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【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッドU【擾乱】


1 :2006/08/11 〜 最終レス :2020/01/28
足利基氏以来、関東の地にあって常に擾乱の主役であり続けた
鎌倉・古河公方及び関東足利家について語るスレッドです。
●過去ログ●
足利将軍家総合スレ
http://hobby.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1062302088/
【御所様】足利一門総合スレッド【公方様】
http://hobby.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1069789879/
【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッド【擾乱】
http://hobby8.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1109516196/
【猪突】小弓御所・足利義明を語るスレッド【猛進】
http://hobby8.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1127477471/

2 :

●過去ログ●
足利幕府は何故滅んだ
http://hobby5.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1076135026/
堺公方〜阿波(平島)公方について語るスレ
http://hobby5.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1071404950/
足利一門総合スレ・復刻版
http://hobby5.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1108731111/
【山名・里見】新田一門総合スレ2【岩松・得川】
http://hobby5.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1096330183/

3 :
        【将軍家】
足利尊氏┬義詮─義満┬義持─義量
    . ..│       ...├義嗣
    . ..│       ...└義教┬義勝
    . ..│           . .├義政─義尚
    . ..│           .. ├義視─義稙
    . ..│           .. │   ┌茶々丸【堀越公方】
    . ..│           .. └政知┴義澄┬義晴┬義輝    
    . ..│           ....        ..│   └義昭
    . ..│           ....        ..└義維┬義栄
    . ..│           ....         .  .. └義助【阿波公方】
    . ..│【鎌倉公方】
    . ..└基氏─氏満┬満兼─持氏┬義久             ┌藤氏
    . ..         .├満直    .└成氏─政氏┬高基┬晴氏┴義氏=頼氏【喜連川家】
    . ..         .├満隆     【古河公方】..│   └晴直─義勝─義久【宮原家】
    . ..         .└満貞             └義明┬義純
                             【小弓公方】.└頼純┬国朝
                                        ...└頼氏─義親―尊信

4 :
基氏─氏満┬満兼――┬持氏┬女(太平寺住持)       
【鎌倉公方】│     ...└持仲├義久              
... ..     .├満直(稲村御所)├春王丸             ┌藤氏  頼氏  
... ..     .├満隆       .├安王丸             ├藤政  ...┠義親―尊信【喜連川家】  
... ..     .└満貞(篠川御所)│                 .├家国 ..┌女(鴻巣御所)     
... ..     .           ..└成氏―┬政氏┬高基┬晴氏┴義氏─┴梅千代王丸
... ..     .          【古河公方】│   │   ├雲岳(甘棠院二世)
... ..     .                 .│   │   ├晴直(宮原御所)―┬義勝─義久【宮原家】 
... ..     .                 .│   │   └女(東慶寺十八世)└東獄(甘棠院三世)
... ..     .                 .│   │【小弓公方】
... ..     .                 .│   ├義明┬義純  
... ..     .                 .│   │...  ├頼純┬国朝
... ..     .                 .│   │...  │   ├頼氏(義氏継嗣)  
... ..     .                 .│   │...  │   ├女(東慶寺十九世)   
... ..     .                 .│   │...  │   └女(豊臣秀吉側室/古河姫君)
... ..     .                 .│   │...  ├女(青岳尼/里見義弘室) 
... ..     .                 .│   ├基頼└女(東慶寺十七世)
... ..     .                 .│   ├貞巌(甘棠院開山)
... ..     .                 .│   └女(東慶寺十六世)
... ..     .                 .├女(大平寺住持) 
... ..     .                 .└顕実(上杉顕定養子)

5 :
【宮原家】
晴直―義勝┬義照               
    . .. .└義久―晴克┬義辰=氏義―義汨┬義眞=義利―義直(方斎)┬聡氏(喜連川縄氏養子)
    . .. .        ..|           ...└義利             ├=義近    
    . .. .        ..├氏春(喜連川昭氏女婿)              ..├=義以
    . .. .        ..└女                           ..└=義路(岡部備後守子)
    . .. .        ... .┠氏義(義辰養子)
    . .. .        杉浦政令

6 :
【歴代関東管領 其の一】
斯波家長 (1336〜1337年)
上杉憲顕 (1338年)……………山内上杉家
高師冬   (1339年〜1344年)
上杉憲顕 (1340年〜1351年)
高重茂   (1344年〜1349年)
高師冬   (1350年〜1351年)
畠山国清 (1353年〜1361年)
高師有   (1362年〜1363年)
上杉憲顕 (1366年〜1368年)
上杉朝房 (1368年〜1370年)…犬懸上杉家
上杉能憲 (1368年〜1378年)…詫間上杉家
上杉憲春 (1377年〜1379年)…山内上杉家
上杉憲方 (1379年〜1392年)…山内上杉家
上杉憲孝 (1392年〜1394年)…詫間上杉家
上杉朝宗 (1395年〜1405年)…犬懸上杉家
上杉憲定 (1405年〜1411年)…山内上杉家

7 :
【歴代関東管領 其の二】
上杉氏憲 (1411年〜1415年)…犬懸上杉家
上杉憲基 (1415年〜1418年)…山内上杉家
上杉憲実 (1419年〜1439年)…山内上杉家
上杉憲忠 (1447年〜1454年)…山内上杉家
上杉房顕 (1455年〜1466年)…山内上杉家
上杉顕定 (1466年〜1510年)…山内上杉家
上杉顕実 (1510年〜1515年)…山内上杉家
上杉憲房 (1515年〜1525年)…山内上杉家
上杉憲寛 (1525年〜1531年)…山内上杉家
上杉憲政 (1531年〜1561年)…山内上杉家
上杉輝虎 (1561年〜1578年)

8 :
藤原冬嗣─(略)─重房(上杉家)─頼重┐
.┌────────────────┘              
.└頼重┬重顕(扇谷)┬重藤    .  .. ...┌持定=持朝┬顕房─政真=定正=朝良=朝興─朝定 
.    .│     .. ...└朝定─顕定─氏定┴持朝  ..... ├高救―義同―義意(三浦氏)      
.    .│                             .├朝昌┬朝寧―朝興    
.    .├頼成―藤成―頼顕―定重―定頼―藤朝   . .└定正└朝良
.    .├憲房┬憲藤(犬懸)┬朝房┌氏憲(禅秀)―持房                     (足利高基子)
.    .| .. .│      . └朝宗┴氏朝=持房―憲房                  .┌=憲寛―義勝  
.    .| .. .├憲顕(山内)┬能憲(宅間上杉重能養子)             ┌=憲房┴憲政=輝虎
.    .| .. .│       .├憲方┬憲孝        ..┌憲忠=房顕=顕定┴=顕実(足利政氏子)
.    .| .. .│       .├憲春├房方        ..├房顕
.    .| .. .│       .│  ...└憲定┬憲基=憲実┴周清―憲房(顕定継嗣)
.    .| .. .│       .│  ...   . └義憲(佐竹氏)
.    .| .. .│       .├憲英(庁鼻上杉)―憲光┬憲長―憲武―憲勝        
.    .| .. .│       .|              ..└憲信―房憲―憲賢―憲盛(深谷上杉)
.    .| .. .│       .└憲栄(越後上杉)┬=房方―朝方=房定┬定昌
.    .| .. .│                   ├頼方    . .  ... ├顕定(房顕継嗣)
.    .| .. .│                   ├憲実(憲基継嗣).. ..└房能=定実
.    .| .. .│                   └清方┬房定(朝方継嗣)
.    .| .. .│                       .├定顕┌頼房
.    .| .. .│                       .└房実┴定実(房能継嗣)

9 :
.    .| .. .├=重能(詫間)=能憲=重兼┬能俊―憲重―憲俊―憲能―憲清―定重―定朝―顕重┐
.    .| .. .├重兼(能憲継嗣)      ..└憲清―憲直┬持成. ┌─────────────┘
.    .| .. .│                        .....|   .....└乗国―乗方―房成―冨朝―規冨
.    .| .. .│                        .....├憲重┌憲宗                (幕臣)
.    .| .. .└重行―能憲(重能継嗣).         . .└憲家┴憲房―顕房              
.    .└加賀局(観修寺別当宮津入道道兎室)―重能(憲房養子)

10 :
お疲れ様

11 :
乙です

12 :
>>1
↓の後継スレ?
【猪突】小弓御所・足利義明を語るスレッド【猛進】
http://hobby8.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1127477471/

13 :
>>12
dat落ちしましたね。

14 :
現存する文書から頼淳のこと書こうと思ったら。。。
980超えるとすぐ落ちます。たしか申請しとかないとhtml化しなかったような気がします。

15 :
外出してたら見落とした・・・

16 :
>>14
じゃ、朝倉渦中クン、申請ヨロシクね!☆

17 :
>>14
頼淳って足利頼純のこと?
小田原の役の際に里見軍に呼応して小弓城を攻撃したと聞いたことがあるけど
あれって本当なのかな?

18 :
とりあえず前スレです。
ここのはよく落ちたり消えたりするので、必要な方はソースを保存することをお薦めします。
【猪突】小弓御所・足利義明を語るスレッド【猛進】
ttp://p2.chbox.jp/read.php?url=http://hobby8.2ch.sc/test/read.cgi/warhis/1127477471/
さてスレタイから突然脱線します。前スレ最後の方で出てた頼淳の続きなんすけど、
少々気になる書状があるので貼ってみます。
        義
元亀五年(天正二年)
    正月四日                            花押(頼淳)
        逸見源三郎殿                                    「逸見文書」
これは頼淳が家宰逸見源三郎に出した、いわゆる「一字状」「一字書出」の写しなんですが、
気になるのは、頼淳が頼でもなく淳でもなくまた通字である氏でもなく「義」を源三郎に与えている点です。
ここで1574(天正二)年当時の古河公方一門を取り巻く情勢を見てみますと、晴氏、藤氏はともに亡く、
北條方の古河公方義氏は居城を失い小田原に逼塞。
輝氏は関東菅領上杉輝虎・上杉憲政の支援を受け佐竹氏の領内に落居、
関宿に籠もり北條方と対峙中の家宰簗田氏救援のため太田資正と交渉中(天正二年「潮田文書」)。
藤政と家国は里見氏に保護され、特に藤政は里見の支援を受け「帰座儀(復帰)」が叶うよう
小山・佐竹を催促してます(元亀三年「小山氏文書」)。
このように古河公方一門が三つ巴の抗争を繰り返していた時期において、
その相続争いのまったく蚊帳の外に置かれた庶流の、頼淳の如き飼い殺し風情が、
こともあろうに塁代将軍家の通字たる「義」を家臣に対して「一字拝領」という形で与えてしまうとは、
ある意味父親を超える「傑物」と言わざるを得ません(笑
>>17
頼純って頼淳のことっす。

19 :
>>17
自筆の署名は「頼淳」になっている。
wikiあたりにも出ているけど、豊臣家の使者が大坂に送った報告書によると、頼淳が小田原攻めのドサクサに小弓城に入った時期があるのは確からしい。

20 :
頼純の小弓城奪還は?だけど
小弓城(南生実城)と生実城(北生実城)の関係は諸説あって面白いね
・一説に小弓城は国府台合戦後に廃城され、原氏が生実城を築き移った
・いやそんなことはない、小弓城は廃城されたが、生実城はもっと前からあったぞ
・いやそもそも、小弓城は廃城されてないぞ、等々

21 :
>>19
といって、その後の里見家の処遇なども考え合わせると、占拠してもごく短期間の出来事でしょ?

22 :
しかし義明にせよ頼淳にせよ、尊大な形式の書状が多いですよね。
これは家中に対してそれだけ影響力が浸透してたのか、
それとも自身の権威を過信するあまりの単なる驕りの現れなのか。
いずれにせよこの父子は面白いっすね。

23 :
義明は公方さんだから
それにしても右兵衛佐は自称で、本当は無位無官だよね?

24 :
>>22
影響力ねぇ・・・確かに利用価値のある権威であったことは事実だろうけど。
本人たちもそれを十分自覚していたんじゃないかな。

25 :
>>21
まあ、そのアピールが喜連川城が与えられたわけだろうけど

26 :
>>25
ありゃ城か?
陣屋じゃないのか?

27 :

しかし、国朝って薄いですね・・・キャラが。

28 :
鎌倉公方は別として、古河公方なら成氏でしょ、関東の戦乱を深めた原因は

29 :
>>28
そこに至るまでの経緯もきちんと検証しておかないとね。
そもそも中央と鎌倉は、基氏以来、微妙な力関係で並存してきたわけで。
対立の火種は常に内在していたし、それが義教・持氏の間の抗争劇に発展していった。
成氏のクーデターもそこに原因があるわけで、単純に割り切れる話ではないと思うのだが。

30 :
そりゃ親父殿、兄貴たちの仇だから、山内上杉

31 :
>>28
籤引き?!!ふざけんな!!!と言いたくなるよね。

32 :
持氏がいきなり出て来たわけではなく、やはり基氏以来の京への対抗心が下地に
そこに義教より将軍は俺が相応しい、と思っている持氏と、
革新的(?)な義教が出てきて、まともに衝突したってことでしょ
親父殿だけじゃなく、兄貴達まで死に追い込まれて、
一人生き残った成氏の胸中は・・・山内は許せねえべな

33 :
>>32
実権も執事・上杉家が掌握。
といって中央への発言権もない。
その鬱屈した思いというのは当然あるだろうからね。

34 :
成氏ってほんとは持氏の子じゃなかったりして

35 :
>>34
マジ???

36 :
>>34
なんでそう思うの?
と聞いてみる

37 :
鴨志田智啓「足利高基・政氏抗争の再検討」(『戦国史研究』52号、2006年)

38 :
>>36
タイムマシン開発してその場を見ないことにはわからないだろうな。
浮気していた可能性は完全には否定できないだろうし、本当に生まれていても
乳母の息子と交換されていてもわからない。

39 :
成氏の童名は永寿王丸?それとも万寿王丸?
成氏は幼年ゆえに許された?
それとも嘉吉の乱でうやむやになった?

40 :
永寿もしくは永寿王
生年は諸説あって不詳。鎌倉大草紙や結城合戦の記述には何も書いてない
足利系図を見ると1510年。
春王安王と一緒に京都に送られてるから(鎌倉大草紙)処刑されるところだったんだろ
嘉吉で沙汰止みになったのは確かだろうが上杉長棟や結城氏、細川持之の働き掛けがあったようだ
細川持之に預けられた後、大館氏を通じて信濃の大井越前守持光が引き取ってる
上杉長棟入道(憲実)の嘆願で再興

41 :
かなりいい加減な事書いたので>>40はなし

42 :
そうかな?
ぱっとみ何がいい加減なのか、わからないよ

43 :

そういえば蔭山氏って持氏の庶子に系図を繋げているね。

44 :
七男広氏か
某ページでは、主要な4人以外に
日光山別当 成潤
周ム(守実)
鶴岡若宮別当 尊?
定尊
鶴岡若宮別当 弘尊
蔭山広氏
って書いてあるね

45 :
>>44
>鶴岡若宮別当
足利義明もそのポジショニングだったね。足利家の指定席か。

46 :
つまり雪下殿の継承ですね。

47 :
歴代どんな人がいるんでしょうね?

48 :
>>45
親父の許可も得ずに還俗しちゃったけどね。

49 :
>>44
お万の方だっけ?
それで出世したのが正木為春か。

50 :
正木為春とお万が兄妹なのはわかったが・・・???

51 :
蔭山Rぇ・・・・系図的にはかなり胡散臭い。
家康がお万に目をつけたのは一見すると、やはり足利持氏の七男・広氏の末裔である蔭山氏の
女性だったから・・・と思われがちだが、お万は蔭山氏広の養女で、実父は正木頼忠。
お万の兄・為春が正木氏の祖である三浦氏の家名を継いだところを見ると、家康の興味関心は
どこか胡散臭い?蔭山氏ではなく、むしろ名族・三浦氏の血筋だったのだろう。
蔭山氏はお万の斡旋で旗本に取り立てられたが、決して高禄ではなかったところから見ても、
三浦氏>>>蔭山氏だったことは明白。

52 :
>>51
持氏が殺された時、難を逃れた広氏を蔭山某が養子として育てたとか、そんな話だからなぁ。

53 :
上杉憲実は殺されかけたりしたのに持氏の助命嘆願したり成氏の復帰に尽力したり
忠義者なのか、ただのお人好しなのか

54 :
>>53
将軍の兄弟が直接来るなどした場合、細川や斯波に関東を引っ掻き回されかねないと
思ったんじゃないか?
結局大混乱にはなったが。

55 :
>>53
上杉家だけの思惑で関東は成り立ってないからね。
どうも関東には独立的というか、中央の支配の外側にありたいという気風があるよね。

56 :
>>51
天下人というのは名族好きが多いようだね。

57 :
>>54
そうした前例ってあるの?

58 :
>>57
前例はないが、堀越公方を考えると。

59 :
>>58
上杉家も取り扱いには困ってたしね。

60 :
>>58
結局、堀越公方の残した功績って何かあるのかな?

61 :
>>60
伊勢家飛躍の踏み台。

62 :
>>61
また茶々丸か・・・。

63 :
ここの住民は近所の気がしてならない

64 :
>>63
と仰る貴殿はどこの方?

65 :
>>62
確か茶々丸を描いた作品に『前髪公方』ってのがありましたよね。
読んでないけど。
どういう話なのかご存知の方はいませんかね?

66 :
関東足利氏ともゆかりのある那古寺
http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?stoid=7578

67 :
足利家国
http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?stoid=8045

68 :
>>64
下総の国 殿は?

69 :
>>67
>発見されたものは、「観世音経(かんぜおんきょう)」と「孔雀王咒経(くじゃくおうじゅきょう)」というお経を書き写したもので、
>奈良時代の古い写経です。
>是非、ご聴講ください。
ふむ?

70 :
鎌倉公方 古河公方好きでオフしたいね

71 :
>>70
鴻巣御所オフ

72 :
>>71
氏姫タン (;´Д`)ハァハァ・・・・

73 :
>>72
懐かしい展開ですねw
でも、秀吉が足利家から古河城と所領を奪ったのは、氏姫に側室の話を蹴られた
腹いせですからね。

なのに「名族の衰亡を惜しんで・・・」とは・・・。

74 :
>>73
やはりそれは名族としての意地でしょう。
足利義昭が養子縁組の申し入れを敢然と拒否したように。

75 :
これから鴻巣御所に散歩に行きます
って近所ばればれなわけだが
古河でのオフしたいです

76 :
鴻巣御所ってのは鴻巣市とはまったく関係ないわけ?

77 :
関係あーる

78 :
ないでしょ

79 :
>>76
関係ありません。
所在地は「茨城県古河市鴻巣」ですから。
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Ibaragi/Kounosu/

80 :
>>73
いかにも成り上がり者がやりそうなこと。
名族の誇りに懸けても断固拒否の姿勢を貫いた氏姫タンに同情。
ちなみに、氏姫は足利国朝、頼氏兄弟との婚姻にもあまり積極的ではなかったらしい。
終生、鴻巣の地を離れなかったし。

81 :
>>80
ですね。
国朝・頼氏は喜連川領、氏姫は鴻巣領で別居生活してたようですね。

82 :
義務として夜伽はしていたようだけどな。
一応頼氏との間に実子がいるわけだし。
実は鴻巣の家臣との間の子供なのかもしれないが。

83 :
頼氏と氏姫の間には嫡子・義親のほか一女(夭逝)がいるね。
一方、側室との間にも一男二女がいる。
おそらく参勤の義務もないし、側室は国許にいたのだろうが、頼氏と氏姫の結婚生活は通い婚が
基本だったというから、夫婦仲それ自体もある程度察しがつくというもの。

84 :
なお、側室との間の一女は、嶋田出雲守利木の室。
この嶋田出雲守という人物、後に14年間にわたって江戸北町奉行(1667〜1681年)を務めている。

85 :
氏姫タンの肖像画とか無いのかな・・・・

86 :
>>85
氏姫さまの 仏像とかないかね
古河公方5代の仏像とか 掛け軸とかあってもいいのに

87 :
佐藤博信『中世東国政治史論』(塙書房、2006年)
http://www.hanawashobo.co.jp/

88 :
「遺文」読んでる最中なんで終わったら買ってみます↑

89 :
>>87
で、どういう事実が?

90 :
>>89
室町・戦国時代の東国の政治・文化・宗教に関わる基本的な問題を四部構成で検討。これまで研究が手薄であった、室町・戦国期の東国史、さらに戦国期の後北条氏以外の諸氏について考察する。
目次より
1.関東足利氏の世界 2.房総里見・武田氏の世界 3.高野山「西門院文書」の世界 4.安房妙本寺の世界

91 :
足利好き ちょい里見好きの私が買っていいのだろうか

92 :
佐藤博信氏の文章は難解だからな・・・・

93 :
>>90
しかし、幕府が事実上滅亡状態でも関東公方は一定の権威を保っていた・・・
う〜む・・・

94 :
>>93
義昭が自ら将軍職を返上するまでは、腐っても足利家は将軍家だったわけで。

95 :
>>94
北条家自体、足利家を傀儡化しながら独自の体制秩序を作ろうとしていたんでしょ?
京の幕府の存在如何に関わらず。

96 :
あげ

97 :
古河公方 鎌倉公方オフしませんか?
足利将軍オフでもいいです

98 :
>>97
場所は鴻巣御所が良いかと。

99 :
室町御所じゃないのか?

100 :
>>98
鴻巣御所=古河総合公園いいと思います
現地集合ですか?
>>99
京都は春行きました 来年なら行きたいです
将軍オフも 話題が足利なら関東開催でもいいかも

101 :
集合場所は、足利駅の改札前じゃないのか?

102 :
今年中にオフ出来ればいいですね
誰かオフ行く人いませんか?

103 :
明日はお墓参りでも行くかな

104 :
氏姫様 成氏様のお墓参り行くかな

105 :
>>100
関東足利家にこだわりたいかと。
できれば小弓足利家、喜連川足利家にもスポットを当ててみたいものです。

106 :
みなさん私は鎌倉府に帰ってきた〜\(^^@)/
そちたちの所領は安堵するゆえ励めよ!さてスーパー堤防でも視察してくっかな。

107 :
>>105
ナカーマ 自分も小弓 喜連川 古河の方が好きです
このスレでオフ募集した方がいいのかな

108 :
喜連川藩万歳

109 :
義教が永寿王の助命をあくまで拒否してたら
喜連川家は存在してなかったんだな・・・

110 :
>>108
そういうことになりますね。
というか関東足利家自体・・・・

111 :
>>110
堀越公方家が関東足利家になった可能性はあると思う。

112 :
>>111
つーか堀越公方も自滅だからね、あれ。

113 :
ところでなんで堀越公方は鎌倉に入れなかったの?
伊豆は確か山内上杉の領国だが、小田原は大森、新井城は三浦で扇谷上杉の支配下でしょ。
つーことは山内に敵対した扇谷が鎌倉に入れてくれなかったってこと?

114 :
>>113
当時はまだ敵対してない。
ただ、三浦半島の支配が磐石だったとはとても言えず、房総半島方面から攻め込まれたら、
鎌倉は守りきれないと思っていたんじゃないか?
現に後北条時代になってからも、鶴岡八幡宮が襲撃されたこともある。

115 :
里見は北条への対抗上、鎌倉焼き討ちしてるんでない?山内上杉なら鎌倉維持は難しかろう。
堀越公方は今川の支援がもらえなかったのは今川の後継問題で内紛中だったから?
たまたまその時だけ古河公方支持だったのか扇谷上杉と与党の三浦や大森は。
山内は堀越公方を上野平井城に招くと言う事もできないくらい鎌倉→武蔵府中→川越→松山→鉢形→伊勢崎ルートが閉鎖されてたのか?

