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1 :2018/10/30 〜 最終レス :2019/05/28
資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう

2 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

3 :
https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&feature=youtu.be

私の 説は 邪馬台国 は 球磨郡 にあった です
魏志倭人伝の 翻訳 とか みなさん 読んで かたってますか?
ぼくも 読む前は 邪馬台国 やまたい 大和 ヤマトゥ と このよみから 近畿だと ゆってましたが
これは 本居宣長 の 策略でした まんまとはまってました
魏志倭人伝には 邪馬壹國 と あり これは 中国よみで シュマイ 日本語で よんでも やまいこく 臺灣 台湾 誤字ったにしろ とにかく ソウル から 邪馬台国 まで 1マン2000里 である 100里が7KMとしても 近畿にはとどかないので
九州しかないのです そのへんも 動画に まとめました

4 :
>>1前スレ終わって
なかなか次スレが立てられなくて
m(__)m
邪馬台国九州説をさらに絞って福岡説にしました。
どうぞよろしくお願いいたします。

5 :
こんなスレもあるよ
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part14
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1535030399/

6 :
【九州説】邪馬台国は福岡県山門郡にあった!
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1539603701/

7 :
いろいろあるんだけど、まず
高天原って
どこなのさ?

8 :
中国

9 :
>>7
dead or alive『turn around and count 2 ten』?
動画を見てみて


それか・・・こーえー?

10 :
そんなことよりも
ネットではツブ、ツブ言われているけど


コウ・ツブサワは、
この曲(音楽家)が好きなのかな?


とあるMMO(コエテクモ)?をやっていたとき、
こういう曲ばかりが好き?なのかな、
そういう知人がいたような

11 :
いろいろあるんだけど、まず
高天原って
どこなのさ?

12 :
高天原=福岡県門司大台ヶ原
間違いなし

13 :
どこの基地外なんだ?

14 :
高千穂の前の山じゃなかったかな
新井白石は違う所だったな

15 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

16 :
高天原は対馬海峡のどこか。

17 :
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ

18 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

19 :
>>16
あら、賛成

20 :
やった

21 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

22 :
>>16
>高天原は対馬海峡のどこか。

だがな、記紀では高天原で卑弥呼が水田稲作をして、機織をしてるんだ
普通の平野部の弥生社会のように見える

魏志倭人伝に対馬と壱岐は
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴
多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴
と書かれていて、稲作中心の弥生社会からは外れて見える

これでは、スサノオが田んぼのあぜを壊して狼藉を働くのも難しくないか?

23 :
それは一理ある。
いくつかの記憶が高天原に集約されているようにも見える。
しかし狭義の倭国は対馬海峡のみになるので、そのどこかに高天原を求めるしかない。

24 :
>>23
>しかし狭義の倭国は対馬海峡のみになる

この論証が、まったくもって不十分
まず、十分な根拠をもって論証するところから始めないと

というか、方々で論破されてるよねww

25 :
後漢書でも読んでくださいよ。

26 :
https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&feature=youtu.be

私の 説は 邪馬台国 は 球磨郡 にあった です
熊襲 とよばれて 後の 大和朝廷に くちくされたのが

みなさん どうが みました?
高天原は 球磨郡 か 伊佐市です
標高も高い 広い 稲がそだつはらっぱもある
雪も降る

27 :
>>25
>後漢書でも読んでくださいよ

倭在韓東南大海中 依山爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 
國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國 「その」大倭王        「倭国の」大倭王
樂浪郡徼 去其國萬二千里        「その」国を去ること萬二千里 「倭国を」去ること萬二千里 
去其西北界拘邪韓國七千餘里       「その」西北界        「倭国の」西北界

これの二番目をむりくり「倭国」ではなく、「邪馬台国」と読むインチキだろ

方々でコピペを見てるよ
三連続の「其」の二番目だけ違うものを指すとかインチキもいいとこ

28 :
その国と言えば、首都から距離を測るのが普通だからだよ。
国境は他に書いてあるわけだし。

29 :
みやま説なら大牟田もありだな

30 :
「其山有丹」だから辰砂が採れる場所でないといけない。

鉱脈が中南九州にはあるようだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45700769.html

佐世保にも水銀の鉱脈はあったようだ。
http://motamota.hatenablog.com/entry/2018/08/15/100442

でも福岡はどうかな?

31 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

32 :
みやま説が、大牟田ありらなら、玉名、山鹿も有りだな

33 :
>>30
福岡が王都で、佐賀と長崎までが女王国。

34 :
だが、九州の辰砂鉱山は飛鳥時代以降に発見
弥生時代には「ない」んだよ

35 :
>>34
それ、どうしてわかったの?
別のスレで
「其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
 卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。
 その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の
 出る山があったと言うことである。
 どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る
 必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと
 市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。」
と書いてあるんで、
その市毛さんが何を根拠にしてそう書いているのか聞いたがレスがつかない。

36 :
>>35
>それ、どうしてわかったの?
>その市毛さんが何を根拠にしてそう書いているのか聞いたがレスがつかない。

心配しなくても、弥生時代には畿内にも「ない」んだよ 。
あるのは倭国(阿波)だけだから安心して。  @阿波

37 :
>>36
阿波にあったのはどうしてわかったの?

38 :
>>34
根拠くらい示せよ。
畿内説は言い張るだけだよな。

39 :
日本民族体系3は、なかなか図書館でもおいてないからね

40 :
日本民俗文化体系3  稲と鉄―さまざまな王権の基盤
水銀 : 民俗と製造技術 市毛勲

あとは、
市毛勲 朱の考古学

41 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

42 :
後漢書だと「其山有丹土」なんだけどね。
ただ、魏志の前文に出白珠青玉とあるから、
献上品リストを見て倭には真珠とヒスイが取れて
辰砂の出る山があるって記載したんだと思うけど。
真珠はともかくヒスイの産地も限定されるね。

43 :
>>40
結局
「卑弥呼の時代には、大和と阿波の(辰砂の)鉱床群が開発されており、九州はまだであった」という市毛勲氏が日本民族文化体系3の中に書いたという主張の根拠はなんなの?
卑弥呼の時代のことがそんなにわかるの?

44 :
>>42
縄文時代の九州で翡翠が採取されていたようだよ。
https://blogs.yahoo.co.jp/ekrdnj1974/49901469.html

45 :
>44
間違えた。
従来翡翠だと言われてきたものが、クロムの含量の高い白雲母だったということだから、「九州で翡翠にビジュアルのよく似た鉱物が採取されて装飾品に加工されていた」、だった。
蛍光X線で分析して初めて翡翠でないとわかるもの。

46 :
>>42
>後漢書だと「其山有丹土」なんだけどね。

それを、読点の打ち間違い
其山有丹、土氣温腝でいいんだよ

47 :
>>44
これは面白いね。古代史塗り替えるじゃないですか。
青玉も真珠も丹が(丹土)なら九州内でまかなえそう。

48 :
>>37
>阿波にあったのはどうしてわかったの?

「若杉山遺跡」
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B0%A4%C6%EE%BB%D4%2F%BC%E3%BF%F9%BB%B3%B0%E4%C0%D7

49 :
>>45
>従来翡翠だと言われてきたものが、クロムの含量の高い白雲母だったということだから、

従来翡翠だと言われてきたもの「の中に」、クロムの含量の高い白雲母「のものもあった」
が正しい

九州外まで輸出されてるから、結局「九州だけの倭国」はないんだけどね

50 :
筑紫を盟主とする連合国家である倭国だろ。

51 :
>>50
>筑紫を盟主とする連合国家である倭国だろ。

権力の可視化モニュメントである巨大墳丘墓の時代に
12×8メートルの墓しか作れない地域に王はいないよ

吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部、
てなサイズがある

畿内では纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートル

考古学的実体である墳丘墓を見れば、「九州が盟主」はないことが分かる
北部九州でも一時代前の吉野ヶ里遺跡北墳丘墓は、27×40メートルの大きさがある
北部九州の凋落は明らか

52 :
>>48
ありがとう。徳島では辰砂の「採掘」をしてたのがわかった。
でも、他の場所で辰砂を「採取」してなかったとは言えないね、地上に現れていたものを採っただけなら遺跡にはならないから。

53 :
>>52
>でも、他の場所で辰砂を「採取」してなかったとは言えないね、地上に現れていたものを採っただけなら遺跡にはならないから。

そんな少量では、とても全国各地の古墳に賄えないよ。 却下。  @阿波

54 :
墓の大きさしか頼るものがない畿内説。

55 :
そういうこった。
畿内の老人たちが、箸墓のドでかさで驚かして乗り切ろうとたくらんだものの、
ネット2ちゃんの情報力には、まるきり歯が立たず、ついに化けの皮がはがれたってわけだ。

56 :
>>53
魏志倭人伝の「其山丹有」と後々の古墳への使用は直接的には無関係だよ。

57 :
>>56
>魏志倭人伝の「其山丹有」と後々の古墳への使用は直接的には無関係だよ。

確かに、倭人伝には古墳の使用は書いていない。
が、「其山有丹」の山が若杉山しか該当しない事実があり、古墳に使用された朱も若杉山産である事実。
これは結果的に、「魏志倭人伝の「其山丹有」と後々の古墳への使用は直接的に関係する」ということ。  @阿波

58 :
>>57
意味がわからない。

59 :
>>58
補足すると
「『其山有丹』の山が若杉山しか該当しない事実」などないはずで、
仮に
「古墳に使用された朱も若杉山産である事実」が本当だとしても関係ないはずで意味不明ということ。

60 :
@阿波の其山牛丹有、日がな一日 食いしん坊の極みww

61 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

62 :
>>59
>補足すると
>「『其山有丹』の山が若杉山しか該当しない事実」などないはずで、

少なくとも、今の時点では、「『其山有丹』の山が若杉山しか該当しないという事実。  @阿波

63 :
>>62
どういう論理なのか、さっぱりわからん。
辰砂は掘らなくても「山」に「有」ればいいんだよ。採掘する必要はないから。

64 :
阿波さんて孤立無援でよく頑張るな
もう読みもしないけど

65 :
>>63
>辰砂は掘らなくても「山」に「有」ればいいんだよ。採掘する必要はないから。

いつまでそんなこと言うつもりなんだい?
平成も終わろうとしている時代に、この体たらく。  
実に情けない。  @阿波

66 :
九州説も畿内説も、最早ガラパゴス状態。
当人たちはそれさえも気づいていないのだろうか? 
本心は、近づく倭国(阿波)の足音におびえているのだろう。  @阿波

67 :
>>66
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/black.htm

68 :
>>52横からすいませんが
私は、阿波の丹だけでは
倭人の身体に朱を塗る風習や古墳内に塗る量に
到底追い付かないと思うのです。
まず、みやま市こうやの宮の色彩像を見て下さい。
真っ赤に塗られた横にマッチョな色彩像を。
私は、これが倭人の戦士か海人族と思うのです。(たぶん海人族)
倭人は沢山の朱を使っていたはずです。
しかし阿波で発見された丹洞窟内は狭く長さも20m無いと記憶してます。
これでは四国内での消費量にも足りたのか疑問に思います。
古墳に使用した量だけでも阿波朱じゃ足らないはず。
きっと日本国内に他に鉱山があったはず。
中国から輸入していた説もあるでしょうが
あの色彩像をみる限り、国内で容易に調達できたと思っています。

69 :
ついでに
海人族が朱を沢山身体に塗ったのは
日焼けの働きもあったのかもしれません
(本人達が意識していたかは謎ですけど)
長期間、海を航海すれば、火傷並に日焼けしたでしょう
朱を塗れば日焼けしなかったと思ってます

さらにこうやの宮の赤い人の色彩像、
腕に金輪みたいなのをしています。
これは、たぶん貝輪です
この貝輪は、遠い沖縄でしか捕れない珍しい貝です。

海人族が遠い沖縄で貝輪を仕入れ、倭人に売った
(貨幣の貨は貝が化けるですもんねw)
初期の経済活動の始まりではないかと想像できます
この視点(想像ですが)も実は素晴らしい事なんですよ。

私には証拠も出せませんし、想像ばかりですが
書いてみましたm(__)m

70 :
さらにさらについでに
今私が注目しているのは
邪馬台国の(台)の漢字です
臺が、いきなり→台になるのでしょうか?
どなたか詳しい人がいましたら教えてください

71 :
常用漢字だけじゃね

72 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

73 :
>>68
>私は、阿波の丹だけでは
>倭人の身体に朱を塗る風習や古墳内に塗る量に
>到底追い付かないと思うのです。

おなたがそう思うのは自由です。
ただ、全国唯一の辰砂採掘遺跡や出土した朱のイオウ同位体比を見る限り、
今現在は、あなたのその思いは外れていると言わざる得ませんね。  @阿波

74 :
>>73
徳島産の辰砂とほぼ同じ同位体比を有する辰砂は九州でも採れてる。
文献では三重産の辰砂だけは区別できるけど?そうでないものが徳島産なんて結果は出てない。

https://kindai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=11089&item_no=1&attribute_id=40&file_no=1&page_id=13&block_id=21

「古代日本の主な朱産地である三重県丹生鉱山と徳島県水井鉱山および奈良県大和水銀鉱山の間には有意差 があり、丹生産かどうかを区別することが可能」

「弥生時代から古墳時代にかけた西日本各地の支配者階級の墳墓から出土した朱を我々が分析したところ、
イオウ同位体比が大きくプラス値に傾き、中国貴州省辰砂鉱山産とよく似た値を示す朱と、
マイナスの値を示して三重県丹生鉱山産とよく似た値を示す朱の存在を明らかにした。」

「一つの鉱山鉱脈において深さなどが異なってもイオウ同位体比に違いは少ないことを 明らかにしている。」

「古代では露頭部分付近から採取された朱を用いていたと思われるが、地中深くから採掘している現在の鉱 山鉱 石 のイオウ同位体比分析の結果はそれほど変わらないと考えられる。」

「丹生産辰砂鉱石は日本の他鉱山鉱石とイオウ同位体比の値が大きく異なっていた。丹生鉱山は縄文時代から朱の採掘が行われていたことから、弥生時代および古墳時代も朱が採掘されていたと考えられる。 」

「古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山であ る丹生鉱山産のイオウ同位体比 が他鉱山 と異なることは貴重なデータであり、今後遺跡から出土する朱の産地推定に役立つと考える。」

75 :
>>73
徳島産の辰砂とほぼ同じ同位体比を有する辰砂は九州でも採れてる。
文献では三重産の辰砂だけは区別できるけど?そうでないものが徳島産なんて結果は出てない。

https://kindai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=11089&item_no=1&attribute_id=40&file_no=1&page_id=13&block_id=21

「古代日本の主な朱産地である三重県丹生鉱山と徳島県水井鉱山および奈良県大和水銀鉱山の間には有意差があり、丹生産かどうかを区別することが可能」

「弥生時代から古墳時代にかけた西日本各地の支配者階級の墳墓から出土した朱を我々が分析したところ、
イオウ同位体比が大きくプラス値に傾き、中国貴州省辰砂鉱山産とよく似た値を示す朱と、
マイナスの値を示して三重県丹生鉱山産とよく似た値を示す朱の存在を明らかにした。」

「一つの鉱山鉱脈において深さなどが異なってもイオウ同位体比に違いは少ないことを明らかにしている。」

「古代では露頭部分付近から採取された朱を用いていたと思われるが、地中深くから採掘している現在の鉱山鉱石のイオウ同位体比分析の結果はそれほど変わらないと考えられる。」

「丹生産辰砂鉱石は日本の他鉱山鉱石とイオウ同位体比の値が大きく異なっていた。丹生鉱山は縄文時代から朱の採掘が行われていたことから、弥生時代および古墳時代も朱が採掘されていたと考えられる。 」

「古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山である丹生鉱山産のイオウ同位体比 が他鉱山と異なることは貴重なデータであり、今後遺跡から出土する朱の産地推定に役立つと考える。」

76 :
実はみやま、大牟田、荒尾あたりに大きな国があったんだよ
ただ大規模な古墳や遺跡は見つかっていない
なぜなら意図的に隠されたから
特に大牟田、荒尾は炭鉱があったし、遺跡なんか出ちゃ迷惑だったんだよ
という仮説

77 :
>>76
いや、普通に遺跡密集地帯で
鍛冶遺跡が多いですよ

筑紫と肥の国境で戦の痕跡も多いですね

78 :
>>74
>古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山

少なくとも、今現在、卑弥呼の時代に「辰砂鉱石採取」をしていたと、認められない。  @阿波

79 :
>>77

根拠を示さないと!  投稿する意味なし。  @阿波

80 :
>>77
>筑紫と肥の国境で戦の痕跡も多いですね

つまりは邪馬台国と狗奴国の国境だろ。

81 :
>>80
>つまりは邪馬台国と狗奴国の国境だろ。

その「邪馬台国と狗奴国」に相応しい集落遺跡群を示せないというお粗末。  @阿波

82 :
>>78
していなかったという断定さえできなければ、鉱脈がある場所では十分可能性は残る。「古代では露頭部分から採取」していたのなら遺跡は残らない。

83 :
でも精製してたら遺物は残る

84 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

85 :
>>82
ところで、九州では朱の精製跡さえないのかね?  辰砂鉱脈のない吉備にさえあるのに。  @阿波

86 :
>>85
大きめの遺跡にはたいていあるよ
吉野ケ里にもあるし。

北部九州の朱丹の使用量は大きいからね。

87 :
>>86
>吉野ケ里にもあるし。


ウソはイカンぜよ。  @阿波

88 :
>>83
>でも精製してたら遺物は残る

そして、朱の取引に使われたのではないかと推定されている分銅(石製)は
畿内の亀井遺跡から出土している

河内の中心集落だよ

89 :
>>88
>そして、朱の取引に使われたのではないかと推定されているその取引された朱が、若杉山産の朱という落ち。


>分銅(石製)は 畿内の亀井遺跡から出土している

出荷元の倭国(阿波)では、祭祀具にまで、昇華している。
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
注目されるのは分銅形土製品がある。分銅形土製品には目・鼻・口など顔が線刻されており、祭祀に用いられたと思われる。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B0%A4%C7%C8%BB%D4%2F%C0%BE%C4%B9%CA%F6%B0%E4%C0%D7


