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秦漢帝国


1 :2018/04/01 〜 最終レス :2019/05/28
中華帝国の歴史、ここに始まる

2 :
三国時代の混乱で中国の人口は漢代の5000万人から500万人まで激減したといわれます。
無論、この人口減は流民や政府の支配外に置かれた行方不明者と死亡者の総計で4500万人全員が死に絶えたわけではありません。
しかしながら、戦争で若者を大量に徴兵した結果、農業の生産性が低下して大量の餓死者が出かけるということは近代でも偶にあることですし、
この時代に大規模な人口減からそれまで戒狄とさげすまれてきた異民族を、魏などが大量に中原に引き入れて漢族と雑居させていたことも確かなようです。
この人口減は隠し人口だけで説明できるものではありません。
その証拠に三国時代を終焉に導いた西晋の時代に、江統という人が『従戒論』という本を書いているのですが、
その本の中には「関中の人口百万のうち半分以上が戒狄」で「このままでは深刻な社会不安と文化摩擦が生じるから、
早くあいつらを追い返せ」という記述があります。
江統の指摘は当たっていて、曹操たちが中原に引き込んだ異民族の反乱で西晋は滅び、五胡十六国時代という戦乱の時代が始まります。
五胡十六国時代が鮮卑族率いる北魏による華北統一で終焉を迎え、隋によって中国が再統一される過程は、北方異民族が華北の漢民族に同化し一体化していく過程でもあるのです。

3 :
現代の中国を「メキシコ」に例えるなら、秦漢帝国は「アステカ帝国」

失われた先住民の文明

4 :
>「関中の人口百万のうち半分以上が戒狄」

まだ西晋なのに、すでに半分以上が戒狄。

その後、また何百年にもわたって戒狄の流入が続いた。
それは、隋唐まで続いた。

少なくとも、関中・長安については、「秦や漢とは人種が入れ替わった」という説に、あまりにも説得力がある。

5 :
やはり、魏の曹操がA級戦犯だったか

6 :
人口の半数ってのは関中のことでしょ
鮮卑層を主体とした兵戸は損耗が激しく西周の宇文泰が漢人の郷兵を選抜して府兵を設立
隋唐もこれを継承
六鎮の乱から沙苑の戦いあたりで鮮卑人口が大激減したのは間違いないね

7 :
鮮卑が激減してたら、隋唐は天下を取れないだろ

8 :
>江統という人が『従戒論』と

『徒戎論』な

9 :
鮮卑が漢化したからカウント出来なくなっただけだよな

10 :
隋も唐もトップが鮮卑なだけで支持基盤は漢人だし
凌煙閣二十四功臣も長孫無忌、長孫順徳、尉遅敬徳、段志玄を除けば全員漢人

>>9
兵戸は永代義務なので漢化したところで外れることはできません
ちなみに損耗が激しいので漢人のなかから犯罪者を兵戸に組みこむこともあった

11 :
「関中の人口の半分が夷狄」といわれてから、すでに400年たっている。

もう、中南米のラテン系くらいの定着度だ。

もはや、夷狄というより、帰化人になって久しい。

12 :
>>10
李孝恭、高士廉、屈突通も明らかに漢人とは言えんだろ

13 :
確実なのは、
入れ替わり()があろうとなかろうと
日本が死ぬほどあこがれてパクリまくった
隋や唐の人間が今の中国人の先祖だということ

14 :
>>13
いや、それは誤り。

今の中国人の祖先は、それよりさらに後から南下してきた連中。

15 :
>>13
死ぬほどあこがれてはいない。

長安を訪れた日本人は、争って仏教の経典を買い集め、道教には見向きもしなかった。

本当は聖地インドに行きたかったのだが、遠すぎた。

16 :
曹操 生涯最大の苦戦

袁尚と袁煕が烏桓を頼ったと情報が入った時、曹操の陣営は
大半が様子を見るべきであるというものでした。

「烏桓は、袁家など応援する事はない!放置しておいても禍は起きない。
むしろ、今、大軍を持って、烏桓征伐をしたら、
荊州の劉表(りょうひょう)を頼っている劉備(りゅうび)が
劉表を動かして、手薄になった許都を攻めるに違いなくその方が、遥かに問題である」

ところが、1人、郭嘉(かくか)だけが烏桓を征伐すべきであると主張しました。

郭嘉「烏桓は、かつて袁紹に味方して公孫瓚を討った時に、
袁紹から単于に封じられ、手厚い扱いを受けました。
いかに彼等が野蛮人であっても恩義を忘れる事はありません。
烏桓を放置する事は自分の背後に虎を放って置くのも同じです。
袁尚、袁煕は、我が軍の隙を突いて必ず河北を奪還しようとするでしょう」

郭嘉は、こう説明し、劉備に関しては、決断の鈍い劉表が、
劉備の提案を受け入れて、許都を攻める可能性は無いと断言します。

曹操は郭嘉の意見を採用して烏桓討伐を決意します。

(つづく)

17 :
曹操は烏桓の本拠地である柳城(現遼寧省朝陽市西南)に向かって進軍を開始します。
戦いは長期に及ぶ事を予想し騎兵も歩兵も補給隊も大勢連れた進軍でした。

しかし、易県に辿りつき、ここを烏桓討伐の本拠地とすると、軍師郭嘉は、曹操に進言します。

郭嘉:「兵は拙速を貴びます、このまま動きの遅い部隊を連れていては
烏桓めに、我が軍は攻めてきますと触れまわっているも同じ事、
ここは、足の速い騎兵だけを残し、補給隊は置いていきましょう」


曹操は補給が途絶えた恐怖を何度も経験していて躊躇しますが、
勝手の分からぬ土地、逸早く戦争を終えた方がいいという結論に達し
郭嘉の進言通りに軍を再編して、騎兵だけを選抜して出発します。

ところが、この時に補給を捨てた事が曹操軍に厳しい行軍を強いる事になります。

18 :
曹操軍は軽快な騎兵数万で一気に、進軍を進めて無終という土地につきます。
そこには、漢民族の田疇(でんちゅう)という有力者がいいました。
彼は、以前に土地の人間を烏桓に殺されていて、曹操の烏桓討伐に協力します。

ですが、騎兵のみで来たにも関わらず、烏桓は曹操軍の襲来を知り、主要な道路を全て封鎖していました。

おまけに、長雨が降り道はぬかるみ、数キロ歩くのも大変という過酷な自然環境が曹操軍を襲います。

曹操は大変に困り、田疇に意見を求めると、
「命懸けではありますが、、今から二百年前に崩落を起して、
使われなくなった旧道があります、私が先導しますので、こちらを使いましょう」
といい、自ら、500の兵を率いて、先頭に立ちました。

曹操は行軍に当たり、立て札を各地に立てて、こう書いておきました。

「雨季に入り道がぬかるんで危ないので秋冬になるまでは行軍を取りやめる」
果たして、烏桓の斥候兵は、これを信用してすっかり油断します。

曹操軍は、ここから烏桓の本拠地、柳城に向け500里以上を行軍します。
それは、さながら行軍というよりは冒険旅行に近いものでした。

19 :
>>14
いつ?

20 :
>>19
上に「長安の人口の半分は夷狄」という話が出ているが、後の時代の北京もそんな状態

21 :
>>15
日本で使われてる文字ってどこ由来でしたっけ

22 :
>>21
我が国の祖先が発明したニダ

23 :
>>15
中国風の宮殿や都を建てて学問と言えば江戸時代まで漢学だったのにそれはないわ

24 :
>>12
李孝恭、屈突通はそうやな
高士廉は渤海高氏の出なんだから漢人やろ

25 :
>>21
日本で使われてる常用漢字は、隋や唐の由来でしたっけ

26 :
その常用「漢」字はもとは一体どの民族の文字だと思ってるのかな

27 :
>>13>>26
常用漢字はもともと鮮卑族の文字じゃなかったと思いますよ

28 :
>>26
そんな何ミクロンという差を誇られましても

29 :
ひらがなもカタカナも漢民族の民族文字の変形だよね
「新編千家姓」で鮮卑由来姓が現代の漢族にどれだけいるか調べてみたら?
在日と混血したから今の日本人は朝鮮人なみの詭弁だよねそれ

30 :
>>29
いくらなんでも、漢字が発明された時代の黄河文明の民と、
現代の中国人との間じゃ、血縁関係はほとんど無いだろ

31 :
殷代より前の陶寺遺跡はすでに現代の華北の漢民族に多いハプロO2a1aが主流を占めていたことがわかっている
他にも紀元前10世紀頃の倗国墓地からは山戎・玁狁と関係があると思われるハプロQタイプのものも見つかっていて
北方民族の混血もはるか昔からで鮮卑に始まった事ではない

32 :
玁狁と犬戎は、のちの匈奴に比定される
みな、華夏人お得意の悪意に満ちた侮蔑表現であるのも興味深い

33 :
ここで「滅びた先住民が遺した旧文明」と言ってるのは、秦や漢のこと

殷や周は問題外

34 :
異民族の移住が本格的に始まったのは、曹操が連れてきた傭兵がきっかけ

35 :
>>33
日本人にとっての縄文人のことかと思うな

36 :
>>35
そう、古代の日本に帰化人が多かったことや、欧州にゲルマン人が大移動したことなどは、「民族構成の変質」として、大いに語られている。

それに比べて、中国では、「中国4千年」という愛国的なイデオロギーにより、一貫性が強調される傾向がある。

37 :
ローマ帝国時代からゲルマン系ローマ人なんてありふれた存在だし
ゲルマン系なんて貴族の上澄みだけで欧州人の先祖の大半はガロローマ人だけどな

38 :
言語自体が交代してる場合はそうも言えんだろ、ブリタンニアとかラエティアとか

39 :
きみの理屈だと現在のカメルーン人の先祖はフランス人ということになるんだが
中国を除いては被支配民族はたいていの場合は支配民族の言語を話すようになるのことが多い
フランス語話者なんて今では黒人がほとんどだからな

40 :
>>39
中国語は、モンゴルと満州の影響を受けて、大きく変質している

書き言葉の漢文が受け継がれただけだ

41 :
漢は、北九州に金印を贈ったが、南朝鮮には銅印だった

朝鮮は、当時から国としてのランクが低かった

42 :
>>40
きみモンゴル語も満州語も中国語も全然知らないでしょう
中国語とモンゴル語満州語は全然文法構造が違うよ
口語と文語の違いはあれど漢文も中国文も文法は基本的に一緒でSVO型でむしろ英語ののほうが近いんだけどね

43 :
>>39
ちょっと雑な一般化だなあ

ノルRンクエストでアングロサクソン人がフランス語話者になったかい?
インド亜大陸で英語が第一言語になったかい?
アフリカ諸国だって英語仏語はほとんどの場合第一言語ではないし。

44 :
それ何の反論になってないんだけど
語族と人種の区別ついてますか?
トルコ語族はみな同じ人種ですか?
人種的には変化はなくても語族は別の者に変わる例何て世界中でありふれたことなんですけど

>>38の理論だと印欧語族に「言語交代」したカメルーン人は人種的にも印欧系になってないとおかしいっすよね
特定の人種しか喋れない言語はないのだから言語の交代があったからと言って人種までも変わったという確証にはなりません

45 :
>>42
基本語順はSVO型である。しかし、現代北方語や文語では「把」や「將」、「以」による目的格表示などがあり、SOV型の文を作ることができ、かつ膠着語に近づいている。

46 :
>>42
「中国語のアルタイ化」は、言語学界ではずっと前から議論されてるテーマたぞ?

47 :
[コピペ] 現代中国語のアルタイ化

動詞が目的語の後に置かれるような現代中国語は初級テキストにもよくあります。英語的な語順では、

我打开空调。wǒ dǎ kāi kōng tiáo(私はエアコンを入れた)

ですが、

我把空调打开。wǒ bǎ kōng tiáo dǎ kāi

 のように、動詞の「打開」を後ろに持ってくることもできます。

ほかには
他洗了我的衣服。tā xǐ le wǒ de yī fu (彼は私の衣服を洗った)
→他把我的衣服洗了。

 のように言い換えることもできます。なるほど、動詞が最後に来るのはおかしいと思っていましたが…
 このように本来動詞は主語の次なのに、最後に移動することを「現在中国語のアルタイ語化」というようです。おもしろいですね。
 以下のような文もあります。

我去图书馆看书。Wŏ qù túshūguǎn kàn shū. (図書館へ行って本を読む。)

48 :
「伝統的」に「我打開空調。」という言い方も可能
が、「我ba空調打開。」のように、前置詞の「ba」を使って動詞を後置する北方アルタイ語的な言い方は,
現代中国語、特に全国共通語たる「普通話」(プートンファ)ではポピュラーである

このような変化が起きた理由は,中国語が他の言語と接触したため。

元(げん)の時代から変化が始まった。

49 :
あれだけ北方民族の支配が何百年も続いて、影響がないわけないだろ。

普通に考えれば分かりそうなものだが?

50 :
ていうか膠着語の意味わかってるか?
どれが主語か目的語かが助詞によって決まる言語のことだぞ
だから例えば
吾は 汝を 殴る
汝 を 殴る 我は
と語順を言い換えても成り立つ
これとは逆に漢文は接辞や語形変化、時制がほとんどないので主述構造が非常に重要になってくる
「吾汝殴」を「殴汝我」と言い換えるとまず意味が通らない
この点は現代中国語も一緒 で助詞がほとんどないのでそんなことはできない
キミが孫引きしてるブログも一部「膠着語」のように語順を入れ替えることが出来ると言ってるだけで
「書き言葉の漢文が受け継がれただけ」てなんて書いてないよね

この程度のこと高校レベルの国語の知識があればわかるはずなのだがキミは学校時代にろくに勉強した経験がないのじゃないのか?

51 :
>>25-26
常用漢字は日本で制定された

52 :
>>50
いやいや、これはまだ、ほんの一例だ。

形容詞と名詞の順番、発音など、多くの面にアルタイ化の影響が見られる。

53 :
>>50
バカはお前だろ(笑)

単に語順を入れ替えられるってだけではない。

「我的・・・」とか、「我把・・・」といった、ほぼ助詞としての機能を持つ語が、現代の中国語には多いという話。

54 :
それだけで「書き言葉の漢文が受け継がれただけ」とか言いきれるのか
馬鹿だろお前

55 :
そもそも助詞がほとんどない中国がどうやったらアルタイ語化できるんですかね(疑問)
つうか助詞の意味すらわかってないでしょ?

56 :
>>50
>この程度のこと高校レベルの国語の知識があればわかるはずなのだが

こっちは、「現代中国語がアルタイ化した」という話を、高校生のときから知っている。

お前は、今日はじめて知っただろ?(笑)

57 :
>>55
だから、助詞のような機能を持つ語が、現代中国語では使用頻度が増えたんだよ。

そう言ってるだろ。

大丈夫か?(笑)

58 :
では現代中国語の中から助詞に当たる言葉をすべて抜き出してみましょうね
出来ますか?アルタイ語化してるのなら当然できますよね

59 :
>>58
まあ、そうムキになりなさんな(笑)

60 :
つまり出来ないと
あなた日本語の品詞分解すらろくに出来ないんじゃないんですか?
私のレスのどれが主語か述語か目的語かわかりますか?
国語も出来ないのに中国語がアルタイ語化してるとかおこがましいのですよ

61 :
アルタイ語
マルタイラーメン

似てる

62 :
程度の問題だろ

63 :
漢語は古代(秦漢時代よりもっともっと古い西周時代)には屈折語だったという説もあるし
長い歴史の中ではそういう文法の根本も変化するものなのだろう

64 :
かんぶ

65 :
漢文が成立したのは、漢の時代ってことでいいのかね?

66 :
>>63
南部方言が、古代の特徴を残していると考えられている

67 :
>>65
教科書に載ってる漢文がいつの時代に書かれたものか調べてみたら

68 :
http://natsu00117.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/03/31/20090622190017.jpg       

https://rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140719%2F83%2F876703%2F38%2F200x200xa6e504851e946ea377458322.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r         


https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggQWEpjnDtdpCxpAklbwn1UQ---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/que-1384191843



https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-c9-76/abs76jh/folder/473345/45/32229645/img_1?1179450512

          

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8c-36/sokanet_cult/folder/104287/91/8857591/img_3?1366061424                      

https://trendy-da.net/wp-content/uploads/2017/02/39ff44330ec1cd69ab671546c157f0eb-246x200.jpg   

69 :
数々のエピソードが事実なら、後漢の光武帝こそは「奇跡の人」と呼ぶのがふさわしい

70 :
>>69
名君ということなら光武帝よりもっと上の名君は居るかもしれんが
人格者ということでは史上最高の皇帝やろな

同じ音の洪武帝と大違い

71 :
>>67
北方で漢と争っていた蛮族・匈奴の単于も漢文を理解できてたって本当?

72 :
>>71
そりゃ、奴らも商売だからな

意志疎通のツールは必要だろ

73 :
とにかく、大学入試は漢文必須にすべきだなw

Fラン大含む全文系学部&旧帝大含む国公立理系は必須化すべきw

74 :
大学入試に漢文は不要だな

75 :
【シオンの議定書は反日】 『マス・レジャーとクイズを盛んに』 『あなたは極めて優秀だから寝返れ』
http://rosie.2ch.sc/test/read.cgi/liveplus/1523323225/l50

76 :
>>66
南方語が残してる古い特徴というのはせいぜい唐宋あたりのもので
漢語が屈折語だったかもしれないと推定される古代の特徴を残してるわけではないよ

77 :
俺は漢文の授業が好きだったけどな 高校の授業で一番好きだったかも

78 :
中国の歴史としては、日本で圧倒的に人気があるのは三國志だが、大きく離れて、項羽と劉邦がそれに次ぐ

司馬遼太郎の小説のおかげ

79 :
とくに、陳平の謀略がいい

80 :
漢文は勉強すればするほど入試で高得点が取れる科目でしたね
数学や現国とちがって、センスは関係ない
東大理系入試でも、漢文は得点源になってくれましたw

81 :
中学の頃は授業で一人喜んでた憶えが

82 :
呉楚七国の乱

漢(前漢)の前2世紀中ごろ、有力諸侯が起こした内乱。

 漢の第6代景帝の即位後、前154年に、有力な諸侯王国のうちの、呉・楚・趙など、中国東南部の七国が、中央政権に対して連合し、挙兵した内乱。
各国の王は劉氏一族で高祖によって国王として封じられた者の子孫であった。
当時の中国を二分する内乱となったが、彼らが中央政府に反発したのは、中央政府が諸侯王の封地を削減して皇帝の直轄地を拡大しようとしたからであった。
しかし反乱はわずか三ヶ月で失敗し、鎮圧された。それを境に漢帝国の諸侯抑圧策は強化され、
次の武帝の時代には郡県制がさらに拡大され、実質的な中央集権体制となる。

83 :
秦が統一したといっても、何百年も続いた各国が、そう簡単になくなるものではなかった。

秦が崩壊すると、ただちに斉や楚を始めとする各国が復活した。

りゅ

84 :
劉邦は、その復活した各国を、また滅ぼさなければならなかった。

85 :
漢は郡国制を敷き、劉一族を各国の王に封じた。
これは一種の連邦制であった。

何十年か経つと、また各国の独立意識が強くなる。

呉王や楚王たちにとって、漢の皇帝とは、「秦王」みたいなものであった。

86 :
>>23

江戸時代は蘭学が興隆していた

87 :
劉邦が冒頓単于に殺されてたら、以降の歴史は変わってた

88 :
韓信が股くぐりせず、不良に殺されていたら、以後の歴史は変わってた

89 :
韓信は、武将として活躍してから有名になったのではない。
それよりずっと以前から、「股くぐりした男」として有名人だった。

なぜか、天下人の項羽までが知っていて、「あんな股くぐりした男に何ができる?」と侮っていた。

90 :
>>86
戦前になっても漢学は必須教養である程度の教養レベルの持ち主なら誰でも漢文の素読は誰でもできた

現在では精々漢文にレ点や送り仮名をつけるところで終わりだが、戦前の旧制中学では
さらに復文(読み下し文を原文に戻す)素読、漢作文、シナ時文(現代中国文を漢文の知識を使って解く)までやっていた
「三国志演義」「封神演義」も完訳がなされたのは割と最近の話だが昔から人口に膾炙していたのは日常的に読書をする階層ならわざわざ訳などなくとも読めたから

91 :
>>90
学術書じゃない「三国志演義」や「封神演義」なんかを読んだところでそれほど教養にはならない
ファンタジー小説レベルだからね
江戸時代以後ならドイツ語やオランダ語の医学書や論文を読める学者のほうが教養レベルは上だろう

92 :
かなり見当はずれだね
ドイツ語も英語も戦前の日本では広まってなくて一般教養として広まっている
外国語は何といっても漢文
西洋の学術書何てほとんどの人間は無縁だったが四書五経は少し教養があれば誰でも知ってるレベル
それぐらい漢学が戦前の世界では支配的だった

蘭学者だろうがドイツ医学者だろうが教養階級なら誰でも漢文は読めた
英語は読めても漢文は読めない何て人間は戦後に入らないと出てこない

93 :
「ターヘルアナトミア」を訳した「解体新書」だって和訳ではなく漢訳だ
当時は学術的な文書は漢文で書くものだった

94 :
>>92
んなわけねえだろ(笑)
それは、明治時代の初期くらいまでの話だ。
ほんとに頭がおかしいな、お前は。

95 :
>>93
あれは、前野良沢が日本語に訳したのを、杉田玄白がわざわざ漢文に訳したんだよ。
杉田玄白が、その道のプロだっただけだ。

最新のオランダ医学に触れて、昔ながらの漢方医学における人体理解のデタラメさにあきれた杉田玄白は、
「こらを日本だけでなく、シナにも広めよう」と考えていたと言われている。

96 :
韓信がタイミングよく斉で独立していたら、漢・楚・斉の三國志になっていた

97 :
>>95
そもそも江戸時代の識字層で漢文かけない奴なんてそもそもいないだろう
寺子屋でも四書五経の素読からだ

お雇い外国人が帝京大学の教授陣をやっていた時代は授業も外国語で行われていたが
当時の学生は聞いた言葉を漢文に訳してノートをとっていた(緒方収二郎「鴎外とその周辺」)
欧米語と漢文は語順が同じSVOだから日本語に訳よりも容易い
漢文の素養があった時代の人間ならではの業だな

98 :
江戸時代に日本語で学術書を書いたのは国学者だけ

99 :
現代でも難しい欧米語をまずは漢語に訳して受容するという習慣は残っている
Relativitatstheorieを相対性理論というように
医学だろうが経済学だろうが法学だろうが学術用語を訳す際はすべて漢語に置き換えられる
大和言葉に訳されたものは一つもない

100 :
>>97
それは変体漢文だろ。解体新書みたいに中国人にも通じる正格漢文で書くのとは違う。

101 :
そうだ。漢文訓読調ではあるけど、れっきとした日本語。
古代中国語では、断じてない(笑)

杉田玄白だって、「これを漢人にも知らしめん」として、解体新書をわざわざ漢文に翻訳したのであって、蘭学事始は和文で書いてる。

102 :
>>99
カタカナ言葉なしで、どうやって蘭学をやるんだよ。
「ガス」も「アルカリ」も、江戸時代の蘭学者が使い始めた言葉。

幕府も、「蛮書和解御用」という政府機関を作って、組織的に蘭書の翻訳事業に乗り出した。
もちろん、カタカナ混じりの和文への翻訳。

103 :
>>99
無学な職人も使う工業用語には和語がそれなりに出てくる。
あと比較的新しい学術用語であえて和語が選ばれることがある。英語の固有語から出来た用語にありがち。

104 :
お雇い外国人たちは日本語は漢語の亜種であると考えた
例えばグリフィスなんかは「彼らの固有文字は漢語と漢語の隙間を埋めるだけにしか使われていない」とまで言っている
文法は全然違うのだがな

>>103
例えば?
外来語をカタカナ表記にすることはあっても大和言葉に置き換えるなんて酔狂なことしてる奴はさすがにいないだろww

105 :
例外は郵便用語くらいかな
逆に、医学用語と鉄道用語は日本人が口頭で会話に使うことを全く考慮してなくて困る
「かんせん」という医学用語いったいいくつあるんだよ

106 :
>>104
支那人を相手にした通訳官がいたくらいだから、日本語とシナ語は違う言語だよ

107 :
>>104
数学:引き戻し(pull back)、掃き出し(sweep out)
法律:訴え(action)
電算:読み込み(load)、手続き(procedure)
工業:送り(feed)、中ぐり(boring)、絞り(drawing)ほか多数

108 :
このスレにあるレスも語彙は9割方漢語だよなぁ

109 :
>>97
>四書五経の素読

寺子屋で四書五経はやらんと思うがなあ
往来物とかせいぜい千字文までだろう

110 :
>>101
変体漢文は中国語の亜種だろう
俗ラテン語がラテン語の一種であるのと同じく

111 :
>>108
日本人が作った単語が多い。

中国人も、それを多く取り入れた。

でも、「手続」とかは無理。中国語としては意味を成さないから。

112 :
>>110
そんなことはない。

漢文調だけど、まったくの和文。
文法が違いすぎる。

113 :
変態漢文

114 :
>>97
同時期の中国と比べて、驚くほど高い文化水準

まあ、中国のそれが低すぎるんだが

115 :
>>112
例えば変体漢文代表的な例である公家の日記文

禅定法王、掌天下之政五十七年、
任意不拘法行除目叙位給、古今未有。威満四海天下帰服、掌幼主三代之政、為斎
王六人親、従桓武以来絶無例、可謂聖明君長久主也。

動詞などの語活用も皆無なら、修飾被修飾の語順も全く違う。どう見ても日本語じゃないよ。
書き下せば日本語になる。

116 :
>>115
そりゃ当時は、ヨーロッパ人だって、共通語はラテン語だ。

オスマン帝国やムガール帝国だって、公用語はペルシア語。

そんなもんだろ、言語というのは。

117 :
公家の日記が残ってるおかげで、千年も前のことが妙によく分かっているというのが、日本の特徴。

118 :
シナ人も朝鮮人も、彼らの話し言葉とはまったく異なる漢文の他に、書き言葉を持たなかった。

日本人は、異なる道を進んだ。

119 :
世界的に見ても、民族固有語を書き言葉にするのが早かった

120 :
他の文明語の風下にあった言語に限るとアッカド語が最古の民族固有文章語なのかな。
古代ペルシア語、ヘブライ語、ラテン語、タミル語も古い。
10世紀頃から世界同時多発的に民族固有の文章語がいっぱい出てくるよね。

121 :
漢文が民族固有語でないのは、シナ人も同じ

122 :
表音文字と比べて、漢文は言語を正確に表記できないから、先進国では廃れていった

123 :
江戸時代には、「漢文を訓読するのはやめて、シナ式の発音で読もう」という運動も起きた

荻生徂徠がその筆頭格

124 :
>>121
つ白話

125 :
江戸時代の日本人は、朱子学の「格物窮理」とかをマジメにやっていたのに、現代では忘れ去られてしまったな。

世間の一般人に朱子学の話をしても、まったく通じない。
朱子学の基本用語すら、世間には知られていない。

陽明学のほうが、まだマシだ。
「知行合一」という言葉だけは、広く知られている
(意味は誤解されているが)。

126 :
「漢文」、「唐詩」というように、古典として尊重される文章は漢代のものが多い。

127 :
漢代を代表する古典って、何だろう?

1位は司馬遷の「史記」、これはまず動かない

大きく離れて、2位は班固の「漢書」

128 :
>>125
朱子学の「格物窮理」って、毛沢東の好んで言った「実事求是」と関係あるのかな?もともとは清朝考証学派の言葉らしいが
>>126
「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」って言葉もあるね

129 :
>>111
日本中世史の先生が中国人留学生に「”役人”って言葉、どういう意味だと感じる?」って聞いてみたら、「今の中国語にそういう言葉はないけど
あえて語感から解釈すると、囚人とか兵隊とか、強制労働させられてる人って感じです」って返事だったとか。

130 :
>>128
実事求是は、「文献に基づいて事実を求める」という意味で、考証学派のスローガン。

というのも、朱子学を始めとする宋学は、自分の思想を展開するのに都合よく古典を引用して、独断的な解釈を行っていた。
朱子などは、「これは誤字脱字だから訂正する」と言って、勝手に古典に変更を加える始末。

実事求是のスローガンは、こういうのに対する反動として起きてきた。

131 :
>>130
字面は似ているけど真逆に近い運動なのか
中国共産党の初期の指導者には若い頃に科挙の勉強をしてた人もいたし、そういう述語も取り入れていったということなのかな

132 :
清代の考証学派がやってたことは、もはや儒教思想というより、近現代の文学部の学者の研究に近い。

さすがに、18,19世紀だからねえ。

133 :
>>128
>文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐

そのわりには、漢代の古典文学って、パッと思い浮かぶものが「史記」くらいしかないな

他になにかあったっけ?

