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もしも斉藤義龍や三好長慶が長生きしていたら


1 :2013/08/27 〜 最終レス :2016/10/15
信長の勢力拡張はなかったのでしょうか?

それとも東(三河方面)や西(伊勢方面)に拡張していたのでしょうか?

2 :
信長死亡確定

3 :
長慶が長生きしてれば足利義輝も長生きしてた?

4 :
まあ無理だな
美濃取れたのもアホの龍興になって三人衆が寝返ったりしたおかげだし
義龍は信長の勢力拡大抑えるだけな奴だろうが長慶が長生きしてたらどうなってたんだろうな

5 :
長慶も義龍も早死にし過ぎ。

6 :
美濃三人衆なんて全員が元土岐の家臣だし忠誠度は話にもならん
義龍が劣勢になったらあっさり信長につくだろうな
浅井織田と敵に回してどう立ち回るかは義龍次第だろうが
どっちにせよ三好長慶も斎藤義龍も生誕年が1520年代だから
平均寿命考えても1570年代にはくたばる。信長の拡大スピードが遅くなるくらいの影響力でしかないな

7 :
くたばるのが70年代なら義龍の行ってた宗教改革など国内の統治は行き届き
不安定な美濃の情勢はより一層解消されるはずだろ。
しかもその頃には既に龍興は幼君ではなく青年になってる。
どう考えても美濃への拡張が無理だな。あとは伊勢か三河に勢力のばすしかないけど
義龍時代は尾張国内での謀反を煽られたり劣勢だった事考えると信長のニ方面作戦は容易ではなくなるだろう。

8 :
龍興暗愚説が定着してるけど、実は単に逃亡したんじゃなくて、反信長の大名に逃げて最後の最後まで信長に抵抗してるし、それは評価できる。
青年になって何事もなく家督継いでたら少しは変わってたかもしれない。
三好家に関しては長慶より義興が長生きしていたらってつくづく思う。

9 :
義龍が死ぬまでうまくやる保証はないからな
道三だって当初はうまくやっていたのに最期は非業の死

10 :
義龍が活躍すればするほど織田浅井武田が同盟するだろうよ

11 :
長慶生きててもな
一存は死んだまま?

12 :
長慶一人が長生きしても三兄弟と義興がいなければ意味無いよね

13 :
※斉藤義龍解説基本テンプレ
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺をRしかねーな!」
道三の美濃統治は不安定なもので、 木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが 越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、 天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく 追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に 義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。
道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し 1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、 用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を 国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。 知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、 弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。 信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。 これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、 別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

14 :
内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。 幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら 為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣ら国衆が謙信政権に参加した時とされてる。
長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。 信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には 道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。
合議制は六角が重臣に強要されたり、 斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚と義龍や晴信や輝虎が合議制の導入。
また今川義元が雪斎の意見に従い合議制を導入。 北条も合議制導入。秀吉の五大老制移行も合議制。
伊賀や大和や摂津や和泉も国人のコミュ二ティー間の合議。
信長は盲目的に封権制を推進し、 時計の針を逆にしようとしたから時代の空気に殺された。
快川紹喜は美濃の人心を得ていて、 それを背景に斎藤義龍と対立して京都にも飛び火してる。
それが原因で義龍は暗殺されたとする説もあるくらい。
その後の斎藤龍興は政策は180度変更し快川紹喜との宥和を図っており、
斎藤家末期の外交の手助けをして、信長から申し出て成立していた織田武田同盟の解消を目指したりした。
また義龍7回忌を指揮している。 快川紹喜をRことは美濃の人心を失うと言うことに等しい。
快川紹喜暗殺の実行犯の信忠まで巻き込まれたのは偶然ではあるまい。
そもそも信長が卑劣漢なのは、義龍7回忌や信玄7回忌(死去を3年秘していた為)で、国中の国人が参列し武装解除し喪に服して悼んでいる時期を狙って、
攻め込んだために斎藤も武田もほとんど抵抗らしい抵抗もせずに滅亡しており、信長が国を盗んでいることからもわかる。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。

15 :
1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。

16 :
その後の情勢

濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け。結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w