116 :
成氏が鎌倉府を再興させて以来、結城合戦等で父に味方した者達の縁者を重く用いた事に不満を持った上杉・長尾・太田は成氏を討つべく江ノ島合戦などで戦うも成氏勝利する。
しまいには16代関東管領憲忠を謀殺し大規模な本格的交戦に至るが扇谷当主を自決に追いやり関東管領17代も敗走しやはり成氏が勝利。
だが今川軍が背後から鎌倉を襲い古河へ本拠地を移す。
幕府は勢いに乗り将軍の弟を新たな鎌倉公方として派遣。
伊豆・駿河・甲斐・信濃の兵を集めて侵攻するも鎌倉へ入れず?兵の集まり悪かったのか?
この間に今川家が家督相続等があったので積極的な支援は難しかったのか?
応仁の乱が勃発し今川・掘越は将軍護衛の兵を派兵し関東どころじゃなくなった。
関東は成氏が暴れまわり勝利を続けていた。
さらに山内上杉の執事後継者を誤り長尾景春が成氏に協調し暴れまくる。道灌が活躍。
山内主導で成氏が和睦を申し入れ伊豆を掘越領と認め和議成立し幕府とも和解。
道灌謀殺し山内と扇谷が闘争を開始。
やはり成氏の勢力が凄まじく鎌倉に入れなかったと思われ。

117 :
成氏が鎌倉を追われたとはいえ、今川が帰った後の鎌倉には依然として成氏支持者もいて不穏な空気が流れてたのかな。
でも相模西部の小田原大森氏や相模中央部の伊勢原市の道灌暗殺の場があった扇谷の館、相模東部の三浦の三浦氏が相模を押さえてれば鎌倉に入るのは可能な気がするけど。
成氏は古河に移り利根川以東の東上野・下野・常陸・下総に影響力があったけど上総の武田氏や安房などの沿岸の漁師、海賊・水軍にも影響力があり鎌倉を突く事が可能だったのかな?
結城合戦等で敗退して三浦半島経由で安房へ逃れた里見氏はまだ弱体だろうし…明らかに江戸や岩槻、川越を擁する扇谷上杉が非協力的だったように思えるんだけど。
成氏の勢威を避けて伊豆に居続けるのは面目丸潰れじゃないかと。

118 :
う〜ん
よく掘越公方は鎌倉に入れず止まって掘越公方と名乗ったって記述をよく見かけるけど、もしかしたらそもそも鎌倉に入る意志がなかったのかも。
今川が鎌倉攻撃して荒廃した、もしくは成氏が鎌倉を退去する際に鎌倉に火をかけてから古河に向かった為に鎌倉に価値がなくなっていたとか。
現に後代に早雲が大森氏を討ち、三浦を討つ為に侵攻した際に大船に玉縄城を築城して扇谷上杉の支援を防ぎ、三浦半島南端の新井城を包囲し続けたが鎌倉はすでに重要拠点にはなってなかったし。
北条氏綱の時代になって里見氏が鎌倉を襲撃し火をかけて荒廃させたので氏綱が鶴岡八幡宮を再建したと言うが、その前にすでに鎌倉自体が主戦場から遠い辺地になりさがってたんじゃないかな。
掘越公方もいつでも今川の援軍が得られる伊豆に留まるのが安全だと思ってたら早雲に騙されて滅ぼされたと言うことかな。

119 :
甲斐って混戦状態でまともに堀越公方を支援できないんじゃないか?
逸見氏が武田と甲斐源氏嫡流と甲斐守護の地位を巡り長年争ってたんじゃなかったっけ。
その後信濃守護の小笠原氏から武田支援?にきた跡部氏が武田と対立してる。まぁ小笠原氏が甲斐を奪おうとしたのかも。
とにかく混乱状態で甲斐一国をまぁ支配できたのは信玄の父信虎時代。それでも武田が小山田氏と協調体制にしたからだし。
武田は上杉禅秀の乱で上杉についた為に鎌倉公方についた逸見氏が再び甲斐を手中にしたが鎌倉公方勢力拡大を嫌がる幕府が甲斐守護を武田に与えてる。
つまり武田は鎌倉公方よりは幕府と上杉よりなのは今川家と一緒なので堀越公方を支援してもおかしくないね。

120 :
堀越公方が鎌倉に入れなかったのは恐らく三浦氏があまり歓迎しなかったのでは?
後年に早雲が鎌倉侵入した経緯を見るとまず、三浦方の岡崎城(平塚市?伊勢原市?)→三浦方の住吉城(逗子市)→鎌倉に玉縄城築城→三浦新井城包囲
と行動してる。
一気に新井城を突かず玉縄城を築いたのは上杉の援軍を防ぐため。
その一方で三浦道寸は上総の真里谷氏と婚姻関係であり、下総安房の里見氏の存在も気がかりだったとされる。
しかし扇谷上杉が堀越に協調してれば三浦氏も従うはず。やはり扇谷上杉が非協力的だったのでは。
山内上杉が守護国伊豆に堀越公方を迎えても扇谷上杉が守護国相模へ迎えようとしてないよな。
ところで関東管領上杉が越後で敗死した際に養子で古河公方政氏の弟が管領職継承しようとしたら政氏の息子高基が反対し争う事になるんだ?
しまいには常陸佐竹軍が高基討伐に出陣し宇都宮軍と衝突までするし…
高基の子晴氏と氏綱の娘が婚姻関係だからか?
高基の弟の小弓公方義明との対立軸で考えた方がよいのかな?

121 :
親上杉の父と対立した高基は一時宇都宮を頼る。
高基の弟は僧籍から還俗謀反し小弓公方として自立。
高基の長男晴氏(母は宇都宮からきた)は氏綱の娘。その縁で高基は親北条だったようだ。晩年に晴氏と対立するのは以下の事から。
のちに山内家と和解し実子のいない管領山内憲房へ次男の晴直が養子へ(宇都宮からきた母を持つ)一時管領を継ぐが成長した憲政に追放され上総へ移転。義明の娘を正室にする
ちなみに晴氏は北条の力を利用し小弓公方義明を滅ぼしてる。氏綱死後に氏康と対立し両上杉と同盟して川越夜戦で大敗し北条の血が入った息子義氏に古河公方を譲る。
他の子供藤氏は関宿などの重臣など北条と対立するものらが中心になり上杉謙信が古河公方に擁立する。

122 :
上杉顕実は、戦国時代の武将。上杉顕定の養子で足利成氏の実子。
1510年、顕定の死後、関東管領職を継承するが、顕定の養子の上杉憲房と対立する。
実兄の足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子の足利高基を味方につけ対抗し、関東は二分された。
武蔵鉢形城に拠ったが憲房に敗北。政氏を頼って逃亡し、まもなく病没した。
ウィキペディアより。
とにかくも関東管領上杉憲房を高基は支持してたようだぞ。その子憲政が暗愚で上杉は謙信に譲ることになるが・・・

123 :
長文乙なんだが・・・・

124 :
どっか関東を舞台にしたゲーム出してくれないかな。
関東管領や古河公方になって戦うゲーム。
成氏でプレイしたい!息子や孫がバカばかりなのがキツいが…父や兄達の無念を晴らす為に早雲や景春、為景を遠隔操作して両上杉を窮地に追い込み鎌倉に帰還して掘越や今川を討ち富士山を眺めながら
「父の持氏の御代の時代にくじ引きバカ将軍が富士の花見にきたそうだが家臣の謀反で殺されたと聞いたな…無能な室町御所に取って代わらん!」
成氏の野望キボン!

125 :
上野国では新田や足利を使い分けてきた岩松氏が上杉禅秀の乱で分裂し、禅秀に味方した新田満純が敗れ殺され、満国は幕府や足利持氏について勝ち馬に乗った。
満純の子家純は関東管領上杉と室町幕府側につき永享の乱を乗り切り岩松氏を再興し礼部家を起こす。
一方で永享の乱で幕府に対立した足利持氏について敗れた満国が責任を取り弟の孫持国に家督を譲り京兆家を起こし、
のちに幕府公認の掘越公方を支持した礼部家の家純が古河公方に味方した持国の京兆家を謀殺し岩松氏を統一している。
岩松氏は太田金山城を中心に栄えたらしいが版図や影響範囲がよくわからん。
基本的には一族を二つに分けて足利公方と上杉管領の間をうまく遊泳していたようだ。

126 :
そのへんの前後が詳しく出てると思われ!
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Ibaragi/Kounosu/
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Satellite/Sekiyado/index.htm

127 :
>>117
里見が結城合戦に敗れて、三浦半島を経由して房総半島に来たというのは明かな誤り。

128 :
一般的には三浦半島経由と言うのは否定的ではあるが里見有力家臣の正木氏の祖である正木通綱が実は早雲に滅ぼされた名門三浦氏の正統な後継者で三浦半島を奪回したくて里見氏が北条家と対立的な行動をとったとも。
そういった間柄から里見氏が三浦半島で援助を受けて安房に渡っていたのでは?との推論も可能なのでは?なにせ短期間に安房を手中におさめているのが不思議。

129 :
里見氏が安房に来たのは享徳の大乱の前後。
関東足利氏が安房の上杉氏勢力をつぶすために奉公衆の里見氏を送りこんだ。
里見氏が短期間に安房を平定できたのは足利氏の後ろ盾と名門の貴種性によるもの。

130 :
>>129
だよね。
成氏が送り込んだんでしょ?里見って。

131 :
貴種なら勢力を一気に拡大できると言うのはちと乱暴すぎないか?
それなら源氏の佐竹家は簡単に常陸統一できるはずだろ。

132 :
ですね。
それだけならば、そもそも権威ひとつで政権を安定させられますから。
当然、関東における北条氏の勢力拡大もあり得なかったと。

133 :
>>132
伊勢氏もそれなりに貴種ではある件。
それに早雲時代は今川家の勢力拡大だったし。
早雲自身は死ぬまで今川家臣として筋を通していた。

134 :
貴種なら勢力拡大できるなら甲州の武田家は楽勝で甲州を統一して信州も支配できますね。
しかも晴信よりはるか昔の信虎以前に。

135 :
吉良も斯波も衰えないから徳川も織田も出てこないわな。

136 :
>>131
常陸は佐竹以外にも貴種が多い。

137 :
>>135
もし吉良・今川・斯波という足利一門の中核が磐石だったら
織田や松平なんて守護代や国人レベルにとどまってたのが確実だよね。
こいつらは足利一門を踏み潰して天下を簒奪した、足利一門の仇敵。

138 :
>>137
といって分家である今川家の勢力拡大で吉良家は・・・

139 :
そもそも上杉勢力は安房や上総にはなかったと思うんだが…

140 :
伊勢氏って言っても早雲は本流じゃねーし、今川下向した際も伊勢氏の血を武器になりあがったんでなく
己が実力。

141 :
小弓→生実→生実野→おゆみ野
だんだん原型をとどめなくなってきたなあ。

142 :
>>140
姉(妹とも)のつてをたどって、今川の外戚として活動している時点で、
血を武器に成り上がったと見て良いだろうよ。

143 :
対抗相手の小鹿相手にはまったく伊勢家の血が役に立ってませんよ。
道灌や堀越公方も小鹿支持で駿河へ進軍してきたくらいですからね。
ものすごく早雲不利な情勢でしたし、援軍なんてないですから、己が力量で
調停し乗り切ってます。
しかも今川・伊勢の血が入った龍王丸は蔑ろにされ小鹿と家臣団は当主の地位を結局は譲りませんでしたからね。

144 :
堀越公方が鎌倉に入れなかった理由の一端が垣間見える  ウィキペディアより
政知には山内上杉家の他、渋川義鏡などが付けられていたが、実権は全て幕府に握られており、
関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、
手前の伊豆国の堀越に入り、堀越公方と称した。
一方顕房は1459年(長禄3年)、太田庄の戦いにおいて大敗を喫し、1466年(寛正7年)には陣没。
後は顕房の養子の上杉顕定が継いだ。
1471年(文明3年)、成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻し、政知は三島で敗退した。
顕定ら上杉方は成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣。下野国内の諸城を降した。
この間、成氏は幕府主導の改元に従わず、享徳の年号を使い続けた。
鎌倉維持は不可能で成氏側は遠く伊豆まで出兵してくるくらいに猛威をふるっていたようだ。
1467-1477年は応仁の乱の最中で幕府に関東に対する干渉をする余裕すらないし
今川や堀越公方も将軍護衛のために兵を出してるし。

145 :
しかし大森氏や三浦氏ってのは扇谷上杉配下でありながら成氏軍を易々と三島に進出させてるのかよ…何やってたんだこいつら?他にも横浜市の権現山城の扇谷上杉ナンバー2の上田氏も…
1476年にならんと長尾景春が武蔵中央部で暴れだしりしてないが…武蔵中央部で変事があり援軍として多摩川を越えて北上してたのか?まさか長駆して山内上杉に合流し古河城落城の場に居合わせたのか?
ちなみに1471年って言ったら長尾為景が生まれた年だね。山内上杉の実力者で家宰の長尾景信(上杉憲実の家宰長尾景仲の子で景春の父)が下総に進出し古河城を落城させて成氏は千葉氏の元を頼り翌年には古河城奪回。景信が再び下総に出陣し優位に戦いを進めてたが陣没。
扇谷上杉と家宰の道灌はなにやってたんの?まさか成氏軍に敗退してたの?

146 :
大森氏って上杉禅秀の乱での功績で小田原城に封じられたんだっけ?
三浦氏は名門だからずっといただろうけど。
大森氏って新興勢力?
掘越公方政知と大森当主と扇谷上杉当主の三人ってなぜか同じ年に死ぬんだよね。若年当主に移り変わるとほぼ同時期に早雲が反旗を翻して背後を襲うんだけど都合が良すぎて早雲・景春・成氏あたりの謀略での混乱による謀殺だったりして。

147 :
ちょっと調べたら成氏と敵対していた扇谷上杉は1462年から掘越公方とも敵対し始めたらしいよ。それで成氏との和睦を考えていたが成立しなかったとか。
扇谷上杉の意志は伊豆から相模への侵入を許さずという態度だったのかも。
成氏が三島で掘越公方の軍を撃破した際は素通りさせたか合力してたのかも…

148 :
弱体衰退してた秩父氏の一族の豊嶋氏や江戸氏を討つくらいなら扇谷上杉氏を率いてれば楽勝だろ。だが長尾景春を捕捉できず、逆に謀殺されて再び長尾景春の活動が活発化してるんだから労多くして利少なしで終わってる。
だいたい今では岩槻城は忍城城主成田氏が築城したとわかってきてる。

149 :
この改行知らずの流れはちょっと不気味なんですが・・・

150 :
数々の疑問が解決され良スレのヨカン

151 :
道灌って誰が暗殺の黒幕なんだろね。
山内当主はそんなに頭まわりそうもないし、道灌が死んで誰が一番特をするかだよね?
復讐なら江戸氏や豊嶋氏といった秩父一族だけど今回は知謀面での暗躍だから難しいね。
戦略的には長尾景春か古河公方だよね。
でも古河公方成氏って対立してる山内中枢や扇谷家臣へ讒言を吹き込む人脈ってないと思うんだ。
代々の関東管領山内上杉家宰の家柄である長尾景春は上杉家の人脈や内情に精通してるから私は長尾景春が道灌暗殺の真の首謀者だと思うな。
景春なら成氏にも謀略成功の為に協力を得られる立場だと思うし。
それに同じ長尾氏の越後長尾為景の協力を引き出してたり、同じ平氏の秩父氏の協力を得たりと人脈利用の達人だと考えられるしね。

152 :
たしかに山内顕定が道灌を謀殺の首謀者だとは思えないよな。
そんな知略があるとは思えんw
成氏もどっちかって言うと父親譲りのDQNだが武略の才はあったような気がするが知略となると・・・
景春が状況的にも一番真犯人っぽいね。

153 :
太田道灌の墓・首塚(伊勢原市)
http://isehara.ne.jp/doukan/kubi/kubi1.JPG
http://isehara.ne.jp/doukan/kubi/kubi2.JPG
http://isehara.ne.jp/doukan/kubi/kubi3.JPG
http://isehara.ne.jp/doukan/kubi/kubi4.JPG
太田道灌の墓・胴塚(同)
http://isehara.ne.jp/doukan/dou/dou1.JPG
http://isehara.ne.jp/doukan/dou/dou2.JPG

154 :
写真に出てる方がカキコ主ですか?乙です!

155 :
道灌暗殺ってかなり手が込んでたのね・・・
でも、ある程度「招きに応じたら拙いかも・・・」と察知してたところはあるんじゃないの?
行かなければ謀反の気配有りと受け取られるような状況を含めて。

156 :
17 :名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/03(水) 00:30:38 ID:E2qYRimV
道灌は困りはててたのは事実。なんせ景春党の豊島一族残党が平塚城で再度挙兵し相模へ戻らなきゃならなくなったし
成氏は和睦したフリをして道灌を欺いて房総半島で千葉孝胤に景春と呼応させ上杉から離反させるようにして道灌を房総半島まで誘導してる。
結局、武蔵東部での足利成氏の介入もあり、武蔵西部では日野城落城までの進出が攻勢限界点となり、秩父深部への戦線に介入できない為に
鉢形城は奪回され、奪回するの繰り返しの泥沼。あげくに景春・成氏側は幕府へ和睦の調停を依頼し、ヤリ逃げ、ヤリ得状態で終結させてる。
これにより堀越公方が伊豆から東へ進出できない事が確定してしまい成氏の地位が安泰になってしまう。
このあとの成氏・景春側の戦略は道灌を除き両上杉を仲たがいさせて、疲弊させるのが至上命題と言ってもいいだろう。
ここで注目したいのは、道灌が死んで2年後にはなんと扇谷上杉側に立って須賀谷原の合戦に参加し
かなり苦戦中の扇谷勢の中で長尾景春の伏兵の活躍と奮戦により逆に戦局をひっくり返し優勢となり、本陣に攻め込まれた山内上杉方が戦場から先に退却してる
ということだろう。ちなみにこの闘いでは道灌の嫡男太田元六資康が山内上杉顕定方で在陣していた。
なんと景春がのうのうと扇谷上杉に参加しているではないか。道灌暗殺の黒幕は扇谷上杉の人脈に入り込んだ景春なのではないか?
関東管領山内上杉の主導で古河公方との和平を取り決め、それを主筋の扇谷上杉に納得させる為に道灌は使いしてる。これも道灌を陥れる策の最初の一手だろう。
山内上杉の元家宰の家柄の景春からすれば山内上杉人脈を通して山内上杉顕定の耳に道灌を陥れる策を吹聴し、それを扇谷上杉に仕込む事も可能だろう。
この闘いの後に高見原の合戦が起きたがこの時は同じ長尾家の越後の長尾為景を扇谷上杉方の味方として呼び寄せてる。この時に扇谷上杉定正が落馬死去。

157 :
堀越公方政知の執事は禅秀の子の教朝。その子、政憲の時に 成氏が伊豆三島に出兵し(1471年3月)上杉顕定らが政知を助け、成氏の軍を破る。堀越公方は山内・犬懸の両上杉が協力してるが、
道灌の補佐する扇谷上杉は無策か?それとも堀越の相模入国阻止か?もしくは上杉管領軍を率いる長尾景信傘下にいる?と思われる(5月に道灌の弟が館林城を落としてるらしいが・・・?)
6月には長尾景信が成氏を古河城に破る。成氏は千葉孝胤を頼り逃走。1472年2月に結城氏の助力で成氏が古河城を奪回。
古河城奪回のために進撃してきた長尾景信の指揮により上杉軍有利な戦いになるも景信は61才にて天寿をまっとうし陣没。
11月に道灌が補佐する扇谷当主上杉政真(24)討ち死にして叔父の定正を扇谷当主に擁立する。

158 :
1471年に成氏が三島で堀越公方政知を攻めた際、駿河守護の今川義忠が撃退したとも。
道灌の弟ではなく赤井文三分六が高師久の守備する館林(大袋)城を陥れたとも。
山内上杉管領軍傘下(事実上長尾景信指揮下)に道灌の弟はいて下野方面で従軍してるっぽいが(そもそも道灌と弟って仲良いの?)
ただ扇谷と道灌が堀越公方に対してどういう態度なのか不明だが扇谷が支援してくれれば堀越公方が鎌倉に
入るのは難しくないと思われ、やはり相模入国に非協力的だったのでは?
>>147
1462年から堀越公方と扇谷上杉が対立してたなら、堀越との対立軸にある古河側の支援を扇谷では暗にしていた可能性すらあるので道灌の動きがまるでないのかも。

159 :
>>134
甲信は貴種がそこらにゴロゴロしてるんだが

160 :
>>146
大森は当主が空位で隠居した前当主が家政を見てたんじゃなかったっけ?
大森は駿東から西湘まで押えていたけど内紛も多かったらしい。

161 :

今川氏輝と彦五郎って同日あぼ〜んなの?

162 :
この時代を知りたいなら新人物往来社の「関東管領・上杉一族」(著・七宮ケイゾウ)って本がおすすめ。
宗尊将軍の鎌倉下向から上杉謙信時代までの流れがわかる。
ただし廃本なので図書館で探してね。

163 :
     \ ||ー――-、,,__,,,,――|l/       足利 義教      .;.;::;:;;:;;:,;,,;:;:;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,;,
      /:/l::|:::::::‐=・=ヾ' ;;''=・=‐.ll  . _,,;-‐''"~           .:..::..,....::.,.;:;..,:.:;;:,,.;.;::;:;;:;;:,;,,;:;:;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,
⌒‐-,,,,_ /:/ヽl|:::::::::::'´   | ::::::::::llリ/ヽ          __   \_ `‐\___/::::::/   // ̄^.;;;;;;
    ヽ/ ヽ. l|:::::::, '     ! :::,'l||:::::::::::::ヽ       ./ ○ ヽ、 / `-_______________,,,______//  ○  \
    く:::::::::` |:::''´ _,,, 'ー、r' ::::,'||::::::::::::::::::ヽ     /      \,,,--―''''''''''''''''''''''-―-ー /         ヽ
     ヽ:::::::::|::::::::l´ャ―-―ァ'l::,l,___/..       ⌒‐-,,,,_  /:/ヽ-\-,,,,__,, -/ーー-||   _,, ;-‐''"⌒~~~
         ト、::l  ` ̄ ̄  .l,l.      /\    .     ヽ/::::|| (●)    (●) ::::;:||  /:::::::ヽ.;:;..,:.:
         ,,| ヽ|:::::::::::: ̄:::::|/,,,,__ /,、  ./\       /:::::::||.   \___/  ::::::::;;:||::::::::::::::::::::: ヽ;;:;;
 ̄ ̄天 ̄天 ̄| ,、ニttttttttttttt'::::::ヽ、 /.、 .ゝ,/:::::::::::      く:::::::::::ヽ.   .\/   :::::::::::::;;:ソ :::::::::::::::::.:..::;;;;;;;;
zzz,、-ヾヽ┴(~ヾ, '''''    ,  ></ ゝ,ノ/::::::::::::::/                     ,;,,;:;:;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;
 ,,」   ヾヽ |l:l:|::ヽ、__,,,、r'"  //( ) /::::::::::::::::/::::::    .:..::..,....::.,.;:;   足利 持氏   ;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;
室町幕府(足利義教) VS 鎌倉公方(足利持氏)決戦!! いよいよ終幕へ・・・
「足利義教と共に苦難を乗り越えるスレ(ディレクターズカット版)」
http://asikagayosinori.web.fc2.com/index.html
お暇なら見てください・・・

164 :
>>129
確かあそこの守護は山内上杉だった筈だけど、山内上杉が安房で何かやったって話は聞かない。

165 :
安房って山内なの?そういった話は始めて聞いた。

166 :
確か
上野→山内
下野→宇都宮
常陸→佐竹
下総→千葉
上総→千葉
安房→山内
武蔵→扇谷
相模→扇谷
伊豆→山内
であっていた筈?