134 :
>>127
唐代以前は、史記より漢書の方が圧倒的に権威があった
史記は前漢のうちは、宮中にしまいこまれ閲覧には皇帝の許可がいて
ひろまらなかった。王莽時代の混乱で宮廷から外に出回るようになったが、
一部の知識人にしか広まらないうちに漢書がでてしまったため、
漢書登場から唐初くらいまでは漢書の方が絶大な権威を有していたそうだ

漢代には穀梁伝や公羊伝等春秋戦国時代に遡る文献が後世に伝わる形でまとめられた
時代であり、多くの人が賦を残すのようなったので、文は漢と呼ばれたのではなかろうか

135 :
日本の漢文教科書には戦国策もよく出るイメージ

136 :
礼記や戦国策も今の形で成立したのは漢代
編纂時に漢代の文で転写されているが、文章自体はもっと以前に遡る可能性はあるが

137 :
春秋左氏伝もそんな感じだな

前漢の偽作説も古来からある

138 :
漢代は春秋戦国期の様々な学術成果が纏められた時代だからな

139 :
儒教は訓詁学の時代

秦の始皇帝の焚書坑儒で失われた古典の復興を目指した

140 :
>文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐

「宋以後の文を読まず」と続くんだよな

明の時代の言葉だけど、荻生徂徠も共鳴した

141 :
>>119
うんなわけねえじゃん
甲骨文字ですら世界的に見れば遅い部類なのに日本とか後発の後発もいいとこだ
日本が漢字を受容した5世紀は西洋だとすでに中世だぞ

142 :
>>141
>日本が漢字を受容した5世紀は西洋だとすでに中世だぞ

中世とはローマが滅びた跡地で蛮族どもがウホウホやってた時代

143 :
>>121
四六駢儷体とか七言絶句とか中国語で発音すること前提の文体なのに無理あり過ぎ

144 :
ゲルマンが未開だったとはいえ同時代の日本と比べたらはるかに文明レベルは高いぞ
ルーン文字とひらがな、歴史十巻と日本書記どっちが成立年代が古いか調べてみろよ

145 :
ゴート語の聖書があったのは大きいよね。
それ以外のゲルマン語だとまとまった文章が書かれるようになるのは9〜10世紀頃にずれ込むけど。

146 :
>>143
そこらへんはまあ、欧州は古代文明(ローマ)の跡地だけど
日本は古代文明(漢)の跡地から離れてるんで、仕方の無いことだろう

147 :
あ、しまったアンカミス
>>144宛ね

148 :
>>141
イギリス・フランス・オランダ・ドイツ・イタリア・・・。
全部、かなり最近までラテン語だよ。

お前は一体、何の話題について話してるんだ?

149 :
ゲルマン人は、北イタリアあたりまで進出している。
地域によっては、ローマ帝国の文明の継承者といえるポジションにあった。

150 :
>>134
史記、漢書、春秋左氏伝や公羊伝

「文は秦漢」というのは、歴史書がメインだな

151 :
まあ、日本でも古事記・日本書記、高麗では三国史記・三国遺事と、歴史書から始めるのは東アジアの通例だが

やはり、儒教は歴史信仰

152 :
>>148
かなり最近っていつ頃?

例えばイングランドにおける現地語(古英語)の学問、教育、宗教分野における使用はアルフレッド大王の時代まで遡るんだけど、それより前?

近代イタリア語の父ダンテがラテン語ではなくトスカーナ方言で「神曲」を執筆したのは14世紀はじめだけど、それより前?

153 :
>>151
そこへいくとヨーロッパはやっぱりキリスト教なのかね。ゴート語訳聖書もそうだし、リンガフランカとしてのラテン語もヴルガータ訳聖書あってこそ。
グーテンベルクやフランツェスク・スコリナのような最初期の出版業者が真っ先に手がけたのも聖書だった。

154 :
>>153
「世間の一般人でも聖書を読めるようにしよう」というのが、大きな原動力だったのは間違いないねえ

155 :
>>152
「日本人も、かなり最近まで漢文を読み書きしていた」というのが、お前たちがコダワってるテーマだろ。

それに対して、「欧州諸国はかなり最近までラテン語。オスマン帝国やムガール帝国はペルシャ語」という話をしてるんだが?

156 :
>>155
>>119への反論から会話が始まってるのが見えないのか?

157 :
>>156
古事記・日本書記・万葉集は8世紀だ。
そりゃ、古代文明の中心地と比べたら最近の話だが、普通の国民国家としては早いほうだろ。
とくに平安時代の和文古典は、千年前にしては質量ともに充実している。

158 :
もちろん、日本には、漢文古典も豊富にある。

漢文だけでも、隣の朝鮮を余裕で上回る。

159 :
現代の国家と直接繋がる国のなかで一番古いのは中国

160 :
>>159
つながってないよ(笑)

いい加減にしろ

161 :
>>150
>「文は秦漢」というのは、歴史書がメインだな
違う。現在でもメジャーなものをあげただけで、歴史書以外にも多くの書物が現存している
漢書芸文志に掲載されている現存しない書物を含めれば小説などもあった

162 :
>>157
古事記日本書紀が何語で書かれてるか知ってて言ってるのかな?・・・

163 :
>>162
古事記と日本書紀は北京語で書かれてないぞ

164 :
そういえば、日本書記は漢文だったな。

古事記も、日本語と言えるかどうかは微妙なレベル(笑)

165 :
日本書記も、地の文は漢文だが、和歌が万葉仮名で書かれている

166 :
>>164
古事記は北京語で書かれてないけどな(笑)

167 :
「朝鮮は漢文ばかりで、朝鮮語の古典がほとんど無いな」と言われ、ブチキレて「日本人も漢文を書いてたニダ」と騒ぎだすのは、朝鮮人にアリガチな論法

168 :
ここで「日本人は漢文かいてた」にこだわってる奴も、たぶん在日

169 :
朝鮮はハングル作るまで時間かかり過ぎじゃないだろうか

170 :
>>165
詩歌だったらどんな蛮族の言葉でもそのまま書くのは当たり前だろ

171 :
>>170
おまえ馬鹿だろ
口語体じゃない詩歌はたくさんあるぞ

172 :
>>168
結局無知を指摘されると「チョウセンガー」に逃げ込むのか。ネトウヨは卑劣漢の最後の避難所だな

>>171
口語関係ないだろ。
なんで詩歌は原語表記である必要があるか理解してないの?

あと、下品な罵倒はよしなさいね。
言われた相手じゃなくて、きみの品位を下げるだけだよ。

173 :
>>172
言葉そのままじゃない詩歌があるんだから関係あるだろ馬鹿
馬鹿のくせに品位とかほざいても説得力ねえぞ

174 :
>>173
「言葉そのままじゃない詩歌」っていうのがちょっと意味不明なんだけど、テレパシー持ってない人間にもわかるように説明してくれない?あと、それがどう歯以下の原語表記の必要性と関わってくるのか、もよろしく。

175 :
>>172
「チョーセンガー」とは言ってないだろ。

「日本人も漢文かいてた」にこだわるのは、朝鮮人にアリガチな特徴と言ってるだけ。
日本人や中国人で、そこに執着する人はまずいない(笑)

176 :
>>174
おまえ馬鹿だから意味を理解出来ねえんだよ

口語体じゃない詩歌は言葉そのままじゃないだろ
歯以下の話なんかしてないのにふざけた質問で話そらしてんじゃねえぞ馬鹿

177 :
日本に勉強しにきた韓国の留学生は、平安時代の大量の和文古典の存在を知って愕然とする。

朝鮮最古の古典は、日本でいえば鎌倉時代の作品で、もちろん漢文だし、数が極めて少ない。

「漢文やってたのは我が国だけではない。日本人も漢文かいてたニダ」と言い出すのは、朝鮮人にアリガチな論法だが、
もしも日本に和文古典がなくて、漢文古典しかなかったとしても、それでも朝鮮のそれより質量ともに上回っている(笑)

178 :
>>176
とりあえず

「言葉」は口語のみを意味する訳じゃない。文語も「言葉」だよ。
更にいうと「口語」≠「音声言語」だし。


無知な人が無知をかさにきて人を罵倒するのは、いい加減みっともないよ。
逆ギレすればするほど恥をかくだけだよ。

179 :
秦漢となんの関係あるんや

180 :
>>179
ごもっともだけど、こういう無知低能なレイシストが恥知らずな嘘をばらまくのを放置してきた結果が今のネットの惨状じゃないですかね。

釘をさすべきは釘をさし、たしなめるべきはたしなめていれば、こうまで酷いことにはならなかった筈

181 :
>>178
「そのまま」の言葉じゃない詩歌があるってことだろ馬鹿
更に口語体=音声言語とも言ってない
漢詩などと比較して「そのまま」の言葉により近いのが口語体の詩歌だってことだろ


人のレスをきちんと読めない馬鹿なくせして他人に恥をかかせようなんて思い上がりの馬鹿だぞ

182 :
馬鹿の大安売り

183 :
>>175
横レス
>日本人や中国人で、そこに執着する人はまずいない(笑)
罵り合いに巻き込まれたくないが、知識人レベルでは「日本人の多くが漢文を書いていた」というのは
事実だし、そういう指摘に対しての反論に執着しているのは寧ろ175氏のように見える。
当初は比較的まともな議論だと思っていたが、突然相手を在日認定、馬鹿よばわりし、
何の根拠もなく「そこに執着する人はまずいない」と、主語を大きくして断定するのはいただけない

江戸時代の蘭学にしてからそうだが、蘭学が興隆したのは江戸時代後半で、前半は
まだ学問は漢文の時代。後半も蘭学一辺倒になったわけではなく、一部の蘭学者たちが
ひっぱったおかげて幕末に幕府レベルまで広まった、ということだから、江戸時代が
どちらの学問が主流であったか決めるには、学者数や文献数の定量的数値も必要で、
そこを議論できなければあまり意味がない

184 :
>>183
>日本人の多くが漢文を書いていた

それは、その通り。

この対話の流れをよく見てもらえば分かると思うんだけど、こちらは、それをもともとよく知ってるんでして。

単に、中国史スレで日本の話ばっかりする奴が2人いるから、そいつらがウザいだけ。

185 :
しつこい中国アゲ・日本サゲに、ほとほとウンザリしている。

これほど日本サゲに情熱を燃やす人間など、一部の極端な左翼か、もしくは朝鮮人しかいない(笑)

186 :
>突然相手を在日認定

そう言うけど、「我が国だけではない。日本人も漢文を書いていた」にこだわるのは、本当に、朝鮮人にアリガチな傾向なんだよ。

「民族語の古典がほとんど無い」ということに対する、彼らのコンプレックスは強烈なものがある(笑)

187 :
普通の日本人だったら、「江戸時代の日本人は漢文を書けた。
明治時代の日本人も漢籍を読めた」という話を聞けば、
「へえ、昔の人はそんなに勉強してたのか。偉いなあ」
くらいにしか思わないんだよなあ。

それが、普通の反応というものだ。

これで国民感情に火がつくことなど、朝鮮人を除けばあり得ない(笑)

188 :
これだけ「日本は未開だ、野蛮だ」としつこく熱弁を振るう奴なんか、朝鮮人のほかに誰がいるんだよ。

日本人はもちろん、中国人もやらんわ、そんなこと。
ましてや、それ以外の国の人がやることではない。

189 :
>>163
日本書記は挿入された和歌以外はそのまま中国語で読めるぞ

190 :
例えば「仁徳紀」では語調を整える「爰」を多用している
一旦古代の伝承を中国語で音読してから文書にしていた形跡と思うんだよね

191 :
>>189
和歌は中国語で読めないのね

192 :
「漢服」と漢文化ブームの背後に透けて見える「大漢帝国」の「復興」
石平のChina Watch2015.4.30 11:30

 中国では最近、18歳になった若い男女のために「成人の礼」を毎年4月に行うことがはやり始めている。
話題となっているのは「漢服」を着用しての「古式成人の礼」だ。

 たとえば今月14日、南京市内の大学で、成人となった男子大学生たちが「漢服」を身につけて昔ながらの「成人戴冠(たいかん)式」を粛々と執り行った。
15日には、江蘇省の中等専門学校が在校生の新成人のために「漢服」着用の成人の礼を催した。

 同18日、今度は内陸部の古都・西安市内の博物館で、朱色の「漢服」に身を包んだ新成人女子30人が古式にのっとった「成人の礼」を盛大に執り行ったことが地元の新聞に大きく報じられている。

 それらの「古式成人の礼」では「漢服」の着用が共通点となっている。
それは中国前漢時代の正服をアレンジしてデザインされたもので、前漢王朝の人々がこのような服を着用していたらしい、と今の人々は思っている。

 成人の礼だけでなく、漢服の着用はさまざまな場面で一種のブームとなっている。
たとえば今月10日、南京の大学付属中学校の女子生徒たちがいっせいに「漢服」を着て集団登校したことが話題となっているし、
同14日、河南省の公園で大学生たちが「漢服」を身につけて桜の木を植える儀式を行ったことも報じられている。
福建省の女子大生、朱頴さんに至っては、1人で10着以上の漢服を持ち、毎日それを着て授業に出ているという。

193 :
 今や漢服だけでなく、「漢文化」、すなわち漢王朝時代の文化に対する関心が全国で高まってきている。
洛陽で開かれている「漢服文化節(文化祭)」は今年で2回目を迎えたし、天津外大が設立した「漢文化伝播学院」は現在、31人の教員を擁する大所帯となっている。
広西省では、展覧スペースが約2万平方メートルに上る「漢文化陳列展示館」が建設中である。

 もともと漢民族が中心の中国人だが、ここにきて突如、自分たちのルーツに関心の目を向け、「漢文化ブーム」を巻き起こしているのは、
やはり、2年前に発足した習近平政権が「民族の偉大なる復興」の政策理念を高らかに掲げていることと大いに関係があろう。

 西洋の「文芸復興(ルネサンス)」が古代ギリシャやローマ帝国時代を模範にした「復興」であるなら、中国の「民族の偉大なる復興」は漢王朝の時代を念頭においたものである。

194 :
 だからこそ、習政権の政策ブレーンで「中国きっての外交戦略者」と称される人民大学の時殷弘教授は習政権になってからの著書や発言において、
周辺諸国を武力で征服して最大の版図を作り上げた前漢王朝の武帝を絶賛し、「武帝という“戦争の覇王”の出現は中華民族にとって幸いだ」と評している。

 要するに、この「戦争の覇王」のまねをして中華帝国の再建を図り、民族にとっての「幸福の時代」を再現させること。
それこそが習政権の掲げる「民族の偉大なる復興」の真意なのだ。

 この数年ではやり始めた漢服や漢文化ブームの背後にあるのは、結局政権側のこのような大いなる野望である。

 だが、われわれにとって、中国がやろうとしていることが単なる漢服や漢文化への郷愁ならともかく、アジアにおける「大漢帝国」の「復興」であるとすれば、まっぴら御免である。

195 :
漢の武帝は、古代の大征服者として脚光を浴びている

196 :
武帝こそは、漢を「大漢帝国」にした人物

197 :
習近平は、21世紀の武帝になろうとしている

198 :
習近平、ゴルバチョフみたいに、書記長からそのうち大統領になってしまうんじゃね?もちろん終身大統領

199 :
>>198
英語では、いまでも “President” だけどねえ。
トランプにも、“President for life” と言われてた。

むしろ注目は、毛沢東の時代から空席の「党主席」に就任するかどうかだったりする。

200 :
もう完全に大統領扱いなんだな・・・

201 :
>>200
終身大統領

202 :
習近平を、明の永楽帝にたとえる人はよくいるが、本人が目標にしてるのは漢の武帝か

203 :
漢が本当に大帝国となったのは、武帝のとき

204 :
その前に、「文景の治」というのがあった

205 :
文景の治(ぶんけいのち)は、中国前漢の文帝、景帝の統治期間(紀元前180年 - 紀元前141年)を表す。
漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用、
民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。

206 :
文帝と景帝の時代、漢は道家の黄老思想に基づき、休民政策をとった。

秦から続く長い戦乱に疲れた国民は、やっと一息つくことができた。

経済発展し、国庫の蓄えも大きくなった。

207 :
武帝は、国教を儒教に変更し、黄老治術を放棄した。

対外強硬路線に転じて、大征服者となった。

208 :
現代の中国も、これに似ている。

長い戦乱に疲れた国民は、改革開放政策により、ようやく経済発展できた。

いま、習近平は改革開放政策を放棄し、毛沢東路線に回帰しようとしている。

209 :
武帝は好戦的で匈奴戦に全力挙げちゃったから
いたずらに国力を疲弊させたってことで、高評価ではない向きもある

210 :
>>209
文景の治で豊かになった国庫が、武帝の一代でカラッポになった

211 :
もし文景の治の恩恵がなかったら、武帝の匈奴掃討作戦は成功せず、暗君扱いになってたかも?

212 :
文帝には有能なケ通がいたが、景帝の男妾には有能なのがいない

213 :
文景の治の末期には、ご阻止遅刻の乱が起きた

214 :
中国で天下分け目の決戦といえば、たいてい南と北の対決なのだが、
呉楚七国の乱は、珍しく東西戦争

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/2/29/%E5%91%89%E6%A5%9A%E4%B8%83%E5%9B%BD.PNG/300px-%E5%91%89%E6%A5%9A%E4%B8%83%E5%9B%BD.PNG

215 :
合従策の再現ですな

216 :
>>214
見づらい
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/29/%E5%91%89%E6%A5%9A%E4%B8%83%E5%9B%BD.PNG

217 :
>>125
朱子学の「世界観」自体が、いかなる意味でも今の日本社会では「信じられていない」からね。
世界観や宇宙論、あるいは形而上学に踏み込む領域の議論。
これが、朝鮮民族の間では今でも固く信じられているし、漢民族の間でも世界観の一部になってる。

しょせん、日本人は他所の国の哲学を学ぶという「教養」として、朱子学を勉強したに過ぎないんだろう。
戦前のインテリ学生が熱中したドイツ観念論が
日本人の世界観の血肉に全くなっていないように、朱子学もまた、血肉になっていない。

218 :
確かに。哲学マニアや漢文マニアならともかく、普通の日本人の世界観に、朱子学やドイツ観念論の

219 :
影響はまったく感じられないな

220 :
わざわざ二つに分けて書くほどのことか?

221 :
朱子学はもう十分すぎるほど日本人の血となり骨となっており最早不可分
労働や苦痛を神聖視、官尊民卑、男女の別、長幼の序などなど
古事記の時代にはまだなかった本居宣長の言う「漢意」に他ならない

中国語には敬語がない(敬意表現はあるが日本語のように動詞を変化させない)
男口調、女口調もない
「礼」も宗族間内のみで日本みたいに年長者なら誰でも敬うという意識は希薄
そもそも中国人は礼儀にうるさくない

日本と韓国は朱子がみたら涙を流して喜ぶほどの空前絶後の礼制国家であろう

222 :
キーボード操作中に誤ってenterに触れてしまうことだってあるだろ、揚げ足取りのクソタコ!

223 :
>>220
タブレットだと、誤送信が起きやすい

スマホなら大丈夫なんだが

224 :
文帝、景帝、武帝も道教や儒教など国教にしていない
前漢の本質は秦の後継で支配的な思想は法家
「塩鉄論」を読むとよくわかる

225 :
>>221
労働を神聖視するのは、朱子学とは正反対。

朱子学が神聖視するのは、読書。
読書こそが聖人への道であり、労働はそうではない。

226 :
>>221
そもそも、中国語は漢字を並べるだけの言語で、語形変化に乏しく、表現に限りがある。

簡潔なので、映画やドラマの字幕には便利。

227 :
>>214
殷周から、北斉・北周あたりまでは、西が東を征服するパターンが多い

その後、西の存在感がなくなる

228 :
>>225
イギリス人がテニスをやっているのをみた清国人が、そんな汗が出るようなことは召使いにやらせればよいのにと言ったとか

229 :
>>228

それは李朝の両班の話じゃないか?

230 :
さすがにテニスは武術の訓練には見えても労働には見えないだろ。
やくざ者にやらせておけと言うなら分かるが召使い云々なんて言うわけがない。

231 :
>>229
うん、そうだった

232 :
>>230

テニスは自分でやらないで、下人にやらせてこっちは鑑賞する方が面白いし疲れない、という話。


まぁ実際、現代人はテレビで試合を見て喜んでいるわけだが

233 :
>>232
観劇みたいなもんだろ

234 :
君子は肉体労働みたいな下卑た事はやらないということ

235 :
呉楚七国の乱で、反乱側が勝利していたら、その後の展開はどうなったか?

236 :
勝つ要素無いからな七国側

237 :
>>236
明の永楽帝だって、勝つ前はそう言われてた

238 :
秦は、地方全てを郡と県に分けて直轄支配する体制である郡県制を採用していた。

漢は、郡県制を布く地方と、諸侯王を封じた半独立国を作って治めさせる地方とを並立した。これを郡国制と呼ぶ。

しかし、秦以外の旧6国地域の士民の中には漢の皇帝を「秦王」と同じように見なすものもあり、
そ諸侯王を王としてかつての6国(戦国七雄)の復活を願う傾向が完全になくなったわけではなかった。

239 :
景帝はこれらの諸侯王の力を押さえ込むため、御史大夫の鼂錯を用い、
些細な罪など口実を設けては諸侯の領地を次々に削り始めた

240 :
呉王劉濞は紀元前154年に、呉にも領土削減の命令が届いたことをきっかけに反乱に踏み切った。
これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。
反乱側は、劉氏の和を乱す君側の奸臣鼂錯を討つとの名目を掲げた。

241 :
袁盎は「反乱軍は呉王の巨利に寄っただけ、また周辺も奸臣で反対しなかっただけで、この乱はすぐに収まります」と前置きした上で、人払いを願う。
その後「反乱軍が鼂錯の誅殺を名目にしているのだから、鼂錯をRべきです」と進言した。
景帝は驚き悩んだが、結局鼂錯を処刑した。

242 :
>>221
朱子学って易性革命による王朝交代を肯定してるよね?
日本人で皇室廃絶を肯定してるのはキチガイ左翼くらいなんだけど

243 :
「革命」という文字に骨髄反射してるのか?
皇帝専制を前提とする「易姓革命」と身分の平等を前提とした左派の「プロレタリア革命」は全然ものだろうが

むしろ朱子学は保守派と思想的には近い
皇国史観も八紘一宇も教育勅語も出所は朱子学だしな

244 :
前漢は政争や陰謀が多すぎて何でこの時代が理想郷みたいな扱いされてたのかよくわからないっす

245 :
>>243
玉砕やら鬼畜○○とかいうのもかな?

246 :
始皇帝の父親は白人のギリシャ人であった
西方から来たアレキサンダー大帝の軍隊が中国で
始皇帝になり、兵馬俑を造った
兵馬俑の精巧な写実主義は、アレキサンダー大帝に
征服された天竺の白人職人が
作った石像と同じ技術水準であり、始皇帝の父親が
瞳の青い白人であったという記述と一致する。

247 :
かの孔子や孫子もギリシャ人だった
この時代の中国の地層を発掘すると骨格の大きい白人が
出てくるのがその証拠だ
この白人たちはモンゴル帝国に負けたあと混血し
今の醜いシノロイドになってしまった
それ以前は白人だった

248 :
>>244
後漢のほうが評判が良いんでないか?

249 :
>>243
「八紘一宇」の出所は「八紘為宇」で朱子学よりもっと前になる

250 :
>>248
後漢は光武帝が史上稀に見る人格者だっただけ
後漢から中世(文明が退化した時代)が始まってる

251 :
>>23
支那の宮殿は部屋に畳を敷きつめないだろ

252 :
>>251
大極殿に畳が敷き詰められてたたは初耳だ

253 :
晋(秦)漢は、普通にコーカソイドの民。日本のルーツの一つ。


日本人はモンゴル人じゃなーい。

254 :
体格が良くて青い眼なら、そりゃ100パーセント古代ギリシャ人じゃないぞ。

255 :
瓦、土壁、礎石そのものがもとは百済からの伝来だし
それ以前は茅葺板壁掘っ立て柱建築しかなかった

256 :
>>255
百済は、倭に従属してた国

257 :
秦が崩壊したら、たちまち、魏や斉や楚が復活した。

漢が統一して、劉一族を各地に封じたが、しばらくすると、彼らが独立戦争を起こした。

なかなか、旧国の意識は消えなかった。

258 :
その服属していた国にすら文明レベルでは敵わず
技術者を送ってもらって作ったのが日本最古のお寺なんですけどね

259 :
>>257
どういう意識があったのかまるでをからない
それぞれの国民に一体感なんかあったのだろうか?

260 :
>>258
倭に臣従していたのだから、職人を送ってくるのは当然

261 :
>>252
それ日本語か?

262 :
>>256
任那は?

263 :
>258
ジャパニーズホワイト専用Rはチャイナマンに影響を受ける→
チャイナマンは進んだインドに影響を受ける→インドは白人の古代ギリシャ人に
影響を受ける

なんてことはない、すべての文明は白人の古代ギリシャが起源
日本の仏像や仏閣は彼らが起源だよー

264 :
>>254
そんなわけない
古代の日本は神社仏閣を天竺を征服した
白人の古代ギリシャ人に作らせたことが
わかっている
なぜ天竺かわかるか?ヘレニズム都市だからだよ。
ヘレニズム文明と文化が栄えた場所だ。
シャカもギリシャ人のヘラクレイトスだからね。本当は

265 :
仏像が白人のギリシャ人が起源なのはすでに証明されている通りだ

266 :
アレキサンダーに征服されたインドは速やかに文明化し
中国や日本の文明や文化の起源となったのだよ

267 :
R大国淫土人な

268 :
>>243
「王朝交代」「皇室廃絶」という文字が読めないのか?

朱子学の易性革命は「王朝交代」「皇室廃絶」を肯定してるかどうかってことだぞ
日本人で「皇室廃絶」を肯定してるのはキチガイ左翼だけなんだし

「日本人の血となり骨となっており最早不可分」ではないだろう>>221

269 :
>>268
左翼のプロレタリアインターナショナリズムと朱子学の名分論がどうすれば共存できるのか説明頼む

270 :
>>269
プロレタリアート革命だけが左翼じゃないだろ

271 :
日本の一部がソ連に占領されてたら、
普通に皇族の一人が総書記になってただろうな
まあ皇族がつかまらなきゃ一般人を仕立てあげるだろうが。

272 :
すぐ日本の話ばかりになるんだな(笑)

273 :
>>269
性即理と唯物論も相容れないが?

274 :
おっと、安価間違えた

>>270
性即理と唯物論も相容れないが?

275 :
朱子学とか本来の意味での右翼そのものだろ

276 :
>>221>>243>>274
日本人にとって
「王朝交代」「皇室廃絶」を肯定する革命は相いれないが?

277 :
>>275
外国は知らんが日本における右翼の源流の一つは(朱子学と敵対関係である)陽明学

ちなみにもう一つの源流は日蓮宗

278 :
朱子学には、金やモンゴルに押し潰されそうな南宋のルサンチマンが色濃く流れている。

それが、幕末の日本の尊皇攘夷につながった。

279 :
江戸幕府が朱子学を奨励したおかげで、皮肉にも尊皇攘夷の天皇至上主義者が増えた。

誰よりも、将軍自身が天皇至上主義者であった。

280 :
>>273
朱子学の理気二元論はそうだが、朱子が師の1人と位置づける張横渠は、気一元論を唱えた。

なぜか、20世紀の中国共産党から、「唯物論の祖」として高く評価された。

281 :
はっきり言って光武帝の神格化は異常だ
でも劉邦とか朱元璋みたいな統一後のやらかしが無いから。ま、多少はね?

