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戦国ちょっと悪い話47


1 :2019/05/08 〜 最終レス :2020/04/06
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

前スレ
戦国ちょっと悪い話46
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1533172633/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話46
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1528724750/

2 :
保守

3 :
      _  __      ___
       |ヽ \|\ \   /\__\
       | | ̄|  | ̄|  /  /   /
       | |  |  |  |  \∠,,ィ/  /
       | |  |  |  |     ./ / /
       | |  |  |  |   / / /
      /\|  |\|  |   / / /
    /  / / / /  / / /
  / ,彡⌒ ミ/ /  _/.彡⌒ ミ
/  /(´・ω・)/  /\ヽ(´・ω・)
\/,と´   ノ´    \/と´   ノフ
   ̄ 'し'(_)       ̄し'(_)~  おつ

4 :
保守

5 :


6 :
>>1


7 :
お前らなんで平日のこの時間に2ちゃんできるの?

暇なの?
夜勤なの?
自営業なの?
2部学生なの?
フリーターなの?
入院中の患者なの?
平日休みの仕事なの?
職場で書き込んでるの?
昼からはじまる仕事なの?
親元に住んでる就活生なの?
来年以降に本気出す予定なの?
貯金を食いつぶして生きてるの?
金持ちの子供で遊んで暮らせるの?
何もしなくても家賃収入でもあるの?
生活保護だから働かなくてもいいいの?
宝くじでも当たってお金たくさんあるの?
定年退職されて一日中時間有り余ってるの?
会社を解雇されて次の職探しの真っ最中なの?
精神疾患で仕事が長期休暇で自宅療養してるの?
刑務所を出所したばかりで仕事が見つからないの?
引きこもりで昼間は人目があるから外出できないの?
職場にいても仕事が無いからスマホしかやる事ないの?

8 :
>>7
自己紹介乙

9 :
>>8
お前なんで平日に2ちゃんできるの?

暇なの?
夜勤なの?
自営業なの?
2部学生なの?
フリーターなの?
入院中の患者なの?
平日休みの仕事なの?
職場で書き込んでるの?
昼からはじまる仕事なの?
親元に住んでる就活生なの?
来年以降に本気出す予定なの?
貯金を食いつぶして生きてるの?
金持ちの子供で遊んで暮らせるの?
何もしなくても家賃収入でもあるの?
生活保護だから働かなくてもいいいの?
宝くじでも当たってお金たくさんあるの?
定年退職されて一日中時間有り余ってるの?
会社を解雇されて次の職探しの真っ最中なの?
精神疾患で仕事が長期休暇で自宅療養してるの?
刑務所を出所したばかりで仕事が見つからないの?
引きこもりで昼間は人目があるから外出できないの?
職場にいても仕事が無いからスマホしかやる事ないの?

10 :
>>9
お前なんで平日に2ちゃんできるの?

11 :
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門、磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門、磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
「三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎は

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)

12 :
>>10
頭大丈夫か?休みだからに決まってるだろ

13 :
>>12
頭大丈夫か?平日なのに2ちゃんしてて

14 :
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15 :
いや義輝死んだし

16 :
>>13
頭大丈夫か?2ちゃんなのに平日してて

17 :
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 :
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。

19 :
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

20 :
さて蔵人元康は義元公討死のその影響で、速やかに元康を改めて家康と名乗り給い、その年の暮れに
伯父の野州(水野信元)の仲裁をもって家康と信長の和睦の儀これあり。

「尾州に事が起これば家康公が信長へ加勢し、三州に事が起これば信長公が家康公へ加勢する」と、
互いに起請文を取り交わして、内々に無事を作り給う。

見合わせの儀を今川衆が「家康表裏」と申すことは、まったく不届きなことである。氏真公の政道が
良くおありならば、家康公の表裏でもあろう。氏真公が悪しき大将であるとしても、家康公が今川殿
に伝わる家老ならば、それこそ人が言うのももっともである。

