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織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら

戦国ちょっといい話44


1 :2016/07/28 〜 最終レス :2017/06/07
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話43
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1447636011/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話43
http://hanabi.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
あーあ絶対荒れるねこれ
それも面白いから別に良いけど

3 :
>>1


4 :
四六 自分の知らない芸を嫌うという者が多い。逆に自分の得意な芸能はもてはやす。
   これは道理に合わないことだ。それぞれの好き好きではないか。

四九 総じて、落ち目の人を救うことが大切である。

七二 宿を発つ時、一人を後に残して座敷その他を見まわってから出るべきだ。必ず道具を
   忘れていることがあるからだ。

七六 不用心な道中を通る時は、錐をこしらえ持つべきである。色々と便利だ。錐のこしらえ方に
   心得が有る。

七九 人をしとめる時は、その前に言葉をかけてはならない。刀を打ち付けるのと同時に言葉をかけよ。

八一 負け戦の時は、豆板銀壱歩を飲み込むべし。強盗によって身ぐるみ剥がされてもその後大便と
   ともに出てくるのだ。ただしその飲み方については口伝がある。

一〇〇 人の好む芸能や道具について貶してはならない。それぞれ好き好きなのだから。

一〇一 碁や将棋で人に助言をしてはならない。慎むべし。

一二二 若いうちはどんな芸でも習うべきだ、捨てるのは簡単である。盗人のやり方だって習えば、
    盗まれない用心のためになるのだし。

一二七 得な事ばかりを好んでも、損をすることがある。しかしわけもなく損を好むのは間が抜けているし、
    得をする道があるのなら得をするに越したことはない。だからといって吝いばかりでは世の中
    成り立たない。損することが不可避なときに損を厭ってはならない。その時々の状況による。

一二八 常に運が悪くても我慢すべきだ。…などというが、それも状況による。我慢することばかり
    心得ていてもよくないぞ。

一三〇 人に物を言うのに繰り返しくどくど言ってはならない。聞き苦しい。

一三七 人に喜ぶべきことがあれば、自分で見舞いに行っても人を遣わしても良いので祝福の意を伝えよう。
    人の喜びを喜んで、後悔の有るわけがない。

一七一 もし止むを得ず家来を手討ちにする時は、一刀打ち付けたならば続けて二つ三つと討つべきだ。
    一刀にて様子を見てはならない。切れてない時は逆襲され自分が負傷するからである。
    よく心得ておくように。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)

藤堂高虎の遺訓より、現代でも役に立ちそうなものをいくつか

5 :
早速役に立てられてないぞお前さん。
阿呆なのか。

6 :
現代でも使う「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とかもあるな

7 :
嘉明辺りに自分の好きな芸能でも馬鹿にされたのかな

8 :
>>4
八一下手すりゃしにそうw

9 :
前スレの清正の鎧の記事、河北新報(宮城県)の記事ではもう少し詳しく描いてあったので一応
こちらの記事の写真だと、先の記事ほど目立つ青色でなく、よくある甲冑画像の様なおとなしめの色合いに見えるね

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160725_75007.html
よろいは室町末期の形状で、清正が青年期に身に着けていたと伝えられる。熱田さんは
「武将の誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」と述べ、
天沢寺によろいを寄贈した。
再現したよろいは胴部分の高さが約35センチ、重さ6.5キロ。室町末期以降、鉄砲の
威力に対抗するため作られた当世具足(とうせいぐそく)の一種「最上胴丸」で、複数の胴板を
ちょうつがいで止めてある。
よろいをつなぐ糸の色は判別できなかったため、甲冑の色として当時流行したあさぎ色で再現した。
鶴岡市は清正の死後、長男で2代藩主忠広が配流された地で、忠広が天沢寺で清正の遺骨を葬ったとされる。
オリジナルのよろいは1949年、ばらばらになった状態で掘り起こされ、現在も境内に保管されている。
8年前、知人の紹介で訪ねた天沢寺でよろいの存在を知った熱田さんは約3年かけて再現作業に当たった。
欠損部位を同時代の甲冑などから推測し、2領の試作を経て完成に至った。
熱田さんは「作業を通じて清正が胴長体形だったと思われる証拠などの発見があった。よろいは加藤家に
繁栄をもたらした武具として忠広や清正の妻が埋めたのではないか」と語った。

