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■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供3■


1 :2016/12/06 〜 最終レス :2020/02/29
豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど常識的にありえない。

それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻め殺した敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?

徳川家康が淀方を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか?

2 :
前スレ
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1293373518/

3 :
秀吉は、秀吉と似てもにつかず
大野にそっくりの大男だったそうだね

4 :
石田三成が父の説もあるね

5 :
秀頼は、秀吉と似てもにつかず
大野にそっくりの大男だったそうだね

6 :
高台院が徳川についた時点でそうだということだろ

7 :
>>1
まったくその通り

8 :
>>5
茶々の親父の浅井長政が大男

9 :
市もデカいしな

10 :
源次郎との子じゃろう。

11 :
本当に秀吉の子供なら、子飼いの大名が一人残らず徳川につくのはありえない。
もし秀吉の血筋の関白秀次があのままいたら結果は違っていたし
家康も強引な天下取りはしなかっただろうな。

12 :
まあ疑う奴はいただろうな。
でも奥ってのはそう簡単に男は近づけないぞ、例え戦国時代でも。

秀吉自身が種無いことに気づいて、それでも後釜を作るために
誰かに間男させた、というなら可能性あるが、
そうでないなら一族撫で斬りのリスクとってまで
茶々に手を出す男はいない。

13 :
3pでできたが正解

14 :
秀次の子だと思うね、秀吉の子じゃないとするなら

15 :
>>13
秀吉「わしゃー上の口攻めるでよー、おみゃー下の攻め口から参れ」
大野治長「かしこまって候。機熟さばいかが致しましょうや」
秀吉「わしにかまうこたーにゃーで。そのまま中に。」
大野治長「心得て候」

16 :
>>13
その発想は無かったw

17 :
>>12
天下人や大名のところでは戦国時代には独立した奥御殿があったが
江戸時代の江戸城大奥のように周囲と隔絶した場所に女たちを完全に閉じ込め
大奥の女たちが大奥の外へ行くことを固く禁じていたわけでもなければ
一日中男子禁制が取られていたわけではなく昼は行き来自由
安土桃山時代の女たちが完全に隔離された場所に監視されていたのならば
鶴松の出生を揶揄する落書が書かれたりするはずもない

それに茶々が秀頼を妊娠したのは秀吉の朝鮮出兵に同行した
筑紫の名護屋城でのことだしな
この時代の姫君は相当距離移動している

18 :
>>14
秀頼が秀次の子なら秀次を切腹させるわけがない
それに秀頼は当初、秀次の娘と婚約していたんだが
姉弟で婚約していたことになる

19 :
>>17
そりゃ大河ドラマでは奥と表行き来自由だけど、現実では違うよ。
大友宗麟が秀吉の案内で奥を見せてもらった記録があるが、
それは自由に出入りできることを意味していない。

淀殿の名護屋城移動だってお付きが沢山いるのだから
その目を掻い潜って道中ナニするのは無理だよ。

20 :
>>19
大友宗麟みたいな外様大名には秀吉といえども
完全な秀吉の私邸・プライベート空間である奥を自由観覧させないだろう
しかし秀吉の子飼いや正室側室の親族側近ならば別
実際に当時、秀頼が大野治長の子だという噂があった記録が残っている
秀吉の正室側室は男子禁制の空間に監視を付けて
年がら年中閉じ込められていたならばそんな噂は立ちようがない

21 :
庶民は大阪城の奥がどうなってるのかわからないので、
普通に大野治長が淀殿を夜這いできると思い込んでる説

22 :
お前ら、「河原ノ者・非人・秀吉」(服部英雄)という本を読んでいないのか。

Amazonの本のところで見てみ。

それによると秀吉の母は非人である。秀吉も非人の中で育った。
秀吉の実子は存在しない。
自分に生殖能力が無いことを秀吉は知っていたし、周囲の人間も
秀頼が実子でないことをうすうす知っていた。
当時の大阪城内は風紀が糜爛しきっていた。
その他、
秀吉は6本指で、信長はムツメ(六爪)と読んでいたという話も
載せている。

江戸時代になって風紀が厳しくなるが、中世には寺などに詣でて
参籠するときは男女一緒に寝た。
寺自体女がいくらでもいた。男の僧と尼僧が一緒に暮らしていたりしたし、
女の奉公人が下働きしたり僧の世話をして夜は同衾したりしていた。
城の中も同様で、とくに籠城中などは明日も知れないので、男女は今日からは
考えられないほど簡単に関係をもった。

23 :
>>14
仮に秀次の子供なら、秀次は殺されなかったじゃん。
淀や石田三成が秀次をかばうでしょ。

それに秀次の子供なら豊臣の血は引いてるので
ねねも加藤清正たちも離れなかったでしょ。

24 :
秀次は勝手にビビって高野山に閉じこもって自害したんだよ!

25 :
>>24
三谷ドラマの影響受けすぎじゃね?

26 :
>>21
一般庶民はお前だろうw
大坂城は徹底的な男子禁制が敷かれて女は牢屋のようなところに隔離されていたので
大野治長は淀殿に対面できなかったと思ってる馬鹿

27 :
糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれてR!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww

劣等人種ジャップについて語りたい場合は

http://hanabi.2ch.sc/ogame/

28 :
「大奥の奥」なんていう本を読むと、江戸城大奥でもそれほど男子禁制が
厳格に守られていたわけではなかった。
九才までなら男の子を部屋に置いて可愛がっていてもよかった。
自分の親戚の子とか、自分の手許に置いてペットみたいにしていた。
九才といっても昔は戸籍があるわけじゃなく、12歳ぐらいまで、つまり
毛が生えてくるまではなんとかなったようである。

大奥を見物させてもらった町人の話とかが残っている。
人に連れられて江戸城に入り、大奥に入っていくと老女がおり、挨拶を
すると通してくれた。履き物は履いたままでよい、と言われたそうだ。
さすがに隅々まで見られたわけではないが、ひととおりグルッと回って
出てきたそうである。表向きは男子禁制だが、上の方の女たちが内緒で
観光ツアーのような感じで中を見せ、小遣い取りをしていたようである。
まあ、便所汲みの農民とか職人とか、当然に入っていたわけだから、
厳しいといっても現実的には限界があっただろう。

29 :
大奥っていってもかなり広いし、老女しかいない所を見物したんじゃない?
幕末だと将軍を遠くから見られる見学会みたいなものもあったそうな
外国人が遠眼鏡で見たって記録があった

30 :
間部(間鍋)詮房
wikiにはこう書いてある。
家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの
詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという ...

ウィキの月光院の方を見ると
男子禁制の大奥も、規律が乱れており、月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、
家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代
からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との
間に生まれたなどとも言われるが[要出典]、いずれも俗説で信憑性は低い。

将軍の子供が生まれ、その子が跡継ぎになったら将軍生母ということで西の丸に移る。
大奥にいるはずがないから、大奥で云々というのは嘘である。
大奥に家臣が入り込むなんてことは無理だ。
しかし、二人が西の丸の御殿で一緒に炬燵に入って話をしたりしたことはあるようだな。
だいたい絵島生島の事件はこの時代のことで、絵島は役者を長持に入れて大奥内に
運び入れたりしているから、男子禁制といってもそれほどでもなかった。

31 :
男子禁制だから長持に入れたのかもよ?
まあ当時絵島は30歳過ぎたし
たとえ将軍の代が代わったとしても将軍の側にあがる可能性は低いし大目に見てもらえるかもさ

32 :
絵島生島事件で男を長持ちに入れてというのは芝居の脚色
実際の事件は年寄江島が代参で出た際、歌舞伎役者生島新五郎と茶屋で宴会を開いて大奥の門限に遅れた
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答、それが江戸中に知れ渡ってしまった
(評定では生島との密会を疑われたが)

33 :
普段は建前と内容が違ってたんだろ門限
大奥に限った事じゃなかったんだろうけど

34 :
>>31 お部屋様になると例え将軍が望んでもお相手はしない。
そういう不文律があった。まして大奥総取締りの地位にあって
将軍のおそばに上がるなど絶対にない。
>>32
しょーもねえシッタカしてるともう教えてやんねえぞ
長持に入れて大奥に入れたのは事実だ。
問題になったのは芝居に行ったときの薩摩藩士とのトラブルがきっかけ。

35 :
そう言えば、薩摩藩士がどうのこうのってあったような‥
信州高遠の絵島幽閉屋敷を見に行ったときの解説文に洗脳されて忘れてしまってたようだ
小さな家作の座敷一間と目の前の小さな庭だけが許された生存空間で長いこと過したとか

36 :
>>34
生島大吉も長持に入って本寿院と密会してたって話もあるぞ
長持に入るのが流行ってたのか?