家康公はもともと一城の主なり。時の験に任せて属している大名と申すものである。時の験によって
属している人は、万事を投げ打って時を見合わせ、自身の立身をもっぱらにするものなれば、家康公
は今川殿の家老ではない。ゆめゆめ、表裏であるべからず。

氏真公は御歳33までも月見花見遊山の善し悪しは御存知といえども、武道の直路いささかもおあり
にならず、無下に人を見知りなさらないので、家康公がこの屋形から御心を離されたことは、もっと
も道理に当たるのである。

三略にも『義者は不仁者の為に死せず、智者は闇主の為に謀らず』という。家康公も大方はこの理で
もあったのだろう。家康公は12歳の時に菖蒲切りの勝ち負けを見定め給う。志は今に至るまで誉れ
あって、三河一国と遠江半国の主となり給う。

また時の験に属した侍と譜代の区別を、長坂長閑老と跡部大炊助殿はよくよく御存知である。

――『甲陽軍鑑』

21 :
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄元年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね

22 :
どの版本か分からないけど

享禄”三”年庚寅歳、上杉謙信輝虎公

23 :
↑途中で送った

どの版本か分からないけど

享禄”三”年庚寅歳、上杉謙信輝虎公〜

だと思うぞ

24 :
>>23
確かにご指摘通りでした間違いです
失礼しました

25 :
(勝瑞事件後)

さて、細川殿(細川持隆)の妾である岡本美濃守の娘・小少将の腹に男子1人あり(細川真之)。
実休(三好実休)はこれを聞いて男子を主君と仰ぎ、母儀を内室とする。そこで法体となり“実
休”と呼ばれ、殺奪の罪を補った。

――『三好別記』


一、実休は計りをなして讃岐守持隆の子息・掃部頭を取り立てる。掃部頭は阿波国の屋形に居住
  致したけれども、事あるごとに実休の所為に任せたのだという。

一、細川讃岐守持隆の妻女は周防国大内介(大内義興)の息女である。(持隆の自害によって)
  故郷に帰って、発心なされたのである。小少将という持隆の妾女は、岡本美作守の娘である。
  (持隆の)男子を1人生んだ。実休はこれを娶って妻とし、また男子2人女子1人を生んだ。
  長子は彦次郎長治、次男は孫六郎存保(十河存保)と称す。

――『三好家成立記』

26 :
まとめの10249「久米の乱」という
勝瑞事件の後に三好実休の舅であり、細川持隆の家臣の久米安芸守義広が
三好実休の主君殺しに怒って仇討のために起こした乱(鑓場の戦い、鑓場の義戦)があるけど
自分の娘をさしおいて主君の妾を奪うとは!という動機もあったとかなかったとか。

ついでにこのとき、久米義広に従って三好実休と戦い、ともに討ち死にした者に佐野丹波守(丹後守?)範房という人物がいた。
「源氏赤松之族 阿波佐野氏系図」によれば範房(系図には「丹波守 三好乱軍之節討死」とある)には
持貞という兄弟がいたようだが、佐野持貞については
18世紀末から19世紀初めにかけて徳島藩により成立した「阿波志」第六巻(三好郡)に記述があり、それを読むと

「源持貞 佐野次郎左衛門。赤松の族。三好に従い阪東に戦う。
持貞の子・左馬允範成、平義広(久米義広)の女を娶る。
源義賢(三好実休)が持貞に与えた感状を代々伝えている。」

「持」は細川持隆からの偏諱だろうから
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった、という戦国らしいどろどろしたお話。

27 :
と書いたところで
「義賢」は三好実休のことではなく息子の十河存保(義堅とも称した)のことで
「阪東」の戦いは長宗我部との戦いのような気がしてきた。
これだと代替わりしてそれほど悪い話じゃなかった。申し訳ない。

28 :
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラルが
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。

