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なぜ神聖ローマ帝国は分裂しフランスは統一したのか


1 :2020/03/12 〜 最終レス :2020/06/24
神聖ローマ帝国は大空位時代以降諸侯が事実上独立し、
その後帝位を得たハプスブルク朝の領土への野心も主に帝国の外へと向けられ統一に向かうことはなかった

一方フランスにもアンジュ―帝国やブルゴーニュ公、トゥールーズ伯など王国に属していながら統一を脅かした勢力があり
王領がほんのわずかでしかなかったにもかかわらずそれらは全て駆逐され
更にその後ユグノー戦争をも乗り越えて再統一を果たした

どうして同じフランク王国から分裂したのにこれほどまでに違う歴史を辿ったのか?

2 :
王家が単一だったからじゃないか
カペー系の系統がどんどん相続していくから
王領が巨大化した

3 :
ドイツは細かいのぬきにすると4回王朝が入れ替わってて
全く相続が発生していない、ゼロから再出発になる
フランスは全て男系でつながってるから前王朝の王領を全て相続できた
ザクセン朝からハプスブルク朝まで同一男系で相続が可能だったと仮定すると
ザクセン朝からニーダーザクセン、ザーリアー朝からフランケン、シュタウフェン家からシュバーベンの所領をひきつぎ
それにハプスブルクのオーストリアが加わればフランスみたいに統一的な方向にいけただろうね

4 :
王統が異なっても同じ帝国と認められる神聖ローマ帝国と万世一系(!?)のフランス王国
それぞれの継承システムが採用されるにあたって何か民俗的背景が?

5 :
だから断絶の有無が大きいとマルクブロックは書いてるよ
フランスも断絶したら神聖ローマと似た感じになった可能性もある

6 :
ルクセンブルク家忘れてたわ
ルクセンブルク家が領有した地域はハプスブルク家が結果的に飲み込んだけど
ブランデンブルクを除いて

7 :
やっぱり国家が発展するには個人と同様、幸運も必要だわ

8 :
女系じゃ断絶してなかったけどな

9 :
フランスの国王は、世襲制なのに、なぜか有能な人物が多かった

とくに中世のフィリップ尊厳王と、ブルボン朝を創始したアンリ良王の評判はいい

10 :
そもそも、神聖ローマ帝国は「ドイツ」じゃなかったからなあ

ボヘミア王カレル、シチリア王フェデリーコ、スペイン王カルロス

歴代のベスト皇帝ランキングでTOP5入りしそうな3人の大皇帝の本拠地が、ドイツ・オーストリアの外

11 :
>>9
フランソワ1世を追加

12 :
フランク王国の初代クローヴィスが、パリに都を定めて1500年
フランス王国の初代ユーグ・カペーが、パリに都を定めて1000年

大昔からずっとパリが都だから、時が経つにつれて求心力が高まる

それに比べてドイツには、首都と呼べるようなとこがなかった

13 :
ルドルフ2世はプラハに宮廷を置いた
現在のチェコ共和国の領域
現代の国民国家の概念では理解しにくいが、
彼はボヘミア王も兼ねていたから

14 :
カペー家とカペー家の傍系が圧倒的に強く
それ以外の有力貴族家系が弱い

15 :
>>14
最初からそうだったわけではない

16 :
>>14
トゥールーズ伯、アンジュー伯、シャンパーニュ伯、ブルターニュ公、極め付けはアキテーヌ公とノルマンディ公(からのイングランド王を兼ねたアンジュー・プランタジネット帝国)

その後にもブールゴーニュ公やフランドル伯など王家に対抗しうる大諸侯はフランスにも多く存在したよ
(王家に寄生する形の大貴族しかいない)イングランドとは状況は違う

17 :
もしかしてアンジュ―帝国(とブルゴーニュ公)という共通の敵ができてしまったから他の貴族が王権との団結を強めて統一へ拍車がかかった?

18 :
イングランドと争ったおかげ

19 :
>>18
それはお互いさま

20 :
イギリスはフランスと、フランスはイギリスとの争いを通じて国民国家を形成
ドイツとイタリアは、オーストリア・ハプスブルク帝国との争いを通じて国民国家を形成

21 :
こんなに広かった、アンジュー帝国の領土
イングランドの国王がこれだけの勢力を持っていたから、「打倒イングランド」が即、「フランス統一」といっても言いすぎではないほどだった
ある意味、本当にバラバラなドイツと比べたら、まとまった状況と言えなくもない
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3d/Henry_II%2C_Plantagenet_Empire.png/220px-Henry_II%2C_Plantagenet_Empire.png

22 :
問題は、イングランド国王の大陸領土が、フランス国王のそれより遥かに広いということだった

23 :
この状態から負けるってほんま無能すぎやろ
負け犬ジョンカス

24 :
>>21
とはいっても、アンジュー帝国内に封臣がいて、彼らはフランス諸侯としてフランス王の名目的な臣下(封建契約上の臣下じゃないけど)だったから
プランタジネット家との間で諍いがある場合、フランス王に頼って仲介してもらうって手続きがあるから、そこから切り崩されるのよね
実力が多少見劣りしても、権威の使いようで決定的に優位に立てる場面があるってことではなかろうか

25 :
パワハラ上司と労基みたいな関係やな

26 :
しかし、アンジュー帝国における「イングランド王位」って添え物に過ぎなくて、アンリからしてアンジュー伯としての地位のが大事だったのよね
リシャール(リチャード)の主要な活動拠点は、主に母親からの相続地であるアキテーヌだったし
その意味で、アンジュー帝国の時点ではあくまでもフランス王国内での勢力争いであって、「イングランド対フランス」的なものではなかった
それがイングランド対フランス的に変化するのは、もっとずっと後、百年戦争の末期からだろう

27 :
アンジューってのは、この辺りか

アンジュー伯国はノルマンディー公国と近く、婚姻によってヘンリー2世はイングランド王国とノルマンディー公国を手に入れた

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/D%C3%A9partement_49_in_France_2016.svg/480px-D%C3%A9partement_49_in_France_2016.svg.png

28 :
さらに、ヘンリー2世はアリエール・ダキテーヌと結婚して、アキテーヌをも手に入れた

29 :
>>27
当時のアンジュー伯領には、メーヌやトゥーレーヌもその領地に含んでいたから、面積だとその3倍くらいはあるかな
ノルマンディとブロア方面に拡張する感じで

30 :
イングランド王リチャードとして有名になってるからなぁ

31 :
>>9
シャルル5世も

32 :
>>30
リシャール・ド・プランタジュネは、在位期間の大半を大陸ですごした

33 :
中世にフランスは人口2千万人もあったけど
イングランドは3百万人しかいなかった

34 :
食料生産力が段違いだからな

35 :
アンジュー帝国もブルゴーニュも王家と同族だからな
プランタジネットとトゥールーズ伯は違ったけど

36 :
アンジュー帝国ってイングランドの方か
俺はシチリアの方と思って買いてしまった
シチリア系はハンガリー・ポーランド王にもなってる

37 :
アンジューもプランタジネット、カペー系、ヴァロア系とあって
カペー系とヴァロア系はシチリア王位めぐって争ってるな

38 :
アンジュー伯領もさることながら、ブルゴーニュ公国がデカい

39 :
>>2
同じ頃に始まった神聖ローマ帝国のリウドルフィンガー家が5代100年余りで途絶えるのに対しカペー家が初代ユーグカペー以降250年も続いたのが大きい

40 :
ブルゴーニュ家が断絶せずフランス王家継いだら強すぎる

41 :
フランドルってなんであんなに豊かだったの?
北方ルネサンスなんてものも生まれたし

42 :
海洋貿易じゃないのか?

43 :
>>41
中世においてはブリュージュ、近世にはアントワープが海洋貿易の中心

ライン川を通じてケルン商人、北海を通じてハンザ同盟都市、大西洋を通じてジェノヴァ商人と交易する物流センター

さらに、イギリスから羊毛を輸入して毛織物を生産する加工貿易
(後には、イギリス製の毛織物を輸入するようになった)

44 :
イギリスから羊毛を輸入して、毛織物を生産する。
それをライン川の船で輸送して、ドイツ・フランスの内陸部に売る。

これが、フランドル繁栄の黄金パターン

45 :
北海・バルト海沿岸のハンザ同盟都市の海洋貿易は、ブリュージュとロンドンが西の終着駅

フランドル産の毛織物は、北海のニシンと並ぶ代表的な国際商品

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d0/Haupthandelsroute_Hanse.png/230px-Haupthandelsroute_Hanse.png

46 :
海だけではない。
ライン川の河川交通は、ドイツ経済の大動脈。

https://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/35/a3/a461fcc8666706505ef7e8b9c27ded34.png

https://www.hankyu-travel.com/attending/heritage/germany/images/ESP12-12726A.jpg

47 :
>>41
毛織物産業が盛んだったから。羊毛はイングランドから輸入。

48 :
「もしも、イングランドの大陸領土と、ブルゴーニュ公国が存続していたら」
という、歴史if地図

http://dramatic-history.com/history/belgie/map15c1.JPG

49 :
>>48
ていうか、百年戦争当時の勢力図

50 :
まさに三つ巴、いずれ劣らぬ三強の激突

「天下の3分の2は魏」といわれた三国志よりも、よほど三国鼎立と呼ぶにふさわしい状況

51 :
ブルゴーニュっていびつな形してるけど、防衛戦どうなってたんだ

52 :
飛び地の間を埋めるために戦争してたら領主が戦死して廃絶

53 :
もともと、フランドルとブルゴーニュは別の国だからな
2つの国をくっつけただけ

54 :
フランドルとブールゴーニュの間に挟まれているのが、歴史マニア大好きロレーヌ(ロートリンゲン)

55 :
フランスは王家が長い間血統が絶えなかった

56 :
「ラテン系でプロテスタントの国」が
どっかにほしかったな
ワロン地域とロレーヌとフランシュコンテがくっついてユグノーになればよかったのに

57 :
ポルトガルのブラガンサ家もたどればカペー系ブルゴーニュ家

58 :
>>56
ラテン系かはともかく、フランス語話者でプロテスタントの国というとジュネーブ

59 :
プロテスタントの思想は厳格すぎて、南国の人には合わない

スイスは山岳国家で寒いから別枠

60 :
>>56
ワロンはユグノーだが、他の二つはカトリックだからどうしようもないな

61 :
スペインとイタリアはコロナの中心。カトリック。
フランスはフランスは新教徒の影響が残るから、コロナはそこそこ。
賢いやつ働き者はユグノー戦争後ドイツへ。
だからドイツはコロナが少ない。

62 :
>>61
アメリカは?

63 :
>>61
いやいや、そういう問題ではない
単に、北イタリアには中国人労働者が多いだけ

64 :
>>63
事実誤認があるな
今回の流行の発端はミラノ近郊で、むしろ観光客からの感染が予測されとる

65 :
>>64
ミラノはファッションの中心地で、服飾産業が極めて盛ん
中国人のお針子が多い

66 :
>>65
それを考慮しても、>>64の予測が出てるって言ってるんだよ……
そもそも、イタリア現地の労働者が移動もせんで感染源になるわけねーだろ

67 :
バカに何を言っても無意味
最強だからな

68 :
フランスの農業生産力って、なんであんなに高いの?
隣国のドイツは氷河期にかなりの部分が氷河に覆われていて
地味が痩せているのに。

69 :
20世紀に頑張ったからだろ。
19世紀とかヨーロッパの主要国でロシアとフランスだけ穀物の単収図抜けて低いぞ。どっちも土地広いからそこそこだったけど。

70 :
フランスも氷河に表層を削られてるから土地は痩せてるよ
けど農耕可能地はめちゃ広いからな

71 :
>>3
でもカペー朝やヴァロア朝が地方豪族との婚姻で獲得した領土を
その地方豪族の血をひかないブルボン家が相続できるのはおかしい

72 :
ドイツは古来から森の国として知られており、
近世まで大きな森林地帯が残っていた
中世なら国土に森林の占める割合はもっと大きかっただろう

73 :
>>70
昔はイギリスの国土を見て「これじゃ恵まれすぎだ」とボヤくフランスの知識人がいたほど、フランスの国土はじつはあんまり良くない

74 :
>>71
その地方豪族も途絶えてるからね
ブルターニュはいたけど完全に黙殺した

75 :
フランスの小麦の単収
https://www.nies.go.jp/ica-rus/foodproblem/images/kawashima/002.png
単収が伸びたのは1950年から
1.5トンから半世紀で8トン弱まで増える

76 :
日本って神聖ローマ帝国だったのか大昔

77 :
>>75
農業国というイメージのあるフランスだが、そうなったのは20世紀の後半か

78 :
じゃあ人口が多かったのは単に面積の恩恵か。

79 :
ていうより農耕可能地の広さ
でかくても砂漠や荒れ地だらけじゃね

80 :
ああ、うん。そうだな。国土のほとんどが可耕地なんだっけ。
世界でも稀有な国じゃないかな。

81 :
>>39
皇帝はオットー2世、ハインリヒ3世、ハインリヒ6世、コンラート4世、と大物を壮年で嗣いだ皇帝が悉く若死にして後継者が幼かったり断絶して集権化をぶち壊しにしてきたのがなあ。
ヵぺー朝はそうした後戻りはルイ9世の最初の一回だけやったし。

82 :
フランスは幸運に恵まれた
ドイツは幸運に恵まれなかった

83 :
天皇の「万世一系」を世界唯一無二と称賛する人が右翼系に多いけど、フランスだって、ユーグ・カペーが千年前に即位して以来、1848年の革命で最終的に王政が終わるまで、ユーグ・カペーの子孫が王位を継承し続けた

カペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝と、王朝が2度交替してるけど、これだって本家が断絶したのを分家が継いだだけ。
日本だったら、これを王朝交替とは言わない。

84 :
イギリスも、外国から国王を迎えたりして、コロコロ変わった印象があるけど、これだって、なんらかの形でイギリス王室の血筋を引いている者でなければ、候補に上がることもない

