじゃなくて宇宙戦艦クナ

213 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

214 :
北部九州倭人ありきだよ

それが周辺に傀儡国家を作りまくった

215 :
>>212
単純に旧国名をつけただけ。
二番艦は武蔵、三番艦は信濃。
一番艦が筑紫とかになったかもしれないが。

216 :
アンドロメダ

217 :
帝国海軍の筑紫
1代目は巡洋艦、2代目は測量艦
冷遇されているなあ

218 :
筑紫

初の帆走設備が撤廃された船で
日清戦争以前に建造された軍艦
日清戦争、日露戦争に参加

旧国名がつけられた船では最初期の時代の船だね

219 :
大和、武蔵の名前がついたのは
第二次世界大戦直前が初めてかな。

同名の二代目として名前を使い回すことも
あるよね。

220 :
戦艦の名前は旧国名という後期のルールではないよね。
そもそも戦艦ではないし。

大和の名前は使いまわさないだろうなあ。

221 :
そんじょそこらの艦では名前負けするだろうしね

222 :
でも信濃は使いまわしたな。

223 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

224 :
信濃は結局戦艦じゃなくて、大和の同型艦だとみんな思ってないし(震え声)

225 :
信濃は結局戦艦じゃなくて、大和の同型艦だとみんな思ってないし(震え声)

226 :
鉄器から逃げまくり

227 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

228 :
戦艦大和も鉄でできてるけど?

まあ、広い意味では鉄器だな

229 :
鉄器が出る=倭国=邪馬台国+狗奴国

鉄器が出ない=毛人の地

230 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

231 :
弥生時代から引き続いて大王が入るのは方形だろが

要するに、
各大王のたびに全国で作りまくったんだよ

江戸時代の参勤交代 街道あり
古墳時代の巨大古墳 街道なし

それぞれの時代の政治の天才が同じことを考えたんだよ
>地方の国力を浪費させて反乱抑制

ぜーんぶ大王のため>方形

232 :
同意。
三雲南小路など、歴代の倭国の王墓は方形周溝墓。
そして3世紀を代表する方形周溝墓の倭国女王墓が平原遺跡となる。

233 :
だから
歴代の数をはるかに上回る数なんてのは当たり前

そりゃそうだ
全国津々浦々の主張がこぞって自らは円形に入って
方形で大王祭祀して恭順をはかったんだからな

234 :
鉄器から2−3世紀邪馬台国は福岡県で確定しました

235 :
>>234
>鉄器から2−3世紀邪馬台国は福岡県で確定しました

こういうデマを飛ばすから九州説は信用をなくした

236 :
>鉄器から2−3世紀邪馬台国は福岡県で確定しました

そのまんまだからな

朝鮮半島から鉄素材を入手して、
各地に鉄工所があるのはいいが、
鉄工所に弥生燃料を供給する<木材→炭>高地性集落は九州外で東征
完成品の鉄器は九州から大量出土

237 :
伊都平原遺跡の卑弥呼様 邪馬台国
高良宮神籠石の卑弥弓呼 狗奴国

この倭国二大勢力以外に有力勢力っていた?

238 :
毛人を使役して

239 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

240 :
伊都平原遺跡の筑紫の女王である卑弥呼様 邪馬台国
肥国王家の卑弥弓呼 狗奴国

241 :
【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。

242 :
熊本の鉄器は倭国乱以降

後世のものを前世紀に持ち込むのは畿内説と同じ

243 :
それって根拠ある?

244 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

245 :
>>236
>そのまんまだからな

>朝鮮半島から鉄素材を入手して、
>各地に鉄工所があるのはいいが、

鉄は生活材であり、1世紀の登呂遺跡でも当然に鉄器使用と考えられている
でも、登呂遺跡からは鉄は出ていない

鉄の出土の有無で言えることはほとんどないよ
鉄が出土した所には鉄があったといえるけれど、
鉄が出土しないところに鉄がなかったとはいえない

鉄が出土しない理由はいくらでもあるからね

246 :
鉄が普及していく過程

【鉄を使った痕跡がある】
福岡県 紀元前の菜畑遺跡などなど
畿内  期限後のまきむー遺跡などなど
登呂遺跡などなど

【鉄が実際に使用されていた】
福岡県 紀元後の遺跡全て
畿内  〇〇世紀から???

247 :
鉄が出土しない理由ってなんだよ???www

248 :
鉄の有る地域=北部九州倭人

鉄の無い地域=毛人


饒速日が先に毛人を東征した

続いて神武天皇様が攻め込んだ時には、
{えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず}

えみし=毛人は 一騎当百の強者と言われていたが、戦いもせず逃げていった

饒速日が先に毛人を制圧していたから、
神武がやってきても、もはや抵抗する毛人はおらず、
ビビッて逃げ惑う雑魚ばかり

神武を迎え撃ったのは、先に占領支配していた饒速日の子孫と
その関係者、つまり北部九州倭人の先行支配者だけであった

249 :
銅鏡鉗文は、銅鏡を紙で包んで、吸湿して保管すること。(文献あり
百枚をそれぞれ紙で包んで、それをしっかりくくって、それぞれを箱に入れたのだろう。
この文は、銅鏡を特注したという内容ではないな。 その解釈は違うのではないか。

250 :
白人がアメリカ大陸に持ち込んだ物品を持ち出してもしょうがないでしょw

北部九州倭人が持ち込んだ副葬品の鉄器を持ち出してもしょうがないでしょw

251 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

252 :
>>248
>鉄が出土しない理由ってなんだよ???www

鉄のはさみを、土に埋めて、10年後に掘り出してごらん
出土しないから

鉄さび、酸化鉄は土に混じってしまえばただの泥と変わらない

253 :
じゃ、なんで九州ではたくさん出土しているんだよ。

254 :
>鉄のはさみを、土に埋めて、10年後に掘り出してごらん
>出土しないから

マジ?www

255 :
>>254
マジ

256 :
甕棺墓ってのが、タイムカプセルとして有能なんだよ

土の中にさびの塊があっても、土に紛れて分からなくなるけど
甕棺の中にあるとこれは鉄だなと思って見てもらえる

とはいえ、甕棺の中でも人体等有機物はなくなってることが多いけれど

257 :
平原遺跡は甕棺ではないが、鉄剣はちゃんと出土している。

258 :
ついにテンプレ、消えたな。
よし。
神社参拝。
柏手パンパン。

259 :
>>245
そして、円墳先造説の二の舞や。

260 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

261 :
>>31
そうじゃないだろう。
寺澤が言うてるのは、集落は川筋の微高地に形成されたと。
その川筋はいわば谷底湿地というようなものと、どこかの研究機関が言っている。
寺澤派は、奈良は稲作の収量の高いところで、その稲作による支えが政権を維持したと言いたいのだろうか、谷底湿地ではなあ。
豊かな稲作地だったというのも、円墳先造説と一緒で、根拠のない話さ。

262 :
>>253
>じゃ、なんで九州ではたくさん出土しているんだよ。

畿内説を応援するつもりは毛頭ないけれど、
畿内は湿地帯だったからなんだよ。 
だから鉄器は残りにくかった。 一方、木製品は残りやすかった。
逆に九州は、鉄器は残りやすかったが、木製品は腐りやすかった。  ってだけじゃないの?
畿内へは間違いなく「忌部はん」が鉄器を持ち込んでいるよ。  @阿波

263 :
>>256
ちゃんと考古資料を読もうよな。
九州じゃ、住居跡などから鉄器がいっぱい出てるからな。
甕棺だけじゃないよ。
大和以東では、3世紀中頃以前は、場所を問わずほとんど鉄器は出てないし。
解けてしまったと言ったのは、佐原真じゃなかったか。
冗談だとかなんとかごまかしていたようだが。

264 :
>>252
大和の土壌だけが酸性が強いのか。

265 :
>>235
鉄器の出ない大和があれこれ言ってもなあ、信憑性がないだろう。

266 :
大和派は、とうとう下野したか。
万歳三唱。
拍手パチパチ。
神社参拝。
お土産購入。

267 :
大和説は無理筋を通すために非科学的なことを口から出まかせ言うんだな。

268 :
>>4
女王国から千余里。
そこは、丹後王国だった。
火明族が祀る豊受大神。
豊受比売は伊勢に遷って天照と同格神になった。
その倭種とは、なにを隠そう、火明こと天照の子神だったのだ。

269 :
>>249
その文献、ちょっとみせてえ。

270 :
>>237
倭國の二大勢力。
伊都、奴、宗像、不彌など玄海灘連合。
吉野ヶ里、鳥栖、筑後、みやま、久留米など佐賀・筑紫平野連合。
倭國の乱の当事者は、この2大勢力の抗争。
玄界灘連合の盟主奴国から、乱後に邪馬台国(大牟田、みやま、柳川、筑後、八女)に盟主が移った。
卑弥呼が死んだあと立った男王は、再起をねらった奴国の王。
しかし、この抗争は再び失敗して、卑弥呼の後継者とされた邪馬台国の台与が王に擁立された。

271 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

272 :
>>270
その二大勢力にはちゃんと名前がある。
筑紫と肥国だ。
または、天津神と国津神でもいいだろう。
魏志倭人伝に相当する対立項が、記紀にもちゃんと記されている。
魏志倭人伝には九州北部の倭国の歴史が記録されているが、それは記紀にも筑紫における神代の歴史として記録されている。
どちらも、倭国(九州北部)の歴史なのだ。

273 :
>>272
>魏志倭人伝には九州北部の倭国の歴史が記録されているが


「其山有丹」で即、アウト と、何度言えばw  @阿波

274 :
>>270
古代の倭地・倭国を語るすばらしい構図だ

275 :
>>273
今朝も早よから、倭種は元気だww

276 :
>>275
>今朝も早よから、倭種は元気だww

原文読んでるか?
「皆」倭種って書いてあるんだぞ
九州も含めて皆倭種だ

魏略逸文だと分かりやすい
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種

277 :
>>275
>今朝も早よから、倭種は元気だww

倭種とは、倭国(阿波)から1000里東へ渡海した、畿内へ拓殖に入った人々のことだよ。  @阿波

278 :
>>276
誤読です

279 :
東渡海の倭種の国々は、日の出が小一時間早いからなw

280 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

281 :
>>50
そこが面白いところ。
吉備の弧文は、墓に邪霊がよりつかんように排除するための模様。
全て埋葬した棺のあたりの周辺に置く。
箸墓も同じ。墳頂に弧文入りの特殊器台を配置した。
ところが、その弧文を彫り込んだ円板が纏向石塚古墳から出た場所は、周濠の底。
吉備なら、絶対水の中には沈めん。
祭祀器具などを水に沈めるのは尾張と近江。
弧文円板を水に沈めたのは、尾張・近江式。
だから、纏向で祭祀を取り仕切ったのは、近江・大和・尾張連合。
吉備は、弧文円板を祭祀に提供しただけ。
ここが面白いところ。

282 :
>>274
この構図には、さしもの@阿波も、指をくわえてみてるよりないな。

283 :
>>240
それは、ちょっと無理。
菊池・熊本から糸島まで距離がありすぎ。
狗奴国が邪馬台国に攻め込むまで筑紫平野と佐賀平野の海岸を行軍して、松浦川を経て、唐津あたりで布陣しなければならない。
また、唐津あたりに布陣しても、邪馬台国側が背振山地越えて狗奴国軍の背後に回り、前面、背後から挟撃したら狗奴国側はひとたまりもない。
糸島邪馬台国説は、無理。

284 :
>>242
熊本の鉄器出土は、弥生後期からが主体で、時期は1世紀後期〜2世紀とするデータがある。
北部九州では、すでに弥生中期以前(1世紀以前)から活用されていたようだ。
倭國の乱は、長い期間の場合は、140年頃からはじまったとされるので、2世紀中頃から。
まあ、それ以前から、熊本では鏃などが活用されていっぽい。