29 :
>>26
妾といえど主君の母なので格が上
なので正室の娘が妾に格下げされたのに怒ったのでしょうね

30 :
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 :
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 :
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい

33 :
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。

既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。

老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。

このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。

ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。

このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。

老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。

かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

34 :
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』

35 :
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36 :
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37 :
てか信虎長生きだな

38 :
(だからやばいって言ったやん・・・)

39 :
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ〜」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40 :
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41 :
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42 :
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43 :
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44 :
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

45 :
漫画『花の慶次』での有名な場面として、秀吉に謁見した前田慶次が、虎皮の裃や奇矯な袴にわざと横向きにに結った髷で、
顔を横向きに頭を下げて意地を示し、その直後に装束を改めて見事な武士っぷりを見せるというシーン。
作中でも屈指の名場面ですが

「今度は成程くすみたる程に古代に作り、髪をも常に結直し、上下衣服等迄平生に改め・・」

と『可観小説』の一文が引用されていますのはご存知の方も多いかと思います。

ですが実は可観小説にこのような個所は存在しません。

では捏造か?というとそんな訳ではなく、大正時代に前田家が編纂した『加賀藩史料』が原作者・隆慶一郎の元ネタです。
加賀藩史料は古文書や書籍からの引用文を掲載し国史体で編纂されており、慶長10年11月の個所で慶次の略伝として様々な
書籍資料から引用紹介されていますが、このエピソードは加賀藩家老今枝直方の著作『重輯雑談』からのものなんですね。
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて、それがそのまま漫画に掲載されて世に広まってしまったと。

自戒として、こういうスレに限らず元ネタと引用先は気をつけねばなりませんね。
加賀藩史料は国会図書館デジタルアーカイブでウェブ閲覧できますのでぜひご覧ください。

ちなみに可観小説の著者、加賀藩の儒者青地礼幹は直江兼続の養女(姪)の子孫です。

46 :
安宅摂津守冬康。法名・一舟軒。長慶弟。

淡路国守護。度々手柄を致す。良き大将でござった由を申し伝える。隠れ無き歌人でござった。

天下の望みがある由につき、長慶は家老の松永弾正久秀や三好下野守(宗渭)などと相談して、
後には摂津芥川の城において、吉成勘助と申す者に申し付けて成敗致した。

供に参った家子は数百人。安宅の家老・里吉と申す者などは殊の外働き、いずれも討死。味方に
も手負い死人数多ござったとの由を申し伝える。長慶嫡子・筑前守(義興)在世の時と聞き申す。

――『三好別記』

47 :
安宅冬康「三好池田の安宅屋のあたぎや羊羹でござる」
http://www.atagiya.co.jp
松永「ありがたい、お茶を点てましょう」

48 :
>>46
>供に参った家子は数百人
合戦だなもうw

49 :
週刊ジャンプであの連載で大人気って、今思うと凄いな

50 :
>>45
可観小説に書かれたエピソードは、利家を水風呂に入れる話だね。

51 :
また三好長春(長治)は淫乱不道にして、昼夜酒宴遊興ばかりなれば、酒飲みやおどけ者、軽薄者
ばかりが出世し、少しでも質実な者を「気詰まりなり」と嫌って自分の周りへも寄せ付けず、母儀
の叔父・岡本卜世(原注:岡本美濃守弟)が諫めるけれども聞かず、上下は疎み果てたのである。

また上方よりゑつた(河原者)が下り、本来を隠して勝瑞の町人になった。されども隠れなくして
傍人は付き合いを厭い、そのゑつたを追い出そうと企てたが、かの者の子は生まれ付き優れたので
長春の小姓に使われ出世したためにそれも叶わず、諸人は誹り非難した。