37 :
長持の話の出所は「山王外記」というゴシップ本。
絵島の罪状に大奥に生島を入れたというのは無い。
大奥の荷物持ち込みには規定がある

検索だけど、ザッと読んだ感じあくまで噂話やね

38 :
なんて馬鹿なんだ。子供かよ
正面から大奥に男を入れたなんて罪状にしたら
幕府の権威がガタガタになっちまう
そんなことするわけなかろーが。
お前、子供かw

評定所の役人は山村座の座付き狂言作者中村清五郎を拷問にかけ、
その自白にもとづいて次々と関係者の容疑を固めていった。
当初はこの男が一人だけ過酷な詮議を集中して受けた。
この事件の全体は、拷問による中村清五郎の自白に基づいて
描かれたものだ。
生島新五郎は石抱きの牢問で責め立てられ、絵島との情交が
あったと自白させられた。
その自白にもとづき、絵島が三日三晩一睡もさせず便所にも行かせず
正座のまま尋問され続ける現問い(うつつどい)という拷問にかけられた。
尋問のほとんどは月光院と間部との密通についてであったという。
絵島は月光院付きのお年寄りであったから、絵島から二人の
関係を裏付ける供述を取るのがねらいであった。
絵島は生島との関係は頑強に否認。
月光院についても何の自白も得られなかった。

39 :
>>37
>大奥の荷物持ち込みには規定がある
大奥に男がもぐりこもうと思えばいくらでも抜け道があったんだよ。
松浦静山の甲子夜話にはある女中つきの下女が比丘尼(尼僧)に変装した
新発意(しんぼっち、少年僧)を大奥に引き込んだ話が載せられている。
大奥には不法侵入者が絶えなかった。判例集である「お仕置き裁許帳」と
いうのにその件の判例が12件のっている。
明暦の大火のあと、大奥の焼け跡から数体の男の焼死体が発見された。
いくら調べても全くの身元不明であった。消火や人命救助のために
駆け付けた者たちではなかった。
>>37
絵島の事件のあと、御錠口の荷物持ち込みに関する規定が変更された。
どう変わったか書いてごらん。

40 :
いやだから、いくらグレーを強調しても決定的証拠は無いんだろ?
それを噂という

41 :
>>40
歴史的事実の存否の議論に決定的証拠なんていう言葉を持ち出す

こういうアホを厨房あるいは池沼という

42 :
大奥へ運び入れらる長持や葛籠(つづら)のうち目方が十貫目(35kg)以上のものは中を改めねば通さなかった
そのための大天秤が供えられていた
これは絵島事件を受けてのことといわれ、文政の頃まで実行されていたという
その後再び奥女中の風紀問題が起こって検査を厳重にしたところ、大奥を抜け出す奥女中が長持に入っているのが見つかったことも
【考証大奥 稲垣史生】

43 :
>>41
大奥の事はいいから絵島の証拠を拾ってこいや〜

44 :
「証拠が無いのが証拠」ってのは無しでね♪

45 :
>>43
歴史スレには必ず一人は出てくるな、こういう馬鹿

歴史学に証拠とか証明とかの言葉持ち込んできたら
速攻高1でバックレ組確定だわな
低知能・低学歴の証拠を自分で出してんだもんなw

46 :
結局、絵島生島に関しては闇の中か

47 :
おお、無かったというんではなくて闇の中と言うことで一歩進んだね

48 :
元に戻っただけ。最初の話が芝居だし

49 :
警備の問題の話ではない。
明らかに不妊であろう秀吉に
じいさんになってから茶々だけに二連続ヒットしたっというのがおかしい。

これって当時の平均寿命からしたら
天文学的にあり得ない確率じゃないの?

50 :
秀吉の血液型は血判状からO型と判明しているが、
秀頼や淀殿の血液型は判明していない。

51 :
・秀吉の子だった 不妊と言われた夫婦が養子を迎えたら実子が産まれるというのは珍しい話ではない
・秀吉の子ではない 豊臣家存続のために「実子」が必要だった。そのため秀吉公認の浮気だった

52 :
>>37
山王外記という本は太宰春台の著作だぞ。ゴシップ本なんてとんでもない。
この本のおかげで後世の人はどれだけ助かっているか知れない。
俺は、この著作の信頼性から、絵島が大奥に生島を入れたという話を真実と考えている。
山王外記は、少なくとも俺の知る限り重要な情報を三つ残している。
まず、綱吉の生類憐れみの令発布に至った経緯。
仏教に熱心で迷信深い生母桂昌院が、その帰依する僧隆光の影響の勧めで、継子誕生
を祈願して行われたものという。最近は否定説も多いが、長く学校でも教えられてきた
この見解は山王外記の記載が元になっている。
第二は、綱吉の身長は124センチしかなかったというもの。岡崎・大樹寺の位牌堂に
ある歴代将軍の位牌は身長をあらわしているらしい。
この中で、家継と綱吉の位牌だけ極端に短い。綱吉は小人症ではなかったかという。
この位牌の件は最近注目を集めているが、ネタもとは山王外記である。
第三は、貨幣改鋳に関する荻原重秀の言葉を記録したこと。
「幣は国家の造るところ。瓦礫をもってこれに代えるとしても、これを行うべし」。
貨幣なんか瓦や石くれでもいいのだというこの言葉は、萩原が兌換貨幣に拘泥ぜず、
不換貨幣の存在を肯定していたという事実を示すものだ。
萩原は江戸中期の人であるにかかわらず、金融論・貨幣論でおそらく世界最先端の
考えを持っていたことがこれで分かるのだ。
こういう著作に載っている話だから、絵島の話もそうそう軽く扱うことはできない。

53 :
>>52
あの位牌、本当に身長と同じ大きさなん?
吉宗は大男だったって証言があったような

54 :
>>53

https://dot.asahi.com/webdoku/2016031400078.html

八代将軍吉宗は155.5センチの肥満体。持病として、本態性高血圧、前立腺肥大、右片麻痺があったといいます。

55 :
「徳川将軍家十五代のカルテ」を書いた人か
あれは……

56 :
>>53
証言よりも服や鎧の方が信憑性が高いと思いますよ

57 :
秀頼公七歳のみぎりのしゃれこうべとか残ってないのか

58 :
絵島というのは大柄で江戸前のきっぷのいい女だった。誰かに笄(こうがい)か何かを
盗まれたときに、「盗むほどに欲しいというのであれば、その者が使うがよかろう」と
笑い飛ばしたという話も残っている。姉御肌で面倒見がよく、目下の者に絶大な人気が
あった。生島を大奥に入れたというのも自分の情事としてではなかったと思う。
皆を集めておき(もちろんごく一部の者だちだが)、その中で長持ちを開け、生島新五郎
が登場するという趣向であったと想像する。
今日でいえば、パーティの最中に人気絶頂の頃のキムタクとか福山とかJリーグの
イケメン選手が登場するようなものだった。
皆を喜ばせたくてやったことである。
もちろん役者を大奥内に泊めるなどということはしなかったろう。

59 :
吉宗は遺骨を調べてほしいな

60 :
>>59
「骨は語る-徳川将軍・大名家の人びと/ 鈴木 尚/ 東京大学出版会」
http://www.elph-studio.com/shougun.html
芝増上寺での調査の記録。だから寛永寺の方に葬られている将軍は未調査。
実際は墓の修築などで見てる人は多いらしいけどね。
遺体はお公家さんのように足の裏を合わせるような形のあぐらをかいて、
座った形で葬られているらしい。

増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、
十四代家茂公の六人。
寛永寺には四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治(いえはる)公、
十一代家斉(いえなり)公、十三代家定(いえさだ)公)が埋葬されている。


家康は菩提寺を増上寺と定めた。だから秀忠より先に死んだお江の墓は増上寺。
家康は神になり日光の東照宮。
秀忠は家康のように神として祭られることを断り、葬式も仏式を選ぶ。
そしてお江の眠る増上寺に埋葬された。
家光は天海に帰依していたので天海の寺である寛永寺で葬儀を行い、お爺さん好き
だったので日光山輪王寺に葬られた。
家綱、綱吉も家光に倣い、寛永寺で葬儀を行い寛永寺に葬られることになった。

61 :
上の62つづきという名前は間違い
>>60つづき

その後、増上寺の抗議もあり、六代家宣はこれを要れて、自身の葬儀を増上寺で行わ
せた。その後は増上寺と寛永寺が交代で、ということになっていたが、家継は小さいうちに
死んだので、お父さんと同じ増上寺。
八代吉宗は順番と関係なく寛永寺。吉宗は倹約を説いた手前自分の霊廟を作ることを許さず、
綱吉の墓に合葬されることを望んだ。吉宗は自分が将軍になれたのは綱吉のおかげと思って
いたらしい。
九代家重は増上寺。そのあとは交代で、といっても適当である。
最期の慶喜は将軍職を降りていたこともあり谷中の墓地。
公営墓地を選んで寺に埋葬されなかったのは他にも理由がある。
慶喜の墓は神道の様式なのである。慶喜は神式で葬儀を行い神となった。
明治天皇への配慮だという。

家茂は増上寺だったので調査の対象となり、そのおかげで皇女和宮まで墓を暴かれ
写真まで撮られちゃったのは可哀想だ。

62 :
男を長持ちで入れるなどとんでもない話のようであるが、大奥に男を入れるのは
さほど困難なことでもなく、そもそも一定限度で許されたことだった。
姫君やお年寄りの親戚の大名や老中はお錠口から中に入れた。
大名家から大奥に入った婦人のところへは、年中江戸お留守居役の家来が
ご機嫌伺いに訪れた。
老中が新年の挨拶に来ると、女中達が襲いかかって胴上げするのが恒例で
あった。田沼意次は美男で、皆が固くなり手を出さなかったという話がある。
奥医師が入れるのは当然である。
大奥で能や狂言が催されることがあり、その場合は当然役者たちが大勢入った。

九才までの男の子は大奥にいてもよかった。大廊下など腕白盛りの男の子が
自由闊達に走り回っていたらしい。川路聖謨は娘が大奥へ上がっており、長男の
息子二人を遊びにやったことが日記に残っている。
二人は一晩泊まり、上臈お年寄りの部屋にまで入り込み、お菓子などを貰っている。
七才の弟の方は、ふすまを開けて「川路敬二郎なり」と見栄を切ってみせ、大勢の
女中たちの喝采を浴びている。