167 :
>>166
成氏親父の持氏時代には
上総に幕府派・宇都宮持綱(持氏に誅殺されて一時没落、結城合戦で復活)
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho345.htmでは
鎌倉府近臣の上杉定頼が安房守護も兼任していたと・・・
相模は三浦氏
下野は結城や小山持政(成氏の側近?)

168 :
この「小山田(上杉)定頼」って人物は、扇谷持朝幼少期の執政代行者だったのか・・・
なら扇谷家が上総、安房守護を兼任していたとなりますね。

169 :
>>167
馬加に倒された千葉胤直が下総と上総守護を兼ねていたのは確か。
(細川勝元が文安5年に相模守護上杉持朝と上総守護千葉胤直に京都泉涌寺末寺の鎌倉覚園寺領の保護を命じている。

170 :
>>169
うん。千葉介胤直が補任されたのも知ってます。
宇都宮持綱と小山田定頼は胤直の前ですね。
ところで、扇谷上杉氏って持氏時代の勢力ってはっきりしないですね。
山内上杉家では、執政・長尾景仲は上州白井、憲実弟・上条清方は越後上条、
越後守護代・長尾実景、被官?の上杉憲信(性順)・武州庁鼻和、大石憲仲は武州八幡山など・・・
名前がでてきますが。
それに対して、扇谷持朝の有力被官、家臣って誰がいたのでしょうか?彼らの本拠は?
太田道灌の父、資清は持氏在命期の執政だったのでしょうか?
よければアドバイスを下さい。


171 :
一応安房は、
山内→結城→小山田上杉→里見横領でイイっぽい。
扇谷上杉は山内上杉に匹敵するのは享徳の乱以後(扇谷定正自身が書状で若い頃の扇谷は山内に比べれば大したことがないとバカにされていたと書いている)だから、安房は恐らく小山田上杉家としての守護分国だったと推定。
>>170
扇谷の持氏時代は恐らく相模一国の守護と考えられるため、被官もその周辺部が中心と考えられる。

172 :
>>171
なるほど。
しかし、相模守護は永享の乱で持氏を裏切った三浦時高が守護ではない?
それと、山内上杉の家宰・白井長尾氏と並ぶ、扇谷上杉・家宰の太田資清・資長(道灌)父子にみる『太田氏』の存在。
・太田資清はすでに、持氏時代には家宰であったのでしょうか?
・武蔵進出(岩槻、河越、江戸城整備)以前はどこを本拠としていたのだろうか?岩附辺りですか?
・享徳の乱以前の扇谷家は、深谷家(上杉憲信)らと対等で山内管領家の一門衆で臣下扱い?
また、上杉禅秀子孫の犬懸上杉家って、永享の乱の際に幕府軍の総大将に祭り上げられたが、
鎌倉討伐後に関東に土着できなかったのは、支持する勢力がなかったって事?
鎌倉府内部で処理(上杉、千葉、三浦などが持氏を攻めた)したから、介入する余地が無かったのかなぁ?
分かる範囲で結構ですので、ぜひともアドバイスを・・・・

173 :
>>172
三浦時高守護説は確証がない。
そもそも上杉禅秀を支持した三浦氏に守護を戻す事は持氏を露骨に刺激する事だし、そもそも時高自身はその後反幕府行動を全く取っていないのに扇谷上杉が後に守護職を手に入れたという事実が矛盾となって解釈が付かなくなる。

174 :
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miura_k.html
>応永二十三年(1416)、前関東管領上杉氏憲(禅秀)が、鎌倉公方足利持氏に背いて兵を挙げた。
>「上杉禅秀の乱」であり、乱は関東を二分し、鎌倉を中心として激しい合戦が展開された。
>この時期の三浦氏の当主は高明で、高明は持氏方に属し、相模守護として相模の武士を率いて乱に参戦した。
>持氏は緒戦に敗れはしたが、駿河守護今川氏の応援を得て鎌倉に復帰し、幕府軍の援助も受けて、
>ついに禅秀一党を自害に追い込み、乱は持氏方の勝利に終わった。
>しかし、これで平穏が訪れるることはなく、公方持氏の恣意的政策によって関東はますます乱れていった。
>応永三十三年、相模守護は一色氏が任ぜられ、三浦氏は相模守護職を奪われてしまった。
>一色氏は公方持氏の近臣であり、持氏の母は一色氏の出であった。
>つまり、近臣を重用して権限の独占をはかった持氏によって、三浦氏は相模守護職を解任されたのである。
>以後、三浦氏が相模守護職に復帰することはなかった。
ここでは、禅秀の乱では持氏方となってるよ。>三浦氏
持氏が相模守護に重用した一色氏って、あの一色直兼の事かな?
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/o_uesugi.html
こちらでは扇谷持朝は、結城合戦の功により相模守護となる・・・と書いていますね。
このサイトはウィキペディア同様にアテになりませんかね・・・?

175 :
そもそも関東の守護を任命しているのって幕府?鎌倉府?

176 :
足利義明と武田信虎は交流があったんですね。

177 :
室町期の関東は資料によりずいぶんと混乱してるね。

178 :
>>175
守護を補任したのは、関東であろうと幕府

179 :
これも役に立つスレなので、揚げ。

180 :
>>176
信虎は関東では両上杉方だから、あまりなさそうだよね

181 :
政氏は義政、晴氏は義晴の偏諱だよね
歴代もらったり、もらわなかったりの事情はどんななんだろうか?

182 :
偏諱の話に便乗して、私も以前からの疑問を一つ、皆さんにご教示いただきたい。
通常、関東公方四代と言われる系統は似三代満兼を除いて通字は「氏」。
京都の将軍家は初代尊氏を除いて通字は「義」。で、良いですよね?
義国以来の足利氏全体を見れば通字は「義」なのか?とも思われるが、
尊氏の直系父系で見れば「氏」でよい気もする。それを、分家筋の関東
が名乗り、なんで京都将軍家は先祖返りしたのか? 
政権を源氏に奪還した尊氏の偉業を考えれば、「高」を新しく通字にしても
良いはず。(「尊」の字は色々な意味で避けたであろうことは理解できます)
どうでもいい気もするけど、なんか昔から気になってるんですよ、この一族。
「通字についてどう考えて元服名を決めたの?」って w

183 :
>>181
鎌倉・古河公方で基氏以外で将軍の偏諱を貰ってない人はいないのでは。
成氏は義政の初名義成から、高基は義澄の初名義高から、ちょっと脱線して
藤氏は義輝の初名義藤から、といった具合に。
義氏に至っては将軍の通字を貰っている。
貰っていない人を強いて上げれば持氏の嫡子義久くらいか。
持氏も息子に「教氏」とでも名乗らせておけば義教に殺されずに済んだのかも。
それだけ偏諱が重要視されていた事の表れなのか?
>>182
「義」の通字は源頼義以来の河内源氏、即ち清和源氏の棟梁のものであり、
源頼朝の血統が絶えて足利氏が源氏の棟梁と目されても執権北条氏に対する
遠慮か何かがあって、「義」の通字は使えなかったのでは?
北条氏が滅んだところで本家の将軍家で「義」の通字は解禁、分家の鎌倉公方
には格を下げる意味で「氏」を通字にしたのでは?

184 :
>>183
レス、ありがとう。
「義」の字が清和源氏河内流にとって大きな意味を持つ通字であろうことは同意できます。
それでも、鎌倉三代が「朝」を通字にしたことにならって、新たな通字(上のようにたとえば
「高」)を設定しても、先祖からも後世からもそしりを受けるおそれはなかったはず、という
疑問は残りますが。まぁ、これも「たった三代で滅ぼさされた悪例を嫌った」という理屈は
通りますけどね。
同様に、四代続いた「氏」の字を「格を下げる意味」で使った、というのは尊氏本人は納得
できるのかという疑問が残ります。
直系父系ってそんな扱いを受けるような軽い存在ではないでしょう、中世武士にとって。

185 :
高は通字にゃなり得ねえよ。高氏も高氏の兄高義も北条高時の偏諱だからな

186 :
秀忠の秀を徳川宗家の通字にするようなものか。
そら、ありえないな。

187 :
頼朝は義朝という父があっての関東地盤
足利が先祖で特に立てるとすれば、やはり八幡太郎
従って義なんじゃ、と言ってみる

188 :
>>183
義氏の場合は単に「藤」の字を兄貴に授けちまったから「義」を授ける以外に手が無かっただけでは?

189 :
>>188
輝氏は他にいるんだっけ?

190 :
>>187
喜連川足利家では「氏」ですね。

191 :
>>189
いや、そもそも義輝に改名する以前じゃないのか?>義氏元服

192 :
>>190
近代になって絶家になるまで○氏だったものね。
とはいえ、いろんなところから養子を迎えているので血筋は別物ですが。

193 :
>>178
相模は鎌倉府の本国なので鎌倉府の意向に反する補任は行わない慣例だった筈。
従って、実際の人事権は鎌倉側にあった。

194 :
昨日松本城へ行って来たら、主な戦国大名の出自で「足利晴氏」が
なんと「土豪」扱いされてた。
ちなみに東北地方には主な大名は無しだった。

195 :
>>194
何じゃそりゃぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜っ!!!!!
関東随一の貴種を何だと思ってるんだろうね。

196 :
長野業正に守られながら見事に敗走しましたね。上杉朝定に至ってはセリフがほとんどナシですか……

197 :
朝定は出てるだけまし
公方様なんて会話の中で出てきただけ

198 :
スリーハンドレッドみたいな。

199 :
この後は甲斐の山猿や相模の城泥棒の孫に追い回され、
挙げ句の果ては親の敵の家の世話になるのか・・・
時勢には逆らい難しといえど、哀れなり関東管領。

200 :
しかもその後、居候先の家督争いに巻き込まれて死ぬ

201 :
喜連川や宮原は徳川からそれなりに優遇されているのに阿波公方の方は
なぜあんなに冷遇されたのでつか?
こちらの方が足利の嫡流に近いのに・・・
細川京兆家は大阪の陣で豊臣方として参戦したから仕方ないけれど

202 :
単に、喜連川なんかは関東土着の貴種だからなんじゃないの?
それ以上深い事情がうかがえる史料があるなら、俺も知りたいけど。

203 :
蜂須賀家の政策で平島公方は、権威を徹底的にそがれた。
蜂須賀家からしたら、落ちぶれたとはいえ、将軍家の末裔が領内いては、
物騒で仕方ないから当然の措置だと思う。
平島家は、それを保護していた細川家・三好家ともに没落してしまったし、
もともと経済基盤がしっかりしていた訳ではない。
祖谷山の平家の落人の末裔に対しても同じような政策をとった。
(平家の旗印を一旦没収、後に額装して返却。)

204 :
>>201
鎌倉・関東公方家というのは代々「左馬頭」「左兵衛督」に任ぜられる慣習になっており、
それに倣い、喜連川頼氏も左馬頭に任ぜられている。
つまり、鎌倉・関東公方家の嫡流として公に認められた家柄だった。
これに対して、阿波公方家は無位無官。
足利将軍家嫡流も途絶えている状況であり、無位無官の平島家を引っ張り出すよりは
喜連川足利家に若干の加増をして厚遇しておけば良いという考えに至ったのかも知れ
ない。

205 :
>>203
長宗我部の統治時代は現状維持だったね。
期間的には短かったけれど。

206 :
祖谷山の平家の落人の末裔
木地師の嘘じゃなかった?

207 :
>>204
>鎌倉・関東公方家の嫡流として公に認められた家柄だった。
というより、足利家の嫡流という考え方でしょうね。
喜連川家の当主が「従五位下 左馬頭」に任ぜられている時点で明らかです。
これは豊臣政権からの引き継ぎ事項のようなものなのでしょうが、義昭の子・高山に名跡を継がせず、
敢えて嫡流を絶家に追い込んでいます。
徳川政権としても面倒を避けて、既に知行を有し、「従五位下 左馬頭」の官職にある喜連川頼氏を
足利家の末流と位置づけることで、この問題をクリアしようとしたのでしょう。

208 :
都鄙合体の後、成氏はどうして鎌倉に戻らないんだろう?

209 :
>>208
戻れる状態じゃなかったんでしょ?

210 :
>>209
簡単に言い切るねw

211 :
そりゃあ伊豆の支配権を掘越公方にあげたからじゃねーか。近くにいると何かと揉めそうだし
ぶっちゃけ古河に勢力圏作っちゃったので鎌倉に帰ると危険度増すだろ。
なんせ上杉同士で争って相模武蔵は荒れに荒れてる。

212 :
敵は相模武蔵上野ラインなので北伐する→留守を狙い今川が堀越を擁して鎌倉へ侵攻する
この無限ループを嫌ったんだろうね。
古河なら背後を狙う巨大勢力ないし、防衛上で大河の利根川を利用しない手はない。

213 :
むしろなんで成氏側は無謀にも伊豆に遠征したんだ?
おかげで留守の下野を襲われ長尾軍に古河城まで落される始末。

214 :
しかし、成氏がいなかったらここまで関東は面白くならなかっただろうね。

215 :
当事者たちにしてみれば、全然面白くないけどな

216 :
 

217 :
やっぱり小弓とか堀越とかって古河公方からすればムカつく存在なのかな?
なんか親子兄弟で対立したりして頭悪すぎ。
小弓公方なんて里見まで傘下にいれて房総をまとめてるし国府台で足利義明が自ら陣頭指揮して前線で軽挙妄動のあげく突撃しなきゃ北条に勝てたかもしれんのに…本人死んだら瓦解し里見は勝手に撤退しちゃうし。

218 :
堀越は当然として、小弓も古河公方のアンチテーゼとして誕生したからね!!
堀越は説明省略ね。
小弓の方は、武蔵進出を狙う早雲が1509年〜1510年頃に担ぎ出した。
その理由は政氏=顕定体制を打破するため

219 :
古河=千葉ラインに対する上総武田の当てつけ

220 :
>>218
前髪公方

221 :
よし!ワシも義昭に倣って手紙を書きまくり北条包囲網を作り鎌倉に戻るぞよ。
まずこれを読んだものは古河にはせ参じるように。

222 :
>>221
氏姫タンからの書状だったらはせ参じるお☆

223 :
氏姫タン・・・(;´Д`)ハァハァ

224 :
もし成氏も安王、春王と共に義教に首を取られていたら・・・
義教在命中なら、義教の実子を養子に取って関東公方家を再興させていたのだろうか?
義教死後は、管領上杉家が隠していた牙をむき出して専横が起きそうだが・・・
にしても、義教はどうして成氏を助命したのだろうか・・・?
赤松に殺される所から、敵と言う敵は全て滅ぼして有頂天になったと見受けるだけに
持氏の幼子など、今の将軍の権勢の前には抵抗出来ないとたかをくくったのか?

225 :
たしか細川が助けてくれたんだろ。

226 :
義教の実子を派遣しようとしたが関東の理解が得られなかった。それが結城城挙兵につながってる。
結城合戦の祝勝会で義教が暗殺されてる。将軍暗殺の混乱でうやむや。
細川や上杉が助命嘆願したんじゃないかな。特に上杉は成氏復帰に努力した形跡もある。

227 :
関東という土地柄は他所者を受け入れないところがあるからね。

228 :
そんな事はない。
ただ単に鎌倉公方や関東管領がともに将軍家の影響力を排除したかっただけ。

229 :
もし義教が関東を制圧する管領上杉の権威を切り崩すと考える場合
たとえば禅秀子孫の犬懸家を関東に組み入れさせる事は容易ではないでしょうか?
(今川、小笠原の牽制も必要だが)
あえて、里見や結城など反上杉勢力と裏で手を組んで上杉を牽制させる?


230 :
>>229
それはありえない。
そもそも関東管領は親幕府の立場なのにワザワザ敵に回すのは得策ではない。
扇谷・山内上杉だけで伊豆・相模・武蔵・上野の守護だし、越後上杉が後ろには控えている。
つまり利根川以西の関東は実質上杉領(家宰の長尾・太田が武士団を見事に統制してる)
さらに鎌倉公方が滅亡した後は上杉の天下になってしまい将軍直轄関東扶持衆(禅秀の乱を鎌倉公方弱体化に利用した将軍義持の密命で後援してた武田・山入・宇都宮・那須・真壁・大掾など禅秀戦死後は持氏に圧迫される)は消滅。
のちに結城合戦の時に犬懸家が幕府軍として参加してくる。また堀越公方とともに伊豆にも犬懸家は随行してるな。
また時には上総とかも上杉が守護だった時もあるからよくわからんね。例えば成氏に仕えた結城合戦で幕府軍にいた武田信長はのちに成氏に仕えて上杉領の上総を奪い取ってるし
もしかしたら結城合戦で敗れた安房の里見なんかも成氏の命で安房へ派遣され上杉領を横領してる可能性もある。
まぁ基本的には上杉とは同格だくらいに思ってる関東八屋形の宇都宮氏・小山氏・佐竹氏・小田氏・那須氏・千葉氏・長沼氏は反上杉親鎌倉公方という素地はあるから幕府としては牽制するにはちょうど良いヤツらいるから関東にはあまり深入りしないようにしてたのかも。
もちろん上杉から佐竹に養子として行った佐竹義人が親将軍源氏佐竹の血がかよう山入一族との対立から反将軍&上杉・親鎌倉公方になるなど関東は複雑怪奇なんだが。。。結城合戦後の勢いで義教は佐竹も討伐しようとしたが死んだので。

231 :
それ以前に平安時代には上野や上総や常陸は大国にして桓武天皇以来の親王任国であり
国司は正四位下に任官され
従五位上から下ランクしか任官されない諸国より位は高いという事を忘れるな。
かの織田信長は上総介であったし、信長にあこがれた松平忠輝は生涯を通じて上総介と呼ばせていた。
本多正純や忠臣蔵の吉良や幕末の小栗は上野介であった。
伝統と格式ある親王任国は3ヵ国のみ。
ちなみに他の大国は武蔵・下総を含む12ヵ国
上国は相模・甲斐・下野を含む35ヵ国
中国は安房を含む11ヵ国
下国は伊豆を含む9ヵ国だ。
このランクは常に土地に固執する武士団にとってはメンツという形でプライドなど思考や価値観に反映してるだろう。
例えば堀越公方にたかが伊豆国くらいならくれてやろうとか
北条早雲(伊勢氏)が伊豆を奪っただと!まぁ伊豆なんて別にいいやほっとけ!ってね。
安房を里見に奪われますた!あぁ武蔵湾は海賊だらけだから通航危険地区だからいまになってはあんな僻地いらね〜よとか。

232 :
ちなみに結城合戦の首謀者である結城氏朝の嫡男である持朝(足利持氏の持の字があるのは諱か?)は武田信長の兄貴である武田信重に討ち取られた。
禅秀の乱を武田信満が婚姻関係から支援した為に禅秀討死後に持氏に排除され同族逸見氏が甲斐を支配。しかも守護代跡部氏が隠然たる実力者だった。
持氏の勢力を削ぐ為に義教が甲斐国内の武田信長らと謀り甲斐南部穴山氏を継いでいた信満の弟の武田信元を小笠原の後援で入国させたが統治能力皆無だった。
武田復興を目指し義教の主導の結城合戦で功績をあげ将軍と小笠原政康(40年前の大塔合戦ではヘタレで小笠原家は信濃入国できなかったw)の援助で
一時的に跡部氏に頭を下げさせ武田信元に代わり武田当主になったが武田信重。
だが義教暗殺→9歳で将軍になるも8ヶ月で死去→中央は赤松氏追討で混乱中→後ろ盾がなくなり小笠原政康も没落を始め死去後に後継争い勃発→跡部明海親子増長→鎌倉公方成氏派の上総の武田信長の子を養子にして跡部氏排除をはかるが武田信元に謀殺された。
信重の後を継いだ信守は5年で死去し信昌登場→跡部明海死去→諏訪氏の援助で跡部氏排除→
穴山氏と武田が抗争開始→武田家督争い勃発し母が跡部明海の娘である長男信縄と母が小山田の娘である弟の油川信恵&信昌が争う中に北条早雲乱入→信昌死去し信縄勝利→その子信虎が信恵を敗死させ甲斐統一!

233 :
村上源氏の北畠親房は源氏長者と従二位大納言にもなってるよね。
のちに結城氏(藤原流小山氏であるが頼朝御落胤説もあり源氏と称する)とともに南朝勢力拡大のために常陸国にいき小田氏(藤原北家宇都宮氏の支流の八田氏で頼朝に従い常陸守護になる)を頼る。
源氏の佐竹家(親平家で頼朝討伐に失敗しのち奥州討伐に参加した時に扇に月の家紋になった)の攻撃を受けるも白河結城氏の協力で難局を乗り切る。だが下総結城氏は足利に降る。
北朝が高師冬を関東に派遣してくると小田氏から見限られ常陸西部の関氏や下妻氏や伊佐氏と協力して対抗。
南朝の左大臣で藤原長者の近衛経忠が藤原系関東武士団統率しようとして東国戦略の主導権で北畠親房と対立。
その後は観応の擾乱で尊氏派と直義派に分裂し正平一統などなど…関東武士団も敵味方がコロコロ変わったろう。
常陸国は
那須家も藤原北家流。
千葉や長尾、梶原、三浦、真壁、葛西、豊嶋、江戸、川越、、小山田などは平家。
武田、里見、岩松、太田などは源氏

234 :
目が滑る・・・

235 :
>>230
>結城合戦後の勢いで義教は佐竹も討伐しようとしたが死んだので。
そうなんだ。。。
ちなみにまさに結城合戦直後の山内上杉と扇谷上杉の関係ってどのような状態だったのでしょう?
当時は憲実が山内上杉家当主(義教に復帰させられた)でしたよね?扇谷持朝は憲実をどのように見ていたのでしょう?
憲実の弟・清方、執事の長尾忠政・長尾景仲、千葉胤直あたりも上杉方の中心人物?
そういえば持氏が鎌倉公方在任時、宇都宮持綱が上総守護になってる時期がありましたね。
結局粛清されて、息子等綱は諸国流浪・・・
そして上総は持氏側近の(小山田)上杉定頼に補任されたんですよね?
永享の乱で持氏側近・一色直兼や(詫間)上杉憲直は責を取って自刃させられたが
同じく持氏側近だった定頼および息子達の小山田上杉氏はどうなったのでしょうか?

236 :
小山田上杉氏は定頼の子朝藤が分倍河原の戦いで自害して実質上滅んだんじゃね?

237 :
>>236
なるほど。
ちなみに成氏方としてですか?それとも上杉方?