10 :
ぜんぜん発色ちがうねw

11 :
>>4
七九はあまり役立てたくないですねw

高虎さんは死ぬ間際に200条も遺訓を口述したのでしょうかw

12 :
>>11
『高山公遺訓ニ百ヶ条』は、高虎の死後、その側近くに使えていた太神朝臣(佐伯?)惟直という家臣が、
生前高虎が言っていたことを編纂したものだそうです。

13 :
小野次郎右衛門遠流の事附御免にて召し帰られし事

 世に愚かな者がいた。両国の辺りに看板を出し、
「剣術無双の者なり。誰でも真剣で立ち向かってこい。
たとえ切り殺されても厭わない。」
とのことを記した。

 都鄙から夥しい見物人が来て、
彼を切ることができず木刀でやっつけられた者は門弟となり、
もっぱらの評判となった。

 次郎右衛門がこれを聞き及んで、

「かのようないかがわしい者を天下の御膝元に置く事ふがいなし。」

と門弟を引き連れて見物に行った。
桟敷でかのいかがわしい者のなせる業を見て門弟一同は微笑していたのを、
かの者が聞いて大いに怒り、
「どうして笑いなさるか!
すでに看板を出しておるように、誰でもあれ真剣で試合しようと言っている。
笑いなさるのならば、ぜひ立ち合ってくだされ。」

と罵ると、傍輩の者が

「あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範次郎右衛門です。」

と押し留めたが、全く聞き入れなかった。

「たとえ御師範であろうとも」

と申し止らなかったので、次郎右衛門も嘲られては武備の恥辱と、やむを得ず下へ降りて

「しかる上は立ち合おう」

と、鉄扇で立ち向かわれた。
かの者は正眼にかまえただ一討ちと切りつけたので、あわやと思われたが
いかがわしき者の眉間は鉄扇で打ち砕かれ、二言なく果てたという。

この話を大猷院様(家光)が御聞きになられ、
「師範たる者の行状ではない。」
と遠流を仰せ付けられたとか。

14 :
 その後のことである。流された先の島では畑の瓜・西瓜を盗み食う曲者がおり、
捕らえようと島中の者が集まっていた。
しかし、盗人は大勢に手を負わせ、瓜小屋に籠り、小屋の周りに西瓜・瓜の皮を並べて、
捕り手の者が込み入っても瓜の皮を踏んでしまい身体が自由にならず、
多人数が死傷を負ってしまった。

次郎右衛門の元へ島の者どもが来て、

「なにとぞ捕らえてください」

と嘆くので、次郎右衛門は粗忽にも軽々しく脇差をおっ取り駆け行った。

「瓜の皮で足場がよろしくありません。」

と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。
待ち受けていた曲者は拝み打ちで打ちかけたが、
小野派の神妙といわれる太刀筋で、滑りながら脇差を抜き払って、上へ払うと
曲者の両腕ははたと落ち、すぐに召し捕らえられたという。

この趣が江戸にも伝わり、召し帰され、即時に元の禄を下されたという。

さて、次郎右衛門が召し出された時、、
「彼は遠流でしばらく剣術の修行を怠っているだろう。
我は日夜修行してきたので、立ち合って成果をみせてやろう」
と、大猷院様の思し召し、毛氈を敷いて、木刀を組み合わせて
「いざ、次郎右衛門、立ち合え」
との上意をされた。

次郎右衛門は謹んで毛氈の端に手をついて居た。
ただ一打ちにしてやろうと御振り上げ御声をかけられた時、
毛氈の端を取り、後ろへ引いたので、後ろへ御転びになられたという。
よって、大猷院様は御信仰なされ、一刀流を御修行なされたという。
(耳袋)

15 :
>「瓜の皮で足場がよろしくありません。」
>と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。



言っちゃ悪いけど次郎衛門ってやっぱバカだよな・・・

16 :
敵の誘いにわざと乗って油断して掛かってきたのを返り討ち
知勇兼備の男だと思うね

17 :
>>9
鎧を埋めるって珍しいような気がする。遺骨と一緒に埋めたんだろうか。

>>13-14
脳筋過ぎないこの人wそれで勝っちゃうのが凄いけど。

18 :
わざと引っかかったのか、そうでないのかはわからん
ただ、咄嗟に脇差しを抜いて払っているあたり、わざとかかったようには見える
まあ、ただの反射神経かもしれんが