――『三好別記』

52 :
まだ香川家の本拠地が相模国香川荘にあった頃、
香川家の当主が狩の途中に山中で雷雨に遭い、
崖の近くの岩屋(洞穴)に逃げ込んだ。

すると岩屋には先客の老婆がおり、
濡れた体を温めるために火を焚いていた。
当主は火を借りようと老婆の側近くまで行くと、
老婆は当主が名乗ってもいないのに、
「おやおやご領主、寒かろうからこちらへ来て火にあたりなさい」
と当主が香川氏であることを言い当て、
「ご領主、峠で矢をかすめて獲物を逃がした時は惜しかったですな」
「姫君の病は今日は良いそうですね」
などと自分しかわからないような内密な話を次々と口にした。

当主は老婆を人間ではないと見抜いて、
腰に差した太刀を引き抜き、老婆の頭に切りかかった。
ところが太刀は老婆の頭に当たった瞬間、ポキリと折れてしまい、
老婆には傷ひとつ生じなかった。それでも老婆は憮然として、
「ご領主はナマクラな刀しか持っておらぬようじゃ、ならばこの太刀を進ぜましょう」
と言い、見るからも優麗な太刀を差し出したという。
以来、当主はその太刀を香川家の宝刀として珍重した。
人々はその太刀の名を岩屋に因んで「岩屋の太刀」と呼んだという。

53 :
>>52
妖怪退治の話しかと思ったら宝刀を貰ったちょっといい話?

54 :
この場合の憮然はがっかりでいいのか

55 :
>>52
この刀の持ち主がみんな頭の傷や病気で死ぬ呪いとかそういう話ではないんだなw

56 :
>>52
讃岐国香川郡に住まう平氏だから香川氏だと思ってたわ

57 :
三好筑前守(義興)。実名存ぜず。長慶嫡子。

摂津芥川に在城。20歳ばかりで病死致されたとの由を申す。

由座(遊佐か)・畠山(高政)が飯盛の城へ押し寄せて長慶は少ない人数で籠城したため、落城と極
まるところに筑前守は芥川の城でこれを聞き申され、松永(久秀)と相談して「後巻致されるべし」
と談合は極まった。

しかしながら、少ない人数のために成し難いため、安宅摂津守(冬康)に「味方に加わりなされ」と
三好下野(宗渭)を使者にして淡路へ差し遣された。安宅は同心申されて、松永・安宅が先手となり
筑前守は飯盛の後巻として出陣、大敵を一戦で追い払い申された(教興寺の戦い)。この時、筑前守
18歳という。

松永と安宅が先陣を争い申された時の筑前守の裁判は肝を潰したとの由を、三好因幡(為三。宗渭の
弟)の話で承った。

この時に下野守が淡路へ参って帰り、筑前守は「安宅は味方を致しなさると申されたか」と、尋ねな
された。これに下野守は申して「いかにも御同心です。しかしながら、安宅殿に似合い申さぬことを
仰せられました。『御合戦が御利運となったならば、どこの国を下されるのか』と御申しです」との
由を物語り致した。

これに筑前守が「返事はどのように申したのだ」と尋ねなさると、下野守は「『御国はいずこなりと
も御望み次第』と請け合い申しました」との由を申した。

すると松永はこれを聞いて「下野殿とも思えぬ返事を申される。どうして『天下を進ぜられましょう』
と申されなかったのか」と申したという。

この由を側で承ったように因幡は話申された。

――『三好別記』

58 :
>>34
珍しく長閑を褒めてるね

59 :
>>51
ゑつた、つまり穢多のことですね

60 :
>>57
天下の望みが本当かどうかの確認ですね

61 :
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事

62 :
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 :
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」

64 :
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事

65 :
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 :
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 :
こきつね

68 :
足利義冬より之系図

義冬(足利義維)

尊氏公十代の京都の公方・義稙公の長男(11代義澄の子。義稙は養父)。平島の元祖なり。永正
6年(1509)、京都で生まれる。母は細川讃岐守成元(成之)の娘。天文3年(1534)、
都から阿波国へ下向して那東郡平島庄に居住す。天正元年(1573)10月8日、平島で卒去。
同所西光寺に葬る。年65歳。法名・中山。