238 :
関東諸将の婚姻関係がよくわからん。

239 :
>>237
上杉方

240 :
もし成氏を殺害させ、持氏一派の死滅に成功した後。
将軍家の威光を関東に根付かせる事は不可能?
関東管領上杉家にして関東公方相当の権限を与え続ける事が一番の得策だったのか?
憲実なら幕府の意に大いに従うと思っていたのかな・・・

241 :
まぁ一応、関東管領は鎌倉公方に従う存在だが任命権は将軍が握ってたはず。
つまり将軍の威光に従う存在なので常に鎌倉公方の反幕府的行動を諫めてた。
だから関東管領は将軍がいつでも罷免できたわけだからね。
例えば義教が管領を上杉から畠山に変えるから派遣するよって言えば変更可能。
上杉が守護職を奪われ、長尾や太田も守護代を奪われ、
畠山新管領とその執事や郎党が乗り込んできても素直に従えばの話だが…今川の力を借りて伊豆から先に入国できるのか不透明だが。

242 :
>>241
結城合戦直後の義教専制期の幕府権威の前に、持氏一族が全て絶えていた場合
義教の嫡子を関東公方継承者として派遣したとして受け入れたのかな?
実際、嫡子の受入れを拒否したと聞くけど、鎌倉公方やさらに抵抗する残党を討ち果たした将軍家に対して抵抗できるのだろうか・・・
永寿丸が生き残ったからこそ関東諸侯は抵抗する源を得ていたのではないだろうか
義教の当時には、今川だけでなく信濃国人衆を纏めた守護の小笠原政康の力も大きいのでは?
>>232にあるように、小笠原一族の跡部明海が甲斐守護代として派遣して甲州においても影響力を持っていたのではないだろうか
その専制者たる義教が幕臣に殺され、幕府は混乱してしまった後の幕府権威では関東を従わせる力はないのでは
幕府が混乱している最中に、管領上杉家が関東で地固めしているだろうし。

243 :
そもそも関東府を力づくでどうこうできるほどの権力を幕府側が掌握してるなら反乱しようなぞとは関東府が考えないだろ

244 :
親による日々の幕府軽視の態度やそれを煽る家臣(国人)達がおるだろうから、
そのような環境で育った公方が代変わる毎に幕府をさらに軽視するのは当然の流れではないだろうか。
よほどの器量のある人物ではない限り、将軍家に対抗する権威を持つ公方が増長するのは無理もない。
そして露骨に将軍家に反発した関東公方が将軍家により死滅された。
しかも将軍は、前の将軍のような有力守護との合議体制でなく、将軍専制を固めつつある・・・
そのような状況下で、もし持氏一族が滅亡していたのなら
義教が実子を関東公方に据えようと画策したら抵抗できるのだろうか?
彼(義教)以降の将軍でこれだけ権力独裁した人物がいないだけに、彼の命ある限り関東府の歴史は変わっていたのでは?

245 :
上州・武州一揆など国人連合が反乱側についたり、敵側についたりで
そのつどチョコチョコ仕える勢力を変えるので関東情勢は複雑怪奇なので統治が難しい。
一揆連中からすれば将軍の子が来るとなると、また偉そうな主が来るのか!とたちまち抵抗すると思われ。
諸将からしても持氏うぜぇと思いながらも、いざ持氏が滅ぶと今度は上杉専制を嫌い成氏の復活を待望してたくらいだからね。
しかも越後上杉も成氏復活を希望するし・・・
昔、結城合戦後に成氏が延命したのは細川氏(細川持之か?)が不憫に思ったので名家の存続と思い助けて養育したと読んだことあった気がするがすまんソースはない。
もしかしたら細川&上杉ラインがつながってて義教の実子派遣に反対したんでは?また結城合戦みたいな事件起きますよって忠告して。


246 :
確か永寿王って信濃佐久の国人で守護代の大井持光に養育扶養されたんだよね。
持光が大井家全盛期の武人で信濃の国人衆を纏めた守護・小笠原政康もってしても影響力を与える事ができなかったようだね。

247 :
だがいくらなんでも大井氏だけの力で永寿王を庇うなんてできただろうか?
どんな政治利用の為に助けたのか?結城合戦みたいに滅亡をはらんだ挙兵も辞さない覚悟か?リスク高過ぎだろ。
信濃国は鎌倉公方管轄外地域だし…幕府方の小笠原氏と国人村上氏が対立した際に持氏が村上支援をしてた経緯からか?持氏が死んで関東王国は幕府影響下にあるんだよ。
甲斐は武田氏が小笠原&義教の後援で主になってるが義教死後は小笠原氏が衰退してるから守護代跡部氏の発言力は拡大してるかな…義教死後の将軍権力は義政もそうだが若年すぎて東国にあまり影響力はなさそうだが。
やはり時の管領…細川なり畠山(ずっと将軍が空位だったが義政将軍就任と共に改元し管領も細川勝元19歳くらい?から畠山になり成氏が鎌倉公方になる)なり幕府に影響力を行使できる後援者がいたんじゃないだろうか?
例えば山内扇谷上杉の将来の専制を危惧して鎌倉公方の血族を駒としてキープしとく。
そのうち役に立つ事もあるだろみたいな。そしたら義教が赤松の謀反で死んでそのままウヤムヤ。

248 :
永寿王が助命されたのは氏憲の遺児が助命された経緯と似てるのでは?
禅秀の乱では持氏を支援した義持だが、本心では幕府権力をないがしろにする持氏を警戒してたから遺児を助けたってのと似てないか?
もっとも義持の弟義嗣や幕府中枢の人々が氏憲と内通してたから氏憲も勝てる勝算あっての反乱なんだろうけど。
大塔合戦では信濃入国し小さな拠点保持がやっとだった小笠原氏も持氏討伐の時期では義教の援助で小笠原指揮下に村上氏とかは組み込まれてるはず。
いかに大井氏と言えど義教が激怒したら村上軍南下、小笠原軍が東進、関東管領の本拠地上野国からは上杉軍が薄井峠を越えて西進。武田も北上するから佐久地方など即死だろう。小県郡の諸豪族と協調したのかもしれんが無駄だろう。
やはり幕府での政治的意図があり助命かと。

249 :
>>248
>いかに大井氏と言えど義教が激怒したら村上軍南下、小笠原軍が東進、関東管領の本拠地上野国からは上杉軍が薄井峠を越えて西進。武田も北上するから佐久地方など即死だろう。
>小県郡の諸豪族と協調したのかもしれんが無駄だろう。
それならば、成氏も殺して義教の実子派遣でも良かったんじゃ・・・
将軍家実子派遣に抵抗する武州、上州国人一揆などの日和見勢力などは義教の絶大な影響力の前では大人しくしているだろう。
実子を補佐する管領上杉氏が幕府におぼえめでたい(思慮深い)憲実なら幕府に叛くような事はないのではないだろうか?
ただし憲実亡き後、相武上州に一族の結束の強い上杉家が、莫大な勢力圏を背景に増長する恐れもある・・・
氏憲末裔の犬懸家を将軍家下向に同行させ、関東に再興させ山内に対抗する家柄を関東に根付かせてはどうだろう?
東関東・南奥州国人衆が反山内家から、反山内家の頭目として犬懸家を支持を取り付けて対抗・・・


250 :
>>249
>将軍家下向に同行させ・・・
     ↓
将軍家の実子下向に同行させ・・・

251 :
だから持氏自害後に義教も最初は実子を派遣しようとした。
だが結果、結城合戦が起きてしまった。
いま結城合戦を平定したものの、持氏を支持した人々からすれば将軍実子がきたらどんな弾圧がやってくるかわからんから、話のわかる憲実の上杉支持してでも将軍影響力を削ぎたかったんじゃないかな?
上杉を使っての支配…これが関東を穏便に治める最上の方法かと。
中央政治も管領が将軍補佐。関東も管領が将軍補佐になればよいだけだし。
下手に実子を派遣しても将軍敵対勢力になる可能性あるし。
復讐報復は必ずあるのは成氏就任後は持氏支持した人々を優遇し上杉配下の守護代長尾氏の長尾郷を没収したりしてる。

252 :
>だから持氏自害後に義教も最初は実子を派遣しようとした。
>だが結果、結城合戦が起きてしまった。
これは関東公方の正統な血筋が生き残っていた事によって、それを旗頭にした事が
関東国人の一族が分かれて相争う事になったのでは?
それらの血筋を排除する事で抵抗する源泉を断てるのではないだろうか?
>中央政治も管領が将軍補佐。関東も管領が将軍補佐になればよいだけだし。
時の将軍・義教は日和見な管領を側に置いて、有力守護の一門を取り立て惣領家と対抗する力を持たせるなど
義教チルドレンの育成もあり将軍家専制を形成しつつあったが・・・
しかし既存の親幕・管領上杉家の力は関東国人衆を監視させ続ける事はバランスとしては良いかもしれん
思慮深い憲実亡き後を考えたら、何かしらくさびを打っておく事も必要と思うが・・・

253 :
よく考えてみたら大井氏は持氏敗死の時に甲斐の鍛冶屋に隠れていた永寿王を保護したんだよな。
その後の結城合戦の時に結城城に永寿王を届けたはず。
結城合戦では永寿王も捕らえられ美濃国の不破関で兄2人が殺害されるも永寿王は物心がまだなく東西不覚だったから助命され美濃守護の土岐左京大夫持益が養育したんだよな。
上杉相模守房定が関東にも公方と管領がいないとうまく統治できないと9年に渡り毎年、贈り物を届けに上洛してはまわりに頼みこんだから幕府のみなが、
確かにそのとおりと思うようになり将軍不在の合議制からやっと元服したので改元し足利義政として将軍になり細川から畠山に管領が変更になると成氏として鎌倉に下向してるはず。

254 :
>上杉相模守房定が関東にも公方と管領がいないとうまく統治できないと9年に渡り毎年、贈り物を届けに上洛してはまわりに頼みこんだから
義教が在命していて、永寿王も殺しておけば義教実子を関東公方に据え置く事も可能な訳だな。
結城合戦直後の憤死だったから、義教が生きていたら歴史は変わっていたのかも

255 :
日本は基本的に一族皆殺し文化はない。山名にしろ大内にしろ赤松にしても幕府に叛旗を翻しても乱が鎮圧されたら首謀者や物事ついた男児以外は助命される。
当主が誅殺されても氏族が滅亡する事はなく一族の誰かが名跡を継ぐのも基本。だから兄弟一族が争うことは多かったが。
赤松なんて将軍暗殺したが山名宗全を牽制する為に後南朝討伐の功績を口実に再興が許されるくらい。
いかな万人恐怖の義教とて鎌倉公方家を族滅させはしないだろう。
ちなみに越後守護上杉房定が鎌倉公方再興話を進めたのは守護代長尾家が鎌倉公方再興反対してた事への対抗心から。
越後守護代長尾家は上杉憲実時代から山内上杉に近付いていたので上杉全体から成氏の鎌倉公方就任は危険だと忠告してたから反発を買った。

256 :
関東公方に対して関東管領家は公方をなだめ諌めてきた事を考えると、永寿王を生かして後に公方に復帰させたとしても
物心の付いた永寿王が父に対する復讐心が生まれても、管領が抑えてくれると思っていたのだろうか・・・
ある程度緊張関係があった方が、中央としてはバランスが取れて良いからね。
成氏が成人して以降管領上杉と対立した時、管領上杉家は幕府と距離を置くようになったのは
中央が有力守護家の権力抗争であまり外には目を向けていない頃?
しかし将軍家に次ぐ権威のある関東府の公方なら、清盛の頼朝の処遇の先例を考えると
生かしておけば後顧の憂いになるとは思わなかったのかな?
後の家康による豊臣秀頼とその男子を抹殺なんて、その先例を憂いてでしょ?

257 :
上杉は中央から分離傾向になった事ってあったっけ?
扇谷の道灌が上洛して将軍の大切な猿をボコボコにしたりしてるがw
堀越公方(犬懸上杉が管領)には山内家が将軍の命に従って素直に伊豆国を譲渡したようにも見える。
頼朝は弟も排除する冷酷なやつだからね。平家族滅をした罪で源氏政権は平家系北条氏に簒奪された。弟の一族を外戚牽制役に残しておくべきだった。
清盛だって助命したし仏教文化影響下では過度な殺戮は好まれない。
後顧の憂いと言う考え方は九族に至るまで誅殺という中国文化の影響からでは?日本人には馴染まない。
まぁ悪魔みたいな織田信長や伊達政宗が短期間に覇権を確立できたのも皆殺しの撫斬りの衝撃からってのも多いでしょ。
奥州は婚姻関係でみんな親戚だから叛旗を翻しても許される事が多かったのに政宗は関係ねーよバァカ!な基地外だったからね。
特に義教と似たような性格の信長に至っては同じように比叡山を焼き討ちするから赤松ならぬ明智に謀反されたし。

258 :
>>257
奥州は婚姻関係でみんな親戚だから叛旗を翻しても許される事が多かったのに
だからエンドレスになって、多くの死者が出たんだろうなw

259 :
鎌倉公方を廃して上杉を探題に変えて将軍が直接支配下に置く考えはなかったの?

260 :
>頼朝は弟も排除する冷酷なやつだからね。
>平家族滅をした罪で源氏政権は平家系北条氏に簒奪された。
>弟の一族を外戚牽制役に残しておくべきだった。
「平家族滅をした罪」で臣下の北条家が簒奪?そんなの簒奪の正当化する為の口実じゃね?
その北条はライバルの豪族達を次々に謀反をけしかけて殺したよ。
ところで、扇谷上杉は太田道真、道灌らが岩附、河越、江戸など築城する以前には扇谷家はどこを本拠としていたの?
家宰の太田氏も本拠はどこだったの?
成氏との抗争で扇谷家が武蔵に在城するようになったのでしょうか?
山内家は上州平井、山内家宰の長尾景仲は上州白井、深谷上杉は武州庁鼻和(のちに深谷へ移城)、
憲実の弟で関東管領代行を務めた上条清方は越後上条・・・
なのに扇谷持朝や太田資清の本拠の城が分からない

261 :
>>260
春秋の筆法というやつだ。
なかなか余韻があってよいだろ。

262 :
道灌が暗殺された糟谷館があったいまの伊勢原市が扇谷の根拠地なんじゃないの?
まぁ基本的には鎌倉府に館があっただろうから出仕してたと思うから古河公方以降だね。
相模守護代太田氏はともに鎌倉の扇谷に屋敷があったんじゃないか?
古河公方以降は武蔵に進出し江戸城や川越城に移転。
岩槻城は忍城とともに成田氏が築城したらしいから奪いとったのかもね。

263 :
近江の六角高頼の妻が足利成氏の娘なのはナイショだ。

264 :
応仁の乱の時に幕府の山名派である西軍と足利成氏が和議となり都鄙御合体となった際に西軍の六角氏が成氏の娘をもらった。
そして生まれたのが六角氏綱(母は近衛政家の娘説もある)で細川政元の後継問題の争いに巻き込まれたり、
のちに堀越公方系の将軍足利義澄を近江に保護したりしている。

265 :
道灌が暗殺された時に父の太田道真は越生の別邸に住んでたという話もある。

266 :
この時代では江戸の将門塚はどうなってたんだろう。
道灌とか武勇にあやかりたいとかでお参りしてたのかな?
江戸城の鬼門に塚あるんだっけ?

267 :
将門の首塚は野心あるものに尊崇され道灌や氏綱、関が原寸前の家康が武勇をあやかりに訪れてます。
扇谷の職を占有し自分の城に政治機関を集中し将門にも挨拶する道灌の黒い野心が現れてますね。

268 :
相模守護代って上田上野介のイメージが強いな。

269 :
>>232
甲斐守護代の跡部氏は小笠原一族と言われてます。足利義持時代の禅秀に加担した武田信満は自害。長男信重と弟の信元は高野山に出家。
その後に足利持氏は同じ甲斐源氏の逸見氏を守護にし影響力を強めようとした。
逸見氏は武田氏を鎌倉府の力を背景に弾圧しまくったので信重の弟武田信長が逸見氏を打ち破り甲斐から追放してしまい、鎌倉府から追討された。
その後持氏が再び、逸見氏を守護にしょうとしたが足利義教の幕府が認可せずに意外にも還俗させた武田信元(穴山満春と同一人物か謎?いつの頃かわからんが信長の息子を養子にしている)を
守護として小笠原氏の協力でなんとか入国させた。その際に跡部氏が守護代に任じられたようです。
武田信元は生没年が不明なのでよくわかりませんが、信元の入国からまもなく今度は武田信重が幕府から甲斐守護に任じられたが下向を拒否してます。
武田信長が甲斐に逸見氏を打倒するも結局、鎌倉府に屈服してしまい鎌倉へ出仕してる間に跡部氏が勝手な行動を開始。信長が激怒し鎌倉から勝手に?帰国し跡部氏と争いを開始。
跡部氏は信長を破り追放後に信重の帰国を願っているために鎌倉府に対立してたのかも知れません。結城合戦の際に管領側として信重は帰国し持氏派の逸見氏と争い勝利した為に信長の子は甲斐守護になれませんでした。
信長は結城合戦では幕府軍に参加してるが義教が暗殺された後は再興された鎌倉府の成氏に従い上総を奪い取った。なおも甲斐守護代跡部氏の専横は続き、
信重(穴山氏に敗北自害したとも?)→信守→信昌(跡部娘信縄と小山田娘油川信恵の相続争いを引き起こす)の代にやっと跡部明海が亡くなってから息子跡部景家を自害に追い込むことに成功しますが、
今度は佐久の大井氏や甲斐南部を支配してる穴山氏と争いだします。
小笠原長秀の大塔合戦の背景には中先代の乱で北条残党に付き、のちに南朝に付いたりする習性がある信濃国人の最後の抵抗でしょう。

270 :
>>262
ちょっと待て、享徳の乱の直前に起きた江ノ島合戦で敗れた長尾景仲らが逃げ込んだのが糟谷館なのだが。
ついでに、上杉憲忠が殺された時、上杉家の人々が逃げ込んだのも糟谷館(憲忠正室は扇谷出身)。

271 :
>>269
なるほど。勉強になりました〜
武田信長は逸見氏を甲斐から追い出していたのだね・・・
そして後に成氏方として上総武田氏の始祖となった経緯として鎌倉府に降っていたんですね。。。
ちなみに自分が以前に作ったAAネタでの甲斐抗争の項ですが
ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~asikagamotinori/page03.html
(突っ込み所満載かもしれませんが・・・)
跡部と信長の対立に国人一揆の抗争が絡んでいたんですよね?そのような記述を見たのですが・・・
ついでながら持氏の後盾で甲斐に入った逸見有直の本拠ってどのあたりだったのでしょうか・・・
跡部明海は府内館に在地していたのですか?

272 :
>>268
実質的な相模守護代は、大森氏頼じゃないの?
小田原城主だし、東相模の三浦導寸と縁戚関係あるし…

273 :
>>272
大森氏頼は渋川義鏡の讒言騒動で一回失脚しているからな。

274 :
>>273
レス、ありがとう!!
小生は浅学菲才なので、もし「渋川義鏡の讒言騒動」を知っていたら、詳しく教えてください!!

275 :
・・・しっかし、足利幕府で家格の高い渋川家ってろくな奴いないんだね・・・
守護大名としての地位を確立できなかったのも分かるなw

276 :
>>275
そーいえば、斯波義廉系の末路はどうなったの?

277 :
>>274
確か寛正年間に上杉持朝に足利政知が御料所を増やせと迫って拒否されたことと、上杉氏へのライバル意識を抱いた渋川が持朝謀叛を讒言してあわよくば相模を堀越公方のものにしようとした。
そのため、持朝は幕府から問責を受けた。結局、無実とされたが、代わりに大森親子や三浦時高ら重臣が一時引退して二心なき事を示した。

278 :
なぁスレ違いなんだが、千葉県旭市って旭将軍義仲の末裔たる木曽氏が家康に1万石で封じられたからそういう地名に変わったってのはかなり有名な話なの?

279 :
>>277
丁寧な説明ありがとう!!
調べてみたら…
寛正三年(1462)三月頃、持朝が政知と所領をめぐって争った事。
持朝が「成氏に内通している」と讒言されたこと。←これが渋川なのかな?
さらに9月には出陣中の扇谷重臣の三浦時高や大森実頼が無断で帰城している事。
彼らも「成氏に内通している」と讒言された事。←これも渋川
結局、12月に義政が持朝に代償として武蔵河越荘を与えて、手打ちした事
が載ってました。

280 :
>>278
1573年の室町幕府滅亡後、当地を治めていた戦国武将・木曽義昌(朝日将軍・木曽義仲の19代子孫)は善政をしき、
市民(領民)に慕われた。
1852年、京都の歌人・野々口隆正が当地を訪れ
「信濃より いづる旭をしたひ来て 東のくにに 跡とどめけむ」と、義昌公を偲んだ歌を詠み、
これが「旭」の名前の由来となったと言われています。

281 :
>>276
文明十三年義廉の子 某が
朝倉氏景に迎えられて越前に入るが 以後消息不明。

282 :
>>277
易々と古河公方軍が伊豆国の三島まで長駆遠征し堀越軍を撃破できたのも扇谷の小田原大森氏などが手引きした可能性も出て来るね。
扇谷上杉が阻止行動起こしてないもんね。山内上杉に長尾軍が全軍を率いて下野諸城を陥落させて古河城を落城させたから古河軍は瓦解し成氏も逃げて古河奪回の策を練るんだが…
その長尾軍に合流してたとしたら、それまでは傍観してたわけでしょ。だいたい古河と扇谷が内通し街道の安全保障ないと伊豆へ侵攻する計画なんて立案できないしょ。

283 :
鎌倉ってことは武田信長や九代伊達政宗の話題もオーケーかな?

284 :
東北を含めた鎌倉公方・古河公方・関東管領職支配地域+越後上杉+信濃小笠原+駿河今川なら別にいいんじゃないかな。

285 :
何故 群馬県太田市に 成氏公のお墓があるのか
成氏公のお墓とと並んで 芳春院と彫られたお墓もあった
古河公方には 芳春院て人が度々いる
晴公の奥方とか

286 :
栃木県野木町野渡の満福寺にも成氏の墓あるのね
死没地が古河なら野木は目と鼻の先だけど
東雲寺は何なんだろうね

287 :
足利義教は成氏を兄とともに抹殺できなかったのだろうか?
成人した後で幕府に反抗する恐れもあっただろうし、反上杉勢力が加わればとは考えてなかった?
専制のきらいがあったとはいえ、持氏一派を抹Rることで幕府方の上杉に離反される事を恐れたの?
細川ら幕閣を無視できるまでの力はなかったのでしょうか?

288 :
基本的に名族を絶やすことはしてない。
あと余りに幼かったってのがある。

289 :
そもそも鎌倉府復活構想自体が出てきたのが義教暗殺後

290 :
復活構想が出たと言っても、結城合戦直後に事件があったんじゃなかったっけ?

291 :
今までは京に出仕してたんだが、ついに越後に赴任した越後守護上杉氏が関東管領上杉氏を後ろ盾にする越後守護代長尾氏との対立から鎌倉府復興運動をしてきたんだよな。

292 :
>>291
こういうソースはどの書を読めば分かりますか?