285 :
>>252
鉄が出土しない第一の理由は、鉄が流通していなかったこと。
つまり、交易品として鉄が含まれていなかった。
簡単に言えば、売ってくれなかった。
それで、鉄が出土しない。

286 :
>>281
>だから、纏向で祭祀を取り仕切ったのは、近江・大和・尾張連合。

ここが面白いところ。
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域だが、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土している。  @阿波

弧帯文土器
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf#search=%27%E5%BC%A7%E5%B8%AF%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%27

287 :
>>285
魏志倭人伝には邪馬台国に鉄器があったことが明記されているから、纒向は邪馬台国から鉄を入手できなかったかわいそうな辺境の地だよ。

288 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

289 :
>>286
同じ弥生後期としても、吉備の楯築遺跡の弧帯文のほうが完成度が高い。
楯築の弧帯文を取り入れたのだろう。

290 :
>>289
>同じ弥生後期としても、吉備の楯築遺跡の弧帯文のほうが完成度が高い。


そりゃ、「楯築遺跡の弧帯文のほうが完成度が高い」 そうなる可能性はあるだろう。

倭国(阿波)の弧帯文を改良して新しく取り入れたのだろう。  @阿波

291 :
>>290
阿波のは、土器に手書きだからなあ。
それに、阿波では、この土器絵しかみつかってないし。
楯築弧帯文は磐彫文、特殊器台、弧文円板などいろいろに変化している。
オリジナル性が異なるようだ。

292 :
>>289
>楯築弧帯文は磐彫文、特殊器台、弧文円板などいろいろに変化している。


そりゃ、「楯築弧帯文は磐彫文、特殊器台、弧文円板などいろいろに変化している。 」 そうなる可能性はあるだろう。

倭国(阿波)の弧帯文を改良して、「吉備忌部」が新しく取り入れたのだろう。  @阿波

293 :
>>292
吉備に忌部がいたのか?
いっぱいいるな。
だ〜が、忌部は5世紀からだ。
弥生後期の阿波、吉備には、忌部はいませ〜ん。

294 :
>>293
>弥生後期の阿波、吉備には、忌部はいませ〜ん。


ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。

忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。

と、何度言えばw  @阿波

295 :
>>264
大和の土は特殊でね
1500年前の鉄は出てくるんだけど1700年前の鉄は溶けて無くなる土壌なんだよ
銅も木も骨も残るんだが鉄だけは溶けるんだな

296 :
>>295
>1500年前の鉄は出てくるんだけど1700年前の鉄は溶けて無くなる土壌なんだよ

湿地帯だったからと、何度言えばw  @阿波

297 :
>>295
畿内説がザラコク並みのトンデモであることが明白となった。

298 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

299 :
古墳で高く土を積んで、その中に置けば残るんだよ

それ以前から、砥石は出てるし、石包丁もなくなってる
出土しない=なかった、ではない

300 :
>>295
mazi!
この説が科学的に確かなら、大和に鉄が出ないことの根拠となって、3世紀前半には博多から大和に鉄を持って来ていた説の補完になるのに、なんで桜井市は市庁舎前の土の化学分析を専門家に頼まんの。

301 :
>>294
忌部はんやないのか。

302 :
>>299
ここが謎ね。
畿内などでは、弥生後期後半には石包丁が一斉に姿を消すが、その後鉄鎌が古墳から出るのは4世紀になってから。
石包丁が無くなるのは、稲穂摘みに用いられなくなったから。
なぜいらなくなったのかという疑問に対する答えの一つが、株刈りするようになったため。
稲ワラをいろいろ利用するようになったから株刈りするようになった。
しかし、鉄鎌はまだ見当たらない。
成長した稲の株は硬い。
一体、どんな道具で稲株を刈ったのか。
考古学者たちが頭をひねった。
その中の切れ者が言った、「鉄鎌は溶けたのでは」。
やはり、土壌の科学調査、しろよ。

303 :
>>301
>忌部はんやないのか。

「忌部はん」は「忌部神社」や「忌部一族」に対する愛称だよ。  @阿波

304 :
>>302
>その中の切れ者が言った、「鉄鎌は溶けたのでは」。

だから、湿地帯だったからと、何度言えばw  @阿波

305 :
湿地帯だと溶けるの?

306 :
>>305
>湿地帯だと溶けるの?

そりゃ、水に浸かってりゃ、溶けるだろ? 鉄なんだから。  @阿波

307 :
>>300
>土の化学分析を専門家に頼まんの。

分析しても意味ないよ
鉄は、どの土壌にも普通に含まれてるからね

地殻に含まれる元素構成比
酸化鉄 9.1%

308 :
>>305
>湿地帯だと溶けるの?

溶けるというか、赤錆になったらぼろぼろに崩れる

309 :
鉄は水に浸かってたら結構保つよ
水中の酸素は空気中よりすくないからね。

310 :
>>309
>鉄は水に浸かってたら結構保つよ

結構ってどのくらい?  千年ぐらい?  @阿波

311 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

312 :
>>302
>稲ワラをいろいろ利用するようになったから

それまでは地産地消していたのが、
米俵に入れてどこかに運んだんだろうね。

313 :
>>307
大和では鉄器溶けるから出土しない、て。
大和より西は普通に出土してるのに、大和では3世紀以前は鉄器出土せんのは、溶けたからだそうや。
土壌がほかと違うのか科学分析せんと。

314 :
>>312
稲の株は、何で切ったん?

315 :
>>304
人民が住んだのはその微高地だし。
竪穴の家の中に鎌置いたのとちがうの?
そしたら、水に漬からんし。

316 :
>>313
大和の土は酸性度が強いのか。

317 :
>>303
忌部はん→鳴門の人民、な。

318 :
>>295
な〜るほど。

319 :
鉄器の短期的なレンタルぢゃに

320 :
>>314
饒速日の持ってきた鉄鎌

321 :
>>320
>饒速日の持ってきた鉄鎌

いや、「忌部はん」が持ってきた鉄鎌。
饒速日ともあろうお方が、ジメジメした、海も無い奈良盆地へなど行く訳ないがね。  
いつまでもそんなこと考えているからガラパゴス説   @阿波

322 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

323 :
>>320
竹で切ったのではないか、ということから実験してみたら、竹の刃はすぐ使い物にならなくなったそうな。

324 :
>>323
稲の根ごと引き抜いて、これを逆さに吊るして稲穂を乾かして、
そのあとスリコギみたいなもので脱穀。
稲ワラは、5本くらいを束にし、根の部分と首の部分は竹の刃ででも切れる。
要するに、稲は根から丸ごと引き抜いた。
鉄鎌は必要ない。

325 :
>>323
鉄を使っていた痕跡がその先の朝日遺跡まで残っているから鉄鎌があったのは確実。

326 :
>>325
朝日遺跡で出土した鉄器は、袋状鉄斧、刀子状鉄製品、工具の一部の3点のみ。
いずれも周濠付近でみつかっている。
時期は後期初頭頃。
周濠付近ということからすると、この3点は、実用に用いられたのではなく、祭祀に用いられたのではないか。
鉄鎌はなかったのではないか。
実用に鉄鎌を用いたとすれば、一つや二つでは到底足りない。
多数あったとすれば、出土するはず。

327 :
鉄がなければ石包丁や黒曜石の
包丁でも使っていたか
そもそも稲作をしていなかった可能性もある

328 :
>>326
倭国(阿波)には大抵の物があるよ。

鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1。 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽
?)のみの出土の点などからして,弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に
竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や勾玉,鉄剣,鉄刀子,
鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。(7)
いずれにしても,節句山 1・ 2号墳が古墳発生を考える上での重要な鍵を握っているように思われる。  @阿波

329 :
>>326
畿内にはそれまで石包丁があったんだから稲作してた。
土器の流れから密接な関係のある朝日遺跡に鉄器が到達していたのなら、
鉄器の上流に位置する畿内にも鉄器はあった。
稲作してたのなら鉄鎌はあったのだろう。
稲作していなかったのなら、一度稲作社会が壊滅したことになる。

330 :
>>329
>稲作してたのなら鉄鎌はあったのだろう。

大和忌部が間違いなく持ち込んでいるよ。


>稲作していなかったのなら、一度稲作社会が壊滅したことになる。

弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅しているよ。  @阿波

331 :
>>330
鉄鎌の時期が問題。
節句山2号墳は古墳前期の築造。
この頃には鉄鎌はあちこちの古墳から出ている。
2世紀後半に石包丁が消えてから4世紀頃に鉄鎌が畿内に現れるまで、稲はどのように収納されたのかが謎。
この間、稲作は一度も壊滅していない。

332 :
>>327
水田跡あるし。

333 :
>>287
そう。丹後〜河内南北線以西は多くはないものの、当たり前に鉄器が出土している。
ということは、大和、近江、尾張など以東、東北などは販売対象外だった。
しかし、3世紀後半になると、なぜか関東で鉄刀や鉄釧が出土するようになる。
これが弥生の歴史を転換させた。

334 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

335 :
>>331
>この間、稲作は一度も壊滅していない。


弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅してと、何度言えばw  @阿波

弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。

336 :
>>333
>しかし、3世紀後半になると、なぜか関東で鉄刀や鉄釧が出土するようになる。


だから、倭国(阿波)を発った関東忌部がもたらしたものと、何度言えばw  @阿波

337 :
>>333
大彦とたけぬなかわ父子の東方進出ですね、わかります。

338 :
>>335
>弥生の大洪水により、一度稲作社会は壊滅してと、何度言えばw  @阿波

これはどの程度認められてるの?

339 :
>>337
>大彦とたけぬなかわ父子の東方進出ですね、わかります。

それよりずっと前から、「忌部はん」たちが関東を目指し、拓殖に入っていたよ。  @阿波

340 :
>>338
>これはどの程度認められてるの?

さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば?  @阿波

341 :
記紀にあるとおり饒速日が畿内毛人を征服したとする。
鉄鎌を持って来たとする。

いざとなれば武器にもなる鉄鎌を、征服した毛人に渡すはずが無い。

毛人に稲を育てさせて、収穫期に各ムラの収穫日を通知しておいて、
指定収穫日に軍と共に鉄鎌を持ってやって来て、1日だけ鉄鎌を与えて一気に株刈で収穫させ、
稲束ごとまとめて鉄鎌と一緒に運び去る。

各ムラから集めた稲束は、巨大な倉庫に保管して、
倉庫の傍でもみ殻を落として脱穀して米俵にして本国へ輸送する。

342 :
>>333
>そう。丹後〜河内南北線以西は多くはないものの、当たり前に鉄器が出土している。
>ということは、大和、近江、尾張など以東、東北などは販売対象外だった。

筑紫を頂点とする倭国の文明の及ばぬ未開の地が大和だな。
そして終わりの強い影響下、すなわち終わりの支配地域。

343 :
>>340
>さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば?  @阿波

自分の持ち出した話題には責任を持てよ、って、粟に言うだけムダかww

344 :
>>343
>自分の持ち出した話題には責任を持てよ、って、粟に言うだけムダかww

自分が感じた疑問は自分で解決しろよ、子供じゃあるまいしって、言うだけムダかww  @阿波

345 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

346 :
>>333
鉄鏃が出ないのがポイントだな。
九州など西域の弥生遺跡では時代や系統の分類ができるほど鉄鏃が出土する。
鉄鏃が出土する=民衆に鉄器が普及している
鉄鏃が出土しない=民衆に鉄器が普及していなかった

答えは、征服者だけが鉄器を持ち込んで独占使用していた。

>>331
征服者が貴重な鉄器をリサイクルせざるを得ない一大イベントが空白期後半に起きた。
倭国乱で狗奴国側の支配下にある地域からは鉄器が回収されたわけだ。「金属類回収令」
溶けたのではなく、狗奴国軍の鉄鏃になって九州など西域の弥生戦場から出土している。

347 :
>>342
「終わり」は「尾張」ね

348 :
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

349 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

350 :
>>348
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

畿内から庄内甕が博多に現れるのは3世紀中頃。
そのあとの3世紀後半に筑前型庄内甕が北部九州に広がる。

351 :
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配の西から東へ侵攻し、土器などの産物は王都である筑紫へ

352 :
>>341
4世紀頃になって、古墳に鉄鎌が副葬されるようになるのは、なぜ。
それまで副葬されなかった理由は、なに?