19 :
>>17
伊達政宗は墓所の発掘調査で副葬品に甲冑が発見されているし(政宗は例の弦月前立て黒漆の甲冑を同形式でいくつか作ってて、そのうちで一番お気に入りと考えられている)
武田信玄も上杉謙信も甲冑をまとって大甕に遺体を納めたとか、よくある話じゃないですか

20 :
>>15
言っても悪くないぞ。 俺もそう思うから。

21 :
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。

22 :
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 :
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

24 :
>>22
働けよ放蕩息子、と苦言を言ってきた親が死んだんだ
むしろ感謝すべきだろう

25 :
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

26 :
ある時徳川家康公はこう言われた

「人間の中に、天性優れた者などというのは少なく、大方は百万人並なものだ。
それなのに杓子定規に当てて、アレがダメ何がダメと能力が足りないのを嫌い取り去っていては、
人材など大方無いということになる。

人を使う時、二つの目の付け方がある。
一つは大工が木を使う時のように、それぞれの性質形状に合わせて用いること。
もう一つは、大道の中のように、いずれもが片側を通るような、そういうルールをつくる工夫が大切である。」

(松のさかへ)

27 :
>>26 徳川家康は確かに人使いがうまいな。異能の人を使うのがうまいと思う。

28 :
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20160607/2348267

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将と足利学校の関わりを紹介する企画展
「戦国武将と足利学校」が昌平町の同学校旧遺蹟(いせき)図書館で始まり、
同学校が徳川家の吉凶を占い献上した「将軍家年筮(ねんぜい)」など史料約15点を展示している。

武将たちは家臣を軍師に育成する場として、経済面で同学校を保護した。
第9世庠主(しょうしゅ)(学校長)は、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えていたという。

同展では、武田信玄(たけだしんげん)の子勝頼(かつより)が
同学校を守るためにしたためた書状「武田勝頼禁制」などを展示している。

企画展は2011年に開かれ、2回目となる今回は真田幸村(さなだゆきむら)に触れた歴史書など4点が新たに加わった。
劣化を防ぐため、史料の一部は期間限定で公開されている。



2ヶ月ほど前の記事ですが、期間は9/1まで、8/17から実資料公開だそうです
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/senngokubusyoutenn.html

29 :
増上寺の了的、茶臼山御陳へ下向の事

神祖が大坂御陣の時、江戸から観光智国師〔増上寺中興〕の使として了的を差し向けた。
〔これは国師の高弟で、廓山と共に高名な人である。廓山は後に増上寺の法主となった。〕

了的が茶臼山の御陣所に到着し、その由を申し述べると、御次が近かったのだろう
神祖はほのかにその声を聞かれていた。

対陣のとき、
「了的とはいかがであろう。〔的は敵と音が通じている〕」
との御沙汰があると、了的はそのまま御前へ走り出て、言上した。

「了的ただいま降り参りました。」

神祖は笑われなさって、

「よくぞ早く降った」

と御機嫌となったそうだ。

この了的は機活才弁、人に優れた僧であったという。
〔増上寺伝説。南渓の寮主の定竜が話した。〕

(甲子夜話)

30 :
以前、悪い話スレにて内藤正成が三方ヶ原で息子を助けて棄てた話を紹介したが、
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10094.html)
寛永諸家系図伝を読んだところ、実はこの話が違っていたことがわかった
以下、寛永諸家系図伝に記述された話を紹介する

……この時息子の甚一郎正貞は敵陣に深入りし、味方が退いたのを知らなかった。

故に正成が息子の生死を知るため馬を返して敵陣に突入すると、正貞は数人の敵と刃を交えていた。

正成は槍で敵を突き、その敵から馬を奪い、正貞を乗せて撤退した。

正貞はこの戦いで敵の首をとり、彼の配下もまた高名した。


つまり、
寛永諸家系図伝では「正貞を乗てひきしりぞく」(原文)だったものが、
寛政重脩諸家譜では「正貞を棄て引退く」(原文)と誤って書かれてしまったようなのである

調べる限り「乗」と「棄」のくずし字は似た形になる場合もあるようなので、
そのために起きた間違いなのかもしれない

なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成のいい話である

31 :
>>30
おぉ〜お見事!いくら戦国の世とはいえ惨い…と思ってたから良かったw

32 :
一応言っておくと寛永諸家系図伝(1640年代編纂)を再編纂したのが寛政重脩諸家譜(1790年代編纂)です

33 :
百五十年もたてば崩し字の間違いぐらいしてもしょうがないか

34 :
>>28
軍師って言葉は三国志の軍師将軍って官職から来てるらしいけど
日本における軍師ってやっぱ諸葛亮が元ネタなのかな

35 :
太公望もじゃない?