282 :
光武帝・劉秀の面白さとは何か

1.年齢が若い

 光武帝は挙兵したとき28歳、皇帝に即位したときが31歳、天下統一が43歳である。
また、その家臣のケ禹や耿弇はなんと20代前半で国家の大臣となり、大活躍するのである。

283 :
2.武勇がすごい
 光武帝は驚異的な武勇の持ち主であった。昆陽の戦いでは、王莽の新軍百万──実数42万の大軍に3000人で突撃して中央突破、
その大将である大司徒王尋を斬り、それに調子づけられた味方数万も参加し、ついに壊滅させた。

 この後、河北で転戦していたときも常に陣頭指揮をしている。
天性の将軍であり、馬に跨り敵を陥落させ向かうところすべて打ち破った名将とされる。

 特に驚かされるのは、皇帝に即位してからの小長安の戦いや桃城の戦いで、10万以上の大軍、最強の突騎部隊、
さらに呉漢、賈復、馬武、臧宮ら名高い猛将を率いているにもかかわらず、なお自ら得物を奮って敵を切りふせて戦っている。

単に最前線で指揮するというだけならそうした勇武の君主もいなくはないが、実際に敵中に分け入って戦う皇帝など前代未聞、空前絶後である。
このとき同行していた外国の使者は驚愕し、本国に帰ると「その武勇は人間に敵対できるものではない(其勇非人之敵)」と報告したほどである。
 また銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したり、外国の使者である馬援とは護衛も武装もなく二人きりで面会したりした。
お忍びの外出を好み、遠くまで狩猟に出かけて夜遅くに帰ったりとまったく命知らずである。
 

284 :
3.でも強そうではない

 しかし、昆陽の戦いのとき同僚の将軍は、「劉将軍はいつもちっちゃな敵も怖がるのに、いま大敵を見て勇ましいのは不思議だ」といった。
戦いとか喧嘩のときは逃げ回るタイプだったのである。

 また、挙兵のときは「あの真面目な劉秀が!」と驚き、あいつが参加するぐらいなら絶対に勝つに決まっているのだろうと、参加者が増えたという。

 皇帝になってからは、親戚の叔母などに「おとなしいあんたが皇帝になっちゃうなんてねえ」と言われたぐらい弱そうだったのである。

 挙兵のときの同盟相手の李通と交渉したとき、光武帝は怖かったので刀を買って腰にさして面会したのだが、握手したときに刀を取りあげられてしまい、
「何とも勇ましいことですな」
 と笑われてしまった。情けなかったのである。

 光武帝は、身長7尺3寸──168cmと実に中途半端な数字が記録されている。普通この程度の普通の身長の記録は残らないので珍しい。
当時の男性としては、やや高いという程度で、体格も普通の人である。
 しかも挙兵時は、牛にのってあらわれたというおとぼけぶりである。

285 :
4.だが格好いい

 光武帝はなかなか美男子だったのである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て兵士たちは「天の人のようだ(真天人也!)」と感嘆したのである。
 『東観記』では、才能もルックスも天性もので比べ物にならぬと称えられている。
 洛陽に入城したときは、他の将軍たちがまるで野盗同然だったのに、光武帝のみは漢の正式の服装を着こなし格好良かったためみな心を寄せたとされる。
 また弁舌も優れていて、親戚の納税問題について大臣に面会を求めて、協力させることに成功したこともある。

286 :
5.超親しみやすいお気楽キャラ

 二枚目にして抜群の戦士、そして最高権力者たる皇帝である劉秀。
一つ間違えれば、近寄りがたいはずだが、劉秀は全く逆で実にざっくばらん。人を見下ろしたり、態度がでかいのが大嫌い。

 皇帝なのになんと人の上に立つのが嫌い。
もともと皇帝になりたいと思ったこともないし、若い頃も出世の話は断るし、学業もあまり真剣じゃなかった。
皇帝になってからも大臣と会話するときは、座から降りてすぐ横で話をする。
冗談を言って笑わせるのが大好き。

 その結果、周囲の人たちもみんな気軽に声をかけてしまう。
田舎の小役人に「陛下はお金にせこい」と言われ、通りすがりの老人に「そんなことをするのは殷の紂王みたいなバカ」と言われ、隠者には仕えたくないと断られ、一緒に話し込んで寝たら腹を蹴られる始末。

 城外に遊んで夜中に帰ったら、皇帝だといって顔を見せても門を開けてもらえない。
家臣も全く遠慮なし。劉秀も家臣に対してお前は死刑とか、悪事の噂があると遠慮無く突っ込んだりするが、恐れ入る相手は一人もおらず、みんな賑やかに言い返してくる。

287 :
>>252
紫宸殿には畳が敷き詰められてるぞ

288 :
 大極殿は奈良平安、今の紫宸殿は安政年間の建築、時代が違う
 畳は日本にしかない

289 :
光武帝は多分美化されているだけ
それと兄弟が殺されて悲しむわけがない

290 :
二千年前のことだし、一種の神話だな

291 :
劉縯は同母兄なんだから死んだら悲しいのは当然だろ

お前自身が兄弟と確執があるからそう思うのかもしれんが
世間一般の人間は普通は悲しむぞ

292 :
光武帝は、美化といっても、あんまりカッコよくないエピソードが多い

293 :
実際、イケメン好きの田中芳樹は洪武帝、もとい光武帝を賞賛した一文を書いていたからなぁ

294 :
中国人は、外見を重視する

歴史に残る英雄が美男だったとしても、不思議はないと思うが

295 :
しかし、インターネットはもちろん、テレビすら無かった時代だし

296 :
朱元璋は、肖像画が2種類。
ひとつは威厳のある老紳士で、もうひとつは狡猾そうな醜男。
どちらが真の朱元璋なのかは、誰も知らない。

500年前の人物でさえそうなのだから、まして2000年前のなど

297 :
>>296
朱元璋
かっこいいほうの肖像も威厳があるだけで顔はやっぱりブサイク

298 :
曹操は小柄だったようだ

299 :
「これが、あの有名な曹操か?」と拍子抜けするほど小柄だった

300 :
・・・というエピソードもあるが、「当時としては普通の身長だった」という説もある

301 :
>>297

ありのままの肖像画を描いた画家が、何人も処刑された

302 :
劉邦は、会う人を魅了する人間力の持ち主だった

カエサルとかゴルバチョフとか、真の大政治家はたいていそうだが

303 :
いまは金正恩が、人々を魅了している

304 :
金正恩は問題児すぎて周りが気を使てるだけでカリスマ性はゼロだろ

305 :
>>291
皇帝に殺されたけど兄の恨みを持ちながら頭を下げたと美化
実際には兄弟なんか死んで悲しむわけがない

306 :
>>305
……サイコパスっすね?

307 :
>>252
大極殿に高御座が設けられてたことも知らないのかよ

308 :
>>306
俺は兄弟がトラックにひかれて死んだら喜ぶぞ
理想はお金が入ってくることだけど
死ぬだけでも全然うれしい

309 :
不幸自慢はいいから

310 :
ていうか、兄弟が最大の敵なのは、王子の宿命だろ。

普通の一般家庭と比べてどうする。

311 :
兄弟には、皇位継承を争う敵という面と、最も身近な肉親という、2つの面がある。
だからこそ、数々の人間ドラマが生まれた。

兄弟との死闘を経て皇帝になった、唐の太宗・李世民と、清の雍世帝は、中国の時代劇に欠かせない定番ネタ。

312 :
嫡流ではない庶子が王位を勝ち取るとかロマンあって好き。長男だけど庶子とか特に。

313 :
兄より優れた弟など存在しねえ

314 :
>>23>>252
支那畜はアホだから高御座の意味が理解できないのか

315 :
>>310
それは異母兄弟の場合な
同母や乳母だと普通は同勢力になる

異母兄弟を排斥したあと同母兄弟間で王位を継承するってのは割とある

316 :
ジャギ様きてんね

317 :
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検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

8NU

318 :
清の考証学派が盛んに持ち上げたのは、南宋の朱子よりも、むしろ漢の鄭玄であった

319 :
文景の治(ぶんけいのち)は、中国前漢の文帝、景帝の統治期間(紀元前180年 - 紀元前141年)を表す。

漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用、民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。

320 :
40年に及ぶ、つかの間の平和

それが、文景の治

321 :
文帝の生活自体も相当に質素であり、宮室内の車騎衣服も最低限のものとし、衣服も過度に長いものを禁じ、帷帳にも刺繍を行わないなどの徹底した倹約を行った。

また諸国に対し献上品の抑制を命じている。

これにより貴族官僚での奢侈が行われることはなく、その末年には民衆の生活は向上し、前漢の最盛期の基礎を築くと共に、次の時代となる武帝の匈奴遠征の物質的な基礎を築いた。

322 :
文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の武帝の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。

文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。

323 :
博物館で秦漢時代の文化遺産を見ると、弥生時代のハニワと大差ないな

原始人のレベルの文明なのに、大帝国を築いたのは奇跡

324 :
>>323
兵馬俑見ても同じこと言えるの?

325 :
抽象絵画 埴輪
スーパーリアリズム(絵画) 兵馬俑

文化に優劣はない。あるとすれば技術力

326 :
漢の農民は、竪穴式住居に住んでた

327 :
後漢の時代に、青銅器から鉄器への移行が進んだ

鉄器そのものは春秋戦国時代からあったが、主流になったのは後漢

328 :
ようやく、500年前のペルシア帝国に追い付いた

329 :
鉄製農具が普及したのは春秋時代だけど

330 :
靭性が求められる武器の分野で青銅器が生き残っただけだな

331 :
結構前、稲のアジア史って本で読んだんだけど
漢代には品種改良の結果、江南周辺では50日程度で育つインディカ種が既にあったと記録されてるのに対して、
宋代に生育期間の短いチャンパ米(インディカ種)を江南に新たに導入したって言う記録が残ってるらしい。
唐代の農書が逸失して繋がりが分からんと書いてあったんだけど、漢代の米に詳しい人が居たらこの矛盾について教えてほしい

332 :
Wikipediaの秦王朝に『秦朝(しんちょう)は、紀元前221年から206年まで存在した、中国最初の王朝である』と書かれているのですが、これは秦以前の殷王朝や周王朝とは意味合いが違うのでしょうか?

333 :
普通に春秋時代とは別でしょう

334 :
商(殷)や周は黄河流域を支配しただけ

まあ当時の意識が農耕に適した土壌が多く、文化レベルが高く、人口の多い黄河流域=中原が中華の枠組みだったけど、中原から離れた斉や楚が発展し中原諸国と争ったり従属させたりするようになって中華の枠組みが広がる
その広がった中華を初めて制したのが秦って事で、その秦の支配地が後世の王朝の統一の基本になったから、秦が初めての王朝って意味かな
商や周の支配域って後の世からみたら中華の半分に満たない範囲でしかないから、例えるなら三國の魏武が中原を制しただけで統一してないのと同じような感じ
商の時代の斉なんて蛮族しかいないという認識、周の時代でも楚は文化レベルの低い蛮族扱い
でも秦統一以後は斉も楚も同じ中華の民

335 :
後漢を学びだしたんだけどのちの歴史に強い影響をもたらす宦官の何が悪かったのかがさっぱりわからんからいまいち理解が進まん
使用人がでしゃばるなと言う役職意識?
士大夫とそうでない者もしくはチンコがないことに対する侮蔑意識?
寵愛されない嫉妬?
外積に脅かされることが多かった皇帝は自分の意を受けて命を懸けて動く宦官を信じ
動かない官吏を敵対者とまではいかなくてもあまり信用してなかった感じは端々から読めるんだけど

336 :
殆どの宦官は大局観の欠片もなく自己の利益を最優先するから

337 :
祖先祭祀の永続を価値の根本に置く儒教官僚からしたら、子孫を残せない宦官は唾棄すべき存在だったのは確かだな。
あと、宦官てのは後宮の住人だから、後宮の女と結びついて活動しがちだったことも士大夫官人からすれば不愉快だったろう。

338 :
歴代の天子が宦官を重用した理由の一つには「コイツラはどうせ人間以下の存在で、皇帝の信任や恩寵が無ければゴミでしかないのだから、きっと裏切らずに忠節を尽くすだろう」的意識もあっただろうな。
ローマ皇帝が解放奴隷を重用したのと似た構図。

339 :
宦官をマイナスに捉えるのは史書の受け売りで意味はない
なぜ史書で宦官が悪く書かれるのか
それは彼らが低層の出で権勢を振るったからだ

後漢は営々と続く貴族社会で、庶民への差別意識は周の頃よりも酷い

曹操の護衛を務めた許チョ、虎痴は、農民出で身長185もあり
たびたび華々しい武勲を立て忠誠も厚く中将に取り立てられた
大将軍の曹仁ですら虎痴にゴマをすり機嫌をとったとされる
彼の死後、息子許儀は名門貴族の鍾会に斬られる
皇族や名門貴族たちは前から農民出の許?をにがにがしく思っていたという

このように庶民が貴族に成り上がるには大変な障害があった時代だが
宦官はもちろん皇后、その外戚はしばしば下層から取り立てられた

皇后や外戚、宦官が優れた庶民感覚で統治したこともあるし
彼らが団結して無能な貴族と対抗してもやむをえまい

340 :
宦官が皇帝や王になったという例は、歴史上皆無なのでしょうか。

341 :
なぜ宦官が忌み嫌われてるかと言うと宦官の権勢は寵愛してくれる皇帝の代限りという期限付きってこともあり
今のうちとばかりに国庫に手を付けたり暴政に走りやすい そうなると今度は不正を許さない清廉潔白な官僚が邪魔になってくるので真っ先に消され
宦官と汚職に加担する濁流派ばかりが重用される悪循環に陥る
その典型が党錮の禁だな
>>335
皇帝の意を受けて命を懸けて動く宦官ってどこをどう斜め読みしたらそんな頓珍漢な言葉が出てくるんだ? 十常侍がそんなご立派な連中なら黄巾の乱も起きなかったし三国時代もなかったろうよ

342 :
>>347
インディカなら古くから在るよ、有名なのだと黄膠稲っていう水害に強い早稲
チャンパ稲は旱害に強い早稲

343 :
保守

344 :
いま読み始めたところなのだが
こんなどうしようもない内容が
最後の方まで続いてるんでしょうか、、、

345 :
駄スレになってしまったか?

346 :
まだ、スレの3分の1が終わったばかりだ

今ならやり直せる

347 :
ほぉ、こんなスレがあったのか。

348 :
宦官とは何か、というのを考えるためには、「後宮」的な組織を持つ他の文化圏との比較が
有用だろう。

ここでは、中華世界、日本、モンゴルを比較してみる。

まず、日本の後宮。
これは御所の後宮組織でも江戸幕府の大奥でもそうなのだが、天皇なり将軍なりの
正妻あるいは生母を頂点とする女性の自治組織で、基本的に男に口出しはさせない。
男女が別々の自治組織を作るというのは、たぶん日本の古くからの土俗的な基層文化で、
私がフィールド調査をしたことがある九州の某地方でも、部落(広義)の寄り合いに
男性の寄り合いと女性の寄り合いが別組織で行われていた。

次にモンゴル。
これは、モンゴル帝室の「オルド」に典型を見ることができる。
「オルド」は遊牧組織そのものであり、組織の頂点に正妻がおり、
その配下には君主の妻妾だけではなく、男性の牧民労働者や遊牧騎士軍人まで含まれる。
君主の遊牧組織が肥大すると、なんと「正妻」の数を増やして「オルド」を分割し、
遊牧組織としての適正な規模を維持する。

こうしてみると、中華世界における後宮の特徴がはっきりと見えてくる。
・女性は男性の支配下に置き女性の自立した自治は許さない
・後宮には配偶者たる君主とその未成年の子息以外の男性の存在を許さない
この条件を満たすため、一般家庭よりはるかに肥大化した君主の後宮を維持するためには
「男性ではない男性」が不可欠となる。
この目的のための「女性の群を管理する」ための「男性ではない男性」が宦官であり、
彼らは君主の女性支配の代理執行者たる一種の「君主の奴隷」身分である。

349 :
牧畜民族は、家畜の去勢を日常的に行っているので、宦官もその延長線上にある自然な発想といえる

日本人は、中国文化の大半を導入したが、宦官・纏足・人肉食だけは、まったく受け入れなかった

350 :
>>349
ところが、>>348で述べたように、純牧畜民のテュルク・モンゴル系遊牧民の遊牧国家では、
後宮が去勢男性による管理じゃなくて正妻による統治なんだなぁ。しかも、非去勢男性が
正妻の臣下として牧畜や戦に従事している。

中華世界における宦官のルーツに関しては、牧畜文化由来だけではない要素をもっと深く考察する必要が
あると思う。

351 :
ロシア万歳

352 :
それから、纏足はそもそも「漢民族」以外、どんなに深く中華文化を受容した民族でも
受容していないだろ。

朝鮮半島国家でも、琉球王国でも、ベトナム王国でも、中華世界を支配した満州族ですら
受容しなかった。

353 :
>>352
確かに、朝鮮人でさえ、纏足はしなかったな

354 :
人肉食については、七年戦争のとき、北米のインディアンが集団で英国軍の兵士の肉を喰らっていたというエピソードがある

それも、「腹が減ったから」というようなことではなく、勝利の儀式として行われていた

中国人にも、それと似た発想がある

355 :
やはり、嫁いできた女性の発言力を封Rる漢民族社会の民俗性のシステムこそが、
宦官の発達にしても、纏足にしても、効いていると思うんだよなぁ。

中華帝国でも、北朝〜隋唐帝国では君主の配偶者とか娘とかの発言力が強くて、
しかも皇帝に盛んに助言した皇后が名妻女として絶賛されていたりする。

ところが、唐朝でも科挙官僚の登用が進み(北族系武川鎮軍閥貴族の後退を意味する)、
王朝の漢族化が深まってくると、むしろ女性の発言権が非難されるようになって、
楊貴妃みたいに本人はほとんど政治に口を出さなかったのに亡国の女性呼ばわりされたり
するようになっていく。

356 :
>>354
古典的な民族学研究で、人肉食の背景を検証したのがあるが、農耕民の場合、打ち倒した敵への敵愾心の強調として、
狩猟採集民の場合、社会で高い敬意の対象になっていた人の聖性を受け継ぐため、人肉食が行われる傾向がはっきり出たらしい。

漢民族もむろん典型的な農耕民族だが、北米インディアンも誤解が多いがトウモロコシ、カボチャ、ヒマワリなどを栽培していた
農耕民が大半だからね。

357 :
中華でも数は少ないが後宮に女官はいて、女官組織も規模は小さいがあったそうだが

358 :
>>357
女官がいなきゃ、大奥モノの時代劇か成り立たないよ(笑)

359 :
>>357
宦官が真に実力を発揮するためには、パートナーとなる女官と組まないとダメだったという話もあるね。

日本における「妻妾女官自治組織」と中国における「宦官女官組織」の違いを掘り下げると面白そう。

それから、朝鮮では「宦官組織」と「妻妾女官組織」が別立てだったみたいで、前者はあくまでも王の身辺の世話係で、
妻妾の管理が業務ではなかったみたいなんだなぁ。

なんか、こういう後宮的組織の構造にその社会の「ホンネ」みたいなものが垣間見れて面白い。

360 :
>>359
オスマン帝国あたりの後宮が普遍的な完成形でそれ以外のは発展段階が違うということだと思う。
中国の場合は后妃の序列が明確で嫡母の概念があるという点で一歩遅れている。
宗教の違いによるというわけではない。オスマン帝国の後宮はイスラム法が想定するようなものではない。

361 :
清では、宦官と女官の結婚が普通に行われていた

362 :
>>344
だったら、お前が書けよ(笑)

363 :
途中からちょっとマシになってました

なんの話をしようかなぁ

364 :
>>363
まあ、そういえばそうかも

最初のほうは、例によって「漢末〜魏晋南北朝の民族大移動」の話

これが始まると本当にスレが荒れてどうしようもなくなる

365 :
>>352
満洲族は纏足は無理矢理規制していただけで受け入れ寸前まで行ってる

366 :
>>239>>240>>241

銅山の名前やそこら辺に関する話などもあったのだけど
完全に失念、、、

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/sub/han2.html

○文帝四銖半両銭

    前元五年(前175年)四銖の重さ(2.7g)の半両銭を鋳工させます。
    文帝四銖半両銭は、民間での鋳工を許可し、申告納税方式を採用した為、各地で鋳工が行われ、
   特に「呉王び」と「ケ通」による大量鋳銭により、短期間で切り替えられていきました。

    ・呉王び(劉び):漢皇族の一人。呉王に封じられていた。
              塩の専売と大量鋳銭により富を蓄え、文帝死後反乱を起す。(呉楚七国の乱)

    ・ケ通     :文帝の寵臣で銅山を賜り、大量鋳銭を行った。文帝死後、全て没収された。

     ※両者の財産は、当時の皇帝よりも莫大であったと伝えらている。

    文帝四銖半両銭は、厳格な製作基準を定めただけではなく、違反した場合の処罰を明記した上で
   民間に許可した事もあり、均一化された半両銭が流通する様になりました。また、それまでに流通
   していた半両銭も、基準に満たない半両銭は流通を禁止されました。

    ※文帝四銖半両銭は、4枚で16銖(10.75g)以上の重量である事と、半両銭の銅質についても
     厳しい条件を課しました。
     当時、密告制度や相互監視制度により違反者を摘発し、違反した場合は、違反した者だけでは
     なく、周辺の人々も罪に問われるなど、厳しいものでした。しかし、違反者は後を絶たず、
     刑罰がより厳しいものに変化させていきます。
     (当初は刺青、強制労働等の罪でしたが、その後死罪に変更されました。)

367 :
呉楚七国の乱の盛り上がりは異常

これほどスケールの大きい大乱にしては、なんで注目度がイマイチなんだろうな?

368 :
>>367
単なる劉氏の内輪もめに見えてしまうからじゃないかな。

でも、秦による天下統一から呉楚七国の乱に至る「振幅」って非常に面白いよね。
完全に陝西(関中盆地)と陝東(華北平原+揚子江流域)の抗争の歴史という枠組みで語れる。

秦による六国征服:陝西による陝東の征服
秦末内乱:陝東による陝西支配体制の転覆
楚漢戦争:陝西による陝東の征服
呉楚七国の乱:陝東による陝西支配体制への反抗
前漢の終焉から新を経て後漢へ:陝西支配体制の終焉と陝東を中心とする豪族連合政権へ

369 :
>>367
結果として反乱は鎮圧され、かえって漢朝の基盤が固まった

この結果が面白くないんじゃないかな?

安史の乱みたいに唐が崩壊するとか、靖難の変みたいに南京の朝廷が引っくり返されるとか、そういう刺激的な結果だったら、もっと良かった

370 :
>>366
お金ヤバイ、、、


@秦の統一とともに貨幣が統一される
→各国から大量の武具が押収され
 官営鋳造所で鋳なおされ大量の金属貨幣が供給される基盤となる

A私設の鋳造が許可され、反乱軍の財政的なバックボーンとして機能する。

B後漢になると金属貨幣をベースにした経済は衰退
布帛が幅をきかすようになる

C董卓さんの中の人が小銭欲しさに銅銭に止めを刺す

371 :
>>370
>>B後漢になると金属貨幣をベースにした経済は衰退
>>布帛が幅をきかすようになる

前漢代には農民でも人頭税が銅銭納税だったので収穫物を換金する必要があったんだよな。

結局、古代的な郷里共同体の成員が豪族の成長によって浸食されて豪族の隷属民に落ちていったことで
貨幣経済の基盤が掘り崩された、という事なのかな。

372 :
>>371
普通に生活してるだけでも
お金が大量流出しちゃったらしいです、、、

あと派手にお金使う人ほど名君とされる法則でもあるんですかねぇ

373 :
>>372
そりゃあ、おカネを派手に使うほど景気が良くなって民間が喜ぶのは、今も昔も変わらない

財政破綻と、後世に残すツケが問題

374 :
漢代の民衆には、竪穴式住居に住み、土器や青銅器で暮らす人も多かった

まだまだ、原始人と文明人が混在していた時代

375 :
鉄製農具なら春秋時代から普及してるし「竪穴式住居」と言うのも多分君が連想してるのとは別物だと思うぞ
そもそも前漢代まで都市国家の延長線上で古代ギリシャと同様ほとんどの住人は「里巷」とよばれる城壁で囲まれた都市に住んでおり
散村みたいなのはほとんどなかった

376 :
>>375
「豪族」っていう新興勢力が勃興してくることで、都市国家ベースの社会が崩れて、
豪族の隷属民に墜ちていく民衆が増えてくるんだよね。

その結果、豪族の荘園に居住する荘民が農民庶民の普通の姿になっていく。

その結果としての豪族連合政権である後漢の成立。

377 :
>>375
弥生時代の日本みたいな住居をイメージしておけば間違いない

378 :
古墳時代の庶民の竪穴式住居が榛名山の火山噴火で降り注いだ軽石で埋もれたやつが
群馬県の黒井峰遺跡から出てるんだが、
多くの書籍の「竪穴式住居」のイメージからかけ離れているのな。

地面への掘り込みは人の背丈ぐらいに深くやってるし、
その上に載っている屋根も、草ぶき露出じゃなくて
壁土で頑丈に塗りこめられている。

かなり防寒性のある優秀な住居だよ。

379 :
あの時代、寒かったのかね。いわゆる北方系の住居だ。
しかしそのあと、平安期になると、少なくとも貴族の家は南方系というべきシロモノに変化している。
「夏を旨とすべし」というやつだ。
その後の小氷期でもそれは変わらなかった。ちょっと不思議。

380 :
>>379
黒井峰遺跡は、まぁ、からっ風の吹く北関東の上州だし、
平安貴族の寝殿造邸宅が建っていたのは夏が地獄の蒸し暑さの京都盆地だし・・・

381 :
あと、弥生時代の「高床式」の建造物が、「高床式倉庫」なのか「高床式住居」なのか、
検証が難しくて、かなりの「高床式住居」が「高床式倉庫」としてカウントされてしまっている
可能性も考慮すべきかもしれないな。

382 :
さらにちょっと付け加えると、
歴史時代の伝統的日本民家ってやつなんだが、
高床式の床敷きの建築と、土間建築を大黒柱のところで接合した構造になっている。
多分、床敷きの部分は高床式住居の系譜をひいていて、
土間の部分は竪穴式住居>平屋住居の系譜をひいている。
両者が接合前の時代には、ひとつの家族が同時に建設されている二棟の別構造の
民家を同時使用していて、季節によって住み替えた可能性もあるんじゃなかろうか。

383 :
漢の文明を異様に高く評価してる人たちってのは、一度、博物館で当時の遺物を見てきたらどうなんだろな?

結構、原始人っぽいよ。

もちろん、全部がそうじゃないんだが。

384 :
前漢代の豪農の家
https://archive.archaeology.org/1101/departments/artifact.html
https://www.pinterest.jp/pin/434315957799792584/
https://www.turbosquid.com/3d-models/ancient-chinese-house-3d-max/1027763

前漢代の庶民の家
https://www.1stdibs.com/furniture/asian-art-furniture/more-asian-art-furniture/han-dynasty-pottery-model-house/id-f_788567/
https://www.granger.com/results.asp?inline=true&image=0078285&wwwflag=4&itemx=35&screenwidth=1920
https://wildfiregames.com/forum/index.php?/topic/18742-rote-task-storehouse-c%C4%81ng-f%C3%A1ng-han-dynasty/

後漢の洛陽
http://i.imgur.com/53gIhwc.jpg&key=f9b904b3d17a58e000fc3ebb5d978ba507a0449d1f0e7b8c2dbd857861206398

385 :
当時の農民の暮らし
https://blog.artron.net/space-957263-do-blog-id-1176568.html

漢代は高層建築を建てることが富裕層の間で流行っていたようで画像石を見ると後代では見られないような奇妙な造形が目立つ
http://www.twoeggz.com/news/9143772.html
https://detail.youzan.com/show/goods?alias=360dsdgwa3aps
http://www.guoxue.com/?p=23672

これは台榭といってまず凄く高い土壇を築きその周囲に廻廊状に屋根を巡らしているらしい

386 :
前漢代の金貨
https://en.wikipedia.org/wiki/Han_dynasty#/media/File:%E9%87%91%E9%A5%BC_%E6%B5%B7%E6%98%8F%E4%BE%AF%E5%9B%BD%E9%81%97%E5%9D%80.JPG

https://en.wikipedia.org/wiki/Han_dynasty#/media/File:Warring_States_or_Western_Han_crossbow.jpg
脱穀具
https://en.wikipedia.org/wiki/Han_dynasty#/media/File:Winnowing_machine_and_tilt_hammer.JPG
地震計
https://en.wikipedia.org/wiki/Han_dynasty#/media/File:EastHanSeismograph.JPG
宴会の様子
https://en.wikipedia.org/wiki/Han_dynasty#/media/File:Mural_Painting_of_a_Banquet_Scene_from_the_Han_Dynasty_Tomb_of_Ta-hu-t%27ing.jpg

387 :
>>384
人によって感性は違うと思うけど、漢代のものは原始人っぽい

388 :
>>387
漢代の庶民レベルの生活具の「素朴さ」ってのは、「原始人っぽい」のとはちょっと違うと思う。

これは、庶民の生活を支える生活具が「商業生産」されていない、ということを意味してるんじゃないかな。

つまり、都市エリートの生活は十分商業化され、そこに商品を供給する工業も発生しているが、
庶民の生活は十分貨幣経済化されておらず、生活に必要な物資の供給は商工業に依存していなくて、
前漢の段階では郷里制の共同体に属する職人、後漢の段階では豪族の荘園に属する職人が製造していた。

商工業の市場原理にさらされていたわけではないので、
商品としての洗練は見られない素朴な生活具を庶民は用いていたのであって、
それは決して「原始的」な生活というわけではなかったと思うんだが。

389 :
>>388承前

そういう意味で、庶民の生活具が十分に「商工業化」されて
市場原理での洗練の洗礼を十分に浴するようになるのは、
事実上、宋代になるんじゃないか?

390 :
>>387
これで原始人なら、奈良時代の日本でさえ類人猿みたいなものじゃね?