祖母や母や姉妹が遊びに来るのは普通のことで、これらの者は二晩まで泊まれると
いう決まりがあったという。
大奥というと世間と隔絶された閉鎖空間というイメージであるが、案外外に開かれた
世界だったのである。

63 :
秀頼は現代の医学から見たら観戦に黒だけど
当時の武将もみな気がついてたんでしょ。

加藤や福島などが三成憎さで、家康にホイホイだまされた
アホ奴だったというのは過小評価しすぎ。

茶々一派の陰謀を察知した上で家康のほうが信頼できると
判断をしたのだと思う。

64 :
>>63
秀頼は確かに実子でない。当時の人たちも薄々分かっていた。
ただ、これまでの歴史書はあえてその部分には触れず、歴史の
表面的な事実のみを追ってきた。
豊臣家のインチキくささというものが人々の心理にどう影響し、
それが政治面にどのような効果を及ぼしていったかということは、
現在でもさほど議論されていない。
それをこのスレでやればよい。
馬鹿や嵐が出てこなければ実りの多いスレになるだろう。

秀頼誕生後、豊臣政権が急に強権的で残虐な政権になったのは、
秀頼に関する噂を封ずる必要があったためと考えられる。
厳密には落書きの内容は不明とされている。
「聚楽第落首事件」
ここの解説が面白い。
「聚楽第落首事件」
http://top.tsite.jp/news/buzz/o/28955155/

なんか唐入り(朝鮮征伐)も壮大な目くらましのような気がする。
朝鮮討ち入りの秀吉の目的は、明朝の王女を連れてきて日本の
皇太子と結婚させることだった。たぶん秀吉は本気だった。
天皇まで半分中国人にしてしまう。ここまでやれば誰も豊臣の跡継ぎ
が実子かどうかなんて議論することもなくなるだろう、というような狙い。
唐入りの間、日本中が大忙しで、誰も秀頼の噂なんかしていられない
だろうという考えもあっただろう。

65 :
なお、突っ込みがあるだろうから書いておくと
茶々は秀吉の唐津名古屋城に同行、そのときに懐妊したとされているが、
同行したのは愛妾(武田)龍子。
龍子が茶々と勘違いされていたのだろうという。
茶々はすでに懐妊していた。
秀吉は寧々に意味シンな手紙を送る。

66 :
>>65
第一子の鶴松が正妻の寧々も納得したうえの「実子でない実子」
だった。だから鶴松は寧々の後ろ盾のもとで育った。
側室の生んだ子でも、当時の感覚では正妻が正式の母だった。
朝鮮に服属を求め、交渉に失敗し、出兵を考え始めるのは
鶴松の時代である。
出兵は当初鶴松の出生の秘密に関する隠蔽工作だった。
それが時間の流れとともに秀頼の出生の秘密の隠蔽工作の
意味を持ってくる。
なお、秀頼の出生には寧々はかかわっていない。
この点は重要である。

67 :
そのうちDNA検査が発達して、天秀尼の骨と秀吉の血判で判るようになるかもな

68 :
茶々は「二の丸殿」と呼ばれていた。
茶々の二度目の妊娠を寧々から知らされた秀吉の寧々への返事

この間は、すこしかいき(咳気)いたし候まま、文にて不申(もうさず)、
文の書き始めにて候。また、二の丸殿、みもち(懐妊)のよし受け給わり候、
めでたく候。われわれは小(子)ほしく候はず候まま、その心へ候べく候。
太閤子は、鶴松にて候つるが、よそへ越し候まま、二の丸殿ばかりの子にて
よく候はんや。(原文はひらがなばかりなので漢字を当てておいた。)

この間は少し風邪ぎみで咳が出ていたので手紙は書きませんでした。
この手紙が今年の書き始めです。
さて、二の丸殿が懐妊したとのこと承りました。
私のような者は子など欲しくないので、(寧々も)その心得でいるのがよろしかろう。
私太閤の子は鶴松でありましたが、この世からあの世に引っ越して行きました。
(今度懐妊した子は)茶々一人ばかりの子にしたらいいのではないでしょうか。

「茶々一人ばかりの子」とは何なのか。それがポイントである。

69 :
それ寧々宛てってのもポイント
寧々に気を使ったのでは?という説もある
茶々宛てには「ひろいに乳をよくのませ候」と送っている

70 :
秀次を養子にしたら子ができた。
養子をとると実子ができたりするのは昔からあること
自分の子ができてみるとやっぱりそっちに後を継がせたくなるのが人情
だから秀次につらくあたるようになり、両者対立してついに秀次は謀反の
疑いをかけられ切腹。妻妾子女もすべて処刑。

ということが昔からの理解なんだが

秀吉・寧々が関与して茶々に(誰かの種の)子を産ませたということになると、
秀次抹殺のために別の跡継ぎを作り出したということになる。
秀次にしてみたらどうにも駄目。でも他に跡継ぎはいない。どうするか。
秀次に代わる別の跡継ぎを作り出そうとした、ということになる。

計画どおり別の跡継ぎができた → 予定どおり秀次抹殺

71 :
家の存続のためにはそれも有りかとは思うけど、それならもう少し秀吉に似た男を選べば良かったんじゃ?
予想以上に秀頼がスクスクと背が伸びたのが淀の浮気が疑われた原因の一つ

72 :
>>65
「太閤さま軍記のうち」では名護屋城へ向かう秀吉に
二の丸殿(茶々)、佐々木京極さま(京極竜子)が両方とも同行している

佐々木家家臣の平塚瀧俊もまた、名護屋城の秀吉の様子として
よとの御前様(茶々)が一緒に来ていると聞いていると書いている

73 :
でも、淀さんが大野如き相手するのか?
信長さんの姪のプライドは高いだろ。
大野では、天下人一歩手前の信長姪と一武将
では身分違いやろ。淀さんでも格下を
相手すると思えへん。情けなさすぎと考え
ないんか。

74 :
>>72
淀殿が名古屋に行ったのなら「くんきのうち」に記述があってしかるべきである。
しかしそのような記事はない。
最初から最後まで名古屋にて秀吉に同行した女性は京極龍子である。
「くんきのうち」文禄二年三月二十九日によれば、この日秀吉は飾磨津から
航海し、岡山に宿泊した。京極殿は別の舟で備前片上にあがり、翌日に
岡山に着いた。天正二十年八月、帰阪に際し秀吉(十四日出発)よりも
二日前の八月十二日、京極龍子は名古屋を出る。
八月二十六日、前日に到着していた秀吉のあとに大阪に帰り着いた。
名古屋に同陣し、辛労をともにしたという功績で、帰陣後、大阪城西の丸に
新御殿を与えられ、移り住んだ。
この京極龍子が淀君と間違われたのだと思われる。

平塚日記は秀頼実子説に立つ学者のより所となっている文献である。
平塚が名古屋で目撃した秀吉到着時の光景。

よとの御台所玉ご同道御申被成由申候、さうせうへ(相州)へ御はつかうの砌には、
この御台所様後同心御申、おほしめすことくに候間、御吉れいを思召、この度も
同道御申候由申候

よとの午前様御同心のよし申候、是は御通しれ不申、相州御発向の時も此御台所
様同心御申、思召ことごとの間、御吉例のよしに候

読めば分かるが、淀の御台所様(の行列)を見たわけではない。
相州のときと同じに御吉例だから同道された、と書いているだけ。
小田原攻めのときと同じ「淀の御台所同道」のうわさを記しているだけ。
「是は御通しれ不申」と書いてあるとおり通行は確認できなかった。

75 :
>>73
秀頼の父親は大野治長ではない。
大阪籠城中に不倫が噂されたが、それは年中淀君に呼びつけられたり
説明に上がったりしていたからだろう。

76 :
>>73
よく浅井三姉妹は信長の姪だから軸で語られるけど小説家の
作品を書く上での解釈が定着しちゃっただけであくまで浅井三姉妹だし
小谷落城後も信長の傍にいたことはなく信包の元にいたと言われる
お市も信長とは距離を置いていたとされている

要するに信長の姪云々と言われる程関係はないし大野は乳兄弟だから
プライドとかも関係ないんじゃなかろうかと

77 :
>>76
そうだな。信長は茶々の父親浅井長政を殺した男だ。
自分の実家を滅ぼし父親を殺した男に思い入れがあるはずがない。
お市と娘たちは宿老の柴田勝家の元に引き取られるが、お市だって
もう実家織田家の後ろ盾はないのだから、信長の妹と胸を張って
いられたわけではない。
行き場所を失って引き取られたような惨めな形で嫁入りしたわけだ。
だからその娘である茶々が信長の姪などというプライドを持っている
わけがない。
さらに
茶々は豊臣の家には全く帰属意識を持っていなかったと思う。
秀吉は父親を殺した側の武将だし、母も秀吉に殺されたと言ってよい。
両親を殺した男を愛せるだろうか。
茶々の上の妹は京極家に嫁ぎ、下の妹は徳川家に嫁ぐ。
東西手切れとなり大坂籠城中は、茶々は「ああ、めんどくさい。
私も妹たちみたいに徳川の方に行けばよかったなー。」と思っていただろう。
戦争はなんとなく終わり、自分は妹たちの方へ行って仲良く暮らそう、などと
思っていたかも知れない。

78 :
ならば、なおさら大野では役不足やね。
妹は京極、徳川だから、対抗意識はあるやろ。
姉妹でも仲良しか、悪いか解らん。
京極は別にして、徳川は征夷大将軍家、
対抗意識はあるんでないの。見栄や意地。
女性やから。後、淀さん本人は別に信長姪
意識はあるよ。豊臣、徳川は信長部下や
関係者多いから、本人は意識しないけど
周りは織田一族意識で淀さんを見る。
浅井長政一族より、信長部下関係者は
織田一族意識で淀さんを見るやろね。

大野では役不足で、格下過ぎる。
戦国時代でも身分違いはあるから。
戦国時代は無法が正義ではないからさ。
織田一族は、右大臣家。
豊臣家は、関白家。
徳川家は征夷大将軍家。
大野では格下。

79 :
>>78

何言ってんだか。淀君がなんで大野の子を産むんだよ。
淀君は秀吉の側室なんだから秀吉の子以外生むわけに
いかないだろ。
秀頼だって秀吉の子だろ。公的には。

「私の夫は大野治長。妹の旦那の京極高次や徳川秀忠に
比べるとちょっと落ちるわね。」
なんてやるわけなかろーがw

80 :
幸村じゃないの?