293 :
永享記とか鎌倉大草子とかじゃね?
軍記物だが江戸時代中期以降のものに比べれば脚色は少ないし。

294 :
地方史の研究書の方がいいかも

295 :
地方史の研究書はたまに身贔屓があるから注意しとけよ〜。
また、編纂側が地元企業等と結託して史実とは違う話を書いていることもあるからな。
地元民なら誰でも知ってるハズの説を挙げず、誰も知らない別な説を地元に伝わる歴史として掲載するパターン。
群馬県の某町史が有名。

296 :
市町村史じゃなくても地方史研究している歴史学者がいるだろう

297 :
関東の上杉氏を語るスレ
http://hobby10.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1195797597/

298 :
実際は
足利藤氏(上杉・長尾)VS足利義氏(北条氏康)
の兄弟ゲンカだったわけね

299 :
>>298
旗印としてはそうなるね。
けど主体性があるかとどうかとなると話は別かな

300 :
政氏と高基の争いや小弓義明も含めて 個人の思惑+諸勢力の思惑の両面があるんじゃ。

301 :
>>298
兄弟ゲンカ+北条・反北条の要素両方でしょうね

302 :
>>301
そもそもは親子喧嘩ですか。。。

303 :
それぞれに母の実家の後ろ盾がついたり兄への対抗心が出てくるからね。
あの北条に頼るなんてアホか!とか関東管領へ養子出しやがってバカ父が!とかね。

304 :
利用しやすい一家よな。
誰に付いても何かしらの大義名分が立つ。

305 :
最後は使い捨て。
酷いなぁ、北条も。

306 :
殺した訳じゃないんだから。

307 :
殺したんじゃね。
氏姫だけ生かせてやったのみで。

308 :
>>307
自害に追い込んだりしているしね。
義氏にしても果たしてどういう最期だったんだか。

309 :
義氏は古河で没したんだよね?

310 :
>>309
表向きは病没ですけどね。

311 :
ただ、川越野戦のころならばともかく、事実上飼い殺し状態の義氏を殺める意味は無いと思うが。

312 :
利用価値がなくなり用済みになれば単なる邪魔ものだから禍根の根は断つだろう。
混乱要因でしかないんだから。

313 :
滝川が関東に来たときに義氏は北条から何も言ってこないと戸惑っていたが
北条もこの時公方という問題を改めて直視しなければならなくなっただろうな。

314 :
>>312
鎌倉幕府における執権を継承するというコンセプトなんでしょ?北条家ってのは。
関東の支配権を確立した時点で公方家は不要になるよね。
三寅を迎えた尼将軍ではないけど。

315 :
義氏以外の男子はどうなっちまったんだ?

316 :
藤氏は氏康に殺されてる。

317 :
>>316
藤政ってのがいなかったっけ?

318 :
>>317
そいつは上杉からの支持がなかったからなぁ。
支持したのは簗田とか里見くらいだろうが簗田の関宿城が陥落して終了だろ。

319 :
関宿城陥落後の消息はどうなったんでしょうかね?
殺されたのでしょうか。
その後、古河公方から分かれた小弓御所や宮原御所の末裔が
徳川家に召し出された(直参は宮原御所のみ)のに対して、
晴氏の系統は氏姫を除き、まるで世に出てこない。

320 :
↓読んだことある方、います???
中世東国政治史論
ttp://www.hanawashobo.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=4-8273-1207-9
【目次】
第一部 .関東足利氏の世界
 1 鎌倉府奉行人山名氏・安富氏について
 2 古河公方と結城氏家臣比楽氏
 3 上総大坪基清試論
 4 小弓公方足利氏の成立と展開
 5 古河公方足利義氏についての考察
 6 足利藤氏についての考察
 7 足利家国についての考察
 8 足利輝氏についての覚書
 9 足利藤政についての覚書
 補論1 雪下殿定尊について
 補論2 「簗田中務少輔」をめぐって
 補論3 足利龍王丸論ノート
(以後略)

321 :
雪下定尊って足利成氏の弟で古河城奪回したやつだっけ?
つか古河公方と言えば小山持政を語らなければ始まらんだろう。
結城合戦では結城の謀反を御注進して幕府の覚えめでたい持政だが成り上がり上杉に反感があるのか古河公方成氏を支援。

322 :
結局持政は上杉方に降ったんだよね?

323 :
>>319
藤氏、藤政はあぼ〜ん。
家国、輝氏は里見を頼って房総に下ったんじゃなかったっけ?
でも、里見も義頼が対北条路線を転換し、義康は小弓系を担いだりしているので
古河系の残滓は排除されたんだろうね。

324 :
しかし成氏の弟って誰なんだろうな?母が誰か気になる。
雪下殿って鶴岡八幡宮の主みたいな職だよな。
たしか小弓公方義明も雪下殿だよな。

325 :
>>324
鶴岡の別当職は公方になり損ねた庶子のためにあるようなものですし。

326 :
経済的にはどうだったんでしょうね?

327 :
>>320
内容がものすごく専門的で難しいよ。

328 :
値段、内容的にも手が出ない。

329 :
つ公立図書館を利用

330 :
所蔵されているといいね。
検索できるの?

331 :
所蔵されてなかったら、購入してもらうようリクエストしたら?

332 :
>>331
どうやるの?

333 :
図書館によって違うところはあるだろうが
本のリクエストしたいんですけどって聞けば申込書くれると思う
書名、著者名、出版社名と価格をメモしとくと○

334 :
千葉県だと県立東部図書館は歴史関係書籍の専門館みたいになっているみたい

335 :
へえ

336 :
大学の図書館でも、国立図書館でも、身分証明書と費用とやる気さえあれば、大丈夫!!

337 :
ありがと

338 :
公方を調べるなら古河の市立図書館とかかな?

339 :
とりあえず蔭山氏

340 :
>>338
千葉大学の図書館

341 :
享徳の乱について超ダイジェストで読むなら、「決戦〜豊島一族と
太田道灌の闘い」とか。あと、「扇谷上杉氏と太田道灌」もいいね。

342 :
>>341
面白そうだね。

343 :
太田道灌って入浴中に殺されたんだっけ?
源頼家みたいだな。

344 :
そのようだね
源義朝もそうだよね

345 :
>>344
報いを待てや羽柴筑前

346 :
近隣大名のスレ
政朝・政勝・晴朝・朝勝ら下総結城氏を語る
http://hobby11.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1212098363/

347 :
>>343-344
ま、一番無防備な状態だしね。

348 :
>>340
佐藤博信氏か。
・『古河市史』
・『戦国遺文 古河公方編』
・『中世東国政治史論』
ここらへんは鉄壁。
個人的には、足利藤氏とか義氏の兄弟たち(藤政・家国)が気になるところ。

349 :
>>345
「昔より 主をうつみの 野間なれば  報いを待てや羽柴筑前」
か。

350 :
道灌が暗殺されなければ、道灌の代はともかくその次位には、越後の長尾家と同じように
太田氏による扇谷上杉氏への下克上が起こったかもね。

351 :
>>350
道灌の死後にそこまでの勢力を保ち得たのかね?

352 :
氏姫は古河で死ぬまで別居婚なんだよな〜
最後の古河公方の姫としての矜持か。

353 :
>>352
彼女自身が領主だったからね。
僅か300石くらいとは言いながら、喜連川足利家の領地として併呑するには
氏姫の死を待たなければならなかったのだし。

354 :
義親が生まれているんだから妻問婚?

355 :
>>354
義親は氏姫に先立って没しているよね。
義親の嫡子・尊信が鴻巣御所から喜連川に移った時点で併呑完了。

356 :
>>355
5,000石の交替寄合クラスにとっては、300石程度でも貴重な財源。
後に喜連川家は慢性的な財政難に見舞われるわけで。

357 :
家康の側室・於六の再嫁先だったよね?喜連川家は。
氏姫の後釜だっけ?
若くして日光で頓死したとか何とか。

358 :
喜連川神社の天王祭で、今年は屋台引き回し中止に
(7月23日 05:00)
ttp://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20080722/28147/image/J200807100118.jpg
【さくら】
二十四日から始まる喜連川神社の大祭「天王祭」で、屋台の引き回しが今年は中止される。
当番町で引き手が確保できないためだ。
「伝統行事が廃れてしまう」と危機感を抱いた関係者によって、急きょ、おはやしだけは行われることになったが、
みこしの担ぎ手不足で同祭が中止された二年前に続き、高齢化の影響が顕著になっている。
屋台は、旧喜連川町中心部の上町、仲町、本町、下町の四町が、毎年持ち回りで当番を務める。
天王祭期間中、おはやしを奏でながら「大通り」約一キロ区間を往復し、祭を盛り上げる。
引き手である若衆、世話人が二十人以上必要だが、今年の当番である仲町(二十九世帯)は、約十人しかい
ないため、屋台を出すことを断念し、四町会で報告した。
木村宏仲町町内会長(74)は「高齢化が進み、やりたくてもやれない」と無念さを口にする。
危機感を抱いた喜連川観光協会、商工会の関係者が掛け合い、同協会が急きょ仲町から屋台を借りることで
合意。天王祭最終日の二十六日午後二時から、喜連川公民館近くの市営駐車場に屋台を置き、おはやしを
演奏する。
四町の屋台はそれぞれ独特の彫刻が施され、少なくも江戸後期から引き回されてきたとみられる。
引き回し中止は、ごみ処理場問題の混乱による二〇〇一年、みこしの担ぎ手不足の〇六年に続いてとなるが、
引き手不足では初めてという。喜連川中央行政区長の中山昭三さん(75)は「伝統の灯を消してはいけない。
祭り終了後、在り方を話し合う『考える会』発足に向け、個人的に努力したい」と話した。
ttp://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20080722/28147

359 :
>>358
喜連川という伝統もある地名をあっさり「さくら」なんていう
馬鹿っぽい地名にしてしまうあたりどうかと思う・・・

360 :
さくらって聞いてアホや・・・と思ったね!

361 :
確かに。
郷土愛を育むためにも地名やその由緒を残すことは大事なこと。
まさに愚民化一直線。

362 :
氏家喜連川市の方がむしろカッコよかったのにな
まぁ、つくばみらい市なんて命名した奴など、プロ市民以下だけどな。

363 :
平将門市にでもすればよかったのに
そして市長が謎の死を・・・

364 :
将門市とかやっちゃったら宮内庁から遺憾の意がやってくるかもw

365 :
興世王市を希望

366 :
地名を弄るのは合併か同和関連ですね。

367 :
>>359
平成の大合併でいろいろ酷い市名ができたけどこれは最も酷いと思ったね。
喜連川というふさわしい名前があるのに「さくら」だからね。
こういうの住民以外でもなんとかできるようにしてほしい。

368 :
群馬県桐生市の中にもみどり市があるな。
あと、ひらがな化したみなかみ市
行田市に文句言われてひらがなに改変したさいたま市もそうだけどバァカっぽいよな。

369 :
>>367
安易というか安直というか・・・ホント、ガッカリさせられますね。

370 :
覚えやすい=埋もれやすい ということでもある。

371 :
伊豆遠征の戦略的意図がいまいちわからん。

372 :

福田民部少輔 (古河公方家臣)
福田民部少輔(ふくだ みんぶのしょう)は、下総国古河を拠点とした廻船問屋(運輸業者)である。
のちに古河公方の家臣となり、古河公方御料所の代官も務めた。福田民部丞とも。
子孫の家には、古河公方足利家より与えられた、領国内での通行に際し一部の諸役を免除する
内容の過所状が現存し、古河歴史博物館に展示されている。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%B0%91%E9%83%A8%E5%B0%91%E8%BC%94_(%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9%E5%AE%B6%E8%87%A3)

373 :
味わい深い人材登用ですね。

374 :
>>373
どのあたりが?

375 :
徳源院殿慈峰晃公大禅定尼

376 :
>>375
氏姫の戒名?

377 :

龍光寺(お勧め度:★☆☆)
【交通】 JR東北本線「氏家」駅からバス「馬頭」行「喜連川本町」下車徒歩1分
【入場料】 無料
【施設】 喜連川藩主代々の墓所
【見学時間】 5分
【コメント】足利尊氏が諸国に開基した安国寺の一つ、下野安国寺が前身で、その後、改称された寺院。
喜連川藩主足利家の菩提所でもあり、藩主14代及びその家族の墓地が整然と立ち並んでいます。
大名の廟所として非常に風格を感じさせてくれます。
境内には短歌の投稿ポストも設置されており、足利氏縁の文化を今に受け継いでいるようです。
足利家廟所
ttp://www.geocities.jp/nanapiko9/tochigi/tochigi1026.jpg
ttp://www.geocities.jp/nanapiko9/kituregawa.html

378 :
武田滅亡の際、信松尼一行が古河を目指したという話があるね。

379 :
>>378
一応、義氏は存命中ですけどね・・・

380 :
>>379
当時の古河公方家に、北条家と交戦中の武田家の子女を匿うことができたとは
思えないのですが。

381 :
>>380
で、八王子止まりか。

382 :
>>378
関東公方の血筋に武田の血を入れようという動きもありましたね>宮原
家康の指示のようですが。
あれは何でなんでしょ?

383 :
>>378
数ある松姫伝説の一つなんじゃないの。
380の意見にもうなづけるし、無理して遠い場所に行くこともないのでは。
それだけ危険度が増加するわけだから。
>>382
駒場の宮原義久に嫁したのは、勝頼の姫、貞姫と伝えられている姫だね。
しかし、高家に取り立てられた名流ではあろうけれど
>関東公方の血筋に武田の血を
と、いうほどの政治的意味があったとは思えないな。


384 :
>>383
ほとんど警護もいない女だらけの脱出行。
むしろ八王子までよく逃げ遂せたよね。
穴山梅雪のようにならんで良かった。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8E%9F%E6%B0%8F
>2代目・宮原義久の時、徳川家康から武田勝頼の娘・貞との結婚と当主及び嫡子のみが
>宮原姓を称し、庶子は穴山姓を称することを命じられた。
とあるね。
穴山氏は武田氏滅亡後、武田氏の嫡流と位置づけられていたから
それを再興させようという話だったんだろうね。
穴山梅雪の嫡子・勝千代を1587年に、名跡を継いだ信吉を1603年に
失っているので、勝頼の遺児・貞姫の登場と相成ったんじゃないかな。
宮原家に輿入れしたのは関東足利家庶流というお家柄。
本来なら嫡流の喜連川氏なんだろうけど、当時、喜連川氏には適当な
男子がいなかったという事情もあったしね。

385 :
さすがに徳川の血を入れようとは思わなかったんだね。
信松尼は側室に召し出そうとしたのに。

386 :
>>385
>松姫を側室の召し出そうとしたのに
それはやはり憶測という、ガセというか、または後世の創作・・・だろ。
家康の女好き指向や、「甲州女狩り」などと後世書かれる醜聞を
面白く修飾するための、信憑性の無いものと思っているけどね。
だいたい、その説のモトは三田村鳶魚だろ。
松姫の身代わりに側室になったのが下山殿(お都摩)とか、ほんと嘘臭い。

387 :
八王子まで無事に行けた背後の事情が、戦後処理で後北条がわりくった理由なのでは

388 :
下山殿は穴山梅雪の養女ってことで差し出されたんじゃなかったか?
あの時点では武田嫡流は穴山氏だったわけで。

389 :
下山殿・お都摩の父は秋山虎康。
虎康も下山殿も、墓所は同じく松戸の本土寺。
「下山殿」という呼称は、穴山家の領地である甲斐・下山から。


390 :
>>386
家康の場合、新田源氏の系図を詐称したけど、徳川家にその血を入れることには
あまり執着していないね。
足利家(但し、関東公方系)の血筋を保護したけど、それ以上のことはしていない。

391 :
>>390
血を入れるも何も……>新田系

392 :
その頃には血統など気にしなくて良いほどの権勢と官職、軍事力を有していたからね。
秀吉の御落胤説と一緒。

393 :
>>392
新田系から足利系に切り替えようとしていた・・・なんて話も。

394 :
>>359
古河は「こが」になりそうになったとき住民がかなり反対してたなぁ
旧古河市民だけじゃなくて総和からも伝統ある名前なんだから平仮名にするのは嫌だ なんて声がよく聞こえた

郷土愛を感じて少し嬉しかった

395 :
何でサッサと由緒ある地名を捨てようとするかね。
東京では新宿区が頑強に反対したくらいで、他区は総じて町名を変更してしまった。
こういった現象は、歴史教育(こう書くと必ず侵略戦争史と解釈される時点で異常)
や風土・慣習・文化の継承を軽んじ、断絶させることを是としてきた日本の戦後教育の
影響なのだが。

396 :
米沢市は由緒を明示するために伊達米沢市に名称変更した方がいいな。

397 :
>>393
といって御末裔は零落してますなぁ。
もう少し加増してやっても良かったのに。

398 :
>>397
系図を出せ、と言われて居眠りしちゃ拙いよね。

399 :
そんな先祖のおかけで120石。
泣くに泣けんだろ。

400 :
>>391の意味がわからないんだけど誰か翻訳して

401 :
>>399
格式は高級旗本並なのに。。。

402 :
江戸時代は表の石高よりも、江戸に在住しているか、格式は高いか、役職についているか、
そっちの方が重要。

403 :
>>402
しかし、格式が高ければその分、出費も嵩むからねぇ。
役職者ではないから役料の支給があるわけでもない。

404 :
>>403
基本的にベースアップが無いから貨幣経済には対応できないし。

405 :
・・・・何の話だ?

406 :
>>405
岩松新田家の話だが何か?

407 :

【岩松・由良】上野の戦国大名【長野・長尾】
http://gimpo.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1212080890/

408 :
里見こそいい面の皮。
小田原の役の時、三浦半島へ進軍して『鎌倉御再興のため活動中』なんて制札出して、それを秀吉に睨まれて上総没収。
里見が奉り上げてた小弓足利家の頼淳や国朝は秀吉によって喜連川へ。

409 :
>>408
秀吉の本命は氏姫。
氏姫に「絶対イヤ!」と拒否されたので嶋子はんへ。
氏姫は国朝、頼氏ともにイヤだったようだけどね。

410 :
やはり女なのか…秀吉らしいww

411 :
>>408
当時の政治感覚としてどうなのかね?
秀吉軍が迫っているところに、小弓公方の末裔を奉じて挙兵だからね。

412 :
>>411
古河公方は北条家の傀儡→滅亡同然の状態だしなぁ。

413 :
三浦出兵前には、里見義康が小弓国朝の近臣の佐野為綱に『おまかせを』みたいな手紙送ってるし。
里見義頼は時流をよく見れる奴だったんだがな・・・
小弓系統は、天正9(1581)年の正木憲時の乱に一枚噛んでいるそうだ。
古河系統は、里見梅王丸派粛清のあとは歴史に出てこなくなるし。

414 :
>>413
別の秩序(公方家)を担いで小田原に向かうという政治感覚には、秀吉も首を捻ったろうね。
義頼ならばそういうことはしないだろう。

415 :
結城

416 :
小山

417 :
義康の死因って何?

418 :
里見義康のこと?

419 :
>>417
31歳で病死、ということにはなっているけどね。
何の病で死んだのかは知らない。

420 :
>>413
>佐野為綱
何者?

421 :
>>420
小弓頼淳・国朝の家臣。
受領名は大炊頭。
小曽祢右馬允胤盛とともに外交関係の文書に登場する。

422 :
なるほど、プチ幕府の方ですか。

423 :
佐野弘綱との続柄は?

424 :
>>423
小弓義明の近臣:佐野弘綱との系譜関係は不明。
佐野為綱、受領名は大炊頭→甲斐守。
慶長6(1601)年以降は文書上に現れなくなる。
参考:『戦国人名辞典』吉川弘文社 2006年刊

425 :
長生きだなぁ。

426 :
国府台の合戦の生き残りか。
佐野弘綱の経歴もそんなのだったな。

427 :
義頼の路線を義康はどうして転換したのかね?

428 :
義頼も親小弓公方路線を取ってて(義頼生母が小弓義明の娘・青岳尼説もあり)、その後継者である義康もその路線を継承したんだけども、
親小弓公方>親秀吉
ここらの軽重の選択をミスったってとこでしょ。
義頼の親小弓公方論理については、先代義弘が晩年に古河晴氏の娘を後室に迎えたことへの対抗とみる見方もある。

429 :
しかし、この期に及んで小弓公方とか言ってしまうのは
やはり大局を見る目に欠けていると思わざるを得ないような。

430 :
>>419
1573・義康出生[義康1歳]
1587・父義頼死去[15歳]
1590・小田原の役(独自の行動で叱責、上総減封)[18歳]
1591・義康、従四位下侍従任官[19歳]
1592・文禄朝鮮出兵(肥前名護屋在陣)[20歳]
1597・慶長朝鮮出兵(伏見在陣)[25歳]
1598・秀吉死去[26歳]
1600・関ヶ原の役(宇都宮在陣)[28歳]
1603・義康死去[31歳]
若年期にこの時代の変動期を生きた心労かと。
関ヶ原後は病気がちだったみたいだし。

431 :
>>430
二十歳やそこらからずっと唐陣か。そらあ激務過ぎる・・。

432 :
>>428
北条と和議を結んだということは、形骸化したとはいえ古河公方陣営と結んだことになるのでは?

433 :
里見−北条の房相和睦は天正5(1577)年11月で、これは里見義弘の治世下。
この時点では里見氏は、
・小弓公方系の頼淳(足利義明次男)
・古河公方系の家国(足利晴氏四男)
の二系統の足利氏を保護している。
義氏擁する北条氏との和睦で、義弘は安房にいた古河公方系統の擁立を諦めたとみていいと思う。
この直後の天正の内乱(里見梅王丸派の衰退・正木憲時の謀反)で安房の古河公方系統は史料上から姿を消し、代わって小弓公方系統の活動が俄然盛んになってくる。
房相和睦の証であった、義頼正室(北条氏政娘)が婚姻後わずか2年で亡くなったこともあり、
義頼は北条氏と微妙な距離を保ちつつ小弓公方系統を再び旗印にしていったと。
しかしもうその頃には織田信長の甲州征伐、天正壬午の乱と中央から関東への圧力が増していき・・・
>>428に繋がる。

434 :
リアリストの義頼ならば、秀吉の圧倒的な軍事力の前に小弓公方を立てたところで
無意味なことくらい理解できただろう。

435 :
つーかこの時期実は、足利幕府は滅んでいないからな。
秀吉が意識的に、義昭を将軍の地位のまま京で権威として存続させている。
関東でも同じような体制をとると考えても得に不自然ではない。

436 :
あの扱いを権威というのか

437 :
>>436
京で大名は、関白の後に義昭の下に伺候しているよ。

438 :
>>435
この時点、足利将軍家と関東公方はもはや別の秩序を構成しているように思うのだが。
将軍家があっての関東公方ではなくなってきている。

439 :
上洛したあと出家してなかったか義昭って。
で、准三后にしてもらってたはず。

440 :
>>439
若干タイムラグあるでしょ。
上洛と剃髪は。
鞆にいた頃に「猶子にしてくれ」「嫌じゃ!」というやり取りがあったけど、
毛利家が秀吉に従属したので居づらくなり、秀吉に経済支援を頼んだと。

441 :
>>440
古河公方家にまで手を伸ばした猿。

442 :
義昭の養子になろうとした話は本当なのか?