391 :
>>370

Aの時点では、銅銭による通貨発行益が得られていたのは明らか

そしてこの後、武帝さんの中の人が
信用貨幣の発行に踏み切るが挫折。
その後も数度の試みられるがいずれも失敗

王莽さんは金本位制を導入することでマネー供給量の増大を図るも
結局のとこ額面価値と金属価値の切り離しはできなかったため
市場へ供給されるマネーを増大させることに失敗した

392 :
奈良時代どころか江戸時代中期ですらこの水準に達していたか怪しいレベルだぞ

393 :
>>389
上流階級と都市という領域から、農村部まで貨幣経済と生活水準の平準化が進むのは、多分宋代だろうね

>>392
江戸中期の「東北と山間部を除く」日本の農村部は商品経済の発達に組み込まれ、生活水準も古代とは比較にならんぞ
「東北と山間部は除く」がな(2度目)

394 :
>>389
ふむぅ、、、

墟市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%9F%E5%B8%82

墟市(きょし)とは、草市(そうし)とも呼ばれ、晩唐以後の中国において、
地方の人口密集地や交通の要所に形成された小規模な定期市の事。
この動きの中心であった江南地域では主として「墟市」と呼ばれる事が多く、他の地域では「草市」などの様々な呼称があった。

律令制(あるいはそれ以前の)中国の市場は、
国家権力が認めた一定の区画(市)以外での商業活動は厳しく禁じられて、
国家による強い規制を受けていた(中国より商業に寛容であったと言われている日本においても、
平城京や平安京の東西両市もこのような思想の元に設置されている)。

ところが、晩唐期になると国内の秩序は崩壊して律令制も破綻をきたすようになった。
そのような中で生産力の高まりとともに余剰物資を生活必需品と交換するために
人口の密集地域や交通の要所において自然的に発生したのが墟市(草市)であった。

「墟市」という名前のように月に数回あるいは何日かに一度の割合で市が開催されるものの、
それ以外の日には文字通りの廃墟も同然の状態になったといわれている(なお、今日の中国においてもこうした形式の市場を「墟市」と呼ぶ場所もある)。
だが、後年には開催間隔が短縮され、中には恒常的に営業される市場も現れて小規模な都市に発展する場合もあった。

これに目をつけた有力な地主や商人の中には環境を整備して墟市(草市)を誘致して地代を得ようとする者もいた。
また、国家や地方権力の中には墟市(草市)の支配を目的として、墟市の安全確保を名目に鎮を設置する例も現れるようになる。
また、逆に取引の安全の確保のために逆に鎮に市が形成される事もあり、これらの鎮と結びついた市を鎮市(ちんし)と称した。
他にも有力な寺院の門前に開かれた廟市(びょうし)が開かれる事があったが、
一般的な墟市(草市)が生活必需品を主として扱っていたのに対して、
広くその名が知れ渡っている寺院の廟市には遠方からも商人が訪れて遠距離貿易・中継貿易の拠点となるケースが多かった。

395 :
>>393>>391

ふむぅ、、、
なんで塩は後々までこういうのなかったんだろう

交子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%90

交子(こうし)とは中国北宋代に四川地方で発行された紙幣。世界史上初の紙幣とされる。

概要

宋より前、唐代に堰坊という物があり、ここでは銭・金銀・布帛などを預かり、預り手形を発行していた。
この手形は他の地域において現物と同じ価値を持って支払いに使用することが出来、流通していた。
この堰坊は後に堕落して無頼者の集まる賭博場のごときものとなったが、
この手形発行の方式はここから広まって全国的な広がりを見せて、
交子・会子・関子などの手形が発行されており、交子の発行所は交子鋪と呼ばれた。

五代十国時代に於いては全中国的に商業活動が活発化しており、
主要な貨幣である銅銭の需要は非常に高かった。
しかし四川地方では銅の産出量が少なく、
需要を満たせなかったので当時四川を支配していた前蜀および後蜀政権では産出量の多かった鉄を使用して鉄銭を発行していた。
宋朝に代わった後も全国的に銅不足の状態が続き、
しかも西方に西夏などの新興の非漢民族政権が成立して四川がその勢力圏に近接するようになったため、
四川では引き続いて鉄銭の使用が強制された。

396 :
>>391
この時点でも布帛が活躍とありました
恒常的に通貨が不足してたのかなぁ
ローマとの差はどんな感じなんじゃろうか


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
均輸法きんゆほう

https://kotobank.jp/word/%E5%9D%87%E8%BC%B8%E6%B3%95-54546

中国、前漢の武帝時代の経済財政政策。
財貨の円滑な流通を目的とし、桑弘羊(そうこうよう)の立案と指導により、
紀元前115年から部分的に施行され、前110年から全面実施となった。

地方の郡県に均輸官を置き、中央には大司農(だいしのう)に均輸令を長官とする均輸があった。
商品価値のある地方の特産物を賦税にかえて納入させ、
国家はこれを他の地方に転売して物価の調整を実現し、
その利益は国庫の収入となる制度という理解が古典的解釈である。

しかしこの解釈には疑問もあって、均輸法の機能を尽くしているとはいえない。
均輸には賦税の運輸の負担を均平にする意味があったと考えられ、
また均輸法の実際の運営では布帛(ふはく)の強制的賦課とその均輸官への大量の集積があった事実が認められ、
制度の機能と運営の実体については不明の点が多い。[影山 剛]

397 :
>>396
ローマとの違いだけど、以前読んだ経済史の論文でこういうのがあった。

モンゴル時代より前、
中国を中心とした東ユーラシアでは銅銭ベースの少額決済システムは発達していたが、
高額決済システムが欠けていた。
しかし、
ヨーロッパやイスラーム圏といった西ユーラシアでは金貨・銀貨ベースの高額決済システムは発達していたが、
少額決済システムが未熟だった。

モンゴル帝国の経済政策とは、この両者の結合、つまり高額決済手段と少額決済手段が両方完備したシステム構築であった。

398 :
>>370>>391


すばらしく簡潔です
https://rekishinosekai.hatenablog.com/?page=1485375327

前漢・武帝J:運河 漕運/灌漑/治水
前漢・武帝I:算緡令・告緡令/均輸法・平準法/桑弘羊
前漢・武帝H:塩鉄専売/五銖銭と貨幣の中央政府独占発行
前漢・武帝G:第二期対匈奴攻戦
前漢・武帝F: 西域支配

399 :
>>390
弥生時代の日本の住居も、瓦を使ってないことを除けば、別に変わらんぞ?

400 :
ロシア語で金銭のことをジェニギと言うけど、モンゴル経由で入ってきた中国語の「銭」が語源だそうで。

ロシア語にはモンゴル起源の語彙はけっこう多い。モンゴルでは勅書を意味したヤルルィクも現代ロシア語に残ってる。意味は「小包の荷札」まで零落してるけどw

401 :
>>399
壁や柱と梁といった建築力学的な基礎技術からまるで違うわけだが……

402 :
古代ローマ軍の兵士たちの給料は共和制期から帝政期全般においては金貨や銀貨で支払われてきました。

しかし社会混乱と悪質な造幣により貨幣価値が暴落した西ローマ末期の時代には一時的に塩で支払われていた時期があるといわれています。

当時の人にとっても貴重な必需品だったため、塩でお給料を払うという行為が成立していたのです。

古代ギリシア人も、奴隷を買う際に塩で支払ったとされています。

奴隷の価値は同じ重さの塩と同等だったそうです。

人間の命と同じように扱われるほど、古代では貴重品だったことがわかります。(人間の命が軽く扱われていたともいえますが)


日本でも塩は物々交換にもつかわれてきました。塩を米や穀物と交換していたのです。



中国では、塩に重税をかけていた時代もありました。広い国土の割に塩の産地が少なかったために、国を支えるために重要な財源となっていました。

サラリーマンのサラリーはラテン語の「salarium」を語源にしているといわれています。

これは塩を購入するための手当てや、塩田や塩の輸送ルートを守ったりさせるための現金報酬を意味しています。

403 :
>>401
今でも、内陸部の農村なんか、原始人みたいな生活しているぞ?

404 :
>>397
アテナイ市民がどっぷり首まで浸かっていたというのは聞いておりましたが
ポンペイさんの中の人もどっぷりでございました、、、


http://www.vdgatta.com/note_coin.html

古代ローマの貨幣について考えてみたいと思います。貨幣価値については、意見がさまざまあると思いますが、
河島の感覚で、2007年現在の日本の貨幣価値に置き換えます。
 また、ローマにおける物の値段に関して、少しずつ情報を増やしていきたいと思います。
ローマ人の生活や経済活動などを垣間見ることができればと考えています。
 参考文献は一番下に掲載してあります。


ポンペイのある家族の場合

あるポンペイの家の5日間の買い物、特に指定の無い単位はアス
ポンペイが噴火によって壊滅したのは79年

古山『西洋古代資料集』 p.166: CIL(Corpus Inscriptionum Latinarum) IV 5380
計15アス 6日  チーズ 1、パン 8、オリーブ油 3、ぶどう酒 3  
計23アス 7日  パン 8、オリーブ油 5、玉ねぎ 5、1杯分 1、奴隷用のパン 2、ぶどう酒 2
計15アス 8日  パン 8、奴隷用のパン 4、カラス麦 3   
計28アス 9日  勝利のためのぶどう酒 1デーナーリウス(16アス)、パン 8、チーズ 2、ぶどう酒 2 
計59アス 10日  …1デーナーリウス、パン 2、女性のためのパン 8、小麦1デーナーリウス、きゅうり 1、ナツメヤシの実 1
 乳香 1、チーズ 2、ソーセージ 1、やわらかいチーズ 4、オリーブ油 7 

405 :
>>400
ドラゴンボールも「ゼニー」でしたが
これもモンゴル経由ですかね、、、

勅書が「小包の荷札」となったのはなんでなんだろ
もしかしてハンコもらうからなのかww

406 :
日本語の「ゼニ」とロシア語の「ジェニギ」の語源が同じだとは言われているな

あまり指摘する人がいないけど

407 :
>>403
中国は2016年に未電化人口ゼロを達成してるんだけど、君の脳内の原始人って電化製品使ってるの?w

408 :
>>406
両方とも、漢語の「銭」が語源なんだろうね。

案外、漢字の「訓読み」に採用されている「やまとことば」の語彙に、
漢字とセットではない口語で入ってきた漢語起源の語は多いように思える。

有名なのが「うま=馬」と「うめ=梅」だが、今ちょっと思い出せないが怪しいのがかなりいっぱいある。

409 :
>>397に追記だが
少額決済システムの未整備だったモンゴル帝国以前の西ユーラシアでは、
金貨銀貨を使うまでもない少額の小売り取引では、
それこそ布や塩などの現物との物々交換が主に行われていたんだと。

つまり、金貨銀貨の信用暴落していない貨幣が有効に機能している時代でも、
少額小売り取引で布や塩などの交換財が不可欠だったようなんだな。

410 :
>>405
変化の順序としては
1.ハーンの勅書
2.ハーンの意思をうけた国庫からの支給命令書
3.荷札
らしい。

2→3はまあわかりやすいとして、1から2の特殊な意味への変化は何か特殊な事情でもあったのかな?

411 :
>>409
まあ、金貨銀貨の場合は、貴金属としての価値が裏付けになっているからな

政府の信用が暴落しても、溶かして地金にすればいいだけ

金と元の朝廷が紙幣を乱発した反動で、明では銀貨が好まれた

412 :
>>411
明朝の銀貨ってのは、大元ウルスの反動ってわけでもないんだよな。

そもそも、大元ウルスを北方に追い払ったばかりの明朝前半期の時代というのは、
銀本位制を敷いていた大元ウルスにおいて経済規模に対する銀の不足で起きた経済大混乱の危機対応時代。
むしろ、紙幣と布などの現物決済が優先されて貨幣経済としては後退した時期。

この経済混乱期を脱して、日本やスペインから流入した銀で大元ウルス時代の銀決済が民間主導で復活し、
朝廷も民間の追認で銀決済に移行していったのは、明朝後半の現象。

413 :
>>397
前漢、唐でも金貨銀貨が使われてた史実を無視しちゃいかんよ

414 :
>>410

1と2のでちらにも
ハーンコが押してあったことは
想像に硬くないですね


>>408
銭がセントと同じ語源なんじゃないかと
怪しんでおります

415 :
>>402>>395>>391

塩はおいらの知る限りで塩はモンゴルからですね。
エジプトはさっさと小麦でやってるし
やっぱイノベーション的なものなんすかね
現在に繋がるやつもゴールドスミスの奴ですから

416 :
>>372
まぁ、銀が決済通貨に使われてる国と貿易したら
そうそうに銀が流出したことは
用意に想像がつきますなぁ

王莽さんはどうすれば良かったんだろうか、、、
重商主義というのはやっぱ必要なのか、どうなのか

417 :
>>416
もう、前漢の帝国性を支えていた在地の社会システムは雲散霧消している時代だし、
豪族の荘園システムはもうとても潰せる状態ではないし…

いずれは後漢的な豪族連合政権に移行せざるを得ない時代には来てたんだろう。

418 :
>>414
印欧比較言語学者が激怒しそうw

419 :
>ウムウムさん
なんでいつも自己レスにレスつけているの?

420 :
>>419
多数決合議性の自己学習人工無能なので
自分と会話していますね

421 :
>>370

白登山の戦い(はくとさんのたたかい)は、
紀元前200年に行われた匈奴と漢の戦いである。
白登の囲みともいう。

この結果、70年ぐらい匈奴への歳幣が続く

その後、武帝さんの中の人が出て
西域経営を始めるのだが
その前後でどっちの方がお金が流出したのだろうか、、、

422 :
>>421
関市ではしばしば遊牧民に超絶不利なレートで生活必需品の取引をしてるので
遊牧民に払った金を漢人側が盛大にボッて回収してる
匈奴側もそれを見越して歳幣を貰ってる感あり
プラマイで言うと多分微赤くらいなんじゃないかと推測してる

西域経営は大赤+人的資源の大喪失を起こしてるんで
負けるが勝ち状態じゃねーかなーとか思う、確証ないけどな

423 :
>>422
政府の営業成績的には
西域経営は大赤字だったでしょうが

中華の富は
増えたんだろうか
減ったんだろうか

そんでもってお金が無くなったのは
始める前と後でどっちなんだろうか

424 :
>>423
まあ、交易が活発化した隋唐ならともかく、武帝の頃は、良馬の確保が大きな目的だったわけだし

425 :
自動車やオートバイが生えてくる場所だったのか
三河や遠江地域をめぐる争奪戦のようなものかな

426 :
>>423
中華世界の銅銭貨幣は中華の外ではほとんど通用しないので、貨幣としての外への流出はないと思う。

確か歴代王朝での銅銭不足のひとつの原因として、銅銭として設定されている価値より、
青銅製の器具に鋳なおした物品の価値が高いために、
民間で銅銭をどんどん鋳つぶして道具に鋳なおしてしまう、という問題があったはず。

427 :
古代だからな

馬の調教技術は、当時としてはハイテクの領域

428 :
>>426
宋銭は、日本を含むアジア各地で広範に流通していた

429 :
>>428
あ、言い直すわ。
戦国〜秦漢帝国の時代の銅銭ね。
一応王莽の新の貨幣が弥生時代の日本に来ていた例はあるけど、当時はまだ中華の隣接世界で
貨幣経済が目覚めていない。

430 :
>>426
そこでいう中華世界とは、どこまでを指すんだ?
旧ビルマ、インドネシアあたりを含む東南アジアや、日本も含む中華帝国外の国々への銭の流出が問題になったのは
宋・明時代だけの話じゃないんだが

そこまでが中華世界だってんなら、まあその通りだが

431 :
>>428 >>430
おまえスレタイ読めないのかよ

432 :
いや、でもやっぱり俺の表現が舌足らずだったわ。
スレタイ別にして、時代限定宣言すべきだった。

でも、本格的に中華王朝版図の隣接地域が貨幣経済に突入して
中華銅銭受け入れるようになるのっていつからなんだろう。

日本の場合は真の意味で浸透するのは日宋貿易も後期以降だとわかるんだが。

433 :
>>429
中央アジアやモンゴルは勿論インドも未だ貨幣経済に入るかどうかの時期だからねw
>>426
額面に対する金属としての価値+銅銭の鋳造コストが75%前後

434 :
>>426>>433

おいらが知ってるのは
盗鋳が横行していたことなので
通貨発行益は十分あったはずということですね

あとは売官制度が流行る時代になると
金持ちの中の人の家に銭が死蔵されて
通貨としての流通が減って
もっぱら富の蓄積としての役割が増しちゃったはずです

435 :
>>426
ねーよ
貨幣は金属の値段+政府信用+政策的調整で価値は地金より高く設定されてるわ
歴代王朝共通の政策だぞ

何のために私鋳銭作って儲ける犯罪者とそれを取り締まる官僚が設定されてるのか知らんのか?

436 :
>>435
東アジアの銭貨はそういうものじゃないよ。
政府の信用とはほとんど関係なく、地金の価値とも最低限しか連動しない。
今で言えば仮想通貨のあり方に近い。
王朝が銭を発行した目的は民間の便宜を図る面が強くて発行益は限られていたから、
私鋳が厳しく取り締まられることも少なかった。

437 :
>>436
えっと悪いんだが出典聞いていいか?
何か言ってることおかしくねぇか?

438 :
>>437
おかしいというのはその通りで、東アジアの銭は西洋的な常識では理解しがたいところがある。
流通するから流通する、交換手段が必要だから流通する。
地域ごとに流通に関する謎のローカルルールが発達する。
金銀との相場は短期的な決済需要に大きく左右されて季節変動が激しい。
いろんな本に出てくる話。

439 :
日本では、わりと宋銭を潰して銅にするのが盛んだった

明の時代になっても、日本人は宋銭を要求することがあった

宋銭のほうが良貨だから

440 :
宋銭は、日本を含む東アジア各地で流通していたが、現代の米ドルと同じような意味で「基軸通貨」だったわけではない

それぞれの国のローカルルールで勝手に使われていた

441 :
>>438
王朝の権力の及ぶ領域の外はともかく内部ではちゃんとやってて
その統制が取れなくなると塩鉄の密売と銭の私鋳で経済が滅茶苦茶になって崩壊

って毎度のパターンだから言ってる事おかしいって話

442 :
毎度のパターンじゃ無いからな
鉄の専売なんて春秋〜前漢までしかやってない
銭の私鋳も南北朝まで、明の悪銭は地方政府の鋳銭した粗悪品

443 :
>>441
清の全盛期ですら私鋳は後を絶たなかった。それも先進地帯の方がひどい。
逆に辺境では兵士の給料を通じて制銭が豊富に供給されたおかげで私鋳銭は少なかった。
銭の流通が混乱したのは銭不足の時期で、
いったん不足が始まると良銭は退蔵されて悪銭ばかりが流通するようになる。

444 :
>>442
毎度でしょ

秦漢のスレで何言うてんの?

445 :
>>439
いやいや日本は銅を輸出して宋銭を買ってたのに
それをまた元の銅に戻すとか意味不明だぞ

446 :
>>445
日宋貿易、日元貿易の時代にはまだ銅の輸出は本格的に始まってない。
この時代の主要な輸出産品は硫黄と木材。
銅が本格的に輸出されるようになるのは日明貿易からだね。

輸入宋銭が大量に鋳つぶされた好例が鎌倉の大仏だよ。

447 :
鎌倉時代だと未だ自給自足物々交換の時代だし青銅器も使われて無いからな

448 :
日宋貿易で徐々に入り始めて通貨としての流通が始まった宋銭が日元貿易で
一気に大量流入して日本列島が本格的に貨幣経済に入るのが鎌倉時代後期な。

荘園公領制の秩序外でまわる経済が増大してきて、そういうのを背景に
反幕府的な活動をする武装組織(いわゆる悪党)が活発になってくる時代だ。

貨幣の流通とともに庶民が蓄財してそれを元手に荘園や国衙領の支配を抜けて
一揆結合に基づく村とか町を結成し始めるのも重要な動きとなる。

449 :
後漢時代はあんまり印象ないと思ったので
ウィキペディア先生を見ていたら
たしかに科学技術の発達が著しかったです

なにか時代背景的みたいなのあるのかなぁ
紙の発明ぐらいしか説明できる要素を思いつかないですね

450 :
>>449
後漢時代というと、新石器時代以来の邑制社会の根っこにある郷里制の共同体が
豪族の成長に侵食されて解体してしまった時代。

こういう基礎共同体の解体の時代というのは、庶民目線だと互助的な扶助団体を失う事なので
非常にしんどい時代なんだが、別の見方をすると、共同体の縛りから社会が解放されて
ある種の「自由競争」が到来した時代ともみなすことができる。

豪族、というのも見方を変えると、「自由競争時代」の新進の起業家群とも見ることができるわけで、
こうした豪族の経営組織の中で新規技術が次々に生まれた可能性がある。

451 :
>>450
かといって在野の人材が
地方で活躍する感じでもないんですよね

なんか中央にひっぱってくる仕組みみたいなのあったんだろうか、、、
あとは儒教との関係性も気になりますね

452 :
>>450
国衙料も荘園も残忍酷薄な重税労役に堪えかねた百姓に由る
仏教寺院への亡命や寄進、暴力団の横領が広い地域で進行したものの、一揆惣村は地域的に限られた現象

453 :
>>452
むしろ、日本の国衙領や荘園ってのが、暴力団的な「富豪之輩」と呼ばれる新興経営者による
在地社会の実効支配を追認したシステムだよ。

で、国衙領や荘園(後期荘園)による「荘園公領制」というのが成長したのは10〜11世紀。

それに支配された民が貨幣経済を背景に蓄財して「村」や「町(ちょう)」を形成し始めるのは
14世紀末で、全然時代が違う。

だから、鎌倉〜室町初期の武家の所領は国衙領の郡・郷・保や荘園単位だが、
戦国期にそういう所領の単位がどんどん崩れていって、最終的に織豊期〜江戸期には
武家の所領が全部、村・町単位に変貌してしまう。

454 :
国津神系の地方領主層が天皇朝廷に粛清され滅ぼされ尽くしたのが8〜9世紀で
新興の貴種暴力団が代わって農奴制支配を広げたのが9〜11世紀
それ等の暴政に因る餓死者が続出して百姓が寺院へ駆け込む時代が10〜13世紀
惣村は畿内近縁に限定的な現象、武家が多少まともに成っていくのも室町時代

455 :
後漢は、明の後期と並んで、人口が増えた時代のひとつだろう

もちろん、18世紀以降は別扱いで

456 :
>>454
そもそも、日本の9世紀までの地方の有力者層は伝統的な共同体からの規制を大きく受けている首長層で、
いわゆる封建的な意味での領主ではない。

それに、武力的に粛清されるどころか、律令制の運用そのものが彼ら地方の首長制共同体に深く依存していた。
例えば、地方に派遣される令制国の国司は、これら地方首長にあいさつ回りをして戸籍を取りまとめてもらったり、
徴税の実務なんかも彼らに丸投げ。

彼らの没落要因は、かなり複雑な共倒れ現象で、私の見たところ、歴史学的にも十分解明されたとはいいがたい状態。

10世紀に地方首長層が没落するのに合わせて台頭した「富豪之輩」にしても、貴種もいれば在地の富裕層から
成長した者もいて、きわめて多様な出自から成長している。

惣村としての組織がしっかりしたものが先進的に発達したのは確かに畿内近国だが、東国や九州でも「村」は
形成されている。

457 :
>>451
日本の場合、中央政権を構成する集団に出自する者がどんどの地方に拡散して土着していって
地方の有力者から中央に登用されるってのが稀なんだけど、

中国の場合、地方で有力者になった者が中央に吸い取られて中央政権の構成要素に組み込まれていく、
というパターンが優越している。

後漢の豪族層にしても、中央政権にコミットすることで在地の権力を強固にしている印象がある。

458 :
水滸伝では、梁山泊で旗揚げした無頼漢たちが、アッサリと朝廷に投降して、今度は官軍となって方臘の乱の討伐に向かったりする

日本人にとっては違和感ありまくりの展開だけど、中国人にとっては別におかしくない

地方が中央に組み込まれるプロセスってのは、そんなもんだった

459 :
源氏も平氏も、出自は天皇家

彼らが全国各地、とくに関東で在野の武士となった

460 :
古代中国では、地方の豪族の土地所有のスケールが違ったということだろう

「大陸は広いから」の一言では片付けられない

同じ大帝国でも、西ローマ帝国の地主はトンデモない規模で土地を所有していたが、東ローマ帝国ではそれほどでもなかった

461 :
そりゃギリシアわ丘陵の間間に平坦地が散在してるからね
>>456
共倒れ現象なんかじゃ無く
天皇朝廷が積極的に国津神系地方領主を様々な謀略や戦闘で殺してる

462 :
なんだ、「わ」さんか。

話が通じんわけだ。

463 :
>>419
既においらが誰と話しているのか
さっぱりわからんのですが
皆さんのレスは誰と話しているのですか?

464 :
>>457>>450

ここで書いてることは
秦〜前漢〜後漢でなぜ後漢時代に
科学技術が発展したかを
説明してないような気がするんですよね

共同体が崩壊すると自由競争が起きる
というのもピンとこないです

465 :
>>464
そりゃ因果関係逆だしねぇ

社会の流動性が高まる要因が出来て、共同体が崩壊して行くのならありえるけど
再起にいきなり共同体が崩壊してから流動性が高まる、というのは本来ありえない

外的な攻撃で共同体が崩壊して、みたいなことならまあありえるけど後漢には当てはまらないし

466 :
後漢の社会変動は、長期安定で人口が増えたのが根本原因だろう

漢・唐・明・清と、みんな長期王朝の後半で大きな社会変動が起きている

467 :
乱世は乱世で、人口減少による社会変動が起きるんだが(笑)

468 :
>>467
それ、因果関係が逆の可能性

469 :
この時代
道を作った話は聞くのだが
運河はあんまり作らなかったのかな?

おいらが今思いつくのは曹操さんの中の人のやつだけですね

470 :
まあ、大運河ってのは基本的に、江南の物資を開封や北京に運ぶためにあるわけだから

秦漢時代は、まだ江南が未開発であり、運河のニーズも低かった

471 :
秦だと鄭国渠が有名だけど、唐や元のと比べたらスケール小さい

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6a/Zhengguo_Canal_Map_zh.png/200px-Zhengguo_Canal_Map_zh.png

472 :
鄭国は、韓が秦の財政を浪費させるために送り込んだスパイだった・・・という伝説は、本当だったか?

473 :
>>471>>472
おお、これは
おいらもエピソードだけ聞いたことありますね

先生によりますと
「鄭国渠は古代中国の3大水利施設のひとつ(他は都江堰、霊渠)と呼ばれる[6]。」

このうち霊渠は輸送目的っぽいですな


概要
揚子江の支流・湘江と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河。
紀元前221年に建造開始、紀元前214年に完成。36の水門で水位を調節するという高度な技術が施された灌漑施設である。
全長33.1キロメートル、西にある漓江と繋がり海まで到達している。南越征服のために始皇帝が築いた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Lingqu_Canal_map.jpg/957px-Lingqu_Canal_map.jpg

474 :
>>473
地図は見てもさっぱりわからんのですが
ここにある説明をみると、だいたいどうなってるのかわかりますね

http://www.geocities.jp/shokatusei/QinShihuang/59.html

  B.C.214年――――――――――――
  始皇帝は、郡守の史 禄に命じて「霊渠」を建設させた。 長江(揚子江)から洞庭湖に入り、
長沙を過ぎて湘 江をさかのぽった地点が霊渠であり、
これを抜けると桂林へ出 て桂江を下り、西江・珠江を通って中国南海岸にまで達する。

  船は北渠から海洋河へ入り、そこで方向を転じて南渠に入る。
湘江のに上流の海洋河は洪水の流勢が強いため、錘嘴と呼 ばれる、石を鋤の形に組み合わせた水制工によって北渠と南渠 に分流させる。
さらに洪水流が南・北渠に乱入して水路を損 壊しないように、大大平・小天平と名づけられた溢水堤を設 け、
湘江の古い河筋に溢水を流すように設計された。

運河部分の長さは約24キロ、水路の幅は約五メートルで、深 さはそれほどなかったが、
32ヵ所の水門で水を塞き 上げて、船が通過できるだけの水位を確保した。

  霊渠の完成によって、始皇帝は兵士ならびに武器・糧秣を自 由に南へ送り込むことができるようになり、
中国南部一帯から さらに現在のベトナム北部までを支配下においた。

475 :
>>469

前漢・武帝J:運河 漕運/灌漑/治水
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/zenkan-butei-keizai3-unga

太田幸男氏*1によれば、武帝の時代に大規模な運河がいくつも作られた。
治水・灌漑・漕運の3つの目的を兼ねたものが多かったとのこと。約3000字。

まずは黄河の地図
漕運
灌漑
治水

前132年 黄河、大氾濫。以後二十数年にわたり修復できず。
前126年 漕渠開通。
前109年 前132年に決壊した場所をようやく修復する。
前95年  白渠開通。

476 :
平行運河まっすぐになってますね
勾配は大丈夫だったんでしょうか、、、


>>475

漕運

漕運とは船を使って物資を運搬すること。
前述の太田氏*3によれば、漕運は武帝の時代からいちだんとその必要性が増した。
理由は塩鉄専売と均輸法・平準法の大量の物資輸送の国家事業のためだ。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/r/rekisi2100/20170125/20170125111106.png

長安と山東(?山こうざん以東の地。現在の河南省西武より東の地)を結ぶ輸送はおもに黄河と渭水が利用された。
しかし、急流な黄河を遡ることの困難さとともに、砥柱の険と呼ばれる三門峡付近の難所が漕運を苦しめた。
したがって陸送も併用されることが多かった。

渭水の遡行にも困難が多かったが、南方に渭水と並行する運河の開鑿が鄭当時によって提案され、
武帝が認めて三年間に及ぶ大工事がおこなわれ、前126年に開通した。
漕渠(そうきょ)と呼ばれるこの運河によって、航行期間を半減させることができた。

477 :
現代の黄河は水が涸れかけているが、古代には水量が豊富だったという話だからな

478 :
秦漢の運河は、山東の物資を長安に運ぶためにあるんだな

流れが荒い黄河を補完するものだ

479 :
>>469>>470

秦代に嶺南地域と中華が運河で接続し
中華世界の南範囲が拡大

おかげで様でおっぱい姉妹とも会えたということですかね

480 :
>>476

塩鉄専売と
均輸法・平準法で
物資輸送はホントに増えたんだろうか、、、

481 :
>>402
奴隷の価値が同じ重さの塩と同等かぁ
面白いね

日本人男性の平均体重が61.7kg
業務用の塩25kgが通販で1200円から3000円
単純計算で奴隷1人が
3000円〜8000円
まあ妥当なとこだなw

482 :
>>481
当時の奴隷は、いまでいう家や車みたいな高額商品

483 :
>>481
現代の塩は価値が下がりすぎていて
貨幣として機能は失われてしまってますね

484 :
塩は明清まで価値を政府の重要な収入源だったが、鉄はコモディティ化が早かったな

485 :
黄土は固くて、耕作には鉄製農具が欠かせなかった

漢の政府は鉄の専売をやってたから、農民がみんな同じ官製農具を使う人民公社みたいな状態になった

486 :
漢の官製農具は品質が悪くて
みんなむっちゃ切れてた
みたいな話を聞いた記憶があります

切れるのか切れないのか、どっちなんだww

487 :
>>480
官営なんて非効率に違いないよなぁ?