81 :
永井路子も杉本苑子も言っていた事

「たとえ誰の胤でも秀吉の室の茶々が産んだからには秀吉の子」

82 :
二度目の茶々の妊娠は秀吉とて想定できない事態だった。もし次の子が
生まれる可能性がいくらかでもあって、期待を持っていたなのなら、鶴松死後
秀次に関白を譲ることはなかった。
秀吉が名古屋出陣中・不在中の妊娠にもかかわらず、秀吉は結果を否定しなかった。
むしろ肯定した。鶴松のときと同じ行為のくりかえしとした。
茶々の使命は「秀吉」の子を産むことだった。茶々の子はかならず秀吉子として
認められる。認めなければ鶴松もやはり秀吉の子ではなかったことになる。
二つの選択肢のうち、否定はあり得ない。
茶々が考えたように、秀吉が鶴松を否定することはなかった。
秀吉には茶々の二番目の子、鶴松の替わりが必要だった。
秀次にはなお全幅の信頼が置けなかった。

83 :
>>76
市が信長と距離を置いていたというのは違うだろう
市が最初の夫と離婚してから三姉妹を抱えて安穏と
10年間も里の織田家で生活できたのは信長のお蔭だし
信長と距離を置きたいならばさっさと別の男と再婚していただろう
信長が死ぬとその年のうちに市は柴田勝家と再婚する
市は一貫して織田家の女として行動している

浅井三姉妹の末妹・江の最初の嫁ぎ先である佐治家は
信長や市の妹である犬の最初の嫁ぎ先
織田家が支援して再興させた家で織田家との関係が深い
浅井三姉妹のいずれかを佐治家へやることは
信長が生前に決めていたと言われるくらいだ

84 :
松下加兵衛が久能から浜松への路上で、異形の者を見つけた。
人かと思えば猿、猿かと思えば人だった。路上で猿真似をしていた。
猿芸をしながら針を売っていた。

松下加兵衛が拾わなければ、秀吉は大道芸人、猿芸をして施しを
受ける流浪乞食のまま生涯を送ったはずである。

木下姓は、松下の松から「公」の字をとって木のみとし、
松下の下をとって木下としたのである。
のちに秀吉が羽柴と名乗ったときと同じ発想である。

85 :
フロイス「日本史」は、「関白の愛を受けていた妾が病気になって自分の家にもどって
療養した。秀吉より黄金一枚を得、自由行動を許されたものと考えた。病気が治って
ある僧侶に嫁ぎ、一子をもうけた。挨拶に訪れたとき、秀吉が激怒した。夫、子ども、乳母、
母親とともに竹鋸引、火刑によって殺された。」と記している。

この事件は「時慶記」、文禄二年(1593)十一月四日条にも記されており、
女性は「太閤に被召置候女房」で、「お暇申さず出で候、男持ち候」つまり
秀吉に無断で結婚したと明記されている。その女性の子と乳母は煮殺され、
女性本人、夫、親は竹鋸で引きR刑に付されたとあり、
フロイスの記録と一致する。
この事件はまちがいなく実際に起きたことなのである。

何故秀吉が激怒し、このような厳罰に処したのか。
この女性が秀吉の側室だとしたら、大坂城にいたときは懐妊せず、嫁に行ってすぐに
懐妊したことが秀吉を怒らせたとも考えられる。
しかし、文禄二年(1593)十一月四日という処刑の日を考えると、また別の味方を
することもできる。この歳の八月にお拾い即ち秀頼が生まれているのである。
この女性は秀頼の懐妊出生について何かを知っている人間だったのではないか。
この時期に大坂城の奥にいた女たちは外に出さない方針だったのではないか。
拾いの誕生は八月三日、そうすると受胎の想定される日はその前年の十一月一日前後。

86 :
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl
https://youtu.be/Kgp4ZCK6sW4
https://youtu.be/1yjRBMVEKFs
https://youtu.be/XPywXIvckI8
https://www.youtube.com/watch?v=dCEJ7TUY06w

87 :
議論の上で不可欠な時系列的理解

1589  5月 鶴松誕生

1590  小田原征伐 寧々も同陣

1591  1月 豊臣秀長死去
       8月 鶴松死去

       11月 秀次を養子とする(時期について異説あり)
      12月 秀次に関白職を継がせる

1592  3月秀吉唐入りのため名古屋嬢に出征
      この年に伏見城築城開始
      この年の12月、天正から文禄に改元

1593  8月 拾(ひろい)秀頼誕生

1594  年明け早々に伏見城完成 秀吉入城

1595   6月頃から徐々に秀次謀反のうわさが広がる
       7月03日 石田三成、前田玄以などが巷説の真偽を詰問。起請文を提出するよう要請。
       7月08日  秀次、伏見城に出頭。弁明しようとする
       7月15日  高野山へ追いやられ、切腹
       8月02日 秀次の遺児、側室、侍女ら39人処刑

88 :
拾い(秀頼)誕生後わずかの間に淀君は次々に側近の女たちを処刑されていった。
フロイス日本史によれば、何度かに分けて30人ほど。

それだけではない。
唱門師(陰陽師 運勢占いをする僧形の者)が追放された。
「時慶記」文禄二年十月十九日条
太閤大津へお越と、唱門師払の儀あり、於大坂在陣の留守の女房衆、
妄に男女と之義問う、金銀多取候罪□依て也

そのとき一緒に追放された女たちは「若公のお袋家中女房衆」つまり
秀頼のお袋様付きの女房集だという。

その翌日から淀殿付女房衆の処刑がはじまった。

89 :
朝鮮の陣は膠着状態。小西行長との連絡が途絶え、黒田如水からは
秀次を派遣して総大将に、という要請が来る。
秀吉は自分が乗り込むつもりだった。その後小西軍は無事との連絡が
入り秀吉渡海はとりやめとなった。

秀次は関白で、公家の最高位にある。京都にいて国政の中心となって
いなければならない。それをいいことに秀次は聚楽第で好き放題の暮らし
である。側室は30人を数えたという。

後年打つ首にされた妻妾侍女
  一の台(享年34) 於妻御前(享年16/17) 中納言局(享年33/34)
於和子の前(享年18/22)  お辰の方(享年19) 於長の前(享年18)
於佐子の前(享年19) 於萬の前(享年23) 於輿免の前(享年26)
於阿子の前(不明)  於伊萬の方(享年15/19)
於世智の前(享年30余/31)

  小少将の前(享年24) 左衛門の後殿 (享年38) 右衛門の後殿 (享年35)
妙心寺尼 (御伽婆) 於宮(享年13) 於菊の前(享年14/16)
於喝食の前(享年15、稚児の姿)  於松の前(享年12)
於佐伊の前 於古保の前(享年19) 於仮名の前(享年17)
於竹の前

  於愛の前(享年23/24)  於藤の前(享年21) 於牧の前(享年16)
於園の前(享年22) 於杉の前(享年19)
於紋(おあや)(御末衆) 東殿 (享年61、女房)
御三末 (女房)  津保見 (不明)  於知母 (不明、乳母?)

90 :
>>89
若御前忘れてるよ。一の台と権勢を争って混乱を招いた張本人。
許されるわけがなく、処刑されている。(実は助命の申し出がって、
本人が正室を理由に助命を拒絶し処刑されたという説もある)

あと、秀次の妻妾が多い理由は、縁組を積極的にすることで豊臣家の
権威を高めようとした目的もある。結局、若御前と一の台の権勢争いに
利用されてしまい、一網打尽となってしまったけどね。

91 :
秀頼が生まれた後も、秀次が側室を入れるってのは止めた方が良かったんじゃない?