85 :
フランスの王統は王位を失った今でも男系継続だそうな。
あと、イギリスは女系継承入ってるからまた事情が違う。

86 :
イギリス王室を引き合いに女系でもいいじゃんと言う阿呆がいるが、イングランドはノルマンディー公ウイリアムのように女系男子が現職王を力ずくで排除して即位したから女系でもありになっただけ。
今の日本に例えると、眞子さまと結婚した小室君が人民解放軍に推戴されて今上陛下を放逐して即位するようなもん。

87 :
ドイツには封を必ず封臣に与えるという授封強制という方式があった。
授封強制はイングランドやフランスにはなかった。
この授封強制のために、神聖ローマ帝国は皇帝に権力を集中できず、
分権的でありつづけた。

88 :
>>86
このテーマをまとめてみようと思って、別スレを立ててみた

「イギリス王室の女系継承」

http://itest.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1587737739/l50

89 :
結局はジャンヌダルクがフランス軍を一つに纏めてナショナリズムを高揚させたおかげ

90 :
>>89
あのとき負けていれば、イギリス王室によってフランスが統一された可能性もある

当時はイギリス王室もフランス人だから問題ない

91 :
むしろ、「あのとき負けていれば、いまごろイギリス人もフランス語をしゃべっていただろう」と残念がるフランス人もいる

92 :
>>90
つっても、フランス王家はサリカ法典に縛られてるんで、女王が登位した時点で、ハノーヴァーと同様に王統分裂したと思うよ

93 :
中世中期初めの王権は、むしろドイツのほうが強力だったのにな

94 :
フランス王家は、初期にはパリ周辺の小さな勢力圏しか持っていなかった

95 :
最初はどこもそんなもんだろ

96 :
>>93-94
オットー朝が5代100年余りしか続かなかったのに対してカペー朝は15代300年以上続いたのが大きい
15代300年といえば江戸時代に匹敵する

97 :
>>96
カペー朝の王は、フィリップ2世以降は割と優秀な人が、ちゃんとした年齢で即位してることも大きいんだよね
ルイ9世は幼少の君主だったけど、あの時は摂政王母がめっちゃ優秀だった
長じたルイも、当時としてはかなり優秀な王だったし

98 :
カペー家の本拠地であるイル=ド=フランスは経済的に豊かなため、
都市から貨幣を調達するのが容易であった
また、経済力があるからこそ可能だったが、法律の専門訓練を受け
「レジスト」(法曹家)と呼ばれる新しい知識人を王の側近として登用し、
イデオローグとして、またテクノクラートとして王政の発展に貢献させた

99 :
>>95
国王にしては、領地が異常に小さかった

100 :
>>96
ヴァロワ朝も、カペー朝の分家
武烈天皇と継体天皇よりは近い親戚

101 :
フランスと神聖ローマ帝国との関係では、
カペー朝の強大化を警戒した皇帝オットー4世、フランドル伯、イングランド王ジョンの
連合軍を、1214年、フィリップ2世がリール近くのブーヴィーヌの戦いで撃破し、
ついで皇帝フリードリヒ2世の死後、ドイツが大空位時代に入ったため、
東からの脅威は消えた。

102 :
ちなみにブルボン家はルイ9世の男系子孫

103 :
>>101
皇帝フリードリヒ2世の後継者をイタリアで打倒し、帝国に大空位時代をもたらしたのは、フランスの聖王ルイ9世の弟シャルル・ダンジュー

104 :
>>102
日本でいえば、皇室から分かれて臣籍降下してた源氏が、天皇に抜擢されたような感じかな

105 :
>>104
ブルボン=ヴァンドーム家はずっと王族待遇だった上、母系からナヴァラ王位まで継承している大層な名家なので
臣籍降下した遠縁レベルではない
長く続いていて、かつ有力であり続けた宮家みたいなもん

106 :
フランス王権は領邦君主領をつぎつぎに併合して王領地を
着実に拡大していったが、その一部を親王領としてブルゴーニュ公や
オルレアン公などの王族たちに領有させていた。
百年戦争後、今度は王族が王権を脅かす存在となり、
とくに経済最先進地フランドルをも領有するブルゴーニュ公は
本家の王をしのぐ勢力を誇った。

107 :
カペー家初期に分岐したブルターニュのドール家やポルトガル王家のカペー系ブルゴーニュ家と違って
ブルボン家が分岐したのはヴァロア家が分岐する一代前だから血筋が近くやはり特別なのだろう
フランスが内紛してる時にブルボン家は常に王に忠実だったし

108 :
世襲王制と選挙王制の差じゃないかな?
それとフリードリヒ2世の子孫たちがシャルル・ダンジューに敗れて帝国の重要な拠点であるシシリア王国を取られたのも大きいかな
大空位時代を経てそれ以降のイタリア政策がショボくなった
それに対してアナーニ事件→アビニヨン捕囚で教皇庁にマウントとれた事も大きい

109 :
「イタリアは長すぎる」とナポレオンは言った
長いだけでなく、日本と同じで中央は山脈だから、「東海岸から西海岸へ行くには、船で海をグルッと回ったほうが早い」と言われるほど陸路が不便。
ちょっと統一するのは難しいな。
ドイツはともかく、イタリアだけでも統一できていれば良かったんだが。

110 :
普仏戦争でフランスを破って統一を成し遂げたときの
ドイツ国内の雰囲気は、
ちょうど韓国を日本を戦争で破ったときのようなものだったらしいな
長い間他国の風下に置かれてきた日陰者が突如陽の当たる場所に
躍り出た

111 :
韓国が日本に戦争で勝ったことはない(戦争したことすらない)んですが

112 :
ブルゴーニュ公国はラテン系でプロテスタントの国として存続してほしかったな

113 :
ブルゴーニュが現代にあったとしても、ドイツとフランスの緩衝国にしかなれないと思う

114 :
EUの本部が首都にブリュッセルに置かれてるベルギーが独仏間の緩衝国になってる感

115 :
×:首都にブリュッセル
○:首都ブリュッセル

116 :
>>114
ベルギーでは両方の戦争を防ぐには荷が重い

117 :
フランスとベルギーって割と密接な感じがするんだけどドイツとオランダって疎遠な感じがするのは何でだろ?
言語も割と似てるのに

118 :
>>117
オランダ国歌の歌詞

余はナッサウ伯ウィレム一世
ドイツの古き血筋なり
余は永久なる忠誠を
祖国に捧ぐるものなり
余はオラニエ公にして
大胆かつ不羈なるぞ
余はスペイン王に対し
生涯の忠誠を誓いたり

119 :
>>113
ブールゴーニュ公国が仮にロートリンゲンも制圧して中フランク王国の復活状態になったら
イタリアとの連携でフランスとドイツの双方に圧力かけられる面白い存在たりえたと思うけど

まあ、あの地域全体としてナショナリズムを喚起させられなそうだから無理よな

120 :
>>118
ナッサウ伯って聞いた事があるな
ローマ(ドイツ)王にもなったアドルフ・フォン・ナッサウか?
そういえばシュタウフェン朝時代の対立王でホーランド伯のヴィルヘルムというのもいたな

>>113
ブルゴーニュって王国もあったし公国もあったし自由伯領というのもあったのだがこれらの支配者ってみんな血縁的な繋がりってあったのかな?

121 :
>>118
>余はスペイン王に対し
生涯の忠誠を誓いたり

オランダ代表は、サッカーの試合前の国歌斉唱でこれを歌って、スペイン代表にボコボコにされて負けた

122 :
ちなみに、オランダ国歌のメロディは、フランスの古い民謡

ドイツ・フランス・スペインの3大国を折衷したような国歌

123 :
>>120
ブルゴーニュ公国は西フランク王国の豪族が自立して成立し、
ブルゴーニュ伯国はブルゴーニュ公のアンリ一世の妻の連れ子がブルゴーニュ公国の隣(神聖ローマ帝国内)に建国したものみたい
なお、その連れ子は一時ブルゴーニュ公国も継いでいたらしい

124 :
>>120
ブールゴーニュは、語源が「ブルグント」だって言えば理解できる?
大元まで辿れば、ブルグンド族の部族大公、または王だったって話
ただし、血族的にはブツギレです
一時期、皇帝はドイツ、イタリア、ブルグンド(アルル)の王を兼ねて称していたよ

125 :
メロヴィング朝フランク王国の4地域
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/8/80/ClovisDomain_japref.jpg

126 :
>>120
>ブルゴーニュって王国もあったし公国もあったし自由伯領というのもあったのだがこれらの支配者ってみんな血縁的な繋がりってあったのかな?

ブルグント王国は、中世初期の民族大移動でできたブルグント族の国で、フランク王国に滅ぼされて消えた。中世後期のブルゴーニュ公国とは別モノ。

ブルゴーニュ伯国は、神聖ローマ帝国のブルグント地方で、フランス王国に属するブルゴーニュ公国とは別の国。
この図で水色がブルゴーニュ伯国、ピンク色がブルゴーニュ公国。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Duch%C3%A9_et_Comt%C3%A9_de_Bourgogne_au_XIVe_siecle.svg/880px-Duch%C3%A9_et_Comt%C3%A9_de_Bourgogne_au_XIVe_siecle.svg.png

127 :
ブルゴーニュ伯国は、
イタリア王子のオットーギョームというのが
イタリアを追い出されて父の故郷のブルゴーニュに逃げてきて建国したらしい
で、母から受け継いだ所領がブルゴーニュ伯国の原点とも。

128 :
中世初期には、低地ブルゴーニュ王国とか高地ブルグント王国とか、
わけわからん国がいっぱいあるよな

129 :
ブルゴーニュ王国→ブルグンド王国の歴史

411年 ブルグンド族のグンダハールにより建国(第一ブルグンド王国)
443年 第二ブルグンド王国 ローマ帝国の将軍アエティウスによりブルグンド族はサパウディア(上ローヌ川)に移動させられる グンディオク(グンダハールの子)により建国
534年 第二ブルグンド王国、フランク王国により滅亡
534-855 ブルグンディア分王国
841年 フォントノア戦い
843年 ヴェルダン条約 ブルグンディアの大部分はロタール1世の皇帝領(中フランク王国)に属す
855年 皇帝ロタール1世死去
皇帝領は長男ロドヴィコ2世のイタリア王国、次男ロタール2世のロタリンギア王国、末弟シャルルのプロヴァンス王国に3分
ブルグンディアはアルプス山脈を境として北部はロタリンギア王国、南部はプロヴァンス王国に属した

130 :
855-933 プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)
863年 プロヴァンス王シャルル死去 イタリア王(兼皇帝)のロドヴィコ2世がプロヴァンス王位を継承(イタリア王国領)
870年 メルセン条約 プロヴァンス王位は西フランク王シャルル2世(禿頭王)が継承 但し、この時点ではプロヴァンス王国旧領の東半分はイタリアの皇帝ロドヴィコ2世の領土
875年 皇帝ロドヴィコ2世死去 シャルル2世(禿頭王)によりイタリア王国は占領され、皇帝位につく それと同時にプロヴァンス全域は統一される その際プロヴァンスは王太子ルイ2世(吃音王)の後見人であるボソ(ボゾン家)を伯に任じ治めさせる
876年 シャルル禿頭王のイタリアの軍事行動に従軍し、パヴィーア議会でボソはイタリアの首位の大臣および総督に任命され、公に格上げされた 
プロヴァンスの支配を託され副王として振る舞い、ローマ皇帝ロドヴィコ2世の唯一の娘エルマンガルドと結婚することで、ますます威信を高めた
877年、ボソはシャルル2世のイタリアへの二度目の軍事行動に賛同せず、同じ意見を持つ貴族達と共謀してシャルル2世を打倒しようとした
同年10月 シャルル禿頭王死亡 共謀した貴族達はシャルル2世の息子に強制して、彼らの権利と特権を承認させた

131 :
878年9月 ボソは教皇ヨハネス8世をトロワまで送った際、教皇はそこで西フランク王ルイ2世(吃音王)に対し、イタリアでの支援を要請し、ボソを養子として迎えた
879年4月 ルイ2世(吃音王)死去 息子ルイ3世とカルロマンにより分割相続され、プロヴァンスはカルロマンが担当
同年7月 プロヴァンス公ボソはルイ3世、カルロマンに対する忠誠を拒否し反乱を起こす
880年 リブモント条約により領土を画定、首都を下ブルグントのヴィエンヌとし、ここにキスユラブルグント王国、別名プロヴァンス王国が成立した (下ブルグント王国、低ブルグント王国ともいう)
ボソの王国はアルル、エクス=アン=プロヴァンス、ヴィエンヌ、リヨン(ラングルを除く)、ブザンソンの各大司教管区、そしてタランテーズ、ユゼス、ヴィヴィエの各司教管区から構成される
882年 カルロマンの臣下であるリシャール正義公(ボソの実弟)により攻撃され領土を大幅に失う
※後のブルグンド公国はこのリシャール正義公の流れを汲むものである
884年 イタリア王と東フランク王を兼ねる皇帝カール3世(肥満王)が西フランク王位をも相続してフランク王国が統一されたが、ボソだけは従わなかった
887年 ボソ死去 寡婦のエルメンガルドと幼い息子のルイは皇帝カール3世(肥満王)の元に身を寄せ、ルイはカール3世の養子となる
888年 カール肥満王死去 フランク王国は再び分裂し、プロヴァンス王位にルイが就き(ルイ3世)、プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)が復活