353 :
>>339
忌部はん→鳴門の人民

354 :
>>336
だめだめ。
鉄刀と鉄釧は、若狭→長野→関東の流れが判明している。

355 :
>>335
ノアの洪水みたいなのが襲ったのなら、人民は死に絶えている。
そんな痕跡はない。
環濠が埋まったくらい。
その環濠は再建されているし。

356 :
>>354
>鉄刀と鉄釧は、若狭→長野→関東の流れが判明している。

だめだめ。  ウソはイカンぜよ。  @阿波

357 :
>>355

さぁね、レプリカ法を実践している徳島大学 中村 豊教授に聞いてみれば?  

自分が感じた疑問は自分で解決しろよ、子供じゃあるまいしって、言うだけムダかww  @阿波

358 :
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

359 :
>>352
>4世紀頃になって、古墳に鉄鎌が副葬されるようになるのは、なぜ。

内行花文鏡
倭国将軍が現地支配者としてやって来たから。

>それまで副葬されなかった理由は、なに?

末端の支配者が毛人相手に威張っていただけだから。

360 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

361 :
>>359
末端の支配者が威張っていたのと、鉄鎌が古墳に副葬されなかったのと、どう関係するん?

362 :
>>356
ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん?

363 :
>>351
みな、東遷説が好きやな。
なんで東遷したん?

364 :
>>325
そりゃ、推測に過ぎん。

365 :
東遷ではなく東征だよ。
あくまでも王都は筑紫。
記紀も東征としている。

366 :
>>362
>ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん?

どの経路って、倭国(阿波)の海人族が黒潮を利用して、東海・関東へ鉄器や朱や勾玉など倭国(阿波)の最新文化を持って
開拓に入ったんだよ。 そんなこと常識でしょ。  @阿波

367 :
>>361
王族でもなんでもないから、権威品もなければ、鉄器が潤沢にあるわけでもない。

368 :
>>362
>ほんなら、弥生後期後半になって、関東に鉄剣と鉄訓が現れるのは、どの経路で入ったん?

ところで、「鉄訓」って、なに?  @阿波

369 :
11/10
【古代史】「邪馬台国」時代の鉄器生産工房…「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」
https://asahi.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541840994/

370 :
>>368
鉄釧は、鉄製の腕輪。

371 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

372 :
鉄器本国からの第一陣が、毛人の国を東征
貴重な鉄器を寡占しつつ稲束を根刈して収益をあげる

そんな極貧経営に嫌気がさして、狗奴国に加担
狗奴国のため鉄器を供出したが、狗奴国が敗北

勝者の輝かしい邪馬台国王族支配者が、進駐
お前らこれが鉄器文化だ
文明開化して、内行花文鏡+鉄器を副葬

ドヤ顔w

373 :
お前らこれが鉄器文化だ

374 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

375 :
>>366
船転覆して、鉄刀と鉄釧、海の藻屑となったら元も子もない。

376 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

377 :
>>365
なんで東征せにゃならんかったの。

378 :
>>357
稲は一度、栽培途絶えた、とこの中村プロフェッサーが言うとるのか。

379 :
>>377
天孫族は権威を失い、乱世となったため。
魏志倭人伝にある倭国大乱。

380 :
>>377
>なんで東征せにゃならんかったの。

東征するに足る理由も言えない上に、東征先が海の無い、ジメジメした奈良盆地ときたら
どうにも、収拾がつかんだろう。  @阿波

381 :
上げ進行の人って同一人物?

382 :
どちらにしても、3世紀半ば以降の古墳から鉄器がどしどし出るようになるな。
これが、すべて。
大和が、輸入鉄器ほか貴重財を独占入手するようになったからだ。
それまで鉄器過疎地帯だったのに、突然鉄器過多になった。
なぜに、そうなったのか。
博多が独占していた輸入権を、大和が奪ったから。
単純明快ではないか。

383 :
>>382
>博多が独占していた輸入権を、大和が奪ったから。

それは絶対に、無い。


>単純明快ではないか。

単純不明快。  @阿波

384 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

385 :
>>383
大和に纏向連合が作られたのも、そもそもその独占輸入権の奪取が目的だった。
博多と出雲は強力な関係を築いていたから、出雲が博多支援に回ったら、博多制圧作戦は失敗する公算が高い。
派遣軍の背後から出雲が襲撃したら、派遣軍は孤立して壊滅する。
そのため、纏向連合は、博多制圧作戦の前に出雲を恫喝して、博多支援から手を引くことを認めさせた。
これが、記紀の国譲りの真の姿だ。

386 :
記紀の国譲りでは、出雲が降伏して筑紫に統一政権ができたことになっている。
その結果が、筑紫と出雲の緊密な関係だ。
大和は蚊帳の外、田舎の辺境の地。

387 :
>>385

妄想は聞き飽きた。  @阿波

388 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

389 :
>>386
記紀の国譲りのあとは、北部九州はまったく登場しない。
南九州に天孫が降りて、そこから神武が大和へ行く。
記紀では、北部九州は蚊帳の外。

390 :
>>387
鳴門は、記紀でも、現実の歴史でも、蚊帳の外。

391 :
>>390
>鳴門は、記紀でも、現実の歴史でも、蚊帳の外。

倭国(阿波)は「記紀でも、現実の歴史でも」、鳴門だけじゃないよ。  @阿波

392 :
>>389
天孫族の正体は古代に海を渡って南九州に辿り着いた周王朝の子孫だよ

393 :
天孫降臨の舞台は筑紫の日向。
それから三代は筑紫が王都。
実質的に伊都国のことだよ。

394 :
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

395 :
>>393

妄想は聞き飽きた。  @阿波

396 :
>>393
日向は、南九州だ。

397 :
>>396
宮崎県を日向国と命名したのは景行天皇。
天孫降臨の筑紫の日向は福岡県。

398 :
>>397
これ

399 :
ヒムカとヒュウガの違いってやつだな

400 :
■ 祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ

筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 
つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに

禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち

諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば

祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと

恐み恐みも白す
かしこみかしこみもまをす

401 :
伊弉諾の筑紫の日向における禊にちなんで建てられたのが博多住吉神社。
もちろん筑紫の日向は福岡県。

402 :
>>401
博多住吉神社の前身 現人神社を無視しないであげて

403 :
>>400
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に

ウソはイカンぜよ。
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」 
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。   @阿波

404 :
筑紫の日向、すなわち高祖山周辺が倭国の王都である。
そこから議論がスタートする。
ならば、女王卑弥呼がいたのは筑紫の日向しかないではないか。
そこには平原遺跡という、れっきとした女王墓も見つかっている。
平原女王は八咫の鏡の保有者であり、アマテラスのモデルとなった卑弥呼にふさわしい。

405 :
>>404

妄想は聞き飽きた。  @阿波

406 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

407 :
>>397
ニニギ尊を葬った山陵は「日向国」にある、と延喜式に書かれているそうだ。
日向国は薩摩であるから、日向が福岡県であることは有り得ない。

408 :
>>407

そのニニギ尊を葬った山稜は、剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡

磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

409 :
>>408
徳島とか全然そそられない

410 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

411 :
>>408
イスラエルの大使が訪れた剣山の磐境と同じじゃね。
ユダヤ関連と言われたり、ニニギ尊の墓と言われたり、いろいろ忙しいな。

412 :
>>383
まあ、阿波鳴門は、この際も無視通過されたからなあ。

413 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

414 :
>>409
>徳島とか全然そそられない

倭国(阿波)にはビビってるけどね。  @阿波

415 :
>>414
反正天皇の淡路宮ってどこなの?

天皇、初生于淡路宮、生而齒如一骨、容姿美麗。
於是有井曰瑞井、則汲之洗太子、時多遲花有于井中、因爲太子名也。

416 :
>>341
ちと不謹慎だが、高千穂でナタが凶器に使われてたな。

417 :
考古学出土物や魏志倭人伝の記載、吉野ヶ里の戦傷遺体からして、
3世紀倭国兵の武装は、
・鉄鏃や骨鏃の弓矢
・矛あるいは戈
・鉄剣鉄刀
・巴型銅器を中心に嵌めた朱塗盾
なわけですね。

戦う場合は、
鉄鏃での一斉射撃で遠距離先制
矛戈でリーチの長い中距離攻撃

倭国以外の毛人などが相手であれば、ここまでで勝負がつくでしょう。
相手の石鏃や石剣は巴型銅器で跳ね返し叩き折る。

418 :
つまり、3世紀邪馬台国兵が畿内に攻め込んで戦いとなった場合、
合戦開始時に鉄鏃の一斉射撃が必ず行われるわけです。

だが鉄鏃が全く出ない。

ということは、
3世紀邪馬台国軍は、ほぼ戦わずに畿内を征服したことになります。

ということは、
3世紀畿内はある程度統一されていて、その首脳が降伏したら、
全域が降伏した、ということになります。

419 :
じゃあ倭国が軍事的に東征したのがいつか、
勇猛とされる毛人と戦ったのがいつか、
ということになると、やはり銅戈時代ですね。

1、2世紀だと、北部九州もまだ石鏃や銅鏃が主流です。
これなら畿内からも大量に出土しています。

軍事的には銅戈時代に畿内が東征され、
環濠集落+銅鐸は征服者である銅戈勢力が作ったものでしょう。

淡路島に鉄器工房が長期間運営されたにも関わらず、
銅戈勢力は鉄器を使っていない。
ということは、銅戈勢力、つまりニギハヤヒと瀬戸内オオヤマツミ系は、
倭国王ではなかった、ということになりますね。

軍事的には、
石鏃・銅鏃・戈、の彼らが畿内をある程度統一して行政体系を整備していたわけです。

だからホケノなど3世紀の鉄鏃勢力は、首脳だけ落とせば、
あとは政治的に、
地域丸ごとの支配権を手にすることができた、ということが考古学的にわかりますね。

420 :
なぜ矛ではなく戈なのか?