443 :

市村高男『東国の戦国合戦』(吉川弘文館、2008年)

444 :
>>441
そこに自分で売り込みを掛けたのが古河姫君(嶋子)さん

445 :
>>444
古河じゃなくて小弓w

446 :
小弓御所の系譜(頼純の女)なのに、通称は古河姫君。
古河の氏姫に拒絶されたので、その代わりに通称させたのでは?
ちなみに嶋子の生母は佐野大炊介政綱の女とも。
後年、徳川家康の養女・振姫に仕えている。
名家の血が権力者に好まれたのか、或いは、嗅覚鋭く権力者に取り入ったのか。

447 :
おっ、弘綱再び登場

448 :
>>446
その化粧料で弟を当主に小弓足利家を再興させ、古河足利家の名跡を
継がせたのだから強かだね。

449 :
そこはお家柄でしょう。

450 :
名門の生存術ですなあ

451 :
>>446
ということは猿の死後、落飾してそのまま徳川家に転じたってことですかね?
北政所あたりが間に入ったのか、それとも徳川方がスカウトしたのか。

452 :
http://bbs25.meiwasuisan.com/bbs/radio/img/12243978720001.jpg

453 :
足利義氏墓所の石塔など倒壊
2009年1月6日
古河市地域振興公社は五日、同市鴻巣の古河総合公園内の県指定文化財「古河公方足利義氏墓所」にある石塔と灯籠(とうろう)が壊されたと
古河署に届け出た。同署が器物損壊事件として捜査している。
調べでは、墓所内に設置されている石塔や灯籠のうち、石塔一基(高さ約七十五センチ)の円筒状の塔部分(同約四十センチ)が台の上から崩れ落ちていたほか、近くの灯籠一基(同約百六十五センチ)も倒壊していた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20090106/CK2009010602000117.html

454 :
>>453
dでもないことをする奴がいるもんだなぁ・・・。

455 :
価値がわからん愚かな人間の仕業よな

456 :
罰当たりな

457 :
知っていてやったとしたら誅殺されても文句は言えまい。

458 :
生前は傀儡にされて義氏って可哀想なヤツなのに死後に荒らされるなんて

459 :
墓荒らしの目的は村雨

460 :
太閤立志伝かよw

461 :
粘りの成氏様だったら呪い殺されてたな。
義氏には呪力なさそうだ…

462 :
>>461
しかし、存在感薄いよなぁ・・・政氏

463 :
>>462
関東の諸侯を巻き込んで親子喧嘩やってるのになあ

464 :
義明は高基の弟だよね?
『寛政重修諸家譜』には叔父になってんだが。

465 :
寛政譜はわりといい加減だよな。
しかしながら、北条早雲の出自を、「京都の伊勢氏に関係あるのかなあ」
といっているあたり、侮れないが。

466 :
伊勢と長尾の罵り合いか。

467 :
>>464
上杉憲寛の義父が義明という時点で……

468 :
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       伊勢が北条にクラスチェンジしたと思ったら
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        今度は長尾が上杉にクラスチェンジした
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        おれも何をされたのかわからなかった
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    管領だとか執権だとか副将軍だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ

469 :
>>467
しかし、どうしてそんな記載になるんだか・・・

470 :
スレ違いだけどすいません。都の公方の血筋が途絶えた場合、古河の公方は将軍家の継承権はあるんですかね?

471 :
ないだろうね、と適当に言ってみる

472 :
堀越公方にはあったぞ。普通に古河をスルーして堀越から迎えてる。

473 :
まあ堀越公方は義教の弟だったし。

474 :
義教じゃねえ、義政だ。

475 :
堀越公方政知は、義政の弟とも庶兄とも?
両説あるようです。

476 :
>>471
実際、鎌倉公方、古河公方から後継者を出そうなんて話は無かったしね。
それで持氏あたりが臍を曲げてしまったわけで。

477 :
鎌倉から将軍を迎えたら日本統一が達成できたのにね

478 :
>>477
鎌倉から連れてきた関東諸侯の勢力が強くなりすぎて、
それまでの有力勢力である畿内、西日本の諸侯と、一足早く
戦国時代を始めるに決まってるだろ。
何で尊氏が関東公方を作ったか考えた方がいい。

479 :
は?鎌倉から関東諸侯まで連れてくるわけないじゃん。
堀越公方の息子から将軍になった義澄は関東から諸侯を連れて行って細川政元と対立してないし。

480 :
>>479
堀越公方なんて歴史が短くて、譜代と言うほどの諸侯なんてついてないし。
むしろ幕府のつけた連中ばっかり。
それでも義澄についてきた連中と政元の関係は悪化してるし。

481 :
幕府が付けたと言っても
影響力が行使できるだけの名声を持つ
幕府に代々貢献著しい足利譜代中の譜代と言っていい
相当に豪華なメンバーだぞ。
関東執事になった
犬懸上杉教朝・政憲(関東管領も勤めた上杉禅秀の家系)
渋川義鏡(今の埼玉蕨市に所領あったので太田道灌と親しかった&駿河の小鹿氏と縁戚関係&子の斯波義廉は尾張国・越前国・遠江国の守護で妻は山名と朝倉からもらってる)
)はかなりの名族なわけだが。
さらに山内上杉氏が強力バックアップして伊豆の領国まで譲ってる。
義澄についてきた連中と政元の関係は悪化←具体的に誰と誰が仲が悪くなったと主張するのか?名前をあげてくれ。

482 :
>>479
むしろ伊豆に居所が無かったわけでしょ?義澄は。
政知と同様、天龍寺の香厳院で喝食やっているくらいだから。
かっ‐しき【喝食】
禅寺で、諸僧に食事を知らせ、食事の種類や進め方を告げること。
また、その役目の名や、その役目をした有髪の少年。
のちには稚児の意となった。
喝食行者(あんじゃ)。かつじき。

483 :
>>482
あのなぁ、義澄は伊豆に居場所がなかったわけじゃなくて、大抜擢されたんだよ。
天龍寺がどんだけ凄い権威持ってたか知らんだろ?
あれは尊氏が後醍醐天皇を弔うために元への貿易船まで作って資金集めして作った巨大寺院で
京都五山の第1位たる最高位の寺社だぞ。
作ったのは、執権北条氏の血も引いている七朝帝師たる夢窓疎石だ。
これは足利将軍が京都奈良を安定的に掌握するために、
足利将軍家において生まれた男子は嫡子以外は寺社に出す習慣があったからで、
当時は義教の青蓮院への弾圧や興福寺の一揆などで不安定な京都奈良情勢に置いて重要な役目だった。
この時点で義澄は将軍継承権一位ではないが、すでに足利嫡流筋と認識されてたわけだ。
将軍継承権がない兄貴の堀越公方なんかより上だよ上。
管領細川政元から抜擢されてるんであって、伊豆に居場所がなかったから追い出されたわけじゃない。

484 :
>>483
擁立する勢力が無ければ天龍寺で朽ち果てて終わり。

485 :
>>484
擁立する勢力いなければって…
父の足利政知が生存中の時からして、すでに細川政元と共謀しての義澄将軍擁立計画があったわけだが。

486 :
>>485
政元の「関東下向」なんて、その下準備そのものだしな。

487 :
義澄についてきた連中と政元の関係は悪化←具体的に誰と誰が仲が悪くなったと主張するのか?名前をあげてくれ。
期待してるから
とりあえず上記の件の名簿リストを書いてくれよ。

488 :
>>487
評定衆の連中じゃね?

489 :
だから誰だよ?人名をちゃんと挙げろや。

490 :
茶々丸を元服させてやれ

491 :
茶々丸は謀叛人なので元服させてもらえなかった

492 :
謀反人といっても支援勢力はあったわけでしょ?

493 :
今日たまたま歴史系の本を立ち読みしてたら
あの「足利政氏」がフューチャーされて取り上げられてた
といっても息子との内紛話で埋まってたけど

494 :
>>491
悪意を持つ相手を記述する際はわざと名乗りや通称で記さないのかもしれない。
似た様な例に多賀谷和泉守がある。
茶々丸という幼名を敢えて使っているのも悪意が見られる。

495 :
足利義茶

496 :
>>494
実は元服していた?

497 :
伊達稙宗とか細川晴元なんかも名前もらうのが結構遅かったじゃなかたっけ

498 :
しかし、何で北条家創建の寺に墓があるんだろ?

499 :
祟りを恐れたんじゃない?

500 :
宗瑞の伊豆侵攻は、相当色々あった感じはするな。

501 :
>>500
しかし、伊豆一国でも徒手空拳成り上がったのだから凄いこと。

502 :
いやいや。幕府と今川氏の全面的なバックアップを得ているし。
おそらく扇谷とも謀った上での侵攻。

503 :
宇都宮一族を暗殺した黒田も
中津や福岡の城域に寺社を建てて鎮魂してたくらいだから早雲もえげつない事をしたんだろう。
もっとも黒田が実行したとは言っても毛利の斡旋詐術と秀吉の指令ってのもあってやむなくやったわけだが。
そもそも宇都宮氏自体が秀吉の九州処理で伊予への転封扱いを拒否し挙兵して旧城を奪う暴発したから許されるわけがない。

504 :
何で黒田?

505 :
>>502
そもそも茶々丸に義がない戦いだしねぇ。

506 :
茶々丸派とされるのはどんな勢力?

507 :
茶々丸ってどこで死んだんでしょうね?
甲斐まで逃げたという説もありますが。

508 :
>>506
山内上杉

509 :
それだけ?

510 :
やはりこのスレの主役は足利成氏でしょう。

511 :
茶々丸派として考えられるのは、山内上杉を筆頭とした、「反古河公方派」だな。
山内上杉顕定は父である越後の上杉房定と当然連携しているので、上野から越後にかけた
強大な勢力が茶々丸の後ろ盾になっていたと考えていいだろうな。
そこから考えると、上杉房定の死による北関東、越後の体制の動揺が、
茶々丸を没落させたと見ることも出来るな。
なんのかんので越後と関東の情勢は密接にからんでいる。

512 :
>>511
伊豆国内での支持層は?

513 :
>>512
狩野氏や土肥氏、関戸氏といった所か。

514 :
劣勢やなぁ。。。

515 :
当時の伊豆の国力を考えると兵力的には大したことないよね。

516 :
江戸時代で8万石くらいでしょ。
確かに耕作面積が小さい。

517 :
cross days という、有名なエロゲーが今度出るらしいんだが、キャラクターの名前が
足利に喜連川に石橋に吉良って…。まさかこのスレに開発者いないよなw

518 :
>>517
見に行ってみたが元ネタはほとんど首相じゃね?
確実に足利関連なのは足利・喜連川・吉良の3つ。
その他は下の二人を除くと公家の甘露寺・花山院の二つ(西園寺は首相経験あり)。
伊藤・桂・黒田・西園寺・山県・黒田・清浦・加藤は戦前の首相、
小渕・小泉・森は最近の首相。
石橋の元ネタは足利分家じゃなく石橋湛山のような気もする。
一色とか相馬とか高とかいたらスレ的には盛り上がったんだろうになw

519 :
桂と西園寺たちが戦前の首相とは気づかなかった…w
でも、足利・吉良の流れで出す喜連川に関しては狙ってるとしか思えんw
石橋のポジションが気になるところ

520 :
分からん。。。

521 :
ナイスボートのシリーズ物じやんw

522 :
さ、本題に戻そうか。

523 :
どこまで進んだんだよ。

524 :
今は足利さんなんでしょ?>喜連川

525 :
>>524
そもそも喜連川姓は徳川将軍家に対して憚った結果

526 :
今は足利さん?

527 :
そう。ちなみに現当主の足利公平氏は細川家からの養子。

528 :
甥なのね。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
足利惇氏
足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年5月9日 - 1983年11月2日)は、日本のインド学者。
旧子爵。父足利於菟丸、母ヒロ夫妻の長男。前名「惇麿」。妻は有馬頼寧次女・澄。
来歴
1919年(大正8年)東京府立一中卒業、昭和2年、同志社大学文学部英文学科卒業。
学位は文学士(同志社大学)。京都大学文学部長、東海大学学長(1967年4月~1974年12月)
などを歴任。日本オリエント学会会長も務めた。1959年学士院賞受賞。
インド学において一流の業績を残すと共に日本に本格的なイラン学を導入した。
死後、甥の公平が相続した。

529 :
著名な学者なんだ。

530 :
そのようで。
血筋が途絶えたのかと思ったら甥がいたのか。

531 :
佐藤博信「小弓公方足利義明-房総を舞台に活躍した関東足利氏の一族-」(『千葉史学』54号、2009年5月発行)

532 :
                                   、_人_从_人__/
                                   _)
 ,..r;;:  (  人)  ) ,;`ー、          | ヽ丶       _) 消  汚
 ヾゞ、  ゞ'´   '`´   `ヾ、     ─|─           _) 毒   物
          -‐':、ゞ'``  ,l      / | ヽ            _) だ  は
ヾ、 ゞ;;.  ,r-、   `ヾ、    ヽ、                   _)  l
, rヾ    ,r!/r'ヽ    '`      \      _|_      _) っ
   _,,,.,ノ、_ ヽ,       `ゞ;;    ;:、    /|        `) !
,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、      ``  ´;;i             V^V⌒W^Y⌒
__,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、        `i;:、      オ
;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i   . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、                   ,ィ
彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ  ,t'´           ,.、ー、  ゝ     ォ             i|l;
;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´    ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r    ヽ、            ,j|l;;
j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ    ``´ー  ゙i ;;: ,r'      )  ,r、       ,rヾlir'ミ,
  / ,;:' '´/ ー≡;i{、      /ヾr'´  ,.   '`;;:、 〉ゝ  r-ー-、_ ,{i=i= }i、
ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ  ;:、 `' (´  `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、
,,:'  ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´  `ヾ、ヾ   '    ー、  ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ
'   ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´     ヾ,ゞ         、 ゞ,ミ;:l;;l  ,!  ,!,i;;'´¨/
;.   r-‐;;'"}            ``ヾ、  ノ       ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l
....   _,,,ィ、 i        'ヾ人  、}( /     ノ   ,r'i  r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ

533 :
>>531 内容はどうです?

534 :
関連スレ
六チンの乱を語る
http://academy6.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1246072639/l50

535 :
>>533
普通だと思います。

536 :
そうですか。

537 :
あっさり敗死したから。

538 :
小弓はあっさりだったね。

539 :
衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ
民主が国政第一党になる

公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立

国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進

人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる

国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増

在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅

日本乗っ取り完了
 「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索

540 :
義明は戦を知らない感じ

541 :
個人的な武勇はあったみたいで最後も国府台で奮戦したらしい

542 :
東国では大将の討死結構あるよね。

543 :
西国だってあるよね。つか戦法のせいか。

544 :
源平合戦を引きずってると弱そう。

545 :
一騎打ちですか。

546 :
集団戦法がとれなそう

547 :
戦闘規模にもよるのでは?

548 :
age

549 :
龍造寺隆信は東国じゃないぞ
つか義明は里見らが非協力的だったから自ら撃ってでて、里見らに示してやらなきゃならなかったんじゃないか?

550 :
まあそんな所だろうな。
義明と里見は目的からして別だしな。

551 :
古河公方の家宰・簗田氏は元々どこの出なんですかいな?

552 :
武田恕鑑が生きていたら国府台の結果も変わったかな?

553 :
正直、古河公方の領地がどこかよく分からん。
ご料所はたいてい散在してるものらしいが、大体どの辺に集中してたとか分かんないのかな?
なんか埼玉の方にも料所があるって聞いてびっくりしたんだけど。

554 :
栗橋とかその辺は?
野田氏が入ってじゃない

555 :
>>551
桓武平氏。本貫地は、下野簗田御厨(栃木県足利市)。

556 :
結城は御料所の管理を任されたりしたとかないのかな?

557 :
古河とは関係ないけど、結城家臣の多賀谷氏が永享の功で得た下妻の地は元々
鎌倉公方の領地だったそうだね。

558 :
直轄軍ってどの程度だったんだろうね?

559 :
鎌倉、古河公方の奉公衆の規模は、その奉公衆の被官も入れて、
数千から多くても1万くらいではなかろうか。
それでも戦国中期くらいまでは充分な数だが。

560 :
纏まりが弱いのが難点

561 :
その奉公衆を抑える直轄軍が・・・・

562 :
奉公衆=直轄軍、なんだが。

563 :
喜連川足利家の再興は、「関東公方家の権威には未だ影響力が残っており、新たに関東を支配する
徳川家康への牽制効果を期待した」との指摘があるようだが・・・どうなの?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%85%AC%E6%96%B9
---------------------------------------------------------------------------------
末裔(喜連川氏)
天正18年(1590年)に後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、古河城に残された義氏の娘(氏姫)と、
小弓公方の子孫である足利国朝との婚姻を成立させて、下野国喜連川に所領を与えた。
秀吉の目的は、名家の血筋が絶えることを惜しんだとする見解が一般的だが、関東公方家の権
威には未だ影響力が残っており、新たに関東を支配する徳川家康への牽制効果を期待したとの
指摘もある。
古河公方の末裔は、江戸時代には喜連川氏となり、明治まで続いた。

564 :
>>563
無い無い。秀吉のやったことで「家康への牽制」なんてのは、ほぼ100%
後世の人間が後付の浅知恵で言っているに過ぎない。
秀吉にとって徳川家と毛利家は100%信頼できる格別の家だった。
そして徳川も毛利も、秀吉在世中はその信頼に答えた。
よって秀吉は徳川家の力を抑えるような施策は一切行ってはいない。

565 :
>>563
徳川へけん制するなら、まず里見を優遇するだろ。
背後の里見を安房一国にした段階で、
関東は徳川任せだと思うが

566 :
鎌倉を舞台にした、わたせせいぞう さんの
菜 というマンガが大好きなのですが、けんてーごっこに
その菜検定がありましたので、よかったら皆さんもやってみませんか
私は全巻持っているのに5点で落ちましたけど・・・
http://www.kentei.cc/k/546125/

567 :
>>565
その里見が秀吉とは。。。

568 :
戦国ファンでも「ふるかわくぼう」とか言ってる人が結構いて泣ける。

569 :
>>568
お粗末だねぇ。

570 :
有名過ぎる古河電工のせいだね。
でも間違えてても構わないんじゃないか?
なんかの文献で、かな文字で「こが」とかキリシタンが「KOGA」とか記してたと言う証拠があるなら話は別だが。

571 :
○こがくぼう
×ふるかわくぼう
○ほりごえくぼう
×ほりこしくぼう

572 :
>>570
古河は万葉集に「許我(コガ)」と万葉仮名で表記されている。

573 :
そうなのか。その漢字をあててコガと当時から読んでたのか。
その漢字は里見八犬伝だけの表記かと思ってたわ。

574 :
>>570
暴論すぎワロタ

575 :
堀越公方も「ほりこし」って読む人が多いね。

576 :
義満の時代に伊達などの御扶持衆がいたとは言え、
関東以東の実質的王となった鎌倉殿。
義満は絶対権力者とか統一とか言うが
鎌倉殿と天下を二つに分けただけじゃねーか。
おかげで義教時代に関東が暴発する増長を生んだ。

577 :
>>576
そもそも鎌倉公方という存在自体が、室町幕府の統治力の限界のような気がするのだが。

578 :
幕府の任命官である関東管領が実務を取り仕切っている鎌倉公方が実質的王とか
鼻で笑わせる。

579 :
事実上、関東管領は鎌倉公方の抑止力になってたとは言いがたいな。
たびたび諫言して諌めたりしてるが、鎌倉公方がその気になると止めようが無い。
大内と共闘しようとしたり、幕府の不安要因を高めてるだけ。

580 :
基氏が死んだとき、中央もグダグダで、地位の世襲を認めざるを得なかったってところが
決定的に禍根を残しちゃったんだよな

581 :
関東管領・・・常に微妙な存在だね。
執事が主を抑えたためしがない。

582 :
関東執事渋川義鏡とか関東副帥源(里見)義豊とかいたりしてだな・・・

583 :
何とでも名乗れるわい!

584 :
ただ川越夜戦の時の公方や管領の動員力見ると、名家のブランドって大きいなと感心する。
やっぱ国人達の横並びの中で、魅力的な文化と高貴な血筋は結集力があるんだな。

585 :
房総半島という袋小路での消耗戦を危惧して義明様にお越しいただくぐらいだからね

586 :
>>584
都から遠く離れていればこそ、という考え方もあるね。

587 :
この前水戸史学会にいったらなんとあの
「平泉澄」先生のお孫さんの「隆房」さんが公演で
堂々と「ふるかわ」と言っていた。
あまりのことに注意しようかと思ったが恥を掻かせるのもなんだかと思い、
何も言わなかった。
越前白山神社も怒ってんだろう。

588 :
>>587
ありえないなw

589 :
こが
でも
ふるかわ
でも
どうでもいい

590 :
>>575
「堀越公方」は、専門書でも割と古い物は、ホリコシくぼう、ですね。
比較的新しい物は、ホリゴエくぼうです。
伊豆の現地では、ホリゴエらしいです。
辞書ではどっちでも正解。ホリコシくぼうは、慣用読みというところでしょうか。

591 :

千野原靖方『小弓公方足利義明―関東足利氏の正嫡争いと房総諸士―』(崙書房出版、2010年発行)

592 :
神無月

593 :
糞スレ終了!

594 :
今、古河の歴史博物館で古河城と古河公方展やってるが、面白かった。
買ってきた『古河市史研究』11号に市村高男氏の論文「古河公方の権力基盤と領域支配」が載ってて
こりゃ予想以上に面白かった。
古河城を中心に強固な基盤を持っていた公方の勢力も
享徳の乱から続く戦乱と公方家の内紛の中で、北条や里見・佐竹によって御料所を奪われどんどん弱体化していく。
その中で北条氏康が義氏を擁立して古河公方家を再興し
一時期『古河公方領国』が成立する。
だが、もちろん氏康は後々公方領国を北条家に取り込むことを目的にしていて、「領国」は段々骨抜きにされていき
上杉謙信との戦争の結果、ついに「領国」は北条氏照にそっくりそのまま継承されてしまう。
氏康さんパネエっすwww

595 :
関宿は行ったが古河には行ったことないな。あそこ歴博あったのか。
やはり古河城跡に建ってるのか?