17 :
三好政権崩壊への基本テンプレ
父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。

18 :
信長の上洛戦を支援するために三好義継が河内津田城と久秀がいる大和多聞城を行き来し指揮を執り、
それに呼応していた畠山軍は三好三人衆の経済的権力の源泉である堺で攻防戦を繰り返して三好三人衆を疲弊させていた。
その隙を見て美濃立政寺へ移動した義昭を追って、石成友通が近江へ入り六角承偵親子と戦準備しているのを阻止するため
信長の気がまた変らないうちに義継と久秀が東大寺戦線で一斉反撃に出た。東大寺戦線が崩壊すると京が占領されてしまうので
9/4には再度、石成が東大寺戦線に駆けつけてる。これで兵力不足を見た信長が9/7に上洛戦を開始。
しかし石成は電撃的に近江戦線へ駆けつけて織田軍を9/8に大破し、また東大寺へ戻ってる。
三好三人衆は当時、和泉戦線・摂津戦線・河内戦線・大和戦線・近江戦線で大和国人や将軍奉公衆などと戦っていた。
ほかにも松永久秀の弟の子で丹波守護代内藤如安や 長慶が叔母と離縁したことに激怒して反三好に転じていた波多野秀治
反三好の姿勢をずっと貫いていた丹波の赤鬼の荻野直正などが 三好三人衆と戦っていたから丹波戦線もあったよ。
ほぼ三好三人衆は義昭擁立勢力によって完全に反三好勢力に包囲されていたと言っていい。
だから信長の無能ぶりだけが顕著に現れた形だったのに、信長はぜんぶ俺の功績とばかりに得意がっていたチンピラ脳
ちなみに大和に三好軍が侵攻した際に 危機感をもった伊賀では反三好の伊賀惣国一揆が組織されていたし
若狭国は将軍領なので、当然に若狭武田氏も義昭支持にまわってたし
頼みの綱の石山本願寺まで信長上洛支援だったから 三好三人衆は各地で兵力不足に陥り完全に涙目だった。

19 :
コピペ連投に走ったってことは要するに大したことないってことだなw

20 :
アスペルガーだがが沸いたので今日のまともなレスは終了

21 :
レス内容が信長公記全否定だからなw
織田ちゅうがパシリ小悪党のように罵詈雑言だけを残して涙目逃亡w

22 :
本当に板の癌だなだが

23 :
斉藤義龍はどうでもいいとして三好長慶は足利義輝との関係がどうなっているかが
問題だろう。
信長は足利義昭を奉じて上洛しているわけだから、三好長慶が足利義輝を弑逆しなければ
上洛の前提事態が無い。

24 :
いや、そもそも義龍が死ななければ、尾張を半分奪い取っていう義龍によって信長が討ち死にに追い込まれている。

25 :
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶と
畿内の有力武将は次々病死した上に、六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。
足利義昭が信長の下に訪れ、六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくるとここまでお膳立てされたのが
信長の上洛
このうち斉藤や三好長慶は、単体で長生きしても信長はまず美濃方面畿内方面の拡張は無理だし
他の連中も二人以上生きてたらまず成功しないだろ。

26 :
詳しい基本情報テンプレは助かるわ〜。
織田厨みたいな軍記講談準拠のコーエー武将ファイル並みの知識のゲーム脳のやつの
蒙昧愚昧さを啓発できるテンプレは、
板の基本的知識の向上による議論の質的向上につながるしね。

27 :
>>24
まだほら吹き和尚の戯言を信じているのか?だがよ

28 :
>>27
ほら吹きはお前だ織田厨。
はやく自覚出来るようになるといいな。
自覚出来ないうちは鏡に映る自分に攻撃しようとする動物ランク脳。

29 :
だがと言われて反応した時点でやっぱりお前の自演だとバレたことわかっている?

30 :
>>25
長慶だけ生きててもなぁ…
弟達が死んでたら割とダメじゃないか
弟達も生きてる設定なら信長の台頭なんか許さないだろうが

31 :
>>30
すでに>>11-12で出てる

32 :
いやいや、長慶には一切、歯向かわなかった松永久秀など
きちんと人材統御をしていたら内乱勃発もせず
三好王国は崩壊してない。

33 :
三好家の後継者が養子のガキじゃ従わないよな〜。
ただでさえ阿波や讃岐の三好家を統御するのは難易度高いんだから。

34 :
それに摂津国衆と阿波国衆の伝統的な対立もある

35 :
義龍も長慶も長生きしたところで史実とあまり変わらないよ

36 :
義龍長生きしたら信長の美濃方面の拡張は無理。
斉藤の瓦解要因がなくなる。
長慶が長生きしたらもっと無理。下手すりゃ信長領国の尾張まで斉藤に侵略されてアボーン