矛は殺傷用ですね。
戦国時代の槍と同じことです。

ちなみに槍を実際に使用した研究では、
リーチの長い槍はしなるため、標的に突き刺すのは至難の業で、
合戦時には大きく振り下ろして遠心力で脳震盪や打撲をもって相手を倒していたそうです。

濊伝だったかに、長い矛を3人がかりで使用していた、という記載がありますが、
これも遠心力を利用して重い銅矛を相手にぶち当てて倒していたのでしょう。

421 :
じゃあ戈はというと、こちら側に刈り取る、つまり捕獲するわけです。

生口ですね。

銅戈の最盛期が1世紀から2世紀。
文献上も、107年に160人もの生口がはるか漢へと運ばれています。

422 :
ホケノ山には大量の鉄製武器が副葬されていますが、鉄戈はありません。

毛人の地を侵略して、軍事的に生口を捕獲していた時代には、
捕獲武器としての鉄戈が実用された。
北部九州の首長が数多く使用して副葬されていますね。
本拠の北部九州から出陣して、瀬戸内海を行き来して毛人と戦っていたわけです。

銅戈が大阪湾上陸して、畿内を支配下におさめてしまえば、
租庸調の形で政治的に徴発すればいいわけですから、
鉄戈は用が無くなったわけですね。

423 :
なんかこの、何の根拠もないことを正しいと信じ込んでとくとくと書き続ける感じが
nn氏っぽいw

424 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

425 :
巴型銅器付きの盾が導入された時点で、戦争用としての近接武器は陳腐化されますね。

あの形状は刃を受けるためのものでしょう。
単なる円形なら銅器部分で剣撃を受けても滑ってしまいますが、
巴型銅器ならフォークにナイフを刺しこむように剣を受けることができます。

倭人同士が戦った場合、お互い巴型銅器付きの朱盾を持っているので、
正面からだとなかなか突き破れません。
巴型銅器付き盾を装備した兵の生存率は上昇し、
混戦でガラ空きの後方から攻撃された場合などに死傷したのでしょう。
北部九州の戦傷遺骨の調査がそれを裏付けますね。

例えば、
巴型銅器付き盾+矛の部隊と、
木製盾+剣の部隊だと、
後者の盾は割られ、剣は折られで、一方的な勝負になりますね。

426 :
開発が先行していた北部九州なら陸戦もあったでしょうけど、
その他の地域、特に瀬戸内での戦いは海戦ばかりだったでしょうから、
陸地から出土する遺物の数だけでは弥生の戦争は見落としてしまいますね。

427 :
そうですね。
大山祇、三島の神などが瀬戸内海を東征した痕跡として後世まで祀られているので、その年代の確定が必要ですね。
古墳の出土品から考えると、弥生末期に東征が繰り返しあり、筑紫の倭国が畿内に進出したのでしょう。
畿内が突如として発展するのは、外部勢力の流入に他なりません。

428 :
>>427

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波

429 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

430 :
海戦が主体なら、そりゃあ剣よりも矛や戈の方が有利だな。
矛で突くもよし。リーチ差で一方的。
戈で引くもよし。ひっかけて海に落として弓撃。
先行して瀬戸内を開発していた銅剣は、
跡からやってきた銅矛にボロ負けして、
銅剣武装解除、関連各集落の銅鐸を献上して、各集落の首長娘たちが銅矛王の後宮に入って
その腹違いの子供たちが各地の首長になったのだろうな。
逆から言うと、想像よりもかなり早い時期に荒神谷加茂岩倉銅鐸群関連の地域は銅剣によって征服されていたということだな。

431 :
弓撃なんてすんなよ弓も敵兵ももったいない。

あっぷあっぷしてるのを捕らえて
生口一人ゲッツ!!!

432 :
昨日、仕事で黒歯國行ったんです。黒歯國。
そしたらなんか無許可の舟がめちゃくちゃいっぱいで進めないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、横取り禁止、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、生口狩り如きで普段来てない黒歯國に来てんじゃねーよ、ボケが。
毛人相手だよ、毛人。
なんかファミリータイプの舟で下戸が子供3人連れてとかもいるし。家族みんなで生口狩りか。おめでてーな。
よーしパパこの鉄戈で生口捕まえちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、祭祀用の銅戈やるからその席空けろと。
黒歯國ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
すれちがう舟の向かいに座った毛人といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。下戸は、すっこんでろ。
で、やっと鉄戈で毛人ゲットしたかと思ったら、隣舟の奴が、船行一年で、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、船行一年なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、船行一年で、だ。
お前は本当に船行一年で生口を送りたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、船行一年って言いたいだけちゃうんかと。
生口狩り通の俺から言わせてもらえば今、生口狩り通の間での最新流行はやっぱり、庄内式土器、これだね。
庄内式土器。これが通の頼み方。庄内式土器ってのは生口の汗が多めに入ってる。そん代わり鉄器が少なめ。これ。で、それに大盛り朱儒国産朱。これ最強。
しかしこれを頼むと次から一大率にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。 下戸にはお薦め出来ない。
まあお前ら下戸は、魚鰒でも取ってなさいってこった。

433 :
黒歯國で鉄戈により捕まった生口

生口島で教育

北部九州倭国へ

ここまで船行一年(10代)


北部九州倭国で倭国乱

北部邪馬台国の卑弥呼様に仕える

魏に朝貢されることが決まって洛陽へ

ここまで陸行1日水行20日+水行10日(30代)


陳寿と面会して、懐かしい祖国=黒歯國とその周辺国について語る

(老年の60代)

434 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

435 :
キナイコシがそう言っているのだから、
100%の確立で、
日本稲作が長江・江南から伝わったのだな

436 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

437 :
これも無駄スレ

438 :
>>428
オッケー分かった
そろそろ帰れや

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1458389654/

439 :
>>435
有楽町海進の前までは、黄海は陸地だよな。
長江河口域ってどこら辺だ。

440 :
海底地形が分かる地形図を見れば、海底谷として海退時の流路が分かるんじゃないかな?

441 :
>>439
>有楽町海進の前までは、黄海は陸地だよな。
>長江河口域ってどこら辺だ

この海底地形図で、ある程度分かると思うよ
https://www.spf.org/islandstudies/jp/info_library/senkaku-islands-03-ocean--03_ocean001.html#prettyPhoto[968]/0/

442 :
奴国は邪馬台国とは別の国

443 :
根拠なし。
邪馬台国と投馬国が別扱いで併記されていることから、これらは複数の国邑を持つ領域国家を示していると考えられる。

444 :
>>443
>邪馬台国と投馬国が別扱いで併記されていることから、これらは複数の国邑を持つ領域国家を示していると考えられる。

これこそが、根拠なしだww
邪馬台国・畿内ヤマトと投馬国・山陰イズモは既に
共通文化圏を構築する広域の勢力になっているということ

445 :
>>444
じゃあ畿内説が成り立たない。
つまり、それらは邪馬台国とそもそも関係ない。

446 :
レーダー照射の見苦しい論点ずらしをみててどこかで見たことのある見苦しい姿だなと思ったら畿内説の論点ずらしだったw自滅して周囲があきれてるのにまだやってるというw

447 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

448 :
伊都国は邪馬台国とは別の国

449 :
>>445
>じゃあ畿内説が成り立たない。
>つまり、それらは邪馬台国とそもそも関係ない。

なぜ?
投馬国・イズモまで北部九州から水行20日
邪馬台国・ヤマトまでイズモから水行10日、陸行1月は妥当な日数となる

ばっちりじゃないか

九州説は、理由もなくけちをつけるだけww

450 :
>>448

畿内説は根拠もなく言い切るだけ。

451 :
>>449
すごいなあwレーダー畿内説さんw

452 :
世界の古代史の常識
石器時代<青銅器時代<鉄器時代

さて・・・

日本海沿岸〜北部九州=鉄器時代

まきむー=(???)

453 :
投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので
朝鮮半島南岸の狗邪韓国が投馬国の中心地
九州北部の伊都国が邪馬台国の中心地。

454 :
投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので
朝鮮半島南岸の狗邪韓国が投馬国の中心地
九州北部の伊都国が邪馬台国の中心地。

455 :
九州北部が邪馬台国、九州東部が投馬国、九州西部が狗奴国。

456 :
北部九州に七万余戸の国は入らない

457 :
>>454
>投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので

ではなぜ投馬国の構成国は書いてないんだ?
馬韓弁韓弁辰は、その中の国が書いてあるぞww

詭弁もいいところw
九州説はご都合主義でその場しのぎの言い訳ばかりww

458 :
そいつはキナイコシの手先だろう?

459 :
帯方郡の南の韓人領土で十五万戸くらいだろ?
奴国だけで二万戸だろ?
北部九州七万戸でちょうどいいじゃないか
畿内をはじめ各地からの年貢もあるし(庄内式土器大量流入www

460 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

461 :
詰んどるなー

無鉄器で王墓もない地域が連合して七万戸というなら
鉄器社会で統一王墓のある地域はますます連合して七万戸
つか北部九州が統一されておらんと他地域からそこを越えて外交できんジャマイカw
笑えるのう

462 :
>>461
>鉄器社会で統一王墓

統一王墓???  なにそれ?  新語?   @阿波

463 :
統一されていないと通過できないと言うなら馬韓も統一されとらんが通過しとるぞ。

464 :
馬韓は通過していない。
沿岸航行つまり水行したからね。

465 :
馬韓にだって領海みたいなもんはあっただろ。通過しとるやん。

466 :
それは詭弁。
当時はあまり陸から離れないから、領海という認識もなかったろう。
ただ、対馬海峡は倭人だけが渡航技術を持ち、一大率を置いて制海権を握っていたと考えられる。

467 :
沿岸航行といっても休息や補給で寄港するんだから、敵対していたら拿捕される。

馬韓はその頃は楽浪の支配下でしょ。
もともと全体を統べる王がいたっぽいこと書かれてるからそれなりに統率が取れていたのを、
魏が公孫氏を滅ぼした勢いで馬韓も制圧して、帯方郡を設置した。
史料を読む限りでは、南行部分は魏の支配下。東行部分は倭の支配下。

468 :
>>466
いい加減気になって仕方ないので、たまには突っ込みたい。

一大率は一人の大率って意味であって、一大率という組織ではない。

469 :
>>468
>一大率は一人の大率って意味であって、一大率という組織ではない。

ああ、同意するのだが、一般的な表現にしないとそこに突っ込む人もいるので、うっかり一大率にしてしまったよ。
すまないね。

470 :
一人の大率を置いて、その部下達が構成する組織が出入国管理をしてたんだろ?
同じことじゃん

471 :
一は名刺に含まれないということだろう。

472 :
>>470
内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。

その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。  @阿波 

473 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

474 :
>>470
魏志倭人伝では

於國中有如刺史

魏の刺史(郡の長官)のような存在と書かれてる。
当然部下はいたんだろうけど、魏志倭人伝中では一個人の職責について書かれてる。

475 :
一大率でも大率でもいいけど、倭人関係の名詞の中で、一大率と一大國だけ中国風の名前なんだよね。

476 :
一大国は一支国の誤字だろ。
と、大率は百済にもあった官名。
もちろん部下はいただろうけど。

477 :
だとしても他の官名も和風なのに大率だけが中国風だね。

478 :
大倭

479 :
大夫

480 :
>>477
大率の他に伊都国もおそらく表意文字として表記しているから、伊都国周辺だけめちゃくちゃ中華文明が導入されていたのかもね。
伊都国以外にどこを王都と呼べばいいのか。

481 :
北部九州の邪馬台国本国内は副官の卑奴母離が共通しているから、
順番としてはまず北部九州が統一されて卑奴母離が配置されて倭国成立。
筆頭の官名は統一前の旧小国王の名が反映されているのだろう。
倭国が版図を広げるのにつれて、
北へ耳垂り東へ鼻垂りといった版図外の暫定官職が置かれた感じだね。
以上は政治的役職だね。

大率や大倭は官といっても、役人的だね。

482 :
>>480
>伊都国もおそらく表意文字として表記しているから、

表意文字と考える理由がない
都支國、好古都國でも、表音文字(万葉仮名的使用)として使っている
それとも都支國、好古都國も首都だったって主張してみるかい?

伊都国と、邪馬台国が別の国として書かれているってのは、
一部のトンデモ信者以外には常識

伊都国が都というのは、非常識ww

483 :
へえ、伊都国が都なんだ。

484 :
伊都國王=爾支(ni-qi) =一大率=奴母離(na-mori)が
治所としたのが1,000戸の伊都國(yi-tu)で
邪馬+壹の
壹のほうの縄張りをまとめあげる拠点が伊都

485 :
一大率は一支率の誤記かもな
壱岐を中心に諸国を検察していたんだろう。

486 :
一支率は伊都国に居る倭王卑弥呼が朝鮮海峡の諸国を監視する為に置いていたんだろうな。

487 :
まあそうイキリ立つな

488 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

489 :
一大率とは住吉だからね。
住吉は婚姻とかあんまないっしょ。
部族じゃなくて一大率という組織だからね。
女王国から東に渡海千里で宿泊したのは下関住吉の前身の一大率だよ。

490 :
大率は官名。
率と帥は発音も意味も同じだとか。
ならは、大率とは王のもとで内政を統括する太宰の帥そのままではないか。
卑弥呼より前に朝貢した帥升も実は倭王ではなく倭王の1番の側近だったかもしれない。
倭王本人が波頭を超えて漢まで行くなんて考えにくいからね。
そうすると太宰の帥(率)とは2世紀から明治の官制改革まで連続する役職名だったことになる。

491 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

492 :
え?帥升って自分で漢まで行ったの?