488 :
漢以降の王朝時代の中国の専売制には戦国時代に成立したシステムの背景があるみたいだね。

日本の村なんかだと、地域で自給自足的にやっていく上で必要な天然資源を
入会地の里山みたいな形で自治単位ごとに確保して管理してきた。
ところが、中国では都市国家時代の春秋期から領域国家時代の戦国期への変遷の過程で
そういうシステムをぶっ壊してしまったみたい。

つまり、地域の自治単位ごとに持っていたそういう天然資源を採取できる入会地みたいなのを
全部潰させて農地に替えさせてしまった。
そして、中央政府の管理する大規模な「山林叢沢」からの供給に依存させるように
してしまった。

だから、漢族の地域社会には、今でも天然資源の適切な管理の思想が欠けている。
中央政府の力で強力に規制しなければ、植林してもすぐに地域住民が伐採して
燃料にしてしまう。

489 :
>>488
まあ、2010年代に入ってからの話ではあるんだが
中国本土の緑化が予想を上回る規模で進行中、とのアメリカの研究機関のレポートがある

490 :
中国の緑化とは?

森林面積が増えているという中国。まぁ、植林はしています。造林面積は増えているのは事実でしょう。
でも、100年、200年の森作りをしているかと言えばNoです。
見かけだけの、緑化の意味を考えていない森作りが行われています。
人の虚栄心を満たすための緑化です。

雲南省や河南省を初め、岩場や墓場の石に緑のペンキで緑化した話がありました。

中国の現場では、緑化=常緑と理解しています。常に、冬でも緑でないといけないと。

半乾燥地の水条件の厳しいところで常緑針葉樹を植えています。そして常緑針葉樹を維持ずる為に潅漑設備を設置して水やりを行います。
パイプを引いて、川の水をポンプアップしたり、地下水をくみ上げています。
今の経済状況であれば、金さえかければOKということでしょう。でも、私から見れば生命維持装置を付けたままの植林です。

http://www.kikori.org/god/main-17.html

491 :
無意味に杉を植林為捲って土砂崩れや花粉症の元凶を生み出してる日本人が言えた立場じゃ無いな

492 :
>>491
なぜ、そこで日本が出てくる?

493 :
>>492
>>490が引用した発言者が、そして我々が日本人だからじゃね?

494 :
>>482
「塩鉄論」とか読めばわかるが貴族の奴隷>>>>>>>>>>>>>>木端役人>>>>>>>>>>一般庶民だからな

495 :
>>494
メソポタミアやエジプト、ペルシア、中国もそうだけど、古代世界の多くの地域では、
奴隷は権力者や富裕層の子飼いの家来。

自前の自治的な社会集団を背景にしていない分、奴隷主に忠誠を誓わねば生きていけないからこそ、
主人にしてみれば裏切りを心配しなくて済む最も信用のおける家来たり得た。

奴隷が生産労働の中枢を担っていた古典古代のギリシアやローマ、中世アッバース朝のザンジュ農場、
近代の北米綿花生産地や中南米サトウキビ生産地が異常。

496 :
>>493
まあ、そうだろうな

でも、中国のような宣伝合戦の伝統を持つ国の公式発表を、そのまま鵜呑みにするよりは良い

497 :
>>488
「山林叢沢」から税金とる話があったっんでしたっけ
確か武帝さんだったかと思いますが

あと船舶税は取りっぱぐれ無くて良さそうですけど
洋の東西を問わず反発が強いですね

498 :
>>497
戦国期の領域国家では「山林叢沢」以外に木材などの天然資源のロクな供給場所が
なくなってしまうみたいで、しかも国家の国力の源泉が「山林叢沢」になるらしいので、
多分、民への天然資源供給を通じて民間の富を吸い上げるなんらかの方策を講じていてのは
間違いないと思う。

木材なんかの専売制があればわかりやすいんだけど。

499 :
木材の専売制が労力に全く見合わ無い事位少し考えれば解る

500 :
>>497>>498

ちらっと探してるときに
だんだん思い出してきましたが
おいらの当てにならない記憶では

漢の財政には二種類あって
皇室に属するものと
国庫に属するものと
別々の課税源から収入が入るようになってたような

501 :
>>500
そうそう。

そして、時代が下るにつれて後者が縮小して前者が拡大の一途をたどるの。

502 :
ということは、皇帝の権力が増大したということか?

503 :
もしかすると、「劉邦と仲間たち」の延長線上の政権集団から
皇帝の権力がいちぬけしていって専制化の道をたどっているのかもね。

それでも後漢期には皇帝の専制権力は有名無実化して「豪族連合政権」になってしまうんだが。

504 :
皇室に属するものと > 内朝
国庫に属するものと> 外朝

だね。ローマ帝国も皇室と国庫がわかれていて、皇室官吏が帝国官僚に発展した。
絶対主義時代のヨーロッパでも王家の家産役人が国家官僚化した。
現安倍政権でも内朝(官房と内閣府)が肥大化し、外朝(官庁)の領域を蚕食している

いつの時代でも普遍的に見られる傾向

505 :
>>504
面白いのは「内朝」の構成。

漢代には皇帝の私的スタッフで内朝が構成されていたことから、それを背景に宦官と外戚の専横と抗争が拡大していく。

これが北方種族の浸透王朝である北朝になると、征服者たる鮮卑の貴族エリート層の合議機関が内朝を構成する。
この場合の「外朝」は漢人実務官僚の事務機関的なポジションになる。

隋唐帝国でも鮮卑武人の中のさらに武川鎮軍閥系の「関隴集団」の合議体制が政権の中枢を占めるわけだが、
今度は皇帝がこの政権担当集団からいちぬけした専制権力を手にしようと漢人科挙官僚を私的スタッフのような形で
抱え込んで、門閥貴族層を排除していこうとする。

506 :
>>505
王朝中期以降に、王家を支えていた特権貴族層と王権が対立を始め、王権がそれらの外の勢力と組んで対抗するって構図は洋の東西を問わずに普遍的に存在するよね
中世欧州における都市と商人、近世フランスや英国のブルジョワジーと王家との癒着とか枚挙に暇がない

507 :
>>505
まるでたまねぎ

508 :
>>507
この「たまねぎ」の構造を腑分けしていくのが、歴史を学ぶ醍醐味。

509 :
>>500
もともと前漢の頃の財政だと皇室財産と国家財政の区分がなかった
だから国中から集められた税は一旦すべて皇帝の懐に入った後に分配されるという方法をとっていた

それを例えば武帝の頃に年少の者が納める人頭税二十銭を皇帝を経由せずすべて軍事費に充てるということにしたり
皇帝のポケットマネーを切り崩す方向に進んでいき徐々に国家財政というものが出来上がっていった

510 :
>>505
まず武川鎮軍閥=鮮卑武人(軍戸のことをさしてるのか?)ってのが先ず間違ってるぞ
例えば宇文泰、独孤信は系で賀抜岳は高車だし、軍閥のトップの爾朱栄も鮮卑じゃない
で関隴集団というもっと広い範囲で見てくると李弼、高昂、趙貴、王雄、李遠、蘇綽、楊愔、祖挺、裴協、
盧弁 、などなど漢人系も相当多い

511 :
>>510
それを言い出したら、13世紀のモンゴル帝国の政権中枢を担った「モンゴル」という軍事集団だって、
純モンゴル部出身者は一部だけで、テュルク系の諸部族だとか漢人軍閥なんかもかなりの規模で組み込まれている。

要するに、拓跋鮮卑部族連合体出身者を中核に結集した軍事集団、という意味だよ。

512 :
だからその武川鎮軍閥が拓跋鮮卑部族ってのまず間違ってる
武川鎮軍閥の立役者の爾朱栄は契胡族で、その軍閥を引き継いで東西に分かれて争った宇文泰と高歓はそれぞれ匈奴と漢人で
鮮卑系はトップについてないわな
関隴集団は士大夫や遊侠の徒などなど雑多な出自の混成集団で武川鎮軍閥以外のものも含まれる

鮮卑族を中心に構成されていた兵戸とか軍人と言われていた層は非鮮卑でも刑罰として編入されたり
あるいは降伏せずに戦死した兵戸の家族が兵戸から解放されたりほぼ戦闘奴隷と言ってもいい連中で決して国の中枢になれるような連中じゃない
特に多いのが軍閥と兵戸層をごっちゃにしてる奴だけどこれって日本史で言うと御家人と所従を武士で一括りにするようなものだぞ

513 :
>>504
おいらも内容は帝政ローマを思い出したんですが
ローマは担当属州による
地域で別けてるんじゃないかと思うんですよね

だから課税ベースで分割してるのをみかけたとき
おもしろいと思ったような記憶がございます

514 :
>>512

高氏は漢化した鮮卑だぞ?

515 :
そもそも拓跋鮮卑って連合体そのものが鮮卑拓跋氏を軸に匈奴やら様々な出自の
グループを寄せ集めて成立したものだと思うのだが。

だからこそ、東洋の拓跋鮮卑が西洋のサリ系フランク族と好対比で語られるわけで。

ちなみに、サリ系フランク族もローマ軍への奉仕部隊に参加した群小ゲルマン系部族
を軸に、ガロローマン系を含めて様々な出自の戦士の寄せ集まった戦士団が
もとになって成立している。

516 :
>>514
それよく目にするけど実際は逆で鮮卑化した漢人だぞ
本貫は渤海高氏で祖父の高謐の代に六鎮送りになったのだからわりと新参

517 :
>>513
多くの皇帝領で有名なアフリカ・プロコンスラリス州は元老院属州だね

518 :
G番がどこに入ってどう展開したのかイマイチわかりません、、、
ちなみに豪族というのも、よくわかりません

>>238
@秦の郡県制

A藩閥政治?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2
高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、
秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。
しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、
反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、
それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。

B前漢の郡国制

>>239>>85
C諸侯王の改易

D皇帝の専制

D王莽さん革命

E後漢の成立

>>339>>505
F宦官と外戚の専横

>>376>>457
G豪族の台頭と豪族連合政権

519 :
>>516
そりゃよく見るだろうけど
だって後の北斉で皇帝になった時に高氏は元々鮮卑で
漢姓を名乗りましたーって記録残してんだから当り前やw

520 :
>>518
それろくすっぽ史料読んでない奴が書いてるぞ
まず長安城を造営したのも秦法にもとづいて官制を整備したのは蕭何の独断専行だし
韓信を粛清したのも呂后と蕭何で劉邦は関与してない
劉邦自身は都城も定めず法もいわゆる法三章を発布しただけで漢帝国の存続とかあまり考えてない
そこまで用意周到な性格だったらまず蕭何が真っ先に粛清されてただろうな

>>519
どこにそんなことが書いてあるんだ?
「北齊書」第一卷 補帝紀第一 神武帝 高歡上
斉の高祖、神武皇帝は姓は高、名は歓、字は賀六渾。渤海蓚県の人なり。六世祖の隠は晋の玄菟太守であり、隠から慶が生まれ、慶からは泰が生まれ,泰からは湖が生まれた。
三代に渡って慕容氏に出仕するも、慕容宝が敗れるに及んで、国乱れ、湖は衆を率いて魏に帰順し右将軍となった。
湖から四子が生じたが、第三子が謐である。魏に仕え侍御史の位に至るも、坐法によって懷朔鎮に移り住んだ。

521 :
>>520
蕭何さんはどういう権限で
高祖さんの中の人を通さず
権力を行使したのですか?

そうすると、@Aの間に功臣の専横があったということですね

522 :
高歓は鮮卑化漢人だけど韓信の粛清わどう判断しても劉邦主導

523 :
>>522
お前、そうやって自説を言い張り続ける習性はそろそろなんとかならんの?

524 :
>>521
蕭何の活躍した時代はまだ漢の朝廷というのは「劉邦と仲間たち」の集団指導体制の性格から抜け切れていなくて、
それから何代もかけて皇帝専制が確立していく、という風に見た方がいいんじゃないかな。

525 :
>>521
韓信や彭越の処刑わ呂后の独断
粛清の前段階わ高祖主導

526 :
>>523
「わ」の中の人はそっとしておいてください。

527 :
こっちで暴れてるのは「わ」さんなのな。

歴史系のまとめブログ系だと「江戸時代暗黒」さんってのの暴れっぷりが「わ」さん以上にすごい。

528 :
あわのお風呂わバブルスター

529 :
>>524
おいら個人の見解としては
集団指導体制はとらなくて権限を分割して
法律関係は蕭何さんに○投げしたんだと思ってますね

530 :
>>524
皇帝専制と言えるのは、武帝のときだけじゃないかな?

531 :
明では、引きこもりの無能皇帝でも、その気になればいつでも大臣を罷免できるほど皇帝は絶対的な存在になった

これは近世の絶対王政なんであって、古代社会ではそんなの無理

532 :
皇帝が好き勝手言えない皇帝周囲の政権担当集団って、
前漢初期は「劉邦の仲間たち」とその子孫で、
後漢になると中央に完了を送り込むだけの実力を持った地方の大豪族、
となってくるんだけど、その間の端境期の状況がよくわからないんだな。

533 :
そもそも、「東洋の専制」ってのはギリシア人の偏見がそのまま古典を通して
西洋人の偏見に繰り越されているんだよな。

古代ギリシア人が専制体制の典型とみなしたアケメネス朝ペルシアでも、
政権コアはペルシア貴族とメディア貴族の集団指導体制で皇帝は好き勝手出来なかったし、
それに先行するアッシリア帝国でも、有力市民会議のアールムと有力市民から
毎年選出されるリンムって執政官がいるとか、なんだか後世のローマ帝国を
彷彿とさせる体制だったりする。

534 :
>>532
まず、呉楚七国の大乱があった

これは、高祖が封じた劉氏の王たちによる反乱だけど、室町幕府にとっての関東公方みたいなもので、身内なのにどうにもならない事実上の独立勢力

これに勝利したことによって、事実上は長安と洛陽あたりの地域に限られていた前漢の皇帝権力は、東に向かって大きく拡大した

535 :
モンゴル騎馬軍団が登場する以前のユーラシアの帝国じゃ、機動力がなさすぎて、広大な領域を統治するのは難しすぎた

火薬や鉄砲のない時代では、百姓どもが農具を振り回して暴れるのを正規軍が止められないこともよくあったし、武人でも少人数で移動したら命の保証はなかった

紙がないから文書行政にも限りがあるし、とにかく統治体制に無理が多い

古代の皇帝は、「覇者」とか「盟主」と呼ぶべき存在にすぎない

536 :
>>532
ぜったい劉邦さん
好き勝手いってると思うんですよねぇ
そうじゃないとおいらのイメージが崩れてしまいます

>>530
王莽さんの中の人は専制政治だったんじゃないでしょうか

537 :
武帝や光武帝みたいなカリスマ皇帝のときは、周囲は何も言えなかったでしょうな

538 :
>>537
そもそも漢の政権の体質を豪族連合政権になし崩ししたのが洪武帝だぞ。

539 :
武帝さんの中の人は
周囲がめっちゃいろいろと言ってたらしいですが、、、

それよりも後漢の豪族が
どうやって
いつごろ
なにを背景に
成立していったのかの方が気になりまする

540 :
>>539
漢代の豪族は、前漢の時代には政治体制を破壊する、制度外の新興勢力で取り締まり対象。
ところが前漢末期には手が付けられなくなってきていて王莽が潰そうとして大失敗。
結局後漢では政権を事実上乗っ取る。
魏晋南北朝の混乱期にはむしろ名門視されて貴族化。
ところが隋唐帝国では宮廷貴族化して在地性を喪失。
唐末〜五代十国時代の混乱で社会集団としてほぼ消滅

これが大雑把な「漢代豪族」とその後継者の歴史。

541 :
色々違うよ
豪族は元々前漢朝廷が取り込みを図って支配階級へ吸い上げた層
前漢晩期に成ると経済活動の進展で自作農を磨り潰しつつ巨大化
徐々に自己完結して分立傾向が高まるけど未だそこ迄の実力は無い

王莽は只の無能だし、豪族も後漢後期以降貴族化してずっと名門

542 :
みんな豪族豪族いってるけど
特別詳しい方はいらっしゃらないようなので
グーグル先生に聞いてみまする

おいらのイメージではエクイテスなんですが

543 :
春秋時代は 「鉄製農具」 や 「灌漑技術の進化」 などによって農業生産力が超アップ。
これによって広大な農地を所有する者が出現し、
秦・漢の時代になると、これらの 「大土地所有者」 は経済力・軍事力をバックに
官職をも独占するようになったのでした。彼らが 「豪族」。

つまり 「豪族」 とは秦・漢のころに登場した 「大土地所有者」 のコトでして、
周王朝から土地をもらった 「諸侯」 や、(春秋五覇が有名)
諸侯から土地をもらった 「大夫」。大夫の中でも上級家臣の 「卿」。
こういった連中は 「豪族」 とは呼ばないみたいですね。

544 :
山川の用語集には 「豪族」 について、こんな感じに書かれてます。

豪族 (頻度 9)
秦・漢以降、広大な土地と多くの奴婢・農民を支配下においた一族。
官職を独占し、経済的・社会的・軍事的影響力を持ち、地方の実力者となった。

545 :
春秋戦国時代には、まだ地主は成長途上だったんだな

秦漢になって、「大土地所有者」が中国社会に台頭してきた

土地だけでなく、政治力まで獲得したので、「豪族」と呼ばれるようになりました・・・てことか

546 :
この、春秋戦国時代から成長しはじめ、秦漢で「豪族」として台頭してきた大土地所有者が、六朝時代を経て門閥化し、隋唐では「貴族」として都に君臨する

それが、唐宋変革期に一気に没落して、皇帝と科挙官僚の時代になりました・・・大雑把にいえばこんな感じか

547 :
秦漢の「豪族」は、中央権力の統制が効かない、体制のラチ外にある勢力であった

それに比べて、同じ大土地所有者で地方有力者でも、明清の「郷紳」は、完全に体制の内側にある存在

いくら郷紳でも、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」と言われた

それくらい、郷紳の地位を維持するためには、朝廷から官職を賜ることが必須だった

548 :
漢の豪族は地方政府の枠内
郷紳に成ると行政が巨大化して天下り官僚的な中央政府と繋がった害悪に

549 :
明清は儒教国家で官僚国家

秦漢のほうが健全だ

550 :
そして唐明の制度を劣化パクりした武家王朝
腐敗汚職体質も財政権がバラバラなのも

551 :
>>449
王莽さんの中の人が
地方に学校を整備したらしい、、、

もうちょっと調べてみようと思います

552 :
>>542
そもしも後漢の成立時点で
地方豪族というもは
あんまり関係なかったらしい、、、

553 :
>>313
外交関係で兄として持ち上げるのは
修羅の国の掟なんでしょうかww

554 :
>>509
郡国制で諸王の地域は
中央に人頭税を納めていたらしいのだが
そうすると戸籍調査がどうなっていたのかが気になってまいります

555 :
>>552
豪族は、後漢の時代に台頭した

556 :
もちろん、それ以前にも地主はいたが、貧富の格差はまだ、たいしたことなかった

後漢時代の経済発展が、格差社会を生み出した

557 :
後で気力があったら整理してみるけど
豪族の発達と経済発展を一緒に扱ってる人も居ますね

マネーは減少したのかどうなのか
流通貨幣(金属貨幣)は減少したのか
それとも別要因があったのか
経済は発展したのかどうなのか


>>371>>376>>388
>>450>>457>>532

558 :
後漢時代は人口が増えたから、農地の開墾が盛んに行われ、小作人も増えたってことが、地主階級の成長につながったんじゃないかな?

559 :
後漢時代、政府による貨幣改鋳の記録はない
桓帝の時代、財政難とインフレーションを理由とした改鋳を上奏した人がいて
一回朝廷でも改鋳が検討されたが実際されなかった
理由の記録はなし

インフレが起こっていたということはつまり「市場に銭が増えていた」ということを示している
政府による改鋳が記録されない一方で
貨幣量の増加が資産や商品の増加の速度を上回る時に起こるインフレが記録されたということは
後漢を通じて私鋳が公然の秘密として行われていたことが推測される

560 :
>>554
後漢はそうそうに戸籍調査に失敗してた気がするけど
その後はどうなったんだろうか、、、


史記貨殖列伝の商品一覧(特記ない限り1000銭)
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/C015.htm

物価が載ってました
>>404

 ●たべもの
   ○穀物・果物・野菜 1鐘(124リットル)  ○酒 甕1個  ○酢・醤油 瓶1個  ○シロップ 大瓶1個
   ○牛・羊・豚の肉と皮 1匹分  ○干物 1鈞(7.8Kg)  ○棗・栗 3石(90Kg)
   ○こうじ・なっとう 1斗6升(5.5リットル)入りの瓶で1個  ○ふぐ・刀魚 1斤(260g) ○雑魚 1石(30Kg)
 ●布、皮
   ○しろぎぬ・きぬわた・細織りの麻布 1鈞(7.8Kg)  ○あや織りの絹 1匹(11m)
   ○榻布・皮革・子羊の皮衣・親羊の皮衣 1石(30Kg)  ○狐・テンの皮衣 1枚  ○絨毯 1枚
 ●道具など
   ○馬車 1台で1万銭  ○牛車 1台
   ○漆器 1個  ○銅器 1鈞(7.8Kg)  ○木器・鉄器 1石(30Kg)
 ●動物   ○馬 1頭5000銭  ○牛 1頭2000銭  ○羊・豚 1匹500銭
 ●奴隷   ○奴隷 1人1万銭
 ●香料など   ○ベニ・茜 1石(30Kg)  ○漆 1斗(3.5リットル)
 ●その他   ○薪・藁 車1台分  ○材木 1本  ○竹ざお 10本  ○動物の筋・角・丹沙 1斤(260g)

  穀とは、禾(あわ)、黍(きび)、稲、大麦、小麦、高梁(カオリャン)、麻など、主食となるもので、成人一人あたり1日に1〜2リットル必要だったそうです。 
1鐘(124リットル)は3ケ月分の主食になりますから、これを現代の3万円とすると、1銭=30円となります。 (白米80リットル=3万円)

561 :
私鋳とあと剪輪銭とか

562 :
令和は張衡由来か?

563 :
>>561
剪輪銭は董卓政権に入って後漢の統治機構がかなりぶっ壊れてからの銭で
後漢中後期までのインフレーションの理由としては考えられない

564 :
>>558
ここには人口増加すら
統計上のまやかしがあったと
記載されておりましたww


漢代人頭税の崩壞過程 : 特に算賦を中心として
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/148167/1/jor018_4_546.pdf

565 :
>>563
磨郭銭や剪輪銭は後漢晩期というのは発掘遺物からも想定されることはわかったが、
物価上昇圧力への金銀や布帛の貨幣化の影響はどうなのだろう

566 :
>>564
まあ、現代の中華人民共和国でさえ人口統計がイイカゲンなんだから、二千年前にしてはよくやったほうだろう

567 :
>>565
わからん
記録は銭と他の物品との比較で書かれているので
金銀や絹等を通貨とした時の物品の値段の変遷が全くわからない

ただ後漢末期に董卓五銖を発行した董卓本人は根城に大量に金銀を保有していた事から考えると
銭の価値は大幅下落しつつ他の資産の選好が起きていたという事はある程度推測が出来る

問題はその選好が後漢中後期からどう起こってたのか、
もしかして起こっていなかったのか、それとも上下動してたのか
ということは全くわからん

568 :
>>565
ここに載ってるのがベースですかね

後漢・三国時代貨幣史研究
古代から中世への展開
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180922163833.pdf?id=ART0007572672
P.72

インフレ対策として布帛の貨幣化が進行する経緯が書かれております。
あと金は王莽さんが本位貨幣に失敗した後に
銀錠が試みられたことも書かれてますね

569 :
>>564
その論文読んだけど、どこが統計上のまやかしなのかイマイチわからんかった

後漢で農民が豪族支配地に逃げ込み小作人化した分、人口把握ができなくなった、というのは
統計のまやかしというほどの話でもないような

570 :
>>569
おいらがどう思っているかは別として
地方官吏が大量に水増し申請したことになってますね

571 :
>>570
水増し申請の件か。現代の地方政府のGDP統計と同じで人口増加が
業績として評価さていたらしいから、この構図は2000年間変わっていないような

しかしそういう状況で政府把握の数値が和帝以降減少するというのだから、
役人たちも農民逃亡を隠しきれなかったということなのか

572 :
>>568
サンクス、その論文も読んだ、それによると布帛切替時に帰結したインフレの原因は貨幣供給量ではなく、
穀物不作による物価騰貴のようだね

573 :
>>563
後漢・三国時代貨幣史研究
古代から中世への展開
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180922163833.pdf?id=ART0007572672

を読んでいたところ、p76に董卓が発行した粗悪貨幣は剪輪銭の後継者にあたる、とでてきた。

晩期になって発掘遺構に剪輪銭が増大するのは、それまでは良貨しか退蔵されなかったが、
晩期になってほとんどの貨幣が悪化となってしまったので剪輪銭も退蔵されるようになった、
と考えることもできるのではないか、と思った

574 :
>>572
そう単純ではないということが述べられてますね

あえて単純化するならインフレとして認識されている内容は
銭の流通そのものに問題があったということになりますか

>>557
その上で経済発展とは
なにをもって発展というのかという
問題もでてきます

575 :
牛馬のように働く(銭換算)というのは
相当に難しいことがわかりますね、、、

>>560

 エピローグ
  元始5年(AD5)、王莽が第14代皇帝平帝を毒殺し、事実上前漢は滅亡しました。
  この間の五銖銭の鋳造高は280億余枚でした。 一見多いようですが、
当時の人口5960万人(AD2の戸籍調査)と比べると、一人あたり500枚にしかなりません。 まだまだ貨幣経済は発展途上時代です。
  上のいくつかの資料から、「五銖銭」1枚は、現代のおよそ30〜300円に相当するようです。
  その後「五銖銭」は後漢・六朝・南北朝・隋の歴代王朝に引き継がれ、唐の開元通宝(AD621)が発行されれるまでの間、東アジアの標準貨幣でした。

 奴隷の値段
  上の二つの資料に奴隷の値段が出ています。
    最初の資料では、 人=1万銭、馬=5000銭、牛=2000銭、羊・豚=500銭
    次の資料では、 人=1.5〜2万銭、馬=4000銭、牛=3000銭
  です。 非常に似かよっている数字なので、信頼できる数字だと思います。
  人の値段と、牛や馬の値段と比較してみてください。

576 :
>>573
ああ、確かにちょっと記憶違いをしていた

剪輪銭の前に質の落ちた五銖銭が増えてて
こちらは一応従来の五銖と大きさだけは一緒
五銖の品位下げて数を増やした銭が出回ったのが桓〜霊帝期

この後、剪輪銭が登場して董卓五銖が出て来るので
桓帝の時代に指摘されるインフレーションの原因はむしろこっちかもな

577 :
>>567

おそらく前漢時代から
穀物価格の変動に政府が悩まされていたであろうことは
均輸法・平準法が採用されたことからも
なんとなく想像できますね

結局のところ布帛が通貨として用いられることで
穀物価格の変動を緩和する形にはなりました

578 :
人口とはなんだろうか、、、

>>2>>334
>>455>>460>>466
>>558

とりあえず、前漢時代の方が人口多いから
後漢の社会情勢や技術発展を人口数に求めるのは
もっともらしい説明が必要になっちゃいますね

579 :
>>557

豪族後半戦

>>540>>541>>543
>>544>>545>>546
>>556

580 :
法律
政治
経済

1
2
3

581 :
>>557

いわゆる大豪族というのは
華南か華北にだけ集中してみられ
江南地域にも成立するのは
三国呉になってからということらしい


>>551

南方系出身の高級官吏は
前漢の11名から後漢では50名以上に大幅に増加してて
前漢では郡太守どまりだったのが
中央官庁の高級官僚もつとめるようになったとのこと

582 :
>>518
中国史漢代における「豪族」が何なのか理解するためには、中国史における地方在地社会の有力者層、
指導者層が時代によって大きく変質していることを理解しないといけない。

まず、一番古い時代の華北の在地社会の基本構造は「邑」という都市国家。
邑ごとに首長がいて、それを支える貴族層がいて、

583 :
すまん、誤爆した。

584 :
郡太守ってかなり高位だろ
更に昔の諸侯並だし

585 :
郡は100以上あったから、高官といっても地方知事クラス
中央政府の高官となれば各省庁の大臣くらいに相当するのだろう

その場合、中央官庁の高官は、三公+九卿で12名
ただし、仮に平均任期10年としても前漢で2400名、後漢で2100名が就任したことになる
(実際の平均任期は10年以下だろうから、もっと多いはず)

後漢で南方出身の高級官僚が10名→50名に増えたといっても本当に微々たる微増に過ぎない。
その数字に意味はないとまではいわないが、帝国全体の体質変化を語るほど大きな数字ではない

586 :
間違った
誤)前漢で2400名、後漢で2100名

正)前漢で240名、後漢で210名

この程度だと、11→50名に増えたというのは影響ありそう

でも平均任期5年なら、累計在任者数前漢480名、後漢420名くらいになるから、
50名程度はあまり大きな数字ではなくなる

当時の高官平均在任年数はどれくらいなのだろうか

587 :
>>557
まぁ、おいらのようなアホが考えるより
ここをみて休む方がいいです

http://zae06141.client.jp/otherhis_colum.html

588 :
個人サイトが悪いわけではないがごちゃごちゃしてると見るきをなくす

589 :
>>575
牛は足りなかったそうな

1)「代田法」という乾地農法
2)「代田法」採用の背景と意義
3)乾地農法・精耕細作・農本主義
https://www2.rku.ac.jp/hara/tokushujuly8.htm


2)「代田法」採用の背景と意義

「代田法」の記録は、この農法を試した場所では「縵田」よりも1畝当り1斛の増収があった、としている。
前回述べたように白渠流域で取られた灌漑方法は「引洪漫地」方式、であった。

中略

これも私見だが、「引洪漫地」耕地の再生アルカリ化現象は深刻になっており、早急に対応が必要だったと思われる。
再生アルカリ化した土地の再利用方式として有効なのは、ある意味では原始的だが、
ウネタテして、塩類の集積した部分の土を除け、塩分の無い溝の中に播種することなのである。

民国期の東北地区で取られていたその方法については、天野元之助博士の論文に詳しい。
春先のまだ芽がひ弱な段階をこうして乗り切れば、夏になるまでには雨が降り、畝に積み上げた塩類の混じった土から、塩分が地下に流れ去ってゆくのである。
ただし、「代田法」の場合、対処が必要なのは白渠流域の広大な面積であった。
手作業では追いつかない。犂を使う必要がある。ここに「代田法」は、開発されたのである。

590 :
>>551

小学の道 - 漢簡から見る漢代識字教育
http://museum.sinica.edu.tw/exhibition_detail.php?id=4&lang=ja-jp

敦煌および居延漢簡の中で、練習のため《蒼頡》、《急就》、九九、六甲を 抄写した大量な残簡や、
ほとんど完全無欠な毛筆一本を発見したことにより、
両漢中期から東漢明帝時期まで辺境にある兵士は、辺境防衛を機に初級レベルの教育を受けたことを証明されます。

I、字書
《蒼頡》
《急就》

II、毛筆と「習字留痕」
III、習字の簡
V、草書
VI、篆書
VII、六甲干支の簡
VIII、九九術

VII、六甲干支の簡

《漢書?食貨志》曰く、「八歳になれば小学に入り、六甲、五方、書、計の事を学ぶ」。
漢代の幼童は小学を学ぶ際、《蒼頡》、《急就》のほかに、六甲も習います。
六甲というのは、「甲」で始まる六つの干支表(すなわち甲子、甲戌、甲申、甲午、甲辰、甲寅)であり、
天干と地支をもって時と日を計算します。

干支の練習で使われる竹簡は、敦煌、居延と長沙東牌楼漢簡、およびイギリス国家図書館所蔵の削衣の中に発見され、
その書体の一部は篆書で、一部は篆、隸の中間にあります。

591 :
>>551>>590

>>449

おいらとしては結局のとこ小学校が大事で
識字率の向上と、メディアの発達で
科学技術に携わる人員が増えたという
仮説を提唱してみたいとこっすね

592 :
後漢時代の文化史や経済史って何を読んだらいいかわからない
後漢末になると三国志の影響でネットにも情報があふれているが
近年木簡とか大量に発見されているが後漢時代のものはあるのだろうか

593 :
キングダム上映記念アゲ

594 :
マンガ読んだことないのだが
おもしろいのだろうか、、、

ちらっと見かけたときは
ちゃんとアレで車輪を持ち上げてた気がします

595 :
車輪の実写みたい

596 :
悪女にされた趙姫。カワイソス。
https://youtu.be/Dt-MXULLyQs

597 :
>>596

車輪は映っておりませんでした、、、

これではロウアイさんの実力を
ほとんど表現できておりませんね

598 :
>>597
男のを見たくない。
見たいのは美女の。。。

599 :
人頭税っていうのは
社会にどんなバイアスをかけるんだろうか、、、

なんで少子化にならなかったんだろう

600 :
>>599
少子化までいかなくとも人口増加率は低いんじゃないか?
丁単位の課税から資産への課税に実質的に移るにつれて、人口も急増。
特に明清期は激増。

601 :
単純に古代じゃ土地余ってたというだけの話、技術の問題で

602 :
>>601
土地が余ってたら、
封建できないじゃん。
有限で希少でないものを給付されても
受ける側は全くありがたくない。

603 :
ロシアでは伝統的に土地は余ってて労働力が稀少だったので、「農奴○○人持ちの領主」と呼ぶのが普通だった。

604 :
>>603
労働力が稀少なら、労役が税として意味が大きくなるね。

605 :
西欧の中世史では、「ペストで人口が激減し、人手不足の売り手市場になったおかげで、小作人の地位が上がり、農奴から解放された」とされてるんだけどな

ロシアでは、なんで農奴の地位があんなに低かったんだろう?