37 :
十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶と
畿内の有力武将は次々病死した上に、六角も北畠も斉藤も内訌で崩壊。
足利義昭が信長の下に訪れ、六角義秀や和田や浅井の援軍を受けまくるとここまでお膳立てされたのが
信長の上洛
このうち斉藤や三好長慶は、単体で長生きしても信長はまず美濃方面畿内方面の拡張は無理だし
他の連中も二人以上生きてたらまず成功しないだろ。

38 :
信長の勢力拡張ってほとんど棚ボタなんだよな

39 :
>>36-38
アスペルガーだがの自演荒らしなのでスルー奨励

40 :
真っ当な意見書くとレッテル張りで議論から目を背けようとするアホが例のごとく暴れてるなw

41 :
>>1の条件なら伊勢方面か三河方面に侵攻するしかないよな。
それでも斉藤側から尾張へ攻勢かけたりする事を想定するとかなり厳しいものがあるが。

42 :
六角あたりに講和の仲介を頼めたりは、できないか

43 :
信長仕方が無いので家康攻めたらフルボッコされ討ち死に終了。。

44 :
織田信長がやったことを斎藤義龍がやるだけ
武田家の滅亡は絶対不可避です

45 :
武田が駿河遠江三河と占領して拡張の滞った織田を瞬殺して終了

46 :
上杉北条斎藤のタコ殴りを受け武田が瞬殺で終了するのは理解した

47 :
義龍の馬のたずなを引いて額づく上総守信長www
馬上の義龍に上総介っての知ってる?とか馬鹿にされるも気づかないアホ長www

48 :
>>44
いやそもそも斎藤義龍がそこまで行くのは無理

歴史上斎藤家が滅んだ要因は様々あるが、一番の原因として織田−浅井の連携攻撃に
家臣団が統率を欠いて、にっちもさっちもいかなくなったため。そしてこの状況を作り出したのは
斎藤が頼みとしていた六角氏の衰退が原因。斎藤義龍が生きていても六角の衰退は止められないので
結局斎藤は敵に囲まれて死滅する。三好長慶が生存していたと仮定すると、長慶と対立していた六角の衰退はもっと早い。
最悪三好−織田の連携攻撃で美濃は瞬殺される。どちらの手に領土が渡るかは不明。

三好長慶の場合は、長慶以外の人物は例外なく史実通りに死亡すると仮定されるので、
結局三好家の衰退を止められる気配はない。ただし長慶が生存することで、足利義輝(史実では三好義継や松永久秀らに殺される)の
寿命が幾何伸びる可能性があるので、ある程度三好家の崩壊は後の話になることが予想される。

結論として、平均寿命から考えても斎藤義龍や三好長慶が生存したところで歴史の大局に影響はなく、
この2人の死亡年は1570年前半のこととなる。対立構図や各大名の状況が変わるわけではないので、
足利義昭が頼る先はやはり織田信長の可能性が高い。加算して織田信長の上洛は1573〜1575年頃の話となり、
それ以降は史実通りの反信長連合が形成されることになるだろう。

49 :
>>48
結局は>>35と同じってことだな
やはり史実の修正作用は強い-

50 :
長慶末期には、提携していた畠山氏が完全衰退したために、
六角承偵は三好との共存体制に移行してるのに無知晒してんじゃねーよw
だから義昭の上洛戦の時に三好が六角義治の援軍に現れてるのに。
浅井と織田の同盟にしたって信長が指導したわけじゃなく受け身だから必ず起きるとは言えないし、
そもそも長慶が生きていたら義輝が死ぬことは無くなり、
義昭の上洛戦自体が発生しない。
さらに言えば、六角内訌衰退の原因は第一次義昭上洛戦での信長の斎藤への裏切り奇襲大敗が原因。
これで六角は、あくまで上洛狙い派と諦める派に大分裂。

51 :
>>48
義龍は最高意志決定機関の宿老制を作り重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系を完成させ、
土岐氏の官僚機構を 国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していった叡主であり、
家臣団の意見を吸い上げて諮っているので、義龍が生きていれば生きているほど斉藤家臣団は団結していくし、
六角と斉藤の婚姻話が、道三の血を卑下して家格に合わない&土岐氏に遠慮してた六角義賢の反対でポシャっていたように、
斉藤は別に六角を頼みになんてしてない。むしろ信長同様にデタラメ統治をしていた道三と違って革命していた。
もっと言えば、三好軍は大津までしか進出したことがない。もともと三好には六角を潰す意思なんてもってないからだ。
それなのにお前がアホなのは、斉藤が頼りにしていた六角が三好に滅ぼされると言うトンデモなく恥ずかしいレベルの無知で信長擁護をしていることだ。

