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/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門149m【お知らせ】


1 :2017/12/19 〜 最終レス :2017/12/20
【!】異常者にご注意ください【!】
(ワイエディ [123.255.128.*]) 栗城ハンター主回線
(ワッチョイ [175.177.5.17]) 埋立荒らし
(アウアウカー [182.251.242.*]) 埋立荒らし
(アウアウウー [106.133.56.*]) 埋立荒らし
※他にも回線あり


■ ご覧の皆さまへ
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1-216
悪質転載ブログ「wi1d28jp」(栗城ハンター) は踏まずにNG登録を。
 
■ 普段からアフィ対策を!
ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。
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■ オリジナルはこちら
【栗城史多まとめ @ ウィキ】
富士登山やエベレスト他のまとめはこちら。
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/
http://www44.atwiki.jp/kuriki_fan/m/ [モバイル版]
【知恵袋のベストアンサー】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146998496
【オクサマファイル】
的確な指摘です。ご一読を。
http://baby01.net/blog/364
(当板の「栗城スレ」「海彦山彦ブログ/栗城下山劇場」もおすすめです)


夏の暑さと冬の寒さが混在する富士山。
>>3〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。
※前スレ
148m
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513568785/

2 :
 
※過去スレ
127m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1502426392/
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/
135m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512657195/
136m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512771980/
137m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512794828/
138m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512907765/
139m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512916514/
140m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513036203/
141m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513053058/
142m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513089517/
143m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513137620/
144m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513231450/
145m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513310183/
146m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513310183/
147m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513480822/
 

3 :
 
開山期間は山梨県側で7/1〜9/10。静岡県側で7/10〜9/10です。
初心者が登れるのは山小屋が営業する期間に限られます。

初冠雪(積雪)は例年10月初旬ですが、9月でも降雪の可能性があります。
10月以降、風雪と強風に磨かれカチカチに凍った急斜面は氷の滑り台のようになります。
毎年のように滑落事故があります、十分なご注意を。
 

4 :
 
高度が100m上がるごとに気温は0.6℃下がり、風速1m/sごとに体感温度は1℃下がります。  
富士山では台風並みの強風が吹くこともあり、夜明け前の山頂は真冬のような寒さに、体感温度は氷点下になります。
冷えた体を温めるために多くのエネルギーが消耗され、真夏でも低体温症や疲労凍死のリスクがあります。
万全の準備で臨みましょう。  
 

5 :
 
2ちゃんねるの書き込みは、釣りや冗談、初心者以下の知識で語る人や受け売りも多いので気をつけましょう。
また、各種業者のステマやアフィリエイト目的のブログ誘導などにも注意、まずは対策から>>1
「自分はこれで大丈夫だった」「他の人もこうしてる」という話は鵜呑みにせず、信頼できる情報源から総合して慎重に判断しましょう。
 

6 :
 
■リンク
(公共性の高いものを抜粋。不適切サイト、推奨サイトお知らせください)

・富士登山オフィシャルサイト
ttp://www.fujisan-climb.jp/
・静岡県「世界遺産 富士山とことんガイド」
ttp://www.fujisan223.com
・環境省「富士箱根伊豆国立公園」
ttp://www.env.go.jp/park/fujihakone/data/index.html
・富士山ガイド.com(富士吉田市)
ttp://www.fujisanguide.com/forms/top/top.aspx
・富士宮市「富士山」
ttp://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html
・御殿場市「富士登山」
ttp://www.fujisan-climb.jp/hospitality/resource/link.html
・小山町「富士山」
ttp://www.fuji-oyama.jp/kankoubunka_mtfuji.html
・山梨県警察「富士登山情報」
ttp://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html
・静岡県警察「夏の富士登山情報」
ttp://www.pref.shizuoka.jp/police/kurashi/sangaku/fujitozan/index.html
・富士山五合目観光協会
ttp://www.fujiyama5.jp
・フジヤマNAVI
ttp://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/
 