493 :
そういうことになっている。
だから実は通訳のミスで、倭王の代理だったんじゃないかと思うよ。

494 :
倭王を騙ったんでしょ

495 :
王本人が行ったかは別として、連れて行った生口の人数だけでも倭王だとわかる

496 :
帥升が自分で連れて行ったことになっている。
だから倭王というよりは倭王の代理人だったのではないかと。

497 :
>>494
倭王は中国皇帝が与えた称号

498 :
やっぱり倭王本人に会わないとまずいということになり、卑弥呼の時は郡使が伊都まで出かけて行ったわけだ。

499 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

500 :
みんな適当だなあ。
帥升は倭国王。倭王は卑弥呼。

倭国王は、倭国という国の王。
倭王は、倭人領土全体の王。つまり半島南岸の投馬国も含めてる。
意味がだいぶ違う。

帥升の記録から、倭国王(漢読み)=倭面土国=ヤマト国(倭読み)とわかる。
邪馬台国も同じでヤマト国(倭読み)のこと。

501 :
帥升は倭国王だけど、だからといって、必ずしも倭国以外の領土が無かったわけではない。
倭国王であって、同時に倭王として、狗邪韓国なども支配していたかもしれない。

卑弥呼は倭王だけど、九州南部は狗奴国王に支配されていたから、
卑弥呼時代の九州倭国=邪馬台国は、帥升時代の半分くらいだったはず。

あと卑弥呼は人前に姿を現さなかったことから、
倭王ではあっても、倭国王ではなかった可能性がある。
倭国王は伊都の世有王として別におり、
卑弥呼は武内宿禰のように、何代かの倭国王に跨って政治の実権を任されていた存在の可能性がある。

502 :
魏志倭人伝からは卑弥呼が倭全体を支配していないことがわかる。
だが、魏は卑弥呼を倭王に任命した。
それは実質的には倭国王のことで、帥升らと同じ扱いである。
卑弥呼の倭国は帥升の倭国と同じで、博多湾沿岸地域だ。
かつてはそこをヤマトと読んでいたと考えられる。

503 :
>それは実質的には倭国王のことで、帥升らと同じ扱いである。

魏によるフライングだったわけだね。

本来の倭国王の系統、つまり帥升の直系はずっといたのに、
たまたま狗奴国との総力戦になったから、
実務能力にたけた卑弥呼がトップに据えられて、実力通りに活躍した。

魏から見れば、倭国内の伝統なんて知ったことではなく、
その時その当時の倭を抑えるために、政治トップの卑弥呼を勝手に親魏倭王認定した。

504 :
帥升直系がその後倭国王に復帰したけれども、
卑弥呼の子孫もまた大きな勢力として残った。

饒速日とか卑弥呼とかは、
子孫が7世紀にそれなりの勢力を残していたから、記録を抹消されたんだね。

505 :
倭人(わじん)倭国(わこく)ってのは当時の漢人や魏人がそう呼んでいただけで、
北部九州の当の倭人たちは、自分たちのことを
やまと人、やまと国って発音してたんだな。
そりゃそうだよね。

506 :
>>504
>帥升直系がその後倭国王に復帰したけれども、

総論はいいけど、ここは意味不明。
あと、饒速日の末裔は物部氏であり、古代史きっての豪族として名を残している。

507 :
鉄器ゼロって凄いよなぁ

狙おうと思ってもなかなか出せる記録じゃない

508 :
>>506
帥升一族が七八十年の男王で、
卑弥呼と台与の間の男王もそうでしょう。
台与は卑弥呼の宗女なのに、男王はなんとも書かれていない。
なんか妙なわけです。

饒速日はいちおう神武の前に畿内に来ていたとは書かれているけど、
先行者として苦労しただろう英雄譚は残されていない。
神武にひれ伏したことが記録されているだけ。

そして卑弥呼は抹殺。

509 :
物部氏は残ったね。(先代旧事本紀も記紀に追随

では、饒速日が北部九州倭国の奥さんとの間に残した子孫の記録は?

510 :
>>508
>台与は卑弥呼の宗女なのに、男王はなんとも書かれていない。

男王は朝貢していないからでしょ。
中国としては無視と。

>先行者として苦労しただろう英雄譚は残されていない。

先行者は三島溝杭耳だよ。
饒速日は天神の子として土地を奪っただけ。

>神武にひれ伏したことが記録されているだけ。

ひれ伏したなどとは書いていない。
天の羽羽矢を神武と見せ合って同族であることを確認して、神武の大和への逗留を許した側だよ。
記紀でさえ、どちらも天神の子として扱っている(饒速日はアマテラスの直系孫)。

>>509
>では、饒速日が北部九州倭国の奥さんとの間に残した子孫の記録は?

そんな奥さんは知らない。
饒速日の奥さんは大和国の長髄彦の妹だよ。

511 :
>>510
お、あなたは三島溝杭耳の人でしたか。

三島溝杭耳は大山祇でしょ?
大山祇は山津見でしょ?
八山津見はどう見ても出雲八雷神の系統でしょ?

三島溝杭耳はイザナギ系という書き込みがあなただとしたら、
たしかに男系はイザナギ系なのかもしれませんが、
(オオクニヌシ系の可能性も非常に高いです)
女系はイザナミ系
そして部族の系譜としては、女系イザナミ系だと思いますが。

512 :
>饒速日の奥さんは大和国の長髄彦の妹だよ。

大和国の長髄彦の妹「も」饒速日の奥さん。
出身地の北部九州倭国に「も」奥さんはいた。

513 :
>>512
誰ですか?
記紀では饒速日は畿内に行ったきりの人物として登場します。

514 :
うーん。
わかってるとは思いますが、
籠神社の人が筆頭ですね。

あと、先妻はじめ数人は別にいると思います。

>畿内に行ったきりの人物
たしかに饒速日は国譲り後の大国主残党整理に明け暮れた生涯でしたね。
弟の邇邇芸思いの兄だったのでしょうね。

先代旧事本紀では、一旦畿内に埋葬されたものの、
北部九州倭国の面々がそれはあんまりだと思って、
わざわざ高天ヶ原へ遺体を移して埋葬し直したとありますね。

515 :
>>511
三島溝杭耳は大山積の息子ですねえ。
スサノオは大山積の娘に婿入り、オオナムチはスサノオの娘に婿入りしたのでしたよね?
それは国津神は女系相続だったということです。
では男子はどうなるのか?
三島溝杭耳のように冒険に出たのかもしれませんね。
三島溝杭耳のあとは活玉依姫、イスケヨリ姫とまた女系相続に戻っているので、三島溝杭耳は分家の扱いなのでしょう。
本家はというと、大山積の娘は木花咲耶姫であり、筑紫の日向の伊都の天孫族の王妃です。
あなたが指摘するように、大山積が母親イザナギの権威を受け継いでいるという考え方はあり得ると思います。
さらに言えば、卑弥呼が天孫族ではなく女系が上位である国津神の末裔の可能性も高いと思います。

516 :
>>514
なるほど。
でも明記された饒速日の妻はナガスネ彦の妹しかいないので、あとは憶測になってしまいます。
あと、高天原は筑紫ではありませんね。
念のため。

517 :
高天原は筑紫ですよ。
饒速日も神武も、高天原から畿内へ来るわけですから。

正確には、福岡市早良区の高台。
吉武高木遺跡の辺りです。
三種の神器発祥の地。

518 :
実力で考えますと。

スサノオは婿入りじゃありませんよ。
スサノオ自身の鉄器で八岐大蛇を成敗したわけで、嫁取りです。
イザナギ系の将軍が、八岐大蛇を攻め落とすついでに、
古代出雲の娘を娶って、古代出雲を編入した、ということです。

オオナムチは婿入りですね。
スサノオの娘に婿入りして、スサノオの武力を使わせてもらったわけですね。

>三島溝杭耳のあとは活玉依姫、イスケヨリ姫とまた女系相続に戻っている

なるほど。
私が思うことは、
もともと大山祇系だから、女系だった。

イザナギ男系(9割以上の確立ではオオクニヌシ男系)が主権を握った一時期だけ、
男子の三島溝杭耳が首領になった。

が、三島溝杭耳の次からは、もとの女系に戻った。

と、考えると、
やはり三島溝杭耳はオオクニヌシの息子で、
一時期だけ政権を取ったが、
オオクニヌシが失脚したので、
結局はもともとも大山祇女系に戻ったよ、という話に見えますが。

519 :
天孫降臨は高天原から筑紫への移動です。
しかも宗像の島々の神が安全を守っています。
これは海路で筑紫入りしたことになります。
天津神とは海の王の意味であり、対馬海峡を超えてやって来たのです。

それに対して、国津神はおそらく陸上の土着の王です。
天津神を婿として迎えるのが伝統だったのでしょう。
早良の王家はおそらく国津神です。

520 :
>>518
>古代出雲の娘を娶って、古代出雲を編入した、ということです。

スサノオは高天原に帰らずに出雲に住み、高天原は領土を広げてはいません。
これは婿入りです。

>イザナギ男系(9割以上の確立ではオオクニヌシ男系)が主権を握った一時期だけ、

大国主系では婿入りした男子は権力を手に入れますが、相続はあくまでも女系です。

>やはり三島溝杭耳はオオクニヌシの息子で、
>一時期だけ政権を取ったが、

大国主も三島溝杭耳も国津神と解釈できますが、大国主と大山積は別人です。
あと三島溝杭耳は東征将軍的な位置付けであり、政権はとっていません。

521 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

522 :
>>520
いろいろとありがとうございます。すごく勉強になります。
調べてみます。

523 :
200回近く掘って鉄器ゼロ

もう誰も超えることのできない大記録を樹立しました

陳寿もビックリ桃の種

524 :
しかしあれだね。里程ってのは古代から重要な航路だったんだな。

帯方郡から来て、
一大国(壱岐)→一万二千里で奴国(博多)→東に渡海千里(下関)→さらに進んで朱儒国(東瀬戸内)

この経路って、まんま住吉神社が守護する経路じゃん。地政学ってのは凄いな。

525 :
海路を守護するなら宗像神社(厳島神社)の方だろう。

526 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

527 :
瀬戸内海ルートを開拓したのは、伊予大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などに祭られる三島溝杭耳(初代鴨主)であり、いずれの神社もその地域を代表する神社となっている。
神武と戦った大和の富美の長髄彦は三島溝杭耳の孫である。
神武の妃となり次の天皇を生んだイスケヨリ姫は三島溝杭耳のひ孫である。

528 :
史学的には、博多湾沿岸から瀬戸内海ルートによる畿内への数次にわたる進出があったことはほぼ間違いない。
その足跡というか拠点が各地の古社ということになる。

529 :
筑前国風土記では、宗像大社辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
天照大神から神勅を授かった宗像三女神は、天孫降臨に際して八咫の鏡も授かったのかもしれない。
伊都平原から出土した八咫の鏡とあわせ、天孫族の王都が博多湾沿岸であり、そこから倭国が拡大したことは間違いない。

530 :
大筋では合ってるけど、宗像が博多湾かというと違うと思うよ。
王墓もないし宗像に王権の象徴である八咫鏡があるのは不思議だね。

531 :
アマテラスから直接に神勅を受けた立場だから、不思議とは思わない。

532 :
朱儒国が邪魔だったなw

南が東で邪馬台国を畿内に持って行っても、
じゃあ狗奴国はどこよ?って話になる。
南は東だから狗奴国も東だ、とさらに捻じ曲げても、
じゃあ朱儒国はどこよ?って話になる。