52 :
三好長慶 1522年3月
織田信長 1534年6月
斎藤義龍 1527年7月
義昭の上洛成功年 1568年
長慶 46歳
信長 34歳
義龍 41歳
当時の平均寿命で考えても生きている可能性は高い

53 :
>>50
その考察は全く意味がない
まず六角・三好がガッチリ提携を結んだのは三好長慶の死後であり
しかもその目的は織田信長と結びついた足利義昭に抗するため。
足利義輝と三好長慶が存在している以上、六角と三好が盤石な基盤を築けるとは考えにくい。
よしんばそれを築けたとしても、六角と三好では勢力差がありすぎて三好に取り込まれる。
その場合六角が滅ぼされると言うよりは、三好の完全な指揮下に組み込まれることになり、いずれにせよ斎藤は三好との対応を考えさせられることになるのは変わらない。

>>51
それは「三好長慶があっさりと死んだ」『史実』の話だから全く意味がないね。
足利義輝が死んだ史実ですら、三好につくか足利につくか決めかねていたくらいの六角だし、
元より三好長慶とは多く戦争を繰り広げていて、六角がどう思っていたにせよ、三好長慶の心証は全く思わしくないことに違いはない。
結局、「三好長慶が死なない」と言うことは「足利義輝」も死なない可能性が高く、三好長慶と足利義輝の対立は続行されるわけだから
六角が足利に味方しない理由はないし、その六角と盟を結んだ斎藤も足利に味方する可能性は高い。
六角斎藤同盟は六角義賢が反対していたと言うだけで、斎藤方は大いにアテにしていたじゃん。アテにしていないのなら結ばなければいいだけだし

54 :
>>53
先ず断っておくけどあんたの言っていることは正しい
その上で言うけどアスペルガーだがを相手にしているあんたは間違っている
ID:KY/2I9Zf=アスペルガーだが
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130831/S1kvMkk5WmY.html

こいつは議論する気も知識も無いのにかまって欲しいがためスレ荒らしをしているだけ
そんなのを相手にしていると他のまともな人がレスできなくなる
まともな議論の場にしたいならそんなキチガイは放っておけ

55 :
論破されそうになるとレッテル貼りで議論から逃げようとする織田厨のいつものパターンなw

56 :
スレの流れを見ると論破されたのはアスペルガーだがの方だな

57 :
>>53
永禄5年5/20に三好義興が河内教興寺で畠山高政に大勝利を挙げた為に
6/2に六角義賢が三好長慶と和睦してるのも知らんとかアホ杉w
お前知らんくせにテキトー書いてんじゃねーよ。
六角単独では三好にはまったく歯が立たないから、
常に六角は畠山と共同して蜂起してんの。
だけど、この戦いで畠山は決定的大敗をしてしまい、
河内を三好に奪われ、親畠山だった大和も松永に奪われ崩壊。
六角は三好との共存路線へ転換してんだよカス

58 :
嘘をつくな
共存路線の転換なんかしてない

59 :
畠山は仲間の根来寺衆徒まで
根こそぎ討たれて崩壊したからな。
これで御湯殿上日記6/2の条で
三好と六角の和睦と書かれてるね。
六角が和睦したのに続いて永禄6年10/16には
根来寺も三好と和睦。
反三好の旗頭だった細川晴元もすでに摂津で長慶の庇護を受けていて、
永禄6年3/1に死去、12/20には細川氏綱も死去し、
細川管領家の争いにも終止符が打たれた。
こんな状態だから、六角には反三好の旗頭すら存在しないのに、
わざわざ三好と敵対するメリットすらない。
だいたい六角軍が京から西に進軍したことすら無いのに
畠山衰退後に本気で三好とやり合う気など無い。

60 :
>>59
また自演荒らしが始まったか

61 :
>>54
きょうのだがのIDは神IDだな
奴の性格をよく表してる
>>56
今日も連敗街道まっしぐらだな、奴は

62 :
また織田厨が負けちゃったのかw

63 :
レッテル張りとか「だが」という言葉が聴けたら織田厨が論破されたと思っていいからな

64 :
論破されたID:KY/2I9Zfが顔を真っ赤にして逃亡中

65 :
だがの池上マンセー妄想史観がもろに打ち砕かれるw
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%8F%A2%E6%9B%B8_%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