7 :
 
■富士山の天気

・気象庁HP
ttp://www.jma.go.jp/jp/yoho/
・富士山の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
ttp://www.tenki.jp/mountain/famous100/5/25/150.html
・snow-forecast.com
ttp://www.snow-forecast.com/resorts/Mount-Fuji/6day/top
・富士山山頂の天気 - てんきとくらす
ttp://tenkura.n-kishou.co.jp/tk/kanko/kad.html?code=19150004&;amp;amp;;amp;amp;amp;amp;amp;;;amp;amp;amp;amp;;;type=15&;amp;amp;;amp;amp;amp;amp;amp;;;amp;amp;amp;amp;ba=kk
 

8 :
 
■気象について

雨の日に登っても楽しくありません。天気が悪ければ延期する決断を。予報が晴れでも、夏は局地的な夕立や雷雨があります。
雨具や荷物の防水も忘れずに。降水確率と雨量は無関係です。確率が低くても大雨ということも。
風の強さも確認を。天気概況で「大気の状態が不安定」「急変する恐れ」「雷を伴い」と予報されていたら、登山は中止してください。
冷たい風が吹き降ろしてきたら夕立の合図です。降り出す前に雨具を着用しましょう。
 

9 :
 
■装備 ◎必須○有効△状況しだい×余計な荷物

◎ザック....防寒着が嵩張るので、30〜35gが適当
○ザックカバー.雨のとき被せる防水カバー。砂埃除けにも
○スタッフバッグ ..小物をまとめ、パッキングが楽に。電子機器、着替えなどは防水袋へ
◎登山靴....防水のミドルカットが最適。ハイカットは必要ないが、スニーカーはNG
◎雨具.....予報にかかわらず必要。ポンチョ、100円雨合羽はNG。傘は不可。強風で雨が下から
吹き上げるので、上下セパレートタイプが必須。強風時はウィンドブレーカーとして使える
◎ヘッドランプ.日帰りでも下山遅れに備えて必ず必要。予備の電池も忘れずに

◎帽子.....風に飛ばされない対策を。ご来光待ち用にニット帽も
◎サングラス..目も日焼けする。安物はレンズに歪みがあるのでNG
◎手袋.....軍手と防水の手袋を別々に。転倒時に怪我をしないように、下りでは必ず着用
◎防寒着....夜明け前は真冬並みの寒さ。ダウンなど、脱ぎ着しやすいものを
◎長ズボン...伸縮性の物が良い。ジーンズは濡れると動き難くNG。半ズボン、短パンは、風が吹くと寒い
◎化繊の下着..必ず100%のものを。綿は濡れると乾きにくく、体温を奪う
◎中厚手の靴下.長時間歩行のクッションとして。柔らか過ぎず、網目が密でしっかりしたものを

◎日焼け止め..汗で落ちたら塗り直し、首筋、耳も忘れず
◎登山地図...下山時に道を間違う人が多い
◎飲み物....2〜3gが目安だが個人差がある。怪我や目に入った砂埃を洗う真水も必要
◎救急セット..下痢止め、バンドエイド(靴擦れ対策にも)、テーピングテープ、保険証のコピーなど
◎その他....飴や干し梅など行動食を定期的に摂ろう。タオルや日本手ぬぐい。ゴミ袋

×保冷水筒...重く嵩張るのでペットボトルが良い
○保温水筒...ご来光待ち用に。山小屋でお湯を売っていれば出発時に補給
△スパッツ...砂や小石が靴に入るのを防ぐ
○ストック、金剛杖.腕の力を活かし、足(特に下りの膝)の負担軽減に有効
△その他....マスク(下山時の砂埃対策)、ウェットティッシュ、カイロ
△頭痛薬....高山病の頭痛も和らげるが、症状を隠すので却って危険という意見も
×酸素缶....吸っている間しか効果ない

10 :
 