596 :
古河城跡のはじっこみたいなところだな。
本体は川に沈んだから。

597 :
>>595
596の言う通り、城跡の馬出の一部に建ってます。
で、先週末に古河歴史博物館行って来たんだけど
今週の土曜日に古河で歴史シンポジウムやるんだって。
入場無料 事前予約不要。
11月27日9時30分〜17時20分 場所:スペースU古河
前述の茨城出身の歴史研究者で特に『洞中』の研究で有名な、市村高男氏が講演やるんだとさ。
「古河公方の成立とその歴史的前提 列島の中の古河地域」
他にも、「将門と古河地方」とか「古河の河川流路の変遷」とか「鎌倉公方→古河公方」とか
このスレの住人なら涎モノの研究発表をやるそうな。
おれは絶対行くけど。
ただ、一切ネットでは宣伝も何もしてないので、自分で調べてみてね。
「古代・中世の古河地方を見直す」でググると個人サイトが色々出てくるが、迷惑なので2ちゃんには貼れない・・・
ネタではないよ。

598 :
気にはなるが、ちょっと遠いね。
ちなみに俺は神奈川在住。鎌倉やら伊豆が目と鼻の先だが、いまだまともに行った事無い。

599 :
鎌倉からだったら湘南新宿で華麗に古河へ移動

600 :
そこまで行ったらそのまま古河をスルーして白河城を見に行った方がいいなw
その気になれば会津若松だって可能。

601 :
残念だが湘南新宿ラインは宇都宮までしか行かない

602 :
>>600
そもそもここは鎌倉・古河公方スレなのだが

603 :
古河公方に興味ない人がどうしてこのスレにいるんだろう?
まあ凄く迷惑だけど、「古河公方なんて語る意義ない」とか論陣を張るのであれば
まだ理解できないでもないのだが。
>>598
渡良瀬川でも見て来な。
おれも神奈川県民だから。

604 :
まあ神奈川県民で歴史好きなら、よほどのニワカ歴史ファンじゃないかぎり
鎌倉公方に興味はあるだろうし、その延長で古河公方にも興味のある人も
いるだろうにな。無関心っつーのはちょっとあり得ね。

605 :
篠川公方や稲村公方にも興味を持ってない人間に鎌倉公方などを語る資格は無い。

606 :
>>605
板違いだけど、語ってよw
聞くから。

607 :
だな。是非>>605の広範な知識を披露していただきたい。

608 :
仙道の弱小な国人一揆たちにとっては
伊達や葦名などと互角の外交をする為に協力して公方を盛り立てたと言うよね。
まあ陸奥国に派遣されてきた公方は次第に安芸の国人一揆の盟主の家柄だった毛利みたいな存在になっていったよな。
ただもともと陸奥国に地盤が無く土着して歴史を重ねる時間も与えられなかった。

609 :
もうちょっと面白いこと書けよw
これじゃwiki以下じゃんかw

610 :
この板であんまり高尚なことは期待寸奈

611 :
つうか結城の乱で滅亡してんだから
歴史的事実に関して書けることはほとんど無い。
だから少ない歴史的事実から考察する力が必要であり、>>609などにレスに対しての話を展開する会話力に依存する。
よって面白いことなんて書けるわけもないし>>609の言う面白いこととは妄想でも書けってことなんだろうか。

612 :
>>600=>>605=>>608=>>611
晒しとこう

613 :
>>609
会話のキャッチボールによる膨らませで話題が盛り上がらないようなので
あなたの言う面白い話とはどんなものなのが具体例を教示して欲しいわけだが。

614 :
>>612
ageもしないで何言ってんだか

615 :
面白いことを書けない人が
面白いことを要求するが
そもそも面白いと判定する客観的基準すら明示しない辺りが
最初から身勝手かつ恣意的な思考しか持たず
マトモに判定する気すら無いことを露呈させていて人格的にクズなのは明らか。

616 :
あっそ

617 :
キモいのが粘着してるなw

618 :
言葉の意味わかって書いてるのかなw

619 :
>>618
言葉の意味について定義説明してください

620 :
やっぱりキモいのが粘着してるなw

621 :
こいつはひょっとして以前逸話スレで
詰まらない織田信孝の「いい話」を書き込んで煽られて粘着したのと同一人物かw
http://gimpo.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1274087812/
まあどっちにしろ同類だなw

622 :
fafdsa

623 :
しかしなんだな
wをやたら
使用してる
粘着荒らしのバカ
何とかならんかね。

624 :
さあね

625 :
>>600みたいなことをわざわざ「古河公方を語るスレ」で書いたら反感買うに決まってるのになw
>>601-604の住人みんなの反応は当然。
それに対して>>605の負け惜しみの捨て台詞書くから、また馬鹿にされるんだよ

626 :
つーか一週間以上も粘着してるのって人間としていかがなものか

627 :
しかもこいつの書き込みは、平日の真っ昼間と深夜に集中してるw
ニートで他にやることないのなら古河にでも行って見て来いよ。
その方がまだ建設的だ。

628 :
自演で会話を成立させるとは必死過ぎだろ…

629 :
まさにどこかの誰かさんの言うところの「会話のキャッチボール」だな

630 :
「小弓公方足利義明 関東足利氏の正嫡争いと房総諸士」(千野原 靖方/崙書房)
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/078f4162.0400bdaf.078f4163.d5699732/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6450714%2f%3fscid%3daf_ich_link_mail&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13635845%2f
読んだ人がいたら、レビューよろしこm(__)m

631 :
鎌倉幕府が滅亡してからの東国の歴史は重要です。
関東の南北朝の内乱〜享徳・長享の乱までは特に重要。

632 :
結局篠河公方は満直?満貞?

633 :
大河ドラマ化まだなのかよ!

634 :
>>611
じゃあ、話を振るぞ
篠川公方や稲村公方を支えた国人というのは何氏だったの?
その後、それらの零細国人はどうなったの?

635 :
ちなみに>>605 >>608 >>611以下のこいつはsubってよばれてる荒しだよ。
まともな答えなんか返ってこない。
http://toki.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1268982684/

636 :
つかわざわざ馬鹿を呼び戻すなよ

637 :
瀬谷の海軍道路は、禅秀の乱の古戦場

638 :
海軍道路っつか米軍基地な

639 :
しかし、公方って、あちこちにあったんだな、みな反鎌倉?
足利の権力闘争?

640 :
馬鹿とは言わんから、wikiの公方のページ見るくらいのことはしてこい

641 :
中国歴史小説の大家宮城谷昌光先生の発言
私はもともと室町時代の関東への関心が強い。鎌倉公方ともいわれている
足利持氏からはじまっている反幕府的な勢力が好きなんですよ。
反幕府なのに幕府の将軍になりたがる心情もわかります。
持氏の子は鎌倉にいられなくなって古河へ逃げて、古河公方になった。
そのあたりがずっと好きで、私は鎌倉公方ファンであり、古河公方ファンだから、
それにかかわる人たちというのも好きです。
あとは北条家が好きですね。私がいう北条とは、北条早雲以降の後北条です。
いくさは多いし、人物は多士済々でとても面白い。なぜみんなここに興味を
もたないで、それ以降の信長、秀吉に行ってしまうのかふしぎでした。

642 :
篠河満直は何したかったの?

643 :
>>641
昔よく宮城谷の中国もの読んだな〜。
宮城谷さんが鎌倉公方ものを書くなら読みたいな〜。
足利義満晩年スタートくらいで長尾景仲や長尾景信や長尾景春も活躍するものをぜひ!
そしてそれを原作に大河ドラマ化してくれ。

644 :
震災後書き込みが無い

645 :
>>637
なにか石碑とか説明板みたいのはある?

646 :
農地の方に入っていくと説明板がある。

647 :
ありがとう
バイクで回ってみたけど分からんかったorz

648 :
あの辺りは米軍基地があるので射殺されないように要注意。

649 :
鎌倉公方持氏系が滅亡した時に幕府方についた満直系を鎌倉公方本家に据えるという動きはなかったんだろうか。
そもそも結城合戦で死んだ満直に息子がいたかどうかわからないんだが。
まだこっちの方が義政や政知を送り込むより関東の反発も小さかったと思う。

650 :
義教は自分の息子を新しい鎌倉公方として送るつもりがあったんだけど、
上杉氏などが難色を示してそうこうしているうちに義教が暗殺されてしまった。
堀越公方はある意味その計画のリメイク的な意味がある。

651 :
>>642
鎌倉公方なりたかったに決まってるだろ
自分に来ない禅秀の乱に与した理由は不明

652 :
堀越公方と言えば、その堀越公方として義教に送り込まれた足利政知が、「氏満」と改名していたのは面白かった。
第2代鎌倉公方と同じ名前。

653 :
小弓義明好きだなぁ。
猪武者っぷりがたまらん。

654 :
でなければ国府台初度の合戦で北条は負けてたかもなあ
義明の勇敢さ?に助けられたようなもんだ

655 :
>>605みたいな無理な負け惜しみ、なんか好きだなw

656 :
>>594
うらやましい
GWに行ったときは戦国関連の展示なんて殆どなくてガッカリしたが
本丸跡を見つけるのに随分歩いたな
まあ見つけたところでどうという事は無いしろもんだがw

657 :
>>653
流浪の身から房総の盟主に担ぎ出されて発奮してる感がいいよね

658 :
持氏は美しい

659 :
>>653
ヘタレ親父(足利政氏)が反面教師になったのかもw

660 :
成氏にとって憲実は父の仇で憎い存在と思っていたけど、江ノ島合戦の和睦の条件として、憲実の政務復帰を要求したりもしてるんだなあ。
成氏自身には上杉に対する遺恨って、あまり無かったのかな?

661 :
古河公方スレがあるとはw
地元民の俺、大歓喜
ちょっと成氏公の墓所を拝んでくる

662 :
古河城は見る影も無いがな
博物館?も古河公方に関するものは殆ど無いし地元民の関心は薄そうだよなあ

663 :
661です
ぶっちゃけ関心薄いを通り越して「誰それ?」レベル

664 :
神奈川県民だけど、北関東行くとき表示板に「古河」って書いてあるのを見るだけで心躍るというのに。

665 :
公方、利勝より
利位、鷹見泉石、静御前あたりのほうが推されてるw

666 :
最後の古河公方って足利氏姫?

667 :
朝廷と室町幕府から公方と認められた者が正式な古河公方と考えると・・・
義氏って京都からも認められてたの?

668 :
朝廷がなんで室町幕府内部の補任権を持っているんだよ

669 :
>>668
鎌倉〜古河公方は身分的には室町将軍から独立していて、朝廷に直接つながってた。

670 :
朝廷の秩序の中でどういう位置づけなんだ?

671 :
>>670
鎌倉公方は理屈上は将軍と関係なく、朝廷の独自に申請し従三位、左兵衛督の官位を得ていた。
その意味では、形式的には幕府とは別個の武家政権だと言える。勿論実態はそうではないが。
そのへんのいろんな矛盾が鎌倉府の反幕府的態度に至らしめていたと考えられる

672 :
>>671
花営三代記に持氏が三位になった御礼言上の使者を京都に送ったとある
一般的理解と言っていいと思うが、武士の叙任は幕府が一元管理してるのが基本
独自申請していたっていうのは何かに載ってるのかな?

673 :
次回大河ドラマは
東の王国−炎立たず
メインキャスト
上杉憲実: デンゼル・ワシントン
足利成氏: ポール・ウォーカー
太田道灌: ラッセル・クロウ
北条早雲: 渡辺謙

674 :
初代基氏は幕府に協力的だったのになんで氏満以降は反抗的になってしまったのか…

675 :
共通の敵がいなくなったからじゃないの

676 :
基氏は将軍の直接の息子であり弟だけど、それ以降は将軍の親戚にすぎないからな。

677 :
兄弟は他人のはじまり、か…

678 :
鎌倉公方も古河公方も血族同士でいがみ合いっぱなしだしなあ

679 :
それはもう源氏の伝統ということで
尊氏と直義もはじめは仲良かったのにいつの間にか殺し合いになっちゃったからなぁ

680 :
源氏だけじゃなくて権力者の常だろう

681 :
そもそも関東の鎌倉府体制が、南北朝だけじゃなくその後の観応の擾乱とその処理の過程で
負け組を作りすぎてるからな。一朝事あらば勢力回復狙う連中が多すぎた。

682 :
>>680
もちろん源氏だけじゃないよ?
天皇から地方の豪族にいたるまで近親者こそが最大の敵だから
ただ他の権力者よりも派手に何代にもわたって繰り広げたせいで強烈に印象に残るのよね

683 :
まあ河内源氏は武士の野生みたいなものを最後まで残していた集団ではあるな

684 :
古河公方なのに古河(下総)に葬られてない人多すぎ
(´・ω・) カワイソス

685 :
古河は仮の住まいだから

686 :
他県から人の集まる桃祭りの時すら
義氏親子の墓所スルーされまくってるし葬られなくて正解

687 :
青岳尼のお話を書いて賞金をもらったことがあります

688 :
吉川弘文館の「古河公方と伊勢宗瑞」、これは凄いな。情報量が半端じゃない。
絶対読んでおくべき本。

689 :
成氏の墓所なんて数十年前まで廃寺同然だった
今は立派になってるけど

690 :
小弓公方の足利義明って今川義元みたいに有能だったけど、
運が悪くて落命した可哀想な人でおk?

691 :
>>688
戎光祥出版から北条早雲関連の論文だけを集めた
「シリーズ・中世関東武士の研究]『伊勢宗瑞』」
が刊行された。
ttp://www.ebisukosyo.co.jp/books/history_ise-souzui.html
ただ、余りの知名度の無さにこんなことになっていたりする……
https://twitter.com/noimago/status/305581712946118656/photo/1

692 :
>>691
存命中に「北条早雲」なんて名乗ってないのにな
不思議なことだ

693 :
>>690
関東武士にありがちなやる気満々な脳筋さま

694 :
>足利義明
大将同士が一騎打ちする時代なら名将になれたかもね
やんごとなき血筋に生まれたオフレッサー上級大将のような御方だと思ってる

695 :
>>693-694
分かりやすい論評ありがとうw
オフレッサーにはコーヒー吹き出してしまったww

696 :
てかさ、そう考えると天庵さまも納得がいくなw

697 :
小弓公方は一瞬の輝きだったね
オユミマニアックス〜流れ星伝説義明〜

698 :
足利傍流の迷走と没落ぶりこそ
南北朝〜戦国時代の真の面白み
直冬や堺公方の成れの果て平嶋公方なんかたまらんね
関東公方は一回ぐらい中央の内乱と連動して上洛して欲しかった

699 :
東北のやたら乱立した公方やら探題やら

700 :
>>698
大内義弘とは協調してたんじゃないの?

701 :
応永の乱 反乱軍一覧
1.大内義弘(周防・長門・石見・豊前+和泉・紀伊守護。国際貿易だけでなく、百済子孫と称して高麗臣下として領地を受けようとする)
2.鎌倉公方足利満兼
3.九州探題を解任された今川了俊(探題時は九州ほぼ全域と安芸・備後守護。水島の変で支持を失った際、協力してくれたのが義弘)
4.土岐詮直(土岐康行の乱の片割れ、美濃・尾張・伊勢守護時代の尾張守護代)
5.京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)
6.宮田時清(山名の勢力削減に利用され明徳の乱で潰された氏清の子)
7.南朝残党(ただし、三十年ほど後に持氏と連携して小倉宮聖承を担いで挙兵する北畠すらまともに動いたようには見えない)
主力となり得るのは1.大内、2.鎌倉公方、数段落ちて3の今川ぐらいで、4~6は雑魚。7は大してやる気がない。
鍵となるのは鎌倉公方足利満兼だが、鎌倉から武蔵府中→下野足利とまったく逆に侵攻した所で義弘死亡で終戦。
管領上杉の諌めというがよくわからない。本来は堺で大内が籠城し続ける所に東から関東軍+今川軍さらに土岐などを糾合して本隊として上洛しなければならなかったが、せいぜい関東で足場固めを図った程度。

702 :
関東の公方で言えばやはり小弓公方と堀越公方だろう。
特に幕府派遣軍の北条早雲こと伊勢盛時の引き立て役にしかならなかった堀越公方の無様さは特筆もの。
後南朝や各地に派遣された南朝皇胤が浮世離れした悲劇を生み出すのに対して、足利傍流は悲劇とも喜劇ともつかぬ迷走ぶりが実に面白い。
足利氏は本家、有力大名含め没落すればするほど味が出る。この喜劇性は足利氏しか持ち得ないものだと思う。

703 :
堀越公方は古河公方勢力に攻め込まれた時も自力じゃまともに対抗できなかったしなあ。
茶々丸は結局、成人しても茶々丸のままだったのか、名前すら後世に伝えてもらえなかったのか、どっちなのかな。

704 :
茶々丸っていろいろと残念だよね
成人後も幼名で呼ばれ続けるのと、面と向かって諱で呼ばれるの
どちらが失礼なんだろうか

705 :
>>253-257
越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉一族の宗家である山内上杉家を押さえ込んで欲しかったのだろう。
だから10年近くも上洛する度に鎌倉公方復活を目的としたロビー活動をしていたのだろう。
越後長尾氏への対抗と言うよりは、むしろ長尾氏の後ろ盾になっている山内上杉家への対抗策の様に思える
越後長尾家は、越後上杉家の言う事を全然聞かなかったらしいしが、
それもこれも、山内上杉家が後に居るからで、越後長尾家は、この時点では、まだそれ程の勢力でもない。
越後応永の大乱でも守護の越後上杉家が、守護代の越後長尾家を押さえ込んで勝利したばかりの時期だし。

706 :
>>705
でも結局、山内上杉家を、押さえ込めなかったよね。
室町幕府の本拠地は、京都だし、鎌倉公方は、出先機関としての性格が強い。
永亨の乱発生後の鎌倉府の実権は、上杉憲実に握られている。 江戸幕府とは違うんだよ。

707 :
旧鎌倉公方の配下だった者達が越後上杉に再興を懇望してるんだよ。
それに関東八屋形と言われるように名家は滅ぼしてはならない。
そしてそれは鎌倉公方の秩序で保障されるもんで、
関東管領に従わなくても滅亡させられないことも意味する。
そして関東管領の職に越後は含まれてないので、
越後上杉は在京国主であり、関東管領と同名衆だが、意見の一致を見る必要もない。
守護代白井長尾もこの鎌倉公方再興には反対だったが、
越後三長尾家はどういう意見だったのかな。
白井長尾に近い上田長尾などは協調しそうだが。

708 :
まー利根川以東の鎌倉公方系の諸将にとっては、将軍への取次がいないから
関東管領家の流れを汲む越後上杉を頼ったんだと思う。
今川は関東管領同様に鎌倉公方を滅ぼした側で当然、将軍への取次やってくれないし。
だから越後上杉が将軍や幕府要路へ
関東は公方様がいないとちゃんと治まらないのでと懇願したんだろう。

709 :
成氏の生き方はロックだな

710 :
バッチリ親の仇の関東管領家に復讐も果たしてるしな
因みに管領暗殺劇で功のあった陪臣の多賀谷兄弟に直接領地を与えた説があるみたい
なんでも自分に味方するものを少しでも増やしたかったとか

711 :
【古河公方館推定復元模型(茨城県古河市)】
http://mirai660.net/castle/kogakuboyakata_model.html

712 :
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713 :
義教が成氏を始末して自分の息子を鎌倉公方に押し込んでおけばよかったのに

714 :
>>713
義教がもうちょっと生きてたら、そうなったかもしれん

715 :
佐竹とか結城合戦で敵対した武将も討伐されてたかもしれないし以後の歴史がガラッと変わるだろうな

716 :
>>713
義政が同じ事をやるけど、上手く行かなかったじゃん。
山内上杉や扇谷上杉が、協力するか如何かも判らないし。

717 :
幕命となれば上杉は最終的には従わざるを得ないんじゃないかなあ
関東の諸豪族が反発するだろうけど

718 :
じゃあ何で足利政知は、伊豆に留まったんだよ!? 上杉が協力してないからだろ。

719 :
だって鎌倉が焼け野原だもの

720 :
>>719
実際には…
上杉持朝が、相模に入れてくれないんだもの
だろ
渋川義鏡とモメてるし、
持朝は成氏と和睦して政知と争おうともしている。

721 :
この頃は、まだまだ扇谷上杉の力は弱くて、
圧倒的に山内上杉のパワーが強くて、全然かなわない。
山内上杉は、上野、武蔵、伊豆の守護だし、
関東管領だし、山内上杉家の所領の方が、断然多い。
享徳の大乱前半の頃の扇谷上杉家の所領は、
山内上杉家の家宰の長尾家の所領の半分も無かったと記録されている。

722 :
順番的には、政知が堀越に腰を据えて、渋川義鏡が伊豆での権益を広げていったから境を接する扇谷上杉と険悪になっていったんじゃないの?
その前から持朝と義鏡が対立する理由ってあった?

723 :
古河公方と敵対してる山内上杉は、
伊豆を政知に譲渡してるので当初から堀越公方サイドです。
むしろ相模国を領有してる扇谷(上杉持朝)が、
当初から政知の鎌倉入りに協力的でなかったように見えますね。
一応公式には、1462年に兵粮料所の設置を巡る争いから
扇谷上杉と堀越公方が敵対関係になるとされていますが、
堀越公方設置当初から扇谷上杉家は、山内上杉ほどには協力的では無い感じがします。
その後にそれが高じて、上杉禅秀の息子らが政知に扇谷重臣の讒言をして
政知が持朝の相模統治権を取り上げたり、持朝の重臣が引退したりしてます。
その為に、あわてて義政が堀越公方と扇谷を仲裁してます。
義政も政知に「箱根の山を越えるな!」と命令し、
堀越公方が、相模(と言うか関東に)に介入する事を禁じています。
堀越公方の支配圏が、伊豆一国に限定されてしまったのは、この辺が原因なのかなと。
古河公方らが伊豆三島へ侵攻した時も扇谷領を一気に突っ切って伊豆まで侵攻できたのも非常に怪しい。
この時は山内上杉の家宰だった白井長尾景信が下野内を撃破して古河城を落城させて堀越を救ってます。
のちに道灌の死を経て上杉同士の対立になると、
古河&扇谷&伊勢氏VS山内上杉&堀越&越後上杉の対立構造になる。
ちなみに景信の息子の景春の姉妹が扇谷定正の正妻で山内と敵対して古河方にいる。
この戦いは勝ち続けた定正が増長し古河が離反し苦戦するようになり、
最後は伊勢氏の救援なく越後長尾によって平塚まで蹂躙され川越が落城し
扇谷が山内に降伏する事で山内扇谷両家が対伊勢氏協調体制に。

724 :
>>711
1450年に長尾郷を押領したのは、簗田持助じゃなかった?
成氏は、持氏の家臣であった結城氏、里見氏、小田氏等を
重用しているが、簗田も持氏の家臣で結城合戦に参戦している。
この地はその名の通り山内上杉家宰である長尾氏発祥の地で、
そこにある御霊宮は、長年にわたり長尾氏一門の祖先祭祀の中心だった。
この事態に長尾景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨して成氏に激しく抗議したが、
成氏は、しばらくは、長尾郷や御霊宮の返還には応じようとしなかった。

725 :
古河公方勢力の三島侵攻を扇谷上杉が協力はしないまでも黙認してたってのはありそうな話だね

726 :
この時期、関東では数々の戦乱があるけど、以外と農民一揆や下克上が少ない。
下克上もせいぜい長尾景春の反乱程度で、これも長尾一族の内紛の性格が強い。
これは関東と畿内の惣村の自治性や独立性の違いが大きい。
なぜ関西の惣村の自治性独立性が高まったかを
民俗学をかじったおいらが真面目に学術的に説明しとく。

西日本は基本的に横割りの年齢階梯制っていう社会構造で村落が形成されてた。
村落内のメンバーは平等。年齢ごとに役割を担っていく。
一定年齢に達すると、若者宿や娘宿ってとこに入って、成人すると家を持つ。
ここで成人になるときに、村落のメンバーとして宮座(寺社での寄合に出席する)の構成員になる。
で、年取ると、宮座のなかで村ごとに人数は異なるけど役に就く。そして引退ってのが西日本の村落。
この社会は、基本的に全員平等なわけ。
だから、寄り合いなのでみんなで話し合い村落構成員全体の同意などが
大変重要となるし 外部や上からの強制力も行使し難い。
大名による垂直統合的な権力機構は作りにくい社会構造になっている。
対して、東日本は、縦割りの親方子方制なのね。
親方の家、有力者の家とそこに隷属する子方で社会が構成されてる。
神社の祭祀なんかも、有力者の家が世襲したり、いくつかの有力な家の持ち回り。
この親方子方制の社会だと、不浄とされる仕事は子方にやらせれば終わるし、
戦争になれば手下に動員をかけ易い。非常に上からの支配がし易い縦社会になっている。
こういう関東と畿内の社会構造の違いが、農民一揆や下克上の頻度の違いに現れている。

727 :
>>725
山内上杉の方が、圧倒的に強かったからね。
古河公方は、まだ弱っちい扇谷上杉とは、それ程対立していなかったのかも。
関東管領である山内家の上杉憲忠暗殺の時も、鎌倉公方サイドは、
管領邸に居た山内家の家宰の長尾実景・憲景父子を同時に暗殺しているのに、
糟谷館の扇谷上杉の持朝・顕房父子や鎌倉在住の憲忠正室(持朝の娘)は、暗殺していない。
関東八屋形系の小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等は、
扇谷上杉よりも関東管領の山内上杉家(家宰の長尾家)と長年にわたり対立していた。
その事が、長年の鎌倉府再興の動きに繋がり、足利成氏を鎌倉公方に押し上げた面がある。

728 :
茶々丸は、酒乱だかの素行不良を理由に土牢に放り込まれ廃嫡。
代わりに異母弟の潤童子が、堀越公方に予定されていた。
茶々丸は、支持者の武士から刀を差し入れてもらって、
牢番や潤童子とその母親(円満院)を殺害して、堀越公方になっている。
政知とその正室の円満院(後妻・継母)が、
茶々丸を虐待したけど、特に円満院が、茶々丸を嫌っていたと言われる。
その一方、堀越公方の家臣団のなかにも茶々丸廃嫡を疑問視する声があがっている。
関東執事の上杉政憲も政知に茶々丸廃嫡を諌めたが、
堀越公方が相模に介入する事を阻止したのも上杉政憲だったので、
政知はブ千切れて政憲を切腹させてしまった。
また、山内上杉家や在地の伊豆国人、甲斐武田家は茶々丸を支持し、
扇谷上杉家や駿河今川家、幕府派遣の京下りの堀越公方家臣団は、潤童子を支持していた。
茶々丸は、堀越公方になってから
重臣を誅してしまい、その事で伊豆が内紛状態になってしまう。
それと茶々丸は、堀越公方に就任してから、足利政綱と名乗っていた可能性がある。

729 :
茶々丸って結局どこで死んだの?