66 :
ん?そこで俺が自演することで得られるメリットってあんの?
意味不明すぎる。。。
それが俺自身のレスとしたら、別にID変える必要なくね?
つかID変える工作なんてしてないし。

67 :
>>66
論破されたことを誤魔化して恥ずかしいやつだ

68 :
論破?w
えっどのレスで?w
いよいよ織田厨は統合失調症らしさを発揮し始めたなw

69 :
否定されているのに気がつかないフリとはさすが
このまま逃げに突っ走るならそれでもいいぞ

70 :
織田厨の脳内妄想得意技!いつもの常勝エア論破宣言www誰か精神科医を紹介してやってwww

71 :
三好氏の崩壊に至っては、長慶はあまり関係が無い
長慶が生きている間は絶対に足利義輝は死なないから。
長慶が死んだ事により生かされていた義輝が死んだからな。
義輝は最後まで自分の権威を勘違いしていたと言える。
むしろ篠原長房の方が滅茶苦茶重要人物だよ
なんせ1570年前後は足利義昭+織田信長と毛利元就を手玉に取って相手にしてる
篠原長房は三好兄弟の流れを受け継ぐ最後の存在だったからねぇ。
もちろん兄弟のjr達がしっかりしていたら良かったんだけど。

72 :
義輝絶対に死なないって言い切れるかね
長慶の存命中に義輝が政所抑えたりして将軍の権威を高めてたら
これは自分の傀儡には収まらないかもと危機感持って永禄の変の様な出来事が起きても不思議じゃないような

73 :
長慶は義輝をRことはないね。
これは三好研究者の共通認識だし。
俺もそう思う。
義輝の策謀に呼応するのはもはや畿内じゃ丹波の細川残党国人くらいしかいないし。
丹波は松永久秀の弟の子が内藤氏を継いで丹波守護代になってて、
それを細川残党が潰せるほどの力さえない。

74 :
北への侵攻は無理として西か東だな。
東は生産性が低いから松平と同盟して伊勢方面に進むのが一番順当か?

75 :
相手が義龍だろうが龍興だろうが北への侵攻は既定路線
ってか義龍時代に調略はしてたし変わんねえって
変わるのは滅亡時期ぐらい、それも長くて1〜2年程度
義龍は言われてるほど有能ではないし、龍興は言われてるほど無能でもない
義龍はまぁまぁ優秀なのに違いないし、龍興も凡庸なのはその通りなんだけど、戦況変えるほどの力の差はないわ

76 :
信長の斉藤攻略は義龍死んで10歳そこそこの龍興が当主になり
国内でクーデター騒ぎまで起きるくらい統制がグラついてたからであるし
足利義輝が殺害後嘉昭が信長の元に訪れ、上洛へのお膳立てとして浅井や和田ら甲賀衆や六角義秀らが
全面的に協力したから成功しただけであって、義龍が死ななかったり
長慶が死ななかったりしたら上洛への名分も美濃攻略の足がかりも完全に失われるから美濃への拡張は無理
現に義龍時代は手も足も出てないし、龍興時代ですら何回も負けまくってるし

77 :
>>75に同意かな
そもそも土岐氏→長龍→義龍と代替わりの度に動揺・大混乱してるしね。
義龍の代にも寝返ってた国人いたし。
斎藤が織田に勝ったのはあくまで局地戦・防衛戦であって、しつこく調略と戦を仕掛ける事によって
斎藤側の国力を擦り減らして行って最終的に瓦解に追い込んだ。

78 :
>>75>>77
全く根拠や具体的理由が書かれておらず、
お前の「思った」願望を駄文で書くなよ。

79 :
>>76
クーデター騒ぎの首謀者である竹中は結局追い出されたわけだから統制が緩んでいたとは一概に言えないだろ
例えば武田なんか信虎追放や義信事件といった内紛があったが別に統制に問題はなかった

80 :
>>75
義龍は尾張の半分を手に入れ信長を滅亡寸前に追い詰めているんだが。
>>77
>>義龍の代にも寝返ってた国人
誰のこと???
>>79
国人衆による領主権の否定は致命的。特に美濃は東美濃と西美濃の国衆の対立要因が大きい。
これは信玄が織田を後援するために東美濃国衆への援助を止めたからで(龍興と対立はしても国外からの敵には一致協力して排除する)
経済的に立ち行かなくなった東美濃衆が龍興との和解を目指し、その結果、西美濃衆によるクーデター勃発。
半年もの長い期間、稲葉山を占拠されたことで、裁断と発給や行政が停止したことで、
信長の小牧山城移転の妨害活動が一切できず、結果、隣接して圧力を加えられた犬山城が自落。