■登山の注意点

余計な荷物は体力を消耗するので無駄は省きましょう。
といって必要以上の軽装も本末転倒です。必要品は省かず、背負える体力をつけてから登りましょう。

登り始めは靴一足分の歩幅で、ゆっくりと登りましょう。追い抜かれても慌てずに。
オーバーペースではバテます。また高所は乾燥していますから、水分は少量をこまめに。

グループで登る方は、途中はぐれないように2人以上で組んで行動しましょう。
登山中は最も遅い人のペースに合わせ、また子供には単独行動をさせないようにしましょう。
初心者は列の中央、経験者が前後で目を配りましょう。

全員が地図のコピーを持ち、どのルートで登って来たかを覚えておきましょう。
はぐれた場合の待合せ場所、下山の分岐点についても事前に確認し共有しておきます。

万一の体調不良、ケガの時は全員での下山が原則です。
体調不良は高度障害の可能性もあり、休憩や小屋待機よりもすぐに下山した方が良いケースも。
分かれて登山を続行する場合でも傷病者には必ず誰か付き添い、下山をサポートしましょう。
スケジュールが決められたツアーでは自分のペースで登れず、無理をすると高山病にかかる場合もあります。

トイレは有料のため、100円玉を用意しておきましょう。順番待ちも多いので出来るときにお早めに。

下山時は重心を軽く前へ、歩幅は小さく一足分。滑りやすいところでは足を逆八の字に開きます。
富士宮ルートの平らな岩場では岩の角に靴底の溝を掛けると滑りません。  
爪先で踏ん張らず、力を抜いて足裏全体で接地するか、親指の付け根を意識します。
 

11 :
 
■高山病の予防と対策

高山病は体質に起因すると言われ、年齢や性別、体力やスポーツ経験もあまり関係ないようです。
自己の体力を過信せず、登り始めはゆっくりと時間を掛け、身体を慣らしながら登りましょう。

息を吸う事よりも吐く事を特に意識してください。有圧呼吸法も有効とされています。
大きく息を吸い込み、2秒ほど息を止めるとともに、胸に圧力をかけるように力を入れた後、口先を
すぼめてゆっくり吐き出す。これを5〜6回繰り返すと、血中の酸素濃度が上がり、楽になります。

水分を定期的に摂ることも大切です。行程の時間から逆算して必要量を算出し、計画的に摂取し
ましょう。1時間あたり、体重kg×5mlを4回ぐらいに分けて飲むのが良いそうです。(間隔や量は各自
調整してください)

・Yutaka Miura's home page:私の高山病の治療方針
ttp://www.med.nagoya-cu.ac.jp/igakf.dir/chyo_AMS.html

睡眠中は呼吸が浅くなるため、高山病になりやすいです。なるべく低い標高の山小屋を選択し、着い
てからすぐ横にならずに、しばらく身体を動かして高度に慣らしましょう。催眠成分を含有する頭痛薬
なども呼吸を浅くするため、高山病を誘発しやすいようです。

高山病になったら悪化する前に下山させるのが一番の解決策です。無理に動かしたり、引っ張って
登らせてはいけません。重篤な場合には、診療所・救護所へ助けを求めましょう。

初期症状は、頭痛、息切れ、むくみ、不眠症、食欲不振、脱力感、吐き気など。さらに、激しい頭痛、
嘔吐、空咳、 意識障害(支離滅裂なことを言う、問いかけに無反応など)になると、とても危険な状態
です。登山は諦めて付き添いの人と共にすぐに下山してください。高山病は最悪の場合死に至ります。
 

12 :
  
■ご覧の皆様へ

現在、前スレでは埋め立て荒らしが再発しています。
>>1の注意喚起とadblock周知を妨害しようとする者でしょうか。

ここが同様に荒らされた場合、さらに新スレを立て対処していきます。


・荒らしの状況
128m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1504257381/639-n
129m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505654412/
130m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1505746304/
131m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1506049117/126-n
132m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1511685239/130-n
133m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512444556/
134m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512518697/
135m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512657195/
136m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512771980/
137m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512794828/
138m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512907765/
139m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1512916514/
140m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513036203/
141m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513053058/
142m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513089517/
143m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513137620/
144m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513231450/
145m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513310183/
146m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513310183/
147m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513480822/
148m http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1513568785/