132 :
900年 トスカーナ辺境伯アダルベルト2世の要請によりルイ3世はイタリア進出 イタリア王ベレンガーリオ1世を破りイタリア王に即位
同年、東ローマ皇帝レオーン6世ソフォスの娘アンナを娶り、産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付ける
(のちのヴィエンヌ伯)
901年 ローマ皇帝位に就く
905年 マジャール人傭兵を率いたベレンガーリオ1世に反撃され、捕らえられたルイ3世は目を潰され(盲目王)、プロヴァンスに追放された
911年 ルイ3世盲目王はプロヴァンス王を名乗り続けたが、又従兄で義兄でルイの首席顧問兼摂政であるアルル伯ウーゴがプロヴァンス公、ヴィエンヌ公となり、
王国の実権を握る(王国の本拠地はアルルに移り、これ以降のキスユラブルグンド王国はアルル王国と呼ばれるようになる)
923年 ユーラブルグンド国王のルドルフ2世と皇帝ベレンガーリオ1世がフィオレンツオーラ・ダルダ(ピアチェンツァ)で衝突 ルドルフが勝利しイタリア王位に就く
(924年皇帝ベレンガーリオ1世は暗殺される)
925年 ベレンガーリオ派の貴族によりウーゴはイタリア王に推戴される
928年 ウーゴ不在のプロヴァンスにおいてプロヴァンス王ルイ3世盲目王はヴィエンヌの領地を(ウーゴに無断で)息子のシャルル・コンスタンティンに与える
(同年6月に盲目王死去、プロヴァンスに戻ったウーゴとシャルル・コンスタンティンはプロヴァンス王位を巡り対立するが、両者共に王位に就くことはなかった)

133 :
同年9月 ウーゴはフランス王ラウールとヴェルマンドワ伯エルベール2世とブルゴーニュで会見し、シャルル・コンスタンティンに対抗してエルベールの息子オドーをヴィエンヌ伯に任命
930年 シャルル・コンスタンティン、ヴィエンヌを完全に掌握
931年 フランス王ラウールはヴィエンヌとリヨネーの宗主権を要求
931年 ウーゴは息子のロターリオ(2世)を共同統治者としてイタリア王に戴冠
931年 ウーゴは異父弟のトスカーナ辺境伯ランベルトが自分にに対し陰謀を企てていると非難し、トスカーナ辺境伯位を剥奪し、弟ボソに授ける
(ウーゴはマロツィアとの再婚に際して障害があったため、ランベルトを排除したと言われている)
932年 マロツィアとの結婚式最中に、マロツィアの前夫(スポレート公アルベリーコ1世)との間に出来た子アルベリーコ2世のクーデタにあい、逮捕されるが幽閉先のサンタンジェロ城から脱出し命からがらプロヴァンスに逃亡
933年 ランベルト派の貴族はユーラブルグンド王のルドルフ2世に支援を求めたが、それを阻止したいウーゴはヴィエンヌとリヨネーを譲り、その見返りとしてルドルフはイタリアにおける権利を一切放棄した

134 :
(※933年はキスユラブルグンド王国(プロヴァンス王国)の終焉を意味する)
936年 ウーゴの息子ロターリオ2世とユーラブルグンド王ルドルフ2世の娘アデレードの結婚
936年 ウーゴは弟トスカーナ辺境伯ボソの後に、自身の庶子ウベルトをトスカーナ辺境伯位に就ける 
彼は、ヴィエンヌのオクタヴィオンをユーグ・タイユフェルに与えるなどし、プロヴァンスにおける影響力を保持するためシャルル・コンスタンティンとの関係を修復した
941年 イヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世をイタリアから追放、イヴレーア辺境伯位を取り上げる
945年、ベレンガーリオの反撃を受けてウーゴ敗走
ベレンガーリオがミラノで開いた帝国議会によりウーゴはイタリア王を廃位されたが、名目上の王位を保持することで彼はそれを受け入た
息子のロターリオを名目上の王として残してウーゴ自身はアルルに戻り、すべての事実上の権力はベレンガーリオ二世の手に渡った
(ロターリオはベレンガーリオにより950年毒殺され、寡婦となったアーデルハイド・フォン・ブルグンド(ブルグンド王国ルドルフ2世の娘) は951年保護を求めた東フランク王のオットーと結婚し、神聖ローマ帝国の皇后となる)
947年 ウーゴ死去

135 :
まるでわからん

136 :
>>135
プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)及びユーラブルグンド王国の歴代の支配者はイタリア王国の政情に介入して全て痛い目にあっている
これはユーラブルグンド王国のルドルフ二世の娘アデレード(Adelheid von Brugund)を通じ神聖ローマ皇帝にも受け継がれている
ブルグンド自由伯(フランシュコンテ)の創始者オットー・ギョームはプロヴァンス王国最後の支配者ウーゴを倒したイタリア王ベレンガーリオ2世の孫でそのベレンガーリオ2世の妻ウィラ(つまりオットー・ギョームの祖母)はウーゴの姪にあたる

137 :
初代の神聖ローマ皇帝・オットー1世は、イタリア王国のベレンガーリオを倒して、イタリア王の座についたんだよな
それは聞いたことがある

138 :
最初のブルグント王国はその後のブルゴーニュ諸国と全く関係ないから
むしろわかりやすい
その後のブルゴーニュ諸国は相互に血縁関係とかあるから分かりにくい

139 :
高地ブルグンド王国の歴代国王ってヴェルフ家なんだよな
これがのちに神聖ローマ皇帝をも出したヴェルフ家にどう繋がるのか調査してみたいと思う

140 :
低地ブルゴーニュ王国は、西フランク王国から分離した小国のひとつ
低地ブルゴーニュ国王ルイは、トスカーナ辺境伯などイタリア王国の
有力諸侯の一部によって、イタリア国王ベレンガーリオ1世の
対抗馬としてかつぎだされた
ちなみにルイは女系でカロリング家の血を引いている
900年、パヴィーアでイタリア国王に、翌年、ローマで皇帝に
即位したルイは、勢力を回復したベレンガーリオに敗北し、
905年、盲目にされたうえで故国に送還された

141 :
ベレンガーリオに敵対するイタリア諸侯は、921年、今度はやはり最近独立した
高地ブルグンド王国の国王ルドルフをかつぎだした。
ルドルフは、翌年、パヴィーアでイタリア国王に選出され、923年、
ベレンガーリオを戦いで打ち破った。
翌924年、ベレンガーリオは家臣によって暗殺され、以後962年まで、
西方では皇帝の称号を持つ人物が不在となった。

142 :
ルドルフは、926年、低地ブルゴーニュ国王ユーグと同盟して、
イタリア北部と低地ブルゴーニュ(プロヴァンス)に進入した
マジャール人を撃退した。
しかし、同年、ルドルフと対立するに至ったイタリア諸侯が、
このユーグをパヴィーアでイタリア国王に選出したので、
ルドルフは高地ブルグンドに帰国した。
ユーグは、928年、ルドルフに低地ブルゴーニュを移譲し、
その見返りにイタリアでの地位を確保した。
933年、高地ブルグンドと低地ブルゴーニュが統合されて、
ブルグント王国が成立した。

143 :
イタリア王の話で恐縮だが、ベレンガーリオ2世で途切れたと思ったイヴレア辺境伯の流れだが、皇帝オットー3世死去後、ベレンガーリオ2世の甥の息子のアルドゥイーノ・ディヴレーア(イタリア王在位1002-1014)という人物が短期間ながらイタリア王を継承しているみたいだな

144 :
>>143
そしてアルドゥイーノに敵対するイタリア諸侯の求めに応じたハインリヒ2世が、
1004年、ローマに遠征し、パヴィーアでイタリア国王に即位。
しかし住民の反乱に出会ってドイツに帰還したので、アルドゥイーノは権威を回復。
そしてハインリヒ2世は、1014年、ローマで皇帝戴冠を挙行したが、
ドイツ人支配に反発するアルドゥイーノ派の諸侯、とりわけトスカーナ辺境伯と
ミラーノ司教との反抗に出会った。

145 :
イタリアを追われたベレンガリオの子供だか孫がブルゴーニュ伯国を建国したりしてるからより複雑になってる

146 :
オットー1世以来、東フランク国王が連続して皇帝となるが、
それは当時の西方世界にザクセン朝以外の有力な政治権力がなかったという
特殊な歴史状況によって規定された偶然の結果
東フランクにおけるオットーの後継諸王が、途切れることなく、
こうした皇帝の任務を実際に担い続けた結果、東フランク=ドイツ王位と
皇帝位とが切り離しがたく結びつくという伝統が形成された

147 :
>>145
ベレンガーリオ2世の孫のオットー・ギョームのことだね
この人は義父のウード・アンリ(フランス王ユーグ・カペーの実弟; オットーギョームの母ジェルベルジュ・ド・マコンの再婚相手)から
ブルグンド公位も短いながら2年だけ受け継いでいるんだよね
ブルグンド公位の方はその後ユーグ・カペーの息子、フランス国王ロベール2世に持っていかれたが

148 :
オットー1世は若い頃、弟に反乱され、負ける寸前まで追い込まれた。
その後は、息子に反乱され、これまた負ける寸前まで追い込まれた。
962年に、オットー1世は皇帝として戴冠した。
苦労に(962)めげず、オットー戴冠

149 :
>>147
オットーギョームの母親のジルベルジュは
ブルゴーニュのマコンの出身だということ。
オットーギョームの父親はイタリア王だったのに
その父の故郷のブルゴーニュ出身の妻を迎えたのか

150 :
>>148
シュヴァーベン大公リウドルフは、953年に父に反旗をひるがえしたな
反乱側は、侵入していたマジャール人とさえ結びついたが、955年に鎮圧された

151 :
オットー1世は、機会をとらえては大公の地位を彼の一族に与えた。
大公が部族と結びついて、王国内の王国となるのを避けるためである。
だが、彼らもまた結局は部族大公化し、自立を目指した。

152 :
なるほど、身内でも油断ならんと大司教、司教、修道院長を聖界諸侯として授封して重要な地位につけたんだな
彼らは公、伯といった世俗の封建諸侯に比較して教養があるし、基本的に子がいないという建前になっているので封土を世襲するという事もない(帝国教会制)
しかし、これが後々聖職叙任権闘争の原因となり、ローマ教皇と激しく闘う事になる

153 :
ブルゴーニュ公国はやたらもてはやされるけど、
しょせんフランス王家の分家なんだからあまり意味はないな
ボゾン家かアンスカリ家が続いてほしかったよ

154 :
ボゾン家の流れはベレンガーリオ、アダルベルト親子を通じてブルグンド伯(オットーギョーム)の方に継承されたとみるべきだろうね

155 :
オットーギョームが父母の出身地であるブルグントに亡命したあと、
そこで国を樹立できたのは
ボゾン家の君主を期待する人間がいて、担ぎ上げてくれたから?

156 :
同じブルグンド(ブルゴーニュ)といってもボゾン家の根拠地だったプロヴァンスとオットーギョームが建てたブルグンド伯のいたフランシュ・コンテ地方は京都ー東京ぐらい地理的に離れていて
プロヴァンスにはボゾン家に代わって当時は古ヴェルフ家(オットー大帝妃アーデルハイドの兄コンラート王)が支配していたよ

157 :
ドイツ王国で、ザーリアー家のコンラート2世が国王に選出されると、
イタリア王国の諸侯の一部がフランスのアキテーヌ公を国王に選出しようとした
この時期はまだイタリア諸侯とフランス南部の大諸侯との連携が存在していたらしい

158 :
>>157
アキテーヌ公ギョーム5世(偉大公)の妻はブルゴーニュ公オットー・ギョームの娘アニェス・ド・ブルゴーニュだな
イタリアのイヴレーア家=ブルゴーニュのアンスカリ家と姻戚関係にあったようだが、偉大公はドイツ王コンラート2世(ザリエル王朝)との政争を避けるためにその申し出を断ったらしい

159 :
>>157
そりゃ、北イタリアから見れば、南フランスは仲間に思えるだろうな
パリが南仏を征服してからは、その関係はなくなった

160 :
実際、ピエモンテ、サヴォイヤ、プロヴァンス、ラングドックからカタルーニャまでは、中世初期までは一体みたいなもんだったからなあ

161 :
イタリア北西部のサヴォイア家は、元来はブルグント王国のサヴォワ伯だったからな
1046年、トリーノ伯領の相続者と婚姻関係を結び、それを契機に、
アルプスのこちら側のイタリア王国にも、もうひとつ伯領を得た。

162 :
トゥールーズからサヴォイアまでつなげれば、一角の国になるな

163 :
東フランク王国の高級貴族の中で、部族を統治する者たちは大公と呼ばれ、
ひときわ重要な役割を演じていた。
大公はもともとメロヴィング朝の時代には、一定の地域を治める伯よりも
上位にある官職だった。
ところがカロリング時代の末期になって、異教徒たちの襲撃が繰り返される中で
新しい部族大公制が成立する。
大公は国王が到着するのを待たずに、部族の民とともに襲撃者たちと戦わねばならず、
彼らの価値と力、民の彼らへの信頼は増大した。
大公は土着化し、官職というよりも地域の特定の家門に帰属し始めた。
この傾向はとりわけザクセン人やバイエルン人という、異教徒の侵略を
受けやすい辺境地域において著しかった。

164 :
>>162
アルビジョワ十字軍さえなければ…

165 :
もしシャルル・ダンジューが地中海帝国建設の夢をかなえていたら、
その後のフランスの歴史は変わっていたんだろうか?