606 :
奴隷が必要になったら、奴隷市場で買ってくるんじゃないか。
人手不足になったら、値段が上がるだけで、奴隷の地位には変化しないとか。

607 :
ロシアじゃ何処迄行ってもロシアだからな
古代中世の日本列島を何処迄行っても奴隷制国家なのと同じ

608 :
>>607
シナの科挙官僚の荘園だろ、農奴を使ってたのは

もっとも、その科挙官僚にしたって、皇帝の家産奴隷だったが

609 :
>>605
古典的な東欧史では西欧の発展により穀物不足となり輸出産業・穀物生産の為農業労働者の安定確保などが必要になり土地への緊縛が強くなり農民が農奴化した。
貨幣経済などの浸透により、西欧とちがい手工業やらに投資できないので、より高度な農奴管理となり加速する。

東部ドイツ、ポーランド、ロシアなど。

610 :
>>609
ロシアは西欧資本の導入による強引な工業化のために農奴をいきなり解放して工場労働者にしようとしたので、
それで農奴の生活保障すら失われて社会不安が増加、社会主義革命に向かう流れを創り出してしまったな。

611 :
アメリカは、アフリカから黒人を連れてきて奴隷にした

ロシアは、自国の国民を奴隷にして白人奴隷にした

612 :
秦朝では、宮刑(去勢)を宣告された男は宦官奴隷となり、兵馬俑のような計画の強制労働に従事した。
秦の政府は、強姦の罰として宮刑を受けた者の家族の財産を没収し奴隷とした。奴隷は家族と連絡を取る権利を奪われた。

三代、先秦、秦朝時代には、官奴(国の奴隷)と私属(個人の奴隷)の区別があった。奴隷は多くは戦争で発生し、敵の捕虜になった庶人や軍人は奴隷になる可能性があった。
犯人も奴隷に貶められ、反逆罪を犯した時は、全家族または全宗族が官奴にならなければならなかった。

613 :
漢の高祖劉邦の最初の行動の一つは、戦国時代に奴隷となった農業労働者を解放することだった。だが家内奴隷の地位はそのままだった。

漢代も宮刑を受けた男性は奴隷労働に使われた。初期法家思想の法より、漢朝も三年の重労働か宮刑を言い渡された犯罪者の家族は逮捕され政府の財産とされると規則を定めた。

漢朝では、奴隷の生産は主に耕地整理から形成された私属民からである。前漢の衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。

614 :
王莽は土地改革法の一環として、全ての奴隷制を廃止し、奴隷の取引を廃止した。

王朝があっけなく崩壊したことによって、両方は元の状態に戻った。

615 :
後漢末期では、戦乱を避けるために、大荘園主に投降して、私属民となるものがいた。 三国時代では、自由民と奴隷の中間状態が発展したが、1%を越えることはなかったとおもわれる。

後漢末・魏晋南北朝以来の貴族制下では、律令により賎民に区分された雑戸官戸や奴婢などの農奴と奴隷が政府や勢家の下に多く存在していた

616 :
秦漢帝国の特徴として、「奴隷制だった」というのが挙げられる

617 :
またネットの浅い知識を雑に継ぎ接ぎして知った蒙りしてるけど重大な複数の事実誤認が有るんだよね
徒三年は刑期中官奴とされる物だけど自宅から通ってもOKで只の懲役刑なんだよね。身分を奴隷に落とされる戦争捕虜や以っと重い刑罰と違って
日本国は未だに奴隷が10万人弱も居る奴隷制国家なんだよね

農奴わ総力戦時代の戦国期にわあまり居らず、漢代に土地の兼併に因って増加した
というか農業労働者わ奴隷じゃ無いし農作業奴隷わ家内奴隷と何も変わら無いんだよね

618 :
>>617
いや、別に知ったかぶりなんかしてない

>>612-615はWikipediaのコピペ
こんな知識ないわ

619 :
秦漢帝国の時代、特に前漢代までは古代の都市国家である邑制社会の残滓の郷里制共同体社会が
濃密に残っていて、農業の生産労働の主体はこの共同体によって担われていた。

奴隷や奴隷的な存在はいたが、決してそれが農業の生産労働の主体を占めていたわけではない。
秦漢帝国を奴隷制社会の帝国とみなすのは古代を奴隷制社会(奴隷が生産労働の主体を担う社会)
と定義したマルキシズムに引きずられた概念。

こういう古代的な共同体を束ねた社会が崩壊してくると、土地は人民に対して様々なレベルで
権利権限を持った様々な社団(身分団体)、例えば豪族の経営体とかそういうものが複雑に乱立してきて、
土地や人民に対する支配権限なんかも重層的に錯綜してくる。そういう中で社団に対する従属度の高い
農業労働者を「農奴」とみなしているに過ぎない。

620 :
>>619
>秦漢帝国を奴隷制社会の帝国とみなすのは古代を奴隷制社会(奴隷が生産労働の主体を担う社会)
と定義したマルキシズムに引きずられた概念。

そういうのはあるだろうな
秦漢帝国は古代だから奴隷制社会
隋唐帝国は中世だから農奴制の荘園

621 :
中国の民衆から見た社会体制わ
商王朝〜春秋期が奴隷制
戦国期〜後漢が身分制る
魏晋〜武周が貴族農奴制
盛唐〜五代が移行期
宋帝国〜が近世
元帝国〜が奴隷制、だね

622 :
>>619
>奴隷や奴隷的な存在はいたが、決してそれが農業の生産労働の主体を占めていたわけではない。
>秦漢帝国を奴隷制社会の帝国とみなすのは古代を奴隷制社会(奴隷が生産労働の主体を担う社会)
>と定義したマルキシズムに引きずられた概念。

滅茶苦茶な理屈やな
それなら漢の哀帝が諸侯や豪農の力を削ぐために奴婢の所有数を制限したのは何でや?
結局猛反発されて取り消しになったのは何でや?
豪族の財政基盤が奴隷制農業に他ならんからだろ

>権利権限を持った様々な社団(身分団体)、例えば豪族の経営体とかそういうものが複雑に乱立してきて、
>土地や人民に対する支配権限なんかも重層的に錯綜してくる。そういう中で社団に対する従属度の高い
>農業労働者を「農奴」とみなしているに過ぎない。

「社団」って何?言っとくけど中世日本の「土一揆」とか「惣村」みたいな自治体は
中国には古代から現代にいたるまで存在しないぞ
宋代の「天聖令」のだと佃戸は主人の憑由(証明書)が無ければ移動する事すら禁止されてるのだが
これを農奴じゃないと言い張るなら世界中どこにも農奴はいなかったことになるぞ

623 :
貴族が荘園に佃農を抱えてた唐代の律令を参考の為に書いてるんだから当たり前
佃戸わ農奴と違うんだよね

624 :
>>670
惣村は周代に在った、後漢末期〜三国時代にも在った
奴婢わ農奴な奴隷じゃ無く

625 :
>>622
哀帝の時代は、もう前漢も末期で邑制社会の残滓である郷里制の共同体が解体して
なし崩し的に豪族の荘園に社会が再編されている真っ最中の時代になる。
哀帝の奴婢制限策は、その再編を食い止めようとした抵抗策に他ならない。
前漢は郷里制共同体を郡県を通じて直接把握することを権力の源泉にしていたが、
それが崩壊してしまった後漢では事実上豪族連合政権に成り下がっている。

つまり、後漢以降の豪族連合政権的色彩が出てくる前の古代帝国的な「秦漢帝国」というのは、
豪族荘園における奴隷や農奴的な生産労働ではなく、邑制社会を再編した郷里制の共同体の
生産労働への依存がまだまだ強い。

この郷里制社会を破壊して成長してきた豪族の荘園経営では、様々な従属度の農業労働者が
いたわけで、最も従属度が高い者は事実上の奴隷であったろうし、より従属度の低い
農奴的な者、自由身分の小作人的な者までかなり格差があった。

626 :
また適当なこと書いてるな
そもそも古代中国では大土地所有家かさもなければ奴隷かで中間層が存在しなかった
「民」という字も原義は奴隷という意味だしな
春秋戦国から秦代も「史記」や「漢書」読めば分かる通り士大夫層かさもなきゃ奴婢のどちらか
で中間層と言える人々の記述がほとんどない

漢の哀帝の時代はようやく直系家族のみによって自立した自営農が現れ始めた時代で
また奴隷にしても豪族の家長はそれまで生殺与奪の権を握っていたのだが董仲舒が「去奴婢除専殺之権」を建議したのを
皮きりに奴婢に対する支配権も徐々に制限されていったと見られる

奴隷として売り買いの対象にはならないが土地に緊縛された農奴身分にあたる「佃戸」層があらわれたのは
もっと後の魏晋南北朝時代に入ってから

627 :
>>626
おい、そんなことを言い出したら、漢の高祖となった劉邦も「大土地所有家かさもなければ奴隷」
ってことになってしまうぞ。劉邦一家はどう考えても奴隷を使役していた大土地所有者じゃないだろ。

それに、商代・西周・春秋期の邑制社会では農地は邑共同体の共有地で大土地所有者なんて出現してないぞ。

628 :
奴隷のごとき身分から大将軍になった衛青。
かっけぇぜ。

大将軍になってもほとんど政治に口出すこともない。
曰く、
「人奴之生、得毋笞罵即足矣・・・」
人の奴隷の生活から、
笞(むち)うたれたり
罵(ののし)られたりが
毋(なく)なる状態を得れば、
即(すなわ)ち足(た)りる、
満足満足だそうな。
どんだけ悲惨な少年期だったんだ。

姉の衛子夫は身分の低い歌姫で、
武帝に献上されちゃったら、
寵愛されちゃって、
衛青の身分も上がり、
衛子夫や衛青が仕えていた武帝の姉と結婚。
かつての女主人を妻にしたんだぜ。
ドラマ化になるわけだ。

629 :
>>628
でも、部下にも庶民にも武帝にも愛されたのは、生まれた時から貴種だった甥の霍去病というのがなんとも

霍去病はその傲慢さすら、豪胆で大将たるにふさわしいと愛されたという

630 :
>>626
戦国期に入ると奴隷が大きく減り自営農が大きく増える
兵卒の供給源は奴隷じゃ無く農民なのだから当たり前の話
佃農が増えたのわ前後漢代

631 :
ということは、やはり、漢は古代の奴隷制

唐は中世の農奴制ってことだな?

632 :
宋では市民社会が実現しつつあった

明ではなぜか、国民皆奴隷制になったが

633 :
春秋期までが奴隷制、中唐の頃までが農奴制

634 :
>>627
>ってことになってしまうぞ。劉邦一家はどう考えても奴隷を使役していた大土地所有者じゃないだろ。
何言ってんの?亭長を務めたり徴発した百姓を咸陽まで送り届ける顔役やったのだから
どう見ても豪農の出でしょ
>それに、商代・西周・春秋期の邑制社会では農地は邑共同体の共有地で大土地所有者なんて出現してないぞ。
お前が「史記」すらろくに読んでないのはよくわかった
空想膨らます前にちくま新書でも良いから読んでからにしてくれ

635 :
>>634
春秋期ぐらいまでの社会の実相は、史記なんかの戦国以降の記録をベースにした古典とかなり乖離している
って話は、今の史学では常識になっているぞ。最近の金文文書や考古学史料をもとに執筆された歴史学論文、
ちゃんと読んでるか?

636 :
抑々>>634は史記読んで無いだろうし

637 :
戦国〜前漢前期わ身分制階級社会(近代〜現代日本の様な社会)
身分が大事で富わその次

638 :
>>637
いや、都市国家社会、邑制社会の神聖性を帯びた古代貴族層が解体して、
新興豪族層から名望家となって成長してきた魏晋南北朝期の中世貴族層が発生する前の、
いわば端境期が戦国〜前漢前期でしょ。

639 :
>>635
一体それはどこの誰が唱えてる説なんだ?
最新の部類に入る「中国古代家族史研究」でも秦漢代は奴隷制農場経営が広く一般的だったとされてるんだが

「睡虎地秦簡」に示される「封診式」では被疑者の奴隷を差し押さえる規定が示されている事や
秦漢代の戸籍を見ると戸主の所有している奴隷の名も一緒に記されている例が多いのは奴隷の所有や使役が一般的だった証だよな

640 :
>>639
>>635では邑制国家の時代まで遡っちゃったので、まずは秦〜前漢期に話を戻そう。
私が今まで読んできた論文や概説では、以下の論文のような認識が主流を占めているんだ。

飯田祥子(2004)「前半後半期における郡県民支配の変化―内郡・辺郡の分化から―」
https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6094&item_no=1&page_id=25&block_id=47

『中国古代国家における人民支配の特徴は、郡県の広範な小農民を対象に、
「個別人身的支配」と呼ばれる個人の把握・個人からの収奪に重点が置かれ
ている事であるとされる。このような支配形態は、春秋戦国時代の恒常的な
軍事緊張の結果、特に秦において、大多数の庶民を、農業生産と軍事義務の
両方に従事する「耕戦の士」とし、彼らを富国強兵の基盤とする体制から生
まれてきたものだと考えられる。』

ここでの「小農民」というのが大土地経営者とはとても思えないんだな。
また、前漢期に押し進められた屯田政策も、一般にこうした「小農民」の拡大再生産を
企図した、また、豪族抑制政策も、こうした「小農民」の広範に存在した状態の破壊を
食い止めるためと説明している論説が大半だ。

秦〜前漢期に広範に奴隷が農業労働に従事していたとすると、
それは大土地経営の農地なんかではなく、ヘシオドス期のギリシアのポリスの小農民が自ら
農耕に従事するのと同時に少数の奴隷も使役していたのだとか、
室町期の「百姓の家」で正統な百姓身分の家族成員に加えて、隷属的な農業労働者が
抱え込まれていた現象とか、そういうのと似ているんじゃないのか?

641 :
>>639
戦国・秦・前漢期の「郡県の小農民に対する個別人身的支配」が確立する前の
西周の社会を「奴隷制古代」という色眼鏡で見ることの危険性をはっきり主張している
論考にこういうのがある。

木村秀海(2012)「西周時代の身分制」
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=25800&item_no=1&page_id=30&block_id=84

『周知のように殷・西周時代の身分制についての身分制についての論考は多い。
専論以外に記述中に言及したものも多い。ただ、それは奴隷身分に偏っていると
いう傾向があったことは否めない。特に1950年代以降1980年代までの研究には
その傾向が著しい。これはこの頃の古代史家が中國古代に奴隷制時代を強いて
措定しようとしたことと無縁ではない。この傾向はなくなったわけではない。
今も残滓を引き摺っていることがある』

『西周時代を研究する場合、奴隷よりも、当時の社会基盤をなしていた庶人の
研究こそが重要であろう。庶人は主要な農業の従事者であり、軍事にも関わり、
社会全般がその行為によって支えられていた。庶人と田、庶人と徴税、庶人と
管制、庶人と兵役・徭役など、庶人と諸般の関係を明らかにしてはじめて西周
という王朝の性格や構造がわかると思う。』

642 :
>>638
古代貴族層は春秋期に解体され後漢代に中世貴族層が形成されたが
>>640の云う通り戦国〜前漢は国家の力が強い小自作農を中心とした身分制社会

643 :
>>642
おいっ!
>>638>>640は同一人物(つまり私)で、
対立どころかほぼ同じ主張を展開しているんだが。

644 :
次々壊スノ重死路レオパレス今モット上手ニ殺ッテルンダロダンパー問題ソノ他急速ヴェノム物件・銀行問題業界ゴト潰レル?ソノテイド利凍ル公害重イル?
虐待死刑スタッフ以外ニグループマイナス経常ケタチガイ万死葬災熱湯強烈今サラ薬害毒死多繋ガル看後死
1000件以上介護保険税金ムダ泥棒マダゴーン今環境殺ッテマス100オツムオムツ借金漬ケ棺桶型国家ハルマゲドン
森友ノロウイルス焼肉嘔吐虐待スイッチ押死耶手ゲローン戦争ソンポ部死テルン盗難
郡大老害山林焚書死テa麻薬王振戦違反重々ヤットストレス足ダシ若竹口爆発害ヤンキーノ種死ネ世
https://anago.2ch.sc/test/read.cgi/welfare/1443184621/

645 :
>>614

王莽さんは中の人に
理想の国家像的なプランありますよねぇ

それもネロ帝のような
ロマンが先行する夢見がちじゃないやつで

どちらの中の人も現実的じゃない部分は似てますが
王莽さんの政策はアメリカ大統領に近い気がします

646 :
>>600
やっぱ産児制限みたいなのはあったと思うんですよね

>>640>>641

そんでおいら的には

・土地所有と田畑租
・人口調査と人頭税

これの時代的な変遷は気になります

郡県制(州制)での公的な会計記録とか
そういうのは発見されてたりしないんでしょうかねぇ

647 :
ローマは15年周期の調査がはいったっぽいです
成人年齢は何処も似たようなものだから
だいたい似てくると思うんですよねぇ

インディクティオ(15年) - ローマ帝国での徴税額の査定更正周期

漢は年齢で超税額が変わってたと思います

ローマ市民が払うのは最初は兵役で
その後はどうなったんだろうか

648 :
>>646
木簡とか竹簡なんかが結構、出土してるね。
保存状態が良いのは砂漠とかお墓とか。
2002年に湖北省の古城で発見された里耶秦簡みたいな大量の秦の行政文書もあったりするので、
今までの歴史観が大幅に変わるかもしれないね。

649 :
>>647
共和制ローマ時代当初は直接税がないと言うね。
市民は無報酬で1年間従軍し、武器も自前で調達。
行政官も無報酬。
戦争税はあるけど、戦利品があると還付されるので国債みたい。
征服地に対し、課税するようになるが、基本は現地習慣に合わせてた。
BC150年頃に属州への収穫税を課し始め、
徴税請負人に収税委託した。
資金力がある徴税請負人が5年分の徴税権を買い取る。
ローマ側から見れば5年分の前払いを受けるが割引もある。
初期資金が必要な徴税請負人に投資する者もいた。
徴税請負人は下請け請負人を多数雇う。
言わば会社みたいな組織になる。
住民にとっては中間マージン分を多く取られて負担が増える。
結果、反乱を起こす属州が次々出てきて、共和制が動揺し、
国家システムを改善する強いリーダーが求められるようになった。

650 :
>>649
>>市民は無報酬で1年間従軍し、武器も自前で調達。

古代国家って、共同体の自衛軍がそのまま国家の軍に読み替えられているから、
そういうのがかなり普遍的だよね。
古代ギリシアのポリスの軍もそうだし、古代日本の軍団兵も無報酬武装自弁だった。

それが、中世になると土地の経営権とか徴税権の公認との引き換えの軍役に替わっていく。

651 :
>>641で紹介した文献で

『これはこの頃の古代史家が中國古代に奴隷制時代を強いて
措定しようとしたことと無縁ではない。この傾向はなくなったわけではない。
今も残滓を引き摺っていることがある』

ってあるのは実はすごく重要で、東洋史の専門書や論文を読むときにすごく気を付けないといけない
問題点なんだ。

というのも、19世紀にヨーロッパで近代歴史学が誕生したときに、古代から中世、そして近代へという
普遍的な進歩の階梯をたどることができる能力があるのはヨーロッパやその影響を受けた地域だけで、
それ以外の地域はどの時代の断面を取り出しても金太郎飴みたいに均質な停滞の世界、だから歴史学
の対象となるのはヨーロッパとその影響を受けた時代・地域だけ、というテーゼが提唱されて、今でも
欧米の大学ではそのテーゼが有効とみなされているんだ。だから、今でも欧米の大学では東洋史の研究は
文化人類学的な地域研究の対象であって、歴史学でまともに取り上げる意味のない研究対象とみなされている。

だから、近代以降、日本や中国の歴史学者の大きな任務というのは、東洋史がどの時代をとっても金太郎飴みたいな
停滞の歴史ではなく、進歩や変動があったのだということを跡付けて、西洋にその証拠を叩き付けること、だった。
そのために、日本や中国の東洋史家たちは、西洋の史家が提唱する発展段階史観のテンプレートに沿って、
「奴隷制古代」「農奴制中世」が存在したことを「発見」することに躍起になった。

現代では「普遍的な発展段階」という概念が陳腐化したので、歴史学はその影響を脱しつつあるんだけど、
まだ完全にその影響力は消え去っていない、というのが上記の引用部分の真意なんだな。

652 :
【衝撃】世界四大文明はフィクション?!それでも『試験』に出る驚愕の理由とは?【海外の反応】
https://www.youtube.com/watch?v=nTNSn0xwAWM
四大文明と縄文文明 〜学校では教えてくれない四大文明のウラ〜【CGS 日本の歴史 1-6】
https://www.youtube.com/watch?v=9fk5jZkeuiE
武田鉄矢、新事実!?世界の4大文明に匹敵する日本の縄文時代
https://www.youtube.com/watch?v=MbHoNC1enHo
火鳥風月 弥生時代@:世界四大文明のウソと、戦いの歴史
https://www.youtube.com/watch?v=8DzVG0TWzVY
世界最古の文明は縄文文明だ!文明は日本から世界へ広がった!【縄文王国】
https://www.youtube.com/watch?v=9dkyCvFuewY232
縄文時代とか世界四大文明とか邪馬台国・卑弥呼とかの話  歴史教科書にだまされるな2
.https://www.youtube.com/watch?v=_bgtrJiEFao

653 :
>>39
鈴木直美の論文少し見てみたが、封診式のところで登場している所有奴隷に対する裁判、
主人が奴隷を裁判に訴え、政府に購入してもらう、というのは、共和政ローマではよほどの例外でない限り
考えられない。共和政ローマではいうことをきかない奴隷は主人が処罰すればいいだけ。
主人より奴隷の方が力が強くて従わせられない場合、主人が仲間を連れてきて力づくで
従わせればすむだけ。奴隷のしつけができなくて政府に購入してもらう、なんてありえない。

古代中国と古代ローマでは奴隷といっても大分違うようだ

654 :
誤 >>39
正 >>639

655 :
>>653
色んな時代や地域を扱った歴史学論考を読んでいて痛感するのは、
果して「奴隷」とか「農奴」という訳語が本当に正しいのかよ、
ってこと。

地域とか時代でずいぶん実態が違う、実際には様々な語彙が当てられていた人身隷属様式を、
「古代奴隷制」「中世農奴制」というテンプレートに強引に押し込めるために
そのどちらかに決めつけて訳語を与えているケースが多いんじゃないか。

さらに事態を悪化させているのが、日本人の「奴隷」というタームのイメージの原点が、
相変わらず「アンクルトムの小屋」の近代米国南部の綿花プランターのもとの「slave」制度で、
「奴隷」というタームを目にすると無意識にそのイメージから敷衍しようとしてしまうこと。

656 :
>>655
まさにそうだな

その鈴木直美の奴隷裁判の原文では、奴隷は「臣」と書かれていて、「奴」「婢」のような用語は
登場していないのに、「奴隷」と訳してしまっている。この時点で「奴隷」という語彙が
大きな先入観を与える効果を生んでいる

岡本隆司が「世界史序説」で「佃戸」を英語に翻訳するのが難しいと書いていたが、奴隷も同類だろう。
もっとも、岡本の場合、論文の英語翻訳化を自分が回避するための言い訳成分も感じられるが

657 :
そうだな

軍人奴隷のマムルークが最たるもので、要するに「金銭で購入した傭兵」なんじゃないの?とも思える

「市場で購入した女奴隷」もそうで、単なる一夫多妻制の妻と見てもおかしくないケースが多い

658 :
しかし、人身売買である以上、身柄を拘束されている

人権は、所有者である主人に委ねられている

659 :
>>658

>>641で紹介した西周期の金文研究によると、西周期の「庶人」は、
人身拘束と意に反する人身移動なしで、
士分の貴族層によって、臣従関係の名跡と、その「庶人」から徴税される
税の帰属が売り買いされていたんだそうだ。

こうしてみると、「人身売買」といっても、身体そのものを売り買いするレベルから
徴税権だけ売りに出される段階まで、いろいろなレベルがあったんだなぁと痛感させられる。

よく、古典古代ギリシアのスパルタに置けるヘイロタイ身分を「奴隷身分」とする歴史書を
見かけるが、彼らの場合所属は国有で売り買いされることもなく、ただ彼らから収奪される
税だけがスパルタ市民によって公平に分配されていた。しかも、自前のポリスによる自治すら
認められていて、ああいうのを「属国」ではなく「奴隷」とみなすのは本当に適当なのか、
疑問を強く感じる。

660 :
>>659
ほほぅ、なるほどう
徴税自体は誰が実施して税の配分はどうやって実施されるんだろう
実務的なところが気になりますね


少人数で多数を支配する必要のある制服王朝は
軍事力を手元に置くのと
支配地域の住民にはかなりの部分の自治を認めないと
基本的に治まらないっすからね

これについて例外はほぼないんじゃないでしょうか

661 :
>>660
古代世界では、しばしば「臣従」のあかしに貢納を行う、というのがあるから、
徴税権が移動した先の士分貴族に庶人自ら貢納儀礼を執り行ってたなんて想像してみる。

662 :
カール・マルクスの唯物史観でいくと、古代は奴隷制で、中世は農奴制じゃないとカッコが付かないんだよなあ

古代も中世となく、「どの時代も同じ持続の帝国」なのに、現代に入って、いきなり社会主義革命が起きるってわけにも

663 :
>>659
中世日本列島の加地子と同じだね、農家に対する
中世日本列島の場合、更にその下に小作人と奴隷が居た

664 :
>>663
中世日本の百姓の家で使役されていた隷属民は「下人」ってやつだね。
日本の場合には、本格的な奴隷的な隷属と年季奉公的な隷属の境界が曖昧だったり、
あと戦争に伴って雑兵の乱取りによって「下人」として売り買いされていた者を、
もともとの出身地の同郷者や親族が買い戻して隷属身分から解放する制度があった事に特徴がある。
戦国後期になって戦場の乱取りによる「下人」売買の国内市場が飽和して南蛮人商人などに
売られるようになると、彼らにはこの買い戻しによる解放制度が理解されずにトラブルを生じている。

665 :
>>599>>600>>646


漢代の人頭税は男女差があった可能性が高そうなので
そうすると、税率が低い女の子を残して
男の子を間引いたのかなぁ

これだと最近までの現代中国と反対ですね

古代ローマの娼館も男の子の遺体ばっかり見つかってたと記憶しております

666 :
漢帝国はその替わりに独身女税が有るから
ローマ帝国にも有ったけど

667 :
それと飢饉でも無い習慣的な間引きって売春の様な特殊な業種除くと日本独特

668 :
古代ローマのポンペイから出土した碑文からは当時の売春宿には娼婦たちが
囲っていた男娼たちも大勢暮らしていて子どもも一緒に養育されていた形跡がある

漢代中国でもやはり遊女の間にも男奴隷を囲う風習があって
これを「廟客」と呼んでいたが由来不明

669 :
>>668
面白いな。

江戸時代の日本では、芸者は客に体は売らない(深川など例外はあり)が、
特定の旦那にパトロンになってもらって囲われ肉体関係を結んでいた。

その一方で、芸者は相撲取りを買って肉体関係を結び、パトロンになっていた。

色んな所で並行現象があるんだな。

670 :
風俗嬢がホストにはまるのと同じか

671 :
>>651
なるほど、いいたいことはわかったよ。でも俺の感想はこれだ。AAなんて滅多に貼らないんだけど、
どんぴしゃ過ぎるので今回は御容赦。具体的なレスは後でするつもり。

       ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      (    )  < 古代奴隷制だのアジア的停滞だの何だの
      (⊃ ⊂)    \_____________
      | | |
      (__)_)

        クルッ       ______________
       ∧_∧    /
      (`・ω・´)彡< 未だに教条的マルクス主義史観に囚われてるのは誰だ?
   Σm9っ   つ   \______________
       人  Y
      し (_)

  ┏━━━━━━━━━┓
  ┃       ∧_∧     ┃
  ┃     (´・ω・` ).    ┃
   ∧_∧⊂   9m)   ┃
  .(    )  Y   人.     ┃
 ⊂ >>651フ .(_入_|    ┃
   人  Y ━━━━━━┛
  (_入_|

672 :
>>667
これはいけませんね

>>666
独女税はどういう年齢区分ですかね

バツイチはセーフになったりすると
夫暗殺計画が進行しそうな感もありますが

673 :
>>664 >>667
「中世日本の百姓の家で使役されていた隷属民」っていやあ信州では家を継がない子は「おじろく」「おばさ」と呼ばれて結婚できずに長男の家族の召使にされてたんだってなあ
従属状態に置かれているうちに精神に障害を負ってしまうらしい
新潟とかの他の地域でも次男以下を「おじ」、次女以下を「おば」と呼ぶ方言があるから似た様なことは貧しい地方ではよくあったんだろう

674 :
>>658
戦国獅子伝で奴隷を焼き殺して遊んでいるのを主人公が見て
奴隷の命は主人のものでこれは掟だって言ったり

杜子春で奴隷を殺して遊んだりしていたり

奴隷って苦しめて痛めつけて犯して去勢したり手足を切り落として楽しむものじゃないの?