 

13 :
 
■ 異常者による荒らし予告

SN7P4m6n
http://hissi.org/read.php/out/20170917/U043UDRtNm4.html
YmBsHqVJ
http://hissi.org/read.php/out/20170918/WW1Cc0hxVko.html

■ 連投荒らしの抽出
(冒頭にアフィスレへ誘導しています)
55THIflI
http://hissi.org/read.php/out/20170917/NTVUSElmbEk.html
 

14 :
 

■ 異常者による埋立荒らし
 
たまりかねたのか、ついにIPスレを荒らし始めました。

 ・Tnx6epSX0(回線1)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/VG54NmVwU1gw.html
 (ワッチョイ 9b0c-oF0E [175.177.5.17])
  Tnx6epSXは富士山スレでも連投
  ↑
・Tnx6epSX(回線1)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/VG54NmVwU1g.html
 12/13(水) 15:55〜 78レス


・qQ7C0sQZa(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/cVE3QzBzUVph.html
 (アウアウカー Sa11-cUpN [182.251.242.15])
 12/13(水) 23:30〜 5レス
  ↓
・koSDLj0ha(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/a29TRExqMGhh.html
 (アウアウカー Sa27-A0Ho [182.251.242.15])
 12/14(木) 00:01〜 11レス
  ↓
・9gdrDp+Da(回線2)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/OWdkckRwK0Rh.html
 (アウアウカー Sa27-A0Ho [182.251.242.7])
 12/14(木) 04:05〜 現在継続中


・vbny93KSa(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171213/dmJueTkzS1Nh.html
 (アウアウウー Sa89-HfL4 [106.133.56.192])
 12/13(水) 23:31〜 5レス
  ↓
・FdgDSmA3a(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/RmRnRFNtQTNh.html
 (アウアウウー Sa1b-006q [106.133.56.192])
 12/14(木) 00:01〜01:09 12レス
  ↓
・RcU6+V3Ha(回線3)
http://hissi.org/read.php/out/20171214/UmNVNitWM0hh.html
 (アウアウウー Sa1b-006q [106.133.56.163])
 12/14(木) 01:21〜 現在継続中


【常駐荒らし】栗城ハンター(ワイエディ)【自演マルポ】
http://matsuri.2ch.sc/test/read.cgi/out/1500267844/1-

 

15 :
 
 
■ 異常者のIPの一つ

【175.177.5.17】

'175.177.0.0 - 175.177.255.255'に対する不正行為の連絡先は'hostmaster@nic.ad.jp' です

inetnum:175.177.0.0 - 175.177.255.255 netname
:iTSCOM
descr:その通信会社
descr:541-1 Ichigao-tyou Aoba-ku横浜神奈川225-0024日本
国:JP
admin-c:JNIC1-AP
tech-c: JNIC1-AP
ステータス:ALLOCATED PORTABLE
発言:スパムや虐待の苦情のための電子メールアドレス:abuse@itscom.jp
MNT-IRT:IRT-JPNIC-JP
MNT-によって:MAINT-JPNIC
MNT-下:MAINT-JPNIC
最終更新:2011-02- 17T08:16:02Z

 

16 :
 
富士山ヘリ救助落下訴訟 遺族、控訴の意向
http://www.at-s.com/sp/news/article/social/shizuoka/438248.html
 

17 :
 
2013年12月に富士山で起きた滑落事故で、静岡市消防航空隊のヘリコプターによる救助作業中に落下し翌日死亡が確認された京都市の男性=当時(55)=の遺族が、静岡市を相手取り9170万円の損害賠償を求めた訴訟で、
請求を棄却した一審京都地裁判決を不服として遺族側が大阪高裁に控訴する意向を固めたことが18日、静岡新聞社の取材で分かった。