36 :
長篠の戦いの時、「徳川家の先陣を下知せよ」と言って、織田信長
の使者が徳川方のもとへ来た。すると、内藤四郎左衛門(正成)は、

「我が主君は、先陣の下知を他人に受ける者にはあらず! 内藤が
承って返答仕ったと申されよ!」

と、荒々しく言って、使者を追い返した。信長はこれを聞いて、

「徳川家の良き士は数を知らず」と、言いなさった。

【注釈:内藤を鳥居(忠広)とするものもあるが、鳥居は三方ヶ原で
討死したので、内藤のことであろう】

――『常山紀談』

37 :
佐久間盛政についての良い話あるかた話てください。http://p2.upup.be/f/r/bNPdHhJ45t.png

38 :
>>30 

正「正貞を乗てひきしりぞく」
誤「正貞を棄て引退く」

息子を見捨てて退却した、となっては、ひどい勘違いだな。元が良い話でよかった

39 :
>>36 家康が長篠では先陣をした、というのは事実だ。信長公記にも載ってる。
地元の者が先陣をつとめる、という慣例のとおりだから、織田信長が家康へ先陣の下知をした
というのは不自然なので、常山紀談のまたまた創作だろう。

40 :
数を知らずってどういう意味なんだ?
計算の出来ない脳筋は猛勇ってことかい

41 :
この場合「数知れずいる」ってことだろ

42 :
天守御櫓の事

この頃、大城天守の図として示す者がいた。
御天守は今は無いが、図で見ると、その壮観を知ることができる。
予はある人に尋ねた。
「これは一城郭である。この中に水があればなお堅固を保てるのではないか?」

その人は

「大阪の御天守も以前天火のために焼けて今は無い。
しかしながらこの御天守の中に井戸がある。黄金水と称す。
常にこれを汲むことを禁じて、夏土用の中三日では許していた。
よって御城代の家臣、その他奴僕に至るまでこれを汲むと、
よってその清潔さは氷のような名水であった。
また井戸の深いことは数仭で、俗に伝わるところでは、井中のかわは金で造ってある。
よって水性の美をなし、かつ黄金水と呼ぶ。」

豊公の勢をもってすればこのこともあるだろう。
また天守の内にはかく水が有ることはもっともなことであろう。
しかし地の利は人の和にしかず。格言である。

追記する。
この天守の中の井戸は、すでに石山本願寺の二世顕如上人の時に、上人が掘ってあったという。
この上人も猛勢であったことは人の知るところであるので、太閤の掘ったものにも劣らないだろう。

また江戸城の御天守にも御井戸があったそうだ。かつ清泉だったとか。
今も御天守番の人は、時々汲み帰る者がいるという。


(甲子夜話)

43 :
黄金水と聞くと、ついあっちの方を連想してしまう。

44 :
上方衆の武辺と関東者のそれとは、同程度の人数で、両方の大将の能力も対等であった場合、
運次第とは言いながら、上方衆は5度に4度は敗軍するということ、信玄公の時代より今まで、
数度にわたって見聞きしております。

しかし、関東武士と言っても強勇の者ばかりというわけではなく、また上方侍とて、弱い者ばかりでは
ありません。ですが、上方の軍勢の特徴として、備え立てに吟味が薄く、物見を大切にしない、
という所があります。
専門の物見武者を選定せず、その経験を積ませること無く、誰であっても物見は出来るのだ、
などと心無い者は考えているそうです。

上方衆は物見に出て、遠きを計らず敵を賤しみ、荒事ばかり言って、人を預けても合戦の時は、
彼らは寄騎同心を捨て、一人先に行って抜け駆けをするのを手柄と考えますから、心がけのある者は
預かりの人を捨てて先に行き、一番槍を好みます。

ですから、敵将が名将ですと、1,2の備えを捨てて3,4にて勝つような戦略を立てます。
上方衆は先陣ばかりを切り崩せば敵は敗軍し勝利すると心得攻めてきますが、2,3の備えにて切り崩され、
結局彼らのほうが敗軍します。