義冬が都から阿波国へ下向した趣きは将軍・義稙公の御台を清雲院と申し、阿波国の前細川讃岐守
成元の息女で義冬の母なり。

ところがこの清雲院殿は、ふと狂乱のようになられることにより、義稙公と不和になり給う。それ
故に子息の義冬を少しも寵愛なさらず、あまつさえ公家から御台を迎えなさり、清雲院殿も義冬も
嘆かわしい有様でおられた。

それにより新御台は義冬のことを様々讒言しなさる故、父子の間はいよいよ不和になり給うにつき、
義稙は世を(家督を)義高か義晴に御譲りなさるとの御内存であった。これは皆、新御台に近き一
門である故なり。

これによって清雲院殿と義冬はともに天文3年に四国へと志して下りなさったが、まず淡路志筑の
浦にしばらく居住しなさったところを細川讃岐守から迎船を遣わし、義冬を阿波へ招き受けて平島
に居住させたのである。

義親(14代義栄)

義冬の長男なり。天文7年(1538)、阿波国平島で生まれる。母は周防国の大内介(大内義興)
の娘なり。永禄9年(1566)10月20日、阿波国撫養で卒去。同平島に葬る。年29歳。法
名・国山。内室は結城氏。

義助

義冬の次男なり。天文10年(1541)、平島で生まれる。母は右に同じ。義親が早世故、義助
を惣領に立て義冬の家を継ぐ。文禄元年(1592)7月2日、平島で卒去。同所に葬る。年52
歳。法名・宝山。

義任

義冬の三男なり。天文12年(1543)、平島で生まれる。母は右に同じ。文禄年中に卒去。萩
原光勝院明岳和尚の父なり。

義種

義助の息男。天正2年(1574)9月2日、平島で生まれる。母は周防国の大内介の一族、柳沢
主膳正の娘なり。

義次

義種の息男。平島又八郎と号す。慶長元年(1596)9月23日に平島で生まれる。母は水無瀬
中納言の娘なり。

義景

義次の嫡子なり。元和2年(1616)、平島で生まれる。平島又次郎と号す。

――『阿州将裔記』

69 :
松永弾正(久秀)の従弟に松永喜内という若者がいた。以前は大和の宇多にいたのだが、その頃は牢人
していたのを、弾正の計らいで義親(足利義栄)に付け置いた。

しかしながら、殊の外に不行儀者で義親の命にも従わないため、義親は喜内を手討ちになさった。

松永はこれを聞いて憤りを含むといえども、義親の道理至極であるためにどうしようもなく、上目には
変わることはなかったが、心中に遺恨を差し挟んで義親と松永は不快のようになった。

そんなところで義親は不運にして病気が差し出て、普門寺から阿波へ帰るとして撫養という所で永禄9
年(1566)10月8日に相果てられた。

義親の逝去は弾正が鴆毒を与えたためという沙汰がある。しかしながら事実ではあるまじきことである。

――『阿州将裔記』

70 :
右の他に三好家は数多存在し、阿波国の所々に居城す。また五畿内には三好山城守入道笑巌
(康長)・同日向守(長逸)・同下野守入道釣閑斎(宗渭)・岩成主税助(友通)・松永弾
正(久秀)とかれこれ所々に居住す。

讃岐には十河一存・瀧宮豊後守、伊予には真辺・石川、淡路には安宅・野口、これは皆実休
(三好実休)に近き一門なり。

国を守護して三好家は繁栄したが、長治(三好長治)が悪心である故に一類は互いに遺恨が
出てきて、親子兄弟が立ち別れて敵となり味方となり、討ちつ討たれつ相果てた。また土佐
の元親(長宗我部元親)にも大方討たれ、信長公・秀吉公の代にもあるいは討たれ、または
他国へ落ち行き、ついに滅んだ。