675 :
>>674
そんな地域や時代の方が珍しい

奴隷っつうても、マムルークなんてのもいる

676 :
2000年近くも落ちぶれた理由て何?

677 :
>>674
だいたい多くの時代や地域の奴隷ってのは、価格的に高級自動車を購入するような感覚。

高級自動車の自家用車には「人権」はなく身体の自由はないが、
でも、大枚払って買った高級自動車をボコボコにしてお遊びするオーナーなんて普通はいないだろう。

678 :
大枚払った高級車も百台ぐらいあれば、一台ぐらいは潰れてもいいぐらいの感覚にはなる。
地位によってだろうな。

679 :
んなこと言ったら、主人が奴隷に殺されることだってある

お互い様だ

680 :
古代ローマでは、会計士や家庭教師など頭脳労働を担う奴隷は高待遇だった。
家庭教師は、生徒(つまりご主人の子息)に体罰を振るうこともできた

だが農園や鉱山ではたらく奴隷は悲惨…

681 :
>>673

昭和58年の映画「楢山節考」の世界だね

682 :
>>673
おじろくおばさは伊那の特定の部落に特有の現象として精神医学雑誌に論文が掲載されたし
新潟等の事例も要は山間地それも中越に独特な隔離された小さく貧困な谷間に特有な現象であるように理解している
それを普遍化するのは誤りではなかろうか

683 :
>>682
九州四国東北じゃ普遍的な構造

684 :
本当かいな…それを示す論文を教えてもらえると助かるのだが

685 :
>>678
そういえば武帝さんの購入した
超絶高級車はどうなっちゃったんだろうか、、、

686 :
>>682
特有なのは、近代まで残ったことが特有なのであって
近代以前でも特有だったのかはまた別の話

687 :
東北では、太宰治の実家の「斜陽館」で、
家を継ぐ長男の座る座に対して、次男以下の座る座が完全に使用人ポジション、
というのが有名かな。

688 :
>>684
大都市や近隣都市で1日14時間年休3日働き
半分が30代で死ぬか金貯めて農地買うか
上記の都市が無い地方だと小作人で短い一生貧乏暮らし
農業生産性も低い東北や南九州や特定地域だと中世的な農奴生活

689 :
>>687
津軽ではオジロクに当たるのはオズカス(伯父滓?)というらしいな

690 :
江戸時代ユートピア史観は、誰が広めたんだろうか。

東北の大飢饉や牢屋のリンチ、切り捨て御免
年貢は安くて3割、高ければ7割
米の喰いすぎで脚気、裏長屋はボットン便所の悪臭
コレラに天然痘、夜鷹を買って梅毒。


なんのカンの言って、現代が一番いい

691 :
>>672
漢代だと妻が夫を殴っただけでも死刑なのに
ましてや夫殺しとなれば如何ほどの酷刑に処されたのやらガクガクブルブル

692 :
>>690
貧農史観が修正されていく過程での行きすぎだろ。
切り捨て御免とか言ってるあんたの歴史観も怪しいが。

693 :
>>692
なんか、江戸時代ユートピア史観の行き過ぎの反発で、
逆に江戸時代最悪暗黒時代みたいなプロパガンダを吹く向きがネットのあちこちで暴れてるからな。

694 :
>>690
切り捨て御免・・・・そういえば、水戸黄門も試し斬りをしていたか。

695 :
>>646
「漢書」昭帝紀の中に
 毋収四年五年口賦・・・・・
 其減口賦銭・・・・・・
 有司奏請減什三・・・・・・・
 軽由薄賦、与民休息・・・・・
 至始元、元鳳之間、
 匈奴和親、百姓充実・・・・・
とかあって、
昭帝のとき(霍光が執政権を握っている)
四、五年の口賦を免除したり
口賦銭を10分の3減らしたり、
匈奴とも平和な関係となり
賦課を薄くして、民を休ませ、
百姓が豊かになったそうな。
次の宣帝のとき
山陽郡の戸九万三千、口五十万以上という数字があるなど、
人口増加があったことが推測できる。
(元の数字がないので推測)

696 :
江戸時代がどんなに良くても

毎日シャワー浴びられない
冷えたビールをグイッとあおれない
麻酔無しでお腹を開いてもらえない
水洗便所にウォシュレットの快感を体感できない

やっぱり現代がいい

697 :
ホイジンガの『中世の秋』でしたかね
中世の生活の厳しさと輝きのコントラストの激しさを記述した後で
どんな時代であろうとも
人間が味わうことのできる幸福の総量は変わらないのではないか
という歴史家の直観を語ったのは

698 :
戦国時代延々と秦無双してたのに天下とったらなんであっちゅうまに滅んじゃったの?

699 :
漢は秦系だから組織として滅んだわけじゃない
組織のトップが変わっただけ

700 :
>>699
劉邦は漢中に封建されたときに、穀倉地帯の蜀の掌握と、関中の秦の父老たちの協力取り付けをやって、
それで楚漢戦争に勝利しているんだよな。
前漢初期の中央政府の支持勢力として、旧秦の存在感はかなり大きい。

701 :
>>698
陳勝呉広の乱がかつてない全国規模になったからな

七国に分かれてた頃は、そんなこと無かった

702 :
>>692
貧農史観の方が正しいんだけどな
上位4割である士農工商の農家が貧農じゃ無いのわ当然で
人口の半分に達する小作人は貧困層その物

斬り捨て御免も実際の掟だし

703 :
>>691

そういった厳しい社会規制があるんでしたら
逆にうまくやりおうせたらリターンはでかかったのでしょうか、、、

704 :
漢民族、というか華北人というか、彼らの社会の家父長権力のきつさというのは、
日本人にはちょっと理解しがたいレベル。

日本社会の「家制度」の家父長権はそこまできつくないように思える。

705 :
1度宿を借りたら永久に奴隷な日本の家制度がきつく無いとか失笑ww
古代ローマ中世ドイチュエゲレスと比べても変わら無いレベル

706 :
リターン?ないと思う
未亡人とかその字が示す通り近現代まで女性に置いては夫の早世は死亡リスクの最大要因の一つだったわけだし

「都市史」を扱った論文で16世紀のイングランドでさえ夫を失った女性は数年間にほとんどが死亡しているという指摘は
衝撃的だったな
漢代の「辺塞文書」を見ると赴任してくる兵士が妻も同行させてる場合があるのだが
これは女一人世帯が当時の社会にあって如何に難しかったかを示してると思う

707 :
いや、普通に未亡人+子の戸籍が在った。発見される程度に

708 :
>>706
ふむぅ、職業はともかく
土地も相続できないんですかねぇ

古代中国といえばニートがもてはやされる世界だと思ってたのに、、、

709 :
ニートがもてはやされる時代なんかない

710 :
辺戌は徴兵制の内地勤務と違って志願制で給料も出てたからな

711 :
>>695
税金減らしたら、人口が増えたってことですかね?

>>661
士分貴族が「貴方を○○に売りました」と連絡すると
その庶人が新しい人のところに出向いて納税する??
「今日から家来です」

712 :
>>543>>626

士大夫
したいふ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E5%A4%AB-73712

一般に、旧中国社会で上流階級をさす語。

古代には天子、諸侯、大夫、士、庶民の5階級があったと伝えるが、天子、諸侯は大小の君主で特別なものであるから除外すると、
大夫と士が支配階級であり、被支配階級の庶民と対立した。

統一国家、漢の下で士と庶民の別がなくなったが、新たに官吏と人民との別が生じ、官吏の地位が世襲的となり、士族と称せられ、
六朝(りくちょう)を中心とする貴族政治の時代が出現した。

宋(そう)代以後になると世襲貴族が没落し、かわって科挙による官僚階級が形成され、士大夫、読書人などと称せられた。
彼らの間では学問とともに高雅な趣味が尊ばれ、たとえば彼らが余技として描く絵画は士大夫画(文人画)とよばれ、
職業画家の絵よりも高く評価された。この形勢は清(しん)末まで続いた。[宮崎市定]

713 :
>>712

士大夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E5%A4%AB

起源

『春秋左氏伝』によると、周代の身分制度は王や各諸侯の下に大夫と呼ばれる貴族階級があり、その家臣として士と呼ばれる階級があった。
彼らは「邑」と称せられる都市国家の指導者階級であったが、
氏族社会を基盤とする都市国家の連合体制が崩壊して家父長制を背景とする領域国家が形成されて来た戦国時代になると、
この階級が崩れ、士は独自の能力を持って領域国家を支配する各諸侯に仕える人々を指すようになる。

前漢の統治体制が確立すると、地方において強い経済力を持って人民を保護民化していった者たちが、
郷挙里選の制度下で子弟を中央官僚として送り出すようになり、支配階級を形成する。
彼らは自らを周代の都市国家指導者層に擬えて「士大夫」と呼ぶようになる。後世からは「豪族」と呼ばれる階級である。

魏において九品官人法が制定され、魏晋南北朝時代には豪族は漢以来の血統と文化的実績、人民保護者としての名望を背景に、
華北に浸透した北方遊牧民の有力族長層と共に、より名門意識を高めて後世「貴族」と呼ばれる階級に変わって行くことになるが、
自らは変わらず「士」「士大夫」と称していた。

貴族階級は、自分たちの地位を保全するために、貴族階級から外れた者たちを「庶」と呼び、激しく差別して政治の場から排除していた。

714 :
>>712
日本は平安時代の貴族社会から、鎌倉以降の武家社会になった

中国は、唐代の貴族社会から、宋以降は士大夫へと社会の主導層が代わった

それを思うと、士大夫は重要だ

715 :
ただし、清朝においては、士大夫の上に満州貴族がいたのだが

716 :
>>714
日本国は天皇朝が崩壊してから徳川朝までずっと無政府状態
五胡十六国時代や五代十国時代みたいなもの

717 :
>>715
大清国はダイチン・カンを共通の主張とする同君連合。
この連合を構成する諸国の関係は対等ではなく、マンジュ・グルンとモンゴル・ウルスが
軍事力を握って世俗の支配階級、チベットがチベット仏教を背景にした宗教権威。
そして「漢土」は生産力を吸い上げられる従属国。
この従属国である「漢土」にダイチン・カンが皇帝・天子として君臨し、士大夫科挙官僚を
使用人として統治の実務を負わせる、というシステム。

718 :
>>716
いや、応仁の乱より前の室町幕府は、唐くらいの状態だ

719 :
>>716
天皇による万世一系という見方が不自然
日本の歴史を他国と同様に王朝の興亡として扱えば以下の様になる

倭奴国 1世紀頃
倭国大乱期 2世紀末〜3世紀初
女王国(不弥国) 3世紀中頃〜4世紀後半
女王制邪馬台国 〜4世紀初
神武朝大倭国 4世紀初〜4世紀後半
応神朝大倭国 4世紀後半〜5世紀前半
第一次王権分裂期 5世紀中頃
雄略朝大倭国 5世紀後半
第二次王権分裂期 5世紀末〜507年頃
継体朝大倭国 507年頃〜670年
天皇制日本国 670年〜1167年
平氏政権日本国 1167年〜1185年
鎌倉幕府日本国 1185年〜1333年
建武新政期(南朝) 1333年〜1392年
室町幕府日本国(北朝) 1336年〜1573年
織豊政権日本国 1573年〜1603年
江戸幕府日本国 1603年〜1867年
大日本帝国 1867年〜1945年
連合軍軍政期 1945年〜1952年
象徴天皇制日本国 1952年〜

720 :
>>718
義満の頃でも中唐末期でそれ以外晩唐

721 :
>>707
その未亡人と子どもって当時の社会でどれほどの間生存できたのだろうね
子供なら奴婢となることで生きながらえることが出来るが
儒教規範では再婚はありえないのでその点は厳しかったろうな

722 :
>>720
それはないだろう

盛唐でも、河北省あたりはすでに手出しできない半独立国

日本に例えれば、京都の幕府が関東平野に手出しできない状況だ

723 :
玄宗は、足利義満みたいに地方勢力を削って真の統一を実現しようとしたが、逆に地方勢力の反乱で王朝が崩壊した

「開元の治」と称される最盛期の玄宗ですら、そんな状況

ましてや、それ以後の唐は、日本でいえば応仁の乱のあとの室町幕府、つまり戦国時代

さらに黄巣の乱のあとの晩唐ともなると、日本語でいえば安土桃山時代に相当する

724 :
それに対して漢は、最大の危機だった呉楚七国の乱を、長安の勝利、地方の敗北という結果で乗り切ったのが大きい

これにより、中央集権が実現した

725 :
>>722-723
最早無知過ぎて願望を越えて妄想レベル

足利朝は義満の時期ですら京都近郊以外半分処か2/3独立国で中唐晩期
安禄山の後継藩鎮より広範な権限と世襲権益持ってたのが大名

その後の2代盛期の義持義教期でも大名は1/9独立国で全く統制効いて無い
関東地方は全く制御の利かぬ独立した地方だし
日常的にお膝元で内戦やらかして将軍が攻められて逃亡してたのが史実

726 :
>>725
唐だって、皇帝が攻められて逃亡したことが何度もあっただろ

727 :
>>722
>盛唐でも、河北省あたりはすでに手出しできない半独立国
これなんのこといってるのかな。無知な俺におせーて

728 :
そもそも、「盛唐」ってのは文学史の区分、唐詩の最盛期を指す

大詩人・杜甫が活躍した安史の乱の前後、「国破れて山河在り」の時期が盛唐

729 :
安史の乱後、代宗は安禄山の旧臣であった李懐仙を幽州に、田承嗣を魏博に、張忠志(後に李宝臣)を成徳に封じた。
その後河朔三鎮(河北省を中心とする地域の三つの藩鎮)は次第に地方勢力として独立し、唐王朝の勢力が及ばなくなった。

三鎮は「河朔の旧事」と称してその主帥は代々唐王朝の任命によらずに世襲や部下による擁立によって就任し、勝手に領内の文武百官を任命して租税の上供を拒んだ。
これによって藩鎮の弊害の嚆矢ともいえる存在になるとともに北方地区の政情不安の原因となった。
これに対して徳宗は制圧策を用いるが、三鎮側は黄河以南の河南二鎮(平盧・淮西両節度使)と結んで反乱を起こして徳宗を長安から追放する程であった。

だが、憲宗が河南二鎮を攻め滅ぼす事に成功すると、これを恐れた三鎮は一時的に唐王朝に帰順したが、憲宗崩御後に再び独立して自立を回復する。

730 :
盛唐(読み)セイトウ
デジタル大辞泉の解説
せい‐とう〔‐タウ〕【盛唐】
中国、唐代の文学史を4期に区分した、その第2期。玄宗の先天元年(712)から、代宗の永泰元年(765)までの約50年

731 :
河北三鎮が半独立国と化したのは、安史の乱より後の話だな

732 :
やはり、唐が中世的な地方分権の藩鎮体制になったのは、安史の乱以後のこと

それ以前は、古代帝国のような中央集権体制だったと見るべきか?

733 :
>>732
いや、その時代は事実上武川鎮軍閥系の北族の血筋の軍事貴族の合議体制に近いから、
前漢のような古代帝国的中央集権体制とは言い難いな。

734 :
中華ドラマ「賢后 衛子夫」がアマゾンプライムで見れる。
武帝の皇后になるヒロイン衛子夫が超美人。
あれなら武帝さん頑張っちゃうもんね。

735 :
>>698
いきなりの郡県制が急ぎ過ぎ。
高度に発達した官僚制が
始皇帝の個性に依存過ぎ。

736 :
>>726
足利将軍は逃亡とかじゃ無く盛期の義教でも白昼堂々殺されてるからな
義持も義教も大名に度々命令拒否されてるし晩唐水準だよ
統制出来てたのわ義満時代だけ、而も義満ですら唐皇帝と違って守護領国は全く関与出来無かったし

737 :
>>736
足利幕府の時代の社会でややこしいのは、幕府自体が有力守護の連立政権というのに加えて、
当初は令制国ごとの軍事警察司令官に過ぎなかった守護が守護領国制を発展させて、
地域に盤踞する半独立勢力に成長する途上だったというのがある。

幕府運営に強くコミットしている有力守護は守護領国制を成長させていく実務を
守護代層にゆだねざるを得ず、国ごとに守護からの戦国大名への成長ルートと、
守護代層からの戦国大名への成長ルート、国人一揆からの戦国大名への成長ルートと
道が分かれていった。

さらにそれに加えて、幕府中枢そのものが幕府本体の西国国家と、鎌倉公方支配の
東国国家に分裂していた。

738 :
>>735
呂不韋→李斯→韓非→趙高の操り人形としてほぼ統一目前だった良い時代に即位して国中に圧政敷いて自分は不老不死に夢中になって優秀な長男辺境に追いやってアホな末っ子甘やかした暴君始皇帝って構図はもう無くなりつつあるの?

739 :
アシタカ。

740 :
>>736
唐は、徳宗と敬宗は宦官に殺され、文宗は宦官に幽閉されるという、あり得ないヘタレっぷりだ

歴代皇帝を個別に見ていくと、歴代最弱王朝の名にふさわしいのは、宋じゃなくて唐だってことが分かってくる

741 :
安史の乱の前だって、カリスマ皇帝の太宗がいなくなったら、すぐに外戚の武氏に王朝を簒奪され、武氏から取り返しても、またすぐ韋氏に乗っ取られかけた

強い実力皇帝が出たときは一時的に安定するけど、それも長続きしない動乱の繰り返し

これで300年つづいたのは奇跡ともいえる、不安定な王朝

742 :
漢も、後漢の後半は、宦官と外戚の弊害でボロボロだったが

743 :
>>738
史記でのイメージは強いね。
少なくとも暗殺対象に狙われやすい人物ではある。
始皇帝個人の命さえ消せば、
情勢が激変する。
「戦略的人物」として、暗殺しがいがある。

744 :
>>721
武帝の姉、平陽公主は曹時と離縁した後、
衛青と再婚してるが、
儒教的はどうなんだろう?
まぁ武帝の時代に董仲舒の献策で
儒教を国教化したという従来の理解は、
今は否定されてるのかな?

ちなみに曹時・平陽公主の子、曹襄が平陽侯を継いで、
武帝の娘の衛長公主と結婚。
劉家と曹家はかなり密接。
後漢末に曹操の父は養子で曹家を継いだ。
曹操は漢の名門を継いでることになる。

745 :
武帝期じゃ未だ黄老と法家のが強いし

746 :
>>740
後漢後期わR必要すら無い傀儡だったからな

747 :
わガイジって助詞の「へ」使うときも「え」って書くんけ?

748 :
双方の音の違いも解ら無いのか

749 :
屁をしても絵になる男

750 :
>>741
足利朝は最盛期でも只の地方政権(京都近郊だけ)だぞ、明帝国の1/10000しか財政規模ないし
晩唐〜五代レベルというか後漢末期〜三国レベル

751 :
足利朝ってなーに?

歴史的に足利朝なんて存在してないんだけどw

752 :
英語版のWikipediaの足利幕府は、項目名が足利将軍国で、記事の冒頭は「足利将軍国」は
大名に起源する王朝である、と書かれている。

足利朝や徳川朝という言い方は日本では利用されていないが、英語では若干ヒットする

世界史的には、サーマン朝とかブワイフ朝とかアッバース朝の家臣も王朝扱いなのだから、
足利朝という表現も歴史学的にはあってもいい。そういう利用の仕方は慣用的ではないというだけ。

慣用的ではない、と指摘するならともかく、「歴史的に足利朝なんて存在してない」と書くのは歴史学の素養がないのではないか

王朝表記の統一定義なんてないのだから

そもそも英語では足利幕府はAshikaga shogunateで直訳すれば足利将軍国、徳川幕府は
Tokugawa shogunateで直訳すれば徳川将軍国。日本と中国を除く世界的には、
「足利将軍国」「徳川将軍国」という認識の方が一般的なのだが

まあだからといって俺も足利朝なんて使い方はしないけ。慣用的じゃないから

753 :
>>752
>>記事の冒頭は「足利将軍国」は大名に起源する王朝である、と書かれている。

この英語圏の足利幕府理解ってのも普通の日本での日本史理解では妙なものだな。

「大名領国制」が成立してくるのは室町幕府体制下でそれまで令制国ごとの軍事警察力の
指揮官でしかなかった守護が民政機能をも国衙から奪取して守護領国制を成長させた
事に起因していて、いわゆる「大名」のイメージの源泉になっている戦国大名や
近世大名も、この「守護領国制」で出現した「守護大名」の行政組織をルーツにしている。

足利幕府が出現した段階では「大名」とは「大規模な名主」の意味でしかなく、
派生で大勢力の武家にも援用されているくらい。
だから、室町時代成立の能楽の演目で出てくる「大名」ってのはどれも武家領主より
下位の名主百姓の中の大規模経営者ばかりで大勢力の武家なんて出てこない。

「大名」なる大領国組織の武家は「足利幕府体制」から生まれてくるものであって、
逆に「大名」のひとつが成長して「足利幕府体制」をつくったわけじゃない。

754 :
抑々足利幕府は春秋期の覇王みたいなもんだから
而も国衙なんてとっくに崩壊してるし

755 :
>>754
国衙の崩壊期=室町前期の守護領国制確立期

これ、荘園制の確立した平安時代中期に国衙なんて崩壊しちゃったんだろうと
思い込んでいる人が多いんだけど、当時の実情は荘園公領制であって
荘園と並んで国衙領となった公領の勢力が案外大きく、国衙が経営拠点に
なってて室町時代前期まで存続してるんだよ。

756 :
" shogunate"ってのも"sultanate"と同じで「〜役」「〜職」「〜位」を意味する
ラテン語語尾"-atus"の英語形を"shogun"や"sultan"にくっつけたもので、
要するに「〜の役職に伴う政権・権力」って感覚の語だな。
「〜国」「〜朝」って訳もそこからの拡大解釈の感がある。

757 :
なんのスレ開いたのかわからなくなっちゃったぜw



>>518
Eで群国は特定の地域に集められながら継続したらしい

諸侯国と諸王国が集められた地域は
おいら調べの記憶によると
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/China_Han_Dynasty_2.jpg/800px-China_Han_Dynasty_2.jpg


冀州
青州
?州
徐州
豫州

この五州でいわゆる後背地ですね
ローマの文民元老院議員が
戦線に隣接しない属州総督に任命されるのと似た感じですね

758 :
>>754
それを言ったら、漢唐の皇帝だって似たようなもんだろ

「支配者」というより「盟主」というべき存在だ

759 :
すぐ日本の話になるのは、中国史スレの宿命か

760 :
日本史は中国史のコロナリー

761 :
>>756
中国の王朝名は、Han Dynasty, Tang dynasty, Song Dynasty・・・で用語統一されている

日本の Emperor や Shogun は欧米でも有名だ

世間の一般人ならともかく、文系インテリなら知ってて当たり前

762 :
つまり何が言いたいかというと、室町幕府を“Ashikaga Dynasty”と思ってる人はいない

ちょうど、いま読んでた“Why nations fail”という本にも、

The Japanese emperor was sidelined and assumed a purely ceremonial role・・・とある

763 :
>>762
>室町幕府を“Ashikaga Dynasty”と思ってる人はいない

オスプレイのSamurai Commanders (1): 940–1576には Ashikaga Dynasty と言う用語が登場しているね
https://books.google.co.jp/books?id=FdYbDAAAQBAJ&pg=PA30&lpg=PA30&dq=%22
ashikaga+dynasty%22&source=bl&ots=j_0Car7B4M&sig=ACfU3U1e1-OPVe8jWdJJlZDMCg4D6KPAyw&hl=
en&sa=X&ved=2ahUKEwiGwKLthK_iAhVRGKYKHVBSDO0Q6AEwEHoECAkQAQ#v=onepage&q=%22ashikaga%20dynasty%22&f=false

他にもAshikaga Dynastyで検索すると少ないものの出ては来る

こんなのが主流とは思っていないが、「室町幕府を“Ashikaga Dynasty”と思ってる人はいない 」というのは言いすぎだろうね

764 :
英語圏の認識は日本人からすれば奇妙なものが結構見つかるな

アメリカのブリガムヤング大学の公式サイトに掲載されている江戸時代の地図では、
幕府直轄領土と思われる部分が「TOKUGAWA EMPIRE」と書かれて色塗りされている・・・

765 :
リンク忘れた
tokugawa empire これね
https://contentdm.lib.byu.edu/digital/collection/Civilization/id/575/

766 :
>>755
西国じゃ武家より天皇家公家のが未だ行政権握ってたのわ知ってるけど
それより仏教寺社領や惣村のが更に勢力大きかったからな
而も天皇家公家じゃ武家の武力の前に無抵抗だし

767 :
東京国立博物館の記事にもtokugaw dynastyの用語が登場していて驚く・・・

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=446&lang=en

768 :
>>766
わガイジって「へ」使うときも「え」って書くの?
それとも頑なに「に」に書き換えて使わないようにすんの?

769 :
>>767
東京国立博物館は未だに弥生時代の開始を紀元前4世紀に置いていたり、
多分、美術史の人が実権を握っている組織だからなんだろうけど、
歴史学的にはいろいろ奇妙な認識に固執しているところがある。

日本における美術史の人と日本史・東洋史の人の歴史観のギャップが垣間見れて、
それはそれで面白いけどね。

770 :
>>763
そうだな

「思ってる人はいない」は言いすぎだ

ケネディ家やガンジー家だって“Dynasty”と言われるくらいなんだから、この用語の適用範囲は広い

771 :
>>764
まあ、江戸幕府の天領は、神聖ローマ帝国の皇帝直轄領みたいに見えるんだろうな

772 :
フランス王国の国王直轄領でもいけるな

773 :
>>769
そりゃ文化史の人は感覚が異なる

その最たる例は、前にも出てきた「盛唐」で、これは李白や杜甫が活躍した唐詩の最盛期を指す文学史の区分

安史の乱で「国破れて山河在り」、「黄昏 胡騎 塵 城に満つ」とうたわれた頃が盛唐

774 :
>>773
文学史の人の言う「初唐」が胡族国家的な世界帝国の時代で、
「中唐」はこじんまりとした中華帝国に落ち着いた時期。
「盛唐」は両者の移行期の混乱期。

775 :
ちなみに、美術系、歴史・考古系、自然史系のどの分野の学芸員とも付き合いがあるが、
純美術系の学芸員にはマジで絵画に描かれている画題の歴史的・社会的な文脈とか、
描かれている動植物の正体とかに関心絶無なのってけっこういるんだわ。

そういう人って、構図とか技法にはすごく詳しいんだけどね。

776 :
>>775

そりゃそうだべさ。
クリエーターの作品をいろいろ鑑定するんだから、
美しければ、画題が真実でも虚構でもいいんだから。

たとえば「伴大納言絵詞」。
火事を眺める群衆や
子どもの喧嘩に親が出る、の場面はまさに秀逸。

そこでわざわざ
「この絵は9世紀に発生した政治疑獄をテーマにした作品だが、
描かれている人々の風俗は、実際に絵が描かれた院政期、12世紀のものである」
などと突っ込むのはヤボというものだ。

777 :
>>776
でもさ、江戸時代の絵画で墓石と夏草が朝露に濡れていて、そこに光ってない
ヘイケボタルがびっしり集っている画題のを見て、そこに描かれている虫が
ホタルだって全然気が付かないのもどうかと思うんだ。

そこに何らかの寓意が込められていると判断すべきだろ。

778 :
ヘイケボタル?