>河内の中心集落だよ

「西長峰遺跡」程度では倭国(阿波)の中心遺跡とはならない。  @阿波

90 :
>>88
>分銅(石製)は 畿内の亀井遺跡から出土している


その分銅(石製)は、まず間違いなく倭国(阿波)の「青石」だよ。  @阿波

91 :
なんで阿波が福岡説にはりついてんだよ
畿内は潰し終わったのか

92 :
>>91
>なんで阿波が福岡説にはりついてんだよ

面白いから。


>畿内は潰し終わったのか

やはり、畿内を潰すのは倭国(阿波)の役割だと?  もはや他力本願に成り下がったか、九州説。  @阿波

93 :
>>89
ふんどうがたどせいひん
 天秤(てんびん)に乗せて重さを量る分銅と「形が似ている」ことから名称が付けられた土製品。

形が似ているだけで、分銅として使われてないじゃんww

94 :
>>93
>形が似ているだけで、分銅として使われてないじゃんww

だって、これ、分銅の親分(化身)だから、分銅として使ったら罰が当たるよ。  @阿波

95 :
>>94
>だって、これ、分銅の親分(化身)だから、分銅として使ったら罰が当たるよ。  @阿波

おいおい、「分銅と形が似ている」といっても、似ているのは弥生時代の分銅じゃなくて
江戸時代とかの分銅だぞww
後藤分銅でググってごらん

プラナリアの頭形土製品って名前にした方が、有名になっただろうに

96 :
>>95
>プラナリアの頭形土製品って名前にした方が、有名になっただろうに

じゃ、そうしよう。 
土製仮面はどうする?  @阿波 
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7

97 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

98 :
>>96
>土製仮面はどうする?  @阿波 

登録、ログインしないと見られない

99 :
転載ですが
このHPは見やすく九州の古墳の発掘品の一覧表です
http://www.netpia.jp/history/kofun_fukuoka.htm
この表には土器や石製品等は含まれていません

当時と現在では海岸線が違うはずなので
海岸線をうまく重ねると面白いかもしれません。
しかし凄い量の品々ですね  

100 :
>>99

肝心かなめの弥生時代後期の遺跡がすくないねぇ。
しかも、ほとんど古墳ばかり。 
申し訳ないけれど、遺跡発掘の少ない倭国(阿波)の遺跡に比べて、パッとしたものがない。  @阿波  
@阿波

101 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

102 :
>>100
ところでどうして倭国(阿波)と書くの?
徳島とでも書けばいいのに。

倭と阿波は関係ないみたいだけど。
ウィキペディアには
「『阿波』の名称と由来
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていた。
(中略)
のち、律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。
和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため『粟』は『阿波』に変更された。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%9B%BD

粟の方も倭国とは関係ないようだし。
「アワの語源は五穀の中でも味が淡いためだとか、穂が大きいところから大穂 (オオホ)が転じたものとか、
『ア』は小さい意味を、また『ワ』は丸いことを意味し、 穎果の形状からきたもの、
などの諸説があり、この他にも次のような説がある。
中国 ではアワを『黄禾』ともいっており、 禾(カ)はノギ偏の元祖で稲などの穀類を表わし、 黄色い穀類という意味である。
これを[A-Fa]と発音したために、これが日本に伝来 したとき、アワとなったとする説。朝鮮語では[ho-a]と発音し、これがアワとなった とする説などである。」

103 :
>>102
>倭と阿波は関係ないみたいだけど。

「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で「阿波」にしかない。 他所にあれば倭国(阿波)とは言わない。
ゆえに、唯一「阿波」が倭国(阿波)である。  @阿波

104 :
>>103
何の物証なのかわかりません

105 :
壱岐の原の辻をもっと調査して欲しい。
ここ見ると畿内の影響受けてたとは思えないんだよなぁ。

106 :
>>104
>何の物証なのかわかりません

「倭」が付く物証
と、何度言えばw  @阿波

107 :
>>106
「倭」が名前に付いてるのが何?

108 :
>>105
そこ、多分、高天原

109 :
>>107
>「倭」が名前に付いてるのが何?


「倭」が名前に付いてるのが倭国(阿波)にだけ。  @阿波

110 :
>>107
>「倭」が名前に付いてるのが何?


「倭」が名前に付いてるものが無いところは論外。  @阿波

111 :
>>110
倭は、中国人が発音から当てた字で日本側が使ってるのはおかしいね。

112 :
>>111
>倭は、中国人が発音から当てた字で日本側が使ってるのはおかしいね。


そうだねぇ、倭は、中国人が発音から当てた字で倭国(阿波)にだけ使ってるのはおかしいね。  @阿波

113 :
第三者視点から研究するほうが公正かつ正確(思い入れフィクションが入りにくい)ということで支那文献に記載の漢字を積極的に使おうとするけど
日本人は背が小さくて「矮」小だから倭國とか「邪」馬壹国とか「卑」弥呼とかを積極的に使うことに抵抗がある
邪馬壹国や卑弥呼に関してはどう読むかの論争があるからアレだけど、倭國はワのクニで間違いないんだから和国で良いんじゃないかっていつも感じる

114 :
>>113
>倭國はワのクニで間違いないんだから和国で良いんじゃないかっていつも感じる

倭國はワのクニで間違いないんだから
「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で唯一「阿波」にしかない「阿波」が倭国(阿波)で良いんじゃないかっていつも感じる。  @阿波

115 :
>>114
う〜ん
あれだけ聖徳太子が嫌がってた「倭」だよ
むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが薄れてしまった後年に作られたって解釈するほうがhiSTORYとしては自然だと思うけどな

116 :
>>115
>むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが薄れてしまった後年に作られたって

う〜ん
むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが分からなかった時代に作られたって解釈するほうがhiSTORYとしては自然だと思うけどな。  @阿波  

117 :
>>116
なるほど、それは一理あるかもしれんね
てかここ福岡説のスレなのに何で阿波説を説いてるの?

118 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

119 :
>>117
>てかここ福岡説のスレなのに何で阿波説を説いてるの?


それはね、福岡が「筑紫忌部」によって今日があるからだよ。  @阿波

120 :
筑紫忌部族は久留米の高良玉垂の子孫
よく判らないのは高良大社と香春神社の関係性
九州の詳しい人がいたら教えて下さい 
 

121 :
想像ですが
高良玉垂が月神なら対極がヒミコかなと
 

122 :
ウエツフミってどうなんだろう
豊国文字も

123 :
>>120
筑後一宮高良大社の末社はおしなべて武内宿禰を祭り神としているため、高良の神とは武内宿禰のことと考えられます。
筑前一宮住吉神社の住吉の神も、武内宿禰のことと言われます。仲哀天皇の崩御の夜に神功皇后との間に密事ありと伝えられます。
つまり4世紀末において、筑前筑後を支配した筑紫の倭王こそ、武内宿禰です。
密事から十月十日後に誕生した応神天皇の家系が、その後の倭国の正統とされています。

124 :
香春宮の田油津姫は、景行天皇と共闘していた筑紫の梟師すなわち倭王である神夏磯姫の末裔と伝えられています。
神夏磯姫は年代的には壹與(肥前一宮河上神社の淀姫)の直後の倭国(邪馬台国)の女王です。
景行天皇の九州上陸の際に、八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて神威を示しました。
田油津姫も、倭国の王の一人であったと考えられます。
当時の倭国(九州北部)には、高良玉垂宮、香椎宮、穴門豊浦宮、岡田宮、箱崎宮など、多くの宮があり、それぞれに宮様、つまり王族がいたのでしょう。

125 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

126 :
>>125
カマ野郎消えろ

127 :
>>123
>>124
おそくなりましたが
詳しい説明ありがとうございます
最近、気になる古本(¥38000(ToT)高すぎ)がありまして

八幡大菩薩愚童訓

これを知ってる人いますか?
 

128 :
これ?
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=af9e172c24876f96dc04d2f4de42e882a99fdba1&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9%E6%84%9A%E7%AB%A5%E8%A8%93

129 :
>>128値段がぜんぜん違うw
教えてくれてありがとう
(^3^)/

130 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

131 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

132 :
次のサイト図付きで分かりやすい
https://kodaishi.net/nature/yamataikoku_2

133 :
ニュース速報+より
(4): (新潟県) [NZ] 11/18(日)14:20 ID:uKzdSSEW0(1) BE AAS
BEアイコン:miyabi.gif
弥生人骨、予想覆し「渡来系」大半…鳥取の遺跡
2018年11月18日 13時59分

鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、
鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、
同町の市青谷町総合支所で開かれた。
大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。

遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。
調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。
報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。
市民ら約130人が聞き入った。

篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。
当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。
しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。
DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、
交易で栄えていたことがうかがえるという。
また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。
しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

外部リンク[html]:www.yomiuri.co.jp

134 :
ごめんなさいニュース速報だった
http://n2ch.sc/r/-/news/1542518427/147-?guid=ON&rc=154
もしかして島根出雲鳥取あたりは渡来系かな
九州は縄文と渡来系の両方でるから倭人かな?
  👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9)


135 :
環日本海交流圏だな。
出雲は公益により発展し、九州北部では天津神と国津神が対峙または共存していた。

136 :
記紀では確か神武天皇の妃は国津神の事代主の娘。

137 :
それは後付け。
塗矢伝説と言って、父親が不明だったものを神様にこじつけただけ。
むしろ母親が大山積や三島の神(鴨主)の家系だ。

138 :
朝で時間がないからニュース速報+のコピーですまん
11/17(土)04:55 ID:QsczJxFn0(1) AAS
どうやら邪馬台国は九州で決着のようだな
71 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 02:13:12.52 ID:WkLyAWvr0
北部九州は縄文時代から西日本の中心だからな
そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した
縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している
縄文時代の貝の交易
外部リンク:blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp
画像リンク[jpg]:www.gondo.com
安曇族ゆかりの地
画像リンク[jpg]:4.bp.blogspot.com
また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った
銅釧(どうくしろ)というものがこれに代わり、やはり同様の分布を示す
銅釧出土地
画像リンク[png]:www.city.ichihara.chiba.jp
銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる
外部リンク[htm]:www.city.ichihara.chiba.jp
>南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
>古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ
銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ
現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな
72 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 02:29:56.78 ID:eKkX3/450
>>71
画像リンク[jpg]:www.gondo.com
この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな
魏志倭人伝に出てくる侏儒国は種子島だと言われているけど、「女王国を去ること南に四千里」という位置情報とも
完全に一致している

こっちのスレもたってます
       

139 :
アタマのビョーインに行けw

140 :
>>138
>この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな

邪馬台国というより、倭国だろう。
邪馬台国は王都となっているから、福岡。

141 :
前スレで取り上げた事がニュース速報+でスレたってた
http://n2ch.sc/r/-/newsplus/1542397410/154-?guid=ON&rc=168 
やっぱり貝輪と海人族のつながりは興味深い

あと大分の金細工の鉄鏡のトルコ石使用も謎のまま 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9)


142 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

143 :
大分の鉄鏡を気にしてたら
またニュース速報+にスレきたわw
初期の邪馬台国は女王は大分から来て福岡に
住み着いたのかなあ
http://n2ch.sc/r/-/newsplus/1542374845/?guid=ON&rc=879 
またロックされるのかな 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9)


144 :
大分の鉄鏡のトルコ石が
どこから伝わったか説明できる人いる?
不思議だよね
私たちの想像以上に昔の人達は活動的だったのかも

145 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

146 :
アマテラスやヤマトヒメの古墳はどこ?

147 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

148 :
万葉集に
「河内王を豊前国(=大分県か田川郡鏡山神社)の鏡山に葬る時」
という題のつけられ「豊国の鏡の山の
岩戸立て隠りにけら」という歌がある。
河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、
このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。
古来から日本では他界に去った死者の霊は
山の神となって生者の守り神となると考えられていた。

149 :
なぜ河内王は田川郡の小さな鏡山に埋葬されたのか?

150 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

151 :
>>138
誰かがその辺をまとめてこっちの板にも持ってきたみたいだよ
瀬戸内海も日本海も九州の海人の勢力圏だったというのは面白いね

【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1542023631/593-602

152 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

153 :
ごほうらの貝がー、銅釧がー、って言ってコピペして回ってる人は
東遷厨って呼ばれる人なんだってね

154 :
>>153
負け犬の中傷ほど惨めなものはない

155 :
面白い見解があったのでコピーさせていただきました
546: 11/25(日)17:08 ID:qvgWxeKF0(1) AAS
倭国の政変は3世紀末〜4世紀前半頃で、卑弥呼の時代より少し後
卑弥呼のいた弥生末に九州中心に分布していた破鏡が古墳前期には瀬戸内海〜畿内へ移動している
一枚の鏡を割って割符とし、穴を開けて紐を通し兵士たちが持って移動した
 166 :ホワイトケープ :2018/10/06(土) 18:57:54.78
 破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。
 弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。
 次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。
 図40(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
 図41(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
 熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。
 ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。
 当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。
 福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。
 家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。
 出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。
 兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。
 突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。
 妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。

 鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。
 三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。
 東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。
 九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。
 
素晴らしい見解と思いませんか?

156 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

157 :
>>155はニュース速報+のスレから

【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡

158 :
鏡が与えられてる兵士って将軍レベルだよな

159 :
班長レベルじゃないかな
割って仲間同志の割り符としたとか
しかし銅鐸は何に使ったのかね

160 :
>>155
大元の出処はこのスレの166みたいだな

神武・倭国の連合東遷説
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1535685239/

そのホワイトケープってコテは他にも同一地名や山名の分布とか分析しててなかなか本格的に調べているように見える

161 :
>>155
肝心の図が見れなかったんで>>160から引っ張ってきた
確かに移動がはっきり見て取れるな

図40(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu40.jpg
図41(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu41.jpg

162 :
>>144
水銀の生成法から大陸製ってことが判明してる

163 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

164 :
台与は海人族の娘で那島の姫だよ

165 :
>>164
根拠のない妄想

166 :
お疲れ様です。
私初めて>>160を読ませて

167 :
お疲れ様です。
私初めて>>160を読ませてもらいましたが
スゴイ!びっくり、素晴らしい
一度でファンになりました。

168 :
>>167
こっちじゃなくあっちに書いてやれよマヌケ

169 :
自演による誘導だろw

170 :
根拠もない妄想なんですが
倭国の人達は
倭の全体の土地が家(神社や宮)と考えて
クニグニの名前をつけてないかな?
大工の専門用語と被るね。
宗像→棟方(神社や家の屋根)
投馬(つま)→妻(建物の端の壁)
偶然bゥな。
建鋳z詳しくないけbヌ調べたら、もbチとあるかも?=@ 

171 :
あれ?文字化けしてるゴメン

172 :
テスト

173 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

174 :
「戦」いくさ
単とは頭に鷹の羽根を3枚頭にさして
戈を手に持った姿
単+戈=戦

その昔、田川(鷹羽)の戦士達は頭に鷹の羽根をさしていて
とても勇敢だったらしい

信長の時代だったかな、九州の兵士は
滅茶苦茶に強かったから、なかなか手を出さなかった
島津軍もほんとに強かったそうだ

175 :
>>174
タカミムスビ

176 :
日本書記や古事記の中つ国葦原とは
福岡県筑紫郡那珂川辺りだね

ヤマタノオロチは那珂川を含めて裂田の溝を含めている

洪水被害の多かった地域に「さくたのうなで」を
造ったことで地域に安定をもたらした
裂田神社の横の地中の大岩(花こう岩)が
ヤマタノオロチで剣の刃が欠けた所
偶然かも?その地域は山田ノオロチ
神話の始まりは、やはり福岡
@東京

177 :
つまりヤマタノオロチとは
水害洪水で住民に被害をもたらす
川のこと

178 :
>>177
その川は倭国(阿波)の大河。  @阿波

179 :
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

180 :
豊中国葦原を筑紫郡山田一帯とするならば
那珂川の上流側に天の高原があることになる 

181 :
日本、古倭奴也。
去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。
國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。
左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。
置本率一人、檢察諸部。

旧唐書と新唐書
平家物語をよんでも当時の人々の家は

182 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

183 :
今日、江戸東京博物館に行ってきました
企画展「古代を彩る至宝(玉)」を見てきました
全国に翡翠、赤メノウ、碧玉など
いろんな勾玉がありますね

あぁいろんな所を旅したくなった

184 :
最近ニュース速報+に古代史歴史スレが、よく立つね。
これ気に入った
963: 12/11(火)09:13 ID:R4ELcWF90(12/17) AAS
>>954
邪馬台国畿内説などと言う学説は存在しない

卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他を軍事的に統括することは出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な常識であり、異を唱えるものなど居ない。

しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。

つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺を軍事的に統括することが出来ずにいるのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括することが出来たと主張することになる。

このような説はバカが言う説であり、もはや学問の体をなしていない。

邪馬台国畿内説は検証を加える以前に、立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。

邪馬台国畿内説は、ただのファンタジー 

185 :
>>183
>全国に翡翠、赤メノウ、碧玉など
>いろんな勾玉がありますね

>あぁいろんな所を旅したくなった


勾玉の発祥・供給地も倭国(阿波) と、何度言えばw  
勾玉製作の本家本元 倭国(阿波)へいらっしゃい。  @阿波

186 :
>>184
>卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
>緩やかに連合している状態であり

妄想過多。 各地で「忌部はん」が活動・活躍しているだけのこと。  @阿波

187 :
考古学者って歴史を知らないバカ集団だからね

188 :
>>184
そもそも畿内説って言葉の時点でセンスがない

189 :
大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。

190 :
>>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。

それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。  @阿波

191 :
【アマルガム】 有毒廃棄物として処理される水銀を、口の中ならOK、と歯に詰めた歯科医を逮捕すべき
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1544495072/l50
ロボトミー手術・・・ この手術を考案したモニッツは、ノーベル賞を受賞している
https://twitter.com/onodekita/status/1071369333945720832
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192 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

193 :
忘れない内にコピーしとこ
: 09/05(水)23:12 AAS
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」

(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)

「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた

194 :
【筑紫の日向】

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

195 :
クジフルとは久智古?久智振?