730 :
甲斐に逃げていたけど、引き渡されて、伊豆で切腹じゃなかったっけ?

731 :
>>725
扇谷は、かなり堀越公方を煙たがっていたらしいからね。
足利政知が、鎌倉に入れなかったのも、上杉持朝(扇谷・相模守護)が阻止したからだしね。
後に堀越府の関東執事の渋川義鏡が、相模に介入したのも、これが原因だと思われる。
ただ、上杉持朝が古河公方と通じていたのは、事実だったのだろう。
それ故に古河公方勢力は、1472年の三島侵攻が実現出来たのであろう。

732 :
茶々丸は当時室町幕府の意向で活動し、今川氏親の後見人となってた
伊勢盛時(北条早雲)に攻められ伊豆を取られ甲斐に追放された
盛時は幕臣であり、将軍足利義澄からの命であったと言われている(母や同腹の弟を殺された)
しかし、甲斐の武田氏の後援を受け再起、伊豆を奪還すべく兵を集めていた
とこにそれを聞きつけた盛時に攻められ捕まり首を刎ねられたとも自害したとも

733 :
扇谷が政知の鎌倉入りを阻止したって記録はあるの?
それとも状況証拠?

734 :
状況証拠だけ。解釈次第でどうとでも取れる

735 :
両上杉氏と対立し幕府とも対立した旧鎌倉公方の足利成氏に対抗する為に
足利政知が幕府より鎌倉公方として派遣されたが、足利成氏の勢力が強く
鎌倉に入れず伊豆の堀越に御所を築き堀越公方となった。
しかし足利政知には実権が無く、幕府が軍事命令権を持ち逆に政知には
両上杉氏との複雑な関係から箱根を越えるなと厳命していた
扇谷上杉は内紛を起こしていた
政知は執事の渋川義鏡の息子を斯波氏の跡継ぎとして養子に送り
斯波氏の軍事力を手に入れ成氏を討ち正式な鎌倉公方として関東を治めようと
画策し幕府からも承認を受ける
しかし斯波氏は跡継ぎ問題や内紛が起こりそれが応仁の乱へ突入していく・・

736 :
>>731
1460年にも堀越公方の陣所である国清寺が古河公方側に焼き討ちされている。
>>733
相模守護の上杉持朝と堀越府の関東執事の渋川義鏡が、
物資調達めぐり大喧嘩。また堀越府に兵力が全然集まらない状態。
さらに扇谷家の重臣の大量引退、堀越公方による相模守護の権限の停止、
上杉持朝の古河公方への内通の噂、など堀越公方と扇谷家の対立は、かなり深刻な事態になっている。
それを見て将軍の足利義政が、仲裁に入り、堀越公方の箱根越え禁止命令が出ている。
しかも、その近い時期に堀越府の関東執事の上杉教朝が、自害させられている。
これは、同じ関東執事の渋川義鏡が、
「上杉教朝が、同族の扇谷上杉と内通している」と
足利政知に讒言をした事から、発生したと言われている。
堀越府も一枚岩では無かったのが痛い。

737 :
それは義鏡が伊豆で権益を広げて隣国の相模と利益衝突したから、険悪になったんじゃないの?
持朝が政知の鎌倉入りを阻止したという証拠にはならんがな。
時系列が分からんから>>734の言う通り解釈でどうとでも取れる。

738 :
そもそも当初から扇谷と堀越府の利害が調整されて無いんでしょう。
だからリアルに足利政知は、鎌倉には、入れなかった訳で。
しかも古河公方は、はるか北関東で山内上杉と大戦争の真っ最中なんですが。
それなのに古河公方が、伊豆の三島を2度も攻撃できたのも不思議です。
あんなに距離が離れているし、享徳の大乱が始まってからは、
武蔵南部も扇谷が防衛を担当する事になったのに? 本気で防衛してたんですかね?
さらに堀越府は、執事が自害させられたり、
茶々丸が急に廃嫡されたり、内部が、ガタガタバタバタなんですが。
堀越府は、伊豆一国をしか治めてない。
と言われますが、おそらく伊豆すら治めきれてないと思う。

739 :
扇谷と義鏡が対立していたことには誰も異存はないよ。
ただ、両者が最初から険悪であり、持朝が政知の鎌倉入りを阻止した、という点に根拠が無いだけ。

740 :
足利政知が、1458年に鎌倉公方として
関東に来た当初から相模に入れなかった。
持朝と政知の関係が、上手くいってないからでしょう。
上手くいってたら始めから鎌倉に入っていた。

741 :
足利政知が犬懸上杉家と昵懇だったために
扇谷上杉家が警戒して相模に入れなかったというのは本当なのかな?

742 :
>>741
嘘だよ

743 :
政知が下向した段階では扇谷と山内も険悪でも何でもなかったのに鎌倉入りを拒む理由が分からん
単に鎌倉が今川軍の攻撃で荒廃していたからと考えた方が自然

744 :
>>741
政知が、犬懸上杉(教朝と政憲親子)と
扇谷上杉の結託を懸念している方が強いね。
しかも扇谷上杉は、大して本気では古河公方と戦ってないしね。
扇谷上杉は、古河公方との対戦を口実に
山内上杉から武蔵南部を割譲してもらったのにね。
本来は、武蔵南部も山内上杉の領地なんだよ。
横浜(六浦湊・神奈川湊)は、山内上杉の所領だしね。
長尾一族発祥の地だって、横浜の長尾台だし、
長尾一族も武蔵南部を扇谷上杉に割譲するのは良い顔しなかったと思う。
事実、政知と渋川義鏡が、相模介入に
積極的なのに、上杉教朝は、それ程でもなかったらしい。
それゆえ渋川義鏡の讒言による上杉教朝の切腹なのかも。

745 :
>>743
足利成氏が、山内を中心とする上杉勢と本格的に戦い始めた1455年に
駿河今川勢が鎌倉を防衛する三浦などの鎌倉公方の奉公衆を猛攻で蹴散らし、
鎌倉中を焼討ちにしたのは事実。
でも1460年には、今川勢も本国に撤退しているし、今川が占拠していたのは、
鎌倉周辺だけで、その周りは基本的に扇谷上杉の領地。やはり扇谷上杉と
足利政知の関係が整理されてないから、鎌倉に入れなかったと見る方が自然。
1458年に足利政知が近畿から関東に来た当初も入れなかったし、1462年に利根川
湖畔の決戦である海老瀬・羽継原の合戦で上杉方が大敗し、扇田の勢力の弱った
と判断した政知は、鎌倉入りを目指したが、今度は、将軍の足利義政に箱根越えを
止められる。
政知の鎌倉入りの機会は2回あったが、2回とも失敗している。
相模守護の上杉持朝が、足利政知の鎌倉入りを阻止したと見る方が自然。
古河公方は、伊豆の三島攻撃を2回も実施し、それを扇谷は、大して防ごうともしてない。

746 :
その時点では扇谷と山内の関係も良好だし、扇谷が新たな鎌倉公方就任に反対したなんて話もないのに、なんで持朝が鎌倉入りを阻止したと決めつけるのかね?
後年、持朝と義鏡がいがみ合ったらからといって持朝が最初からアンチ政知だったとは限らんだろ。

747 :
安房って里見氏入部以前は犬懸上杉氏の守護領国ですよね?
そしたら堀越公方の勢力圏って伊豆+安房なんでしょうか?

748 :
>>747
安房里見家は、意外と謎が多い。
だから、滝沢馬琴が南総里見八犬伝を構想したという話もあるくらい。
戦国期の安房里見家が実在を確実視される義通の代に小弓公方を支持していて、
一時的に北条氏綱と共闘していたのは間違いなさそうなのだけど。
安房が堀越公方の勢力圏にあったかというと
?が頭につくな。

749 :
>>746
どうかね?正面きって山内vs扇谷の戦をしてないだけで、
色々な面で、温度差有りマクリでしょう。特に対古河公方戦なんかでは。
政知が、1458年に畿内から伊豆に来た時から相模には入れてない。
と言うか、相模に入れなかったから、政知と山内が相談して伊豆に落着いたって感じ。
>>747
上杉禅秀の乱以降の犬懸上杉氏には、
もう領国は、もう無いんじゃないですか?
禅秀の乱以降の犬懸上杉氏の活動拠点は、京でしょう。
禅秀は、上総の守護だったようですが、
禅秀の乱までは、犬懸上杉家は下総にも影響力があったようです。
それと堀越公方の勢力圏は伊豆だけど、実際の勢力圏は伊豆北部だけでしょう。

750 :
あれこれ推測するのは自由だけど根拠となる資料が無いんじゃ結局、妄想止まりだわな。

751 :
じゃ〜なんで、古河公方陣営は、二度も伊豆三島を攻撃できるのよ?

752 :
後に持朝と義鏡が険悪になったのは確かだが、だからといって最初から持朝が反政知で、政知の鎌倉入りも阻止したとする根拠は無い。

753 :
政知の鎌倉入りを阻止したは、
持朝(犬懸上杉家)以外の誰が居るんだよ?
持朝が、相模守護なんだぞ!?
それと山内上杉と堀越公方も1462年と1470年の2回の古河公方陣営の伊豆攻撃以降、
次第に疎遠になってきている。特に茶々丸と廃嫡してから、その傾向がハッキリ見える。

754 :
なにを根拠に「阻止された」と決めつけているのかが謎
政知が鎌倉入りしなかった本当の理由なんて誰も知らないのに

755 :
政知と持朝が、もめてる原因は、はっきりしている。
食糧調達であり、それが起因して相模の行政権でも揉めている。
政知と持朝の対立の開始時期には、二つの説があり、
1458年に政知が畿内から伊豆に来た当初からという神奈川県史の説と
1460年以降から対立が生じたと言う家永説の両方がある。
特に1460年に武蔵太田庄、海老瀬口、羽継原の合戦に上杉方が負けてから
堀越公方方の陣営の勢力図が変わり始めたのが要因との家永説だが、そも
そも1458年にすんなり鎌倉に入れなかった時点で、既に扇谷上杉と堀越公方
の意見や利害の不一致があったと思われる。
駿河今川家の軍勢の存在が、1458年の政知の鎌倉入りが出来なかった理由と
する説もあるが、従来から駿河今川家は、幕府方であり、政知の鎌倉入りを
拒否する理由は無い。それに駿河今川家は、1460年に鎌倉周辺から撤退をして
おり1462年に政知の鎌倉入りが阻止された事とも全く関係ない。
1458年からの政知と持朝の対立が、1460年の上杉方の敗北でハッキリと表面化したと言う事だろう。

756 :
上杉持朝は扇谷上杉家だったのでは?
754の書き込みが理解できないのだが?

757 :
>>753を修正
政知の鎌倉入りを阻止したは、
持朝(扇谷上杉家)以外の誰が居るんだよ?
持朝が、相模守護なんだぞ!?
それと山内上杉と堀越公方も1462年と1470年の2回の古河公方陣営の伊豆攻撃以降、
次第に疎遠になってきている。特に茶々丸と廃嫡してから、その傾向がハッキリ見える。

758 :
結局、全部推測の話だろ。
今川軍は撤退していても鎌倉は焼き尽くされて荒廃していたんだから、政知が鎌倉入りしなかったことと無関係とは断定できない。

759 :
>>757
>それと山内上杉と堀越公方も1462年と1470年の2回の古河公方陣営の伊豆攻撃以降、
>次第に疎遠になってきている。特に茶々丸を廃嫡してから、その傾向がハッキリ見える。
堀越公方は、二回の古河公方の攻撃を受けた後は、
駿河今川家への軍事的依存がハッキリしてくる。
もともと堀越公方は、三管領家の一つである斯波家と駿河今川家、
それに伊豆の国人衆(山内上杉被官衆)の三本立ての軍事力を想定していた。
しかし斯波家は内紛でアボン、伊豆の国人衆の動員も上手くいかず、
扇谷上杉との関係にも対立が生じ、結局のところ堀越公方が頼りに出来る
軍事力は、駿河今川家だけとなってしまった。
特に1470年の二回目の古河公方の攻撃は、大規模で、駿河今川家の
援軍や反撃が無ければ、政知は、堀越御所を奪回出来なかったと言われる。
その為に1470年以降の堀越公方は、急激に駿河今川家への依存を強める。
茶々丸廃嫡と潤童子擁立の動きの素地は、この頃からあったと思う。

760 :
>>758
八幡宮は、残っているし、
公方邸や管領邸も残っていたり、再建されている。
今川の鎌倉攻撃の後でも、鎌倉には、関東の武将の出入りはあるよ。

761 :
駿河今川家の話が少し上で出ているけど
今川範忠が息子の義忠に家督を譲ったのが1460年で、翌年に亡くなっている(異説あり)。
そういったことから、1460年に今川軍は撤退してしまったのだろうな。

762 :
それもあるだろうが、
1460年に武蔵太田庄、海老瀬口、羽継原の合戦で上杉方が大敗した事もあるらしい。
あと今川家は、そろそろ遠江や三河に進出を開始する。
それに今川家は、基本的に扇谷上杉と同盟関係に有る。

763 :
だから宗瑞も扇谷に協力してたんだしな

764 :
潤童子を押していたのも、駿河今川家と扇谷上杉。

765 :
堀越公方家と扇谷上杉家と駿河今川家の関係も今一つよくわからないことがある。
今川義忠死後、嫡子の龍王丸(後の氏親)がいるのに、堀越公方家と扇谷上杉家が介入して
傍流の範満を今川義忠の後継者にしている。血縁関係から範満を推したらしいが、
それによって今川家は家督相続でもめることになり、伊勢早雲が介入して事を収める羽目に。
本当に却って堀越公方は自らの支持基盤を掘り崩し、混乱させているのではないか。

766 :
そもそも京都の足利将軍家の血統を鎌倉公方に
押し込む構想、それ自体に無理があったと言う事でしょう。
足利義教時代から足利持氏血統を排除して足利将軍家直系を
鎌倉公方にすえる構想があったが、それを義政時代に持ち出した事自体おかしい。
しかも堀越公方は、伊豆北部の所領を
ガンガン収公して、伊豆国人衆(山内上杉被官衆)を怒らせている。
その所為で、当初は同盟関係にあった堀越公方(足利政知)と
山内上杉の関係も、以前ほどの緊密な関係ではなくなっている。
茶々丸廃嫡には、家臣団からのかなりの抵抗が有った様だが、この辺が理由だろう。

767 :
色々な勢力の利権や力関係が複雑に絡み合って鎌倉入りできなかったんだな
そこが関東戦国の面白い所だけど人気のない由縁でもある

768 :
てす

769 :
この時代の小山家は関東管領上杉に匹敵する力を持っていたからな
成氏が古河に逃げた理由の1つがそれだし

770 :
この頃の小山氏は小山氏の乱の後なので
関東公方に散々勢力を削減されまくった後と思っていたのだが。
削減後も関東管領に匹敵する勢力を維持していたのだろうか?
削減前だと下野、常陸、下総等まで宇都宮氏等の妨害に関わらず勢力を及ぼしていたのかな?
小山家がそれほどの力を持っていたとは知らなかった。

771 :
.
あ〜 なんか古河公方との戦争(享徳の大乱)、ヤル気出ないっす!
                              by 上杉持朝

772 :
>>765
今川義忠は遠江を巡って斯波氏と争っていたが
応仁の乱が起きて斯波氏の内紛に介入したりして遠江を奪取しようとした
しかし斯波氏側についた国人を攻め、帰国途中に残党に襲われ死亡
義忠が攻撃した斯波義良は幕府から遠江守護に任命された正式な守護で
義忠は幕府の命令を無視して遠江を奪おうと攻撃していた
つまり幕府から見れば義忠が反乱を起こした逆賊であり討伐の可能性もあったとされる
その為嫡男の龍王丸ではなく成人していて器量がある従兄弟の小鹿範満を当主にする動き
があり、祖父の関東執事の上杉政憲や同族であり扇谷上杉の執事大田道灌が支持した
嫡男の龍王丸支持側はその動きに反抗し両者は戦い、今川家は内紛を起こす
関東の上杉家の介入や今川家嫡男の龍王丸の生死を心配した幕府や姉の北川殿の
要請により幕府の取次衆であった伊勢盛時(北条早雲)が駿河に派遣される
幕府の使者である伊勢盛時は小鹿範満やその支持者であり大軍を引き連れてた上杉政憲、
太田道灌と談判し小鹿範満に代行させ龍王丸が元服したら家督を返す約束で
解決した
しかし、龍王丸が元服しても家督を返さないので北川殿や幕府からの命を受けた
伊勢盛時が駿河に下向し兵を集め小鹿範満を討ち龍王丸(氏親)に家督を継がせた
この時期上杉政憲は堀越公方の廃嫡問題で自害に追い込まれており、太田道灌も
主君の扇谷上杉定正に殺されてる
ここら同時期に起きており、何らかの関連性があるとされている

773 :
>>771
関東管領の山内上杉の憲忠暗殺の時も、足利成氏サイドは、
ほぼ同時に管領邸を攻撃して山内家の家宰の長尾実景・憲景父子を殺害しているのに、
糟谷館の扇谷上杉の持朝・顕房父子や
鎌倉在住の憲忠正室(持朝の娘)には、手を出してない。
成氏陣営は、鎌倉のすぐ近くの扇谷側の七沢の砦にも攻撃を加えた形跡が無い。
七沢の砦なんて、その日のうちに行ける距離なのに。
足利成氏は、当初から、扇谷上杉との単独講和を期待していたのだろうか?

774 :
あんな狭い街で角突き合わせて暮らすなんて
何か起きないはずがない。

775 :
http://kodachi369.net/koganyan/
古河公方ガン無視されてるな

776 :
.
自民党の古賀とか、マジで要らないから。
【自民】 9月の自民総裁選、安倍総理の対抗馬に野田聖子氏も
… 古賀元幹事長 「安倍さんの自制心を含め、じっくり見させていただく」
http://hope.2ch.sc/test/read.cgi/seijinewsplus/1421169037/

777 :
江戸川も氾濫寸前みたいだしスーパー堤防にしてなかったら古河城も水没してたのかな

778 :
古河って戦国時代は都会だったんですか?

779 :
http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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780 :
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足アイフォン貸出)
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https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
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781 :
>>775
なぜ猫

782 :
古河公方の勢力範囲ってどの辺りからどの辺りくらいまでだったのですか?

783 :
成田 東峰地区
https://www.youtube.com/watch?v=_akag7UV9y4


784 :
古河公方の勢力範囲南はどの辺りまで?

785 :
伊豆じゃないの?

786 :
                        【猿の】     五輪、シン・ゴジラ、不倫報道     【惑星】

終戦時の米大統領トルーマン
「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放すれば、真実から目を背けさせることができる。」
https://twitter.com/toka iama/status/765657758196637696

ヘルマン・ゲーリング
「国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、
 平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしてると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」
https://twitter.com/neko_aii/status/765532497778139138

コンビニでレジ待ちしていて前の高校生
「期末テストの社会で「原発は賛成か反対か意見を書け」ってあったんだよ。だから俺、「反対」って書いたらバツで返された。意見書けってのにバツっておかしくねえ?」
https://twitter.com/guchirubakari/status/759515386014334976
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272

「さんまのまんま」9月いっぱいで終了…31年6ヶ月の歴史に幕
反原発、反安倍を表明している芸能人が、片っ端から芸能界を追放される電通によって
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312

787 :
>>784
利根川まで

788 :
賀正

789 :
資正

790 :
ひとまずスレ保全

791 :
大河いける案件ではあるな

792 :
師走保守

793 :
■ 悪徳隠蔽みうら市政会
 岩野匡史【元共産党 寝返り】
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/manifesto/1491719653/
 神田真弓【75万横領で逮捕?】
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/giin/1549898441/
 草間道治 【市民団体はキチガイ!】
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/giin/1545463599/
 出口正雄【進次郎の舎弟】
https://mao.2ch.sc/test/read.cgi/ftax/1491720305/
 出口眞琴【隠蔽監査長】
https://rio2016.2ch.sc/test/read.cgi/mayor/1491720096/
 長島満理子【福祉公約無視】
https://mevius.2ch.sc/test/read.cgi/gender/1491719896/
  /⌒~ヽノ~⌒\       _/ ̄Z_
 `/ ⌒ヾヾソノノ⌒ヽヽ    / ___   <
 |i / ̄ヾノ ̄ヽi |    / /   \_ ヽ
 ノノ|ノ\ /ヽ |ヽし   レ| \ / \N
 彡ノ-・- ii -・-ヽミイ    (|-・-∧-・- i彡
 ヽ(  ー || ー )_ノ彡    .ヒ   | |   ソ
  |  ヽノ   |彡    |   ‥   )
   \ ー― \/       \  ― ) /
    \___/         \_/ル
    /V▽ V\        /V>< V\
 吉田は今期で終わり   そうだね父さん

794 :
たまに保守

795 :
週明け保守

796 :
鴻巣・鴻台コウノトリに縁がある

797 :
成氏ガンバレ

798 :
【トピック展示】関東足利氏―新収蔵史料の紹介― | 神奈川県立歴史博物館
http://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/4400
https://www.sankei.com/smp/premium/news/191207/prm1912070006-s1.html

799 :2020/01/28
https://i.imgur.com/m9MvSLx.jpg

【姉小路】飛騨の戦国大名【内ヶ島】
IDに出た数字の分だけ知行を貯めて百万石83
【茶器バカ】松永久秀【爆死】
千葉氏の系図が理解できない
武田勝頼 part29
武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?3
で、戦国最強の忍者集団はどこなんだ?
▲▲  応仁・文明の乱  ▲▲
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武田勝頼 PART22
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