92 :
一の台は継室(後妻)ということで、若御前は事件当時離縁されていた
のではないかといわれている。若御前は処刑されていない。
若御前は池田恒興の娘であることから、処刑を免れしめるため、事前に
離縁という形にしたのかも知れない。
何せ池田恒興(勝入齋)は小牧長久手で秀吉のために戦い戦士した唯一の
武将といっていいほどの人物。秀吉は池田家には恩義がある。
予め処刑を免れさせるために離縁させていたとすると、妻妾の処刑は
秀吉の激情的発作によるものでなく、計画されたものだったということになる。

>>91
秀次には男子が四人いた。
歳はまだ二七と若く、これからも男子を作りつづける可能性がある。
この先何人の子を持つことになるのか。
多数の妻妾を抱え、これからも子を作りつづければ、四十頃には
十五人ぐらいの男子がいてもおかしくない。

93 :
1593年8月拾い秀頼誕生。
2ヶ月後の10月には関白秀次の娘(椿姫といわれる)と婚約させる。
将来この娘が産んだ子が豊臣政権を継ぐこととなれば、秀頼が
その父親として今の秀吉のように実権を握ることも可能である。
何とかして秀次→秀頼と権力承継できないか。
秀吉は模索した。

秀頼と椿姫の子が政権を握ったとき、秀次はどう動くか。
さらに心配なのは秀次の息子たちである。
秀次には現時点で四人の男子がいる。
この子らが成長したときには、さらに男子の数は増えているだろう。
秀次の大勢の息子たちが黙っているだろうか。

秀吉は秀次にこう持ちかけた。
「日本国を五つに分け、四つを秀次が統べ、残りの一つを秀頼のものに
したらどうか。」。
秀吉が関白秀次の四人の子を気にしていたことが分かる。

94 :
何もしなくても副収入が入ってくるビジネスを大公開!!
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95 :
秀吉は秀次に、子種のない自分に代わって高貴な娘との間に子をもうけたり、
有力な大名の娘との間に子をもうけるという成果を期待していた。
それによって豊臣の血が高貴になり、豊臣一門の子孫繁栄がもたらされ、
大名との紐帯が強められる。

秀次は、この期待に半ば応え、半ば反したといえる。
大勢の女を集め、子をどんどん作るということはやった。
しかし、生まれた子の母親は大した女たちではなかった。
たとえば長男千千代丸の母・於和子は日比野下野守の娘である。
家臣筋の身分であり、豊臣の血を高貴ならしめたとはいえない。
次男百丸の生母も尾張国星崎城主山口少雲の娘で家臣筋。

一の台との間に子ができることを期待しただろうが、一の台は処刑時に34歳。
当時としては子を産むのは困難な年齢。
秀次はそういう年上女に夢中になっていた。

秀吉は自分たちの孫(継子の子だから一応孫だが)の血筋を考えて
これらの者が豊臣の屋台骨を支えていくのは無理と考えたのかも知れない。
(たとえば生母の実家が大大名なら豊臣を支える支柱になる。)
あるいは、自分が生涯かけて築いたものが、たいした血筋でない者たちの
ものになり、その生母の実家の者たちがときめくことになることがアホらしく
なったのかも知れない。

96 :
>>95
後家好みの家康はそれくらいの年齢の側室との間に子供をガンガン作ってるし
淀殿の妹・江も30代半ばまで出産してたはず
一の台は最初の夫との間に娘を産んでいる経産婦だし

97 :
--------@正室:若御前 池田恒興の娘  ※助命され兄池田輝政のもとへ送り返された

処刑01@継室:一の台御局(享年34。1562−1595)右大臣菊亭晴季(1539−1617)の娘

処刑02@側室:小上(こじょうろう)於妻御前(享年17)四条隆昌(1556−1613)の娘

処刑03@側室:於亀の前/中納言局(享年33)摂津国小浜の僧毫摂寺善助の娘
処刑C1--長女:槿姫/露月院誓槿大童女(享年9)(豊臣秀頼の許嫁)

処刑04@側室:於和子の前(享年22)尾張国/美濃国日比野清実の孫娘。父、日比野下野守(清実の子)も自害
処刑C2--長男:仙千代丸(享年6)

処刑05@側室:於辰の方(享年19)尾張国星崎城主山口少雲の娘
処刑C3--二男:百丸(享年4)

処刑07@側室:於佐子(おさこ)の前(享年19)北野松梅院の娘
処刑C4--三男:十丸(享年3)

処刑06@側室:於長(おちやう)/於千屋/於知屋の前(享年18)美濃国竹中貞右衛門重定の娘
処刑C5--四男:土丸(十一丸)(享年0)


処刑08@側室:於萬の前(享年23)近江国住人多羅尾彦七/多羅治郎左衛門の娘

処刑09@側室:於輿免(およめ)の前(享年26)尾張国住人堀田二郎右衛門の娘

処刑10@側室:於阿子(おあこ)の前(享年22)美濃国日比野下野守の娘

98 :
処刑11@側室:駒姫/於伊萬(おいま)の方(享年15)最上義光の次女(伊達政宗の従妹) ※嫁入りのため上京して程なく、秀次にはまだ会ってもいなかった

処刑12@側室:於世智(おせち)/於按察使(おあぜち)の前(享年31)京都住人秋庭氏の娘

処刑13@側室:小少将(こせう)の前(享年24)備前国本郷主膳の娘または女房の姪

処刑14@側室:左衛門の後(こう)殿 (享年38)河内国岡本彦左衛門の娘、岡本某の後室。琴の名人で歌書の師匠

処刑15@側室:右衛門の後殿 (享年35)村井善右衛門の妹、村瀬某の後室

処刑16@女房:妙心老尼(享年68) 妙心院殿誓忍大姉 池田恒興に仕え、若御前に付けられていた尼僧

処刑17@継室:於美屋(おみや)の前(享年13)三条顕実の娘。一の台の連れ子だが、側室にしていた

処刑18@側室:於菊(おきく)の前(享年14/16)摂津国伊丹兵庫頭正親の娘

処刑19@側室:於喝食(おかつしき/おなあ)の前(享年19)尾張国住人坪内市右衛門の娘

処刑20@側室:於松の前(享年12)右衛門の後殿の娘

処刑21@側室:於佐伊(おさい)の前(享年15)別所吉治の客人某の娘

処刑22@側室:於古保(おこほ)の前(享年19)近江国鯰江(なまづゑ)才助/鯰江権之介(一説に六角義郷の家臣)の娘

処刑23@側室:於仮名(おかな)の前(享年17)木村重茲が越前国より呼んだ女郎

99 :
処刑24@側室:於竹の前(享年18)京都一条通の捨て子

処刑25@側室:於愛(おあひ)の前(享年24)京衆古川主膳の娘

処刑26@側室:於藤(おふぢ)の前(享年21)大原三河守/大草公重(大草流庖丁道家元)の娘

処刑27@側室:於牧(おまさ)の前(享年16)斎藤吉兵衛の娘

処刑28@側室:於園/於国の前(享年22)三好一族で秀次の叔父・大島親崇の娘。秀次の従妹にあたる

処刑29@側室:於杉/於須儀の前(享年19)出自不明

処刑30@側室:於阿屋/於紋(おみや/おあや)の前(享年42)空立誓住清信女。近江国住人高橋某の娘(一の台の娘とは別人)

処刑31@女房:東殿(享年61)然交誓湛清信女。丸毛不心斎女房。大谷吉継の母と同名だが別人。中居御末。夫の丸毛不心斎(75)も自害

処刑32 於参の前  通岸誓達清信女

処刑33 津保美の前 最澄誓智清信女

処刑34 於知保の前 開豁誓法清信女

100 :
>>96
家康は下マン好みで身分の低い後家などが好きだった。
こういう女は丈夫でポンポン子供を産む。
昔でも農婦など40歳ぐらいまで平気で産む女はいた。
しかし、定期的に何人も産んでいるような状態でないといけない。

身分の高い女なかんずく公家の女などは体が弱い。
江戸時代、大奥でも「褥下がり」(おしとねさがり)という
三十になったら将軍のお相手を辞退する習慣があった。
妊娠すると難産で死んでしまうおそれがあるからである。

一の台に子が出来たら秀吉は喜んだかも知れないが
駄目だった。経産婦とはいえ産んだのは13年前。二十歳の頃。
公家の娘なんだから頑強なわけないし。

101 :
>>100
>公家の女
いやいや…
ほぼ同時代の後陽成天皇や後水尾天皇の妻妾達を調べると
40過ぎてもガンガン子供産んでるぞ
公家の女のほうがたくましい

102 :
>>101
実に素朴で純心な人だなw
そりゃ長い歴史を辿ればいろんな人がいるよ。
一生懸命に調べたのは偉いけど、それなら今度は難産で
死んだ妻妾達を調べてごらん

こういう例外もあるとか、ああだとかこうだとか、いちいち挙げて
いったらキリがないだろ。
話というのは常識的な一般的傾向のレベルですればよいのだ。
枚挙的真実という言葉を知らないかな。
大学で論理学習ってれば知ってるはずだが。

農婦や下女は丈夫でお公家さんの姫様は虚弱。
そりゃ反対の場合も当然あるが、だいたいそういうことで
いいんじゃないの。いや、例外がある限り絶対に認めない。
一人でも例外がある以上お前の言うことは誤りだから
謝罪して訂正せよというならするけどね。

103 :
>>102
気持ち悪い奴だな
じゃあ、お前の言う「公家の女は難産。30過ぎて産むのは不可能」
というのを粛々と実例を挙げて証明すればよいだけ。
ここは日本史板なのに妄想だけで語るから気持ち悪いんだよ。
何人中、何人は難産で亡くなった、というのを挙げていこう。
公家の姫はかなり丈夫。
調べもせずにいうから無知だというんだよ。

104 :
>>103
ああ、こういうのはやっちゃ駄目だよな
>公家の女は難産。30過ぎて産むのは不可能

俺はこんなふうに断定してないぞ。
話をふくらませて、言ってないことまで言ったことにする。
相手の主張を正確に把握できず、自分の主観の枠でしか捉えない。
真っ黒に塗っておいて黒だ黒だと批判する。
こういう論争の仕方は教育受けてない人に特有。
お前学問やったことないな。

>何人中、何人は難産で亡くなった、というのを挙げていこう。
アホかw
逃げをうつために、極度に細かい事実確認に持ち込む奴って
いるよな。まあ小学六年ぐらいまでが普通だけど。
「俺が言ったかよ。何日の何時何分何秒に言ったか言ってみろ。」ってね。
懐かしいなw

>公家の姫は体が弱い
というようなことは枚挙的真実として言って
いるのではない、ということは予め断っている。

学問をするなら、例外はあることを前提としつつ普遍的原理ないし真実を追求しなければ
ならない。

英雄は色を好む。
いや、好色でなかった英雄もいる。だからこのことわざは間違っている、なんて言ったら
馬鹿だろうが。英雄は色を好むということを枚挙的真実として言っているわけではないからだ。
分かるか?