平家の怨霊をイメージした絵画?

779 :
>>778
いや、ヘイケボタルって和名がつけられたのは明治以降だから、
画家にとっては「ホタル」ってことが重要だったんだと思う。

あと、墓石じゃなくて石灯篭だったかも。

あのとき一緒にいた美術系学芸員が「美学」方面じゃなくて「図像学」系の人だったら、
いろいろ謎解きをしてもらえたと思うと、残念でならない。

780 :
>>773
>安史の乱で「国破れて山河在り」、「黄昏 胡騎 塵 城に満つ」とうたわれた頃が盛唐
これもまた違う。

盛唐は安史の乱の前も含む。安史の乱後も含むことを強調したいという意図はわかるが、
開元天宝を含まないかのように書くのはおかしなこと

盛唐(読み)セイトウ
デジタル大辞泉の解説
せい‐とう〔‐タウ〕【盛唐】
中国、唐代の文学史を4期に区分した、その第2期。玄宗の先天元年(712)から、代宗の永泰元年(765)までの約50年

781 :
文は必ず秦漢 詩は必ず盛唐

782 :
秦は暴政か否か?

Webで中国語ページを見てると、
秦代は、「奴隷制」国家というよりも、
「刑徒制」国家である気がしてきた。
全人口の1/5 いや 1/4 以上が、
法を犯したために
刑徒として劣悪な環境下での強制労働に従事させられていたのでは?
という論議がヒットしていた。
実際はどうなのか、本当のところはわからないが、
本当ならば
まるでスターリンが数百万人をシベリア送りにして、
シベリア開発の労働力を確保したのに似てるな。

里耶秦簡では、
多数の刑徒が洞庭郡遷陵県の公役労働に携わったことや、
司寇と称される刑徒は住居や田畑を給付され、戸を形成した者だとわかるそうな。
遷陵県の戸数は150〜190戸しかないので、
労働力不足を補うため、他地域から刑徒を動員、移住させたのかもしれない。

783 :
>>782
ほほぅ

賦役を大量に課した結果として罪人が増えたのかと思っておりましたが
そもそも逆の経路で賦役を増やした可能性もあるわけですね

784 :
秦末に編成した罪人軍団は
牢獄の中の人を徴用したのかと思っておりましたが
強制労働中の方を連れていったのかもしれませんね

あのへんは大規模工事もいっぱいやってたでしょうから

785 :
良民を同じ扱いした防人のブラックさ

786 :
江戸は当時すでに世界的な大都市だったが中国が近年までずっと停滞してた理由は何?

787 :
中国もどんどん発展したけどそれを上回るペースで人口が増えてしまったから

788 :
>>785
防人や衛士は武具や食糧が自弁というのは本当なんだろうか?
地元の盗賊退治じゃないんだから、
無理だろ、それと思う。
暴政で名高き秦ですら、賦役に従事する者に食事や衣類はもちろん、手当まで支給されてたそうな。
そうじゃなきゃ全員死ぬ。
兵役でも軍服、武具、食糧は官給。
働きが良いと報奨も手厚い。
軍功で土地を支給された新興地主が急増。
もし待遇が悪けりゃ誰が命を張れるものか!

里耶秦簡の中に「得虎」での功績で6人に賦役免除というのがあるそうで
地元の虎退治みたいな公益に貢献と見做されると賦役免除になるらしい。

789 :
江戸時代の朝鮮通信使が残した記録では、まず、大坂を見て驚き、「今までは北京が世界最大の都会だと思っていたが、大坂は北京を上回る大都会だ」と書いている。

その後、京都、名古屋と進むにつれて、驚きはさらに大きくなった。

しかし、江戸は、そんな大坂・京都・名古屋をも遥かに凌ぐ、超・大都会だったという。

790 :
阿房宮と驪山陵の建設に刑徒70万人、
全長900kmの直道建設に30万人、
他に霊渠や長城など
始皇帝在位11年の間に、戦争や賦役に
合計200万人から250万人を動員という計算がある。

全人口推定2000万人。
負担が大きいか否か?
統一後の秦が短命だった要因か?

791 :
陳勝と呉広、劉邦も徴発業務の破綻がきっかけで蜂起。
高負担だったんだろうな。

792 :
>>788
どうも、戸籍で中央政府が個人把握して徴兵したってのはあくまで建前であって、
現実には弥生〜古墳時代以来の地方首長である郡司が、首長制共同体の自衛武装組織を
招集して、それを中央の要請に応えて送り出していたみたいなんだよな。
だから、「自弁武装」ってのも実態は共同体の公有の武器庫から支出されていたみたい。

そして、律令制の崩壊と連動して地方の首長制の組織そのものが解体してしまったので、
こういう招集が不可能になっていった。

793 :
>>790
全国各地でメチャクチャに土木工事を乱発してるのは、21世紀の中華人民共和国と同じだ

794 :
>>790
食事の供給だけでも大変
戦争みたいに略奪しながら通過というわけにいかない
その数字が本当ならすでに倒産している

795 :
>>794
いやぁ、戦国時代の動員に比べたらマシという説もある。
アメリカの南北戦争のとき、人口3千万人で戦死者は民間を含めて70万人。非常時はそのぐらいの犠牲や負担が民衆にかかる。
統一後、非常時体制から負担を減らして平常時体制に転換できなかったのが滅亡の原因という話を読んだことがある。
隋とか豊臣政権とか、統一成就しながら短命で終わった例を連想するなぁ。

796 :
>>792
それは興味深い。
個人が自弁なんて無理だよなぁ。

797 :
>>790>>794

働くのもですが
そもそも現地に行くのが
めっちゃたいへんですよねぇ

こういうのはゼニをうまく使えば
かっちょよく回せるんじゃないかと思うんすよ

798 :
いや自弁だよ
古代日本天皇国は無茶苦茶、中世よりも以っと無茶苦茶
九州防人や戎夷討伐は無給の上に3年とかいう秦の徒刑課せれた罪人よりも重い苦役

799 :
いや、そもそも貨幣経済も、商業経済すら未発達の時代に、物理的に戦場に武器を持っていっているんだから。

在地の首長制の社会が介在せずに丸裸で(比喩です)民衆を戦場に動員したとしたら、
それは丸腰の素手で戦場に放り込んだことになってしまう。

中央政府の官給の武器支給が充実していない社会で民衆を戦場動員できていたとすると、
在地の首長制社会の武器庫を想定しないと無理筋過ぎるんだよ。

800 :
>>795

南北戦争は歴史上最初の総力戦とみるむきもあるので
それまでの戦争とは別格かと思いますね

そもそも戦国時代は、技術・通信・輸送・政治体制をかんがみるに
そんなに大規模の動員ができたとは思えません

801 :
>>792
むしろ、古代日本の場合、村落共同体の存在を前提に、共同体上位層を機関化し
村落内の人と土地を、朝廷が直接把握・支配しているというころがポイント。
普通、共同体が残る古代社会では、そこから先は中央権力は立入不能になり、そこから下の状態が不透明になる。
新羅なんかはこの状態のまま、古代国家が運営された。こっちがむしろ普通。

平安中期の律令クラッシュというのは、古い共同体が崩壊してそのままヒャッハーのカオスになったのではなく、
開発領主などにより新しく出来た共同体においては、その内部が(原則に戻って)不透明になってしまい、
朝廷が人や土地まで把握を貫徹できなくなった、というところがポイント。別に突然カオスな地獄に転落したわけではない。
この不透明さを担保するために、荘園が都の上位者に寄進されて支配権が重層化することになる。

まあスレチだが、秦の場合はどうなんだろうね。

802 :
>>801
私も決して「ヒャッハーなカオス」になったとは思ってないんだ。
実際、平安中期に突入した段階でむしろ商業生産された安価な漆器であるとか、
輸入陶磁器の廉価品なんかが末端の民衆レベルまでいきわたって、
民衆の生活レベルが格段に向上していることが伺われる。
ただ、10世紀中ごろに古代集落が消滅して荘園公領制の確立した
11世紀になって14世紀ごろまで継続する荘園や国衙領における集落が形成される
はざかいの時期は、考古学から見ても明瞭に指摘できると思っている。

スレテーマの秦漢帝国に話を戻すと、中華世界では日本列島よりも古代的な社会から
中世的な社会への組み換えがもっと多段階を踏んで起きているような気がする。

まず、戦国期の邑制社会の旧首長層のおとりつぶしによる「廃国置県」が古い氏族社会の
解体と並行して起きて、さらに前漢から後漢にかけて長い時間をかけて「父老」の家父長的
指導を受ける郷里社会が変質、それが三国期〜五胡十六国期の戦乱を経て豪族系の新貴族に
指導される中世的な共同体が再編されてくる、という事じゃなかろうか。

803 :
現代総力戦だから秦代とは比較にならんけど、『日本軍兵士』という本に、
1944年の日本の成年男子の10%、1943年ドイツの28%が軍人だったとありました。

が、これは限界を突破していた時期で、1940年の日本は4%だそう
女性子供老人含めた全人口比では1%くらいでしょうか

始皇帝の11年間に200−250万人は1年あたり20万人程度、
人口の1%なので、1940年当時の日本の動員割合くらいでしょうか

804 :
>>802
中国だと、何度も何度も氏族制が破壊されては再構成されるという繰り返しなんじゃないの?
人類学的には、硬いヒエラルキーとしての氏族制はその大きなゆらぎを内包する。
だから別段、不可逆な何かが起きて社会構造が相転移したわけではない。

周の氏族制は、多分秦の全国統一と崩壊の過程で一度崩れた。
前漢前期に再構成された氏族制は、王莽で崩壊した。
後漢前期に再構成された氏族制(一般には豪族支配という)は、五胡十六国で崩壊した。
このように、基本的に百年から数百年単位で何度もリニューアルされる。それだけなんじゃないのかなあ。

805 :
>>803>>790

ふーむ、なるほど

ちょうど戦時で外国と戦争状態だった時期と
おんなじぐらいなんですね
期間的な部分も良く似てます


中華の中の人
その初の中央集権国家ならやりおおせたのかもしれません

806 :
>>790>>795
内戦終了後のアブレ者どもをどう扱うか

外国と戦争するより
インフラ整備で使い潰す方が健全な気はします

両方やっちゃうと隋の中の人みたいになっちゃうかもしれませんがw

807 :
>>805
現代の総力戦とは様相は違うけれど、
古代の住人って、普段から地元の邑、県の城壁作りとかで駆り出されてたんじゃない?
農民たちは夜になると城壁の内側でないと安心して眠れない。
平和な日本じゃ想像が難しいが、大陸は常時臨戦状態なんだよ。
さもなくば集落を取り囲む城壁作りなんて重労働をやらないだろうに。

808 :
>>801
全然違う
藤原政権が国津神系以来の共同体を後半且つ大規模に破壊した上に
酷い搾取を犯して地獄に成った

寺院領や開発領主は少数派

809 :
>>808
地獄なのは、お前の脳内

810 :
>>807
日本じゃ、城は軍事拠点に作るもので、都市を囲む城壁という発想が希薄かな?
せいぜい環濠集落を形成するぐらい。
環濠集落跡は日本以外に韓国南部にもあるらしい。
吉野ケ里遺跡には、矢尻が刺さっていたり、頭が切断されてる人骨が見つかってる。
古代日本も結構物騒。
ああ人類はなんでいつも殺し合わねばならぬのか。

811 :
>>804
古代の「氏族社会」って、中世や近世の共同体社会とやっぱりなんか「におい」が違うんだよね。
それは呪術性であったり、成員が広範に擬制的に同じ血縁の一族とみなされる閉鎖性を抱えていたりとか
いろいろあるんだけど、

特に
>>810の人の指摘しているような、初期の農耕共同体の間に激しい軍事的な緊張関係があって、
相互に凄惨な殺し合いを恒常的にしている、ってのも重要な側面だと思う。

日本の古墳時代にはそういう殺し合いが止揚されてきて、防御性の集落が解消されてきちゃうわけだが。

日本の中世後期〜近世初頭に台頭してくる自治村落の間の軍事緊張もそうとうなもんだが、
なんか古代のそれと「におい」が違うんだよなぁ。この相違感、違和感って何なんだろう。

812 :
古代の氏族社会なんて実態不明なんだから
略々無臭
まあ日本列島は平安時代中期まで古代
且つ現在に至っても氏族社会だから事情が異なるが

813 :
環濠集落が本当に防御性集落かというと最近の考古学では怪しいとされてるよね
というのも木柵の外側にないとおかしい堀が内側にほどこされてるから
これだと外から攻めてくる方が有利になってしまう

弥生時代から古墳時代の軍事学の泰斗というか日本ではこの人ぐらいしか専門に研究してる人いないけど
藤原哲氏の最近の論文だと「環濠集落を巡る集団戦ではなく、“奇襲・襲撃・裏切り”といった数人単位の戦術や儀礼的なものが中心」
って結論になってる

814 :
環濠集落は稲作用の用水でしょ時代がかなり早いし

815 :
>>811
日本は、直感的には多分その「におい」でいいと思うんだ。においでは学問的議論にならんけどね。
でも中国は最初から違う気がする。
古代氏族制の時間的な射程が短いんだよ。祖先崇拝といってもたかだか数世代。
孔子ですら、西周初期に戻れというのであって、殷に戻ろうとは決して言わない。
理想郷の設定ですら、「たかが数百年しか遡及しない」。
近代人からみると、儒教が妙に合理的にみえるのはこのためなのだが、
孔子が合理的なんじゃなくて、もっと根本的な問題がある。
周の氏族制は、殷周革命より遡らないんだよ。殷末から周の征服で一度クラッシュしてる。
東の黄河下流域のクラッシュは遅れたと思われるが、とにかくクラッシュした。

816 :
孔子わ直近の統一国家が周なんだから当たり前の話
頭アベかよ

ちなみに日本列島は北条朝も足利朝も統一出来て無い唯の地方政権で春秋の覇者の様な者

817 :
弥生時代の戦闘で死んだと見られる人の遺体は青谷上寺地遺跡を例外としてほぼすべてが埋葬された状態で発見されている
これは室町時代以降の古戦場から時には乳幼児の遺骨すら発掘されるのとは対照的で
相手側集団を全滅させるような戦いがなかったという証明である

また戦場痕があるのは若い成人男性がほとんどで青年男性が数人ごとが集団を代表してそれなりのルールをもって戦っていたと考えられる
この点も沼津の千本松原のような古戦場あとからですら多くの女性人骨が見つかっている室町時代とは対照的

818 :
弥生時代って中国だと前10000年〜前5000年頃の新石器時代だからな
前5000年以降に成ると各地の文明が拡張し始める

819 :
殷周革命を画期として、それ以前とそれ以後の社会って見方は果たしていいんだろうか。

あれは周に率いられた陝西の勢力が陝東の殷を中心とした都市国家連合体を制圧した事件で、
それによって確かに陝東の社会には様々な断絶が生じているわけだが、
征服した側の陝西の社会に断絶は生じているんだろうか。

820 :
>>788>>807

徴用されてもお小遣いもらえたんでしょうかね、、、

821 :
>>816
周は、実質はもちろん、建前ですら統一国家じゃないだろ

822 :
>>815
孔子は、約2500年前の人

殷周革命からすでに500年がすぎ、その前には殷の600年、夏の500年があり、堯舜はさらにその前の人

「数百年しか遡らない」とする所以は?

823 :
>>820
小遣いあったみたいね。
秦律 司空の文言の解釈次第だけど
1日8銭とか糧食1/3斗とかの提供があったらしい。
男が月に両石、女が月に1.5石を発糧とかの文言もあるそうな。

824 :
>>823

銭納(または物納)による免役と
お小遣い制の両輪で望めば
社会保障と税負担の公平性の両方を
満足できそうではありますが

825 :
>>821
徳川将軍国が統一国家と見做されるのと同じ様に統一国家だよ
徳川朝と北条朝の中間くらい

826 :
>>825
いやいや、そんなことはない

周王は、「皇帝」というより「盟主」にずっと近い地位

形式的にも実質的にも統一王朝ではない

827 :
>>825
>徳川朝と北条朝の中間くらい

漢や唐で、やっとそれくらいの統一レベルだ

828 :
安史の乱以後の唐の朝廷は、北京を中心とする北部をコントロールできなくなっていた

無理に抑え込もうとしたところ、反乱が起きて逆に皇帝が長安から脱出する羽目になり、反省と謝罪をすることでようやく戻れた

これは、足利義満以後の室町幕府が、身内だったはずの関東公方をコントロールできなかったのに相当する状況

829 :
太宗のときは「貞観の治」、玄宗のときは「開元の治」という最盛期があったが、唐が名実ともに統一王朝だったのは、この2つの時期だけの一時的な状況

あとは、日本でいえば室町幕府みたいな群雄割拠の時代

830 :
>>826-827
先ず、北条朝足利朝に関して全く無知過ぎる
源、北条氏族わ近いんじゃ無く只の盟主、足利家に至ってわ盟主ですら無く大和朝廷レベル。
徳川朝の支配形態や実効性が後漢帝国と同程度
>>828
全く違う
安史の乱当時唐が義満期の室町幕府、黄巣の乱以降が義持〜
室町幕府が全国政権に成った時期わ実態として一度も無い

831 :
>>752
それ訳語の問題であって足利朝が存在してるって証拠にはなってないのですが

832 :
訳語の問題じゃ無く歴史認識の問題、乃ち足利朝という認識

833 :
>>832
いやdynastyって企業とかで社長一族の支配とかでも使ったりするし
日本人の考える王朝と概念が違うのよ

834 :
>>824
行政文書の竹簡の研究が進むにつれ、
秦は決して苛政なんかではないんじゃないかというイメージが出てきた気がする。

835 :
>>833
北朝鮮を金王朝と言ったりするようなもんで、日本人だって適当だわな

836 :
やっぱり前漢の張騫より後漢の班超の方が大物だよねぇ?

837 :
英語の"dynasty"だと単に世襲支配者の系譜って意味合いだけど、
漢字文化圏の「〜朝」だと「天子の執政の場」って意味が付随するんだよな。
だから、皇帝・天皇か、せめて王の政権じゃないと、となる。
そうすると、天皇から官位を与えられて政権をひらく征夷大将軍は朝廷じゃないじゃん、
ってなってしまう。

838 :
日本国王足利義満
日本国大君徳川家光

839 :
>>837
教義の王朝ではないかもしれんが広義の王朝にはあてはまる
ってだけやろ

840 :
そもそも当時の認識としては、幕府というより「鎌倉殿」・「室町殿」だからな
全国の武家社会の盟主であって、王朝でないのは明らか

室町幕府が東国に設置した関東公方も、「鎌倉殿」と呼ばれていた

日本や西欧の中世は、きわめてバラバラで分権的なのが特徴
「どの時代も同じように見える」中国史とは、その点が対照的

841 :
しかし、中国史がどの時代も同じように見えるのだって、実は錯覚、というより、意図的に作られた歴史の一貫性だ

漢が滅亡してからモンゴル帝国が大統一するまでの中国大陸は、隋の煬帝、唐の太宗・玄宗といった実力皇帝による短期統一を除けば、ずっと中世的なバラバラ状態

842 :
武家の盟主であるためには、強くなければならない
家柄や教養だけで認めてもらえる世界ではない

五代十国時代の中国や、武人政権期の高麗では、その時々で最強の武人が天下を取り、天下人がコロコロ入れ替わった

高麗では、崔氏の武人政権が四代つづいた時期もあったが、これだって、たまたま崔忠献の子孫が権力闘争に連勝しただけであり、世襲ではないという見方もある

843 :
秦漢に征服された巴蜀やビン越のえろい人たちはどうなったんでしょう?

844 :
古代ペルシャ帝国に征服された各地の酋長たちは、皮剥ぎの刑や、串刺しの刑にあっていたが?

845 :
>>840-841
他に大規模な権力体が無かったから仕方無い
唐後期の藩鎮が林立した状況でも徳川朝より直接支配して居たからね

846 :
>>842
武家社会わ血統と家支配権の絶対性が特徴

847 :
>>846
まあ、そうだな

確かに、そういう面もある

848 :
基本はヤクザだからな、武家社会の義理人情ってのは

849 :
>844
うんわけねぇーじゃん
例えばトラキア総督のセウテスとか皇帝アルタクセルクセス2世の命を狙ったクセノポンを匿ったにもかかわらず
総督の地位を剥奪すらされてねえぞ
「アナバシス」や「ダニエル書」「ネポス英雄伝」を読めばわかるがアケメネス朝の統治体制は各属州の有力者が共同でペルシャ皇帝を擁立する体制で
徴税や司法権は各州の総督に丸投げ、属州民同士が戦争しようが基本放置って方針だぞ

850 :
>>829
高宗と武則天時代も地方長官は任期制で勝手に世襲できなかったから統一政権だと思うのだが

851 :
>>849
前漢のときもほとんど一緒なので
帝国ってそんなもんじゃないっすかね

初めからヤバさを感じるのは
単于頭曼以降の冒頓時代の匈奴帝国の中の人ですか
あ、あと始皇帝さんの中の人もですね


>>836
間違いないかと思います

852 :
>>836
比べるなら張騫と甘英、班超と衛青か霍去病じゃない?

853 :
>>834
おいらは初めからそのイメージはないですね

超低識字率時代に全国一律の
完全放置国家が成立できたのかは気になりますが

秦代各地の書簡で
法律上の地域差(慣習法)的なのってあるんでしょうかね?

854 :
おいらようわからんのは
>>520の法三章のエピソードっすねぇ

これが法になじんできた関中に向けて布告されたのでなければ
なるほどとも思えるのですが
関中人民の支持を取り付けるのに利用されてるのが
めっちゃ解せないところです


出ず、稼がず、働かず、のニート三章はどの程度やってたのだろうか、、、

855 :
>>844
それはアッシリアだろう?
壁画に数々の残虐行為を誇るように描き残してるのは。
アケメネスのペルシアは穏便だったはず。

856 :
>>852
張騫は軍事的才能皆無だもんな。

857 :
>>849
岩波文庫のアナバシス読んだことがあるけど
結構、版図内にペルシア王に服さない部族が跋扈してるね。
近代国家の領土のイメージじゃないな。

858 :
ベヒストゥン碑文に描かれた、ペルシャ皇帝ダレイオス一世と9人の反乱指導者たち

この人たちは酷刑で死んだという話だ

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bd/Behistun_Inscription_Eger.png/380px-Behistun_Inscription_Eger.png

859 :
古代ペルシャ帝国のダレイオス大帝もそうだし、ブルボン朝フランス王国の太陽王ルイ14世もそうなのだが、即位直後で地方の諸侯たちが大反乱を起こし、それを鎮圧することで、かえって専制が固まった

前漢も、呉楚七国の乱を乗り切って全国支配体制を固めた

それでも、近世の明清帝国と比べたら、「皇帝」というより「盟主」に近い程度の統制力だが

860 :
モンゴル騎馬軍団の登場で、機動力が大幅にアップした

歴代王朝が、各地の豪族を儒教官僚に置き換える取り組みを五百年、千年と粘り強く続けた結果が、明清帝国の中央集権体制となって結実した

861 :
>>858
反乱には厳罰だったろう。
権力闘争なんだから。
支配下の地方の首長を皮剥にしないだろ。
アッシリアと違って。

862 :
この「地方領主から儒教官僚への置き換え」を最も強力に推進したのは宋朝

よって、宋以後は中央と地方の関係が大きく変わる

早い話が、地方のトップは「独立経営者」から「サラリーマン(それも転勤族)」に代わった

863 :
>>861
そりゃそうだろうな

アッシリアはひどすぎるな?

864 :
アケメネス朝は統一法典がなかったし、地方太守もほぼ世襲制で軍事力を有していた

秦漢には統一法典があった

865 :
>>853
秦律の地域差があるか、どの程度かはなかなかわからないかもね。
里耶秦簡(紀元前222年紀元前208年)は湖南省で出土。
睡虎地秦簡(紀元前217年に死去と思われる官吏の墓)は湖北省。
王家台秦簡も湖北省。
王家台秦簡の秦律・效律の内容は睡虎地秦簡とほぼ同じ。

これらはみんな楚の旧領。
秦が征服した地域ではあるが、
文書の決済手順などが厳格に規定されている模様。
文書行政がしっかり施行されていたと解釈できるんじゃないか?

866 :
アナバシスでは、スカスカのアケメネス朝の統治ぶりが目出つわけだが、
古代ローマでも、「黄金の驢馬」なんかを読んでると、町から離れると盗賊の治外法権地帯が目立ち
ローマ末期の5世紀になっても、イサウリア人などという、500年以上
帝国国内の領域にあり続けているはずなのに、ほぼ独立している蛮族がいきなり登場して驚く

イサウリア人がいるところとクセノポンの旅したところは近いので、あのへん限定なのかも知れないが

867 :
>>863
アッシリアがあまりに残酷でひどいので諸民族が離反した。
反乱した諸民族が結集して旗頭になったのが、
バビロン(カルデア)のナボポラッサルとその息子のネブカドネザル。
この新バビロニア王朝によって、アッシリアの天下は短命に終わる。

同様な苛政で民衆が離反し、
秦の天下が短命だったと思われてたけど、
行政竹簡が出土してきて、
あれれ?結構、まともな統治じゃん。
良民に過重な負担がかからないようにしてるし。
と、イメージが一変。
始皇帝が正義の英雄として
映画やドラマ、漫画に取り上げられ、
現在に至る。
映画キングダムのヒット、良かったね。

868 :
>>867
>映画キングダム

長澤まさみの楊端和が美しい

869 :
>>868
完全に同意。

でも史実の楊端和って普通に男の部将なんだろう?
うまくフィクション化したなぁ、と感心する。

870 :
>>858
そいつらは皇帝を僭称するという一番やってはいけないことをしたからな
カルドゥコイとかアケメネス朝の本拠地の目と鼻の先に暮らしていたのにも関わらづ一度も納税せず皇帝にも臣従せず
なのに基本放置
またエジプトやピシディアは建国当初からしょっちゅう蜂起していたのに一度もおとり潰しにあってないとこ見るとローマよりも寛容かも

871 :
>>862
中央から地方に送られてくるのは上層部だけで、あとは現地採用組

現代の人民解放軍も上層部だけは転勤族

872 :
清の朝廷にとっても、広東省などは遠い南のハテ

阿片戦争でも、なぜか清朝より日本人が危機感をもって国内改革に乗り出した

正確にいえば、「このままではイギリスに東アジアを征服される」という強烈な危機感をもったオランダが、江戸幕府に厳重に警告してきた

873 :
>>865
ほうほう

おいらの秦律理解は睡虎地どまりなのですが
けっこうしっかりしてるんですね

そうすると原本みたいなものがあったのかもしれませんね

秦の文章行政は配達から拝領まで
全部記録とってたみたいなので
しっかりというか厳格だったんじゃないかと思います
おそらく写しが発送元にも残ってるんじゃないでしょうか

874 :
>>872
太平天国を倒して洋務運動で力を付けつつあった清に対する警戒心もかなりあったんじゃないかね

875 :
>>861>>867
アッシリアのあれは自己喧伝であって
実際はそうでもなかった説みたいなの
あった気がしますね

それでもアッシリアの支配地域はやっぱ治まらない感じです

876 :
>>870
実際にはダレイオスの方が簒奪者だったらしいけどね。

877 :
>>876
キュロス2世の子孫が断絶しちゃったんだから、
傍系の誰がなっても簒奪じゃないだろう?
キュロス大王の息子の暗殺に続く大混乱を誰かが収め、
崩壊しだした帝国を再建しなくちゃならない。
とするダレイオスの主張は理にかなってる。
見事にそれをやってのけたことが重要。
ダニエル書の文言からすると、
ダレイオスはキュロス大王の政治方針を引き継ぐことを重視してる。
それが正当なキュロスの後継者であることのアピールとも言える。
そして大きな成功を収め、見事に帝国は復活、最盛期を迎えた。
後世のへそ曲がりの学者の評価なんぞより
成し遂げた実績を評価すべき。

878 :
>>873
明清に比べると、残ってる史料が圧倒的に少ない秦漢の研究って
少ない史料に基づきあれこれ推測を重ねていく感じなんかなぁ?
明清期は史料が多過ぎて、一生かけても全部に目を通せないかもしれないが。

879 :
>>878
その代わり、新たな史料が発見されるたびに、ちょっとした騒ぎになる

古代史はどこもそうだろう

880 :
班超は、鄯善国(楼蘭)に使者として行った時に、初めは歓迎されたのが次第に雰囲気が悪くなってきた。
その時北匈奴の使者も来ていたのである。

このままでは殺されると考えた班超は怯える部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子)」と勇気付けて、北匈奴の一団に切り込んだ。

班超たちは36人しかおらず北匈奴ははるかに多かったが奇襲を受けた北匈奴の使者達は慌てふためき、見事班超たちの大勝に終わった。
これにより鄯善国は漢に降伏した。

881 :2019/05/28
>>880
班超がいなければ、後漢は弱小国で終わってたな。

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