533 :
邪馬台国とも絡む話だが、
委奴国は倭国の極南界と書かれているということは、
やはり倭国とは広域国家であって、その中に委奴国があるという認識だな。
倭国(音読み)=邪馬台国(訓読み)と考えるなら、
倭国=邪馬台国の中に、多くの構成国がある、ということで合っている。

委奴国が伊都国なのか奴国なのかやはり委奴国なのかだが、
邪馬台国の構成国の中には委奴国の名前が無いから、
57年の委奴国は、239年には伊都国か奴国に名前が変わったように思える。
金印も博多湾から出土しているし。
だが極南界とあるのだから、実は南の狗奴国領域の構成国だった可能性もあるな。

534 :
金印(漢委奴国王印)は糸島市の細石神社に江戸時代まで保管されていたと言われている。
志賀島から見つかったことにしたという。
つまりは伊都国が倭奴国なのだろう。
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿で、これは卑弥呼の先代の王家の墓に当たる。つまりは倭奴国王の墓だ。
細石神社の祭神は木花咲耶姫だが、三雲南小路遺跡は夫婦の墓であり、おそらく木花咲耶姫と夫の邇邇芸の墓だろう。
要するに、邇邇芸の天孫降臨により筑紫の日向に伊都国が成立して後漢に朝貢し倭王と認められて金印をもらい、その後に倭国大乱があって天孫族は筑紫から大和へ東征し、卑弥呼が筑紫倭国の王として魏に朝貢したということになる。
伊都の高祖宮(高祖神社)の祭神は邇邇芸の息子のヒコホホデミだが、その孫の神武もヒコホホデミの名を持つので、おそらく天孫族が世襲できる称号だったのだろう。
そして天孫族の宮として知られるのが高千穂宮である。
高祖山の南側のピークが現地ではくしふる山と呼ばれている。
高祖山にある高祖宮こそ、筑紫の日向のクシフル峰の高千穂宮だろう。
邇邇芸が授かったという八咫の鏡が副葬された倭国女王の王墓である平原遺跡から真東の方向に位置するのが高祖山なのである。
記紀の神代の伝承と魏志倭人伝の主な舞台は、すべて博多湾沿岸の、それも伊都に集約されている。

535 :
>>534
それはいいのだが、
伊都国や奴国が極南界だと、倭国の範囲が異常に狭くなってしまう。
そんな極小の国に金印などあげないだろう。

甕棺墓その他の出土物を見ても、倭国はもっと広かったと思われるが。

536 :
漢は倭の代表者とだけ交渉していたし、対馬海峡が倭の主な範囲だったのは確かなのだろう。
有明海沿岸が発展したのは3〜4世紀頃であり、瀬戸内や畿内の発展も同時期だ(ここは畿内説もそう主張している)。
つまりは卑弥呼の頃に筑紫倭国は南方へ、あるいは東方へ勢力を拡大したのだろう。

537 :
>>535
倭奴國は倭國の極南界だから漢代には既に倭國の範囲が朝鮮半島南岸地域まで広がっていたんだな。

538 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

539 :
というかそもそも天津国=海の国の範囲が対馬海峡だったと思われる。
天津神が筑紫(伊都)に降臨したのは後漢に朝貢する直前の1世紀ということになる。
それ以前の筑紫や出雲は倭人ではあるけれど、やや違う部族(国津神)の領土だったということ。
まあスサノオも大山積も天照もイザナギの末裔だから大きな違いではないのだろうけど。

540 :
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。

541 :
いや自分も北部九州説だけどさ。

極南界の委奴国が伊都や奴国だと、
壱岐対馬、末蘆、伊都=委奴?、奴、不弥、くらいしかないことになる。
57年だと朝鮮半島南岸の領土がそんなに広かったとも思えないし。
さすがにこの範囲だけの倭国が金印を貰うのは厳しくないかい?
日本列島だけの問題じゃなくて、朝鮮半島とかの国々よりも上だという認証なわけだからさ。

542 :
>さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
>10センチ低いとかではないんだよ
>魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
>もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm

・侏儒國は表意文字 ⇔北部九州の地名は倭語に対応した表音文字
・朱が其の山に有る、ではなく、侏儒國では朱を産出していた
・考古学的に朱を産出していたのは阿波のみ

侏儒國に阿波が含まれているのは考古学的に確定。
若杉山遺跡で見つかった朱を採取した坑道跡の大きさは、
奥行き約14メートル、高さは約70〜90センチ。

『高さは約70〜90センチ』

543 :
>>541
いやでも、もらってしまったからねえ。
漢としても相手の国の規模を正確に評価できていなかったかもしれない。

544 :
>>542
むちゃくちゃ正確じゃないかw

里程まで記録されているし、これで侏儒國が確定。
里程確定で女王国も確定。



邪馬台国論争 完。。。

545 :
まあ、考古学的には邪馬台国は九州しかないよね。

546 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

547 :
表意文字だから、名前の中にも情報を内包しているわけだ。
水銀朱を採掘すると言っても、露天掘りと坑道堀りがあるからね。

黒歯國=黒い歯をした人々の国(関西の文化)
裸国=裸で過ごせるほど暖かいが、一方で未開な南方僻地の国
というように、名前そのものが情報源となっている。

儒という漢字には、小さいという意味があるから、
陳寿ら中国の知識人にとっては、
『侏儒國』という名前を聞いただけで、

あ、露天掘りじゃなくて、
坑道にかがんで身を低くして採掘に入ってるんだな、
というイメージが湧くわけだな。

さらにそれを補足する情報が、人長三四尺であり、
倭人の水銀朱採掘レベルは、原始的な露天掘りではなく、
坑道を掘って採掘するレベルに達している
そしてその坑道の高さは、70-90センチを維持できるだけの技術力なのだな。
と、当時の知識人には伝わったわけだ。

548 :
>さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
>10センチ低いとかではないんだよ
>魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
>もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm

・侏儒國は表意文字 ⇔北部九州の地名は倭語に対応した表音文字
・朱が其の山に有る、ではなく、侏儒國では朱を産出していた
・考古学的に朱を産出していたのは阿波のみ

侏儒國に阿波が含まれているのは考古学的に確定。
若杉山遺跡で見つかった朱を採取した坑道跡の大きさは、
奥行き約14メートル、高さは約70〜90センチ。

『高さは約70〜90センチ』

549 :
>>548
むちゃくちゃ正確じゃないかw

里程まで記録されているし、これで侏儒國が確定。
里程確定で女王国も確定。



邪馬台国論争 完。。。

550 :
表意文字だから、名前の中にも情報を内包しているわけだ。
水銀朱を採掘すると言っても、露天掘りと坑道堀りがあるからね。

黒歯國=黒い歯をした人々の国(関西の文化)
裸国=裸で過ごせるほど暖かいが、一方で未開な南方僻地の国
というように、名前そのものが情報源となっている。

儒という漢字には、小さい人という意味があるから、
陳寿ら中国の知識人にとっては、
『侏儒國』という名前を聞いただけで、

あ、露天掘りじゃなくて、
坑道にかがんで身を低くして採掘に入ってるんだな、
というイメージが湧くわけだな。

さらにそれを補足する情報が、人長三四尺であり、
倭人の水銀朱採掘レベルは、原始的な露天掘りではなく、
坑道を掘って採掘するレベルに達している
そしてその坑道の高さは、70-90センチを維持できるだけの技術力なのだな。
と、当時の知識人には伝わったわけだ。

551 :
やっぱり表意文字だね

以前は否定されまくってたが

そうなると、各国の名前に使われてる漢字の検証が面白そうだ

552 :
まずは伊都という名前から始めようぜ。

553 :
>>551
>やっぱり表意文字だね

という時点で、倭国の地名ではないことが確定することに気づかないかな?
ただの中華伝説の混入だよ

554 :
中国人が書いた記録出し、滞在先にはバイリンガルの通訳がいたんだよ。

555 :
卑弥呼
卑弥弓呼

違うのは「弓」のあるなし。これで両国・両種族の性格のちがいがわかる。

556 :
ていうか、おそらく同族だよ。

557 :
卑弥呼は親魏の邪馬台国で、生まれは良いが暴れ馬の如き種族

卑弥弓呼は親呉の狗奴国で、働きバチの農奴の出、何かというと飛び道具の弓を持ち出す気の短い種族

558 :
性別の違いだろ

559 :
>>554
>中国人が書いた記録出し、滞在先にはバイリンガルの通訳がいたんだよ。

そんな適当なww
いい加減な思い付きを書かれても、説得力ゼロだしw

560 :
>>555
卑国(火、肥)の 弥呼(巫女、御子)
と 弥弓呼 だと、単に 男か女か の違いともとれる。
肥の ゆこ、くこ、というより ヒコ が一般的だけど 九州だし・・・

561 :
>>547
そっち行く? 倭人伝の本筋だと・・・

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

侏儒國 裸國 黒齒國 が表意文字なのは 
魏志に記載された、魏使の行程の中で参問した和名では無いから。
山海経のような、漢代以前の奇譚伝からの出展ってのは明瞭でしょ。

これに対し、参問倭地 は、240年に卑弥呼印綬の際に建中校尉梯儁が記録した
女王所属国の国勢 可7万戸 次有を21回も連ね 此 女王境界所盡 と示した21国

斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
これらは、和音を 梯儁が漢字(表音文字)にしなければ 記録できないモノ。

女王國東渡海千餘里 侏儒國 裸國 黒齒國 といった
広大な範囲の 漢代の倭国認識に対して

参問倭地 が 絶在海中洲㠀之上 で 或絶或連 の
周旋可五千餘里 しかない、小国でした。

という、印綬で卑弥呼王宮に赴き、国勢を参問した240年梯儁の報告です。

562 :
邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピア国邑ではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の覇者となり、
やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。

563 :
>>562
日本の建国、九州平定、が247年卑弥呼の死と魏と女王国の国交の終わり
で、良いんじゃないか? という、歴史の真実の見極めの話、なんだが?

朝貢の239年、は公孫氏滅亡。
黄幢、檄の246年、は、韓王朝滅亡。
だが、
三国志戦国王の魏に卑弥呼は これに加担したのか?

日本と魏が、敵対しなければ、313年四郡追討、350年百済新羅建国。
日本、高句麗戦と牛馬の移入、鉄の国内生産。

これに、繋がる道理は無いだろが?
漢四郡は、日本と高句麗が挟み撃ちにした。

九州平定で、半島進出したのは、後の朝廷だろ?
日本の建国は概ね、238年から247年で、良いし、
倭人伝に実年が残る、247年と すべきだと思うね。

564 :
日本が歴史に登場するのは7世紀だ。
あほ

565 :
倭人伝に登場してるだろ? 馬鹿w

566 :
倭人伝には倭が登場しているが、
日本が登場するのは旧唐書まで
待たねばならない。

567 :
そうだねえ
倭国(九州地方にあったクニ)と日本国(大和から広がったクニ)は別の国

568 :
>>567
>倭国(九州地方にあったクニ)と日本国(大和から広がったクニ)は別の国

元は同じ。 7世紀までが倭国(阿波)で、遷都した8世紀から奈良大和(日本国) だと、何度言えばw  @阿波

569 :
>>568
オッケー分かった
寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

570 :
泡は邪魔

寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

571 :
鉄は残りにくいから、残る確率が低い
残る確率が低いと、実際に発掘されたものの頻度は、偶然に支配される部分が大きくなる

572 :
九州では大量に見つかるから、そんな確率論的な話ではない。
纒向には絶望的なまでに鉄がない。

573 :
>>572
>九州では大量に見つかるから

しかし、まともな鍛冶遺跡がないというお粗末さ。  @阿波

574 :
えっ?