――『阿州将裔記』

71 :
敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法 [無断転載禁止]
https://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1494619655/

戦国板にもこういうネタスレがありますが、海外ではマジにこういう戦法が日本であったと思われているらしい。
欧州の研究家が江戸時代の軍記物のネタ話を丸写しで信用し、そのまま出典として引用しちゃったそうで・・

The Samurai Capture a King: Okinawa 1609
著者: Stephen Turnbull
https://books.google.co.jp/books?id=hF21CwAAQBAJ&pg=PA50&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=2#v=onepage&q&f=false

72 :
>>71
まあ日本でも三国志のぶっ飛んだ逸話信じてる人いるししゃーない

73 :
>>72
同じ伝記でも水滸伝だと完全にフィクションだろってことでスルーなんだけど、
下手に歴史物な三国志だと信じる人結構多くなっちゃうねい。

74 :
鈴木真哉「戦国時代の計略大全」p189だと
甲州流、北条流などの軍学書にな、蛇攻め、もしくは蛇責めというものがあるが中身の説明はまったくないので実態不明。
浸し攻めと並ぶ水攻めの方法の一つ、と書いたものがあるから
蛇が水没したねぐらから城に入って人々を苦しめる程度の小規模の水攻めだろう

としていた。

「蛇を撒く」だと、むしろ
フラウィウス・ヨセフス「ユダヤ古代誌」にある、
エチオピアがエジプトを攻めた際、モーセが敵陣に奇襲をかけるために
蛇がうようよする内陸の道を、蛇を食べるトキを連れて通り、見事奇襲に成功した。
という映画「十戒」でもネタにされている話の方が近いような。

75 :
>>72
薩摩の琉球攻めの軍記物だから、三国志演義の南蛮攻略とほぼ同じノリなんだよねえ
おそらく実際に参考にしてると思う

76 :
前田利常が蛇責めやってたゾ

77 :
>>76
拷問と城攻めを一緒にしちゃいかん

78 :
スサノオがオオクニヌシにやってたゾ

79 :
著者のタンブル氏は欧米で東アジア戦史に関しては、日本で言えば小和田・本郷ポジションだもんな
思い込みと資料の未精査と誤訳も多いけど

80 :
>>71
薩摩の琉球侵攻作戦にしか見えない
ハブ撒いたの琉球じゃん

81 :
Kindleで出てたから買って読んだら
・1942年にドイツ語で薩摩の琉球侵攻の本が出ているが
軍記物を参考にしていてあてにならない
・良質な史料としては琉球サイドの喜屋武親方の「喜屋武日記」
薩摩サイドの「琉球渡海実記」「琉球軍記(軍記とはあるが史実的に正確)」
・軍記物で記述されてる人物も実在の人物と乖離しているものとしては「島津琉球軍精記」それを基にした「絵本琉球軍記」がある
・何百匹ものハブを集めて放した話は「喜屋武日記」にはないが薩摩方の記録にある

となっていた。
ぱっと読んで違和感があったのは
・島津忠久は頼朝の庶子。頼朝が嫉妬深い正妻から離すために忠久を遠国の領主とした
・琉球の初代国王舜天は追放先から逃亡した源為朝の子供と言われるが、為朝には追ってきた船を矢を放って沈没させたあと切腹したという説もある。
(外国の読者に、矢で船を沈没させるよりは逃亡した方がありえそう、と思わせるような内容)

82 :
一、細川讃岐守持隆の内室は、周防国の大内介(大内義興)の息女なり。この内室の妹を持隆は呼び越し、
  義冬(足利義維)の御台にした。義冬の行末のことを持隆は思って、このように調えたのだという。

一、細川讃岐守持隆がある時に家老と三好一族を呼び集めて申したことには、「義冬公を当国に長く置き
  奉ることは、いたましく存ずるなり。各々の知略をもって義冬を一度天下に据え申したいと念願して
  おるのだ。どのようにすれば良いか」と申せば、いずれの者も同心した。