166 :
>>165
変わってなかったと思う
ポルトガルのボルゴーニャ朝や、アンジュー・ハンガリー家がフランス本国の歴史にほとんど関係なかったのと同じに

167 :
ガスコーニュはもともとバスク人だからナバラ王国と一緒になるのがいいな

168 :
ベアルン子爵領ってのがあったな

169 :
>>165
変わっただろうな

何が変わったかといえば、懲りずにまた十字軍を海路で送っただろう

170 :
南イタリアが、スペインでなく、フランスの延長になる意味は大きい

フランスは、もっと早くイタリア支配に乗り出しただろう

171 :
地理的に国境が大西洋・地中海やアルプス・ピレネーで隔てられてたフランスと
大河や山脈はあっても四方が陸続きでマジャールやらトルコやらへの防波堤だった神聖ローマでは
中央への求心力に差異が大きく異なっても仕方ないような

172 :
90年間続いた「シチリア晩祷戦争」は、ナポリ王国とシチリア王国の
国力をともに消耗させた。
結局この戦争で利益を得たのは、莫大な戦費を融資し、商業特権を得た外国商人。
ナポリ王国では、トスカーナやヴェネツィアの商人が優勢であり、
シチリア王国では、トスカーナ商人に替わってしだいにカタルーニャ、とりわけ
バルセローナの商人が優勢となった
なんだか南イタリアは何をやっても報われないという感じだな

173 :
トゥールーズ伯の家紋とカタリ派の紋章が同じなのはなぜなのか

174 :
アルビジョア十字軍の時代には、南フランスの領主たちの中には
アラゴン王を君主に抱く者も多かったんだよな

175 :
カタルーニャの王たちは、南仏オクシタニアとカタルーニャを
一つのまとまった領土と考えていた。
そして、このまとまりを確かなものにするために、代々、
オクシタニアの諸侯と姻戚関係を結ぶなどして外交政策に
心を砕いていた。

176 :
南フランスも南イタリアも、アラゴン・カタルーニャの傘下か
アラゴンは西地中海の支配者だな

177 :
>>176
アラゴン海上帝国の歴史的異称は伊達じゃないですよ

178 :
カタルーニャはイスラム化してタイファの一国になったほうがよかったな

179 :
スペイン辺境伯領は、カール大帝によって設けられたものだから、
もともと南フランスとのつながりが強いんだよな

180 :
カタルーニャはナポレオンの時もフランス帝国領だったしな

181 :
アラゴンはカスティリアと合同しなければ、もうちょっと海洋政策がまともだったのではなかろうかという疑惑

182 :
>>181
海洋国家と大陸国家の違いだな

183 :
カタルーニャのラモン・バランゲー3世の三番目の妻が、
南仏プロヴァンス伯のドルサだった。
この結婚は、その後長らく続くカタルーニャの南仏支配の始まりとなる。

184 :
シモン・ドゥ・モンフォール軍に、ペラ1世率いるカタルーニャ・オクシタニア
連合軍が勝っていたら、南仏はスペイン領になっていたんだろうか

185 :
>>184
むしろピエモンテ=プロヴァンス=カタルーニャ・アラゴン王国爆誕で、スペイン誕生せず、ってなるんでは
イタリア王国も結果的に生まれなそう

186 :
現在の国境線も偶然の産物にすぎない

187 :
神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世はフランス王に対して封臣となることを強く迫っていた
オットー4世のとき、ブーヴィーヌの戦いでオットー4世は敗れて失脚
このときオットー4世の側が勝利していたら、フランス王は神聖ローマ皇帝の
封臣になっていた?

188 :
>>186
しかしもはや双方の合意に基づかずに国境線を変更することはできない
無理やりにでも今の国境線を引いたもん勝ち

189 :
アルビジョワ十字軍は、現代のヨーロッパで起きていたら民族浄化と呼ばれたかもな
こんなこと大きな声では言えないけど、国民国家形成のためには少数派を
抹殺したほうがいい場合もあるのかも
日本のキリシタン弾圧も同様

190 :
民族浄化なんて昔からあったやろ
初期イスラーム教団のクライザ族虐殺
カルバラーの悲劇でのフサイン・イブン・アリーとその支持派抹殺
ドイツ騎士団による古プルーセン人の抹殺
悪名高きスペインの異端審問によるスペイン国内の隠れ異教徒虐殺
フランスのカトリック派によるユグノー虐殺であるサン・バルテルミの虐殺
枚挙にいとまがない

191 :
>>187
無理じゃないかな
ドイツには強力なシュタウフェン家の勢力があって、例え1戦して敗れてもシュタウフェン家と結ぶことで対抗もできるし、
フランス王を封臣にした場合のフランス王配下の諸侯が納得しないしでどうにもなんないと思われる
英国的なウルトラCで、教皇の封臣(建前)って荒技もある

192 :
>>190
日本では奈良時代平安時代初期の
隼人や蝦夷の征服戦争だな
それ以降は同じヤマト民族同士の内戦だけになる

193 :
>>190
それらって宗教的弾圧で民族浄化とは異なると思うのだが

194 :
現代は多様性うんぬんといわれているが、国民国家をまとめるためには
異質な集団が存在しないほうがいいんじゃないのか?

東欧諸国は、第二次世界大戦でユダヤ人に対するホロコーストと、
戦後のドイツ系住民の追放があったおかげで民族問題を解決できた

195 :
シャルル・ダンジューがホーエンシュタウフェンの末裔二人(マンフレディとコンラディン)を倒したことでさぞかし兄貴のフランス国王(聖王ルイ)はノリノリやったんやろな

196 :
国民国家や民族主義(Nationarism)という概念はフランス革命→皇帝ナポレオン時代の過程で生まれたものであって、それ以前の時代で「民族浄化」というのは非常に違和感を感じる

197 :
誰も民族主義の話なんてしてねーから頭の中に漢語がインプットされてない人はだまっててください

198 :
アキテーヌとラングドックは西ゴート王国の支配下に置かれた時期もあったな
プロヴァンスは15世紀末までは、公式にはドイツ帝国に所属する、半独立的地域だった
ニースは実質的にはイタリア領だったが、1860年にフランスに割譲された

199 :
>>195
敬虔なキリスト教徒である聖王ルイの目標は、南仏アルビジョワ十字軍に続いて、中近東に十字軍を送り、異教徒を虐Rることだからな

そのための海路を押さえるためにも、シチリア島は大事

200 :
>>199
聖王ルイの場合、「異教徒を虐殺せよ!」とならないあたりに、征服者としての資質は完全に欠いてるというかなんというか
そりゃ十字軍遠征失敗するよなあ、と

201 :
トゥールーズ伯家の者たちは聖地イェルサレムへの情熱に燃え、
故郷をよく留守にしていた
トリポリ伯国はトゥールーズ伯レーモンが初代の領主

202 :
いちばんしっくりくるのは、
ブルターニュ公国、ラングドック公国、ブルゴーニュ公国が独立し、
ガスコーニュがナバラ王国に併合され、
残りがフランス王国になる感じか

203 :
>>202
ガスコーニュは文化的にはナヴァラ=バスクと共通項が多いものの、政治的統一地域になったことがない
統合するのが自然かと言われたら、個人的にはノーと思う
トゥールーズとプロヴァンスも「ラングドック」と一括りにするのは微妙

204 :
結局、どんな形で国境線をひいても不自然な部分、
無理な部分は出てくるということかな

205 :
このスレを読んでいると、ハプスブルク帝国が近代になって崩壊したのは、
やむを得なかったのかという気がしてくる
フランスのような国民国家の祖国でも、あちこち無理をして
国をまとめあげてきたわけだから

206 :
ハプスブルクは東に手を広げすぎたな
チェコ、ハンガリーはともかく今のユーゴスラビア辺りまで手を伸ばしたのは非常にまずかった

207 :
>>206
対トルコの戦線考えれば必然的な国家形成だったわけで、それを「手を伸ばしたのは不味かった」とかしたり顔で言われるのは完全な結果論だろう
一次大戦起こしたからドイツ統一は間違っていた、と同じ程度の暴論

208 :
神聖ローマ帝国やハプスブルク帝国の場合、東から異民族が侵入してくるからな
キリスト教世界を異教徒の脅威から守る、という義務も負っていたわけだし

209 :
南ドイツ(カトリック圏)と北イタリアがくっついて一つの国になる
可能性はあったのだろうか
ベルギーの場合、ワロンとフラマン、言語が違っても一つの国を形成している

210 :
>>209
そりゃ、可能性はあった
でも、アルプス山脈は険しいからな

211 :
日本の中部地方だと、富山と名古屋は南北に300km離れていて、その間は「日本の屋根」と呼ばれる峻険な山脈。
この距離感と地形が、ちょうど南ドイツのミュンヘンと、北イタリアのミラノくらいな感じだ。

ただし、日本の中部地方の場合は、琵琶湖の方に回って、米原経由で福井回りというコースで北に行くことが可能。
中欧だと、アルプス山脈は東西に広がってるから、そんな迂回路すらない。
ディーゼル機関車のない時代に越えるのは、気の遠くなる道のりだ

212 :
>>211
>この距離感と地形が、ちょうど南ドイツのミュンヘンと、北イタリアのミラノくらいな感じだ

まちがえた
「ミュンヘンとミラノの距離感」じゃなくて、「ミュンヘンとヴェローナの距離感」に訂正

213 :
ドイツってザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベンの四地方でいいのにな
ヘッセンとかテューリンゲンとかラインラントとかブランデンブルクとか細かく分かれすぎ
現在でもアンスバッハ周辺はフランケン地方と呼ばれるらしいがバイエルン州の一部になっているなど訳がわからん
フランケン地方といえば今のラインラント=プファルツ、ヴェストファーレン、ヘッセン辺りのことだろ?

214 :
ローマ帝国やメロヴィング朝フランク王国の一部だった、
まがりなりにも文明化されていた地域とザクセンをまとめるのは大変だったろうな
後世人の感覚だと同じゲルマン人だから問題ないように思えてしまうが。

215 :
ヨーロッパではルクセンブルク、アンドラ、サンマリノ、モナコのようなミニ国家が
存在している一方で、カタルーニャなどは独立国になれずにいる
独立国になれるかどうかは偶然と運に左右されているのかな

216 :
もしかしてアンドラってカタルーニャ語が公用語な唯一の独立国か?

217 :
「なぜ神聖ローマ帝国は分裂しフランスは統一したのか」というけどさ、
欧州諸国の中で、近代をリードする存在になれた英仏のほうが特殊なんじゃね?
他の国はほとんどが近代にうまく適応できなかっただろ
イングランドはノルマン・コンクェストのおかげで最初から王権が強かったし

218 :
>>217
なんだかんだと常に欧州史の中心にいたフランスはともかく
英国は特殊だし、なんなら欧州という大きな括りから半分はみ出してる感はある

219 :
イングランドとフランスは、平坦な大草原だ
あんなに統一しやすい地形は他に無い

220 :
>>217
スペインも統一が早かった
英仏と違って、その後は没落したが

221 :
>>83
しかも厳密には現在でも子孫であるルイ20世が存命で若いナポレオン8世と共に王政復古を完全には否定していないという

222 :
>>221
王政復古の待望論は根強い。
もしも、現代にフランス王室があったら、最高な華やかなスーパースターになるのは確実だ。

223 :
>>220
スペインはカスティーリャ・アラゴンの統合後も結局分裂してて
実質的には同君連合に過ぎなかったから
実質的に統一がなされたのって、スペイン継承戦争後だろう

224 :
1930年代の独伊の同盟って、統一が遅れて近代化にうまく適応できなかった
劣等生同士の負け組同盟だったんじゃね?
そんな連中と組んだ日本は大バカだった

225 :
近代化に遅れて旨い植民地獲得レースに出遅れた貧国同士だからお似合いダゾ

226 :
1961 イタリア統一
1968 明治維新
1971 ドイツ統一
ほぼ同時期に国民国家としてのスタートを切った後発3ヶ国
ちなみに、アメリカもこの時期に南北戦争で再統一してるから、実質的に同じ

227 :
1861 イタリア統一
1868 明治維新
1871 ドイツ統一
百年ずつ間違ってた

228 :
>>226
アメリカの場合は国土自体が非常に大きく、西部開拓によって植民地を広げられたようなものだ

229 :
アメリカは西部開拓
ドイツは東方へと伸びる余地があった

230 :
アメリカの西部開拓は、先住民やメキシコ相手のほぼ無双だけど
ドイツの東方進出はロシア帝国とソ連が鎮座してる無理ゲー

231 :
なんかペルシャとか中華とかオスマンと勘違いしてないか?
近代化して複数の植民地持ってた国が劣等って
本当に同じ世界の住人だよね?

232 :
>>231
>ペルシャとか中華とかオスマン
そいつらは獲物であってプレーヤーではない
プレーヤーの中でもランクがあるのは当然であり
ドイツイタリア日本は負け組クランだ

233 :
神聖ローマ帝国では皇帝権の弱体化とともに、帝国のタガがゆるみ、
司教・大司教などの聖界領が世俗領邦と並んで半独立の地位を得るに至っていた
これは教皇権力がもっとも入り込みやすい状況であるといえる
そして教皇は実際にこれを利用し、ドイツから様々な形で金を
吸い上げていたのであって、まさにこの意味でドイツは「ローマの雌牛」と
言われていたのである

234 :
フランス王権は公会議主義を後押しする一方、フランス領内の教会管理権は
王権に帰するという、いわゆるガリカニスムの立場を取り、1438年の
ブールジュの国事詔勅で、これを国の基本原則として宣言するに至っていた
そして1516年のボローニャの政教協約で、フランス国内の高位聖職者の
任命権はフランス国王にあることを、教皇に正式に認めさせたのである。

235 :
もし神聖ローマ帝国が統一していても、大航海時代以降は、ヨーロッパの経済活動の
中心軸が「地中海→アルプス越え」のルートから大西洋沿岸に移ってしまったし、
バルト海でもスウェーデン、ロシアといった新興の強国が台頭してくるし、
東からはオスマン帝国の脅威が迫ってくるしで、英仏のように近代をリードする
存在にはなれなかったんじゃないかな?