575 :
>>573
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

576 :
>侏儒國 裸國 黒齒國 が表意文字なのは

渡来人

金印外交=漢文の知識

倭人勢力が瀬戸内海へ進出した時の指揮官が渡来人だったら、
新規領土の新規国には、
倭名でなく、表意文字の漢名をつけていくだろう。

577 :
>侏儒國 裸國 黒齒國 が表意文字
なのは 引用元が山海経みたいな中国人が作った奇譚だったからだろ。
逆に中国人が日本語? 九州語?
なんてもんを知る由も無かった、ってことの表れだよ。

240年梯儁は投馬国、邪馬臺国以外の参問21国を和名から当て字の表音文字にしてるし
247年張政も狗邪韓國、対海国、一大国以外の和地名を漢字化した。
漢字文化の渡来人なんてもんの痕跡は無い。

もちろん 卑弥呼時代の船乗りは人さらいみたいだから、
帰国のついでに、奴隷化した知識人位はさらって来てるかもしれない
ってのは、否定できない。 
卑奴母離君とかが、アヤシイw

578 :
泡チョン死んだの?

579 :
  _人人人人人人人人人人人人人人人_
  >   チョンコロがいるぞ殺せ!!  <
    ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
              倭人
           三 ( ´・ω)
          三 ー(‐∪─→
      三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
    三三 | ナウマン象U ・ |         死にたくないニダ!!!
     三 と|        ι| |         三┏<;`Д´ >┛
     三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U         三   ┛ ┓

580 :
      ´   ヾ
      ゛ (⌒) ヽ
      ((、´゛))
       |||||
マスター、このスレの奴らにはトンスルは一切やらないで!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    / |   ∠|
(゜\./,_ ┴./゜ノ(   
 \ \iii'/ /,!||!ヽ
/V,,ニ..,ニ、、 ノ( \
 \ヽY~~/~y} `/~,/  ∧    ∧
   | ,k.,.,!,.,.,r| ,!  く  / `ー一′丶
   <ニニニ'ノ    \/   : : :: :: :::::ヽ 
.   ▼   >、/⌒ヽ   |    : : :: :: :::::::::l
─‐⊥‐ッ'-‐y' / i_ ヽ、  : : :: :: :::::::/
      `⌒ー′ | |::|  )゙  ..::::〃:ィ´
         \ | |::|  /" ''  : : ::⌒ヽ
     ____  \=::|. i       、 : ::::|____
     {'〜:;}    \ |      ..::| : :::|::::::|;;;|
     {_.:;}....     \      : :::| : :::|::::::|;;;|

581 :
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき

妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる

識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう

しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする


それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)

蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ

高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ

最近では奥山と呼ばれることもしばしば

特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく

また聞き止める度量もない

そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る

そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない

しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、

また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い

582 :
日本の人はひどいですhttps://i.imgur.com/0heOxWc.jpg

583 :
キナイコシという言葉を嬉々として使う人間に碌なやつはいない
根拠は畿内説スレw

584 :
悔しいのう悔しいのう

585 :
キナイコシという言葉を嬉々として使う人間に碌なやつはいない
根拠は畿内説スレw

586 :
キナイコシがあちこちのスレを荒らしているけど?
あれがまともに見える?

587 :
畿内の凡考古学者だけに通用するから「畿内説」という
たった、それだけのこと・・

588 :
>>389
サメから生まれたサメ太郎の子ら(カムヤマトイワレピコら)が筑紫に一年住んだとあるが?バカ?

589 :
神武の父も祖父も筑紫で生まれ育っているだろ。

590 :
      ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
      (    )  <   朝鮮人との付き合い方を
      (⊃ ⊂)    \_____________ 
      | | |     
      (__)_)

        クルッ       ______________
       ∧_∧    / 
      ( `ハ´ )彡<   よく見とくアル!
    m9っ    つ  \______________
       人  Y
      し (_)

    ∧∧                  
   / 支\ 何か言ったアルか?              
  (  `ハ´)      Λ韓Λ   
  ( ~__)) ~づ。。   .<丶`∀´>  ワンワンニダー!!!!   
  | | |   ゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚=====  
  (__)_)   C/    l   
            し−し−J 

591 :
こんなもの!こうしてくれるニダ!
   __  ∧__∧   __
  ヽゝ<`血´lll>/ i ビリ
   ol真>三 <実 /o ビリ
   ヽ ヽ三 /   /   ビリ
    /_____ V_ _____/ l
     し──J

592 :
>>586
お前だよww

593 :
倭王もそうだが
饒速日だって天神族なんだから
畿内に住むなら鉄器を伴って移動してくる
お前らも転勤するなら電子レンジ掃除機テレビ冷蔵庫持っていくだろ
それが無いのだから、饒速日も北部九州に自宅があって、
時々畿内に出張していただけだ
勘違いすんなよ

594 :
周旋でも決着がついてる
周旋ってのは土地の周りとぐるりと周る意味ではなく、
うねうねと曲がりながら進む様を表す
倭地が周旋五千里ってことは、
狗邪韓国を起点に最大でも五千里の範囲内に収まるということを意味する
対馬海峡越えで三千里を費やしてるから、
@二千里しかない
福岡県とその周囲ちょびっと
考古学的には甕棺墓が分布する領域と一致
それが倭地倭国邪馬台国だよ

595 :
宗像地域は別国だな
甕棺墓の倭国の実権を
宗像地域の海神が握ったのだな
どちらにせよ北部九州で完結する話だが

596 :
記紀を参照すると、甕棺天孫族を宗像が助け、それにより宗像の地位も上がったことになっている。
どちらも海人族。

597 :
甕棺墓が一族として滅亡したのなら、
まず福岡県を追われ、
それこそ神武が畿内へ追い出されたなどという話だったら
畿内やらの東国や、宮崎鹿児島といった南やらに
甕棺墓が追いやられてから消えていくだろ
それがなくて、甕棺墓が綺麗に消えたということは、
社会変革だったんだよ
前方後円墳が無くなったり、
明治維新で廃刀令、チョンマゲ終了したのと同じ
で、
甕棺墓が終わって新たに開始されたのが前方後円墳
「三種の神器」を継承
現代までな

598 :
宗像地域と簡単に言うが
この地方は4世紀に革変して
それ以降の称が宗像
甕棺墓の倭国の実権を 宗像地域の海神が握った
というよりは
海神で表現された
響灘沿岸を活動域をとする海の民の箱式石棺墓人の後押しを背景にして
二万戸の奴國とその拡張域の女王界が成立する
3世紀以前においては宗像は箱式石棺墓人勢力の西の端っこみたいなかんじ
むしろ東隣の岡のあたりのほうが開けていたみたいなかんじ

599 :
そっちは別の海人族でしょ。
栄枯盛衰だよ。
記紀的には、天孫降臨により、それまでの大ヤマツミ系志賀島海神が遠賀川に追いやられたのだと思うけど。

600 :
宗像地域には甕棺墓が分布しなかったり北部九州の中では特殊
九州説でも余傍国に入れないことが多い
多婆那国など倭国とは別の支配国だった可能性もある

601 :
野麻騰民族最高

602 :
>>600
不弥国が宗像だという話も位置的にはあり得なくもない。

603 :
>>602
宗像は末盧国!   @阿波

604 :
墓の中に鉄鏃があるんだろ?
じゃあ墓の外にも鉄鏃が無いとおかしいじゃないか
墓の外で鉄鏃が使われるようになる時代
それが墓の中に入った人が暮らしていた時代だ

605 :
>>604
>墓の中に鉄鏃があるんだろ?

墓の中だろうが、墓の外だろうが、どのみち「忌部はん」 が持ち込んだ鉄だよ。   @阿波

606 :
>>599
>そっちは別の海人族でしょ。
マルチの海人族が栄枯盛衰 というのはとてもよい発想
ただし マルチの海人族については 最低限5つほどは想定されるべき

607 :
それくらいはあるでしょ。
天孫系
綿津見大山祇系
鴨族
豊国鰐系
宗像系
住吉系
鹿島系

608 :
>>604
>墓の中に鉄鏃があるんだろ?

墓の中だろうが、墓の外だろうが、どのみち「忌部はん」 が持ち込んだ鉄だよ。   @阿波

609 :
>>598
とは言え、あなたの意見を全否定しているわけでもなく、面白い話はたくさんあるなと思う。
例えば、岡は志賀島と同族だと思っている。
これが豊国王家、大ヤマツミの一族。
そこに割り込む形で宗像が新興勢力として成立したと仮定しているのだけど。
甕棺を天孫族と想定し、これが博多湾沿岸の田島の神の領域の真ん中に上陸して楔のように新しい文化圏を創出した。
並行して住吉も存続しており、博多湾沿岸は各勢力が割拠していたと考えている。
考古学からだけでは細かい政治的背景や婚姻関係はわからないが、記紀の神代の記述と大きな矛盾はないように思われる。

610 :
>>609
>そこに割り込む形で宗像が新興勢力として成立した

4世紀後半に金海方面で150年頃から始まった木槨墓が石槨墓に切り替わる
金海に追従して成立した慶州の木槨墓はこの頃に積み石木槨墓に切り替わる
宗像が革変したのは新羅の国家形成期のこのあたり

150年頃に金海に渡来し金海の倭人に受容された製鉄技術集団は
新羅伽耶史ではキムスロとして名を残し
記紀の先祖騙りにおいてはオオクニヌシ・ヤヱコトシロヌシとして名を残すが
この製鉄技術集団は海人グループとして海峡の鉄のルートを構築する

この後に降臨した海人グループが所謂天孫族

さらにくだって 新興勢力宗像の成立

611 :
・底津綿津見神   底筒之男命
・中津綿津見神   中筒之男命
・上津綿津見神   上筒之男命
此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神 以伊都久神也
故 阿曇連等者 其綿津見神之子 【宇都志日金拆命】之子孫也

【宇都志國玉神】も 【宇都志日金拆命】之子孫也 ということにはなる

【宇都志國玉神】はオオクニヌシの別名のひとつ

612 :
>>610

難解な文章なんだけどw

はじめに木棺の大ヤマツミ族、
次に甕棺の天孫族、
次に石棺の宗像氏族が
順に博多湾沿岸で興亡したという理解でいいのかな?

多分、天孫族の後に一世一代だけの木棺復古の卑弥呼がいるんだろうな。

613 :
>>612
>はじめに木棺の大ヤマツミ族、
>次に甕棺の天孫族、
>次に石棺の宗像氏族が
>順に博多湾沿岸で興亡したという理解でいいのかな?
それらはみんな、朝鮮半島へ行き来した、忌部の「海人族」たちだよ。  妄想ごくろうさん。  わははははは   @阿波

614 :
支石墓人は海の民
甕棺墓人は農耕民
箱式石棺墓人は海の民
高木の王(→高木神)は渡来した木棺墓人で金海式甕棺墓人のボスに納まる
高木の王の渡来に関しては海の民のサポートがある
金海式甕棺墓の拡散には海の民の関与がある
ここでいう海の民は箱式石棺墓人で響灘沿岸が活動中心拠点
弥生前期からこの箱式石棺墓人は海峡を牛耳っていた
対馬が箱式石棺墓なのはそのせい
天孫降臨で残された海の民渡来のイベントは3世紀初頭のできごと
天孫族の墓所は尾根先端上とかの高所で浅く埋めるのが主流で
甕棺墓であることは決してありえない

みそもくそもごったに扱う@は無能

615 :
>>612
>はじめに木棺の大ヤマツミ族、
>次に甕棺の天孫族、
>次に石棺の宗像氏族が
>順に博多湾沿岸で興亡したという理解でいいのかな?
それらはみんな、朝鮮半島へ行き来した、忌部の「海人族」たちだよ。  妄想ごくろうさん。  わははははは   @阿波

616 :
鉄器を持たない人々が暮らしていた
鉄器を持つ軍隊がやってきた
鉄器を持たない人々が暮らしていた住みよい場所は奪われ
住居すら失って無償労働に狩り出された
蛙の骨の髄まで齧りながら育てた稲は
鉄器を持つ軍隊が鉄鎌で根こそぎ刈り取っていった

617 :
北部九州には鉄器がザクザク出土

文化圏が一緒なら同じく鉄器がザクザク出土するはずであるが、
200回掘った畿内から出ない
洪水で押し流された吉備楯築遺跡の住民遺跡に鉄器なし

朝鮮半島で鉄を採掘していた倭人は
北部九州だけだったのだね

618 :
城野遺跡を学芸員が意図的に破壊?