あと津の意味は、港?船着き場?市場?
どなたか教えてください

196 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

197 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

198 :
青柳種信ってどうなん

199 :
>>195
漢字がなかった頃の地名だから、漢字は全て当て字。

200 :
>>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。

それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。  @阿波

201 :
>>195
本来の意味は船着き場です。でも発展すれば港にも市にもなるでしょ

202 :
>>201わかりました。ありがとうございます

203 :
猿田彦
実は、猿田→さるた→去る田
天照の領地の古代米を配った、もしくは苗を配った人
 
古代米をサルタと言う場所も有るんだよ
 
やっぱり人間だもの
食べさせてくれる人(農業指導者)が初期の神になったはず
 
もちろん妄想だけどね、当たってる気もする

204 :
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。

また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。

穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。  @阿波

205 :
だからサルタ彦も農業神と思うんです

206 :
キビも穀物名

207 :
「忌部はん」 はみんな農業神でもあり、最先端のスーパー頭脳集団なんだよ。  @阿波

208 :
>>206
>キビも穀物名

吉備が?  @阿波

209 :
米国

210 :
>>193高祖村24戸
これよく読んで思ったのは
倭人伝の住民2万などの表記は嘘かも。無理がある
何人が調べたのか知らないけど
万の数字を数えるのは想像以上に難しいぞ

 

211 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

212 :
筑前国郡絵図 福岡県立図書館 怡土郡

これに高祖村の椚地区が何処なのか記してある

213 :
椚って現在でも残ってる地名じゃんか

214 :
: 09/05(水)23:12 AAS
>「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべ>しと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
>其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
>民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
>田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」

江戸時代にこの状況だったから、三世紀の高祖村なんて、どうだったんだろうね。
此処に出てくる原田家というのは、中世以来のこの地の領主・旧家だろ。原田大六も其の家系だったのかな。

215 :
逆に、今の椚集落はかつての五郎丸とやらの中にあるということだな。
つまりは高祖城の城郭の中ということだ。
高祖城、怡土城の城域は200ヘクタールとされているが、椚は含まれていなかったように思う。
しかし実は椚やその傍を通る日向峠も城域に含まれていたのだろう。
そうでないと伊都の防衛に不足するもんな。
伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。

216 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

217 :
>>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。

読んでて哀れになるから、妄想の九州説を書き連ねても無駄だと思うよ?
高祖城なんて、3世紀以前にはあるはすもないんだから

218 :
では筑紫城と呼ぶか?
伊都城?
高千穂宮?

219 :
>>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。


妄想は聞き飽きた と、何度言えばw   @阿波

220 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

221 :
筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
>形態・朝鮮式山城(416m/380m)
>建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は元・怡土城の一部を利用して築かれている。

222 :
筑前・高祖城主の原田一族は、中国人の血筋だった、、、

223 :
伊都城と書いたほうがいいのか?
もともと中国の国邑は城壁を持つのが普通だしな。
奴国は城壁など持たない広域都市だったろうけど。

224 :
「年魚あり」これってどの古文に書いてあるのかな
忘れて見つけられない

225 :
筑紫の日向のクジフル山にある宮なら、高千穂宮と呼ぶべきかな。
魏志倭人伝も記紀も、伊都が倭の王都ということで一致していることになる。
そもそも、これだけの大国?で王都の場所がはっきりしていないなんておかしいけどな。
隋書や唐書を読んでも、倭の王都はそもそも筑紫なんだよ。

226 :
筑紫の日向の橘の・・・、宮崎だろ。

227 :
筑紫の日向の小戸が福岡市西区小戸

228 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

229 :
西向きの伊都・高祖・日向ではねえ
糸島は、博多奴国から監視されてたんじゃないの

230 :
西向きだからいいんだよ。
神武が長髄彦と戦った時の言葉に、天神は太陽を背にするべきだとある。
高祖宮はまさにその通りの配置なんだよ。
糸島平野から見ると、高千穂の神奈備を日の出る方角に仰ぎ見ることになる。
これは神仙思想や天照の太陽信仰にも通じる。

231 :
>>227

ウソはイカンぜよ

「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」

倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」 

高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。   @阿波

232 :
西は日の没するところ
ま、仰ぎ見るということは、臣下だったということだな

233 :
糸島平野は、筑紫平野の1/30ほどしかない。しかも西向きのどん詰まり。
笑わせんな。

234 :
>>233
まぁまぁ、トンデモ九州同士、喧嘩はおよし。  @阿波

235 :
怡土城の城郭は、山頂と西麓にあるので、三雲地区から見上げることになる。
福岡側からは見えない。
臣民は東を仰ぎ見て、天神は太陽を背に君臨する構図になる。

236 :
雑穀か。
古代の中原の主食はアワ、アワめしが一番の御馳走だったのだ。

237 :
福岡の出城で、糸島の監視台だったのだろうな。
そう考えると配置が良くわかる。

238 :
もめないで答えてくれ
年魚ありってどの古文にのってるのさ

239 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

240 :
>>238
>年魚ありってどの古文にのってるのさ

ヨコだが、「年魚あり」の記述は知らないが、「年魚」は
延喜式(巻7、神祇7)[践祚大嘗祭式]の「由加物」条に有る「らしい」。  @阿波

・阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬 各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四具 鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女等量程造備
・凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京之日 路次之国掃道路祗承

241 :
邪馬台国は最低でも一級河川を管理下においている。

242 :
那珂川

243 :
>>237
邪馬台国時代、奴国に王はいない。

244 :
>>240ありがとう、だけどその年魚ではないのよ
そっちの年魚は鮎
古代の年魚は鮭
ソースは和妙

245 :
高祖山の望楼跡に登ると
福岡市内や博多湾がよく見える。

白村江のときの博多湾の監視に使われてたそうな。

246 :
伊都の一大率も使ったかもね。

247 :
>>242
那珂川じゃあ7万戸は養えない。

248 :
室見川もつけてあげよう。

249 :
高祖山は、東西南北の見張り台

250 :
当時の国境は
川から川までが国境、川向こう側は別の国
太宰府の町も川を渡ると別の景色
たぶん遠賀川と那珂川が鍵
昔の川はもっと大きく、入江も内陸奥まであった
 

251 :
そうだね、
川から川で分けるから、郡や郷も細長が〜〜かった、

252 :
>>244
>そっちの年魚は鮎
>古代の年魚は鮭

邪馬台国(西日本)なら、「鮭」はない。 年魚は「鮎」。  @阿波

253 :
>当時の国境は
>川から川までが国境、川向こう側は別の国

農耕系の民の場合にはあたっている

漁労交易系の海の民の巣は汽水湖の周辺沿岸域ぐるっととか

254 :
>>252
一応、鮭は遠賀川、釣川、室見川にも居たらしい。
江戸時代だけど。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/izu/7/0/7_23/_pdf

255 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

256 :
アワは、農林漁業にも、地理学にも、考古学にも弱い。
ただ一つ強いのは宗教。

257 :
>>252昔は福岡にも鮭が来てたらしいよ
福岡には鮭神社もあるんだよ

258 :
福岡を語るならこれ読んどこう
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/table.html
筑前国続風土記

259 :
各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。

「阿波国風土記」  @阿波  
https://sites.google.com/site/awakokufudoki/home/awa-koku-zoku-fudoki-nitsuite/2_awakoku_fudoki_towa

通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?

役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」で済まされる話ではない。  @阿波 

260 :
福岡県地理全誌(明治5)も入れて下さい
当時は小倉県田川と福岡県に含まれていなかった為
田川周辺の古墳や神社は生き延びたと思っています
(明治の軍隊によるアレもすくなかったのかも)
盗掘や発掘も福岡県中心地より少ないと思っています
だから、のちの時代に大発見があるかもしれません←希望的観測w

261 :
なんで明治頃の陸軍あたりが
神社の巻物や古文書などを
回収したのか?
どこにあるのか

262 :
>>258
>筑前國続風土記 巻之二十二 怡土郡

なかなか面白い内容だった。
原田某は、我が氏は光武帝の遠孫と自称していたが、さにあらず。源頼朝卿のころに土着した人物、とか。
ちなみに伊都国の気配なぞ、まるきりないねえ。

263 :
>>259
続風土記ね。江戸時代前半に益軒先生が書いたやつ。
阿波さんだと読むといろいろ結びつくことあると思うよ。

>>260
豊前地域は熱いですね。
東九州道関連やら再開発やらでポコポコ出てますね。

264 :
>>261
全部燃やしたらしい。
高良大社では七日間に渡って古文書を燃やし続けたとか。

265 :
ほう、そんなことがあったのか。
薩摩は、天孫降臨の地を領内に引っ張ってきたりしたからねえ。
日本の歴史を薩摩に都合よく書き変えようとしたのだな。

266 :
なんでアワストーリーが出てくるんだよ、
この曲の話?

TWINZER『OUR LOVE STORY』


そういう業界のことは知らないけど、
エックスのハイドが何やらと言ってる人がいたり


数年前のとあるオカルト関係のスレ

267 :
たしかサカキバラ事件と同じようなことを言っていたよ
(さかきばら『SHOOLL KILLER』すくーる?)



エックスのハイドが何やらとか、

268 :
古代史の史料の大規模な喪失は三回ある。

白村江の後の畿内への政権移行
戦国時代の戦乱
明治維新

269 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

270 :
余談だが、日本語の文法は大きく二回の変化を遂げている。
いわゆる古文は平安文学が中心だが、室町時代まで大きくは変わらない。
江戸時代から現代までは大きくは変わらない。
奈良時代より前はいわゆる上古文となる。
この変化はなぜ起きたのだろうか。
古文の時代は、政治や文化の中心が畿内にあった時代だろう。
江戸時代以降は、都は京都だが政治や文化の中心地は江戸または東京にあったわけだ。
では奈良時代より前の上古文の時代とは何だろう。
政治や文化の中心地が筑紫にあった倭国の時代ではないか。

271 :
『.。o○ LOVE STORY』

魔法のペルシャとか、本当に凄い話、
おかると?

272 :
『シャボン・カッター』



日本の話なんですよwwwと言ってる人がいたり、
漫画、アニメ・・・ゲームの話なのかな

273 :
このような作品があるから観て、あと曲も聴いてみて(youtube)


『Wizardry 1 [OVA] ウィザードリィ Toshiya Shinohara 1991』

274 :
『松傾』
この人物、家の話みたいなんだけど

275 :
それにしても老婆なんだよ、なぜ詳しかったんだろう

『歌舞伎』や『芝居』が好きで・・・ナニヤラ〜という話とか

軍人なのか何なのか、わからないけど、
『松傾』の・・・・子供の頃の写真があって、何かの制服のようなものを着ている

でも戦争には行っていないよと言っていたり

276 :
『ボーボボ』?

277 :
肉は食べなかったと言っていたり、
たしか母親の話


本当に、どういう事なんだろう

278 :
話を作りすぎ

本当はシュテンドルフ(酒呑童子)の話でしょ、
きざくら〜という曲とか

『松傾』

279 :
しゅてんどうじ?

むかーしの偉い人だという話でしょ、
何かの王子(皇子)?

280 :
誰かの本名なのかな、後の名前、名字

『聖徳太子 日本人ではない』

281 :
鳳凰?輿〜?


あの写真の話でしょ
『葱の華』


『松傾』
このような名前の家の写真

282 :
それにしても老婆談だよ


本当に、おかしな話ばかり、
古代ローマ?の話が出てきたり

どこで勉強したんだろう

283 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

284 :
ほとんど合致している

『聖徳太子 ペルシャ』

『平家 赤 百済』

285 :
百済スレの妄想ヒトモドキ>>270が書き込むと、セットで松傾の基地外も付いて来る謎現象(笑)

286 :
>>270
>では奈良時代より前の上古文の時代とは何だろう。

奈良遷都前の倭国(阿波)時代 と、何度言えばw  @阿波

287 :
>>286
妄想は聞き飽きた と、何度言えばw

288 :
この作品を観てみて、なぜ河童のほうが凄いのか?
となるでしょ、カミ(シン)そのものだから

『まんが日本昔ばなし 河童の雨ごい』

289 :
>>288
まだ朝鮮ヒトモドキ現れてないんだから百済スレ行っとけ松傾キチガイ

290 :
>>287
>妄想は聞き飽きた と、何度言えばw

上古文の時代は奈良遷都前の倭国(阿波)時代 と、何度言えばw 

奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。

阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。

ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。

ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。

それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。

阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波

 

291 :
『まんが日本昔ばなし 河童の雨ごい』

ヒミコのような人物が出てくるでしょ、巫女?
なぜか役立たず

292 :
>>291
まだ朝鮮ヒトモドキ現れてないんだから百済スレ行っとけ松傾キチガイ

293 :
youtube『魔法の妖精ペルシャ OP1 [STEREO]』


ペルシャ自身、
そういう能力は持っていないというコメントがあったり


数年前の、とあるスレ
「貰った・・・・(役、能力?)・・・・でしょ」
みたいな事を言ってる人がいたり

294 :
>>293
まだ朝鮮ヒトモドキ現れてないんだから百済スレ行っとけ松傾キチガイ

295 :
>>287
>妄想は聞き飽きた と、何度言えばw

上古文の時代は奈良遷都前の倭国(阿波)時代 と、何度言えばw 

奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。

阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。

ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。

ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。

それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。

阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波

296 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

297 :
キュウリのような葉が写っている
写真があったでしょ、あと葱の華

『松傾』

こういう名前の家の写真

298 :
『河童』
について調べてみると、いろいろと書いてあるけど

あの写真は『松傾』だよ

299 :
>>297-298
まだ朝鮮ヒトモドキ現れてないんだから百済スレ行っとけ松傾キチガイ

300 :
>>290木簡それそれ!
その木簡文字は韓国カヤ文明からきたのかも
韓国の博物館にもある
韓国カヤ→伊都カヤ→泡
新羅に終われたカヤが泡にたどり着いた
すべて妄想ですが
当たってませんかねぇ?

301 :
>>300
>韓国カヤ→伊都カヤ→泡
>新羅に終われたカヤが泡にたどり着いた

「伊都カヤ」は蛇足だが、
新羅に追われたカヤが泡にたどり着いたのは本当だよ。 
倭国(阿波)で有力豪族となった蘇我氏が重用した。   @阿波

302 :
方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型か?

蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群

先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが

蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。

このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。

また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。

他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。

これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。  @阿波

[石井町/曽我氏神社古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2

303 :
マツケイとアワに毒されたスレ(笑)

304 :
>>303
マツケイやなくてショウケイやろ
まーどーでも良いけど

305 :
宝満山(太宰府市)→須玖岡本遺跡(春日市)→
吉武高木遺跡→三雲南小路遺跡→一貴山銚子塚古墳
これらの史跡が同じ緯度で一直線なのは何故でしょう?

306 :
そこまできちんとした方向感覚を持っていたとは思えないな。
単にそこが倭国の王都であったというだけでいい。

307 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

308 :
>>303
>マツケイとアワに毒されたスレ(笑)


その毒をいつまでも一向に解毒できないスレ(笑)  @阿波

309 :
>>308
解毒するまでもない空論だと何度言えばwww

310 :
松本清張の「古代史疑」をやっと手に入れた
難しい地名や漢字も多いけど読んで面白い
松本清張は詳しかったんだね、感心しきり

311 :
やっとって
去年文庫本の増補新版が出たばかりなのに

312 :
いろんな本やネットみてて
ひらめいたんですが
邪馬台国って
邪山、馬山、台山を線で結んだ場所じゃん
台山、馬山(赤馬山)はあるんだよ
邪山は見つけられないけど

313 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

314 :
国境がわからないから、はっきりしない
大昔にはっきりとした国境があるとも思えず
川なのか山なのか平野なのか

マルコ・ポーロの東方見聞録と同じで、黄金の国ジパング

チンジュの倭国伝聞録かな
蓬莱山に不老不死なんてない
大部分の話を盛ったのかもね
みんな不老不死には興味示さず有るわけないで片付けてるのに
距離的だの短里だの方角とかには、厳密になりすぎ

315 :
国境のある狗邪韓国まで楽浪帯方から7千里と書いてありますよ。

316 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

317 :
明けましておめでとうございます
今年も宜しくお願いいたします

318 :
卑弥呼の墓
1)大坂山の石材を使用しているのか
2)日は人が作り、夜は神が作る、どんな意味
3)100人近い家来?の生け贄はあったのか?

319 :
>>318
それ、3)以外は卑弥呼の墓じゃなくて箸墓の記述

320 :
書記にかいてあるやん崇神に

321 :
個人的に面白いと思ったのは、
「明史」が豊臣秀吉のことを「倭奴平秀吉」と記していることに
着目して、志賀島の金印にある「倭奴国」を、
倭国のうちの奴国ではなく、倭国の蔑称であると解釈していることです。

322 :
匈奴
倭奴

323 :
倭人伝を読むにつれ、
倭の30国は、女王国の親藩と譜代と外様に分けて書かれているよな気がしてきた。
「奴」の付く国は、明らかに外様・・。、

324 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

325 :
http://www.y-tohara.com/hachiman-kawara.html 
これ面白い勉強になったメモ

326 :
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

327 :
縁起によると、
「桓武天皇延暦23年804、大師勅を奉じて入唐の際、
まず宇佐神宮に詣でる。
八幡台菩薩託して曰くに「是従西に旧神在り、
賀春明神という、 此の大神久しく三韓の境土にあり、
宜しく就いて渡唐をなすべし」と、
大師即ち春賀宮に賽し明神に祈願すれば...」とある。
  
神功皇后の三韓征伐って
香春岳三山に住み着いていた渡来系を征伐した
これが真実かもなあ

328 :
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

329 :
豊の国が水銀産地であり、
赤染氏が祭祀する香春神社の神体山の鷹の巣金山や
百舌鳥原金山で水銀を採取していた。

福岡と大分の辺りで丹は取れてたんですね

330 :
取れてたよ。奈良時代くらいにね。
けど邪馬台国時代には取ってないよ。
其山有丹=倭国の山には丹が有るだけで、取ってたら朱儒国になっちゃうからね。

331 :
けっこう古いブログみたいだけど
かなり詳しいわ、このブログ主
https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/taishi6764/entry-11948167069.html 
 
忘れないうちに書いておく
 

332 :
百舌鳥って百の舌を持つ鳥
他の鳥の声を真似る鳥と言われる

あれれ?
どこかの県の大きい古墳ばかりある場所
百舌鳥って地名だったような

333 :
>>330
>其山有丹=倭国の山には丹が有るだけで、取ってたら朱儒国になっちゃうからね。

残念ながら、朱儒国の説明に「其山有丹」はないんだけどwww   @阿波

334 :
>>330邪馬台国時代より前の
秦王国時代に丹は取れてたみたいですね
 
どうやら遠賀川や田川は、
一般の古代史では説明のつかない時代が
存在したかもしれませんね 

335 :
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

336 :
>>334
田川辺りは奴国 と、何度言えばw  @阿波

337 :
7世紀以前の九州の歴史はほとんど失われているんだよね。

338 :
記紀に書いてあるよ

339 :
畿内と関わる部分しか書いてないんだよ。
例えば筑紫の支配者についての連続した記録はない。

340 :
>>339
>畿内と関わる部分しか書いてないんだよ。

残念。 倭国(阿波)だよ。  @阿波

341 :
筑紫の日向
日向三代

神武東征
神武は日向を出て東征
じゃあ次代以降は日向にいたわけだ

342 :
それが卑弥呼
だから卑弥呼は記紀に登場しない

343 :
田川は鷹羽、タカミムスビの土地。
高良玉垂命は後にタカミムスビに勝利。
景行天皇のクマソ征伐まで九州を支配。

344 :
高良玉垂命の実体は武内宿禰だよ。
高良大社の末社はいずれも武内宿禰を祭神としている。
神功皇后を操り筑紫の実権を掌握した倭王だよ。
筑前一宮住吉神社では住吉の神と呼ばれ、筑後一宮高良大社では玉垂命と呼ばれる。
つまり筑紫の倭王だ。
その息子が応神天皇となる。

345 :
高良玉垂命とタカミムスビが同世代

346 :
住吉神社の元社は田川郡の現人神社(あらひと神社)、
新羅の人って意味な

応神の産まれたのは田川郡川崎川尻の大石神社
大石神社の伝承に書いてある
古事記日本書紀には書いてない伝承が大石にはあるんだよ
 

347 :
>>346
>新羅の人って意味な

ここはこじつけじゃない?