236 :
ドイツ・イタリアは後発とはいえ、国民所得は日本よりかなり高かった

237 :
この地形を見ると、イタリアが分離独立するのは時間の問題だったとしか思えない
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Satellite_image_of_Italy_in_March_2003.jpg/350px-Satellite_image_of_Italy_in_March_2003.jpg

238 :
ロンバルディア
ヴェネチア
トスカーナ
ナポリ
シチリア
サルデーニャ
あたりで分割かな

239 :
近代に入っても、ミラノやヴェネチアは、ハプスブルク朝オーストリア帝国の属領だったからな
イタリア統一も、ドイツ統一も、両方とも「オーストリアをいかにして排除するか」が統一への最大テーマだった

240 :
神聖ローマ帝国は領邦君主領の集合体で近代化するにあたってその主体となったのは帝国ではなく領邦単位であったとみるべきだ
それは英仏独各国家の現在における行政形態を見ればよくわかる
英仏はロンドン、パリといった国王の居住地であった大都市を首府とする中央集権型の国家だが
ドイツはそ中世から近世にかけて形成された領邦国家をベースとした連邦制になっている
従ってドイツにはロンドンやパリといった国家の中心になる都市はなく、ベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、フランクフルトといった各連邦の中心都市を基盤にに文化、経済の発達が見られる

241 :
>>229
時代的にはアメリカの西部開拓と対をなすのは
ロシアの東方進出であって、
ドイツの東方植民はもっと前、
中世から前近代までの時代じゃないかな

前近代から近代にかけては、ロシアが強大になるわ
スラヴ系を中心に東欧・バルカン半島の弱小民族が独立志向を強めて行くわで
ドイツの影響力は文化方面以外は削られていく
中世にまいた種はアシュケナージと東方ドイツ人の存在

242 :
やっぱりドイツは地理的環境が悪すぎると思う
東西南北、どちらへ延びるにしてもその前に立ちふさがる国が存在する

243 :
自然環境で言えば真ん中を山が貫いてるイタリアも悪いけどな
立地はそんなに悪くないけど

244 :
もし中世にイタリア半島が統一されていたとしても、
大航海時代以降は地中海が「貧窮しよどんだ入江」(ホブズボーム)に
なってしまったからな
イタリアの地位低下は避けられなかったのではないかと思う

245 :
イタリアは、リビア・エチオピア方面や、バルカン方面に勢力を伸ばす余地があったし、実際にそれを試みた

246 :
フランスでもブルターニュやコルシカには独立運動があるよな

247 :
ジャップは韓半島や満洲を侵略した
インデアンのように民族抹殺をするつもりだった
恐ろしい話だ
ただインデアンと違って文化度が非常に高かったため独立闘争になり助かった

248 :
>>247
統合失調症スレにいってくれ

249 :
>>235
統一してたらオランダの成果がそのまま神聖ローマのものになる

250 :
>>249
そうすると英蘭戦争の結果も変わっていたのだろうか

251 :
スペイン統合下のアラゴンの状況見てると、ドイツに統合されたオランダとか何もできなさそうとしか思えぬ

252 :
植民地政策は変わったかもしれないが
ネーデルラントが欧州北部で一番経済的に豊かな地域なのは
地政学的な観点から変わらないからね
ドイツ人自体は積極的に移民しまくってるから中央集権化して余裕があれば
ガンガン海外進出した可能性はある

253 :
強力な統一帝国ならフランスやイタリア、ポーランドとガチで戦うのではないか

254 :
>>252
うん、地政学で良く話題になるのだけど、大陸国家は海洋国家たりえないと言うのがあってだね
大陸に主たる権益を持ち、そのパワーを大陸(この場合はアフロ・ユーラシア大陸)に割かなければならないから、
海洋方面にはなかなか進出できなくなるって話でね

実際海洋覇権握った国は、オランダであれ、英国であれ、アラゴンであれ、デンマークであれ、全て大陸方面ではなく海洋方面にこそ権益を持つ国だったわけだ

ま、アメリカという新大陸の特殊例もあるけどね

255 :
神聖ローマが統一していれば、フランシュ—コンテ、アルザス、ロレーヌは
ドイツ領になっていたかもしれない

17世紀にルイ14世政府の「自然国境論」によって、フランスはライン川への
拡張を主張したが、それが強力な統一王国によって阻まれる

256 :
関ヶ原の戦いで東軍が勝ったから統一されたけど、
西軍が勝ったら分裂してたはず
そのように、一日の戦いで統一か分裂か決まることもある

257 :
アメリカだって、南北戦争で再統一されるまでは、南北は分裂していた。
それ以前に、メキシコが今よりもずっと大きかった。

258 :
もしフランス王国で、カペー王朝が長続きせず、神聖ローマのように
王朝がコロコロ変わっていたら、統一できなかった可能性はあり?

259 :
>>255
スペインとフランスは大陸国家でもあるけど海洋国家でもある
ネーデルラントもってるのはなんだかんだででかい
>>255
そこらの地域が神聖ローマならフランスより人口でも逆転するからね
フランス一強じゃなくなるからフランス包囲網もない

260 :
ロベール2世とアンリ1世の父子での権力争い(ロベール2世は戦死)
→アンリ1世兄弟従兄弟との権力争いで助けを借りたアンジュー伯やノルマンディー公に後々苦しめられる原因作る
→フィリップ1世7歳で即位。長い治世の間に離婚→再婚→破門→再婚→破門→離婚→再婚の繰り返しで求心力無くなる
このどこかでつぶれてても不思議じゃなかったのに

261 :
>>260
最初の頃なんか、パリとその周辺だけが領土だった。
室町時代の日本の天皇くらいの勢力。

よく、ここから天下統一できたな、ていうか、これでよく国王になれたな、という程度の勢力

262 :
中世初期のフランス王国では、北部ではノルマンディ公とフランドル伯、
西部ではブルターニュ公とアンジュー伯、東部ではブルゴーニュ公と
シャンパーニュ伯、南部ではアキテーヌ公とトゥールーズ伯が
大諸侯として君臨していた

263 :
>>261
パリは当時でも有数の大都市で、イル・ド・フランスは西フランクの中心だった
面積の小ささだけでパリ伯ロベール家を考えるのは結構な間違い
また、大ユーグという巨大な存在と、複数の西フランク王を出した家柄だったわけで
ユーグ・カペーの頃でも一頭抜けた存在だったのは間違いないのだよ

264 :
ユーグ・ル・グランの時代がロベール家の最盛期
ユーグは「フランク人の大公」の称号をおびて、ネウストリアでは
並ぶ者のいない権力者であり、アキテーヌやブルゴーニュなどの
領邦にまで影響力を行使した
セーヌ・ロワール間の20におよぶ伯領とおびただしい修道院や
司教座を掌握し、そしてなによりもきわめて整然と組織された
この地方の封臣関係に支えられたユーグ・ル・グランの領邦は、
「ロベール国家」とよぶのがふさわしい内容であった

265 :
>>264
足利義満みたいなもんか

266 :
もし百年戦争でイングランド側が勝利していたら、海峡を挟んで
アングロ=フランセ王国が誕生していた?

267 :
>>266
多分それほど長いこと持たずに系統分裂
(そもそも、そんな形で勝利する形すら正直見えないけども)

268 :
>>266
一時的に支配は出来ただろうがすぐ分裂していただろ
その証拠に百年戦争のあとに薔薇戦争起こしているんだもん
英仏よりも仏独合同の方が現実的だったかな?
例えばカール五世の対立国王としてフランソワ一世の神聖ローマ皇帝就任とかもっと時代が下って皇帝ナポレオンの神聖ローマ皇帝就任とかね

269 :
仏独が合同していても、ナショナリズムが勃興する時代になれば
崩壊していたかもしれない
ちょうどハプスブルク帝国が崩壊したように

270 :
仏独合同したら、むしろ今より分散してそう
ブールターニュもアキテーヌもトゥールーズもプロヴァンスもブールゴーニュも、ロレーヌも!全部バラバラみたいな

271 :
>>266
そうなっていたら、いまごろイギリス人はフランス語をしゃべっていただろう。
ひいては、フランス語が世界共通語になっていただろう
・・・と、残念がるフランス人は少なくない

272 :
>>271
まあ、その頃はリシュリューによるフランス語政策の前だから、オイル語とオック語にそれぞれの方言山盛りでカオスな状況なんだけどな

273 :
神聖ローマ帝国が統一されていたら、三十年戦争の様相も異なっていたか、
あるいはウェストファリア条約の結果も違っていたのではなかろうか

274 :
>>273
統一しようとして失敗する過程が三十年戦争なのだから、違うも何もそもそも起こってない

275 :
>>269-270
フランク王国

276 :
アルル王国が現代まで存続していたら面白かったのにな

277 :
もしロタールの国(中部フランク王国)が存在していたら、
ネーデルラントと北イタリアという欧州でも有数の豊かな地域を
抱え込んで、けっこう繁栄していたかも

278 :
>>277
それが、15世紀末から16世紀にかけてのハプスブルク帝国なわけだが

279 :
>>273
それは、「ドイツが統一されていたら、ビスマルクのドイツ統一戦争の様相も異なっていたのではないだろうか」もしくは、
「アメリカ合衆国が南北統一されていたら、アメリカ南北戦争の様相も異なっていたのではないだろうか」
というような問い
「違うも何も、そんな戦争は起きなかった」で終了

280 :
>>272
イギリス南部とフランス北部が同じ言語を喋り、イギリス北部(つまり、スコットランド)とフランス南部が異民族・・・となった可能性もある
南ドイツと北イタリアだって、そうなる可能性はあった。
結果は、まあ、落ち着くところに落ち着いたわけだが。

281 :
>>273
>あるいはウェストファリア条約の結果も違っていたのではなかろうか

もともと、バラバラなイタリアの都市国家同士が繰り広げた外交が、全欧州に広がって国際社会の原型になった

同様に、バラバラなドイツの領邦国家同士で共生するためのウェストファリア体制が、さらに国際社会の形成を進めた

現代の、アメリカ・日本・中国を含む国際秩序は、これを世界規模に広げたもの。
もしも、ドイツとイタリアがバラバラでなかったら、こうはならなかっただろう。

282 :
英仏が合同したら首都はパリにうつって英国は独立するよ
ポーランドがスウェーデン王ジギスムントを担いだらスウェーデンが独立したみたいなのと近い形になるだろう

283 :
>>282
そうならなかった例がスコットランドだね
まあ、当時の趨勢から考えればイングランド王とフランス王じゃ格違いすぎるからなあ

284 :
つまり、人類は、イタリアとドイツで国際社会の予行演習をしてたわけで、それを世界規模に広げたのが、現代のアメリカを中心とする国際秩序

世界中の国々が対等で、お互いに大使館を置いて付き合っていけるのは、そのおかげ。
これがなかったら、今みたいな自由貿易体制ができるのは、もっと先になっただろうし、
それ以前に、第三次世界大戦がとっくに起きていたのではないか

285 :
>>281
中世フランスと中世ドイツが大まかに統合された政治体だったら、三十年戦争以前にもっと破滅的な戦いが起こっていたかもな
舞台はイタリアかも知れんが

なお、教皇が存在する形での中世ドイツ統一イタリアとか全く想定できん

286 :
中世ドイツ統一イタリアってなんだ……
中世統一イタリアということで

287 :
>>282
それはどうかなあ?
というのも、もともとフランスでは、イギリス国王の領土がフランス国王のそれより広くて、「統一は目前」と言ってもおかしくない状況だった。
リチャード獅子心王は、在位期間の大半を大陸で過ごした。
イギリスとフランスは、日本と中国・朝鮮ほど遠く離れているわけではない。津軽海峡より、ちょっと広い程度の距離。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3d/Henry_II%2C_Plantagenet_Empire.png/220px-Henry_II%2C_Plantagenet_Empire.png

288 :
>>287
だから統一した後の話だよ
イングランド王国は傍系がついで統一はすぐ終了するだろう

289 :
>>287
それは間違いだぞ
アキテーヌ公リシャールとして封主権の及ぶ地域が今のフランス内で広大であったのは確かだけど、イングランド王の権限
で持っているわけではないのだよ
人的同君連合にすぎないから、実際にノルマンディ、アンジュー、アキテーヌはアンリ・ドゥ・プランタジュネの息子たちによって分割される予定だったわけだよ
フランス王国内のアンジュー、ノルマンディも同様

それに対して、フィリップ2世の征服した土地は、かなりの範囲が王権に属する土地として直轄下されてるのね
この違いきちんと認識しないと、ジョンによる大敗北とか理解できなくなるのよ

290 :
なお、ルイ9世によってイングランド王に対し授封されたアキテーヌ公領は、イングランド王に属するものとされたから、
百年戦争の頃はイングランド王がアキテーヌの封主だったのは確か(ただし、エドワード黒太子がアキテーヌ公として入っていたから、実質的にはイングランド王から離れていた期間長いけど)

291 :
>>272
イギリスではオイル語の方言であるノルマン・フランス語が公用語として使われていて
そこから英語に入った借用語や当時のノルマンフランス語の文献などを見ても
同じくオイル語系の現代標準フランス語とそれほど大きな違いは感じられないので
イギリスがフランスの王朝を主導したとしても
フランス語の姿は今とそんなに違わなかったんじゃないかと思う

292 :
もともとゲルマン人には分割相続・選挙王制の習慣があったけど、
結局神聖ローマ帝国はそれを克服できなかったということじゃね?
あと、スラヴ系だけどポーランドも選挙王制だったな
それで国を滅ぼしたけど

293 :
イングランドは色んな民族が入って来たからゲルマン法は変わらざるを得なかった
もしイングランドにサリカ法典みたいなもんが残っていたら女子の王位継承なんかなかっただろうね
日本で今議論されている女子の皇位継承問題だが、その根底にあるのは大日本帝国憲法の下敷きとなったプロイセン憲法で、これは女子の相続を認めないというサリカ法の流れを汲んでいる

294 :
>>292
農耕民族は「田分け」を嫌う

ゲルマン人のメンタリティは、それとは対極

295 :
>>294
ちなみにゲルマン系諸族も普通に農耕するからな?

296 :
>>294
鎌倉時代は日本も分割相続だったが

297 :
>>289
百年戦争で勝利したら、プランタジネット朝がフランス王位も継承するんだろ?