信玄の歌にこのようなものがあります

・軍には 者見なければ大将の 石を抱いて淵に入るなり
・戦に 日取時取さしおきて 物見を掛けて兼ねてはからへ

この二首は信玄公より勝頼へ自筆で書かれ、伊那へ入城の折に遣わされました。
物見の衆をよくよくご吟味あって然る可きです。

(松のさかへ)

井伊直政に、三科形幸などの重臣が連署で出した諫言書の一節である。

45 :
関東武士に物見はいらへんで?
見つけた敵を片端から棍棒で殴り潰すから

46 :
そもそも甲斐は関東じゃない件

47 :
甲斐は鎌倉公方の支配地域だったし、三関より東をひとまとめに関東と呼ぶ場合もあるし、必ずしも関東が関八州、現代の行政区分での関東を指す訳では無い

48 :
秀吉が幼少の時に手習いなされたところは尾張萱津の横笛山光明寺である。
その門前に三島の社がある。社の辺りには榎の大木がある。

土俗の伝えによると、秀吉はこの榎の大木でばかり遊んでおられたという
ことである。この理由は、手習いを嫌ってのことである。

成人してその事を思い出されたのであろうか、あるいは、幼年といえども、
大志の人だから、その樹下で何事か将来を思慮されたのだろうか。信長公
に仕えて士に列せられた時に至り、秀吉は“木下”と称号した。

その榎は今も繁茂しているという。これは光明寺の所伝である。

――『明良洪範』

49 :
道三神脈の事

ある医者の語ったことである。
曲直瀬道三が諸国遍歴していた時、ある漁村を廻ったところ一人の漁家の男の血気がはなはな衰えていた。
そこで彼の家に立ち寄り、家内の者を見るといずれも血色枯衰していた。
脈を取って見るといずれも死脈であったので、自分の脈も取って見ると、また死脈であった。
道三は大いに驚いて、

「このように数多くの人が死脈であるはずがない。
漁村ならば津浪などの愁いがあるだろう。
早々にここを立ち去って山方へなりとも引っ越しなさい。」

と漁夫の一家に勧めて連れ退いた。
はたして、その夜に津浪がきて浦の家々が流れ失せ、多くの者が溺死したという。

「病でさえ分かりがたいのに、このような神脈はまことに神仙ともいうべきであろうか。」

とその医者は語った。

(耳袋)

天災と脈って関係あるんですかね

50 :
面相見が国中の人に死相が出ているのに気付いて、
果たして大災害によってその国は滅んだ、という話を見た覚えが

51 :
まんが日本むかしばなしで「夜中のおとむらい」という作品は夏の怪談として
ちょうどいいね。「吉作落とし」でもいいけど。
http://urban-legend.tsuvasa.com/yonakano-otomurai

52 :
なぜかサザエさんで易者が手相を見るとみんな水難の相が出ていて
すぐ雨が降ったという話を思い出した
相を見る能力は同じくらいあってもこっちはただのギャグという

53 :
仙台政宗老後の事

仙台中納言政宗は、御治平後になり年老いて言うに、
「武士は戦場を忘れてはいけない。」
と。また折には水を浴びられたという。

後病が重く床に臥せていたとき、御尋の上使が下された。
政宗は殊に恭しく思われたが、なかなか起き出ることが叶わなかった。
しかし是非ともと、人に助けられてようやく表座敷に出て上使に対面し、
御厚恩を拝謝を申したとか。
この時も礼服を着て出られたが、その大病中にもやはり水を浴びて出たという。
(甲子夜話)

54 :
年寄りの冷や水

55 :
【佐久間盛政、前田利家に戦功を譲る】

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。
反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。
上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。
本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性が
あったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と
佐久間盛政に応援を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、
兵の召集から現地入りまで二日は驚異的
な速さになる。
おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、
予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家が
制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
合戦の結果、織田家は能登と越中北部から
上杉家の影響力を排除することに成功した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が
独力で上杉軍を抑え込み、
北陸の情勢は安定した。

荒山合戦における佐久間盛政の働きは、
350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした
史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った
(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、
盛政は前田利家に譲った。
能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した