まあ、畿内しか頭にない人は九州について記紀でもその他の古史古伝でも現実感がないわけだけど、九州では誰それがここで何をしたとか、ここに住んでいたとか、当たり前なんだよね。

348 :
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

349 :
いにしえにおいて
天皇は現人神なり
と言われた時代もあったけん

350 :
なんせ福岡には変わった名前の神社が多い
現人神社は田川と那珂川で2つある
みやま市には荒仁神社
他にも不思議な名前の神社がたくさん

まず始まりは阿曽隈社跡地から調べて読んでみて下さい 

351 :
>>346
>現人神社(あらひと神社)

ツヌガアラヒト?

352 :
ツヌガアラヒト→つのがあらすひと→角が有る人
鬼の様な人の顔の彫り物がある神社→現人神社高良神社伏見神社
つまり牛頭天皇
 
どうですか?面白いでしょ@東京

353 :
すいません牛頭天王です

354 :
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

355 :
土蜘蛛
1)土蜘蛛は土雲。雲とは空を漂う、定住せず仕事で移住する人、人足。
土を掘る仕事が土雲か?
2)土蜘蛛の漢字から虫偏をとれば、土知朱。朱や丹に携わる人々か
3)近いニュアンスとして江戸時代までは雲助という言葉が使われていた。
Wikipediaで雲助を参照して下さい
4)山に穴を掘り住んでいた人々。古代に米を持ち込んだ人々。
 

356 :
オノコロ島とアワ島は日本じゅうにある
なぜか?
どうしても秘密もしくは曖昧にしておきたい
理由があるからだろう
倭人や大和の成り立ちに関係あるのだろうか
なぜですか

357 :
>>356

倭国(阿波)だから。  @阿波

358 :
>>355
銅や水銀を掘る鉱山労働者およびその支配者を呼んだという説もあります。

359 :
>>358

倭国(阿波)だから。  @阿波

360 :
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

361 :
やはり古代の地形を知ることが出来ないと
納得出来ない部分があるわ
古遠賀潟や香椎潟その他、詳しい地図ないのかな

362 :
>>359
オッケー分かった
寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1458389654/

363 :
ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!【大河ドラマのおなまえ】★2
http://nhk2.2ch.sc/test/read.cgi/livenhk/1547722180/

364 :
>>363
頭の病院に行けw
なぜゴキブリの話ばかりしているんだ

365 :
なぜゴキブリの話ばかりしているんだ?
池沼か何かなのか?

366 :
必要ないだろうと言っているんだよ、
放送免許?資格などが必要だという話なんだけど、
誰が許可したんだ

367 :
???????????????????????????❔

誰が良いと言ったんだ

368 :
>>367
無能は死んで詫びろ害獣

369 :
どこのゴキブリの集団なんだ?
このように言われたり、書かれたりするのが嫌なら


それらしくしろという話

370 :
>>369
無能は死んで詫びろと何度命令されれば実行するんだ?

371 :
無能は死ぬしかない
存在価値がないのだから
分かったら最寄りの安いビジホのユニットバスで首を吊れ

372 :
葛築女→くずちめ→く・ずち・め
kuとは何の意味だろう
蜘蛛?国巣?久?

葛築女、葛城、土蜘蛛
なんか似てるんだよなあ
いろいろと

373 :
葛築目→くずちめ→くずち・め
似た言葉)いかづち、みづち、みつち、のづち
いろいろと探してみたけど??でした

本草和名(918年)に、久都知って薬草がある
ならば久都知女が当てはまらないかな
福岡の地名や山の漢字を一つ一つ取って付けたみたいな名前だなあ
 

374 :
クズが地名で、チが接続詞かな?

375 :
あと、常陸国風土記では、クズは土蜘蛛の別名としているそうです。
九州北部に多い古代の女性首長の一人ですね。
卑弥呼を筆頭とする女性首長はほぼ九州北部の固有の文化と言ってもいいでしょう。
景行天皇に征伐されたそうです。

376 :
薬草でクズチを調べててみるとわかるけど
クズチには2つ育ち形があって、片方しか薬草に向かないんだと

ヒカゲノクズチ→日陰の久都知(薬草にむかない)
ヒナタノクズチ→日向の久都知(薬草に向く)
また日向って漢字が出てきたよ...

 

377 :
くずち・め
みずち、みつち→水辺の妖怪
のずち→山の妖怪
くつち→テンカン持ち、ちょっとイカれてる人

卑弥呼や女王が鬼道のシャーマンって本当かもな
誰か知ってないと、ここまで繋がらない
おおやけにされてない書物があるんだろうな 

378 :
葛築目くずちめ
く→土蜘蛛
ず→頭、首長
ち→接続詞
め→女
これで正解だと思う

379 :
くずで土蜘蛛の意味だそうだ。

380 :
鴨族の語源は蒲族だろ

381 :
鳥がトーテムだったのじゃないか?

382 :
うまく貼れたかわからいけど
暇なら見て欲しい
https://horubai.jp/tag/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E9%80%A3%E8%BC%89
福岡筑豊辺りの神社の簡単な説明のある表です
天降神社、白鳥神社、熱田神社、大石神社、鏡山神社などなど
古事記日本書紀が正しいか判らないけど
変わった伝承のある神社の話も面白い
やっぱり田川、嘉麻、川崎、飯塚は重要な土地だよ

383 :
忘れてた
鮭神社と日天宮も見てね
日天宮はヒミコがいた場所かもよ

384 :
記紀はダイジェストなんだよ。
現地の社伝がそもそもは公式記録のようなもの。
それを信じないとか信じたくないとか喚くキナイコシには歴史を語る資格はない。

385 :
邪馬台国は遠賀川流域、物部氏の支配地域と重なる。

386 :
>>384
>それを信じないとか信じたくないとか喚くキナイコシには歴史を語る資格はない。

「キナイコシ」という言葉を使う人は総じてバカ

387 :
これ他の人のHP なんだけど貼れるかな
https://ugaya.jimdo.com/2015/03/06/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%A4%E3%83%95%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%82%BA%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E7%AF%84%E5%9B%B2%E3%81%AF-%E5%85%A8%E5%9B%BD%E3%81%AB%E5%8F%8A%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%9F/
興味深い地図が載ってるんだけど

388 :
ウガヤフキアエズ
田川郡川崎の天降神社の祭神がウガヤフキアエズなんだよね
なかなか少ない神様だから
うえのHPと繋がらないかな
田川川崎と大分県は近いんだよね

389 :
>>385
>邪馬台国は遠賀川流域、物部氏の支配地域と重なる。

遠賀川流域は、伊都国、奴国の地で、筑紫「忌部はん」の支配地域。  @阿波

390 :
>>387
メチャクチャやん

蝦夷が入鹿の子供と書いてあるし、
乙巳の変のクーデターで天武天皇が即位したとか書いてるし

あまりにも日本史知らなさ過ぎ
トンデモ以前だわ

391 :
スピリチュアル系ですね

392 :
またニュース速報+に邪馬台国のスレがたっている
かなり書き込み多く盛り上がり
面白い書き込みが多い
377: 01/25(金)08:47 ID:zeo0MvUO0(4/4) AAS
>>313
九州の古墳の壁画には
船の舳先に鳥が留まっているものがあるだろ。
外部リンク:tacchan.hatenablog.com
これが神武よりも先に大和に降臨=渡来した饒速日(ニギパヤピ)が乗ってきた天磐船(アマのイワぷね)だ。
アマというのはカヌーの船体と直角に取り付けた転覆防止用の浮きのことだ。

日本語wikiより
アウトリガーカヌー (Outrigger canoe) は、南太平洋などで用いられるカヌーの一種。安定性を増すために、カヌー本体の片脇あるいは両脇にアウトリガーとも呼ばれる浮子(ウキ)が張り出した形状をしている。
この浮子は多くのポリネシア諸語やミクロネシア諸語でama(アマ)とよばれ、
これを装備したアウトリガーカヌー自体はタヒチ語ではヴァア (va'a) 、ハワイ語ではワァ (wa'a) 、マオリ語ではワカ (waka) 、ヴァカ (vaka) などの言葉で呼ばれる。
引用終わり
万葉の故地「和歌浦(わかのうら)」はマオリ語でいうアウトリガーカヌーが並んだ浜辺を意味する。
//www.nwn.jp/old/kakokizi2014/20140712/hanseiki/4.html

磐船(いわふね)のイワはハワイ語でグンカンドリを意味する。グンカンドリは朝、島にある巣から飛び立って
他の鳥が捕まえた魚を横取りして夕方に島へ帰ってくる。
カヌーなどで遠洋航海する時グンカンドリを捕まえて船に載せておき、夕方に放すと近くの島を目指して飛んでゆく。
今で言うナビゲーターの役割を果たす。
饒速日(にぎぱやぴ)が率いる集団が黒潮に乗ってグンカンドリをナビゲーターにして大型カヌーで
熊野或いは河内にたどりついた。
叶姉妹の「叶」や狩野派の「狩野」などの苗字は「カヌー」を表わしている。

393 :
忘れないうちにメモ
441: 01/26(土)17:23 ID:SmJ7T1Te0(1/7) AAS
延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある

また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。

これが平安時代の朝廷の認識

重要なことは天下りしていないということ
天孫降臨神話は関係ないということ
天や日は関係ないということ

394 :
忘れないうちにメモ
468: 01/26(土)17:53 ID:SmJ7T1Te0(2/7) AAS
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬神も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。

395 :
忘れないうちにメモ
472: 01/26(土)17:56 ID:SmJ7T1Te0(3/7) AAS
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ

396 :
とりあえずメモした
478(1): 01/26(土)18:03 ID:SmJ7T1Te0(4/7) AAS
出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、

己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、

◎八咫の鏡はオオナムチの和魂
八咫の鏡が今あるのは伊勢神宮
能の三輪に通じるな

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。

興味深いのは【石】というキーワード
奈良の石村はイワレと呼ばれていた

斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか

この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い

397 :
忘れないうちにメモ
483: 01/26(土)18:06 ID:SmJ7T1Te0(5/7) AAS
大津皇子可哀想だな。
辞世の句

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

ももづたふ、敦賀や鈴。

イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。

太陽は烏。

金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向 

金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。

398 :
畿内説ぽい書き込みですがコピーさせて頂きました
500(1): 01/26(土)18:16 ID:SmJ7T1Te0(6/7) AAS
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子ス【クナヒコ】ナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
倭国大乱前に存在した畿内のクニは滅ぼされたのだろうか?

399 :
畿内説ぽい書き込みですがコピーさせて頂きました
500(1): 01/26(土)18:16 ID:SmJ7T1Te0(6/7) AAS
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。
スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子ス【クナヒコ】ナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
倭国大乱前に存在した畿内のクニは滅ぼされたのだろうか?

400 :
塢舸水門 (萬葉集註釋 卷第五)
風土記に云はく、塢舸(をか)の縣。
縣の東の側(ほとり)近く、大江(おほかは)の口あり。
名を塢舸の水門(みなと)と曰ふ。
大船を容(い)るるに堪へたり。
彼(そこ)より島(北九州市若松區島郷)・鳥旗(とはた・北九州市戸畑區)の澳(うみのくま)に通ふ。
名を岫門(くきど・洞海湾)と曰ふ。
鳥旗は等波多(とはた)なり。
岫門は久妓等(くきど)なり。
小船を容るるに堪へたり。
海の中に両(ふたつ)の小島あり。
其の一を河白斗島(かごしま)と曰ふ。
島は支子(くちなし)生ひ、海は鮑魚(あはび)を出す。
其の一を資波島(しばしま)と曰ふ。
資波は紫摩(しば)なり。
両の島は倶(とも)に烏葛(つづら)・冬?生ふ。
烏葛はK葛(つづら)なり。冬?は迂菜なり。
(今井似閑採択)
                          

401 :
怡土 (釋日本紀 卷十)
筑前の国の風土記に曰はく、怡土の郡。
昔者、穴戸の豊浦の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし
足仲彦(たらしなかつひこ)の天皇(仲哀天皇)、
球磨噌唹(くまそ)を討たむとして筑紫に幸しし時、
怡土の縣主等が祖(おや)、五十跡手(いとて)、天皇幸しぬと聞きて、
五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜取(こぢと)りて船の舳艫(へとも)に立て、
上枝(ほつえ)に八尺瓊(やさかに)を挂(か)け、
中枝(なかつえ)に白銅鏡(ますみのかがみ)を挂け、
下枝(しづえ)に十握劔(とつかのつるぎ)を挂けて、
穴門の引嶋(下關市彦島)に參迎(まゐむか)へて獻(たてまつ)りき。
天皇、勅して、「阿誰(たれ)人ぞ」と問ひたまへば、
五十跡手奏(まを)ししく、
「高麗の国の意呂山(おろやま・蔚山)に、天より降り來し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」
とまをしき。
天皇、ここに五十跡手を譽めて曰りたまひしく、
「恪(いそ)しきかも伊蘇志(いそし)と謂ふ。
五十跡手が本土(もとつくに)は恪勤(いそ)の国と謂ふべし」とのりたまひき。
今、怡土の郡と謂ふは訛れるなり。 (今井似閑採択) )
  
コピーですいません。下関市彦島は、いまの田川郡彦島だよね

402 :
間違えた大分県の彦島だよね

403 :
箸墓モモソヒメの秘密
初夜にモモソヒメが旦那のチンコが
小さな蛇に見えて笑ったら
旦那が火病で激怒
モモソヒメのRに箸を刺して殺人

これが全解明
笑い話ではない

404 :
>>86さざれって君が代に出てくるさざれでしょ?
>>85志摩って、今の福岡県の新日鉄の所も
昔は紫摩って言ってたみたいだよ
昔は大きな湾になっていて
いろんな島があり美しく風情があったとか

妄想ですが
伊勢神宮も元々はこの辺りにあったのでは?
と私は思ってたりします

405 :
>>404間違えた
金印のスレと

406 :
遠賀郡戸畑(鳥旗)
洞(くき)の海

407 :
>>404
もともと八咫の鏡があったのが伊都(怡土・志摩)なんでしょう。
平原遺跡がある。

408 :
アタマのビョーインに行けw

409 :
>>408
朝鮮ヒトモドキは今すぐ首を吊ってRw

410 :
>>407この>>401の五十跡手が本土(もとつくに)は恪勤(いそ)の国と謂ふべし」とのりたまひき。
今、怡土の郡と謂ふは訛れるなり。 (今井似閑採択) 

これ見ると昔は伊都はイソと言ってたのかな 
これ神夏磯姫の話だよね
でも私にゃ理解に苦しむなあ

平原古墳は、これからもずっと研究してほしいですね
ますみの鏡とヤタノ鏡は何か違うんでしょうか 

411 :
いとては仲哀の話だから、神夏磯姫のおよそ2世代は後だ。
田油津姫が神夏磯姫の末裔だとか。

412 :
>>404
八幡が古くは紫摩という地名だって言うソースどこかにある?
福岡住みなんだが聞いたことがなくて

413 :
>>412
上の今井似閑が書いてたけど
紫摩って書いてシバかも知れないし
シマかも知れない
今井似閑を調べてみてください

414 :
いまからNHK BS で巨大古墳や倭の五王やるよ

415 :
118: 02/01(金)00:39 ID:QZwH3Z+w0(1/2) AAS
>>107
「2004年、中国の「上海博物館展」が日本の幾つかの博物館で開催されている。
 殷・周時代から前漢・後漢・唐等に渡る時代の、特に青銅器を中心に展示されていて、
 日本では初めて公開されるものも多く、人気を集めている。私も4回見に行った。
 鼎(てい)や爵(しゃく)や鬲(ゆう)など、ここでは表現できない初めて見るような
 漢字の器も数多く展示されていた。
 その中に鏡も5,6点展示されていたが、いずれも日本初公開だった。ここに1点、
 私の目を引いた鏡があった。以下に紹介する「張氏車騎神獣画像鏡」である。初め見たとき
 驚いてしまった。「これは、三角縁神獣鏡じゃないのか!」 大きさと言い、神と獣の神仙画像と
 言い、何よりも、周縁部の切り口は正(まさ)しく三角形に見える。中国では三角縁神獣鏡は
 出土していないはずではないか。これは何だろう。」
「3回目に見た後、私はこの展示を担当している博物館の学芸員に電話をして、この疑問を
 ぶつけてみた。学芸員とは10数分間話したような気がするが、彼がこの鏡が三角縁神獣鏡では
 ないとした理由は、結論から言えば、
(1).これは後漢の鏡で時代が違う。三角縁神獣鏡というのは魏の鏡であり、
 魏の時代のものでなければ三角縁神獣鏡とは言えない。
(2).縁は三角のように見えるが、少し丸みを帯びているようにも見える。
 この鏡の断面図は無いので、三角縁と言えるかどうかはわからない。
(3).中国から(三角縁神獣鏡が)出土していないと言っても、中国で魏時代の墳墓は
 まだ1基しか発掘されていないので、今後出る可能性はある。
というものだった。
 そして、会話の中では、「三角縁神獣鏡」とは書けないので「張氏作」としました、
 というような事も言っていた。」

三角縁神獣鏡と呼ばれていないだけで、中国にも三角縁の神獣鏡はあるんだよ

ニュース速報+からのコピー
ネットにも熱心真剣なファンの書き込みあるんだなあ 

416 :
あともうひとつ
年魚が鮎と言われているでしょ
でも中国で鮎は鯰のこと
福岡の一部じゃ鮭
熊本の一部じゃ鯰が神様の遣いの様な魚
佐賀のどこかの神社も鯰だったような

鮎って漢字は、読んで字の如く
占いに使われた魚の意味なのかな

鮎でアユを連想したら倭でない?

うまく表現できずに、すいません
これじゃ伝わらないですよね。

417 :
鯰と書こうとして気がついたが、鮎もナマズと読むんだな。
鯰が神の使いなのは、佐賀の淀姫神社かな?
壹與、熊襲タケルら肥国の王都ですね。

418 :
ナマズが地震を感じるという伝承は、もしかして肥国阿蘇の神様から来ているのか?