298 :
ユーグ・カペーの父のユーグ大公は、広大な領地を持つ掛け値なしの実力者だった

しかし、ユーグ大公が没し、幼いユーグ・カペーが家督を相続すると、有力諸侯が続々と離反したため、ロベール家は急速に弱体化した

ユーグ・カペーがフランス王位についたときには、その領地はパリとその周辺に限られていた

299 :
ユーグ・カペーのロベール家は、9世紀にセーヌ川やロワール川に侵入してくるノルマン人と戦って名声を挙げ、諸侯に推されて西フランク王になった

その後は、ロベール家とカロリング家が代わる代わる西フランク王になるような時期がしばらく続いた

300 :
>>297
まず、この話はアンジュー帝国の頃の話であって、百年戦争の話ではないのが一点

二点目は
百年戦争はヴァロア朝の王位継承に異を唱えて発生した継承戦争だから、仮にイングランド側が勝利したとしても、カペー朝の論理(特にサリカ法典による継承順位)に拘束される
(その後、ヴァロア朝を乗っ取る形での王位継承に路線変更したが、結論変わらず)
イングランドの継承順って、当時のフランス王家よりひどく良い加減なところがあるから、それでまず系統分裂の可能性が高い

まあ、百年戦争でイングランドがフランス王位継承する可能性ってまずないけども

301 :
14世紀初頭、カペー朝のフランスは、フランス語の各地宮廷への普及、
イルードーフランスで始まったゴシック建築様式の伝播などのように、
文化的にも中心的位置を占めた
パリ大学もあるし

神聖ローマ帝国にはそういう文化の発信地がないな

302 :
単一な国民を作り出すには巨大な首都が必要か
日本なら中世までは京都、近世は政治的な首都は江戸で文化的な首都は京都、経済的な首都は大阪。

303 :
ルイ6世肥満王・ルイ7世若王の治世から国王のパリ滞在が非常に長くなり、
高等法院、会計検査院、尚書局などの統治機関の常設化と征服地における
諸機関の中央への従属によって、パリは政治的重要性を著しく増した
王権の伸張とともに、オイル語圏が拡大し、役所言葉としてのみならず、
文学においてもオイル語の使用がファッションとなり、王の宮廷をまねた
社交グループが各地の大諸侯の周囲にもつくられていった

304 :
カロリング家最後の王ルイ5世の死後、ユーグ・カペーではなく、
バスーロレーヌ公シャルル1世が王に選出されていたら、
フランスの歴史は変わっていたかもな

305 :
>>302
求心力を高めるには、首都がずっと一定のほうが、そりゃいいだろうな
イギリスではロンドン、フランスではパリ、中国は800年前からは北京からほとんど動いていない

306 :
>>304
それは、「徳川家康ではなく、豊臣秀頼が天下を取っていたら」というレベルの歴史if
その後の歴史が変わりすぎて想像を超えるので、想定不能

307 :
フランスにとって一番の危機はユグノー戦争だったのかな
アンリ4世がカトリックに改宗したからなんとかおさまったけど

308 :
あかん、フランス中世史がわからん
ジュール・ミシュレのフランス史[中世](全6巻)でも読んで勉強しなおそ

309 :
>>307
改宗しなかったら面白かったのにな

310 :
>>307
ロレーヌ公側がユグノーに改宗してユグノーを付け入れたら面白かったのにな
ブルゴーニュ公国みたいな国ができる

311 :
フランス中世史は佐藤賢一の講談社新書のやつが面白い
カペー、ヴァロワときて去年ブルボン朝が出た
次はボナパルト朝かな

312 :
>>311
完結言うとったぞ

313 :
中世の南フランスに「神の平和運動」というのがあったけど、
南フランスのほうが北フランスより封建領主同士のフェーデが
激しかったのか?

314 :
ゲルマン人には、もともと分権的な政治体制を好む傾向があるんじゃね?
イタリア王国は、統治されているとはとてもいえない混乱した状態だったし、
ランゴバルド王国にも、「諸公の時代」と呼ばれる国王空位期があって、
その時期は30人以上の諸公が支配する連合政体だった

むしろ中央集権的な形で統一できたフランスのほうが特殊で例外的なのかも

315 :
>>311
佐藤氏じゃないが中公新書から「ナポレオン四代」というのが出てるぞ
この本を買って初めてナポレオン四世なるものが存在することを知った
スレチすんません

316 :
リーダーを群議または選挙で選ぶ政治体制ってそこまで珍しいものじゃないんだけど、それが世襲化していくのが割と
一般的で、どのような変遷を経て世襲化していくのかの比較検討は面白そう

317 :
ゲルマン人はもともと血筋より実力を優先して指導者を選出する制度だった
民族大移動期におのずと権力集中が生じ、王位が世襲されるようになったが、
ヨーロッパ各地に定着して王国を建国するとその慣例が再び揺らぐようになった

318 :
フランスも政治的にいうとゲルマン系分権国家だったが
ただ王家に運と能力があったんで統合していった
ルイ9世とか十字軍の失敗でバカにされてるけど国内統合の意味では有能だよな

319 :
>>318
ものすごく有能だぞルイ9世
戦争の才能がないだけで
人格的に高潔で能力も高いとか割と世界史上レアな人物

320 :
戦争の強さ、領土、(カロリング家由来の)正統血統、人格など
王として必要なものをすべて手に入れてる

321 :
アルビジョワ十字軍を見る限りでは、ヒトラー並みの悪さだけどな

結果として、南仏を統合できた

322 :
まあ、アルビジョワ十字軍が始まったのは、尊厳王フィリップ2世のときだったが

アルビジョワ十字軍が終結して南仏併合が完成したのが、聖王ルイ9世のとき。
史上最大級の異端審問が、このときに行われたとされている

323 :
オクシタン=カタルーニャ連合王国が誕生していたら面白かったとは思うが、
ただこの国、大西洋への出口がないのがネックだな

324 :
>>318
運と能力
本当にそうなのか?
むしろ地政学的に攻め込みやすい平坦な地形だった事が統一のしやすさとして大きかったのでは?
(中国で華北平原から先に統一されやすかったのと同じ原理)

325 :
低地地方はフランスかドイツ、どちらかの領土になってもよさそうなものだが、
結局ベネルクス三国というかたちで落ち着いたな

326 :
>>324
地政学的な統一傾向は長期的視点に立てば当然に出てくる話ではあるが、特定個人の業績を考えた場合に持ち出すのは、あまりに地勢の影響を過大評価しすぎ

327 :
歴史にifはないよ
ある人物が別の土地に生まれていたら同じ様に有能だったとは限らない

328 :
>>304
それを言い出すと、東西中の三分割、中のロタール帝の血統が更に三分割、5系統にも分けたんだからもっと長続きした系統があれば、と突っ込みたいぞ。

329 :
>>325
どこかの大国の下に収まるには(経済的に)でかすぎたんじゃね

330 :
カペー朝は341年続いたけど、この間イングランドでは4つ、
ドイツでは9つの王朝が交代した
やっぱり王朝が長続きしたのは大きい

331 :
男系なら王朝がつながっていたとみなし
女系で婿をとると別王朝と見なすからそう見えるだろうけど、
どっちの場合も本人たちの意識は王国が続いてると思っていただけじゃないのかな

332 :
カペー朝に関して言えば、少なくともヴァロア朝までへ近縁で繋いだんだよね、カペー>ヴァロアはほぼ同族
ブルボンは流石に古いが

333 :
イギリスは島国、イタリアとスペインは半島で、しかも半島の付け根を険しい山脈で区切られている。
この3地域が、大陸諸国とは別の国家になったのは、かなり必然的な流れだったと言える。

でも、大陸がライン川を境にドイツとフランスに分かれ、その間にベネルクス3ヶ国ができたこと、これは必然ではない。
歴史の流れ次第では、別の展開もあり得た。

334 :
パリを拠点とするロベール家のユーグ・カペーがフランス国王になったのは大きかった。
ライン川の西岸・ロレーヌ地方にもっと有力な候補がいたが、ユーグ・カペーの人間性が評価されたらしい。
そんな、ドイツ・フランスの境界線上に首都があったら、「フランス」の歴史じゃなくなるとこだった

335 :
フランス王国が、神聖ローマ帝国と決定的に違うのは、パリが千年にわたって不動の首都だったこと
神聖ローマ帝国は、「首都? 皇帝が今いるところがそうなんだろ」という感じで、どこにも求心力がない。
プラハだったり、ローマだったり、シチリアのパレルモだったことすらある

336 :
もっとも、パリはさすがに千年の都になるだけあって、「ここしかないな」という好立地なのも確か。
フランク王国の建国の祖・メロヴィング朝のクローヴィスも、迷わずパリの地を首都に選んだ
なので、もしもユーグ・カペーの即位がなかったとしても、いずれはパリが都になった可能性はある。
ただし、絶対の必然では、もちろんない

337 :
ロタールの王国に相当する地域を、西フランクが獲得していたら、
歴史は変わっていた

338 :
>>325
なぜかハプスブルク、それもスペイン系の植民地になったんだよね
フランダースの犬に出てくるお金持ちの娘さんの名前がスペイン系で肌の色も若干あさ黒いというのがこの地にスペイン支配の面影を残している

339 :
>>338
植民地ではなく領地
あと、ハプスブルクにとってはスペインより由緒のある本領でもある
植民地って、遠隔の領地のことじゃないぞ

340 :
>>331
女系継承が認められる国であっても、息子が継ぐのが正統であって、女系継承だと少なからず揉める要因ではあったんじゃないの?

341 :
>>339
「由緒ある本領」とは言えない

結婚政策でブルゴーニュ公国を統合したのだから、スペインと同じ

342 :
フランドルがスペインから独立する前は、ここにスペイン陸軍の精鋭部隊があって、ドイツやフランスの内戦に介入してたんだよなあ

343 :
>>341
スペイン・ハプスブルクにとって、フランドル伯領はその本領だよ?
どうせたどってもその根拠はマクシミリアン1世にまでしか遡れないし

ハプスブルク家本体としては、やっぱりオーストリア系が由緒としても古いわけだけども、系統分かれたからね

344 :
あと、マクシミリアンからカールの宮廷は、ほぼフランドル伯領に置かれていたからね
カールはアイデンティティをフランドルに置いていたのは有名な話だし(ただ、隠居先はスペイン)

フェリペ2世以降は本拠地をがっつりスペインに置くけど、少なくともネーデルラントは植民地ではなく、領地

345 :
カール5世の帝国は、一見広大に見えるけれど、その実質は彼の家産だからな
統一国家を作り上げたフランスとは違っている

346 :
>>344
マクシミリアンの帝都は、チロルのインスブルックでしょ

347 :
>>343
マクシミリアンの頃から、フランドルは反乱が大杉なので、帝国の本拠地にするのは諦めたというのが実情

348 :
カペー朝とヴァロア朝が別物なら、
江戸幕府は三王朝ってことになるな

349 :
フランス国王が代々神聖ローマ皇帝やってたら
あっという間に西欧統一できただろうが
うまくばらけたな

350 :
>>347
カールの頃には反乱も落ち着いてるよ
カールはフランドル生まれで、人生で一番長くいたのもフランドル
宮殿はブリュッセルにあり、母語もフランス語
ちなみに一番愛した都市はパリ

351 :
>>349
無理だろ
通信と官僚機構という本質的な部分が解決しないと、大帝国ってのは存在し得ない
中世欧州には無理だったんだよ

それが可能になった頃には、各国の文化が分化してしまって、精神的に統一が難しくなるジレンマ

352 :
ドイツの場合、叙任権闘争が他国に比べて激しかったのも
マイナスに働いたんじゃね?

353 :
>>350
それは、スペイン王・ドイツ王・神聖ローマ皇帝・・・になる前の話だろ
これらの地位についてからは、基本的に本拠地はスペイン。
でも、皇帝選挙、ルターの宗教改革とそれに続く宗教戦争と、ドイツで忙殺されることは多かった。
宿敵フランソワ1世とのイタリア戦争を始め、各地の転戦に追われて1ヶ所に定住するどころじゃなかった。

354 :
>>353
カールの宮廷は基本的にブリュッセルだぞ
スペイン王からの退位宣言もブリュッセルで行なっている

355 :
ググったけど
カール5世は28年フランドル、スペインは18年、ドイツは9年だって
生涯ネーデルラントに10回、ドイツに9回、スペインとイタリアは7回、フランスは4回、北アフリカとイギリスは2回訪れてるそうだ

356 :
>>355
その生涯滞在年数から、国王としてデビューする以前の17年間のフランドル生活と、皇帝を退位してからの3年間のスペイン隠居を差し引くと、こうなるな

フランドル 9年
スペイン 15年
ドイツ 9年

357 :
当時のフランドルは、現代でいえばニューヨークのような世界経済の中心。
それに比べてスペイン本国は、テキサスみたいな「大国だけど、ちょっと田舎」という感じだったようだ。
スペイン人は、フランドルからやってきたハプスブルク家の華やかさにビックリだったそうだが。

358 :
17世紀オランダの毛織物業の繁栄は、南部ネーデルラントから
逃れてきた移民の力も大きかったらしいな

359 :
16世紀のスペインがあまりにも強大だったため、イギリス人は、「こうなったのも、フランドルを彼らに持たせたのが原因。ここは独立させておかなければ」と考えるようになった

それでも、17世紀の太陽王ルイ14世は、懲りずにオランダを取りに行くわけだが

360 :
オランダは独立したけど、ベルギー(南ネーデルラント)はハプスブルク帝国にとどまった。
ここをフランスに取られないことが、イギリスの勢力均衡政策にとっては重要だったと言える

以下はwikiからの抜粋要約

>南ネーデルラント(みなみネーデルラント、仏: Pays-Bas du Sud)は、スペイン(1579年 - 1713年)、オーストリア(1713年 - 1794年)及びフランス(1794年 - 1815年)により支配された低地諸国の一部の地域を指す。

時代によって、スペイン領ネーデルラント、オーストリア領ネーデルラントとも呼ばれる。
この領域は、現在のベルギーのほとんどとルクセンブルクと北フランスの一部を含んでいた。