56 :
>>55
>・手柄を前田利家に譲った
ほんまかいな…?家臣や兵士が反乱起こしそう。

57 :
柴田が諭したんじゃね

58 :
>>56
書いてあるとおり能登を安定させるためじゃないかな〜

59 :
で 350年後の陸軍の連中はこれを手本と出来たのかね

60 :
>>59
どうだろうね。

61 :
春日市右衛門家筋の事

現在、猿楽の家の内百石余りを給わっている春日市右衛門という笛を業としている御役者がいる。
かの先祖は武功の者で、難波夏の御陣での穢多ヶ崎の一番乗を石川家と一同された。
今世俗でいう"川びたり餅"はかれの家から始まったという。

これは穢多ヶ淵の城を攻め落とそうと石川家に属して進んでいたが、
川の水が深く船も無かったので渡り難かった。
春日は前後の瀬を調べて、破損した船を手に入れ修復して漕ぎ渡り、石川と共に一番乗を果たせたという。
そのとき殊の外空腹で石川も難儀していたが、春日は鎧の引き合わせから、
出陣のときにふと持ち出していた小豆餅があったので、上下ともに食って飢えを凌いだという。

これから今も石川家からかの春日の子孫に他事無くお声をかけられているとのことを、
市右衛門は語っていたと人が話された。
(耳袋)

62 :
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

(井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。

63 :
戦国ちょっと井伊話?

64 :
どうでも井伊

65 :
直孝が言うから重みがある

66 :
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 :
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 :
さすが幕閣初の大政参与だ

69 :
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

70 :
加藤清正一番鑓の話

加藤清正が子の某〔名は忘れた〕に語ったと聞いた話である。

「我が秀吉公に従って、初めて一番槍をしたとき、
〔何処であったかこれを忘れた。賤ヶ岳であろうか〕
坂を上ると敵がいた。それと行き合って戦が始まった。
その時の胸中は、向こうは暗闇の如くで何か一向に分からない。
そこで目をつぶり念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで槍を入れると、
何か手ごたえがあると覚え、実は敵を突いていた。
それからはようよう敵味方も見分けることができた。
後で聞けば、その時の一番槍であった。」

(甲子夜話)

71 :
念仏なのか
題目じゃないのか

72 :
松平の家がある限り


慶長三年の冬、石田三成が家康を暗殺しようとしているという噂があり、
その警戒のために伏見向嶋の家康の屋敷に諸大名が毎日出入りしていた。
森忠政は細川忠興と示し合わせ、御供には具足と食物を挟箱に入れて持ってくるように言って
家康邸に三日三晩一緒に詰めて(自分の)屋敷には帰らなかった。

夜中に家康公は井伊直政に手燭を持たせ(忠政と忠興を書院に呼び出して)お出ましになると
「両人の懇志は言葉に言い尽くせないほどです。大坂方には詮なきことを企んでいる者がいること
聞き及んでいますが、もし万一そのような者が(本当に)いたときは
大坂方面に信頼できる者を配置しているので大坂勢が出陣することがあればすぐに注進があるでしょう」

「そうなればこの屋敷にいても守るのは難しいので大仏へ閉じこもり防戦をする覚悟です。
両人の衆もそのときは大仏で戦ってもらうことになるので自分の屋敷へ帰って一報を待って下さい。
必ず使者が参ります。いずれの衆(他の諸大名)にもこのことは伝えませんでしたが
両人の深切は他と異なるので内々に申し合わせておこうと思いました」

そうして家康公は御両将(忠政・忠興)の御手を一度にお握りになると
「松平の家がある限り末々まで今回の心遣いを忘れません」と仰せられたと言う。

――『森家先代実録』

73 :
今大路家掛物の事

官医今大路家では、先祖曲直瀬道三の教歌墨跡を掛物として神農会の時に床に掛けるそうだ。
これは道三の自筆で

『長生きは粗食正食ひゆたらり 勝手次第に御屁めされよ』

との歌が書いてある。

当主も門人も、この歌の内の"ひゆたらり"という事は何の事であるのか知らない。
相応の説をつけて申し伝えていたが、ある時信州辺り出生の人が来て、

「これはいかなる事か?」

と尋ねると、今大路の門人たちは答えに当惑し、申し伝えてきた事のみを何となく話した。

かの信州の翁は

「我らがある日山深い田舎に行き着いたときに、百歳余りの者がおった。
長生きの術でもあるのかと尋ねると、
『物知らぬ田舎人なので、その術は知らない。
このような山奥なので明け暮れ食べる物は粗食で、
もとより何の望みもなければ心に労する事もなく、このように長寿をなしている。』
と言った。
『しかしどうして長寿の益が何かあるものであろう』
とひたむきに尋ねると
『熱い湯を用いず飲まず、火の暑さに寄らないことであろうか。』
と言ったが、"ひゆたらり"というのはこの事であろう。
道三先生はこれを知って、かく詠み置かれたのであろう。」

と言ったので、今大路家の者たちは初めてこの歌の心を知ることができたという。
(耳袋)

74 :
白湯は健康にいいのに!