419 :
佐賀淀姫と阿蘇山は鯰だな
阿蘇って漢字は、自分的には天祖のイメージだなあ
初代の神様のいる山ってイメージ
 
古代は中華の影響うけているはずだから
鮎=鯰もしくは占いに使った魚
鮎(鯰や鮭)は食べなかった
だって神様の遣いを食べる訳にいかないよ

420 :
>>418
ナマズと地震の伝承は殷代に既にあるよ
地震の直前にナマズが騒ぎ出すので地震予知に使える、つまり占いに使える魚とされたわけだが
その後原因と結果が逆転して、地底にいるオオナマズが騒ぐから地震が起きるという伝説が出来た
このオオナマズに竜の字を当てたから地震が起きた地域に龍神を祭る文化が出来たわけ

421 :
竜はナマズだったのか。
そういえばどちらもヒゲがあるな。

422 :
>>421
現代人がイメージする龍は600年前くらいに確立された姿で、それ以前の龍はイノシシ似だったりと確立した姿はなかった

423 :
>>421
念の為にいうと龍は色んな地域の色んな伝説の習合体だから
龍のルーツが全部ナマズなわけじゃないから注意してね

424 :
ナマズって何だよww
龍の実在は、ヨウスコウワニだよ

425 :
>>424
なんで鰐限定の小さい話になるんだよw

426 :
最初期の龍は、人に飼われてたり、食べられたりしてるから実在
川の生き物で四つ足で人がまたがれる大きさとなれば揚子江鰐しかいない

427 :
ワニも当然ルーツのひとつ

428 :
龍の正体は鯉だよ
登竜門を知らんのかお前ら

429 :
三角縁と斜辺を?ぷ

430 :
大芝英雄
このかたの本おもしろそうだな
買ってみるか

     

431 :
>>430
独り言をイチイチ書き込むなボンクラ

432 :
>>428
だからルーツは一つじゃないから

433 :
最初期の龍は、明らかに揚子江ワニ
それが、本人(?)のいない華北まで伝わる間に伝説化して、
いろんな話の枝葉がついていったんだよ

434 :
>>433
根拠となる史料を提示して

435 :
福岡県とは昔に「おかの縣」と言われてたらしい
のですが
ルーツや語源はなんでしょう?
わかるかた居ましたら教えて下さい
 
私が妄想で考えたのは
牡鹿の縣ですけど

笑われるかな

436 :
>>435
那珂の縣だよ

437 :
崗県は筑紫岡田の宮のあるところで、小倉、現在の北九州市です。

438 :
>>435
ご希望どおりに

                 .____
               ../_ノ  ヽ、_\ 牡鹿の縣wwwww
         ,. -- 、,  o゚((●)) ((●))゚o  ,. -- 、
     ,.―<,__    ヽ:::⌒(__人__)⌒::: /    __,>─ 、
    /          ヽ  |r┬-|   /          ヽ
   __|            }.  | |  |  {            |__
  / ヽ,       /  {   | |  |   }  \       ,丿 ヽ
  {    Y----‐┬´   、. | |  |  /   、 `┬----‐1    }
 /'、   ヽ    |ー´   ヽ, | |  | /   `¬|      l   ノヽ
 {  ヽ  ヽ    lヽ_!´   ヽ`ー'ォ./    、 !_/l    l    /  }
 ',   ヽ  ヽ    ,/     }   {       \     l   /  ,'
  ヽ  ヽ  、,__./      /   .\      ´`ヽ.__,ノ  /   ノ
   \  ヽ__/,'    _ /       \     ヽ、\ __,ノ /
                          ̄ ヽ、_  〉 ,!、__/

439 :
>>437
遠賀川河口だよ小倉は入ってない

440 :
小倉は豊前だし

441 :
遠賀郡の西部で
初期の武器形青銅器の副葬がみられる
石棺墓が主流の先着の海の民の巣ですね

442 :
岡湊神社のある芦屋でFA

443 :
岡田宮は福岡県北九州市八幡西区岡田町

444 :
岡湊神社は福岡県遠賀郡芦屋町船頭町

445 :
「遠賀」の古い読みが「をか」なのですと

446 :
どっちも流域でいいだろう。

447 :
流域というよりは懐のふかい汽水湖ですね

448 :
>>445
最も可能性が高い

449 :
牡鹿はないかなあ
男鹿とか、龍の角に似てるし

昔は九州には鹿が沢山いたみたい 
鹿を神様の使いとみて、鹿のつのを宝のように
思っていたかも
うろ覚えだけど、宗像神社だかどこだったかの
宝物殿には鹿の角が沢山あるらしい
私が言ってる昔は、勾玉や玉の流行るまえの
話ね

以上全て妄想ですwww

450 :
>>449
妄想するなら何かしらの根拠がほしいな
「たしか・・・」とか「うろ覚え・・・」とかじゃなく

451 :
妄想だけで楽しいし

とんぼの国ってどんな意味?  

452 :
>>451
妄想するだけなら頭の中だけでやってろ定期

453 :
とんぼの国
とんぼは横に飛べない
真っ直ぐに飛び獲物を捕獲するイメージ
戦士や狩人のイメージ
秋津トンボみたいに朱を塗ってたのかな

古代の歌にトンボでてくるけど
全部のトンボの意味が豊作や雅さ
を歌ってるとは感じない

これも個人的な妄想かな

454 :
もうひとつ聞いてみたいんですが
倭人伝で対馬が南北に商いして食べ物を
買っている様な部分ありますでしょ
これ対馬の人は何を代価としたのでしょう?
まさか海産物じゃあるまいし

代価、これもしかして鹿の角?

455 :
違法な薬でもやってんの?

456 :
>>440
小倉も遠賀川流域も物部氏の支配地域

筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ、推定所在地は鞍手郡鞍手町新北)ニギハヤヒの出身地か

筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ、推定所在地は北九州市小倉北区、小倉南区、門司区一帯)

457 :
物部とつく地名は多く、その全てが饒速日に関連しているわけではない。

458 :
いや対馬国は何と米?を交換してたのか
ときいてん
お金はないだろうに

459 :
>>454
海産物でしょ。自前の交易品はね。

あと、交通路のど真ん中にいるので、通過マージンを独占できる。
鉄原料→壱岐対馬の言い値 →日本側は逆らえない
翡翠絹→壱岐対馬の言い値 →半島側は逆らえない

壱岐対馬を領有する勢力が最強

460 :
そこを抑えるために大率を伊都においた。
つまり、上がりは全て卑弥呼のもの。

461 :
北部九州はもともと女系文化も強いから、男系の本貫とは限らない。

462 :
現代世界でも同じ。
資源国よりも加工貿易国(技術料を上乗せ)のが経済利益は上。
そしてさらにその上に流通アマゾンが来た。

流通を支配すれば輸送代だけで巨大な利益を手にできる。
弥生時代の壱岐対馬なんて代替ルートがないんだから最強。

463 :
海人族ほっくほくやな

464 :
自分が何も作らなくても手数料だけで莫大な利益が入ってくるからね。
そしてその利益こそが生活を維持する手段なのだから、
対馬海峡渡海技術は秘中の秘。

魏使は少なくとも対馬海峡部分は倭船で渡海した。

465 :
男系の天津神(対馬海峡勢力)と女系の国津神(博多湾勢力)を統合したのが卑弥呼。

466 :
その対馬海峡の航路について述べた魏志倭人伝は、当時にしてみれば極めて重要な資料だったはず。
適当な数字を当てはめただけなどということはない。

467 :
>>465
妄想に過ぎない

468 :
商売の航海ルートは秘中のヒミチュなの
だから数字や方角は正確には教えて貰えなかった

469 :
『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。
斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。
鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。

470 :
>>467
日本語の名称の意味を考えれば当然の解釈ですよ。

471 :
>>469丁寧にありがとうございます
確かに倭人伝の頃は鉄だったのでしょう
でも鉄の交易より前に、両国の往来は
なかったのでしょうか
玉や銅やその他の時代もあったはずですよね

472 :
>>469
ttp://doi.org/10.15024/00001186

473 :
>>470
馬鹿だなぁ

474 :
とうとうニュース速報+きたな

【邪馬台国山門説】筑後に伝わる古代のロマン 
卑弥呼・磐井の足跡たどる特別展開幕 九州芸文館   
  
みんなのレスを読むのが楽しみ

475 :
東征とは何だったのだろう

各地に出向いたのではなく
福岡にいた豪族や地域住民と神社関係者を
引っ越しさせただけだったのでは?

集団島流しみたいな

そして畑や土地を横取りが目的

これも妄想ですかね?

476 :
>>475
妄想だけなら文字にしないで自分の頭の中だけでやっとけよ
妄想を文字にするなら、せめて妄想の根源となった根拠くらい示せ
根拠がないなら文字にするな

477 :
>>475
>東征とは何だったのだろう

東征は、倭国(阿波)国内で起こった出来事 だと、何度言えばw  
卑弥呼の時代にそんな大遠征など出来るはずもないでしょ。   
いい加減に常識の判断をしよう。  @阿波

478 :
>>477
オッケー分かった
寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

479 :
>>477博学な阿波さんに質問
なぜ九州と関西に同じ名前の神社や地名が多いの?

480 :
>>479
>なぜ九州と関西に同じ名前の神社や地名が多いの?

だから、倭国(阿波)を発った忌部一族の痕跡 だと、何度言えばw  
それはなにも、九州と関西だけに限った話じゃないんだよ。  @阿波

481 :
>>480
オッケー分かった
御託は巣に帰って、、、
なんだ質問に答えたのか

482 :
>>481
君も質問、何かしてみるかい?  @阿波

483 :
>>482
のぼせ上がるのは
巣に帰ってにしろマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

484 :
>>483
だいぶ、暇そうだからw   @阿波

485 :
>>483
ワロタw

486 :
どうして泡は決まり切ったことしか書かないんですか?
無能だからですか?
根拠がほぼないからごく僅かなことしか書くことがないからですか?

487 :
>>486
>どうして泡は決まり切ったことしか書かないんですか?

それはね、君が決まり切ったことしか書かないからだよ。   なんせ、それの回答なんだから当然w  @阿波

488 :
>>487
オッケー分かった
戯言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

489 :
>>480返答ありがとうございます

阿波さんは鳥取のしとり神社って知ってます?
倭って(し)とよむんですかね

490 :
海人族
初めて海を渡った人は、どんな気持ちだったのだろう
怖かったのか、胸がおどったのか
敵から逃げるのに精一杯で大波の恐怖さえ感じなかったのか
海上では何時でも死と同居してるも同然
小さな木造舟で大海を渡る
勇気あるなあ男だねロマン溢れてるスゴイ!

491 :
>>490
目視できる島伝いは石器時代から航行してたわけだし、生活の糧だからロマンなんて全くなく淡々としてただろうな

492 :
いや冬の玄海灘は半端ない
手漕ぎ船とか信じられない
冬の対馬なんか東北地方みたいな強風と波
とんでもない勇気いるぞ
北朝鮮だって冬は遭難多いだろ

493 :
>>492
だから、対馬海流の流れに従うしか術がない と、何度言えばw  @阿波

494 :
対馬海流の流れに従えば、壱岐から流れつくのは福津・宗像方面。  @阿波

495 :
>>494
オッケー分かった
寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

496 :
>>495毎回毎回同じ書き込みしなくていいよ
毎回書いてたら嵐と同じだよ
阿波さんは物知りだし良いとおもうぞ
ただ四国愛が強すぎるだけなんだ
(’-’*)♪

497 :
>>496
オッケー分かった
猿芝居は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

498 :
遠賀川一帯が興味深い
河口からかっての上流域まで全部
ここが商業ルート
一番豊かな地域か
沖出古墳あたりまで

499 :
>>471
半島の南東部とは縄文の頃から貝交易で接触していたよ
沖縄近海でしか採れない貝の交易をしていた、九州北部の海人と呼ばれる人々がおそらく半島南東端にも渡っている
魏志倭人伝に言う狗邪韓国は韓伝じゃなく倭人伝のほうに記されているから、こうした倭人の国だったんだろうね

https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg

500 :
>>498
遠賀川も興味深いが、福岡の繁栄には及ばない。
半島交易と西南諸島、瀬戸内海の交易の分岐点である那の津を中心とした倭国の姿が見えてくる。
そして博多湾を見守る筑紫の日向の高祖山が高千穂宮として戦略的山城として機能していたのだろう。

501 :
イザナギの国生み神話は博多湾の能古島に始まる。
アマテラスを祀るのが沖ノ島の国家的祭祀。
ニニギの天孫降臨は宗像氏族に守護されて志賀島(博多湾を守る笠沙の岬)に上陸し、海の中道(天の浮橋)を通り、飯盛山の猿田彦に導かれて高祖山(クシフル山)の高祖宮(高千穂宮、伊都城)に入る。
博多湾沿岸の国津神であった大山祇・綿津見一族の木花咲耶姫や豊玉姫を娶り、筑紫の日向三代の男王が倭王として金印を拝領した。

502 :
すいませんがクシフル山とは確定しているのでしょうか
やまともどの地域か確定しているのでしょうか
クシフル山は英彦山でいいんでしょうか  
やまととは大和の読みで正しいのでしょうか
全くわからないけど

503 :
クシフル山は福岡市と糸島市の間にある高祖山の最高部の名前だそうです。
高祖山は筑紫国にあり、南に日向峠、東に日向川、北に日向の小戸があるので、ここが筑紫の日向の中心でしょう。
倭国王権の発祥の地であり、東には三種の神器を副葬された須玖岡本遺跡、西には三種の神器を副葬された三雲南小路遺跡があります。

504 :
古代九州とはニコイチの国とも思えて
ヒミコ=ツキヨミ
肥後=肥前
糟谷=裏糟屋などなど
数えきれないほどニコイチみたいな地名が多いの
ならばヤマトに対してミナトかと
ミナトの隣がヤマトとか

505 :
那の津の隣がヤマトすなわち高千穂

506 :
クシフルのクシとは櫛・孔雀・鯨波のどれかと
フルは分からない
 

507 :
>>503
なにかソースはある?
詳しく知りたい

508 :
九州で、フル、ハラ、マルと言えば国邑の意味。
クシはぐぐると神秘的なこととか。

509 :
>>507
明治の頃までは国土地理院発行の地図にも載っていたらしい。
昭和になって古田氏が地元民から聞き出して本にまとめた。

510 :
>>509
古田の地元聞き取り調査ほど信頼性の低いソースはないやんけ

511 :
ソースが見つからないと地元の伝承にあったと言い張る古田氏
まぁ、そこ以外は概ね信者だけど

512 :
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」

(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)

「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。

513 :
>>512
これがソースだな
ちゃんとしたソースが実在してて安心した
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN10899797

514 :
高祖山はもとは日向山と呼び、椚(日向峠に今でもある集落)の裏手の最高峰をクシフルと呼んでいたことがわかる。
高祖山には山麓から山頂まで囲む山城が律令時代にはあり、糸島平野に多数の王墓を抱える王都としての地域の特性を考えると、古代においても山城の基礎はあっただろう。
特に弥生時代に最大級の国邑であった奴国との陸路であった日向峠の上に砦を作るのは合理的である。
記紀の高千穂宮、魏志倭人伝の楼閣そびえる女王の王城も同じものかもしれない。

515 :
フルは邑?の意味で、朝鮮語にもあると聞いた。

516 :
     _ ―- ‐- 、
    (r/ -─二:.:.:ヽ   
    7''´ ̄ヽ-─<:.:.',                 __
.   〈t<  く=r‐、\:く       _ ...-::‐::¬::::: ̄:::::::::::::::::::::::::::::::
   ∠j ` / ,j={_/ヽヽr'チョンコだ!>:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
.    っ Y _/ ヽ了       /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
.    し イ --─¬       /::::::/:/|:::/::∧:::∧:::::::::::::::::::::::::::::::::::
      f: :_: : :_:_:_└ 、     |/f|/|/ .|/ |/ ∨ ヽ|\:::::::::::::::::::::::::  ああ・・・ 
     /-ー/: : : : : : :\      {            ヘ:::::::::::::::::::::    
    /7: : : :r: : : : : : : : : }     ',  .j /     }   .}::::::::::::::::::::   またチョンコだ!
   /: : : : : :.|: :j: : : :\: : j      } /_       ミ   ヘ::::::::::::::::::
  /: : : : : : : j: ヘ、: : : : \|    /くl´::<ニ二 ̄`>   ミ:::::::::/   汎用人型決戦兵器には
 ./: : : : : : : \::::ヘ: : : : : : :ヽ    {::ア{:::::::}厂¨,`_______j:::::://   
 {: : : : : : : : : : ヘ:::ヘ: : : : : : :',    V ヘ::::ノ` ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ .{::::|ヽ    凡庸人型ゴキブリってことか
 ',: : : : : : : : : : : :\ヘ: : : : : :ヘ.   /  ヘ¨       //:}::::|/
  ',: : : : : : : :::::::::::::::::::〉: :_:_.r--―く   >ヽ      /   _ノ::::{ _/
  '; : : : :.::::::::::::::::::::::r</ :.:..   `ー¬\__        /::::/
  〈: : : : :ー---‐‐r―'´  :.:.:.  ヘ: .  ヽ . . }ー、    ./::::<
  〈: : : : : : : : : : 〈r-‐、:.:.:.:ヘ.:.:.:.:.  ', : :  ',: . .|: : 〉  /:::::::/

517 :
最高峰だとはどこにも書かれていない

明治期に収集された伝承であり、それが事実かどうかは未確定

518 :
朝鮮だけでなく、アジア全体の普遍的な用語らしい。
シンガポールもイスタンブールも同じ語尾だとか。

https://www.shochian.com/harubaru2.htm

519 :
結果として、現在に測量結果ではそこが最高峰なんだよ。

520 :
           (ヽ∧__∧
           、ヽ`∀´> <呼ばれて無いのに
            )>>518つ      チョチョチョチョーン
            >⌒)ノ
            ゝノ/
   パカチョン    ノ~ノ
  /|     ///
  | |    ///
  | |ミ ///.
  |/ ̄    /
   " ̄ ̄ ̄ ̄

521 :
最高峰なら民家の裏山なんて書くかよw

522 :
実際にはどこが「クシフル」かわからないのに頭おかしい

523 :
まぁ一応のソースとされたhttps://ci.nii.ac.jp/ncid/BN10899797も郷土史家の由比氏が60年前に書いたものだからな

524 :
同じ本の高祖山の項目にはクシフルのはなしなんて1ミリもないらしいぞ

525 :
記紀では「高千穂」に訛る南北に走る「高地尾」リッジ上のピークが「クシフル」
「クシフル」(高地山)はこの山塊の最高峰(419m)にあたり「高祖山」(416m)よりわずかに高い
半島の方向は北北西にあたり 山頂からの視界も北北西側に開けている
「クシフル」へのエントリーは北方向の今宿からが便利 今宿の谷は征服者である後着の海の民の巣のひとつなのでしょう
今宿の谷は現在の福岡市西区 周船寺界隈から高祖城跡北限に至る領域も福岡市西区
「あまくだり先」が「高祖山」ではないところが興味深い なんといっても「高祖山」からは福岡平野への展望は望めない
「高祖宮」は「高祖山」の三雲側の山裾(80m)に位置し 「高祖山」は三雲側との関連性が深い
ずばり 「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」の「日向」は「高地尾」リッジから東側の領域と理解したい
ちなみに「細石神社」や「南小路遺跡」の標高は41〜43mであり 征服者の海の民の居住区とは考えにくいのだが
海の民が持ち込んだとおぼしき楽浪漢式土器は弥生中期後半〜後期にかけて継続的に集中出土している

526 :
>>525
細石神社は無関係だろう
太閤検地の時には既に社殿も残ってないほど荒廃しきっていたんだから

527 :
>>526
それは金印ネタの傍証であって、クシフルネタとは無関係なのでは?