原告代理人は取材に対し、「一審判決には非常に不満がある」などと述べた。
 

18 :
 
今月7日の京都地裁判決は、救助の際に救助隊員が使用した、要救助者を縦につり上げるタイプのDSV(デラックスサバイバースリング)と呼ばれる器具について、「迅速な救助が可能な危惧を選択したことに過失はない」と判断。
その上で、最大の論点の一つだった股下シートの不使用についても「合理的な裁量の範囲内」などと述べて遺族側の請求を全て退けていた。
 

19 :
 
遺族側の控訴方針を受け、静岡市の担当者は「控訴の事実についてまだ確認していないのでコメントできない」と述べた。
 

20 :
 
テレビ朝日系の番組で外国人に全国の空港で出口調査
最も満足させている1位に富士山
http://news.nifty.com/article/item/neta/12189-20161420941/
 

21 :
 
15日に放送のテレビ朝日系バラエティ番組、『世界が驚いたニッポン! スゴ〜イデスネ!!?視察団 2時間スペシャル』。

番組では、外国人に全国の空港で出口調査を行い、「ニッポンのここに満足! ベスト25」を集計。
その結果、富士山がもっとも外国人を満足させているとして1位に選ばれた。
 

22 :
 
■富士山は「雄大な平和の象徴」

富士山は3位の「旅館の接客」、2位の「寿司」を抑えて堂々の1位選出となった。外国人に富士山を選んだ理由をインタビューしたところ、「富士山は雄大な平和の象徴だから」という意見が多かった。

また富士山は、ロシア人やイタリア人、若い男性からおばあちゃんまで幅広い層に支持されており、その人気が世界共通であることがうかがえる。
 

23 :
 
■外国人に人気の「チュウレイトウ」とは

インタビューをしていく中で、「チュウレイトウがベストスポットだ」という意見が多くの人から寄せられた。日本人にはあまり聞き覚えがない名前だ。

番組の調査によると、山梨県富士吉田市、新倉浅間公園内にある、忠霊塔(戦没者を追悼する五重塔)のこと。

この場所が有名になったのは、『ミシュラン旅行ガイド』の表紙になったことがきっかけで、今では訪れる人の7割が外国人だという。富士山と五重塔のツーショットというニッポンらしさに満足しているようだ。
 

24 :
 
|∧∧
|・ω・`)
|o旦o
|―u'
 

25 :
逆に萎えるんだけどなぁ(´・ω・`)
肝心のストーリーはまったく進んでないし

26 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅

27 :
ィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長し
た交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))
となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレー
トのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマ
グマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来
するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんど
が安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩
マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。
富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)が
ありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰
がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰が
あり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、
富士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が
設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部
の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口
の直径は780m、火口底の直径は130mとある。登山道を
除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私
有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年
1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事
の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明
言している。国土地理院がインターネット上で公開している地
形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所
、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確
定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定す
ると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指
摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に
なるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほう
えいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴

28 :
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市
、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)
に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で
、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸
術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地
質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄

29 :
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個の

30 :
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士

31 :
側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2
,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いてい
る。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されて
いる。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火
詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1
千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の

32 :
構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間
大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家によ
り浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされ
る富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるよ
うになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一
派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズ
ンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百
選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園
に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(
平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文
化財群とともに「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録さ
れた。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「
ふじやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士山(とみすやま
)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』に
おける「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不
二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説も
ある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたと
いう説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラーは、名前は「火を
噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。し
かし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤
解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説・マオリ語説・原ポ
リネシア語説等がある。明確に「富士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富
士郡に由来するとするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命