75 :
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

(井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか

76 :
結城秀康の三男であり、後に松江藩主となった松平直政。
彼は、初陣となった大坂冬の陣で活躍しました。
この様子を見ていた真田信繁が、敵ながらあっぱれと思い軍扇を直政に投げ渡しました。 この軍扇は現存しています。

77 :
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院が
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』

78 :
3名が、ここ、恵林寺にかくまわれているという噂を聞きつけて、3度に渡って「その3名を引き渡すように」との交渉を行いましたが、紹喜は、これをすべてはねのけました。

この恵林寺の姿勢に信忠は、
「代々、檀家として親しくしてた勝頼はんが頼って来ても境内に入れようともせんと、その遺骨を取りにもけぇーへんくせに、そんなしょ^もないヤツらはかくまうんか!」
と怒り心頭・・・

まずは、津田次郎信治と長谷川与次郎などに命じて寺を包囲させて、寺の中の探索をさせますが、とっくに3名は逃亡したあと・・・

その頃には、寺の者は皆、山門の楼の上に登って籠城の構え・・・

「そっちが、そう来るならば・・・」
と、兵士たちは槍先をそろえて、逃がさないよう彼らを囲います。

『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)によれば、その時、紹喜は、弟子の一人=南華に
「法が絶える事は悔しいけど、もう逃げる事はできんな…お前は、楼から飛び降りて死になさい」
と・・・

この言葉を聞いた南華は、すかさず飛び降りますが、その瞬間に兵士たちが槍先を伏せたため、助かったのだとか・・・

その後、16名ほどが飛び降りた後、残った紹喜ら84名(114名・150名とも)は、座って合唱をはじめ、兵士らは楼の下に焼草を積んで火をつけたと言います。

79 :
最初から酔ってる訳じゃあるまいしこんなの10ももたんわ

80 :
3名って六角の子息だっけ?

81 :
なんだかよくわからん

82 :
籠城の構えなのに集団で自殺しちゃったのか・・・

83 :
>>78
コピペ
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/04/post-fb7c.html

84 :
焼き殺されたんでしょ?

てか、信忠のセリフって関西弁?

85 :
何言ってんだ知恵遅れ

86 :
徳川家康公のある時の御意に

「私は若年の頃駿河にあって、物読み坊主から、三哲という者の著書について聞いたが、
その中に『三要三切』という言葉があった。

この言葉、最初の『三要』とは「衣食住」の事であり、『三切』とは「軍賓旅」の事だ。
衣食住の三要は人々にとって常に必要なものであり、これらの用意がもっとも重要である。

さて、軍賓旅とは、軍道具、客道具、旅道具の事であり、これらは武士にとって肝要なものである。
これらを、分限相応に調えた上ではじめて、外の事を為すべきだと言われた。
この話は私の耳に響き、一言で役に立つ言葉だと思った。幼かった私であったが、肝に銘じて
聴き覚えたのだ。

ただ、私はこれに注釈を加え、『三要三切三行』としたい。『三行』とは「道、芸、倹」である。
先ず、道義を第一に心がけるべきである。しかし道に志し賢人の位にあっても、武芸を知らねば
軍役の役に立たない。また、不勘弁では擦り切れて果ててしまう。」

(本多平八郎聞書)

徳川家康が言った、武士にとって大切な『三要三切三行』について

87 :
>>78にあるのだけど、勝長の生年不明とはいえ子供がいることや武田時代に
上杉への使者そして軍艦として北条との戦に参陣という話もあるから
加味すると三歳というのはあの時代でもちと厳しいものがあると思われ
その垂井のご坊も同名の他の人とみる向きもある
(根拠:信忠の与力で甲州征伐に参陣し当時は既に犬山城主であるため)