  そんなところで三好豊前守義賢(実休)1人がこの事に同心せず、あまつさえ顔色を変え持隆を散々
  に罵った。持隆は言うに及ばず、座中の皆が案に相違すると思ったのである。

  持隆はこの事を口惜しく思い、まず義賢を討ち果たして憤りを散じようとして近習の侍どもに密かに
  内談し給うと、四宮与吉兵衛という者は義賢に返忠して、これを告げ知らせたのである。

  これにより義賢は思案して近習の者をもって申したことには、「先に持隆が仰せになられたことをそ
  の時に同心仕らず、私としてもその事で戸惑っています」との由を、持隆の機嫌の良きように申しな
  した。さてその後に手勢、また近き所の一族を義賢は密かに呼び寄せ、勝瑞に近いあちこちの村里に
  隠し置いた。

  義賢はかの四宮をもって持隆へ申し、「北の河原で御逍遥(散歩)なされませ」と諸々謀り申した故、
  持隆は逆心とは思いも寄らず、天文21年(1552)8月19日に見性寺の前へ出給う。義賢が隠
  し置いた人数は一度に押し寄せ、持隆を取り囲んで鬨の声を揚げた。
  
  持隆はかねて無勢の上、供の者どもは落ち散り防ぐ術もなく、どうしようもないところで星合弥三郎
  と蓮池清助という者2人が踏み止まって持隆を見性寺へ退かせた。

  義賢の弟・一存(十河一存)が込み入って持隆をただちに討ち取ろうとしたのを、清助が押し隔てて
  防ぐ中、持隆は切腹して星合が介錯した。この2人の者は常々持隆の厚恩もない者どもであったが、
  義を守り2人ともに立ったままで切腹した。

一、持隆の外戚腹に六郎という幼少の男子がいた。義賢が申すには「持隆を討ち奉ったのは身の災いを逃
  れるためである。六郎殿に恨みはない。主君に崇めん」として、六郎を育て置いた。細川六郎掃部頭
  真元(真之)これなり。この真元の母は阿波国西条村の岡本美濃守の息女である(小少将)。持隆の
  死後に義賢は真元の母を妻とし男子2人をもうけた。一男は彦次郎長治、次男は孫六郎存保という。

一、返忠の四宮与吉兵衛は「無道の者なり」として、義賢は四宮を翌年の春に誅した。

――『阿州将裔記』

83 :
>>81

英文だからしかたないが誤字ありますね
薩摩の琉球侵攻の薩摩・琉球それぞれの一次史料とされるのが、市来孫兵衛『琉球渡海日々記』、喜安『喜安日記』

影佐『琉球軍記(琉球入ノ記)』はさほど年月が経たない時期に書かれたとされていますが、七島衆(吐?喇列島)の
船頭衆が功績を誇示するためにかなり膨らませて書いたと考察されてますんで、あんま参考にしない方がいいかと思います

一次史料を見る限りは沖縄本島での戦闘は、首里の手前で100余人の琉球軍が薩摩軍の鉄砲で散々に打ち破られたという程度
(ただし薩摩軍は行く先々で放火してますが)
以前NHKの琉球特番でもやった、那覇港要塞の火砲で島津船団を撃退したというのは琉球軍記の記述です
でもこれもどうやら・・

84 :
>>83
原文のローマ字表記をこんな漢字だろう、としてみたら随分違いました
ちゃんと原文通り書けばよかったですね、すいません

85 :
https://i.pinimg.com/originals/4f/fd/32/4ffd32696d17a0d13c814d38a57c65b0.jpg
https://i.pinimg.com/236x/c2/51/2d/c2512d1808a489d1399889d3486f679d--samurai-wars-katana.jpg

資料の存在しない琉球軍の想像図が酷過ぎるが、まあ日本人も外国中世風ファンタジーではよくやってるからいいか(よくないけど)