33 :
三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込ん
でおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平
洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日
本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本の火
山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士
山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いこと
がある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お
鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つ
の峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰
があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富
士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が設置
されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高
が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は
780m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目
より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが
、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世
界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨
県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地
理院がインターネット上で公開している地形図では2013年1
0月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表
示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの
帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているた
め、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示
されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の
住所表示については非表示になるよう変更された。宝永山宝永山
と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)
の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東
斜面に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大
な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コ
ースも整備されている。詳細は「宝永山」を

34 :
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境

35 :
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,
500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規
模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約
8,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3
,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部から
の最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部から
の噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散
発的に発生している。延暦19年−21年(800年−802
年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出
した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(17
07年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では
約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって
富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や
噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述
されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があった
くだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富
士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述があ
る。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況
が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には
、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。宝永大噴火に
ついての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめ
とした文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙
や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ
小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3
00年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990
年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。し
かし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており
、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現
在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技
術総合研究所は、1999年から約15年分の踏

36 :
代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在してい
る。富士山の麓として静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・
富士河口湖町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場所を富
士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)
に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人た
ちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および
「富士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超える数の富士と
名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお、地
名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異
名として芙蓉峰とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の地
形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特
有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山
活動によって形成されたものだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山
小御岳(こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山この中で先
小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究
所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山
体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名
付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火
山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北
側1?2kmのところにあったと考えられている。2009年10月に、GPSに
よる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来
初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市−
富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現
れとされている。プレートの観点からは、ユーラシアプレート外

37 :
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ

38 :
三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込ん
でおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平
洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日
本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本の火
山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士
山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いこと
がある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お
鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つ
の峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰
があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富
士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が設置
されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高
が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は
780m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目
より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが
、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世
界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨
県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地
理院がインターネット上で公開している地形図では2013年1
0月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表
示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの
帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているた
め、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示
されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の
住所表示については非表示になるよう変更された。宝永山宝永山
と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)
の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東
斜面に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大
な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コ
ースも整備されている。詳細は「宝永山」を参照富士山と

39 :
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)と
して発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶
岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にと
もなう山体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確な
ものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計1
2回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている
活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊
も懸念されている。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流)
:東斜面で大規模(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生
し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺
を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331
年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災
害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表す
ることはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時
開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加し
た際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎
データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法な
どが集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(
内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザード
マップの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直
轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で
滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘ
リで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたこ
とを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関

40 :
カプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡
構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプ
レートの境界域(三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山の
マグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである。
富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること
、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄
武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。富士山頂山頂火
口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これ
を囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣
ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m2014年4月1
日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m
2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると
、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は7
80m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市
にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。
2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平
太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地理院がイ
ンターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指
定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地
点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっている
ため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山
梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示につい

41 :
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少

42 :
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂

43 :
術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大
学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国
土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測
所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPS
の電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目
、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、
空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(
萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcani
cActivity)噴出物災害などへの対策国土交通省、富
士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕流、溶岩流などの
火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザード
マップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザー
ドマップは2012年現在未作成である。富士山と気象気候山
頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃しかなく、ケッペンの気
候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンドラ気
候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、
3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測
史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未満の日も
過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない1日と
いうのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象
庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が
富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっ
ており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。詳細
は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻
き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積も
り、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り
積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(
現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m
付近に現れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によ
って、農作物が豊作になる・凶作となるという言

44 :
よう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(
1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面
に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている
。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山
」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期
が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり

45 :
たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはG

46 :
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43

47 :
。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きてい
る(英国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境
富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹
海」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3
月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1
929年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静
岡県)富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として
地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から

48 :
出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その
後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていた
と見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新富士の山頂から溶
岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、
約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが
、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。延暦19年−
21年(800年−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩
を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝
永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった
。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性
の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代
が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781
年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語
』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安
時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、
平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。
宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした
文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残され
ているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝
永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代
まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山に
はいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山とい

49 :
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:192

50 :
たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電子基

51 :
として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付
近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メ
ートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されて
いる例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉
群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾
や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウ
モリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成
されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓
周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都
留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている
。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念
物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の
高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山
が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山
系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺
ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタ
デ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザ
ミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界
の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山
にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がってい
る。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰
の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として
考えることなどを指して富士信仰と言われるよう