88 :
家康って歌を歌わないから駿河では良い待遇じゃなかったって言う人がいるけど、
経は読めるし知識もあるから、ある程度の教育は駿河で受けれてたんだろうなあ。
鷹狩りなんかもしてたみたいだし。

89 :
氏真のお手がついた瀬名姫を押し付けられて産まれたのが信康
これを知った信長がのちに織田に仇なすとみて切腹させた
痴呆の振りをした父親の氏真は殺されず大往生した

90 :
   ∧,,,∧
  (´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
  (|   |)
   し--J


最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。

差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。


日本から始まる世界的株式市場の大暴落

ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤは何百万の人々に話しかけることのできるようなやり方で、まずアメリカに現れるのです。それから日本です。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。


矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
竹下雅敏 「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」

91 :
 駿府の青島というところに、その地の名を名乗る五郎左衛門という帯刀の豪農がいる。
この祖は愚直な者で、思し召しにかない、折々御側へ出ることができた。
何の褒賞であろうか、小粒金を直接手で贈られたとき、
袖に入れて家に帰るさなか、袖がほころんでいるのを知らず、
途中で所々に小粒金を落としてしまった。
多くの往来の者は拾ったという。
 後に聞かれて、無欲者であるとますます思し召しに叶ったと伝えられている。
(甲子夜話)

92 :
・徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

立花立斎(宗茂)…九州のことを良く知っている。

九鬼大隅守…水軍のことを良く知っている。

脇坂中書(安治)…四国のことを良く知っている。

平野遠江守(長泰)…太閤のことを良く知っている。

佐久間備前守(安政)と同大膳(勝之)
…北国ならびに奥州のことを良く知っている。

細川玄蕃頭(興元)…上方のことを知っている。

――『武功雑記』

93 :
で、どういった話を聴いていたのかな?

94 :
>>92
丹羽長重「あれ、僕は・・・」

95 :
>>94
秀忠<「棚倉で藩主にしてやっただろ。不満?」

96 :
>>92
九鬼大隅守って蘇ったのか?

97 :
総じて、召し使う者が何か仕落ちし不調法ありと報告された時、その者によく心得させ、
今後は改めさせるようにすること、これが主人にとって特に重要な事である。
私(徳川家康)は若年よりこれを専ら心がけてきた。そのため今では異見を加えた者で、
誤りを改めないという者はなくなった。

ここで気をつけるべきは、とにかく何であっても、人が身動きできないような状況にしてはいけないと言うことだ。
先ず誤りをした者に、その事ばかり言って叱りつける、そんな事をするからその家臣は心得違いをし、
主人を恨むようになってしまい、それまでよく勤めていた者であっても、不足の心が出来て勤めなくなり、
主人を疎むようになる。これは全く、主人の異見の仕方が悪いため、人を捨てるというものである。

人に対しての異見の仕方というのは、先ずその者を呼び出し、側に一人、取り成す者をあらかじめ置き、
それ以外の者を下がらせ、いつもより言葉を和らげ、
『以前にもその方は、この時は何々の手柄を致し、あの時は良き勤めをした』
などと、その者の心を悦ばせ、その上で
『かような不調法は、その方には似合わぬことだ。』
そう能く能く申し聞かせ、
『くれぐれも今後は相改め、前々の通りに心がけてほしい。』と伝える。
そうすれば大体は、その理屈に従い、身の過ちを取り分け相改めるものなのだ。

主人たる者は、一人でも能き人材をつくり、どんなに軽い身分の者であっても、科人が出来ないよう心がけ、
身を慎むことが肝要だ。

何であっても、行き届かない事はある。まして並々の者は総じて抜けがちなものだ。
そういった行き届かない所は、主人が行き届くように心がけ、不調法にならないように致して召し使う事、
これが主人の心がけの第一である。

召し使っている者へ、科を申し付ける時、その多くは実際にはその主人自身の科なのだ。

(松のさかへ)


徳川家康の、家臣への「叱り方」について

98 :
>>97
この逸話を思い出した

本多正信、家康が短気をおこして叱る時に・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2238.html

99 :
>>97
正しいと思うけどいちいちやってられないんだよなぁ…
そこが家康と凡人の違いか

100 :
正純「して、その者の名はなんと?」
三成「なんと・・・そうだったのか・・・φ(`д´)メモメモ...」


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