361 :
イザベル・アジャーニが主演した「王妃マルゴ」の映画では、ブルボン王朝の祖・アンリ4世が即位するにあたり、旧教勢力と新教勢力の対立が激化してフランスは内戦状態になった。
そこに、スペイン領南ネーデルラントから、スペイン陸軍の精鋭部隊が動き出して介入してくる。
当時(16世紀の終わり頃)のスペインは本当に超大国で、フランスにとっては厄介な存在だった。

362 :
アントウェルペンはマクシミリアン1世の後押しによって15世紀末期に急成長を遂げる
皇帝の命令で貿易商が大量に移転してきたため、アントウェルペンはまたたくまに
新たな「ヨーロッパの港」として南のヴェネツィアと並ぶ存在となる

「資本主義の発祥地」とも称される16世紀のアントウェルペンは利潤をめぐって
大小の資本が争いに明け暮れる最初のメガロポリスだった

363 :
>>362
それはその通りだけど、フランドル自体は、アントワープが台頭する以前から国際貿易の中心

ブリュージュの港に土砂が堆積して埋まってきたおかげで、港がアントワープに移った

364 :
16世紀半ば以降、ドイツ経済は停滞に向かうが、ネーデルラントやイギリスは、
ドイツ商人の仲介を排除し、直接バルト海商業圏と結びつくことに成功した
その際カール5世は、ハプスブルクの家門的利害から、ハンザ同盟の犠牲において、
ネーデルラント商人のバルト海自由航行権を容認した。
こうして東方におけるハンザ同盟の勢力が減退したところへ、
ネーデルラント独立戦争がおこり、スペインとハンザ諸都市の
通商関係を断ち切ってしまった

365 :
>>364
ハンザ都市との付き合いがないと、ユトランド半島を迂回する航路を通らなければいけないが、そこは寒い上に小さな島々が多く、霧が深い危険な航路

しかも、デンマーク王国が関税を取ろうと、たびたび動いていた

366 :
カール五世が統一を目指す側、
フランスがそれを妨害する側になってたわけだな
フランスが統一を目指す側になるときは
ドイツ側がそれを妨害する

367 :
>>366
そこに、イギリスの伝統的な「勢力均衡」政策が加わる
「強い方を叩き、弱い方をテコ入れして、勢力均衡を維持する」というのはいいんだが、たいてい、イギリスに叩かれた方は弱くなりすぎ、テコ入れされた方は強くなりすぎる

368 :
中国が統一され、欧州が統一されなかった大きな原因の1つに、イギリスの「光栄ある孤立・勢力均衡政策」がある
とにかく、「どこかの大国が欧州大陸を制覇しそうになったら、ひたすらジャマする」という方針だ。
中国も、日本がもっと大陸に近くて、こんな方針で大陸政策を展開してたら、もっと統一しにくかっただろう

369 :
>>368
あと、ロシアの存在も大きいと思う
中国が初めて統一されたのは始皇帝の時代だが、その時代は日本と中国の
文明度が違いすぎるから、日本が大陸に介入しようとしても無理だったと思う

370 :
>>369
ナポレオンもヒトラーもブリカスと露助にやられたからな

371 :
イギリスはエリザベス1世の時代に積極的な重商主義政策をとりはじめ、
ハンザ側の必死の抵抗にも関わらず、国内におけるドイツ商人の特権を
つぎつぎと剥奪したばかりか、逆にドイツ諸都市におけるイギリス商人の
自由な活動を要求するに至った。

そこでハンザ商人は皇帝ルドルフ2世に訴え帝国権力の発動を要請したが、
その結果開かれた1582年の帝国議会は、ドイツの内的矛盾を暴露した。
議会の主導権を握る諸侯は、競争相手である自由都市の利益を守るどころか、
なかにはかえってハンザの没落を喜ぶものさえあったのである。

372 :
13世紀にパリ盆地とおもにその北に広がる地方がいち早く
顕著な人口増加をみたのに対して、中部や南フランスは成長が
遅々として進まなかった。
人口密度がもっとも高かったのは、パリの北にあるサンリス地方や
ヴァロワ地方を中心とする北部の諸伯領である。
つぎにパリ地方、そして人口密度1平方キロ40人から60人のラングドック、
トゥールーズ、ポワトゥー、トゥレーヌ、アンジュー、ブルゴーニュなどが続く。
人口の分布状態は、この時代ほぼ富の分布状態を反映していた。

373 :
>>202
ブルターニュは小さすぎるから
コーンウォール半島とくっつけよう

374 :
イタリア戦争で、フランスはハプスブルク家の優位を突き崩すことができなかったが、
これはかえってフランスにとって良かったのでは。
フランス王権は「イタリアの幻影」から解放され、その力を国内に傾け、
コンパクトな主権国家の形成へと向かうことになったのである。

375 :
>>374
フランスは、イタリア支配をあきらめたわけではない

国内のユグノー戦争で、それどころじゃなくなっただけ

376 :
>>375
それは諦めたと同義じゃないかねえ
あの戦争大好きルイ14世も、イタリアにはそれほど興味なかったわけで

377 :
ルイ14世は、フランドルの一部、アルトワ、ストラスブールを含むアルザス、
フランシュ・コンテを獲得したものの、当初から切望していた
スペイン領ネーデルラントはハプスブルク家のものとなった

植民地における戦争も、イギリスの優位のうちに推移した

378 :
>>376
ルイ14世の頃のイタリアは、ミラノ、ナポリ、シチリアなど、かなりの部分がスペイン・ハプスブルク家の支配下にあった
スペイン継承戦争でスペイン・ハプスブルク家の領土を一挙獲得しようとがんばってたから、イタリアに関するイメージが薄いだけ

379 :
フランドルってブルゴーニュ公国の一部でハプスブルクがここを手に入れたのは皇帝マクシミリアン1世の妃がブルゴーニュ公のシャルル突進公の娘のマリー・ド・ブルゴーニュだったからなんだな

380 :
>>378
スペイン継承戦争なんて、ルイ14世にとっては治世後半なんだよね
それまでずっとスペインの継承待ってたって?
本気で言ってんの?

381 :
>>379
そう、だからスペイン・ハプスブルクにとってはネーデルラント(フランドル)はスペインよりも古い領地であって、植民地でもなんでもないって話になったわけだな

382 :
>>367->>370
イギリスとロシアの存在がなかったら欧州は統一されていただろう、
とよくいわれるけど、ナポレオンの大陸封鎖は、フランスの産業が
高率の保護関税で守られる一方、フランスの商品の他国への輸出は
完全に自由とされ、要するに、ヨーロッパ大陸をフランスの産業の
一方的・独占的市場としようとするものだった。
だから、一時的に統一が実現しても、やがて各民族の不満が募って
帝国は崩壊したんじゃないのか?

383 :
>>380
当時のイタリアはほぼスペイン・ハプスブルク家の支配下だから、イタリアを巡る争いは、すべてスペインとの戦争

「スペインやオランダとは戦ったが、イタリアとは戦っていない」と錯覚するのは、そのせい

384 :
>>381
ハプスブルクがフランドルを手に入れたのはマクシミリアンの結婚。
スペインを手に入れたのは、マクシミリアンの息子のフィリップ美公の結婚によるもの
フィリップ美公の子がカール5世だから、1世代の違いがあるな

385 :
>>382
日本・中国・アメリカなど、もとはバラバラだった国を統一して安定させるには、結局のところ、「欧州は1つの国だ」という信念を、どれだけ国民に刷り込めるかにかかっている
「欧州は統一されているのが自然状態であり、分裂しているのは異常事態である」と国民に思わせなければ安定しない

386 :
>>384
ハンガリー、ベーメンも何やかんやで手に入れたよねハプスブルク家
それらの地域に先鞭をつけたのはルクセンブルク家だったが知らないうちに丸ごとハプスブルク領になっていた

387 :
>>384
ボヘミア王のルクセンブルク家は、中世の頃は巨大勢力だったのにな

ハプスブルク家は、そこも結婚政策で手に入れたんだったっけ?

388 :
>>383
そもそも、そういう話はしていない
ルイ14世の治世の初期の主たる目標は低地地方、特にオランダであってイタリアへの野心はそれほど強くない
その後、ハプスブルクとの対抗によりイタリアにも一部戦線を伸ばすが、主たる戦線ではなかったし、イタリアの領有そのものを目的にはしていなかった

イタリア戦争の頃のフランス・スペイン間の抗争と、ルイ14世の頃のフランス・スペイン間の抗争は、その目的が大きく異なる
焦点もイタリアではなく低地地方とスペイン本土となる
そのことを外して、イタリアも戦線に入っているからイタリアにも野心が、とか的外しすぎてて論外

389 :
>>387
そう、ルクセンブルク家の女相続人エリーザベトとアルブレヒト2世が結婚して相続した

390 :
ルクセンブルクより二重結婚
あれは見事と言うしかない

391 :
>>390
特にスペインとハンガリーな
あれは凄いな

392 :
>>388
三十年戦争中の1628年、フランス(ルイ13世)が北イタリアのマントヴァに攻め込んだのをキッカケに、北イタリアを戦場とするフランスとスペインの戦争が、1959年のピレネー条約で講和するまで30年続いている。

393 :
>>391
スペインを手に入れたおかげで、イタリアもオマケでついてきた

イギリス・フランスを除けば、ヨーロッパの大統一に近づいた

394 :
>>388
>そもそも、そういう話はしていない
「16世紀のイタリア戦争の後、フランスはイタリア進出をあきらめて国内の統一に注力した」というけど、イタリア戦争の後のフランスっていったら、ユグノー戦争の時代だ。
カトリックとプロテスタントの対立が激化して内戦状態になり、そこにイギリスとスペインが干渉してきた。
国内がそんな状況だから、当然、イタリアどころじゃないわけで。
ブルボン朝の時代になって宗教戦争がおさまった17世紀には、イタリアを舞台にしたハプスブルク家との戦争を再開している。
イタリア戦争のときと同じく、今度も何十年も続いた。

395 :
リシュリュー枢機卿という人物がいなかったら、フランスの歴史は変わっていたのかな
中世的概念である普遍的な道徳価値観にかわって国家理性の概念を普及させ、
国の利益のために実施した。

396 :
ルイ13世が宰相にまかせっきりにしたのが良かったんだろうな

397 :
ヤギェウォ家が続いてたら東欧の歴史は随分変わってたと思う。ポーランドリトアニア自体が大国で強いから無視されがちだけど。
マクシミリアン1世が関係する婚姻は尽くハプスブルクに大きく味方してる。

398 :
マクシミリアンはヴワディスワフ2世と交渉し、孫のフェルディナントとマリアが
それぞれ、ヤゲウォ家のアンとルドヴィク(ボヘミアとハンガリーの王位継承者)と
結婚するという二重婚姻を成立させた

モハーチの戦いでルドヴィク2世が戦死したため、この二重婚姻はハプスブルク家に
ボヘミアならびにハンガリー王位をもたらす

399 :
>>397
15世紀末から16世紀初めにかけての東中欧では、ヤゲウォ家を核とした
東中欧四国の王朝連合が形成されており、それは事実上ハプスブルク家の
東方進出を牽制する役割を担っていたんだよな

400 :
>>395
リシュリューいなかったら世界史変わっていたと思う
近代国民国家の普遍的概念(統一された言語、統制された文化、形式化された文書他色々)産んだの、この人の功績だし

401 :
>>385
まあローマとフランクという先例はあるしな

402 :
ハプスブルク家によるヨーロッパ統一は、
中国や日本のような、
武力によって相手を滅ぼす式の統一ではなく、
婚姻による統一か
もちろん武力もフルに活用してはいるとはいえ。

403 :
ナポレオンとヒトラーは武力によってヨーロッパを統一しようとした
どちらも失敗に終わったけど

404 :
フランクは分裂して統一できず、
ハプスブルクはフランスに統一を阻まれ、
ナポレオンはイギリスとロシアに統一を阻まれた

近代より前で統一を志向していたのはこの三つだけか

405 :
けどよく考えたらハプスブルクはドイツさえ統一してなかった
いや、ドイツ統一のための戦争が30年戦争だったのか?

406 :
ハプスブルクは別にヨーロッパ統一なんて考えていなかったと思うよ
ただ単に度重なる結婚政策で相手方の王朝の相続人が死に絶えてたまたまハプスブルクがそれを継承しただけの話だったと思う

407 :
ハプスブルクにはカトリックの擁護者という意識はあったと思うが

408 :
>>406の結果として>>407の意識が芽生えたんじゃないの?