105 :
秀吉は140センチだった

http://ameblo.jp/taka4282/entry-11244654309.html

淀君は168センチあったとか。

聖徳太子が180センチって何だよw
どうやって分かったんだ
実在したかどうかもハッキリしない人なのに

106 :
>>104
「一の台は処刑時に34歳。 当時としては子を産むのは困難な年齢。」
正確に引用してやったぞw
で、肝心のお前の史料提示が一切ない。
「逃げをうつために、極度に細かい事実確認に持ち込む奴」
逃げてるのはお前だろ。
後陽成天皇や後水尾天皇の妻妾達が40過ぎても子供を安産している。
史料提示できないから「それはすべて例外」といって
34歳の公家の姫は出産困難という妄想を史料は一切提示せず繰り広げる。

結局、全然例を上げられないじゃんw
気持ちの悪い妄想を一日中投稿しているだけのことはある
史料がまったく読めないらしい
素直にそこは認めろ、中卒

107 :
>>106
お前馬鹿だわw

108 :
>>107
あ〜あ、お前の負けだなw

109 :
>>101
>ほぼ同時代の後陽成天皇や後水尾天皇の妻妾達を調べると
>40過ぎてもガンガン子供産んでるぞ

ほお、これはたいへん貴重な情報だ。
40過ぎてガンガン子供を産むなんて医学上も注目されるべき情報だ。
40過ぎてガンガン子供を産んだ後陽成天皇や後水尾天皇の妻妾の名前を
具体的に挙げてくれないか。
それとお産みになった親王や皇女の名前もな。

110 :
後陽成天皇の女御:藤原(近衛)前子(中和門院、1575-1630) - 近衛前久女、豊臣秀吉養女
第一皇女:聖興女王(1590-1594)
第二皇女(龍登院宮、1592-1600)
第三皇女:清子内親王(1593-1674) - 鷹司信尚室
第四皇女:文高女王(1595-1644) - 大聖寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第五皇女:尊英女王(1598-1611)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第六皇女:貞子内親王(1606-1675) - 二条康道室
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十二皇女:尊蓮女王(1614-1627) - 光照院
→最後は41歳で出産

後水尾天皇の典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)
第五皇女:理昌女王(1631-1656) - 宝鏡寺宮門跡
第五皇子:某(1633)
第八皇女:光子内親王(1634-1727)
第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)
第九皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡、東寺長者
第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)
第十四皇女:理忠女王(1641-1689)
第十一皇子:穏仁親王(第3代八条宮)(1643-1665)
第十三皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡、園城寺長吏
→最後は43歳で出産

出典は維基百科

111 :
秀頼の父が大野であったのはほぼ確定だろうけど
それでも家康が秀頼が殺されなかったのは
母親の血筋は確かで
信長の妹の孫だったからだ。

家康に反抗さえしなければ秀頼は、徳川御三家格の
親戚として残れた可能性が高い。

112 :
>>110
ネット情報のコピペご苦労w
最後の  出典は維基百科  はワラタっw

お前、「ガンガン子供産んでる」なんていうが一人づつじゃねえか
話を自分に有利に大きくしてしまうのは頭の弱い奴の特長。
まあとりあえず近衛前子を検討してみよう。

で、お前、こういうの全部女院である前子が産んだと思うか?
初子を産んだ二年後に二人目、年子で三人目、四人目と五人目も年子、
六人目と七人目も年子、八人目産んで九人目と十人目も年子、その後
さらに一人産み、そして41歳で最後の出産なんて、現代の大家族取材番組の
かあちゃん連中でも無理じゃないか。
四の宮は前子の実家に養子として入って近衛信尋となったから前子の産んだ
子であるのは間違いない。夭折した最初と二番目の姫宮も前子の産んだ子だろう。
他はどうかな。最後の尊蓮女王なんか全くあやしい。

113 :
近衛前子の出産は結構公家の日記やお湯に網羅されてるよ。
ただ、最後の尊蓮女王ってのは俺の見た史料には載ってない。

114 :
大正時代の100人に一人は母親が40歳過ぎに産んだ子供らしい

115 :
>>114
それは前提条件が全然違うのでは?
もともと子沢山の子供のできやすい夫婦だから40過ぎても
子供ができたんだよ。


秀吉の場合、人100倍妊娠しやすい若い女とセックスをし子供ができない以上
100%種無し。

116 :
いきなり公家から秀吉に話を戻すなよw

117 :
>>109
✕40過ぎてガンガン子供を産む
〇40過ぎてまでガンガン子供を産む

118 :
秀頼は、正室の千姫との子供は生ませなかったくせに
側室に嫡男を産ませたんでしょ?

そんなトンデモヤローは滅ぼされて当然だね。

119 :
おたふくで種無しになった可能性もあるよな

120 :
最近になって豊臣家に関心を持ったのですが。
秀吉は50を過ぎて体力も劣ってきて、子供ができそうもないことを淀が悟って、
大野か他の男と寝た。
そして鶴松が生まれた。
子供が大きくなってくると、父親の面影が現れてくる。
秀吉がまだくたばらないので、鶴松の父親がばれてしまうとまずい。
それで、鶴松には死んでもらうことにした。

そのあと、淀は再び男と寝て子供をつくった。
秀頼だ。
今度は子供が大きくならないうちに、秀吉がくたばってくれた。
だから、おもいっきり大きく育ってしまいました。
もしかすると、秀吉が衰えていくのも淀が仕組んだのでは。

121 :
淀に取って秀吉は両親の敵だしな。
特に母親のお市は秀吉のことが大嫌いだっただろう。

対して大野は幼馴染みみたいなものだし。

122 :
それで、秀吉の周囲の者も秀吉の振る舞いに快く思っていなくて、医者も周囲の者も
淀の味方をしたのではないかと。

123 :
基地ばかりでうるさいスレだな

124 :
敵の嫁なんかもらうから、秀吉は裏切られたんだ。

しょせん、ヒデヨシは百姓の無教養だよ。
だれかれかまわず、女に手をだしやがって。

125 :
どこの雑魚なんだ

126 :
ほとんど「トヨトミミ」の話

http://www.youtube.com/watch?v=HovSEOMuDvo

127 :
深夜に『暴れん坊将軍』という作品が再放送されているけど、
その主人公もそうだよ

ほとんど「トヨトミミ」の話

128 :
大奥のお褥滑りは、家光が寵妾お万の方に中々子供が生まれないにも関わらず
他の女に見向きもしないのを春日局が癇に障り
「何年も子供を産めない女が、いつまでも上様と同衾するのはやめなされ」と
年齢を理由に体よく家光から遠ざけたのが元だから
「女は30過ぎたら子供が生めなかいから」というのは誤解だぞ
不妊女にいつまでも拘らず、他の女と子作りしなされという圧力だから
30歳と言う年齢は関係ないんだな実は
出産経験のある女なら40代でも産むし、不妊の女なら10代でも20代でも産めない
お万の方は後者だったから、お役目御免とした

129 :
公家の女性は、体が弱いから出産をしないのではなく
お産は命掛けでリスクが高かったから無理に産ませなかっただけだぞ
農民が子沢山なのは子供が労働力になる&側室を持つ余裕がないことから
1人の女にいくらでも産ませたが
医学が発達するまでの若い女性の死亡原因は、お産関係がトップだったように
農民の女はドンドン産まされ、難産や肥立ちの悪さでドンドン死んでた
明治期も華族女性は数人産んで、側室にも産ませてリスクコントロールしてたが
庶民は側室持てないから母ちゃん1人に産ませて、簡単に死なせてた

130 :
最近の若い男は、ネットの影響で
女が出産出来るか出来ないかは年齢で決まると
誤解してる奴が本当に多いが
年齢ではなく不妊かどうかが1番だぞ
20代でも不妊治療してる夫婦は五万といる
一方で40歳前後で子供を産んでる夫婦もごまんといる
34歳で子供を産んだことがなく、側室には子供がいたなら
一の台が不妊症だったというだけだ
お褥滑りの理由は上で書いた通り
不妊症の女がいつまでも上様の寵愛を独占するなが理由
30過ぎたら子供が生めなくなるからではない