86 :
ところで、琉球時代の歌謡集『おもろさうし』では、薩摩軍の侵攻などを歌った部分に、薩摩兵を前坊主(まえぼじや)と呼んでいるので、
月代を剃っていたのが確実視されているとか

87 :
そのあたりの記述
琉球の防衛側の武装については島津に比べほとんど不明。
おそらくは原始的でないにしろ島津より劣っていただろう。
もともと日本や明から武器を輸入していたのだが、1450年代の倭寇のせいで明の福建の商人が琉球に武器を売らなくなってしまった。
また明同様、日本刀は珍重されていたが長いkatanaは実用的ではないため短いwakizashiを使っていたと思われる。
木製の盾も使っていた。
おそらく日中折衷の武装で弓、刀、槍、銃、ハルバード(中国式の広い刃か日本式のnaginata)も使っていた。
琉球の王は早くから火器を取り入れており、1450年代の朝鮮の漂流民は琉球での火器仕様について触れている。
喜安日記には「敵軍(島津)は弾を浴びせながら橋を攻略してきた。我々はそのような銃は知らなかった」と書いてあるが
それは一斉射撃を知らなかっただけで火縄銃自体はあったと思われる。
また石火矢という琉球製の大砲もあり、1貫(3.75kg)の弾を発射したとされるが、
これは首里城から発掘された直径7-9cmの弾と合致する。
また石火矢は那覇港にも設置された。

88 :
陣中においては人気が立つものと云う。その気に生死吉兆があり、物慣れた人はこれをよく見分けるのだそうだ。

大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。

(甲子夜話)

89 :
『偽のなき世なりせば世の間に たが誠をもうれしからまし(『いつわりのなき世なりせばいかばかり
人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、

この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。

高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、

今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。

長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』

90 :
>>87
https://thetv.jp/i/nw/103166/570881.jpg
沖縄の琉球放送で製作した特別ドラマ「尚巴志」の画像だけど、まあ実際の15世紀初めもこんなもんだったんじゃないかってことだそうですよ。
頭だったものは日本式の武装で、あとは手に入るめぼしい武器、雑兵は平服に棍棒だとか。

中国や東南アジアの武器が出土しているにしろ、必ずしも異国風が主流ではなく、やっぱり本土日本風らしく、例えば博多や堺で
中国南蛮の出土品が見つかったからといって、当時の風俗が中国南蛮風だったかというとそうじゃないようなもので。


でもこういう厨二風の独自のやつもあるので、なんかわくわくしますね琉球時代の沖縄。
https://vps8-d.kuku.lu/files/20190531-1848_ac8b40959509e14bf60d30ebc0413f15.jpg

https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/21/21195/15959_1_首里城京の内跡出土品展.pdf

91 :
>>89
さすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか

92 :
外人さんの価値観で日本史を再構築されるのなんか嫌だ。
意識高い系の黒人さん達が弥助をモデルに映画化するんだけどちょっと美化が過ぎる。
奴隷じゃなかったとか、日本では仏像が黒いから尊敬の対象として見られてたとか
現代の価値観でブラッシュアップしすぎ。

93 :
でキャストも日本人一人もいなかったりしてねw

94 :
日本人だってヒラコーとかが好き勝手やってるから無問題

95 :
>>93
さすがに1人はいるだろう…渡辺謙とか

96 :
仏像が黒いのは禅宗ダゾ
うちは浄土系だから金ピカ

97 :
大国主(おおくにぬし)→ダイコク→大黒天(マハーカーラ)の垂迹
大きくて黒い男が神様仏様扱いされても問題ない気が

98 :
>>97
宣教師の記録見ても日本人の記録見ても、どうみても珍獣扱いなんですが

99 :
>>86
沖縄で波平スタイルのひとはどういう扱いだったのか

100 :
坊さんだったらまた違ったろうが奴隷だしな…>弥助


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