528 :
>>509>>512>>513マジか
これが本当の本物真実なら
国の始まり日本書紀は福岡で決まりやん

529 :
>>528

>>523

530 :
邇邇芸の国見の詔
「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此処はいと吉き地」

宮崎県では韓国は見えない。
対馬海峡を挟んで朝鮮半島の対岸にあり、東に福岡平野、西に糸島平野を望む高祖山なら合致する。

後漢書は対馬海峡が倭国としていて、王都はその南岸の倭奴国。
魏志倭人伝では伊都国が倭の王都。
記紀は筑紫の日向の高千穂宮が王家の王城であったと伝える。
全て一貫している。

531 :
またニュース速報+に九州北部の古代史スレたってるぞ
ちょっと行ってくる

532 :
これ
http://n2ch.sc/r/-/newsplus/1550245283/?guid=ON&rc=264
ニュース速報+

533 :
真偽不明のネタに妄想を積み上げてドヤ顔するのが九州説メンタリティ

534 :
高祖山は東西に弥生王墓が密集し、考古学的にも倭国王権の発祥の地、稲作文化の伝来地。

535 :
>>534
稲作伝来は有明海側が最有力

536 :
玄界灘側の筑紫平野の海岸線は最大で800メートルも内陸だったらしいから、水稲は筑後平野の方がやり易いではあるな

537 :
>>536
800mじゃなく8,000mな

538 :
吉武高木が海岸線に来るくらいかな?

539 :
>>538
現存する最古の「博多古図」(約800年前)から推測される約1,800年前の海岸線がこれらしい
画像サイズが大きいが地名が読めるギリギリまで縮小してある
参考までに

博多古図
https://i.imgur.com/EI1K3Tr.jpg

博多古図から推測される1,800年前の海岸線
https://i.imgur.com/lePABFm.jpg

540 :
>>539
なるほど、そうだったのか。
海岸線は、かなり内陸にあったんだ。いろいろ考えなおさなくちゃならんな。

541 :
>>540
横だけど、
実際の海岸線はそれよりはもう少し陸地が広くなりそう

糸島は調査で志摩と繋がっていたのがわかっているので、そちらの地図を調べてください

福岡市の方は住吉神社あたりまでが海岸線だったと識者から聞きました
飛行場の西や東から遺跡が出てるから、そのあたりは陸地だけど、海岸線はすぐ近くだったみたいだね

542 :
>>541
糸島は、前原沖で南北が繋がっていたのかもしれんね。
繋がっていたといっても、天橋立みたいな状況だったんではないかな。
ともあれ、東西両方から内湾が前原沖まで、入り込んでいたとみてよいのではないかな

543 :
>>542
糸島はボーリング調査したみたいです

福岡市の西側は藤崎遺跡や西新町遺跡のあたりが港町でしょうか

544 :
糸島はやっぱり島だったんだな

545 :
志賀島神社を見ればわかりそうなもん
ちょっとレベルが違う気がする
海側を向いた鳥居がなんともロマンテック
航海にでる舟を見送りながら無事を祈ったのだろう
素敵すぐる

546 :
帰ってくる船から見ると
「お帰り」感があるだろうね

547 :
そりゃそうだろうな
なんせ、いと島というくらいだから、島だったことは明白だわな。

548 :
>>547
糸島は元々「怡土」と「志摩」

549 :
「志摩」=「島」

550 :
イト島という島がもともとあって
陸と繋がったので「イトシマ」という地区名になって
そのご「イト」と「シマ」に分かれたって話でしょ

551 :
>>539
これはありがたい

552 :
>>539なかなか見れないお宝史料をありがとう
画像は保存しとかんとね
     

553 :
藤崎遺跡や西新町遺跡のあたりも独立した島
小戸神社から姪浜・愛宕山のあたりも独立した島

554 :
「淡海(あふみ) 早良平野北部の汽水湖を復元可視化してみるテスト」
でぐぐると地図がみれるよ

555 :
はずかしながら言ってみたいのですが
倭人伝のルートは、大分小倉→田川伊田なんだと思ってます
素敵な志賀島神社を話題にしましたが
それでも自分は伊都は田川の伊田か糸田と
思えて仕方ないんです
何度倭人伝読んでも

556 :
>>555
だったらそう思った経緯を説明しようや

557 :
ニギハヤヒとニニギは兄弟で福岡県鞍手町新北(にぎた)出身だと思う。
この二人が東征したんじゃないだろうか。
イワレビコは名前にイワレが入ってるから畿内の名前に思える。

558 :
そりゃ、大和に移動してから磐余彦と名前を変えたのだから。

559 :
一大率って何?関所みたいな感じ誰か教えて

最初は一大卒に見えて一ツ橋大卒と勘違いした

560 :
邪馬台国の高位の官職名だよ。
百済の官制にも同じのがある。

魏志倭人伝では伊都に置かれ、女王国(伊都)から北(対馬海峡)を巡視していた。
水戸黄門みたいな感じかな?

官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:T帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

561 :
率と帥は意味も発音も同じとされている。
つまり大率、帥升、太宰帥はいずれも同じ意味。

帥升は倭王とされているが、倭王が自分で洛陽まで行くわけもなく、王に次ぐナンバーツーが行ったのかもしれない。

562 :
新唐書
「置本率一人,檢察諸部。」

563 :
ありがとうございました
勉強になりました。

564 :
ぼーっとした時に考えるときがあります
古代の人達は、日々をどうやって過ごしていたのだろうと
スマホもないテレビもない文字すらあったのかもわからない
食料を求めることだけに走り回ってたのかな
投げ槍や弓矢も練習したのかな
うつろい行く山の色や自然の植物、渡り鳥や鹿や動物たち
私達が想像する以上に観察してたかも
そんな人達が手作りの船で海を渡ったんだよ
向こう岸に行けば殺されたかもしれないのに
なんて勇気があるんだろう
本当に素晴らしい、敬意をはらわずにいられないよ
今の私には夜のメキシコだって怖いのに

565 :
>>564
言語学研究によれば平安時代の会話スピードは現在の0.74倍。
古代となればさらに語彙も少なくスローだったと推察される。

現在人からするとスロー再生のような会話をする古代人
一方、古代人からすると二倍速再生のような会話をする現代人

これはボキャブラリーによる脳のクロックアップ現象と言われ、語彙量の増加に比例して時間を長く感じるという生理現象。
つまり、古代人の体感する一時間は現代人の体感する一時間よりも確実に短かったという傍証である。

古代人の活動時間が日の出から日没とすると一日の活動時間は約13時間であり、この13時間は現代人の体感スピードで言えば6時間半となる。

一日なんてあっという間に過ぎていたであろう。

566 :
>>565
非常に興味深い話だけど、>>564の論点とはちょっと違う気が・・・

567 :
実際にどうなんだろう
現代で誰か手漕ぎの舟で対馬や韓国に渡米した人いるの?
大学生あたりでチャレンジしたグループとかいないかなあ

568 :
>>567
手漕ぎは聞いたことないな
帆船や水上バイクで博多湾から渡韓した人は地元ニュースで見たことあるけど

569 :
野生号 なみはや号

570 :
>>569
勇み足失礼した

571 :
>>567
五島列島辺りから出航すれば壱岐をすっ飛ばして対馬に行けるだろうね。  @阿波

572 :
>>571
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

573 :
またニュース速報+に糸島の倭人の硯スレ立ってる
http://n2ch.sc/r/-/newsplus/1550649478/?guid=ON&rc=59 
糸島の歴史は古い、倭人伝に書かれるずっと前から
栄えていたと妄想する私には興味深いスレ

574 :
やっぱりヤマトは倭面土人が訛ってヤマトかなあ

575 :
また福岡と奈良の差がついたな。

576 :
>>574
倭面土の発音よろ

577 :
わゃまとぅ

578 :
>>577
なにかソースある?

579 :
言いたいことは とりあえず書いた・・・
         ∧∧
         < `∀´ > 質問されても
         .O┬O   答えられないし
        ( .∩.|    ソースもないから
   キーコー ι| |j::...
            ∪:::::: とりまチャリで逃げるニダ

580 :
やっぱり福岡がいいなあ
人もいいし楽しか

581 :
>>580
なにより女が最高
さすが卑弥呼様がお生まれあそばれた地

582 :
>>581
中洲いくと最高だと思うが、他の地域じゃ別にって感じがする

583 :
天高原(あまのたかはら)は田川の香春(かわら)町か

香春町の弥生時代
弥生時代は紀元前400年頃から紀元後250年頃までを言います。
この頃は香春町でも遺跡の数が一機に増加し
五徳畑ヶ田遺跡、ミノ・大熊遺跡、宮原遺跡、岩原遺跡、上高野遺跡、一本松遺跡
などから集落跡や墓地が見つかり多量の甕、高坏等の土器や磨製石斧、石戈、石鏃等の石器が出土しています。
宮原遺跡は、「長生宜子」銘大型内行花文鏡をはじめ4つの青銅鏡を出土した石棺墓群墓もあります。
浦松古坊遺跡では弥生後期から終末期にかけての石棺墓、土壙墓合わせて20基確認されています。
近隣は、川崎町公門原遺跡や田川市桐ヶ丘遺跡、その後に続くと思われる出現期古墳の田川市位登古墳があります。
前方後円墳に大型の箱式石棺を採用し内行花文鏡を副葬してます。
ちなみに宮原遺跡は日本最古の前方後円墳と見られています。

584 :
田川郡香春町の旧石器時代
田川地方に人々が生活し始めた初現は後期旧石器時代で約3万4千年前に始まり
香春町では約2万2千年前頃の遺跡が見つかっています。
五徳畑ヶ田遺跡で瀬戸内技法の影響を受けた横長剥片素材で一側縁加工のナイフ形石器と湯無田遺跡出土の細石刃が発見されています。

香春町の縄文時代
縄文時代は今から1万3千年前頃に土器が作られ始めた頃から稲作が始まる2400年前までの間を言います。
香春町で1番古いもので早期の押型文土器が見つかっていますが、
湯無田遺跡から縄文時代中期の船元式土器が集中して出土しています。
五徳畑ヶ田遺跡からは後期の三万田式土器片や晩期の広田式土器片、打製石斧が多量に出土しています。
注口土器や土偶なども出土しています
また、二の岳遺跡にて黒曜石石鏃が1点発見されています。

585 :
科学ニューススレから
(6): しじみ ★ 01/21(月)18:22 ID:CAP_USER(1/2) AAS
■『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』、日本神話、考古学資料などを、
総合的に統計学的手法で分析すれば、
99.9%の確率で、邪馬台国は福岡県にあったことが言える。

■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」

白鳥庫吉(1865〜1942年)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を
代表する東洋史学者であった。
白鳥は1910年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に
関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。
そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。
 白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で大きく発展させたのは、
東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889〜1960年)であった。
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかに見える。
「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」に
なったとする説である。
和辻哲郎氏(1889−1960年)
 和辻哲郎や、その説を受け継ぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。


(1) 卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神である。
(2) 九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
 和辻哲郎は述べる。『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3) 九州から大和へ移動した時期は、3世紀の後半から、西暦300年前後にかけてのころであろう。

586 :
科学ニューススレ続き
■年代論的根拠
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」にはその後、
年代的根拠がさらに詳しく与えられるようになってきている。
■天照大御神のいた場所
「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。
邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。
 『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。
「高天の原」は、どこだろう。 
 いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。
『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、
現実的に場所の特定できる地名が現れる。
その地名の統計をとる。
 その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、
「九州地方」と「山陰地方」の地名である。
『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、
大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。
いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。
「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。
画像リンク[jpg]:tawayama.net

587 :
科学ニューススレ続き
■「平塚川添遺跡」の出現
『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。
天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、
神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。
 九州の地図をみれば、
現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。
この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。
 筑後川の支流の小石原川は、
「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、
弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。
考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。

外部リンク:ironna.jp
★1が立った日付2019/01/01(火) 00:05:54.36
前スレ 2chスレ:scienceplus
続く)

588 :
肥後熊本の邪馬台国王卑弥呼(漢系天照大神)と、福岡田川に勢力を張っていた奴国王(新羅系スサノオ)とが、
大もめにもめて倭国大乱が起こり、甘木朝倉筑前町吉野ヶ里辺りが戦場になった。
そして最後は、夜須川をはさんで談判し、休戦協定に持ち込んだのだろう。

589 :
夜須川が国境であったと思う

590 :
>>588
スサノヲを森羅系とした根拠がほしいね

591 :
>>590
えー、出雲と出雲大社のこと知らないの??

592 :
>>591
意図を組めよ

593 :
森羅というのは、半島系の正しき発音じゃなかったかな

594 :
>>593
古朝鮮語のデータがほとんどないのに「正しい発音」なんあて分かるわけがない

595 :
>>594
朝鮮起源説の盲信者がよくやるパターンだね。

596 :
みんなは万葉集の手持女王の歌を読んで違和感を感じないのだろうか?
テジカラ、イワトと読まれているのを
古事記の天岩戸と同じ表現がなされているのに。

古事記が出来上がる前に河内王は亡くなり
手持女王は、この歌を読んでいる

1度は手持女王の歌を読んでみてほしい

597 :
天岩戸神話はさらに昔からある

598 :
そうなんでしょうね
でも文字として残ってるのは万葉集の歌が最古となりませんか

599 :
口伝でしょう

600 :
大宰帥の河内王=アマテラス説って事?

601 :
>>600
え?

602 :
そういう事を言いたいんじゃないの?

603 :
旧唐書に
倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也
日本国は、倭国の別種也  
他のスレは倭人伝ばかりだけど
この一文は強烈だよね

604 :
倭奴国也だろ

605 :
倭種ではなく、倭国の別種ということは国家として元は同じということだよな

606 :
>>605
日本国は倭国の別種
倭国は元 委奴国

委奴国は後に委国と奴国に分離
委国=倭国?

607 :
大和に向かった神武が筑紫にいた日向王家の分家にあたるのだろうな。
平原で見つからなかった内行花文鏡の破片を手に、故郷の筑紫を思いながら亡くなったのだろう。

608 :
>>607
>大和に向かった神武が

ハハハハ  神武はんは、山の中でジメジメした不便な所は嫌いなんだよ。 そんなところへわざわざ好き好んで行かないよ。   @阿波

609 :
>>608
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

610 :
>>193
>くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。

[木毛]で、ウツギって読むんだけど、どこがクシフルの訛なのかさっぱり分からん

611 :
>>587
>筑後川の支流の小石原川は、
>「夜須川」とも呼ばれる。

滋賀県守山市の伊勢遺跡は琵琶湖に流れ込む野洲川の流域の遺跡
こっちの方が、神々の集まった天安之河原にふさわしいようにも思う

612 :
>>610
なんでそんな古いレスにレスしているんだ。

613 :
チョンコロ来ないと盛り上がらんな

614 :
>>610フルとは
古代朝鮮語で神が降り立つ場所って意味だよ
ソウル(ソフル=ソブル=脊振山)も同じ語源に近い
瀬織津姫=セオリ・ツヒメ=脊振津姫
あり得ませんかねぇ?

615 :
>>614
お前の言う古代朝鮮語ってのは誰が何を元に解読したものなんだ?
三国史記以前の朝鮮語の記録なんて日本書紀に断片的に見れるだけで実態が残っていないのだから解明不能な言語のはずなんだが?

616 :
>>615

>>614の無能チョンコは>>613のリクエストに応じて出てきてくれたんだから、もっと丁寧にイビってあげなきゃダメだよ

617 :
私は九州倭人と韓国カヤ文明は
繋がっていたと思うよ 
韓国の博物館の鉄鎧や金の首飾りや金の王冠は
九州の出土品とそっくりだよ
私は日本人ですけどね
ちなみに東京霞ヶ関から書いております。

618 :
>>617
韓半島の中南部は倭人が支配してたんだから当然だろ

619 :
古朝鮮語ネタとDNAネタは100%チョンコの妄想ってこと

620 :
君が代だいは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけの娘、あれはや あれこそは 我君のみふねかや  

こけのむすめ
これについて詳しくわかる文献とかありますか?

621 :
ひょっとしたら
苔のむすまで〜ではなくて、
こけのむすめ
が正しいのでは?と思いまして。

622 :
>>621
気持ちの悪い妄想

623 :
3UOIjCl0(1/3) AAS
>>14
遣唐使、遣隋使が長安や洛陽で必死で買い揃えてたのが専門書ではなく向こうではやってた小説らしい
向こうの知識人階級の間では以外だったようで「日本人は小説好きだ」と記録に残されているほどだ

624 :
これは余談ですが、
2013年『古墳墓碑:池田仁三・著』と言う本が発行され、
画像処理により志賀島から掘り出された金印の側面に、
金印受領者と思われる奴国王『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』
と言う名前が刻まれていることが発見・報告されました。
これは、第3代・安寧天皇の第2皇子の名前であり、
福岡県堺の佐賀県・一貴山銚子塚古墳がその皇子の墓と言われています。
この『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』の生存は西暦20〜66年となっており、
金印が授与された西暦57年と良く符合するという。
尚、この本には、古墳の積み石等の画像処理により、
今まで不明とされてきた沢山の古墳被葬者の名前を読み出して報告しています。
古墳に興味のある方はご一覧ください。
然し、『古墳墓碑』が発行されてから3年以上経っているのに、
この本はいまだに学会で取り上げられないので、
真偽の程、ちょっと不審に思っている所です。   

625 :
書体がほぼ一緒なんだよな

626 :
>>624
画像処理じゃなくて画像への落書きです

627 :
「画像解析」どころか石棺表面は非破壊検査でスペクトル違いの光線を使って舐めるように撮影して専用ソフトで綿密に解析してる。
もしかして何か残ってないか?と。でも「無いものは無い」

628 :
素環頭太刀がある墓は王様の墓でいいのかな?
鏡より貴重?