409 :
>>405
皇帝の目標はドイツ統一というより、カトリックによる宗教統一

410 :
カール5世は疲れはてて退位したが、退位するにあたってのスピーチで、
「カトリックを守るために戦ってきた。誰も傷つける意図はなかった」と、
涙ながらに心境を語った

411 :
プロテスタントが生きのびられたのは、ちょうどその時代に出てきた
「主権国家」という後ろ盾を得たからなんだよね

もしそれがなかったら、中世に出てきた数多くの異端運動同様、
カトリック教会につぶされていてもおかしくなかった

412 :
帝国を統一しようとするならスペインよりバイエルンや他の有力諸侯相続した方がよっぽど有利だったろうな
スペインの力を帝国で有効に活用できたのはカール1代だけでそのあとネーデルラントが事実上外国勢力にもってかれたのが痛い

413 :
オランダの80年戦争は、かつては市民革命の先駆として称揚されていたが、
そもそもカルヴァン派民衆と連動して反乱の指揮を執ったのは、既得権を
守るためにフェリペ2世の目指す中央集権化に抵抗した大貴族層であって、
彼らの新教支持も、往々にして民衆の支持を得るための便法にすぎなかった

その点から見れば、80年戦争は絶対王制に対する保守的貴族の反乱であり、
フランス革命よりはむしろ、同じフランスのフロンドの乱に近い性格を
備えていた

本来は全く異なる基盤と利害を持つ大貴族とカルヴァン派民衆を
反スペインの共同戦線に駆り立てたのは、反乱鎮圧のために派遣された
アルバ公が無理矢理導入をはかった「十分の一税」だった

だから、フェリペ2世とアルバ公のやり方次第ではオランダの独立は
避けえたのかもしれない

414 :
飛び地ばっかりなのも負担大きい

415 :
>>412
オランダには独立されたが、南ネーデルラント(ベルギー)はそれからも長いことスペイン・ハプスブルク家の領土

416 :
>>415
オランダが独立できたのは、主として地理的条件の結果、すなわち複雑に
入り組んだライン川とマース川の下流の三角州地帯を越えて、
北に進軍するのが困難だったことが大きく、偶然の要素が多分にからんでいた

南ネーデルラントはそのような地理的条件に恵まれていなかった

417 :
ネーデルラントがスペイン領じゃなかったからオランダの反乱が成功しない可能性はある
ハプスルブルクもマティアスまでは宗教問題に関しては融和的
30年戦争はじめたフェルディナント2世はイエズス会の教育でカトリックガチガチだったからな
スペインの影響がなきゃ宗教問題ももっとゆるかった可能性がある

418 :
20世紀のドイツの電撃作戦を見るまでもなく、ベルギーからパリは近くて、あっという間に進撃できる

カール5世から百年後の17世紀にも、南ネーデルラントから出撃したスペイン軍が北フランスで暴れて、パリが陥落する寸前になったことがあった。
でも、16世紀と違って、スペインの国力は疲弊していた。資金不足でパリ侵攻を中止したおかげで、フランスは助かった

419 :
17世紀後半、太陽王ルイ14世の時代になると、力関係は完全に逆転
フランスは攻める側、スペインやオランダが守る側となった

420 :
17世紀後半、イギリスの人口は500万〜600万、スペインは600万〜800万、
オーストリア・ハプスブルク家の全領土内の人口は約800万人であるのに対し、
フランスは2000万人の人口を擁していた

ルイ14世の度重なる侵略戦争を支えたのはこの大きな人口

しかし、スペイン継承戦争末期には、フランスの国力も限界に近づいていた

421 :
16世紀の終わり頃、ブルボン朝の祖・アンリ4世がカトリックに改宗したことにより、フランスの内戦状態は解決へと大きく近づいた
ドイツも、プロテスタント諸侯が妥協してカトリックに改宗すれば、あんなに宗教対立が長引かなかっただろう。
実際には、フランスの国内統合が進んだ17世紀に、ドイツは最悪の30年戦争になった

422 :
アンリ4世のカトリック改宗を支えたのは、ポリティーク派と呼ばれる勢力
カトリックの一部には、宗教戦争の当初から、対立する陣営のどちらにも与せず、
王国の統一を第一と考える人々がいたが、アンリ4世即位のころから、
都市の上層市民、官職保有者に彼らに賛同する者が増えた
また、教会の中の国家教会主義者も、この列に加わった

ドイツにはフランスのポリティーク派に相当する勢力はなかったんだろうか?

423 :
ユグノー戦争では、カトリック側にスペインとローマ教皇、
プロテスタント側にイギリスとドイツのプロテスタント諸侯が支援していた
イギリスが支援と引き換えにかつて占有していたカレーの回復を求めたように、
それらの援助の裏には、それぞれの計算があった

最悪の場合、フランス王国が分裂していたかもな

424 :
>>423
そうなんだよな

16世紀後半のフランスは、宗教対立の内乱状態でバラバラだ。
国家統合が進んで、ドイツに大きな差をつけたのは、なんといっても17世紀だろう。

425 :
14世紀から15世紀にかけて、百年戦争の頃のフランスは、フランス王国・イングランド王国・ブルゴーニュ公国の三大勢力が鼎立する三国志状態

まず、百年戦争でイギリスの勢力が大きく後退

次に、1529年の「貴婦人の和約」で、イタリアをハプスブルク帝国が取り、ブルゴーニュをフランス王国が取るという、一種の交換が成立したおかげでブルゴーニュ公国が消えた

426 :
ここでフランスは、イタリアから撤退する代わりにブルゴーニュを手に入れ、国内をほぼ統一した

名を捨てて、実を取ったといえる

427 :
16世紀の前半は、帝国の全盛期。
フランスにとっては、イギリス以外はどの方角を見ても、帝国の勢力圏
皮肉にも、そのおかげで、フランス国内の統一は大きく進んだ

428 :
フランス・ドイツ・イタリアはもとは同じフランク王国から分かれた国だけど、
中世初期のフランスとイングランドとはノルマン・コンクェスト以来、
人的交流や言語の面で久しく二重王権のもとに生きるひとつの生活圏のような
様相を呈していた

けれども1258年のパリ条約以後、事態は徐々に変化しつつあった
人的交流は以前よりも活発さを失い、イングランドでのアングロ・ノルマン語の
影がうすれ、それに代わって個別意識がより前面に出てくるようになった

429 :
フランスは、フィリップ2世の頃からなんだかんだと欧州の中心にいたけど、本格的に周囲から隔絶した地位を得たのは
アンリ4世からだとは思う
アンリ4世からルイ14世まで(もっというならナポレオン1世まで)がフランスの最盛期だったのではなかろうか
その後は英国と米国の世紀で、名脇役がドイツとロシア

430 :
>>429
1871年の普仏戦争でプロイセンに敗れるまでは、明らかにフランスが欧州の中心

20世紀の後半になってアメリカに圧倒されるまで、文化的にはフランスが世界の中心

431 :
神聖ローマ帝国はただ単に統一できなかっただけでなく、
イタリア・ルネサンスのような文化も生み出せなかったよな

シャルル8世はナポリ遠征の後、数十トンもの美術工芸品を
フランスに運ばせた
またナポリにあったギリシア語、ヘブライ語、ラテン語、
イタリア語、フランス語で書かれたアラゴン王の蔵書を
1140冊も運ばせた

432 :
>>431
16世紀のフランドルでは、北方ルネサンスが開花した。
人文主義者のエラスムスが有名。音楽史に関してはイタリア以上の存在感がある。
まあ、フランドルの支配者が、ブルゴーニュ公国から神聖ローマ帝国に交代しただけで、それ以前からフランドル文化は素晴らしいものがあったんだが。

433 :
後進国とされるドイツだが、グーテンベルクが印刷術を発明し、そのおかげでルターのドイツ語訳聖書が普及したってことを忘れてはいけない

434 :
アウクスブルクのフッガー家だが、二代目、三代目になると、
没落貴族の所領を買って伯などの称号をえるものもあった

ニュルンベルクの商人門閥のあいだでも、商工業面の活動よりも、
市外の土地への投資を好む風潮が広がった

リスクの少ない生活の享受、年金生活への愛好が現れたのである

435 :
>>430
ナポレオン戦争後は一度も英国との覇権競争に勝利できなかったフランスがなんだって?

英国は欧州ではないというなら、たしかにフランスは欧州の中心だったけど

436 :
>>435
海外の植民地競争ではイギリスに及ばなかったが、欧州の域内でいえば覇権国はフランス

437 :
>>436
英国との競争に勝てなかったのは「植民地競争」というミクロな視点ではなく、工業生産、物流、国際金融など
広範に渡って、僅差ではなく大差で敗れ去っているわけだが

英国とフランスは、直接干戈を交えるのはお互いに益がないことを理解していたからほとんどやらなかったけど
18世期以降は明らかに英国の圧倒的優位な関係だったからな
だからこそ、パックスブリタニカと呼ばれるわけだよ

ブリカスと呼ばれる由縁でもあるけども

438 :
>>437
世界規模ではイギリスの時代だが、欧州域内に限って言えばフランスが覇権国

439 :
>>438
覇権ってヘゲモニー(Hegemonie)って意味だけど
欧州域内にある英国に手も足も出せない覇権国って意味が分からない
欧州の大陸内で比較優位にあるってことだけならたしかにフランスは(英国を除く大陸内では)比較優位だったし、フランス語は外交用語として定着していたけれど
しかし、大陸内ではオーストリア・ハプスブルク家も普墺戦争までは強力な発言権を確保していたし、覇権国とまでは言えん罠

440 :
>>439
19世紀の英仏は突出した先進国

イギリス>フランス>>>それ以外の西欧諸国>>>>>それ以外
という感じ

441 :
ブルゴーニュは単独の国とは言いがたいな
日本のどっかの親潘が幕府に対抗してるイメージ

442 :
>>439
欧州にはイギリスを含まない時があるから

443 :
>>441
シャルル突進公の夢(ブールゴーニュ=ロレーヌ=フランドル統合国家)が実現していたら、仏独の間の有力な国になったかもしれないけどな
夢破れてるけど

444 :
17世紀の半ばになると、国際商業の分野では、中継貿易を通じて
経済的覇権を築いていたオランダと、国内毛織物産業を基盤として
オランダの商業的独占を打ち破ろうとするイギリスが激しく対立して、
フランスもこの両国を追って、経済競争に加わろうとしていた
文化については、バロック時代まではローマが中心で、その後、
18世紀になるとパリに欧州の文化の中心が移る

445 :
フランスがプロテスタントになってブルゴーニュがユグノーになるか、
その逆なら名実ともに独立国になれる気がする

446 :
>>439
オーストリア・ハプスブルク家はフランスのように、近代市民国家理念を
輸出するところまではいかなかったな

447 :
オーストリア帝国は東アジアでいうと大理みたいに、
まったく多数派の民族がいない国

448 :
>>446
あの国、最後まで君主=国を脱却できなかったからな
多数の民族を王が束ねる形でないと存続できないという構造的問題

民族国家にはなれないから、目指すは緩やかな連邦国家しかなかったんだろね

449 :
しかし弱い国同士がまとまって他国からの侵略を防ぐのは理にかなってる

450 :
>>449
現代のEUみたいなもんかねえ

451 :
>>444
>文化については、バロック時代まではローマが中心で、その後、18世紀になるとパリに欧州の文化の中心が移る
ローマが中心ってことはないんじゃないかなあ?
「イタリア」なら分かるけど
15世紀はフィレンツェの時代。
16世紀も、ミラノとかヴェネチアあたり。
ローマは、1527年の皇帝軍によるローマ略奪で、衰退にトドメを刺された。
美術に関しては、16世紀のルネサンス美術から、17世紀初頭にカラヴァッジョによる初期バロック美術まではイタリアが最先端。
音楽も同じく、ジョヴァンニ・カブリエリやモンテヴェルディがいた17世紀前半の初期バロック音楽まではイタリア。
その後は北方が中心になっていく。
哲学・思想も、デカルトやロックが登場する17世紀には、もう明らかにイタリアが最先端ではない。
文化的に、イタリアの時代は17世紀の初め頃までだろう。

452 :
第一次世界大戦後にオーストリアハンガリーが崩壊した後できた小国同士で戦争して
ドイツの手下になって隣国を侵略したりしてたらしいからな
後世から見たら愚かすぎるけど、
国というのはそういうものだと思うから、
それを防ぐには合同して大きい国になるしかない

453 :
>>446
そうなんだよな
他国に先駆けて近代的市民社会に突入したという点にかけては、19世紀のフランスは凄い。
バルザックの小説とかを読めば、当時のフランス社会がよく分かる。
あまりにも近代社会そのものなので、とても江戸時代と思えない。

454 :
>>452
中国に対抗するには、韓日が連携するしかない
韓日海底トンネルを掘るニダ

455 :
>>443
そんな国家建設は土台無理だろ
まず言語(ワロン、フラマン、オランダ、フランスドイツ、イタリア)が異なるし飛び地は多いし南北に長いひょろひょろの国家だぜ
だいたいネーデルランド自体南北で統一出来なかったのに

456 :
>>451
ただ、ローマはサッコ・デ・ローマの後、バロック建築と彫刻の都として復活するんだよね
だから、あそこでトドメというのはちょっと違うと思うのよ
トドメを刺されたのは、ローマ・ルネサンスだろうと

457 :
>>455
ブールゴーニュ、ロレーヌ(アルザス)、フランドルって、当時の領域見りゃわかるけど飛地なくなる構成なんだけど
当然周囲の修道会・教会領とかも併合する前提だけどね
だから、シャルル突進公はロレーヌに拘ったんだけども
ちなみに言語に関しては、リシュリュー以前なので別にたいした問題じゃない
フランスなんて本来もっとぐちゃぐちゃだったのをリシュリューが上手いことやって「フランス語」ができた
他にもサヴォイヤ公国とか当時は言語ぐちゃぐちゃだったけど、最終的にはイタリア王国につながったね

458 :
>>456
建築に関しては確かにそうだけど、やっぱり建築も、ローマが最先端だったのは、17世紀初頭の初期バロック建築まで。
その後は北方でバロック建築が展開したんじゃないかな?

459 :
建築は、やっぱり、カトリックの聖堂建築に限るなあ
こればかりは、プロテスタント諸国には真似できない

460 :
>>451
オペラは19世紀ですらイタリアが本場ってイメージが残っていたりするので音楽はなんとも
ただ、音楽に関してはハプスブルク君主国(北イタリアから南ドイツにかけて)の果たした役割が極めて大だな
あと、哲学・思想に関しては、フランス飛び越えて英国が割と決定的な働きをしたと思うな
18世紀からこの思想と法については大陸欧州と英国で決定的に分離したと考える

461 :
>>455
ライン川の水運で交通便利だから、統一しやすいんじゃないか
ただし、大河の沿岸を領土とする細長い国ってのは、現実には難しい。
防衛線がムダに長すぎて、とても守りきれませんな

462 :
>>461
そこに求心力ができたら、周辺併合して領地に厚み持たせないと長期的な防衛は難しいね
ライン川周辺の諸侯国やらも併合しないと難しいか

463 :2020/06/24
歴史的には、一応、中フランク王国という実例がありまして
あと今のEUやNATOの元締めの城もブリュッセルですな
まさしく(ケルトと)ゲルマンとラテンのくにざかい

ネアンデルタール人
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