81 :
だが理論によれば嫡男と重臣筆頭に謀反起こされた武田は統制ガタガタだったらしい

82 :
>>81
単純同一視する偏向はよくないな。
まず君が主張することをキチンと内容説明してくれないか。
君のレスは情報量が皆無なので、なにを言ってるかまったく伝わらない。

83 :
尾張の半分()
浅間山の噴火並にトンデモ説だな

84 :
1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと

85 :
アスペルガーだが9月もお構い無く自己顕示欲大開放

86 :
またほら吹き和尚の戯言を根拠にするだがであった
だいたい尾張半分が斎藤領なら信清の弟が信長方というのはおかしいだろうが
しかも斎藤方の防衛線をたちまち突破して墨俣まで攻めいっているし
常識的にありえない

87 :
>>86
別に袂を分かつのは不思議じゃないだろ。ぜんぜんおかしくないが。
>>斎藤方の防衛線をたちまち突破して
ここわからん。具体的に詳しく。ここの説明を無視されては、
どう常識的にありえないと君が言いたいのか全く不明。

88 :
>>87
いつ信清の弟が兄貴と喧嘩して出て行ったんだ?
ソース出せよ
あと名古屋から墨俣までどれだけ距離があるのか考えろ
その間にいた斎藤方はなにしていたんだ?

89 :
>>82
竹中安藤程度の奴の謀反で斎藤はガタガタなんだから
嫡男と重臣筆頭が謀反起こした武田は目も当てられないよなあ
そう思わないか?だがよ

90 :
>>88
>>いつ信清の弟が兄貴と喧嘩して出て行ったんだ?
>>信清の弟が信長方というのはおかしいだろうが
お・ま・え・は
自分が書いたことも忘れるのかw
俺は、袂を分かつのは不思議じゃないと返答しただけ。お前はあたまがおかしいのかw
どう常識的にありえないの説明もできずに書いてんじゃねーよ。お前は論理だてて思考できんのかw

91 :
>>90
また不利になったらそれか
じゃあ信清弟は兄貴のところにいったってことでいいな?
そしてほら吹き和尚の戯言ということも認めろよ

92 :
>>89
家臣に主城を乗っ取られた斉藤と、家臣の謀反の目を事前に摘んで却って統治の安定が進んだ信玄じゃまったく違うだろ。
むしろ内政をまったくやらず、謀反連続・最後は家臣に殺され、家臣に家を乗っ取られた信長こそ、最初からガタガタ統治だったと言える。

>>息子すらぶっR悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。

93 :
>>91
>>信清弟は兄貴のところにいったってことでいいな
一次史料はまだなの?

94 :
>>92
お前の論理なら首謀者の竹中は結局追放されていわけだから逆に統制は進んでいるな
>>93
普通に考えれば兄貴と喧嘩別れでもしないとそこにいるわな
んで喧嘩別れしたというソースは?

95 :
あと名古屋から墨俣までにいた斎藤方はなにしていたんだろうね?
だがよちゃんと答えろよ?

96 :
アンチ織田と織田厨が発狂しててワロタ
二人とも妄想ぶつけあってるだけw
脳内歴史なら他所でやってね^^

97 :
>>96
だが自演乙
不利になるといつもそれだな

98 :
そもそも信清とか弟なんて一次史料に存在しないやつなのに織田厨はバカなのか?
弟がどう行動してたかなんてわかるわけないのにwww
永禄7年の竹中らのクーデターのおかげで小牧山城作りの邪魔が斎藤には出来ず、
小牧山城が出来たことで、
尾張丹羽郡小口城や尾張葉栗郡黒田城が自落。
それで永禄8年7月には犬山城が裸城になり自落。
斎藤家にとっては尾張領失陥の大打撃を受けているから、
竹中クーデターは国内外に斎藤の無能と瓦解を示してしまい、
永禄10年9月には伊勢長島へ義龍が逃亡することになる。
犬山城自落からわずか2年で斎藤は崩壊したことからも、
竹中クーデターの美濃内乱の影響力がわかる。

99 :
義龍じゃねー龍興だったw

100 :
>>98
自分で>>84で信清の弟云々言っていたくせにそれを否定するとかお前はバカか


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