619 :
纏向遺跡の集落部分からは鉄器が一つも出土していない
北部九州では大量の鉄器が出土しており、
鉄器大量消費社会に突入している
明らかに文明的断絶があり
魏と金印外交した邪馬台国とは
北部九州であったことが明らかである

620 :
>>619
碌な鍛冶炉遺構弥生集落遺跡や資源の無い北部九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

621 :
首都に鍛冶炉なんて作らんだろ

622 :
>>621
筑紫の首都は奴国と伊都国を合わせた筑紫の日向全体で、総人口が二万戸を超える大きさなので、もちろん王宮の近くには鍛冶場などありませんよ。

623 :
なぜチンピラの話ばかりしているんだ?
福岡、筑紫〜チンピラの集団の話だろう

624 :
頭が悪いんだろうw
『チンピラ』

625 :
実際は他国の奴隷なのに、
>>1(不明)
ここでは世界の中心だったんだろう

626 :
そろそろ、
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?と言っているんだよ、
べつに刑務所でも良い

627 :
鉄器がある世界の中心に
各地の土器が集まる<年貢

628 :
大嘗祭みたいなもんだね

629 :
おまけに殉葬してるって書いてあって日本の墓じゃないってまるわかりなのにな
なんでこんな勘違いをしてるのかと言えば
明治のカルト思想皇国史観で帝大の学者がデタラメやったせいなんだよな
それを未だに鵜呑みにしてる馬鹿が多いから

630 :
              _/⌒)
             i"ll==0=l_ < 逃げ回るのは得意だろチョンコ
             (@ 'A`)⊃ 
         ____i――――i___                  ((( ⌒ ⌒ ⌒ ))) 
         |   o o|| ̄ ̄ ,,_____|_____,,,,,,_           il|i i|i 
         |32  _||c  ((__,,((―――――'---'           ∧_∧  ムギィィィ!
   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l ̄ ̄(=) ̄ ̄ ̄ ̄`|            =二 <`田´# > 必ずまた帰って
∴ =========\________\          ≡三  ⊂    ⊃  捏造しまくるニダ〜
 ∵(◎;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;◎)≡)| |}:}:}:}:}:}| |)≡)       =≡二   (  ヽノ
   ヽ◎;;;;;;;;◎;;;;;;;;◎;;;;;;;;◎/≡///――‐//≡/              レ(_フ   
"""""" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  """"" ̄ ̄ """  "" """ """ ""   

631 :
建物群が庄内2から庄内3までの間
ホケノ山が布留0(小型丸底土器、4世紀小枝)
箸墓はホケノ山の後
あれ?卑弥呼?王都??

632 :
カルシウムと鉄だとどちらが土壌に溶けやすいのだ?

633 :
というか記紀を信奉してるのなら堂々と邪馬台国も倭の五王も広開土王碑も日本の歴史とは全く関係ないと主張すべし

634 :
信奉してないからごちゃごちゃ工作してる<反日キナイコシ

635 :
>>633
日本国と倭国が違う国ならそれでいいかも

636 :
朝鮮ヒトモドキ三種の神技
記憶喪失(論破されても半日で忘れる)
文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)
チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

637 :
鉄は溶けても銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。

638 :
隋書の倭国は十万戸
魏代に七万戸なので、増えたといっても3割弱程度
倭国には阿蘇山を含むことから、九州島を含む
ということは
倭国=九州島限定なのだろう

639 :
拠点なんて移るもんだからな 普通に

640 :
大宰府っていつからあったのか?
大宰府羅城の一部である水城の基礎の一部は炭素年代法で3世紀とのこと。
つまり卑弥呼の時代から実は大宰府はあったのではないか。
福岡県に上陸してから二千里(150キロ)の邪馬台国とは大宰府のことなのではないか。

641 :
大宰府としてあったかどうかはともかく倭人は住んでただろうね。

642 :
魏志倭人伝の楼閣高くというのは大野城、柵は水城だとしたら、そりゃ郡使も規模の大きさに驚くだろうと。
東夷最大の羅城を持つ大宰府に居を構えた卑弥呼に対して、東夷の国王に対しては唯一の金印を送るという待遇を与えたのかもしれない。

643 :
さすがに水城を見たら柵とは表現しないだろ。城壁。土塁。

644 :
それもそうか。

645 :
>>640

>大宰府羅城の一部である水城の基礎の一部は炭素年代法で3世紀とのこと。

どうせコンタミか校正プログラムミス

隋書の記述では筑紫は無城郭

646 :
大宰府羅城の一部と考えるから難しくなる。もともとあった防塁を後世羅城を作る時に山や丘と一緒に羅城ラインに含めて利用したのだ。

647 :
水城の敷粗朶の年代問題みたわ
三段になってて上が660年代
真ん中が430年代
一番したが250年代と測定された件な
これ予測されることは
まず筑紫平野がデルタ地帯ということを考慮しないと行けない
近代の埋めたてはもちろんだが、河川によって土砂の堆積で海岸線が変わってるだろうということを考慮しないと駄目
つまり昔は海岸線に近く塩害の被害を被っていただろうということは予想でき得る
つまりリザーバ効果によって年代が繰り上がっている可能性があるということ

648 :
>>647
>つまり昔は海岸線に近く
馬鹿?キナイコシか?

649 :
 
小学校もまともに出てないようなキチガイに絡まれたわw
https://www.iobtg.com/J.Fukuoka.files/p11.jpg
https://i.imgur.com/0UHPWZ4.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/dc/8dbf1ebf3e540cfe1f7713fb79eca761.jpg
 

650 :
>>649
キナイコシ級の馬鹿出現w

651 :
リザーバー効果で海中の炭素は400年ほど古く出るのは読んだが、それは炭素が全て海中のものに置き換わらない限り該当しないように思える。
木材を構成する炭素そのものが置き換わることは考えにくく、海水に浸かっていても、400年も古く出ることは考えにくい。

652 :
なんだと!水城が海水に浸かるだと!
巨大津波でも襲ってきたのか?

653 :
リザーバー効果はさておき
大宰府が昔海に近かったのは事実だ

654 :
具体的にはどの時代?
具体的にはどの辺りまで海だった?

655 :
銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。

656 :
元寇の防塁と勘違いしてる説

657 :
鉄は溶ける、水城は海水に浸る。
キナイコシの暴言はとどまるところを知らない。

658 :
台風での海水運搬か炭酸塩を含んだ地下水が原因

659 :
 
水城の敷粗朶どういう状態かをわかってない馬鹿いそうなので


>なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。
>報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。
>一般に流布する言説は、面白いところだけを強調している場合があり、気をつけなければなりません。
>わたくしも旧ブログの中で間違って引用していました。お詫びします。
>この段は九州歴史資料館で直接丁寧に説明を受けて理解し、それとともに恥ずかしい思いをしたことを白状します。
 

660 :
つまり全ての材料は同じ時代のもので、年代の違いは測定誤差だということかな。
まあ、炭素年代法はその程度の精度だろうね。

661 :
>>658
水城の場所も構造も知らないキナイコシは黙っとれ。

662 :
>>658
こうやって畿内説が崩壊したんだなあ

663 :
>>659
てことは、上へ上へと積み上がったのではなく、
3世紀にあった壁が、次第に横方向に拡張されたり分厚くされていった、とも考えられるね。

664 :
 
>3世紀にあった壁が、次第に横方向に拡張されたり分厚くされていった、とも考えられるね。

いいえまったく
文盲らしいのでこれ以上の議論は無駄だな
 
 

665 :
 
>リザーバー効果で海中の炭素は400年ほど古く出るのは読んだが、それは炭素が全て海中のものに置き換わらない限り該当しないように思える。
どういう理屈で年代測定してるかまったくわかってないやつの意見
同位体の濃度で年代を決めてる(同位体の崩壊する速度は決まっていて、そして平衡状態が普遍であるという前提のもとに推定している)
 
 

666 :
>台風での海水運搬か炭酸塩を含んだ地下水が原因
キナイコシは息をするように嘘をつく。。。か。。。

667 :
機能的非識字の痴呆老人

668 :
銅は溶けない。
ホケノ山古墳には銅鏃数十本が副葬されているのだから、
ホケノ山古墳が作られたのは銅鏃が周囲で出土する時代。

669 :
>>654
弥生時代

670 :
>>665
理系の教養のないアホは黙っとれ

671 :
なんの反論もできないやつw
こういうのをみると屈してるようにしか感じんわw
アホなやつほど反論できなくなると人格否定しかしてこないwwwww

672 :
海塩粒子の飛翔距離を測定した資料
台風の海水運搬能力を示唆してる
https://i.imgur.com/5wu8r2w.jpg
炭素年代測定で地下水などによる硬水効果は海洋リザーバ効果と同様なことはよく知られている

673 :
反日キナイコシがなんで気が狂ったように
水城の基礎(敷粗朶)の年代に噛みついてくるかというと
同じものが後の百済でも作られていたから
そんな高度な建築技術を倭国で先に行われていたら、
やっぱり金印もらう先進国だった、ということになってしまうから。
キナイコシはまじクズ。

674 :
>>672
>海塩粒子の飛翔距離
当然のことだが距離と共に海塩粒子の濃度は低下している。
特に5kmを境に極端に低下するようだな。
内陸の水城から、海側の弥生遺跡までは10km以上は離れているようだが、
>>669キナイコシの言う弥生時代の海岸線とはどこのことだ?
データとしても不十分で、>>672では海塩粒子が飛翔していることを示しているだけで、
炭素年代に影響を及ぼす濃度が飛翔していることが示されていない。
炭素年代に影響を及ぼす塩分濃度はいくらなのか?の科学的データを示して、
海塩粒子の飛翔濃度がそれを上回ることまで証明しなければ、
キナイコシはただの詐欺師。

>炭素年代測定で地下水などによる硬水効果
これも科学データを示さなけれれば、
キナイコシはチェリーピックしてるだけのただの詐欺師。

675 :
>>674
>キナイコシはただの詐欺師。

知ってた。

676 :
  
まだこれが理解できない文盲の上に
キナイコシとか訳のわからないこと言ってる糖質
>なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、
>卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。
>報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。

>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく

>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということ
 

677 :
ゴミスレだなあ

678 :
 
>つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく
>いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということ
同じ場所で
一番下が汚染がひどく(同位体の濃度が低い)
一番上が同位体の濃度が高い
っていう意味
理解できたかな?

679 :
>>616
違う
鉄の交易権を持っている人々が便利に暮らして農耕は捗るし潤っていた
その鉄に目をつけた集団がやってきた

680 :
.

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975

.

681 :
マルチコピペになんの意味が?

682 :2020/03/04
アクセス数かせぎ?

邪馬台国畿内説 Part560
ポンコツ広島世界一
【室町幕府】足利義輝【13代将軍】
もうそろそろ天皇制をやめて大統領制にするスレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪138
復興!周王室(天子)!倭人は呉の末裔か!?vol.7
▼ 日本人と朝鮮人は、何故よく似ているのか?
母方の先祖って・・・
高天原にある卑弥呼の墓  ◆4
太宰府の歴史 Part2
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【バンナム】Synchronica(シンクロニカ) part5
歯周病(歯槽膿漏・歯肉炎等)60
心で感ずる事を味わえる世界に入るには
【慰安婦問題】 韓国で吉田清治が作った謝罪碑が復活、未だ残る“ウソ証言”の傷跡…1943〜1945年、朝鮮人6000余名を強制連行[05/02]
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BLEACHの織姫・織姫信者・一織信性など総合アンチスレ106
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