131 :
>>128
お万の方は春日の局が薬を使って堕胎させてたという話だよね。
禁裏の方の力が強くなるのを警戒したということらしい。

>>129
>公家の女性は、体が弱いから出産をしないのではなく
>お産は命掛けでリスクが高かったから無理に産ませなかっただけだぞ

上の>>110にあるように、藤原前子は12人も産ませられてるよね
最後は41歳だってさ
庶民に比べても多産の部類

>>130
>年齢ではなく不妊かどうかが1番だぞ

年齢が高くなると不妊の傾向が高くなるよ

132 :
>>128
家光はお万の前にお振という13歳ほどの少女を懐妊させ
長女の千代姫を産ませたがお振は出産が原因で体調を崩し
それから3年ほど後に10代で亡くなった
それを言うなら少女を後宮に入れるなじゃないのか
その後も家光は13歳のお楽に手を出すなどロリコンぶりは健在だった

133 :
豊臣家大老の大野修理治長

134 :
>>128
>>129
>>130
お前ホントに下らないよ。
不妊がどうしたとかしょーもないことにこだわるから
流れぶった切っちまってスレ終わったじゃん
馬鹿の極致だよお前は

135 :
わしたぁ若い、カルトネット右翼じゃに。

136 :
秀吉は「秀頼が自分の種でなくともよい、と考えていた」説について。

秀吉は出世した後も父親の菩提寺を建てておらず、
また取り立てた血縁者も母方だけで父方の血縁が
ひとりもいないところから、私生児説、もしくは
少なくとも「特定される父親はいなかった説」がある。

秀吉の時代の下層農民は苗字を持たず、
村への帰属意識に埋没して生きており、
その性はフリーセックスに近いもので、したがって
血統に対する観念的なこだわりを持っていなかった、という説。

秀吉は旧主筋で美貌の茶々を溺愛しており
その産んだ子なら、誰の子でもよい、と考えていた説がある。

江戸時代を経た現代からは想像できない、
原始的な社会で彼が育っていたことを念頭におけ、という考え方。

137 :
24日発売予定の平凡社「羽柴家崩壊」は読むべきですか?

138 :
>>136
だとしたら秀吉は家康に口では「秀頼を頼む」とか言ってながら
心の中では「家康にやられるかもな。でもそうなら仕方ないか」って思ってたかな

たぶん秀次殺したのすげえ後悔してそう

139 :
>>138
思ってないだろう

だったら家康は秀頼と淀殿、
市中引き回しの上六条河原で処刑した8歳の国松は
秀吉とは無関係の者だから殺してやったで良い

しかし家康は秀吉の神号を廃止して豊国社を廃社にし
秀吉の墓までぶっ壊した
秀吉時代を含め豊臣政権そのものを認めなかったからな

140 :
>>家康は秀吉の神号を廃止して豊国社を廃社にし
>>秀吉の墓までぶっ壊して
>>秀吉時代を含め豊臣政権そのものを認めなかったからな

江戸時代に入ってからも
上方の太閤信仰は報告されてるからな。
戦国のスーパースターだったんだろうね。

141 :
徳川幕府に対する反発、ささやかな憂さ晴らしじゃない?
個人的には、ねねも暗殺の気がする 豊国廟打ち壊してからほとんどすぐ急逝してる
徳川の援助で高台寺が維持できてたんなら、徳川の手の者を入れるのも簡単だったろう

国松は、千姫に遠慮してすぐに田舎に出されて、京極家ゆかりの若狭の商人の家?
ようやく戻してもらえたと思ったら大阪城落城だもんね 城を落ちたはいいけど伏見の橋の下に
隠れてたのを怪しまれて捕獲 幼くして処刑 逃がす算段もぜんぜん準備できてないし
いちおう、脇腹ながらたった一人の直系の男子になるはずなのに まさしく、豊臣は絶えるように出来てるね

142 :
>>92 菊亭晴季もたいがいの貢献をしてると思うんだけどね
秀吉が関白になるため必死に工作したんだっけ
若の前を助けるなら一の台だって

近すぎて愛憎が昂じたんだろうか? 利休のように

143 :
>>142
一の台は池田の正室をないがしろにして自分が正室気取りでいると
評判悪かったんだろ

連れ子付きで秀次に嫁いで
13歳の連れ子の娘も秀次の手がついていたと噂されたんだよな

144 :
>>143
そうだね。
最も若御前の対応も大概だけどね。まずは、池田輝政を巻き込んで
離婚騒動を起こし、秀次と池田輝政が著しく険悪になる原因を作った
(秀吉の仲介で秀次と池田輝政は和解している)
その後、両者は対抗してお互いに側室の派閥を作って、激しい権勢争い
をした。

秀吉は若御前を当初助命しようとしたが、側室が死ぬ以上自分だけ
生き恥を晒すことは出来ないと拒否、流石の秀吉も諦めるしかなかった。

145 :
>>144
若御前は生き残ってるじゃん
若御前の対応が悪かったせいで夫の秀次と兄の池田輝政の仲が険悪になり
結果秀次は切腹させられたって誰の説?

池田輝政は秀次事件の前年に
徳川家康の娘・督姫(北条氏直の未亡人)と結婚
輝政が秀次助命に尽力しなかったのはすでに家康陣営だったからだろ

146 :
戦国板の秀次スレに常駐するアンチ池田っぽいから
相手にしない方がよろし

147 :
秀次「だーから言ったじゃんサル叔父さん」

148 :
「家康が裏切った」とか筋違いも甚だしいな。
元々、家康は秀吉の主人の織田信長の同盟者だったんだぞ。
それが単なる5大老の1人扱いとかに甘く見すぎだろう。
秀吉ははるかにひどいやり方で主人を裏切ったわけだし。
家康は豊臣に恨みこそあれ恩なんてないよ。

149 :
>>136
松の丸殿も寵愛してたけど松の丸殿ではダメだったんか?
血筋なら信長の娘の三の丸殿のほうがいいし。

150 :
それね 上に出てる本にも書いてあったけど、
なりふりかまわず密通などということをしてまで、種違いの子を堂々と生む
バクチとしては大胆すぎて、側室の誰にでもできるわけじゃない、
松の丸殿ほかはそういう非常識な人じゃなかった、ゆえに選ばれなかった みたいな話だった

大坂落城後、秀頼の庶男子は伏見の橋の下に隠れてたところを見つかり速攻殺されちゃうんだけど、
その遺体を引き取って、自分の墓と並べて葬ってる なかなか出来る事じゃないと思う
松の丸殿は、秀吉と一番気が合った側室だったといわれてるらしいけど、情のある真面目な人だったんじゃないかな

茶々は、3姉妹で最後まで妙に売れ残って、おそらくは、父親似の背の高すぎることとか、例えば性格に難とか
売れ残り要素あったんだと思うんだよ、個人的推測だが 秀吉に対しての情も単に世間体と見栄の範囲だし、
ある意味、どうでもよくて、何とか女なりの天下取り目指して、賭けに出たいタイプだったんじゃないかな
はしたない女というか

当時の周囲の貴人も、秀吉の子とは誰も思ってなかった空気だった、とも書いてあったよ

151 :
あ、それとスレタイの大野治長、その本の中では、完全なシロらしいw
受胎可能期間に、思いっきりはっきりと記録のある長期の公務で大阪に居ない。
ただ、彼も含め複数の男性と密通の可能性は全然あるけど、秀頼の実父としては、シロ。
何百年も疑われて、お気の毒でした。日頃の行いが、ということで

DNA鑑定なら、秀吉の歯は、京都のお寺に残ってるよ 
自筆の書状付きなので、間違いなく本物

152 :
>>150
売れ残りってか秀吉が側室にするために妹たちを先に嫁がせて茶々をひとりにしたんじゃないの。
初の夫京極高次と江の初めの夫佐治一成はいとこだからずっと前から許嫁として決まってたとかないかな。茶々も誰か許嫁がいたかも。

153 :
治長は淀の情夫

154 :
>>150
三姉妹の結婚の順番ははっきりとはわかっていない
淀殿は鶴松を産んだ時に21歳だったので
この前年に側室になったのではないかといわれてるだけ
北ノ庄城が落城した15歳から鶴松を産む21歳まで淀殿の動向は不明で
この間に秀吉の側室になったのだろうということしかわからない

どんな女でも手に入る天下人の秀吉が
三姉妹の中で一番難のある女をわざわざ自分の側室にするとは思えない
淀殿が一番のお気に入りだったから他の男に嫁がせなかったのだろう

あと比較対象に京極竜子を出しているが竜子は淀殿よりだいぶ年上
最初は若狭武田氏の当主・武田元明の正室で
夫が明智光秀について秀吉に殺された後で
夫を殺した秀吉に側室として差し出されている

竜子が国松の墓を造ったことについては
京極家が国松を養育していたから
竜子の兄弟・京極高次の正室が淀殿妹の初で
その縁で京極家が養育し竜子もかかわっていたとみられる

155 :
>>151
色々と間違いが多いが

淀殿が秀頼を孕んだのは名護屋城
秀吉はこの時期、朝鮮出兵を指揮するために名護屋城にいた
ここにお気に入りの側室の淀殿と京極竜子を呼んでいる
大野治長も名護屋城にいた

秀吉の歯が残っているのは豊国神社宝物館
加藤嘉明が賜ったと伝えられるものを末裔が寄付した
秀吉の歯があっても秀頼の遺骨がないので鑑定できない
(DNA鑑定は親子鑑定以外は確率がぐっと下がるために適さない)

156 :
大野治長っていつから秀吉に仕えてたの
淀殿に近づけることなんてできたんかな

157 :
>>156
淀殿の乳母が大蔵卿局で、大蔵卿局の息子が大野治長
大蔵卿局は淀殿が産まれた時からずっと仕えていた乳母
そのため大野治長と淀殿は子供の頃からずっと知っている
淀殿が秀吉の側室になった時に乳母の大蔵卿局も一緒についてきているので
大野もそのときに淀殿や大蔵卿局の口添えで秀吉のところへ来た

158 :
>>157
んー
それは知ってるんだけど、
乳母&乳兄弟って常に主人と一緒に動いてるものなの?
ドラマでは大坂の陣で初めて登場パターン多いけど。
弟たちは寺に預けられて育ったとか聞いたことあるような。
あと、治長は秀吉の馬廻りしてたらしいけど
いつからだろう。真田信繁も馬廻りしてたし同じ時期かな
母親が乳母やってるからって奥に出入りできるものなのかな

>>155名護屋城だったら大名と妻子たくさん集まってるし緩かったのかな

159 :
>>68
大事にしすぎると妖怪が嫉妬して子どもをとられるとか捨て子はよく育つという迷信があったから、子どもは欲しくないとか太閤の子はひとりと言うことで、本当に拾った子のように扱って無事に育つようにと思ってたとは考えられない?