52 :
ことも重なり、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技術
総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ
富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終
了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩
屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3
回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されてい
る活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メー
トル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島
周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に
伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁
)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施
する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない
。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に
富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関
する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的
に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広
域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められてい
る。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石
流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日
、「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は20
16年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落し
た登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山者が死

53 :
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧

54 :
に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサ
クヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。
浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(
浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂に
ある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳細は「富士信仰
」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が
普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」
(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富
士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良
香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐
の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共
有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イ
エズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「
富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河
国という関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上
人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初
の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立
したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村
山口、須山口、須走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外
ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特
別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(125
9年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(
村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』に
は神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称
が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」
と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年−12
75年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」と
ある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸
時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの
造営や内院散銭取得における優先権を得たことを

55 :
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため

56 :
定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨や
雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる
。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高
1670m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に
分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で
1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧
出量の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい
柿田川(日本三大清流)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧が

57 :
より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より
上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっ
ている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形
成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られ
た18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展で
きなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになって
いたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と
同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」とい
い、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」
とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい
、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永
禄6年」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(
1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形
態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は
人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ
。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され
ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼
び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山
道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。富
士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財であ
る「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産か
ら構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は
静岡県は富士宮市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田
市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村である。このとき富士山八
合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。
その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各
登山道が追加指定された。登山史富士登山の伝承においては伝
説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。富士山の
登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時代の甲斐
の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の

58 :
、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと
上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研
究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所
)などにより観測が行われている。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測
所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの
電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢
塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎
坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V
IsualizationsystemforVolcanicActivity
)噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し
火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザー
ドマップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップは201
2年現在未作成である。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンド
ラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5
月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高
気温が−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない
1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気
象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士
山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行ってい
る。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ
、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の西部
から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風
に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一

59 :
玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念
物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの
、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があ
るとされている。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で
製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。ま
た、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネ
ラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形
成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高

60 :
玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念
物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの
、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があ
るとされている。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で
製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。ま
た、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネ
ラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形
成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河な

61 :
する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い
甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太
子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を
越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天
智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山
はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載

62 :
梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に
見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言
い伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英
国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物とし
て、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定
、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天

63 :
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々

64 :
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)

65 :
記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて
いた。貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富
士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ
火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際
に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、
または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年
前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。久
安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を
繰りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、
登山を多く行った人物として知られる。江戸時代に入ると富士
講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。
特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口
だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文政11年182
8年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子である二宮
敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬
の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定
では3794.5mと算出されている。天保3年1832年高
山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代であ
る。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名とし
て初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主
人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士
登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸
と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い
始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、
これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても
寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」
と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目より
も下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという
所)そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内
緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り

66 :
9年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨
や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点
から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付近
)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は
1968年で1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量
の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国
指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)
またの、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされて
いる。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業な
どの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含ん
でいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。そ
の中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一
の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨
県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴
沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。植生富士山
は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の
生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたた
めである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタ
デ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士
薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっ
ているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その

67 :
いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という

68 :
いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされて

69 :
には頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富
士登山を行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国
公使オールコックが外国人として初登頂。『古事類苑』にオー
ルコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出
した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ
リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に
り、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。明治2
5年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年
にも登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々、
須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅
間大社が山役銭を徴収していた。これらの地域は

70 :
が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象
とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富
士信仰と言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神
とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間
神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士
宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。
詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普
遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』
)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂
の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河
の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を
跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、
イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に
帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考え
られる。登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが
最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる
。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようにな
り、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時
代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」と
いう呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこと
も神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)の『

71 :
貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』
の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ
り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな
ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した
者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史最大の貞観大噴火があった。久

72 :
貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』
の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ
り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな
ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した
者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史最大の貞観大噴火があった。久安5年114