629 :
中国のドラマとかだと、将軍クラスとかも剣を持っていた。
王族で内行花文鏡、王は璧とかかな。

630 :
ふつうの銅剣ではなくて
素環頭太刀ね
あまり出土してないし
舶来品だとおもうの

631 :
平群(へぐり)の地名が奈良にも福岡にもある理由について。
地名が複数あるということは、二つの理由が考えられます。
一、その地名が固有地名ではなく、一般地名の場合。
例、「宇治」京都南部と伊勢神宮の「宇治山田」です。
私は「宇治」を「二番目のやまと」と解釈しています。
「うじ」「うし」の意味については後日質問いたします。

二、大量移民が開拓地に、ふるさとの地名をつける。
北海道札幌の隣に「北広島市」がありますが、
広島の県民が集団移住して、「北広島」とつけたのです。

平群の場合も、北九州の平群族が奈良県生駒の平群郡を開拓したのです。


「へぐり」は「日来る」で東を指すとしたら、
平群族は、朝鮮か中国から北九州に渡来したのです。

ここまではよいのですが、
困った問題が出ました。
平群氏は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の
九人の息子の一人を祖にしている民族なのです。
平群氏が渡来人であれば、葛城氏も西から渡来したとなります。

渡来人に関して。葛城氏は、雄略天皇に滅ぼされたことにして、
朝鮮に持っていた領土に一旦逃げ帰り、
秦氏、和迩氏、蘇我氏など名前を変えて、
渡来人として再登場したのではないかと思っています。
だから武内宿禰さんはあやふやな存在になってしまった。
共感した

632 :
福岡の古代史的に重要な若杉山がある
この同じ名前が四国にもある
やはり四国も倭国九州からの移住が多いのか

633 :
福岡の古代史的に重要な若杉山がある
この同じ名前が四国にもある
やはり四国も倭国九州からの移住が多いのか

634 :
福岡のキャンパーブログかなんかで若杉山の面白い記事見たことがあって
海側はワダツミ信仰で反対側(宇美側)はオオヤマツミ信仰で不仲
後にワダツミ信仰は真言宗に置き換わり、オオヤマツミ信仰は天台宗に置き換わって、やっぱり不仲
海側のふもとにある太祖神社は博多神楽の発祥地だけど、どういうわけか宇美八幡だけは独自に宇美神楽を実施してる

635 :
どなたか教えてください
昔の糸島の苔とは、現在の場所はどこなのですか?
よろしくお願いいたします

636 :
こけ?

637 :
そう苔こけ
君が代に出てくる漢字は現在の糸島市の地名だと聞きました
千代、さざれ石、巌、苔
この苔が知りたいんです
よろしくお願いいたします

638 :
前提が間違ってる

639 :
>>637
伊都クズ説信者

640 :
細石神社はネタでしかない

641 :
泊瀬朝倉宮御宇天皇代

泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇の代

万葉集の初っぱなはじまりに書かれてるこの文字
これは福岡の朝倉だろ
なんで岩波文庫の万葉集は奈良県の地名は推定で表記しているのか?
福岡にきまっとうもんおかしか
もう岩波の本は買わない
中古古本だけにする

642 :
福岡に天皇がいなかったから

643 :
泊瀬は奈良の地名だから

644 :
福岡だけでなく、壱岐にも大分にも初瀬(泊瀬)の地名があるな。
しかし王都に相応しいのは福岡であろう。
朝倉橘広庭宮なども置かれており、大宰府との関わりも窺われる。
奈良の泊瀬の方は移転されてきたものだろう。

645 :
根拠は「俺がそう思う」

646 :
>>641、644
博多モンの希望を当然のように語られてもな・・・

647 :
>>645
畿内説も似たようなもの

648 :
岩波文庫の万葉集の解説が気に入らないから読むのやめて
「九州王朝 木簡」でググってみたら
あるじゃないですか木簡、結構前から。
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-02b0.html
このblogの解説みると、奈良は郡をつかい、九州は評だった
みたいな解説。
仮題〜九州王朝からみた万葉集〜とか出版してほしい
売れるとおもいますぜ
令和にもなりましたし

649 :
古代、日本列島には、九州王朝、大和王朝、吉備王朝、出雲王朝、関東王朝などの国が勢力を競いながら
それぞれの地域を支配していた。
しかし、中国の歴代王朝が交渉を持ち、倭国と認識していたのは、
中国の最初の史書(山海経?)に現れたときから旧唐書までずっと、九州にあった。
それは、卑弥呼の倭国であり、700年近くまで存続していた。
九州王朝は、九州北部(筑紫や大宰府)に都を持ち、朝鮮半島の南部をも含めた海洋王国であった。
6世紀以前の記紀に中国との交渉史がまったく出てこないのは、
中国側の邪馬台国や倭の五王の朝貢記事と相容れない。
このことと、倭の五王と大和朝廷の天皇の即位年代や相続関係が一致しないということは、
倭の五王は大和朝廷の天皇とは別系統の九州王朝の大王たちだったからである。

磐井の反乱の磐井は九州王朝の大王で、反乱を起こしたのは大和政権の方だった。
6世紀の磐井の陵墓にある石人は当時の裁判を表現しており、九州ではすでに律令制が敷かれていた。
隋書に記述されている隋の煬帝に国書を送ったアメノタリシヒコは、
その妻妾の数まで記載されているように明らかに男王であるが、
当時の大和政権は、女帝の推古天皇である。
通説では女帝であることを隠し摂政の聖徳太子を大王として国書を送ったとするがこの解釈には無理がある。
九州王朝の男の大王が使者を送ったとすれば隋書の記述を無理なく理解できる。

 

650 :
遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。
遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。

唐・新羅連合軍と白村江で戦ったのは九州王朝である。
旧唐書には、白村江の戦いで、倭の天皇・薩夜麻(さちやま)が捉えられたと記録されている。
斉明天皇は九州までは行ったが捕虜になってはいない。

→白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが
日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。

6世紀初めから700年ごろまで続く九州年号が存在するが、
記紀にはその断片しか記録がない。
年号の改元年と大和朝廷の天皇の崩御と即位年が
まったく一致しないことは不自然である。
九州王朝は年号を持っていたが、大和政権には独自の年号がなかった。

旧唐書には倭人伝と日本伝があり、
倭国の使者と日本国の使者が自分の正統性を主張し言い争いをしたと記録されている。

651 :
>>648
畿内からも「評」の木簡は出てるな

652 :
>>651
九州王朝すなわち倭国の制度が評。
畿内も7世紀までは倭国の支配下だったので、当然、評が使われていた。
郡になるのは白村江の敗戦により日本国が律令制度を立てたから。
天智天武の時代はその移行期の戦後体制の混乱であり、壬申の乱の原因。

653 :
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

654 :
>>653

>郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領した
そんな記録はどこにもないし、郭務?は官吏であって武官ではない。

>同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能
すでに半世紀以上前に滅亡した国と同じな訳がない。

>神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった
完全な妄想で根拠なし。

>筑紫は震災からの復興もままならなず没落した
完全な妄想で根拠なし。

655 :
>>654
行政を行うなら、武官である必要はない。
百済復興が白村江の戦いの原因であり、倭国が百済の王子を立てていたから亡命政権があったとみなすこともできる。
完全には滅亡していなかった。
震災も事実だろ?

あとは倭国から日本国への国号変更の意味、7世紀以前の史料が存在しない理由を考えれば良い。

656 :
仮定を論証する方向ではなく
仮定の上に仮定を積み重ねていくのが
トンデモにありがちな残念な思考

657 :
>>655
行政を行う前に占領する必要があることに気づけよ無能
亡命政権があったとかってのはチョンコの民族願望でしかないし、隋書で百済之種遂絶と明記されている
震災=没落はトンスルフィクション

基本お前の言い分は全てチョンコ妄想でしかない

658 :
>→白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが
日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。

この理由は何故に?
元寇は?

659 :
>>653話題は飛ぶけど平群族については、どう思われますか?

660 :
>>657
二千人いれば大宰府を占領できるだろ。
扶余豊璋を立てて百済再興を支援するために白村江で戦ったのも、筑紫を地震が襲ったのも、唐が都督府を設置しまくったのも事実。
それなのに倭の筑紫都督府は別だなんて、そんな言い訳が通るかよ。

661 :
>>660
肝心の唐に記録がないじゃんか

662 :
旧唐書に倭国と日本が別扱いで書かれているのは
なぜですか

663 :
同一時期に同時に存在していたから

664 :
倭国は九州
本州は日本
と言うことですか

665 :
>>660
無能過ぎて笑えない
官吏の仕事は何だよ無能?
なぜ武官と官吏の区別もつかない無能
お前のような無能の思考は洗脳教育で刷り込まれた民族妄想から抜け出すことは出来ないという好例

666 :
>>665あなたが2ちゃんで有名なこども部屋おじさんですか?
ゴールデンウィークでも一日中張り付いてお疲れ様ですw

667 :
>>665
>お前のような無能の思考は洗脳教育で刷り込まれた民族妄想から抜け出すことは出来ないという好例

ブーメランだぞ?

668 :
>>664
>倭国は九州
>本州は日本
>と言うことですか

ですね。
倭の王都は筑紫、卑弥呼は倭の女王、その所在地は邪馬台国。
さて、邪馬台国はどこでしょう?

669 :
>>666,667
正体ばれたからってビビるなよwww

670 :
じゃあ皆にgwの宿題だ
休み明けまでに提出しろよ

ズバリ邪馬台国の領地は、境界の頭の漢字であらわしてます
邪→どこ
馬→どこ
台→どこ(ただし、台は壹か臺か●かもしれません) 

これを説いて発表したら有名人になれるよ
私からのプレゼントです     

671 :
>倭国は九州
>本州は日本

なかなかうまくできた言い回しだ。

672 :
>>670
お前はナニを言ってるんだ無能

673 :
卑弥呼は女王国の王で邪馬台国に住む。
邪馬台国の王はタカミムスビ。

674 :
能登舳倉(へくら)
地図を見てて、「なんて離れた小島なんだ」と思い
名前調べたらヘクラ島という。
ヘグリ「平群」に似てるなと思い舳倉古墳でググってみた
資料も人口数も極端に少ないから旅行者のblogの写真でと思っていたら
福岡の相島と似ている、いやそっくりだよ
西ノ宮、田心姫、龍の伝説、石積など
ここまで来てたんだなあと思った
興味ある人はググって見て下さい  

675 :
スサノオの時代に新潟県までは到達していた。
スサノオと五十猛が越後に農業を伝えたそうだ。
秋田は奈良時代になっても蝦夷との前線だから、倭国はそこより北には伸びていなかった。

676 :
>>675
>スサノオの時代に新潟県までは到達していた。

いわゆる、北陸忌部。   @阿波

677 :
>>676
オッケー分かった
独り言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

678 :
千葉県勝浦市浜勝浦の遠見岬神社   宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。   阿波忌部の後裔である。

679 :
オッケー分かった
戯言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

680 :
私はあえて平群(ヘグリ=へ・クリィ)と書いてますけど
平群族が太平洋側を九州から四国や奈良や長野県まで
移住しながら渡って行った可能性は高いと思ってます
あの見渡しの良い場所を選び石積みの塚をつくる一族

ただ、忌部族はもっと後からの一族の予感がする
どちらかといえば伊勢信仰にちかいような

全て確証はありません、ただの私の予想です
あしからず

681 :
>>679いい加減あなたうざいんですけど
こっちはべつに阿波市がいてもかまわないんだけど
 

682 :
>>680
>ただ、忌部族はもっと後からの一族の予感がする

ご指摘のように、忌部氏は記紀以降の氏族名です。 衰退した物部氏が忌部氏となったのではと考えています。
ただし、ここでいう「忌部一族」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
「忌部一族」とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。   @阿波

683 :
阿波の郷土史家でも、「忌部一族」と「忌部氏」を混同しているようです。   @阿波

684 :
>>683
オッケー分かった
寝言は巣に帰ってやれマヌケ

邪馬台国四国説 part2
https://lavender.2ch.sc/test/read.cgi/history/1547615010/

685 :
千葉県館山市大神宮の式内大社 「安房神社」 は天富命が祖父・天太玉命を祀った神社。

686 :
無能ヒトモドキも松傾も普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず
何故か?
それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない
そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない

自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない

チョンコとはそういう存在

  :_       ..、     ..__                           、___
  _jllll′   ョ- 4il||l     "lll'、     ‐ 、         _..-''lllliin 、    _ `''||ゞ'
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 'llL_    "'´ |ll、゙゙''冖′  lll      、  llll 〃  ..ulll!' ‖ ,jlll′  _|lll′     ||l   ゙llll ./゙l||| l||′
  ゙l||li、     |ll、      'll'、  ,__〃  ゙||lli    ゙゙  'l|l'′  ,,._lll′     ,,lll′   .|lll’ `'l|||′
   `il|l'      il|l       `'ill||lll''~    ~~        `  -‐'~~     ..l广     .`''  ゙''′


           ; ∧,_∧:   悔しいニダァァアーーッ!!!
           :<;l|l;`田´>;
           ;(6   9):
          :ム__)__)

687 :
質問します
土蜘蛛って縄文人のことでいいのかな?
神功に制圧される人びとは、縄文人がころされたって
解釈でいいのかな?
神功って何人よ、弥生人?
なんだか悲しくなったわ

688 :
全部弥生人ですよ。

689 :
今年の科博の発表によって縄文人と弥生人の定義が曖昧になってきてるからなー

690 :
弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である

2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/3uWM5cK.jpg

691 :
エラー

692 :
  │  そのエラのどこが日本人なんだ?バカチョン!
    \   _________________
      ̄∨           彡 /
                 ノ  . | モルゲッソヨ・・・
    ∧_∧  ゲシゲシ .彡⌒ ミ <_______
    ( ・∀・)    ∩<`Д´;;>___
   (入   ⌒= ̄_)) つ つ  /|
    ヾヽ  / ̄=/  /    /  |
    || ¬| ̄ ̄ ̄|   | ̄ ̄ ̄|
     ´  |      |   |      |

693 :
   / ̄ ̄⌒⌒ ̄\
   |    __λ_ |
   |   ノ ヽ 〆| |
   |   ノ      \|
\  | / //ノ(_)(//)    /
  \\___  / ̄| /   / 歴史の捏造キモチいいぃぃぃ
    \\   | ○|/   /うわああああああああああああああ!!!!!!!!!!
     \\   ̄(  /
       \|___|/
       │  │ ドピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュ!!
       │  │    〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
       │  │  〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
       (  ω⊃〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
       /  \ 〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
     /     \   〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
    /        \
  /           \

694 :
どなたか下記の説明できる?

>唐新羅連合軍と白村江で戦ったのは九州王朝である。
旧唐書には、白村江の戦いで、倭の天皇・薩夜麻(さちやま)が捉えられたと記録されている。
斉明天皇は九州までは行ったが捕虜になってはいない。

>→白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが
日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。

695 :
説明できるよ。
筑紫の君が倭国連合の首班、古の倭王だよ。

696 :
誰が書いたか知らないが拾ってきた
同じような気持ちになるときがある
2): つきピエ@絶景美男子 童貞 神の使い 2012/08/27(月)01:04 AAS
若狭三方縄文博物館に行ってきた。縄文人は野蛮な人類かと思ったらそうではなく、日本史上、
最も繊細で美しい心と姿と動きをしていたかもしれないと思った。日本の神様の霊性が最も素直
に現出した人類だったかもしれない。女系の文化で素朴で優しく争いもなく、人をR武器にな
る鉄器が持ち運ばれても戦争をせず、水田耕作の文明が普及しないほど食べ物が豊かで、ウイ
ルスにたいする抵抗力がないほど繊細で。メダカが当たり前のように泳いでいた透明な大地には、
どんな子たちがいたろう。
3000年前の戦国春秋時代に朝鮮半島と中国大陸から大量の難民が流れ込んできて、稲作農法
と鉄器文明と共に大量のウイルスが持ち込まれ、縄文文化はその後すぐに滅んでしまう。
縄文時代の人は、どんなに繊細だったのか。どんなに美しかったのか。縄文人の血は我々にどれ
だけ受け継がれているのか。今の日本人から中国人・韓国人を引いた姿形が縄文人だとすると。。

縄文人は滅んでしまったのだとすると、それ以前は中国と韓国にルーツがある事になるよ。

697 :
>>696安心しなよ。すでに解決済みだから。


〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜

2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/UJZubVQ.jpg
https://i.imgur.com/2YKTJN4.jpg

弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/3uWM5cK.jpg

従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/mLgiqTd.jpg
https://i.imgur.com/1Yl4qgn.jpg
https://i.imgur.com/fQ7qJ4s.jpg
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%

従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/YlzY3cM.jpg

チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える

結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在

698 :
親魏倭王(女王)国は九州
親呉倭王(大王)国は奈良

邪馬台国=ヤマトの国=倭国&倭種=日本列島全体

699 :
マジレスすると、呉は肥国

700 :
そうなのか>>497教えてくれてありがとう
せっかくの真面目な研究なんだろうけど
チョンケとかヒトモドケとか書くから損してる
気がする

マジレスすると
朝倉=榛君=初瀬=巴里国
巴里国の近所が邪馬台国
あとは秘密じゃ

701 :
>>700
スレ間違って誤爆してないか?

702 :
おはようございます
すいません>>697でした

703 :
今日BS TBS で九時から2時間
邪馬台国の場所をさぐる番組がある
楽しみにしてんだが
面白いのかな?少し期待してる

704 :
>>703
BSつないでないワイ涙目
(´;ω;`)

705 :
番組邪表に
邪馬台国
九州vs 奈良
って書いてあるんだよね

706 :
番組邪表って(笑)

707 :
>>703
サンクス

708 :
今日のTVの内容
畿内説マキムクの理由
1=王宮らしい大型建物、桃の種で年代測定
2=沢山の土器、いろんな地方の物がある
3=箸墓、出土した土器で年代合致
4=近くの大和水銀高山、その山丹あり
3世紀に丹を取ってたのは日本で畿内だけと豪語

709 :
TVも後半になると中国の学者登場
漢字学、歴史学、あと一人は失念
中国の学者が調べた見解は
「3人とも邪馬台国は九州と述べた」

710 :
まあ、漢文としてはそうだよな。
畿内説は魏志倭人伝とは関係なく妄想を積み上げているだけだからね。

711 :
>>30
赤村にありますよ。

712 :
>>711
なにが?

713 :
>>712
文盲かな?