160 :
>>158
大蔵卿局は淀殿付きなので基本は淀殿と一緒でしょう

下界とのつながりはお鈴廊下一つで常に厳重に鍵をかけられ
奥勤めの女たちが女ばかりの狭い場所に閉じ込められるようになったのは江戸城大奥からで
この頃は女たちも表へ出たり外出したりも比較的自由だったので
大野治長が大蔵卿局をたずねたり淀殿をたずねたりするのも難しくなかったと思うが

161 :
大野さんはあんまり能力はなかっただね
豊臣の天下を取り戻すどころか滅ぼしちゃったし

162 :
秀吉の本当の子供だったかもしれんじゃないの

163 :
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

N9OXS

164 :
秀次を消さなければ豊臣の天下は続いた可能性は
ありますか?

165 :
結論から言うと秀次でも豊臣の天下が続いたとは思えない
それは側室が20人以上いたようですし秀忠が有能だった
からです

166 :
淀殿はそもそも織田信長の娘だったので秀吉は主筋の娘に跡を継がせたかったんだと思います。

167 :
大河ドラマなんて史実をいつも逸脱しすぎるのものだから、
いっそ女武者として討ち死にする淀殿を見てみたい。
いまだ皆無なんだよな。

168 :
>>167
淀殿が馬に乗って家康の陣まで行く映画ならあった

169 :
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/Q5Ifb-UXVic

170 :
神社仏閣に貴人のご婦人が子宝祈願で参籠(オコモリ)した際に、
第三者(神官や僧侶ほか)が種を授ける(セクスする)事は公然の秘め事。
それによって懐妊〜出産したお子様(父親は赤の他人)は神仏からの授かり物(者)として
実子とすることが広く行われていたそうな。

淀君も子宝祈願で参籠してめでたくご懐妊、、、

種無し(無精子症)の秀吉公からすれば、他人の子供なれど、豊臣家の為、対外的にも実子としなければいけなかった。
と言うこと。
子の実父が誰かは問題外だったかと。

171 :
>>170
その割には可愛がりすぎじゃね
豊臣家の為かな

172 :
秀吉は若い頃にもねねとは別の女との間に子供作ってるからな。

173 :
http://www.youtube.com/watch?v=43NKlCb1mOk     

http://www.youtube.com/watch?v=VWqe1L-8hSY      

http://www.youtube.com/watch?v=RYvuuNKZkZA     

http://www.youtube.com/watch?v=Y8xgwjBH4yg      

174 :
淀殿と大野治長は異母姉弟だから秀頼は淀殿と
大野治長の子だとは考えにくいです。

175 :
豊臣秀吉EDじゃろ

176 :
奇跡的に秀吉の子供に1票

177 :
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

KB1

178 :
age

179 :
>>120
鶴松が死んだときは北政所さまが養育してた

180 :
>>179
鶴松は淀城で生まれた後、まもなく秀吉が大坂城へ連れて行き
跡取りとして諸大名に披露
生母の茶々は淀城にいたので大坂城では嫡母である北政所が面倒見てたようだが
その後また茶々のいる淀城へ返されてるぞ
鶴松が亡くなったのは淀城だし

181 :
暗殺された可能性はないのかな鶴松

182 :
>>181
死んだのは淀城に戻って結構たってからでしょ?
大体養育させたのは秀吉の命令じゃないの?

183 :
キャンセル

184 :
鶴松も大野なの?

185 :
>>1
秀頼が秀吉の子でないというのは歴史を面白くしたい現代人の強引すぎるきめつけ
秀吉もバカじゃないからその辺は徹底的に信頼できる監視を付けて管理してたはず
疑いの目をつけられたら即刻惨殺の憂き目は免れられない状況でそんな無謀なことをするやつがそうそういるとは考えられない

186 :
宣教師ルイス・フロイスが、お拾い(秀頼)を関白の実子であると信じる者は誰もいない、と記している。
また石田三成と片桐勝元は朝鮮出兵中でアリバイがあり、大野治長にはアリバイがない。秀頼は身長197cm、体重は160kg(豪栄道)もあり、祖父の浅井長政(180cm)にそっくり。
https://historivia.com/toyotomi-hideyori/3389/

187 :
>>185
当時から多くの人に疑われていたけどね。
特に、秀頼を激しく憎む秀次残党の田中吉政、池田輝政などは
秀頼は秀吉の息子ではなく不義の子だと言いふらしていた。

188 :
>>185
「大仏の 功徳もあれや 槍かたな(槍刀)
くぎかすがいは 子だからめぐむ」
関白秀吉は刀狩令を出して槍刀を差しだせ
そしたら大仏の釘鎹にしてやるから功徳を受けられるといったが
種無しの関白が子宝(鶴松)に恵まれたのも大仏の功徳かいな
当時から秀吉は種無しだと思われていた

189 :
秀吉も自分が種無しっぽいと解っていたんだろう。
滅ぼした浅井長政の今浜湊を長浜と改め一国一城の主となり、織田家中にあって中々子供が出来ず、正室寧々が自分の畑のせいかもしれないと自分を責め出したため、
(ねねの勧めもあって)設けた最初の側室に最初の子供が生まれ、秀勝(秀吉+勝家)と名付けたらしいが夭逝。
それ以来、羽柴の世継ぎを作らねばと焦り、側室を作りまくるも、全く子供が出来ず断念。姉友子の息子・秀次を豊臣の嫡男とせざるを得なくなる。
長浜時代に夭逝した秀勝も別種だったようだw
ところが甥の秀次には次々と子供が誕生し、豊臣が乗っ取られるという錯覚に囚われた秀吉は、側室茶々の産む子供であれば誰でも良いというような気持になったのではないか?

190 :
>>185
秀頼の実父が誰か確定できないが秀吉の実子ではないという説を肯定する研究者は結構多い
出産経験のある女性を側室にしても子ができず、逆に側室から解放されて
他の武将と結婚して子供ができた女性を少なくとも二人は確認できるらしい
淀殿だけ二人も子ができたのは産婦人科医の意見でもありえないらしい

191 :
>>150
そもそも茶々の背が高かったなんて信ぴょう性ないんだけどね
昨日奈良県立美術館であの「伝淀殿画像」の実物を見て
その解説書きで今までのいろんな疑問がとけたわ
あの画像に「伝」がつく以前から
元の所蔵がどこでどういう経路で今の奈良県立美術館蔵に至ったのかとか
淀殿画像であるという根拠が何も示されていないことが不思議だった
裏書や賛に書き添えがあるとも聞かなかったしね
でもほーんとに淀殿である根拠が超薄いという件が、昨日で解明

なので研究者でも何でもない何処かの誰かが
「淀殿画像の着物から身長を推定」で淀殿の身長はモデル並とか書いてたのは
元から間違ってるんだよなー

192 :
公家や大寺院の重職の後添いになった側室もいたげな

193 :
京極殿龍子は前夫の武田元明との間に2人もの男児を得ている
加賀殿おまあは秀吉没後に万里小路充房に嫁ぎ男児を産んだ
秀吉没後に伊達家に引き取られた香の前・お種も一男一女を産んでいる

194 :
>>171
秀吉は小さい子ども猫可愛がりするよ
そういう文章が結構残ってる

195 :
>>190
秀頼は何故か昔から不義の子って言われてるよななんでなんだ。
夫が出征中に妻が妊娠って分かりやすいシチュ故か

196 :
秀頼は大野治長と淀殿の浮気の子
家光は家康と春日局の浮気の子(秀忠に男子がないのに焦った家康が決めた。その直後弟・忠長が生まれ...w)
昔は、嫡男を決めておかないとお家騒動が起きて、骨肉の争いになるから、秀吉も家康も必死だったw

197 :
千利休は、ライバル秀長を毒殺したことがバレて切腹!
秀次は、(諸大名が前線の惨状を訴えるも)朝鮮出兵をやめようとしない秀吉を、監禁(主君押し込め)計画がバレて切腹!

198 :2020/02/29
ちなみに長男・鶴松を殺したのは、北政所(兄・木下家定の五男・小早川秀秋を秀吉後継者としていたため)。
それゆえ次男・御拾い(秀頼)は、北政所(まんかか様)ではなく、生母の淀殿(かか様)が育てることとした。
https://www.youtube.com/watch?v=fG-w-rGoids

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