73 :
などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額にな
るため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分
だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当さ
れる計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えら
れた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「
須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文
2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取
得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田
氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取
得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳
川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位
権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を
利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建
てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」
は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし
、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争って
いる過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士
浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富
士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった
。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたこ
とへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「
富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走
の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取
得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっていると
し、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに
対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽

74 :
「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認で
きる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内
院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された
経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社
の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され
、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興
宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立
つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程
度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』
の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須
走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、
先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)など
が確認されている。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、
これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像
の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり
大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護
摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の
呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年
(明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月
7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資
産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮
市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定さ
れた。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡

75 :
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り

76 :
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、

77 :
内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し
たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾い
の慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に
委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛
けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院
散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走
が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守され
た。安永の争論安永元年(1772年)に、須走

78 :
指定された。登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じってお
り、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時
代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述が
ある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬
であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き
、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと

79 :
に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられて

80 :
に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は

81 :
配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争
論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済
も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確
定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と
須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わ
る大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されるこ
ととなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉して
いたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行
のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より
上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山
頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に
定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士
山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に
指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山
梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・
中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中
道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御
殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山
道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山
の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の
眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が
得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が
関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定し
た。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通
過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをするこ
とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行
される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智
勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、
富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ
るとされる。また、眺望の北限は2017年1月

82 :
年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富
士山へ登ったという伝説が残る。役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この
役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は
改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観17年875年
平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。山頂に
は常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見
た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材
したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大
噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰
りかえしたとある。回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物
として知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山
(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落
共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿
坊(山小屋)があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボ
ルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠
敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定では3794.5
mと算出されている。天保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制
が敷かれていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名
として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「袖
日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の
6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱し
たコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されないため
、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経

83 :
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに

84 :
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間

85 :
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離
にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山から
も眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされ
ていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより、2
0都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見
る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の
朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をは
じめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪
化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロ
ート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合があ
る。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。
D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜
ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(201
5年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈
む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイ
ヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東の場所か
ら、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士山の
山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、
次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「
裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみら
れ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿
を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある
。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既
に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35
ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口
・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ
裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも

86 :
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これま

87 :
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ

88 :
がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般
的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言
葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延
川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に
おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(
伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ
ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と
して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は
法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵
伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒
駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士
は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶
碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型
富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩
図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富
士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ
た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の
山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし
て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸
時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』
を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画
『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様
な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加

89 :
の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地
域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複し
ない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・
コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリが
あります。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点
を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、20
05年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内
便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案
内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見る
ための遊覧飛行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013
年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(
妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一
番遠く最も西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1
月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919
m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308
kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能
とされていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより
、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、
見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝
、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめ
とした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧し
た富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(
ドイツ語Morgenrot)が用いられる

90 :
馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所
であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1
852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始
め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を
行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と
して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社
奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書

91 :
活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大
波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌
川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士
三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実
地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』
でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らは
これらの連作により、それまで富士見の好スポッ

92 :
の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地

93 :
勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの
、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい
るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた
浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ
いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2
番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三

94 :
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
う言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身
延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお
ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲
載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く
名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物
である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博
物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒

95 :
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
う言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身
延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお
ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲
載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く
名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物
である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博
物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖

96 :
ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓
していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の
茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5
0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か
らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、
写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい
る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本
を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近
代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道
路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や
保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作
しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として
富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ
ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、
このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189
3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン
ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった
い、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば
れる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ
とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み
だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か
れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして
富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも
富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の

97 :
いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾
いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の
争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側
の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争
論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる
こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持
ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと
いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁
許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決
定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の
支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった
。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月
7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨
県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村
)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山
道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山
道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、
各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景
として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な
どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内す

98 :
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本

99 :
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては

100 :
っている」という。日本画全般の題材として「富士見西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見
上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札
、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙
幣や切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザ
インに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の5
0銭政府紙幣があり、愛鷹山からの岩笠と大勢の士に命じ
て天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それか
らその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の


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