714 :
>>711田川の赤村か
赤村や赤池から丹がとれていた証明できたら
一気に邪馬台国は田川

もとより田川の赤村、香春、川崎あたりと思っていた

卑弥呼の食い扶持は香春の鉱山
台与は佐賀だと思っている

715 :
九州古墳から発見される翡翠が
>>44の含クロム白雲母なら
赤村が朱の産地なら
文句なし
調べてみなさい
赤村行って採掘場所を特定して、当時の土器破片等を
見つけなさい
そうすれば邪馬台国は田川(古遠賀川上流)になるでしょう

716 :
ひさびさ邪馬台国スレがニュース速報+にある
面白い書き込みも見られて勉強なります
http://n2ch.sc/r/-/newsplus/1557737918/?guid=ON&rc=169

717 :
忘れないうちにメモ
330(1): 05/13(月)19:45 ID:refPofQz0(7/14) AAS
>>314
「聖徳太子」はいなかった 藤原不比等によって作り出された架空の人格

古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962
おもしろ歴史話 法隆寺移築説
宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる
尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
高麗尺で作られていて、当時奈良に都がなかった為に他所から移築と

新たな支配者による圧力のもと、転封(移封)という形で、大和の地へ強制的に移転させられた可能性が強いと思います。
今から48年前に、木造建築の専門家が本を出されています。

法隆寺の心柱の直径と寸法がぴったり合致  ← 法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された

米田良三『法隆寺は移築された─太宰府から斑鳩へ』一九九一年、新泉社刊。

718 :
これも忘れないうちにメモ
510: 05/13(月)20:22 ID:refPofQz0(13/15) AAS
>>472
■「法隆寺の移築」
 20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
 地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。
 ↓  ↓
邪馬台国に対する下賜品が書かれていて
ー鉛丹というのは法隆寺の壁画なんか描くときの原料として、
 密陀僧に使われています。
 小林行雄先生の「古代の技術」によりますと、これまでのところ
鉛丹・四酸化鉛は法隆寺以前はどうも見つかっていないのですが
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
そういうものを各50斤もらった。

近藤喬一・山口大学教授の話「石塚山古墳の謎」海鳥社 1981

719 :
これも忘れないうちにメモ
こんな書き込み好き
33(4): 05/13(月)18:13 ID:XaFAFCH50(1) AAS
俺の仮説

カササギは外来種として九州北部に留鳥として居る

カササギは一定範囲に留まる習性がある

魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある

なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか

魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば

生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか

銅鏡などの錆びついた物証だけではなく

鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば

邪馬台国の生きた物証としてロマンがある

720 :
>>719
鵲のDNA解析はすでに佐賀県教育委員会が実施済み
というかお前のメモはスレチだから自分のメモ帳にでもコピペっとけよ

721 :
>魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある 
これ何となく書かれているが
ものスゴいよな
上から目線で書かれて、鏡100枚渡される
倭国には鏡も無かったんだろうかと思う
「あなた自分の姿を鏡で見てみなさい」って意味なのかも
中国では鵲に鏡を見せて遊んでいたんだから
 

722 :
大宰府こそ卑弥呼の宮城。
大野城から基肄城までぐるっと羅城が建設されていた。
その炭素年代が3世紀中頃まで遡ることがわかった。

723 :
話 名 神功皇后,住吉大明神,竜宮
資 料 日本随筆大成第二期 12巻
場 所 福岡県
要 約 神功皇后が三韓征伐に向かう際、筑前国香椎において住吉大明神が翁姿で現れて、
異国征伐には竜宮の干珠満珠を借りればよいと進言する。
神功皇后が借り方を聞いたところ、翁は磯鹿島の安曇磯良という者を召し出し、
竜宮に行かせばよいという。
この男は細男の舞いを好むので、これを踊れば自らやってくるという。
そこで皇后は妹である豊姫と磯良を竜宮に行かせ干珠満珠を借りてきたという。      

724 :
神功皇后って実在するの

725 :
諸説あるし

726 :
スレタイなのに田川ネタも筑後平野ネタも一切出てこないな

727 :
素人みたいな質問ですいません
邪馬台国の台は帯方郡の帯とは違うのは
やっぱり台地って事なんですか

728 :
神功皇后が攻め滅ぼした田油津姫こそ、邪馬台国の末裔だよ。
筑後が邪馬台国の一部なのだろう。
田油津姫は、八咫の鏡を持っていた神夏磯姫の末裔と伝えられている。
それは、筑紫倭国の女王の王統だということ。

729 :
>>727
それ邪馬台国の馬はやっぱり馬がいたからですか?っって言ってるのと同じレベルの馬鹿さだぞ

730 :
久留米市の近くに難升米って地名があったらしいの突き止めたよ

731 :
地図に載っている?

732 :
久留米の語源の一つがナシメだからな。

733 :
そりゃすごじゃないか おめでとう

734 :
古代史まとめ

−倭国中枢(北部九州)…「魏志倭人伝」
邪馬台国VS狗奴国=曹魏vs孫呉の代理戦争勃発(孫呉は狗奴国後背地・宮崎へ天「孫」降臨で後方支援)
→曹魏、帯方郡の張政を派遣→神武東征(敵前逃亡)狗奴国滅亡→邪馬台国勝利するも、台与で断絶→崇神の四道将軍に降伏、ヤマト王権の配下へ

−辺境地域(本州/出雲・吉備・大和)…「古事記&日本書紀」
出雲(朝鮮半島から青銅・鉄鋌の輸入販売)&吉備(瀬戸内海の塩・桃販売)の混血王・大物主が、東海と共に唐古鍵を挟み撃ちにして征服、ヤマト王権樹立(纏向型前方後円墳)
→饒速日(神武東征)→物部氏として臣下へ→崇神、四道将軍を派遣し、邪馬台国を併合、全国統一

735 :
>>734
コピペうざい

736 :
素人みたいな質問ですいません
古墳から出土する鏡は御神体みたいな扱いですか?
小さな鏡も出ますけど、何に使ってたんですか

737 :
>>736
質問する前に自分でもっと勉強しろ

738 :
調べてもよく分からないから聞いてみたのに

この鏡、いつからいつまで使われたんですか?
男女兼用?女王の祀り用?男王は、銅矛?鏡剣?
鏡の前の時代は何を使ってたのか?
誰か教えてください。

739 :
>>738
最初の王墓の吉武高木遺跡から三種の神器が副葬されてますよ。
男王でも女王でもそれは同じ。

740 :
糸クズの妄想を真に受けたら可哀想だな

741 :
>>739ありがとうございます

五七の桐の家紋は何処の王の家紋ですか
磐井?

742 :
筑紫倭国のシンボルは大宰府の梅ですよ。

743 :
気になって仕方ない福岡の神社
老松神社、川崎の大石神社、鏡山大神社、
佐賀の鉾立神社、七品神社

744 :
>>738
調べたら幾らでも史料出てくるだろバカなのか?

>>742
大宰府(行政機関)と太宰府天満宮(神社)を混同するな
太宰府の梅は菅原道真の左遷時に持ち込まれた物

745 :
猿芝居おつwww

746 :
猿芝居?伊都クズがド素人っぽい役を演じて自分で答えてるってこと?

747 :
>>746
見たまんまやんけ

748 :
自演じゃねえし、まあいいわ

ついでにもうひとつ教えてください。
邪馬台国、邪馬臺国やまだいこく、邪馬壹国やまいちこく
どれが正しいの。全部同じ?
福岡の実家の近所に臺って名前の家があるんよ 

749 :
>>748
ネット使えるんやけん自分で調べりーよ

750 :
原文みたら邪馬壹国って書いてあるな
やまいちかよ、八百屋みたいな名前だ

751 :
>>750
原文なんて読めもしないクセに白々しい

752 :
    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||||| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
.    | ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄|   十 三 階 段 の ー ぼ る ぅ 〜
.    |  |       .||       .|  |
.    |  |       .||       .|  |   ウ リ は た だ ホ ル ホ ル し た か っ た だ け ニ ダ 〜
.    |  |        ∧||∧        |  |
.    |  |     < / ⌒ヽ       |  |   嘘 も 付 き 続 け れ ば き っ と 〜
.    |  |      | |チョン |   .  |  |
.    |  |       ∪ ノ. ノ   .  |  |   馬 鹿 な 日 本 人 を 洗 脳 で き る と 信 じ て た ね ぇ 〜
.    |  |       | | |  .    |  |
.    |  |       ∪J      |  |   ま さ か 即 座 に 完 全 論 破 さ れ る と は 〜
.    |  |              . |  |
.    |  |              . |  |   気 づ い た 〜 時 に は 絞 首 刑 さ ぁ 〜
    |\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
    | .| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 
    |  \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
    |   .| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
    |    \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.\
    |     .| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
    |     \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
    |       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
    |       \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \

753 :
>>750
糸クズ?

754 :
現在の福岡県西区戸切町
戸切町は昔、平栗と表記されていて
もともとは、平群が訛ったものと言われています
この地域は日本最古の3種の神器が出てる吉武高木遺跡があります
日向峠、くしふる、飯森神社
ここが日本書紀に出てくる場所

755 :
>>754
続けて

756 :
筑紫の日向の立花の小戸のアワギハラ、ですね。

757 :
飯盛山自体が御神体だった可能性もあり若杉山と同じように
福岡の古代史を語るには外せない地域と思っています。

758 :
飯盛神社の隣が吉武高木遺跡ですね。
飯盛神社が古ければ、古墳を守っていた
墓守の神社だったかもしれません。

ここは糸島高祖神社の高祖山の反対側に当たります。

759 :
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

760 :
>>759素晴らしいその通りだとおもいます。
ただ卑弥呼は離して考えたいと思ってますけど

倭人伝の一支国と断定されている壱岐島
ここも凄い
神社や祠がわかっているだけで1500以上もあり
江戸時代に島全体が廃れたため
由緒や名前すら判らなくなってしまった神社も多数ある
ただし、
全国にある月読神社の元宮、箱崎八幡、男獄神社、カラカミ遺跡、原の辻遺跡など
漢字や名前を見ただけで土器っとする場所が多い
倭国の玄関口として活躍したのだろうとおもいます
     

761 :
全部倭国なのだから、卑弥呼だけ特別扱いするのはおかしいですよ。
年代的に伊都国の王墓群は極めて近いわけですし。

762 :
昨日の続き
この平群には更に語源があったといわれ
日繰→平群
日とは太陽を意味し
繰とは照す、天文暦学の意味があるそうです

ちなみに朝鮮語では
日→へ
繰→クェ

ヘクェ→日繰→平栗平群→戸切
まあ信じるか信じないかはアナタしだいですよ〜
モグロフクゾウ 

763 :
古代の古墳壁画に
三角形の幾学的な模様
あれは何ですか?

わたしは動物の牙だとおもうのよねぇ
翡翠の勾玉を身に付ける前は、動物や鮫の牙を
身に付けていたと言う人もいるみたいだし
ユギと言われている絵もカシオペア座にしか見えない
詳しい人いたら教えてください。m(__)m 

764 :
間違いたごめんなさい
日→へ
差す→クェ

765 :
銅鐸に書かれている長い棒みたいなの
アレ始めて見たときは蛇を捕まえるやつかなと思った
ってことは
銅鐸はネズミ避けかな
ネズミは超音波嫌うっていうし 

766 :
あースレ間違いました
ごめんなさいもう寝ますすいません

767 :
>>763
あり得る。
弥生時代の勾玉は、縄文時代の熊などの爪に似ているし、平原の耳璫は縄文時代の魚(サメなど)の椎骨(背骨)で作った璫とそっくり。
記紀には鰐(サメのこと)か熊、鹿などがしばしば登場するから、それらをモチーフにした装飾があって当然。

768 :
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき

妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる

識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう


それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)

別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ

高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)

海人族スレでは摂津チョン

などスレ毎の呼称も存在する


特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく

また聞き止める度量がない

そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル

769 :
>>768
それオリジナルで書いたの?

770 :
張莉論文をひさびさに見てた
雲南民族の傣(たい)族、哈尼族と長江流域から北東の日本に至った倭人には
文化の上での多くの共通性が指摘されている。
稲、高床式の建物、千木(ちぎ)、村の入り口に鳥の木彫を載せた門(鳥居の原型といわれる)、
納豆・蒟蒻・餅・赤飯の食用・下駄・貫頭衣(呉服にその名残がある)などである。
春秋時代の呉越戦争、戦国時代の楚の侵攻による越の滅亡、さらには秦や漢による中国統一のための侵略により、
越族のうちあるものは中国南部や現在のベトナム、ラオス、ミャンマー、タイに逃れ、
またあるものは朝鮮・日本へと逃れていった。
その人たちが、日本に稲作をもたらし、倭人と称したのであろう。 

まあ倭人全部が当てはまるとは思えないけどね

771 :
>>770の続き
雲南民族の傣(たい)族、哈尼(はに)族

哈尼族→巴里→榛→土師?

ずっと前から思ってたことがあって
海幸山幸彦が釣り針捜しで喧嘩する神話があるでしょ。
あの釣り針って都里巴里(都里榛)じゃないかなって。

福岡のどこかの神社の伝承(朝倉近くか飯塚あたりか失念)に、
木に登って釣り針を探したってあったのよ
「木に登って小さい釣り針見つけるんかい!」
って思った
釣り針って国の名前だと思ったの

証拠もない空想だけどね、ぜんぜんダメかなあ? 

772 :
ニュース速報+に阿波説がたってる
http://n2ch.sc/r/-/newsplus/1558780223/?guid=ON&rc=213

773 :
>>771
ありやな

774 :
熊本県天草市下島
熊本県の最西端で一番美しい夕陽が見れると言われている所

天草のアマとは昔は海と言われていて
草とは日だったと言われている

天草→海日

いにしえの倭人達は、きっとここに来ていたはず
どんな気持ちや祈りで美しい夕陽を見ていたのだろうか
ここにもきっと古代人の思いが詰まった遺構があったはずなのに・・・

例)日下部くさかべ、日下くさか
草→日

775 :
>>774
天≠海説はすでに解決済み
天は甲音のamaで、海はwataが古音でアマへの変音ごは乙音のama

776 :
>>775解決済み?どんな理由
よかったら教えてください。

777 :
日本人は掛詞とか好きだし、漫才だってその程度の音韻の差は無視しているだろ?
根拠にならんよ。

778 :
>>776
文盲

>>777
苦し紛れの遠吠え

779 :
天=海にすると困るキナイコシ
ちゃんと説明したれよ

780 :
上古音の説明が読めないキナイコシ

781 :
高=高貴な
天=海の
原=集落(バル)

782 :
>>781
しつこいぞ

783 :
>>781なにそれ?教えてください。
高天原は海の集落?宮崎さんの島原説

784 :
>>775
甲乙の区別が無くなった時代に混同されたのでは?

785 :
そもそも漢字は後から当てただけだしね。

786 :
海洋部族「天津神」が、陸上稲作部族「国津神」の頭領であった大国主から国土を奪ったのが出雲の国譲り。

787 :
出雲(狗奴国・長国)の国譲り。   @阿波

788 :
またコイツかよ

789 :
阿波さんひさびさっす
ついでに質問
沖縄の氏名に阿波連や勝連といった名字の人達がいるんですが
阿波と関係あるんですか
沖縄と言えば琉球王朝やウミンチュ(海人)で有名ですし
古い時代からの名前が残ってるんですか?

790 :
分かりません。

勝連って阿波と関連するの?   @阿波

791 :
沖縄の凄い綺麗な海水浴場が阿波連ビーチって言うよ
関係あると思うなあ

792 :
高天原は鷹天原だと思うなあ
田川は鷹羽だったというし

793 :
阿波連は福建人の牛氏阿波連家が地名の由来で分家に阿波根家もある
徳島とは無関係

794 :
「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」

御祭神  神皇産霊尊・高皇産霊尊・日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命

徳島県徳島市。吉野川の南岸、四国三郎橋の近くの堤防側にある。

現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。

意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。

高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。

ちなみに、第一子は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。第三子は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。

すごい兄弟なのである。

神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いていたが、拝殿には鷹羽紋があった。   @阿波

795 :
勝連も福建人の久米勝連家がルーツ
福建からの入籍時の読みは阿波連がアバチン、勝連がカッチン

796 :
>>794
スレチ過ぎんだろ
ここに書き込む理由がなさすぎる

797 :
>>796

大有りだよ。

日子刺肩別尊は、豊前之国前臣の祖とされている。

神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いていたが、拝殿には鷹羽紋があった。   @阿波

798 :
>>797
豊前之国前臣なんて豊前側には一切登場しない吉備だけのキャラやんけ
論外すぎ

799 :
ぶぜん の くにさき  豊前だよ。   @阿波

800 :
>>799
また文盲病の発症かな?
吉備にしか名前のないキャラで豊前側の史料や伝承に豊前之国前臣なんてキャラは存在しないと指摘している。

801 :
ア〜ワキチファンタジ〜
そうさユ〜メだ〜けは〜
誰も〜う〜ばえない
こ〜ころの、翼だ・か〜ら〜

802 :
>>800
まあまあ、そういきらないの。 
吉備も豊前も同じ「忌部はん」 なんだから。 本国倭国(阿波)に任せなさい。 ちゃんとお祀りしてあるから。   @阿波

803 :
>>802
屠殺業、葬儀業の一族「忌部」の下請け精肉屋・葬儀屋が○○ガスショップサービスよろしく勝手に「忌部」名乗っただけの阿波忌部でしょう?

804 :
>>803
そういう君も「忌部はん」 の末裔なんだよ。  諦めなさい。   @阿波

805 :
ア〜ワキチファンタジ〜
そうさユ〜メだ〜けは〜
誰も〜う〜ばえない
こ〜ころの、翼だ・か〜ら〜

806 :
>>803
そういう君も「忌部はん」 の末裔なんだよ。  諦め給え。   ワハハハハ   @阿波

807 :
ここのスレッドタイトルは「(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島) 」です。
スレッドタイトルと無関係な話題は専門スレッドでやりましょう。

808 :
高天原は鷹天原でいいの?
田川は鷹羽だったんだよね
香春町の前の山が香山
英彦山が高千穂

809 :
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いていたが、拝殿には鷹羽紋があった。   @阿波

「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」

御祭神  神皇産霊尊・高皇産霊尊・日子刺肩別尊・意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命

810 :
>>808
>高天原は鷹天原でいいの?

根拠なし

>田川は鷹羽だったんだよね

はい

>香春町の前の山が香山

はい

>英彦山が高千穂

根拠なし

811 :
+2438 21飛

812 :
鷹羽紋に菊が背乗りってことでしょうか?
伊勢信仰みたいな

私は高千穂だって鷹ちほと思ってますからね
勿論妄想ですけどね

813 :2019/05/28
>>812
>鷹羽紋に菊が背乗りってことでしょうか?

いずれにせよ、天皇家ゆかりの地だからね、倭国(阿波)は。   @阿波

邪馬台国畿内説 Part531
太宰府の歴史 Part2
標準語が伝わっていない地方への国の責任 Part22
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記紀の天皇と考古学における大王墓の比定
邪馬台国畿内説 Part413
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